2010-07-04

"タイムマシン" Herbert George Wells 著

「タイムマシン」という言葉が登場したのは、H.G.ウェルズの小説が最初だと言われるそうな。ちなみに、映画と原作はだいぶイメージが違うように思える。映像には明確なメッセージを与える力があるが、文章には読者の感性で勝手に想像を膨らませる力がある。それがいい...
本書はH.G.ウェルズの短編集で、「タイムマシン」、「盗まれた細菌」、「深海潜航」、「新神経促進剤」、「みにくい原始人」、「奇跡を起こせた男」、「くぐり戸」が収録される。H.G.ウェルズといえば、多くの科学者が絶賛するSF小説家で、数学と文学の境界線を曖昧にした作家とでも言おうか、そんな印象がある。「タイムマシン」は科学的な観点からの印象通りの作品であるが、他の作品では知識の広さや感情の豊かさを見せつけやがる。特に「くぐり戸」は、独特な人生観を披露する。ウェルズは、ロンドンの科学師範学校で、物理、化学、生物学、地質学を学び、恩師には進化論者トマス・ヘンリー・ハクスリーがいたという。ハクスリーが学校を去ると、政治や文芸にも興味を持ったそうな。なるほど、それぞれの作品に進化論的味わいがちりばめられる。この作品群で、小説家の見事な多重人格性に魅せられてしまう。

数学は、あらゆる次元を平等に扱う。ただ、実際に幅のない線なんて存在しない。厚みのない平面なんて存在しない。おそらく、縦、横、高さだけで定義できる立方体なんて存在しないだろう。これらは、数学上の抽象概念に過ぎない。数学者は、時間を一つの次元に過ぎないことを心得ている。しかし、人間の認識は時間という次元を特別扱いする。実存を定義しようとすると、どうしても時間の概念を必要とする。人間は、三次元空間の中で、左右を自在に移動することができ、上下を重力に反発しながらもエレベータや航空機といった道具を使って移動できる。だが、時間を前後に移動することはできない。生から死へ流れる一方通行に、一定の間隔を刻むことぐらいしかできない。時間は、次元の中でも異質なのだ。人間は、「三次元 + 時間」という空間認識の中で生きている。おそらく、あらゆる次元を認識できる生命体は、「認識できる次元 + 時間」という概念からは逃れられないのだろう。
しかし、だ!実は、時間を自在に行き来している可能性はないのだろうか?時間の経過に対して、脳の記憶素子も状態遷移するはず。未来に進めば過去の記憶も残るだろうが、過去に戻れば現在までの記憶はすべて失われるだろう。だとすれば、移動していることすら認識できないだけではないのか?時間が戻ることによって消去されるはずの記憶の欠片が、わずかに残ることはあるかもしれない。磁気記憶装置のデータを消去したところで、わずかに磁界の痕跡が残るように。これが予感というやつの正体か?霊感というやつの正体か?実存の観念からすれば、物体の寿命よりも未来に進むことはできないだろう。となれば、物体が存在した時間の区間内であれば、移動できてもよさそうな気がする。人間は、物体の存在を時間の流れの中で、物体の移動や変化の状態を観察しながら認識する。となれば、時間を自在に移動することを認識するということは、時間を遠目から眺めることになり、認識自体の自己矛盾に陥ってしまうのかもしれない。自我の実存にいまいち自信が持てないのも、夢と現実の境界がいまいちはっきりしないのも、時間の流れを遠目から眺める視点が持てないだけのことかもしれない。
そして、アル中ハイマーは一つの帰結に至る。時間を自在に移動できても認識できないのであれば、タイムマシンを作っても意味がないではないかと...白けること言ってごめんなさい!ウェルズさん。

「タイムマシン」
タイムマシンを発明したタイム・トラベラーは80万年後の世界を旅する。そこで見た未来人は、地上に住む知力や体力の退化したエロイ族と、光に怯えながら地下に住むモーロック族の二つの種族であった。エロイ族は、ただ美しいだけで役に立たない存在になりさがり、辛うじて地上を独占する。モーロック族は、地下に住み慣れて、日光に絶えられない体質になっている。この二種族には、資本者階級と労働者階級の社会的差異の成れの果てが暗喩されているように映る。富裕層は排他的傾向が強く、教養を高め、貧困層との差別化を図る。利益のために土地を所有しながら独占欲を強める。まさしく経済人と言おうか。そして、この階層だけで分け合う平等を享受する。その一方で、労働者は、劣悪な環境に慣れながらますます地下へ潜り、それなりに幸せに生きる。賃貸料が払えなければ、地上に生きる権利も与えられないわけだ。そこには、地上には持てる者のみが住み、地下には持たざる者が追いやられるという構図がある。エロイ族は、所有独占の果てに安穏で快適な生活が保障されると、生存競争の中で培われる動物的本能が退化する。モーロック族は、地下の劣悪な環境で食糧不足に喘ぎ、人間が人間を食すというあってはならない人類の概念が失われる。そう、モーロック族は、エロイ族を捕食する体質へと変貌したのだ。地上で安穏と暮らしていた人々は、かつて地上から追い出した人々によって脅かされる。遠い未来には、人類の精神が自殺してしまった時代があったというわけか。
習慣と本能が役に立たなくなった時、はじめて動物は知能を動員する。変化も変化の必要もなければ知能は生まれない。また、人間は飢餓に追い込まれれば、理性的本能も簡単に放棄することができる。家族愛や子孫愛は、あらゆる外敵から身を守るためにすべて正当化されよう。生存競争の原理では、活動的で賢い者が生き残るようにできている。だから、社会を均衡させるためには、有能な人間が自己を抑制し、弱者に協力するようなことが必要となる。だが、弱者が強者にいつも保護されることが当たり前になってくると、強者の優位性は失われていき、ついに弱者と強者の立場は逆転する。人類は、一度は生活も財産も完全に保障される社会を構築することができるかもしれない。失業問題や社会問題もほとんど解決され、平穏な社会がもたらされるような。人口が均衡した豊かな社会では、子供を多く生むことは国家への功績どころか罪悪にもなろう。嫉妬や憎しみといった不愉快さをすべて放棄した洗練された精神の行き着く果てとは何か?社会の完全なる調和とは、すべての欲求を放棄することなのか?精神と肉体の均衡がとれれば、勇気や闘争心はかえって邪魔なものになるのかもしれない。芸術的衝動でさえ消滅してしまう。そして、成熟しきった挙句に、下等生物よりもはるかに劣った社会になり下がるのかもしれない。偉大な生物界において、一匹の微生物よりも貢献できる人間など一人もいないというわけか。

「盗まれた細菌」
細菌学者は、ちっぽけなコレラの病原菌で大都市を絶滅させることができるなどと大言壮語する。その話を聞いた男は、世間からつまらないと蔑まれた孤独な人間がどんなものかを思い知らせてやるために、細菌を盗んで自ら飲んでしまう。細菌が社会にばらまかれるのを楽しみにしながら。彼は無政府主義者だったのだ。しかし、細菌学者は、そんなことは知らずに、新種のバクテリアの培養したものを、冗談でコレラ菌と言ってからかっただけだった。そして、実は皮膚病の菌に過ぎないと笑った。

「深海潜航」
ほんまに潜航できるのか懐疑的な海軍中尉と、公平そうな口調で話す部下の二人が、潜水艇をめぐって論議している。まるで飲み屋の座談会のように。そして、泡を立てて潜航する様子を海上から眺めている。時間が経ってもなかなか浮上してこない。悪い想像をしていると、ようやく浮上してきた。搭乗員は大怪我をしていた。彼は奇妙な体験をしたらしく、再び潜りたいと言う。海底に新世界を見つけたというのだ。その体験談では、ガラス窓から擬似人類とも言うべき深海生物が見えたという。奇怪な住人どもが潜水艇の鉄壁を強くたたき、更に、群集によって深海へと引き摺りこまれる。ぼやけた建物が並んでいるように見えるのは、難破した船であろうか?窓越しに奇怪な幽霊の大群。ようやく潜航が止まると、連中は艦艇の前にひれ伏し、祭壇であるかのように跪いた。これが海底都市の姿だという。海底人たちは、地上の人間どもが大気中の奇怪な生物で、海上の神秘的な暗黒から降りて来て、やがて不慮の死を遂げると思っているのか?海底人にしてみれば、難破した船も潜水艇も、海上から降ってきた暗黒のかたまりに見えるだろう。それは、人間が、宇宙から流星のように落ちてくる火のかたまりを眺めるのと同じ感覚なのかもしれない。まるで宇宙人が到来したかのように。彼は海底都市に憑かれて、再び改良した潜水艇で潜航する。だが、二度と戻っては来なかった。海底都市の実証は、もう企てられることもなかろう。

「新神経促進剤」
無気力な人々を、進歩的な時代のテンポに合わせることができる総合神経興奮剤を発明した教授がいた。催眠剤や鎮静剤や麻酔剤の類いは、精神を麻痺させて中枢エネルギーを増強するか、神経の伝導力を低下させて適宜なエネルギーを増強するかでしかない。だが、教授が作り出したいのは、まさしく副作用もない全身くまなく効く純粋な興奮剤だという。その効き目は何百倍か何千倍か想像もつかない。そこで、教授と聞き手の二人で薬を試すことにした。薬を飲んだ二人が外出すると、落下する物体が止まっているように見え、自転車を忙しそうにこいでいる人が静止しているように見え、男女が向かい合って微笑んでいるのも永遠であるかのように見える。二人は、通常の千倍の時間感覚で物事を感じ取ることができるのだった。二人が普通の感覚で動くと、実際にはあまりにも速いために、空気との摩擦で周囲が燃えてしまう。そこで、ゆっくり行動するように心掛ける。やがて、薬の効き目がなくなった。今度は、テンポの速い社会でストレスを感じないような緩和剤を考える。
新促進剤を使えば仕事は速く片付くだろう。だが、その分仕事が増えるだけのことで精神の満足度は変わらない。また、緩和剤を使ったところで、時間を引き延ばすだけのことで、ストレスが解消されるわけではない。所詮、精神を促進しようが緩和しようが、時間感覚そのものは変わらないではないか。時計が速く回ったり、遅く回ったりするだけのことで、なにも人生が豊かになるわけでもなんでもない。人間は相対的な認識しか持てないのだから。にもかかわらず、懸命に薬の開発に取り組む滑稽な姿がある。

「みにくい原始人」
古い骨を発見したところで、素人から見れば単なる骨だ。だが、考古学者は、博物館に標本を飾って奇妙な名前を付ける。火や石器を使いマンモスに追いまわされた動物を、原始人やホモ・サピエンスなどと呼ぶ。原始人は人間に酷似している過去の動物というだけで人類の祖先ではない。ネアンデルタール人は、人間とは歯の並びも違えば、顔面が大きく額が小さい。脳の大きさは現代人と同じくらいだが、後脳が大きく前脳が小さく構成がまるで違う。となれば、思考方法も違うだろう。記憶力が強く、推理力が弱く、感情が強く、知性が低かったことが推察できる。類人獣の研究が進めば、血のつながりも認められず、人間とは似つかない動物に見えてくる。真の人間種は、南からヨーロッパに入ってきたとされる。そして、ヨーロッパで、真の人間種とネアンデルタールが出会って、互いに争ったのかもしれない。ライオンや熊と戦うように。
人間種とネアンデルタール人の違いは、集団社会を形成したかどうかの違いであろうか。集団化が生存競争の鍵になるのかもしれない。社会形成では女性の存在が大きい。多種族から嫁をもらい、兄弟の殺し合いを仲裁するという調停役にもなる。近親相姦というタブーは本能的に育まれたのだろうか?現代では、遺伝子的に悪影響を与えることが説明できるが、まさか原始時代にそんな知識はないだろう。人間には、集団社会を形成し、掟や自制心を持つ複雑な精神構造がある。奇妙なタブーという制約も慣習から形成される。迷信の役割は、悪事に対する罰として恐れさせる。そこに無条件に成立する秩序がなければ、集団社会は維持できない。非力な人類が生存競争で生き残ってこれたのも、この無条件に従う秩序によるものであろうか。自然界では、集団生活の苦手な種族ほど、生存競争に負けるようにできているのかもしれない。現代でも、集団から外れた感覚の持ち主は社会の害として差別されるのは、生存競争の名残りであろうか?
本作品は、原始人と人類の祖先が戦う様子を空想的に描く...なんとなく文明批判が隠されているような...

「奇跡を起こせた男」
とても奇跡の起こせるようには見えない男がいた。むしろ懐疑主義者で奇跡なんて信じない。ひどく議論好きの雄弁家。その男が酒場で奇跡について議論する。そして、奇跡を定義した。
「自然の成り行きに反するでき事で意志の力によって成し遂げられるものだよ。特別な意志の働きなしには起こり得ないものだよ」と...
ところが、「ランプにさか立ちになって、燃えつづけろ!」と男が命令すると、その通りに奇跡が起きた。集中力をきらすとランプが落下して壊れた。すると、店主が怒って店から追い出された。男は、自分の能力が信じられなくて自宅でいろいろと実験をすると、なんでも実現できることに驚く。そして、自分の意志力は、よほど珍しく強力なものに違いないと結論付ける。だが、この能力を使うにしても、用心深く人目を警戒しなければならない。男は奇跡を信じない人間としても知られていたので、「奇跡なんだ!」という言い訳も通用しないから。
そこで、牧師に相談する。牧師の目の前で、なんでも物が変えられることを見せる。これは奇跡か?魔術か?人を地獄へ送ろうと想像すれば、実現できてしまうのだ。牧師は奇跡を起こす男をおだてて教会堂で奇跡を行わせる。二人は奇跡の能力に自信を持って、空想と野望をみるみるうちに膨らます。議事堂地区の酔っ払いどもを片っぱしから正気に戻させ、鉄道交通を改善し、土地を耕し、教区牧師のこぶを取り除いたりと、あらゆる善行に酔いしれる。牧師は、月を指差してヨシュアと呟く。ちなみに、旧約ヨシュア記に、太陽と月に静止せよ!と命令する話があるらしい。男は、月を見上げて少し高過ぎると反論する。牧師は、ならば地球の自転を止めればいいとそそのかす。地球に自転を止めよ!と命令すると、男は猛烈なスピードで空中に飛び出した。服は摩擦熱で焦げ始めた。次に、安全無事に地上におろせ!と命令する。無事に地上へ着いたはいいが、辺りは猛烈な風が天地を吹き荒れる。暴風と雷が鳴り響き、穏やかな月夜はなくなり、町そのものがなくなってしまった。すべての生物や建物はぶつかりあってこなごなになってしまった。気象変動を起こせなどとは命令してないのに。男は、命令の何かが間違っていることは分かるが、それが何かが分からない。やがて、奇跡を起こせる能力自体が災いだったことに気づく。ついに、奇跡よ去れ!すべてを元に戻せ!と命令する。そして、目を開けると、記憶も精神もすべて元に戻り、酒場で奇跡について屁理屈を並べる自分の姿があったとさ。
結局、奇跡が起こせる、あるいはすべての欲望が満たせる能力とは、災いしかもたらさないというオチか。あらゆる物事や事象は、因果関係から成り立っている。くだらない勝手な欲望から奇跡を起こしても、世界の均衡が崩壊するだけというわけか。
また、人間は、欲求が満たされずに、夢を描き続けている瞬間が最も幸せでいられる。天才は、あらゆることに気づく能力があるので、余計な悩みを背負い込むのだろう。となれば、凡人の方がはるかに幸せであろう。そして、酔っ払いは凡庸な幸せを謳歌するのであった。

「くぐり戸」
ある男にくぐり戸が生活に入ってきたのは、幼児の頃からだという。緑のくぐり戸には、白い塀がついていて、真っ赤なツタが紅葉していて美しい。その男は、早熟な少年で素晴らしい頭脳を持ちながら自分の生活を味気ないものだと思っていたようだ。彼は、子供の頃から、そのくぐり戸を開けて入りたいという衝動があったが、その行為をずっと保留してきた。自由に入ることができることは分かっているのに、なぜ?くぐり戸に入ると、勉強に集中できず、父親から叱られるということらしい。くぐり戸にはなんとなく魔法の楽園のような雰囲気が漂う。彼は夢想する癖があったという。
ある日、そのくぐり戸の前で、幼い頃の楽団や楽しい仲間たちとの思い出に耽る。そこへ、本を持った女性が現れた。なんとその本には、男の生きてきた物語が綴られていた。忘れかけていた記憶も蘇る。読みすすめていくと、くぐり戸の前で、ためらいながらたたずむ自分の姿にぶつかる。次のページをめくると、楽しい思い出は何も記載されていなかった。思い出はすべて夢想だったのか?子供の頃、秘密にしていたくぐり戸の話を友人たちに打ち明けたことがあった。すると、友人たちを案内する羽目になる。だが、どうしても、くぐり戸が見つからず、友人たちにからかわれる。それでも、憂鬱を感じながら、ずっと魔法の楽園の夢を見続けている。
男は、勉強に集中して出世のために努力し、たくさんの苦しい仕事をしながら、高名な政治家となった。あれから何度かくぐり戸にぶつかったが、またもや衝動に従わなかった。やがて、男の死が新聞で報じられた。死体は駅近くの深い穴で見つかった。公衆が立ち入るのを防止するために柵で囲まれていたが、木戸口には鍵がかかっていない。男は、その木戸口を入って穴に落ちて死んだのだ。危険な木戸口が、くぐり戸に見えたのだろうか?緑のくぐり戸は、幻だったのか?幻覚が、醜い世の中からの脱出口を提供したのか?これは事故なのか自殺なのか?

