2009-04-01

酔っ払いの持つ合理性とは

さてエイプリルフールだ!今年のネタは何にするか?毎日エイプリルフールな生活を送っているようなもんだが。よって、天邪鬼は今日ぐらい真面目に過ごすとしよう。などと堅く決意していたところ、恒例の「桜祭り」の案内状が届いた。律儀で精神の揺るがないアル中ハイマーは、ドスの利いた声で「夜の社交場が俺を呼んでるぜ!」と呟きながら、真面目に和服鑑賞へ出かけるのであった。

1. 精神の合理性
「物事を客観的に観察して判断する」とは、よく聞かれる台詞である。数学的公理のような考察が可能であれば明らかに客観的判断と言えよう。だが、深い思考を呼び込むためには主観的考察も疎かにはできない。最初から客観性だけに頼っていては、現象をただ羅列するだけの貧弱な考察で終わるであろう。単なる現象の羅列からは、せいぜい最寄の事象の関連付けぐらいしかできないのだから。そもそも、人間精神の解明において弁証法なるものが現れるのも、精神が持つと信じられる客観的悟性が完全ではないと疑っている証ではないのか。成功のプロセスには偶然性が潜む。結果的にうまくいけば判断能力があると評価される。だが、純粋な判断力の存在を説明できるわけではない。一人の人間の理念には、一つの精神によって一つの宇宙が形成される。人間社会における客観性は、ほとんど個々の主観性に基づいた多数決によって支配される。そして、人間は永遠に占い師であり続けるのかもしれない。永遠に結果論で理由付ける評論家であり続けるのかもしれない。そもそも、認識そのものが主観性の強いものである。ある事象を認識し思考を働かせた時点で精神は主観の領域に入り込む。法律は客観的であるが、人間が解釈した時点で主観的となる。精神では主観性が強い分、客観性を強調するぐらいでちょうど均衡が保てるのであろう。そして、主観と客観の双方を統制する更なる高尚な価値観の構築が必要なのかもしれない。それが理性ってやつか?ただ、高尚な理性を構築するには、人生はあまりに短すぎる。神は人間を永久に不完全なものに留めておきたいのかもしれない。まるで神自身が優位性を保つかのように。強靭な理性の持ち主は精神を死の恐れから解放させ、死までの時間を静かに待つことができるという。ただ、欲望という本能も捨てたものではない。理性を獲得するには知性への欲望を必要とするのも確かである。皮肉にも強靭な欲望は、理性の欠乏を補って精神の安定をもたらすという不思議な関係も成り立つわけだが。
ちなみに、象の知能と感情の豊かさには定評があるらしい。
「象はなぜ?死を覚悟した時、群れから離れ、死に場所を探す旅にでるのだろうか?俺にはできない。一人孤独のまま姿を消すことはできそうにない。」
...映画「象の背中」より...

2. 運命の支配力
デカルトが人間の持つ知覚を「私は存在する」という一言で抽象化してしまったことには感服せざるを得ない。これは、人間の知覚は空間に関係し、一切のものは空間に存在すると言っているようなもので、まさしく先験的実存論を表している。ただ、認識できるものがすべて実存するとなれば、愛という妄想をどう説明するのか?「言葉のキャッチボール」は、いずれ「言葉のドッジボール」へと変貌し、ついには「言葉のビーンボール」が頭をかすめる。愛情が愛憎に変わるのに、大して手間はかからない。ちなみに、完璧な仕事の依頼料は300万ドルが相場だという噂だ。
「ゴルゴ13、奴を狙撃しろ!」
そして、暗殺を恐れた独身主義者は、実存主義者の「なぜ結婚しないのか?」という問いに、裏返った声で「それは理性を失わないからさ!」と錯覚論を展開するのであった。なるほど、スピノザは、誤謬の原因は人間認識の欠乏によって生じると語った。どうりで、「できちゃった!責任とってね!」と迫られると、唯物論者は唯心論者へ鞍替えするわけだ。
錯覚論者であるアル中ハイマーは、九連宝燈...国士無双...大三元...と呟きながらスーパーヅガンな人生を謳歌する。ちなみに、ゲーテは、想像力は芸術によってのみ制御されると語った。そう、芸術にこそ合理性が潜み、玄人(バイニン)技にこそ運命を操る支配力がある。中でも、飛び切りの芸術は「積み込み」である。そして、絶望論者は起死回生を願って呪文を唱える。「天が味方するから天和(テンホウ)なんだが...さて、明日も晴れるかなぁ...」

3. 酔っ払いの持つ合理性とは
物事の持つ合理性とは何か?それは、物事の本質を見抜くことであり、その本質の持つ合理性にこそ王道がある。
では、人間の持つ合理性とは何か?精神には、気まぐれや直感と、これに反するかのように好まれる論理的思考の両面がある。いわば、主観と客観の共存、欲望と抑制の共存、感情と理性の共存。主観性には、精神の高まりを呼び起こし、思考の深さを牽引する役割がある。客観性には、理性を研ぎ澄まし、精神と知性の均衡を保つ役割がある。この両面を凌駕することこそ、人間の持つ合理性に近づくことができると信じている。
人生はギャンブルか?ギャンブルの本質は確率論に持ち込まれる。この確率論には運と能力が微妙に絡む。ギャンブルで勝利したければ、時には奇策を用いるのも悪くはない。だが、ギャンブルの持つ本質にこそ合理性がある。確率を無視しては、神に逆らうようなもの。本質という合理性を否定していては、いずれ長いギャンブルに敗れるだろう。
そして、アル中ハイマーは人生のオーラスで地獄の単騎待ちに賭ける。しかも、海底(ハイテイ)だ!そう、不合理性に身を委ねてこそ、酔っ払った人生というものだ。

「誰かが金を無くすから博奕になるんだが、まあ、勝ったり負けたりってとこだろうよ!」
「勝ち続ける人もいるでしょう!」
「いるかもしれねぇ。だが、そういう奴は金の代わりに体無くしてる!そういうもんだ!」
「勝ち続けて丈夫な人もいるんじゃないの?」
「そういう人はきっと、人間を無くすんでしょうなぁ!」
...映画「麻雀放浪記」より...

2009-03-29

もしも、アル中ハイマーな哲学者がいたら...

ドリフのもしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな哲学者がいたら...だめだこりゃ!

1. 矛盾というパズル
哲学書は、難解な論理の羅列がBGMを聴いているような錯覚に陥れる。難解な文章を遠目から眺めれば、いろんな思考が錯綜する。そして、一つの言葉でも違った意味をめぐらせながら精神を混乱させる。一語異義的な世界とでも呼ぼうか、一貫性さえ疑いたくなる。これも、人間の精神が矛盾律で成り立っている証であろう。
人類の歴史は矛盾の概念に憑かれている。神が完全であるならば、神は愛することも憎むこともしないはずである。なのに、宗教はなぜ?「神はすべての人間を愛する」と教えるのか?なんと不合理な思考であろう。なるほど、どんな罪人であっても神が愛してくれるならば、犯罪者は宗教へ帰依するはずだ。「苦しい時の神頼み」というが、自分にだけ不幸が及ばないように祈ることは、神を冒涜する行為である。こうした矛盾した行動によって精神の不安から解放されるならば、それもありかもしれない。神は、人間の精神を救済するために、矛盾というパズルをお創りになったに違いない。
近年では情報化の波が押し寄せる。膨大な情報量を消化するには労力がかかり、人間はますます忙しくなる。言い換えれば、思考の深さを妨げることにもなろう。人生は短いのだ。高度な情報化社会では、情報に対する目利きがなければ、精神の本質へ近づこうとする思考を妨げるという不思議な関係が成り立つ。社会の進化は人間に新たな能力を要求する。なるほど、哲学が真理を求める学問であるならば、暇人にしかできないわけだ。人間社会は、エントロピー増大の法則に従って複雑系へと陥る。その中で人間が生き抜くためには、自ら精神病を患わせないように深い思考を妨げる必要があるのかもしれない。これも神が人間に与えてくれた一つの防衛本能なのかもしれない。
ゲーテ曰く、「優れた人で即席やお座なりには何もできない人がある。そういう性質の人は事柄に静かに深く没頭することを必要とする。そういう才能の人からは、目前の必要なものが滅多に得られないので、我々はじれったくなる。しかし、最高のものはこうした方法でのみ作られる。」
競争社会では、深い思考を妨げながら知識を詰め込むことを奨励し、記憶力によって優位性を決する。だが、これは神が与えてくれた人間の最高の才能に反する。その才能とは「忘れる」ことである。だからノイローゼにならなくて済む。この才能は神にも敵わない。おそらく神はノイローゼを患っているに違いない。だから、「人間」なんて不完全なものを創造してしまったのだ。おそらく神は後悔しているだろう。そのために矛盾というパズルを必要としたのだから。そう、神をも超越する概念を必要としてしまったのだ。

2. 哲学してみる
哲学と数学は同じ論理学を扱う意味ではよく似ている。ただ、扱う対象が違う。数学は物理量や時間スケールといった「空間の量」を対象とする。一方、哲学は人間認識や理性といった「精神の本質」を対象とする。論理学は常に客観性に基づく体系化を求める。数学の公理は永遠である。ところが、精神ってやつは主観と客観の双方の領域にかかわるからややこしい。数学は哲学から派生した学問だと思っている。本質を見極めようと普遍原理を探求する中で、体系化を見出すことができたものが数学として分離したと考えるからである。逆に言うと、人間精神にかかわる部分だけが哲学にとどまっているとも言える。不完全性定理は、まさしく数学の領域から哲学の領域に引き戻した感がある。数学の証明には直観的確実性や自明性なるものが現れるが、哲学の証明には弁証法なるものが現れる。弁証法が有効だと認めている時点で、人間は矛盾と対峙する運命を背負うことを自覚しているのだろう。あらゆる学問は人間にかかわる現象に対して体系化を求めてきたが、ことごとく失敗してきた。しかし、失敗したからといってその試みは無駄ではない。体系化できるかできないかの境界性をさまよいながら、人間精神の限界を知ることができるからである。哲学が特殊なのは、他の学問に比べて知識の果たす役割が小さいことである。ひたすら精神の働きによって真理を求めることができる。あらゆる学問で本質の探究を試みれば、哲学的考察を避けることはできないだろう。物事を深く掘り下げれば哲学的思考に辿り着くはずだ。あらゆる学問で偉大な学者が、同時に偉大な哲学者であったのもうなずけるわけだ。ところで哲学者ってどうやったらなれるの?自称すればええのか?

3. 自己言及の罠
哲学的思考では、物事は本当に存在するのか?と疑えば実存論争が巻き起こり、存在意義はあるのか?と疑えば無意味論と対峙する。そして、哲学とは何か?と自己言及の領域へと入り込む。数学界では、自ら定義した論理的命題を自己矛盾によって撃破され、不完全性定理を登場させた。科学界では、原子の解明に微小粒子を衝突させるように、粒子の解明に更なる小さな粒子の衝突を求めた結果、不確定性原理はこれ以上分解できない素粒子の解明という矛盾を匂わせる。いずれも、自己言及の罠によって自己矛盾を導いた結果である。もはや、系の姿を解明するためには、更なる高次の系から眺める必要があるように思われる。だが、必ずしもそうとは言い切れない例もある。数学の難題であるポアンカレ予想は、宇宙の外から眺めなくても、宇宙の外観をおおむね理解することができることを暗示している。これは、系の中に存在するものが、その系の姿を解明できる可能性を示しているのかもしれない。微分積分とは、事象の正体を解析するために仮想的に次元を上げたり下げたりする数学の道具である。ポアンカレ予想を解いたグレゴリー・ペレルマンは、まさしく微分幾何学を使ってトポロジー数学者の度肝を抜いた。しかし、ペレルマンはフィールズ賞を辞退して失踪してしまった。これは、人間自身が住む宇宙を解明した途端に、人間自身が精神を失った結果なのかもしれない。まさしく哲学は、人間精神の解明に人間精神がどこまで迫れるかという自己言及の問題を突きつける。自分自身を変えることができるのは自分自身でしかない。いや、自分自身ですら変えることができないのかもしれない。それを見極めるためにも自己言及を避けるわけにはいかない。そして、「俺は誰なんだ?」と問い続ければ「飲むしかないではないか」という結論に達する。しかも、酒を飲んでいるのか?酒に飲まれているのか?も分からず自己認識の存在すら疑わしい。これが哲学するということである。したがって、あらゆる哲学者はアル中に違いない。

4. アル中ハイマーの哲学とは
  • 哲学とは、暇人の学問である。
  • 人生とは、死までの暇つぶしである。
  • 生き甲斐とは、死の恐怖から逃れる手段である。
  • 多忙とは、神経疾患への麻酔薬である。
  • 退屈とは、不安と葛藤する勇気を養う時間である。
  • 天国と地獄があるなら、まさしくこの世である。生き甲斐が見つかれば天国。見つからなければ地獄。
  • 幸福とは、不都合なことを忘れさせてくれる瞬間である。
  • 絶望という名の希望は、人生を時々立ち止まり、そして振り返ることの大切さを教えてくれる。
  • 人間は解釈することができても、永遠に理解することはできない。
  • 浅はかとは、理解したと自負することである。信じるとは、思考を停止させることである。おまけに、哲学するとは、酒を飲むことである。したがって、酔っ払いはいつも理解した気分になる。あぁ愉快々々!
  • 物事をできるだけ抽象的に語り、様々な解釈を思わせる可能性を示せば、そこには、崇高な地位へと押し上げる何かがある。これが哲学の極意というものだ。したがって、哲学はチラリズムに満ちている。
人生の泥酔者には、自然に揺られる心地良さがある。なすがままに揺られる姿には、「Let it be.」の精神がある。これは絶望や諦めといった反応に似ているが、けして負の思考ではない。自棄になっては、どこかに未練がある証拠だ。運命とも思える現象を受け入れ、のんびりと酒を飲みながら自然に浸る。無意味論に対しても、愉快ならば「ええんじゃないか!」と対抗する。そして、気分良く飲まずにはいられない。なぜかって?そこに酒があるから。

