タイトル通りRuby入門書である。ただ、オブジェクト指向を少しぐらいかじっていないと読むのも辛かろう。前記事の「プログラミング言語 Ruby」と重複するところも多いが、よりコンパクトで、具体例はこちらの方が多い。頭の鈍い酔っ払いには、二冊セットで読むとちょうどよい。本書は、リファレンスを読むための手引書のような位置付けにある。ちなみに、著者のYuguiさんとは、園田祐貴さんのことでRuby1.9系統のリリースマネージャと紹介される。自らMtF-TS(Male to Female Transsexual)と告白されるように、その勇気には頭が下がる。こういう方にこそ研ぎ澄まされた感性や才能が宿りやすいのかもしれない。
人間は物事を考える時、自分で使いこなせる言語で思考するところがある。ただ、精神は言語を飛び越えた領域で思考するところもあって、言語学者は対象言語の外側から物事を眺めているのだろう。ちなみに、アル中ハイマーの精神は、しばしば自らのボキャブラリ障壁を越えられなくてイライラする。日常使われる言語には、民族の持つ文化や慣習といったものまで背負い込む。プログラムを書く時も同様に、プログラマは自然とプログラミング言語に沿って思考するところがある。そして、プログラミング言語の持つ文化や慣習といったものが思考の中に入り込む。したがって、システム構築にはプログラミング言語の選択も重要となろう。
ポール・グレアム氏は、著書「ハッカーと画家」の中で、「ハッカーというのは、言論の自由に対してものすごく執着するものなんだ。」と語った。仕事の要求が高ければ、より優れた言語を使うことで効率を上げたいと考えるだろう。だが、実際にはそれほど要求の高くない仕事がゴロゴロしている。よって、慣れ親しんだ言語を使ったり、流行を追いかけるのも悪い選択ではないだろう。言語は過去の資産や組織の政治力によって強要されることもあれば、言語には宗教のようなところがあって洗脳されるケースもあって、純粋に言語選択といっても難しいものがある。多くの言語に触れなければ的確な選択判断が難しいと同時に、一つの言語を深く使いこなさないと本質を理解できないというジレンマがある。したがって、酔っ払いには噂に流されることぐらいしかできない。
Rubyは、純度の高いオブジェクト指向言語として名高い。また、SmalltalkやLispの影響を受けた言語で、複雑なシステムを最小コストで構築する能力があると言われる。Rubyの古い謳い文句に「驚き最小の法則」というものがあるという。なるほど、その思想はシンプルである。数値や文字列、正規表現、入出力などすべてがオブジェクトで構成され、すべてのオブジェクトはメソッドを通して統一的に操作できる。
歴史的には、「より良いPerl」として受け入れられたそうな。Perlといえば、その自由さによって暗号文っぽくなりがちで、自分で書いたコードですら後で見るのが嫌になる。そんな酔っ払いが、Rubyを使えばスパゲッティコードから解放されるとは言い切れないだろうが。
また、「動く擬似コード」と評されることもあるらしい。ほとんどのプログラミング言語は、コンパイルのためのおまじないといった余分なコードが含まれる。その点、Rubyは本質的なコードのみを書くので解読しやすいという。そういえば、最近、数学書やアルゴリズム解説書で、Rubyで書かれたサンプルコードが付録されるのをよく見かける。これも、余計なおまじないがなく要所を押さえたコードということだろうか。
本書は、Rubyらしく考えることを主眼に置いている。言語を理解する上で、単なる文法法則だけを紹介されてもつまらない。言語の流儀や文化を知ることに意義がある。
ところで、オブジェクトとは何か?なんとなく目的を持って振舞う塊のようなもの。そして、多くの塊が協調しながら一つのシステムを形成する。こうした構造は、人間精神のメタファを感じる。精神には、一つの目的を持った意識のようなものが形成され、人間は多くの目的意識を見出しながら生きている。では、それぞれの意識は、何によって制御されたり操作されたりするのだろうか?そこには意志というメッセージが飛び込んでくる。これがメソッドだ。意志とは、石のような頑固な塊であって、それぞれが協調しながら妥協の中で目的を果たそうとする。その目的を持った意志が失われた時、精神は死んだり、精神病を患ったりする。目的を持った意志とは、欲望と解釈することができる。オブジェクトがデータ構造の管理を怠れば、メモリリークも起こす。そして、精神もパニックを起こし、犯罪を犯すことだってある。それが衝動ってやつか?こうした致命的なバグを言語仕様によって防ぐことができればありがたい。では、精神の衝動を抑える合理的な手立てはあるのだろうか?それが理性ってやつか?プログラミング言語の思想にも、危険な操作をすべてプログラマの良識に任せるか、すべて抑制するかという論争がある。ちなみに、Rubyの文化は前者のようだ。これも大人の世界ということだろうか。したがって、オブジェクトの構築には理性構築に通ずるものを感じる、のは気のせいか?
1. バージョン体系
MRI(Matz' Ruby Implementation)のバージョン体系は、"MAJOR.MINOR.TEENY"となっていて、MINORが偶数のバージョンが安定版で、奇数が開発版なのだそうな。ただし、1.9系統は変則で、TEENYが1以上のものが安定版で、0が開発版なのだそうだ。また、1.9系統は2.0系統の踏み台を意図しているという。なんとなく2.0に期待するのであった。
2. データ構造
Rubyは、だいたいにおいて定義が緩やかである。しかし、型変換では厳密な面を見せる。Perlのように、外部からの値を必要に応じて数値や文字列と勝手に判断して型変換をする言語は、あまり好まないのだが、Rubyの型定義の緩やかさの按配は酔っ払いの肌に合う。Rubyは、to_i, to_f, to_sなどの型変換メソッドを用意している。ちなみに、定数も変数でありオブジェクトである。ただし、定数を変更すると警告を発してくれる。
「Rubyは、すべてがオブジェクト構造をとるため、オブジェクトへの参照を別のオブジェクトへの参照へと対応付けるデータ構造をとる。」
といった表現がやたらとちりばめられる。なるほど、変数への代入は正確にはオブジェクトへの参照を代入していることになる。これは注目すべき性質であろう。例えば、以下のように動作する。
------------------
cattle = "yahoo"
animalx = cattle
animaly = cattle.dup # 複製メソッドで明示すれば分かりやすい
cattle[2] = ?p
p cattle # "yapoo"と表示
p animalx # "yapoo"と表示
p animaly # "yahoo"と表示
------------------
酔っ払いは、いかにもオブジェクト指向らしいこの性質に惹かれる。というのも、イテレータで書くと何をやっているかを明示できて、文章っぽくなるのがいい。
ところで、配列などでデータの範囲外にアクセスすると、他の言語では例外を起こすだろう。Rubyは、概して範囲外添字に対して寛容で、nilを返すだけである。この思想が良いか悪いかは、好みの分かれるところだろう。ちなみに、厳格に例外を発生させるfetchメソッドも用意されてる。
オブジェクトの占有するメモリは処理系が管理して解放するので、プログラマが管理に悩まされることはないという。ガベージコレクションが自動でメモリを解放するからである。だからといって、メモリリークが絶対に起こらないというわけでもないだろう。やたらと寿命の長い参照を作るコードが危険であるのは同じである。
3. 数値演算
多倍長整数をサポートしているので、桁あふれを心配せずに大きな数を扱うことができるという。Rubyの数値計算が遅いところは、少々気になるところである。それも1.9では大幅に改善されているそうな。言語によっては、32bitや64bit長という制限があるが、Rubyの整数型には制限がない。整数オブジェクトは、IntegerのサブクラスであるFixnumクラスとBignumクラスで実装される。Fixnumは固定長で実装される整数で、Bignumは多倍長で実装される整数で、これらのクラスを自動的に使い分ける。言うまでもなくFloatオブジェクトの実装はIEEE754に従っていて、その精度はシステムに依存する。IntegerクラスとFloatクラスの親クラスはNumericクラスである。
ちなみに、左辺が右辺よりも小さければ負の数を、等しければゼロを、大きければ正の数を返す比較演算子 <=> を、宇宙船演算子と呼ぶらしい。おいらには宇宙船の形には見えないが。
他に、数値演算に欠かせない複素数クラスや有理数クラスが提供されるのはありがたい。
4. 文字列
この手の言語で、正規表現などのunix流のテキスト処理は必須であろう。Rubyは、PerlやAwkといったシェルスクリプトを受け継ぐ。また、文字列操作のメソッドやイテレータが豊富なのも特徴である。1.9では、マルチバイト文字に対応した多言語テキスト処理をサポートする。マジックコメントは、emacsやvimにファイルのエンコーディングを知らせる方法を流用している。
Rubyには、文字クラスなるものが存在せず、マルチバイトのエンコーディングも含めて、すべてStringクラスで対応している。Rubyのライブラリ設計には、「大クラス主義」というものがあるらしい。むやみにクラスを増やしたり余計な階層化をしないという思想である。
正規表現は、1.8ではGNU regexを改造した独自のエンジンを利用していたが、1.9では「鬼車」というライブラリを採用して機能を強化しているという。
ところで、文字列とは別にシンボル(Symbol)という似通った概念がある。シンボルの特徴は、その唯一性と軽量性にあるという。文字列同士は内容が同じでも同一のオブジェクトとは限らない。対して、シンボルは内容が同値であれば同一のオブジェクトになるという。へー!オブジェクトが同一であるかを調べる場合、文字列よりもシンボルの方が高速に動作するという。シンボルは内容に対する唯一性を維持するので、文字列とは異なり変更不能(immutable)となる。このような性質はハッシュのキーなどに適していそうだ。
5. 入出力
しばしば、Rubyのクラスはunix文化に基づいていて、posixやシステムコールやC言語ライブラリ関数をオブジェクト指向でラップした形になっているという。IOクラスもその典型と言えよう。ファイルをオープンすると、ブロック付きメソッドによって自動的に閉じてくれる。こうしたライブラリがリソースを管理してくれるのはRubyの利点の一つである。リソースを手動で管理することもできるが、その時はcloseメソッドが必須となる。標準入出力やFILEやARGF以外にもIOオブジェクトがある。StringIOは、文字列に対してIOオブジェクトであるかのように振舞うラッパークラスである。1.9では、入出力も文字列と同様にエンコーディングを扱うことができるらしい。
6. 変数と式
Rubyの慣習で、変数名にcamelCaseやPascalStyleのような、大文字小文字で単語を区切るべきではなく、pascal_styleのようにアンダースコアで区切るべきだという。尚、クラス名のみは例外で、PascalStyleといった大文字小文字で名前を付けるらしい。
そういえば、Rubyには、インクリメント、デクリメント演算子がない。導入するかどうかという議論もあるらしいが、強力なイテレータがあるので不便を感じないということらしい。例えば、以下のようにやればいい。
0.upto(9){|i| puts i}
str = "Diogenes"; str.each_byte{|byte| puts byte}
多重代入で、a, b = b, a とやれば、値が交換できるのは便利。論理演算子は短絡評価にも使える。a || b は、aの値が真ならば、bの値を評価せずにaを返す。aの値が偽ならば、bの値を評価する。同様に、a && b は、aの値が偽ならば、bの値を評価しない。
ifやwhileなどの制御文は、Rubyでは値を返す式なので制御式と呼ぶそうな。ちなみに、ループ系の制御式は、loop, times, uptoなどのイテレータを使うとコンパクトに書ける。
7. メソッド
あらゆるオブジェクトにselfが存在する。C++やJavaのthisのようなものである。デフォルトのレシーバがselfなので、クラス内では省略できる。配列では、sortやuniqなどのメソッドが提供される。uniqは重複する要素を排除するメソッドで、元の配列を破壊しない新たな配列を生成する。対して、uniq!は破壊的メソッドとなり、元の配列から重複要素を削除する。一般的に破壊的メソッドは、末尾に!を付ける慣習があるようだ。
非オブジェクト指向的なメソッドに関数メソッドがある。厳密に言えば、どこかのオブジェクトに属するので、Rubyには純粋な意味での関数は存在しないようだ。つまり、トップレベルのメソッドである。
値を返す時は、returnを用いることができるが、省略すれば、メソッドの末尾の式の値が返される。ただし、多値を返すにはreturnが必須。ちなみに、void関数のような値を返さないメソッドは存在しない。神経質なプログラマは、意味のない値を返すよりも、意図されないようにnilを返すように書くらしい。
メソッドによっては、ブロック付きで動作させたい場合がある。ブロック付きメソッドを定義する時は、yieldを利用する。
8. クラスとモジュール
クラス名は大文字で始まる識別子でなければならないという。これはクラス名が定数名でもあるからだそうな。クラス定義の変更を禁止したい時は、freezeメソッドを使用すればいい。ちなみに、組み込みクラスを含む重要なクラスでも、初期状態ではfreezeされていないという。プログラマの良識に委ねているということか。
モジュールはクラスと似ているが、「インスタンス化できないクラス」のようなものだという。ClassはModuleのサブクラスである。モジュールの特徴はMix-inと名前空間にあるという。Mix-inは、制限された多重継承で、そのイメージはトッピングのような意味あいだろうか。ArrayやHashクラスには、EnumerableモジュールがMix-inされるので、その関係のイテレータが自由に利用できる。クラスにComparableモジュールをMix-inすれば、比較機能を自由に利用できる。
9. その他
gdb風のデバッガが標準に装備される。
$ ruby -rdebug hello.rb
pという信じられない短いメソッドがある。これはデバッグに用いられるメソッドでirbと共に重宝されるが、デバッグや学習、コードゴルフ以外に用いるのは行儀が悪いという。おいらは、このメソッドに病み付きだ。
RubyGemsはパッケージ管理システムで、インストール可能なパッケージの一覧などを参照できる。RubyGemsには、Ruby/GD2などの画像ライブラリやネットワークライブラリもある。
wxrubyは、クラスプラットフォームなGUIツールキットwxWidgetsをRubyから利用するためのライブラリである。
Contents
- 2009-10-15 "初めてのRuby" Yugui 著
- 2009-10-11 "プログラミング言語 Ruby" David Flanagan & まつもとゆきひろ 著
- 2009-10-04 "アナログCMOS集積回路の設計" Behzad Razavi 著
- 2009-09-27 "対称性から見た物質・素粒子・宇宙" 広瀬立成 著
- 2009-09-20 "高校数学でわかるボルツマンの原理" 竹内淳 著
- 2009-09-13 "Beautiful Code" Brian Kernighan, Jon Bentley, まつもとゆきひろ 他著
- 2009-09-06 "ユリイカ" Edgar Allan Poe 著
- 2009-08-30 "反社会学講座" Paolo Mazzarino 著
- 2009-08-23 "新ハイスピード・ドライビング" Paul Frere 著
- 2009-08-16 "社会科学の方法" 大塚久雄 著
2009-10-15
2009-10-11
"プログラミング言語 Ruby" David Flanagan & まつもとゆきひろ 著
ここ数年、遊びで書くコードはほとんどRubyである。毎日遊んでいるようなもんだが。というのも仕事では認可してくれない。管理ができないからという理由らしい。では、C++ならば管理ができるのか?正確にはC++コンパイラさえ通ればいいようだ。
ところで、遊びとはいえ使う言語の解説書を一冊も持たないことがよくある。試してみてから気に入ったら、その解説書を買うといったところだろうか。これも、安易に誤魔化すことができるネット社会の恩恵であり、惚れっぽい酔っ払いにはありがたい。ということで、Rubyの解説書を手にするのは初体験である。初体験という言葉はなんとなくドキドキさせる。これも若さというものか。
Rubyは、全般的に型の定義が緩やかである。いわゆる、動的言語で見られる「ダックタイピング」という特徴がある。ちなみに、この言葉は「あひるのように歩き、あひるのようにクワっと鳴けば、それはあひるに違いない。」という諺からきているそうな。個人的には型チェックの曖昧さを好まないのだが、あまり厳格過ぎるのも鬱陶しい。そこで、Rubyは、数値リテラルなど厳格に型チェックされる場合もあるので、その按配が肌に合うようだ。
Rubyは純度の高いオブジェクト指向言語として世界でも評判が高い。その普及を後押ししたのがRuby on Railsだと言われている。日本人が開発した言語が世界を席巻するというのもなんとなく嬉しい。文法的にもLisp, Smalltalk, Perlの影響を受けつつも、CやJavaのプログラマでも親しみやすいという特徴がある。特に、procやlambdaといったメソッド思想によって関数プログラミング風に書けるのがいい。ちなみに、lambdaは数理論理学などで見られるラムダ計算にちなんだ名前。
ところで、関数プログラミングといえば、Lispを思い浮かべる。ポール・グレアム氏は著書「ハッカーと画家」で、Lispを学べば実際にLispプログラムを作ることがなくても良いプログラマになれると熱く語っていた。現代のプログラム構造は、動作部からデータ構造へと注目点が移ってきた。Lispにはデータ構造の本質を覗かせてくれる何かがあるのだろうか?と、なんとなく興味を持っているが、いまだに手が出せないでいる。Rubyのおかげで、ずーっと避けていたLispにも手を出す日が近づいた予感がする。来年の目標はschemeあたりか?Lispは古い言語で、時代を前後した奇妙な順を追っているようでもあるが、そこは酔っ払いらしく千鳥足で言語選びの旅に出かけるのも悪くない。
本書は、改めてRubyの持つ思想や慣習といったもの味あわせてくれる。そして、かなり慣習を無視した書き方をしていることに気づかされる。やはり言語の勉強はいい加減にできるものではない。おいらの勉強は、いつも勘で始まって勘違いへと変化する。まったく学習能力がなく、いつも同じ轍を踏むわけだが、なぜか?気持ちええ。アル中ハイマー病とはそうした病である。
本書は言語リファレンスではない。それでも重要なクラスやモジュールを押さえている。Rubyの特徴は、豊かなAPIを備えていることであろう。特に、String, Array, Hash, Enumerable, IOといった主要クラスは押さえておきたい。また、数値と数学関係のNumericメソッドやMathモジュールも紹介してくれる。
Rubyのコレクションクラスには、ArrayやHashやSet(集合)があるが、いずれもEnumerableモジュールがミックスインされる。ちなみに、Enumerableオブジェクトは対象のオブジェクトを数えたり列挙したりできる。
ネットワーク機能も豊富だ。インターネットのクライアント側にはTCPSocketクラスが、サーバ側にはTCPServerクラスが、UDPデータグラムにはUDPSocketクラスが提供される。ソケットライブラリは、http, smtp, pop, imapといったプロトコルに対応している。Kernel.openは、File.openと同じような動作をするが、URLをファイルのように扱える柔軟性がある。仕事でWebアプリを作ることはないが、これを機会にRailsで遊んでみるのもいいかもしれない。
マルチスレッドも書きやすそうだ。ただ、プラットフォームに依存するのは仕方が無いか。スレッドの優先順位はOSによってまちまちである。だが、Linux上のRuby1.9はネイティブスレッドを実装していて、スレッドの優先順位の設定もRuby側で設定できるという。スレッドが一定の条件で自動で切り替わるのは多くの場合でありがたい。スレッドはキューで管理できる。
コンピュータ構造が、人間の思考方法や社会構造からヒントを得ることが往々にある。オブジェクトは、プラトンのイデア論に通ずるものを感じる。クラスという雛形からインスタンスを生成するあたりは、いわば実存認識といったところだろうか。そして、スーパークラスという基底なるものが理想イデアであって、それを継承しながら様々なクラスがイデアとして現れる。継承が複雑化して手に負えなくなると、遺伝子コピーの不完全性も現れる。ところで、オブジェクト指向という言葉が流行ったのは20年ぐらい前であろうか。Smalltalkのセミナーにも参加した記憶が蘇る。当時マイコン開発をしていた。いわゆる組込み系のプログラム設計である。そして、データ隠蔽の思想を好み、ローカルルールで実践していた。システムの規模は小さく、CPUで言うと8bitが主流で、まだ4bitも多く、稀に16bitを使うといった具合である。プログラムサイズで言うと、16KBから32KB程度でリアルタイムモニタといったところだろうか。今でこそリアルタイムOSが盛んであるが、当時は高価で手が出せかった。小規模なシステムでは助長したプログラムは実装できないので、OSもどきのカスタムプログラムを作る必要があった。使用する言語はCライクのものも登場していたが、コンパイラの性能から依然アセンブラが勢力を保っていた。小規模なシステムでは、あまり高級言語の恩恵が受けられないので、独自ルールで工夫することになる。アセンブラ言語のデータ構造はほとんど制約がないので、あらゆるアクセスを想定しなければならない。そこで、グローバルデータを思想から排除し、すべてメソッド経由でしかアクセスを認めないなどの規定をマクロ機能を駆使しながら実装する。データアクセスで必要なメソッドは、基本的にset/get系のみで集約できるはず。当時は、カプセル化の概念といった学術的な意義を知らなかったが、自然と実践していたような気がする。また、組込み系システムでは、コンピュータ上で動作する一般のアプリケーションと比べてソフトウェアの構成がハードウェアと対応付けしやすいというメリットがある。これは、ソフトウェア仕様を製品の取扱説明書と結び付けやすく、ソフトウェア部品であるオブジェクトは製品の部品のようなイメージで捉えられ、分かりやすいプログラム構造を実現できる。ちなみに、おいらはソフト屋ではない。どちらかといえばハード屋か?はたしてその実体は...雑用係なのだ。したがって、アル中ハイマーは、ソフトなピロートークを武器にハードボイルドに生きるのであった。
1. オブジェクト
Rubyの値は全てオブジェクトで、他の言語のような原始型なるものがないという。単純な数値やリテラルも普通にオブジェクトであり、それぞれのメソッドが実行できる。ちなみに、true, false, nilもオブジェクトで、Booleanクラスなるものがない。
Rubyは不要になったオブジェクトをガベージコレクションで自動的に解放するので、明示的な解放を必要とする言語に比べて、メモリリークを起こしにくいという。だからといって、メモリリークが絶対に起こらないというわけでもないだろう。やたらと寿命の長い参照を作るコードが危険であるのは同じである。
Rubyは、オブジェクトに対するテストや調査する機能が豊富である。インスタンスがどのクラスに属するかを問い合わせる機能や、クラスの親子関係を調査するのに比較演算子や等値演算子がオブジェクト間でも使える。オブジェクトの初期化ではコンストラクタを使うのがお馴染みであるが、Rubyではinitializeメソッドを使う。クローンやコピーを作らせないために、Singletonを定義することができる。ちなみに、シングルトンとは、インスタンスを一つしかもたないクラス。
2. メソッド
Rubyの構文の基本は式であり、制御文も式として評価できる。これがコンパクトに書ける理由でもある。演算子の多くはメソッドとして実装されており、クラスはメソッドを自由に定義できる。コアライブラリであってもメソッドを追加できる。ちなみに、どのクラスでもオブジェクトを文字列で表現するto_sインスタンスメソッドを定義しておいた方がよいという。デバッグ時に役立つからである。set/getメソッドを実装するのに、attr, attr_accessor, attr_reader, attr_writer(あまり使われん)によって抽象化できるのは便利である。C++のようにpublic, protected, privateを定義できるが、Rubyでの対象はメソッドのみとなる。インスタンス変数やクラス変数は、カプセル化されるからである。initializeメソッドは暗黙でprivateであるが、その他は明示しない限りpublicである。ただし、メタプログラミング機能を使えば、protected, privateメソッドも起動できるようだ。ここが、オープンな言語仕様ということなのだろう。一見矛盾した思想にも思えるが、デバッグ機能として活用できそうだ。
3. リフレクションとメタプログラミング
Rubyは、リフレクションのためのAPIを豊富に揃えている。リフレクションとは、プログラムが自分の状態や構造を解析することである。そして、その状態や構造を書き換えることさえできるという。こうした動的な性質が柔軟性をもたらし、メタプログラミングを可能にする。リフレクションAPIには、オブジェクトの型を判定するメソッドがある。文字列やブロックの評価、変数の取得、設定、テストが容易にできる。また、メソッドのリストアップと有無テストや、言語仕様の中でトレース機能を持つ。
4. セキュリティ
Webアプリでは、SQLインジェクション攻撃などのセキュリティ問題が発生するが、Rubyはこうしたリスクを追跡する手段を提供している。また、信頼されないデータやコードを区別するためのメカニズムが提供され、オブジェクトをフリーズさせたり、オブジェクトの汚染状態を明示することができる。
5. ファイバ
Fiberオブジェクトは、他の環境では一種の軽量スレッドを表すために使われるらしいが、Rubyではコルーチンと呼んだ方がいいという。これは、数値演算で数列のジェネレータなどに使えそうだ。わざわざ裏処理させる必要もないかもしれないが。ファイバは、少々分かりにくい制御構造である。スレッドのように即実行するものではなく、resumeメソッドを呼び出すことによって実行開始する。Fiber.yieldメソッドで呼び出し元へ戻したりと、スレッドを裏で実行させたい時だけ実行させるといったことができる。
6. Ruby1.8とRuby1.9の違い
細かく挙げると切りが無いので、気になったところだけを列挙しよう。
(1) スーパークラスは、1.8ではObject、1.9ではBasciObject。
(2) 1.9からパッケージ管理システムのRubyGemsが標準ライブラリ。
(3) procは、1.8ではlambdaと同じ意味であるが、1.9ではProc.newと同義語だという。1.8では曖昧さがあるのでprocを使うべきではないという。
(4) 1.9ではマルチバイト文字がシームレスに扱える。例えば、文字配列のポインタがバイト単位ではなく文字単位となる。このマルチバイト文字への対応がRuby1,8とRuby1.9の大きな違いのようだ。おいらは、jcodeライブラリあたりを意識するのが嫌いなので、もともとマルチバイトを避ける習慣がある。とはいっても、書籍購入予定リストなど日本語テキストをフィルタリングすると、マルチバイトを避けるわけにはいかない。したがって、エンコーディングクラスが提供されるのはありがたい。
そういえば、6月頃だろうか、Ruby1.8系の1.8.6-p368以前と、1.8.7-p160以前のバージョンで、DoS攻撃を受ける脆弱性があると発表された。BigDecimalオブジェクトからfloatへの変換の時、巨大な数値を扱うと、segmentation faultsを引き起こされる可能性があるといった話である。尚、1.9系は問題はないらしい。
7. 対話的Ruby
irb(Interactive Ruby)は、Rubyのシェル。
$ irb --simple-prompt # Rubyプロンプトを起動する
$ ri "keyword" # ドキュメント表示
ところで、遊びとはいえ使う言語の解説書を一冊も持たないことがよくある。試してみてから気に入ったら、その解説書を買うといったところだろうか。これも、安易に誤魔化すことができるネット社会の恩恵であり、惚れっぽい酔っ払いにはありがたい。ということで、Rubyの解説書を手にするのは初体験である。初体験という言葉はなんとなくドキドキさせる。これも若さというものか。
Rubyは、全般的に型の定義が緩やかである。いわゆる、動的言語で見られる「ダックタイピング」という特徴がある。ちなみに、この言葉は「あひるのように歩き、あひるのようにクワっと鳴けば、それはあひるに違いない。」という諺からきているそうな。個人的には型チェックの曖昧さを好まないのだが、あまり厳格過ぎるのも鬱陶しい。そこで、Rubyは、数値リテラルなど厳格に型チェックされる場合もあるので、その按配が肌に合うようだ。
Rubyは純度の高いオブジェクト指向言語として世界でも評判が高い。その普及を後押ししたのがRuby on Railsだと言われている。日本人が開発した言語が世界を席巻するというのもなんとなく嬉しい。文法的にもLisp, Smalltalk, Perlの影響を受けつつも、CやJavaのプログラマでも親しみやすいという特徴がある。特に、procやlambdaといったメソッド思想によって関数プログラミング風に書けるのがいい。ちなみに、lambdaは数理論理学などで見られるラムダ計算にちなんだ名前。
ところで、関数プログラミングといえば、Lispを思い浮かべる。ポール・グレアム氏は著書「ハッカーと画家」で、Lispを学べば実際にLispプログラムを作ることがなくても良いプログラマになれると熱く語っていた。現代のプログラム構造は、動作部からデータ構造へと注目点が移ってきた。Lispにはデータ構造の本質を覗かせてくれる何かがあるのだろうか?と、なんとなく興味を持っているが、いまだに手が出せないでいる。Rubyのおかげで、ずーっと避けていたLispにも手を出す日が近づいた予感がする。来年の目標はschemeあたりか?Lispは古い言語で、時代を前後した奇妙な順を追っているようでもあるが、そこは酔っ払いらしく千鳥足で言語選びの旅に出かけるのも悪くない。
本書は、改めてRubyの持つ思想や慣習といったもの味あわせてくれる。そして、かなり慣習を無視した書き方をしていることに気づかされる。やはり言語の勉強はいい加減にできるものではない。おいらの勉強は、いつも勘で始まって勘違いへと変化する。まったく学習能力がなく、いつも同じ轍を踏むわけだが、なぜか?気持ちええ。アル中ハイマー病とはそうした病である。
本書は言語リファレンスではない。それでも重要なクラスやモジュールを押さえている。Rubyの特徴は、豊かなAPIを備えていることであろう。特に、String, Array, Hash, Enumerable, IOといった主要クラスは押さえておきたい。また、数値と数学関係のNumericメソッドやMathモジュールも紹介してくれる。
Rubyのコレクションクラスには、ArrayやHashやSet(集合)があるが、いずれもEnumerableモジュールがミックスインされる。ちなみに、Enumerableオブジェクトは対象のオブジェクトを数えたり列挙したりできる。
ネットワーク機能も豊富だ。インターネットのクライアント側にはTCPSocketクラスが、サーバ側にはTCPServerクラスが、UDPデータグラムにはUDPSocketクラスが提供される。ソケットライブラリは、http, smtp, pop, imapといったプロトコルに対応している。Kernel.openは、File.openと同じような動作をするが、URLをファイルのように扱える柔軟性がある。仕事でWebアプリを作ることはないが、これを機会にRailsで遊んでみるのもいいかもしれない。
マルチスレッドも書きやすそうだ。ただ、プラットフォームに依存するのは仕方が無いか。スレッドの優先順位はOSによってまちまちである。だが、Linux上のRuby1.9はネイティブスレッドを実装していて、スレッドの優先順位の設定もRuby側で設定できるという。スレッドが一定の条件で自動で切り替わるのは多くの場合でありがたい。スレッドはキューで管理できる。
コンピュータ構造が、人間の思考方法や社会構造からヒントを得ることが往々にある。オブジェクトは、プラトンのイデア論に通ずるものを感じる。クラスという雛形からインスタンスを生成するあたりは、いわば実存認識といったところだろうか。そして、スーパークラスという基底なるものが理想イデアであって、それを継承しながら様々なクラスがイデアとして現れる。継承が複雑化して手に負えなくなると、遺伝子コピーの不完全性も現れる。ところで、オブジェクト指向という言葉が流行ったのは20年ぐらい前であろうか。Smalltalkのセミナーにも参加した記憶が蘇る。当時マイコン開発をしていた。いわゆる組込み系のプログラム設計である。そして、データ隠蔽の思想を好み、ローカルルールで実践していた。システムの規模は小さく、CPUで言うと8bitが主流で、まだ4bitも多く、稀に16bitを使うといった具合である。プログラムサイズで言うと、16KBから32KB程度でリアルタイムモニタといったところだろうか。今でこそリアルタイムOSが盛んであるが、当時は高価で手が出せかった。小規模なシステムでは助長したプログラムは実装できないので、OSもどきのカスタムプログラムを作る必要があった。使用する言語はCライクのものも登場していたが、コンパイラの性能から依然アセンブラが勢力を保っていた。小規模なシステムでは、あまり高級言語の恩恵が受けられないので、独自ルールで工夫することになる。アセンブラ言語のデータ構造はほとんど制約がないので、あらゆるアクセスを想定しなければならない。そこで、グローバルデータを思想から排除し、すべてメソッド経由でしかアクセスを認めないなどの規定をマクロ機能を駆使しながら実装する。データアクセスで必要なメソッドは、基本的にset/get系のみで集約できるはず。当時は、カプセル化の概念といった学術的な意義を知らなかったが、自然と実践していたような気がする。また、組込み系システムでは、コンピュータ上で動作する一般のアプリケーションと比べてソフトウェアの構成がハードウェアと対応付けしやすいというメリットがある。これは、ソフトウェア仕様を製品の取扱説明書と結び付けやすく、ソフトウェア部品であるオブジェクトは製品の部品のようなイメージで捉えられ、分かりやすいプログラム構造を実現できる。ちなみに、おいらはソフト屋ではない。どちらかといえばハード屋か?はたしてその実体は...雑用係なのだ。したがって、アル中ハイマーは、ソフトなピロートークを武器にハードボイルドに生きるのであった。
1. オブジェクト
Rubyの値は全てオブジェクトで、他の言語のような原始型なるものがないという。単純な数値やリテラルも普通にオブジェクトであり、それぞれのメソッドが実行できる。ちなみに、true, false, nilもオブジェクトで、Booleanクラスなるものがない。
Rubyは不要になったオブジェクトをガベージコレクションで自動的に解放するので、明示的な解放を必要とする言語に比べて、メモリリークを起こしにくいという。だからといって、メモリリークが絶対に起こらないというわけでもないだろう。やたらと寿命の長い参照を作るコードが危険であるのは同じである。
Rubyは、オブジェクトに対するテストや調査する機能が豊富である。インスタンスがどのクラスに属するかを問い合わせる機能や、クラスの親子関係を調査するのに比較演算子や等値演算子がオブジェクト間でも使える。オブジェクトの初期化ではコンストラクタを使うのがお馴染みであるが、Rubyではinitializeメソッドを使う。クローンやコピーを作らせないために、Singletonを定義することができる。ちなみに、シングルトンとは、インスタンスを一つしかもたないクラス。
2. メソッド
Rubyの構文の基本は式であり、制御文も式として評価できる。これがコンパクトに書ける理由でもある。演算子の多くはメソッドとして実装されており、クラスはメソッドを自由に定義できる。コアライブラリであってもメソッドを追加できる。ちなみに、どのクラスでもオブジェクトを文字列で表現するto_sインスタンスメソッドを定義しておいた方がよいという。デバッグ時に役立つからである。set/getメソッドを実装するのに、attr, attr_accessor, attr_reader, attr_writer(あまり使われん)によって抽象化できるのは便利である。C++のようにpublic, protected, privateを定義できるが、Rubyでの対象はメソッドのみとなる。インスタンス変数やクラス変数は、カプセル化されるからである。initializeメソッドは暗黙でprivateであるが、その他は明示しない限りpublicである。ただし、メタプログラミング機能を使えば、protected, privateメソッドも起動できるようだ。ここが、オープンな言語仕様ということなのだろう。一見矛盾した思想にも思えるが、デバッグ機能として活用できそうだ。
3. リフレクションとメタプログラミング
Rubyは、リフレクションのためのAPIを豊富に揃えている。リフレクションとは、プログラムが自分の状態や構造を解析することである。そして、その状態や構造を書き換えることさえできるという。こうした動的な性質が柔軟性をもたらし、メタプログラミングを可能にする。リフレクションAPIには、オブジェクトの型を判定するメソッドがある。文字列やブロックの評価、変数の取得、設定、テストが容易にできる。また、メソッドのリストアップと有無テストや、言語仕様の中でトレース機能を持つ。
4. セキュリティ
Webアプリでは、SQLインジェクション攻撃などのセキュリティ問題が発生するが、Rubyはこうしたリスクを追跡する手段を提供している。また、信頼されないデータやコードを区別するためのメカニズムが提供され、オブジェクトをフリーズさせたり、オブジェクトの汚染状態を明示することができる。
5. ファイバ
Fiberオブジェクトは、他の環境では一種の軽量スレッドを表すために使われるらしいが、Rubyではコルーチンと呼んだ方がいいという。これは、数値演算で数列のジェネレータなどに使えそうだ。わざわざ裏処理させる必要もないかもしれないが。ファイバは、少々分かりにくい制御構造である。スレッドのように即実行するものではなく、resumeメソッドを呼び出すことによって実行開始する。Fiber.yieldメソッドで呼び出し元へ戻したりと、スレッドを裏で実行させたい時だけ実行させるといったことができる。
6. Ruby1.8とRuby1.9の違い
細かく挙げると切りが無いので、気になったところだけを列挙しよう。
(1) スーパークラスは、1.8ではObject、1.9ではBasciObject。
(2) 1.9からパッケージ管理システムのRubyGemsが標準ライブラリ。
(3) procは、1.8ではlambdaと同じ意味であるが、1.9ではProc.newと同義語だという。1.8では曖昧さがあるのでprocを使うべきではないという。
(4) 1.9ではマルチバイト文字がシームレスに扱える。例えば、文字配列のポインタがバイト単位ではなく文字単位となる。このマルチバイト文字への対応がRuby1,8とRuby1.9の大きな違いのようだ。おいらは、jcodeライブラリあたりを意識するのが嫌いなので、もともとマルチバイトを避ける習慣がある。とはいっても、書籍購入予定リストなど日本語テキストをフィルタリングすると、マルチバイトを避けるわけにはいかない。したがって、エンコーディングクラスが提供されるのはありがたい。
そういえば、6月頃だろうか、Ruby1.8系の1.8.6-p368以前と、1.8.7-p160以前のバージョンで、DoS攻撃を受ける脆弱性があると発表された。BigDecimalオブジェクトからfloatへの変換の時、巨大な数値を扱うと、segmentation faultsを引き起こされる可能性があるといった話である。尚、1.9系は問題はないらしい。
7. 対話的Ruby
irb(Interactive Ruby)は、Rubyのシェル。
$ irb --simple-prompt # Rubyプロンプトを起動する
$ ri "keyword" # ドキュメント表示
2009-10-04
"アナログCMOS集積回路の設計" Behzad Razavi 著
ほど酔い気分で本棚を眺めていると、なにやら懐かしい香りがする。おいらがエンジニアになった頃、アナログ技術が盛んであった。20年以上前かぁ。新人研修では、テレビ受信回路や映像制御回路などが題材とされ、まともなコンピュータ研修の無かった時代である。おいらは、アナログ技術が全く理解できず、トランジスタの等価回路なんて物理的にイメージできないでいた。アナログ技術は物理数学の世界で、デジタル技術は論理学の世界である。言い換えれば、前者は職人の世界で、後者は屁理屈の世界とも言えよう。アナログ技術は、技術習得に時間がかかり、おいらのような飽きっぽい人間には難しい。とっくに数学で挫折していたので、ラプラス変換と聞いただけで蕁麻疹が出たものだ。ちょうどその頃、ワンチップマイコンやプログラマブルデバイスが登場して、デジタル技術が流行り始めた。おいらは時代に救われた。だからといって、デジタル技術が簡単なわけではない。高集積化が進めば複雑なアルゴリズムが要求され、数学からは逃れられない。結局、落ちこぼれる運命は変えられない。当時、アナログ回路は無くなるといった意見も多かった。アナログ設計者は、デジタル設計者へ転職を考えるといった社会現象もあったぐらいだ。ところが、近年システムLSIの登場により、アナログ技術者は引く手あまたである。高速化や高密度化が進むと、すべてをデジタル化することは難しい。高速化の要求はアナログ乗算器を登場させる。そして、省電力化が進み、やっかいなデジタル信号の高周波ノイズでEMC問題の対策も盛んになる。高速な半導体メモリやプロセッサは、高速デジタル設計であっても、ほとんどアナログ設計と言われる。こうした時代の流れで、アナログ技術のセミナーは大盛況で、5年ほど前にいくつか受講した。本書はその頃、再勉強しようとして購入したものである。ちなみに、アナログ回路は、おいらにとってデジタルシステムを検証するための補助的な位置付けにしかない。実験室でちょっいと試すぐらいなもの。それでも、安価な安定化電源や確実に動作するリセット回路ぐらいは必要である。最近はソフトウェア的な仕事しかしないので、実験室とは10年以上ご無沙汰している。
最近、新人君と付き合う機会が多い。教育係を依頼されるからである。ちなみに、人に教えることほど嫌いなものはない。教えるものなんて何もないから、自分の馬鹿さ加減を暴露するようなものである。なるほど、暗に引退せよ!と仄めかされているのかぁ。こんなフレッシュな酔っ払いを年寄り扱いするとは。世の中が不景気だと、若い連中を遊ばせるわけにもいかず、教育が盛んになる傾向がある。そこで、本書を読み返す羽目になる。そもそも、技術教育なんて必要なのかも疑問である。技術は盗み取るものであり、学問は知識を得るまでの過程にこそ価値がある。
ところで、新人君たちは想像もつかない勘違いをする。だが、アル中ハイマーの武勇伝には敵わないだろう。ということで、新人時代の失敗を暴露するとしよう。もはや精神の泥酔者には羞恥心の欠片もない。なにしろ、電解コンデンサにプラスとマイナスがあることも知らずに使っていたのだ。では、スモーキーなモルトに誘われて、焦げ臭いところを紹介しよう。あるシステムでアナログ部とデジタル部の電源を分離させて、双方のGNDを解放して独立に制御していた。しばらくは正常っぽく動作していたが、ある日突然高価なチップが燃えだした。いや!溶け出した。先輩から「実験室が焦げ臭いぞ!」と指摘されて「ハッ!」となる。ラッチアップを起こしたのだ。他にも、部分的なモジュールではそれらしい動作をするのに、全体を組み上げると燃えたことがある。問題は、半導体の仕組みを物理的に理解していないことだ。トランジスタとは奇妙なもので、抵抗などの素子が無いにもかかわらず、それだけで等価回路が実現できる。ということは、半導体素子を多段につなぐと、回路全体で想像もつかない機能を持つ可能性がある。一つの素子に想定外の信号が入力されると、周りの電子部品と干渉してとんでもない動作をするわけだ。アナログ回路は、物性物理学を体で覚える世界だといことを実感したものだ。
また、CMOSデバイスで回路を組んでいると、繋がなくても微妙に動作することには驚いた。バイポーラと違って、CMOSデバイスは接続されていなくてもオンすることがある。TTLが常に電流が流れるのに対して、CMOSはスイッチングの瞬間にしか電力を消費しない。言い換えれば、バタバタする信号は瞬間ノイズでうるさいわけだ。信号線にプローブをあてると完全に眠るのだが、放すと微妙に動作する。ノイズが原因だと思ったが、実は配線されていなかったというオチだ。それを解明するだけで一日無駄にするという馬鹿さ加減!導通テストは馬鹿にはできないことを実感したものだ。ちなみに、テスターで導通を確かめるのに「ピッ!」と鳴る機能は怪しい。微小抵抗でも反応するからである。もともとCMOSは遅いという弱点を持っていたが、当時は速度の問題も解消されつつあり、ほとんどCMOSを使っていたような気がする。
それにしても、半導体とは奇妙な物質である。半分だけ導体とは、これいかに?
