2021-03-28

ISP 320M から 1G へ... 増速工事よりメンテナンスでスッキリ!

J-com さんからインターネット増速プランの案内がきたのは、2020年4月。320M コースから 1G コースへの。
そして、2021年3月に申し込むと、工事費が無料!という追い打ちが... おいらは、暗示にかかりやすいのだ。
二十年間利用してきて、乗り換える気はないし。今のところ...


正直言って、1G なんて名前に期待していなかった。倍にはなるかなぁ.. ぐらいなもので。案内には「モデム交換工事」とあり、モデムの交換だけで、そんなに改善されるとも思えない。
ところが、二十年前に屋根裏に設置したブースタの交換と信号レベルの調整に、分配器や保安器などすべての経路を丁寧にチェックしてくれた。1G ともなると、モデムの交換だけでは性能が出ないらしい...


実は、ブースタへの電源供給部の接触が不安定で、掃除の時にモップが当たると、接続が遮断したりしていた。基板も浮いているようで、カラカラ音がする。触らなければ問題ないので、数年間放置してきた。何かのついでに... と思っていたところ、今回、ちょうどいい機会になったという次第である。
ブースタ交換にともない、その電源供給部も交換、ついでに古くなった接続部も交換。おかげさまで、懸念材料がすべてクリア!増速よりもメンテナンスで非常に有意義な工事となった。
工事担当者にも恵まれたのだろう。来訪時間がギリギリで、作業時間もちょっとかかったけど、納得!
こんなに大袈裟な増速工事になろうとは、いや、こんなに大々的なメンテナンス作業になろうとは... ありがたや!ありがたや!


さて、速度は?というと... まぁまぁ。
工事屋さんの経験によると、測定値の平均は 500Mbps ~ 650Mbps ぐらいだそうな。うちの測定値は、700Mbps ほどでビックリしていた。環境は、かなり良よさそう。場末の一軒家だし。都心だと、こうはいかんらしい。
J-com はネットが弱点なんですよ!なんて愚痴をこぼしていたが、実は、技術屋さんの本音が聞けるのも貴重だ。企業組織では、営業トークで本音を漏らすと厳しく叱る上司もいるが、向上心ある技術屋さんは技術に対しては素直なもので、その実直さが信頼に繋がる。また工事機会があれば、指名したいぐらい...

参考までに、測定サイトでは、瞬間スピードが 800Mbps を超える模様。上りの 10Mbps はあんまりだったけど、100Mbps にアップして少し救われた。下りのアップよりありがたいかも...


  ピン   ダウンロード速度  アップロード速度
  24 ms  819.95 Mb/s       97.27 Mb/s
  @Home Network Japan
  by https://www.bspeedtest.jp/ (9:00 AM)


新規のモデムは、HUMAX HGJ310V3...
ルータモードとブリッジモードを試すと、ややブリッジモードの方が速い。但し、30Mbps ほどの差で、誤差の範疇か。タイミングによってはルータモードの方が速いかも。とりあえず、シンプルな構成でブリッジモードに...
尚、VPN のスループットがちと目立つようになった。うん~... VPN ルータへの投資が悩ましい...

参考までに、構成は...


  +- HUMAX HGJ310V3           # J-com Modem 1G, Bridge mode
    +- YAMAHA RTX810          # Router 1Gbps/VPN 200Mbps, dhcp/dns
      +- BUFFALO WSR-2533DHPL # WiFi Access Point 1733Mbps(5GHz)
        +- ...
      +- Corega CO-BSW08GTX   # Switching Hub 1000BASE-T
        +- ...
  # LAN ケーブルはすべて CAT6a


30Mbps ぐらいで誤差と言える時代とは...
二十年前は、12M コースだったような。当時は、誤差の量ほども仕事をしていなかったということか。
もっと遡ると、9600 ボーの時代が懐かしい。ギーガギーガ音がかすかに耳に残る。ボーなんて単位を知る人も、いまや少数派のようだ。仕事仲間に余計なことを喋っていると、ボーレートと bps の違いを質問され、物理的な位相変調のイメージをホワイトボードで説明する羽目に。変調イメージは、イーサネットでも無線通信でも基本は同じなので、知っておいて損はないだろう。高速になればなるほど、設計者は物理的なアナログ特性を考慮することになるのだから。
ただ、ネアンデルタール人でも見るような目線を感じるのだった...

2021-03-21

"人間の条件" Hannah Arendt 著

人間である条件とはなんであろう。こんなことを自分に問えば、人間失格の烙印を押されちまう。ハンナ・アーレントも、随分と酷なことを...


しかし彼女は、これを問わずにはいられない時代を生きた。家は上層中産階級のドイツ系ユダヤ人。両親は知的職業の社会主義者。ただ、彼女自身は伝統的な宗教儀式から離れ、いわゆる若い世代に属していたようである。

マールブルク大学でハイデガーやブルトマンに学び、フライブルク大学ではフッサールに師事し、ハイデルベルク大学ではヤスパースに... そんな彼女にして、政治活動家へ向かわせた条件とは...

社会主義ユダヤ人の娘という立場は、ナチズムが猛威をふるう時代では特別な意味があったことだろう。パリへ亡命するも、フランス敗北とともに強制収容所へ。なんとかアメリカ政府が発行したビザを手に入れ、難を逃れるも...

市場経済が世界恐慌で醜態を晒し、民衆が自由主義世界に幻滅する中、隣の芝生は青い... と言うが、よその世界が良く見えるもので、社会主義がもてはやされたのも、そうした流れがある。

ハンナの場合、労働に価値を求める点ではマルクス主義的。だが、労働と仕事を区別する点では反マルクス主義的。隷属的な労働と職人的な仕事とでは、人間として意味するものがまったく違う。それは、21世紀の現在でも問われていること。なにやらヘーシオドス風の原点回帰を思わせるような... ルネサンス風の精神回帰を思わせるような...

しかしながら、人間ってやつは、知能があるゆえに、理性を纏うがゆえに、自己破壊への衝動を抑えきれない。その意味では、シュンペーター風の自業自得論にも通ずるような...

尚、志水速雄訳版(中央公論社)を手に取る。


ハンナの危機意識には、三つのものが見て取れる。

一つは、ナチズムとスターリニズムの台頭。巨大な暴力が世界を全体主義へと向かわせる。彼女の言葉には、革命の時代が来たと鼓舞するレーニンのような高揚感は見られない。

二つは、画一化した大衆社会。労働が大量消費と結びつき、世界を食い尽くしていく。芸術作品ですら保存の対象から消費の対象へ。

三つは、世界に蔓延していく疎外という精神現象。科学や生産技術の高度化が、人間というものを見失わせる。核兵器や人工衛星などの開発で、地球に拘束されない宇宙的な立場を確立し、ますます人間優越主義を旺盛にしていく。

「共通世界の条件のもとで、リアリティを保証するのは、世界を構成する人びとのすべての共通の本性ではなく、むしろなによりもまず、立場の相違やそれに伴う多様な遠近法の相違にもかかわらず、すべての人がいつも同一の対象に係わっているという事実である。しかし、対象が同一であるということがもはや認められないとき、あるいは、大衆社会に不自然な画一主義が現われるとき、共通世界はどうなるだろうか...」


自己をしっかりと見つめなければ、社会像も曖昧になっていく。現実をしっかりと見据えなければ、理想像も空想化していく。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体の宿命である。ハンナの目には、20世紀に出現した大衆社会が、私的領域も、公的領域も消滅した世界に映ったようである。確かに、大衆(体臭)は臭い!「人間の条件」とは、人間の危機を物語った書というわけか...

生きるために人間は、実に多くの人工物を編み出してきた。組織、生産、技術、知識... そして、労働と。古代都市国家の時代、労働は奴隷のものであった。労働の力学法則ってやつは、文明がどんなに高度化しても、あまり変わらんようだ。いや、高度化するほど顕著になるのかも...

ただ、彼女の言う「仕事」という概念は、古代から受け継がれる「哲学する」という行為の延長上にあるような。仕事とは、金儲けだけのものではあるまい。喰うためだけの手段でもあるまい。ボランティアだって、立派な仕事。自己を見つめるための手段とするなら、いくらでも仕事は見つけられる。これぞ、私的領域というものか。

個人が仕事をすれば、何らかの関係を持つことになり、その先に、公的領域までも開けてくる。人がなんらかの活動をすれば、その反作用として同時に受難者となる。それが、活動の力学法則というものか。

この際、関係の対象が、物理的なものか、仮想的なものか、そんなことはどうでもいい。仕事とは、人間であるための手段というわけか...


