モーツァルト論には、小林秀雄の有名な「ト短調」をキーワードにしたものがあるそうな。対して本書は、「ト長調が綴る飛翔のイメージ」こそが、モーツァルトの真髄であると主張する。だからといって、ト短調論に対してト長調論をもって反駁しようなどという意図はないようである。モーツァルトの生きた時代は、音楽史上、最も長調が優勢であったという。その背景には、進歩を奉じて幸福を追求する啓蒙思想があり、積極的な社会風潮があるのも確か。だからこそ却ってシリアスな短調を洗練させるところがある。個人的には、ト短調の方に魅力を感じる。三代交響曲に魅せられたのは中学生の頃であろうか。仕事中のBGMで最も活用してきたのが、交響曲第40番ト短調である。交響曲第41番ハ長調「ジュピター」も最高だが、BGMには少々明るすぎる。チャイコフスキーの交響曲もそうだが、昔から短調系が肌に合うようである。どこかの音階が半音下がるだけで気分が変わる。このあたりに気まぐれの制御法があるのではないかとずーっと模索してきたが、アルコール濃度で半音分解する方が手っ取り早いようである。今度、バーテンダーに「短調カクテル」でもリクエストしてみるか...
それはさておき、おいらは、交響曲こそクラシック!というベートーヴェン的な考えに感化されてきた。ところが、ここではモーツァルトの本質を主にオペラへ向けられ、新鮮な感覚を与えてくれる。モーツァルト時代、シンフォニーはまだ主役ではなかったようである。これから始まる演奏は何々調です!と宣言されるぐらいの前座の役割でしかなかったとか。ファンファーレやフィナーレのような形式であろうか。本書は、悲劇物語を明るい調子で演出する洒落やユーモアを、オペラや歌曲の中に見出してくれる...
モーツァルトが類い稀な天才であったことは言うまでもない。しかし、それは彼一流の演技でもあったという。彼の才能振りでは、言語脳と音楽脳を使い分けたという話を聞く。妻と会話をしながら作曲をし、相互能力を触発させたという逸話もある。
一度書いた楽譜をまったく修正しないといった伝説は、どうやら誇張らしい。モーツァルトといえども、スケッチをやり、手直しをし、捨てるべきを捨て、時間をかけて作曲したようである。偉大な才能に一面的な讃美を与え、人物像を神話化してしまうことがある。鑑賞者は身勝手な理想像を描くものである。
一方で、才能をひけらかせば、敵意や嫉妬から根も葉もないことを言いふらす者がいる。オペラ作品には数々の女性が登場し、しかも特定の女性歌手のために書かれた曲も多いとくれば、女癖の噂は絶えない。大衆ってやつは、なにかとスキャンダラスな話題がお好き。天真爛漫かつ下品といった印象は、映画「アマデウス」の影響もあろうか。
借金まみれであったのも、個人的な問題もあろうが、社会的な問題も大きいようである。共同統治者女帝マリア・テレジアの崩御を受けて、その長男ヨーゼフ2世が単独統治を行い、啓蒙専制君主が改革をもたらす。民衆王と呼ばれながら対トルコ戦争が致命傷となり、ウィーンでは経済恐慌に陥る。貴族とて音楽どころではなく、モーツァルトの作品も激減したという。そんな時代であっても、登場率や演奏率の下降は見られないらしいけど。見栄っ張りで浪費癖であったのも確かなようで、気前よく、呑気で、無頓着で、ビリヤード好きだったとか。ギャンブラー説には、多くの学者が異論を唱えているけど。
杜撰で自己管理のできない人物と思われがちだが、正反対な性格も見せる。父レーオポルトが几帳面で管理主義の権化のような人物だったそうで、その血を受け継いでいるところがある。お馴染みのケッヒェル番号は、モーツァルト自身が目録を作成していたお陰で実現できたという。600曲を超える作品を第三者が整理するとなると至難の業。1862年、ルートヴィヒ・フォン・ケッヒェルは、成立年代順の番号を振った全作品の目録を出版。おかげで、その番号は作品の顔となり、マニアともなればケッヒェル番号で作品をそらんじる。それでも、目録に記載されない作品もあるそうな。大曲や知名度の高い曲でさえ。目録と自筆楽譜の食い違いもあるという。モーツァルトがフリーメイソンだったことは広く知られる。そのためかは知らんが、目録にも神秘が満ちているようである...
1. オペラに見るモーツァルト思想
「フィガロの結婚」(K.492)を人間愛の讃美としながら、「ドン・ジョヴァンニ」(K.527)をモーツァルトの最も暗いオペラと評される。「フィガロの結婚」には、貴族の専横を打破しようとする平民の心意気が満ちている。そのことが、啓蒙的改革への情熱と呼応して皇帝の支持を受ける反面、オペラ受容層の貴族たちに不快を招くことに。ウィーン上演が早々に打ち切られ、しばらく日の目を見なかったという。
しかし、プラハで圧倒的な人気を博す。この作品に張り巡らせた反体制思想が、ハプスブルク家の支配にあえぐプラハ市民に熱烈に受け入れられたようである。その後、「ドン・ジョヴァンニ」が成立し、ここにもプラハへのメッセージが込められているという。それは、強烈な性的、実存的な訴えかけで、キェルケゴール的な直接的でエロス的な段階であると。覆面の主人公たちが農民たちとジョヴァンニ邸に集い、自由万歳!と叫べば、ドン・ジョヴァンニは死を選ぶ自由に酔いしれる。そして、啓蒙社会における抑制エネルギーの蓄積から下克上を予感させる。ウィーンで受け入れられなかったモーツァルト思想は、プラハで開花したというわけか。
ちなみに、交響曲第38番ニ長調「プラハ」(K.504)もいい...
2. モーツァルトの女性観
本書は、モーツァルトの人間好きを指摘している。幼児の頃から人なつこく、人見知りせず、どんな人ともすぐに友達になれる性格で、終生変わらなかったとか。その反面、人と距離を置くことが苦手で、貴族にことさら遜ったり、聖職者を敬ったりができなかったという。
人間好きなのか、女好きなのかは知らんが、オペラ作品の中に女性遍歴を垣間見ることができる。「コジ・ファン・トゥッテ」(K.588)に道徳者の伝統的な批判が付きまとうのも、女性の貞操観念を堕落させていく物語の宿命であろう。登場する二人の姉妹フィオルディリージとドラベッラは、本当の愛を味わっていると思い込んでいるものの、まだ幼い憧れの空想段階にある。だが、男たちの激しい求愛が混乱へ陥れる。しばしば、フィオルディリージの方は、ドラベッラと対照的に、最後まで貞操を貫こうとしたと解釈される。だが、それは間違っていると指摘している。それもそのはず、結局「女はみなこうしたもの!」と歌われるのだから。やはり女性はロマンスに弱い。ましてや、戦地に赴く男どもに、どこまで義理立てする必要があろうか。モーツァルトは、女性ばかりに押し付けられる貞操観念の重さに、不自然さを感じていたようである。
一方で、「コンサート・マリア」という歌劇とは別の独立曲がある。モーツァルト研究では後回しにされがちな分野だそうな。9歳(1765年)から最期(1791年)にかけて書かれ、モーツァルトの成長を伺うのにかっこうなジャンルだという。それは、コンサート用に独立曲として書かれたものと、他の作曲家のオペラに挿入するための代替曲として書かれたもの、の二種類あり、いずれも特定の歌手が想定され、存分に個性が発揮できるように配慮されているという。マンハイムで知り合った初恋の人アロイージア・ヴェーバーは傑出したコロラトゥーラ歌手で、その妹で妻となるコンスタンツェもソプラノ歌手で、彼女らに捧げた曲もある。独自のマリア像を、世俗の女性関係に求めたのかは知らんが、コンサート・マリアには、生涯をかけてモーツァルトの女性関係が刻まれているのかもしれん...
3. 歌曲に見る堕落論
歌曲は、ほとんど制約のないジャンルで、ひねりを利かせ、ユーモアを忍ばせ、時には正攻法で意表を突き... そんな多彩な仕掛けが張りめぐらされているという。あまりにも洒落ていて、意識されないほどに。ただ、そんな自由なジャンルなのに、30曲ほどしかない。
歌曲「すみれ」(K.476) の詩はゲーテが綴る。一般的には、すみれの花と羊飼いのイメージから可憐という印象を与え、民謡風の純真な可愛い曲と評される。しかし、その実態は、牧場で人知れず起こった惨劇だという。美しいすみれが無残に踏み潰される、あっという間の出来事を、ゲーテが何食わぬ顔で晴朗に歌い出しているとか。やってきた娘が、すみれに目もくれず、踏み潰して... それを見て喜んでいた自分が死ぬのも、彼女によって... といった具合に。本書は、挿入される物語と曲の調子が不均衡で、美化して歌われ過ぎだと指摘している。これも、芸術家の遊び心であろうか。ファウスト博士が、メフィストフェレスと戯れるかのような。ゲーテが大のモーツァルト愛好家だったのも、作風に通ずるものがある。
また、歌曲ならではの恋愛物語には、思いっきり男性諸君のエゴイズムを演出する。接吻やら、抱きしめるやらと、女体をむさぼる姿を、のどかな恋愛物語に変えてしまうほどの音調によって。幸福像に、さりげなく死霊を重ねると言えば大袈裟であろうか。いや、勝手に聴衆が幸福と思っているだけのことかもしれん。単純な長調が天真爛漫な気分を煽る。天真爛漫とは、自己主張の根源であり、エゴイズムの源泉と解することもできそうか。そして、これらを克服することこそ、すなわち、堕落の道にこそ、真理の道があるとでもいうのか...
4. 三大交響曲
交響曲第39番変ホ長調(K.543)、交響曲第40番ト短調(K.550)、交響曲第41番ハ長調「ジュピター」(K.551)、これらは言うまでもなく、モーツァルトの交響曲においてピークの作品である。そういえば三曲を順番に聴いてしまうが、本書はそれもそのはずだと教えてくれる。変ホ長調のみが堂々たる序奏を持っていて最初に置かれることに意味があり、ハ長調の壮大なフーガがフィナーレとなって、これらにト短調がうまく対比されながら真ん中で座り心地が良い... といった構想になっている。
「終結フーガをもつ彼の偉大なハ長調シンフォニーは、すべてのシンフォニー中、第一のものである。この種のどんな作品にも、天才の神々しい火花が、これほど明るく、美しく輝くものはない。すべてが天上の妙音であり、その響きは、偉大な光栄ある行為のように心へと語りかけ、心を感激させる。すべてがこの上なく崇高な芸術であって、その威力の前に、精神は身を屈して驚嘆するのである。」
ジュピター神のごとく、天上の芸術というわけか。しかし、おいらには40番が一番思考のBGMに合う...
5. 聴衆を超えた幻想芸術
コンツェルトは、本書ではあまり触れられないが、モーツァルトの最高のジャンルの一つであろう。ピアノ協奏曲第20番ニ短調(K.466)は、モーツァルトが一連の快活なコンツェルト人気の流れを突然断ち切った、最初の短調協奏曲だそうな。モーツァルト芸術が聴衆を超え、難解な世界へ踏み込む一歩となったということか。もっとも、その後の長い受容の歴史が、この作品を最高の人気曲の一つへ押し上げることになる。ピアノ協奏曲第26番ニ長調「戴冠式」(K.537)よりも...
また、「フィガロの結婚」の創作の合間をぬって作曲されたピアノ四重奏曲ト短調(K.478)には... これは騒音だ!とても楽しめない!という感想さえ記録されているという。
「訓練を受けていない耳では作品の中の彼についていくのはむずかしい。かなり経験を積んだ耳でも、何度も聴かなくてはならない。」
こういう感想を意外に思うのは、現代ではモーツァルトの高級芸術が庶民化している証であろうか。確かに、複雑で疲れる。だが、おいらの大好きな曲の一つで、精神空間がぐちゃぐちゃにされるような幻想感がいい。
現代思想に飽きれば、逆に古典に新鮮さを感じる。ルネサンス期に古典回帰を懐かしんだのも、そこに新鮮な解放感があったからであろう。いつの時代でも、現在の自分を嘆けば昔を懐かしみ、単純さに退屈すれば複雑さに救いを求めるものである。
6. バッハとモーツァルト
バッハとモーツァルトは、通常バロック派と古典派で区別されるが、近年の研究では二人の連続性に注目されるという。18世紀を通じて、弦楽器や管楽器に大きな変化が見られないからだそうな。鍵盤楽器は別だけど。むしろ、モーツァルトとブラームスらのロマン派とを区別するのであろう。ブラームスやブルックナーで定着する豊かで長いレガートは、まだモーツァルト時代には存在しないという。本書は、モーツァルト時代を味わうには、古楽器演奏を勧めてくれる。古楽器が普及し認知されると、逆にモダン楽器による演奏の再評価という流れになるのだけど...
さて、19世紀的な「歌う原理」に対して、「語る原理」がまだ有効であったと捉えるそうな。だからといって、モーツァルトが18世紀の革新者であることを否定しているわけではない。素人感覚で眺めても、バッハとモーツァルトの間にはなんらかの境界がありそうだし、バッハから異質な変化を見せるのも明らかだ。おまけに、作風は正反対ときた。バッハのカンタータと言えば、神やら愛やら接吻やらを大袈裟に歌い、真面目臭く、説教じみて聞こえる。バッハを素直に聴けるようになったのは、30代半ば頃であろうか。対して、モーツァルトは照れくさそうに茶化すところが昔から肌に合う。
しかしながら、晩年の作品にはバッハの模倣に通ずるものがあるらしく、精神的な共通点が見出せるという。皇帝ヨーゼフ2世から音譜が多すぎると批判されたのは、オペラ「後宮からの逃走」(K.384)に関するものだったと思う。だが晩年は、信じられないほど簡明な転換が著しいという。難解な作品を残してきた天才芸術家が、晩年になって自然へ回帰し、簡明な作風を露わにするのをよく見かける。これが人間の普遍性というものであろうか...
Contents
- 2014-03-16 "モーツァルト = 二つの顔" 礒山雅 著
- 2014-03-09 "ヒトはなぜ戦争をするのか?" Albert Einstein, Sigmund Freud 共著
- 2014-03-02 "精神分析学入門(I/II)" Sigmund Freud 著
- 2014-02-23 "エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話" Paul Valéry 著
- 2014-02-16 "ムッシュー・テスト" Paul Valéry 著
- 2014-02-09 "怒りについて 他二篇" セネカ 著
- 2014-02-02 "生の短さについて 他二篇" セネカ 著
- 2014-01-26 "自省録" マルクス・アウレーリウス 著
- 2014-01-19 もしも、まったく記憶力のない夢学者が夢現象を語ったら...
- 2014-01-12 存在屋と破滅屋
2014-03-16
2014-03-09
"ヒトはなぜ戦争をするのか?" Albert Einstein, Sigmund Freud 共著
この組み合わせに目を疑った... アインシュタインとフロイト???
1932年、国際連盟はアインシュタインに、ある依頼をしたという。
「人間にとって最も大事な問題をとりあげ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください!」
そして、とりあげた問題は戦争、相手はフロイトだったとか。ナチズムに握り潰され、長らく忘れ去られてきた二人の往復書簡が甦る。それは、憎悪と攻撃性という人間本性を巡っての対話であった。アインシュタインは、権利と権力の関係から議論を求める。フロイトは、これに賛同するものの、権力より暴力という、もっと剥き出しにした言葉を用いたいと提案する...
翌1933年、アインシュタインはナチズムに追われアメリカに亡命。彼が有識者こそ暗示にかかりやすいと主張したのは、まさにヒトラーの演説に狂気した群衆心理を物語っている。真理を探求するには、科学だけでは不十分だということを痛感したのであろう。ここに、科学者と心理学者を結びつけることに。
1938年、フロイトもまたロンドンに亡命。第一次大戦の教訓から発足した国際連盟は、人類史上初の試みであり、世界から戦争をなくすための唯一の希望であった。しかし、独立機関として機能せず、第二次大戦の勃発で失敗に終わり、20世紀は大量殺戮の世紀と化す。その思想は国際連合に受け継がれるものの、各国の思惑が絡むことに変わりはない。
司法機関を権力と分離させることは極めて難しく、国際機関でさえ正義の下で機能させることは不可能なほど難しい。それは、正義という言葉があまりにも美しい印象を与えるわりに、普遍性や客観性からは程遠いことにある。歴史を振り返れば、脂ぎった権力ほど正義を巧妙に利用してきた。しかも、彼ら自身が正義者だと信じ込んでいる。人間ってやつは、自分の道徳観に自信を持つと、ろくなことにならないようだ。そこで、現実的な対策として実践されてきたのが、モンテスキュー式権力分立の原理である。人間社会ってやつは、毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか?そいつは、真理の探求という普遍原理よりも優るとでも... そうかもしれん。
1. アインシュタインからフロイトへ
「ナショナリズムに縁がない私のような人間から見れば、戦争の問題を解決する外的な枠組みを整えるのは易しいように思えてしまいます。すべての国家が一致協力して、一つの機関を創りあげればよいのです。この機関に国家間の問題についての立法と司法の権限を与え、国際的な紛争が生じたときには、この機関に解決を委ねるのです。」
ところが、すぐに問題にぶつかる。司法は人間が創り出したもので、周囲の様々な圧力を受け、正義はすぐさま宣伝やパフォーマンスに置き換えられる。自由や平等、あるいは友愛や博愛といった響きの良い言葉ほどタチの悪いものはない。
アインシュタインは、国際平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を放棄しなければならないと主張する。そして、人間の心に問題があるとし、第一に権力欲を放棄することができない特質を挙げる。教養のない者を導けばいいというものではなく、むしろ知識人の方が暗示にかかりやすいと。机上の言葉を頼りに、複雑な現実を安直に捉えようとするからだと。教育者、報道屋、宗教屋たちが、政治的に扇動される当時の様子は... 今もあまり変わらんようだ...
2. フロイトからアインシュタインへ
「むき出しの現実の力を理念の力に置き換えるなど、今でも無理なのです。失敗するのは必至です。法といっても、つきつめればむき出しの暴力にほかならず、法による支配を支えていこうとすれば、今日でも暴力が不可欠なのです。このことを考慮しなければ、大きな過ちを犯すことになります。... 人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにない!」
今日、世界中の民族を支配しているのは、ナショナリズムという理念であろうか。フロイトは、ナショナリズムこそがすべての国々を敵対させる原因だとしている。そして、原始時代に遡って考察し、人間の本性を暴こうとする。
一般的には、権利と暴力は正反対のものと思いがち。だが、権利の行動は、暴力と深く結びついてきた。人と人の間には利害の衝突があり、ほとんど力関係で決着がつけられる。人間とて動物なのだ。文明の発達が、腕力競争を武器競争へ変化させ、やがて科学戦争、経済戦争、情報競争といった頭脳戦へと移行させてきた。唯一の救いは、人間の場合、暴力の前に意見や思想の対立があることだ。極めて抽象的なレベルで意見が衝突することもある。フロイトは、こうした特質のおかげで、暴力以外の解決策の可能性があるとしている。
実際、暴力による支配から法による支配へと変化してきた。法を編み出したのは、多くの弱い人々が結集し、権力者の強大な力に対抗して権利を認めさせた結果であろう。
しかし、今度は集団性が暴力を剥き出しにする。狡猾な政治屋どもは、腕力よりも集団性を利用する方が効果的だということを熟知している。君主制を打倒した共和制の下で恐怖政治が行われると、民衆は強烈なリーダーシップを持つ政治家の登場を願う。その結果、再び独裁者の台頭を許す。対立や衝突の生じない社会は存在しない。神の前で誓った二人ですら、利害関係から敵対心を剥き出しにするではないか。相対的な認識能力しか発揮できない人間が自己存在を確認するには、その対象を必要とする。愛の情念は、憎の情念との相対的な関係から生じる。実は、正義と暴力は相性がいいものなのかもしれん...
3. 共同体を形成するものとは
共同体を支えているものは、感情の結びつき、あるいは一体化ないし帰属意識というやつであろうか。もっと言うならば、哲学的な共通意識とでもしておこうか。だが、手段に目を奪われれば、絆などという心地よい言葉だけがひとり歩きを始め、感情的な行為に及ぶ。
汎ギリシア理念では、バーバリアン(野蛮人)より優れているという自負があった。その意識はアンピクティオニア(隣保同盟)、信託、祝祭劇などにはっきりと現れ、ギリシア人同士の争いが熾烈をきわめずに済んだ。だが、争いを根絶することはできない。ライバルを蹴落とすために、一部のギリシア都市は、天敵ペルシアと手を組んだ。ルネサンスにおけるキリスト理念では、多くの人がキリスト者としての一体感を強く感じていた。にもかかわらず、大小のキリスト教国が互いに衝突すると、イスラム教のスルタン(君主)に助けを求めた。人間ってやつは、いとも簡単に戦争に駆り立てられるものである。
アインシュタインは、憎悪に駆られるのは人間の本能であり、相手を絶滅させようとする欲求が潜んでいるとしている。フロイトもこれに同意し、攻撃性を戦争に結び付けないために、他に捌け口を見つけることが重要だとしている。
そして、人間の衝動には二つあるとしている。一つは、保持し統一しようとする衝動で、エロスや性的本能である。権力者は性欲が強いとよく言われるが、英雄色を好むというやつか。二つは、破壊し殺害しようとする衝動で、攻撃や破壊の本能である。
両者とも愛と憎しみの対立から生じる。物理学的に言えば、引力と斥力の関係にある。だからこそ、これらが釣り合うように精神のバランスを求める。片方を悪として排除すれば、他方が暴走を始める。愛もまた独占欲から生じる。憎しみを悪として排除すれば、愛が暴走を始め憎しみ以上にタチが悪い。自己愛が自分を主役にしたいと欲すれば、そこにも攻撃性が生じる。愛を崇め過ぎれば、愛を安っぽくさせるだけよ。
しかしながら、衝動もまた人間には必要な情念である。芸術とは、まさに衝動の爆発した結果である。悪意や攻撃性こそが、革命や創造性を掻き立てる。そして、情念の行き過ぎを意識できるから、抑制しようとする意識も働く。これが中庸の原理というものであろうか。そもそも人間の本性を排除しようとすることが、宇宙法則に逆らっていると見るべきではあるまいか...
「共産主義者たちも、人間の様々な物質的な欲求を満足させて人間たちの間に平等を打ち立てれば、人間の攻撃的な性質など消えると予測していました。けれども、このようなことは幻想にすぎません。今、ボルシェヴィキの人たちはどのような有様を呈しているでしょうか。武装化に余念がなく、実に入念な武装化をはかっています。そのうえ、ボルシェヴィズムを信奉しない人間への激しい敵意と憎悪こそ、彼らを一つに結びつける大きなものとなっているのです。」
1932年、国際連盟はアインシュタインに、ある依頼をしたという。
「人間にとって最も大事な問題をとりあげ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください!」
そして、とりあげた問題は戦争、相手はフロイトだったとか。ナチズムに握り潰され、長らく忘れ去られてきた二人の往復書簡が甦る。それは、憎悪と攻撃性という人間本性を巡っての対話であった。アインシュタインは、権利と権力の関係から議論を求める。フロイトは、これに賛同するものの、権力より暴力という、もっと剥き出しにした言葉を用いたいと提案する...
翌1933年、アインシュタインはナチズムに追われアメリカに亡命。彼が有識者こそ暗示にかかりやすいと主張したのは、まさにヒトラーの演説に狂気した群衆心理を物語っている。真理を探求するには、科学だけでは不十分だということを痛感したのであろう。ここに、科学者と心理学者を結びつけることに。
1938年、フロイトもまたロンドンに亡命。第一次大戦の教訓から発足した国際連盟は、人類史上初の試みであり、世界から戦争をなくすための唯一の希望であった。しかし、独立機関として機能せず、第二次大戦の勃発で失敗に終わり、20世紀は大量殺戮の世紀と化す。その思想は国際連合に受け継がれるものの、各国の思惑が絡むことに変わりはない。
司法機関を権力と分離させることは極めて難しく、国際機関でさえ正義の下で機能させることは不可能なほど難しい。それは、正義という言葉があまりにも美しい印象を与えるわりに、普遍性や客観性からは程遠いことにある。歴史を振り返れば、脂ぎった権力ほど正義を巧妙に利用してきた。しかも、彼ら自身が正義者だと信じ込んでいる。人間ってやつは、自分の道徳観に自信を持つと、ろくなことにならないようだ。そこで、現実的な対策として実践されてきたのが、モンテスキュー式権力分立の原理である。人間社会ってやつは、毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか?そいつは、真理の探求という普遍原理よりも優るとでも... そうかもしれん。
1. アインシュタインからフロイトへ
「ナショナリズムに縁がない私のような人間から見れば、戦争の問題を解決する外的な枠組みを整えるのは易しいように思えてしまいます。すべての国家が一致協力して、一つの機関を創りあげればよいのです。この機関に国家間の問題についての立法と司法の権限を与え、国際的な紛争が生じたときには、この機関に解決を委ねるのです。」
ところが、すぐに問題にぶつかる。司法は人間が創り出したもので、周囲の様々な圧力を受け、正義はすぐさま宣伝やパフォーマンスに置き換えられる。自由や平等、あるいは友愛や博愛といった響きの良い言葉ほどタチの悪いものはない。
アインシュタインは、国際平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を放棄しなければならないと主張する。そして、人間の心に問題があるとし、第一に権力欲を放棄することができない特質を挙げる。教養のない者を導けばいいというものではなく、むしろ知識人の方が暗示にかかりやすいと。机上の言葉を頼りに、複雑な現実を安直に捉えようとするからだと。教育者、報道屋、宗教屋たちが、政治的に扇動される当時の様子は... 今もあまり変わらんようだ...
