2012-08-26

"音楽嗜好症" Oliver Sacks 著

三冊連続!オリヴァー・サックスに嵌ってもうた。ここでは音楽に憑かれた人たちのお話。同じ脳神経障害でも、こちらの方がはるかに本質的かもしれん。サックス博士は言う。音楽は、神経学や生理学の新しい教科書を手にした時、索引で真っ先に調べる項目の一つだと。音楽は、聴覚だけで感知できるものでもなければ、脳で解釈するだけのものでもない。身体全体で感じ取るもの。人は皆、心の中で独自の拍子やリズムなるものを奏でているのだろう。心臓の鼓動とともに...

生きる上で最も大切なものは、やはりリズムであろう。道を歩けば何気なく歩幅やテンポが生じ、思考に耽れば自然に身体が揺れ、日常の繰り返しが精神に秩序をもたらす。仕事においては、検討から成果が出るまでの周期、あるいは達成感を得るタイミング、こうしたものが意欲を持続させる。音楽に特定のものを表す力などないのだが、完全に抽象的でありながら、具象的な心象イメージを作る手助けをしてくれる。哀歌に心を動かされたり、胸をえぐるような悲愴をもたらすかと思えば、気分を高揚させたり、はたまた忘我の境をさまよったりと、奇妙な力までも持ち合わせる。音楽は物理的には音素の羅列でしかなく、ノイズと区別がないはず。なのに、一旦、主情的に反応すると芸術へと昇華させる。人は音楽に合わせて拍子をとり、メロディーの奏でる物語に思考や感情を重ねる。誰にでも人生のテーマソングのような存在があろう。自己存在の後ろ盾になってくれるような...
一般的に、音楽は心や生活を豊かにするものとされる。だが、音楽に祝福されず、神の恵みが悪魔の呪いと化す人たちがいる。ナポリ民謡を聴くと痙攣と意識喪失を伴う発作に襲われたり、エンジン音や摩擦音を引き金に日夜音楽幻聴が鳴り続けたり、生命維持装置のように音楽なしでは生きられないなど、音楽に人生を乗っ取られた人たちが...
音楽の夢や幻聴は、他の夢や幻覚と違って正確だという。記憶喪失や認知症の破壊力にも耐えうるほどの力があると。脳の損傷や障害によって他の能力は失われても、音楽の能力だけは保たれる症例も珍しくないようだ。大脳皮質には、音楽にまつわる知性と感性を助長する特定の部位があるのは間違いなかろう。実際、そこが損傷を受けて失音楽症になることがあると聞く。
しかし、音楽に対する感情反応は、皮質だけでなく皮質下や脳全体に広がるという。アルツハイマー病のような瀰漫性皮質疾患にかかっても、音楽を感じ、楽しむことができるのだそうな。音楽と精神が深く結びつくとなれば、あらゆる病に対して音楽療法なるものが効果を発揮する可能性がある。音楽の知識がなくても、音楽好きでなくても、深いレベルで反応するかもしれない。人類の音楽を嗜好する性向は、潜在的な自律システムとして働く普遍的な機能なのかもしれん。
ショーペンハウアーは、こう書いているという。
「とてもわかりやすく、それでいて何とも不可解な、言いようのない音楽の深みは、音楽が私たちの最も内側にある感情をすべて再現しているのに、リアリティがまったくなく、痛みからはかけ離れている...という事実に起因する。音楽は人生とそこで起こる出来事の真髄のみを表現し、決してそれ自体を表現するのではない」

昨年(2011年)の秋頃だろうか、英国の研究所が世界で最もリラックスできる音楽を発表したと報じられた。Marconi Union の「Weightless」という曲。曲の底に流れるベース音がリラックスさせ、トランス効果があり、深い静寂をもたらすとのこと。血圧の低下や、ストレスホルモンであるコルチゾールの低下も認められるそうな。実際に聴いてみると退屈しそうで、作業のためのBGMにするにはいまいち。無意識の領域で作用させるから、真の意味でリラックスさせるのかもしれないけど。
脳への刺激を物理学的に説明することは、ある程度は可能であろう。だが、それだけだろうか?やはりアル中ハイマー病患者には、モーツァルトやショパンの方が心地良い。そして、瞑想に耽け、思考が迷走するのさ。

聞こえる旋律は甘美だが、聞こえない旋律はもっと甘美だ。
... ジョン・キーツ「ギリシャの壺のオード」

1. 音楽と心象イメージ
サックス博士の患者で音楽幻聴のある人の大半は難聴を抱えているという。聴覚に対する欲求がそうさせるのだろうか?音楽には、耳から入る外部的なものだけでなく、頭の中で奏でられる内面的なものもある。失音楽症は俗に言う音痴という形で現れるが、それでも頭の中では完璧なメロディーが流れるものらしい。音楽家ともなれば、オーケストラをまるごと頭に抱えたり、楽器を使わず頭の中だけで作曲したりする。ベートーヴェンは、まったく耳が聞こえなかったにもかかわらず、音楽家として更に高みに昇った。余計な外部音が聞こえないだけに、内面で理想化された純粋な曲が聞こえるのだろうか?
音楽の心象は視覚的なものと同じくらい多様で、おまけに情景を刻むところがある。何十年も思い出すことのない音楽が、突然、湧いてくるかと思えば、学生時代によく聴いた曲がラジオから流れるだけでノスタルジーに浸れる。音楽には、倦怠感を緩和したり、運動をリズミカルにしたり、疲労を軽減する効果がある。
その一方で、耳にしつこく残り、病的にまとわりつき、メロディーが拷問となるケースがあるという。短くはっきりした楽節や旋律が何時間も何日間も続き、心の平穏や睡眠までも阻害する。耳栓をしても無駄だ。脳の虫として住み着き占拠するのだから。チャイコフスキーも、子供の頃「この音楽!僕の頭のなかにあるんだ。こんなのいらないよ!」と叫んだと伝えられるそうな。映画やテレビ番組のコマーシャルソングが引き金になることも珍しくないという。それも偶然ではあるまい。コマーシャルは聞き手を釣るために、耳に残るように仕掛けてくるものだから。
また、音楽や詩のリズムには暗記力を刺激する効果がある。あらゆる民俗文化において、文字体系や物事を覚える時に役立つ歌や詩がある。古代人が、ホメロスの大叙事詩を長々と暗唱できたのは、そこにリズムと韻があるからであろう。記憶力が音楽を発達させたのか、音楽が記憶力を発達させたのかは知らんが。

2. 音楽夢
偉大な作曲家の多くは、音楽の夢について語り、しばしば夢の中でインスピレーションを受けているという。ヘンデル、モーツァルト、ショパン、ブラームス、ベルリオーズなど。夢の中まで攻め続ける、一種の職業病か。ポール・マッカトニーは曲ができるまでの過程を、目覚めると頭の中で美しい音楽が流れていたと語ったという。音楽夢の記憶は、はっきり残るという説があるらしい。アーヴィン・J・マッセイは、こう書いているという。
「夢のなかの音楽は、崩壊することも、混乱することも、支離滅裂になることもなく、夢のほかの要素のように目覚めたとたん消えることもない」
数学や科学の理論、小説や絵の構想なども、夢の中で思いつくことがあろう。アル中ハイマーにだって、技術問題の解決が、夢の中で突然浮かぶことがよくある。しかし、目が覚めるとすっかり消えていて、思い出そうとして二度寝すると、今度はすっかり熟睡してしまう始末よ。
そういえば、音楽の夢は、目覚めてもしっかりとハミングできていて、たいてい懐かしい気分になる。音楽の場合、他の心象イメージと違って、要素の羅列がシーケンシャルで時間的連続性を保つ必要がある。だから、心の中のリズムやテンポが情報の欠落を補完できるのかもしれない。音楽は眠らない!そして精神は眠らない!ついでに魂は不死!なんてどこぞの論法を無理やりこじつけておくか。

3. 絶対音感と進化論
人は視覚となると、青や赤といった色素を反射的に言い当てることができるのに、聴覚となると、ソのシャープといった音素を言い当てることができない。光波も音波も、同じ波長という物理量なのに。絶対音感が万人の能力にならないのはなぜだろうか?音素の方が、精神の曖昧さに適合するのだろうか?
絶対音感は音楽家によく見られる。精度は様々だが、70以上の音を特定できるそうな。もちろん、絶対音感がないからといって音楽的才能が劣っているわけではない。音楽的才能に恵まれながら、音楽に無関心な人も大勢いる。音楽に敏感過ぎるために、ある種の防衛本能が働くのかもしれない。自閉症患者は、音楽的な感動が少なくても、絶対音感を持つ人が比較的多いと聞く。日常の物音が、すべて音階に変換されたら気になってしょうがないだろう。鼻をかむ音は、ソのシャープとか、耳鳴りは、ファのフラットとか。周波数で言い当てる人もいると聞く。演奏中の音楽家は、楽器の調律がちょっとでも狂っていたら、たいてい苛立ちや不安になるという。繊細な認識能力の持ち主ほど、自閉症になりやすく精神病を患いやすいのかもしれない。
また、興味深い相関関係に、絶対音感と言語的背景があるという。ダイアナ・ドイチェたちの論文(2006年)には、こう書かれているという。
「ヴェトナム語と北京語を母語として話す人たちは、単語のリストを読むときに非常に正確な絶対音感を示す」
絶対音感のある人は、音高差を正確に知覚できるだけでなく、音階や音符のラベルをつけて並べられるという。記号を羅列するという意味では、言語感覚と似ているのかもしれない。スティーヴン・ミズンは、構成言語と構文規則が発達したことで、膨大な意味を表現することができるようになり、大部分の人間が絶対音感を必要としなくなった、という仮説を立てているそうな。言語の発達によって、音高による絶対的な模倣能力が必要なくなったということか。では、仮想的にビジュアル化していく社会では、視覚も曖昧になっていくのか?現実社会が仮想化いう空虚を求めるのも、精神の曖昧さによく調和するからか?そして、あらゆる知覚が精神の曖昧さに吸収されていくのか?これが抽象化の正体かもしれん。

4. 音楽サヴァン
2000曲以上のオペラを、ほぼ完璧に記憶する知的障害者の事例が紹介される。彼はオペラ歌手を父に持つ。音楽の才能は、バッハ一族の七世代のように遺伝すると言われるが、その典型であろうか。サヴァンの能力で高まるのは例外なく具象的な力で、弱いのは抽象的な力で大抵は言語能力だという。
ほとんど先天性のものだが、似たような症状が人生の後半に現れることもある。脳損傷、脳卒中、腫瘍、前頭側頭認知症などの後に。特に左側頭葉の損傷と関係があるとされる。左側頭葉が、右脳半球の機能に対して抑圧や抑制を解放した結果、計算能力や論理的思考が超人的に高められると聞く。理性や知性が、感性にとって邪魔になることもあろう。理性が強すぎれば融通がきかなくなり、知性が強すぎれば頭でっかちになる。子供の創造力を、大人の権威主義が邪魔をするように。才能豊かな子は、そんな障壁すら簡単に乗り越える。抑えられない衝動とは、気概のある才能の裏返しであろうか。

5. ウィリアムズ症候群
ウィリアムズ症候群は、認知障害で、知能の強さと弱さが奇妙に入り混じっているという。ほとんどがIQ60未満だそうな。見た目の特徴は、大きな口、上を向いた鼻、小さい顎、丸くて好奇心に輝く目。性格の特徴は、異常なほどの社交性を示し、並外れて饒舌で、興奮気味で話し好き、親しげで懐っこい、そして、なによりも音楽好きだという。よちよち歩きの幼児ですら音楽に極めて敏感だそうな。IQが低いにもかかわらず、豊富な語彙と著しい言語運用力を持ち、コミュニケーション能力が高い。その一方で、単純な幾何学図形を描くことができない。動物について奇抜な説明ができるのに、その絵を描くと幼稚になる。人を傷つけることもいろいろと喋るというから、一種の精神遅滞であろうか?自閉症の反対パターンという見方もできそうだ。
しかし、音楽となると、三カ国語や四カ国語の歌詞を憶えたり、驚異的な音楽能力を発揮する人もいるという。ただ、音楽サヴァンとは少々違っていて、生まれつきではなく経験的に開花される能力ということらしい。複雑な音楽を学んで覚えられることでは、とても精神遅滞とは思えない。重度の知的障害者が、突然、音楽の才能と流暢な発話力を開花した例もあるという。音楽療法によって脳を活性化させる場所がちょいと違うだけで、何かに目覚める可能性があるということか。開眼や悟りを解剖学的に説明すると、そういうことであろうか。自我の進化論的な突然変異を信じるならば、日々の形式的な生活からは生じない現象であろう。自我を破壊するような刺激でもなければ...

2012-08-19

"火星の人類学者" Oliver Sacks 著

惚れっぽい酔っ払いは、オリヴァー・サックスに嵌りつつあるか...
「妻を帽子とまちがえた男」では、脳や神経の障害によってもたらされる自我の喪失について綴られた。ここでは、自我の獲得や再構築について綴られる。
「一般的な指針とか制約、助言というものはあります。だが、具体的なことは自分で見つけなければならないんですよ」
障害者たちは自己の欠陥を率直に認め、それを自己の一部とし、自我やアイデンティティというものを見事に作り上げ、創造力を魅せつける。確かに、発達障害や疾病の破壊力は恐ろしい。だが、潜在能力を呼び起こすこともある。何かに目覚めたり、開眼したりするのも、ある種の突然変異であろうか?進化論的観点から、人間の多様性は人間の想像力をはるかに超越していると言わざるを得ない。彼らは皆一様に言う。たとえ病気が治せるとしても、治したいとは思わないと。ただ、障害を神からの贈り物とできるのは、ごく稀なケースであろう。盲人が手術を受けて視力を獲得しても、ほとんどのケースで空間認識ができず精神危機に陥ると聞く。そして、神からの贈り物は呪いと化し、ほどなく亡くなる。自分の存在を否定するような境地を乗り越えてこそ、見えてくる境地があるのだろう。無に転じて有を知るとでも言おうか。生き方を知るとは、そういうことかもしれん。
明らかに普通と違えば、開き直るしかないのかもしれない。しかし、自己の欠陥を認めることは最も難しい。認めたとしても、社会や運命のせいにする。おそらく潜在的には、自分のことは自分が一番よく知っているのだろう。だが、自我はけして悪性を認めようとはしない。それは、自己存在を否定することになるからであろう。欠陥を第三者に指摘されると、不快になったり攻撃的になったりするのは、ある種の防衛本能が働いているからであろう。自己の欠陥に対して、自我に少しでも素直さがあれば、新たな境地が開けるのかもしれない。それが精神の開眼というものかは知らん。