「どんな活動においても、行為者がまず最初に意図することは、自分の姿を明らかにすることである。これは止むを得ず活動する場合でも、自分の意志から進んで活動する場合でも同じである。どんな行為者でも、行為している限り、その行為に喜びを感じるのはそのためである。というのも、存在するものは、すべて、あるがままの自分を望むからである。さらに、活動においては、行為者であることはいくらか拡張されるから、喜びは必然的にそれに従う... だから、活動が隠された自己を明らかにしないなら、いかなるものも活動しないだろう。」
... ダンテ


ところで、人間に生物的な存在以上のものがあるのだろうか。自然界の一員であることを忘れちまった生命体に。それを放棄しちまった存在に...

宇宙に存在するあらゆる有機体は熱機関として働く。人間だって、喰って排泄するだけの存在。エネルギーをやりとりするからには、物質同士で何らかの関係を持つことになる。

しかも、同族同士で結びつこうとする性質があり、周期表に並ぶ原子族同士でも分子構造を持たずにはいられない。物質がなんらかの関係を持とうとするのは、万有引力の法則がそうさせるのだろうか...

人間社会でも、この同族の性質は保たれたまま。アリストテレス風にいえば、人間は社会的存在ということになるが、同時に集団依存症を患い、生まれつき奴隷説は未だ健在ときた。孤独を忌み嫌うのは、物質の特性であろうか...

人間目的なるものを知っている人間が、この世にいるのかは知らん。神とやらに与えられた使命があるのかも知らん。ただ、そう思い込むことは簡単だ。思い込みは、経験から生じる。経験が人を賢くするのか、愚かにするのか。いずれにせよ、経験は人と共有できる。自分自身が経験しなくても、他人の経験から学ぶこともできる。

人工知能ともなると、大量の経験データを瞬時にダウンロードできる。データがなければ、バカすぎるほどの判断力しか示せないヤツが、大量にデータをダウンロードした瞬間から、人間を超えた能力を発揮しちまう。コンピュータ科学が唱えるデータ共有とは、夢と希望に満ちた概念かは知らんが、実に恐ろしい。失敗したデータから学ぶことを忠実に実行する人工知能。対して、失敗を恐れすぎるほどに恐れる人間、あるいは、失敗なんぞとっくに忘れちまう人間。人間であるかどうかの境界面は、このあたりにあるのだろうか。

コンピュータが人間に近づけば近づくほど、人間は自分自身に問わずにはいられない。人間とは何者か?人間の役割とは何か?そして、人間であるとはどういうことか?と...


「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、堪えられる。」
... イサク・ディネセン

2021-03-14

"MIND HACKS - 実験で知る脳と心のシステム" Tom Stafford & Matt Webb 著

オライリー君の Hacks シリーズの中でも、ちょいと異質感あり。自分の心をハッキングし、自分の人生をハッキングする。自分探しの旅に終わりはないのか...

ちなみに、行付けの寿司屋の大将が言っていた。心を握ります!って。気色わるぅ...


本物語では、基本的な脳の構造から、視覚や聴覚などの感覚系、運動や推論といった思考系、そして、これらの機能が連携する様子を観察しながら記憶の果たす役割が考察され、さらに、人間関係における脳の働きが論じられる。

脳には、各部位に違う機能が備わっていることが、科学的に判明している。だが、どのように備わっているかは不明のまま。よく見かける論説では、「論理の左脳」、「直感の右脳」といった類いのものだが、そう単純ではない。部位に機能的な傾向はあっても、独立して機能するものでもない。脳の損傷によって失われた機能を、別の部位が補うといった症例もある。脳内の複雑なネットワークによる協調と補完は、まさに神秘!創造主は神だ!と信じるのも無理はない。

おまけに、脳が司令する意思には、二つのものある。意識した意思と、意識してない意思とが。しかも、その境界も曖昧ときた。意識した意思が言語化すれば、おそらくそれは自分自身の意思であろう。では、意識していない意思は、誰の意思か?聖職者が答えてくれる。それは神のお告げ... と。俗人も負けじと答える。それは悪魔のささやき... と。

脳というブラックボックスには、自我とは別に暗躍するヤツらも住み着いていそうだ。脳を操る黒幕どもが。それが、深層心理ってやつかは知らん。もしかして脳ってやつは、神と悪魔の共同作業でこしらえたものということはないのか。神と悪魔は、表裏一体ということはないのか。主観と客観の関係のような。ヤツらは、グルってことはないのか。やはり人間は人間らしく、ヤツら双方と距離を置き、中庸を生きるのが収まりがいい...


ところで、思考する知的生命体が、思い込みってやつを排除することができるだろうか。精神などという得体の知れないものに取り憑かれながら。主観に支配されれば、客観への憧れを妄想にまで膨らませ、科学する衝動を抑えきれない。

ちなみに、客観的に語ると宣言した有識者どもの主張が、客観的だったためしはない。無い物ねだりというやつか。

脳ってやつが、いかに幻想や錯覚を見せていることか。自我の安定を図るために。

巷では、感情を抑えるのが大人の態度とされる。だが逆に、これを存分に解き放ち、本音に耳を傾ける方が合理的ということはないだろうか。怒りも、悲しみも、憎しみも、喜びも... 感情のすべてを利用し、愚痴までも存分に吐き出して言語化する。小説家とは、そういう類いの人種では。内にあるものすべてを曝け出し、恥を忍んでまで表現力の限界に挑む。芸術家とはそういう類いの人種では。人がどうであれ、そんなことは気にもかけず、素直に自分の本心に従って行動する。これぞ自由精神の体現。Mind Hacks... とは、そういうことだと解している。

無意識の領域は、ことのほか広大だ。考えや記憶を植え付けるには、いろんな裏技がありそうだ。思い込みにも情緒あり。脳には、脳の持ち主ですら知らない人生があるのやもしれん...


1. レクリエーション神経科学

この手の研究は、「認知神経科学」という分野に属すそうな。「認知心理学」という用語なら見かける。情報処理的な観点から、知覚や記憶、言語操作や意思決定といった心理プロセスを研究する分野である。これに、脳科学を融合したような...

脳を一つのブラックボックスに見立て、外部から様々な情報や刺激を与え、反応の仕方や反応時間の変化を観察する。EEG(脳電図)、PET(陽電子放射断層撮影法)、fMRI(機能的磁気共鳴映像法)、TMS(経頭蓋磁気刺激法)といった手法を駆使し、脳の各部位の活動を可視化する。

すると、「人間は脳の 10% しか使っていない」などという神話も崩れていく。10% しか使っていないなら、90% はいらないってか。ただ、この手の神話は、人間の可能性とやらを夢見させてくれる。希望めいた可能性は、人の心を動かすが、同時に危険でもある。絶望と背中合わせで。それで、心に平穏がもたらされるのなら、これも精神的合理性というものか。合理性という概念も、ちょいと角度を変えて眺めると、多様な合理性が見えてくる。

本書は、一般人にも実践できる数々の思考実験の冒険へといざなう。尚、「マインド・ワイド・オープン - 自らの脳を覗く」の著者スティーブン・ジョンソンは、これを「レクリエーション神経科学」と呼んでいるという...


2. 複雑な脳のリレー構造と多重人格性

中枢神経系を眺めるだけでも、複雑なリレー構造が見て取れる。

まず、脊髄の二つの神経、感覚の情報を受取るレセプターと筋肉や分泌腺を機能させるエフェクター。脊髄のニューロンの束が脳に到達する脳幹。さらに、後脳、小脳、中脳、大脳へ。

後脳は、主に、呼吸、心臓の鼓動、血液供給量の調整を担い、自動的に働く。小脳は、学習や運動の制御で重要な役割を担う。

ちなみに、小脳は最も古い脳とされ、進化において最初に獲得したとも言われるそうな。

中脳は、後脳と前脳を中継し、人間の場合は小さくなっているが、コウモリなど中脳が非常に発達している動物もいるという。

大脳は、右半球と左半球に分かれ、さらに前頭葉と後頭葉に分かれて四つの葉で構成される。これらを覆う大脳皮質には様々な機能が部位的に埋め込まれ、人間が人間らしくいられるのは、この大脳のおかげである。

そして、無数の神経から発せられる大量の情報をニューロンが電気信号で伝達し、脳が活発になると血流も著しく増加する。脳の中では、絶えず電子の嵐が吹き荒れているわけだ。

ひとりの人間の身体は一つだから人格も一つと見てしまいがちだが、脳の複雑なメカニズムを眺めると、二重人格、いや、多重人格の方が自然な姿に見えてくる。脳疾患とこれにまつわる精神病とは、進化の過程を今まさに実践している状態を言うのかもしれん...


