2007-04-01

"ご冗談でしょう、ファインマンさん(上/下)" Richard P. Feynman 著

久しぶりに嵌ってしまった。著者はノーベル賞物理学者であるが、この世界を覗けば日々の出来事が馬鹿らしくなる。真面目なのか?冗談なのか?その按配が絶妙である。まったりとして、それでいて癖がない。濃厚なマイルド感。なんとも気持ちのええカクテルである。徹底した探究心と根気。子供の頃から結果よりもその過程の方がおもしろかったと語っている。これぞプロフェッショナルの真髄かもしれない。科学者の書籍というものは、その辺の哲学書よりも深い哲学を感じる。本書は1986年に刊行されている。おいらは学生時代だ。もっと若いうちに読んでいたかったと思う反面、当時ではそれほど酔えないかもしれない。どんなに素晴らしい酒も、味わうためには、それなりに心の準備が必要である。こうして昔の書籍をあさっていくのも悪くない。では、数ある中で泡立ちの良さそうなところを摘んでみよう。なぜか?って。そこにビールがあるから。

1. 脳の視覚部門と感覚部門のつながりについて分析した時の話。
「僕が夢を観察した一つの理由は、目を閉じていて、何も外界からの刺激が無いとき、いったいどうやって人の姿などのイメージを夢の中で見ることができるだろうということに、非常に興味を持っていたことに始まる。」
絶えず眠りにつく時の自分を観察しようと努力したとある。
この発想で、おいらは大学時代を思い出した。講義中、寝てる時に自分の意識を自覚しようと努力したことがある。そして金縛りになった。皆からは良く笑われたものである。金縛り中、頭元に霊が存在するかのような感覚に陥って初めは恐怖を感じるが、慣れるとおもしろい。そして、力が抜け過ぎて金縛りになれなくなった。楽しみを一つ失うのである。
今では、医者から処方してもらった睡眠薬を飲んで、眠くなった状態でどこまで長く起きていられるか。という遊びを覚えた。楽しみを一つ増やすのである。

2. 「本質的対象とは何か」という哲学的議論をした時の話。
彼は「電子は本質的対象か?」という質問から始める。そもそも「本質的対象」という言葉を理解するところから始めたかったわけだ。
実は電子とは仮説なのだ。これが自然のしくみを理解する上で、ほとんど実在しているというぐらい便利なものである。そこで、理論上の構成物を本質的対象と考えるかという質問から始める。すると、あーでもないこーでもないという議論に発展して、哲学ではありがちな混乱で締めくくる。
結局「本質的対象」とは何かという定義すら誰も理解していなかったというオチだ。これでは、深夜の討論番組「朝まで生ビール」である。

3. 原爆の話。
著者がノーベル賞物理学者なので、このエピソードは外せないだろう。ロスアラモス時代、マンハッタン計画に参加した頃、数々の有名人に囲まれた会議の風景を物語る。つまり原爆を作る会議である。ここでは少々長いが、印象に残ったのでそのままの文章を引用する。
「誰か一人が意見を述べると今度は違う者がそれに対し異なる意見を説明する。という形で進行する。そこで気になるのが、最初に意見を言った人間が繰り返し強調しない。この会議のメンバーは皆それぞれに新しい事実を考えに入れて実に様々な意見を発表しながら、一方でちゃんと他の連中が言ったことを覚えている。しかも最後には一人一人の意見をもう一度繰り返さなくても、それをちゃんとまとめて誰の意見が一番良いと決めることができるのである。これを目のあたりに見て僕は舌を巻いた。本当に偉い人とはこういう連中のことを言うに違いない。」
目的意識が完全に共有できた賢者の会議というものがひしひしと伝わってくる。
一方で、外部との情報のやりとりに検閲が入る不自由な環境において、夫人への手紙で、わざと暗号っぽい数字を並べるなどのいたずらをしたことなどは微笑ましい。また、夫人もわけのわからないアルファベットを並べた手紙を書いたりと、よくできた女性のようだ。下手すると反逆罪で捕まる緊張感のある時代にこうした冗談がやれる人間性は洒落てるのである。

また、原爆実験が成功した時、皆が興奮して喜んだ中、開発者の一人が「どんでもないものを造ってしまった」と言ったことに対して、無我夢中で働いてきて、考えるという機能が停止してしまっていたことを語っている。数学者フォン・ノイマンの「今生きている時代に責任を持つ必要はない」という忠告で「社会的無責任感」を感じるようになり、それ以来幸福な男になった。と言っているが、悩み悩んだ照れ屋が無理に語っているように思える。

4. 優雅なバー「アリバイ・ルーム」での話。
アル中ハイマーとして反応しないわけにはいかない。
ある常連客がミルクを注文する。この客が胃潰瘍であることを皆が知っているから哀れむ。これを見て、彼は次からコーラを注文し、つまらなそうな顔を作ってみせた。すると他の連中がたちまち彼をとりかこんで同情しはじめたという。
試しに、おいらも行付けのバーでやってみた。しかし、殺人カクテルが出てきた。ちなみに、このバーでオーダーが通った試しがない。

また、女性を口説く手ほどきを受ける。基本法則はこうだ。
「男は紳士と思われたいのが普通だ。礼儀知らずの野暮な奴と思われたくないし、ことにケチと思われるのが一番こわい。女の子達はこれを見抜いているから、思い通りに操られるというわけだ。よって、どんなことがあっても紳士であってはいけない。女の子を頭から軽蔑してかかること。しかも第一のルールは、女の子に決して何も買ってあげてはいけない。」
おいらは、ベロンベロンと、うぬぼれのデュアルバイアスがかかっているので見事に操られる。
かつて、女性から「ハイヒールを忘れたから買っといて!」というメールを受けた。
さっそく、おいらは夜の社交場近くのヒール店に一人で恥ずかしそうに入った。
どれを選んでよいかわからないので少々悩む。店員は真剣に選んでいると思ったのかもしれない。
「これなど、いかがでしょう!今人気がありますよ!」と近寄ってくる。おいらは、即座に逃げたかったが、いちおう色の好みだけは伝える。そして、「すぐに使うから包まなくていいよ!」って言うと、店員から「お客さんが履かれるんですか?」と止めを刺される。おいらにオーラでもあるというのか?「女の子に決して何も買ってはいけない」という教訓が身にしみるのである。

本書は、他にもたくさんのエピソードがあり、全てに突っ込みを入れたいが、今日はこのぐらいにしといてやろう。ただ、出てくる話はトップレスの店やら、バーでの出来事など、ただのスケベおやじである。ノーベル賞物理学者ってこんなもんかあ。妙に親しみを感じる。
まさしく馬鹿と天才は紙一重である。アル中ハイマーは前者であるという証明である。
おいらもそれなりに人生を楽しんでいるつもりであったが、楽しみ方が足らないと反省するのである。こういう本に新鮮さを感じるということは、おいらの根は真面目過ぎるのだ。
おっとくしゃみが「ヘークション!どこぞの女が俺の噂をしてやがるぜ!」
とドスの利いた声でつぶやくのである。

