2016-06-26

ポータルサイト変更... MなYaさんから愛あるGさんへ回帰!

2012年下旬、iGoogle のサービス終了にとまない、My Yahoo! に宗旨替えした。
今度は突然、My Yahoo! から2016年9月29日をもって終了!との通知を受け、目が点になる。せめて半年ぐらい猶予が欲しいところ。ちなみに、i(愛)ある G さんは一年以上の猶予をくれた。
OS業界にせよ、通信業界にせよ、よくこうも雑用を増やしてくれるものだ。MS教(= SM狂)の十字架バージョンでがようやく落ち着いたと思ったら。便利やら、新しいやら、散々勧誘しておきながら、変わり身の早さは政治屋のごとく。世間に酔わされながら生きていくユーザは奴隷になるしかない。どうせ、おいらはドMよ!.

おかげで、自分にとってのポータルサイトの位置づけを改めて考えさせられる。
そもそも、My Yaさんがなくなると、なぜ痛いのか?実際、Neちゃんとバイブこと Netvibes をヘルプ役に指名している。Neちゃんは柔軟性の高さと設計思想が気に入っているものの、体が重いので No.1 にはなれない。
一方、My Yaさんは比較的軽いとはいえ、コードも埋められず、テーマもしょぼい!
そこで前々から、愛ある Chrome に目をつけていたが、Gさん依存症は避けたく、いまいち踏み切れないでいた。
ところで、iChrome は語呂がいまいちで、愛称するのが難しい。愛あるGさんの後継ぎで、愛の苦労人とでも呼んでおこうか。こいつを使い始めて、一週間になるが、大した問題もなく、癖も見えてきたし、なかなか快適!

● Yaさんと縁が切れると、本当に痛いのか?
特に、Yaさんファイナンスを埋め込むポートフォリオ機能は、ルーティンワークに馴染んでいる。そもそも、Yaさんファイナンスを、ポータルサイト経由で閲覧しなければならない理由とは何か?ブラウザ起動時に複数のサイトを開いて、ブラウザ側のタブに配置してもいいし、起動時でなくても、複数タブを同時に開く Seesion Manager という拡張機能を愛用している。あるいは、愛の苦労人にリンクを埋め込んでもいい。
では、直接サイトを閲覧するとなると、Yaさんファイナンスである必要があるのか?Yaさんの株式情報はどうせ数十分ほどディレイしているし、証券会社や他のサイトにリアルタイムでもっと充実したサービスがわんさとある。
結局、痛い!と思ったのは、急に告げられてムッとしただけで、冷静に考えれば見直しの機会が与えられ、むしろありがたいのではないか。Yaさんとも、あっさり手が切れそうだし。ただし、Neちゃんと切れるのはまずい!

● 愛の苦労人を試すも、愛あるGさんに戻った感がある...




1. まぁまぁ軽い!なんといっても目障りな広告がない!

2. 表示形式の柔軟性がイマイチ!
表示の融通が利かないのは、愛あるGさんの時代と似たようなもの。例えば、天気ウィジェットの文字がバカでかい。せめて列ごとに幅調整ができるとありがたい。せめてタブ毎に設定できるとありがたい。作りがシンプルだから、軽くてストレスを感じなくて済むのだろうけど。尚、Pro版ではもう少しいじることができそう...

3. ホームボタンに勝手にマッピングされ、余計なお世話!
ホームボタンに愛の苦労人が設定されるのは結果的に不満はないが、試行段階では余計である。尚、起動アドレスは、"ichro.me/redirect"
ちなみに、「iChrome 新しいタブ」という補助的な拡張機能もあって、新しいタブから起動させることもできるが、そこまでやらんでもええや。

4. ツールバーのスタイルをボタンにするとスッキリ!
スタイル設定で [ボタン] を選択すると、最上部の検索スペースが消えてシンプルになる。タブレットでは僅かな表示スペースでも気になってしょうがないので、意外と重宝する。

5. ファイルレベルでバックアップができ、移植も簡単!
ファイルにバックアップできるので、Gさんアカウントにログインしなくても設定が保存できる。環境ごとの移植も簡単!
ただし、Google Now などログインしていないと使い勝手の悪いウィジェットも多々あるので、アカウントと連動する方が安心はできそうだけど...

6. タブ操作も簡単!
タブへ飛ぶ時は、画面左右に表示される矢印ボタンか、カーソルキーでもOK。所定のタブに飛びたい時は、右上ボタンの一覧から選択できる。

7. RSSリーダとしてもまあまあ!
ただし、Neちゃんは未読記事をハイライトしたり、未読数も表示してくれて、彼女の尽くしようは捨てがたい。さすがに愛の苦労人だけあって、彼女と縁が切れないよう按配が絶妙だ!

8. htmlコードが埋め込める!
この機能は、愛あるGさんの時代から装備されている。
あれ?昔、動いていたコードが動かない。どうやら、外部参照の JavaScript コードがうまく動いてくれないようだ。Neちゃんの上では激しく動いているので、ブラウザの問題ではなく、愛の苦労人の問題か。ウィジェット内は、HTML と JavaScript のコードを置く場所が別々にあって、スクリプト自体は所定の場所に書けば動く。とりあえず、簡単なコードでいくつか確認した。Hollow world! の表示やブラウザの判別など。セキュリティ上、外部参照のコードがデフォルトで許可されてない可能性は考えられる。PHPなら動くなぁ... うん~、要研究!
こいつが解決すれば、小悪魔とも縁が切れてスッキリするんだけどなぁ...
尚、iframe 内にwebページを埋め込むウィジェットも装備されるが、そこまでやらんでもええや。

9. [カスタム CSS] で愛の苦労人を手なずけられるか?
CSS を直接記述できる領域があって、大抵のことはカスタマイズできそうだが、構造を解析するのに苦労しそう... 要研究!とりあえず、背景画像をスクロールしないようにした。

10. Pro 版の背景動画に誘惑されそう!
Pro版の背景画像には動画も用意されていて、フリー版でもプレビューのみ可。草木や葉っぱが風に揺れる様、川や滝の流れ、海岸の波打ち際、小鳥の飛ぶ光景など和めるテーマもあって、いい感じ。尚、背景画像のダウンロードは、フリー版のデータも含めて、Proユーザのみ可。
ちなみに、CCleaner(フリーのお掃除ソフト: : ver 5.19.5633-64bit)で、Google Chrome の [インターネット一時ファイル] にチェックを入れて掃除をやると、なんと設定した背景画像が消えちまった!Pro版では、こういうこともなくなるのかなぁ?復帰には、愛の苦労人を再インストールする羽目に。
とはいえ、環境のバックアップと復元は簡単だし、たかだか拡張機能の再インストールに大して手間はかからない。

2016-06-19

"絶対音感" 最相葉月 著

「音楽は言葉で説明するものではない。表現がすべてであり、わかる人にはわかる、わからなければそれもやむをえない。だが、そう突き放されることでどれだけの音楽が私たちの手を離れていっただろう。言葉で説明することを邪道とする固定観念は、鑑賞者よりもむしろ音楽家自身を不自由にしてきたのではないだろうか。それが彼らのストイシズムである一方で、呪縛となっていたことは否めない。」

人間が「絶対」と呼ぶものは、本当に絶対なのか?崇めるほどのものなのか?絶対音感は、音楽家には、特に指揮者には必要な能力だとも聞く。その能力が、カリスマ性を後押しするのも確かであろう。絶対音感のない音楽家には劣等感のために口を閉ざす人もいて、能力の有無を質問することすらタブー化してしまう。確かに、心の拠り所となるものが絶対的な存在となれば、楽になれる。だがそれは、ある種の宗教にも似たり。なによりも芸術心は自由精神に支えられ、社会の画一化された常識や絶対的な観念から、一瞬でも解放してくれるところに芸術の意義がある。既成の価値観の破壊活動ということもできるわけで、あらゆる学問がそうした性格を持っているはずだ。
ピアノはこう弾きなさい!小説はこう書きなさい!絵画はこう描きなさい!と強制することが良いことなのか、はたまた英才教育が正しいのかは分からない。そういう時期も必要なのかもしれない。もちろん基礎を学ぶことは大切で、感情を表現する技巧を追求することが間違っているとは思はない。技術や知識があるからこそ、そのレベルに応じた自己表現が可能になるのだから。
ただ、手段が目的化することはよくある。哲学をともなわない芸術や技術は、それ自体が色褪せてしまう。特殊能力を獲得することに執着し、強迫観念にまで高められた時、もはや真の目的を見失うであろう。
一方で、鑑賞者の側もぼんやりとしているわけにはいかない。芸術家とともに高みに登っていかなければ。鑑賞者が最低な感想をもらす場合もある。作者はいったい何が言いたいのか?と... もはや目的が目先の利益へと偏重し、自然に裏打ちされた芸術作品が語りかけてくれる声も耳には届かない。せめて子供たちの才能や個性は、大人どもの脂ぎった欲望から遠ざけてあげたいものだ...
「全身の奥深く眠り、容易には取り出せない幼い頃の記憶。私たちはそれを往々にして天性と呼ぶ。そして、そう呼んだときから何かが半分くらい見えなくなる。それを手にした人も、手にすることができなかった人も...」

一方で、絶対音感は、音楽の本質ではないと言う人も少なくない。モーツァルトやベートーヴェンには絶対音感があったと言われるが、おいらの好きなチャイコフスキーにはなかったと言われる。音楽家にとっては絶大な道具となるのだから、あるに越したことはない。だが、あまりに研ぎ澄まされすぎた能力は、精神に弊害をもたらすこともしばしば。そもそも、絶対音感の定義が難しい。ニューグローブ音楽事典によると、こう記されるという。
「ランダムに提示された音の名前、つまり音名が言える能力。あるいは音名を提示されたときにその高さで正確に歌える、楽器を奏でることができる能力。」
耳から入ってくる音が即座にドレミで言い当てられるということは、感覚的に捉える音の世界を、言語脳を働かせて論理的に捉えることができるわけで、いわば、デジタル記法で表現できる能力と言えよう。つまり、言語解釈を左脳の機能と決めつけず、右脳と柔軟かつ絶妙に協調することで、音楽の意志を言葉で感じることができるということだ。
しかしながら、現実の音は、すっきりと音名に収まるものではない。すべての音を周波数で言い当てるという方法もあるが、真の自由を求めれば無理数に頼ることになる。魂がデジタルに幽閉された世界とは、いかなるものであろうか。ただでさえ騒がしい社会にあって、耳から入ってくる情報がすべて言語と結びつけば、やかましくてしょうがない。
デジタル信号の優位性は、情報伝達の正確な復元性にある。心に思い描いたメロディを、その場で書き写すとは、まさに作曲家に求められる能力。近代化社会では、便宜上デジタルを用いることが多く、シャノン的な二項対立の思考を要請してくる。
しかしながら、精神にとっては、どこか曖昧なアナログの方が居心地がよいと見える。聴覚が歪んでいれば、少々音程のずれた音楽でも心地良く聴こえ、精神が歪んでいれば、歪んだ社会を生きるのに都合がいい。
「絶対音感 = 万能というイメージが、さまざまな幻想と誤解を生み出していった。それは、創造性を左右する魔法の杖でもなければ、音楽家への道を約束する手形でもなかった。」

1. 音響心理学と共感覚
本書は、絶対音感が実に多様な精神現象であることを教えてくれる。
絶対音感が災いして街に溢れる音という音に無関心ではいられない人々がいる。会話の声、電話の音、照明や空調の音、車のクラクション、救急車のサイレン... こうした音がすべて調和するとは考えにくい。読書をしながら BGM が聴けないという人、音楽が周りの音と調和しないと気持ちが悪いという人、ホールの雑音までも音譜として浮かび上がり、気になって演奏に支障をきたすという音楽家など。
一方で、なんなく絶対音感を受け入れられる人々がいる。1Hz ずれた音をしっかりと認識しながらも、周りの調律と合わせて音名と関連づけることができる音楽家など。相対音感に絶対音感を調和させることが自然にでき、音感の抽象レベルが高いということか。絶対音感そのものが害になるのではなく、これを絶対化することの方が、はるかに害になるようである。
また、音楽を聴くと、色彩が見えてくる人々もいるという。ある楽器の音色から赤色が見えたり、ある旋律を聴くと金色が見えたりと。「色聴」という視覚と聴覚が連携する共感覚である。
そういえば、特定の能力を発揮するサヴァン症候群にも、数字から形や色が見えたり、匂いを感じたりする人がいると聞く。色と感情にも相関性がある。赤は情熱、青はクールなど、色彩が明るいか暗いかだけでも気分が変わる。ちなみに、風俗店の壁はピンク系で演出している場合が多い、とバーで聞いた。
共感覚の持ち主は、多感性に恵まれた感性豊かな人で、生まれつき芸術センスを持ち合わせているのかもしれん...

2. ミッシングファンダメンタルと音の死角
音響心理学に、「ミッシングファンダメンタル」という概念があるそうな。心理的印象をもたらす音の要素に、音の高さ、大きさ、音色がある。人間は声や楽器から聴こえる音を、基本周波数を下に感じ取る。純音であれば、単純に基本周波数が耳に入ってくる。だが、実際の音の周波数スペクトルには基本周波数以外の周波数成分が多く含まれている。
そこで、周波数の合成によって、物理的に存在しない周波数を複合音として聴かすこともできる。例えば、片耳に 1000Hz と 1400Hz、反対耳に 1200Hz と 1600Hz を呈示すると、200Hz が聴こえるらしい。脳の幻想によって生じる音というわけだ。ただ誰でも、ミッシングファンダメンタルが感じ取れるわけではない。
また、絶対音感の持ち主でも聴音できない音があるという証言を紹介してくれる。ジャズのテンションと呼ばれるコードトーンを聴いた時、その音名が分からないというピアノ教師。テンションは、音と音がぶつかるので汚く聴こえるという。クラッシックの場合は非和声音だが、ジャズでは緊張感を生むために和声音として使用されているものだったという。絶対音感が先天的なものなのか後天的なものかは分からないが、おそらく双方と関係があるのだろうが、絶対的な能力にも死角があるようである。

3. 「固定ド唱法」と「移動ド唱法」
日本人には絶対音感を持つ人が多く、また欲しがる人も多いという。それは早期教育の影響のようである。そのためかは知らんが、技術偏重で、演奏者に教養の欠片もないと酷評されることも多いようである。
教育の場では、ドレミのダブルバインドがさらに混乱を招いているという。義務教育では「移動ド唱法」が用いられるが、専門教育では「固定ド唱法」が用いられるそうな。
1939年、ロンドンの国際会議で定められた基準音によれば、A(ラ) = 440Hz、C(ド) = 約261Hz に固定された。ところが、義務教育ではドレミは音名ではなく階名であり、何調であっても、長調の主音は「ド」、短調の主音は「ラ」となる。そのために、絶対音感で訓練してきた子供たちは、移動ド唱法に馴染めないらしい。文部省の言い分によると、相対的なドレミの規定は、まったくの素人でも音楽に馴染めるにように考慮されているんだとか。
音の表現法は、イタリア語であったり、フランス語であったり、国によって様々。固定ド唱法を採用しているフランス、イタリア、ロシアなどは、階名は、J. J. ルソーが提唱した数字譜を用いるという。
音名も階名も同じ名前を用いるところに、日本固有の問題があるようである。太平洋戦争時代にはイロハ音名を用い、音感教育も盛んだったという。来襲した飛行機の型を識別したり、B29 の高度を計測したり、スクリュー音で敵船の型や進行方向を感知したりと。交流したヒトラーユーゲントに高度な音感を持つ子供が多かったらしく、その影響もあるようだ。イロハ音名は国粋主義の現れかは知らんが、音名と階名を区別するチャンスはあったようである。

4. 基準音 A = 440Hz の呪縛
1939年、国際規約において気温20℃で、A音は、440Hz と制定された。オーケストラに安定した基準音を提供できる人がいるとありがたい。本書は、「人間音叉」と呼んでいる。
ところが、世界各国でオーケストラの基準音が上昇する傾向にあるという。アメリカでは、カーネギーホールをはじめ主要なホールのスタインウェイピアノの基準音は、442Hz だとか。深刻なのは、ベルリン・フィルやウィーン・フィルの基準音の上昇で、絶対音感だけの問題ではなく、オーケストラ全体の音質にまで影響する事態だという。古楽ブームの影響もあるようで、バッハやモーツァルトの時代は、現在より半音から全音低く調律されていたとされるらしい。
特に、バイオリンなどの弦楽器の音色に影響を与え、オーケストラ全体の緊張感が高まり、音程や音色を均質化するとの批判もあるようである。フルトヴェングラーやカラヤンのもとで打楽器の首席奏者を務めた作曲家ヴェルナー・テーリヒェンは、ベルリン・フィルをバベルの塔に喩えて、こう語ったという。
「コミュニケーション手段としての言語の混乱は、多くの現代曲が理解できないことと対応している。音楽は魂の言語だ。だが、魂は高々と積み上げる嵩上げを必要としない。魂が求めているものは内面への道なのだ。」

