著者の本は何冊か読ませてもらっている。そのくだいた表現力には毎度関心させられる。おいらは、技術の話を人に説明する時、いつも悩まされる。大学では数式で誤魔化す先生も多い。ところが、著者はほとんど言葉で流すところが凄い。哲学や思想の領域まで踏み込まないと、分かりやすく表現するのは難しいだろう。学生の理系離れが叫ばれる昨今、こうした企画は貴重である。
アル中ハイマーには、量子論の世界はなんでもありなのか?と思えて仕方がない。真空で何もない空間に、都合よくエネルギー保存則が成り立つようにプラスとマイナスの粒子が突然発生し、更に都合よく、ブラックホールになるかならないかの境界線で、プラスとマイナスが分かれて、一方は放射し、一方は吸い込まれる。これ全て不確定性で片付けられても、酔っ払いには「飲みが足らん!」と言われているようである。アインシュタインですら、量子論には抵抗感があったというから尚更である。更にホーキングは、実時間では特異点に始まり特異点に終わると言われる宇宙も、虚時間という概念を持ち込んで、特異点を無くしてしまい、宇宙の境界線すら消してしまう。天才が考えることは、どこかブチ切れている。地球表面上に住む人間は、地球の果てを求めて探検しても、その果てを見つけることはできない。これは、平面上を歩いていると信じていても、実は球面上を移動していることを知らずに、境界の無い世界をさまよっているようなものである。実数の指数関数も、虚数の概念を持ち込めば、複素平面上をぐるぐると回る。そもそもマイナスとマイナスを掛けるとプラスになるという発想は、人類のご都合主義によるものなのだろうか?むしろ、虚数の世界にこそ、自然法則が顕になる何かがあるのだろうか?人類は、実存論への答えすら見つけられず、空虚な世界をさまよう運命にあるようだ。
実は、おいらも虚時間を体感している。行付けの店に入り込めば、ブラックホールに落ちるかのようにアルコールによって分子レベルまで分解される。そして、気づいた時には亜空間な別の店に存在する。その店間経路は、虚時間によって受け継がれることにしなければ説明がつかない。
スティーブン・ホーキングは、「車イスのニュートン」と呼ばれ、ニュートンが在職したルーカス職の数学教授を勤めた。彼はALS(筋萎縮性側索硬化症)という不治の病にかかったことでも有名である。ALSは、発病すると手足の自由がきかなくなり、話すことも食べることも呼吸さえも困難になる難病である。発病当初は余命数年と宣告されたという。しかし、彼は前進を続け現在も活躍する。発病した頃、最愛の女性と結婚し三人の子供をもうけ、巨大な富を得て、そして、離婚、再婚と波乱万丈である。
科学者の世界には、二つの相反する研究態度がある。それは、実在論と実証論である。自然現象を、なんらかの物理的存在理由があると考えるか、あってもなくてもいいと開き直るかの違いである。ホーキングは典型的な実証論者のようだ。その理論を分かりにくくしている原因がこの思想にありそうだ。彼は、自分の研究の利点を強調する時に、他人の欠点を嘲笑うことが多いという。頭にくると電動イスで相手の足を轢いてしまうという逸話がたくさん残っているらしい。
本書は、ホーキングの研究論文は、一貫してアインシュタインの正統な後継者を思わせるものがあると語る。彼は、アインシュタイン理論をブラックホールや宇宙といった対象にあてはめた。そして、相対性理論に量子効果を加味した考察が特色である。本書はこの言葉から始まる。
「ホーキング博士によれば、ブラックホールは、本当はグレーホールであり、つまり、熱くて周囲に放射を出しているのであり、時間が経つと蒸発して消えてしまうのだそうである。」
通常の物質は、いろいろな分子からできていて、色や堅さといった属性を持っている。ところがブラックホールは、質量、電荷、角運動量といった属性しか持たない。では、ブラックホールに落ちた情報はどこへ行くのだろうか?存在し続けるのか?永遠に失われるのか?2004年ダブリン会議でのホーキングの講演はこうした問題を扱っていた。ホーキングは、アインシュタインとファインマンを足して2で割ったような人だという。アインシュタインの重力理論に、ファインマン流の経路和をつかった量子論を利用するからである。歴史的には、理論物理学者は相対論派と量子論派に分かれる。現代物理学の懸案は、重力理論と量子力学を統一して、量子重力理論を構築することである。そのアプローチに、どちらから迫るかという選択がある。「超ひも理論」の素粒子物理学者は、量子力学からアプローチしたものである。ホーキングは重力理論からアプローチする。そして、異常なほど宇宙の始まりについて固執する。まるで旧約聖書に反論するかのように。
1. 相対性理論
相対性理論では、時空という概念がある。単に時間と空間を一緒にしたものではなく物理的に混ざったりする。また、数式だけでは理解し辛いので、ビジュアル的に捉えられるように時空図が考案されている。時空図は、三次元で表現され、縦軸の時間に対して、二次元平面の空間を表す。本書も、この時空図を使って説明してくれる。また、幾何学単位系を用いてできるだけ省略する。(光速cを1とし、ニュートンの重力定数Gを1とし、プランク定数hも1とする)本書は、アインシュタインは物理学を幾何学としてとらえたが、その精神からするとあらゆる物理量の単位をなくして、純粋な数字であつかう方が自然なのだろうと語る。ちなみに、特殊相対性理論は、特殊な座標変換に対して物理量は不変であると主張する。対して、一般相対性理論は、光速を固定する。どんな変換系であろうと、どんな空間であろうと光速が変化しないということは、時間と空間の方が伸び縮みするということである。アインシュタイン理論では、空間の曲率は物質の質量に比例するので、平らなユークリッド空間からズレが生じる。つまり、空間が曲がっているということは、物質が存在するということと同義である。
2. 特異点を追求した科学者たち
(a) カール・シュヴァルツシルト
シュヴァルツシルトはブラックホールの半径を計算した。彼は重力場を記述する特殊解を見つけ、ブラックホールの存在を示唆した。これは「シュヴァルツシルト半径」や「事象の地平線」と呼ばれ、時間が消えて空間が無限大になる境界線である。通常の星では、シュヴァルツシルト半径は星の半径よりも十分小さいので、星の内部に隠れる。
(b) スブラマニアン・チャンドラセカール
重い星は自らの重力によって収縮し潰れるはずである。しかし、量子論では星が潰れるのを防ぐ面白い法則がある。それが「パウリの排他律」である。同じ状態にある電子どうしをくっつけることはできないということがわかっているらしい。つまり、重い星がある程度まで収縮すると電子どうしが接近して反発するようになる。パウリの排他律とは、電子どうしが互いに排他的になるという意味である。しかし、チャンドラセカールは、太陽の1.4倍より重い星の場合、パウリの排他律による反発力でも支えきれずに星が潰れてしまうことに気づいた。星が収縮し続けると、いずれシュヴァルツシルト半径という魔の領域に到達するかもしれない。すると、時間が消えて空間が無限大になるような時空の境界線が、星の外部にはみ出してしまう。
(c) ハートランド・スナイダー
光は音波と同じように遠ざかると周期が間延びするので、星が収縮している間は光波も間延びする。しかし、ある程度収縮すると光波も安定する。ブラックホールが「凍りついた星」と呼ばれる所以である。ところが、星の表面で観測すると別の光景が待っている。観測者にしてみれば、シュヴァルツシルト半径を超えたとしても、それを感じる徴候は何もない。そこでは、重力もさほど強くなく、空間に亀裂が入るわけでもない。観測者の時計が止まることもない。しかし、一旦シュヴァルツシルト半径の内側に入ったら、そこから脱出することはできない。観測者は、どんどん中心に向かって落下しつづけることに気づくだろう。やがて、観測者は左右から押し付けられ、上下に引き伸ばされる力「潮汐力」を感じる。そして、身体もバラバラになり分子レベルまで分解され点にまで潰される。スナイダーは、シュヴァルツシルト半径が後戻りできない線であることと、遠方からは凍りつく場所であることを示した。シュヴァルツシルト半径では、光でさえ脱出できない。
(d) ロジャー・ペンローズ
魔の境界線は消え去っても、ブラックホールの芯が残る。この芯こそが特異点である。特異点といっても、大きさがゼロの点で、物理量が定義できるわけではない。物理学者はこの特異点に悩まされる。分母にはゼロを与えられない。ここで本書は、地球儀を使って、おもしろい特異点の話をしてくれる。地球儀は、どこの都市でも緯度と経度という座標系で場所を特定できる。しかし、北極と南極は特定できない。緯度が90度でも経線が集中する。これも、緯度線と経度線という座標系に潜む特異点である。では、シュヴァルツシルト半径の数学的特異点とは、座標系がまずいのであって、適した座標系に変換すれば除去できるのだろうか?どんな座標系でも除去できない本物の特異点がある。それは、温度や圧力、空間の曲がり具合といった物理量自体が無限大になる点である。ペンローズが証明したのが、まさしくこの本物の特異点の存在である。ブラックホールの芯では、そこで物理が終わってしまう。時間と空間の終わりである。
(e) ホーキング
ホーキングは、ブラックホールになる仮定を時間反転して、宇宙の始まりは特異点であり、ビッグバンから始まる宇宙論を証明した。ただし、ホーキングの特異点原理は、アインシュタインの重力理論が前提である。もし、アインシュタインの理論が間違っているとしたら、この証明は学術的意味を失う。ここで微妙なのが、宇宙の初期状態では、アインシュタインの重力理論は成り立たないと考えている物理学者が多いことである。
ホーキング曰く。「特異点定理は、必ずしも時間の始まりがあったということではなく、アインシュタインの重力理論だけでは、宇宙の始まりは扱えないことを意味している。」
3. ホーキング放射
ホーキングの計算によると、シュヴァルツシルト半径はブラックホールの質量に比例するという。そして、ブラックホールの面積は質量の二乗に比例し、ブラックホールの温度は質量に反比例する。つまり、熱いブラックホールは軽く、冷たいブラックホールは重いことになる。ホーキングは、ブラックホールが周囲に熱を放出する割合を求めた。これが「ホーキング放射」である。通常、星が崩壊してできたブラックホールは、最低でも太陽の質量の1.4倍が必要で非常に冷たい。通常のブラックホールは周囲の宇宙の温度よりも圧倒的に低い。だから、周囲から吸収する熱の方が、放射する熱よりも大きい。だが、宇宙が膨張しつづけると宇宙の温度はどんどん下がり、いずれブラックホールの温度は宇宙の温度よりも高くなるだろう。その時点から、熱の流れが逆転し、ブラックホールは熱とエネルギーを放出し始める。周囲からエネルギーを失うにつれて、ブラックホールは軽くなり熱くなる。そして、ほとんど絶対零度に近い宇宙空間でブラックホールだけがどんどん熱くなる。やがて、エネルギーを放出し続けると、しまいには質量はゼロになって蒸発してしまうという筋書きだ。だが疑問は残る。光さえ脱出できないのに、なぜ放射できるのだろうか?その答えは量子論の不確定性原理にあるという。いよいよ、やっかいな「ハイゼンベルクの不確定性原理」が登場する。ホーキング放射のメカニズムでは、まず、シュヴァルツシルト半径の近辺で粒子と反粒子が生成され、そのどちらかがブラックホール内に落ち込み、残された方が遠方へ逃げていくという。この粒子と反粒子は、ともに量子であり互いに反対の電荷をもち、短時間だけ存在してやがて衝突して消えるもので、仮想粒子と呼ばれる。本来、真空には何も存在しないが、エネルギーと時間の不確定性により、極めて短時間でエネルギーが「ゆらぐ」ことが可能だという。真空ではエルギーがゼロだから、粒子が一つ生成されるのであれば、エネルギー保存則が成り立たない。そこで、ペアでならプラスとマイナスで「ゆらぐ」ことが可能というわけだ。シュヴァルツシルト半径の外では、粒子と反粒子はすぐに衝突して消えてしまう。しかし、境界線では、都合よく内側に生成された方が特異点に向かって落ちていき、残った方は自ら消えることができないので外へ逃げていく。こうして、ブラックホールから粒子が放射されるように見え、ホーキング放射として観測されるという。ただ、放射される側は、プラスのエネルギーと決まっていて、特異点へ落ちるのは必ずマイナス側というのも奇妙な話である。
そのことについてホーキングはこう語っているという。
「ブラックホールの内部の重力場は極めて強いので、その中では実存粒子でさえも負のエネルギーをもつことができる。」
4. ファインマン流の経路和
物体の移動では、経路の足し算をすることはない。移動の経路は一つだからである。しかし、電子や原子のようなミクロな世界では、あらゆる可能な経路の足し算をして確率を求める。それも、複雑過ぎて確率論に持ち込まないと議論できないからである。学校教育では、光子の入射角と反射角は等しいと習うが、実際は光子の経路は無数にある。足すといっても、方向があるからベクトル演算である。光子の場合は方向を考慮すれば良いが、それ以外の量子となると複雑である。電子は運動エネルギーの他に位置エネルギーも考慮しなければならない。ここでも、位置と運動量の二つの情報は不確定性に支配されるという。量子論の世界では、光は直進するという古い考えを捨てなければならないようだ。ファインマン流に言えば、次のようになるという。
「不確定性原理はもはや原理ではない。それは経路和という原理によって導かれる一つの結果に過ぎない。」
経路和は量子の波動性を示す。もともと粒子と波動の違いは、重ね合わせることができるかどうかである。つまり、干渉効果があるかどうかである。ベクトルが同じ方向を向いていれば強調し、互いに逆方向を向いていれば打ち消しあうのも、波動の性質と言える。ファインマンの矢印である確率振幅は、波動関数と呼ばれることも多いという。但し、量子は粒子性もある。その挙動は確率的な推測しかできず不確定性に支配される。これが量子の本質のようだ。
5. 無境界仮説
古典的には粒子は壁を通り抜けることができないが、量子的には壁を通り抜ける可能性がある。これがトンネル効果である。この通り抜ける確率を表したのが波動関数である。ホーキングは、経路和を使って宇宙の波動関数を計算してみせたという。ところで宇宙に経路なんてあるのか?とりあえず、宇宙の始点をビッグバンとし、終点はビッグクランチとする。その間には、曲率がプラスだったりマイナスだったりと、様々な形をした宇宙がある。宇宙の違う経路とは、アインシュタインの重力理論による空間の曲がり具合ということである。また、空間に存在するあらゆる物質の分布状態も考慮する。そして、ビッグバンから始まったあらゆる空間の曲がり具合と、無数の物質の分布状態を足し算することによって波動関数を求めるという。無数といっても、現実には多数で近似する。その近似方法に、宇宙は「均一」で「等方」であると仮定する。だが、こんな計算が本当にできるのか?学術的に意味があるのか?天才が考えることは神がかりである。更に、ホーキングは特異点すら除去しようと、恐るべき提案をする。
「宇宙の波動関数の境界条件は、境界がないことである」
そもそも境界条件を与えないで、波動関数が得られるのか?どうせ量子重力理論は完成していないので、量子効果によって特異点が消滅するなんて証明できないから、なんでもありなのか?ビッグバンの最初の特異点は尖った点であるが、これを丸く均すことを考える。これは、数学のトリックを使って、時間を虚数にすることで実現できるという。実時間では空間と時間が区別できるが、虚時間では空間と時間の区別ができない。これが、本書では時空図で説明され、なんと!特異点が丸くなっちゃった。言いかえると、密度も温度も無限大という「時間の始まり」は存在しない。では、ファインマンの経路和を宇宙に当てはめる時、なぜ実時間ではNGで、虚時間ならOKなのだろうか?本書は虚数の指数関数を用いて説明する。通常の指数関数はプラス方向に急激に増大する。しかし、虚数の指数関数は波の性質がある。具体的には三角関数でオイラーの公式に従う。実数を虚数にするだけで、急激に増大するものが、くるぐると回る永遠のループになる。ところで、虚時間という概念に何の意味があるのか?ここで重要なのがホーキングの実証論者という哲学的立場である。
6. 超ひも理論
ブラックホールはあらゆる物質やエネルギーや情報を呑みこんでしまう。そして、やがてホーキング放射によって蒸発して消滅する。その際、落ち込んだ情報はどうなるのだろうか?相対論派は、ブラックホールに落ち込んだ情報は回収不能で、蒸発する時に一緒に消滅すると主張する。量子論派は、蒸発する時に元の情報を回収できると考える。この論争の解決策は「超ひも理論」にあるという。超ひも理論では、宇宙のあらゆる物質は、素粒子よりも小さい「ひも」からできていると主張する。そして、「ひも」の様々な振動状態が素粒子に見えるという。「ひも」は、ひも状になったエネルギーという意味のようだ。「ひも」はあまりにも小さいので、数学的にはブラックホールと同等に扱うらしい。そして、物質のエネルギーや情報がブラックホールに落ちこむ際、その全情報は「事象の地平線」にコピーされて残るというのだ。ブラックホールが持っている情報は、その表面積に比例するのである。ただ、ホーキングは情報が消えるという結論に飛びついてしまったという。本書は、ホーキングもアインシュタインと同じく重力理論の影響を強く受け、量子論を受け入れられなかったようだと語る。
Contents
- 2008-08-31 "ホーキング 虚時間の宇宙" 竹内薫 著
- 2008-08-24 "宇宙を測る" Kitty Ferguson 著
- 2008-08-17 "ハッカーと画家" Paul Graham 著
- 2008-08-10 "Core Memory ヴィンテージコンピュータの美" M. Richards & J. Alderman 著
- 2008-08-03 "笹まくら" 丸谷才一 著
- 2008-07-27 "ヴァレリー・セレクション(下)" Paul Valéry 著
- 2008-07-20 "ヴァレリー・セレクション(上)" Paul Valéry 著
- 2008-07-13 "タオは笑っている" Raymond M. Smullyan 著
- 2008-07-06 "天才スマリヤンのパラドックス人生" Raymond M. Smullyan 著
- 2008-06-29 "真説ラスプーチン(上/下)" Edvard Radzinsky 著
2008-08-31
2008-08-24
"宇宙を測る" Kitty Ferguson 著
今日は、ブルーバックスを買うと固く決意して本屋へ向かった。最近ブルーバックスをあまり読んでいない。というのも、新刊がいまいち肌に合わない。そろそろ、ブルーバックス教から脱退する頃合なのだろうか?ちなみに、岩波文庫教は衰えを知らない。岩波文庫はウィスキーのように年代物にこそ味わいがある。
立ち読みしながら物色していると、二日酔いで頭が重い。昨晩、はしごをしたようだ。ついでに、「宇宙の距離はしご」も悪くない。店間距離を測るには夜の社交場をはしごする。それは、千鳥足というゆらぎに支配され、予測不能な行動パターンが生じる。宇宙の点間距離を測るのも、量子論のゆらぎに支配され、予測不能な誤差が生じる。アル中ハイマーには、宇宙も夜の社交場も同じ磁場に見える。
本書は、プトレマイオスからホーキングまで、宇宙の果てに挑んだ天才たちの歴史を振り返る。それは、宇宙の距離を測ろうとした歴史であり、測定誤差との戦いでもある。科学が発展すればするほど、課題も増え登場人物も増えていく。そして、研究や実験が個人であったものが、グループによって成し遂げられるようになる。これは、解明する速度よりも、複雑化する速度の方が速いことを示しているのだろうか?コンピュータの構造も、社会システムも、ますます複雑化し、人口も爆発的に増加する。これは全て自然法則で、エントロピー増大の法則へと向かっているのだろうか?
おもしろいことに科学の発展は、人間中心の宇宙から人間の地位をどんどん引き摺り降ろしていく。だが、いつの時代でも宗教は、それに待ったをかけようとする。宗教は、実は神を崇めようとしているのではなく、人間を崇めようとしているのか?一方で、哲学的な精神はそれほど変わらない。現在においても、プラトン哲学が継承されているところがある。それは、どんな複雑な現象も、背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じてきた科学者の執念である。
本書は少々古いので、ホーキングが登場するあたりまでである。それでも、学生時代が思い出されて楽しい。ちなみに、おいらは自らの能力を顧みず、宇宙物理学に夢を見ていた時代がある。
本書には登場しないが、新しい宇宙観では、超ひも理論の登場で、素粒子物理学者によってサイクリック宇宙論を支持する人も多い。宇宙の膨張は、宇宙項と物質の密度との関係によって論じられる。宇宙項とは、真空がどの程度のエネルギーを持つかを表す定数である。宇宙項が大きいほど、エネルギーのタダ食いの効果が大きく、宇宙は速く膨張する。宇宙は永遠に膨張するか、やがて停止し定常宇宙となるか、いや、収縮に転じるかもしれない。インフレーション理論では、宇宙のエントロピーは、ただの一回の指数膨張と、それに次いで起こる再加熱によって作り出されると主張する。一方、サイクリック宇宙論では、ビッグバンとビッグクランチを繰り返しながら、徐々にエントロピーを蓄えてきたと考える。そこから計算されるのが、30回から50回の繰り返しで、その途上に人類は住んでいると主張する。つまり、インフレーションという特殊な時期を考慮する必要がない。宇宙は、ビッグバンとビッグクランチを繰り返していくうちに、だんだん巨大化しているのか?ビッグバンとビッグクランチの境界は、実時間によって受け継がれているのか?ただ、一晩に同じ店へ何度も繰り返して立ち寄る現象は、虚時間を持ち出さないと説明がつかない。
宇宙論には、こんな名言がある。
ホーキング曰く。
「もしも宇宙が永遠の過去から存在するならば、あらゆるものの温度は等しいはずである。」
オルバースのパラドックス。
「空は無限に明るくはない。ゆえに目に見える宇宙は無限ではない。」
1. 視差と光
カッシーニは、火星が地球に最も接近する絶好の機会に、視差法によって距離を測った。そして、ケプラーの法則によって、惑星との距離が算出される。
光の明るさは、光源からの距離の二乗に反比例して減衰する。元々の星の明るさが同じだと仮定すれば、見かけの明るさを比較すれば距離はわかる。しかし、全部同じ明るさと仮定するのも無理がある。ニュートンによって分光学が登場し、星の明るさを分類できる手段を得る。ニュートンの重力の法則は、ケプラーの法則の背後に潜んでいた物理学を構築する。人類の知性の歴史における最も偉大な業績と評される著作「プリンキピア」は、光学、神学、錬金術、微積分など多岐にわたる。ニュートンは、プリズム実験で、すべての光線を一点に集めることはできないと知るや、レンズによる望遠鏡の性能には限界があることに気づく。そして、鏡を使った新型望遠鏡の開発に貢献した。
ハレー彗星の軌道計算で有名なエドモンド・ハレーは、水星の太陽面通過の時刻を計測した。彼は、惑星が太陽面通過の時刻を測定することが正確に測る機会と考え、他の手法はあまり信用していなかったという。ジェームズ・ブラッドレーは、年周視差を試みるが、困難を極めた。そして「光行差」を発見する。つまり、地球の移動方向にずれて見えるのである。また「章動」も発見する。つまり、地球は完全な球ではないので、ぐらつくのである。
ドップラー効果では、遠ざかる星は赤方偏移し、近づく星は青方偏移する。ドップラー効果の応用は、あまり遠くない星群に対しては有効な方法だという。見かけの移動量とドップラー効果を使えば、移動方向の角度が分かる。この方法で、最も近いおうし座にあるヒアデス星団までの距離がわかった。運動星団法である。幸運にもヒアデス星団には、いろんな種類の星が含まれているので、スペクトルによって絶対等級を計算できるようになった。分光視差法である。ドップラー偏移と視線方向の速度を求めた後、星団の平均速度を求めることができる。統計的視差法である。星はいろいろな方向に動くが、星団としては平均化されると仮定するのである。
2. セファイド変光星
ヘンリエッタ・スワン・レヴィットは、マゼラン星雲から整然とした変化を示す変光星があることに気づいた。極大光度へ急激に上昇した後、ゆっくり減光する。これがセファイド変光星である。そして、絶対等級が同じセファイドは、変動周期も同じになることを示した。これは、視差法では測れない遠い星を測定する足がかりとなる。星雲内にセファイドが見つかれば、その変動周期を測ることで、星雲までの距離が測れるようになる。ちなみに、北極星もセファイドである。今では、セファイドは主系列であることがわかっているらしい。主系列とは、水素からヘリウムへの核融合反応が定常的に起こっている状態で、いずれ赤色巨星に達し年老いて終わる星である。主系列を過ぎると、星の中心核は収縮し始める。すると温度が上がって、熱が外層へ流れ出し、一階電離ヘリウム原子を活性化させる。一階電離とは、原子から電子が一個失われている状態を言う。エネルギーが上昇すると、もう一つの電子がたたき出され、原子は二階電離となる。二階電離した原子は、すぐに光を吸収する。その結果、星の大気は不透明となり、熱を閉じ込め、ますます熱くなり膨張する。星の外層は膨れ100倍の大きさにもなる。星が膨張するとエネルギーは広範囲に広がり、外層は冷える。そして、ヘリウム原子が冷えて、二階電離から一階電離へと戻る。大気は再び透明となり収縮し始め、そのサイクルが繰り返される。これが、セファイドのメカニズムである。
3. ビッグバン説
ハッブルとミルトン・ヒューメイソンの共同観測によって、近傍の銀河は別として、他の銀河がどれも遠ざかっていて、互いに離れていくことを発見した。宇宙膨張説の始まりでる。一般相対性理論から、宇宙は膨張するか収縮するかのどちらかになるという結果が得られる。しかし、アインシュタインは宇宙膨張論を嫌っていた。そこで、宇宙定数という宇宙が静止状態になる項を導入した。これは、生涯の最大の失敗であると嘆くことになるが、宇宙定数の概念は、その後も残っている。アレクサンドル・フリードマンは、アインシュタインの理論を額面通り受け入れて、膨張宇宙の可能性を示唆する。ニュートンは、どちらもありえないと考えた。膨張や収縮をするならば、運動の中心というものがなければならない。宇宙が無限の空間で、物質が一様に分布しているとしたら中心はない。しかし、膨張宇宙となると、宇宙誕生がなければならない。ジョルジュ・ルメートルは、宇宙は原始アトムの爆発から始まったと主張した。ビッグバン説である。この説にクエーサーの発見が後押しする。クエーサーのスペクトルは大きな赤方偏移を持ち、遠方で高速に遠ざかるように見える。かなり老齢なものと考えらているが、依然として謎である。ビッグバン説が正しいとすると、宇宙の果てまでの距離を測れば、宇宙の寿命がわかる。
4. インフレーション理論
ビッグバン説における気がかりは、地平線問題と平坦性問題である。地平線問題は、情報が光速より速く伝わらないという前提からくるもので、宇宙背景放射の等方性は問題となる。離れた領域でも放射強度が等しいのである。平坦性問題は、宇宙がすぐさまビッグクランチに陥って崩壊することもなく、また、暴走的に膨張しあっという間に年老いてしまわないのはなぜかという問題である。宇宙の幾何学、曲率は、宇宙の全エネルギー密度によって決まるが、観測される宇宙が極めて平坦であることへの説明がつかない。アラン・グースは、ごく短時間で膨張する宇宙の初期モデルを提唱し、ビッグバン説を補完した。これがインフレーション理論である。これは、ホーキングとペンローズの特異点への挑戦へと導く。いよいよ無境界宇宙へと展開を見せそうだ。量子力学の世界では、素粒子は自発的に生成消滅すると言うから二日酔いには解読できない。ホーキング曰く。「量子論的揺らぎで、何でもできてしまう。」量子論はなんでもありの世界なのか?これは、向い酒をせずにはいられない。なんとなく、昔読んだホーキングの本を読み返したくなってきた。
立ち読みしながら物色していると、二日酔いで頭が重い。昨晩、はしごをしたようだ。ついでに、「宇宙の距離はしご」も悪くない。店間距離を測るには夜の社交場をはしごする。それは、千鳥足というゆらぎに支配され、予測不能な行動パターンが生じる。宇宙の点間距離を測るのも、量子論のゆらぎに支配され、予測不能な誤差が生じる。アル中ハイマーには、宇宙も夜の社交場も同じ磁場に見える。
本書は、プトレマイオスからホーキングまで、宇宙の果てに挑んだ天才たちの歴史を振り返る。それは、宇宙の距離を測ろうとした歴史であり、測定誤差との戦いでもある。科学が発展すればするほど、課題も増え登場人物も増えていく。そして、研究や実験が個人であったものが、グループによって成し遂げられるようになる。これは、解明する速度よりも、複雑化する速度の方が速いことを示しているのだろうか?コンピュータの構造も、社会システムも、ますます複雑化し、人口も爆発的に増加する。これは全て自然法則で、エントロピー増大の法則へと向かっているのだろうか?
