本屋で、前記事の「アジャイル レトロスペクティブズ」の隣に陳列されていたので、ついでに買った。「Practices of an Agile Developer」という言葉になんとなく惹かれる。優秀な方々の習慣は気になるものだ。本書は、人生にリズムとバランスの大切さを改めて教えてくれる。その証拠に、各章には気分とバランス感覚という文字が鏤められる。酔っ払いにとって気分とリズムほど大切なものはない。
アジャイルとは、より良いソフトウェア開発方法を解明しようとするものであり、その重視する項目は以下のようなものだという。
・プロセスやツールよりも、- 人と人との交流を
・包括的なドキュメントよりも、- 動作するソフトウェアを
・契約上の交渉よりも、- 顧客との協調を
・計画に従うことよりも、- 変化に適応することを
ここで注意すべきは、左側の項目の価値を認めていることである。それを前提として右側の項目の価値をより重視する。アジャイルの本質は、適応力と協調を重んじる人々が、きちんと動作するソフトウェアを開発することであり、結果を出すことに専念するプロの集団を前提としている。そして、チームにとってモチベーションを保つには、計画を絶対視するよりも、自然で継続的なスタイルへと変化させることが肝要であるという。なるほど、こうした本は頭の整理ができておもしろそうだ。アル中ハイマーの主な仕事は、デジタル回路のアルゴリズム開発やLSI設計である。この分野は、言語による手法が進み随分とソフトウェア化が進んでいる。また、機能検証では、実装のモデリングやテストの自動化などで、プログラム開発を要求される。したがって、本書のようなソフトウェアの分野であっても、その思想は参考にできる。
ソフトウェアの開発は、そのライフサイクルが継続する限り続く。ユーザが使い続ける限り、本当の意味での完成はないのだろう。継続的なフィードバックは、もはやプロジェクト期間など意味をなさないように見える。技術習得、要求変更、製品展開、ユーザのトレーニングなど、すべてにおいて活動は継続される。これがアジャイルな開発スタイルだという。開発のプロセスは複雑で、些細な問題を放置すると、やがて状況は悪化し手に負えなくなる。問題にうまく対処する方法はただ一つ、システムに対してエネルギーを継続的に注入するしかないという。これがソフトウェア開発のエントロピーというわけか。人間社会にも多くの類似したケースを見つけることができる。混乱と危機に陥る前に継続的に監視し問題が小さなうちから対処するのが、アジャイルの本質のようだ。ここで注目したいのは、アジャイル開発で最も信頼を置くのは人であることを強調しているところである。
おいらがプロジェクトを担当する時、リーダをさせられることが多い。単に年齢によるものであろう。そこでは、必ず自ら設計するモジュールを持つことにしている。それがどんなに小さくても。それも設計者の気持ちを忘れないためと言い訳しているが、実は設計も楽しいのだ。最近では、検証環境を作る方がおもしろいので、立場を利用して環境構築を担当する。回路設計を言語で行うといっても、その記述方法は実装の制限に見舞われる。その点、検証モジュールは機能のモデリングや環境の自動化など、その手段において制限に見舞われることはあまりない。顧客によっては使う言語を指定してくる場合もあるが、手抜きをする方向でなければ、交渉でだいたい誤魔化せる。
ドナルド E. クヌース曰く。
「新しい分野のシステムを担当する設計者は、実装にも全面的に関わらなければならない。」
ある経営者に、プロジェクトリーダは、コーディングしてはならないと言われたことがある。おいらはこの意見に否定的である。リーダも少しは設計の醍醐味を味わいたいものである。
プロセスの遵守の度合いを評価の重点に置いている組織がある。そこには、定められたプロセスに従ってさえいれば、この世は全てうまくいくという宗教じみた理屈がある。失敗した時の責任逃れに絶好の言い訳にもなる。ISO9001を取得して喜んでいる組織のお偉いさんは、それで全てうまくいくと狂信している。定められたプロセスがチームに禍をもたらすケースは意外と多いのだが。プロジェクトは生き物のように絶えず変化する。体系化できるならば悩みも減るだろうが、できないのが人間社会というものである。応急処置が泥沼の原因になることは、多くのエンジニアが初期の段階で経験しているだろう。応急処置は悪魔のように誘惑してくる。だが、長期的視野に立てば自ら地雷を埋め込むようなものである。常に物事の本質を解き明かそうとすることが、プロ意識というものであろう。計画段階で、流用モジュールを使えばスケジュールが短縮できるといった意見は必ず飛び出す。流用できるかどうかの検討は慎重でなければ危険だ。そこには、政治的な思惑が絡むことが多い。既に流用モジュール設計者が辞めていて、問題が発覚しても原因すら追求できないといった事態も珍しくない。そんな事は新人君でさえ理解できそうなものだが、なぜか部長クラスのお偉いさんは政治力で捻じ伏せる。彼らには、開発の結果よりも重要なことがあるに違いない。窮地に追い込まれたプロジェクトを救うために、アジャイル プラクティスを導入することは良いかもしれない。ただし、一気に導入することは危険であろう。本書も、改革する上で、何もかも一気に変えてしまうのはプロジェクトを潰すことになるので、その導入方法は段階的でなければならないと警告している。ただ、潰れた方がためになるプロジェクトが存在するの事実である。
1. 設計は指針であって指図ではない!
設計がなくては、きちんとした開発はできないだろう。しかし、設計に縛れら過ぎてもいけないという。新しいソースの統合に伴う混乱を最小限に抑えるために、早めにビルド、こまめにビルド、定期的にリリースすることが重要だと主張している。設計には二つのレベルがあるという。戦略的設計と戦術的設計である。事前に行う設計が戦略的設計で、通常この段階では要件を深く理解できていないだろう。よって、大まかな戦略を示すことになる。早い段階で綿密な詳細に深入りすれば、本質を見失う恐れがある。一方、メソッド、パラメータ、オブジェクト間の相互作用のシーケンスなどは、戦術的設計の段階となる。設計は、正しい方向を示す道しるべにならなければならないという。また、優れた設計は正確であっても精密ではないという。そうだろう、最初から綿密に練られた計画が、その通り実行された例を見たことがない。設計とは、目的や意図を示したもので、具体的な手順を記したものではないと語られる。
2. ドキュメントの位置付け
ドキュメントの位置付けをどうするかは悩ましい。最初から詳細に明確に書ければ悩みも減る。しかし、コーディングしてみて、後からドキュメントに記載するといった手順を踏むこともある。この時、設計書というよりコード説明書という位置付けになる。いずれにせよ必要な説明書を省くべきではないだろう。ある程度の設計指針を記載できても、詳細まではなかなか固まらない。抽象レベルを下げていくうちに、逆に抽象レベルの高いところに変更が入る場合も起こる。上をいじったり下をいじったりして固めていくのが設計の醍醐味でもある。ただ、本書は早い段階からコーディングすることを推奨している。ここで注意すべきは、設計が不要と言っているわけではない。設計が、設計書によって行き詰まることのないように、という程度の意味である。設計をともなわないで、コーディングに突入することは危険である。あくまでもバランス感覚が重要で、設計者のセンスが最も現れるところでもある。また、設計書を渡せば、後はタイピストがコーディングするという方法は好ましくないと指摘している。
「まともな設計は、積極的にコードを書くプログラマから生まれる。」
おいらも自らコーディングしたい。コーディングは気分転換にもなるから。
3. フレームワークの有害
プロジェクトでやみくもにフレームワークを選ぶのは危険であろう。新しい技術やフレームワークの検討には、その採用根拠を明確にし、慎重であるべきである。職務経歴書の見映えを良くするために選択しても成功するわけがない。だからといって、避けていては技術習得の機会を失う。その按配は悩ましい。経営陣には、安易にツールコンサルタントの雄弁さに乗せられて、採用すると天国にでも行けると信じてしまう人がいる。そうしたツールはだいたいオーバースペックである。フレームワークも一種の布教活動であの世へ導かれる。フレームワークやツールは、あくまでも手段であって、それ自体が本質ではない。アル中ハイマーがツール至上主義に陥ることはありえない。酔っ払いはツールを使いこなすことすらできないから。
4. 早いうちにデプロイを自動化する
ターゲットマシンへのデプロイは、再現可能な方法で行わなければならないという。ほとんどの開発者は、最終段階になるまでデプロイの問題に目を向けたがらないらしい。しかし、依存するコンポーネントやデータファイルが足りなかったり、ディレクトリ構造が不適切だったりすると後戻りすることになる。おいらは、ディレクトリ構造やファイル名で最初に思いっきり悩む。夜のテクニシャンは前戯に夢中になるのだ。そして、最初からリリース状態を構築することをイメージする。後から、徐々に膨れ上がるのが見えているから、リリースプロセスは、最初から軌道に乗せておきたい。最初にリリース構造を見せておくと顧客を安心させられ、信頼を得ることもできる。また、顧客に仕様変更が容易かどうかを早めに判断させるのは、有効な戦略ともなる。もし顧客側の水面下で仕様について揉めている場合、その可能性を早めに表明してくれる。ちなみに、仕様変更が起こらない仕事を経験したことがない。相手に気を使わせるのも戦略である。どうせ顧客と揉めるなら早い方がいい。後になればなるほど殺気立つ。
5. PIEの原則
PIE(Program Intently and Expressively)とは、意図を明確に表現するコードを書くことだという。コードは開発が進むにつれ徐々に巨大な怪物へと変貌し炎上することもある。そこには、時間を惜しむために、問題の先送りという悪魔のささやきがある。適度なプレッシャーを保ちながら開発をするには、コードをいつも健康状態に保つことであろう。本書はコードの巧妙さよりも明瞭さを強調する。そして、プロジェクト期間中に留まらず、開発後においても拡張性を維持するべきだと語る。コメントを多く残すように指示する人も多いが、逆に混乱を招くこともある。これはドキュメントも同じである。ドキュメントには思想を残して、コードとセットで考えたい。あまり詳しすぎると、二重にコーディングしているようなものである。
昔、コード = ドキュメントという思想に何度もトライした記憶が蘇る。言葉をマクロ化して分かりやすい表現に置換したりと。あまり膨らみ過ぎて、特殊言語の開発をしているような気分になった。分かりやすさを追求するあまり、性能も犠牲にする。確かに、コードが分かりやすくドキュメントの地位に引き上げることができれば一石二鳥である。しかし、プログラム言語はあまり読みやすいものではない。言語仕様を知らない人間には、チンプンカンプンで議論の題材にはできない。また、いくら分かりやすく書いたつもりでも、一年後にコードを読み返すとがっかりさせられる。そこにはセンスの無さ醜さが散乱する。万能なコードを書くのは難しく、いつもトレードオフがつきまとう。適切な言葉を選ぶだけでもコードの読みやすさは格段に上がる。すべてはエンジニアのバランス感覚に支配され、継承の深さや階層の深さといった構造的センスにもバランス感覚が現れる。優秀なプログラマはネーミングのセンスが良い。こうした感覚は習慣からきているのだろう。普段から読書したりと情報収集に抜け目がない。繊細な気配りをする彼らには学ぶべきところが多い。
6. デバッグ
デバッグがスケジュール的に難しいのは、所要時間が読み辛いところである。問題もランダムに発生する。本書は、ソリューションログをつけることによって、問題と解決策を再利用することを推奨している。例外処理にはいつも悩まされる。プログラム構造には、あらゆる例外を報告させるべきであるという。そして、発生した例外は、すべて対処するか、あるいは伝播させないことだという。エラーメッセージを埋め込むにしても、そのセンスは難しい。役立つログはバグの対処に有効である。それがプログラムの欠陥なのか、環境に依存するのか、ユーザ側のミスなのか、エラーの種類が識別できる工夫も大切である。
バージョン管理システムを導入するのは一つの管理手法であろう。ただ、神のように崇めて強制する人もいる。
「バージョン管理システムを使わないことよりも悪いことは、管理システムを間違って運用することだ」
そもそも、コードの健康状態を公開することが目的であり、それを共有することに価値がある。テストが通らないものを公開しても意味がない。チーム内に一人として認識のずれた人がいると機能しない。
コードレビューは欠陥除去率が80%を超える方法であるという。おいらはチームの技術共有という意味で実施している。新メンバーの認識違いを感知するのにも有効である。ただ、スケジュール上、十分な時間を確保することは難しい。エンジニアの中には恥ずかしがり屋も多く拒む人もいる。ただ、優秀なプログラマのコードを見るのは勉強になるので、他人のコードを見ることを拒む人は少ない。説明がスムーズになされるコードは読みやすく、ドキュメントと突き合わせれば表現のチェックもできる。
Contents
- 2009-02-08 "アジャイル プラクティス" Venkat Subramaniam & Andy Hunt 著
- 2009-02-01 "アジャイル レトロスペクティブズ" Esther Derby & Diana Larsen 著
- 2009-01-25 "GNU開発ツール" 西田亙 著
- 2009-01-18 "代数に惹かれた数学者たち" John Derbyshire 著
- 2009-01-11 "素数に憑かれた人たち" John Derbyshire 著
- 2009-01-05 "アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない" 町山智浩 著
- 2009-01-01 本棚のパワー
- 2008-12-26 アル中ハイマー流「悪魔の辞典」
- 2008-12-20 "不完全性定理" クルト・ゲーデル 著
- 2008-12-14 "はじめての「超ひも理論」" 川合光 著
2009-02-08
2009-02-01
"アジャイル レトロスペクティブズ" Esther Derby & Diana Larsen 著
本屋を散歩していると、ある言葉が目に留まった。Agile Retrospectives...副題には「ふりかえりの手引き」とある。つまり、プロジェクトの事後分析である。全ての道筋は過去を振り返り、自らを評価することから始まるといったところだろうか。不況時に、自らを省みて立ち止まって読んでみるのも悪くない。
最近なぜか?教育係の依頼が多い。教えられることなんて何も無いのに。年寄り扱いされてるってことか?失敬な!ちなみに、夜の社交場では、娘のようなお姉様方にお子ちゃま扱いされている。
今宵は、本書に乗せられて自らの体験談を語ってみたくなった。人生は短い。アル中ハイマーと出会ったがために、無駄な時間を過ごした人も多いことだろう。この場をかりて「深くお詫び申し上げます!」
著者のEstherとDianaは、Norm Kerthとともに、Retrospectivesのファシリテーションにおける世界的な権威者なのだそうだ。ただ、その思想は極めて日本人的であることに驚かされる。組織運営の本質的な思想に国境はないということだろう。プロジェクトは刻々と変化し、チームは生き物のように常にうごめく。どんなにうまくいったチームだからといって、次もうまくいくとは限らない。状況をいち早く掌握するためには日々の観察が大切であり、それを整理するために時々振り返る必要がある。著者たちは「Retrospectives」のことを、仕事が一段落した後にメンバーが集まり、やり方やチームワークを点検し、改善する特別なミーティングに位置付けている。
「チームの問題は、技術的な問題と同じくらい、時にはそれ以上に、手ごわいものだ。」
本書は、具体的な訓練方法まで紹介してくれるので、どこから手を付けてよいか分からない人には参考になるだろう。ただ、それが絶対というわけではない。メンバーや環境など、まったく同じ条件で仕事ができるはずもないので、最適な方法はいつも異なるだろう。重要なのはその根底に潜んだ思想である。くだらないプロジェクトに時間を浪費するほど人生は長くない。目的はただ一つ、人生を楽しもうとしているだけなのだ。
ところで、ベンチャーと称する会社と関わると、いろんな経歴を持った人間が入社してくる。それでも、多くが大企業を経験している。そして、おもしろいことに出身会社によって文化傾向が現れる。自分の哲学に走る傾向や、責任範囲を決めてひたすら自己防衛に走る傾向などなど。こうした傾向が出身会社の文化に反発したものなのか、そのまま継承しているのかは知らない。そこで、まずメンバーの認識合わせから始める必要がある。文化の融合とはおもしろいものだ。
プロジェクトの状態を見るには、本音を言わせることが重要であろう。それには愚痴らせるのが良いと思っている。それも冗談で言える段階から。愚痴が出るということは反発するパワーが残されている証でもある。体制の維持が目的ならばイイ子ちゃんほど都合の良いものはない。だが、改善が目的ならば、むしろ弊害となる。完璧な体制などありえない。もし満足しているならば、宗教化が進み思考停止になっていると見る方が正しいだろう。沈黙の抗議が始まれば手遅れである。そうならないように、笑いながら愚痴れる環境を作ることに専念する。おいらのプロジェクト手法は、これに尽きる。技術的な問題は比較的対応しやすい。もし、メンバーが技術問題を抱えていれば、人前で喋らせればいい。すると、メンバーは自分で喋っているうちに自らの思考を整理して、いつのまにか自ら解決策を見出す。周りはそれを聞いてやるだけでいい。悩み事を相談していたはずが、いつのまにか解決方法を自ら自信満々に語っている。こうした光景がしばしば見られるからおもしろい。ただ、リーダの存在感が薄れてちょっと寂しい。挙句に飲まずにはいられず、場所を変えてそのまま宴会となる。したがって、プロジェクトリーダはアル中ハイマー病患者が多いはずだ。
人の評価は難しい。好き嫌いという感情も介入する。客観的な評価を求めるために、数字で段階評価する光景をよく見かける。これがまったく意味がないとは言わないが、どれほどの効果があるのだろうか?カリスマ性5、技術力3、発想力4、協調性1、まるでシミュレーションゲームだ。評価項目に当てはまらない事象や表現できない事象も多い。評価される側も、売上などの数字で部署や人の評価を求める人がいる。しかし、経営の立場から考えると奇妙な話である。誰が担当してもそれなりに成果の出る仕事と、失敗する可能性は高いが将来を睨んで挑戦したい仕事とでは、どちらに優秀な人材を投入するだろうか?困難な仕事ほど優秀な人材を配置するのが合理性というものである。おいらの評価基準は単純だ。その人が組織にとって居なくなったらどれだけ困るかである。ただ、居なくなって初めて、その人の価値が認識できるから困ったものである。恋愛は別れた時に、その人の良さが見える。
プロジェクト改善のアプローチで全ての問題を列挙して、解決策を見出すべきだと主張する人がいる。そして、一つの問題に一つの解決策を対応つける光景をよく見かける。それも手法の一つであろうが、分析すれば一つの問題から派生していることが多い。何もかも列挙するといきなり挫折が見えてくる。長続きするためには高い可能性を維持することであろう。ただ、目標を視覚化できるチャートは、メンバーの意識合わせに役立つ。少なくとも計測可能で達成可能なものでなければ、メンバーの共通目標にはできない。最初にプロジェクトの方向性を明白にすることが重要で、ここで時間をかけることを面倒だとは思わない。むしろ、ここで時間をかけた分、後で時間が短縮でき、時間的にもエネルギー的にも十分見合うものとなる。また、メンバーの意識が合えば、重要な問題が発生した場面でも少々無理がきく。問題発生は常に想定しておくべきである。チーム内を円滑にするために、笑いネタにできる人間が一人いるとありがたい。馬鹿を演じられる人間は貴重である。実は賢いと認められた人間の成せる技である。リーダ自身の馬鹿げた行動を暴露するのもいい。チーム内には常に笑いを起こせる共通のネタを仕込んでおきたい。おいらのプロジェクトは運良くメンバーに恵まれてきた。それなりに楽しくやれてきたからである。失敗もあるが今では笑い話にできる。
突っ走らないと気が済まない人がいる。全体の方針が決まらないのに、勝手に検証環境を作り始めたりといった行動をとる。自分の仕事が遅れることで、責任を負うのが嫌だと明るみに主張する人もいる。誰も責任を押し付けようなどと思っていないのだが、そのような政治的な体験をしてきた人は多い。部分的に進んでも、足並みが揃わないと、後戻りすることになると説得しても無駄である。あえて、そうした人の行動を止めたりはしない。それでストレスから回避できるのであればそれもいいだろう。こういう人は作業をしていないと落ち着かない。コードを書くことが精神安定剤になっている。無闇にコンピュータに向かっている時間が長い人の仕事量が多いとは限らないのだが。人間を言葉だけで啓蒙することは無理である。新たな思考方法を本に求めるにしても、どこかに興味や共感できる思考の欠片を持っているから、その本を選ぶことができる。むしろ言葉だけで簡単に操れる人間の方が怪しい。事前検討や上流工程を綿密にやれば、日程の精度が高まり、結果的に仕事が加速することを体験させなければならない。それまで我慢するしかない。何事も結果が付いて来ないと説得力はない。
また、仕事のパターンを形式化することを好む人がいる。形式化できるに越したことはないが、できないのが人間社会というものである。また、ワンパターンの仕事スタイルは硬直化の要因にもなる。それに人間であるからには、作業よりも思考することに価値を見出したい。優秀な人ほど事前検討を大切にし、無駄を排除しようと努力しているように思える。彼らは一番大きな無駄は後戻りすることだと知っている。逆に、無駄な努力を多く経験してきたとも言える。世の中は無駄に満ち満ちている。無駄から学ぶことも多い。こうなると無駄は無駄ではなくなる。プロジェクトリーダは、しばしば様々な形の人間関係で衝突することがある。ただ、不思議なのは、最初に苦労した人ほど後々うまくいくケースが多いことだ。また、人間的に合わないという直観は最初に働く。こうした現象を経験から学ぶが、その要因を論理的には説明できない。
本書が推奨するRetrospectivesの手順は、次のようなものである。
1. 場を設定する
2. データを収集する
3. アイデアを出す
4. 何をすべきかを決定する
5. レトロスペクティブズを終了する
おいらは「場を設定する」が一番重要だと思っている。以降の項目はプロジェクトを実施する上で必然だから、ほとんどの人が試行するだろう。それらを有効にするには、いかに場を設定するかにかっていると思っている。
1. 場を設定する
場を設定するとは、議論に適した雰囲気を作り出すことで、最も気を使うのは議論の所要時間であろう。忙しいメンバーにとって、だらだらとした議論はストレスとなる。本書は、最初に所要時間を明確にすることが大切だと述べている。会議の進め方がメンバーに浸透していれば、なおのこと良い。もう一つ気を使うことが、発言に遠慮がちな人が多いことである。エンジニアの中には気難しい人間も多い。実は、おいら自身が人見知りが強く気難しい人間で喋ることが苦手である。と言っても誰も信じてくれない。また、プライドなのか?問題を自分だけで抱え込む人がいる。追い詰められてから公表すると、責任問題にもなり、他のメンバーから批難される恐れがある。事前に問題を明るみにするためにも雰囲気は重要である。議論するからには、全員に喋ってもらはないと意味がない。いかに大人しい人に喋ってもらうかは苦労するが、チームの一員として自覚させるためには必要である。大人しい人を表に出すためには、その人の担当を表に出せば良い。インターフェースを話題にすれば、責任感さえ持っていれば、嫌でも発言せざるをえない。本書は、チームに約束が重要であると語る。約束は、メンバーに協調した振る舞いや、責任を持たせることができるという。ただ、経験的にはチーム内の約束事はいつのまにか暗黙の了解となっている。互いに成長したいという意識が一致していれば、自然とチーム内に規則が生まれるような気がする。
2. データを収集する
本書は、客観的な事実はデータの一部でしかなく、データの半分以上は感情であると語っている。確かに、感情は、事実やチームについて重要なことを教えてくれる。ストレス情報に敏感でなければリーダは務まらない。リーダにとって有用な情報は感情であり、メンバーにとって有用なのは客観的な情報である。所詮、人間は感情の動物だ。論理が万能と信じるのは危険である。論理に一瞬でも隙があると、メンバーは不快になる。それが、感情によって微妙に左右され、更に決断の段階で左右される。ならば、最初から感情の存在を認めた上で、対処する方が現実的である。ただ、エンジニアは感情を表に出したがらない傾向にある。無理に感情を煽るのも逆効果となる。
3. アイデアを出す
アイデアを出す段階では、場が設定できていれば、あまりリーダが積極的に発言する必要はないだろう。後は、自然の成り行きに任せる。ただ、プロジェクトから一歩下がった視点を与えることは重要である。おいらは哲学的な思考を重視する。それは、各メンバーに仕事で何か得るものがあるか、それを実感できているか、を問うことである。どんな仕事でも、その前提にはそれぞれの人生がある。今後も役立つ手法を使うか、一時的なもので誤魔化すかは、モチベーションにも影響を与える。ひょっとしたら、その人は、会社を辞めてもっと良い生き方を見つけるかもしれない。おいらは、組織の枠組みにとらわれない付き合いをしたいと願っている。その延長上に、チームの目指すべきものを見つけたい。
4. 何をすべきかを決定する
プロジェクトリーダの仕事は、何をすべきかを決定することが目的である。本書は、あまり多くの改善項目を試すのではなく、絞ることが重要だと語る。
5.. レトロスペクティブズを終了する
本書の流れで、この項目は少々気になる。文書化、フォローアップ、点検と改善、ここまでは想像がつく。ただ、本書は、最重要なものにこれを挙げている。
「メンバーの作業に感謝することを忘れない。」
プロジェクトリーダは、当然感謝の気持ちを持つだろう。しかし、その気持ちは伝わっているものと考え、しばしば態度に示すことを省く。それが照れくさいところもある。本書は、そうした態度を省いてはならないと主張する。ということで、この場を借りて皆様に感謝致します!
