2022-06-05

"市民論" Thomas Hobbes 著

人間どもは、人間にとって神か、それとも悪魔か...
人と人とが交流すると、互いに共感し合い、共同体なるものが形成される。だが同時に、互いに似た者同士が集まると、種族と種族とを比べ、国家と国家とを比べ、そこに優越主義が棲み着き、たちまち狼に変貌する。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体には、何かと比べなければ意識すら働かせることができないのだから、それも致し方あるまい。
それにしても、人間どもの帰属意識は如何ともし難い。どんな善人でも、協調意識を煽り、同族意識を煽り、これに宗教心が絡むと、寄ってたかって自由と平等を奪い合い、残虐行為ですら平然とやってのける。どんな賢者でも、感情を理性と思い違いし、憎悪を判断力と履き違える。孤独を必要以上に恐れ、集団の中で自己存在を肥大化させる人間どもの性癖は、如何ともし難い。
そして、人間どもとは距離を置く方が合理的に見えてきますが、いかがでしょう... ホッブズ先生!

アリストテレスは、「人間はポリス的動物である」と定義した。ポリスとは、自由市民が形成する共同体のようなもの。この集団社会で問われるべきは、自由市民に適った法の在り方と、それが自由市民たちによって制定されるプロセスである。自由市民というからには、奴隷ではない。単なる奴隷の管理人でもない。自由ってやつは、なかなか手ごわい。誰もが権利として主張するだけに、余計に手ごわい。卓越した個人によって、ようやく見えてくる観念だけに、さらに手ごわい。市民全体に卓越性を求めるとは、アリストテレスも酷なことを...

トマス・ホッブズは、もう少し現実的に、自由、命令権、宗教という観点から「市民論」とやらを語ってくれる。それは、共同体の在り方を問うているようなもの。自由権の観点から、自然状態や自然法、あるいは契約の役割を論じ、命令権の観点から、国家の条件や自己存在とその防衛、あるいは、権力や権利が生じる原理を論じ、これらの正当性を、宗教、すなわち、キリスト教の教義に求めている。
まず、人間というものを問い、次に市民というものを問い、最後にキリスト教徒としてなすべき務めが叙述される。権利や正義の由来は、キリスト教の本質に基づいていると...
尚、本田裕志訳版(京都大学学術出版会)を手に取る。

ホッブズは、絶対君主権の擁護派とも言われるが、はたしてそうだろうか。確かに、権力者に強い力を与えよ... 権力を分割すべてきではない... といった記述を散見する。臣民はその権利によって暴君を殺すことができる... という誤謬から、どれだけの善人だった王の命を奪ったことかと嘆き、君主権の正当性をキリスト教の法に求め、証明までやってのける。やや強引に...
ホッブズが生きた時代は、清教徒革命、国王と議会の抗争から共和制の成立、クロムウェルの独裁、そして、王政復古に至る激動期。国王が狼とはよく言われることだが、ホッブズの眼には民衆も狼に映ったことだろう。
まず、人間社会には名誉や体面をめぐる争いがあり、内紛や戦争の種には憎悪や嫉妬が絡む。すべては、自己存在とその防衛に動機づけられる情念。理性があれば欠陥も見えてくるが、欠陥は非難の種となり、理性者の猛攻撃を受ける。彼らは、本当に理性者なのか。理性は抑圧とも相性がよく、強制執行にもつながる。
となれば、理性こそが揉め事の種か。いや、それだけではあるまい。知性もまた、相手を蔑む情念を駆り立てる。進化するためには疑問をもつことも必要だが、疑問を持てば不満も生じる。
となれば、無知の方がましか。いや、無知は無知で扇動の種となる。結局、どんな情念をもってしても、人間は揉め事がお好き!群がる習性は如何ともし難い...

「人間の心を苦悩によってさいなむことの最たるものは、あらゆる事物の不足、もしくは生存と品位を保つために必要な事物の欠乏である。そして、富というものは勤労によって調達され倹約によって守られなければならない、ということを知らぬ者はないにもかかわらず、窮乏した人々はみな、まるで私財をすり減らしたのは国の取り立てのせいであるかのように、自分の怠惰と贅沢から国家の統治へと過失を転嫁するのが常である。」

しかしながら、キリスト教の法は自然法であり、市民社会で平和を保つには自然法だけでは不十分である。無論ホッブズもそれを心得ているから、法の制定とその運営を論じている。ただ、市民論のようなものを語れば、共和制の機能性を唱えることになり、晩年は、王党派から裏切り者呼ばわれもしたようである。
国家形態は、君主制、貴族制、民主制の三つに分類できるが、権力と権利の在り方を問えば、どれも大して変わらない。仮に公明正大な君主がいれば、まったく問題なし。むしろ、民主制より機能するだろう。だが、権力ってやつは、一旦手に入れちまうと人を狂わせるもので、君主はことごとく僭主と化す。たった一人の君主でも不十分、周りが追従できる体制でなければ。となれば、理想高過ぎ感は否めない。
自然法は、民衆の合意事項ではなく理性の命令であり、なによりも自己に命令する。したがって、悪魔とは約定しないだろうし、啓示がなければ神とも約定しないだろう。こと集団社会では、理想が高すぎると暴走するもので、毒を以て毒を制すの原理が最も機能しやすい。これが権力分立の本音であろう...

道徳哲学者たちは、法の原理を倫理や道徳と結びつけて唱えてきた。自発的で自然な行為として、理性のないところに法の実践なし!と。
しかしながら、現実の法律は罰則によって機能している。自発的というよりは、受動的で、強制的で、威圧的ですらある。これに巻き込まれて、義務までも半強迫観念となる。
奴隷にも二種類あるらしい。信用されて多少の自由を享受する奴隷と、獄舎や足枷に縛られて労働を強いられる奴隷と。前者は主人に対して義務を負い、後者は義務なんぞ負う必要がないばかりか、義務なんて概念すら生じないだろう。自由市民はというと、やはり前者で、義務を負って自然法を遵守する立場。では、主人は誰だ?
自然法ってやつは、道徳法則のようなもので、これを機能させるには自分自身の持つ理性に頼ることになる。ただ、理性ってやつは脆い。実に脆い。自分の理性に自信を持った時点で、すでに理性は暴走を始めている。
しかも、理性は言葉と結びついて機能するだけに、言葉の道具にされやすい。似た用語に正義ってやつもあるが、これも扇動者の言葉の道具として悪名高い。ネット社会ともなれば、こうした言葉は気晴らしの道具とされ、言葉の嵐が吹き荒れる。
結局、神の言葉に縋るしかないってことか。しかし、神の言葉を耳にするには、資格がいるらしい。というより、神という概念を編み出したのは、人間の弱さの証しであろう...