5. 妥協の調律「十二平均律」
音階における人間の生得的な性質は、ピュタゴラスの時代から知られている。周波数比率が整数比となる 2:1 のオクターブ、3:2 の完全五度、4:3 の完全四度など、耳に心地よく完全に協和する音の関係が完全音程である。十二音階でいえば、オクターブは「ド」と「ド」の八度の関係、完全五度は「ド」と「ソ」、完全四度は「ド」と「ファ」となり、オクターブが最も協和する。音律は、この音程関係を周波数で相対的に規定したもので、平均律は、1オクターブを12等分した西洋音楽で最も一般的に用いられる音律である。
この音律が成立するまでの歴史は長い。ピュタゴラス音律は、オクターブ、四度、五度のみを用いて音階を構成しようというもの。
12世紀には音楽が複雑化して、三度(ドとミ)の関係が多用されたという。だが、三度音程は周波数比が、64:81 と複雑なため、響きが粗く、同時に2音を奏でると音がワンワン唸るとか。
そこで、響きを美しくするために、三度音程の周波数比を、4:5 にし、これが純正律だという。主要三和音、「ド・ミ・ソ」、「ソ・シ・レ」、「ファ・ラ・ド」の周波数比がすべて 4:5 となり、唸りや粗さがなく、グレゴリオ聖歌のように透明感があるのが特徴だとか。
しかし、純正律で演奏できるのは、ハ長調、ヘ長調、ト長調しかなく、一曲の中に様々な転調のある場合、唸りが生じてウルフトーンと呼ばれる汚い音が響いてしまうという。
そこで、この転調の問題を解決したのが、「十二平均律」というわけである。18世紀末からドイツで普及し、19世紀後半に世界中に広まったとされる。平均律は、純正律に比べると、三度や五度の音程は少し汚く濁って響くが、どの調にも均等なために転調が可能である。そのために、「妥協の調律」とも言われるそうな。
ピアノによって絶対音感を身につけた人たちの大半は、この十二平均律をラベリングした人ということか。テレビから流れる音楽から街角で流れるBGMの群れなど、耳から無理やり入ってくる音楽すべてが平均律で則っているとすれば、聴覚が離散化していることは否めない。そして、木々のざわめき、滝の音、川のせせらぎなど、自然の音を聴く能力は退化するのだろうか?それは、絶対音感の持ち主だけの問題ではなさそうである。

2016-06-12

"音さがしの本 リトル・サウンド・エデュケーション" R. Murray Schafer 著

土砂降りで雨音のやかましい梅雨の日、古本屋を散歩していると、音のオアシスのような書を見つけた。論理的な記述から解放してくれるような... 惚れっぽい酔いどれは今、ドビュッシーの「野を渡る風」と「西風の見たもの」を聴きながら記事を書いている...

騒がしい社会に慣らされれば、沈黙して周りの音に耳を傾けることを忘れる。つい周りに負けじと声高に捲し立て、自分の心に耳を澄ますことまで怠ってしまう。日常、耳にする音から、どれだけ音の風景を感じながら生きているだろうか...
Soundscape の提唱者マリー・シェーファーは、普段の生活の中から音の素材を探すエクササイズを紹介してくれる。少しの間、静かに座って耳を澄ましてみよう... 聞こえた音を紙に書き出してみよう... 書きだした音を大きな音から小さな音まで並び替えてみよう... 一番綺麗だった音は?一番嫌いな音は?こうしたことを家や公園や学校で試してみよう... 街角で目を閉じたまま試してみよう... 外へ出てリスニング・ウォークをやってみよう... 音の日記をつけてみよう... といった具合に。尚、Soundscape とは、音の風景といった意味で、Landsacpe(景観)に対比する造語である。
本書の対象は、十才から十二才の子供に相応しく、中高校生にとっても刺激的だとしている。しかし、だ。むしろ耳の腐った大人のための書ではあるまいか。そこに皮肉を感じるのは、おいらの魂が腐っている証であろうか...
「おしゃべりをしながら、何かを聞くのはむずかしいことだ。一日のわずかな時間でいいから、みんながおしゃべりをやめて、世界に耳を傾けるようになったら良いのに、と思うことがある。世界はきっともっと住みやすい場所になるだろう。」

音とは何かを探求すれば、必然的に沈黙とは何かを問うことになる。しかしながら、自然界に完全な沈黙は見当たらない。風のざわめき、木々の擦れる音、小川のせせらぎ、滝の音、鳥のさえずり、虫の鳴き声... 人間が一人いるだけで、息遣い、足音、関節の音、心臓の音... おまけに生活空間には、コンピュータ、エアコン、冷蔵庫などの機械音が散乱し、静まった部屋ですら時計の音がカチカチと...
それでいて、自動車のエンジン音やバイクの単気筒音に心が踊らされる一方で、軍事基地周辺でヘリコプターやジェット機の音を聞かされれば気が狂いそうになる。
様々な音環境において、真に聴覚が欲するものとは何であろう?ハイパーソニック・エフェクトを唱えた大橋力氏は、著作「音と文明 音の環境学ことはじめ」の中で、必須音という概念を持ち出していた。物質の世界にビタミンのような必須栄養素があるように、音の世界にも生きるために欠かせない音素があると。しかも、可聴域を超える音域にも、善かれ悪しかれ生理的に影響を与えるものがある。ひと昔前は、鉛筆が紙の上を走る音が心地よかったものだが、今では、キーボードを叩く音が静かな空間を支配し、これまた心地良い。無響音室に入ると居心地の悪さを感じるのは、やはり何か音素を求めているのだろうか?情熱的な夜でピロートークに心の拠り所を求めるのも、やはり何かの囁きを欲しているからに違いない...

1. 心に奏でる懐かしい音
長らく人間の耳の可聴域は、20Hz から 20kHz とされてきた。CD が登場した時代、アナログレコードの方が耳に優しい!などと感想をもらすと馬鹿にされたものだ。そして今、巷で騒がれるハイレゾ音源には、可聴域の上限をはるかに超える周波数成分が含まれる。わざわざ自然の環境音を求めて CD を買い求めたところで、サンプリング周波数 44.1kHz、すなわち、再生周波数の上限 22kHz の壁に阻まれる。
確かに、オーケストラやバンドの演奏を聴くとワクワクする。だが、大き過ぎる音に気をつけなければ、鼓膜を傷つける。自然界の音は、人間の聴覚をあまり傷つけたりはしない。いくら土砂降りの音がうるさくても、嵐や雷の音が轟こうとも、耳を傷つけたりはしない。真夏に発情期のごとくアブラゼミのやつらが鳴き狂えば、精神までも狂わされるけど。情報が洪水のように溢れる社会では、人を盲目にさせるだけでなく、耳までも難聴にさせるものらしい...
「サウンドスケープは、いつだって変化している。古い音は、いつも消えていく。いったいそういう音は、どこにいってしまうのだろう?前に聞いたことがあるのに、もうぜったいに聞くことができない音を、いくつくらい知っているかな?」

2. 音楽と論理性
音楽を記号によって表現すれば、より複雑になっていく。それは、知性や理性では収拾のつかない言葉以前の混沌を記述しようとするからであろう。とはいえ、音楽そのものがメソッド化し、洗練されていくこと自体は悪いことではない。問題なのは、そこに音楽そのものへ向かう求心力があるかどうか...
「数字を含む言語は、巷の事象を合理的に写し取るための最も効率のよい道具である。論理に裏づけされたそのようなマナーを、西洋人たちはロゴスと呼んだ。知性や理性は、ことばを基盤としたロゴスによって成り立っている。では、音楽はこのロゴスによって隅々まで解明されるのだろうか。十九世紀、西洋音楽の修辞学の伝統も、ことばと完全に一致するわけではない。音響を数値化してみても、われわれは数に心を動かされるわけではないようだ。」

3. BGM を心の拠り所に
音楽は、いろんな気持ちにさせてくれる。BGM をちょいと付け加えることによって、その場所がもっと楽しくなる。勉強や仕事をする場所は、静かな方が適していると言われる。共有の場所では、音楽の好みも違えば、個々の精神状態も違うので、その通りだろう。しかし、一人の環境ではどうだろうか?
十年以上前、ベンチャー企業と称するアドベンチャーな会社で働いていた頃、会話もなく静まり返った職場が心地よかった。電話の音は迷惑千万!メールやメッセンジャーは環境に良いツールだとつくづく感じたものである。ただ、キーボードを叩く音が気になってしょうがない。やがて従業員たちはヘッドホンを着用するようになった。あちこちの大企業から逃避してきた人の集まりでは、自然に自由な空気が漂い始める。それぞれに音楽を聴いて互いの領域を侵犯しないように心がける。もっとも独立しちゃえば、独りの空間を謳歌し、独り言も言いたい放題!しばしば仕事の気分を盛り上げるために音楽で誘導する。

4. 聴覚に発する想像力
聴覚に対する想像力は、視覚に対するそれとは広がりが違う。見たまんまという説得力では視覚の方が優るが、芸術心の根本には雰囲気ってやつがあり、感覚や感性が潜在意識を覚醒させる。感知能力の指向性においても、視覚は目で見通すことのできる範囲に限られ、聴覚は上下左右ほぼ全球面をカバーし、危険察知能力で聴覚に頼るところが大きい。

「ラジオドラマはやっぱりいいですねぇ。ぼくの持論なんですけど。ラジオドラマには、デレビドラマにはない良さがある。例えば、テレビで SF をやるとしますよね。アメリカ映画に負けない映像を作るためには SFX やら、コンピュータグラフィックスやら、やたらお金がかかるわけです。
ところがラジオなら、ナレーターがひとこと、ここは宇宙!と言うだけで、もう宇宙空間になっちゃうんですから。人間に想像する力がある限り、ラジオドラマには無限の可能性がある。ぼくはそう思うなぁ。ぼくは好きだなぁ、ラジオドラマ!」
... 映画「ラヂオの時間」より

2016-06-05

"新文章読本" 川端康成 著

立ち読みをしていると、吸い込まれるように手にとってしまう類いに、文章読本ってやつがある。小説家たちが名文を集めて解説を施した文章論である。
なぜ、こんなものに?文章をうまく書きたいという意識が、心のどこかに残っているのか?義務教育の時代、文章力の欠如は既にお札付き。作文の悪い例として皆の前で読まれ、以来、国語は大っ嫌いになり、成績は常に学年最下位。諦めの境地は、開き直りの境地にある。そんなおいらでも、文章を書くことは嫌いではない。まず、いかに読むかを問う三島由紀夫版を、次に、いかに書くかを問う丸谷才一版を、そして、本格派の誉れ高い谷崎潤一郎版を手にとってきた。
「文は人なり」とはビュフォンの言葉だが、川端は「文章は人間の命」と書いている。本書には、技巧や技術といったものが見当たらない。理論的文章論では語れない文章論があると言わんばかりに...
「文章の不可欠の要素について... すなわち、調子、体裁、品格、含蓄、余韻等についても、説明すべきことは多い。しかし一面また思えば、少なくとも小説の文章に於ては、くりかえしてのべ来った如く、凡百の理論も一つの実践に劣る。いずれを優とし、いずれを劣とする方則も、こと文章に関してはあり得ぬ。理論上の劣をとりあげて、名文となし得た作家も少なくないし、理論上の優をふみながら、遂に名文を書き得なかった例はまた頗る多いのである。」

逝ってしまった者は、少なからず生きる者を不安にする。それは、生きてある者もまた同じ運命にあることを、知らしめているからではない。死者が今もなお揺り動かしてやまないのは、この世に何かを残しているからだ。意志の痕跡なるものを... 忘却してしまうには後ろめたさを感じるようなものを...
文章とは、一つの生命体のごときもの。大袈裟に言えば、単語の選択ひとつにも、書き手の魂が宿る。川端は、文章とは作家にとって皮膚のようなものだという。確かに、文章と魂はけして切り離せないモナドロジー風な感覚を覚える。ただ、すべての文章がそうなるわけではない。ほとんどの文書は命が与えられる前に消え去っていき、鳥肌が立つようなものは達人の手によって命が吹き込まれる。真の文章か?誤魔化しの文章か?小説家にとって、命がけの問い掛けとなろう。本物と信じているものが実は誤魔化しであると知った時、彼らは地獄を見る。文体の破壊を試みては、魂の破壊を招いてきた作家たち。書けなくなることも珍しくない。表記法の合理化が進んでも、はたして精神の合理化は進んでいるのか。新たな境地を求めるとは、精神破綻を覚悟するということか。言葉の商業主義化が進む御時世、小説家にはいつまでも自由の砦を守っていってほしい...

尚、これは、フローベールの有名な言葉だそうな。モーパッサンの「ピエールとジャン」の中にあるとか...
「われわれの言おうとする事が、例え何であっても、それを現わすためには一つの言葉しかない。それを生かすためには、一つの動詞しかない。それを形容するためには、一つの形容詞しかない。さればわれわれはその言葉を、その動詞を、その形容詞を見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるために良い加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。どんな微妙なことでも、ボワロオの『適所におかれた言葉の力を彼は教えぬ』という詩句の中に含まれた暗示を応用すれば、いいあらわすことが出来る。」

1. 文章のノスタルジー
川端は、文章を単なる小説の一技術とみなす風潮が、どれほど文学を貧しくしてきたか、と問いかける。
「つねに新しい文章を知ることは、それ自身小説の秘密を知ることである。同時にまた、新しい文章を知ることは、古い文章を正しく理解することであるかも知れぬ。」
言葉の変化は、思いのほか早い。平安時代には平安調の言葉があり、元禄時代には元禄調の言葉があり、現代には現代調の言葉がある。同時に時代を超えた文章の調子がある。鴎外調、夏目調、芥川調、鏡花調、荷風調... 等々。はたまた世界を股にかける文脈の力がある。ホメロス調、ダンテ調、ゲーテ調、ドストエフスキー調... 等々は翻訳語までも凌駕する。もはや名文は作者の元を離れ、独り歩きをはじめる。幽体離脱がごとく。かと思えば、名文は読者たちの魂と結びつき、それぞれの心の中で生き続ける。霊魂融合がごとく。
人類の叡智としての文体の普遍性と、個人の心の中で奏でるリズムの多様性は、こうも相性が良いものであったか。おいらの場合、読書にはその時々の気分に合った BGM が欠かせない。生命の宿る文章には、ある種のノスタルジアを覚える。
「少年時代、私は源氏物語や枕草子を読んだことがある。手あたり次第に、なんでも読んだのである。勿論、意味は分りはしなかった。ただ、言葉の響や文章の調を読んでいたのである。それらの音読が私を少年の甘い哀愁に誘い込んでくれたのだった。つまり意味のない歌を歌っていたようなものだった。しかし今思ってみると、そのことは私の文章に最も多く影響しているらしい。その少年の日の歌の調は、今も尚、ものを書く時の私の心に聞えて来る。私はその歌声にそむくことは出来ない。」

2. 文章の第一条件
世間では、芸術的文章と実用的文章を区別するようだが、川端はこの差別を認めない。文章とは、感動の発するままに、思うことを率直に簡潔に分り易く述べることを良しとするからであると。文章の第一条件は、簡潔と平明にあるという。いかなる美文も、理解を妨げるものは卑俗な拙文にも劣ると。
しかしながら、作家と読者の間で心理活動を一致させることは難しい。作家の複雑な心理過程を率直に描写したところで、誤解を招くこともしばしば。高尚な芸術を理解するには、読者もまた高みにのぼらなければならない。読者の目が肥えてくると、今度はより優れた芸術性を求めてくる。そうなると、どちらが牽引役なのやら。
かつて文章は、小説家のものであった。高度な情報化社会では、発言のためのツールが豊富になり、あらゆる専門知識が庶民化していく。言葉の理解は、人と人との間の契約によって成り立ち、完全な自由を求めたはずの文章が、今度は制約を受けることになる。
「言葉は人間に個性を与えたが同時に個性をうばった。一つの言葉が他人に理解されることで、複雑な生活様式は与えられたであろうが、文化を得た代りに、真実を失ったかもしれない。」