ここで、本書とは関係ないがロスアラモスでの出来事を追記しておこう。
かつて、相対性宇宙論の世界会議がロスアラモスで開催された。
アル中ハイマーは「重力場における時間の歪と相対性理論による実証」と題して論文を発表した。
「ホットな女性と一緒にいると時間が短い。そうでもないと時間が長い。オーラとは、重力による空間の歪であり、時間は美貌の波長に左右される。」
もちろん、オッペンハイマーの目に留まったことは言うまでもない。
オッペンハイマー&アル中ハイマー、なんとなく語呂合わせが良い。こうして記念に造られたワインが「ハイマースハイマー・ロゼ」である。このワインは、市場の不完全性パラダイムを体系化したハイマー理論に基づいて製造されたため、激辛と強烈なつんとくる酸味からは信じられない、濃厚でボリュームたっぷりの甘味を醸し出す。
また、会議のあまりの盛況ぶりに、どこかで噂を嗅ぎつけたクラブから、桜祭りの招待状が届いたことを付け加えておこう。アル中ハイマーはクラブ活動にも余念が無い。
すっかり、意気投合してしまったオッペン君は、カクテル「アトミック・ボンブ」を一気に飲み干した。そして、実証実験と称して「もう1軒行こう!」と言い出した。
おいらも、つい口癖で応酬する。「しょうーがねーなあ!」
以上。19XX年4月1日の出来事である。

2007-03-25

"人を動かす" Dale Carnegie 著

「道は開ける」の姉妹書なので、ついでに読んでみた。
タイトル通り"人の心を動かす"秘訣を語ったものである。
本書を読んで、ほとんどおいらと逆の事ばかりである。読み終わって、おいらの人格を否定されたような気分で落ち込むのである。どうやらアル中ハイマーは、人を動かそうなんて思ってはいけない人種のようだ。では、普段ベロンちゃんのアル中ハイマーが、どこかへ落ち込んでいく様をざっと眺めてみよう。

「批判も非難もしない。苦情も言わない。」
人間とは、どんな悪人でも自分を正当化しようとするものである。他人の批判はなんの役にも立たない。自尊心を傷つけられ、反抗心を生むだけである。人を非難することの無益さを理解しなければならない。と語られていく。
おいらは、いつも批判めいたことや愚痴ばかり言っている。一種のストレス解消だ。そして誰も相手にしなくなる。唯一の友は酒である。あれ?もしかして孤独?知らなかった。落ち込みの第一波が押し寄せる。

「率直で誠実な評価を与える」
人を動かす秘訣は、自ら動きたくなる気持ちを起こさせることである。人間の持つ最も根強い衝動は「重要人物たらんとする欲求」である。と語られていく。どんな人間でもお世辞に弱いものである。しかし、お世辞とわかれば逆に嫌われる。人間は自分自身の存在価値を認めてもらいたいと考える。特に歳を重ねるとその傾向は顕著になるようだ。生きてきた以上は当然のことである。重要ポストなどについている人は、決定事項を素通りすることを好まない。なんでも仲介役を買って出たり、忙しくしてないと気がすまない人が多い。そのわりに重要なことをサボったりする。そして、肝心なときに席を外したり、責任を負わないことはよくある。
アル中ハイマーの存在価値は有るか?無いか?という問いには、当然有ると答える。じゃ、賭けをしようと持ちかけられたら、当然無い方に賭ける。おいらは賭けに負けることが大嫌いなのだ。
書いていてなんか虚しい!落ち込みの第二波が押し寄せる。

「名前を覚える」
相手への最低限の礼儀であろう。アル中ハイマーが最も苦手とするところである。久しぶりに会って、その人の細君や子供、趣味などを尋ねると、和むものである。アル中ハイマーには、こうした記憶力がない。しかし、逆に覚えられることはよくある。妙な特徴があるのだろうか?いや普通の紳士である。
いつか、東京駅のホームで偶然、高校時代の知人に会った。声をかけられ、なんとなく顔はわかるのだが名前が思い出せない。とうとう我慢できずに聞いてしまった。最後まで我慢すれば不快な思いをさせずに済んだであろう。アル中ハイマーには決して珍しくない出来事である。あだ名がわかっても、本名を知らないなど、ざらである。友人の結婚式に招待されて、初めて本名を知る。
ただ、夜の社交場で隣に座った女性の名前を覚えるのは天才的である。んー。落ち込んでいいのやら悪いのやら?わけがわからない。落ち込みの第三波のようだ。

おいらは、珍しい名前なので、幼いころから先生にからかわれるのである。学校の先生は多分仲良くなろうとして冗談で言うのだろうが、本人にしてみれば、いじめである。こうした幼い頃の体験は、病的になるか反抗的になってしまう。おいらは天の邪鬼になった。
そうした中、高校時代、物理の先生には感動した。
おいらのクラスは、たまたま珍しい名前の生徒が揃っていた。どの先生も珍しいからとおもしろがっていたにも関わらず、その物理の先生だけは、初対面で全員の名前をフルネームで完璧に読み上げて出席をとった。事前に調べてきたのである。おいらの名前は性が珍しいのと、名は当て字で微妙に読み方が違う。初対面でフルネームで完璧に読まれたのは、これが最初で多分最後であろう。このような気配りのできる先生を嫌う理由がない。以来物理が好きになるのである。まさしく、"人を動かす"秘訣である。ところでその先生の名前なんだっけ?

「話上手とは、聞き手にまわることである」
おいらは、人の話をじっくり聞ける人や穏やかに話せる人に憧れる。落ち着いて品が高そうに見えるからである。おいらは、ほとんど人の話を聞いていない。自分で喋っているからである。言いたいことは、つい言ってしまう性格なのだ。これはマズイ!
第何波だっけ?波に揺られて酔ってきた。いや君に酔ってんだよ!

「相手の身になる」
相手の自尊心を傷つけずに説得するなど至難の業である。
ガリレオ曰く「人にものを教えることはできない。みずから気づく手助けができるだけだ」
自分の誤りを直ちにこころよく認めるなど、なかなかできないだろう。おいらは自分で楽しもうとすることしか考えない。それで他人も楽しめればOKである。おいらは、自分ならどう思うかと置き換えることぐらいしかできない。他人のことを理解することなど難しくてできないと半ば諦めている。
航空家で作家のサンテグジュペリの言葉を引用している。
「相手の自己評価を傷つけ、自己嫌悪におちいらせることを言ったり、したりする権利は私にはない。大切なことは相手を私がどう評価するかではなく、相手が自分自身をどう評価するかである。相手の人間としての尊厳を傷つけることは犯罪なのだ」
おいらは犯罪者なのだ。どこまでも落ち込んでやる。波乗りは気持ちええのだ。

本書の要約を見つけた。
「相手の自尊心を尊重しなければならない。批判によって人間の能力はしぼみ、励ましによって花開く。」
本書では、当り前のことが並べられている気がするのだが、分かっているつもりでも実践できていないことはよくあることだ。おいらは気が短いので、なかなかできないことが語られていて頭が痛くなってきた。ちょっと飲み過ぎたようだ。
「自分のことだけしか考えない人間は教養のない人間である。たとえ、どれだけ教育を受けても教養が身につかない人間である。」
おっと言葉まで突き刺さる。おいらは随分相手を傷つけてきたことだろう。よく友人に注意される。アル中ハイマーは無神経人間で通っている。実は、照れ屋だから酔っている振りをしているのだ。いや、本当に酔ってるのかもしれない。もはや波と共に神経がどっかへ行ってしまったようだ。

結局、どこに落ち込んだのだろう?アル中ハイマーは酒に落ちるのである。
ちなみに、「酒に落ちると書いて"お洒落"と言う。」とは、某バーの記念パーティーのマスターの台詞である。おいらは、なるほどと感動した。しかし、感動して損した。お洒落は酒ではない。横棒が一本ない。
そして甲高い声で叫ぶのだ。この詐欺野郎ー!