その人物がどんな病気であるかと問うのではなく、その病気にどんな人たちがかかっているかを問うがよい。... ウィリアム・オスラー

副題には「脳神経科医と7人の奇妙な患者」とある。彼らは皆、自閉症的な資質を抱えることになる。無理に矯正しようとすれば、さらに自我の殻に閉じこもる。だが、自閉症的な資質は、誰にでも潜在的にあるのではないだろうか。少しでも個性があるならば。これだけ世間が騒がしいと、人間が鬱陶しい、社会が鬱陶しいと思うこともあろう。安易につながりを煽れば、却って孤独愛好家を増殖させる。そうした傾向が一旦、病気と見なされると、世間から特別な眼で見られ、人生が萎縮してしまう。人は誰しも自分の居場所を求めて生きている。ただそれだけのことよ。彼らほど自己存在という問題と正面から立ち向かう人間はいないのかもしれない。
一方で、障害というマイナスをプラスに転じる驚異的な補完作用が働くことがある。自閉症のために緻密な集中力を発揮したり、知的障害のために純真な芸術心を発揮したりと。集中力や芸術心は孤独の空間から生じるもので、自閉症と言われた天才も少なくない。芸術とは、本質的に個人的なヴィジョンである。おそらく自閉症的資質と芸術心は相性がいいのだろう。
普通の人にだって能力に偏りがあり、どこかおかしな性癖がある。はたして、正気と狂気の境界はどこにあるのか?それが精神病棟の鉄格子だとしても...異常者を隔離するためのものか?それとも、純真な心を保護するためのものか?そして、自分はどちらの側にいるのか?...やはり、最も厄介な病は自覚できないことであろうか。
五感に異常をきたし、知覚に変化が生じた時、自分という存在はどうなるのだろうか?自己存在とは、脳の中にだけ構築される幻想でしかないのかもしれん。自己とは、それほど危うい状況に常にある。健康や普通なんて言葉は、単なる抽象概念に過ぎない。そういう言葉を編み出して、多数派に属して安住したいだけのことかもしれん。

宇宙は、われわれが想像するよりも奇妙どころか、想像も及ばないほど奇妙である。... J・B・S・ホールデン

特に注目したい事例は、タイトルにもなっている「火星の人類学者」と称する女性動物学者である。彼女には人の感情がまったく分からないという。地球に住む人類が、異種の生物に見えるというわけだ。その分、純真な心が深い。そして、感情を知識によって克服してきた様子を語ってくれる。感性と知性とは、調和と協調によって成り立つものだと思ってきたが、感性というものは知性で補えるものなのか?チューリングマシンによる感情の代替も可能ということか?サヴァン症候群では、左脳が障害を受けて右脳がその埋め合わせをした結果、計算能力や論理思考が超人的に高められると聞く。盲人は、視覚を補うために聴覚や触覚を研ぎ澄ます。生命体の補完作用とは恐るべきものがある。となれば、感性を知性で補い、主観を客観で補い、またその逆もありうるのかもしれん。
そして、これが本当に感情の抜けた人間の言葉なのか?
「わたしは宇宙には善に向かう究極的な秩序の力があると信じています...ブッダやイエスといった人格的な神ではなくて、無秩序から生まれる秩序といったものです。人格的な来世の存在はないとしても、エネルギーの痕跡が宇宙に残ると考えたいのです...たいていひとは、遺伝子を残しますけれど...わたしは、思想や書いたものを残せます...図書館には不死が存在すると読んだことがあります...自分とともに、わたしの考えも消えてしまうとは思いたくない...なにかを成し遂げたい...権力や大金には興味はありません。なにかを残したいのです。貢献をしたい...自分の人生に意味があったと納得したい。いま、わたしは自分の存在の根本的なことをお話ししているのです。」

1. 脳神経科医と7人の奇妙な患者
まず一人目は、交通事故で全色覚異常に見舞われ、白黒の世界に幽閉された画家。画家にとって色彩は命である。その世界はモノクロ映像とも違うらしい。視力は鷲なみに鋭く、異常にコントラストが強く、一ブロック先を這っている毛虫が見えるという。濃淡は大雑把で、目を閉じても頭の中でトマトが真っ黒!白黒画像であっても輪郭がぼけるから、背景に溶け込んで微妙な陰翳の愉悦が味わえる。だが、食べ物や女性の肉体までも不気味な鉛色に見えれば、食欲や性欲も萎える。不快な気分が続いたせいか?やがて色の記憶や知識までも失われ、色の概念そのものが失われる。ある日、真っ黒な太陽が昇るのを見て衝撃を受け、特別な才能を見出す。彼は巨大な核爆弾のようだと語る。そして、白黒の世界を描き始めた。彼の色彩健忘症を知らない人たちは、芸術家として白と黒の新たな段階に入ったと評す。
二人目は、脳腫瘍のために視覚と記憶力を失った青年グレッグ。「最後のヒッピー」と題される彼は、その場の会話が覚えられなくても、昔の記憶だけはしっかりと残っている。60年代に幽閉されたかのように。ヒッピーは60年代後半に若者の間で広まった社会現象で、多くのロックバンドが参加した。彼は、グレイトフル・デッドのコンサートに連れられ、今日のことは決して忘れないよ!と人生最高の日を喜ぶ。だが、翌日にはすっかり忘れている。何かを悟ったような陽気な姿は、診療所の暗い雰囲気を吹き飛ばす人気者。精神的豊かさで盲人を開眼させたのか?「もし盲目なら、真っ先にぼく自身が気づくはずじゃないか」
三人目は、跳ね上がったり、何かに触れずにはいられない奇妙なチックを起こすトゥレット症候群の外科医ベネット。しかし、手術中は病状がすっかり姿を消す。障害者の目から見る彼の往診は、患者たちに優しく評判がいい。仲間内からも優秀な外科医として信頼される。そして、自動車の運転や自家用機を操縦し、「世界でただひとりのトゥレット症候群の空飛ぶ外科医」と自慢げに話す。
四人目は、婚約者の説得で手術を受け、40年ぶりに視力を取り戻したヴァージル。だが、行動様式は盲人からは離れられない。やがて溢れる視覚情報を処理できなくて、昏睡状態から危篤状態となり、ついには完全に失明してしまう。手術前は光の認識はできたが、それまでも奪われた。周囲を認識するということは自己の存在を確認していることにもなろうが、過剰な認識負担が続くと自己のアイデンティティまでも変貌させる。しかし、再び盲人になったことで安住の地を取り戻す。外面の情報を必要としないということは、内面が十分に豊かだという証しであろうか。
五人目は、驚異的な記憶力で故郷の村を描き続ける画家フランコ・マニャーニ。それは、イタリアのトスカーナ州にあるポンティトという小さな村で、戦時中ナチスに略奪された。自由の国に夢を抱きつつサンフランシスコに腰を落ち着けるが、奇病にかかり、高熱で痩せ衰え、錯乱状態になる。その後遺症か?日々、異常に鮮明なポンティトの夢を見続ける。そして、死の村の荒廃前の様子を描き続けるのだった。初老になったフランコは帰郷を決意する。だが、荒廃の現実と思い出とのギャップに衝撃を受ける。その後、何度も招待を受けるが帰郷せず、狂ったように描き続ける。もういちど母さんに、ポンティトをつくってあげると。
六人目は、風景や建物の細部までを記憶し、見事に絵に再現する自閉症の少年スティーヴン・ウィルトシャー。典型的な自閉症のうち、50%は唖者で一度も言葉を発せず、95%は非常に限られた人生しか送れないという。だが、芸術のおかげで熱心に支援する人々が集まり、幸運な例外となる。彼は、知的障害があるが視覚的なこだわりと才能を持つ、いわゆるイディオ・サバン。サックス博士は、スティーヴンの本心を覗くためにロシア旅行やアリゾナ旅行に同行するが...自閉症の個人を真の意味で理解しようとすれば、その全生涯と付き合わなければ足りないということか。
最後は、アスペルガー型自閉症の女性動物学者テンプル・グランディン。恋という言葉の概念は知っていても、そんな気持ちを抱いたことがないという。夜空の星を見上げると、荘厳な気持ちになるはずだということは知っていても、そうはならないと。複雑な感情や騙し合いとなるとまったくのお手上げ。その代わり動物の心が手に取るように分かるという。家畜は自閉症の人と同じ種類の物音に怯えるという。彼女は家畜の処理に関する理論を展開する。専門は、農場、飼養場、家畜用囲い、食肉プラントの設計など、様々な種類の動物管理システム。彼女は、人の感情が理解できないことを知識で補ってきたと説明する。やがて各地で講演活動をこなし、ユーモラスな余談を交えたり、当意即妙の話題を加えたりできるようになる。そして、40代になって友情が何たるかを分かるようになってきたようだと。

2. 思い出と記憶は別物か?
過去の記憶が脳に貯えられるというイメージには、偉人たちの間でも多少ニュアンスの違いがあるようだ。
「フロイトが好んだ心のイメージは、何層にもわたって過去が埋もれている(だが、いつ古い地層が意識の上にまで上昇してくるかわからない)考古学調査の現場だった。プルーストの人生のイメージは『瞬間の集積』だった。『その後に起こったすべてのことと無関係』で、心のなかの食料庫にしまわれたジャムの壜のような『密封された』思い出である(記憶について考えた偉人はプルーストだけではない。記憶の不思議さを考えながら、結局、記憶とは『何なのか』わからずじまいになった思想家は、少なくともアウグスティヌスにまでさかのぼる)。」
フレデリック・バートレットは著書「想起の心理学」の中で、こう書いているという。
「思い出すということは、生命のない固定された無数の断片的な痕跡を再活性化することではない。それは想像的な再構築、あるいは構築であって、過去の反応や経験の活動的な総体に対する自分の姿勢をもとに、ふつうはイメージや言葉というかたちで現われる際立った細部をつくりあげていくことだ。したがって、どれほど機械的な反復であっても、ほんとうに正確であるはずはないし、たいして重要でもない。」
記憶とは、自己存在の確認、自己の再構築を図っているということか。現在に不安を感じれば、過去に頼るしかない。思い出というものは、微妙な修正を加えながら、加工され、蓄積され、聖なるものに昇華する。そして、老人は、昔は良かった!と懐かしみ、現在を嘆く。現実逃避するかのように。これがノスタルジーの正体か?その逆パターンが、デジャヴってやつか?思い出に一種の理想像を重なるところがある。正確な記憶なんぞどうでもええ。理想像には、精神を癒す何かがある。思い出とは、理想に崇められた永遠空間に残る記憶ということになろうか。

3. 自閉症と社交性
視覚的、音楽的、言語的に、個々の部分を不思議なほどよく覚えているのは、イディオ・サヴァンの特徴だという。些細なことも重大なことも差別なく、前景も背景も区別しないと。個々の部分から普遍化するとか、因果関係や時間的関係をまとめるとか、自己の中に取り込むということはほとんどせず、情景から脈絡を読んだりもしないらしい。通常、記憶する時、目的や印象を場面と時間に関連づけながら、物語や筋を組み立てたりして覚えるものであろう。主観的で抽象的思考が介在するはずだが、彼らには客観的視点が優れているということか?個々の重要性を抽出したり、意味付けができないとなれば、驚異的な能力を発揮しても、それを社会的に活かすことはできない。自閉症患者は、音楽的な感動が少なくても、絶対音感を持つ人が比較的多いそうな。
ところで、社会にひたすら仲間を求めるのと、自ら孤独の殻に入るのとでは、どちら精神的に豊かなのだろうか?しかしながら、自閉症は障害者というレッテルを貼られ、その反対は社交的という好意的な言葉が当てられる。自閉症の人々は、嘘をつくことに苦痛を伴うという。そして、人間関係や社会的な概念に比べ、幾何学的概念や用語の把握に優れているという。ある自閉症の少年の言葉は印象的だ。母親が亡くなった時、こう答えたという。
「ああ、だいじょうぶです。ぼくは自閉症だから、愛するひとを失っても、ふつうのひとほど傷つかないんですよ」
自分に嘘がつけない、誤魔化せないというのは、芸術家や職人には絶対に欠かせない気質であろう。嘘も方便と言うが、それは社会的関係において成り立つ思考である。自分に嘘をつく必要がなくなれば、それだけで精神が解放されるのかもしれない。何もかも精神的に周囲に依存し、無理やり仲間という偶像を作り上げる社交性にも、障害が認められそうな気がする。

4. 感情を失った裁判官
ある神経学の論文に紹介される元判事の症例は興味深い。その判事は、砲弾の破片が頭にあたって前頭葉が傷ついたために、感情というものをまったく喪失したという。感情がなければ、偏見も生じないわけだから、公正な判断ができそうなもの。判事として特別な資質ではないのか?しかし、その判事は思案した挙句、辞職したという。関係者の動機に共感することができないし、正義とは単なる論理ではなく感情にもかかわるものだからと。法律は客観性に支配されると言われるが、その運営となるとそれだけではない。余計な感情論を排除できるからこそ、権威を放棄できるのかもしれん。

2012-08-12

"妻を帽子とまちがえた男" Oliver Sacks 著

自然科学者とちがって医者が問題にするのは、一個の生命体、すなわち、逆境のなかで自己のアイデンティティを守りぬこうとする個人としての人間である。...アイヴィ・マッケンジー

オリヴァー・サックスといえば、映画「レナードの朝」の原作者。本書は、脳神経科医サックス博士の不思議な臨床体験を綴ったエッセイ集で、妻の頭を帽子と間違えてかぼうろうとする音楽家、左という概念を失い顔の右側しか化粧できない老女、大統領演説の真意を見ぬいて大笑いする失語症患者、会話が覚えられず擬似物語を喋り続けるコルサコフ症候群の男、他人の真似ばかりして自分の人格を失ったトゥレット病患者、音楽癲癇によって懐かしい歌が聞こえ続ける老婦人、詩人の才能にあふれた純真な知的障害者...など24篇が収録される。
さて、臨床という概念がいつ始まったかは知らんが、医学の父ヒポクラテスには既に病歴という見方があったという。病気とは、幸せな結末か致命的な結末かのいずれかに終わるもので、病歴とは、まさに患者の物語となろう。生身の人間と向い合い、悩み、苦しみ、戦うからこそ、人間としての主体が見えてくる。それを綴ってこそ医者というわけか。
しかし、人間味あふれる臨床話を書く慣習は19世紀に頂点に達し、その後、神経科学の発達にともない衰えてきたという。実際、血液検査のデータを見、コンピュータと睨めっこしながら、診察するお医者さんを見かける。サックス博士は、患者との語りという原点回帰を試みる。あえて名づけるなら「アイデンティティの神経学」だそうな。そして、医者と患者は互いに対等で協力関係にあり、医者が患者を治してあげるという類いのものではないという。