2010-06-27

"ふつうのコンパイラをつくろう" 青木峰郎 著

本屋で立ち読みしていると、嵌ってしまった。こいつは、なんとなく凄い!なにしろ、ド素人の酔っ払いでさえも理解した気にさせてくれるのだから...ただし、これがふつうかどうかは知らん。
半分ほど読み終わったあたりであろうか、600ページ余りと重たいので腕が疲れてきた。ちょうどその時、カウンタから鋭い視線を感じる。お姉さんと目が合った。ドスの利いた声で「この本を頼む!」と声をかける。お姉さんは決まりきった営業台詞であっさりとかわす。どうやら照れ屋さんのようだ。

コンパイラの構造を眺めていると、昔のくだらない記憶が蘇る。実は、論文を書くのにドキュメントコンパイラなるものがあるといいなぁ、と思った時期がある。自分の文章を解析しながら、せめて誤字脱字チェッカだけでもできないものかと考えたりしたものだ。精神の泥酔者は嫌になるほどミスが多い。特許部から大量に添削された資料が戻ってくると、いつもうんざり!代理士と話をするのが憂鬱で仕方がなかった。周りには姑チェックの鬼が一人や二人はいるもので、いつも助けられる。
ところで、自分の書いた文章を解析するパーサを作るのは虚しいものがある。自己否定するような、自己嫌悪に陥っていまいそうな...自我の存在を少しでも認めたいがために、無暗に形容詞を混ぜたいという衝動は抑えられない。そして、自我は発散し、ついにはドキュメントコンパイラはcore(ゲロ)を吐くのであった。技術論文であれば、形容詞の扱いも制限できて、ある程度は形式化できそうな気がする。ボキャブラリが乏しいアル中ハイマーの文章ならば、効果的だろうと思った。しかし、形容詞には微妙なニュアンスの違いを吸収する緩衝材のような役割がある。いわば文章の華のような存在で、文章で癒されるのは形容詞の部分が大きい。
最近では、とても技術資料とは思えないような文章を書くようになった。それでも、ええんでないかい!精神の動きに身を委ねて!どうせ、まともな文章が書けるわけではない。元来、文章恐怖症な上に筆不精なところがあったが、精神の泥酔とともにそんな感覚も麻痺してしまった。脂ぎった欲望を捨て切った時、自然に精神が解放されるのだろうと信じて...

コンパイラは、ほとんど言語仕様で決まるようなものである。しかし、近年はダイナミックリンクも当り前となり、いまやOSを含めた実行環境に依存すると言ってもいいだろう。言語仕様にガベージコレクションのような強力な機能を搭載しているものや、実行環境に実行速度を上げるためのJIT(Just in time)のような機構を備えているものも珍しくない。スクリプト言語とはいえ、実行時に機械語に翻訳しながら動的にコンパイルするなどは普通に見られる。こうなると、従来のインタプリタの概念は、あまり意味がないのかもしれない。
言うまでもないが、コンパイラは作成者の意図を明確に指示しなければ正常に動作しない。まず、新たにプログラミング言語を使う時に注意することは、データ型の整合であろうか。個人的にはデータ型の定義が曖昧な言語はあまり好きになれない。いまだにbasicのイメージが残っているからであろうか?しかし、流行のスクリプト言語は、ほとんど曖昧な方向にあるようだ。確かに面倒な記述から解放されるのはありがたい。数年前から好んで使うRubyも全般的にデータ型の定義は緩やかである。だが、Rubyの場合は数値リテラルなど厳格に型チェックされる部分もあって、その按配が肌に合う。
曖昧さと言えば、構文解析で難しいイメージがあるのが、選択制御文である。C言語のif文の曖昧さは有名らしい。その感覚は酔っ払いだけではなかったか。elseがどのifにぶらさがっているのか、あるいは、ネストが深くなると選択肢の衝突が起こったりする。こうした問題は慣習的に回避しているところがある。ちなみに、回路設計ではハードウェア記述言語(HDL)を使うが、ここでも曖昧な記述はとんでもない回路を生成し、シミュレーションと実装がマッチしなかったりする。
こうした言語の曖昧さの按配というものは主観的な要素が大きい。どんな業界でも見られる暗黙というのが意外と紛らわしい。専門用語ですら、会社や組織によって微妙なニュアンスの違いを見せるのだから。したがって、言語の好みが分かれるのは自然であろう。そして、コンピュータ言語の多様化が進むのかもしれない。生産効率性という意味では矛盾するのかもしれないが、いや、人間社会の多様化には矛盾しないのか?いずれにせよ、製作者がユーザ意識とマッチするものを見出すことができれば、その業界で生きていく幸せが得られるのであろう。

本書は、一冊を通してC♭(シーフラット)という言語のコンパイラcbcを作成する。これは、ほぼC言語のサブセットで、ポインタ演算など主要部分を実装しているから、なんとなく凄そうなオモチャである。実行環境が、x86系で動作するLinuxをターゲットにしているのも手軽だ。ちなみに、C言語とJava言語を知っていることが前提だという。そういえば、むかーしJavaをちょろっとかじったことがあるが、その程度の知識でも十分についていける。そして、構文解析、抽象構文木、意味解析、中間表現から、アセンブラ、リンカ、ELFファイルの作成、更にx86アーキテクチャまで網羅され、プログラミングの実行環境を一冊で見通せる構成となっている。物理アドレスと仮想アドレスにおけるポインタイメージや、限られたレジスタでのスタック構造と関数呼び出しのイメージなどが少々くどく感じられるのは、初心者にも配慮しているからであろう。それにしても、これだけを一冊で網羅しようという試みには畏れ入る。
また、スキャナ(字句解析)やパーサ(構文解析)の実装にはJavaCCを利用し、アセンブラやリンカにはgnu環境を利用している。コンピュータの歴史で、字句解析や構文解析のノウハウが蓄積されているので、こうした定石を使うのが手っ取り早い。業界スタンダードから逸脱したツールは相手にされないということだろうか。考えてみれば、クロス環境がgnu環境で揃うのも凄い時代である。アル中ハイマー世代でお馴染みのアセンブラといえば、masmであろうか。なにしろ、組込み系では、C言語のような高級言語のコンパイラでは性能が出せないために、必然的にアセンブラで書いていた時代である。20年ぐらい前かぁ。
ところで、C言語って今でも高級言語なの???

1. cbcの実装イメージ
C♭には、プリプロセッサがない。したがって、#defineや#includeの代わりにJavaに似せてimport宣言を導入している。データ型には浮動小数点の機能がない。他にも構造体や共用体にも制限がある模様。インポートファイルの構文は、関数宣言、変数宣言、定数宣言、構造体や共用体の定義、typedefのみ。これだけあれば十分に実用レベルと言えよう。ちなみに、パッケージ構造はJavaの標準的なディレクトリ構造に従っているという。
mainメソッドの実装は、単純な構造をしている。コマンドライン引数をOptionクラスのparseメソッドで解析し、SourceFileオブジェクトのリストを得る。SorcsFileオブジェクトは、ソースコードを一つ指定して、buildメソッドに丸投げする。buildメソッドは、foreach文でSourceFileオブジェクトを一つずつ取り出し、Compileメソッドでコンパイルする。Compileメソッドは、ParseFileメソッドでソースコードをパースする。その結果、得られるASTオブジェクト(抽象構文木)に対して、semanticAnalyzeメソッドで意味解析を行う。更に、IRGeneratorクラスのgenerateメソッドでIRオブジェクト(中間表現)を生成する。
ここまでがフロントエンドのコード...
続いて、generateAssemblyメソッドでアセンブラコードを生成し、writeFileメソッドでファイルを書く。最後にlinkメソッドを呼び出して、オブジェクトとライブラリをリンクするといった感じ...

2. JavaCC
JavaCCは、スキャナとパーサを兼ねていて、両方を1つのファイルで同時に記述できるという。パーサジェネレータは、LLやらLALRやらLRといった扱える文法の広さによって区別されるようだ。ちなみに、LRが最も広い文法が扱える。どんなパーサも万能であるはずがない。処理速度など用途に合わせて使い分けるのであろう。
JavaCCは、LLパーサジェネレータで、専用ライブラリを必要としないという。人によっては、パーサジェネレータをコンパイラコンパイラと呼ぶらしい。つまり、コンパイラを生成するコンパイラという意味。JavaCCのCCもコンパイラコンパイラの略。ちなみに、JavaCC4.0では、エンコーディングを指定して日本語文字列のパーサ処理ができるという。このあたりにうまいこと規則を埋め込めば、ドキュメントコンパイラなるものも作成できるのかもしれない。
本書は、字句解析にJavaCCの持つ正規表現を利用している。JavaCCには、抽象構文木を作るための「アクション」という機能があるという。本書は、自力でアクションとノードクラスを書いて構文木を構築しているが、実は半自動生成できるツールにJJTreeというものがあるらしい。JJTreeは、ノードのメンバを配列で持つ設計になっているという。あまり配列に抵抗を感じないが、著者の好みには合わないらしい。

3. パーサの流れ
パーサと言えばyaccの時代が続いていた。yaccはLALRパーサジェネレータの代表格だそうな。
最近は、Packratパーサというものが登場したという。無限に先読みできて、スキャナとパーサを区別せずに書けて、メモリ消費量はソースコード長に比例するという特徴を持っているという。しかも、文法が曖昧にならず、ぶらさがりelseのような問題が発生しないのだそうな。
他にも、プログラミング言語をそのまま使って文法を記述する手法で、パーサコンビネータという技術があるという。JavaCCがJavaとは違った文法を記述するのに対して、そのままの言語でパーサが記述できるので、パーサジェネレータ自体がライブラリとなって、JavaCCのような別のツールを必要としないらしい。プログラミング言語を同じ言語で解析するとなると、自己矛盾に陥りそうな気もするが...

4. プログラムの実行イメージ
プロセスのメモリ展開には、mmapシステムコールを使う。そして、ELFセグメントとメモリ領域の対応や、スタックやヒープの関係など、プログラムの起動から終了までの過程が説明される。
また、GOT(Global Offset Table)とPLT(Procedure Linkage Table)のアドレス取得イメージから、実行可能ファイルであるPIE(Position Independent Executable)の生成といった実行イメージが解説される。ちなみに、GOTはプログラムを位置独立にする柔軟な仕掛けであるが、セキュリティ上は問題があるという。任意のアドレスへ飛ばすようなGOT上書き攻撃があるから。

2010-06-20

"研究室ですぐに役だつ電子回路" 阿部寛 著

「屁理屈はどうでもよいから、こんなことを実際に測定したいというときに、間違いなく測定できる手法を知りたい。」
これが、本書のコンセプトだそうな。とはいっても、基本的な理屈は知っておかなければなるまい。最小限の理論で役立つ実践的な方法といったところだろうか。そして、伝送系やマイクロ波における回路理論をコンパクトに綴ってくれる。ただ、トランジスタやオペアンプを使った、ちょっとした回路製作を期待していたが、この点ではいまいちか。それも、物性屋からの視点が色濃いからであろう。おいらには、ちょっと違った感覚を味あわせてくれておもしろい。
今宵はなんとなく新人時代を思い出す。最近、新人君と接する機会が多く、失敗談を曝け出すようにしている。ちなみに、新人君を勇気づけるための失敗ネタは、いくらでも提供できる。
主語に「友達の友達は」と付けながら...それって自分のことか?アル中ハイマー病患者に定かな記憶を期待するもんじゃない。武勇伝を重なることは、後に笑いネタにできるからいい。だから、いまだに失敗に快感を覚えるのか?