2007-03-18

"道は開ける" Dale Carnegie 著

アル中ハイマーには、あまり縁の無い本にぶつかってしまった。本書のテーマは「悩み」である。
「人間の悩みについて、どうやって対処したかの実証記録である。欠点は無知ではなく無為である。古来の根本原理を再述し、現代風に書き直した。」
と前書きされている。なぜこんな本を読んでいるのだろう?昔でも思い出しながら、ちょいと潜在意識を覗いてみよう。

大抵の悩みは未来に対する恐れからくるとある。
未来の重荷まで今日背負うと、どんな強人でもつまずくだろう。真の心の平和は、最悪の事柄をそのまま受け入れることにより得られる。そして、もはや失うものがなくなる。開き直るのである。人々が怒り、混乱し、人生を台無しにするのは、最悪の事態を受けれようとしないからである。逃避から、うつ病の犠牲者となる。
ということが語られていく。

おいらは子供の頃から学校嫌いで出席日数もギリギリで義務教育を卒業している。小学6年生ぐらいから高校2年生ぐらいまで続いた。悩みというよりは学校に行くのが面倒だったのである。普通の登校拒否とも違うと先生が言っていた。先生が居なくても教科書を読めばええじゃんって思っていたし、時間の無駄だと思っているなど、ただのひねくれ者だったようだ。
周りは体が弱いと思っていたようだ。そう思われるのは都合が良かった。けっして体が人一倍弱いわけではない。強いわけでもない。ただ意思が弱かった。
興味もないものに意思を持つことの方が難しい。しかし当時は、そうした無気力状態に落ち込んでいた。当時から、悩みとはなんぞやという事について考え伏せていた。アル中ハイマーにもこうした暗黒時代があったことを誰も信じてくれない。

「悩みに対する戦略を知らないものは若死にする」とある。神経症入院患者は、無力感、欲求不満、不安、苦悩、恐怖、絶望が原因である。プラトン曰く。「医師の犯かしている最大の過失は、心を治療せずに肉体を治療することだ」
おいらは、最近よく健康診断にひっかかる。つい気まぐれで3年ほど前病院へ行った。たまには看護婦さんを眺めるのも精神衛生に良いと思ったからである。すると、脳梗塞!即入院!今では毎月検診を受けているが健康過ぎて困っている。事業の成功と健康を引き換えにするなら、おいらは健康をとっていると言えよう。
生活習慣といえば、眠くなれば寝て、自然と朝4時過ぎに目が覚める。朝は散歩、昼寝を1時間、夜は0時過ぎに寝る。仕事の気分転換にバイクで海岸線まで走り、風にあたり、煙草を一服。夜は大人の社交場へと消えていく。
事業者の"負け犬の遠吠え"とは、"健康を勝ち得た!"と叫ぶことである。

「悩み解消法は、事実を把握、分析、そして、決断、実行」とある。悩みの大半は、判断の根拠となる知識が十分でないのに、あえて判断を下そうとするから生じるとある。
人間は、思考する努力を省きたいために、あらゆる方便に頼ろうとするのだろう。自分を正当化し好都合な事実や、抱いている偏見を正当化する事実だけを望む。しかも、自分の悩みを他人に強いる人までいる。おいらは現実から逃避する手段として、仕事とは別に計画を練ったり、思索にふけったりする。そうすると、悩んでる場合ではないということに気づかされる。こうした行為は、いままで避けていた分野でも自然と興味が湧くから不思議である。興味がないことに対して無力であることは、学生時代に証明済みなので無理なテーマを掘り起こすことはない。ただ、いろいろと目が移り本業がだんだん馬鹿らしくなるから困ったものである。今では本業が何だかわからない。アル中ハイマー本領発揮である。
ここで、アル中ハイマーの持論を上げよう。
・生きるとは、死までの暇つぶしである。
・生きがいとは、死の恐怖から逃れる手段である。
・多忙とは、神経疾患への麻酔薬である。
・哲学とは、暇人の学問である。
・暇とは、不安と葛藤する勇気を養う時間である。
・天国と地獄があるなら、まさしくこの世である。
 生きがいがあれば天国。生きがいが無ければ地獄。
ほんの少し悩みを分析すれば、このような言葉を思いつくことは容易である。しかし、誰かの思想をコピーしているものもあるかもしれない。自分の考えだと自信を持っていても無意識に感化されてることはよくある。そもそもアル中ハイマーに自意識があるかは分析不能である。

「物事があるがままに受け止めよ!」避けられない運命があると語られている。人間、努力すればなんとかなるという人がいる。学校教育とはそうしたものである。絶対的に支配される何かが存在し、それを受け入れる心構えがあってエゴから解放される。おいらには身近に先天的知的障害者がいる。少々わがままで、深夜に踊りだしたりするので、鬱陶しいこともある。昔はあまり人前に見せたくないなど、くだらない気配りをすることもあった。今では慣れたせいか、他の人には体験できない境遇にあることを感謝している。

悩みを完全に克服する方法として、神に祈ることを上げている。宗教に頼るのが手っ取り早いのだろう。カントも「信仰が必要ならば神を受け入れれば良い」と言っている。カリスマなんたらというのがマスコミに取り上げられるのも仕方のないことかもしれない。おいらは無宗教なので信じるものがない。また、苦悩を正面から受け止めるほどの度量も持ち合わせない。よって屁理屈で武装するのである。

悩みを予防する方法に休息が良いとある。精神分析医に言わせると疲労の大部分は精神的、情緒的態度に起因するのだそうだ。半時間の昼寝など。筋肉をリラックスさせると自然と悩みを忘れられるそうだ。おいらは、1時間昼寝をすることが多い。眠い時だけで無理に寝ようとはしない。元々不眠症に悩んでいた時期があり、睡眠薬を処方してもらっている。しかし、眠くない時に寝る方が疲れる。眠ろうとする焦りが逆にストレスになる。
おいらは睡眠薬を飲んで睡魔と闘う遊びをおぼえた。眠くなった時にどこまで起きていられるかという遊びである。そして、いつのまにか意識をなくす。目が覚めた時は別世界である。本当に記憶が飛ぶ。麻薬ってこんな感じなんだろうか?病み付きである。こうして10年ぐらい不眠症を楽しんでいる。最近はよく眠れるのでおもしろくない。
尚、ここでいう睡眠薬とは酒ではない。本当に薬局で扱っている薬だ。ほんまだって!最近、真実を語っても信じてもらえない。これがアル中ハイマーの悩みである。