精神病の根幹にあるのは、やはり自己存在との葛藤であろうか。病とうまく付き合って眠った潜在能力を引き出すケースが稀にあるにせよ、たいていの場合は自己を喪失するのであろう。無の境地を探求すれば、精神病との境界をさまようことになる。そもそも精神病を患わない人なんているのだろうか?いるかもしれない。精神がなければ精神病にもならずに済むだろう。
「病気こそは、人間の条件のうちの最たるものといえるだろう。なぜならば、動物でも疾病にはかかるけれど、病気におちいるのは人間だけなのだから」
一般的に、抽象化や分類化といった思考は高度なものと考えられている。大局を捉え人生の骨格を組み立てるためには役立つ思考で、学問を高みに登らせるためにも必然的な方法である。物事をできるだけ抽象的に語り、様々な解釈を思わせれば、 なんとなく高尚なものを感じる。これが哲学の極意というものよ。一方で、抽象論がいったい何を解決してくれるというのか?という疑問がある。具体的な方策は、問題に直面した者自ら導くしかあるまい。
ここに登場する患者たちは、現実逃避あるいは現実を見失った結果、抽象的な精神空間に幽閉された人々である。現実世界を見失えば、自己や自我をどうやって確認すればいいのか?実体のない空間で理性的自我と本能的自我とが葛藤を続け、無関心病に陥り、究極のエゴに苛み、やがてキェルケゴール風の「静かなる絶望」が訪れる。いくら抽象論で思考を進化させたところで、結局は現実を生きるしかない。医学とは、安らぎとともに幻想から現実に引き戻す手助けをする術とすることができそうか。
しかし、精神病患者とは、現実世界を見失った人たちだけであろうか?政界や財界には、権力欲や物欲に狂い、現実主義に憑かれた人々がわんさと居る。喪失も問題だが、過剰なのも問題か。他人の欠陥を強調する行為は、自分を慰めているのだろうか?最も危険な病は自覚症状がないことかもしれない。そうなると、精神的に危険でない人はいないことになりそうだ。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!...とは、そういうことかもしれん。

この手の書を避けてきたところがあるが、いつの間にか抵抗感がなくなっている。我が家にも重度の知的障害者がいる。せめて言葉が分かるとありがたいと思うこともあるが、症状が軽いと逆に往生することもあると聞く。中途半端に物事が分かるだけに、運転免許をとりに行くと言い出したり、なぜ結婚できないのかと駄々をこねたり、あるいは危険な行為に及ぶこともあるそうな。うちの場合はおとなしいだけで、そんなこと考えたこともないし、本人にはそういう概念すらないだろう。ひとことで知的障害者と言っても、症状は多種多様で症候群などという病名で一括りにできるものではない。この点、心理学者よりも障害者施設などで働く現場の人たちの方が、はるかに心得ているように思える。障害者一人一人を主体と捉え個別に対処しているのには感心させられる。
知的障害者は自閉症になるケースが多い。コミュニケーション能力が欠けると、自分の殻に籠もりがちとなる。無理に矯正しようとすれば、癇癪を起こしたりと、障害の上に精神不安に追い込むことになる。幼稚な感じがするだけに子供扱いしてしまいがちだが、専門家からは年齢なりに人格を尊重しなければならないと指摘されたことがある。馬鹿にできない能力もある。ジグソーパズルを組み立てるのが速く、1000ピースでも簡単に完成させやがる。おいらは夜景が好きだから、そうした風景画に誘導すると、暗い色ばかりで難しいはずだが、一旦始めると執着心は半端でない。
また、カレンダーや電卓が好きで、数字を眺めると落ち着きを見せる。発声はできるが、言葉がまったく分からず、自己主張するという行為に馴れない。だが、施設で他人と接する機会が増えると、あー、うー、となんとか自己主張するようになり、表情も豊かになった。反応は極めて純真で、素直に笑い、素直に怒る。機嫌が悪い時にでる鼻歌は、いつも決まっていて分かりやすい。それだけに頭にくることもあるが、こちら側の思惑のくだらなさに気付かされることも多い。人間観察にこれほど貴重な存在はないだろう。本書にも、どちらが矯正されるべきか考えさせられる事例が紹介される。

1. 左脳と右脳
脳神経学は、脳の左半球のある部分が損傷することによって失語症が起こることに気づいたことから始まったという。当初、高度な能力はほとんど左半球で生じる現象だったので、右半球は原始的と言われ、右半球の研究はなおざりにされてきたという。実際、右半球の現象は内側からも外側からも分かりにくく、研究が難しいのだそうな。
今でも、左脳は論理的思考をつかさどり、右脳は感覚的思考をつかさどると言われる。議論をしていても、論理と感覚では前者の方が説得力があるし、論理的思考に優れた人は賢く映る。だが、芸術的才能は感覚的なものが強く、左脳と右脳で優劣関係があるのも疑問だ。サヴァン症候群では、左脳が損傷を受けて右脳がその埋め合わせをした結果、計算能力が超人的に高められると聞く。左脳と右脳が連係するからこそ、うまいこと補完機能が働くのだろう。いくら優れた論理的知識を身につけたところで、やはり判断を誤る。結局、直観に頼って生きるしかないではないか。知識を知性に昇華させ、直感を直観に昇華させるには、理論と実践、論理と感覚、空想と現実、そして左脳と右脳を調和させることであろうか。

2. 六番目の感覚
五感は普通の人なら誰にでも認識できるだろうが、六番目の感覚となるとそうはいかない。それは第六感などではない。1890年、シェリントンが「人間にそなわるかくれた感覚」と呼んだものは、身体の可動部である筋肉、腱、関節から伝えられる連続的な感覚の流れのこと。彼は、これを外界感覚と内界感覚から区別するために「固有感覚」と名付けたそうな。身体の位置、緊張、動きは、この六番目の感覚によって絶えず感知され、無意識のうちに自動的に修正されるという。これは、自分が自分であるということ、すなわち自己のアイデンティティには欠かせない感覚だという。固有感覚があるからこそ、自己固有が認識できるというわけか。
ここでは、27歳の女性が突然この固有感覚を失った事例を紹介してくれる。起きても姿勢が保てず、顔は奇妙に無表情でたるんだ感じ、顎が垂れ下がり、口があいたまま。彼女は、身体がなくなった感じを訴える。リハビリをしているうちに、やがて固有感覚を視覚で補うことを覚えていく。鏡を見ながらポーズをとったり、姿勢の矯正などを意識的に訓練していくうちに、視覚反射が無意識に協調するようになる。感覚器官の麻痺を、別の感覚器官で代替するという人間の本能には、驚異的なものがある。ただ、見た目は身体障害者に見えないので、バスに乗る時のぎこちない動作に罵声を浴びたりする。自己存在との戦いを乗り越えても、社会との戦いが待っているとは...
また、身体感覚を失う事例で、心房細動で大きな塞栓が飛んだために、左半身不随になった患者を紹介してくれる。患者の話では、夜中に目をさますとベッドに並んで、死んだ、冷たい、毛深い足が一本いつもあるという。我慢できず右足で蹴飛ばすと、身体ごとベッドから落ちる。不随になった部分が、その存在すら認識できなくなるのだとか。これも、自己の一部を失った現象であろうか。
心頭滅却すれば火もまた涼し...と言うが、無念無想の境地に達すれば、六番目の感覚を自由に操り、どんな肉体的苦痛にも耐えられるのかは知らん。そして、本当に焼死するのか?

3. ファントム(幻影肢)
ファントムとは、身体の一部、通常四肢(両手両足)の一つがなくなったのに、何ヶ月もの間それが絶えず見える現象だという。幽霊のような怪しげで現実離れしているので、感覚的ゴーストとも言うらしい。危険なほど現実そっくりに見えたり、激痛をともなうこともあるという。身体イメージの障害というやつか。その要因は、中枢性要因と末梢性要因の二つが考えられるという。中枢性要因とは、感覚皮質、特に頭頂葉の感覚皮質が刺激されたり損なわれたりすること。末梢性要因とは、神経断端、断端神経腫、神経損傷、神経ブロック、神経の異常刺激、脊髄の感覚路や神経根の障害のこと。
映画「西部戦線異常なし」では、片足を切断した兵士が、失ったはずの足が酷く痛いと訴えるシーンがある。身体の実体が認識できなくなるのとは逆に、失ったはずの身体が幻想となってつきまとう場合もあるわけか。

4. 記憶喪失
記憶喪失に、ちょっぴり憧れるところがある。謎めいた過去に都合の良い夢を重ねるからであろう。実はすごい美女と結ばれ、大金持ちの御曹司ではないかと想像したり。そして、今の俺は俺じゃない!と心の中で叫ぶのだ。人間というものは、現実世界では悲観的でも、非現実世界では楽観的になれるのかもしれん。しかし、実際に記憶喪失になり、現実の過去が耐えられないほどの悪夢となれば、気が狂うかもしれない。実は身の毛もよだつ殺人者だとすれば、スーパーエゴによる自責に苛むことになろう。
ここでは、会話が数行しか覚えられないコルサコフ症候群の事例を紹介してくれる。記憶がなければ、自己の一貫性が保てない。いつも存在不安に苛まされ、陽気に振るまい、自己の物語を喋り続ける。だが、すぐに辻褄が合わなくなり、空想という名の蟻地獄へ落ちていく。記憶喪失とは、まさに自己喪失というわけか。

記憶をすこしでも失ってみたらわかるはずだ。記憶こそがわれわれの人生をつくりあげるものだということが。記憶というものがなかったら、人生はまったく存在しない...記憶があってはじめて、人格の統一が保てるのだし、われわれの理性、感情、行為もはじめて存在しうるのだ。記憶がなければ、われわれは無にひとしい...わたしが最後にたどり着くところ、それはいっさいの記憶の喪失だ。これによってわたしの全生涯が消し去られる。...ルイス・ブニュエル

5. 失語症患者と音感失認症の言葉を見抜く能力
感覚失語、あるいは全失語で言葉が理解できなくても、ほとんどの患者で話しかけらていることは分かるという。発話は、単語のみで成り立つのではなく、主題や内容だけで成り立つわけでもない。発話には、その人の存在を意味し、言葉を凌ぐ力をもった表情がつくという。
失語症患者は、表情、しぐさ、態度にあらわれる嘘や不自然さにとても敏感だという。盲目な失語症患者は、声の調子、リズム、拍子、音楽性、微妙な抑揚、音調の変化、イントネーションなどを聞き分けるのだそうな。
そこで、失語症病棟からどっと笑い声がするエピソードを紹介してくれる。元俳優の大統領のテレビ演説を見ながら。芝居がかった仕草、オーバーなジェスチャーに不自然な調子、患者たちには言葉の偽りがお笑い番組にでも見えるのか。なるほど、近年バラエティー番組に政治家どもが多く出演するようになったのも、やはりお笑いか。
では逆に、言葉は理解できるが、音感失認症ではどうだろうか?音感失認症は右側頭葉の障害によって起こり、声から喜怒哀楽や表情が読み取れないという。そこで、音感失認症だが、言語能力の高い英語教師の女性は、同じ大統領演説をこう評したという。文章がまるでダメ、言葉づかいが不適当、頭がおかしくなったか隠し事があるかだろうと。
失語症患者も音感失認症患者も自分の障害を自覚しているだけに、注意深く演説を読み取ろうとする。発話にはフィーリングトーン、情感的調子というものがあり、言葉にも人格が現れるらしい。そうなると、正常だと思っている人ほど微妙な言葉の表情が読み取れず、欺瞞されやすいということか?有識者と自称する者ほど、言葉が見えていないということか?そうかもしれん。

6. 知的障害者の純真さ
詩人的才能にあふれた少女の言葉は感動もの。いつも側にいた祖母が死ぬと彼女は泣く。だが、泣いているのは祖母のためではなく、自分のためだと語る。
「おばあさんは私の一部だった。私のなかのどこかが、おばあさんといっしょに死んでしまったの...いまは冬で、私は死んだような気がするけど、きっとまた春はめぐってくるわ」
祖母が死んだ後、少女は断固とした態度をとるようになったという。授業を拒み、作業も拒む。守ってくれた祖母を失ったことで、自立心が高まったのだろうか?
「なんの役にも立ちません。あんなことやったって、人間としての統一は生まれません...私は、生きている絨毯のようなものです。絨毯にあるような模様、デザインが必要なのです。デザインがなければバラバラで、それっきりです。...意味のあることが必要なんです...」
見事な比喩で真理をついている。デザインのない絨毯が存在するだろうか?逆に絨毯がなく、デザインだけで存在しうるだろうか?少女は、自分の能力という現実を頼りに生きるしかないことを知っている。不器用であらゆる能力が劣っていても、穏やかで成熟した感情をもち、充実した生き方を知っている。人生を楽しむということを具体的に知っているのは、彼女らの方かもしれん。

7. 超人的な計算能力
超人的な計算能力を持つ双子の診断は、自閉症、精神病、重度の精神遅滞など様々。双子は、何万年前でも何万年未来でも日付を言えば、瞬時に曜日が当てられる。また、300桁の数字がやすやすと記憶できる。数字を視覚的に捉える能力があるらしい。しかし、初歩的な計算はできない。掛け算とわり算の意味も分からない。マッチ箱を落として中身が散乱すると、二人は瞬時に111と答えた。それから37と。数えてみると、マッチが111本あったという。双子は、111という数字が見えると答えたそうな。37は何か?37 + 37 + 37 = 111、なんと素数で分解してやがる。
カレンダー計算の方はモジュロ計算(mod 7)で算出できる。理屈は単純な巡回計算だけど、それで説明がつくのか?素数の方はどうか?双子は素数を言い合って遊び、12桁の素数でも5分ほどで答え、一時間で20桁の素数まで達した。「エラトステネスの篩」なんてアルゴリズムを知っているわけでもなかろう。幾何学の合同の概念を使っているのではないか?という推測もある。数字が見えるとは、図形が見えるということか?純真な心の持ち主にしか見えない数字の風景というものがあるのだろうか?ダニエル・タメット氏のように。
確かに、ユークリッドの「原論」には無理数を幾何学で表現する苦悩が見られる。万物は数である!というのは真理かもしれない。いや、人間の脳は複雑な電磁波に支配される量子で構築される。双子の脳は量子コンピュータとして働いているのか?
しかし、精神異常を矯正しようとして失敗する。双子は合言葉のように数字で会話するが、それが原因だとして引き離される。そして、超人的な能力までも失われ、凡庸以下の能力にされてしまう。幸せの押し売りほど恐ろしい虐待はないのかもしれん。

2012-08-05

"46年目の光" Robert Kurson 著

勇気をもって挑戦すれば、一時的に足場を失う。だが挑戦しなければ、自分自身を失う。...キェルケゴール

こういう人生を目の当たりにすると、自分がいかに社会に安住し、保守的な生き方をしているかが見えてくる。はぁ...
主人公マイク・メイは、3歳の時に化学薬品の爆発で失明。好奇心旺盛な子は、物に衝突しては血を流し、サングラスを何度も壊す始末。だが、この大事な時期に体当たり人生の礎を築く。そして、実業家として成功し、美しい妻と二人の子に恵まれる。この類い稀なチャレンジ精神の持ち主は、視覚障害者のスピードスキー競技の世界記録を持つという。また、CIAで勤務した経験もあり、起業家として目の不自由な人のために史上初の携帯型GPSシステムの実用化を進めたそうな。
「視力のある人生は素晴らしい。けれど、視力のない人生も素晴らしいのです。」
幸せに暮らすある日、驚くべきニュースが飛び込む。幹細胞移植の手術で視力を取り戻せるかもしれない。しかし、成功率50%。かすかに残る光認識能力までも奪われるかもしれない。強烈な副作用をともなう薬に癌になる可能性もあり、命を危険に曝すことになる。しかも、成功したからといって、いつ盲目に戻るか分からない。メイは既に46歳、その決断に苦悩しながら妻にこうもらす。
「でもおもしろいのはね、あの子たちの姿を実際に見る日が来ても、いま見えている以外のものが見えるようになるとは思えないんだ。...そういう意味では、目が見えるようになってもなにも変わらないのかもしれない。」
そして、手術の先に見えたものは... これは実話である。