2. フロイトからアインシュタインへ
「むき出しの現実の力を理念の力に置き換えるなど、今でも無理なのです。失敗するのは必至です。法といっても、つきつめればむき出しの暴力にほかならず、法による支配を支えていこうとすれば、今日でも暴力が不可欠なのです。このことを考慮しなければ、大きな過ちを犯すことになります。... 人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにない!」
今日、世界中の民族を支配しているのは、ナショナリズムという理念であろうか。フロイトは、ナショナリズムこそがすべての国々を敵対させる原因だとしている。そして、原始時代に遡って考察し、人間の本性を暴こうとする。
一般的には、権利と暴力は正反対のものと思いがち。だが、権利の行動は、暴力と深く結びついてきた。人と人の間には利害の衝突があり、ほとんど力関係で決着がつけられる。人間とて動物なのだ。文明の発達が、腕力競争を武器競争へ変化させ、やがて科学戦争、経済戦争、情報競争といった頭脳戦へと移行させてきた。唯一の救いは、人間の場合、暴力の前に意見や思想の対立があることだ。極めて抽象的なレベルで意見が衝突することもある。フロイトは、こうした特質のおかげで、暴力以外の解決策の可能性があるとしている。
実際、暴力による支配から法による支配へと変化してきた。法を編み出したのは、多くの弱い人々が結集し、権力者の強大な力に対抗して権利を認めさせた結果であろう。
しかし、今度は集団性が暴力を剥き出しにする。狡猾な政治屋どもは、腕力よりも集団性を利用する方が効果的だということを熟知している。君主制を打倒した共和制の下で恐怖政治が行われると、民衆は強烈なリーダーシップを持つ政治家の登場を願う。その結果、再び独裁者の台頭を許す。対立や衝突の生じない社会は存在しない。神の前で誓った二人ですら、利害関係から敵対心を剥き出しにするではないか。相対的な認識能力しか発揮できない人間が自己存在を確認するには、その対象を必要とする。愛の情念は、憎の情念との相対的な関係から生じる。実は、正義と暴力は相性がいいものなのかもしれん...
3. 共同体を形成するものとは
共同体を支えているものは、感情の結びつき、あるいは一体化ないし帰属意識というやつであろうか。もっと言うならば、哲学的な共通意識とでもしておこうか。だが、手段に目を奪われれば、絆などという心地よい言葉だけがひとり歩きを始め、感情的な行為に及ぶ。
汎ギリシア理念では、バーバリアン(野蛮人)より優れているという自負があった。その意識はアンピクティオニア(隣保同盟)、信託、祝祭劇などにはっきりと現れ、ギリシア人同士の争いが熾烈をきわめずに済んだ。だが、争いを根絶することはできない。ライバルを蹴落とすために、一部のギリシア都市は、天敵ペルシアと手を組んだ。ルネサンスにおけるキリスト理念では、多くの人がキリスト者としての一体感を強く感じていた。にもかかわらず、大小のキリスト教国が互いに衝突すると、イスラム教のスルタン(君主)に助けを求めた。人間ってやつは、いとも簡単に戦争に駆り立てられるものである。
アインシュタインは、憎悪に駆られるのは人間の本能であり、相手を絶滅させようとする欲求が潜んでいるとしている。フロイトもこれに同意し、攻撃性を戦争に結び付けないために、他に捌け口を見つけることが重要だとしている。
そして、人間の衝動には二つあるとしている。一つは、保持し統一しようとする衝動で、エロスや性的本能である。権力者は性欲が強いとよく言われるが、英雄色を好むというやつか。二つは、破壊し殺害しようとする衝動で、攻撃や破壊の本能である。
両者とも愛と憎しみの対立から生じる。物理学的に言えば、引力と斥力の関係にある。だからこそ、これらが釣り合うように精神のバランスを求める。片方を悪として排除すれば、他方が暴走を始める。愛もまた独占欲から生じる。憎しみを悪として排除すれば、愛が暴走を始め憎しみ以上にタチが悪い。自己愛が自分を主役にしたいと欲すれば、そこにも攻撃性が生じる。愛を崇め過ぎれば、愛を安っぽくさせるだけよ。
しかしながら、衝動もまた人間には必要な情念である。芸術とは、まさに衝動の爆発した結果である。悪意や攻撃性こそが、革命や創造性を掻き立てる。そして、情念の行き過ぎを意識できるから、抑制しようとする意識も働く。これが中庸の原理というものであろうか。そもそも人間の本性を排除しようとすることが、宇宙法則に逆らっていると見るべきではあるまいか...
「共産主義者たちも、人間の様々な物質的な欲求を満足させて人間たちの間に平等を打ち立てれば、人間の攻撃的な性質など消えると予測していました。けれども、このようなことは幻想にすぎません。今、ボルシェヴィキの人たちはどのような有様を呈しているでしょうか。武装化に余念がなく、実に入念な武装化をはかっています。そのうえ、ボルシェヴィズムを信奉しない人間への激しい敵意と憎悪こそ、彼らを一つに結びつける大きなものとなっているのです。」
2014-03-02
"精神分析学入門(I/II)" Sigmund Freud 著
精神科医ジークムント・フロイトは、第一次大戦下でシェルショックが社会問題となった時代を生きた。現在では、戦闘ストレス反応(combat stress reaction)と呼ばれる。塹壕で手足を失い、化学兵器で目や耳や顔面を失い、アメリカ赤十字社によって作られたパリのアトリエには、傷を隠すための義肢やマスクが作られ数多くの人が訪れた。
フロイトは、従来の催眠術から決別し精神分析療法を確立する。本書は、1915 - 16年と、1916 - 17年の冬学期の二期に分けて行われた講義記録である。ただ、「精神分析学」と題しておきながら、精神病という言葉が数えるほどしか見当たらない。精神分析というと、素人感覚では心理学と結びつけてしまうのだが、どうやら鬱病や躁病の類いとは違うようである。
「ノイローゼ論は精神分析そのものなのです。」
神経症(ノイローゼ)と心身症の違いも微妙に見えるが、ここで扱われる題材が心の病であることは間違いなさそうである。まぁ、分類や定義は専門家に任せるとして、重要なのは治療法としての心の接し方であろう。
注目したいのは、自由連想や夢判断の観点から無意識を徹底的に扱っている点と、エゴイズムよりもナルシシズムを重視しながら、心的エネルギーの本質を性的欲動に求めている点である。この本能的エネルギーを「リビド(Libido)」と呼んでいる。対して、死への欲動を「タナトス(Thanatos)」と呼ぶらしい。生への活力は性欲より発するというわけか。暗示にかかりやすい酔っ払いは、さっそく夜の社交場へ繰り出すのであった...
さて、自我は意識されたものであろうか?いくら自由意志があると信じても、人体活動のほとんどは無意識の領域にある。呼吸を意識的に止めることはできても、心臓は止められない。精神活動では、気分をある程度誘導することはできても、決定的な集中力や思考力は気まぐれに委ねられる。突然アイデアが浮かぶかと思えば、突然ヤル気が失せたりと、思い通りにならない自我にうんざり。夢の中まで攻め倒さないと、思考ってやつはなかなか言うことをきいてくれない。自由意志の本性は、意識の側よりも無意識の側に比重が大きいような気がする。
「自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活のなかで無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていない。」
普段、間違えようのない作業でも、しくじることがある。冷静に振り返ると、魔が差したり、平常心でなかったり。そんな時、ちょいと言葉に耳を傾け、相槌をするだけでも、心を落ち着かせることができる。自由に言葉を発する機会を与えれば、治療の糸口が見えることもあろう。夢には潜在意識が詰まっている。犯罪科学には、催眠術を利用して記憶を蘇らせる方法もある。自由連想によって精神を解放すれば、潜在意識を顕在化することもできるかもしれない。
しかしながら、無意識な領域を意識するとは、既に自己矛盾を孕んでおり、かなり危険を伴うであろう。自己の防衛本能が、苦い体験を心の奥底に押し込めることもある。あまりにも衝撃的な事故を体験すれば、その前後の記憶が失われるとも聞く。無意識が防衛本能の領域にあれば、それを意識した途端に無防備を覚悟せねばなるまい。精神の内に健全な悟性が最後の判決を下す法廷として認められるならば、大した問題にはならないのかも。
しかし、ノイローゼ患者となると、どうであろうか?知らない方が幸せってこともある。正しい判断が下されない状態では、人は皆ノイローゼということになろうか。とはいえ、どんなに優れた知識を身につけても、やはり判断を誤るではないか。せめてノイローゼ状態を自覚できる者の方が、自我を知る機会が得られ、救われるのではないか。精神の限界に挑む芸術家は、常に精神病の境界をさまよっていることになる。人間には、プライドという奇妙な意識がある。おそらく潜在的には、自分のことは自分が一番よく知っているのだろう。だが、愚かな自分をけして認めようとはしない。知らない方が幸せだと潜在的に知っているのかもしれん。これは俺の真の姿じゃねぇ!と。プライドに縋って生きれば、プライドが崩れた途端にズタズタになる。人を気にし、世間を気にするようなプライドは、見栄っ張りから意地っ張りへと変貌させる。所詮人間ってやつは、何を拠り所に生きるか?どこに居場所を求めるか?それを探しながら生きているだけの存在。それがはっきりと見えなければ、自らどこかの神経系を遮断せずにはいられない。これがノイローゼの正体だとすれば、ノイローゼを患っていない人間などどこにいるというのか...
1. 夢学
夢占いの類いは古代から伝えられる。英雄誕生伝説で予知夢が伝えられたり、一富士二鷹三茄子が縁起の良い夢とされたり。人間は夢現象を、何かの象徴や予兆にしたがる。それは、未来への不安から生じるのだろう。予知夢が未来願望から生じるとすれば、デジャブのような心理現象は過去への回帰願望であろうか?望郷の念は、心の拠り所、すなわち帰属意識の再確認から生じるのかもしれん。
フロイトは、夢そのものがノイローゼ的な症状だという。
「抑圧された無意識が自我からある程度の独立を獲得した結果として、たとえ自我に依存する対象配備が睡眠に都合のよいようにすべて停止されたとしても、無意識が、睡眠願望には服さずその配置をつづけるものと仮定しなければ、夢の成立を説明することができません。」
夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば、外界との交渉を断ち、完全に刺激を遮断してくれるが、中途半端な眠りは、なんらかの心的現象をともなう。眠りは、生理学的には休養であるが、心理学的には何を意味するのだろうか?現実逃避か?永遠の眠りの妨げか?はたまた、熟睡を求めるのは、死への憧れか?
いずれにせよ、夢という現象には何らかの意味が隠されているのだろうが、理解不能なほど多義的だ。夢ってやつは見ている間は妙にリアリティがあって、絶対にありえないシチュエーションなのに、意図も簡単に信じ込む。現在と過去の人間関係がごっちゃになっていたり、仮想的な人物や歴史上の人物までも登場させたり、まったく支離滅裂!不安や願望で説明できる単純な夢もあれば、わざわざストレスを求める夢まである。矛盾だらけのシチュエーションに何の疑問を持たず同化できるということは、論理的に物語を感じ取る神経と、リアリティを感じ取る神経は別物ということにしないと説明がつかない。となると、今見ている現実が、どうして夢でないと言い切れるだろうか?まぁ、夢だと信じたところで、同じくらい現実である可能性もあるわけだ。精神そのものが不確実性に満ちているのだから、夢も、現実も、そうなる運命なのかもしれん。もはや、夢の内容を解釈しようなんて絶望的に思える。フロイトも、夢の内容を解釈しようとするのではなく、夢を見る心理状態に着目すべきだと語っている。
「ある心的過程の意識性または無意識性とはその心的過程の一つの属性にすぎず、必ずしも一義的にとらえうる明確な属性ではないと断言することです。」
睡眠状態は、催眠状態と似ている。眠っている耳元で第三者が嫌な事を囁けば、うなされかねない。夢現象を神経系の遮断効果と捉えれば、快感だけを感じ取るような覚醒状態とも似ている。神経系を制御できれば、人間の意志なんて、いかようにも誘導できそうか。人体が量子力学で裏付けられた機械的構造をしている限り、ありえそうな話だ。それどころか、誰もが洗脳状態にあり、人間社会そのものが洗脳しあわなければ成り立たない世界なのかもしれん...
2. ノイローゼ論
ノイローゼは、オーストリアの生理学者ヨーゼフ・ブロイアーが発見したものだそうな。ヒステリー患者をうまく治癒させたことが発見のきっかけになったとか。彼は、フロイトの共同研究者でもあったが、後に性愛の問題に絡んで決別したらしい。
尚、フランスの精神科医ピエール・ジャネも、同じようなことを証明し、文献ではジャネが先んじているという。偉業は、下地を固めてきた無名の研究者たちの努力の上に成り立ち、その過程で、たまたま名声を得る者がいる。どんな発見も一遍に成し遂げられるものはなく、必ずしも功績が元の発見者に帰するものではない。しかし、そういう研究事情を知りながら、現在でもなお経済的な成功者ばかりが脚光を浴びる。人間には、目の前の現象しか見ようとしない傾向がある。これも、ある種のノイローゼ状態であろうか...
さて、誰だって不安や恐怖を感じるだろうし、その感じ方にも個人差がある。不安や恐怖から逃れるために、妙に怒りっぽくなったり、攻撃的になったりする。強迫観念が神経症レベルにまで高められると、自分とはまったく関係のない考えに囚われ、なんの縁もない衝動に駆られ、しかも、そんな事を実行したところでなんの満足も得られないというのに、どうしてもやらずにはいられない。そこに、集団意識が加われば、社交恐怖、広場恐怖、SNS恐怖となって襲ってくる。そもそも社会や共同体には、個人の欲動を犠牲にする側面がある。だからといって、騒がしい世間に対抗して心を閉ざせば、自ら不決断や無気力を呼び込んでしまう。やがて重大犯罪を犯す誘惑に憑かれたり、神の言葉を実行するといった幻覚が見えたりする。ぞっとした衝動から身を守るためには、自由を放棄するしかない。ノイローゼとは、自由と束縛を極端に自己完結させようとする自我の魂胆であろうか?
強迫ノイローゼの患者は、もともとはエネルギッシュな性格の人で、異常に自我執着が強いことが多く、人並み外れて豊かな知的天分を持っているのが通例だという。たいていは高い道徳水準にまで達し、良心的過ぎて几帳面であると。ノイローゼが性格の特質との矛盾から生じるとすれば、下手に自覚できる能力があるが故に患うということであろうか。ならば、自己矛盾を素直に受け入れ、自己が狂人であることを受け入れるしかないではないか。世間が狂っているならば、馬鹿にされるぐらいでちょうどいい...
3. リビド論
フロイトが人間の最も原始的な動機に、性的欲動を位置づけたのは、第一次大戦という時代背景があるように思える。つまり、大量の死骸を目の当たりにすることによって、遺伝子保存の危機を本能的に感じるということである。... と解するのは行き過ぎであろうか?
人の本性は、極限状態に露わになる。性愛には奇妙な現象があり、自己愛を強調しすぎるために自虐的になることすらある。好きな人にわざと意地悪をしたり、自ら悲劇のヒーローを演じたり。愛欲には、拒否される願望もある。おまけに、障害が大きいほど燃え上がり、成就した途端に冷める。健康的で陽気な人物像はドラマの主人公になりにくい。どこか陰りのある過去を持ち、何かに必死に耐えて生きているような人物に惹かれるもの。健康で完璧な人間を眺めても退屈するだけだ。そこで、自我ってやつがシナリオをでっち上げ、ナルシストを演じさせるという寸法よ。
人間は、快楽動物であろうとすることを蔑み、知的動物であろうとする。だが実際には、快楽を締め出すことはできず、建て前と本音を巧みに使い分ける。羞恥を軽蔑すれば、自我を攻撃し、自我を攻撃できなければ、他人を攻撃する。結局、羞恥のはけ口を求めているだけなのかもしれん。自我が空想を膨らませていくのは、リビドの責任転嫁の結果であろうか?
尚、リビドが空想に逆戻りする症状を、ユングは「内向」と名付けたそうな。内向者は、まだノイローゼではないが、極めて不安定な状態にあるという。リビドが常に別のはけ口を求め、少しでも心の均衡が破れると、すぐに症状に現れるような。だが、一旦ノイローゼに陥ると、心の均衡どころか、現実と空想すら区別できない。リビドが現実で満足が得られないと知るや、内向と結びついて地獄へまっしぐら。これがノイローゼというものであろうか...
ところで、よく少子化問題の議論で、人間は生殖機能が基本であるから、子供を作るのは当然だといったことを言う人がいる。生物学的には、生物には遺伝子を残すという役割もあろうが、地球の表面積に対して保存本能が数の調整を試みるかもしれない。無知性で無理性なアル中ハイマーの遺伝子を残すことは世のためにならんだろうし。
では、心理学的にはどうであろうか?生殖機能だけではキスや自慰行為は説明がつかないし、もはや愛撫も前戯もピロートークも無用となろう。チラリズムなんて嗜好はどこからくるのだろうか?エロティズムは性欲から生じるだけでなく、芸術の領域にも官能性はある。性の世界においては、生殖目的よりも愛欲や快楽の方が優勢なようである。性欲に任せて繁殖を続ける方が社会を崩壊させるだろうし、性欲、食欲、金銭欲、権力欲、名声欲... といったものが自制できるから、人間社会は成り立つのであろう。
一方で、性欲が仕事の活力となっているところがある。「英雄色を好む」説は本当かもしれない。出世とホルモンが関連するという研究報告もあるし、職場での情事は燃えると聞く。だが、仕事ができるから収入も増えるのであって、「金の切れ目が縁の切れ目」説の方を支持したい。性欲の解放は、理性と反するように言われるだけにタブー化されやすく、多くの場合、猥褻や破廉恥で片付けられる。
しかし、これ以上、人間本性的なものがあろうか。性的な話題で照れるのも、本性を隠したいだけかもしれない。一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。愛はホットな女性の数だけあるとすれば、独身貴族は純粋な平等主義者となろう。おっと、性欲論を語り始めると、独り善がり論へ吸い込まれる。これもノイローゼというものであろうか...
4. 感情転移
医師への信頼が、異性への愛に変化するなどは普通に生じるという。どんなに年老いても。若い女性患者と年配の医師の間で、娘として可愛がられたいといったこともあるそうな。医師は複数の患者を抱えているので、嫉妬が生じる。そりゃ!男性諸君は美しい女医に憧れるだろう。
さて、感情転移が、治療の大きな原動力になりうるという。感情転移には、陽性と陰性があるらしい。医師との間で共同に営まれれば、陽性となって信頼という権威を持つことに。だが、陰性となれば、抵抗して言葉に耳をかすこともないという。愛情が、敵対心に変貌するのも紙一重ってか。愛が深いほど憎しみもひとしお、決着をつけるものもは患者の知的な洞察ではないようだ。知的な洞察は、むしろ邪魔になるという。信頼とは愛から生じるもので、論証といった知的な部分ではないということか。信頼を無条件の愛に転嫁するということか。既に、論理的に思考できるような精神状態ではないのだろう。そうなると、医学よりも宗教の方が救えるかもしれん。
しかしながら、こうした心理的療法はナルシシズム的ノイローゼには通用しないという。ナルシシズム的ノイローゼは、感情転移の能力がないか、あっても不十分だとか。彼らが医師を拒むのは、敵意からではなく無関心のためで、しかも、感化も受けないという。プライドが高く、常に自力で立ち直ろうとするだけにタチが悪い。自我を増幅させた頑固さには、精神分析療法も無力だとか...
フロイトは、従来の催眠術から決別し精神分析療法を確立する。本書は、1915 - 16年と、1916 - 17年の冬学期の二期に分けて行われた講義記録である。ただ、「精神分析学」と題しておきながら、精神病という言葉が数えるほどしか見当たらない。精神分析というと、素人感覚では心理学と結びつけてしまうのだが、どうやら鬱病や躁病の類いとは違うようである。
「ノイローゼ論は精神分析そのものなのです。」
神経症(ノイローゼ)と心身症の違いも微妙に見えるが、ここで扱われる題材が心の病であることは間違いなさそうである。まぁ、分類や定義は専門家に任せるとして、重要なのは治療法としての心の接し方であろう。
注目したいのは、自由連想や夢判断の観点から無意識を徹底的に扱っている点と、エゴイズムよりもナルシシズムを重視しながら、心的エネルギーの本質を性的欲動に求めている点である。この本能的エネルギーを「リビド(Libido)」と呼んでいる。対して、死への欲動を「タナトス(Thanatos)」と呼ぶらしい。生への活力は性欲より発するというわけか。暗示にかかりやすい酔っ払いは、さっそく夜の社交場へ繰り出すのであった...
さて、自我は意識されたものであろうか?いくら自由意志があると信じても、人体活動のほとんどは無意識の領域にある。呼吸を意識的に止めることはできても、心臓は止められない。精神活動では、気分をある程度誘導することはできても、決定的な集中力や思考力は気まぐれに委ねられる。突然アイデアが浮かぶかと思えば、突然ヤル気が失せたりと、思い通りにならない自我にうんざり。夢の中まで攻め倒さないと、思考ってやつはなかなか言うことをきいてくれない。自由意志の本性は、意識の側よりも無意識の側に比重が大きいような気がする。
「自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活のなかで無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていない。」
普段、間違えようのない作業でも、しくじることがある。冷静に振り返ると、魔が差したり、平常心でなかったり。そんな時、ちょいと言葉に耳を傾け、相槌をするだけでも、心を落ち着かせることができる。自由に言葉を発する機会を与えれば、治療の糸口が見えることもあろう。夢には潜在意識が詰まっている。犯罪科学には、催眠術を利用して記憶を蘇らせる方法もある。自由連想によって精神を解放すれば、潜在意識を顕在化することもできるかもしれない。
しかしながら、無意識な領域を意識するとは、既に自己矛盾を孕んでおり、かなり危険を伴うであろう。自己の防衛本能が、苦い体験を心の奥底に押し込めることもある。あまりにも衝撃的な事故を体験すれば、その前後の記憶が失われるとも聞く。無意識が防衛本能の領域にあれば、それを意識した途端に無防備を覚悟せねばなるまい。精神の内に健全な悟性が最後の判決を下す法廷として認められるならば、大した問題にはならないのかも。
しかし、ノイローゼ患者となると、どうであろうか?知らない方が幸せってこともある。正しい判断が下されない状態では、人は皆ノイローゼということになろうか。とはいえ、どんなに優れた知識を身につけても、やはり判断を誤るではないか。せめてノイローゼ状態を自覚できる者の方が、自我を知る機会が得られ、救われるのではないか。精神の限界に挑む芸術家は、常に精神病の境界をさまよっていることになる。人間には、プライドという奇妙な意識がある。おそらく潜在的には、自分のことは自分が一番よく知っているのだろう。だが、愚かな自分をけして認めようとはしない。知らない方が幸せだと潜在的に知っているのかもしれん。これは俺の真の姿じゃねぇ!と。プライドに縋って生きれば、プライドが崩れた途端にズタズタになる。人を気にし、世間を気にするようなプライドは、見栄っ張りから意地っ張りへと変貌させる。所詮人間ってやつは、何を拠り所に生きるか?どこに居場所を求めるか?それを探しながら生きているだけの存在。それがはっきりと見えなければ、自らどこかの神経系を遮断せずにはいられない。これがノイローゼの正体だとすれば、ノイローゼを患っていない人間などどこにいるというのか...
1. 夢学
夢占いの類いは古代から伝えられる。英雄誕生伝説で予知夢が伝えられたり、一富士二鷹三茄子が縁起の良い夢とされたり。人間は夢現象を、何かの象徴や予兆にしたがる。それは、未来への不安から生じるのだろう。予知夢が未来願望から生じるとすれば、デジャブのような心理現象は過去への回帰願望であろうか?望郷の念は、心の拠り所、すなわち帰属意識の再確認から生じるのかもしれん。
フロイトは、夢そのものがノイローゼ的な症状だという。
「抑圧された無意識が自我からある程度の独立を獲得した結果として、たとえ自我に依存する対象配備が睡眠に都合のよいようにすべて停止されたとしても、無意識が、睡眠願望には服さずその配置をつづけるものと仮定しなければ、夢の成立を説明することができません。」
夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば、外界との交渉を断ち、完全に刺激を遮断してくれるが、中途半端な眠りは、なんらかの心的現象をともなう。眠りは、生理学的には休養であるが、心理学的には何を意味するのだろうか?現実逃避か?永遠の眠りの妨げか?はたまた、熟睡を求めるのは、死への憧れか?