3. 独自の文体への夢
「作者の気魄と気品とが溌剌と躍動し超俗の風懐が飄々と天上に遊ぶ『気韻生動』の境地は、芸術の妙境には相違ないが、現代作家のうちでは僅かに徳田秋声、泉鏡花、葛西善蔵、志賀直哉、横光利一等の数氏にしか、これを見ることが出来ないのは残念である。」
年の功を経てくると、文章の癖は風格や心境の衣を纏うものらしい。細かい文章を書く作家は、だいたい話上手なのだとか。繊細で多感であるがゆえに、想像力を豊かにさせるのだろうが、同時に精神的リスクを抱えている。文章が精神の投影であるならば、精神の限界を攻めるは必定。おまけに、芸術は孤独と相性がいい。
一方、読者は気楽なもんだ。自分自身の文体を築き上げる必要もなければ、ただ好みの作家を嗅ぎ分けるだけでいい。作家たちの敏捷自在な心の働きが、読み手をふと文章の幻想世界へ導いてくれる。とはいえ、凡人は凡人で夢がある。独自の文体は、生涯をかけて獲得すればいい。いや、獲得できれば運がいい...
「文章でもつねに怠らぬ努力は、いつか作者の血となり肉となるのではあるまいか。才能豊かな作家は、その才能によって、自らの文章を作るであろうし、一方才能薄い作家は作家で、努力のはてに、己の文脈を発掘するであろう。すでに述べた先輩作家の中でも、泉鏡花、里見弴の両氏にくらべて、単に文章の生まれつき才能の点からいえば、徳田秋声、菊池寛の両氏のごときは、はるかに劣る。しかしながら、その作品を今日みれば、それぞれの特長の上に立派な文章の花は咲くといえようか。生まれつきの天分によって切り開いた、鏡花、弴両氏の文章の持たぬ世界を、秋声、寛両氏は、努力の涯に作り上げたといえるであろう。」

4. 口語体と文語体
古典文学は、文語体で書かれた。そこには、土佐日記や源氏物語のような和文調と、保元物語や平治物語のような軍記物に見られる漢文調がある。和文調は早くから廃れたが、漢文調は意外にも簡素な音律が長持ちさせたようである。ホメロス調が生き残ってきたのは、その音律にあるのだろう。偉人たちの名言にも、どことなく音調が整っている。端的なリズムは、記憶に残りやすい。そこに口語体が結びつけば尚更。現在でも、分り易くインパクトのあるキャッチフレーズ戦略が重宝される。
とはいえ、文語体も捨てたもんじゃない。音感的効果と視覚的効果の双方に訴えることで、文章に高級感を演出する。いずれにせよ、文章がいかに書き手の魂を描写できるか、そして、いかに読者に訴えられるか、に尽きるのであろうけど。
「国民性を変えずして、言語の変化は困難である。ましてや国民性と俗にいわれるところのものは、単に精神的なことのみではなく、気候、風土、体格、習慣等に厚く裏打ちされていることを思えば、一層である。」
時代はいつも新たな文体を求め、いっそう喋るような表現を要請してくる。TED.com などに見るプレゼン手法は、この類いか。言語システムは、やはり自然で精神により近い形を求めるようである。
自然主義派の態度は「話すように書く」、対して、文藝時代派の態度は「書くようにして書く」であるという。新しい時代の新しい精神は、新しい文章によってしか表現できないと。そして、国語教育に苦言を呈す。
「最近の、新仮名遣いの問題、漢字制限の問題もその間に政治的な一種の強いるものがなければ、容易に否定も肯定も出来ないであろう。徒らな懐古趣味や保守主義は、生きている言葉を死滅させること、無理解な統制が言葉を枯死せしめると同様、罪は共通する。」

5. センテンスの長短
「センテンスの長短は、それぞれ特長と欠点を持って、その優劣は決すべきではないが、要は、用語と同様、このセンテンスの長短にそれぞれの作家の作風あり、と知るべきである。」
センテンスの長短にも作家の文学観が現れるようで、戦後、センテンスが長くなる傾向にあったという。西洋文学の影響か。
尚、川端自身は、センテンスの短い作家に分類されるそうで、だからといって、短いセンテンスの賛美者ではないと語る。心の中に奏でる音調は、人それぞれ。種々風趣を含ませてこそ、真の文章が生まれるという。一概には言えないが、短編小説には短いセンテンスが、長編小説には長いセンテンスが合うようである。
また、作家の健康状態の反映とする説もある。血気盛んな青年は、ダイナミックな文体を綴るのに短いセンテンスを用い、老年になると、センテンスも次第に内省的に緩やかな長い波を持つようになるとか。おいらの文章が長ったらしく、まったりしてくるのも、歳のせいであろうか。
長いセンテンスは、詳悉法の傾向を帯び、多分に修辞とも握手するという。もし、長いセンテンスが、修辞と握手せず常識と握手すれば、冗長で退屈極まる文章になるに違いないと。それゆえ詞姿の変化を好み、修辞を愛する作家は、長いセンテンスによる複合文を多く駆使すると。
短いセンテンスは、素朴で明快な感じがある。圧力感を与えることもあろうが、説得力があるとも言える。漱石の「吾輩は猫である」に見るピリオド越えの技には、溜め息しか出ない。
ちなみに、技術論文や研究論文では短いセンテンスが好まれる。だが、天の邪鬼な酔いどれは、センテンスだけでなく内容まで冗長ときた。おまけに、冗談の一つも忍ばせないと気が済まない。そういえば、むかーし、ある会社で悪い事例として紹介されたこともある。
川端は、文章の第一条件に簡潔と平明を挙げていた。短いセンテンスの方が、簡潔で分かりやすい。ただ警戒ずべきは、長所に酔って、うかと短所を見逃してしまう、とも言っている。
「短いセンテンスは、時として色も匂いもない。粗略単調な文章となる危険を持つ。性急で、無味乾燥な、文章となれば、そこに詩魂も枯れ、空想の翼も折れるであろう。反面、長いセンテンスは、徒らに冗長に失してその頂点を見失う事が多い。」

6. 描写万能論批判
新進作家時代に、小島政二郎が唱えた「描写万能論」というものもあるそうな。川端は、描写と説明の調和論を唱える。描写と説明は、車の両輪の如く、文章には欠かせないという。描写とは、事物を具象化すること、具体的に書き現すこと、感覚に訴える世界を言葉で築きあげること。説明とは、より客観的な視点を加えることになろうか。主観と客観の調和という見方もできそうで、ある種の対称性をなしている。
「描写も説明も、立派な文章の場合は、渾然一になるべきで、描写のための描写、説明のための説明ということは敢言すれば邪道であろう。描写すべきところは描写し、説明すべきところは説明する... 文章の要は、そこにつきる。」

2016-05-29

"富嶽百景・走れメロス 他八篇" 太宰治 著

おいらは、「走れメロス」を一度も読んだことがない。なのに、これほど筋書きを知っている小説があろうか。それは、待つという行為に焦点を合わせたもの。作品そのものより、こんな逸話の方を知っているとは、なんとも奇妙である。

... 太宰は執筆のため熱海の宿を借りた。金を使い果たしたことを妻に伝えると、壇がお金を持ってきてくれた。その日のうちに、二人は酒を飲んで金を使い果たしてしまう。ミイラ取りがミイラになったとさ。太宰は宿代が払えず、金を借りに単身東京へ帰るが、何日待っても戻ってこない。しびれを切らした壇が東京へ帰ると、なんと太宰は借金を言い出せずに、井伏の家で将棋をさしていたという。怒った壇は、太宰から思いがけぬ言葉を耳にする...
「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。
 この言葉は弱々しかったが、強い反撃の響きを持っていたことを今でもはっきりと覚えている。」
... 檀一雄「小説 太宰治」より

「走れメロス」は、明るい友情物語として親しまれている。だが、それは太宰の本意であったのか。信頼されているから裏切れないとすれば、信頼されていなければ裏切れるというのか。ここには、ある種の見返りの原理が働いている。太宰にとって、正義だの、誠実だの、友情だの、権威だの、名誉だの... すべて通俗で嘘っぱちだったのか。そして、崇高な世界観も、自然な芸術も、彼自身の文体も... だから、虚無な自我を抹殺せずにはいられなかったのか...
太宰は、百四十近い短編を残し、四十で死んだ。小説でも書いていなければ、やってられない人生とは、いかなるものか。自我を肥大化させた結果なのか。理想が高すぎるが故の結末か。芸術家だから余計に感じるのかもしれない。凡人は目の前の幸せにすら気づかないでいる。醜い自我を曝け出さなければ、自惚れ屋でなければ、狂うほどのものがなければ、小説なんて書けやしまい。出来の悪い子ほど可愛いというが、出来の悪い自我ほど可愛いものはない。可愛がるからこそ、出来が悪いのかもしれんが...

本書には「魚服記」、「ロマネスク」、「満願」、「富嶽百景」、「女生徒」、「八十八夜」、「駈け込み訴え」、「走れメロス」、「きりぎりす」、「東京八景」の戦前の十作品が収録される(岩波文庫)。どの作品も比喩や暗示が効いていて、なんとも煮え切らない、いや、見事な思わせぶり。そして、やがて辿り着く人間失格を予感させる。漠然とした不安とは、文学への殉教であったか...

1. 魚服記
本州北端の梵珠山脈に、馬禿山というのがあるそうな。麓を流れる滝では、夏の末から秋にかけてよく紅葉し、人々で賑わうという。父と娘が、この地に移り住んできたのは、娘スワが十三の時。二人は炭小屋に住む。父は滝壺のわきに小さな茶店を開き、店番はスワの役目。黄昏時に父が迎えに来ると、いつもの平凡な会話をする。「なんぼ売れた... なんも...」
ある日、スワは滝壺の傍に佇み、昔、父親が話したことを思い出す。それは、三郎と八郎という木こりの兄弟の物語。弟の八郎が魚をたくさんとって帰ると、兄の三郎が帰らぬうちに一匹食べ、二匹三匹と食べてはやめられず、全部食ってしまう。そして、喉が渇いて井戸の水をすっかり飲み干すと、体中に鱗が吹き出て、大蛇になってしまった。三郎が帰ってきて「八郎やぁ」と呼ぶと、大蛇が涙をこぼして「三郎やぁ」と答えたとさ。
さて、この日も父が迎えに来ると、「なんぼ売れた」と聞く。だが、スワは答えない。まことに木こりの兄弟の会話のごとく、虚しさを感じるのだった。そして帰り道...
スワは父に聞く、「お父(ど)。おめえ、なにしに生きでるば。」
父は肩をすぼめて答える、「わからねじゃ。」
スワは厳しい顔で言う、「くたばったほうあ、いいんだに。」
父は、ぶちのめそうと思ったが、こらえて受け流した、「そだべな、そだべな。」
スワは、その返事が馬鹿くさくて怒鳴る、「あほう、あほう。」
盆が過ぎて茶店をたたむと、父は炭を背負って村へ売りに出かけ、スワは一人残って茸を採りに行く。父は、炭や茸がいい値で売れると、決まって酒臭い息をして帰ってくる。この日は、木枯らしのために朝から山が荒れていた。父は早暁から村へ降りていき、スワは一日中小屋へ籠もっていた。夜になり、うとうと眠っていると、白いものが舞い込む。初雪である。疼痛!身体がしびれるほど重い。おまけにあの臭い息。
スワは「あほう。」と叫んで外へ出た。吹雪の中、滝に吸い込まれるように歩き、低い声で「お父(ど)!」と言って飛び込んだ。気がつくと辺りは薄暗く、滝の響きが頭の上でかすかに感じられる。ここは水底、スワは大蛇になってしまったのだと思った。「うれしいな!もう小屋へ帰らなくていい」と言うと、口ひげが大きく動く。スワは大蛇ではなく、鮒になって泳ぎまわっていた。そして、滝壺へ吸い込まれていく。太宰の運命となる入水自殺を暗示するかにように...

2. ロマネスク
三つの物語の共演...
「私たち三人は兄弟だ。きょうここで会ったからには、死ぬとも離れるでない。いまにきっと私たちの天下が来るのだ。私は芸術家だ。仙術太郎氏の半生と喧嘩次郎兵衛氏の半生とそれから僭越ながら私の半生と三つの生きかたの模範を世人に書いて送ってやろう。かまうものか。うその三郎のうその火炎はこのへんからその極点に達した。私たちは芸術家だ。王侯といえども恐れない。金銭もまたわれらにおいて木の葉のごとく軽い。」

一つ目の物語「仙術太郎」
津軽の庄屋、鍬型惣助は、幼い息子の太郎の発する言葉から、預言者としての能力を信じる。親馬鹿か。太郎は、仙術の本に没頭する。蔵の中で一年修行し、ようやくネズミと鷲と蛇になる術を覚えた。とはいえ、単にその姿になるだけのことで別段面白くもない。惣助はもはや我が子に絶望していた。それでも負け惜しみに、出来過ぎた子なのじゃよ!
太郎は、津軽一番の男になりたいと念じ、十日目に成就する。だが、鏡を覗いて驚く。色が抜けるように白く、頬はしもぶくれで、もち肌、目は細く、口ひげがたらりと生えている。それは天平時代の仏像の顔であって、しかも股間の逸物まで古風にだらりとふやけている。仙術の本が古すぎたのだ。古風な二枚目は現代の間抜け面、これでは女にモテない。おまけに、仙術の法力を失って元に戻れない。太郎は絶望し、村から出て行く。あらゆる欲望が無欲の境地へ導き、ついに、人間であることを飽きさせるものであろうか...
「太郎の仙術の奥義は、ふところ手して柱か塀によりかかってぼんやり立ったままで、おもしろくない、おもしろくない、おもしろくない、おもしろくないという呪文を何十ぺん何百ぺんとなくくりかえしくりかえし低音でとなえ、ついに無我の境地にはいりこむことにあったという。」

二つ目の物語「喧嘩次郎兵衛」
醸造業を営む鹿間屋逸平の長男は世事に鈍く、己の思想に自信が持てず、父の言うとおりに生きた。次男の次郎兵衛は兄と違い、是々非々の態度を示す傾向があり、商人根性を嫌った。それだから、ならず者と評判される。次郎兵衛は、二十二歳の時、喧嘩上手になってやると意気込む。馬鹿な目にあった時は、理屈も糞もない。ただ力が正義!
まず、喧嘩は度胸。次郎兵衛は、度胸を酒でこしらえる。次に、ものの言いよう。喧嘩の前には気のきいたセリフが欲しいと日夜訓練。そして、いよいよ喧嘩の修行に励む。彼は武器を嫌った。卑怯だから。殴る時の拳を研究した挙句、殴り方にもコツがあることを発見する。また、自分の身体を隅々まで殴ってみて、眉間と鳩尾(みぞおち)が急所であることを知る。男の急所を狙うのは、やはり卑怯。
父は、次郎兵衛が何かしらの修行をしていることに気づき、大物になったように感じ、火消し頭の名誉職を継がせた。しかし、名誉が与えられると、皆から慕われ喧嘩の機会が減る。やけくそで背中に刺青をすると、ならず者にまで敬われ、完全に喧嘩の望みが絶たれる。
ある日、妻の酌で酒を飲みながら、俺は喧嘩に強いんだぞ!とじゃれてみせ、妻を殺してしまった。次郎兵衛は、牢獄で念仏ともつかぬ歌を、憐れなふしで口ずさむ。
「岩にささやく 頬をあからめつつ おれは強いのだよ 岩は答えなかった」
人間ってやつは、自分の能力を誰かに認めてもらいたくてしょうがいないもの、つまらぬ見栄のために墓穴を掘る...