「自然状態、すなわち統治することもされることもない人々の状態がそうであるような絶対的自由の状態とは、無政府状態であり敵対的状態であること、そのような状態を避けるための規制が自然の法であること、国家は最高命令権なしには存在することができないこと、最高命令権を保持している人々には、端的に、言いかえれば神の命令に反しないすべてのことに関して、服従しなければならないこと、これらのことは本書のここまでの部分において、合理的根拠と聖書の証言によって立証された。市民の義務の完全な認識のために欠けていることは、神の法ないし命令とは何かを知るという、この一事である。」

2022-05-29

"私の酒 「酒」と作家たち II" 浦西和彦 編

「酒と作家たち」の第一弾(前記事)では、酒にまつわる作家たちの逸話を、息子が語り、娘が語り、夫人が語り、先生と慕う人が語り、仕事仲間たちが語ってくれた。武勇伝ってやつは、なにも酒豪だけのものではない。酒に弱くても酒の勧め方の妙技が飛び出せば、一滴も飲めない下戸が酒宴に同化しちまうのも名人芸。酒の場で飲めない存在は無に等しいが、飲まずに飲み、人を飲み、場まで飲んでかかる。無を実在に変えちまう空間能力ときたら、呆気にとられるばかり...

そして、第二弾!
今度は、作家たち自身が酒哲学とやらを熱弁してやがる。酒は飲むべし、飲まれるべからず... という古びた言葉も、俗悪極まるアフォリズムとして語り継がれてきたが、真理であることに違いはあるまい。これに輪をかけて、酒は暇潰しに飲むもの... 酒について語ることは自己精神を語ること... などと能書きを垂れてやがる。
ちなみに、酒に落ちると書いて、お洒落... と能書きを垂れるバーテンダーがいる。棒が一本足らんよ...

この「酒と作家たち」シリーズは、四十年に渡って、たった一人の女性編集者の手で刊行された雑誌「酒」に掲載されたエッセイ集で、本書には 49 篇が収録される。佐々木久子の孤軍奮闘ぶりは、事務所もなく、電話もなく、文房具も机もないところから始まったとさ。西宮酒造(日本盛醸造元)の伊藤保平会長から、イキな言葉をかけられ...
「お金が無いなら、倉庫があいているから、家賃はいらないから使いなさい。そして家賃が払えるようになったら出て行きなさい...」

総合雑誌に掲載される論説などは、時代とともに色褪せてしまうものだが、こと酒の話題となると、逆に時代色が引き立ち、味わい深くなる。文章も、熟成させる方がよさそうだ。
とかくこの世は色と酒というが、酒を飲みながら仕事をやると悪行のような言われよう。罪悪感まで植えつけやがる。
しかしながら、思考を活性化させるための適量は、刺激剤になる。ブログを書く時は、きまってやる。それで筆の走りも滑らかに。筆が滑らかになるのだから、思考だって滑らかになるはず。無論、撃沈しちまっては本末転倒。ソースコードを書く時は、さすがにやらないにしても、着想の段階ではやっちまう。この手の書は、純米酒をやりながら読むと、書き手と対話しているような気分になり、独り酒の持ちがいい。文豪たちに、酔悼!

さて、落穂拾いならぬ、酔文(名文)拾いといこう...

「天地開闢以来、人智を以って考えだしたもの、古くは火から、新らしくは原水爆の儔(たぐい)に至るまで、数えきれないほど数多いなかに、自分でこしらえて置きながら、自分がとッちめられて、醜態を演ずる現象の最も著しいのが、金と酒とだ。あれば、これほど便利重宝なもののない金とはいえ、一旦ないとなったが最後、これほどまた人困らせなものもなく、一人で、二人で、家族づれの大勢で、この世におさらば、という結末へも、往々にして導かれる。... ところで酒だが、こいつもまた厄介な代物をこしらえて了ったもので、飲まれる奴ならそこらじゅうにウジョウジョいるけれど、さて飲む人間となると、めったに見かけられない。」
... 里見弴

「もう一つアタマがほしい二日酔い」
... 川上三太郎

「その薬の効用は、即ち、酔うこと。酔うことで大方の人間は疎外されていた自分をとり戻すことが出来る。忘れていた歌がよみがえり、薄れかかった郷愁が戻っても来る。まっとうな人間らしい感情で素直に人を恨んだり、殺そうと思ったり、手前を嘲けったり出来るのも酒が入れば尚だ。甚だ礼儀正しい人間でも酒をのんだらばこそ、気にくわない奴をぶんなぐりも出来ると言うものだ。」
... 石原慎太郎

「小説を書くものにとって、酒は欠かすことのできないものだという、私の主張の根拠は、酒は忘却をもたらしてくれるというところにある。」
... 野間宏

「ひと歌書き上げたあとの、反芻のときに呑む、孤独な、暗い酒ほどに美味いものを、私は知らない。歌一曲を太刀のごとく畳につきさして、世の中と対決しているような、ちょっとした緊迫感があるのだ。」
... なかにし礼

2022-05-22

"「酒」と作家たち" 浦西和彦 編

昭和の文学運動は、プロレタリア文学にしても、新興芸術派にしても、機関紙などの雑誌に結集するところから展開されたという。その風潮は戦後も続き、雑誌には何か社会を動かす力があると信じることのできた、そんな時代である。平成、令和と続くグローバルなネット社会から眺めれば、なにゆえこんな媒体に... という感は否めない。しかしながら、昭和を生きた酔いどれ天の邪鬼の眼で大正から明治へ遡ると、骨董品のような古臭さを感じながらも文豪たる生き様に魅せられちまう。令和を生きる人も、昭和の文豪たちに文学たる何かを求めたりするのではあるまいか。酒は年月が経つほど味わい深くなるというが、文豪たちが放つ色彩にもそうしたものを感じる、今日このごろであった...