また、リリース後のRetrospectivesでは、チーム外にも招待状を出し、新しい参加者を募ることを薦めている。チーム外の付き合いは、政治的な思惑も絡むから難しい。それが社外となると尚更である。本書は、そうした啓蒙運動を積極的に行うように推奨している。ただ、あからさまに啓蒙して周るのは布教活動のようで肌に合わない。そもそも、それほど自信のあるやり方をしているわけでもない。
6. プロジェクトリーダの役割
リーダもつい議論に参加してしまいがちだ。しかし、リーダの仕事はプロセス管理にある。本書では、それをアクティビティ、集団ダイナミックス、時間の管理であると述べている。そして、自らの強い意見は避け、中立の立場に徹することと、メンバーの感情や反応を管理することで、議論の成果に貢献することが重要である語る。もし、リーダだけが重要な情報を知っている場合は、その役割を一時的に離れる旨を知らせて、議論に参加するのもいいだろう。その立場を明確することに注意を払うのは大切である。頻繁に立場を変えるのも混乱を招くだけである。本書は、一番やってはいけないことは、相手を批難することであるという。これは、場を設定するところで、メンバーの認識合わせができていれば、互いに批難するような場面を事前に回避できるだろう。やたら、技術や戦略を持ち込んで管理しようとするリーダをよく見かける。ただ、管理で一番神経を使うのは感情的なものである。ここが管理できなければ、どんなテクニックを持ち込んでも効果はない。そして、何よりも大事なのが、リーダ自身の自己管理である。これは孤独との闘いでもある。
7. 改善
継続中のプロジェクトを改善するよりも、新規でやり直す方が手っ取り早い。慣習化した行動を改めるよりも、新しい行動を加える方が楽である。チーム改革とは、そんなものだろう。本書は、新しいスキルを身に付けるのに、ミスをしても構わないことをメンバーに伝えることを薦める。改善の責任はメンバーで共有することであって、一人がチームの救世主になると、共同作業を台無しにする恐れがある。また、それに追従するだけで頼りない集団になってしまう。その人の肩にかかるというのは、それだけリスクを伴う。おいらがカリスマ性を信じないのは、このあたりに理由がある。
最近なぜか?教育係の依頼が多い。教えられることなんて何も無いのに。年寄り扱いされてるってことか?失敬な!ちなみに、夜の社交場では、娘のようなお姉様方にお子ちゃま扱いされている。
今宵は、本書に乗せられて自らの体験談を語ってみたくなった。人生は短い。アル中ハイマーと出会ったがために、無駄な時間を過ごした人も多いことだろう。この場をかりて「深くお詫び申し上げます!」
著者のEstherとDianaは、Norm Kerthとともに、Retrospectivesのファシリテーションにおける世界的な権威者なのだそうだ。ただ、その思想は極めて日本人的であることに驚かされる。組織運営の本質的な思想に国境はないということだろう。プロジェクトは刻々と変化し、チームは生き物のように常にうごめく。どんなにうまくいったチームだからといって、次もうまくいくとは限らない。状況をいち早く掌握するためには日々の観察が大切であり、それを整理するために時々振り返る必要がある。著者たちは「Retrospectives」のことを、仕事が一段落した後にメンバーが集まり、やり方やチームワークを点検し、改善する特別なミーティングに位置付けている。
「チームの問題は、技術的な問題と同じくらい、時にはそれ以上に、手ごわいものだ。」
本書は、具体的な訓練方法まで紹介してくれるので、どこから手を付けてよいか分からない人には参考になるだろう。ただ、それが絶対というわけではない。メンバーや環境など、まったく同じ条件で仕事ができるはずもないので、最適な方法はいつも異なるだろう。重要なのはその根底に潜んだ思想である。くだらないプロジェクトに時間を浪費するほど人生は長くない。目的はただ一つ、人生を楽しもうとしているだけなのだ。
ところで、ベンチャーと称する会社と関わると、いろんな経歴を持った人間が入社してくる。それでも、多くが大企業を経験している。そして、おもしろいことに出身会社によって文化傾向が現れる。自分の哲学に走る傾向や、責任範囲を決めてひたすら自己防衛に走る傾向などなど。こうした傾向が出身会社の文化に反発したものなのか、そのまま継承しているのかは知らない。そこで、まずメンバーの認識合わせから始める必要がある。文化の融合とはおもしろいものだ。
プロジェクトの状態を見るには、本音を言わせることが重要であろう。それには愚痴らせるのが良いと思っている。それも冗談で言える段階から。愚痴が出るということは反発するパワーが残されている証でもある。体制の維持が目的ならばイイ子ちゃんほど都合の良いものはない。だが、改善が目的ならば、むしろ弊害となる。完璧な体制などありえない。もし満足しているならば、宗教化が進み思考停止になっていると見る方が正しいだろう。沈黙の抗議が始まれば手遅れである。そうならないように、笑いながら愚痴れる環境を作ることに専念する。おいらのプロジェクト手法は、これに尽きる。技術的な問題は比較的対応しやすい。もし、メンバーが技術問題を抱えていれば、人前で喋らせればいい。すると、メンバーは自分で喋っているうちに自らの思考を整理して、いつのまにか自ら解決策を見出す。周りはそれを聞いてやるだけでいい。悩み事を相談していたはずが、いつのまにか解決方法を自ら自信満々に語っている。こうした光景がしばしば見られるからおもしろい。ただ、リーダの存在感が薄れてちょっと寂しい。挙句に飲まずにはいられず、場所を変えてそのまま宴会となる。したがって、プロジェクトリーダはアル中ハイマー病患者が多いはずだ。
人の評価は難しい。好き嫌いという感情も介入する。客観的な評価を求めるために、数字で段階評価する光景をよく見かける。これがまったく意味がないとは言わないが、どれほどの効果があるのだろうか?カリスマ性5、技術力3、発想力4、協調性1、まるでシミュレーションゲームだ。評価項目に当てはまらない事象や表現できない事象も多い。評価される側も、売上などの数字で部署や人の評価を求める人がいる。しかし、経営の立場から考えると奇妙な話である。誰が担当してもそれなりに成果の出る仕事と、失敗する可能性は高いが将来を睨んで挑戦したい仕事とでは、どちらに優秀な人材を投入するだろうか?困難な仕事ほど優秀な人材を配置するのが合理性というものである。おいらの評価基準は単純だ。その人が組織にとって居なくなったらどれだけ困るかである。ただ、居なくなって初めて、その人の価値が認識できるから困ったものである。恋愛は別れた時に、その人の良さが見える。
プロジェクト改善のアプローチで全ての問題を列挙して、解決策を見出すべきだと主張する人がいる。そして、一つの問題に一つの解決策を対応つける光景をよく見かける。それも手法の一つであろうが、分析すれば一つの問題から派生していることが多い。何もかも列挙するといきなり挫折が見えてくる。長続きするためには高い可能性を維持することであろう。ただ、目標を視覚化できるチャートは、メンバーの意識合わせに役立つ。少なくとも計測可能で達成可能なものでなければ、メンバーの共通目標にはできない。最初にプロジェクトの方向性を明白にすることが重要で、ここで時間をかけることを面倒だとは思わない。むしろ、ここで時間をかけた分、後で時間が短縮でき、時間的にもエネルギー的にも十分見合うものとなる。また、メンバーの意識が合えば、重要な問題が発生した場面でも少々無理がきく。問題発生は常に想定しておくべきである。チーム内を円滑にするために、笑いネタにできる人間が一人いるとありがたい。馬鹿を演じられる人間は貴重である。実は賢いと認められた人間の成せる技である。リーダ自身の馬鹿げた行動を暴露するのもいい。チーム内には常に笑いを起こせる共通のネタを仕込んでおきたい。おいらのプロジェクトは運良くメンバーに恵まれてきた。それなりに楽しくやれてきたからである。失敗もあるが今では笑い話にできる。
突っ走らないと気が済まない人がいる。全体の方針が決まらないのに、勝手に検証環境を作り始めたりといった行動をとる。自分の仕事が遅れることで、責任を負うのが嫌だと明るみに主張する人もいる。誰も責任を押し付けようなどと思っていないのだが、そのような政治的な体験をしてきた人は多い。部分的に進んでも、足並みが揃わないと、後戻りすることになると説得しても無駄である。あえて、そうした人の行動を止めたりはしない。それでストレスから回避できるのであればそれもいいだろう。こういう人は作業をしていないと落ち着かない。コードを書くことが精神安定剤になっている。無闇にコンピュータに向かっている時間が長い人の仕事量が多いとは限らないのだが。人間を言葉だけで啓蒙することは無理である。新たな思考方法を本に求めるにしても、どこかに興味や共感できる思考の欠片を持っているから、その本を選ぶことができる。むしろ言葉だけで簡単に操れる人間の方が怪しい。事前検討や上流工程を綿密にやれば、日程の精度が高まり、結果的に仕事が加速することを体験させなければならない。それまで我慢するしかない。何事も結果が付いて来ないと説得力はない。
また、仕事のパターンを形式化することを好む人がいる。形式化できるに越したことはないが、できないのが人間社会というものである。また、ワンパターンの仕事スタイルは硬直化の要因にもなる。それに人間であるからには、作業よりも思考することに価値を見出したい。優秀な人ほど事前検討を大切にし、無駄を排除しようと努力しているように思える。彼らは一番大きな無駄は後戻りすることだと知っている。逆に、無駄な努力を多く経験してきたとも言える。世の中は無駄に満ち満ちている。無駄から学ぶことも多い。こうなると無駄は無駄ではなくなる。プロジェクトリーダは、しばしば様々な形の人間関係で衝突することがある。ただ、不思議なのは、最初に苦労した人ほど後々うまくいくケースが多いことだ。また、人間的に合わないという直観は最初に働く。こうした現象を経験から学ぶが、その要因を論理的には説明できない。
本書が推奨するRetrospectivesの手順は、次のようなものである。
1. 場を設定する
2. データを収集する
3. アイデアを出す
4. 何をすべきかを決定する
5. レトロスペクティブズを終了する
おいらは「場を設定する」が一番重要だと思っている。以降の項目はプロジェクトを実施する上で必然だから、ほとんどの人が試行するだろう。それらを有効にするには、いかに場を設定するかにかっていると思っている。
1. 場を設定する
場を設定するとは、議論に適した雰囲気を作り出すことで、最も気を使うのは議論の所要時間であろう。忙しいメンバーにとって、だらだらとした議論はストレスとなる。本書は、最初に所要時間を明確にすることが大切だと述べている。会議の進め方がメンバーに浸透していれば、なおのこと良い。もう一つ気を使うことが、発言に遠慮がちな人が多いことである。エンジニアの中には気難しい人間も多い。実は、おいら自身が人見知りが強く気難しい人間で喋ることが苦手である。と言っても誰も信じてくれない。また、プライドなのか?問題を自分だけで抱え込む人がいる。追い詰められてから公表すると、責任問題にもなり、他のメンバーから批難される恐れがある。事前に問題を明るみにするためにも雰囲気は重要である。議論するからには、全員に喋ってもらはないと意味がない。いかに大人しい人に喋ってもらうかは苦労するが、チームの一員として自覚させるためには必要である。大人しい人を表に出すためには、その人の担当を表に出せば良い。インターフェースを話題にすれば、責任感さえ持っていれば、嫌でも発言せざるをえない。本書は、チームに約束が重要であると語る。約束は、メンバーに協調した振る舞いや、責任を持たせることができるという。ただ、経験的にはチーム内の約束事はいつのまにか暗黙の了解となっている。互いに成長したいという意識が一致していれば、自然とチーム内に規則が生まれるような気がする。
2. データを収集する
本書は、客観的な事実はデータの一部でしかなく、データの半分以上は感情であると語っている。確かに、感情は、事実やチームについて重要なことを教えてくれる。ストレス情報に敏感でなければリーダは務まらない。リーダにとって有用な情報は感情であり、メンバーにとって有用なのは客観的な情報である。所詮、人間は感情の動物だ。論理が万能と信じるのは危険である。論理に一瞬でも隙があると、メンバーは不快になる。それが、感情によって微妙に左右され、更に決断の段階で左右される。ならば、最初から感情の存在を認めた上で、対処する方が現実的である。ただ、エンジニアは感情を表に出したがらない傾向にある。無理に感情を煽るのも逆効果となる。
3. アイデアを出す
アイデアを出す段階では、場が設定できていれば、あまりリーダが積極的に発言する必要はないだろう。後は、自然の成り行きに任せる。ただ、プロジェクトから一歩下がった視点を与えることは重要である。おいらは哲学的な思考を重視する。それは、各メンバーに仕事で何か得るものがあるか、それを実感できているか、を問うことである。どんな仕事でも、その前提にはそれぞれの人生がある。今後も役立つ手法を使うか、一時的なもので誤魔化すかは、モチベーションにも影響を与える。ひょっとしたら、その人は、会社を辞めてもっと良い生き方を見つけるかもしれない。おいらは、組織の枠組みにとらわれない付き合いをしたいと願っている。その延長上に、チームの目指すべきものを見つけたい。
4. 何をすべきかを決定する
プロジェクトリーダの仕事は、何をすべきかを決定することが目的である。本書は、あまり多くの改善項目を試すのではなく、絞ることが重要だと語る。
5.. レトロスペクティブズを終了する
本書の流れで、この項目は少々気になる。文書化、フォローアップ、点検と改善、ここまでは想像がつく。ただ、本書は、最重要なものにこれを挙げている。
「メンバーの作業に感謝することを忘れない。」
プロジェクトリーダは、当然感謝の気持ちを持つだろう。しかし、その気持ちは伝わっているものと考え、しばしば態度に示すことを省く。それが照れくさいところもある。本書は、そうした態度を省いてはならないと主張する。ということで、この場を借りて皆様に感謝致します!
また、リリース後のRetrospectivesでは、チーム外にも招待状を出し、新しい参加者を募ることを薦めている。チーム外の付き合いは、政治的な思惑も絡むから難しい。それが社外となると尚更である。本書は、そうした啓蒙運動を積極的に行うように推奨している。ただ、あからさまに啓蒙して周るのは布教活動のようで肌に合わない。そもそも、それほど自信のあるやり方をしているわけでもない。
6. プロジェクトリーダの役割
リーダもつい議論に参加してしまいがちだ。しかし、リーダの仕事はプロセス管理にある。本書では、それをアクティビティ、集団ダイナミックス、時間の管理であると述べている。そして、自らの強い意見は避け、中立の立場に徹することと、メンバーの感情や反応を管理することで、議論の成果に貢献することが重要である語る。もし、リーダだけが重要な情報を知っている場合は、その役割を一時的に離れる旨を知らせて、議論に参加するのもいいだろう。その立場を明確することに注意を払うのは大切である。頻繁に立場を変えるのも混乱を招くだけである。本書は、一番やってはいけないことは、相手を批難することであるという。これは、場を設定するところで、メンバーの認識合わせができていれば、互いに批難するような場面を事前に回避できるだろう。やたら、技術や戦略を持ち込んで管理しようとするリーダをよく見かける。ただ、管理で一番神経を使うのは感情的なものである。ここが管理できなければ、どんなテクニックを持ち込んでも効果はない。そして、何よりも大事なのが、リーダ自身の自己管理である。これは孤独との闘いでもある。
7. 改善
継続中のプロジェクトを改善するよりも、新規でやり直す方が手っ取り早い。慣習化した行動を改めるよりも、新しい行動を加える方が楽である。チーム改革とは、そんなものだろう。本書は、新しいスキルを身に付けるのに、ミスをしても構わないことをメンバーに伝えることを薦める。改善の責任はメンバーで共有することであって、一人がチームの救世主になると、共同作業を台無しにする恐れがある。また、それに追従するだけで頼りない集団になってしまう。その人の肩にかかるというのは、それだけリスクを伴う。おいらがカリスマ性を信じないのは、このあたりに理由がある。
2009-01-25
"GNU開発ツール" 西田亙 著
昨夜から、ポールジローを飲み続ける。この季節はストーブにおでんを仕込むのが慣習である。そして、ベランダから眺める雪景色はなかなかいい。寒いとはいえ、ここまで積もるのも珍しい。おまけに、深夜は晴れていて、灯りが遠くの山まで通るのが幻想的だ。今日もその余韻にひたりながら、真昼間っからブランデーにひたる。そして、一本空いてしまった。気分良くなんとなく本棚を眺めていると、一冊の本に目が留まる。重厚なハードカバーは、味わい深い洋酒の解説書を思わせる。3年ほど前に読んだ本だが、なんとなく読み返したくなった。寒い季節は、なぜか?感傷的にさせやがる。
本書は2006年に著者西田亙氏により自費出版されたもので、当時、初版を購入した。こうした個人で活動されている方の試みは、アル中ハイマーに良い(酔い)刺激を与えてくれる。本書は、アル中ハイマー世代には懐かしい香りがする。おいらが初めて買ったコンピュータはFM7、20年以上前、媒体はカセットテープだった。通常のオーディオ機器でプログラムがコピーできた時代である。録音レベルの調節を失敗すると暴走したりもした。社会人になって自己啓発と称して購入したのが98互換機だった。その時、虚しかったのは、ローンの残高が次々に登場する新型マシンの価格を追い越すことだった。記憶装置は5インチのフロッピーディスクが主流で、まだ3.5インチの信頼性に疑いを持っていた。おいらは、プロセッサの設計やCPU周辺回路の設計などに携わっていた。ターゲットCPUは、Z80系が主流で、ワンチップマイコンという言葉が流行り出した時代である。回路検証のために、リアルタイムモニタとでも言おうか、OSもどきを自作せざるを得なかった。LSIの検証のためにブレッドボードを製作していたが、今では考えられないほどの労力をかけていた。それでも、小学生が科学するような作る楽しさがあったものである。近年コンピュータの処理能力と記憶領域の進歩は凄まじいものがある。高機能化したOSや高速なネットワーク環境によって、ハードウェアやソフトウェアはますます複雑化し、もはや、システム全体を個人で把握することはできない。強固なOSは、かつてマイコンが許していた内部操作さえも拒絶する。こうした流れは、コンピュータの基礎であるプリミティブな部分を軽視する傾向へと向かわせる。社会が便利で豊かになるのは歓迎であるが、逆に、複雑化した社会では基礎を学ぶ場が難しいとも言える。著者は、入門者を基本の学べる場へと導くために、「Computer Architecture Series」を誕生させたという。本書はシリーズの第一弾で、その原点をC言語の入門書で御馴染みのhello.cに求めている。
ところで、物事の真理を探究する欲求は、よりプリミティブな方向へと向かうのだろうか?真の芸術は原点を自然に求め、文学は自らの精神を曝け出すことを鉄則とする。哲学は、人生の意義を追求した挙句、自らの存在をも疑わせる。科学の探求はあらゆる物質の基本構成へと向かわせ、数学の原理を素数に求め、アルゴリズムの基本原理をランダム性に求める。あらゆる探求がプリミティブな方向へと向かうのは、自然の理なのかもしれない。笑いの感性も例外ではなく、鉛筆が転がっただけで笑えるような感覚にこそ、本物の笑いがある。この感性を習得するには女子高生に弟子入りするのが一番だ。ということで、、アル中ハイマーは逆援助交際の相手を募集している。
本書は、GNU開発ツールを使って、ソースプログラムから生成される実行コマンドの正体を暴いていく。それは、gccが裏で何をしているかを -vプションで解明していくことである。GNU開発ツールは、gccパッケージと、binutilsパッケージから構成される。binutils由来のリンカがldである。gccの役割は、プリプロセッサ、コンパイラ、アセンブラ、リンカといった4つのビルド作業の調整役である。おいらがコンピュータに触れた頃は、こうした手順が自然と見えたものだが、今ではほとんど自動化されあまり意識する必要がない。しかし、トラブルが発生した時、こうした情報を知っていて損はない。本書で一番盛り上がるのは、静的リンクと動的リンクの違いを手動で試す場面であろう。いかにgccが便利な社会を提供しているかが実感できる。静的リンクで作成されたコマンドは、それ自体で完結しているため、ディスク障害などで一部が破壊されても、自身をメモリ上にロードできれば起動することができる。一方、動的リンクは、elfローダと共有ライブラリに依存するため、いずれにかに障害が発生すると、全てのコマンドが起動不能となる。OpenBSDでは、その危険性を考慮して、/sbin, /binに格納するコマンドは全て静的リンクで作成されているという。一方、linuxでは、initやbashが動的リンクとなっている。
ちなみに、fedora9ではこうなっている。
----------------------------------------------------
$ file /sbin/init
/sbin/init: ELF 32-bit LSB executable, ..., dynamically linked...
$ file /bin/bash
/bin/bash: ELF 32-bit LSB executable, ...., dynamically linked...
----------------------------------------------------
以下、なんとなく気になるところをメモっておこう。
1. /etc/passwdの管理
/etc/passwdの管理で、ログイン拒否やクラッキング防止方法を紹介している。シェルの起動の代わりに、Linuxでは、/bin/falseを活用する。OpenBSDでは、/sbin/nologinを活用する。
2. gcc -v hello.c
gccは、裏で6つの処理を行っていることが分かる。
(1) specsファイルの読み込み。
(2) ビルド時のconfigureオプションの表示
(3) プリプロセス(以前はcpp0が担当していたが、ver3からcc1が兼任)
(4) コンパイル(cc1)
(5) アセンブル(as)
(6) リンク(ld)
specsは、ビルド作業の自動実行を制御するための設定ファイル。ちなみに、-save-tempsオプションを使えば、中間ファイルが保存できる。fileコマンドで、オブジェクトファイル(hello.o)が、elf形式による再配置可能であることが分かる。
----------------------------------------------------
hello.c: ASCII C program text
hello.i: ISO-8859 C program text
hello.o: ELF 32-bit LSB relocatable, ...
hello.s: ASCII assembler program text
a.out: ELF 32-bit LSB executable,... dynamically linked...
----------------------------------------------------
3. プリプロセス
自前のライブラリをインクルードファイルで管理することはよくある。そして、オーバーライドなどによって、プロトタイプ宣言の微妙な違いによって、コンパイルエラーや、奇妙な動作で悩まされることがある。ヘッダファイルの探索順によっては、思惑と違うファイルを参照することもある。ローカルファイルの管理ミスで、システムと衝突したりすると頭が痛い。また、定義済みのマクロで嵌ることもある。例えば、文字型のビット長などは、未定義だと思っても正常にビルドできたりする。
次のコマンドで定義内容が確認できる。
cpp -dM < /dev/null
4. アセンブラ
asciiコードで表示(hexdump)と、実行コードからの逆アセンブル(objdump)の紹介。
objdump -j .rodata -s hello.o
# -j は解析対象セクション -sと組み合わせてセクション内容を表示。
readelf -S hello.o
# セクション一覧表示
5. 静的リンク
実行可能ファイルにはプログラムヘッダが含まれる。プログラムヘッダの内容は、readelf -l a.outで確認できる。静的Cライブラリの実体は、libc.a (Archive)。gccランタイムライブラリ(libgcc.a)も必要。
libc.aに含まれるオブジェクトファイル群の表示は以下のようにやる。
$ ar t /usr/lib/libc.a
_startシンボル未定義による致命的エラーは、以下のファイルをリンクする必要がある。5つのcrt(C Runtime start up)ファイルは、プログラム起動時に呼ばれる初期化コードやコンストラクタ、デコンストラクタを格納する。(crt1.o, crti.o, crth.o, crtbegin.o, crtend.o)
6. 動的リンク
動的リンクは、crtファイルや外部ライブラリとリンクする点は静的リンクと同じであるが、共有ライブラリを使用し、プログラム起動時にelfローダを必要とするところが違う。libcの共有ライブラリ版は libc.so (Share Object)。
----------------------------------------------------------
$ cat /usr/lib/libc.so
/* GNU ld script
Use the shared library, but some functions are only in
the static library, so try that secondarily. */
OUTPUT_FORMAT(elf32-i386)
GROUP ( /lib/libc.so.6 /usr/lib/libc_nonshared.a AS_NEEDED ( /lib/ld-linux.so.2 ) )
----------------------------------------------------------
ライブラリ本体は、GROUPに記載されるlib/libc.so.6にある。
----------------------------------------------------------
-rw-r--r-- 1 root root 3105844 2008-07-17 07:14 /usr/lib/libc.a
lrwxrwxrwx 1 root root 11 2008-08-05 18:25 /lib/libc.so.6 -> libc-2.8.so
-rwxr-xr-x 1 root root 1758448 2008-07-17 07:30 /lib/libc-2.8.so
----------------------------------------------------------
libc.aの3MBに比べて、共有ライブラリ(libc-2.8.so)1.7MBと小さいのは、シンボル情報が削除されているため。よって、シンボル情報を得るためにnmコマンドでは解析できないので、readelf -sを使う。
$ readelf -s /lib/libc-2.8.so
リンカの-lcオプションの解釈順
-lc -> libc.so -> /usr/lib/libc.so -> /lib/libc.so.6 -> /lib/libc-2.8.so
elfローダ(ld.so/ld-linux.so)は、ダイナミック・リンカローダとも呼ばれる。elfローダを指定するには、-dynamic-linkerオプションを使用する。
ld -dynamic-linker /lib/ld-linux.so.2 ...
共有ライブラリの格納情報を記録しているキャッシュは、/etc/ld.so.cache
テキスト形式で確認するには、/sbin/ldconfig -p
本書は2006年に著者西田亙氏により自費出版されたもので、当時、初版を購入した。こうした個人で活動されている方の試みは、アル中ハイマーに良い(酔い)刺激を与えてくれる。本書は、アル中ハイマー世代には懐かしい香りがする。おいらが初めて買ったコンピュータはFM7、20年以上前、媒体はカセットテープだった。通常のオーディオ機器でプログラムがコピーできた時代である。録音レベルの調節を失敗すると暴走したりもした。社会人になって自己啓発と称して購入したのが98互換機だった。その時、虚しかったのは、ローンの残高が次々に登場する新型マシンの価格を追い越すことだった。記憶装置は5インチのフロッピーディスクが主流で、まだ3.5インチの信頼性に疑いを持っていた。おいらは、プロセッサの設計やCPU周辺回路の設計などに携わっていた。ターゲットCPUは、Z80系が主流で、ワンチップマイコンという言葉が流行り出した時代である。回路検証のために、リアルタイムモニタとでも言おうか、OSもどきを自作せざるを得なかった。LSIの検証のためにブレッドボードを製作していたが、今では考えられないほどの労力をかけていた。それでも、小学生が科学するような作る楽しさがあったものである。近年コンピュータの処理能力と記憶領域の進歩は凄まじいものがある。高機能化したOSや高速なネットワーク環境によって、ハードウェアやソフトウェアはますます複雑化し、もはや、システム全体を個人で把握することはできない。強固なOSは、かつてマイコンが許していた内部操作さえも拒絶する。こうした流れは、コンピュータの基礎であるプリミティブな部分を軽視する傾向へと向かわせる。社会が便利で豊かになるのは歓迎であるが、逆に、複雑化した社会では基礎を学ぶ場が難しいとも言える。著者は、入門者を基本の学べる場へと導くために、「Computer Architecture Series」を誕生させたという。本書はシリーズの第一弾で、その原点をC言語の入門書で御馴染みのhello.cに求めている。
ところで、物事の真理を探究する欲求は、よりプリミティブな方向へと向かうのだろうか?真の芸術は原点を自然に求め、文学は自らの精神を曝け出すことを鉄則とする。哲学は、人生の意義を追求した挙句、自らの存在をも疑わせる。科学の探求はあらゆる物質の基本構成へと向かわせ、数学の原理を素数に求め、アルゴリズムの基本原理をランダム性に求める。あらゆる探求がプリミティブな方向へと向かうのは、自然の理なのかもしれない。笑いの感性も例外ではなく、鉛筆が転がっただけで笑えるような感覚にこそ、本物の笑いがある。この感性を習得するには女子高生に弟子入りするのが一番だ。ということで、、アル中ハイマーは逆援助交際の相手を募集している。
本書は、GNU開発ツールを使って、ソースプログラムから生成される実行コマンドの正体を暴いていく。それは、gccが裏で何をしているかを -vプションで解明していくことである。GNU開発ツールは、gccパッケージと、binutilsパッケージから構成される。binutils由来のリンカがldである。gccの役割は、プリプロセッサ、コンパイラ、アセンブラ、リンカといった4つのビルド作業の調整役である。おいらがコンピュータに触れた頃は、こうした手順が自然と見えたものだが、今ではほとんど自動化されあまり意識する必要がない。しかし、トラブルが発生した時、こうした情報を知っていて損はない。本書で一番盛り上がるのは、静的リンクと動的リンクの違いを手動で試す場面であろう。いかにgccが便利な社会を提供しているかが実感できる。静的リンクで作成されたコマンドは、それ自体で完結しているため、ディスク障害などで一部が破壊されても、自身をメモリ上にロードできれば起動することができる。一方、動的リンクは、elfローダと共有ライブラリに依存するため、いずれにかに障害が発生すると、全てのコマンドが起動不能となる。OpenBSDでは、その危険性を考慮して、/sbin, /binに格納するコマンドは全て静的リンクで作成されているという。一方、linuxでは、initやbashが動的リンクとなっている。
ちなみに、fedora9ではこうなっている。
----------------------------------------------------
$ file /sbin/init
/sbin/init: ELF 32-bit LSB executable, ..., dynamically linked...
$ file /bin/bash
/bin/bash: ELF 32-bit LSB executable, ...., dynamically linked...
----------------------------------------------------
以下、なんとなく気になるところをメモっておこう。
1. /etc/passwdの管理
/etc/passwdの管理で、ログイン拒否やクラッキング防止方法を紹介している。シェルの起動の代わりに、Linuxでは、/bin/falseを活用する。OpenBSDでは、/sbin/nologinを活用する。
2. gcc -v hello.c
gccは、裏で6つの処理を行っていることが分かる。
(1) specsファイルの読み込み。
(2) ビルド時のconfigureオプションの表示
(3) プリプロセス(以前はcpp0が担当していたが、ver3からcc1が兼任)
(4) コンパイル(cc1)
(5) アセンブル(as)
(6) リンク(ld)
specsは、ビルド作業の自動実行を制御するための設定ファイル。ちなみに、-save-tempsオプションを使えば、中間ファイルが保存できる。fileコマンドで、オブジェクトファイル(hello.o)が、elf形式による再配置可能であることが分かる。
----------------------------------------------------
hello.c: ASCII C program text
hello.i: ISO-8859 C program text
hello.o: ELF 32-bit LSB relocatable, ...
hello.s: ASCII assembler program text
a.out: ELF 32-bit LSB executable,... dynamically linked...
----------------------------------------------------
3. プリプロセス
自前のライブラリをインクルードファイルで管理することはよくある。そして、オーバーライドなどによって、プロトタイプ宣言の微妙な違いによって、コンパイルエラーや、奇妙な動作で悩まされることがある。ヘッダファイルの探索順によっては、思惑と違うファイルを参照することもある。ローカルファイルの管理ミスで、システムと衝突したりすると頭が痛い。また、定義済みのマクロで嵌ることもある。例えば、文字型のビット長などは、未定義だと思っても正常にビルドできたりする。
次のコマンドで定義内容が確認できる。
cpp -dM < /dev/null
4. アセンブラ
asciiコードで表示(hexdump)と、実行コードからの逆アセンブル(objdump)の紹介。
objdump -j .rodata -s hello.o
# -j は解析対象セクション -sと組み合わせてセクション内容を表示。
readelf -S hello.o
# セクション一覧表示
5. 静的リンク
実行可能ファイルにはプログラムヘッダが含まれる。プログラムヘッダの内容は、readelf -l a.outで確認できる。静的Cライブラリの実体は、libc.a (Archive)。gccランタイムライブラリ(libgcc.a)も必要。
libc.aに含まれるオブジェクトファイル群の表示は以下のようにやる。
$ ar t /usr/lib/libc.a
_startシンボル未定義による致命的エラーは、以下のファイルをリンクする必要がある。5つのcrt(C Runtime start up)ファイルは、プログラム起動時に呼ばれる初期化コードやコンストラクタ、デコンストラクタを格納する。(crt1.o, crti.o, crth.o, crtbegin.o, crtend.o)
6. 動的リンク
動的リンクは、crtファイルや外部ライブラリとリンクする点は静的リンクと同じであるが、共有ライブラリを使用し、プログラム起動時にelfローダを必要とするところが違う。libcの共有ライブラリ版は libc.so (Share Object)。
----------------------------------------------------------
$ cat /usr/lib/libc.so
/* GNU ld script
Use the shared library, but some functions are only in
the static library, so try that secondarily. */
OUTPUT_FORMAT(elf32-i386)
GROUP ( /lib/libc.so.6 /usr/lib/libc_nonshared.a AS_NEEDED ( /lib/ld-linux.so.2 ) )
----------------------------------------------------------
ライブラリ本体は、GROUPに記載されるlib/libc.so.6にある。
----------------------------------------------------------
-rw-r--r-- 1 root root 3105844 2008-07-17 07:14 /usr/lib/libc.a
lrwxrwxrwx 1 root root 11 2008-08-05 18:25 /lib/libc.so.6 -> libc-2.8.so
-rwxr-xr-x 1 root root 1758448 2008-07-17 07:30 /lib/libc-2.8.so
----------------------------------------------------------
libc.aの3MBに比べて、共有ライブラリ(libc-2.8.so)1.7MBと小さいのは、シンボル情報が削除されているため。よって、シンボル情報を得るためにnmコマンドでは解析できないので、readelf -sを使う。
$ readelf -s /lib/libc-2.8.so
リンカの-lcオプションの解釈順
-lc -> libc.so -> /usr/lib/libc.so -> /lib/libc.so.6 -> /lib/libc-2.8.so
elfローダ(ld.so/ld-linux.so)は、ダイナミック・リンカローダとも呼ばれる。elfローダを指定するには、-dynamic-linkerオプションを使用する。
ld -dynamic-linker /lib/ld-linux.so.2 ...
共有ライブラリの格納情報を記録しているキャッシュは、/etc/ld.so.cache
テキスト形式で確認するには、/sbin/ldconfig -p
2009-01-18
"代数に惹かれた数学者たち" John Derbyshire 著
今宵は代数学の歴史を酔っ払いの目で語ってみよう。なぜかって?そこにピート香のきいた煙臭いスコッチがあるから。
数学の歴史は抽象化の歴史でもある。もともと数学が対象としたものは「数」であり、それは自然数に始まる。自然数の欠点は、引き算や割り算を行うと、答えが自然数の世界からはみ出すことである。算術によって世界が閉じられないという現象は、「数」の概念を、自然数、整数、有理数、実数、複素数へと拡張させてきた。そして、1600年頃、方程式を解きたいという欲求から文字による記号表記が現れ、抽象化レベルを一段と高める。抽象化の流れは、未知数や係数を記号表記する多項式の概念を登場させる。ここに、数の代わりに文字を扱う「代数」が始まる。ニュートンの「普遍算術」の世界とでも言おうか、人間の精神は、未知数と係数の関係を探求する方向へと向かう。ここまでの抽象化は、まだ二次元の世界にとどまる。しかし、対象がベクトルや行列の領域に到達すると、多次元の世界が広がる。そして、大学初等教育では「線形代数」に出会い、アル中ハイマーは奈落の一途をたどった。
1900年頃、文字記号は数の概念から離れはじめた。幾何学に革命が起き、人間の精神は非ユークリッド観へと向かう。数学の対象は、もはや「数」ではなく、体、環、群、そして、イデアルへと移行する。イデアル論は、酔っ払いの実存すら疑わせ、プラトンのイデア論へ通ずるものを感じる。アル中ハイマーは、既に「アルジェブラ」という強烈なカクテルによって一撃を食らっているが、抽象化の波はこれでも収まらない。トポロジーが登場し、凸多面体、星形多面体、メビウスの輪、トーラス、クラインの壺など、もはや現実逃避の世界が広がる。そして、アレクサンドル・グロタンディークのコホモロジー理論に到達した時、止めの一撃を食らった感覚すら感じない。ヤコービ多様体?不分岐類体論?モティヴィティック・コホモロジー?もはや純粋数学の領域にあるとは思えない。そして、代数学は幾何学に呑みこまれてしまった。いや!幾何学が代数学に呑みこまれたのか?いずれにせよ、アルコール濃度の高い方に飲みこまれたに違いない。ここで初めて数学はアルコール漬にされたことを自覚するのであった。
ヘルマン・ワイル曰く。
「トポロジーの天使と抽象的な代数学の悪魔が、数学の領域の一つ一つの魂を求めて戦っている。」
代数学で扱う素数や、方程式や、因数分解って、一体なんだったんだ?現代の代数学は、群、多元環、多様体、行列といった概念によって構築される。今後、代数学はどこへ向かうのだろうか?「普遍代数」へと進化するのだろうか?代数学は、既にアル中ハイマーには手に負えない宇宙へと旅立ってしまった後だった。
幾何学が代数学的なものに見える瞬間がある。それを本書はヒルベルトの零点定理とリーマン面で紹介してくれる。多項式の零点集合を観察していると、おもしろいものが見えてくる。例えば、次の4次方程式が&型曲線を描くのには感動する。
4(x^2 + y^2 - 2x)^2 + (x^2 - y^2)(x - 1)(2x -3) = 0
多項式の値がゼロになるなら、その多項式のべき乗も、このイデアルになるという。多項式の不変量の研究は、環の研究に他ならない。そして、イデアルの中のすべての多項式がゼロになる多様体とはどんなものか?といった探求が始まる。本書では、円錐曲線から代数曲線へ展開し、代数曲線の漸近線、つまり、無限大に近づくときの曲線の振る舞いが議論される。リーマン面においては、その威力が発揮されるのは逆関数を考えた時だという。平方関数の逆関数は平方根関数である。問題はゼロでない数には平方根が二つあることだ。リーマン面では、複素数がすべて対になっていて、一方がもう一方の上に重なっている。なるほど、垂直方向(z軸方向)の2点が平方根を表している。ただし、切れ目のところ以外であるが、4次元で図示できるとすれば、この切れ目は消えるというから驚きだ。リーマンは、現代微分幾何学を生み出し、いずれ一般相対性理論で使われることになる。
1. 代数の父は誰か?
