2007-08-26

"クラウゼヴィッツの戦略思考" ボストン・コンサルティング・グループ 訳

クラウゼヴィッツはプロイセン国の軍事学者でありナポレオン戦争を生きた人である。プロイセン国は戦争に負けるのだが、軍事論を古典的名著「戦争論」に記した。そういう意味では敗者から見た自己変革論である。こういう背景はアル中ハイマーの好むところである。
軍事論と言えば、東洋の孫子、西洋のクラウゼヴィッツと評される。アル中ハイマーは血気盛んな頃「孫子の兵法書」やら「戦争論」を読んだものである。
「戦争とは、他の手段をもってする政治の延長にほかならない。」
とは、有名な格言である。これは、「戦争論」が戦争を政治の道具と表したものと解釈されたため非難されてきた原因でもある。
本書は、よくありがちな戦争からビジネス論を学ぼうという主旨であるが、ハウツウものではない。「戦争論」は時代背景に照らし合わせて、まさしく現代と同じ激動の時代を生き抜くための意思決定論を磨くものであるとして、ボストン・コンサルティング・グループが独自に編集したものである。
しかし、アル中ハイマーにはそんなことはどうでもよい。単にクラウゼヴィッツの名前を見て懐かしさを覚え「戦争論」を読み返したかっただけなのである。ただ、「戦争論」はあまりにも重い。そこで手軽に本書を手にした。少々目的を異にするが、ついでに、マネジメントの勉強ができれば一石二鳥というものである。

おいらが「戦争論」を読んだのは、多分学生時代だから20年前のことである。当時は、ナポレオンの本も読んだことを記憶している。それもジョゼフィーヌへのラブレターばかりたっだような記憶しかない。困ったものである。
本書を読んで「戦争論」の印象が多少違っていた。本書の目的は、ビジネスとして活用できる部分を抜き出そうとしているところから、多少の印象が違っても不思議はない。そこには戦略に潜む不確定性をセットに考えなければならないことが語られる。戦争で起こる事象は、常に不確定であることは言うまでもない。自然現象を対象とした学問には理論の影響力は大きいが、人間の活動を対象とした理論には、しばしばいらいらさせられる。社会現象や経済現象がそれである。戦略を実行することは、人間を理解する必要があり、まさしく行動ファイナンスのようなことが記されている。

本書は、一般的に戦争からビジネス論を語られることを好まないと述べている。いきなり本書の主旨と矛盾から始まる。そもそもビジネスと戦争とは違う。企業間の競争を「戦い」と表現することがあるが、それはジャーナリスト特有の誇張であるという。確かに、ビジネスと戦争には共通する要素が多いが、それぞれの原動力は本質的に融和しえないものである。もたらす結果もまったく異なる。戦争の図式をビジネスにそのまま当てたいと思う人も多い。戦国武将をモデルにした指南書をよくみかけるのは、その証拠である。図式には必ず歪が生じる。それは互いに対応しない独自の要素が含まれるからである。
しかし、戦略というただ一点にのみに着目するのであるならば、戦争論の検討は意義深いと言い訳している。
そんなに長々と言い訳しなくても、アル中ハイマーならば、そこに哲学があるからと一言で片付けてしまう。手法や戦術は時代とともに廃れるが、哲学の時間軸は長い。時代の流行があっても人間の行動は、そんなに短い時間で傾向を変えるわけではない。もし急激な変革が起こっても、そこには物理法則のごとくエネルギーの蓄積がある。アル中ハイマーはのんびり屋なので哲学ぐらいゆっくりとした時間でないと悪酔いするのである。

戦略思考というからには、戦術と戦略の違いぐらいは触れておこう。
「戦争論」では、その違いをこのよう記している。戦術は、個々の戦闘を計画し指揮すること。戦略は、戦争を勝利するために戦闘を束ねること。戦術と戦略は区別しなければならないが、そこに一貫性がないと成り立たない。戦争を始める前には事前準備が欠かせない。とは当り前のように思われるかもしれない。しかし、戦争前に計画を練ることは大変危険であると主張する。戦場では、こちらからは制御できない敵の意思や偶然、過ちといった不確定性に支配されるからである。
ドイツの軍規にこのように記されているらしい。
「戦争指導は一種の芸術であり、科学的根拠を元に創造性を自由に発揮できる活動にほかならない。」
戦略は常に現場と共にあるのは言うまでもない。だからと言って、事前準備がいらないと言っているわけではない。戦略にはある程度融通が必要であると言っているのである。戦争では、戦略的意思決定の方が、戦術的意思決定よりも、はるかに強い意志を要する。戦術ではその瞬間の柔軟性が重要で、戦略では比較的ゆっくりと時間が流れる。よって、戦略では、疑念や反対意見をめぐらせたり、他者の意見に耳を傾けるゆとりがある。過去の失敗をふと思い出して後悔する時間すらある。そして、そのような想像や推測から自信も揺らぐ。こうした根拠のない恐怖にとらわれ、行動すべき時期を逸してしまう。
現在においても、不確定性を持った社会での戦略が失敗したからといって、その責任者を責めることができるだろうか?もちろん分析による原因究明は必要である。どんな成功者でも、失敗経験があるはずである。失敗経験がないと発言する者は、もともと不確定性の中に身を置いていないか、あるいは、失敗を自覚できないでいるかである。責任を逃れるために何もしないでいる者は一番の大罪人である。

おいらは、戦略論を議論する時、いつも疑問に思うことがある。
何のための戦略か?戦略の上の次元にある目的は何か?ビジネスであれば売上増加やシェア拡大は戦略目標である。収益性や株価上昇が高次の目的とは到底思えない。いったい何のためにビジネスをやっているのだろうか?何のために企業が存在するのか?
本書を読んでも、その答えが得られるものではない。その答えは一般的に得られるものではない。その場に応じて考えるものなので書物などに期待などしない。もし、そんな書物があるとしたら布教本であるに違いない。
疑問を高めていくと、人間は何のために存在するのか?などと宇宙に放り込まれる。
戦略論の高次の目的とは、一般に言われるビジョンということになるのだろう。社会貢献など、それらしいことを掲げる組織をよく見かける。しかし、そのビジョンはビジネス戦略の延長上にないと意味がない。本書では、戦争は何のために行うのかという高次の政治目的がなければならないと語る。「戦争論」では戦争は政治活動の手段であると語られるからである。
ビジネスにおける戦略で最も重要なのは継続だろう。高次の目的がはっきりしないと継続性も難しい。何事も継続するためには高次の目的が存在しないと難しいのである。

本書を読み終わって、どうも中途半端である。「戦争論」を理解したければ、地道に原書を読むべきである。それには相当な勇気が必要である。今、「戦争論」が目の前であざ笑うがごとく構えている。クラウゼヴィッツが、お前のような酔っ払いが読むには100年早いぜ!と言わんばかりに。
畜生!アル中ハイマーには焼酎を舐めながら傍観するしかない。

2007-08-19

"ヤバい経済学[増補改訂版]" Steven D. Levitt & Stephen J. Dubner 著

頭痛に悩まされて2週目である。酒とたばこも断って精神衛生にも悪い。医者に処方してもらった薬も痛みは無くなるが薬が切れると痛みは倍化する。ますます酷くなるようだ。もう我慢できない。酒を飲む。久しぶりに満足感でぐっすりと眠る。今朝は妙に頭がすっきりだ。痛みは軽減した。酒は百薬の長とはよく言ったものだ。その分異常に肩が重い。誰かが乗っかっているようだ。いや、本当に誰かが乗っかっているに違いない。きっと綺麗なお姉さんだ。妙に気持ちいい疲労感だからである。つまり、頭痛の正体は綺麗なお姉さんを肩車していたのだ。
これから得られる教訓は何だろうか?現象からは本質を見抜くことが難しいということである。本書は、そうしたネタである。

「ヤバい経済学」はずっとマークしていた本である。いまいち踏み込めなかったのはタイトルがダサい。サブタイトルに「悪がき教授が世の裏側を探検する」とある。なんとなく陰謀めいておもしろそうでもある。そこそこ人気もあるようだ。そうこうしているうちに、ちょうど「増補改訂版」が発行された。宣伝文句に「おまけが100ページ以上追加」となっている。アル中ハイマーはバーゲンに弱い。ついショッピングカートをクリックしてしまうのである。