三つ目の物語「うその三郎」
宗教学者の原宮黄村の息子、三郎は父の蔵書を次々に売却し、六冊目に見つかり折檻された。泣く泣く悔悟を誓うが、これが嘘の始まり。
三郎は、隣家の愛犬を殺した。ある夜、犬はけたたましく吠え、父は三郎に見に行ってこい!と命じる。犬がじゃれつき、甘ったれた様子に憎悪を抱いて、石を投げつけると、頭に命中して死んだ。そして、犬は病気で明日死ぬかもしれません、と報告した。
三郎は、遊び仲間を橋から突き落として殺した。理由はない。拳銃を持てば、ぶっ放したくなる発作と似た気分に襲われた。そして、友人が川に落ちたと叫んで泣きじゃくり、人々の同情を引く。葬儀にも平然と参列した。
人に嘘をつき、己に嘘をつき、犯罪ですら美化し、とうとう嘘の塊と化す。「人間万事嘘は誠」
父、黄村が死んだ。遺言には、こう書かれていた。
「わしはうそつきだ。偽善者だ。... わしは失敗したが、この子は成功させたかったが、この子も失敗しそうである。」
三郎は、ハッとする。見透かされたか。三郎の罪は、幼き頃の人殺しから始まった。父の罪は、己の信じきれない宗教を人に信じさせたことにあった。重苦しい現実を少しでも涼しくしようと、人は嘘をつく。適量を越えると、さらに濃度の高い嘘をつく。まるで麻薬だ。嘘の技術は切磋琢磨され、やがて引け目を感じることもなくなり、自我の中で真実の光を放つ。もはや、無意識無感動の痴呆の態度に救いを求めるしかない。しかし、これも嘘だ。嘘のない人生なんてあるものか...

3. 満願
恐ろしく短い、超短編小説... 小説「ロマネスク」を書いていた頃のエピソード。
ある夜、酔って自転車に乗り、怪我をした。傷は浅いが、出血が酷く、慌ててお医者さんに駆けつける。町医者も同じくらい酔っていて、ふらふらと診察室に現れたので、互いに大笑いする。その夜から、二人は意気投合。
医者の家では、五種類の新聞をとっていて、毎朝、読ませてもらうために散歩で立ち寄る。その時刻に、薬を取りに来る若い女性。医者は、「奥さん、もうすこしの辛抱ですよ!」と大声で叱咤する。旦那さんは三年前に肺を悪くしたが、だんだん良くなっている様子。
そして八月の終わり、奥さんが白いパラソルをくるくる回して歩き、その姿が一段と美しく見える。すると、医者の奥さんがささやく。
「今朝、おゆるしが出たのよ!」
おゆるしとは、なんだ?夫婦生活のことか。
「あれは、お医者の奥さんのさしがねかもしれない。」
あれとはなんだ?医者の奥さんも欲求不満を愚痴って、早くおゆるしを出してあげなさいよ!ってか。執筆で苦慮するもやもやさを、性欲のもやもやと重ねたような物語であった...

4. 富嶽百景
御坂峠の頂上には天下茶屋という小さな茶店があるそうな。昭和十三年の初秋、思いを新たにする覚悟で甲州へ旅に出た。井伏鱒二が初夏の頃から、この二階に籠って仕事をしていることを、知っていたからである。この方面からの眺めは富士三景の一つに数えられるが、あまり好きではないという。それどころか軽蔑していると。
「富士には月見草がよく似合う... 富士なんか、あんな俗な山、見たくもない、高尚な虚無の心...」
井伏が帰京すると、今度は太宰が九月から十一月まで、御坂の茶屋の二階で仕事をした。富士三景とへたばるほどの対話。どうも俗だねぇ。お富士さん...
太宰は、世間を恐れていたのか?それとも人間を恐れていたのか?富士はみんなが崇める存在、だから反発しているのか。心を癒やすために他の山に登っても、甲州のどの山からも富士が見え、却って気が重くなる。
しかしながら、さんざんコケにした富士を、いつの間にか心のつぶやきの相手にしている。お富士さんに化かされ、妥協し、頼みの相手とし... 弄ばれているのは、いったいどっちだ。
「世界観、芸術というもの、あすの文学というもの、いわば、新しさというもの、私はそれらについて、まだぐずぐず、思い悩み、誇張ではなしに、身もだえしていた。」
十一月になると、外套を着た若い娘二人が訪れた。シャッターを切ってくださいな!都会風の女性から頼まれて、狼狽する。だが、レンズを覗くと、二人をレンズから追放して、こっそり富士山だけを撮った。現像したら驚くだろうなぁ... 次の日、山を降りた。冗談でもやってなきゃ、生きちゃおられん...

5. 女生徒
女性の独白体は、太宰文学のお家芸とう評判を聞いた。なるほど、文体のリズムはお見事!
主人公は、お茶ノ水のある女学校に通う少女。彼女にとって朝は、かくれんぼの時、押入れの中で隠れていて、突然、襖をあけられ、みぃつけた!と大声で言われるような、ちょっと照れくさい感じ。いや、もっとやりきれない虚無な世界。悲観的で、後悔するばかりの毎日。
父の死を考えると不思議に思えてくる。死んでいなくなるということは、どういうことか。平凡な日常で哲学するものの、苦労知らずでポカンと生きていれば、感受性の処理がおぼつかない。
大人たちは、もっともらしいことを言う。宗教家は信仰の大切さを説き、政治家は正義を声高に唱え、作家は気取った言葉を用い、教育家はいつも恩、恩、恩...
批判しても責任は持たない。本当の意味の自覚、自愛、自重がない。本当の意味の謙遜がない。みんな同じことを言っているだけ。独創性に乏しく、模倣があるだけ。上品ぶっても気品がない。しかし、そんな大人たちの態度が、自分にそっくりなことに気づいていく。
「自然になりたい。すなおになりたい。... 本なんか読むのやめてしまえ。観念だけの生活で、無意味な、高慢ちきの知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。」
感傷に浸っても、自己愛を慰めているだけ。本当の自由は、いったいどこにあるの?過去、現在、未来を重ねながら、心の準備が整わないまま大人になっていく。素直に生きる難しさと、卑屈に生きる現実。こうしたものをひっくるめて、漠然とした不安として描かれる。情緒不安定で自省的な心を、懐かしんで書いているような...

6. 八十八夜
作家の笠井さんは、信州へ旅に出た。痴呆症のごとく。分かっているのは、一寸先は闇だということだけ。人生とは、それが望むものでないとしても、前に進むしかない。認識能力がエントロピーに支配されている以上、油断は禁物。必死に生きていくか、必死に死んでいくか、他に選択肢はない。いや、もう一つだけある。死んでいるかのように生きること。卑屈に、静かに狂気を謳歌すること。まるで死神よ。
「非良心的な、その場限りの作品を、だらだら書いて、枚数の駈けひきばかりして生きて来た。芸術の上の良心なんて、結局は、虚栄の別名さ。浅はかな、つめたい、むごい、エゴイズムさ。生活のための仕事にだけ、愛情があるのだ。陋巷の、つつましく、なつかしい愛情があるのだ。」
過去をすべて捨て去ることができたら、幸せになれるだろうか。しかし、笠井さんは、過去を捨て去ったわけではない。
去年の秋、諏訪の温泉で下手な仕事をまとめるためにお世話になった女中さんが忘れられない。秘かに期待を膨らませるアバンチュール!旅館に着くと、女中の声がさわやかに響く。浴場で泳いだ。バックストロークまで敢行した。そして、酒をくらった。ベロンベロン!女中さんが寝床を敷いてくれたが、ゲロを吐いた。すぐに敷布を換えてくれた。もう紳士ではありえない。これもロマンス?
翌朝、女中さんと顔を合わし、いたたまれない。羞恥や後悔などそんな生ぬるいものではない。死んだふりをしたい。だが、女中さんは爽やかに応じてくれた。玄関では、女将をはじめ女中さんたちが、笑みでお見送り。その中を、逃げるように旅館を去っていく。
「世界の果てに、蹴込まれて、こんどこそは、いわば仕事の重大を、明確に知らされた様子である。どうにかして自身に活路を与えたかった。暗黒王。平気になれ。まっすぐに帰宅した。お金は、半分以上も、残っていた。要するに、いい旅行であった。皮肉でない。笠井さんは、いい作品を書くかもしれぬ。」

7. 駈け込み訴え
キリストへの思いを、イスカリオテのユダに代弁させる。ただ愛が欲しいと...
あなたは、いつも優しく、いつも正しく、いつも貧しい者の味方で、いつも輝くばかりに美しかった。だが、先に逝ってしまわれた。無責任だ!無報酬の純粋な愛を受け入れよ、薄情な主よ!
宗教で何が救われるというのか?あなたに殉ずる他に何が出来るというのか?俗界は、人間には危険過ぎる。弱い卑屈な心が肥大化すると、もう手がつけられない。自我に対してですら復讐の鬼と化す。天国へ来い!ペテロも来い、ヤコブも来い、ヨハネも来い、みんな来い!俗世から足を洗おう。足だけ洗えば、みんな汚れのない清い身体になれる。
「ペテロに何ができますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、背筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんてばかげたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、ばかな奴らだ。」

8. 走れメロス
「メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」

(M: メロス, D: ディオニス王)
M: 市を暴君の手から救うのだ。
D: おまえがか?しかたのないやつじゃ。おまえなどには、わしの孤独の心が分からぬ。
M: 人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑っておられる。
D: 疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ。信じては、ならぬ。... わしだって、平和を望んでいるのだが。
M: なんのための平和だ。自分の地位を守るためか。罪のない人を殺して、何が平和だ。
D: 口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹わたの奥底が見え透いてならぬ。
D: 三日目には日没までに帰って来い。遅れたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっと遅れて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。はは。命が大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、分かっているぞ。

ディオニス王の台詞の方が、説得力を感じるのは、おいらの心が歪んでいる証であろうか。おっと!今度は、メロスの台詞に説得力を感じている。
「正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。」

そして、ついにディオニス王の台詞で赤面してしまう。いや、こそばゆい。
「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

9. きりぎりす
この作品でも女性の独白体を魅せつける。三行半とは、建前では夫から妻への離婚状とされるが、実はこれが真髄か!貧乏暮らしの時代、夫は天使のような存在であった。しかし、夫が名声を得ると、妻はぞんざいに...
「孤高だなんて、あなたは、お取り巻きのかたのお追従の中でだけ生きているのにお気がつかれないのですか。あなたは、家へおいでになるお客様たちに先生と呼ばれて、だれかれの絵を、片端からやっつけて、いかにも自分と同じ道を歩むものはだれもないような事をおっしゃいますが、もしほんとうにそうお思いなら、そんなにやたらに、ひとの悪口をおっしゃってお客様たちの同意を得る事など、いらないと思います。あなたは、お客様たちから、その場かぎりの御賛成でも得たいのです。なんで孤高な事がありましょう。」
妻が一人で寝ていると、背中の下でコオロギが賢明に鳴いている。泣いているのは妻か。いや、夫か。
「この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。」

10. 東京八景
「東京八景。私は、その短編を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本の倫理においても、この年齢は、すでに中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しいかなそれを否定できない。覚えておくがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、だれにも媚びずに書きたかった。」
作家にとって書きたいものを書くということは、意外と難しいものらしい。注文がこなければ、書きたいものも書けない。恐ろしいことは、書きたいものがなくなること。さらに恐ろしいことは、何も書けなくなること。
この作品は、太宰治の経歴が一望できる。パビナール注射の副作用から悪癖を覚えて中毒になり、人間失格へまっしぐら。
しかしながら、文学作品としては、らしくない。淡々と綴られる様子にちょっと拍子抜け。主人公が自分自身では思うように書けないのか?誰かに置き換え、仮面をかぶらないと、面白く書けないのか?いや、トリを飾る作品として期待が大き過ぎたのかもしれん。いやいや、ここまで読み進めて、ついに読者の方が精神破綻を起こしちまったのかもしれん...

2016-05-22

"ロマの血脈(上/下)" James Rollins 著

ようやくシグマフォースシリーズ第四作に突入。だが、このシリーズは十作を超え、もうついていけない。シリーズ物ってやつは、映画にせよ、小説にせよ、三、四作目あたりで精彩を欠いたり、飽きが来たりで、読者のモチベーションが減衰していく。しかし、ロリンズ小説は違う。毎度ながら、歴史と科学を融合させる手腕にイチコロよ!おまけに、静と動、分析と行動、知識とアクションを絶妙に織り交ぜ、歴史の可能性ってやつをプンプン匂わせてやがる。
ただ奇妙なことに、動の領域に文章のオアシスを感じる。静の領域はあまりに知識が溢れ、何度も読み返し、疲れ果てる。無限の知識の中に放り込まれると、アクションの方に安らぎを覚え、静脈と動脈が逆流するかのような感覚に見舞われるのだ。かなりの気合と体力を要するのも、ロリンズ小説の魅力!さて、次の挑戦は何年先になることやら...

本書は、およそ結びつきそうにない二つの血統を題材にしている。それは、古代ギリシアの聖地デルポイの巫女ピュティアと、不思議な占い能力を持つロマ種族である。これらを軸に、歴史的には、ロマの起源、インドのカースト制度、ハラッパー遺跡を絡め、科学的には、人間の予知能力と脳の可塑性、自閉症の中で稀に現れるサヴァン症候群、さらに特殊能力に関する米露の極秘プロジェクトを絡める。
また、地球上で最も汚染された地域の一つに数えられるチェリャビンスク地方や、チェルノブイリ原発事故に関して旧ソ連政府が隠蔽してきた衝撃的な事実は、福島第一原発事故を目の当たりにした我が国としても見逃せない。
ところで、ナノテクノロジーとは驚異的な技術だ。子供たちが持つ特殊能力を増幅させ、大人どもがそれを操ろうというのだから。生まれたばかりの赤ちゃんにマイクロチップを埋め込む外科手術が、法律で定められる時代も近いかもしれない。もし特殊能力を自由自在に制御できるとしたら、そこに野望の持ち主が群がるは必定。歴史を振り返れば、あらゆる独裁者は独善的な平和のために社会を破壊してきた。現存する社会秩序を一度チャラにし、新たな秩序とモラルを再構築しようと目論んできたのである。目的のためには手段を選ばず!の改バージョン、平和のためにはあらゆる犠牲を惜しまず!こうした論理は、愛国心や民族優越主義がいびつな形で肥大化した時に生じる。どんな残虐行為も、劣等人種、あるいは人間以下と見做さない限り、やれるものではない。世界征服の野望に憑かれた輩が、独善的な民族不要説を唱えるならば、まさに自らの種族を抹殺することになろう...

ジェームズ・ロリンズは、この物語が生まれたきっかけに、テンプル・グランディンの言葉を挙げている。
「もし何らかの力で自閉症がはるか昔に地球上から姿を消していたとしたら、人間は今でも洞窟に住み、火のまわりに座って過ごしていることでしょう。」
オリバー・サックスの著作「火星の人類学者」でも紹介されるアスペルガー型自閉症の女性動物学者で、TED.com から彼女のプレゼンテーションを拝見した。本書の自閉症に関する記述は、個人的に共感を覚える。というのも、おいらにはごく身近に重度の知的障害者がいる。この手の症状は自閉症を誘発することが多く、意思伝達能力と社会適応能力の低さから、自己の殻に籠もることが身を守る手段となる。その結果、言語能力や発話能力の遅れや阻害、動作の繰り返しやチック、一つの行動に対する執念などが見られる。だからといって無理やり取り合おうとすると、今度は人格を否定することになり、機能不全に陥ってパニックを起こす。
尚、自閉症の原因については、未だ解明されていないという。自閉症ゲノムプロジェクトと米国立衛生研究所の共同研究によると、ある複数の遺伝子と環境的な要因により発祥するというところまでは分かってきたらしいが...
もっとも本物語に登場するのはサヴァン症候群であり、その中でも世界で数十人しかいないと言われる天才的サヴァンである。超人的な能力を発揮するほど、精神的ストレスとなって自ら寿命を削るとすれば、それは幸せであろうか?狂気を自覚できる能力を持っていれば尚更だ。一方で、世俗的欲望は自覚意識を麻痺させてくれる。人間社会が狂気しても、みんなで自覚できないとすれば、それは幸せであろう...

