2008-08-03

"笹まくら" 丸谷才一 著

連続して素晴らしい文学作品に出会えて幸せである。最近、アマゾンのお薦めは精度が悪いような気がする。本を選ぶには、やはり立ち読みしてみるのが一番である。
本書は、素晴らしい趣向(酒肴)を見せてくれる。それは、現在と過去を自在に往来する文章構成である。文体の区切れもなく、何の前触れもなく、いつのまにか過去へ、いつのまにか現在へと。今宵は時空の移動を感じる純米酒がピッタリだ。

アル中ハイマーには文学センスが全くない。高校時代、国語や古典では学年で最下位を争っていた。試験問題では、作者が何を意図しているか?などと問われても、「知らんがね!」という態度を取っていた。そんなことよりも、読者の感覚を自由にしてもらいたいと願っていた。以来、文学作品は大嫌いになり、近寄りもしなくなった。親しい同級生には、「お前は国語が苦手なのではなく、試験問題に素直になれないだけだ。」と言われたものだ。この友人は、理系に進んでいるのになぜか数学が苦手だったが、文学の才能は抜群だった。数学に対する発想力もおもしろく、考えをヒントにさせてもらったことも多い。その奇抜な発想のために、混乱を招くことも多く、自ら蟻地獄に嵌りこんでいた。しかし、こういう人間こそ真の理系向きなのかもしれない。彼の最大の武器は根気強さである。これは、研究には欠かせない気質であり、羨ましく思う。おいらは、「お前は数学が苦手なのではなく、試験問題を解く効率が悪過ぎるだけだ。」と言い返したものだ。互いに、三角形の面積の解き方を何種類言えるかといった遊びで競ったりもした。幾何学的手法から、ベクトル解析、微分積分と、あらゆる方法で何十種類もでっち上げ、意地の張り合いをしたのが懐かしく思い出される。本書を読んでいると、なぜかそんな昔のことを思い出してしまう。それも、時代を自在に往来する時空の旅を見せてくれるからであろう。

「笹まくら」という題目は、鎌倉時代の歌から取ったものらしい。著者は、旅寝をしている時、かさかさする音が不安感に襲われると表している。時代は太平洋戦争。主人公は徴兵忌避者で国家から逃亡し、戦後まで生き延びる。そこには、やりきれない孤独や絶望を描いたアウトサイダーの物語がある。主人公は、戦後、問題にならなかった徴兵忌避が次第に噂され、勤務先で息苦しくなる。他人の生活を覗き込むような社会は、別の意味での軍隊生活。息苦しい戦後生活が逃亡生活と重なる。戦時中も戦後もたいして変わらないという意識を訴えているかのようである。おそらく著者は、日中戦争から太平洋戦争へと動く世論に反対の立場をとったのだろう。そう思わせる節がところどころにちりばめられている。著者は、自分自身と徴兵忌避者を重ね合わせる。著者自身が入隊し、戦地に送りこまれる前に終戦したという。
本書の注目すべきは、文章構成である。それは、戦時中と戦後を何度も自在に往来する。まさしく酔っ払いが、気分良く時空を散歩するかのごとく。本名と偽名の往来。戦時中に助けてくれた女性と、戦後の妻との対比。軍隊からの逃亡と、居場所のない戦後社会の対比。過去と現在の心の違いを放浪するテクニシャン振りは感動ものである。文学の世界には、このような技法があるのかと驚嘆させられる。だが、よく考えるとアル中ハイマーのてんでばらばらで時系列などない文章構成にも似ている。芸術と酔っ払いの領域は、隣り合わせの時空に存在するようだ。

1. 徴兵忌避者
物語は、逃亡生活を助けてくれた女性の死の知らせから始まる。主人公は社会復帰し大学職員として平凡に暮らし、既に戦後20年が過ぎていた。女性の死の知らせが主人公を戦時中へと連れ戻す。主人公は徴兵忌避者となり、家族にも友人にも知らせずに逃亡生活に入る。ラジオや時計の修理をしたり、砂絵師となって各地を転々とする。徴兵を忌避した理由は、自分が死ぬのが怖かったわけではない。人を殺すのが嫌だったと語る。戦争というものが生まれつき嫌いだったのだ。だが、家族や親類にも非国民の汚名が着せられる。逃亡中、母親の自殺。父親も早く参ってしまう。弟は憲兵に追いまわされ殴られ、結核で死ぬ。主人公は自らを責める。人殺しをしたくないと行動した結果、別の人を死なせてしまったという矛盾にやるせなさを感じる。徴兵制度は軍国体制の基礎で、それに逆らえば銃殺か危険な戦地に送られる。いずれにせよ死を運命づけられていた。戦後まで国全体を敵に回しながら逃げ通したのは奇跡である。皆の顔が、徴兵忌避者のせいで負けたと恨んでいるように見える。徴兵忌避者が勝利するとしたら戦争に敗れることしかない。にも関わらず喜べない。空虚な心。実は、生き残る可能性など信じていなかったことに気づく。笹の葉は、風が吹くにつれて、様々な色に微妙に変り、元の色に戻る。偽名で生きた人間は本名へ戻る。だが、本名に戻ることを恐れる。主人公は戦争が終わった後をどう生きるか考えていなかった。徴兵忌避者のせいか、社会を信じることもなく、異常な警戒感を持つ性格となっていた。一緒に逃げ回った質屋の娘の死。最後の一年間養ってくれた。もし、彼女がいなければ自首していたかもしれない。だが、ここで疑問が残る。なぜ、この女性と分かれたのか?国に逆らうことへ情熱を燃やしてきたが、戦争が終わった途端、二人の関係も終わる。過去を引きずることを嫌ったのか?少なくとも逃亡中には、その娘との小さな幸せがあった。小さな幸せを取り戻したいとでも思っているのか?現在に絶望し、過去を懐かしんでいる様が描かれる。

2. 戦後の光景
日本もここまで国力が充実した以上、そろそろ大国らしく原水爆を持って国民の誇りを高めるべきだという大新聞の論調が飛び出す。主人公は、意見そのものは酔っ払いの論旨であるとはねつける。戦後20年も経って、問題にされなかった徴兵忌避を、世間が急に咎めようという風潮が現れる。職場でも徴兵忌避者や卑劣漢と陰口されるようになる。そこに戦争反対派の学生が近づいてくる。彼らは赤新聞的で、右翼ジャーナリストの撲滅を訴える。ベトナム介入反対で徴兵忌避したアメリカ青年と共にアメリカ帝国主義に抵抗するように持ちかけられ、学生新聞の編集に加担させようとする。この時代、日本人の生活が贅沢になり、西洋と対等だと思うようになり、もう一度戦争をして、国威を発揚しようという思想が現れた様が語られる。それも、オリンピックみたいな気分で、日本全体の雰囲気が、主人公にとって不快なものとなっていた。しかし、昔、あれだけ世間に逆らったのに、いつのまにか世間の動向に助けられながら生きている自分に、空虚な気分でいる。

3. 戦時中の光景
逃亡中、炭鉱からの誘いもある。石炭会社は、犯罪者や徴兵忌避者を多く雇う。憲兵に渡したところで何の利益にもならない。弱みを持った労働者は歓迎できる。逃亡者も引け目を感じる。朝鮮人より待遇もいいし、祖国のために働こうと胡散臭く持ちかけられる。犯罪者が炭鉱で働くのも、誰にも見られぬ所へ逃れたいという深層心理が働くのだろうか?光を避けるように、暗い所を求めるのだろうか?主人公は、徴兵忌避した理由を追い求める。アメリカ相手の戦争の意味とはなんだったのか?単なる意地か?アジア諸国の独立と称して大東亜戦争と叫び、戦争を擁護する人も多い。民族の自由を掲げ、戦争を正当化した論調はどこにでもある。主人公は戦時中孤立していた。そして、今も徴兵忌避の過去から孤立している。この光景は、戦後の近代社会が人々を孤立させている現象を暗喩しているかのようにも見える。いろんな理由付けを探しても、結局、軍隊が嫌いだったという理由に帰着するのではないかという疑惑。軍隊の習慣である往復ビンタが嫌だった。人間はあらゆるものへの反抗を正当化するために理屈づけをする。ほとんどの反抗的行為が、単純な気分によるところが多い。アル中ハイマーが仕事を拒否する理由も、単に面倒だからである。

4. 青年たちの議論
二・二六事件については、天皇親政に帰るための方法として仕方が無かったという論調が登場する。そもそも、天皇親政などという時代は、大昔から日本史にはないではないかと議論が始まる。少なくともエリートたちに、天皇陛下が日本を治めるなんて信じる者はいない。百姓の息子を戦死させるために都合良くした教えに過ぎない。一人の学生は、天皇信仰は無知な大衆向けの国家論だと主張する。国家の目的とは何か?その目的は、戦争以外にはないんじゃないか。国民の幸福や、文化の発達は見せ掛けの目的ではないのか。スパルタは戦争愛好国で、アテネは文化愛好国というのは間違いで、どちらも戦争が目的の国ではないか。偶然にも文化が生まれただけのことで、文化国なんてものは存在しないんじゃないか。といった議論が展開される。明治維新以来、戦争ばかりやっているから、こうした議論も自然に見える。国家とは資本家のものか?政府は浪費ばかりしている。資本家は利潤のために浪費を願う。ここで、主人公は、国家とは無目的なものだと発言する。国家は、内的な緊張、党派の争い、階級の争いが起こりやすい。したがって、外的緊張が必要である。戦争が起こりそうだからといって挙国一致内閣を作るのではなく、挙国一致内閣をつくるために戦争を起こすのだと語る。そして、徴兵忌避の方法を論じる。銃が撃てないように、右手の人差し指を切り落とすとか、気違いを真似るとか、病気を装うとか、そして、アル中になるのもよいだろう。

2008-07-27

"ヴァレリー・セレクション(下)" Paul Valéry 著

上巻に続いて、何度も読み返しながら進んでいると、読破するのに一ヶ月もかかってしまった。歳をとると、こういう世界を欲するようになるのだろうか?いや、まだ若いからこそ癒しの空間が必要なのだ。アル中ハイマーは哲学の意義をごくたまーに考える。この一見高度に見える思考は、生きる上であまり役には立たない。哲学は、苦悩する具体的な問題に何一つ答えてくれない。定義できない抽象的な問題を考察したところで、解決にはならない。そして、答えの見つからない宇宙へと放り出される。論理的な解明を深めると鬱病にさえなる。だからといって、それ以外に何ができるだろうか?だからといって、諦めるにはもったいない。哲学は、探求するプロセスを楽しむ世界である。素朴でなければ、その境地に達することはできない。そこが、暇人の学問と言えるところである。多忙に追われていては、触れることのできない領域に踏み込む。そして、そこに詩的なものが加われば、癒されることこの上ない。ヴァレリーの世界とは、そうした世界である。

本書を眺めていると、評論であっても芸術の域に達した独創的な文章に出会える。こうした文章を見せつけられると独創へ憧れてしまう。ところで、独創性とはなんだろうか?独創性とは、どうやって磨くのだろうか?上巻では意外なことが語られていた。それは、ほかの作品を養分にすること以上に、独創的なものはないというのだ。もちろん、そこには自らの精神を曝け出すのが鉄則である。偉大な芸術は、模倣されることを自然に受け入れる。優れた作品は、模倣しても、模倣されても、ゆるぎない芸術性を保つ。それに耐えうる、それに値するものにこそ、真の芸術があるということだろう。批評にしても、作品を語っているようで、実は自己を語っている。それは、気分や趣味にしたがって意見を述べているに過ぎない。日本の小説家で誰だったかは思い出せないが、似たようなことを語っていたような気がする。それは、独創性を磨くには、いかに多くの気に入ったフレーズに出会えるかにかかっているといったことである。個性を磨くにしても、いかに個性的な人間に出会えるかにかかっているのかもしれない。独創性とは、先人たちの苦悩と積み重ねによる賜物と言えるだろう。著者は、小説や詩というものは、純度の低い無意識的な応用に過ぎないと語る。そして、詩の創作とは、言語という材料によって模倣しようとする行為であるという。著者が文学に腹を立てているのは、科学と違って観念を扱う際に厳密さや一貫性や必然性を欠いていることだという。そして、文学の対象はたいていとるにたらないと語る。とはいっても、単に文法的な形式に従って言葉を並べても、そこに詩的な文章は現れない。たいていの人々は、生活の中に潜む幸運の産物に気がつかないでいる。文章の見事さや韻律の美しさは主観の領域にある。主観とは、精神の自由を探求するものであり、いわば本能との葛藤である。この葛藤の中から、形として表せるものを見つけ出すところに、芸術家の凄さがあるように思える。

芸術の一手段に絵画がある。これは人間の視覚に直接訴えるため、それだけで説得力がある。にも関わらず、絵画を文学という手段で評論し、更に芸術性を高めるところにおもしろさを感じる。特に、芸術感覚のないアル中ハイマーには、文章による解説は必須だ。しかし、芸術家は職人気質があるため、文学的な評論を拒む印象がある。お前なんかに俺の芸術が分かるもんかと嘲笑っているような気さえする。しかし、著者は、あらゆる芸術作品は人が答えてくれることを求めているという。そして、絵から談話の機会を奪い取ったら、その意味と目的を失ってしまうと語る。芸術作品には、作者の生き様が要約される。そして、自らの作品をより高度な複雑な領域に定義したがる。芸術家が自らの定義を文章に訴えた例は多い。レオナルドは事柄の様子を細かく叙述し、ドラクロアは様々な秘訣や方法を書き留めた。こうした過程で、芸術家は信念を高め、自らの五感へ働きかける。本書を読んでいると、芸術作品の評論とは、作品そのものよりも、芸術家の生き様を評するもののように思えてくる。美術館は独り言の好きな人間には最高の場所である。

本書には見事過ぎるほどの幻想的な光景が広がるので、記事にすることは難しい。また、酔っ払いが安易に記事にすると、作品そのものを壊してしまう気がする。だが、せっかく読んだのだから、要点だけでもメモることにした。

1. 海への眼差し
海辺で眺めていると、様々な考えの粗描、詩の断片、行動の幻、希望の脅威を精神の中に見出すと語る。そして、感情を持たないものの中で、海以上に自然に擬人化されたものはないという。その文章からは、地球、月、太陽、空気などの影響下にある巨大な液体に、素朴な精神は生命を吹き込もうとする。透明と光沢、休息と動き、静けさと嵐、法則と偶然、無秩序と周期、知的で幼稚、時には地質学的に、時には生物学的に、時のは物理学的に...人間の精神に照らし合わせた水への幻想的な表現が続く。そして、誰もが素朴な詩人になれると語ってくれる。そこには、音楽を聴いているような癒しの世界がある。

2. 「パンセ」の一句をめぐる変奏
パスカルの断片集「パンセ」の中の一句。「この無限の空間の永遠の沈黙がわたしを怖れさせる」これを題材にしてパスカルの人間像を評している。そして、悲劇の主人公説を否定する。これは詩であり思想というものではないという。「無限の空間」と「永遠の沈黙」を対称的に配置し、均整のとれた構成は見事で、一つの宇宙が創出される。そして、「この詩は完璧だ!」と語る。この句には、パスカル自身が世界から打ち捨てられ、絶望の境地が表れる。しかし、本当に全てが虚しいと感じるならば、そう書くことを自ら禁じるものだという。確かに、うまく書こうとするところに下心がある。自らを分析できる冷めた心が無ければ芸術は生まれない。芸術家は観察したものを誇張せずにはいられない。著者は、本当に宗教的な人間や、本当に思慮深い人間は、宇宙に空虚なものを見たりはしないという。そして、認識と救済との対立を大げさに誇張するのは、同じ時代にパスカルに劣らず優秀な科学者がいたからであると分析している。デカルトへの嫉妬心か?あらゆるライバルへの対抗心か?といった批評が展開される。

3. コローをめぐって
コローの絵の評論。コローは「大地」の姿を最もよく観察した画家の一人である。著者は、偉大な芸術家とは、知的で、理屈っぽく、美学に夢中になった連中であるという。偉大な芸術家は、偉大な理論家でもあり、人々に抵抗不能な効果しか望まず、服従しようと試みる。その一方で、コローは自分の感じるものへと誘惑し、自然に忠実に服従するのを願うという。著者は、芸術家が最終的に行き着くところは自然さだと主張する。コローは巨匠たちを尊敬してはいるが、他人の手段は邪魔だと考えているという。彼の作品は、波うってどこまでも続く「大地」に光をあて、音楽のような魅惑を引き出す。それは、生涯かけて学問の深さを追及した者にのみ得られる自然であり、ある日突然不意打ちのように現れるという。ライプニッツは0と1で全ての数が書けることを示した。芸術の巨匠にかかれば白と黒で同様のことができるということか。明と暗だけで、視覚的な表現には十分なのかもしれない。著者は、色彩画家は本質的に詩人であると語る。