2009-03-22

"哲学者ディオゲネス" 山川偉也 著

「酔っ払ったディオゲネス」を名乗るからには、この本を避けては通れない。ディオゲネスは、自ら非人間階級に属し、積極的に社会からの関与を拒んだ。名誉を捨て、物乞いとなり、進んで乞食となったこの人物は、世間から犬と蔑まれる一方で、生きる上での必要な誇りとは何か?を追い求めた賢人とも評される。イエスしかり、偉人はホームレスの中に生まれるものなのかもしれない。ラファエロ作「アテナイの学堂」には、有名なギリシャ哲学者と一緒に描かれ、中央で一人だらしなさそうに横たわっているのがディオゲネスと言われている。その描かれる位置からは存在感が伝わり、その姿からは異端者であることが感じられる。
大甕に住んだと言われるこの犬派の哲学者を語る時のアル中ハイマーは熱い。本書も文庫本でありながら500ページと厚い。後書きには、600ページを超す原稿量になったが、500ページ以内に収めてくれと言われてかなりの部分を削除したとある。おいらの論文も長くしつこいので、必ず削るように指摘される。特に、理系の文書はコンパクトさが好まれ、余計な修飾は蔑まれる。ただ、前提条件を細かく吟味することは有用だと考えている。でも、世間からは受け入れられない。必要無ければ、読者が判断して読み飛ばせば済むことではないのか。おいらは前戯に目が無いのだ。実際に理系の論文であっても芸術的で感動させられるものもある。主観と客観を明確に使いわける分には大した問題にはならんだろう。ゲーテ曰く、「想像力は芸術によってのみ制御される。」文章表現はその人の精神を顕にする。表現の仕方を否定することは、その人の精神を否定することにもなる。ここで思い出されるのがモーツァルトの逸話である。それはオペラ「後宮からの逃走: K384」に関するものだったと思う。皇帝ヨーゼフ2世が「我々の耳には音譜が多すぎるようだ!」と言うと、モーツァルトは「音譜はまさに必要とされる量ございます!」と食い付いた。そう、芸術の域に達するものは、作者の主観に委ねられるべきだ。確かに、あまり分厚いと文庫本の読者からは敬遠されるだろう。だが、なるべく削らずに残してもらいたかった。たっぷりと主観を交えた専門家の意見を聞きたい。読者が客観的な目で眺めればいいだけのことで、作者の思考の深さをじっくりと味わいたいものだ。文庫本という形態にも制約があるのだろう。ならば上下巻に分ける手もある。などと思うのも、ディオゲネスに関する文献があまりに少ないからである。数々の逸話が残されているにもかかわらず、史料の少なさはアンバランスと言うほかはない。この人物は西洋でも意外と知れ渡っていないらしい。その理由はよくわからないが、思想が明確に残されていないからではなかろうか。その思想は逸話から想像するしかない。
本書は、数々の逸話を考察しながら、ディオゲネスの「世界市民」という世界観に迫ろうとする。その考察はかなり丁寧で、読むのも大変であるが、なかなかの重厚ぶりを披露してくれる。ディオゲネスについてこれだけ熱く語られた文献を他に知らない。おいらにとっては待望の作品である。ちなみに、アル中ハイマーは子猫ちゃん派である。

古代ギリシア時代に現れた都市国家群には、なんとなく興味がある。それも、グローバリズムの進む現在において、都市モデルとして通ずるものを感じるからである。ディオゲネスが生きた時代は、アテネイ、スパルタ、テバイベなどの有力な都市国家が凋落し、マケドニアが台頭してきた時代である。その時代に「世界市民」思想を先取りしていた点も興味深い。本書は、思想に迫るための前提条件として、逸話に対する信憑性から論じている。歴史家は、こうした曖昧な事象を放っては置けないのだろう。でなければ専門家とは言えない。これらの逸話は、ドラマティックに仕立て上げられているのも事実で、ほとんどが疑わしい。だが、その事実関係に目くじらを立てるつもりはない。それも二千数百年前の話だ。現在でさえ、著名人の語った見識を正確に報道できないでいる。注目したいのは、なぜこれらの逸話が、しかもこのような形で残されているのかということである。歴史の逸話には、通常その対象を称賛するか、あるいは、蔑むかといった一方向での誇張が見られる。ところが、ディオゲネスの逸話となると、その両方の傾向を合わせ持つところに謎めいたものがある。プラトンに「狂ったソクラテス」と渾名されるあたりは、ソクラテスと同列に扱われていると言ってもいい。アレクサンドロス大王やマケドニア要人との逸話は、思想や体制への批判であることは想像に易い。歴史には、本人が意図していたかは別として、周りの人々によって担がれ政治利用されてきた著名人が多い。ディオゲネスはアテナイの有名人で、しかも変人扱いされていたがゆえに、そうした象徴にされたのかもしれない。それは、おそらくキュニコス派(犬儒派)によってであろう。だとしても、反体制思想を持っていたことは間違いないように思える。本書は、プラトンと直接議論した可能性を否定し、批判の対象はその弟子アリストテレスに向けられたものだと語り、アリストテレスの国家思想と対比させる。本書の半分近くがアリストテレスについて議論しているという丁寧ぶりだ。また、資本主義の源流とも言うべき姿も現す。これらは推理小説ばりの展開が見られておもろい。

アリストテレスと言えば、幸福主義が思い浮かぶ。市民は平等であり、その最高善は幸福であるというものだ。しかし、「市民」の定義に疑問を持たざるをえない。その根底には「生まれつき奴隷」の思想があるからだ。そこには「市民」の身分を獲得できない人間が存在する。女、奴隷、農民、商人、手工業者、在留外国人など。古くから市民の自由や平等を唱えた政治家や思想家は多い。にもかかわらず、近代まで奴隷制や人種差別や植民地を伴なってきた歴史がある。古代ギリシア思想の終着点とも言えるアリストテレスの思想や、マケドニア人による支配体制を批判したのがディオゲネスの「世界市民」思想である。そこには「自足」と「上下逆転」の概念が現れる。どんな境遇の下に生まれるか、どんな国家に生まれるかは、運命とも言うべき偶然性に支配される。ディオゲネスは、家柄、富、名声といった生まれの違いを、「悪徳をめだたせる付け足しの飾り」と呼ぶ。これは、まさしく「生きること」がではなく、「よくいきること」が大切だと説いたソクラテスの精神を継承したものである。金と名声は、往々にして人を堕落させる。怠惰を求めると、なぜか勤勉になる。人間とは、おもしろい因果の下で生きているものだ。「世界市民(コスモポリテース)」という言葉は、ディオゲネスが作ったという。この言葉は、弟子クラテスを通じてストア学派の祖であるゼノンに伝わり、やがて帝政ローマの基本思想となる。ルネッサンス後は、欧州の道徳家たちの思想基盤となり、ルソーやカントの世界市民思想の伝統は、ニーチェなどを通じて現代まで受け継がれる。こうした継承の源流にディオゲネスの影が映るのは気のせいだろうか。ゲーテにも「聖ディオゲネス」という言葉を使った格言めいたものが現れる。

現在のグローバリズムには二つの対立した関係がある。それは国境を越えた分配思想と愛国心である。愛国心はグローバリズムと矛盾するという意見もあるが、それは本当だろうか?問題は宗教のように他を否定するところにある。過去にも「世界市民」と似通った言葉を使った政治家や思想家は多い。彼らは、自らの立場を正当化し言葉を操るのが得意だ。政治家や思想家は、物事を何もかも二極対立構造で捉えすぎる傾向がある。経済現象しかり、社会現象しかり、専門家は類似の議論をする。二極議論は分かりやすいので、注目もされ、大衆を扇動しやすい効果がある。人間は揉め事が好きなのだろう。精神は退屈しているのだろう。宗教では「聖なるもの」と「俗なるもの」という二つの関係で規定される。果たして、複雑系である人間の本性を二極対立の議論で単純化できるのだろうか?天体の二体問題は厳密に解けても、三体問題となると途端に迷走する。現在のグローバリズムは、欧米化であったり、先進国化であったり、異宗教の不和であったり、外国人の排除であったり、国粋主義であったりと、お国の事情によって様々な矛盾が対立する。神様は人間の精神を退屈させないために、矛盾の概念をお創りになったに違いない。この時代にディオゲネスが生きていたら何を語ってくれるだろうか?彼が唱えた「世界市民」とは、そんな単純なモデルであるとは信じたくない。こうなると「世界市民」の定義がなされていないことが残念だ。その分、想像の世界は広がる。モザイク画像だからこそ想像が膨れ上がって興奮するのだ。

1. 通貨変造事件
「そのことがあったればこそ、哀れな奴め、わしは哲学をすることになったのだ。」
「そのこと」とは通貨変造事件である。ディオゲネスはシノペの人で、古代都市シノペは現在のトルコ北端にある黒海沿岸のシノップという港町で、その名はアソポス河神の娘シノペに由来する。ディオゲネスの父は、銀行家ヒケシオスであるが、ただの銀行家ではなかったという。それは通貨発行に関わる最高責任者だったという。通貨変造事件を引き起こしたのは、ディオゲネス自身か父かは不明であるが、その事件によって父は投獄され、ディオゲネスはシノペから追放される。では、なぜ通貨を変造したのだろうか?それは、既に偽造通貨が多く出回っていて、シノペ通貨の信用が傷ついていたという。これは国家を揺るがす大問題である。この対策が通貨変造であると言われる。これは、むしろ正当化されるべき行為である。なのになぜ犯罪者とされたのか?当時ギリシアとペルシアが対立し、シノペはその間に位置する。本書は、シノペにペルシア帝国を後ろ盾にした勢力が入り込んでいたという推測を紹介する。また、単なる下級役人の不注意でノーマルな硬貨に対しても変造されたのではないかという推測も紹介する。ここには陰謀の香りがする。だからこそ、官僚の地位から振り子が真逆に振れて、自由人として生きたのではないだろうか。そして、国を捨ててアテナイへ流れ着き、哲学者となったのではないだろうか。

2. 狂ったソクラテス
プラトンにとって、ソクラテスは英雄的な存在であり、ディオゲネスはソクラテスの真逆の人物であった。「狂ったソクラテス」と表されるからには、ソクラテスと同列に扱われたとも言える。しかし、一般的には同列扱いされることを不快に思う人もいるだろう。ソクラテスは、追放刑を申し出れば助かったものを、自ら毒杯を仰ぐ「遵法の人」だった。ソクラテスは、不信心にして新しき神を導入し、青年を腐敗せしむる者として死刑を宣告されたが、あくまでもアテナイを愛し、国法に従ったのである。ただ、既に年老いていたので気力も失せていたのかもしれない。一方、ディオゲネスは、自ら国を捨て、国境なき世界市民として生きた。本書は、もしソクラテスが追放刑になって助かったならば、ディオゲネスと同じような道を辿ったかもしれないと考察する。両者の違いは、母国にこだわったかどうかであり、そこには思想的な類似性が現れるという。その思想とは、国境にとらわれない世界市民主義である。

3. アレクサンドロス大王との会見
ディオゲネスの逸話で最も好きなのがこれである。コリントスでアレクサンドロス大王と会見する。この地でギリシア軍が集結し、ペルシア遠征へ向かう直前の場面である。大王は、多くの政治家や哲学者が挨拶にくる中、ディオゲネスも出向いてくると期待した。ところが、ディオゲネスは大王すら相手にしない。そこで、大王の方から出向き、日向ぼっこをしているディオゲネスの前に立つ。この会話は本書と少々違うが、おいらはこの方が好きだ。
A: 「余が大王のアレクサンドロスだ!」
D: 「わしが犬のディオゲネスじゃよ!」
A: 「お前は物乞いだと聞く。欲しいものがあればなんでも申せ!」
D: 「では、日が陰るから、そこをどいてくれ!」
A: 「おまえは余が恐ろしくないのか?」
D: 「おまえは何者だ?善人か?悪人か?」
A: 「むろん、善人だ!」
D: 「ならば、誰が善人を恐れようか!」
会見後、ディオゲネスの誇りに感銘を受けて、次のように洩らしたという。
「余はアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスでありたかった。」
この逸話には、ディオゲネスの偉大さもうかがえるが、アレクサンドロス大王の傲慢さも伝わる。本書は、この逸話も判官びいきのディオゲネス伝作者によって作られたものだろうと推測している。そして、マケドニアの要人との逸話では、そのほとんどがディオゲネスを反マケドニア派に仕立て上げようとする作為を感じるという。いずれにせよ、大王をも引き立て役にしての伝記が残るということは、それだけの存在感を考慮しなければならない。何を言ったかは別にして、両者が会見した可能性までは完全否定できないだろう。それにしても、ディオゲネスの死んだ日が、アレクサンドロス大王と同日というのは、あまりに出来過ぎである。だが、これを反証する証拠はないらしい。