今では、ほとんどソフトウェア寄りの仕事ばかりで、すっかり回路製作に縁が無くなった。昔は、「回路治具」と呼んでいたが、今でも使われる言葉だろうか?方言かもしれないなぁ。要するに大人のおもちゃである。経験してきた電子回路の仕事といえば、主にデジタル回路に実装するためのアーキテクチャ設計といったところだろうか。おいらにとってアナログ回路は、デジタル回路の実験のための補助的な位置付けにしかない。アナログは物理数学の領域にあり、苦手な分野から逃げ回っていたという経緯がある。とはいっても、システムを安定に動作させるために、安定化電源や確実なリセット動作は必須である。三端子レギュレータを使って、安価な電源回路ぐらいは製作したものだ。システムが複雑化すれば、電源シーケンスを疎かにすると、ラッチアップや過電流の原因ともなる。ちなみに、素子を何度か燃やしたことがあり、先輩から呆れられたものだ。
電池駆動となると些細な工夫が必要になる。電源オフ時にマイコンを動作させて、EEPROMやフラッシュメモリにバックアップさせたい場合は、遮断回路にも気配りする。
デジタル回路はノイズ源でも悪名が高いので、システムの誤動作には肩身が狭い思いもした。
また、実験室では、テスト用の簡易的な周辺回路が重宝する。例えば、振幅や周波数やデューティ比を制御できる発振回路や、モノマルチを使った簡単な信号発生器や、ピーク検出器といったものである。デジタルシステムでは、ビット誤り率を計測するカウンタ回路も便利である。
主に使う知識といえば、差動回路や帰還回路といったところだろうか。ほとんど理論は無視してカットアンドトライで誤魔化していた。差動の対称性が、耐ノイズ性に優れているのはなんとなく感覚で分かる。微小信号でも、双方でスイングすれば伝送系で効果がありそうに感じる。その重要な特性は、外因に対する同相の除去効果である。帰還回路では、負帰還で高精度の信号処理をしたり、正帰還で発振器を作ることができる。
こうしたテスト用回路を、すべて高価な装置に頼ることは非現実的であろう。

パソコンと連携してデータ解析するのは便利である。当時、測定器のI/F仕様は、GPIBやHPIBといったものが主流だった。当時は、I/F仕様は自然に頭に入っていたような気がする。自作ボードとパソコンを接続する時に手軽なのがRS-232Cで、マイコン制御するのにアセンブラで記述しても大して手間がかからない。今では、USBを持った市販ボードや雑誌の付録ボードなどが登場して、随分と手軽になったようだ。しかも、大規模なFPGAが搭載されたボードも登場して、CPUやDSPのソフトウェアコアも体験できる。
おいらの新人時代に、ちょうどプログラマブルデバイスが登場した。ザイリンクスのLCAが登場したのが80年代。PALやGALが登場し、74シリーズで組み上げていた時代には画期的だった。まだ、FPGAなんて言葉すらなかった時代である。1000ゲート規模のLCAにランダムロジックを実装すると、動作周波数3MHzで動かすのも苦労する。しかも、使用効率30%ぐらいまで下げないと動作せず、手探りで分割しながら基板の修正にも追われるなど、メーカー公表値で全く動作しなかったのを覚えている。とても製品に搭載するなんて発想もなく、実験レベルのデバイスとして認識されていた。こうした記憶を掘り起こせば、現在のFPGAの性能の高さは驚異的である。なにしろ、アマチュアでも高機能の回路設計を楽しむことができるのだから。
ところで、どんな学問でも言えるのかもしれないが、プロとアマの境界線がだんだん曖昧になっていくような気がする。情報化が進み、知識を得るのが便利な世の中になればなるほど、アマチュアの中から優れた専門知識が誕生することも珍しくない。プロの能力として差別化するのも大変な時代とも言える。そして、プロ意識を持続することも難しくなろう。悲しいかな!興味のあることにしか反応できないアル中ハイマーは、プロ意識とは永遠に無縁である。

1. 実験環境と心構え
本書は、実験における心構えから語られる。そして、乱雑な環境には研究者の基本姿勢が現れるという。そういえば、新人時代、先輩から整理整頓の大切さを指摘された。ボードの製作では、ノイズを抑えるための配線の美しさというものがある。実際に、乱雑な設計やスパゲッティ配線は、怪しい動作をする。
また、抵抗やコンデサーといった部品素子の在庫をチェックして、不足分を予算化するのは新人社員の仕事である。逆に、便利な部品や、興味のあるICなどを、予算に組み込む特権がある。とはいっても、知識が乏しいので先輩の影響力を強めるのだが...そのうち要領を得て、試したい実験のための部品をこっそりと揃えることができるようになる。そして、ICや部品や測定器のカタログを眺めるだけで楽しくなったものだ。
本書は、予算が豊富にあると、必要以上に高価で高機能な測定器を買おうとする悪弊に陥ると指摘している。なるほど、バブル時代になると予算も通りやすく、下っ端のおいらでさえ、高価な計測器をほぼ占有できた。GHz帯の測定器など、何の研究に使うんだと皮肉られたものだ。当時のマイコンは、8bitが主流で動作周波数もせいぜい10MHzぐらいだから、オーバースペックであったのは間違いない。実験室では、古びた実験机が汚くて買い換えを提案したりもしたが、年季のはいった木製の机にもそれなりに意味があった。スチール製だと電磁波が反射するので、電気的に影響のない材質でなければならない。
また、測定器や装置などの配置も馬鹿にはできない。長時間の実験では、疲れない姿勢を保ちたい。効率的で無駄のない実験室というのが理想であろう。研究所ということもあって、実験環境は空間的にも恵まれていた。実験机も大きく、オシロスコープ、ロジアナ、スペアナ、コンピュータなどが自由に配置できた。しかし、環境が恵まれていると実感したのは転職してからである。人間は、自分が優遇されていることに、気づきにくいものであろう。

2. 材料のインピーダンス
「インピーダンスは、一般に電子回路、電子部品材料の交流の入力に対する応答から定義される量で、交流電圧に対する交流電流の流れにくさを表す量である。直流の電気抵抗は、周波数がゼロのインピーダンスということもできる。」
この言葉は、さりげないようで、インピーダンスの複素特性をうまいこと表現しているように思う。電圧や電流は、現実には実数の量であるが、電圧と電流が絡み合うと位相関係があって厄介となる。もし、回路が線形であれば、複素空間に持ち込んで最終的な量を実数部として扱えばいいだろう。本書は、物質の複素誘電率を求める例から、材料のインピーダンス測定が、物性物理学の理解につながることを匂わせてくれる。しかし、物質のインピーダンスを測定することは現実に難しい。例えば、コンデンサの電場分布では、エッジ効果も考慮しなければならない。インピーダンスの測定といえば、基本中の基本であるが、その奥深さを教えてくれる。位相があるということは、共振する場合もああれば、うまいこと打消し合うように構成することもできる。こうした特性を利用して、様々な回路アイデアが登場する。位相の測定だけでも一苦労と言えよう。そこで、位相測定では、二重平衡ミクサ、矩形波間の遅延時間を測定する方法、掛け算器による位相を検出する方法、サンプリングによる高周波の位相検出が紹介される。昔、位相検出回路を、入力信号のトリガに役立てたりしたものだ。

3. 四端子法
本書は、材料の電気抵抗を測定するのに、四端子法を紹介している。ただ、理論は単純でも、おいらにはあまりない発想なのでメモっておく。プリント基板や配線パターンの設計者は、こうした発想が大切なのだろう。
単純に考えれば、材料の両端に電極を付加して、その電極間を測定すればいいはず。しかし、単に金属を真空蒸着しただけでは、オーミックな電極はできない。ちなみに、オーミックな電極とは、電極にほとんど電圧が印加されず、単に電流の流し口になる電極のことである。電極と材料の間には、複雑なポテンシャル障壁が形成されるので、電圧が障壁近傍に集中し、材料に一様に印加された状態にはならない。半導体ともなれば、小数キャリアの注入が発生したりと厄介である。
そこで、四端子法が多用されるという。まず、電流用の電極を材料に付加し、電極から十分に離れたところに測定用電極を二つ付加する。これはオーミックである必要はないという。つまり、電流用電極から十分に離れているので、奇妙な障壁近辺の現象に影響されることが少ないというわけか。

4. PLL回路
PLL回路は、位相差検出と、電圧制御発信器と、分周器で構成される。これは、テスト入力用の信号発生器で、位相をロックさせたりするのに便利である。おいらのおもちゃにもエントリしていた。
本書は、PLL用ICを使った例を紹介している。そして、発振の振幅制御にはPINダイオードを減衰器として使っている。また、ダイレクトデジタルシンセサイザ(DDS)の選別をしながら、理解していったエピソードも紹介してくれる。矩形波、ノコギリ波などの信号発生器は、ちょっとしたテスト入力用に重宝する。こうした信号発生器とPLLを組み合わせると、簡易的な試験がやりやすくなる。

5. マイクロ波
マイクロ波の帯域では、電磁波にも配慮しなければならない。電磁波の伝播特性は、マクスウェルの方程式によって与えられる。伝送系では、電場と磁場の成分が発生する。電流が流れると、磁場が発生し磁気エネルギーが発生する。回路理論的には磁界というやつか。また、電位差があれば、電場が発生し静電エネルギーが蓄えられる。つまり、伝送線路は、直列インダクタンスと並列容量による梯子型の等価回路をモデルとして扱うことができるというわけだ。そして、いかに損失のない伝送路にするかが問題となる。平たく言えば、インピーダンスに対する反射の現象で、うまくマッチングさせればいい。
本書は、伝送路に定在波が形成されるケースで、負荷インピーダンスを決定する様子が簡単に説明される。また、マイクロ波を解析する時に有効なスミス図表のちょっとした使い方も紹介してくれる。

2010-06-13

"ある数学者の生涯と弁明" G.H.Hardy & C.P.Snow 著

ゴッドフレィ・ハロルド・ハーディを知ったのは、リーマン予想に関する文献を読んだ時で10年ぐらい前であろうか。この解析的整数論の巨匠は、リトルウッドとの共同研究やラマヌジャンを見出したことで有名であるが、ゼータ関数で近似関数等式を示し、自明でない零点の数が無限に存在することを証明したことでも知られる。
本書には、G.H.ハーディの著書「ある数学者の弁明」と、その友人C.P.スノーが綴った偉大な数学者の回想録「ハーディの思い出」の二篇が収録される。たった100ページほどの量だが、重量感は抜群!これは数学書というよりは哲学書である。まぁ、酔っ払いにとって数学は哲学であるので、まったく違和感はない。

「ある数学者の弁明」では、ハーディの晩年の苦悩と弁解が綴られ、数学は創造的な芸術であると誇り高く語りながら、数学の意義と正当性が語られる。ハーディは、純粋数学の偉大さは戦争に関与しないと自慢しているが、後に、相対性理論へ影響を与えて核兵器の応用になったり、数論が軍用の暗号システムで活躍したことは皮肉であろう。純粋な精神は、脂ぎった政治力によって悪用される宿命を背負う。
「専門の数学者にとって、数学について書くと言うのは憂鬱な経験である。数学者の役割とは、何かを為すこと、即ち新しい定理を証明し、数学に新たなものをつけ加えることであり、自分自身や他の数学者がしてきたことについて語ることではない。政治家は政治評論家を軽蔑し、画家は美術評論家を軽蔑し、生理学者、物理学者あるいは数学者も同様な感情を普通抱いている。つまり、創造する人々が、説明する人々に対して抱いている軽蔑ほど根が深く、また全体として正当なものではない。解説、批評、鑑賞などは二流の人の仕事である。」
ハーディは、評論家の立場で物事を語ることを蔑む。だが、創造的な情熱を失った晩年の姿には、もはや評論家の立場に置くしかない寂しい様子がある。そして、「反感を持ったり、嫌になったりしても、退屈するのだけは良くない」と最後の情熱を絞り出すかのように弁明する。純粋な精神が解放された作品には、芸術性を顕にする迫力がある。創造的な生き方ができなくなったと悟ったからこそ、哲学的名著が生み出せたのかもしれない。この偉大な数学者は、純粋数学を追い求めてきて、ついに純粋な精神に到達したのだろうか?芸術に到達した精神には何が見えるのだろうか?
「本当に一つのことをよくやれる人となると、一握りに過ぎない。まして、二つのことを本当によくやれる人の数は無視できるほどのものである。」
それゆえに、才能のある人はあらゆる犠牲を払ってでも、能力を高めなければならないという。知的分野であれ、スポーツであれ、あらゆる分野において達人の域に至った者でしか味わえない境地というものがあるのだろう。
「本当の腕利きを賞賛しない者は、(いやな意味での)知識人だけである。」
人生を一つのことに集中できるというのは、一部の天才たちにのみ与えられた幸せなのであろう。多くのものに手を出しても、どれも究めることなどできやしない。なんでもできるってのは、なんにもできないことを意味し、器用貧乏で終わる。
しかし、だ!凡庸にも満たない酔っ払いに、勝手な解釈で暴走する以外に何ができようか?創造する側に立つのは、はかない憧れでしかない。一つのことすら中途半端にしかできないのであれば、いろんなことに手を出すことに幸せを見出すのも悪くはない。それが酔っ払った凡庸未満の生き方というものである。そして、夜の社交場でいろいろと手を出して火傷ばかりするのであった。

「ハーディの思い出」では、説教されているような感覚に見舞われる。美しく率直な性格、繊細な精神、妬み心とは程遠い寛大さなどと、おいらの性格とはまるで反対の言葉が並べられるからであろう。スノーは、この天才の珍しい気質はアインシュタインやラザフォードなどの天才たちにも及ばないと評している。天才とは、明らかに異質な存在である。ただ、ハーディの場合は付き合いが長くなるほど親しみがわいて、それほど普通の人とは変わらないことが分かってくるという。数学者というのは、理屈っぽく論理的な会話を好む傾向があり、その点では誤解されることもあろう。純粋性を求めるがゆえに、頑固で個性的な面を見せ、皮肉屋なところもある。どんな優れた人間にも、人間関係で好き嫌いはあるはず。
スノーは、ハーディはけして自己陶酔するような人物ではなかったと評している。しかし、芸術的な作品を残すのに、自己陶酔して精神を開放することも必要であろう。ましてや、これだけの傑作なのだ。
ちなみに、アル中ハイマーにとって、文章を書くためのアルコールパワーは絶大な威力を発揮する。気持ち良く顔を赤らめなければ、自己陶酔に浸れるものではない。そして、酔いが覚めて自分の文章を読み返すと、小っ恥ずかしさのために更に赤面する。精神は異次元へ放たれるために、鏡の向こうの住民はいつも顔が赤い...
また、スノーは、ハーディの意外な面も紹介してくれる。それは、自殺に失敗した哀れな姿である。完璧に自殺しようとして睡眠薬の量が多すぎたんだそうな。ん?自殺のための睡眠薬の適量なんてものがあるのかな?健康を害してどっちにせよ長生きできない体になっているのだが、創造力と情熱を失った後ろめたさのような感傷に浸っている。完璧な数学を求めるあまりに、完璧でない精神に嫌気がさしたかのように。
天才たちが若くして死ぬ多くのケースがある。それが自殺であったり、病死であったりと。彼らは、あらゆる複雑系の単純化を探求した挙句に、人生を単純化するには死ぬのが一番とでも悟るのだろうか?

1. 自己弁護の正当性
「自分自身の存在とその仕事を正当化しようとする人は、二つの異なった問いを明確に分けなければならない。その第一は、彼のしている仕事はするに値するものなのか。第二は、その価値はどうであれ、なぜ彼はそれをするのか。という問いである。」
第一の問いは、難しくしばしばがっかりさせられるという。また、第二の問いは、第一の問いに対して、謙遜した言い方に過ぎないので、第一の問いだけ真剣に考えればいいという。
ハーディは、数学者が数学を弁護することは、ある程度利己的にならざるを得ないことも認めている。自らを無理に正当化する理由も見当たらないが、ある程度の自己弁護は自然の感情であろう。自己弁護は、何かを成し遂げようとする意志の源泉にもなる。ハーディは、自己弁護は才能のある人がやる分には理に適っていると弁明する。客観性のみで語っても、精神の深みを探求したことにはならないだろう。多少の誇張も思考を高めるためには仕方があるまい。そもそも、客観性で語ると言って、そうだった例しを知らない。主観性で語る!と堂々と宣言するあたりに、人間の主観性の強さを客観的に考察しているとも言えよう。

2. 数学の有益性
「数学者が作る様式は、ちょうど画家や詩人の様式と同様に美しくなければならない。様々な概念は、色や言葉と同様に、互いに調和しつつ全体を形作らなければならない。美が第一の条件である。この世には醜悪な数学に永住の地はない。」
ハーディの言葉の引用で、よく見かける部分である。彼は、有益で賞賛に値する学問は数学の他には少ないとし、数学より地位の高いものは天文学と原子物理学ぐらいなものだと語る。ここには、本来、人類が目指すべき学問とは何か?という問い掛けが込められている。それは、人間とは何か?真理とは何か?という精神や宇宙原理の探求であろう。歴史は、本質的な価値はどうであれ、真理こそ最も長生きすることを示してきた。これこそ数学の業績にほかならない。ハーディは、数学はもっとも精密な学問で、魅力的な技巧に満ちていると主張する。おいらは、あらゆる学問の源泉は哲学にあると思っている。だが、哲学は、随分と遠回りをしてきたように映る。その点、数学は、地道に定理と証明の積み重ねで発展してきた。いや、仮説に頼ってきた経緯も見逃せないかぁ。ニュートン曰く、「私は仮説を作らない」。ニュートンは、この言葉を残しただけでも偉大である。今日、人類は不確定性に見舞われる複雑系と、不完全性に見舞われる矛盾性と対峙する。こうした時代に、仮説や仮想に精神の安住を求めるのも仕方があるまい。もしかしたら、複雑系と矛盾性は、宇宙原理の本質なのかもしれない。

3. 年齢と戦う学問
「ガロアは21歳で、アーベルは27歳で、ラマヌジャンは33歳で、リーマンは40歳で...死んだ主要な数学上の功績で、50歳を過ぎた人によって為された例を私は知らない。」
数学者にとって年齢は重要な意味を持つ。そこには、創造的情熱を持ち続けることの難しさがある。偉大な数学者には、晩年を悲劇的に過ごした例も珍しくない。数学とは、一旦精力を失うと、精神を失う世界なのだろうか?数学の世界で老いるとは、創造的な思考を失い自らの存在感を失うことであろうか?生命体にとって、老いほどの恐怖はないのかもしれない。
何かに生涯を賭けて究めようとするのは勇気のいることだろう。良い意味での野心を持ち続けることは難しい。ハーディは、最も高貴な野心は後世に何か恒久的な価値を残そうとするものだと語る。野心が、あらゆることを成就させるための源泉であるのは間違いないだろう。好奇心を高めれば純粋な野心が生起する。しかし、野心が利己主義に陥ってしまえば、これほど有害な存在はない。ちなみに、脂ぎった野心が厄介なことは政治屋が教えてくれる。
ところで、フィールズ賞に年齢制限がつけられることは、時代錯誤に映る。かつて40歳を一つの目安にしたことに、それなりの合理性があったことは否定しない。だが、近年では健康寿命が延びているし、生物学的にも突然変異して老人パワーが発揮される時代が到来するかもしれないではないか?