4. マネの勝利
もし!「マネの勝利」という絵画を描くとしたら、この偉大な芸術家の周りを仲間たちで囲むような構想になるだろうと語る。そのまわりには、ドガ、モネ、バジル、ルノワールといった巨匠が並ぶが、誰一人として、テクニックも個性も違っている。彼らの共通は、ただ一つ、マネへの信仰だけである。マネには、それだけ不協和音を結束させるだけの力を持っているということだろう。マネの偉大さは、彼の意義を知っていた人の多さではなく、その心酔者たちの質の高さと互いに異種な人々だったことであると語る。

5. 地中海のもたらすもの
著者は、地中海の港の見える丘で育った。その精神が地中海から宿ったことを語ってくれる。人生の最初の印象を、地中海とその周りの人間から得られたことを幸運に思っているという。そこには、自然という恒久的な宇宙が存在するのと同時に、人工的に光景が変化する破壊との共存がある。神格的な地位にある海、空、太陽へ崇拝した時間が、著者の自己を形成していく。プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉は、まさしく地中海的であるという。つまり、自然の多様さには、人間の専門化した能力を結集しなければ対抗できない。そして、精神が持てるということは、光と空間、余暇とリズム、透明さと深さといった自然の諸条件を感知することだという。歴史的には、地中海の物理的特質が、ヨーロッパの形成に大きな役割を果たしてきた。地中海の自然が提供したものが、ヨーロッパの精神の根元にある。今日の基礎となる政治体制や思想、哲学が、古代ギリシャをはじめとする地中海文明がもたらしたのは、こうした自然環境を抜きには語れないのかもしれない。そう言えば、ガウディも地中海に魅了された様を語っていたのを思い出す。

6. 舞踏の哲学
舞踏は、生そのものから引き出された芸術であり、決してつまらない娯楽ではないと語る。そして、人体には、生きる上で必要もない過剰な能力があることを知ることができるという。著者は、舞踏の動きの中に、陶酔するまでの快楽が得られると絶賛している。しかし、実は著者自身がステップを踏めないので、なんらかの哲学に救いを求めているだけだと言っている。哲学者はイメージの大好きな人種である。そして問いかける。舞踏とは何か?時間とは何か?宇宙とは何か?酔っ払いとは何か?と。人間は奇妙な動物で、生きるために全然重要でない行為に意義を認め価値を与える。人間の好奇心は、生存の要求以上に激しくなり、ついには芸術や科学や普遍的問題を創造する。舞踏は、大地、地面、固い場所といった対象物の中で行われる。しかし、女性舞踏家は、そんな対象物を無視して軽々としたステップで、楽しく踊りまくる。舞踏の終わりには、見せ物として都合上定められた限界があるに過ぎない。つまり、音楽という別の要素が終われば自然と舞踏も終わる。この終わり方は、夢の終わり方に似ているという。また、芸術の行為は舞踏と同じであるとも言っている。そして、詩の朗読を、言葉による舞踏状態と重ねる。音楽家も同様。芸術家にとって作品は決して完成しない。舞踏と同じで終わる手段は、何かが枯渇した時に得られる。酔っ払いの行為も、全てが夢心地であり、決して覚めない舞踏状態にある。

7. 人と貝殻
貝殻には、一方は管の概念、他方にはねじれの概念がある。原則は単純だが見事なまでに多様さがある。ここでは、螺旋、渦巻き、空間内での角と角、これらの関係と観察といった幾何学的考察が続く。そして、いったい誰がこれを作ったのか?という素朴な疑問との葛藤が始まる。精神の最初の動きは「作る」ということに思いをめぐらすことだという。これは最も人間的な概念なのかもしれない。「なぜ?」とか「どのように?」とは、「作る」という概念が要求することで、形而上学や科学はひたすらこれを求めてきた。本書は、更に素朴な疑問を人間が作ったものか?自然がつくったものか?と追い込む。音楽や詩の見事な作品は偶発的なものか?天才たちの突発的なひらめきは本当に人間によるものなのか?人間の行動は、瞬間的な、局所的な行為の連続から成り立つ。その瞬間を思考が意識できるものではない。人工的な産物は、思考が働いた結果によって作られたと言えるのか?貝殻の有用性とは何か?それを言うなら芸術作品に有用性があるのか?少なくとも貝殻は生物学上、有用かもしれない。哲学は滑稽で、全ての存在を疑ってかかるのに、宇宙の存在を真面目に語ろうとする。著者は、貝殻の問題はささやかなものであるが、人間の限界を照らし合わせるのには十分であると語る。

8. パリの存在
著者は「パリ」を思考する。二千年に及ぶ作品であるパリ。偉大な民族の資本と政治によって生み出されたパリ。甘美と労苦の集まり。多くの征服者により欲望の対象とされたパリ。そして、パリはあらゆる事柄にもまして最高位の精神的人格として存在するという。この大都市の絶え間ない活動が、善と悪、真実と虚偽、美と醜といったものが相矛盾し、いかにも人間らしいと語る。世界には、これに匹敵する都市は多く存在する。しかし、ニューヨーク、ロンドン、北京など、数百万の人口をもつ怪物たちと明らかに一線を画すという。多様で個性に溢れた都市だからこそ、芸術の都と言われるのだろう。当時のパリは、あらゆる分野のエリートたちが結集した時代である。パリは、比較の試練を受け、批判や嫉妬、競争、揶揄、軽蔑にもさらされてきた。著者曰く。「傑出したフランス人はすべて、この強制収容所に入る運命にあるのだ。」

9. デカルト
著者は、デカルトを注意深く考察すればするほど遠ざかっていくが、その解釈の分裂が心地良いと語る。精神を追求し、思考をめぐらせ、やがて疲れる。その疲れが、心地よい酔いをもたらし快感を与える。あらゆる思考を抽象化し、ますます深みに嵌る。無駄な努力と分かっていても、その衝動には勝てない。理性、知性、理解、直感が、互いに手段とも目的ともなり、問題とも解答ともなり、物とも観念ともなる。こうした思考は、哲学者を詩人へと導く。詩人の方はというと、逆の手順を踏んでも、なかなかうまくいかないようだ。著者は、科学の世界をデカルトの亡霊に勝手にしゃべらせる。宇宙が数学的に体系化できるとは考えていない時代に、万有引力の法則が世界を解放した。といっても、デカルト以来、不変なものをあれこれ変えてきただけではないかと問いかける。デカルトは自己意識を探求した。もし、自己の存在が証明できるならば、神が存在することも証明できるだろうと。そもそも自己意識の存在など証明できるのか?自然の威厳に比べれば、実存論や無意味論といった論争も無力化してしまう。デカルトがやろうとしたことは、自分の内にある一般化できるものを、最高点に高めようとしたと語る。

10. 対東洋
「自然」という語だけでも、癒される。「哲学」という語は魔法のように感じる。それがどういう意味かわからなくても。西洋人にとって「東洋」という語は、宝石のように思えるようだ。この言葉の効果は、その地方に行ったことがないことが必須である。その知識はせいぜい図像や物語で読んだ程度で、なるべく不正確に混乱した状態が好ましい。これが「精神の東洋」である。著者は、数々の豊かさや創造物の中から、論理性と明晰さが際立つ二つの系を発見したという。それは、ギリシャ芸術とアラビア芸術である。アラビア人は、ギリシャ幾何学から透明な妄想を過剰にまでに高め、その演繹的想像力は、宗教でタブー視されている厳格さを追求したという。それは、イスラムの教えに数学的な厳格さを適合させたアラベスクである。著者は、この禁止を気に入っていると語る。そして、偶像崇拝、まやかし、逸話、軽信、自然と生の見せかけといった純粋でないものを芸術から排除するという。

11. 身体に関する素朴な考察
生物の有機的組織といった全ての機能を人工的に作るとしたら、どれだけの機能を削減できるだろうか?と問いかける。血液など必要な成分が、機械によって確実に維持されるとしたら、生命を人工的にも維持できるだろう。生物の有機的組織がしている仕事といえば、血液の再生だけである。血液は身体を作り、身体は血液を作る。血液は循環路を通り、肉体内部の世界一周をしている。これこそが生命であり、実に単調な組織であり、精神が宿るなど思いもつかない。もし、血液が人工的に再生されるとしたら、生は無くなるのだろうか?精神が生命にとって不可欠な仕事をしているとすれば、それは状況の不確かさを予見する能力であろうか?無意識の操作や反射のような反応で事足りるならば、精神の出る幕はない。精神は、むしろ有機的組織にとって、かき乱し、台無しにしてしまうのが関の山である。人体のあらゆる機能を人工的手段で別の代用品で置き換えられるならば、もはや生は存在しないのかもしれない。その帰結として、感覚や感情や思考といったものは、生にとって本質ではないということになる。精神は、生命の保存にとって絶対不可欠なのだろうか?人類は、あらゆる定義を試みてきた。そして、最終的には、自らの可能性を思い通りにできる状態、「自由」とでも呼べる状態に置き換えてしまう。精神とは非存在という存在なのか?その存在を具象化しようと試みたのが本作品である。

12. ヴォルテール
フランス人の多様性は、ヴォルテールの中に生き生きとした形で現れると語る。ヴォルテールはフランス人特有のほとんどの欠点を持っていて、長所も最高レベルに達した典型的なフランス人だという。フランスという国は、理想どうしの不和、感情の対立無しではやっていけない国だという。ヨーロッパの精神として君臨したルイ14世は、ヨーロッパで指導的観念や精神で主導的立場に据えた。ところが、ヴォルテールは、この時代を死にいたらしめたと風評される。彼は全生涯を通して、偉大な時代の遺物や伝統や信仰や豪華さを焼き尽くすよう努めた。洗練された短気であり続け、敵対者を糧に生きた。彼の描いたコントや毒舌は、宗教に対してあらゆるゲリラ戦をしかける。その一方で、シェークスピアを流行らせ、ニュートンを研究し、神のために教会を建てた。そして、嫌悪、憎悪、礼拝、称賛される。ジョゼフ・ド・メーストル曰く。「彼の銅像を建てさせたい。死刑執行人の手で。」この悪魔のような奇妙な人間は、哲学者ではないと評された。こうした批判は、彼が才気にあふれていたことに向けられたと語る。世間は、彼を冷淡で上辺だけの人間と評する。そこで著者は問いかける。それもよしとしよう。では、奥深く情け深いと言われる人間が、どれだけのことをしたというのか?と。ヴォルテールは60歳頃、訴訟を中心とした政治活動を行う。それまで刑法は、社会秩序や国家や宗教に対する違反や侮辱のみを罰してきた。しかし、彼は人類に対する犯罪、思想に対する犯罪があることを叫んだ。さらに、裁きそのものが犯罪になることを訴えた。そして、公権力が感情的になることを阻止しようとした。著者は、支配的権力を窮地に陥れたヴォルテールの功績を賛る。

2008-07-20

"ヴァレリー・セレクション(上)" Paul Valéry 著

久しぶりに素晴らしい文学作品に出会った。おそらく、ここ数年で最も感動した本である。これは、本を読んでいるというよりは、草原でオーケストラの生演奏を味わっているかのようである。芸術の域にある文章とはこういうものを言うのだろう。何度も読み返しているうちに、読破するのに一ヶ月以上かかってしまった。おっと!まだ下巻が残っている。

作家ポール・ヴァレリーを知ったのは、三島由紀夫氏の著書「文章読本」の中で一瞬触れられているのを見かけたからである。そこには、評論の中にも、高度な芸術の域に達したものがあると紹介されていた。アル中ハイマーには全く文学センスがない。文学の意義など考えたこともない。そもそも言語で人間の感情が完璧に表現できるとは信じていない。とは思っても、巧みな文章で魅了する作家がいる。時々疑問に思うことは、文学作品を作るのに体系化した黄金手法などあるのだろうか?ということである。著者は、若い頃、そうした究極の奥義があることを信じていたという。しかし、結局のところ作家の精神の中にしか見つからないらしい。どんなに巧みな比喩を乱用しようとも、作者の意図に関わらず読者の個性によって調律される。読者の微妙な感覚の違いを文学が統一することもないように思える。しかし、ここまでは素人の感覚のようだ。著者は、言語と感情の不変的な関係の探求を諦めることは、文学者として怠慢であると主張する。そして、文学の歴史でこうした難問に立ち向かったケースがあまりに少な過ぎると嘆いている。確かに、諦めることと解読できないということは違う。著者は、文学の意義を正面から向かい合った結果、倦怠感が募り、書いたり読んだりすることを止めていた時期もあったと語る。多くの哲学者や数学者がそうであるように、天才とは鬱病と闘う運命にあるのかもしれない。本書には、文学の意義となりそうな部分がちりばめられている。もちろん結論などあろうはずがない。それはどんな学問でも同じである。そもそも人間の存在意義すら答えが見つからないのだから。意義が明確にできるならば、問題ははるかに簡単である。説明がつかないから芸術の域にある。本書は、限りなく抽象的な感覚を与えながら、冷静に観察すると単語一つ一つには具体的な言葉が踊る。詩的な要素も多く、なんとなく崇高な精神を呼び起こす。宗教的かと言うとそうでもない。扱っている対象が、社会、政治、哲学への批判もあるので現実感もある。

本書は、訳者が評論集「ヴァリエテ」を中心に選んだ傑作集である。著者が日記のように思考を書きとめた「カイエ」の一部「一詩人の手帖」や「言わないでおいたこと」も収録されている。ちなみに「カイエ」は3万ページという膨大な量にのぼるという。特に「言わないでおいたこと」の中で登場する「ロンドン橋」の一節は感動ものだ。ほんの数ページほどの短編であるが、ここだけでも何度読み返したか分からない。しかも、その日の気分によっていろいろな精神が呼び起こされる。そこには、ロンドン橋から眺めた生活にさまよう盲目たちの群れが描かれる。著者はその光景を見て孤独感に襲われる。そして、「私は、ロンドン橋の上で、詩の罪を感じていた。」と語る。確かに、扱う対象としては不謹慎かもしれない。しかし、あまりの見事な文章に癒されるという衝動には勝てない。

本書には見事過ぎる幻想的な光景が広がるので、記事にすることは難しい。また、酔っ払いが安易に記事にすると、作品そのものを壊してしまう気がする。だが、せっかく読んだのだから、要点だけでもメモることにした。

1. 建築家に関する逆説
三百年にも渡って不当に建設されてきた建築物を嘆いては、その救済を待ち受けるかのごとく語られる。オルフェウスの時代、大理石に精神を刻み込んだ。別の時代には、大聖堂の神秘が、諸民族の敬虔な魂を永遠のものにした。その後、建築物には沈黙と衰退がやってきた。壮麗な芸術も枯渇した。といったことを幻想的に表現している。また、ベートーヴェンやワーグナーといった偉大な交響曲を引き合いに出す。それでも19世紀末期には、もう一度芸術性を取り戻そうという動きがある。著者は、芸術家の思考や精神が再び宮殿や神殿に宿り、観賞する者に癒しや悲しみや笑みが見られることを願っていると語る。

2. 方法的制覇
時代は20世紀前半、戦争気運が高まる中、ドイツを軍事的な驚異だけでなく、経済力の驚異が迫りつつある様を描いている。そこで描かれる有効なメカニズムは、一方法の成功と見ることができる。政治構造や軍事体質が、経済発展の基本構造までを席巻する。生産や交通の方式は粗野にして確実、あらゆる困難を分割し断片化する。そして、個人には凡庸さを求める。著者は、このシステムが、無差別で困難を分散する仕組みであることを見抜いている。今日でも、方法論を持たない製造者が「良い製品は必ず売れるはずだ!」と発言するのを見かける。だが、抜け目の無い製造者は、製品の定義を曖昧にせず偶然任せにはしない。まさしくドイツは、論理と幸運とを両立させる努力をしていると評している。また、規律の元に着実に前進したドイツは、いずれ世界の富を手中にするだろうと予測している。地上のあらゆる凡庸さが、いずれ世界で勝利するのかもしれない。しかし、この方法論が好ましいとするならば、人類にとって奇妙な結果であると皮肉も混ぜている。

3. ブレアルの「意味論」について
言語はどのような変化を受けても、いくつかの特質は不変であると語る。その不変性には、精神との基本的な関係が含まれるという。しかし、心理学者たちはこの難問に触れてこなかったと嘆く。純粋論理学者も、表面的な論理体系は扱っても、言語の本質までは掘り下げてこなかったと指摘する。こうした怠慢が、言語を他のどの現象よりも手に負えない地位へ押し上げたという。そして、ミシェル・ブレアルの「意味論」で、言語の科学的分析を紹介している。著者は、「意味論」が思考のガイドラインとなっていることを認めつつも、残念ながらブレアルは自分の都合の良い心理学を採用していると評している。言語が生き物のように進化すると考えるのは、言語を神からの授かり物と見なすぐらい飛躍し過ぎているという。にも関わらず、言語の起源という不確定な問題には触れていないと皮肉る。どんな分野であれ起源を追求するのは幻想かもしれない。だからといって、物理学者は宇宙論を諦めているわけではない。

