2008-04-27

"「無限」に魅入られた天才数学者たち" Amir D. Aczel 著

無限に広がる宇宙は、人間の力が有限であることを教える。無限に迫った数学者たちは、神の怒りに触れたかのように精神病を煩わせる。本書は、ゲオルク・カントールを中心に、そうした数学者たちを物語る。ちなみに、翻訳は、サイモン・シン著の「フェルマーの最終定理」や「暗号解読」でも読んだ青木薫氏である。
今宵の記事は、不完全性に基づいて無限泥酔状態で書いている。よって、いかにも煙臭い。

「無限」という言葉には、なんとなく神へ通ずるものを感じる。あらゆるカルト宗教の源泉がここにある。数論の源流であるピュタゴラス教団は、無理数の存在を隠そうとした。ユダヤ教神秘主義であるカバラの神の概念「エン・ソフ」は、無限を臭わす。布教活動には数秘術を使う。まず、10を聖なる数として崇め、無限へと拡張する。神である無限の正体を暴くには、親しみのある数を元にしなければならない。そうでないと、理解した気になれないので、詐欺行為は成立しない。ちなみに、「十の時が流れる」という名を持つ人物が鏡の向こうに住んでいる。彼はテトラクテュスの申し子か?もしかしたら、崇めなければならない酔っ払いかもしれない。
数学界には、二つの相反する派閥がある。それは「離散」対「連続」である。代数学は自然数や有理数などの離散数を対象とし、解析学は関数や無理数などの連続体を対象とする。代数学は真理を求める理論的学問であり、解析学は生きるための実践的知恵と言える。それぞれの宗教的立場は、無限を神に崇めるか自然数を神に崇めるかの違いである。離散数の極限には神秘な世界が待ち受け、自然数は連続体の中でも特別な輝きを放つ。また、数学界を異なる次元から眺めると超越数の諸派が入り乱れる。その代表が、円周率π派とネイピア数e派である。誰がどの派閥に属するかは簡単に見分けられる。ちなみに、アル中ハイマーはe派である。その証拠に、オッパイ星人じゃなくて、脚線美にこそ自然美の対(つい)を心底感じるからである。これを自然対数の底の原則という。

宇宙には矛盾が渦巻く。全ての行動規範を論理に頼るのは危険である。コンピュータ工学を学んだ人は、実数演算をいかに近似で誤魔化しているかを知っている。たまーに、浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754の意義を匂わさなければならない。そこに、べき乗の壁があることを。実数演算が全てできると信じるのは狂信的である。実数演算のできないものの方が多いのだ。これは、アラン・チューリングの「停止問題」へとつながる。チューリングは、プログラムがいずれ停止するかどうかを決定する機械的方法が発見できれば、計算できない実数演算も計算ができると主張している。微積分学は、極限に近づくことで、人間社会を豊かにしてくれたのである。

無限に迫った数学者たちは、集合論によって数の正体を暴き、更に無限へ迫るために無限集合を扱う。そして、無限集合の中にも異なる次元の無限集合の存在を示唆する。カントールは、無限集合より大きな集合は、べき集合であることを知っていた。集合論もまたパラドックスに悩み、自己言及の罠に嵌る。神の絶対性は人間には捉えられない。人間にできることは無限を理解しようと試みるぐらいである。その試みでは、自然数の集合である有限基数から無限基数へは、算術演算によって到達することができない。更に、上の次元の無限基数にも到達できない。次元の高い無限?無限の無限?寿限無!寿限無!
人間が自分の居場所を認知するためには、より高位の系に移らなければならない。コンピュータで文書を作成する時、編集操作はいろいろとできるが、文書ファイルそのものを削除するには、そのアプリケーションから飛び出さないといけない。更なる高位の系であるOSが必要である。系の内部では答えられない命題が存在しても、不思議ではない。宗教に嵌った人間が、どうして宗教の存在を認識できるだろうか?人間の直感は案外正しい。どれだけ努力しても到達できない真理があることを、人間はなんとなく認識している。そして、より高位の系に移れば、更に高位の系が存在し、認知もできない次元の系に出会う。古代ギリシャ時代から無限を抽象的に認識していたのは、それが真理だからかもしれない。定義できるからと言って、その存在を証明したことにはならない。ユニコーンが定義できたからといって、存在するわけではない。ゴジラ映画でさえも実話になってしまう。逆に、証明できないからといって、存在を否定することもできない。証明できない真理もある。不完全性定理の本質とは、こうしたものなのかもしれない。数学は、進歩の中で、またもや宗教へ引き戻される感がある。

1. 五芒星の黄金比
ピュタゴラス派には一つのシンボルがあった。ユダヤ教にもつながる五芒星である。それは、内部の五角形の中に五芒星が描かれ、更に内部の五角形に五芒星が描かれ、と無限に続く図形である。それぞれの対角線は、長さの等しくない二つの線分に分割される。この分割された長い線分と短い線分の比が、自然界に現れる謎の黄金比で無理数であるという。フィボナッチ数列の一般項は、黄金比で表されるらしい。へー!

2. デカルト座標を使ったトリック
お馴染みのXY座標は、数の連続性を視覚化している。ただ、数直線に真の構造を与えるためには無理数の存在が欠かせない。カントールは、デカルト座標を使って無限の性質に迫る。そして、驚くことに、平面区間(0,0),(1,0),(0.1),(1,1)の全ての点は、数直線上の[0,1]区間に対応することを証明した。直観的には、平面上の点は直線上の点より多いはずである。その方法は、まず平面上の0と1の間の数字を一般化して(x,y)=(0.a1a2a3.... , 0.b1b2b3....)で表す。これに対応する直線上の数字は、0.a1b1a2b2a3b3....と表すことができる。これは1対1で対応つけられる。よって、数は同じだけあるというのである。なんとも詐欺っぽい。これは平面上の点を直線上の点に写したのだが、逆に、直線上の点を平面上にも対応させてしまう。ちなみに、これは二次元に限ったことではない。多次元でも同じ現象が起こる。

3. べき乗という嫌な奴と対峙する円積問題
数学界の有名な難問の一つに「円と同じ面積をもつ正方形を作図せよ」というのがある。これは、「角の三等分問題」や「立方体の倍積問題」とあわせて、三大作図不能問題と呼ばれる。円積問題の本質は円周率πとの関わりである。円の面積は円周率と半径の関係で表されるからである。これが、正方形の面積である一辺の二乗に等しいとなると、円周率が代数的数である必要がある。ドイツの数学者C. L. F. リンデマンは、円周率πは、代数的数ではないことを証明した。つまり、有理数を係数とするいかなる多項方程式の解には、なりえないということである。リンデマンによれば、円積問題は解けないということになる。しかし、直観的には同じ面積のものが存在しそうである。えーっと!正方形の一辺を代数的数でない無理数にしようとすると...べき乗とは嫌な奴である。

4. パラドックスに蝕まれた集合論
ガリレオは、整数全体と二乗数全体を1対1で対応つける。整数全体という無限集合は、その真部分集合である二乗数全体の集合と同じ数だけあるというのだ。無限集合には、それよりも小さい部分集合になりうる性質がある。無限と部分無限が同じ?既に無限という概念には煙臭さが漂う。
ジュゼッペ・ペアノは、数を定義するために集合論を使うことができると主張した。その数の体系を導き出す方法とは、0は空集合で定義し、1は空集合を含む集合として定義する。更に、2は空集合を含む集合を含む集合として定義する。これを無限に続けることにより自然数が定義される。
カール・ワイエルシュトラスは、べき級数は関数の無限和であることを証明した。すると、関数の目的を達すためには、無限に到達した時だけなのか?いや、近似の概念も登場するから心配はいらない。連続関数を表現する時、不連続な階段関数を多数並べて近似することができる。
カントールは、数そのものではなく、集合を考えることにより実無限の概念に迫る。そして、与えられた点集合の集積点からなる集合を考えた。ある区間に含まれる無理数の集合は、その区間に含まれる有理数の集積点である。ここまではいい。カントールは、集積点の集合からなる集合を構成するプロセスに魅せられ、次々と無限集合を構成したという。集積点の集合の、そのまた集積点の集合?これを繰り返していくと集積点はどうなるの?集合論は、その性質上、不可避的にパラドックスを抱える。にも関わらず、論理学とともに数学の基礎となって生き延びている。基礎にパラドックスを抱えていては、数学そのものが怪しい世界という証明にもなりかねない大問題である。数学の世界に無限の概念が絡んでくるだけで、詐欺師の世界になる。無限とは、神ではなく悪魔かもしれない。

5. 宗教からの援護
実無限へのアプローチは人々を不快にする。やはり世間の目は冷たいものだった。しかし、意外なところから援護がある。ローマ法王は、無限の概念を神を説明する手段として指示する。なんと、数学を宗教が援護したのだ。ちなみに、カントールはユダヤ人だった節がある。彼はサンクトペテルブルク出身である。それは、キリスト教を強要された改宗ユダヤ人と、その移民の歴史に重なる。そこで、ユダヤ教の伝統である無限に取り付かれたとなれば説明がつく。しかも、カントールは、無限の基数を表現するのにヘブライ文字アレフを使った。アレフは英字アルファベットのAに相当する。最下層の無限、つまり整数と有理数の無限をアレフ・ゼロと名付けた。アレフの構造は、ユダヤ人社会におけるカバラの視覚的イメージに類似している。それは「エン・ソフ」の同心円図である。もし、ユダヤ人が示した神の概念をカトリック教会が支持したとなると、それは皮肉な結果と言えよう。

6. 悪魔を認めるか?連続体仮説
べき集合は、必ず元の集合より高次の基数を持つ。集合のべき集合、更にそのべき集合と...無限に続ければ、集合の基数も無限になりそうである。指数演算には、アレフの値を変える性質がある。カントールは、アレフに順番をつけようとする。無限に順番をつける?これが連続体仮説の正体か?しかし、アレフとアレフの間に無数のアレフが存在する。だってそれを証明しようとしていたのではないのか?連続体仮説を解くためには、超限基数同士を比較する方法を探る必要がありそうだ。それができれば、超限基数はすべてアレフの系列であることが証明できる。ここで「整列原理」が登場する。これは「すべての集合は整列させられる」という主張である。その第一歩は、無限集合も整列させられることを証明しなければならない。しかし、カントールは証明できなかった。これを救って証明したのがエルンスト・ツェルメロという人物らしい。ツェルメロは、任意の集合を整列させる具体的方法を示したという。その証明はこうだ。与えられた集合の部分集合から、それぞれ代表点を選ぶという「選択公理」である。しかし、無限に選択する方法を明確に示す公理としなければならない。そもそも、無限に選択できるってなんだ?こんなものが公理として認められるのか?もちろん論争は絶えない。更に、ポール・コーエンの「強制法」が登場する。仮説の集合が二つのうち一つに強制することができるという。こうなると煙臭さも最高潮となる。これは、連続体仮説がいよいよもって集合論の公理系内部では立証できないことを明らかにする。真でも偽でもない、謎のままという、最も収まるべきところに収まった感がある。ちなみに、選択公理を認めると、バナッハとタルスキは、ユークリッド空間内において、ある球を有限個に分解し、それを再構成させると同じ大きさの球が二つ作れることを示した。バナッハ=タルスキのパラドックスである。選択公理を認めると、数学界に悪魔を認めることになるのか?いや、非ユークリッド空間に持ち込めば、新たな発見があるかもしれない。そもそも神がユークリッド空間に留まっていると考える方が不自然である。

7. 精神病になった数学者の次なる目標
連続体仮説の重圧は、人間を変貌させた。無限の順序を知ろうとしたことは、神を知ろうとした報いか?世間からも異端視された仮説の行方は?その重要性が認められた時、カントールは既に精神病に蝕まれていた。彼は、変貌しシェークスピア学者になっていた。そして、彼の目標は、シェークスピア劇の真の作者はフランシス・ベーコンだということを証明することだった。ゲーデルも負けていない。ライプニッツの理論がライプニッツのものではないことを証明しようとしたという。ゲーデルは、合衆国憲法に論理的矛盾を探し出した。その条文で、独裁者が現れる可能性を指摘する。にも関わらず、なぜかアメリカの市民権を得ている。付添い人がアインシュタインだったからかもしれない。

8. おまけ: googleの語源
本書でgoogolという言葉が出てきた。なんとなくgoogleを思い浮かべる。どうもこれが語源のようだ。googolとは10の100乗のこと。10の100乗、100の100乗、1000の100乗、... googolの100乗、依然として最大数にはならない。googleは無限に広がることをイメージしているようだ。