1955年、株式新聞社から「酒」という雑誌が創刊されたそうな。その頃、佐々木久子が入社したが、赤字のため一年で廃刊となり、彼女も解雇されたという。まだ戦争の余韻が冷めやまぬ時代、国民生活も貧しく、酒の雑誌なんぞを読む余裕のある人が少なかったと見える。
そこに、火野葦平の言葉「死ぬまで原稿を書いてあげるから」。このひと言に奮起した佐々木久子は、1997年まで独力で刊行し続けたという。
本書には、この雑誌に掲載された作家たちの酒縁(酒宴)が、三十八篇も収録される。


私小説がもてはやされた時代、小説家というのは、酒にだらしなく、性にだらしなく、金にだらしなく... そんな芸術家像を思い浮かべる。それも、身を削る思いで自己を曝け出した結果であり、小説家が特別というわけではあるまい。巷には、酒に逃げずにはいられない人生や酒に溺れる人生に溢れ、酒に命を奪われる人生だってある。
ただ、言葉を生きる糧にする芸術家だからこそ、余計に感じ入るものがあるのだろう。入水心中があれば、ピロポン中かアル中かも見分けられない死に様あり、陽気な酒豪が睡眠薬自殺をしたり、文壇には破滅型人間で溢れている。遺書には「将来に対する唯ぼんやりした不安」やら、「漠然とある不安のため」といったものも見かける。自我の征服に失敗すれば、その存在すら許せなくなるのだろうか...


「酒は人間と同じやうに、醜悪で動物的である。酒は人間と同じやうに、無邪気で天真爛漫である。すべてに於て『酒は人間そのものに外ならぬ』(ボードレール)それ故にこそ、人間性の本然を嫌ふ基督教が、酒を悪魔の贈物だと言ふのである。」
... 萩原朔太郎


一方で、執念で酒人生を全うした小説家たち...
酒の上で決して矩を超えない亀井勝一郎に、じっくり延々と飲み続ける横綱級の井上靖に、酒鬼!梅崎春生に... と。彼らは酒が好きなのか、酔うのが好きなのか。銀座のクラブで知的な話術でホステスたちを惹きつける高見順がローソク病を熱弁すれば、君に酔うのが好きなんだよ!なんて台詞も聞こえてきそうな...


「俺が酒を呑むのは、経済的スリラーを忘れるためや。寝るときも大コップ一杯のウィスキーを呑む。それで寝られんなんだら朝まで起きてな、しゃあない」
... 富士正晴


雑誌のタイトルからして、酒豪の武勇伝ばかりかと思いきや、まったく逆の下戸の逸話も...
川端康成は、一滴も酒が飲めないのに、酒席を楽しむ様は名人芸であったとか。大宅壮一も大変な下戸だったらしいが、夫人の方はイケる口らしい。漱石の芸ともなると、体質的にアルコールを受け付けなかっただけではモノ足らず、「吾輩は猫である」の猫がビールに酔って水甕に落ちてお陀仏ときた。彼の筆の酔いっぷりときたら...
酒を飲むとインスピレーションが湧くかもしれんが、それで文章が光彩を放つわけではあるまい。とはいえ、酒が飲めなくても、酒に関わることで筆の走りがよくなるということは、ありそうな話である。


ちなみに、亀井家の新年会では、太宰一派が猛威を振るったそうな...
「まだ日の暮れないうちから酒宴がはじまったが、いち早く集まってくるのが、太宰さんのまわりにいた人たち。つまり太宰の残党である。この一派は、酒が滅法強い。そして酔うほどに、話題はきまって太宰治である。太宰以外に、文学もなければ文学者もいない、といった勢いである。これでは、まるで太宰家の新年宴会である。... そしてたがいに酔うほどに、喧嘩口論がしばしば起こる。喧嘩をしかけるのは、きまって太宰一派。なにしろこの人たちは、太宰を自分の占有物と心得ているから、一派でもない評論家や作家の口から、太宰、という言葉が出るやいなや、きっとなって気色ばんでくる。ましてや、彼らが信奉している太宰論、太宰像と少しでも違った意見が出ると、猛烈に襲いかかる。こういうとき、亀井さんは決して止め男や裁き役にはならない。なるがままに委せて、ご自分はふだんどおりニコニコしているだけである。」

2022-05-15

"「救済」の音楽" 礒山雅 著

音楽には救われるよ...
政治屋どもの安っぽい言葉よりも、報道屋どもの正義漢ぶりよりも、宗教屋どもが押し売りする博愛よりも。存在感を声高にアピールする必要はない。音楽家に人類を救え!などとふっかける気もない。ただ奏でるだけでいい。才能を存分に発揮するだけでいい。彼らの自由な振る舞いにこそ救われる。
まったく、対位法には救われるよ...
音符の二次元配列を単純な幾何学操作で重ね合わるだけで立体的なカノンを奏で、主題を多重化させてフーガを奏で、しかも重低音で愛してくれる。

芸術作品には、思想、観念、哲学といったものが露わになる。だがそれは、芸術家が最初から意図したことではあるまい。評論家が、後付けで解釈を加えただけということもあろう。何事にも意味を与えないと落ち着けないのが、人間の性分。無意味な人生は、よほど恐ろしいと見える。意味が見い出せなければ、神の仕業にするだけのこと。いや、悪魔のせいに...
そして、作品は作り手を離れ、それ自体が独り歩きを始める。偉大な芸術作品とは、そういうもの言うのであろう。
こと音楽となると、演奏家はみな独自性を主張する。作品の一番の理解者であることを自負するかのように。そこには、様々な解釈が渦巻く。アレンジあり、インスパイアあり、オマージュあり... そして、パロディあり。エゴイズムの欠片もないところに、真の芸術は生じまい...

さて本書は、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナー論集を交えて、救済の音楽を外観してくれる。救済といえば、まず宗教音楽を思い浮かべる。大掛かりなパイプオルガンが教会で鳴り響く様子を。
バッハの存命中は、作曲家よりオルガニストとして名を馳せたと聞く。ルター派教会で開花したクラヴィーアの名手として。ドイツでは、ひなびた農村のささやかな教会にさえ、堂々としたオルガンが設置されるという。礼拝ではオルガンが不可欠となり、教会が劇場と化す。現代でも、平均律クラヴィーア曲集やインヴェンションは教育の場で生き続ける。
ただ、おいらの場合、教会で奏でる音楽にあまり良い印象が持てないでいた。大バッハのカンタータにしても、大袈裟に永遠の愛を唱え、神と魂が延々とラブシーンまがいのセリフを交わすとくれば、教会詩にはまったくうんざり。なので、バッハをずっと避けてきたところがある。ようやく味わえるようになったのは、三十代半ば頃。モーツァルトの対位法をより味わいたければ、やはりバッハ抜きでは...

