2025-03-09

"美術史の基礎概念" Heinrich Wölfflin 著

「美術史の基礎概念」と題しておきながら、16 世紀の盛期ルネサンスと 17 世紀のバロックに対象が絞られる。この時代を注視すれば、近代美術の様式基盤がだいたい網羅できるというわけか...
尚、海津忠雄訳版(慶応義塾大学出版会)を手に取る。

美術の様式は個人の裁量にとどまらず、流派、地域、民族、時代など様々な角度から見て取れる。人間ってやつは、それだけ環境に影響されやすい動物だということだ。独自性や自立性を主張したところで詮無きこと。
ハインリヒ・ヴェルフリンは、美術様式の発展過程を五つの対概念で定式化して魅せる。線的から絵画的へ、平面的から深奥的へ、閉じられた形式から開かれた形式へ(構築的から非構築的へ)、多数的統一性から単一統一性へ、絶対的明瞭性から相対的明瞭性へ(無条件の明瞭性から条件付き明瞭性へ)... と。
いずれの概念も、従来様式の殻を破るかのように発展してきた様子が伺える。美術とは、まさに自由精神の体現!美術史に人間の情念遷移図を見る想い。芸術論とは、普遍的な人間学に属すのものなのであろう...

「人は常に自分が見たいように見ているのだとしても、このことはあらゆる変遷の中で一つの法則が作用している可能性を排除しない。この法則を認識することが、科学的美術史の主要問題であり根本問題である。」

人間は、刺激に貪欲である。斬新な手法に目を奪われるのは、いつの時代も同じ。芸術家は一層エゴイズムを旺盛にし、鑑賞者も負けじと新たな感動を求めてやまない。双方で高みに登っていこうというのか。いや、退屈病が苦手なだけよ。

芸術家たちは様々な手法を駆使して作品に息を吹き込む。あらゆる制約から解き放たれた瞬間、静的な芸術作品が動的な存在へ。ユークリッド空間で崇められる線や円の概念から脱皮して新たな空間感覚を刺激し... 陰影によって遠近法を際立たせたり、曲線に絶妙な歪を持たせてエキゾチックに演出したり、縁取りで存在感を強調していた主題を、境界線を曖昧にすることによって背景と同化させたり、主題の立ち位置が曖昧になれば、主役と脇役が逆転することも...
比例の概念までも歪ませれば、黄金比という数学の美へ導かれるのか。ダ・ヴィンチや北斎のように...
主題が自己主張を弱めると、逆に全体としての臨場感が増す。美術とは美の術と書くが、本物の自然物よりも、自然を模した人工物に感動しちまうとは。芸術美とは、激昂と静寂の調和のもとでなされる衝動と意企の駆け引き... とでもしておこうか。

そして、作品が雄弁に物語る術を会得すれば、もはや作者の手を離れ、作品自身が独り歩きを始める。コンピュータ工学には、マシンは意思を持ちうるか、という問い掛けがあるが、芸術作品にもそんな問い掛けが聞こえてきそうな。偉大な芸術作品とは、歴史の中で自ら独立墓碑を刻むものらしい...

「それぞれの芸術作品は一個の形成物であり、一個の有機体である。それの最も本質的な表象は、何も変更されたり、ずらされたりできず、すべてのものが在るがままでなければならない、という必然性の性質である。」

2025-03-02

"THE MASTER ALGORITHM" Pedro Domingos 著

マスターアルゴリズムとは...
それは、過去、現在、未来に渡るすべての知識を獲得できる万能学習器のこと。中でも重要なのは、未来に関する知識だ。人間の認識能力は時間の矢に幽閉されているのだから。いや、機械学習の次元では、そんなものに束縛されないのやもしれん...

かつて計算機に仕事をさせるには、まず目的に適ったアルゴリズムを書き下ろし、それを計算機に喰わせるというのが定番であった。機械学習は、これとは違う方針をとる。それは、データに基づいて計算機自身が推論し、自らアルゴリズムを編み出すことにある。さらにデータが不十分と見れば、その収集、分析までもやってのける。
万能チューリングマシンが演繹的であるのに対し、マスターアルゴリズムは極めて帰納的だ。経験値を積めば積むほど、人間の仕事はどんどん奪われていきそうな...

叙事詩人ヘシオドスは、こんなことを詠った。誠実な労働生活こそが人間のあるべき姿... と。仕事を失った人間は、どうなるのだろう。生き甲斐までも失っちまうのか。いや、仕事の定義も変わっていくだろう。究極の機械学習が編み出されれば、逆に人間が機械に問われるやもしれん。人間足るとはどういうことか?と。それで機械に説教されてりゃ、世話ない...

機械学習の根本には、ヒュームの帰納問題が内包されている。それは、「すでに見たものを汎化して、まだ見たことがないものにも適用することを常に正当化できるか。」という問いである。それが正当化されないとしても、そこに人間は答えを出す。誤っていようとも。失敗を重ねながらも。そもそも学習とは、そうしたものであろうし、現在を生きるとは、そういうことであろう。
つまり、思考アルゴリズムには、ある程度の無駄も必要ということになる。何事にも遊びがなければ、心に余裕が生まれない。機械学習に心が芽生えるかは知らんが、そうした余裕のようなものが機械学習にも必要なのやもしれん。それが、帰納法的思考の本質なのやもしれん。
合理主義か経験主義か、理想論か現実論か、はたまた演繹法か帰納法か... こうした概念の狭間で人間の思考は揺れる。そして、機械学習の思考アルゴリズムもまた...