2008-04-20

"史上最大の発明 アルゴリズム" David Berlinski 著

論理学は、物事の真理を追究していく学問であるが、危険性もはらむ。自分自身の思考で道に迷った挙句、狂気する者も数知れない。常識によって救い出された人は、見つけられないものを探していたことに気づくだろう。それでも、狂気に向かう衝動は抑えられない。数理論理学に身を投じた数学者の人生は、叙事詩的でもあり悲劇的でもある。人より早く歳をとり、成人を迎えると無情な早さで衰える。数々の論争を単純化することに努力した天才たちは、ついに生きることよりも死ぬことの方が単純であることを悟る。その結末が本人にとって悲劇でなければ、それでいい。
数学の中で疑う余地がない分野があるとしたら、それは算術であろう。手に負える知的範囲に留まっていると思えるのは、ユークリッド幾何学のみである。一度得られた数学の公理は永遠である。数学者は帰納法という魔術で、無限をも手なずけ、見ることもできない世界を証明する。彼らは魔術師か?それとも占い師か?詐欺師のアル中ハイマーとしては見逃せない。「私は嘘をついている」さて、この嘘つきの言葉は真か?偽か?数学のパラドックスのほとんどが、この自己言及の罠に嵌る。大デカルト曰く「我思う、故に我在り」。そして、自らの存在を証明し、ついには神の存在までも証明してしまう。アル中ハイマー曰く「我時々思う。故に時々存在する気がする」。そして、自らを酔っ払いであることを認め、ついには人間は皆、俗社会に酔っていることを証明するのだ。
ゲーデルは晩年、不完全性定理は、自分が発見しなくても誰かが発見していたにちがいないと謙虚に述べたという。この主張は正しいだろう。真理の概念とは必然的なものであり、概念が歴史の中で散歩しているのである。誰がその概念を歴史の流れに乗せるかは、大した問題ではないのかもしれない。すると、人間は何のために存在するのか?人間は真理を暴くための使命を帯びているのか?人口増加とは、真理を導くために、その確率を高めるためのものなのか?戦争とは、科学を進化させるために、怠け癖のある人間の尻たたきを目的としているのか?競争の原理の正体とは?その最終目的とは、宇宙の真理を暴くことか?神は随分とカオスなシステムをお創りになったものだ。こうしたくだらないことを真面目に考えた挙句にかかる病が、アル中ハイマー病である。おっと!論理学を語り始めると酔っ払いは歯止めがきかない。これを静めるには、グィッと一気に沈めるのが一番だ。なぜかって?そこにグレンリベットがあるから。

本書は、哲学と論理学を母体とする人間の思考から、ついにアルゴリズムに到達するまでの歴史ロマンを物語る。また、歴史上の人物たちと会話するフィクションが盛り込まれ、現実と幻想が交錯する。文学的でもあり、科学抜きで読み物としておもしろい。アルゴリズムの歴史は古代ギリシャにさかのぼる。その語源は、アラビア代数学の創始者、通称アルフワリズミが変形したものらしい。アルフワリズミが示す10進数の四則演算は、最も単純なアルゴリズムである。科学の意義は体系化されるところにある。人間思考や社会現象のような複雑系は、論理的な姿も見せるが、推測できない部分が多い。数理物理学者を支えてきた偉大な概念は微積分であるが、その時代も三百年に渡って息切れしている。これを解明する手段として、注目されている概念がアルゴリズムである。アルゴリズムは記号を操作する手続きに過ぎないが、知能の概念をも解き明かそうとする。アルゴリズムの計算は、有限で不連続で、関数などをもたらさない。ただ、シミュレーションによって離散的にスナップショットするだけである。数学者は、この不連続なものを貼り付けることによって、近似的な仮想世界を推論する。いまや、自然科学の基本法則は、アルゴリズム、情報、記号の三つの概念によって救済されている。果たして、この道具は複雑系にどこまで迫ることができるだろうか?

1. ライプニッツに始まる
論理学を体系化したのはアリストテレスである。それは、万物を「すべて」と「ある」の絡み合いである。これを表すには、0と1の二つの数で十分であり、なんとなくデジタル思想がうかがえる。この体系は、矛盾を抱えながらも幾世代にかけて支配し続けた。17世紀、論理学は、まだ社会的に認められた学問ではなかったが、それにライプニッツが挑む。彼は、この世はこれ以上悪くしようがないという通念とは逆に、この世はこれ以上よくしようがないと信じていたという。ライプニッツの概念は「神」と「無」であったらしい。この時代の偉大な数学者にオイラーがいる。数学界で、足し算が無限和に拡張された時、数がどこまでも続くのに、どういうわけか、ある数に収束するパターンを発見した。無限の演算を「部分和」と「極限」の二つの道具で克服する時代が到来する。ジュゼッペ・ペアノは、一次微分方程式の解が存在することを証明した。それは無限個の数を有限個の記号に分解される。ペアノ公理は無限にいたる道を示す。新しい数学の体系を示す概念は、しばしば矛盾をはらむ。微分の概念で、無限に小さい数は他のどんな数よりも小さく、しかも0ではないとは、不条理にしか思えない。
本書で登場する夢商人の話はおもしろい。真理の見える夢を商売にしている。毎晩夢を見ることによって、一段ずつ真理の階段を上っていき、だんだん真理に近づいていく。では、いつ真理に到達できるのか?それは階段を上りきったら。では、いつ階段を上りきるのか?それは真理に達すれば。真理の夢を見るには高くつきそうだ。

2. ラッセルのパラドックス
フレーゲは、量化を持ち込んで命題演算を可能にする。「すべて」と「ある」の論理は、「任意」と「存在する」という概念に置き換わる。フレーゲは、アリストテレス以来、二千年続いていた伝統論理学を一掃し、推論規則を体系化した。あらゆる命題を解くために、変項、量化子、述語という道具を使って述語演算する。フレーゲの野望は、算術演算で論理思考を組み立てることだったという。19世紀末、ゲオルク・カントールは、集合論を確立した。基本的な概念は「分離」と「同化」である。分離は対象から選び出すこと、同化は集めること。フレーゲは、集合論をも含む論理形式の算術へ挑む。そして、集合から生まれるあらゆるものを同化しようとした。ここで、ラッセルは集合論における矛盾を指摘する。これは、数学界にとって深刻な問題となる。ラッセルは言う。「自らを要素として含まない集合を考えよ!」と。そもそも集合とはそういうものだ。全ての数の集合は数ではない。全ての犬の集合は犬ではない。しかし、通常ではありえない、それ自体を集合として含む集合がある。つまり、集合の集合はどうか?複数の集合を集めて一つの集合とした場合、要素に集合が含まれる。
ここで、集合Xについての条件Aは、「Xは、X自身の要素とならない集合である」とする。「集合Xは、要素ではない」とすると、条件Aを満たすので、集合XはXの要素となる。「集合Xは、要素である」と仮定しても、条件Aを満たさないので、集合XはXの要素とならない。この議論は、「この文章は偽である」という文章が正しいのかどうか?という問いに似ている。自己言及は自己陶酔を招き、自らをアル中にしてしまう。

3. ゲーデルの不完全性定理
ヒルベルトは、初等幾何学に革命を起こし解析数論を統一した。彼は、ヒルベルト・プログラムで、数学界の未解決問題をリストアップし、解を導くように先導する野望を画策する。彼は、どんな問題も体系的であり、数学上の共通する構造があると主張した。彼の目指す論理体系とは、無矛盾でなければならない。形式的体系は完全でなければならない。そして、これを証明するために、同じ形式的体系をもった道具を使わなければならない。広範囲に及ぶ難解な概念を、機械的ルーチンに従属させようとしたのである。しかし、クルト・ゲーデルは、ヒルベルト・プログラムを破綻させる。「算術は不完全である」ことを証明してしまったのだ。彼の定理では、無矛盾性の証明が、算術そのものの次元を超えているという。算術には言うまでもなく矛盾が無い。その無矛盾から自身の無矛盾性を証明できないという主張である。またもや酔っ払いの発言である。「自己言及!」という酒の銘柄を造れば、きっと売れるだろう。しかし、これを形にできる道具があった。それが帰納法である。帰納法は、有限な構成規則を扱うのに、なぜか無限の世界へ導いてくれる。まず初期値を指定し、次にk番目の数を定義し、更に(k+1)番目の数を定義できれば、無限の数列が得られる。帰納法は、人間が無限の総体を把握する一つの手段である。ところで、人間の精神は無限なのだろうか?そもそも人間は無限の総体を把握する必要などあるのだろうか?無限を把握することは、精霊にでも任せようではないか。
アロンゾ・チャーチは、論理学界にラムダ変換という計算方法を持ち込んだ。これは、様々な関数型プログラム言語に具体化される。それは、二つの基本操作「適用」と「抽象」により結び付けられ、柔軟な表記法ができあがる。ところで、柔軟とか自由とかいうものほど混乱するものはない。矛盾から逃れるために自由度が必要である。抽象度は、レベルによっては不毛なものになりかねない。そして、ついには「すべての難問」を「理解した気になった」と変換してしまうのだ。アル中ナイマーは、この「理解した気になった」という概念が大好きである。

4. チューリングマシン
帰納関数とラムダ計算が登場したところで、新たな概念が登場する。アラン・チューリングは、仮想機械という概念を持ち込み、抽象概念を単純な構成概念に変化させた。これは、現在のコンピュータの青写真となる。彼は、人間の思考は、人間コンピュータとして振舞っているのではないかと推測する。そして、「四つの構造」と「手続き」の構成要素で実現できると考えた。四つの構造とは、マス目に分割された無限に長いテープ、有限個の記号(0と1)、一度に一マスを走査する読み取りヘッド、一組の有限個の状態である。手続きとは、従うべき指示であり、左右どちらかに一マス動くか動かないか、マス目に記号を書くか消去するか、この動作をその置かれた状態で判断する。この振る舞いはif...then...によって制御できる。これは、まさしくコンピュータの基本構成であり、しかもハードウェアとソフトウェアの境界がある。フォン・ノイマンのストアドプログラムをも彷彿させる。チューリングは、この構成概念で、人間の知的行為が説明できると主張したのである。ここで重要なのは、この仮想機械は、問題を解く道具であって、問題を設定することはできないことである。現代社会を考える上で、その因果関係を考察する時、常に動きつづける現在と、過去の概念を結びつけようとするだろう。しかし、あらゆる偉大な発明は、時間という連続体を分割するという。チューリングマシンは、まさしく時系列を分断している。

5. 時間によるシミュレーション
多くの事物は、局所的に崩壊し秩序を失うように見える。トランプをきると、カードはごちゃごちゃになる。コーヒーは冷める。ちなみに愛も冷める。グラスが破れると元に戻らない。美酒は知らないうちに無くなっている。こうして無秩序は容赦なく進行する。果たして無秩序は解析できるだろうか?その解決策を熱力学が提示する。分子の振る舞いを時間の経過とともにエントロピーの概念で説明した。ランダムな現象を時間に分割することにより、確率論に持ち込んだのだ。科学者は、事象を時間の関数で定義できれば、シミュレーションに頼ることができる。シミュレーションは、個々の事実から仮想世界を作る。
物理学者がずっと悩ませた世界に微分方程式がある。物理学者は、多くの微分方程式が解けず、多くの微分方程式が解析的に扱えない。しかし、有限な計算手法によるアルゴリズムを用いればシミュレーションできる。なんでもシミュレーションすればいいと知るや、これまた罠に嵌る。そこには、近似の概念で必然的にともなう誤差を含む。結局、人間的な計算手法には限界があるということか?数学は、完全な道具とは言えないようだ。しかし、ある有限の時間内で機能させると、限られた誤差範囲で有効な解をもたらす。科学者は、宇宙理論が完全に解けなくても、宇宙モデルをステップ毎に眺めることができる。

6. 記号が表すものは?
アルゴリズムは手続きを定義し、記号を操作する手段に過ぎない。では、記号とはなんだろうか?記号は抽象化されたもので、それ自体に概念が宿るという。つまり、人間が意識できる情報である。この情報という概念を具体化したのが、クロード・シャノンである。彼は通信モデルに秩序をもたらした。メッセージという情報には、人間の感情を動かす何かがある。あるメッセージを受け取るまで、人はそれを知らない。隠されたものが明らかになるまでには、時が流れるのを待つ。情報もエントロピーと同じく時間の経過と結びついた量である。科学者は、記号という概念に、確率論という古典的概念を組み合わせることにより、人間の精神に迫る。知能は何を行うか?それは「計算」である。知能は何を用いてそれを行うか?それは「情報」である。知能は知的能力をどうやって獲得したか?それはダーウィンに任せよう。「機械はものを考えられるか?」の問いにチューリングは次のように答えたという。
「人間と会話して、機械が人間なのだと思わせることができればイエス。できなければノー。」
ニューラルネットワークは、一種の信号処理として機能するベクトル変換器である。これは計算可能な関数を計算する装置であり、チューリングマシンにもできる。本書は、「人間の心は本質的に一つの計算装置だ」という考えが支配的になるのは、それ以外に答えがないだけであると語る。この主張にどんな価値があるかわからない。ただ、心が計算装置として認められたとしても、疑問は生まれる。その装置は、どんな計算をしているのか?そこには、どんなアルゴリズムが存在するのか?心の計算理論は、人間がなしうる全ての心的状態をカバーしなければならない。
例えば、物を見るという行為は、光が網膜に当たり、脳の視覚系への入力となる。それが脳で計算されて像として描かれる。これは表象なのか実体なのか?物理的には脳への入力データは、誰に対しても同じである。では、出力である表象は同じであると言えるのか?人間が持つベクトル変換機は、どんな人間も同じものを実装していると保証できるのか?赤に見える色も、言葉では誰もが同じように表すが、本当に見えている色は同じものなのか?芸術が理解できる人は、感性の違いで、違う世界が見えているに違いない。見えるもの一つ取り上げても、いろんな仮説が渦巻き、目が渦巻き、とうとう真っ直ぐ歩けなくなった。やはり空間は曲がっているようだ。こうして、なぜかアインシュタインは偉大であるという証明に繋がるのである。

2008-04-13

"コンピュータアーキテクチャのエッセンス" Douglas E. Comer 著

コンピュータアーキテクチャーは、ハードに生きる人間には興味のある分野である。ハードに生きる人間はハードボイルドに反応する。タイトルからして、エレガントでもう少し電子工学を掘り下げてくれるものを期待したが、対象者に学生をも含めた基本書である。ただ、それはそれで意義深い。脳の記憶領域を管理できないアル中ハイマーは、しばしば基本に立ち返らなければならない。この分野の教科書といえば、パターソン&ヘネシーが思い浮かぶ。うちの本棚にも第2版が並んでいるが、隅々まで読み渡したことがない。この機会に基本に立ち返るのも悪くはない。今日、高水準言語を使うことが多くなり、基底のハードウェアを認識する必要もなくなってきた。ただ、プログラム性能と正面から向かい合う組込み系などでは、こうした知識を疎かにはできない。