モーツァルト論では、ミサ曲に注目し、その核心部であるクレド書法について言及される。いわゆる、信仰告白の賛歌の章。それはモーツァルトに限らず、バッハにしても、ベートーヴェンにしても、伝統と混じり合って最も精神が露わになる部分ということになろう。アマデウスの魅力は、なんといっても伝統をぶち壊すほどの遊戯性にある。
対してベートーヴェンは、音楽に遊戯性を超えて思想を持ち込んだとされる。バッハがルター派の影響を受けたとすれば、啓蒙思想の時代とも重なり、ロックやルソーの影響もあろう。アマデウスにそんなものは感じない。もっと崇高な自由を。いや、気まぐれを...
バッハの楽譜は強弱をどのようにつけても受ける感じは変わらないが、ベートーヴェンの楽譜を強弱なしで演奏すると、意味を失って無味乾燥なものになるという。ハイドンやモーツァルトと比較してさえ、強弱が綿密に指示されているようである。第九は、歓喜の歌としても知られるが、そう単純なものでもあるまい。
「第九はなかなか複雑な性格を内包した作品である。しかしその呼びかけは単純明快で、音楽的にも圧倒的な説得力を備えているため、誰もがこの作品について、わかった気がしてしまうのではないだろうか。だが細部を調べてみると、首をひねらざるを得ない問題が、あちこちに出てくる。説得され、感動するからといって、作品のメッセージを正確に言語化できるとはかぎらないのである。」

ワグナーにとって芸術とは、人間をいかに救済するか、というテーマを自覚的に探求するものであったという。制度化されたキリスト教は、偽善的な騎士道世界の人々に見せかけの救いを与えこそすれ、生を深く生きる真の救済能力はないと。十字架の苦難を辿り直すことによってのみ救われると...
ワグナーを語り始めると、おいらもつい熱くなる。「ニーベルングの指輪」は、精神を呪縛し、自由を享受するいとまを与えない。ラインの黄金に、ワルキューレに、ジークフリートに、神々の黄昏とくれば、病的なほどの自己陶酔に浸る。まさに、ハーゲンの魔酒よ!
ワグナーを聴きながら罪の内省を問えば、無力感の憤りがつきまとう。道徳的な人間が人間らしいのか。罪を感じない人間が人間らしいのか。なにゆえ、悲観主義を忌み嫌い、ポジティブ思考に取り憑かれるのか。地獄がどれほどのものか。煉獄がどれほどのものか。天国はそれほど居心地の良い所か。愛ってやつは、人を救う反面、絶望の淵に追いやる。自己肯定感を煽って現実を見れば、絶望感を浴びせられる。人間は、自己意識の芽生えゆえに苦しむ。ならば、自己否定によって救われることもあろう。これが、おいらにとってのワグナーだ!
「バイロイトでこの作品を聴いていると、そうした救済がいま本当に実現したかのような錯覚に陥る。身体がほてり、ああ良かった、寿命が延びた、という気がするのである。そんな錯覚すなわち感動の中に、案外、人間の獲得しうる最良の救済が存在するのかもしれない...」

ところで、巷には「レクイエム」と題する曲があまりに多く、その意味なんぞ考えずにきた。本来、カトリック教会の死者のためのミサで用いられるラテン語の典礼文に曲を付けたもの。それが今では、典礼から離れ、もっと一般的な哀悼の意を表す用法とされる。こうした自由な発想は、ブラームスに始まったそうな。ルター訳聖書の章句を自由に組み合わせて人間のための追悼音楽として。尤も、この構想を最初に思いついたのが、ブラームスの師シューマンだったという。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」は、師シューマンの意思を受け継いだ形で成立したらしい...

2022-05-08

"ケインとアベル(上/下)" Jeffrey H. Archer 著

この作品に出会ったのは学生時代、三十年以上前のこと...
海外ドラマのシリーズ物として放送され、VHS に録画し、小説版を買いに走った記憶がかすかに蘇る。二十代は引っ越し貧乏で、その都度、書籍の群れを古本屋へ持ち込んだものである。ただ、こいつだけは蔵置したままと思っていたが、本棚に見当たらない。どさくさに紛れて処分しちまったか。ジェフリー・アーチャーの他の作品は何冊か残っているのだけど...
そして今、もう一度読み返したく、古本屋へ走る。なんと不合理な人生か。そもそも、推理モノを再読するという行為はどうであろう。一度読んだものを読み返すなんてことは、専門書でもない限り、滅多にやらないというのに...
同じ本を数年後にまた買って、あとで気づいて自分の馬鹿さ加減にうんざりするってことはよくある。いや、人間ってやつは時間とともに変わっていくし、同じ物でも違った光景が見えるかもしれない。ストーリーは分かっている。結末も分かっている。それでも衝動を抑えられずにいる。まったく天の邪鬼な性分ってやつは...
尚、永井淳訳版(新潮文庫)を手に取る。

ドラマを観るのと小説を読むのとでは、たいてい印象が違う。映像は分かりやすく、展開もコンパクト、一方、活字は思わせぶりが強く、周りくどい。それはメディアの性格によるもので、好みの問題もあろう。映像が原作を壊すってことはよくある。特に、推理モノの場合。しかし、この作品に関しては、うまく映像化されているように思う。互いに補完しあっているような。そして、活字を追いながら、バックグランドで映像を流すのも、なかなかの趣向(酒肴)。それで新たな発見が得られたかは知らんが...