1. あらすじ
グレイ・ピアース隊長の眼前でホームレス風の男が射殺された。男の名は、MIT の神経学者アーチボルド・ポーク。みすぼらしい姿は、致死量の放射線を浴びていたからである。彼はデルポイの神殿が描かれた硬貨を手に握っていた。放射線の反応する方向を測定器で追っていくと、ポークの娘エリザベスと出会う。狙撃者は特殊能力を持つ少女を連れていたが、目を離した隙に行方不明となる。なんの運命か、その少女をロマの男ルカがグレイの所へ連れてきた。彼女はタージ・マハルの絵を描く。グレイはエリザベスとルカと共に、ポークの足取りを追ってインドへ向かった。
一方、ウラル山脈では、一人の記憶喪失の男が不思議な能力を持つ三人の子供から、僕たちを救い出して!との依頼を受ける。その頃、ニコライ・ソロコフ上院議員とサヴィーナ・マートフ少将は、チェルノブイリ原発を利用したロシア再興計画を進行中。計画に加担させられていたのは、不思議な能力を持つオメガクラスの子供たちで、その能力を増幅させる人体実験には、シグマの存在を疎ましく思うアメリカのグループも関与していた。
グレイたちはポークの同僚ハイデン・マスターソンから情報を得て、パンジャブ地方でギリシアの神殿の遺跡を発見。そして、デルポイの巫女から現代へ繋がる血統の謎を解明するが、ロシア兵に捕らえられてしまう。
三人の子供と行動を共にする記憶喪失の男も、カラチャイ湖の放射線に怯えながら追っ手の巨大猛獣と戦っていた。廃炉となったチェルノブイリ原発四号炉を「新しい石棺」で密閉する式典が進むにつれ、ニコライとサヴィーナによる二つ作戦... 各国首脳を抹殺する「ウラヌス作戦」と、地球の生態系を壊滅させる「サターン作戦」... の開始が迫る。この二つは、第二次大戦でソ連軍が用いた作戦名で、セットで成功させることにより勝利を確定づけたことで知られる。
デルポイの巫女の預言が意味するものとは... 世界は燃えてしまう!人類の運命は、グレイたちでも記憶喪失の男でもなく、意外にも一人の少年の手に委ねられていた...

2. デルポイの神託と巫女ピュティア
デルポイの神託はギリシア神話のオイディプス伝説で描かれ、人々の運命を左右してきた。神殿の入口には、三つの格言「汝自身を知れ」「過剰の中の無」「誓約と破滅は紙一重」が刻まれていたされる。
巫女は霧に包まれながらトランス状態に陥り、依頼者が訊ねる未来について答えた。彼女の神託は古代世界において絶大な影響力を持ち、王や征服者ですら服従し、何千人もの奴隷が解放され、西洋民主主義の種がまかれたとされる。二千年近くに渡って厳重な警護の下に置かれた女性たちは、パルナッソスの山腹にあるアポロン神殿の内部で生活し、預言者として選ばれた一人に「ピュティア」の名が与えられ、その地位は代々受け継がれてきたという。ピュティアの信奉者には、プラトン、ソフォクレス、アリストテレス、プルタルコス、オウィディウスなど錚々たる人物が名を連ね、初期のキリスト教徒たちでさえも彼女を崇拝したという。ミケランジェロは、システィーナ礼拝堂天井画に、キリストの再臨を預言するピュティアの姿を大きく描いている。
また、2001年に、新たな事実が明らかになったそうな。考古学者と地質学者のチームが、パルナッソス山の直下に奇妙な配列のテクトニック・プレートを発見したという。プレートの隙間から炭化水素ガスが放出され、ガスに含まれるエタンには高揚感と幻覚をもたらす作用があるとか。ピュティアが霧に包まれてトランス状態に陥ったのは、このガスを吸引したためであろうか?
しかしながら、キリスト教の台頭でデルポイの神託は衰退し、テオドシウス皇帝はキリスト教をローマ帝国の国教に定めた。
さて、本物語は、398年、ローマ軍がデルポイの神殿を滅亡させる場面から始まる。洞窟の至聖所には神聖なオムパロスがある。それは、「世界のへそ」と呼ばれるもの。そこに、神がかった能力を持つ少女が連れられてきた。百人隊長は少女の引き渡しを要求するが、最後のピュティアとなる巫女は少女をかばって殺される。百人隊長は洞窟内をくまなく探したが、少女の姿はどこにもなかったとさ...

3. ショヴィハニと直観力
死の天使ことヨーゼフ・メンゲレが、双子の子供に特別な関心を寄せていたという話は有名である。アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所で人体実験をやった奴だ。本物語でも、双子の子供に焦点をあて、薄気味悪さを醸し出す。そして、古いジプシーの言葉で「ショヴィハニ」と呼ばれる天賦の才を持つ双子の兄弟が鍵を握る。世界征服を目論む野心家にとって、遠隔透視や予知能力は極めて利用価値が高く、人の心を読む「エンパシー」と呼ばれる能力は利用価値が低いように映るらしい。だが、心を読む能力を極限にまで高めれば、人の心を盗むことだってできる。
ところで、直観の正体とは何であろう?先天的能力とも、後天的能力とも言われるが、おそらくその両方であろう。難題を前にすれば、突然閃いたように理解できる瞬間があったり、解決策が突然夢の中で浮かんだりする。インドを舞台にしているのは、どうやらヨガの行者が持つ驚くべき能力について、生理学的な根拠があるらしい。
例えば、手足や皮膚の血流を調節することで何日も極寒に耐えることができたり、基礎代謝率を下げることで何ヶ月も断食を続けられたり、皮膚の血流を制御することによって人間の意思までも制御できるというもの。心頭を滅却すれば火もまた涼し!とも言うが、もっと科学的なレベルにおいてである。
本来、直観とは、身に迫る危機に対して高められる能力のような気がする。天才的サヴァンの人たちは、知的障害を抱えながらも限られた分野で驚異的な才能を持つ。ずば抜けた計算能力や記憶力、機械操作力、空間認識力、臭覚・味覚・聴覚の識別能力、音楽や絵画の才能など。彼らもまた、何かから自分の身を守ろうとして能力を研ぎ澄ますかのように...
さて、人間は未来を見ることが可能であろうか?本書は、超心理学の研究者ディーン・ラディンが行った実験を紹介してくれる。画面上に様々な写真を映し出す。目を背けたくなるような写真と、心和むような写真を、無作為に混ぜて。数分後には、被験者は目を背けたくなる写真が映し出される前に、たじろぐようになったという。約三秒前に予測できるようになったというわけだ。実験は、賭け事をする人にも行われたという。トランプで良いカードが出る時にはプラスの反応を示し、悪いカードが出る時にはマイナスの反応を示す。すると、その反応がカードをめくる数秒前に現れたという。
原因は分からないが、権威ある学者によると、ごく普通の人でも短時間であれば未来を見ることができるらしい。麻雀では、一発ツモやドラがのるといった匂いを感じることがあるが、これも予知能力であろうか。もっともおいらは、牌の流れ!を読もうとする...

4. 脳の可塑性とヘッブの法則
人間の脳は、三百億個の神経細胞からできていると言われる。各神経細胞は複数のシナプスで結合され、大規模な神経回路が形成される。その数は、十の百万乗の単位。
ちなみに、全宇宙に存在する原子の総数は、十の八十乗ぐらいと言われている。
脳への情報伝達は、電気信号によってもたらされる。ものを見る時は目で見ているのではなく、脳で認識して見ている。耳が聞こえなくなった人が、人工内耳によって聴力を取り戻すことができるのも同じ理屈である。新しい言語能力を獲得する場合でも、言語特有の周波数から言葉を認識できる神経回路が形成される。
したがって、脳の内部に電極を挿入すれば、なんらかの意思制御ができるというのはもっともらしい。電気信号の入力によっては、五感以上の知覚能力を覚醒させる可能性だってある。脳が電気信号の集まりで、しかも新たな信号に対する適応能力を持っているために、外部から電気回路を接続することによって、新たな認識能力を持つこともありうる。人間は生まれつきサイボーグ!というわけだ。
2006年のブラウン大学の実験によると、体が麻痺した患者の脳に微小電極を接続したマイクロチップを埋め込み、その患者は四日間の練習を積んだ後、体を一切動かすことなく頭で考えるだけで、ディスプレイ上のカーソルを動かしたり、電子メールを開いたり、テレビのチャンネルを切り替えたり、ロボットアームを動かしたりできるようになったという。ハーバード大学がラットに行った実験によると、TMSジェネレータ(経頭蓋磁気刺激装置)は、神経細胞の成長を促進することが解明されたという。発育途上の子供の方が、その影響を受けやすい。だが奇妙なことに、学習と記憶に関する領域だけ成長したそうな。
また、神経学には「ヘッブの法則」というものがある。「発火する神経細胞同士は結びつきを強める」というもので、脳のある部分を刺激し続けると、その部分がどんどん強化されていく。外部からの磁気的な刺激によって、神経細胞のスイッチを入れたり切ったりできるとすれば、その能力を操ろうと考える輩が必ず現れる。まさか!メンゲレはこんな実験をやっていたのか?
「我々の行っている実験の内容が、外部の人間に漏れてはならない。そんなことになれば、ナチを断罪したニュルンベルク裁判ですら、交通違反を扱ったのではないかと思われるような事態が起こる。」
尚、誘発された記憶喪失については、主にプロプラノロールを使用して、選択された記憶を薬により消去する技術が実用化されているそうな...

5. スターゲイト計画と科学者の倫理
スターゲイト計画とは、冷戦時代のプロジェクトで、軍事作戦に遠隔透視能力を応用するというやつだ。公式には、アメリカの第二のシンクタンクであるスタンフォード研究所が管轄していた。後に、ステルス技術の開発に関与する機関である。
1973年、スタンフォード研究所は、CIAから委嘱を受けたという。精神力だけで、はるか離れた地点にある物体や活動を監視し、情報を収集することが目的である。非現実的といえばそうかもしれない。だが、どんなにバカバカしい研究でも、敵国が成果を出している可能性があれば、遅れをとるわけにはいかない。CIAの報告書によると、1971年ソ連の計画は突如として最高レベルの機密扱いになったという。実際は、それほど成功例はなかったらしい。だから、1995年に幕引きしたことになっている。それでも、遠隔透視の実験では、15% の有用な結果が得られたという。確率的な値をはるかに上回る数値だ。
例えば、ニューヨーク在住のアーティスト・インゴ・スワンという人は、緯度と経度の座標を与えるだけで、その場所にある建物の形状を詳細に説明することができたという。そのヒット率は 85% 近いとか。顕著な成功例で最も有名なのが、誘拐されたジェームズ・ドジャー准将の救出に関する事例がある。ある遠隔透視者が、准将の監禁された町を言い当てたという。また別の透視者は、監禁されている建物の様子を詳細に描写し、鎖でつながれているベッドの位置まで特定したとか。
さて、本物語では、スターゲイト計画は密かに継続され、しかも、ベルリンの崩壊とともに資金ぶりに行き詰まったロシアが、アメリカの組織「ジェイソンズ」に資金援助を求めたという展開を見せる。ジェイソンズとは、冷戦時代に創設された科学部門のシンクタンクで、著名な科学者たちで構成される実在する組織。
科学者は、政治や軍部の干渉を嫌う傾向がある。それはどこの国でも同じであろう。国家の枠組みを超えた地球レベルの倫理観を唱えるケースもある。人類として踏み入れてはならない境界を侵そうものなら、いくら敵国同士でも互いに協力を求める可能性だってある。本物語は、その科学者たちの良心の呵責とやらに期待するのだが...

6. ロマとカースト
ヨーロッパに移住したジプシーは、当初エジプト出身と言われ、「エイジプトイ」や「ジプシャンズ」と呼ばれ、それが語源とされる。だが、近年の言語学研究によると、ロマ語は古代インドのサンスクリット語が起源だと判明したそうな。ロマはインドの北西部パンジャブ地方を起源とする種族で、すべてのジプシーを含んでいるわけではなさそうだ。ヨーロッパで長い間苦難の時代を強いられてきたが、なぜ移住してきたかは不明だという。
ロマの祖先がインドを脱出したのは、10世紀頃。ちょうど厳格なカースト制度が導入される時代と重なり、歴史学者の間にはカースト間の摩擦が原因ではないかとする説もある。カースト制度の枠組みから外れた最下層の人々は不可触賤民とされ、その中に、泥棒、音楽家、不名誉除隊の軍人のほか、魔術師も含まれていたという。
では、カーストといった差別意識はどこから来ているのか?ヒンドゥー教の言い伝えによると、すべてのヴァルナ、すなわち身分は、インド神話に登場する原人プルシャから誕生したとされるそうな。聖職者や教師などが属するバラモンはプルシャの口から、王族や武士は腕から、商人は腿から、労働者は足から生まれたという。それぞれの階級の中でも上下関係があり、そのほとんどは二千年前の「マヌ法典」によって定められ、しかも、何をやって良いか何をやったら悪いかなど細かく規定されているという。
しかし、五番目のヴァルナである不可触賤民だけはプルシャから生まれたのではないとされ、社会の枠組みから外れた。彼らは、その汚らわしさゆえに普通の人々とは交流できないとされ、動物の皮、血、糞尿、人間の死体の処理を職業としてきた。上位カーストの人々の家や寺院に入ることも禁じられ、同じ食器を使って食事することも認められておらず、上位カーストの人の体の影が触れることすら許されないという。規則を破れば、袋叩きに遭い、強姦され、殺害されるとか。アチュート(アウト・カースト)として生まれれば、死ぬまでアチュートというわけだ。
経済学者アマルティア・センが問題提起した「喪われた女性たち」は国際的に反響を呼んだ。嫁焼き!... 毎年10万人を超える若い女性が焼き殺され、その多くは家庭内暴力だとも聞く。もちろんインドの法律はそうした差別を禁止しているが、実質的にあまり変わっていないらしい。特に地方では差別が根強く残り、現在でも人口の 15% が不可触賤民に分類されるという。慣習とは、恐ろしいものだ!
さて、本物語では、不可触賤民の中に不思議な能力を持つ家系があるとしている。それが「ショヴィハニ」というわけだ。そして、ロマ種族はこの血筋を他には明かさず、近親交配によって維持しようとしたために、遺伝的異常が数多く発生したという。その遺伝子異常の好転した場合が、天才的サヴァンというわけか...

7. タージ・マハルと愛の象徴の恐怖
タージ・マハルは、三百年以上前にムガール帝国の皇帝シャー・ジャハーンにより、最愛の妃が永遠の眠りに就く場所として建設した霊廟である。人々の間では、不滅の愛の象徴とされる。王妃は、旦那から四つの約束を取りつけたという。一つは、自分のために大きな墓を建てること。二つは、皇帝が再婚すること。三つは、皇帝が子供たちを大切にすること。四つは、毎年命日に墓参りをすること。皇帝は約束を守り続け、最愛の妃とともにタージ・マハルに埋葬されたという。
しかし、愛の物語の裏には、必ず血塗られた歴史がある。言い伝えによると、霊廟の完成後、皇帝は建設に携わった職人の手をすべて切り落としたそうな。これに匹敵する壮麗な建築物を二度と造らせないために...

8. 核の遺産
1986年、チェルノブイリ原発の四号炉が爆発した事故では、放射線の影響で十万人以上が死亡し、七百万人が被曝したとされる。その多くが子供たちで、いまだ癌や遺伝子異常の報告が絶えない。さらに近年、悲劇の第二波が訪れた。被曝した子供たちが子供を産む年齢となり、先天性欠損の事例が三割増加したという。1993年にモルドバで生まれた赤ん坊は、二つの頭、二つの心臓、二つの脊髄を持ちながら、手足は二本ずつ。脳が頭蓋骨の外にある状態で生まれた子供など。
しかしながら、もともと核で汚染されてきた地域で、原発事故だけの影響とは言いがたい。ウラル山脈にある旧ソ連時代のプルトニウム工場も、ウラン鉱山で働く囚人の住居として使用された地下都市も実在し、ほとんどの囚人は刑期を終えずに命を落としたという。プリピャチで、厚さ12メートルの巨大な鋼鉄製のシェルターで古い石棺を密閉する計画も事実だとか。
チェリャビンスク地方は、地球上で最も汚染された地域の一つとして数えられる。カラチャイ湖の汚染された湖水は周辺のアサノフ湿地へ漏れ出て、そこに断層が存在するのも事実だそうな。ノルウェーの地球物理学者の調査によると、大地震などが発生して湖底の断層に影響を与えた場合、北極海は死の海と化し、北米や北部ヨーロッパにまで汚染が広がると予想されているという。
2013年、チェリャビンスク州に隕石が落下したと大々的に報じられた。重さ10トンと見られる隕石が。科学者が予想する事態ともなれば、サヴィーナ少将が人工的に作り出そうとした事態が、偶発的に起こる可能性はある。福島第一原発事故を目の当たりにすれば、他人ごとではない...

2016-05-15

"ユダの覚醒(上/下)" James Rollins 著

久しぶりに推理モノ... 久しぶりにジェームズ・ロリンズ... 歴史と科学を絡める手腕は相変わらず!事実とフィクションの按配が絶妙で、その境界を心地よくさまよわせてくれる。下手な歴史書よりも、下手な科学書よりも奥ゆかしい。
本書は、「マギの聖骨」、「ナチの亡霊」に続く、シグマフォースシリーズ第三作。ただ、このシリーズは十作を超え、もうついていけない。学生時分なら、間違いなく追尾していたであろう。社会人になると、このジャンルを読む機会がぐんと減った。一度手をつけると、一気に読み干さないと気が済まない。二、三日寝なくとも。まるで麻薬よ!そろそろ隠遁して本性を解放したい、と思う今日このごろであった...