おもしろいことに科学の発展は、人間中心の宇宙から人間の地位をどんどん引き摺り降ろしていく。だが、いつの時代でも宗教は、それに待ったをかけようとする。宗教は、実は神を崇めようとしているのではなく、人間を崇めようとしているのか?一方で、哲学的な精神はそれほど変わらない。現在においても、プラトン哲学が継承されているところがある。それは、どんな複雑な現象も、背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じてきた科学者の執念である。
本書は少々古いので、ホーキングが登場するあたりまでである。それでも、学生時代が思い出されて楽しい。ちなみに、おいらは自らの能力を顧みず、宇宙物理学に夢を見ていた時代がある。
本書には登場しないが、新しい宇宙観では、超ひも理論の登場で、素粒子物理学者によってサイクリック宇宙論を支持する人も多い。宇宙の膨張は、宇宙項と物質の密度との関係によって論じられる。宇宙項とは、真空がどの程度のエネルギーを持つかを表す定数である。宇宙項が大きいほど、エネルギーのタダ食いの効果が大きく、宇宙は速く膨張する。宇宙は永遠に膨張するか、やがて停止し定常宇宙となるか、いや、収縮に転じるかもしれない。インフレーション理論では、宇宙のエントロピーは、ただの一回の指数膨張と、それに次いで起こる再加熱によって作り出されると主張する。一方、サイクリック宇宙論では、ビッグバンとビッグクランチを繰り返しながら、徐々にエントロピーを蓄えてきたと考える。そこから計算されるのが、30回から50回の繰り返しで、その途上に人類は住んでいると主張する。つまり、インフレーションという特殊な時期を考慮する必要がない。宇宙は、ビッグバンとビッグクランチを繰り返していくうちに、だんだん巨大化しているのか?ビッグバンとビッグクランチの境界は、実時間によって受け継がれているのか?ただ、一晩に同じ店へ何度も繰り返して立ち寄る現象は、虚時間を持ち出さないと説明がつかない。
宇宙論には、こんな名言がある。
ホーキング曰く。
「もしも宇宙が永遠の過去から存在するならば、あらゆるものの温度は等しいはずである。」
オルバースのパラドックス。
「空は無限に明るくはない。ゆえに目に見える宇宙は無限ではない。」
1. 視差と光
カッシーニは、火星が地球に最も接近する絶好の機会に、視差法によって距離を測った。そして、ケプラーの法則によって、惑星との距離が算出される。
光の明るさは、光源からの距離の二乗に反比例して減衰する。元々の星の明るさが同じだと仮定すれば、見かけの明るさを比較すれば距離はわかる。しかし、全部同じ明るさと仮定するのも無理がある。ニュートンによって分光学が登場し、星の明るさを分類できる手段を得る。ニュートンの重力の法則は、ケプラーの法則の背後に潜んでいた物理学を構築する。人類の知性の歴史における最も偉大な業績と評される著作「プリンキピア」は、光学、神学、錬金術、微積分など多岐にわたる。ニュートンは、プリズム実験で、すべての光線を一点に集めることはできないと知るや、レンズによる望遠鏡の性能には限界があることに気づく。そして、鏡を使った新型望遠鏡の開発に貢献した。
ハレー彗星の軌道計算で有名なエドモンド・ハレーは、水星の太陽面通過の時刻を計測した。彼は、惑星が太陽面通過の時刻を測定することが正確に測る機会と考え、他の手法はあまり信用していなかったという。ジェームズ・ブラッドレーは、年周視差を試みるが、困難を極めた。そして「光行差」を発見する。つまり、地球の移動方向にずれて見えるのである。また「章動」も発見する。つまり、地球は完全な球ではないので、ぐらつくのである。
ドップラー効果では、遠ざかる星は赤方偏移し、近づく星は青方偏移する。ドップラー効果の応用は、あまり遠くない星群に対しては有効な方法だという。見かけの移動量とドップラー効果を使えば、移動方向の角度が分かる。この方法で、最も近いおうし座にあるヒアデス星団までの距離がわかった。運動星団法である。幸運にもヒアデス星団には、いろんな種類の星が含まれているので、スペクトルによって絶対等級を計算できるようになった。分光視差法である。ドップラー偏移と視線方向の速度を求めた後、星団の平均速度を求めることができる。統計的視差法である。星はいろいろな方向に動くが、星団としては平均化されると仮定するのである。
2. セファイド変光星
ヘンリエッタ・スワン・レヴィットは、マゼラン星雲から整然とした変化を示す変光星があることに気づいた。極大光度へ急激に上昇した後、ゆっくり減光する。これがセファイド変光星である。そして、絶対等級が同じセファイドは、変動周期も同じになることを示した。これは、視差法では測れない遠い星を測定する足がかりとなる。星雲内にセファイドが見つかれば、その変動周期を測ることで、星雲までの距離が測れるようになる。ちなみに、北極星もセファイドである。今では、セファイドは主系列であることがわかっているらしい。主系列とは、水素からヘリウムへの核融合反応が定常的に起こっている状態で、いずれ赤色巨星に達し年老いて終わる星である。主系列を過ぎると、星の中心核は収縮し始める。すると温度が上がって、熱が外層へ流れ出し、一階電離ヘリウム原子を活性化させる。一階電離とは、原子から電子が一個失われている状態を言う。エネルギーが上昇すると、もう一つの電子がたたき出され、原子は二階電離となる。二階電離した原子は、すぐに光を吸収する。その結果、星の大気は不透明となり、熱を閉じ込め、ますます熱くなり膨張する。星の外層は膨れ100倍の大きさにもなる。星が膨張するとエネルギーは広範囲に広がり、外層は冷える。そして、ヘリウム原子が冷えて、二階電離から一階電離へと戻る。大気は再び透明となり収縮し始め、そのサイクルが繰り返される。これが、セファイドのメカニズムである。
3. ビッグバン説
ハッブルとミルトン・ヒューメイソンの共同観測によって、近傍の銀河は別として、他の銀河がどれも遠ざかっていて、互いに離れていくことを発見した。宇宙膨張説の始まりでる。一般相対性理論から、宇宙は膨張するか収縮するかのどちらかになるという結果が得られる。しかし、アインシュタインは宇宙膨張論を嫌っていた。そこで、宇宙定数という宇宙が静止状態になる項を導入した。これは、生涯の最大の失敗であると嘆くことになるが、宇宙定数の概念は、その後も残っている。アレクサンドル・フリードマンは、アインシュタインの理論を額面通り受け入れて、膨張宇宙の可能性を示唆する。ニュートンは、どちらもありえないと考えた。膨張や収縮をするならば、運動の中心というものがなければならない。宇宙が無限の空間で、物質が一様に分布しているとしたら中心はない。しかし、膨張宇宙となると、宇宙誕生がなければならない。ジョルジュ・ルメートルは、宇宙は原始アトムの爆発から始まったと主張した。ビッグバン説である。この説にクエーサーの発見が後押しする。クエーサーのスペクトルは大きな赤方偏移を持ち、遠方で高速に遠ざかるように見える。かなり老齢なものと考えらているが、依然として謎である。ビッグバン説が正しいとすると、宇宙の果てまでの距離を測れば、宇宙の寿命がわかる。
4. インフレーション理論
ビッグバン説における気がかりは、地平線問題と平坦性問題である。地平線問題は、情報が光速より速く伝わらないという前提からくるもので、宇宙背景放射の等方性は問題となる。離れた領域でも放射強度が等しいのである。平坦性問題は、宇宙がすぐさまビッグクランチに陥って崩壊することもなく、また、暴走的に膨張しあっという間に年老いてしまわないのはなぜかという問題である。宇宙の幾何学、曲率は、宇宙の全エネルギー密度によって決まるが、観測される宇宙が極めて平坦であることへの説明がつかない。アラン・グースは、ごく短時間で膨張する宇宙の初期モデルを提唱し、ビッグバン説を補完した。これがインフレーション理論である。これは、ホーキングとペンローズの特異点への挑戦へと導く。いよいよ無境界宇宙へと展開を見せそうだ。量子力学の世界では、素粒子は自発的に生成消滅すると言うから二日酔いには解読できない。ホーキング曰く。「量子論的揺らぎで、何でもできてしまう。」量子論はなんでもありの世界なのか?これは、向い酒をせずにはいられない。なんとなく、昔読んだホーキングの本を読み返したくなってきた。
2008-08-17
"ハッカーと画家" Paul Graham 著
お盆は酒びたりである。今日も朝っぱらから飲んでいる。ウィスキーの綺麗な琥珀色に、日の出間近の薄明るさが交わると、夕日に見えるので、時間としては全く問題ない。そして、ほど酔い気分で本棚を眺めていると、なんとなく読み返したい本を見つけた。本書は、数年前に読んで感動したような気がする。世間が夏休みの間に処理しておくのも悪くない。過去に良書と思ったものは、なるべく記事に残していきたい。
本書は、タイトルが示すとおり、ハッカーと画家の類似性について語る。つまり、優秀なプログラマは芸術のセンスを持っているということだ。これは、科学者や数学者にも見られる。科学者は、自然法則を見つけるために、芸術的な実験方法を模索する。数学者はエレガントなアプローチで証明に迫る。ハッカーというと、一般的にはコンピュータに侵入する連中と思われがちだが、コンピュータの世界では優れたプログラマのことを指す。Hackという言葉には、達人を思わせる臭いがあり、なんとなく知的好奇心をくすぐられる。最近、Hackという言葉が専門書の間で賑わっているのも、優れた世界に触れてみたいという表れであろう。実際に接したエンジニアでも10倍ぐらいの能力差がある。それが、ハッカーとなると平気で100倍以上は違うのだろう。おいらは優れたハッカーを知らない。ハッカーは優れたハッカーと一緒に仕事をしたがる習性があるという。類は友を呼ぶということか。ところで、ハッカーを見分ける方法はあるのだろうか?履歴書なんか見ても無駄だ。一緒に仕事をしてみるしかないだろう。しかし、おいらには優秀過ぎる人間は宇宙人に見える。そう言えば、宇宙人のような発想をする人に何度か出会った。ひょっとすると彼らがハッカーかもしれない。企業は、優秀な人材を集めるために、履歴書を見て面接をする。面接官は、なぜ技術者の生産物を検分しようとしないのだろうか?ハッカーの生産物が芸術作品であるならば、その芸術を理解できる人間でないと見分けられない。良い製品を造る上で、良いデザイナーを集めれば、解決するという考えがある。しかし、良いデザイナーって誰が見分けるんだ?かつて「成果主義」という言葉が世間を賑わした。成果って誰が評価するんだ?プログラマは、優れたハッカーになりたいと願う。では、どうすればなれるだろうか?賢くなる方法は分からないが、馬鹿になる方法は分かる。プロジェクトの成功例はあまり役に立たないが、失敗例は参考になることが多い。世の中には、実に多くのハウツウものが出回る。しかし、成功例は複雑系の中にあり、そこにある偶然性を見極めなければならない。
本書を読んで、少しでも優秀な人と関わった気分になれるのは幸せなことである。ハッカーは、一般的にはオタクで野暮ったいと見られがちだ。しかも、異端児で天邪鬼と言われ、多くの管理者に嫌われる。こうした印象だけなら、おいらと大して変わりはない。しかし、本書は、表面的には無秩序のように見えても、隠された秩序があるという。そこには、外見は汚くても、生成されるコードは緻密で、極めて神経質な世界がある。本書は、プログラムコードは、都市計画のように慎重に計画して組み立てるものではないという。それは、画家がスケッチするように、使い捨てを覚悟でコードを書き始め、徐々に詳細化していく。作品を創りながら理解してくところは、むしろ芸術に近い。慎重に計画して仕事をすれば、当初のアイデアを精密に実現できるだろう。だが、当初のアイデアというものは大抵間違ったものとなる。技術業界で仕様変更はつきものだということは、ほとんどの人が理解しているだろう。そこで、できるだけ早くプロトタイプを提示し、改善していくといった手法がとられる。そこには、新しいアイデアをどんどん取り入れるといった柔軟性が現れる。本書は、作成の過程で新しいアイデアを受け入れることは、なによりも士気を保つことができるという。士気の持続しないところに良いデザインは生まれない。芸術作品は決して完成することはない。
本書は、ソフトウェアには、「Just Do It! (とにかくやる)」という思想があると語る。個人主義的で、不服従的な性格がなければ、芸術は現れない。多くの管理者は、従業員の不服従な態度を警戒するが、ハッカーにとって不服従は独創性の副産物に過ぎない。技術の仕事には、なによりも革新が必要である。本書は、革新と異端は実質的には同じ方向にあるという。優れた技術者は、全てを疑問に思う習慣がある。本書は、社会にうまく適合できず偶像崇拝を嫌う者が、ハッカーになりやすいと語る。おいらは、思考をある程度まとめてからでないとプログラムが書けない。頭が悪い人間には、ある程度の方向性を定めないと作業ができない。それでも、考えてみれば、とりあえず使い捨てのコードを書いたりする。厳密な仕様書を書かないと作業する気がしないと言いながら、最初に書く仕様書は実にいい加減なものだ。ドン臭いおいらでも、本書にはなるほどと思わせるところが多い。ただし、酔っ払いは、世間のお邪魔にならないように心掛けなければならない。
本書で、技術者として興味を惹くのは、プログラミング言語に関する問題である。ハッカーが、芸術家のように、生産物を作りながら理解していくならば、その手段であるプログラミング言語は柔軟でなければならない。プログラムは使う言語によって何を言えるかが決まる。日常言語にしても、思考によって発達するものだ。必然的に言語選択は、プログラマの思考方法に大きな影響を与える。状況に応じて最適な言語を選ぶことは、有効なビジネス手法の一つと言えるだろう。本書は、ハッキングする上で、プログラミング言語以上の方法はないと語る。
「実はハッカーというのは、言論の自由に対してものすごく執着するものなんだ。」
仕事の要求が高ければ、それだけ優れた言語を使う意味は大きい。しかし、実際には、それほど要求の高くないプロジェクトがゴロゴロしている。よって、慣れ親しんでいる言語を使ったり、流行を追いかけるのも悪い選択ではないだろう。過去の資産や、政治力によって強要されることもある。プログラミング言語には宗教のようなところがあって、洗脳されるケースも多い。実際にExcelをI/Fにして、データ解析している者もいる。ただ、近寄りたくはない。ところで、人気のある言語はそれに見合っているのだろうか?そもそも良い言語の定義とは何か?本書は、それを理解する方法は、ハッカーが何を欲しがっているかを観察することで得られるという。大抵の人々は言語の利点で選ぶことはない。また、ハッカーが良いと考える言語が、一般的に支持されるとは限らない。技術の進化は速い。しかし、人間の扱う言語の進化は遅い。言語は人間の思考に深く結びつくからである。プログラミング言語にも同じことが言えるだろう。数学や科学は、人間が分かりやすくするために抽象化方法を選ぶことはない。単に証明を短くするために抽象化方法を選ぶ。しかし、芸術は人間が理解するためのものであり、デザインは人のためにする。本書は、言語は使いやすいものでなければならないと語る。
言語の論争には二つの派閥がある。一つは、プログラムの間違った行いを防ぐべきだとする考え、もう一つは、プログラムのやりたいことは何でも許すべきだとする考え。以前、「オブジェクト指向」という言葉が流行した。そこには、プライベート情報を隠蔽する概念がある。ただ、C++には、フレンド関数によって覗き見することが許される。おいらは人見知りが強いので、C++となかなかフレンドリーになれない理由である。
1. ハッカーと画家
ハッカーと画家は、どちらも良いものを創ろうとしている点では共通している。本書は、ハッカーにとって、コンピュータは単なる表現の媒体に過ぎないという。そして、ハッキングの最良の形態は仕様を作ることだと語る。多くのプログラマは、仕様変更を想定しながら書き進めるだろう。ソフトウェアで、早期の最適化の危険性を知っている人も多い。そこで、柔軟性を持たせるために、なるべく抽象化しようとする。プログラマの生産性が、コードの行数で測られるのはナンセンスである。偉大な画家が観賞者が見ないところにも気を配るように、ハッカーもプログラムの書き方にこだわる。これがプロ意識というものだろう。本書は、「ソフトウェア工学」という言葉が、ハッカーをエンジニアと誤解させていると語る。しかし、多くの企業では、ハッカーをエンジニアとして強要する。プログラマは、管理者のビジョンをコードへ翻訳する技師と見なされる。そして、仕事のやり方を規制することによって、一定の生産性と品質の確保を求める。大企業が、生産性のばらつきを抑えるのは、大失敗を避けたいからである。しかし、ばらつきを抑えると、低い点は無くなると同時に高い点も無くなると語る。
2. 共感能力
芸術作品には、人を惹きつける何かがある。それは観賞者の気持ちを理解しているということだろう。そこには共感能力がある。ハッカーと偉大なハッカーの違いは、この共感能力の違いだという。ハッカーの中には、非常に賢いが共感できず自己中心的な人間がいる。そして、ユーザの視点でものを見ることができない。共感能力のないところに、偉大なプログラムは生まれないという。共感能力を見る良い方法は、技術知識のない人に、技術の説明をしている様子を観察することだという。能力が優れていても、滑稽なほど説明の下手な人がいる。ユーザに対する共感と、コードを読む人に対する共感が必要である。コードを他人に読まれることは、自分のためにもなる。著者は、人に説明することが難しいことから脱Perl宣言をした人を多く知っているという。
3. プログラミング言語
プログラミング言語は、どれを選ぶのが最適だろうか?尽きない論争である。用途によって、より効果的な言語は存在するだろう。酔っ払いには、動的な記憶領域の管理などランタイムに任せるのが身のためだと考えている。したがって、スクリプト言語を多用する。だが、自分で書いたPerlは暗号に見える。しかも、脳の中に暗号解読機がないから困ったものだ。言語を選ぶ上で、有効なものに抽象レベルがある。ハードウェアが進化すれば、より高レベルの言語を選択するケースも増える。動作効率を考慮したければ、低レベルの言語を使えば高速なコードが得られる。また、特定の問題を解決するために、豊富なライブラリを具えた言語で開発効率を上げることも検討するだろう。最初に書くプログラムは、最低限の努力ででっち上げたいものだ。本書は、非効率性とは、マシン時間を無駄にするのではなく、プログラマの時間を無駄にすることだと語る。
4. Lisp
著者は、実際にLispを使って素早く開発し事業に成功したと、その魅力を熱く語る。現代のプログラム構造は、動作部からデータ構造へと注目点が移った。本書は、Lispハッカーは、データ構造を柔軟に持つことの価値を知っていると語る。そして、最初のアプローチで、なんでもリストで処理するように書くことが多いという。ところで、どこまでデータ構造を抽象化できるだろうか?配列は、ハッシュテーブルのキーが整数のベクタであると考えることができる。更に、ハッシュテーブルもリストに置き換えられるのだろうか?数値というデータ型も、整数nはn個の要素を持つリストとして表現できる。そして、基礎的なデータ型から数値を取り除くことができるのだろうか?Lispの抽象度は非常に高いらしい。本書は、Lispを学べば、実際にLispプログラムを作ることがなくても良いプログラマになれると語る。リスト型の言語には、データ構造の本質でも覗かせてくる何かがあるのだろうか?おいらには、Emacs-Lispを、数十行書いたことがある程度で、全く経験がない。いずれ挑戦してみたいと考えているが、なかなか手を付けないでいる。それも、括弧だらけの奇妙な構文を見るだけで、なんとも怪しげな香りがするからだ。本書は、奇妙な構文というより、構文そのものが無いと言った方がいいという。高級言語の中にも抽象度の差がある。あらゆる高級言語が機械語よりも強力であることは誰もが認めるだろう。中でもLispが最も強力だという。そんなに強力ならば、なぜみんなが使わないのか?全ての高級言語の中から、力の差を把握できるのは、最も強力な言語を理解した者だけだという。Lispが最も強力な言語というのが事実ならば、Lisp使いにしか分からないということか。大抵のプログラマは、使っている言語に大きな不自由を感じなければ、それで我慢する。Lispの最大な武器はマクロで、これが多くの括弧と深い関係にあるのだという。マクロ機能は、ほとんどの言語でサポートされるので、真新しいものを感じないが、Lispのマクロは特有らしい。Lispのコードは、Lispのデータオブジェクトからできているという。ソースコードは、パーサに呼び込まれると、人が解析できるデータ構造になる。他の言語なら、コンパイラが構文解析をして、内部に構文木を作る。ところが、Lispは直接プログラムとして書き下すという。構文木はプログラムからアクセスできるので、構文木を直接操作できるということらしい。Lispでは、これをマクロと呼ぶそうだ。本書は、Java、Perl、Python、Rubyと登場した順を見ていくと、だんだんLispに近づいているという。ただし、Javaをけちょんけちょんに貶しているあたりは、ストレス解消に良い。優れたものでも、早く登場しすぎて、時代に受け入れられないものがある。もし、Lispがそんなに良いものであるならば、少しずつ近づく言語が登場して大衆を誘導するのかもしれない。それが、PythonだったりRubyだったりするのだろうか?
5. ハッカーが求めるもの
科学者や数学者がそうであるように、ハッカーは簡潔さを求める。簡潔さは、抽象度を上げることによって得られる。そもそも高級言語を使う理由がここにある。本書は、プログラムを眺めて、より少ないトークンで表現できないかを常に自問するべきだと主張する。究極の簡潔さは、すでにライブラリで用意されていて、それを呼ぶだけというものだろう。だが、ライブラリがやたら多く、探すのに苦労したり、使い方がへんてこなものでは困る。本書は、ハックのしやすさを強調する。つまり、プログラマがやりたいことがやれることが重要だという。良いプログラマは、しばしば危険で不道徳なことをする。それは、高レベルで抽象化されたデータの内部構造をいじってみるといったことだ。ハッカーはハックするのがお好きである。これは知的快感という人間の心理を反映している。そして、プログラミング言語は、書き捨てのプログラムを書くのに適したものを求めるという。大きなプログラムを書く手法は、書き捨てのプログラムから始めて改善し続ける。これは、Perlの例が印象的で、Perl自身が書き捨てのためのプログラムだったという。
本書は、タイトルが示すとおり、ハッカーと画家の類似性について語る。つまり、優秀なプログラマは芸術のセンスを持っているということだ。これは、科学者や数学者にも見られる。科学者は、自然法則を見つけるために、芸術的な実験方法を模索する。数学者はエレガントなアプローチで証明に迫る。ハッカーというと、一般的にはコンピュータに侵入する連中と思われがちだが、コンピュータの世界では優れたプログラマのことを指す。Hackという言葉には、達人を思わせる臭いがあり、なんとなく知的好奇心をくすぐられる。最近、Hackという言葉が専門書の間で賑わっているのも、優れた世界に触れてみたいという表れであろう。実際に接したエンジニアでも10倍ぐらいの能力差がある。それが、ハッカーとなると平気で100倍以上は違うのだろう。おいらは優れたハッカーを知らない。ハッカーは優れたハッカーと一緒に仕事をしたがる習性があるという。類は友を呼ぶということか。ところで、ハッカーを見分ける方法はあるのだろうか?履歴書なんか見ても無駄だ。一緒に仕事をしてみるしかないだろう。しかし、おいらには優秀過ぎる人間は宇宙人に見える。そう言えば、宇宙人のような発想をする人に何度か出会った。ひょっとすると彼らがハッカーかもしれない。企業は、優秀な人材を集めるために、履歴書を見て面接をする。面接官は、なぜ技術者の生産物を検分しようとしないのだろうか?ハッカーの生産物が芸術作品であるならば、その芸術を理解できる人間でないと見分けられない。良い製品を造る上で、良いデザイナーを集めれば、解決するという考えがある。しかし、良いデザイナーって誰が見分けるんだ?かつて「成果主義」という言葉が世間を賑わした。成果って誰が評価するんだ?プログラマは、優れたハッカーになりたいと願う。では、どうすればなれるだろうか?賢くなる方法は分からないが、馬鹿になる方法は分かる。プロジェクトの成功例はあまり役に立たないが、失敗例は参考になることが多い。世の中には、実に多くのハウツウものが出回る。しかし、成功例は複雑系の中にあり、そこにある偶然性を見極めなければならない。
本書を読んで、少しでも優秀な人と関わった気分になれるのは幸せなことである。ハッカーは、一般的にはオタクで野暮ったいと見られがちだ。しかも、異端児で天邪鬼と言われ、多くの管理者に嫌われる。こうした印象だけなら、おいらと大して変わりはない。しかし、本書は、表面的には無秩序のように見えても、隠された秩序があるという。そこには、外見は汚くても、生成されるコードは緻密で、極めて神経質な世界がある。本書は、プログラムコードは、都市計画のように慎重に計画して組み立てるものではないという。それは、画家がスケッチするように、使い捨てを覚悟でコードを書き始め、徐々に詳細化していく。作品を創りながら理解してくところは、むしろ芸術に近い。慎重に計画して仕事をすれば、当初のアイデアを精密に実現できるだろう。だが、当初のアイデアというものは大抵間違ったものとなる。技術業界で仕様変更はつきものだということは、ほとんどの人が理解しているだろう。そこで、できるだけ早くプロトタイプを提示し、改善していくといった手法がとられる。そこには、新しいアイデアをどんどん取り入れるといった柔軟性が現れる。本書は、作成の過程で新しいアイデアを受け入れることは、なによりも士気を保つことができるという。士気の持続しないところに良いデザインは生まれない。芸術作品は決して完成することはない。
本書は、ソフトウェアには、「Just Do It! (とにかくやる)」という思想があると語る。個人主義的で、不服従的な性格がなければ、芸術は現れない。多くの管理者は、従業員の不服従な態度を警戒するが、ハッカーにとって不服従は独創性の副産物に過ぎない。技術の仕事には、なによりも革新が必要である。本書は、革新と異端は実質的には同じ方向にあるという。優れた技術者は、全てを疑問に思う習慣がある。本書は、社会にうまく適合できず偶像崇拝を嫌う者が、ハッカーになりやすいと語る。おいらは、思考をある程度まとめてからでないとプログラムが書けない。頭が悪い人間には、ある程度の方向性を定めないと作業ができない。それでも、考えてみれば、とりあえず使い捨てのコードを書いたりする。厳密な仕様書を書かないと作業する気がしないと言いながら、最初に書く仕様書は実にいい加減なものだ。ドン臭いおいらでも、本書にはなるほどと思わせるところが多い。ただし、酔っ払いは、世間のお邪魔にならないように心掛けなければならない。
本書で、技術者として興味を惹くのは、プログラミング言語に関する問題である。ハッカーが、芸術家のように、生産物を作りながら理解していくならば、その手段であるプログラミング言語は柔軟でなければならない。プログラムは使う言語によって何を言えるかが決まる。日常言語にしても、思考によって発達するものだ。必然的に言語選択は、プログラマの思考方法に大きな影響を与える。状況に応じて最適な言語を選ぶことは、有効なビジネス手法の一つと言えるだろう。本書は、ハッキングする上で、プログラミング言語以上の方法はないと語る。
「実はハッカーというのは、言論の自由に対してものすごく執着するものなんだ。」
仕事の要求が高ければ、それだけ優れた言語を使う意味は大きい。しかし、実際には、それほど要求の高くないプロジェクトがゴロゴロしている。よって、慣れ親しんでいる言語を使ったり、流行を追いかけるのも悪い選択ではないだろう。過去の資産や、政治力によって強要されることもある。プログラミング言語には宗教のようなところがあって、洗脳されるケースも多い。実際にExcelをI/Fにして、データ解析している者もいる。ただ、近寄りたくはない。ところで、人気のある言語はそれに見合っているのだろうか?そもそも良い言語の定義とは何か?本書は、それを理解する方法は、ハッカーが何を欲しがっているかを観察することで得られるという。大抵の人々は言語の利点で選ぶことはない。また、ハッカーが良いと考える言語が、一般的に支持されるとは限らない。技術の進化は速い。しかし、人間の扱う言語の進化は遅い。言語は人間の思考に深く結びつくからである。プログラミング言語にも同じことが言えるだろう。数学や科学は、人間が分かりやすくするために抽象化方法を選ぶことはない。単に証明を短くするために抽象化方法を選ぶ。しかし、芸術は人間が理解するためのものであり、デザインは人のためにする。本書は、言語は使いやすいものでなければならないと語る。
言語の論争には二つの派閥がある。一つは、プログラムの間違った行いを防ぐべきだとする考え、もう一つは、プログラムのやりたいことは何でも許すべきだとする考え。以前、「オブジェクト指向」という言葉が流行した。そこには、プライベート情報を隠蔽する概念がある。ただ、C++には、フレンド関数によって覗き見することが許される。おいらは人見知りが強いので、C++となかなかフレンドリーになれない理由である。
1. ハッカーと画家
ハッカーと画家は、どちらも良いものを創ろうとしている点では共通している。本書は、ハッカーにとって、コンピュータは単なる表現の媒体に過ぎないという。そして、ハッキングの最良の形態は仕様を作ることだと語る。多くのプログラマは、仕様変更を想定しながら書き進めるだろう。ソフトウェアで、早期の最適化の危険性を知っている人も多い。そこで、柔軟性を持たせるために、なるべく抽象化しようとする。プログラマの生産性が、コードの行数で測られるのはナンセンスである。偉大な画家が観賞者が見ないところにも気を配るように、ハッカーもプログラムの書き方にこだわる。これがプロ意識というものだろう。本書は、「ソフトウェア工学」という言葉が、ハッカーをエンジニアと誤解させていると語る。しかし、多くの企業では、ハッカーをエンジニアとして強要する。プログラマは、管理者のビジョンをコードへ翻訳する技師と見なされる。そして、仕事のやり方を規制することによって、一定の生産性と品質の確保を求める。大企業が、生産性のばらつきを抑えるのは、大失敗を避けたいからである。しかし、ばらつきを抑えると、低い点は無くなると同時に高い点も無くなると語る。
2. 共感能力
芸術作品には、人を惹きつける何かがある。それは観賞者の気持ちを理解しているということだろう。そこには共感能力がある。ハッカーと偉大なハッカーの違いは、この共感能力の違いだという。ハッカーの中には、非常に賢いが共感できず自己中心的な人間がいる。そして、ユーザの視点でものを見ることができない。共感能力のないところに、偉大なプログラムは生まれないという。共感能力を見る良い方法は、技術知識のない人に、技術の説明をしている様子を観察することだという。能力が優れていても、滑稽なほど説明の下手な人がいる。ユーザに対する共感と、コードを読む人に対する共感が必要である。コードを他人に読まれることは、自分のためにもなる。著者は、人に説明することが難しいことから脱Perl宣言をした人を多く知っているという。
3. プログラミング言語
プログラミング言語は、どれを選ぶのが最適だろうか?尽きない論争である。用途によって、より効果的な言語は存在するだろう。酔っ払いには、動的な記憶領域の管理などランタイムに任せるのが身のためだと考えている。したがって、スクリプト言語を多用する。だが、自分で書いたPerlは暗号に見える。しかも、脳の中に暗号解読機がないから困ったものだ。言語を選ぶ上で、有効なものに抽象レベルがある。ハードウェアが進化すれば、より高レベルの言語を選択するケースも増える。動作効率を考慮したければ、低レベルの言語を使えば高速なコードが得られる。また、特定の問題を解決するために、豊富なライブラリを具えた言語で開発効率を上げることも検討するだろう。最初に書くプログラムは、最低限の努力ででっち上げたいものだ。本書は、非効率性とは、マシン時間を無駄にするのではなく、プログラマの時間を無駄にすることだと語る。
4. Lisp
著者は、実際にLispを使って素早く開発し事業に成功したと、その魅力を熱く語る。現代のプログラム構造は、動作部からデータ構造へと注目点が移った。本書は、Lispハッカーは、データ構造を柔軟に持つことの価値を知っていると語る。そして、最初のアプローチで、なんでもリストで処理するように書くことが多いという。ところで、どこまでデータ構造を抽象化できるだろうか?配列は、ハッシュテーブルのキーが整数のベクタであると考えることができる。更に、ハッシュテーブルもリストに置き換えられるのだろうか?数値というデータ型も、整数nはn個の要素を持つリストとして表現できる。そして、基礎的なデータ型から数値を取り除くことができるのだろうか?Lispの抽象度は非常に高いらしい。本書は、Lispを学べば、実際にLispプログラムを作ることがなくても良いプログラマになれると語る。リスト型の言語には、データ構造の本質でも覗かせてくる何かがあるのだろうか?おいらには、Emacs-Lispを、数十行書いたことがある程度で、全く経験がない。いずれ挑戦してみたいと考えているが、なかなか手を付けないでいる。それも、括弧だらけの奇妙な構文を見るだけで、なんとも怪しげな香りがするからだ。本書は、奇妙な構文というより、構文そのものが無いと言った方がいいという。高級言語の中にも抽象度の差がある。あらゆる高級言語が機械語よりも強力であることは誰もが認めるだろう。中でもLispが最も強力だという。そんなに強力ならば、なぜみんなが使わないのか?全ての高級言語の中から、力の差を把握できるのは、最も強力な言語を理解した者だけだという。Lispが最も強力な言語というのが事実ならば、Lisp使いにしか分からないということか。大抵のプログラマは、使っている言語に大きな不自由を感じなければ、それで我慢する。Lispの最大な武器はマクロで、これが多くの括弧と深い関係にあるのだという。マクロ機能は、ほとんどの言語でサポートされるので、真新しいものを感じないが、Lispのマクロは特有らしい。Lispのコードは、Lispのデータオブジェクトからできているという。ソースコードは、パーサに呼び込まれると、人が解析できるデータ構造になる。他の言語なら、コンパイラが構文解析をして、内部に構文木を作る。ところが、Lispは直接プログラムとして書き下すという。構文木はプログラムからアクセスできるので、構文木を直接操作できるということらしい。Lispでは、これをマクロと呼ぶそうだ。本書は、Java、Perl、Python、Rubyと登場した順を見ていくと、だんだんLispに近づいているという。ただし、Javaをけちょんけちょんに貶しているあたりは、ストレス解消に良い。優れたものでも、早く登場しすぎて、時代に受け入れられないものがある。もし、Lispがそんなに良いものであるならば、少しずつ近づく言語が登場して大衆を誘導するのかもしれない。それが、PythonだったりRubyだったりするのだろうか?