五感の中で最も重要なのは視覚である、と考える人も多いだろう。見たまんま!ということほど説得力のあるものはない。実際、視覚からの情報によって自己存在の空間を形成し、行動範囲の自由度が決まるように感じる。夢で見る映像も、目で見た経験によって作り出されるのであろう。視覚のない人は、自我の空間をどのようにイメージするのだろうか?
一方で研究によっては、視覚よりも聴覚の方が重要だとする意見を耳にする。指向性においては、視覚の探知できる角度が視界に限られるのに対して、聴覚が探知できるのは360度。暗闇では視覚よりも聴覚の方が役に立ち、潜水艦は音波を奪われた途端に航行不能となる。原理的には、音波は地球の裏側からも到達する。
しかしながら、ヘレン・ケラーは、三重苦でもなお活動的な人生を送った。となると、視覚や聴覚よりも重要な知覚があるのかもしれない。いずれにせよ、五感は生命体の防衛本能から進化してきたのだろう。だが、安全な社会では知覚神経も退化する。町の騒音が難聴にさせ、明るい夜が天の川を見る愉悦を奪う。味覚が衰えれば毒も平気で喉を通し、臭覚が衰えればガス漏れにも気づかない。贅沢な社会では、危険回避能力が確実に衰え、災いはすべて社会のせいにし、人類はますますモンスター化するのだろうか?テレビの登場以来、社会は視覚に訴える傾向が強く、大袈裟な映像に慣らされる。確かに分かりやすい!それだけに想像力は衰えるのかもしれない。
一方で、視覚を失った人は聴覚が研ぎ澄まされる。実際、メイの反響による空間認識能力と空間記憶能力は抜群で、移動のための杖と盲導犬という二つのツールを完璧に使いこなす。尚、目の不自由な人で両方を併用できる人は少ないらしい。人間の知覚神経を補う潜在能力には驚異的なものがある。どんな天才も、五感すべてを超人的に働かせることはできないだろう。なんでもできるということは、実は、なんにもできない、を意味するのかもしれん。

視力が回復したからといって、視覚認識として機能させることは難しいらしい。3歳に失明したというのが問題のようだ。この時期に視覚情報と空間認識を結びつける神経系が形成される。あらゆる知覚情報からニューロンネットワークが形成されるが、失ったニューロンを取り戻すのはほぼ不可能だという。この現象を「ニューロンの可塑性」と言うそうな。日本人の多くが、英語のLとRの発音を聞き分けられないのと似たような状況か。
ところで、五感以外に新たな認知能力が授かるとしたらどうだろうか?第六感にせよ、超能力にせよ、胸がときめくだろう。だが、それは本当に幸せであろうか?奇妙な予知能力を身につけたり、心を読める水晶玉を手に入れたがために、余計な欲望が働き悪魔になりはしないか?その認知能力が想像したものとまったく違っていたら、むしろ危険かもしれない。実際、レーシック手術で視力が回復しても、人生が滅茶苦茶になったと医師に怒鳴りこんでくる事例があると聞く。同情されなくなったとか、障害者制度が利用できなくなったとか。突然、視力が回復したからといって、普通に生活しろというのも無理がある。そして、ほとんどの場合、鬱病になり、健康を害し、早死にする。人間は鈍感だから生きていけるところがある。
メイの場合は、物心ついた時には失明しており、視覚というものがどんなものか想像もつかない。服のしみ、壁の傷、床の汚れなど見えなくていいものばかりが目につき、この世の不完全さを思い知らされることになる。
だとしても、理屈からして... 新たな知覚能力が得られて損をするはずがない。もともと、空間記憶力に優れ、整理整頓が得意で、脳内マップを作る能力は抜群なのだ。そこに、機能が不完全とはいえ視覚という補助機能が追加されただけのこと。不幸になる要素など何もないはず ...などと割り切れるのは、とことん哲学的に思考した結果であろうか。真の活動家とは、生命の危険とその恐怖までも呑み込んでしまうほどの人を言うのか。メイには、絶望を見た者にしか見えないものが見えるのかもしれん。
「私は『見る』ために手術を受けたわけではないのです。『見る』とはどういうことかを知るために、手術を受けたのです」

1. 見るメカニズムと幹細胞移植
ものを見るプロセスは角膜から始まる。眼球に入ってきた光が最初に通過するのが角膜で、黒目の部分を覆う厚さは0.5ミリほどの透明な膜。目に光を取り込み、光を屈折させるという重要な役割を果たす。だが、角膜が濁ると、車のフロントガラスがくもったような状態となる。
では、角膜の透明はどうやって保たれるのか?ワイパーがあるわけではない。そのメカニズムの出発点が、角膜上皮幹細胞という細胞だという。これは、受精卵を破壊することで倫理上の論争を巻き起こしている胚性幹細胞(ES細胞)とは違うものらしい。角膜の外縁部分にある幹細胞が、膨大な数の娘細胞と呼ばれるものを生み、その娘細胞が眼球の中央に移動して角膜を透明な保護膜で覆う。娘細胞の保護膜は、埃や傷、細菌や感染症に対する防御だけでなく、結膜の細胞や血管が角膜に入るのも防ぐ。保護膜が汚れても、娘細胞は数日ごとにはがれて落ち、新しい細胞と入れ替わる。ちょうど、レーシングドライバーの捨てバイザーのようなものか。
メイの手術は二回。最初にドナーの幹細胞を移植し、幹細胞が自己複製し、角膜の表面に健康な細胞をつくり出すのを待つ。その期間がおよそ4ヶ月。次に別のドナーの角膜を移植する。最初の手術で視力は生まれないが、二度目の手術で視力が戻るという。
60年代は、まだ角膜上皮幹細胞の存在が解明されていなかったという。角膜が濁ると、ドナーの透明な角膜を移植する手術を行なっていたが、たいていうまくいかない。失敗の原因は、患者の体がドナーの角膜に拒絶反応を示すと考えられていたという。幹細胞が消失するせいで、せっかく移植した角膜がまたも濁ってしまうなんて考えもしなかったわけか。1999年の時点で、角膜上皮幹細胞移植手術の経験を持つ医師は全米で15人から20人ほど、世界の事例でも400件に満たなかったという。

2. 術後のメイ
メイは、色や形を認識することができても、立体感覚が完全に麻痺している。遠近法がまったく機能せず、写真や絵の二次元画像から三次元空間への投射ができない。ツェルナー錯視やポッゲンドルフ錯視を起こさず、ネッカーの立方体から奥行きが認識できない。立体を認識できるのは、物体が回転して角度がずれた時。そういえば、人が完全に静止した状態から物を見るなんて状況はほとんどないだろう。首がちょっとでも動けば、見る角度は微妙に変わる。自然な状態は動画の方で、静止画というのは特異な現象なのかもしれない。相対論は、相対的静止を定義できても、絶対的な完全静止を定義できない。これは人間認識の本質であろう。
メイは、さっそく美女がよく通るという道に出て視覚機能を試す。だが、笑っているのか、怒っているのか、表情が読み取れないばかりか、男女の区別もつかない。せいぜい周りの男性諸君の反応で想像するぐらいなもの。分からない対象は、触りたくなる衝動に駆られる。だが、今まで女性の体に触っても、ごめんなさい!で済むところを、パシッと平手打ちをくらう。なるほど、わざとか。
髪型、服装、胸のふくらみ、という属性を辿って情報処理を試みるが、大量な情報を論理的思考のみで瞬時に処理するのは、かなりの重労働。目から入ってくる溢れんばかりの情報に頭は混乱し、会話の注意力も散漫となる。視力という新たな認識力を得たことで、既存の認識力が疎かになるとは。
しかし、得意なものもある。凹凸面が逆に見えたり、矢印のつけ方で棒の長さが違って見えるなど、目の錯覚に関する事例は枚挙がないが、メイはまったく騙されない。余計な認識が働かず、純粋に映像を解釈できるわけか。近代社会では、情報が洪水のように押し寄せ、しばしば思考を混乱させる。客観的な思考を維持することは至難の業だ。老化現象で、近くのものが見えなくなり、耳が遠くなるのも、認識能力の抽象レベルが高められたと言えなくもないか。
注目したいのは、顔のパーツを上下逆さにした写真を見せるテストだ。顔の輪郭はそのままで、目と口だけ上下逆さにすると、鬼瓦のような顔つきになって気持ち悪い。だが、メイには違いが分からない。さらに不思議なことに、その目と口を上下逆さにした写真を、写真ごと上下逆さに見ると、普通の人でも違和感は和らぐ。もともと人の顔を上下逆さに見る習慣がないので、変化に対して鈍感なのだそうな。ブスも逆さに見れば、違和感を感じないのかも。美人は三日で飽きる、ブスは三日で慣れる...というのは真理(心理)かもしれない。いや三日ってことはない。三年なら...

3. 子猫の実験は興味深い!
子供の初期段階の発達過程を調べるのに、二匹の子猫を使って、ほとんどの時間、完全な暗闇で育てる実験が紹介される。光のある場所で過ごすのは、毎日だが、ごく短い時間。子猫を、回転木馬のような装置に取りつけた箱の中に入れる。そして、片方には箱に穴を開け足が床に届くようにしておき、木馬を動かせるのは足が床に届く子猫の方だけ。二匹の子猫は同じ視覚的経験をすることになる。
しばらく実験を繰り返し自由の身にすると、視覚を利用して動き回ることができたのは、主体的に木馬を動かすことのできる子猫の方だけだったという。受動的に見える視覚だけでは、十分ではないということらしい。学習態度が能動的か受動的かでも効果は全く違うだろう。やはり最も効果があるのは独学であろうか。

2012-07-29

"字幕の中に人生" 戸田奈津子 著

世界各国で上映される外国映画のほとんどは吹替で、字幕が主流なのは日本だけだそうな。吹替版の方がコストが高くつくため、仕方なく字幕版を放映する国もあるらしいが、そんな理由とは関係なく日本人は字幕を好むという。本物志向が強いのかは知らん。来日した俳優たちも自分の声が流れることを喜ぶという。なるほど、俳優にとって台詞は命というわけか。文化交流の場では、相互の文化をなるべく温存させたままの方がいい。もちろん歩み寄りも必要だが。どちらかに完全に染まるよりは良い傾向であろう。日本語の良さを知る上でも外国語に触れるのは悪くない。人類は完璧な言語を持ち合わせないのだから。

著者の名は洋画を観る人なら一度は目にしたことがあろう。第一人者だけあって仕事量も半端ではない。それだけに違和感のある翻訳を見かけることもある。だが、字幕はあくまでも裏方。著者流に言えば、透明の字幕!ちらっと横目でキャッチするだけで、良い字幕は素通りし、悪い字幕ばかりが目に留まる。因果な商売よ。厳しい批判もあろうが、そういう人たちも字幕という仕事の難しさをある程度は理解しているのだろう。批判する文章が間抜けな日本語では締まらないのだから。
ちょうど今、「Shall we Dance?」を観ながら記事を書いている。「Shall we ダンス?」ではない。ハリウッドのリメイク版で、最後に「日本語字幕 戸田奈津子」と出る。本筋は忠実に再現されていて、あまり字幕に頼らずに済む。むしろ邪魔か?表現がストレートなのは国民性の顕れであろうか。オリジナルの場面が随所に思い浮かべられるものの、違った味わいがあるのはシナリオがしっかりしている証しであろう。そして最後の方...ダンス教室に垂れ下げられたメッセージに、電車の中からリチャード・ギアが笑みを浮かべる...フレーズはもちろん!"SHALL WE DANCE Mr ...?"。その字幕が「シャル・ウィ・ダンス?...」では、なんとも間の抜けた感がある。日本語にしても座りが悪いだろうから、せめて「Shall we ダンス?」か。いっそのこと省いたら...
まぁ、こんな些細なケチをつけたところで、職人芸に敵うはずもない。どんなに長い台詞も「一秒四文字、十字 x 二行」の枠に収める技は、まさに芸術!字幕のルールに則りながらも、「例外のないルールはない!」と断言するところに心が動く。台詞は芸術を成す要素の一つだけに、比喩、ジョーク、ダブルミーニングと、あらゆる技法が凝らされる。遠まわしの言葉は、それだけで歴史や文化が暗示される。単純で思わせぶりなフレーズほど翻訳は難しいはず。リズムも重要な要素で、詩的な感覚も必要であろう。
さらに、映画のジャンルは多種多様で、政治、法律、軍事、医学、科学、テクノロジー、スポーツ、音楽、美術...森羅万象を一人で相手にするという。
「字幕はいうに及ばず、翻訳というものに取り組めばすぐにわかることだが、『語学ができる』ということはスタート・ラインで、決め手は日本語である。『外国語に自信がある』だけでは足りない。日本語の力が問われる。」
とても直訳では通用しそうにない世界。言語が精神の投影であるならば、字幕屋の仕事とは心の和訳ということになろうか。

ただ、泥酔した社会の反抗分子は、第一人者やカリスマ的存在というものをあまり信用しない。頼りきって思考を硬直させる恐れがあるからだ。本人が称さなくても、周りから持ち上げられることもあろう。特に、字幕翻訳者は固定化されている印象がある。言葉には個性が露われ、母国語でも同じ言葉を喋る人はいない。それほど多様化した世界なのだから、もっと多くの人が関わってもよさそうなもの。宣伝で来日した俳優たちに固定された翻訳者が同行するのにも、形式化されているようで違和感がある。翻訳が裏方ならば声だけでもよさそうなものだけど、せめて俳優の年齢やキャラクターに合った翻訳者を同行させるとか、そんな演出があってもいい。業界規模が小さいから仕方がないのかもしれないけど。
「プロを育てる積極的な努力はしないが、仕事を頼んでも安心なプロの出現はいつでも歓迎する業界である。」
愚痴も鏤められ同情するところもある。翻訳は、まさに技術。そもそも日本には技術屋さんに冷たい風潮がある。いや、世界的傾向であろうか。安くこき使われ、安く叩かれる。技術屋さんが団体ごと、国外で拾われるケースも珍しくない。そして、技術大国は空洞化していくわけよ。
字幕は、大収益をあげた映画であれ、宣伝費も回収できない映画であれ、翻訳料の単価は同じだという。しかも、権利まで配給会社に持って行かれ、後にテレビ放映されようが、DVDになろうが、お構いなし。映画翻訳では、印税のような方式は絶対に認められないという。あれ?出版翻訳は印税でなかったけか?実は、技術屋さんの給料は印税方式にしてほしいと、飲み屋で愚痴っていた時代があった。建築士がどんなに優れたデザインで集客力を見せても、テナント管理者が儲かるようにできている。電子機器がどんなに爆発的にヒットしようが、設計者の単価は同じで、依頼主が儲かるようにできている。特許で儲けるのは、発明者ではなく特許管理者だ。あらゆる業界で下請扱いされ、泣かされるようにできているわけよ。はぁ...