さて、しつこい前戯はこのぐらいにして...
本書は、機械学習の学派を大まかに五つに区分する。記号主義者、コネクショニスト、進化主義者、ベイズ主義者、類推主義者と。ペドロ・ドミンゴスは、この五つの学派を統合する視点から、より強力なアルゴリズムの構築を試みる。言うなれば、いいとこ取り...
尚、神嶌敏弘訳版(講談社)を手に取る。

それぞれの学術的立場は...
「記号主義者」は、すべての知識は記号化、言語化できるという信念のもとで人間の知能をモデリングする。それは、コンピュータの構造が数学的であることを最も忠実に再現しようとする立場と言えよう。
「コネクショニスト」は、ニューラルネットワークによる神経細胞の結合の強さなどを調整して、人間の脳をモデリングする。
「進化主義者」は、学習原理を自然淘汰に求め、人間が長い年月をかけて獲得してきた経験値から認識メカニズムを構築する。
「ベイズ主義者」は、すべての関心事を不確実性に絡め、事前確率をもとに確率的推論を組み立てる。ベイスの定理は、この不確実性と事前確率の関係を記述する。
「類推主義者」は、事象間の類似性を解析し、一つの類似点を見つければ、他にも類似している点があると仮定しながら知能モデルの幅を広げていく。

それぞれの最適化アルゴリズムは...
記号主義者は、論理を信条とした逆演繹法。
コネクショニストは、ニューラルネットを基軸とする誤差逆伝搬法や勾配降下法。
進化主義者は、適合度探索による遺伝的プログラム。
ベイズ主義者は、重み付き論理式を実装した確率伝搬法やマルコフ連鎖モンテカルロ法。
類推主義者は、最近謗法やサポートベクトルマシンを用いた制約付き最適化。

こうして各学派を渡り歩いていく中で、過学習、ノーフリーランチ定理、次元の呪い、バイアス - バリアンス分解、探索と活用のジレンマといった機械学習でよく見かける問題を紹介してくれる。

「過学習」とは、特定のデータパターンをあまりに多く覚え込んでしまったために、例外や未知のデータへの応用が利かなくなり、柔軟性を失うといった現象。
「ノーフリーランチ定理」とは、学習器がどれくらいうまく予測できるかについての制限を示すもので、「いかなる学習器も、無作為な推測よりよい予測はできない」と告げる。学習アルゴリズムには必ず偏向が見られ、あらゆる問題を汎用的に解決することは理論的に不可能であると。
「次元の呪い」とは、空間次元の増加に伴い、目的を特定するのに必要な訓練量が指数関数的に増えるというもの。例えば、最も簡潔かつ高速な学習アルゴリズムとされる最近謗法は、二次元や三次元ではうまくいっても、ちょいと次元が増えるだけで行き詰まったり。高次元では、サポートベクトルマシンが重み付きの k 近傍法に見えたりと。
「バイアス - バリアンス分解」とは、それぞれ「偏り」と「分散」に当たる語で、予測結果に対する調整の指標とされる。そして、判断材料とされるデータに、どれだけノイズが含まれるかが問われる。例えば、学習器が同じ誤りを繰り返すなら、バイアス傾向にあり、より柔軟性のある方向に調整する。あるいは、誤りに一定の傾向が見られなければ、バリアンス傾向にあり、より柔軟性を抑えた方向に調整する。
「探索と活用のジレンマ」とは、探索と活用のタイミングを問う問題で、例えば、うまくいった方法を一度見つけ、それをずっと続ければ、もっとよい方法に出会う機会を失う.... あるいは、他にもっと良い方法があるはずだと躍起になるあまり、過去に出会った最適な方法を見過ごしてしまう... といったこと。

こうした機械学習が抱える問題は、そのまま人間の認識に当てはまる。知識が多すぎるために、判断を誤ったり、行動を躊躇したり。学問の専門化が進めば、逆に視野が狭くなって全体像が見えなくなったり。調査活動に夢中になるあまり肝心な行動が鈍ったり、行動を急ぐあまり調査が不十分であったり。理想の人との出会いを求めるあまり、最良の人との出会いを不意にしたり...
パターン化と柔軟性、調査と行動、専門性と汎用性といったものには、少なからずトレードオフの関係にある。そして、情報量が増えれば、ムーアの法則のごとく指数関数的に選択肢も増え、混乱も増える。

「生命を計算機と捉えて考えると、多くのことが明らかになる。計算機にとっての先天性とは、その上で実行するプログラムであり、後天性とは、計算機が取得するデータである。どちらが重要かという疑問は滑稽である。プログラムとデータの両方がなければ出力結果は得られないし、出力結果の 60% がプログラムによるもので、40% がデータによるものという類いのものでもない。これは、線形モデルに囚われた思考の一種であり、機械学習に慣れ親しめば克服できる。」

しかしながら、これら五つの学派をもってしても、共通した欠陥があるという。それは、正しい答えを教えてくれる教師が必要だということ。人間とて、先生に教わらずして学ぶことは難しい。
その証拠に、手っ取り早く学ぶためにノウハウセミナーはいつも活況で、ハウツー本はいつも大盛況ときた。恋愛レシピから幸福術、あるいは人生攻略法に至るまで。多忙とは、威厳をまとった怠惰に他ならない... とは誰の言葉であったか。
大量のデータにもめげず、自己分析を地道にやり、真に独学を実践するという点では、人間よりも機械学習の方が得意であろう。そして、真に自立型アルゴリズムへの道は... 一つの方程式が石碑に刻まれる。過去を振り返るな!と...

  P = ew・n / Z

左辺は、確率 P。右辺は、重みベクトル w とその個数 n の内積に指数関数を適用して、全ての積の総和 Z で割る。マルコフ過程に基づいた言語認識プログラムは、方程式を並べ立てればモデル化できそうな予感。ここには、一つの呪文が透けてくる。すべての機械学習器が自己無矛盾である必要があるのか?と...

「さあ我等が治める地を一つにせん。そなたは我が規則に重みを加えられよ。さすれば、この地の果てまでも新たな表現が満ちるであろう。... そして、我等が世継ぎは、マルコフ論理ネットワークとならん!」

2025-02-23

"ポスト・ヒューマン誕生" Ray Kurzweil 著

Google 社の AI 開発で陣頭に立つレイ・カーツワイル...
彼は、指数関数的に成長を続けるテクノロジーは、いずれ「シンギュラリティ」に至ると予見する。それは、人間であることの意味を拡張させ、遺伝という生物の枷を取り払い、知性が高みに登りつめることを意味するらしい。この指数関数的な進化を「収穫加速の法則」と命名。しかも、その時期は近い!と...
それは理想郷でもなければ、地獄でもない。では、信仰の問題か。いや、理解の問題だ。コンピュータ科学は、もはやコンピュータを研究する分野にとどまらない。おそらく、あらゆる学問がそうなのであろう。つまり、学問する主体自身を理解しようという。そして、人間には人間自身を理解する能力があるのか、が問われる。シンギュラリティは近い。だが、人類には、ちと早すぎる...