4. アリストテレスの思想
プラトンが「人間とは二本足の、羽のない動物」と定義すると、ディオゲネスは、雄鶏の羽をむしりとり、「これがプラトンの言う人間だ」と言ってアカデメイアに乗り込んだという逸話がある。ただ、時系列的にも実際に両者が体面したこと自体が怪しいという。これは、プラトンへの批判というよりは、アカデメイアで講義するアリストテレスを批判したとするのが妥当だという。ただ、プラトンが「狂ったソクラテス」と揶揄したことは、噂で耳にすることはできるので、否定はできないようだ。アリストテレスは、「人間とは、その本性においてポリス的動物である」と定義した。そして、全てのポリスは共同体であり、その共同体は善を行うためにつくられるとした。人間が生きていくためには共同するしかない。ここに神と人間の境界線がある。アリストテレスは、共同を必要とせずに自足できる者が神か獣で、共同を必要としなければ生きていけないのが人間であると主張する。ここでおもしろいのは、共同を必要とせずに自足できるものに、獣を含めているところである。詭弁のようにも思えるが、獣とは罪人などの非人間階級を指している可能性がある。なんとなく、国もなく、家もなく、日々を物乞いしてさまよう人間の存在を感じる。ディオゲネスこそ、共同することのできない人間で、「犬」のレッテルを貼られている。アリストテレスの世界観には、人間中心主義的自然観と目的論的自然観がある。全ての自然が、その必然性によって生まれ、奇形も一種の獣として扱う。奴隷も獣と同様で戦争の道具であり、「生まれつき奴隷」という概念がある。アリストテレスは、あらゆる動物の中で、最も完全なのが人間で、その中でもギリシア人が最も完全で、男は女よりも完全であるとした。アリストテレスの国家構想は、支配する者と支配される者によって成り立つ奴隷制を前提としている。

5. アリストテレスの正義
アリストテレスは、人間を「国家への貢献度」という物指しで査定したという。ただ、この時代に宗教との関わりを断ち切っている点では評価できそうだ。アリストテレスは、ユークリッド以前の人物であるが、その法則には幾何学的命題にも精通している。政治体制が違えば、人物や事物の価値を測る基準は変わる。だが、変わらないものがあるという。それが「需要」である。ただ、需要自体は計算することができない。だから、これに代わって万物を数えたり比較するための手段が必要となる。アリストテレスは、それが金銭だと主張する。貢献度の尺度として、一見能力主義を唱えているようだが、評価対象が技能ではなく、人間そのものであることに注目すべきであろう。人間の価値は値札をつけられてランク付けされるのだ。人間関係が資本関係に置き換えられ、貨幣至上主義を打ち出しているようでもある。この尺度によって配分の正義と、交換の正義が成り立つという理屈で、奴隷に値がつくのもうなずける。実際には、人間の価値評価は曖昧なので、不平等が生じるのは言うまでもない。この思想は、今日、安く買って高く売るという不平等交換が国際市場を動かし、それが一部の投機家によって扇動され、投機に直接関与しない人々までもが失業し自殺に追い込まれ、世界規模の経済危機に陥れられる様子と重なる。本書は、アリストテレスの正義を、プロタゴラスの命題「万物の尺度は人間である...」をもじって次のように結論付ける。
「万物の尺度は金銭である。それ故に、正義の本質は金銭である。」
アリストテレスは、人間社会に不平等が生じるのは当然だと言っているようなものだが、市民階級に限っては平等と言っている。これは市民階級の人間能力は皆同じということか?ここで、ディオゲネスのピッタリとはまる言葉がある。
「人間どもよ!と叫ぶと人々が集まった。おれが呼んだのは人間であって、がらくたなんぞではない。」

6. 「自足」と「上下逆転」の概念
「自足」をプラトンの定義集から引用すると、「自分で自分自身を支配する」とあるらしい。つまり、人生を自ら指導する能力、人生を思いのまま生きる能力ということである。
デモクリトス曰く。「思慮ある人とは、自分が所有していないものについて思いわずらうことなく、現に所有しているもので喜びを感ずる人のことである。」
限度をわきまえて必要以上のものを求めない能力は動物の方がはるかに優れている。人間は欲望の野放図になる。ただ、欲望の抑制を知識と鍛錬で克服できると主張する哲学者も多い。こうした思想は基本的にソクラテスに通じるものがある。ディオゲネスの思想もこの延長上にあるが、半端ではない。生活に必要なものを最小限に切り詰め、何一つ必要としないといった神々の境地にまで達しようとする。
「あるとき彼は、小さな子が両手で水をすくって飲んでいるのを見て、この子に負けたと言って、持っていたコップを投げ捨てた。」
この逸話は文明否定にもとれるが、そうでもない。それは以下の発言からもうなずける。
「市民国家が存在するのでなければ、文明化していても何の益もない。しかるに、市民国家は文明化をもたらすものであり、また市民国家が存在するのでなければ、法は何の役にも立たない。したがって、法は文明化をもたらすものだ。」
ここで言う国家は、既存の国家を指しているのではない。既存の国家が崩壊した後に見せる理想の国家である。つまり、既存の国家では、まだ文明すら語れるレベルにないと言っている。ディオゲネスは、奴隷は主人無しでも生きていけるが、主人は奴隷無しでは生きていけないと揶揄している。ここに「上下逆転」の概念がある。
「人を屈服させ隷属させることによってしか自分自身のプライドや生き甲斐を感じられないような連中は、すべて、自主独立した人間ではなく下劣な奴ら、奴隷に過ぎなかった。」
人間は自らを鍛錬し切磋琢磨して自足の道を歩まなければならない、これこそが自由であると唱えている。

ディオゲネスが奴隷市場で売りに出された時の逸話から...
「おまえはどんな仕事ができるか?と尋ねられたところ、人々を支配すること、と答えた。その時、立っていろ!と命令されても、そんなことはどうでもいいではないか。魚だってどんなふうに並べられていようとも、売られていくのだから。」

ディオゲネス臨終時の逸話から...
「死んだ折にクセニアデスが、どんなふうに埋葬しようかと訊ねたところ、うつぶせに、と答えた。なぜそんなふうにするのか?と尋ねると、まもなく上下が逆転するだろうから、と答えた。」
クセニアデスとは、コリントス市民で、奴隷市場でディオゲネスを買った人物である。ディオゲネスは、クセニアデスの二人の息子の教育と家の管理を任されたという。

2009-03-15

"死に至る病" セーレン・キェルケゴール 著

人間は本能的に死を感じながら生きている。精神は、無意識に死までの時間を計測し、死へのカウントダウンの中にある。人間は生まれて死んでいく。人間にとってこれ以上のイベントがあろうか。だが、人間はこの二大イベントの瞬間を自ら意識することができない。人間が死を意識するとは、自らの死ぬ瞬間の前後を意識できるということである。もしかしたら意識できるのかもしれないが。生まれる瞬間も単に記憶が失われているだけかもしれないが。死という得体の知れないものが近づけば、人間は狂乱する。末期患者が死を宣告されて狼狽する姿を曝け出すのも至極自然であろう。最近の社会傾向として、生活保護が受けられずに餓死する例がある。昔は楢山節考のような貧しい時代があった。考えてみれば犯罪もせず自殺もしなかったわけだから、強靭な理性の持ち主なのかもしれない。その一方で、死を目前にした人間が想像もつかない超人的な力を発揮することがある。こうした例は、死に近づくことによって精神の成長がある可能性を示している。それは時間との闘いであり寿命との闘いである。精神という無形化した世界で虚しくも認識の時計だけが刻まれ、やがて肉体が衰え精神が泥酔していく。人間はそれを待つばかりの無力な存在でしかない。人間は死に至るまでの時間を自我と認識しているのだろうか?そういえば、時間(じかん)と自我(じが)には同じ音韻が感じられる。そして、ヅガンも同じ音色に聞こえてくる。アル中ハイマーは、死に際にスーパーヅガンな人生を走馬灯のように振り返るのであろうか?いや!記憶があるはずもない。人間の最高の才能は「忘れる」ことである。だからノイローゼにならなくて済むのだ。この才能は神にも敵わない。おそらく神は慢性的にノイローゼを患っているに違いない。だから魔が差して「人間」なんて不完全なものを創造してしまったのだ。
などと、ぼんやりと考えながら本棚を眺めていると、なんとなく読み返したい一冊に目が留まった。おそらく20年ぐらい前に読んだ本である。
「人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係である。すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている。」
なんだこの難解な言葉の羅列は!狂ったかキェルケゴール!これが当時の印象である。

「死に至る病とは、絶望のことである。」
この病で人は死ぬことはない。この死は肉体的な死をともなわない。絶望の苦悩は死ぬことさえできない。人間は絶望に憑かれてまさに生き地獄の中にある。では絶望とは何か?なぜ人間は絶望に憑かれるのか?本書の答えは、「それは人間が精神だから」である。大デカルトを始めとする実存論者は、人間の実体は精神であり自己の中に存在すると主張する。逆に言うと、固体である肉体にはなんの意味もなさないことになる。実存主義の先駆者とも評されるキェルケゴールは、人間が精神であるがゆえに無意識に自己の病を抱えこむという絶望論を展開する。この絶望を通しての人間心理の考察は鋭い。そこには、絶望を罪として捉え、その救済を信仰との対立の中で弁証法的に論じられる。信仰の攻撃対象はキリスト教界で、皮肉をこめて論述と教化を対立させる。キェルケゴールが生きた時代は、実存主義とマルクス主義の二大思潮に分かれていたという。両者とも自己疎外の問題に言及したことに注目したい。マルクスは近代社会の矛盾から生じる人間疎外や人間分裂を問題にした。キェルケゴールは不安と絶望に悩む人間の姿を暴露する。本書は、絶望の視点から人間心理を考察した歴史的名著と言えるだろう。

セーレン・キェルケゴールは、デンマークの哲学者で、その名は珍しく渾名で呼ばれるという。デンマーク語のKirkeは、ドイツ語のKirche、英語のchurch。Gaardは、ドイツ語のGarten、英語のgarden。つまり、「教会の庭」あるいは「寺屋敷」や「墓地」を意味する。彼の祖先は貧しい部落の百姓で、教会の中の牧師館を借家としていたことからこの名がきているそうな。Kierkegaardは、Kirkegaardの中に無意味な一字eを入れて、固有名詞に転化されたという。彼の父親は厳粛なキリスト教に憑かれていたというから、その反動が現れたことも想像できる。ヘーゲル哲学に強い影響を受けながら、その徹底した批判者としても知られる。彼は主体性こそ真理であるという立場を貫く。その生い立ちでは、彼自身に例外者としての意識が根付いていたという。背骨の曲がる「せむし」という病だったという説もある。知性は群を抜いて卓越していたが、肉体的な欠陥によって精神と肉体の不均衡が見られたという。天才は、なんらかの苦悩を背負う運命にあるのかもしれない。
アリストテレス曰く、「狂気の要素のない偉大な天才は、未だかつて存在したことがない。」
彼にとって絶望は、あくまでも病であって救済との関係にこだわる。絶望こそが最も不幸な境地で、生きる希望の失せた世界を生きるという矛盾を克服しなければならない。自殺によって墓場で安住できるとすれば、それはキェルケゴールの世界では絶望の極致ではない。それは、信仰では救済されないことを訴えているかのように映る。

ある程度の絶望は自分のためには都合が良いものであろう。自己は、自らを空想の世界に追いやり現実を直視せず、可能性はあらゆるものに秘められると信じる傾向がある。つまり、自己に欠けているものは、現実性であり、自身の限界を認めることである。絶望は、挫折に追い込まれた時に現れ、欠けているものが何かを教えてくれる。女性は、結婚前「夢を持った男性に惹かれるの!」と言いながら、結婚後「子供みたいに夢ばっかり追っかけてんじゃないわよ!」と豹変する。妻は夫の態度で恐妻化し、夫は妻の態度で飼育化される。したがって、一般的に男はMとなる。なるほど、manの頭文字だ。これが家庭円満の法則というものか。その様子を観察すれば結婚は絶望に映る。「女房に逃げられるのを恐れて男が勤まるかい!(じゃりン子チエ、より)」
信頼は絶望と背中合わせにある。絶望に対する解毒剤があるとすれば、実現の不可能性を覚悟し、信頼を裏切る可能性を覚悟することであろう。こうしたことに対抗するには共通した意識が必要となる。それは自己を失わないという意志である。それが理性ってやつか?なるほど、「なぜ結婚しないのか?」と問われれば、それは「理性を失わないから」と答えて独身主義を通すのも優れた選択と言えよう。神はあらゆるものの可能性を示唆しながら、突然運命付けようとしやがる。宗教へ帰依する者は宗教へ恋するが、恋は盲目なのだ。宗教は芸術などの感情の領域にあるかと言えばそうでもない。そもそも、死後の世界を用意している思想ほど胡散臭いものはない。宗教は論理的否定を拒む。宗教の矛盾は神々の言葉によって強制力を発揮するところにある。言葉は人間から教えられるのであって、神からは沈黙しか教えられないはずなのに。その証拠にお祈りの言葉を捧げても、肝心な時に神はお留守をなさる。いったいどんな時に神が現れるというのか?もし、人間が論理的思考の限界に到達することができれば、そこに神を見ることができるのか?凡庸な人間の前には神は永遠に現れないだろう。では、天才の前には神が現れるのか?などと言えば、自ら神と名乗る人間が登場する。神が人間の姿を借りて現れるという思想は永遠に消し去ることができないようだ。こうしてアル中ハイマーは、神の存在と死後の世界を想像しながら夢の中をさまよい続ける。そして、少なくとも生きている間は生きている者同士で付き合いたい...死んだら死んだ者同士で付き合い、生きている者にその眠りを邪魔されたくない...などと金縛りの中で呪文を唱えるのであった。