本書は、工学的な詳細よりは概念に焦点を合わせおり、プロセッサ、メモリ、I/Oといったディジタルシステムの基本要素を網羅しようとしている。また、ハードにがちがちに固まった内容ばかりではなく、OSとプログラマの視点からも解説が施される。ただ、事前知識としてTTLを使った論理回路の説明が少々くどい。学生をも対象としている教科書なので仕方がないのかもしれない。それにしても74シリーズは懐かしい。また、マイクロプログラミングも登場するなど、なかなかの古典振りで、アル中ハイマー世代にマッチした懐かしい香りがする。ちなみに、その世代は16進数で20代である。尚、年齢表記にアルファベットを要する。
著者が本書を執筆した理由の一つに、学生向け授業の内容を嘆いていることが語られる。それは、実践的ではないブール代数に集中した授業や、特定マシンのアセンブラ言語の詳細を学ぶ授業になっているという。この意見は、おいらの学生時代と変わっていない印象で少々意外に感じる。大学の講義とは、時代の流れについていけない官僚的なものなのだろうか?いずれにせよ、おいらがコンピュータ工学を学んだのは卒業後である。学生時代に学んだ知識は役に立っていない、というより睡眠学を研究していた。講義中、夢を操ろうとして金縛りにあったりして友人に笑われたものだ。ただ、それは自我を制御する実験をしていたのである。

コンピュータの性能を語る上で、メモリ制御が中心になるのは仕方がない。フォン・ノイマンアーキテクチャであるストアドプログラム方式は、プログラムとデータの両方をメモリに格納することから、メモリアクセスがボトルネックとなる。特にオペランドによるアドレス指定が弱点となる。間接アドレッシングは性能面からなるべく避けたい。全ての命令セットが同一サイクルで動作するならば、並列パイプラインの構想は優れている。更なる性能改善を求めると、プログラムの流れも考慮する必要がある。実行時間の多くが分岐命令に費やされることから、分岐方向のスケジューリングや、両方の条件を並列評価して不要な値を破棄するなどの手法も現れる。物理的な構成では、複数のメモリをインターリーブなどの手法でアクセス時間を先回りする方策もとられる。また、キャッシュの方法論にも、いろいろと論争が見られる。本書は、こうしたコンピュータの性能改善のための概念を議論している。

1. マイクロコード
CPU内部の複雑さを解消するために、マクロアーキテクチャとマイクロアーキテクチャの二つの抽象化がなされる。マクロ命令をマイクロコントローラが解読して、マイクロコードに分解しステップ実行する。マイクロコードの利点は、コードの抽象化と、回路で構築するより実現が簡単である。欠点は、ハードウェアよりオーバーヘッドが大きい。最近では、CPUにマイクロコードを上書きできる機能を持つものがある。CPUがマイクロ命令セットへのアクセスを提供する理由は、柔軟性と性能である。必要な命令セットの判断は用途によってユーザ側に任せられる。従来のマイクロコード方式は垂直型で、CPUの命令セットをそのまま引き継いだもので、性能面ではあまり魅力がない。これを克服するために水平型が考案された。その構成は、複数の機能ユニットが結合されるデータパスに、マイクロコントローラも結合される。そして、複数の機能ユニットの動作をスケジュールすることを許す。コントローラが命令の先読みで、命令をスケジューリングする機構もある。アウトオブオーダー実行で、命令の状態を追跡するスコアボード機構を利用して、命令順に実行しなくても、順序を入れ替えることにより結果的に同じにする。マクロ命令セットの書き換えは、性能向上のための最適化手法の一つである。

2. 仮想メモリ
メモリコントローラが物理メモリ側に存在するのに対して、MMUはプロセッサ側に配置される。MMUは、物理メモリを多重化し仮想空間を作る。長所は、異なるメモリデバイスを吸収したり、メモリ毎の命令セットやオペランドを用意する必要がない。また、一定のメモリ空間を見せることにより多重プログラミングを助ける。仮想メモリ機構は、プログラムとデータ保護を直結する。その古典的な手法に、ベースと範囲を指定するレジスタを使う方法がある。OSが動的にマッピングし、空間の確保と保護を提供する。メモリ資源が乏しい時代、プログラムを可変サイズのブロックに分割し、必要とするブロックをメモリにロードするセグメンテーションがある。多くの研究と実験からセグメンテーションは衰退化する。問題は、OSがメモリから断片の出し入れを繰り返していくと、小さな未使用領域が細分され、フラグメンテーションが起きる。
次に登場した機構がデマンドページである。これは、セグメンテーションを一般化した方式で、その違いはプログラムの分割方法にある。プログラムの可変サイズに対して、ページによる固定サイズを提供し隙間を無くす。実現するための必要な機構は、失ったページを検出するハードウェアと、外部記憶と物理メモリの間でページを移動するソフトウェアである。ページの置き換えのための、アドレス変換、ページ表の記憶の実装は、そのままボトルネックとなりやすい。その対処で、表引きのためのバッファに連想メモリ(CAM)を使うなどの工夫がある。本書は、TLB(Translation Lookaside Buffer)を使わない仮想メモリは、受け入れ難いほど性能が出せないだろうと語る。TLBという高速検索機構により、ページ表の表引きが効率的に行われる。

3. キャッシュ
キャッシュ技術は、フォン・ノイマンボトルネックを軽減する最適化技術である。キャッシュ置き換えポリシーは、キャッシュがいっぱいになった時、新たな要求を無視するのか、どの古いデータを追い出すかを指定することである。ヒット率を確保するために、当然、頻繁にアクセスするデータを残す。LRU(Least Recently Used)は、最も長い期間参照されなかったデータを置き換えるように指定する。これは、実現が容易で多く利用されているポリシーである。多重レベルキャッシュ構造は、キャッシュの性能向上のためにキャッシュを使う。L1,L2,L3がそれである。L1がチップ内に配置されるのに対して、L2,L3はチップ外に配置される。先読みキャッシュも性能改善に役立つ。初期の機構では、ライトスルーによりキャッシュはコピーを保持していた。別の方法では、キャッシュがローカルとなり、必要に応じてメモリを更新するライトバックがある。書き換えタイミングは、キャッシュの置き換えが生じた時にデータを書き戻す。どのデータを書き戻すかはダーティビットで管理する。
キャッシュ内のランダムな参照を連続アクセスすると性能は悪化する。逆にランダムな参照数を減らすことによりキャッシュ性能は改善される。
キャッシュ機構は、マルチプロセッサ環境では、キャッシュの一貫性を保つのが難しいなど、数々の問題が生じるため、研究者の中でも議論が分かれるようだ。
命令とデータで別々のキャッシュを配置すれば改善されるいう意見がある。また、キャッシュ容量が、参照方法よりも重要であるとした意見もある。つまり、キャッシュ容量が充分確保できれば、命令とデータを混在したところで問題はないという主張である。
他にも、キャッシュの物理的な配置についても議論がある。キャッシュは、プロセッサとMMUの間に配置するべきか?それともMMUとメモリの間に配置すべきか?つまり、キャシュアドレスを仮想空間で使うか物理空間で使うかといった議論である。
プログラマの立場からすると、書かれるコードにはループが含まれる傾向がある。これは繰り返し小さな命令集合を実行することを意味する。プログラマは、何度も同じデータを参照する傾向もある。また、キャッシュを有効に使うために意識したコンパイラもある。キャッシュの仕組みを知っていれば、活用するためにうまくコードを書くプログラマもいるだろう。

4. I/O
一般的にプロセッサの速度と入出力装置の速度に大きな差が生じる。これらを同期するためにポーリングするのは、CPU資源が勿体ない。これを意識しない割込み機構は、おいらの時代には画期的であった。おいらはZ80時代を謳歌した。ワンチップマイコンという言葉が流行り出し、割込み機構とDMAが内臓されているのには感動したものだ。本書は、DMAに加えて、更なる性能改善に、次々にくるデータバッファの数珠繋ぎ、複数の操作を連続させるために操作の数珠繋ぎと続く。また、プログラマの立場から見たデバイスドライバの概念を説明している。低レベルと高レベルのインターフェース、データの共有、待ち行列、デバイス依存部を隠蔽などなど。こうした資源は、ライブラリとしての提供されることもある。また、OSが提供するシステムコールのスタイル、open/read/write/closeパラダイムがある。入出力装置の性能を最適化するために、バッファリング手法が用いられる。バッファリングは、システムコールのオーバーヘッドを減らす。そして、アプリケーション側でタイミングを制御できるflush操作が実装される。

5. マルチプロセッサ
一般的な並列パイプライン処理は、フェッチ/ストアの階層で、その効果は大きい。しかし、マルチプロセッサで物量にものを言わせても、性能向上には限界がある。OSのオーバーヘッドや、アプリケーションによってまったく意味を持たない場合もある。プログラマの視点からすると、ロックと解除を、暗黙的に任せるよりも明示的に並列を意識する方がピンポイントで性能改善されることもある。単に、同種のプロセッサを複数搭載する方法もあるが、科学演算用やグラフィックスエンジンなど異種のプロセッサを組み合わせる場合もある。理論的には、マルチプロセッサの方がその数だけ性能が上がりそうだが、実際にはメモリ競合、通信のオーバヘッドなどで、数に比例した性能は期待できない。逆に、プロセッサが増えることによって性能が低下する場合すらある。

2008-04-06

"オイラー入門" William Dunham 著

入門ということで立ち読みで済まそうと思ったのだが、アル中ハイマーの頭脳では無理である。それに、本書は是非とも手元に置いておきたい。こういう本を読むと、学生時代に挫折した数学に再チャレンジしてみたくなるから困ったものだ。どうせ、またアホを自覚するだけなのに。

本書は言うまでもなく数学の巨匠レオンハルト・オイラーについてのものである。オイラーの功績はあまりにも広大なため、こうした本で紹介するのにも限界があるだろう。著者は、オイラーの功績で無視している部分が大きいことを認め、特に、応用数学に関するものを省いていることを詫びている。人類は論理で武装して、誰が見ても明晰な世界を説明しようと奮闘してきた。しかし、その発端は天才たちの直観に頼るところが大きい。本書は、そうしたオイラーの直観的な部分もさらけ出す。また、フーリエ級数、ベッセル関数、ヴェン図といったものは、むしろ、オイラー級数、オイラー関数、オイラー図と呼ぶ方がふさわしいと語る。しかし、そんなことでオイラーの偉大さは微動だにしない。
オイラーは、バーゼル大学でヨハン・ベルヌーイから数学の手ほどきを受けている。サンクト・ペテルブルグのアカデミーでは「バーゼル問題」を解決して有名になる。ここで、なぜロシアなのか不思議でもあるが、時代背景から推察すると、ピョートル大帝時代、ヨーロッパ諸国でも遅れて近代化に乗り出したロシアは、教育問題を抱えていた。ピョートル大帝は、積極的にヨーロッパの科学や文化を持ち込み交流したことでも知られる。新しい首都サンクト・ペテルブルグでアカデミーを設立し、多くの外国人学者を迎えている。その中に、ヨハンの息子ニコラスとダニエルのベルヌーイ兄弟もいる。
オイラーは視力の衰退という身体上の問題を抱えていたという。30歳ぐらいで右目を失明し、60代でほぼ全盲になる。だが、それからの膨大な研究成果には驚嘆させられる。

オイラーといえば、複素解析に重要な指数関数と三角関数の関係を示したことが思い浮かぶ。この数学の道具は、急激に増大し発散する世界を、振動する閉じた世界に変えてしまう。そのお陰で、ホーキングは、虚時間という概念を持ち出し、宇宙の境界線まで無くしてしまった。アルコールのピッチが上がれば上がるほど、同じ台詞を繰り返してホットな女性を口説くという現象もオイラーの公式によって説明がつく。夜の社交場へとまっすぐに向かう足取り(クリティカル・ライン)は、いつのまにか例の店(零点)にいる。店を出て、更にまっすぐ歩くと、またまた例の店(零点)に辿り着く。この現象は、実(実数部)は1/2しか飲んでいないのに、ひょっとしたら(虚数部で)無限に飲んでいるのかもしれない。しかも記憶がない(自明でない)。たとえベロンベロンに酔っ払っていても、別の人格(定義域)では、俺は酔ってないぜ!と主張する。これはまさしくゼータ関数の特性ではないか。アル中ハイマーの気まぐれな行動は、リーマン予想をも体現する。ひょっとしたら、あらゆるランダムな自然現象は、無限級数によって数学的に表されるのかもしれない。これすべて、背後に偉大なオイラーの影を感じるのである。

本書を読んでいると、なんとなくフーリエ変換が懐かしく思い出される。アル中ハイマーは、いろんな酒を飲み回ると、つい悪乗りして行き過ぎた行動にでる。これは、いろんなアルコール成分の係数和が急激に振動して、人格がオーバーシューティングするためである。これがギブス現象の正体だ。ちょいとフーリエ変換ごっこでもして遊ぶとしよう。尚、遊んだ詳細は、酔っ払いディオゲネスのページに掲載する。たまにはHPも更新しないとすねちゃう。バイクばかり可愛がっているから、愛車のバッテリーが上がるのだ。

1. 数論
数学の歴史を紐解けば数論から始まる。それは紀元前6世紀のピタゴラス学派までさかのぼる。最初の対象は正の整数である。ユークリッドは、著書「原論」の中で完全数についての定理を記した。オイラーと数論の関係を調べるとゴールドバッハに辿り着くという。ゴールドバッハは、フェルマーが予想した「2^(2^n)+1は、すべて素数である」という考察をオイラーに紹介したという。物語は、オイラーがこれに反例を挙げたところから始まる。その後、オイラーは完全数と友愛数を考察し、すべての約数の和を考えることに没頭した。ユークリッドは、2^k-1が素数であれば、2^(k-1)・(2^k-1) は完全数になると証明した。ちなみに、2^k-1型の素数は、メルセンヌ素数と呼ばれ素数の中でも名声を博している。オイラーは、偶数の完全数に制限した場合、このユークリッドの十分条件が必要条件にもなることを証明した。ただ、完全数を発見しても、完全数が無限にあるかどうか?奇数の完全数は存在するか?などは未解決のままである。