いずれにせよ、夢という現象には何らかの意味が隠されているのだろうが、理解不能なほど多義的だ。夢ってやつは見ている間は妙にリアリティがあって、絶対にありえないシチュエーションなのに、意図も簡単に信じ込む。現在と過去の人間関係がごっちゃになっていたり、仮想的な人物や歴史上の人物までも登場させたり、まったく支離滅裂!不安や願望で説明できる単純な夢もあれば、わざわざストレスを求める夢まである。矛盾だらけのシチュエーションに何の疑問を持たず同化できるということは、論理的に物語を感じ取る神経と、リアリティを感じ取る神経は別物ということにしないと説明がつかない。となると、今見ている現実が、どうして夢でないと言い切れるだろうか?まぁ、夢だと信じたところで、同じくらい現実である可能性もあるわけだ。精神そのものが不確実性に満ちているのだから、夢も、現実も、そうなる運命なのかもしれん。もはや、夢の内容を解釈しようなんて絶望的に思える。フロイトも、夢の内容を解釈しようとするのではなく、夢を見る心理状態に着目すべきだと語っている。
「ある心的過程の意識性または無意識性とはその心的過程の一つの属性にすぎず、必ずしも一義的にとらえうる明確な属性ではないと断言することです。」
睡眠状態は、催眠状態と似ている。眠っている耳元で第三者が嫌な事を囁けば、うなされかねない。夢現象を神経系の遮断効果と捉えれば、快感だけを感じ取るような覚醒状態とも似ている。神経系を制御できれば、人間の意志なんて、いかようにも誘導できそうか。人体が量子力学で裏付けられた機械的構造をしている限り、ありえそうな話だ。それどころか、誰もが洗脳状態にあり、人間社会そのものが洗脳しあわなければ成り立たない世界なのかもしれん...
2. ノイローゼ論
ノイローゼは、オーストリアの生理学者ヨーゼフ・ブロイアーが発見したものだそうな。ヒステリー患者をうまく治癒させたことが発見のきっかけになったとか。彼は、フロイトの共同研究者でもあったが、後に性愛の問題に絡んで決別したらしい。
尚、フランスの精神科医ピエール・ジャネも、同じようなことを証明し、文献ではジャネが先んじているという。偉業は、下地を固めてきた無名の研究者たちの努力の上に成り立ち、その過程で、たまたま名声を得る者がいる。どんな発見も一遍に成し遂げられるものはなく、必ずしも功績が元の発見者に帰するものではない。しかし、そういう研究事情を知りながら、現在でもなお経済的な成功者ばかりが脚光を浴びる。人間には、目の前の現象しか見ようとしない傾向がある。これも、ある種のノイローゼ状態であろうか...
さて、誰だって不安や恐怖を感じるだろうし、その感じ方にも個人差がある。不安や恐怖から逃れるために、妙に怒りっぽくなったり、攻撃的になったりする。強迫観念が神経症レベルにまで高められると、自分とはまったく関係のない考えに囚われ、なんの縁もない衝動に駆られ、しかも、そんな事を実行したところでなんの満足も得られないというのに、どうしてもやらずにはいられない。そこに、集団意識が加われば、社交恐怖、広場恐怖、SNS恐怖となって襲ってくる。そもそも社会や共同体には、個人の欲動を犠牲にする側面がある。だからといって、騒がしい世間に対抗して心を閉ざせば、自ら不決断や無気力を呼び込んでしまう。やがて重大犯罪を犯す誘惑に憑かれたり、神の言葉を実行するといった幻覚が見えたりする。ぞっとした衝動から身を守るためには、自由を放棄するしかない。ノイローゼとは、自由と束縛を極端に自己完結させようとする自我の魂胆であろうか?
強迫ノイローゼの患者は、もともとはエネルギッシュな性格の人で、異常に自我執着が強いことが多く、人並み外れて豊かな知的天分を持っているのが通例だという。たいていは高い道徳水準にまで達し、良心的過ぎて几帳面であると。ノイローゼが性格の特質との矛盾から生じるとすれば、下手に自覚できる能力があるが故に患うということであろうか。ならば、自己矛盾を素直に受け入れ、自己が狂人であることを受け入れるしかないではないか。世間が狂っているならば、馬鹿にされるぐらいでちょうどいい...
3. リビド論
フロイトが人間の最も原始的な動機に、性的欲動を位置づけたのは、第一次大戦という時代背景があるように思える。つまり、大量の死骸を目の当たりにすることによって、遺伝子保存の危機を本能的に感じるということである。... と解するのは行き過ぎであろうか?
人の本性は、極限状態に露わになる。性愛には奇妙な現象があり、自己愛を強調しすぎるために自虐的になることすらある。好きな人にわざと意地悪をしたり、自ら悲劇のヒーローを演じたり。愛欲には、拒否される願望もある。おまけに、障害が大きいほど燃え上がり、成就した途端に冷める。健康的で陽気な人物像はドラマの主人公になりにくい。どこか陰りのある過去を持ち、何かに必死に耐えて生きているような人物に惹かれるもの。健康で完璧な人間を眺めても退屈するだけだ。そこで、自我ってやつがシナリオをでっち上げ、ナルシストを演じさせるという寸法よ。
人間は、快楽動物であろうとすることを蔑み、知的動物であろうとする。だが実際には、快楽を締め出すことはできず、建て前と本音を巧みに使い分ける。羞恥を軽蔑すれば、自我を攻撃し、自我を攻撃できなければ、他人を攻撃する。結局、羞恥のはけ口を求めているだけなのかもしれん。自我が空想を膨らませていくのは、リビドの責任転嫁の結果であろうか?
尚、リビドが空想に逆戻りする症状を、ユングは「内向」と名付けたそうな。内向者は、まだノイローゼではないが、極めて不安定な状態にあるという。リビドが常に別のはけ口を求め、少しでも心の均衡が破れると、すぐに症状に現れるような。だが、一旦ノイローゼに陥ると、心の均衡どころか、現実と空想すら区別できない。リビドが現実で満足が得られないと知るや、内向と結びついて地獄へまっしぐら。これがノイローゼというものであろうか...
ところで、よく少子化問題の議論で、人間は生殖機能が基本であるから、子供を作るのは当然だといったことを言う人がいる。生物学的には、生物には遺伝子を残すという役割もあろうが、地球の表面積に対して保存本能が数の調整を試みるかもしれない。無知性で無理性なアル中ハイマーの遺伝子を残すことは世のためにならんだろうし。
では、心理学的にはどうであろうか?生殖機能だけではキスや自慰行為は説明がつかないし、もはや愛撫も前戯もピロートークも無用となろう。チラリズムなんて嗜好はどこからくるのだろうか?エロティズムは性欲から生じるだけでなく、芸術の領域にも官能性はある。性の世界においては、生殖目的よりも愛欲や快楽の方が優勢なようである。性欲に任せて繁殖を続ける方が社会を崩壊させるだろうし、性欲、食欲、金銭欲、権力欲、名声欲... といったものが自制できるから、人間社会は成り立つのであろう。
一方で、性欲が仕事の活力となっているところがある。「英雄色を好む」説は本当かもしれない。出世とホルモンが関連するという研究報告もあるし、職場での情事は燃えると聞く。だが、仕事ができるから収入も増えるのであって、「金の切れ目が縁の切れ目」説の方を支持したい。性欲の解放は、理性と反するように言われるだけにタブー化されやすく、多くの場合、猥褻や破廉恥で片付けられる。
しかし、これ以上、人間本性的なものがあろうか。性的な話題で照れるのも、本性を隠したいだけかもしれない。一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。愛はホットな女性の数だけあるとすれば、独身貴族は純粋な平等主義者となろう。おっと、性欲論を語り始めると、独り善がり論へ吸い込まれる。これもノイローゼというものであろうか...
4. 感情転移
医師への信頼が、異性への愛に変化するなどは普通に生じるという。どんなに年老いても。若い女性患者と年配の医師の間で、娘として可愛がられたいといったこともあるそうな。医師は複数の患者を抱えているので、嫉妬が生じる。そりゃ!男性諸君は美しい女医に憧れるだろう。
さて、感情転移が、治療の大きな原動力になりうるという。感情転移には、陽性と陰性があるらしい。医師との間で共同に営まれれば、陽性となって信頼という権威を持つことに。だが、陰性となれば、抵抗して言葉に耳をかすこともないという。愛情が、敵対心に変貌するのも紙一重ってか。愛が深いほど憎しみもひとしお、決着をつけるものもは患者の知的な洞察ではないようだ。知的な洞察は、むしろ邪魔になるという。信頼とは愛から生じるもので、論証といった知的な部分ではないということか。信頼を無条件の愛に転嫁するということか。既に、論理的に思考できるような精神状態ではないのだろう。そうなると、医学よりも宗教の方が救えるかもしれん。
しかしながら、こうした心理的療法はナルシシズム的ノイローゼには通用しないという。ナルシシズム的ノイローゼは、感情転移の能力がないか、あっても不十分だとか。彼らが医師を拒むのは、敵意からではなく無関心のためで、しかも、感化も受けないという。プライドが高く、常に自力で立ち直ろうとするだけにタチが悪い。自我を増幅させた頑固さには、精神分析療法も無力だとか...
2014-02-23
"エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話" Paul Valéry 著
ヴァレリーが、プラトン風の対話篇を書いているとは知らなんだ。本書に収録される三作品は、彼の最も美しいとされる対話篇だそうな。文学作品への想いが自然な物理現象として現れると、もはや余計な知識はいらない。文章の流れとは、川の流れのごときものであったか...
しかしながら、あらゆる物理現象は、観測することによって認識される。人間の認識能力では、観測系の介在なしに物理系を構築することができないのだ。人間が認識した途端に、あらゆる現象を捻じ曲げて見ていることになる。自然のままの自分の姿すら見えない。精神の投影を崇高な光に頼ったところで、光ってやつは障害物の前で反射し、屈折し、たちまち分散してしまう。人間ってやつは、生きている間に様々な知恵をつけ、その積み重ねが狡猾さを身に付ける。光はいつも回折し、余計な知識が真理への道を回り道させる。今宵も、琥珀色に染まったグラスの反射光がまぶしく、目の前がよく見えん...
「人間であるか精神になるか、そのどちらかを選ばねばならない。人間が行動できるのは、ただただ知らずにいることができ、人間の特異な奇癖である認識の一部分で満足できるからに他ならない、つまりこの認識というものは必要以上にすこし大きすぎるのだ!」
プラトン風の対話篇であるからには、ソクラテスが登場する。しかも、冥界に。お宅が隠遁したのは、騒ぎ立てる俗人どもが煩わしいからですかねぇ、ソクラテスさん?
「死者の国では思考は分割できない。いまではわたしたちはあまりに単純化されていて、何かある思考が動きはじめると、その動きが終点に達するまで、じっと堪え忍んでいるしかないのだ。生者には肉体があり、そのおかげで認識を中断して出ていったり、また戻ってきたりできる。生者は一軒の家と一匹の蜜蜂とからできているわけだ。」
魂が肉体という宿に住み着いている間は、純真な思考を呼び起こすこともできないというのか?ならば、目の前で思考している者がいれば、静かに見守り、余計な口出しをして邪魔をしないでおこう。ましてや人の話している途中で、言葉の揚げ足をとったり、大声で割り込んだりするのはやめるがいい。自由に話すから、自由に質問できる。まずは自分に問い、そして自分に答えることだ。沈黙を守ることで相手に犠牲を捧げることが、真理への道となろう。
ソクラテスは、一旦、理性をも蔑み、アンチソクラテスを演じて見せる。自己否定の試みか。既に社会が腐敗していれば、やがて肉体も腐り果てる。先んじて肉体を棄て、雲や風の動きに魂を同化させる方が、よっぽど有意義だとでも言わんばかりに...
「あの下界では、不滅だった、... 死すべき者たちに関連してのことさ!... しかし、ここでは... いや、ここというところはない、わたしたちがいま言ったことは、すべて、この冥界の沈黙の自然な戯れに他ならない、わたしたちを操り人形のようにあつかった、向こうの世界の、とある修辞家の気まぐれと同じように!」
なるほど、ソクラテスの試みもまた修辞家の気まぐれで、そこに不滅があるというわけか。そして、この気まぐれな修辞家こそが、ヴァレリーさん御自身でしたか...
「人間は自然全体ではなく、ただその一部を必要としている。もっとひろい考え方をして全体を所有したいと望むのが哲学者だ。だが人間は生きることしか望んでいなくて、鉄も青銅も必要とするのではなく、あるしかじかの硬さ、あるしかじかの可延性を必要としているにすぎない。... 人間は自分の目的しか見つめない。」
1. エウパリノス
ソクラテスとパイドロスを登場させ、冥界で対話させる。パイドロスは、高名な弁術家リュシアスの心酔者で、プラトン著「饗宴」にも登場する。話題は、偉大な建築家エウパリノスの言葉をめぐってのもの。
「愛する対象が人びとを動かすように、わたしの神殿は人びとを動かさねばならぬ。」
自然哲学への想いを強めるあまりに、人工物の限界を悟り、ついには建築物の可能性までも圧殺してしまうのか。なぁーに、心配はいらない。建築物の静的空間の中で、精神活動を反映する音楽へと議論が及ぶと、まさに静と動の調和芸術として蘇る。沈黙の建築が、魂の中で歌いかける建築へと昇華させるのだ。ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築はあらゆる芸術の総合であり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができるとした。澄みわたった空の中に旋律の大建造物を想い描くと、一方の側に音楽と建築、他方の側にいろいろな芸術を位置づけるよう導かれるという。額縁に囚われた絵画は事物なり人物なりを装うだけ、彫刻も同じで視界を飾る一部分に過ぎないと。
確かに、絵画は静の手段である。だが、巨匠が手掛ければ、動画よりもはるかに動的な物語を演出するではないか。額縁が世界を閉じるというなら、壁画はどうか?建築物の装飾はどうか?そこに、なんらかの幾何学的形象が生じ、哲学的意義を与えるならばどうであろう。空間的な静と時間的な動とのコラボレーションこそが、ある種の小宇宙を形成する。永遠の存在を代弁する不動性と、奏でながら瞬時に過ぎ去る流動性との調和が、無限の宇宙を物語っているではないか...
2. 魂と舞踏
ソクラテスとパイドロスに、エリュクシマコスが加わって、舞踏の意義についての論議が始まる。エリュクシマコスは、同じくプラトン著「饗宴」に登場する医者で、ソクラテスの思想を注いで欲しいと願っている。だが、凡人は、知性よりも明日にも役立ちそうな知識に目を奪われ、美味の餌食となる。いくら思想のご馳走にありついても、消化不良に陥っては元も子もない。すると、医者の立場から身体の健康を気遣わずにはいられない。
川がただ水を上から下に流すだけの存在だというなら、人間はどうであろう。喰ったものを排泄しているだけではないか。しかも、川の流れよりもはるかに早く果てる。民衆の気移りは激しく、世論は右往左往し、どんな頑固爺であっても、自然の意志力には遠くおよばない。そんなものに、理性を獲得する能力があるというのか?本当に、魂は人間固有のものなのか?どんなに立派な人間であっても、喰うためなら何でもやる。生きるためなら何でもやる。理性が働くのは心に少し余裕がある場合であって、自己存在に保証がなければ何でもしでかす。だから、見下しながら施すか、見返りを求めながら施す。肉体が優雅に踊っていられるのも、魂に余裕があるからだ。知性も同じよ。モノの本質を見極めようとするのも、心のゆとりからくる。そこで逆説的ではあるが、自己の正体を知るために、純粋な魂を呼び起こすために、一旦、舞踏の享楽に身を委ねてみてはいかが...
「真実と虚偽とは同一の目的をめざす、... 同じひとつのものが、別々の仕方で振舞うだけで、わたしたちは嘘つきにもするし、真実を語る者にもする。」
ムーサイの舞いに見蕩れ、一旦、官能の世界へと魂を誘なう。優雅な踊り子たちと音楽の共演の中に身を委ね、さらに酒によって魂を浄化する。すると、素朴な無知者でも、自然美を見分ける能力を纏うことができるとでもいうのか?甘美な接吻の渦の中で、高貴な美脚をむさぼり、知性豊満なボディラインに顔をうずめてみよとでも。よーく分かった!さっそく従おう。真理の素はハーレムであり、真理の道とはエクスタシーへの道であったか...
3. 樹についての対話
古代ローマの詩人ルクレティウスと、ウェルギリウスの「牧歌」に登場する牧人ティティルスが登場する。晩年に相応しい樹齢を思わせるような作品。自然の偉大さに、人間の命の果敢なさを投影するかのような...
人間はたかだか生きて百年だが、植物には何千年と生きるものがいる。有史以来、人間どもをずっと観察してきたヤツもいるだろう。人間の知能で、自然のすべてが語れるとは思えないし、植物に意志があったとしても不思議はあるまい。植物にしても生あるものは、なんらかの周波数を発している。そこに、言葉がないと言い切れるだろうか。人間が言葉として捉えられるのは、知覚能力で制限される特定の周波数範囲においてのみ。自然の声を耳にするには、資格が必要なのかもしれない。曇のない心を持つ者なら、ひょとしたら聞こえるのかもしれない。
しかしながら、人間は純真さを失っていく。生きるための知恵ってやつが、狡猾さを身につけさせるのか。自然が神の恵みならば、知恵は悪魔の恵みなのか。人間どもには、いつだってメフィストフェレスに魂を売る用意がある。人間社会に横行する誇張、流布、デマの類いに耳を傾けるぐらいなら、川の流れる音、波の音、草木が風に揺られる音に耳を傾ける方がいい。芸術の天才たちは、自然とよしみを通じあう能力を持っているのだろうか。その資格を持っているのだろうか...
しかしながら、あらゆる物理現象は、観測することによって認識される。人間の認識能力では、観測系の介在なしに物理系を構築することができないのだ。人間が認識した途端に、あらゆる現象を捻じ曲げて見ていることになる。自然のままの自分の姿すら見えない。精神の投影を崇高な光に頼ったところで、光ってやつは障害物の前で反射し、屈折し、たちまち分散してしまう。人間ってやつは、生きている間に様々な知恵をつけ、その積み重ねが狡猾さを身に付ける。光はいつも回折し、余計な知識が真理への道を回り道させる。今宵も、琥珀色に染まったグラスの反射光がまぶしく、目の前がよく見えん...
「人間であるか精神になるか、そのどちらかを選ばねばならない。人間が行動できるのは、ただただ知らずにいることができ、人間の特異な奇癖である認識の一部分で満足できるからに他ならない、つまりこの認識というものは必要以上にすこし大きすぎるのだ!」
プラトン風の対話篇であるからには、ソクラテスが登場する。しかも、冥界に。お宅が隠遁したのは、騒ぎ立てる俗人どもが煩わしいからですかねぇ、ソクラテスさん?
「死者の国では思考は分割できない。いまではわたしたちはあまりに単純化されていて、何かある思考が動きはじめると、その動きが終点に達するまで、じっと堪え忍んでいるしかないのだ。生者には肉体があり、そのおかげで認識を中断して出ていったり、また戻ってきたりできる。生者は一軒の家と一匹の蜜蜂とからできているわけだ。」
魂が肉体という宿に住み着いている間は、純真な思考を呼び起こすこともできないというのか?ならば、目の前で思考している者がいれば、静かに見守り、余計な口出しをして邪魔をしないでおこう。ましてや人の話している途中で、言葉の揚げ足をとったり、大声で割り込んだりするのはやめるがいい。自由に話すから、自由に質問できる。まずは自分に問い、そして自分に答えることだ。沈黙を守ることで相手に犠牲を捧げることが、真理への道となろう。
ソクラテスは、一旦、理性をも蔑み、アンチソクラテスを演じて見せる。自己否定の試みか。既に社会が腐敗していれば、やがて肉体も腐り果てる。先んじて肉体を棄て、雲や風の動きに魂を同化させる方が、よっぽど有意義だとでも言わんばかりに...
「あの下界では、不滅だった、... 死すべき者たちに関連してのことさ!... しかし、ここでは... いや、ここというところはない、わたしたちがいま言ったことは、すべて、この冥界の沈黙の自然な戯れに他ならない、わたしたちを操り人形のようにあつかった、向こうの世界の、とある修辞家の気まぐれと同じように!」
なるほど、ソクラテスの試みもまた修辞家の気まぐれで、そこに不滅があるというわけか。そして、この気まぐれな修辞家こそが、ヴァレリーさん御自身でしたか...
「人間は自然全体ではなく、ただその一部を必要としている。もっとひろい考え方をして全体を所有したいと望むのが哲学者だ。だが人間は生きることしか望んでいなくて、鉄も青銅も必要とするのではなく、あるしかじかの硬さ、あるしかじかの可延性を必要としているにすぎない。... 人間は自分の目的しか見つめない。」
1. エウパリノス
ソクラテスとパイドロスを登場させ、冥界で対話させる。パイドロスは、高名な弁術家リュシアスの心酔者で、プラトン著「饗宴」にも登場する。話題は、偉大な建築家エウパリノスの言葉をめぐってのもの。
「愛する対象が人びとを動かすように、わたしの神殿は人びとを動かさねばならぬ。」
自然哲学への想いを強めるあまりに、人工物の限界を悟り、ついには建築物の可能性までも圧殺してしまうのか。なぁーに、心配はいらない。建築物の静的空間の中で、精神活動を反映する音楽へと議論が及ぶと、まさに静と動の調和芸術として蘇る。沈黙の建築が、魂の中で歌いかける建築へと昇華させるのだ。ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築はあらゆる芸術の総合であり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができるとした。澄みわたった空の中に旋律の大建造物を想い描くと、一方の側に音楽と建築、他方の側にいろいろな芸術を位置づけるよう導かれるという。額縁に囚われた絵画は事物なり人物なりを装うだけ、彫刻も同じで視界を飾る一部分に過ぎないと。
確かに、絵画は静の手段である。だが、巨匠が手掛ければ、動画よりもはるかに動的な物語を演出するではないか。額縁が世界を閉じるというなら、壁画はどうか?建築物の装飾はどうか?そこに、なんらかの幾何学的形象が生じ、哲学的意義を与えるならばどうであろう。空間的な静と時間的な動とのコラボレーションこそが、ある種の小宇宙を形成する。永遠の存在を代弁する不動性と、奏でながら瞬時に過ぎ去る流動性との調和が、無限の宇宙を物語っているではないか...
2. 魂と舞踏
ソクラテスとパイドロスに、エリュクシマコスが加わって、舞踏の意義についての論議が始まる。エリュクシマコスは、同じくプラトン著「饗宴」に登場する医者で、ソクラテスの思想を注いで欲しいと願っている。だが、凡人は、知性よりも明日にも役立ちそうな知識に目を奪われ、美味の餌食となる。いくら思想のご馳走にありついても、消化不良に陥っては元も子もない。すると、医者の立場から身体の健康を気遣わずにはいられない。
川がただ水を上から下に流すだけの存在だというなら、人間はどうであろう。喰ったものを排泄しているだけではないか。しかも、川の流れよりもはるかに早く果てる。民衆の気移りは激しく、世論は右往左往し、どんな頑固爺であっても、自然の意志力には遠くおよばない。そんなものに、理性を獲得する能力があるというのか?本当に、魂は人間固有のものなのか?どんなに立派な人間であっても、喰うためなら何でもやる。生きるためなら何でもやる。理性が働くのは心に少し余裕がある場合であって、自己存在に保証がなければ何でもしでかす。だから、見下しながら施すか、見返りを求めながら施す。肉体が優雅に踊っていられるのも、魂に余裕があるからだ。知性も同じよ。モノの本質を見極めようとするのも、心のゆとりからくる。そこで逆説的ではあるが、自己の正体を知るために、純粋な魂を呼び起こすために、一旦、舞踏の享楽に身を委ねてみてはいかが...
「真実と虚偽とは同一の目的をめざす、... 同じひとつのものが、別々の仕方で振舞うだけで、わたしたちは嘘つきにもするし、真実を語る者にもする。」
ムーサイの舞いに見蕩れ、一旦、官能の世界へと魂を誘なう。優雅な踊り子たちと音楽の共演の中に身を委ね、さらに酒によって魂を浄化する。すると、素朴な無知者でも、自然美を見分ける能力を纏うことができるとでもいうのか?甘美な接吻の渦の中で、高貴な美脚をむさぼり、知性豊満なボディラインに顔をうずめてみよとでも。よーく分かった!さっそく従おう。真理の素はハーレムであり、真理の道とはエクスタシーへの道であったか...
3. 樹についての対話
古代ローマの詩人ルクレティウスと、ウェルギリウスの「牧歌」に登場する牧人ティティルスが登場する。晩年に相応しい樹齢を思わせるような作品。自然の偉大さに、人間の命の果敢なさを投影するかのような...
人間はたかだか生きて百年だが、植物には何千年と生きるものがいる。有史以来、人間どもをずっと観察してきたヤツもいるだろう。人間の知能で、自然のすべてが語れるとは思えないし、植物に意志があったとしても不思議はあるまい。植物にしても生あるものは、なんらかの周波数を発している。そこに、言葉がないと言い切れるだろうか。人間が言葉として捉えられるのは、知覚能力で制限される特定の周波数範囲においてのみ。自然の声を耳にするには、資格が必要なのかもしれない。曇のない心を持つ者なら、ひょとしたら聞こえるのかもしれない。
しかしながら、人間は純真さを失っていく。生きるための知恵ってやつが、狡猾さを身につけさせるのか。自然が神の恵みならば、知恵は悪魔の恵みなのか。人間どもには、いつだってメフィストフェレスに魂を売る用意がある。人間社会に横行する誇張、流布、デマの類いに耳を傾けるぐらいなら、川の流れる音、波の音、草木が風に揺られる音に耳を傾ける方がいい。芸術の天才たちは、自然とよしみを通じあう能力を持っているのだろうか。その資格を持っているのだろうか...
