2010-01-10

もしも、アル中ハイマーな物理学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな物理学者がいたら...だめだこりゃ!

仮説の大嫌いなニュートンは、渦動説派たちが唱えるエーテル充満説を受け入れなかった。
仮説の大好きなアル中ハイマーは、磁気吸引派たちが唱える夜の社交場における女性磁界説を受け入れる。そして、幽体離脱派たちが唱えるアルコール成分による自我分離説を受け入れる。


1. 科学の美
科学の美に崇高なものを感じるのは、素晴らしい真理をみせてくれるからであろう。科学は人間味に欠け、宇宙における人間の地位を引きずり降ろすものとみなされる。その一方で、宗教は人類を特権的な地位へ無理やり押し上げる。思うに、人を惑わせる宗教よりは、自然に酔わされる科学の方がはるかにイケてる宗教である。
ところで、科学的創造性と芸術的創造性の差異とは何か?カントは、天才は科学者の中には存在せず、芸術家の中のみに存在すると語った。だが、そうとは言い切れまい。ニュートンの偉業には独特な存在感がある。科学から得られる帰結は客観性に満ちているが、そこへ辿り着くまでには、科学者の豊かな直観に頼るところが大きい。科学界には、プラトン時代から継承される哲学がある。それは、どんな複雑な現象も、その背後には単純な宇宙法則が潜んでいるに違いないと信じる執念である。自然法則は単純さで魅了する。数学のエレガントな証明にも単純さが現れる。
科学実験に目を向ければ、アイデアは単純でも非常に凝った工夫が見られる。科学が知覚できる瞬間とはどんな時だろうか?ブラックホール説を唱えたところで、実際に見られるわけではない。実験室では、そうしたものを少しだけ体験の場として見せてくれる。真の物理法則を得るためには、極限状態を確保しなければならない。そこに熟練した技が現れる。科学者の人間性にも左右され、資源、予算、人員といった制約の中で発揮される。
ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」
科学実験のプロセスには、想像力や独創性に富んだ世界がある。そこには、科学者の伝記と呼べるほどの物語がある。科学を論理性と正当性だけでしか見られないのであれば、あまりにも寂しい。結論よりも、発見のプロセスにこそ人生の醍醐味がある。彼らの情熱と執念が成功へと導いた時に、一種の芸術を見せてくれる。これが科学の美というものであろうか。

2. 相対論派と量子論派
科学の進化を牽引してきたのは、物理学と言っていいだろう。宇宙の解明には、相対論派と量子論派の二つの相反するアプローチがある。相対論派は重力理論を強調し、量子論派は素粒子理論を強調する。重力は人間の体感できる範疇にあり、まだしも手に負えそうだ。だが、量子論となると、なんでもありなのか?と思わせるものがある。量子論は、真空には突然仮想粒子を登場させ、物質の誕生には反物質を登場させる。何もないところに仮想エネルギーを登場させ、都合よく宇宙を膨張させてしまう。ブラックホールになるかならないかの際どい境界で、都合よくプラスとマイナスが分かれて、一方は放射し一方は吸い込まれる。しかも、これすべて不確定性で片付けやがる。プラスの現象には、マイナスの現象で相殺してしまえば、エネルギー保存則になんら矛盾することなく説明できるというわけだ。スーパーテクニックが続々と登場する様は、高度な科学のようで巧みな詐欺のようでもある。量子論の本筋は、極微な世界を覗くことである。ところが、物質を細かく見れば見るほど巨大宇宙の解明につながるから摩訶不思議!もとを辿れば、宇宙もちっぽけなものというわけか。そりゃ、人間が実存するかも怪しいもんだ。
ただ、宇宙論に目を向ければ、相対論派が主張するインフレーション理論よりも、量子論派が主張するサイクリック宇宙論の方が受け入れやすい。インフレーション理論は、ビッグバンから、ただ一回の急激な膨張で現在の宇宙に近い大きさまで拡大したと考える。一方、サイクリック宇宙論は、数十回のビッグバンとビッグクランチの繰り返しの中でエントロピーが蓄積された結果と考える。つまり、特異な膨張期間を考えなくて済む分、気分がええ。しかも、ビッグバンとビッグクランチの境界は、実時間で受け継がれるという。サイクリック宇宙論には精神の輪廻を思わせるものがある。人間社会も破壊と創造を繰り返す。まさしく宇宙は破壊のカオスの中にあるというわけか。膨張と収縮、あるいは破壊と創造といった対称性にこそ、宇宙の真理があるのかもしれない。神は、宇宙空間の住人に安住の地を与えず、常に変化を強要しやがる。安住の地は墓場にしかないかのように。
アインシュタインは、不確定性原理を受け入れられずに「神はサイコロを振らない!」と語った。アル中ハイマーは、社会泥酔論を受け入れて「神の博奕好きには、困ったものだ!」と呟く。