2. 対数
オイラーの著書「無限解析入門」は、微積分の計算をするのに前提とされる知識を集めたものである。オイラー以前の解析は、曲線の性質を調べるものであったが、オイラー以後は関数を調べるものとなった。オイラーは、指数関数の逆を考え対数関数の概念に至る。おいらが学生時代に対数に出会った時は感動した。なにしろ面倒な乗算が、加算に置き換わるからだ。電子工学を専攻したので、デシベルの概念でこれを体感した。今でこそ、電卓で簡単に求められるが、古代の人々は対数表を使っていた。おいらも高校時代、教科書の付録についている対数表を破りとって持っていた覚えがある。オイラーは、指数関数や対数関数の無限級数展開を求めようとした。彼は、自然対数の底e(ネイピア数)を無限級数を展開して求めている。また、対数と調和級数の関係も考察する。そして、オイラーの定数ガンマが登場する。これはオイラー・マスケローニ定数とも呼ばれる。

3. 複素数
三次方程式の実根を解く時に、避けることができない概念として虚数が登場する。それは、カルダーノの公式として知られるが、二乗してもマイナスになる場合がある。オイラーは、これを虚数の概念を用いて解決した。ド・モアブル - オイラーの定理は、複素代数の基礎となっている。ここでオイラーの公式も紹介される。それはいいとして、なんじゃこりゃ!
i^i = exp(-π/2) × exp(±2πk)
オイラーは、こんな言葉を残しているという。
「なんと注目すべきことなのだろう。なぜなら結果は実数であり、しかも無限個の異なる実数を含んでいるのだ。」
k=0 の時、i^i = exp(-π/2) = 1 / √exp(π) = 0.20787957... になるらしい。
数学界で美しいとされる等式 exp(πi) = -1 の両辺を平方根すると、
exp(πi/2) = i の両辺をi乗すると、exp(-π/2) = i^i
ほんまや!gさん電卓で試すと...感動するほどのことではなかった。

4. 解析的数論
オイラーの特徴は、数論を解析的に扱っていることである。素数を中心とした分野に微積分を持ち込んだ。ここで不自然なのは、数論の対象が離散的であるのに対して、微積分の対象が連続体であることである。それを見事に融合してみせた。素数定理は、自然数の中に素数がどのくらいの割合で含まれているかを述べる定理である。素数が自然数の中にどのように分布しているのかという問題は数学界の難問の一つである。
本書では、付録で紹介されるが、ゼータ関数をオイラー積で表している。
ζ(s) = Σ n^-s = Π 1/(1-p^-s), ただしpは素数
ちなみに、ζ(2) = π^2/6 は、バーゼル問題である。
おもしろいのは、正の数を成分とする無限個の和が、素数全体を成分とする積で表されていることである。これは、s=1の時、左辺が無限大であることから、右辺の積も無限大となり、素数は終わらないことの証明にもなっている。ちなみに、素数が永遠に見つかることを、既にユークリッドが証明している。
(2 × 3 × 5 × 7 × 11 × ... × N) + 1, (Nは素数)
これは、2からNまでのどの素数でも割り切れないので、Nより大きな素数である。だから素数は無限に存在する。なんとエレガントなんだ。更なる疑問は、素数の存在がまばらになる様子に法則はあるか?与えられた数よりも小さい素数は何個あるか?これがリーマンの扱った問題である。いずれリーマン予想に関する書籍にも挑戦してみたい。

5. 代数
代数は、古代ギリシャにまでさかのぼり、方程式を解くことに起源を持つ。開花させたのは、9世紀のイスラムの数学者たちで、アル・フワーリズミーは1次、2次方程式の論文を書いた。3次方程式の解は歴史的にやや複雑なところがあるがジェロラモ・カルダーノが著書で示し、4次方程式の解はその弟子ルドヴィコ・フェラーリが導いた。オイラーも4次方程式の解を別の方法で導いているという。当時の数学者たちは、どんな多項式でも1次もしくは2次で因数分解できると信じていた。オイラーは、高次方程式の解法を導こうとするが、できなかった。後に、ニールス・アーベルによって、5次以上の方程式に決まった代数的解法がないことが証明された。こうした代数の世界でも幾何学的解釈が登場する。それは、ガウスらによる複素数平面の導入である。ある関数が複素微分可能な場合、その関数は解析的であり、これを整関数というらしい。そして、「有界な整関数は定数である」というリウヴィルの定理が登場する。この定理、おいらにはよく分からない。そもそもcos関数やsin関数自体は微分可能な上に、定数にはならない。本書の説明では、実数の範囲ではその通りだが、複素数全体上では有界ではないので、この定理の判例にはならないという。まるで魔法にかかったようだ。波の世界はなんでも酔っ払いにしてしまう。ちなみに、本書は、この辺りの知識は、一般の複素解析の講義で数ヶ月かかることを強調している。

6. 幾何学
古代ギリシャでは、数学は幾何学と同義であった。オイラーはユークリッド幾何学にも大きな遺産を残した。幾何についてのオイラーの論文は、座標軸がおかれた解析的なものであったという。そこには、代数学の融合が見られるようだ。ただ、当時は、解析幾何学が本当に幾何学なのかと反論された時代でもあった。
「ヘロンの公式」は、三角形の三辺の長さから面積を求めるものである。本書は、このエレガントな証明を紹介している。また、三角形の重心、垂心、外心が同一線上にある「オイラー線」を発見する。
また、「フォイエルバッハの円」も紹介している。「9点円」と呼ばれるものである。
「三角形の各頂点から向かい合う辺へ下ろした垂線の足を通る円は、3辺の中点を通り、更に垂心とそれぞれの頂点を結ぶ線分の中点を通る。」
余談で、モーリーの定理にも触れる。ユークリッドは、3つの角を二等分することで三角形の内心を見つけたが、フランク・モーリーは三等分することを考えた。既に、コンパスや定規で角の三等分線が作図不可能であることは証明されている。ただ、その結果には感動させられる。3つの角の三等分線が交わる図形は、正三角形を形成する。この図は、なんとなく宗教の香りがする。

7. 組合せ論
組合わ論は、離散数学の中で重要な分野の一つである。その対象は物を数えることであり概念は簡単であるが、一筋縄ではいかない。ものを選択する時、可能な配列が何通りあるかが鍵となり、これは確率論の基礎でもある。本書は撹乱順列を取り上げる。n個の文字の配列があった時、全ての文字が元の配列の場所に一致しない再配列の方法は何通りあるかという問題で紹介される。ここで、オイラーが与えたe^xの級数展開が利用される。そして、無限個の配列に対して、全ての文字が一致しない再配列の確率は、
なんと、x = -1の時で、e^-1 になっちゃった。驚くべきは、結果にeが現れることだ。しかも、この極限値の収束は非常に速い。つまり、20個以上では、無限個でも確率は、大して変わらないというのだ。これは、20杯以上飲んじゃえば、その先に見えるものは同じで、全て「天国への階段」へ通ずることを示しているに違いない。

2008-04-01

"困ります、ファインマンさん" Richard P. Feynman 著

昨年のエイプリルフールでは「ご冗談でしょう、ファインマンさん」を読んだ。その時は、アル中ハイマー&オッペンハイマーで盛り上がり、ノーベル賞物理学者に女性を口説く基本法則を伝授してもらった。今年もファインマンさんでいこう。本書は、「ご冗談でしょう!」に続くエッセイの続編である。相変わらずの哲学者ぶりに、日々の出来事が馬鹿馬鹿しくなる。著者は、ロスアラモスで原爆の仕事に携わった人に多いという腎臓周辺組織の癌と闘い、何度も手術を重ねた。本書は、その度に復帰した中での物語である。にも関わらず、悲壮感など微塵も感じさせず、人生を謳歌している様子がうかがえる。自称「積極的無責任者」と語るが、そこには照れ隠しが見える。これがファインマン流哲学であろう。権威のあるお偉いさんにはあまり見られない行動ぶりに、おもしろく読みいってしまう。

著者は、最後に、科学の価値とは?全身全霊を打ち込んできた科学とは?その疑問への答えを導こうとする。原爆作りに携わった人間として、間違った使い方をされた科学の恐ろしさを告白する。その中で、進歩を重ねるためには、自分の無知を悟り、疑問の余地を残すことが重要であると語る。少々意外であるが仏教の言葉も飛び出す。
「人はみな極楽の門を開く鍵を与えられているが、その同じ鍵は地獄の門をも開く」
社会貢献という言葉をよく耳にする。科学者は社会に及ぼす影響を考えるべきだと説教する人々がいる。科学は人間の知的欲求から成り立つ。科学の発展は新しい世界観をつくる。それをどういう世界観にするかは人間次第である。そもそも社会の役割とは何か?社会は人間のエゴのために存在するのか?生物の存在すらほんの一瞬の宇宙現象に過ぎないのかもしれない。もし、人類に宇宙を解明をする使命があるならば、まだまだ人類は存続し続けなければならない。

今宵のブランデーは濃厚なマイルド感を醸し出す。気持ち良く千鳥足で章立てて見よう。

1. 生い立ち
著者は、ユダヤ系の家庭で育った。父親の教えに次のようなものがある。
「権威なんぞというものには頭を下げてはならない。どんな立派な人間が発言しようとも、それが理にかなうかどうかを自問することだ。」
父親から科学することを学び、母親から人間の精神の到達できる形は笑いと人間愛であることを学んだと語る。少年期は、大人の教える奇跡が許せなかったようだ。サンタクロースが一夜のうちに一人残らずプレゼントを配るという奇跡はまだ可愛い話である。しかし、モーゼが杖を投げると、これが蛇になってニョロニョロと這い出すなんぞは許せないと力説する。ラビの教説は最たるもので、ユダヤ教会の日曜学校では子供達にいろんな奇跡を話して聞かせる。異端審問でユダヤ人が拷問にあって苦しんだ話では、ルツという特定人物を持ち出す。ルツの話は、実は作り話であったことを知ると、以来宗教というものが信じられなくなったと語る。

2. 夫人の不治の病
夫人の家系で唯一許せない習慣があるという。それは、善意から出た嘘ならいくらついても構わないというものだ。著者は言う、こっちがどう思っていようが、どうでもいいことではないのか。この点は、意見が一致し、互いに嘘をつかないと誓いあう。婚約したばかりの彼女が不治の病であることを、本人に告げるかどうかをめぐって家族会議で苦悩する。著者は嘘をつくべきではないと譲らない。説得されて一旦は隠し通すが、彼女に見抜かれてしまう。彼女は、誓いを破ったにも関わらず、家族に追い詰められたことを気遣う。そして一層の絆を築き結婚する。ロスアラモス時代、入院中の夫人との冗談のやりとり、検閲を遊びに使った手紙のやりとり、むしろ夫人の方が冗談は巧みだったようだ。夫人が重病人であるにもかかわらず、そこには悲壮感がない。しかし、読んでいるとそれがむしろ悲壮感として伝わる。夫人は、著者の定義できないというだけで信じないという主張に、美的バランスを教える。美には決して定義できないにも関わらず、ある定まった何かがあることを。著者は美術にも興味を持つようになる。そして、いよいよ最期を迎える。

3. 名前を覚えるのが苦手
ロスアラモス時代の旧友からハーマンという人物が亡くなったことを知らされる。どうやら友人らしいが思い出せない。適当に話を合わせ、葬式で棺を覗けばわかるだろうと高を括る。しかし、見てもお目にかかったことすらない。とうとう我慢できずに旧友にハーマンって誰?って聞く。話によると、旧友とハーマンが親友で、旧友と著者が親友で、ハーマンと著者はロスアラモスに居た時期が入れ違いで、旧友が知り合いだと勘違いしたというオチである。おいらは10年くらい前の出来事を思い出す。川崎駅で高校時代の知人に偶然会った。名前が思い出せない。話しているうちに、とうとう我慢できなくなって、名前を聞く。もう少し我慢すれば、卒業アルバムで確認できたのに。おいらは正直ものである。また、仇名は覚えていても本名を覚えていないことが多い。アル中ハイマーは、人の名前を覚えることが大の苦手である。ただ、クラブ活動で横に座ったホットな女性の名前を覚えるのは天才的である。

4. 時間の意識
人間は、ある程度同じ速度で数を数えることができるという。では、その速度は何で決まるのか?心臓の鼓動か?著者は階段を駆け回り実験する。同僚からは大笑いされる。熱運動法則に従って、体温が高いと数える速度も変わるという仮説も実験する。著者の結論はこうだ。ものを読みながらでも数えられる。喋りながらは数えられない。だが、それも間違っていた。喋りながらでも数えられる同僚がいた。そいつは読みながらは数えられなかった。つまり、数え方が違う。著者は頭の中で数を唱える。同僚は、数の書いてあるテープが回っているのを頭の中に思い浮かべる。著者は唱えてるから、喋りながら数えられない。同僚はテープを見ながら数えているから、読みながら数えることができない。数える速度を変化させるものは、数える作業を中断させるような、脳が他のことを考える場合に起きる。んー!当り前のような気がするが、天才は当たり前と決めつけずに実証するところが偉大である。数を数えながら、できることとできないことを分析すれば、その人の脳の働きが分析できるのは確かだろう。