4. 精神の危機
歴史は、あらゆる文明が個人の生命と同じくらい脆弱であることを教えてくれる。統制の優れたものが偶然に死滅した例もある。常識と思われたものが、突然、逆説になることもある。ヨーロッパが古代ギリシャを含め、世界で長い間、優位に立てたのは精神と知識の豊かさであるという。しかし、こうした不均衡は、自らの反作用によって、逆方向へと変化すると指摘している。それは、精神や知識によって不均衡に格付けされていた分布が、いずれ、人口、面積、資源の分布に従うようになるという。ギリシャ人によって進化した知識は、政治や生産の基礎構造を作り地球上に富を生んだ。その結果、技術、科学、戦争あるいは平和の手段が世界に広まった。こうした拡散は、エントロピー増大の法則に従っていると言えるだろう。しかし、局所的に周辺に染まることのない物理現象もある。人間は、部分的に知的優位を持つ現象を、天才という言葉で拡散と対抗させる。ただ、ヨーロッパ精神のみが世界全体に拡散する地位にあるのかどうかは疑問が残る。本書は、第一次大戦時、ヨーロッパの無秩序にも触れている。ドイツ民族の偉大な美徳が、逆に悪徳を生んだ。道徳的な美徳とか正義といった思い込みがなければ、これだけ短期間で多くの残虐を許すことはない。著者は、人類にとって最も驚異なのは、精神的危機、知的危機だという。これは、その性質上最も人間を欺く様相で忍び寄ると語る。

5. ラ・フォンテーヌの「アドニス」について
当時、ラ・フォンテーヌは怠惰で夢想好きであったと風評されたという。だが、著者はこれに反論する。「ラ・フォンテーヌ」とは、普通名詞では「泉」という意味があるらしい。この人物のイメージを、泉の持つ魅力と結び付けてしまう。そして、いつも夢想し、天真爛漫に流れ去る人という印象となる。語呂合わせによって、人物像が勝手に作られた例と言えるだろう。見る目のある人は、作品で描かれた様々な光景にも関わらず、その魅力を見透かし、自らの精神の中で再構築して感嘆の度を深めるという。自らの夢を書きたいと願う人間は、限りなく目覚めていなければならない。冷静に観察する精神が必要である。そこには、極度の注意力があるからこそ、傑作は生まれる。決して暇人のなせる技ではない。本書は、霧の中に隠れる自らの思考と向かい合うには、それだけ苦労と時間を必要とすると語る。

6. ポーの「ユリイカ」について
エドガー・アラン・ポーの「ユリイカ」は、自然科学について情熱的に書かれたものだと絶賛している。そして、真理に達するためには、一貫性という考えを持ち出す。求める真理を獲得するためには、もっぱら直感に従うべきだと語る。ポーの概念の重要なのは、宇宙の探求には目的があるということである。宇宙の中にある相互関係、その深いところにあるシンメトリーは、人間の精神の内部構造に見える。つまり、詩的な直感が、人間を知らないうちに真理へ導くというのだ。こうした感覚は科学者の中にも見つけることができる。本書では、「ユリイカ」で述べられる結論が正確に証明されているわけでもない。にも関わらず、十分に説明されないまま著者の自説が登場する。この作品の中には、一人の神様がいるように思える。そして、シンメトリーという言葉を強調する。これは、アインシュタインによる宇宙表現の本質であると語る。現代の物理法則は世界を支配できなくなり、精神の弱点と似たものになりつつある。割り切れない少数がいつも残っていて、人間は不安と不徹底感に苛む。宇宙のような、直観で捉えられない起源には、神話の世界へ放り込まれるようだ。

7. 一詩人の手帖
詩を作ろうとして思想から始めたら、それは散文から始めることになると語る。あるイメージは、人物や風景などの外観であり、それ以外は形の定まらない音や調子があり、語は貼り紙に過ぎないという。例えば、隠喩は一つの思考を複数の表現の間で漂う。思考を厳密に表現できたら、隠喩は消滅するだろう。隠喩はあらゆる試行錯誤の中にある。詩は、語の有限な機能だけでは表せないものを表そうと試みる。詩を生み出す行為は、独自の領域を所有する人間を生む。詩人は、一種の言語的唯物論者なのかもしれない。文学は、完全な思考の道具にはなれない。詩とは、純粋に観念に近づくための努力である。しかも、作品は絶対に完成しない。それは完成した人間がいないからである。本書のおもしろい分析に、詩は、言説の素材の中にはめこまれた純粋詩(詩の元素のようなもの)の断片で構成されるというものがある。それは、元素のような純粋な感情が、あらゆる精神を構成する要素となることを意味しているのだろうか?言語は、自らの都合に合わせて扱われ、人柄に合わせて変形させる。よって、必然的に粗雑なものになるという。そして、共通言語は、共同生活の無秩序の賜物であると言っても言い過ぎではないと語る。詩人は、無秩序によって提供された要素と格闘して、人為的な秩序を創造しようとする。純粋詩とは、欲望、努力、能力といった極限的な概念であって、決して到達できるものではないと語る。

8. 言わないでおいたこと
絵画とはなんだろう?ラファエロの肖像画の前では「聖なるなめらかさ」などと呟く。厚塗りや盛り上げもなく、思わせぶりなハイライトも、過度なコントラストもない。明と暗の按配、美しい細部と至福の場との集合体、こうした種々の具体的な出会いから女神が現出する。一度にこれだけ多くのものが出会わなければ詩は生まれない。こうした多くの要素が融合したところに芸術の本質があるように思える。本書は、絵画が、おそらく芸術の中で、人間の無力さを一番簡単に感じさせる形式であると語る。独創性とはなんだろう?ここではやや意外なことが語られる。それは、ほかの作品を養分にすること以上に、独創的なものはないという。偉大な芸術とは、模倣されることが認められ、それに値し、それに耐えられるものであると語る。模倣によって壊されることがなく、価値が下がることもなく、また逆に模倣したものが壊されることも、価値が下がることもないという。一冊の本とは、著者のモノローグの抜粋に過ぎないのかもしれない。そこで語られる精神は、自らの姿を曝け出すのが鉄則である。批評というものは、気分や趣味にしたがって意見を述べているに過ぎない。作品を語っているようで、実は自分自身を語っている。つまり、詩人は、自己の批評家として存在することになる。詩人の偉大さは、精神がかすかに垣間見たものを、自分の言葉でしっかり捕まえることだと語る。

2008-07-13

"タオは笑っている" Raymond M. Smullyan 著

前記事で「天才スマリヤンのパラドックス人生」を題材にしていると、なんとなく本書を読み返したくなった。本書を題材にした記事は、ずっーと前にも書いたが、あまりにもいい加減なので書き直すことにした。

本書は中国哲学の解説書ではない。著者スマリヤンの独特な解釈によるものである。しかし、その哲学振りは十分に的を得ている。たとえ、禅やタオの本質が本書と違うものであっても、この哲学を支持したい。哲学や宗教には、良い面と悪い面と、そのどちらでもない面を具える。それを個別に解釈して優れた部分を合成できれば、それでいい。あらゆる思想は、ある部分では素晴らしいことを主張する。だから、信者が少なからずいる。明らかに間違っている思想には、人々は見向きもしない。その理論がたとえ間違っていても、心地よい部分があれば、人々は狂信することがある。ほんの一瞬にせよ、失業問題を解決したヒトラーのような狂人者でも民衆は群がる。
おいらが時々疑問に思うのは、一般的に語られる古代思想は正確に伝えられているのだろうか?ということである。思想を真に受けるのと、好むのとでは違う。本書を読んでいると、思想についてどちらが優れているかを論争することは、どうでもよくなる。ここで問題にしているのは、ただ好きか嫌いかである。狂信者のおもしろいところは、宗教が人間のニーズに答えてくれると信じていることである。神様が存在すると信じる。ここまではいい。しかし、どうして神様が自分の味方だと信じられるのか?神様は、とても照れ屋さんで、信じられるとすぐにどこかへ行ってしまうかもしれない。哲学や論理学の探求は精神病になる危険が潜む。それでも、真理をほんの少しだけ覗かせてくれるところがいい。タオは、アル中ハイマーに安らぎを与えてくれる。

西洋の哲学や宗教には、論争と闘いの歴史がある。その中で、神の存在を巡ってどれだけ血が流されたであろう。宗教家は、異教徒と無神論者を救うために、神を信じさせようとする。だが、そもそも救う必要があるのか?こうした論争を尻目に、タオな人は、のんびりと酒を飲んで芸術に浸る。西洋哲学で議論の的となるのが、「実存するか」や「意味があるか」である。タオな人は、実存論争や、無意味論争など、気にもかけない。タオな人は、論理実証主義者の「無意味だ」という似た反応を示すが、それも微妙に違う。スマリヤン流に言えば、無意味だけど議論しても愉快ならば、それでも「ええんでないかい!」といったところだろう。苦悩することもなく、関心のないことに夢中にもならずに、ただ笑って愉快になるだけ。これぞタオの真髄である。ある禅師の話。仏陀を拝むのは悟りを得るためではない。「ただ拝みたいから拝むのだ」そこには、理由などない、なんと自然だろう。「そこに純米酒があるから飲むのだ」アル中ハイマーの哲学も捨てたもんじゃない!

哲学には大雑把に言うと二つに大別できるという。それは「分別ある哲学」と「風狂の哲学」である。前者は、正当で理性的で分別的である。一方後者は、どこか狂っている。そして、自然発生的でユーモアがあり、従来の思想の枠にとらわれない。著者は後者が好きだという。道徳的でなく、自己規制がなく、詩的で、矛盾とパラドックスに満ちている。そして、なんとなくこの世を超越していて真理にずっと近いと語る。どちらのタイプに属すかは、職業分野によっても傾向があるだろうが、一般的に、心理学者、精神分析医、経済学者、政治家などは分別あるタイプで、科学者、数学者、芸術家は風狂の傾向にあるという。どおりで、おいらは政治家や経済学者が好きになれないわけだ。
東洋の思想には、「悟り」という考えがある。キリスト教では、「救済」に相当するのだろうか?「救済」の概念は極めて明解であるが、「悟り」の概念は実に曖昧だ。いや!真の「悟り」を得た者にしてみれば、明解なのかもしれない。「神への服従」と言えば明解だが、「タオとの調和」と言うとわけがわからない。そもそも、「悟り」とは言葉で表せるものなのだろうか?真理が神の創造物であるならば、人間の作った言葉で、表せる方が矛盾してはいないか?
西洋的思想では「精神」について激しく論争する。そして、言葉が定義できても、その実体は不明である。では、「タオ」ってなんだ?その言葉すら定義できない。これは概念か?それとも宗教か?実に曖昧で、哲学のようで芸術の領域にある。これがタオの美学だ。こうした思想は、極めて東洋的であって、西洋からは受け入れられないだろう。ところが、著者がアメリカ人というところにおもしろさがある。しかも、どんな哲学書よりもおもしろい。

本書は、罪と自由意志の関係についても論じる。罪という意識は、人間が自由意志を持っている証拠なのか?自由意志のともなわない罪は、罪ではないのか?人間以外の動物に自由意志はないだろう。動物たちは、罪を犯しているという意識はない。すると、自由意志があるために、罪を犯すのか?決定論者は、すべての事象は自然法則に従うと言う。人間の行動が、すべて自然法則によって決定づけられるならば、人間の存在も自然法則の一部である限り、自由意志でどんなに反抗しようとも、それも自然法則ということになる。自由意志と決定論を対立させたところで、所詮自然法則の中で、もがいているだけのことかもしれない。ところで、精巧に造られたロボットには霊的なものを感じる。ここにも自由意志が生成されるのだろうか?昔ソニーの犬型ロボットAIBOが登場した時は感動したものだ。ロボットの足を付け替えたりすると、子供は虐待しているかのように白い眼で見る。しかし、これはロボットだ。映画「ターミネーター」では、シュワルツェネッガーが腕を切るシーンがある。これもロボットだ。いや!シュワちゃんの腕だから気持ち悪い。AIやロボットの研究には、人間の本質を明るみにする可能性がある。どうせなら酔っ払いと同じように千鳥足で歩くロボットを造れば、魂や自由意志が解明できるに違いない。ところで、女性ロボットとの関係に不倫は成立するのだろうか?

論理原理主義者は、定義できないものの存在にすぐに目くじらを立てる。自らの論理性に自信を持った者は、完全に論理で支配できると信じている。だが、論理にはパラドックスが存在する。なんにでも懐疑的になり徹底的に客観性に固執するからこそ、主観性の貴重なことにも気づく。おいらは、客観的な論理思考は優れていると思うし、大好きだ。だが、現実には主観性の罠に嵌り、客観性を保つことは難しい。著者は、ルイス・キャロルを論理学の天才であると同時に、ナンセンスの天才だったと評している。両者は紙一重なのかもしれない。著者は、禅について次のように語る。
「禅とは、中国のタオとインドの仏教を混ぜ合わせ、日本人がこしょうと塩で味付けしたようなものだ。」
禅を宗教と呼ぶには少々抵抗を感じる。禅は、教えというよりは「生き方」であろう。無宗教を批判する輩をよく見かけるが、重要なのは「生き方」である。著者はタオを音楽に喩える。音楽に敏感な人は美しいメロディーを感知できるが、その美しさを理解できない人もいる。そこには音波は確実に存在するが、メロディーが実在すると証明することはできない。そもそも、音楽センスを持った人は、メロディーが存在するという信念を必要としないと語る。聖書を理解できる人は、その権威を示す必要はないのと同じである。感じることができる人には、それだけでいいのだ。タオの存在も、それを感じることができる人とできない人がいるということだろうか。本書は、客観性と主観性の双方のバランスを問うているような気がする。

1. タオは寡黙
老子曰く。「善人は議論しない、議論する者は善人でない。」
タオと賢人は議論嫌いだという。これはキリスト教の神とは正反対である。旧約聖書には、いろいろな人々と議論する場面がやたら多い。議論の中で、あげ足をとる者は、論理的に語っていると主張する。そして屁理屈へと発展する。いや、屁理屈なら論理的な証拠かもしれない。ちなみに、著者自身は議論が大好きだという。老子の言う賢人には、なんとなく憧れてしまう。しかし、アル中ハイマーが寡黙になることは難しい。酔っ払いは口元の神経をコントロールすることはできない。では素面ならできるのかというと、それも難しい。酔わないと自我を認識できないからだ。タオは、口答えしたり反論したりしない。独り言が好きな人間には最高のお喋り相手である。もちろん、アル中ハイマーの独り言にもうなずく。グラスの氷に向かって、「君って冷たいね!」と話かければ、照れてカランと音を鳴らす。鏡に向かって、「なに赤くなってんだよ!」と話かければ、「君に酔ってんだよ!」と心の中で騒ぐ。

2. タオと調和
ユダヤ・キリスト教は、神への服従を求める。「自らの意志を神に委ねよ」と。しかし、タオは決して威圧しない。その代わり「タオと調和せよ」と説く。「調和」という言葉は、心の安らぎをイメージすることができる。「タオに意志を委ねよ」と言ってもピンとこない。そもそも、タオに意志があるのかも分からない。だが、タオが自由意志を否定しているわけでもない。ゲーテ曰く。「自然に対抗しようとする行動自体が自然法則に従っているのだ。」自由意志で、自然を征服しようとしても、結局は自然に逆らうことができず、人間と自然は一体であることに気づく。「自らの意志を神に委ねよ」という教えも、結局は同じ精神に帰着するのかもしれない。しかし、間違った解釈をした連中は多いようだ。「服従」とか「委ねる」といった言葉よりも、「調和」と言った方が酒のつまみにもいい。単なる言葉のニュアンスの違いであるが、そこには主観の美しさがある。

3. 性善説と性悪説
タオイストも儒学者も人間の本性は、元来善であるという立場をとる。もっとも、儒教は道徳を説くことによって、かえって人間を腐敗させるという批判もある。孔子曰く。「人間の本性は善であるが、老年まで善を保ち続ける人は少ない。」この性善説と対照的なのが、中国の法家思想家である。現実主義者とも言えなくはないが、人間の本性は元来悪であるので、現実に人々を治めるときは腐敗した人間の本性を十分に考慮しなければならないと説く。しかし、法家思想家たちによって、全体主義政権を打ち立て、多くの儒学者を拷問し処刑し、古典書物も焼かれた歴史がある。その時代、民衆は互いに行動を監視するような緊張の中で、政権は成り立っていた。これは、思想が正しいとか間違っているとかのレベルではない。思想を押し付けた結果である。道徳家にしても、押し付けがましいものである。ちなみに、老子も荘子も孔子も猛子も、人間が自然に善であった良き時代がかつてあったことを度々書いているという。当時、中国の病んだ社会へと向かう中で、嘆き悲しみ、思想の分かれが生じたのかもしれない。どこの国でも、思想の分かれが生じるのは、病んだ政治背景があるものだ。