前半は、悩みの根源や分析について語られていて意外とおもしろく読めた。しかし、後半は、前向きに陽気でなどと一般的な決り文句が続くので少々退屈してしまう。本書を選択した読者は悩み悩んで辿り着いた人だろうから、それでちょうど良いのかもしれない。
おいらは悩むのもいいことだと思っている。前向き過ぎるのも問題である。少々心配事があるぐらいでちょうど良い。そうでないと理性のバランスが保てない。
アル中ハイマー・ツェッペリン曰く。「ジンとベルモットのバランスを保つことが悩みを取り払い、天国への階段は開ける。」

2007-03-11

"決断力" 羽生善治 著

3/2 将棋のA級順位戦の最終戦が一斉に行われた。
某国営放送が「将棋界の一番長い日」と題するこの日は、毎年仕事をせずに観戦することにしている。恒例ではあるが、またまた感動させられるのである。

やはり一番の注目カードは、佐藤棋聖 vs 久保八段だろう。佐藤棋聖は連続勝し越し記録がかかっている。久保八段は降級がかかっている。
おいらは、いきなり序盤から驚かされた。戦形は相振り飛車。後手番の佐藤棋聖は9一玉へ一直線で穴熊に入る。これを見て久保八段は8筋に振った飛車先の歩を交換する。そして、久保八段が8五飛と引いた瞬間。おいらは、ええっ?っと思わず声を発した。
この飛車が2筋に回ったら、角頭を防ぐには3三に飛車を浮くしかない。これは自分の角道も塞いで、飛車も動けない状況になる。だからといって8筋に歩を垂らされるのも辛い。どちらを防ぐのか?玉に近い8筋を優先して2筋は飛車を浮いて防いだ。久保八段の角道に飛車があたるのは覚悟の上だ。
佐藤棋聖が指した9一玉のタイミングは、もしかしてチョンボ?まさかA級棋士が序盤の序盤に?おいらなら、やる気をなくして投了しそうな場面である。
プロ棋士によっては、攻めさせるための誘いの手だったと解説している人もいる。それにしても、8五飛のタイミングで佐藤棋聖が長考するのは妙である。しかし、後に佐藤棋聖が優勢と思わせる場面もあるから、やはり誘っていたのかもしれない。その後、繰り出す手が不可解?勝負手?実は、形勢が苦しいとみての思い切りだったのではないか?気持ちは佐藤棋聖を応援していたが最後は投了。いつのまにか勝敗などどうでも良いと思っているのである。
真相は不明であるが、おいらには到底計り知れないレベルで感動するのである。達人がやるとポカも妙手になるのだろうか?この真相を解説したサイトを現在も探索中である。将棋チャンネルの中川七段の解説で、実は最後の最後に大逆転の妙手もあったと知って、またまた感動するのである。

すっかり気分が盛り上がってしまったアル中ハイマーは朝一番で書店に走った。将棋関係で心理面などを解説した本が読みたくて探していると、本書を見つけるのである。

将棋は一見ロジックの世界のようであるが、本書は冒頭からメンタル面の重要性が語られている。
まあ、数学の世界に似ているのだとは思うのだが、フィールズ賞の小平先生の数学は高度に感覚的な学問であることを「数覚」と言ったことを持ち出している。
定跡を研究すれば、60手、70手ぐらいまで正確に指すことができるが、知識を知恵に昇華させないと勝てない。情報化社会では新手の研究は報われない。著作権はない。だからといって諦めては流される人生になる。こういう時代だからこそ、自分なりのスタイル、信念が重要である。
経験と机上の研究とは深みが違う。経験を積むことによりネガティブになるが、このマイナス面に打ち勝つ理性を同時に成長させないと経験を生かすのは難しい。
といったことが語られていく。
棋士は、数学と同じで複雑系を定跡という形で体系化しようと努力しているが、結局、ぎりぎりの勝負で力を発揮できる決め手は大局観と感性のバランスであるということのようだ。

また「決断とリスクはワンセット」などで、ビジネスの世界にも少々踏み込んだ場面もある。
「物事を進めようとする時、まだ、その時期ではない。環境が整っていない。とリスクばかり強調する人がいるが、逆説的に言えば、整っていない環境は良い環境だとも言える。日本は同質社会ということもあって、このバランスが悪いと思う。リスクを負わない人がいる一方でリスクばかり負わされる人がいる。決断を下さない人に減点がないから決断を下せる人が生まれてこないのではないか。自己責任という言葉を最近よく耳にするが、リスクを背負って決断を下す人が育たないと、社会も企業も現状の打破にはつながらないだろう。」
同じ発言でも、ある分野でトップを極めた人間の言葉は重い。アル中ハイマーが同じことを言っても、飲み屋の姉ちゃんからハイハイでおしまいなのである。

将棋というと、アル中ハイマーはずっと疑問に思っていることがある。
先手と後手どちらが有利か?である。プロ棋戦の勝率をみると圧倒的に先手が良い。数学的にも選択幅が多い分、先手が有利なような気もしないでもない。しかし、内容を見ると後手番が戦形を試している節もある。プロ棋士は後手が不利と最初から意識しているからかもしれない。こうした心理が数字を助長しているようにも思える。
本書では、カーネギーメロン大学の金出先生の
「将棋の指し手の可能性は10の30乗ぐらいあり、地球上の空気に含まれる分子の数より多い。アボガドロ数に達する数にはコンピュータも答えられない。」
を持ち出して、プロでも将棋のことは意外とわかっていないということも語っている。
実際、戦いが始まると、仕掛ける側は予め駒損を覚悟しなければならない。極めつけは、最近有効な戦法とされている「一手損角換わり」である。後手から仕掛けると2手遅れることになる。わざわざ一手損戦法が使われるから、更に疑問が深まるのである。
また、谷川 vs 羽生の対戦成績だけをみると、著者から見て先手番よりも後手番の方が勝率が良い。これが、佐藤戦、森内戦となると、明らかに先手番の勝率が良い。本書では谷川九段に対する特別な思いが伝わる。
「谷川先生とは200局はいきたい。他の人と比較しても、谷川さんと私との対局は一番多いものとならなければならないと思っている。谷川さんとは対局を離れるとほとんど会話をしないが、最も理解しあい信頼できると自負している。」
と語っている。この二人の対戦成績には重みが伝わるのである。

先手と後手という意味で語られているとしたら、本書ではこの部分が一番近いような気がする。相手に手を渡すことの難しさと重要性が語られている。
「できるだけ可能性を広げて、マイナスにならないようにうまく手を渡す。相手に自由にやってもらい、その返し技をかけることが重要である。この選択は気持ちに余裕がないとできない。それなりに対応できる自信、手応えがあって手を渡せる。確固たるものではないが、好調な時ほど、そうしたものである。」
ここだけ読むと後手番が気楽なようにも思える。素人でも先に仕掛けると手を作る難しさがあるが、受けに回ると気楽な面もある。もし、勝ち負けしか意識しない将棋の神様が二人いて対戦すると、ずっと駒がぶつからないような気がするのである。