「導体のようで導体でない、でんでん!絶縁体のようで絶縁体でない、でんでん!」
外部から熱や光あるいは磁場や電圧といった刺激を与えることによって、電気特性が得られる物質である。バンドギャップが狭いからキャリア効果も現れる。P型とN型を接合することによってその効果も上がる。電源など駆動するための仕掛けが必要であるにせよ、増幅効果があるのは電子の流れを活発にするからである。バンドギャップ内はフェルミ準位近辺になり、電子が移動できるかどうかも確率論に持ち込まれる。こうした物理現象を眺めるだけでも、LSIの歩留まりが不安定なことは容易に想像できる。
つまり、半導体とは、泥酔状態が不安定で、酔ってんだか、酔ってないんだか、自覚できない物質というわけだ。いずにせよ共通した性質は、夜の社交場でホットな女性からちょいと視線ビームを浴びせられると、電流が走って痺れる。そして、精神のエネルギー順位が高まると「君に酔ってんだよ!」と囁きはじめ、その醜態はどんどん増幅される。ただし、女性の愛情障壁は固く、強力な電子ビームをもってしても簡単には突き抜けられないので、逆電流は流れにくい。一旦、逆電流が流れはじめると、一気に燃え上がるわけだ。
本書は、基本編と応用編の二冊に分かれるが、区別することもないだろう。むしろ上下巻とした方が適切だ。本書の目的は、最終的にデバイス動作を定式化して回路モデルを作るための知識を学ぶことである。そして、MOSFETの物理から始まってプロセス技術まで網羅される。MOSFETをスイッチとして使うならば、ゲートをオンするとソースとドレインが導通するという単純な構造である。しかし、ゲート電圧は?ソースとドレイン間の抵抗は?その抵抗は線形なのか?と悩み出すと頭が痛い。回路特性が線形性を保つならば、なにも悩まないだろう。おまけに、素子間のミスマッチが製造技術とレイアウトを悩ませる。高密度化が進めば、素子そのものの遅延よりも配線遅延の方が厄介になり、クロストークといった問題も発生する。
本書は、実験室で重宝した概念をいくつか紹介してくれる。高速性や微小信号を扱う場合、差動などの対称性を利用した概念がしばしば登場する。差動回路は、耐ノイズ性に優れているのはなんとなく感覚で分かるだろう。双方でスイングすれば、微小信号でも伝送系で効果がありそうに感じる。その重要な特性は外因に対する同相の除去効果である。
また、重要な概念にフィードバックがある。負帰還では高精度の信号処理ができたり、正帰還では発振器を作ることができる。信号の平均化という意味ではフィルタ効果もある。本書では、フィードバック回路の特性で、利得の鈍感化、端子インピーダンスの変更、帯域幅の拡大、非線形性の低減といった例が考察される。ただ、回路にループがあれば予期せぬ発振はつきもの。ループゲインが大きければ発振する可能性も高い。
更に、線形帰還システムの安定性と周波数補償を議論している。これはオペアンプの応用である。オペアンプはもともと差動増幅なので、そのままでも使えるし、その名称からアナログ演算にも使える。昔は、コンパレータやマルチバイブレータといったものに利用したのを覚えている。飽和領域で動作するMOSトランジスタは電流源としても使える。ゲートとソース間の電圧が定められても、ドレイン電流が定められなければ、電流源をバイアスする方法も必要となろう。そこで、電流源は既に定まっているものと仮定して、カレントミラーによって電流をコピーするといったことを考えたりする。デジタルシステムが専門とはいえ、振幅や周波数やデューティ比を自在に制御できる発振回路や、モノマルチといった簡単な信号発生器があると、実験に重宝したものだ。こういう状況を思い出していると、現在ではFPGAやCPUが搭載されたキッドが売られているから便利である。しかも、雑誌にも付属される。これは恵まれた環境とも言えようが、回路を燃やすような体験は難しいだろう。昔は、火を入れる瞬間もドキドキした。まさしく勉強に燃えていたのだ!
1. 雑音
アナログ技術者は絶えず雑音と葛藤している。アナログ回路設計とは、自ら創出する雑音と、周りから影響を受ける雑音の双方との戦いである。ちなみに、デジタル回路は雑音を発する側なので気軽だと思っていたが、雑音の悪魔と呼ばれ、いつも謝っていたような気がする。だから、酔うと謝り上戸になるのかもしれない。
雑音は、消費電力、動作速度、線形性とトレードオフの関係にあり、その特徴はランダム性にある。したがって、長期間の観察から統計論的モデルとして扱うことになる。雑音スペクトラムとして捉えれば、フィルタによって除去できるというわけだ。雑音には、熱雑音、ショット雑音など、その要因を上げれば切りが無い。本書は、MOSFETのゲート酸化膜とシリコン基板の界面で生じるフリッカ雑音を考察している。
2. 発振器
電子制御で発振器は不可欠である。それはプロセッサのクロックから携帯電話のキャリアにまで及ぶ。本書は、VCO(電圧制御発振器)の数学的モデルを検討し、周波数変調器として動作する様子を考察している。簡単なものではLC発振器が思いつくが、分かりやすいリング発振器にも触れている。昔は、インバータの多段によって、実験用に簡単な発振器を組んだものだ。そして、同期させるためにPLL(位相同期ループ)を使った。
3. デバイスモデル
デバイスのモデリングは困難で、シミュレーション値と測定値が違うことは珍しくない。本書は、ショートチャネル効果を理解するために、SPICEモデルを考察している。そして、MOSの理想的なスケーリング則とは何か?といった問題を扱う。半導体デバイスでCMOSが主流となる理由は、静的な消費電流がゼロであることと、MOSFETのスケーリングが容易であることであろう。スケーリングされたチャンネル容量が容易に見積もれなければ、製造工程に影響を与える。チャネル内で電圧低下といった現象があると安定した動作が望めない。熱雑音による電圧電流特性において、ダイナミックレンジが一定でないのは厄介である。また、しきい値電圧は、チャネル長によって変動する。よって、製造プロセスにおいてチャネル長の正確な制御が必要となる。ゲート電圧が上昇すると、ソース側のポテンシャルを上昇させたり、ドレイン電圧も表面ポテンシャルを上昇させる要因となる。これが、電荷の流れに障害を与えて、しきい値電圧を低下させ、ドレインとソース間の電圧による出力インピーダンスが低下する。縦方向の電界による移動度の劣化や、横方向の電界による原子運動によるホットキャリア効果の影響といった物理物性の世界は、最も苦手とするところだ。こんなものが理解できるレイアウト屋さんは尊敬してしまう。
4. プロセス
本書は、概念的な製造工程を想像させてくれる。基礎となるp型基板ウェーハの上に、nウェル、ソース - ドレイン領域、ゲート絶縁膜、ポリシリコン、nウェルと基板の電極、メタル配線が形成される。その工程はだいたい以下の手順となろう。
(1) ウェーハプロセス
(2) フォトリソグラフィ(回路のレイアウト情報をウェーハに転写する最初の段階)
(3) 酸化
(4) イオン注入
(5) 成膜とエッチング
(6) デバイスの製造(能動素子、受動素子など)
エッチング中、メタル領域では、イオンを収集し電位を上昇させるアンテナ効果が現れるという。そのため、製造工程中に、MOSデバイスのゲート電圧はゲート酸化膜を回復できないまでにブレークダウンする可能性があるわけだ。ゲート酸化膜にダメージが起こる可能性を最小限にするために、総面積を制限するのが一般的だという。大面積が避けられない場合は、エッチング中に大面積が直接ゲートにつながらないように切れ目を入れたりするわけだ。
最近、新人君と付き合う機会が多い。教育係を依頼されるからである。ちなみに、人に教えることほど嫌いなものはない。教えるものなんて何もないから、自分の馬鹿さ加減を暴露するようなものである。なるほど、暗に引退せよ!と仄めかされているのかぁ。こんなフレッシュな酔っ払いを年寄り扱いするとは。世の中が不景気だと、若い連中を遊ばせるわけにもいかず、教育が盛んになる傾向がある。そこで、本書を読み返す羽目になる。そもそも、技術教育なんて必要なのかも疑問である。技術は盗み取るものであり、学問は知識を得るまでの過程にこそ価値がある。
ところで、新人君たちは想像もつかない勘違いをする。だが、アル中ハイマーの武勇伝には敵わないだろう。ということで、新人時代の失敗を暴露するとしよう。もはや精神の泥酔者には羞恥心の欠片もない。なにしろ、電解コンデンサにプラスとマイナスがあることも知らずに使っていたのだ。では、スモーキーなモルトに誘われて、焦げ臭いところを紹介しよう。あるシステムでアナログ部とデジタル部の電源を分離させて、双方のGNDを解放して独立に制御していた。しばらくは正常っぽく動作していたが、ある日突然高価なチップが燃えだした。いや!溶け出した。先輩から「実験室が焦げ臭いぞ!」と指摘されて「ハッ!」となる。ラッチアップを起こしたのだ。他にも、部分的なモジュールではそれらしい動作をするのに、全体を組み上げると燃えたことがある。問題は、半導体の仕組みを物理的に理解していないことだ。トランジスタとは奇妙なもので、抵抗などの素子が無いにもかかわらず、それだけで等価回路が実現できる。ということは、半導体素子を多段につなぐと、回路全体で想像もつかない機能を持つ可能性がある。一つの素子に想定外の信号が入力されると、周りの電子部品と干渉してとんでもない動作をするわけだ。アナログ回路は、物性物理学を体で覚える世界だといことを実感したものだ。
また、CMOSデバイスで回路を組んでいると、繋がなくても微妙に動作することには驚いた。バイポーラと違って、CMOSデバイスは接続されていなくてもオンすることがある。TTLが常に電流が流れるのに対して、CMOSはスイッチングの瞬間にしか電力を消費しない。言い換えれば、バタバタする信号は瞬間ノイズでうるさいわけだ。信号線にプローブをあてると完全に眠るのだが、放すと微妙に動作する。ノイズが原因だと思ったが、実は配線されていなかったというオチだ。それを解明するだけで一日無駄にするという馬鹿さ加減!導通テストは馬鹿にはできないことを実感したものだ。ちなみに、テスターで導通を確かめるのに「ピッ!」と鳴る機能は怪しい。微小抵抗でも反応するからである。もともとCMOSは遅いという弱点を持っていたが、当時は速度の問題も解消されつつあり、ほとんどCMOSを使っていたような気がする。
それにしても、半導体とは奇妙な物質である。半分だけ導体とは、これいかに?
「導体のようで導体でない、でんでん!絶縁体のようで絶縁体でない、でんでん!」
外部から熱や光あるいは磁場や電圧といった刺激を与えることによって、電気特性が得られる物質である。バンドギャップが狭いからキャリア効果も現れる。P型とN型を接合することによってその効果も上がる。電源など駆動するための仕掛けが必要であるにせよ、増幅効果があるのは電子の流れを活発にするからである。バンドギャップ内はフェルミ準位近辺になり、電子が移動できるかどうかも確率論に持ち込まれる。こうした物理現象を眺めるだけでも、LSIの歩留まりが不安定なことは容易に想像できる。
つまり、半導体とは、泥酔状態が不安定で、酔ってんだか、酔ってないんだか、自覚できない物質というわけだ。いずにせよ共通した性質は、夜の社交場でホットな女性からちょいと視線ビームを浴びせられると、電流が走って痺れる。そして、精神のエネルギー順位が高まると「君に酔ってんだよ!」と囁きはじめ、その醜態はどんどん増幅される。ただし、女性の愛情障壁は固く、強力な電子ビームをもってしても簡単には突き抜けられないので、逆電流は流れにくい。一旦、逆電流が流れはじめると、一気に燃え上がるわけだ。
本書は、基本編と応用編の二冊に分かれるが、区別することもないだろう。むしろ上下巻とした方が適切だ。本書の目的は、最終的にデバイス動作を定式化して回路モデルを作るための知識を学ぶことである。そして、MOSFETの物理から始まってプロセス技術まで網羅される。MOSFETをスイッチとして使うならば、ゲートをオンするとソースとドレインが導通するという単純な構造である。しかし、ゲート電圧は?ソースとドレイン間の抵抗は?その抵抗は線形なのか?と悩み出すと頭が痛い。回路特性が線形性を保つならば、なにも悩まないだろう。おまけに、素子間のミスマッチが製造技術とレイアウトを悩ませる。高密度化が進めば、素子そのものの遅延よりも配線遅延の方が厄介になり、クロストークといった問題も発生する。
本書は、実験室で重宝した概念をいくつか紹介してくれる。高速性や微小信号を扱う場合、差動などの対称性を利用した概念がしばしば登場する。差動回路は、耐ノイズ性に優れているのはなんとなく感覚で分かるだろう。双方でスイングすれば、微小信号でも伝送系で効果がありそうに感じる。その重要な特性は外因に対する同相の除去効果である。
また、重要な概念にフィードバックがある。負帰還では高精度の信号処理ができたり、正帰還では発振器を作ることができる。信号の平均化という意味ではフィルタ効果もある。本書では、フィードバック回路の特性で、利得の鈍感化、端子インピーダンスの変更、帯域幅の拡大、非線形性の低減といった例が考察される。ただ、回路にループがあれば予期せぬ発振はつきもの。ループゲインが大きければ発振する可能性も高い。
更に、線形帰還システムの安定性と周波数補償を議論している。これはオペアンプの応用である。オペアンプはもともと差動増幅なので、そのままでも使えるし、その名称からアナログ演算にも使える。昔は、コンパレータやマルチバイブレータといったものに利用したのを覚えている。飽和領域で動作するMOSトランジスタは電流源としても使える。ゲートとソース間の電圧が定められても、ドレイン電流が定められなければ、電流源をバイアスする方法も必要となろう。そこで、電流源は既に定まっているものと仮定して、カレントミラーによって電流をコピーするといったことを考えたりする。デジタルシステムが専門とはいえ、振幅や周波数やデューティ比を自在に制御できる発振回路や、モノマルチといった簡単な信号発生器があると、実験に重宝したものだ。こういう状況を思い出していると、現在ではFPGAやCPUが搭載されたキッドが売られているから便利である。しかも、雑誌にも付属される。これは恵まれた環境とも言えようが、回路を燃やすような体験は難しいだろう。昔は、火を入れる瞬間もドキドキした。まさしく勉強に燃えていたのだ!