4. 道徳家とタオイスト
道徳家は、「正と不正」を強調するが、タオイストは、自然の尊さを尊重する。著者は、道徳的であると同時に思いやりのある人間に出会ったことがないという。両者は、むしろ反比例の関係にあるというのだ。思いやりのある人は、親切で情け深い。これは、「こうあるべき」と思うからではなく自然にそうなのだという。そこには、正しいという感情がない。思いやりのある人間は道徳など不要というわけだ。道徳家は、「思いやりを持ちなさい」と説教しながら、思いやりのない人間にしてしまっていることに気づいていないと語る。そこには、共通して無理やり思想を押し付ける傲慢な態度がある。女性に愛を求めても愛は得られない。物品の方が手っ取り早い。
「美徳と隣人愛を宣伝しなくなれば、隣人愛は回復する。」
人間的な情け深さを重んじる点では、両者とも同じである。ただ、その手段が違う。義務的あるいは抑制的な道徳は、反抗的な自己意志を挑発する。政治家が政治を悪くしているように、経済学者が経済問題を引き起こしているとも言える。ノイローゼの元凶は心理学者という意見にも一理ある。本書が強調しているのは、「道徳的である」ことと「思いやりのある」こととは違うということである。まず、道徳家はこれを認めることだという。タオが道徳を否定しているのではない。道徳的な規範に縛られない自立した自由意志を理想としていると語る。

5. タオ的な服従
荘子は、人間の本性を害した儒家たちを、馬を台無しにする調教師に喩えている。ここでは、かなり長文が掲載されるが、気に入ったので、要点だけまとめてみよう。
「馬の扱いに長けていると自負する調教師は、馬の毛をそろえ、蹄を削り取り、焼印を押す。首には手綱をかえ、足かせをつけ、訓練するが、馬は本当にそれを望んでいるだろうか?陶芸家も粘土の扱いに長けていると自慢し、大工も木材を自由に加工できると自慢する。だが、粘土や木が加工されることを望んでいるだろうか?どんな時代も、その技術のおかげで、もてはやされるが、そこには人間のエゴが潜む。国の統治も、統制する技術を評価されるが、これは間違いである。国の治め方に長けている人は、治めるべきではない。なぜなら治める必要がないからだ。人間は、本能的に生きるために働く。これは自然と調和しているだけのことである。」
賢い支配者は、人々が自主的に自分たちのためになることをするように仕向けるという。そして、支配者が誇るのではなく、それぞれの人が自分自身の行動を誇る。これがタオ的な服従である。タオは目的によって作用しない。自然発生的に作用する。タオは決して命令しない。この対照的な立場がユダヤ・キリスト教である。だから、命令に従わない者が多いと語る。

6. 利己主義と利他主義
利他主義者は、利己主義者を批判し説教する。道徳家とはそうしたものだ。利己主義者を説教したところで、効果があるわけがない。だが、どんな人間でも、利己的な部分と利他的な部分がある。少なくとも、そう思うから説教する。利己的な部分が現れすぎているから、心の奥深くにある高尚な部分へと働きかける。解釈の難しいのは、自己をどの範囲に置くかである。人間は自己からは逃れられない。自己を全宇宙にまで広げれば、個性はなくなり、理想的な境地に達するだろう。その時、自己中心的という言葉は消え去る。

7. 「静の哲学」と「動の哲学」
本書では、「なるがまま」と表現しているが、アル中ハイマーの哲学に「なすがまま」というのがある。事業を成功させようと力んでいると、気楽に人生を謳歌するという欲求の方が、性に合っていることがわかってきた。これは無能な人間の諦めである。よって、興味のない本を読むこともないし、興味のない分野の知識など求めない。これが「静の哲学」といったところだろうか。これは行動派の人間からは批判される。無気力な人間の隠蓑となるからである。行動派は、なりゆきに任せれば悪に立ち向かうことはできないと主張する。これが「動の哲学」といったところだろう。「静の哲学」も反論する。無理やりの行動が、むしろ事態を悪化させてきたではないかと。だた、こうした議論は無意味である。あくまでも好みの問題である。タオは「静の哲学」に近い。タオの主要な考えに「無為をもって為す」というのがあるらしい。無為ってなんだ?またまた、曖昧な言葉が登場する。なんとなく自然に揺られながら、いつのまにか到達する境地のような感じだろうか?この曖昧さがいい。人には、努力と意識しない努力がある。つまり、好きなことをやる能力だ。

2008-07-06

"天才スマリヤンのパラドックス人生" Raymond M. Smullyan 著

本書は、冒頭から次のように始まる。
「私自身の人生がそうであったように、秩序立った方法ではなく、まるで散歩をしているような感覚で書き進めるつもりである。大好きな中国の叙情的な哲学者と同じように、私は大通りを進むことよりも、無数のわき道を歩き回ることに惹かれる人間だから...」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころである。

多くの数学者や哲学者に絶賛されるレイモンド・メリル・スマリヤンとはどんな人物か?ある証言によると、音楽と数学とマジックの天才。あるいはコメディの達人。また、ある者は現代のルイス・キャロルと評す。幼少の頃から、絶対音感を持ちピアノの天才と言われたが、右手首の腱鞘炎でピアニストになることを諦めたという。ナイトクラブでは、「五枚エースのメリル」と称してマジシャンで出演する。その一方で、数理論理学の博士号を持っていて、自由に大学を転々とする。プリンストン大学の教授は、ナイトクラブから彼を引き抜いて教授職に就かせたという。彼の著書「タオは笑っている」は、ずーっと前に記事にもしたが傑作である。ちなみに、彼はノーベル賞物理学者ファインマン氏と小学校の同級生なんだそうだ。どおりで、ユーモアのセンスに通ずるものを感じる。

本書は、おそらく著者スマリヤンの自叙伝である。ここで「おそらく」と書いたのは、あまりにも愉快なジョークやパラドックスが満載で、そちらにばかり熱中して読んでしまうほど灰汁が強いということである。そして、論理的、あるいは一見論理的、あるいは、自ら堂々と非論理的と語る文章で綴られる。そこには、数学や哲学や宗教、そして不完全性定理まで登場し、愉快な論理パズルで紹介される。中でも、答えの見つからない論理パズルがお気に入りのようだ。論理実証主義と絡めて「無意味」について考察する哲学ぶりには、論理と感性のバランスがうかがえて、なかなかのピート香を醸し出す。愉快な文章の合間には、数学に失望した瞬間や、著者の生き様もさらけ出す。著者は、今日の数学における教育危機の原因は、教師ではなく教科書にあると指摘している。現代の数学の教科書は、彼の時代の5倍の厚さがあるという。そして、代数と幾何学が混同され、幾何学の演繹的な推論は完全に省略されていることを嘆いている。また、宗教については、次のように語る。
「私は子供の頃、まったく宗教的な教育を受けなかった。そのことを神に感謝したい!」
しかも、宗教への固執性は、幼児期の教化に起因すると言っている。自然が神のようなものを創造したのは、なんとなく理解できても、自然が聖書を書くような神を創造したとは考え難いと語る。これには全く同感である。幼児期に宗教的な信念を叩き込むのは、催眠術によって暗示をかけるようなものだ。宗教にせよ、本にせよ、どんなものでも、受け入れる身構えがなけらば、吸収することはできない。

著者が尊重しているのは、謙虚さや慢心さではなく、ただ客観性であろうとすることだと語る。「あろうとする」と表現しているあたりに、客観性になりきることの難しさが伝わる。おいらも心掛けてはいるが、なかなか実行できないでいる。ただ、友人との関係を熱く語っているあたりは、人間味にも溢れた感性があり、照れ隠しで論理性を強調しているかのようにも見える。話題の中で、十歳ぐらいの子供の発想をもとにしたものが、ちりばめられているところもおもしろい。著者は、これが数学に最も重要な感覚であるという。数学の問題を解くことは、しばしば機械的であると誤解される。しかし、そこにはエレガントな発想が潜む。論理性の難しいところは、それが完全ではないことである。完璧だと思っている論理思考にも、実は微妙な落とし穴が潜む。著者は、その理解が深いからこそ、逆に論理のおもしろさや美しさが語れるのだろう。論理的な思考は優れている。しかし、論理主義に偏り過ぎると利己主義になる危険性も覗かせる。いくら論理で組み立てても、条件が一つ抜けたり間違えたりすれば、藻屑となる脆さもある。十人が一冊の本を読むと、そこには十通りの解釈があっても不思議ではない。一つの言葉でさえ、微妙に捉え方に違いが現れる。「赤い色」といっても、薔薇色の人生を思い描く人もいれば、血なまぐささを連想する人もいる。アル中ハイマーはブラッディ・マリーが飲みたくなる。ちなみに、鏡の向こうには「ああ気持ちええ!」と呟いている赤い顔をした住人がいる。

リチャード・バックの書いたものに「宇宙的意識」というものがあるらしい。人類全体が、更に高度な意識を持つ新人類に進化するには、長い時間がかかる。それは進化論のように、環境や思想に順応した新人類が少しずつ発生し、徐々に増加して地球上に広がるというものだ。宇宙的意識で注目すべきは、非権威的に語られていて、教条や権威から独立しているという。こうした意識は、音楽センスやユーモアセンスのように、人間の潜在意識の中に自然にあるのかもしれない。その中には、特質した才能を持つスーパースターのように、最先端の宇宙的意識を持つ人々がいるだろう。かつての著名な哲学者とは、そういった先人たちなのかもしれない。そして、著者スマリヤンもその一人のように思えるのである。

さて、思わず吹きだす話題の中から、なんとなく気に入ったものを摘んでみよう。なぜかって?煙臭いウィスキーには、スパイシーの効いた「おつまみ」があうから。

1. 地獄という制度
著者が出会った人類愛に満ちた地獄の描写は、スウェーデンボルグ宗教のものであるという。その教義によると、死後全ての人間は天国へ行き、いかなる審判も下されないらしい。ところが、邪悪な人間は、天国の居心地が悪く自ら天国を去る。そして、彼らは憎しみ合うので、地獄でも互いに苦しめ合う。しかし、神は彼らの苦しみさえ救済しようと天使を送る。この地獄のモデルは、刑罰というよりは、むしろ狂気の世界を象徴しているようだと語る。ここで、著者は、おもしろい提案をしている。題して「集団的救済」。
「最後の審判の日、神は人類全体の善悪を計算して平均値を出す。もし平均値が十分に高ければ、人類は全員合格して天国へ行くことができる。そうでなければ、人類は全員落第して地獄へ行かなければならない。」
あるカトリック教徒は、これは危険な宗教だと言った。あるプロテスタント教徒は、そんなことは絶対に望まない!。なぜなら、自分が天国へ行く可能性が大幅に減少するからだと言った。

2. 飛行機に乗らない統計学者。
「なぜ飛行機に乗らないのか?」
「それは爆弾で爆発する確率は低いが、安心するには不十分だから。」
ある日、統計学者が飛行機に乗っているのを見て驚いた。
「どうして考えを変えたのか?」
「変えていない。二つの爆弾が同時に爆発する確率を計算したら、安心できるほど十分に低いことが分かった。だから、爆弾を一つ持って乗ることにしたんだ。」
このように、確率論でよく間違える落とし穴をジョークにしている例が紹介される。確率論と言えば、必ず出てくるのが、同じクラスに二人の誕生日が同じである確率を求めよというのがある。直感では、その確率は低いと思うが、計算すると意外と高い。それは、クラス員24人が50%の基準になるという。
1 - 365 × 364 × 363 × ... × 342 / 365 ^ 24 = 0.53834 (約54%)
もちろん、一卵性双生児が居ないことを祈る。

3. プロタゴラス
プラトンの対話篇にこんな話がある。おいらも学生時代に読んだので懐かしい。
「ソクラテスは、弁論家のプロタゴラスが知恵を教えることによって生徒から金を取っていることを批難する。プロタゴラスは、生徒が学んだことに満足しなければ金を返すと反論する。」
この話から、著者は次の場面を思い浮かべたという。
学んだことに満足できない生徒が金を返せと、実際に要求したらろどうなるだろうか?プロタゴラスは理由を問う。そして、生徒は理路整然と理由を述べる。するとプロタゴラスは言う。
「その素晴らしい弁論こそ、君に教えた成果じゃないか!」
もう一つの場面がある。同じように金を返せと要求した生徒がいる。プロタゴラスは理由を問う。しばらくして、生徒はうまく説明できないと言う。するとプロタゴラスは言う。
「よくわかったよ。君にお金を返すしかなさそうだ。」

4. 論理実証主義者
論理実証主義では、実証あるいは反証できない命題を無意味と見なす。そこでは、「有意味」について厳密な定義をし、形而上学的な問題を無意味とする考えがある。論理実証主義者は、ライプニッツが哲学の根本とした「なぜ無ではなく、何かが存在するのか?」といった問題は、無意味であると排除する。これに対して、本書は、論理実証主義に反感をもっているかのように攻撃する。
「難点は彼らの有意味の定義が、常識的に言葉の意味とされるものと合致していないことにある。」
著者は、論理実証学者を次のように定義している。
「自分が理解できないものを無意味として拒絶する人」
そこで、登場するジョークがある。ある女性は、離婚の原因は、夫が論理実証主義者だからだと主張した。その理由は、「私がどんなことを言おうとも、彼は無意味だとしか言わなかったんですもの!」
アル中ハイマーに言わせれば、人間社会そのものが、無意味なもので成り立っている。ただ、酔っ払いには、無意味か有意味かを区別する意味も理解できない。

5. 恐るべしガキ!恐るべし直観!
「あなたは、この文を信じる理由がない」
さて、この文章を信じるか?信じないか?パラドックスはこうした自己言及の罠に嵌る。そこで、ある少年に尋ねた。「君は、あの文を信じるかね?」少年は答えた。「うん!信じる。」その理由は?と尋ねると、「理由は何もない」と答えた。更に「では、なぜ信じるのかね?」と尋ねると、少年は一言「直観!」と答えた。少年は、見事にパラドックスを回避したのであった。

6. 哲学者と神学者の違い
おいらは次の表現で酒のピッチが上がる。
「さて、読者は哲学者と神学者の違いをご存知だろうか?哲学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗く人。神学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、さらにそれを見つける人である。」
著者が常々思う疑問は、神を信じる人が、神は味方だと当然のように信じていることだという。「実は、神は科学的で、証拠にもなく信仰に基づいて何かを信じる人々に対して、我慢ならないお方である。」という可能性はないのだろうか?と問うている。

7. 唯我論と数学者
これぞ、スマリヤン流の論理というものを紹介しよう。
唯我論者は言う。「君は存在しない。私だけが存在する。」著者は答える。「そのとおり、私だけしか存在しない。」唯我論者は興奮して叫ぶ。「違う!違う!存在するのは君じゃなくて、私が存在するのだ。」著者は言う。「まったくその通り、存在するのは君じゃくなくて私が存在する。完璧に意見が合いますね!」
もう一発!!!
二人の数学者がレストランで食事をとった。食事を終えるとウェイターが尋ねた。「お会計は別々になさいますか?ご一緒になさいますか?」数学者の一人は、「別々に頼む。」と答えた。ウェイーターはもう一人の数学者にも尋ねた。「あなた様の分も別々でよろしいでしょうか?」

8. 悪魔の辞典
作家アンブローズ・ビアスの著書「悪魔の辞典」でおもしろい定義をしているという。
「論理学とは、人間の誤解の限界と無能力性について、厳密に推論および思考する学問。論理学の基礎は、大前提、小前提、結論から構成される三段論法である。一例を挙げよう。
大前提: 60人の人間は、1人の人間の60倍の速度で仕事ができる。
小前提: 1人の人間は、60秒で1個の穴を掘ることができる。
結論: 60人の人間は、1秒で1個の穴を掘ることができる。」

この本は買わずにはいられない!!!