5. ハッカーが求めるもの
科学者や数学者がそうであるように、ハッカーは簡潔さを求める。簡潔さは、抽象度を上げることによって得られる。そもそも高級言語を使う理由がここにある。本書は、プログラムを眺めて、より少ないトークンで表現できないかを常に自問するべきだと主張する。究極の簡潔さは、すでにライブラリで用意されていて、それを呼ぶだけというものだろう。だが、ライブラリがやたら多く、探すのに苦労したり、使い方がへんてこなものでは困る。本書は、ハックのしやすさを強調する。つまり、プログラマがやりたいことがやれることが重要だという。良いプログラマは、しばしば危険で不道徳なことをする。それは、高レベルで抽象化されたデータの内部構造をいじってみるといったことだ。ハッカーはハックするのがお好きである。これは知的快感という人間の心理を反映している。そして、プログラミング言語は、書き捨てのプログラムを書くのに適したものを求めるという。大きなプログラムを書く手法は、書き捨てのプログラムから始めて改善し続ける。これは、Perlの例が印象的で、Perl自身が書き捨てのためのプログラムだったという。
2008-08-10
"Core Memory ヴィンテージコンピュータの美" M. Richards & J. Alderman 著
数ヶ月前、オライリー・ジャパンから新書の案内がきた。その中で本書には、なんとなくタイトルに惹かれる。アル中ハイマーは、ヴィンテージものが飲みたくなるのである。
本書は、マーク・リチャーズの写真とジョン・アルダーマンの文章によって構成される。そこには、シリコンバレーの「Computer History Museum」に所蔵されるヴィンテージコンピュータが、なかなかの酒肴(趣向)で撮影されている。これは技術書ではない。美術観賞を楽しむものである。そして、電子計算機の歴史的意義を、知識としてではなく感覚として味わえる。思えば、コンピュータの歴史は半世紀ぐらいと短いものである。それでも重厚感がある。今宵は、間違いなく年代物のブランデーが合う。なんとなくバーで眺めたくなるような味わい深さがある。明日のこの時間は、間違いなく夜の社交場に姿を現すであろう。
AppleやCompaqの写真を眺めていると、昔を思い出す。おいらが最初に買ったコンピュータはFM7である。大学時代、媒体はカセットテープだった。通常のオーディオ機器でプログラムがコピーできた時代である。録音調節を失敗すると暴走したりもした。社会人になって、自己啓発と称して購入したのが98互換機だった。その時、虚しく思ったのは、ローンの残高が次々に登場する新型マシンの価格を追い越すことだった。もう20年以上前のことである。その頃、お洒落なMacが一世風靡しそうな勢いだった。ディスプレイと一体型のマシンを、先輩が登山家のように専用リュックに担いで会社に持ってきていたのを思い出す。そこから作成される綺麗なドキュメントには感嘆したものだ。マシンは一人一台の時代ではない。それでも他の部署よりははるかに恵まれていた。研究所というのも比較的良い環境にあったのだろう。グレードの高いマシンは熟練者から与えられる。当時はハードディスクが外付けされるだけで画期的だった。容量は10MB程度で、しかも高速で感動したものだ。バブル時代になると予算も通りやすく、下っ端のおいらでさえ、高価な計測器をほぼ占有できた。当時、GHz帯の測定器など、何の研究に使うんだと皮肉られたものだ。おいらは一箇所に落ち着くのが嫌いなので、ラップトップ型コンピュータを予算化した。ラップトップなんて言葉は今では死語である。こうした環境も、転職すると、なんと贅沢だったのかと知らされることになる。
本書を読んでいると、まず気になったのがページ番号の見方である。最初、意味が分からなかったのだが、3分の1ぐらい読んだところで、なるほど!パンチ風で、ギリシャ数字は10進数の桁を表しているのかあ。こんなところにも気配りがなされるところに、著者の感性が伝わる。ただ、2進数で表したら、もっとそれらしく見えると思うが、複雑になりそうだ。基板上の配線された写真などは、昔、苦労して製作したブレッドボードを思い出す。ラッピング配線とハンダ付けでは、どちらが接触抵抗が小さいか?などと実験室で競ったものだ。不器用なおいらはツールで誤魔化すしかなかった。ちなみに、スーパーおじさんのハンダ付けには、どんな優れたツールを持ってしても敵わない。本書には、世界初のコンピュータから、電卓、ルータ、サーバなど30数台のマシンが収録される。その中から、なんとなく酔っ払いの目のついたところを摘んでみよう。なぜかって?そこにうまい燻製の摘みがあるから。
1. Z3の加算機
最初のコンピュータは、実はENIACではないらしい。世界最初のプログラマブル自動電磁コンピュータは、第二次大戦のさなか、ドイツのコンラート・ツーゼ(Konrad Zuse)によって作られたという。しかし、1944年、連合軍のペルリン空爆によって破壊されてしまう。本書で紹介する写真は、加算機ユニットを教育目的で再現したものだという。ストレージ用の媒体は、映画用フィルムにパンチ穴を開けたものである。そこにはスイッチング用のリレーが並び、酔っ払いにはカタカタという音が聞こえてくる。
2. ENIAC
1946年、アメリカ陸軍とペンシルバニア大学によって製作された。その研究には、後に数学者ジョン・フォン・ノイマンも加わっている。当初の目的は、弾道軌跡計算を行うことだった。このプロジェクトはテストケースで、以降のプロジェクトであるEDVACやUNIVACのモデルになったという。ENIACは、プログラムが記憶できないため、新しいタスクには物理的な変更によって対処する必要があった。後にノイマンがプログラム記憶方式の概念をまとめることになる。しかし、その概念自体は、ジョン・エッカートとジョン・モークリーの成果によるものだったという。ここに、コンピュータ基礎理論が構築されたわけである。
3. UNIVAC I
1951年、世界初の商用コンピュータが、エッカートとモークリーによって製作された。メインメモリには、巨大な水銀遅延線を使ったという。そして、水銀管内に音波パルスを送り、それを検知して送り返すといったことをするらしい。その写真は、スクラップになったプロペラ機のエンジンを彷彿させる。この頃、記憶媒体としてテープドライブが登場する。ただ、顧客からすると、パンチカードはまだ目で見えるが、テーム媒体は目に見えないため、反発も激しかったという。当時のセールスマンの苦悩が目に浮かびそうだ。
4. Johnniac
1954年に製作された。給与計算、数値計算の他、チェスができるようにプログラムされたという。更に、OSは、タイムシェアリングを行っているというから興味深い。ただし、分単位のものらしい。また、磁気コアメモリにアップグレードされている点も注目すべきである。写真には、端末のキーボードが設置された大掛かりな装置が表れ、ファクトリーオートメーションといった印象を与える。
5. SAGE
1954年から63年に、アメリカ空軍とIBMによって製作された。ソ連軍の対航空戦略のために開発された。大型コンピュータのネットワークによって、レーダーからのデータをリアルタイムで分析し、情報をいち早く戦闘機に送るというもので、最初のリアルタイム対話型コンピュータである。また、最初にコアメモリが使われた。ディスプレイモニタ、モデム、ネットワークという革新的なハードウェアも搭載される。おもしろいのは、ライターと灰皿が組み込まれるところである。SAGE施設は、人里離れた地下200mの掩蔽壕の中にあったという。言われてみれば、自動車にライターと灰皿がついているのも奇妙な話なのかもしれない。最近の新車にはついていないようだ。愛煙家はますます住み辛い世界となる。
6. IBM System/360
1964年、IBMが互換性をもったファミリー機を登場させた。「互換性が全てを支配する」という目標の下にIBMは大躍進する。なによりも、同じ命令セットが使われるのが、ソフトウェアのアップグレードを容易にし運用性を高めた。マイクロプログラムを採用し、ROMに記憶されたマイクロコードが、アーキテクチャの違いに関わらずエミュレートする。このファミリー機のハイエンドは、アポロ計画や航空管制システムの基盤をもたらした。
7. DEC PDP-8
1965年、DEC社によって開発された最初のミニコンピュータである。いきなり、「セックスアピールのあるデザイン」という紹介があるが、そうかなあ?このマシンは、ユーザとの責任の共有、ユーザへの自己教育の促進といった哲学を提供した。当時のスタンダードはIBMの手法で、コンピュータの所有権を移転せず、リースして一切の改造を防ぎ、プログラミングを会社の認可した聖職カーストに限るというやり方であったという。しかし、DECのPDPシリーズは、これに従わず、むしろ改造、拡張を促していたという。なんとなくMSに従わない、オープンソ-スの精神に繋がるものを感じる。PDP-8は、パーソナルコンピュータとしては、ほとんど最初のものである。
8. Interface Message Processor
1969年、ARPANET向けに作られた最初のパケットルータである。ARPANETは、相互接続されたコンピュータによる世界というヴィジョンを持っていた。いわゆるインターネットの前身である。コンピュータそのものを規格化するという考えから、パケット側を規格化するという発想に転換された時代を思わせる貴重なマシンと言えるだろう。
9. Altair 8800
1975年に製作されたおもちゃ。当時、ほどんどのユーザが紙テープリーダを持たなかった。このマシンを買ってすぐにできることといったら、スイッチをパチパチさせてランプを光らせるぐらい。このマシンを持つことは、大きな想像力だけでなく、大きな忍耐力も必要だったという。このエピソードを読んでいると、なんとなくレーザーディスクを思い出す。大学時代、友人から画期的なマシンを手に入れたというから、何かと思ったらレーザーディスクだった。「レーザーディスクを見せてやるから遊びにおいで!」と自慢げに話すので遊びに行った。電源を入れる瞬間に緊張感が走る。しばらくすると、起動画面で「Pioneer Laserdisc」という文字が踊っていた。なんと、彼はソフトを一つも持っていなかったのである。確かに、見せてもらったのは「レーザーディスク」という文字だった。
10. Cray
クレイ・リサーチ社を設立したシーモア・クレイ。この配線の写真には、スーパーコンピュータへの情熱を感じ、Cray-1の姿には相変わらずの風格を感じる。
本書は、マーク・リチャーズの写真とジョン・アルダーマンの文章によって構成される。そこには、シリコンバレーの「Computer History Museum」に所蔵されるヴィンテージコンピュータが、なかなかの酒肴(趣向)で撮影されている。これは技術書ではない。美術観賞を楽しむものである。そして、電子計算機の歴史的意義を、知識としてではなく感覚として味わえる。思えば、コンピュータの歴史は半世紀ぐらいと短いものである。それでも重厚感がある。今宵は、間違いなく年代物のブランデーが合う。なんとなくバーで眺めたくなるような味わい深さがある。明日のこの時間は、間違いなく夜の社交場に姿を現すであろう。
AppleやCompaqの写真を眺めていると、昔を思い出す。おいらが最初に買ったコンピュータはFM7である。大学時代、媒体はカセットテープだった。通常のオーディオ機器でプログラムがコピーできた時代である。録音調節を失敗すると暴走したりもした。社会人になって、自己啓発と称して購入したのが98互換機だった。その時、虚しく思ったのは、ローンの残高が次々に登場する新型マシンの価格を追い越すことだった。もう20年以上前のことである。その頃、お洒落なMacが一世風靡しそうな勢いだった。ディスプレイと一体型のマシンを、先輩が登山家のように専用リュックに担いで会社に持ってきていたのを思い出す。そこから作成される綺麗なドキュメントには感嘆したものだ。マシンは一人一台の時代ではない。それでも他の部署よりははるかに恵まれていた。研究所というのも比較的良い環境にあったのだろう。グレードの高いマシンは熟練者から与えられる。当時はハードディスクが外付けされるだけで画期的だった。容量は10MB程度で、しかも高速で感動したものだ。バブル時代になると予算も通りやすく、下っ端のおいらでさえ、高価な計測器をほぼ占有できた。当時、GHz帯の測定器など、何の研究に使うんだと皮肉られたものだ。おいらは一箇所に落ち着くのが嫌いなので、ラップトップ型コンピュータを予算化した。ラップトップなんて言葉は今では死語である。こうした環境も、転職すると、なんと贅沢だったのかと知らされることになる。
本書を読んでいると、まず気になったのがページ番号の見方である。最初、意味が分からなかったのだが、3分の1ぐらい読んだところで、なるほど!パンチ風で、ギリシャ数字は10進数の桁を表しているのかあ。こんなところにも気配りがなされるところに、著者の感性が伝わる。ただ、2進数で表したら、もっとそれらしく見えると思うが、複雑になりそうだ。基板上の配線された写真などは、昔、苦労して製作したブレッドボードを思い出す。ラッピング配線とハンダ付けでは、どちらが接触抵抗が小さいか?などと実験室で競ったものだ。不器用なおいらはツールで誤魔化すしかなかった。ちなみに、スーパーおじさんのハンダ付けには、どんな優れたツールを持ってしても敵わない。本書には、世界初のコンピュータから、電卓、ルータ、サーバなど30数台のマシンが収録される。その中から、なんとなく酔っ払いの目のついたところを摘んでみよう。なぜかって?そこにうまい燻製の摘みがあるから。
1. Z3の加算機
最初のコンピュータは、実はENIACではないらしい。世界最初のプログラマブル自動電磁コンピュータは、第二次大戦のさなか、ドイツのコンラート・ツーゼ(Konrad Zuse)によって作られたという。しかし、1944年、連合軍のペルリン空爆によって破壊されてしまう。本書で紹介する写真は、加算機ユニットを教育目的で再現したものだという。ストレージ用の媒体は、映画用フィルムにパンチ穴を開けたものである。そこにはスイッチング用のリレーが並び、酔っ払いにはカタカタという音が聞こえてくる。
2. ENIAC
1946年、アメリカ陸軍とペンシルバニア大学によって製作された。その研究には、後に数学者ジョン・フォン・ノイマンも加わっている。当初の目的は、弾道軌跡計算を行うことだった。このプロジェクトはテストケースで、以降のプロジェクトであるEDVACやUNIVACのモデルになったという。ENIACは、プログラムが記憶できないため、新しいタスクには物理的な変更によって対処する必要があった。後にノイマンがプログラム記憶方式の概念をまとめることになる。しかし、その概念自体は、ジョン・エッカートとジョン・モークリーの成果によるものだったという。ここに、コンピュータ基礎理論が構築されたわけである。
3. UNIVAC I
1951年、世界初の商用コンピュータが、エッカートとモークリーによって製作された。メインメモリには、巨大な水銀遅延線を使ったという。そして、水銀管内に音波パルスを送り、それを検知して送り返すといったことをするらしい。その写真は、スクラップになったプロペラ機のエンジンを彷彿させる。この頃、記憶媒体としてテープドライブが登場する。ただ、顧客からすると、パンチカードはまだ目で見えるが、テーム媒体は目に見えないため、反発も激しかったという。当時のセールスマンの苦悩が目に浮かびそうだ。
4. Johnniac
1954年に製作された。給与計算、数値計算の他、チェスができるようにプログラムされたという。更に、OSは、タイムシェアリングを行っているというから興味深い。ただし、分単位のものらしい。また、磁気コアメモリにアップグレードされている点も注目すべきである。写真には、端末のキーボードが設置された大掛かりな装置が表れ、ファクトリーオートメーションといった印象を与える。
5. SAGE
1954年から63年に、アメリカ空軍とIBMによって製作された。ソ連軍の対航空戦略のために開発された。大型コンピュータのネットワークによって、レーダーからのデータをリアルタイムで分析し、情報をいち早く戦闘機に送るというもので、最初のリアルタイム対話型コンピュータである。また、最初にコアメモリが使われた。ディスプレイモニタ、モデム、ネットワークという革新的なハードウェアも搭載される。おもしろいのは、ライターと灰皿が組み込まれるところである。SAGE施設は、人里離れた地下200mの掩蔽壕の中にあったという。言われてみれば、自動車にライターと灰皿がついているのも奇妙な話なのかもしれない。最近の新車にはついていないようだ。愛煙家はますます住み辛い世界となる。
6. IBM System/360
1964年、IBMが互換性をもったファミリー機を登場させた。「互換性が全てを支配する」という目標の下にIBMは大躍進する。なによりも、同じ命令セットが使われるのが、ソフトウェアのアップグレードを容易にし運用性を高めた。マイクロプログラムを採用し、ROMに記憶されたマイクロコードが、アーキテクチャの違いに関わらずエミュレートする。このファミリー機のハイエンドは、アポロ計画や航空管制システムの基盤をもたらした。
7. DEC PDP-8
1965年、DEC社によって開発された最初のミニコンピュータである。いきなり、「セックスアピールのあるデザイン」という紹介があるが、そうかなあ?このマシンは、ユーザとの責任の共有、ユーザへの自己教育の促進といった哲学を提供した。当時のスタンダードはIBMの手法で、コンピュータの所有権を移転せず、リースして一切の改造を防ぎ、プログラミングを会社の認可した聖職カーストに限るというやり方であったという。しかし、DECのPDPシリーズは、これに従わず、むしろ改造、拡張を促していたという。なんとなくMSに従わない、オープンソ-スの精神に繋がるものを感じる。PDP-8は、パーソナルコンピュータとしては、ほとんど最初のものである。
8. Interface Message Processor
1969年、ARPANET向けに作られた最初のパケットルータである。ARPANETは、相互接続されたコンピュータによる世界というヴィジョンを持っていた。いわゆるインターネットの前身である。コンピュータそのものを規格化するという考えから、パケット側を規格化するという発想に転換された時代を思わせる貴重なマシンと言えるだろう。
9. Altair 8800
1975年に製作されたおもちゃ。当時、ほどんどのユーザが紙テープリーダを持たなかった。このマシンを買ってすぐにできることといったら、スイッチをパチパチさせてランプを光らせるぐらい。このマシンを持つことは、大きな想像力だけでなく、大きな忍耐力も必要だったという。このエピソードを読んでいると、なんとなくレーザーディスクを思い出す。大学時代、友人から画期的なマシンを手に入れたというから、何かと思ったらレーザーディスクだった。「レーザーディスクを見せてやるから遊びにおいで!」と自慢げに話すので遊びに行った。電源を入れる瞬間に緊張感が走る。しばらくすると、起動画面で「Pioneer Laserdisc」という文字が踊っていた。なんと、彼はソフトを一つも持っていなかったのである。確かに、見せてもらったのは「レーザーディスク」という文字だった。
10. Cray
クレイ・リサーチ社を設立したシーモア・クレイ。この配線の写真には、スーパーコンピュータへの情熱を感じ、Cray-1の姿には相変わらずの風格を感じる。
2008-08-03
"笹まくら" 丸谷才一 著
連続して素晴らしい文学作品に出会えて幸せである。最近、アマゾンのお薦めは精度が悪いような気がする。本を選ぶには、やはり立ち読みしてみるのが一番である。
本書は、素晴らしい趣向(酒肴)を見せてくれる。それは、現在と過去を自在に往来する文章構成である。文体の区切れもなく、何の前触れもなく、いつのまにか過去へ、いつのまにか現在へと。今宵は時空の移動を感じる純米酒がピッタリだ。
アル中ハイマーには文学センスが全くない。高校時代、国語や古典では学年で最下位を争っていた。試験問題では、作者が何を意図しているか?などと問われても、「知らんがね!」という態度を取っていた。そんなことよりも、読者の感覚を自由にしてもらいたいと願っていた。以来、文学作品は大嫌いになり、近寄りもしなくなった。親しい同級生には、「お前は国語が苦手なのではなく、試験問題に素直になれないだけだ。」と言われたものだ。この友人は、理系に進んでいるのになぜか数学が苦手だったが、文学の才能は抜群だった。数学に対する発想力もおもしろく、考えをヒントにさせてもらったことも多い。その奇抜な発想のために、混乱を招くことも多く、自ら蟻地獄に嵌りこんでいた。しかし、こういう人間こそ真の理系向きなのかもしれない。彼の最大の武器は根気強さである。これは、研究には欠かせない気質であり、羨ましく思う。おいらは、「お前は数学が苦手なのではなく、試験問題を解く効率が悪過ぎるだけだ。」と言い返したものだ。互いに、三角形の面積の解き方を何種類言えるかといった遊びで競ったりもした。幾何学的手法から、ベクトル解析、微分積分と、あらゆる方法で何十種類もでっち上げ、意地の張り合いをしたのが懐かしく思い出される。本書を読んでいると、なぜかそんな昔のことを思い出してしまう。それも、時代を自在に往来する時空の旅を見せてくれるからであろう。
「笹まくら」という題目は、鎌倉時代の歌から取ったものらしい。著者は、旅寝をしている時、かさかさする音が不安感に襲われると表している。時代は太平洋戦争。主人公は徴兵忌避者で国家から逃亡し、戦後まで生き延びる。そこには、やりきれない孤独や絶望を描いたアウトサイダーの物語がある。主人公は、戦後、問題にならなかった徴兵忌避が次第に噂され、勤務先で息苦しくなる。他人の生活を覗き込むような社会は、別の意味での軍隊生活。息苦しい戦後生活が逃亡生活と重なる。戦時中も戦後もたいして変わらないという意識を訴えているかのようである。おそらく著者は、日中戦争から太平洋戦争へと動く世論に反対の立場をとったのだろう。そう思わせる節がところどころにちりばめられている。著者は、自分自身と徴兵忌避者を重ね合わせる。著者自身が入隊し、戦地に送りこまれる前に終戦したという。
本書の注目すべきは、文章構成である。それは、戦時中と戦後を何度も自在に往来する。まさしく酔っ払いが、気分良く時空を散歩するかのごとく。本名と偽名の往来。戦時中に助けてくれた女性と、戦後の妻との対比。軍隊からの逃亡と、居場所のない戦後社会の対比。過去と現在の心の違いを放浪するテクニシャン振りは感動ものである。文学の世界には、このような技法があるのかと驚嘆させられる。だが、よく考えるとアル中ハイマーのてんでばらばらで時系列などない文章構成にも似ている。芸術と酔っ払いの領域は、隣り合わせの時空に存在するようだ。
1. 徴兵忌避者
物語は、逃亡生活を助けてくれた女性の死の知らせから始まる。主人公は社会復帰し大学職員として平凡に暮らし、既に戦後20年が過ぎていた。女性の死の知らせが主人公を戦時中へと連れ戻す。主人公は徴兵忌避者となり、家族にも友人にも知らせずに逃亡生活に入る。ラジオや時計の修理をしたり、砂絵師となって各地を転々とする。徴兵を忌避した理由は、自分が死ぬのが怖かったわけではない。人を殺すのが嫌だったと語る。戦争というものが生まれつき嫌いだったのだ。だが、家族や親類にも非国民の汚名が着せられる。逃亡中、母親の自殺。父親も早く参ってしまう。弟は憲兵に追いまわされ殴られ、結核で死ぬ。主人公は自らを責める。人殺しをしたくないと行動した結果、別の人を死なせてしまったという矛盾にやるせなさを感じる。徴兵制度は軍国体制の基礎で、それに逆らえば銃殺か危険な戦地に送られる。いずれにせよ死を運命づけられていた。戦後まで国全体を敵に回しながら逃げ通したのは奇跡である。皆の顔が、徴兵忌避者のせいで負けたと恨んでいるように見える。徴兵忌避者が勝利するとしたら戦争に敗れることしかない。にも関わらず喜べない。空虚な心。実は、生き残る可能性など信じていなかったことに気づく。笹の葉は、風が吹くにつれて、様々な色に微妙に変り、元の色に戻る。偽名で生きた人間は本名へ戻る。だが、本名に戻ることを恐れる。主人公は戦争が終わった後をどう生きるか考えていなかった。徴兵忌避者のせいか、社会を信じることもなく、異常な警戒感を持つ性格となっていた。一緒に逃げ回った質屋の娘の死。最後の一年間養ってくれた。もし、彼女がいなければ自首していたかもしれない。だが、ここで疑問が残る。なぜ、この女性と分かれたのか?国に逆らうことへ情熱を燃やしてきたが、戦争が終わった途端、二人の関係も終わる。過去を引きずることを嫌ったのか?少なくとも逃亡中には、その娘との小さな幸せがあった。小さな幸せを取り戻したいとでも思っているのか?現在に絶望し、過去を懐かしんでいる様が描かれる。
2. 戦後の光景
日本もここまで国力が充実した以上、そろそろ大国らしく原水爆を持って国民の誇りを高めるべきだという大新聞の論調が飛び出す。主人公は、意見そのものは酔っ払いの論旨であるとはねつける。戦後20年も経って、問題にされなかった徴兵忌避を、世間が急に咎めようという風潮が現れる。職場でも徴兵忌避者や卑劣漢と陰口されるようになる。そこに戦争反対派の学生が近づいてくる。彼らは赤新聞的で、右翼ジャーナリストの撲滅を訴える。ベトナム介入反対で徴兵忌避したアメリカ青年と共にアメリカ帝国主義に抵抗するように持ちかけられ、学生新聞の編集に加担させようとする。この時代、日本人の生活が贅沢になり、西洋と対等だと思うようになり、もう一度戦争をして、国威を発揚しようという思想が現れた様が語られる。それも、オリンピックみたいな気分で、日本全体の雰囲気が、主人公にとって不快なものとなっていた。しかし、昔、あれだけ世間に逆らったのに、いつのまにか世間の動向に助けられながら生きている自分に、空虚な気分でいる。
3. 戦時中の光景
逃亡中、炭鉱からの誘いもある。石炭会社は、犯罪者や徴兵忌避者を多く雇う。憲兵に渡したところで何の利益にもならない。弱みを持った労働者は歓迎できる。逃亡者も引け目を感じる。朝鮮人より待遇もいいし、祖国のために働こうと胡散臭く持ちかけられる。犯罪者が炭鉱で働くのも、誰にも見られぬ所へ逃れたいという深層心理が働くのだろうか?光を避けるように、暗い所を求めるのだろうか?主人公は、徴兵忌避した理由を追い求める。アメリカ相手の戦争の意味とはなんだったのか?単なる意地か?アジア諸国の独立と称して大東亜戦争と叫び、戦争を擁護する人も多い。民族の自由を掲げ、戦争を正当化した論調はどこにでもある。主人公は戦時中孤立していた。そして、今も徴兵忌避の過去から孤立している。この光景は、戦後の近代社会が人々を孤立させている現象を暗喩しているかのようにも見える。いろんな理由付けを探しても、結局、軍隊が嫌いだったという理由に帰着するのではないかという疑惑。軍隊の習慣である往復ビンタが嫌だった。人間はあらゆるものへの反抗を正当化するために理屈づけをする。ほとんどの反抗的行為が、単純な気分によるところが多い。アル中ハイマーが仕事を拒否する理由も、単に面倒だからである。
4. 青年たちの議論
二・二六事件については、天皇親政に帰るための方法として仕方が無かったという論調が登場する。そもそも、天皇親政などという時代は、大昔から日本史にはないではないかと議論が始まる。少なくともエリートたちに、天皇陛下が日本を治めるなんて信じる者はいない。百姓の息子を戦死させるために都合良くした教えに過ぎない。一人の学生は、天皇信仰は無知な大衆向けの国家論だと主張する。国家の目的とは何か?その目的は、戦争以外にはないんじゃないか。国民の幸福や、文化の発達は見せ掛けの目的ではないのか。スパルタは戦争愛好国で、アテネは文化愛好国というのは間違いで、どちらも戦争が目的の国ではないか。偶然にも文化が生まれただけのことで、文化国なんてものは存在しないんじゃないか。といった議論が展開される。明治維新以来、戦争ばかりやっているから、こうした議論も自然に見える。国家とは資本家のものか?政府は浪費ばかりしている。資本家は利潤のために浪費を願う。ここで、主人公は、国家とは無目的なものだと発言する。国家は、内的な緊張、党派の争い、階級の争いが起こりやすい。したがって、外的緊張が必要である。戦争が起こりそうだからといって挙国一致内閣を作るのではなく、挙国一致内閣をつくるために戦争を起こすのだと語る。そして、徴兵忌避の方法を論じる。銃が撃てないように、右手の人差し指を切り落とすとか、気違いを真似るとか、病気を装うとか、そして、アル中になるのもよいだろう。
本書は、素晴らしい趣向(酒肴)を見せてくれる。それは、現在と過去を自在に往来する文章構成である。文体の区切れもなく、何の前触れもなく、いつのまにか過去へ、いつのまにか現在へと。今宵は時空の移動を感じる純米酒がピッタリだ。