1. 雑音
アナログ技術者は絶えず雑音と葛藤している。アナログ回路設計とは、自ら創出する雑音と、周りから影響を受ける雑音の双方との戦いである。ちなみに、デジタル回路は雑音を発する側なので気軽だと思っていたが、雑音の悪魔と呼ばれ、いつも謝っていたような気がする。だから、酔うと謝り上戸になるのかもしれない。
雑音は、消費電力、動作速度、線形性とトレードオフの関係にあり、その特徴はランダム性にある。したがって、長期間の観察から統計論的モデルとして扱うことになる。雑音スペクトラムとして捉えれば、フィルタによって除去できるというわけだ。雑音には、熱雑音、ショット雑音など、その要因を上げれば切りが無い。本書は、MOSFETのゲート酸化膜とシリコン基板の界面で生じるフリッカ雑音を考察している。
2. 発振器
電子制御で発振器は不可欠である。それはプロセッサのクロックから携帯電話のキャリアにまで及ぶ。本書は、VCO(電圧制御発振器)の数学的モデルを検討し、周波数変調器として動作する様子を考察している。簡単なものではLC発振器が思いつくが、分かりやすいリング発振器にも触れている。昔は、インバータの多段によって、実験用に簡単な発振器を組んだものだ。そして、同期させるためにPLL(位相同期ループ)を使った。
3. デバイスモデル
デバイスのモデリングは困難で、シミュレーション値と測定値が違うことは珍しくない。本書は、ショートチャネル効果を理解するために、SPICEモデルを考察している。そして、MOSの理想的なスケーリング則とは何か?といった問題を扱う。半導体デバイスでCMOSが主流となる理由は、静的な消費電流がゼロであることと、MOSFETのスケーリングが容易であることであろう。スケーリングされたチャンネル容量が容易に見積もれなければ、製造工程に影響を与える。チャネル内で電圧低下といった現象があると安定した動作が望めない。熱雑音による電圧電流特性において、ダイナミックレンジが一定でないのは厄介である。また、しきい値電圧は、チャネル長によって変動する。よって、製造プロセスにおいてチャネル長の正確な制御が必要となる。ゲート電圧が上昇すると、ソース側のポテンシャルを上昇させたり、ドレイン電圧も表面ポテンシャルを上昇させる要因となる。これが、電荷の流れに障害を与えて、しきい値電圧を低下させ、ドレインとソース間の電圧による出力インピーダンスが低下する。縦方向の電界による移動度の劣化や、横方向の電界による原子運動によるホットキャリア効果の影響といった物理物性の世界は、最も苦手とするところだ。こんなものが理解できるレイアウト屋さんは尊敬してしまう。
4. プロセス
本書は、概念的な製造工程を想像させてくれる。基礎となるp型基板ウェーハの上に、nウェル、ソース - ドレイン領域、ゲート絶縁膜、ポリシリコン、nウェルと基板の電極、メタル配線が形成される。その工程はだいたい以下の手順となろう。
(1) ウェーハプロセス
(2) フォトリソグラフィ(回路のレイアウト情報をウェーハに転写する最初の段階)
(3) 酸化
(4) イオン注入
(5) 成膜とエッチング
(6) デバイスの製造(能動素子、受動素子など)
エッチング中、メタル領域では、イオンを収集し電位を上昇させるアンテナ効果が現れるという。そのため、製造工程中に、MOSデバイスのゲート電圧はゲート酸化膜を回復できないまでにブレークダウンする可能性があるわけだ。ゲート酸化膜にダメージが起こる可能性を最小限にするために、総面積を制限するのが一般的だという。大面積が避けられない場合は、エッチング中に大面積が直接ゲートにつながらないように切れ目を入れたりするわけだ。
2009-09-27
"対称性から見た物質・素粒子・宇宙" 広瀬立成 著
ブルーバックス信者を返上したはずなのに、いつのまにか買っている。もはや泥酔した精神は、衝動には勝てないのか?本書を眺めていると、なんとなく「対称性」を語りたくなる。酔っ払いにとって、自我の対称性を映し出す小道具といえば鏡である。その証拠に、鏡の向こうの赤い顔をした住人が、延々と話しかけてくる。ちょっとうるさいが、その付き合いの良さには感服する。なにしろ、いつも一緒に酒を酌み交わし、いつも一緒に酔い潰れるのだから。
人間の住む宇宙には、実に多くの対称性を見出すことができる。天体の姿には球形といった点対称があり、人類の住む地球も丸い。自転しているのでわずかに遠心力によって外側に膨れてはいるが、軸対称性を保っている。地球にも太陽系にも銀河系にも中心がある。そうなると、宇宙にも中心がありそうな予感がする。量子論者は、物質の誕生には無理やり反物質を登場させてエネルギー保存則になんら矛盾することなく宇宙の起源を説明してしまう。ここにも、物質に対する反物質という対称性が現れる。古代、惑星の運動が円軌道を描くと想像したのも、そこに自然法則の美しさがあると信じたからであろう。
生物に目を向ければ、人体にも左右対称性がある。DNAの二重螺旋構造の美しさには神秘を感じざるを得ない。生と死という対称性を感じるのも、永遠に避けられない現実である。対称性とは、生命の進化の過程で安定性を保つために現れた性質なのだろうか?ポーは、著書「ユリイカ」で、物体の本質は引力と斥力の二つの対称性のみで成り立つと直観的に語った。
数式に現れる左辺と右辺の対称性にも、数学者を虜にする何かがある。実数と虚数、実空間と仮想空間、有限と無限など、対称性を語る用語には限りがない。
科学現象に対称性が現れると、普遍的原理が内包されている可能性を想像する。電荷にはプラスとマイナスがあり、電磁波は電場と磁場が直交する。あらゆる自然現象には、波動や振動が現れ、分解と統合を繰り返す。しかも、波には永遠に直進する性質がある。こうした対称性の美しさに人間の精神が反応するのは、そこに真理があるからかもしれない。
また、人工物の中にも建造物や芸術作品に局部対称性が現れる。芸術家の精神には、対称性の美を求める衝動があるのだろう。合理性と非合理性の葛藤、欲望と抑制の葛藤、感情と理性の葛藤などなど。人間の精神は、主観性には客観性で均衡を保とうとする衝動が働く。あらゆる論争やイデオロギーにも対称性が現れる。政治屋は自らの意見をそれらしく見せるために対抗意見を無理やりでっちあげ、報道屋はあらゆる関係を対立構図で煽る。人間の集団によって引き起こされる社会現象にも、振動を続ける対称性が現れる。保守性と革新性の対立や、自由と平等の綱引きは永遠に続く。哲学的論争も、実存するかしないか、意味があるかないか、いまだに答えが見つからない。
人間の精神は対称性に調和を求め、そこに精神の安住を求めているかのようだ。幸福と不幸の相殺、夫と妻、やはり対になると精神は安らぐということか?ちなみに、アル中ハイマーの精神は、一夫多妻、いやハーレムの方がはるかに安らぐ。
宇宙原理が、創造と破壊を永遠に繰り返すことだとすれば、対称性は安定する力と解釈できる。だとすると、安定を破壊する力も、これまた対称性で説明できるはず。そして、自己言及の罠に嵌り、矛盾の概念を避けることができなくなる。まさしく不完全性定理だ。
人間の住む宇宙には、これまた多くの非対称性を見出すことができる。人体が左右対称とはいえ内臓に目を向ければ、その配置は、機能を無理やり押し込んだようにも見える。心臓は真ん中にはない。右脳と左脳でも働きが違い、左利きや右利きといった現象がある。右脳と左脳の大きさにも違いがあると言われるが、他の動物に比べれば論理的思考が強いのだろう。あらゆる機能が生存競争の過程で合理的に形成される。生物の自己複製能力は、まさしく驚異である。だが、遺伝子システムは、ごく僅かな確率で遺伝子コピーに失敗して障害者を誕生させる。
宇宙は、もともと対称性の高い単純な姿をしていたに違いない。それが対称性を破りながら複雑系へと変化してきた。これがエントロピー増大の法則なのか?宇宙の真理の背後には、ランダム性が潜んでいるように映る。素粒子のように物質の基本をなすものが球形をしているのに、様々な物体はごつごつした岩のような複雑な形状をしている。だが、トポロジーの世界では、これらを同相で抽象化してしまう。もしかしたら、単に人間の目が複雑に見えているだけのことかもしれない。いや!人間の認識が複雑化しているだけで、実はすべての現象は単純のままなのかもしれない。
だが、人間は複雑系を確率論に持ち込んで説明しようとする。量子論では、エネルギー準位によって粒子の存在確率を議論する。コンピュータには、周辺の磁気装置や記憶素子の性質に合わせて誤り訂正機構が組み込まれる。コンピュータは完璧な装置ではなく、確率論に持ち込んで実用レベルに押し上げているに過ぎない。インターネットの検索でも、完璧な検索結果を時間をかけて得られるよりも、だいたい正しいだろうとする結果を高速で得られた方が有用性が高い。
人間社会も複雑系に支配され、その分析は人間の手に負えなくなった。社会で発生する犯罪や事故も確率で議論され、意思決定にも多数決原理が働く。ネット社会を「大衆の叡智」と崇めるウィキペディア崇拝者も少なくない。人間は、真理よりも多数決に身を委ねる方が、幸せなのかもしれない。宗教的精神とは、思考することを放棄して、信じることに身を委ねる。知らぬが仏というわけだ。だが、知った時の反動は、憎悪となって倍増するからおもしろい。
ところで、人間社会は本当に自然法則に従っているのだろうか?対称性が宇宙原理だとすれば、神の存在に対して悪魔を登場させなければならない。となると、人間が悪魔である可能性はないのか?自然法則に従って創造される生命体は、その進化が絶頂となった時に怪物になる可能性はないのか?それが集団化すれば、リヴァイアサンになっても不思議ではない。そして、創造と破滅を繰り返しながら悪魔へと進化した時、仕方なく神が姿を現すのかもしれない。
対称性の美は、非対称性の存在によって意義を持つ。全てが対称性に支配されれば、対称性そのものの議論はなくなるだろう。対称性と非対称性の存在を意識できるのは、その上位から眺めていることになる。すると、これまた上位の対称性に支配され、対称性の階層構造が永遠に見てとれそうだ。対称性を振動と捉えれば、その階層構造も永遠に続いても不思議ではない。対称性を保った美しい状態は対称性を破る方向へと向い、対称性が破れた複雑系の状態は対称性を取り戻そうとする。バネを引っ張れば、もとに戻ろうとするかのように。
ところで、対称性の美しさを本当に理解できるのは、その真中で冷静に眺められる立場にある人たちであろう。量子の世界では、プラスとマイナスを介在しない中性子の存在がある。実は反中性子なんてのもあるらしいが。人間社会には、男女の性の間に挟まった中性が存在する。中性が最も美的感覚に優れているのかもしれない。なるほど、偉大な芸術家にホモセクシュアルと噂される人が多いわけか。
1. 鏡
レオナルド・ダ・ビンチは「絵画論」で、「鏡を君の指導者となすべきである」と語ったという。ダ・ビンチには、鏡を使った光の反射という科学的な視点で絵画を観察する力があったようだ。鏡に映される姿は、真実であるのは間違いないだろう。だから、人は自らの姿を鏡で熱心に観察する。女性は自らの体型を誤魔化すことなく眺めることができる。ただし、平面鏡に限る。なるほど、デパートの試着コーナーに凹レンズを設置すれば、売れ行きも違うわけか。鏡の中にはナルシシズムが現れる。ギリシャ神話に、水鏡に映った自分の美しい姿に見入って水仙の花になったという話がある。自己陶酔に陥るナルキッソスの話だ。これがナルシシズム(自己愛)の語源だという。なるほど、水仙をナルシスと言うなぁ。白雪姫にも「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだーれ?」というのがある。鏡はおもしろいもので、三次元空間を二次元空間に投射しながら、その姿を眺めることができる。つまり、次元の投射である。その性質では、左右が逆になるのに、なぜ上下は逆にならないのか?と、よく話題にされる。本書は、心理学者のおもしろい解釈を紹介してくれる。人間の目は左右の運動に慣れていて、上下運動に慣れていないとか、人体が左右対称となっているだけで、上下対称になっていないからとか、そこには重力的な要素が絡む心理的錯覚がある。いずれにせよ、科学的に説明するのは簡単である。光の進み方は、あらゆる方向に平等というだけのこと。
2. 量子世界の対称性
波は減衰することなく、いつまでも運動を続ける。電磁波の直進性は永続的である。この定常性を失うと永続的な運動はありえない。電子のようなフェルミ粒子は永遠にスピンする。ただ、量子の世界では、粒子性と同時に回折のような波動性も示す。一つの電子を観察するのに、光を当てるという行為では、電子の運動状態が変わるので正確な観測ができない。量子の世界では、もはや素粒子の運動状態において、位置と速度を精度よく決定することができない。複雑系の世界では、エネルギーの総和として観察できても、内部エネルギーは確率論でしか観察できない。ここに不確定性原理の登場を見る。となれば、人間社会のような複雑系では、個々の物体が人間であっても、集団になれば波動性を示して、波動関数が適応されても不思議ではない。マクスウェル方程式は、磁荷が単独では存在しないという前提から構成されるという。となると、モノポールは存在しないのだろうか?量子論では、プラスとマイナスに介在しない第三者の立場が登場する。電子のような粒子が存在すれば、陽電子のような反粒子が存在し、そして、中性子が存在する。ただ、反中性子も存在するようだが、電荷がゼロなのでその区別はつかないという。
3. 重力力学の限界とプランクスケールへの挑戦
電子の電荷は、真の電荷ではないという。1個の電子を真空中に置くと、そのまわりでは光子の放出と吸収が繰り返され、光子から電子と陽電子が対になって発生する。陽電子は中心の電子に引き寄せられ、逆に電子は反発する。中心の電子を囲む真空では、一様な分布からずれた仮想的な電子と陽電子が存在し、その結果、真空の分極が起こるらしい。実験で観測する電荷とは、真の電荷と真空分極の効果が重なったものだという。ここで注意することは、不確定性原理によれば、ある現象の時間が極端に短くなるとエネルギーが増加するということだ。電子と陽電子の生成や消滅は、極めて短い時間に繰り返されると、それらはエネルギー保存則に制約されることなく、非常に大きなエネルギーを持つことができるという。つまり、無限に多くの仮想電子と陽電子の対が存在し、真空分極の効果が無限大になってしまうというのだ。これは、量子力学で必然的に現れる場のゆらぎであって、「紫外発散」というものらしい。「くり込み理論」とは、こうした無限大の手におえない量を互いに引き算して、意味のある有効な量を導き出すという発想から生まれたという。一見無責任な演算にも見えるが。重力を量子論に適応すると、極端に短いプランク距離では、不確定性原理からゆらぎが生じる。二つの電子の間で生じるエネルギーも、逆エネルギーが生じてゆらぎ、エネルギーや質量を確定することができない。エネルギーのゆらぎは、常に同一方向で無限大となり、紫外発散を引き起こす。これは、時空が連続であるかぎり、局所的対称性の理論では避けられない障害だという。統一理論から大統一理論へと邁進した物理学は、くり込み理論とゲージ理論によって邁進してきたが、ここで壁にぶつかる。そこで、素粒子理論に「超ひも」が登場し、プランクスケールへの挑戦が始まる。
4. 超ひも理論の10次元
超ひもが持つ驚くべき性質は、高い次元を持つことである。時間1次元と空間9次元の10次元で構成される。本書では言葉が登場しないが、これがDブレーンというやつか。人類の住む3次元空間は、宇宙原理の限られた次元であることは、なんとなく理解できる。生命体が感じられない次元は、生きる上で認識の必要がないとも言える。いずれ、地球は消滅するだろう。生命が更に長生きを望むならば、突然変異によって、いままで感じられなかった次元を認識する能力を身に付けるかもしれない。科学の発展とは、生命体が生存し続けるための欲望なのかもしれない。あらゆる説明のできない複雑系の現象は、別の次元を加えることによって、エネルギー保存則、運動量保存則といった「不変」あるいは「対称性」の原理に帰着するという。とすると、あらゆる次元が解明された時、結局、ニュートンやユークリッドに帰着する可能性はないのだろうか?偉大な数学者が、若き日に哲学を蔑み、結局哲学へ帰依するかのように。ところで、対称性の概念からすると、存在するということは、存在しないことを意味しないのか?自由意志とは、コントロールできそうで手に負えない。神は人間を自由意志の存在を認識させながら、気まぐれによって支配している。いや!別の次元を登場させることによって、反自由意志なるものが存在するのかもしれない。人間が感じることができるのは重力である。しかし、時折、霊感的なものを感じる。これも別次元から発せられる重力波なのかもしれない。
人間の住む宇宙には、実に多くの対称性を見出すことができる。天体の姿には球形といった点対称があり、人類の住む地球も丸い。自転しているのでわずかに遠心力によって外側に膨れてはいるが、軸対称性を保っている。地球にも太陽系にも銀河系にも中心がある。そうなると、宇宙にも中心がありそうな予感がする。量子論者は、物質の誕生には無理やり反物質を登場させてエネルギー保存則になんら矛盾することなく宇宙の起源を説明してしまう。ここにも、物質に対する反物質という対称性が現れる。古代、惑星の運動が円軌道を描くと想像したのも、そこに自然法則の美しさがあると信じたからであろう。
生物に目を向ければ、人体にも左右対称性がある。DNAの二重螺旋構造の美しさには神秘を感じざるを得ない。生と死という対称性を感じるのも、永遠に避けられない現実である。対称性とは、生命の進化の過程で安定性を保つために現れた性質なのだろうか?ポーは、著書「ユリイカ」で、物体の本質は引力と斥力の二つの対称性のみで成り立つと直観的に語った。
数式に現れる左辺と右辺の対称性にも、数学者を虜にする何かがある。実数と虚数、実空間と仮想空間、有限と無限など、対称性を語る用語には限りがない。
科学現象に対称性が現れると、普遍的原理が内包されている可能性を想像する。電荷にはプラスとマイナスがあり、電磁波は電場と磁場が直交する。あらゆる自然現象には、波動や振動が現れ、分解と統合を繰り返す。しかも、波には永遠に直進する性質がある。こうした対称性の美しさに人間の精神が反応するのは、そこに真理があるからかもしれない。
また、人工物の中にも建造物や芸術作品に局部対称性が現れる。芸術家の精神には、対称性の美を求める衝動があるのだろう。合理性と非合理性の葛藤、欲望と抑制の葛藤、感情と理性の葛藤などなど。人間の精神は、主観性には客観性で均衡を保とうとする衝動が働く。あらゆる論争やイデオロギーにも対称性が現れる。政治屋は自らの意見をそれらしく見せるために対抗意見を無理やりでっちあげ、報道屋はあらゆる関係を対立構図で煽る。人間の集団によって引き起こされる社会現象にも、振動を続ける対称性が現れる。保守性と革新性の対立や、自由と平等の綱引きは永遠に続く。哲学的論争も、実存するかしないか、意味があるかないか、いまだに答えが見つからない。
人間の精神は対称性に調和を求め、そこに精神の安住を求めているかのようだ。幸福と不幸の相殺、夫と妻、やはり対になると精神は安らぐということか?ちなみに、アル中ハイマーの精神は、一夫多妻、いやハーレムの方がはるかに安らぐ。
宇宙原理が、創造と破壊を永遠に繰り返すことだとすれば、対称性は安定する力と解釈できる。だとすると、安定を破壊する力も、これまた対称性で説明できるはず。そして、自己言及の罠に嵌り、矛盾の概念を避けることができなくなる。まさしく不完全性定理だ。
人間の住む宇宙には、これまた多くの非対称性を見出すことができる。人体が左右対称とはいえ内臓に目を向ければ、その配置は、機能を無理やり押し込んだようにも見える。心臓は真ん中にはない。右脳と左脳でも働きが違い、左利きや右利きといった現象がある。右脳と左脳の大きさにも違いがあると言われるが、他の動物に比べれば論理的思考が強いのだろう。あらゆる機能が生存競争の過程で合理的に形成される。生物の自己複製能力は、まさしく驚異である。だが、遺伝子システムは、ごく僅かな確率で遺伝子コピーに失敗して障害者を誕生させる。
宇宙は、もともと対称性の高い単純な姿をしていたに違いない。それが対称性を破りながら複雑系へと変化してきた。これがエントロピー増大の法則なのか?宇宙の真理の背後には、ランダム性が潜んでいるように映る。素粒子のように物質の基本をなすものが球形をしているのに、様々な物体はごつごつした岩のような複雑な形状をしている。だが、トポロジーの世界では、これらを同相で抽象化してしまう。もしかしたら、単に人間の目が複雑に見えているだけのことかもしれない。いや!人間の認識が複雑化しているだけで、実はすべての現象は単純のままなのかもしれない。
だが、人間は複雑系を確率論に持ち込んで説明しようとする。量子論では、エネルギー準位によって粒子の存在確率を議論する。コンピュータには、周辺の磁気装置や記憶素子の性質に合わせて誤り訂正機構が組み込まれる。コンピュータは完璧な装置ではなく、確率論に持ち込んで実用レベルに押し上げているに過ぎない。インターネットの検索でも、完璧な検索結果を時間をかけて得られるよりも、だいたい正しいだろうとする結果を高速で得られた方が有用性が高い。
人間社会も複雑系に支配され、その分析は人間の手に負えなくなった。社会で発生する犯罪や事故も確率で議論され、意思決定にも多数決原理が働く。ネット社会を「大衆の叡智」と崇めるウィキペディア崇拝者も少なくない。人間は、真理よりも多数決に身を委ねる方が、幸せなのかもしれない。宗教的精神とは、思考することを放棄して、信じることに身を委ねる。知らぬが仏というわけだ。だが、知った時の反動は、憎悪となって倍増するからおもしろい。
ところで、人間社会は本当に自然法則に従っているのだろうか?対称性が宇宙原理だとすれば、神の存在に対して悪魔を登場させなければならない。となると、人間が悪魔である可能性はないのか?自然法則に従って創造される生命体は、その進化が絶頂となった時に怪物になる可能性はないのか?それが集団化すれば、リヴァイアサンになっても不思議ではない。そして、創造と破滅を繰り返しながら悪魔へと進化した時、仕方なく神が姿を現すのかもしれない。
対称性の美は、非対称性の存在によって意義を持つ。全てが対称性に支配されれば、対称性そのものの議論はなくなるだろう。対称性と非対称性の存在を意識できるのは、その上位から眺めていることになる。すると、これまた上位の対称性に支配され、対称性の階層構造が永遠に見てとれそうだ。対称性を振動と捉えれば、その階層構造も永遠に続いても不思議ではない。対称性を保った美しい状態は対称性を破る方向へと向い、対称性が破れた複雑系の状態は対称性を取り戻そうとする。バネを引っ張れば、もとに戻ろうとするかのように。
ところで、対称性の美しさを本当に理解できるのは、その真中で冷静に眺められる立場にある人たちであろう。量子の世界では、プラスとマイナスを介在しない中性子の存在がある。実は反中性子なんてのもあるらしいが。人間社会には、男女の性の間に挟まった中性が存在する。中性が最も美的感覚に優れているのかもしれない。なるほど、偉大な芸術家にホモセクシュアルと噂される人が多いわけか。
1. 鏡
レオナルド・ダ・ビンチは「絵画論」で、「鏡を君の指導者となすべきである」と語ったという。ダ・ビンチには、鏡を使った光の反射という科学的な視点で絵画を観察する力があったようだ。鏡に映される姿は、真実であるのは間違いないだろう。だから、人は自らの姿を鏡で熱心に観察する。女性は自らの体型を誤魔化すことなく眺めることができる。ただし、平面鏡に限る。なるほど、デパートの試着コーナーに凹レンズを設置すれば、売れ行きも違うわけか。鏡の中にはナルシシズムが現れる。ギリシャ神話に、水鏡に映った自分の美しい姿に見入って水仙の花になったという話がある。自己陶酔に陥るナルキッソスの話だ。これがナルシシズム(自己愛)の語源だという。なるほど、水仙をナルシスと言うなぁ。白雪姫にも「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだーれ?」というのがある。鏡はおもしろいもので、三次元空間を二次元空間に投射しながら、その姿を眺めることができる。つまり、次元の投射である。その性質では、左右が逆になるのに、なぜ上下は逆にならないのか?と、よく話題にされる。本書は、心理学者のおもしろい解釈を紹介してくれる。人間の目は左右の運動に慣れていて、上下運動に慣れていないとか、人体が左右対称となっているだけで、上下対称になっていないからとか、そこには重力的な要素が絡む心理的錯覚がある。いずれにせよ、科学的に説明するのは簡単である。光の進み方は、あらゆる方向に平等というだけのこと。
2. 量子世界の対称性
波は減衰することなく、いつまでも運動を続ける。電磁波の直進性は永続的である。この定常性を失うと永続的な運動はありえない。電子のようなフェルミ粒子は永遠にスピンする。ただ、量子の世界では、粒子性と同時に回折のような波動性も示す。一つの電子を観察するのに、光を当てるという行為では、電子の運動状態が変わるので正確な観測ができない。量子の世界では、もはや素粒子の運動状態において、位置と速度を精度よく決定することができない。複雑系の世界では、エネルギーの総和として観察できても、内部エネルギーは確率論でしか観察できない。ここに不確定性原理の登場を見る。となれば、人間社会のような複雑系では、個々の物体が人間であっても、集団になれば波動性を示して、波動関数が適応されても不思議ではない。マクスウェル方程式は、磁荷が単独では存在しないという前提から構成されるという。となると、モノポールは存在しないのだろうか?量子論では、プラスとマイナスに介在しない第三者の立場が登場する。電子のような粒子が存在すれば、陽電子のような反粒子が存在し、そして、中性子が存在する。ただ、反中性子も存在するようだが、電荷がゼロなのでその区別はつかないという。
3. 重力力学の限界とプランクスケールへの挑戦
電子の電荷は、真の電荷ではないという。1個の電子を真空中に置くと、そのまわりでは光子の放出と吸収が繰り返され、光子から電子と陽電子が対になって発生する。陽電子は中心の電子に引き寄せられ、逆に電子は反発する。中心の電子を囲む真空では、一様な分布からずれた仮想的な電子と陽電子が存在し、その結果、真空の分極が起こるらしい。実験で観測する電荷とは、真の電荷と真空分極の効果が重なったものだという。ここで注意することは、不確定性原理によれば、ある現象の時間が極端に短くなるとエネルギーが増加するということだ。電子と陽電子の生成や消滅は、極めて短い時間に繰り返されると、それらはエネルギー保存則に制約されることなく、非常に大きなエネルギーを持つことができるという。つまり、無限に多くの仮想電子と陽電子の対が存在し、真空分極の効果が無限大になってしまうというのだ。これは、量子力学で必然的に現れる場のゆらぎであって、「紫外発散」というものらしい。「くり込み理論」とは、こうした無限大の手におえない量を互いに引き算して、意味のある有効な量を導き出すという発想から生まれたという。一見無責任な演算にも見えるが。重力を量子論に適応すると、極端に短いプランク距離では、不確定性原理からゆらぎが生じる。二つの電子の間で生じるエネルギーも、逆エネルギーが生じてゆらぎ、エネルギーや質量を確定することができない。エネルギーのゆらぎは、常に同一方向で無限大となり、紫外発散を引き起こす。これは、時空が連続であるかぎり、局所的対称性の理論では避けられない障害だという。統一理論から大統一理論へと邁進した物理学は、くり込み理論とゲージ理論によって邁進してきたが、ここで壁にぶつかる。そこで、素粒子理論に「超ひも」が登場し、プランクスケールへの挑戦が始まる。
4. 超ひも理論の10次元
超ひもが持つ驚くべき性質は、高い次元を持つことである。時間1次元と空間9次元の10次元で構成される。本書では言葉が登場しないが、これがDブレーンというやつか。人類の住む3次元空間は、宇宙原理の限られた次元であることは、なんとなく理解できる。生命体が感じられない次元は、生きる上で認識の必要がないとも言える。いずれ、地球は消滅するだろう。生命が更に長生きを望むならば、突然変異によって、いままで感じられなかった次元を認識する能力を身に付けるかもしれない。科学の発展とは、生命体が生存し続けるための欲望なのかもしれない。あらゆる説明のできない複雑系の現象は、別の次元を加えることによって、エネルギー保存則、運動量保存則といった「不変」あるいは「対称性」の原理に帰着するという。とすると、あらゆる次元が解明された時、結局、ニュートンやユークリッドに帰着する可能性はないのだろうか?偉大な数学者が、若き日に哲学を蔑み、結局哲学へ帰依するかのように。ところで、対称性の概念からすると、存在するということは、存在しないことを意味しないのか?自由意志とは、コントロールできそうで手に負えない。神は人間を自由意志の存在を認識させながら、気まぐれによって支配している。いや!別の次元を登場させることによって、反自由意志なるものが存在するのかもしれない。人間が感じることができるのは重力である。しかし、時折、霊感的なものを感じる。これも別次元から発せられる重力波なのかもしれない。
2009-09-20
"高校数学でわかるボルツマンの原理" 竹内淳 著
ブルーバックスの「高校数学でわかる...」シリーズは、なんとなく買ってしまう。大学時代に数学で挫折した人間は、このフレーズにいちころだ。おまけに、ボルツマンというと、電子工学を専攻して、物性や半導体工学の単位を取るのに苦労した記憶が蘇る。当時は、意味も分からず丸暗記で誤魔化したものだ。というより、教授のお情けで卒業できたのであった。その教授が作成する試験問題は10問ぐらいあって、1問目の答えを利用して2問目、2問目の答えを利用して3問目...という具合にカスケード構成となっていた。つまり、1問目を間違うと全滅する仕掛けだ。前期の試験で失敗すると後期で挽回することが難しい。うちの学部では、卒業までの最大関門とされていた。この教授は、おいらの名前が珍しいものだから講義中にいつも指しやがる。おかげで、ますます性格が捻くれるのであった。本書は、学生時代のいやーな記憶を思い出させてくれる。
ところで、電子回路では、昔から持ちつづけている素朴な疑問がある。半導体ってなんだ?半分だけ導体?これは導体でもなければ絶縁体でもない。外部から熱や光あるいは磁場や電圧といった刺激を与えることによって、電気特性が得られる物質であるが、バンドギャップが狭いからキャリア効果も現れる。しかも、p型とn型をうまいこと接合することによって、この現象も起こりやすくなる。電源など駆動するための仕掛けが必要であるにせよ、電流が金属物質の組み合わせによって増幅できるとはどういうわけか?電流が増幅されるということは、電子の流れを活性化できるということである。バンドギャップ内はフェルミ準位近辺になるというから、電子が移動できるかどうかも確率論に持ち込まれることになる。
また、LSIの歩留まりに目を向ければ、90%でも通常の製造ラインの感覚からすると信じられないほど低い数字である。最新プロセスともなると50%なんてざらで、最高周波数ともなると目も当てられない。ほとんどの生活用品が電子制御される中、こんな不安定な物質が電子回路の素子として主流になっているのも不思議でならない。こうした疑問を抱えながら電子回路の仕事を続けているのも奇妙な話である。人生をいかに誤魔化しながら生きているかという象徴でもあろう。プロでありながら理解度となると、まるで素人並なのだ。そして、工学とは試行錯誤でなんとなく結果が得られればOKという世界である、と言い訳する。この程度の意識しか持たないアル中ハイマーな技術者は、とっとと引退するのが業界のためなのだろう。おまけに、酔っ払いは自由電子の存在を自由意志と重ねつつ、自我の存在を疑う。自我の存在確率は、スコッチのアルコール度数近辺で40%ってところか。
本書のテーマは熱力学と統計力学である。そして、熱力学の延長上に統計力学を位置付けている。熱力学は、熱伝導で代表されるように人間の感覚で捉えやすい世界である。熱力学の第一法則をエネルギー保存則と重ねれば理解もしやすい。熱力学の第二法則では、熱は高い方から低い方へ移動して、やがて平衡状態になると考えれば、なんとなく感覚で理解できる。ただ、本書は、熱力学の第二法則は、様々な表現があって二十面相だという。ここに、エントロピーという言葉の解釈を混乱させる要因があるのだろう。熱力学の段階では、一つ一つの分子の衝突は、まだニュートン力学で説明できる範疇にある。しかし、統計力学の段階になると、人間の感覚では手に負えない世界に踏み込む。量子の世界では、それが粒子でありながら、想像もできない現象を見せやがる。電子で代表されるフェルミ粒子や光子で代表されるボース粒子などは、不確定性に支配された行動をする。あらゆる物体は、固体性と波動性の二重性を持っているのかもしれない。人間が個々で活動する分にはまだ手に負えるが、集団社会となると、波が押し寄せるかのように個人の意志ではどうにもならない。どんなに規制しようが、隙間から干渉現象のようにうまいこと回り込む犯罪者や、都合のよい解釈によって法律の障壁すら摺り抜ける政治家が蔓延る。もはや、人間の理性観念ですら確率論で語るしかできないのか?粒子性と波動性は、複雑系の持つ本質なのかもしれない。これが、エントロピー増大の法則の本性なのか?熱力学にせよ統計力学にせよ、扱う現象は、ほぼエントロピー増大の法則に従う。もし、エネルギー効率100%の理想の熱機関が存在するならば、発生する熱量を全てフィードバックさせて、エントロピーの変化をもたらさないであろう。だが、エントロピーは、断熱系において不可逆変化が起こるところでは必ず増大する。
ところで、サイクリック宇宙論において、宇宙構造は限りなく理想の熱機関に近いという可能性はないのだろうか?だとすると、宇宙は断熱系なのだろうか?宇宙の境界線はどんな空間と接しているのだろうか?という疑問がわく。高温であった宇宙の誕生から膨張を続け、だんだん冷えて、やがて絶対零度に達すると収縮を始め、これを永遠に繰り返す熱機関にも見えてくる。しかし、サイクリック宇宙論は、エントロピーの蓄積から現在の宇宙の平坦性を説明する。となると、宇宙は断熱系で、不可逆変化ということになりそうだ。いや!実は断熱系ではなく、宇宙の外にあるなんらかの次元空間とエネルギーのやりとりをしている可能性はないのだろうか?
1. 動力の発明
人類が初めて人工的な動力を手に入れたのがワットの蒸気機関と言われる。蒸気機関の原型は1712年にイギリスのニューコメンが開発したもので、炭鉱の排水用として使われたという。炭鉱内の事故といえば、落盤やガスによる酸欠、あるいは炭塵による爆発などがあるが、中でも地下水による浸水が大きな問題であったという。ただ、ニューコメンの蒸気機関は、掘り出した石炭の3分の1を動力として消費したので非常に効率が悪い。これを改良したのがワットである。蒸気機関は、石炭を燃やした時に発生する熱エネルギーを水蒸気の分子の運動エネルギーに変換し、これをピストン運動に使う。ワットの蒸気機関の効率は、わずか3%ぐらいだったと言われるらしい。ちなみに、ニューコメンにいたってはわずか1%だったという。当時、熱によって分子運動が生じることが知られていなかった時代である。熱量とエネルギーの関係に取り組んだのがジュールである。ジュールは醸造業の家に生まれたという。なるほど、美味い酒でカーッ!となるところから、熱エネルギーという発想が生まれたわけか。電線に電気を流すと熱が発生する。これがジュール熱である。ジュールはエネルギーと熱量を同等なものと考えた。こうした発想がエネルギー保存則へ導くことになる。
2. カルノーサイクル
カルノーサイクルは可逆過程であって理想の熱機関である。このサイクルでは等温過程と断熱過程がある。等温過程とは、気体の温度を変えない熱過程である。温度が変わらないということは、内部エネルギーを消費しないことを意味する。したがって、等温過程で膨張した場合、気体は外部から熱を吸収することになる。断熱過程とは、外部との熱のやりとりを遮断することである。したがって、断熱膨張では気体の持つ内部エネルギーを消費することになる。カルノーサイクルでは、二つの等温過程と二つの断熱過程を利用して1サイクルを形成する。
(1) 等温過程で、外部から高熱を吸収して膨張する
(2) 断熱過程で、気体の温度が上昇し内部エネルギーによって膨張する
(3) 等温過程で、外部から冷却して収縮する
(4) 断熱過程で、気体の温度が下降し内部エネルギーによって収縮する
カルノーサイクルの特徴は、サイクルを逆回転することができることである。つまり、可逆過程。熱機関で可逆であるかどうかを判断するポイントの一つに摩擦がある。摩擦は運動エネルギーを熱エネルギーへと変える。本書は「摩擦が不可逆過程である」というのが熱力学の第二法則だという。ちなみに、F1では、ブレーキング中に失われるエネルギーを保存して、オーバーテイクなどの必要時に馬力に変換するKERSが話題になっている。
エネルギー効率を高めることが工学の役割であるが、ガソリンエンジンでも効率は20%ぐらいだという。つまり、動力よりも暖房機として優れていると言えよう。ディーゼルエンジンは少し効率がよく40%に達するものもあるという。本書は、最も効率の良い熱機関でも50%に達するものを知らないと語る。ちなみに、動物の生命活動の効率は25%ぐらいなのだそうな。少し運動して汗が出るのも、捨てられる熱エネルギーが大きいということである。そういえば、肥満な人ほど汗をかいているような、汗かきほどエネルギー効率が悪いというわけか。
3. エントロピー
クラウジウスは、カルノーサイクルの(1)と(3)の等温過程で、熱量を絶対温度で割った量(Q/T)は、得るものと失うものとで打ち消し合うことに気づいたという。(2)と(4)の断熱過程で外部との熱量のやりとりはない。したがって、カルノーサイクルの熱量の総和はゼロということになる。これは可逆過程のみで成り立つ。ここでdQ/Tがエントロピーである。理想の熱機関では必ずしもエントロピーが増大するわけではない。クラウジウスは、エントロピー増大の法則が成り立つ条件として、断熱系と不可逆過程が同時に成り立つ場合としている。これは、熱が不可逆性に支配されることへの帰結ということだろうか。となれば、熱機関では必然的にエントロピーが増大することになる。
4. 気体分子運動
気体を分子の集まりと考えて分子運動に力学を適応し、気体の圧力を最初に導いたのがベルヌーイである。その後、気体分子運動を発展させたのが、マクスウェルとボルツマンである。とはいっても、個々の分子の振る舞いを語ることは不可能である。よって、気体のエネルギーは分子運動の総和として計算される。ただ、固体となると、分子運動が完全に自由というわけにはいかないので事情が異なる。気体と違って原子の回転運動も起らない。それでも、固体の中の原子は微小な振動をする。温度が高いほど、その振動も激しくなる。気体分子運動を唱えたところで、まだ分子の存在が証明されていない時代である。その論争に、マッハは攻撃し、ボルツマンは防戦するといった構図があったという。電子の存在を明らかにしたのは、トムソンやミリカンの実験である。更に、ラザフォードによって原子核が発見される。アインシュタインは、ブラウン運動を分子のランダム運動による衝突によって起こる現象だと考えたという。アインシュタインの論文には、「光電効果の理論」と「特殊相対性理論」の陰に隠れがちな「ブラウン運動の理論」があるという。
5. 統計力学
気体の分子が持つエネルギーは、全てが同じではない。個々の分子にはそれぞれ大小のエネルギーがある。よって、高いエネルギーを持った分子の集まる部分とか、低いエネルギーを持った分子が集まる部分といった現象がある。このエネルギー分布は統計力学によって求められる。気体分子のエネルギーを表すのが、マクスウェル・ボルツマン分布で、ニュートン力学から導かれる粒子を元に計算される。そして、その総和(ベクトル和)が統計力学として求められるわけだ。とはいっても、全てのベクトル方向を予測できるものではない。どうしても確率論に持ち込まざるを得ない。よって、最も起りやすいエネルギー分布として議論することになる。そこで、登場するのが、「ラグランジュの未定乗数法」である。
しかし、電子の運動は、マクスウェル・ボルツマン分布ではなく、フェルミ・ディラック分布に従う。他にもマクスウェル・ボルツマン分布に従わない粒子が存在する。ニュートン力学では扱えない粒子である。電子などフェルミ・ディラック統計に従うのがフェルミ粒子。光子などボース・アインシュタイン統計に従うのがボース粒子。電子の特徴は電荷を持っていることであり、外部からの電磁場でかなり自由に操れる。一方、光子は電磁場による直接的な影響を受けないので遠くへ飛ばしやすい。したがって、現在の通信手段で最も大きな容量をささえているのが、光ファイバーということになる。通常の粒子は二つあれば、その区別がつく。しかし、フェルミ粒子やボース粒子は、その区別がつかないという奇妙な性質がある。おまけに、フェルミ粒子は「パウリの排他原理」の制約に従う。
6. フェルミ・ディラック分布とボース・アインシュタイン分布
フェルミ粒子は、絶対零度でフェルミ・エネルギーの大小関係で存在確率が0%か100%のどちらかになるという。だが、室温では、フェルミ・エネルギーで存在確率が1/2になるという。その中間的な位置は、お湯を沸かした例で説明がなされるのは分かりやすい。分子が水として存在するものと、水蒸気として存在するものに分かれ、水面がフェルミ・エネルギーというわけだ。あらゆる原子は、原子核と電子でできているので、電子の分布が観測できれば、物質自体の分布を観察することができる。フェルミ・ディラック分布は、電子の分布を論じたものであり、固体物理学や半導体工学で重要な役割を果たしている。
では、ボース粒子はどうなるのか?アインシュタインは、分子間に相互作用のない理想気体を冷却すると、ある温度以下では最もエネルギーの低い状態に多数の粒子が集まることを理論的に導いたという。例えば、液体ヘリウムの超流動現象である。液体には水のように粘性があるが、ボース粒子は冷却していくとその粘性がなくなるという。そして、超流動状態になると、分子1個しか通れないほどの隙間を抜けたり、容器の壁をよじ登って外にあふれたりといった面白い現象が起こるという。まさしく量子の世界は何が起っても不思議ではない。量子の世界では、エネルギー障壁を越えるトンネル効果という現象もある。
7. ボルツマンの原理
ボルツマンの原理は、エントロピーの統計力学的な表現であるという。
「ある系が、場合の数の多い状態に向かって変化していく。」
エントロピーというと、一般的には「乱雑さ」と表現される。なるほど、乱雑さを「系の場合の数」と考えればいいようだ。「系の場合の数」は、「存在確率の最も高い分布の場合の数」へと近似される。そして、安定な分布の場合の数となり、この数が増える方向へ分布するという。より安定状態に変化するというのが、エントロピー増大の法則というわけか。
ところで、電子回路では、昔から持ちつづけている素朴な疑問がある。半導体ってなんだ?半分だけ導体?これは導体でもなければ絶縁体でもない。外部から熱や光あるいは磁場や電圧といった刺激を与えることによって、電気特性が得られる物質であるが、バンドギャップが狭いからキャリア効果も現れる。しかも、p型とn型をうまいこと接合することによって、この現象も起こりやすくなる。電源など駆動するための仕掛けが必要であるにせよ、電流が金属物質の組み合わせによって増幅できるとはどういうわけか?電流が増幅されるということは、電子の流れを活性化できるということである。バンドギャップ内はフェルミ準位近辺になるというから、電子が移動できるかどうかも確率論に持ち込まれることになる。
また、LSIの歩留まりに目を向ければ、90%でも通常の製造ラインの感覚からすると信じられないほど低い数字である。最新プロセスともなると50%なんてざらで、最高周波数ともなると目も当てられない。ほとんどの生活用品が電子制御される中、こんな不安定な物質が電子回路の素子として主流になっているのも不思議でならない。こうした疑問を抱えながら電子回路の仕事を続けているのも奇妙な話である。人生をいかに誤魔化しながら生きているかという象徴でもあろう。プロでありながら理解度となると、まるで素人並なのだ。そして、工学とは試行錯誤でなんとなく結果が得られればOKという世界である、と言い訳する。この程度の意識しか持たないアル中ハイマーな技術者は、とっとと引退するのが業界のためなのだろう。おまけに、酔っ払いは自由電子の存在を自由意志と重ねつつ、自我の存在を疑う。自我の存在確率は、スコッチのアルコール度数近辺で40%ってところか。
本書のテーマは熱力学と統計力学である。そして、熱力学の延長上に統計力学を位置付けている。熱力学は、熱伝導で代表されるように人間の感覚で捉えやすい世界である。熱力学の第一法則をエネルギー保存則と重ねれば理解もしやすい。熱力学の第二法則では、熱は高い方から低い方へ移動して、やがて平衡状態になると考えれば、なんとなく感覚で理解できる。ただ、本書は、熱力学の第二法則は、様々な表現があって二十面相だという。ここに、エントロピーという言葉の解釈を混乱させる要因があるのだろう。熱力学の段階では、一つ一つの分子の衝突は、まだニュートン力学で説明できる範疇にある。しかし、統計力学の段階になると、人間の感覚では手に負えない世界に踏み込む。量子の世界では、それが粒子でありながら、想像もできない現象を見せやがる。電子で代表されるフェルミ粒子や光子で代表されるボース粒子などは、不確定性に支配された行動をする。あらゆる物体は、固体性と波動性の二重性を持っているのかもしれない。人間が個々で活動する分にはまだ手に負えるが、集団社会となると、波が押し寄せるかのように個人の意志ではどうにもならない。どんなに規制しようが、隙間から干渉現象のようにうまいこと回り込む犯罪者や、都合のよい解釈によって法律の障壁すら摺り抜ける政治家が蔓延る。もはや、人間の理性観念ですら確率論で語るしかできないのか?粒子性と波動性は、複雑系の持つ本質なのかもしれない。これが、エントロピー増大の法則の本性なのか?熱力学にせよ統計力学にせよ、扱う現象は、ほぼエントロピー増大の法則に従う。もし、エネルギー効率100%の理想の熱機関が存在するならば、発生する熱量を全てフィードバックさせて、エントロピーの変化をもたらさないであろう。だが、エントロピーは、断熱系において不可逆変化が起こるところでは必ず増大する。
ところで、サイクリック宇宙論において、宇宙構造は限りなく理想の熱機関に近いという可能性はないのだろうか?だとすると、宇宙は断熱系なのだろうか?宇宙の境界線はどんな空間と接しているのだろうか?という疑問がわく。高温であった宇宙の誕生から膨張を続け、だんだん冷えて、やがて絶対零度に達すると収縮を始め、これを永遠に繰り返す熱機関にも見えてくる。しかし、サイクリック宇宙論は、エントロピーの蓄積から現在の宇宙の平坦性を説明する。となると、宇宙は断熱系で、不可逆変化ということになりそうだ。いや!実は断熱系ではなく、宇宙の外にあるなんらかの次元空間とエネルギーのやりとりをしている可能性はないのだろうか?