本書の第一印象は経済学の本ではない。様々な社会現象の相関関係と因果関係について分析している。その分野は、犯罪、教育、スポーツ、政治、ギャング、出会い系、子育て、犬のうんこまで飛び出す。著者自身が本書にはテーマがない、この研究を雑学とギリギリのところだと言っているぐらいである。最初アル中ハイマーは社会学だという印象を持っていた。ここで「経済」を我が家の辞書で調べてみると、意外と多くのことが書かれている。その中で目を引いたのが、「人間の生活に必要な物を生産・分配・消費する行為についての一切の社会的関係。」とある。社会的関係?んー。もうちょっと視野を広げる必要がありそうだ。
本書は、ここで扱う経済学の定義を説明している。
経済学はインセンティブに人々がどう反応するかを統計的に測る学問である。こうした手段を社会現象に応用してもいいだろうということである。そもそも経済学とは、決まった対象があるわけではなく方法論の集まりであるという。なるほど、個人の欲求と社会規範の衝突から生まれる行動パターンの分析であると捉えられる。アダム・スミスは、利己的な人間が自分の利害と社会の道徳とを区別できるのはなぜか?ということを問題意識していたらしい。
本書のフレーズに
「道徳が望む世のあり方についての学問だとすると、経済学は実際の世のあり方について学ぶ学問である。」
とある。やはり経済学の真髄がここにありそうだ。
アル中ハイマーにしてみれば、自然科学や数学は哲学で、社会学は心理学を束ねたもので、経済学だって一種の統計学だと思っているぐらいで、無理にボーダーラインを引くこともないだろう。
混ぜ合わせてシェイクすれば美味いカクテルができるかもしれない。どんな世界も混ぜ合わせる分量しだいで味はどうにでもなるのだ。ということで、アル中ハイマーは本書を名酒事典に分類するのである。

本書は、人間の行動には、経済的インセンティブ、社会的インセンティブ、道徳的インセンティブが働くという。経済学者は、相関関係を調べても、そこから因果関係までを分析しきれていないと批判している。確かに、人間の行動原理に、あまりにも経済的インセンティブを強調し過ぎるきらいは感じる。本書は、こうした表面的な分析から踏み込んで様々な社会現象から因果関係を暴こうする。

1. 犯罪の減少
中でも大きく取り上げているのは全米における犯罪者の大幅減少に対する考察である。いままで増加傾向にあった犯罪件数が1990年を境に大幅に減り始めた。アル中ハイマーは、好景気が社会不安を解消すると思っていた。本書も、一般的にはそう思うだろうと、いかにも見透かされたように語る。それも一理あるのだが、経済的な犯罪の減少という傾向は無く、どんな犯罪も減少傾向にあることと、その減少幅からして決定的な説明がつかないという。では、警察力の強化はどうか?これも十分効果はあるが、同じく減少幅からして説明不足である。そもそも、警察力を強化するということは、犯罪が増えている時なので、厳密な測定は難しい。刑の強化も、もちろん意味はあるだろう。ただ、死刑制度は、実質執行される確率が低いためあまり抑止力は働いていないという。また、人口の高齢化により犯罪率が減るというのもあるだろう。人間はまるくなるのである。「文明の衝突」の著者サミュエル・ハンチントンが同じようなことを言っていたのを思い出す。若年層人口が20%以上を占めると社会的に不安定になるといった話である。しかし、実際は若年層の絶対数が減ったのではなく、医療技術の進歩などで寿命が延びているのである。
では、その真相は何か?それは中絶の合法化である。親から望まれて生まれたのではない人間の犯罪率に着目している。1990年代は、法律の施行から、ちょうど生まれてくるはずだった人間がティーンエイジャーになる頃である。つまり、犯罪率の最も高い年代にさしかかる頃である。これは、ルーマニアの独裁者チャウシェスクが中絶禁止をした時の話と対比している。チャウシェスクは、国力アップのために人口を増やす政策を取った。そして、中絶を許可していれば、生まれてこなかったはずの子供達の反乱によって失脚することになる。アル中ハイマーは、この結論には妙に納得させられる。しかし、学者やメディアから道徳的な理由で思いっきり攻撃された様も語られる。それも想像はつくのである。

なんの本だったか忘れたが、他でも読んだ昔話も登場するのでメモっておこう。
「あるとき王様は、国中で疫病が一番よく起きる地方にはお医者さんも一番たくさんいると聞きました。王様がどうしたかって?すぐさま医者をみんな撃ち殺せとお触れを出しましたとさ。」

2. 選挙へ行く心理
投票には、時間や労力がかかるだけで生産的なものはない。国民の義務を果たしたという漠然とした感覚がなんとなくあるぐらいである。どこの国も民主主義が安定すると投票率が下がる傾向にあるようだ。その中でスイスの例はおもしろい。スイス人は投票が大好きらしい。それでも長い期間で見ると投票率が下がる傾向のようだ。そこで、郵送での投票という新しい方法を導入した。投票用紙が郵送されてくるので、それに書き込んで返送すればよい。投票所へ行く手間を無くせば投票率が上がるという考えであるが、投票率はおうおうにして下がっていった。最近ではインターネット投票という案もよく耳にする。インターネット投票にすると手間がかからず投票率が上がると主張する評論家も多い。おいらもインターネット投票の方がありがたい。しかし、スイスの例は投票コストが下がっても投票率には影響しないことを示唆している。投票する人は社会的インセンティブが働いているだけなのかもしれない。
一部の大学の経済学部では、経済学者は投票所にいるのを見られると恥ずかしいという説があるらしい。合理的な人間ならば、一票が選挙結果に与える影響を考えると無駄な行為であると判断しそうである。では社会的インセンティブへ誘導する手段はあるのだろうか?三十路も過ぎれば、だいたいが凝り固まった概念に支配されて考え方を変えるのは難しい。向上心でもあれば突然目覚めたりする可能性はある。概念が固まる前となると教育がものを言いそうだ。宗教色の強い集団は奇妙なインセンティブが働くのか?団結力も強い。そのおかげで自由意志を持った人々は余計に一票の無力感に襲われる。社会風潮で誘導することはできないだろうか?少なくとも、金バッチの選挙戦術とそれを扇動するステレオタイプでは逆効果であるのは間違いない。

3. 完璧な子育て
子育てでは親馬鹿のアルゴリズムを暴いてくれる。優秀な子供ができる相関関係とは、家に本がたくさんあるとか、初産が30歳以上だとか、経済的地位が高いとか、様々な条件を考察している。例えば、本がたくさんある家には優秀な子が多いが、親が毎日本を読んでやったり、美術館に連れて行ったりといった行為は無駄であるなどである。つまるところ親自身の教育や知識レベルが重要であって子育ての段階では手遅れであることが語られる。親がどんな人生を歩んできたかが問題であるというのが真相のようだ。ちなみに、アル中ハイマーの親が読書している姿を見かけたことはかつてない。英才教育に頼る人は、自分自身を誤魔化しているということかもしれない。むしろ親が自分自身を堂々とさらけ出して、ぐうたらであるならば反面教師にもなりうるかもしれない。何事も誤魔化しと卑怯が一番ひどいのである。優れた親と優れた環境が完璧な子育てにつながるとは限らないと思うのだが。また、遺伝子の影響もあるだろうということは容易に想像できる。産みの親と育ての親では、どちらの影響が強いのだろうか?もし遺伝子に支配されるとしたら、うちの家系を見ているだけでぐれるしかないではないか。ここでアル中ハイマーは科学的にある可能性を提起する。生物遺伝子の突然変異である。

本書の仮説は、専門家に思いっきり批判された様も語ってくれる。もちろん支持者も多い。著者は、現実の世界で人々がどんな行動をとるかについて筋の通った考え方を持つことを求めている。本書を読んで得られる効果は何だろう?お金が儲かったりするのだろうか?著者は多分ダメだろうと言っている。ただ、今までの通念を疑ってかかるようにはなるだろう。物事を見かけの現象から少し離れたところで分析できればありがたい。しかし、アル中ハイマーには無理である。それもこれもDNAのせいである。そして、甲高い声で叫ぶのだ。「こんな酔っ払いに誰がした。遺伝子の馬鹿やろう!」

2007-08-12

"アメリカ経済終わりの始まり" 松藤民輔 著

アマゾンを放浪していると、お薦め品の中に本書があった。タイトルからして経済界の陰謀めいた話を期待しつつ衝動買いするのである。その実体は、投資理論と資産運用論を語った経済学書であるが、アメリカ経済の悲観論や政治陰謀などリズミカルに読める部分も多くストレス解消によい。もしかしたら、ちょうどサブプライム問題とマッチしているかもしれない。ただし、日本経済の底力については信じたい面もあるが、やや評価し過ぎのように感じる。本題である投資理論の部分は、概念的には分かりやすく書いているが、実践となるとアル中ハイマーは途方に暮れるしかない。資産運用の考え方は参考にできそうだ。

冒頭から「種の起源」のダーウィンの言葉から始まる。
「生物史の中で勝ち残ったものは、頭のいい生物でもなければ、強い生物でもなかった。それは変化に順応する生物だった。」
個人でも企業でも国家であろうと、自己変革を忘れたものに未来はないと語られる。そして、いまやアメリカで残る世界産業はIT業界を除いて金融業だけであると続く。金融業は雇用に貢献もしなければ、資金はボーダーレスで世界を動き回る国籍がない業種である。国内経済がどうなろうと関係ない業種であると語られる。