「代数の父」という称号は、誰に与えられるべきであろうか?これは議論の分かれるところだろう。本書は1世紀から3世紀頃に現れたディオファントスを支持している。ただ、その600年後のアルフワーリズミーとする説も有力である。彼の名はアルゴリズムの語源になったという説もある。ディオファントスは、未知数、べき乗、引き算と等号に特別な記号を使ったという。それも、負数が登場する前の時代である。ただ、未知数に特別な記号を使ったのは、ディオファントスが初めてではないようだ。その最初の人物は不明という。そこに本当の意味での「代数の父」が存在する。それでも、文字表記した問題群を伝えた最古の人物なのは確かなようだ。「代数(アルジェブラ)」という言葉はアラビア語起源である。本書は、この「アルジェブラ」が、アルフワーリズミーの著書の題名からきているという説に納得がいかないようだ。ディオファントスの著作「数論」は、未知数やべき乗を記号で表しているが、アルフワーリズミーの著作「アルキターブ・アルムフタサル・フィ・ヒサブ・アルジャブル・ワルムカーバラ(補完と削減による計算の手引き)」には、記号表記ではなく文章で表されているという。ディオファントスの著作には、幾何的方法から記号操作へと向かう歴史的な転換が見られるが、アルフワーリズミーの著作にはそれが見られないらしい。本書は、むしろ時代に逆行しているではないかと指摘している。
2. 3次方程式と4次方程式は誰が解いたか?
3次方程式の一般解は誰が解いたかということについては、やや複雑な歴史がある。ジェロラモ・カルダーノは、著作「偉大なる技について」、すなわち、代数の規則に関する第一の書物で、3次方程式と4次方程式の一般解を掲載した。当時、3次方程式の型は三つあったという。
(1) n = ax + bx^3
(2) n = ax^2 + bx^3
(3) ax + n = bx^3
(1)と(3)は、同型に見えるが、当時は負数という概念がようやく認められようとした時代で、まだ区別されていた。(1)型の一般解を見つけた人物に、ボローニャ大学の教授シピオーネ・デル・フェッロがいる。彼は、亡くなる前にアントニオ・マリア・フィオーレという学生に打ち明けたという。以降、かわいそうなことにフィオーレはどんな数学史にも凡庸な数学者として記されているという。フィオーレは、数学の競技で名をあげようと、既に競技で有名だったニコロ・タルターリアと勝負した。その時、タルターリアは三つの型の3次方程式を解いた。その勝負をカルダーノは、ツアンネ・デ・トニーニ・ダ・コイから聞き、タルターリアに接触して他言しないという約束で解法を聞き出したという。4次方程式の解はカルダーノの弟子ルドヴィコ・フェラーリが解いた。カルダーノとフェラーリは、3次方程式についての貢献がタルターリアが最初ではなく、その前にデル・フェッロであったことを知ると、3次方程式と4次方程式の一般解を著作に載せた。タルターリアは、3次方程式の解法を発表しなかったが、彼が独自に解いたことに疑いはないという。しかし、その栄誉はデル・フェッロとの共同扱いにされタルターリアは苦しんだ。カルダーノは、3次方程式と4次方程式の解法を示した著作が後ろ盾になって、政治的にうまく振舞ったという。
3. ニュートンの功績
著者の好きなニュートンの逸話を紹介してくれる。
「1696年、ヨハン・ベルヌーイがヨーロッパの数学者に二つの難問を出した。ニュートンは問題が出された日にそれを解いて、自分の答えをロンドンのロイヤル・ソサエティに出し、ソサエティはそれを、誰が出した答えかを言わずに、ベルヌーイへ送った。ベルヌーイは、匿名の答えを読んだとたん、それがニュートンのものだと悟った。ベルヌーイは、「爪を見れば、ライオンとわかる」と言ったという。」
ニュートンは、科学への貢献と微積分を発明したことで知られるが、代数学者としてはあまり知られていない。彼は、ケンブリッジ大学で代数学を講義していたという。ルーカス教授職の後任ウィリアム・ホイストンは、その講義録を「普遍算術」という本にまとめて出版した。ニュートンは出版を許可したが、しぶしぶだったという。著者として、自分の名前を出すことを断り、しかも、破棄できるように全部を自ら買い占めることまで考えたという。ただ、ニュートンの功績で注目すべきは、ずっと以前に書かれた「数学著作集」の第一巻に収められたメモの方だという。そこには、ニュートンの定理と呼べるほどのものがあるらしい。
「n個の未知数による対称式は、n個の未知数による基本対称式を使って書くことができる。」
基本対称式とは、次の三つ。
(1次) α + β + γ, (2次) βγ + γα + αβ, (3次) αβγ
対称式とは、αに対して行われることが、すべてβやγにも行われるもので、足し算、掛け算の組み合わせも未知数に対して均等に行われるものである。例えば、次のようなものである。
5α^3 + 5β^3 + 5γ^3 = 5(α + β + γ)^3 - 15(α + β + γ)(βγ + γα + αβ)
この定理が、方程式を解くことに重要な関わりを持つことになる。
4. 5次方程式
数学界には、離散と連続という二つの相反する学派がある。代数学は離散数を対象とし、解析学は連続体を対象とする。代数学の歴史では、18世紀頃に歩みの遅い時代があった。それは、3次方程式と4次方程式の一般解が発見されてから、5次方程式に一般解のないことが証明されるまでの期間に象徴される。それも、微積分の発見が、代数学の進歩を減速させたと見ることもできるだろう。5次方程式への取り組みは、巨匠オイラーをもってしても証明できなかった。そこにアーベルが代数学を復活させたと言ってもいいだろう。1824年、アーベルによって5次以上の方程式に決まった代数的解法がないことが証明された。フェラーリが4次方程式を解いてから160年が経っていた。この過程も多くの数学者によって支えられる。ヴァンデルモンドという、フランス人っぽくない名前のフランス人、ヴァンデルモンドの行列式で知られる人物である。彼の考えを発展させたのがラグランジュだという。ちなみに、この名はフランス人っぽいがフランス人ではない。ラグランジュは、分解方程式から迫る。ルッフィーニもラグランジュの考えに従ったものだという。本書は「かわいそうなルッフィーニ」と評している。そして、アーベルの証明はアーベル=ルッフィーニの証明と表すのが良いと語る。だからと言って、アーベルの評価を蔑むものではない。ガウスは、アーベルの証明を見せられていたが、うんざりしてどこかへ置きっぱなしにしたという。既に有名だったガウスの元には、大問題を証明したと主張する変人たちが多く寄ってきた。アーベルもその一人として扱われた。アーベルはアウグスト・クレレと出会う。クレレは数学者ではなく、数学のプロモーターのような人物である。クレレは自分の雑誌にアーベルの論文を掲載した。クレレからアーベルにベルリン大学の教授に迎えるという知らせが入ったのは、アーベルの死後2日だったという。なんとも巡りあわせの悪い歴史であろうか。
5. 4次元へ
1次元の実数から2次元の複素数へと思考が移ったことで数学は豊かになった。ウィリアム・ローワン・ハミルトンは3次元についても、同様の代数を展開する。もちろん、実数や複素数のように交換法則や結合法則などの算術の基本法則が成り立たなければ意味がない。しかし、彼は、3次元ではできなくても、4次元ならばこの基本法則が成り立つと主張したという。いきなり2次元から4次元へと飛躍するとは?これでは3次元の立場がない。そこには、複素数とモジュラ計算の体系が展開される。ハミルトンこそ、ベクトルとスカラーなどの言葉を現代的な意味で使った最初の人だという。ベクトル解析の幕開けである。ただ、掛け算を厳密な交換法則と結合法則から解放すれば、あらゆる奇妙な物が姿を見せる。零ベクトルが因数分解できるような多元環もある。ゼロの因数には複素数も現れる。行列の掛け算で二つの零でない行列を掛けると、しばしば零行列が現れる。零の因数を認めることによって、多元環の概念は発展していく。
6. 行列式
中国の「九章算術」という本が書かれたのは、紀元前200年以降の前漢の時代と考えられる。これが西洋にどれだけの影響を与えたかは、意見の分かれるところだろう。この本には、連立方程式の解法があり、ガウスの消去法も記載されているという。ここで表される連立方程式を眺めていると、ある法則が見えてきて、それも行列に見えてくるからおもしろい。そして、置換などの基本操作が見えてきて、はたまた固有値問題へと発展する。数学の授業では、行列が先に登場し、その後に行列式を学ぶが、歴史的には行列式の方がずっと前に発見されているそうな。1683年になってから、行列式の発見がドイツと日本で二度あった。ドイツではライプニッツが、日本では関孝和である。日本人が書いた最初の数学書は、1622年、毛利重能の「割算書」で、関孝和は毛利重能の弟子である。関孝和は、おそらく中国の「九章算術」も知っていただろうという。彼は、係数、未知数、未知数のべき乗を表すのに漢字を使った。今日、ヤーコブ・ベルヌーイが紹介したベルヌーイ数は、実はその30年前に関孝和が発見していたという。連立方程式を行列式を使って解く手順にクラメールの公式がある。行列式に筋の通った理論を確立したのはコーシー。この数学の道具は、ハミルトンの4元数も表すことができるどころか、多元環も表すことができる。
7. 体、環、群、そして、イデアル
19世紀に入ると、「体」と「群」が数学的対象として加わる。「体」は数の体系で、四則演算をいくら行なっても、答えは同じ「体」にある。「体」には非可換性が紛れ込むが、有限体となると事情が変わる。有限個の元からなる「体」は、四則演算で定義された閉じている有限集合である。これがガロア体である。有理数の演算で答えが有理数となれば、それは有理数という「体」にある。しかし、現実には、高次元の方程式を解くと、わずかに無理数の「体」や複素数の「体」が現れる。係数の「体」よりも、解の「体」の方が大きい。この関係をガロアの群論が論じている。「群」とは、対象の集合である。「群」は、わずかな四つの公理、つまり、閉じていること、結合法則が成り立つこと、単位元があること、逆元があること、によって定義される。この単純な公理がその後の広い展望をもたらし、非ユークリッド幾何学へと向かわせる。「体」は「群」よりも複雑なもので、更に多くの公理が必要となる。その分、「体」の方が制限も多い。現代数学では、その対象に「環」というものがある。「環」は「群」よりも複雑だが、「体」ほどではない。「環」は、数学者にとって、ちょうどよい世界を提供する。例えば、整数の「体」において、足し算、引き算、掛け算は自由にできても、割り算はできない場合がある。整数は割り算において閉じているわけではない。数学の対象には、こうした三つの演算はできるが、もう一つの演算ができないものが実に多くある。これが「環」である。「体」は「環」よりも定義が厳しく、「群」は、もっと緩やかで「体」を広げることができる。「環」が「群」と「体」の中間に位置するのも、こうした事情がある。ガウスは複素数の「環」を見つけた。「環」には、一意的な因数分解という性質があるという。ただし、ガウスの時代には、「環」という言葉を使わなかった。その100年後に「環」という言葉が現れる。ここで鍵を握る概念「イデアル」が登場する。「イデアル」とは、数ではなく、数からなる「環」であるという。例えば、ある「環」として整数をとると、その中にある整数の倍数は全てイデアルであるという。ということは、公約数の二つの数でも、イデアルが得られそうだ。デデキントは、イデアルの定義から、どんな「環」についても、素数、約数、倍数、因数の定義を生み出すことができたという。
8. トポロジー
トポロジーという言葉は、1840年代、ゲッティンゲンの数学者ヨハン・リスティングによるものらしい。リスティングの考え方の多くは、ガウスに由来するという。リスティングはメビウスの輪についても述べているという。しかし、その4年後にメビウスが発表している。トポロジーの構造を調べるのに、面から離れずに出発点を縮めることができるか、といった経路を議論する。経路であるループを調べることによって構造を分類したのが、アンリ・ポアンカレ。本書は、ポアンカレが現代トポロジーの創始者となったことには、興味深い矛盾があるという。トポロジーの学派には二通りある。一方は幾何学に由来し、もう一方は解析学に由来する。解析学は、極限、微積分など、連続性を扱う。滑らかで連続的な変形と考えるならば、トポロジーとの関連はつかみやすい。トポロジーは柔軟で滑らかに連続的に伸び縮みするゴムシートのようなものだからである。ところが、最初に姿を見せたトポロジーの不変量はトーラスの穴の数で、これは整数である。次元もトポロジーの不変量で、これも整数である。ポアンカレが明らかにした基本群も、連続群ではなく、数えられるものである。つまり、トポロジーは離散的なものを対象としている。これに対して矛盾とは、ポアンカレがたどり着いた手段が、解析、特に微分方程式を使ったことにある。次元がトポロジーの不変量であることを証明したのは、L.E.J.ブラウアーだという。
「ブラウアーの不動点定理: n次元球体のそれ自身への連続写像には不動点が存在する。」
n次元球体とは、二次元ならば単位円、三次元ならば球である。これらをn次元に一般化している。つまり、それぞれの球体の点を移動していくと、結局出発点に戻ることができるという定理である。
数学の歴史は抽象化の歴史でもある。もともと数学が対象としたものは「数」であり、それは自然数に始まる。自然数の欠点は、引き算や割り算を行うと、答えが自然数の世界からはみ出すことである。算術によって世界が閉じられないという現象は、「数」の概念を、自然数、整数、有理数、実数、複素数へと拡張させてきた。そして、1600年頃、方程式を解きたいという欲求から文字による記号表記が現れ、抽象化レベルを一段と高める。抽象化の流れは、未知数や係数を記号表記する多項式の概念を登場させる。ここに、数の代わりに文字を扱う「代数」が始まる。ニュートンの「普遍算術」の世界とでも言おうか、人間の精神は、未知数と係数の関係を探求する方向へと向かう。ここまでの抽象化は、まだ二次元の世界にとどまる。しかし、対象がベクトルや行列の領域に到達すると、多次元の世界が広がる。そして、大学初等教育では「線形代数」に出会い、アル中ハイマーは奈落の一途をたどった。
1900年頃、文字記号は数の概念から離れはじめた。幾何学に革命が起き、人間の精神は非ユークリッド観へと向かう。数学の対象は、もはや「数」ではなく、体、環、群、そして、イデアルへと移行する。イデアル論は、酔っ払いの実存すら疑わせ、プラトンのイデア論へ通ずるものを感じる。アル中ハイマーは、既に「アルジェブラ」という強烈なカクテルによって一撃を食らっているが、抽象化の波はこれでも収まらない。トポロジーが登場し、凸多面体、星形多面体、メビウスの輪、トーラス、クラインの壺など、もはや現実逃避の世界が広がる。そして、アレクサンドル・グロタンディークのコホモロジー理論に到達した時、止めの一撃を食らった感覚すら感じない。ヤコービ多様体?不分岐類体論?モティヴィティック・コホモロジー?もはや純粋数学の領域にあるとは思えない。そして、代数学は幾何学に呑みこまれてしまった。いや!幾何学が代数学に呑みこまれたのか?いずれにせよ、アルコール濃度の高い方に飲みこまれたに違いない。ここで初めて数学はアルコール漬にされたことを自覚するのであった。
ヘルマン・ワイル曰く。
「トポロジーの天使と抽象的な代数学の悪魔が、数学の領域の一つ一つの魂を求めて戦っている。」
代数学で扱う素数や、方程式や、因数分解って、一体なんだったんだ?現代の代数学は、群、多元環、多様体、行列といった概念によって構築される。今後、代数学はどこへ向かうのだろうか?「普遍代数」へと進化するのだろうか?代数学は、既にアル中ハイマーには手に負えない宇宙へと旅立ってしまった後だった。
幾何学が代数学的なものに見える瞬間がある。それを本書はヒルベルトの零点定理とリーマン面で紹介してくれる。多項式の零点集合を観察していると、おもしろいものが見えてくる。例えば、次の4次方程式が&型曲線を描くのには感動する。
4(x^2 + y^2 - 2x)^2 + (x^2 - y^2)(x - 1)(2x -3) = 0
多項式の値がゼロになるなら、その多項式のべき乗も、このイデアルになるという。多項式の不変量の研究は、環の研究に他ならない。そして、イデアルの中のすべての多項式がゼロになる多様体とはどんなものか?といった探求が始まる。本書では、円錐曲線から代数曲線へ展開し、代数曲線の漸近線、つまり、無限大に近づくときの曲線の振る舞いが議論される。リーマン面においては、その威力が発揮されるのは逆関数を考えた時だという。平方関数の逆関数は平方根関数である。問題はゼロでない数には平方根が二つあることだ。リーマン面では、複素数がすべて対になっていて、一方がもう一方の上に重なっている。なるほど、垂直方向(z軸方向)の2点が平方根を表している。ただし、切れ目のところ以外であるが、4次元で図示できるとすれば、この切れ目は消えるというから驚きだ。リーマンは、現代微分幾何学を生み出し、いずれ一般相対性理論で使われることになる。
1. 代数の父は誰か?
「代数の父」という称号は、誰に与えられるべきであろうか?これは議論の分かれるところだろう。本書は1世紀から3世紀頃に現れたディオファントスを支持している。ただ、その600年後のアルフワーリズミーとする説も有力である。彼の名はアルゴリズムの語源になったという説もある。ディオファントスは、未知数、べき乗、引き算と等号に特別な記号を使ったという。それも、負数が登場する前の時代である。ただ、未知数に特別な記号を使ったのは、ディオファントスが初めてではないようだ。その最初の人物は不明という。そこに本当の意味での「代数の父」が存在する。それでも、文字表記した問題群を伝えた最古の人物なのは確かなようだ。「代数(アルジェブラ)」という言葉はアラビア語起源である。本書は、この「アルジェブラ」が、アルフワーリズミーの著書の題名からきているという説に納得がいかないようだ。ディオファントスの著作「数論」は、未知数やべき乗を記号で表しているが、アルフワーリズミーの著作「アルキターブ・アルムフタサル・フィ・ヒサブ・アルジャブル・ワルムカーバラ(補完と削減による計算の手引き)」には、記号表記ではなく文章で表されているという。ディオファントスの著作には、幾何的方法から記号操作へと向かう歴史的な転換が見られるが、アルフワーリズミーの著作にはそれが見られないらしい。本書は、むしろ時代に逆行しているではないかと指摘している。
2. 3次方程式と4次方程式は誰が解いたか?
3次方程式の一般解は誰が解いたかということについては、やや複雑な歴史がある。ジェロラモ・カルダーノは、著作「偉大なる技について」、すなわち、代数の規則に関する第一の書物で、3次方程式と4次方程式の一般解を掲載した。当時、3次方程式の型は三つあったという。
(1) n = ax + bx^3
(2) n = ax^2 + bx^3
(3) ax + n = bx^3
(1)と(3)は、同型に見えるが、当時は負数という概念がようやく認められようとした時代で、まだ区別されていた。(1)型の一般解を見つけた人物に、ボローニャ大学の教授シピオーネ・デル・フェッロがいる。彼は、亡くなる前にアントニオ・マリア・フィオーレという学生に打ち明けたという。以降、かわいそうなことにフィオーレはどんな数学史にも凡庸な数学者として記されているという。フィオーレは、数学の競技で名をあげようと、既に競技で有名だったニコロ・タルターリアと勝負した。その時、タルターリアは三つの型の3次方程式を解いた。その勝負をカルダーノは、ツアンネ・デ・トニーニ・ダ・コイから聞き、タルターリアに接触して他言しないという約束で解法を聞き出したという。4次方程式の解はカルダーノの弟子ルドヴィコ・フェラーリが解いた。カルダーノとフェラーリは、3次方程式についての貢献がタルターリアが最初ではなく、その前にデル・フェッロであったことを知ると、3次方程式と4次方程式の一般解を著作に載せた。タルターリアは、3次方程式の解法を発表しなかったが、彼が独自に解いたことに疑いはないという。しかし、その栄誉はデル・フェッロとの共同扱いにされタルターリアは苦しんだ。カルダーノは、3次方程式と4次方程式の解法を示した著作が後ろ盾になって、政治的にうまく振舞ったという。
3. ニュートンの功績
著者の好きなニュートンの逸話を紹介してくれる。
「1696年、ヨハン・ベルヌーイがヨーロッパの数学者に二つの難問を出した。ニュートンは問題が出された日にそれを解いて、自分の答えをロンドンのロイヤル・ソサエティに出し、ソサエティはそれを、誰が出した答えかを言わずに、ベルヌーイへ送った。ベルヌーイは、匿名の答えを読んだとたん、それがニュートンのものだと悟った。ベルヌーイは、「爪を見れば、ライオンとわかる」と言ったという。」
ニュートンは、科学への貢献と微積分を発明したことで知られるが、代数学者としてはあまり知られていない。彼は、ケンブリッジ大学で代数学を講義していたという。ルーカス教授職の後任ウィリアム・ホイストンは、その講義録を「普遍算術」という本にまとめて出版した。ニュートンは出版を許可したが、しぶしぶだったという。著者として、自分の名前を出すことを断り、しかも、破棄できるように全部を自ら買い占めることまで考えたという。ただ、ニュートンの功績で注目すべきは、ずっと以前に書かれた「数学著作集」の第一巻に収められたメモの方だという。そこには、ニュートンの定理と呼べるほどのものがあるらしい。
「n個の未知数による対称式は、n個の未知数による基本対称式を使って書くことができる。」
基本対称式とは、次の三つ。
(1次) α + β + γ, (2次) βγ + γα + αβ, (3次) αβγ
対称式とは、αに対して行われることが、すべてβやγにも行われるもので、足し算、掛け算の組み合わせも未知数に対して均等に行われるものである。例えば、次のようなものである。
5α^3 + 5β^3 + 5γ^3 = 5(α + β + γ)^3 - 15(α + β + γ)(βγ + γα + αβ)
この定理が、方程式を解くことに重要な関わりを持つことになる。
4. 5次方程式
数学界には、離散と連続という二つの相反する学派がある。代数学は離散数を対象とし、解析学は連続体を対象とする。代数学の歴史では、18世紀頃に歩みの遅い時代があった。それは、3次方程式と4次方程式の一般解が発見されてから、5次方程式に一般解のないことが証明されるまでの期間に象徴される。それも、微積分の発見が、代数学の進歩を減速させたと見ることもできるだろう。5次方程式への取り組みは、巨匠オイラーをもってしても証明できなかった。そこにアーベルが代数学を復活させたと言ってもいいだろう。1824年、アーベルによって5次以上の方程式に決まった代数的解法がないことが証明された。フェラーリが4次方程式を解いてから160年が経っていた。この過程も多くの数学者によって支えられる。ヴァンデルモンドという、フランス人っぽくない名前のフランス人、ヴァンデルモンドの行列式で知られる人物である。彼の考えを発展させたのがラグランジュだという。ちなみに、この名はフランス人っぽいがフランス人ではない。ラグランジュは、分解方程式から迫る。ルッフィーニもラグランジュの考えに従ったものだという。本書は「かわいそうなルッフィーニ」と評している。そして、アーベルの証明はアーベル=ルッフィーニの証明と表すのが良いと語る。だからと言って、アーベルの評価を蔑むものではない。ガウスは、アーベルの証明を見せられていたが、うんざりしてどこかへ置きっぱなしにしたという。既に有名だったガウスの元には、大問題を証明したと主張する変人たちが多く寄ってきた。アーベルもその一人として扱われた。アーベルはアウグスト・クレレと出会う。クレレは数学者ではなく、数学のプロモーターのような人物である。クレレは自分の雑誌にアーベルの論文を掲載した。クレレからアーベルにベルリン大学の教授に迎えるという知らせが入ったのは、アーベルの死後2日だったという。なんとも巡りあわせの悪い歴史であろうか。
5. 4次元へ
1次元の実数から2次元の複素数へと思考が移ったことで数学は豊かになった。ウィリアム・ローワン・ハミルトンは3次元についても、同様の代数を展開する。もちろん、実数や複素数のように交換法則や結合法則などの算術の基本法則が成り立たなければ意味がない。しかし、彼は、3次元ではできなくても、4次元ならばこの基本法則が成り立つと主張したという。いきなり2次元から4次元へと飛躍するとは?これでは3次元の立場がない。そこには、複素数とモジュラ計算の体系が展開される。ハミルトンこそ、ベクトルとスカラーなどの言葉を現代的な意味で使った最初の人だという。ベクトル解析の幕開けである。ただ、掛け算を厳密な交換法則と結合法則から解放すれば、あらゆる奇妙な物が姿を見せる。零ベクトルが因数分解できるような多元環もある。ゼロの因数には複素数も現れる。行列の掛け算で二つの零でない行列を掛けると、しばしば零行列が現れる。零の因数を認めることによって、多元環の概念は発展していく。
6. 行列式
中国の「九章算術」という本が書かれたのは、紀元前200年以降の前漢の時代と考えられる。これが西洋にどれだけの影響を与えたかは、意見の分かれるところだろう。この本には、連立方程式の解法があり、ガウスの消去法も記載されているという。ここで表される連立方程式を眺めていると、ある法則が見えてきて、それも行列に見えてくるからおもしろい。そして、置換などの基本操作が見えてきて、はたまた固有値問題へと発展する。数学の授業では、行列が先に登場し、その後に行列式を学ぶが、歴史的には行列式の方がずっと前に発見されているそうな。1683年になってから、行列式の発見がドイツと日本で二度あった。ドイツではライプニッツが、日本では関孝和である。日本人が書いた最初の数学書は、1622年、毛利重能の「割算書」で、関孝和は毛利重能の弟子である。関孝和は、おそらく中国の「九章算術」も知っていただろうという。彼は、係数、未知数、未知数のべき乗を表すのに漢字を使った。今日、ヤーコブ・ベルヌーイが紹介したベルヌーイ数は、実はその30年前に関孝和が発見していたという。連立方程式を行列式を使って解く手順にクラメールの公式がある。行列式に筋の通った理論を確立したのはコーシー。この数学の道具は、ハミルトンの4元数も表すことができるどころか、多元環も表すことができる。
7. 体、環、群、そして、イデアル
19世紀に入ると、「体」と「群」が数学的対象として加わる。「体」は数の体系で、四則演算をいくら行なっても、答えは同じ「体」にある。「体」には非可換性が紛れ込むが、有限体となると事情が変わる。有限個の元からなる「体」は、四則演算で定義された閉じている有限集合である。これがガロア体である。有理数の演算で答えが有理数となれば、それは有理数という「体」にある。しかし、現実には、高次元の方程式を解くと、わずかに無理数の「体」や複素数の「体」が現れる。係数の「体」よりも、解の「体」の方が大きい。この関係をガロアの群論が論じている。「群」とは、対象の集合である。「群」は、わずかな四つの公理、つまり、閉じていること、結合法則が成り立つこと、単位元があること、逆元があること、によって定義される。この単純な公理がその後の広い展望をもたらし、非ユークリッド幾何学へと向かわせる。「体」は「群」よりも複雑なもので、更に多くの公理が必要となる。その分、「体」の方が制限も多い。現代数学では、その対象に「環」というものがある。「環」は「群」よりも複雑だが、「体」ほどではない。「環」は、数学者にとって、ちょうどよい世界を提供する。例えば、整数の「体」において、足し算、引き算、掛け算は自由にできても、割り算はできない場合がある。整数は割り算において閉じているわけではない。数学の対象には、こうした三つの演算はできるが、もう一つの演算ができないものが実に多くある。これが「環」である。「体」は「環」よりも定義が厳しく、「群」は、もっと緩やかで「体」を広げることができる。「環」が「群」と「体」の中間に位置するのも、こうした事情がある。ガウスは複素数の「環」を見つけた。「環」には、一意的な因数分解という性質があるという。ただし、ガウスの時代には、「環」という言葉を使わなかった。その100年後に「環」という言葉が現れる。ここで鍵を握る概念「イデアル」が登場する。「イデアル」とは、数ではなく、数からなる「環」であるという。例えば、ある「環」として整数をとると、その中にある整数の倍数は全てイデアルであるという。ということは、公約数の二つの数でも、イデアルが得られそうだ。デデキントは、イデアルの定義から、どんな「環」についても、素数、約数、倍数、因数の定義を生み出すことができたという。
8. トポロジー
トポロジーという言葉は、1840年代、ゲッティンゲンの数学者ヨハン・リスティングによるものらしい。リスティングの考え方の多くは、ガウスに由来するという。リスティングはメビウスの輪についても述べているという。しかし、その4年後にメビウスが発表している。トポロジーの構造を調べるのに、面から離れずに出発点を縮めることができるか、といった経路を議論する。経路であるループを調べることによって構造を分類したのが、アンリ・ポアンカレ。本書は、ポアンカレが現代トポロジーの創始者となったことには、興味深い矛盾があるという。トポロジーの学派には二通りある。一方は幾何学に由来し、もう一方は解析学に由来する。解析学は、極限、微積分など、連続性を扱う。滑らかで連続的な変形と考えるならば、トポロジーとの関連はつかみやすい。トポロジーは柔軟で滑らかに連続的に伸び縮みするゴムシートのようなものだからである。ところが、最初に姿を見せたトポロジーの不変量はトーラスの穴の数で、これは整数である。次元もトポロジーの不変量で、これも整数である。ポアンカレが明らかにした基本群も、連続群ではなく、数えられるものである。つまり、トポロジーは離散的なものを対象としている。これに対して矛盾とは、ポアンカレがたどり着いた手段が、解析、特に微分方程式を使ったことにある。次元がトポロジーの不変量であることを証明したのは、L.E.J.ブラウアーだという。
「ブラウアーの不動点定理: n次元球体のそれ自身への連続写像には不動点が存在する。」
n次元球体とは、二次元ならば単位円、三次元ならば球である。これらをn次元に一般化している。つまり、それぞれの球体の点を移動していくと、結局出発点に戻ることができるという定理である。
2009-01-11
"素数に憑かれた人たち" John Derbyshire 著
「本書を読み終えてリーマン予想が理解できなければ、これから先も理解できないことを確信してもいいだろう。」と、前置きされる。本書は、リーマン予想の入門の入門書といったところで、厳密な数学者を対象としたものではない。これで理解した気になれなかったら落ち込むだろう。自らの馬鹿さ加減を再認識させられるかもしれないと思うと気合も入る。昔々、アル中ハイマーが美少年だった頃、このような本に出会えていたら数学で挫折せずに済んだかもしれない。いや!単に延命しただけのことかもしれん。ここには、言うまでもなくリーマンのゼータ関数が登場する。ゼータ関数は無限級数で定義された複素空間の有理型関数の一つ。この関数が注目される理由は、素数の分布に関する本質を内包しているからである。その気配に最初に気づいたのが巨匠オイラー。数論は離散的な対象を扱う一方で、解析学は連続体を扱う。その互いに相反する学派の中で、オイラーは数論を解析的に扱った。ここに数論の関心事の一つ「素数が自然数の中にどのように分布しているか?」という問題への探求が始まる。素数定理に最初に触れたのが巨匠ガウスと言われる。素数という純粋な数字を眺めていると、なんとなく純米酒が飲みたくなる。ついでに買って帰ろう。なぜかって?本屋の隣が酒屋だから。
素数といえば、直感的にまばらに存在し数が大きくなるとともに減っていく。そして、やがて無くなるような気がする。しかし、永遠に見つかることをユークリッドがエレガントに証明したのは有名である。では、次の疑問は、まばらになる様子に法則性はあるのか?与えられた数よりも小さい素数は何個あるか?これが本書で扱う問題である。数論の世界では、自然数、整数、有理数、無理数、そして複素数まで拡張することを研究する。その中で、リーマン予想は有名な数学上の未解決問題の一つで以下に示す。
「ゼータ関数の自明でない零点の実数部はすべて1/2である。」
これは、ゼータ関数を複素数空間に適応すると、0となる解は、実数部が1/2で虚数軸方向の直線上に現れるということを意味する。この直線がクリティカル・ラインであり、この直線上に現れる零点が「自明でない零点」である。リーマンは素数個数関数とゼータ関数の関係を示した。本書では、クリティカル・ライン上の点から得られるゼータ関数の特性は、複素平面で螺旋のような曲線を描き、何度も原点を通過しながら繰り返される様子を示している。この原点を通過する瞬間が、自明でない零点である。酔っ払いには、この螺旋が自然法則の謎めいた姿を象徴しているかのように映る。
ゼータ関数の自明でない零点は、ランダム性が表れる分野のモデルとしても使われる。物理学者フリーマン・ダイソンは、量子のエネルギー準位が、ランダムなエルミート行列の固有値と一致することを観測したという。また、数学者ヒュー・モンゴメリは、ゼータ関数の自明でない零点がランダムなエルミート行列の固有値と一致すると述べたいう。量子の振る舞いが素数分布と一致するとはなんとも信じ難い。更に、ゼータ関数の零点の虚数部分は、カオス系のエネルギー準位になるという。なんと、カオスのモデルにもなっているというから神秘と言わざるを得ない。ランダム性には、実は数学的に体系化できる何かがあるような予感さえする。インターネットの検索方法のように、優れた計算アルゴリズムの多くはランダム化に基づいているのも事実である。もしかしたら、リーマン予想によってアル中ハイマーのランダムな行動パターンも形式化できるかもしれない。夜の社交場をまっすぐに歩いているつもりでも、いつのまにか同じ店に何度も立ち寄る現象は、実空間の直線運動が虚空間の螺旋運動に対応する可能性を示唆する。この酔っ払いの足取りこそがクリティカル・ラインというものか?「自明でない零点」を「記憶のない例の店」と置き換えれば、ゼータ関数の正体が見えてくる。ここで、アル中ハイマーは、「人間社会の複雑系は、自然法則に従ってエントロピー増大へと向かい、やがて数学で体系化されるランダム法則に帰着するに違いない。」と熱弁する。そして、純米酒のまろやかさが体中に広がるのを、エントロピー増大の法則と重ねつつ、今日も夜の社交場へとランダム・ウォークするのであった。
アル中ハイマーの数学嫌いは、無限級数に出会ったあたりから始まった。無限級数を加算すると、直感的には無限大になりそうだ。
例えば、1 + 1/2 + 1/3 + 1/4 + 1/5 + 1/6 + ... = ∞
ところが、発散せずに収束する無限級数もあるから、数学は摩訶不思議である。
例えば、1/2倍していく数列の加算は、1 + 1/2 + 1/4 + 1/8 + ... = 2
確かに、1の次の数である2に対して1/2ずつ極限に近づくと考えれば、2を超えることはありえない。
また、分子と分母の和をとって次の項の分母とし、分子と分母の2倍とを足して次の項の分子とした場合、
1/1, 3/2, 7/5, 17/12, 41/29, ... , √2 に収束するという。
んー?有理数の数列が、なぜ無理数に収束するのだろうか?数学のトリックに嵌った感がある。
また、定義域の問題もおもしろい。例えば次の関数を考えると。
S(x) = 1 + x + x^2 + x^3 + x^4 + ..... は、
S(x) = 1 + x(1 + x^2 + x^3 + x^4 + .....) と変形できる。
S(x) = 1 + xS(x)
あれ?S(x)の右辺に自己言及するかのようにS(x)が現れる。
S(x) = 1/(1 - x)
つまり、1/(1 - x) = 1 + x + x^2 + x^3 + x^4 + .....