1. 動力の発明
人類が初めて人工的な動力を手に入れたのがワットの蒸気機関と言われる。蒸気機関の原型は1712年にイギリスのニューコメンが開発したもので、炭鉱の排水用として使われたという。炭鉱内の事故といえば、落盤やガスによる酸欠、あるいは炭塵による爆発などがあるが、中でも地下水による浸水が大きな問題であったという。ただ、ニューコメンの蒸気機関は、掘り出した石炭の3分の1を動力として消費したので非常に効率が悪い。これを改良したのがワットである。蒸気機関は、石炭を燃やした時に発生する熱エネルギーを水蒸気の分子の運動エネルギーに変換し、これをピストン運動に使う。ワットの蒸気機関の効率は、わずか3%ぐらいだったと言われるらしい。ちなみに、ニューコメンにいたってはわずか1%だったという。当時、熱によって分子運動が生じることが知られていなかった時代である。熱量とエネルギーの関係に取り組んだのがジュールである。ジュールは醸造業の家に生まれたという。なるほど、美味い酒でカーッ!となるところから、熱エネルギーという発想が生まれたわけか。電線に電気を流すと熱が発生する。これがジュール熱である。ジュールはエネルギーと熱量を同等なものと考えた。こうした発想がエネルギー保存則へ導くことになる。
2. カルノーサイクル
カルノーサイクルは可逆過程であって理想の熱機関である。このサイクルでは等温過程と断熱過程がある。等温過程とは、気体の温度を変えない熱過程である。温度が変わらないということは、内部エネルギーを消費しないことを意味する。したがって、等温過程で膨張した場合、気体は外部から熱を吸収することになる。断熱過程とは、外部との熱のやりとりを遮断することである。したがって、断熱膨張では気体の持つ内部エネルギーを消費することになる。カルノーサイクルでは、二つの等温過程と二つの断熱過程を利用して1サイクルを形成する。
(1) 等温過程で、外部から高熱を吸収して膨張する
(2) 断熱過程で、気体の温度が上昇し内部エネルギーによって膨張する
(3) 等温過程で、外部から冷却して収縮する
(4) 断熱過程で、気体の温度が下降し内部エネルギーによって収縮する
カルノーサイクルの特徴は、サイクルを逆回転することができることである。つまり、可逆過程。熱機関で可逆であるかどうかを判断するポイントの一つに摩擦がある。摩擦は運動エネルギーを熱エネルギーへと変える。本書は「摩擦が不可逆過程である」というのが熱力学の第二法則だという。ちなみに、F1では、ブレーキング中に失われるエネルギーを保存して、オーバーテイクなどの必要時に馬力に変換するKERSが話題になっている。
エネルギー効率を高めることが工学の役割であるが、ガソリンエンジンでも効率は20%ぐらいだという。つまり、動力よりも暖房機として優れていると言えよう。ディーゼルエンジンは少し効率がよく40%に達するものもあるという。本書は、最も効率の良い熱機関でも50%に達するものを知らないと語る。ちなみに、動物の生命活動の効率は25%ぐらいなのだそうな。少し運動して汗が出るのも、捨てられる熱エネルギーが大きいということである。そういえば、肥満な人ほど汗をかいているような、汗かきほどエネルギー効率が悪いというわけか。
3. エントロピー
クラウジウスは、カルノーサイクルの(1)と(3)の等温過程で、熱量を絶対温度で割った量(Q/T)は、得るものと失うものとで打ち消し合うことに気づいたという。(2)と(4)の断熱過程で外部との熱量のやりとりはない。したがって、カルノーサイクルの熱量の総和はゼロということになる。これは可逆過程のみで成り立つ。ここでdQ/Tがエントロピーである。理想の熱機関では必ずしもエントロピーが増大するわけではない。クラウジウスは、エントロピー増大の法則が成り立つ条件として、断熱系と不可逆過程が同時に成り立つ場合としている。これは、熱が不可逆性に支配されることへの帰結ということだろうか。となれば、熱機関では必然的にエントロピーが増大することになる。
4. 気体分子運動
気体を分子の集まりと考えて分子運動に力学を適応し、気体の圧力を最初に導いたのがベルヌーイである。その後、気体分子運動を発展させたのが、マクスウェルとボルツマンである。とはいっても、個々の分子の振る舞いを語ることは不可能である。よって、気体のエネルギーは分子運動の総和として計算される。ただ、固体となると、分子運動が完全に自由というわけにはいかないので事情が異なる。気体と違って原子の回転運動も起らない。それでも、固体の中の原子は微小な振動をする。温度が高いほど、その振動も激しくなる。気体分子運動を唱えたところで、まだ分子の存在が証明されていない時代である。その論争に、マッハは攻撃し、ボルツマンは防戦するといった構図があったという。電子の存在を明らかにしたのは、トムソンやミリカンの実験である。更に、ラザフォードによって原子核が発見される。アインシュタインは、ブラウン運動を分子のランダム運動による衝突によって起こる現象だと考えたという。アインシュタインの論文には、「光電効果の理論」と「特殊相対性理論」の陰に隠れがちな「ブラウン運動の理論」があるという。
5. 統計力学
気体の分子が持つエネルギーは、全てが同じではない。個々の分子にはそれぞれ大小のエネルギーがある。よって、高いエネルギーを持った分子の集まる部分とか、低いエネルギーを持った分子が集まる部分といった現象がある。このエネルギー分布は統計力学によって求められる。気体分子のエネルギーを表すのが、マクスウェル・ボルツマン分布で、ニュートン力学から導かれる粒子を元に計算される。そして、その総和(ベクトル和)が統計力学として求められるわけだ。とはいっても、全てのベクトル方向を予測できるものではない。どうしても確率論に持ち込まざるを得ない。よって、最も起りやすいエネルギー分布として議論することになる。そこで、登場するのが、「ラグランジュの未定乗数法」である。
しかし、電子の運動は、マクスウェル・ボルツマン分布ではなく、フェルミ・ディラック分布に従う。他にもマクスウェル・ボルツマン分布に従わない粒子が存在する。ニュートン力学では扱えない粒子である。電子などフェルミ・ディラック統計に従うのがフェルミ粒子。光子などボース・アインシュタイン統計に従うのがボース粒子。電子の特徴は電荷を持っていることであり、外部からの電磁場でかなり自由に操れる。一方、光子は電磁場による直接的な影響を受けないので遠くへ飛ばしやすい。したがって、現在の通信手段で最も大きな容量をささえているのが、光ファイバーということになる。通常の粒子は二つあれば、その区別がつく。しかし、フェルミ粒子やボース粒子は、その区別がつかないという奇妙な性質がある。おまけに、フェルミ粒子は「パウリの排他原理」の制約に従う。
6. フェルミ・ディラック分布とボース・アインシュタイン分布
フェルミ粒子は、絶対零度でフェルミ・エネルギーの大小関係で存在確率が0%か100%のどちらかになるという。だが、室温では、フェルミ・エネルギーで存在確率が1/2になるという。その中間的な位置は、お湯を沸かした例で説明がなされるのは分かりやすい。分子が水として存在するものと、水蒸気として存在するものに分かれ、水面がフェルミ・エネルギーというわけだ。あらゆる原子は、原子核と電子でできているので、電子の分布が観測できれば、物質自体の分布を観察することができる。フェルミ・ディラック分布は、電子の分布を論じたものであり、固体物理学や半導体工学で重要な役割を果たしている。
では、ボース粒子はどうなるのか?アインシュタインは、分子間に相互作用のない理想気体を冷却すると、ある温度以下では最もエネルギーの低い状態に多数の粒子が集まることを理論的に導いたという。例えば、液体ヘリウムの超流動現象である。液体には水のように粘性があるが、ボース粒子は冷却していくとその粘性がなくなるという。そして、超流動状態になると、分子1個しか通れないほどの隙間を抜けたり、容器の壁をよじ登って外にあふれたりといった面白い現象が起こるという。まさしく量子の世界は何が起っても不思議ではない。量子の世界では、エネルギー障壁を越えるトンネル効果という現象もある。
7. ボルツマンの原理
ボルツマンの原理は、エントロピーの統計力学的な表現であるという。
「ある系が、場合の数の多い状態に向かって変化していく。」
エントロピーというと、一般的には「乱雑さ」と表現される。なるほど、乱雑さを「系の場合の数」と考えればいいようだ。「系の場合の数」は、「存在確率の最も高い分布の場合の数」へと近似される。そして、安定な分布の場合の数となり、この数が増える方向へ分布するという。より安定状態に変化するというのが、エントロピー増大の法則というわけか。
2009-09-13
"Beautiful Code" Brian Kernighan, Jon Bentley, まつもとゆきひろ 他著
冒頭には、竹内郁雄氏の「推薦のことば」が記される。
「...プログラムコードには、およそ人が「書く」もののエッセンスのほとんどが詰まっている。よい問題解決に始まり、設計、製造、検査、保守改良に至るソフトウェアのライフサイクルをきちんと制御する能力の大半は、実は文章の力であり、文章の力はよいコードを書く力とほぼ等価である。つまり、「美しいコード」を書けるということは、たとえ、コードを書くチャンスがなくても「美しいソフトウェア」を開発できるということなのだ。...」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころなのだ。本書には、33ものプログラマによるエッセンスが熱く語られる。そこには、一流と言われる技術者たちの哲学や美学が現れる。そして、プログラムを書くということは、単に記号を打ち込むというものを超越した世界があることを教えてくれる。
ところで、プログラムを書くことと文章を書くことが等価であるならば、ごちゃごちゃな文章を書くアル中ハイマーは、いつもスパゲティコードを書いていることになる。ちょっと落ち込むなぁ!それにもめげず、今宵も酔っ払った文章を綴るとしよう。ちなみに、おいらはソフト屋ではない。電子回路に実装するためのアルゴリズムやアーキテクチャを設計するハード屋である。それでも、検証モデルを構築するためにプログラムを書く。また、回路設計ではハードウェア記述言語を用いるので、本書がまるっきし別世界というわけではない。むかーし、組込み系のソフトを作っていた時代もある。リアルタイムOSとまではいかないが、リアルタイムモニタ程度の規模でOSもどきを作っていた。はたしてその実体はハード屋か?ソフト屋か?いや、雑用係だ!したがって、アル中ハイマーは、ハードボイルドをモットーに、ソフトなピロートークを持ち味に生きるのであった。
コンピュータの分野が客観の領域にあるのに対して、「美しさ」という感性は主観の領域にある。プログラムは正確に動作しないと全く意味をなさない。正しいか間違っているかは客観の領域にある。ここに、ソフトウェアの本質は主観と客観の双方の領域をまたぐことになる。ポール・グレアム氏の著書「ハッカーと画家」では、プログラマの芸術的感覚に迫っていた。客観に固執したところで所詮は人間のやることであり、主観を無視することもできまい。いや、むしろ主観の領域にこそ、技術者の哲学や美学が顕になる。こうした感覚は経験則から培われるところが大きい。自らの失敗を振り返り、より効率性を求めた結果、技術者の細かいこだわりが現れ、それが「美しさ」への探求へと進化する。こうした過程は、技術者の生き方を物語っていると言ってもいいだろう。
プログラムに求める美しさには、外観の美しさ、インターフェースの美しさ、構造上の美しさ、数学的単純さ、アルゴリズムのエレガントさなどがあり、その視点は多様である。ただ、共通して言えることは、ある機能をソフトウェアで実現するということである。つまり、実現性を前提とした芸術性の探求である。
プログラムに現れる効率性や移植性や柔軟性といったものには、芸術家を思わせるものがある。すべての要素が調和した時にのみ、信頼性と美が融合した時にのみ、コード作成者に対して芸術家に対するのと同様の敬意が表される。それがシンプルで長期間に渡って恩恵を与えているものであれば尚更。しばしば、入門書に登場する決まり文句も、発案者への敬意として使われる。単純な数学的考察であっても、ユークリッドは永遠に崇められるであろう。
美しいプログラムを書きたければ、美しいプログラムを見ることだとは、よく言われる。確かに、優れたプログラマのコードを眺めるだけでも勉強になる。優雅さと経済性を見せ付けられれば、そこには美しいコードとなる要素があるはず。科学の美的感覚は単純さを求めるが、プログラムにも同様の感覚がある。ただ、コンパクト過ぎると逆に読み辛い場合もあれば、難しいテクニックで記述を短縮して理解し辛い場合もある。コードが処理速度に制約を受けることもあり、自由に書けるとは限らない。プログラマの腕の見せ所は、コンパクト性とメンテナンス性のバランスの按配であろう。
データ構造の抽象化によって一般化する様式は、美的感覚を共有することができる。非連続性のデータ構造に対して強力なイテレータが登場すれば、一般化したコードが書きやすくなる。これも外見の美しさである。美しさを感じないが、どうしても避けられない機構もある。例えば、正規表現は文字列操作には欠かせない。これは非常に便利な機構であるが、方言があるのも事実だ。正規表現でしばしばイライラさせられるのは、そこに暗号めいた記法があるからである。それでも、酔っ払いには決まったいくつかの正規表現だけで、ほとんど事足りる。
また、美しさというよりも、むしろ一貫性と捉えるべきものがある。unix的な慣習で見られるようなドライバモデルには、その外見に一貫性が見られる。システムコールが提供するopen/read/write/closeパラダイムは、入出力装置の性能を最適化してバッファリング効果を助ける。そして、アプリケーション側でタイミングを制御するflush操作が実装される。
プログラミング言語の選択も、作業効率を求める手段となろう。連想記憶といった機構を使いたければ、それを実装した言語を使いたい。RubyやPythonのような動的な言語には、連想記憶を定義する構文が用意されている。テキストの行に、正規表現を当てはめたり構文を当てはめたりする思想は、awkのような言語から受け継がれる。ネットワークのプログラムでは、CレベルのAPIを使うところに鬱陶しさがある。また、しばしばOS間での互換性の問題も発生する。それでも、フレームワークや言語仕様などで、低レベルのAPIをカプセル化し、使いやすくはなっているのだろう。最近のことはよく知らんが。
こうしたものをすべて「美しい」という言葉で括れるのかどうかは、判断の難しいところである。ただ、技術者に思想や哲学の方向性を示してくれるのは、共通認識を与える効果がある。
経験上、一度やった仕事は、もう一度やればもっとスマートにやれると、必ず反省する。だが、同じような仕事を繰り返すことは滅多にない。反省も再利用と移植性に富んだものにしたいものだ。おいらの場合、仕事の美しさを上流工程に求めるところがある。上流工程の重要性は、かつて所属した企業で伝統的に先輩から叩き込まれたような気がする。おかげで、早い段階から仕様の疑問に飛びつく癖がある。システム構成の変更は、後の日程に大きな影響を与えるからである。事前検討がしっかりなされた仕様は、なによりも日程を正確に見積もれる。日程で一番厳しい状況にあるのは検証期間であろう。検証効率を上げるためにも上流工程は重要である。
また、プロジェクトには、哲学的意識をメンバーで共有するのも重要であろう。哲学的意識はプログラムの書き方にも影響を与える。手段であるプログラミング言語の選択も難しい問題である。より効果的な言語が存在するはずだが、スキルによって制限される。ちなみに、最近遊びで書くコードはRubyばかり。酔っ払いには、動的な記憶領域の管理などランタイム機構に任せるのが身のためである。そこで、スクリプト言語を多用することになる。とはいっても、だんだん保守的になって手段もワンパターン化してきた。新しいことも遊びでしか試さない。そんな時、「もう歳だねぇ!」と声をかけられると過剰に反応するので、周りはおもしろがる。もともとはデータの型が明確でない言語を嫌う傾向にあったが、だんがん面倒になってきた。Ruby開発者のまつもとゆきひろ氏によると、型も大切だが言語の本質ではないと語ってくれるのは心強い。
本書は、いろいろな専門分野における主観的観点が覗けるのがおもしろい。それほど美しいと感じないものもあり、感覚の違いが体感できる。また、プログラムに対する謙虚さの大切さを教えてくれる。クヌース先生は、2分探索が公表されてからバグのないコードが公表されるのに12年以上経っていると指摘したという。もっと驚くべきは、何千回も実装され作り変えられてきたベントリーの公式の証明済みアルゴリズムでさえ、配列が大きくアルゴリズムが固定小数点演算を使用した言語で実装されているときに出現する問題があるという。ちょっとおもしろいエピソードでは、スティーブン・レビーの歴史古典「ハッカーズ」にビル・ゴスパーの「データはバカバカしい種類のプログラムである」というのがあるらしい。逆に言うと、「コードはスマートな種類のデータである。」というのが導かれるわけだが、このことから、チャールズ・ペゾルド氏は、次のように語る。
「プログラムとは、CPUが何か役立ったり面白いことをする引き金となるようなデータというわけです。」
さて、あまりにも多くの中から、ちょっと興味を持ったものを摘んでおこう。
1. クィックソート
「私が書いたことのある、一番美しいコード」として紹介されるのがクィックソートである。ソート処理で重要なのは、いかに比較の回数を減らすかであろう。そこで注目すべきは、選択される比較の対象をランダムで選ぶところである。ネット検索など、ランダム性を利用したアルゴリズムで処理の効率化を図るシステムは多い。完璧な検索結果を時間をかけて得るよりも、だいたい正しいだろうとする結果を高速で得られる方が有用な場面では、確率論に持ち込むアルゴリズムが有効となる。
本書は、その実行時間の分析を、ソートプログラムを使って計測しているのは分かりやすい。ゲーテの言葉「建築は凍りついた音楽だ」をもじって、ジョン・ベントリー氏は、「データ構造は凍りついたアルゴリズムだ」と語っている。そして、クィックソートのアルゴリズムが凍りついたら、そのデータ構造は2分木になると。なるほど、クィックソートのデータは、2分探索木のような構造になる。クヌース先生も、2分木構造の処理時間はクィックソートと類似した漸化式になると言ったという。
2. BioPerl
BioPerlは、生物情報学向けのラピッド開発ツールキットだという。これはDNAとタンパク質の解析、系統木の建築と解析、遺伝子データの解釈、ゲノム配列の解析などのモジュールを提供するのだそうな。本書は、Bio::Graphicsの例を使って、そこで使われるオブジェクトクラスを紹介している。ただ、これがPerlで書かれていることに驚いた。暗号っぽい言語は、遺伝子暗号を解読できる道具となっているというわけか。簡単にカスタマイズや拡張される様子を眺めていると、つい読みいってしまう。Perlは、あまり好きな言語ではないのだが、時々要求されるので仕方なく使う。
3. 遺伝子ソータ
遺伝子ソータはCGIスクリプトで、web上でユーザとの対話管理で使われるという。CGIスクリプトは提供する側のマシンで動く言語ならなんでもいいわけだが、これはC言語で書かれているらしい。少々大きめのプログラムで構造上の美しさを語っているが、要するにオブジェクト指向設計になっている。
4. ガウス消去法(LU分解)
コンピュータの技術革新で、アーキテクチャの変化に応じて、アルゴリズムも変化する場合がある。その例として、連立一次方程式を解くためのガウス消去法を紹介している。これは線形代数では欠かせない行列に対する操作アルゴリズムである。LU分解は、数値演算言語で実装されている関数なので、おいらは無条件に利用している。線形代数のカーネルであるBLASやLAPACKは、気まぐれで中身を覗くこともあるが、何も知らずに使う方が幸せである。
ベクトルマシンが登場すれば、行列アルゴリズムをベクトル化することに、一層の意味があるだろう。マルチコア化が進めば、並列アルゴリズムが有効となる。マルチスレッドによってブロック分割アルゴリズムを、ベクトルや行列レベルの演算で高度にチューニングすることもできる。
5. MapReduce
MapReduceは自動的に並列実行されるもので、gさんが開発した。実行時にシステムが入力データの分割を担い、一群のプログラム実行をスケジュールし、マシン間の通信を管理する。つまり、並列分散システムの経験がない技術者でも、大規模な分散システムの資源を容易に利用できるというわけだ。これは、並列処理の抽象化とでも言おうか。MapとReduceに分離して並列処理する仕掛けは、Mapでレコード毎の処理を定義し、Reduceで繰り返し処理を定義し、それぞれMapとReduceのドライバが管理するといった具合。この分離というか抽象化をうまいことやれば、かなり精度のよい並列処理が実行できるようだ。これはなんとなく凄い!
6. Schemeのsyntax-case
コードとデータは、通常はっきりと区別される。ただ、コンパイラから見れば、コードも単なるデータである。合理的に眺めれば、コードとデータはバイト列に過ぎない。こうした感覚は、lispの哲学が内包されているように思える。プログラムとデータが同じ形式というか、プログラムにはそもそも構文らしきものがないというか。lispには、そうしたなんとなく謎めいたものを感じるからである。構文の抽象化という意味で、Lispには昔から興味を持っているのだが、いまだに手を出せないでいる。
7. Emacspeak
emacsがただのエディタではないことは分かる。メールを読んだり、webを閲覧したり、シェルコマンドを実行したり、多様な用途のプラットフォームもどきになっている。周りには、マウスに頼った操作が嫌いな人で、emacsを愛用する人も多い。emacs-lispを実行できるところに、即テストできるという馴染みもある。
本書は、音声デスクトップ環境としての、Emacspeakを紹介している。完全な音声のみのデスクトップ環境というところに、emacsの可能性を垣間見る思いである。そこには、障害者向けの環境構築といった可能性がある。
「...プログラムコードには、およそ人が「書く」もののエッセンスのほとんどが詰まっている。よい問題解決に始まり、設計、製造、検査、保守改良に至るソフトウェアのライフサイクルをきちんと制御する能力の大半は、実は文章の力であり、文章の力はよいコードを書く力とほぼ等価である。つまり、「美しいコード」を書けるということは、たとえ、コードを書くチャンスがなくても「美しいソフトウェア」を開発できるということなのだ。...」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころなのだ。本書には、33ものプログラマによるエッセンスが熱く語られる。そこには、一流と言われる技術者たちの哲学や美学が現れる。そして、プログラムを書くということは、単に記号を打ち込むというものを超越した世界があることを教えてくれる。
ところで、プログラムを書くことと文章を書くことが等価であるならば、ごちゃごちゃな文章を書くアル中ハイマーは、いつもスパゲティコードを書いていることになる。ちょっと落ち込むなぁ!それにもめげず、今宵も酔っ払った文章を綴るとしよう。ちなみに、おいらはソフト屋ではない。電子回路に実装するためのアルゴリズムやアーキテクチャを設計するハード屋である。それでも、検証モデルを構築するためにプログラムを書く。また、回路設計ではハードウェア記述言語を用いるので、本書がまるっきし別世界というわけではない。むかーし、組込み系のソフトを作っていた時代もある。リアルタイムOSとまではいかないが、リアルタイムモニタ程度の規模でOSもどきを作っていた。はたしてその実体はハード屋か?ソフト屋か?いや、雑用係だ!したがって、アル中ハイマーは、ハードボイルドをモットーに、ソフトなピロートークを持ち味に生きるのであった。
コンピュータの分野が客観の領域にあるのに対して、「美しさ」という感性は主観の領域にある。プログラムは正確に動作しないと全く意味をなさない。正しいか間違っているかは客観の領域にある。ここに、ソフトウェアの本質は主観と客観の双方の領域をまたぐことになる。ポール・グレアム氏の著書「ハッカーと画家」では、プログラマの芸術的感覚に迫っていた。客観に固執したところで所詮は人間のやることであり、主観を無視することもできまい。いや、むしろ主観の領域にこそ、技術者の哲学や美学が顕になる。こうした感覚は経験則から培われるところが大きい。自らの失敗を振り返り、より効率性を求めた結果、技術者の細かいこだわりが現れ、それが「美しさ」への探求へと進化する。こうした過程は、技術者の生き方を物語っていると言ってもいいだろう。
プログラムに求める美しさには、外観の美しさ、インターフェースの美しさ、構造上の美しさ、数学的単純さ、アルゴリズムのエレガントさなどがあり、その視点は多様である。ただ、共通して言えることは、ある機能をソフトウェアで実現するということである。つまり、実現性を前提とした芸術性の探求である。
プログラムに現れる効率性や移植性や柔軟性といったものには、芸術家を思わせるものがある。すべての要素が調和した時にのみ、信頼性と美が融合した時にのみ、コード作成者に対して芸術家に対するのと同様の敬意が表される。それがシンプルで長期間に渡って恩恵を与えているものであれば尚更。しばしば、入門書に登場する決まり文句も、発案者への敬意として使われる。単純な数学的考察であっても、ユークリッドは永遠に崇められるであろう。
美しいプログラムを書きたければ、美しいプログラムを見ることだとは、よく言われる。確かに、優れたプログラマのコードを眺めるだけでも勉強になる。優雅さと経済性を見せ付けられれば、そこには美しいコードとなる要素があるはず。科学の美的感覚は単純さを求めるが、プログラムにも同様の感覚がある。ただ、コンパクト過ぎると逆に読み辛い場合もあれば、難しいテクニックで記述を短縮して理解し辛い場合もある。コードが処理速度に制約を受けることもあり、自由に書けるとは限らない。プログラマの腕の見せ所は、コンパクト性とメンテナンス性のバランスの按配であろう。
データ構造の抽象化によって一般化する様式は、美的感覚を共有することができる。非連続性のデータ構造に対して強力なイテレータが登場すれば、一般化したコードが書きやすくなる。これも外見の美しさである。美しさを感じないが、どうしても避けられない機構もある。例えば、正規表現は文字列操作には欠かせない。これは非常に便利な機構であるが、方言があるのも事実だ。正規表現でしばしばイライラさせられるのは、そこに暗号めいた記法があるからである。それでも、酔っ払いには決まったいくつかの正規表現だけで、ほとんど事足りる。
また、美しさというよりも、むしろ一貫性と捉えるべきものがある。unix的な慣習で見られるようなドライバモデルには、その外見に一貫性が見られる。システムコールが提供するopen/read/write/closeパラダイムは、入出力装置の性能を最適化してバッファリング効果を助ける。そして、アプリケーション側でタイミングを制御するflush操作が実装される。
プログラミング言語の選択も、作業効率を求める手段となろう。連想記憶といった機構を使いたければ、それを実装した言語を使いたい。RubyやPythonのような動的な言語には、連想記憶を定義する構文が用意されている。テキストの行に、正規表現を当てはめたり構文を当てはめたりする思想は、awkのような言語から受け継がれる。ネットワークのプログラムでは、CレベルのAPIを使うところに鬱陶しさがある。また、しばしばOS間での互換性の問題も発生する。それでも、フレームワークや言語仕様などで、低レベルのAPIをカプセル化し、使いやすくはなっているのだろう。最近のことはよく知らんが。
こうしたものをすべて「美しい」という言葉で括れるのかどうかは、判断の難しいところである。ただ、技術者に思想や哲学の方向性を示してくれるのは、共通認識を与える効果がある。
経験上、一度やった仕事は、もう一度やればもっとスマートにやれると、必ず反省する。だが、同じような仕事を繰り返すことは滅多にない。反省も再利用と移植性に富んだものにしたいものだ。おいらの場合、仕事の美しさを上流工程に求めるところがある。上流工程の重要性は、かつて所属した企業で伝統的に先輩から叩き込まれたような気がする。おかげで、早い段階から仕様の疑問に飛びつく癖がある。システム構成の変更は、後の日程に大きな影響を与えるからである。事前検討がしっかりなされた仕様は、なによりも日程を正確に見積もれる。日程で一番厳しい状況にあるのは検証期間であろう。検証効率を上げるためにも上流工程は重要である。
また、プロジェクトには、哲学的意識をメンバーで共有するのも重要であろう。哲学的意識はプログラムの書き方にも影響を与える。手段であるプログラミング言語の選択も難しい問題である。より効果的な言語が存在するはずだが、スキルによって制限される。ちなみに、最近遊びで書くコードはRubyばかり。酔っ払いには、動的な記憶領域の管理などランタイム機構に任せるのが身のためである。そこで、スクリプト言語を多用することになる。とはいっても、だんだん保守的になって手段もワンパターン化してきた。新しいことも遊びでしか試さない。そんな時、「もう歳だねぇ!」と声をかけられると過剰に反応するので、周りはおもしろがる。もともとはデータの型が明確でない言語を嫌う傾向にあったが、だんがん面倒になってきた。Ruby開発者のまつもとゆきひろ氏によると、型も大切だが言語の本質ではないと語ってくれるのは心強い。
本書は、いろいろな専門分野における主観的観点が覗けるのがおもしろい。それほど美しいと感じないものもあり、感覚の違いが体感できる。また、プログラムに対する謙虚さの大切さを教えてくれる。クヌース先生は、2分探索が公表されてからバグのないコードが公表されるのに12年以上経っていると指摘したという。もっと驚くべきは、何千回も実装され作り変えられてきたベントリーの公式の証明済みアルゴリズムでさえ、配列が大きくアルゴリズムが固定小数点演算を使用した言語で実装されているときに出現する問題があるという。ちょっとおもしろいエピソードでは、スティーブン・レビーの歴史古典「ハッカーズ」にビル・ゴスパーの「データはバカバカしい種類のプログラムである」というのがあるらしい。逆に言うと、「コードはスマートな種類のデータである。」というのが導かれるわけだが、このことから、チャールズ・ペゾルド氏は、次のように語る。
「プログラムとは、CPUが何か役立ったり面白いことをする引き金となるようなデータというわけです。」
さて、あまりにも多くの中から、ちょっと興味を持ったものを摘んでおこう。
1. クィックソート
「私が書いたことのある、一番美しいコード」として紹介されるのがクィックソートである。ソート処理で重要なのは、いかに比較の回数を減らすかであろう。そこで注目すべきは、選択される比較の対象をランダムで選ぶところである。ネット検索など、ランダム性を利用したアルゴリズムで処理の効率化を図るシステムは多い。完璧な検索結果を時間をかけて得るよりも、だいたい正しいだろうとする結果を高速で得られる方が有用な場面では、確率論に持ち込むアルゴリズムが有効となる。
本書は、その実行時間の分析を、ソートプログラムを使って計測しているのは分かりやすい。ゲーテの言葉「建築は凍りついた音楽だ」をもじって、ジョン・ベントリー氏は、「データ構造は凍りついたアルゴリズムだ」と語っている。そして、クィックソートのアルゴリズムが凍りついたら、そのデータ構造は2分木になると。なるほど、クィックソートのデータは、2分探索木のような構造になる。クヌース先生も、2分木構造の処理時間はクィックソートと類似した漸化式になると言ったという。
2. BioPerl
BioPerlは、生物情報学向けのラピッド開発ツールキットだという。これはDNAとタンパク質の解析、系統木の建築と解析、遺伝子データの解釈、ゲノム配列の解析などのモジュールを提供するのだそうな。本書は、Bio::Graphicsの例を使って、そこで使われるオブジェクトクラスを紹介している。ただ、これがPerlで書かれていることに驚いた。暗号っぽい言語は、遺伝子暗号を解読できる道具となっているというわけか。簡単にカスタマイズや拡張される様子を眺めていると、つい読みいってしまう。Perlは、あまり好きな言語ではないのだが、時々要求されるので仕方なく使う。
3. 遺伝子ソータ
遺伝子ソータはCGIスクリプトで、web上でユーザとの対話管理で使われるという。CGIスクリプトは提供する側のマシンで動く言語ならなんでもいいわけだが、これはC言語で書かれているらしい。少々大きめのプログラムで構造上の美しさを語っているが、要するにオブジェクト指向設計になっている。
4. ガウス消去法(LU分解)
コンピュータの技術革新で、アーキテクチャの変化に応じて、アルゴリズムも変化する場合がある。その例として、連立一次方程式を解くためのガウス消去法を紹介している。これは線形代数では欠かせない行列に対する操作アルゴリズムである。LU分解は、数値演算言語で実装されている関数なので、おいらは無条件に利用している。線形代数のカーネルであるBLASやLAPACKは、気まぐれで中身を覗くこともあるが、何も知らずに使う方が幸せである。
ベクトルマシンが登場すれば、行列アルゴリズムをベクトル化することに、一層の意味があるだろう。マルチコア化が進めば、並列アルゴリズムが有効となる。マルチスレッドによってブロック分割アルゴリズムを、ベクトルや行列レベルの演算で高度にチューニングすることもできる。
5. MapReduce
MapReduceは自動的に並列実行されるもので、gさんが開発した。実行時にシステムが入力データの分割を担い、一群のプログラム実行をスケジュールし、マシン間の通信を管理する。つまり、並列分散システムの経験がない技術者でも、大規模な分散システムの資源を容易に利用できるというわけだ。これは、並列処理の抽象化とでも言おうか。MapとReduceに分離して並列処理する仕掛けは、Mapでレコード毎の処理を定義し、Reduceで繰り返し処理を定義し、それぞれMapとReduceのドライバが管理するといった具合。この分離というか抽象化をうまいことやれば、かなり精度のよい並列処理が実行できるようだ。これはなんとなく凄い!