5. 教科書「ファインマン物理学I」
教科書の一節。これはメモらずにはいられない。
女性が運転する自動車が白バイに捕まった。
警官曰く「奥さんは時速60マイルで走っていましたね。」
女性曰く「そんなはずはありませんわよ。まだ7分しか走ってませんもの。1時間も走ってませんから。」
警官曰く「いや、あなたがこのまま走りつづけたら、1時間で60マイル行くだろうということです。」
女性曰く「私はアクセルを踏んでいませんでした。ですから60マイルも行くはずがありません。」
この話は、女性蔑視だ!という抗議デモに発展したという。わざわざドライバーを女性にすることはないだろうと言うのだ。もちろん著者は反論する。
「女性が警官をへこましたんですよ!警官の方が馬鹿に見えるのは気にならないんですか?」
すると抗議している一人の女性が叫ぶ。
「警官なんてみんな馬鹿に決まってるじゃないの。あの連中はみんなとんまな豚野郎なんだから」
著者もやり返す。
「やっぱり気にされた方がいいですよ。ああ!言い忘れましたが、その警官、実は女性なんですよ。」

6. チャレンジャー号爆発事故調査委員会
著者は、チャレンジャー号爆発事故調査委員会のメンバーである。その会議のお粗末さを暴露する。公開会議では、NASAのお歴々が一般的なシャトルの説明をする。メンバーは自然科学の学位を持った優れた連中なので、発表者が答えられないような突っ込んだ質問をする。すると、委員長のロジャース氏は「後ほど詳しい情報を提供します」と決り文句を繰り返す。著者は、期待どおりに独自行動を取る。ジョンソン基地に行くことや、技術者を集めるなどの手配をすると、ロジャース氏はメンバーが秩序正しく行動しなければならないと反対する。彼が手配したケネディ宇宙センターの見学にしても、視察と称したどこぞの議員一行様のようである。口論が続く中、話題を変えて「ファインマン先生は滞在しているホテルがお気にいらないようで、別のホテルを手配しましょう」という始末。偉人の愚痴も庶民のレベルとあまり変わらないようだ。
シャトルの問題は、技術的問題以外に運営の問題も明るみになる。通常より打ち上げ時の気温が低すぎると知りながら、わざわざリスクを犯したのはなぜか?噂では、その夜レーガン大統領の年頭教書演説がある予定だった。演説中、搭乗していた女性教師と宇宙から会話する筋書きになっていた。現場の技師たちが危険性に警告を発しているのに、管理職が安全基準を甘くし、問題が発生しても原因究明すらしない。ただ、技術屋は専門的な問題を話し合うのが好きな人が多い。著者の感心なところは、技術調査で最も味方につけなければならないのは、現場の技術者であることを見抜いていることである。NASAの高官連中は金を倹約するためにテスト回数を減らしたいと考えている。調査報告書に至っては、改ざんされた上に骨抜きにされる。委員会のメンバーが、自らの報告書を持ち寄って意見交換するような会議をしない。国家レベルの委員会ですら、所詮そんなものらしい。要は、政府を批判にさらしたくないという陰謀に過ぎない。著者の報告書は付録で決着する。真実を語ろうとすることと、政治家の面子は、互いに反発しあうようだ。地位の高い連中は、部下の抱えている問題は見知らぬふりをする。しかし、著者は、実は本当に知らないまぬけな連中かもしれないと語る。

7. NASAの実態
戦争中、ロスアラモスでは皆が一丸となって原爆を作ることに努力した。一人がうまくいかない問題を抱えれば、その困った人を皆で知恵を持ち寄って解決しようとする。著者は、そうした感覚は初期のNASAでもあったのではないかと推察している。人類を月に送り込もうと途方もない夢を描いた時代、同様に緊張感、切迫感があったにちがいない。ところが、大きな目標が完了するとNASAはいつのまにか大所帯に膨れ上がっていた。これだけの人材を突然解雇するわけにはいかない。常に予算を取り続けるために議会を説得する必要がある。シャトルは経済的で何度でも飛ばせる。安全であると誇張する。一方で技師たちは、そんなに何回も飛べるわけがないと叫んでいた。飛ばし続けるためには、管理職がそうした声を封印しなければならない。そして、硬直した大官僚組織の出来上がりというわけか。著者は、少なくともNASAで働く優秀な連中は、自分が何をすべきかを十分熟知していることを感じ取ったと述べている。彼らをいち早く軌道に戻すためにも、NASA組織の正常化は急務であると主張する。

x. 中洲追突事故調査委員会(おまけ)
本項は、本書とはなーんも関係がない。アル中ハイマーは中洲のとあるバーでスコッチを飲んでいた。すると、隅の方で数人の刑事と思われる連中が愚痴をこぼしていた。聞き耳を立てていると、どうやら事件の話をしているようだ。その一人が、すっかり酔っ払って近づいてきた。一杯おごるから捜査に協力しろという。その中でボスと思われる人間が、荒っぽい剣幕で捲くし立てることからアラケンと呼ばれていた。彼が言うには、事件は単なる追突事故でつまらないものらしい。凄腕の刑事からするとやりきれないようだ。被害者とされる人物は大勝(オオカツ)とかいう当たり屋で、その道では有名で胡散臭い。その相棒が雑餉に潜伏しているのは確かで、闇崎(ヤミザキ)とかいう人物である。彼は韓国人女性と一緒のところを一度パクられたが、藤西(トウサイ)という人物の手引きで脱走したらしい。とりあえず犯人と目される指名手配中の人物の写真を見せてもらった。その名は司馬懿(シバイ)といい三角関係を好む。まあ、三国志も国の三角関係であるのだが。1年前の情報では、アレックスとかいう外国人に変装して博多湾の埋立地方面に潜伏中という話だ。その姿といったら、上半身は白いYシャツに黒いネクタイ、下半身はパンティーに裸足で黒い革靴、黒いソフト帽をかぶり、得意技はメキシカンダンスを踊るという。おいらはある店で見かけたと証言した。その店に案内すると、なんと大勝氏と闇崎氏が二人揃って内股で歩いていた。おいらは、てっきり自動車事故だと思っていたが、接触したのは生身の体だったようだ。状況証拠からして、当たり屋が当たりにいったら、逆にやられたというのが真相である。こんな事件の担当ではアラケンが愚痴りたくなるのもわかる。犯人は間違いなく司馬懿氏だろう。しかし、行方不明。ここまで追い詰めながら迷宮入りか?本日2008年4月1日をもって時効を迎える。尚、登場人物は96%実名である。捜査員たちは締めにスピリタスを飲み干していた。

2008-03-28

"裁判官の爆笑お言葉集" 長嶺超輝 著

アル中ハイマーは死刑制度に対して反対の立場をとらない。ただ、ここで賛成とはっきり言えないのは、人が人の命を裁けるのか?という一般的な倫理観からではない。執行する人々が気の毒に思うからである。善人と呼ばれる人々の倫理観によって批判にさらされ、正面から向かい合っているのは彼らである。裁判官が極刑を下すにしても重圧がかかる。量刑相場に駆け込むのも仕方がないかもしれない。犯罪者も死刑を承知でやるのだから、判決が下っても止むを得ないという状況を作ることが大切であろう。本書を読んでいると、なんとなくそんなことを考えてしまう。

裁判官というと、出世欲に駆られた凝り固まった官僚という香りがする。アル中ハイマーは裁判所へ行ったことがないから想像するしかない。いや!行ったことあった。しかも呼び出された。本書はそういった先入観を少々和らげてくれる。著者が裁判の傍聴席から目撃した数々の人間模様を紹介している。そこには、嫌味、駄洒落、ブチキレ、諭しのテクニック、時には愛も語り、著者が思わず判事のファンになるような発言もある。また、判決期日を延期してボランティア勧告まで飛び出す。裁判官が考え抜いて選んだ言葉には、個性がうかがえる。裁きっぱなしではなく、法廷での出会いも一つの縁と考え、大切に吟味している裁判官もいる。本書で紹介される裁判官は実名で登場する。彼らは、おそらく裁判官の中でも異端児とされる方々であろう。中には是非出世してもらいたいと思える裁判官もいる。裁判官の評価は、判決や和解を出した数の多さに集約されるという。長々と説諭するぐらいなら、薬物事件の一件でも済ませた方が出世に近づくというわけだ。裁判員制度が始まろうとしている中で、裁判の傍聴風景が少しでも感じ取れるところに、本書の意義がある。また、手軽に読める量で電車の中で読むのにちょうどよいのもありがたい。裁判の傍聴とは、被告の態度と裁判官の言動の双方からして、人間観察におもしろい場所のようだ。

1. 法の仕組み
法の仕組みは、「ある」、「ない」の二項対立の組み合わせであるという。法律の条文に書かれた要件がすべて満たされれば訴えは認められ、ひとつでも要件を満たさなければ訴えは退けられる。何段階にも要件が入り込んで複雑な条文もあるが原理は単純である。むしろ、法というものは単純であるべきであろう。そうでないと違法か合法かの基準がはっきりしなくなる。誰にでも平等で明快な答えを出そうとすれば、きめ細かい配慮には欠け融通がきかない。裁判が無味乾燥な判決文を大量生産し、当事者を置いてきぼりにするのも法の宿命かもしれない。本書は、こうした法律の補完装置として裁判官の役割を浮き彫りにする。裁判官の建前は「法の声のみを語るべき」とされているが、法廷ではしばしば肉声が聞かれるようだ。私情を抑えられず、つい本音がこぼれることもある。それが人情というものである。しかし、中には正当防衛も認められず矛盾を感じる判決もある。被害者であるべき人間が長期の裁判に縛られ、加害者であるべき人間が不起訴処分になる例も多い。また、日本は昔から公事三年と言われ、裁判はとかく時間がかかるという印象がある。特に行政訴訟で差し止めなど滅多に認められない。国を相手どった行政訴訟で住民側が勝訴する確率はわずか3%だそうだ。

2. 極刑
最近の犯罪の残忍さからしても、裁判の判決にはいらいらさせられることもある。おいらは内情を知らずにいい加減に傍観しているだけなので、世論操作に洗脳されているのだろう。それでも、裁判官に対して一つだけ同情することがある。死刑を宣告する重圧である。世間から罵倒されることもある。マスコミは、自らが裁く者とでも自認しているかのように、著名人などを使って世論を煽る。本書は、裁判官が考えられうる手段を駆使して分析している姿も紹介してくれる。いくら極悪人だとしても、人間の命を他人が裁くのに気分が良いわけがない。ただ、残酷な事件が多くなると、その残忍さと量刑相場の板ばさみにもなる。本書は、量刑相場の急激な変化が法の安定を失わせ、特定犯罪の厳罰化は刑罰体系のバランスを崩すと警鐘を鳴らす。事件によっては、あまりに卑劣で心情的に重い刑を宣告したい場合もあるだろう。著者は、裁判官が量刑相場に板ばさみになって軽い刑を宣告する場合、被告人に向けて一段と痛烈な非難を浴びせるような印象を受けると述べている。ただ、裁判官が言葉でバランスを取っても被害者の慰めにはならない。判決の重圧からこんな台詞も飛び出す。
「控訴し、別の裁判所の判断を仰ぐことを勧める」
被害者2人、被害額2千万円の強盗殺人で、相場からして死刑が相当。その時の異例の付言として紹介される。だが、裁判官がこれを言っちゃおしまいだろう。殺意の証明も難しい。犯人が殺意を認めるなど滅多にない。むしろ、殺意を認める人間の方がまともである。少しでも減刑されるならば、どんな演技でもする。相手が死んでも構わないと思えば殺意となるが、こんな行為をすれば相手が死ぬかもしれないという場面でも、充分殺意があると考えて良いと思う。例えば、銃を乱射しておいて殺意はありませんと主張しても通用するとは思えない。しかし、現実にはそれでも過失となることがある。
無期懲役も奇妙な制度である。現実には15年から40年で仮釈放となる。そこで、仮釈放の際、しばしば遺族の意見を聞くようにと付け加えられるらしい。裁判官の被害者への心遣いであるが、そもそも無期ではないのか?それならば、判決に仮釈放の可能性を表す付言が必要であろう。しかし、全国の刑務所は軒並み満室状態で、終身刑の導入どころではないという現実がある。

3. 死刑廃止論
この問題は、よーわからん!その前に終身刑をしっかり執行することである。少なくとも、現状で死刑廃止だけしても仮釈放されるのではおかしい。オウム弁護団の主任弁護士安田好弘氏は、死刑廃止論はいいけど、とにかく時間をかけることと宣言し弁護団全員を了承させたという。本書は引き伸ばし戦略こそ弁護の王道という確信がおありのようでと皮肉る。ただ、やりたくない弁護でも誰かが引き受けなければならない。世間からバッシングにあう事件を担当することは勇気がいる。こうした境遇の弁護ばかりやっているのも同情してしまう。ちなみに、「山口県光市母子殺人事件」で最高裁弁論をドタキャンしたことでも話題になった人でもある。もし、死刑廃止論をこの事件で利用しているとしたら、弁護士失格である。まさか、思想を法廷に持ち込んでいるとは思いたくないが、そうした態度に映ってしまう。死刑制度の是非については人を感情的にする何かがある。おそらく本能と理性がぶつかるからであろう。人間が他人の命を裁くことには疑問が残る。少なくとも執行する立場からは気持ちの良いものではない。死刑にする基準を明確にする必要がある。