3. 左脳か、右脳か

一般的に、左脳は言語認識、分析推論、論理的思考などの役割を担い、右脳は身体感覚、空間認識、芸術性、創造性などの役割を担うとされる。

人間のタイプでも、左脳型と右脳型で分類されるのをよく見かける。左脳型は言語力や計算力に優れ、右脳型はひらめきやイメージに優れるとされたり、あるいは、前者は真面目で几帳面、後者は楽観的でマイペースと言われたり。

右脳と左脳は、常に情報交換しながら協調しあい、補完しあっているのは確かであろう。しかし、それだけだろうか。反目しあったり、邪魔をしあったりすることはないのだろうか。何事も関係を持つということは、そういうことであろう。精神分裂症の境界面は、このあたりにありそうな...

では、左脳と右脳の連携を、外部からコントロールすることは可能であろうか。脳というブラックボックスに対して、入力と出力の関係から考察してみる。

そういえば、脳の処理傾向を、指の組み方、腕の組み方、足の組み方といった、さりげない癖で診断する方法を見かける。指の組み方は脳の入力側で、つまり、物事を直感的に捉えるか、論理的に捉えるか。右の親指が上になると、論理的に捉える傾向にあるらしい。腕の組み方は脳の出力側で、つまり、物事を直感的に処理するか、論理的に処理するか。右腕が上になると、論理的に処理する傾向にあるらしい。足の組み方も、性格診断で用いられたりする。右足が上になる人は常識行動タイプで、左足が上になる人は大胆行動タイプとか。

こうした傾向は、犯罪心理学や営業心理学にも用いられる。対面した人の手足の動きを観察しながら。利き手が、右か、左かでも、脳の半球説で論じられるのを見かける。

さて、入力側と出力側で左脳派と右脳派を区別するだけでも、四つのパターンができる。物事を直感的に捉えて論理的に処理したり、物事を論理的に捉えて直感的に処理したりもするわけだ。直感だけに支配される脳も味気ないが、論理だけに支配される脳も面白味がない。

そこで仕事中に、脳内の思考回路を操作しようと、腕や足を組み替えて、すべての組み合わせを試すのだが... うん~... うまくコントロールできているかよう分からん。結局、人間の最も人間らしい行動は、気まぐれだ!という考えに落ち着いちまった。ちなみに、ダンディズムってやつは、右曲がりで演じるらしい...


4. 視覚の罠

視覚系は大きな謎である。物体の形や色を見分けるだけでなく、奥行きや運動までも感知し、身に降りかかる危険かどうかまで瞬時に判別する。目の網膜に当たった光だけを頼りに、あらゆる脳内組織が連携した結果として見える世界。それは真実の世界であろうか。

例えば、生まれつきの盲人が、青年になって手術を受けて視覚を獲得した際、映像は見えるようになっても、それが自分自身とどう関係するか、それが危険な状況にあるのか、といった判断がまったくできず、却って情報処理が負担になって精神病を患ってしまうという症例もある。

今、目で見ている映像は、経験的に関連性をもたせた結果ということか。つまり、脳が映像を作っていると。人間にとって、見たまんまというほど説得力のあるものはない。

となれば、視覚が正常な人ほど、映像で洗脳することも容易いということか。だから、深く考えようとする時には本能的に目を閉じるのだろうか...

現代社会は映像情報に溢れ、アニメーション効果も絶大である。4K に 8K と解像度は格段に上げっても、フレームレートは変わらない。NTSC 方式であれば、毎秒 30 フレームのコマ送り。人間の目は、このフレームレートで十分すぎるほど誤魔化すことができるというわけか。

高度な認識能力を持つ宇宙人は、こんなノイズだらけの映像を見ている生命体を不可解に眺めているかもしれない。だから、遠くから観察しながらも、近寄ろうとしないのかは知らんが...

人間の視覚系は、物体の動きに対して補間機能が自動的に働く。人間の心にとって、連続性はよほど落ち着くと見える。逆に、ノイズがない純真な世界は、心が落ち着かないのかもしれない。だとなると、ノイズにも一定の価値がありそうだ。人間ってやつは、真実が見えすぎると思い上がる性癖を持っている。真理を見る目を持つには、盲目の方がよさそうだ。

本書は、視覚を誤魔化す実験として、ブルフリッヒ効果、隠し絵、蛇の回転などを紹介してくれる。

ブルフリッヒ効果は、片目に着色ガラスを付けるなどして、左右の目に入る光量の差を大きくすると、直線運動する振り子が楕円運動しているように見える、といった現象のこと。視覚の認知機能は、アンバランスなサングラスがあれば、簡単にハンキングできるとさ。

隠し絵は、トリックアートの類いで認知心理学でもよく見かける。有名なものでは、「妻と義母」、「ルビンの壺」など。ここでは、「アヒルにもウサギにも見える絵」が紹介される。ただ、これらのダブルイメージは、同時に見ることができない。脳が、イメージに文脈を与えているということか。人間の脳は、二つの文脈を同時に解する能力に欠けるのか。ここでいう文脈とは、脳内で形成される一つの物語であり、思い込みと解することもできそうだ。

蛇の回転は、静止画像なのに、じっと見つめていると、なぜか動いて見えるというヤツ。その画像は「蛇の回転」でググれば、わんさとひっかかる。静止しているのに動いているというのも、思い込みの類いか。

となると、映像情報によって思考を促す、いや、思考しているように思い込ませることもできそうだ。

おいらの場合、仕事場でデスクトップ環境にも凝る。マルチモニタを 8 面に拡張し、背景、色彩、動画などの素材を組み合わせて。周波数スペクトルをアニメーションさせるだけでも癒やされたりするし、三角関数の動きにも何か感じるものがある。ピュタゴラス教団の信仰も、この感覚に似たものがあったに違いない。ただ、素材が調和しないと、逆に集中力が乱れる。視覚系と聴覚系の連携にも気を使う。視覚に調和しない BGM は、思考を邪魔する。

そんなこんなで、普段から思考を高めようとしているわけだが、効果があるかはよう分からん。それでも、気分よく仕事ができる。これこそ気分屋の思い込みであろう...


5. 思い込みにも情緒あり

思い込みは、どこから生じるのか。おそらく、心を持つ人間は、こいつから逃れることはできまい。人間は、あらゆる情報に因果関係を持たせようとする意識が働く。そして、多くの関連情報をひとまとめにし、総合的に捉えたり、構造的に理解しようとする。いわゆる、「ゲシュタルト原理」ってやつだ。学問とは、そうした立場であり、物事を理解する上での自然な感覚とも言えよう。

精神的には、物事を抽象化し、ひとまとめにして、それで分かった気になれる性質はありがたい。ただ勢い余って、無関係なものまで無理やり因果関係を与えようとする性癖も共存する。無関係にも程度があろうが、宇宙に存在するものが完全に無関係とも言えないか。なんでも関係性を持たせたいと思うのは、外界との関係を断つことを恐れているからかは知らん...

さて、思い込みという心理現象も、様々な関係性の意識から生じるような気がする。理解の過程には、思い込みがつきもの。天動説や地動説も、その類い。変化を嫌う現状維持バイアスが心理的に働くことも、現実から目を逸らす要因となる。真理の色は、ステレオタイプに簡単に染められるのである。

また、その日の心理状態によって、見えることがあれば、見えないこともある。見たことがないものを、見たことがあると思うことも。疲れている時に偽りの真実を見せるなど。デジャヴも、その類い。逆に、見慣れたものに未知なものを感じることも。脳のデータベースには、偽造の記憶で溢れていそうだ。いや、心ってやつが、記憶を取り出すときに捏造するのかも...

人間の脳には、情報の捉え方でも、一人称視点と三人称視点で都合よく使い分ける能力が備わっている。幸運に巡り合うと自分の努力を褒めたり、不運に見舞われると神のせいにしたり、まったくおめでたい。

ところで、コーヒーの味は、カップで変わるという。バーの薄暗いセピア色の雰囲気が、ピート香を引き立てるのも確かだ。こうした感覚は、コーヒーとカップが関係を持った瞬間に生じる。人間の脳は、様々な要素の関係性から物事を認識しているのは確かであろう。こうしてみると、思い込みという感覚も奥が深い。

しかしながら、世間は、思い込みを低級扱いする。特に、学問の世界では。思い込みを排除するのに、関係性を断つことも一理ある。

とはいえ、学問の場では、現象の原因、つまりは、関係性を追求しようとする態度を重視する。人間ってやつは、多くの関係性を持ちたいという欲求に飢えていそうだ。それでいて、思い込みを馬鹿にするとは。矛盾の最大の原因は、心を持つことか...