アル中ハイマーには文学センスが全くない。高校時代、国語や古典では学年で最下位を争っていた。試験問題では、作者が何を意図しているか?などと問われても、「知らんがね!」という態度を取っていた。そんなことよりも、読者の感覚を自由にしてもらいたいと願っていた。以来、文学作品は大嫌いになり、近寄りもしなくなった。親しい同級生には、「お前は国語が苦手なのではなく、試験問題に素直になれないだけだ。」と言われたものだ。この友人は、理系に進んでいるのになぜか数学が苦手だったが、文学の才能は抜群だった。数学に対する発想力もおもしろく、考えをヒントにさせてもらったことも多い。その奇抜な発想のために、混乱を招くことも多く、自ら蟻地獄に嵌りこんでいた。しかし、こういう人間こそ真の理系向きなのかもしれない。彼の最大の武器は根気強さである。これは、研究には欠かせない気質であり、羨ましく思う。おいらは、「お前は数学が苦手なのではなく、試験問題を解く効率が悪過ぎるだけだ。」と言い返したものだ。互いに、三角形の面積の解き方を何種類言えるかといった遊びで競ったりもした。幾何学的手法から、ベクトル解析、微分積分と、あらゆる方法で何十種類もでっち上げ、意地の張り合いをしたのが懐かしく思い出される。本書を読んでいると、なぜかそんな昔のことを思い出してしまう。それも、時代を自在に往来する時空の旅を見せてくれるからであろう。
「笹まくら」という題目は、鎌倉時代の歌から取ったものらしい。著者は、旅寝をしている時、かさかさする音が不安感に襲われると表している。時代は太平洋戦争。主人公は徴兵忌避者で国家から逃亡し、戦後まで生き延びる。そこには、やりきれない孤独や絶望を描いたアウトサイダーの物語がある。主人公は、戦後、問題にならなかった徴兵忌避が次第に噂され、勤務先で息苦しくなる。他人の生活を覗き込むような社会は、別の意味での軍隊生活。息苦しい戦後生活が逃亡生活と重なる。戦時中も戦後もたいして変わらないという意識を訴えているかのようである。おそらく著者は、日中戦争から太平洋戦争へと動く世論に反対の立場をとったのだろう。そう思わせる節がところどころにちりばめられている。著者は、自分自身と徴兵忌避者を重ね合わせる。著者自身が入隊し、戦地に送りこまれる前に終戦したという。
本書の注目すべきは、文章構成である。それは、戦時中と戦後を何度も自在に往来する。まさしく酔っ払いが、気分良く時空を散歩するかのごとく。本名と偽名の往来。戦時中に助けてくれた女性と、戦後の妻との対比。軍隊からの逃亡と、居場所のない戦後社会の対比。過去と現在の心の違いを放浪するテクニシャン振りは感動ものである。文学の世界には、このような技法があるのかと驚嘆させられる。だが、よく考えるとアル中ハイマーのてんでばらばらで時系列などない文章構成にも似ている。芸術と酔っ払いの領域は、隣り合わせの時空に存在するようだ。
1. 徴兵忌避者
物語は、逃亡生活を助けてくれた女性の死の知らせから始まる。主人公は社会復帰し大学職員として平凡に暮らし、既に戦後20年が過ぎていた。女性の死の知らせが主人公を戦時中へと連れ戻す。主人公は徴兵忌避者となり、家族にも友人にも知らせずに逃亡生活に入る。ラジオや時計の修理をしたり、砂絵師となって各地を転々とする。徴兵を忌避した理由は、自分が死ぬのが怖かったわけではない。人を殺すのが嫌だったと語る。戦争というものが生まれつき嫌いだったのだ。だが、家族や親類にも非国民の汚名が着せられる。逃亡中、母親の自殺。父親も早く参ってしまう。弟は憲兵に追いまわされ殴られ、結核で死ぬ。主人公は自らを責める。人殺しをしたくないと行動した結果、別の人を死なせてしまったという矛盾にやるせなさを感じる。徴兵制度は軍国体制の基礎で、それに逆らえば銃殺か危険な戦地に送られる。いずれにせよ死を運命づけられていた。戦後まで国全体を敵に回しながら逃げ通したのは奇跡である。皆の顔が、徴兵忌避者のせいで負けたと恨んでいるように見える。徴兵忌避者が勝利するとしたら戦争に敗れることしかない。にも関わらず喜べない。空虚な心。実は、生き残る可能性など信じていなかったことに気づく。笹の葉は、風が吹くにつれて、様々な色に微妙に変り、元の色に戻る。偽名で生きた人間は本名へ戻る。だが、本名に戻ることを恐れる。主人公は戦争が終わった後をどう生きるか考えていなかった。徴兵忌避者のせいか、社会を信じることもなく、異常な警戒感を持つ性格となっていた。一緒に逃げ回った質屋の娘の死。最後の一年間養ってくれた。もし、彼女がいなければ自首していたかもしれない。だが、ここで疑問が残る。なぜ、この女性と分かれたのか?国に逆らうことへ情熱を燃やしてきたが、戦争が終わった途端、二人の関係も終わる。過去を引きずることを嫌ったのか?少なくとも逃亡中には、その娘との小さな幸せがあった。小さな幸せを取り戻したいとでも思っているのか?現在に絶望し、過去を懐かしんでいる様が描かれる。
2. 戦後の光景
日本もここまで国力が充実した以上、そろそろ大国らしく原水爆を持って国民の誇りを高めるべきだという大新聞の論調が飛び出す。主人公は、意見そのものは酔っ払いの論旨であるとはねつける。戦後20年も経って、問題にされなかった徴兵忌避を、世間が急に咎めようという風潮が現れる。職場でも徴兵忌避者や卑劣漢と陰口されるようになる。そこに戦争反対派の学生が近づいてくる。彼らは赤新聞的で、右翼ジャーナリストの撲滅を訴える。ベトナム介入反対で徴兵忌避したアメリカ青年と共にアメリカ帝国主義に抵抗するように持ちかけられ、学生新聞の編集に加担させようとする。この時代、日本人の生活が贅沢になり、西洋と対等だと思うようになり、もう一度戦争をして、国威を発揚しようという思想が現れた様が語られる。それも、オリンピックみたいな気分で、日本全体の雰囲気が、主人公にとって不快なものとなっていた。しかし、昔、あれだけ世間に逆らったのに、いつのまにか世間の動向に助けられながら生きている自分に、空虚な気分でいる。
3. 戦時中の光景
逃亡中、炭鉱からの誘いもある。石炭会社は、犯罪者や徴兵忌避者を多く雇う。憲兵に渡したところで何の利益にもならない。弱みを持った労働者は歓迎できる。逃亡者も引け目を感じる。朝鮮人より待遇もいいし、祖国のために働こうと胡散臭く持ちかけられる。犯罪者が炭鉱で働くのも、誰にも見られぬ所へ逃れたいという深層心理が働くのだろうか?光を避けるように、暗い所を求めるのだろうか?主人公は、徴兵忌避した理由を追い求める。アメリカ相手の戦争の意味とはなんだったのか?単なる意地か?アジア諸国の独立と称して大東亜戦争と叫び、戦争を擁護する人も多い。民族の自由を掲げ、戦争を正当化した論調はどこにでもある。主人公は戦時中孤立していた。そして、今も徴兵忌避の過去から孤立している。この光景は、戦後の近代社会が人々を孤立させている現象を暗喩しているかのようにも見える。いろんな理由付けを探しても、結局、軍隊が嫌いだったという理由に帰着するのではないかという疑惑。軍隊の習慣である往復ビンタが嫌だった。人間はあらゆるものへの反抗を正当化するために理屈づけをする。ほとんどの反抗的行為が、単純な気分によるところが多い。アル中ハイマーが仕事を拒否する理由も、単に面倒だからである。
4. 青年たちの議論
二・二六事件については、天皇親政に帰るための方法として仕方が無かったという論調が登場する。そもそも、天皇親政などという時代は、大昔から日本史にはないではないかと議論が始まる。少なくともエリートたちに、天皇陛下が日本を治めるなんて信じる者はいない。百姓の息子を戦死させるために都合良くした教えに過ぎない。一人の学生は、天皇信仰は無知な大衆向けの国家論だと主張する。国家の目的とは何か?その目的は、戦争以外にはないんじゃないか。国民の幸福や、文化の発達は見せ掛けの目的ではないのか。スパルタは戦争愛好国で、アテネは文化愛好国というのは間違いで、どちらも戦争が目的の国ではないか。偶然にも文化が生まれただけのことで、文化国なんてものは存在しないんじゃないか。といった議論が展開される。明治維新以来、戦争ばかりやっているから、こうした議論も自然に見える。国家とは資本家のものか?政府は浪費ばかりしている。資本家は利潤のために浪費を願う。ここで、主人公は、国家とは無目的なものだと発言する。国家は、内的な緊張、党派の争い、階級の争いが起こりやすい。したがって、外的緊張が必要である。戦争が起こりそうだからといって挙国一致内閣を作るのではなく、挙国一致内閣をつくるために戦争を起こすのだと語る。そして、徴兵忌避の方法を論じる。銃が撃てないように、右手の人差し指を切り落とすとか、気違いを真似るとか、病気を装うとか、そして、アル中になるのもよいだろう。
2008-07-27
"ヴァレリー・セレクション(下)" Paul Valéry 著
上巻に続いて、何度も読み返しながら進んでいると、読破するのに一ヶ月もかかってしまった。歳をとると、こういう世界を欲するようになるのだろうか?いや、まだ若いからこそ癒しの空間が必要なのだ。アル中ハイマーは哲学の意義をごくたまーに考える。この一見高度に見える思考は、生きる上であまり役には立たない。哲学は、苦悩する具体的な問題に何一つ答えてくれない。定義できない抽象的な問題を考察したところで、解決にはならない。そして、答えの見つからない宇宙へと放り出される。論理的な解明を深めると鬱病にさえなる。だからといって、それ以外に何ができるだろうか?だからといって、諦めるにはもったいない。哲学は、探求するプロセスを楽しむ世界である。素朴でなければ、その境地に達することはできない。そこが、暇人の学問と言えるところである。多忙に追われていては、触れることのできない領域に踏み込む。そして、そこに詩的なものが加われば、癒されることこの上ない。ヴァレリーの世界とは、そうした世界である。
本書を眺めていると、評論であっても芸術の域に達した独創的な文章に出会える。こうした文章を見せつけられると独創へ憧れてしまう。ところで、独創性とはなんだろうか?独創性とは、どうやって磨くのだろうか?上巻では意外なことが語られていた。それは、ほかの作品を養分にすること以上に、独創的なものはないというのだ。もちろん、そこには自らの精神を曝け出すのが鉄則である。偉大な芸術は、模倣されることを自然に受け入れる。優れた作品は、模倣しても、模倣されても、ゆるぎない芸術性を保つ。それに耐えうる、それに値するものにこそ、真の芸術があるということだろう。批評にしても、作品を語っているようで、実は自己を語っている。それは、気分や趣味にしたがって意見を述べているに過ぎない。日本の小説家で誰だったかは思い出せないが、似たようなことを語っていたような気がする。それは、独創性を磨くには、いかに多くの気に入ったフレーズに出会えるかにかかっているといったことである。個性を磨くにしても、いかに個性的な人間に出会えるかにかかっているのかもしれない。独創性とは、先人たちの苦悩と積み重ねによる賜物と言えるだろう。著者は、小説や詩というものは、純度の低い無意識的な応用に過ぎないと語る。そして、詩の創作とは、言語という材料によって模倣しようとする行為であるという。著者が文学に腹を立てているのは、科学と違って観念を扱う際に厳密さや一貫性や必然性を欠いていることだという。そして、文学の対象はたいていとるにたらないと語る。とはいっても、単に文法的な形式に従って言葉を並べても、そこに詩的な文章は現れない。たいていの人々は、生活の中に潜む幸運の産物に気がつかないでいる。文章の見事さや韻律の美しさは主観の領域にある。主観とは、精神の自由を探求するものであり、いわば本能との葛藤である。この葛藤の中から、形として表せるものを見つけ出すところに、芸術家の凄さがあるように思える。
芸術の一手段に絵画がある。これは人間の視覚に直接訴えるため、それだけで説得力がある。にも関わらず、絵画を文学という手段で評論し、更に芸術性を高めるところにおもしろさを感じる。特に、芸術感覚のないアル中ハイマーには、文章による解説は必須だ。しかし、芸術家は職人気質があるため、文学的な評論を拒む印象がある。お前なんかに俺の芸術が分かるもんかと嘲笑っているような気さえする。しかし、著者は、あらゆる芸術作品は人が答えてくれることを求めているという。そして、絵から談話の機会を奪い取ったら、その意味と目的を失ってしまうと語る。芸術作品には、作者の生き様が要約される。そして、自らの作品をより高度な複雑な領域に定義したがる。芸術家が自らの定義を文章に訴えた例は多い。レオナルドは事柄の様子を細かく叙述し、ドラクロアは様々な秘訣や方法を書き留めた。こうした過程で、芸術家は信念を高め、自らの五感へ働きかける。本書を読んでいると、芸術作品の評論とは、作品そのものよりも、芸術家の生き様を評するもののように思えてくる。美術館は独り言の好きな人間には最高の場所である。
本書には見事過ぎるほどの幻想的な光景が広がるので、記事にすることは難しい。また、酔っ払いが安易に記事にすると、作品そのものを壊してしまう気がする。だが、せっかく読んだのだから、要点だけでもメモることにした。
1. 海への眼差し
海辺で眺めていると、様々な考えの粗描、詩の断片、行動の幻、希望の脅威を精神の中に見出すと語る。そして、感情を持たないものの中で、海以上に自然に擬人化されたものはないという。その文章からは、地球、月、太陽、空気などの影響下にある巨大な液体に、素朴な精神は生命を吹き込もうとする。透明と光沢、休息と動き、静けさと嵐、法則と偶然、無秩序と周期、知的で幼稚、時には地質学的に、時には生物学的に、時のは物理学的に...人間の精神に照らし合わせた水への幻想的な表現が続く。そして、誰もが素朴な詩人になれると語ってくれる。そこには、音楽を聴いているような癒しの世界がある。
2. 「パンセ」の一句をめぐる変奏
パスカルの断片集「パンセ」の中の一句。「この無限の空間の永遠の沈黙がわたしを怖れさせる」これを題材にしてパスカルの人間像を評している。そして、悲劇の主人公説を否定する。これは詩であり思想というものではないという。「無限の空間」と「永遠の沈黙」を対称的に配置し、均整のとれた構成は見事で、一つの宇宙が創出される。そして、「この詩は完璧だ!」と語る。この句には、パスカル自身が世界から打ち捨てられ、絶望の境地が表れる。しかし、本当に全てが虚しいと感じるならば、そう書くことを自ら禁じるものだという。確かに、うまく書こうとするところに下心がある。自らを分析できる冷めた心が無ければ芸術は生まれない。芸術家は観察したものを誇張せずにはいられない。著者は、本当に宗教的な人間や、本当に思慮深い人間は、宇宙に空虚なものを見たりはしないという。そして、認識と救済との対立を大げさに誇張するのは、同じ時代にパスカルに劣らず優秀な科学者がいたからであると分析している。デカルトへの嫉妬心か?あらゆるライバルへの対抗心か?といった批評が展開される。
3. コローをめぐって
コローの絵の評論。コローは「大地」の姿を最もよく観察した画家の一人である。著者は、偉大な芸術家とは、知的で、理屈っぽく、美学に夢中になった連中であるという。偉大な芸術家は、偉大な理論家でもあり、人々に抵抗不能な効果しか望まず、服従しようと試みる。その一方で、コローは自分の感じるものへと誘惑し、自然に忠実に服従するのを願うという。著者は、芸術家が最終的に行き着くところは自然さだと主張する。コローは巨匠たちを尊敬してはいるが、他人の手段は邪魔だと考えているという。彼の作品は、波うってどこまでも続く「大地」に光をあて、音楽のような魅惑を引き出す。それは、生涯かけて学問の深さを追及した者にのみ得られる自然であり、ある日突然不意打ちのように現れるという。ライプニッツは0と1で全ての数が書けることを示した。芸術の巨匠にかかれば白と黒で同様のことができるということか。明と暗だけで、視覚的な表現には十分なのかもしれない。著者は、色彩画家は本質的に詩人であると語る。
4. マネの勝利
もし!「マネの勝利」という絵画を描くとしたら、この偉大な芸術家の周りを仲間たちで囲むような構想になるだろうと語る。そのまわりには、ドガ、モネ、バジル、ルノワールといった巨匠が並ぶが、誰一人として、テクニックも個性も違っている。彼らの共通は、ただ一つ、マネへの信仰だけである。マネには、それだけ不協和音を結束させるだけの力を持っているということだろう。マネの偉大さは、彼の意義を知っていた人の多さではなく、その心酔者たちの質の高さと互いに異種な人々だったことであると語る。
5. 地中海のもたらすもの
著者は、地中海の港の見える丘で育った。その精神が地中海から宿ったことを語ってくれる。人生の最初の印象を、地中海とその周りの人間から得られたことを幸運に思っているという。そこには、自然という恒久的な宇宙が存在するのと同時に、人工的に光景が変化する破壊との共存がある。神格的な地位にある海、空、太陽へ崇拝した時間が、著者の自己を形成していく。プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉は、まさしく地中海的であるという。つまり、自然の多様さには、人間の専門化した能力を結集しなければ対抗できない。そして、精神が持てるということは、光と空間、余暇とリズム、透明さと深さといった自然の諸条件を感知することだという。歴史的には、地中海の物理的特質が、ヨーロッパの形成に大きな役割を果たしてきた。地中海の自然が提供したものが、ヨーロッパの精神の根元にある。今日の基礎となる政治体制や思想、哲学が、古代ギリシャをはじめとする地中海文明がもたらしたのは、こうした自然環境を抜きには語れないのかもしれない。そう言えば、ガウディも地中海に魅了された様を語っていたのを思い出す。
6. 舞踏の哲学
舞踏は、生そのものから引き出された芸術であり、決してつまらない娯楽ではないと語る。そして、人体には、生きる上で必要もない過剰な能力があることを知ることができるという。著者は、舞踏の動きの中に、陶酔するまでの快楽が得られると絶賛している。しかし、実は著者自身がステップを踏めないので、なんらかの哲学に救いを求めているだけだと言っている。哲学者はイメージの大好きな人種である。そして問いかける。舞踏とは何か?時間とは何か?宇宙とは何か?酔っ払いとは何か?と。人間は奇妙な動物で、生きるために全然重要でない行為に意義を認め価値を与える。人間の好奇心は、生存の要求以上に激しくなり、ついには芸術や科学や普遍的問題を創造する。舞踏は、大地、地面、固い場所といった対象物の中で行われる。しかし、女性舞踏家は、そんな対象物を無視して軽々としたステップで、楽しく踊りまくる。舞踏の終わりには、見せ物として都合上定められた限界があるに過ぎない。つまり、音楽という別の要素が終われば自然と舞踏も終わる。この終わり方は、夢の終わり方に似ているという。また、芸術の行為は舞踏と同じであるとも言っている。そして、詩の朗読を、言葉による舞踏状態と重ねる。音楽家も同様。芸術家にとって作品は決して完成しない。舞踏と同じで終わる手段は、何かが枯渇した時に得られる。酔っ払いの行為も、全てが夢心地であり、決して覚めない舞踏状態にある。
7. 人と貝殻
貝殻には、一方は管の概念、他方にはねじれの概念がある。原則は単純だが見事なまでに多様さがある。ここでは、螺旋、渦巻き、空間内での角と角、これらの関係と観察といった幾何学的考察が続く。そして、いったい誰がこれを作ったのか?という素朴な疑問との葛藤が始まる。精神の最初の動きは「作る」ということに思いをめぐらすことだという。これは最も人間的な概念なのかもしれない。「なぜ?」とか「どのように?」とは、「作る」という概念が要求することで、形而上学や科学はひたすらこれを求めてきた。本書は、更に素朴な疑問を人間が作ったものか?自然がつくったものか?と追い込む。音楽や詩の見事な作品は偶発的なものか?天才たちの突発的なひらめきは本当に人間によるものなのか?人間の行動は、瞬間的な、局所的な行為の連続から成り立つ。その瞬間を思考が意識できるものではない。人工的な産物は、思考が働いた結果によって作られたと言えるのか?貝殻の有用性とは何か?それを言うなら芸術作品に有用性があるのか?少なくとも貝殻は生物学上、有用かもしれない。哲学は滑稽で、全ての存在を疑ってかかるのに、宇宙の存在を真面目に語ろうとする。著者は、貝殻の問題はささやかなものであるが、人間の限界を照らし合わせるのには十分であると語る。
8. パリの存在
著者は「パリ」を思考する。二千年に及ぶ作品であるパリ。偉大な民族の資本と政治によって生み出されたパリ。甘美と労苦の集まり。多くの征服者により欲望の対象とされたパリ。そして、パリはあらゆる事柄にもまして最高位の精神的人格として存在するという。この大都市の絶え間ない活動が、善と悪、真実と虚偽、美と醜といったものが相矛盾し、いかにも人間らしいと語る。世界には、これに匹敵する都市は多く存在する。しかし、ニューヨーク、ロンドン、北京など、数百万の人口をもつ怪物たちと明らかに一線を画すという。多様で個性に溢れた都市だからこそ、芸術の都と言われるのだろう。当時のパリは、あらゆる分野のエリートたちが結集した時代である。パリは、比較の試練を受け、批判や嫉妬、競争、揶揄、軽蔑にもさらされてきた。著者曰く。「傑出したフランス人はすべて、この強制収容所に入る運命にあるのだ。」
9. デカルト
著者は、デカルトを注意深く考察すればするほど遠ざかっていくが、その解釈の分裂が心地良いと語る。精神を追求し、思考をめぐらせ、やがて疲れる。その疲れが、心地よい酔いをもたらし快感を与える。あらゆる思考を抽象化し、ますます深みに嵌る。無駄な努力と分かっていても、その衝動には勝てない。理性、知性、理解、直感が、互いに手段とも目的ともなり、問題とも解答ともなり、物とも観念ともなる。こうした思考は、哲学者を詩人へと導く。詩人の方はというと、逆の手順を踏んでも、なかなかうまくいかないようだ。著者は、科学の世界をデカルトの亡霊に勝手にしゃべらせる。宇宙が数学的に体系化できるとは考えていない時代に、万有引力の法則が世界を解放した。といっても、デカルト以来、不変なものをあれこれ変えてきただけではないかと問いかける。デカルトは自己意識を探求した。もし、自己の存在が証明できるならば、神が存在することも証明できるだろうと。そもそも自己意識の存在など証明できるのか?自然の威厳に比べれば、実存論や無意味論といった論争も無力化してしまう。デカルトがやろうとしたことは、自分の内にある一般化できるものを、最高点に高めようとしたと語る。
10. 対東洋
「自然」という語だけでも、癒される。「哲学」という語は魔法のように感じる。それがどういう意味かわからなくても。西洋人にとって「東洋」という語は、宝石のように思えるようだ。この言葉の効果は、その地方に行ったことがないことが必須である。その知識はせいぜい図像や物語で読んだ程度で、なるべく不正確に混乱した状態が好ましい。これが「精神の東洋」である。著者は、数々の豊かさや創造物の中から、論理性と明晰さが際立つ二つの系を発見したという。それは、ギリシャ芸術とアラビア芸術である。アラビア人は、ギリシャ幾何学から透明な妄想を過剰にまでに高め、その演繹的想像力は、宗教でタブー視されている厳格さを追求したという。それは、イスラムの教えに数学的な厳格さを適合させたアラベスクである。著者は、この禁止を気に入っていると語る。そして、偶像崇拝、まやかし、逸話、軽信、自然と生の見せかけといった純粋でないものを芸術から排除するという。
11. 身体に関する素朴な考察
生物の有機的組織といった全ての機能を人工的に作るとしたら、どれだけの機能を削減できるだろうか?と問いかける。血液など必要な成分が、機械によって確実に維持されるとしたら、生命を人工的にも維持できるだろう。生物の有機的組織がしている仕事といえば、血液の再生だけである。血液は身体を作り、身体は血液を作る。血液は循環路を通り、肉体内部の世界一周をしている。これこそが生命であり、実に単調な組織であり、精神が宿るなど思いもつかない。もし、血液が人工的に再生されるとしたら、生は無くなるのだろうか?精神が生命にとって不可欠な仕事をしているとすれば、それは状況の不確かさを予見する能力であろうか?無意識の操作や反射のような反応で事足りるならば、精神の出る幕はない。精神は、むしろ有機的組織にとって、かき乱し、台無しにしてしまうのが関の山である。人体のあらゆる機能を人工的手段で別の代用品で置き換えられるならば、もはや生は存在しないのかもしれない。その帰結として、感覚や感情や思考といったものは、生にとって本質ではないということになる。精神は、生命の保存にとって絶対不可欠なのだろうか?人類は、あらゆる定義を試みてきた。そして、最終的には、自らの可能性を思い通りにできる状態、「自由」とでも呼べる状態に置き換えてしまう。精神とは非存在という存在なのか?その存在を具象化しようと試みたのが本作品である。
12. ヴォルテール
フランス人の多様性は、ヴォルテールの中に生き生きとした形で現れると語る。ヴォルテールはフランス人特有のほとんどの欠点を持っていて、長所も最高レベルに達した典型的なフランス人だという。フランスという国は、理想どうしの不和、感情の対立無しではやっていけない国だという。ヨーロッパの精神として君臨したルイ14世は、ヨーロッパで指導的観念や精神で主導的立場に据えた。ところが、ヴォルテールは、この時代を死にいたらしめたと風評される。彼は全生涯を通して、偉大な時代の遺物や伝統や信仰や豪華さを焼き尽くすよう努めた。洗練された短気であり続け、敵対者を糧に生きた。彼の描いたコントや毒舌は、宗教に対してあらゆるゲリラ戦をしかける。その一方で、シェークスピアを流行らせ、ニュートンを研究し、神のために教会を建てた。そして、嫌悪、憎悪、礼拝、称賛される。ジョゼフ・ド・メーストル曰く。「彼の銅像を建てさせたい。死刑執行人の手で。」この悪魔のような奇妙な人間は、哲学者ではないと評された。こうした批判は、彼が才気にあふれていたことに向けられたと語る。世間は、彼を冷淡で上辺だけの人間と評する。そこで著者は問いかける。それもよしとしよう。では、奥深く情け深いと言われる人間が、どれだけのことをしたというのか?と。ヴォルテールは60歳頃、訴訟を中心とした政治活動を行う。それまで刑法は、社会秩序や国家や宗教に対する違反や侮辱のみを罰してきた。しかし、彼は人類に対する犯罪、思想に対する犯罪があることを叫んだ。さらに、裁きそのものが犯罪になることを訴えた。そして、公権力が感情的になることを阻止しようとした。著者は、支配的権力を窮地に陥れたヴォルテールの功績を賛る。
本書を眺めていると、評論であっても芸術の域に達した独創的な文章に出会える。こうした文章を見せつけられると独創へ憧れてしまう。ところで、独創性とはなんだろうか?独創性とは、どうやって磨くのだろうか?上巻では意外なことが語られていた。それは、ほかの作品を養分にすること以上に、独創的なものはないというのだ。もちろん、そこには自らの精神を曝け出すのが鉄則である。偉大な芸術は、模倣されることを自然に受け入れる。優れた作品は、模倣しても、模倣されても、ゆるぎない芸術性を保つ。それに耐えうる、それに値するものにこそ、真の芸術があるということだろう。批評にしても、作品を語っているようで、実は自己を語っている。それは、気分や趣味にしたがって意見を述べているに過ぎない。日本の小説家で誰だったかは思い出せないが、似たようなことを語っていたような気がする。それは、独創性を磨くには、いかに多くの気に入ったフレーズに出会えるかにかかっているといったことである。個性を磨くにしても、いかに個性的な人間に出会えるかにかかっているのかもしれない。独創性とは、先人たちの苦悩と積み重ねによる賜物と言えるだろう。著者は、小説や詩というものは、純度の低い無意識的な応用に過ぎないと語る。そして、詩の創作とは、言語という材料によって模倣しようとする行為であるという。著者が文学に腹を立てているのは、科学と違って観念を扱う際に厳密さや一貫性や必然性を欠いていることだという。そして、文学の対象はたいていとるにたらないと語る。とはいっても、単に文法的な形式に従って言葉を並べても、そこに詩的な文章は現れない。たいていの人々は、生活の中に潜む幸運の産物に気がつかないでいる。文章の見事さや韻律の美しさは主観の領域にある。主観とは、精神の自由を探求するものであり、いわば本能との葛藤である。この葛藤の中から、形として表せるものを見つけ出すところに、芸術家の凄さがあるように思える。
芸術の一手段に絵画がある。これは人間の視覚に直接訴えるため、それだけで説得力がある。にも関わらず、絵画を文学という手段で評論し、更に芸術性を高めるところにおもしろさを感じる。特に、芸術感覚のないアル中ハイマーには、文章による解説は必須だ。しかし、芸術家は職人気質があるため、文学的な評論を拒む印象がある。お前なんかに俺の芸術が分かるもんかと嘲笑っているような気さえする。しかし、著者は、あらゆる芸術作品は人が答えてくれることを求めているという。そして、絵から談話の機会を奪い取ったら、その意味と目的を失ってしまうと語る。芸術作品には、作者の生き様が要約される。そして、自らの作品をより高度な複雑な領域に定義したがる。芸術家が自らの定義を文章に訴えた例は多い。レオナルドは事柄の様子を細かく叙述し、ドラクロアは様々な秘訣や方法を書き留めた。こうした過程で、芸術家は信念を高め、自らの五感へ働きかける。本書を読んでいると、芸術作品の評論とは、作品そのものよりも、芸術家の生き様を評するもののように思えてくる。美術館は独り言の好きな人間には最高の場所である。
本書には見事過ぎるほどの幻想的な光景が広がるので、記事にすることは難しい。また、酔っ払いが安易に記事にすると、作品そのものを壊してしまう気がする。だが、せっかく読んだのだから、要点だけでもメモることにした。
1. 海への眼差し