1. 金の役割
本書は、いずれ金が世界の基軸通貨として役割を果たすと主張している。今更、金本位とはなんだ?本書のいまいちわからないところである。ただ、今後アメリカ市場の暴落とBRICsの破綻を予想している点は興味がわく。アメリカ市場が暴落すれば、その市場規模からして受け皿となりうるのが日本市場だという。しばらくは、アメリカ市場に追従するだろうが、数年で日本経済の底力が発揮されるという。確かにアメリカの市場規模からして簡単に受け皿になりうる市場は限られる。暴落すれば、短期的なドル暴騰となりうるだろうが、やがて下落に転じる。その結果、ドル暴落後の世界基軸通貨が金になるというのである。
ユーロじゃないのか?本書のように日本経済の底力を信じるならば、円じゃないのか?アメリカの市場規模で暴落すれば、どこの通貨も信用できない事態になっているかもしれない。それで貨幣価値が無くなるというのは一理ある。
本書は、もはや米国債は紙切れ同然であると述べている。日本政府は相変わらず買いつづけている。日銀はFRB同様会計監査を必要としないのはよく聞く話であるが、国債にしても時価でなく取得価格で計算してよいことになっているらしい。アメリカの戦費は米国債から賄っているのは周知のとおりである。日本が米国債を買うのを止めれば世界平和が訪れるかもしれない。

2. ゼロ金利政策の意味
日銀のゼロ金利政策は、円が世界の基軸通貨になったことを意味するという考察はおもしろい。NYダウの上昇、不動産価格の上昇、短期金利が上昇しても長期金利が低いままで推移、これ全て、日本の資金がアメリカに流出した結果である。つまり、日本のゼロ金利のおかげでアメリカ経済が崩壊しないで済んでいるという。アメリカ人の慢性的な消費体質は債務超過の傾向がある。これは日本人の貯蓄体質と対比してよく言われるが、もはや債務超過は国家財政にまでおよび、いつ金融恐慌が起こっても不思議ではない。
金利は信用度のモノサシであり、歴史的に見ても格付の高い国ほど金利は低い。金利が低くても資金調達ができるからである。市場税を無くし自由営業を許すとは、織田信長の楽市楽座であると語られる。

3. BRICs
中国の最大のリスクは共産党政府であろう。民主化が進めば、かつての日本の高度成長など凌駕できるかもしれないが、急激な方針転換は経済混乱を招く。資金の流れだけならば、物理法則に従い逆流することもあるだろう。しかし、技術の流出は悩みの種である。政府により簡単に接収されかねない。本書では、この点を一国の指導者が3000億円も蓄財する国家とはどんな国か?と語られる。この金額を聞いただけで、隠された政治腐敗、ビジネス腐敗が想像できるだろう。中国に限ったことではないが、大金持ちがいるということは、地べたに這いずり回るその他大勢がいるということだ。
ここで、LTCMについて少し触れているところに目が留まった。アル中ハイマーは興味を持ったことがある。ノーベル経済学賞2人を擁したドリームチームが破綻した話である。コンピュータがはじき出した破綻確率300万から800万分の1を信じて、ロシアへ投資した結果である。ちなみに、歴史的に世界で借金を踏み倒したのは、ロシアと中国の清だけだと述べている。へー!もっと多いかと思っていた。

4. アメリカの凋落
アメリカ凋落の原因は、90年代にものづくり精神が失われた結果であり、アメリカによる世界の一極集中はもう崩れており日本に移転し始めていると語っている。工学専攻の優秀な学生がメーカに就職するよりも、金融業界に流れる傾向がある。アル中ハイマーは、アメリカ凋落については否定はしないが、日本が受け皿になるとは疑問に思う。ものづくりの精神が失われつつあるのは、日本でも似たようなものである。人材派遣業の発達がそれである。堂々と人材派遣を看板にしている会社のみならず、エンジニア会社と称していても実体は人材派遣業というのはよく見かける。しかも、どういう基準で審査されているかわからないが、そこに出資している金融機関がある。アル中ハイマーが関わっている業界では、技術者を大量リストラしている企業も少なくない。しかし、人材不足という矛盾を抱える。これを補うために人材派遣業を利用する。現場は見かけの経費節減を余儀なく強いられる。中間管理職は大変である。技術蓄積も人材育成も難しい状況にあり、レベル、質ともに低下傾向にある。最終的にシステムとして仕上げる意欲が低下し、奇妙な分業体質ができてしまう。

5. 日本のエネルギー効率
天然資源をほとんど持たない日本は、原油価格の高騰は深刻であると主張する経済学者も少なくない。アル中ハイマーも素人ながらそのように思う。しかし、本書は、日本ほどエネルギー効率が優秀な国はないという。原油価格が200ドルになったとしても国家として生き残れるのは日本だけだという。天然資源を持たないから、エネルギー効率を上げようとする努力は伝統的になされてきたのかもしれない。あらゆる規制に日本企業は立ち向かってきた。これも政治に足を引っ張られたことにより、自然と鍛えられた底力なのかもしれない。エネルギー対策は、まともな国家戦略と噛み合えば恐ろしい底力を見せるかもしれない。しかし、そんなに楽観できるとは思えない。

6. 陰謀説
アメリカの戦略は、各地でいかに平和的に緊張感のあるまま保持したいかということだろう。そうすることでアメリカの相対価値が高める。テポドン発射も、日本にミサイル防衛システムを買わせるためである。アメリカは日本が独自の資源外交を展開した田中角栄をロッキード事件で失脚させたという話にも触れる。
9.11テロ事件では、アメリカ自作自演であるかも?と勘ぐる。ワールド・トレード・センターの52、53階には、米国債のメイン取引会社があったらしい。投資銀行のコンピュータシステムも吹っ飛んで米国債の残高と持高が一瞬にして消えた。デリバティブには米国債を使う。つまり、膨大なデリバティブ損失を隠蔽したのではないかという疑いである。9.11陰謀説については、10年ぐらい先に鋭い考察が発表されることだろう。

7. 日本人の投資行動
ここ数年、マスコミや証券業関係の宣伝は、日本人に積極的なリスクへの挑戦を呼びかけている。しかし、本書は、むしろリスクを取らず預貯金に邁進してきた日本人の投資行動を高く評価している。同感である。なんでも周りの動きに惑わされてしまう日本人の風習からしてリスク投資を続けていれば、とっくに破産していた家庭は多いだろう。日本の企業でさえも伝統的に高値を掴まされ続けているのである。
まったくその通りと思わされる例がアル中ハイマーの目の前にもある。
母親は預貯金が習慣である。貧乏の悲しい性である。これは団塊世代の前の世代の特質だろうか?いくつかの金融機関に資産を長期で眠らせていた。それも20年や40年の単位である。最近でこそ金利が低いので回収する方向であるが、元本からして複利による優位性をまざまざと実証している。逆に、支出する時は大胆である。食品などを買う時はバーゲンでないと手を出さないが一気に買い占める。消費行動も極めて計画的である。いつも馬鹿だと思っている母親だが、預入金利と貸出金利のバランスを無意識に実践しているのだ。まさか、右肩上がりの経済が破綻することを予測していたわけではないだろう。金利の有利な時期を有効活用しようと考えたとは到底思えない。物がない時代を生きたのだろうが、だからといって、この世代が節約主義ということにはならない。その対極にいるのがギャンブラー父である。せっかくの利息を父親はサラ金で喰い潰した。そのせいで母親の行動はいつも隠密である。この影響からか?おいらも金利の動きにはうるさい。車を買うにしてもローンなど絶対に組まない。ただ10年以上前、固定資産の購入には税制面の配慮が足らず失敗した。そういえば、昔、パソコンの購入にボーナス分割払いしている奴がいた。半年もしないうちに性能アップしたマシンが半額で売り出されていた。案外、投資活動の真髄とはこうしたものかもしれない。というのもアル中ハイマーは、ある光景と照らしあわしている。数々の金融商品の金利を天秤にかけ、これにより物理法則のように資金が流れ、一旦バブルが崩壊すると、途端に大バーゲンセールされた企業体に海外投資家が群がるような光景である。

最後に本書は資産運営の考え方にも触れている。
将来、金利が6%から8%に上昇するまでに、それなりの資産を蓄え管理できるよう準備しておきたいと促している。これはアル中ハイマーの考えと似ている。ただ、ターゲット金利は5%である。

2007-08-05

"新しい金融論" Joseph E. Stiglitz & Bruce Greenwald 著

今日は二日酔いで朝から気持ちが良い。財布の中身はすっからかん。何軒はしごしたかは記憶がない。ただクラブ活動が楽しかったことは、なんとなく覚えている。恋愛論を闘わせたような気がする。男と女の関係は信用の駆け引きということらしい。いや、金の切れ目が縁の切れ目である。
本書は、金の世界に信用をブレンドしたようなネタである。