ちょうど先日、王将戦第六局(羽生 vs 佐藤)があった。
先手番の羽生はあっさりと千日手にして指し直しとなった。指し直し局は後手番で熱戦の末負けた。本当に先手番が有利ならば、もうちょっと工夫してもいいのではないかと思って観ていた。過去の対戦からの流れもあるのだろう。このような駆け引きは奥が深くて理解できない。また、いままでに勝ったことが無い手順をわざわざタイトル戦で採用して負けてる場面もある。佐藤棋聖も同じように、不利と言われている戦形をわざわざ採用して、やっぱり負けてる場面もある。これらの行動は理解不能であるが、逆に魅了されていくのである。
本書にこうした行動に対する答えがあった。
「自分の熟知した戦法ばかり採用していると、長い目で見ると必ず現在のポジションを失う。最近では相振り飛車を使う。プロの間ではあまり使われない戦形である。いままでに千局以上対局してきたが、十局も指していない戦形だ。相手は熟知しているエキスパートだ。経験がほとんどないからあえなく撃沈である。それは先行投資のための授業料を払ったと思っている。勝ちを優先することは、企業で言えば目先の利益を優先することである。」
大一番では安全な手法をとりがちになるのは当り前であろう。著者もそう述べている。しかし、確実という気持ちに逃げると、逆に勝ち続けることが難しくなるという。なるほど、納得である。負けるとわかっていても、あえて挑戦しているように思えたのは間違ってはいなかったのだ。
アル中ハイマーの眼力も捨てたもんじゃない。こうして自分に酔っていくのである。いや!アルコールに酔ってるのかもしれない。もはや何に酔ってるかわからない。アル中ハイマーとはそうした病気である。

結局、先手と後手はどちらが有利か?という問いに対する答えは見つからなかった。しかし、アル中ハイマーは断言できるのだ。先手で酔った方が幸せだということを。

2007-03-04

"ハッカーのたのしみ" Henry S. Warren, Jr 著

たまには真面目にプログラムの本を読むのも悪くない。本書は、いかにエレガントにコーディングするかがテーマである。マシン動作をイメージしたアセンブラレベルの話もあり、ハードウェア的要素もある。よって、ディジタル回路も気まぐれで設計するおいらには良書と言えるのである。

いきなりデータのビット操作から始まるが、目から鱗が落ちるのである。
演算回路でいつも悩まされるのが、符号付/符号なし演算、ビット操作など、いかにコンパクトにするかである。本書は、ビット操作やワード操作といったレベルから要素技術が紹介されているので、いろいろなアルゴリズムで使えそうである。
おいらは単純で頭が悪いので、できるだけわかりやすく記述しようとする。正確には自分にとってわかりやすくである。よって、冗長したコードとなり実行時間を犠牲にする。ゴリゴリとコンパクトに仕上げるのが苦手なのである。
こうした冗長プログラムもハードウェアの進化により時代が解決してくれている。とうとう、おいらの時代がきたぜ!と思っているうちに、今や高機能化、大規模化についていけない。どちらにせよ馬鹿は馬鹿なりに世界をみつけるのである。

除算の項の締めくくりにこんなフレーズがある。
「割り算ほど可愛くない演算を思い描くことは決してないだろう。答えを推測してから掛け算で確かめなければならない演算、我々が大きな犠牲を払っている演算、毎日は繰り返し無駄に過ぎた割り算のコードは多くの場合ぞっとするほど難しく、longの割り算は身の毛もよだつ。証明は脳に過負荷をかけることがあり、切り上げと切り捨てで狂気に追いやられるかもしれない。割り算の良いコードはクヌース級の英雄を魅了するが、神でさえ0で割ることができない!」
まったくだ。ディジタル回路で除算の実装で狂気に震えたことがある。こんな仕様を考えた奴は誰だ!と、いつも愚痴るのである。アル中ハイマーは、こんな面倒な仕事から逃避するのである。

平方根では、こんなフレーズがある。
「おお、捕らえ所のない平方根、それは確実に計算できるに違いない。けれど可能な最善の方法は、2のべき乗を用いてニュートン法を繰り返すであろう!」
おいらは、平方根にしても三角関数にしても、面倒なものはテーブルで逃げることばかり考える。そして、数値を組み合わせて近似する。最大限の手抜きしか考えない。たまにはエレガントにプログラムできないといけないと反省するのである。

本書を全部理解するのは生涯かけても無理だろう。アル中ハイマーは自分の馬鹿さ加減に飲むしかない。腹いせにヒルベルト曲線でも作って遊ぶしかないのである。

2007-02-25

"C言語による組込みプログラミング スタートブック" 鳥海佳孝 著

著者とは飲み仲間である。とアル中ハイマーが勝手に思っているだけかもしれない。
以前、行付けのバーで生涯飲めないような高級なお酒をご馳走になったことがある。お返しをせねばなるまいと思いつつ甲斐性がないのでなかなか実行できないのである。
W杯の話になると互いに熱くなる。現地へも行かれているようだ。本書の著者紹介には4大会連続出場中とある。
日韓大会では"FINAL 2002-6-30 YOKOHAMA"が刻印されたヒップフラスコをプレゼントして頂いた。アル中ハイマーは時々これに酒を入れてニヤニヤしている。
個人で独立して活動されている点においては親しみを感じるのだが到底及ばない。セミナーでも活躍されており、こういう方々の地道な努力が本当の意味で社会を支えているのだろう。
本書のおかげで、たまには仕事関係の記事を書いてみる気になるのである。ちなみに、おいらの本職はちょいと味のあるボケた詐欺師である。ゆえに、いつも詐欺に会うのである。

組込み系というとマイコン制御を思い出すが、本書はソフトウェア技術者のためにHDLの知識無しでも回路設計ができる例を紹介している。
Cベースによる設計環境ではC++の"System C"が有名であるが、本書では手軽さでC言語の"Impulse C"を題材にしている。
C言語では逐次処理を記述していくが、ハードウェアでは個々の素子が並列に動作する点が大きく違う。よって、HDLでは並列動作を記述することは当り前であるが、ソフトウェアではこの点を表現する方法が難しい。
Impulse Cではハードウェアの動作を表現できるco_*関数を用意しているので、この使い方を紹介している。開発手順は、C言語で書いたプログラムを動作合成によりHDLに落とす点が追加されるだけで、後は論理合成、配置配線と設計手順は通常のハードウェア設計と同じである。本書にもあるが、動作合成ツールの性能により回路の出来が決まり、現状では回路効率は圧倒的にHDLが優位にある。

かつて、回路図ベースで設計していた時代に、HDLが登場してソフトウェア化が進もうとした。しかし、プログラムが書ければ回路が実現できるものでもない。今日では、回路の知識とプログラムの知識の両方が必要となった。
それでもプログラム記述の方が抽象化できて圧倒的に効率が良い。なによりも検証環境を構築しやすい点が最大の利点であろう。ターゲットモジュールはもちろん、周辺部分をソフトウェアでモデル化できることはとてもありがたいのである。
こうしてアル中ハイマーは、ジョブを積み上げて夜の社交場へと消えていく。そして、酒場からsshする。その日の酒の量はログの量で決まるのである。