1. 絶望とは何か?
キリスト教的な意味では、死でさえも死に至る病ではないという。キリスト教の立場では、死とは生への移行であり、死そのものが終局ではない。本書はこの教化が誰も知りえない悲惨へ導いたと指摘する。それが絶望である。絶望には優越と欠陥があるという。絶望の感情に至るのは人間であり、他の動物よりも優越を示す。しかし、絶望する人間は、最大の不幸と直面し、悲惨であるばかりか最大の堕落となる。人が死を体験するには、自らの死ぬ瞬間を意識できなければならない。したがって、人間は永遠に死を体験することができないだろう。ところが、絶望する人間は永遠にその瞬間を体験し続ける。ソクラテスは、肉体は肉体の病によって食い尽くされることがあるが、魂は魂の病によって食い尽くされることはありえないことから、魂の不死を証明した。もし、絶望が自己を食い尽くすことができれば、人間は絶望する必要がないのかもしれない。絶望こそ人間の一番尊い部分を浸食する。そこには、死ぬことのできない終わることのない終局がある。しかも、自らの力で自己から抜け出せない限り、この病からも逃れられない。もし、自己から抜け出せたと思い込んでも、それは幻想に過ぎない。精神は肉体が滅びない限り永遠に存在する。

2. 自己の放棄
全く健康な人などいないだろう。全く不安を感じない人などいないだろう。おまけに、全く絶望したことのない人などいないだろう。人間が精神であるならば、これは普遍的に逃れられない。自らが絶望していることすら意識できない形態もある。逆に、自ら絶望を感じていても、必ずしも絶望の極致にあるとは限らない形態もある。人間を単に霊と肉との総合と考えれば、健康が直接的な規定となるだろう。だが、人間が精神によって規定されることを自覚していないと、そこには絶望が現れるという。いかなる人間も自己を持つことが使命である。しかし、他人を怖れるあまりに自己を放棄することがある。自己が信じられず、自己であろうなどと考えず、他人と同じであると考える方が楽な場合もある。この時、自己は群集の一部でしかなくなる。こうした状態も、自己を放棄しているという一種の絶望状態であるという。だが、人々はそれに気づかない。彼らは単に生活に不都合をきたさなければいい。しかし、その安易さが絶望を招き寄せる。人生の冒険には失敗の可能性が付きまとう。したがって、冒険しないのが賢明であるという考えがある。失敗すれば、あたかも何かを失うかのように誇張する風潮がある。確かに、物質的に失うものがあるかもしれない。だが、自己を失うことは決してない。あらゆる冒険を避けて利益を得たとしても、それは自己を失うだけである。

3. 欲望と意識
「意識の度が増せば増すほど絶望の度も増す。」
自己は感性が知性よりも優勢である。どんなに冷静に装っても、そこには自己を押し込めた感性が潜む。そこに絶望があろうとも、希望によって優勢を保ち不快な立場から目を背ける。人間には虚栄心があり自惚れが強い。本書は、絶望に対する無知は不安に対する無知と似たような事情にあるという。精神的に安定しているようでも心の奥底には不安が潜む。錯覚の魔法が解かれ、自らの存在が動揺する時に絶望が現れる。絶望に気づかない人は、気づいている人よりも、真理と救済から遠ざかっているという。真理に近づくには、あらゆる否定を受け入れなければならない。だが、真理に近づけば、それだけ絶望を認識することになるではないか?という疑問もわく。絶望がゆえにますます絶望へと導かれ、絶望の無間地獄に嵌るではないか。だから死に至る病ではないのか?したがって、真理から遠ざかるのも一つの救済法と考えられるではないか。ただ、救済先が宗教となると、結局地獄へ引き戻されることになる。しかも絶望すら感じない。これは一種の麻薬である。これが幸福かどうかは酔っ払いの知ったことではない。哲学的弁証法で粗探しをしたら切りが無い。したがって、哲学の良いところは解釈の仕方が読者に委ねられるところである。ちなみに、宗教的論理には粗しか見当たらないが。本書は、絶望の反対は信仰でもあるとも語っている。人間の欲望こそが絶望を招くように映る。諦めの境地にも、絶望が潜んでいるように映る。自分自身でありたいと願う欲望によって絶望が生じるならば、自分自身でありたくないと願うのも欲望であって、そこにも絶望が生じるであろう。

4. 孤独と強情
「孤独への衝動は精神の徴候であり、精神のありかたを量る尺度である。」
かつて、人間は孤独を求め、その意味するものに尊敬の念を抱いていたという。それが社交の時代になると、孤独に怖れを感じるようになる。まるで孤独は犯罪者に対する刑罰であるかのように。近代社会では、精神を所有することが社会的な罪とされるのか?ここには、著者の生きた時代で自己が大衆に呑みこまれてステレオタイプに押し流されていく様子がうかがえる。社会に絶望し、政治に絶望し、地上のあらゆるものに絶望するかのように。そして、自己の中に閉じこもり、永遠の自己と対峙する。自らの弱さによって自らの傲慢さを言い訳し、絶望がその度を強めると強情になるという。しかも、この状況で迫ってくる危険は自殺であるという。そこには絶対的な秘密がある。閉じこもった人の秘密を理解する者がいれば、自殺から免れるかもしれない。しかし、沈黙を破った瞬間に絶望することもありうる。ここには秘密を明かす衝動との戦いがある。強情とは、自己自身であろうと欲する絶望であるという。自己の中に絶対的な支配者である自己が現れ、あらゆるものに向かって狂暴となり、全世界から不当な扱いを受けている人間のままでありたいと願う。自分の意見が、正しいかどうかの検証もできないので自らを納得させることもできない。独自の世界で自らの不安を永遠に抱き続ける。その強情自体が本人にとって快楽であり享楽となる。強情は、自らに向けられる抗議や反論といった相手を、永遠に確保しておかなければならない。

5. 罪の意識
「絶望は罪である。」罪とは、弱さの度や強情の度の強まったもので、絶望の度の強まったものである。そこには、宗教的な詩人のような特質があるという。それを「詩人的実存者」と表現している。キリスト教的には詩人的実存者はすべて罪であるという。一般的に詩人は、存在する代わりに詩を作り、空想の中で真理と関わるだけで現実逃避した世界を創造する。だが、詩人的実在者は、なみはずれて弁証法的で、しかも漠然としているので、意識の中でも混乱するという。意識の中では、神の観念が一緒にされ、ひたすら信仰に頼り、自らの苦悩を自分で引き受けることができない。まるで不幸な恋愛のために詩人になった者が、恋愛の幸福を霊妙に賛美するかのように。そして、朦朧とした意識の中で自己を失う。詩人的実存者は、神の前でしか自己を持たないから利己心が現れるという。もはや、罪を犯したという意識すらなくなり絶望的な無知に陥るわけである。「神が見ておられるから悪行を犯してはならない」という宗教的な教義をよく耳にする。そこには、「神の前」という絶対的な思想がある。逆に、神が見ていなければ何をしてもいいのか?ここに宗教と倫理の境界がある。人間は罪を犯しながら生きていく。罪の意識の規準は個人の意識の中にある。ほとんどの人間は、自己の中では善人である。しかし、その境界線を超えた時に罪を意識し絶望に苛まれる。罪の意識を背負ってのみ生きるのは辛い。したがって、信仰すれば救われるという宗教的な教義も理解できなくもない。しかし、信仰すればどんな罪も正当化できるという矛盾が生じる。宗教心の強い地域ほど紛争が多いというのも想像に易い。

6. ソクラテス的な罪の意識
ソクラテス的定義では、罪は無知である。ソクラテスの立場は裁判官として神と人間の間に立って監視した。本来、罪は無知ではない者に根ざすであろう。ということは、意識のないところに罪は存在するのか?宗教は罪を意識するために神という絶対的な第三者を登場させた。これは倫理の実践的方法とも言える。ソクラテスの時代は、知性があまりに幸福で素朴だったために、罪の規定を明確にすることはできなかった。古代は、罪の規定すら必要なかった良い時代だったのかもしれない。それゆえに、この時代で倫理を理解できた者などいないと批判する者も多い。では、近代では明確な倫理を必要とするということか。倫理が主張される時代とは、醜い時代の証なのかもしれない。キリスト教はそうした時代背景で生まれたのだろう。キリスト教は、ソクラテス的倫理を発展させ、罪は意志の中にあることを示した。では、罪はどうして始まったのか?それは知識の進化とも言える。人間は善の知識を持ちながらも、あえて不正を行う。正しいと理解していても、それを行うことを放棄する。境遇によって仕方なく罪を犯す場合もあれば、知識があるがゆえに罪を犯す場合もある。罪は消極的にも積極的にも存在する。

7. 牧師の教化
「もう二度としません」「反省しています」とは、よく見かける台詞である。本書は、自分を許さないという心があるならば、自らを許す雅量があってもよいはずだと語る。心の懺悔とは、ほとんどが逆であり、むしろ自らの正体を暴露するという。罪の度に一層強められた性格となり、ますます悪魔の絶望へと向かう。こうした人間の絶望は極めて利己的である。ここに、再犯の原理が見てとれる。彼らに与えられる牧師の処方箋は、むしろ病気を悪化させてしまうと指摘している。本書は、キリスト教界を罪の許しに対して絶望している状態とし、これに属しているというだけで前進していると妄想し、優越感に浸っていると揶揄している。しかも、牧師たちが教会員にそれを保証し、キリスト教の教説ほど神と人間を近づけた宗教はないという。なるほど、大衆に広めるためには馴染みのあるものにするのが効果的であろう。キリスト教の堕落は、教説者を神の地位に近づけてしまい、相対的に神の力が失墜させた結果であるという。
人間は精神である。デカルトの「我思う、故に我在り」とは、そういうことであろう。だが、本書はこの言葉も虚偽かもしれないと疑う。人間もまた固体であり、その個体性こそが最高なのかもしれないと。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。これは、罪を固体化して罪人を概念に押し上げる。人間尊重の思想が、人間を神に近づけるとしたら、人間は固体であると蔑んだままの方がいい。罪は固体であり、また人間も固体である。したがって、罪人は罰せられるべし。ここに人間の地位を巡っての論争がある。宗教は人類の地位を高め神に近づけたくてしょうがないようだ。実は、神を冒涜しているのは宗教ではないのか?神に近づいて冒涜を犯すぐらいなら、まだしも無神教の方がまともである。

2009-03-08

"ぼくには数字が風景に見える" Daniel Tammet 著

著者ダニエル・タメット氏は、映画「レインマン」の主人公と同じサヴァン症候群であることを告白する。彼は、知的障害者の中でもごく稀な才能に恵まれ、数字を色相などに結びつける共感覚を持ち合わせる。そして、円周率22,000桁以上を暗唱しギネス記録を塗り替えた。彼には数字列が風景に見え、累積演算のような複雑な計算を瞬時に行うことができる。しかし、これまた知的障害者に見られるアスペルガー症候群でもあり、幼い頃から人とのコミュニケーションにハンディを持っていたという。天才と障害は紙一重なのかもしれない。普通の人とは違う障害が、超人的な方向へ向かうか、社会生活すら困難な方向へ向かうかは様々である。その境遇によっては、障害ととらえるか恩恵ととらえるかも見方が変わるであろう。

おいらは、この種の本を避けてきたところがある。第三者はこうした物語を、ドラマティックに仕立て上げ奇妙な感情移入を企てるが、落ち込むだけで感動などしないからである。著者もTV番組「ブレインマン」の製作で矛盾を感じると証言している。本書を手に取ってみる気になったのは、障害者本人が記したものだからである。驚くことは、とても本人が書いているとは思えないほど、第三者的な分析が綴られることである。数字に対するイメージの仕方や、人の気持ちが理解できず他人を怒らせてしまう様子などを、自らの脳構造を解明するかのように。孤独や将来への不安といった心境も語られるが、あまりに淡々としているために悲観的には映らず、友人や恋人ができる様子なども交えて、むしろ和める。それが逆に家族とともに苦悩してきたことが伝わるのであるが。著者は以下のように語っている。
「いまでも、積極的に自分をさらけだして人とつきあうのが難しいと感じるときがあるが、無理にでもそうすべきだという思いが強くある。以前もそういう思いはあったかもしれないが、それを理解するのに時間がかかった。」
こうした告白本は障害者を持った家族を励ますことであろう。著者の勇気には敬意を表したい。もう一つ驚くことは、文面が非常に読みやすいことである。これは翻訳の成果でもあろう。原文にはおそらく難しいニュアンスの表現が多いに違いない。それを翻訳の中で無理やり表現しては、逆に説得力を失う可能性がある。中途半端な印象を与えるぐらいなら、その感覚を読者に任せた方が良い。後書きからは翻訳者のそうした苦労もうかがえ、著者の純粋な心を伝えようとする努力が伝わる。本書の醸し出す情景には、なんとなく子供の頃の何か忘れてしまった懐かしいものを想起させるものがある。実は、おいらの弟は言葉の喋れない重度の知的障害者である。この本を記事にするのは少々悩んだが、ほんの少しだけ自らの精神を解放してみることにした。この記事を落ち込んでいる或る知人に捧げる。