金融論と言えば、金利や為替レート、支払準備率など貨幣量をめぐった議論が多い。ここ数年、経済学の書物を見ていると「信用」というキーワードを目にするようになった。経済の活性化とは流通量で決まる。その中で行われる取引は信用無しでは成り立たない。ド素人のアル中ハイマーにはごく自然のように思えるのだが、これが新しいパラダイムなのだそうだ。こうしていくつかの本を放浪しているうちに本書にたどり着いた。

本書を取り上げた理由は、信用の役割を取り入れた理論をネタに、著者の一人 J.E.スティグリッツが2001年にノーベル賞をとっていることである。つまり、この著者が言い出しっぺだと思ったからである。
アル中ハイマーにはノーベル賞の経済学部門というのは胡散臭いイメージがある。これもLTCMの影響だろう。その場の状況を一定の原理に無理やり当てはめるかのように、効用関数やら生産関数やらを持ち出して、いかにも立派そうに見えるからである。これでは、たかだが酔っ払いごときがノーベルさんに対して失礼である。本書によって少し頭をほぐしてくれることを期待するのである。

それにしても2001年とは歴史が浅い。停滞していた経済学がようやく進化し始めた時代なのだろうか?本書は、一般的なエコノミストの主張や経済政策に対して批判する立場をとっている。こうした態度は、アル中ハイマーのような天の邪鬼にはストレス解消におもしろく読めるのである。
四半世紀前にマクロ経済で訓練を受けたエコノミスト達は、信用という変数に注意を怠ってきたという。恐ろしいことに現在の経済界を牛耳っている世代である。今日でも、多くのマクロ経済学の教科書で「倒産」という用語が登場しないと指摘している。笑えると共に、ド素人でも勉強するにはいい時代に生きているかもしれない。

本書は、金融政策の効果について疑問を呈している。
そもそも金融政策とは、直接銀行に働きかけ経済全体への波及効果を期待するものである。財務省短期証券の金利や貸出制約の調整により起こるメカニズムである。本書は、そのような効果を全面否定するものではない。むしろ、従来の経済学が指摘する効果は、経済が正常な時は効果を生むと言っている。しかし、金融政策を必要とする場面は、経済危機や激しいインフレに直面している時である。
金融理論の伝統的考え方には、経済の誘導はひとえにマネーサプライの操作であり、マネーサプライと名目所得との間には単純な関係がある。つまり、マネーサプライを増減にGDPも比例するというものである。
アル中ハイマーも一般教養で、特定の金利である財務省短期証券金利や公定歩合の調整は金融政策として有効であると習ったものだ。
本書は、経済の異常時には、マネーサプライと信用との関係、あるいは財務省短期証券金利と貸出金利の関係は弱くなると指摘している。そして、貨幣量を調整するような金融政策の有効性は著しく低下することを警告している。本書を読んでいると、規制政策と規制緩和政策のバランスが必要に思えてくる。
多くのエコノミストは金融の量的緩和政策を強化することがデフレ脱却の有効政策であると主張する。酔っ払いは、マスコミが主張する「規制緩和」や「自由化」という言葉になんとなく踊らされてしまう。

アル中ハイマーは金融庁の存在に疑問を抱いている。
日銀があるのになぜ独立した金融庁という機関が存在するのだろう?マクロ経済を担うのが日銀だとすれば、金融機関を監視する役割が金融庁と認識している。しかし、本書は、マクロ経済に対する金融政策は、銀行業システムに与える影響とその振る舞を一緒に考慮しなければならないと主張している。
ということは、マクロ経済と銀行業の監視が独立した機関で管理されている日本のシステムはヤバイ?本書の指摘が鋭いと感じるのは、ノーベル賞の重みかもしれない。

ここで、アル中ハイマーは単純な疑問にもぶつかる。
なぜ銀行は破綻するのだろう?
世界中で、政府は経済の他のセクターにもまして金融機関を規制している。銀行システムの破綻は社会不安や経済の混乱を起こすからである。よって、必然的に政府の費用により銀行救済がなされる。本書は、こうした状況は、不適切な貸出慣行が根源であるという。まったく簡単な答である。世間は過度なリスク負担をもたらし、詐欺的行動へと発展もするだろう。最終的に国民を犠牲にした銀行による略奪となる。
では、なぜ銀行は過度に危険な貸出を行うのだろうか?
ハイテク業界のベンチャー系への出資額など信じられないことを時々見かける。はたして事業内容を明確に審査しているのだろうか?この疑問への回答も、本書はあっさりと片付ける。銀行が被る私的費用が、社会的費用よりも小さいというのが、その答えである。これは、税金で生きている官僚全てにあてはまることである。銀行は官僚なのか?銀行が破綻すると国が破綻するぞ!と脅迫しているようなものである。銀行の純資産が臨界水準を下回ると、銀行はリスク回避型からリスク愛好型に変貌するのだそうだ。自己資本比率規制は、リスク回避姿勢を保つために多少は役立つのだろうが、実際には、社会的リスクが私的リスクを上回るようなことを完全に防ぐことはできないという。このような市民をアル中にさせる経済システムを考えた連中はある意味天才である。

本書は過去の金融政策についても考察している。
特に、東アジア危機に対する考察はおもしろい。
1970年代から1980年代の東アジア各国は急激な経済成長を果たしたが1990年代に破綻する。これは、発展時には外国からの資金が洪水のように流入し、その反動で突然巨額の流出が起こった結果による経済失速である。これが金融危機へと向かう。
その時の米国財務省やIMF、また多くの外部アドバイザーの東アジアにおける助言には驚かされる。自己資本の乏しい銀行を速やかに閉鎖するように誘導し、インドネシアでは16の銀行閉鎖と、その後の銀行閉鎖の予定を公表し、更に預金者の保護もなされないと発表したという。言うまでもなく取付騒ぎが起こる。こうした助言をタイも忠実に受け入れた。一方、韓国とマレーシアは無視した。当然だろう!
IMFは半導体産業が抱える過剰設備などの資産を売却すべきであると主張したが、韓国はこれを無視し景気回復の原動力にしている。
日本についても少し触れている。
本書の著者達は、企業再生に公的資金を使うべきではないと論じたという。しかし、米国財務省の高官には日本政府に供与されるファンド(宮沢イニシアティブ)の相当部分を再生資金のファイナンスのために確保すべきだと強く主張する人たちがいた。皮肉にも、ごの議論が再生を遅らせることになった。その原因は、外部資金に期待して、債権者、特に外国からの債権者による対応の遅れを助長したという。高官たちは、なぜ外国の貸し手による救済策が広範に実行されないかの理由を考えられないと断言している。ただ、アル中ハイマーには高官らを誘導している世界的な陰謀説が頭をよぎる。ただの推理小説の読み過ぎである。
ここで、おもろい昔の格言をメモっておこう。
「銀行家とは、資金を必要としない人たちに貸したがる連中のことを言う。」
どこかの中央官庁主導で行われる公共事業や第三セクタの類である。ちなみに某元市長は引退して次の選挙に出馬せず中央官庁へ行ってしまった。これを「天上り」というのだろうか?

本書は最後に「本書の論じてきた理論は完璧とは程遠い。」と謙遜して締めくくる。新しいシステムを生み出すよりも、維持し続けようとするシステムを改革する方がはるかに難しい。官僚機構の改革が進まないのは、既存のシステムで満足できる立場の人々がいるからである。経済学理論が停滞するのは従来の経済学を否定されては困る人々がいるからであろう。本書は、従来理論に刺激を与えたという意味で価値あるものなのだろう。
いつもシングルモルトを飲みつけていても、たまにはブレンデットを飲みたくなる。
それでも全く違和感がなく気持ちええ。これが熟成された世界というものである。

2007-07-29

"世論(上/下)" Walter Lippmann 著

今日は選挙である。所詮参議院であるが既に期日前投票に行っている。
アル中ハイマーにもまだ社会的インセンティブが働くようだ。
投票を済ませたからには朝からベロンちゃんである。
アル中ハイマーには既に道徳的インセンティブは働かないようだ。
ブログの記事もそれらしいものを選びたい。と思っているとちょうど良い本を見つけた。既に読んだ本を読み返すのも経費の節約になる。
アル中ハイマーの経済的インセンティブは健在のようだ。
本書は本棚奥深く眠っていた。読んだ記憶が薄っすらとある。ちょうど読み返したいと思っていた名著である。読んだのは社会人になったばかりの頃だ。
現在16進数で20代だから。。。なーんだ!5年ぐらい前のことかあ!尚、年齢表記にはアルファベットを要する。