これは同じように変形を続けるとえらいことになりそうだ。無限自己言及とでも言おうか。数学は魔術か?いや!関数というのは、定義域を限定すれば、いろんな見え方をする。ゼータ関数も、定義域によって様々な姿を見せる。発散するものがいつのまにか収束したり、足し算の繰り返しが掛け算の繰り返しと等しくなったりする。定義域(人格)によっては、いくら飲んでも「俺は酔ってないぜ!」という主張も決して間違いではないのだ。
1. ゼータ関数
ゼータ関数は、以下のように表される。
ζ(s) = 1 + 1/2^s + 1/3^s + 1/4^s + ... = Σ n^-s
ζ(2) = (π^2)/6 は、オイラーの解いたバーゼル問題。
ζ(4) = (π^4)/90、ζ(6) = (π^6)/945
関数ζ(s)は、s > 1 の条件で収束するが、s = 1 あるいは、s < 1 で発散する。ということは、ゼータ関数は、s > 1 の定義域でしか使えないのか?ところが、数学のトリックというものは恐ろしいもので、s < 1 の条件でも収束するように見えてくる。ここで、以下の関数を考える。 η(s) = 1 - 1/2^s + 1/3^s - 1/4^s + 1/5^s - 1/6^s + 1/7^s - 1/8^s + ... 関数η(s)は、s > 0 で符号を相殺しながら収束することが証明できるという。これを変形すると、
η(s) = ( 1 + 1/2^s + 1/3^s + 1/4^s + ...) - 2 (1/2^s + 1/4^s + 1/6^s + 1/8^s + ...)
η(s) = ζ(s) - 2 × 1/2^s × ζ(s)
η(s) = (1 - 2 × 1/2^s) ζ(s)
ζ(s) = η(s) / (1 - 2 × 1/2^s)
つまり、ゼータ関数は、関数η(s)で表現できる。あれ?いつのまにかゼータ関数が、s > 0 の定義域でも収束しているではないか。
では、s < 0では、どうなるのか?ζ(s)とζ(1-s)の関係をオイラーが唱えている式がある。
ζ(1-s) = 2^(1-s) × π^-s × sin((1-s)π/2) × (s-1)! × ζ(s)
ちなみに、本書では、ガンマ関数による表記がなされていないので少々長ったらしいが、分かりやすさではこの方がありがたい。偉大なオイラーを信じると、ζ(4)が分かればζ(-3)が求まることが示されている。また、s = 1/2 の場合、特別な意味を持つ。1-s = 1/2 になるからである。 ここで、1-s = -2, -4, -6, ... の時、sin成分が0となるので、
ζ(-2) = 0, ζ(-4) = 0, ζ(-6) = 0, .... となる。
つまり、sが負の偶数はゼータ関数の零点である。これが「自明な零点」である。これぞ定義域のトリック!芸術の域に達した詐欺とは、こういうものを言うのだろう。
2. オイラー積
ここでエラトステネスのふるいの話が登場する。まず、2からの整数をすべて書き出す。そこから2の倍数を除く、そして、素数3の倍数を除く、次は素数5の倍数...と続けていく。すると、残るのは素数だけになる。この時、除こうとする素数pについて、p^2より小さい素数はすべて得られるはずだという主張である。
この考え方と似たようなことをゼータ関数でもやってみる。
ζ(s) = 1 + 1/2^s + 1/3^s + 1/4^s + 1/5^s +... について、
1/2^s, 1/3^s, 1/5^s, 1/7^s,...1/p^s (pは素数)の順に括っていく。
まず、ゼータ関数を1/2^s倍する。
(1/2^s)ζ(s) = 1/2^s + 1/4^s + 1/6^s + 1/8^s + ...
これを、ゼータ関数から引くと、
(1 - 1/2^s)ζ(s) = 1 + 1/3^s + 1/5^s + 1/7^s + ...
次に、これを1/3^s倍する。
1/3^s (1 - 1/2^s)ζ(s) = 1/3^s + 1/9^s + 1/15^s + 1/21^s + ...
これを、前の式から引くと、
(1 - 1/3^s)(1 - 1/2^s)ζ(s) = 1 + 1/5^s + 1/7^s + 1/11^s + 1/13^s + ...
これを繰り返すと、以下の式が得られる。
Σ n^-s = Π 1/(1-p^-s)、ただし、pは素数。
オイラー積のおもしろいのは、正の数を成分とする無限個の和が、素数全体を成分とする積で表されることである。これは、s = 1 の時、左辺が無限大であることから、右辺の積も無限大となり、素数は終わらないことの証明にもなっている。素数が無限個あることは既にユークリッドが証明しているが、オイラーが解析的な手法を用いたことは注目すべきであろう。
3. 素数定理
素数分布の特徴は、数が大きくなるにつれて希薄になることと、その分布がランダムということである。素数定理は、自然数の中に素数がどのくらいの割合で含まれているかを論じた定理で、次のように表される。
π(N) ~ N/log(N)
π(x)は素数個数関数であり円周率とは関係ない。~(チルダ)は近似の意味。Nは自然数。ちなみに、PrimeのPに相当するのがギリシャ文字のπで、当時、ギリシャ文字への割り当ては枯渇していたという。確かに円周率と重なって紛らわしい。
素数定理からの帰結は以下のようになる。
(a) Nが素数である確率は、~ 1/log(N)
(b) N番目の素数は、~ Nlog(N)
逆に、これらの帰結が素数定理でもある。ここで、対数積分関数が登場する。
Li(x) = ∫1/log(t)dt
関数Li(N)が、N/log(N)よりも良い推定であることから、素数定理は以下のように表される。
π(N) ~ Li(N)
ちなみに、Nが大きくなればなるほど、その近似誤差も少なくなるという。
4. チェビシェフの「偏り」
素数を4で割ると、余りは1か3になる。そして、余りが3になる方が多い。ところが、その特異な偏りは、p = 26,861のところで破れるという。素数を3で割ると、余りは1か2になる。そして、余りが2になる方が多いが、その偏りは、p = 608,981,813,029のところから破れるという。いまではチェビシェフの「偏り」自体が偏った見方だという。
5. ビッグ・オー
ビッグ・オーは、引数が無限大に向かう時の関数の大きさに制限をかける方法である。その定義は、次のようなものである。 「十分大きな引数について、Aの大きさがBの定数倍を超えないならば、関数Aは関数Bのビッグ・オーである。」
ビッグ・オーは符号を気にしない。よって、ある関数f(x)が1のビッグ・オーというと、f(x) = 1, f(x) = -1 の2本の直線の間に永遠に閉じ込められることを意味する。関数Aは、関数Bの境界線を超えられないので、これは関数の比較には便利な記法である。ヘルゲ・フォン・コッホは、リーマン予想が正しければ、π(N)とLi(N)の絶対差は、√x log(x)のビッグ・オーと主張したという。
π(N) = Li(N) + O( √x log(x) )
これは、素数分布を定義している。
6. メビウス関数
ゼータ関数ζ(s) = Π(1/(1-p^-s)) の逆数をとる。
1/ζ(s) = (1 - 1/2^s)(1 - 1/3^s)(1 - 1/5^s)(1 - 1/7^s)(1 - 1/11^s)...
これは、無限にある括弧を掛けることになる。各項は、1とそれ以外の組み合わせの項でできている。ここで、無限個の1以外の数字だけを掛けるパターンに着目すると、1と1/2の間に存在するので、それを無限個掛けると0に収束する。全部1の項は、言うまでもなく1。
一つだけ、1でない数を掛け合わせる組み合わせは、
-1/2^s × 1 × 1 × ... = -1/2^s
-1/3^s × 1 × 1 × ... = -1/3^s
...
よって、1 - 1/2^s - 1/3^s - 1/5^s - 1/7^s - 1/11^s...
次に、二つの1でない数を掛け合わせる組み合わせは、
-1/2^s × -1/3^s × 1 × 1 × .... = 1/6^s
-1/2^s × -1/5^s × 1 × 1 × .... = 1/10^s
-1/2^s × -1/7^s × 1 × 1 × .... = 1/14^s
...
-1/3^s × -1/5^s × 1 x 1 × .... = 1/15^s
-1/3^s × -1/7^s × 1 x 1 × .... = 1/21^s
...
よって、ここまでをまとめると、
1 - 1/2^s - 1/3^s - 1/5^s - 1/7^s - 1/11^s ...
+ 1/6^s + 1/10^s + 1/14^s + 1/15^s + 1/21^s + ...
次に、三つの1でない数を掛け合わせる組み合わせは、(符号はマイナス)
-1/2^s × -1/3^s × - 1/5^s × 1 × 1 × .... = - 1/30^s
-1/2^s × -1/3^s × - 1/7^s × 1 × 1 × .... = - 1/42^s
...
よって、ここまでをまとめると、
1 - 1/2^s - 1/3^s - 1/5^s - 1/7^s - 1/11^s ...
+ 1/6^s + 1/10^s + 1/14^s + 1/15^s + 1/21^s + ...
- 1/30^s - 1/42^s - 1/66^s - 1/70^s - 1/78^s + ...
これを、四つの1でない場合、五つの...と続けて並び替えると、
1/ζ(s) = 1 - 1/2^s - 1/3^s - 1/5^s + 1/6^s - 1/7^s + 1/10^s - 1/11^s - 1/13^s + 1/14^s + ...
ここで見られる、右辺に登場する素数以外の数はなんだろう?
欠けている数字は、4,8,9,12,16,18,20,24,25,27,28,...のように何かの素数の平方で割れる数。この欠けている数字をアウグスト・フェルディナント・メビウスにちなんでメビウス関数と呼ぶ。これはμ(ミュー)で表し、以下のように定義される。
「定義域Nは、自然数で、μ(1) = 1
nが平方の約数を持つならば、μ(n) = 0
nが素数か異なる奇数個の素数積ならば、μ(n) = -1
nが異なる個数個の素数の積ならば、μ(n) = 1」
そして、ゼータ関数は、メビウス関数で以下のように表現できる。
1/ζ(s) = Σ(μ(n)/n^s)
7. メルテンス関数
リーマン予想に重要な関数としてメルテンス関数Mがある。
M(k) = μ(1) + μ(2) + μ(3) + ... + μ(k)
この関数は非常に不規則であり、ランダム・ウォークしながら振動するという。引数を大きくすれば、その絶対値は増加現象にあるが、以前として0を中心に振動する以外は、明らかになっていないらしい。
素数といえば、直感的にまばらに存在し数が大きくなるとともに減っていく。そして、やがて無くなるような気がする。しかし、永遠に見つかることをユークリッドがエレガントに証明したのは有名である。では、次の疑問は、まばらになる様子に法則性はあるのか?与えられた数よりも小さい素数は何個あるか?これが本書で扱う問題である。数論の世界では、自然数、整数、有理数、無理数、そして複素数まで拡張することを研究する。その中で、リーマン予想は有名な数学上の未解決問題の一つで以下に示す。
「ゼータ関数の自明でない零点の実数部はすべて1/2である。」
これは、ゼータ関数を複素数空間に適応すると、0となる解は、実数部が1/2で虚数軸方向の直線上に現れるということを意味する。この直線がクリティカル・ラインであり、この直線上に現れる零点が「自明でない零点」である。リーマンは素数個数関数とゼータ関数の関係を示した。本書では、クリティカル・ライン上の点から得られるゼータ関数の特性は、複素平面で螺旋のような曲線を描き、何度も原点を通過しながら繰り返される様子を示している。この原点を通過する瞬間が、自明でない零点である。酔っ払いには、この螺旋が自然法則の謎めいた姿を象徴しているかのように映る。
ゼータ関数の自明でない零点は、ランダム性が表れる分野のモデルとしても使われる。物理学者フリーマン・ダイソンは、量子のエネルギー準位が、ランダムなエルミート行列の固有値と一致することを観測したという。また、数学者ヒュー・モンゴメリは、ゼータ関数の自明でない零点がランダムなエルミート行列の固有値と一致すると述べたいう。量子の振る舞いが素数分布と一致するとはなんとも信じ難い。更に、ゼータ関数の零点の虚数部分は、カオス系のエネルギー準位になるという。なんと、カオスのモデルにもなっているというから神秘と言わざるを得ない。ランダム性には、実は数学的に体系化できる何かがあるような予感さえする。インターネットの検索方法のように、優れた計算アルゴリズムの多くはランダム化に基づいているのも事実である。もしかしたら、リーマン予想によってアル中ハイマーのランダムな行動パターンも形式化できるかもしれない。夜の社交場をまっすぐに歩いているつもりでも、いつのまにか同じ店に何度も立ち寄る現象は、実空間の直線運動が虚空間の螺旋運動に対応する可能性を示唆する。この酔っ払いの足取りこそがクリティカル・ラインというものか?「自明でない零点」を「記憶のない例の店」と置き換えれば、ゼータ関数の正体が見えてくる。ここで、アル中ハイマーは、「人間社会の複雑系は、自然法則に従ってエントロピー増大へと向かい、やがて数学で体系化されるランダム法則に帰着するに違いない。」と熱弁する。そして、純米酒のまろやかさが体中に広がるのを、エントロピー増大の法則と重ねつつ、今日も夜の社交場へとランダム・ウォークするのであった。
アル中ハイマーの数学嫌いは、無限級数に出会ったあたりから始まった。無限級数を加算すると、直感的には無限大になりそうだ。
例えば、1 + 1/2 + 1/3 + 1/4 + 1/5 + 1/6 + ... = ∞
ところが、発散せずに収束する無限級数もあるから、数学は摩訶不思議である。
例えば、1/2倍していく数列の加算は、1 + 1/2 + 1/4 + 1/8 + ... = 2
確かに、1の次の数である2に対して1/2ずつ極限に近づくと考えれば、2を超えることはありえない。
また、分子と分母の和をとって次の項の分母とし、分子と分母の2倍とを足して次の項の分子とした場合、
1/1, 3/2, 7/5, 17/12, 41/29, ... , √2 に収束するという。
んー?有理数の数列が、なぜ無理数に収束するのだろうか?数学のトリックに嵌った感がある。
また、定義域の問題もおもしろい。例えば次の関数を考えると。
S(x) = 1 + x + x^2 + x^3 + x^4 + ..... は、
S(x) = 1 + x(1 + x^2 + x^3 + x^4 + .....) と変形できる。
S(x) = 1 + xS(x)
あれ?S(x)の右辺に自己言及するかのようにS(x)が現れる。
S(x) = 1/(1 - x)
つまり、1/(1 - x) = 1 + x + x^2 + x^3 + x^4 + .....
これは同じように変形を続けるとえらいことになりそうだ。無限自己言及とでも言おうか。数学は魔術か?いや!関数というのは、定義域を限定すれば、いろんな見え方をする。ゼータ関数も、定義域によって様々な姿を見せる。発散するものがいつのまにか収束したり、足し算の繰り返しが掛け算の繰り返しと等しくなったりする。定義域(人格)によっては、いくら飲んでも「俺は酔ってないぜ!」という主張も決して間違いではないのだ。
1. ゼータ関数
ゼータ関数は、以下のように表される。
ζ(s) = 1 + 1/2^s + 1/3^s + 1/4^s + ... = Σ n^-s
ζ(2) = (π^2)/6 は、オイラーの解いたバーゼル問題。
ζ(4) = (π^4)/90、ζ(6) = (π^6)/945
関数ζ(s)は、s > 1 の条件で収束するが、s = 1 あるいは、s < 1 で発散する。ということは、ゼータ関数は、s > 1 の定義域でしか使えないのか?ところが、数学のトリックというものは恐ろしいもので、s < 1 の条件でも収束するように見えてくる。ここで、以下の関数を考える。 η(s) = 1 - 1/2^s + 1/3^s - 1/4^s + 1/5^s - 1/6^s + 1/7^s - 1/8^s + ... 関数η(s)は、s > 0 で符号を相殺しながら収束することが証明できるという。これを変形すると、
η(s) = ( 1 + 1/2^s + 1/3^s + 1/4^s + ...) - 2 (1/2^s + 1/4^s + 1/6^s + 1/8^s + ...)
η(s) = ζ(s) - 2 × 1/2^s × ζ(s)
η(s) = (1 - 2 × 1/2^s) ζ(s)
ζ(s) = η(s) / (1 - 2 × 1/2^s)
つまり、ゼータ関数は、関数η(s)で表現できる。あれ?いつのまにかゼータ関数が、s > 0 の定義域でも収束しているではないか。
では、s < 0では、どうなるのか?ζ(s)とζ(1-s)の関係をオイラーが唱えている式がある。
ζ(1-s) = 2^(1-s) × π^-s × sin((1-s)π/2) × (s-1)! × ζ(s)
ちなみに、本書では、ガンマ関数による表記がなされていないので少々長ったらしいが、分かりやすさではこの方がありがたい。偉大なオイラーを信じると、ζ(4)が分かればζ(-3)が求まることが示されている。また、s = 1/2 の場合、特別な意味を持つ。1-s = 1/2 になるからである。 ここで、1-s = -2, -4, -6, ... の時、sin成分が0となるので、
ζ(-2) = 0, ζ(-4) = 0, ζ(-6) = 0, .... となる。
つまり、sが負の偶数はゼータ関数の零点である。これが「自明な零点」である。これぞ定義域のトリック!芸術の域に達した詐欺とは、こういうものを言うのだろう。
2. オイラー積
ここでエラトステネスのふるいの話が登場する。まず、2からの整数をすべて書き出す。そこから2の倍数を除く、そして、素数3の倍数を除く、次は素数5の倍数...と続けていく。すると、残るのは素数だけになる。この時、除こうとする素数pについて、p^2より小さい素数はすべて得られるはずだという主張である。
この考え方と似たようなことをゼータ関数でもやってみる。
ζ(s) = 1 + 1/2^s + 1/3^s + 1/4^s + 1/5^s +... について、
1/2^s, 1/3^s, 1/5^s, 1/7^s,...1/p^s (pは素数)の順に括っていく。
まず、ゼータ関数を1/2^s倍する。
(1/2^s)ζ(s) = 1/2^s + 1/4^s + 1/6^s + 1/8^s + ...
これを、ゼータ関数から引くと、
(1 - 1/2^s)ζ(s) = 1 + 1/3^s + 1/5^s + 1/7^s + ...
次に、これを1/3^s倍する。
1/3^s (1 - 1/2^s)ζ(s) = 1/3^s + 1/9^s + 1/15^s + 1/21^s + ...
これを、前の式から引くと、
(1 - 1/3^s)(1 - 1/2^s)ζ(s) = 1 + 1/5^s + 1/7^s + 1/11^s + 1/13^s + ...
これを繰り返すと、以下の式が得られる。
Σ n^-s = Π 1/(1-p^-s)、ただし、pは素数。
オイラー積のおもしろいのは、正の数を成分とする無限個の和が、素数全体を成分とする積で表されることである。これは、s = 1 の時、左辺が無限大であることから、右辺の積も無限大となり、素数は終わらないことの証明にもなっている。素数が無限個あることは既にユークリッドが証明しているが、オイラーが解析的な手法を用いたことは注目すべきであろう。
3. 素数定理
素数分布の特徴は、数が大きくなるにつれて希薄になることと、その分布がランダムということである。素数定理は、自然数の中に素数がどのくらいの割合で含まれているかを論じた定理で、次のように表される。
π(N) ~ N/log(N)
π(x)は素数個数関数であり円周率とは関係ない。~(チルダ)は近似の意味。Nは自然数。ちなみに、PrimeのPに相当するのがギリシャ文字のπで、当時、ギリシャ文字への割り当ては枯渇していたという。確かに円周率と重なって紛らわしい。
素数定理からの帰結は以下のようになる。
(a) Nが素数である確率は、~ 1/log(N)
(b) N番目の素数は、~ Nlog(N)
逆に、これらの帰結が素数定理でもある。ここで、対数積分関数が登場する。
Li(x) = ∫1/log(t)dt
関数Li(N)が、N/log(N)よりも良い推定であることから、素数定理は以下のように表される。
π(N) ~ Li(N)
ちなみに、Nが大きくなればなるほど、その近似誤差も少なくなるという。
4. チェビシェフの「偏り」
素数を4で割ると、余りは1か3になる。そして、余りが3になる方が多い。ところが、その特異な偏りは、p = 26,861のところで破れるという。素数を3で割ると、余りは1か2になる。そして、余りが2になる方が多いが、その偏りは、p = 608,981,813,029のところから破れるという。いまではチェビシェフの「偏り」自体が偏った見方だという。
5. ビッグ・オー
ビッグ・オーは、引数が無限大に向かう時の関数の大きさに制限をかける方法である。その定義は、次のようなものである。 「十分大きな引数について、Aの大きさがBの定数倍を超えないならば、関数Aは関数Bのビッグ・オーである。」
ビッグ・オーは符号を気にしない。よって、ある関数f(x)が1のビッグ・オーというと、f(x) = 1, f(x) = -1 の2本の直線の間に永遠に閉じ込められることを意味する。関数Aは、関数Bの境界線を超えられないので、これは関数の比較には便利な記法である。ヘルゲ・フォン・コッホは、リーマン予想が正しければ、π(N)とLi(N)の絶対差は、√x log(x)のビッグ・オーと主張したという。
π(N) = Li(N) + O( √x log(x) )
これは、素数分布を定義している。
6. メビウス関数
ゼータ関数ζ(s) = Π(1/(1-p^-s)) の逆数をとる。
1/ζ(s) = (1 - 1/2^s)(1 - 1/3^s)(1 - 1/5^s)(1 - 1/7^s)(1 - 1/11^s)...
これは、無限にある括弧を掛けることになる。各項は、1とそれ以外の組み合わせの項でできている。ここで、無限個の1以外の数字だけを掛けるパターンに着目すると、1と1/2の間に存在するので、それを無限個掛けると0に収束する。全部1の項は、言うまでもなく1。
一つだけ、1でない数を掛け合わせる組み合わせは、
-1/2^s × 1 × 1 × ... = -1/2^s
-1/3^s × 1 × 1 × ... = -1/3^s
...
よって、1 - 1/2^s - 1/3^s - 1/5^s - 1/7^s - 1/11^s...
次に、二つの1でない数を掛け合わせる組み合わせは、
-1/2^s × -1/3^s × 1 × 1 × .... = 1/6^s
-1/2^s × -1/5^s × 1 × 1 × .... = 1/10^s
-1/2^s × -1/7^s × 1 × 1 × .... = 1/14^s
...
-1/3^s × -1/5^s × 1 x 1 × .... = 1/15^s
-1/3^s × -1/7^s × 1 x 1 × .... = 1/21^s
...
よって、ここまでをまとめると、
1 - 1/2^s - 1/3^s - 1/5^s - 1/7^s - 1/11^s ...
+ 1/6^s + 1/10^s + 1/14^s + 1/15^s + 1/21^s + ...
次に、三つの1でない数を掛け合わせる組み合わせは、(符号はマイナス)
-1/2^s × -1/3^s × - 1/5^s × 1 × 1 × .... = - 1/30^s
-1/2^s × -1/3^s × - 1/7^s × 1 × 1 × .... = - 1/42^s
...
よって、ここまでをまとめると、
1 - 1/2^s - 1/3^s - 1/5^s - 1/7^s - 1/11^s ...
+ 1/6^s + 1/10^s + 1/14^s + 1/15^s + 1/21^s + ...
- 1/30^s - 1/42^s - 1/66^s - 1/70^s - 1/78^s + ...
これを、四つの1でない場合、五つの...と続けて並び替えると、
1/ζ(s) = 1 - 1/2^s - 1/3^s - 1/5^s + 1/6^s - 1/7^s + 1/10^s - 1/11^s - 1/13^s + 1/14^s + ...
ここで見られる、右辺に登場する素数以外の数はなんだろう?
欠けている数字は、4,8,9,12,16,18,20,24,25,27,28,...のように何かの素数の平方で割れる数。この欠けている数字をアウグスト・フェルディナント・メビウスにちなんでメビウス関数と呼ぶ。これはμ(ミュー)で表し、以下のように定義される。
「定義域Nは、自然数で、μ(1) = 1
nが平方の約数を持つならば、μ(n) = 0
nが素数か異なる奇数個の素数積ならば、μ(n) = -1
nが異なる個数個の素数の積ならば、μ(n) = 1」
そして、ゼータ関数は、メビウス関数で以下のように表現できる。
1/ζ(s) = Σ(μ(n)/n^s)
7. メルテンス関数
リーマン予想に重要な関数としてメルテンス関数Mがある。
M(k) = μ(1) + μ(2) + μ(3) + ... + μ(k)
この関数は非常に不規則であり、ランダム・ウォークしながら振動するという。引数を大きくすれば、その絶対値は増加現象にあるが、以前として0を中心に振動する以外は、明らかになっていないらしい。
2009-01-05
"アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない" 町山智浩 著
正月早々、書店の入り口に山積してあるのを手に取った。アル中ハイマーは、陳列の罠にコロッと嵌るのであった。ペーパーバックスは立ち読みで済ませられる手軽さがいい。それにしても本書は笑える。読み終わろうとしたその時、店員のお姉さんから「そんなにおもしろいですか!」と声をかけられた。そんなにニヤニヤしていたのだろうか?思いっきり照れて「この本を頼む!」とドスの利いた声でお返しした。ペーパーバックスのコーナーで綺麗なお姉さんが笑顔で話し掛けてくれば、いつも買うに違いない。
自宅で冷静に読むと、これが世界の覇権を握った国家なのかとムカついてしまう。狂信した保守派の婆さんが登場すると、「女性に選挙権を与えるな」「原爆を落としたら日本人は羊みたいに従順になったわ」「環境破壊なんて左翼のデマよ。人間は地球をレイプする権利があるの」などと叫ぶ。これは、ちょっと大げさ過ぎやしないかい?そこで、知り合いのアメリカ人にこんな本があるんだけどって紹介したら大笑いしだした。あながち大げさでもないらしい。英語が少ししか分からない日本人と、日本語が少ししか分からないアメリカ人の会話は異様なものがあるようだ。通りかかったオーストラリア人の女性が大笑いしながら加わってきた。彼女は日本語にも英語にも精通している。二人の分析はなかなかおもしろい。まあ、日本に住むような外国人は革新的で知的な人種であろう。そして、アメリカ人は是非これを英訳してくれって頼むので、日本には「知らぬが仏」という諺があることを教えてやった。アメリカ人の中でも出身地などで考えも違うのだろうが、このアメリカ人は西海岸出身だ。ただ、オーストラリア人がニューヨークに住んでいたというから、この二人の意見はそれなりにバランスされているのかもしれない。おいらの周りは革新的な考えを持った人種が多い。いや正確には、社会に対して愚痴ってる奴ばかりと言った方がいいだろう。
ところで、二人は「日本人はなぜ中国のことを辛口で言わないのか?」と質問してきた。「それは、社会的に抹殺されるのを恐れているからだろう。」と答えると、二人は妙にうなずいていた。ちなみに、中国人女性を追いかけて大連まで行ったことがあるなどという記憶はない。
本書は、アメリカはさすがにスケールが大きい!と随所に感じさせてくれる。その馬鹿さ加減、政治家の問題発言、呆れたメディア、宗教に汚染された国家などなど。そこには、外国について何も知らず、聖書以外の価値を完全否定するブッシュ的なアメリカ社会がある。本書は、あらためて政教分離の大切さを教えてくれる。
デヴィッド・ミンディック著「投票者数/なぜ40歳以下のアメリカ人は時事ニュースを知らないか」によると18歳から34歳のアメリカ人で新聞を読むのは3割に満たないという。CNNの視聴者の平均年齢は60代だそうだ。おいらでもケーブルTVで深夜に眺めている。大新聞を読まないのもインターネットの方が有意義だという意見も多い。ただ、インターネットでチェックするにしても、アメリカ人のこの年齢層では11%に過ぎないという。ちなみに、おいらはこの年齢層から仲間はずれだ。んー寂しい!
アメリカが仕掛ける戦争は、本当にテロ撲滅のためなのか?と疑問に思う人も少なくないだろう。キリスト教原理主義とイスラム教原理主義とで繰り広げられる宗教戦争であって、これに世界が巻き込まれているだけではないのか?9.11テロとイラクを勝手に結びつけて戦争を仕掛けても、その証拠はない。大量破壊兵器も見つからない。アメリカの若者達を大義名分のない戦争で死なせている。9.11テロの前からイラクの大量破壊兵器を調査して、なんでもいいから口実を探していた国である。そういえば、ブッシュに真っ先に支持を表明した首相がいた。今年オバマ政権が誕生するが、大変な問題を残されて気の毒である。政治家は前代の政治家が残した批難材料をそのまま引き継ぐ宿命を背負う。
1. 福音派
アメリカ人の無知の根底には、「無知こそ善」という「反知性主義」があるという。歴史学者リチャード・ホフスタッカーによると、この原因はキリスト教福音主義にあるという。福音主義とは、聖書を一字一句信じる生き方で、特に過激なのは聖書福音主義と呼ばれるらしい。まず、相手の人格を全否定して自我を崩壊させ、真っ白な状態で教義を叩き込むのが洗脳の基本テクニックである。これは宗教に限らず、共産主義の思想改造にも見られる。そもそも、州法で進化論も教えてはならないお国柄だ。科学がこの国を豊かにしているにもかかわらず、福音派にとって科学は敵である。そもそも、科学は宗教を否定したわけではなく、真理を求めただけなのだ。聖書以外の書物を読まないことを誇りに思う輩が大勢いるのだそうだ。知識を身に付ければ聖書に疑いを持つ。となれば、無知は聖書に純粋に身を捧げることになる。神の正体を知るために、自ら神になるしかないとでも考えいているのだろうか?それにしても、本書で紹介される宗教家のスキャンダルはおもろい。レイプやコールボーイとの肉体関係などなど。なるほど、神はどんな極悪人でも無条件に愛するから、宗教家は神を熱心に信じるわけだ。こうした福音派が人口の3割を占めるというから恐ろしい。そこに目を付けたのが共和党で、福音派が強力な票田になっているという。その他にも、無知の原因は、右派メディアの暴走、教育の崩壊などがあるという。ちなみに、リック・シェンクマン著「我々はどこまでバカか?」によると、日本に原爆を投下した事実を知っているアメリカ人は49%に過ぎないという。ほんまかいな!