4. 「定理の重さ」と「概念の意義」
ハーディは、「定理の重さ」や「概念の意義」という言葉と結びつけながら、数学の意義を論じる。重くない定理の例として、ラウズ・ボールの「数学の遊び」を紹介してくれる。

(a) 10,000未満で、8712と9801の二つだけが、4桁の数字で逆に並べた数の倍数になる。
8712 = 4 x 2178
9801 = 9 x 1089

(b) 1以外の数で、各桁の数の3乗の和になる数は4つしかない。
153 = 1^3 + 5^3 + 3^3
370 = 3^3 + 7^3 + 0^3
371 = 3^3 + 7^3 + 1^3
407 = 4^3 + 0^3 + 7^3

これらは、数学者に強く訴えるものがないという。証明が難しくても、興味を惹かないものは、定理は重くないというわけか。しかし、証明してみると、実は隠れた重い定理が潜んでいるかもしれないではないか。そこで、たとえ意義がなくても、おもしろいのでメモるのであった。酔っ払いの生きる意義とは、ただ愉快になることなのだから...
数学の歴史とは、抽象化と一般化の歴史と言えるだろう。無理数の概念は、整数を含んだ数字の抽象化であって、整数の概念よりも深いことになる。同様に、ハーディは、素数定理はユークリッドの定理やピュタゴラスの定理よりも深いという。
更に、数学の抽象化は、射影幾何学においておもしろい現象を見せる。非ユークリッド幾何学の登場により、写しを完全にするか、不完全にするかの違いで、実存の議論を抽象化する。物体の構造は、抽象化の進化とともに分解され、ますます実体から離れていくかのように。数学的実存は、形而上学の問題を多く解決してきた。だが、抽象化が進むと哲学的な実存問題をややこしくしやがる。数学の発展がコンピュータを進化させ、議論の対象を実空間から仮想空間へと移してきた。数学は実存の概念から遠ざけようとしているのか?いや!そもそも、実存や実体なんてものは幻想なのかもしれない。科学の進化は、天動説から地動説へ変化したように段々人間の地位を格下げしてきた。そして、人間の存在すら蔑むのか?

5. ハーディの人物像
「彼は優れた知性の持ち主で、しっかりと目を開き、多くの本を読み、人間性に対して極めて一般的な感覚を身に付けていた... 強靭で、物事に集中し、辛辣で、道徳的虚栄心とは縁のない人であった。... 彼が嫌ったのは、傲慢な態度、独善的な義憤、大家具陳列場のような偽善の集まりだった。」
スノーは、美しく率直な精神の持ち主であると評しているが、極限まで純粋さを求めれば偏った性格も見せるだろう。人物像を一方面からだけで評価することはできない。実際に「ある数学者の弁明」に現れるハーディの姿には、欠点的な面も曝け出す。それでも、スノーは、誇り高く謙虚な言葉の方を信じたいと語る。
ちなみに、小説家グレアム・グリーンは、「ある数学者の弁明」の書評で、ヘンリー・ジェームスと並ぶ創造的芸術家であると評したという。
ハーディには聖職者の友人がいたそうだが、彼にとって神は個人的な敵であったという。
「生涯で一番幸福な時間の中の幾らかを、ローマ・カトリック教会の鐘の音と過ごさなければならないとは、不幸なことです。」
偉大な科学者や数学者は、神を思いっきり嫌うと同時に、独自の神学を構築するところがある。強制される神の存在は邪魔だが、自由に想像できる神の存在は邪魔にはならないということであろうか。

6. ラマヌジャンを見出す
スノーは、インドの天才数学者ラマヌジャンを見出したエピソードを紹介してくれる。ラマヌジャンは、荒削りの定理を記した原稿を、二人の有名な数学者に送ったが、いずれも却下されたという。次にハーディへ送ると、見たことも想像したこともない定理があって感動したそうな。そして、インドからイギリスへ連れてこなければならないと決心する。当時では珍しい人種偏見のない様子がうかがえる。ラマヌジャンは、英語がよくできなかったのでマドラス大学に入学できす、独学で数学を勉強したという。ハーディは、ラマヌジャンの洞察力をガウスやオイラーに匹敵する天才と評したが、十分な教育を受けていないことを嘆いていたようだ。数学に貢献する年齢にしては遅すぎたと...

7. 友人のケインズ
経済学で有名なジョン・メイナード・ケインズは、数学者として出発していてハーディの友人でもあったというから驚きだ。これだけで、ケインズの本を読んでみたくなった。かつて、ケインズはこういう忠告をしたそうな。
「彼はクリケットの記録に対するのと同じ集中力をもって、毎日半時間でも株式相場を読んでいたら、間違いなく金持ちになれただろうに!」
ハーディのクリケットの腕前は凄腕だったそうな。

2010-06-06

"プリンキピアを読む" 和田純夫 著

プリンキピアは、全三編で構成される大作で、その正式名称を「自然哲学の数学的原理」という。学生時代、どこぞの図書館で見かけたことがあるが、その分厚さと風格から生涯で一度は読んでみたいと思ってきた。多くの科学書において、偉人の中でもニュートンは別格のように評され、それを実感してみたいから。しかし、この古典は絶版中であり、その入手は難しそうだ。中古でも凄い値がついていて貧乏人には辛い!いずれ図書館を利用したいところだが、とりあえず本書でお茶を濁すことにしよう。

ニュートンは、運動の3法則と万有引力によって、惑星の軌道が楕円であることを証明した。これは、コペルニクス仮説の数学的証明でもある。その証明にケプラーの法則が重要な役割を果たしたことは言うまでもない。天動説と地動説によって科学界が分裂していた時代、その混乱を収束させたのがこの書と言われる。
ニュートン曰く、「プラトンもアリストテレスもわが友なれど、真実こそ、より大いなる友なり」
この言葉は、アリストテレスの言葉「プラトンはわが友なれど、真実こそ、より大いなる友なり」をもじったもので、古代ギリシャ時代から受け継がれてきた体系からの脱却が込められている。
ニュートンが、ガリレオやデカルトに関心を持ったことは間違いないだろう。ちなみに、第2法則はニュートンの運動方程式と呼ばれるが、プリンキピアにはガリレオの発見と記されるそうな。ならば、ガリレオの運動方程式と呼んでもよさそうなものだが。アリストテレス的な思考では、物体の運動はやがて減衰するかのような感覚に見舞われる。つまり、天動説を裏付けるためには、地球の運動が静止しているという理論が必要である。対して、ガリレオは慣性の法則によって運動の永続性を示した。つまり、地動説はもちろん、すべての物体が運動を続けていても、相対的に説明ができれば宇宙は成り立つということである。物体の運動を説明するのに、どんな座標系を持ち込んで定義したところで相対的な観点でしかない。人類は、絶対的な運動も説明できなければ、絶対的な静止の存在すら知らない。そして、永久に絶対的な価値観に到達することはできないだろう。

本書は、「プリンキピア」の意外な面を見せてくれる。それは、デカルト学派をはじめとする渦動説の批判書になっているというのだ。新しい説を証明すれば必然的に古い説を否定することになるのだが、あからさまに批判しているらしい。
渦動説とは、物体の運動は互いに接触し合うことで生じることを前提として、宇宙空間に充満する物質の存在がなければ天体は動かないとする仮説である。これはアリストテレス思想を継承したもので、いずれエーテル仮説を登場させることになる。時代背景からしても、その攻撃対象が天動説と渦動説にあったことがうかがえるのだが、ニュートンの目的はもっと壮大なものと言わざるを得ない。地球は天体の一つに過ぎず、すべての天体運動は数学的に説明できることを示した。それは、人間の主観的直感の地位を引き下げ、数学的客観性の地位を押し上げたと言えるだろう。
この大作には、200もの命題が掲載されるという。それだけでも、堅苦しい難解な書であることが想像できる。本書は、ニュートンの天才振りを実感するためには第一編と第二編の命題を地道に読むのが真髄だという。ただ、ニュートンが主張したかったことは第三編に現れるそうな。多くの読者が、第三編に辿り着く前に数学の難しさで挫折するらしい。そこで、次のように励ましてくれる。
「現代人にとってプリンキアを難解な書物にしている。しかし明確な論理に基づく議論なのだから、一歩ずつ進んでいけばわからないはずはない。」

ここで最も注目したいのは、微積分の概念である。微積分学はライプニッツ以降で開花することになるが、そのアプローチではライプニッツと対立関係にある。ニュートンの特徴は、代数学的な方法ではなく、幾何学的な作図方法が用いられる。この視覚的方法は、数学の入門者にとってありがたい。現在では高校数学のレベルだが、当時、極限の視覚的証明は感動ものだったに違いない。ニュートンが第2法則で、力の定義を質量と加速度の積で示したのはお馴染みである。加速度は速度の変化率であり、つまりは微分である。速度は物体の位置座標の変化率であり、これまた微分である。ニュートンは運動法則に、微積分の概念を埋め込んでいる。考えてみれば、楕円の面積を考察する時に、極限的な求積法を用いるのは自然な発想のように思える。既に導関数を学んでいるから、そう思うのかもしれないが...
楕円方程式は、長半径a、短半径bとすると、次式で表わされる。
x^2 / a^2 + y^2 / b^2 = 1
更に、x方向に x = a sin ωt で運動し、y方向に y = b cos ωt で運動しているとすると、次式が導かれる。
(sin ωt)^2 + (cos ωt)^2 = 1
x = a cos(ωt + θ)としても、楕円であることに変わりはない。つまり、x方向とy方向で三角関数の直交性質を利用しているわけだ。ここには解析学の概念が内包されている。昔、「フーリエ解析」を「楕円解析」や「三角関数解析」と呼んでもいいじゃないかと思ったりもした。周期を持つという意味では、円運動も波動も同じである。そして、モジュロ計算という発想も成り立つ。したがって、酔っ払って目が回るのも、千鳥足でゆらぎながら歩くのも、空間運動としては同列に扱えるはずだ。故に、アル中ハイマーの年齢はモジュロ計算されるのであった。

1. ニュートンは仮説が大嫌い!
ニュートンは、万有引力を中心とした重力理論で物体の運動を示した。しかし、重力の正体については言及を避けている。
ニュートン曰く、「私は仮説を作らない」
この言葉には、エーテルを登場させるような仮説への批判が込められる。後に、重力の正体は、アインシュタインが時空の概念を持ち出して曲率で説明されることになる。
ニュートンは、太陽系の重心から太陽の位置がずれていることを意識したという。それでも、太陽系の中心が動くということは、宇宙の中心が動くことにはならないと考えたらしい。太陽系の重心こそが宇宙の不動の中心であり、太陽自体は太陽系の中で動いていると結論付けたという。彼ほどの偉人ならば、太陽系が宇宙の中心ではないと想像することも容易であっただろうに。ここには、宗教観から脱することができない何かがあったのだろうか?いや!観測できない仮説を排除しただけのことかもしれない。
太陽系の構造を眺めれば、神秘としか言いようがない。太陽を中心とする惑星は、同じ方向に運動していて、それぞれの円周は、ほぼ同一平面上にある。惑星の衛星も、ほぼ同じ平面上で、回転方向も同じ。しかも、それらが相互に衝突しないように絶妙に配置される。宇宙空間は立体的なのだから、わざわざ平面的に仲良く配列されなくてもよさそうなものだが。ニュートンは、他の恒星系も太陽系と同じような体系だとすれば、神の仕業でしか説明できないと語ったという。仮説を持ち出すぐらいなら、すべて神のせいにしちゃえ!ってなもんか。「プリンキピア」は、ニュートン独自の神学を見せてくれるのかもしれない。

2. ニュートンは定数を気にしない!
惑星軌道の近日点と遠日点の移動についても言及しているという。つまり、楕円運動の方向も回転しているということ。惑星は太陽方向からの力を受けており、その力は太陽からの距離の2乗に反比例する。軌道がほぼ楕円というだけでも逆ニ乗則は十分に説得力があるのだが、更にその誤差についても楕円運動の方向が移動することで正確に証明できるという。そして、天体間の向心力を「重力」と名付け、すべての物体がもつ普遍的な性質と見なした。また、重さと質量の違いを明確にしているという。物体の重さとは、地表上でその物体が受ける重力を意味する。質量は、物体の持つ慣性の大きさとなり、つまりは加速されにくさになる。つまり、慣性とは、物体が運動状態を保持しようとする一種の抵抗力である。重さと質量は別物と定義しながら、重さは質量に比例するという重力性質を述べている。そして、万有引力を二つの互いの物体の質量の積で表す。
F = G・m1・m2 / r^2
(F: 万有引力、G: 物体に依存しない定数、m1,m2: 二つの物体の質量、r: 互いの物体の距離)
ちなみに、ニュートンの時代、Gは解明されていなかったらしい。一般的に、ニュートンの定理の表現には、定数を気にしない風潮があるそうな。比例係数なんてどうでもよく、空間の違いによって決定すればいいだけのこと。なるほど、真理へ向かう抽象化のセンスは抜群である。比例係数を明確にしなければならないのは、物理学を実践する場合に限られるのであって、法則としてはあまり意味がないのかもしれない。少なくとも哲学的にはあまり意味がなさそうだ。

3. 天体の重力と形状
地球と月が完全に球対称であれば、地球と月の中心間の距離を考えればいいだろう。天体が完全な球対称ならば、天体のすべての構成要素がその中心に集中していると見なせるだろうし、重力に対して逆二乗則を適用すれば、天体の中心からの距離を考えればよいことになる。この性質は、天体の重力を受ける側にも適用される。
更に、球体が空洞ならば、物体の内部では重力が働かないという定理もある。球面の内部では、どの点においても、球面からの互いの重力が打ち消しあい、合力はゼロになるからである。
では、球面の外部ではどうなるのか?それは、球面の中心へ向かい、中心からの逆二乗則が成り立つという。これも同じように、球面から受ける重力の合力から求まるわけか。
また、電気力も、クーロンの法則により逆二乗則が成り立つ。電荷が一様に分布した球面の内部では、電気力が働かないという原理は、電磁気学でも同じである。
こうしたことを踏まえて、球状ではない天体の重力はどうなるのか?ここで用いられる積分の概念は目から鱗が落ちる。ニュートンが巧みな求積法の創始者であることが実感できるから。彼は地球の形状を解析し、惑星は自転軸方向にわずかに扁平した形になると主張したという。自転の遠心力により、地球は赤道方向に膨らむと考えられるが、当時はまだ解明されていなかった。そこで、自転軸の長さと、垂直方向の直径との比率を計算し、地球表面上の緯度の違いによって重力の変化を考察している。それほど難しい問題ではないのだが、力学の源泉を眺めているようで感動してしまう。
また、潮汐理論についても言及している。当時から、潮の満ち干が月や太陽の影響があることは、なんとなく分かっていたそうな。ニュートンは、万有引力の作用で潮汐現象を説明したが、海水自体にも重力の影響があることが見逃されていて、後に指摘されたという。この天才でもチョンボがあったらしい。

2010-05-30

"量子コンピュータ" 竹内繁樹 著

チューリングマシンが登場して半世紀以上、その集積度と性能の向上には凄まじいものがある。なにしろ、最近のパソコンの性能でも十年前のスーパーコンピュータ並なのだから。だが、その勢いも陰りを見せる。もはやムーアの法則が崩れようとしているのか?それとも、構造的変革が求められているのか?
量子コンピュータという言葉は、電子工学を超越した何かを匂わせる。名称からして量子論と結びついているのは言うまでもないが、その実現で不確定性原理と対峙することが容易に想像できる。コンピュータ工学は電子工学によって発展してきた。そしていま、物理量はどこまで微小なのか?という問題を扱う量子論と結び付く。そして、電子工学の役割は終焉を迎えようとしているのか?