1. 名台詞と名訳
一つ区別しなければならないのが、「名せりふ」と「名訳」の違いだという。「君の瞳に乾杯!」なんてのはまさにその類いか。日本語台詞の方が独り歩きすることもある。字幕屋冥利に尽きるというやつか。

「ミラーズ・クロッシング」...
"If you can't trust the fix, what can you trust?"
「八百長を信用できなきゃ、何を信用できる?」... んー、いい!

「めぐり逢い」"An Affair to Remember"...
"Winter must be cold for those with no warm memories."
「暖かい思い出のない人の冬は、さぞ寒いことだろう」... たまらんよ。

今や古典となった「第三の男」...
"I shouldn't drink it. It makes me acid."
「今夜の酒は荒れそうだ」と訳したのは秘田余四郎氏だという。acid には酸味の他に気難しいという意味もある。

映画に限らず、自分の制作物をカットされると気分が悪いだろう。「ライトスタッフ」の劇場公開の際、配給会社が上映時間が長すぎるのでカットすると言った時、もちろん映画監督にお伺いを立てるわけだが、カウフマン監督は「クロサワが切って下さるなら諒承する」と答えたそうな。ちなみに、黒澤明は「自分の映画を切るならフィルムを縦に切れ」という名言を吐いたとか。
ところで、翻訳者が映画の題名まで考えることはないという。これは意外だ。配給会社の宣伝部の仕事だそうな。"BASIC INSTINCT" を「氷の微笑」としたセンスには感服する。"WATERLOO BRIDGE" を「哀愁」とするのもなかなか。"Bonnie and Clyde" を「俺たちに明日はない」としたのが良いか悪いか分からんが、既にイメージ化されている。最近は、題名をあまり意訳しないように思える。ネタ切れかどうかは知らん。「ダイ・ハード」なんて、ずばりそのまま。「セント・オブ・ウーマン」は、副題で「夢の香り」とつけたという。なるほど、副題もテクニックというわけか。観賞者に調べる楽しみを与えるのも、テクニックのうちかもしれん。好奇心とは、チラリズムから生じるものであろうから。

2. 卑猥語と国民性
60年代から70年代には、どの辞書にも載っていない卑猥語の洗礼を受けたという。

「風と共に去りぬ」のあのラストシーン。
"Frankly, my dear, I don't give a damn."(はっきり言おう。オレの知ったことか。)

当時、damn は宗教団体から吊るし上げを食らったという。そこで、二通りの撮影をする。
ソフト版では、"Frankly, my dear, I don't care." というらしい。
同性愛をテーマにしようものなら宗教団体から袋叩きにされる時代。fuck や virgin もヤバい!「インディアン」という言葉が「ネイティブ・アメリカン」に取って代われば、西部劇も色褪せる。冷戦構造が終結すれば、ソ連という仮想敵国を失い、スパイ映画も迫力を失う。台詞は当時の社会風潮の表れでもある。
「日本の社会では蔑視や差別をなくすために、言葉そのものを排除しようとするのに対し、アメリカ社会では言語や行動に表れる現実をはっきり見据え、そのなかで考えてゆこうという風潮がある。」
日本は臭い物に蓋をするが、アメリカは臭すぎて蓋もできないか。いや、陰険かストレートの違いか。

3. ハリウッド映画と字幕
アメリカでは、伝統的に字幕が嫌われるという。ハリウッド映画では、なんでも英語を喋らせる風潮がある。ドイツやロシアを舞台にした歴史物ですら英語の台詞が流れる。「ミッドウェイ」で、いきなり山本五十六が英語を喋るんでは、なんとも締まらない。多民族国家では吹替の方が受け入れられやすいのか?映画産業が最も盛んな国だけに、外国映画に触れる機会も少ないのかもしれない。
「ダンス・ウィズ・ウルブズ」では、インディアン語がかなり問題になったという。西部劇でインディアンが英語を喋れば、それだけで色褪せる。ケビン・コスナー監督はこだわりを見せ字幕を用いた。そして、「アメリカ映画史上、例を見ない画期的な冒険であり快挙」と評されたという。
近年では、クリント・イーストウッドが硫黄島を舞台にした映画を日米双方の視点から描いた。当初、日本兵に英語を喋らせればいいという意見もあったと聞く。だが、映画監督のこだわりは納まらず、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」の二部作を撮った。言語文化というものは、英語を喋ればグローバル化の波に乗れるなんて単純なものでもなかろう。
ところで、日本の字幕の技術はかなり高いものがあるそうな。東京国際映画祭では、日本映画に英語字幕が義務づけられるという。その字幕のタイミングが酷くいい加減で、短い字幕が延々とスクリーンに出たりするらしい。せっかくの芝居のリズムも台無しで、その点、日本語字幕はタイミングが正確で心地良いという。

4. 字幕評論
「一秒三文字から四文字」という法則は、この道の先輩たちが試行錯誤のすえ編み出したものだという。人間の能力は、耳で聞くのと読むのとで明らかにスピードが違う。時間に制約があれば、意訳は当然の処置か。ただ、主観芸術だけに、意訳のやり過ぎは目障りとなる。映画評論家の中には、一字一句残さず訳すべきだという意見もある。それも一理ある。映画監督の思いは、台詞の隅々にまで行き届いているはずだから。だが、台詞通りに訳せば、字幕が溢れるというジレンマが襲う。字幕への批判は原文至上主義の立場から生まれてくるという。確かにそういう立場もあろう。だが、それだけだろうか?直訳では言葉の力を失い、ストーリー性を欠くことは、ほとんどの人が知っている。本書の言い分も分かるけど。昔は、映画館に行くだけでもお金がかかるし、一度しか観ない人が多数派であったろう。字幕という手段を使って、ほんの一瞬で内容を把握させて幸せにしたい、と配慮されるのはありがたい。その点、吹替の方が楽か。映画評論家が批評できるのは、何度も観れる贅沢な環境を持っているからだという。
しかし、今はちと時代が違う。映画館で公開されて数カ月もすればテレビ放映されるし、DVDもある。分かりにくいシーンを何度も観て味うことができ、目の肥えた観賞者が随分と増えたことだろう。したがって、今の字幕は、分かりやすくするところから、少し重点が移動しているのではなかろうか。英語に馴染む機会も増え、意訳は余計に目立つ。なるべく観賞者の主観に委ねた方がいいだろう。言葉が時代とともに変化するのだから、字幕も変化せざるを得ない。にもかかわらず、字幕が一度つくと、作品に組み込まれるかのように、ずっと付きまとう。歴史を紐解けば、字幕があるだけでもありがたいという時代もあったろうに。人間はますます贅沢になる。これが、技術文化の原動力ではあるのだけど。

5. ほされた「フルメタル・ジャケット」
スタンリー・キューブリック監督は、究極の完全主義者と言われるそうな。公開される国でのポスターのデザイン、宣伝文句、宣材のすべて、フィルムの現像の焼き上がりのチェックまで、すべてに目を通すという。字幕原稿では、逆翻訳を要求するのだとか。そのこだわりはプロ中のプロか。逆翻訳では、文字どおりに英語を並べることを要求するという。
"Go to hell, you son of a bitch!" に「貴様など地獄へ落ちろ!」と字幕をつけたとする。英語では、you しかないところを、日本語では、君、お前、てめぇ!、貴様!、こん畜生!くそったれ!...方言まで入れると、きさん!...これに対して、おいらの極貧ボキャでは、Hey You! Fuck You! ぐらいしか思いつかん。
著者は、son of a bitch は、「貴様」で十分表現できていると反論する。確かに、逆翻訳すれば貴様や畜生などの汚い言葉は、you で抽象化される。そうなると、翻訳したものを逆翻訳して、元の文章に戻すなんて至難の業か。いや、不可能かも。
そういえば、アメリカ人に日本語の表現は美しく、英語は汚いと言われたことがある。それは逆だろうと反論したけど。日本語は、相手を蔑視する人称表現が豊富で、わざわざ具体的に説明する必要がない。対して、人称代名詞が貧弱だと具体的に説明する必要がある。「ケツの穴でミルクを飲むまでしごき倒す!」なんて強烈な台詞も登場するわけだ。日本語では到底思いつかない発想だが、それはそれで感心させられる。ちなみに、「ケツの穴に手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたろか!」はあくまでも関西語だ。
言語は民族文化そのものであり、歴史を背負っている。そもそも無理やり言葉を置き換えること自体無理があるのかもしれん。
「オリジナルのせりふをあくまで尊重しつつも、映画をトータルに楽しむために、この『余分な作業』は負担にならない程度のものであってほしい。そこにはおのずと正しいバランスがあるはずで、そのバランスに忠実であることが、字幕をつくる者のもつべき姿勢であり、責任であると思う。」
バランスされる位置も、時代とともに変化していくだろうけど。
結局、「フルメタル・ジャケット」の翻訳は、映画監督の原田真人が手がけることになった。しかし、人間社会には、大御所と意見が合わないだけで、恥をかかされたと煽る風潮がある。特に日本社会はその傾向が強い。黒澤映画「影武者」でも、勝新太郎がほされたことが大々的に報じられた。人を貶めて話題にする行為ほど愚かなものはあるまいに。そういえば、ワイドショー文化は日本発だとオーストラリア人に指摘されたことがある。
それはさておき、映画芸術が、映画監督のものであることは言うまでもない。全責任を背負うから自由に描く権利が与えられる。それでほされたからといって、なんのことはない。一つの芸術を共同で制作するからには、芸術家同士で意見を戦わせるのは当然である。

6. 酒の映画
映画を観終わった時に疲労感が残るのは、字幕が原因という場合も多い。字幕のおかげで消化不良なんてことも。これを観客は字幕のせいとせず、映画が難解だと誤解するという。ただ、ちょっと難しいぐらいの方が長く楽しめそう。
長い台詞を忠実に再現した事例も紹介してくれる。「シンドラーのリスト」でワインを注文するシーン。字数が厳しいにもかかわらず、「シャトー・ラトゥール '28年物、シャトー・マルゴー '29年物、ロマネ・コンティ '37年物」と台詞どおりに字幕をつけたという。強制収容所でユダヤ人が飢え細っているところに、ナチ高官の贅沢三昧ぶりが伝わる。
一昔前は、酒場で注文する台詞は「酒をくれ」で事足りたという。スコッチが好きかバーボンが好きかでも違った印象を与える。酒好きは、こういう台詞を観察している。著者の作品ではないが「エニグマ」で暗号解読に成功したシーン。犠牲が大きかったために、ご褒美にハーフボトル。ラベルには白馬の絵がちらり。ホワイトホースを飲みながら観る映画だとつくづく思う。ちなみに、先日プロジェクトのキックオフにハーフボトルの赤ワインを進呈したのは...特に意味はない。

2012-07-22

"字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ" 太田直子 著

著者は千本余りの字幕翻訳を手がけ、「ヒトラー 最期の12日間」にも「日本語字幕 太田直子」とその名を見かける。
日本で初めて映画に字幕がついたのは1931年、「モロッコ」(1930年、米)だったそうな。字幕の名台詞といえば「カサブランカ」のあのシーン...「君の瞳に乾杯!」Here's lookin' at you, kid! ...瞳という単語はどれ?などと野暮なことは言いっこなし!だそうな。
字幕翻訳は普通の翻訳とは違い、台詞の時間内にしか訳文が出せないので、要約にならざるをえない。人が精神空間に描く文面のイメージは、おそらく人の数だけあるのだろう。とても国語辞典などで規定できるものではない。意訳すれば字幕屋の感覚に委ねられ、マッチしない翻訳が目につくのも仕方がないか。
字幕制作では、一秒四文字を原則にするという。その姿勢は、細かい文章にこだわり、微妙なニュアンスの抜け落ちも許さず、ひたすら辞書を引き倒す。言葉の妙というものに憑かれる姿は、ある種の職業病か。手がける言語の幅も凄まじい。主要五ヶ国語はもちろん、アラビア語、ヘブライ語、トルコ語、インドネシア語、マレー語、タミール語、タイ語、ベンガル語、モンゴル語、アルメニア語、グルジア語、アイスランド語、スワヒリ語... これだけでも、字幕の仕事が単なる翻訳の域に留まらないことを想像させる。言語は、単なる伝達機能だけでなく、民族的、文化的要素の強いものだから。「この映画を日本で是非紹介したい!」という熱意が、字幕屋の魂をくすぐるようだ。そこには専門的で言語学的な話はあまりないが、字幕屋というまったく別世界に生きる現場の愚痴が聞けるのは貴重である。字幕屋は、いつも日本語と外国語の狭間で身悶えているという。言葉を扱う仕事に絶対的な正解はないのだから。「映画翻訳者は、言うならば、言葉の詐欺師」だそうな。それも、観客を幸せにする「善なる詐欺師」であると...