4. 中には泣かせる場面
被告人がやたら傍聴席の妻と赤ん坊を気にしている。裁判官が妻と赤ん坊を呼び寄せ、その場で被告人に赤ん坊を抱かせる。そして、二度と犯行に及ばないと誓えるかと迫る。被告人はその場で泣き崩れる。こんな場面は大岡裁きにも思えるが、被告席に家族を招くなどさすがに珍しいケースのようだ。後にその裁判官は取材に、苦笑いしながら次のように答えたという。
「前例もなく勇気のいることだったが、当時は恐いもの知らずだった」
裁判官とは、出世欲の固まった官僚世界でもあるだろうが、どの世界にも異端児はいるものだ。介護疲れの挙句に及んだ心中事件はよく耳にする。運が良いのか悪いのか、片方だけが生き残ると辛い事件になる。こうした介護絡みの事件は今後増えるだろう。悪いのは社会なのか?平和でありながら自殺大国日本という矛盾が見え隠れする。人間は、生きがいを無くすと世の中が地獄に思える。なげやりな考えが他人を巻き添えにすることもある。裁判官の台詞に、こんなものもある。
「早く楽になりたい気持ちはわかる。生き続けることは辛いかもしれない。それでも、地獄をきちんと見て、罪の重さを苦しんでほしい。」

5. メディア用語
法律用語っぽいメディア用語を紹介しているのでメモっておこう。
(1) 「容疑者」は、法律用語では「被疑者」という。
(2) 「被告」
民事裁判で訴えられた人は「被告」であり、刑事裁判では「被告人」と呼ばれる。しかし、報道では刑事裁判でも「被告」と呼ぶため、被告のイメージが悪くなっているようだ。そこで民事で訴えられた側を「相手方」と呼びかえる動きもあるらしい。
(3) 「書類送検」
被疑者を起訴するかの判断を委ねるため、警察官は検察官に捜査情報を送る。報道では、被疑者を逮捕せずに捜査している場合、警察官が事件を検察官に送ることを「書類送検」と呼ぶ。逮捕した被疑者の身柄を一緒に送ることを「身柄送検」と呼ぶ。しかし「送検」とは法律用語にはなく、逮捕していようがなかろうが「検察官送致」というらしい。
(4)「起訴事実」は、法律用語では「公訴事実」という。

2008-03-22

"日本の中世国家" 佐藤進一 著

前記事で網野善彦氏の「異形の王権」を読んでいて、本書を中心に考察している部分があった。なかなかおもしろかったので書店で探してみた。アル中ハイマーのすぐに感化される性格は直らない。

網野氏は、後醍醐天皇の存在が特異な役割を果たしたと考察している。建武の新政が、官司請負制の全面否定、官位相当制と家格の序列の破壊といった体制の全面否定であり、古代以来の議政官会議を解体し、執行機関を全て天皇直轄にした。こうした独裁政治を天皇がやろうとしたのはなぜか?
本書は、その流れを8世紀の律令国家体制までさかのぼり、日本の中世国家の体制を探る。そして、日本の中世国家には二つの体制があったことを物語る。9世紀以降の地方政策の変化と、中央政治機構の改編がいくつもの段階を経て、律令国家が徐々に変質解体していき、ついには王朝国家が生まれる。王朝国家の主柱を官司請負制とするならば、この制度が確立した12世紀前期をもって王朝国家の成立と見ることができる。これが一つ目の中世国家の型である。それから半世紀後、東国に武士政権の鎌倉幕府が誕生した。これが、二つ目の中世国家の型である。この二つの体制において、互いに権力統一への欲求が生じたことは想像に易い。建武の新政は、幕府が倒れた時に乗じた欲求の一つと言える。だが、後醍醐天皇の政権は短命に終わる。本書はこうした流れを精緻に論じている。専門的過ぎてアル中ハイマーには理解の難しい部分もあるが、教科書では味わえないコクのある領域へと導いてくれる。そして、以前からの疑問にたどり付く。天皇家を一王朝と捉えるならば、この時代に滅んでいても何の不思議もない。なぜ存続できたのか?本書では明言されていないが、天皇の象徴的立場の原型がこの時代に隠されていることを示唆している。ただ、本書は王朝国家が実権を失ったところで終えているところがおしい。ちょっとだけ勉強のためにメモっておこう。

1. 律令国家
日本の中世国家の前提は古代国家であり、その最終形態は律令国家体制である。本書は、律令政治を解明するには、天皇権とその行使形態を観察することであると主張する。行使形態とは、太政官の執行権である。太政官は天皇家と直接接触し法を施行する立場にあった。律令制太政官の原型は持統朝に形作られたが、本格的に制定されたのは8世紀初頭の大宝律令である。天皇の詔には必ず太政官が関与する。つまり、天皇、太政官いずれか一方の恣意による発布を防止する仕組みが確立されていた。9世紀になると律令制国家の維持は困難となる。10世紀には新しい王朝国家体制へと変貌する。律令制の危機は、地方の土地支配制度の行き詰まりに見ることができるという。それは、私的な大土地所有に対抗して、皇室領を急激に増大させようとするが、そこに反発が起こる。それを回避するために、荘園整理令を境に地方支配を、太政官から国司に委託する。いわば地方分権である。その結果、公領は減少していき、天皇家の私領を含めて、権門の私領荘園が増大する。

2. 王朝国家
9世紀に律令制中央機構の改革が行われる。この頃、蔵人所(くろうどどころ)と検非違使(けびいし)が登場する。これは、令制定後に新設された官職と言う意味で呼ばれる令外官の一つである。律令国家では太政官が最高の官庁であり、他のすべての官庁はその下に位置する。それに対して蔵人所と検非違使は、天皇直属の官庁である。この存在意義は、律令制の原則的な枠組を超えて、非常事態に天皇の意向を反映させるためのものである。蔵人所は権力を地方に伸ばし、11世紀には地方の貢納組織まで統轄する。検非違使は治安警察機関であり、全ての警察活動を手中にする。こうした動きは、その他の官庁にも影響を与え、天皇色を見せたり、官庁内に賄賂が横行したり、特定氏族による独占世襲など、官僚システムの腐敗が起きる。こうして、9世紀から11世紀にかけて行われた律令政治機構の改革には、新官庁の出現と旧官庁の統合という現象が現れた。短期的には、天皇直轄官庁の新設と太政官の統轄力の低下により、天皇権を強力にする。長期的には、律令官僚制の崩壊である。この期に、国司を始めとする地方氏族が勢力をつけ、新興領主層である武士集団が東国に政権をつくる。

3. 鎌倉幕府
流人である源頼朝に平家討伐の名分を与えたのが、以仁王(もちひとおう)の令旨である。頼朝は平家の擁する安徳帝を否定する。ここで頼朝の二つの政治行動の選択について言及している。一つは、平家を打倒し、安徳帝を廃して以仁王を帝位に就ける。二つは、以仁王を天皇とした東国に新国家を樹立しようとする板東独立論である。頼朝の意思は板東独立論ではない。王朝が頼朝に下した命は諸国守護である。守護地頭が設置されると、武家が全国的に権力を持つようになる。頼朝が得た守護権は、治安警察業務の独占的請負権である。これは、王朝国家で見られた官司請負権とそう変わりはないが、注目すべきは、部分的な権力ではなく、全国隅々に及んだ点である。当時、この強大な職権を頼朝という特定個人に与えたのである。また、武家社会が主従制を根幹にしていることも重要である。頼朝以外の者は王朝と直接接触できない。その後、征夷大将軍は源氏で占められることになる。徳川家康はこの地位にこだわって源氏を名乗った。ただ、頼朝勢力に反発的な地域には特別な制度をおいている。東北には奥州総奉行、九州には鎮西奉行。これらの地方勢力が後に自立することになる。

4. 執権政治
頼朝の急死から承久の乱までの20年は、鎌倉幕府の危機の連続である。頼家の失脚と暗殺、実朝の暗殺を代表とする数々の継承問題で内部紛争が渦巻く。これも王朝による外部の陰謀と、内部の政治操作が見え隠れする。歌人として有名な実朝の暗殺は、単なる後継者争いではなく、朝廷による陰謀であったという説は何かで読んだ覚えがある。実朝死後、後を継いだ藤原頼経が鎌倉に迎えられたのが幼年2歳。北条家の執権が幕府の実権を握る。将軍派と執権派の抗争が常につきまとい、北条一族の嫡流の争いや豪族間の確執も複雑に絡む。やがて執権派が優勢となる。これは、執権派が早くから政所に目をつけ、介入したことが大きいという。政所は、将軍家の牙城であり、衣食住の調達と管理、将軍直轄領の管理など、将軍家の内廷経済を管轄する巨大機関である。これを抑えられると骨抜きになる。御成敗式目の位置付けも、武士のための法令として一般的に教えられるが、執権の北条泰時が中心となっている点からも、北条家の権力拡大の道具とした側面が強いのではないかと思える。結果的に、北条氏の家系、特に得宗家は幕府要職を合理的に独占しているからである。

5. 建武の新政
建武の新政は二つの改革をしようとした。一つは、国司制度の改革であり、国務私領化の否定である。二つは、中央官庁の再編成であり、特定氏族の請負経営化の否定と独占世襲の否定である。しかし、武家の不満は北条家の独占政治であり、武家政治を否定したわけではない。公家の不満は、後醍醐天皇が皇子を鎌倉幕府打倒の功を理由に征夷大将軍を切望したことや、奥州や東国の人事に対するものである。また、地方の領主層では自立の気風が高まる。そして、建武の新政の発足半年にして、地方の領地支配を奥州幕府、関東幕府に実質委ねた。などなどの要因から後醍醐天皇の政権は短命に終わる。

6. 室町時代の役割
本書は、むすびで室町時代について少しだけ触れている。建武の新政が終わった時に天皇家が滅びてもなんの不思議はない。それを解明するためには室町時代を検討する必要がありそうだ。内政的には、律令政治の名残で、室町幕府が王朝権力を吸収した。天皇家が、王朝支配の牙城である京都の市政権を獲得しても、幕府の首長は将軍で武家の代表である限り、公家貴族層に対する身分支配の名分を得ることができない。外交的には、天皇家を国王と位置付けたのは足利義満の功績だろう。日本は明から見れば従属国である。明帝がいったん従属国の特定人物を国王と認めると、別人が国王の地位を冒すことはできない。明との交易が独占的に与えられるからである。こうして政治と経済の両面から天皇家の存続を許した形であるが、更に検討が必要であろうとむすぶ。実は、その更なる検討内容が本当は読みたかったのである。続編を探しにアマゾンの放浪の旅にでもでるか。

2008-03-16

"異形の王権" 網野善彦 著

本書は、前記事で扱った「日本の歴史をよみなおす(全)」の中でも紹介される。宣伝に乗せられてつい買ってしまった。アル中ハイマーの乗せられやすい性格は直らない。
本書は、前記事と同じく南北朝動乱期を大転換期として捉え、その始まる時期となった後醍醐天皇に焦点を合わせる。「異形の王権」とは、異形の人々を集めて新しい力をよびさました異色の天皇権力の意味である。異形の人々とは非人のことである。乞食、障害や病を持つ者、罪人などは、かつて聖なる者として扱われていた。それも、葬送、処刑、罪を犯した人の住居の破却など、穢れから清める仕事をしていたからである。しかし、この時代を境に非人は差別的様相を呈していく。そして、彼らの反発力を最大限利用し政権として確立したのが「建武の新政」であるという。本書は、こうした背景を後ろ盾にした後醍醐天皇の時代を傍観するとともに、著者独自の考察を加えたものである。中でも庶民の衣裳から社会風潮の変化を考察している点はおもしろい。著者は、歴史学がようやく、民俗学、民具学、宗教学などの諸学に対して開かれた姿勢を見せ始めたと語る。

アル中ハイマーは、昔からつまらない疑問を持っている。
歴史学と、社会学や政治学の違いはなんだろう?過去の事象を扱わずして現代が語れるのだろうか?現在の現象から10年後に起きる事象を予測することは難しい。だが、歴史は繰り返される。歴史学は単に結果論を主張しているに過ぎないのか?歴史の解釈にはいろいろとあって然るべきであろう。にも関わらず歴史学者は、過去の事象に対して結論付けている点があまりにも多すぎるように思える。本書は、多くの疑問の余地を残している。逆にこれぐらいの方が歴史に説得力を感じる。

1. 異形の衣裳
南北朝動乱期、異形の衣裳が爆発的に噴出したという。覆面姿、さまざまな頭巾の着用が流行し、庶民に至るまで多様なスタイルが登場する。女性も覆面や頭巾を付けて男性に混じって旅をするようになる。かぶき者もこの時代から現れる。鎌倉時代まで公家、武家、寺家が懸命に維持しようとしていた服装の禁忌は完全に崩れ去る。こうした文化風潮を「婆娑羅(ばさら)」の風と呼ぶ。本書は、婆娑羅の源流が非人の衣裳であるという。子供に対するイメージの変化も見てとれる。小童は自由で誰にも束縛されない。単に幼くて行動に責任がないというだけでなく、一種の神聖なものがあるという考えは伝統的にあったという。しかし、この時代に非人に近い存在となる。悪党、悪憎、悪童へと転化していく様がうかがえる。身体的条件からは、老人、琵琶法師、盲人も差別されていく。浮浪人、乞食人もしかり。弱者への軽蔑の認識が芽生える時代でもあったことを考察している。

2. 扇の魔力
扇で顔を隠すしぐさや女性が口元を袖口で覆うしぐさは、扇を持ち歩く階層に広く見られる光景である。ただ注目すべきは、こうした事例が大道や河原、寺院や道場の周辺、いわば公界の場で異常な事態を見なければならない場合のしぐさであるという。そのしぐさの意味は、悪霊に通ずる穢れが及ぶのを避ける行為であるのは明らかである。扇には呪力でもあったのだろうか?宗教的意味合いがあるのかもしれない。人間は、別世界の人間になることを願望として持っているのかもしれない。恐いもの見たさもこの心理に通ずるものを感じる。