2. 絶対禁欲性教育
ブッシュ政権が推進するものに絶対禁欲性教育というものがあるという。結婚するまで一切の性交渉をしないというものだ。「絶対」であるからには避妊法は一切教えない。学校は禁欲のガイドラインから外れると助成金が受けられない。その結果10代の妊娠者が続出、その一方で中絶は殺人だと教える。レイプされても中絶できない。この教育では、セックスの禁止のみが強調され、オーラルやアナルなら大丈夫という知識が横行したという。その結果エイズ感染者も増える。親心としては、娘には結婚するまで純潔を守ってもらいたいだろう。だが、自分が子供の頃を思い出せば、単なるエゴイズムでしかない。人間社会には善悪が共存する。悪を直視しなければ、理想を夢見るだけの脳死状態に陥る。
ここで、昔記事にもしたが、レヴィットとダブナー著「ヤバい経済学」を思い出す。犯罪の減少についての考察で、犯罪件数が1990年を境に大幅に減少した原因に中絶の合法化を挙げている。これは、親から望まれて生まれたのではない人間の犯罪率に着目したものだ。1990年代は、法律の施行からちょうど生まれてくるはずだった人間がティーンエイジャーになる頃である。この考察でも、宗教家から批難されたと愚痴っていた。
3. 戦争の外注
イラクには、警備会社や傭兵派遣会社から5万人働いているという。冷戦が終わってアメリカ軍が縮小されたので、兵員不足を民間企業が穴埋めする。彼らは民間会社であって目的は金である。本書はブラックウォーターという会社を紹介している。そして、彼らはイラクに憎しみをばらまいているという。民間人虐殺事件などで、彼らはゲリラが銃撃してきたと主張して、やりたい放題なのだそうだ。イラク政府はさすがに我慢できず、ブラックウォーターの活動を禁止する声明を出したという。ブッシュ大統領は慌てて彼らにもアメリカ軍の規則に従わせるとなだめたそうだが、身を守るためだったら規則を破る権利を認めたというから慰めにもならない。レーガン政権以来、共和党は政府の仕事を片っ端から民営化してきたが、ついに軍隊までアウトソーシングしてしまったということか。
エジプトの学生がアメリカを嫌うのはムバラク大統領を支援するからだという。ムバラク大統領は軍事独裁政権であるが、アメリカ政府は反共で反イスラム原理主義というだけで支持する。なるほど、かつてイランと対立したフセイン大統領やソ連と戦うアフガンのイスラム派も支援していた。サウジアラビアでは、余計なことを言うと思想犯として斬首されるという。石油のある大金持ちの国では一握りの人間に独占され、貧困層はイスラム過激派に身を投じる。その憎しみは、サウジ政権を支援するアメリカに向けられる。本書は、次々にタリバンに身を投じる若者たちがいる現実を指摘する。
「テロの原因は自爆するほど追い詰められた惨めな生活なのだから。イスラム教のせいですらなかったのだ。」
テロの首謀者を捕まえたところでテロは終わらないということか。
4. 格差社会
「ウォルマート/激安の代償」という映画があるらしい。ウォルマートは徹底的な価格破壊戦略でチェーン店を広げた世界最大級の企業である。何でも激安になるのは、消費者にとってはありがたい。しかし、その実態を次のように語る。
「近くにウォルマートがオープンした町では、代々続いてきた地元の店が客を取られていっきに潰れる。まるで爆撃機のようだ。20年ほど前から、アメリカの小さな町のダウンタウンはどこもゴーストタウンになっている。」
地元の店が潰れればウォルマートで働くしかない。従業員の賃金も異常に低い。正社員の半分は貧困層として社会福祉を受けているという。政府から受ける援助の総額は年間16億ドル。つまり、本来ウォルマートが支払うべき賃金を税金が補助しているというのだ。なんだそれ!この非情なコスト削減にもかかわらず、CEOの年収は約27億円!いまや、アメリカの全ての大企業がウォルマートのマネをしているという。そこには、低賃金労働者や貧困層を構造的に作り出している実態がある。最低賃金で1ヶ月生きられるかといったワーキング・プア人体実験映画まで登場する。生活がぎりぎりな上に、ちょっとでも病気しようものならたちまちホームレスに転落する。アメリカは先進国で唯一国民健康保険がない国なので、高い民間の保険に入るしかない。したがって、国民の15%以上が健康保険に入れない。アメリカの国民全体の平均年収は約450万円であるが、国民の総収入97%を上位20%の富裕層が独占している。しかも、社会保障制度を株式で運用するから、金融危機に陥れば奈落の底へと落ちる。アメリカン・ドリームとは、貧困層から毟り取るということか?もはや、資本主義が正常に機能しているとは思えない。プッシュ政権が金持ちと大企業に大減税を進めた結果、税金を支えているのは中産階級だという。日本では、地方分権を訴える動きが活発だが、アメリカに比べればまだまだ救える余地がある。いまのうちに政治が機能しなければ同じ轍を踏むであろう。政策が後手になると、投入する税金は大幅に拡大する。それが、日本の現状とも言えるのだが。アメリカは日本にしてみれば素晴らしい反面教師ではないか。
5. サブプライム
サブプライムローンにはデタラメな貸し付けの実態がある。本書は年収360万円の若造に2億円の住宅ローンを貸し付けた例を紹介している。マイホームを持つという夢は日本でもアメリカでも同じようだ。ローン会社はあらゆる手段で客を取り込む。しかし、返せなければ破綻するのは見え見え。そこで登場したサブプライムローン。金融屋は他人の預金を使ってとんでもない金融商品を考え出す。貸す金は他人の金、儲けた金は自分の金なのだ。当然不動産価格に目を付ける投機筋が現れる。クレジット会社は、支払い能力のない連中にカードを持たせて破産させる。まるで麻薬の売人。アメリカのGDPは依然として世界一位だが、その70%は個人消費(日本は57%)だという。しかも莫大な貿易赤字をかかえる。ろくに収入もないのに買ってばかりの国。カード利用者のうち、期限までに返済できないのは32%にのぼるという。サブプライムローンの次の時限爆弾はクレジットカードと言われているらしい。
6. 医療格差というより健康格差
病人を見殺しにする医療保険、これは日本も似たようなものだろう。ただスケールが違う。アメリカの場合は、保険のイメージがちょっと違う。HMO(健康維持機構)というシステムで、医師への報酬を保険会社が支払うという仕組み。つまり、医療内容を保険会社が管理する。となれば、医療コスト削減のために、医師に手抜き医療を推進する。医師は、医療拒否して保険会社の支出を減らせば、それだけ評価されて奨励金がもらえるという。同じように保険会社の職員も支出を減らせば給料が上がる。しかも、過去に病歴があると加入拒否される。要するに、健康な人ばかり受け付けるシステムということだ。健康な人はより健康に、病気がちな人はより病気になるというわけか。ちなみに、アメリカの医療費は世界一高いという。なんだこの矛盾は?いくら民間でも、昔はこれほど医療拒否することはなかったという。クリントン政権時代、ヒラリー夫人は国民健康保険の実現を目指したという。だが、議会は「アカになるより病気で死んだほうがマシだろ」と脅したという。全般的に、社会主義っぽい制度に対して、強烈な拒否反応を示すお国柄のようだ。また、議員が、保険会社の政治献金や、天下り先を目当てにしている現実もあるという。
7. 保守とリベラル
アメリカの保守とリベラルの対立は、日本の右と左の対立とはかなり様子が違うようだ。共和党の伝統的な保守思想とは自由主義のことだという。あれ?リベラルって自由のことじゃなかったけ?そもそも、アメリカは伝統主義のイギリスから逃れた自由の国である。アメリカのイデオロギー論争は、いろんな自由の争いであって、共和党の「自由」と民主党の「平等」の対立だという。リベラルとは、社会的リベラルという意味だそうだ。よって、民主党はリベラルということになる。これを保守派はアカと呼ぶらしい。なるほど、学校で習ったのとはイメージも違うし、分かりやすいのがいい。自由放任主義が強くなると、政府の権限は小さいほど良いことになる。だから軍隊も民営化となるのか。経済政策の立場も、アダム・スミスを始めとする新古典派が強いのはなんとなく見て取れる。新古典派は世界恐慌時代に大失策を演じる。そこで、ケインズ派の登場でニューディールのような公共事業で立て直す。しかし、一旦成功すると原理主義が蔓延るのが経済学である。ケインズ派の弱点は公共事業ならなんでもあり、つまり、ピラミッドでもええのだ。どこかの行政は相変わらずピラミッド造りに励む。人類には、完全な「平等」を徹底的に追求した結果、自由を失い、官僚主義、共産主義、そして全体主義へとなった歴史がある。そこで、「自由」という概念が重要な役割を果たす。つまり、両輪がバランスしなければとんでもない社会体制ができるわけだ。では、ネオコン(新保守主義)ってどういう位置付けにあるのだろうか?新しい自由放任主義というより全体主義っぽいイメージがある。アメリカの伝統に不干渉思想のモンロー主義があるが、積極的に軍事介入を続けているのだからこれとも違う。ネオコンは、もともとリベラルのような?左翼のような?とにかくその方面からの転向組だという。彼らには「トロツキズム的な世界改革の理想」があるという。これはうまい表現だなあ!ちなみに、トロツキーはスターリンの古参ボルシェビキの大量虐殺にあった一人で、亡命先のメキシコで暗殺された。もっともスターリンの場合、イデオロギー論争というよりはライバルの暗殺が目的であるが。
ところで、日本の二大政党の自民党と民主党の違いってよく分からん!
8. おもろいメディア
本書は、FOXニューズをブッシュ政権の大本営と蔑む。ホワイトハウスの晩餐会でコメディアンのスティーヴン・コルベアのホメ殺しのスピーチは笑える。
「貧乏人に告ぐ!貧乏をやめろ!諸君らが貧乏なせいで大統領が責められる。貧乏なのは愛国心が足らない。」「アメリカをダメにするリベラルなマスコミ関係者だらけでヘドがでます。いや、FOXニューズは違いますよ。両サイドの意見を報道しますから。大統領の意見と副大統領の意見を。」「ブッシュ政権をタイタニック号にたとえる人がいますが失礼な話です。この政権が斜めに傾いているのは沈んでいるのじゃなくて上昇しているんです。飛行船ヒンデンブルグ号のように!(ちなみに、ヒンデンブルグ号は上空で爆発した。)」
隣に座っているブッシュの顔は真っ赤になったという。しかし、ホメ殺しは延々と終わらない。このスピーチを新聞やテレビは報道しなかったが、チャンネルC-SPANだけがノーカットで放送し、YouTubeにアップされ数百万人が観たという。コルベアのスピーチは、記者たちにも向けられる。
「ブッシュ大統領になって5年間、ホワイトハウスの記者の皆さんはずっとイイ子ちゃんでした。無茶な減税や、イラクに大量破壊兵器がなかったこと、野放しの地球温暖化についても、あまり大統領に突っ込みませんでした。記者の皆さんはそれを追及しない節度がありました。さあ、もう一度ホワイトハウス記者の決まりをおさらいしましょう。何かを決めるのは大統領。それを記者に伝えるのは報道官。記者は大統領のお言葉を書き写す....(と続く...)」
この言葉は、某国の記者クラブに捧げたい。
自宅で冷静に読むと、これが世界の覇権を握った国家なのかとムカついてしまう。狂信した保守派の婆さんが登場すると、「女性に選挙権を与えるな」「原爆を落としたら日本人は羊みたいに従順になったわ」「環境破壊なんて左翼のデマよ。人間は地球をレイプする権利があるの」などと叫ぶ。これは、ちょっと大げさ過ぎやしないかい?そこで、知り合いのアメリカ人にこんな本があるんだけどって紹介したら大笑いしだした。あながち大げさでもないらしい。英語が少ししか分からない日本人と、日本語が少ししか分からないアメリカ人の会話は異様なものがあるようだ。通りかかったオーストラリア人の女性が大笑いしながら加わってきた。彼女は日本語にも英語にも精通している。二人の分析はなかなかおもしろい。まあ、日本に住むような外国人は革新的で知的な人種であろう。そして、アメリカ人は是非これを英訳してくれって頼むので、日本には「知らぬが仏」という諺があることを教えてやった。アメリカ人の中でも出身地などで考えも違うのだろうが、このアメリカ人は西海岸出身だ。ただ、オーストラリア人がニューヨークに住んでいたというから、この二人の意見はそれなりにバランスされているのかもしれない。おいらの周りは革新的な考えを持った人種が多い。いや正確には、社会に対して愚痴ってる奴ばかりと言った方がいいだろう。
ところで、二人は「日本人はなぜ中国のことを辛口で言わないのか?」と質問してきた。「それは、社会的に抹殺されるのを恐れているからだろう。」と答えると、二人は妙にうなずいていた。ちなみに、中国人女性を追いかけて大連まで行ったことがあるなどという記憶はない。
本書は、アメリカはさすがにスケールが大きい!と随所に感じさせてくれる。その馬鹿さ加減、政治家の問題発言、呆れたメディア、宗教に汚染された国家などなど。そこには、外国について何も知らず、聖書以外の価値を完全否定するブッシュ的なアメリカ社会がある。本書は、あらためて政教分離の大切さを教えてくれる。
デヴィッド・ミンディック著「投票者数/なぜ40歳以下のアメリカ人は時事ニュースを知らないか」によると18歳から34歳のアメリカ人で新聞を読むのは3割に満たないという。CNNの視聴者の平均年齢は60代だそうだ。おいらでもケーブルTVで深夜に眺めている。大新聞を読まないのもインターネットの方が有意義だという意見も多い。ただ、インターネットでチェックするにしても、アメリカ人のこの年齢層では11%に過ぎないという。ちなみに、おいらはこの年齢層から仲間はずれだ。んー寂しい!
アメリカが仕掛ける戦争は、本当にテロ撲滅のためなのか?と疑問に思う人も少なくないだろう。キリスト教原理主義とイスラム教原理主義とで繰り広げられる宗教戦争であって、これに世界が巻き込まれているだけではないのか?9.11テロとイラクを勝手に結びつけて戦争を仕掛けても、その証拠はない。大量破壊兵器も見つからない。アメリカの若者達を大義名分のない戦争で死なせている。9.11テロの前からイラクの大量破壊兵器を調査して、なんでもいいから口実を探していた国である。そういえば、ブッシュに真っ先に支持を表明した首相がいた。今年オバマ政権が誕生するが、大変な問題を残されて気の毒である。政治家は前代の政治家が残した批難材料をそのまま引き継ぐ宿命を背負う。
1. 福音派
アメリカ人の無知の根底には、「無知こそ善」という「反知性主義」があるという。歴史学者リチャード・ホフスタッカーによると、この原因はキリスト教福音主義にあるという。福音主義とは、聖書を一字一句信じる生き方で、特に過激なのは聖書福音主義と呼ばれるらしい。まず、相手の人格を全否定して自我を崩壊させ、真っ白な状態で教義を叩き込むのが洗脳の基本テクニックである。これは宗教に限らず、共産主義の思想改造にも見られる。そもそも、州法で進化論も教えてはならないお国柄だ。科学がこの国を豊かにしているにもかかわらず、福音派にとって科学は敵である。そもそも、科学は宗教を否定したわけではなく、真理を求めただけなのだ。聖書以外の書物を読まないことを誇りに思う輩が大勢いるのだそうだ。知識を身に付ければ聖書に疑いを持つ。となれば、無知は聖書に純粋に身を捧げることになる。神の正体を知るために、自ら神になるしかないとでも考えいているのだろうか?それにしても、本書で紹介される宗教家のスキャンダルはおもろい。レイプやコールボーイとの肉体関係などなど。なるほど、神はどんな極悪人でも無条件に愛するから、宗教家は神を熱心に信じるわけだ。こうした福音派が人口の3割を占めるというから恐ろしい。そこに目を付けたのが共和党で、福音派が強力な票田になっているという。その他にも、無知の原因は、右派メディアの暴走、教育の崩壊などがあるという。ちなみに、リック・シェンクマン著「我々はどこまでバカか?」によると、日本に原爆を投下した事実を知っているアメリカ人は49%に過ぎないという。ほんまかいな!
2. 絶対禁欲性教育
ブッシュ政権が推進するものに絶対禁欲性教育というものがあるという。結婚するまで一切の性交渉をしないというものだ。「絶対」であるからには避妊法は一切教えない。学校は禁欲のガイドラインから外れると助成金が受けられない。その結果10代の妊娠者が続出、その一方で中絶は殺人だと教える。レイプされても中絶できない。この教育では、セックスの禁止のみが強調され、オーラルやアナルなら大丈夫という知識が横行したという。その結果エイズ感染者も増える。親心としては、娘には結婚するまで純潔を守ってもらいたいだろう。だが、自分が子供の頃を思い出せば、単なるエゴイズムでしかない。人間社会には善悪が共存する。悪を直視しなければ、理想を夢見るだけの脳死状態に陥る。
ここで、昔記事にもしたが、レヴィットとダブナー著「ヤバい経済学」を思い出す。犯罪の減少についての考察で、犯罪件数が1990年を境に大幅に減少した原因に中絶の合法化を挙げている。これは、親から望まれて生まれたのではない人間の犯罪率に着目したものだ。1990年代は、法律の施行からちょうど生まれてくるはずだった人間がティーンエイジャーになる頃である。この考察でも、宗教家から批難されたと愚痴っていた。
3. 戦争の外注
イラクには、警備会社や傭兵派遣会社から5万人働いているという。冷戦が終わってアメリカ軍が縮小されたので、兵員不足を民間企業が穴埋めする。彼らは民間会社であって目的は金である。本書はブラックウォーターという会社を紹介している。そして、彼らはイラクに憎しみをばらまいているという。民間人虐殺事件などで、彼らはゲリラが銃撃してきたと主張して、やりたい放題なのだそうだ。イラク政府はさすがに我慢できず、ブラックウォーターの活動を禁止する声明を出したという。ブッシュ大統領は慌てて彼らにもアメリカ軍の規則に従わせるとなだめたそうだが、身を守るためだったら規則を破る権利を認めたというから慰めにもならない。レーガン政権以来、共和党は政府の仕事を片っ端から民営化してきたが、ついに軍隊までアウトソーシングしてしまったということか。
エジプトの学生がアメリカを嫌うのはムバラク大統領を支援するからだという。ムバラク大統領は軍事独裁政権であるが、アメリカ政府は反共で反イスラム原理主義というだけで支持する。なるほど、かつてイランと対立したフセイン大統領やソ連と戦うアフガンのイスラム派も支援していた。サウジアラビアでは、余計なことを言うと思想犯として斬首されるという。石油のある大金持ちの国では一握りの人間に独占され、貧困層はイスラム過激派に身を投じる。その憎しみは、サウジ政権を支援するアメリカに向けられる。本書は、次々にタリバンに身を投じる若者たちがいる現実を指摘する。
「テロの原因は自爆するほど追い詰められた惨めな生活なのだから。イスラム教のせいですらなかったのだ。」
テロの首謀者を捕まえたところでテロは終わらないということか。
4. 格差社会
「ウォルマート/激安の代償」という映画があるらしい。ウォルマートは徹底的な価格破壊戦略でチェーン店を広げた世界最大級の企業である。何でも激安になるのは、消費者にとってはありがたい。しかし、その実態を次のように語る。
「近くにウォルマートがオープンした町では、代々続いてきた地元の店が客を取られていっきに潰れる。まるで爆撃機のようだ。20年ほど前から、アメリカの小さな町のダウンタウンはどこもゴーストタウンになっている。」
地元の店が潰れればウォルマートで働くしかない。従業員の賃金も異常に低い。正社員の半分は貧困層として社会福祉を受けているという。政府から受ける援助の総額は年間16億ドル。つまり、本来ウォルマートが支払うべき賃金を税金が補助しているというのだ。なんだそれ!この非情なコスト削減にもかかわらず、CEOの年収は約27億円!いまや、アメリカの全ての大企業がウォルマートのマネをしているという。そこには、低賃金労働者や貧困層を構造的に作り出している実態がある。最低賃金で1ヶ月生きられるかといったワーキング・プア人体実験映画まで登場する。生活がぎりぎりな上に、ちょっとでも病気しようものならたちまちホームレスに転落する。アメリカは先進国で唯一国民健康保険がない国なので、高い民間の保険に入るしかない。したがって、国民の15%以上が健康保険に入れない。アメリカの国民全体の平均年収は約450万円であるが、国民の総収入97%を上位20%の富裕層が独占している。しかも、社会保障制度を株式で運用するから、金融危機に陥れば奈落の底へと落ちる。アメリカン・ドリームとは、貧困層から毟り取るということか?もはや、資本主義が正常に機能しているとは思えない。プッシュ政権が金持ちと大企業に大減税を進めた結果、税金を支えているのは中産階級だという。日本では、地方分権を訴える動きが活発だが、アメリカに比べればまだまだ救える余地がある。いまのうちに政治が機能しなければ同じ轍を踏むであろう。政策が後手になると、投入する税金は大幅に拡大する。それが、日本の現状とも言えるのだが。アメリカは日本にしてみれば素晴らしい反面教師ではないか。
5. サブプライム
サブプライムローンにはデタラメな貸し付けの実態がある。本書は年収360万円の若造に2億円の住宅ローンを貸し付けた例を紹介している。マイホームを持つという夢は日本でもアメリカでも同じようだ。ローン会社はあらゆる手段で客を取り込む。しかし、返せなければ破綻するのは見え見え。そこで登場したサブプライムローン。金融屋は他人の預金を使ってとんでもない金融商品を考え出す。貸す金は他人の金、儲けた金は自分の金なのだ。当然不動産価格に目を付ける投機筋が現れる。クレジット会社は、支払い能力のない連中にカードを持たせて破産させる。まるで麻薬の売人。アメリカのGDPは依然として世界一位だが、その70%は個人消費(日本は57%)だという。しかも莫大な貿易赤字をかかえる。ろくに収入もないのに買ってばかりの国。カード利用者のうち、期限までに返済できないのは32%にのぼるという。サブプライムローンの次の時限爆弾はクレジットカードと言われているらしい。
6. 医療格差というより健康格差
病人を見殺しにする医療保険、これは日本も似たようなものだろう。ただスケールが違う。アメリカの場合は、保険のイメージがちょっと違う。HMO(健康維持機構)というシステムで、医師への報酬を保険会社が支払うという仕組み。つまり、医療内容を保険会社が管理する。となれば、医療コスト削減のために、医師に手抜き医療を推進する。医師は、医療拒否して保険会社の支出を減らせば、それだけ評価されて奨励金がもらえるという。同じように保険会社の職員も支出を減らせば給料が上がる。しかも、過去に病歴があると加入拒否される。要するに、健康な人ばかり受け付けるシステムということだ。健康な人はより健康に、病気がちな人はより病気になるというわけか。ちなみに、アメリカの医療費は世界一高いという。なんだこの矛盾は?いくら民間でも、昔はこれほど医療拒否することはなかったという。クリントン政権時代、ヒラリー夫人は国民健康保険の実現を目指したという。だが、議会は「アカになるより病気で死んだほうがマシだろ」と脅したという。全般的に、社会主義っぽい制度に対して、強烈な拒否反応を示すお国柄のようだ。また、議員が、保険会社の政治献金や、天下り先を目当てにしている現実もあるという。
7. 保守とリベラル
アメリカの保守とリベラルの対立は、日本の右と左の対立とはかなり様子が違うようだ。共和党の伝統的な保守思想とは自由主義のことだという。あれ?リベラルって自由のことじゃなかったけ?そもそも、アメリカは伝統主義のイギリスから逃れた自由の国である。アメリカのイデオロギー論争は、いろんな自由の争いであって、共和党の「自由」と民主党の「平等」の対立だという。リベラルとは、社会的リベラルという意味だそうだ。よって、民主党はリベラルということになる。これを保守派はアカと呼ぶらしい。なるほど、学校で習ったのとはイメージも違うし、分かりやすいのがいい。自由放任主義が強くなると、政府の権限は小さいほど良いことになる。だから軍隊も民営化となるのか。経済政策の立場も、アダム・スミスを始めとする新古典派が強いのはなんとなく見て取れる。新古典派は世界恐慌時代に大失策を演じる。そこで、ケインズ派の登場でニューディールのような公共事業で立て直す。しかし、一旦成功すると原理主義が蔓延るのが経済学である。ケインズ派の弱点は公共事業ならなんでもあり、つまり、ピラミッドでもええのだ。どこかの行政は相変わらずピラミッド造りに励む。人類には、完全な「平等」を徹底的に追求した結果、自由を失い、官僚主義、共産主義、そして全体主義へとなった歴史がある。そこで、「自由」という概念が重要な役割を果たす。つまり、両輪がバランスしなければとんでもない社会体制ができるわけだ。では、ネオコン(新保守主義)ってどういう位置付けにあるのだろうか?新しい自由放任主義というより全体主義っぽいイメージがある。アメリカの伝統に不干渉思想のモンロー主義があるが、積極的に軍事介入を続けているのだからこれとも違う。ネオコンは、もともとリベラルのような?左翼のような?とにかくその方面からの転向組だという。彼らには「トロツキズム的な世界改革の理想」があるという。これはうまい表現だなあ!ちなみに、トロツキーはスターリンの古参ボルシェビキの大量虐殺にあった一人で、亡命先のメキシコで暗殺された。もっともスターリンの場合、イデオロギー論争というよりはライバルの暗殺が目的であるが。
ところで、日本の二大政党の自民党と民主党の違いってよく分からん!