本書の冒頭には、執筆した動機は第一次大戦後の混乱を解明することにあったとある。いかにも、アル中ハイマーが喰いつきそうな台詞である。「世論」は1922年に刊行された歴史的な名著古典と言われるだけあって当時の洞察力には感心させられる。分類すると社会学になるのだろうが、心理学の面かもら考察され、時には歴史を感じ、哲学にも通ずる。何よりも凄いところは、現代に照らし合わせてもまったく違和感がない。世論を動かす情報のあり方や民主主義の特性などがよく描かれている。リップマンが将来予測をしていたかどうかはわからないが、今生きていたら自画自賛していたことだろう。本書のように昔から名著として読まれつづけているものは真理を語っているからであろう。古典に親しむのもなかなかおもしろい。有名な本だけに、著名なジャーナリストや社会学者、政治家が読んだことだろう。その結果できたものが、今の情報社会であり政治社会ということかあ。なんとも皮肉に思えて酔っ払いには理解できない世界である。本書の内容を記事にまとめるのは至難の業である。重たい本だからである。しかし、記事にしてみると意外とシンプルになってしまった。そもそもアル中ハイマーに重たいものを記憶できようはずもない。
では、少し酔いが覚めたところで気まぐれで章立ててみよう。

1. 擬似環境
本書は、人の行動と心理のメカニズムを「擬似環境」という言葉で関連付けている。それは、事実から乖離したイメージ環境のようなものを作り上げるということである。世界の出来事などは、情報の時間差もあれば、発信者の主観が入り込むなどの要因から擬似環境が生じる。人の行動は、この擬似環境に影響を受けるが、現実との乖離が大きいほど矛盾が生じる。人間が物事をイメージする際、見て定義するのではなく、定義してから見ると語られるあたりは、説得力のある考察だと感心する。人間は、体験から虚構な世界を作りあげる性質があるのだろう。おいらのような馬鹿には、まず情報を解読する前に下準備が必要である。即座に反応できないからである。その時点ですでに虚構の世界をさまよっている。人間は単純な性質を好む。ほとんどの事柄について自己分析した結果、単純にモデル化してしまいがちである。

2. ステレオオタイプ
人間がイメージをつくる際、ある種の固定概念によってイメージが左右されることはよくあることだ。こうした状況を社会学ではステレオタイプと呼ぶ。多くの人々が、同じ考えや態度や見方を共有している状態になり、ある種の紋切型態度をとってしまう。この固定概念が擬似環境と結びついて、都合の良い情報を取り入れたり偏見が生じるといった、世論が加速する状態を生み出す。世論はステレオタイプに初めから汚染されているものと考える必要がありそうだ。しかし、ステレオタイプは政治情報の乏しい一般人にとって時間を節約してくれる役目もある。盲目とは、時間を節約して気楽に酔っ払えることを意味している。本書は、このような特性を古い世代の経済学者によって無邪気に規格化されてきたと、当時の経済神話を語ってくれる。また、歴史上の考察もおもしろい。歴史上の善悪を語ったものに、過去を客観的に考察しているものはほとんどないと述べている。民族間で起きた揉め事が感情的に言い伝えられるのは、時間観をご都合主義にしている典型であろう。当時の出来事を今の道徳観で裁定することはよく見かける。もしアル中ハイマーに、歴史上の条件がそのまま降りかかったとしたら、果たして当時の人間の行為を批判できるような行動を取れるだろうか?仮に最新鋭の道徳観で武装していたとしてもである。

3. 民主主義
本書は、当時の民主主義のあり方や風潮を語ってくれる。当時は、人々が公共の事柄について有効な意見をもっていなければならないという夢物語のような社会が弁じられていた様が語られる。民主主義者たちは、報道界こそ、こうした補完機能を持つものだと信じていたようだが今と変わっていない。
著者曰く。
「私は主張したい。政治とふつう呼ばれているものにおいても、あるいは産業と呼ばれるものにおいても、選出基盤のいかんによらず、決定を下すべき人々に、見えない諸事実をはっきり認識させることのできる独立した専門組織がなければ、代議制に基づく統治形態がうまく機能することは不可能である。」
当時のジャーナリズムは、適切な世論作りには不完全であり、むしろ健全性が損なわれていると攻撃している。果たしてマスコミが第三者機関になりうるだろうか?現在もまた、自己主張を煽り、正義の味方を気取るマスコミや評論家連中がいるように感じるのは、きっとアル中ハイマーが世の中に悪酔いしているからに違いない。

4. 結び
著者は、本書の結びの章で、世論の発生がいかに政治や社会を正常化する方向に結び付けられるか、数々の問題に対する結びとして最後に何を語るべきか、について悩んだ様を語ってくれる。アル中ハイマーも、これほどの重たい本の結末をどう処理するか期待していたところである。いろいろとネタを用意していたようだが、結局「理性」に訴えるしかない。と片付けている。最も単純で最も難しい結論に達しているように思える。確かに、真の政治家や指導者というものが判別できれば、理性という言葉には説得力がある。しかし、その判別は所詮無理であろう。本書も政治に理性を求めるのは不可能であると悲観的見解を述べている。と同時に、希望を持つべきであると励ましているかのようにも思える。思ったより簡単に片付けられているのは拍子抜けである。しかし、これだけ重たい文献に対して、「理性」の一言をぶつけるあたりは、逆に本書の価値を高めているように思える。生物遺伝子は突然変異するものである。現在が悲観的だからといっても、もしかしたら人間が突然変異し楽観的な結論に達するかもしれない。コクのあるスコッチも酒樽で長く眠っている間に熟成される。社会だって熟成されて突然変異する可能性だってないとは言えない。

最後に、題目「世論」について、酔っ払いの見解も語らずにはいられない。そもそも世論はどうやって発生するのだろう。人間は、あらゆるものに興味を持つ。退屈しない生活を求めるのである。意外性があってはじめてニュースの価値が上がる。よって、世論が盛り上がるのも、その変化に富んだものに向けられ、慣れ親しむと廃れてしまう。世論が維持される期間は極めて短いのである。政治家やマスコミが正義感たっぷりに主張する時、例外なく主語に「国民は」という言葉を添える。まあ、国民という言葉は幅広いし、議員や、マスコミも国民であることに間違いはない。ここで、ジャーナリズムの本質について語っていると思われる個所があったので付け加えておく。
「ニュースのはたらきは、一つの事件の存在を合図することである。真実のはたらきは、そこに隠される諸事実に光をあて、相互に関連付け、人々がそれを拠り所にして行動できるような現実の世界を描き出すことである。これらが一体化した時、世論の力が発揮される。」
健全な世論の形成はありうるだろうか?一つは子供の頃からの教育にかかっている。ということは、大人では変化できないということか。いつのまにか本書と同じ悲観論に達している。
ということで結論は、世論は擬似環境に左右されつつ、あっちの店が良いか、こっちの店が良いか揺れ動く。千鳥足でさまよった挙句、虚しく帰路につく。目が覚めると記憶が辿れない。そこには、携帯番号付きの妙な名刺が目の前に散りばめられている。こうして擬似環境は忘れられていく運命にある。

2007-07-23

"Fedora7で作る最強の自宅サーバー" 福田和宏 著

いつのまにか名前がfedora coreからfedoraになっている。
extraパッケージがcoreと一体化したからのようだ。アップデートするのも面倒だけど、LiveCDとかいうのにつられて買ってしまった。インストールしなくてもCDで起動して遊べるからおもしろい。でも飽きちゃった。どうせインストールするからどうでもええのである。

では、!さっそくインストール!
ありゃ!GUIで任意のポートのセキュリティレベルが反映されないぞ!
まあー!コマンドでやりゃええんだけど。
おおー!バグジラに情報が載っている。
ほおー!セットアップ時の設定は反映されるんだ。
ほんで!これをインストール後に動かすには。これで良さそうだ!
なんか!SELinuxの思想が変わってそうだなあ。
んんー!今のところKernel Panicが出ない。機嫌はよさそうだ。
ちなみに、おいらの頭はいつもKernel Panic !!!である。

本書は入門書でとても丁寧に書いてくれるので、アル中ハイマー病にはうれしいのである。ただ、ほとんど読んでいない。いままでの設定で動かないはずもなく、困った時にはきっと活躍するだろう。
さあ、サーバテストをしよう。やはり夜の社交場から覗かないとテストとは呼べないのである。

2007-07-22

"あやつられた龍馬" 加治将一 著

本書は「石の扉」に続いてフリーメーソンの物語である。
著者は、幕末の志士達とフリーメーソンの関わりを示した歴史書のつもりかもしれないが、アル中ハイマーには推理小説ばりでなかなかおもしろい。そこには、坂本龍馬がなぜ暗殺されたか?仕組んだ奴は誰か?その状況証拠を順に暴いていく。
龍馬といえば幕末時代。日本の大改革の時代として語られる文献も多い。ただ、アル中ハイマーはこの時代にいまいち興味がもてない。昔読んだ本の影響だろう。無理に美化された印象があり説得力を欠くからである。政治の泥臭い部分をさらけ出して歴史のこくが出るというものである。本書は、そうした印象を違った角度から見直させてくれるのでアル中ハイマーには意義深い。