社会には、ある低い確率において普通には生きられない人々がいる。ある確率で必ず障害を持った人間が生まれる。障害者は意外と周りに多い。同級生の家族に障害者がいると聞かされるのは、たいてい卒業後で、しかも第三者からだ。社会人になってからも、そうした境遇で生きている人は意外と周りに多い。彼らは仕事で時間的な制約を受ける場合もある。おいらはプロジェクトリーダをする機会が多いが、こうしたケース以外にも様々な境遇にある可能性を踏まえて、区別無く全員に仕事の時間を自由にさせることを優先する。たまに、自由を与えられるということは自己管理の厳しさを与えられるということに気づかない人もいるが。特殊な環境にある人の雰囲気はなぜかなんとなく掴める。彼らは自ら打ち明けないことも知っている。だから、先に告白するのだ。家族に障害者を持つ人は自ら悲観的に喋る人も多い。なぜ自分にだけ不幸が降りかかるのかを嘆くかのように。まるでお荷物とでも言っているかのように。それは、せっかく生を受けた人間に対して失礼である。たまに、宗教に駆け込むといった光景も目にするが、お布施をぼったくられて誰が不幸の根源なのかも分からない。遺伝子に恵まれた人間がいる一方で、恵まれない人間がいる。だからといって悲観することはない。単に、自然界は遺伝子コピーの不完全性を示しているに過ぎないのだ。親戚ですら遺伝子のせいにして勝手に「不幸な家族」のレッテルを貼る輩もいる。だが、遺産をめぐって骨肉の争いを繰り広げる方がよほど悍ましい。社会には環境に恵まれて成功する者もいれば失敗する者もいる。その要因は運や偶然性に微妙に左右される。幸運に出会うということは、一方で不運に見舞われる人がいるということだ。
ところで、障害者が生まれてくる可能性が無くなれば、人間社会に差別は無くなるだろうか?普通という言葉にどれだけの意味があるのか?本書はそうしたことに疑問を投げかけているように思える。

本書を読んでいると、障害者への接し方で反省させられるところが多い。できれば、もっと早く出会いたかった本である。著者の行動様式が、おいらの弟とかなり重なる。どんなに周りが気持ちを落ち着かせようとしても、人とは隔たりのある世界に居ることを、どこかで感じている。子供の頃は意地悪もされるだろう。そして、自閉症や鬱病などの複合的な症状も現れる。精神障害はもちろん肉体的な障害が現れるのも珍しくない。弟が何か行動を起こす時には、いつも決まったパターンがある。それは儀式でもあるかのように、首を振りながら決まった場所にしばらく立ちすくんで、心の中で呪文を唱えているかのように何かを数える。その途中で口を挟んだり、急がせたりすると、リセットされたかのように最初からやり直す。そのパターンへのこだわりには執念を感じる。著者も、数を数えると精神的に落ち着くという。しかも、服の枚数を数えてからでないと外出できないと語る。弟は行付けのスーパーへ連れて行くと落ち着く。幼少の頃から母親と行動を共にしているからだ。買う物も決まっていて、いつも同じお菓子を買う。食べることよりも買うことが重要なのだ。仕方なく一緒に食べる。そして、おいらの好きなお菓子に誘導しようとするとパニックを起す。数字には様々な執念を見せる。家計簿をチェックするのは日課である。また、時計とカレンダーが大好きだ。食事の時間はいつも決まっている。いつも時計ばかり気にしている。著者も、毎日同じ時間にお茶を飲まないと気がすまないと語っている。カレンダーは、毎日めくるタイプのものを置いている。それを毎朝一枚ずつ破るのが日課である。無理に優しくしたり、理解しようとしたり、世話をしようとすると、逆にパニックを起こす。弱者を見ると、つい助けたくなるのが人情というものだが、本人にとっては鬱陶しいようだ。適当に放っておくのが良い。その方がこちらも気が休まる。以前、ワンパターンの行動に我慢できず、矯正しようと努力した時期もあった。あまりにも型にはまり過ぎるのが良くないと思ったからだ。幼い頃は言うことをよく聞く時期もあったが、やがて反抗的になっていく。パニックを起こした時は手が付けられない。深夜に踊り出したりする。専門家からは、無理に矯正することは人格を否定することになると指摘されたことがある。大きな赤ん坊と考えていたが、歳とともに人格も認めてやらなければならない。昔から理解しているつもりだったが、全然理解していなかった。今でも理解できていないに違いない。知的障害者の接し方は様々である。弟の扱いに慣れていても、他の知的障害者に同じ接し方は通用しない。それは知的障害者が集う行事に参加してみると分かる。不思議なことに一人一人が微妙に違う症状を持っている。世話をする人達が、全てのパターンを把握した上で対処しているのには頭が下がる。親同士のネットワークによって親たちはお互いの子供の接し方にも慣れていく。こうした世界に接することは、人間模様を観察する上でも教えられることが多い。要するに、人間は何を拠り所にして生きていくか?という問題に帰着するような気がする。昔、どんなにやけになっても最後の一線で踏みとどまれたのは弟の存在が大きい。これはありがたいことである。

1. サヴァン症候群とアスペルガー症候群
サヴァン症候群は、知的障害者の中でも、特定分野で特別な能力を持った人である。サヴァンは、フランス語で「学がある」という意味があるらしい。アスペルガーは、「自閉症精神病質」の概念を提唱した小児科医アスペルガーの名からきている。アスペルガー症候群は、言語能力には問題なく普通の生活を営むことができる。平均以上のIQを持つ人が多く、論理的思考や視覚的思考を得意とする。また男性の割合が高く90%だという。こだわりがその決定的な特徴で、行動様式の中に法則性とパターンを見出そうとする強い欲求があるという。記憶力や数学的能力に秀でているのも一般的な特徴なのだそうだ。ただ、自閉症の子供は、言語の発達に障害があり2歳か3歳に見つかる可能性が高いが、アスペルガー症候群は、言語発達の遅れが見られないことから、幼少時に見逃されることも珍しくないという。人の気持ちがわからないので対人関係がうまくいかない。一つのことに強くこだわり、新しいことや環境の変化がなかなか受け入れられないといった点では自閉症とよく似ている。聴覚や触覚の刺激に非常に敏感だったり、かんしゃくやパニックを起こしやすいといった共通点もある。

2. 自閉症スペクトラム
本書は、「自閉症スペクトラム」という言葉がよく登場する。精神科医の山登敬之氏によると、障害であることに大して違いはなく、程度の差なのだから区別することもないだろうという意味で使われる言葉なのだそうだ。一つの言葉によって、多少オタックっぽい人から、アスペルガー症候群、高機能自閉症、知的障害をともなう重度の自閉症にいたるまで、境界線を無くす意識を強調する。こうした区別しない考えは、臨床的に有用であるばかりか、社会福祉的にも意味があるのだという。障害を抱える人の苦痛の一つに区別されることがあるからである。ちなみに、「自閉症スペクトラム障害」という言葉は、イギリスでは浸透しているが、日本では、「広汎性発達障害」と呼ぶのが一般的だという。

3. 癲癇
著者は幼少の頃に癲癇を患わしたと語る。癲癇は、脳の中で一瞬電気的な不具合を起こすために、痙攣発作に見舞われる病気である。癲癇にかかる確率は普通の人よりも自閉症スペクトラムの人の方が高いという。それは側頭葉に起因している。専門家によると、サヴァン症候群の能力は左脳が障害を受けて、右脳がその埋め合わせをしようとして高められると説明している。数字や計算能力などサヴァン症候群で一般的に見られる能力は、すべて右脳に関わっているからである。ただ、著者の場合、癲癇が左脳の損傷の直接の原因なのかは分からないらしい。祖父も癲癇だったというから、遺伝なのかもしれない。著者は、生まれた頃、大泣きする赤ん坊で、それも一年間続いたという。過剰な大泣きは将来行動上の問題を起こすサインかもしれないと指摘する専門家もいる。ちなみに、おいらはよく泣く赤ん坊だったという話だ。初対面の人はもちろん、久しぶりに親戚に会ったりすると大泣きして手がかかったらしい。逆に、弟はほとんど泣かず、ほとんど手がかからないので良い子とされた。振り返ってみると、おとなし過ぎるのが、既に障害を持っていたのかもしれない。
著者は、癲癇の発作が人格形成に大きな影響を与えたのではないかと自ら分析している。そして、癲癇を持っていたドストエフスキーの言葉を紹介している。
「ほんの一瞬のあいだ、普通の状態では決して味わえない幸福感に包まれる。自分にもこの世界にも完全に調和しているという感覚。それがあまりにも強烈で甘やかなので、その至福をほんの少し味わうためなら人生の十年間を、いやその一生を差し出しても構わないとさえ思うほどだ。」
「不思議の国のアリス」の著者ルイス・キャロルも側頭葉癲癇を患っていたと言われる。その作品に登場する表現にも発作の経験から生まれた節があるらしい。癲癇と創作活動には関連性があると考える研究者もいるようだ。画家のゴッホもかなり重度な発作を起こして鬱病となったが、多くの水彩画や油絵を生み出している。そういえば、シーザーも癲癇だったという話がある。映画でも痙攣するシーンがある。他の本でも、患者自身が完全に意識を失う分、苦しみよりも永遠に時間が止まるような崇高な気分が味わえるようなことが記される。患者は自ら発作を求めるかのようだと感想を述べる専門家もいる。癲癇は古来「聖なる病」と呼ばれてる一方で、悪魔の呪いと解釈する学者もいる。

4. 共感覚
数字を見ると、色や形や感情が浮かび上がるのが共感覚である。複数の感覚が連動する珍しい現象で、たいてい文字や数字に色が伴って見える。ところが、著者の場合は、もうちょっと複雑で、数字に形や色、質感、動きなどが伴っているという。
「1という数字は、明るく輝く白で、懐中電灯で目を照らされたような感じ。5は、雷鳴、あるいは岩に当たって砕ける波の音。37は、ポリッジのようなぼつぼつしているし、89は舞い落ちる雪に見える。」
自閉症で共感覚が持てる確率は極めて低く、一万人に一人だとか言われているらしい。著者は、9973までの素数は一つ残らず、浜辺の小石そっくりの滑らかで丸い形をしているので、すぐに分かると言っている。素数は美しく特別な形で浮かびあがるのだという。著者にとって数字は友達である。どこへ行こうと何をしようと頭から数字が離れることはない。著者は累乗計算が好きだという。特に二乗数はシンメトリーの形に見えて美しいというが、この感覚はコンピュータ設計などに携わる人間にはなんとなく分かるような気がする。累乗計算の答えは独特な形をしていて、答えの数が大きくなるにつれて、形と色も複雑になるという。掛け算をする時は二つの形から変化して第三の形が現れ、頭を使わずに計算している感じなのだそうだ。
「37の5乗は、小さな円がたくさん集まって大きな円になり、それが上から時計回りに落ちてくる感じだ。...ある数を別の数で割ると、回りながら次第に大きな輪になって落ちていく螺旋が見える。」
50桁の数字を3分間じっと見つめただけで完璧に記憶し、しかも何年経っても忘れることがないといった現象は、サヴァン症候群の人達にはよく見られるのだという。専門家によると、共感覚の神経基盤と、詩人や作家の言語創造にはつながりがあるという。ある統計情報では、創造活動に携わる人で共感覚を持つ人の割合は一般人の七倍もあるそうだ。シェークスピアは隠喩をよく使うが、その多くは共感覚によるものだという。

5. 円周率の暗唱
著者は、国立癲癇協会の寄付金集めのためのイベントで、円周率を暗唱しギネス記録を樹立した。そのインタビューでは円周率πが好きなことが語られるが、司会者が「私もパイ(おっぱい)は好きですよ」と言った台詞を紹介し、さらりとジョークを交えるあたりは和める。長い数字列を記憶する一般的な方法は、文章や詩をつくって語呂合わせすることであろう。例えば、単語の文字数に当てはめることが考えられるが、ゼロの存在が問題となる。著者は、数字の羅列をいくつかの塊にまとめ、それぞれの風景が流れるように見えるという。円周率の数字列には有名な「ファインマン・ポイント」がある。小数点以下762桁から767桁までの、...999999...である。同じような数字のつながりが、小数点以下19437桁から19453桁に現れるのだそうだ。4つの連続した9があり、しばらくすると、また5つの連続した9が現れ、またすぐに二つ連続する。17個の中で9が11個もある。著者はこれが22,500個の数字の中で一番気に入っていると語る。

6. キム・ピークに会う
レインマンのモデルとなったサヴァン症候群のキム・ピークに会う場面には感動する。キムの父は、医者から息子を施設に入れて息子のことは忘れなさいと言われたという。ロボトミーの手術を受ければ、施設に収容しやすくなると言った脳外科医さえいたという。ちなみに、軽い痴呆症の人間を老人施設に入れるために、注射で意識を朦朧とさせるような話を時々耳にするが。
肥大したキムの頭には水が溜まっていて左脳に障害を受けていた。後に調べたら、左脳と右脳をつなぐ部分である脳梁がないという。しかし、キムは1歳半で字が読めるようになり、14歳で高等学校のカリキュラムを修了した。本を開いて2ページを同時に読むことができ、片目で1ページずつほぼ完璧に記憶するという。これまで9千冊以上の本を読んできたが、そのすべてを記憶しているという。複雑なカレンダー計算もできる。著者は、同じサヴァン症候群の人と会って話しをするには初めてだったという。キムとダニエルが二人っきりで手をつないで図書館を歩き回る。歴史の話、電話帳には数字が多いからおもしろいなど、その光景には心が和む。そして、著者は同じ障害でありながら自立できている自分が幸せであると語る。