2014-02-16
"ムッシュー・テスト" Paul Valéry 著
ポール・ヴァレリーといえば、小説家というより評論作家という印象がある。いつも知性溢れる評論振りに魅了され、おかげでポーの「ユリイカ」やパスカルの「パンセ」にも出会うことができた。彼が評論した作品にはすべて触れてみたい!と願っているのだが、なかなか...
さて、「ムッシュー・テスト」は、ヴァレリーの残したただ一冊の小説集だそうな。ごく短い数篇の小説と断章群とから成り、その一つ「ムッシュー・テストと劇場で」は、小林秀雄訳以来(昭和7年)ずっと「テスト氏との一夜」という訳題がつけられてきたという。ムッシュー(Monsieur)という語はよく敬称に用いられるが、翻訳者清水徹氏によると、この小説では少し違うニュアンスを与えていて、わずかな軽蔑と皮肉、あるいは喜劇的な意味が込められているのだとか。また、テスト(teste)は、tête の古い綴りで、「頭、おつむ」といった意味がある。したがって、「ご立派なオッサン」といった感じであろうか。なるほど、評論作家としての優雅な皮肉振りが顕れている。下手な訳題が小説のイメージを壊すことがある。微妙なニュアンスは読者の感性に委ねた方がいい...
「わたしは文学を疑っていた、詩というずいぶん精密な営みに対してまでそうだった。書くという行為は、つねに、ある種の知性の犠牲を要求する。たとえばだれもが知るように、文学書を読むための諸条件は言語への過度の精密さとは相容れない。知性はえてして日常言語に不可能な完璧と純粋を求めたがる。しかし、精神を緊張させなければ快楽をえられない読者などめったにいるものではない。わたしたちは何やら面白がらせなければ読者の注意を惹きつけられないし、こうした種類の注意は受け身なものだ。」
ヴァレリーは、いきなり物書きとしての虚しさを語り始める。そして、テストという人物像は、彼自身の意志に酔っていた時代に、奇怪な自意識過剰の渦中から生み出されたと語る。学問の威信や魅力の大部分は、若干の約束事から借りてきたもので、青春とは、その約束事がよく分からぬ時期であり、また、よく分かってはならぬ時期であるという。人生には、盲目的に従ったり、逆らったりする時期も必要なのだろう。青春期には自由を奪われ息苦しく感じるもので、いまだ盲目的に逆らう酔っ払いは青春真っ盛りよ。
真理を言葉に求めれば、信念や偶像に対する軽蔑から生じる人間の悪魔性を恨み、やがて自己嫌悪に陥る。人格の可塑性は、情緒の激しい若年期に、社会への反抗という形で深く根付いていく。物書きの資質は、こうした精神活動から育まれるのであろう。ムッシュー・テストとは、ヴァレリーの分身であったか...
「存在する一切をただ自分だけに変形し、自分のまえに何が差し出されようと、それを手術してしまう、そんな精神の持ち主と見える存在に対して。わたしは想いをうかべるのだった。」
これは、哲学する自分自身を外から眺めているような人物の物語。哲学を疑う立場からの哲学論議とでもしておこうか。哲学する自分を観察しながら哲学をやり続けると、やがて思想、信条といったものに興味を失っていくのだろうか。客観性を身に付けるとは、そういうことであろうか...
人間は他人との比較、批判によって、自己の鏡像を見出そうとする。自分には自分の姿が見えないのだから。では、鏡像のない人間、あるいは、鏡像を必要としない人間とは、どういう存在であろうか?重量をまとった霊感のごときものか?まさか、それが悪魔ってやつではあるまいな!なぁーに、心配はいらない。人間の精神空間には、神の棲家も用意されている。なんじの悪魔を隠せ!と言うなら、なんじの神を隠せ!とでも言ってやれ!ただし、家を用意したところで、誰が住み着くかは知らん...
ところで、哲学には「形而上学」という大層な代物がある。形而の上と書いて、形のない、時間や空間までも超越した、超自然的な、理念的な... といったメタ的思考が。対して、形あるもの、時間や空間を含めた物理量で計測できるもの、実形態... といったものを「形而下」と呼ぶ。要するに、人間の普遍性や理性といった精神上でしか説明できないものを高度な学問に位置づけて、他を見下ろすわけだ。
しかしながら、精神が形而の上にあると、どうして言えよう?哲学が自問の原理に支えられる以上、哲学を愛する者は哲学にも疑いを持つことになる。対象は自分自身にも向けられ、自己存在にも疑いを持たずにはいられない。自己否定に陥ってもなお精神が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。矛盾の原理こそが究極の暇つぶしとさせ、官能の喜びとさせるであろう。それだけに際どい学問となり、扱いは危険となる。ときには、人間の掟に背き、自我が構築してきた原則を破り、あるいは、自己の人間性や人格までも否定し、自己愛の虚しさを知り、ついに精神を無に帰する。下手すると肉体までも連動させ、取り返しがつかない。メタ的思考も、もうメタメタよ!
精神が偶像となれば、肉体もまた偶像となる。思考の死が肉体の死を招くのかは知らん。精神の持ち主は、常に肉体が自我に弄ばれる宿命を背負う。ここに思考実験の恐ろしさがある。抽象化の原理が自己と他の区別までも呑み込み、自己に対してですら残虐行為に及ぶことがある。そうなると、形而より下等な存在となろう。哲学には、自発的で能動的な精神活動が要求される。真理の道は険しい。それを承知できぬ者は、哲学に近づかぬ方がよい。幸福になりたいだけなら、むしろ宗教の方がうってつけだ。信じるだけで導いてくれるのだから。
そこで、哲学する時は、自我の原子構造をいつでも分解できる準備を整えておきたい。魂は、常になんらかの泥酔状態にあり、自我への陶酔を中性に保てなければ、たちまち危険となる。したがって、哲学するに、アルコール成分は絶対に欠かせない。強烈なアルコール濃度ほど矛盾の緊張をほぐしてくれるものはあるまい。自己に幻滅しても、愉快な独り言が止まらなければ、それでいいではないか。まろやかな香りが孤独を演出すると、そこには、琥珀色に染まったグラスに話しかける自我がいる。ちなみに、ヴァレリーにはフィーヌ・ブルゴーニュがよく合う...
1. 人生の終止符
精神の勝利の瞬間をいくつか数え上げようとすると、くだらない記憶ばかりが蘇る。いくつか読んできた本の内容ですら思い出せない。だから、こんなブログを書いているのかもしれん。思考の履歴を刻むために。良いことばかりが記憶に留まるわけではない。嫌なことを意識して忘れようとしたわけでもない。ただ残ることのできたものが、残っている。そのおかげで、歳をとることにも驚かずに済む。やがて、記憶の蓄積が知性へ昇華させ、死の恐怖を和らげてくれるのだろうか?その恐怖を自然に受け入れられる心境となった時、精神が勝利する瞬間となるのだろうか?それをじっと待ちながら、日々の作業に明け暮れ、自己の年代記を刻み続ける。
しかしながら、どんなに言葉を駆使しても、精神を言い当てるような的確な言葉は見つからない。必死に夢想したところで、自己の理想像を思い浮かべることもできない。思考を重ねれば、自己愛も、自己嫌悪も、その双方で旺盛となる。いつの日か、どちらの自分も受け入れられる時が来るというのか?それが、自分に終止符を打つということなのか?あるいは、単なる諦めの境地であろうか?
「透明な生活を営んでまったくひとめにつかず、孤独に生きて、世のだれよりも先がけて理(ことわり)を知っているひとたちだ。無名に生きながら、彼らはいかなる著名な人物をも二倍に、三倍に、数倍にも偉大にした人物だとわたしに思えた、... 幸運をつかもうと、独自の成果を挙げようと、それを世に示すことなど軽蔑している彼ら。思うに、自分は、そこらへんにあるものとはちがう、などと考えるのは拒んだことだろう...」
思考や行為を完全に自己管理できれば、完全な自由人となれるだろうか?いや、管理できない部分があるから人生は面白い。それを放棄するとは、なんともったいない!気まぐれほど偉大な精神活動はない。そのおかげで、知らない自分を発見することができる。そして、死期もまた突如としてやってくるのだろう。死期までも想定できたら、人生はますますつまらぬものとなりそうだ。生を律する倫理学があるなら、死を基軸に据える哲学があってもいい。精神の危機に対抗するために、死の意義を考え、そこに生の意義を求める。無を基軸とした人生観とでもしておこうか。
しかし、これは賭けだ。人間の能力では到底答えられそうにないのだから。それでもなお賭けに挑むのが、ヴァレリー流倫理学というものであろうか...
「ことはつまり、ゼロからゼロへの移行だ。そして、それが人生なのだ。無意識にして無感覚から、無意識にして無感覚へ。見ることの不可解な移行、なぜならその移行とは、見ないことから見ることへと移ったそのあとで、見ることから見ないことへと移ることなのだから。」
2. 死すべき人間
ヘシオドスの言った「死すべき人間」ってやつは、あらゆる場面で自己愛を見出す能力を持っている。時には自分を偉いと思い、時には自分を愛し、時には厭わしく思い、時には支離滅裂となり... そうしたことが、いかに自己を抹殺していることか。それにも気づかず、権威や名声や地位の殉教者と成り果てる。希望という幻想に魅入られると、絶望という名の希望に憑かれ、ついには人生に疲れる。自我ってやつは精神空間を、下等動物に位置づけるゼロ点と神を位置づける無限大点との間を、恐ろしく敏速に往来してやがる。自己の正体を知らないということが、無と無限の間を瞬時に移動させるのか?まるで株式の変動相場のように。慈しみと憎しみの間を瞬時に往来すれば、いつも両極に吸い寄せられて偏見となる。知性が... 理性が... いったい何を補完してくれるというのか?思想なるもの、信条なるものが馬鹿馬鹿しく見えてくる。これが死すべき人間の本性というなら、そうかもしれん...
「崇高なるものが連中を単純化している。断言してもいい、連中の考えるところは、そろって、しだいに同じことがらのほうへと向かってゆくんだ。やがては危機だか共通の限界だかをまえに、ずらりと等しなみに並ぶことになるのさ。もっともこの場合、法則はそんなに単純じゃないぞ... このわたしにはおかまいなしなんだから、...で ... わたしは現にここにいる。」
3. 意識の産物
「愛すること、憎むことは存在の下位にある。愛すること、憎むこと... それはわたしには偶然のように見える。」
俗人の愛といえば、家族愛、友人愛、隣人愛、恋愛といったものであろう。こうした愛は感受性に囚われる。しかも、憎しみの根源となるのだ。罵り合えば、双方に悪魔を目覚めさせ、空想の中に愛の理想像を描き続ける。憎しみの理想像までも。だから、すぐに現実逃避に走るのか。こんな都合のいい能力は、神ですら及ぶまい。なんでも実現できる神が、空想に縋るはずもない。いや、全能者なら空想をこしらえる能力もあるか。現実世界に、人間なんて不完全なものをこしらえるぐらいだ。まさか!神までもが、現実と空想の区別がつかない?ってことはないだろうなぁ...
すべてが意識の産物だとすれば、現実だろうが、空想だろうが、どっちでもええでねぇかい!ただ、空想だからやり直しができる、なんて特別扱いするから、自我を悲惨へ導く。宇宙にしても記述でしか示せず、紙の上にしか存在しないではないか。無限なんて大した問題じゃなければ、無なんて恐れるに足らん。神(かみ)と紙(かみ)が、同じ音律なのは、偶然ではないのかもしれん。そして、安心して自己を疑い、自己存在を否定することもできるという寸法よ。尚、亭主はかみさんに頭が上がらないものらしい。
道理に幻滅し、成功の確実性に嫌気がさしたら、冒険をしてみることだ。自分の中の所有者をくまなく探してみることだ。完全なんて糞食らえ!人生もまた、意識の産物でしかないのかもしれないのだから...
「わたしは馬鹿者ではない、なぜならば、自分のことを馬鹿者だと思うたびに、わたしは自分を否定しているからだ。自分を殺しているからだ。」
さて、「ムッシュー・テスト」は、ヴァレリーの残したただ一冊の小説集だそうな。ごく短い数篇の小説と断章群とから成り、その一つ「ムッシュー・テストと劇場で」は、小林秀雄訳以来(昭和7年)ずっと「テスト氏との一夜」という訳題がつけられてきたという。ムッシュー(Monsieur)という語はよく敬称に用いられるが、翻訳者清水徹氏によると、この小説では少し違うニュアンスを与えていて、わずかな軽蔑と皮肉、あるいは喜劇的な意味が込められているのだとか。また、テスト(teste)は、tête の古い綴りで、「頭、おつむ」といった意味がある。したがって、「ご立派なオッサン」といった感じであろうか。なるほど、評論作家としての優雅な皮肉振りが顕れている。下手な訳題が小説のイメージを壊すことがある。微妙なニュアンスは読者の感性に委ねた方がいい...
「わたしは文学を疑っていた、詩というずいぶん精密な営みに対してまでそうだった。書くという行為は、つねに、ある種の知性の犠牲を要求する。たとえばだれもが知るように、文学書を読むための諸条件は言語への過度の精密さとは相容れない。知性はえてして日常言語に不可能な完璧と純粋を求めたがる。しかし、精神を緊張させなければ快楽をえられない読者などめったにいるものではない。わたしたちは何やら面白がらせなければ読者の注意を惹きつけられないし、こうした種類の注意は受け身なものだ。」
ヴァレリーは、いきなり物書きとしての虚しさを語り始める。そして、テストという人物像は、彼自身の意志に酔っていた時代に、奇怪な自意識過剰の渦中から生み出されたと語る。学問の威信や魅力の大部分は、若干の約束事から借りてきたもので、青春とは、その約束事がよく分からぬ時期であり、また、よく分かってはならぬ時期であるという。人生には、盲目的に従ったり、逆らったりする時期も必要なのだろう。青春期には自由を奪われ息苦しく感じるもので、いまだ盲目的に逆らう酔っ払いは青春真っ盛りよ。
真理を言葉に求めれば、信念や偶像に対する軽蔑から生じる人間の悪魔性を恨み、やがて自己嫌悪に陥る。人格の可塑性は、情緒の激しい若年期に、社会への反抗という形で深く根付いていく。物書きの資質は、こうした精神活動から育まれるのであろう。ムッシュー・テストとは、ヴァレリーの分身であったか...
「存在する一切をただ自分だけに変形し、自分のまえに何が差し出されようと、それを手術してしまう、そんな精神の持ち主と見える存在に対して。わたしは想いをうかべるのだった。」
これは、哲学する自分自身を外から眺めているような人物の物語。哲学を疑う立場からの哲学論議とでもしておこうか。哲学する自分を観察しながら哲学をやり続けると、やがて思想、信条といったものに興味を失っていくのだろうか。客観性を身に付けるとは、そういうことであろうか...
人間は他人との比較、批判によって、自己の鏡像を見出そうとする。自分には自分の姿が見えないのだから。では、鏡像のない人間、あるいは、鏡像を必要としない人間とは、どういう存在であろうか?重量をまとった霊感のごときものか?まさか、それが悪魔ってやつではあるまいな!なぁーに、心配はいらない。人間の精神空間には、神の棲家も用意されている。なんじの悪魔を隠せ!と言うなら、なんじの神を隠せ!とでも言ってやれ!ただし、家を用意したところで、誰が住み着くかは知らん...
ところで、哲学には「形而上学」という大層な代物がある。形而の上と書いて、形のない、時間や空間までも超越した、超自然的な、理念的な... といったメタ的思考が。対して、形あるもの、時間や空間を含めた物理量で計測できるもの、実形態... といったものを「形而下」と呼ぶ。要するに、人間の普遍性や理性といった精神上でしか説明できないものを高度な学問に位置づけて、他を見下ろすわけだ。
しかしながら、精神が形而の上にあると、どうして言えよう?哲学が自問の原理に支えられる以上、哲学を愛する者は哲学にも疑いを持つことになる。対象は自分自身にも向けられ、自己存在にも疑いを持たずにはいられない。自己否定に陥ってもなお精神が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。矛盾の原理こそが究極の暇つぶしとさせ、官能の喜びとさせるであろう。それだけに際どい学問となり、扱いは危険となる。ときには、人間の掟に背き、自我が構築してきた原則を破り、あるいは、自己の人間性や人格までも否定し、自己愛の虚しさを知り、ついに精神を無に帰する。下手すると肉体までも連動させ、取り返しがつかない。メタ的思考も、もうメタメタよ!
精神が偶像となれば、肉体もまた偶像となる。思考の死が肉体の死を招くのかは知らん。精神の持ち主は、常に肉体が自我に弄ばれる宿命を背負う。ここに思考実験の恐ろしさがある。抽象化の原理が自己と他の区別までも呑み込み、自己に対してですら残虐行為に及ぶことがある。そうなると、形而より下等な存在となろう。哲学には、自発的で能動的な精神活動が要求される。真理の道は険しい。それを承知できぬ者は、哲学に近づかぬ方がよい。幸福になりたいだけなら、むしろ宗教の方がうってつけだ。信じるだけで導いてくれるのだから。
そこで、哲学する時は、自我の原子構造をいつでも分解できる準備を整えておきたい。魂は、常になんらかの泥酔状態にあり、自我への陶酔を中性に保てなければ、たちまち危険となる。したがって、哲学するに、アルコール成分は絶対に欠かせない。強烈なアルコール濃度ほど矛盾の緊張をほぐしてくれるものはあるまい。自己に幻滅しても、愉快な独り言が止まらなければ、それでいいではないか。まろやかな香りが孤独を演出すると、そこには、琥珀色に染まったグラスに話しかける自我がいる。ちなみに、ヴァレリーにはフィーヌ・ブルゴーニュがよく合う...
1. 人生の終止符
精神の勝利の瞬間をいくつか数え上げようとすると、くだらない記憶ばかりが蘇る。いくつか読んできた本の内容ですら思い出せない。だから、こんなブログを書いているのかもしれん。思考の履歴を刻むために。良いことばかりが記憶に留まるわけではない。嫌なことを意識して忘れようとしたわけでもない。ただ残ることのできたものが、残っている。そのおかげで、歳をとることにも驚かずに済む。やがて、記憶の蓄積が知性へ昇華させ、死の恐怖を和らげてくれるのだろうか?その恐怖を自然に受け入れられる心境となった時、精神が勝利する瞬間となるのだろうか?それをじっと待ちながら、日々の作業に明け暮れ、自己の年代記を刻み続ける。
しかしながら、どんなに言葉を駆使しても、精神を言い当てるような的確な言葉は見つからない。必死に夢想したところで、自己の理想像を思い浮かべることもできない。思考を重ねれば、自己愛も、自己嫌悪も、その双方で旺盛となる。いつの日か、どちらの自分も受け入れられる時が来るというのか?それが、自分に終止符を打つということなのか?あるいは、単なる諦めの境地であろうか?
「透明な生活を営んでまったくひとめにつかず、孤独に生きて、世のだれよりも先がけて理(ことわり)を知っているひとたちだ。無名に生きながら、彼らはいかなる著名な人物をも二倍に、三倍に、数倍にも偉大にした人物だとわたしに思えた、... 幸運をつかもうと、独自の成果を挙げようと、それを世に示すことなど軽蔑している彼ら。思うに、自分は、そこらへんにあるものとはちがう、などと考えるのは拒んだことだろう...」
思考や行為を完全に自己管理できれば、完全な自由人となれるだろうか?いや、管理できない部分があるから人生は面白い。それを放棄するとは、なんともったいない!気まぐれほど偉大な精神活動はない。そのおかげで、知らない自分を発見することができる。そして、死期もまた突如としてやってくるのだろう。死期までも想定できたら、人生はますますつまらぬものとなりそうだ。生を律する倫理学があるなら、死を基軸に据える哲学があってもいい。精神の危機に対抗するために、死の意義を考え、そこに生の意義を求める。無を基軸とした人生観とでもしておこうか。
しかし、これは賭けだ。人間の能力では到底答えられそうにないのだから。それでもなお賭けに挑むのが、ヴァレリー流倫理学というものであろうか...
「ことはつまり、ゼロからゼロへの移行だ。そして、それが人生なのだ。無意識にして無感覚から、無意識にして無感覚へ。見ることの不可解な移行、なぜならその移行とは、見ないことから見ることへと移ったそのあとで、見ることから見ないことへと移ることなのだから。」
2. 死すべき人間
ヘシオドスの言った「死すべき人間」ってやつは、あらゆる場面で自己愛を見出す能力を持っている。時には自分を偉いと思い、時には自分を愛し、時には厭わしく思い、時には支離滅裂となり... そうしたことが、いかに自己を抹殺していることか。それにも気づかず、権威や名声や地位の殉教者と成り果てる。希望という幻想に魅入られると、絶望という名の希望に憑かれ、ついには人生に疲れる。自我ってやつは精神空間を、下等動物に位置づけるゼロ点と神を位置づける無限大点との間を、恐ろしく敏速に往来してやがる。自己の正体を知らないということが、無と無限の間を瞬時に移動させるのか?まるで株式の変動相場のように。慈しみと憎しみの間を瞬時に往来すれば、いつも両極に吸い寄せられて偏見となる。知性が... 理性が... いったい何を補完してくれるというのか?思想なるもの、信条なるものが馬鹿馬鹿しく見えてくる。これが死すべき人間の本性というなら、そうかもしれん...
「崇高なるものが連中を単純化している。断言してもいい、連中の考えるところは、そろって、しだいに同じことがらのほうへと向かってゆくんだ。やがては危機だか共通の限界だかをまえに、ずらりと等しなみに並ぶことになるのさ。もっともこの場合、法則はそんなに単純じゃないぞ... このわたしにはおかまいなしなんだから、...で ... わたしは現にここにいる。」
3. 意識の産物
「愛すること、憎むことは存在の下位にある。愛すること、憎むこと... それはわたしには偶然のように見える。」
俗人の愛といえば、家族愛、友人愛、隣人愛、恋愛といったものであろう。こうした愛は感受性に囚われる。しかも、憎しみの根源となるのだ。罵り合えば、双方に悪魔を目覚めさせ、空想の中に愛の理想像を描き続ける。憎しみの理想像までも。だから、すぐに現実逃避に走るのか。こんな都合のいい能力は、神ですら及ぶまい。なんでも実現できる神が、空想に縋るはずもない。いや、全能者なら空想をこしらえる能力もあるか。現実世界に、人間なんて不完全なものをこしらえるぐらいだ。まさか!神までもが、現実と空想の区別がつかない?ってことはないだろうなぁ...
すべてが意識の産物だとすれば、現実だろうが、空想だろうが、どっちでもええでねぇかい!ただ、空想だからやり直しができる、なんて特別扱いするから、自我を悲惨へ導く。宇宙にしても記述でしか示せず、紙の上にしか存在しないではないか。無限なんて大した問題じゃなければ、無なんて恐れるに足らん。神(かみ)と紙(かみ)が、同じ音律なのは、偶然ではないのかもしれん。そして、安心して自己を疑い、自己存在を否定することもできるという寸法よ。尚、亭主はかみさんに頭が上がらないものらしい。
道理に幻滅し、成功の確実性に嫌気がさしたら、冒険をしてみることだ。自分の中の所有者をくまなく探してみることだ。完全なんて糞食らえ!人生もまた、意識の産物でしかないのかもしれないのだから...
「わたしは馬鹿者ではない、なぜならば、自分のことを馬鹿者だと思うたびに、わたしは自分を否定しているからだ。自分を殺しているからだ。」
2014-02-09
"怒りについて 他二篇" セネカ 著
セネカをもう一冊...
本書には、「摂理について」、「賢者の恒心について」、「怒りについて」の三篇が収録される。その流れは、まず、自然の摂理によって生じる災難を試練と捉えた運命論を語り、次に、人間社会で受ける不正や侮辱に対抗する恒心を語り、最後に、最も心を乱す怒りの情念に対処する方法論を語る。徳(とく)がちょいと濁ると、毒(どく)となる。道徳(どうとく)を盲目(もうもく)に崇めれば、猛毒(もうどく)となる。これらの語の音律が似ているのは偶然ではないのかもしれん...
ストア派哲学者として知られるセネカは、カリグラ、クラウディウス、ネロという言わば病的で狂乱的な皇帝に仕え、ついには謀反の嫌疑で自裁を命じられる。政界には暗殺や陰謀が渦巻き、いかに毒された時代であったか。それはタキトゥスの批判的叙述を読めば想像に易い。社会の退廃は、思想家の間で道徳観念を優勢にさせる。ストア学派もまた、ローマ帝国にありながら、ポスト・アリストテレスの流れを汲むヘレニズム調の一派として育まれていく。そして、古代ローマ社会にとって、ストア学派はキリスト教の受容の素地となったとも言えそうか。社会の退廃を目の当たりにすれば、人間は誰しも愚痴っぽくなり、説教じみてくるものかもしん。賢者といえども...