3. 異形の力
非人騒動といわれた百姓一揆は、非人の衣裳をまとっていた。彼らは、自らを非人と名のってデモをする。非人の魔力とでも言うべきか、権力者に立ち向かう時に異様な威圧感を示したと想像できる。聖なるものの象徴として意識されていたのだろう。俗世間からは規制されない自由なものを、意味しているのかもしれない。しかし、この頃から異類異形は忌み嫌う存在へと意識が変わり、無縁の思想が生まれる。日本人には、どんな罪人であろうと、死んでしまえば罪人扱いしないという独特の風習がある。これも、なんとなく無縁の思想に通ずるものを感じる。こうした風習は外国人には理解されないだろう。おいらには、墓碑にまでも唾を吐きかける行為の方が理解できない。現在の日本でもグローバル化が進んでいるだろうから、そうした行為も見られるようになるのかもしれない。もし、そうなると少し寂しい。

4. 異形の王権
後醍醐天皇の存在が、否定的に捉えるか肯定的に捉えるかは議論の分かれるところだろう。ただ、特異な役割を果たした天皇であることは間違いない。建武の新政は、王朝国家の体制として定着していた官司請負制の全面否定、官位相当制と家格の序列の破壊、職の体系の全面否定であり、古代以来の議政官会議を解体し、執行機関を全て天皇直轄にした。これは、宋朝の君主独裁政治をモデルにしている。目的のためには手段を選ばず、観念的、独裁的、謀略的で、しかも不撓不屈。このあたりは佐藤進一氏の著作「日本の中世国家」を中心に語られる。早々、明日にでも本屋で購入することにしよう。
後醍醐天皇は異類異形といわれた悪党から非人までを軍事力として動員し、内裏の出入りまで許可した。この時代、まだ非人は差別の枠に押し込まれてはいないが、その方向への強い力が働いていただろうと語る。後醍醐天皇は、そうした差別への方向からの反発力を王権に利用したのではないか。また、社会と人間の奥底に潜む力を表に引き出すことによって、その立場を保とうとしたのではないか。などと考察する。こうした行動は後醍醐天皇の直面した危機によるものであるだろう。古代以来、天皇制で直面した最も深刻な危機がこの時代にあった。鎌倉幕府の成立、承久の乱での敗北後、天皇家の支配権は東国には及ばなくなる。蒙古来襲を契機に九州までも幕府の権力下に入る。一般的には、10世紀以降、摂関政治、院政と規定され、天皇不執政の時期と見るのが通説である。ただ、本書は、室町時代や江戸時代と同一視してはならないと主張する。天皇家、貴族、官人諸家の分裂、抗争が深く根付いた時代でもあり、天皇家の支配力が衰え始めたのは後醍醐天皇以降に顕著になったという。後醍醐天皇の行動は、そうした危機感への反発を含んでいたことだろう。そして、権威の誇示をはかったのではないか?と考察している。後醍醐天皇の王権もわずか3年で没落する。しかし、執念とも言うべき南朝を立てて、60年にもわたって南北朝動乱期となる。天皇の確実な権威が失われたと知った武士、商工民、百姓にいたる各層の人々の中から、自治的な一揆、自治都市、自治的な村落が成長してくる。こうした動きは、権力の分散を引き起こし、権力による統合を難しくする。人間関係においても計算高く利害関係が支配する風潮となっていく。こうした背景で貨幣の役割も大きくなる。この時代に、天皇の地位のあり方そのものに本質的変化があったと主張している。天皇の聖なる存在はこの時期に失われ、その復活は明治維新まで待たれることになる。歴史的に見れば、天皇家は単なる一つの王朝というだけで、とっくに滅んでいても不思議はない。神聖的なものとして扱われている意味は律令政治にさかのぼるのだろうが、だからといって存続する理由もない。では天皇制の意義とはなんだろう?権力と象徴の二重構造が日本の歴史を複雑にしているのは間違いないだろう。現在ではその意義も外交上変化しているだろう。歴史的意義とは変化していくものである。

本書は、確かな歴史認識の元に天皇制の有り方も考えなければならないと主張する。しかし、天皇制については各方面から政治力が働くため、学校教育はもちろん、評論家が力説しているような意見ではまともな情報を入手するのは難しい。政治家に至っては支持母体に従うだけで耳を傾ける価値もないだろう。冷静に研究がなされた古代史家の文献を読むのが一番であるが、過去の統治権力によって捻じ曲げられた可能性も大きい。もしかしたら、既に裏の政治力でまともな文献は抹殺されているかもしれない。こんな状況で天皇制を世論任せにするのは危険である。一般人が考えられるような土俵つくりが必要であるが、マスコミにその役目が果たせるだろうか?天皇の議論はタブー化された社会でもある。酔っ払いには傍観するしかない。

2008-03-09

"日本の歴史をよみなおす(全)" 網野善彦 著

タイトルの(全)とは、なんだろう?と思ったら、「日本の歴史をよみなおす」と「続、日本の歴史をよみなおす」の2冊をまとめたものらしい。更に文庫本化されている。2倍でコンパクト!アル中ハイマーはなんとなく得した気分で幸せである。

本書が扱う時代は、13世紀から14世紀の南北朝動乱期。この時代は、現在の転換期と同じような大きな変化が起こり、この時代の考察は現在の社会を考える上でも意義深いと語られる。それは、社会や商業の形体、宗教の意識、差別感覚の発達などの変化である。ここで言う差別感覚とは、身分や階級ではなく非人の扱いである。そして、中世の日本社会が本当に農業社会であったのか?日本文化の持つ特有性は、島国であるがゆえの孤立国家により作り出せれたものなのか?という一般の歴史で語られてきたことに疑問を投げかける。歴史家の落とし穴は、もっぱら文献資料を扱うことにあるという。多くの歴史資料が国家制度の影響下にあり、それを率直に受け入れたことによって、多くのゆがんだ歴史像を提供していると指摘する。本書に感銘を受けたのは、民族学や考古学からも考察され、庶民の側から歴史を概観できるところである。日本社会には、建前と本音の二重構造が潜在する。その中で庶民の視点まで掘り下げた本質的な考察が難しいのも事実だろう。これは、歴史学に限らず経済学や社会学などにも言える。中世の日本というと、庶民は貧困に喘いでいたという印象があるが、本書は少々違った印象を与えてくれる。

1. 文字社会
中世における日本人の識字率は世界的に見ても恐ろしく高い。特に女性の識字率が高い。また、平仮名、片仮名、漢字の3種類の文字を使いこなす民族も珍しいだろう。平仮名や片仮名の混ざった文章が登場するのが10世紀頃、13世紀後半までは文書全体の20%ぐらいに仮名文字が混ざっていたが、室町時代の15世紀に入ると60%から70%へ跳ね上がったという。それも片仮名は少数派で平仮名の勢力が強い。公文書など堅苦しいものは片仮名で、読みやすく庶民文化に親しんだのが平仮名という傾向がある。女性が平仮名を多用したことから、女性文字と言わることもある。三島由紀夫著の「文章読本」でも「枕草子」「源氏物語」など、日本文学の源流が女流文学であると述べていたのを思い出す。中世から女性がすぐれた文学を生み出した民族も珍しいだろう。しかし、こうした女流文学が生まれたのは14世紀までだったという。この頃に、女性軽視の社会的意識が生まれたのだろうか?鎌倉、室町時代には、平仮名が男性社会にも普及する。こうした文字が普及した社会とは、何を意味するのだろうか?文字の普及とはその実用性と関係がある。文書が増えれば文章にも品がなくなる。こうして日本語は口語調に変化してきた。インターネット時代では、気軽に記事が公開できる分、言葉も荒れる。現在では、翻訳語の勢力も強い。おいらは翻訳語に犯されて、本筋の日本語を使いこなせない。識字率の高さは、文書を前提とした政治体制をつくる。これは世界の中でも特異な国家だという。政治家が自己主張するのに文書を棒読みする癖は文字社会の伝統かもしれない。行政も文書主義を厳格に実施し、口頭でものが動かない社会となる。ただ、共通認識を明文化できるという長所もある。日本人が語学を勉強する時、文法主義に陥るのも、こうした伝統があるからかもしれない。言葉を知らないと馬鹿にされるが、言葉の持つ意味を本質的に理解しているかは疑わしい。そもそも、全てを言葉で表現できると信じることに限界があるだろう。

2. 商業と金融
和同開珎が鋳造されたのが8世紀始め。当時は、貨幣というより一種の呪術的な意味をもっていたようだ。まだ、社会が貨幣を必要としていない。13世紀の後半から14世紀にかけて貨幣の流通が本格的に始まる。拝金主義もこの頃生まれたという。注目すべきは、流通した銭が、中国の宋銭、元銭、明銭だったという。当時の日本には、銅の産出も活発で鋳造技術もあった。にも関わらず支配者は銭を造ろうとはしなかった。後醍醐天皇が銭を造ろうとしたぐらいで、王朝も幕府もそういう発想を持たなかった。本書は、中世日本が市場社会を受け入れられない体質があったという。物々交換は贈与互酬の関係になり、人のつながりを深く結びつけ、特定の人間同士でしか交流しない。しかし、市場原理は無縁の人間の交流があって盛んになる。物と人も世俗の縁から切れて無縁となる。そう言えば、金融の場で利息という発想も不思議である。金融の起源を遡ると「出挙」に帰着する。出挙は稲作と結びついており、最初に獲れた初穂は神に捧げられ、神聖な蔵に貯蔵される。そして翌年、神聖な種籾として農民に貸し出される。収穫期が来ると、借りた種籾に若干の神へのお礼を付けて蔵に戻す。これが利息の始まりだという。金融行為そのものが神聖なものだったのである。こうした金融行為がしだいに、現代の感覚でも理解できる世俗的な性格を持ち始めたのが14世紀頃だという。

3. 鎌倉新仏教と非人
この時代に鎌倉新仏教という新しい宗派が登場する。本書は、海外でキリスト教が果たした役割を鎌倉新仏教が果たしたのではないかと考察している。贈与互酬を基本とする社会で、神仏との特異なつながりをもつ場、無縁の場を提供したのが鎌倉新仏教であるという。寺社の修造のための寄付金集めが神聖的に行われたのは想像がつく。鎌倉新仏教系の寺院が、祠堂銭を元に金融活動を行い、それで寺院を運営していた。しかし、16世紀に入るとキリスト教を含む新興宗教は大弾圧される。織田信長、豊臣秀吉、江戸幕府によって、宗教は独自の力を持つことができなかった。日本の支配者は、政治に対する宗教の影響の恐ろしさを認識していた。こうした宗教弾圧は、差別意識にも影響を与えたという。非人とは、なんらかの理由で平民の共同体の中に住めなくなった人である。そこには障害や病を持つ者、身寄りの無い者など、広義では犯罪人で放免になった者や川原者も含む。「身分外の身分」という位置付けが一般的なようだ。しかし、本書は職能民の面をもっていると語る。ただ、この主張は学界では市民権を得ていないらしい。なんとなく著者の愚痴が聞こえてきそうである。仕事は、葬送、処刑、罪を犯した人の住居の破却などで、「穢れから清める」という意味がある。よって、穢れを清める力をもっている神聖な側面もあるという。彼らは乞食になったりする。乞食は仏教では世を捨てた人の修行の一つで、乞食に物を施すことは、仏に対する功徳であると考える。乞食は仏の化身でもある。彼らには、職能から神仏に直属するという誇りもあったという。しかし、13世紀後半の文献「天狗草紙」では、非人を「穢多」という言葉で表し、明らかな差別語を用いる動きが現れた。この時代に、穢れに対する差別と、非人への救済という思想のぶつかり合いが始まった様がうかがえる。この頃、遊女も非人と同じ扱いを受けるようになる。浄土宗や一向宗、時宗にせよ、日蓮宗にせよ、また禅宗や律宗にせよ、いわゆる鎌倉新仏教は、悪人、非人、女性、穢れの問題に、正面から取り組もうとした。しかし、世俗の権力によって徹底的に弾圧される。そして、日本社会では、被差別部落、ヤクザ、遊女、博奕打に対する差別が定着していくことになると考察している。

4. 女性の身分
宣教師ルイス・フロイスが残したものにこんなものがあるらしい。
「日本の女性は処女を重んじない。夫婦の財産は別で時には妻が夫に高利で貸し付ける。離婚も不名誉ではなく再婚に支障を来たさない。夫に断らないで何日でも自由に外出できる。」
これには著者も驚いたようだ。日本の女性に対する偏見ではないのか?中世ヨーロッパの女性の地位が非常に低いことに比べれば、日本の女性は比較的強い立場に写ったというのが本当のところではないだろうか。しかし、本書はもう少し突っ込んだ考察を進める。明治維新頃の離婚率の高さから、江戸時代の離婚率の高さを推測できるという。幕府の法制から、離婚権は夫側にあったというのも実態とは違う可能性を指摘する。というのも、日本は極度に建前を気にする社会だからである。本書は、女性の貞操観はかなり後に確立されたのではないかと推測している。女性の識字率の高さから見ても教育レベルの高さが想像できる。「三くだり半」という言葉は、伝統的に使われた可能性もあるだろう。案外フリーセックスの時代だったのかもしれない。鎌倉時代では、御家人の名主に女性がなっている例も多いという。通説では女性がかなり虐げられていたことになっているが、女流文学が高度に発展していることとは、少々矛盾を感じる。著者は、こうした通説にはまだまだ研究の余地が残されていると述べている。日野富子は将軍の奥方でありながら、大名たちに多額の金を貸し、財を蓄積したと非難される。これも氷山の一角であり、彼女だけを悪女にするわけにはいかないだろうと語る。しかし、14世紀頃から女性の地位も失墜していったという。