7. ブレインマン
ドキュメンタリー番組「ブレインマン」は、映画「レインマン」をもじって名付けられた。著者は人間の脳を解明するため、番組制作に意欲的に取り組む。ラスベガスでレインマンのようにカードゲームに勝つそっくりの場面を撮ろうとした時、こうした意図的な撮影に矛盾を感じると語る。
「ぼくがもっともしたくなかったのは、自分の能力を貶めて陳腐なものにしたり、自閉症の人々みながみなレインマンのようだという錯覚を広めたりすることだった。」
番組ではゼロから新しい言語を覚えていくという企画がある。その題材にアイスランド語が選ばれる。アイスランド語は世界中で最も難しく習得しにくい言語と言われているらしい。著者は10カ国語を操る天才で、言語も数字と同じく視覚化できるという。ただ、なかなか分析できない文章構造もある。例えば二重否定で結果的に肯定するような構造である。限られた教材の中で、CDを聴く場面では集中力が持続することが難しいという。それは、人間相手ならば緊張感を持続しないと会話が成り立たないが、CDが相手だと必死に努力する必要がないからだろうと分析している。そして、大量の文章を読んで、文法への直感的理解を深めていく。その成果を発表するために、生番組でアイスランド語でインタビューを受ける。なんと、アイスランド語をたった一週間で話した様子が語られる。著者は不思議に思っている。能力は変わっていないのに、子供の頃は疎まれ孤立していたが、大人になると、その能力のお陰で人とのつながりや、新しい友人ができたことを。

2009-03-01

"農協の大罪" 山下一仁 著

日本社会には実に多くのタブーがある。企業と裏社会、皇室、同和問題、朝鮮人、宗教団体、教育、桜田門など挙げると切りが無い。最近では、環境タブーや少子化タブーまで登場する。そこには、政、官、業の馴れ合いの中に、スポンサーや広告代理店の介入、あるいは記者クラブが絡み、真実を書けないジャーナリズムの姿がある。そして、政治資金と係り圧力団体となり社会構造を複雑化し、ついには聖域と化す。本書は、こうした聖域の一つ「農協」について論じている。ただ、買う時に一瞬躊躇した。それは著者が元農林官僚だからである。巨大な官僚政治と揶揄される中で、まともな官僚もいると信じたい。いや、本で一儲けしようという魂胆かも。などと思慮が錯綜する。ところが、眺めていると直感的にうなずけるところが多い。まともな集団の中にも、ある低い確率で犯罪者は必ず存在するが、その逆の現象があっても不思議ではない。そもそも、大半の組織は使命感や正義感といった高尚な価値観から創設される。それが長期化する中でいつの間にか腐敗するだけのことである。そして、破壊と創造が繰り返されるのが社会の法則というものだろう。
自然法則には実に多くの対称性が存在する。引力と斥力、天体には点対称性や軸対称性が現れ、人体にも左右対称性が現れる。対称性には、普遍的原理が内包されているような想像を掻き立てる。これらの対称性は共存してこそ美しさがある。人間の価値観にも自由と平等の対称性が共存する。ところが、イデオロギーってやつは、自由と平等をめぐって対立するからやっかいである。自由を崇め過ぎると格差社会を助長し、平等を崇め過ぎると経済活動を抑制し産業を衰退させる。イデオロギーが美しく見えないのは、共存できることに気づかないからであろう。農業の世界は明らかに平等を崇め過ぎているように映る。

政治報道で批判的な意見が出るのは、ある意味健全であろう。複雑系の人間社会において意見が一つしかなければ、思考停止を意味する。ただ、公平な批判は難しい。タブーを無視しては、意識的な偏重報道と批判されても仕方が無い。タブーに踏み込んでこそ議論の正常化が望める。しかし、圧力団体に逆らうには体を張らなければならない。不都合な事実を報道すれば、それ以後は取材拒否される。そして、自国のタブーをわざとリークして、海外メディアを通じて流れるといった現象も見られる。タブー化する原因の一つは、組織が宗教化しているからであろう。神のように組織を崇める連中に何を言っても無駄である。おまけに、既得権益を堅持する行為が組織的に行われる。そんな連中と付き合ったらこっちまで頭がおかしくなる。よほどの志が強くないと対抗できるものではない。町山智浩氏はその著書「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」で、アメリカの実態は3割にも及ぶ脳死状態に陥った福音派によって大統領が選ばれると語っていた。日本だって負けてねーぜ!

「農協」というと、幼少の頃から悪いイメージがある。それは減反政策に代表される。親父の実家は農家であるが、今では高齢化のために事実上廃業している。実家で取れる米は美味い。余分に作った米は商売できないから、よく送ってくれたものだ。しかし、製造能力があるにもかかわらず、わざわざ土地を遊ばせるのはなぜか?よく祖母に遊んでいる土地をくれ!とせがんだものだ。また、農業をやるというだけで自動的に組み込まれる組織は、ある意味宗教団体よりも質が悪い。それは、選挙といったイベントで顕著に現れる。里帰りした時、その会合で美味いものが出ると聞いて釣られて行ったことがある。そこには、偉い人が考えることだから悪いはずがないといった宗教じみた意見が支配的だったのを覚えている。彼らが支持する政治家が落選すると、裏切り者がいるなどと叫ぶ輩までいる。こうした会合で必ず見られる現象は、外野の意見が飛び出すと、内部事情を何も知らない奴は黙れと一喝されることである。普段は優しい叔父さんや叔母さんが、ものの見事に洗脳されている姿を見せつけられた。農業が3K労働という理由で若者離れを指摘する人がいるが、はたしてそれだけだろうか?宗教じみた体質に拒否反応を示す若者が多くても当然だろう。こうした体質は一般企業にも見られる。創業者を神と崇めても、まさか創業者がそれを望んでいるとは思えない。むしろ逆であろう。お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることであって、偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。また、「なぜ株式会社にしないのか?」といった疑問を祖母にぶつけたことがある。答えは「農協様がおられるから」祖母が無くなって随分と経つ。おいらはおばあちゃん子で可愛がってもらったが、農協に対する思い入れだけは受け入れられなかった。そして、祖母と小学生の会話の中でタブーとなった。

農作物を作るというのは製造業に分類できるのではなかろうか。自動車産業や電機産業と何が違うのか?売れなければ作る量を減らす。生産量は市場を見据えて調整されるのが産業というものである。ただ、他製品に比べて難しいのは、食料は生命の根幹に関わるので安定供給が求められることである。気候といった自然現象にも左右され製造調整も難しい。とはいっても、来年の人口は二倍になるなんてことはありえないので、ある程度の生産計画は見通せるはずだ。そこで、先物市場や市場価格の変動が、農業の安定をもたらすはずである。市場を無視した価格の吊り上げは産業の破壊をもたらす。また、季節によって作業の多い時期と少ない時期があるのも、工業と違って労働力の平準化が難しい。仕事が集中しない時期に労働力を遊ばせると労働コストの無駄になる。しかし、現在では年中働きたいと思わない人も多いだろう。人生が多様化すれば農業復活のチャンスとも言えよう。実際に、昨年エンジニアを休業して春から秋にかけて稲作に出かけた奴がいる。もともと変人であるが、専業農家で募集していたのに乗っかったらしい。彼から水分を十分に含んだ美味い米が送られてきたのには感動した。実はおいらも考えていたが、先を越されて悔しい思いをした。おいらのように農業経験のない人間には不安がつきまとい、いまいち踏み込めないでいる人は少なくないはずだ。
農業の問題は、一般の製造業が海外に目を向けるのに対して、国内にしか目を向けないことにもあるだろう。食料危機に直面する貧困国が存在する一方で、余分な米を処分している裕福な国がある。この矛盾を小学生にどうやって説明するのか?食糧危機の国からテロ行為があってもおかしくない。最近は環境問題のせいか?自然災害も大規模化する。もし、国際社会が食糧危機に陥れば、いくら農業大国でも自衛のために輸出を制限するだろう。我が国の食料自給率が40%を切るのはあまりにも異常である。日本の農作物の品質の良さは、数々の食品スキャンダルの中で消費者が実感しているだろう。一般の製造業が海外進出で成功してきたのも品質の信頼にある。形の整ったものが良い農作物とは言えない。スーパーでは曲がったキュウリは規格外とされるが、キュウリをそのままの形で食べる人などいるのか?子供の教育にも、キュウリが真っ直ぐなものだと信じ込ませるのは悪い。形の悪い農作物は外食産業用として工夫している農家もある。

政府が保護した産業がことごとく国際競争力を失い、破滅の道を辿る運命にあるのはなぜか?農業の保護という理由で高米価で固定した政策は、国際競争力を失ってきた。高い関税を導入すれば、国際世論から反発されるので、輸入枠を受け入れざるを得ない。国際的に米の価格差が大きくなるほど、その枠を広げるように要求される。そして、政府は素直に輸入枠を広げる方向に政策を取り続けてきた。米価を高値で固定し続けるためには、供給量を制限する必要がある。そこで減反する。減反を進めれば農業所得が減る。そこで補助金によって支援する。減反面積を増やせば補助金額も増える。こうなれば農業が衰退するのも当り前で、小学生でも分かりそうな論理である。もやは、農業の保護というよりは、既得権益を持つ農協の保護といった方がいい。ここに農協が強化されるほど農業が衰退する構図がある。ただ、既得権益で凝り固まった組織は、なにも農協だけではない。そのことに気づいている人も少なくない。ネット社会ではタブー化された話題があちこちで議論される。ところで、世論は援助とか補助といった癒し系の言葉に弱い。これをマスコミが煽る。しかし、補助金政策は難しい。よほどの計画性と実行性をともなわないと、単なるバラマキ政策で終わる。その手段が自立のための援助でなければ破綻する。輸血だけしても寝たきりの体は健康にはならないのだ。癒し系の言葉は下手をすると麻薬漬けにする。投資家ジム・ロジャーズは、アフリカ旅行で食料援助によって原住民が畑を耕す苦労をしなくなった光景を目の前にして、その矛盾を指摘していた。黙っていても列に並べば自動的に食料が配給される仕組みには問題がある。似たような光景は一般企業にも見られる。企業が補助金に頼る体質となって破綻する姿である。これは公的な補助金に限らず金融機関にも見られる。融資をする側は、往々にして事業の内容を正当に評価できない場合が多い。その逆に、黒字事業が資金不足で廃業に追い込まれる光景がある。これはもはや金融機能が麻痺した社会としか言いようがない。

本書の内容は、一言で表すと「農政トライアングル」の暴露話である。農政トライアングルとは、「農協」「自民党」「農林省」である。ここにも魔のトライアングルが存在するとは「農業よ!お前もか!」農水省は農林族議員を通じて農協によって間接支配されているという。ただ、農林官僚の中でも、この構図に問題意識を持った人も少なからずいるらしい。なるほど、農業が衰退すれば農林省の存在意義も失うわけで、危機感を募るのも不思議ではない。その悪政の代表として、まず減反政策の弊害を論じている。そうだろう!そうだろう!こんなマイナス思考が長続きするわけがない。また、農協と多数の兼業農家の深い結びつきが弊害をもたらし、本気で農業を営もうとする少数の専業農家を妨害していると指摘している。多くの農家は農地が分散し規模も零細である。画一的な減反面積の配分という兼業農家への配慮は、大規模稲作といった効率運営を妨害することになる。その結果、日本の農業の担い手は、週末に農業をやるサラリーマンや、退職後の余生で農業をやる高齢者になってしまったと語る。そこには、農業の衰退と反比例して農協が順調に発展してきた姿がある。では、政権が自民党から民主党に移れば農政は変わるのだろうか?民主党にも似たようなバラマキ思考が蔓延る。本書は、民主党が2004年戸別所得補填の導入と減反政策の廃止を主張しながら、2008年には減反の必要性を訴えいてると指摘している。ここにも農協の票田をあてにする姿が見え隠れする。どうやら反対勢力は民衆の中にしかなさそうだ。それが民主政治のメカニズムというものか?自らの考えを放棄し群れたがる国民性では、まともな選挙は成り立たないのか?