最近、「The Alfred Hitchcock Hour」(ヒッチコック劇場)に嵌っている。もともと30分のミステリーを1時間枠に拡大したもので、全100話ぐらいありそうか。有名な俳優たちの若き姿が観賞できるのもいい。結末はだいたい煮え切らないが、それがたまらない。ラストの瞬間だけのために、長い前置きも隅々まで気が抜けない。もっとも前戯は大好きな質ちだから問題なし。ただ、不思議なことに、重要なシーンではあまり翻訳されない。貴重なキーワードが視覚効果によって登場する場面でも、あえて字幕を入れない。ヒッチコック映像を存分にお楽しみください!と言わんばかりに。まさにミステリー!こういう作品を観ていると、映画翻訳はあくまでも裏方であることが実感できる。
翻訳はもともと作品には組み込まれないもので、存在感を強調すると作品そのものを壊しかねない。しかし、近年の風潮では、分かりやすく!という要求が強くあるという。売りやすく!と言った方がいいかも。不景気が続くと、あらゆる業界でありがちな傾向で、出版業界では字数の詰まったコッテリした本を嫌う傾向がある。護送船団式販売戦略を繰り返せば、多様なニーズが埋もれ、真の愛読者は選択肢を失うだろうに。前提される知識は観賞者によっても様々で、平均的なところを狙っても社会の多様化に対応できない。実際、その台詞からその翻訳はないだろう!と思わず呟くことがある。逆に、惚れ惚れする翻訳にも出くわす。翻訳者自身が納得できないこともままあるという。何をやっても賛否両論がある。ネット社会ともなれば、見知らぬ者同士が安易に共闘して罵声を浴びせかける。匿名が群衆化すると恐ろしい。おまけに、その奔流に目をつけた大手メディアが便乗しやがる。最前線で活躍される方々は、なんと不平等な社会的責任を背負わされていることだろう、と同情しつつ、この記事も匿名のようなものか。
著者は、分かりやすくし過ぎると、日本語力の低下を招くと指摘している。確かに、想像力を働かせる機会を奪うかもしれない。分かりやすいというだけで説得力を持つこともあるのだけど。だいたい高尚な芸術とは分かりにくいもので、観賞者の方から高みに登って行くしかあるまい。製作者のこだわりは、素人には気づかない細部にまで及ぶ。これが職人気質であり、プロ意識というものであろう。
「ヒトラー 最期の12日間」で言えば、シュペーアという人物像の知識がないと十分に味わえない。そこで、登場するなり「真打のご登場」と字幕されるのはなかなか。難しいシーンを、いちいち字幕で説明していたら色褪せてしまう。すべてを分からせる必要はないし、そもそも不可能だ。そこで観賞者は、映画をきっかけに知識を求めて文献を漁ったり、その時代の小説を読んだりする。これも映画の余韻の楽しみ方の一つと思っている。字幕は、そのヒントを匂わせてくれればいい。ただ、優れた字幕が空気のような存在だとすれば、悪い字幕ばかりが目につくことになる。字幕屋とは、批判に曝されるばかりで、なかなか評価されない虚しい職業のようだ。

1. 活弁
映画翻訳には、字幕や吹替の他に「活弁」というものがあるそうな。活弁とは、活動写真の弁士のこと。無声映画の時代、ストーリーを解説したり、俳優の代わりに喋ったりする。1920年代まで映画は音声がなかった。画面いっぱいに文章が出て、説明やセリフが捕捉される。無声映画の上映中、映画館は静粛になる。その退屈感に対して、BGMや語りが挿入される。やがて弁士は講談師のごとく、大袈裟に演出して盛り上げていったという。弁士の語りが、上映中ほとんど切れ目なく続くとなると、映画館専属の名物弁士なんてものも現れたことだろう。どちらが主役かも分からないほどに。

2. 勝手なキャラづけで失敗
字幕では、まず登場人物の一人称を決めるという。「わたし、オレ、ボク、おいら」を使い分けるだけでも、人物のイメージを変えてしまう。英語だと I、ドイツ語だと Ich で済むところが、一人称を老若男女で使い分ける言語も珍しい。同じ人物が、公私で「わたし」と「オレ」を使い分けたりする。ちなみに、「わたし」を「私」とは書けないそうな。正式な訓読みは、「わたくし」だから。この制約は辛そう!
インドネシア映画「青空がぼくの家」に字幕を付けた時の失敗談を紹介してくれる。貧しい家庭の父親が子供を叱る場面で、下品できつい言葉遣いにすると、専門家から極貧生活をしているが教育熱心な親で、乱暴な言葉遣いではなく論理的で穏やかな言い方をしている、と指摘されたという。「生活水準が低い = 下品、乱暴」という偏見があったことを反省している。
また、ナイジェル・マンセル(F1ドライバ)の言葉を翻訳した時、理知的なイメージを与えてしまったとか。ライオンハートこと、レッドファイブのおっさんを。

3. 禁止用語
言葉を公に扱う仕事では、禁止用語は付き物。本書は、作家筒井康隆氏の「断筆宣言」を紹介してくれる。1993年、同氏が国語の教科書に取りくんだ時、「てんかん」という病名にクレームがついたそうな。これを禁止用語にされると、かなり知識が狭められる。ドストエフスキー、ルイス・キャロル、ゴッホなど偉人にもその症例は多く、シーザーの映画では痙攣シーンがある。
「白痴」も、ずばりA級禁止用語だそうな。ドストエフスキーや坂口安吾も否定されるのか?
大河ドラマで「片手落ち」という台詞に視聴者からクレームが出たのは、有名な話。片手を失ったり、生まれつき片手のない人たちを傷つけるとして。そうなると、「片親」も「片目のジャック」も怪しい。「一本足のかかし」も?「一本足打法」も?
「狂う」も忌み嫌われるという。「時計が狂っている」なんて表現も怖いと。「未亡人」も際どいらしい。あるPTA筋では「子供」もダメというところがあるとか。「供え」の意味で、人身御供をイメージさせるのかは知らんが、「子ども」と書くそうな。自治体によっては、「害」を嫌って「障がい者」と書くところもある。身体的なハンディを指摘するなら「チビ」もダメか。「黒人」を気を使って「アフリカ系アメリカ人」と表現する書籍をよく見かける。「ニグロ」もよく見かけるけど。一方で、「デブ、ハゲ、バカ、アホ、クズ、カス、ボケ、ブス...」は野放しだそうな。
ちょっとした失言で袋叩きにする風潮がある。中には政治団体と化す連中も珍しくない。タブーの勢いが、逆に差別を助長するとは。心地良い言葉ばかりを集めれば、裏で陰険さを増し、アングラ精神は地下でますます活発化するであろうに。

4. 英会話恐怖症
非英語圏の映画では、だいたい英訳台本がついてくるという。意外なことに、著者は英会話恐怖症であることを明かす。昔々、字幕翻訳のプロが数人で足る時代はみんな英語の達人だったという。今ではそうでもないらしい。
実際、英語の先生が外国人とまともに会話できないことも珍しくない。英語の論文ではしっかりと記述できても、会話となるとてんでダメという技術者も珍しくない。会話で辞書を引くのは実践的ではないし、文脈や文法をあまり気にせず、知っている単語をどしどし喋って、経験を積み重ねる方が手っ取り早い。会話で重要なのは、まず恥を捨てることであろうか。
言語学では、生まれて数年で母国語の発音に染まり、母音や子音の判別能力がほぼ確定するという説がある。となると、日本人が、L と R の聞き分けができないのも自然であろう。そういえば、日本人は、言葉が喋れればだいたい読み書きもできるだろう。だが、西欧人は、言葉は喋れるが読み書きができないという話を耳にする。映画のシーンでもよく見かける。日本語の音素が五十音と直接結びつくことが、言語習得で記述を重視させる傾向にあるのかもしれない。
「しかし、仕事で英文読解をやる以上、知らない単語を推測で処理するわけにはいかない。少しでも不安な単語はむやみやたらと辞書を引いて確かめるのが職業倫理。やはり、わたしの英語力向上は望めないのだった。」

2012-07-15

"言語音形論" Roman Jakobson & Linda R. Waugh 著

「一般言語学」の余韻を楽しみながら、ヤーコブソンをもう一冊。ただ、フォルマント構造体を理解せずに読むのは、ちと辛い。国際音声記号とやらと睨めっこしながら読み進めるものの...
口の形から発する周波数分析は、物理学的で音響工学的。摩擦音、鼻音、歯音、唇音などからスペクトルエネルギーの集中と拡散が考察される。その対象は、主要五ヶ国語はもちろん、アフリカ諸語、マヤ語、ヒンドゥースターニー語、エスキモー語、チェロキー語など世界の隅々にまで及び...なんと、グロソラリアまで!
口の発する音形のバリエーションには限りがないのか?口の形には個人差があり、発する周波数も年齢とともに変化する。おまけに、世代間で言葉が違えば、地域には方言なんて現象もある。時間的変化と空間的変化の二重性は、まるで時空の世界。もはや誰一人として同じ言葉を喋っている者はいない。ただ一つ、意思疎通で拠り所にできるものは、すべての音形はなんらかの二項対立によって生じるということぐらいか。
さて、ここで素朴な疑問がわく。人間は、なぜ10進数で物事を考えるのだろうか?年齢から借金まで、どっぷりと日常生活に馴染んでやがる。しかも、世界共通!これだけ言語が多元化しているのに。うちは3進数ですよ!いや、うちは6進数ですよ!なんて国があってもよさそうなもの。年齢を16進表記したいと言い張っても、戸籍では認められない。二項対立、すなわち対称性が宇宙法則だとすれば、2のべき乗や対数の方が自然のはず。現実に、コンピュータは2進数で計算し、技術者は設計の便宜上16進数や8進数で思考する。一方で両手の指で数えるならば、10の単位にも合理性がある。では、指はなぜ10本なのか?進化の過程で、10進数なんて中途半端な場所に居心地の良さがあるのか?確かに、テトラクテュスは三角形配列の中にある。いや、人間という種は宇宙法則に逆らう悪魔というだけのことかもしれん。

思考の領域ではすべてが二面的である。観念は二項的である。ヤヌスは批評の神話、天才のシンボルである。三角のものは、ただ神のみである。
...バルザック著「幻滅」より

ヤーコブソンは、言語の基本構造を「選択」「結合」であるとした。人間認識は、あらゆる思考の段階において二元的主体を構築し、それらの連係によって成り立っているというわけだ。プラトンは、対話篇「ピレボス」において、言語的(STOICHEIA)を分離と結合の対立性で示唆したという。絶対的認識を獲得できない知的生命体は、相対的な感覚を駆使しながら対称的認識を働かせるしかない。そして、対称性の原理を中庸の原理へと昇華させる。これが悟りの境地というものであろうか?思考の段階は、母音や子音などの音素から始まり、音節レベル、言語レベル、そして、行動レベルへと抽象度を高める。例えば、アルファベットは五十音に比べて数こそ少ないが、発音記号の視点から眺めると多彩である。音形が意味と結びついた時、言語が威力を発揮するとなれば、重要なのは文字表記よりも発音記号の方かもしれない。特殊例では、多くの日本人が、L と R の聞き分けに苦労したり、意のままに発音できないことが紹介される。日本語の音素が五十音と結びつきやすいことが、言語教育において音声よりも記述を重視させるのかもしれない。
確かに、言語は表現の手段に過ぎない。だが、言語が精神と結びついた時、これほど合理性を発揮するものもあるまい。ヤーコブソンは、その合理性の正体、すなわち「弁別素性」を言語音形に求める。尚、「一般言語学」で「特性」と訳されたものが、本書では「素性」と訳され、より自然的、本質的であることが強調される。
「知覚の階層性の中で、弁別素性は他のすべての素性に優越する。しかしだからといって、他のタイプの素性が知覚されないというようなことはけっしてない。」

ところで、ゲーテの詩的作品が翻訳ですら鮮やかな音調を保てるのはなぜか?もちろん翻訳者の能力を讃えたい。だが、それだけだろうか?言語芸術を翻訳のレベルにまで拡げるとは。音形の普遍原理のようなものを奏でているのかもしれない。翻訳者に自国語を自然に想起させるような、人類共通の精神リズムのようなものが...
本書は、まさにその精神の普遍的音形なるものを探求する。結局、例外と対峙することになるけど。言語研究では、本質的な二つの視点、すなわち、普遍性と変異性を分離させないことが重要だとしている。ここで言う普遍性とは、絶対的普遍性ではなく、相対的普遍性とでも言おうか、いわば、ほとんど普遍性といったところ。確かに、特殊性を認識できるから、崇高な普遍性なるものの存在をなんとなく信じることができる。もし、絶対的普遍性が認識できるならば、特殊性という認識も成り立たないのだろう。普遍性には、その陰に多様性なるものが原理として組み込まれているように映る。普遍性とは、近づこうとする努力であって、けして到達できるものではないのかもしれん。思考とは、まるで矛盾の蟻地獄よ!この世の学問に自己矛盾にまで達しえないものがあるとすれば、もはや学問ではなくなるのだろう。

What fetters the mind and benumbs the spirit is ever the dogged acceptance of absolutes.
(知性を拘束し精神を麻痺させるものは、常に絶対的価値の頑なな心棒である。)
...エドワード・サピア

1. 言語魔術とグロソラリア
母音と子音を基底にする音の三元性は、色の三原色に通ずるものがある。高音調と低音調は色彩の明と暗、音の濃密性と希薄性は色彩の濃と淡に対応する。そして、伝統的に育まれてきた音形は、光の神話的作用と重なるところがある。
人間社会で育まれてきた共感覚は忌み嫌わる言葉を追放し、社会のタブーは語彙追放という形で実践されてきた。心にないものは、言葉としても存在しえないのだろう。言語文化が人間社会の投影であるならば、言語は魔力ともなる。現実に、言葉の力を持つ者が先導者となり、民衆は言葉によって扇動されてきた。
一方で、俗世間から逸脱した言語の魔力がある。聖霊言語の類いで、グロソラリアというやつだ。神話的に異言を操る者、聖霊降臨と称する者、神の言葉を解すと称する者、彼らにとって人界と霊界を結びつける言葉があると都合がいい。神からは沈黙しか教えられないはず、なのに愚人は具体的な言葉を求める。神の言葉は、けして需要を失うことがない。詐欺師や自己宣伝者だと反証することもできなければ、信じるか信じないかの問題でしかない。おまけに、魔術的呪文は詩的効果を与える。音調に癒し系の言葉を重ね、心地良い周波数を反復することによって精神を惑わす。詩の魔術とは恐ろしいものよ。ピロートークもこの類いか。尚、言葉の反復は奇数回よりも偶数回の方が効果があるらしい。

2. 母音と子音、そしてスペクトルエネルギー
母音と子音は、どちらが意味的でどちらが記号的かという役割の違いがあるにせよ、この相対する二つの調音タイプの対立のない言語は知られていないという。母音と子音はそれぞれ、重音と鋭音、嬰音(sharp)と非嬰音(non sharp)、変音(flat)と非変音(non flat)とに分類される。第一、第二、第三フォルマントの絶対値だけでなく、母音と子音の優劣でフォルマント間の二項関係が示される。平たく言えば、重音と鋭音は、低い音と高い音という区別になろうか。あるいは、唇音と歯音にも対応するようだ。
高音調性と低音調性の対立は、大部分の言語で子音パターンと母音パターンの双方に現れ、そうでない言語であっても、どちらか一方には必ず現れるという。同じく普遍性の対立に、密音と散音があるという。ただし、母音と子音に関係しながら調音される。
密音性はスペクトルの中央域におけるエネルギーの集中で、散音性はスペクトルの広範囲におけるエネルギーの拡散である。唇音と歯茎音にはスペクトルエネルギーに拡散が見られ、唇音ではスペクトルの勾配が扁平からまたは低い周波数に向かって傾斜し、歯茎音では高い周波数に向かって傾斜するという。
対して、軟口蓋音は、スペクトルエネルギーが卓立した中央周波数に集中するという。そして、言語の普遍的構造として、「一般言語学」でも紹介された母音三角形(a,u,i)と子音三角形(k,p,t)が論じられる。英語のような四母音系では、a,u,i に、 æ(= /ae/)が加わって、四角体系(a,æ,u,i)となる。

3. 子音パターンの多彩性
特に、子音による対立性の方が多彩のようだ。ほぼ普遍的に存在する重音と鋭音の対立は、主に優勢フォルマントの下降から上昇的移行に関わるものだが、子音パターンには、他に二種類の両極的な音調性素性があり、それぞれスペクトル全体としての形を変えることなしに、劣勢フォルマントの主要な移行と優勢フォルマントの付随的な移行に関わりを持つという。
その第一の素性は、嬰音と非嬰音であり、もっぱら子音だけの対立によって担われ、第二の素性である変音と非変音は、種々の発音手段によって具現されるという。
対して、母音パターンの中で機能する音調素性は二つだけで、重音と鋭音、あるいは変音と非変音の対立だという。そして、後者は、円唇と非円唇母音の弁別によって作られるのが常だという。ちなみに、日本語のように円唇後方母音がある環境では、円唇性を失い、重音と鋭音の対立だけが動かずに保たれるという。
子音パターンの準普遍性の一つに、鼻音性の対立がある。有声の閉鎖音を、鼻音に変える現象である。鼻音と非鼻音の対立は、幼児が習得する最も初期の素性であるという。鼻歌がでるのも、幼児精神への回帰であろうか?
また、子音パターンに粗擦音と非粗擦音(円熟音)の対立がある。減衰と噪音のようなノイズ的な発声である。渡り音なんてものもあるらしい。母音へ移行する時に、はっきり発声することもあれば、黙音のようなものもある。有声なのか無声なのか?有標項なのか無標項なのか?母音のようで子音のような曖昧な存在で、「半母音」とも呼ばれる。
ただ、各言語において、それぞれの子音が同じ役割を果たすわけでもない。