6. Schemeのsyntax-case
コードとデータは、通常はっきりと区別される。ただ、コンパイラから見れば、コードも単なるデータである。合理的に眺めれば、コードとデータはバイト列に過ぎない。こうした感覚は、lispの哲学が内包されているように思える。プログラムとデータが同じ形式というか、プログラムにはそもそも構文らしきものがないというか。lispには、そうしたなんとなく謎めいたものを感じるからである。構文の抽象化という意味で、Lispには昔から興味を持っているのだが、いまだに手を出せないでいる。
7. Emacspeak
emacsがただのエディタではないことは分かる。メールを読んだり、webを閲覧したり、シェルコマンドを実行したり、多様な用途のプラットフォームもどきになっている。周りには、マウスに頼った操作が嫌いな人で、emacsを愛用する人も多い。emacs-lispを実行できるところに、即テストできるという馴染みもある。
本書は、音声デスクトップ環境としての、Emacspeakを紹介している。完全な音声のみのデスクトップ環境というところに、emacsの可能性を垣間見る思いである。そこには、障害者向けの環境構築といった可能性がある。
2009-09-06
"ユリイカ" Edgar Allan Poe 著
本書を知ったのは、ポール・ヴァレリーの短編「ポーのユリイカについて」を読んだからである。そこには、自然科学を情熱的に語ったものだと絶賛していた。ヴァレリーの論評した作品は是非読んでみたい。
ところで、エドガー・アラン・ポーというと、推理小説のイメージしかない。だから、江戸川乱歩も名前をもじったのだろう。本書は、科学書という意外性が余計に興味をそそる。訳者八木敏雄氏によると、ポーは旅先でこんな手紙を残したという。
「...私は死なねばならないのです。ユリイカをなしおえてしまったので、もう生きていく意欲がありません。...」
そして、ボルチモアで客死する。享年40歳、路上で倒れているところを病院に運ばれ、そのまま死んだという。なんとなくガウディの死を思わせる。その死因は酒の飲み過ぎかどうかは分からない。この残された言葉には、「ユリイカ」に自らの生き様を託した情熱が伝わる。
ポーは、宇宙論を徹底して直観のみで語ろうとする。ここで注目すべき概念は「一貫性」である。彼は、真理を発見する唯一の方法は一貫性に頼るのみと主張する。科学の世界には、プラトン時代から継承される哲学がある。それは、どんな複雑な現象も、背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じる執念である。エンジニアの世界にも「Simple is the best.」を信仰している人は多い。しかし、現在、人間は複雑系と対峙する。もはや、人間の手に負える知的領域に留まっているのは、ユークリッド幾何学のみに思える。現代の物理法則は、世界を支配できなくなり、精神の弱点と似たものになりつつある。数学では、いつも割り切れない少数が残り、人間は不安と不徹底感に苛む。こうした光景を眺めていると、ポーの愚痴が聞こえてきそうだ。
ポーは言う。数学者たちがいかに主張しようとも、公理の証明などありえないと。それは、単に真理が存在するだけで、それを証明できるのは神だけだと言っているかのように。おまけに、宇宙を包括的に概観した論考の存在を知らないと、科学者を挑発する。
「論点の多様性は、必然的に細部の累積と概念の錯綜をもたらし、印象の全体性の把握をさまたげる。」
ポーは、科学が精神的な気質の持ち主による考察がなされないことを嘆いている。そして、宇宙を不可分な全体として如実に実感できるような宇宙の観察法を提示する。山頂で荘厳なパノラマを旋回しながら全体を眺望するような、そうした宇宙の眺め方とでも言おうか。あらゆる真理が自明であれば、公理から論理的結論が容易に導かれ、悩みも単純になるはず。真理が自明ではないから、哲学的あるいは精神的考察が繰り返され、悩みの根源も見えない。人類は永遠の試行錯誤の中を生きるように運命づけられるようだ。
更に、ポーは続ける。ただ直観に従うことによってのみ真理へ近づくことができると。ガウディも似たようなことを語っていた。自然法則を見つけるためには絶対に直観に忠実であるべきだと。
ところで、直観は限りなく主観の領域にある。芸術は主観性の領域にあり、科学は客観性の領域にあるというのが一般的な見解であろう。古くから哲学的な論争に、理性と芸術の衝突がある。科学者の中には、芸術的主観や直観的方法を蔑む人も少なくない。彼らはもっぱら客観的論考のみを推奨し、主観的思考を排除しようとする。だが、科学は天才たちの直観によって発展してきた歴史がある。客観性を主張する科学者ですら、人間のご都合主義に嵌ってしまった例は多い。説明ができないからといって、真理から遠ざかった他の方法で仮説を匂わせ、エーテルの存在をも示唆してしまった。主観と客観は人間の持つ本質であって、真理を探究するにはどちらからも逃れられない。
アル中ハイマー曰く、「主観と客観の双方を凌駕してこそ、人間の持つ合理性に近づくことができると信じている。」
なんといっても、本書の迫力は、科学を徹底的に直観で言い尽くすところにある。直観的憶測法とでも言おうか。まるで科学的思考を否定しているかのように。これは科学への挑戦か?そして、アリストテレス的な演繹的方法論と、フランシス・ベーコン的な帰納法的方法論の双方を皮肉る。だが、直観で語るとは、どんな方法論を用いたところで、人間が認識できる閉じられた領域で議論されているに過ぎない。人間の認識できる宇宙は、特異点という限られた世界でもがき続ける。はたして、限定宇宙の中で、哲学的論考だけで真理に近づくことができるのだろうか?アリストテレスにしてもベーコンにしても、彼らが自負しているほど深遠な論考ではないのかもしれない。
本書に展開される宇宙論は厳密な科学論文などではない。既に確立された真理への方法論に対する揶揄に過ぎない。そこには、科学への愚痴っぽい話を詩的な表現で綴られる。だからと言って、本書が科学の領域から飛び出しているとも考えにくい。物質的宇宙論に対する詩的宇宙論とでも言おうか。詩的思考が真理を導く可能性がないとも言えないだろう。本書はむしろ芸術の領域に近いが、それでも科学の領域に違和感なく存在し続けるような不思議な世界がある。もちろん、神学の世界でもない。なぜか?こうした科学の精神的な考察には癒されるものがある。それだけ歳をとったということか?いや!それはありえない。アル中ハイマーの年齢はモジュロ計算とともに常に生まれ変わるのだから。サイクリック宇宙論のように。そして、周りの人々はどんどん追い越していく。あれ?宇宙は、膨張と収縮を繰り返しながらエントロピーを蓄積してるんじゃなかったけか?なるほど、歳を重ねるとは、エントロピーの蓄積を意味するようだ。
本書は、物質の基本要素を「引力」と「斥力」の二つのみと断定し、宇宙構造をこの二つの要素のみで語る。そして、二つの基本要素を「神の心臓の鼓動」と表している。
ところで、物事の本質を探求することは、よりプリミティブな方向へと向かうのだろうか?科学は宇宙を解明するために原始粒子を探求する。芸術は美を解明するために自然を探求する。哲学は人間精神を解明するために実存と対峙する。そして、人間は最高位の価値観である幸福のために「笑い」の感情を求める。プリミティブな「笑い」には、箸が転がるだけで笑える感覚にこそ本質がある。したがって、アル中ハイマーは女子高生に弟子入りしようと、逆援助交際を目論むのであった。
1. 無限の概念
人間の認識は、無限の概念をあっさりと受け入れる。人間はなぜ?このやっかいな概念を受け入れられるのだろうか?微分という数学の道具を使って「無限」に近づこうとする。だが、永遠に近づこうとするということは、永遠に到達できないことを意味する。逆に、「有限」の概念を考察すれば、それだけでは語れる世界が狭いことに気づかされる。「無限」の概念は、単に「有限」との対比として存在するだけなのかもしれない。単に、「無限」の概念を受け入れながら、精神の安住を求めているだけのことかもしれない。
ところで、本当に限界に達してしまうから有限なのか?有限と無限の境界には、いったい何があるのか?「俺は酔ってないぜ!」と永遠に酔っ払っていることを否定し、どこまで飲めるか限界を試す。だが、記憶を辿れないから永遠に飲める量が解明できない。つまり、有限も無限もその境界線は永遠に解明できないというわけだ。そこで、アル中ハイマーはある結論に達する。表面的には酔い潰れてその場に寝込んでいる状態が有限の概念であり、精神だけが「ああ気持ちええ!」と幽体離脱した状態が無限の概念であると。人間は、無限という実体があるのかも分からない言葉に惹かれる。人間の精神には、幻影を追いかけ続ける性質があるのだろうか?得体の知れない観念を熱烈に求めるのは、人間の持つ本質なのかもしれない。だから、実りもしない愛を求めるのだろう。愛は実を結んだ途端に興ざめするものである。
2. 引力と斥力
すべての物体は原子粒子から構成される。宇宙も原始粒子から成り立つ。では、原始粒子はどこまで極小なのだろうか?引力によって、原子相互作用の中で物質の構成が維持されるが、双方の原子が無限に接近しても接合することはない。そこに斥力が存在するからである。斥力は絶対に極小粒子の融合を許さない。引力はニュートンの重力法則によって説明される。では、斥力の正体は?時には熱、時には磁力、時には電気であって、二つの物体の異質性の原理に基づく。これは、二人の男女がどんなに愛し合って合体しようが、決して心が一つになることはありえないことを教えてくれる。人を強制しようとすると必ず反発力が発生する。
本書は、引力と斥力の基本原理を、物質的なものと精神的なものを融合しながら語る。引力を肉体とするならば、斥力は魂という形で表現しながら、前者は物質の本質を暴こうとし、後者は精神の宇宙原理について考察する。そして、宇宙は引力と斥力によってのみに支配され、物質の正体は引力と斥力の要素のみで説明できると主張している。これは、人間の死で、肉体が亡びると魂も亡びると言っているのか?これは、どこぞの宗教を否定しているのか?酔っ払いの解釈はますます拡がる。
3. 拡散宇宙
本書は、拡散の均等性から真理へ迫ろうとする。そこにはビッグバン説とも言える世界がある。ポーが生きた時代からするとビッグバン説はずっと後に登場するが、観測的な知識があったのだろう。それとも、宇宙創造説という宗教的思想からの派生か?ここでは想像するしかない。星が宇宙空間に無限に拡散している状態を説明するには、放射の観念を必要とする。その出発点を絶対的な点とするならば、現存する宇宙はこの点からの放射の結果ということになる。本書は、これを光の現象で説明する。つまり、光は発光地点を中心に放射される。放射が距離の二乗に比例して拡散すると仮定するならば、逆に物理現象である集中は距離の二乗に反比例して収縮することになる。そして、放射された物質が復帰する仮定には、重力の増大という直観的結論に達する。まるで拡散宇宙にブラックホールを対比するかのように。
ところで、拡散の均等性には真理があるのだろうか?天文学では、ビッグバン説を補完するためにインフレーション理論が登場した。つまり、宇宙の平坦性を説明するために、瞬間的な膨張期間があるという仮説である。だが、本書の思想からすると、こうした特異期間を持ち出す発想そのものを嘲笑している。現在ではサイクリック宇宙論の登場で、拡散と収縮を繰り返しながら徐々に宇宙が巨大化したという説が有力である。そうした時代の流れを、本書は先取りして直観的に示唆していたのだろうか?
「反作用とは現状の、そして不当な状態から、原初的既往の、それゆえに正当な状態に復帰せんとする傾向のことである。... そして、その反作用の絶対的強度は、もしその原初の事態の実体、真実性、絶対性、を測定しうるとするならば、それらと常に正比例するにちがいないのである。」
この言葉は、拡散宇宙が、いずれ収縮に向かうことを示唆しているかのかもしれない。
ところで、爆発的な人口増加や、複雑化する人間社会は、エントロピー増大の法則に従っているのだろうか?いずれ反作用によって、人口増加は減少に転じるのかもしれない。ただ、宇宙の規模に比べれば、人口増加など些細な現象である。人類が一瞬のうちに滅亡しても、些細な特異点として片付けられるだろう。人間の存在は、宇宙法則の中に紛れた気まぐれな特異現象の一つに過ぎないのかもしれない。
4. 生命の進化
「地球の生命力の進化の度合いは地球の収縮の度合いと一致するという命題に到達する。」
動物の系譜をたどると、地球の収縮が進行するにつれて、より優れた種類の動物が出現したという。地球上の変革が起こるたびに、それにともなった生命体の進化があったと。ここでは、地球に及ぼす太陽の影響力が変化するたびに、生命体に影響がもたらされるという仮説を立てている。
そういえば、子供の頃、太陽系を眺めた時、直観的に太陽を原子核、惑星を電子と重ねたものだ。そして、どんな小さな空間にも、極小の宇宙が無数に存在するのではないかと想像したものだ。自然法則が引力と斥力のみで支配されるならば、太陽系はすばらしい原子モデルである。それも、学校帰りのラーメン屋でいつも考えていた。スープの中にも宇宙があって、極小の生命体が存在するかもしれないと。麺を浸すと、スープの波が発生して突然の宇宙変革が起こるなどと。また、生命体の大きさは、そこに住む天体の質量によって相対的に最適化されるに違いないと考えたりもした。時間の概念も、生命体の住む天体の質量に応じて、長さの感覚が得られるのではないかと。同じレベルで考えるならば、人類の住む宇宙はグラスの中に注がれたアルコールの中に存在するのかもしれない。そして、太陽系はアルコール原子だと考えれば、俗世間に酔っ払いが溢れるのも説明ができる。酔っ払いは同じ言葉を同じ調子で口走る。これがステレオタイプというわけだ。時代が経てば、アルコールの熟成度も上がって、強烈な酒へと変貌していく。そして、人間社会の泥酔度も増していくのだろう。
ところで、科学の進歩に限界があるのだろうか?と考えることがある。科学の進歩は、宇宙の誕生から消滅までの仮定に同期しているのではないかと。つまり、現在は宇宙の青年期で、科学の進歩には無限に広がる可能性を感じる。いずれ膨張が停止すると、科学の進化も壮年期に入り、過去の知識に立ち返り、立ち止まる運命を背負う。そして、宇宙が収縮し始めると、科学は結末の覚悟を決める。この時に、人間は絶対的な価値観を会得できるかもしれない。ただし、宇宙消滅まで人類が存続できればの話だが。
ところで、エドガー・アラン・ポーというと、推理小説のイメージしかない。だから、江戸川乱歩も名前をもじったのだろう。本書は、科学書という意外性が余計に興味をそそる。訳者八木敏雄氏によると、ポーは旅先でこんな手紙を残したという。
「...私は死なねばならないのです。ユリイカをなしおえてしまったので、もう生きていく意欲がありません。...」
そして、ボルチモアで客死する。享年40歳、路上で倒れているところを病院に運ばれ、そのまま死んだという。なんとなくガウディの死を思わせる。その死因は酒の飲み過ぎかどうかは分からない。この残された言葉には、「ユリイカ」に自らの生き様を託した情熱が伝わる。
ポーは、宇宙論を徹底して直観のみで語ろうとする。ここで注目すべき概念は「一貫性」である。彼は、真理を発見する唯一の方法は一貫性に頼るのみと主張する。科学の世界には、プラトン時代から継承される哲学がある。それは、どんな複雑な現象も、背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じる執念である。エンジニアの世界にも「Simple is the best.」を信仰している人は多い。しかし、現在、人間は複雑系と対峙する。もはや、人間の手に負える知的領域に留まっているのは、ユークリッド幾何学のみに思える。現代の物理法則は、世界を支配できなくなり、精神の弱点と似たものになりつつある。数学では、いつも割り切れない少数が残り、人間は不安と不徹底感に苛む。こうした光景を眺めていると、ポーの愚痴が聞こえてきそうだ。
ポーは言う。数学者たちがいかに主張しようとも、公理の証明などありえないと。それは、単に真理が存在するだけで、それを証明できるのは神だけだと言っているかのように。おまけに、宇宙を包括的に概観した論考の存在を知らないと、科学者を挑発する。
「論点の多様性は、必然的に細部の累積と概念の錯綜をもたらし、印象の全体性の把握をさまたげる。」
ポーは、科学が精神的な気質の持ち主による考察がなされないことを嘆いている。そして、宇宙を不可分な全体として如実に実感できるような宇宙の観察法を提示する。山頂で荘厳なパノラマを旋回しながら全体を眺望するような、そうした宇宙の眺め方とでも言おうか。あらゆる真理が自明であれば、公理から論理的結論が容易に導かれ、悩みも単純になるはず。真理が自明ではないから、哲学的あるいは精神的考察が繰り返され、悩みの根源も見えない。人類は永遠の試行錯誤の中を生きるように運命づけられるようだ。
更に、ポーは続ける。ただ直観に従うことによってのみ真理へ近づくことができると。ガウディも似たようなことを語っていた。自然法則を見つけるためには絶対に直観に忠実であるべきだと。
ところで、直観は限りなく主観の領域にある。芸術は主観性の領域にあり、科学は客観性の領域にあるというのが一般的な見解であろう。古くから哲学的な論争に、理性と芸術の衝突がある。科学者の中には、芸術的主観や直観的方法を蔑む人も少なくない。彼らはもっぱら客観的論考のみを推奨し、主観的思考を排除しようとする。だが、科学は天才たちの直観によって発展してきた歴史がある。客観性を主張する科学者ですら、人間のご都合主義に嵌ってしまった例は多い。説明ができないからといって、真理から遠ざかった他の方法で仮説を匂わせ、エーテルの存在をも示唆してしまった。主観と客観は人間の持つ本質であって、真理を探究するにはどちらからも逃れられない。
アル中ハイマー曰く、「主観と客観の双方を凌駕してこそ、人間の持つ合理性に近づくことができると信じている。」
なんといっても、本書の迫力は、科学を徹底的に直観で言い尽くすところにある。直観的憶測法とでも言おうか。まるで科学的思考を否定しているかのように。これは科学への挑戦か?そして、アリストテレス的な演繹的方法論と、フランシス・ベーコン的な帰納法的方法論の双方を皮肉る。だが、直観で語るとは、どんな方法論を用いたところで、人間が認識できる閉じられた領域で議論されているに過ぎない。人間の認識できる宇宙は、特異点という限られた世界でもがき続ける。はたして、限定宇宙の中で、哲学的論考だけで真理に近づくことができるのだろうか?アリストテレスにしてもベーコンにしても、彼らが自負しているほど深遠な論考ではないのかもしれない。
本書に展開される宇宙論は厳密な科学論文などではない。既に確立された真理への方法論に対する揶揄に過ぎない。そこには、科学への愚痴っぽい話を詩的な表現で綴られる。だからと言って、本書が科学の領域から飛び出しているとも考えにくい。物質的宇宙論に対する詩的宇宙論とでも言おうか。詩的思考が真理を導く可能性がないとも言えないだろう。本書はむしろ芸術の領域に近いが、それでも科学の領域に違和感なく存在し続けるような不思議な世界がある。もちろん、神学の世界でもない。なぜか?こうした科学の精神的な考察には癒されるものがある。それだけ歳をとったということか?いや!それはありえない。アル中ハイマーの年齢はモジュロ計算とともに常に生まれ変わるのだから。サイクリック宇宙論のように。そして、周りの人々はどんどん追い越していく。あれ?宇宙は、膨張と収縮を繰り返しながらエントロピーを蓄積してるんじゃなかったけか?なるほど、歳を重ねるとは、エントロピーの蓄積を意味するようだ。
本書は、物質の基本要素を「引力」と「斥力」の二つのみと断定し、宇宙構造をこの二つの要素のみで語る。そして、二つの基本要素を「神の心臓の鼓動」と表している。
ところで、物事の本質を探求することは、よりプリミティブな方向へと向かうのだろうか?科学は宇宙を解明するために原始粒子を探求する。芸術は美を解明するために自然を探求する。哲学は人間精神を解明するために実存と対峙する。そして、人間は最高位の価値観である幸福のために「笑い」の感情を求める。プリミティブな「笑い」には、箸が転がるだけで笑える感覚にこそ本質がある。したがって、アル中ハイマーは女子高生に弟子入りしようと、逆援助交際を目論むのであった。
1. 無限の概念
人間の認識は、無限の概念をあっさりと受け入れる。人間はなぜ?このやっかいな概念を受け入れられるのだろうか?微分という数学の道具を使って「無限」に近づこうとする。だが、永遠に近づこうとするということは、永遠に到達できないことを意味する。逆に、「有限」の概念を考察すれば、それだけでは語れる世界が狭いことに気づかされる。「無限」の概念は、単に「有限」との対比として存在するだけなのかもしれない。単に、「無限」の概念を受け入れながら、精神の安住を求めているだけのことかもしれない。
ところで、本当に限界に達してしまうから有限なのか?有限と無限の境界には、いったい何があるのか?「俺は酔ってないぜ!」と永遠に酔っ払っていることを否定し、どこまで飲めるか限界を試す。だが、記憶を辿れないから永遠に飲める量が解明できない。つまり、有限も無限もその境界線は永遠に解明できないというわけだ。そこで、アル中ハイマーはある結論に達する。表面的には酔い潰れてその場に寝込んでいる状態が有限の概念であり、精神だけが「ああ気持ちええ!」と幽体離脱した状態が無限の概念であると。人間は、無限という実体があるのかも分からない言葉に惹かれる。人間の精神には、幻影を追いかけ続ける性質があるのだろうか?得体の知れない観念を熱烈に求めるのは、人間の持つ本質なのかもしれない。だから、実りもしない愛を求めるのだろう。愛は実を結んだ途端に興ざめするものである。
2. 引力と斥力
すべての物体は原子粒子から構成される。宇宙も原始粒子から成り立つ。では、原始粒子はどこまで極小なのだろうか?引力によって、原子相互作用の中で物質の構成が維持されるが、双方の原子が無限に接近しても接合することはない。そこに斥力が存在するからである。斥力は絶対に極小粒子の融合を許さない。引力はニュートンの重力法則によって説明される。では、斥力の正体は?時には熱、時には磁力、時には電気であって、二つの物体の異質性の原理に基づく。これは、二人の男女がどんなに愛し合って合体しようが、決して心が一つになることはありえないことを教えてくれる。人を強制しようとすると必ず反発力が発生する。
本書は、引力と斥力の基本原理を、物質的なものと精神的なものを融合しながら語る。引力を肉体とするならば、斥力は魂という形で表現しながら、前者は物質の本質を暴こうとし、後者は精神の宇宙原理について考察する。そして、宇宙は引力と斥力によってのみに支配され、物質の正体は引力と斥力の要素のみで説明できると主張している。これは、人間の死で、肉体が亡びると魂も亡びると言っているのか?これは、どこぞの宗教を否定しているのか?酔っ払いの解釈はますます拡がる。
3. 拡散宇宙
本書は、拡散の均等性から真理へ迫ろうとする。そこにはビッグバン説とも言える世界がある。ポーが生きた時代からするとビッグバン説はずっと後に登場するが、観測的な知識があったのだろう。それとも、宇宙創造説という宗教的思想からの派生か?ここでは想像するしかない。星が宇宙空間に無限に拡散している状態を説明するには、放射の観念を必要とする。その出発点を絶対的な点とするならば、現存する宇宙はこの点からの放射の結果ということになる。本書は、これを光の現象で説明する。つまり、光は発光地点を中心に放射される。放射が距離の二乗に比例して拡散すると仮定するならば、逆に物理現象である集中は距離の二乗に反比例して収縮することになる。そして、放射された物質が復帰する仮定には、重力の増大という直観的結論に達する。まるで拡散宇宙にブラックホールを対比するかのように。
ところで、拡散の均等性には真理があるのだろうか?天文学では、ビッグバン説を補完するためにインフレーション理論が登場した。つまり、宇宙の平坦性を説明するために、瞬間的な膨張期間があるという仮説である。だが、本書の思想からすると、こうした特異期間を持ち出す発想そのものを嘲笑している。現在ではサイクリック宇宙論の登場で、拡散と収縮を繰り返しながら徐々に宇宙が巨大化したという説が有力である。そうした時代の流れを、本書は先取りして直観的に示唆していたのだろうか?
「反作用とは現状の、そして不当な状態から、原初的既往の、それゆえに正当な状態に復帰せんとする傾向のことである。... そして、その反作用の絶対的強度は、もしその原初の事態の実体、真実性、絶対性、を測定しうるとするならば、それらと常に正比例するにちがいないのである。」
この言葉は、拡散宇宙が、いずれ収縮に向かうことを示唆しているかのかもしれない。
ところで、爆発的な人口増加や、複雑化する人間社会は、エントロピー増大の法則に従っているのだろうか?いずれ反作用によって、人口増加は減少に転じるのかもしれない。ただ、宇宙の規模に比べれば、人口増加など些細な現象である。人類が一瞬のうちに滅亡しても、些細な特異点として片付けられるだろう。人間の存在は、宇宙法則の中に紛れた気まぐれな特異現象の一つに過ぎないのかもしれない。
4. 生命の進化
「地球の生命力の進化の度合いは地球の収縮の度合いと一致するという命題に到達する。」
動物の系譜をたどると、地球の収縮が進行するにつれて、より優れた種類の動物が出現したという。地球上の変革が起こるたびに、それにともなった生命体の進化があったと。ここでは、地球に及ぼす太陽の影響力が変化するたびに、生命体に影響がもたらされるという仮説を立てている。
そういえば、子供の頃、太陽系を眺めた時、直観的に太陽を原子核、惑星を電子と重ねたものだ。そして、どんな小さな空間にも、極小の宇宙が無数に存在するのではないかと想像したものだ。自然法則が引力と斥力のみで支配されるならば、太陽系はすばらしい原子モデルである。それも、学校帰りのラーメン屋でいつも考えていた。スープの中にも宇宙があって、極小の生命体が存在するかもしれないと。麺を浸すと、スープの波が発生して突然の宇宙変革が起こるなどと。また、生命体の大きさは、そこに住む天体の質量によって相対的に最適化されるに違いないと考えたりもした。時間の概念も、生命体の住む天体の質量に応じて、長さの感覚が得られるのではないかと。同じレベルで考えるならば、人類の住む宇宙はグラスの中に注がれたアルコールの中に存在するのかもしれない。そして、太陽系はアルコール原子だと考えれば、俗世間に酔っ払いが溢れるのも説明ができる。酔っ払いは同じ言葉を同じ調子で口走る。これがステレオタイプというわけだ。時代が経てば、アルコールの熟成度も上がって、強烈な酒へと変貌していく。そして、人間社会の泥酔度も増していくのだろう。
ところで、科学の進歩に限界があるのだろうか?と考えることがある。科学の進歩は、宇宙の誕生から消滅までの仮定に同期しているのではないかと。つまり、現在は宇宙の青年期で、科学の進歩には無限に広がる可能性を感じる。いずれ膨張が停止すると、科学の進化も壮年期に入り、過去の知識に立ち返り、立ち止まる運命を背負う。そして、宇宙が収縮し始めると、科学は結末の覚悟を決める。この時に、人間は絶対的な価値観を会得できるかもしれない。ただし、宇宙消滅まで人類が存続できればの話だが。
2009-08-30
"反社会学講座" Paolo Mazzarino 著
さて、今日は国政選挙だ。とはいっても、いつも期日前投票で済ませる。今回は異様な盛り上がりを見せるが、政権交代したところで、巨大官僚体制に変化をもたらすことはできないだろう。ひょっとしたら、もっと酷いことになるかもしれない。だが、いつかは混乱期を迎えなければ、政治家も民衆も目が覚めないだろう。大物議員が落選すれば、派閥の性格も変わるかもしれない。日本社会は、その混乱期を経験することを、ずーっと先送りにしてきた。おかげで、行政をマネジメントできない政治家たちが蔓延り、ついに巨大官僚体制が完成してしまった。政治や行政の検証を怠ってきた付けがまわっているだけのことである。いずれにせよ、政局の安定までにはかなり時間がかかりそうだ。それまでは官僚支配が続く。さて、あと何年か?いや何十年か?民主主義への道はまだまだ長い。日本社会は、まだ政策論議の段階まで辿り着いていないのだろう。
ところで、選挙といえば、わけの分からない仕掛けが何十年も亡霊のように居座り続ける。その代表が、最高裁の国民審査であろう。投票用紙に×印を書かなければ、自動的に信任されるとは、これいかに?そもそも罷免された例があるのか?信任方向にバイアスがかかる仕組みが、民主主義のシステムだとは思えない。社会の反抗分子としては、全て×印を書いてきたが、最近はネット情報で判決状況が容易に分かるのがありがたい。インターネットというメディアが一般の報道機関を補完する役目を担っているのも事実である。また、選挙区の規模に目を向けると、国政選挙は小さな地方選挙の規模に過ぎない。だから、地元への癒着が強すぎて国政を疎かにする。知事選の方がはるかに多数から支持されるのだから、知事の方が権威があってもよさそうなものだが。国会議員の権威を持たせる意味でも、議員数を思いっきり減らすしかあるまい。更に、一票の格差にしても、民主主義のシステムとして妥当なのか?などと仕組みにかかわる疑問は多い。にもかかわらず、政党論争にかかわる情報は氾濫しても、選挙システムそのものの欠陥を指摘する情報があまりにも少ないのはなぜか?なるほど、民主主義のシステムを話題にしたところで、ワイドショーとしては成り立たんというわけか。
それはさておき、酔っ払った天の邪鬼は、あえて反社会学のネタを選ぶとしよう。どんな学問や思想にも、主流派と反主流派がある。アル中ハイマーは概して反主流派を好む。まさしく、本書は反主流派に属すもので、社会学をパロディーで綴り、社会学者を思いっきり皮肉る。そして、アンケートの調査や統計データだけで、あらゆる人間の心理状態までも結論付けてしまう学者たちのスーパーテクニックを披露してくれる。どんな現象も統計データで武装すれば見映えがいい。そして、前提条件を隠蔽しながら都合の良いデータばかりを強調すれば、見事な統計マジックの出来上がり!