おいらは、回路設計を請け負うことがあるが、周辺装置のモデル化や期待値モデルの作成において、C言語だろうがHDLだろうが言語依存で考えたくない。本音は貧乏なので高価なツールなど買えないのである。手段は顧客の要望次第であるが、極力、言語依存、ツール依存を避けるため、ファイルでI/Fするという原始的な手段を取ることが多い。よって、画像処理など大規模な検証パターンを要する検証環境では、大きなファイルが多く存在してしまうなど、つまらないことを気にしなければならないのである。

個人的にはプログラム経験のある人であれば、HDLを覚えるのはそう難しいことだとは思わない。と言ってもハードウェアの知識は必要である。しかし、アルゴリズム検討で作成したコードをそのまま回路に実現できれば、こんなうれしいことはない。そのためには動作合成ツールの性能にかかっている。かつてマシン性能が上がって数々のソフトウェアが実現できるようになったように、素子性能や集積度の向上により、時代が解決してくれるのかもしれない。おいらは、HDLなんて中間ファイルを生成しなくなったら使う気になるのである。ついでに、回路図を滅ぼしたように、HDLを滅ぼしてほしいのである。その前にアル中ハイマーが滅びるのは自明である。

こういうセミナーを受講すると貧乏人には辛いが、本書で受講した気になれるのは幸せな領域へ導いてくれる。また、非常に丁寧に記載されているものと思われる。アル中ハイマーのような酔っ払いにでも理解できるからである。
正確には理解できたような気がする。これが重要なのである。気持ちええのである。どうせアル中ハイマーには万物は何一つ悟れないということを悟っているのである。

2007-02-18

"ウォール街のランダム・ウォーカー" Burton G. Malkiel 著

ランダム・ウォークとは、物事の過去の動きからは将来の動きや方向性を予測することは不可能であるという意味である。
この言葉は、ウォール街では専門家が猿と同列にされるとして忌み嫌われているそうである。
本書は二大陣営であるファンダメンタルズ分析派とテクニカル分析派の死闘に古典的論争を加えているところがおもしろい。テクニカル分析派は、砂上の桜閣学派として群集心理の原理を重視する行動ファイナンス理論であり、ケインズの美人投票論であると酷評している。

おいらはファンダメンタルズ分析を支持する立場をとりたい。なぜならば、性格的にどんくさいのでのんびりと構えたいのと、市場原理は群集心理の影響を受ける複雑系ではあるものの、基本は重力物理学であると信じているのである。
しかし、これだけテクニカル派を下げ降ろすといくらファインダメンタルズ原理主義者のおいらだって逆に興味を持つのである。
ファンダメンタルズ派にしても、将来予測という不確定要素を拠り所にしており、そもそも分析対象とした公表データの信憑性も疑わしいのである。
テクニカル分析派が多く存在するということは、その影響で市場が動かされるのも事実であり、無視できないのである。また、本書は企業の将来予測も不可能と言っている。このような矛盾の中でリスク管理と資産運営を考えることが、アル中ハイマーの目的である。

テクニカル分析について。。。
「人間の性は秩序を好む。ランダムという概念を認めるのは難しい。ランダムな事象の中からパターンを見つけ出そうと努めるものである。」
スポーツではバスケットのシュート成功率の連続性などを例にしている。コイン投げでも表の出る事象が連続することは多々ある。これらがプロのファンドマネージャの実体であると酷評している。同時にアノマリー学派も攻撃している。アノマリーも皆が気づけば旨味は廃れる。
アル中ハイマー流に表現すると、2人でジャンケンして勝ったもの同士が更にジャンケンしていく。このようにトーナメントを行っていき必ず最後には勝ち続ける人がいる。そいつをカリスマ・ジャンケン家と崇めるマスコミがいるということなのである。

ファンダメンタルズ分析について。。。
「専門家である証券アナリストでも、企業の利益予測など当てられるものではない。ハイテク業界のような将来予測が難しい業種であろうが公益産業であろうが同じことで、素人の個人投資家と大して変わらない。」
これは株式の世界に限ったことではない。素人でも専門家を出し抜ける業界は多々ある。多くの証券アナリストは、特に明敏でも、批判力があるわけでも、有能でもない。と言い切っている。確かに、おいらの業界でも、素人で向上心のある方がマシと思わされる人材はごろごろしている。また、証券会社はマスコミとつるんで、手数料目当てで必ず強気相場を演出し買いを推奨する。証券アナリストが売りを推奨してるところなど見たことがないのである。スポンサーに機嫌をとらなければならない。裏の政治が絡んで論ずる連中が到底プロだとは思えないのである。

ランダム・フォーク理論によれば、過去の経験から未来予測はできないと語っている。
「既に公開された情報を元に銘柄を選んでも平均以上のパフォーマンスは得られない。最近の情報インフラの発達により、素人でもプロ並の知識は得られる。よって、公開情報は既に株価に織り込まれ済みなので、ファンダメンタルズの旨味も消えて行くであろう。また、リスクに着目した国際分散投資もグローバル化の波で旨味が消えるだろう。企業価値を判断することの困難さは並大抵のことではない。」
行き着くところは、インデックスファンドの長期保有ということか。ピーター・リンチ、ベンジャミン・グレアム、ウォーレン・バフェットも同じ結論に達したようである。長期保有とは、だいたい25年とみているようだ。おいらが年金生活を必要とするまで、だいたい同じぐらいの期間だ。ちょうど独自のポートフォリオを構築せねばならない時期にきているのである。

本書は長期的には効率的市場理論を支持する立場をとっているが、全体としては中間的立場をとりたいと言っている。効率的市場理論を無視するまでの心の準備ができていない。という自信のないコメントもある。
尚、本書の舞台は米国市場である。いずれ日本市場も米国市場に近づいていくのであろうが、果たして日本でも同じ思想が使えるのだろうか?やはり国際的な分散運営が必要なのかもしれない。語学力がないおいらは勉強しなければならない事項がまたまた増えるのである。
さて、本題である資産運営をどうするか?資産配分をどうするか?一部を土地などの固定資産、一部を事業資産、一部を流動資産に、さて割合は?債権と株式の割合は?
本書では、個々のリスク許容度で戦略が異なってくることを指摘している。当然である。しかし、効率的市場理論の存在が前提である。読み終わって、いまだに経済は重力物理学であると信じたい。

著者はインデックス・ファンド大手の社外取締役でもあるせいか、本書で上げられている数々のデータは、実は宣伝用にも見える。しかし、共感できる点は多いので、騙されてみるのも悪くないと思うのである。おいらはインデックス銘柄のポートフォリオを独自に構築することを研究するのである。おいらは財務諸表を読んだり、会社分析をするのがそれほど嫌いではない。市場分析には、経営とマーケッティングの勉強も欠かせないのである。

本書は個人投資家に対する株式投資の入門書という位置付けであるが、おいらにとっては資産運営の参考書である。人間は欲望を捨てることができない。いかに理性を持って資産運営をするかは非常に難しい。効率的市場原理が成り立つという前提で話が進むが、実際は人間の欲望でランダムフォークさせられる。考えたくないが、効率的市場原理の前提が崩れているとしたら。会社選びも年金期待も全てギャンブル。どうせギャンブル人生なら自己責任を楽しむのである。こうして、アル中ハイマーは人生の墓場へとランダム・ウォークするのである。