物語は、龍馬暗殺事件で一般的に語られる歴史に矛盾を呈するところから始まる。龍馬には二階奥の部屋に陣取り刺客対策をしているなど危機管理意識があった。にも関わらず抵抗した形跡がないなど不自然なところが多い。周囲の証言も矛盾だらけだという。これは、誰も真相が語れない大きな力が存在するのではないかと示唆している。
そして、龍馬の行動を追っていく。龍馬の脱藩は特殊任務であり諜報活動であったことが語られる。武士の世界では、脱藩は重大犯罪であり罪は家族にまで及ぶ。しかし、土佐藩からはお咎めなし。藩内にも自由に出入りできた。これはいかにも奇妙である。また、龍馬のような下級武士が、いきなり歴史の表舞台に現れること自体が疑問であるという。幕末の志士に歴史のロマンを感じたり憧れを描いている人は衝撃を受けるかもしれない。ただ、明治維新のような時代に数々の陰謀が取り巻いてもなんら不思議はないのである。

時代背景は、幕末の志士達は欧州列強から国を守ろうとした。自由貿易で近代文化を取り入れる必要があり開国へと走った。英国もまた自由貿易により影響力を増したかった。英国から見れば、幕末の志士達は反体制テロリストにでも見えたことだろう。武士の魂を葬り東洋の島国を転覆させようなどと考えていただろう。いずれにせよ、双方とも攘夷派を一掃しようと考え利害関係は一致していた。これは一般的な歴史が示している通りである。数々の歴史本では、幕末の志士達は西欧の自由や平等という価値観に憧れたことが語られるが、フリーメーソンが持つ神秘性となんとなくつながりそうだ。また、同じ島国でもある世界最強の大英帝国に学びたいと憧れたりもしただろう。大英帝国こそ大日本帝国の産みの親かもしれない。
では、その黒幕とは?「石の扉」でも取り上げたトーマス・グラバーである。幕末の志士達が英国へ留学できたのもグラバーの支援による密航であると語られる。

幕末当時活躍した藩と言えば、薩摩藩と長州藩だろう。おいらは、幕末の大改革に、なぜ遠く離れた薩摩藩が主役になれたのかという疑問を持っていた。江戸時代の藩の収入は石高で決まる。貿易でも収入を得ていた薩摩藩は自由貿易の大切さを知っている。外国と密かに交流していたからには情報の優位性もあったであろう。薩摩藩と言えば、西郷隆盛が主役で、島津斉彬、大久保利通などとつづくが、大阪実業界トップにも君臨した五代友厚の扱いは地元では低いらしい。本書では、五代がグラバーの秘密工作員だったという仮説を述べている。グラバー邸は、倒幕の志士たちの隠れ家となっており、五代もその一人であるという。実は幕府と倒幕派には秘密ルートがあったこと、倒幕派でも武闘改革派と無血改革派があり、これら全てがグラバーで結びつく様子が語られていく。

五代の活躍に生麦事件の処理を紹介している。
薩摩藩の大名行列に英国人が通りかかったところを藩士が無礼打ちした事件である。この代償に軍船を明渡した疑いがある。西洋の近代兵器と戦ったところで勝ち目がないと見て、頑固な薩摩藩の意地を立てて密かに英国と取引したものである。
長州藩については下関事件を取り上げている。
歴史では、和平交渉が決裂し英仏米蘭の連合艦隊に一斉砲撃したことになっている。しかし、実は和平交渉は儀式であり英国側の真意は攘夷派撲滅の口実がほしかっただけだったという。平和を求めたが蹴られたという既成事実を完璧に演出したのである。これは欧米の伝統的手法なのか?酔いがまわってきたせいか真珠湾とイラクを思い重ねてしまう。

やはり外交手法については、日本は伝統的に遊ばれているようだ。日本の政治が三流と言われる原因は外交交渉だけではないだろうが、民主主義の世界では、政治的に優位に運ぶためには要望だけでは戦術にならない。無理やりにでも何らかの正当と思わせる理由が必要である。それが議会を動かす力であり他国への説得力である。理由付けを作る諜報活動も民主主義が生み出した高等技術と言えるだろう。現に英国は幕府側の人間ともうまく情報交換していたらしい。表向きは中立の立場をとっていたが諜報活動に余念がない。結果的に幕府側は英国の術中に嵌った。さすが最先端の民主主義国家である。英国政府は、誇り高き武士に気づかれなぬよう、あくまでも秘密裏に事を起こしている。本書は、明治維新を起こさせたグラバーとアーネスト・サトウの英国諜報ラインを暴いた感じである。各藩を倒幕派に走らせた駐日英国公使ハリー・パークスの巧みな倒幕工作と合わせて語られる。日本中を軍艦で脅し回って、残ったのは会津、長岡、南部、二本松などいずれも内陸で英国軍艦を目撃できない所か、海に面していても英国軍艦が立ち寄れない小港をかかえる藩である。歴史は英国の武力に屈した感がある。

いよいよ、龍馬暗殺事件の結末に迫る。
本書は、薩長同盟における坂本龍馬の影響がどれほどあったのか?疑問を投げる。そもそも脱藩した下級武士がそれほどの仲介ができるのか?やはり黒幕はグラバーということになる。
歴史では、坂本龍馬と中岡慎太郎の2人は京都近江屋に滞在中、京都見廻組に襲撃されたことになっている。免許皆伝の凄腕の二人が反撃の間を与えずに暗殺されている。龍馬に至っては拳銃を撃つ暇も与えていない。また、隊長がやられたというのに事件直後陸援隊も海援隊も騒いでいない。本書は改革派が分裂していた仮説を持ち出す。無血改革派と武闘改革派の対立である。目的が一致しても方法論をめぐって対立することはよくある。
まあ、そんな内輪揉めはいいとして肝心の2人を暗殺した奴は誰やねん?
なにー!ジェフリー・アーチャーばりじゃん!
なぜそう思ったかって?たまたま「ケインとアベル」を観ただけのことで特に意味はない。

本書は、幕末の志士の誰がフリーメーソンだったかという証拠はないが、フリーメーソンによって影響されたのは確かであると語られる。いったい明治維新とは日本人にとってなんだったのか?「君が代」の元曲でさえ英国人の作曲であるとしめくくっている。
日本は大英帝国にあやつられて近代化した様子が語られているのだが、見解はもう一つあるだろう。日本が大英帝国を逆利用したとは取れないだろうか。この時代、西欧のご都合主義で、植民地化が進む中国人は正直者で、自立を目指した日本人は信用ならないというのを昔本で読んだのを思い出す。
W.リップマンは書籍「世論」の中で、陽気なアイルランド人、論理的なフランス人、規律正しいドイツ人、無知なスラブ人、正直な中国人、信用ならない日本人、などの固定概念を持っていると記している。
本書を読んで日英同盟までの歴史は描かれた筋書きのように思える。英語が国際語となったのは第二次大戦で米英が勝ったからと言う人も多いだろうが、キリスト教の宣教活動とフリーメーソンの役割は大きいだろう。本書で語られる数々の仮説が全ての矛盾を解明しているとは到底思えない。ただ、一般的に語られる歴史よりも説得力を感じるのは、アル中ハイマーがただの酔っ払いだからかもしれない。

2007-07-15

"石の扉" 加治将一 著

立ち読みをしていると、なんとなく懐かしいキーワードにぶつかった。フリーメーソンである。フリーメーソン、ユダヤ、世界大金融といえば、陰謀めいたものを感じて一昔前に興味を持ったことがある。
本書は陰謀説とは少し離れて柔らかい感じがする。フリーメーソン紹介書といったところだろう。冒頭から事実に基づくとある。信憑性があるかどうかは意見が分かれそうだが、読み物としてはなかなかおもしろい。記事にするからには買ってしまうのだ。

フリーメーソンは、世界最古にして最大の秘密結社である。
思想は、自由、救済、真理、平等、友愛。思想信条を一つにすることもなく強制もない。宇宙には人間の及ばないなにか至高なるものがあって、それを神と呼び、その存在を信じている。どこの宗教の信者も問わない。守るべき戒律はない。
アル中ハイマーは、なんとなく高度な理性と秩序に支配された世界であるという印象を持っている。宗教の香りもするが、宗教は愛も育てるが憎しみも育てるので簡単には説明がつかない。
なぜ、秘密組織が何百年も続いているのか?なぜフリーメーソンが世界を動かしていると噂されるのか?世界に400万人のメンバーを有し共通の掟を持っている。そんな大人数で何をやっているのか?
世界征服、ユダヤの陰謀、カルト教団、更には宇宙人の侵略などいろいろと噂される中で、本書はこれらの陰謀めいた話を否定する。フリーメーソンというだけで暗号やサインで互いに分かち合えれば、世界各国で要人を紹介してもらったり、VIP待遇もあるというから興味を持たざるをえない。さっそく、酔っ払い気分で勝手に章立ててまとめてみることにしよう。なぜかって、そこに泡立ちの良いビールがあるから。