本書は、社会学とは、社会学者の個人的な偏見を屁理屈で理論化したものだと指摘している。世間でいう「こじつけ」を社会学では「社会学的想像力」と呼ぶそうな。麻薬の実態調査では、アメリカにおける意外と低い数字を紹介しながら、本当に裕福な格好をした社会学者が、命がけでスラムに出向いて調査したのか?と疑問を呈する。そういえば、不思議な統計に性行為の時間というものを見かけたことがある。それも各国別に集計されるからおもしろい。そして、日本人は淡白と評価される。しかし、誰か見たんかい!見栄もあれば愚痴も吐く。性行為の手段もまちまちだろう。見詰め合う時間?手が触れ合う時間?それとも合体時間?まだしも、満足度や円満度で調査した方が良さそうなものだが。ちなみに、アル中ハイマーは前戯に目がない。
マスコミは性懲りもなくヤラセ報道を続ける。ナレーションもドラマチック!視聴率戦争とは恐ろしいものだ。だが、視聴率って本当に信頼できるのか?従来の民放を観るという人も思いっきり減ったような気がするが、たまたま酔っ払いの周辺だけか?
本書は、社会学者と心理学者が組んで、それにマスコミが加われば、世界征服も夢ではなくなると言わんばかりに捲くし立て、思わず!ニヤけてしまうような作品である。もちろん、アル中ハイマーはこれを正統派社会学と解釈している。
マッツァリーノ氏曰く、「問題は、自分をダメな学者だと自覚している学者は、一人もいないということだ。」
「社会学的な方法論とはなにか?それは、世の中が悪くなったのは、自分以外の誰かのせいだと証明することです。」
日本社会には実に多くのタブーが存在する。タブー化しながらエセものを寄生させる背後には、マスコミや権力者の影を感じる。だが、タブーを避けていては議論は空論化する。マスコミなどで露出される学者や識者たちが、本音を避けているのか、ほんまに鈍感なのかは知らん!ただ、マスコミに信頼を持てない人が、マスコミの誘いに乗って出演するのも奇妙な気がする。近年では、少子化タブーや環境タブーも登場する。本書はこうしたものにも突っ込みを入れてくれるので、ストレス解消によい。
ところで、著者パオロ・マッツァリーノ氏とは何者なのか?父親は寡黙な九州男児でマッツァリーノ家に婿養子、母親は花売り娘。父親の仕事は家族の間でも謎で、深夜に出かけることが多いことから、スパイかマクドナルドの清掃員ではないか?という。マッツァリーノ氏自身は、千葉県に住み、講師の他に立ち食いそば屋でバイトしているという。自称「戯作者!」戯作者とは、江戸時代、庶民向けに面白い本を書いた人たちで、明治時代に廃れたそうな。立川談志は落語家だが、初代談志は戯作者だったそうな。マッツァリーノ氏は、厚労省の会議にも出席した経験があるらしい。その会議の実態を暴露する場面では、参加人数が多すぎるために議論が平行線をたどる様子が描かれる。しかも、長嶋茂雄風な英語まじりで何を言っているのか分からない学者まで登場して混乱させる。なるほど、かなりの日本通で、この観察力からして代々スパイ一家なのかもしれん!
人口が増加すれば、様々な生活様式が現れるのも自然であろう。人間の多様性を否定しては、社会分析などできるはずもない。しかし、現実には一方向からの価値観しか持てない連中によって世論が煽られる。マスコミの論調から外れた人は、まるで社会の害虫のような扱いを受ける。フリーターやパラサイトシングルなどがその典型で、自立できない人間と蔑まれる。
しかし、だ!そもそも自立した人間などいるのか?彼らの中には自らのリスクを背負って生きている人も多い。定年まで安定した給料を当てにし、退職すると年金をたかり、一生を安穏とした立場で生きることが、はたして自立した人間と言えるのか?低賃金労働者のおかげで正社員の給料が安泰とは、これいかに?大企業に恨みつらみを持ちながら、にこやかにしている下請け業者も少なくない。健康診断にしても組織格差があり、胃や大腸で内視鏡検査を組織側で負担するところもあれば、形式的で終わるところもある。優遇された人間は、優遇されていることにも気づかないだろう。現役労働者を犠牲にしながら企業年金制度をいまだに固持している会社は、通常の年金受給を放棄すればいい。いずれ、正規雇用と非正規雇用の境界線も曖昧になるだろう。そして、会社が潰れた時に真っ先にうろたえるのは正社員であろう。現実に、定年を迎えて生き方が分からない人も少なくない。何のために仕事をしてきたのか?どうやって生きていくのか?それは定年のない主婦の方が理解しているように思える。キャリアウーマンでなければ能力がないなんて考えるのもナンセンスであろう。そういえば、政治家の発言に「女は子供を産む機械」というのがあった。「男はその機械にさす油でしかない」というわけか。ちなみに、おいらは主夫になりたい!そこのホットなお嬢さん、いかが!
議員定数を減らすとなると、最もうろたえる連中が騒ぎ出す。これが自立した人間の姿か?自立していると思い込むことで他人との差別化をはかり、精神の安住を求めているに過ぎない。有効求人倍率が低い中で、誰かが失業という犠牲を背負わなければならない。本当に、優秀な人材から職にありつけていると言えるのか?ちょっと視点を変えれば、他人に仕事を譲っていると解釈できなくはない。これはプータローのひがみか!少なくとも、世襲議員が「自立しなさい!」と説教できる立場にはないだろう。
世論が求める自立とは、核家族化を促進して、人口増加を煽る。これが、親の面倒を福祉施設に押し付け、社会保障費を拡大していると解釈することもできよう。一方で、親の年金を当てにしながら大家族化するということは、生活効率が上がることでゴミが減って環境的であり、社会保障費の効率を上げて社会貢献していると解釈することもできよう。パラサイトシングルだけでも、いろんな立場の人がいる。自由を謳歌する人もいれば、痴呆症や障害者を抱えて介護を強いられる人など、その多様性には限りがない。フリーターにしても、社会保障なしの低所得者の存在が製造コストに貢献している。機械の設備投資と低賃金労働者とで、コストの天秤にかけられる。機械コストの方が有利となれば、どっちにしろ低賃金労働者は失業する運命を背負う。企業は、機械に徹することを低賃金労働者に要求する。機械に徹するということは、力仕事が要求される。となれば、若年層へ目が向けられる。しかし、いずれ彼らも歳をとる。そうなってから職業訓練をしたところで効果は期待できない。つまり、最初から低賃金労働者としてレールが引かれた構造がある。だが、政治や行政は一方向の価値観しか持てない連中で議論される。そりゃ政策が的外れになるのも仕方があるまい。自立を叫べば他人を犠牲にし、自己責任を叫べば他人に責任を押し付ける。人間社会とは奇妙な世界である。
本書は、フリーターやパラサイトシングルが日本の社会制度を救うとまで語っている。「フリーターが200万人いる。パラサイトシングルが100万人いる。ひきこもりが100万人いる。このままでは日本はだめになる。」といった具合に煽るのは、「社会の寄生虫であるユダヤ人がいなくなれば良くなる」というヒトラー説と同列だという。ヒトラーは民族の多様性を否定した。本書の根底には、人生の多様性を否定する論調への批判があるように思える。
ところで、民俗学や文化人類学と社会学の違いには、言語学と国語学の違いに似た事情があるという。言葉の使い方が変化しつつある時、その変化をおもしろがるのが言語学者で、言葉の乱れを説教するのが国語学者といったところか。言語学的には、正しい日本語なるものは存在しないそうな。仕事の専門用語でも、会社や組織によって微妙に使い方が違うことがある。そして、一つの文化に染まっていることすら気づかない人から馬鹿にされる。逆に、好奇心旺盛な人は、そのニュアンスの違いを楽しんでいる。社会学者も正しい社会のあり方があると信じて、それを強要する人種だという。なるほど、社会学にもいろいろな立場があって、経済学的傾向と、人類学や比較文化的傾向といった違いだけでも学者の性格がまるっきり違うようだ。
1. スーペーさん!
社会学者は、言葉を定義せずに使う習慣があるという。なので、知らず知らずのうちに拡張した別の概念へと平気で飛び出していくのだそうな。哲学者の中に社会学を嫌う傾向があるという。なるほど、哲学は言葉の定義を明確にしたがる学問である。とはいっても、その定義もしばしば変化するが。
本書は、積極的な悲観主義者によって社会学が荒らされていると指摘している。悲観主義者は、なにかと問題を持ち出して、当たればそれみよ!とばかりに勢いずく。つまり、逃げ道をいつも確保しているズルい連中だというわけか。フリーターやパラサイトシングルやひきこもりを無責任と蔑むが、実は根拠もなしに悲観論を煽る連中が最も無責任であるという。まさしくマスコミの論調は正義感たっぷりに問題意識を煽るが、その根拠を証明しようとはしない。悲観論者でも消極的ならば、あまり社会に悪影響を与えないが、積極的な分やっかいというわけか。本書は、超悲観主義者をスーパーペシミスト、略して「スーペーさん」と呼んで思いっきり蔑む。その思考論法は、次の手順を踏むという。
(1) 社会は悪くなる一方だ!
(2) 自分は社会に迷惑をかけていない。いや!社会に貢献している。
(3) 自分の生き方は正しい。自分と違った生き方をしている奴らは間違っている。
(4) したがって、社会が悪くなったのはそいつらのせいだ!
なるほど、優れた理性の持ち主で自分の道徳観に絶対的に自信を持った人間でなければ、到達できない思考回路だ。超悲観主義者のくせして、自論を前向きに捉えるというのもおもしろい!社会学者の一般的な研究方法は、まず、新聞やテレビ報道で、気に食わない人間、こてんぱんにやっつけたい憎らしい人間を見つけるという。これは個人的感情論で。次に、その批判対象を落ち着いた雰囲気で分析して結論を出すそうな。これも感情論で。こうした思考を、理系では仮説と呼ぶが、社会学では仮説と結論が同義であるという。都合のよいデータだけを抽出したり、データを誤読することは、社会学上で重要なテクニックで、手頃なデータが入手できなければ海外に目を向けるという。欧米のデータならば、日本人の西洋コンプレックスを刺激できるというわけか。おフランスの芸術を浴びせ掛ければいちころだ!
「個人的な結論を一般的な社会問題にすりかえて、大袈裟に煽り立てよう!」
これが社会学の基本だという。
2. マッツァリーノの法則
「メラビアンの法則」というのを、時々見かける。この法則によると、伝達術で効果的なものに、次のような実験結果があるという。
「見た目、身だしなみ、表情などが、55%。声の質、大きさ、テンポなどが、38%。言葉の内容が、7%。」
一見、なるほどと思わせる。そして、この法則を信じて、やたらと表向きの指導をする企業が多いという。あらゆる社会学の法則には前提条件がある。言葉で7%しか伝わらないなんて、どうみてもおかしい。ならば、なぜ外国語の勉強に熱中するのか?確かに、見た目の印象は大切である。しかし、内容が伴って初めて成立する条件であろう。エンジニアには第一印象の悪い人が多い。だからといって、蔑んだりはしない。むしろ、お調子者の方が怖い。一度しか顔を合わさないなら、この法則も役立つだろう。なるほど、オレオレ詐欺で参考になるというわけか。お互いに心が通じるなんて恋愛ドラマのようなことを言ったところで、はっきりと言わないと揉めるのはどういうわけか?そこで、対抗して「マッツァリーノの法則」を紹介してくれる。
「研修屋が教えることの55%はウソで、38%はハッタリで、真実は7%だけです。」
3. マッチポンプ
社会に問題がなければ、社会学の存在価値もなくなる。したがって、平穏な社会では問題を捏造するしかない。無理やり話題性をでっちあげて、流行りもしない流行語をでっち上げて視聴率を煽るのと同じ理屈か。これを「マッチポンプ」と言うらしい。自らがマッチで火をつけておいて、自らポンプで火を消す。マッチポンプはセールスの古典的テクニックでもある。災害の恐怖を煽った直後に災害保険の勧誘があったり、人々が不安を抱えている状況につけこんでカウンセリングが流行ったりと。なるほど、SPAMやDOS攻撃を蔓延らせ、セキュリティ会社やウィルス対策部門の存在価値を高めるようなものか。人口が増えれば、無理やり仕事をつくらなければならない。となれば、悪行も必要というわけか。ところで、カウンセラーの家庭って円満なんだろうか?だとすると、悩みがないことにならないか?となれば、悩み相談に答えが出せるのか?
4. 読書の是非
作家の中には、強制的、権威主義的な読書に批判的な人が多いという。何事も知識を得るのに、興味を持たなければ効果は期待できない。読書をすると賢くなるという学者の話をよく耳にするが、そう単純でもなかろう。テロリストやカルト宗教に嵌る人ほど、よく読書していそうだ。煮詰まった時に思考をリセットしてみることも大切であるが、余計な知識のために、そのリセットの妨げになることもある。
本書は、学習成績と読書時間が比例するのは、一日2時間までという統計データを紹介している。毎日2時間以上読書すると、成績が伸び悩むのだそうな。まったく読まないのも問題であるが、読みすぎるのも良くないというわけか。要するに、読書であれ、テレビであれ、ゲームであれ、一日2時間を超えるほど熱中すると、本業の学習時間が必然的に減って、成績が落ちるということらしい。おいらの読書時間もだいたいこんなもんだろう。その半分は、立ち読み時間を含むというズルをしているが。ちなみに、酔っ払いは頭の切替えが鈍いので、ほとんど土曜日に集中して読書する。
本書は、OECDの調査では読む時間を調査するが、日本の読書調査報告は冊数ばかりを問題にすると指摘する。確かに、冊数をたくさん読むことを推奨する学者をよく見かける。おいらは、一冊を読むのに時間がかかるので、冊数で評価されたら落ち込むしかない。貧乏性だから、くだらない本でも熟読して元を取ろうとする。だから、ハズレないように立ち読み時間も長くなる。そもそも、難しい本ほど読む時間もかかる。本書は、ハリーポッター三冊読んじゃった!と、ハイデカーの「存在と時間」の上巻をまだ読み終わらない!とを比べるのは統計の暴力だ!と語る。
ところで、義務教育で盛んに行われるのに読書感想文がある。そもそも、感想というのがクセモノだ!感想とは自由なはずなのに、先生が正しいと思う思想を押し付ける。子供たちも教師の顔色をうかがいながら、優等生を装う。したがって、感想文を書くことで文章が嫌いになる子も多いはず。おいらはその典型。
一般的に学問を早期に始めることを煽る風潮がある。子供はあらゆる知識を容易に吸収するから、それも間違いではないだろう。ただ、本書は、幼児英才教育にしても短期的には意味があるが、長期的には効果も期待できないと指摘している。大学ぐらいになって自発的に学習しなければ、結局学力低下は防げないという。なるほど、学問はいつから始めるというよりも、続けることの方が重要だというわけか。この続けるという行為が、最も難しいのであるが。
5. 少子化問題
本書は、少子化論者は決まって「少子化は子供をだめにする!」と唱えると指摘している。そして、子供同士の交流が減って社会性が育まれないとか、キレやすいといった感情論が氾濫すると。ならば、子供が多い都会には健全な子供が多く、子供の少ない過疎化の進む地域では問題児が多いということか?と疑問を投げかける。そもそも、欧米に比べて劣悪な住宅事情の中で、人口を増やす政策が本当に健全なのか?少子化問題を、日本人滅亡論のように煽りたてるのは、いかがなものか?戦後8000万人ぐらいの人口が、いまや1億2千万以上に増殖した。女性の育児環境にしても、女性の社会進出を促す上で、昔からあった平等の問題であって、本来、少子化とは別もののはずだが。結局、自分の老後の年金を確保するために、少子化問題を叫んでいるだけか?あるいは、年金スキャンダルを少子化問題で揉み消そうとしているのか?なるほど、厚生官僚が叫ぶわけだ。もしかして、少子化問題って平均寿命が延びることへの警告か?健康ブームへの批判か?
ところで、社会保険庁をはじめ行政スキャンダルが明るみになれば、暴動が起こっても不思議ではない。外国人からは、日本では暴動や革命が起きないと揶揄される。それが悪い国民性とも言い切れないのだが。高齢化が進めば、温和な社会になりやすいのかもしれない。サミュエル・ハンチントンは、15歳から24歳までの若年人口が20%以上を占めると社会的に不安定になる傾向があると指摘した。だとすれば、一概に高齢化社会が悪いとも言い切れない。
6. 環境問題
「ムダを経済効果といい替えるのは、諸官庁や特殊法人の間では常識です。ムダな支出が五兆円と聞けば、誰もが腹を立てますが、経済効果が五兆円ならば、国民の賛同が得られます。」
そもそも、地球温暖化にしても、科学的な根拠が完璧に得られているわけではない。ところで、エコポイントってなんだ?環境破壊度数か?ブラウン管廃棄物はどこへ行くんだ?本当にリサイクル効率が高いと信じていいのか?まだまだ使える物を...物の有り難味を子供に説教したところで説得力はない。まさか!ゴミを外国へ輸出してんじゃねーだろうな?日本を綺麗にして海外を汚染しているんじゃ、大人の行動を子供が尊敬できるわけがない。新型インフルエンザにしても、ワクチンの国内生産が間に合わなければ、海外から輸入する予算があるから大丈夫という発想も...ワクチンが足らない状況は海外でも同じはずだが。それにしても、エコポイントの申請の面倒さの上に、その後の時間のかかること。もう1ヶ月を過ぎるが、いまだに物が届かない。「エコポイント事務局」ってなんだ?まさか特殊法人か?わざわざ中央官庁に申請するのも効率が悪い。いずれにせよ、経済に長けた人間が考えた仕組みとは思えない。
本書は、冷静に事実を語っても、学問的や論理的正しさ一辺倒では注目されず、ゴアさんのように熱弁する方が評価されると指摘している。ただし、環境意識が、企業をはじめ人々に少しずつでも浸透するのは悪いことではない、とも語っている。その通りであろう。人間がどんなに努力しても自然現象には敵わないが、意識を持つことは大切である。本当に環境問題を考えるならば、人類を滅亡させるのが手っ取り早いが、それを受け入れることはできない。となれば、せめて人口をこれ以上増やさないぐらいか。あれ?少子化問題って人口を増やすことを奨励してるんじゃなかったっけか?
7. 自立の鬼
欧米人から日本の若者が自立していないと指摘されても、心配はいらないという。また、そうした外国人の意見を取り上げて、日本の若者に劣等感を植え付けようとする識者も相手にしなくていいという。欧米では、返済義務のない奨学金といった社会保障が充実していて、しっかりと寄生している実態があるようだ。日本の大学は、新入生からふんだくる高額の入学金と授業料をあてにして経営されている。しかも、通常の学部の在籍年数は8年と限りがある。だが、欧米では在籍年数に限りがないという。したがって、少子化は日本の大学経営を苦しくさせることになる。無理にベルトコンベア式に卒業させることもなかろう。本書は、大学の在籍年数の期限を無くすことを提案している。どこの国でも、若者が自立することは珍しいようだ。ただ、アメリカ人の傾向として、自立していると勝手に信じ込んでいる人が多いという。なるほど、アメリカの学生はカード破産している。
また、日本人は、他人に何かを頼むという簡単なコミュニケーションすら避ける傾向があるのに、空気を読んで構ってもらおうという心理が旺盛だという。ある婦人の告白記事で、イギリスでは駅の階段でベビーカーを運んでくれるが、日本ではそれがない!と嘆く様子を紹介している。しかし、階段で助けを求めれば、大抵の日本人男性は助けてくれるだろうと語る。日本人は、自分から頼みもしないで、他人は助けてくれないとひがみ、世間の人は冷たいと決め付けることで、自立の鬼になっていくと指摘している。
ところで、仕事と家庭を両立させていると自慢する評論家のスーパーおばさんを見かけるが、ほんまかいな?本書は、完璧に両立できる人もいなければ、完璧なバイリンガルもいないという。帰国子女というと、外国語も日本語もペラペラというイメージがあるが、だいたいどちらも中途半端なことが多いのだそうな。帰国子女に通訳させると、意思疎通が微妙にずれて、スリリングな業務になるんだとか。現実には器用貧乏ってことか。なんでもできるってのは、なんにもできないってわけか。ずっと日本で暮らすアル中ハイマーは、日本語も中途半端で面目無い。そして、中途半端な人生でも楽しければええじゃん!と自らを慰めるのであった。
8. 銀行系シンクタンク
銀行系や証券会社系のシンクタンクにお勤めのスーペーさんは、少子化が進めば、景気が悪化すると煽る。人口が減れば、渋滞も緩和し、広い家に住み、ぎくしゃくした社会が少しは緩和されそうなものだが。子供一人当たりの教育の場も充実しそうなものだが。彼らの経済予想ほど恐ろしいものはない。バブル崩壊も予測できない、いや!バブルの仕掛人だ!しかも、公的資金は真っ先に搾取する。生活保護者やニートを蔑む前に、公的資金をたかる銀行の方がよっぽど自立できていない。そもそも、人口増加を前提とした経済システムなんて、いつかは破綻するだろう。エコノミストは、少子化により労働力不足となり景気が悪化すると捲くし立てるが、現実には若年層の失業問題が深刻である。好景気になったところで経営陣の給料が上がるだけで、コスト削減に喘ぎながら格差問題を助長する。将来の労働力人口にしても、適正値を予測することは不可能であろう。いずれ、気候難民や環境難民が増えるかもしれない。世界的に人口は溢れているのだから。銀行系シンクタンクの経済予測に乗るのも、信じる側の自己責任というわけか。
9. ネット社会
ネット社会がなにも特別に高度な社会というわけではない。人間社会の一形態であって、社会問題の性格は昔と大して変わらない。したがって、特に崇める必要もなければ、特に蔑む必要もなかろう。電子メールでは、真意が伝わらないと言う人もいるが、電話が登場した時も、顔を合わせないと真意が伝わらないと言われた。新技術に馴染めないおじさんが「心がない!」と難癖をつけるのも、人類の伝統であろうか。
本書は、ネットでググれば、なんでも分かるという発想は、危険であると指摘している。ネット社会が人類の知を深めるという議論も怪しい。情報が溢れれば、エセ情報も拡がりやすい。知識が真実を無視して多数決に支配されると悲劇である。現実にウィキペディア崇拝者も少なくない。知識を得ると、逆に知識の無さが見えてきて、物事がだんだん分からなくなるような気がする。自分の知識に自信を持てば、思考力や判断力も横暴になるかもしれない。
娯楽の流れも、書物からテレビやネットなど多様化が進む。今ではあまり従来の民放を観なくなったという話をよく聞く。おいらもその一人であるが、テレビの情報に飽きたのかもしれない。それほど有用な情報が得られるわけでもないし、ニュースもほとんどダブる。ネット社会も情報が溢れているわりには、有用な情報を得るのが難しい。お薦め度数には、売り手の思惑が見え隠れする。すべての情報を相手にできるほど人生は長くない。そこで、いかに情報を捨てるかが鍵となる。雑音を気にしていては、前へ進むのが難しい。情報化社会では、情報を収集する能力よりも、捨てる能力の方が強く求められるであろう。何事をなすにしても、頑固さも否定できない。世間への反抗心が前へ進むパワーを与えてくれる。したがって、前へ進む力とは、情報を捨てる能力、あるいは忘れる能力であり、無視する力である。これが、悲観的思考から逃れる手段ともなろう。
ところで、選挙といえば、わけの分からない仕掛けが何十年も亡霊のように居座り続ける。その代表が、最高裁の国民審査であろう。投票用紙に×印を書かなければ、自動的に信任されるとは、これいかに?そもそも罷免された例があるのか?信任方向にバイアスがかかる仕組みが、民主主義のシステムだとは思えない。社会の反抗分子としては、全て×印を書いてきたが、最近はネット情報で判決状況が容易に分かるのがありがたい。インターネットというメディアが一般の報道機関を補完する役目を担っているのも事実である。また、選挙区の規模に目を向けると、国政選挙は小さな地方選挙の規模に過ぎない。だから、地元への癒着が強すぎて国政を疎かにする。知事選の方がはるかに多数から支持されるのだから、知事の方が権威があってもよさそうなものだが。国会議員の権威を持たせる意味でも、議員数を思いっきり減らすしかあるまい。更に、一票の格差にしても、民主主義のシステムとして妥当なのか?などと仕組みにかかわる疑問は多い。にもかかわらず、政党論争にかかわる情報は氾濫しても、選挙システムそのものの欠陥を指摘する情報があまりにも少ないのはなぜか?なるほど、民主主義のシステムを話題にしたところで、ワイドショーとしては成り立たんというわけか。
それはさておき、酔っ払った天の邪鬼は、あえて反社会学のネタを選ぶとしよう。どんな学問や思想にも、主流派と反主流派がある。アル中ハイマーは概して反主流派を好む。まさしく、本書は反主流派に属すもので、社会学をパロディーで綴り、社会学者を思いっきり皮肉る。そして、アンケートの調査や統計データだけで、あらゆる人間の心理状態までも結論付けてしまう学者たちのスーパーテクニックを披露してくれる。どんな現象も統計データで武装すれば見映えがいい。そして、前提条件を隠蔽しながら都合の良いデータばかりを強調すれば、見事な統計マジックの出来上がり!
本書は、社会学とは、社会学者の個人的な偏見を屁理屈で理論化したものだと指摘している。世間でいう「こじつけ」を社会学では「社会学的想像力」と呼ぶそうな。麻薬の実態調査では、アメリカにおける意外と低い数字を紹介しながら、本当に裕福な格好をした社会学者が、命がけでスラムに出向いて調査したのか?と疑問を呈する。そういえば、不思議な統計に性行為の時間というものを見かけたことがある。それも各国別に集計されるからおもしろい。そして、日本人は淡白と評価される。しかし、誰か見たんかい!見栄もあれば愚痴も吐く。性行為の手段もまちまちだろう。見詰め合う時間?手が触れ合う時間?それとも合体時間?まだしも、満足度や円満度で調査した方が良さそうなものだが。ちなみに、アル中ハイマーは前戯に目がない。
マスコミは性懲りもなくヤラセ報道を続ける。ナレーションもドラマチック!視聴率戦争とは恐ろしいものだ。だが、視聴率って本当に信頼できるのか?従来の民放を観るという人も思いっきり減ったような気がするが、たまたま酔っ払いの周辺だけか?
本書は、社会学者と心理学者が組んで、それにマスコミが加われば、世界征服も夢ではなくなると言わんばかりに捲くし立て、思わず!ニヤけてしまうような作品である。もちろん、アル中ハイマーはこれを正統派社会学と解釈している。
マッツァリーノ氏曰く、「問題は、自分をダメな学者だと自覚している学者は、一人もいないということだ。」
「社会学的な方法論とはなにか?それは、世の中が悪くなったのは、自分以外の誰かのせいだと証明することです。」
日本社会には実に多くのタブーが存在する。タブー化しながらエセものを寄生させる背後には、マスコミや権力者の影を感じる。だが、タブーを避けていては議論は空論化する。マスコミなどで露出される学者や識者たちが、本音を避けているのか、ほんまに鈍感なのかは知らん!ただ、マスコミに信頼を持てない人が、マスコミの誘いに乗って出演するのも奇妙な気がする。近年では、少子化タブーや環境タブーも登場する。本書はこうしたものにも突っ込みを入れてくれるので、ストレス解消によい。
ところで、著者パオロ・マッツァリーノ氏とは何者なのか?父親は寡黙な九州男児でマッツァリーノ家に婿養子、母親は花売り娘。父親の仕事は家族の間でも謎で、深夜に出かけることが多いことから、スパイかマクドナルドの清掃員ではないか?という。マッツァリーノ氏自身は、千葉県に住み、講師の他に立ち食いそば屋でバイトしているという。自称「戯作者!」戯作者とは、江戸時代、庶民向けに面白い本を書いた人たちで、明治時代に廃れたそうな。立川談志は落語家だが、初代談志は戯作者だったそうな。マッツァリーノ氏は、厚労省の会議にも出席した経験があるらしい。その会議の実態を暴露する場面では、参加人数が多すぎるために議論が平行線をたどる様子が描かれる。しかも、長嶋茂雄風な英語まじりで何を言っているのか分からない学者まで登場して混乱させる。なるほど、かなりの日本通で、この観察力からして代々スパイ一家なのかもしれん!
人口が増加すれば、様々な生活様式が現れるのも自然であろう。人間の多様性を否定しては、社会分析などできるはずもない。しかし、現実には一方向からの価値観しか持てない連中によって世論が煽られる。マスコミの論調から外れた人は、まるで社会の害虫のような扱いを受ける。フリーターやパラサイトシングルなどがその典型で、自立できない人間と蔑まれる。
しかし、だ!そもそも自立した人間などいるのか?彼らの中には自らのリスクを背負って生きている人も多い。定年まで安定した給料を当てにし、退職すると年金をたかり、一生を安穏とした立場で生きることが、はたして自立した人間と言えるのか?低賃金労働者のおかげで正社員の給料が安泰とは、これいかに?大企業に恨みつらみを持ちながら、にこやかにしている下請け業者も少なくない。健康診断にしても組織格差があり、胃や大腸で内視鏡検査を組織側で負担するところもあれば、形式的で終わるところもある。優遇された人間は、優遇されていることにも気づかないだろう。現役労働者を犠牲にしながら企業年金制度をいまだに固持している会社は、通常の年金受給を放棄すればいい。いずれ、正規雇用と非正規雇用の境界線も曖昧になるだろう。そして、会社が潰れた時に真っ先にうろたえるのは正社員であろう。現実に、定年を迎えて生き方が分からない人も少なくない。何のために仕事をしてきたのか?どうやって生きていくのか?それは定年のない主婦の方が理解しているように思える。キャリアウーマンでなければ能力がないなんて考えるのもナンセンスであろう。そういえば、政治家の発言に「女は子供を産む機械」というのがあった。「男はその機械にさす油でしかない」というわけか。ちなみに、おいらは主夫になりたい!そこのホットなお嬢さん、いかが!