6. 独り言の効能

人類の進化を論じる時、ほとんどの科学者が言語の獲得を重要視する。まさに文化は、言語によって語られる。記号も図形もある種の言語、そして、美術作品も、建築物も、音楽も、はたまた、暗号も、方程式も... ある種の言語化。

しかし言語ってやつは、人と話をしたり、情報を伝達したりするだけのものではない。自分自身で思考するためにも欠かせない。言語は、様々な種類の情報を関連づけ、思考を促してくれる。他人に説明しているつもりでも、実は、自分自身に言い聞かせているということもよくある。

となると、独り言も、心のハッキングで利用できそうだ。自問や自省の役割は大きい。歴史を遡ると、多くの自省の名著にでくわす。啓蒙時代にあってはルソーの「告白」、ルネサンス時代にあってはチェッリーニの「自伝」、ローマ帝国時代にあってはアウレリウスの「自省録」、紀元前に遡ると、司馬遷の「史記」の末尾に「太史公自序」なるものが添えられる。いまだ人類は、人間自身を語り尽くせていないということか。偉人たちですら、独り言が不十分だったと見える...

2021-03-07

"Beautiful Security" Andy Oram & John Viega 編

 "Beautiful Code", "Beautiful Architecture" に続く、オライリー君の Beautiful シリーズ第三弾。

但し、ここでは美しさの光景が、ちと違う。悪を知らなければ、善を知ることもできない。醜いものを認識できなければ、美しいものを認識することもできない。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体の宿命だ。どんな技術に美しさを感じるか、それも十人十色。エレガントな善人もいれば、華麗な悪党もいる。侵入の手口が鮮やかならば、それをさりげなく葬り去るのも鮮やか。美しさをめぐる善と悪の饗宴とでも言おうか...

ここでは、セキュリティの第一線で攻防を繰り広げる 19人 + 1人(日本語版)の達人が、善悪の両面から体験談を語ってくれる。美しさの定義もいろいろあろうが、要件の一つに、善と悪のバランスを挙げておこう。

そして今、本書を犯罪心理学の書として眺めている。まずは悪を知ること、自己の中に潜む悪をも...


「人間という存在を稀有な存在たらしめているのは、他者の経験から学習する能力を持っているからであるが、人間とは面白いことに明らかにその能力を発揮したがらない存在でもある。」

... ダグラス・アダムス


現場百遍ともいう...

事件捜査で使われる用語だが、まずは痕跡や経路を追うこと。セキュリテイの基本は、まずログ・システムの構築ということになろうか。システム設計者であれば、美しいログとまで言わなくとも、できるだけ有用なログを残すよう常に心掛けていることだろう。

彼らは、システムの設計思想にも敏感なはず。システム自体に内包する論理的矛盾が、新たなバグを呼び込みやすくし、外部攻撃を支援する可能性を高める。そのために、システムの状態を詳細にモニタせずにはいられまい。科学の基本姿勢である観察哲学を適用しようと。

ピーター・ドラッカーも、こんな言葉を遺してくれた...


"If you can't measure it, you can't manage it."

「測定できないものは管理出来ない。」


基本的な機能の実装も重要だが、こと悪の道では例外処理により気を配ることになる。ユーザは設計者の想定どおりには行動してくれない。犯罪者なら尚更。どこかに隙がないかと自動化した反復攻撃を仕掛けてくる。プログラミングの利便性は、犯罪者にとっても利便性をもたらす。


設計者だって人間...

設計者は、しばしば商業主義的な命令に屈する。日々、くだらない要求仕様を強要されれば、無力感に襲われ、疑問を持つ気力も失う。本書は、こうした姿勢に「学習性無力感」「確認バイアス」といった心理学的用語を当てる。

設計者の意欲に対して、品質を落とすような命令は危険すぎる。変革や改善にも悲観的な意識を与え、向上心までも頓挫させ兼ねない。設計開発の現場では、後方互換性のためにセキュリティを犠牲にする事例も珍しくない。哲学的な目標を見失い、人生の目標を見失い、それで給料が安泰とは... 優秀な人材が逃げていくのも致し方あるまい。

設計に穴があれば、運営にも穴がある。ルータなどの通信機器では、内側に向けられた既知のサービスやプロトコル以外は、たいていブロックするよう設定されている。well-known 系ポート以外は。だが、外側へ向けられたコネクションはほとんど遮断しないよう設定されている。利便性を考慮してのことだが、そのために、ファイアウォールの内側から見れば、default でたいていのウェブサイトにアクセスできるようになっている。侵入はブロックし、発信はオープンという思想だが、なにもシステムに侵入しなくてもデータは盗み出せる。ユーザに喋らせればいいのだ。しかも、無意識に。それは、インテリジェンス工作における諜報心理学と基本的な原理は同じ。近年、メーカに忍び寄る政治的圧力が目立ち、セキュリティは高度な政治問題になっている。今日の設計者は、犯罪心理学の側面からもテストや検証を考慮する必要があろう...


ユーザはというと...

ウィルス対策ソフトなどのセキュリティツールが、システムの安全を確保してくれると信じているユーザは多い。ファイアウォールのみならず、IDS(不正侵入検知システム)や IPS(不正侵入防止システム)を設置すれば、もう安心!と...

巷では、セキュリティ・アラートはオオカミ少年化し、アップデート神話まで蔓延る。ソフトウェアを最新版に保っていれば、もう安心!と...

確かに、セキュリティ面から即座にアップデートし、常に最新版に保つ方がいい。だがそのために、システムに深刻な不具合をもたらすことも珍しくない。そして、WUuu... と重低音で唸らずにはいられない。

尚、WUuu... は、Windows Update.... の略。ユーザを飼いならすことにかけては、SM 教はお見事!脆弱性を理由に、あらゆるソフトウェアの不具合に対してパッチを当てることを、ルーチンワーク化してしまったのだから。これに、なんの疑問も持たないとすれば、見事な洗脳ぶり...


パスワードを一つとっても...

ソフトウェア業界は、パスワードの管理でユーザにかなりのストレスを強いている。一般ユーザにとってのパスワードは、解読しにくいことよりも、忘れてしまう方がはるかに問題である。覚えやすく強度のあるパスワードを作ることは、自己責任!ってか。

パスワードは、常に辞書攻撃に晒されている。秘密主義が崩壊した昨今、あの L0phtCrack にしても裏をかかれる可能性がある。パスワードのクラッキングでは、ユーザがパスワードを作る傾向を分析したデータベースがある。

では、生体認証ってやつは安全だろうか。バイオテクノロジーとの融合は、なんとなく期待感を持たせてくれる。犯罪捜査ドラマでも見かける、指紋、声紋、顔、掌形、口唇、網膜... あるいは、歩行、体臭、耳介、血管、汗線、DNA... さらに、キーストロークや指の動作のリズム、身体の重心、人格... などあらゆる行動パターンが認証の素材に。おまけに、マルチモーダルで高精度化とくれば、鍵サーバの在り方までも問われる。

しかしながら、いくら最新技術でデータベース化を試みても、技術は模倣される運命にある。3D プリンタの時代では、個人のモックを作ることも簡単だ。認証だけなら、なにもクローンまでこしらえる必要はない。量子暗号システムがいくら強力でも、やはり量子コンピューティングで対抗される。技術の進歩は、一般ユーザだけでなく、犯罪者にとっても恩恵となり、結局はイタチごっこに引き戻される。それが、人間社会というものか...


ハニートラップ攻防戦...

インテリジェンス工作には、セキュリティとも密接なシギントという通信や電磁波を傍受する諜報活動がある。ただ、ハニートラップの方が、最も古典的で、より効果的な諜報活動となろう。結局は、人間を操る方が手っ取り早い。それも無意識に。シギントに対してヒューミントと呼ばれるやつだが、こんな視点も推理小説の読みすぎであろうか...

実際、セキュリティ業界にも、ハニー的な手法をよく見かける。ハニーポットがそれだ。わざと無防備なシステムを設置して、逆にウィルスの感染源を追うという発想である。つまり、おとり捜査。

ハニークライアントや P2P クローラーも同じ類い。ハニークライアントは、わざとウィルスに感染させたシステムで、別のウィルス情報を収集する。P2P クローラーは、ファイル共有ソフトで感染を広げるウイルス情報を収集する。

能ある鷹は爪を隠す... というが、馬鹿を装っているシステムほど恐ろしいものはない。実は、大々的に安全性を謳って、世間に認知されているシステムの方が危険なのでは?

例えば、マスコミも触れ回る二段階認証って、本当に安全なの?有識者どもがこぞって、二段階認証も知らんのか!といった空気を振りまいて。人間社会ってやつは、結局は洗脳の世界というわけか...

2021-02-28

"Hacking: 美しき策謀" Jon Erickson 著

ソフトウェアに、バグはつきもの。機能上のバグなら、その機能を使わなければいい。しかしそれが、セキュリティを脅かすとなると見逃せない。現在の電子機器は、なんらかの形でネットワークに接続されている。自動車はもとより、お風呂やエアコンまで気を利かせて...