5. 日本と天皇
天皇の称号が定着したのは推古天皇からと言われていたが、最近では律令の規定により持統天皇からというのが古代史家の間でも通説のようだ。日本という国名も、遣唐使の時から使われているようで、ほぼ同じ時期に確立したと思われる。ということは、聖徳太子は日本人じゃないのか?「日本」とは王朝でも地名でもない。「ひのもと」は中国からみて日の出の方向で、中国を意識した名称である。律令制が天命思想を前提としているのに対して、日本では独特の解釈がなされたという。天皇には、律令制の皇帝としての存在と神聖な王としての存在がある。家元制度や職能別の世襲制が固まっていき、その頂点に天皇家という世襲制がある。南北朝動乱時、天皇が権力を失いながらも、なぜ生き延びたのか?天皇家が一つの王朝であるならば、滅亡すれば別の王朝が誕生するだけのことである。日本には、無理やり天皇家を存続させて、権力だけ持ち回りしてきた歴史がある。神になろうとした織田信長がもう少し長生きしていたら、天皇家は滅ぼされていたかもしれない。この権力と象徴という二重構造が日本の歴史を複雑なものにしているように思える。歴史的にも、南北朝のどちらが本流かという議論がなされてきた。そこには政治支配者の思惑も絡む。万世一系というのも疑わしい。徳川家康だって源氏を名乗った。系譜をめぐった論争は、皇室への冒涜と批難され抹殺された歴史家も多いことだろう。

6. 百姓は農民?
封建社会では農業が生産の中心で百姓は農民である。これは日本人の社会観であろう。これは仕方がないことで、学校の教科書がそのように表現している。ある統計情報では秋田藩の人口は76.4%が農民である。しかし、別の資料では百姓が76.4%となっているものを紹介してくれる。他は武士と町人となっているから、ほとんど生産は農業だけということになる。しかし、実際の百姓は、農業はもちろん、製塩、製炭、山林、鉱山、廻船、金融など様々な産業が含まれる。歴史教科書には、水呑百姓は田畑が持てない貧乏な農民と記している。しかし、これは田畑が持てないのではなく、持つ必要のない百姓ということらしい。むしろ比較的豊かで別の産業を営んでいた石高のない人々である。しかも非農業民は少数派ではない。おもしろいことに、「百姓」という言葉はマスメディアの世界では差別語であり、記事には使えないそうだ。中国や韓国では百姓を普通の人と訳すらしい。確かに文字からして農民とする方がおかしい。租税制度そのものが水田を基盤にしているというのも誤解を招く。制度上の用語も農業主義的なものが多い。本書は、田畑を中心とした見方は、歴史を捻じ曲げると指摘する。おいらの認識も年貢というと米しか思いつかない。こうした教育が、土地に対する思い入れの強い民族に仕立てられるのかもしれない。ちなみに、おいらの国語辞典には百姓は農民。おまけに田舎の蔑称とも書いている。もはや国語辞典も信用できないのか?

本書を読み終わって、現在においても日本人が農業を軽視する傾向にあるのは、この時代に源流があるのではないかと思ってしまう。現在の食料自給自足率を極端に下げる傾向は、この時代からの名残とも言えなくもない。また、日本人が宗教への意識が低いのも、その源流が過去の大規模な宗教弾圧にあるのかもしれない。この時代は、銭貨の流通も活発になり、金融業も活発化し、信用経済が芽を出す。土木建築に資本が動き、資本主義的にもなりつつある。大規模な飢饉が起き始めたのも13世紀頃。ずっと昔にも小規模な飢饉が起きているが、この時代から大規模化していると指摘する。これも非農業化にともなう現象と捉えている。課税も土地に対する租税だけでなく、商工業者に対する課税も始まり税収も多様化する。こうした流れは、明治維新で台頭してきた、薩摩、長州、土佐、肥前など海上貿易の盛んだった藩へと受け継がれる。封建社会とは、領主による農民の支配が、基本構造であることを学校で教えられた。しかし、産業が多様化している中で、百姓、つまり一般の人々が、それほど隷属的に従うだろうか?百姓は、多様な社会を築き高度な知恵を持っていたことが想像できる。などなど、通説とは違った歴史が概観できるところがおもしろい。

2008-03-02

"近代ヤクザ肯定論" 宮崎学 著

前記事の「反転」では、元検事さんの本を読んだ。今度は、裏社会の立場の本を読んでみるのもおもしろそうだ。本書に興味を持ったのは著者の経歴である。父は伏見のヤクザ寺村組の親分。早大在学中は日本共産党のゲバルト部隊に属したとある。なんとなくド迫力の香りがする。ただ、意外なことに、社会学的に考察している点はおもしろい。歴史の面からも、日露戦争後、ブルジョアとプロレタリアの棲み分けがはっきりしていた時代から、戦後急速に民主化が進んだ時代を経て、バブルに至るまでを底辺社会の視点から概観できる。

戦後の名だたるヤクザは、被差別部落や在日コリアン、その他に島の出身者が多いという。瀬戸内の島々、奄美、沖縄、済州島など。また、教育レベルの低い者や障害者もいる。社会的弱者が生き延びるためには群れるしかない。こうした背景でヤクザの存在意義が語られる。中でも山口組は利益社会型としての先駆者であったという。三代目組長田岡一雄氏は、ヤクザが博奕で食っていく時代は終わったと断言し、組員が正業を持ち一般社会の中に入るべきであると説いている。また、柳川組の谷川康太郎氏の言葉は印象的である。
「何が善で何が悪だといえるのは、まだ余裕のある人間だ。ドストエフスキーの"罪と罰"なんて所詮インテリの精神的遊戯だ。そんなことで飢えた人間は満たされない。」
そこには、ヤクザしかなれない人がいる。麻薬密売でしか生きていけない人がいる。任侠や愛国とか言う前にそういう現実がある。彼らは右翼団体や政治団体とは一線を画す。本書の目的は、こうした世界があることを伝えることであると語る。そして、そこにヤクザという選択肢があったことに文句がつけられるだろうか?と問いかける。

アル中ハイマーには、善悪を超えた領域など想像もできない。ただ、ヤクザは、前科、出身、国籍、経歴をいっさい問わない唯一の集団なのかもしれない。そういえば、小学生の頃、同級生にヤクザの息子がいた。少々喧嘩早いところもあったが、まったく違和感がなく結構いい奴だったので一緒に遊んだりもした。中学生になる頃、既に上級生の子分を10人ほど引き連れていた。本人は以前のように気軽に話しかけてくるが、遠い存在であることを認識させられた。おいらはすぐに転校したから、あれからどうしているか知らない。当時住んでいた公団の横にヤクザの幹部か、あるいは組長の豪邸があった。同級生とは苗字が違うが親戚とか言っていたような気がする。その名も梶原さん。まさか本書に登場する人物とは関係ないだろうなあ。その豪邸には大勢の組員が出入りしていたが、お行儀の良い人達であった。ただ、大きなドーベルマンが数匹飼われていて近寄りがたかった。優しそうなおじさんが、よく背中の刺青を見せてくれたことに、幼少ながら面白がっていたのを思い出す。今思うと恐ろしい地域に住んでいたものだ。先日も発砲事件のニュースが流れていた。

1. 労働力供給業と芸能興行
海運業は、貨物取扱量の変動が季節的にも日々においても激しい。船会社や荷主は、経営コストを下げるために港湾運送業を直営にせず、下請業者にリスクを背負わせる。下請業者も、大手業者に直属して大口取引を独占したり、雇用する労働者を最小限に抑えたりして、リスクに対抗する。直属関係は縄張りを生み、荒らす者には暴力的な手段が取られる。労働者を最小限に抑えるために、日雇い労働者や臨時労働者で雇用調整する。いきなり船が入ってきた時は、即座に労働力を供給する必要もある。過酷な労働に人員を集めるには、前歴を問わず、荒くれ者や流れ者が多く、強い統率力なしでは運営できない。いつでも労働力をプールするには、底辺社会、裏社会とのルートをもつことが有利となる。これぞヤクザの真骨頂である。港湾荷役から労働供給者として独立したものの一つに山口組があった。日本の経済成長とともに、ヤクザは労働組織から必要に応じて自然発生したのである。また、吉本興業の用心棒をした関係からも芸能界にもつながる。大阪相撲の興行権も獲得する。芸能プロダクションが地方興行権を得るには、その縄張りにお伺いをたてなければならない。芸能人につきものの数々のトラブルを揉み消す役目もある。興行権といえばプロレス界もその典型である。興行権を手にすれば、芸能界も牛耳れるという構図である。山口組は労働力供給業と芸能興行の二つの事業で成長していく。

2. 利益社会型としてのイノベーション
労働現場で、親方・子方関係が支配していた時代があった。企業は現場の管理を直接できなかった。ところが高度成長期になると、技術革新による生産の合理化が進み、企業が現場の労働者をも直接掌握できるようなる。これを牽引したのが自動車産業である。代表的なものがフォード・システムである。自動車産業は購入部品など下請依存の高い産業であり、自社の系列化により下請企業群を直接従わせる。その延長上に日産のOES(Order Entry System)やトヨタのカンバン方式がある。変動的な人件費も同一規格にパッケージ化される。こうした流れは、様々な産業へと波及する。山口組が支配していた神戸湾の港湾荷役では、ベルトコンベヤー、クレーン、フォークリフトを導入する。下請業者がこうした機械に設備投資すると採算が合わない。そこでリース業者が生まれる。港湾においてはコンテナ化も進む。こうなるとヤクザが支配していた臨時の労働者供給が必要とされない。ヤクザの残された道は、企業化するか退散するかしかない。これは親方・子方制が解体されることを意味する。このような時期に山口組は土建業に進出し、タクシー業、生コンクリート運輸業などと関わりを持つ。一般企業にとって、トラブル処理は、ヤクザの使い道として重宝される。ゼネコンで雇われた多くの中に荒くれ者や流れ者が含まれるのは普通であり、彼らのトラブルを親会社が処理していてはコストがかかる。むしろ、お守り料としてヤクザに裏金を還流した方が安上がりである。また、企業社会の負のサービス業として民事介入暴力で活動する。総会屋、会社ゴロ、金融者、整理屋、示談屋、取立屋、パクリ屋、サルベージ屋、アパート屋などで、紛争介入の手数料を稼ぐ。こうした利益社会に順応していったヤクザは山口組だけだったという。

3. 同和利権の誕生
行政の行動様式は、事なかれ主義の官僚体質が支配的である。名指しで糾弾されたり、デモや街宣車から、管理能力を問われると震え上がる。彼らは、差別糾弾という看板を掲げて強面のヤクザが乗り込んでくると迎合的になる。これが解放運動や同和団体と称するヤクザとの癒着を生み、同和利権が誕生することになったという。同和対策の関係官庁は、自治省(現在の総務省)である。当時、この中央官庁から都道府県に副知事として下っていき、その後知事となるケースも多い。そういう人物に同和対策室経験者が非常に多いという。暴露本では、同和関係の大物政治家を実名で紹介しているものもある。いわゆるエセ同和である。

4. 権力の手先と反権力の闘争集団
国家権力の正統性を普遍化するには、暴力の独占と法の支配が必然である。ただ、実際はそこまで徹底することはできない。経済活動に閉塞感が生まれるのもよくない。資本主義には、ある程度ヤクザが存立できる余地が残されていたようだ。国家権力からみて一元的な管理の下に従っているヤクザは存続が認められ、逆らうものは潰される。民主化運動や冷戦構造の中で沸き起こった共産主義者による武装闘争においてもヤクザは活躍する。戦後の警察力だけでは統治できない混沌とした時代には、地方の隅々まで把握したヤクザの存在は大きかった。政治思想に感化されたヤクザもいる。右翼団体や共産主義の中にも存在する。政治介入すれば、国家権力が脅しにかかる。あまり締め付けるとヤクザも反抗する。国家権力とヤクザの互いの脅し合いでバランスされる。こうした時代に、山口組は、政治色の弱いヤクザであったことが、うまく共存できた理由の一つであると語る。暴力団全国一斉取締キャンペーンで警視庁が本腰を上げた時、数々のヤクザ組織が潰されたが、山口組は潰れなかった。これは、水面下で兵庫県警と山口組が癒着しているからであるという。ただ、それだけではない。田岡氏は従来型の山口組は解体するつもりであったという。そもそも全国制覇の進展で山口組は大きくなり過ぎた。大組織になると愚か者も出てくる。少数精鋭にしなければならないと語っていたらしい。少数精鋭で経営効率を向上させ、一時的に縮小しても、更に巨大化して発展する企業も多い。山口組もその一例となる。警察のキャンペーンは、資金源を断ちヤクザを産業から放逐した。しかし、中小ヤクザを壊滅させただけで、むしろ寡占化を促進させた結果になったという。バブル期においても経済の裏側でヤクザが活躍したことは容易に想像がつく。大企業や金融機関が、ヤクザを存分に利用して巨利を得ようとしなければ、バブルは起きなかったかもしれないとさえ語る。政官財の中枢を担うパワーエリート達が陰の財テクに励む。そうしたダーティな部分にヤクザは入り込む。どちらもヤクザであることに違いはない。

5. ヤクザの存在意義
警察の頂上作戦によってヤクザは解体されていった。ヤクザの人員減少は警察も胸を張る。しかし、ヤクザを辞めた人間はいったいどこへ行ったのだろう?結局、社会の隙間に潜り込んでしまい、以前とは区別がつかないところで犯罪をする。むしろ犯罪は巧妙となり、悪戯な詐欺行為が散乱する。統制が取れていたヤクザ組織とどちらが良かったのだろうか?答えを出すのは難しい。人間社会が複雑化する限り、ある確率で犯罪は存在し続けるだろう。下層社会が拡大すれば尚更である。現在では格差社会と言われている。フリーター化、人材派遣化していく様も近代ヤクザの傾向であるという。表向きクリーンでも、その実態はヤクザである企業はますます増える。更に、グローバル化の波も押し寄せる。資本や労働が有利な方向へと移動しやすくなり、経済国境もなくなる。日本にも世界レベルの格差社会が到来するかもしれない。そうなると、新ヤクザ構想もグローバル化するのだろうか?