3. 物体の正体
ポーは著書「ユリイカ」で、すべての物体は引力と斥力の二つの基本要素のみで説明できると情熱的に語った。すべての物体は原始粒子から構成される。では、原始粒子はどこまで極小なのだろうか?引力の原子相互作用によって物質が構成されるわけだが、双方の原子が無限に接近しても接合することはない。そこに斥力が存在するからである。斥力は絶対に極小粒子の融合を許さない。引力はニュートンの重力法則によって説明される。では、斥力の正体とは何か?時には熱、時には磁力、時には電気であって、二つの物体の異質性の原理に基づく。これは、二人の男女がどんなに愛し合って合体しようが、けして心が一つにはなれないことを教えてくれる。人を強制しようとすると必ず反発力が発生するものだ。
太陽系を眺めれば、直観的に太陽を原子核、惑星を電子と重ねてしまう。自然法則が引力と斥力でのみで支配されるならば、太陽系はすばらしい原子モデルである。となれば、どんな小さな空間にも、太陽系のような極小の宇宙が無数に存在するのではないかと考えたりする。生命体の大きさは、そこに住む天体の質量によって相対的に最適化されるのだろう。時間の概念も、生命体の質量に比例した認識能力が得られるのだろう。こんなことを、学生時代に学校帰りのラーメン屋でいつも考えたものだ。スープの中にも宇宙があって、極小の生命体が存在するかもしれないと。麺を浸すと、スープの波が突然の宇宙変革をもたらすと。
人類の住む宇宙はグラスの中に注がれたアルコールの中に存在するのかもしれない。そして、太陽がアルコール原子核だと考えれば、俗世間に酔っ払いが溢れるのも説明がつく。酔っ払いは同じ言葉を同じ調子で口走る。これがステレオタイプというわけだ。時間が経てば熟成度も上がって、強烈なアルコールへと変貌する。そして、人間社会はますます泥酔度を増していくだろう。

4. 粒子性と波動性
コンピュータが解ける範囲は、計算によって導けるようにうまいこと問題設定がなされた場合に限られる。どんなに性能の高いコンピュータでも、哲学的問題を解決することはできない。実数演算にしても、解けないものの方が多い。計算が可能であっても、計算量が莫大過ぎてスーパーコンピュータを使っても宇宙年齢を超える時間を要するような問題もある。その代表的な数学の問題に因数分解がある。500桁ほどの素数をベースにすれば、たちまち限界に達する。だから、暗号アルゴリズムに適していると言われる。しかし、量子コンピュータを唱える人々は、因数分解ですら計算量を大幅に減らして解けることを仄めかす。ここには、動作周波数を超えた世界がある。従来のコンピュータが論理的思考だとすると、量子コンピュータは直観的思考とでも言おうか。直観には、なんとなく並列処理的な性質があるように思える。「量子並列性」とは、直観のことか?
ところで、量子とは不思議なものである。かつて、光は粒子説と波動説で論争が繰り返され、やがて二重性で落ち着いた。アインシュタインは、光のエネルギーの最小単位を仮定した。光子とは、エネルギーの固まりを持った波といったところだろうか。同様に、電子や原子にも二重性がある。電流が流れると、原子の中で回転する電子は運動の向きを変える。電子からは電磁波が放射され、その分エネルギーは失われるはず。となれば、電子はだんだん原子核に近い軌道を描きながら、ついには原子核に吸収されはしないか?人工衛星が、大気との摩擦でエネルギーを失いながら徐々に地球に近づき、ついには大気圏に突入するように。だが、うまい具合に、電子波の波長で軌道が安定するから摩訶不思議!
同じように、すべての物体には、個体性と波動性の二重性があるのではないか?と考えてしまう。莫大な人口が人間社会というエネルギーの塊となって、もはや個人の性質を分析したところで全体像を把握することはできない。どんなに規制を強化したところで、悪事は干渉現象のように、ちょっとした隙間から回り込んでくる。おまけに、条文を都合よく解釈して、法律障壁をも簡単に飛び越える。これは、まさしく波動性ではないか。もはや、一部の人間の政治力では、民衆の波を制御することはできないだろう。人間社会のような複雑系では、個々の物体が人間であっても、集団ともなれば波動関数が適応できても不思議ではない。そのうち、人間社会を不確定性原理で説明する社会学者が登場するかもしれない。そして、社会学は物理学に吸収されるのか?