議員定数を減らすとなると、最もうろたえる連中が騒ぎ出す。これが自立した人間の姿か?自立していると思い込むことで他人との差別化をはかり、精神の安住を求めているに過ぎない。有効求人倍率が低い中で、誰かが失業という犠牲を背負わなければならない。本当に、優秀な人材から職にありつけていると言えるのか?ちょっと視点を変えれば、他人に仕事を譲っていると解釈できなくはない。これはプータローのひがみか!少なくとも、世襲議員が「自立しなさい!」と説教できる立場にはないだろう。
世論が求める自立とは、核家族化を促進して、人口増加を煽る。これが、親の面倒を福祉施設に押し付け、社会保障費を拡大していると解釈することもできよう。一方で、親の年金を当てにしながら大家族化するということは、生活効率が上がることでゴミが減って環境的であり、社会保障費の効率を上げて社会貢献していると解釈することもできよう。パラサイトシングルだけでも、いろんな立場の人がいる。自由を謳歌する人もいれば、痴呆症や障害者を抱えて介護を強いられる人など、その多様性には限りがない。フリーターにしても、社会保障なしの低所得者の存在が製造コストに貢献している。機械の設備投資と低賃金労働者とで、コストの天秤にかけられる。機械コストの方が有利となれば、どっちにしろ低賃金労働者は失業する運命を背負う。企業は、機械に徹することを低賃金労働者に要求する。機械に徹するということは、力仕事が要求される。となれば、若年層へ目が向けられる。しかし、いずれ彼らも歳をとる。そうなってから職業訓練をしたところで効果は期待できない。つまり、最初から低賃金労働者としてレールが引かれた構造がある。だが、政治や行政は一方向の価値観しか持てない連中で議論される。そりゃ政策が的外れになるのも仕方があるまい。自立を叫べば他人を犠牲にし、自己責任を叫べば他人に責任を押し付ける。人間社会とは奇妙な世界である。
本書は、フリーターやパラサイトシングルが日本の社会制度を救うとまで語っている。「フリーターが200万人いる。パラサイトシングルが100万人いる。ひきこもりが100万人いる。このままでは日本はだめになる。」といった具合に煽るのは、「社会の寄生虫であるユダヤ人がいなくなれば良くなる」というヒトラー説と同列だという。ヒトラーは民族の多様性を否定した。本書の根底には、人生の多様性を否定する論調への批判があるように思える。
ところで、民俗学や文化人類学と社会学の違いには、言語学と国語学の違いに似た事情があるという。言葉の使い方が変化しつつある時、その変化をおもしろがるのが言語学者で、言葉の乱れを説教するのが国語学者といったところか。言語学的には、正しい日本語なるものは存在しないそうな。仕事の専門用語でも、会社や組織によって微妙に使い方が違うことがある。そして、一つの文化に染まっていることすら気づかない人から馬鹿にされる。逆に、好奇心旺盛な人は、そのニュアンスの違いを楽しんでいる。社会学者も正しい社会のあり方があると信じて、それを強要する人種だという。なるほど、社会学にもいろいろな立場があって、経済学的傾向と、人類学や比較文化的傾向といった違いだけでも学者の性格がまるっきり違うようだ。
1. スーペーさん!
社会学者は、言葉を定義せずに使う習慣があるという。なので、知らず知らずのうちに拡張した別の概念へと平気で飛び出していくのだそうな。哲学者の中に社会学を嫌う傾向があるという。なるほど、哲学は言葉の定義を明確にしたがる学問である。とはいっても、その定義もしばしば変化するが。
本書は、積極的な悲観主義者によって社会学が荒らされていると指摘している。悲観主義者は、なにかと問題を持ち出して、当たればそれみよ!とばかりに勢いずく。つまり、逃げ道をいつも確保しているズルい連中だというわけか。フリーターやパラサイトシングルやひきこもりを無責任と蔑むが、実は根拠もなしに悲観論を煽る連中が最も無責任であるという。まさしくマスコミの論調は正義感たっぷりに問題意識を煽るが、その根拠を証明しようとはしない。悲観論者でも消極的ならば、あまり社会に悪影響を与えないが、積極的な分やっかいというわけか。本書は、超悲観主義者をスーパーペシミスト、略して「スーペーさん」と呼んで思いっきり蔑む。その思考論法は、次の手順を踏むという。
(1) 社会は悪くなる一方だ!
(2) 自分は社会に迷惑をかけていない。いや!社会に貢献している。
(3) 自分の生き方は正しい。自分と違った生き方をしている奴らは間違っている。
(4) したがって、社会が悪くなったのはそいつらのせいだ!
なるほど、優れた理性の持ち主で自分の道徳観に絶対的に自信を持った人間でなければ、到達できない思考回路だ。超悲観主義者のくせして、自論を前向きに捉えるというのもおもしろい!社会学者の一般的な研究方法は、まず、新聞やテレビ報道で、気に食わない人間、こてんぱんにやっつけたい憎らしい人間を見つけるという。これは個人的感情論で。次に、その批判対象を落ち着いた雰囲気で分析して結論を出すそうな。これも感情論で。こうした思考を、理系では仮説と呼ぶが、社会学では仮説と結論が同義であるという。都合のよいデータだけを抽出したり、データを誤読することは、社会学上で重要なテクニックで、手頃なデータが入手できなければ海外に目を向けるという。欧米のデータならば、日本人の西洋コンプレックスを刺激できるというわけか。おフランスの芸術を浴びせ掛ければいちころだ!
「個人的な結論を一般的な社会問題にすりかえて、大袈裟に煽り立てよう!」
これが社会学の基本だという。
2. マッツァリーノの法則
「メラビアンの法則」というのを、時々見かける。この法則によると、伝達術で効果的なものに、次のような実験結果があるという。
「見た目、身だしなみ、表情などが、55%。声の質、大きさ、テンポなどが、38%。言葉の内容が、7%。」
一見、なるほどと思わせる。そして、この法則を信じて、やたらと表向きの指導をする企業が多いという。あらゆる社会学の法則には前提条件がある。言葉で7%しか伝わらないなんて、どうみてもおかしい。ならば、なぜ外国語の勉強に熱中するのか?確かに、見た目の印象は大切である。しかし、内容が伴って初めて成立する条件であろう。エンジニアには第一印象の悪い人が多い。だからといって、蔑んだりはしない。むしろ、お調子者の方が怖い。一度しか顔を合わさないなら、この法則も役立つだろう。なるほど、オレオレ詐欺で参考になるというわけか。お互いに心が通じるなんて恋愛ドラマのようなことを言ったところで、はっきりと言わないと揉めるのはどういうわけか?そこで、対抗して「マッツァリーノの法則」を紹介してくれる。
「研修屋が教えることの55%はウソで、38%はハッタリで、真実は7%だけです。」
3. マッチポンプ
社会に問題がなければ、社会学の存在価値もなくなる。したがって、平穏な社会では問題を捏造するしかない。無理やり話題性をでっちあげて、流行りもしない流行語をでっち上げて視聴率を煽るのと同じ理屈か。これを「マッチポンプ」と言うらしい。自らがマッチで火をつけておいて、自らポンプで火を消す。マッチポンプはセールスの古典的テクニックでもある。災害の恐怖を煽った直後に災害保険の勧誘があったり、人々が不安を抱えている状況につけこんでカウンセリングが流行ったりと。なるほど、SPAMやDOS攻撃を蔓延らせ、セキュリティ会社やウィルス対策部門の存在価値を高めるようなものか。人口が増えれば、無理やり仕事をつくらなければならない。となれば、悪行も必要というわけか。ところで、カウンセラーの家庭って円満なんだろうか?だとすると、悩みがないことにならないか?となれば、悩み相談に答えが出せるのか?
4. 読書の是非
作家の中には、強制的、権威主義的な読書に批判的な人が多いという。何事も知識を得るのに、興味を持たなければ効果は期待できない。読書をすると賢くなるという学者の話をよく耳にするが、そう単純でもなかろう。テロリストやカルト宗教に嵌る人ほど、よく読書していそうだ。煮詰まった時に思考をリセットしてみることも大切であるが、余計な知識のために、そのリセットの妨げになることもある。
本書は、学習成績と読書時間が比例するのは、一日2時間までという統計データを紹介している。毎日2時間以上読書すると、成績が伸び悩むのだそうな。まったく読まないのも問題であるが、読みすぎるのも良くないというわけか。要するに、読書であれ、テレビであれ、ゲームであれ、一日2時間を超えるほど熱中すると、本業の学習時間が必然的に減って、成績が落ちるということらしい。おいらの読書時間もだいたいこんなもんだろう。その半分は、立ち読み時間を含むというズルをしているが。ちなみに、酔っ払いは頭の切替えが鈍いので、ほとんど土曜日に集中して読書する。
本書は、OECDの調査では読む時間を調査するが、日本の読書調査報告は冊数ばかりを問題にすると指摘する。確かに、冊数をたくさん読むことを推奨する学者をよく見かける。おいらは、一冊を読むのに時間がかかるので、冊数で評価されたら落ち込むしかない。貧乏性だから、くだらない本でも熟読して元を取ろうとする。だから、ハズレないように立ち読み時間も長くなる。そもそも、難しい本ほど読む時間もかかる。本書は、ハリーポッター三冊読んじゃった!と、ハイデカーの「存在と時間」の上巻をまだ読み終わらない!とを比べるのは統計の暴力だ!と語る。
ところで、義務教育で盛んに行われるのに読書感想文がある。そもそも、感想というのがクセモノだ!感想とは自由なはずなのに、先生が正しいと思う思想を押し付ける。子供たちも教師の顔色をうかがいながら、優等生を装う。したがって、感想文を書くことで文章が嫌いになる子も多いはず。おいらはその典型。
一般的に学問を早期に始めることを煽る風潮がある。子供はあらゆる知識を容易に吸収するから、それも間違いではないだろう。ただ、本書は、幼児英才教育にしても短期的には意味があるが、長期的には効果も期待できないと指摘している。大学ぐらいになって自発的に学習しなければ、結局学力低下は防げないという。なるほど、学問はいつから始めるというよりも、続けることの方が重要だというわけか。この続けるという行為が、最も難しいのであるが。
5. 少子化問題
本書は、少子化論者は決まって「少子化は子供をだめにする!」と唱えると指摘している。そして、子供同士の交流が減って社会性が育まれないとか、キレやすいといった感情論が氾濫すると。ならば、子供が多い都会には健全な子供が多く、子供の少ない過疎化の進む地域では問題児が多いということか?と疑問を投げかける。そもそも、欧米に比べて劣悪な住宅事情の中で、人口を増やす政策が本当に健全なのか?少子化問題を、日本人滅亡論のように煽りたてるのは、いかがなものか?戦後8000万人ぐらいの人口が、いまや1億2千万以上に増殖した。女性の育児環境にしても、女性の社会進出を促す上で、昔からあった平等の問題であって、本来、少子化とは別もののはずだが。結局、自分の老後の年金を確保するために、少子化問題を叫んでいるだけか?あるいは、年金スキャンダルを少子化問題で揉み消そうとしているのか?なるほど、厚生官僚が叫ぶわけだ。もしかして、少子化問題って平均寿命が延びることへの警告か?健康ブームへの批判か?
ところで、社会保険庁をはじめ行政スキャンダルが明るみになれば、暴動が起こっても不思議ではない。外国人からは、日本では暴動や革命が起きないと揶揄される。それが悪い国民性とも言い切れないのだが。高齢化が進めば、温和な社会になりやすいのかもしれない。サミュエル・ハンチントンは、15歳から24歳までの若年人口が20%以上を占めると社会的に不安定になる傾向があると指摘した。だとすれば、一概に高齢化社会が悪いとも言い切れない。
6. 環境問題
「ムダを経済効果といい替えるのは、諸官庁や特殊法人の間では常識です。ムダな支出が五兆円と聞けば、誰もが腹を立てますが、経済効果が五兆円ならば、国民の賛同が得られます。」
そもそも、地球温暖化にしても、科学的な根拠が完璧に得られているわけではない。ところで、エコポイントってなんだ?環境破壊度数か?ブラウン管廃棄物はどこへ行くんだ?本当にリサイクル効率が高いと信じていいのか?まだまだ使える物を...物の有り難味を子供に説教したところで説得力はない。まさか!ゴミを外国へ輸出してんじゃねーだろうな?日本を綺麗にして海外を汚染しているんじゃ、大人の行動を子供が尊敬できるわけがない。新型インフルエンザにしても、ワクチンの国内生産が間に合わなければ、海外から輸入する予算があるから大丈夫という発想も...ワクチンが足らない状況は海外でも同じはずだが。それにしても、エコポイントの申請の面倒さの上に、その後の時間のかかること。もう1ヶ月を過ぎるが、いまだに物が届かない。「エコポイント事務局」ってなんだ?まさか特殊法人か?わざわざ中央官庁に申請するのも効率が悪い。いずれにせよ、経済に長けた人間が考えた仕組みとは思えない。
本書は、冷静に事実を語っても、学問的や論理的正しさ一辺倒では注目されず、ゴアさんのように熱弁する方が評価されると指摘している。ただし、環境意識が、企業をはじめ人々に少しずつでも浸透するのは悪いことではない、とも語っている。その通りであろう。人間がどんなに努力しても自然現象には敵わないが、意識を持つことは大切である。本当に環境問題を考えるならば、人類を滅亡させるのが手っ取り早いが、それを受け入れることはできない。となれば、せめて人口をこれ以上増やさないぐらいか。あれ?少子化問題って人口を増やすことを奨励してるんじゃなかったっけか?
7. 自立の鬼
欧米人から日本の若者が自立していないと指摘されても、心配はいらないという。また、そうした外国人の意見を取り上げて、日本の若者に劣等感を植え付けようとする識者も相手にしなくていいという。欧米では、返済義務のない奨学金といった社会保障が充実していて、しっかりと寄生している実態があるようだ。日本の大学は、新入生からふんだくる高額の入学金と授業料をあてにして経営されている。しかも、通常の学部の在籍年数は8年と限りがある。だが、欧米では在籍年数に限りがないという。したがって、少子化は日本の大学経営を苦しくさせることになる。無理にベルトコンベア式に卒業させることもなかろう。本書は、大学の在籍年数の期限を無くすことを提案している。どこの国でも、若者が自立することは珍しいようだ。ただ、アメリカ人の傾向として、自立していると勝手に信じ込んでいる人が多いという。なるほど、アメリカの学生はカード破産している。
また、日本人は、他人に何かを頼むという簡単なコミュニケーションすら避ける傾向があるのに、空気を読んで構ってもらおうという心理が旺盛だという。ある婦人の告白記事で、イギリスでは駅の階段でベビーカーを運んでくれるが、日本ではそれがない!と嘆く様子を紹介している。しかし、階段で助けを求めれば、大抵の日本人男性は助けてくれるだろうと語る。日本人は、自分から頼みもしないで、他人は助けてくれないとひがみ、世間の人は冷たいと決め付けることで、自立の鬼になっていくと指摘している。
ところで、仕事と家庭を両立させていると自慢する評論家のスーパーおばさんを見かけるが、ほんまかいな?本書は、完璧に両立できる人もいなければ、完璧なバイリンガルもいないという。帰国子女というと、外国語も日本語もペラペラというイメージがあるが、だいたいどちらも中途半端なことが多いのだそうな。帰国子女に通訳させると、意思疎通が微妙にずれて、スリリングな業務になるんだとか。現実には器用貧乏ってことか。なんでもできるってのは、なんにもできないってわけか。ずっと日本で暮らすアル中ハイマーは、日本語も中途半端で面目無い。そして、中途半端な人生でも楽しければええじゃん!と自らを慰めるのであった。
8. 銀行系シンクタンク
銀行系や証券会社系のシンクタンクにお勤めのスーペーさんは、少子化が進めば、景気が悪化すると煽る。人口が減れば、渋滞も緩和し、広い家に住み、ぎくしゃくした社会が少しは緩和されそうなものだが。子供一人当たりの教育の場も充実しそうなものだが。彼らの経済予想ほど恐ろしいものはない。バブル崩壊も予測できない、いや!バブルの仕掛人だ!しかも、公的資金は真っ先に搾取する。生活保護者やニートを蔑む前に、公的資金をたかる銀行の方がよっぽど自立できていない。そもそも、人口増加を前提とした経済システムなんて、いつかは破綻するだろう。エコノミストは、少子化により労働力不足となり景気が悪化すると捲くし立てるが、現実には若年層の失業問題が深刻である。好景気になったところで経営陣の給料が上がるだけで、コスト削減に喘ぎながら格差問題を助長する。将来の労働力人口にしても、適正値を予測することは不可能であろう。いずれ、気候難民や環境難民が増えるかもしれない。世界的に人口は溢れているのだから。銀行系シンクタンクの経済予測に乗るのも、信じる側の自己責任というわけか。
9. ネット社会
ネット社会がなにも特別に高度な社会というわけではない。人間社会の一形態であって、社会問題の性格は昔と大して変わらない。したがって、特に崇める必要もなければ、特に蔑む必要もなかろう。電子メールでは、真意が伝わらないと言う人もいるが、電話が登場した時も、顔を合わせないと真意が伝わらないと言われた。新技術に馴染めないおじさんが「心がない!」と難癖をつけるのも、人類の伝統であろうか。
本書は、ネットでググれば、なんでも分かるという発想は、危険であると指摘している。ネット社会が人類の知を深めるという議論も怪しい。情報が溢れれば、エセ情報も拡がりやすい。知識が真実を無視して多数決に支配されると悲劇である。現実にウィキペディア崇拝者も少なくない。知識を得ると、逆に知識の無さが見えてきて、物事がだんだん分からなくなるような気がする。自分の知識に自信を持てば、思考力や判断力も横暴になるかもしれない。
娯楽の流れも、書物からテレビやネットなど多様化が進む。今ではあまり従来の民放を観なくなったという話をよく聞く。おいらもその一人であるが、テレビの情報に飽きたのかもしれない。それほど有用な情報が得られるわけでもないし、ニュースもほとんどダブる。ネット社会も情報が溢れているわりには、有用な情報を得るのが難しい。お薦め度数には、売り手の思惑が見え隠れする。すべての情報を相手にできるほど人生は長くない。そこで、いかに情報を捨てるかが鍵となる。雑音を気にしていては、前へ進むのが難しい。情報化社会では、情報を収集する能力よりも、捨てる能力の方が強く求められるであろう。何事をなすにしても、頑固さも否定できない。世間への反抗心が前へ進むパワーを与えてくれる。したがって、前へ進む力とは、情報を捨てる能力、あるいは忘れる能力であり、無視する力である。これが、悲観的思考から逃れる手段ともなろう。
2009-08-23
"新ハイスピード・ドライビング" Paul Frere 著
先日、知人からポール・フレール氏が2008年に亡くなったと聞いた。そこで、本書をなんとなく読み返したくなった。これを読んだのは10年ぐらい前だろうか。カートで熱くなっていた時期のバイブルである。著者はアマチュアのために書いたと述べているが、前書きにフィル・ヒル(1961年F1チャンピオン)は、プロでも参考にするべきだと語っている。ちなみに、二人ともルマンの優勝経験者。本書は、現在でも通用するドラテク理論の名著と言っていい。今宵は、カートの体験談と重ねながら綴ってみよう。久しぶりに血が騒ぐぜ!(ドスの利いた声で)
10年前といえば、カート場に毎週のように通い、一日中走りこんでいた。タイムトライアルでは、常にベスト3にランキングされるように躍起になっていた。凝り性という性格が災いして、仕事をサボって走ったこともある(これは内緒!)。今では年に数回行く程度だが、それなりのタイムは出せるだろう!と意地を張る。まるで餓鬼だ!60歳過ぎても「趣味はカートです!」と言いたいものである。ちなみに、著者は70歳半ばでも、300km/hクラスの車をテストしていたという。当時、愛車をサーキットに持ち込んで走ることもあった。こちらはカートと違って思いっきりヘタレだ!経済的に辛いし、帰り道も自分の車が足なので絶対にぶつけられない。ただ、サーキットで走る経験は貴重である。グラベルにはまって動けなくなった時の景色はそうそう味わえるものではない。キャタピラ号に牽引される後ろ姿には寂しさが漂う。だが、それを酒の肴にされるのは愉快だ!ヘタッピだと思い知らされれば、公道で無謀な運転を避けるようになる。自称、走る道路交通法!ただ、いつまで経ってもゴールド免許になりきれないでいる。ちなみに、愛車はSW20の3型、生産中止の噂を聞いて慌てて購入したが、今では10%の税金アップが辛い。
カートを語り始めるとアル中ハイマーは熱い。カートは後輪駆動車なのでオーバーステア傾向にある。ミッドシップエンジンで、シートもやや後ろにあるので、重心は後ろにある。したがって、一旦回転運動が始まればリアが流されやすい。回転運動中に駆動力を与えれば簡単にスピンするわけだ。とはいっても、しっかりとフロントに荷重がかからなければ、フロントが軽い分むしろアンダー傾向となる。また、後輪軸は左右が直結されているので、2wayのデフのような感覚で、これもアンダーの要素となる。つまり、荷重移動の按配でアンダーにもオーバーにも容易にできる車なので、ドラテクの勉強にもってこいというわけだ。
速く走るためには、ブレーキングを最小限に抑え、なるべくアクセルの全開区間を長くすればいいわけだが、そう単純ではない。後輪駆動車の場合、コーナーの脱出方向に車体姿勢が決まっていないと、アクセルを開けることができない。オーバー状態では、絶対にアクセルを開けられないのだ。
なんといっても難しいのはブレーキングであろう。ブレーキングには主に二つの役割がある。コーナー進入のための減速と、回転運動のきっかけ作りである。最初は、この二つを使い分けていたが、慣れると一発でガン!と踏んで双方を兼用するようになる。適度にフロントに荷重をかけてステアリング蛇角を小さくすれば、スリップアングルの効率が上がる。また、フロント荷重の反動は、必ずリアに反作用となって返ってくるので、タイミングが合えば駆動軸への伝達効率も上がる。高速コーナーでは、アクセルを抜くだけでフロントに荷重がかかって、ブレーキを使わずに曲がれるが、低速コーナーでは、しっかりとフロントに荷重をかけないと曲がれない。パワーのないカートでは、一度減速するとスピードの回復に時間がかかるので、ターンインではなるべくブレーキを使いたくない。最初は、荷重移動にメリハリを付けて操作する。頭で確認しながら走っている感じだ。遠心力で体が外に流されるのを息を止めながら踏ん張るもんだから、吐き気もする。ステアリングも重く、疲れてくるとヘルメットの重さで首が流される。ところが、慣れてくるとステアリングの修正が少なくなり、姿勢も安定して全体的に滑らかになる。腕や足など部分的に疲れていたものが、やがて疲れにくくなり、しかも疲れが体中に分散する。
荷重移動の効率を上げるために、ライン取りも重要となる。車がコーナーに追従する能力は、ひとへにタイヤの接地力で決まると言っていいだろう。タイヤの接地は路面の摩擦係数に支配される。接地力は車両重量とも比例するが、車両重量が増せば遠心力も大きくなって外へ流される。コーナーリング中は、接地力の限界ぎりぎりに保つことが鉄則であろう。理屈はすべてのコーナーを速く曲がればタイムは上がりそうなものだが、そう単純ではない。すべてのコーナーで欲張っても、どこを速く走るように組み立てるか、全体のバランスが鍵となる。いくら一つのコーナーを速く曲がったところで、次のストレートでスピードが乗らなければ意味がない。最初は、コーナーを速く曲がろうと頑張りすぎて、突っ込み重視になりがちだった。その反動がコーナー出口に現れる。一概には言えないが、基本は立ち上がり重視にした方がタイムは出しやすいだろう。コーナーの進入を多少犠牲にしても、集中力が途切れずにタイムも安定する。この精神的なものって結構大きい。
また、コーナーの進入角度も重要である。次に続くストレートで加速効率を上げるためにも、なるべく速く脱出姿勢を決めたい。コーナー出口になるべく速くステアリングを向けて、カウンタをあてずに効率よくスライドさせる。いわゆる慣性ドリフトだ!ほとんどの車体運動で慣性力を利用することになる。ドリフト中はアンダー状態でなければ、アクセルは踏み込めない。ところで、四輪ドリフトとスライドやスキッドとの境界線も微妙で、明確な区分はないらしい。だた、レース用語としては、前輪が多少ベンドの内側へ向いているか、少なくとも直進方向を向いている場合がドリフトで、前輪をコーナーとは逆向きに修正する場合がスライドやスキッドだという。ひらたく言えば、無駄な滑りをさせないのがドリフトといったところだろうか。速く走るドライバーほど無駄な動きを抑え、派手さを感じさせないものである。
カートの体感スピードは一般車の倍ぐらいだという話をよく耳にする。100km/hぐらいでフルブレーキングすると、200km/hぐらいに感じるということか?ちと大袈裟ではないかい!カートでそんなに危険を感じることはないが、限界を試すにはそれなりに勇気がいる。コーナーでは外へ飛び出しそうになるから、最初から思いっきり突っ込むことはできない。だが、最悪でも直線運動を回転運動に変えてスピンすれば、外へ飛んで行くことはないことを体が覚えれば、少々のオーバースピードでも危険を感じなくなる。スピンする場所もコーナーの外側なので、後続車との危険も回避できる。
少し慣れてくると、ステップアップしてパワーのあるマシンを試す。そこで、いきなり体験するのがタイムダウンである。パワーがあれば、立ち上がりが鋭く、ストレートも速いので、感覚的には速く感じるが、タイムは逆に悪くなった。話を聞くと、多くの人がこうした体験をするようだ。こうして、ドラテクの奥深さを痛感させられる。
意外と難しいのは、縁石の使い方である。クリップポイントが内側の方が有利だとは言い切れない。縁石でグリップが格段と良くなるならありがたいが、行付けのカートコースではそれほどのグリップを期待できない。縁石の盛り上がりは、車体に傾きを与え逆バンクとなる。その傾き具合が、外側の駆動輪にうまく伝達する場合もあれば、逆に遠心力が邪魔になる場合もある。本書は、雨水溝に前輪をひっかける例を紹介している。つまり、車体が内側に傾くことで自然にバンクをつけるのと同じ理屈である。カートコースにも内側の段差に引っ掛けて加速できるコーナーがあるので、それを利用することがある。そう言えば、アニメでタイヤの内側を溝に引っ掛けて遠心力に対抗しながら、ジェットコースターみたいに曲がる話があったなぁ。
当時は、コースを歩いて観察したり、上手い人のライン取りを追走して参考にしたりしたものだ。そして、試行錯誤しているうちに、突然速くなる瞬間がある。速く走ろうという力みも薄れ、滑らかで自然な感覚になれる。自分の限界を知って諦めの境地に辿り着いたと言った方がいいのかもしれない。当時張り合っていたのは、小学生とスタッフの女の子だった。小学生は将来レーサーになると自信満々に語っていた。サインをもらっとけば良かったかも。なぜか?少年はインべたでスコンと曲がりやがる。どう見てもライン取りに無理があるのに、なんであのスピードで曲がれるのか?コーナーリング中はステアリングをこじって忙しそうに見えるが、タイムが出るのが不思議でならなかった。失敗してスライドさせたとしても、それほどタイムロスにならない。追走すると、立ち上がりで置いていかれるのが悔しい。これはテクの差ではなく体重差に違いないと言い訳したものだ。なにしろ20kgぐらいの差はあるのだから。ところが、雨になると立場が逆転する。わざわざ土砂降りの日を選んで走ることもあった。その理由はコースが空くからである。ただ、同じことを考える奴らがいる。マイマシンを持った連中は溝つきタイヤを装着するが、貧乏人はレンタルマシンで、しかもスリック!マイマシン派は、チューニングしていてエンジン音からして違う。それを後ろから煽るのが快感なのだ。雨の落ち始めは、ペイントされている所にタイヤをのせると、いきなりズルッ!といく。雨天で悩まされるがバイザーの曇りである。低速コーナーでいちいちバイザーを開けて拭くのが面倒でしょうがない。本書は、曇止め防止剤がない時、石鹸を薄く塗りつけ乾いた布で拭けば、曇止めに匹敵する効果があることを教えてくれる。
ちなみに、アル中ハイマーはなぜか?右曲がりのヘアピンが下手だ。夜の社交場では「右曲がりのダンディ」と呼ばれているのに。
本書は、着座姿勢からハンドリングの力学などを交えながら、運転技術の基礎理論と路面の安全性を解説する。おかげで、いい加減だった運転姿勢が、9時15分ちょい前でステアリングをしっかり握るようになった。どんなスポーツであれ、瞬時に反応して的確な動作をするためには、姿勢が大切である。理論の中には、物理学の数式を交えながらサスペンションのセッティングなど、運動力学の視点からも考察される。そして、バンク角度、タイヤ荷重、ダウンフォース理論といったデータも付録される。
また、後輪駆動車、前輪駆動車、四輪駆動車のタイプによって運動性能や操作性の違いを比較している。その大きな違いは、回転運動中に駆動力が増すと、後輪駆動車がオーバー傾向を示すのに対して、前輪駆動車と四輪駆動車はアンダー傾向を示すことであろう。後輪駆動車は、コーナー脱出時に車体の姿勢が出口方向に決まっていないとアクセルを開けられないが、前輪駆動車と四輪駆動車は、コーナーリング中に横を向いていてもアクセルが開けられる。前輪駆動車と四輪駆動車は、アンダー傾向が強いので危険の察知もしやすい。よって、一般車では前輪駆動車や四輪駆動車の方が好まれる。
「安全でしかも速いドライバーになるためにいちばん大切なのは、素早い反射神経ではなく、むしろ的確な予測能力である。」
どんなに練習してもドライバーの天性の素質には勝てないだろう。プロストやセナが、教科書やドライビングスクールを必要としたとも思えない。
「どんなに本を読んでも、レース学校でいかに練習しても、基本的な素質を生まれながらに備えていない人は優秀なレーシング・ドライバーにはなれないと私は思う。自動車の操縦は、ある水準以上ではスポーツとなり、鋭く正確な反射神経と完全な判断力が何よりも要求される。このスポーツでは、卓越した才能に恵まれており、しかも旺盛な研究心を持つものだけが一流の境地に到達できるのである。」
著者は、サーキットとロードではテクニックは別もので能力の比較は難しいが、ロードドライバーの方が偉大だと語る。その理由は人口的な環境ではなく、もっぱら自然を相手にするから、それにほとんどぶっつけ本番だからだという。ストリートで速い奴が王様ってわけか。それってストリーキング?なるほど、ふるちんで走るのは度胸がいるぜ!(ドスの利いた声で)
1. ギアチェンジ
シンクロメッシュ式であっても、素早く加速するために、ダブルクラッチがいまだに使われるという。一度吹かしてやれば、シンクロメッシュ・コーンも傷めない。
ところで、よくギアの選択で迷うことがある。あるギアで回ると、回転数がレッドゾーンまで上がり、コーナーを出た途端にシフトアップが必要になるが、一つ上のギアで回るには加速が不足するという場合など。本書は、迷わず高い方のギアを選択すべきだと助言してくれる。その理由は、精神的なものだという。ギアチェンジはタイムロスにも繋がる。ブレーキング中のシフトダウンも、コーナーでの集中力に影響を与える。この考えは公道にも当てはまるという。速く走ることを前提とすれば、最大トルクの回転数を維持するのが最も効率がよいはず。そのために、ヒール・アンド・トゥもやる。本書は、ヒール・アンド・トゥは単にタイムを縮めるだけでなく、車体を安定させる意味での安全性にも通ずるという。ちなみに、坂道発進にも使える。
また、機械の摩擦を考慮すれば、回転数がある程度のところまで達しないうちからフルスロットルにするべきではないという。低速回転からの急加速は、無駄な爆発を引き起こす。ちなみに、カートのような非力なマシンでは、いきなりフルスロットルにすると、逆にパワーダウンする。よくある話に、最良の加速性能を得たい場合、各ギアでエンジンの最大トルク以上に引っ張るのは意味がないという説があるという。しかし、この説は間違いだと指摘している。計算上でも最大トルクの少し上になるようだ。したがって、すべてのシフトアップは、最高許容回転数で行うべきだと指摘している。ただし、最大トルクが比較的低い回転数のエンジンもあって、その場合は、最高許容回転数よりも早めにシフトアップすることになる。ちなみに、おいらはよくオーバーレブさせる。ヘタッピな証拠だ!