「ケインとアベル」という名は、旧約聖書「創世記」の兄弟物語「カインとアベル」に因んで題されたと聞く。しかし、兄カインが嫉妬のあまり弟アベルを殺すあたりの展開は重なるものの、二人の相克な関係となると、かなり違って映る。
まず、時代背景を巧みに利用し、読者の想像力を掻き立てる点を指摘しておこう。二つの大戦という激動の時代に、タイタニック号に象徴されるヨーロッパ移民とアメリカン・ドリームを重ね、資本主義とマルクス主義の対立の中で、自由主義社会から見たイデオロギー的思想の勃興を物語ってくれる。
さらに、世界恐慌の震源地となったウォール街を背景に、貸し渋るだけでなく、保身のため資金回収に走る銀行家たちと、次々にビルから飛び降りる企業家たち。こうした背景だけでも、憎悪と嫉妬の渦巻く構図が見て取れる。そこに、ボストンの名門エリートと無一文でホテルの給仕から財を築くポーランド移民を対決させるという寸法よ。
アメリカは、二つの大戦と地政学的に距離を置いて戦禍を免れ、経済力を後ろ盾に超大国へのしあがっていく。
一方、ポーランドはドイツとソ連に分割統治され、おまけにヒトラーの侵攻とくれば、対立構図を煽る作品という意味でも、やはり大作と言えよう...

それで、どちらの肩を持つか、と言えば、嫉妬深い天の邪鬼だから、アベルということになる。男爵を笠に着せ、ホテル・バロンを名乗るあたりは、ちとえげつないにしても...
尚、バロンとは、男爵の意味。
しかしながら、読破した瞬間にケインに寝返ってしまうのも、天の邪鬼だから。悔やんでも悔やみきれぬ人生を物語れば、現実に引き戻される思い。この、してやられた感は、M にはたまらん。それも、脂ぎった社会を生きてきたということであろうか...

結末を予測するとなると、映像の方からは読み取りづらいが、活字の方はあちこちに布石を打っているのが見て取れる。
例えば、友人のホテルグループが、期日までに二百万ドルの返済が見込めず、抵当権が執行されようとしている時、突然、匿名で出資者が現れる場面。アベルがケインに喧嘩腰で電話をし、友人が自殺した事へ復讐する旨を伝える... という展開は同じにしても、その威勢をケインは不愉快に思うどころか、むしろ自信満々のポーランド人を逞しく見ている。
アベルの方も、ケインの経営する銀行株 6% を所有しながら、なかなか止めを刺そうとしない。尚、8% 所有すれば、役員の座を要求でき、ケインを辞任に追い込むことができる。残りの 2% も算段がついているというのに。
逆に、不安に思ったケインが先に動いて墓穴を掘ることに。しかも、らしくないやり方で。アベルと裏取引をしている議員との汚職の証拠を、匿名で司法当局へ送りつけたのである。人間とは奇妙なもので、普段沈着冷静な判断力の持ち主でも、自分の問題となると途端に鈍ってしまう。ケインは、いささか後ろめたさを感じ、アベルが刑務所に入らなかったことを安堵している自分を意外に思っている。
そして、とうとうアベルが残りの銀行株を取得するという切り札を出し、ケインは銀行を追い出されることに。
アベルもまた、最終的な勝利の満足感があまりに小さいことを知って意外に思っている。
ケインは根っからの銀行家であり、アベルもまた叩き上げのホテル王であったとさ...

ただ、これほどの泥仕合ともなれば、やはり、どちらかが死なないと終幕できないと見える。どんでん返しの展開なんてものは、最初の感動に過ぎず、もはやどうでもいい。本当の感動は、そこに至るプロセスに求めたい。二人を辛うじて救ったのは、互いの息子と娘が結ばれ、孫に後を託すことができたことであろうか。それで、映像と活字のどちらが好みか、といえば、やや活字の方か。おいらは、前戯好きだし...

2022-05-01

"ゴッホは欺く(上/下)" Jeffrey H. Archer 著

名画にまつわるミステリーは、枚挙にいとまがない。ダ・ヴィンチ、ピカソ、フェルメール... そして、ゴッホ。
原題 "False Impression"... これに「ゴッホは欺く」との邦題を与えた翻訳センスはなかなか...
さて、誰を欺いたのか?名画には贋作がつきまとう。高値がつけば尚更。
しかしながら、偽物も侮れない。少なくとも、優れた画家の手によらなえれば成立し得ない。技術はオリジナルと互角か、それ以上か...
とはいえ、偽物がオリジナルを超えることはできない。少なくとも、経済的価値や政治的価値においては。オリジナルには、人を狂わす何かがあるらしい...
尚、永井淳訳版(新潮文庫)を手に取る。


大富豪や権力者たちに、美術品コレクタをよく見かける。純粋に芸術に親しもうとする人、えげつなく漁りまくる人、戦利品とされた時代もある。広く知られる話では、ナチスの高官たちが名画を漁りまくったという事実がある。ウィーンへの復讐か、イデオロギーの後ろ盾か、それとも資金作りか、脂ぎった動機はいくらでも拾い上げられる。
本物語では東京が一舞台を担っているが、バブル全盛期には、日本人が国宝級の西洋美術品を落札する様子がしばしば報道された。棺桶まで持っていくと豪語し、人類の遺産を私物化していると非難される輩まで飛び出す始末。
優れた美術品には、それを蒐集するだけで征服感を満足させるものがあると見える。確かに、偉大な芸術作品には、作者の意図を超越した社会を代弁する力がある。
ただ、盗んだ名画を金に替えることは、古くから難しいとされる。それが本物であるだけでは足りない。正当な所有者であることも合わせて証明する必要がある。むしろ、証明書の方が貴重だったりして...


本物語の主役は、「耳を切った自画像」。ファン・ゴッホの熱狂的な愛好家たちにとって究極の高み。
英貴族の女主人は破産寸前で、ファイナンス会社に名画を売りに出すことを持ちかけられる。ある晩、女殺し屋が侵入して女主人は命を落とす。殺し屋は左耳を切り取って、雇い主にメッセージとして送ったとさ。名画だけでなく、遺産もろとも略奪しようという魂胆か...
「この世に買収できない人間はいない!」
ファイナンス会社の美術品コンサルタントを勤める女性は、雇い主のあくどいやり方に我慢できず、殺された女主人の方につき、純粋な買い手を第三国に求める。ファイナンスへの負債を返済し、家の資産を債権者たちから守り、なおかつ税金を納めるのに充分な金額で売却できる相手を求め、舞台は東京へ。
「日本人は駆引きを弄する相手には我慢がならない国民性だった。」
一方、ファイナンス会社の会長は、ファン・ゴッホを手に入れてご満悦ときた。しかし...
「ファン・ゴッホが左の耳を切り落としたことは小学生でも知っているぞ!... しかし、彼が鏡を見ながら自画像を描いたこと、そのせいで右耳が繃帯で覆われていることは、知らない小学生だっていますよ。」


展開にせよ、文体にせよ、軽快なリズムに乗せられて、つい一気読み!
大体、ジェフリー・アーチャーという作家は、全体の設計図をきちんと完成させてから書き始めるのではなく、あるアイデアが浮かぶと筆の勢いに任せて一気に書きあげるタイプだそうな。読者同様、先が見えないままスリルを味わいながら書き進めるんだとか。いささか強引ではあるが、酔いどれ天の邪鬼は暗示にかかりやすい。
そして、学生時代にハマった「ケインとアベル」を読み返したくなる今日このごろであった...