海辺で眺めていると、様々な考えの粗描、詩の断片、行動の幻、希望の脅威を精神の中に見出すと語る。そして、感情を持たないものの中で、海以上に自然に擬人化されたものはないという。その文章からは、地球、月、太陽、空気などの影響下にある巨大な液体に、素朴な精神は生命を吹き込もうとする。透明と光沢、休息と動き、静けさと嵐、法則と偶然、無秩序と周期、知的で幼稚、時には地質学的に、時には生物学的に、時のは物理学的に...人間の精神に照らし合わせた水への幻想的な表現が続く。そして、誰もが素朴な詩人になれると語ってくれる。そこには、音楽を聴いているような癒しの世界がある。
2. 「パンセ」の一句をめぐる変奏
パスカルの断片集「パンセ」の中の一句。「この無限の空間の永遠の沈黙がわたしを怖れさせる」これを題材にしてパスカルの人間像を評している。そして、悲劇の主人公説を否定する。これは詩であり思想というものではないという。「無限の空間」と「永遠の沈黙」を対称的に配置し、均整のとれた構成は見事で、一つの宇宙が創出される。そして、「この詩は完璧だ!」と語る。この句には、パスカル自身が世界から打ち捨てられ、絶望の境地が表れる。しかし、本当に全てが虚しいと感じるならば、そう書くことを自ら禁じるものだという。確かに、うまく書こうとするところに下心がある。自らを分析できる冷めた心が無ければ芸術は生まれない。芸術家は観察したものを誇張せずにはいられない。著者は、本当に宗教的な人間や、本当に思慮深い人間は、宇宙に空虚なものを見たりはしないという。そして、認識と救済との対立を大げさに誇張するのは、同じ時代にパスカルに劣らず優秀な科学者がいたからであると分析している。デカルトへの嫉妬心か?あらゆるライバルへの対抗心か?といった批評が展開される。
3. コローをめぐって
コローの絵の評論。コローは「大地」の姿を最もよく観察した画家の一人である。著者は、偉大な芸術家とは、知的で、理屈っぽく、美学に夢中になった連中であるという。偉大な芸術家は、偉大な理論家でもあり、人々に抵抗不能な効果しか望まず、服従しようと試みる。その一方で、コローは自分の感じるものへと誘惑し、自然に忠実に服従するのを願うという。著者は、芸術家が最終的に行き着くところは自然さだと主張する。コローは巨匠たちを尊敬してはいるが、他人の手段は邪魔だと考えているという。彼の作品は、波うってどこまでも続く「大地」に光をあて、音楽のような魅惑を引き出す。それは、生涯かけて学問の深さを追及した者にのみ得られる自然であり、ある日突然不意打ちのように現れるという。ライプニッツは0と1で全ての数が書けることを示した。芸術の巨匠にかかれば白と黒で同様のことができるということか。明と暗だけで、視覚的な表現には十分なのかもしれない。著者は、色彩画家は本質的に詩人であると語る。
4. マネの勝利
もし!「マネの勝利」という絵画を描くとしたら、この偉大な芸術家の周りを仲間たちで囲むような構想になるだろうと語る。そのまわりには、ドガ、モネ、バジル、ルノワールといった巨匠が並ぶが、誰一人として、テクニックも個性も違っている。彼らの共通は、ただ一つ、マネへの信仰だけである。マネには、それだけ不協和音を結束させるだけの力を持っているということだろう。マネの偉大さは、彼の意義を知っていた人の多さではなく、その心酔者たちの質の高さと互いに異種な人々だったことであると語る。
5. 地中海のもたらすもの
著者は、地中海の港の見える丘で育った。その精神が地中海から宿ったことを語ってくれる。人生の最初の印象を、地中海とその周りの人間から得られたことを幸運に思っているという。そこには、自然という恒久的な宇宙が存在するのと同時に、人工的に光景が変化する破壊との共存がある。神格的な地位にある海、空、太陽へ崇拝した時間が、著者の自己を形成していく。プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉は、まさしく地中海的であるという。つまり、自然の多様さには、人間の専門化した能力を結集しなければ対抗できない。そして、精神が持てるということは、光と空間、余暇とリズム、透明さと深さといった自然の諸条件を感知することだという。歴史的には、地中海の物理的特質が、ヨーロッパの形成に大きな役割を果たしてきた。地中海の自然が提供したものが、ヨーロッパの精神の根元にある。今日の基礎となる政治体制や思想、哲学が、古代ギリシャをはじめとする地中海文明がもたらしたのは、こうした自然環境を抜きには語れないのかもしれない。そう言えば、ガウディも地中海に魅了された様を語っていたのを思い出す。
6. 舞踏の哲学
舞踏は、生そのものから引き出された芸術であり、決してつまらない娯楽ではないと語る。そして、人体には、生きる上で必要もない過剰な能力があることを知ることができるという。著者は、舞踏の動きの中に、陶酔するまでの快楽が得られると絶賛している。しかし、実は著者自身がステップを踏めないので、なんらかの哲学に救いを求めているだけだと言っている。哲学者はイメージの大好きな人種である。そして問いかける。舞踏とは何か?時間とは何か?宇宙とは何か?酔っ払いとは何か?と。人間は奇妙な動物で、生きるために全然重要でない行為に意義を認め価値を与える。人間の好奇心は、生存の要求以上に激しくなり、ついには芸術や科学や普遍的問題を創造する。舞踏は、大地、地面、固い場所といった対象物の中で行われる。しかし、女性舞踏家は、そんな対象物を無視して軽々としたステップで、楽しく踊りまくる。舞踏の終わりには、見せ物として都合上定められた限界があるに過ぎない。つまり、音楽という別の要素が終われば自然と舞踏も終わる。この終わり方は、夢の終わり方に似ているという。また、芸術の行為は舞踏と同じであるとも言っている。そして、詩の朗読を、言葉による舞踏状態と重ねる。音楽家も同様。芸術家にとって作品は決して完成しない。舞踏と同じで終わる手段は、何かが枯渇した時に得られる。酔っ払いの行為も、全てが夢心地であり、決して覚めない舞踏状態にある。
7. 人と貝殻
貝殻には、一方は管の概念、他方にはねじれの概念がある。原則は単純だが見事なまでに多様さがある。ここでは、螺旋、渦巻き、空間内での角と角、これらの関係と観察といった幾何学的考察が続く。そして、いったい誰がこれを作ったのか?という素朴な疑問との葛藤が始まる。精神の最初の動きは「作る」ということに思いをめぐらすことだという。これは最も人間的な概念なのかもしれない。「なぜ?」とか「どのように?」とは、「作る」という概念が要求することで、形而上学や科学はひたすらこれを求めてきた。本書は、更に素朴な疑問を人間が作ったものか?自然がつくったものか?と追い込む。音楽や詩の見事な作品は偶発的なものか?天才たちの突発的なひらめきは本当に人間によるものなのか?人間の行動は、瞬間的な、局所的な行為の連続から成り立つ。その瞬間を思考が意識できるものではない。人工的な産物は、思考が働いた結果によって作られたと言えるのか?貝殻の有用性とは何か?それを言うなら芸術作品に有用性があるのか?少なくとも貝殻は生物学上、有用かもしれない。哲学は滑稽で、全ての存在を疑ってかかるのに、宇宙の存在を真面目に語ろうとする。著者は、貝殻の問題はささやかなものであるが、人間の限界を照らし合わせるのには十分であると語る。
8. パリの存在
著者は「パリ」を思考する。二千年に及ぶ作品であるパリ。偉大な民族の資本と政治によって生み出されたパリ。甘美と労苦の集まり。多くの征服者により欲望の対象とされたパリ。そして、パリはあらゆる事柄にもまして最高位の精神的人格として存在するという。この大都市の絶え間ない活動が、善と悪、真実と虚偽、美と醜といったものが相矛盾し、いかにも人間らしいと語る。世界には、これに匹敵する都市は多く存在する。しかし、ニューヨーク、ロンドン、北京など、数百万の人口をもつ怪物たちと明らかに一線を画すという。多様で個性に溢れた都市だからこそ、芸術の都と言われるのだろう。当時のパリは、あらゆる分野のエリートたちが結集した時代である。パリは、比較の試練を受け、批判や嫉妬、競争、揶揄、軽蔑にもさらされてきた。著者曰く。「傑出したフランス人はすべて、この強制収容所に入る運命にあるのだ。」
9. デカルト
著者は、デカルトを注意深く考察すればするほど遠ざかっていくが、その解釈の分裂が心地良いと語る。精神を追求し、思考をめぐらせ、やがて疲れる。その疲れが、心地よい酔いをもたらし快感を与える。あらゆる思考を抽象化し、ますます深みに嵌る。無駄な努力と分かっていても、その衝動には勝てない。理性、知性、理解、直感が、互いに手段とも目的ともなり、問題とも解答ともなり、物とも観念ともなる。こうした思考は、哲学者を詩人へと導く。詩人の方はというと、逆の手順を踏んでも、なかなかうまくいかないようだ。著者は、科学の世界をデカルトの亡霊に勝手にしゃべらせる。宇宙が数学的に体系化できるとは考えていない時代に、万有引力の法則が世界を解放した。といっても、デカルト以来、不変なものをあれこれ変えてきただけではないかと問いかける。デカルトは自己意識を探求した。もし、自己の存在が証明できるならば、神が存在することも証明できるだろうと。そもそも自己意識の存在など証明できるのか?自然の威厳に比べれば、実存論や無意味論といった論争も無力化してしまう。デカルトがやろうとしたことは、自分の内にある一般化できるものを、最高点に高めようとしたと語る。
10. 対東洋
「自然」という語だけでも、癒される。「哲学」という語は魔法のように感じる。それがどういう意味かわからなくても。西洋人にとって「東洋」という語は、宝石のように思えるようだ。この言葉の効果は、その地方に行ったことがないことが必須である。その知識はせいぜい図像や物語で読んだ程度で、なるべく不正確に混乱した状態が好ましい。これが「精神の東洋」である。著者は、数々の豊かさや創造物の中から、論理性と明晰さが際立つ二つの系を発見したという。それは、ギリシャ芸術とアラビア芸術である。アラビア人は、ギリシャ幾何学から透明な妄想を過剰にまでに高め、その演繹的想像力は、宗教でタブー視されている厳格さを追求したという。それは、イスラムの教えに数学的な厳格さを適合させたアラベスクである。著者は、この禁止を気に入っていると語る。そして、偶像崇拝、まやかし、逸話、軽信、自然と生の見せかけといった純粋でないものを芸術から排除するという。
11. 身体に関する素朴な考察
生物の有機的組織といった全ての機能を人工的に作るとしたら、どれだけの機能を削減できるだろうか?と問いかける。血液など必要な成分が、機械によって確実に維持されるとしたら、生命を人工的にも維持できるだろう。生物の有機的組織がしている仕事といえば、血液の再生だけである。血液は身体を作り、身体は血液を作る。血液は循環路を通り、肉体内部の世界一周をしている。これこそが生命であり、実に単調な組織であり、精神が宿るなど思いもつかない。もし、血液が人工的に再生されるとしたら、生は無くなるのだろうか?精神が生命にとって不可欠な仕事をしているとすれば、それは状況の不確かさを予見する能力であろうか?無意識の操作や反射のような反応で事足りるならば、精神の出る幕はない。精神は、むしろ有機的組織にとって、かき乱し、台無しにしてしまうのが関の山である。人体のあらゆる機能を人工的手段で別の代用品で置き換えられるならば、もはや生は存在しないのかもしれない。その帰結として、感覚や感情や思考といったものは、生にとって本質ではないということになる。精神は、生命の保存にとって絶対不可欠なのだろうか?人類は、あらゆる定義を試みてきた。そして、最終的には、自らの可能性を思い通りにできる状態、「自由」とでも呼べる状態に置き換えてしまう。精神とは非存在という存在なのか?その存在を具象化しようと試みたのが本作品である。
12. ヴォルテール
フランス人の多様性は、ヴォルテールの中に生き生きとした形で現れると語る。ヴォルテールはフランス人特有のほとんどの欠点を持っていて、長所も最高レベルに達した典型的なフランス人だという。フランスという国は、理想どうしの不和、感情の対立無しではやっていけない国だという。ヨーロッパの精神として君臨したルイ14世は、ヨーロッパで指導的観念や精神で主導的立場に据えた。ところが、ヴォルテールは、この時代を死にいたらしめたと風評される。彼は全生涯を通して、偉大な時代の遺物や伝統や信仰や豪華さを焼き尽くすよう努めた。洗練された短気であり続け、敵対者を糧に生きた。彼の描いたコントや毒舌は、宗教に対してあらゆるゲリラ戦をしかける。その一方で、シェークスピアを流行らせ、ニュートンを研究し、神のために教会を建てた。そして、嫌悪、憎悪、礼拝、称賛される。ジョゼフ・ド・メーストル曰く。「彼の銅像を建てさせたい。死刑執行人の手で。」この悪魔のような奇妙な人間は、哲学者ではないと評された。こうした批判は、彼が才気にあふれていたことに向けられたと語る。世間は、彼を冷淡で上辺だけの人間と評する。そこで著者は問いかける。それもよしとしよう。では、奥深く情け深いと言われる人間が、どれだけのことをしたというのか?と。ヴォルテールは60歳頃、訴訟を中心とした政治活動を行う。それまで刑法は、社会秩序や国家や宗教に対する違反や侮辱のみを罰してきた。しかし、彼は人類に対する犯罪、思想に対する犯罪があることを叫んだ。さらに、裁きそのものが犯罪になることを訴えた。そして、公権力が感情的になることを阻止しようとした。著者は、支配的権力を窮地に陥れたヴォルテールの功績を賛る。
2008-07-20
"ヴァレリー・セレクション(上)" Paul Valéry 著
久しぶりに素晴らしい文学作品に出会った。おそらく、ここ数年で最も感動した本である。これは、本を読んでいるというよりは、草原でオーケストラの生演奏を味わっているかのようである。芸術の域にある文章とはこういうものを言うのだろう。何度も読み返しているうちに、読破するのに一ヶ月以上かかってしまった。おっと!まだ下巻が残っている。
作家ポール・ヴァレリーを知ったのは、三島由紀夫氏の著書「文章読本」の中で一瞬触れられているのを見かけたからである。そこには、評論の中にも、高度な芸術の域に達したものがあると紹介されていた。アル中ハイマーには全く文学センスがない。文学の意義など考えたこともない。そもそも言語で人間の感情が完璧に表現できるとは信じていない。とは思っても、巧みな文章で魅了する作家がいる。時々疑問に思うことは、文学作品を作るのに体系化した黄金手法などあるのだろうか?ということである。著者は、若い頃、そうした究極の奥義があることを信じていたという。しかし、結局のところ作家の精神の中にしか見つからないらしい。どんなに巧みな比喩を乱用しようとも、作者の意図に関わらず読者の個性によって調律される。読者の微妙な感覚の違いを文学が統一することもないように思える。しかし、ここまでは素人の感覚のようだ。著者は、言語と感情の不変的な関係の探求を諦めることは、文学者として怠慢であると主張する。そして、文学の歴史でこうした難問に立ち向かったケースがあまりに少な過ぎると嘆いている。確かに、諦めることと解読できないということは違う。著者は、文学の意義を正面から向かい合った結果、倦怠感が募り、書いたり読んだりすることを止めていた時期もあったと語る。多くの哲学者や数学者がそうであるように、天才とは鬱病と闘う運命にあるのかもしれない。本書には、文学の意義となりそうな部分がちりばめられている。もちろん結論などあろうはずがない。それはどんな学問でも同じである。そもそも人間の存在意義すら答えが見つからないのだから。意義が明確にできるならば、問題ははるかに簡単である。説明がつかないから芸術の域にある。本書は、限りなく抽象的な感覚を与えながら、冷静に観察すると単語一つ一つには具体的な言葉が踊る。詩的な要素も多く、なんとなく崇高な精神を呼び起こす。宗教的かと言うとそうでもない。扱っている対象が、社会、政治、哲学への批判もあるので現実感もある。
本書は、訳者が評論集「ヴァリエテ」を中心に選んだ傑作集である。著者が日記のように思考を書きとめた「カイエ」の一部「一詩人の手帖」や「言わないでおいたこと」も収録されている。ちなみに「カイエ」は3万ページという膨大な量にのぼるという。特に「言わないでおいたこと」の中で登場する「ロンドン橋」の一節は感動ものだ。ほんの数ページほどの短編であるが、ここだけでも何度読み返したか分からない。しかも、その日の気分によっていろいろな精神が呼び起こされる。そこには、ロンドン橋から眺めた生活にさまよう盲目たちの群れが描かれる。著者はその光景を見て孤独感に襲われる。そして、「私は、ロンドン橋の上で、詩の罪を感じていた。」と語る。確かに、扱う対象としては不謹慎かもしれない。しかし、あまりの見事な文章に癒されるという衝動には勝てない。
本書には見事過ぎる幻想的な光景が広がるので、記事にすることは難しい。また、酔っ払いが安易に記事にすると、作品そのものを壊してしまう気がする。だが、せっかく読んだのだから、要点だけでもメモることにした。
1. 建築家に関する逆説
三百年にも渡って不当に建設されてきた建築物を嘆いては、その救済を待ち受けるかのごとく語られる。オルフェウスの時代、大理石に精神を刻み込んだ。別の時代には、大聖堂の神秘が、諸民族の敬虔な魂を永遠のものにした。その後、建築物には沈黙と衰退がやってきた。壮麗な芸術も枯渇した。といったことを幻想的に表現している。また、ベートーヴェンやワーグナーといった偉大な交響曲を引き合いに出す。それでも19世紀末期には、もう一度芸術性を取り戻そうという動きがある。著者は、芸術家の思考や精神が再び宮殿や神殿に宿り、観賞する者に癒しや悲しみや笑みが見られることを願っていると語る。
2. 方法的制覇
時代は20世紀前半、戦争気運が高まる中、ドイツを軍事的な驚異だけでなく、経済力の驚異が迫りつつある様を描いている。そこで描かれる有効なメカニズムは、一方法の成功と見ることができる。政治構造や軍事体質が、経済発展の基本構造までを席巻する。生産や交通の方式は粗野にして確実、あらゆる困難を分割し断片化する。そして、個人には凡庸さを求める。著者は、このシステムが、無差別で困難を分散する仕組みであることを見抜いている。今日でも、方法論を持たない製造者が「良い製品は必ず売れるはずだ!」と発言するのを見かける。だが、抜け目の無い製造者は、製品の定義を曖昧にせず偶然任せにはしない。まさしくドイツは、論理と幸運とを両立させる努力をしていると評している。また、規律の元に着実に前進したドイツは、いずれ世界の富を手中にするだろうと予測している。地上のあらゆる凡庸さが、いずれ世界で勝利するのかもしれない。しかし、この方法論が好ましいとするならば、人類にとって奇妙な結果であると皮肉も混ぜている。
3. ブレアルの「意味論」について
言語はどのような変化を受けても、いくつかの特質は不変であると語る。その不変性には、精神との基本的な関係が含まれるという。しかし、心理学者たちはこの難問に触れてこなかったと嘆く。純粋論理学者も、表面的な論理体系は扱っても、言語の本質までは掘り下げてこなかったと指摘する。こうした怠慢が、言語を他のどの現象よりも手に負えない地位へ押し上げたという。そして、ミシェル・ブレアルの「意味論」で、言語の科学的分析を紹介している。著者は、「意味論」が思考のガイドラインとなっていることを認めつつも、残念ながらブレアルは自分の都合の良い心理学を採用していると評している。言語が生き物のように進化すると考えるのは、言語を神からの授かり物と見なすぐらい飛躍し過ぎているという。にも関わらず、言語の起源という不確定な問題には触れていないと皮肉る。どんな分野であれ起源を追求するのは幻想かもしれない。だからといって、物理学者は宇宙論を諦めているわけではない。
4. 精神の危機
歴史は、あらゆる文明が個人の生命と同じくらい脆弱であることを教えてくれる。統制の優れたものが偶然に死滅した例もある。常識と思われたものが、突然、逆説になることもある。ヨーロッパが古代ギリシャを含め、世界で長い間、優位に立てたのは精神と知識の豊かさであるという。しかし、こうした不均衡は、自らの反作用によって、逆方向へと変化すると指摘している。それは、精神や知識によって不均衡に格付けされていた分布が、いずれ、人口、面積、資源の分布に従うようになるという。ギリシャ人によって進化した知識は、政治や生産の基礎構造を作り地球上に富を生んだ。その結果、技術、科学、戦争あるいは平和の手段が世界に広まった。こうした拡散は、エントロピー増大の法則に従っていると言えるだろう。しかし、局所的に周辺に染まることのない物理現象もある。人間は、部分的に知的優位を持つ現象を、天才という言葉で拡散と対抗させる。ただ、ヨーロッパ精神のみが世界全体に拡散する地位にあるのかどうかは疑問が残る。本書は、第一次大戦時、ヨーロッパの無秩序にも触れている。ドイツ民族の偉大な美徳が、逆に悪徳を生んだ。道徳的な美徳とか正義といった思い込みがなければ、これだけ短期間で多くの残虐を許すことはない。著者は、人類にとって最も驚異なのは、精神的危機、知的危機だという。これは、その性質上最も人間を欺く様相で忍び寄ると語る。
5. ラ・フォンテーヌの「アドニス」について
当時、ラ・フォンテーヌは怠惰で夢想好きであったと風評されたという。だが、著者はこれに反論する。「ラ・フォンテーヌ」とは、普通名詞では「泉」という意味があるらしい。この人物のイメージを、泉の持つ魅力と結び付けてしまう。そして、いつも夢想し、天真爛漫に流れ去る人という印象となる。語呂合わせによって、人物像が勝手に作られた例と言えるだろう。見る目のある人は、作品で描かれた様々な光景にも関わらず、その魅力を見透かし、自らの精神の中で再構築して感嘆の度を深めるという。自らの夢を書きたいと願う人間は、限りなく目覚めていなければならない。冷静に観察する精神が必要である。そこには、極度の注意力があるからこそ、傑作は生まれる。決して暇人のなせる技ではない。本書は、霧の中に隠れる自らの思考と向かい合うには、それだけ苦労と時間を必要とすると語る。
6. ポーの「ユリイカ」について
エドガー・アラン・ポーの「ユリイカ」は、自然科学について情熱的に書かれたものだと絶賛している。そして、真理に達するためには、一貫性という考えを持ち出す。求める真理を獲得するためには、もっぱら直感に従うべきだと語る。ポーの概念の重要なのは、宇宙の探求には目的があるということである。宇宙の中にある相互関係、その深いところにあるシンメトリーは、人間の精神の内部構造に見える。つまり、詩的な直感が、人間を知らないうちに真理へ導くというのだ。こうした感覚は科学者の中にも見つけることができる。本書では、「ユリイカ」で述べられる結論が正確に証明されているわけでもない。にも関わらず、十分に説明されないまま著者の自説が登場する。この作品の中には、一人の神様がいるように思える。そして、シンメトリーという言葉を強調する。これは、アインシュタインによる宇宙表現の本質であると語る。現代の物理法則は世界を支配できなくなり、精神の弱点と似たものになりつつある。割り切れない少数がいつも残っていて、人間は不安と不徹底感に苛む。宇宙のような、直観で捉えられない起源には、神話の世界へ放り込まれるようだ。
7. 一詩人の手帖
詩を作ろうとして思想から始めたら、それは散文から始めることになると語る。あるイメージは、人物や風景などの外観であり、それ以外は形の定まらない音や調子があり、語は貼り紙に過ぎないという。例えば、隠喩は一つの思考を複数の表現の間で漂う。思考を厳密に表現できたら、隠喩は消滅するだろう。隠喩はあらゆる試行錯誤の中にある。詩は、語の有限な機能だけでは表せないものを表そうと試みる。詩を生み出す行為は、独自の領域を所有する人間を生む。詩人は、一種の言語的唯物論者なのかもしれない。文学は、完全な思考の道具にはなれない。詩とは、純粋に観念に近づくための努力である。しかも、作品は絶対に完成しない。それは完成した人間がいないからである。本書のおもしろい分析に、詩は、言説の素材の中にはめこまれた純粋詩(詩の元素のようなもの)の断片で構成されるというものがある。それは、元素のような純粋な感情が、あらゆる精神を構成する要素となることを意味しているのだろうか?言語は、自らの都合に合わせて扱われ、人柄に合わせて変形させる。よって、必然的に粗雑なものになるという。そして、共通言語は、共同生活の無秩序の賜物であると言っても言い過ぎではないと語る。詩人は、無秩序によって提供された要素と格闘して、人為的な秩序を創造しようとする。純粋詩とは、欲望、努力、能力といった極限的な概念であって、決して到達できるものではないと語る。
8. 言わないでおいたこと
絵画とはなんだろう?ラファエロの肖像画の前では「聖なるなめらかさ」などと呟く。厚塗りや盛り上げもなく、思わせぶりなハイライトも、過度なコントラストもない。明と暗の按配、美しい細部と至福の場との集合体、こうした種々の具体的な出会いから女神が現出する。一度にこれだけ多くのものが出会わなければ詩は生まれない。こうした多くの要素が融合したところに芸術の本質があるように思える。本書は、絵画が、おそらく芸術の中で、人間の無力さを一番簡単に感じさせる形式であると語る。独創性とはなんだろう?ここではやや意外なことが語られる。それは、ほかの作品を養分にすること以上に、独創的なものはないという。偉大な芸術とは、模倣されることが認められ、それに値し、それに耐えられるものであると語る。模倣によって壊されることがなく、価値が下がることもなく、また逆に模倣したものが壊されることも、価値が下がることもないという。一冊の本とは、著者のモノローグの抜粋に過ぎないのかもしれない。そこで語られる精神は、自らの姿を曝け出すのが鉄則である。批評というものは、気分や趣味にしたがって意見を述べているに過ぎない。作品を語っているようで、実は自分自身を語っている。つまり、詩人は、自己の批評家として存在することになる。詩人の偉大さは、精神がかすかに垣間見たものを、自分の言葉でしっかり捕まえることだと語る。
作家ポール・ヴァレリーを知ったのは、三島由紀夫氏の著書「文章読本」の中で一瞬触れられているのを見かけたからである。そこには、評論の中にも、高度な芸術の域に達したものがあると紹介されていた。アル中ハイマーには全く文学センスがない。文学の意義など考えたこともない。そもそも言語で人間の感情が完璧に表現できるとは信じていない。とは思っても、巧みな文章で魅了する作家がいる。時々疑問に思うことは、文学作品を作るのに体系化した黄金手法などあるのだろうか?ということである。著者は、若い頃、そうした究極の奥義があることを信じていたという。しかし、結局のところ作家の精神の中にしか見つからないらしい。どんなに巧みな比喩を乱用しようとも、作者の意図に関わらず読者の個性によって調律される。読者の微妙な感覚の違いを文学が統一することもないように思える。しかし、ここまでは素人の感覚のようだ。著者は、言語と感情の不変的な関係の探求を諦めることは、文学者として怠慢であると主張する。そして、文学の歴史でこうした難問に立ち向かったケースがあまりに少な過ぎると嘆いている。確かに、諦めることと解読できないということは違う。著者は、文学の意義を正面から向かい合った結果、倦怠感が募り、書いたり読んだりすることを止めていた時期もあったと語る。多くの哲学者や数学者がそうであるように、天才とは鬱病と闘う運命にあるのかもしれない。本書には、文学の意義となりそうな部分がちりばめられている。もちろん結論などあろうはずがない。それはどんな学問でも同じである。そもそも人間の存在意義すら答えが見つからないのだから。意義が明確にできるならば、問題ははるかに簡単である。説明がつかないから芸術の域にある。本書は、限りなく抽象的な感覚を与えながら、冷静に観察すると単語一つ一つには具体的な言葉が踊る。詩的な要素も多く、なんとなく崇高な精神を呼び起こす。宗教的かと言うとそうでもない。扱っている対象が、社会、政治、哲学への批判もあるので現実感もある。
本書は、訳者が評論集「ヴァリエテ」を中心に選んだ傑作集である。著者が日記のように思考を書きとめた「カイエ」の一部「一詩人の手帖」や「言わないでおいたこと」も収録されている。ちなみに「カイエ」は3万ページという膨大な量にのぼるという。特に「言わないでおいたこと」の中で登場する「ロンドン橋」の一節は感動ものだ。ほんの数ページほどの短編であるが、ここだけでも何度読み返したか分からない。しかも、その日の気分によっていろいろな精神が呼び起こされる。そこには、ロンドン橋から眺めた生活にさまよう盲目たちの群れが描かれる。著者はその光景を見て孤独感に襲われる。そして、「私は、ロンドン橋の上で、詩の罪を感じていた。」と語る。確かに、扱う対象としては不謹慎かもしれない。しかし、あまりの見事な文章に癒されるという衝動には勝てない。
本書には見事過ぎる幻想的な光景が広がるので、記事にすることは難しい。また、酔っ払いが安易に記事にすると、作品そのものを壊してしまう気がする。だが、せっかく読んだのだから、要点だけでもメモることにした。
1. 建築家に関する逆説