今回のテーマは、歴史的にマルコ・ポーロの東方見聞録、科学的に遺伝子工学を題材にしながら、現在にも通ずる環境破壊や科学の暴走を暗示している。
驚いたのは、人間の DNA のうち、実際に機能しているのは 3% に過ぎないとのことである。残り 97% はジャンクDNAと見なされ、なんの意味もないのだそうな。ただ、その一部はウイルスの遺伝子コードと酷似しているという。現在の通説では、将来起こりうる病気から保護する役割を担っているとされるとか。
実のところ人間は、眠っている DNA から何かを覚醒させようとしている、ということはないだろうか?2015年、科学者はヒトの胚の遺伝子を編集し始めたと大々的に報じられ、今日、遺伝子工学のモラルハザードが問題視される。ついに、パンドラの匣を開けるか?人間の欲は計り知れず、病気だけでなくあらゆる方面で優位に立とうとする。なにしろ差別の好きな生き物なのだから。そして、遺伝子の格付けが始まる。価格競争も激化し、オークションも登場するだろう。長寿遺伝子、スポーツ遺伝子、学者遺伝子... 人々は流行遺伝子に群がるだろう。人間社会は、このまま人間の遺伝子組換えを許し、危険なバイオテクノロジーの道を進むのだろうか?いや、すでに人間が越えてはならぬ領域に足を踏み入れているやもしれん...
ところで、人間は、かつて人食い人種だったのだろうか?人間ってやつは、飢えると何をしでかすか分からない。理性に縋ったところで、これほど脆く崩壊しやすいものもない。大飢饉に襲われれば、屍体を貪るような異常行動も見られる。家畜同然に扱われた奴隷が、その対象にされたということも考えられなくはない。いずれにせよ、最新の遺伝子研究によると、人肉を食した場合にだけ感染の可能性がある病気に対抗するための特定の遺伝子が、すでに人体に組み込まれているそうな。
尚、飽くことのない食欲を伴うプラダー・ウィリー症候群という恐ろしい遺伝子異常は、食人とは一切関係ないとのことである。

物語の謎解きは、地理的にも、歴史的にも、アジアとヨーロッパの接点をなすイスタンブールから始まる。鍵をマルコ・ポーロのイタリアへの帰路に求め、時代を遡る。問題は、インド洋のクリスマス島で発生した疫病。科学者は、古代ウイルスの菌株が存在することを指摘する。各種の疫病を引き起こす原因となるバクテリアの祖先、その名は「ユダの菌株」。テロリストの手に落ちれば、生物兵器ともなる代物だ。昨今の世界情勢では、知識こそが真の武器となる。石油などの天然資源よりも、どんな最新兵器よりも。DARPA(米国国防省高等研究企画庁)の諜報機関シグマフォースとしては見逃せない。
ところで、こんなものがマルコ・ポーロと、どう結びつくというのか?彼は、自分の旅路について、語ろうとしなかったことが一つだけあったという。また、彼の遺体は埋葬されたサン・ロレンツォ教会から忽然と姿を消し、行方不明のままだとか。東方見聞録にも記されなかった事実とは?
推理小説の醍醐味は、緻密に組み立てられた論理性に支えられているが、さらに歴史の可能性ってやつを匂わせてやがる。それは、歴史や科学、はたまた考古学といった学問研究が、暗号解読のような推理思考と相性がいい証拠であろう...

1. あらすじ
独立記念日、グレイ・ピアース隊長のもとに、かつて闘ったギルドの女工作員セイチャンが助けを求めてきた。彼女は組織のある計画に反発し、抜け出してきたという。その計画とは、マルコ・ポーロの謎にまつわるもの。
ギルドとは、各国の諜報機関が目を光らせるテロリスト集団。最新の科学技術の捜索と奪取を目的とする点で、シグマとライバル関係にある。ギルドのスパイは、各国政府や諜報機関、主要なシンクタンク、国際的な調査機関の内部にも潜り込んでいると噂される。かつてシグマも痛い目に合っており、ペインター・クロウ司令官はセイチャンを警戒する。
グレイは、ギルドの襲撃を受け、両親を人質にとられた。手がかりは、セイチャンが持っていたオベリスクの中に隠されていたアグレー修道士の十字架と「天使の文字」。アグレー修道士とは、マルコ・ポーロの聴罪司祭。グレイは、セイチャンとヴァチカンの考古学者ヴィゴーの協力のもと、「東方見聞録」から削除された章の調査に当たる。
一方、シグマのモンク・コッカリスとリサ・カミングズは、クリスマス島で発生した奇病を調査するため向かった先で、ギルドの襲撃を受けた。捕まったリサは、巨大クルーズ船に設けられた研究施設で病原菌「ユダの菌株」の解明に迫られる。こいつが生物兵器として用をなすには、解毒剤も必要というわけだ。リサは、発症した患者の中で、ただひとり生き残った女性スーザンに解明のヒントがあると確信する。
突如発生した人肉を欲するようになる奇病と、東方見聞録から削除された章が、どう結びつくのか?グレイたち歴史調査隊が「天使の文字」を解読しつつある中、リサたち科学調査隊は遺伝子工学から謎に迫り、歴史と科学の道筋はある場所で結びつく。ある場所とは、かつてマルコ・ポーロが訪れながらも秘密にしてきたというアンコール遺跡であった...

2. マルコ・ポーロの旅... すべての謎はここに始まる
1271年、17歳の青年マルコ・ポーロはアジアへ旅立ち、フビライ・ハンの宮殿を訪れた。彼は父親と叔父とともに賓客として20年間を中国で過ごす。そして、1295年、ヴェネツィアへ帰還。
フビライ・ハンは、マルコ・ポーロが帰国する際、14隻の船と600人の随行者を提供した。それは、ペルシアに嫁ぐコカチン王女を送り届けるための護衛である。
しかし、2年間の航海で帰国したのは、2隻と18人の随行者だけ。他の者たちの行方は謎である。ポーロは死に際して、「私が目にしたことの半分しか話していない。」との言葉を遺したと伝えられる。東方見聞録にも遠回しにしか触れられていない。
また、コカチン王女との恋の噂が残されているそうな。王女の髪飾りを死ぬまで大切に保管していたことから。
埋葬後の遺体がサン・ロレンツォ教会から姿を消し、いまだに所在が判明していないというのも事実だそうな。
そもそも、マルコ・ポーロの目的は何だったのか?ポーロ、父、叔父の3人は、法王グレゴリウス10世の命で派遣されたヴァチカンの最初のスパイとする説がある。強力なモンゴル帝国を偵察するための。そして、極秘の旅行記が機密公文書館に隠されているというのである。ヴァチカンの記録文書によると、2名のドミニコ会修道士が同行したが、数日後に2名とも帰国したと記されるという。
だが、旅行者に一人ずつ修道士が同行するのが当時の慣習であったと主張する人もいる。では、もう一人の修道士とは誰か?ポーロは自分の聴罪司祭を何かの理由で残してきたというのか?本物語では、アグレー修道士は法王グレゴリウス10世の甥に当たるとしているが、実在したかは知らん。
また、ペルシア湾の入り口にあるホルムズ島にはコカチン王女の墓があるらしい。おまけに、棺には二つの遺体が添い寝しているとか...

3. 東方見聞録... この原典は存在しない
何度も写本を重ねており、それらの複製版や翻訳版を比較すると、記述の食い違いが随所に見られるそうな。あまりにも食い違いが多いので、マルコ・ポーロという人物が実在したのか?という疑問すら投げかける研究者もいるとか。この旅行記は、フランスの作家ルスティケロが物語として書き留めたが、創作ではないか?という疑惑まであるらしい。
実際、中国の記述では、重大な欠陥があると批判されている。お茶を飲む習慣や、纏足の習慣や、箸の使用についても一切触れられず、万里の長城の記述もまったくないという。
一方で、正しい記述も数多くある。磁器の独特な製法や石炭の燃焼法、さらに世界で初めて使用された紙幣についても記されているという。
ただ、ルスティケロは、序文で東南アジアの島々で何らかの悲劇が起こったことを匂わせているとか。
分かっていることは、一行はインドネシアで5ヶ月もさまよった末、無事に脱出できたのは、ごく一部であったこと。多くの歴史学者は、船団に疫病が発生したか、海賊の襲撃に遭遇したのではないか、と推測しているようである。しかし、そんな重要な出来事があれば、むしろ記述を残しそうなもので、死の床に就いた時ですら話すことを拒んだとされる。
さて、東方見聞録の初版はフランス語で書かれたが、本物語では、彼の存命中にイタリア語で出版する動きがあったとしている。それを後押しをしたのが、あのダンテとしているから面白い。その失われた章というのがこれ。
「第六十ニ章 語られることのなかった旅路、および禁じられた地図」
そこには、密林の奥地での出来事が記される。石段や広場に散乱する死体に大型アリが無数にたかる。生きている者ですら、死体と同じく四肢の皮膚は腐食し肉が剥き出しになっている。膿んだみみず腫れや出来物で全身が覆われた者や、腹部が異様に膨張した者や、目が見えない者や、全身を掻き毟る者や、切断された手や脚を手にした者たちが野獣のように向かってきたという。人が人を食らう衝撃にただ佇むのみ。まさに「死の都」の様子が記述されていたというのである。そして、最後に遺された言葉が、これだ。
「これを読む者よ、心して覚悟を決めよ。地獄への門は、あの都に開かれた。その門が閉ざされたのか否か、私にはわからない。」

4. 天使の文字... 人類の誕生以前に遡る文字!?
天使の文字とは、ヨハネス・トリテミウスとハインリッヒ・アグリッパの二人が考案したもの。彼らによると、これらの文字を研究することによって天使との交信が可能になるという。それは古代ヘブライ文字に基づいており、同様にユダヤ教のカバラの信奉者たちは、ヘブライ文字の形や曲線を研究することで、内なる知識への道が開かれると信じている。トリテミウスは、自分の考案した天使の文字がヘブライ文字の最も純粋な最終形だと主張したという。彼の著作「ステガノグラフィア」は、オカルトを扱った書だと見なされ、禁書目録に記載された。
しかし実は、天使研究と暗号解読を複雑に絡ませながら論じた書だったのか?恐ろしい真理を伝えるためには、天使の文字で記述して封じ込めることこそが、俗人の目に触れさせずに、危険を回避する最良の方法というわけか。では、トリテミウスが瞑想によって辿り着いた内なる知識とは?
本物語では、天使の文字が羅列される模様が、DNAの二重螺旋構造に似ているとしている。実際、DNAコードのパターンと、人間の言語の中に見られるパターンを比較するという科学研究がある。統計学で用いられる「ジップの法則」によると、すべての言語には繰り返し使用される単語に特定のパターンがあるとされる。単語の出現頻度の順位と出現率との関係をグラフにすると、一直線を示すというものだ。その関係は、世界中の言語で共通だという。英語も、ロシア語も、中国語も... そして、DNAコードもまったく同じパターンを示すという。言語記号が魂の投影だとすれば、そこには人間の目的という潜在意識でも記述されているのだろうか?死を恐れるがために生に執着し、そこに意義を求めずにはいられない。遺伝子はそのようにプログラムされているのだろうか?
尚、現代科学では、遺伝子コードに言語が隠されているとされるが、どんな内容が記されているかは明らかになっていない。

5. 黒死病の襲来
ペストが最初に襲ったのは、黒海沿岸に位置するカッファの町であったという。強大なモンゴル帝国のタタール族が、ジェノヴァ人の商人や貿易商の住むこの町を包囲した。やがてモンゴル軍の兵士たちに、燃えるような傷みを伴う腫れ物と激しい出血という疫病が蔓延し始めた。長引く包囲に業を煮やし、疫病で死んだ兵士の死体を投石器で城壁内へ投げ込み、たちまち疫病は広まったという。
1347年、ジェノヴァ人は12隻のガレー船でイタリアのメッシーナ港へと逃げ帰った。この時、黒死病がヨーロッパの地に足を踏み入れたと言われる。
また、17世紀に黒死病が席巻した時、イングランドのイーム村では、他の地域と比べて非常に高い生存率を示したという。その理由は、村人の多くが「デルタ32」という突然変異した遺伝子を保有していたからだとか。小さな村では村人同志の結婚が普通で、村人のほとんどがその遺伝子を受け継いでいた。
尚、中世に鼠径腺ペストが突然ゴビ砂漠で発生し、世界人口の三分の一を死に至らしめた原因は、未だ明らかになっていない。そればかりか、ここ百年を振り返っても、SARS や鳥インフルエンザなど数多くの疫病がアジアを起源として世界的に流行しているが、その原因も完全に解明されたわけではない。
さて、本物語では、14世紀に黒死病がヨーロッパを席巻した後に、ポーロ家の子孫が秘密の書をローマ法王に寄贈したらしい事実が浮かび上がる。しかも、この時期にポーロ家の記録がすべて消され、マルコ・ポーロの遺体までもがサン・ロレンツォ教会から姿を消したとか。何かの陰謀の力が、ポーロ家の痕跡を抹殺にかかったのか?

6. シアノバクテリア... こいつを殺人鬼に変貌させるもの
「乳海」と呼ばれるインド洋における乳白色の発光現象がある。それは、赤潮とはちょっと違うようだ。赤潮は藻類が大量発生したもので、光は発光性バクテリアが原因だという。また、世界各地で、乳白色に輝く藻が大量発生するケースは珍しくないとか。海には、古代の変性菌、毒クラゲ、ファイヤーウィードなどが蘇りつつあり、藻類が大量発生した箇所からは有毒ガスが検出されているとのこと。ファイアーウィードとは、藻類とシアノバクテリアの合いの子のような生物で、毒性を放出するという。
シアノバクテリアは、バクテリアの中でも最古の種類の一つに数えられ、世界最古の化石の中にも発見されているそうな。四十億年前から生存する地球で最初に生まれた生命体の一つで、植物のように光合成を行い、太陽の光から食糧を生成することもできるという。しかも環境への適合性が極めて高く、地上のあらゆる場所に生息するとか。海水中にも、淡水中にも、土壌中にも、岩石の中にも。ただ、シアノバクテリアそのものに害はない。
例えば、致死性の高いものに炭疽菌がある。学名「バシラス・アンスラシス」と呼ばれ、反芻動物に感染する事例がほとんど。ウシ、ヤギ、ヒツジなど、人間に感染する場合もある。だが、バラシス属は世界各地の土壌に存在し、まったく無害だという。
セレウス菌も良性の一つで、世界中の庭に生息している。
遺伝子構造がほとんど同じでありながら、一方が殺傷力を持ち、もう一方がほとんど無害となるのは、プラスミドという二つの遺伝子コードの環だけにあるという。プラスミドとは、染色体 DNA から独立した環状の DNA のことで、自由に浮遊するこの遺伝子コードを持つバクテリアは珍しいとのこと。
では、このプラスミドは、どこからやってきたのか?プラスミドの進化上の起源は、謎だそうな。最新の理論ではウィルス起源説が有力視されているという。それは、バクテリオファージとかいうバクテリアだけに感染するウィルスが起源ではないかという説。ペスト菌もまた同じプロセスで、プラスミドによって毒性が倍増された変質バクテリアということであろうか?
さらに、人間の体内にある細胞は 10% だけで、残りの 90% がバクテリアから成るという事実も見逃せない。現代科学は、恐竜の絶滅を完全に説明できたわけではあるまい。
さて、本物語では、クリスマス島に生息する陸生のアカガニの異常行動によって問題が発覚する。この大型カニは、毎年、産卵期に数百万匹もの数で海に向かって大移動することで知られる。その爪は、車のタイヤをパンクさせるほど強力。こいつらが凶暴になって人間を襲う。しかも、時期に関係なく、どこかを目指してやがる。カニの神経系を操っているものとは?ただ不思議なことに、こいつらには二つのタイプのウイルスが共存するという。それは、トランス型とシス型と呼ばれるもので、前者がバクテリアを凶暴化させ、後者が治癒効果を持つのだとか...