9. 不完全性定理
クルト・ゲーデルが発見したのは、真であるにも関わらず証明できない命題が存在するということである。これが第一不完全性定理。ゲーデルが次に発見したのは、もしシステムが無矛盾であれば、そのシステムは自己の無矛盾を証明できないことである。つまり、システムが自己の無矛盾性を証明できたら、その証明過程に矛盾が含まれるということである。これが第ニ不完全性定理。
「この文は間違っているか、サンタクロースが存在するか、そのどちらかである。」
もしこの文が偽であるならば、「この文は間違っているか」あるいは、「サンタクロースが存在するか」の二つの選択肢は両方とも偽でなければならない。すると、前半部は、「この文は正しい」ことになり、「サンタクロースは存在する」ことになる。このパラドックスは自己言及の罠に嵌っている。ゲーデルの定理は、「この文は証明できない」という文章を証明しようとしているようなものだという。数学でよく「証明」という言葉を使う。ただ、よく考えると、「証明」の概念が明確に定義されたところを見かけたことがない。数理論理学では、「証明」の概念について正確に定義されているらしい。それでも、絶対的な意味での定義ではなく、形式的なシステムに対して相対的に定義されるものだという。例えば、こんな感じである。
形式的システムSがあるとする。そして、前提では「システムSにおいて、いかなる偽の文も証明されない」という意味でシステムSは正しいとする。つまり、システムSにおいて、証明可能な文は真である。この状況下で「この文は証明できない」という文章を次のように変形すると、パラドックスが消滅し、おもしろいことが起きるという。「この文は、システムSにおいて、証明できない」この文が偽であれば、その反対が成り立たなければならない。そして「この文は、システムSにおいて、証明できる」となる。これはまともそうに見える。しかし、「システムSにおいて、いかなる偽の文も証明されない」という前提に矛盾する。これは、システムSにおいて、証明できない真の命題が存在することを暗示しているという。んー!なんとなく詐欺にあった気分だ。今日は、睡眠薬がないと眠れそうもない。

2008-06-29

"真説ラスプーチン(上/下)" Edvard Radzinsky 著

以前から、アル中ハイマーは、社会主義がなぜロシアで起きたのか?という疑問を持っている。歴史教育では、資本主義の枯渇によって生まれたと教える。ちょうど世界恐慌の時期と重なったことがそうした発想になるのかもしれない。だが、もし社会主義が資本主義の枯渇によって起きたのであれば、なぜ?資本主義の成熟したイギリスやアメリカで起きずに、資本主義後進国のロシアで起きたのか?今日、既に社会主義やマルクス主義は崩壊したと言われる。しかし、今まで出現したものは本当に社会主義だったのか?実は、未だ歴史上に真の社会主義モデルは出現していないのではないのか?こうしたことを考察するには、マルクス主義をまともに読むしかないであろう。それも少々勇気がいることであるが、いずれマルクスの言った「疎外」にも挑戦してみたいと思っている。
それはおいといて、ここではもう一つ興味を持っていたラスピーチンについて読んでみよう。ロマノフ王朝からボリシェヴィキに向かう中、後に「ラスプーチンなくしてレーニンなし」と言われた。おいらは、ボリシェヴィキの源流がここにあるのか?となんとなく興味を持っていた。そういえば、最近までロシア大統領にも似たような名前があった。元KGBであることが冷酷な印象を与え、過去が謎めいていることから「ラス・プーチン」と皮肉られることもあった。しかし、歴史の俗説は時代とともに変化する。ロシアの神話では悪魔と聖人が入れ替わることも多い。血なまぐさいニコライ2世は、後に聖ニコライとなり、父であり教師であったスターリンは、血なまぐさい怪物となった。聖者レーニンも、血なまぐさい噂は絶えない。

時代は、ロマノフ王朝の末期。最後の皇帝ニコライ2世は闇の力に操られたと言われる。その闇で君臨したのが怪僧と言われたラスプーチンである。彼は読み書きもままならない農民、つまり「ムジーク」であるにも関わらず皇族への影響力は絶大であった。聖書に関しては優れた知識をもち、素朴で、教養がある人間よりも物事がわかっている。彼の言葉には、謎めいた格言のような形で、神がかりなうわ言のような予言力がある。また、彼のまなざしと、人に軽く触れる手には、催眠効果があったという。その一方で、売春婦や無数の婦人など、彼が「馬鹿女ども」と呼んだ人々を宗教と色欲を混同した半狂乱の中に陥れた。まさしくオカルトの世界である。こんな人物がなぜ闇の世界で君臨できるのか?彼はどんな人物だったのか?本書は、そうした疑問に挑んだ作品である。著者は、反ラスプーチンの証言が数多く出回る中、ラスプーチンの信奉者や友人の証言が多く収録されたファイルを入手したことが本書を執筆するきっかけになったと語る。本書には、数々の証言や回想、取り調べ記録から信憑性を探り、真相を暴こうとしたラジンスキー流の推理小説っぽい味わいがある。ラスプーチンは、自分自身の暗殺を予言している。その予言は、暗殺が親類の陰謀によるものならば、皇族一族も暗殺されるだろうというもの。そして、予言通り皇族一家も暗殺される。果たしてこれは予言なのだろうか?単に皇族を脅して自らの保身を計ったに過ぎないのではないのか。暗殺者によると、毒を盛られたのに生きていた、また、何発かの弾丸を打ち込まれたにも関わらず生きていたという証言がある。彼の逸話には魔人伝説が散乱する。しかし、人間は、狂人を悪魔の偶像に仕立てるには、そうした伝説とも言える筋書きを流布するものである。ましてや、神秘主義に惑わされてきた歴史のあるお国柄である。本書は、そうした仮説を暴いていく。

1. ロシアで流行るカルト宗教
暗殺や謎の死、様々な矛盾と恐怖にむしばまれた時代、こうした時代がオカルト的な雰囲気を蔓延させ、人々の日常生活は霊的なものを求めていたという。確かに、降霊術がこれほど発展した国はないのかもしれない。ロシアでは、ドストエフスキーやトルストイのような文学者を生み出した一方で、超能力者を生み出している。こうした背景は非公認の異端宗派を乱立させる。本書は、中でも「鞭身派」と「去勢派」について言及している。鞭身派における乱交は、肉欲を抑制するためであり、自らを清める儀式である。これをキリストの兄弟愛と称する。敬虔な人間は、罪を犯すと、苦悩を味わい懺悔する。その結果、魂の浄化が起こり罪人は神に近づく。罪と懺悔の間を行き来することに意味があり、神への道を示すものとされる。清らかな体にこそ聖霊が宿り、罪によって罪を追い払うという奇妙な理屈があるようだ。子供は肉から生まれたのではなく聖霊から生まれると信じるので、女性自身が聖母と自覚できる瞬間がある。18世紀半ばに、鞭身派から分かれた去勢派という新たな狂信者を生む。鞭身派の性的堕落を非難し絶対的な禁欲を唱える。男根の去勢処置は、灼熱した鉄を使い、斧も用いられる。女性の手術は、外陰部、乳首、乳房が切り取られる。本書は、この罪を犯すことの重要さを理解しなくては、ラスプーチンを理解することができないと語る。

2. ラスプーチンの教え
ラスプーチンは、鞭身派からスタートしたという。磔にされたキリストは復活せず、復活したのはキリストが説いた永遠の真理のみ。そして、「すべての人間がキリストになれる」と主張する。そのためには、自らの内にある肉欲、つまり、旧約のアダムや罪の人を殺さなければならないというのだ。ラスプーチンの使命とは、神の弱い創造物である女性たちを、罪から解放してやることだという。彼にとって愛こそ神聖なもの。自然の万物に対する愛。キリスト教的な家族愛。女性が夫を愛していれば、それは触れるべきではないが、夫を愛さずに結婚生活を送っているならば罪深い。結婚という制度には、従属する愛と反対の立場をとる。真実の愛が存在しないものはすべて罪と考える。同性愛者で偽りの結婚生活をしていた皇帝の妹には、彼女を抱き、愛を伝染してやろうと試みる。ラスプーチンから愛を授かったものには、性的な放埒から解放され、見えない糸で永久に結ばれると考えていたのだ。なんとも神秘的というか幼稚というか、巧みな触れ合いで催眠状態に陥れる。悪魔のいちばんずる賢いところは、人々に悪魔などいないと信じ込ませることである。だが、ラスムーチンは書き残す。「悪魔はすぐそばにいる」と。

3. 皇族との結びつき
ロマノフ王朝は、血族同士の殺し合いの伝統をもつ。そこには閣僚の暗殺も横行する。王位継承のために企てられた陰謀の数々、皇帝の短命、名誉ある死など、あらゆる信憑性は疑わしい。本書は、そもそも王朝は本当の存続していたのか?という疑問まで投げかける。そして、エカテリーナ女帝時代に、終焉を迎えていたのではないだろうか?という仮説を持ち出す。その後を継いだ息子パーヴェル1世は、実は彼女の愛人の子で、ピョートル3世の実子ではなかったという回想録が残っているという。ロシア帝国の法律では、皇族は、皇室または国家の支配者の家系に属さない者と結婚できない。よって、皇帝が、副官から妻を横取りするなどのスキャンダルも横行したという。そうした陰謀の渦巻く王家にあって、皇帝ニコライ2世は数々の試練を迎える。皇太子アレクセイの血友病。日露戦争の敗北。1905年の血なまぐさい革命。こうした背景は、皇族一家が「神の人」を待ち望むという状況にあった。そんな時期に、予知能力と千里眼を備えるという評判のあったラスプーチンが近づく。予言、奇蹟、死者と話す能力を備え、ロシア艦隊が日本艦隊に敗れることを予言していたという。彼には、催眠的な力を持った目、予言者、治癒者、民衆から出てきたなど、条件は整っていた。ロシアでは、読み書きのできな農民、素朴な人間にこそ貴重な才能が宿るという思想があるらしい。彼は、病気の皇太子に謁見して心を静め、医者が治らないと宣言した病も将来治ると予言した。また、革命で自らの殻に篭った皇帝にも、恐怖心を払い勇気を与えた。特に、皇后は、自身の神経発作を取り除いてくれたラスプーチンの神秘的な力を崇拝するようになる。これぞ催眠療法である。彼は霊的な高みに到達した存在であり、詩的な瞑想をしきりに働かせたという。その一方で、国会は、レイプなどのスキャンダル記事、売春婦あさりに関する報告、犠牲者たちの証言を引き合いに出す。宮廷の高官たちや女官たち、首相や大臣、皆が口を揃えてラスプーチンの堕落振りを報告した。こうした情報は全て皇帝夫婦に届いていた。にも関わらず皇后は信じなかった。そして、ラスプーチンを陥れようとした人間は、例外なく失脚する。かねてから、右翼や秘密警察は、都合の悪い官僚たちを抹殺してきた経緯がある。彼は首相の死を予言している。本書は、皇后はラスプーチン依存症であり、皇后の「第二の自我」とまで蔑む。ラスプーチンを認めるか否かが、皇権への忠誠と同意語なのである。ラスプーチンが書き記したとされる文章には、催眠的な力と見事な文学的センスがうかがえる。しかし、読み書きもできず無学な彼がこれだけの文量を残すことは不可能である。実は、影の執筆者は皇后とその女官たちだったというのである。

4. 政治介入
バルカン戦争で、トルコに敵対する正教国セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリアで秘密同盟が結ばれる。ロシアでは、宗教上の同胞であるバルカン同盟が、トルコのイスラム教徒たちを打ち負かすという汎スラブ主義の古い夢想が持ち上がる。つまり、ロシアを盟主として、かつてロシアがキリスト教を摂取した古きビザンチン帝国の心臓であるコンスタンチノーブルを首都に据えて、正教スラブ民族の大連邦を作るという構想である。これに対して、オーストリアとドイツが参戦。「バルカンの火薬庫」は一触即発となる。ロマノフ家の血筋は戦争を好む。ロシア帝国は伝統的に好戦的な皇帝たちの国である。ニコライ2世も例外ではない。内外から戦争介入の気運が高まる。ところが、皇帝は戦争に踏み切らなかった。これはラスプーチンの意向と一致する。ラスプーチンは、ドイツの一大勢力に比べてバルカンのスラブ人らは豚どもだという発言がある。そんな連中のためにロシア人が血を流すことは許されないと主張する。彼の言葉は予言として受け止められたのかもしれない。こうした流れが闇から操ったと噂されるのであろう。だが、冷静に考えると、日露戦争敗北と革命の後遺症から、ドイツと戦える余裕はなかったはずである。そうした状況で、単に皇帝が政治的判断を下したに過ぎないのかもしれない。ちなみに、皇后はドイツ出身で、ドイツとの戦争を回避したいが、口外しにくい立場でもある。

5. 王朝崩壊へ
第一次大戦が勃発する頃には、皇帝一家以外、あらゆる人間がラスプーチンに反感を持っていた。皇帝は第一次大戦によって国家体制が強化されると信じていた。日露戦争でもそう考えたが、敗北と革命で思惑が外れる。皇后とラスプーチンは反戦を唱える。新聞は、激しい反ラスプーチン・キャンペーンを展開する。世論は、またもスラブ民族を裏切るのかと煽り立てる。そんな折に、ラスプーチン暗殺未遂事件が発生する。女性からナイフで切りつけられて重傷を負ったり、自動車事故などなど。これに対抗するラスプーチンの武器は民衆の請願書である。実業家、武官と文官、貧しいロシア人、財産はあるが権利を認められないユダヤ人、彼らは巨大な官僚機構を嫌っていた。そうした連中から請願書を募り、官僚を介さず直接宮廷へ送り届ける。その中から資金を持った人々と人脈を築き、ラスプーチンはユダヤ人銀行家と結びつく。ロシアの情勢は中途半端な資本主義と反ユダヤ主義がまかり通っていた。その中で特定のユダヤ人が地位を握る。ラスプーチンもユダヤ人銀行家に利用されていく。これにマスコミも黙っていない。国際的ユダヤ勢力の支配と捲くし立てる。ラスプーチン陣営には、この人脈から本物の陰謀の名手たちが出現した。しかも国際級の陰謀家である。秘密警察との関係を結んだ二重、三重スパイ。まさしくジェームズボンド級である。陰謀を企てられても、逆手にとって権力の剥奪ができると自信を深める。だが、戦局が打開できないのは、ドイツ人の皇后とラスプーチンのスパイ行為だと噂される。

6. ボリシェヴィキの源流
1915年「ムジーク」が自立し、自らの考えを示唆するようになる。そして、スターリン時代のボリシェヴィキ帝国を彷彿させるような進言をする。やりはじめた戦争は勝利するまで徹底的に完遂すべし。第二次大戦下、スターリンは鉄の手で全工場生産を前線の需要に振り向けた。ラスプーチンも同じような提案を皇帝夫婦に繰り返す。菓子製造所でさえも軍装備の製造がなされるべきだと主張する。そして、農民や地主から生産物の強制的接収、工場の国有化と軍事化が進む。更に、国家機構を強化するために、全国の貧しい役人たちの賃金を上げることを協議する。その財源は、資本家からの課税により奪い取る。こうした事業はボリシェヴィキによって完遂されるが、ラスプーチンは、レーニンに先駆けて提案していたという。つまり、ボリシェヴィキは、ロマノフ王朝最期の皇帝によって着手されたことになる。本書を読んでいると、ボリシェヴィキの始祖はラスプーチンのように思えてくる。ここに、ソ連型社会主義国家の序章が始まる。

7. ビクトリア女王の孫たちによる戦争
本書とは少々外れるが、ここで血筋についてメモっておこう。イギリス国王ジョージ5世は、ビクトリア女王の孫で、ロシア皇帝ニコライ2世と従弟、ニコライ2世の皇后アレクサンドラも従妹である。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、母方はビクトリア女王の孫である。ビクトリア女王は、子供達をドイツを中心とした各国に嫁がせ、晩年には「ヨーロッパの祖母」と呼ばれる。ビクトリア女王自身が血友病の因子を持っており、ロシア皇太子アレクセイを始めとする男子が次々と発病した。つまり、第一次大戦は、いとこ同士の喧嘩でもある。

2008-06-22

"回想の明治維新" レフ・イリイッチ・メーチニコフ 著

本屋を散歩していると、メーチニコフの名が目に入ってきた。そう言えば、ある歴史小説にこの人物の紹介があったことを思い出す。ただ、その小説がなんだったかは思い出せない。それも数ヶ月前のことである。本書が岩波文庫であることから、多分そのあたりであろう。今、ウォッカを飲みながら、本棚を眺めているが、それらしいものが見当たらない。そうだ、アル中ハイマーは昨日の記憶すらさかのぼれないことを忘れていた。

レフ・イリイッチ・メーチニコフは、ノーベル生物学・医学賞を受賞したイリヤ・メーチニコフの兄である。トルストイの小説「イワン・イリイッチの死」の主人公のモデルが、メーチニコフ兄弟の長兄で、小説では「三番目の息子は失敗だった」という三男で登場する人物が、実は次男の著者のことらしい。著者は、欧州の革命運動、中東やバルカンの民族解放運動にも参加した経歴を持つ。その反政府運動に参加した経緯からも、異端児であったことが想像できる。トルストイが失敗者と形容しているのも頷ける。著者は、諸民族には独自の革命的伝統があると考えていたようだ。当時、欧州では、極東諸国を「アジア的停滞」として文明の遅れを主張する意見が一般的であったという。そんなおりに日本で起きた革命に興味を持ったようである。彼は、あらゆる外国語を操る。本書でも日本語にかなり精通していることが見て取れる。本書は、そのロシア人革命家の日本回想記である。原題は「日本における二年間の勤務の思い出」といい、19世紀後半ロシアの日刊紙に連載されたらしい。著者は、明治7年から1年半滞在し、東京外国語学校で教鞭をとった。たった2年足らずの在日期間で、ここまで研究できた眼力には驚嘆させられる。そこには、民衆側を向いた視点があり、著名な学者や宗教伝道者の観察とは一線を画す。そして、明治維新が、ペリー来航を始めとする欧米列強の介入によるものとする意見は過大評価であり、そもそも日本民族の土着的革命であると主張している。また、日本人の民度の高さに魅了された様を語り、その要因を日本史をさかのぼって考察している。政治体制の考察で驚くべきは、鎌倉時代の前から南北朝時代に、その源流を求めている点である。明治維新ともなれば、単に徳川家の世襲独裁制への反発とも取れそうだが、象徴的立場の天皇家と実権を握った幕府の二重構造までさかのぼっているところは、感動ものである。これほどの魅力的な書籍が、それほど知れ渡っていないのも不思議な気がする。いや、単にアル中ハイマーが無知なだけであろう。

こうした、外国人による日本人論が展開されると、日本民族について考えさせられるものがある。日本は単一民族と言われるが、それは本当だろうか?人類の発祥がアフリカで、そこから世界中に広がったという説に従えば、最も東まで進んだのが日本民族ということになる。それは、最も根性のある民族と見て取れるかもしれない。あるいは、最も臆病で逃亡してきたとも取れる。いずれにせよ、勤勉さによって資源のない国を富ませてきた伝統がある。
本書の考察で注目すべきは、当時の日本の歴史家が中国の影響を受け過ぎていると指摘している点である。地理的条件から見ても、文化の源流は大陸にあると考えるのも自然である。しかし、現在では、明治時代の政治機関や官僚制度は、西欧から取り入れたとする意見が多い。学校教育においても、明治時代の日本の政府機関は、ドイツの最新システムを取り入れたと教える。だが、官僚制度については疑問が残る。これは、むしろ中国を手本と見る方が自然に思える。現代の官僚制の基盤をなしているのは、まさしく中国の伝統システムであり、その悪の根源は科挙であると言いたい。本書でこうした考察がないのは当り前である。だって時代は、もう先に進んでいるんだもーん!ただ、本書はなんとなく日本の官僚制度の方向を予測していた節がある。と思うのは、想像の飛躍し過ぎだろうか?透明で澄んだウォッカには、酔っ払いの純粋な想像力を掻き立てる力がある。科挙は、高級官僚をペーパーテストで募集する仕組みを母体とする。一見公平そうに見えるところに落とし穴がある。逆に言うと他に人員を補充する手段がない。社会的経験が少ない上に、実態社会に対する目利きがなく、出世競争に囚われる。まさしくキャリア官僚はこの呪縛に嵌る。一方、アメリカでは、大統領が代われば高級官僚も総入れ替えとなる。そして、彼らは民間に活躍場を求め、そこで実績を積み、場合によっては中央官庁に迎えられる。よって、ダイナミックな政策や情報に長けている。中国は1500年もの長い年月をかけて科挙を廃止してきた。にも関わらず、未だに古代システムの亡霊に憑かれている。日本は猛スピードでその亡霊を追いかけている。この実態を目の当たりにしたら、メーチニコフは何を語ってくれるだろうか?