コンピュータの構造は、メモリやレジスタといった状態の保持によって実現される。その基本は、0か1の状態を持つビット構造にある。大きな数字を扱うにはビット列を対応させ、n次元を扱うには複数のビット列の組み合わせを対応させる。もともと、コンピュータは数値演算の道具であり、その主な用途はデータ解析であった。オイラーの解析学のように複素空間を扱う場合は、実数部と虚数部にそれぞれビット列を対応させて、三角関数に投射しながら位相関係を解析したりと、擬似的な座標空間を形成する。フーリエ変換は、まさしく三角関数の直交性質を利用した解析法である。
もし、位相状態をなんらかの方法で直接制御できるならば、扱える状態も無数となり、演算効率が格段に向上するだろう。直交関係だけでなく、位相による相殺の関係に持ち込むことができれば、演算を単純化できる。位相状態を持ったもの同士で演算ができるとなると、並列処理も可能となろう。
量子コンピュータの基本を成す「量子ビット」とは、0と1を「重ね合わせ」の状態で保持できるものらしい。従来のビットに位相を加えてセットにしたようなものか。その鍵となる素子が「アダマールゲート」である。これは、量子位相ゲートのようなもので、複素数演算が数式のイメージのまま計算できると言おうか。しかも、位相の制御を、原子レベルのスピンやエネルギー準位でやろうというのだから尋常ではない。原子や電子レベルともなれば、不確定性に支配された「ゆらぎ」の問題があり、重ね合わせ状態を破壊するだろう。光子の偏向をスプリッタで分離したところで、一つ一つの光子の動きを予測することは不可能である。本書は「重ね合わせ」の概念を中心に語られるわけだが、そうなると確率論に持ち込まれることになろう。半導体素子にしても、バンドギャップ内で生じるキャリア効果が、フェルミ準位近辺で電子が移動できるかどうかの確率で決定されるのだから、似たようなものかもしれない。
コンピュータは1ビットでも怪しい動きをすると、破綻するシステムである。とはいっても、現在のコンピュータには誤り率が存在する。磁気装置や半導体装置などシステムの性質によって、誤り訂正符号を駆使しながら実用レベルに誤り率を抑制しているに過ぎない。完璧なコンピュータシステムがあれば、バックアップ機能なんて必要ないわけだ。よく分からないのが、量子コンピュータは理論的には100%の正しい解答が得られるという。従来の誤り訂正の発想とは根本的に違うのだろうが、にわかには信じがたい。本書は、「量子誤り訂正符号」という補正の仕組みを紹介してくれる。それにしても、人間が不確定性原理を凌駕しようとは、神に近づこうとしているかのように映る。
本書は、入門書ということもあって、ひたすらイメージで捉えやすいように配慮される。その分、肝心なところがあやふやな気がしてならない。構造的な話が中心であるが、もう少し数学的な解説がほしい。難しいものを、あまり簡単に説明しようとすると、余計に混乱することがある。難しいものは、素直にある程度難しく説明してもいいような気がする。ただ、量子コンピュータに少し興味を持つきっかけになったのはありがたい。もやもやした気分にさせて興味をそそるのが、本書の思惑なのかもしれない。モザイク映像が興奮を掻き立てるように、見事にアダルト戦略にしてやられた感がある。

コンピュータが解ける範囲は限られる。それは、計算によって導けるようにうまいこと問題設定がなされた場合のみである。コンピュータが哲学的問題を解決することはないだろう。すべての実数演算ができると信じるのは狂信的である。解けないものの方が多いのだから。コンピュータ工学を学んだ人は、実数演算をいかに近似で誤魔化しているかを知っている。たまーに、浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754の意義を匂わせてやればいい。アラン・チューリングは、プログラムが停止するかどうかを決定する機械的方法が発見できれば、あらゆる実数演算が計算できると主張した。いわゆる、対角線論法によって証明された「停止問題」である。また、計算が可能であっても、計算量が莫大でスーパーコンピュータを使っても宇宙年齢を超える時間を要するような問題がある。本書は、数学で有名な「ナップサック問題」と「巡回セールスマン問題」を紹介している。こうした数学的問題で必ず登場するのが因数分解である。だから、暗号アルゴリズムに利用される。その有名な古くからの解法に、小さな素数で順に割っていく「エラトステネスのふるい」がある。とはいっても、500桁の素数をベースにすれば、たちまち限界に達する。
ところが、シェア博士は、量子コンピュータを使えば、計算量が桁数に比例する程度の時間で因数分解が解けることを発見したという。ここには、動作周波数を超えた発想がある。従来のコンピュータが論理的思考だとすると、量子コンピュータは直観的思考とでも言おうか。直観には、なんとなく並列的な発想があるように思える。もしかして、「量子並列性」とは直観のことか?

ところで、量子とは不思議なものである。かつて、光は粒子説と波動説で論争が繰り返され、やがて二重性で落ち着いた。アインシュタインは、光のエネルギーの最小単位を仮定した。光子とは、エネルギーの固まりを持った波といったところだろうか。光は電磁波の一種であり、電子や原子にも二重性がある。電流が流れると、原子の中で回転する電子は常に運動の向きを変える。電子からは電磁波が放射され、その分エネルギーは失われるはず。となれば、電子はだんだん原子核に近い軌道を描きながら、ついには原子核に吸収されはしないか?人工衛星が、大気との摩擦でエネルギーを失いながら徐々に地球に近づき、ついには大気圏に突入するように。だが、うまい具合に、電子波の波長で軌道が安定するから摩訶不思議!ここに宇宙の真理があるとすれば、すべての物体は、個体性と波動性の二重性があるのではないか?と考えてしまう。個々の人間が群衆エネルギーと化せば、もはや個人の性質を解析したところで全体像を把握することはできない。どんなに規制を強化したところで、悪事は干渉現象のように、ちょっとした隙間から回り込んでくる。これは、まさしく波動現象ではないか。もはや、一部の人間の政治力では、民衆の波を制御することはできないだろう。そのうち、人間社会を不確定性原理で説明する社会学者が登場するかもしれない。そして、社会学も物理学に吸収されるかもしれない。

1. 量子コンピュータは万能ではない!
おもしろいことに、量子コンピュータは、どんな問題でも速く解けるわけではないようだ。1 + 1 といった単純な計算でも、量子コンピュータを使うと、家庭用パソコンに遠く及ばないという。となれば、論理コンピュータと量子コンピュータが共存するような時代が来るのだろうか?人間の思考が客観性と主観性でバランスされるように。
量子コンピュータの得意分野は、因数分解やデータ検索などだそうな。インターネットなどの情報検索では、時間をかけて完璧な結果を得るよりも、だいたい正しいだろうという結果を高速に得られる方が有用である。検索キーが明確でも、検索しようとする思惑は検索者の主観に委ねられる。そもそも、検索結果が正しいかなんて検索者の満足度でしか計れない。こうした分野では確率分布が重要となる。高速性を求めると確率的なリスクを背負うことになる。そこで、ランダムアルゴリズムが効果を発揮する。とはいっても、擬似ランダム性に頼るしかないのだが...量子コンピュータが実現すれば、純粋ランダム性なるものが見えてくるのかもしれない。その先にリーマン予想も見えてきそうだ。様々な要素がでたらめに存在する複雑な社会では、正確性よりも高速性からある程度の実用性を求めるケースが多い。ただ、真理が多数決によって支配されると悲劇であるが...
アインシュタインは、不確定性原理を受け入れられずに「神はサイコロを振らない!」と言った。アル中ハイマーは、社会泥酔論を受け入れて「神の博奕好きには、困ったものだ!」と呟く。

2. 「重ね合わせ」と「もつれ合い」
本書は、重ね合わせを半透鏡で説明している。明るい部屋と暗い部屋を半透鏡で仕切った場合、暗い部屋では自分の部屋の光が鏡に反射する光よりも、明るい部屋から通過してくる光の方が強いので、明るい部屋の様子が見える。一方、明るい部屋では、自分の部屋の反射する光の方が強いために鏡のように見える。これがマジックミラーの原理である。
ところで、半透鏡で光を分離した後、再び重ね合わせようとすると、奇妙な現象が起こるという。それは、光の波長と経路によって、微妙な違いを見せる。二つの経路があったとして、最初に一つの半透鏡で二つに分離し、二段目の鏡でそれぞれを反射させて三段目の半透鏡で合わせる。そこで、二つの経路をまったく同じにすれば、位相差はゼロになるので完全に透過する。だが、経路差を波長の半分にすると、位相は逆転して完全に反射するという。つまり、経路差を微妙に調整することで、光の分離量を変えることができるというわけだ。波長と経路の関係は、マクスウェルの電磁気学で説明できる。光子を一つ一つ観察すると、でたらめに透過したり反射したりするのだが、全体としては、光子自体が分離されるのではなく、光量を分離していることになる。光が一定方向にしか進まなければ単純化できるが、現実には、光子や電子は様々な経路を辿るから厄介である。だが、波長に対して、微妙に経路差を調整することによって、確率的に考察することは可能である。これはトンネル効果における電子の透過確率に似ているような気がする。
本書は、「確率波」という考え方を紹介している。光子が存在する確率は、確率波の振幅の二乗で表されるという。これは、波のエネルギーが振幅の二乗に比例することに対応している。光子の経路確率だけとっても、安定した範囲はかなり絞られるだろう。ただ、安定位相を0, 90, 180, 270度の4つだけだとしても、演算効率は格段と増す。位相を反転するだけでnotも表現できる。コンピュータの構成要素として用いるためには、量子メモリや量子レジスタとして位相を保持できる仕組みが必要となる。となれば、量子コンピュータの実現には、この位相状態を、どこまで明確に予測できるかが鍵となりそうだ。従来のビット列は、ビット毎に独立した状態を保持する。だが、量子ビットでは、重ね合わせ状態を分離して、複数の量子ビットの関係を独立には扱えないという。となれば、量子演算素子は、量子ビットと重ね合わせ状態をセットにしたものになるのだろう。これが、「量子もつれ合い状態」というらしい。この「重ね合わせ」と「もつれ合い」が超並列処理を可能にするという。

3. 量子暗号
量子コンピュータで問題となる不確定性原理だが、量子暗号では、むしろこの性質を利用しているという。光子の偏光状態は様々な位相状態を持つために、一個の光子を観測しただけでは特定することができない。つまり、同じ偏光を持つ光子の複製は不可能ということらしい。光伝送経路において、途中で中継して光子発生装置で再送信したとしても、正確に情報が複製できないために、途中経路で盗聴されたかどうか容易に判別できるという。しかも、盗聴者の追跡調査も可能だそうな。これは、重ね合わせの状態をどのように設定するかは可能でも、どのように設定されているかは、不確定性原理によって第三者の解読は不可能という原理に基づいている。盗聴者から秘密鍵を解析することが、不確定原理によって不可能となれば安全性は高い。しかし、送信側の設定を何らかの方法で受信側に伝えなければならない。結局、どんなに優れた通信システムであれ、内部の人為的ミスや悪意からは逃れられないだろう。

2010-05-23

"はじめての構造主義" 橋爪大三郎 著

時々、「構造主義」という言葉にでくわす。社会学や歴史学の書籍ばかりではなく科学書ですら。その都度悩まされ、いつも読み流している。物理学の法則を「質量主義」や「物理主義」などと言っているようなものか?民族社会を分析する時、慣習や系譜などに着目して、抽象化しながら分類したり系統立てたりするのは普通であろう。偉い学者さんたちは、何かと大袈裟な専門用語を用いたがるようだ。研究の格式を高めようとするかのように。あらゆる事象を分析しようする時、構成要素を抽出して構造的に解析しようと試みるものであろう。したがって、ここで語られるものは、ごく普通の自然的な社会学に映る。
日本で「構造主義」が持てはやされたのは、1960年代から70年代にかけてマルクス主義が廃れはじめた頃だという。ヨーロッパでは50年代に流行したそうな。その火付け役になったのが、フランスの人類学者レヴィ=ストロースの著書「悲しき熱帯」だという。ちなみに、昨年、亡くなった(2009年10月31日, 享年100歳)と大々的に報じられて以来、「悲しき熱帯」を購入予定リストに挙げている。大作のために尻込み状態にあるが...