2012-07-08

"一般言語学" Roman Jakobson 著

精神が自然物であるならば、精神空間において自由であってもいいはず。なのに、人工物である言語法則によって束縛を受けるのはなぜか?言語は、たかだか表現の道具に過ぎない。ところが、精神と強く結びつくと、恐ろしいほどの合理性を発揮する。民衆は言葉によって扇動され、言葉の力を持つ者が社会で優位に立つ。これに対抗して論理崇拝者は、言葉の反復性や同義牲、あるいは形容詞のような技巧を毛嫌いする。科学論文や技術論文に主観的な表現が少しでも混じろうものなら、まるで犯罪者であるかのように罵声を浴びせかける。酔っ払った天邪鬼はそんな批判にもめげず、ジョークの一つでも紛れ込ませなければ気が済まない。一方で文学作品では、感情的技法を積極的に用いる。それは、言語の持つ能力が論理性や客観性だけでは説明できないことを示している。
ところで、言語を研究するのに言語で記述するとは、なんとも自己矛盾に陥りそうな感がある。日本語を研究するのに英語で記述すればいいというものではない。言語があれば文化があり、文化があれば言語が生じる。言語の優劣を語るとは、文化の優劣を語るようなものであろう。ソフトウェア業界は用途に応じた合理的な言語を次々に編み出す。人工知能言語や数値演算言語やマークアップ言語などなど。あるいは、機械語のようにプリミティブな言語がある。だが、自然言語にはそんなものがない。
ただ、プログラミング言語には自己ホスティングという概念がある。その言語自身で処理系まで記述できる能力を持つわけだが、自然言語にもそうした試みが古くからある。すなわち、対象言語を上位から眺めるメタ言語的思考である。そして、自然言語がどこまでメタ言語となりうるか?これが問われることになる。つまり、言語の研究は精神の研究にほかならないのであって、精神の分析をメタ精神が行うに等しい。そりゃ、メタメタにもなろうよ!

「言語学」という分野がいつ誕生したかは知らん。その起源は古代ギリシアの弁論術や修辞学にまで遡るのだろう。現代言語学となると、20世紀のフェルディナン・ド・ソシュールで、構造言語学という分野になるらしい。ソシュールの思考には、ラングとパロールの分離がある。平たく言えば、コードとメッセージ、あるいは表現と意味を区別する。丸山圭三郎著「ソシュールの思想」では、パロールを能動的な個人的意思としていた。
さらに、ヤーコブソンは、ソシュールの言語モデルを乗り越えることを訴える。そして、コードとメッセージは相補関係にあり、分離不可能と主張する。量子論で言えば、粒子性と波動性の二重性のような関係になろうか。哲学で言えば、物質の最小単位は素粒子のような物的存在ではなく、固体と魂はけして分離できないモナド的存在ということになろうか。
このロシア人言語学者はプラハ学派に位置づけられる。プラハ学派とはソシュール系の構造主義言語学の一派。当時は青年文法学派、すなわち通時的に研究する方法論が優勢だったようで、その苦々しい思いが伝わる。彼は、共時性と通時性においても言語学の二重性を唱えている。構造主義といえば人類学者レヴィ=ストロースを思い浮かべるが、二人は第二次大戦から逃れてニューヨークで親しく交流したそうな。
また、ヤーコブソンは、ヨーロッパで逸早く音韻論の発展と確立に尽力した人物だという。本書にもその特徴がよく表れていて、コードを音素パターンとの関係から論じている。それは、子音と母音、音調の高低や長短、拍の強弱など、あらゆる音律的特性は二項対立の序列で成り立つとしている。言語の基本原理は、二項対立の選択と結合によって構成されるというわけだ。
言語の主な機能は、情報伝達の手段であることは疑いようがない。情報伝達を音波の観点から工学的に眺めると、サンプリングの概念を必要とする。ここでは、その原理を音素の変化とその序列に求めている。情報理論の父と呼ばれるクロード・シャノンは、著書「通信の数学的理論」で情報の本質はデジタルであるとの考えを披露した。デジタル信号は0と1の選択とその組み合わせによるデータ列で構成され、これも二項対立による離散的集合体である。現実に、分岐構造をもたないプログラミング言語はない。本書にも、シャノンの通信モデルとよく似た言語モデルが提示される。それは、言語伝達系における構成要素を、発信者、メッセージ、コンテキスト、コード、接触、受信者とするモデルで、しかも、符号化と復号化の概念が持ち込まれる。大きな違いは、自然言語では文脈依存性が強く、特に脈絡的な意味が生じることである。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとって、何かを認識するには何かと対比する必要がある。時系列的に対比するか、空間的に対比するか。いずれにせよ、認識範囲を超えた領域で思考することはできない。となれば、思考を深めるためには認識範囲を広げるしかあるまい。音声の周波数スペクトルは認識能力とともに進化してきたのだろう。そして、究極の認識能力とは、無音ということになろうか。それがテレパシーなのかは知らん。ただ、高度な認識能力を持った知的生命体の社会は静かになりそうな気がする。

その帰結は...
人間認識は、対称性の原理を働かせながら、あらゆる階層レベルにおいて二元的主体を構築していることになろうか。その段階は、音素から音節レベル、言語レベル、そして行動レベルへと昇りつめる。所詮人間なんてものは、常に選択を強いられ、その結果を引きずりながら生きていくのよ。進学にせよ、就職にせよ、結婚にせよ、すべての選択は離散的であり、すべての選択を経験することは不可能だ。もし、すべてを経験しようとすれば、それは女性の数だけ愛のあるハーレムということになろう。きっと、そうに違いない!

1. 失語症と小児言語
失語症によって言語パターンが崩壊する過程は、小児が言語を獲得する過程と、まったく逆の順を辿るという。習得と喪失が鏡像を成すとは...成長と老化、そして痴呆症へ...年寄りのイライラは幼児化現象であろうか?老化が進むと、音素体系だけでなく、文法体系においても退行が見られる。固有名詞がなかなか思い浮かばず、「あれ」やら「それ」やらと代名詞を頻繁に使う。
失語症のタイプには二つあるという。選択能力が欠如し、結合能力が比較的安定している場合と、その逆の場合である。音素と意味は生活習慣の中で無意識に結びつけているが、どうやって生じたのだろうか?人間の思考は疑問から生じる。何か不確かな事に出会うと擬音めいたものを発声する。Who?, What?, When?, Where?, Why?, How?...ふぅ?わっ?うぇ?うぇぁ?わぃ?はぁ?...なんとなく幼児語じみている。
ところで、我が国の英語教育は、ひたすら翻訳機械のような法則性に仕向けられる。言いたいことを英語にするよりも、例題を翻訳することに努力が向けられる。翻訳機械は、内容を理解しないために文字どおりの直訳をする。だが、人間は言語から思惟する性質を持っている。文章にひとたび解釈が入り込むと、観察の道具と観察の対象との間で相補関係が生じる。言語を習得する場合、自分が何を言いたいかを表現する方が、はるかに実践的であろう。外国人を前にすると、特にそれを感じさせられる。プログラミング言語では、まず書いてみろ!と言われる。習うより慣れろ!だ。感覚的で経験的な性格の強い分野では、理屈よりも重要なものがあるのだろう。アル中ハイマーの英語力もある種の失語症であろうか。脈絡がない点では酔っ払いも同じで、単語を羅列して、ろれつが回らん!

2. 音韻論と音声学
言語分析では、複合的な発話単位を固有の意味を担った構成要素に分割し、更に意味を担う最小の媒介体や形態素を差別するに役立つ構成要素に解体するという。それは「弁別特性」と呼ばれる。弁別特性の基本には二項選択の対立と対比があり、これを「韻律特性」との関係から論じられる。韻律特性には、音調、強度、音量の三つの属性があり、すべて相対的な物理量として考察される。
さて、音韻論と音声学は似たような分野にも映るが、音声学では物理周波数に着目し、音韻論ではそれに内的認識が加わるという。音素には、音声の流れの中で存在が仮定されるものがある。西欧語に見られる摩擦音や無音といった現象は、日本語に慣れ親しんでいると不合理な特性にも映るが、発話のリズムを作る。また、音声には、語彙の表す情報以外に発話者の教養レベル、社会環境、年齢、心理などが表れる。実際、相手が特定できれば言葉の意味もイメージしやすく、初対面であれば人物像を勝手に想像したりする。テンポの違いで言葉のニュアンスも変われば、声の質や変化によって犯罪心理を分析する科学もある。恋の達人ともなれば、ウインク一つで語りやがる。真摯に!命がけで!などと発言し、重い言葉を軽くしやがる輩もいる。弁論術や修辞法を学ぶと、言葉が軽くなるのかは知らん。
弁別特性は音素という同時的な束に集結され、いかなる自由形式にも整数の音節が含まれるという。音節の中軸原理は、主に母音と子音の対比と、その反復性にあるという。反復特性を利用すれば、次に出現する音素の確率を予測しやすい。音素パターンが認識できなければ、言語習得の弊害にもなろう。日本語と英語の周波数帯が違うことも、大きな問題となる。周波数と意味を結びつけるという観点から、聞き流すだけで訓練になるという説もそれなりに説得力がある。ただ、認識能力とするためには、意識を能動的に作用させる必要があるだろう。
さらに言うなら、言葉が癒し系の音楽のようになる現象もある。ピロートークは穏やかに囁くからこそ効果がある。これを、意味よりも周波数が優先される重要な例として付け加えておこう。

3. 母音三角形と子音三角形
音節の唯一の普遍的な型は「子音 + 母音」であるという。母音は音響レベルにおいて明白で、音声器官が周波数スペクトルにおいて最大エネルギーを発する。エネルギーの大小の両極が母音と子音に現れる。小児の最初期段階で鼻子音と口子音の対立を習得するという。鼻歌がでるのも、幼児精神への回帰であろうか?
さらに、小児言語の初期段階で、pa と a、あるいは pa と ap の音が区別されるという。音素の基本パターンでは、高い集中したエネルギーの極 a が、低いエネルギーの閉鎖音 p,t と対比するという。p と t は、周波数スペクトルの優劣、あるいは低音調と高音調の極として対立する。そして、音素パターンの基底は a を頂点とする三角形 a,p,t で示される。
次に、エネルギーの上方集中と下方集中で二つの三角形に分裂する。上方が母音周波数帯で、下方が子音周波数帯である。辺 ap の間に u、辺 atの間に i、そして、底辺 pt と a の垂線の間に k を配置して、母音三角形 a,u,i と子音三角形 k,p,t を分ける。
音素の最少パターンは、低音調と高音調、集約と拡散の特性において区別される。音声のスペクトラム、すなわち周波数分析に「フォルマント構造」というものがあるらしい。それは、各ピークによって対立させる考え方である。ピークは、子音的と非子音的、鼻音的と口音的、エネルギーの集約的と拡散的、時間的急激性と連続性、粗擦的と非粗擦的などの両極で表される。

4. 音素相と文法相
本書は、能記体と所記体の二重性で議論すべきだと主張する。能記とは言語記号の音声面、所記とは言語記号の意味面。ソシュールの用語ではシニフィアンとシニフィエと呼ばれるやつで、知覚相と解釈相とでもしておこうか。
人が文章を組み立てる時、単語を最小単位として思考しているのだろう。しかし、単語の序列をさらに分割すると、それ自身が意味を担う最小の単位に辿り着く。それは形態素と呼ばれるもので、複数形や接辞のように何かの単位と結びついて機能するものもある。本書は、「最小形式単位」と呼び、意味最小体として議論している。
音素自体が弁別特性の集合体であるならば、意味最小体もまた弁別特性の集合体ということになろう。述語の重要性は、それ自体の意味ではなく、使われ方や例題として頭の中に構成されているような気がする。だから、単独で示された漢字の読みが分からなくても、小説の中では自然に読めたり、意味を解したりするのだろう。波長の合う小説に出会えば、数行読み飛ばしても文章が頭の中で再構築されるような気がするし、推理小説ともなるとページ単位で立体的に再構築されるような気がする。逆に、文章構成や語彙に慣れない文献に出会うと、読む速度が極端に落ちる。これも失語症のような現象であろうか?専門書ともなると、自分の専門なのに1ページ読むだけで一日がかりだ。これは、ちと意味が違うかぁ...
西欧人にしてみれば、日本語の文章を分割するのは難しいだろう。なにしろ単語の区切りがないのだから。句読点があるにはあるが、厳密な規則性はなく、執筆者の気まぐれに委ねられる。適当に漢字が入っていると読みやすい場合があるが、わざわざ平仮名だらけにして読みづらくする達人もいる。
言語は感化されやすいところがある。特許を書くと、しばらく特許調で喋ったりする。しつこく主語を付け、くどいほど時制を並べたりと、まったく日本語っぽくない話し方になり、変な外国人と間違えられることも。今日の日本語にしても、西洋語あるいは翻訳語に毒されて、純粋な日本語が分かる人もあまりいないのだろう。こうして記事を書いていても...とりあえずアル中ハイマー語とでもしておくか。誰一人として同じ言葉を喋っている人はいない。にもかかわらず互いに通じるのだから、言語法則だけでは説明できない何かがある。いや、通じていると信じているだけのことかもしれん。

5. 詩学と芸術
言語メッセージを芸術たらしめるものは何か?言語現象が、空間と時間において精神現象へ昇華させるものとは?言語文化には、必ず企図的、計画的、規範的であろうとする一面があるという。芸術性で仕掛ける達人は、多重人格的な側面を見せ、どこか冷たい領域から眺めているところがある。これも、メタ言語的思考であろうか。
文学作品の問題は、共時態と通時態の二群から成るという。歴史的な文学作品が、通時的だけとは言い切れない。古典芸術が再解釈されるとなれば共時的な研究にもなりうる。古典芸術が現代風に蘇ることはよくあるのだから。美だけを強調しても芸術美は生じない。美は醜との対比から現れ、強調は静寂との対比から生じる。この対称性には、二重性のコードから生じる何らかのメッセージが芸術家によって託されている。DNAコードの二重螺旋構造にも、何らかのメッセージが託されているのかもしれん。誰が託したかは知らんが。
「詩的機能は等価の原理を選択の軸から結合の軸へ投影する。」
詩学では、等価性は序列の構成手段へ昇格されるという。一つ一つの音節が、同じ序列の中のすべての音節と等価にされる。長音は長音どうしで、短音は短音どうしで、互いに等価の関係を保つ。対立する言葉であっても、音節において等価となる。そこに居心地の悪い語は一つとして存在しない。音律という自然の秩序が保たれるがごとく、あるいは暗黙の秩序とでも言おうか。反復もまた居心地がいい。詩だということを宣言しなくても、明らかに詩となる。
音文彩は、精密に規定することができるという。音素序列の諸切片の織り成す高い卓立と低い卓立との二項対比において、少なくとも一組を利用していると。音量式韻文では、長音節と短音節が卓立の高いものと低いものとして対立する。中国の古典漢詩では、抑揚をもつ音節(仄音: 曲がった声調)と抑揚のない音節(平音: 平らな声調)とが対立するという。声調式作詩法では、高声調音節主音と低声調音節主音の組み合わせで構成されるという。人の感覚は、明るさ、鋭さ、固さ、高さ、軽さ、速さ、高い調子などを経験的に一系列に関連付ける。これらに、暗さ、鈍さ、柔らかさ、低さ、重さ、遅さ、低い調子などを対比させる。低音調性と高音調性が夜と昼をイメージさせる。こうした精神現象には普遍法則があるのかもしれない。
韻律学の本質として、ウィムサットやビアズリーの言葉を紹介してくれる。
「一つの詩には多くの吟誦が存在し、互いの差異は多様である。一つの吟誦は一個の事象であるが、詩そのものは一種の永続的事物でなければならない。」
詩脚、頭韻、脚韻などの詩的な約束事を音の面だけに限定すると、経験的な裏付けを欠く机上の空論になる。等価の原理の序列への投影は、もっと深い意味でなければ趣を欠くことになろう。詩は二項的な韻文形式というわけだが、それだけに言語的に自由がなく強制される。秩序で強制されながら精神を解放するとは、奇妙な作法である。自由と強制もけして分離できない二重性ということであろうか。

2012-07-01

Fedora 17 へアップデート

さて、アップデートしようと思ったら、なんじゃこりゃ!