いまや、ファイアウォールはもとより、IDS や IPS を設置したところで心許ない。プログラミングのちょっとしたミスが外部攻撃の踏み台となり、ユーザが無意識に誘導されることだってある。なぁ~に、心配はいらん。すでに報道屋や政治屋に煽動されているし...


本書は、ハッカーの視点から論じられ、セキュリティガイドとしても呼び声が高いそうな。

"Hacking" という用語は、巷では悪い印象が植え付けられているが、もともとは違っていた。ライフハッキングという言葉には、集団社会に慣らされた人生を、自分の手に取り戻すという意味が込められる。オライリー君の書群にも Hacks シリーズがあり、ポール・グレアムのエッセイ「ハッカーと画家」でも象徴される。

何事も技術を会得するには巧妙な分析や解析が求められ、なんらかの形でハッキングすることになろう。技術者なら、自分の技術を芸術の域に高めたいと願うのではあるまいか。それが、技術屋魂というものではあるまいか。

ここでは、ハッカー魂というものを垣間見るが、同時に、技術には倫理がつきまとう。原子力倫理、ゲノム倫理、そして、ハッカー倫理と...

本書は、「善玉ハッカー」と「悪玉ハッカー」という呼び方で区別しているが、そろそろハッカーという用語から解放してあげて、「達人プログラマ」など素直に呼ぶ方がいいのでは。一時期、悪玉の方には「クラッカー」という呼び名を与えようとする流れもあったが、うまくいっていないし、集団社会では悪のイメージを与える力の方がやや強そうだ。

似たような悪いイメージを与える語に「オタク」ってのもあるが、たいていの技術屋はオタク風な感覚を持っているのでは。アラン・チューリングだって見るからにオタクだし、いや、映画の影響か...


本書は、バッファオーバーフロー、スニッフィング、DoS攻撃、ポートスキャン、パスワードクラッキング、あるいは、暗号システムの脆弱性を突いた攻撃手法や防御策を紹介してくれる。技術屋にはワクワクする話題だが、模倣犯を呼ぶことになり、その記述には充分な配慮がなされるべきであろう。

とはいえ、秘密主義はすでに破綻している。オープンソース化の流れから rootkit などの侵入支援ツールも充実し、防御側だけでなく攻撃側にもコミュニティが形成され、ソフトウェアの弱点は白日の下に晒されている。パスワードは辞書攻撃に晒され、telnet や rsh/rcp は過去のものとしても、強固を誇っていた ssh ですら餌食に。量子暗号通信が現実味を帯びたところで、攻撃側も量子コンピューティングで対抗してくる。まさにイタチごっこ。いまやソフトウェア工学は、犯罪心理学の領域にある。つまりは、人間本性の領域に...

ちなみに、本書が採用している OS 環境は、Linux ディストリビューションの Ubuntu となっているが、そんな意識は無用であろう...

尚、村上雅章訳版(オライリー)を手に取る。


1. 最も基本的な攻撃対象... 記憶領域

本書は、一般的な攻撃対象に、バッファオーバーフローと文字列フォーマットを挙げている。

バッファオーバーフローは、確保されたデータ幅よりも大きなデータを与えて、近辺のデータ領域を上書きして不具合を起こさせるというもの。データ領域の周辺に悪意のあるコードを埋め込むことも可能だ。

文字列フォーマットは、通常、的確なデータ型が宣言されているはずだが、型キャストなどの操作タイミングによっては別のデータ型で機能させることも可能だ。実際、ウェブサイトでも、特定の文字列を入力すると画面が固まるといった現象を見かけるし、入力パターンによってはシステムの制御権が乗っ取られるかもしれない。文字コードをうまく組み合わせれば、コマンドコードを偽装することもできるのだ。

バッファオーバーフローも型キャストも、その脆弱性は何十年も前から指摘される C 言語の盲点であり、こうした問題はプログラマの責任とされてきた。もう三十年前になろうか、C 言語が高水準言語に位置づけられた時代、コード効率からしてコンパイラ性能も貧弱で、コンパイラの癖を読み取りながら問題になりそうなところを GDB で監視した記憶が蘇る。

では、スクリプト言語の時代ではどうであろう。言語システムに依存度を高めていくのでは、むしろ危険かもしれない。どんなプログラミング言語を使うにせよ、型宣言は細心の注意を払う項目の一つとしてある。おまけにユーザは、頻繁にアナウンスされるセキュリティアラートに感覚が麻痺させられてきた。「脆弱性が見つかったためにパッチを当ててください!尚、今までのところ被害は報告されていません。」などと...

知らず知らずに盗聴されていたら、被害報告もできまい。まったく、知らぬが仏!物理構造からして、ノイマン型コンピュータは、ヒープやスタックをはじめ、記憶領域を第三者に操作されると終わりだ。それは人間とて同じこと。記憶を操作することによって人格までも変えられる...


2. 攻撃の幅を広げる利便性の罠... ネットワーク

本物語のシナリオは、ヒープやスタックへの侵入から、x86 系が物理的に持つレジスタやセグメントの壁を乗り越え、ネットワーク攻撃へと進む。

そしてターゲットは、malloc() 関数から socket() 関数へ。つまりは、生のソケット・スニッフィングへ...

ネットワークに接続されていれば、さらに攻撃しやすくなる。社会の利便性は、犯罪にも利便性をもたらすってことだ。

最も単純な嫌がらせは、DoS攻撃。さらに、DDoS 攻撃で寄ってたかって村八分攻撃を喰らわす。パケットの Flooding では、SYN(接続要求), FIN(切断要求), ACK(認可)が餌食にされ、あるいは、トランスポート層の UDP で偽りの IP アドレスを装ったり、TCP セッションを長時間に渡って専有したり、DNS サーバに大量のリクエストを送りつけたり... トラフィックに負荷をかけ、回線そのものを重くしちまえば、これほど効率的な嫌がらせはあるまい。ping of death も単純でありながら効果的な攻撃法だ。ping なんて数行スクリプトを書くだけで、誰でも Loop 送信ができちまうし、ブロードキャストが攻撃で簡単に利用できることも想像に易い。

ポートスキャンにしても、ルータのログを監視していれば、それほど難しい手法には見えない。TCP/IP の通信で用いられるポート番号は、0 番から 1023 番までサービスやプロトコルで予約されている。そう、well-known ports ってやつだ。なので、通信ログを見れば、だいたい何をやっているかすぐに分かる。それ以外は、ルーティングの開放を設定する必要がある。対戦型ゲームで通信を要求するアプリなどでは。

ルータなどの通信機器は、内側に向けられた既知のサービスやプロトコル以外は、たいていブロックするよう設定されているが、外側へ向けられたコネクションはほとんど遮断しないよう設定されている。利便性を考慮してか、ファイアウォールの内側から見れば、たいていのウェブサイトにアクセスできるようになっているわけだ。侵入はブロックし、発信はオープンという思想だが、なにもシステムに侵入しなくてもデータは盗み出せる。ユーザに喋らせればいいのだ。しかも、無意識に。それは、インテリジェンス工作における諜報心理学と基本的な原理は同じ。何かと繋がるということは、そういうことだ...


3. 脆弱性攻撃用のペイロード... シェルコード

「シェルコードは、脆弱性攻撃用のペイロード」と呼ばれるそうな。ただ、この呼び名には違和感がある。単にシェルを起動することにとどまらず、/etc/passwd に管理者アカウントを追加したり、ログファイルから記録を抹消したり、システムコールを乗っ取ったりすることもできるのだから。いや、シェルを操るという意味では、やはりシェルコードか。

どんなに言語システムが抽象化され、利便性が高められようとも、セキュリティの世界に踏み込むと、泥臭いアセンブラ言語、いや、マシン語レベルに引き戻される。

ちなみに、システムデーモンってやつは、deamon() 関数を呼び出すだけで生成できる。何かの拍子にちょいと call すれば。デーモンとは、UNIX 環境で当たり前のようにバックグラウンドで動作するプロセスのこと。語尾に d を付けてネーミングされることが多く、一般的なものでは、syslogd, sshd, ftpd... などがそれだ。おいらが好青年のウブな新人君だった頃、有り難いサービス群を悪魔と呼ぶのは失礼ではないか?と思ったものだが、どうやら「マクスウェルの悪魔」に由来するという説があるらしい。

昔から、UNIX 環境で生きてきた連中は、再帰的な洒落がうまく、"GNU's Not Unix!" ってのもその類い。その自由な発想がたまらないのだけど、セキュリティを脅かす技術もまた自由の賜物であろう。

いずれにせよ、セキュリティ・エンジニアのスキルは常に、悪玉ハッカーを凌駕するものであることを願いたい。人類の進化には、善と悪の共進化をともなうものだが、それが生物学的な真理とはいえ...