一言で「構造主義」といっても、その思想へのアプローチには様々な考え方があるらしい。それもそのはず、思想の解釈は極めて主観的であり、様々な解釈が入り混じる。後にマルクスが悪者に仕立てられたのも、マルクス主義信奉者たちの解釈がそうさせたと言ってもいい。マルクスは、「私はマルクス主義者ではない」と言ったとか...
思想観念のこうした事情もあって、本書は構造主義の生みの親と呼ばれるレヴィ=ストロースを中心に、その思考プロセスを紹介してくれる。だからといって、構造主義の具体像が見えてくるわけではない。多くの書籍や人物を紹介しながら、いろいろ考えてみてほしいと読者を励ましているかのようである。そもそも思想なんてものは、そんなものなのかもしれない。あらゆる思想を具体化すれば、必ず論理的弱点が顕になる。正確に示そうとすると、抽象的に語らざるを得ない。だから、誤解を招いたり暴走したりする。過激派が解釈すれば暴力的な革命と化し、平和派が解釈すればユートピアへ現実逃避する。共産主義者や社会主義者たちは、下級労働者を代弁するかのように装いながら、プロレタリアートの中でもエリート階級によって扇動する。
対して、構造主義は、その名前からして機械的な冷たい社会を印象付け、反人間主義の評判がつきまとう。従来の思想が主観性が強過ぎるのに対して、客観的な思想という捉え方もできそうだ。人間主義には、人類共同体のようなものを形成し、互いに協力するという思想がある。そこには、異民族や異文化どうしで対等という認識が前提にあるはず。だが、自らの思想を最高だと崇めた時に宗教化が始まり、他の価値観を否定し、極度の有難迷惑主義に陥る。本書は、構造主義こそ、人類学や言語学の方法で、共存の認識を広げようとしたものだという。

ここで注目したいのは、思想の源泉を数学に求めているところである。真理へ近づこうとすれば、人間精神にかかわる部分と宇宙原理的な部分に分かれる。西洋的価値観では、真理に近づくための二つの思考パターンがある。一つは宗教的な神で、啓示は聖書などによって定められる。もう一つは理性で、論理によって組み立てられる。論理的思考では、証明という伝統的手法がある。一つの論理的証明が完成しなければ、次のステップへは進めない。これが、理性構築の基本的思考である。ただ、数学には証明抜きでも真理として崇められるものがある。それが公理である。つまり、公理が体系化の前提となっている。一度証明された数学の法則は永遠であり、数学のみが純粋な普遍性に支配されているように映る。したがって、あらゆる学問において永遠の価値観を求めるために、科学的に数学的に分析しようとするのも道理である。しかし、社会学や経済学で、都合よく数学が乱用されてきたために、論争の武装手段となっているのも否めない。
本書は、構造主義は幾何学と論理学をルーツにしているという。ただ、あらゆる思考の源泉を遡れば、ここに辿り着くような気がする。数学の源泉は幾何学にあり、非ユークリッド空間が登場するまでは、ユークリッドが理性の象徴のようなものであった。それに匹敵するのがアリストテレスの論理学であろうか。宗教的思想と数学的理性が対立しながら、科学を発展させてきた。しかし、真理は一つしかないと仮定したところで、個人が思考すれば各々勝手な真理の像を描く。それは避けられない現実である。そこで、カントの批判哲学は、時間と空間のみをア・プリオリな認識として、理性の源泉を説明した。非ユークリッド空間が登場して数学が混迷の時代を迎えると、公理主義から形式主義へと移行する。その筆頭がヒルベルトであり、この形式主義運動から「構造」の概念が生まれたという。形式主義の重要な概念の一つに射影幾何学がある。その源泉は絵画の遠近法にある。レヴィ=ストロースの根底には遠近法があり、その思考方法には、射影幾何学から形式主義、そして構造主義という系譜が現れるという。レヴィ=ストロースは、その経歴からも哲学的素養と訓練をそなえた人物だったそうな。

1. 「構造」とは何か?
構造主義を唱える人ですら、「構造」の意味を理解している人が少ないらしい。それも仕方がないだろう。明確に定義されたものはなく、レヴィ=ストロースも比喩的な表現しかしていないという。「構造」という言葉は、多くの社会思想で登場するようだが、どれも意味合いが違うらしい。ここでは、全体構造のような実体を想像しても、あまり意味がなさそうだ。
そこで、遠近法の登場である。遠近法は、遠くにあるものを小さく、近くにあるものを大きく描くことによって立体感をもたせる絵画的手法。つまり、二次元空間に三次元空間を感じさせるように欺瞞する世界である。奥行きを見せるためには、平行線を交わるように描けば、視覚的に錯覚が得られる。これはユークリッド空間に生きる人間の感覚を欺くもので、すべての平行線が無限遠点で交わることはありえないという認識の前提がある。そもそも宗教画は、神様のような価値あるものを大きく、価値のないものを小さく描くので、遠近法のような概念がなかったそうな。リアリティを求めるには、遠近法は合理的手段である。となれば、自分を描く時に自らの存在位置を意識しないわけにはいかない。人間の認識は、主体を客体として描いたり、客体を主体として描いたりする。視点の位置が変われば、正方形もいろいろな形に変形して見える。音源の位置を仮想的に与える擬似ステレオや擬似サラウンドも似たような感覚がある。まさしく、違って見える図形を一つの変換群として抽象化するのが、位相幾何学や射影幾何学である。この位相変換群が「構造」というものらしい。つまり、異民族や異文化を理解するとは、視点を変えて観察するということである。それは、異民族や異文化を構造的な要素に分解して再構築すると、どの文化も似通った形で再現できるという意味だろうか?そして、分解できる要素は、言語学的あるいは生活様式などに現れるということであろうか?ただ、生活様式や慣習を抽象化して、あるパターンを見出そうとする試みは、何も真新しい手法には感じない。しかし、レヴィ=ストロースの特徴は、「構造」の源泉を民族の神話に求めているという。

2. 構造と神話
神話には、宗教的な性格や思考の流れの法則のようなものが現れやすい。日本人は「水戸黄門」のような正義と悪がはっきり分かれていて、苦労の挙句に最後には正義が勝つというワンパータンを好む傾向がある。英雄伝説やおとぎ話には、民族固有の物語もあれば、似通った物語もある。似通った物語には、人類共通の価値観のようなものがあるのだろう。構造主義には、あらゆる民族が持つ神話をなんらかの置換群として抽象化できるという考え方があるようだ。とはいっても、正方形の要素は四つの辺や角で明確であるが、神話の基本要素となるとイメージが難しい。とりあえず、喜怒哀楽といった感情の要素を思い浮かべてみても、どんな時に喜ぶのかも価値観によって違う。共通意識として、親しい人が死ねば誰しも悲しむだろうぐらいなものであろう。だいたい神話自体が主観性が強く、そこに数学的構造を持ち込むのだから、なんとなく胡散臭い気もする。神話の視点を変えるだけで、同じように見せながら、抽象化するなんてことが可能なのだろうか?主観的思考を、角度を変えながら射影幾何学的に眺めると、客観的思考に見えてくるのだろうか?実は、主観も客観も人間の意識が勝手に区別するだけのことで、そんな区別すら抽象化できるのかもしれない。主観的思考を客観的要素に解体するというのだから、宇宙人的な変人的な発想である。レヴィ=ストロースは変人なのか?天才とは一種の変人なのだろう。

3. 音韻論
20世紀の言語学はソシュールに始まるという。ソシュール以前、言語学は歴史的研究に目を奪われていたが、ソシュールは言葉の意味に歴史はあまり関係がないという見解を持っていたという。
言語学は、音韻論、統語論、意味論の三つに分類されるという。音韻論は、言語がどんな音組織で形成されるかを分析する。統語論は、文法のことで言葉のつながりや配列の規則性を分析する。意味論は、意味として理解できる仕組みを分析する。ソシュールは、言語を記号システムとして捉えることで、音素を発見したという。音素は周波数で決定されるので、物理現象でも説明できそうなものだが、そう単純ではない。同じ発音でも人によって微妙に違う。一人の発音でも年齢を重ねると変化する。なんとなく音声認識とも関係がありそうだが、音韻論は音響学ではない。言語学にとって大切なのは、物理的な音の区別ではなく、人間がどのように区別するかだという。ソシュールは、恣意的な区別があると考えたという。確かに、同じ音でもまったく意味が違う単語がある。「酒」と「鮭」のどちらも美味いが、酔えるか酔えないかの差は大きい。人間の発声器官や口の形態は物理的に似通っていて、発声できる音や聞くことのできる周波数には限界がある。
ヤーコブソンは、二項対立の原理を取り入れたという。音組織は対立システムなのだそうな。ここでは、母音と非母音、子音と非子音、鼻音と非鼻音、密と散、無声と有声...といった対立性が示されるが、ちょっと強引やなぁ。ヤーコブソンによると、幼児が言葉を習得する音の順番も決まっているという。母音ならば、a,i,u、子音ならp,t,kで、これが母音三角形と子音三角形というものらしい。周波数のエネルギー分布で、密と疎、鋭と鈍の二つに軸で表現すると、見事に三角形を示す図を紹介している。この組み合わせは世界中で共通なのだそうな。

4. 機能主義人類学
レヴィ=ストロースは、ブラジルで原住民のナンビクワラ族やポロロ族などのインディオを調査した。そして、世界中の民族で、親族の基本構造に着目したという。ちなみに、親族とは、日本の親戚とはまったく違うもので、家族を超えた集団的特徴が生活様式や祭祀などに現れるという。アフリカでは親族の見事な枝分かれ構造が見られ、中国や韓国にも宗族や門中といった親族組織があるという。こうした親族組織は、日本ではあまり見られないそうな。日本人の民族系統でいろいろな説が入り混じるのも、そのせいかもしれない。
習慣や制度や宗教が、社会でどのように役立つか、その関連を「機能」と呼んでいる。つまり、「機能」とは、何かに役立つという意味で、目的と手段のかかわりを分析することである。機能主義人類学とは、人類学の伝統的な伝播主義や歴史主義とは対立する立場にあるようだ。構造主義も、歴史法則に支配された伝統的な思考とは一線を画し、機能に着目するそうな。しかし、機能主義や構造主義の弱点は、機能一点張りなところにあるという。目的と手段の関係は一列に並んでいるとは限らず、回り回って循環したりする。理由もなしになんとなく行動することもあり、すべての生活様式を目的という観点だけで説明できるものではない。レヴィ=ストロースは親族だけを研究しても、解決されないと考えたという。その機能的目的も、所詮ヨーロッパ的価値観でしか測れないからである。ヨーロッパでは、植民地支配能力から普遍的な価値観を持った民族だと自負していた時代である。

5. インセスト・タブー
近親相姦の禁忌という現象はどんな社会にも見られるという。昔から、遺伝子に悪影響を及ぼすという生物学的な知識があるわけではないが、無意識に獲得した普遍的な価値観のようなものがあるのだろうか?おまけに、父方の従兄弟は禁止で、母方の従兄弟なら奨励する部族も多くあるという。オーストラリアの原住民の一部には、婚姻クラスなるものがあって、ややこしい規則に従って結婚相手を決める風習があったとか。同じ近親相姦でも、その範囲は民族によっても様々というややこしい事情があるようだ。そういえば、英語でbrotherと表現しても、兄と弟の区別がなく混乱しそうだ。日本語のイトコにも、従兄弟と従姉妹があり、従兄、従弟、従姉、従妹と書くこともある。近親を呼ぶ時の抽象化は民族風習とも関係するのだろう。

6. 親族の基本構造
レヴィ=ストロースの仮説には、「親族は女性を交換するためにある。」というのがあるという。おっと!フェミニストから刺されそうな発言だ!
人間は生活を豊かにするために、物々交換から貨幣を手段とした取引など様々な交換システムを発展させてきた。そして、交換物品の価値に注目し、がらくた品を交換しても意味がないと考えるようになる。その一方で、お歳暮やお中元など心をこめるという風習が残る。交換する物品が重要なのではなく、交換という行為そのものが重要と考える風習は、様々な部族で見られるようだ。そして、部族の交流では人間自体が交換対象になる。贈り物の媒体も女性である場合が多い。この価値観は、戦国時代に、敵国どうしで血縁関係を結ぶことにも通ずるものがある。女性が他社会との交流の手段だとすれば、そこにインセスト・タブーという価値観が隠されているという仮説も成り立つかもしれない。考えてみれば、妻も姉妹も同じ女性なのに、姉妹は生理的に受け付けないなんて理屈も不思議である。だが、社会的交流の観点からすると、近親で結婚すると効率が悪いことになり、必然的に姉妹との結婚を避けるだろう。嫁に出すだけでは自分の種族が亡ぶので、迎え入れる必要もある。そして、人間社会を維持するために、必然的に種族が循環することになる。なるほど、女性が社会形成の根本を担っているという解釈もできそうだ。
しかし、だ!そもそも異なる部族で交流する必要があるのか?交換や交流には、信頼関係という根本原理が働くはず。そこには、種族の共存という本能が隠されているのだろうか?となると、国際結婚も意義深い。あるいは、単なる好奇心かもしれない。そもそも、必要性や目的といった認識がないのかもしれない。交換の動機には、利害関係といった意識のない純粋な時代があったのかもしれない。純粋な生き物は、ひたすら無意味を実践することに苦痛を感じないだろう。高度な文明社会は、なにかと目的意識に結びつける価値観がある。そして、交換システムの循環思考には、「情けは人の為ならず」という原理が働く。結局、他人に情けをかけておけば、巡り巡って自分に報いが来るというご都合主義に陥るのか?目的意識を持ち出したがために利害関係を認識するとは、なんとも虚しい。

2010-05-16

"そうだ、葉っぱを売ろう!" 横石知二 著

本屋を散歩していると、なんとなく心の和む写真が目に留まった。おばあちゃんのくしゃくしゃな笑顔!副題には「過疎の町、どん底からの再生」とある。
単なる事業の成功物語であれば、それもほど興味を示さなかったであろう。そこには、忘れかけていた大切な何かが暗示されているような気がする。それは、何を拠り所に生きていくかという根源的なものである。

電子メールや携帯電話に追われる煩雑な日々を過ごす中で、手段が目的化することがよくある。便利な社会になるほど、人々は手段や道具といった表面的なものに振り回される。政治のほとんどがその傾向を強め、終始表面的な議論に徹する。社会福祉や社会保障となると支援や補助金の方にばかり目がいく。
しかし、本書は、事業のあり方を通して「真の社会福祉とは何か?」を問題提起しているような気がする。成功のための事業ではなく、弱者である高齢者がいかに生き甲斐の持てる社会にするかという問題である。そこには、徹底した現場の視点がある。毎日、診療所やディサービスを利用するのが当り前となっては、生きる気力も失せるだろう。本書は、これを「気の空洞化」と呼んでいる。やがて、補助金のたかり方ばかり考えていた連中が、医療サービスを利用する暇もなく、商品の研究に余念がない姿へと変貌していく。全国で福祉センターのような箱物が続々と建設される一方で、この町では逆の現象が起きている。本書は、これを「産業福祉」と呼んでいる。人間は自らの居場所を求めて生きている。その場所を提供するのが、真の社会福祉なのかもしれない。

田舎というと、父の実家を思い出す。一人一人はとても優しくて良い人ばかりなのに、村組織となるとあまり良い印象がない。そこには、国家指導のもとで農協様に洗脳された姿がある。よそ者に対して異常な反感を持つわりには、中央から派遣された人にペコペコする。派遣された人は、特に地方に思い入れがあるわけでもないのに。選挙は宗教的な行事となり、支持者が落選すると裏切り者がいると叫ぶ輩までいる。改革的な意見はたちまち村八分にされる。こうした体質は若年層を町から逃避させる。農家の年寄りたちは高度成長時代に都会へ出稼ぎに行った経験のある人ばかりで、子供や兄弟のために生活を犠牲にしてきた。もっとも彼らは犠牲とは思っていないかもしれない。そうした光景を目の当たりにすれば、農業を捨てて経済的に有利で体力的に楽な職業に就く傾向があるのも仕方があるまい。自分の生まれた村を悪く言う人も多く、ますます農業は高齢者の産業となる。そして、主な関心事は補助金となる。国の洗脳政策に嵌ったといえば、それまでだが...
情報が少ない分、頑固にもなりがち。しかし、厳しい自然を相手取って生活をしているので素朴で逞しい。それだけに意識改革さえできれば、有望とも言える。
まさしく、本書の舞台は、このイメージにぴったりと嵌る。