2022-04-24

"大渦巻への落下・灯台" Edgar Allan Poe 著

副題に、「SF & ファンタジー編」とある。
ポーといえば、ミステリーやゴシック小説といったイメージだが、ヴァレリーにも称賛された宇宙論「ユリイカ」の感動には代えがたい。
しかし、この短編集が、SF?ファンタジー?
幻想的で、超科学的で、超自然的といえばそうなのだが、ポーの場合、ジャンルの概念すら意味をなさないような...

尚、本書には、「大渦巻への落下」、「使い切った男」、「タール博士とフェザー教授の療」、「メルツェルのチェス・プレイヤー」、「メロンタ・タウタ」、「アルンハイムの地所」、そして未完成作品「灯台」の七編が収録され、巽孝之訳版(新潮文庫)を手に取る。

「天においても自然においても、神のふるまいは人間のおよぶところではない。神の壮大にして深遠、かつ理解不能な御業(みわざ)に見合う模型も、人間の手で制作できるものではない。というのも、神の御業はデモクリトスの井戸より深いのだから。」
... ジョゼフ・グランヴィル

地球空洞説を時代背景に、ダンテ風の地獄、煉獄、天国を同心円状に連らねた大渦巻の中に、読者を放り込むかと思えば、立派な体格を自慢しながらインディアン戦争でボロボロになり、黒人従者に、脚をもってきてくれ... 手を... 歯を... 眼を... と、パーツで組み立てられるサイボーグ野郎の愚痴を聞かされる。

「そう、名誉進級の准将ジョン・A・B・C・スミスとは、どんな人物かと言えば... 彼こそは使い切った男だったのだ。」

精神病院を患者たちに乗っ取られ、正常者たちの方がたっぷりとタールを塗られ、じっくりとフェザー(羽毛)をまぶされ、独房に閉じ込められるフーコーばりの狂気を物語れば、こいつはどっちの側のセリフやら...

「精神障害者の脆弱な理性を背理法と見る議論は存在しません。たとえばここには、自分をニワトリだという妄想に駆られている男たちがいます。それを治療するには、まさにそれが妄想ではなく事実なのだと強調すること。むしろそれが事実なのをじゅうぶんに認識していないのがいかに愚かなことかと患者を非難すること。そして一週間のあいだ、ニワトリにふさわしい食事以外はいっさい与えないこと、精神障害なる用語は使わないこと。肝心なのは、すべての精神障害者に他人の行動を監視するよう仕向けること。精神障害者の悟性や分別を信用してやることは、患者に肉体と精神を与えることにつながります。このようにして、当院では精神障害者の付添人たちを雇う経費を浮かせているのです。」

AI 顔負けの自動人形の正体を見事に証明して魅せれば、興行主の思惑に見事にしてやられ、千年後の未来を夢見ては、大空をゆったりと飛行する大気球から人間社会を見くだす。
「貴兄はごぞんじかね、形而上学者たちが、真理へ到達する道はふたつしかありえないという奇妙な幻想から大衆を解放してから、まだ一千年しか経っていないことを...」
二つの道とは、演繹法と帰納法、あるいは、先験的方法と後天的方法のことらしい。

造園家の偉大な芸術精神を持ち上げてシャングリ・ラ並みの理想郷を造らせれば、幸福の正体である盲目の原理を暴かずにはいられない。
「人間の本性には何らかの隠れた原理が、すなわち至福の対極が潜んでいるという前提をことごとく覆していくのを見てしまった気がする。」

終いには、たった四ページの未完成作品で、灯台守の孤独感に未完成な思わせぶりで余韻に浸らせようとは...

時間は、善意にも、悪意にもなる。たった一分でも地獄のように長く感じるかと思えば、一年を与えられても天にも昇る気分のうちに一瞬で過ぎ去る。昨日はもう来ない。明日は来るかも分からない。現在に絶望すれば、未来に根拠のない希望を抱く。一方で、過去は片時も休まず未来を抹殺し続け、希望はすぐさま絶望で上書きされる。すべては幻想か。すべては意識の産物か。理想郷を夢見ようが、暗黒世界に身を委ねようが、結局は同じことかもしれん。まさに人生、未完なり...

2022-04-17

"ゼロから作る Deep Learning 2 - 自然言語処理編" 斎藤康毅 著

「ゼロから作る Deep Learning」第二弾...
ここでは、自然言語や時系列データに焦点を当てる。人間の行為をコンピュータに肩代わりさせるなら、まず人間とやらを知ること。そのアプローチの一つに、人間の表現力、すなわち、人間が操る言語に着目してみるのも悪くない。
しかしながら、人の話す言葉をコンピュータに理解させるには、一筋縄ではいかない。ウェブ検索、音声認識、機械翻訳など自然言語にまつわる技術には、その裏でディープラーニングとやらが暗躍し、何かを推論し、何かを学習してやがる。それは、自発的なものなのか...

ディープラーニングとは、層を深くしたディープなニューラルネットワークを言うらしい。それは、単純な伝達関数を複雑に結合した数理モデルで、その特徴はデータから学習するところにある。この分野は加速度的に進化しているだけに、慌ててライブラリやフレームワークに飛びつこうとする。ネアンデルタール人は、理解できていないものを、ただ使い方を学んで利用するのでは自分の意志で生きている気がしない。のんびりと精一杯やるさ...