ただ、あまりに完全無欠の賢者モデルが提示されると、こそばゆい。エピクロス派を非凡な義務を負わせていると批判して、凡人を導くものでなければ... などと語られるが、やはり凡人未満はストア派になれそうにない。尚、あるパブにセネカさんという女性がいると聞くと、そちら方面のセネカ派にはイチコロよ!
さて、心を最も乱す情念といえば、怒りであろうか。そのシンプルな形は復讐心として現れる。他人から不幸を被れば、倍返ししたいというのが人情。おそらく、法律の実践において最も機能するものが、復讐の及ぶ範囲の規定であろう。古くから、復讐行為に制限を与える法律が実践されてきた。ローマの十二表法では、怪我を負わせた者に対して同じ程度の復讐が許され、ハンムラビ法典には、目には目を歯には歯を... といった記述が見られる。武士の時代に仇討ちが合法化されたように、騎士の時代にも決闘の法慣例がある。いずれも同等の報復まででチャラにし、報復が無限に及ぶのを禁じようとするものである。
セネカは、怒りを不正に対する仕返しの欲望であるとしている。しかも、衝動ではなく、きちんと判断した結果であると。だからこそ、陰湿な陰謀といった行為に及ぶ。しかしながら、不正を規定することは難しい。誰もが都合よく解釈し、巧みに主張する者が勝つ社会となれば、正義が不正に加担することになる。怒りの情念は狂気の類いであり、些細な理由とて一旦激怒すれば、正義も真理も見分けがつかない。動物にも、衝動、狂暴、獰猛、攻撃性はあるが、それは怒りではない。動物には不正の概念がないからだ。満腹なライオンは人が側を歩いても襲わない。セネカは、怒りが存在しないのは奢侈がないのと大差ないという。ただし、ある種の快楽に対しては人間よりも無抑制ではあるけれど。
動物には、徳が認められなければ悪徳も認められない。となると、徳だけを持ち、悪徳を持たない人間なんて存在しうるのか?有徳者たちは悪徳にも優れているということか?だから、恥ずかしげもなくモラリストを演じていられるのか?慢性的に恐怖や不安を抱えていれば、その反動で怒りっぽくなり、最も動物性の強い情念を剥き出しにする。だが、怒りも捨てたもんじゃない。自己への怒りとなれば、自省自戒の念へと向かわせるだろう。やはり、怒りは排除すべきものとするより、自然の情念として受け入れ、抑制する手段を考えた方が良さそうである。
そこで、セネカは、生を浪費する人間どもに、時間と死の概念を伝授する。怒った相手には、議論を持ちかけるのではなく、考える猶予を与えること。怒った自己には、生の果敢なさ思うこと。
「何にもまして有益なのは、死の定めを思うことである。」
いかに生を浪費させているかを知り、時間を克服し、存在を克服することこそが、心の平静を取り戻す極意というわけか。
しかしながら、怒りと同様に手強い情念がある。愛こそが、人々を盲目にする恐るべき相手だ。大衆の盲愛が個人崇拝に及べば、残虐な行為ですら命じられるがまま。しかも、自己が制御不能に陥っているにもかかわらず、自由意志で行動していると信じ込む。したがって、怒りに愛が結びついた愛憎劇ほど、最も過酷となろう。憎しみを快楽にしてしまうだけにタチが悪い!
「怒りが自然に即しているかどうかは、人間を観察してみれば明白だろう。心のあり方が健全であるかぎり、人間より穏やかなものがどこにあろう。だが、怒りより過酷なものがどこにあろう。人間以上に他者を愛するものがどこにあろう。怒り以上に憎むものがどこにあろう。人間は相互の助け合いのために生まれた。怒りは破滅のために生まれた。人間は集合を欲する。怒りは離散を欲する。人間は貢献を欲する。怒りは加害を欲する。人間は見知らぬ人すら援助する。怒りは愛しい者すら苛む。人間は他人のため、進んでみずからを危険にさらす。怒りは危険の中へ、もろともに引き込むまで堕ちていく。だから、この獣じみた危険この上ない悪徳を自然の最善にして完全無欠の業に帰す者ほど、自然を理解していない者がどこにいよう。」
1. 摂理について
摂理が存在しながらも、なぜ善き人に災厄が降りかかるのか?自然の摂理とは、無作為にカオスから生じた結果でしかなく、そこには秩序は存在しないのか?宇宙のクラスタ化とは、いわば地方自治における秩序のようなものが自然に形成された姿ではないのか?なぜ、銀河団、太陽系、あるいは地球という単位で秩序らしきものが生じるのか?しかし、地球上にも不規則な現象が生じる。突然の嵐、炸裂する稲妻、怒り狂う火山、滑り落ちる地面、押し寄せる高波... 自然は人間にとって都合のよいものばかりではない。普段は神との和解によって、平穏が保たれているものの...
善き人という定義も難しい。人間社会にとって善き人でも、自然にとってはどうなんだろうか?正義も、道徳も、理性も、知性も... 精神の持ち主の気まぐれや退屈しのぎに過ぎないのかもしれん。精神の鍛錬と解釈すれば、悪もまた善に転換される。質素な生活が不憫とも言えないし、惨めに見えても本人は楽しんでいるかもしれない。一方で、裕福に暮らしてもなお自殺しおる。
「何にせよ度を過ぎれば害になるが、節度なき幸福は何より危険である。脳を揺さぶり、心を虚ろな妄想へ誘い込み、偽りと真実の中間の靄を大量にまき散らす。徳の支援の下に絶えざる不幸を凌ぐほうが、はてしない度外れの善で破裂するより、どれほどましなことか。断食の死のほうが楽である。食いすぎは破裂させる。」
自分に何ができるかは試さずに分かるはずもない。若い時の苦労は買ってでもせよ!と言うが、年を取っても悟れなければ、旅を続けるしかないではないか。寿命が延びれば、親より子供の方が先にあの世へ逝くケースも珍しくない。年齢は抽象化され、定年なんて概念も吹っ飛ぶ。
「私は信じる。不幸に遭わなかった者ほど不幸な者はいない。自分を試すことが許されなかったからだ。」
ストア派は、宇宙が究極的な善によって設計されているという一元的な理性主義の立場をとる。この宇宙原理を神と解することも容易いので、キリスト教とも相性が良さそうである。とはいえ、人の世には不合理が充満する。賢者ソクラテスですら名誉を汚され処刑された。弟子たちが脱走を促したにもかかわらず、国家の名の下で裁かれる方を望んだのだ。彼の意志が、能動的か受動的か、見解が分かれるところであろう。セネカは、能動的試練と捉えている。世間から不正や侮辱を受けても、いかに対処し不動心を会得するか、これを問うている。理性ってやつは、権威や名声なんぞに左右されないものらしい。
「成功は民衆や凡才にすら訪れる。だが、死すべき者を襲う危機と恐怖を打ち倒し、敗北の軛の下へ送り込むのは、偉大な者の本分である。実際、いつでも幸せで、心の苦しみを知らずに人生を送るのは、自然の今一つの部分を知らないでいることである。」
2. 賢者の恒心について
「賢者は安泰である。いかなる不正にも侮辱にも動じない。」
ソクラテスの精神「善く生きる」が、継承された作品ではあるが、どうも説教じみて聞こえる。というのも、賢者は一切の悪徳を持たないので、悪を受けることも、不正を受けることもないというのだ。しかし、ソクラテスは不正を受けて処刑されたではないか。当時のローマの愚暗な風潮から、悪徳を徹底的に糾弾せずにはいられなかったのか?侮辱という人間社会の軋轢や、集団的悪魔を風刺したような皮肉も見られる。おまけに愚痴ぽい。
「われわれは、途方もない浅薄さに至った結果、苦痛はおろか、苦痛の想念に悩まされている始末である。実に幼稚だ。」
不正が悪なくしては存在せず、悪は卑劣さなくしては存在しないとすると、おまけに、卑劣さが高潔さによって占められているところに到達できないとすると、不正が賢者にまで届く道理がないという。
「賢者は怒りを知らない。怒りを駆り立てるのは、不正の様相である。だが、怒りを知らないことは、不正も知らないのでなければ、ありえない。」
しかしながら、誰の威信も傷つけず、身体も傷つけず...という人間が存在するだろうか?社会競争に自身が曝されれば、人が生きるということ自体、誰かを犠牲にしていることにならないのか?賢者は、自分に不正が及ばないことを知っており、それゆえに自信と歓喜に満ちているという。
では、いつも憤慨している有識者や有徳者たちは、賢者とは程遠いというのか?これは納得!侮辱に動かされる者は、自らの内に何ら思慮も自信もないことを暴露しているという。賢者は、そうした心痛や不愉快の感情など、克服するどころか、感じすらないという。鈍感ってことか?不正も侮辱も感じないとすれば、復讐心も生じようがないので、人を罰する立場にはうってつけであろうけど。政治家どうしで罵倒し合い、社会に不快感をまき散らすのは、賢者でない証というのか?これも納得!
では、最高の徳の持ち主とされる政治指導者たちが賢者でないとすれば、どこに賢者がいるというのか?政治とは無縁な僧侶の中にいるというのか?お布施でベンツを乗り回すような、あるいは、神の代理人と自称する者か?どうりで、自信満々に理性を振りかざし、説教したがる輩が大勢いるわけだ。善が人間の本性なら、悪もまた人間の本性。超人でもなければ、完全に不正を断ち切ることなどできまい。悪徳の蔓延る社会が住みづらいのは確かだが、賢者ばかりの社会も窮屈そうである...
3. 怒りについて
社会の幸福を損ねる筆頭がローマ皇帝とすれば、権力抗争で皇帝自身が侮辱の餌食となる。総督、裁判官、民衆までも追従しては、狂気の沙汰よ。怒りは懲罰に貪欲で、自然本性は懲罰を愛好しないという。怒りを、復讐心に限定すれば、そうかもしれない。だが、有徳者や理性者ほど、罰則を強化せよ!と主張するではないか。管理や監視を強化したがるではないか。
怒りは、嫉妬からも差別意識からも生じる。見下した者が自分より賢い行為をなせば、腹立たしくもなる。エリート意識の類いだ。どんなに優れた法案であっても、政治家自身が主役になれなければ、抵抗勢力に成り下がる。自分が介在できなければ、他人の幸せまでも邪魔をする。怒りが自己愛からも生じるとすれば、賢者には自己愛がないというのか?
やはり、怒りとて必要ではなかろうか。自分への嘆きが怒りとなって、自己の欲望を抑制するところがある。怒りは、判断から生じるのか?衝動から生じるのか?ストア派の見解では、心が賛同しているとしている。不正を被って、復讐を熱望するということは、立派に判断が下されていると。ただ、深い思慮の下での判断かは別だが。他人の悪徳に依存するというくらい馬鹿馬鹿しい生き方もなかろう。絶えざる憤怒と憂いのうちに過ぎていく人生なんて。
しかしながら、非難すべきことを目にせず、憤慨せずに済む、なんてことがありえようか。仮に衝動だとしても、それがなければ退屈しそうである。つまらぬミスをした自分に、憤慨することがよくある。反省ではなく、怒るのだ。だから、また同じミスをやる。怒りは、嘘つきや悪賢さに比べれば純真に見える。だが、セネカはそれは純粋ではなく無分別だとしている。愚者、浪費家、放蕩家の類いか。
「怒りは贅沢より悪い。なぜなら、贅沢が堪能するのは自分の快楽であるのに対して、怒りが楽しむのは他人の苦しみだからだ。怒りは悪意と嫉妬を打ち負かす。それらは相手が不幸になるのを欲するのに対して、怒りは不幸にするのを欲するからだ。」
セネカは、怒りに対する処方箋を二つ提案してくれる。
一つは、時間の概念。怒りっぽくなったら、相手にも自分にも猶予を与えること。つまり、遅延だ。時間の役割は、なにも面倒なことを先送りによって安心するためのものではあるまい。時間の収支は常に赤字で、期限に追われ、機嫌を損なう素となる。人間社会では、なんでも早く片付ける事が善とされる。仕事、スポーツ、コンピュータ処理、速読法... これに速愛法を付け加えておこう。それもそのはず、生きる時間が限られているのだから。ただ焦っているだけという見方もできるか。愛する二人は、時間が止まってほしいと願う。それもそのはず、別れる運命を暗示しているのだから。
「怒りの最初の発作を言葉で鎮めようとしてはならない。耳が聞こえず、正気でないのだから。怒りに時の猶予を与えよう。緩和してきたとき、治療はよく効く。目が腫れ上がってる時は手当てを控え、力が冷えて固まっている時、動かすことで刺激する。他の疾患でも、激しい時は同様である。病気の初期段階は安静が癒してくれる。」
二つは、死への想い。永遠の生を承ったかのように怒りを宣言し、束の間の人生を霧消させる。自己の気高い喜びの時間を放棄し、他人の苦痛と呵責に費やす。そして、振り返れば、死が迫っている。
「今後は未熟な者たちと衝突しないようにしたまえ。これまで何も学んでこなかった者は、学ぶことを欲しないものだ。彼には必要以上に自由に説教した。そのせいで、君は彼を改善できす、気持ちを傷つけた。今後は、君の言っていることが真実かどうかだけでなく、聞かされる側が真理に耐えうるかどうか、気をつけるがいい。善き人は注意されるのを喜ぶが、だめな人間ほど教導者の言葉を悪く受けとるのだ。」
4. アリストテレス論
アリストテレスは、怒りの情念を必要とした。それなくしては戦闘は不可能だし、精神と意気に火をつけることもできないと。ただし、それは指揮官ではなく、兵士に必要だとしながら。対して、セネカはこれを誤りだとしている。怒りの特性は頑固さであるが、勇敢さは怒りから生じるものではないと。理性に基づく怒りは、もはや怒りではないということか。
ちょいと、アリストテレスを弁護するなら...
怒りによって描写できる芸術というものがあろう。怒りが制御可能なほど小さい分には、大した問題になるまい。怒りに歯止めをきかせることこそが問われるべきではないか。人間が具える自然の情念を抹殺するとは、神経を切断するようなものではないか。一つの情念を抹殺すれば、別の情念を暴走させ、精神を歪ませることになりはしないか。もっと言うならば、抑制能力を身につける上でも、怒りは必要なのではないか。実際、自然の摂理に対しては、現実を受け止めて試練とせよ、と語っていたではないか。怒りは、人間にとって本当に自然本性的なものではないのか?怒りに対して抑制力を身につければ、あらゆる情念の暴走をも、自己への怒りとして抑制することができるのではないか。これが調和、すなわち、中庸の原理というものではあるまいか...
そもそも、人間精神は常に正気でいることの方が難しい。自己を完全に制御することは不可能であろう。目に見える身体ですら、血液の流れを止めたり、心臓の鼓動を自由に止めたりはできない。ましてや目に見えない、実体があるのかも分からない魂を完璧に制御するなど...
5. 僭主弑殺者の逸話
「怒りについて」で紹介される僭主弑殺者の逸話は、どこかで読んだような気がするのだが、ゼノンのパラドックスの類いであろうか?記憶が定かでない。それは、怒りが僭主をして僭主殺しに手を貸すというお話...
アテナイ王ヒッピアースの暗殺に失敗した者が捕らえられた。共謀者を白状するよう拷問にかけると、王の周りに立つ友人たちと、王の安全を大事にしている人々の名前を挙げていく。ヒッピアースは、名前が挙がる度に一人一人殺すよう命ずる。そして、まだ誰か残っているか?と尋ねると、後はお前一人だ!お前を大事にしている者は一人も残さない!と答える。己の防護を、己の剣で抹殺したのだった...
この逸話は、エレアの哲学者ゼノンに関わるものとされるそうな。
対して、アレクサンドロス大王は豪気だ!侍医ピリッポスの毒に気をつけるよう忠告されても、恐れもせず杯を受け取り、友人を信頼する自分を信じて怒りごと飲み干したのだった...
本書には、「摂理について」、「賢者の恒心について」、「怒りについて」の三篇が収録される。その流れは、まず、自然の摂理によって生じる災難を試練と捉えた運命論を語り、次に、人間社会で受ける不正や侮辱に対抗する恒心を語り、最後に、最も心を乱す怒りの情念に対処する方法論を語る。徳(とく)がちょいと濁ると、毒(どく)となる。道徳(どうとく)を盲目(もうもく)に崇めれば、猛毒(もうどく)となる。これらの語の音律が似ているのは偶然ではないのかもしれん...
ストア派哲学者として知られるセネカは、カリグラ、クラウディウス、ネロという言わば病的で狂乱的な皇帝に仕え、ついには謀反の嫌疑で自裁を命じられる。政界には暗殺や陰謀が渦巻き、いかに毒された時代であったか。それはタキトゥスの批判的叙述を読めば想像に易い。社会の退廃は、思想家の間で道徳観念を優勢にさせる。ストア学派もまた、ローマ帝国にありながら、ポスト・アリストテレスの流れを汲むヘレニズム調の一派として育まれていく。そして、古代ローマ社会にとって、ストア学派はキリスト教の受容の素地となったとも言えそうか。社会の退廃を目の当たりにすれば、人間は誰しも愚痴っぽくなり、説教じみてくるものかもしん。賢者といえども...
ただ、あまりに完全無欠の賢者モデルが提示されると、こそばゆい。エピクロス派を非凡な義務を負わせていると批判して、凡人を導くものでなければ... などと語られるが、やはり凡人未満はストア派になれそうにない。尚、あるパブにセネカさんという女性がいると聞くと、そちら方面のセネカ派にはイチコロよ!
さて、心を最も乱す情念といえば、怒りであろうか。そのシンプルな形は復讐心として現れる。他人から不幸を被れば、倍返ししたいというのが人情。おそらく、法律の実践において最も機能するものが、復讐の及ぶ範囲の規定であろう。古くから、復讐行為に制限を与える法律が実践されてきた。ローマの十二表法では、怪我を負わせた者に対して同じ程度の復讐が許され、ハンムラビ法典には、目には目を歯には歯を... といった記述が見られる。武士の時代に仇討ちが合法化されたように、騎士の時代にも決闘の法慣例がある。いずれも同等の報復まででチャラにし、報復が無限に及ぶのを禁じようとするものである。
セネカは、怒りを不正に対する仕返しの欲望であるとしている。しかも、衝動ではなく、きちんと判断した結果であると。だからこそ、陰湿な陰謀といった行為に及ぶ。しかしながら、不正を規定することは難しい。誰もが都合よく解釈し、巧みに主張する者が勝つ社会となれば、正義が不正に加担することになる。怒りの情念は狂気の類いであり、些細な理由とて一旦激怒すれば、正義も真理も見分けがつかない。動物にも、衝動、狂暴、獰猛、攻撃性はあるが、それは怒りではない。動物には不正の概念がないからだ。満腹なライオンは人が側を歩いても襲わない。セネカは、怒りが存在しないのは奢侈がないのと大差ないという。ただし、ある種の快楽に対しては人間よりも無抑制ではあるけれど。
動物には、徳が認められなければ悪徳も認められない。となると、徳だけを持ち、悪徳を持たない人間なんて存在しうるのか?有徳者たちは悪徳にも優れているということか?だから、恥ずかしげもなくモラリストを演じていられるのか?慢性的に恐怖や不安を抱えていれば、その反動で怒りっぽくなり、最も動物性の強い情念を剥き出しにする。だが、怒りも捨てたもんじゃない。自己への怒りとなれば、自省自戒の念へと向かわせるだろう。やはり、怒りは排除すべきものとするより、自然の情念として受け入れ、抑制する手段を考えた方が良さそうである。
そこで、セネカは、生を浪費する人間どもに、時間と死の概念を伝授する。怒った相手には、議論を持ちかけるのではなく、考える猶予を与えること。怒った自己には、生の果敢なさ思うこと。
「何にもまして有益なのは、死の定めを思うことである。」
いかに生を浪費させているかを知り、時間を克服し、存在を克服することこそが、心の平静を取り戻す極意というわけか。
しかしながら、怒りと同様に手強い情念がある。愛こそが、人々を盲目にする恐るべき相手だ。大衆の盲愛が個人崇拝に及べば、残虐な行為ですら命じられるがまま。しかも、自己が制御不能に陥っているにもかかわらず、自由意志で行動していると信じ込む。したがって、怒りに愛が結びついた愛憎劇ほど、最も過酷となろう。憎しみを快楽にしてしまうだけにタチが悪い!
「怒りが自然に即しているかどうかは、人間を観察してみれば明白だろう。心のあり方が健全であるかぎり、人間より穏やかなものがどこにあろう。だが、怒りより過酷なものがどこにあろう。人間以上に他者を愛するものがどこにあろう。怒り以上に憎むものがどこにあろう。人間は相互の助け合いのために生まれた。怒りは破滅のために生まれた。人間は集合を欲する。怒りは離散を欲する。人間は貢献を欲する。怒りは加害を欲する。人間は見知らぬ人すら援助する。怒りは愛しい者すら苛む。人間は他人のため、進んでみずからを危険にさらす。怒りは危険の中へ、もろともに引き込むまで堕ちていく。だから、この獣じみた危険この上ない悪徳を自然の最善にして完全無欠の業に帰す者ほど、自然を理解していない者がどこにいよう。」
1. 摂理について
摂理が存在しながらも、なぜ善き人に災厄が降りかかるのか?自然の摂理とは、無作為にカオスから生じた結果でしかなく、そこには秩序は存在しないのか?宇宙のクラスタ化とは、いわば地方自治における秩序のようなものが自然に形成された姿ではないのか?なぜ、銀河団、太陽系、あるいは地球という単位で秩序らしきものが生じるのか?しかし、地球上にも不規則な現象が生じる。突然の嵐、炸裂する稲妻、怒り狂う火山、滑り落ちる地面、押し寄せる高波... 自然は人間にとって都合のよいものばかりではない。普段は神との和解によって、平穏が保たれているものの...
善き人という定義も難しい。人間社会にとって善き人でも、自然にとってはどうなんだろうか?正義も、道徳も、理性も、知性も... 精神の持ち主の気まぐれや退屈しのぎに過ぎないのかもしれん。精神の鍛錬と解釈すれば、悪もまた善に転換される。質素な生活が不憫とも言えないし、惨めに見えても本人は楽しんでいるかもしれない。一方で、裕福に暮らしてもなお自殺しおる。
「何にせよ度を過ぎれば害になるが、節度なき幸福は何より危険である。脳を揺さぶり、心を虚ろな妄想へ誘い込み、偽りと真実の中間の靄を大量にまき散らす。徳の支援の下に絶えざる不幸を凌ぐほうが、はてしない度外れの善で破裂するより、どれほどましなことか。断食の死のほうが楽である。食いすぎは破裂させる。」
自分に何ができるかは試さずに分かるはずもない。若い時の苦労は買ってでもせよ!と言うが、年を取っても悟れなければ、旅を続けるしかないではないか。寿命が延びれば、親より子供の方が先にあの世へ逝くケースも珍しくない。年齢は抽象化され、定年なんて概念も吹っ飛ぶ。
「私は信じる。不幸に遭わなかった者ほど不幸な者はいない。自分を試すことが許されなかったからだ。」
ストア派は、宇宙が究極的な善によって設計されているという一元的な理性主義の立場をとる。この宇宙原理を神と解することも容易いので、キリスト教とも相性が良さそうである。とはいえ、人の世には不合理が充満する。賢者ソクラテスですら名誉を汚され処刑された。弟子たちが脱走を促したにもかかわらず、国家の名の下で裁かれる方を望んだのだ。彼の意志が、能動的か受動的か、見解が分かれるところであろう。セネカは、能動的試練と捉えている。世間から不正や侮辱を受けても、いかに対処し不動心を会得するか、これを問うている。理性ってやつは、権威や名声なんぞに左右されないものらしい。
「成功は民衆や凡才にすら訪れる。だが、死すべき者を襲う危機と恐怖を打ち倒し、敗北の軛の下へ送り込むのは、偉大な者の本分である。実際、いつでも幸せで、心の苦しみを知らずに人生を送るのは、自然の今一つの部分を知らないでいることである。」
2. 賢者の恒心について
「賢者は安泰である。いかなる不正にも侮辱にも動じない。」
ソクラテスの精神「善く生きる」が、継承された作品ではあるが、どうも説教じみて聞こえる。というのも、賢者は一切の悪徳を持たないので、悪を受けることも、不正を受けることもないというのだ。しかし、ソクラテスは不正を受けて処刑されたではないか。当時のローマの愚暗な風潮から、悪徳を徹底的に糾弾せずにはいられなかったのか?侮辱という人間社会の軋轢や、集団的悪魔を風刺したような皮肉も見られる。おまけに愚痴ぽい。
「われわれは、途方もない浅薄さに至った結果、苦痛はおろか、苦痛の想念に悩まされている始末である。実に幼稚だ。」
不正が悪なくしては存在せず、悪は卑劣さなくしては存在しないとすると、おまけに、卑劣さが高潔さによって占められているところに到達できないとすると、不正が賢者にまで届く道理がないという。
「賢者は怒りを知らない。怒りを駆り立てるのは、不正の様相である。だが、怒りを知らないことは、不正も知らないのでなければ、ありえない。」
しかしながら、誰の威信も傷つけず、身体も傷つけず...という人間が存在するだろうか?社会競争に自身が曝されれば、人が生きるということ自体、誰かを犠牲にしていることにならないのか?賢者は、自分に不正が及ばないことを知っており、それゆえに自信と歓喜に満ちているという。
では、いつも憤慨している有識者や有徳者たちは、賢者とは程遠いというのか?これは納得!侮辱に動かされる者は、自らの内に何ら思慮も自信もないことを暴露しているという。賢者は、そうした心痛や不愉快の感情など、克服するどころか、感じすらないという。鈍感ってことか?不正も侮辱も感じないとすれば、復讐心も生じようがないので、人を罰する立場にはうってつけであろうけど。政治家どうしで罵倒し合い、社会に不快感をまき散らすのは、賢者でない証というのか?これも納得!