2021-02-21

"リファクタリング - プログラムの体質改善テクニック" Martin Fowler 著

ずっと昔に購入しておきながら、きちんと読み干したことのない奴らがいる。仕事が一段落すると、きまって本棚の片隅から手招きしてきやがる。酔いどれ貧乏性に、もったいない感ビームを浴びせて...

技術屋の世界では、すぐに廃れてしまう知識も多い。今となっては、これも古典の部類に入るのかもしれないが、思想哲学がそうやすやすと廃れることはあるまい。おいらは、ソフトウェア工学をある種の哲学だと思っている。数学もそうだけど...

尚、児玉公信、友野晶夫、平澤章、梅澤真史訳版(ピアソン・エデュケーション)を手に取る。


リファクタリング... この呪文は、Smalltalker の間で生まれたという。

Smalltalk といえば、三十年ぐらい前になろうか、オブジェクト指向が巷を騒がせつつある頃、かじりついた記憶が蘇る。おいらは、暗示にかかりやすい。そして、Smalltalk 関係のセミナーをいくつか受講したものの、あまり良い印象を持てなかった。というのも、役立つコードの事例というより、説明しやすいコードの紹介といった感があったから。例えば、金融システムの顧客管理などの事例で。当時、おいらはリアルタイム・システムの世界で生きいきたので、コードはあまり参考にできなかったと記憶している。

おまけに、「Smalltalk = オブジェクト指向」という図式で、万能言語のような印象を与えようとするのにも違和感があった。本書のコード事例にも、これに近い印象をひきずっていないわけではない。

著者マーチン・ファウラーの名はモデリング言語の文献でも見かけたが、ここでは、Java で記述され、よほどの思い入れがあると見える。ただ、C 言語系をかじっていれば、まったく抵抗感はない。そもそも、満足のいくコード事例に出会ったことがほとんどないし、わずかなヒントに出会えれば、それだけで幸せであろう...


プログラミング言語で何を使うにせよ、オブジェクト指向の抽象化哲学には共感できるものが多い。それは、ソフトウェアに限ったことではなく、オブジェクト指向言語を用いなければ実践できないというものでもない。

その特徴といえば、カプセル化、継承、ポリモーフィズムといったところであろうか。カプセル化の概念は、既にこれに近いことをやっていたし、リアルタイム・システムともすこぶる相性がいいので、すんなり受け入れられた。カプセル化を簡単に表現すれば、責任の所在を明確にすること、と解している。

一方、継承やポリモーフィズムの概念は、有難味を実感するのに少々時間を要した。作業効率で誘惑してくる継承... だが、設計思想に適合しなければむしろ弊害となり、バグもしっかりと継承される。なんとも心地よい響きを放つポリモーフィズム... 型の振る舞いを抽象化し、条件記述を効率化できるのは魅力的だが、やはり設計思想を理解した上で実践しないと地雷を踏む。

オブジェクト指向には他にも多くの派生的なご利益があるが、それだけに設計思想という上流工程を疎かにできない。リファクタリングをやるにしても、まず、それに価するコードかどうかの見極めが重要であろう。外部からの振る舞いを保持したままで内部構造を改良していく作業は、慎重にならざるを得ない。コードを読みやすくし、パフォーマンスを向上させようとして、新たな不具合を生み出すのでは何をやっているのやら。リファクタリングだって、万能ではあるまい。実際、スクラッチで書き直した方がいい場合だって少なくない。何はともあれ、「リファクタリング」という用語を宗教化させないことだ。「オブジェクト指向」という用語もそうだけど...


本書は、「リファクタリングには、一定のリズムが重要!」と説く。ちょいと変更して、テスト、ちょいと変更して、テスト... この繰り返しのリズム。コードに対してきちんとしたテスト群を作り上げる習慣もまたリズム。これに、自動化した検証環境を付け加えておこうか。一日の締めくくりに、自動診断プログラムを実行する習慣を。そして、鼻につくコードを嗅ぎ分ける嗅覚を身につけ、単なるコードのクリーニングで済まさず、進化させていきたいものである...

確かに、秩序立った作業は新たなバグを生み出しにくい。だが、秩序ってやつは常識化しやすい側面がある。常識化は、疑う習慣を放棄することにもつながる。科学的な分析は、健全な懐疑心によって支えられているが、この「健全な」ってやつがなかなか手ごわい。自己満足感との兼ね合いもある。

ある大科学者は言った... 常識とは、18歳までに身につけた偏見の寄せ集めである... と。

改善の余地があるかどうかを自問し続ける... この習慣こそがリファクタリング哲学だと解している。

なにごとも整理整頓、そこから思考が正常化される。おいおい... 小学校の訓示か。そんな訓示も、実践できない大人は多い。

開発の現場では、まずスケジュールとの葛藤がある。十分に検討された設計思想は仕事を加速させる。急がば回れだ!そして、プロマネは上層部を敵に回すことに...


ところで、この手の書に触れると、流用コードに対する愚痴が蘇っちまう。おいらはプログラマではない。ハードウェア設計者だ。それでも、ハードウェア記述言語によって回路を実装するし、検証環境では様々なプログラミング言語を組み合わせる。数値演算言語、画像処理ライブラリ、スクリプト言語などなど...

技術的に吟味されたブラックボックスを流用するのは大歓迎だが、政治的に押し付けられたブラックボックスには異臭が漂う。開発期間短縮!という言葉に踊らされるお偉いさんたちは、黒幕に操られているかのように命令する。あるブラックボックスを流用するのに、資料としてバグリストまで添付されるものも見かけたっけ。コードレビューに参加すると、設計者が既に転職し、実体をまともに説明できる者が皆無。バグ報告だけの遺産を、バグを回避しながら流用しろ!という命令だ。そもそも、バグの存在が分かっているのに、なにゆえ修正するよう指示しないのか。いや、誰も手が出せないってことだ。おいらの設計人生で、これほどエンジニアたちの士気を萎えさせるブラックボックスを見たことがない。やはり黒幕が潜んでいるに違いない。ゴミ箱へポイ!

命令通りにやって失敗するなら言い訳も成り立つが、逆らって失敗したら... プロマネが本当に仕事をしようと思えば、クビを賭けなけきゃ、やってられんよ。そして、辞表を机の中に潜ませて仕事をする習慣が根付く。だが、こんな愚かな習慣はやめた方がいい。だって、つい出しちまっから。天の邪鬼な性分は、衝動に勝てんよ...


ちと脱線するが... ずっと脱線してるけど...

本書でチラッと扱われる、コーディングの際のコメントは、善か?悪か?という話題がある。現在でも見かける議論だ。これを一般化することは難しいが、アセンブラ言語の時代はほとんど善であったように思える。もちろんセンスや加減が問われるが。マクロ機能で日本語からコードを自動変換しようとしたこともあったっけ。大袈裟に言えば、日本語プログラミングである。

しかし、スクリプト言語の時代では、コメントは悪に近いかもしれない。修正に二度手間はゴメンだし、コードと辻褄が合わなければ最悪だ。そういえば、コメントはほとんど書かなくなったなぁ... モジュールのタイトルぐらいかなぁ... いや、モジュール名でカバーできる。インターフェース名でも。仕様書も概要を書くぐらいで、あとはコードを見れば、ってな感じ....

2021-02-14

"宇宙戦争" H. G. Wells 著

原題 "The War of The Worlds"... それは、地球生物の世界と火星生物の世界の戦争であったとさ...
小説版に興味を持ったのは、映画版のナレーションに感じ入ったからである。トム・クルーズが主演したやつに。時代設定が違うにせよ、原作のフレーズがほぼそのままらしい。ナレーターは、ディスカバリーチャンネルの宇宙ドキュメンタリーでお馴染みの俳優モーガン・フリーマン。恋には、目で落ちるパターンと耳で落ちるパターンがあるらしいが、彼のささやきに、おいらはイチコロよ。
メディアの特質上、小説版の方が冗長気味で、翻訳者のセンスもあろうが、これはこれで違った味わいがあっていい...
尚、小田麻紀訳版(角川文庫)を手に取る。

「十九世紀末の時点で、いったいだれがあんなことを想像していただろう?この地球は、人間よりはるかにすぐれた頭脳をもつ生物によって監視されていたのだ。人間たちが日々の雑事にかまけているあいだ、やつらは入念に観察と研究をつづけていた。ちょうど、ひとつぶの水滴のなかでうごめき繁殖する微生物を、人間が顕微鏡でじっくりと観察するように。人間たちは、みずからの領土の安定にすっかり満足しきって、つまらない用事のためにこの惑星上で右往左往していた...」

人類は、天文学の発展とともに、地球外生命体の存在を夢見てきた。そもそも人類が存在しうるのは、隕石という砲弾によって地球というアクアリウムへ放たれた結果なのかもしれない。そして宇宙人は、生命体の観察だけでは飽き足らず、密かに遠隔操作で遺伝子注入の実験をやっているのかもしれない。人間が、劣等動物に対して遺伝子操作の実験を繰り返すように。混合種を作りながら、種の浄化という遠大な種の製造計画をもって。三次元空間の住民には多次元空間の住民が見えない。目の前にいたとしても...