8. おもろいメディア
本書は、FOXニューズをブッシュ政権の大本営と蔑む。ホワイトハウスの晩餐会でコメディアンのスティーヴン・コルベアのホメ殺しのスピーチは笑える。
「貧乏人に告ぐ!貧乏をやめろ!諸君らが貧乏なせいで大統領が責められる。貧乏なのは愛国心が足らない。」「アメリカをダメにするリベラルなマスコミ関係者だらけでヘドがでます。いや、FOXニューズは違いますよ。両サイドの意見を報道しますから。大統領の意見と副大統領の意見を。」「ブッシュ政権をタイタニック号にたとえる人がいますが失礼な話です。この政権が斜めに傾いているのは沈んでいるのじゃなくて上昇しているんです。飛行船ヒンデンブルグ号のように!(ちなみに、ヒンデンブルグ号は上空で爆発した。)」
隣に座っているブッシュの顔は真っ赤になったという。しかし、ホメ殺しは延々と終わらない。このスピーチを新聞やテレビは報道しなかったが、チャンネルC-SPANだけがノーカットで放送し、YouTubeにアップされ数百万人が観たという。コルベアのスピーチは、記者たちにも向けられる。
「ブッシュ大統領になって5年間、ホワイトハウスの記者の皆さんはずっとイイ子ちゃんでした。無茶な減税や、イラクに大量破壊兵器がなかったこと、野放しの地球温暖化についても、あまり大統領に突っ込みませんでした。記者の皆さんはそれを追及しない節度がありました。さあ、もう一度ホワイトハウス記者の決まりをおさらいしましょう。何かを決めるのは大統領。それを記者に伝えるのは報道官。記者は大統領のお言葉を書き写す....(と続く...)」
この言葉は、某国の記者クラブに捧げたい。
2009-01-01
本棚のパワー
ブログを続けて二年が過ぎた。飽きっぽいアル中ハイマーにとっては驚くべき事実である。学生時代、ある先生に読書や音楽鑑賞は趣味といった類のものではないと言われたことがある。つまり、本を読まなかったり、音楽を聴かない人など、いないということである。しかし、ある特質した分野に精通するのであれば、そうとは言えないだろうと心の中で反発したものだ。例えば、モーツアルトに凝ってその歴史を遡り、その音楽の特質に堪能できれば、それは立派な趣味だと思う。そう考えると、おいらの場合は読書が趣味とは言えない。数もそんなに多く読んでいるわけでもない。それでも、結果的に読書がテーマになっているのは、奇妙な話である。
今、ブランデーを飲みながら本棚を眺めている。これがなかなかおもしろい。それも、自分自身の歴史を振り返ることができるからである。昔読んだはずの本が新鮮に見える。数は少ないが、結構おもしろい本を読んでいたことに気づかされる。今思えば随分と本を処分してきた。20代、30代は引越を繰り返していた。半年しか住んでいないマンションすらある。自らに変化を求めるには生活環境を変えるのが一番だと、強く信じていた時期である。お陰で引越し貧乏が慢性化していた。その都度荷物は処分する。特に書物は重量が嵩む。古本屋に持ち込めばお金にもなる。当時は、一度読んだ本を読み返すなど考えもしなかった。本に出会うタイミングも難しい。くだらないと思った本でも馬鹿にはできない。受け止められるだけの心構えができていなければ、どんなに素晴らしいものに出会っても見過ごしてしまう。処分した本の中にも、もったいないことをしたものがたくさんあるに違いない。最近の売れ筋よりは、昔読んだ本を読み返す方がおもしろい。今になって処分したことを後悔している。
30歳から...40歳から...といった啓発本が書店の陳列を賑わす。ただ、その時に、自らの歴史を振り返ることができなければ先には進めない。30歳から何かしたければ、20代を精一杯生きることだ。40歳で何かしたければ、30代を精一杯生きることだ。もし、40歳で何も見つからなければ、40代を精一杯生きて50歳になるのを待つことだ。人生は死ぬまで続く。人間は永遠に答えの見つからない自問と対峙する運命にある。よって、人生に年齢など関係ないと信じたい。記憶力のないアル中ハイマーには、過去を振り返りたくても遡る手段がない。これは辛い!と思っていると、そんな役割を本棚が果たしてくれる。本棚は、先に進むパワーを与えてくれる。ただ、残念なことに、本棚には社会人になってから10年間ほどの本がぽっかりと空いている。辛うじて、実家に置き去りにしていた学生時代の本が残っているぐらい。したがって、振り返ることができるのは10年分ぐらいだろうか。時々絶賛されている古い小説が紹介されるのを見かければ、読んだ覚えのあるタイトルにでくわす。だが、中身がまったく思い出せない。本棚をあさっても見当たらない。出版社を調べても絶版だったりする。そして、自らの歴史を穴埋めするために古本屋へ駆け込む。これが、ここ数年の行動パターンである。当時を振り返ろうと、もがきながら、古本屋を散歩するのも楽しい。アル中ハイマーの哲学の一つに、「のんびりと精一杯!」という言葉がある。頭の回転が鈍い人間には、何事もじっくりと構えないと得られるものが少ない。本という媒体は、そういう人間にピッタリだということが、今になって気づかされる。人生には、リズムとバランスが大切だと思っている。そして、時々立ち止まり振り返ることも付け加えたい。本棚は、その立ち止まって振り返る時に力を与えてくれる。昔から、歴史という分野は好きだが、まさか自らの歴史を振り返るなど考えもしなかった。本棚に自らの歴史を刻みつけた時、信じられないパワーを発揮する。
本には、表紙のデザイン、タイトル名、後書きなど、隅々にまで著者の思いが込められる。おいらは、こうした全てを舐めまわすように眺めるのが好きだ。映画館では、上映が終わると、エンディング音楽が流れている途中でほとんどの観客が席を立つ。しかし、製作者の情熱は、このエンディングにも刻まれる。おいらは完全にフィルムが止まるまで味わう。そうしないと気がすまないのは貧乏性の証でもある。出された食事は、皿を舐めまわすように食さないと気が済まない。どんな本でも、その能力と情熱には敬意を表したい。
ブログを始めて気づくことは、精神を解放できることである。何を考え、どんな感情に見舞われるかを確認することができる。ただ、自らの精神から冷めた領域に身を置かないと文章は書けない。そして、どんな媒体であれ、情報は発信した方が良いと思うようになった。さて10年後、自らの記事をどんな思いで読み返すことができるだろうか?それも一つの楽しみである。おもしろい本を見つければ、その参考文献も読みたい。そして、次々と読みたい本が登場し、そうした感情が輪廻するようにできている。ToDoリストは永遠に溢れるようにできているようだ。
ところで、読書する意義とはなんだろうか?一つは知識を得る手段である。だが、それだけではあるまい。高度な知識を身に付けて、他人の間違いを指摘することに命を掛ける人がいる。何かに憑かれたように知識を吸収することに専念しても、自らの精神で消化できなければその意義を失う。方法論に目くじらを立てても、目的論になると議論を怠る場合も多い。この偏りはなんだろうか?また、知識の縦割りといった現象もある。せっかくの繊細な知識を他の分野で応用するのは難しい。泥酔者ともなれば知識の縦割りと横割りの両方が生じる。精神も知識も泥酔状態、アル中ハイマー病とはそうした病である。知識を得る意義の一つは事実関係に迫ることである。ただ、事実は単なる現象である場合がある。重要なのは、知識から何を学ぶかであり、決して得られることのない真理を探究することであろう。数学的公理は永遠であるが、歴史の知識となると、その解釈は時代とともに変化する。ただ、知識が思考を助けるのも事実だ。全然知識が無ければ思考することすら難しい。だが、知識が多いからといって思考が深いとは限らない。エリートはこの罠に嵌りやすい。実際、知識人の発言には、なんとなく説得力を感じる。頭の回転の速い人の発言には圧倒される。そして、冷静に考えてみると酔っ払いの直観が訴える。「その発言に疑問を持て!」と。読書という手段が、知識を得ることだということに固執する必要はないだろう。どんなに知識を得ようと頑張ったところで、次の瞬間には消え去る。既に記憶領域が破壊されている。アル中ハイマーは、知人の名前を覚えることすら苦手なのだ。結婚式の案内状で友人の名前を思い出すことはよくある。知識よりも文章表現によって、その瞬間に感動を与えるものがある。読書している瞬間に心を癒してくれる何かがある。その時の気分によって、その時の精神状態によって、同じものでも違った視点が見えることがある。同じ本を読んでも、気分次第で違った景色が見えるのは得した気分になれる。酔っ払いは感情の起伏が激しい。読書の意義には、むしろ精神の安らぎを求めたい。自らの精神を解放し、新たな思考を巡らせるための手段としたい。そして、本ブログを自らのエゴイズムを追及する場にするのであった。
アル中ハイマーは思いついたフレーズは全て言いたいと思う質である。よって、どうしても文章が長くなる傾向にある。酔っ払いはお喋りなのだ。ちなみに、酒を飲まずに記事を書いたことがない。そこで、モーツァルトの好きな逸話を思い出す。それはオペラ「後宮からの逃走: K384」に関するものだったと思う。皇帝ヨーゼフ2世が、「我々の耳には音譜が多すぎるようだ。」と言うと、モーツァルトは、「音譜はまさに必要とされる量ございます。」と答えた。このエピソードに励まされる思いである。アル中ハイマーにとって語るだけで精一杯!コンパクトにまとめるのは至難の業である。文章を書くこととプログラムを書くことには、なんとなく通ずるものを感じる。言いたいことを羅列する様には、モジュールの摘出の姿が重なる。文章構成にはまさしくモジュール構成の姿がある。アル中ハイマーは、しばしばスパゲッティプログラムを書いてKernel Panicを起す。そして、今日も昼間っからスパゲッティ文章を書いて泥酔するのであった。
今、ブランデーを飲みながら本棚を眺めている。これがなかなかおもしろい。それも、自分自身の歴史を振り返ることができるからである。昔読んだはずの本が新鮮に見える。数は少ないが、結構おもしろい本を読んでいたことに気づかされる。今思えば随分と本を処分してきた。20代、30代は引越を繰り返していた。半年しか住んでいないマンションすらある。自らに変化を求めるには生活環境を変えるのが一番だと、強く信じていた時期である。お陰で引越し貧乏が慢性化していた。その都度荷物は処分する。特に書物は重量が嵩む。古本屋に持ち込めばお金にもなる。当時は、一度読んだ本を読み返すなど考えもしなかった。本に出会うタイミングも難しい。くだらないと思った本でも馬鹿にはできない。受け止められるだけの心構えができていなければ、どんなに素晴らしいものに出会っても見過ごしてしまう。処分した本の中にも、もったいないことをしたものがたくさんあるに違いない。最近の売れ筋よりは、昔読んだ本を読み返す方がおもしろい。今になって処分したことを後悔している。
30歳から...40歳から...といった啓発本が書店の陳列を賑わす。ただ、その時に、自らの歴史を振り返ることができなければ先には進めない。30歳から何かしたければ、20代を精一杯生きることだ。40歳で何かしたければ、30代を精一杯生きることだ。もし、40歳で何も見つからなければ、40代を精一杯生きて50歳になるのを待つことだ。人生は死ぬまで続く。人間は永遠に答えの見つからない自問と対峙する運命にある。よって、人生に年齢など関係ないと信じたい。記憶力のないアル中ハイマーには、過去を振り返りたくても遡る手段がない。これは辛い!と思っていると、そんな役割を本棚が果たしてくれる。本棚は、先に進むパワーを与えてくれる。ただ、残念なことに、本棚には社会人になってから10年間ほどの本がぽっかりと空いている。辛うじて、実家に置き去りにしていた学生時代の本が残っているぐらい。したがって、振り返ることができるのは10年分ぐらいだろうか。時々絶賛されている古い小説が紹介されるのを見かければ、読んだ覚えのあるタイトルにでくわす。だが、中身がまったく思い出せない。本棚をあさっても見当たらない。出版社を調べても絶版だったりする。そして、自らの歴史を穴埋めするために古本屋へ駆け込む。これが、ここ数年の行動パターンである。当時を振り返ろうと、もがきながら、古本屋を散歩するのも楽しい。アル中ハイマーの哲学の一つに、「のんびりと精一杯!」という言葉がある。頭の回転が鈍い人間には、何事もじっくりと構えないと得られるものが少ない。本という媒体は、そういう人間にピッタリだということが、今になって気づかされる。人生には、リズムとバランスが大切だと思っている。そして、時々立ち止まり振り返ることも付け加えたい。本棚は、その立ち止まって振り返る時に力を与えてくれる。昔から、歴史という分野は好きだが、まさか自らの歴史を振り返るなど考えもしなかった。本棚に自らの歴史を刻みつけた時、信じられないパワーを発揮する。
本には、表紙のデザイン、タイトル名、後書きなど、隅々にまで著者の思いが込められる。おいらは、こうした全てを舐めまわすように眺めるのが好きだ。映画館では、上映が終わると、エンディング音楽が流れている途中でほとんどの観客が席を立つ。しかし、製作者の情熱は、このエンディングにも刻まれる。おいらは完全にフィルムが止まるまで味わう。そうしないと気がすまないのは貧乏性の証でもある。出された食事は、皿を舐めまわすように食さないと気が済まない。どんな本でも、その能力と情熱には敬意を表したい。
ブログを始めて気づくことは、精神を解放できることである。何を考え、どんな感情に見舞われるかを確認することができる。ただ、自らの精神から冷めた領域に身を置かないと文章は書けない。そして、どんな媒体であれ、情報は発信した方が良いと思うようになった。さて10年後、自らの記事をどんな思いで読み返すことができるだろうか?それも一つの楽しみである。おもしろい本を見つければ、その参考文献も読みたい。そして、次々と読みたい本が登場し、そうした感情が輪廻するようにできている。ToDoリストは永遠に溢れるようにできているようだ。
ところで、読書する意義とはなんだろうか?一つは知識を得る手段である。だが、それだけではあるまい。高度な知識を身に付けて、他人の間違いを指摘することに命を掛ける人がいる。何かに憑かれたように知識を吸収することに専念しても、自らの精神で消化できなければその意義を失う。方法論に目くじらを立てても、目的論になると議論を怠る場合も多い。この偏りはなんだろうか?また、知識の縦割りといった現象もある。せっかくの繊細な知識を他の分野で応用するのは難しい。泥酔者ともなれば知識の縦割りと横割りの両方が生じる。精神も知識も泥酔状態、アル中ハイマー病とはそうした病である。知識を得る意義の一つは事実関係に迫ることである。ただ、事実は単なる現象である場合がある。重要なのは、知識から何を学ぶかであり、決して得られることのない真理を探究することであろう。数学的公理は永遠であるが、歴史の知識となると、その解釈は時代とともに変化する。ただ、知識が思考を助けるのも事実だ。全然知識が無ければ思考することすら難しい。だが、知識が多いからといって思考が深いとは限らない。エリートはこの罠に嵌りやすい。実際、知識人の発言には、なんとなく説得力を感じる。頭の回転の速い人の発言には圧倒される。そして、冷静に考えてみると酔っ払いの直観が訴える。「その発言に疑問を持て!」と。読書という手段が、知識を得ることだということに固執する必要はないだろう。どんなに知識を得ようと頑張ったところで、次の瞬間には消え去る。既に記憶領域が破壊されている。アル中ハイマーは、知人の名前を覚えることすら苦手なのだ。結婚式の案内状で友人の名前を思い出すことはよくある。知識よりも文章表現によって、その瞬間に感動を与えるものがある。読書している瞬間に心を癒してくれる何かがある。その時の気分によって、その時の精神状態によって、同じものでも違った視点が見えることがある。同じ本を読んでも、気分次第で違った景色が見えるのは得した気分になれる。酔っ払いは感情の起伏が激しい。読書の意義には、むしろ精神の安らぎを求めたい。自らの精神を解放し、新たな思考を巡らせるための手段としたい。そして、本ブログを自らのエゴイズムを追及する場にするのであった。
アル中ハイマーは思いついたフレーズは全て言いたいと思う質である。よって、どうしても文章が長くなる傾向にある。酔っ払いはお喋りなのだ。ちなみに、酒を飲まずに記事を書いたことがない。そこで、モーツァルトの好きな逸話を思い出す。それはオペラ「後宮からの逃走: K384」に関するものだったと思う。皇帝ヨーゼフ2世が、「我々の耳には音譜が多すぎるようだ。」と言うと、モーツァルトは、「音譜はまさに必要とされる量ございます。」と答えた。このエピソードに励まされる思いである。アル中ハイマーにとって語るだけで精一杯!コンパクトにまとめるのは至難の業である。文章を書くこととプログラムを書くことには、なんとなく通ずるものを感じる。言いたいことを羅列する様には、モジュールの摘出の姿が重なる。文章構成にはまさしくモジュール構成の姿がある。アル中ハイマーは、しばしばスパゲッティプログラムを書いてKernel Panicを起す。そして、今日も昼間っからスパゲッティ文章を書いて泥酔するのであった。
2008-12-26
アル中ハイマー流「悪魔の辞典」
今年の最後はこのネタで締めくくろう。今宵もいい感じで酔っている。hpにもアップしとこうっと。
西暦2108年、とある人工島で100年前の古い文献が発見された。その人工島は、かつてアドベンチャーな企業が集まり経済の中心地であったという。現在では、当時の面影はまったく残っておらず、ゴーストタウンと化している。発見された文献の名は、「アル中ハイマー流、悪魔の辞典」。ちなみに、著者は読み人知らず。昔々社会混乱のさなか、アル中ハイマー病を患い半狂乱した人物によって記されたものらしい。
1. 政治学
政治屋...
それがどんなに善行であっても、自分を経由しなければ反対の立場をとる輩。政治家は前の代の政治家が残した批難材料をそのまま引き継ぐ宿命を背負う。それゆえに、前の代の政治家は今の代の政治を猛烈に批判する。
議会制民主政治...
議員たちが揉めている隙に官僚体制を強固にしてしまった、もはや取り返しのつかない我が国特有の政治システム。議会が機能しないという弱点を有するが、全く心配はない。もっと上手の官僚が仕切っているから。この世界では、賛同しない者を不誠実と呼び、自らの斡旋を中立独立と呼ぶ。都合が悪くなると誠意がないと叫び、正義にかられて偽証できない者を自重しろと説教する。中国の官僚制は1500年もの長い年月をかけて科挙を廃止してきた。にもかかわらず、未だに古代システムの亡霊に憑かれている。日本の官僚制はその亡霊を猛スピードで追いかけている。
第三者会議...
その人選は当人が決める談合会議。したがって、この会議が完璧に機能した時は政策に反映されない。
有識者会議...
そもそも、会議というものは無識者で構成されるものだというこを知らしめてまわる言葉で、極めて政治力の強い世界で使われる専門用語。尚、会議に参加できるのは自称有識者に限る。
骨太の政策...
身と肉を削る政策。また、自ら過大評価していることを知らしめてまわる政界の専門用語。真に充実した政策ならば、くだらない形容は不要なはず。類似語に「百年安心の年金制度」というのがある。
2. 社会学
社会学...
人間の行動によって引き起こされる矛盾した現象を扱う学問。人間社会には、政治家が政治を破壊し、経済学者が経済危機を起し、道徳家が道徳を崩壊させ、平和主義者が戦争を招くといった現象がある。
報道屋...
言論の自由を訴えながら、他人の意見を迫害する輩。強大な権力者には優しく弱者をいじめる連中。したがって、落ち目の権力者は徹底的に叩かれる運命にある。そして、なによりも正直者である。決してデマを流すわけではなく、些細な事実を思いっきり盛り上げ、重大な事実をささやかに伝える。したがって、彼らの情報操作は超一流だ!
大新聞...
民衆の誰もが信じる最も洗脳性の強い新聞。だからこそ、どの大新聞もこぞって同じ記事を掲載する。彼らは透明性のない記者クラブの下で情報を作成する。クラブ活動とはよほど楽しいものらしい。ちなみに、アル中ハイマーも夜のクラブ活動に励んでいる。
天職...
どんな人間であっても、性格や趣味などその人間性に似合った職業が用意されている。自然法則を探求したいから科学者になる。あらゆる美と戯れたいから芸術家になる。詩の虜になれば文学の道がある。精神の持つ真理を覗きたいならば哲学者にもなる。統計をとって社会の行く末を占いたいから経済学者になる。説教をしたい輩は教育者にもなろう。噂を広めておもしろがってる輩は報道屋になればいい。「火の無い所に煙は立たない」と言うが、自ら油をまいてマッチを持ってまわる放火魔もこの職に属す。では、腹黒い人間には、いったいどんな職業が用意されているというのか?神はその救済に政治家という職業を用意したのであった。
自由と平等...
近代のイデオロギーは、「自由」と「平等」の互いの関係をめぐっての論争の中にある。一方の派は、「平等」を「自由」と敵対する概念と考え、自由至上主義を唱える。他方の派は、「自由」を悪魔のように考え、やたらとバラマキ政策を唱える。前者は「平等」的な政策をアカと呼び、後者は「平等」的な政策にピラミッド造りを推し進める。いずれのイデオロギーも、「自由」と「平等」がいまだ共存できることに気づいていない。
アル中ハイマー病...
精神と記憶がアンダーステア状態で、自分が何を語っているかも分からない病。よって、いつも人から馬鹿にされる。ただ、それすら分からないので、人生は気楽だと信じこんで幸せである。ちなみに、アル中ハイマーの愛車のセッテイングは、軽いアンダーステアだ。ここから得られる帰結は「人間はちょっと馬鹿なぐらいがちょうどええ!」
3. 歴史学
歴史のメカニズム...
「歴史は繰り返す」と言うが、歴史を繰り返すことはない。その法則性は人間社会の複雑系の中に紛れるからである。だが、歴史を学ばなければ失敗を繰り返す。これが歴史のメカニズムである。成功例から学ぶものが少ないのは、そこに偶然性が潜むからである。しかし、失敗例から学ぶことは多い。失敗の因果関係は表面化しやすいからである。したがって、偶然性を高く評価できる人間こそ、その因果関係に精通することができる。
人類の歴史...
「人間」という身分をめぐっての抽象化の歴史。「人間」という身分をどの範囲に適応するかで、その人が人間扱いされるかが決まる。よって、古代哲学がいまだに通用するのは、倫理観が古代から進歩していない証である。
4. 経済学
経済学者...
物質的な利害関係のみで人間社会が成り立っていると思っている狂信者。経済学者と称する者で、社会学的観点のない者は単なる統計調査員である。おまけに、数学的観点のない者は単なる占い師である。ある統計情報によると、経済学を勉強すると利己的になる傾向があるらしい。アマチュアの唱える経済学は危険である。だが、プロの唱える経済学は危険の度を通り過ぎている。経済人の非合理性は、別の人間には合理性となりうる。つまり、合理性の定義は個人によって違う。人間の理念は十人十色ということだ。ところで、占い師ってどうすればなれるの?
銀行屋...
他人資本を自己資本と勝手に思いこんでいる輩。そして、他人からの資本提供によって儲けた金を自分の金だと得意げに語る。彼らは、資金難に陥ると、公的資金を注入しないと潰れるぞ!と脅す。潰れると預金が戻らないから民衆は怖気づく。これは学生時代の教訓そのものである。金を貸した時、「返さないぞ!」と脅されて反論できなかった。
景気対策...
好景気とは、金持ちだけが潤った状態。不景気とは、貧乏人が自殺を覚悟する状態。したがって、景気対策はもっぱら好景気を目指す。金持ちが貧乏人を牽引するというが、貧乏人が牽引される前に不景気局面となる。したがって、貧乏人は永久に好景気を知らない。これが経済サイクルというものだ。つまり、景気対策とは格差促進を意味する。ところで、人類最初の経済学者はコロンブスだと揶揄する話がある。インドだと思ったらアメリカ大陸だったのだ。つまり、それだけ経済政策は的を外しているということらしい。
経済分析...
市場経済の分析にはファンダメンタルズ派とテクニカル派がある。アル中ハイマーは市場経済に重力法則が成り立つと信じているので、限りなくファンダメンタルズ派に近い。だが、実際に適正な市場価値を判断できる人間はこの世にはいない。ファンダメンタルズ派であっても、株価を判断するのに過去の経験則を用いて計測する。アル中ハイマーも夜な夜な経済分析を繰り返す。したがって、今では、夜のテクニシャンと名乗っている。
消費者金融...
一昔前はサラ金と呼ばれていた。呼び名が変わっただけで上場もできる。
派遣労働者...
一昔前は日雇い労働者と呼ばれていた。派遣会社と名乗れば上場もできる。
下請けいじめ...
大企業の業績を支えている企業形態。ある日、某大手企業とその下請け企業の間でスポーツの試合が行われていた。下請け企業の凄まじい応援には、根深い恨みが現れていた。
5. 哲学
宗教家...
どんなことでも無条件に信じる特徴を有し、脳死状態に陥った幸せな連中。しかも、その幸せを他人にも強要するので、善人とも呼ばれる。
偶像崇拝...
お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることである。偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。そういえば、土下座してまで当選回数にこだわった政治家がいた。どうやら銅像が建つらしい。
物事の本質...
物事の本質を探求するとは、よりプリミティブへと向かうことである。科学は宇宙全体を解明するために原始粒子を探求する。芸術は精神を解明するために自然を探求する。精神の中にある「笑う」という感覚は幸せを与える。そして、その感覚もまたプリミティブへと向かう。つまり、箸が転がるだけで笑える感覚こそ、精神の本質がある。したがって、アル中ハイマーは女子高生に弟子入りしようと、逆援助交際を目論む。
知識人...
自らの知識に絶対的に自信を持ち、他人を蔑む輩。そして、どんな話題にも獰猛に喰いつき、他人の間違いばかり指摘し、自らの精神は語れない。彼らの「姑チェック」は完璧だ。したがって、知識馬鹿ほど便利な存在はない。
思考力...
外圧から解き放たれた時に働く気まぐれ。したがって、ベロンベロン状態にこそ最強の思考力が得られる。ただ、同時に記憶力が失われるという反作用を具える。つまり、思考力とは、虚しさを意味する。
時間の収支...
10年早くこの知識に出会っていたら、10年早くこの人に出会っていたら、10年早くこの勉強を始めていたら、とはよく聞く台詞である。人生は短い。人生は後悔の連続なのだ。そんなことを考えていると、すべてを忘れるために飲まずにはいられない。そして、10年後に同じ台詞を言うのであった。時間の収支は永遠に赤字なのである。
人徳...
ゲームの中に登場する人物のパラメータ。なぜか?この数値が高いと限りなくゲームを有利に展開できる。したがって、人徳とはゲームのテクニックに違いない。
道徳家...
人徳を有する人。つまり、ゲームの達人。得意なゲームは「人生ゲーム」。ちなみに、「人生ゲーム」の欠点は、必ず結婚して必ず子供ができることである。彼らは、紋切り型の人生しか想像できない。
自由意志...
コントロールできそうで、実は手に負えない自我。自由意志がコントロールできたら、人間は自らの存在そのものを罪と感じるだろう。したがって、最も人間らしい精神は、気まぐれである。ところで、精巧に造られたロボットには霊的なものを感じる。ここにも自由意志は生成されるのだろうか?一昔前、ソニーの犬型ロボットAIBOが登場した時、足を付け替えたりすると、子供は足をもいでいると勘違いして虐待だと叫ぶ。しかし、これはロボットだ。映画「ターミネーター」でシュワルツェネッガーが腕を切るシーンがある。これもロボットだ。いや!シュワちゃんの腕だから気持ち悪い。では、女性ロボットとの関係に不倫は成立するのだろうか?
幸せ...
ちょっとした不幸によって帳消しになる現象、または錯覚。幸せな生活とは束縛を意味する。愛は本来自由なものであったはずだが、結婚すると愛は義務と変貌するらしい。なるほど、義務とは息苦しいものである。一般的に人間は幸せを求める。なるほど、一般的に人間はMということか。「手のしわとしわを合わせて幸せ」って聞いたことがあるが、「指のふしとふしを合わせて不幸せ」ってのもあるらしい。どちらも誰が言ったかは知らん!
6. 科学
物体の本質...
ポーは著書「ユリイカ」で、物体は引力と斥力の二つの基本要素のみで成り立つと直観的に語った。だから、二つの原始粒子が引力によってどんなに近づいても、斥力によって一つに融合することがない。つまり、男女がどんなに愛し合って合体しようとも、決して心は一つにはなれない。これが宇宙原理というものだ。
熱力学の法則...
一瞬で燃え上がる愛情熱は一瞬に失う理性エネルギーと相殺する。これが熱力学の第一法則である。そして、愛情熱は冷める方向へと進み、愛情の縺れはますます混沌へと向かう。これが熱力学の第ニ法則である。
エントロピー増大の法則...
爆発的な人口増加によって人間社会が複雑系に向かう法則。凡庸な政治指導者がますます増えるのも、この自然法則に従ったものだ。
微分学...
永遠に到達できない概念。正弦波を微分すると余弦波になる。これは、波をいくら微分しても永遠に波でありつづけることを意味する。そして、千鳥足は永遠にゆらぎ続ける。永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する。すなわち、愛は永遠に到達できない。しかも、到達したと錯覚する特異点では急激に発散する。これを愛の興ざめと言う。
電波の枯渇...
周波数帯の枯渇は電波の奪い合いを引き起こす。なるほど、「運命の赤い糸」のコードレス化が進んだわけだ。
リーマン予想...
アル中ハイマー病患者の行動パターンに関する予測。「ゼータ関数の自明でない零点の実数部はすべて1/2である。」には、実は素数定理とは違った深い解釈が内包されている。「自明でない零点」は「記憶にない例の店」を意味する。夜の社交場へまっすぐに向かう足取りこそ、クリティカル・ラインが現れる。そして、アル中ハイマー流に書き換えると、「記憶にない例の店では、実は半分しか飲んでいないのに、虚空間では無限に飲んでいるかもしれない。」となる。また、ゼータ関数は都合よく定義域によって形が変化する。たとえ、ベロンベロンに酔っ払っ(発散し)ても、別の人格(定義域)では、俺は酔ってないぜ!(収束している)と主張する。つまり、ゼータ関数はアル中ハイマーの気まぐれな行動を示している。
フーリエ解析...
飲酒状態を解析する方法。いろんな酒を飲むと、つい悪乗りして行き過ぎた行動にでる。これは、いろんなアルコール成分の係数和が急激に振動して、人格がオーバーシューティングするためである。これがギブス現象の正体だ。この現象は、どんな人格であっても、波の成分とその成分の係数が分かれば解析できることを意味する。ここで解析に使われる波は、直交特性が必然である。例えば、千鳥足のような「ゆらぎ」の中で夜の社交場へ直行する性質である。そして、ベロンベロン状態であればあるほど精度は高い。
7. 夜の社交学
夜の社交場...
ホットな女性から発生される一種の電磁場。「君に酔ってんだよ!」とドスの利いた声が自然に出る場。煙草をくわえるとお姉さんが火をつけ、「おっと俺の心に火をつけやがったな!」と条件反射で答える場。一人の女性がいるとそこには磁場が発生する。この微力な磁場を強力にするには、男性が回りを囲めばいい。これがソレノイドである。目をつけた女性の視線は直進性が高い。これは一種の電磁波である。永遠に進み続ける電磁波にアル中ハイマーはいちころである。これが「夜の社交場の法則」である。
親切...
酔いつぶれている人に、もっと酒を勧めるのが親切なのか?それとも、酒を止めてあげるのが親切なのか?いや、責任をとって「俺が飲む!」が答えである。
恋と愛...
下心があるのが「恋」。心を下に書くので下心がある。見返りを求めないのが真の「愛」。心を真中に書くから。...とバーでgさんがほざいていた。
女に優しい男の美学...
麻雀をやっていると、「俺は女からは当たらない主義だ!」と主張する奴がいる。彼はその美学に酔って生きる。つまり、女に優しい主義とは、その美学に酔って淋しく生きることである。
酔っ払い達のテロ行為...
気分悪そうにしゃがんでいる人に大丈夫か?と尋ねると、決まって大丈夫という返事が返ってくる。そこで、安心して背負うと、なんとなく首筋が生暖かくなる。これを「延髄ゲロ」という。ベッドの中で仰向けでやっているのを「自爆ゲロ」という。その横で一緒に寝ると「ゲロ心中」となる。他人の顔の上でやると死刑は免れない。電車の中で、綺麗な女性がこちらを真剣に見つめている。駅に着くと突然、女性はゴミ箱に向かって突進した。その瞬間、ゴミ箱に顔を突っ込んで...しばらくすると、そのままゴミ箱と一緒にお寝んねしてしまった。これを「特攻ゲロ」という。
西暦2108年、とある人工島で100年前の古い文献が発見された。その人工島は、かつてアドベンチャーな企業が集まり経済の中心地であったという。現在では、当時の面影はまったく残っておらず、ゴーストタウンと化している。発見された文献の名は、「アル中ハイマー流、悪魔の辞典」。ちなみに、著者は読み人知らず。昔々社会混乱のさなか、アル中ハイマー病を患い半狂乱した人物によって記されたものらしい。
1. 政治学
政治屋...
それがどんなに善行であっても、自分を経由しなければ反対の立場をとる輩。政治家は前の代の政治家が残した批難材料をそのまま引き継ぐ宿命を背負う。それゆえに、前の代の政治家は今の代の政治を猛烈に批判する。
議会制民主政治...
議員たちが揉めている隙に官僚体制を強固にしてしまった、もはや取り返しのつかない我が国特有の政治システム。議会が機能しないという弱点を有するが、全く心配はない。もっと上手の官僚が仕切っているから。この世界では、賛同しない者を不誠実と呼び、自らの斡旋を中立独立と呼ぶ。都合が悪くなると誠意がないと叫び、正義にかられて偽証できない者を自重しろと説教する。中国の官僚制は1500年もの長い年月をかけて科挙を廃止してきた。にもかかわらず、未だに古代システムの亡霊に憑かれている。日本の官僚制はその亡霊を猛スピードで追いかけている。
第三者会議...
その人選は当人が決める談合会議。したがって、この会議が完璧に機能した時は政策に反映されない。
有識者会議...
そもそも、会議というものは無識者で構成されるものだというこを知らしめてまわる言葉で、極めて政治力の強い世界で使われる専門用語。尚、会議に参加できるのは自称有識者に限る。
骨太の政策...
身と肉を削る政策。また、自ら過大評価していることを知らしめてまわる政界の専門用語。真に充実した政策ならば、くだらない形容は不要なはず。類似語に「百年安心の年金制度」というのがある。
2. 社会学
社会学...
人間の行動によって引き起こされる矛盾した現象を扱う学問。人間社会には、政治家が政治を破壊し、経済学者が経済危機を起し、道徳家が道徳を崩壊させ、平和主義者が戦争を招くといった現象がある。
報道屋...
言論の自由を訴えながら、他人の意見を迫害する輩。強大な権力者には優しく弱者をいじめる連中。したがって、落ち目の権力者は徹底的に叩かれる運命にある。そして、なによりも正直者である。決してデマを流すわけではなく、些細な事実を思いっきり盛り上げ、重大な事実をささやかに伝える。したがって、彼らの情報操作は超一流だ!
大新聞...
民衆の誰もが信じる最も洗脳性の強い新聞。だからこそ、どの大新聞もこぞって同じ記事を掲載する。彼らは透明性のない記者クラブの下で情報を作成する。クラブ活動とはよほど楽しいものらしい。ちなみに、アル中ハイマーも夜のクラブ活動に励んでいる。
天職...
どんな人間であっても、性格や趣味などその人間性に似合った職業が用意されている。自然法則を探求したいから科学者になる。あらゆる美と戯れたいから芸術家になる。詩の虜になれば文学の道がある。精神の持つ真理を覗きたいならば哲学者にもなる。統計をとって社会の行く末を占いたいから経済学者になる。説教をしたい輩は教育者にもなろう。噂を広めておもしろがってる輩は報道屋になればいい。「火の無い所に煙は立たない」と言うが、自ら油をまいてマッチを持ってまわる放火魔もこの職に属す。では、腹黒い人間には、いったいどんな職業が用意されているというのか?神はその救済に政治家という職業を用意したのであった。
自由と平等...
近代のイデオロギーは、「自由」と「平等」の互いの関係をめぐっての論争の中にある。一方の派は、「平等」を「自由」と敵対する概念と考え、自由至上主義を唱える。他方の派は、「自由」を悪魔のように考え、やたらとバラマキ政策を唱える。前者は「平等」的な政策をアカと呼び、後者は「平等」的な政策にピラミッド造りを推し進める。いずれのイデオロギーも、「自由」と「平等」がいまだ共存できることに気づいていない。
アル中ハイマー病...
精神と記憶がアンダーステア状態で、自分が何を語っているかも分からない病。よって、いつも人から馬鹿にされる。ただ、それすら分からないので、人生は気楽だと信じこんで幸せである。ちなみに、アル中ハイマーの愛車のセッテイングは、軽いアンダーステアだ。ここから得られる帰結は「人間はちょっと馬鹿なぐらいがちょうどええ!」
3. 歴史学
歴史のメカニズム...
「歴史は繰り返す」と言うが、歴史を繰り返すことはない。その法則性は人間社会の複雑系の中に紛れるからである。だが、歴史を学ばなければ失敗を繰り返す。これが歴史のメカニズムである。成功例から学ぶものが少ないのは、そこに偶然性が潜むからである。しかし、失敗例から学ぶことは多い。失敗の因果関係は表面化しやすいからである。したがって、偶然性を高く評価できる人間こそ、その因果関係に精通することができる。
人類の歴史...