では、最高の徳の持ち主とされる政治指導者たちが賢者でないとすれば、どこに賢者がいるというのか?政治とは無縁な僧侶の中にいるというのか?お布施でベンツを乗り回すような、あるいは、神の代理人と自称する者か?どうりで、自信満々に理性を振りかざし、説教したがる輩が大勢いるわけだ。善が人間の本性なら、悪もまた人間の本性。超人でもなければ、完全に不正を断ち切ることなどできまい。悪徳の蔓延る社会が住みづらいのは確かだが、賢者ばかりの社会も窮屈そうである...
3. 怒りについて
社会の幸福を損ねる筆頭がローマ皇帝とすれば、権力抗争で皇帝自身が侮辱の餌食となる。総督、裁判官、民衆までも追従しては、狂気の沙汰よ。怒りは懲罰に貪欲で、自然本性は懲罰を愛好しないという。怒りを、復讐心に限定すれば、そうかもしれない。だが、有徳者や理性者ほど、罰則を強化せよ!と主張するではないか。管理や監視を強化したがるではないか。
怒りは、嫉妬からも差別意識からも生じる。見下した者が自分より賢い行為をなせば、腹立たしくもなる。エリート意識の類いだ。どんなに優れた法案であっても、政治家自身が主役になれなければ、抵抗勢力に成り下がる。自分が介在できなければ、他人の幸せまでも邪魔をする。怒りが自己愛からも生じるとすれば、賢者には自己愛がないというのか?
やはり、怒りとて必要ではなかろうか。自分への嘆きが怒りとなって、自己の欲望を抑制するところがある。怒りは、判断から生じるのか?衝動から生じるのか?ストア派の見解では、心が賛同しているとしている。不正を被って、復讐を熱望するということは、立派に判断が下されていると。ただ、深い思慮の下での判断かは別だが。他人の悪徳に依存するというくらい馬鹿馬鹿しい生き方もなかろう。絶えざる憤怒と憂いのうちに過ぎていく人生なんて。
しかしながら、非難すべきことを目にせず、憤慨せずに済む、なんてことがありえようか。仮に衝動だとしても、それがなければ退屈しそうである。つまらぬミスをした自分に、憤慨することがよくある。反省ではなく、怒るのだ。だから、また同じミスをやる。怒りは、嘘つきや悪賢さに比べれば純真に見える。だが、セネカはそれは純粋ではなく無分別だとしている。愚者、浪費家、放蕩家の類いか。
「怒りは贅沢より悪い。なぜなら、贅沢が堪能するのは自分の快楽であるのに対して、怒りが楽しむのは他人の苦しみだからだ。怒りは悪意と嫉妬を打ち負かす。それらは相手が不幸になるのを欲するのに対して、怒りは不幸にするのを欲するからだ。」
セネカは、怒りに対する処方箋を二つ提案してくれる。
一つは、時間の概念。怒りっぽくなったら、相手にも自分にも猶予を与えること。つまり、遅延だ。時間の役割は、なにも面倒なことを先送りによって安心するためのものではあるまい。時間の収支は常に赤字で、期限に追われ、機嫌を損なう素となる。人間社会では、なんでも早く片付ける事が善とされる。仕事、スポーツ、コンピュータ処理、速読法... これに速愛法を付け加えておこう。それもそのはず、生きる時間が限られているのだから。ただ焦っているだけという見方もできるか。愛する二人は、時間が止まってほしいと願う。それもそのはず、別れる運命を暗示しているのだから。
「怒りの最初の発作を言葉で鎮めようとしてはならない。耳が聞こえず、正気でないのだから。怒りに時の猶予を与えよう。緩和してきたとき、治療はよく効く。目が腫れ上がってる時は手当てを控え、力が冷えて固まっている時、動かすことで刺激する。他の疾患でも、激しい時は同様である。病気の初期段階は安静が癒してくれる。」
二つは、死への想い。永遠の生を承ったかのように怒りを宣言し、束の間の人生を霧消させる。自己の気高い喜びの時間を放棄し、他人の苦痛と呵責に費やす。そして、振り返れば、死が迫っている。
「今後は未熟な者たちと衝突しないようにしたまえ。これまで何も学んでこなかった者は、学ぶことを欲しないものだ。彼には必要以上に自由に説教した。そのせいで、君は彼を改善できす、気持ちを傷つけた。今後は、君の言っていることが真実かどうかだけでなく、聞かされる側が真理に耐えうるかどうか、気をつけるがいい。善き人は注意されるのを喜ぶが、だめな人間ほど教導者の言葉を悪く受けとるのだ。」
4. アリストテレス論
アリストテレスは、怒りの情念を必要とした。それなくしては戦闘は不可能だし、精神と意気に火をつけることもできないと。ただし、それは指揮官ではなく、兵士に必要だとしながら。対して、セネカはこれを誤りだとしている。怒りの特性は頑固さであるが、勇敢さは怒りから生じるものではないと。理性に基づく怒りは、もはや怒りではないということか。
ちょいと、アリストテレスを弁護するなら...
怒りによって描写できる芸術というものがあろう。怒りが制御可能なほど小さい分には、大した問題になるまい。怒りに歯止めをきかせることこそが問われるべきではないか。人間が具える自然の情念を抹殺するとは、神経を切断するようなものではないか。一つの情念を抹殺すれば、別の情念を暴走させ、精神を歪ませることになりはしないか。もっと言うならば、抑制能力を身につける上でも、怒りは必要なのではないか。実際、自然の摂理に対しては、現実を受け止めて試練とせよ、と語っていたではないか。怒りは、人間にとって本当に自然本性的なものではないのか?怒りに対して抑制力を身につければ、あらゆる情念の暴走をも、自己への怒りとして抑制することができるのではないか。これが調和、すなわち、中庸の原理というものではあるまいか...
そもそも、人間精神は常に正気でいることの方が難しい。自己を完全に制御することは不可能であろう。目に見える身体ですら、血液の流れを止めたり、心臓の鼓動を自由に止めたりはできない。ましてや目に見えない、実体があるのかも分からない魂を完璧に制御するなど...
5. 僭主弑殺者の逸話
「怒りについて」で紹介される僭主弑殺者の逸話は、どこかで読んだような気がするのだが、ゼノンのパラドックスの類いであろうか?記憶が定かでない。それは、怒りが僭主をして僭主殺しに手を貸すというお話...
アテナイ王ヒッピアースの暗殺に失敗した者が捕らえられた。共謀者を白状するよう拷問にかけると、王の周りに立つ友人たちと、王の安全を大事にしている人々の名前を挙げていく。ヒッピアースは、名前が挙がる度に一人一人殺すよう命ずる。そして、まだ誰か残っているか?と尋ねると、後はお前一人だ!お前を大事にしている者は一人も残さない!と答える。己の防護を、己の剣で抹殺したのだった...
この逸話は、エレアの哲学者ゼノンに関わるものとされるそうな。
対して、アレクサンドロス大王は豪気だ!侍医ピリッポスの毒に気をつけるよう忠告されても、恐れもせず杯を受け取り、友人を信頼する自分を信じて怒りごと飲み干したのだった...
2014-02-02
"生の短さについて 他二篇" セネカ 著
前記事では、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの自省自戒の態度に魅せられた。彼に強く影響を与えたストア派哲学にも触れてみたい。とはいえ、あまり良い印象を持っていない。物理学や論理学を倫理学の中に押し込み、頭でっかちな道徳観念を押し付ける、いわば宗教の臭いがするからだ。しかし、酔っ払いの偏見かもしれない。実際、アウレリウスの唱えた不動心は、セネカあたりから発しているようである。
セネカという人物を知ったのは、タキトゥスの「年代記」を読んでからのこと。彼の死に様が克明に記されている。その箇所を、ちょいと読み返しておこう...
皇帝ネロに対するピソ一派の陰謀が露呈すると、その一味として疑われ自決を命じられる。百人隊長によって伝えられた命令に対して、泰然自若として遺言の書板を要求するも、拒絶される。すると、セネカは友人に言葉を残す。「最も気高い所有物を遺贈したい。それは、私がこの世に生まれた姿だ。」哲学の教えを忘れたのか?長年に渡って考え抜いてきた決意は?そして心の平静はどこへいった?と嘆きながら。生への執着よりも名誉ある死を選んだのは、ソクラテスの精神を継承している。ところが、セネカは相当年を食っていて、節食のため痩せ細り、血の出が悪いために、さらに足首と膝の血管も切られる。ついに友人の医者に毒を与えてもらうが、既に毒も効かないほど手足は冷えきり、五体の感覚も失われている。最後に、熱湯風呂に入り、熱気の中で息絶える。...
その壮絶な死は、画家ルーベンスの作品「セネカの死」にも描かれる。肉体の逞しさなど、タキトゥスの記述とは少し印象が違うにせよ、金属製のたらいに両足を入れて立たされた偉大な哲学者が、口を半開きにし、求めるように右手を差し出しながら、最期の言葉を語ろうとしている。背後で甲冑を身につけた兵士が見守る中、流れ出る血を拭っているのか抑えているのか、たらいの水は赤みを帯びていく。その足元には、言葉を待ち構えて筆を持った者がいて... まさに死にゆく姿が、そこにある。
本書は、タキトゥスやルーベンスの描いたセネカの死に様を、生の意義として蘇らせた作品と言えよう。セネカ哲学とは、生の意義から死を克服する道... とでもしておこうか。尚、ここには「生の短さについて」、「心の平静について」、「幸福な生について」の三篇が収録される。
「畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。」
人はなぜ、何事も都合よく解釈できるのか?なぜ真の姿を見ようとしないのか?いや、見ようとしないのではない。一向に見えてこないのだ。人間の営みってやつが... 義務は、社会に翻弄され、組織に翻弄され、おまけに自己の欲望に翻弄され、忙殺されていく。今やっている仕事は、義務と呼べるほどの代物なのか?と問えば、生活費を稼ぐためとしか答えられない。何かに燃え尽き、真っ白になると、真っ赤なネオンサインに照らして生の活力を蘇らせる。そして、その繰り返し...
人を難ずる前に我が身を省みよ!とは、実に耳の痛い御指摘である。誹謗中傷の類いは、大方この呪縛に嵌る。人間らしく生きるとはどういうことなのか?と問えば、刺激的に生きたいという願いだけが意識のどこかにある。人間社会そのものが、人間の数だけ無理やりにでも仕事を創出し、義務を創出し、価値の循環を煽らなければ成り立たない世界だとすれば、それは自然に適っているのだろうか?などと問うてみても、そうするしか術を知らない。真の義務や自由とやらは、永遠に見えそうにない。凡庸な、いや、凡庸未満の酔っ払いは大声で人生は短いと嘆き、自然な天才は静かに人生を謳歌する。生は短く、術は長い!とはよく言ったものだ。ならば、のんびりと精一杯生きるしかないではないか...
1. 生の短さについて
植物には何千年と生きるものがあるというのに、偉大な魂の持ち主とされる人間はたかだか生きて百年。あっさりと流れに乗って終焉を迎えるのが、死すべき者の持ち味というものか。しかし、その果敢なさを嘆くのは、生があまりに短いのではなく、多くを浪費するからだという見方も、もっともな話である。セネカは言う。人間の生もまた、立派に全うすれば十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられていると。
「死すべき身ながら、大方の人間は自然の悪意をかこち、われわれ人間は束の間の生に生まれつく、われわれに与えられたその束の間の時さえ、あまりにも早く、あまりにも忽然と過ぎ去り、少数の例外を除けば、他の人間は、これから生きようという、まさにその生への準備の段階で生に見捨てられてしまうと言って嘆く。」
ある者は闇雲に利欲を貪り、ある者は酒霊に憑かれ、ある者は怠惰に耽けり、ある者はあくせく精出す無駄な労役に囚われれ、ある者は公職(好色)への野心で疲労困憊... 莫大な財産といえでも衝動に駆られ、たちまち雲散霧消!仕事にかこつけて、引退したら「第二の人生」などと言って、あたかもそこに希望を見出そうとする。遅蒔きなことよ。寿命が延びれば、生の意義までも先送り。自由の権利をやかましく主張しても、真の自由人になろうとはしない。実は、自由とは面倒なものなのか?アリストテレスが言った生まれつき奴隷ってやつは、あながち嘘ではなさそうである。
さて、セネカの思想の根幹には、ソクラテスの「魂の不死」があるのだろう。注目したいのは、生の意義を求める方法論として死の意義が位置づけられていることである。
「何かに忙殺される人間の属性として、真に生きることの自覚ほど希薄なものはない。もっとも、この生きることの知慧ほど難しいものもないのである。... 生きる術は生涯をかけて学び取らねばならないものであり、また、こう言えばさらに怪訝に思うかもしれないが、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものなのである。」
さらに、閑暇に生の意義を求めることを「不精の多忙」、あるいは「怠惰な忙事」と呼んでいる。あまりの不精のせいで無気力になり、腹が空いたかどうかさえ自分には分からなくなると。
「すべての人間の中で唯一、英知のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、真に生きている人なのである。」
生きる術とは、死ぬ術のことであったか。死を恐れ遠ざけるだけでは、生と向き合うことも難しいのかもしれん。死を克服できれば、時間を克服し、生の意義を見出すことができるのかもしれん。そして、有意義に生きよ!との忠告に異論を唱えるつもりはない。
しかしながら、無駄を経験せずして、それを知らずして、有意義を知りえようか?有徳者の言うことを鵜呑みにすれば、宗教の類いと何が違うのか?無条件に信じて生きるだけなら、自己の所有までも放棄することになる。生きる道を探求するには、自律的、自発的でなければなるまい。そこには、寄り道や回り道といった道がありそうだ。生の意義を自問し続ければ、最も恐れる死に対しても自然に覚悟できるようになるというのか?少なくとも、死を恐れるがために、わざわざ死を崇高な地位に押し上げることによって、却って死に望もうなんてことはなくなるだろう。死ぬ瞬間まで生の意義を求め続ければ、現在の名声や地位に縋ることもなく、自我の亡霊に憑かれることもなくなるだろう。そして、死すべき者に安息できる場があるとすれば、それは墓場にしかなさそうだ...
「人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。」
2. 心の平静について
友人セレーヌスは「病気でもなく、健康でもない」苛立たしい厄介な精神状態を訴え、セネカに救いを求める。倹約を志したところで、贅沢に目を奪われる。労働を義務づけたところで、怠惰に向かう。善悪も分からず、二つの狭間で遅疑するのが、情念というものであろうか。悩まずともいいことに神経を擦り減らし、自己嫌悪に陥る。それでも、自覚症状があれば、まだ救いようがある。しかし、集団的悪魔になると、どうだろうか?セネカは、民主主義が心の平静を失う恐ろしさについて語ってくれる。
「三十人の僭主がずたすたに引き裂いたときのアテーナイ人の都ほど不幸な都が他に見出せようか。」
ペロポネーソス戦争の直後(紀元前404年)の一年間ほど、スパルタを後ろ盾とした寡頭派の「三十人会」が、アテーナイの実権を掌握し、民主派を粛清して恐怖政治を行った。最も神聖な裁判所アレイオス・パゴスも、理性的な長老議会も、民会も、みな狂気!千三百人もの市民を、それも最良の市民を殺害し、それでも幕を引かず、狂暴さを増していく。そんな渦中にあってソクラテスは、三十人の暴君たちとの間に入って、慨嘆する長老たちを慰め、国家に絶望する人々を励まし、貪欲な金持ちを叱りつけもした。だが、この賢者までも牢獄に閉じ込められ、処刑された。民主主義が暴走すると、法廷の判決までもが世論の機嫌を伺い、法治国家は放置国家となり下がる。
... などと綴ってみると、あまり時代は変わっていないか。人は皆、金銭や地位に嫉妬心と虚栄心が絡むと、偏見に蝕まれ、どことなく怒りを募らせ、隙あらば人を貶めようと狙う。健康な者までも狂気した社会に身を投じれば、心を病んでいく。エリートや有識者や有徳者といった連中が狂うと、これほどタチの悪いものはない。やはり、パスカルが言ったように、人間は狂うものらしい。
「失うよりは手に入れないほうが耐えやすく、容易なのであり、だからこそ、運命が贔屓の目を向けなかった者のほうが、運命に見捨てられた者よりも嬉々としているのだと分かるであろう。偉大な精神を持った人ディオゲネースは、それが分かっていたから、自分から奪われるものが何一つないようにした。」
セネカはめげず、自制心を鍛えよ!と励ます。贅沢を控え、虚栄心を抑え、怒りを鎮め、貧しさへの偏見を棄て、調和の精神をもって質素に価値を見出せと。自然の善行に耳を傾けることができれば、心は自然に平静へ向かうと。世間体や地位、あるいは金銭というものが、いかに自然的でないか、そんなことは凡人未満にだって薄々気づいている。それでも、やめられまへん!やはり、盲目でいる方が幸せなのだ。
「とはいえ、精神を解き放って歓喜と自由へ導き、素面のしかつめらしさをしばしば脱ぎ捨てることは、時には必要なのである。いかにも、ギリシアの詩人を信じれば、"時には狂ってみるのも楽しい"のであり、プラトーンを信じれば、"正気の人間が詩作の門を叩いてもむだ"なのであり、アリストテレースを信じれば、"狂気の混じらない天才はかつて存在しなかった"のである。」
3. 幸福な生について
幸福でありたいと願うのは誰しも同じであろう。だが、幸福をもたらしてくれるものを見極めるとなると、暗中模索にある。一旦、道を誤れば、生を遠ざける危険な道となり、慌てて急げばその呪縛から抜けられない。まずは、自分に足らないものを問うことから始まる。受け入れる度量が準備されていなければ、どんなに優れたものでも見過ごし、挙句の果てに蔑んでしまう。
「この旅にあっては、最もよく踏みならされ、最も往来の激しい道こそ、最も人を欺く道なのである。」
人と同じであることだけを旨として生きることほど、大きな害悪に巻き込むものはあるまい。自ら判断を下すことなく、他人の考えを当てにするだけなら、過ちは人から人へと伝播する。同じ事柄でも、ある時は是認し、ある時は批判する、といった現象が生じるのは、ただ多数というだけで下されるすべての判断の帰結であるという。そして、外部から毀損されず、征服されない人間を目指し、自ら生の創造者になれ!と励ましてくれる。そのために、知識の裏付けがなくてはならず、知識には恒心の裏付けがなければならないとしている。優柔不断やたじろぎは、精神の軋轢と恒心のなさの証であると...
「現実は、己の悪の弁護人となり、理性に敵対するのが、大衆というものなのだ。自分で選んでおきながら、移り気な人気が向きを変えるや、あの男が法務官に選ばれたとは、などと選んだ当人が驚いている民会での光景も、それゆえである。」
ここで、注目したいのは、エピクロス派の徳と快楽の関係を論じながら、ストア派の信条が語られることである。ストア派が、快楽を容認するのは賢者によるものだけだという。つまり、徳と結びついた快楽を選ぶこと。
「賢者の快楽は穏やかで、控えめで、ほぼ無力に近く、抑制され、ほとんど目立たないものなのである。それも当然で、賢者の快楽は招かれてやって来るわけではなく、また、快楽が勝手にやって来ることがあるにしても、敬意をもって遇されることも、それを知覚する賢者の何かの愉楽をともなって受け入れられることもないものだからである。いかにも、賢者は、真面目なものに遊びや冗談を織り交ぜるようにして、生にそうした快楽を綯い交ぜ、点綴するのである。」
対して、エピクロス派の快楽は、非凡な義務を負わせていると指摘している。一般向けではなく、高等向けということらしい。これを「快楽の毒見役」と称している。毒見役は奴隷の仕事であり、徳を快楽に隷属させるエピクロス派への皮肉というわけか。有徳者や有識者たちにありがちなのが、理想を崇めること。実践的観念がともなわなければ、空論で終わるどころか、むしろ毒となる。そして、ストア派の信条というべきものが、これであろうか...
「大胆にこう公言してよいのである、最高善とは精神の調和である、と。協和と統一のあるところ、必ずや徳があるからであり、不和分裂は悪徳の習いとするところだからである。」
セネカという人物を知ったのは、タキトゥスの「年代記」を読んでからのこと。彼の死に様が克明に記されている。その箇所を、ちょいと読み返しておこう...
皇帝ネロに対するピソ一派の陰謀が露呈すると、その一味として疑われ自決を命じられる。百人隊長によって伝えられた命令に対して、泰然自若として遺言の書板を要求するも、拒絶される。すると、セネカは友人に言葉を残す。「最も気高い所有物を遺贈したい。それは、私がこの世に生まれた姿だ。」哲学の教えを忘れたのか?長年に渡って考え抜いてきた決意は?そして心の平静はどこへいった?と嘆きながら。生への執着よりも名誉ある死を選んだのは、ソクラテスの精神を継承している。ところが、セネカは相当年を食っていて、節食のため痩せ細り、血の出が悪いために、さらに足首と膝の血管も切られる。ついに友人の医者に毒を与えてもらうが、既に毒も効かないほど手足は冷えきり、五体の感覚も失われている。最後に、熱湯風呂に入り、熱気の中で息絶える。...
その壮絶な死は、画家ルーベンスの作品「セネカの死」にも描かれる。肉体の逞しさなど、タキトゥスの記述とは少し印象が違うにせよ、金属製のたらいに両足を入れて立たされた偉大な哲学者が、口を半開きにし、求めるように右手を差し出しながら、最期の言葉を語ろうとしている。背後で甲冑を身につけた兵士が見守る中、流れ出る血を拭っているのか抑えているのか、たらいの水は赤みを帯びていく。その足元には、言葉を待ち構えて筆を持った者がいて... まさに死にゆく姿が、そこにある。
本書は、タキトゥスやルーベンスの描いたセネカの死に様を、生の意義として蘇らせた作品と言えよう。セネカ哲学とは、生の意義から死を克服する道... とでもしておこうか。尚、ここには「生の短さについて」、「心の平静について」、「幸福な生について」の三篇が収録される。
「畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。」
人はなぜ、何事も都合よく解釈できるのか?なぜ真の姿を見ようとしないのか?いや、見ようとしないのではない。一向に見えてこないのだ。人間の営みってやつが... 義務は、社会に翻弄され、組織に翻弄され、おまけに自己の欲望に翻弄され、忙殺されていく。今やっている仕事は、義務と呼べるほどの代物なのか?と問えば、生活費を稼ぐためとしか答えられない。何かに燃え尽き、真っ白になると、真っ赤なネオンサインに照らして生の活力を蘇らせる。そして、その繰り返し...
人を難ずる前に我が身を省みよ!とは、実に耳の痛い御指摘である。誹謗中傷の類いは、大方この呪縛に嵌る。人間らしく生きるとはどういうことなのか?と問えば、刺激的に生きたいという願いだけが意識のどこかにある。人間社会そのものが、人間の数だけ無理やりにでも仕事を創出し、義務を創出し、価値の循環を煽らなければ成り立たない世界だとすれば、それは自然に適っているのだろうか?などと問うてみても、そうするしか術を知らない。真の義務や自由とやらは、永遠に見えそうにない。凡庸な、いや、凡庸未満の酔っ払いは大声で人生は短いと嘆き、自然な天才は静かに人生を謳歌する。生は短く、術は長い!とはよく言ったものだ。ならば、のんびりと精一杯生きるしかないではないか...