三百年にも渡って不当に建設されてきた建築物を嘆いては、その救済を待ち受けるかのごとく語られる。オルフェウスの時代、大理石に精神を刻み込んだ。別の時代には、大聖堂の神秘が、諸民族の敬虔な魂を永遠のものにした。その後、建築物には沈黙と衰退がやってきた。壮麗な芸術も枯渇した。といったことを幻想的に表現している。また、ベートーヴェンやワーグナーといった偉大な交響曲を引き合いに出す。それでも19世紀末期には、もう一度芸術性を取り戻そうという動きがある。著者は、芸術家の思考や精神が再び宮殿や神殿に宿り、観賞する者に癒しや悲しみや笑みが見られることを願っていると語る。
2. 方法的制覇
時代は20世紀前半、戦争気運が高まる中、ドイツを軍事的な驚異だけでなく、経済力の驚異が迫りつつある様を描いている。そこで描かれる有効なメカニズムは、一方法の成功と見ることができる。政治構造や軍事体質が、経済発展の基本構造までを席巻する。生産や交通の方式は粗野にして確実、あらゆる困難を分割し断片化する。そして、個人には凡庸さを求める。著者は、このシステムが、無差別で困難を分散する仕組みであることを見抜いている。今日でも、方法論を持たない製造者が「良い製品は必ず売れるはずだ!」と発言するのを見かける。だが、抜け目の無い製造者は、製品の定義を曖昧にせず偶然任せにはしない。まさしくドイツは、論理と幸運とを両立させる努力をしていると評している。また、規律の元に着実に前進したドイツは、いずれ世界の富を手中にするだろうと予測している。地上のあらゆる凡庸さが、いずれ世界で勝利するのかもしれない。しかし、この方法論が好ましいとするならば、人類にとって奇妙な結果であると皮肉も混ぜている。
3. ブレアルの「意味論」について
言語はどのような変化を受けても、いくつかの特質は不変であると語る。その不変性には、精神との基本的な関係が含まれるという。しかし、心理学者たちはこの難問に触れてこなかったと嘆く。純粋論理学者も、表面的な論理体系は扱っても、言語の本質までは掘り下げてこなかったと指摘する。こうした怠慢が、言語を他のどの現象よりも手に負えない地位へ押し上げたという。そして、ミシェル・ブレアルの「意味論」で、言語の科学的分析を紹介している。著者は、「意味論」が思考のガイドラインとなっていることを認めつつも、残念ながらブレアルは自分の都合の良い心理学を採用していると評している。言語が生き物のように進化すると考えるのは、言語を神からの授かり物と見なすぐらい飛躍し過ぎているという。にも関わらず、言語の起源という不確定な問題には触れていないと皮肉る。どんな分野であれ起源を追求するのは幻想かもしれない。だからといって、物理学者は宇宙論を諦めているわけではない。
4. 精神の危機
歴史は、あらゆる文明が個人の生命と同じくらい脆弱であることを教えてくれる。統制の優れたものが偶然に死滅した例もある。常識と思われたものが、突然、逆説になることもある。ヨーロッパが古代ギリシャを含め、世界で長い間、優位に立てたのは精神と知識の豊かさであるという。しかし、こうした不均衡は、自らの反作用によって、逆方向へと変化すると指摘している。それは、精神や知識によって不均衡に格付けされていた分布が、いずれ、人口、面積、資源の分布に従うようになるという。ギリシャ人によって進化した知識は、政治や生産の基礎構造を作り地球上に富を生んだ。その結果、技術、科学、戦争あるいは平和の手段が世界に広まった。こうした拡散は、エントロピー増大の法則に従っていると言えるだろう。しかし、局所的に周辺に染まることのない物理現象もある。人間は、部分的に知的優位を持つ現象を、天才という言葉で拡散と対抗させる。ただ、ヨーロッパ精神のみが世界全体に拡散する地位にあるのかどうかは疑問が残る。本書は、第一次大戦時、ヨーロッパの無秩序にも触れている。ドイツ民族の偉大な美徳が、逆に悪徳を生んだ。道徳的な美徳とか正義といった思い込みがなければ、これだけ短期間で多くの残虐を許すことはない。著者は、人類にとって最も驚異なのは、精神的危機、知的危機だという。これは、その性質上最も人間を欺く様相で忍び寄ると語る。
5. ラ・フォンテーヌの「アドニス」について
当時、ラ・フォンテーヌは怠惰で夢想好きであったと風評されたという。だが、著者はこれに反論する。「ラ・フォンテーヌ」とは、普通名詞では「泉」という意味があるらしい。この人物のイメージを、泉の持つ魅力と結び付けてしまう。そして、いつも夢想し、天真爛漫に流れ去る人という印象となる。語呂合わせによって、人物像が勝手に作られた例と言えるだろう。見る目のある人は、作品で描かれた様々な光景にも関わらず、その魅力を見透かし、自らの精神の中で再構築して感嘆の度を深めるという。自らの夢を書きたいと願う人間は、限りなく目覚めていなければならない。冷静に観察する精神が必要である。そこには、極度の注意力があるからこそ、傑作は生まれる。決して暇人のなせる技ではない。本書は、霧の中に隠れる自らの思考と向かい合うには、それだけ苦労と時間を必要とすると語る。
6. ポーの「ユリイカ」について
エドガー・アラン・ポーの「ユリイカ」は、自然科学について情熱的に書かれたものだと絶賛している。そして、真理に達するためには、一貫性という考えを持ち出す。求める真理を獲得するためには、もっぱら直感に従うべきだと語る。ポーの概念の重要なのは、宇宙の探求には目的があるということである。宇宙の中にある相互関係、その深いところにあるシンメトリーは、人間の精神の内部構造に見える。つまり、詩的な直感が、人間を知らないうちに真理へ導くというのだ。こうした感覚は科学者の中にも見つけることができる。本書では、「ユリイカ」で述べられる結論が正確に証明されているわけでもない。にも関わらず、十分に説明されないまま著者の自説が登場する。この作品の中には、一人の神様がいるように思える。そして、シンメトリーという言葉を強調する。これは、アインシュタインによる宇宙表現の本質であると語る。現代の物理法則は世界を支配できなくなり、精神の弱点と似たものになりつつある。割り切れない少数がいつも残っていて、人間は不安と不徹底感に苛む。宇宙のような、直観で捉えられない起源には、神話の世界へ放り込まれるようだ。
7. 一詩人の手帖
詩を作ろうとして思想から始めたら、それは散文から始めることになると語る。あるイメージは、人物や風景などの外観であり、それ以外は形の定まらない音や調子があり、語は貼り紙に過ぎないという。例えば、隠喩は一つの思考を複数の表現の間で漂う。思考を厳密に表現できたら、隠喩は消滅するだろう。隠喩はあらゆる試行錯誤の中にある。詩は、語の有限な機能だけでは表せないものを表そうと試みる。詩を生み出す行為は、独自の領域を所有する人間を生む。詩人は、一種の言語的唯物論者なのかもしれない。文学は、完全な思考の道具にはなれない。詩とは、純粋に観念に近づくための努力である。しかも、作品は絶対に完成しない。それは完成した人間がいないからである。本書のおもしろい分析に、詩は、言説の素材の中にはめこまれた純粋詩(詩の元素のようなもの)の断片で構成されるというものがある。それは、元素のような純粋な感情が、あらゆる精神を構成する要素となることを意味しているのだろうか?言語は、自らの都合に合わせて扱われ、人柄に合わせて変形させる。よって、必然的に粗雑なものになるという。そして、共通言語は、共同生活の無秩序の賜物であると言っても言い過ぎではないと語る。詩人は、無秩序によって提供された要素と格闘して、人為的な秩序を創造しようとする。純粋詩とは、欲望、努力、能力といった極限的な概念であって、決して到達できるものではないと語る。
8. 言わないでおいたこと
絵画とはなんだろう?ラファエロの肖像画の前では「聖なるなめらかさ」などと呟く。厚塗りや盛り上げもなく、思わせぶりなハイライトも、過度なコントラストもない。明と暗の按配、美しい細部と至福の場との集合体、こうした種々の具体的な出会いから女神が現出する。一度にこれだけ多くのものが出会わなければ詩は生まれない。こうした多くの要素が融合したところに芸術の本質があるように思える。本書は、絵画が、おそらく芸術の中で、人間の無力さを一番簡単に感じさせる形式であると語る。独創性とはなんだろう?ここではやや意外なことが語られる。それは、ほかの作品を養分にすること以上に、独創的なものはないという。偉大な芸術とは、模倣されることが認められ、それに値し、それに耐えられるものであると語る。模倣によって壊されることがなく、価値が下がることもなく、また逆に模倣したものが壊されることも、価値が下がることもないという。一冊の本とは、著者のモノローグの抜粋に過ぎないのかもしれない。そこで語られる精神は、自らの姿を曝け出すのが鉄則である。批評というものは、気分や趣味にしたがって意見を述べているに過ぎない。作品を語っているようで、実は自分自身を語っている。つまり、詩人は、自己の批評家として存在することになる。詩人の偉大さは、精神がかすかに垣間見たものを、自分の言葉でしっかり捕まえることだと語る。
2008-07-13
"タオは笑っている" Raymond M. Smullyan 著
前記事で「天才スマリヤンのパラドックス人生」を題材にしていると、なんとなく本書を読み返したくなった。本書を題材にした記事は、ずっーと前にも書いたが、あまりにもいい加減なので書き直すことにした。
本書は中国哲学の解説書ではない。著者スマリヤンの独特な解釈によるものである。しかし、その哲学振りは十分に的を得ている。たとえ、禅やタオの本質が本書と違うものであっても、この哲学を支持したい。哲学や宗教には、良い面と悪い面と、そのどちらでもない面を具える。それを個別に解釈して優れた部分を合成できれば、それでいい。あらゆる思想は、ある部分では素晴らしいことを主張する。だから、信者が少なからずいる。明らかに間違っている思想には、人々は見向きもしない。その理論がたとえ間違っていても、心地よい部分があれば、人々は狂信することがある。ほんの一瞬にせよ、失業問題を解決したヒトラーのような狂人者でも民衆は群がる。
おいらが時々疑問に思うのは、一般的に語られる古代思想は正確に伝えられているのだろうか?ということである。思想を真に受けるのと、好むのとでは違う。本書を読んでいると、思想についてどちらが優れているかを論争することは、どうでもよくなる。ここで問題にしているのは、ただ好きか嫌いかである。狂信者のおもしろいところは、宗教が人間のニーズに答えてくれると信じていることである。神様が存在すると信じる。ここまではいい。しかし、どうして神様が自分の味方だと信じられるのか?神様は、とても照れ屋さんで、信じられるとすぐにどこかへ行ってしまうかもしれない。哲学や論理学の探求は精神病になる危険が潜む。それでも、真理をほんの少しだけ覗かせてくれるところがいい。タオは、アル中ハイマーに安らぎを与えてくれる。
西洋の哲学や宗教には、論争と闘いの歴史がある。その中で、神の存在を巡ってどれだけ血が流されたであろう。宗教家は、異教徒と無神論者を救うために、神を信じさせようとする。だが、そもそも救う必要があるのか?こうした論争を尻目に、タオな人は、のんびりと酒を飲んで芸術に浸る。西洋哲学で議論の的となるのが、「実存するか」や「意味があるか」である。タオな人は、実存論争や、無意味論争など、気にもかけない。タオな人は、論理実証主義者の「無意味だ」という似た反応を示すが、それも微妙に違う。スマリヤン流に言えば、無意味だけど議論しても愉快ならば、それでも「ええんでないかい!」といったところだろう。苦悩することもなく、関心のないことに夢中にもならずに、ただ笑って愉快になるだけ。これぞタオの真髄である。ある禅師の話。仏陀を拝むのは悟りを得るためではない。「ただ拝みたいから拝むのだ」そこには、理由などない、なんと自然だろう。「そこに純米酒があるから飲むのだ」アル中ハイマーの哲学も捨てたもんじゃない!
哲学には大雑把に言うと二つに大別できるという。それは「分別ある哲学」と「風狂の哲学」である。前者は、正当で理性的で分別的である。一方後者は、どこか狂っている。そして、自然発生的でユーモアがあり、従来の思想の枠にとらわれない。著者は後者が好きだという。道徳的でなく、自己規制がなく、詩的で、矛盾とパラドックスに満ちている。そして、なんとなくこの世を超越していて真理にずっと近いと語る。どちらのタイプに属すかは、職業分野によっても傾向があるだろうが、一般的に、心理学者、精神分析医、経済学者、政治家などは分別あるタイプで、科学者、数学者、芸術家は風狂の傾向にあるという。どおりで、おいらは政治家や経済学者が好きになれないわけだ。
東洋の思想には、「悟り」という考えがある。キリスト教では、「救済」に相当するのだろうか?「救済」の概念は極めて明解であるが、「悟り」の概念は実に曖昧だ。いや!真の「悟り」を得た者にしてみれば、明解なのかもしれない。「神への服従」と言えば明解だが、「タオとの調和」と言うとわけがわからない。そもそも、「悟り」とは言葉で表せるものなのだろうか?真理が神の創造物であるならば、人間の作った言葉で、表せる方が矛盾してはいないか?
西洋的思想では「精神」について激しく論争する。そして、言葉が定義できても、その実体は不明である。では、「タオ」ってなんだ?その言葉すら定義できない。これは概念か?それとも宗教か?実に曖昧で、哲学のようで芸術の領域にある。これがタオの美学だ。こうした思想は、極めて東洋的であって、西洋からは受け入れられないだろう。ところが、著者がアメリカ人というところにおもしろさがある。しかも、どんな哲学書よりもおもしろい。
本書は、罪と自由意志の関係についても論じる。罪という意識は、人間が自由意志を持っている証拠なのか?自由意志のともなわない罪は、罪ではないのか?人間以外の動物に自由意志はないだろう。動物たちは、罪を犯しているという意識はない。すると、自由意志があるために、罪を犯すのか?決定論者は、すべての事象は自然法則に従うと言う。人間の行動が、すべて自然法則によって決定づけられるならば、人間の存在も自然法則の一部である限り、自由意志でどんなに反抗しようとも、それも自然法則ということになる。自由意志と決定論を対立させたところで、所詮自然法則の中で、もがいているだけのことかもしれない。ところで、精巧に造られたロボットには霊的なものを感じる。ここにも自由意志が生成されるのだろうか?昔ソニーの犬型ロボットAIBOが登場した時は感動したものだ。ロボットの足を付け替えたりすると、子供は虐待しているかのように白い眼で見る。しかし、これはロボットだ。映画「ターミネーター」では、シュワルツェネッガーが腕を切るシーンがある。これもロボットだ。いや!シュワちゃんの腕だから気持ち悪い。AIやロボットの研究には、人間の本質を明るみにする可能性がある。どうせなら酔っ払いと同じように千鳥足で歩くロボットを造れば、魂や自由意志が解明できるに違いない。ところで、女性ロボットとの関係に不倫は成立するのだろうか?
論理原理主義者は、定義できないものの存在にすぐに目くじらを立てる。自らの論理性に自信を持った者は、完全に論理で支配できると信じている。だが、論理にはパラドックスが存在する。なんにでも懐疑的になり徹底的に客観性に固執するからこそ、主観性の貴重なことにも気づく。おいらは、客観的な論理思考は優れていると思うし、大好きだ。だが、現実には主観性の罠に嵌り、客観性を保つことは難しい。著者は、ルイス・キャロルを論理学の天才であると同時に、ナンセンスの天才だったと評している。両者は紙一重なのかもしれない。著者は、禅について次のように語る。
「禅とは、中国のタオとインドの仏教を混ぜ合わせ、日本人がこしょうと塩で味付けしたようなものだ。」
禅を宗教と呼ぶには少々抵抗を感じる。禅は、教えというよりは「生き方」であろう。無宗教を批判する輩をよく見かけるが、重要なのは「生き方」である。著者はタオを音楽に喩える。音楽に敏感な人は美しいメロディーを感知できるが、その美しさを理解できない人もいる。そこには音波は確実に存在するが、メロディーが実在すると証明することはできない。そもそも、音楽センスを持った人は、メロディーが存在するという信念を必要としないと語る。聖書を理解できる人は、その権威を示す必要はないのと同じである。感じることができる人には、それだけでいいのだ。タオの存在も、それを感じることができる人とできない人がいるということだろうか。本書は、客観性と主観性の双方のバランスを問うているような気がする。
1. タオは寡黙
老子曰く。「善人は議論しない、議論する者は善人でない。」
タオと賢人は議論嫌いだという。これはキリスト教の神とは正反対である。旧約聖書には、いろいろな人々と議論する場面がやたら多い。議論の中で、あげ足をとる者は、論理的に語っていると主張する。そして屁理屈へと発展する。いや、屁理屈なら論理的な証拠かもしれない。ちなみに、著者自身は議論が大好きだという。老子の言う賢人には、なんとなく憧れてしまう。しかし、アル中ハイマーが寡黙になることは難しい。酔っ払いは口元の神経をコントロールすることはできない。では素面ならできるのかというと、それも難しい。酔わないと自我を認識できないからだ。タオは、口答えしたり反論したりしない。独り言が好きな人間には最高のお喋り相手である。もちろん、アル中ハイマーの独り言にもうなずく。グラスの氷に向かって、「君って冷たいね!」と話かければ、照れてカランと音を鳴らす。鏡に向かって、「なに赤くなってんだよ!」と話かければ、「君に酔ってんだよ!」と心の中で騒ぐ。
2. タオと調和
ユダヤ・キリスト教は、神への服従を求める。「自らの意志を神に委ねよ」と。しかし、タオは決して威圧しない。その代わり「タオと調和せよ」と説く。「調和」という言葉は、心の安らぎをイメージすることができる。「タオに意志を委ねよ」と言ってもピンとこない。そもそも、タオに意志があるのかも分からない。だが、タオが自由意志を否定しているわけでもない。ゲーテ曰く。「自然に対抗しようとする行動自体が自然法則に従っているのだ。」自由意志で、自然を征服しようとしても、結局は自然に逆らうことができず、人間と自然は一体であることに気づく。「自らの意志を神に委ねよ」という教えも、結局は同じ精神に帰着するのかもしれない。しかし、間違った解釈をした連中は多いようだ。「服従」とか「委ねる」といった言葉よりも、「調和」と言った方が酒のつまみにもいい。単なる言葉のニュアンスの違いであるが、そこには主観の美しさがある。
3. 性善説と性悪説
タオイストも儒学者も人間の本性は、元来善であるという立場をとる。もっとも、儒教は道徳を説くことによって、かえって人間を腐敗させるという批判もある。孔子曰く。「人間の本性は善であるが、老年まで善を保ち続ける人は少ない。」この性善説と対照的なのが、中国の法家思想家である。現実主義者とも言えなくはないが、人間の本性は元来悪であるので、現実に人々を治めるときは腐敗した人間の本性を十分に考慮しなければならないと説く。しかし、法家思想家たちによって、全体主義政権を打ち立て、多くの儒学者を拷問し処刑し、古典書物も焼かれた歴史がある。その時代、民衆は互いに行動を監視するような緊張の中で、政権は成り立っていた。これは、思想が正しいとか間違っているとかのレベルではない。思想を押し付けた結果である。道徳家にしても、押し付けがましいものである。ちなみに、老子も荘子も孔子も猛子も、人間が自然に善であった良き時代がかつてあったことを度々書いているという。当時、中国の病んだ社会へと向かう中で、嘆き悲しみ、思想の分かれが生じたのかもしれない。どこの国でも、思想の分かれが生じるのは、病んだ政治背景があるものだ。
4. 道徳家とタオイスト
道徳家は、「正と不正」を強調するが、タオイストは、自然の尊さを尊重する。著者は、道徳的であると同時に思いやりのある人間に出会ったことがないという。両者は、むしろ反比例の関係にあるというのだ。思いやりのある人は、親切で情け深い。これは、「こうあるべき」と思うからではなく自然にそうなのだという。そこには、正しいという感情がない。思いやりのある人間は道徳など不要というわけだ。道徳家は、「思いやりを持ちなさい」と説教しながら、思いやりのない人間にしてしまっていることに気づいていないと語る。そこには、共通して無理やり思想を押し付ける傲慢な態度がある。女性に愛を求めても愛は得られない。物品の方が手っ取り早い。
「美徳と隣人愛を宣伝しなくなれば、隣人愛は回復する。」
人間的な情け深さを重んじる点では、両者とも同じである。ただ、その手段が違う。義務的あるいは抑制的な道徳は、反抗的な自己意志を挑発する。政治家が政治を悪くしているように、経済学者が経済問題を引き起こしているとも言える。ノイローゼの元凶は心理学者という意見にも一理ある。本書が強調しているのは、「道徳的である」ことと「思いやりのある」こととは違うということである。まず、道徳家はこれを認めることだという。タオが道徳を否定しているのではない。道徳的な規範に縛られない自立した自由意志を理想としていると語る。
5. タオ的な服従
荘子は、人間の本性を害した儒家たちを、馬を台無しにする調教師に喩えている。ここでは、かなり長文が掲載されるが、気に入ったので、要点だけまとめてみよう。
「馬の扱いに長けていると自負する調教師は、馬の毛をそろえ、蹄を削り取り、焼印を押す。首には手綱をかえ、足かせをつけ、訓練するが、馬は本当にそれを望んでいるだろうか?陶芸家も粘土の扱いに長けていると自慢し、大工も木材を自由に加工できると自慢する。だが、粘土や木が加工されることを望んでいるだろうか?どんな時代も、その技術のおかげで、もてはやされるが、そこには人間のエゴが潜む。国の統治も、統制する技術を評価されるが、これは間違いである。国の治め方に長けている人は、治めるべきではない。なぜなら治める必要がないからだ。人間は、本能的に生きるために働く。これは自然と調和しているだけのことである。」
賢い支配者は、人々が自主的に自分たちのためになることをするように仕向けるという。そして、支配者が誇るのではなく、それぞれの人が自分自身の行動を誇る。これがタオ的な服従である。タオは目的によって作用しない。自然発生的に作用する。タオは決して命令しない。この対照的な立場がユダヤ・キリスト教である。だから、命令に従わない者が多いと語る。
6. 利己主義と利他主義
利他主義者は、利己主義者を批判し説教する。道徳家とはそうしたものだ。利己主義者を説教したところで、効果があるわけがない。だが、どんな人間でも、利己的な部分と利他的な部分がある。少なくとも、そう思うから説教する。利己的な部分が現れすぎているから、心の奥深くにある高尚な部分へと働きかける。解釈の難しいのは、自己をどの範囲に置くかである。人間は自己からは逃れられない。自己を全宇宙にまで広げれば、個性はなくなり、理想的な境地に達するだろう。その時、自己中心的という言葉は消え去る。
7. 「静の哲学」と「動の哲学」
本書では、「なるがまま」と表現しているが、アル中ハイマーの哲学に「なすがまま」というのがある。事業を成功させようと力んでいると、気楽に人生を謳歌するという欲求の方が、性に合っていることがわかってきた。これは無能な人間の諦めである。よって、興味のない本を読むこともないし、興味のない分野の知識など求めない。これが「静の哲学」といったところだろうか。これは行動派の人間からは批判される。無気力な人間の隠蓑となるからである。行動派は、なりゆきに任せれば悪に立ち向かうことはできないと主張する。これが「動の哲学」といったところだろう。「静の哲学」も反論する。無理やりの行動が、むしろ事態を悪化させてきたではないかと。だた、こうした議論は無意味である。あくまでも好みの問題である。タオは「静の哲学」に近い。タオの主要な考えに「無為をもって為す」というのがあるらしい。無為ってなんだ?またまた、曖昧な言葉が登場する。なんとなく自然に揺られながら、いつのまにか到達する境地のような感じだろうか?この曖昧さがいい。人には、努力と意識しない努力がある。つまり、好きなことをやる能力だ。
本書は中国哲学の解説書ではない。著者スマリヤンの独特な解釈によるものである。しかし、その哲学振りは十分に的を得ている。たとえ、禅やタオの本質が本書と違うものであっても、この哲学を支持したい。哲学や宗教には、良い面と悪い面と、そのどちらでもない面を具える。それを個別に解釈して優れた部分を合成できれば、それでいい。あらゆる思想は、ある部分では素晴らしいことを主張する。だから、信者が少なからずいる。明らかに間違っている思想には、人々は見向きもしない。その理論がたとえ間違っていても、心地よい部分があれば、人々は狂信することがある。ほんの一瞬にせよ、失業問題を解決したヒトラーのような狂人者でも民衆は群がる。
おいらが時々疑問に思うのは、一般的に語られる古代思想は正確に伝えられているのだろうか?ということである。思想を真に受けるのと、好むのとでは違う。本書を読んでいると、思想についてどちらが優れているかを論争することは、どうでもよくなる。ここで問題にしているのは、ただ好きか嫌いかである。狂信者のおもしろいところは、宗教が人間のニーズに答えてくれると信じていることである。神様が存在すると信じる。ここまではいい。しかし、どうして神様が自分の味方だと信じられるのか?神様は、とても照れ屋さんで、信じられるとすぐにどこかへ行ってしまうかもしれない。哲学や論理学の探求は精神病になる危険が潜む。それでも、真理をほんの少しだけ覗かせてくれるところがいい。タオは、アル中ハイマーに安らぎを与えてくれる。
西洋の哲学や宗教には、論争と闘いの歴史がある。その中で、神の存在を巡ってどれだけ血が流されたであろう。宗教家は、異教徒と無神論者を救うために、神を信じさせようとする。だが、そもそも救う必要があるのか?こうした論争を尻目に、タオな人は、のんびりと酒を飲んで芸術に浸る。西洋哲学で議論の的となるのが、「実存するか」や「意味があるか」である。タオな人は、実存論争や、無意味論争など、気にもかけない。タオな人は、論理実証主義者の「無意味だ」という似た反応を示すが、それも微妙に違う。スマリヤン流に言えば、無意味だけど議論しても愉快ならば、それでも「ええんでないかい!」といったところだろう。苦悩することもなく、関心のないことに夢中にもならずに、ただ笑って愉快になるだけ。これぞタオの真髄である。ある禅師の話。仏陀を拝むのは悟りを得るためではない。「ただ拝みたいから拝むのだ」そこには、理由などない、なんと自然だろう。「そこに純米酒があるから飲むのだ」アル中ハイマーの哲学も捨てたもんじゃない!
哲学には大雑把に言うと二つに大別できるという。それは「分別ある哲学」と「風狂の哲学」である。前者は、正当で理性的で分別的である。一方後者は、どこか狂っている。そして、自然発生的でユーモアがあり、従来の思想の枠にとらわれない。著者は後者が好きだという。道徳的でなく、自己規制がなく、詩的で、矛盾とパラドックスに満ちている。そして、なんとなくこの世を超越していて真理にずっと近いと語る。どちらのタイプに属すかは、職業分野によっても傾向があるだろうが、一般的に、心理学者、精神分析医、経済学者、政治家などは分別あるタイプで、科学者、数学者、芸術家は風狂の傾向にあるという。どおりで、おいらは政治家や経済学者が好きになれないわけだ。
東洋の思想には、「悟り」という考えがある。キリスト教では、「救済」に相当するのだろうか?「救済」の概念は極めて明解であるが、「悟り」の概念は実に曖昧だ。いや!真の「悟り」を得た者にしてみれば、明解なのかもしれない。「神への服従」と言えば明解だが、「タオとの調和」と言うとわけがわからない。そもそも、「悟り」とは言葉で表せるものなのだろうか?真理が神の創造物であるならば、人間の作った言葉で、表せる方が矛盾してはいないか?
西洋的思想では「精神」について激しく論争する。そして、言葉が定義できても、その実体は不明である。では、「タオ」ってなんだ?その言葉すら定義できない。これは概念か?それとも宗教か?実に曖昧で、哲学のようで芸術の領域にある。これがタオの美学だ。こうした思想は、極めて東洋的であって、西洋からは受け入れられないだろう。ところが、著者がアメリカ人というところにおもしろさがある。しかも、どんな哲学書よりもおもしろい。
本書は、罪と自由意志の関係についても論じる。罪という意識は、人間が自由意志を持っている証拠なのか?自由意志のともなわない罪は、罪ではないのか?人間以外の動物に自由意志はないだろう。動物たちは、罪を犯しているという意識はない。すると、自由意志があるために、罪を犯すのか?決定論者は、すべての事象は自然法則に従うと言う。人間の行動が、すべて自然法則によって決定づけられるならば、人間の存在も自然法則の一部である限り、自由意志でどんなに反抗しようとも、それも自然法則ということになる。自由意志と決定論を対立させたところで、所詮自然法則の中で、もがいているだけのことかもしれない。ところで、精巧に造られたロボットには霊的なものを感じる。ここにも自由意志が生成されるのだろうか?昔ソニーの犬型ロボットAIBOが登場した時は感動したものだ。ロボットの足を付け替えたりすると、子供は虐待しているかのように白い眼で見る。しかし、これはロボットだ。映画「ターミネーター」では、シュワルツェネッガーが腕を切るシーンがある。これもロボットだ。いや!シュワちゃんの腕だから気持ち悪い。AIやロボットの研究には、人間の本質を明るみにする可能性がある。どうせなら酔っ払いと同じように千鳥足で歩くロボットを造れば、魂や自由意志が解明できるに違いない。ところで、女性ロボットとの関係に不倫は成立するのだろうか?