シンギュラリティを邦訳すると「技術的特異点」となる...
特異点といえば、数学的なアトラクターや物理学的なブラックホールを想起させる。例えば、周期的に安定状態にあるシステムが、微妙なズレやゆらぎのために周期性を徐々に失っていき、突如、ある種の不動点に嵌ってしまうことがある。そうした状態に一度でも嵌まると、抜け出すことはほぼ不可能。市場価値の歪みから生じる金融危機などは、その典型パターンと言えよう。
しかし、ここでの特異点は、ちと明るい未来を想像させてくれる。人類に明るい未来が相応しいのかは知らんが...
尚、井上健監訳、小野木明恵、野中香方子、福田実共訳版(NHK出版)を手に取る。

人工知能やロボットが人間の能力を超えると、社会のあり方が問われるようになる。そんな状況を想定することは難しくない。現実に、将棋界や囲碁界でそうした事態を目の当たりにする。
しかし、マシンが知性や理性までも人間を超越するとなれば、それはどんな社会であろう。人間足るとは、どういうことか?などと逆にマシンに問い詰められ、憂鬱感を蔓延させた社会となるか、あるいは、マシンが統治者となることを従順に受け入れ、それこそ人類が夢見てきた真の平等社会となるか。いずれにせよ、明るい未来は見通せそうにない。

だがそれは、人間とマシンが別物だと思い込んでいるからそう思うのであって、人間とマシンが融合したハイブリッド型生命体として進化していくとすれば、どうであろう。人間が自ら造り出したテクノロジーと合体する臨界点では、どんな生命体が形成されるだろうか。コンピュータが得意とする記憶量、正確さ、高速性といったものを人間が身にまとえば、最強の生命体となろう。それでも、人間性だけは見失わずにいたい。
ご都合主義の人間のことだ。サヴァン症候群のような天才的な能力のみを寄せ集め、欠点は徹底的に排除にかかる。愛などという微妙な属性を崇め、都合の良い性癖だけは手放せず。人間が思い描く合理性が宇宙の合理性に適っているかは知らんが...

「まず、われわれが道具を作り、次は道具がわれわれを作る。」
... マーシャル・マクルーハン

科学は人間の地位を蹴落としてきた。人間の棲家である地球中心説を放棄させ、人間中心説を放棄させるに至れば、知性や理性なんぞ、人間だけに与えられた特別な性質などとは言ってられまい。
人間には意思がある。少なくとも、そう思っている。マシンには意思がない。少なくとも、そう思ってきた。だが構造的には、人間も、マシンも、同じ原子の集合体。突き詰めれば、宇宙に存在する物体すべてが同じ構成要素で形成され、運動する物体のすべてはエネルギーの燃焼と放出を繰り返す熱機関として君臨する。はたして精神や魂は、人間固有のものなのか?
知的生命体の進化の過程が宇宙の進化そのものだとすると、宇宙空間に充満する原子の集合体が、一つの意思を持っていても不思議はない。カーツワイルは、進化の過程で鍵となる三つのテクノロジーを挙げている。それは、G(遺伝子工学)、N(ナノテクノロジー)、R(ロボット工学)で、GNR 革命と称す...

「シンギュラリティは最終的に宇宙を魂で満たす、と言うこともできるのだ。」

では、シンギュラリティに達した精神は、普遍性に則したものとなろうか...
人類は技術力をムーアの法則に従って進化させてきた。それにともなって精神を進化させてきたと言えるだろうか。いまだソクラテス時代の哲学が輝きを失わずにいる。仮に、マシンの部分だけが進歩し、人間性が取り残されているとすれば、あまりにバランスを欠く。
人間は、環境への適合という意味では進化しているだろう。寿命が延びていることも、その一因と思われる。身体を自己修復機能を搭載したサイボーグで再構築すれば、寿命は限りなく延びていくだろう。
ナノボット・テクノロジーが、病原体を破壊し、DNA エラーを修復し、放射能に強い皮膚をまとい、ニューロンを超高速素子に置き換え、身体を超人的にアップグレードする。血液の酸素を運ぶ効率を大幅に改善したプログラムできる人工赤血球を注入すれば、凡人がオリンピック選手の記録を上回る能力を獲得できる。そうなると、オリンピックの存在意義が問われるであろう。

手も足もいらない。そればかりか、肺は必要か、心臓は本当に必要か。老化や死を限りなく遠ざけることができれば、生の意味を与えてきた死を正当化する必要もなくなる。おそらく人間のことだ!死の概念を遠ざけ、その意識を疎かにすれば、戦争をおっぱじめる。地球最強の生命体は、宇宙戦争を引き起こす史上最悪の生命体になるやもしれん...

宇宙に目的があるかは知らんが、生命体の目的は生存にある。それは、構造やメカニズムの最適化によって成される。はたして非生物的なメカニズムが、生命のデザインを受け継ぐであろうか。やはり、宇宙は合理的にできていそうだ。複雑になり過ぎれば崩壊させられ、原子レベルに分解されちまう。アインシュタインも言っている。「できるだけ単純に、ただし単純すぎてもいけない。」と...
そして、人間の根源とは何か?と問い直さずにはいられない。それで、精神を病んでりゃ、世話ない。まったく精神ってやつは、厄介だ。いや、すべてが合理化されれば、精神も必要なし!今、脳のリバースエンジニアリングに迫られる...