1. 日本到着
到着するなり、和船の画一性と奇妙な形に驚いている。古代ローマのガレー船を彷彿させる古風な形をしており、いかにも遠洋航海には不向きであると語る。これは、徳川家の世襲独裁制のもと、法令に定められた船しか作らせないという政策に基づいている。鎖国は、欧米人の暗躍やキリスト教宣教団の陰謀に神経をとがらせた政策である。世界から隔離するには、外国人を日本に入れないだけでは不十分で、日本人の遠洋航海技術も封印する必要がある。こうした背景は将軍制の歴史を探るべきであると述べている。
おもしろいことに、快適な人力車は日本独特なものなのに日本人自身は海外の文明だと思っていると述べている。へー!人力車って日本人の発明なんだ。

2. 日本人の特質
日本人は、素朴で感受性豊かで信じやすい。欧米人にとっては利用しやすい民衆であると語る。内乱状態に乗じて、各藩は高い武器を買わされ、舶来品を高値でにぎらされている。そこには、まさしく金のなる国があり、山師のような多くの欧米人が詰め掛けたとある。しかし、元々資源の乏しい上に、内乱で疲弊しきっている国が、投機に相応しい場とは思えない。やがて、連日の倒産、保険金目当ての放火、ストライキなど混乱の時代へと突入し、欧米品も下落、欧州バブルも消えて、外国商人は没落していく。そして、売れ残った商品にとてつもない保険金をかけ、放火に委ねるなどの詐欺行為が横行した。治外法権も楯にとり、やりたい放題であった様が語られる。

3. 日本語の難しさ
著者は日本人の識字率の高さに驚嘆している。その起源を仏教の影響だと考察している。極度に貴族主義的なバラモン教への反発としてインドで仏教が生まれる。仏教伝道者たちは、布教活動のために難解な中国語は不適当だと考えた。会話に出てくる音節を記述するだけなら50音で十分である。漢字は文字そのものに意味を持たせるが、仮名文字は音と綴りだけを表記する。西欧のどの国もわずか26文字覚えれば、意味は分からないとしても読むことができる。しかし、日本ではこうした西欧的書式こそ難解だと思っていることが奇妙だと語る。西欧では、読み書きの学習法を簡略する方向に注意を払っているという。読み書きで10年以上も費やすよりも、本質的な学問を優先したいからである。しかし、そこまでしても文盲撲滅に成功した国はほとんどないという。日本では義務教育が昔からあったわけではない。学校といえば特権階級のものである。にも関わらす識字率の高さは全国に行き渡っている。それも寺子屋のような仕組みが伝統的にあるからであろう。新しいものに適応し発展するためには、まず中華主義から自らを自由に放つことが大切で、そのための内的改革には長い歳月がかかることを、日本人は熟知していると評している。

4. 日本小説の特徴
日本の小説は、騎士道小説と驚くほど似ているという。英雄的、好色的要素が主役を演じる。英雄的要素は、組織や家紋の名誉のために、自らの命を犠牲にする剛毅なサムライ像を描く。好色的要素は、被差別身分の女性を題材とするのが典型で、上流階級の男と実らない恋に落ちるという筋書きを感動的に描く。濡れ場の叙述となると、これでもかといわんばかりに猥褻な度合いを強め、挿絵が一層拍車をかけリアリズムを煽るという。日本的ユーモアには、繊細な観察眼と真実をずばり洞察する慣性のバランスを取り上げている。ただ、怪奇的や空想的要素も大衆文化には多いが、西欧ほどではないらしい。この方面では、一般的に極東の諸民族は、想像力の豊かさや鮮やかさは際立っていない。日本の神話は、かなり貧弱で生彩を欠いているという。こうした歴史的な観察は、大衆文学にまでおよび、法律により制約を受けているにも関わらず世相風刺が18世紀に顕著に見られるようになったと語る。

5. 日本人は演劇好き
芝居とは、緑の草の上に座るという意味だ。足利政権の長期の失政の頃、尾張地方の熱田神宮が破壊される。この重要文化財でもある神社再興のために資金を募るために京都で演劇活動が始まる。これが阿国の歌舞伎である。出雲の阿国って出雲大社だよなあ。尾張から織田信長が統一に向かったのも何かの因縁かもしれない。徳川時代、役者は、乞食、娼婦らと同じ最下層の身分とされた。売春を国家制度に取り入れたのも家康の時代であると記している。ただ一人、市川団十郎だけは医者、天文学者、画家などと同等の世襲的権利が認められた。日本の演劇は種類は豊富だが、半世紀以上も前に固定化されて刷新したものはないという。日本人は新し好きにも関わらず、昔馴染みの作品ばかりを好む。人気のある小説で舞台化されていないものなどない。因みに、この国には本屋が無数にあるという。同じ物語でありながら、その展開は画一的な拘束も受けず、迫真性とリアリズムによって際立っているという。これらは、騎士道文学に通ずるものがあると評している。戯曲の内容は、体制批難が規制されるのも当り前で、検閲を巧みにかわしてきた様が語られる。例えば、江戸幕府の非難は足利幕府に置き換える。徳川家は源氏の家系ということになっている一方で、足利家は人間の屑のような扱いにできたという。ただ、著者は足利家の研究にも熱心で、他の時代と比べてもなんらひけをとらないと語っている。

6. 明治維新
黒船出現の意義を誇大視してはならないと主張する。ペリーが来航する以前の30年も前から、根本的に政治や社会の変化を必要とする状態になっていたと分析している。徳川時代は、国家制度上、京都の皇室や省庁の官僚的中央集権制との確執、諸大名の独立、農村共同体の自治、地方貴族による支配など、対立原理の複雑な絡み合いで成り立っている。国民が厳格に定められた形式に従わないと維持できない国家体制であることを見抜いている。それも、いかなる自由を許さず、極度に面倒見のよい、それなりに人道的な圧政だったという。当時、イエズス会やドミニコ教団によって、いずれ日本が征服されるという危機感があった。徳川政権から、天皇権力を太古の神聖さにおいて復活することが国粋派の主流となる。この国粋派の中には徳川家の近親者まで加わる。既に幕府の力が弱体化していた証拠は、大塩平八郎の乱に見ることができるという。日本のインテリジェンスは下級武士から生まれた。彼らは、日本で唯一公認の学問であった中国式古典主義の無益さをとっくに悟っていたという。自発的に欧米学問を勉強することは死罪に処されるにも関わらず勤勉であった。もちろん、ペリーの来航が開国に向かったのは事実であるが、遅かれ早かれそうした流れにあったと語る。欧米人の立場からすれば、こうした見解はもっともな話である。しかし、「あやつられた龍馬」でも記事にしたが、日本人の立場からすれば、もう少し欧米の影響力の元で維新が起きたと考えた方がバランスがとれるだろう。

7. 平家滅亡と落人部落
平家は逃れる時、都である福原を焼き払い西へと落ちていく。平家の女性は全国各地に追いやられ、嫁ぎ先が見つけられなかったものは娼婦になるしかなかった。当時、どんな町でも平家の血筋をひくという娼婦団体を見かけたことが語られる。虚々実々の系図を楯に、当然の権利として独特の貴族衣裳をまとっていたという。もしかして、平家の落人が部落の起源だと考察しているのだろうか?確かに西側に部落が多いということに説明がつく。ただ、これについては、いろいろな諸説がある。部落の発生が、政治的陰謀に巻き込まれた人々の落ちた場所と考えるのも、外国人にしては分析が鋭すぎる。こうした考察からも、日本人の歴史家と交流が深かったことが感じられる。

8. 教養を尊敬する風土
日本は中国と並んで、早くから教育と啓蒙の意義を理解していた世界でも数少ない国であると語る。当時、理論や実践では、欧米の学識は、東洋の天才を凌駕できるレベルであろう。だが、西欧文明は、民衆の習俗奥底まで、深く根をおろしていない。日本では知識層に留まらず、過酷な肉体労働者までもが教育や文化に慣れ親しんでいる。日本では太古以来、国民教育の組織化は、権力者が変わろうと、常に政府の主要感心事であったということは、世界に誇っていいことであると語る。列島に日本民族が出現したのが紀元前7世紀とされる。大陸からの渡来民族が原住民アイヌを追い出し、混血しつつ全領土に分布したとする歴史学者の主張は、後代になって中国で強い影響を受けた日本の年代記に基づいている。こうした史料をもとに説を述べるのは疑わしいと語る。日本の歴史は、それほど古くはない。国家として登場するのは3世紀頃である。この頃、中国を範とした教育と文化の移植が始まる。しかし、中国の官僚主義的民主制が日本にはそぐわないことは、その後の歴史が示しており、「日本の中世国家」でも記事にした。これは後醍醐天皇にさかのぼって論評している。著者は、日本民族の源流を大陸からのものと考えることに強く反論している。現代の歴史学においても、日本文化を大陸文化と大別することは一般的な考えのようだ。

2008-06-15

"洋酒うんちく百科" 福西英三 著

「UEFA EURO 2008」のお陰で睡眠不足気味である。おいらは、このようなイベントを「生」で観ないと気がすまない。興奮を冷ますために、睡眠薬になりそうな本を物色しに、本屋をぶらぶらしていた。すると、「洋酒」+「うんちく」というダブルキーワードが目の中に飛び込んできた。そこそこ分厚く、枕にしても気持良さそうだ。感情のままに、本能のままに、いや!なんでもええや!と、いい加減に手に取る。もはや、ボーっとしたアル中ハイマーには思考力など残っていない。ところが、ひとたび読み始めると引き込まれる。睡眠薬のつもりが覚醒剤になってしまったではないか。本書は、冒頭から次の言葉で始まる。
「神が人間の肘をいまのようにつくったことに感謝しよう!他の動物と違い、人間は酒を飲むべく生まれついている。そして、肘がいまの位置にあるからこそ、グラスがちょうど口のところに来て、酒を楽に飲めるのだ。」
これは、ベンジャミン・フランクリンの言葉を著者が意訳したものだという。どうやらアルコールなしでは読めそうもない。ついでに、生ビールを買って帰ろう。しばらくは「生」漬から逃れられそうもない。

人間には五つの感覚がある。味覚、臭覚、視覚、触覚、聴覚。酒の色、香り、味は、視覚、臭覚、味覚に愉悦感を与える。グラスに触れる冷たい感触にも喜びが涌き、瓶から注がれるトクトクという音にも情緒が現れる。もちろんBGMも欠かせない。酒を楽しむということは、五感を総動員するということである。本書は、酒に造詣な作家や小説、映画の酒にまつわるシーン、音楽と酒の相性などを随所に紹介してくれる。また、歴史とも関わりが深く、知識の方面からも五感に磨きをかけようと仕掛けてくる。ただ、あまりの情報の多さに、おいらは満腹を超えてしまった。「もう飲めねーだよ!」。きっと、本書を何度も読み返すことになるだろう。それも毎回違った酒を飲みながら楽しめるのがいい。本書には、オリジナルカクテルの誕生秘話も登場する。バーテンダーが出会いに感激して、相手に捧げるカクテルを創案するのも社交術の一つである。ちなみに、アル中ハイマーにも特注のカクテルがある。その名は「コスモポリちゃん」。バーテンダーがなんでも作るって言うから、意地悪してコスモポリタンを無理やりフローズンにしてくれ!って頼んだ。その時の心境が、ある出来事に凍りついていたかどうかは定かではない。初めてそれを飲んだ時はまあまあ美味かったのだが、しばらくして、完成品ができたという案内が届いた。バーテンダーは営業テクニックにも抜け目がない。ちなみに、コスモポリタンは、海外ドラマ「SEX and the CITY」でサマンサが注文するカクテルである。

昔はバーで恰好よく注文したいから、少しだけ酒の勉強をしたことがある。それが、いつのまにか何も注文しなくても、バーテンダーが勝手に酒を出すようになっていた。甘やかされたお陰で酒の知識など、すっかり飛んでいってしまった。なぜか?最近はラムをやたらと勧められる。バーテンダーが言うには、アル中の辿り着く酒がラムだという。これは単にからかっているに違いない。もし、勘違いしているなら、念のために言っておかなければならない。おいらはアル中ではない。アル中ハイマーなのだ。アル中はアルコール依存症になるが、アル中ハイマーは何に依存しているかなど覚えられない。よって、自らアルコールを求めることはない。そこに山があるから登るように、そこに酒があるから飲むのだ。たまたま、行付けの店に酒が置いてあるだけのことである。
酒の歴史は短く見積もっても紀元前4000年頃まで遡るという。まだ青銅も陶器も使っていない時代、酒を注ぐには、自然に入手できるものを利用していた。大きな葉を円錐状に丸めたり、家畜の角の内部が空洞になっているのを角杯としていた。角杯は先が尖っているので飲み干すまで手が離せない。やがて角杯は「倒れるもの」と呼ばれたという。ちなみに、タンブラー(tumbler)は、平底なのに倒れるものという意味がある。ただ、アル中ハイマーには、酔っ払ってぶっ倒れるのも同じようなものだ。
本書は、酒の造詣が深い人は、ウィスキー・アワーは午後6時からにしているという。ウィスキーは、日没前に嗜むにはあまりにも強すぎる酒ということである。ちなみに、一つの行付けのバーの開店時刻は5時であるが、無理やり4時から開けてもらったことがある。嫌な客である。アル中ハイマーには、太陽の光をウィスキーに屈折させて、ダイヤモンドのように輝く氷に触れている瞬間がエキゾチックなのである。

1. 一杯の量
とりあえず一杯。この一杯という量は日常でよく使うが、量が特定されているわけではない。駄洒落の好きな人は「いっぱーい」と掛ける。こうした量をぼかした飲酒用語は世界中で見られる。アメリカでは、one shot(一発の弾丸)、それだけで強烈な印象が伝わる。語源は「shot in the arm」で、腕への麻薬注射を意味していたという。こうした、薬、毒薬、麻薬に関連した語が、酒に転用された例は多い。人間の潜在意識には、酒をドラッグというように連想させる何かがある。一杯の量というと、日本ではシングルは30mlが多い。これは、戦後アメリカ式の1オンスから慣行化されたようだ。ところが、日本の大都市バーや老舗のバーでは、45mlだったり、60mlだったりするらしい。こうした違いはアメリカやイギリスのどの売り方を基準にしているかの違いである。スコッチの生誕地スコットランドでは60mlがシングルの標準量で、日本ではダブルということになる。アイルランド共和国では、なんと75mlが一杯の量なのだそうだ。どうりでヘビードランカーが多いと言われるわけである。ちなみに、大酒飲みとは、一日の純エチルアルコール摂取量が150ml以上の人を言うらしい。これは、WHO(世界保健機関)で採用している基準値なんだそうだ。

2. オンザロック
on the rocksという言葉には、船が岩に乗り上げて座礁した時に使われる悪いイメージがある。イギリスでは、人生に座礁したという意味でも使われるらしい。ところが、アメリカでは、ロックはダイヤモンドの隠語としても使われる。ちなみに、氷を先に入れるから、on the rockであり、ウィスキーを先に入れるとunder the rockとなるのかなあ?onには、穏やかな語感がある。ただ、ドクドクと注ぐのがウィスキーらしいので、over the rockと言った方がイメージに合うという。よって、over the rock という言葉も広がったらしい。straightは、straight upと表現することから、バーテンダーからup or over? と問われることもあるという。おいらはon the rockを好む。それも、お代わりをする時、氷を取り替えずに、そのまま上から注いでもらい、指で少しかき混ぜながらグラスに話かけ、徐々に氷を育てながら飲むのが好きだ。よって、その日のオーダーは同じ酒ばかりになってしまう。しかし、これは邪道と言われたことがある。あるバーテンダーに言わせると、氷はいつも取り替えるものらしい。別のバーテンダーは、酒の飲み方なんて本人が気持ち良ければなんでもありだよ!と慰めてくれる。