「作れないものは、理解できない。」... リチャード・ファインマン

第一弾では特に、損失関数に数値微分を与える視点から、誤差逆伝播法という考え方に注目した。結果に評価を与え、それを後方に伝播させながらデータの重みを調整するというやり方は、まさに人間がやっている学習法だ。成功より失敗から多くを学ぶのは、コンピュータとて同じと見える。
では、自然言語を合理的に理解するには、どうすればいいだろう。まず、単語レベルで意味を理解するということがある。辞書や類義語などを集めたシソーラス、あるいは、Wikipedia のような大量のテキストをデータベース化するといったことも考えられる。
しかし、人工知能的なやり方といえば、やはり推論であろう。人間には、知らない単語でも、文脈からなんとなく汲み取れる感覚がある。文法に則って言葉を羅列するのではなく、どんなふうに言うか、その言い方や言い回しを経験の中から探りながら喋っている。口癖ってやつは試行錯誤のうちに身につき、無意識に発声することもしばしば。無意識な領域までコンピュータに任せるとなれば、そりゃ手ごわい!分からんことは、ワトソン君にでも聞くさ...

本書は、推論ベースの方法を話題の中心に据え、Python で記述して実装イメージを与えてくれる。推論というからには、使用頻度や確率分布といった統計学的なサンプリング手法を用いる。

まず、単語を数学的にマッピングする word2vec が紹介される。名前からして、単語をベクトル空間にマッピングするイメージがわき、行列式との相性を予感させる。
ここで使われる「分布仮説」という概念は興味深い。単語の意味は、単語そのものより周囲の言葉との連結によって解釈しているところがある。
実装では、コンテキストから単語の出現を推測する CBOW(continuous bag-of-words)と、逆に単語からコンテキストを推測する skip-gram の二つのモデルが紹介される。人間の会話では、出現した単語から相手が何を言いたいかを予測しながら聞いているところがあるので、人間感覚には後者の方が近そうか...
また、word2vec の高速化手法として、Negative Sampling というものが紹介され、確率分布の各要素に 0.75 を累乗するという考え方は興味深い。つまり、確率の低い単語に少しばかり重みをつけるという考え方である。相対的にバイアスをかければ、人間主観より語彙が広がりそうか...

次に、フィードバック経路を持つ RNN(Recurrent neural network) が紹介される。線形性を保った物理現象は、時系列的に予測可能である。あまり遠くの時間でなければ。フィードバックとは、過去の状態を参照することであり、いわば経験値である。言葉の精度には、やはり経験がモノを言いそうである。
実装では、時系列データを扱うために改良された二つのゲート付き RNN が紹介される。LSTM(Long Short Term Memory)をメインで解説し、GRU((Gated Recurrent Unit)を付録に。
LSTM は、その名の通り、長期と短期の記憶を元にデザインされた仕掛け。注目したいのは、forget ゲートを配置するところである。忘却によって合理性を保つのは、精神を患う人間だけではなさそうだ。人間だったら、苦労して獲得した知識ほど重宝しがち。見返りの原理ってやつだ。実は、記憶ってやつは、忘却することの方が難しいのかもしれん。しかも、合理的に...

さらに、機械翻訳をそのままイメージできる seq2seq が紹介される。RNN を連結して、ある時系列データを別の時系列データに変換するイメージで、Encode-Decode モデルとも呼ばれるらしい。
そして、Attention という技術で締めくくられる。それは、人間と同じように、ある情報に注意を向けさせる仕掛けで、必要な情報を抽出して、seq2seq にかけるイメージだが、結局、情報の重みの評価に引き戻された感がある。
人間の認識能力なんてものは、たいてい注意で説明がつくってか。人生は短い。注意すべきこと以外のことに関わっている暇はない。これが合理的に生きるということであろうか。
しかしながら、人間ってやつは、注意すべきことより、どうでもいいことに注意を払う傾向がある。例えば、機内で発せられる台詞にゾクゾクしたり... Attention Please!

2022-04-10

"ゼロから作る Deep Learning - Python で学ぶディープラーニングの理論と実装" 斎藤康毅 著

近年、ディープラーニングに関するライブラリやフレームワークに、よく出くわす。今更、ゼロからやらんでも。いや、ディープに知りたければそれも悪くない。
ライブラリやフレームワークは、あくまでも道具。道具ってやつは、どうなに便利なヤツでも、仕組みや背景を理解した上で使わなければ振り回されるのがオチ。自分が作っているという意識は薄れ、誰かに作らされているという意識が膨れ上がる。自由意志の獲得に平坦な道のりはない。でも、その試行錯誤のプロセスは楽しい...

人工知能ってヤツは、人間の行為を卒なくやってのけるだけでなく、人間までも凌駕しようとする。人間社会を機能させるのに、なにも人間自身が主役である必要はない。皆が皆、機械の奴隷と化せば、夢にまで見た真の平等社会が実現されるではないか。人間が合理的に生きるなんて、らしくない。実に、らしくない。滑稽に生きるからこそ人間味あふれる。それを、人工知能が教えてくれる...

さて、本書は、データサイエンスの分野で幅広く用いられる Python を題材に、実装の観点からディープラーニングを紹介してくれる。数値演算ライブラリ NumPy や SciPy、あるいは、描画ライブラリ Matplotlib の導入など Python 入門に始まるが、そこまでやらんでも。なるほど、ゼロから...
逆に、Caffe,TensorFlow, Chainer,Theano といったフレームワークは意図的に避けている。なるほど、ゼロから...

ここでは、パーセプトロンという根源的なアルゴリズムや、ノードに用いられる単純な活性化関数などの紹介に始まり、これらの要素が層を深めながら学習モデルを構築していく様子を物語ってくれる。
ちなみに、活性化関数は、個人的には伝達関数と呼ぶ方がしっくりくる。シナプスがイメージできるから...
活性化関数では、ステップ関数、シグモイド関数、ReLU 関数、ソフトマックス関数といったものが紹介され、いずれも、ある閾値で状態が変化するような非線形関数を基本としている。非線形というからにはデジタル的であり、シャノンが提示した情報理論にも通ずるものがある。それは、2 を底とする対数に看取られた世界... 2 の冪乗に看取られた世界...
そして、これら単純な要素が複雑に関係を持ちながらネットワークを形成していくわけだが、局所的には非線形でも、層を深くして各々が関係を持ち始めると、全体としては線形的な振る舞いを始める。偏微分方程式の振る舞いを繋ぎ合わせてモデリングするようなイメージとでも言おうか。線形的な振る舞いとは、意志のようなものであろうか...