1. 生の短さについて
植物には何千年と生きるものがあるというのに、偉大な魂の持ち主とされる人間はたかだか生きて百年。あっさりと流れに乗って終焉を迎えるのが、死すべき者の持ち味というものか。しかし、その果敢なさを嘆くのは、生があまりに短いのではなく、多くを浪費するからだという見方も、もっともな話である。セネカは言う。人間の生もまた、立派に全うすれば十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられていると。
「死すべき身ながら、大方の人間は自然の悪意をかこち、われわれ人間は束の間の生に生まれつく、われわれに与えられたその束の間の時さえ、あまりにも早く、あまりにも忽然と過ぎ去り、少数の例外を除けば、他の人間は、これから生きようという、まさにその生への準備の段階で生に見捨てられてしまうと言って嘆く。」
ある者は闇雲に利欲を貪り、ある者は酒霊に憑かれ、ある者は怠惰に耽けり、ある者はあくせく精出す無駄な労役に囚われれ、ある者は公職(好色)への野心で疲労困憊... 莫大な財産といえでも衝動に駆られ、たちまち雲散霧消!仕事にかこつけて、引退したら「第二の人生」などと言って、あたかもそこに希望を見出そうとする。遅蒔きなことよ。寿命が延びれば、生の意義までも先送り。自由の権利をやかましく主張しても、真の自由人になろうとはしない。実は、自由とは面倒なものなのか?アリストテレスが言った生まれつき奴隷ってやつは、あながち嘘ではなさそうである。
さて、セネカの思想の根幹には、ソクラテスの「魂の不死」があるのだろう。注目したいのは、生の意義を求める方法論として死の意義が位置づけられていることである。
「何かに忙殺される人間の属性として、真に生きることの自覚ほど希薄なものはない。もっとも、この生きることの知慧ほど難しいものもないのである。... 生きる術は生涯をかけて学び取らねばならないものであり、また、こう言えばさらに怪訝に思うかもしれないが、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものなのである。」
さらに、閑暇に生の意義を求めることを「不精の多忙」、あるいは「怠惰な忙事」と呼んでいる。あまりの不精のせいで無気力になり、腹が空いたかどうかさえ自分には分からなくなると。
「すべての人間の中で唯一、英知のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、真に生きている人なのである。」
生きる術とは、死ぬ術のことであったか。死を恐れ遠ざけるだけでは、生と向き合うことも難しいのかもしれん。死を克服できれば、時間を克服し、生の意義を見出すことができるのかもしれん。そして、有意義に生きよ!との忠告に異論を唱えるつもりはない。
しかしながら、無駄を経験せずして、それを知らずして、有意義を知りえようか?有徳者の言うことを鵜呑みにすれば、宗教の類いと何が違うのか?無条件に信じて生きるだけなら、自己の所有までも放棄することになる。生きる道を探求するには、自律的、自発的でなければなるまい。そこには、寄り道や回り道といった道がありそうだ。生の意義を自問し続ければ、最も恐れる死に対しても自然に覚悟できるようになるというのか?少なくとも、死を恐れるがために、わざわざ死を崇高な地位に押し上げることによって、却って死に望もうなんてことはなくなるだろう。死ぬ瞬間まで生の意義を求め続ければ、現在の名声や地位に縋ることもなく、自我の亡霊に憑かれることもなくなるだろう。そして、死すべき者に安息できる場があるとすれば、それは墓場にしかなさそうだ...
「人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。」
2. 心の平静について
友人セレーヌスは「病気でもなく、健康でもない」苛立たしい厄介な精神状態を訴え、セネカに救いを求める。倹約を志したところで、贅沢に目を奪われる。労働を義務づけたところで、怠惰に向かう。善悪も分からず、二つの狭間で遅疑するのが、情念というものであろうか。悩まずともいいことに神経を擦り減らし、自己嫌悪に陥る。それでも、自覚症状があれば、まだ救いようがある。しかし、集団的悪魔になると、どうだろうか?セネカは、民主主義が心の平静を失う恐ろしさについて語ってくれる。
「三十人の僭主がずたすたに引き裂いたときのアテーナイ人の都ほど不幸な都が他に見出せようか。」
ペロポネーソス戦争の直後(紀元前404年)の一年間ほど、スパルタを後ろ盾とした寡頭派の「三十人会」が、アテーナイの実権を掌握し、民主派を粛清して恐怖政治を行った。最も神聖な裁判所アレイオス・パゴスも、理性的な長老議会も、民会も、みな狂気!千三百人もの市民を、それも最良の市民を殺害し、それでも幕を引かず、狂暴さを増していく。そんな渦中にあってソクラテスは、三十人の暴君たちとの間に入って、慨嘆する長老たちを慰め、国家に絶望する人々を励まし、貪欲な金持ちを叱りつけもした。だが、この賢者までも牢獄に閉じ込められ、処刑された。民主主義が暴走すると、法廷の判決までもが世論の機嫌を伺い、法治国家は放置国家となり下がる。
... などと綴ってみると、あまり時代は変わっていないか。人は皆、金銭や地位に嫉妬心と虚栄心が絡むと、偏見に蝕まれ、どことなく怒りを募らせ、隙あらば人を貶めようと狙う。健康な者までも狂気した社会に身を投じれば、心を病んでいく。エリートや有識者や有徳者といった連中が狂うと、これほどタチの悪いものはない。やはり、パスカルが言ったように、人間は狂うものらしい。
「失うよりは手に入れないほうが耐えやすく、容易なのであり、だからこそ、運命が贔屓の目を向けなかった者のほうが、運命に見捨てられた者よりも嬉々としているのだと分かるであろう。偉大な精神を持った人ディオゲネースは、それが分かっていたから、自分から奪われるものが何一つないようにした。」
セネカはめげず、自制心を鍛えよ!と励ます。贅沢を控え、虚栄心を抑え、怒りを鎮め、貧しさへの偏見を棄て、調和の精神をもって質素に価値を見出せと。自然の善行に耳を傾けることができれば、心は自然に平静へ向かうと。世間体や地位、あるいは金銭というものが、いかに自然的でないか、そんなことは凡人未満にだって薄々気づいている。それでも、やめられまへん!やはり、盲目でいる方が幸せなのだ。
「とはいえ、精神を解き放って歓喜と自由へ導き、素面のしかつめらしさをしばしば脱ぎ捨てることは、時には必要なのである。いかにも、ギリシアの詩人を信じれば、"時には狂ってみるのも楽しい"のであり、プラトーンを信じれば、"正気の人間が詩作の門を叩いてもむだ"なのであり、アリストテレースを信じれば、"狂気の混じらない天才はかつて存在しなかった"のである。」
3. 幸福な生について
幸福でありたいと願うのは誰しも同じであろう。だが、幸福をもたらしてくれるものを見極めるとなると、暗中模索にある。一旦、道を誤れば、生を遠ざける危険な道となり、慌てて急げばその呪縛から抜けられない。まずは、自分に足らないものを問うことから始まる。受け入れる度量が準備されていなければ、どんなに優れたものでも見過ごし、挙句の果てに蔑んでしまう。
「この旅にあっては、最もよく踏みならされ、最も往来の激しい道こそ、最も人を欺く道なのである。」
人と同じであることだけを旨として生きることほど、大きな害悪に巻き込むものはあるまい。自ら判断を下すことなく、他人の考えを当てにするだけなら、過ちは人から人へと伝播する。同じ事柄でも、ある時は是認し、ある時は批判する、といった現象が生じるのは、ただ多数というだけで下されるすべての判断の帰結であるという。そして、外部から毀損されず、征服されない人間を目指し、自ら生の創造者になれ!と励ましてくれる。そのために、知識の裏付けがなくてはならず、知識には恒心の裏付けがなければならないとしている。優柔不断やたじろぎは、精神の軋轢と恒心のなさの証であると...
「現実は、己の悪の弁護人となり、理性に敵対するのが、大衆というものなのだ。自分で選んでおきながら、移り気な人気が向きを変えるや、あの男が法務官に選ばれたとは、などと選んだ当人が驚いている民会での光景も、それゆえである。」
ここで、注目したいのは、エピクロス派の徳と快楽の関係を論じながら、ストア派の信条が語られることである。ストア派が、快楽を容認するのは賢者によるものだけだという。つまり、徳と結びついた快楽を選ぶこと。
「賢者の快楽は穏やかで、控えめで、ほぼ無力に近く、抑制され、ほとんど目立たないものなのである。それも当然で、賢者の快楽は招かれてやって来るわけではなく、また、快楽が勝手にやって来ることがあるにしても、敬意をもって遇されることも、それを知覚する賢者の何かの愉楽をともなって受け入れられることもないものだからである。いかにも、賢者は、真面目なものに遊びや冗談を織り交ぜるようにして、生にそうした快楽を綯い交ぜ、点綴するのである。」
対して、エピクロス派の快楽は、非凡な義務を負わせていると指摘している。一般向けではなく、高等向けということらしい。これを「快楽の毒見役」と称している。毒見役は奴隷の仕事であり、徳を快楽に隷属させるエピクロス派への皮肉というわけか。有徳者や有識者たちにありがちなのが、理想を崇めること。実践的観念がともなわなければ、空論で終わるどころか、むしろ毒となる。そして、ストア派の信条というべきものが、これであろうか...
「大胆にこう公言してよいのである、最高善とは精神の調和である、と。協和と統一のあるところ、必ずや徳があるからであり、不和分裂は悪徳の習いとするところだからである。」
2014-01-26
"自省録" マルクス・アウレーリウス 著
プラトンは、著作「国家」の中で、哲学者の手に政治を委ねることを理想とした。その理想が、歴史上ただ一度実現した例があるという。第16代ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスは、多忙な政務を果たしながらも自問自答に耽り、自省自戒の備忘録を残した。この書には、構成らしい構成がない。いちおう12章に分けられるものの、その都度、思いついてはメモったのだろう。言葉が立派だから政治家としても立派だった、とは言い切れないが...
その言葉を眺めれば、プラトンやアリストテレスが信条とした四つの徳「智慧、勇気、節制、正義」を基盤にしていることは想像に易い。注目したいのは、ストア派の影響を強く受けていることである。セネカやエピクテトスなどに代表されるストア派が流行した時代でもあり、本書にもエピクテトスの名を見かける。ただ、ストア派と言えば、物理学や論理学を倫理学の中に押し込んだ、頭でっかちの道徳観念という印象がある。いわば宗教の臭いがするわけだが、アウレーリウスの魂に乗り移ると、こうも様変わりするものであろうか。あるいは、まだ道徳の暴走が始まっていない時代であろうか。いや、ストア派に対する偏見かもしれん。
アウレーリウスは、宇宙論的な道徳を探求し、ひたすら不動心を求める。理性によって精神を解放し、真の自由人にならんがために。大ローマ帝国で、しかも皇帝の地位にありながら、ギリシア語で綴ったというから、よほどギリシア哲学に魅了されたと見える。そして、なんとなくストア派の書籍も漁ってみたくなる... 酔っ払いの衝動は、道徳の暴走よりもタチが悪い!
どんなに誠実な人物であっても、政治を行うとなると、それだけでは足りない。
義弟ルキウス・ウェルスと共同皇帝となるものの、ウェルスは怠惰な享楽好きだったという説がある。平和を楽しむことの久しかったローマ帝国にあって、ちょうど多事多難な時代を迎える。ティベリウス河の氾濫、地震、ペストの流行などの災難が相次ぎ、北方のゲルマン人とのいざこざ、さらにはシリアへ侵攻してパルティア戦争が起こる。アウィディウス・カッシウスはシリアで謀反を起こし、アウレーリウスが死んだと言いふらし、自ら皇帝を名乗ったという。彼は生粋の軍国主義愛国者で、アウレーリウスの平和的文化主義者とは正反対だっとか。カッシウスへ寛大な処置をとるようにと、アウレーリウスが元老院宛に送った手紙も残っているそうな。
しかし、歴史は、アウレーリウスを賢明な人物とするために、カッシウスを悪者にしているかもしれない。アウレーリウスの時代にキリスト教徒を迫害している事実もある。彼自身が率先したわけではないらしいが。
本書には、話し合っても通じ合えるものではないが、それでも根気よく対話すべし、といった自らを励ますかのような文面が目立ち、ひたすら道徳や正義に縋るのではなく、実践的な態度が綴られる。そして、戦争は人間性において不名誉であり、不幸であり、生命を有するものはすべて義務を持ち、目的を持ち、人間は宇宙国家の市民であることが語られる。人間は理性的に創られているとし、理性に生きれば自然に義務を果たし、そのために自律自由でなくてはならないとしている。衝動や欲望に惑わされない確固たる不動心へと導くことが、自由への道であると...
一方で、死後の世界に対しては、それほどの執着を見せない。魂が不死でも、無に帰するでも、どっちでもええやん!といった印象すらある。自殺ですら否定せず、道徳的な姿勢を貫くことができなければ、むしろ是認しているようでもある。そうならないために、知性と理性を養え!と自分に言い聞かせているのかもしれない。知性と理性を高めることによって、死もまた自然に覚悟できるということであろうか。まずは、「死ねばこれができなくなるという理由で、死が恐るべきものとなるだろうか」と自問してみよと...
ところで、理性とはなんであろうか?
我が家の国語辞典によると...「物事の道理を考える能力。道理に従って判断したり行動したりする能力。」とある。道理ってなんだ?...「物事の筋道。」とある。筋道ってなんだ?...「物の道理、条理。」とある。おっと!循環論に陥っている。国語辞典ですらまともに説明できないものを、どうして一介の酔っ払いごときが知り得ようか。
有識者どもに理性を持っているか?と尋ねれば、当たり前と言わんばかりに主張する。ならば、いつも憤慨しているのはなぜ?理性の力をもってしても、心に平穏をもたすことができないというのか?仮に理性を実践し、責任を果たしているというなら、その上に何を望むというのか?彼らは本当に自由人なのか?理性の欠片も持ち合わせないアル中ハイマーにとって、こんな言葉はこそばゆい。
1. 魂と死体
エピクテトス曰く、「君はひとつの死体をかついでいる小さな魂にすぎない。」
生とは、魂と肉体が一体となっている状態であって、魂が肉体をかつぐのをやめた途端に腐敗が始まる。魂は煙のごとく消えゆき、死後の名声ですら忘却に埋もれていく。これが人生というものであろうか。ならば、人を導きうるものとはなんであろうか?アウレーリウスは、唯一、哲学することだと答える。哲学するとは自らの思考によって知性や理性を高めること。ただそれのみが死を安らかな心で待ち受けることができると。能動的に自己の自由を制することこそが、真の自由へ導き、真に自己の所有を実現することができるということらしい。享楽や欲望に隷属すれば、自分の進むべき道も分からず、死体をかついで生きているに過ぎないというわけか。人生において、いつ死のうが大した問題ではないのかもしれん。
「ランプの光は、それが消えるまでは輝き、その明るさを失わない。それなのに君の内なる真理と正義と節制とは、君よりも先に消えてなくなってしまうのであろうか。」
歳を重ねたからといって、智力が増し、精神が成熟するとは限らない。もしそうなら、寿命の延びた現代社会では、より人間性を発揮するはずだ。却って生への執着が横暴になるのか?引退の道すら自分で見つけられず、地位は惰性的となりマンネリな権威で威圧し、他人の目ばかり気にして余生までも消耗してしまう。むしろ、死と隣合わせに生きる方が、生と正面から向かい合っているだけに、自己の腐敗にも気づきやすいのかもしれない。
自己を見つめるには、自問の原理に縋るしかあるまい。生涯を通して真理の探求を怠るわけにはいかない。芸術的な感受性を磨く上でも、自然を観察しないわけにはいかない。これが、神から授かった試練というものであろうか。
しかし、泥酔しきった肉体は、悪臭を放ちながらだんだん重く感じ、やがて引き摺りながら生きるであろう。ますます短気になり、嫌味やら、皮肉やら、愚痴やら、駄々をこねずにはいられなくなるのだ。
「いったい何にたいして君は不満をいだいているのか。人間の悪にたいしてか。つぎの結論を思いめぐらすがよい。理性的な動物は相互のために生まれたこと、互いに忍耐し合うのは正義の一部であること、人は心ならずも罪を犯してしまうこと。また互いに敵意や疑惑や憎悪をいだき、槍で刺し合った人びとが今迄にどれだけ墓の中に横えられ、焼かれて灰になってしまったかを考えて見るがよい。そしてもういいかげんで心を鎮めたらどうだ。」
2. 指導理性
「全体の自然は自己の衝動によって宇宙の創造に向かった。ところが現在は、すべての出来事は因果律に従って生ずるか、もしくはすべて非合理的であって、宇宙の指導理性(ト・ヘーゲモニコン)が自己の固有の衝動を向けるもっとも重大なことでさえも例外ではない。多くの場合においてこのことを思い起こせば君ももっと平静になるであろう。」
指導理性ってなんだ?
他人の指導を当てにせず、自ら先導して理性へ導け!ということのようだ。悟りというやつか。他人の行動を見るより、まず自己の行動を見よ!まっすぐ宇宙の真理を見よ!自然の摂理を見よ!...ということであろうか。
しかしながら、魂ってやつは、自然の意に反して真理から目を背ける。いくら自己に指導理性を求めたところで、社会制度に隷属し、組織に隷属する方がはるかに楽よ。論理を並び立て、詭弁や屁理屈を言っている方が楽よ。そんなアル中ハイマーには、この言葉が重くのしかかる。
「宇宙がなんであるかを知らぬ者は、自分がどこにいるかを知らない。宇宙がなんのために存在しているかを知らぬ者は、自分がなんであるかを知らず、宇宙がなんであるかをも知らない。」
とはいえ、自己の正体を知る人間なんか、この世にいるのか?理性を獲得すれば、それを知ることができるというのか?どうりで理性ってやつはこそばゆい。永遠に獲得できそうにないのだから...
3. 自然的な義務
義務とは、なんであろうか?組織の命令に従うことか?世間では、仕事を持つことが義務とされる。だが、仕事ってやつの定義が難しい。いくら商売とはいえ、誇大広告で欺瞞するのであれば、押し売りの類いと変わらない。悪徳商法だって仕事なのだ。今、自分のやっている仕事は、義務と呼べるほどのものなのか?生活費を稼ぐことを、義務と呼んでいるだけではないのか?下等とされる動物たちは、必要以上に獲物を食さず、自然に自制が利く。なのに、理性の持ち主とされる人間どもは、限りない豊かさを求める。常に将来に不安を抱き、なんでもいいから欲望を抱いていないと落ち着かない。名声を欲し、称賛を求め、けして虚栄心を捨てられそうにない。享楽や欲望のために働いているとすれば、手加減しなければなるまい。
「適当でないことならば、せずにおけ。真理でないことならば、いわずにおけ。その決断はあくまでも君の一存にあるべきだ。」
一方で、知性や理性に対しては遠慮はいらない。知識は無限にあり、道徳に無限に近づこうとしても到達できない。人間の欲望が、無限に解放できる唯一の領域が、ここにあろうか。ただ、知識を詰め込んでも、知性を獲得することは難しい。道徳を叩き込んでも、理性を獲得することは難しい。もうそんな努力は必要ないという人がいれば、既に精神の崩壊を招いているだろう。知性や理性の正体は一向に見えてこない。自然的な義務も一向に見えてこない。真理を探求する学問ですら、金儲けの手段となっているではないか。
「名誉を愛する者は自分の幸福は他人の行為の中にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にあると思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。」
アウレーリウスは、自然に適った存在であれば、自然に義務が果たせるとしている。そのためにもまず、自分に嘘をつかず、自己を誤魔化さないことであろうか。しかしながら、自己に欺瞞された状態で、自分の嘘を見ぬくことが出来るだろうか。せいぜい心掛けることぐらいであろうか。欺瞞されていないことを信じて...
「もういい加減で自覚するがいい、君の中には、情欲をかもし出して君を木偶のごとくあやつるものよりももっと優れた、もっと神的なものがあるということを。私の心には今なにがあるか。恐怖ではないか。疑惑?欲望?その他類似のもの?」
その言葉を眺めれば、プラトンやアリストテレスが信条とした四つの徳「智慧、勇気、節制、正義」を基盤にしていることは想像に易い。注目したいのは、ストア派の影響を強く受けていることである。セネカやエピクテトスなどに代表されるストア派が流行した時代でもあり、本書にもエピクテトスの名を見かける。ただ、ストア派と言えば、物理学や論理学を倫理学の中に押し込んだ、頭でっかちの道徳観念という印象がある。いわば宗教の臭いがするわけだが、アウレーリウスの魂に乗り移ると、こうも様変わりするものであろうか。あるいは、まだ道徳の暴走が始まっていない時代であろうか。いや、ストア派に対する偏見かもしれん。
アウレーリウスは、宇宙論的な道徳を探求し、ひたすら不動心を求める。理性によって精神を解放し、真の自由人にならんがために。大ローマ帝国で、しかも皇帝の地位にありながら、ギリシア語で綴ったというから、よほどギリシア哲学に魅了されたと見える。そして、なんとなくストア派の書籍も漁ってみたくなる... 酔っ払いの衝動は、道徳の暴走よりもタチが悪い!
どんなに誠実な人物であっても、政治を行うとなると、それだけでは足りない。
義弟ルキウス・ウェルスと共同皇帝となるものの、ウェルスは怠惰な享楽好きだったという説がある。平和を楽しむことの久しかったローマ帝国にあって、ちょうど多事多難な時代を迎える。ティベリウス河の氾濫、地震、ペストの流行などの災難が相次ぎ、北方のゲルマン人とのいざこざ、さらにはシリアへ侵攻してパルティア戦争が起こる。アウィディウス・カッシウスはシリアで謀反を起こし、アウレーリウスが死んだと言いふらし、自ら皇帝を名乗ったという。彼は生粋の軍国主義愛国者で、アウレーリウスの平和的文化主義者とは正反対だっとか。カッシウスへ寛大な処置をとるようにと、アウレーリウスが元老院宛に送った手紙も残っているそうな。
しかし、歴史は、アウレーリウスを賢明な人物とするために、カッシウスを悪者にしているかもしれない。アウレーリウスの時代にキリスト教徒を迫害している事実もある。彼自身が率先したわけではないらしいが。
本書には、話し合っても通じ合えるものではないが、それでも根気よく対話すべし、といった自らを励ますかのような文面が目立ち、ひたすら道徳や正義に縋るのではなく、実践的な態度が綴られる。そして、戦争は人間性において不名誉であり、不幸であり、生命を有するものはすべて義務を持ち、目的を持ち、人間は宇宙国家の市民であることが語られる。人間は理性的に創られているとし、理性に生きれば自然に義務を果たし、そのために自律自由でなくてはならないとしている。衝動や欲望に惑わされない確固たる不動心へと導くことが、自由への道であると...
一方で、死後の世界に対しては、それほどの執着を見せない。魂が不死でも、無に帰するでも、どっちでもええやん!といった印象すらある。自殺ですら否定せず、道徳的な姿勢を貫くことができなければ、むしろ是認しているようでもある。そうならないために、知性と理性を養え!と自分に言い聞かせているのかもしれない。知性と理性を高めることによって、死もまた自然に覚悟できるということであろうか。まずは、「死ねばこれができなくなるという理由で、死が恐るべきものとなるだろうか」と自問してみよと...
ところで、理性とはなんであろうか?
我が家の国語辞典によると...「物事の道理を考える能力。道理に従って判断したり行動したりする能力。」とある。道理ってなんだ?...「物事の筋道。」とある。筋道ってなんだ?...「物の道理、条理。」とある。おっと!循環論に陥っている。国語辞典ですらまともに説明できないものを、どうして一介の酔っ払いごときが知り得ようか。
有識者どもに理性を持っているか?と尋ねれば、当たり前と言わんばかりに主張する。ならば、いつも憤慨しているのはなぜ?理性の力をもってしても、心に平穏をもたすことができないというのか?仮に理性を実践し、責任を果たしているというなら、その上に何を望むというのか?彼らは本当に自由人なのか?理性の欠片も持ち合わせないアル中ハイマーにとって、こんな言葉はこそばゆい。
1. 魂と死体
エピクテトス曰く、「君はひとつの死体をかついでいる小さな魂にすぎない。」
生とは、魂と肉体が一体となっている状態であって、魂が肉体をかつぐのをやめた途端に腐敗が始まる。魂は煙のごとく消えゆき、死後の名声ですら忘却に埋もれていく。これが人生というものであろうか。ならば、人を導きうるものとはなんであろうか?アウレーリウスは、唯一、哲学することだと答える。哲学するとは自らの思考によって知性や理性を高めること。ただそれのみが死を安らかな心で待ち受けることができると。能動的に自己の自由を制することこそが、真の自由へ導き、真に自己の所有を実現することができるということらしい。享楽や欲望に隷属すれば、自分の進むべき道も分からず、死体をかついで生きているに過ぎないというわけか。人生において、いつ死のうが大した問題ではないのかもしれん。
「ランプの光は、それが消えるまでは輝き、その明るさを失わない。それなのに君の内なる真理と正義と節制とは、君よりも先に消えてなくなってしまうのであろうか。」
歳を重ねたからといって、智力が増し、精神が成熟するとは限らない。もしそうなら、寿命の延びた現代社会では、より人間性を発揮するはずだ。却って生への執着が横暴になるのか?引退の道すら自分で見つけられず、地位は惰性的となりマンネリな権威で威圧し、他人の目ばかり気にして余生までも消耗してしまう。むしろ、死と隣合わせに生きる方が、生と正面から向かい合っているだけに、自己の腐敗にも気づきやすいのかもしれない。
自己を見つめるには、自問の原理に縋るしかあるまい。生涯を通して真理の探求を怠るわけにはいかない。芸術的な感受性を磨く上でも、自然を観察しないわけにはいかない。これが、神から授かった試練というものであろうか。
しかし、泥酔しきった肉体は、悪臭を放ちながらだんだん重く感じ、やがて引き摺りながら生きるであろう。ますます短気になり、嫌味やら、皮肉やら、愚痴やら、駄々をこねずにはいられなくなるのだ。
「いったい何にたいして君は不満をいだいているのか。人間の悪にたいしてか。つぎの結論を思いめぐらすがよい。理性的な動物は相互のために生まれたこと、互いに忍耐し合うのは正義の一部であること、人は心ならずも罪を犯してしまうこと。また互いに敵意や疑惑や憎悪をいだき、槍で刺し合った人びとが今迄にどれだけ墓の中に横えられ、焼かれて灰になってしまったかを考えて見るがよい。そしてもういいかげんで心を鎮めたらどうだ。」
2. 指導理性
「全体の自然は自己の衝動によって宇宙の創造に向かった。ところが現在は、すべての出来事は因果律に従って生ずるか、もしくはすべて非合理的であって、宇宙の指導理性(ト・ヘーゲモニコン)が自己の固有の衝動を向けるもっとも重大なことでさえも例外ではない。多くの場合においてこのことを思い起こせば君ももっと平静になるであろう。」
指導理性ってなんだ?