3. 水割りとソーダ割り
ヨーロッパでは、飲料水はガス入りとガスなしで大別される。炭酸ガスを含む鉱泉水と、炭酸ガスを含まない雪解水である。鉱泉水は、古代ローマ時代から、医薬的効果を持つ貴重な水として尊ばれた。水割りにしても、ガスなしの水割りと、ガスありのソーダ割りがあるということだ。ちなみに、ミズワリという言葉はグローバル化しているらしい。日本人が水割りを愛飲することの証拠であろう。ソーダ割りは、アメリカではハイボールで呼ばれることが多い。ハイボールという語の由来を明確に立証できる記録はないらしい。イギリスのゴルフ場で、ある紳士がウィスキーのストレートに、チェイサーとしてソーダを飲んでいると、ゴルフのスタートの知らせが入った。紳士は慌てて残っているウィスキーをチェイサーに注いで飲むと、意外と美味かったという。その時ちょうどミスショットのボールがラウンジをかすめた。驚いた紳士は、「おお!ハイボール!」と叫んだ。これが語源という説が有力なようだ。アメリカでは、鉄道の駅に気球を付けた柱を設置していた。そして、急行列車が田舎駅をノンストップで通過する際、予定より遅れていたら気球を高く掲げスピードアップせよ、という合図をした。これが、さっとつくれるソーダ割りに使われたという説もある。
五木寛之の小説集「ソフィアの秋」に収録される短編「ローマ午前零時」に、こんな台詞があるらしい。
「昼間からコニャックをやっている男は、どことなく信用できない感じがあるじゃないですか」
おいらにグサッ!と刺さる。ちなみに、ブランデーの水割りをブラミズと言う。

4. シーザーとシェリー
スペイン特産のワインであるシェリーは、ジュリアス・シーザーに由来する説があるらしい。本名、ガイウス・ユリウス・カエサル。最後のカエサルは一説によると、正式名ではなく仇名のようなものだという。シーザーは誕生の時、帝王切開によって取り出されたと言われる。ラテン語の切り開く、切り裂くという意味に「カエサ」というのがある。切り開いて取り出された子という意味でカエサル。やがてカエサルはローマの帝王となる。そして、シーザー手術、あるいは帝王切開という医学用語が生まれたという。カエサルはスペイン統治時、シェリーの産地ヘレス・デ・ラ・フロンテラの町にカエサルという地名を付けた。これがイスラム統治下ではシェリッシュと呼ばれ、キリスト教徒の間でヘレスと変化した。スペイン語のJerezをイギリス人は、Xeres、sを複数形と勘違いし省略してXereからsherryと変化したという。ところで、カエサルはドイツ語圏ではカイザーとなる。イタリア北東部のフリウリ・ヴェネツィア・ジューリア州はワインの名産地である。このジューリアもジュリアスのイタリア語綴り。フリウリは集会所のこと。つまり、ジュリアス・シーザー家のヴェネツィア地方の集会所ということになる。こうしたシーザーにちなんだ名前がヨーロッパ各地に痕跡を残しているだけでも、その偉大さが伝わる。

5. ルーズベルトとドライ・マティーニ
「数多いカクテルの中に一匹の妖怪が紛れ込んでいる。」
本書は、こんな表現だけでも楽しめる。その妖怪とは、カクテルの王様と崇められる「ドライ・マティーニ」である。フランクリン・ルーズベルトは、ホワイトハウスで執務時間が終わると、スタッフをねぎらうつもりで、自らシェーカーを振ってドライ・マティーを振舞ったという。これが上流社会で流行し象徴となる。これは、ドライ・ジンと、ドライ・ベルモットの二つの材料だけで作られるシンプルさがいい。ただ、本書は、マティーニがカクテルの王様という称号を与えるのに少々疑問を投げかける。ウォッカやラムやテキーラが、まだバーで主要なアイテムになっていない時代からあるので、数多く飲まれているのは確かである。しかし、「ブラッディ・メアリー」や「ソルティ・ドッグ」が先に有名になっていたら、王様の地位になれたかどうかは分からないという。今では、「キール」や「マルガリータ」や「フローズン・ダイキリ」など人気を誇るカクテルが数多く登場している。そろそろ王様を退位して平凡に生きてもいいのではないかと語る。

6. ヘミングウェイとデス・イン・ジ・アフタヌーン
晩年、アルコール性憂鬱症に陥り、猟銃で自殺した文豪ヘミングウェイ。作品「午後の死」では、生と死を観察するのに闘牛を愛した。彼は、時々ジムに通い、身体を鍛えたという。そのヘトヘトの帰り道に、行付けのハリーズ・ニューヨーク・バーに寄って気付けの一杯を注文した。ハリー・マッケルホンは、ペルノをシャンペンで割ったものを提案した。ヘミングウェイは、いつもペルノは後悔の味がすると言っていたという。それをシャンパンで慰めてみる。これに自作の題名をつけて、「デス・イン・ジ・アフタヌーン」となり、愛飲したという。「日はまた昇る」ではシャンパンを飲む印象的なシーンがあるらしい。ヘミングウェイには、「美酒は無心に味わうべし」という美学があったという。ちなみに、彼はフローズン・ダイキリがお気に入りで、「海流のなかの島々」で登場させる。

7. スプリッツァー
飲みたいんだけど、今飲むとまずい!といった場面がよくある。こういう時に、都会派の心得た人たちが注文するのがスプリッツァーだという。白ワインのソーダ割りで、アルコール度数も低い。食事の時、グラスから漂ってくるワインの香りに魔術があり、都市感覚にマッチするという。ただ、その位置付けは、カクテルと清涼飲料水の狭間に見なされることが多い。映画に「3人でスプリッツァー」というのがある。これは、東西冷戦の中で、政治的に揺れ動くユーゴに、ニューヨークの女性ジャーナリストが訪れ、恋に落ちる物語である。このタイトルは、心が揺れ動く様を「ユーゴが東西の狭間にあって、どっちつかずのスプリッツァーを飲む。」というように暗にかけているという。心憎いほどのメタファーに感動しつつ、酒のピッチも上がる。

8. ボイラーメイカー
バーボンをストレートで飲む。口の中がカーッと熱くなる。そこに水の代わりに冷たいビールをチェイサーとして流し込む。こうしたハードボイルドな飲み方をアメリカ人はボイラーメイカーという。スコットランドでも、スコッチをストレートで引っ掛けて、チェイサーとしてビールを後追いさせる飲み方があるらしい。これをL.Gという。労働組合のレイバーズ・ギルドを略したものだという。ちなみに、行付けのバーでは、いつもチェイサーに黒ビールが出てくる。おいらは、チェイサーって黒ビールのことかと思っていた。

9. 語呂合わせ
「飲」という文字を分析すると、「食」に「欠」けたものとなる。これは、食べることへの補完的な関係を明示しているという。食前酒は、仕事に疲れた神経を、瞬時にリラックスモードへと切り替える。一方、食後酒は締めの一杯?いや「止めの一撃」となる。食前の一杯にしても、食後の一杯にしても、日常では省略することはある。しかし、アル中ハイマー病ともなると食事を省略する。
本書とは、関係ないが語呂合わせの話をしだすと、酔っ払いは止まらない。何かの小説でこんな台詞を読んだ気がする。下心があるのが、「恋」。心を下に書くからだ。見返りを求めないのが、真の「愛」。心を真中に書くから真心ということである。
「酒に落ちる」と書いて、「お洒落」と言うバーテンダーがいる。お洒落は横棒が足らないので、これは詐欺である。アブジンスキーは、別名アースクエイクの方が一般的なようだ。アブサンとドライ・ジンとウィスキーで、すべて強烈なものが混ざる。飲むとまさしく地震が起きる。ちなみに、おいらは「アブちゃん好きー」と呼んでいる。
クラブ用語にも、いろいろある。「君に酔ってんだよ!」とか、煙草に火をつけてもらって、「俺に火をつけやがったな!」などは、バーテンダーに入れ知恵されたもので、おいらの口癖ではない。

x. 酔っ払いたちのテロ行為(おまけ)
本書には関係ないが、酔っ払いたちの悪行を紹介しよう。気分悪そうにしゃがんでいる人に、大丈夫か?と尋ねると、決まって大丈夫という返事が返ってくる。そこで、安心して背負って連れて行こうとすると、なんとなく首筋が生暖かくなる。これを「延髄ゲロ」という。友人の部屋を覗くと、ベッドの中で仰向けでやっているのを...「自爆ゲロ」という。その横で一緒に寝ると「ゲロ心中」となる。他人の顔の上でやると死刑は免れない。
電車の中で、綺麗な女性がなんとなく、おいらを真剣に見つめている。駅に着くと突然、女性はゴミ箱に向かって突進した。その瞬間、ゴミ箱に顔を突っ込んで...しばらくすると、そのままゴミ箱と一緒にお寝んねしてしまった。これを「特攻ゲロ」という。
女性は酒に強い人が多い。全然飲めないか、かなり飲めるかで、中途半端な女性を見たことがない。だいたい少し飲めると宣言した女性で、少しだったためしがない。おいらは3杯でダウンしているのに、10杯飲んでも平気な顔をしている。それもカンガルー級のオンパレード。それとは逆に、意外にも酒にあまり強くないバーテンダーが多い。そういう人ほど繊細なものを作ってくれると信じている。

2008-06-08

"カラヤン 帝王の世紀" 中川右介 著

今年は、ヘルベルト・フォン・カラヤン生誕100周年である。昔々、アル中ハイマーが美少年だった頃、カラヤンのレコードを集めようと奮闘した時期があった。まだCDがない時代である。おいらが、最初に聴き始めた音楽分野はクラシックである。そういえば、最近はクラシックを聴く機会も思いっきり減った。持っているCDの数も少ない。せっかくレコードで集めたのに、もう一度CDで集めるのが面倒だったからである。今宵は、久しぶりに第九を聴きながら、カラヤンについて知っていることを少し語ってみよう。

カラヤンといえば、音楽と映像の融合。これほど映像にこだわったマエストロも珍しいだろう。アメリカでは、演奏に映像を取り入れていたバーンスタインがいる。きっと、彼にもライバル意識を持っていたことだろう。カラヤンの晩年の映像といえば、なんと言っても1987年のウィーンフィル、ニューイヤー・コンサートである。これは世界的にも有名である。それもベルリンフィルとの確執の中で、ウィーンフィルとの組み合わせが注目を集めたのかもしれない。そこには、カラヤンの優しい表情があった。そして、演奏途中、突然後ろを振り返り、観客に向かって手拍子を指揮し始める。この感動シーンは、アル中ハイマーの記憶領域が破壊されたとはいえ、なぜか鮮明に記憶している。おいらは、これほど観客と一体化した演奏を他に知らない。また、どこかの放送局のインタビューでは、ゲーテの言葉、「一つの肉体で才能を出し切れないのなら、もう一つの肉体を与えられるのが自然の摂理だ。」を引用して、「まさに、この考えに賛成だ!私は必ず生まれ変わることを信じている。」と語っている姿も印象的だった。
カラヤンは、当時からテレビの将来性に気づいていたのだろうか?現実に、オリンピックでどんなに多くの観客を集めたところで、テレビの恩恵で億単位の人々が観覧できる。カラヤンは、自分の死後、自分の音楽が忘れられるのを恐れていた節がある。それは、「トスカニーニがどんな指揮をしたか、その資料が残っていたら素晴らしいことだろう。」と述べたという証言がある。彼は、自らの演奏を永遠に刻みたかったに違いない。テレモンディアル社を立ち上げ映像作品を作ったのも、その理由であると言われている。映画界とも交流を深め、撮影や演出の技術を本格的に勉強したことは、よく知られている。そのこだわりは半端ではなかった。舞台色、レンズの種類、アングル、カメラワークなど、楽器を浮かび上がらせるような撮影法を駆使したり、鏡などを用いた反射映像を使ったりと、特にソフトフォーカスがお気に入りだったようだ。残された映像を観ると、彼自身のショットが多いという独占振り。しかし、こうした映像へのこだわりは、音楽を二の次にしてしまうという批判もある。
カラヤンは政治の中で生きたとも言える。フルトヴェングラーとの確執など、政治、喧嘩、陰謀と噂は絶えない。ベルリンフィルとの関係悪化で、ついに、ザルツブルグ音楽祭からベルリンフィルを外した。ベルリンフィルも全収録をキャンセルという報復に出た。そこにウィーンフィルが目を付けるといった構図がある。
カラヤンの人物像では、あまりにも両極端な評判が共存する。支配欲が強く、不快な人物、極めて政治的、イエスマンには優しく主張する者には対抗心をむき出す。こうした厳しい批判の一方で、個人的な悩みには必ず手を差し伸べ、苦境にはいつでも駆けつけ、病気で手術が必要なときは治療費を出すといった友愛の情を持つという証言もある。独裁者と思われがちだが、本番の演奏は、彼ほど自由にさせてくれる指揮者はいないといった証言もある。いずれにせよ、全てを仕切らないと気が済まなかったのは確かなようだ。天才芸術家の徹底的なこだわりは、ギャラで動く演奏家には鬱陶しいものとなる。芸術家としてのエゴ、これが無ければ、真の芸術は生まれない。
また、かなりの機械好きだったという証言もある。ソニーの大賀氏によると、当時社長の盛田氏とともに最高のもてなしをしたという。訪日時のホテルには、最新機材を持ち込み、いつでも遊べるように計らったという。大賀氏が、カラヤンの最期を看取ったというのは、単なる偶然だろうか?

おいらが、カラヤンについて知っているのは、こんなところだろう。本屋を散歩していると、ちょうど、カラヤンの生誕記念コーナーが設けてある。この機会に一冊買ってみるのも悪くない。ただ、陳列の多さに目移りする。迷った挙句、一番安いものを選ぶことにした。

カラヤンは、三歳でピアノを始め、その頃から絶対音感があったという。彼の青年期はナチス時代と重なる。戦後、ドイツ復興の過程で、特にフルトヴェングラーの死後、カラヤンは帝王となる。東西分裂したベルリンに身を置き、カラヤンの死とともにベルリンの壁も崩壊する。これも歴史の運命を感じざるをえない。彼の人生には、政治に翻弄されながらも芸術に生き、権力闘争に生きた姿がある。本書は、カラヤンの人物像をヒトラーに重ねる。彼らは共にトップ以外のポストには就こうとはしなかった。彼の晩年への批判に、「同時代の作品を演奏しない」というものがあるらしい。カラヤンほどの大指揮者ともなると、「何を演奏したか」よりも、「何をしなかったか」が重要だと語る。本書は、こうした流れを歴史年表のように綴る。ただ、気になるのが、全体的に歴史上の出来事をちりばめ過ぎている感がある。音楽に直接関係のないものも多い。政治背景が多いのは、彼に影響を及ぼした点からしても仕方がないところであるが、日本の左翼や中国共産党は全く関係ない。また、科学者や日本の小説家まで登場する。これは、世界情勢と同期させたいという意図でもあるのだろうか?それとも、もっと深く味わいたいなら、他の本を読みなさいという意味なのか?いや、一番安いものを選んだといういい加減な動機が、あの世のカラヤンを怒らせたに違いない。まえがきには、文字数が限られいてるので...という言い訳めいたコメントがあるが、それならば、もうちょっと絞って人物像に迫ってほしかった。読んでいるうちに、なんとなく出版社の意向も想像してしまう。

1. ヨーロッパのオーケストラ
ヨーロッパのオーケストラは、オペラハウスの管弦楽団や宮廷楽団が発展したものが多いらしい。しかし、ベルリンフィルは民間のオーケストラとして発足した。ちなみに、ウィーンフィルも民間で、その楽団員は国立歌劇場管弦楽団のメンバーとしての公務員であるという。そして、勤務時間外に民間のオーケストラとして、ウィーンフィルで演奏するらしい。したがって、ウィーンでの定期演奏会は、基本的には昼間の講演で、夜は公務員としてオペラを演奏するのだそうだ。
ストラヴィンスキーの「春の祭典」がパリで初演された時、客席では、支持する者と反対する者とが罵りあうなどの、大スキャンダルになった話は有名である。当時のヨーロッパでは、従来にないバレエの振付けをしたり、斬新な演奏をすると、楽器の使い方を知らないなどと罵声を浴びせるような事も少なくなかった。この「春の祭典」をカラヤンが演奏した時、ストラヴィンスキーが激怒したというエピソードがあるという。野蛮さをテーマにしたのに、あまりにも美しく演奏したからだそうだ。