1. 農協の弊害
農業収入を維持するために米価維持は重要であると考えるのも分からなくはない。高度成長時代、物価や労働賃金が急激に上昇し、1980年代には世界一物価の高い国となった。労働コストの上昇は国際競争力の弊害にもなる。そもそも、農業には組織化されない小作人の姿がある。戦前は地主に支配されていたが、戦後は地主解体によって小作人を解放した。地主の中にも農民のことを真剣に考える人もいただろうが。ただ、突然小作人たちに自分で考えて運営しろと言われても途方に暮れるだけである。そこに登場した農協の当初の目的はおそらく美しいものだったに違いない。高価な農機具、農薬や肥料、販売組織などを組織によって効率化することは誰でも考えるだろう。一般社会に労働組合ができる流れの中、協同組合とはいかにも癒し系の言葉である。サラリーマンが厚生年金や共済年金で保護される中、政府が農家や自営業に不公平を押し付けてきたのも事実である。本書は、農協だけが奇妙な形で組織化されたのは食管制度との絡みだと説明している。なるほど、食料は生活の根幹に関わる問題で政治の力学に支配されやすい。そして、米価の高値維持のために減反政策が実施され、効率的な組織化が進まず、零細な兼業農家がそのまま滞留することになる。農業の機械化が進めば、作地面積当たりの労働時間も短縮し、より多くの面積を耕作できるはずだ。しかし、農家戸数が減少しなければ、経営規模の拡大や体質強化にはならない。農業大国フランスでは、農業戸数が大幅に減少したものの、耕地面積の減少がわずかだったために、農家の経営規模は拡大したという。だが、日本にはその逆の現象が起こる。おまけに、機械化によって余った労働時間を活用して他産業に就業する兼業化が進む。兼業農家を維持すれば農家戸数を多く維持できるので、農協の政治力が維持できるわけだ。兼業農家の代弁者である農協は、専業農家を振興する構造改革を一貫して反対してきたという。1961年の農業基本法が描いた構造改革が挫折したのも、それが原因だという。農協は、農地改革で保守化した農家を組織化し、自民党を支える戦後最大の政治団体になったと指摘している。しかも、兼業農家の農外所得や、莫大な農地転用利益を預金として吸い上げる。農業を営めば自動的に農協の組合員になり、農家の流通は全て農協口座を経由する。更に、科学肥料や農薬を多投すれば農協が儲かるという仕組みがある。営業努力もなしで自動的に農協資金が集まるわけだ。しかし、この莫大な預金は農業が衰退したにもかかわらず農業への融資にはほとんど使われないという。その7割が有価証券などで資産運用され、農協は金融や保険の分野でもトップレベルの企業体となる。これは農業を犠牲にした機関投資家と言った方がいい。全国区、都道府県、市町村と、これほど見事な三段階の階層構造が成り立つ組織も珍しい。とはいっても、金融や共済で農業事業の赤字を補填し続けるにも限界があるだろう。そろそろ化けの皮がはがれても良さそうだが。

2. 汚染米と関税の関係
本書は、汚染米の原因が高価米と減反政策にあると主張する。汚染米の転用が発覚して以来、食品業界で続々とスキャンダルが発覚する。それは監査システムが機能していないことは明らかである。監査機能が働かないのは、農業に限ったことではない。霞ヶ関の言いなりになる地方行政ほど、破綻するとはどういうことか?ここに官僚との癒着があることは想像に易い。天下りの中途半端な規制は、むしろ天下りを助成することになるだろう。議会の役割には官僚の監査役がある。つまり、議会の存在意義が問われているということを地方議会を含めて自覚できないでいる。
永田町の中でも、農水相の石破氏は優れた知識と理論を持っているという。そう言えば、石破氏は汚染米問題の根幹は高い関税で農業を守るという農政にあるといった意見をインタビューで語っていた。さすがに、タブーを意識してか?「農協」を名指ししていない。政府は、汚染米を廃棄処分すると発表したが、そもそも輸入米が汚染されていては問題の解決になっていない。ちなみに、堂々と汚染米と宣言されたものでも安ければ貧乏人は食すだろう。それだけ格差は広がりつつある。WTOは自由貿易を促進する方法として、国内農産物の保護のために輸入禁止的な高関税を認める一方で、その代償としてミニマムアクセスという低関税の輸入枠を認めさせる。この二重の仕掛けにも問題があるだろう。一定量の輸入を認め、汚染された食料品が無条件に入る。そして、問題が発覚すれば無条件に廃棄するとは、最初から外国に税金をばらまいているようなものである。WTOは最初から外国に税金を払わせる仕組みをつくっているのか?政府は莫大な財政負担を自ら犯し増税を煽る。恐ろしいことに、政府はミニマムアクセスをさらに拡大する方向で交渉を進めているという。高関税を維持したければミニマムアクセスの拡大が要求される。なぜ高関税を維持したいのか?それは高い米価を維持したいからで、農協にとって重要な政策だからだという。販売手数料が稼げて、農薬や肥料が農家に高く売れる。米価は、水田の4割で米を作らないという供給制限カルテルによって維持されるという。カルテルとは、業者が結託して市場への供給を制限したりして高い価格を維持することである。これは独占禁止法にひっかかる行為ではないのか?もっとも、カルテルに参加しない業者が、カルテルで実現された高い価格で自由に生産すれば儲かるだろう。闇米業者が少々価格を下げたところで儲かるわけだ。そこで、カルテル破りをさせないように、毎年2000億円、累計7兆円に上る補助金をばらまくという。ならば、自由に生産させて国内米の価格を下げ、ミニマムアクセスの枠を無くしてしまった方が健全であろう。減反政策とは、米を作り過ぎているという論理からくるのだろうが、おかしな話である。

3. 農業の実態
農家戸数が農業就業人口を上回るという。なんじゃそりゃ?日本の農業には、かつて不変の三大基本数字というものがあったという。農業面積600万ヘクタール、農業就業人口1400万人、農業戸数550万戸。これは明治初期から85年間続き、大きな変化があったのは1961年の農業基本法が成立してからだという。農業人口が減少しているにもかかわらず、農業戸数の減少が少ない。これは兼業農家が増加しているためだという。しかも、高齢者だけが農業を継続している。専業農家の減少に対して、むしろ兼業農家は増加する。農家戸数285万戸、農協職員だけで31万人、農協の組合員は500万人、准組合員440万人(2006年)。んー?准組合員ってなんだ?なんとなく胡散臭い。一般的に日本の土地は狭く農業には向かないという考えがある。しかし考えてみれば、これだけ資源の乏しい国でありながら一般の製造業はお盛んである。本書は、水資源の豊かさを指摘して農業に不向きの土地柄という意見に反論している。なるほど、日本には四季という恵まれた気候がある。農業基本法は農家所得の向上を目的とした。その起草者である小倉武一氏は、この法律の失敗に三つの原因を挙げているという。一つは、農業の国際化を無視したこと。二つは、当時の社会党の反対で、構造改革は「貧農切り捨て」だと叫び、農林省の労働組合も反対運動をしたこと。おまけに農協が農業基本法に同調しなかった。三つは、価格維持に固執して、ミニマムアクセスを認めるしかなくなったこと。
戦後の農地改革は、零細農業を固定化してしまったという。そして、農地が宅地やパチンコ店に化けていく。農地改革は、農地を農業に利用するという責務を果たしていないと著者は嘆く。それも、政府が農家の構造的な問題を無視し、農地利用のあり方を無視して、零細農家と農協の保護に没頭した結果だと指摘している。なるほど、皮肉にも高米価、兼業、農地転用によるキャピタルゲインという三つの政策で農家所得は増加した。農業が潰れても農家は潰れないという政策、もはや産業が機能しているとは思えない。

2009-02-22

"日本人のための憲法原論" 小室直樹 著

アメリカの金融危機を引金に世界経済が大混乱の中にある。日本は比較的被害が小さいと発言する評論家も多い。にもかかわらず、震源地よりも経済混乱を拡大しようとしているのはどういうわけか?なるほど、日本人には世界の動きに乗り遅れると不安に駆られる国民性がある。日本は災害の多い国でもある。今まさに政治災害によって世界に追従する。麻生総理は3年後の消費税引き上げを示唆した。これは案外鋭い見通しかもしれない。つまり、彼は政局の混乱が鎮静化するのに3年かかると明言したかったに違いない。日本人には恥じらいの文化がある。こうした性格が政策を後手にするのだろうか?だが、文化に反するかのように醜態を曝け出す政治家は後を絶たない。最近のドタバタ劇にはもう笑うしかない。そりゃ官僚体制も強固になろうというものだ。日本の国家権力は霞ヶ関によってまさしくリヴァイアサンになろうとしている。

愚痴はさておき、本書は歴史事象を多く扱ってくれるところが無知なおいらにとってありがたい。タイトルに「日本人のために...」とあるところに著者の思いが伝わる。それは、民主主義とは何か?資本主義とは何か?という根本的な問題を疎かにしている日本社会の風潮を批判してのことだろう。日本国憲法は機能していないと考える人も少なくないだろう。機能していると信じたいが、日本政府は国民の生命と財産を守らず拉致被害者を見捨ててきた。今でこそ、公に報道されるようになったが、20年前は相手にもされなかった。その見捨ててきた連中が平和憲法を叫んでいる。憲法の定める「国民の生命と財産を守る」というのは、いわば国家権力と国民の契約である。にもかかわらず、これに契約違反をした政治家が憲法違反で裁かれるところを見たことがない。「憲法よ!お前は既に死んでいる!」
西洋には、聖書の時代から神との契約条項を策定したきた文化がある。対して、日本人は契約条項に慣れていないのだろう。ビジネス業界で条文による契約が定着しているものの、日本人の慣習として定着しているとは思えない。それは、契約条項をろくに読まずに保険契約を結ぶような姿にも現れる。国民の義務である納税にしても、税金の管理はすべて組織に任せるお国柄である。どこぞの政党は「公約」という言葉を捨てて「マニフェスト」と叫ぶ。なるほど、「公約」には約束を破っても構わないという意味があるらしい。

本書で注目したいのは「誰のために憲法はあるのか?」と議論しているところである。一般的な答えは「国民のため」となるのだろうが、本書は違った角度からの視点を与えてくれる。法律は、誰かが誰かに対して書かれた強制的な命令である。そして、命令するのは国家権力である。では、誰に命令するのか?それは法律によって異なるが、その法律を違反できるものは誰かを考察すれば答えが分かるという。例えば、銀行法を破れるのは銀行そのものである。預金者が何をしたところで銀行法に触れることはない。民法は国民に命令したものである。では刑法は?そういえば、刑罰があっても犯罪を禁じているわけではない。つまり脅し文句か?本書は、刑法を違反できるのは裁判官だけだという。刑法が規定しているのは犯罪者に対する刑の範囲である。したがって、その範囲外で裁判官が勝手に刑罰を下すことはできない。また、刑事裁判で裁かれるのは、被告ではなく検察官であり行政権力を裁くものだという。被告は有罪が確定するまで無罪として扱われ、検察官の主張を検証することになる。なるほど、検察官は行政権力の代理人ということか。裁判というと真相を暴く所でなければならないと考える人も多いだろう。だが、現実には真相などどうでもよく、検察官と弁護人の弁論大会となる。本書は「遠山の金さん」を暗黒裁判であると語る。言われてみれば、自ら証拠集めをし自ら判決を下すのは神を自覚しているようなものだ。これを民衆がヒーロー扱いするところに裁判の公平性に疑いを持っている証でもあろう。現実に、有罪率99%という話は多くの書籍で取り上げられる。検察の主張は国家権力の面子にかかるので、裁判官が国家権力寄りと感じる人も少なくないだろう。本書は、憲法は国民のために書かれたものではなく、あらゆる国家権力を縛るために書かれている語る。なるほど、裁判の意義は公平性を保つことであろう。そこで裁きをつける裁判所を監視する役割を担うのが法律であると解釈すれば、この論理は良さそうだ。そこで、「国家権力はなんのために行使されるのか?」と問い直せば、民主主義では国民への公平性を保つためとなろう。そして、法律には公平性に客観性を持たせる役割もあろう。ものの言い方は人それぞれであり、対象への抽象度によっても言葉が変わる。精神の根源を遡れば、結局、国民のためと言っても不都合はないようにも思える。
もはや三権分立が機能しているとは思えない。となると、国家権力を監視する最後の砦が憲法ということか。そして、アル中ハイマーはドスの利いた声で、いかにもダーティハリーが吐きそうな台詞で返すのであった。
「法律なんてものは、都合が悪くなった人間が利用するためにあるのさ!」

憲法を議論する時に必ず登場するのが改憲論である。本書は、こんな状況に憲法議論を持ち込んでも意味がないと指摘している。まったく同感である。おいらが護憲派か改憲派かと問われれば、おそらく改憲派に近いのだろう。問題は現行憲法が現実と乖離しているところにある。ただ、護憲派の意見も理解できる。今の政治能力からして、まともな改憲案が見出せるかと問えば、それは大きな疑問である。そもそも、理念を条文によって完璧に制御できるのか?という問題がある。アメリカ合衆国憲法は、あらゆる独裁者の出現を拒むように考慮されている。だが、その弱点を偉大な数学者ゲーデルが指摘した。条文を完全な論理で表すことはできない。これは、規格の策定、組織の規定、契約書の作成などに携わったことのある人なら理解できるだろう。あらゆる文書で人間の理念を完璧に表し尽くしたものなどありえない。広範にカバーすれば極めて抽象的なものとなる。抽象的な表現は異なる解釈を生む。あらゆる条文はこのジレンマに嵌る。イデオロギーや条文を完璧だと信じると思考停止状態に陥る。人間の創造物である憲法を普遍原理とすることは、人間を神に崇めるのと同じではなかろうか。したがって、理念や条文を生きたものにするために常に検証され続けなければならない。いくら改憲派であっても、とんでもない改憲案が提示されれば反対するだろう。いくら護憲派であっても、より優れた改憲案が提示されれば賛成するだろう。マスコミは話題性を強調するために、なんでも対立構図で煽る。日本人はこの論調に乗せられて、つい結論に飛びつく傾向があるようだ。日本人は忙し過ぎるのだろう。構造改革の法律が可決したところで名目だけ変わっても意味がない。どんなに立派な憲法を得たところで、その根底にある理念で運営されなければ条文は死ぬ。