「人間」という身分をめぐっての抽象化の歴史。「人間」という身分をどの範囲に適応するかで、その人が人間扱いされるかが決まる。よって、古代哲学がいまだに通用するのは、倫理観が古代から進歩していない証である。
4. 経済学
経済学者...
物質的な利害関係のみで人間社会が成り立っていると思っている狂信者。経済学者と称する者で、社会学的観点のない者は単なる統計調査員である。おまけに、数学的観点のない者は単なる占い師である。ある統計情報によると、経済学を勉強すると利己的になる傾向があるらしい。アマチュアの唱える経済学は危険である。だが、プロの唱える経済学は危険の度を通り過ぎている。経済人の非合理性は、別の人間には合理性となりうる。つまり、合理性の定義は個人によって違う。人間の理念は十人十色ということだ。ところで、占い師ってどうすればなれるの?
銀行屋...
他人資本を自己資本と勝手に思いこんでいる輩。そして、他人からの資本提供によって儲けた金を自分の金だと得意げに語る。彼らは、資金難に陥ると、公的資金を注入しないと潰れるぞ!と脅す。潰れると預金が戻らないから民衆は怖気づく。これは学生時代の教訓そのものである。金を貸した時、「返さないぞ!」と脅されて反論できなかった。
景気対策...
好景気とは、金持ちだけが潤った状態。不景気とは、貧乏人が自殺を覚悟する状態。したがって、景気対策はもっぱら好景気を目指す。金持ちが貧乏人を牽引するというが、貧乏人が牽引される前に不景気局面となる。したがって、貧乏人は永久に好景気を知らない。これが経済サイクルというものだ。つまり、景気対策とは格差促進を意味する。ところで、人類最初の経済学者はコロンブスだと揶揄する話がある。インドだと思ったらアメリカ大陸だったのだ。つまり、それだけ経済政策は的を外しているということらしい。
経済分析...
市場経済の分析にはファンダメンタルズ派とテクニカル派がある。アル中ハイマーは市場経済に重力法則が成り立つと信じているので、限りなくファンダメンタルズ派に近い。だが、実際に適正な市場価値を判断できる人間はこの世にはいない。ファンダメンタルズ派であっても、株価を判断するのに過去の経験則を用いて計測する。アル中ハイマーも夜な夜な経済分析を繰り返す。したがって、今では、夜のテクニシャンと名乗っている。
消費者金融...
一昔前はサラ金と呼ばれていた。呼び名が変わっただけで上場もできる。
派遣労働者...
一昔前は日雇い労働者と呼ばれていた。派遣会社と名乗れば上場もできる。
下請けいじめ...
大企業の業績を支えている企業形態。ある日、某大手企業とその下請け企業の間でスポーツの試合が行われていた。下請け企業の凄まじい応援には、根深い恨みが現れていた。
5. 哲学
宗教家...
どんなことでも無条件に信じる特徴を有し、脳死状態に陥った幸せな連中。しかも、その幸せを他人にも強要するので、善人とも呼ばれる。
偶像崇拝...
お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることである。偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。そういえば、土下座してまで当選回数にこだわった政治家がいた。どうやら銅像が建つらしい。
物事の本質...
物事の本質を探求するとは、よりプリミティブへと向かうことである。科学は宇宙全体を解明するために原始粒子を探求する。芸術は精神を解明するために自然を探求する。精神の中にある「笑う」という感覚は幸せを与える。そして、その感覚もまたプリミティブへと向かう。つまり、箸が転がるだけで笑える感覚こそ、精神の本質がある。したがって、アル中ハイマーは女子高生に弟子入りしようと、逆援助交際を目論む。
知識人...
自らの知識に絶対的に自信を持ち、他人を蔑む輩。そして、どんな話題にも獰猛に喰いつき、他人の間違いばかり指摘し、自らの精神は語れない。彼らの「姑チェック」は完璧だ。したがって、知識馬鹿ほど便利な存在はない。
思考力...
外圧から解き放たれた時に働く気まぐれ。したがって、ベロンベロン状態にこそ最強の思考力が得られる。ただ、同時に記憶力が失われるという反作用を具える。つまり、思考力とは、虚しさを意味する。
時間の収支...
10年早くこの知識に出会っていたら、10年早くこの人に出会っていたら、10年早くこの勉強を始めていたら、とはよく聞く台詞である。人生は短い。人生は後悔の連続なのだ。そんなことを考えていると、すべてを忘れるために飲まずにはいられない。そして、10年後に同じ台詞を言うのであった。時間の収支は永遠に赤字なのである。
人徳...
ゲームの中に登場する人物のパラメータ。なぜか?この数値が高いと限りなくゲームを有利に展開できる。したがって、人徳とはゲームのテクニックに違いない。
道徳家...
人徳を有する人。つまり、ゲームの達人。得意なゲームは「人生ゲーム」。ちなみに、「人生ゲーム」の欠点は、必ず結婚して必ず子供ができることである。彼らは、紋切り型の人生しか想像できない。
自由意志...
コントロールできそうで、実は手に負えない自我。自由意志がコントロールできたら、人間は自らの存在そのものを罪と感じるだろう。したがって、最も人間らしい精神は、気まぐれである。ところで、精巧に造られたロボットには霊的なものを感じる。ここにも自由意志は生成されるのだろうか?一昔前、ソニーの犬型ロボットAIBOが登場した時、足を付け替えたりすると、子供は足をもいでいると勘違いして虐待だと叫ぶ。しかし、これはロボットだ。映画「ターミネーター」でシュワルツェネッガーが腕を切るシーンがある。これもロボットだ。いや!シュワちゃんの腕だから気持ち悪い。では、女性ロボットとの関係に不倫は成立するのだろうか?
幸せ...
ちょっとした不幸によって帳消しになる現象、または錯覚。幸せな生活とは束縛を意味する。愛は本来自由なものであったはずだが、結婚すると愛は義務と変貌するらしい。なるほど、義務とは息苦しいものである。一般的に人間は幸せを求める。なるほど、一般的に人間はMということか。「手のしわとしわを合わせて幸せ」って聞いたことがあるが、「指のふしとふしを合わせて不幸せ」ってのもあるらしい。どちらも誰が言ったかは知らん!
6. 科学
物体の本質...
ポーは著書「ユリイカ」で、物体は引力と斥力の二つの基本要素のみで成り立つと直観的に語った。だから、二つの原始粒子が引力によってどんなに近づいても、斥力によって一つに融合することがない。つまり、男女がどんなに愛し合って合体しようとも、決して心は一つにはなれない。これが宇宙原理というものだ。
熱力学の法則...
一瞬で燃え上がる愛情熱は一瞬に失う理性エネルギーと相殺する。これが熱力学の第一法則である。そして、愛情熱は冷める方向へと進み、愛情の縺れはますます混沌へと向かう。これが熱力学の第ニ法則である。
エントロピー増大の法則...
爆発的な人口増加によって人間社会が複雑系に向かう法則。凡庸な政治指導者がますます増えるのも、この自然法則に従ったものだ。
微分学...
永遠に到達できない概念。正弦波を微分すると余弦波になる。これは、波をいくら微分しても永遠に波でありつづけることを意味する。そして、千鳥足は永遠にゆらぎ続ける。永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する。すなわち、愛は永遠に到達できない。しかも、到達したと錯覚する特異点では急激に発散する。これを愛の興ざめと言う。
電波の枯渇...
周波数帯の枯渇は電波の奪い合いを引き起こす。なるほど、「運命の赤い糸」のコードレス化が進んだわけだ。
リーマン予想...
アル中ハイマー病患者の行動パターンに関する予測。「ゼータ関数の自明でない零点の実数部はすべて1/2である。」には、実は素数定理とは違った深い解釈が内包されている。「自明でない零点」は「記憶にない例の店」を意味する。夜の社交場へまっすぐに向かう足取りこそ、クリティカル・ラインが現れる。そして、アル中ハイマー流に書き換えると、「記憶にない例の店では、実は半分しか飲んでいないのに、虚空間では無限に飲んでいるかもしれない。」となる。また、ゼータ関数は都合よく定義域によって形が変化する。たとえ、ベロンベロンに酔っ払っ(発散し)ても、別の人格(定義域)では、俺は酔ってないぜ!(収束している)と主張する。つまり、ゼータ関数はアル中ハイマーの気まぐれな行動を示している。
フーリエ解析...
飲酒状態を解析する方法。いろんな酒を飲むと、つい悪乗りして行き過ぎた行動にでる。これは、いろんなアルコール成分の係数和が急激に振動して、人格がオーバーシューティングするためである。これがギブス現象の正体だ。この現象は、どんな人格であっても、波の成分とその成分の係数が分かれば解析できることを意味する。ここで解析に使われる波は、直交特性が必然である。例えば、千鳥足のような「ゆらぎ」の中で夜の社交場へ直行する性質である。そして、ベロンベロン状態であればあるほど精度は高い。
7. 夜の社交学
夜の社交場...
ホットな女性から発生される一種の電磁場。「君に酔ってんだよ!」とドスの利いた声が自然に出る場。煙草をくわえるとお姉さんが火をつけ、「おっと俺の心に火をつけやがったな!」と条件反射で答える場。一人の女性がいるとそこには磁場が発生する。この微力な磁場を強力にするには、男性が回りを囲めばいい。これがソレノイドである。目をつけた女性の視線は直進性が高い。これは一種の電磁波である。永遠に進み続ける電磁波にアル中ハイマーはいちころである。これが「夜の社交場の法則」である。
親切...
酔いつぶれている人に、もっと酒を勧めるのが親切なのか?それとも、酒を止めてあげるのが親切なのか?いや、責任をとって「俺が飲む!」が答えである。
恋と愛...
下心があるのが「恋」。心を下に書くので下心がある。見返りを求めないのが真の「愛」。心を真中に書くから。...とバーでgさんがほざいていた。
女に優しい男の美学...
麻雀をやっていると、「俺は女からは当たらない主義だ!」と主張する奴がいる。彼はその美学に酔って生きる。つまり、女に優しい主義とは、その美学に酔って淋しく生きることである。
酔っ払い達のテロ行為...
気分悪そうにしゃがんでいる人に大丈夫か?と尋ねると、決まって大丈夫という返事が返ってくる。そこで、安心して背負うと、なんとなく首筋が生暖かくなる。これを「延髄ゲロ」という。ベッドの中で仰向けでやっているのを「自爆ゲロ」という。その横で一緒に寝ると「ゲロ心中」となる。他人の顔の上でやると死刑は免れない。電車の中で、綺麗な女性がこちらを真剣に見つめている。駅に着くと突然、女性はゴミ箱に向かって突進した。その瞬間、ゴミ箱に顔を突っ込んで...しばらくすると、そのままゴミ箱と一緒にお寝んねしてしまった。これを「特攻ゲロ」という。
2008-12-20
"不完全性定理" クルト・ゲーデル 著
おそらく、数学の本を岩波文庫で読むのは初めてだろう。こうした気まぐれも悪くない。本書は、冒頭から「不完全性定理」の翻訳から始まる。立ち読みしている時は、どう処理したものかと悩んだが、その後に続く解説はおもしろいので買うことにした。この翻訳文と解説がセットであることが、価値を高めていると言ってもいい。ちなみに、翻訳と解説は、林晋氏と八杉満利子氏。
不完全性定理といえば、数学というよりも哲学の香りがする。そうした感覚が、チューリング・モデルを推奨する純粋数学者たちにとっては気持ち悪いものに映るのだろう。アリストテレス以来、論理学は真か偽のどちらかを追求してきた。昔から数学は完全なのか?数学は絶対的真理でありうるのか?という哲学的論争がある。一つの問題を解決すれば、新たな問題が生じる。つまり、数学は常に不完全な状態にある。これは悲観論というより積極的に捉えるべきであろう。数学や論理学には、直観と形式の対立が常に見られる。いわば、主観と客観の対立である。両者は対立するほどのことではないのだが、しばしば研究者は些細な論理の違いを強調していがみ合う。これは、厳密性を追求するからこそ現れる態度であろう。方法論においても哲学的な相違が見られる。大別すると直観的なアプローチと形式的なアプローチである。人間味と無味乾燥の対立とでも言おうか。今日でも、科学者たちの中にプラトン哲学が継承されているところがある。それは、どんな複雑な宇宙現象も、その背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じてきた執念である。直観と形式の融合あるいは合理化は、数学に留まらず、人間の永遠のテーマなのかもしれない。
ゲーデルは、なぜ不完全性定理のようなものの考え方をしたのだろうか?本書は、ヒルベルトの提唱したヒルベルト・プログラム、つまり、公理論と無矛盾性の証明に関する計画を振り返り、その考えに至った歴史背景を物語る。19世紀から20世紀初頭にかけて世界の数学界を牽引し、数学の方法論に方向付けをしたのが、ヒルベルト・プログラムである。国際数学者会議で発表された「ヒルベルトの23の問題」の中に、連続体仮説やリーマン予想などがある。このプログラムは、数学の絶対的な安定性と完全性を保証し、ヒルベルトのテーゼとして定着させようとした。ヒルベルトは、永遠に枯渇することのない数学を夢見ていたのだろうか?この時代の数学的論争は、ヒルベルトの形式主義、ラッセルの論理主義、ブラウワーの直観主義の三派の争いに単純化してしまいがちだが、実は複雑な様相を見せる。本書は、多くの論争の勝者であるヒルベルトの立場から描かれる。ヒルベルトは、非計算的数学という革命を起こし、集合論のパラドックスという危機と、それに伴う反革命を、数学的かつ政治的に捻じ伏せた。この論争のどの立場にも属さなかったゲーデルは、その勝者をも打ち破り、論争自体に終止符を打った。この論争には勝者も敗者もいない。どの論派も間違ってはおらず、数学は総合的視野が必要な段階まで到達したということであろう。ゲーデルの超数学的推論は、通常の数学とは異なる。ヒルベルト・プログラムの終焉が、ゲーデルの不完全性定理の幕開けとなった。だからと言って、ヒルベルトの功績を蔑むことにはならない。ヒルベルトこそが、数学論に論争を与え、不完全性定理を呼び込んだと言ってもいい。多くの数学者は集合論に安定性を求めていない。ましてや集合論が数学の本質とも考えていない。集合論は一つの便利な数学の道具である。
ところで、科学の進歩には、誰かが失敗するように運命付けられる。数学の進歩は多くの部分を形式化するかと思えば、また新たな問題を発見し、そこに哲学的論争が生まれる。数学と哲学の距離は離れては近づき、これを繰り返すかのように見える。不完全性定理は、人間が不完全であることを証明しているのかもしれない。
1. ヒルベルトの公理論
ヒルベルトの方法論は、有限算術化に無限算術化を融合した。つまり、算術に頼る数学から、計算しない数学へと世界観を変えたのである。例えば、ゴルダンの問題のように、アルゴリズムが複雑過ぎるものは当時は現実的に計算できない。ヒルベルトは、こうした複雑なアルゴリズム自体の存在意義を疑っていた節がある。複雑過ぎるアルゴリズムによる証明は、数学の本質を隠す可能性があることも事実だ。そこで、無限的方法や集合論といった、大胆で新しい概念と推論による方法を支持する。そして、カントールの集合論やリーマン面のように、哲学的恣意性に訴える。数学における存在の証明は三段階ある。第一にその存在だけを証明する。第二にどこに存在するかを証明する。第三に実際に計算する。ヒルベルトは、第二、第三の方法しかなかった代数学に、第一の段階を取り入れ、不変式論や整数論に革命を起こした。その世界観を、伝記作家コンスタンス・リードは、「ゴルディオスの結び目」の逸話に喩えたという。ちなみに、この逸話は、それを解く者がアジアの王になるという伝説があって、アレキサンダー大王はこれを剣で切断して解いたという話で、おいらの好きな逸話の一つである。数学を公理からの演繹で構築する方法は、ユークリッド時代からの古い手法である。かつて数学は、公理から論理推論だけで理論を積み重ねることで発展してきた。これに対してヒルベルトは、定理の論理的依存関係に目をつけ、概念の総合的視野として数学を眺める。注目点が、一つ一つの真理から、その相互依存関係に変わる。また、公理が無矛盾であるだけでなく、互いに独立であることを求める。この新公理論は、数学をシステムとして捉えている。ヒルベルトは超限数の公理系を定義する。これは、実数論の公理系が示す結合の公理、計算の公理、順序の公理、連続性の公理に類似している。この公理系で示される式と推論法則を、機械的に定義できれば形式化できると考える。現在では、チューリングの機械的定義を当り前のように使うが、当時は形式化するだけでも容易なことではない。ヒルベルトの定義には曖昧さも現れている。
2. コーシーの解析学
当時、解析学は、ニュートンやライプニッツなどによる無限級数を代数的に扱う手法を用いていた。そこに、コーシーは無限小の変量を与える。
「ある変量xが特定の定数aに限りなく近づく時、関数値f(x)とその定数bとの差はいくらでも小さくできる」
この定義が、真の意味で解析学に厳密性を与えるきっかけとなったという。コーシーは、連続関数は微分可能であるという事実を前提に証明しているが、実は、その事実は成立しない。極限への定義には曖昧さが残っていたのである。この極限の定義が厳密化され、解析学の証明を本当の意味で自律させたのは、カール・ワイエルシュトラスのε-δ論法である。この論法で示される極限の定義は、分かり難いので有名だ。おいらは、これのおかげで大学時代に数学とおさらばした。ただ、分かり難いから直観の入る余地が少ないとも言える。その検証も機械的となり、誤りを自律的に排除できる。この解析学の厳密性は、ヒルベルトのテーゼとなる。
3. カントールの集合論
カントールは、集合の要素の数を無限集合へと拡張した。その定理に、実数は自然数の数よりも大きいというのがある。彼は、数えるという動的行為を、1対1で対応付けるという静的条件に置き換えた。無限集合を数えることは無理でも、1対1の対応付けは可能である。彼は、実数と自然数の対応付けから背理法によって証明した。そして、集合の要素の個数を「濃度」と呼び、実数の濃度は自然数の濃度よりも大きいとした。カントールの発見で印象深いのは、平面上の点と直線上の点が同じ濃度であるという定理である。
ところで、無限に濃度が存在するならば、濃度の分割ってできるのだろうか?
「任意の無限集合は、それを元の全体と同じ個数を持つ二つの部分集合に分割できる」
無限を分割しても無限ではないのか?無限には宗教的意味合いを感じる。伝統的にヨーロッパの数学界から、無限を排除する動きがあったのもうなずける。カントールはこのタブーを打ち破った。カントールの無限集合の本質は超限数論にある。そこに無限への批判も起こる。クロネカーによる批判である。カントールの論文は、クロネカーの雑誌をはじめ、多くの雑誌から掲載を拒否されたという。これはクロネカーによる出版妨害であるという説もあるが、単に時代精神が受け入れなかったという説もある。無限集合を扱う数学では、「答えが存在する」という証明ができても、実際には計算できないことが多い。カントールは、数学界に哲学や神学は排除されるべきかといった問題を提起したようにも映る。
4. ラッセルのパラドックス
集合論と不完全性定理は密接な関係にある。その最大の関係は対角線論法であるという。
「任意の集合Xについて、Xの濃度よりも大きな濃度をもつ集合Yは必ず存在するか?」
これが成り立てば、集合の世界は無限に膨張を続ける。Xのべき集合、つまり、集合Xの部分集合をすべて集めた集合を考えると、そのべき集合の濃度は、集合Xの濃度よりも大きいことになる。ここで、自らを要素として含まない集合を考えるとパラドックスが現れる。そもそも集合とはそういうもので、全ての数の集合は数ではない。全ての犬の集合は犬ではない。しかし、通常ではありえない、それ自体を集合として含む集合がある。集合の集合はどうか?複数の集合を、集めて一つの集合とした場合、要素に集合が含まれる。この問題は自己言及に基づいている。ここで、集合Xについての条件Aは、「Xは、X自身の要素とならない集合である」とする。そして、「集合Xは要素ではない」と仮定すると、条件Aを満たすので、集合XはXの要素となり、仮定が崩れる。「集合Xは要素である」と仮定しても、条件Aを満たさず、集合XはXの要素とならないので、仮定が崩れる。この議論は、「この文章は偽である」という文章が正しいのかどうか?という問いに似ている。論理学のあらゆる矛盾は、こうした自己言及の罠に嵌る。自己言及は自己陶酔を招き自らをアル中にしてしまう。そして、アル中ハイマーが「俺は酔ってないぜ!」と主張するのも、あながち間違いとは言えないのだ。
5. 批判者ポアンカレ
ポアンカレは、数学は常に人間が介在するものであり、ヒルベルトのような意味では形式的には扱えないと考えた。彼のヒルベルト批判は、数学的帰納法が最大のポイントであるという。自然数の公理系には数学的帰納法が必要である。これがないと理論展開ができない。したがって、数学的帰納法を公理として追加する必要がある。ヒルベルトは、数学的帰納法を追加しても、無矛盾性の証明が可能であると主張する。しかし、ポアンカレは証明できるはずがないと主張する。帰納法は、出発点で検証し追加点でも検証できれば、全てが証明されたことになるという考え方である。よって、ヒルベルトが提唱した方法で説明するならば、帰納法で帰納法の無矛盾性を示すという循環論法に陥る。パラドックスを引き起こした集合論では、循環論法によって容易に矛盾が生じる。ポアンカレは、その解決策として、一般の無限概念は認めず、自然数の無限個までは認めたという。そして、カントールが考えた無限集合は数学では考えられないとした。つまり、数学的帰納法は、人類がぎりぎり使える無限の道具であり、これを数学的方法で正当化することは無意味であると主張したのである。
6. 不完全性定理
不完全性定理は難しい文章で表されるため、これをアル中ハイマーの理解力で記すことはできない。ただ、本書は、その意味を分かりやすく説明してくれる。
第一不完全性定理
「数学は、矛盾しているか不完全であるか、そのどちらかである。」
第ニ不完全性定理
「数学の正しさを確実な方法で保証することは不可能であり、それが正しいと信じるしかない。」
ゲーデルの定理の本質は、ラッセル・パラドックスの変装した姿であるという。なるほど、第一不完全性定理の基本的な仕組みは、このパラドックスの表現に似ている。不完全性定理は、もはや数学には解の得られない問題があると述べている。人文科学や社会科学の理論は、個人によって解釈が違い、その真偽を決める絶対的な方法は存在しないだろう。その一方で、数学の解釈が、他のいかなる分野よりも、安定しているのは事実である。その中で、この定理は数学でありながら人文学的な解釈があるところに難しさがある。一般的に不完全性定理は、人類の知の限界を示すものであるという見解がある。しかし、ゲーデルはそれを否定しているという。本書は、数学が完全であるかを問う前に、数学自体が何か?を議論する必要があると語る。数学論と、数学の形式系とは同一視してはならないということらしい。論理数学から見た数学観には、哲学の見地から見た数学を顕にする。物事が全て機械的に定義できるならば、コンピュータがすべて計算して判断できることになる。ヒルベルトのテーゼは、機械仕掛けの数学を数学論と同一視している点が問題であるという。ゲーデルは、数学論そのものに不完全性の存在を認め、ヒルベルトのテーゼを否定した。
不完全性定理といえば、数学というよりも哲学の香りがする。そうした感覚が、チューリング・モデルを推奨する純粋数学者たちにとっては気持ち悪いものに映るのだろう。アリストテレス以来、論理学は真か偽のどちらかを追求してきた。昔から数学は完全なのか?数学は絶対的真理でありうるのか?という哲学的論争がある。一つの問題を解決すれば、新たな問題が生じる。つまり、数学は常に不完全な状態にある。これは悲観論というより積極的に捉えるべきであろう。数学や論理学には、直観と形式の対立が常に見られる。いわば、主観と客観の対立である。両者は対立するほどのことではないのだが、しばしば研究者は些細な論理の違いを強調していがみ合う。これは、厳密性を追求するからこそ現れる態度であろう。方法論においても哲学的な相違が見られる。大別すると直観的なアプローチと形式的なアプローチである。人間味と無味乾燥の対立とでも言おうか。今日でも、科学者たちの中にプラトン哲学が継承されているところがある。それは、どんな複雑な宇宙現象も、その背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じてきた執念である。直観と形式の融合あるいは合理化は、数学に留まらず、人間の永遠のテーマなのかもしれない。
ゲーデルは、なぜ不完全性定理のようなものの考え方をしたのだろうか?本書は、ヒルベルトの提唱したヒルベルト・プログラム、つまり、公理論と無矛盾性の証明に関する計画を振り返り、その考えに至った歴史背景を物語る。19世紀から20世紀初頭にかけて世界の数学界を牽引し、数学の方法論に方向付けをしたのが、ヒルベルト・プログラムである。国際数学者会議で発表された「ヒルベルトの23の問題」の中に、連続体仮説やリーマン予想などがある。このプログラムは、数学の絶対的な安定性と完全性を保証し、ヒルベルトのテーゼとして定着させようとした。ヒルベルトは、永遠に枯渇することのない数学を夢見ていたのだろうか?この時代の数学的論争は、ヒルベルトの形式主義、ラッセルの論理主義、ブラウワーの直観主義の三派の争いに単純化してしまいがちだが、実は複雑な様相を見せる。本書は、多くの論争の勝者であるヒルベルトの立場から描かれる。ヒルベルトは、非計算的数学という革命を起こし、集合論のパラドックスという危機と、それに伴う反革命を、数学的かつ政治的に捻じ伏せた。この論争のどの立場にも属さなかったゲーデルは、その勝者をも打ち破り、論争自体に終止符を打った。この論争には勝者も敗者もいない。どの論派も間違ってはおらず、数学は総合的視野が必要な段階まで到達したということであろう。ゲーデルの超数学的推論は、通常の数学とは異なる。ヒルベルト・プログラムの終焉が、ゲーデルの不完全性定理の幕開けとなった。だからと言って、ヒルベルトの功績を蔑むことにはならない。ヒルベルトこそが、数学論に論争を与え、不完全性定理を呼び込んだと言ってもいい。多くの数学者は集合論に安定性を求めていない。ましてや集合論が数学の本質とも考えていない。集合論は一つの便利な数学の道具である。
ところで、科学の進歩には、誰かが失敗するように運命付けられる。数学の進歩は多くの部分を形式化するかと思えば、また新たな問題を発見し、そこに哲学的論争が生まれる。数学と哲学の距離は離れては近づき、これを繰り返すかのように見える。不完全性定理は、人間が不完全であることを証明しているのかもしれない。
1. ヒルベルトの公理論
ヒルベルトの方法論は、有限算術化に無限算術化を融合した。つまり、算術に頼る数学から、計算しない数学へと世界観を変えたのである。例えば、ゴルダンの問題のように、アルゴリズムが複雑過ぎるものは当時は現実的に計算できない。ヒルベルトは、こうした複雑なアルゴリズム自体の存在意義を疑っていた節がある。複雑過ぎるアルゴリズムによる証明は、数学の本質を隠す可能性があることも事実だ。そこで、無限的方法や集合論といった、大胆で新しい概念と推論による方法を支持する。そして、カントールの集合論やリーマン面のように、哲学的恣意性に訴える。数学における存在の証明は三段階ある。第一にその存在だけを証明する。第二にどこに存在するかを証明する。第三に実際に計算する。ヒルベルトは、第二、第三の方法しかなかった代数学に、第一の段階を取り入れ、不変式論や整数論に革命を起こした。その世界観を、伝記作家コンスタンス・リードは、「ゴルディオスの結び目」の逸話に喩えたという。ちなみに、この逸話は、それを解く者がアジアの王になるという伝説があって、アレキサンダー大王はこれを剣で切断して解いたという話で、おいらの好きな逸話の一つである。数学を公理からの演繹で構築する方法は、ユークリッド時代からの古い手法である。かつて数学は、公理から論理推論だけで理論を積み重ねることで発展してきた。これに対してヒルベルトは、定理の論理的依存関係に目をつけ、概念の総合的視野として数学を眺める。注目点が、一つ一つの真理から、その相互依存関係に変わる。また、公理が無矛盾であるだけでなく、互いに独立であることを求める。この新公理論は、数学をシステムとして捉えている。ヒルベルトは超限数の公理系を定義する。これは、実数論の公理系が示す結合の公理、計算の公理、順序の公理、連続性の公理に類似している。この公理系で示される式と推論法則を、機械的に定義できれば形式化できると考える。現在では、チューリングの機械的定義を当り前のように使うが、当時は形式化するだけでも容易なことではない。ヒルベルトの定義には曖昧さも現れている。
2. コーシーの解析学
当時、解析学は、ニュートンやライプニッツなどによる無限級数を代数的に扱う手法を用いていた。そこに、コーシーは無限小の変量を与える。
「ある変量xが特定の定数aに限りなく近づく時、関数値f(x)とその定数bとの差はいくらでも小さくできる」
この定義が、真の意味で解析学に厳密性を与えるきっかけとなったという。コーシーは、連続関数は微分可能であるという事実を前提に証明しているが、実は、その事実は成立しない。極限への定義には曖昧さが残っていたのである。この極限の定義が厳密化され、解析学の証明を本当の意味で自律させたのは、カール・ワイエルシュトラスのε-δ論法である。この論法で示される極限の定義は、分かり難いので有名だ。おいらは、これのおかげで大学時代に数学とおさらばした。ただ、分かり難いから直観の入る余地が少ないとも言える。その検証も機械的となり、誤りを自律的に排除できる。この解析学の厳密性は、ヒルベルトのテーゼとなる。
3. カントールの集合論
カントールは、集合の要素の数を無限集合へと拡張した。その定理に、実数は自然数の数よりも大きいというのがある。彼は、数えるという動的行為を、1対1で対応付けるという静的条件に置き換えた。無限集合を数えることは無理でも、1対1の対応付けは可能である。彼は、実数と自然数の対応付けから背理法によって証明した。そして、集合の要素の個数を「濃度」と呼び、実数の濃度は自然数の濃度よりも大きいとした。カントールの発見で印象深いのは、平面上の点と直線上の点が同じ濃度であるという定理である。
ところで、無限に濃度が存在するならば、濃度の分割ってできるのだろうか?