「パーセプトロンは、線形分離可能な問題であれば、データから自動で学習することは可能です。有限回の学習によって、線形分離可能な問題が解けることは『パーセプトロンの収束定理』として知られています。しかし、非線形分離問題は自動で学習することができません。」

そもそも、ディープラーニングとは何であろう。それは、層を深くしたディープなニューラルネットワークを言うらしい。
では、ニューラルネットワークとは何であろう。脳内で神経系を形成するニューロンと対比して論じられるのをよく見かけるが、その特徴はデータから学習するところにある。データから学習するとは、パラメータの重みをデータから自動で決定できるということ。
では、学習とは何であろう。それは、獲得した知識をフィードバックして次の行動に活かすこと、とでもしておこうか。
そこで、合理性の観点から重要となるのが、知識に対する重みの付け方と初期値の与え方である。まず、すべての知識を同列に扱うわけにはいかない。場面によっては意味をなさない知識もあれば、却って邪魔をする知識もある。ましてや、情報の溢れる現代社会では。
したがって、数多くの入力データに重みをつけながら、不要なものはあっさりと排除していく。そうでなければ、合理的にインテリジェンスな出力を得ることはできまい。
しかしながら、人間ってやつは苦労して獲得した知識ほど重宝しがち。見返りを求めてやまない性癖は、なかなか手ごわい。
また、初めて何かを学ぼうとする時、最初に出会う手本となるものが、後の学び方に大きな影響を与える。例えば、入門書や教師と崇める人物の影響力は絶大だ。
人間の場合、運にも恵まれなければならないが、ニューラルネットワークの場合、初期値を数学的に与えることができる。統計学的な標準偏差を与えたり、ガウス分布で初期化したり... と。
初期値は、なにも個人の経験から与えられるだけではない。あらゆる方面から蓄積されたデータが活用できる。記憶とは恐ろしいものだ。記憶領域に知識を大量にダウンロードするだけで賢くなれる。人格を変えることも。処理能力さえ付いていければ、だけど...

機械学習の主役は、やはりデータか!
こいつをいかに合理的に扱うか。シンプルな最適化をディープにやってのける戦略がいる。
注目したいのは、「損失関数」という考え方である。ニューラルネットワークでは、重要度よりも損失の方を注視するという。それは、自己主張を強める人間の思考とは真逆の視点である。重さを評価するのも、軽さを評価するのも、相対的には同じはず。
しかし、人間ってヤツには、重要な情報、少なくともそう思った情報に飛びつく性癖がある。昆虫の光に集まる習性のように。
実は、物事の重要度を評価することは意外と難しい。重要なのは分かるんだけど、どれほど重要なのかとなると、なかなか手ごわい。重要な要素間で優先順位をつけることも。初期値を人間が与えることで弊害になることもある。想定外の結果が得られる場合は、ランダム値を与えた方がずっと合理的なことも多い。
そして、エラーの方を活用する方が合理的という考え方も浮かんでこよう...

本書は、損失関数の勾配を与える数値微分を効率的に計算する「誤差逆伝播法」を紹介してくれる。結果に評価を与えて、それを後方に伝播しながら各部の重みを調整するという考え方は、まさに人間がやっている学習法だ。
また、機械学習でよく問題となる「過学習」にも触れ、これを抑制するために、損失関数の重みとして L2 ノルムを加算する "Weight decay" という方法や、ノードをランダムに消去しながら学習する "Dropout" という方法を紹介してくれる。
さらに、初期値にあまり依存せず、過学習の抑制もあまり必要としない "Batch Normalization" という方法も...
うん~... 関数の損失勾配を人間の行為として眺めると、失敗の度合いと解釈できそうな気がしてくる。なるほど、失敗から学ぶ戦略かぁ。
人間どもには、成功事例から学ぼうとハウツー本に群がる習性があるが、失敗事例から学ぶ方がよほど合理的に映る、今日このごろであった...

2022-04-01

心を握ります!気色わるぅ~

心を握ります!... 行付けの寿司屋の大将の台詞である。おぇっ...

そもそも、心ってなんだぁ???その実体はどこに??
物理的には、脳の中に位置づけられると思われる。おそらくそうだろう。そうに違いない。
しかし、人が「心」と言うと、胸を押さえる。つまりは、ハートを。つまりは、心臓を...
心のサイズは分からなくても、心臓のサイズなら分かる。重さも分かる。画像診断もできる。なによりも鼓動が、その存在を実感させる。これを握ります!ってか。気色わるぅ~
そして、トロを握られ、鯛を握られ、穴子を握られ... これが、あなたの心です!なんて、えげつなく言われた日にゃ、かっぱ巻きにしてよ...

さて、今日は四月一日。陽気な春風に誘われて、心の存在証明でもやってみるかぁ...
そもそも、そんな証明は可能であろうか。人間ってやつは、心の正体を知らなくても、それがあるかのように振る舞うことができる。考えてみれば、凄い芸当だ!
それは、心というものを、おぼろげにでも定義できるからである。ならば、定義できるものすべてが存在するってことか。ユニコーンは定義できる。ゴジラも定義できる。そんなものが本当に存在するというのか?いや、存在する。少なくとも、ぬいぐるみもどきが。心なんてものは、ぬいぐるみのようなものであろうか...

人間ってやつは不思議なことに、人間と同じように振る舞う物体を見れば、そいつに親しみを感じ、仲間意識を持つことができる。考えてみれば、凄い芸当だ!
オートマタにも、ホムンクルスにも、向こうがどう思っていようが...
犬型ロボット AIBO は子供たちの人気者。ちょいと故障して足を付け替えようものなら、子供は虐待しているかと思い、大人を白い眼で睨みつける。だが、こいつはロボットだ。
映画「ターミネーター」では、シュワルツェネッガーの腕を切るシーンに目を覆う。だが、こいつもロボットだ。いや!シュワちゃんの腕だから気色わるぅ~

では逆に、人間であれば、心を持っていると断言できるだろうか。世間には、心無い人間がわんさといる。自分自身に、お前は心を持っているのか?なんて問い詰めたところで、確証が持てない。結局は、人間らしく振る舞っているだけのことか。これを、本当に「人間」と言えるのだろうか...

その帰結は...
心の存在証明とは、心を定義すること。心を定義するということは、人間を定義すること。そして、定義した通りに振る舞えば、そこに存在することにできる。考えてみれば、凄い芸当だ!
... Q.E.D.