1. その語源
フリーは自由。メーソンは石工。欧州の街並みは、城、教会、家などの建物から、道路、橋、水道というインフラまで石造りで埋め尽くされる。石こそ国家の要であり、石工は重要な位置付けにあった。城などは国家の最新鋭防衛システムであり、石工のマスター(親方)は国防の重要人物である。石工のマスターを束ねるグランドマスターは国防長官といったところだろう。あの荘厳なゴシック建築を見れば圧倒される。石工も馬鹿にはできないのである。言い伝えによると、初代グランドマスターは世界一栄華を極めていたイスラエルの王、ソロモン王だったらしい。ただし、史実上の裏づけがなくメーソンの経典に書いてるだけである。こうした話から、ユダヤ教を崇拝し、ユダヤ陰謀説などとこじつけられる材料とされるのだろう。いずれにせよ、ユダヤ教、キリスト教の影響を受けているのは確かなようだ。また、フリーは自由と訳すよりは、免除と訳すべきらしい。税金の免除など、数々の特権が与えられたという意味で捉えるべきのようだ。よって、フリーメーソンとは、上級資格をもった石工という意味である。

2. その原形
国家事業として建設を行う場合、石工職人を募る必要がある。この時、資格制度があれば職人の区分けが容易い。これがフリーメーソンの原形であるという。職人の区別は階級で管理される。この資格を売買する輩もいたので極刑で管理されていたようだ。この管理体制、階級体制がピラミッド型になっている。こうしたことから、ピラミッドはフリーメーソンが建設したと主張する人もいるようだが決定的証拠はない。本書もピラミッド建設にフリーメーソンが関わっているという仮説を支持している。そもそもフリーメーソンの性格からして証拠が残されている方がおかしいという。
しかし、統制が確立している組織とは、だいたいがピラミッド型の管理体制になっていると思うのはアル中ハイマーだけだろうか?
ピラミッドは王の墓ではなく公共事業であったという考えはほぼ定着している。では何のために?本書は、何かの儀式を行うための館だったのではないかという仮説をたてている。フリーメーソンのロッジは世界中に散らばっているが、エジプトゆかりの名前を冠したものが多く見られるらしい。なんとなく古代エジプトとの関わりはありそうだ。

3. 十字軍との関わり
素人目に見ても、宗教との関わりがありそうなことは薄々感じる。イスラム教もキリスト教も古代エジプトのイシス信仰を受け継いでいるので関わりがあるだろう。本書でも、イスラム教対キリスト教の構図として十字軍を取り上げている。騎士団は12世紀以降のヨーロッパで発生した強固な結社であり、背景はいずれも反イスラムである。三大騎士団と言えば、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団。テンプル騎士団は、なぜ秘密結社という形態にこだわったのか?彼らの儀式や集会の秘密性。これは独特な世界観を植え付ける心理的作用があるという。武士でも似た面があるが、騎士としての気品の高さだろうか。人間は、あらゆる面で他人より高貴であると思いたいのだろう。ブランド志向や、社会的地位を求めるなどはその典型である。高貴と言われる世界には必ず儀式が存在する。天皇家に見られる儀式も、日常からは遮断されているがゆえに気品が保たれていると言っていいかもしれない。気品とは一般人との差別意識ということか?差別化の度合いは一般社会との乖離度に比例すると述べている。例えば、ゲリラや犯罪組織など、儀式が反道徳的であればあるほど仲間の結束も固い。ロッジを創ることは、餓鬼の頃、仲間で秘密の隠れ家などを作って遊んだ感覚と似ている。本書は、フリーメーソンとテンプル騎士団の共通性について語り、深い関わりを持っていたのではないかという仮説を立てている。十字軍は、ユダヤ人勢力も目障りであった。イスラム教だけでなく、その矛先は旧約聖書を掲げるユダヤ教にも向けられた。ゆえに、ユダヤ人は秘密裏に集会を行い、フリーメーソンという隠蓑を使って差別主義をかわしたという仮説も立てている。

4. 明治維新との関わり
本書は、坂本竜馬の雄大にしてトリッキーな行動はいったいどこから生まれたのか?と疑問を投げる。幕末から明治にかけて活躍した西郷隆盛、高杉晋作、伊藤博文、桂小五郎、五代友厚、岩崎弥太郎らを追っていくと同一人物に辿り着くというのである。ちなみに勝海舟ではない。竜馬が日本初の商社を長崎に設立したことにしても小曾根英四郎の援助があったからで竜馬の人間性をかったとものの本では片付けられるが本書はそうはいかない。竜馬が長崎に滞在した期間から会社設立までの期間が異常に短いこと、竜馬の知名度からして行動のスケールが大きすぎることから、黒幕の存在を指摘する。長崎といえばグラバー邸。明治維新最大の黒幕はトーマス・グラバー。グラバーの封建社会打倒という理念から利害関係が一致したので竜馬を利用したと語られる。著者は、グラバーの生地はスコットランドで、彼はフリーメーソンであると確信していると熱く語る。このあたりは、一生懸命証拠立てして解明しようとしている苦労が伝わるので推理小説のように読める。ちなみに、黒船で来航したペリーもフリーメーソン。終戦のミズーリ艦で調印した時、ペリーが掲げた星条旗を持ち込んだのも、マッカーサーがフリーメーソンだからであると述べている。日本の首相にも。。。あらゆるところにフリーメーソンはいる。プロスポーツ界にも多い。

5. 1ドル札
1ドル札にピラミッドが描かれている。他国の文化遺産がなぜ米国の紙幣に使われるのか?これぞフリーメーソンの象徴なのだという。これは「全能の目」という章で語られているが、その解釈はおもしろい。1ドル札にラテン語でつづられた以下の文章。
「NOVUS ORDO SECLORUM」 新しい世紀の秩序!
「ANNUIT COEPTIS」 我々の計画に同意せよ!
という意味らしい。この2つの文章がピラミッドを囲んで円を描くように配列されている。そこにダビテの星を描くと、ちょうど星の5つの頂点にM,A,S,O,N (メーソン)が重なる。へー!
本書は、アメリカ合衆国、EUも総じてメーソン国家で、フィリピン、ブラジル、アルゼンチンもそうだと言っている。スウェーデンに至っては王室とメーソンがダブっているとまで言っている。歴代の米国大統領にフリーメーソンが多い。ナポレオンもフリーメーソンだったのではないかという歴史家がいる。

本書は全般的にフリーメーソンの行儀の良いところを取り上げている。しかし、これだけの人数がいる以上は、行儀の悪い面もあるはずである。その一つを紹介してくれる。P2事件(プロパガンダ2)。これはイタリア映画「法王の銀行家」で公開されているらしい。複雑に絡み合った陰謀を銀行家を通して描いているのだそうだ。おいらは観ていない。
集団には、その理念がどんなにすばらしくても一部で傲慢な連中が育つ。エリートと称して思い上がって世界金融を支配しようと思っても不思議ではない。時々、フリーメーソンと世界金融の支配を重ねて論じるものを見かける。本書でも、秘密主義で自分達をエリートと思い上がり傲慢になる危険性を述べているが、世界征服など物理的に不可能だと言っている。確かにそうかもしれない。ただ、物理的に不可能だからといって抑止力にはならない。思い上がれば可能性を肯定するだろう。これはフリーメーソンだからというのではなく、秘密主義を共有しエリート集団であると自己認識したときに傲慢さが生まれる。これは人間の真理だろう。こうしたタイプの人間は、特に政治家や官僚など地位のある所に多いように思える。俺が世話してるんだ!俺が金出してるんだ!人間とはそのように変貌するものだ。
特にアル中ハイマーは秘密の会合で有頂天になりやすい。フリーメーソンの理念を見習うべきである。さっそく秘密の場所に行って酒を酌み交わし情報交換をするとしよう。
ただ、その場所をロッジとは言わない。クラブと言っている。
ちょうど案内状が届いている。そこには暗号文で「浴衣祭り」と書いてある。

2007-07-08

"獄中からの手紙" ローザ・ルクセンブルク 著

本棚を整理していると、読んだ覚えのない本をたくさん見つけた。前記事ではその中から「絞首台からのレポート」ユリウス・フチーク著を取り上げたが、本書もその中の一つである。見つけた場所からして、同じく20年ぐらい前に読んだのだろう。本書は100ページ超と薄く、手紙であるため手軽に読める。
そのためか自宅でありながら、つい立ち読みしてしまう。アル中ハイマーには、立ち読みの方が緊張感があって気分が出るようだ。ついでに、カウンタがあって美しいお姉さんから凝視でもされたらもっと集中できるのだが。