2007-02-11

"相対論的宇宙論(名著復刊)" 佐藤文隆, 松田卓也 著

本書は、30年前に出版された「相対論的宇宙論」の復刊版である。
中学生時代に読んだ覚えのある本だ。やはり本棚の奥に色あせたブルーバックスがある。当時は、真面目に宇宙物理学を専攻したいと考えたものだが、アホなので別の道を歩んでいる。夢を見ていた当時を思い出しながら懐かしく読んでしまうのである。

それにしても、30年も前の科学の書籍が復刊するとは信じられない。一般相対性理論が90年以上も実証されてないというのもすごい話である。あらためてアインシュタインの偉大さを感じる。いまだに、本当かどうかわからない理論というものは不思議と興味を持つのである。もしかしたら究極の詐欺師なのかもしれない。師匠として崇めなければならない。

天動説と地動説。定常宇宙論と進化宇宙論。様々な論争で、世論または宗教へ闘いを臨んだ科学者達のいきさつを紹介している。宗教、哲学から物理学へ引っぱりだした科学者の功績は大きい。しかし、宇宙論は未だに物理学というよりは幻想的な世界のようである。
地球がまわっているのか。アル中ハイマーがまわっているのか。酔いがまわってくるのである。

無限質量で吸い込むブラックホールの存在では、運動を吸収の一方向にしか表現できないという一見矛盾したかに見えるものを一方向に放出するホワイトホールと結びつけて、ブラックホールとホワイトホールがこの世とあの世を結びつけるかのような発想は興味深いのである。

宇宙論については、古くからの論争を紹介している。
宇宙は有限か無限か。宇宙に中心はあるか。宇宙は一様か。真空はあるか無いか。真空説と充満説。絶対空間が存在するか。相対空間のみが存在するか。これらの現時点の解釈を説明してくれる。
アル中ハイマーは絶対的に酔っているか?相対的に酔っているか?と言う議論には"君に酔ってるんだよ!"つまり、エーテルとは酒なのである。

宇宙の起源、銀河の起源の、数々のモデルを紹介している。
ここで気に入ったフレーズがあったので紹介しよう。
「"神は宇宙を創る前は何をしていたか?"とたずねるへそまがりへの神学上の回答は、"神はそのような質問をする人のために地獄を創っていた"」
なるほど。アル中ハイマー流の解釈は、超宇宙とは地獄のことなのである。つまり、ブラックホールとは酒場のことだったのである。

本書は、観測可能かどうかの狭間で形而上学から物理学へと進化したいきさつを紹介してくれる。そして、まさしく宇宙論はその狭間にあると締めくくる。
昔は、なぜ光の速度が基準となるのか、それより速い速度はなぜ有りえないのか?純粋に疑問に思ったものである。未だにこの疑問への回答はできないようである。
このような昔からの本を読んでいると脳の一部が活性化されるがごとく気持ちいいのである。しかし、つい最近読んだものはすっかり忘れ去られ、随分昔に読んだものが思い出されるとは、老いている証明であり信じたくない現実である。
アル中ハイマーは現実から逃避するがごとく、ブラックホール(酒場)へと落ちていくのである。

2007-02-04

"父と子" ツルゲーネフ 著

アマゾンを放浪していると推薦図書にツルゲーネフがあった。トルストイを読んだからである。そういえば学生時代、文系の先生に理系の人間はトルストイは読んでもツルゲーネフは読まないだろうと馬鹿にされたのを思い出したのである。悔しいので読んでみることにした。アル中ハイマーは根に持つのである。

本書は、虚無主義者「ニヒリスト」である主人公を描写したものである。
ニヒリストとは本文を引用すると、
「何事にも批判的見地から見る人間。いかなる原理も、たとえその原理が人々にどんなに尊敬されているものであっても、そのまま信条として受け入れない人。」とある。

本書は時代背景から理解してないと分かりづらいので少し触れてみよう。
父の世代とは、1840年頃のニコライ一世の反動政治の暗黒時代。自由主義は専制政治により弾圧されていた。子の世代とは、1850年頃のアレクサンドル二世。国民精神が高揚した時代。父の時代の無気力を恥じ敢然と行動する。そして、1860年代は世代の分裂が顕著になる。農奴廃止運動が高まったのもこの頃である。知識階級で貴族階級と雑階級の不和を生む。社会思想と個人思想が対立する。そしてニヒリズムは個人思想に属する。この時代の描写に雑階級出身、つまり何も失うものがない無産階級の知識人のエネルギーが必要であるとして主人公を創造していると解説されている。本物語は、このようなロシアの一時代を背景にして、世代間の思想的対立が展開されていく。

いつの時代でも親の世代と子の世代の対立はある。
おいらは親の言うことを聞きたくないので、家庭では気まずい雰囲気が漂っている。しかし、本書を読んでいると父の世代にも少々同情する立場をとってしまう。というのも、人間というものは自分の生きた時代を否定されると自分自身の存在そのものを否定された気がするからである。すると自尊心は傷つけられ防衛的態度を取ってしまう。自分の存在意義を示し頑固親父となるのである。実際は、どんなすばらしい人間でも存在しなくなったからといって一部の人間が悲しむものの、世の中が変わるものでもない。しかし、無能な人間ほど出しゃばって混乱させているのも事実である。アル中ハイマーは皆さんの仕事ぶりを邪魔しないように心がけ細々と生きることを目標にしているのである。

少し余談になるが、おいらはずっと知的障害者を観察してきている。慣れているせいか?あまり同情的な目で見ることはない。障害はかなり重度なので言葉が話せない。生活は周りが面倒を見ているので、仕事などの義務は無いし、圧力があるわけでもない。心配事など無縁に思える。順風満帆に生きているようにさえ見える。かつて代わってほしいと思うことすらあったのである。
しかし、自閉症やら、不眠症やら、突然発狂したり、深夜に踊りだしたり、次々と変わった症状が複合的に表れる。物事を行う時は、いつも呪文を唱えながらヨガでも踊るかのごとく、まるで儀式のようにある決まった行動パターンを見せてから始める。
何を考えているのだろうか?常識では量れない何か不安な事でもあるのだろうか?何かに必死に耐えているように感じるのである。
こういう症状を見ていると、人間は何も目的がなくなるとどうなるのだろうか?などと考え、妙にに虚しくなることがある。これも一種の虚無主義かもしれない。

そう言えば、政治や企業などあらゆる組織において、統制するための規則を作り決まった儀式を行う習性がある。その理由を聞くと"伝統"という言葉で片付けられる。
人間というものは、不安や悩みから逃れるために、一定の儀式が必要なのかもしれない。ある決まった行動パターンに嵌め込むと精神的に落ち着くのかもしれない。不安を感じる人ほどルール化して自分をあるいは他人を束縛したがるのかもしれない。

おいらも独立して定期的に得られる給料が無くなったせいか?何か忙しくしてないと落ち着かない。そこで毎日、自己啓発で必ずやることを決めている。こんな不精な人間がよく続いていると自分でも感心するのである。
どこかに不安を背負っているのだろうか?全く自覚症状はない。だからと言って悩む必要もない。そもそも、アル中ハイマーは、人間分析には使えないのである。