「忘れてはならないのは、未来に出現する知能は、人間の文明の表れであり続けるということだ。その人間の文明が、すでに、人間と機械が融合した文明であってもだ。言い方を変えれば、未来の機械は、もはや生物学的な人間ではなくとも、一種の人間なのだ。これは、進化の次なる段階である。次に訪れる高度なパラダイム・シフトであり、知能進化の間接的な作用なのだ。文明にある知能のほとんどは、最終的には、非生物的なものになるだろう。今世紀の末には、そうした知能は、人間の知能の数兆倍の数兆倍も強力になる。しかし、だらかといって、しばしば懸念が表明されているように、生物としての知能が終わりを告げるというわけではない。たとえ、進化の頂点から追い落とされようとも。非生物的なものの形態ですら、生命の設計を受け継ぐ。文明は人間的なものであり続けるだろう。しかも、多くの点で、今日にもまして、人間的と見なされるものをより典型的に示すようになる。ただし、人間的という言葉は、本来の生物学的な意味合いを超えて使われるようになりはするが...」

2025-02-16

"力学的な微分幾何" 大森英樹 著

本書は、物理現象を数学で捉えようとする試み。それは、教科書や解説書といったものではなく、あくまでも副読本に位置づけたものだという。音楽でいえば、楽譜のようなものだとか。楽譜は演奏者に次のイメージを開かせるための補助手段に過ぎず、演奏者は読者に過ぎず... と、いささか挑発的。
とはいえ、客観性では他を寄せ付けない数学を、人間の認識、すなわち主観性の側面から物語ってくれるところが、いかにも愉快。それだけ、毒しているとも言えるのだけど...

「数学者と物理学者と哲学者とを、凝り深さという性質で序列をつけるとすれば、哲学者が一番凝り深く、数学者がそれに次ぎ、物理学者が一番凝り深くないということになると思われる。しかし、人間は人間であるかぎり根源的に哲学するものである。誰しも小中学校の頃に 1 + 1 はなぜ 2 なのか?などという素朴な疑問にとりつかれたことがあるはずだ。」

数学者とは、自然数に内包される論理性以外は真実と認めない人たちを言うそうな。
物理学者とは、空間概念のみならず、時間、質量、力、電荷量、熱量、温度、エネルギーといった概念を疑いようのない正当なものと信じる人たちを言うそうな。
となれば、物理学者は数学者よりも現実主義者と言えそうか...

物理量は、数学的には実数、ベクトル、行列、関数といったもので記述され、単位記号が付随して物語となる。その意味で、数学の記述は無味乾燥な道具に過ぎない。しかも、具体的な記述法は、最初に考案した数学者に委ねられる。純粋な定理なのに難解な記述を強いるとは、このエゴイストめ!
いや、純粋だからこそ、人間が理解できるように記述することが難しいのやもしれん。本書には、こんな文句が散りばめられる。

「神がそれを好むからではなく、人間がそれを好むからだ!」

数学を学ぶには、直感とイメージが大切である。だが、直感がついていけくなると、奇妙な圧迫感が生じる。別の直感を磨く必要に迫られるあまり、却って直感を鈍らせることに。やはり何かを学ぶには、面白くなくっちゃ!楽しくなくっちゃ!

さて、力学と微分幾何の物語は...
まず、ユークリッド空間において曲面上に幽閉された束縛運動の考察に始まる。束縛力は、接平面に垂直に働く。その支点において、接ベクトルで記述される第一基本量と、法線ベクトルで記述される第二基本量から、曲面の曲がり具合を行列で定義し、距離的に最も効率的な測地線の運動方程式を探る。こうした考察を眺めているだけで、リーマン多様体を予感させる。

ちなみに、等距離図法の不可能性についての考察は興味深い。つまり、地球上のある領域において、二点間の距離がどこでも正確な縮尺率で地図を作ることが可能か?という問題である。その不可能性をガウスが証明したとさ...

次に、微分形式ってやつが、熱力学や電磁気学といかに相性がいいかを味わわせてくれる。熱力学の第一法則と第二法則が一次元的な運動として、一次形式や線積分での記述を容易にし、電場や磁場、あるいは電磁誘導が曲面的な運動として、二次形式や面積分での記述を容易にする。
そして、ガウスの発散定理とガウスの法則で二次微分形式との相性の良さを外観し、マクスウェル方程式が二次微分形式によって簡単な記述となる... といった流れ。
ちなみに、おいらは学生時代、ガウスの法則で赤点をとっちまった!

こうした空間概念が無限次元に拡張されると、自然に多様体の世界へと導かれる。支点を記述する微分と運動を記述する積分の関係は、次元に束縛されないとさ。
しかし問題は、微分可能性にあり、それが極めて確率的に低いことにある。方程式ってやつは、記述できりゃええってもんじゃない。微分方程式が厄介なのは、そこだ。

次元数が無限へと解き放たてると、陰関数定理ってやつが役立つ。陰関数定理は、多項式を多変数の式と見なすことができ、解析学では近似的に見ることもでき、重宝される。
そして、ニュートン力学は、ラグランジュ系で再定義され、ルジャンドル変換を通してハミルトン系へと導かれる。
ただ、ニュートン力学にしても、ラグランジュ系にしても、ハミルトン系にしても、乱暴に言えば座標系が違うだけ。それは、観測者の慣性系が違えば運動の見え方も違うと告げる相対性理論の考え方にもつなり、一般相対性理論の運動方程式がハミルトン系で記述できるのも頷ける。演算を簡単にするために力学系を変換していると見るなら、やはり人間のご都合主義か...

さらに、時間を想定した時、これも慣性系に幽閉されることになる。
では、ビッグバンのような宇宙の始まりを論じようとすれば、何か基準となる時間軸が必要になりそうだが、それで絶対時間のようなものが存在することになるのだろうか。
いや、時間のみならず、標準や常識、さらには価値観や世界観、おまけに宇宙論なんてものも、記述できるものすべてが人間のご都合主義なのやもしれん。
少なくとも人間が編み出した学問は、何らかの記述ができなければ成り立たない。それで言語体系の限界に挑んでは新たな専門用語を編み出し、その定義で悩まされてりゃ、世話ない。これは、ある種の病理学か。おそらく人間の認知能力は、言葉や記号で表せない領域が思いのほか広大なのであろう。微分不可能な領域のように...

「自然法則は、『A という原因が起これば、必ず B という結果が生じる』という形の因果関係を記述するものが多い。これを『A ならば B である』という数学の命題と同義とみるためには、どうしても時間は一次元的でかつ循環せず線形的に発展するものと約束してしまわねばならない。」

2025-02-09

腕に新相棒、その名はアテッサ!人生をシンプルに刻む...