ローザ・ルクセンブルクは、マルクス主義の政治革命家で、本書は、投獄中、リープクネヒトの妻となった友人宛てに書いた手紙集である。
そう言えば学生時代、マルクス主義やら独裁者の思想などの本ばかり読んでいた時期があった。あまりにも暇だったのだろう。ただ、この頃読んだ本の内容はほとんど覚えていない。当時は、アル中ハイマーには政治思想など理解できないと諦めたものである。
しかし、本書は政治色を微塵も感じさせない。ローザは、政治犯として投獄され、いずれ虐殺される運命にある。そうした暗い人生を加味して読んでも、獄中で書かれたものとは信じられないほどの穏やかさがある。自然の風景が語られ、詩の朗読があり、思い出が語られ、時折、囚われの身の心境を覗かせる。読書しているというよりは、風景画を鑑賞しているかのようだ。人間は自分の運命を悟ると、その瞬間を大切にするだろうか。風景を描写する表現力に文学的な価値がありそうなのは、おいらのようなド素人にでもなんとなく伝わる。
ただ、アル中ハイマーにはこの作品の論評ができない。到底およびもしない高度な文学的領域であるように思えるからだ。当時は難し過ぎて記憶できなかったのかもしれない。そもそも本当に読んだのかも疑わしい。今、スコッチを味わいながら当時を思い出そうとしている。そして、だんだんいい感じになってきた。あー気持ちええ!えーっと!今、何してたんだっけ?そうだF1を観るんだった。

2007-07-01

"絞首台からのレポート" ユリウス・フチーク 著

久しぶりに本棚を整理していると、読んだ覚えのない本をたくさん見つけた。本書もその一つである。見つけた場所からして、多分20年ぐらい前に読んだのだろう。一度読んだ本を読み返すなど専門書でもない限り絶対にやらなかったことであるが、気まぐれはよくある。読んだ本を思い出せないとは、なんのための読書かわからない。時々昔の本を読み返してみることにしよう。その時期感じた感覚とは違う発見があるかもしれない。なかなかおもしろそうだ。このような気分になれたのもブログ効果かもしれない。自分の書いたブログも後に読み返せる日がくるのを楽しみにするのである。

著者フチークはチェコのジャーナリストで、ナチス占領下のプラハで政治犯とて捕らえられた。彼は、すさまじい拷問に耐え目前の死に向かいつつも抵抗の記録を書き遺した。本書は、歴史的には政治文書として評価されてきたようだが、アル中ハイマーにはなかなかの文学作品である。まるで詩のようなさわりが、あちこちにちりばめられている。そして、個人の描写が勝っていて政治色などあまり感じられない。
前書きに、ゲシュタポが使っていた屋内拘禁室を「映画館」と、誰が名づけたかわからないが、その中で、著者は「私の生涯の映画を百回も観た」と表現している。アル中ハイマーは、人間の生涯とは映画を観るようなものと語られる、この表現が好きである。
これほどの書物を、一度は読んでいるはずなのに覚えていないとは、アル中ハイマー病に犯されているとはいえショックを受けるのである。

アル中ハイマーは、チェコという国に昔から少々興味があり、一度訪れてみたいと思っている。チェコの作曲家ドボルザークの交響曲「新世界より」は、小学生の頃始めて買ってもらったレコードである。また、リディツェ村の話を知ったのが中学生の頃である。ナチス占領下、ラインハルト・ハイドリッヒ暗殺の代償として、リディツェ村の住民を老若男女問わず殺害され村の存在そのもが抹殺される。そして、戦後リディツェと名のる町があちこちに登場する。ハイドリッヒ襲撃事件については本書でも一瞬だけ触れられる。

本書は、まず尋問に抵抗して拷問されている様を描写する。
まだ自分が死ねないことを母親に丈夫に産んでくれたことを嘆いたり、逆に、限りなく遠いところから愛撫のように気持ちよく、やさしい落ち着いた声が聞こえてくる。など、もうろうとした意識、幻想的な感覚といった、夢でも見ているかのような生々しい表現が続く。また、自分自身の危機に対する描写だけではない。周りの人間が死んでいく様も描いている。自分の人生が無駄ではなかったことを自身で励ますかのように、そして、その終わりを台無しにするようなことはしたくないという誇りと意地を張る様子が語られる。

アル中ハイマーには文学的センスが全くないので文章テクニックはわからないが、本書はいたるところに文学的表現がちりばめられ心を穏やかにしてくれる。その例を一つ紹介しよう。下記は拷問に耐えぬいて、やや気力が戻った時の様子を表現している。ちょっと長いが気に入ったのでそのまま引用する。
「復活とはいささか奇妙な現象である。名状しがたいほど奇妙な現象である。よく眠ったあとの晴れた日、世界は魅力的である。ところが、復活の日には、まるでその日がかつて一度もなかったほどよく晴れわたり、またかつて一度もなかったほどよく眠ったような感じがするものである。あなたは人生の舞台をよく知っているような気がしているかもしれない。ところが復活というのは、まるで照明係りがすべての照明灯に明るいレンズをはめ、あなたの目の前に完全照明の舞台を一度に現出させたようなものである。あなたは自分で目がよく見える、と思っているかもしれない。ところが、復活はまるであなたが望遠鏡を当て、同時にその上に顕微鏡を重ねたようなものである。復活とは春さながらの現象で、ごくありふれた環境にも、思いもかけぬ魅力がひそんでいることを春さながらに見せてくれるのである。」

戦時中の囚人の気持ちとはどういうものなのだろうか?そこには、ゲシュタポに逮捕された時点で死を覚悟しているとあるが、希望と絶望の繰り返しの様がうかがえる。ファシズムの死と自分の死のどちらが先か?こうした忍耐競争が世界中で問われたことだろう。また、ファシズムが死ぬまでに、まだ何十万という人の犠牲が必要であることも覚悟しなければならない時代である。そもそも彼らが捕まった理由など何もない。ハイドリッヒ襲撃事件に触れているところで、おもしろいことに、事件が起きる二日前に検挙された人々の罪状が、ハイドリッヒ暗殺に荷担したというのである。処刑するのに理由はいらない。殺す人間のことなど調べる手間が無駄である。目的は民族の抹殺である。そうした時代にあっても人間は希望的観測がつきまとう。戦争の終わる時期について、バラ色の観測が毎週のように生まれる様が語られる。人々はそれを信じる。ここで、もう一つ文章表現に目が留まった。
「人生は短い。それでいてここではあなたは、その人生の一日一日がはやく、よりはやく、この上もなくはやく過ぎ去ることを強く願っているのである。あなたの寿命を刻一刻ちぢめている。生きて帰らぬ時、とらえがたい時が、ここではあなたの味方なのである。なんと奇妙なことだろう。」
本書は人間観察についても鋭い。それは囚人仲間はもちろん、看守から刑務所長に及ぶ。信念を持ちつづける者。裏切る者。ドイツ人看守の間の友情を、互いに監視しあい、互いに密告しあう緊張感のあるものとして描いている。密告により地位を確立する者もいるが、その密告の信憑性など一体誰が調べるものか。陰謀は渦巻く。

本書を読んでいる時、途中で数々の疑問がわいてくる。
死への恐怖から、正気を取り戻すために、記録を遺したのかもしれない。
迫りくる死に向かって遺せる文章とは?
拷問に耐えられず裏切る者もいる。それなのに政治的信念とは何か?
自分自身が死んでいるのか?生きているのか?わからない局面の心理とは?
かすかな痛みと喉の渇きのようなものが、生きていることを実感できる状態とは?そのような極限状態で、抵抗しつづけるとは?
誇りを持ち続けるということは?
しかし、アル中ハイマーはいつのまにか答えを出すことを放棄している。せっかくの文学作品に理屈などいらない。いつのまにか、そうした心持で読んでいる。

本書が世に出回ることができたのは、監房に紙と鉛筆を持ち込み、書いている間ずっと見張りをし、原稿を獄外へ持ち出した看守がいるからである。本書では、その看守の様も語られる。最初、ドイツ人看守が紙と鉛筆を持ってきた時は、話がうま過ぎて信用できなかったとある。その看守は、ドイツ人と名乗っているが実はチェコ人であった。後書きには、この原稿がゲシュタポの家宅捜索から逃れた様を解説してくれる。

それにしても、昔読んでいるはずの本の記憶が全くないというのは幸せにしてくれることもある。自分の本棚が新鮮に見えるのである。今、更におもしろそうな本が埋もれていないか探している。宝はアマゾンの中だけにあるのではない。灯台もと暗しである。本棚を眺めているだけで一杯やれるとは、のどかな一日である。