7. ユダの菌株... 三つの宿主に寄生する!?
吸虫類の多くは、三つの宿主に寄生する。ヒト肝吸虫の産んだ卵は糞便として体外に排出され、下水を流れ、巻貝などの腹足類の体内に入る。卵からかえった幼虫は、貝の体外に出て、次の宿主を探す。幼虫は魚に飲まれ、その捕獲された魚を人間が食べる。人体に入った幼虫は肝臓まで移動し、成虫のヒト肝吸虫となり、あとは肝臓内で幸せな生涯を過ごす。
では、ユダの菌株も似たような生涯を送るというのか?槍形吸虫も、牛、腹足類、蟻の三つの宿主に寄生するという。注目すべきは、蟻に住み着いた時で、槍形吸虫は蟻の神経中枢を支配し、行動パターンまでも変えてしまうとか。ユダの菌株が、なんからの方法で人間に寄生し、その中枢神経を支配しようとしているというのか?生物界の掟は、これだ。
「悪影響を与えることだけしか考えていない有機体は存在しない... どんな生命体も、生き延びて、繁殖して、繁栄することを望む。」

8. アンコール遺跡
アンコールの歴史は、各寺院に彫られたレリーフの研究を継ぎはぎにした程度にしか分かっていないという。住民の運命も不明のまま。古代クメール文明がタイに侵略されて消滅したのは事実だが、多くの研究者はそれは二次的な影響に過ぎないと考えているという。実際、侵略したタイ人が、この地に留まっていない。クメール族が仏教のより穏健な宗派へと改宗した結果、軍事力が弱まったとする説もあれば、国を支えていた広大な灌漑設備と運河がシルトの堆積などで老朽化したために衰えたとする説もある。さらには、この地域が定期的な疫病の発生に悩まされていたとする歴史的証拠も見つかっているそうな。
さて、本物語では、グレイの一行とリサの一行が、アンコール・トムで自然に引き合うように合流し、その本山であるバイヨン寺院に迫る。人類が誰も住んでいなかった地域へ足を踏み入れた時、病原菌が世界にばらまかれた事例はいくらでもある。黄熱病、マラリア、眠り病... AIDS だってそうだ。それまで動物にしか感染しなかったものが。クメール族がこの地域を開拓した時、何かが住民の間に放たれたのだろうか?

9. 乳海攪拌
ヒンドゥー教の天地創造神話に「乳海攪拌」というのがある。これを表す彫刻には、二つの勢力が描かれる。神々と阿修羅の一団で、互いに大蛇の両端を持って綱引きをしている。蛇神ヴァスキを綱の代わりにして、大いなる魔法の山を回転させようと。山を回転させると、海は白く泡立ち始め、泡の中から「アムリタ」と呼ばれる不死の霊薬が生成されたとさ。山の下にいる巨大亀はヴィシュヌ神の化身で、山が沈まないによう支えながら神と阿修羅に手を貸している。蛇神ヴァスキは、引っ張られた挙句に気分が悪くなり、強い毒を吐く。そのせいで神々と阿修羅も具合が悪くなるが、ヴィシュヌ神が毒を飲み干してくれたおかげで命は救われた。さらに攪拌を続行すると、不死の霊薬だけでなく、「アプサラ」と呼ばれる天女も誕生したとさ。めでたしめでたし!
そういえばギリシア神話でも、美女神アプロディテは不死の肉から白い泡が湧き立って誕生したとされる。もっともこちらは男根から泡立つのだけど、なんとなく重なって映る。
古代人が自然現象を科学的に説明できるわけもなく、神話ってやつは暗喩めいたところがある。海で遭難しやすい地域には、怪物伝説が多く伝えられる。
さて、本物語では、乳海攪拌に乳白色の発光現象を重ねている。海の中で泡立ちながら、光る物質とは何か?バイヨン寺院の地下の洞窟にある池には大量のバクテリアが眠っており、まさにパンドラの匣が開かれようとしていた。
しかしながら、毒性を持つはずのバクテリアが、ある人物にだけ神から授かった薬となる。一度ウイルスに感染した身体に免疫ができ、さらに二度目の感染によって悪玉菌を善玉菌に変貌させるだけでなく、ウイルスを完全に退治してしまうということは、ありえそうな話である。どんな自然現象も、どんな科学技術も、神にも、悪魔にもなる。いずれも人間の解釈というだけのことかもしれん...

2016-05-08

blogspot ドメインの HTTPS 化!

2016年4月末より、blogspot ドメインが、常時 HTTPS バージョンになるとのアナウンスがあった。既存のリンクやブックマークにも引き継がれるとのこと。どんな方法で引き継がれることやら...

  旧: http://drunkard-diogenes.blogspot.com/
  新: https://drunkard-diogenes.blogspot.com/

gさんブログ(Blogger)には、もともと [HTTPS の使用] という設定項目があるのだが、メリットをあまり感じないし、むしろ検索エンジンやリンクなどで別物に判定されると困る。
しかし最近は、他のサイトを見ても区別なく引っかかるようだし、時の流れから HTTPS にしてもいいのかなぁ... と、ぼんやり考えていた。gさんにしては珍しくタイムリーな仕様変更である。

具体的には、[HTTPS 使用][HTTPS リダイレクト] に変更された。まぁ、現実的な解であろう。さっそくリダイレクトをオンにしてみると、検索エンジンも、リンクも、素直に飛んでくれる。めでたしめでたし!
ただし、はてなブックマーク数など外部の統計情報は継承されない。今のところ、んんー...
また、HTTPS 非対応の古いコンテンツが混在すると表示が崩れる。例えば、google map の古い埋め込みコードなど。

ちなみに、リダイレクトをオフにすると、http://xxx からの訪問者は暗号化されない HTTP 接続で閲覧し、https://xxx からの訪問者は暗号化された HTTPS 接続で閲覧することになる。二つあるというのも、んんー...

んんー... どちらも一長一短で、ちと悩ましい。とりあえず、gさんの思惑に乗せられてみるかぁ... ドMだし...

2016-05-01

"音と文明 音の環境学ことはじめ" 大橋力 著

音の環境といえば、マリー・シェーファーが提唱した概念「サウンドスケープ」を思い浮かべる。それは、視覚の景観(Landsacpe)に対比して、聴覚の景観(Soundscape)を当てた語で、音の風景といった意味。この概念の元となったのが、ジョン・ケージの作品「4分33秒」だそうな。そう、無音に音楽性を追求した、あの実験だ。演奏者はピアノを前にして、4分33秒間なにもせず退場する。ケージの企ては、不審に思った聴衆が発するざわめきや抗議などの雑音を、聴衆自身に音空間として聴かせようというもの。音楽にあらざれば音にあらず!と言わんばかりの常識を覆そうとしたわけだ。究極の偶然性から生じる音環境、とでも言おうか。なぜ、4分33秒なのか?すなわち、273秒に絶対零度が暗示されるとの説もあるが、真相は知らない...

音の環境学は、明確な音楽や音声だけでなく、雑音や騒音も差別なく研究対象とする。いや、むしろ環境雑音からのアプローチと言うべきか。形の上では音楽に見えても、音楽として作用しない人工物があれば、音楽に見えなくても、音楽として作用する天然物がある。幾何学は、二等辺三角形や長方形など純粋な図形の研究から始まったが、自然界は、綺麗に整った直角や直線ではなく、微妙な角度や曲線に支配されている。音環境もまた整然とした音楽だけでなく、雑音の方にも真理が隠されているかもしれない。
こうした観点に立脚するのは、人間社会に人工音があまりにも溢れていることへの反発でもあろう。街には BGM が溢れ、互いに喧嘩してやがる。都会で生活するためには、多くの雑音が脳に届かぬよう鈍感さを養う必要がある。狭い音域に慣らされれば了見までも狭くなるのか、耳の寛容さを失い、本来、雑音でないものまで雑音と感じるようになる。
注目したいのは、「必須音」という概念を持ち出している点である。物質の世界にビタミンのような必須栄養素があるように、音の世界にも生きるために欠かせない音素があるというわけだ。人間ってやつは、沈黙に耐えられない存在のようである。だから、神の沈黙に焦がれるのだろうか...
尚、著者大橋力は科学者でありながら、山城祥二という音楽家としての顔を持ち、芸能山城組から発表された「輪廻交響楽」の作曲エピソードも紹介してくれる。

ところで、音楽とはなんであろう...
ライプニッツは「音楽とは魂が自ら教えることを知らずに行う算術の実践。」と語ったとか。ルソーは「音楽とは耳に快いやり方で音を組み立てる技。」と定義したとか。そして、音の環境学から導かれた帰結を、こう語ってくれる。
「音楽とは、マクロな時間領域では遺伝子と文化によりコード化された特異的に持続する情報構造をとり、ミクロな時間領域では連続して変容する非定常な情報構造をとり、脳の聴覚系および報酬系を活性化する効果をもった人工的な音のシステムである。」
ちと「人工的」という言葉がひっかかるものの、孔子風に言えば... 人の心を開くものが楽で、そうでないものがただの音... ということになろうか。

芸術音楽が作曲によって支えられるとすれば、作曲家の意図を忠実に再現する仕掛けが必要となる。楽譜ってやつだ。それは、ある種の言語記号によって表記される情報伝達機構である。古代ギリシアでピュタゴラス音律が、古代中国で三分損益法が発明されて以来、音楽は論理的操作によって組み立てられてきた。言語記号というからには極めて離散的で、デジタル情報に幽閉された世界ということになる。だからこそ、シャノンの通信モデルが輝きを放つ。その陰で、絶対音感の持ち主は十二平均律の呪いという暗示にかかる。
しかしながら、人間の精神ってやつは、離散空間に幽閉されることを拒むように見える。実際、同じ楽譜を用いても、演奏者によって奏でるものが違えば、その日の演奏者の気分によっても違い、音楽には無限の再現性が秘められている。楽譜では表せない音楽がある... とでも言おうか。
デジタル信号の優位は正確な復元性と再現性にあり、アナログ信号の優位は周波数区分における無限性と柔軟性にあり、どちらが人工的で、どちらが自然的かは自ずと見えてくる。デジタル化は現実世界の近似に過ぎないということが。
とはいえ、デジタルの合理性が、アナログ感覚を覚醒させることがある。CDが登場した時代、アナログレコードの方が音色が優しい、などと感想をもらすと馬鹿にされたものだ。そして今、可聴域をはるかに凌駕するハイレゾ音源が巷を騒がしている。デジタル信号の性能は時代の技術に依存し、さらに近似の分解能を高めながら、より現実世界に近づこうとする。その過程で人間精神はいつも、合理性と感覚性、言語性と非言語性、客観性と主観性といった振り子の中で揺れ動く。これらの対照性が、相乗効果として機能すれば進化し、相殺すれば退化する。これが進化論の掟であろうか。ただ、永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する。人間とは、永遠に現実が見えない存在ということか...

1. 視覚系と聴覚系
視覚系が、見たまんま!という正確性があるのに対して、聴覚系は想像豊かな感覚性を研ぎ澄ます。指向性においても、視覚系が視野に限定されるのに対して、聴覚系は上下左右、360度のパノラマが広がり、生物学的に身の回りの空間感知能力、すなわち危険探知能力で優れている。伝播距離では音波は光波に劣るものの、クジラやイルカは地球の裏側まで音波で交信するとも言われる。
視覚系が、主体性や自己決定性が強い傾向にあることは、目を閉じるという行為である程度説明できるだろう。一方、聴覚系は、分析的で、受動的で、睡眠中といえどもレーダーのようにモニタし続ける。それだけに無意識性が強く、耳鳴りがしたり、幻聴が聴こえたりと精神状態を映し出しやすい。神経科医オリバー・サックスは、著作「音楽嗜好症」の中で脳神経障害における音楽の役割を情熱的に語っていた。環境をあるがままにモニタするという点においては、五感の中で聴覚は優れた装備と言えるだろう。ただし、睡眠学習ってやつが、どれほど効果があるのかは知らん...

2. 自己組織ノイズキャンセラー
人体は、空気よりも弾性波をよく伝えるという。医師が聴診器をあてたり、胸に手をあてて叩く仕草は、気休めぐらいにしか見えないが、体内で起こっている相当な情報量が得られると聞く。実際、体内には呼吸、鼓動、血流など内分泌系や神経系に凄まじい音や振動が溢れている。これらの反響音は、なぜか耳から聴こえてこない。身体全体が聴覚に対して、巧妙に相殺されたエコーキャンセラーやノイズキャンセラーとして機能しているということか。聴覚系には、SN比を高める能力があるらしい。
ただ、体調を崩したり、緊張が高まったりすると、奇妙な沈黙の中から鼓動や血流の音が聞こえてくる。体内で起こっている異常に対しては、何か聴こえてくるものらしい。都合のよいものばかり聞こえる耳という装備も馬鹿にはできん。健康体とは、外部音に惑わされやすい状態ということか...
さて、ノイズキャンセラーのアルゴリズムには、自己矛盾性を抱えている。まず、何をノイズと判断するか?例えば、映像信号の制御では、極度に連続性から逸脱した成分を検出したり、また、その検出結果を増幅して、それ自体をフィルタ特性としてフィードバックをかけてノイズを除去したり... むかーし、そんな DSP を設計していたのを思い出す。音声信号の制御においても、似たような発想が必要であろう。自分の声を録音して聞くと、体内から聴こえる声とまったく違うことに気づく。音楽演奏の時、自分自身が奏でる音や声の状態を演奏と同時並行して認識し、精密に制御することがいかに困難であるか。そのために、フォールドバック用スピーカやモニタ用ヘッドホンなどの機器が重宝される。音に限らず環境分析で、その環境下にある観測者自身の認識能力を含めた観測が必要となるのは、自明であろう。

3. 言語脳と非言語脳
言語機能は、生物界における比類なき思考と伝達の装置であり、偉大な文明の源泉である。おかげで、論理的、科学的、客観的思考を発達させ、精神を迷信や妄想から解放させてきた。だが、さらなる自由を求めようとすると、言語機能だけでは不十分だ。古典的な考えでは、左脳を優位脳、右脳を劣位脳と区別し、現在でも言語機能は左脳が司るとするのが常識とされる。そう単純ではあるまいが...
自分自身に何かを問いかければ、左脳の声は言語としてはっきりと捉えられても、右脳の声は聞こえにくい。表面上、人体は左右対称性を保っているかに見えるが、心臓や胃などの臓器の配置、あるいは右利きや左利きなど、内面では対称性が保たれない。なぜ、このような偏りが生じるのだろうか?
物理学には「対称性の破れ」という概念がある。安定したゆらぎの系が、ある臨界点において方向性を決定するというものだ。ある臓器が進化して大きくなると、他の臓器が左か右に押しやられる。脳内においても、ある日突然、連続した音から記号性のような存在を感じ、離散情報として認識できるようになったのだろうか?あるいは、言葉を編み出したのは、脳内の沈黙に飽き飽きした結果であろうか?心臓が右にある人がいれば、言語機能が右脳に発達する人もいる。こうした均衡の破れは、おそらく進化の過程では必然なのだろう。そこに、なんらかの意志が関与しているのかは知らん...
そして、脳の情報処理能力が感覚的な思考から解放され、論理的に、抽象的に思考することができるようになった。英語耳をつくるという発想も、英語の発する周波数帯を言語として認識しようという試みである。
一方、言語脳を発達させると同時に、非言語脳も独特の発達を続ける。感覚性は極めて主観的な領域にあり、直観や直感を研ぎ澄ます。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体にとって、もともとある感覚性の能力をより高度に発達させるために、論理性を獲得する必要があったのかもしれない。人間とは、主観と客観の双方を研ぎ澄ますことで、合理性を獲得しようとする存在と言えよう。思考原理が偏っているからこそ、脳内で調和という安住の地を求める。アリストテレスは語った... 狂気の要素のない偉大な天才は、未だかつて存在したことがない... と。
現代社会では、あらゆる価値が経済的に評価され、言語にも経済性というものが確実にある。人々は端的で分かりやすい言葉に群がり、自ら思考することを放棄させる。音の環境学とは、言語脳をもてはやす現代風潮に対して、非言語脳を存分に解放し、文明の病理から救い出そうという試みであったか...