本書は、著者が20年かけて成し遂げた2億6000万円規模のビジネスと、それを支える70歳、80歳のおばあちゃんたちの物語である。著者は農協の指導員として村に派遣される、いわゆるよそ者である。そのよそ者が民衆を意識改革してビジネスを成功へと導くわけだが、ビジネス規模などはどうでもいい。表面的には収入も増えて、めでたしめでたし!一般の企業家であれば、むしろそれが目的となろう。確かに、ビジネスとして成功したから美しい物語として完結できる。だが、労働者が充実できなければ持続しない。たとえ、売上を伸ばしても、経営者が満足するだけでは一時的な成功で終わる。成功の基準は目的によっても違ってくる。信念の持てるようなものがあれば、失敗しても無駄にはならないと信じたいものである。
本書は、なぜか?充実できるならば失敗したってええんでないかい!と楽観的な気分にさせてくれる。失敗ばかりしているアル中ハイマーは、成功への願望はもはや楽しけりゃええんでないかい!と諦めに変わった。だが、努力している高齢者たちの姿を見せ付けられると、自分の生き方が愚かで恥ずかしくも見える。それは、社会に役立つことの喜びをひしひしと語っているからである。なんとなく元気をお裾分けしてもらった気分である。

また、事業を第三セクターという形態にしていることにも注目したい。第三セクターというと、組織すること自体が目的となって、産業振興という看板倒れになっているケースばかり。そのほとんどが箱物行政の餌食となっている。それもそのはず、政治や行政あるいは企業の思惑を優先して、民衆の目線を無視するからである。日本社会は、政治、官僚、財界の魔のトライアングルに支配される。
ところが、ここでは第三セクターという形態を利用して目的を果たそうとしている。というより、農協という巨大な障壁があって、第三セクターにせざるを得なかったのかもしれない。著者自身が社長となって起業するという手段もあるが、あえてその方法を避けている。地方に密着しながら、農家の人々に直接出資者となってもらい、自立をうながすことを目的としているからである。こうした姿は、当り前と言えば当たり前だが、それが通用しないのが政治の世界である。純粋な目的で運営されるならば、第三セクターという形態も悪くないのかもしれない。

1. 株式会社いろどり
「葉っぱビジネス」とは、日本料理を飾る季節の葉や花、山菜などを栽培して、青果市場に出荷する農業ビジネスのことだそうな。これらの飾りを、一般的に「妻(つま)」とか「妻物(つまもの)」と呼ぶらしい。ただ、こういう商売をなんとなく考える人は多いのではなかろうか。紅葉の美しい季節に温泉旅館へ行くと、料理の中にそこで採ったモミジを添えてくれて、なんとなく癒される。こういうものを都会の割烹や料亭で出せば、商売になるだろうと思うことがある。
ただ、考えるのと実行するのとでは全くレベルが違う。最初の二年ぐらいは散々だったという。通常なら一年ぐらいで諦めそうなものだが、根気よくやったお陰でノウハウが蓄積される。日本料理には伝統的な知識が詰まっていて、単に花を添えて綺麗に飾ればいいというわけではない。客は、日常では味わえない、季節感や雰囲気を求めてやってくる。そして、葉っぱを見ただけで、どんな料理に出されるのか、その光景をイメージできなければならないという。そのセンスが、「彩(いろどり)」商品をレベルアップさせる。ちなみに、著者は連日の料亭通いでパンパンに太り、痛風になった写真が掲載される。これは二十歳の写真とは別人だ!おばあちゃんたちにも現場を知ってもらうために、高級料亭に招待した様子が語られる。しかも、すべて自腹で、結婚してから生活費を家にまったく入れず、親のバックアップで生活していたと告白している。嫁さんも文句を言わずに楽観していたそうな。一般的には親のすねかじりというと悪い印象を与えるので、なかなか公表できるものではないだろう。こうした文面には、目的のために見栄を捨てた著者の人柄を垣間見ることができる。何事も勉強するためには自己投資が必要である。意外と成功者の中には、誰かのすねかじりで下積みをしてきた人が多いのかもしれない。町の復興という目的を優先した結果住人たちを喜ばせたのだから、家族ぐるみで貢献したとも言えよう。
ただ、親のすねかじりが農家の人々にバレたおかげで、会社設立へとつながる。事業が軌道に乗り始めた頃、著者は40歳で自分の生活を見直して、農協に辞表を提出したという。それを知った農家の人々は慌てて役所に席をつくって引き留めると、今度は農協の販売ルートがボロボロになったという。そこで、農家の人々は役所に嘆願し、第三セクターという形態で会社を設立することになる。
事業が加速した要因には、マスコミの宣伝効果が大きかったという。一旦、販売が順調になれば、情報通信システムと融合できる。そこで、おばあちゃんたちにパソコンを普及させる苦労話も紹介される。ちなみに、希望者全部にパソコンを導入したことで話題になった村があったが、そこを視察すると、ほとんど使われていない実態があったという。目的が明確でなければ、どんなに便利な道具もただの箱となり補助金はばらまきで終わる。そこで、パソコンを改良して使いやすくして、POSシステムを導入したという。バーコード管理では、「ばあちゃんをコードで管理してどうするだか?」という冗談も飛び出す。今では、UターンやIターンの移住者が増え、人口減少に歯止めがかかったとさ。

2. 田舎町の意識改革
四国で最も小さい町の徳島県上勝町は、人口2000人余り、65歳以上の高齢化率48%という典型的な過疎と高齢化の田舎町だそうな。物語は、農協の営農指導者として派遣された著者が、よそ者扱いされて町民の大反発を買うところから始まる。よそ者が改革案を持ち出せば、決まって「内部事情を何も知らない奴は黙れ!」と一喝される。これは、農家に限らず、言葉の汚さに多少の違いがあるだけで、企業でも見られる光景である。集団意識の強いところやプライドの高いところほどその傾向が強い。著者も町から追い出されそうになったという。改革者のパワーは半端では勤まらない。アル中ハイマーのような根性なしは、あっさりと出て行く方を選択するだろう。
当時の上勝町は男性社会で、役場や農協で朝っぱらから酒をくらい、悪口ばかり口走る評論家になりさがっていたという。新たな作物に取り組んで失敗すると、営農指導員として責任論は免れない。ただ、素直に謝ると農家の人たちは寛容だったという。現場で共に苦労する姿は、歯の浮くような台詞で欺瞞する政治家たちとは根本的に違うことを、彼らも理解しているのだろう。
そんな時、大寒波の襲来で主要産業のミカンが全滅するという歴史的災害に見舞われる。もはや復興に待ったなし!「禍を転じて福と為す」とはこのことか。ただ、大変な危機に見舞われながら、のどかな雰囲気が漂い、純粋で野性的な光景がある。
当初、葉っぱをお金にするなんて発想は大笑いされる。そりゃそうだろう!辺り一面に落ちているのだから。そもそも、日本料理の必須アイテムといっても、「一見さんお断り」の高級料理店の感覚が一般庶民に分かるはずもない。葉っぱビジネスは、力仕事ではないので影で支えるおばあちゃんや女性たちを主役にできる持って来いの商売。しかも、秋が深まると大きな柿の木の葉が大量に落ちてきて、掃除するのが大変だったものが、金になる木へと変貌するのだ。
そう言えば、昔、祖母に、戦時中、田舎は貧乏だから山菜料理しか食べられなかったと聞かされた。そりゃ贅沢やて!と突っ込んだものだ。都会と田舎の価値観の違いってこんなものである。
成功の鍵は情熱や信念であろうが、成功の保証はない。人間は将来に対して臆病になりがちだ。人間の意識は、どん底まで落ちぶれないと、外部へ耳を傾けないのかもしれない。となれば、日本の政治はもっと追い込まれないと改革などできないだろう。少なくとも、今の政治家には全員退場してもらわなければなるまい。

3. 農協の役割
通常の農作物は、需要より多く採れると、出荷しても単価が下がり、それなりに売れるだろう。だが、「彩」商品は、需要を超えるとゴミになるだけ。使われる場を用意しないと成り立たない商売であり、生産管理と需要管理がシビアな世界のようだ。
本書は、「営農指導はいらない!」と訴える。営農指導をして、どんなに立派な作物をつくったところで、売れなきゃ話にならんと。
そして、「共済はしない!」と訴える。本来農協は、農家どうしで共済するための機関である。しかし、共済や保険よりも、まず売ることが先決であり、それが農協のためにもなるという。
こういう発言は農協の組合長からも叱られたという。なるほど、農協が政治家への影響力を増せば、なぜか農業が衰退するという構図も、分かるような気がする。

4. ごみゼロ宣言
「彩」商品は、紅葉がきれいに色づくす山奥でなければできない。水も空気も綺麗な田舎だから、調達できる品種がある。しかも無料で。
本書は、「田舎は超条件有利地域」だという。上勝町では、全戸で普及した生ゴミ処理器で自家処理させるという。上勝産ブランドの価値を高めるためには、ごみを出さない、処分場もない美しい環境が大切だから。
しかし、「ごみゼロ宣言」は、生活の安定が前提であると指摘している。福祉だ!環境保護だ!などと綺麗事を並べたところで、現実に生活の保証がなければ何もできない。廃れた町では、環境保護もできないと語られる。

2010-05-09

"リーマンのゼータ関数" 松本耕二 著

序章に「リーマンのゼータ関数の理論への入門書」とあるので、自らの能力を顧みず誘われてしまった。ちなみに、必要な予備知識は、微積分と複素関数論のみだという。確かにその通りだが、ε-δ論法で数学をとっくに挫折したアル中ハイマーにとっては不等式を見るだけで蕁麻疹がでる。本書にも、重要な場面でビッグオー記法を用いた近似の概念が盛り込まれる。原理の推論には、不等式を使った限界点を探る方法が有効だからである。
本書は、リーマン予想の動向を述べたもので、基本的な理論を中心に、そのエッセンスを紹介してくれる。

「ゼータ関数の自明でない零点の実数部はすべて1/2である。」
リーマン予想は数学上の有名な未解決問題の一つで、ゼータ関数は無限級数で定義された一種の複素有理関数である。この関数が注目される理由は、素数分布に関する本質を内包しているからである。素数といえば、直感的にまばらに存在し、数が大きくなるにつれて減少していき、やがて無くなるような気がする。しかし、永遠に存在することをユークリッドがエレガントに証明した。
では、次の疑問は、まばらに存在する様子に法則性があるのか?ということになる。リーマン予想では、ゼータ関数の解が複素平面上で実数1/2の直線上に無限に現れることを唱えているが、虚数値の分布状況については言及していない。ところが、虚数値の分布が素数の分布状況と重なる可能性があるとされる。その気配に最初に気づいたのが巨匠オイラーと言われる。おまけに、素数分布がランダム行列理論と重なるというから神秘と言わざるを得ない。もし、純粋ランダム性が宇宙法則に従った何らかの体系で説明できるとすれば、あらゆる複雑系の現象を数学で説明できるかもしれない。
更に、アル中ハイマーはリーマン予想を泥酔性と結びつける。「自明でない零点」を「記憶のない例の店」と置き換えれば、ゼータ関数の正体が見えてくる。例の行付けの店で、実際にコップ半分しか飲んだ記憶がないのに、虚空間では無限に飲んでいる可能性がある。そして、夜の社交場をまっすぐ歩いているつもりでも、いつのまにか例の店に何度も立ち寄る現象は、実空間で体感する直線運動が虚空間では螺旋運動をしている可能性を示唆する。この足取りこそ臨界線である。たとえベロンベロンに酔っ払った(発散した)としても、別の人格(定義域)では俺は酔ってないぜ!(収束している)と主張するのも、ゼータ関数が都合よく定義域によって変形する様を表している。そして、純粋ランダム性は、純米酒のまろやかさが体内に広がる様子とエントロピー増大の法則とで重なる。なるほど、泥酔者のランダム・ウォークをゼータ関数で説明できそうだ。
はたして、ゼータ関数 = 素数分布 = 純粋ランダム性 = 泥酔性という神秘の法則が成立するだろうか?

1. ゼータ関数とオイラー積
ゼータ関数を下記に示す。
ζ(s) = 1 + 1/2^s + 1/3^s + 1/4^s + ... = Σ 1/n^s
ζ(2) = (π^2)/6 は、オイラーの解いたバーゼル問題で、解にπが出現するところに神秘を感じる。
ζ(4) = (π^4)/90
ζ(6) = (π^6)/945
sは、今日では複素変数として扱うのが通例であるが、当初は実数で扱われた。
sを実数とすると、s > 1 の時、1 + 1/(s-1) で収束し、s = 1 の時、発散する。
オイラーは、ゼータ関数をオイラー積で表した。
Σ 1/n^s = Π 1/(1-p^-s), ただし、pは素数。
この式の興味深いところは、実数を成分とする無限和が、素数全体を成分とする無限積で表されることである。ここにゼータ関数が、素数と何らかのかかわりを持つと考えるのは自然であろう。

2. 素数定理
素数分布の漸近的挙動をルジャンドルとガウスが示している。両者の予想は、どちらも第一近似が次のようになる。
π(N) ~ N/log(N) : ~(チルダ)は近似の意味。
これが素数定理である。ちなみに、π(N)は素数個数関数であり円周率とは関係ない。
素数定理をビッグオー記法で表したものに、次の定理があるという。
x → ∞ の時、π(x) = li(x) + O(x・exp(-c√log(x)))
となるような、定数c > 0 が存在する。
ちなみに、li(x) = x/log(x) + x/(log(x))^2 + ... (n-1)!・x/(log(x))^n + O{ x/(log(x))^(n+1) }
O()がビッグオーで、引数が無限大に向かう時の関数の大きさに制限をかけている。つまり、O()は誤差項である。この誤差項の探求が、ゼータ関数の研究と結びつくようだ。
ところで、リーマン予想を仮定して、実数部を1/2にすると、
π(x) = li(x) + O(√x・log(x)) ...こんな風になるのかな???