"There is a general warning about upgrading via. yum being unsupported at the top of this page. However Fedora 17 is very special. You should seriously consider stopping now and just using anaconda via. DVD or preupgrade, unlike all previous releases it's what the yum/rpm developers recommend. Continue at your own risk."

ディレクトリ配置も変更される模様。

"Fedora 17 will locate the entire base operating system in /usr. The directories /bin, /sbin, /lib, /lib64 will only be symlinks:"
  /bin → /usr/bin
  /sbin → /usr/sbin
  /lib → /usr/lib
  /lib64 → /usr/lib64

んー...嵌りそうな香りが漂う。サーバの再構築が面倒だけど、ここはクリーンインストールにしておこう。それにしても、最近 Fedora のアップデートは心臓に悪い!

1. まずは試行... preupgrade
クリーンインストールを覚悟すれば、恐れるものはない。てなわけで、preupgrade を試す。

  $ yum install preupgrade
  $ preupgrade
    再起動すると、grubメニューに "Fedora17 upgrade" の項が追加されるので、それを選択。

おっと!プログレスバーが30%ぐらいで止まったまま(sbcl 更新中...)。マウスは動くが、ハードディスクにアクセスがない。6時間以上待って電源を落とす。起動後、grubメニューから 再び upgrade を選択すると、続きが始まる。怪しいものの無事終了か?
とりあえず、問題なく動作する。サーバ系の設定も、だいたい継承されたみたい。中身を見ると、ゴミがわんさか残っている。なるほど、very special !!!
このままでも問題ないかもしれないが、あっさりと捨てる。

2. では本番... クリーンインストール
ファイルシステムは、ext4 で、まだ btrfs が選択できない模様。インストールで問題になるところは無し。
systemctl という文化に慣れない上に、SElinux の設定で気が狂いそうになる。一つ一つの設定に対して異常に反応が遅い。キーボードがかわいそう!
てめぇ、disabled にしたろうか!と何度つぶやいたことか。だが、"SELinux Management" のGUI環境を見つけて、少し冷静さを取り戻す。

  $ yum install policycoreutils-gui

3. GTK+2 を利用したアプリで警告 ...この警告は収まった。コメント参照...(2012-7-7)
Emacs を起動すると、stderr に警告が出る。

  Gtk-Message: Failed to load module "pk-gtk-module"

とりあえず問題にならないが、ちと気になる。アイコンから起動すれば目に入らなくて済むが、そうもいかん。ちなみに、Firefox(13.0.1) もコマンドから起動すると警告が出る。こっちは、そうもいく。Google Chrome(20.0.1132.47)もだけど、こっちは起動オプションを時々使うので、そうもいかん。

原因は、PackageKit-gtk3-module が入っていて、PackageKit-gtk-module が見当たらない。/usr/lib/gtk-2.0/modules/libpk-gtk-module.so を探しにいくが、実際は、/usr/lib/gtk-3.0/modules/libpk-gtk-module.so がある。おそらく、GTK+2用をどっかから持ってきて、/usr/lib/gtk-2.0/modules/ に放り込めばいいのだろうけど、そこまでやらんでもええか。
尚、GNU Emacs 24.0.97.1 (GTK+ version 2.24.10)。次期バージョンは GTK+3 対応か?ちなみに、gedit は警告が出ないから、GTK+3 に対応しているのだろう。

4. gnome3 はようやく馴染んできたか
当初、こいつのお陰で気が狂いそうになったが、ようやく飼い慣らした感がある。拡張機能のおかげで、「まず、アクティビティ!」という文化から解放されたのが大きい。とりあえず、これは必須か。

  $ yum install gnome-tweak-tool
  $ yum install gnome-shell-extension*
  $ yum install gnome-shell-theme*

[高度な設定]で、これができるだけでも救われる。
・"Dock 拡張機能" - 画面の右端にマウスカーソルを持っていくと、お気に入り群が出現。
・"Application Menu 拡張機能" - すべてのメニューを表示する足跡アイコンが登場。
・"Have file manager handle the desktop" - デスクトップにアイコン & 右クリックメニューを表示。
ちなみに、昔から愛用しているのがこれ。右クリックメニューに[端末を開く]という項目が追加される。

  $ yum install nautilus-open-terminal

2012-06-24

"破戒" 島崎藤村 著

谷崎潤一郎は、東京生まれの作家で藤村を毛嫌いする人が少なくないと書いた。漱石も露骨ではないが嫌っていたとか。滅多に悪口を言わない芥川までも「新生」という作品を露骨に貶したそうな。坂口安吾も不誠実な作家と書いていた。
しかし、そんな評判に怯むことはない。ここは天邪鬼への宣伝文句と受け取っておこう。俗世間の泥酔者に文学作品に対する目利きがあろうはずもないが、この作品は一読の価値があるのではなかろうか。小説という手段を用いて、古くからある日本社会のタブーを大衆化しようとした試みは称賛したい。藤村は、乞食よりも下等扱いされてきた穢多の境地を暴く。しかし、幸せになるために現実逃避に縋るしかないという結末は...これが小説の限界であろうか?平等が人類の最高の価値だとは思わない。すべての人間がどうして対等でありえようか。能力差もあれば人格差もある。だが、優劣を決める要因が、それ以外のところで決定されるのは、理不尽としか言いようがない。人類の歴史とは、まったくもって「人間」という身分をめぐっての抽象化の歴史ということができよう。

明治維新の時代、「四民平等」のスローガンのもと、封建時代の身分制度「士農工商」が廃止された。そして、穢多や非人と呼ばれた人々も解放され、みな同じ平民となる...はずだった。法で定めたからといって、伝統によって培われてきた慣習を簡単に捨て去ることはできない。日本社会には伝統的に家柄や身分を重んじる風習があり、華族や士族を鼻にかければ平民との区別が強調される。平民にしても、自分より下の階層がないと落ち着かない。穢多にしても、差別から逃れる者を見れば、僻み、妬む。人間ってやつは、自分よりも劣等な人種を見つけて安住したがるものらしい。結局、身分の世襲からは逃れられず、「新平民」という新たな差別用語を蔓延させることになる。
「病のある身ほど、人の情の真と偽とを烈しく感ずるものはない。心にもないことを言って慰めてくれる健康(たっしゃ)な幸福者(しあわせもの)の多い中に...」
農村部に封建制の余波を残しつつ、あれは穢多だ!放逐してしまえ!と平気で言う時代、居住、職業、進学、結婚などで市民権を保証すると唱えたところで、行政措置は上辺だけでしかない。裏社会で売買される穢多の娘たち、人並みに学問を志すことも許されない人々...美人で金持ちの目に留まるのは、まだしも幸せというものか。
しかし、こういう時代も経験する必要があったのだろう。残酷な行為はその時代には分からないもの。現在だって数十年もすれば、あんな理不尽な時代があったと言われるかもしれない。昭和の時代にも、その名残りはあった。高校時代、同和教育を受けた記憶が蘇る。当時はまったく現実味がなく、無神経に冗談を飛ばして先生に怒られたものだが、後で身近に同和地区があったことを知る。
ところで、部落問題は西側に多く存在すると聞く。その発祥は分からないが、平氏の怨霊かそのあたりの時代に遡るのだろう。武士の時代、多くの落ち武者が西側に流れたという歴史的背景がある。いくら武家社会が源氏を中心に固められたとはいえ、平氏が完全に絶滅したとは考えにくい。平氏以外にも歴史的に滅亡したとされる名門の子孫たちもいただろうし、権力の主流派であっても陰謀から逃れた落とし子のような人たちもいただろう。そういう人々が忠実な家臣とともに生きながらえ、目立たない地に集落を形成したことは想像できる。他にも犯罪者など素性を隠したい人は多くいるだろうし、世間の目から逃れた社会が形成されてきたことも想像できる。もちろん偽名を名乗る。
本書は信州を舞台にしているが、東側にも点在する現象なのだろうか?ずっと政治、経済、文化の中心できた東京人には、分かりにくい感覚なのかもしれない。役所も部落民などと差別するつもりはないのだろうが、行政的に保護が必要となれば区別する用語が必要になる。政治屋は友愛やら博愛やらという言葉がお好きだけど、「同和」と呼べばそれ自体が差別用語と化す。
更に厄介なのが、同和問題となんら縁のない連中が部落民を名乗り、社会保障や生活保護を脅したり、たかったりする。いわゆるエセ同和というやつだ。弱者や善人を装う輩の背後には、裏社会や宗教団体が寄生する。弱みや憐れみのあるところに政治団体が忍び寄り、福祉は選挙運動の道具と化す。報道屋は表面的な弱者の味方をするが、本当に保護を受けるべき人々が放置されるのは世の常。
現在では、穢多、非人、かたわ、気違い... などといった言葉が禁止用語とされる。そういう考え方も必要かもしれないが、そんな言葉が使われた時代があったということも認識しておきたい。近代化の過程で、「新平民」などと新語が用いられ、いじめの手口も裏で巧妙化していく。堂々と悪行をなすのと、陰で悪行をなすのとでは、どちらが悪いのかさっぱり分からん!人は、憐れみを感じながらも、つい余計なことを言ってしまう。真意が違っても、つい傷つけたりする。その反省を繰り返せば無口にもなろう。だが、無言ですら何かを物語る。お喋りなこの世から差別を無くすことは不可能なのかもしれん。

1. 「破戒」と「破壊」
「破戒」という題名は、戒めを破ると書く。戒めとは、素性を隠そうとすることが慣習として根付いたもので、先祖代々受け継がれてきた生き延びるための知恵である。破るとは、素性を世間に告白することで、社会からの迫害を覚悟することである。その意味では、自己の「破壊」という気持ちも込められているのかもしれない。
しかし、その告白はけして積極的なものではなく、噂が広がる中で仕方なく追い込まれた結果なのだ。告白した後は、逃げるように自由の国アメリカを目指す。ただ、その結末は少々腑に落ちない。現実には、様々な事情で逃げられないケースがほとんどであろう。経済的な負担も大きい。まだしも逃げる場所があるだけ幸せというもの。だからといって、この物語を夢も希望もないまま終わらせるのも...このあたりが小説の限界であろうか?
そういえば、日本政府がブラジルへの移民を募集した時代とも重なる。新天地への夢に乗せられ、苦労したという話も聞く。その中にも部落出身者がいたのかもしれない。本作品は、移民との関係も匂わせているのかもしれない、というのは考えすぎか?
また、解説の野間宏は初版本を読むべきだとしている。訂正本はまったく生ぬるいと。「穢多」という言葉を避けて「部落民」という言葉にすり替えられているそうな。

2. あらすじ
穢多出身の瀬川丑松(せがわうしまつ)は、生い立ちと身分を隠して生きよ!という父からの戒めを守って生きてきた。そして、小学校教員となり、解放運動家で部落出身の猪子蓮太郎を慕うようになる。
ある日、旅先で代議士になろうという人物と美女の一行を見かける。世間とは狭いもので、この女性が丑松の知り合いの穢多の娘であった。同僚の勝野文平は、その議員あたりから丑松の素性を嗅ぎつける。そして、町中で噂になり擁護派と蹂躙派で二分される。
しかし、擁護派も残酷な面を見せる。丑松が穢多ではないと主張するだけで、穢多そのものは差別しているのだから。穢多には、こういう特徴があるという。一種の臭いがある、皮膚の色が普通の人と違う、顔つきで分かる、そして、性格が異常に僻んでいる。ひたすら素性を隠す習慣から性格が陰気になり、病的な境遇が哲学をさせるんだとか。こうした特徴から、丑松を穢多であるか判定しようという話まである。憐れみが怖れに変わるのも道理というものか。時代の価値観によっては、どちらが病気扱いされるか分かったもんじゃない。
隠そうとすればするほど、世間はやかましく追求してくる。騒ぎが大きくなれば、素性を明かさないわけにもいかない。ついに丑松は告白する決心をする。
「我は穢多を恥とせず!」
それにしても、素性を隠していたことを、あまりに卑屈に謝る態度は、時代を反映しているのだろうか?
普段優しい人たちでも、一旦身分が明らかになると残酷な動物へと豹変する。人間は、群衆化すると野蛮になるところがある。陰の噂や陰の罵声といった陰湿な方法によって。まさに、いじめの原理がここにある。
そんな悲愴感の漂う中にあっても、読者を救ってくれるものが一つだけある。それは、最も純粋な擁護者である生徒たちの存在だ。教師として新平民であることに何の不都合があろうか、と校長に詰め寄る。教師冥利に尽きるというやつか。校長は、進退伺いを提出すればどうしようもないと言い訳するが、実は若くて活力ある教師が目障りだった。ここには、丑松の人間主義的な教育と、校長の封建主義的な教育との対立構図を匂わせる。おまけに、出世主義の勝野はライバルの脱落を意味ありげに微笑む。校長や勝野は、規則!規則!と生徒たちを封じ込める。
この物語が子供たちの純粋な感覚に救いを求めたのは、未来へ希望を託したのか、あるいは腐った大人どもに絶望したのかは知らん。
「ああ、教育者は教育者を忌む。同僚としての嫉妬、人種としての軽蔑...」
そして、丑松はテキサスの日本村で新たな事業を起こす夢を持って旅立つことに。学校を去る淋しさか、社会への悔しさか、目から涙が溢れ出る。