腕の相棒では、"SKAGEN SKW6106" や "KLASSE14 Volare Vintage Gold VO18VG004M" でヴィンテージ感に浸ってきた。北欧デンマーク発に南欧イタリア風味を加えて...
新たに、国産でエレガント風味を加え、庶民のささやかな贅沢感に浸る。

モノは、"CITIZEN ATTESA BY1004-17X"
ブラックチタンシリーズとの比較で悩ましいところ。ここは、ちょいと遊び心で...
このモデルは、光の当たり具合で表情が変わるのがいい。外出時は和装が多く、本体の光沢感と黒革ベルトが着物によく合う。カタログでは製品を良く見せようと、光の当て具合などで誤魔化されたりするが、実物の方がいいケースは珍しい。写真では見栄えが伝わりにくい色彩なのかも...
価格抜きで、第一感はこのモデル。YouTube で開発者の談話も参考にしたが、やはり第一感はこのモデル。気まぐれ崇拝者にとって、第一感こそ決め手だ!


*写真右は、電球色の照明下で、夜光機能がやや働く程度に光を絞ってみた。
うん~... 微妙!


こだわった機能は、エコドライブと電波時計。電池交換や時間を合わせる行為は、シンプルな人生に合わない。
重さは、59g と軽い。厚みは、10.8mm とアテッサシリーズでは比較的薄い。腕が細いので、ゴッツいのは勘弁!
発電持続時間は、約2.5年(カタログ値)と余裕あり過ぎ。
夜光機能もいい。但し、文字盤や針に蓄光塗料が施され、光を蓄える仕掛けなので、薄暗闇生活者には期待薄かも...

クロノグラフはいらない。ネアンデルタール人には故障の原因となるイメージがあるが、近年はそうでもないらしい。どうせ、最初に遊ぶぐらいなもの...
インダイヤルに日付や曜日の表示もいらないが、自動補正なら邪魔にならない。
月齢表示機能「ルナプログラム」ってやつが搭載されているが、これも自動計算なら邪魔にならない。いや、むしろエレガント感を演出してくれる。
ダイレクトフライト機能は、なくてもいいか... と思っていたが、電波時計では必須!ダブルダイレクトフライトだと、ホームと現地の時間が瞬時に切り替えられるようで尚いいが、それは贅沢というものか...

懸念事項は、革ベルト!ヘタった時の交換は?
馴染みの時計屋さんが言うには、「ベルトは純正である必要はないし、いろんなものが試せる面白味もありますよ!」と見本を見せてくれた。これで安心!
留め具の三ツ折れプッシュタイプもなかなか...

さて、これで人生も... と行きたいところだが、持ち物がエレガントだからといって人生もエレガント!というわけにはいかんよ...

2025-02-02

"信頼性の高い推論 - 帰納と統計的学習理論" Gilbert Harman & Sanjeev Kulkarni 著

どの学問分野に分類すべきか、時折、そんな悩ましい書に出くわす。いや、分野に縛られない自由さこそ学問というものか。
本書の由来は「学習理論と認識論」と題した講義にあるという。哲学、人文学、情報工学、統計学、認知科学などの学生を対象に。著者には、哲学研究の専門家ギルバート・ハーマンと情報科学の専門家サンジェーヴ・クルカルニの名が連なる。知的活動に文系も理系もあるまいが、あまりに学際的。認識論的な思考過程として演繹法と帰納法の意味を探ることに始まり、機械学習的な思考過程としてニューラルネットワークやサポートベクターマシンを論じ、さらにトランスダクションにも触れる。そこには、確率論的な数式やベイズルールが散りばめられ、VC 次元のお出ましとくれば、とりあえず数学に分類しておこう。
ちなみに、数学は哲学である... というのが、おいらの持論である。
尚、蟹池陽一訳版(勁草書房 - ジャン・ニコ講義セレクション)を手の取る。

本書の記述が数学的な側面が強いとはいえ、やはり認識論の領域であろう。あらゆる学問が、人間の認識能力に発するのも確か。この宇宙に存在する一切の事物、あらゆる現象に、意味や意義なんてものはあるまい。おそらく。
だが、人間ってやつは、何事にも意味を与えずにはいられない。精神や魂といった概念を編み出しては、これに縋り、自分の人生に意味を与えずにはいられない。
それはきっと、認識能力を獲得したせいであろう。すべてを神のせいにして楽になれるなら、神の存在意義も絶大となる。結局、どう認識するか、どう解釈するか、ということに帰着する...

人間の認知能力が、あらゆる知識、事象、現象を分類したり、抽象化したりする。それは、機械学習のアルゴリズムが、ラベル付けされたデータから規則性を見つけ、定義し、分類する振る舞いと似ている。ニューラルネットワークやサポートベクターマシンは、ラベル付けされたデータ、分類化されたデータを用いる。つまり、扱うデータは、経験値がきちんと記述できる形になっているわけだ。
しかし、人間の認知能力は、記述できない、言葉にできない領域にまで広がる。そこで、トランスダクションという概念は、そうした領域にまで手を広げるものとして紹介される。
人間の推論メカニズムは、きわめて線形的で、連続的ではあるが、時には、分類の困難な、非線形な、矛盾や不合理までも相手取る。気まぐれってやつも、その類いであろうか...

物質に素粒子という素があるように、認識にも素となる命題めいたものがある。
例えば、ユークリッド原論の公準がそれだ。それは、これ以上証明のやりようのない純粋な要請であり、論理学の限界を示している。第五公準はおいといて。幾何学は、この公準を基点として組み立てられてきた。
その際、証明手順に演繹法と帰納法とがある。前者はきわめて純粋で、証明の王道といえば、おそらくこちらであろう。だが、現実は後者の方が有用なことが多い。誰もが疑いようのない明確な論理的過程よりも、経験を蓄積し、分析し、学習し、知識の精度を上げていく過程の方が実践的でもある。

ここでの関心事は、帰納法的学習の信頼性である。推定の難しさ、複雑さとして、VC 次元を持ち出し、その意味は「粉砕」によって説明される。
「粉砕」ってなんだ?大数の法則のようなものか?うん~... エントロピーに埋没しちまいそうな。推定の難しさは、簡単に言えばコンピュータの計算量ということにもなろうか。
「反省的均衡」という用語にも注目したい。それは、積分的な思考とでも言おうか。帰納法の目的が、これだ!と言ってもいい。帰納的な思考過程では、信念バイアスがかかることも留意しておこう。
そして、枚挙したデータ群から誤差を最小化する思惑、反証可能性の程度、単純な仮説の想定、正弦則による予測、カーブフィッティングを用いた実数値の推定など、基本的には線形性を想定した確率論的な推論を軸に検討が進み、やがて非線形や離散的なデータをも取り込む。トランスダクション・モデルに至っては、道徳的個人主義にも適応できるとさ...
いま、アラン・チューリングの問いかけを想起せずにはいられない。機械は意思を持ちうるか、と...