論理原理主義者は、定義できないものの存在にすぐに目くじらを立てる。自らの論理性に自信を持った者は、完全に論理で支配できると信じている。だが、論理にはパラドックスが存在する。なんにでも懐疑的になり徹底的に客観性に固執するからこそ、主観性の貴重なことにも気づく。おいらは、客観的な論理思考は優れていると思うし、大好きだ。だが、現実には主観性の罠に嵌り、客観性を保つことは難しい。著者は、ルイス・キャロルを論理学の天才であると同時に、ナンセンスの天才だったと評している。両者は紙一重なのかもしれない。著者は、禅について次のように語る。
「禅とは、中国のタオとインドの仏教を混ぜ合わせ、日本人がこしょうと塩で味付けしたようなものだ。」
禅を宗教と呼ぶには少々抵抗を感じる。禅は、教えというよりは「生き方」であろう。無宗教を批判する輩をよく見かけるが、重要なのは「生き方」である。著者はタオを音楽に喩える。音楽に敏感な人は美しいメロディーを感知できるが、その美しさを理解できない人もいる。そこには音波は確実に存在するが、メロディーが実在すると証明することはできない。そもそも、音楽センスを持った人は、メロディーが存在するという信念を必要としないと語る。聖書を理解できる人は、その権威を示す必要はないのと同じである。感じることができる人には、それだけでいいのだ。タオの存在も、それを感じることができる人とできない人がいるということだろうか。本書は、客観性と主観性の双方のバランスを問うているような気がする。
1. タオは寡黙
老子曰く。「善人は議論しない、議論する者は善人でない。」
タオと賢人は議論嫌いだという。これはキリスト教の神とは正反対である。旧約聖書には、いろいろな人々と議論する場面がやたら多い。議論の中で、あげ足をとる者は、論理的に語っていると主張する。そして屁理屈へと発展する。いや、屁理屈なら論理的な証拠かもしれない。ちなみに、著者自身は議論が大好きだという。老子の言う賢人には、なんとなく憧れてしまう。しかし、アル中ハイマーが寡黙になることは難しい。酔っ払いは口元の神経をコントロールすることはできない。では素面ならできるのかというと、それも難しい。酔わないと自我を認識できないからだ。タオは、口答えしたり反論したりしない。独り言が好きな人間には最高のお喋り相手である。もちろん、アル中ハイマーの独り言にもうなずく。グラスの氷に向かって、「君って冷たいね!」と話かければ、照れてカランと音を鳴らす。鏡に向かって、「なに赤くなってんだよ!」と話かければ、「君に酔ってんだよ!」と心の中で騒ぐ。
2. タオと調和
ユダヤ・キリスト教は、神への服従を求める。「自らの意志を神に委ねよ」と。しかし、タオは決して威圧しない。その代わり「タオと調和せよ」と説く。「調和」という言葉は、心の安らぎをイメージすることができる。「タオに意志を委ねよ」と言ってもピンとこない。そもそも、タオに意志があるのかも分からない。だが、タオが自由意志を否定しているわけでもない。ゲーテ曰く。「自然に対抗しようとする行動自体が自然法則に従っているのだ。」自由意志で、自然を征服しようとしても、結局は自然に逆らうことができず、人間と自然は一体であることに気づく。「自らの意志を神に委ねよ」という教えも、結局は同じ精神に帰着するのかもしれない。しかし、間違った解釈をした連中は多いようだ。「服従」とか「委ねる」といった言葉よりも、「調和」と言った方が酒のつまみにもいい。単なる言葉のニュアンスの違いであるが、そこには主観の美しさがある。
3. 性善説と性悪説
タオイストも儒学者も人間の本性は、元来善であるという立場をとる。もっとも、儒教は道徳を説くことによって、かえって人間を腐敗させるという批判もある。孔子曰く。「人間の本性は善であるが、老年まで善を保ち続ける人は少ない。」この性善説と対照的なのが、中国の法家思想家である。現実主義者とも言えなくはないが、人間の本性は元来悪であるので、現実に人々を治めるときは腐敗した人間の本性を十分に考慮しなければならないと説く。しかし、法家思想家たちによって、全体主義政権を打ち立て、多くの儒学者を拷問し処刑し、古典書物も焼かれた歴史がある。その時代、民衆は互いに行動を監視するような緊張の中で、政権は成り立っていた。これは、思想が正しいとか間違っているとかのレベルではない。思想を押し付けた結果である。道徳家にしても、押し付けがましいものである。ちなみに、老子も荘子も孔子も猛子も、人間が自然に善であった良き時代がかつてあったことを度々書いているという。当時、中国の病んだ社会へと向かう中で、嘆き悲しみ、思想の分かれが生じたのかもしれない。どこの国でも、思想の分かれが生じるのは、病んだ政治背景があるものだ。
4. 道徳家とタオイスト
道徳家は、「正と不正」を強調するが、タオイストは、自然の尊さを尊重する。著者は、道徳的であると同時に思いやりのある人間に出会ったことがないという。両者は、むしろ反比例の関係にあるというのだ。思いやりのある人は、親切で情け深い。これは、「こうあるべき」と思うからではなく自然にそうなのだという。そこには、正しいという感情がない。思いやりのある人間は道徳など不要というわけだ。道徳家は、「思いやりを持ちなさい」と説教しながら、思いやりのない人間にしてしまっていることに気づいていないと語る。そこには、共通して無理やり思想を押し付ける傲慢な態度がある。女性に愛を求めても愛は得られない。物品の方が手っ取り早い。
「美徳と隣人愛を宣伝しなくなれば、隣人愛は回復する。」
人間的な情け深さを重んじる点では、両者とも同じである。ただ、その手段が違う。義務的あるいは抑制的な道徳は、反抗的な自己意志を挑発する。政治家が政治を悪くしているように、経済学者が経済問題を引き起こしているとも言える。ノイローゼの元凶は心理学者という意見にも一理ある。本書が強調しているのは、「道徳的である」ことと「思いやりのある」こととは違うということである。まず、道徳家はこれを認めることだという。タオが道徳を否定しているのではない。道徳的な規範に縛られない自立した自由意志を理想としていると語る。
5. タオ的な服従
荘子は、人間の本性を害した儒家たちを、馬を台無しにする調教師に喩えている。ここでは、かなり長文が掲載されるが、気に入ったので、要点だけまとめてみよう。
「馬の扱いに長けていると自負する調教師は、馬の毛をそろえ、蹄を削り取り、焼印を押す。首には手綱をかえ、足かせをつけ、訓練するが、馬は本当にそれを望んでいるだろうか?陶芸家も粘土の扱いに長けていると自慢し、大工も木材を自由に加工できると自慢する。だが、粘土や木が加工されることを望んでいるだろうか?どんな時代も、その技術のおかげで、もてはやされるが、そこには人間のエゴが潜む。国の統治も、統制する技術を評価されるが、これは間違いである。国の治め方に長けている人は、治めるべきではない。なぜなら治める必要がないからだ。人間は、本能的に生きるために働く。これは自然と調和しているだけのことである。」
賢い支配者は、人々が自主的に自分たちのためになることをするように仕向けるという。そして、支配者が誇るのではなく、それぞれの人が自分自身の行動を誇る。これがタオ的な服従である。タオは目的によって作用しない。自然発生的に作用する。タオは決して命令しない。この対照的な立場がユダヤ・キリスト教である。だから、命令に従わない者が多いと語る。
6. 利己主義と利他主義
利他主義者は、利己主義者を批判し説教する。道徳家とはそうしたものだ。利己主義者を説教したところで、効果があるわけがない。だが、どんな人間でも、利己的な部分と利他的な部分がある。少なくとも、そう思うから説教する。利己的な部分が現れすぎているから、心の奥深くにある高尚な部分へと働きかける。解釈の難しいのは、自己をどの範囲に置くかである。人間は自己からは逃れられない。自己を全宇宙にまで広げれば、個性はなくなり、理想的な境地に達するだろう。その時、自己中心的という言葉は消え去る。
7. 「静の哲学」と「動の哲学」
本書では、「なるがまま」と表現しているが、アル中ハイマーの哲学に「なすがまま」というのがある。事業を成功させようと力んでいると、気楽に人生を謳歌するという欲求の方が、性に合っていることがわかってきた。これは無能な人間の諦めである。よって、興味のない本を読むこともないし、興味のない分野の知識など求めない。これが「静の哲学」といったところだろうか。これは行動派の人間からは批判される。無気力な人間の隠蓑となるからである。行動派は、なりゆきに任せれば悪に立ち向かうことはできないと主張する。これが「動の哲学」といったところだろう。「静の哲学」も反論する。無理やりの行動が、むしろ事態を悪化させてきたではないかと。だた、こうした議論は無意味である。あくまでも好みの問題である。タオは「静の哲学」に近い。タオの主要な考えに「無為をもって為す」というのがあるらしい。無為ってなんだ?またまた、曖昧な言葉が登場する。なんとなく自然に揺られながら、いつのまにか到達する境地のような感じだろうか?この曖昧さがいい。人には、努力と意識しない努力がある。つまり、好きなことをやる能力だ。
2008-07-06
"天才スマリヤンのパラドックス人生" Raymond M. Smullyan 著
本書は、冒頭から次のように始まる。
「私自身の人生がそうであったように、秩序立った方法ではなく、まるで散歩をしているような感覚で書き進めるつもりである。大好きな中国の叙情的な哲学者と同じように、私は大通りを進むことよりも、無数のわき道を歩き回ることに惹かれる人間だから...」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころである。
多くの数学者や哲学者に絶賛されるレイモンド・メリル・スマリヤンとはどんな人物か?ある証言によると、音楽と数学とマジックの天才。あるいはコメディの達人。また、ある者は現代のルイス・キャロルと評す。幼少の頃から、絶対音感を持ちピアノの天才と言われたが、右手首の腱鞘炎でピアニストになることを諦めたという。ナイトクラブでは、「五枚エースのメリル」と称してマジシャンで出演する。その一方で、数理論理学の博士号を持っていて、自由に大学を転々とする。プリンストン大学の教授は、ナイトクラブから彼を引き抜いて教授職に就かせたという。彼の著書「タオは笑っている」は、ずーっと前に記事にもしたが傑作である。ちなみに、彼はノーベル賞物理学者ファインマン氏と小学校の同級生なんだそうだ。どおりで、ユーモアのセンスに通ずるものを感じる。
本書は、おそらく著者スマリヤンの自叙伝である。ここで「おそらく」と書いたのは、あまりにも愉快なジョークやパラドックスが満載で、そちらにばかり熱中して読んでしまうほど灰汁が強いということである。そして、論理的、あるいは一見論理的、あるいは、自ら堂々と非論理的と語る文章で綴られる。そこには、数学や哲学や宗教、そして不完全性定理まで登場し、愉快な論理パズルで紹介される。中でも、答えの見つからない論理パズルがお気に入りのようだ。論理実証主義と絡めて「無意味」について考察する哲学ぶりには、論理と感性のバランスがうかがえて、なかなかのピート香を醸し出す。愉快な文章の合間には、数学に失望した瞬間や、著者の生き様もさらけ出す。著者は、今日の数学における教育危機の原因は、教師ではなく教科書にあると指摘している。現代の数学の教科書は、彼の時代の5倍の厚さがあるという。そして、代数と幾何学が混同され、幾何学の演繹的な推論は完全に省略されていることを嘆いている。また、宗教については、次のように語る。
「私は子供の頃、まったく宗教的な教育を受けなかった。そのことを神に感謝したい!」
しかも、宗教への固執性は、幼児期の教化に起因すると言っている。自然が神のようなものを創造したのは、なんとなく理解できても、自然が聖書を書くような神を創造したとは考え難いと語る。これには全く同感である。幼児期に宗教的な信念を叩き込むのは、催眠術によって暗示をかけるようなものだ。宗教にせよ、本にせよ、どんなものでも、受け入れる身構えがなけらば、吸収することはできない。
著者が尊重しているのは、謙虚さや慢心さではなく、ただ客観性であろうとすることだと語る。「あろうとする」と表現しているあたりに、客観性になりきることの難しさが伝わる。おいらも心掛けてはいるが、なかなか実行できないでいる。ただ、友人との関係を熱く語っているあたりは、人間味にも溢れた感性があり、照れ隠しで論理性を強調しているかのようにも見える。話題の中で、十歳ぐらいの子供の発想をもとにしたものが、ちりばめられているところもおもしろい。著者は、これが数学に最も重要な感覚であるという。数学の問題を解くことは、しばしば機械的であると誤解される。しかし、そこにはエレガントな発想が潜む。論理性の難しいところは、それが完全ではないことである。完璧だと思っている論理思考にも、実は微妙な落とし穴が潜む。著者は、その理解が深いからこそ、逆に論理のおもしろさや美しさが語れるのだろう。論理的な思考は優れている。しかし、論理主義に偏り過ぎると利己主義になる危険性も覗かせる。いくら論理で組み立てても、条件が一つ抜けたり間違えたりすれば、藻屑となる脆さもある。十人が一冊の本を読むと、そこには十通りの解釈があっても不思議ではない。一つの言葉でさえ、微妙に捉え方に違いが現れる。「赤い色」といっても、薔薇色の人生を思い描く人もいれば、血なまぐささを連想する人もいる。アル中ハイマーはブラッディ・マリーが飲みたくなる。ちなみに、鏡の向こうには「ああ気持ちええ!」と呟いている赤い顔をした住人がいる。
リチャード・バックの書いたものに「宇宙的意識」というものがあるらしい。人類全体が、更に高度な意識を持つ新人類に進化するには、長い時間がかかる。それは進化論のように、環境や思想に順応した新人類が少しずつ発生し、徐々に増加して地球上に広がるというものだ。宇宙的意識で注目すべきは、非権威的に語られていて、教条や権威から独立しているという。こうした意識は、音楽センスやユーモアセンスのように、人間の潜在意識の中に自然にあるのかもしれない。その中には、特質した才能を持つスーパースターのように、最先端の宇宙的意識を持つ人々がいるだろう。かつての著名な哲学者とは、そういった先人たちなのかもしれない。そして、著者スマリヤンもその一人のように思えるのである。
さて、思わず吹きだす話題の中から、なんとなく気に入ったものを摘んでみよう。なぜかって?煙臭いウィスキーには、スパイシーの効いた「おつまみ」があうから。
1. 地獄という制度
著者が出会った人類愛に満ちた地獄の描写は、スウェーデンボルグ宗教のものであるという。その教義によると、死後全ての人間は天国へ行き、いかなる審判も下されないらしい。ところが、邪悪な人間は、天国の居心地が悪く自ら天国を去る。そして、彼らは憎しみ合うので、地獄でも互いに苦しめ合う。しかし、神は彼らの苦しみさえ救済しようと天使を送る。この地獄のモデルは、刑罰というよりは、むしろ狂気の世界を象徴しているようだと語る。ここで、著者は、おもしろい提案をしている。題して「集団的救済」。
「最後の審判の日、神は人類全体の善悪を計算して平均値を出す。もし平均値が十分に高ければ、人類は全員合格して天国へ行くことができる。そうでなければ、人類は全員落第して地獄へ行かなければならない。」
あるカトリック教徒は、これは危険な宗教だと言った。あるプロテスタント教徒は、そんなことは絶対に望まない!。なぜなら、自分が天国へ行く可能性が大幅に減少するからだと言った。
2. 飛行機に乗らない統計学者。
「なぜ飛行機に乗らないのか?」
「それは爆弾で爆発する確率は低いが、安心するには不十分だから。」
ある日、統計学者が飛行機に乗っているのを見て驚いた。
「どうして考えを変えたのか?」
「変えていない。二つの爆弾が同時に爆発する確率を計算したら、安心できるほど十分に低いことが分かった。だから、爆弾を一つ持って乗ることにしたんだ。」
このように、確率論でよく間違える落とし穴をジョークにしている例が紹介される。確率論と言えば、必ず出てくるのが、同じクラスに二人の誕生日が同じである確率を求めよというのがある。直感では、その確率は低いと思うが、計算すると意外と高い。それは、クラス員24人が50%の基準になるという。
1 - 365 × 364 × 363 × ... × 342 / 365 ^ 24 = 0.53834 (約54%)
もちろん、一卵性双生児が居ないことを祈る。
3. プロタゴラス
プラトンの対話篇にこんな話がある。おいらも学生時代に読んだので懐かしい。
「ソクラテスは、弁論家のプロタゴラスが知恵を教えることによって生徒から金を取っていることを批難する。プロタゴラスは、生徒が学んだことに満足しなければ金を返すと反論する。」
この話から、著者は次の場面を思い浮かべたという。
学んだことに満足できない生徒が金を返せと、実際に要求したらろどうなるだろうか?プロタゴラスは理由を問う。そして、生徒は理路整然と理由を述べる。するとプロタゴラスは言う。
「その素晴らしい弁論こそ、君に教えた成果じゃないか!」
もう一つの場面がある。同じように金を返せと要求した生徒がいる。プロタゴラスは理由を問う。しばらくして、生徒はうまく説明できないと言う。するとプロタゴラスは言う。
「よくわかったよ。君にお金を返すしかなさそうだ。」
4. 論理実証主義者
論理実証主義では、実証あるいは反証できない命題を無意味と見なす。そこでは、「有意味」について厳密な定義をし、形而上学的な問題を無意味とする考えがある。論理実証主義者は、ライプニッツが哲学の根本とした「なぜ無ではなく、何かが存在するのか?」といった問題は、無意味であると排除する。これに対して、本書は、論理実証主義に反感をもっているかのように攻撃する。
「難点は彼らの有意味の定義が、常識的に言葉の意味とされるものと合致していないことにある。」
著者は、論理実証学者を次のように定義している。
「自分が理解できないものを無意味として拒絶する人」
そこで、登場するジョークがある。ある女性は、離婚の原因は、夫が論理実証主義者だからだと主張した。その理由は、「私がどんなことを言おうとも、彼は無意味だとしか言わなかったんですもの!」
アル中ハイマーに言わせれば、人間社会そのものが、無意味なもので成り立っている。ただ、酔っ払いには、無意味か有意味かを区別する意味も理解できない。
5. 恐るべしガキ!恐るべし直観!
「あなたは、この文を信じる理由がない」
さて、この文章を信じるか?信じないか?パラドックスはこうした自己言及の罠に嵌る。そこで、ある少年に尋ねた。「君は、あの文を信じるかね?」少年は答えた。「うん!信じる。」その理由は?と尋ねると、「理由は何もない」と答えた。更に「では、なぜ信じるのかね?」と尋ねると、少年は一言「直観!」と答えた。少年は、見事にパラドックスを回避したのであった。
6. 哲学者と神学者の違い
おいらは次の表現で酒のピッチが上がる。
「さて、読者は哲学者と神学者の違いをご存知だろうか?哲学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗く人。神学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、さらにそれを見つける人である。」
著者が常々思う疑問は、神を信じる人が、神は味方だと当然のように信じていることだという。「実は、神は科学的で、証拠にもなく信仰に基づいて何かを信じる人々に対して、我慢ならないお方である。」という可能性はないのだろうか?と問うている。
7. 唯我論と数学者
これぞ、スマリヤン流の論理というものを紹介しよう。
唯我論者は言う。「君は存在しない。私だけが存在する。」著者は答える。「そのとおり、私だけしか存在しない。」唯我論者は興奮して叫ぶ。「違う!違う!存在するのは君じゃなくて、私が存在するのだ。」著者は言う。「まったくその通り、存在するのは君じゃくなくて私が存在する。完璧に意見が合いますね!」
もう一発!!!
二人の数学者がレストランで食事をとった。食事を終えるとウェイターが尋ねた。「お会計は別々になさいますか?ご一緒になさいますか?」数学者の一人は、「別々に頼む。」と答えた。ウェイーターはもう一人の数学者にも尋ねた。「あなた様の分も別々でよろしいでしょうか?」
8. 悪魔の辞典
作家アンブローズ・ビアスの著書「悪魔の辞典」でおもしろい定義をしているという。
「論理学とは、人間の誤解の限界と無能力性について、厳密に推論および思考する学問。論理学の基礎は、大前提、小前提、結論から構成される三段論法である。一例を挙げよう。
大前提: 60人の人間は、1人の人間の60倍の速度で仕事ができる。
小前提: 1人の人間は、60秒で1個の穴を掘ることができる。
結論: 60人の人間は、1秒で1個の穴を掘ることができる。」
この本は買わずにはいられない!!!
9. 不完全性定理
クルト・ゲーデルが発見したのは、真であるにも関わらず証明できない命題が存在するということである。これが第一不完全性定理。ゲーデルが次に発見したのは、もしシステムが無矛盾であれば、そのシステムは自己の無矛盾を証明できないことである。つまり、システムが自己の無矛盾性を証明できたら、その証明過程に矛盾が含まれるということである。これが第ニ不完全性定理。
「この文は間違っているか、サンタクロースが存在するか、そのどちらかである。」
もしこの文が偽であるならば、「この文は間違っているか」あるいは、「サンタクロースが存在するか」の二つの選択肢は両方とも偽でなければならない。すると、前半部は、「この文は正しい」ことになり、「サンタクロースは存在する」ことになる。このパラドックスは自己言及の罠に嵌っている。ゲーデルの定理は、「この文は証明できない」という文章を証明しようとしているようなものだという。数学でよく「証明」という言葉を使う。ただ、よく考えると、「証明」の概念が明確に定義されたところを見かけたことがない。数理論理学では、「証明」の概念について正確に定義されているらしい。それでも、絶対的な意味での定義ではなく、形式的なシステムに対して相対的に定義されるものだという。例えば、こんな感じである。
形式的システムSがあるとする。そして、前提では「システムSにおいて、いかなる偽の文も証明されない」という意味でシステムSは正しいとする。つまり、システムSにおいて、証明可能な文は真である。この状況下で「この文は証明できない」という文章を次のように変形すると、パラドックスが消滅し、おもしろいことが起きるという。「この文は、システムSにおいて、証明できない」この文が偽であれば、その反対が成り立たなければならない。そして「この文は、システムSにおいて、証明できる」となる。これはまともそうに見える。しかし、「システムSにおいて、いかなる偽の文も証明されない」という前提に矛盾する。これは、システムSにおいて、証明できない真の命題が存在することを暗示しているという。んー!なんとなく詐欺にあった気分だ。今日は、睡眠薬がないと眠れそうもない。
「私自身の人生がそうであったように、秩序立った方法ではなく、まるで散歩をしているような感覚で書き進めるつもりである。大好きな中国の叙情的な哲学者と同じように、私は大通りを進むことよりも、無数のわき道を歩き回ることに惹かれる人間だから...」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころである。
多くの数学者や哲学者に絶賛されるレイモンド・メリル・スマリヤンとはどんな人物か?ある証言によると、音楽と数学とマジックの天才。あるいはコメディの達人。また、ある者は現代のルイス・キャロルと評す。幼少の頃から、絶対音感を持ちピアノの天才と言われたが、右手首の腱鞘炎でピアニストになることを諦めたという。ナイトクラブでは、「五枚エースのメリル」と称してマジシャンで出演する。その一方で、数理論理学の博士号を持っていて、自由に大学を転々とする。プリンストン大学の教授は、ナイトクラブから彼を引き抜いて教授職に就かせたという。彼の著書「タオは笑っている」は、ずーっと前に記事にもしたが傑作である。ちなみに、彼はノーベル賞物理学者ファインマン氏と小学校の同級生なんだそうだ。どおりで、ユーモアのセンスに通ずるものを感じる。
本書は、おそらく著者スマリヤンの自叙伝である。ここで「おそらく」と書いたのは、あまりにも愉快なジョークやパラドックスが満載で、そちらにばかり熱中して読んでしまうほど灰汁が強いということである。そして、論理的、あるいは一見論理的、あるいは、自ら堂々と非論理的と語る文章で綴られる。そこには、数学や哲学や宗教、そして不完全性定理まで登場し、愉快な論理パズルで紹介される。中でも、答えの見つからない論理パズルがお気に入りのようだ。論理実証主義と絡めて「無意味」について考察する哲学ぶりには、論理と感性のバランスがうかがえて、なかなかのピート香を醸し出す。愉快な文章の合間には、数学に失望した瞬間や、著者の生き様もさらけ出す。著者は、今日の数学における教育危機の原因は、教師ではなく教科書にあると指摘している。現代の数学の教科書は、彼の時代の5倍の厚さがあるという。そして、代数と幾何学が混同され、幾何学の演繹的な推論は完全に省略されていることを嘆いている。また、宗教については、次のように語る。
「私は子供の頃、まったく宗教的な教育を受けなかった。そのことを神に感謝したい!」
しかも、宗教への固執性は、幼児期の教化に起因すると言っている。自然が神のようなものを創造したのは、なんとなく理解できても、自然が聖書を書くような神を創造したとは考え難いと語る。これには全く同感である。幼児期に宗教的な信念を叩き込むのは、催眠術によって暗示をかけるようなものだ。宗教にせよ、本にせよ、どんなものでも、受け入れる身構えがなけらば、吸収することはできない。
著者が尊重しているのは、謙虚さや慢心さではなく、ただ客観性であろうとすることだと語る。「あろうとする」と表現しているあたりに、客観性になりきることの難しさが伝わる。おいらも心掛けてはいるが、なかなか実行できないでいる。ただ、友人との関係を熱く語っているあたりは、人間味にも溢れた感性があり、照れ隠しで論理性を強調しているかのようにも見える。話題の中で、十歳ぐらいの子供の発想をもとにしたものが、ちりばめられているところもおもしろい。著者は、これが数学に最も重要な感覚であるという。数学の問題を解くことは、しばしば機械的であると誤解される。しかし、そこにはエレガントな発想が潜む。論理性の難しいところは、それが完全ではないことである。完璧だと思っている論理思考にも、実は微妙な落とし穴が潜む。著者は、その理解が深いからこそ、逆に論理のおもしろさや美しさが語れるのだろう。論理的な思考は優れている。しかし、論理主義に偏り過ぎると利己主義になる危険性も覗かせる。いくら論理で組み立てても、条件が一つ抜けたり間違えたりすれば、藻屑となる脆さもある。十人が一冊の本を読むと、そこには十通りの解釈があっても不思議ではない。一つの言葉でさえ、微妙に捉え方に違いが現れる。「赤い色」といっても、薔薇色の人生を思い描く人もいれば、血なまぐささを連想する人もいる。アル中ハイマーはブラッディ・マリーが飲みたくなる。ちなみに、鏡の向こうには「ああ気持ちええ!」と呟いている赤い顔をした住人がいる。
リチャード・バックの書いたものに「宇宙的意識」というものがあるらしい。人類全体が、更に高度な意識を持つ新人類に進化するには、長い時間がかかる。それは進化論のように、環境や思想に順応した新人類が少しずつ発生し、徐々に増加して地球上に広がるというものだ。宇宙的意識で注目すべきは、非権威的に語られていて、教条や権威から独立しているという。こうした意識は、音楽センスやユーモアセンスのように、人間の潜在意識の中に自然にあるのかもしれない。その中には、特質した才能を持つスーパースターのように、最先端の宇宙的意識を持つ人々がいるだろう。かつての著名な哲学者とは、そういった先人たちなのかもしれない。そして、著者スマリヤンもその一人のように思えるのである。
さて、思わず吹きだす話題の中から、なんとなく気に入ったものを摘んでみよう。なぜかって?煙臭いウィスキーには、スパイシーの効いた「おつまみ」があうから。
1. 地獄という制度
著者が出会った人類愛に満ちた地獄の描写は、スウェーデンボルグ宗教のものであるという。その教義によると、死後全ての人間は天国へ行き、いかなる審判も下されないらしい。ところが、邪悪な人間は、天国の居心地が悪く自ら天国を去る。そして、彼らは憎しみ合うので、地獄でも互いに苦しめ合う。しかし、神は彼らの苦しみさえ救済しようと天使を送る。この地獄のモデルは、刑罰というよりは、むしろ狂気の世界を象徴しているようだと語る。ここで、著者は、おもしろい提案をしている。題して「集団的救済」。
「最後の審判の日、神は人類全体の善悪を計算して平均値を出す。もし平均値が十分に高ければ、人類は全員合格して天国へ行くことができる。そうでなければ、人類は全員落第して地獄へ行かなければならない。」
あるカトリック教徒は、これは危険な宗教だと言った。あるプロテスタント教徒は、そんなことは絶対に望まない!。なぜなら、自分が天国へ行く可能性が大幅に減少するからだと言った。
2. 飛行機に乗らない統計学者。
「なぜ飛行機に乗らないのか?」
「それは爆弾で爆発する確率は低いが、安心するには不十分だから。」
ある日、統計学者が飛行機に乗っているのを見て驚いた。
「どうして考えを変えたのか?」
「変えていない。二つの爆弾が同時に爆発する確率を計算したら、安心できるほど十分に低いことが分かった。だから、爆弾を一つ持って乗ることにしたんだ。」
このように、確率論でよく間違える落とし穴をジョークにしている例が紹介される。確率論と言えば、必ず出てくるのが、同じクラスに二人の誕生日が同じである確率を求めよというのがある。直感では、その確率は低いと思うが、計算すると意外と高い。それは、クラス員24人が50%の基準になるという。
1 - 365 × 364 × 363 × ... × 342 / 365 ^ 24 = 0.53834 (約54%)
もちろん、一卵性双生児が居ないことを祈る。
3. プロタゴラス
プラトンの対話篇にこんな話がある。おいらも学生時代に読んだので懐かしい。
「ソクラテスは、弁論家のプロタゴラスが知恵を教えることによって生徒から金を取っていることを批難する。プロタゴラスは、生徒が学んだことに満足しなければ金を返すと反論する。」
この話から、著者は次の場面を思い浮かべたという。
学んだことに満足できない生徒が金を返せと、実際に要求したらろどうなるだろうか?プロタゴラスは理由を問う。そして、生徒は理路整然と理由を述べる。するとプロタゴラスは言う。
「その素晴らしい弁論こそ、君に教えた成果じゃないか!」
もう一つの場面がある。同じように金を返せと要求した生徒がいる。プロタゴラスは理由を問う。しばらくして、生徒はうまく説明できないと言う。するとプロタゴラスは言う。
「よくわかったよ。君にお金を返すしかなさそうだ。」
4. 論理実証主義者
論理実証主義では、実証あるいは反証できない命題を無意味と見なす。そこでは、「有意味」について厳密な定義をし、形而上学的な問題を無意味とする考えがある。論理実証主義者は、ライプニッツが哲学の根本とした「なぜ無ではなく、何かが存在するのか?」といった問題は、無意味であると排除する。これに対して、本書は、論理実証主義に反感をもっているかのように攻撃する。
「難点は彼らの有意味の定義が、常識的に言葉の意味とされるものと合致していないことにある。」
著者は、論理実証学者を次のように定義している。
「自分が理解できないものを無意味として拒絶する人」
そこで、登場するジョークがある。ある女性は、離婚の原因は、夫が論理実証主義者だからだと主張した。その理由は、「私がどんなことを言おうとも、彼は無意味だとしか言わなかったんですもの!」
アル中ハイマーに言わせれば、人間社会そのものが、無意味なもので成り立っている。ただ、酔っ払いには、無意味か有意味かを区別する意味も理解できない。
5. 恐るべしガキ!恐るべし直観!
「あなたは、この文を信じる理由がない」
さて、この文章を信じるか?信じないか?パラドックスはこうした自己言及の罠に嵌る。そこで、ある少年に尋ねた。「君は、あの文を信じるかね?」少年は答えた。「うん!信じる。」その理由は?と尋ねると、「理由は何もない」と答えた。更に「では、なぜ信じるのかね?」と尋ねると、少年は一言「直観!」と答えた。少年は、見事にパラドックスを回避したのであった。
6. 哲学者と神学者の違い
おいらは次の表現で酒のピッチが上がる。
「さて、読者は哲学者と神学者の違いをご存知だろうか?哲学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗く人。神学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、さらにそれを見つける人である。」
著者が常々思う疑問は、神を信じる人が、神は味方だと当然のように信じていることだという。「実は、神は科学的で、証拠にもなく信仰に基づいて何かを信じる人々に対して、我慢ならないお方である。」という可能性はないのだろうか?と問うている。
7. 唯我論と数学者
これぞ、スマリヤン流の論理というものを紹介しよう。
唯我論者は言う。「君は存在しない。私だけが存在する。」著者は答える。「そのとおり、私だけしか存在しない。」唯我論者は興奮して叫ぶ。「違う!違う!存在するのは君じゃなくて、私が存在するのだ。」著者は言う。「まったくその通り、存在するのは君じゃくなくて私が存在する。完璧に意見が合いますね!」
もう一発!!!