さて、前置きはこのぐらいにして本題に入ろう。
「アル中ハイマーの虚無についての考察」
とある情報筋によると、こんな行動パターンがあると報告されている。
・夕方5時から開店するバーを無理やり4時から開けさせる。
・飲み会の幹事であるにも関わらず、先に数件、はしごしてから現れる。
・彼の待ち合わせ場所は、必ず飲み屋である。
これは、かなり人生の虚しさを感じていると言わざるをえない。
そして、ぼやくのだ。"昔は理性の固まりと言われていたのに、こんな人間に誰がした!"
こうして、あらゆる事を人のせいにして、何事にも批判的な見地に立つのである。これは、アル中ハイマーがニヒリストであるという証明なのである。
ちなみに、ニヒリストは国際交流も盛んなのだ。スコッチ系、アイランド系、シェリー系などなど。

2007-01-30

"はじめて読むドラッカー: 技術編" Peter F. Drucker 著

4冊目: 技術編 - テクノロジストの条件
本書は、シリーズに新たに加えられたもので、前作と少々重複したところがある。要点を簡単に記すと、こういったところだろう。
文明を作るのは技術であり、テクノロジストである。
テクノロジストこそ、知識と思考を夢に終わらせないために、マネジメントが必要である。

過去の技術革命から学ぶべきものとして、歴史を紐解くところから始まる。
「今日、7000年ぶりに遠い祖先が灌漑文明の時代に経験したものと同じ状況にある。古代シュメール人や古代中国人が今日の技術を見れば唖然とするだろう。しかし社会制度や政治制度に対しては親近感を抱くだろう。」
今日の制度は、古代と大差がないと語っている。
人間社会の爆発的変化は科学の進歩であると通常は答えそうなものである。
しかし、本書は少々異を唱えて、「人類が最も進化させたものは技術の体系化である。」とも述べている。

IT革命は産業革命になぞって語られている。
「IT革命の問題は情報そのものではない。eコマースの影響である。1万年前狩猟と採集の時代から農耕と牧畜の時代に入ったように、予想もつかない産業が生まれる。既にバイオテクノロジーが生まれた。今後20年間で相当数の新産業が生まれるだろう。しかも、それらの多くがIT、コンピュータインターネット関連ではない。」
そういえば、産業革命で鉄道が生まれた時代には、印刷革命が起こり郵便、新聞、銀行など多種にわたるサービス産業を引き起こした。なかなか視野の広い分析である。

「テクノロジストを遇するのに金銭で懐柔するこは不可能である。今日のように株主利益を最優先する経営では10年ともたない。知識産業の基盤は、どこまで知識労働者を惹きつけ、いかにやる気を起こさせるかにかかっている。つまり、従業員としてではなくパートナーとして遇さなければならない。」
多くの会社で技術者の流出を防ぎきれないでいる。しかし、おいらは技術者が一定の場所に居つくより、ある程度循環した方が凝り固まった文化に染まらなくて良いと考えている。技術者は会社同士の関係ではなく個人の繋がりの方が大きいのである。

「今日かかえる大企業の官僚的、保守的体質はイノベーションの障害となる。しかし、中小企業でも同じである。最も起業家精神に乏しくイノベーション体質に欠けているものはむしろ小さな組織である。イノベーションや起業家体質は規模には関わりがない。その障害は既存の事業である。」
どんな組織であれ、起業家精神を持続することは難しい。一度成功すると惰性的になりがちである。人は楽な方向や心地良いところに居続けたいからである。
アル中ハイマーは、今が最高に心地良い状態にある。そして、惰性的に夜の社交場へ足が向く。まさに今、絶滅への一歩を踏み出したところである。

「イノベーションの機会は、あらゆる社会変化に対して可能性を模索できる。例えば人口構造に目をつけたのは日本の企業だった。少子化構造を予測し、あらゆるところでロボット化が進んでいる。」
日本を褒めている文面は珍しいので目に留まる。しかし、少々褒めすぎである。ロボット化については、人件費を節約するための企業努力であり、社会現象の先を見越した政策ではないのである。
人口減少、高齢化社会は、むしろイノベーションの機会と見るべきであろう。
資本主義は、人口増加と共に自然増殖してきた。しかし、いつかは、地球資源も枯渇する。このまま地球だけに住み続けるならば、いつかは歯止めが必要である。人類に生物的防衛本能が働いても不思議はないのである。いったい日本人口はどのくらいが適正なのか?そして世界人口は?地球資源は限られ、しかも日本にはほとんどない。更に農業政策によって食料の自給自足もままならない。1億も人口のある先進国は、アメリカの広大な国土を別にすれば日本ぐらいなものである。それだけのために少子化担当大臣を設置し、しかも政策は"子供を生みましょう!"という始末である。グローバル化した社会、住み心地が良ければ移民でもなんでも集まるのが自然の理である。将来に大きなツケを残す政策を続けているのだから、その結果も自然の理である。

「技術格差についての説明には大部分が間違っている。アメリカが優位に立っているのは政府予算のためであるという説明にいたっては完全に誤りである。政府予算が技術や頭脳に対して役割を果たすことは稀である。ヨーロッパでも研究の成果は上がっている。しかし、技術格差が生まれるのは、研究成果を製品化できていないことである。」
科学上の成果を経済的な事業に転換する能力、つまり、マネジメントとマーケティング能力は金では買えないのである。
日本においても政府の起業家支援ブログラムが横行して補助金がばらまかれている。こうした補助金を頼る企業は自立性を失う危険性がある。更に第三者の資本が入ると、経営者によっては投資家の方向に目が行き、従業員や事業の方向に目が行かないなど、もはや誰の会社なのか分からなくなるといった深刻な状況になる。補助金や資本が入ると一時的に経営が改善されるように見えるが幻想に過ぎない。
という話を、アル中ハイマーは友達の友達から聞いたことを思い出すのである。

「イギリスの頭脳流出の原因の1つはオックスフォードとケンブリッジの存在にある。フランスがアメリカとの技術格差を生んだ原因の1つはグランゼコールにある。これらはエリート養成機関としては優れた教育を行う。しかし、両国でリーダーの地位につけるのは、これらの機関の卒業生だけである。特定の機関以外の人間に道を閉ざすことは、知識の本質と相容れない。いかなる大学で習得した知識であっても5年で陳腐化するからである。」
知識社会では、もはや上り詰めていく道を制約する余裕などないということなのだろう。
また、いかに高度な知識を習得しても5年しか持たないと言い切られるのは、おいらには辛過ぎるのである。アル中ハイマーには、もはや知識が無いと断言されたのである。"真っ白だぜ!"

「今や知識は、資本と労働をさしおき、最大の生産要素となりつつある。しかし、われわれの時代を知識社会と言うには時期尚早である。今のところ知識経済をもつに過ぎない。とはいえ現在の社会が資本主義社会でないことは間違いない。」
本シリーズを読んで、1909年生まれのドラッカーじいさんの分析が、現在でも通用するところがすごいと感心させられるのである。いまや21世紀、既に知識社会へ突入していると考えねばなるまい。まさしくポスト資本主義が到来しているのであるが、適切な言葉が生まれないのも不思議である。それだけ捉えどころの無い社会ということなのだろうか?
新語が出ても、アル中ハイマーにはどうせ覚えられないのである。