「統計的学習理論の最も偉大な発見の一つ、規則集合のヴァプニク - チェルヴォーネンキス次元、すなわち、VC 次元の重要性の発見。規則集合の豊かさの測度。反証可能性の度合いに反比例。VC 次元を持つ時、背景にある統計的確率分布が何であろうと、十分な証拠を条件付きとしてうまく得られる。」

2025-01-26

"フーコーの振り子" Amir D. Aczel 著

どんな数学的証明よりも、どんな科学的論証よりも、説得力のある実験がある。まさに、見たまんま!それは、振り子の振動面がゆっくりと回転していく正弦則にあったとさ...
尚、水谷淳訳版(早川書房)を手に取る。

いまや地球が自転しているなんて常識中の常識。
だが、これを証明するとなると、コペルニクス、ケプラー、デカルト、ガリレオ、ニュートンらを悩ませてきた。自己中心説から人間中心説、そして地球中心説を覆そうものなら、まさに命がけ。誰もが納得する証拠を叩きつけられなければ、宗教裁判の餌食よ。
レオン・フーコーとて、当初、権威ある学者連に馬鹿にされたという。アマチュア科学家が、居丈高な専門家どもに理論の後づけを強いる物語は、まさに痛快!

科学界のアウトローは、ひたすら興味本位で実験を繰り返す。その後ろ盾となったのは、ルイ・ナポレオン。伯父ナポレオンの失脚後、亡命と獄中生活を送るも、革命によって返り咲く。皇帝ナポレオン三世となった彼は、自分の不遇な人生をフーコーに重ねたのか、排他的なパリ科学界に一石を投じる。
しかし、皇帝の失脚とともに、フーコーの運命も.... 振り子が触れるがごとく。

振り子が揺れるのはいい。それは重力がある証拠。そりゃ、リンゴだって落ちるさ。
では、その振動面がゆっくりと回転する現象をどう説明するか。縦だけでなく、横にも G が働いている。横に G が働くとはどういうことか。振り子は天球の日周運動の方向に移動する。球面上において、移動方向に垂直に作用する奇妙な力の正体とは...

地球が自転しているという前提知識の上では、三角関数を用いた数学的な説明もできれば、円錐形を用いた幾何学的な説明もできるし、コリオリの力による物理学的な説明だってできる。証明の王道といえば演繹法だが、人間のほとんどの知識は経験の積み重ねで、帰納法とすこぶる相性がいい。科学的知識ってやつは、時間とともに後出しジャンケンのような状況にある。それで現代人が賢いとは、笑止!

自転する物体が織りなす空間は、独立した一つの小宇宙をつくる。それは、外部からの視点と内部からの視点という二つの観測課程の距離感として現れ、相対性の概念を呼び起こす。物理学において重要な思考法の一つに、様々な現象に座標系を仮定するというやり方がある。ある座標系から観察した物理運動は、別の座標系から観測したものとは違って見え、こうした視点が相対性理論と結びついた。
人間の発明では、ジャイロスコープに一つの小宇宙を見る。スピンを持つ素粒子にも、そこに一つの小宇宙があるのやもしれん。

フーコーの振り子は世界各地の博物館や教育機関などに設置され、観光の名所ともなっている。高い天上から吊り下げられ、永遠に揺れ動く様子を眺めていると、なんとなく崇高な気分になれる。小宇宙の中でぽつりと埋没する自我を感じながら...

2025-01-19

"古い医術について 他八篇" Hippocrates 著

紺屋の白袴... という言葉がある。医学に従事する人とは、そうした人たちなのであろう。お医者さんだけではない。看護師さん、介護士さん、理学療法士さん、栄養士さん... そして、つくづく思う。人間ってやつは、単なる熱機関か、喰って排泄するだけの存在か、と。どんなに偉かろうが、どんなに賢かろうが...
苦しみでもがき、今にも死にそうな人間に肉迫しなければ、人間というものを真に理解することは難しい。そのように肉迫できる人間だけが、医療従事者になれるのやもしれん。その原点を、ヒポクラテスの誓いに見る思い。人の命は短く、術の道は長く...

尚、本書には、「空気、水、場所について」、「神聖病について」、「古い医術について」、「技術について」、「人間の自然性について」、「流行病 第一巻」、「流行病 第三巻」、「医師の心得」、「誓い」の九編が収録され、小川政恭訳版(岩波文庫)を手に取る。

「益を与えよ、さもなくば無害であれ。医の技術には三つの要素がある。すなわち病気、病人、および医者。医者は技術の助手である。病人は医者と協力して病気に抵抗すべきである。」

医術が呪術とされた時代、医学を経験科学の座に据えた最初の人。それがヒポクラテスである。彼の流行り病における数多の症例と、これに施した治療の詳細、そして死に至る描写は、21 世紀のコロナ禍を物語っているような。当時、神聖病と呼ばれた癲癇についても、けして神業ではないと、その根拠を示す。医術を技術とする観察哲学や科学的考察。医術の心得は、二千年を経た今でも衰えぬと見える...