5. 「ひも」っなんだ?
物質を細かく見ていくと、そこには原子があり、原子核の中に陽子と中性子があり、その核子を構成するクォークがある。そして、全ての素粒子の根源に「超ひも」が登場する。超ひもの形状には、両端が開いたものや輪ゴムのように閉じたものが考えられる。これらが絶えず運動し静止することはない。回転したり、振動したり、伸び縮みしたり、変形したりと。これは想像の世界ではなく、厳密な理論上の計算から導き出されるらしい。超ひもが様々なエネルギー状態によって異なる振動をすることによって、いろいろな粒子に見えるという。現在の素粒子は、クォークと、電子やニュートリノなどのレプトンであるとされているが、その素粒子の正体は一個のひもというわけだ。これは、熟成させたスコッチが琥珀色に見えるのも、ピート香やスモーキーも、単に「生命の水」が振動しているだけだということを暗示しているのかもしれない。
超ひもは、原理的には、引き伸ばして人間の目の見える大きさにすることも可能なのだそうな。ただ、それに必要なエネルギーはというと...ミニブラックホールができてしまう。超ひも理論のおもしろいところは、ひもの長さの半分がニ倍に等しくなるというから訳がわからん。時間も半分がニ倍に等しくなる?極微の世界では、コップ半分しか飲んでいないのに、二杯分請求されるということか?これは詐欺か?いや!二杯飲んでも一杯も飲んでいないと言い張ることもできるわけだ。つまり、極微な宇宙とは、飲んでも飲んでも酔えない世界というわけか。これは天国か?地獄か?

6. 次元の正体とは?
超ひも理論の古典解としてDブレーンという安定したエネルギーの塊があるという。それがソリトンというやつか。例えば、波が押し寄せる様子で、波が形を変えずに安定した形状を保ちつつ押し寄せる姿がソリトンである。Dブレーンの登場で、様々な真空の重ね合わせができるというから訳がわからん。トンネル効果もDブレーンで説明できるのだそうな。例えば、アルファ線が原子核を抜け出すような現象は、ある確率で真空を超えられると考える。プラスとマイナスでエネルギーを相殺する現象は、真空を重ね合わせる上でも好都合というわけだ。安定した空間を説明するためには、必ずエネルギー相殺の概念が登場する。超ひも理論は、10次元の理論とも言われるらしい。物事を一般化するということは、視点を増やすことかもしれない。そして、時空の次元を増やしてやれば、矛盾の生じない統一理論ができるのかもしれない。あらゆる説明のできない複雑系の現象は、別の次元を加えることによって、エネルギー保存則、運動量保存則といった「不変」あるいは「対称性」の原理に帰着するのかもしれない。そして、あらゆる次元が解明された時、結局、ニュートンやユークリッドに帰着する可能性はないのだろうか?神を蔑む無神論者が、結局、独自の神学を構築するように。
ところで、人類の住む宇宙は、どの次元空間にあたるのか?人類は、10次元宇宙に浮かぶ4次元空間だけを認識しながら生きているのか?人間が認識できる相互作用は重力である。言い換えれば、重力を感じない空間が目の前に存在しても認識することすらできない。ここには、なんとなくパラレルワールドの存在を感じる。普段、均衡しておとなしくしている異空間から、突然表れる重力波を感じても不思議ではない。これが霊感というやつか?ニュートンの重力法則は、天体規模でしか成り立たないとされる。だが、極微の世界ではその関係が崩れるのではなく、別のDブレーンの存在が影響しているだけなのかもしれない。千鳥足で気持ち良くゆらぐ足取りに向かって、突然重力点(店)からの影響によって軌道がずれるのも、そこにDブレーンが潜んでいるからに違いない。なるほど、ホットな女性には特別の重力波を感じる。

2 コメント:

ヨコペガ さんのコメント...

お正月が終わってやっとブログを観れたよ。
文系の私には難しい~。
ジンジャー載せてくれてありがとう。
出張の時は寄ってくださいね。

アル中ハイマー さんのコメント...

文系の知り合いが少ないもので、誰からのコメントか?悩んでしまいましたが、「カミさんのしわざですね。」というメールをいただき納得です。
なるほど、マダムキラーと呼ばれるわけだ。その証拠に、新年早々クラブのママさんとデートの約束させられちゃいました。
尚、文系や理系といった枠組みは関係ないですよ。理系の人間が読めば、おそらく、理系っぽくない!くだらない!と批難されるでしょう。強いて言えば癒し系でしょうか。

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