2. ナチスに入党
ヒトラー政権は、国民啓蒙のための宣伝省を新設し、ゲッベルスがその大臣になった。歴史的に、省レベルの宣伝組織を作った国家も珍しい。その管轄下に、音楽、映画、演劇など文化全般を置く。ナチス支配下の全国音楽院の総裁にリヒャルト・シュトラウスが、副総裁にフルトヴェングラーが就任。フルトヴェングラーは、ユダヤ人芸術家を擁護するが、やがて政治に屈する。カラヤンもナチスに入党する。この点は、後に批判の的にもなるが、再婚相手がユダヤ系女性ということもあり、擁護する人も多い。ドイツ全土の歌劇場やオーケストラは宣伝省のゲッベルスの支配下にあったが、ベルリンの州立歌劇場はプロイセン州首相のゲーリングのものだった。二人はヒトラーの寵愛を競う。ゲッベルス側にフルトヴェングラーが付いたので、ゲーリングは対抗できる指揮者を求めていた。そこで、若いカラヤンが抜擢されたという。フルトヴェングラーとカラヤンの対立は、ナチスの権力争いの代理戦争とみることができる。敗戦色が濃くなるとフルトヴェングラーはナチスから命を狙われ、スイスに亡命した。カラヤンもイタリアへ亡命した。

3. カラヤン帝国
戦後、ウィーンフィル、ベルリンフィルを巡ってフルトヴェングラーとの確執は続く。1954年、フルトヴェングラーは肺炎で死去。ここからカラヤン帝国が確立する。カラヤンは、ベルリンフィルの初のアメリカツアーの指揮を引き受ける条件に、終身の首席指揮者の座を要求したという。ベルリンフィルは、フルトヴェングラーの後任にカラヤンを決める。フルトヴェングラーの支柱を失ったザルツブルグ音楽祭は、カラヤンに協力を要請した。カラヤンは、全プログラムの演目と出演者を決める権利を持つ芸術総監督の座を要求したという。そんなポストはこれまでになく、前代未聞の要求だったらしい。そして、ザルツブルグ音楽祭総監督に就任。ウィーン国立歌劇場も、演出が旧態依然のもので崩壊寸前であったが、これもカラヤンが手中にする。この背後にあった画策、陰謀がいろいろと噂されているが、真相は不明なようだ。カラヤンの持論に、次のような構想があったという。
「複数の国際的な歌劇場がネットワークを形成し、プロダクションを交換し合う。」
その構想に恐れを抱いたウィーンの官僚たちは、ウィーン国立歌劇場から追い出した。カラヤンは、一時は、二度とオーストリアでは指揮しないと宣言したという。

4. 晩年
やがて、カラヤン帝国はなくなり、ベルリンフィルに専念するようになる。世界最高のオーケストラと仕事をしたために、レベルの低いオーケストラの面倒を見るのも嫌になっていたのかもしれない。ヨーロッパ統合のために、国歌の曲に「ヨーロッパの賛歌」として、ベートーヴェンの第九「歓喜の歌」が選ばれた。カラヤンは、その編曲の要請を受ける。現在使われる「ヨーロッパの賛歌」には、ベートヴェン作曲、カラヤン編曲と記されているという。カラヤンは、ベルリンフィルでベルリン以外の都市でコンサートを繰り返した。ベルリン市が財政援助をしているにも関わらず、むしろベルリン市民の方がカラヤンの音楽を聴く機会が少なかったという。本人が認識していたかどうかは別にして、カラヤンにはベルリンフィルと共に西側の優位を示す象徴として、世界をまわる任務があったという。彼は67歳の時、リハーサル中に倒れる。ここから老いとの闘いが始まる。もはや、完璧だったレコーディングもいい加減になっていく。それでも名盤になるから凄い。カラヤンはソニーのディジタル技術に興味を持つ。以降、カラヤンとベルリンフィルの世界最高の組み合わせがディジタル録音で残ることになる。当初、CDの規格が、11.5センチで録音時間が60分であったが、カラヤンの第九を一枚に収録したいという意向から、12センチで74分収録できるようになったという話は、技術屋に身を置くおいらも聞いたことがある。1982年、ベルリンフィル創立百周年を迎えた。その記念演奏会でカラヤンが指揮をしたのは言うまでもない。しかし、カラヤンとベルリンフィルの関係は既に悪化していた。それは、一人の女性クラリネット奏者の入団をめぐっての対立だったという。カラヤンは彼女を気に入り入団させようとしたが、オーケストラ側が拒否した。それまで、女性楽団員が一人も居なかったことから、女性差別とマスコミに叩かれたという。晩年では、ウィーンフィルとの関係を強める。そして、1989年死去。1990年、晩年の最大のプロジェクトである「影像」の販売権を得たソニー・クラシカルは、「カラヤンの遺産」をリリースした。

本書は、最後に独裁と圧政の時代にこそ、真の芸術が生まれると語る。
「ニヒリズムと狂気がないまぜになったところにこそ、最高の美が生まれる。」
確かに、ヒトラーの圧政があったからこそ、フルトヴェングラーやカラヤンのような巨匠を生んだのかもしれない。ただ、強力な政治力を発揮したことも事実で、偉人と狂人は紙一重という印象を受ける。

2008-06-01

"死因不明社会" 海堂尊 著

本屋を散歩していると、謎めいたタイトルに目が留まった。ブルーバックスの話題にしては珍しい。宣伝文句にAiとあるから人工知能関係と思ったら全く違う。本書は、医学界のシステムの欠陥から生じる社会問題を扱う。著者は、外科医でありながら推理小説作家という風変わりな面も持つ。その著作「チーム・バチスタの栄光」は映画化もされている。著者は、作品の中で死因究明問題を扱っており、本書でも、その推理小説の中の架空の人物を登場させる。ブルーバックスでは、この虚構の世界の住人によるガイダンスは初めての試みだという。なかなかおもしろそうな趣向(酒肴)だ。これはブルーバックス教の信者であるアル中ハイマーには見逃せない。

「死因不明社会」とは、いかにも薄気味悪い。死因不明とは、現在の医療システムでは死因を明確にできる手段がないというのだ。それは、医学界には監査システムが機能していないという。おいらは、日本には最新の医療システムが備わっていると信じている。それなのになぜ?本書は、技術が最高レベルでも、システムが人為的に機能していないと指摘する。死因を特定するには死亡時の検証が重要であることは素人にでもわかる。その検証を医学検索という。ほとんどの死は生前からの診察で、重病であればその経過から判断できるだろう。しかし、この考えは甘いと指摘されてしまった。特に、終末期医療は闇に包まれるという。そして、衝撃的なデータを提示する。聖路加国際病院院長の福井次矢氏によると、臨床診断と解剖後の病理診断では死因一致率が88.3%だったという。なんと誤診率12%。ちなみに、欧米の論文では解剖を行うと生前診断は、30%以上のエラーがあるという。医学界ってこんなもんなのか?統計データは厚生労働省の管轄である。官僚の数字操作はお手の物で、分母を変えればなんとでもなる。死因が特定できなければ、治療効果の判定もできないので医学の進歩を妨げることにもなろう。医療現場では、再発か、治療で完治したか、別疾患の併発で死亡したかも判定できないのが現実なようだ。これでは、医療ミスも明るみにならない。不当な医療請求を受けることにもなる。また、犯罪を煽ることにもなる。福祉施設などの虐待や、巧妙に仕組まれた犯罪は闇に葬られ、保険金殺人も見逃されるだろう。捜査機関に運び込まれた死体も同様に、体表から調べる検案だけで死因を確定しているため、殺人や虐待は見過ごされるのが現状だという。これでは死亡統計も当てにはならない。日本警察の優秀さはもはや神話に過ぎないのか?本書は、この問題は市民が認識すらしていないので役所も反応せず、メディアも取り上げないと嘆き、死因確定は基本的人権の一つであると主張する。

死因究明の一つの手段に解剖がある。日本の解剖率は2%台で、先進諸国の中でも最低だという。98%の死者は厳密な医学検索を行われないまま死亡診断書が交付されていることになる。だからといって、突然死や事故死ならともかく、よほどの事がない限り、遺体を損傷させるなど遺族には承諾できることではない。頭部の解剖となれば尚更である。そこで、本書は、Aiを用いた新しい概念「死亡時医学検索」を紹介している。Aiとは、Autopsy imagingの略で、簡単に言うと死体に対する画像診断である。なーんだあ!日本ではCTやらMRIがそこらじゅうの医療施設に散乱しているではないか。画像検索ならば、遺族だって同意できるだろう。しかし、そんな簡単なパラダイムシフトでさえ一筋縄ではいかないという。その根底は、経済至上主義にあろう。正確には目先経済至上主義である。税金を上げるのか?と迫るのも官僚の得意技である。しかし、そこには社会的リスクが考慮されない。そして社会問題の代償に何倍もの拠出を強いられるようにできている。そして、その財源は税金である。ほとんどの官僚的組織の歪んだ政策が、この罠に嵌る。論理的に見えても何かが抜け落ちている。ただ、この現象は霞ヶ関だけの問題ではない。民間組織にもしばしば見られる。凝り固まった思考から官僚思想が生まれるのは自然法則である。その法則を弁えるかどうかが分かれ道となる。自分自身にとって新しいことに目を向けることは、興味でもない限り面倒なことなのだ。弁えていないと潰される世界に身を置けば、自ら外部の風を受け入れることに躊躇しない。エリート官僚は極端に外部の風を拒む傾向にある。本書は、問題の根源は厚生労働省にあると語る。それも事実だろう。ただ、官僚改革を謳うにしても、エリート連中でも比較的弱いところから攻撃されるようにできている。やはり、本丸は財務官僚であろう。金を牛耳る人間の立場が一番強い。そんなことは、家庭内の力学を観察すれば容易に解明できる。ここに手が付き始めなければ、官僚改革はいつまでも前進を見ない。それも、監視能力のない政治家に期待できるはずもない。いや、彼らを選出する国民の問題かもしれない。それも世論を扇動するマスコミの仕業か?いや!闇の侵略者ダース・ベイダーの陰謀に違いない。いずれにせよ、裁判員制度も始まろうとしている。素人にでも判断できるような科学的な根拠を提示してほしい。検察官と弁護士の雄弁さを競う場だけには、ならないように願いたい。死因が特定できなければ裁判は迷走する。明確な情報提供が前提でないと、裁判員制度は司法局が責任を転嫁するための制度となる。

1. Aiとは
Aiとは、狭義では死体の画像診断。広義では死亡時画像病理診断。つまり、画像と病理所見の融合である。日本は、死亡時画像診断(PMI)の最先進国であるという。酔っ払いには、技術進歩が解剖の必要性を奪い、それも悪い傾向ではないと思っていた。実際、PMIから解剖へつながるケースは稀なようだ。しかし、著者は、それだけでは不十分で、解剖がパートナーとして存在するべきであると主張する。まず画像検索によってシミュレーションし、それでも死因が特定できない場合に解剖するという二段構えである。画像検索は、全体をスキャンするのに効果的で、結果も素早く判定できる。死体は、臓器も停止しているから鮮明な画像が得られる。高被爆検査も可能というわけだ。死者に対しては、高磁場や高線量で、機器の最高スペックで検査できるメリットがある。また、生きている人間へのフィードバックもできる。解剖は、局所に絞った診断の質を高くするが、全体のスキャンには向かない。また、一日の大仕事で大変な肉体労働である。結果も一ヶ月以上かかる。画像診断が解剖を凌駕するわけでもなく、画像診断と解剖は互いに補完しあう関係にある。Ai概念が加わると、一変してPMIは解剖へつながる扉となるだろう。画像診断が解剖からの視点に変わる。この視点の違いが大きいという。現在ではホスピスケアがもてはやされる。終末期では、そっと見送ってあげたいというのが遺族の心情というものである。著者も終末期に医療検査を行わない方針も妥当であると語る。だからこそAiが必要だという。そうしないとホスピタル医療が無責任医療になってしまう可能性が高いからである。ケア中に検査せずに、死んだらそのままお見送りでは、施設現場での虐待や、医療ミスは闇に葬られるという。

2. 二つの反対派
反対派の一つは、学会上層部にいる臨床医だという。臨床経過を丁寧に追えば解剖は不要と主張する。彼らは厚生労働省と仲がいいらしい。二つは、解剖関連学会の上層部であるという。ただでさえ解剖が虐げられているのに、更に軽視される恐れがあるという意見だ。しかし、画像検索だけで完全に死因が特定できると考えるのは自惚れであるという。いずれにしても、経済効率主義や、自らの学問的業績にしか興味がないエリート達の論理だという。制度の不備に隠れて横着したり、自らの領域を堅守することに躍起になる官僚主義はどこにでもある。中には、死亡診断書を書く時に、死因がわからないのでは申しわけないと、自ら画像撮影する医師もいるという。

3. 監察医制度
日本には、監察医制度というものがある。戦後、飢餓、栄養失調、伝染病による死亡が続出し死因が特定されなかったために設立された。現在は、5都市のみの制度で、東京二三区、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市。この制度では、まず死体の検案を行い、死因が不審な場合は、遺族の承諾無しで遺体解剖ができる。つまり、5都市以外では、遺族の同意が必要というわけだ。虐待死した子供の解剖を親が認めるわけがない。こんなことで行政格差があるのも奇妙な話である。「家族の虐待は、地方でやりましょう!」ということか。厚生労働省は、戦後の制度で時代遅れという理由から、この制度を廃止に追い込もうとしているという。また、監察医が設置されている5都市でも、唯一機能しているのが東京都監察医務院だけだという。日本で唯一の「死因究明センター」というわけか。では、「死因不明社会」とは正確には東京都以外ということか?東京都監察医務院の業務は現在でも拡大しているという。高級官僚は優遇エリアに住んでいる。これは、監察医制度は時代遅れではなく、むしろ必要なシステムである証拠ではないのか?昭和57年頃からの行政改革の流れの中に、監察医制度の廃止が地方行政の業務のようにされたという。5都市になる前は7都市で、京都市と福岡市で廃止された。神戸市も廃止対象だったが、阪神淡路大震災での検案の結果、有用であることから残されたらしい。ちなみに、福岡市では、年間異状死の発生件数は約4000件、うち承諾解剖は10から20件に過ぎないという。巧妙にカモフラージュされた殺人事件は発見困難ということである。ちなみに、異状死による解剖率は、イギリスで60%、アメリカで50%、日本では9%。しかも、監察医制度がない地域では、4%。これは、素人が見ても恐ろしいデータに見える。

4. 処方箋
高価な画像診断機器が多く導入されているのは日本の底力であり、その結果もたらされる医療インフラは他国の追従を許さない。では、問題は公衆衛生意識ということか?夜間のフリータイムを利用して、既にAiの運営に取り組んでいる医療施設もあるという。本書は、高度な機能特化した病院が乱立しているが、死亡時医学検索センターだけが抜け落ちていると指摘する。具体的には、救急医療センターにAi解剖センターを併設することを提案している。また、大学病院にも併設されるべきだろう。医学教育には解剖実習が重視されるからである。しかし、問題はある。マンパワー不足と、医学検索コストの拠出である。マンパワーでは、医学検索には熟練の技術が必要であることは素人でもわかる。
おいらは海外ドラマNCISをよく観るが、必ず登場するのが解剖シーンである。そこで重要なのが、解剖結果に隠された犯罪性を臭わせるところだ。そりゃそうだ。ドラマティックに演出するには、手口は巧妙でなければならない。ただ、かなり気持ち悪い。一瞬酒を飲む気が失せる。このシーンが好きなのは、そこで活躍するダッキーにいちころなのだ。ちなみに、博多の中洲にはトッキーと呼ばれる潜入捜査官がいるという噂だ。おっと!脱線した。
人員の熟練度を増すには教育が重要である。システムを整備するにしても人材が育つまでには時間がかかる。かなり長期的な戦略が必要であるが、そんなことが厚生労働省にできるのだろうか?官僚は、数年のモデル期間を作って、効果無しと宣伝して葬り去るであろう。著者は、医学検索コストは国家が捻出するべきであると主張する。そして、医療費の1%程度、医療監査費用として拠出するだけで、かなりの効果が見込めると試算している。それで解剖率が2%台から5%台に上昇したとしても、年間死亡者数100万人に対して、Ai費用を一体2万円として200億円、解剖費30万円として150億円。合わせて500億円で計上したとしても、平成14年度の国民医療費の約31兆円に対して、その1%でも3000億円。計算上はおつりがくる。まあ、この計算は、読者にわかりやすいように簡略化してくれているのだろう。

本書のような情報は、テレビや新聞のようなメディアには乏しい。おいらは読書が趣味というほどではない。仕事が忙しいという言い訳からほとんど読書していない時期もあった。職が不安定だと不安を紛らわすために、読書する機会は増える。読書によって恐ろしい現実に出会うことができるのは、困ったものだ。インターネットの普及で情報も手軽になった。立派な意見をメルマガなどで提供してくださる著名人もいる。討論会では声の大きな意見に影響され、ネット社会では発信回数の多いものが助長される。巧みな口述にも情報操作される。どんなメディアもカモフラージュされて、真の情報を得るのは難しい。情報には、意見の対極的なものを双方とも選択するのもいいだろう。ますます勤勉さが求められる。ただ、おいらのような不精な人間には手軽さがほしい。こう情報が多すぎては酔っ払いには選別できない。したがって、今日も日本酒を選んでしまう。