「人間の身体はその中に血液、粘液、黄および黒の胆汁をもっている。これらが人間の身体の自然性であり、これらによって病苦を病みもし健康を得もする。いちばん健康を得るのは、これらの相互の混合の割合と性能と量が調和を得、混合が十分であるばあいである。病苦を病むのは、これらのどれかが過少か過多であったり、身体内に遊離して全体と混合していなかったりするばあいである。」

妖術師、祈祷師、托鉢僧、野師といった連中が神聖視された時代、ヒポクラテスは、医者の地位を技術の助手とし、患者や他の従事者と協力して病に当たるべし... と説く。
そして、季節の影響を考慮すべし、特に季節の変わり目に... 暖や寒の風、あるいは風土を考慮すべし... 水の味や重さ、あるいは硬水や軟水といった性質を考慮すべし... 北方か南方か、湿地か乾地かといった土地柄を考慮すべし... 労働を嫌うか、体育を好み労働を愛すか、あるいは多食か、多飲か、といった生活習慣を考慮すべし... と。
どんな分野にも、難しい専門用語を使うことが専門家だと思っている人たちがいる。しかし、人間であるからには誰でも病気になるし、生きているからにはいつか死ぬ。この分野で専門も素人もあるまい。
確かに、専門的な検査を受ければ、病状を知り、病名を知ることができる。そこで、インフォームド・コンセントといった発想が必要になるわけだが、すでにヒポクラテスの記述に、原因と病状の関係を合理的に説明する態度が伺える。

「充満が生む疾病は空虚が癒し、空虚からおこる疾病は充満が癒し、激しい労働から生じる疾病は休息が癒し、怠惰から生まれる疾病は激しい労働が癒す。」

ところで、不幸な出来事を神のせいにすれば、それで救われるであろうか。重い病を神のせいにするのと運命論で片付けるのとでは、どちらが楽になれるであろうか。
一方で、幸運な出来事には、誰はばかることなく自分の力だと断言しちまう。人間とは、なんとおめでたい存在であろう。しかし、そうでも考えないと、生きてゆくのも難しい。やはり神は、人間にとって必要な存在のようだ。しかも沈黙してくれた方が都合がいい。神の声が聞こえると主張する者にとっては... 神の存在を信じない者にとっても...
医師だって魔術師のようなもの。18世紀頃まで名医たちは瀉血を信仰し、血を抜き、知を抜いた。水銀を与えては下痢をさせ、嘔吐させたうえに皮膚を熱して水膨れをつくり... そして、ジョージ・ワシントンは死んだ。
いつの時代も、科学や技術は信仰化するところがある。ヒポクラテスの時代、病気になれば祈祷師や妖術師のところへ行った。今の時代、病気になれば医者のところへ行く。これも、ある種の信仰やもしれん...

「神殿で、実在的にせよ想像的にせよおよそ超自然的な邪魔物を遵奉することによっては、技術は学べない。技術は、ヒポクラテス集典の著作者たちがわれわれに告げているように、経験によって学ばれ、また人間と事物の自然的本性に理論を適用することによって学ばれる。」
... ウィシントンの所説より

2025-01-12

スタートページを独自に...

ポータルサイトの乗り換えで、惚れっぽいおいらの移り気は激しい。
iGoogle, My Yahoo!, Netvibes, iChrome... そして、chrome 拡張 ProductivityTab を愛用してきた。カスタム css で彩りながら。
今、愛ある G さんや、M な Ya さんが懐かしい...

さて最近、chrome の拡張機能にこんなメッセージが...

 "これらの拡張機能はまもなくサポートされなくなる可能性があります
  削除するか、Chrome ウェブストアにある同様の拡張機能に置き換えてください。
  ・ProductivityTab — Custom Homepage Dashboard"

ここで、ず~っと保留してきた課題が浮かび上がる。どこぞのポータルサイトに乗り換え、それを解析してカスタマイズするのと、独自にスタートページを作成するのとでは、どちらが手間であろうか...と。少なくとも後者は、かゆいところに手が届く。
自由とは、独学で知識を得、自分でなんでもやるってこと。そして、これが最も肝心なことだが、それを楽しむってこと。
てなわけで、独自のスタートページを作成することに...

これが、従来の拡張機能 "ProductivityTab" のスタート画面...




そしてこれが、新規に作成したスタートページ...




大雑把な指針は、大まかな要素を flexbox で配置し、子要素に iframe や object タグを用いる。ページの切り替えは、従来は左右の矢印ボタンでページを捲るイメージであったが、新規では右上にタブを配置し、ダイレクトで飛べるようにする。
また、拡張機能では列の幅は同一であったが、自作なら自由自在!
おかげで、目障りな広告も入らず、chrome 依存から解放された。

ちなみに、iframe と object タグのスクロールバーが、chrome ではイマイチ。このあたりのオプションで誤魔化す。

  "chrome://flags"
  #    "Fluent Overlay scrollbars"
  # or "Fluent scrollbars"

2025-01-05

七年間の介護生活が終幕!ヤリ遂げた感とヤリ残した感が錯綜する中で...

関係者の方々へ感謝を込め、ここに記憶を刻む...
介護地獄という形容がある。まさに地獄!とはいえ喜びも多々あり、そう捨てたもんじゃない。こうして仕事と両立しながらやって来れたのも、みなさんのおかげです!

介護を論じれば、独り善がりな奮戦記となるは必定。
介護とは、ひと言で言えば、日々気が狂いそうになる自分との闘い!いや、もう狂っちまったか。だから、こんなものを書いているのやもしれん。
苦しかった七年間のはずが、なぜか懐かしい光景ばかり残る、今日このごろであった...

「幸福になる必要なんかないと、自分を説き伏せることに成功したあの日から、幸福が僕の中に棲みはじめた。」
... アンドレ・ジッド

婆ヤが逝った一年後、追うように爺ヤが逝った。これで七年間続いた介護生活も終幕!最期の最期は二人とも笑顔を見せ、爽やかに逝ってくれた。笑顔の残像がいつまでも残る。
婆ヤは元々穏やかな人だったが、爺ヤはやや怒りっぽい人。ボケると感情が激しくなると聞くが、逆に穏やかになっていった。大画面プロジェクタでリラクゼーションフィルムを見せたり、いろいろな気分転換を図ることで、可愛く面白くボケてくれて、笑顔に満ちた日々を送ることができた。人間は子供から大人になり、老いて子供に返ると言うが、二人とも妙に可愛く見えたものである。
今、ヤリ遂げた感とヤリ残した感が錯綜する中、やや前者が優勢であろうか。今でも涙は出るが、それは悲しい涙ではない。辛い涙でもない。むしろ心地よい涙、いつまでも流していたい涙。この七年間、少しばかり人間というものを学ぶことができ、これから生きていく上で心強い糧となりそう... 婆ヤ爺ヤに感謝!