他人の指導を当てにせず、自ら先導して理性へ導け!ということのようだ。悟りというやつか。他人の行動を見るより、まず自己の行動を見よ!まっすぐ宇宙の真理を見よ!自然の摂理を見よ!...ということであろうか。
しかしながら、魂ってやつは、自然の意に反して真理から目を背ける。いくら自己に指導理性を求めたところで、社会制度に隷属し、組織に隷属する方がはるかに楽よ。論理を並び立て、詭弁や屁理屈を言っている方が楽よ。そんなアル中ハイマーには、この言葉が重くのしかかる。
「宇宙がなんであるかを知らぬ者は、自分がどこにいるかを知らない。宇宙がなんのために存在しているかを知らぬ者は、自分がなんであるかを知らず、宇宙がなんであるかをも知らない。」
とはいえ、自己の正体を知る人間なんか、この世にいるのか?理性を獲得すれば、それを知ることができるというのか?どうりで理性ってやつはこそばゆい。永遠に獲得できそうにないのだから...
3. 自然的な義務
義務とは、なんであろうか?組織の命令に従うことか?世間では、仕事を持つことが義務とされる。だが、仕事ってやつの定義が難しい。いくら商売とはいえ、誇大広告で欺瞞するのであれば、押し売りの類いと変わらない。悪徳商法だって仕事なのだ。今、自分のやっている仕事は、義務と呼べるほどのものなのか?生活費を稼ぐことを、義務と呼んでいるだけではないのか?下等とされる動物たちは、必要以上に獲物を食さず、自然に自制が利く。なのに、理性の持ち主とされる人間どもは、限りない豊かさを求める。常に将来に不安を抱き、なんでもいいから欲望を抱いていないと落ち着かない。名声を欲し、称賛を求め、けして虚栄心を捨てられそうにない。享楽や欲望のために働いているとすれば、手加減しなければなるまい。
「適当でないことならば、せずにおけ。真理でないことならば、いわずにおけ。その決断はあくまでも君の一存にあるべきだ。」
一方で、知性や理性に対しては遠慮はいらない。知識は無限にあり、道徳に無限に近づこうとしても到達できない。人間の欲望が、無限に解放できる唯一の領域が、ここにあろうか。ただ、知識を詰め込んでも、知性を獲得することは難しい。道徳を叩き込んでも、理性を獲得することは難しい。もうそんな努力は必要ないという人がいれば、既に精神の崩壊を招いているだろう。知性や理性の正体は一向に見えてこない。自然的な義務も一向に見えてこない。真理を探求する学問ですら、金儲けの手段となっているではないか。
「名誉を愛する者は自分の幸福は他人の行為の中にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にあると思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。」
アウレーリウスは、自然に適った存在であれば、自然に義務が果たせるとしている。そのためにもまず、自分に嘘をつかず、自己を誤魔化さないことであろうか。しかしながら、自己に欺瞞された状態で、自分の嘘を見ぬくことが出来るだろうか。せいぜい心掛けることぐらいであろうか。欺瞞されていないことを信じて...
「もういい加減で自覚するがいい、君の中には、情欲をかもし出して君を木偶のごとくあやつるものよりももっと優れた、もっと神的なものがあるということを。私の心には今なにがあるか。恐怖ではないか。疑惑?欲望?その他類似のもの?」
2014-01-19
もしも、まったく記憶力のない夢学者が夢現象を語ったら...
もしものコーナー... だめだこりゃ!
夢には、現実世界で意識的に描くものと、眠りの世界で無意識に見るものとがある。両者の扱いは、天と地ほどの違いがある。意識的な夢が幻想と蔑まれるのに対して、無意識的な心的現象は、そこに霊感めいたものを重ねる。古来、予知夢が英雄伝説を予感させてきた。アレキサンダー大王の誕生秘話では、母オリュンピアスは雷鳴が腹に落ちて辺り一面に火が燃え上がる夢を見たとされ、父フィリボス2世は、妻の腹に獅子が封印された夢を見て、後の息子を恐れたと伝えられる。こうした事例は枚挙にいとまがない。都合の良い夢を勝利の証としたり、悪い夢を警告としたり。現在でも、一富士二鷹三茄子を縁起の良い夢としたり、夢判断で宝くじの当選番号を占う人もいる。
人間には、無意識に生じる心的な超現象を、崇高なものと捉える性癖があるらしい。人間は考える葦である... と語ったパスカルは、たかだが一茎の葦に過ぎない存在でありながら、神をも想像できる能力を崇めた。我思う... と語ったデカルトは、神を思惟できる能力から、神の存在までも証明してみせた。
しかしながら、いくら無意識な領域を意識しようとしても、それを精神の存在によって説明しようとしても、そこには制御不能な自我が立ちはだかる。潜在的な不安や恐怖が、警告夢や死の告知夢を脳に投影することもあろう。予知夢が未来願望の姿だとすれば、デジャブのような現象は過去への回帰願望の顕れであろうか。望郷の念や過去に焦がれるのも、心の拠り所、すなわち帰属意識の再確認から生じるものかもしれない。
夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば、外界との交渉を断ち、完全に刺激を遮断してくれるが、中途半端な眠りは奇妙な災いをもたらす。金縛りもその類いか。ちなみに、大学時代、講義中に睡眠状態をコントロールしようとして金縛りになり、もがく姿を友人たちに大笑いされたものだ。
眠りは、生理学的には休養であるが、心理学的には何を意味するのだろうか?現実逃避か?永遠の眠りへの不安か?はたまた、熟睡を求めるのは死への憧れか?人間は死を忌み嫌いながら、その正体を未だ知らない。実は、DNAあたりに組み込まれていて、潜在的に知っているのかしれないが。生きる苦痛を実感しているから、その対照に位置づけられる死にも同様の苦痛があると考えるのか?いずれにせよ、夢という現象には何らかの心的意味が隠されているのだろう。理解不能なほどに多義的ではあるが。鈍感で無意識でいられることが、どれだけ幸せであろうか...
夢ってやつは、見ている間は妙にリアリティがある。絶対にありえないシチュエーションなのに、見ている間はいとも簡単に信じ込む。現在と過去の人間関係がごっちゃになったり、仮想的な人物や歴史上の人物までも登場したり、まったく支離滅裂の世界!不安や願望で説明できる単純な夢もあれば、わざわざストレスを求める夢まである。自分の笑い声で目覚めることもあり、そんな時は笑いこけている余韻だけが残っていて、内容はまったく覚えていない。はっきり覚えている場合ても、ホットなお姉さんといいところになると必ず目が覚めやがる。続きを見ようとして二度寝すると今度は熟睡よ。一方で、最大の願望であるハーレムの夢を見たことがないのはなぜ?せっかくの夢の世界なのだから、思いっきりエゴイズムを発揮してもよさそうなものだが...
単純な夢では、むかーし、よく落下する夢を見た。突然、身体が空中に放り出されて、恐怖におののく。こういう原始的な夢は、人間の祖先が猿である名残りで、木から落ちる感覚の延長だとする説もあるが、かなり疑わしい。
あるいは、ゴジラ風の怪物やヤクザ風の怖い人たち、あるは軍隊に追い回されて、狭い空間に隠れている夢を見ることがある。何事もなく通り過ぎるのを祈りながら、悪魔に見つかった瞬間に必ず目が覚める。結末が分かっているのだから、気づいてもよさそうなものだけど。
また、熱があると、必ず見る夢がある。歪んだ空間に肉体が放り出され、身体中がねじれそうになるのだが、その現象を言葉で表そうとすると、うまくできない。
未だに、留年する夢を見るのはなぜ?留年はしなかったはずだが。学生時代に戻りたいという願望があるなら、明るい設定にしてもらいたい。
最近の夢では、尊敬していた先輩たちに叱り役を演じさせる。仕事の質には厳しかったが温厚な方々で、とても叱るようなタイプではなかったはずなのに... だから余計に応える。ちなみに、酔っ払うと謝り上戸になるらしい。普段からよほど悪い事をしているのか?叱られ願望があるのか?M系であることは否定せんよ。
これだけ矛盾だらけの世界に何の疑問を持たず同化できるということは、論理的に物語を感じ取る神経と、リアリティを感じ取る神経は別モノとしなければ説明がつかない。だとすると、目の前の現実が、どうして夢でないと言い切れるだろうか。精神そのものが不確実性に満ち満ちているのだから、夢もそうなる運命なのかもしれない。理不尽な夢に憑かれた自我に疲れ、精神病を患うのも、道理というものか。夢日記をつけるだけでも退屈しのぎになりそうだが、自我と喧嘩することになって気が狂いそうな気がする。もともと狂っているから問題ないのだけど。
もはや、夢の内容を解釈しようなんて思惑は絶望的である。夢現象とは、記憶の中で時間軸が再構築されている感じ、とでもしておこうか。そりゃ、記憶がいい加減なのも仕方があるまい。なのに、現実世界の法廷では、人の証言が判決の切り札とされる。人間社会とは、なんと恐ろしい世界であろう。プラトンはこう言った... 善人とは悪人が現実にしていることを夢にみて満足している人間である、と...
ところで、現代人の多くはカラーで夢を見るという研究報告がある。日常の映像情報に、これだけ色彩が溢れていれば、そうかもしれん。しかし、おいらには、はっきりしない。カラーを意識できる場面もあるにはあるが、目が覚めるとよく覚えていない。普段から物事を色の印象で感じていないのだろうか?最近、崇高な光が差す夢を見る。なのに、その光がカラーかと言えば、それすらはっきりしない。色彩系の神経が分裂しているのだろうか?おいらの記憶脳には色という属性がないような気がする。
また、夢とは、ある種の暗示の状態とも言えそうである。睡眠状態は、催眠状態と似ている。眠っている耳元で誰かが嫌な事を囁けば、うなされそうな。夢現象を、神経系の遮断効果と捉えれば、快感だけを感じ取るような覚醒状態とも似ている。神経系を制御できれば、人間の意志なんて、いかようにも誘導できるだろう。人体が量子力学で裏付けられた機械的構造をしている限り、ありえそうな話である。それどころか、既に洗脳状態にあるのかもしれん。
そこで、ある物語が頭に浮かぶ...
ある日、目の前に一匹の犬が現れると、「あっ、カンガルーだ!」と叫んだ。犬は、自信満々に、「おらぁ、カンガルーじゃねぇだ!」とつぶやいて去っていった。次の日、別の人の前にその犬が現れると、またもや、「あっ、カンガルーだ!」と叫んだ。犬は、いぶかしげに、「おらぁ、カンガルーじゃねぇだ!」とつぶやいて去っていった。そんなことが何度が続くと、ついに犬は、「おらぁ、カンガルーかもしれねぇだ!」と言って、ピョンピョン跳ねていったとさ...
この主役が犬だったか?猿だったか?はたまた、この物語が何のネタだったか?暗示にかかりやすい酔っ払いは、どうしても思い出せず... 既に二十年が過ぎたのだった...
夢には、現実世界で意識的に描くものと、眠りの世界で無意識に見るものとがある。両者の扱いは、天と地ほどの違いがある。意識的な夢が幻想と蔑まれるのに対して、無意識的な心的現象は、そこに霊感めいたものを重ねる。古来、予知夢が英雄伝説を予感させてきた。アレキサンダー大王の誕生秘話では、母オリュンピアスは雷鳴が腹に落ちて辺り一面に火が燃え上がる夢を見たとされ、父フィリボス2世は、妻の腹に獅子が封印された夢を見て、後の息子を恐れたと伝えられる。こうした事例は枚挙にいとまがない。都合の良い夢を勝利の証としたり、悪い夢を警告としたり。現在でも、一富士二鷹三茄子を縁起の良い夢としたり、夢判断で宝くじの当選番号を占う人もいる。
人間には、無意識に生じる心的な超現象を、崇高なものと捉える性癖があるらしい。人間は考える葦である... と語ったパスカルは、たかだが一茎の葦に過ぎない存在でありながら、神をも想像できる能力を崇めた。我思う... と語ったデカルトは、神を思惟できる能力から、神の存在までも証明してみせた。
しかしながら、いくら無意識な領域を意識しようとしても、それを精神の存在によって説明しようとしても、そこには制御不能な自我が立ちはだかる。潜在的な不安や恐怖が、警告夢や死の告知夢を脳に投影することもあろう。予知夢が未来願望の姿だとすれば、デジャブのような現象は過去への回帰願望の顕れであろうか。望郷の念や過去に焦がれるのも、心の拠り所、すなわち帰属意識の再確認から生じるものかもしれない。
夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば、外界との交渉を断ち、完全に刺激を遮断してくれるが、中途半端な眠りは奇妙な災いをもたらす。金縛りもその類いか。ちなみに、大学時代、講義中に睡眠状態をコントロールしようとして金縛りになり、もがく姿を友人たちに大笑いされたものだ。
眠りは、生理学的には休養であるが、心理学的には何を意味するのだろうか?現実逃避か?永遠の眠りへの不安か?はたまた、熟睡を求めるのは死への憧れか?人間は死を忌み嫌いながら、その正体を未だ知らない。実は、DNAあたりに組み込まれていて、潜在的に知っているのかしれないが。生きる苦痛を実感しているから、その対照に位置づけられる死にも同様の苦痛があると考えるのか?いずれにせよ、夢という現象には何らかの心的意味が隠されているのだろう。理解不能なほどに多義的ではあるが。鈍感で無意識でいられることが、どれだけ幸せであろうか...
夢ってやつは、見ている間は妙にリアリティがある。絶対にありえないシチュエーションなのに、見ている間はいとも簡単に信じ込む。現在と過去の人間関係がごっちゃになったり、仮想的な人物や歴史上の人物までも登場したり、まったく支離滅裂の世界!不安や願望で説明できる単純な夢もあれば、わざわざストレスを求める夢まである。自分の笑い声で目覚めることもあり、そんな時は笑いこけている余韻だけが残っていて、内容はまったく覚えていない。はっきり覚えている場合ても、ホットなお姉さんといいところになると必ず目が覚めやがる。続きを見ようとして二度寝すると今度は熟睡よ。一方で、最大の願望であるハーレムの夢を見たことがないのはなぜ?せっかくの夢の世界なのだから、思いっきりエゴイズムを発揮してもよさそうなものだが...
単純な夢では、むかーし、よく落下する夢を見た。突然、身体が空中に放り出されて、恐怖におののく。こういう原始的な夢は、人間の祖先が猿である名残りで、木から落ちる感覚の延長だとする説もあるが、かなり疑わしい。
あるいは、ゴジラ風の怪物やヤクザ風の怖い人たち、あるは軍隊に追い回されて、狭い空間に隠れている夢を見ることがある。何事もなく通り過ぎるのを祈りながら、悪魔に見つかった瞬間に必ず目が覚める。結末が分かっているのだから、気づいてもよさそうなものだけど。
また、熱があると、必ず見る夢がある。歪んだ空間に肉体が放り出され、身体中がねじれそうになるのだが、その現象を言葉で表そうとすると、うまくできない。
未だに、留年する夢を見るのはなぜ?留年はしなかったはずだが。学生時代に戻りたいという願望があるなら、明るい設定にしてもらいたい。
最近の夢では、尊敬していた先輩たちに叱り役を演じさせる。仕事の質には厳しかったが温厚な方々で、とても叱るようなタイプではなかったはずなのに... だから余計に応える。ちなみに、酔っ払うと謝り上戸になるらしい。普段からよほど悪い事をしているのか?叱られ願望があるのか?M系であることは否定せんよ。
これだけ矛盾だらけの世界に何の疑問を持たず同化できるということは、論理的に物語を感じ取る神経と、リアリティを感じ取る神経は別モノとしなければ説明がつかない。だとすると、目の前の現実が、どうして夢でないと言い切れるだろうか。精神そのものが不確実性に満ち満ちているのだから、夢もそうなる運命なのかもしれない。理不尽な夢に憑かれた自我に疲れ、精神病を患うのも、道理というものか。夢日記をつけるだけでも退屈しのぎになりそうだが、自我と喧嘩することになって気が狂いそうな気がする。もともと狂っているから問題ないのだけど。
もはや、夢の内容を解釈しようなんて思惑は絶望的である。夢現象とは、記憶の中で時間軸が再構築されている感じ、とでもしておこうか。そりゃ、記憶がいい加減なのも仕方があるまい。なのに、現実世界の法廷では、人の証言が判決の切り札とされる。人間社会とは、なんと恐ろしい世界であろう。プラトンはこう言った... 善人とは悪人が現実にしていることを夢にみて満足している人間である、と...
ところで、現代人の多くはカラーで夢を見るという研究報告がある。日常の映像情報に、これだけ色彩が溢れていれば、そうかもしれん。しかし、おいらには、はっきりしない。カラーを意識できる場面もあるにはあるが、目が覚めるとよく覚えていない。普段から物事を色の印象で感じていないのだろうか?最近、崇高な光が差す夢を見る。なのに、その光がカラーかと言えば、それすらはっきりしない。色彩系の神経が分裂しているのだろうか?おいらの記憶脳には色という属性がないような気がする。
また、夢とは、ある種の暗示の状態とも言えそうである。睡眠状態は、催眠状態と似ている。眠っている耳元で誰かが嫌な事を囁けば、うなされそうな。夢現象を、神経系の遮断効果と捉えれば、快感だけを感じ取るような覚醒状態とも似ている。神経系を制御できれば、人間の意志なんて、いかようにも誘導できるだろう。人体が量子力学で裏付けられた機械的構造をしている限り、ありえそうな話である。それどころか、既に洗脳状態にあるのかもしれん。
そこで、ある物語が頭に浮かぶ...
ある日、目の前に一匹の犬が現れると、「あっ、カンガルーだ!」と叫んだ。犬は、自信満々に、「おらぁ、カンガルーじゃねぇだ!」とつぶやいて去っていった。次の日、別の人の前にその犬が現れると、またもや、「あっ、カンガルーだ!」と叫んだ。犬は、いぶかしげに、「おらぁ、カンガルーじゃねぇだ!」とつぶやいて去っていった。そんなことが何度が続くと、ついに犬は、「おらぁ、カンガルーかもしれねぇだ!」と言って、ピョンピョン跳ねていったとさ...
この主役が犬だったか?猿だったか?はたまた、この物語が何のネタだったか?暗示にかかりやすい酔っ払いは、どうしても思い出せず... 既に二十年が過ぎたのだった...
2014-01-12
存在屋と破滅屋
物体の存在を強烈に印象づける物理量に、質量ってヤツがある。地上では重さと呼ばれ、女性の忌み嫌う現象とされる。おそらく、人類が意識というもの持った時点から、重力なるものの存在をなんとなく感じてきたことだろう。体調の悪い日には体が重いと感じ、体力が消耗すれば手足が重いと感じる。ガリレオは、著書「天文対話」の中で慣性の法則らしきものを語っいる。だが、いまいち自信がなさそうで、質量についても、おぼろげな認識しかなかったようである。アリストテレスの運動論以来、インペトゥス、モーメント、トルク、エネルギー、フォースなどと用語が乱立するのも、物理学が哲学との境界をさまよってきた歴史がある。
そこで、ニュートンは「力」という概念を持ちだし、質量を万有引力で説明した。だからといって、曖昧さが解消されたわけではない。人間は、あらゆる現象において、本能的に力関係を生じさせる。政治の力、金の力、愛の力などと言っても、幻想にしか思えんが...
はたして、力とは、なんであろうか?
アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示した。ここに、力は質量を通じてエネルギーと結びつく。どうやらエネルギーってやつは、力学的に説明できるものらしい。
では、エネルギーとは、なんであろうか?学生時代、力とエネルギーの違いが分からず、悩まされたものだ。力学的エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和によって構成され、そこには保存則が成り立つとされる。運動エネルギーの存在は、なんとなく分かる。そりゃ、物体が運動を始めるには、なんらかの力を必要とするだろう。実際、質量と速度の関係で示される。
では、位置エネルギーの方はどうであろうか?質量と重力加速度と位置(高さ)の関係で示されるわけだが、位置ってなんだ?物体が存在するからには、空間のどこかに位置するのは当たり前ではないか。つまり、位置とは、他の物体に対する相対的な場所でしかない。位置とは存在を意味しているのか?そうだとすると、存在とは、どんな物理量であろうか?潜在的なポテンシャルってやつか?人は皆、潜在能力を持っている。それを努力によって開花させる者もいるが、ほとんどの者は眠らせたままだ。おまけに、努力したって報われるとは限らない。潜在的な存在では、存在そのものが確実に保障されていると言えるだろうか?物理学は、そんな疑わしい存在までも仮定しないと法則性が導き出せないのだろうか?んー... エネルギー保存則が詐欺に見えてくる。
そもそも保存ってなんであろうか?この世に永久保存されるものがあるのか?少なくとも素粒子レベルでは、宇宙創世の時代から存在するようである。しかし、宇宙空間の変化と共に、物質は原子や分子へと成長し、物体というものを誕生させてきた。物質が成長するということは、そこにエネルギーのやり取りが生じるということ。保存とは、存在を保つと書く。だが、保つものがあれば、失われるものがある。愛は失われると分かっているから、常に確認せずにはいられない。DNAは子孫を残す度に上書きされ、もはや原型を留めておらず、プラトンのイデア論も絶望的な状況にある。
いまや、保存の法則よりも、破壊の法則の方が輝いて映る。より高度な存在を求めれば、物体は成長を望み、創造を試みる。そこに安住すれば、存在そのものが腐敗し、やがて破壊される。宇宙の骨格を成す素粒子以外では、結合体として存在するしかなく、その保存には創造と破壊が生じるとするしかなさそうである。宇宙空間が絶えず変化しているならば、質量とはエネルギーのはけ口としての必然的な現象なのかもしれない。
では、存在を強調するところに破壊が生じるのだろうか?なるほど、政治屋が社会制度を崩壊させ、金融屋が国際規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が敵国をでっち上げ、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。彼らは皆、破壊屋というわけか。いや、破滅屋よ。なによりも精神が、自己存在を意識した途端に絶望へと導きやがる。人間そのものが、自意識過剰な存在屋であると同時に、無節操な破滅屋というわけか...
そこで、ニュートンは「力」という概念を持ちだし、質量を万有引力で説明した。だからといって、曖昧さが解消されたわけではない。人間は、あらゆる現象において、本能的に力関係を生じさせる。政治の力、金の力、愛の力などと言っても、幻想にしか思えんが...
はたして、力とは、なんであろうか?
アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示した。ここに、力は質量を通じてエネルギーと結びつく。どうやらエネルギーってやつは、力学的に説明できるものらしい。
では、エネルギーとは、なんであろうか?学生時代、力とエネルギーの違いが分からず、悩まされたものだ。力学的エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和によって構成され、そこには保存則が成り立つとされる。運動エネルギーの存在は、なんとなく分かる。そりゃ、物体が運動を始めるには、なんらかの力を必要とするだろう。実際、質量と速度の関係で示される。
では、位置エネルギーの方はどうであろうか?質量と重力加速度と位置(高さ)の関係で示されるわけだが、位置ってなんだ?物体が存在するからには、空間のどこかに位置するのは当たり前ではないか。つまり、位置とは、他の物体に対する相対的な場所でしかない。位置とは存在を意味しているのか?そうだとすると、存在とは、どんな物理量であろうか?潜在的なポテンシャルってやつか?人は皆、潜在能力を持っている。それを努力によって開花させる者もいるが、ほとんどの者は眠らせたままだ。おまけに、努力したって報われるとは限らない。潜在的な存在では、存在そのものが確実に保障されていると言えるだろうか?物理学は、そんな疑わしい存在までも仮定しないと法則性が導き出せないのだろうか?んー... エネルギー保存則が詐欺に見えてくる。
そもそも保存ってなんであろうか?この世に永久保存されるものがあるのか?少なくとも素粒子レベルでは、宇宙創世の時代から存在するようである。しかし、宇宙空間の変化と共に、物質は原子や分子へと成長し、物体というものを誕生させてきた。物質が成長するということは、そこにエネルギーのやり取りが生じるということ。保存とは、存在を保つと書く。だが、保つものがあれば、失われるものがある。愛は失われると分かっているから、常に確認せずにはいられない。DNAは子孫を残す度に上書きされ、もはや原型を留めておらず、プラトンのイデア論も絶望的な状況にある。
いまや、保存の法則よりも、破壊の法則の方が輝いて映る。より高度な存在を求めれば、物体は成長を望み、創造を試みる。そこに安住すれば、存在そのものが腐敗し、やがて破壊される。宇宙の骨格を成す素粒子以外では、結合体として存在するしかなく、その保存には創造と破壊が生じるとするしかなさそうである。宇宙空間が絶えず変化しているならば、質量とはエネルギーのはけ口としての必然的な現象なのかもしれない。
では、存在を強調するところに破壊が生じるのだろうか?なるほど、政治屋が社会制度を崩壊させ、金融屋が国際規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が敵国をでっち上げ、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。彼らは皆、破壊屋というわけか。いや、破滅屋よ。なによりも精神が、自己存在を意識した途端に絶望へと導きやがる。人間そのものが、自意識過剰な存在屋であると同時に、無節操な破滅屋というわけか...
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