4. ハイパーソニック・エフェクト
周波数解析で有効な数学の道具に、フーリエ変換やウェーブレット変換があるが、環境音のような多元的で多重的で連続的に変化する波形構造を分析するには、あまりうまくいかないらしい。そもそも自然界に「ドレミ」なんぞの概念はなく、十二平均律のような周波数比で分割した音律は人間の都合に過ぎない。
そこで、「MEスペクトルアレイ法」なるものを開発したという。音高、音価、音強、音色の属性について可視化する道具だとか。さらに、脳波(α波、β波、θ波)の生理実験と照合したデータを紹介してくれる。MRI(核磁気共鳴画像法)やPET(陽電子放射断層法)を用いて、脳の各部分における血流量を断層画像化し、脳内の神経活動の度合いを調べる、といったことを。β波は認知活動にともない増大するとされ、無意識との境界を探るのに有効なようである。神経活性物質βエンドルフィン、ドーパミン、ノルアドレナリンなどを指標として。
トランス状態に陥れば、日常ではありえない快感パターンに移行し、特に演奏者に顕著に現れるという。それは音に限らず、仕事などで周囲の音が耳に入らないほど集中した時、しばしば快感として訪れるのと似たような現象であろうか。集団に依存する人間は、世間や風潮に洗脳されている存在であることに変わりはない。無意識とは、可聴域外の、もっと言えば、知覚圏外の能力ということか。精神空間がユークリッド空間にあるかは知らんが、視覚系で説明できるようなものではなく、はるかに多元的なもののような気がする。次元的には音空間は精神空間と相性がいいのかもしれない。「ハイパーソニック・エフェクト」とは、異次元空間に耳を澄ました結果生じる生理現象のようなものであろうか...

5. 遺伝子に書かれた必須音
本書は、ホモ・サピエンスとして最も素朴な普遍性の高い環境音を、アフリカのムブティ人が生きる森林生態系や、モンスーン・アジアに広くみられる生態系に求めている。
現代社会は、聴覚だけでなく、視覚においても、夜が明るすぎるという問題がある。現代人は、暗闇での視力を思いっきり低下させてきた。真の暗闇を知らないから、仮想的な暗闇を求めるのだろうか。真の無音を知らないから、幻想的な無音無意識をさまようのだろうか...
都会の生活では、騒音レベルに目くじらを立てる。一般的な騒音計は、可聴域 20Hz から 20kHz の中で、63Hz から 8kHz まで(精密用で 16kHz)しか対象にしていない。騒音レベルでは、50dB から 60dB あたりを指標とする。IEC(国際電気基準会議)の基準では。
しかし、本書が提唱する「必須音」のレベルは、可聴域上限をはるかに超えた 100kHz 前後、理論的には 130kHz から 150kHz としている。しかも、常にスペクトルの形が変容を続ける非定常なゆらぎに満ちた熱帯雨林型の「ハイパーソニック・サウンド」でなければならないという。音圧レベルにおいても、50dBA から 70dBA ぐらいが良いと。
日常では、ちとうるさいレベルだが、自然音ならば、むしろ心地よい。ヘリコプターや自動車の暴走音に腹が立っても、木々のざわめき、小川のせせらぎ、滝の音、風の吹き抜け音、鳥のさえずり、秋虫の声には腹も立たない。尚、真夏のくそ暑い日に、朝っぱらからアブラゼミの集団が合唱をはじめやがるのには、鬱陶しくてかなわんが...
同じくらいうるさくても、自然音に無音のようなものを感じるのは、音環境と自分自身の身体が同化しているということであろうか。体内音が気にならないのと同じように。あるいは、そこに安らぎを感じるのは、ある種の音楽のように感じているのだろうか。
「ムブティ人たちの対話や音楽は、森の自然環境音と一体化して、天然物のような精緻さと天国的な美しさの横溢したひびきを聴かせてくれる。」
会話にも、音環境に同化した言語現象がある。詩や歌に、それとなく心地よいリズムや音調を感じ取り、それが名言として伝えられる。同じ言葉でも、静寂に知的に語ればなんとなく凄いことを言っているように聞こえるし、喋り方で人間性が判断されることもしばしば。意見や説得でも、心地よい声調で語られると、素直に聞き入れたりする。
したがって、ベッドではピロートークが絶対に欠かせない。ちなみに、ウッドロー・ワイヤットはこう言った... 男は目で恋に落ち、女は耳で恋に落ちる... と。

6. LP - CD 論争と輪廻交響楽
本書に「ハイレゾ」という用語は見当たらないが、PCM方式に対するDSD方式について言及される。AD変換手法の∑⊿方式を換骨奪胎して、性能向上と信号処理手続きの簡素化を両立させた技術だという。復号化には簡素なローパスフィルタでも実現できるエレガントな方式で、マルチビット方式の宿命である量子化情報の切り捨ても少ないと。
少し補足すると... DSD方式は、PCM方式の量子化ビット数を増やす方向とは逆に、素直に 1bit のままでサンプリング周波数の方を上げる。パラレル転送に対して、シリアル転送といったイメージであるが、そう単純ではない。設計上、PCM方式では、ビット数が増えるほど高周波成分の量子化ノイズが大きくなり、この特性から生じる信号の歪みは避けられない。
しかしながら、密度の切り捨てが、合理的な場合と非合理的な場合があろう。音源が忠実に再現されたとしても、鑑賞者の心が歪んでいれば、音源もまた歪んでいる方が心地よいかもしれない。実際、純粋な音よりも擬似的な音を好む場合がある。サラウンドやサウンドエフェクトといったシステムは、楽器の奏でる純粋な音よりも、空間に広がる擬似的な迫力を満喫しようというものである。
さて、LP と CD との音質差に重大な関連があることは、広く知られている。LP には、可聴領域の上限をはるかに超える高周波成分が含まれている。JVC が開発した「CD-4」という LP をメディアとした4チャンネル・サラウンド記録方式があるという。30kHz をキャリアとし、プラスマイナス 15kHz の帯域で、周波数変調方式によるマトリック信号を記録しておき、再生時には可聴域に記録された2チャンネルのステレオ信号とマトリックス信号との演算によって、4チャンネル分のサラウンド信号を復元する、というものだとか。
これを実現するために、可聴域上限をはるかに上回る 45kHz 以上の高周波数域にまで優れた記録、再生性能が求められる。「輪廻交響楽」も、こうした技術で誕生したものらしいが、CDで販売されていれば、その効果も薄れそうだ。CD のサンプリング周波数は、44.1kHz を採用し、理論的に 22kHz 以上をカットするのだから。そして、LP - CD 論争をこう振り返っている。
「LP支持派は非言語脳の活性が優位な魂をもつ人びと、CD支持派は言語脳の活性に支配された近代的精神をもつ人びとが大勢を占めていたといえよう。」

2016-04-24

"土と文明" Vernon Gill Carter & Tom Dale 著

「自然」の対義語に、「人工」ってやつがある。自然法則が神の力だとすれば、人工物とは悪魔の思索であろうか。人間はそのことに薄々気づいていたから、そんな言葉を編み出したのだろうか...
「文明人はいつの場合でも、一時的には自然環境の支配者となることができた。彼らの大きな杞憂は、現世の権力が永久的なものであるという迷妄からもたらされた。文明人は自然法則を十分に理解せずに、己れを "万物の霊長" と考えた。」

生命にとって、食料の安定供給こそが長年の夢となろう。かつて人類は他の動物と同様、生きて行くためには自然環境に順応する必要があった。自然に逆らうようになったのは、農耕が定着してからのこと。それは、紀元前九千年に遡る。農耕文化の最大の意義は、穀物の大量生産によって食料を貯蔵できるようになったことであろう。食料獲得に追われる日々から解放されると、その余剰生活から文明を育むようになった。
文明ってやつは、都市というものを想像せずには考えにくい。すなわち、集団社会を。最初の文明は肥大な土地と豊富な水によってもたらされ、生産や流通の効率を求めては人口の集中が始まった。効率性への切望は経済にとどまらず、政治、宗教、学術など多岐に渡り、定住と分業をもたらす。四大文明で名高いエジプト、メソポタミア、インダス、黄河でも都市が建設された。都市建設の要件が食料と水の供給にあることは、現在とて変わらない。
ところが、人類の余剰への夢は食料にとどまらなかった。まさに近代都市は、余剰生産、余剰労働、余剰人口などの余剰価値によって支えられている。いまや余剰価値を生み出し続けなければ、経済システムそのものが維持できない。いわば自転車操業!

人間が生きるとは、消費を意味する。文明の衰亡を論ずる時、人口問題と環境問題を抜きには語れない。人類史に例を見ない人口増殖は、天然資源を消耗し尽くしては新天地に移転すればいい、というやり方は通用しない。
とはいえ、天然資源を消費し続ける習慣は、何百世代にも渡って踏襲してきたし、そう簡単に改めることはできないだろう。個人で改める意志があっても、集団では別の意志が働く。人間ってやつは、自然環境もさることながら、長年培われてきた社会慣習や社会常識にも順応しようとする。自然を大切にすべきか?と問えば、ほとんどの人が、Yes! と答えるだろう。だが、社会規模では、そうはならない。災害などで危機的な状況にあっても、少し余裕のある人の声は届くが、本当に危機にある人は声を発することもできない。そして、集団社会は不満を垂れる連中に乗っ取られる。ほんのわずかな人間の思惑で社会が動くとすれば、それは本当に民主主義であろうか?
「資源が枯渇して富が満足に全体に行きわたらなくなると、決まって弱者は強者に自由を捧げる。しばしば大衆は、富者から富を奪い、貧者に施すことを約束する煽動政治家たちに追随する。隣国に打ち勝てることを約束する独裁者に従う場合もあり、内乱を起こして闘う場合もある。弱小国のなかには、いち早く隣国による征服に屈服するものもある。個人の自由の究極は必然的に同じである。」

経済合理性は、しばしば自然合理性を破壊する。ほとんどの道路は舗装され、肥沃な土地はコンクリートで埋め尽くされ、気温は鰻登り... しっかりと地球温暖化に貢献している。
経済学は、資本 + 労働 + 原料 + 管理 = 生産 といった数式で生産効率性を算出する。自然環境に依存する原材料の供給は一定である、ということを前提にしながら。経済政策では、消費を煽ることしか能がなく、政治屋は相変わらずハコモノづくりに御執心だ。経済循環は意義ある投資によって機能するはずだが、現実の投資は産業振興よりもサヤ取り信仰へ向かう。金は天下の回り物!とは、浪費家がよく使う言い訳だ。
そこで、環境破壊、天然資源の枯渇、生活水準の低下を食い止めるために、二つの荒療治が提起されてきた。「人口ゼロ成長」「経済ゼロ成長」が、それである。本書はさらに第三の目標を加える。「浸蝕ゼロ率」というものを。ただし、究極的には不首尾に終わるかもしれないと、やや悲観的に語られる。高齢化社会は、この社会モデルを暗示しているように映る。おそらく文明そのものは、賞讃に値するものなのだろう。だが、人間は自惚れが強く、中庸の原則をすぐに置き去りにする。人類がどんなに開化しようと、どんなに野蛮であろうと、自然の産物であることに変わりはない。そして、自然法則から酷く逸脱すれば、その定めに従うことになろう...

1. 人口論
自然破壊はエネルギー問題だけではなく、人口にも深くかかわる。にもかかわらず、エネルギー問題が声高に唱えられる一方で、過剰人口については声が小さい。生物が異常繁殖すれば自己消滅に追い込まれるのが、生物界の掟。戦争にも皮肉な役割があった。20世紀型の大量殺戮は人口減少に寄与した。理性的な存在が、毒を以て毒を制すの原理に縋らなければならないとは。しかし、戦争で死んでいくのは若者たちだ。本当に社会を支えていく人たちだ。余剰人口なんぞではない。
自然に人口増加に歯止めがかかる国がある一方で、政治的、法律的に子供をつくる数を制限する国は少なくない。規制を必要とせず、自主的に人口調整のきく社会があるとすれば、それは自然に適っているのではないか。世間では、高齢化社会をまるで悪魔のような言いようだが、医療技術が進歩し、健康管理が行き届けば、寿命が延びるのも道理。人間の不老不死への欲望には限りがなく、いつの時代も健康ブームは旺盛ときた。高齢化社会は新たな年齢層を創出し、青年期、熟年期、老齢期の概念も見直さなければなるまい。少子化対策に、子供をたくさん作りましょう!では、人口増殖を煽るようなもの。これに、女性の社会進出と絡めて論じる有識者もいるが、また別の問題である。
ここで、ちょいと人口密度の観点から語ってみよう。例えば、日本とドイツを比べた時、国土の広さは同じくらいだが、平野の面積はヨーロッパの方が大きい。だが、人口比では、約1億2千万に対して約8千万。ただし、体格の違いが、多少の人口比を相殺しているかもしれない。いずれにせよ、日本の少子化問題は、今までの人口増殖のツケが回ってきたと見ることはできるだろう。それは財政赤字とも密接にかかわり、さらに子供たちにツケを回そうとしている。老後の面倒をみてもらおうという大人どもの魂胆か。人間の価値観ってやつは、一旦右肩上がりに慣らされると、終生、修正がきかないのか。六十、七十、八十になってもなお肉食獣であり続けるならば、若年層が草食獣となってバランスをとるしかなさそうだ...

2. 曲がった食文化
文明の成熟度は、食文化にも現れる。農作物は安ければ売れるなんて時代ではない。高品質で安全な食材を求めるだけでなく、高級食材を求めるようになった。にもかかわらず、農業政策では、いまだに価格競争に目を奪われる。そこそこの品質が保たれるようになると、今度は見た目が気になってしょうがない。売り場では曲がったキュウリが捨てられ、子供たちは自然の本当の姿を知らずに育っていく。ついに、天然モノが馬鹿にされる時代か?
遺伝子工学が進化すれば、遺伝子移植が盛んになり、遺伝子売買の市場が生まれるだろう。学者遺伝子やら、スポーツ遺伝子やら、長寿遺伝子やらに人々が群がる。人間は差別の好きな動物なのだから。そして、遺伝子格差社会の登場を見るのか。地上には、自然的な人間が抹殺され、人工的な人間が君臨するのか。仕舞には、ロボットとの最終戦争に挑むのか。キュウリがまっすぐな分、心が曲がるのかは知らん...

3. 古代ギリシアの農業
アテナイの歴史家や哲学者たちは、農業の偉大さを語りながら、農法や農耕技術についてはほとんど語ってこなかったという。ヘシオドスにしても、農業精神について神の恩恵を語ってはいるけど。アテナイが海上支配による植民地によって栄え、農業が奴隷制に支えられていたために、農作業に対する実感が薄れていたということはあるかもしれない。ただ、スパルタ、テーベ、アテナイはそうであったにしても、大半の都市国家で商工業化は進んでいなかったらしい。
ソロンの立法からクレイステネスの制度改革に至る期間中、アテナイは強大な商業国になった。そして、全面的に商工業と海外貿易に依存し、海上支配権を失うと、たちまち衰亡していった。生産的な土地という経済基盤を欠くと、都市の復興は極めて難しくなる。ソロンは、プラトンより二百年も前に、アッティカの土地が穀物栽培に不適となっていたことに気づいていたという。彼は、傾斜地の穀物の栽培をやめ、オリーブやブドウを栽培するように強調したとか。助成金を出して、土地を救おうと。プラトンが指摘した時には、あまりにも遅きに失したということか...
末端の生産者が虐げられるのは、いつの時代も同じ。現在では、生産者よりも流通網を牛耳る者が経済循環を支配し、情報の発信源よりも情報網を牛耳る者が情報を操作し、財産を生み出す技術や能力よりも金融システムを牛耳る者が市場を支配する。これが人間社会における弱肉強食の法則であって、自然淘汰の法則とは似ても似つかない。

4. ヨーロッパの統合問題
「ヨーロッパの大半が地理的・文化的の一単位であり、その結果、必然的に政治的・経済的な一単位にならなければならないか、という問題が当然起こる。その答えは簡単なものではない。」
経済圏の統合という観点から眺めれば、文化的にも、政治的にも、宗教的にも、ヨーロッパほど適した地域はあるまい。経済の実体が一つの単位になれば、ヨーロッパが合衆国のような形態をとり、経済効率を高める。
しかし、問題はそう単純ではないことを、ギリシャ危機や移民問題が物語っている。通貨統一の試みは、単なる通商的利便性だけでなく、各国の社会制度や国家財政にまで影響を与える。ユーロ圏で二大主要国として君臨するドイツとフランスに対して、イギリスも十分に主導権を握れるほどの存在感がある。にもかかわらず、イギリスがポンドを保有し続けることは興味深い。経済破綻のリスク分散として機能しうるということである。実際ギリシャは、ユーロ圏の首脳らに歳出削減や増税を強いられている。もし日本が、どこかの経済圏に属していたら、国債の発行残高に照らして、同じように迫られるであろう。自主的に国家財政を健全化できるか?これが問われている。