1. 所詮、人間は単なる熱機関か...
婆ヤの要介護 4 に始まり、爺ヤは要介護 5 まで昇り詰めた。婆ヤは、いきなり腰の圧迫骨折!やがてパーキンソン病で難病指定を受ける。爺ヤはアルツハイマー型認知症にパーキンソン病が加わる。御老体は自分で排便する力も衰え、便秘になりがちだから摘便もやる。
尚、摘便は立派な医療行為で大腸を痛めるから、あまり素人がやらない方がいいと言われたが、そうはいっても...
最期に近くなると、訪問看護師さんが座薬との組み合わせで見事に時間管理してくれた。さすがプロ!他人にはさせられないと思いつつも、看護師さんに任せると、粘土遊びでもやっているかのように徹底的に出してくれて、これには随分助けられた。
考えてみれば排泄処理さえ克服できれば、なんとかなる。やはり、人間なんてものは単なる熱機関か。喰って排泄するだけの存在か...

2. 二人の最期...
婆ヤの場合、肺雑が酷いというので入院を促されたが、本人はいつものことだからと強く拒否!すると、「息子さんを少し休ませてあげましょうよ!」との医師の説得でニコッとして OK! その二日後亡くなる。
爺ヤの場合、同じく肺雑が酷いというので入院。そして、自宅で 24 時間のお看取り体制を整え、訪問看護師さんのチームと訪問理学療法士さんのチームに、訪問診療のお医者さんと旗揚げをしていたところ。婆ヤにやってやれなかったことを爺ヤにやってやろうと、おいらの我儘に周りを巻き込みつつも、担当看護師さんには「こういうケースは滅多に経験できるものではないので、是非やらせて下さい!」と言うてくれた。
「明後日連れて帰るよ!」と声をかけると爺ヤがニコッ!その翌朝亡くなる。結局、間に合わなんだ!自宅で看取ることができなかったことが心残りといえば、贅沢な心残り。
二人とも苦しんだ様子を一切見せず、おいらの眼にはごく自然な老衰に映った。ある意味、理想的な死を遂げたのではないだろうか。勝手な解釈ではあるが...

3. 介護力が問われる時代...
介護をやっているというだけで、頭ごなしに不幸のレッテルを貼る輩がいる。しかも、こうした方がいい!こうすべきだ!などと安直な言葉を放ち、大きな悩みに直面している人を追い込む。それで助言した気分になってりゃ、世話ない。そういう御仁は視界から抹殺!やたらと絆を強いる社会では、孤独に救われることが多い。一般論なんぞクソ食らえ!そして、こっちがクソ食らう。
チーフ看護師さんには、お宅は介護施設なみの介護ルームに、プロの介護士以上に介護士さんやってますねぇ!と冗談まじりに励まされたものである。
福祉施設が乱立しても、まともな介護士や看護師が雇えなければ機能しない。実際、機能していない施設をちらほら見かける。どの業界も優秀な人の負担は増えるばかり。それで、丸投げ家族の苦情に晒されては、なり手もいなくなる。人口の膨れ上がった社会では、ある程度、自前でやってゆかねばなるまい。

4. 介護と仕事の両立は難しい...
しょんべんまみれで御飯を作り、ウンコまみれでキーボードを叩く。このマルチタスクは、なかなか手ごわい。何度手を洗っても臭いが残った感じ。潔癖症になりそう...
介護マネジメントは、プロジェクトマネジメントの要領に似ている。おいらの場合、個人事業主で仕事仲間の理解もあり、介護環境に恵まれた。介護保険適用の住宅改修を利用し、玄関や風呂場やトイレに手すりを設置。福祉用具は、介護ベッド、車いす、シャワーチェア、トイレとベッドに補助手すり、あちこちに突っ張り棒など、ジャングルジム状態!あとは、ナースコール、介護カメラ、音声感知、人体検知など、24 時間稼働!
介護自体は大変だが、介護システムの構築は結構楽しい。おかげで、福祉関係者の見学コースに...

5. デイサービスにショートステイを絡めて乗り切る日々...
通所介護や病院など同系列の医療法人を利用し、ケアマネージャさんをはじめ、訪問介護士さんのチーム、訪問理学療法士さんのチーム、訪問診療のお医者さん、訪問歯医者さん、福祉用具屋さん、訪問美容師さん... と毎日誰かが訪れ賑やかに過ごす。最期に近くなると、浴槽ごと持参してくれる訪問入浴屋さんにも参加いただいた。大画面プロジェクタの前で温泉気分を!本人は、イイ湯だなぁ... ってな感じ。
医療現場といえば、たいてい医師が主導するのであろうが、逆に現場が率先してくれて、医師は後ろから支えている感じ。こうした組織構造は、実に民主主義的で、上の命令がなければ動けない大企業や官僚組織とは違う。彼らこそ日本の組織の在り方を問うているような。延命医療はいらない。一流医療もいらない。いかに穏やかに人生を完結させられるか...

6. おまけ... 後出しジャンケン!
看護学校の学生さんが研修で来た時、後出しジャンケンというアイデアを持ってきてくれた。「私に勝って下さい!ジャンケンポン...」と学生さんがボケ爺さんの手のひらを広げさせようと、グーを出すと、爺ヤもつられてグーを出す。「では、私が負けましょう!」と、学生さんがチョキを出す。すると、「ジャンケンって難しいなぁ...」と言って爺ヤが大笑い!こんな風に笑顔に満ちた日々を過ごしたものである。
介護生活三年目ぐらいであろうか。おいらが怒り狂い、自宅の壁に拳で穴を開けた。それをあえて修繕せずに残している。この壁の穴を見ていると、なにやら懐かしい風のようなものを感じ、どんな怒りも鎮められそうな気がする。ある種の精神安定剤といったところであろうか...