しかしこれは、戦争と呼べるものであろうか。科学技術の差は歴然としている。それは、B29 に竹槍で対抗するようなもの。火星から打ち出された円筒の砲弾が毒矢のごとく地球の表面に突き刺さり、中から三脚の巨大戦闘マシンが... 後の SF モノで馴染みとなるトライポッドの出現である。こいつが放つビーム兵器のような熱腺に、人間どもは瞬時に捕獲される。彼らの狙いは、体内に流れる赤い血液。家畜にされれば、わずかながら生き長らえることができる。今まで、地球上で無視されてきた羊や牛たちの叫び声が...
彼らを極悪非道と呼ぶなら、人間はどうであろう。おこがましくて、慈悲の使徒などとはとても言えまい。土地開発のために多くの種を絶滅させ、同じ人類でさえ先住民を劣等種族として抹殺してきた。種が生きるとは、どういうことであろう。地球人は、存続のための絶え間ない闘争と解釈しているが、どうやら火星人も同じらしい。民の群れが空腹感に襲われると、所有権の尊重を放棄するばかりか、生きる権利さえ。もはや敵は、火星人か、地球人か。広大な宇宙では、知的生命体ってやつは悪魔の種に属すのやもしれん...
「アリは都会をつくり、日々をすごし、戦争をしたり革命を起こしたりする。だが、人間にじゃまだと思われたら、すぐに追いはらわれてしまう。それがおれたちさ。ただのアリなんだよ。ただの...」

火星人は、解剖学的にも明らかに地球的な生命体ではない。地球の濃密な大気の中では、ほとんど役に立たない大きな耳。大きな丸い胴体は、地球の重力では持ち上げるのも困難。手足の作りも、地球の環境には不向き。内蔵構造もすこぶる単純で、複雑な消化器官を持ち合わせていない。つまり、身体構造はきわめてシンプルで、頭がでかく、はらわたがない。
食事法もシンプルで、栄養を管のようなもので直接摂取する。回りくどく焼いたり煮たりと、料理なんぞしない。サプリがあれば、それで十分ってか。うん~... 実に、合理的だ!
眠りもしないらしい。鮫のように、泳ぎ続けていないと死んでしまうのかは知らんが。いや、眠らなくて済むなら、その方が幸せかもしれん。慢性的な不眠症や睡眠不足で悩まされるぐらいなら...
「注射による栄養摂取が、生理学的にみていかに有利であるかはいうまでもない。人間が食事や消化という行為に膨大な時間とエネルギーを浪費しているのを考えればわかることだ。人間の肉体の半分は、異質の食物を血液に変えるための腺、管、臓器によって占められている。消化過程と、それが神経系におよぼす反応は、人間の体力を消耗させ、その精神に影響を与える。肝臓が丈夫かどうか、胃腸が健康かどうかで、人間はしあわせにもみじめにもなる。だが、火星人は、臓器の状態によって気分や感情を左右されることはないのだ。」

しかし、人類は絶滅しなかった。地球人が試みた対抗策がすべて失敗に終わった後、地球上で最も謙虚な存在によって救われたのである。
生命体の構造は、環境に適合した合理的な特性を、進化の過程で獲得してきたわけだが、どうやら火星にはバクテリアのような微生物が存在しないらしい。だから、身体構造もシンプルというわけか。微生物も存在しない環境に、生命体が存在しうるかは知らんが...
人類の歴史は、感染症との戦いの歴史とも言えよう。ペスト、ハンセン病、梅毒、麻疹、天然痘、コレラ、チフス、結核、インフルエンザ、ポリオ、マラリア、エイズ、エボラ出血熱... そして、コロナウィルスである。
最初からワクチンは存在しないし、自力で体内に抗体を作る方が合理的である。中途半端なワクチン接種のために体内の免疫組織がバランスを欠き、新たな変異種を生んでしまう恐れもある。ウィルスは構造が単純なだけに進化も早く、ちょっとした刺激で突然変異することだってあるのだ。人類は、様々な病原体との戦いの中で、多様な抗体と複雑な消化器官を長い年月をかけて獲得してきた。環境が変われば、新たな器官を生み出し、不要な器官もでてくる。これが進化というものか。
あの大科学者は、こんな言葉を遺した... ものごとはできるかぎりシンプルにすべきだ。しかし、シンプルすぎてもいけない... と。自然淘汰の原理は、生命体を必要以上に複雑化しないものらしい。
「火星人が仲間の死体を埋葬しなかったり、見境なく殺戮をおこなったりしていたことは、彼らが腐敗現象について完全に無知であったことを物語っている。」

そして突然、火星人たちは地球上での活動を停止した。バクテリアに蝕まれ、死んでしまったとさ...
実に、あっけない幕切れ!恐竜の絶滅がどんなものだったかは知らんが、ひょっとしたら人類も...
「宇宙というよりひろい視野に立ってみた場合、火星人の侵略は、地球人にとって利益があったといえないこともない。それは、堕落のもっとも重要な原因となる未来に対するのんきな安心感を消し去ってくれただけでなく、人類の科学に多大なる貢献をし、さらに、人類共通の利益という概念をおおいに広めてくれた。それは同時に、広大な宇宙空間をへだてて先遣部隊の運命を見守っていた火星人に、教訓をあたえたのかもしれない...」

2021-02-07

"言語はなぜ哲学の問題になるのか" Ian Hacking 著

霧立ち込める朝、ぼんやりと古本屋を散歩していると、ぼそぼそと問い掛けてくるヤツがいる。日常、当たり前のように使っている「言語」。こいつの役割とは、なんであろう... その意義とは、なんであろう... と。
情報伝達のための媒体、意思疎通のための道具、いや、そんな外的な役割より、内的な意義の方が大きいような気がする。思考するための素材としての。記憶を活性化させるための。少なくとも、論理的に、思弁的に、自問するためには不可欠。真理を探求すれば、言葉の壁にぶち当たる。真理を探求する学問が、個性あふれる難解な記述になるのも致し方あるまい。つまりは、人間の言語能力の限界をつきつけることになる。
尚、伊藤邦武訳版(勁草書房)を手にとる。

ユークリッド原論は、人間の証明能力の限界をつきつけた。これ以上証明のしようがない純粋な法則として五つの公準を提示したのである。五つ目だけは疑問の余地を残しながら...
カントは、人間の認識能力の限界をつきつけた。経験的なものがまったく入り込む余地のない、最も純粋な認識として「ア・プリオリ」という用語を編み出したのである。
新たな境地を記述するのに、辞書を頼るのでは心許ない。新たな定義が必要になり、新たな言葉が必要になる。哲学するのに、言語は絶対に欠かせない。それで、真理のテクニックが精神のクリニックになるかは知らんが。希望へ導くか、絶望を悟るかは知らんが...
ただ、言語は自己陶酔と、すこぶる相性がいい。そして、自分探しの旅は、言葉探しの旅となる。

本書は、言語に注視するという観点から、近世以降の西洋哲学史を外観する。登場する哲学者は、ホッブズ、ロック、バークリー、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、エイヤー、クワイン、チョムスキー、ファイヤーアーベント、ディヴィッドソンといった面々。
彼らを「観念の全盛期」「意味の全盛期」「文の全盛期」の三つに分類し、「意味の理論」に至る流れを物語ってくれる。観念の時代では、まだ言語は主題とはならず、その重要性も認識されず、ひたすら精神的言説に突っ走り、意味の時代になって、ようやく言語の意義が問われるようになり、文の時代になって、意味の理論が本格的に議論されるようになったとさ...
どんな学問にも反省の糧となる時代がある。近代哲学で自省の糧となったのは、デカルトやホッブズあたりであろうか。
それにしても、「観念」という言葉は手ごわい。その意味するものと言えば、ほとんど人の選り好みにも映る。それは、悟性の対象となるものすべて。思想や空想、感覚や知覚、心象や形相... なんでもあり。それでいて、哲学書の中に、この言葉についての定義は見当たらず、ただ「観念」の一言で片付けられる。この大層な用語は、まるで湯上がり気分の王子様気取り...