3. 非臨界領域と「自明な零点」
sを複素数に拡張して、s = σ + it (ただし、i = √-1) と表す。
変数を実数と限定する限り、σ > 1 の時、ζ(s)は収束するので零点を持たないが、σ = 1 の時、無限大となる。ところが、複素平面に展開した途端に、その無限大の障壁が破れるという。つまり、実数での定義域が、複素数に拡張された途端に、未知なる次元の宇宙へと飛び出すというのだ。
更に、ガンマ関数で表すと、以下の式が成り立つという。
π^(-s/2)・Γ(s/2)・ζ(s) = π^(-(1-s)/2)・Γ((1-s)/2)・ζ(1-s)
ここで、s = 1/2 は特別な意味がありそうだ。1/2 = 1 - 1/2 で、両辺でζ(s) = ζ(1-s)となるからである。これは、1/2 を軸とした対称性を示している。
ガンマ関数は、実数部が正の時、Γ(s)は絶対収束する積分で表わされる。
そして、Γ(s+1) = sΓ(s) が成り立つが、これを実数部が負の領域でも定義できれば、複素数全体で有理型の関数として拡張することができる。その極は、s = 0, -1, -2, -3, ... のみで全て1位の極であり、また零点を持たないという。
変形すると、
ζ(s) = π^(s-1)・Γ((1-s)/2) / Γ(s/2)・ζ(1-s)
これは、右辺のζ(0)の値が定まれば、ζ(1)が求まることを意味している。
右辺の商Γ((1-s)/2) / Γ(s/2)は、s = 0,-2,-4,-6...で1位の零点を持つ。したがって、s = -2, -4, -6, ... の時、ζ(s)は零点を持つことになる。これが「自明な零点」である。
こうして、s > 1 と s < 0 の領域での考察を見ていったわけだが、逆に、0 ≦ s ≦ 1 の解明が困難であることが分かる。これが臨界領域である。リーマンは、臨界領域の中で、1/2を臨界線(クリティカルライン)として、非自明な零点はすべて臨界線上にあると予想を立てたことになる。
ちなみに、ガンマ関数の公式に、Γ(s)Γ(1-s) = π/sin(πs) というものがあるという。
ジョン・ダービーシャー著の「素数に憑かれた人たち」には、下記の式が記載されていた。
ζ(1-s) = 2^(1-s)・π^-s・sin((1-s)π/2)・(s-1)!・ζ(s)
なるほど、変形すると同じような形になりそうだ。ここで、1-s = -2, -4, -6, ... の時、sin成分が0となるので、ζ(-2) = 0, ζ(-4) = 0, ζ(-6) = 0, .... となる。

4. 臨界領域
リーマン予想を証明するためには、臨界線 s = 1/2 において左右対称性を示すので、1/2 < s ≦ 1 の範囲において、ζ(s) ≠ 0 を証明すればいい。しかし、臨界領域におけるζ(s)の挙動を定式化することは極めて困難!ここに値分布を解析しようと試みてきた数学の歴史を感じる。
ここで、次の定理があるという。
「任意の固定した 1/2 < σ ≦ 1 に対し、集合{ζ(σ + it)|t ∈ R}は、Cで稠密である。」
これを基に、有限和による様々な近似式や、ζ(s)の絶対値の大きさを求めるオーダー評価を紹介してくれる。
ディリクレ級数表示すると、こんな感じになる。
ζ(s)^2 = Σ{ d(n)/n^s }, ただし、σ > 1
d(n)は、自然数nの正の約数の個数で、約数関数のこと。これは、ζ(s)^2の平均値である二乗平均値は、約数関数d(n)と密接に関係することを示す。また、ディリクレの漸近式から誤差項を求めている様子も紹介してくれる。
リーマン予想は、誤差を定式化するという最も難易度の高い分野と言えそうだ。
ところで、リーマン予想は、実数部が1/2と言ってるだけで、虚数部については言及していない。本書は、虚数部が正の零点を、p1, p2, ...とし、pn = βn + iΓn とすると、次のように近似できるという。
Γn ~ 2πn/log(n), n → ∞
Γnの挙動は、臨海領域において、1を法とした一様分布であることが分かっているそうな。

5. リーマン予想を前提とした研究
「零点密度理論」という研究分野があるという。あくまでも、リーマン予想が正しいという前提で存在する分野だそうな。歴史的にも、定理が正しいという前提で進められる様々な研究がある。定理が反証されれば、すべて無駄に終わるわけだが、数学者たちはこうしたものに人生をかける。純粋な探究心がなければ持続できるものではなかろう。自然科学は、こうした研究者の地道な努力によって成り立っている。中にはフィールズ賞やノーベル賞といった輝かしい表舞台に立つことのできる偉人もいれば、世間から認識すらされない偉人もいることだろう。たとえ無駄な研究に終わっても、科学への貢献という意味で差別できるものではない。名声や賞金目当てに、政治的にうまく振る舞える人ほど有利であるのは、どの世界でも同じだろうが、偉人はそうした偶然性で得た名声をそれほど意識はしないものらしい。巨匠オイラーは、真理が覗けるのであれば、その功績が誰のものであってもええ!というようなことを述べたという。

2010-05-02

"珠玉の電気回路200選" EDN Japan 編

本書は、EDN Japan誌の「Design Ideas」で過去7年間の掲載記事から200を厳選したものだという。副題には「世界のエンジニアが生み出した」とあるので、高級なレベルについていけるか不安であったが、意外と単純なアイデアばかり。「単純さにこそ、崇高さがある!」というわけか。そこには、教科書に載ってそうなお馴染みなものから、実装のためにちょいと工夫したもの、あるいは回路テストのための便利な道具などが紹介される。中にはロジック的なものもあるが、ほとんどアナログ的な話題で、昔、真剣に悩んでいた問題も登場する。組織名や個人名も記載され、発案元がはっきりしているとは知らなんだ。ただ、年代が明記されないのが惜しい!こうした趣向(酒肴)は、アル中ハイマー世代に何やら懐かしいものを感じさせる。
今宵は、昔のくだらない体験談を語ってみよう。ちなみに、おいらはデジタル技術者である。いや!ほとんど設計もせず、ネットワーク整備や些細なスクリプトを書くぐらいなもので、その実体は雑用係だ!もはや流行技術にもついていけない。最近は教育係を仰せつかるので、暗に引退勧告されているのかもしれない。したがって、ハードボイルドをモットーに、ソフトなピロートークを持ち味に生きるのであった。

アナログ技術から逃げ回っていたおいらは、厳密にアナログ回路を設計したことがない。とはいっても、20年以上前は、実験室でアナログ技術から完全に逃避することはできなかった。実験レベルでは、いつも便利な素子を探してきて、それを使いまわすことに専念すればいいのだが...いずれアナログ技術は、すべてデジタル技術に置き換わると叫ばれた時代である。それが現在では、アナログ技術者の方がはるかに重宝されるから皮肉である。
デジタルシステムとはいえ、レギュレータぐらい使わないと火が入らない。安定化電源はシステムの命であり、リセット動作は確実さが求められる。電池動作ともなるとちょいと工夫が必要で、電池駆動の小型システムだからといって馬鹿にはできない。電源オフ時に、マイコンを動作させてEEPROMやフラッシュメモリにバックアップさせたい場合などは、遮断回路にも気配りする。デジタル回路はノイズ源でも悪名が高く、迷惑をかけないように気を使う。システムが複雑化すれば、電源シーケンスを疎かにすると、ラッチアップや過電流の原因ともなる。些細なところでは冷却ファンも耳障りだ。
実験用の周辺回路では、振幅や周波数、あるいはデューティ比を制御できる発振回路や、モノマルチを使った簡単な信号発生器が重宝する。ピーク検出器も、カットアンドトライをやる時に便利だ。デジタルシステムではビット誤り率を計測する道具も必要だ。今では、通信用LSIなどで似たような発想が見られ、誤り情報などの統計情報を収集する機構が組み込まれる。オペアンプは様々な用途に使える便利な素子であるが、その構造すら理解できずに、参考書や先輩のやる事を見様見真似で試していた。熟練者を観察していると、しばしば感心させられる。理論は単純でも、実用レベルとなると、職人とも言うべきおもしろい工夫が見られるからである。ノイズ対策はもちろん、入力インピーダンスの高いアンプともなれば静電気も問題になる。過電圧や過電流の保護といった安全面も考慮される。システムが小型化すれば消費電力の問題も大きく、部品削減といったコスト面にも気を配る。本書は、そうした些細な工夫でありながら、重要な技術が満載である。

デジタルLSIを設計するにしてもシミュレーション技術のしょぼい時代で、大型汎用機を使っていた。汎用機は会社の持ち物のくせに、管轄が違うだけでCPUの使用時間で課金され、別途予算をとらなければならない。おまけに、検証パターンの長さも今では信じられないほど短く制限される。したがって、実際にロジック素子を繋いで実機テストを行うのが必須だった。1万ゲートクラスでも、すべて汎用ロジックで組み上げるものだから、数十枚のユニバーサル基板を筐体に収納する。今風に言えばブレードコンピュータのような格好をしている。実機と設計情報が一致しているのを、どうやって保証するのか?という余計な問題も生じる。ちょうどプログラマブル・デバイスが登場した頃で、まだ実機に耐える性能が出せなかった。
経験的には、最初に火を入れた時、回路動作がまったくしないのと、回路動作はするんだけど微妙におかしな動きをするのとでは、後者の方が厄介である。まったく動作しない時は単純なミスであることが多いが、微妙に動作する時は微妙なミスが介在するので、その発見も困難になりがち。実験机ひとつにしても、スチール製だと反射で誤動作の元になる。古びた木製の机に愛着を持っていた。信号線にプローブをあてると動作するが、プローブを外した途端に誤動作するといったこともある。プローブ負荷がノイズを抑えるからだ。逆に、プローブ負荷が高速動作を妨害することもある。また、電源電圧レベルが大きいとノイズも強調されて誤動作するが、電源電圧レベルをぎりぎりまで下げると、ノイズも抑制されて動作することもある。配線のやり方ひとつでも、動作が不安定になる場合があり、スパゲッティ配線はプログラムと同様に誤動作の元になる。几帳面な技術者の配線は美しく、電磁ノイズも考慮されている。おいらは不器用なので、基板上に装着された不良LSIをパターンを壊さずに付け替えるのが苦手だった。QFPで、ピッチ1mm以下ともなればやる気がしない。任せろ!と言いながら平気で付け替える先輩の職人技はまさしく芸術品だ!だが、さすがにBGAは無理だろう。いや!彼ならやるかも。
本書を読んでいると、次々と懐かしい思い出が蘇る。そういえば、今ではハンダ付けすらやらなくなった。現在携わる仕事は、アルゴリズムやアーキテクチャの検証をソフトウェアで実行するぐらいなもの。ますます、泥臭いおもしろさから遠ざかっていく。それはそれで数学的で理論的でおもしろいのだが、大工さんの精神が仮想空間に閉じ込めらたような錯覚を感じることがある。昔は、ちょっとした回路キットが流行ったものが、プリント基板が高密度や多層構造になると人間が直接触れるには手に余る。その分、既に出来上がった基盤に搭載できるソフトウェア部品を豊富に体験できる。どちらも違ったおもしろさがあるのだが、双方を体験できるアル中ハイマー世代は幸せなのかもしれない。
おいらの前の世代になると、マスクパターンを三畳ぐらいの模造紙にプロットアウトさせて、人海戦術で蛍光ペンでチェックする様子を写真で見たことがある。当時、その模造紙は事務所の天井に飾ってあった。コンピュータ室では「ネズミホイホイ」なんてものを初めて見かけた時には驚いた。ネズミがケーブルをかじって、しばしばトラブルを起こしたそうな。そういえば、テレビ部隊の実験室には、股間用の防磁グッズが置いてあったのを思い出す。股間に高周波を浴びると女の子供しかできないという話があった。確かに先輩方の子供は女の子ばかりだった。電磁波はXY染色体に影響を与えるのかもしれない。ただ、Hが下手だと女の子が生まれるという説もあった。いまだに、こちらの方が説得力を感じる。

会社や組織によって文化が違うのも自然であろう。客観的であるはずの専門用語ですら、企業や組織によって微妙にニュアンスの違いを見せる。画像処理系と通信系という分野の違いでも、用語の使い方が微妙に違って戸惑うことがある。ずっと一つの組織に依存していると、組織文化に染まっていることすら気づかないものだ。そして、当り前のように文化を押し付け、言葉が通じないと馬鹿にされることもある。こっちが馬鹿だから仕方がないかぁ。宗教のように無条件で信じられるものがあるということは人を強くするものらしい。初対面で、専門用語の意識合わせを心掛ける人を見かければ、それだけで信用に値する。
仕事のやり方で最も文化の違いを感じるのは、検証に対する思想の違いであろうか。本書にも、設計のアイデアもさることながら、検証のアイデアも紹介される。ちなみに、日程会議の時、「設計が終わった時点で、検証も終わっているでしょう!」と主張するマネージャがいるのには、たまげた!その理由は「動作させながら設計するから」ということらしい。世の中には、信じられない文化が存在する。逆に、こちらにも世間からは信じられない文化があるのだろう。

では、ちょっと目に付いたところを軽く摘んでおこう。

1. 2相クロックのドライバ
2相クロックで駆動するデバイスでは、nチャンネルとpチャンネルのスイッチング速度にミスマッチが起こる。つまり、ターンオン時とターンオフ時の遅延時間が違う。そこで、増幅器と基準電圧を比較して、その電圧差を調整するといった補正手段を紹介している。

2. 音像位置操作用パンポット
モノラル信号をステレオ化する時に使われる機能としてパンポットがある。パンポットとはパノラマ分圧器のこと。ステレオ音場での音源(音像)位置を決めるわけだが、音源位置を変更しても音量が変化しないようにするために、左右を等電圧にするのではなく、等電力に制御する必要がある。その切り替えを簡単にスイッチイングする方法を紹介している。

3. コモンモード電圧(CMV)対策
CMVによる誤動作や性能劣化は、昔からある問題である。問題の原理は単純で、あらゆる箇所で基準電圧レベルを厳密に等しくするのは難しい。あらゆる箇所でグランドレベルを同一にするのも基本ではあるが、容易ではない。そこで、まず思いつくのは、グランド線を太くするという力技である。格好良くやるならば、信号系統を差動型の計装アンプで補正するといったことも考えられるが、信号線ごとに専用のアンプ回路を実装するのは現実的ではない。そこで、2個のオペアンプとマルチプレクサで一気にCMV除去する回路を紹介している。

4. 電池駆動
電池駆動の装置では、いつも大電流を必要としているわけではない。スリープ状態やパワーダウンモードがほとんどで、平均すると大した電流を必要としない。だが、瞬時には大電流を必要とし、それなりのエネルギー供給量が求められる。単純にはキャパシタを備えることで対処できるが、キャパシタの容量は厳密な計算が必要だろう。他にも電池を用いた装置には、いろいろな工夫が見られる。残量検出、パワーキャパシタ、電池寿命を延ばすための工夫、あるいは電圧計なしでも、コンパレータを使って電池電圧が測れるなど...

5. スイッチング電源
スイッチング電源といえば、電磁ノイズで悪名高い。よくEMIフィルタが使われるのだろうが、ノイズが大きくなると基板面積も要する。そこで、スイッチング周波数を変調することでEMIを低減できる方法を紹介している。つまり、PWMコントローラの周波数を変調するという単純な仕掛け。

6. 電話端子を利用した電源回路
うまいこと電話線を使って充電すれば、電気代が浮くなんてことを考えたことがある。電気通信事業法に違反するのはまずいのだが、その前に充電の仕掛けを自宅に構築する方がコストがかかりそうだ。

7. LEDドライバ
マイコンのI/Oポート1個で複数LEDを制御して、バーグラフを表示する方法を紹介している。ちょっとした表示にはLEDは手軽である。シフトレジスタと組み合わせれば、いろいろな表示の工夫ができる。ディスプレイ表示が高価な時代は、製品にも使われた。今では、周辺の明るさに追従して、LEDの発光強度を制御するなどは当り前であるが...

8. 基板の短絡検出
電圧降下法で基板の短絡を検出する安価な方法を紹介している。接続チェックをするだけでも設計者のストレスは大きい。接続状態を誤認すると非常にやっかい。テスターには、接続チェックで「ピッ!」と音が鳴るものもある。これは便利だと思っていたら、微小な抵抗値でも反応する。したがって、しっかり電圧値を確認しないと気が済まなかった。現在では、プリント基板も小さくなり、しかも多層構造で、短絡を調べるのも難しかろう。本書は、AC信号を利用したケーブル断線チェッカも紹介している。

9. ランダムなビット列生成器
デジタルシステムでは、ランダム発生器は重要である。ランダムデータは、ソフトウェア的に簡単に生成できるので、コンピュータを使えば楽である。だが、昔は、わざわざ雑音発生器を使って、ランダム信号を生成していた。擬似雑音発生器は、LFSRで簡単に構成できる。EORに帰還をかけたシフトレジスタで多項式を形成するのは、現在のアルゴリズムと同じだ。ランダム以外に、規則的な信号も現象を分析するのに便利である。こうした信号源を作るのにカウンタを駆使していた。巡回符号を作るようなイメージだ。本書は、周波数をN+1で除算する分周期や、M系列の生成を紹介している。

10. クロックの逓倍
理論上は同期クロックの逓倍は簡単である。分周器とPLLで実現できるから。だが、高速となると難しい。今では、高速なFPGAが利用できるので考えもしない。