「任意の無限集合は、それを元の全体と同じ個数を持つ二つの部分集合に分割できる」
無限を分割しても無限ではないのか?無限には宗教的意味合いを感じる。伝統的にヨーロッパの数学界から、無限を排除する動きがあったのもうなずける。カントールはこのタブーを打ち破った。カントールの無限集合の本質は超限数論にある。そこに無限への批判も起こる。クロネカーによる批判である。カントールの論文は、クロネカーの雑誌をはじめ、多くの雑誌から掲載を拒否されたという。これはクロネカーによる出版妨害であるという説もあるが、単に時代精神が受け入れなかったという説もある。無限集合を扱う数学では、「答えが存在する」という証明ができても、実際には計算できないことが多い。カントールは、数学界に哲学や神学は排除されるべきかといった問題を提起したようにも映る。
4. ラッセルのパラドックス
集合論と不完全性定理は密接な関係にある。その最大の関係は対角線論法であるという。
「任意の集合Xについて、Xの濃度よりも大きな濃度をもつ集合Yは必ず存在するか?」
これが成り立てば、集合の世界は無限に膨張を続ける。Xのべき集合、つまり、集合Xの部分集合をすべて集めた集合を考えると、そのべき集合の濃度は、集合Xの濃度よりも大きいことになる。ここで、自らを要素として含まない集合を考えるとパラドックスが現れる。そもそも集合とはそういうもので、全ての数の集合は数ではない。全ての犬の集合は犬ではない。しかし、通常ではありえない、それ自体を集合として含む集合がある。集合の集合はどうか?複数の集合を、集めて一つの集合とした場合、要素に集合が含まれる。この問題は自己言及に基づいている。ここで、集合Xについての条件Aは、「Xは、X自身の要素とならない集合である」とする。そして、「集合Xは要素ではない」と仮定すると、条件Aを満たすので、集合XはXの要素となり、仮定が崩れる。「集合Xは要素である」と仮定しても、条件Aを満たさず、集合XはXの要素とならないので、仮定が崩れる。この議論は、「この文章は偽である」という文章が正しいのかどうか?という問いに似ている。論理学のあらゆる矛盾は、こうした自己言及の罠に嵌る。自己言及は自己陶酔を招き自らをアル中にしてしまう。そして、アル中ハイマーが「俺は酔ってないぜ!」と主張するのも、あながち間違いとは言えないのだ。
5. 批判者ポアンカレ
ポアンカレは、数学は常に人間が介在するものであり、ヒルベルトのような意味では形式的には扱えないと考えた。彼のヒルベルト批判は、数学的帰納法が最大のポイントであるという。自然数の公理系には数学的帰納法が必要である。これがないと理論展開ができない。したがって、数学的帰納法を公理として追加する必要がある。ヒルベルトは、数学的帰納法を追加しても、無矛盾性の証明が可能であると主張する。しかし、ポアンカレは証明できるはずがないと主張する。帰納法は、出発点で検証し追加点でも検証できれば、全てが証明されたことになるという考え方である。よって、ヒルベルトが提唱した方法で説明するならば、帰納法で帰納法の無矛盾性を示すという循環論法に陥る。パラドックスを引き起こした集合論では、循環論法によって容易に矛盾が生じる。ポアンカレは、その解決策として、一般の無限概念は認めず、自然数の無限個までは認めたという。そして、カントールが考えた無限集合は数学では考えられないとした。つまり、数学的帰納法は、人類がぎりぎり使える無限の道具であり、これを数学的方法で正当化することは無意味であると主張したのである。
6. 不完全性定理
不完全性定理は難しい文章で表されるため、これをアル中ハイマーの理解力で記すことはできない。ただ、本書は、その意味を分かりやすく説明してくれる。
第一不完全性定理
「数学は、矛盾しているか不完全であるか、そのどちらかである。」
第ニ不完全性定理
「数学の正しさを確実な方法で保証することは不可能であり、それが正しいと信じるしかない。」
ゲーデルの定理の本質は、ラッセル・パラドックスの変装した姿であるという。なるほど、第一不完全性定理の基本的な仕組みは、このパラドックスの表現に似ている。不完全性定理は、もはや数学には解の得られない問題があると述べている。人文科学や社会科学の理論は、個人によって解釈が違い、その真偽を決める絶対的な方法は存在しないだろう。その一方で、数学の解釈が、他のいかなる分野よりも、安定しているのは事実である。その中で、この定理は数学でありながら人文学的な解釈があるところに難しさがある。一般的に不完全性定理は、人類の知の限界を示すものであるという見解がある。しかし、ゲーデルはそれを否定しているという。本書は、数学が完全であるかを問う前に、数学自体が何か?を議論する必要があると語る。数学論と、数学の形式系とは同一視してはならないということらしい。論理数学から見た数学観には、哲学の見地から見た数学を顕にする。物事が全て機械的に定義できるならば、コンピュータがすべて計算して判断できることになる。ヒルベルトのテーゼは、機械仕掛けの数学を数学論と同一視している点が問題であるという。ゲーデルは、数学論そのものに不完全性の存在を認め、ヒルベルトのテーゼを否定した。
2008-12-14
"はじめての「超ひも理論」" 川合光 著
量子論というのは、なんでもありなのか?真空には突然仮想粒子を登場させ、物質の誕生には反物質を登場させる。また、何もないところに負のエネルギーを登場させ、都合よく宇宙を膨張させてしまう。プラスの現象には、マイナスの現象を登場させて相殺してしまえば、エネルギー保存則になんら矛盾することなく、何事もなかったかのように説明できるというわけだ。このようなウルトラCの技が続々と登場する様は、高度な科学のようで巧みな詐欺のようでもある。量子論の本筋は極微な世界を覗くことである。ところが、物質を細かく見れば見るほど巨大宇宙の解明につながるから摩訶不思議である。本書は、こうした酔っ払った感覚しか持ち合わせないアル中ハイマーにも分かりやすく解説してくれる。何よりも分かった気分になれるのが幸せである。
物質を細かく見ていくと、そこには原子があり、原子核の中に陽子と中性子があり、その核子を構成するクォークがある。そして、全ての素粒子の根源に「超ひも」が登場する。超ひもの形状には、両端が開いたものや輪ゴムのように閉じたものが考えられている。これらが絶えず運動し静止することはない。回転したり、振動したり、伸び縮みしたり、変形したりと。これは想像の世界ではなく、厳密な理論上の計算から導き出されるらしい。超ひもが様々なエネルギー状態によって異なる振動をすることによって、いろんな粒子に見える。現在の素粒子は、クォークと、電子やニュートリノなどのレプトンであるとされているが、その素粒子の正体は、一個のひもであるという。これは、熟成させたスコッチが琥珀色に見えるのも、ピート香やスモーキーさも、単に生命の水が振動しているだけだということを暗示しているのかもしれない。超ひもは、原理的には、引き伸ばして人間の目の見える大きさにすることも可能なのだそうだ。ただ、それに必要なエネルギーはというと...ミニブラックホールができてしまう。超ひも理論のおもしろいところは、ひもの長さの半分を考えた場合、それがニ倍に等しくなるという。はあ?時間も半分がニ倍に等しくなる。はあ?量子論の世界では、コップの半分しか飲んでいないのに、二杯分請求されるということか?これは詐欺ではないか。いや!二杯飲んでも一杯も飲んでいないと言い張ることもできるわけだ。つまり、飲んでも飲んでも酔えない世界のようだ。
極微の世界では、もはやニュートンやアインシュタインの力学は通用しない。しかし本書によると、超ひも理論によって、全ての物理現象を統一して記述できる可能性があるという。物理学には、重力、電磁力、弱い力の相互作用、強い力の相互作用の四つの力がある。重力はエネルギーを持つものの間で働く力、電磁力は電荷のあるものの間で働く力、弱い力は中性子のベータ崩壊などを起こす力、強い力はクォーク間で働く力。この四つのうち重力を除く三つまでは、ゲージ理論によって統一される。ゲージ理論は、ローレンツ変換で見られるように、どのような慣性系に変換しても理論は不変であるというところから発展した理論である。それは、座標そのものの変換ではなく、時空の各点毎に変換しても不変性が保てるということである。歴史的には、一般相対性理論はゲージ不変をもった最初の理論ということらしい。ここで、人間が親しみやすい重力が力学の統一で最も遅れをとっているとは、なんとも皮肉である。人間が直観できる世界とは、宇宙では超常現象なのか?人間は自然法則を無視した悪魔か?量子力学といえば、波動関数によって完成させたシュレディンガーと、行列力学を確立したハイゼンベルグが思いつく。これらは等価であり、そのアプローチが微分か行列かの違いである。超ひも理論では行列模型を用いる。この行列模型は、非可換幾何学という数学の道具にも関係し、超ひもの挙動を明らかにするという。
1. 宇宙の起源への挑戦
宇宙の起源の謎を解くには、アインシュタインの方程式では扱えない領域を覗くことになる。それは、これ以上小さくできないプランクの長さ、これ以上過去へさかのぼれないプランク時間、エネルギーの限界値プランクエネルギーであり、いわゆるプランクスケールへの挑戦である。プランクの長さは、超ひもの大きさに相当し、プランクエネルギーは超ひものもつエネルギーとも言える。アインシュタインは、時間と空間を混在させて時空という概念を持ち出した。極小空間へ迫るということは、極小時間へ迫るということである。そしてビッグバンへと迫る。結合エネルギーは、素粒子間の振る舞いを力学的に説明できる。それを細かく観察するには、高エネルギー状態が好都合である。そこで、エネルギーを拡大する実験装置に加速器が使われる。粒子と粒子を高エネルギーで加速して衝突させることによって、量子の世界を覗く。宇宙の成長過程をさかのぼればのぼるほど、高エネルギーであると考えられる。原子核に電子が回っているのは、太陽系のように地球が回っているようなイメージはできない。素粒子の運動には、位置と運動量を同時に決められないという不確定性原理がつきまとうからである。位置と運動量が同時に決まらなければ、電子の軌道は特定できない。ものを細かくみるための指標として温度も重要ある。温度とエネルギーは比例関係にあるからである。素粒子のエネルギーは、プランクエネルギーが上限であるのに対して、超ひもではそれ以上のエネルギーを持ちうる。エネルギーが増えた分、超ひもの形状はいくらでも伸びることができる。エネルギーがどんどん増えると、温度の上昇はしだいに小さくなり、やがて上限値に達するであろう。この温度の上限が「ハゲドン温度」である。実際には、プランクエネルギーよりも高エネルギーになったとしても、ハゲドン温度のままという事態が起こるという。ところで、超ひもには密度という概念はないのかな?密度が低くなる分エネルギーに転換されるってことか?ますます謎は深まる。
2. クォークの誕生
クォークが誕生するまでに四つのステップがあるという。それを逆にさかのぼると。四つ目のステップは、安定段階で三個一組のクォークがくっつきあって核子を構成している。三つ目のステップは、この安定段階よりもエネルギーを上げていくとクォークが不安定に動く状態になる。クォークどうしがねばねばとした力線を伸ばし、無秩序にくっつきあってどろどろのスープのようになる。二つ目のステップは、更にエネルギーを上げると、単独で動くクォークが質量を獲得する。そして一つ目のステップが、真空から励起される段階である。どんな構成要素でも、結合エネルギーよりも高いエネルギーを与えれば分離することができる。しかし、クォークは、加速器でいくら高エネルギーを与えても、引き離してクォークを取り出すことはできない。これが「クォークの閉じ込め」である。クォークの閉じ込め以前、宇宙には陽子と反物質である反陽子があったと考えられている。反物質とは、物質と電荷などが反対で、性質は同じもののことを言う。現在、反物質は存在しない。物質と反物質が対消滅し、なぜか反物質よりも物質が多かったため、物質だけが残ったということのようだ。この対消滅を経て、個性をもった核子として陽子が生まれた。陽子と反陽子には、それぞれクォークが三つ入っていて、クォークと反クォークが混じりあった状態を「クォーク・グルオン・プラズマ状態」という。グルオンは、クォーク間に働く強い力の相互作用を媒介するゲージ粒子のことである。ゲージ粒子とは、四つの力の相互作用(ゲージ相互作用)を引き起こすボース粒子のことで、電磁気力を伝える光子、重力を伝える重力子、弱い力を伝えるWボソン、強い力を伝えるグルオンがある。
3. ヒグスメカニズム
クォーク間の強い力の相互作用を生んでいるのが「グルオン場」であり、四つの力を作り出している場を総称して「ゲージ場」という。重力場や電磁場もあるのだが、ここでは重力場が統一見解から外れる。クォークが質量を獲得する場が「ヒグス場」である。いわば質量の起源である。ヒグス場は対称性を破りやすい性質を持っているという。この対象性を破る現象でクォークが質量を獲得するのが「ヒグスメカニズム」である。ひもの挙動を調べていくうちに謎のグラビトン(重力子)が発見される。素粒子はスピン(自転)している。エネルギーを与えれば、その回転は大きくなり質量が増える。しかし、グラビトンはスピンがあるにも関わらず質量がゼロである。この重力子の発見によって、超ひも理論が、重力場をも含む統一見解を示唆することになる。
4. インフレーション理論
ビッグバン宇宙論は、主に二つの観測で裏付けられる。一つは、様々な銀河の光が赤方偏移していることから、多くの銀河が遠ざかっていることがわかる。ハッブルは、銀河の後退速度とその銀河までの距離が比例していることを見出し、遠くにある銀河ほど速く遠ざかっていることを発見した。ハッブル定数は宇宙の年齢や大きさに目安を与える。二つは、3K宇宙背景放射で、温度3Kの電磁波が宇宙のあらゆるところから地球へやってくる。人工衛星WMAPは、3K宇宙背景放射のゆらぎまで観測できるという。インフレーション理論は、水素原子の原子核が一気に地球の公転軌道ほどの大きさに広がったとするもので、ビッグバン宇宙論を補完したものである。実際に宇宙をプランク温度になるまでさかのぼると、その時の宇宙の大きさがとてつもなく大きく、平坦に近い状態になってしまう。よって、宇宙の創世をプランクの長さとするならば、どこかで爆発的に大きくなる瞬間が必要である。この平坦問題を巧みにというか、無理やりこじつけたのがインフレーション理論である。インフレーションの間、絶対温度はほぼゼロと考えられている。あまりにも急激な膨張によって密度が薄められるからである。プランクの長さの宇宙は冷たく高エネルギーをもった真空である。そこから、急激な膨張によって、エネルギーは温度に化け、冷たい宇宙は再加熱され、場が振動し粒子が励起され物質が誕生する。この高エネルギーはどこから得られるのか?そもそも、真空にエネルギーがあるのか?アインシュタインの方程式は、この真空のエネルギーを導き出せるという。真空のポテンシャルエネルギーが正の値で、しかもあまり運動をしない状態では、アインシュタインの方程式で圧力が負になるという。この負の圧力が膨張エネルギーを自己調達させて勝手に膨らむといった現象が起こるというのである。本書では、風船を膨らますのに、空気を入れなくても勝手に膨らむという説明がなされる。確かに、内圧がゼロで外圧が負ならば、相対的に風船は膨らみそうだ。では、その負の圧力はどこからくるのか?エネルギーのタダ食いか?それがアインシュタインの方程式だという。この負の圧力を生み出す真空のエネルギーはアインシュタインの宇宙項で表される。この宇宙項は、インフレーションの時期に使い果たしたと思われがちだが、実は今も少し残っているとされる。だから、宇宙は今もエネルギーのタダ喰いで膨張をするということになる。
5. Dブレーン
アメリカの物理学者ポリチンスキーが発見したDブレーンは、超ひもからなるエネルギーの塊である。超ひも理論の古典解としてDブレーンという安定したエネルギーが見つかった。この安定したエネルギーの塊が「ソリトン」である。例えば、波が押し寄せる様子で、波が形を変えずに安定した形状を保ちつつ押し寄せる姿がソリトンである。今までの摂動論では、いろいろな真空の間を偏移することを表すことができなかった。つまり、エネルギーがゼロの基底状態、すなわち真空から少しだけ励起された状態で、多くのひもが同時に関係する現象は扱えなかった。これに対して、Dブレーンは多くのひもがいっぱい詰まっている状態と見なして摂動論の限界を超える。ちなみに、Dは、微分方程式のディリクレ条件の頭文字に由来するらしい。Dブレーンは、超ひもが密集するいろいろな次元の面と考えることができる。Dブレーンの功績は、様々な真空の重ね合わせができたことである。トンネル効果もDブレーンによって引き起こされたと考えれる。例えば、アルファ線が原子核を抜け出すような現象を説明する時、ある確率で真空を超えられる。ここで、オリエンティフィールドというマイナスのエネルギーをもった変わったDブレーンが登場する。プラスとマイナスでエネルギーを相殺する現象は、真空を重ね合わせる上で好都合である。安定した空間を説明するためには、このエネルギーの相殺が必要である。超ひも理論は、10次元の理論とも言われるらしい。無数のタイプの真空があるからであろう。物事を一般化するというのは視点を増やすことにもなろうが、時空の次元を増やしてやれば、矛盾の生じない統一理論ができるということなのか?ところで、人類の住む宇宙は、その真空のどれにあたるのか?人類は10次元宇宙に浮かぶ4次元空間に住んでいるのか?人類へ影響を及ぼす相互作用は重力である。逆に言うと重力を感じない陰の空間が目の前に存在しても感じることすらできない。これが霊感なのか?なんとなくパラレルワールドへと導かれる。普段、均衡しておとなしくしている異空間から、突然表れる重力波を感じても不思議ではないのかもしれない。天体規模ではニュートンの重力法則は成り立つが、超接近するとその関係が崩れるのではなく、別のDブレーンの存在が影響しているだけなのかもしれない。気持ち良くゆらぐ千鳥足に向かって、突然重力点(店)からの影響によって軌道がずれるのも、そこにDブレーンが潜んでいるからに違いない。
6. サイクリック宇宙論
超ひも理論を支持する素粒子物理学者たちは、多くの宇宙研究者に支持されるインフレーション理論とは違った見解を持っている。それがサイクリック宇宙論である。人類は、ビッグバンとビッグクランチのサイクルを30回から50回繰り返した途上の宇宙に住んでいるという見解である。宇宙は膨張しているのか?縮小しているのか?それとも定常宇宙か?宇宙の膨張のしかたは、宇宙項と、宇宙に存在する物質の密度との関係によって論じられる。宇宙項は、真空がどの程度のエネルギーを持つかを表す定数である。宇宙項が大きいほど、エネルギーのタダ食い効果が大きく、宇宙は速く膨張する。物質の密度は、銀河と銀河がどの程度離れて存在するかを意味する。つまり、万有引力の関係で、密度が高ければ、それだけ収縮する力が強いことになる。現在の宇宙は膨張し続けているので、密度は下がり膨張速度も減速する方向であるが、宇宙項の加速方向との競合によって、宇宙の運命も決まる。インフレーション理論では、宇宙のエントロピーは、ただの一回の指数膨張と、それに次いで起こる再加熱によって作り出されると主張する。一方、サイクリック宇宙論では、ビッグバンとビッグクランチを繰り返しながら、徐々にエントロピーを蓄えてきたと考える。そこから計算されたのが30回から50回で、インフレーションという特異点を考慮する必要がないわけだ。宇宙は、ビッグバンとビッグクランチを繰り返していくうちに、だんだん巨大化しているのか?ちなみに、ビッグバンとビッグクランチの境界は、実時間で受け継がれるという。ただ、アル中ハイマーには、一晩に同じ店へ何度も繰り返して立ち寄る現象は、虚時間を持ち出さないと説明がつかない。サイクリック宇宙論には精神の輪廻を思わせるものがある。人間の肉体が成長して亡びていく様は、遺伝子で継承される。サイクリック宇宙論はなんとなくDNAを暗示しているように感じる。自然法則は、宇宙にも生物にも成り立つ可能性があるだろう。そして、人間の精神は、だんだん巨大化していくのだろうか?
物質を細かく見ていくと、そこには原子があり、原子核の中に陽子と中性子があり、その核子を構成するクォークがある。そして、全ての素粒子の根源に「超ひも」が登場する。超ひもの形状には、両端が開いたものや輪ゴムのように閉じたものが考えられている。これらが絶えず運動し静止することはない。回転したり、振動したり、伸び縮みしたり、変形したりと。これは想像の世界ではなく、厳密な理論上の計算から導き出されるらしい。超ひもが様々なエネルギー状態によって異なる振動をすることによって、いろんな粒子に見える。現在の素粒子は、クォークと、電子やニュートリノなどのレプトンであるとされているが、その素粒子の正体は、一個のひもであるという。これは、熟成させたスコッチが琥珀色に見えるのも、ピート香やスモーキーさも、単に生命の水が振動しているだけだということを暗示しているのかもしれない。超ひもは、原理的には、引き伸ばして人間の目の見える大きさにすることも可能なのだそうだ。ただ、それに必要なエネルギーはというと...ミニブラックホールができてしまう。超ひも理論のおもしろいところは、ひもの長さの半分を考えた場合、それがニ倍に等しくなるという。はあ?時間も半分がニ倍に等しくなる。はあ?量子論の世界では、コップの半分しか飲んでいないのに、二杯分請求されるということか?これは詐欺ではないか。いや!二杯飲んでも一杯も飲んでいないと言い張ることもできるわけだ。つまり、飲んでも飲んでも酔えない世界のようだ。
極微の世界では、もはやニュートンやアインシュタインの力学は通用しない。しかし本書によると、超ひも理論によって、全ての物理現象を統一して記述できる可能性があるという。物理学には、重力、電磁力、弱い力の相互作用、強い力の相互作用の四つの力がある。重力はエネルギーを持つものの間で働く力、電磁力は電荷のあるものの間で働く力、弱い力は中性子のベータ崩壊などを起こす力、強い力はクォーク間で働く力。この四つのうち重力を除く三つまでは、ゲージ理論によって統一される。ゲージ理論は、ローレンツ変換で見られるように、どのような慣性系に変換しても理論は不変であるというところから発展した理論である。それは、座標そのものの変換ではなく、時空の各点毎に変換しても不変性が保てるということである。歴史的には、一般相対性理論はゲージ不変をもった最初の理論ということらしい。ここで、人間が親しみやすい重力が力学の統一で最も遅れをとっているとは、なんとも皮肉である。人間が直観できる世界とは、宇宙では超常現象なのか?人間は自然法則を無視した悪魔か?量子力学といえば、波動関数によって完成させたシュレディンガーと、行列力学を確立したハイゼンベルグが思いつく。これらは等価であり、そのアプローチが微分か行列かの違いである。超ひも理論では行列模型を用いる。この行列模型は、非可換幾何学という数学の道具にも関係し、超ひもの挙動を明らかにするという。
1. 宇宙の起源への挑戦
宇宙の起源の謎を解くには、アインシュタインの方程式では扱えない領域を覗くことになる。それは、これ以上小さくできないプランクの長さ、これ以上過去へさかのぼれないプランク時間、エネルギーの限界値プランクエネルギーであり、いわゆるプランクスケールへの挑戦である。プランクの長さは、超ひもの大きさに相当し、プランクエネルギーは超ひものもつエネルギーとも言える。アインシュタインは、時間と空間を混在させて時空という概念を持ち出した。極小空間へ迫るということは、極小時間へ迫るということである。そしてビッグバンへと迫る。結合エネルギーは、素粒子間の振る舞いを力学的に説明できる。それを細かく観察するには、高エネルギー状態が好都合である。そこで、エネルギーを拡大する実験装置に加速器が使われる。粒子と粒子を高エネルギーで加速して衝突させることによって、量子の世界を覗く。宇宙の成長過程をさかのぼればのぼるほど、高エネルギーであると考えられる。原子核に電子が回っているのは、太陽系のように地球が回っているようなイメージはできない。素粒子の運動には、位置と運動量を同時に決められないという不確定性原理がつきまとうからである。位置と運動量が同時に決まらなければ、電子の軌道は特定できない。ものを細かくみるための指標として温度も重要ある。温度とエネルギーは比例関係にあるからである。素粒子のエネルギーは、プランクエネルギーが上限であるのに対して、超ひもではそれ以上のエネルギーを持ちうる。エネルギーが増えた分、超ひもの形状はいくらでも伸びることができる。エネルギーがどんどん増えると、温度の上昇はしだいに小さくなり、やがて上限値に達するであろう。この温度の上限が「ハゲドン温度」である。実際には、プランクエネルギーよりも高エネルギーになったとしても、ハゲドン温度のままという事態が起こるという。ところで、超ひもには密度という概念はないのかな?密度が低くなる分エネルギーに転換されるってことか?ますます謎は深まる。
2. クォークの誕生
クォークが誕生するまでに四つのステップがあるという。それを逆にさかのぼると。四つ目のステップは、安定段階で三個一組のクォークがくっつきあって核子を構成している。三つ目のステップは、この安定段階よりもエネルギーを上げていくとクォークが不安定に動く状態になる。クォークどうしがねばねばとした力線を伸ばし、無秩序にくっつきあってどろどろのスープのようになる。二つ目のステップは、更にエネルギーを上げると、単独で動くクォークが質量を獲得する。そして一つ目のステップが、真空から励起される段階である。どんな構成要素でも、結合エネルギーよりも高いエネルギーを与えれば分離することができる。しかし、クォークは、加速器でいくら高エネルギーを与えても、引き離してクォークを取り出すことはできない。これが「クォークの閉じ込め」である。クォークの閉じ込め以前、宇宙には陽子と反物質である反陽子があったと考えられている。反物質とは、物質と電荷などが反対で、性質は同じもののことを言う。現在、反物質は存在しない。物質と反物質が対消滅し、なぜか反物質よりも物質が多かったため、物質だけが残ったということのようだ。この対消滅を経て、個性をもった核子として陽子が生まれた。陽子と反陽子には、それぞれクォークが三つ入っていて、クォークと反クォークが混じりあった状態を「クォーク・グルオン・プラズマ状態」という。グルオンは、クォーク間に働く強い力の相互作用を媒介するゲージ粒子のことである。ゲージ粒子とは、四つの力の相互作用(ゲージ相互作用)を引き起こすボース粒子のことで、電磁気力を伝える光子、重力を伝える重力子、弱い力を伝えるWボソン、強い力を伝えるグルオンがある。
3. ヒグスメカニズム
クォーク間の強い力の相互作用を生んでいるのが「グルオン場」であり、四つの力を作り出している場を総称して「ゲージ場」という。重力場や電磁場もあるのだが、ここでは重力場が統一見解から外れる。クォークが質量を獲得する場が「ヒグス場」である。いわば質量の起源である。ヒグス場は対称性を破りやすい性質を持っているという。この対象性を破る現象でクォークが質量を獲得するのが「ヒグスメカニズム」である。ひもの挙動を調べていくうちに謎のグラビトン(重力子)が発見される。素粒子はスピン(自転)している。エネルギーを与えれば、その回転は大きくなり質量が増える。しかし、グラビトンはスピンがあるにも関わらず質量がゼロである。この重力子の発見によって、超ひも理論が、重力場をも含む統一見解を示唆することになる。
4. インフレーション理論
ビッグバン宇宙論は、主に二つの観測で裏付けられる。一つは、様々な銀河の光が赤方偏移していることから、多くの銀河が遠ざかっていることがわかる。ハッブルは、銀河の後退速度とその銀河までの距離が比例していることを見出し、遠くにある銀河ほど速く遠ざかっていることを発見した。ハッブル定数は宇宙の年齢や大きさに目安を与える。二つは、3K宇宙背景放射で、温度3Kの電磁波が宇宙のあらゆるところから地球へやってくる。人工衛星WMAPは、3K宇宙背景放射のゆらぎまで観測できるという。インフレーション理論は、水素原子の原子核が一気に地球の公転軌道ほどの大きさに広がったとするもので、ビッグバン宇宙論を補完したものである。実際に宇宙をプランク温度になるまでさかのぼると、その時の宇宙の大きさがとてつもなく大きく、平坦に近い状態になってしまう。よって、宇宙の創世をプランクの長さとするならば、どこかで爆発的に大きくなる瞬間が必要である。この平坦問題を巧みにというか、無理やりこじつけたのがインフレーション理論である。インフレーションの間、絶対温度はほぼゼロと考えられている。あまりにも急激な膨張によって密度が薄められるからである。プランクの長さの宇宙は冷たく高エネルギーをもった真空である。そこから、急激な膨張によって、エネルギーは温度に化け、冷たい宇宙は再加熱され、場が振動し粒子が励起され物質が誕生する。この高エネルギーはどこから得られるのか?そもそも、真空にエネルギーがあるのか?アインシュタインの方程式は、この真空のエネルギーを導き出せるという。真空のポテンシャルエネルギーが正の値で、しかもあまり運動をしない状態では、アインシュタインの方程式で圧力が負になるという。この負の圧力が膨張エネルギーを自己調達させて勝手に膨らむといった現象が起こるというのである。本書では、風船を膨らますのに、空気を入れなくても勝手に膨らむという説明がなされる。確かに、内圧がゼロで外圧が負ならば、相対的に風船は膨らみそうだ。では、その負の圧力はどこからくるのか?エネルギーのタダ食いか?それがアインシュタインの方程式だという。この負の圧力を生み出す真空のエネルギーはアインシュタインの宇宙項で表される。この宇宙項は、インフレーションの時期に使い果たしたと思われがちだが、実は今も少し残っているとされる。だから、宇宙は今もエネルギーのタダ喰いで膨張をするということになる。
5. Dブレーン
アメリカの物理学者ポリチンスキーが発見したDブレーンは、超ひもからなるエネルギーの塊である。超ひも理論の古典解としてDブレーンという安定したエネルギーが見つかった。この安定したエネルギーの塊が「ソリトン」である。例えば、波が押し寄せる様子で、波が形を変えずに安定した形状を保ちつつ押し寄せる姿がソリトンである。今までの摂動論では、いろいろな真空の間を偏移することを表すことができなかった。つまり、エネルギーがゼロの基底状態、すなわち真空から少しだけ励起された状態で、多くのひもが同時に関係する現象は扱えなかった。これに対して、Dブレーンは多くのひもがいっぱい詰まっている状態と見なして摂動論の限界を超える。ちなみに、Dは、微分方程式のディリクレ条件の頭文字に由来するらしい。Dブレーンは、超ひもが密集するいろいろな次元の面と考えることができる。Dブレーンの功績は、様々な真空の重ね合わせができたことである。トンネル効果もDブレーンによって引き起こされたと考えれる。例えば、アルファ線が原子核を抜け出すような現象を説明する時、ある確率で真空を超えられる。ここで、オリエンティフィールドというマイナスのエネルギーをもった変わったDブレーンが登場する。プラスとマイナスでエネルギーを相殺する現象は、真空を重ね合わせる上で好都合である。安定した空間を説明するためには、このエネルギーの相殺が必要である。超ひも理論は、10次元の理論とも言われるらしい。無数のタイプの真空があるからであろう。物事を一般化するというのは視点を増やすことにもなろうが、時空の次元を増やしてやれば、矛盾の生じない統一理論ができるということなのか?ところで、人類の住む宇宙は、その真空のどれにあたるのか?人類は10次元宇宙に浮かぶ4次元空間に住んでいるのか?人類へ影響を及ぼす相互作用は重力である。逆に言うと重力を感じない陰の空間が目の前に存在しても感じることすらできない。これが霊感なのか?なんとなくパラレルワールドへと導かれる。普段、均衡しておとなしくしている異空間から、突然表れる重力波を感じても不思議ではないのかもしれない。天体規模ではニュートンの重力法則は成り立つが、超接近するとその関係が崩れるのではなく、別のDブレーンの存在が影響しているだけなのかもしれない。気持ち良くゆらぐ千鳥足に向かって、突然重力点(店)からの影響によって軌道がずれるのも、そこにDブレーンが潜んでいるからに違いない。
6. サイクリック宇宙論
超ひも理論を支持する素粒子物理学者たちは、多くの宇宙研究者に支持されるインフレーション理論とは違った見解を持っている。それがサイクリック宇宙論である。人類は、ビッグバンとビッグクランチのサイクルを30回から50回繰り返した途上の宇宙に住んでいるという見解である。宇宙は膨張しているのか?縮小しているのか?それとも定常宇宙か?宇宙の膨張のしかたは、宇宙項と、宇宙に存在する物質の密度との関係によって論じられる。宇宙項は、真空がどの程度のエネルギーを持つかを表す定数である。宇宙項が大きいほど、エネルギーのタダ食い効果が大きく、宇宙は速く膨張する。物質の密度は、銀河と銀河がどの程度離れて存在するかを意味する。つまり、万有引力の関係で、密度が高ければ、それだけ収縮する力が強いことになる。現在の宇宙は膨張し続けているので、密度は下がり膨張速度も減速する方向であるが、宇宙項の加速方向との競合によって、宇宙の運命も決まる。インフレーション理論では、宇宙のエントロピーは、ただの一回の指数膨張と、それに次いで起こる再加熱によって作り出されると主張する。一方、サイクリック宇宙論では、ビッグバンとビッグクランチを繰り返しながら、徐々にエントロピーを蓄えてきたと考える。そこから計算されたのが30回から50回で、インフレーションという特異点を考慮する必要がないわけだ。宇宙は、ビッグバンとビッグクランチを繰り返していくうちに、だんだん巨大化しているのか?ちなみに、ビッグバンとビッグクランチの境界は、実時間で受け継がれるという。ただ、アル中ハイマーには、一晩に同じ店へ何度も繰り返して立ち寄る現象は、虚時間を持ち出さないと説明がつかない。サイクリック宇宙論には精神の輪廻を思わせるものがある。人間の肉体が成長して亡びていく様は、遺伝子で継承される。サイクリック宇宙論はなんとなくDNAを暗示しているように感じる。自然法則は、宇宙にも生物にも成り立つ可能性があるだろう。そして、人間の精神は、だんだん巨大化していくのだろうか?
登録:
投稿 (Atom)