「言語」という知識が、先天的か、後天的かといえば、明らかに後者である。ただ、ア・プリオリな認識ではないにせよ、完全に経験的とも言えないような、どこか生得的で遺伝子に組み込まれていそうな。そう感じるのは、乳幼児期から幼児語を押し付けられ、物心つく前から言語に支配されてきたということであろう。人は言葉に癒やされ、言葉に励まされ、言葉に傷つき、言葉に怒る。言葉が猛威を振るうネット社会ともなると、誰もが言葉に振り回され、ますます政治屋たちは言語統制に躍起ときた。もはや、どちらが振り回されているのやら。人間の人間たる所以は、言語を編み出したことにあるのかもしれん。文明の文明たる所以も...
自分が口にする言葉は、誰もが自分自身で支配していると考えるだろうが、そうは問屋が卸さない。言語には常に解釈がつきまとい、解釈はしばしば誤謬へと導く。賢人の理性や判断力ですら、自らの言葉で混乱に陥れる。それで言語に支配される存在に成り下がるとすれば、結局は自己矛盾の呪縛からは逃れられない。
「言語帝国主義は、軍事的な帝国主義よりも巧妙に武装されている。」

「言語」という言葉の定義となると、なかなか厄介!
ましてや、自然言語や数学の方程式やプログラミング言語のような記号で記述できるものばかりではあるまい。印象に残った風景、感動した音色や味覚、和んだ香りや肌触りといった五感で得た情報、おまけに第六感までも絡み、脳に記憶される知識のすべてが言語的に感じられる。人間精神そのものが、言語的な存在と言ってもいい。
そして、しばしば疑問に思う。同じ用語でも、会話の相手と同じイメージを描きながら喋っているだろうか?と。客観性の強い専門用語ですら、専門家の間で微妙にニュアンスが違うと見える。所属するグループの間でも用語の使い方が違ったり、きわめて組織文化に影響されやすい。
仕事の場で、初対面の会議で用語の定義を確認しようと心掛ける人は、それだけで信頼に値する。そうかと思えば、用語の意味も知らんのか!そんなことは常識だ!などと相手を馬鹿にする人もいるけど...
そもそも、脳の構造からして無数の電子の集合体である。そんな物体同士が、完全な意思疎通など不可能に思えてならない。それでいて会話が成り立っているのだから、人間のコミュニケーション能力、恐るべし!いや、成り立っていると思い込んでいるだけのことかもしれん。主張するという行為も、自己満足に浸っているだけのことかもしれん...
尚、カントの友人で、後に批判者となったヨハン・ゲオルク・ハーマンは、カントの著作を論評して、こんなことを書いたという。
「言語こそが、理性の最初にして最後の道具であり、また基準であって、それは伝統と使用という信用意外のものを、何も持たないのである。」

2021-01-31

人格操作社会... パーソナルコントロール

あの高橋留美子の偉大なアニメに、こんなエピソードがある...
パーソナルコントローラとは、取り憑いた人の性格を思いのままに操ることのできる代物。バッジになりすまし、さりげなく胸に張り付き、人格の 90% を支配して深層心理に働きかける。知らず知らずに忍び寄る悪魔のささやき。だが、そんな便利な道具も意地悪な持ち主の性格が受け継がれ、もはや操っているのやら、操られているのやら...

いつの時代でも、為政者にとって最も都合の良いことは、情報をコントロールできること。それは、ゲッペルス文学博士が証明して見せた。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど都合のよいものはない。
しかしながら、ネット社会では多くの為政者が嘆く。どんなに情報をコントロールしようとも、デマがすぐに拡散してしまうと。民衆も負けじと警戒する。為政者がインターネットを利用し、より簡単に情報操作ができるようになったと。どちらも事実を含んでいるだけに、どちらも被害妄想に取り憑かれる。

「真実が靴をはく間に、嘘は地球を半周する。」... マーク・トウェイン

情報を牛耳るための効果的な方法に、文字情報の独占がある。日本では武士の時代から識字率が高かったとされる。識字率が高いということは、情報も伝わりやすい。伝言板や回覧板の類いには古い歴史があり、政治的にも利用されてきた。鎖国のような政策下では画一的な情報が蔓延し、風通しの悪い社会では情報通ほど厄介となる。
識字率が高いために、目に見えない言論統制に翻弄され、分析力や判断力を麻痺させるばかりか、放棄してしまう。自分で考えて行動するという習慣が根付かないのは、そのせいかは知らんが、識字率の高さを誇ってばかりはいられまい。
思い込みは一見頑固なようだが、実は移ろいやすく、操作されやすい。危機的な状況ともなると社会不安が伝搬し、人を批判するだけの正義中毒症を蔓延させる。ポピュリズムを煽り、あちこちで炎上騒ぎ。正義ってやつは、よほどストレス解消に効くらしい。
もはや、情報を操っているのやら、情報に操られているのやら...

「全員が誤っているときには、全員が正しいことになる。」... ピエール・ド・ラ・ショッセ

口は災いの元... というが、昔から、露出度が高く、目立ちたがり屋ほど胡散臭く見られる。情報インテリジェンスには、目立たぬように行動するという基本的な態度があり、優秀な諜報工作員ほど凡庸を装っているものだ。
しかし、政治屋や報道屋ときたら、見た目が勝負!分かりやすいメッセージを発信し続ける者ほど人気を集める。だから、やってます感を演出しようと躍起だ。企業戦術においても、プレゼンをスマートにやれば、そこに人は群がる。うまくアピールした者の勝ち!それは、情報社会の掟。伝達法や話し方といった類いの HowTo 本は、ますます大盛況ときた。
とはいえ、見知らぬ人を評価するのに、見た目以外で何ができよう。現代社会では、誰もが情報操作の餌食にされることを覚悟せねば... いや、人格までも操作されていることを...
ますます高度化していく情報化社会にあって、健全な懐疑心を保つには、よほどの修行が要ると見える...

「もしもすべての誤りに門戸を閉ざすならば、真実もまた締め出されてしまうことになる。」... ラビンドラナート・タゴール

2021-01-24

血は水よりも濃い... 政治 vs. 宗教

血は水よりも濃い... と言うが、繋がりが断ち切れなければ、憎さも倍増する。人間の本質が自由精神にあるとすれば、政治の第一の目的は、まずもって個人の自由と安全を保障することになる。だが自由は、しばしば集団暴走の火種となり、社会の安全と相い反するところがある。それゆえ、個々を屈服させることが政治の手段となる。
ただ、手段ってやつは、そのまま方法論となるばかりか、これに固執すると、目的化してしまう性質がある。手っ取り早く集団の意思を操作する方法は、思想観念を叩き込むこと。その意味で、政治と宗教は原理的にすこぶる似ている。どちらも民衆の精神を支配しようというのだから。目的が同じならば、互いに手を結びやすい。まさに血を分けた兄弟!
なるほど、政教分離をやらなけば危険だというのも一理ある。

西洋史は、宗教と政治の精神的支柱をめぐっての争いの歴史とも言えよう。古代エジプトの王ですら神託には逆らえなかったし、キリスト教世界における皇帝と教皇の力関係の逆転は、聖職叙任権をめぐるいざこざに見て取れる。こうした信仰原理には、「人間は神がこしらえたもの」という大前提がある。どんなに図々しい皇帝でも、神を無視するのは、なんとなく後ろめたいところがあると見える。つまりは、気分の問題か...
ならば、こう問わずにはいられない... なぜ万能な神がこんな不完全な存在をこしらえたのか?それは、単なる気まぐれか?それとも、完全な存在の有り難さを知らしめるためか?... と。すべてが完全ならば、不完全を認識する必要もなければ、完全という概念も無用。だから、滅びゆく運命にある存在も必要だというのか...
神は、単純な宇宙法則をこしらえておきながら、それによって生じるカオスな現象にまで責任を負う気はないと見える。いや逆に、「神は人間がこしらえたもの」とすればどうであろう。その方が筋が通る。少なくとも聖書は人間がこしらえた。神の意志が、これを書かせたと主張する者もいるが、絶対なる完全者の意志を不完全者が汲み取ることができるなんて、なんとおこがましいことか。これこそ神の冒涜!

現代社会は仮想化社会と言われるが、すでに仮想化は、神の偶像化によって成熟している。お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることだ。偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。ナザレの御仁も再臨すれば、キリスト教なんぞ知らん!と突き放すかもしれない。偉大な魂の持ち主であったからこそ黙って十字架に晒されたのであろうし。
いまや世界中で偶像崇拝が蔓延る。偶像を完全に放棄しているのは、科学と呼ばれる宗教ぐらいなものか。いや、仮説という偶像をまとえば同じこと。科学に宗教を説得する力はないし、政治にいたっては銅像になりたがる輩が蔓延る。望み通り生き埋めにしたら...