二人の数学者がレストランで食事をとった。食事を終えるとウェイターが尋ねた。「お会計は別々になさいますか?ご一緒になさいますか?」数学者の一人は、「別々に頼む。」と答えた。ウェイーターはもう一人の数学者にも尋ねた。「あなた様の分も別々でよろしいでしょうか?」
8. 悪魔の辞典
作家アンブローズ・ビアスの著書「悪魔の辞典」でおもしろい定義をしているという。
「論理学とは、人間の誤解の限界と無能力性について、厳密に推論および思考する学問。論理学の基礎は、大前提、小前提、結論から構成される三段論法である。一例を挙げよう。
大前提: 60人の人間は、1人の人間の60倍の速度で仕事ができる。
小前提: 1人の人間は、60秒で1個の穴を掘ることができる。
結論: 60人の人間は、1秒で1個の穴を掘ることができる。」
この本は買わずにはいられない!!!
9. 不完全性定理
クルト・ゲーデルが発見したのは、真であるにも関わらず証明できない命題が存在するということである。これが第一不完全性定理。ゲーデルが次に発見したのは、もしシステムが無矛盾であれば、そのシステムは自己の無矛盾を証明できないことである。つまり、システムが自己の無矛盾性を証明できたら、その証明過程に矛盾が含まれるということである。これが第ニ不完全性定理。
「この文は間違っているか、サンタクロースが存在するか、そのどちらかである。」
もしこの文が偽であるならば、「この文は間違っているか」あるいは、「サンタクロースが存在するか」の二つの選択肢は両方とも偽でなければならない。すると、前半部は、「この文は正しい」ことになり、「サンタクロースは存在する」ことになる。このパラドックスは自己言及の罠に嵌っている。ゲーデルの定理は、「この文は証明できない」という文章を証明しようとしているようなものだという。数学でよく「証明」という言葉を使う。ただ、よく考えると、「証明」の概念が明確に定義されたところを見かけたことがない。数理論理学では、「証明」の概念について正確に定義されているらしい。それでも、絶対的な意味での定義ではなく、形式的なシステムに対して相対的に定義されるものだという。例えば、こんな感じである。
形式的システムSがあるとする。そして、前提では「システムSにおいて、いかなる偽の文も証明されない」という意味でシステムSは正しいとする。つまり、システムSにおいて、証明可能な文は真である。この状況下で「この文は証明できない」という文章を次のように変形すると、パラドックスが消滅し、おもしろいことが起きるという。「この文は、システムSにおいて、証明できない」この文が偽であれば、その反対が成り立たなければならない。そして「この文は、システムSにおいて、証明できる」となる。これはまともそうに見える。しかし、「システムSにおいて、いかなる偽の文も証明されない」という前提に矛盾する。これは、システムSにおいて、証明できない真の命題が存在することを暗示しているという。んー!なんとなく詐欺にあった気分だ。今日は、睡眠薬がないと眠れそうもない。
2008-06-29
"真説ラスプーチン(上/下)" Edvard Radzinsky 著
以前から、アル中ハイマーは、社会主義がなぜロシアで起きたのか?という疑問を持っている。歴史教育では、資本主義の枯渇によって生まれたと教える。ちょうど世界恐慌の時期と重なったことがそうした発想になるのかもしれない。だが、もし社会主義が資本主義の枯渇によって起きたのであれば、なぜ?資本主義の成熟したイギリスやアメリカで起きずに、資本主義後進国のロシアで起きたのか?今日、既に社会主義やマルクス主義は崩壊したと言われる。しかし、今まで出現したものは本当に社会主義だったのか?実は、未だ歴史上に真の社会主義モデルは出現していないのではないのか?こうしたことを考察するには、マルクス主義をまともに読むしかないであろう。それも少々勇気がいることであるが、いずれマルクスの言った「疎外」にも挑戦してみたいと思っている。
それはおいといて、ここではもう一つ興味を持っていたラスピーチンについて読んでみよう。ロマノフ王朝からボリシェヴィキに向かう中、後に「ラスプーチンなくしてレーニンなし」と言われた。おいらは、ボリシェヴィキの源流がここにあるのか?となんとなく興味を持っていた。そういえば、最近までロシア大統領にも似たような名前があった。元KGBであることが冷酷な印象を与え、過去が謎めいていることから「ラス・プーチン」と皮肉られることもあった。しかし、歴史の俗説は時代とともに変化する。ロシアの神話では悪魔と聖人が入れ替わることも多い。血なまぐさいニコライ2世は、後に聖ニコライとなり、父であり教師であったスターリンは、血なまぐさい怪物となった。聖者レーニンも、血なまぐさい噂は絶えない。
時代は、ロマノフ王朝の末期。最後の皇帝ニコライ2世は闇の力に操られたと言われる。その闇で君臨したのが怪僧と言われたラスプーチンである。彼は読み書きもままならない農民、つまり「ムジーク」であるにも関わらず皇族への影響力は絶大であった。聖書に関しては優れた知識をもち、素朴で、教養がある人間よりも物事がわかっている。彼の言葉には、謎めいた格言のような形で、神がかりなうわ言のような予言力がある。また、彼のまなざしと、人に軽く触れる手には、催眠効果があったという。その一方で、売春婦や無数の婦人など、彼が「馬鹿女ども」と呼んだ人々を宗教と色欲を混同した半狂乱の中に陥れた。まさしくオカルトの世界である。こんな人物がなぜ闇の世界で君臨できるのか?彼はどんな人物だったのか?本書は、そうした疑問に挑んだ作品である。著者は、反ラスプーチンの証言が数多く出回る中、ラスプーチンの信奉者や友人の証言が多く収録されたファイルを入手したことが本書を執筆するきっかけになったと語る。本書には、数々の証言や回想、取り調べ記録から信憑性を探り、真相を暴こうとしたラジンスキー流の推理小説っぽい味わいがある。ラスプーチンは、自分自身の暗殺を予言している。その予言は、暗殺が親類の陰謀によるものならば、皇族一族も暗殺されるだろうというもの。そして、予言通り皇族一家も暗殺される。果たしてこれは予言なのだろうか?単に皇族を脅して自らの保身を計ったに過ぎないのではないのか。暗殺者によると、毒を盛られたのに生きていた、また、何発かの弾丸を打ち込まれたにも関わらず生きていたという証言がある。彼の逸話には魔人伝説が散乱する。しかし、人間は、狂人を悪魔の偶像に仕立てるには、そうした伝説とも言える筋書きを流布するものである。ましてや、神秘主義に惑わされてきた歴史のあるお国柄である。本書は、そうした仮説を暴いていく。
1. ロシアで流行るカルト宗教
暗殺や謎の死、様々な矛盾と恐怖にむしばまれた時代、こうした時代がオカルト的な雰囲気を蔓延させ、人々の日常生活は霊的なものを求めていたという。確かに、降霊術がこれほど発展した国はないのかもしれない。ロシアでは、ドストエフスキーやトルストイのような文学者を生み出した一方で、超能力者を生み出している。こうした背景は非公認の異端宗派を乱立させる。本書は、中でも「鞭身派」と「去勢派」について言及している。鞭身派における乱交は、肉欲を抑制するためであり、自らを清める儀式である。これをキリストの兄弟愛と称する。敬虔な人間は、罪を犯すと、苦悩を味わい懺悔する。その結果、魂の浄化が起こり罪人は神に近づく。罪と懺悔の間を行き来することに意味があり、神への道を示すものとされる。清らかな体にこそ聖霊が宿り、罪によって罪を追い払うという奇妙な理屈があるようだ。子供は肉から生まれたのではなく聖霊から生まれると信じるので、女性自身が聖母と自覚できる瞬間がある。18世紀半ばに、鞭身派から分かれた去勢派という新たな狂信者を生む。鞭身派の性的堕落を非難し絶対的な禁欲を唱える。男根の去勢処置は、灼熱した鉄を使い、斧も用いられる。女性の手術は、外陰部、乳首、乳房が切り取られる。本書は、この罪を犯すことの重要さを理解しなくては、ラスプーチンを理解することができないと語る。
2. ラスプーチンの教え
ラスプーチンは、鞭身派からスタートしたという。磔にされたキリストは復活せず、復活したのはキリストが説いた永遠の真理のみ。そして、「すべての人間がキリストになれる」と主張する。そのためには、自らの内にある肉欲、つまり、旧約のアダムや罪の人を殺さなければならないというのだ。ラスプーチンの使命とは、神の弱い創造物である女性たちを、罪から解放してやることだという。彼にとって愛こそ神聖なもの。自然の万物に対する愛。キリスト教的な家族愛。女性が夫を愛していれば、それは触れるべきではないが、夫を愛さずに結婚生活を送っているならば罪深い。結婚という制度には、従属する愛と反対の立場をとる。真実の愛が存在しないものはすべて罪と考える。同性愛者で偽りの結婚生活をしていた皇帝の妹には、彼女を抱き、愛を伝染してやろうと試みる。ラスプーチンから愛を授かったものには、性的な放埒から解放され、見えない糸で永久に結ばれると考えていたのだ。なんとも神秘的というか幼稚というか、巧みな触れ合いで催眠状態に陥れる。悪魔のいちばんずる賢いところは、人々に悪魔などいないと信じ込ませることである。だが、ラスムーチンは書き残す。「悪魔はすぐそばにいる」と。
3. 皇族との結びつき
ロマノフ王朝は、血族同士の殺し合いの伝統をもつ。そこには閣僚の暗殺も横行する。王位継承のために企てられた陰謀の数々、皇帝の短命、名誉ある死など、あらゆる信憑性は疑わしい。本書は、そもそも王朝は本当の存続していたのか?という疑問まで投げかける。そして、エカテリーナ女帝時代に、終焉を迎えていたのではないだろうか?という仮説を持ち出す。その後を継いだ息子パーヴェル1世は、実は彼女の愛人の子で、ピョートル3世の実子ではなかったという回想録が残っているという。ロシア帝国の法律では、皇族は、皇室または国家の支配者の家系に属さない者と結婚できない。よって、皇帝が、副官から妻を横取りするなどのスキャンダルも横行したという。そうした陰謀の渦巻く王家にあって、皇帝ニコライ2世は数々の試練を迎える。皇太子アレクセイの血友病。日露戦争の敗北。1905年の血なまぐさい革命。こうした背景は、皇族一家が「神の人」を待ち望むという状況にあった。そんな時期に、予知能力と千里眼を備えるという評判のあったラスプーチンが近づく。予言、奇蹟、死者と話す能力を備え、ロシア艦隊が日本艦隊に敗れることを予言していたという。彼には、催眠的な力を持った目、予言者、治癒者、民衆から出てきたなど、条件は整っていた。ロシアでは、読み書きのできな農民、素朴な人間にこそ貴重な才能が宿るという思想があるらしい。彼は、病気の皇太子に謁見して心を静め、医者が治らないと宣言した病も将来治ると予言した。また、革命で自らの殻に篭った皇帝にも、恐怖心を払い勇気を与えた。特に、皇后は、自身の神経発作を取り除いてくれたラスプーチンの神秘的な力を崇拝するようになる。これぞ催眠療法である。彼は霊的な高みに到達した存在であり、詩的な瞑想をしきりに働かせたという。その一方で、国会は、レイプなどのスキャンダル記事、売春婦あさりに関する報告、犠牲者たちの証言を引き合いに出す。宮廷の高官たちや女官たち、首相や大臣、皆が口を揃えてラスプーチンの堕落振りを報告した。こうした情報は全て皇帝夫婦に届いていた。にも関わらず皇后は信じなかった。そして、ラスプーチンを陥れようとした人間は、例外なく失脚する。かねてから、右翼や秘密警察は、都合の悪い官僚たちを抹殺してきた経緯がある。彼は首相の死を予言している。本書は、皇后はラスプーチン依存症であり、皇后の「第二の自我」とまで蔑む。ラスプーチンを認めるか否かが、皇権への忠誠と同意語なのである。ラスプーチンが書き記したとされる文章には、催眠的な力と見事な文学的センスがうかがえる。しかし、読み書きもできず無学な彼がこれだけの文量を残すことは不可能である。実は、影の執筆者は皇后とその女官たちだったというのである。
4. 政治介入
バルカン戦争で、トルコに敵対する正教国セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリアで秘密同盟が結ばれる。ロシアでは、宗教上の同胞であるバルカン同盟が、トルコのイスラム教徒たちを打ち負かすという汎スラブ主義の古い夢想が持ち上がる。つまり、ロシアを盟主として、かつてロシアがキリスト教を摂取した古きビザンチン帝国の心臓であるコンスタンチノーブルを首都に据えて、正教スラブ民族の大連邦を作るという構想である。これに対して、オーストリアとドイツが参戦。「バルカンの火薬庫」は一触即発となる。ロマノフ家の血筋は戦争を好む。ロシア帝国は伝統的に好戦的な皇帝たちの国である。ニコライ2世も例外ではない。内外から戦争介入の気運が高まる。ところが、皇帝は戦争に踏み切らなかった。これはラスプーチンの意向と一致する。ラスプーチンは、ドイツの一大勢力に比べてバルカンのスラブ人らは豚どもだという発言がある。そんな連中のためにロシア人が血を流すことは許されないと主張する。彼の言葉は予言として受け止められたのかもしれない。こうした流れが闇から操ったと噂されるのであろう。だが、冷静に考えると、日露戦争敗北と革命の後遺症から、ドイツと戦える余裕はなかったはずである。そうした状況で、単に皇帝が政治的判断を下したに過ぎないのかもしれない。ちなみに、皇后はドイツ出身で、ドイツとの戦争を回避したいが、口外しにくい立場でもある。
5. 王朝崩壊へ
第一次大戦が勃発する頃には、皇帝一家以外、あらゆる人間がラスプーチンに反感を持っていた。皇帝は第一次大戦によって国家体制が強化されると信じていた。日露戦争でもそう考えたが、敗北と革命で思惑が外れる。皇后とラスプーチンは反戦を唱える。新聞は、激しい反ラスプーチン・キャンペーンを展開する。世論は、またもスラブ民族を裏切るのかと煽り立てる。そんな折に、ラスプーチン暗殺未遂事件が発生する。女性からナイフで切りつけられて重傷を負ったり、自動車事故などなど。これに対抗するラスプーチンの武器は民衆の請願書である。実業家、武官と文官、貧しいロシア人、財産はあるが権利を認められないユダヤ人、彼らは巨大な官僚機構を嫌っていた。そうした連中から請願書を募り、官僚を介さず直接宮廷へ送り届ける。その中から資金を持った人々と人脈を築き、ラスプーチンはユダヤ人銀行家と結びつく。ロシアの情勢は中途半端な資本主義と反ユダヤ主義がまかり通っていた。その中で特定のユダヤ人が地位を握る。ラスプーチンもユダヤ人銀行家に利用されていく。これにマスコミも黙っていない。国際的ユダヤ勢力の支配と捲くし立てる。ラスプーチン陣営には、この人脈から本物の陰謀の名手たちが出現した。しかも国際級の陰謀家である。秘密警察との関係を結んだ二重、三重スパイ。まさしくジェームズボンド級である。陰謀を企てられても、逆手にとって権力の剥奪ができると自信を深める。だが、戦局が打開できないのは、ドイツ人の皇后とラスプーチンのスパイ行為だと噂される。
6. ボリシェヴィキの源流
1915年「ムジーク」が自立し、自らの考えを示唆するようになる。そして、スターリン時代のボリシェヴィキ帝国を彷彿させるような進言をする。やりはじめた戦争は勝利するまで徹底的に完遂すべし。第二次大戦下、スターリンは鉄の手で全工場生産を前線の需要に振り向けた。ラスプーチンも同じような提案を皇帝夫婦に繰り返す。菓子製造所でさえも軍装備の製造がなされるべきだと主張する。そして、農民や地主から生産物の強制的接収、工場の国有化と軍事化が進む。更に、国家機構を強化するために、全国の貧しい役人たちの賃金を上げることを協議する。その財源は、資本家からの課税により奪い取る。こうした事業はボリシェヴィキによって完遂されるが、ラスプーチンは、レーニンに先駆けて提案していたという。つまり、ボリシェヴィキは、ロマノフ王朝最期の皇帝によって着手されたことになる。本書を読んでいると、ボリシェヴィキの始祖はラスプーチンのように思えてくる。ここに、ソ連型社会主義国家の序章が始まる。
7. ビクトリア女王の孫たちによる戦争
本書とは少々外れるが、ここで血筋についてメモっておこう。イギリス国王ジョージ5世は、ビクトリア女王の孫で、ロシア皇帝ニコライ2世と従弟、ニコライ2世の皇后アレクサンドラも従妹である。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、母方はビクトリア女王の孫である。ビクトリア女王は、子供達をドイツを中心とした各国に嫁がせ、晩年には「ヨーロッパの祖母」と呼ばれる。ビクトリア女王自身が血友病の因子を持っており、ロシア皇太子アレクセイを始めとする男子が次々と発病した。つまり、第一次大戦は、いとこ同士の喧嘩でもある。
それはおいといて、ここではもう一つ興味を持っていたラスピーチンについて読んでみよう。ロマノフ王朝からボリシェヴィキに向かう中、後に「ラスプーチンなくしてレーニンなし」と言われた。おいらは、ボリシェヴィキの源流がここにあるのか?となんとなく興味を持っていた。そういえば、最近までロシア大統領にも似たような名前があった。元KGBであることが冷酷な印象を与え、過去が謎めいていることから「ラス・プーチン」と皮肉られることもあった。しかし、歴史の俗説は時代とともに変化する。ロシアの神話では悪魔と聖人が入れ替わることも多い。血なまぐさいニコライ2世は、後に聖ニコライとなり、父であり教師であったスターリンは、血なまぐさい怪物となった。聖者レーニンも、血なまぐさい噂は絶えない。
時代は、ロマノフ王朝の末期。最後の皇帝ニコライ2世は闇の力に操られたと言われる。その闇で君臨したのが怪僧と言われたラスプーチンである。彼は読み書きもままならない農民、つまり「ムジーク」であるにも関わらず皇族への影響力は絶大であった。聖書に関しては優れた知識をもち、素朴で、教養がある人間よりも物事がわかっている。彼の言葉には、謎めいた格言のような形で、神がかりなうわ言のような予言力がある。また、彼のまなざしと、人に軽く触れる手には、催眠効果があったという。その一方で、売春婦や無数の婦人など、彼が「馬鹿女ども」と呼んだ人々を宗教と色欲を混同した半狂乱の中に陥れた。まさしくオカルトの世界である。こんな人物がなぜ闇の世界で君臨できるのか?彼はどんな人物だったのか?本書は、そうした疑問に挑んだ作品である。著者は、反ラスプーチンの証言が数多く出回る中、ラスプーチンの信奉者や友人の証言が多く収録されたファイルを入手したことが本書を執筆するきっかけになったと語る。本書には、数々の証言や回想、取り調べ記録から信憑性を探り、真相を暴こうとしたラジンスキー流の推理小説っぽい味わいがある。ラスプーチンは、自分自身の暗殺を予言している。その予言は、暗殺が親類の陰謀によるものならば、皇族一族も暗殺されるだろうというもの。そして、予言通り皇族一家も暗殺される。果たしてこれは予言なのだろうか?単に皇族を脅して自らの保身を計ったに過ぎないのではないのか。暗殺者によると、毒を盛られたのに生きていた、また、何発かの弾丸を打ち込まれたにも関わらず生きていたという証言がある。彼の逸話には魔人伝説が散乱する。しかし、人間は、狂人を悪魔の偶像に仕立てるには、そうした伝説とも言える筋書きを流布するものである。ましてや、神秘主義に惑わされてきた歴史のあるお国柄である。本書は、そうした仮説を暴いていく。
1. ロシアで流行るカルト宗教
暗殺や謎の死、様々な矛盾と恐怖にむしばまれた時代、こうした時代がオカルト的な雰囲気を蔓延させ、人々の日常生活は霊的なものを求めていたという。確かに、降霊術がこれほど発展した国はないのかもしれない。ロシアでは、ドストエフスキーやトルストイのような文学者を生み出した一方で、超能力者を生み出している。こうした背景は非公認の異端宗派を乱立させる。本書は、中でも「鞭身派」と「去勢派」について言及している。鞭身派における乱交は、肉欲を抑制するためであり、自らを清める儀式である。これをキリストの兄弟愛と称する。敬虔な人間は、罪を犯すと、苦悩を味わい懺悔する。その結果、魂の浄化が起こり罪人は神に近づく。罪と懺悔の間を行き来することに意味があり、神への道を示すものとされる。清らかな体にこそ聖霊が宿り、罪によって罪を追い払うという奇妙な理屈があるようだ。子供は肉から生まれたのではなく聖霊から生まれると信じるので、女性自身が聖母と自覚できる瞬間がある。18世紀半ばに、鞭身派から分かれた去勢派という新たな狂信者を生む。鞭身派の性的堕落を非難し絶対的な禁欲を唱える。男根の去勢処置は、灼熱した鉄を使い、斧も用いられる。女性の手術は、外陰部、乳首、乳房が切り取られる。本書は、この罪を犯すことの重要さを理解しなくては、ラスプーチンを理解することができないと語る。
2. ラスプーチンの教え
ラスプーチンは、鞭身派からスタートしたという。磔にされたキリストは復活せず、復活したのはキリストが説いた永遠の真理のみ。そして、「すべての人間がキリストになれる」と主張する。そのためには、自らの内にある肉欲、つまり、旧約のアダムや罪の人を殺さなければならないというのだ。ラスプーチンの使命とは、神の弱い創造物である女性たちを、罪から解放してやることだという。彼にとって愛こそ神聖なもの。自然の万物に対する愛。キリスト教的な家族愛。女性が夫を愛していれば、それは触れるべきではないが、夫を愛さずに結婚生活を送っているならば罪深い。結婚という制度には、従属する愛と反対の立場をとる。真実の愛が存在しないものはすべて罪と考える。同性愛者で偽りの結婚生活をしていた皇帝の妹には、彼女を抱き、愛を伝染してやろうと試みる。ラスプーチンから愛を授かったものには、性的な放埒から解放され、見えない糸で永久に結ばれると考えていたのだ。なんとも神秘的というか幼稚というか、巧みな触れ合いで催眠状態に陥れる。悪魔のいちばんずる賢いところは、人々に悪魔などいないと信じ込ませることである。だが、ラスムーチンは書き残す。「悪魔はすぐそばにいる」と。
3. 皇族との結びつき
ロマノフ王朝は、血族同士の殺し合いの伝統をもつ。そこには閣僚の暗殺も横行する。王位継承のために企てられた陰謀の数々、皇帝の短命、名誉ある死など、あらゆる信憑性は疑わしい。本書は、そもそも王朝は本当の存続していたのか?という疑問まで投げかける。そして、エカテリーナ女帝時代に、終焉を迎えていたのではないだろうか?という仮説を持ち出す。その後を継いだ息子パーヴェル1世は、実は彼女の愛人の子で、ピョートル3世の実子ではなかったという回想録が残っているという。ロシア帝国の法律では、皇族は、皇室または国家の支配者の家系に属さない者と結婚できない。よって、皇帝が、副官から妻を横取りするなどのスキャンダルも横行したという。そうした陰謀の渦巻く王家にあって、皇帝ニコライ2世は数々の試練を迎える。皇太子アレクセイの血友病。日露戦争の敗北。1905年の血なまぐさい革命。こうした背景は、皇族一家が「神の人」を待ち望むという状況にあった。そんな時期に、予知能力と千里眼を備えるという評判のあったラスプーチンが近づく。予言、奇蹟、死者と話す能力を備え、ロシア艦隊が日本艦隊に敗れることを予言していたという。彼には、催眠的な力を持った目、予言者、治癒者、民衆から出てきたなど、条件は整っていた。ロシアでは、読み書きのできな農民、素朴な人間にこそ貴重な才能が宿るという思想があるらしい。彼は、病気の皇太子に謁見して心を静め、医者が治らないと宣言した病も将来治ると予言した。また、革命で自らの殻に篭った皇帝にも、恐怖心を払い勇気を与えた。特に、皇后は、自身の神経発作を取り除いてくれたラスプーチンの神秘的な力を崇拝するようになる。これぞ催眠療法である。彼は霊的な高みに到達した存在であり、詩的な瞑想をしきりに働かせたという。その一方で、国会は、レイプなどのスキャンダル記事、売春婦あさりに関する報告、犠牲者たちの証言を引き合いに出す。宮廷の高官たちや女官たち、首相や大臣、皆が口を揃えてラスプーチンの堕落振りを報告した。こうした情報は全て皇帝夫婦に届いていた。にも関わらず皇后は信じなかった。そして、ラスプーチンを陥れようとした人間は、例外なく失脚する。かねてから、右翼や秘密警察は、都合の悪い官僚たちを抹殺してきた経緯がある。彼は首相の死を予言している。本書は、皇后はラスプーチン依存症であり、皇后の「第二の自我」とまで蔑む。ラスプーチンを認めるか否かが、皇権への忠誠と同意語なのである。ラスプーチンが書き記したとされる文章には、催眠的な力と見事な文学的センスがうかがえる。しかし、読み書きもできず無学な彼がこれだけの文量を残すことは不可能である。実は、影の執筆者は皇后とその女官たちだったというのである。
4. 政治介入
バルカン戦争で、トルコに敵対する正教国セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリアで秘密同盟が結ばれる。ロシアでは、宗教上の同胞であるバルカン同盟が、トルコのイスラム教徒たちを打ち負かすという汎スラブ主義の古い夢想が持ち上がる。つまり、ロシアを盟主として、かつてロシアがキリスト教を摂取した古きビザンチン帝国の心臓であるコンスタンチノーブルを首都に据えて、正教スラブ民族の大連邦を作るという構想である。これに対して、オーストリアとドイツが参戦。「バルカンの火薬庫」は一触即発となる。ロマノフ家の血筋は戦争を好む。ロシア帝国は伝統的に好戦的な皇帝たちの国である。ニコライ2世も例外ではない。内外から戦争介入の気運が高まる。ところが、皇帝は戦争に踏み切らなかった。これはラスプーチンの意向と一致する。ラスプーチンは、ドイツの一大勢力に比べてバルカンのスラブ人らは豚どもだという発言がある。そんな連中のためにロシア人が血を流すことは許されないと主張する。彼の言葉は予言として受け止められたのかもしれない。こうした流れが闇から操ったと噂されるのであろう。だが、冷静に考えると、日露戦争敗北と革命の後遺症から、ドイツと戦える余裕はなかったはずである。そうした状況で、単に皇帝が政治的判断を下したに過ぎないのかもしれない。ちなみに、皇后はドイツ出身で、ドイツとの戦争を回避したいが、口外しにくい立場でもある。
5. 王朝崩壊へ
第一次大戦が勃発する頃には、皇帝一家以外、あらゆる人間がラスプーチンに反感を持っていた。皇帝は第一次大戦によって国家体制が強化されると信じていた。日露戦争でもそう考えたが、敗北と革命で思惑が外れる。皇后とラスプーチンは反戦を唱える。新聞は、激しい反ラスプーチン・キャンペーンを展開する。世論は、またもスラブ民族を裏切るのかと煽り立てる。そんな折に、ラスプーチン暗殺未遂事件が発生する。女性からナイフで切りつけられて重傷を負ったり、自動車事故などなど。これに対抗するラスプーチンの武器は民衆の請願書である。実業家、武官と文官、貧しいロシア人、財産はあるが権利を認められないユダヤ人、彼らは巨大な官僚機構を嫌っていた。そうした連中から請願書を募り、官僚を介さず直接宮廷へ送り届ける。その中から資金を持った人々と人脈を築き、ラスプーチンはユダヤ人銀行家と結びつく。ロシアの情勢は中途半端な資本主義と反ユダヤ主義がまかり通っていた。その中で特定のユダヤ人が地位を握る。ラスプーチンもユダヤ人銀行家に利用されていく。これにマスコミも黙っていない。国際的ユダヤ勢力の支配と捲くし立てる。ラスプーチン陣営には、この人脈から本物の陰謀の名手たちが出現した。しかも国際級の陰謀家である。秘密警察との関係を結んだ二重、三重スパイ。まさしくジェームズボンド級である。陰謀を企てられても、逆手にとって権力の剥奪ができると自信を深める。だが、戦局が打開できないのは、ドイツ人の皇后とラスプーチンのスパイ行為だと噂される。
6. ボリシェヴィキの源流
1915年「ムジーク」が自立し、自らの考えを示唆するようになる。そして、スターリン時代のボリシェヴィキ帝国を彷彿させるような進言をする。やりはじめた戦争は勝利するまで徹底的に完遂すべし。第二次大戦下、スターリンは鉄の手で全工場生産を前線の需要に振り向けた。ラスプーチンも同じような提案を皇帝夫婦に繰り返す。菓子製造所でさえも軍装備の製造がなされるべきだと主張する。そして、農民や地主から生産物の強制的接収、工場の国有化と軍事化が進む。更に、国家機構を強化するために、全国の貧しい役人たちの賃金を上げることを協議する。その財源は、資本家からの課税により奪い取る。こうした事業はボリシェヴィキによって完遂されるが、ラスプーチンは、レーニンに先駆けて提案していたという。つまり、ボリシェヴィキは、ロマノフ王朝最期の皇帝によって着手されたことになる。本書を読んでいると、ボリシェヴィキの始祖はラスプーチンのように思えてくる。ここに、ソ連型社会主義国家の序章が始まる。
7. ビクトリア女王の孫たちによる戦争
本書とは少々外れるが、ここで血筋についてメモっておこう。イギリス国王ジョージ5世は、ビクトリア女王の孫で、ロシア皇帝ニコライ2世と従弟、ニコライ2世の皇后アレクサンドラも従妹である。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、母方はビクトリア女王の孫である。ビクトリア女王は、子供達をドイツを中心とした各国に嫁がせ、晩年には「ヨーロッパの祖母」と呼ばれる。ビクトリア女王自身が血友病の因子を持っており、ロシア皇太子アレクセイを始めとする男子が次々と発病した。つまり、第一次大戦は、いとこ同士の喧嘩でもある。
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