2. ブレーキング
ブレーキは、運動エネルギーを熱エネルギーで吸収するシステムである。ブレーキ系統で生じた熱を瞬時に空気中に発散できないので、ドラム、ディスク、ライニングは異常な高温となりフェードの原因となる。その主な原因は、ライニング摩擦係数がある温度を超えると急激に減少することにある。レーシングカーはフェードしにくいが、逆に冷えるとライニング摩擦係数が小さい。高温は、同時にブレーキオイルを沸騰させペダルの踏みしろが増え、ペーパーロックを起こす。完全にブレーキが利かなくなった経験はないが、ブレーキがスコン!となって利きが鈍くなったことはある。ブレーキを使うのが少ないドライバほど上手いとはよく耳にする。タイヤのためにも、加速と減速は滑らかな方がいい。いずれにせよ、タイヤのグリップを超えるスピードでは、コーナーは曲がれない。ホイールロックすれすれの、絶妙なABS仕様の足がほしいものだ。ところで、カートでは左足でブレーキコントロールできるのに、車となると左足ブレーキは微妙な加減ができないのはなぜだろうか?単なる習慣であろうが、練習してもまったくセンスがない。
3. 空力
ほとんどの車は空力的なリフトを発生する。それは、飛行機が浮上する逆の原理で、車体の上を流れる空気が下を流れる空気よりも気流が速いために、気圧に差が生じるからである。しかも、後輪の方が浮きやすい。したがって、高速コーナーでは恐ろしいオーバーステアとなる。空気の流れといっても、正面からの流れに有効なだけで、横風に弱いのは飛行機と同じ。ちなみに、F1カーはトンネルの天井を走っても張り付くほどのダウンホースを発生する。実際に5G近くの求心加速度を得ながら、5Gの遠心力に対抗できるわけだ。もちろん、ドライバーの体にもそれだけのGがかかる。それで二時間近くも走り続けながら、瞬発力を維持しなければならないのだから、最も過酷なスポーツと言えるのかもしれない。
空力を利用せずに、高速コーナ-で程よいアンダーにシャーシーだけでセッティングしても、低速コーナーでは強いオーバーとなるので、シャーシーのチューニングだけではバランスを保つのは難しい。現在の空力は、グランドエフェクトを最大限活用して、ウィングは補助的な位置付けにある。本書は、セッティングの手順を解説してくれる。最初に、低速コーナーに合わせてシャーシーをチューニングするという。低速コーナーでは、空力効果よりもシャーシーのチューニングがものをいうからである。次に、高速コーナーのダウンフォースを調整するという。ウィングは前輪よりも後輪の方にダウンフォースをかけることになる。そして、サスペンションは、タイトコーナーで適度のアンダーとなるようにアジャストする。これがすべてだという。この状態でスピードを上げると、リアのダウンフォースが車速の二乗に比例して急速に立ち上がり、フロントのダウンフォースを凌いで大きくなり、高速コーナーで安定するという。
4. タイヤとホイール
一般にホイールのリム幅が広いほど、あるいはタイヤの断面が偏平になるほどスリップアングルは減少する。リム幅が広がると接地面の幅広いタイヤが装着できるので、接地面積が拡大してグリップ性能は上がる。幅だけでなく、半径方向にリム径を拡大しても、同様に接地面積が広がり同じ効果を得る。したがって、リアタイヤの幅と直径を大きくすればオーバーが減り、フロントで同じことをすればアンダーが減る。また、タイヤが関係するのは、コーナリング・フォースだけではないという。タイヤが支えることのできる垂直荷重の限界値も決まるという。ただ、タイヤの幅は大きければいいというものでもない。フォーミュラーカーは、タイヤが剥き出しになっているので、単純に空気抵抗にもなる。
ちなみに、ラリーともなると、ダートや積雪路を走るので、タイヤの種類も限りがないようだ。凍結するとスタッド付きが当たり前にしても、スタッド付きのスリックタイヤなるものもあるらしい。
2009-08-16
"社会科学の方法" 大塚久雄 著
著者大塚久雄氏は、ヴェーバー著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫)の訳者である。この本には感銘を受けて以前記事にもした。その訳者の解釈にも興味を持ったので本書を手にとった。ここでは、マルクスとヴェーバーについての著者の解釈が記される。この二人に注目した理由は、あらゆる社会学の科学的アプローチの原型がここにあるからだという。マルクスとヴェーバーの解釈をめぐっては様々な見解が錯綜する。その中で著者は、思いっきり主観で語ると宣言している。そもそも、客観で語ると言って、そうだったためしがない。もし、本当に客観で語られても、単なる事象の羅列に過ぎないことも多い。むしろ、主観的に語られる方が違った考え方が見られておもしろい。読者が客観的に眺められればいいだけのことである。もちろん本ブログも、すべての記事を主観で、いや!気まぐれで語っている。
社会学は、人間あるいは人間行動を対象にした学問であり、極めて複雑系の中にある。この学問を科学的に解析することは可能だろうか?人間行動をある程度は利害関係によって説明できるだろう。ただ、利害は個人の価値観で判断されるからやっかいである。経済学が扱う利害関係は物質的なものばかりに着目する。だが、実際は内面的や精神的な価値を追求する人も多い。知識を得ることに精神の安定を求める人もいる。また、倫理観や人生観を形成する慣習や信仰などによって価値観が生み出される。人間の行動には、どうしても動機付けのできないものがある。その人にとっての合理性は、他人にとっては非合理性と見なされる。結局、利害関係は個人の多様な理念によって生じ、もはや統計学的に捉えるしかないようにも映る。だが、多様性を平均することに意味があるのだろうか?あらゆる統計データはちょいと視点を変えただけで、どうにでも誤魔化せる。自由 + 平等を2で割ったところで、答えは見つからない。となると、統計的分析にも限界を感じ、もはや社会学の科学的分析は不可能のように映る。だからといって、諦めることにはならない。学問として法則性を追求することで、今まで見えなかった因果関連を解明できる可能性はある。そこに意義を求めなければ学問は成り立たない。少なくとも、物質的な価値評価のみで体系化できたと言い張るよりは、混乱を意識している方が健全である。人間は、永遠に人間自身を探求し続ける宿命を背負っているのだろう。
冷戦構造が終結すると、社会主義やマルクス主義は崩壊したと言われた。現在ではマルクス主義を見直す動きもあるようだが。歴史教育では、社会主義は資本主義の枯渇によって生まれたと教える。教育関係者に共産党系が多いかどうかは知らん!もし、そうならば、なぜ?資本主義の成熟したイギリスやアメリカで起きずに、資本主義後進国のロシアで起きたのか?未だ歴史上に、真の社会主義モデルは出現していないのではないのか?そうした疑問をなんとなく持ち続けている。世間では様々なマルクスの解釈が氾濫する。その混乱を招いていたのは、マルクス主義信奉者たちの奇妙な解釈であろう。本書は、ヴェーバーがマルクスを批判しているというよりは、むしろドイツ社会民主党を批判していると指摘している。なるほど、マルクスの経済批判は、資本主義を前提とした現行経済を批判したと主張する人も見かける。マルクスの主張は、社会主義というよりは、資本主義を認めた上での平等主義という解釈もできなくはない。少なくとも、マルクスをボリシェヴィキと一緒に葬り去るべきではないような気がする。いずれにせよ、マルクスの「疎外」を理解したければ、その著作「資本論」を読むのが一番であろうが、なにしろ大作!生涯読む気がしないだろう。ということで、本書でお茶を濁しておこう。
ところで、マルクスとヴェーバーを対立構図で語られることが多い。確かに、ヴェーバーの著作の中にもマルクス批判を匂わせる記述がある。しかし、本書は、批判しながらも褒めているところもあって、双方の分析手法では、むしろ二人は重なる部分が多いと指摘している。
1. マルクス経済学と疎外
マルクス経済学の対象はあくまでも個人であって、人間を超越したような社会的実体の一環といった発想はないという。そして、経済学を自然科学と同じように理論的方法を適用する。個人はそれぞれ意志をもって目的を設定し、手段を選び、決断しながら行動する。これを説明するのに、自然成長的分業という方法概念を持ち出す。これは、自然に発生した、いわば偶然性による職業分化であって、計画経済などで政治的に仕組まれる分業ではない。この分業が総合和となって、社会全体の経済力として機能する。もちろん、個人の職業は私的なものである。となると、需要と供給の関係の中で、必要な職業が生まれ、その人員配分も自然に組み込まれることになる。まさしく、自由主義や資本主義は、この方法で成り立っている。ただ、こういう社会では、マルクスは「疎外」という現象が起こることを指摘している。生産諸力の総合が巨大化すると、経済そのものが巨大な生物のようになり、人間の意志では手に負えなくなるだろう。こうした段階になると、自然と同じように法則性を持った客観的現象になるという。統計的現象とでも言うか、これを「疎外」と言っているらしい。
「疎外とは、人間自身の力や成果が人間自身から独立して、あたかも自然に法則性を持って運動する客観的過程と化すということである。」
個人の総和が群集の力となった時、個人の無力感を思い知らされる。資本主義が人間を対象とした経済システムであるにもかかわらず、巨大化すると物価の変動には無力となる。人間の欲望の総合力として株価が暴走し、社会そのものを崩壊させてしまう。こうした複雑化する群集の力をどうやって収拾すればいいのか?まさしく、現在の経済が直面する問題である。この対処で、一つ一つの疎外の現象を解消していくにも無理があろう。一つの疎外を解消すれば、新たな疎外が生じる。経済システムの中から社会の運動法則を見つけるのも難しい。そこで、問題となるのが資本家の人格で、彼らを経済的範疇へ人格化できるかが問題であるという。自らの利害関係だけでなく、社会全体の利害関係を意識する人格ということだろうか。疎外とは、絶望論にも映る。本書は、「資本論」が疎外現象の中を動きまわるだけの経済学を批判し、経済の主体は他ならぬ人間であることを明らかにしようとしたものだと語る。あくまでも、「疎外」からの回復という観点からの経済学の考察ということらしい。
ところで、哲学で「疎外」というと、やりきれない!自我の喪失!といった印象を与える。それが、資本主義から人間性が失われると解釈され、人間性を取り戻す意味での社会主義が想起し、その発展型が共産主義や全体主義となり、ついには完全に人間性を失うわけか。
2. ヴェーバー社会学
ヴェーバーもマルクスと同様、経済活動を営むのは個人であると主張しているという。ただ、ヴェーバーは経済の対極とも言える宗教を考察し、宗教社会学に大きな意義を与えている。この宗教的な考察には伝統的慣習も含まれる。ヴェーバーといえば「価値自由」の概念が登場する。これは、不当な価値判断を混入しないことであるが、その観点を人間の主体から遠ざけるという意味ではない。価値判断が完全な客観性に基づくのであれば、あらゆる物の価値は明白なものとなろう。しかし、主観的に価値判断されるのが人間社会である。本書は、目的論的関連と因果関連とが方法的に混同される危険性を指摘している。政治家の政策で思惑がはずれるのは、因果関連の分析が中途半端のまま、目的論的に結論づけるからであろう。現実に、政治が社会を混乱させ、経済政策が経済危機を引き起こす。最大の過ちは、政治主導だけで社会や経済が動いていると勘違いしていることであろう。資本主義が自然成長的な分業で成り立っているからには、あらゆる因果関連を解明することは不可能に思える。だが、ヴェーバーは、主観的な目的論的関連を、客観的な因果関連に組みかえることができると主張している。
「社会学とは、社会的行為の(主観的に思われた)意味を解明しつつ理解し、それによってその経過と影響を因果的に説明しようとする学問。」
社会学では、自然科学とは違って、動機を理解するという過程が加わるという。しかし、この動機を理解する方法が分からん!ヴェーバーの著書では理念型を定義していた。それは、階級や身分によって、理念型を細分化する。例えば、資本家の理念型、労働者の理念型といったあらゆる人間のタイプを分析する。ただ、理念型で抽象化したところで、それに属する人間の中でも意志はバラバラである。となれば、厳密な分析を求めると、理念型は人数分存在することにならないか?ある程度、多数決の原理や確率論に頼ることになろう。ヴェーバーは、人間の意志が自由になればなるほど、学問的に理解しやすくなり科学的な考察が有効になると主張している。そして、社会学の客観的考察が可能になるというわけだが、これが分からん!自由意志が拡大すれば、多様性が増大してより複雑系になるように思えるのだが?人間社会のエントロピー増大の法則とは、人間の凡庸化を意味しているとでも言っているのだろうか?精神の成長が、人間の持つ真の合理性へと向かわせ、共通理念に収束するとでも言っているのだろうか?そして、純粋理性の獲得と結び付けているのだろうか?近代では、ますます凡庸な指導者によって政治が行われるかのように映る。人々の自由意志が進化すると平均化され、精神のスーパースターが出現する可能性は低くなるのかもしれない。
3. 「ロビンソン漂流記」
18世紀前半イギリスで活躍した政治経済記者ダニエル・デフォーの著作に「ロビンソン漂流記」がある。デフォーは、イギリス経済を牽引しているのは中産階級であると確信していたという。いずれ、その考えは産業革命で証明されることになる。
ところで、彼が、ロビンソンとして登場させる人物は、この中産階級の人々に酷似しているという。本書は、この階級層の人々をユートピア的に理想化したものではないかと分析している。そして、アダム・スミスの「国富論」で登場する「経済人」を理解する方法として、この本を薦めている。ちなみに、子供の頃に読んだ覚えがあるが、そんな高級な内容だとは知らなんだ。もう一度読んでみるかぁ。
主人公ロビンソンは孤島に漂着する。そして、船に残った小麦や鉄砲などの資材を利用して生計を立てる。そこには、柵を作って土地を囲い込み、植木をめぐらして住居を囲い、囲い込みの中でエンクロージャー的な生活様式が現れるという。囲い込んだ土地の中で住居や仕事場をつくり、製造を営む。農業をやりながら、製造業を営むというマニュファクチャー的な工業形態とでも言おうか。当時のイギリスは、都市部よりも農村部の中産工業によって経済を牽引していたという。毛織物製造で分業し、雇い主も雇われ人も揃って仕事に励み、奴隷制の面影はない。この本には、世の中で最も幸福なのは上流階級でも下流階級でもなく、中産階級にこそ仕事と精神で有意義な生活ができるという教訓がこめられているという。そして、ロビンソンは合理的な人間として描かれる。現実的な計画を立て合理的に行動しながら、再生産によって規模を拡大する。ここには、再生産システムをよく理解した実践的合理主義があるという。おまけに、ロビンソンは、漂流生活の貸借対照表や損益計算書を作っているというから、資本主義の基本的な姿勢が現れているようだ。マルクスの「資本論」には、経済学者がロビンソン物語を好むことを揶揄している有名な箇所もあるらしい。
この本とは対称的にジョナサン・スフィフト著「ガリヴァの航海」がある。ちなみに、「ガリバー旅行記」も幼少の頃、絵本で読んだような気がする。これは、社会批判の書で、中産階級の暗い生活様式を集めてユートピア化したものだそうな。
4. 「儒教とピューリタニズム」
マルクスは、宗教は精神的アヘンであると徹底的に否定したことが取り沙汰されるが、本書は、批判しながらも議論の出発点にしていると指摘している。その意味で、マルクスとヴェーバーの宗教的方法は重なる部分が多いという。なるほど、否定と批判では意味が違ってくるわけか。資本主義思想はピューリタニズムから派生したと解釈する人も多いが、本書は、ヴェーバー著「儒教とピューリタニズム」の中に、アジアで唯一日本で資本主義的思想が生まれたと解釈できる部分があるという。それは、おそらく浄土真宗だという。
ところで、儒教とピューリタニズムには人間観の違いがある。キリスト教的な思想では、人間は罪人であって、自らは救いに到達しえないものといった観念がある。一方で、儒教的な思想では、血縁関係や伝統を重視するといった観念がある。ピューリタニズムでは人間を堕落と考えるが、儒教では人間を堕落とは考えない。内面的な成長の欲求を西洋的とするならば、そのまま運命を受け入れて諦めるのが東洋的とするとちょっと言い過ぎかもしれないが、能動的と受動的あるいは積極的と消極的といった印象はある。よって、君子に従う封建的社会が根強いのも、東洋的なのかもしれない。西洋にも、封建的な伝統主義の時代はあったが、宗教改革やルネサンスによって自由思想が広まった。中国の科挙は、まさしく教養人としての官僚層や支配層を示している。この亡霊を追いかけているのが日本の官僚政治である。孔子風に言えば、書物を通じて教養を求めながら、精神を無限に高めることによって自己を完成させる。そこで、書物という物質的背景を必要とするために富が必要となる。だから金儲けをする。つまり、人間形成のための手段として富にも倫理的価値があると考える。一方、プロテスタンティズムでは富の価値観はまったく逆となる。隣人のための奉仕であって、自らの富を直接肯定しているわけではない。その中心的思想に「予言説」がある。救われる者も救われない者もすべて神の予言によって運命付けられる。そして、職業は神から授かった義務、つまり天職と考える。神の予言を人間が知る由しもないので、ひたすら祈りながら励むしかないわけだ。この思想が、自由な個人の勤勉な経済活動と結びついて資本主義を加速させたと解釈される。
キリスト教では神が絶対的な道徳を持つことになるが、儒教では君子が超人的な道徳を有することになる。中世ヨーロッパの国王が絶対的権力を持てずに、ローマ教会にお伺いをたてなきゃならんわけだ。昔「論語」を読んだが、その中で好きな言葉がこれ!
「子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。」
つまり、70歳になったら聖人として完成するわけだが、キリスト教では人間がそんな地位になることはありえない。ヴェーバーは、キリスト教的な思想を「内面的品位の倫理」とし、儒教的な思想を「外面的品位の倫理」として対比しているという。西洋も東洋も宗教的な思想の発展は、似ていると言えば似ているし、違うと言えば違う。じゃ、日本は?東洋的とも言い切れない。一般的には、いろんな文化をミックスする伝統があると言われる。それも間違いではないだろう。極東の遠く離れた地域だけに、最も冷静に異文化を受け入れられたと解釈することもできそうだ。
5. 宗教と経済
ヴェーバーの著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、宗教改革の産物という解釈がなされ、精神面からの考察であって、物質的な利害関係の考察がなされないという批判が通説だという。実際に読んだがそうでもないような気がする。単に、経済行動に思想的なものがどのように影響されるかを考察したものに思える。倫理観だけで資本主義が発生したと主張しているわけでもないだろう。宗教的考察と芸術的考察には、見分けがつかないほど似通った境地に近づくことがある。だから、芸術が宗教に奉仕するような行為が見られるのだろう。しかし、本書は究極の考察を続けると、宗教と芸術には凄まじいほどの緊張関係があるという。宗教の立場からすると、芸術の自己目的とした探求は、悪魔の側に立つことになる。よって、ピューリタンにとって感覚芸術への強い嫌悪感があるという。同じような関係が政治と芸術にもある。芸術的価値の徹底した追及とは、人間のわがままの追求でもある。したがって、平等や協調といった場合に、反発する思考と解釈される。また、宗教と経済にも緊張関係がある。経済活動の目的は利潤を追求するからである。人間行動の基本は、利害関係から生じる。良い意味でも悪い意味でも人間は利己主義である。道徳にもエゴイズムが潜む。しかし、経済学で言う利害関係はあまりにも視野が狭く感じられる。利息が高い方向にお金が流れるといった発想も、そうした典型であろう。そこにリスクの概念が加わったところで、しっくりこない。客観的に社会を安定させるのが、経済の役割であり、政治の役割であるはずだが。人間の価値判断は多様である。いくら世界がグローバル化したところで、民族文化が消滅するわけではない。
社会学は、人間あるいは人間行動を対象にした学問であり、極めて複雑系の中にある。この学問を科学的に解析することは可能だろうか?人間行動をある程度は利害関係によって説明できるだろう。ただ、利害は個人の価値観で判断されるからやっかいである。経済学が扱う利害関係は物質的なものばかりに着目する。だが、実際は内面的や精神的な価値を追求する人も多い。知識を得ることに精神の安定を求める人もいる。また、倫理観や人生観を形成する慣習や信仰などによって価値観が生み出される。人間の行動には、どうしても動機付けのできないものがある。その人にとっての合理性は、他人にとっては非合理性と見なされる。結局、利害関係は個人の多様な理念によって生じ、もはや統計学的に捉えるしかないようにも映る。だが、多様性を平均することに意味があるのだろうか?あらゆる統計データはちょいと視点を変えただけで、どうにでも誤魔化せる。自由 + 平等を2で割ったところで、答えは見つからない。となると、統計的分析にも限界を感じ、もはや社会学の科学的分析は不可能のように映る。だからといって、諦めることにはならない。学問として法則性を追求することで、今まで見えなかった因果関連を解明できる可能性はある。そこに意義を求めなければ学問は成り立たない。少なくとも、物質的な価値評価のみで体系化できたと言い張るよりは、混乱を意識している方が健全である。人間は、永遠に人間自身を探求し続ける宿命を背負っているのだろう。
冷戦構造が終結すると、社会主義やマルクス主義は崩壊したと言われた。現在ではマルクス主義を見直す動きもあるようだが。歴史教育では、社会主義は資本主義の枯渇によって生まれたと教える。教育関係者に共産党系が多いかどうかは知らん!もし、そうならば、なぜ?資本主義の成熟したイギリスやアメリカで起きずに、資本主義後進国のロシアで起きたのか?未だ歴史上に、真の社会主義モデルは出現していないのではないのか?そうした疑問をなんとなく持ち続けている。世間では様々なマルクスの解釈が氾濫する。その混乱を招いていたのは、マルクス主義信奉者たちの奇妙な解釈であろう。本書は、ヴェーバーがマルクスを批判しているというよりは、むしろドイツ社会民主党を批判していると指摘している。なるほど、マルクスの経済批判は、資本主義を前提とした現行経済を批判したと主張する人も見かける。マルクスの主張は、社会主義というよりは、資本主義を認めた上での平等主義という解釈もできなくはない。少なくとも、マルクスをボリシェヴィキと一緒に葬り去るべきではないような気がする。いずれにせよ、マルクスの「疎外」を理解したければ、その著作「資本論」を読むのが一番であろうが、なにしろ大作!生涯読む気がしないだろう。ということで、本書でお茶を濁しておこう。
ところで、マルクスとヴェーバーを対立構図で語られることが多い。確かに、ヴェーバーの著作の中にもマルクス批判を匂わせる記述がある。しかし、本書は、批判しながらも褒めているところもあって、双方の分析手法では、むしろ二人は重なる部分が多いと指摘している。
1. マルクス経済学と疎外
マルクス経済学の対象はあくまでも個人であって、人間を超越したような社会的実体の一環といった発想はないという。そして、経済学を自然科学と同じように理論的方法を適用する。個人はそれぞれ意志をもって目的を設定し、手段を選び、決断しながら行動する。これを説明するのに、自然成長的分業という方法概念を持ち出す。これは、自然に発生した、いわば偶然性による職業分化であって、計画経済などで政治的に仕組まれる分業ではない。この分業が総合和となって、社会全体の経済力として機能する。もちろん、個人の職業は私的なものである。となると、需要と供給の関係の中で、必要な職業が生まれ、その人員配分も自然に組み込まれることになる。まさしく、自由主義や資本主義は、この方法で成り立っている。ただ、こういう社会では、マルクスは「疎外」という現象が起こることを指摘している。生産諸力の総合が巨大化すると、経済そのものが巨大な生物のようになり、人間の意志では手に負えなくなるだろう。こうした段階になると、自然と同じように法則性を持った客観的現象になるという。統計的現象とでも言うか、これを「疎外」と言っているらしい。
「疎外とは、人間自身の力や成果が人間自身から独立して、あたかも自然に法則性を持って運動する客観的過程と化すということである。」
個人の総和が群集の力となった時、個人の無力感を思い知らされる。資本主義が人間を対象とした経済システムであるにもかかわらず、巨大化すると物価の変動には無力となる。人間の欲望の総合力として株価が暴走し、社会そのものを崩壊させてしまう。こうした複雑化する群集の力をどうやって収拾すればいいのか?まさしく、現在の経済が直面する問題である。この対処で、一つ一つの疎外の現象を解消していくにも無理があろう。一つの疎外を解消すれば、新たな疎外が生じる。経済システムの中から社会の運動法則を見つけるのも難しい。そこで、問題となるのが資本家の人格で、彼らを経済的範疇へ人格化できるかが問題であるという。自らの利害関係だけでなく、社会全体の利害関係を意識する人格ということだろうか。疎外とは、絶望論にも映る。本書は、「資本論」が疎外現象の中を動きまわるだけの経済学を批判し、経済の主体は他ならぬ人間であることを明らかにしようとしたものだと語る。あくまでも、「疎外」からの回復という観点からの経済学の考察ということらしい。
ところで、哲学で「疎外」というと、やりきれない!自我の喪失!といった印象を与える。それが、資本主義から人間性が失われると解釈され、人間性を取り戻す意味での社会主義が想起し、その発展型が共産主義や全体主義となり、ついには完全に人間性を失うわけか。
2. ヴェーバー社会学
ヴェーバーもマルクスと同様、経済活動を営むのは個人であると主張しているという。ただ、ヴェーバーは経済の対極とも言える宗教を考察し、宗教社会学に大きな意義を与えている。この宗教的な考察には伝統的慣習も含まれる。ヴェーバーといえば「価値自由」の概念が登場する。これは、不当な価値判断を混入しないことであるが、その観点を人間の主体から遠ざけるという意味ではない。価値判断が完全な客観性に基づくのであれば、あらゆる物の価値は明白なものとなろう。しかし、主観的に価値判断されるのが人間社会である。本書は、目的論的関連と因果関連とが方法的に混同される危険性を指摘している。政治家の政策で思惑がはずれるのは、因果関連の分析が中途半端のまま、目的論的に結論づけるからであろう。現実に、政治が社会を混乱させ、経済政策が経済危機を引き起こす。最大の過ちは、政治主導だけで社会や経済が動いていると勘違いしていることであろう。資本主義が自然成長的な分業で成り立っているからには、あらゆる因果関連を解明することは不可能に思える。だが、ヴェーバーは、主観的な目的論的関連を、客観的な因果関連に組みかえることができると主張している。
「社会学とは、社会的行為の(主観的に思われた)意味を解明しつつ理解し、それによってその経過と影響を因果的に説明しようとする学問。」
社会学では、自然科学とは違って、動機を理解するという過程が加わるという。しかし、この動機を理解する方法が分からん!ヴェーバーの著書では理念型を定義していた。それは、階級や身分によって、理念型を細分化する。例えば、資本家の理念型、労働者の理念型といったあらゆる人間のタイプを分析する。ただ、理念型で抽象化したところで、それに属する人間の中でも意志はバラバラである。となれば、厳密な分析を求めると、理念型は人数分存在することにならないか?ある程度、多数決の原理や確率論に頼ることになろう。ヴェーバーは、人間の意志が自由になればなるほど、学問的に理解しやすくなり科学的な考察が有効になると主張している。そして、社会学の客観的考察が可能になるというわけだが、これが分からん!自由意志が拡大すれば、多様性が増大してより複雑系になるように思えるのだが?人間社会のエントロピー増大の法則とは、人間の凡庸化を意味しているとでも言っているのだろうか?精神の成長が、人間の持つ真の合理性へと向かわせ、共通理念に収束するとでも言っているのだろうか?そして、純粋理性の獲得と結び付けているのだろうか?近代では、ますます凡庸な指導者によって政治が行われるかのように映る。人々の自由意志が進化すると平均化され、精神のスーパースターが出現する可能性は低くなるのかもしれない。
3. 「ロビンソン漂流記」
18世紀前半イギリスで活躍した政治経済記者ダニエル・デフォーの著作に「ロビンソン漂流記」がある。デフォーは、イギリス経済を牽引しているのは中産階級であると確信していたという。いずれ、その考えは産業革命で証明されることになる。
ところで、彼が、ロビンソンとして登場させる人物は、この中産階級の人々に酷似しているという。本書は、この階級層の人々をユートピア的に理想化したものではないかと分析している。そして、アダム・スミスの「国富論」で登場する「経済人」を理解する方法として、この本を薦めている。ちなみに、子供の頃に読んだ覚えがあるが、そんな高級な内容だとは知らなんだ。もう一度読んでみるかぁ。
主人公ロビンソンは孤島に漂着する。そして、船に残った小麦や鉄砲などの資材を利用して生計を立てる。そこには、柵を作って土地を囲い込み、植木をめぐらして住居を囲い、囲い込みの中でエンクロージャー的な生活様式が現れるという。囲い込んだ土地の中で住居や仕事場をつくり、製造を営む。農業をやりながら、製造業を営むというマニュファクチャー的な工業形態とでも言おうか。当時のイギリスは、都市部よりも農村部の中産工業によって経済を牽引していたという。毛織物製造で分業し、雇い主も雇われ人も揃って仕事に励み、奴隷制の面影はない。この本には、世の中で最も幸福なのは上流階級でも下流階級でもなく、中産階級にこそ仕事と精神で有意義な生活ができるという教訓がこめられているという。そして、ロビンソンは合理的な人間として描かれる。現実的な計画を立て合理的に行動しながら、再生産によって規模を拡大する。ここには、再生産システムをよく理解した実践的合理主義があるという。おまけに、ロビンソンは、漂流生活の貸借対照表や損益計算書を作っているというから、資本主義の基本的な姿勢が現れているようだ。マルクスの「資本論」には、経済学者がロビンソン物語を好むことを揶揄している有名な箇所もあるらしい。
この本とは対称的にジョナサン・スフィフト著「ガリヴァの航海」がある。ちなみに、「ガリバー旅行記」も幼少の頃、絵本で読んだような気がする。これは、社会批判の書で、中産階級の暗い生活様式を集めてユートピア化したものだそうな。
4. 「儒教とピューリタニズム」
マルクスは、宗教は精神的アヘンであると徹底的に否定したことが取り沙汰されるが、本書は、批判しながらも議論の出発点にしていると指摘している。その意味で、マルクスとヴェーバーの宗教的方法は重なる部分が多いという。なるほど、否定と批判では意味が違ってくるわけか。資本主義思想はピューリタニズムから派生したと解釈する人も多いが、本書は、ヴェーバー著「儒教とピューリタニズム」の中に、アジアで唯一日本で資本主義的思想が生まれたと解釈できる部分があるという。それは、おそらく浄土真宗だという。
ところで、儒教とピューリタニズムには人間観の違いがある。キリスト教的な思想では、人間は罪人であって、自らは救いに到達しえないものといった観念がある。一方で、儒教的な思想では、血縁関係や伝統を重視するといった観念がある。ピューリタニズムでは人間を堕落と考えるが、儒教では人間を堕落とは考えない。内面的な成長の欲求を西洋的とするならば、そのまま運命を受け入れて諦めるのが東洋的とするとちょっと言い過ぎかもしれないが、能動的と受動的あるいは積極的と消極的といった印象はある。よって、君子に従う封建的社会が根強いのも、東洋的なのかもしれない。西洋にも、封建的な伝統主義の時代はあったが、宗教改革やルネサンスによって自由思想が広まった。中国の科挙は、まさしく教養人としての官僚層や支配層を示している。この亡霊を追いかけているのが日本の官僚政治である。孔子風に言えば、書物を通じて教養を求めながら、精神を無限に高めることによって自己を完成させる。そこで、書物という物質的背景を必要とするために富が必要となる。だから金儲けをする。つまり、人間形成のための手段として富にも倫理的価値があると考える。一方、プロテスタンティズムでは富の価値観はまったく逆となる。隣人のための奉仕であって、自らの富を直接肯定しているわけではない。その中心的思想に「予言説」がある。救われる者も救われない者もすべて神の予言によって運命付けられる。そして、職業は神から授かった義務、つまり天職と考える。神の予言を人間が知る由しもないので、ひたすら祈りながら励むしかないわけだ。この思想が、自由な個人の勤勉な経済活動と結びついて資本主義を加速させたと解釈される。
キリスト教では神が絶対的な道徳を持つことになるが、儒教では君子が超人的な道徳を有することになる。中世ヨーロッパの国王が絶対的権力を持てずに、ローマ教会にお伺いをたてなきゃならんわけだ。昔「論語」を読んだが、その中で好きな言葉がこれ!
「子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。」
つまり、70歳になったら聖人として完成するわけだが、キリスト教では人間がそんな地位になることはありえない。ヴェーバーは、キリスト教的な思想を「内面的品位の倫理」とし、儒教的な思想を「外面的品位の倫理」として対比しているという。西洋も東洋も宗教的な思想の発展は、似ていると言えば似ているし、違うと言えば違う。じゃ、日本は?東洋的とも言い切れない。一般的には、いろんな文化をミックスする伝統があると言われる。それも間違いではないだろう。極東の遠く離れた地域だけに、最も冷静に異文化を受け入れられたと解釈することもできそうだ。
5. 宗教と経済
ヴェーバーの著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、宗教改革の産物という解釈がなされ、精神面からの考察であって、物質的な利害関係の考察がなされないという批判が通説だという。実際に読んだがそうでもないような気がする。単に、経済行動に思想的なものがどのように影響されるかを考察したものに思える。倫理観だけで資本主義が発生したと主張しているわけでもないだろう。宗教的考察と芸術的考察には、見分けがつかないほど似通った境地に近づくことがある。だから、芸術が宗教に奉仕するような行為が見られるのだろう。しかし、本書は究極の考察を続けると、宗教と芸術には凄まじいほどの緊張関係があるという。宗教の立場からすると、芸術の自己目的とした探求は、悪魔の側に立つことになる。よって、ピューリタンにとって感覚芸術への強い嫌悪感があるという。同じような関係が政治と芸術にもある。芸術的価値の徹底した追及とは、人間のわがままの追求でもある。したがって、平等や協調といった場合に、反発する思考と解釈される。また、宗教と経済にも緊張関係がある。経済活動の目的は利潤を追求するからである。人間行動の基本は、利害関係から生じる。良い意味でも悪い意味でも人間は利己主義である。道徳にもエゴイズムが潜む。しかし、経済学で言う利害関係はあまりにも視野が狭く感じられる。利息が高い方向にお金が流れるといった発想も、そうした典型であろう。そこにリスクの概念が加わったところで、しっくりこない。客観的に社会を安定させるのが、経済の役割であり、政治の役割であるはずだが。人間の価値判断は多様である。いくら世界がグローバル化したところで、民族文化が消滅するわけではない。
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