1. 民主主義と資本主義
本書は、民主主義や資本主義の思想はキリスト教独特のものである語る。それは「救済」によって労働が奨励されるメカニズムである。これは、ルターに始まりカルヴァン派によって確立された「予定説」の思想から導かれたと主張している。職は神からの授かりもので天職として全うするという思想が生まれた。そして、「神の下での平等」の概念が、「法の下での平等」へ変化することになる。職の自由、経済上の対等関係といった流れが資本主義として発展した。それは、イギリスのピューリタン革命へと受け継がれる。そして、民主主義と資本主義は双子の関係にあると語る。なるほど、ここまでは酔っ払いでも理解できる。ローマ教会が堕落した時代に、宗教改革やルネサンスが民主主義や資本主義を加速させたことに異論を唱えるつもりはない。だが、民主主義や資本主義が、キリスト教が無ければ発生しなかったという考えには抵抗を感じる。人間社会を形成する中で、外敵から自衛するために仲間意識が芽生える。この仲間意識には、対等とか平等といった概念があるはずだ。古代ギリシアにおいても民主主義の兆候がある。ただ、そこには奴隷制があって人間の範囲は極めて狭い。あらゆる身分差別や人種差別は、どこまでを仲間とするか、どこまでを人間として扱うかの違いである。つまり、人間の差別意識は「人間」という身分をめぐった抽象化の歴史と言ってもいい。紀元前の哲学が現在でも通用するように、適用範囲を変えれば違和感がなくなる。人間の意識が変わる速度は非常に遅い。そして、先進諸国では人種差別や民族差別が発生し、現在では能力差別や移民差別も現れ、いずれ遺伝子差別も現れるだろう。西洋の「救済」に対して、東洋には「悟り」という概念がある。物事の本質とは何か?という永遠に見つからない真理を探求してきた歴史は、多くの地域で見られる。これは歴史現象であり、人間の精神には本質を探究する願望が潜在する。本書の指摘のように、民主主義や資本主義が西欧諸国を中心に発達してきたのは事実である。キリスト教的な考えにその原点を求めるのも悪くはない。だからと言って、人間の本質として何かが欠けてはいないか?と、おいらの直感が訴えている。西洋の学者の中には、民主主義や資本主義を西洋独自のものと考えるのは傲慢であるといった意見も少なくない。西洋人の立場からするとその通りであろう。しかも、科学者や数学者にそうした意見が見られるところにおもしろさがある。彼らはキリスト教を始めとする聖書に基づいた宗教に懐疑的である。何もキリスト教がなくても、自然法則のような絶対的な何かが宇宙を支配し、その下で人間が存在すると考えれば、平等の概念は生まれる。そして、支配権力という一部の人間に私有財産までも管理されることに疑問を抱くだろう。民主主義が普遍原理なのか?という疑問も多く見られる。また、自由意志は存在するのか、あるいは自由意志ですら自然法則に従うのかといった論争は古くからあり、宗教、倫理、科学などの絡み合いの中で続く。ただ、日本人の立場からすれば、憲法の発達してきた経緯を、西洋文化と重ねて理解するべきだとする視点を、本書が与えていることは意義深い。これらの見地を合わせて双方の見解に接するとバランスされそうだ。

2. ワイマール憲法の死
当時、世界で最も進んだ憲法と言われたワイマール憲法は一人の独裁者によって廃れた。しかも、ヒトラーはワイマール憲法に従って政権についている。つまり、合法的に独裁者を生んでしまった。歴史的には「全権委任法」を議会で可決させたことでワイマール憲法は死んだとされる。論理学には、一つの全否定によって全ての論理を否定するという恐ろしい技がある。ここで注目したいのは、本書が憲法の本質は慣習法であると語っているところである。立派な人権規定があっても現実に無視している国がある。重要なのは法の文面ではなく慣習である。これは、憲法に限らず、どんな組織においても事実上無視されるような規定はごろごろしている。本書は、憲法学者が憲法の条文に詳しくても、それを慣習として定着させる努力をしてないことを嘆いている。

3. 平和憲法
本書は、平和を規定した憲法なんて世界に掃いて捨てるほどあると指摘している。憲法学者である西修氏によれば、戦争の放棄を定めた最初の憲法は1791年のフランス憲法だという。アンゴラやモンゴルでは「外国の軍事基地を設置しない」という決まりがあるらしい。カンボジアやリトアニアには核兵器の禁止条項があるらしい。アゼルバイジャン、エクアドル、ハンガリー、イタリア、ウズベキスタン、カザフスタン、フィリピンでは、「国際紛争解決の手段としての戦争放棄」を謳っているという。あらゆる国が戦争による悲惨な過去を背負っている。民主主義では、大儀名分を謳わなければ大衆を誘導できない。国際連盟で採択された「ジュネーブ議定書」の前文には、「すべての侵略戦争は犯罪である」とあり、この流れの総決算と言えるのがケロッグ=プリアン条約だという。憲法9条もこれを手本にしたと見るのが自然であろう。おもしろいのは、アメリカ人のケロッグが提唱したにもかかわらず、アメリカで問題になったという。それは、自衛戦争を否定するかという問題である。ケロッグは、他国からの不当な戦争ならば、その反撃を「国際紛争の手段」とはしないと述べたという。一方、日本では自衛戦争の賛否についての論争は絶えない。ケロッグ=プリアン条約ですら戦争を防ぐことはできなかったという事実は見逃せない。

4. 議会と多数決と民主主義
本書は、議会制度も多数決も民主主義とは無関係だと語る。近代国家の定義は「国境」「国民」「国土」の要素が揃ったときに成立するという。これが日本人に理解し辛いのは、島国で自然に文化が保護されているところであろう。マグナ・カルタは一般的に民主主義の原点のように言われる。しかし、本書はイギリスのジョン王があまりにも慣習法を無視したために作られたもので、むしろ、伝統主義を守るための法律だと指摘している。一部の特権階級の既得権を守るためのもので、この頃の「自由」とは「特権」のことだったという。この発想は現在の官僚政治と同じである。「国民のため」という発言は、既得権益を持った輩という意味だ。ただ、マグナ・カルタが民主主義とは無関係といってもイギリスの議会政治を発展させた貢献はある。やがて、議会は国王を凌ぐ権力を持つことになる。
ゲルマン社会では、何かを決める時、全員一致が原則だったという。だが、これは非効率なシステムである。最初に多数決を用いたのは誰だか知らないが、おそらく国王の後継者選びといったところだろう。本書は、多数決が行われるようになったのはローマ教会だという。法王の任期は終身までだが、その継承者は血筋ではない。学校教育では議会や多数決は民主主義の基本であると教える。しかし、多数決が正当ならば、なぜ強行採決に目くじらを立てるのか?多数決の裏には、少数の人々に犠牲を強いることにもなる。だからといって、少数派の政党が少数の意見を代弁しているとは到底思えないところに現行議会の矛盾がある。少数派の政党が少数派の意見を殺す事実もある。
「憲法や議会と民主主義は何の関係もない」と指摘したのは、政治思想史学者の福田歓一氏だという。その著書「近代の政治思想」にも是非挑戦してみたい。

5. ロックとホッブス
ジョン・ロックはアメリカの独立とフランス革命に大きな影響を与えた。ロックの思想は科学的だったという。そこには、人間社会を抽象化した考えがあるという。抽象化の概念は複雑な現象を解明するために段階的に分析する方法として有効であり、理系の分野でよく用いられる。数学の歴史は抽象化の歴史でもあり、コンピュータ構造にも抽象化の概念が現れる。ちなみに、昔おいらは政治家は理系出身者でなければならないと主張していた時期がある。それも、社会システムや経済システムを構築する上で、理系的な思考が必要だと考えたからだ。しかし、その考えはあっさりと崩れ去った。それも、知人から未納三兄弟で一世風靡した某元党首は、理系出身者だと指摘されたからである。人間の思考は文系とか理系とかいう枠組みになんの関係もないようだ。
ロックは、自由で平等な人間を「自然人」と呼んで、あらゆる人間階級を抽象化したという。そして、自然人同士の関係は対等であり、これを「自然状態」とする。ロックの「自然状態」では、最初人々は社会など持たずに暮らす。やがて、人々は国家や社会の必要性を感じる。そこで、平等な人間同士が契約を結んで政治権力を作る。つまり、国家は人間相互契約の下に成り立つというのが「社会契約説」である。ロックの説では社会は国家権力と平民が契約の中で成り立つ。しかし、国家権力は肥大化しやがて暴走する。それを抑制するために議会が必要となる。今日でも、官僚主導で政治がなされた結果、財政破綻に陥った自治体で、議会が知事を責め立てる光景がある。これも議会自ら行政への監視能力がないことを証明しているようなものだが。
ロックの思想に反対の立場をとったのがトマス・ホッブスである。ホッブスも「自然状態」という概念を持ちだすが、人間の欲望は限りが無く闘争が始まるとした。「人間は人間に対して狼である」そこで、闘争を抑えるには権力が必要である。規則を守らない人間がいれば国家権力によって罰する。権力が弱いと社会は成り立たない。そして、ホッブスの世界では、国家はやがてリヴァイアサンになっていく。国家権力が弱ければ内乱が起こるという発想は共産党国家に似ている。そして、不満の矛先を避けるために共通の外敵を自らこしらえるのであった。ホッブスは、内乱よりは国家権力で縛る方がましだと考えた。ホッブスの説は絶対王権を擁護しているようだ。ロックとホッブスの違いには、人間は生まれつき善人か?悪人か?という出発点の違いに思えてくる。

6. 天皇の戦争責任論
本書は、太平洋戦争当時の日本は既に立派な立憲君主国であると語る。そして、天皇の戦争責任論は憲法を理解していない暴論だと批判する。天皇の意見が政治に直接反映されることがないという意味では、法的には天皇に戦争責任はないだろう。実際に戦争責任を負われたわけでもない。ただ、人情的には全く責任がないということに少々抵抗を感じる。実際に多くの国民が「天皇万歳!」と叫んで死んでいった。また、御前会議は単なる報告会だったというのか?統帥権の微妙な位置付けが軍部の暴走を助長したとも言える。いくら外交権限が外務省にあっても、天皇を後ろ盾にした軍部の権限の方がはるかに上である。天皇本人にしたって、法的に責任がないと言われたところで、おそらく慰めにもならなかっただろう。明治憲法は「法の前の平等」ではなく「天皇の前の平等」として始まった。イデオロギーや宗教で団結できない国民性を世界の列強国に対抗するために、一致団結できる独特の信仰システムを構築した明治維新当時の政治家の眼力は鋭い。ただ、天皇を神とし日本国を神格化してしまった時点で、徹底的に負けるまで戦い続ける運命を背負わされたのかもしれない。大正デモクラシーへと時代が変化しても二・二六事件の頃に急速にデモクラシーは失われる。農村部では馬や牛が売られる前に娘が売られる時代である。腐敗した政治を嘆いて軍部が決起する気持ちも分からなくはない。おまけに、全戦全勝の驕りに加えて神の国と崇めれば、どんな戦争も正義となる。世論も煽られ、平和論を唱えようものなら国賊扱いされる。軍部は天皇を崇める思想を巧みに利用して軍部独裁への道を進んだ。マスコミも軍部の権力を恐れただろう。そして、権力に屈した人間ほど出世し結果的に加担したことになる。こうした構図は現在と大して変わらない。

7. アイルランド人がイギリス人を憎む理由
プロテスタントのイギリスに対してカトリックのアイルランド、これだけで充分に対立する理由はある。アイルランドの本来の住民はゲール人、イギリスはアングロ・サクソン、言葉も民族も宗教も違い、長年の抗争の結果、アイルランドはイギリスの属国となった。この時代にイギリスはアイルランドの小作農から徹底的に絞り取ったという。アイルランド人が食べるものと言ったら、ジャガイモぐらいしかなかったそうな。そこに馬鈴薯病が発生しアイルランドでは大飢饉となる。通常の地主であれば、小作人を見殺しにすると収穫もなくなるので、少しは食料を残すであろう。しかし、もともとアイルランド人を人間と思っておらず微塵の同情もかけなかったという。この大飢饉の恨みは半端なものではないらしい。この時期多くのアイルランド人が北アメリカなどに移住したという。

2009-02-15

"経済学をめぐる巨匠たち" 小室直樹 著

本屋で立ち読みしていると、興味深いフレーズに出くわした。
「経済学は不思議な学問である。他の学問に比べ、対象となる範囲が酷く限られている。」
おいらが、経済学に触れた時に思った最初の印象そのものである。天動説が地動説によって駆逐されたように、多くの学問で新しい説が生まれると古い説は捨て去られる。だが、経済学に限っては何度も思想がゾンビのように蘇る。本書は、経済学者と称する偉い人は、経済学が何を対象とした学問かを理解していないと嘆いている。そして、経済学が扱う対象はズバリ「近代資本主義」であると指摘する。経済史は歴史学の範疇であり、経済学の中では研究がなされないのだそうだ。なんとも不思議な世界である。そもそも歴史を無視した学問なんてあるのか?更に、近代資本主義とは、まさしく社会主義経済の研究にほかならないというからおもしろい。本書をパラパラっと捲っていると、それに反するかのように資本主義の哲学的な考察と、歴史を紐解く展開がなされる。

ところで、経済大国とまで呼ばれる日本で、なぜノーベル経済学賞級の巨匠が生まれないのか?といった疑問がある。本書は、この理由を経済学の教育システムに求めている。そして、歴史的考察がないことと、数学を必須としていないことを指摘している。まったく同感である。
アル中ハイマー曰く、「経済学者と称する者で、社会学的観点のない者は単なる統計調査員である。おまけに、数学的観点のない者は単なる占い師である。」
経済学者は最近の出来事の予想が当たると思いっきり自慢する。だが、まったくと言っていいほど経済予測を継続的に当ててきた者はいない。教育システムといえば、大学の学部で経済学部と商学部が分離されていることに疑問を持ったことがある。経済学部は社会学部経済科ぐらいでええんでないかい、商学部は社会学部経済科の中にある一教科ぐらいでええんでないかい、などと思ったものだ。ちなみに、哲学部なんて聞いたことがない、文学部哲学科ぐらいだろう。電磁気学部なんてものも聞いたことがない、工学部電子工学科には一教科としてある。これも、エントロピー増大の法則にしたがって学問の専門化が進んでいるということだろうか?経済学は他の学問よりも形式だけは進化が早いようだ。

身近な経済学といえば、最近、会社に果たす資本の役割について疑問に思うことがある。資本が重要な要素であることは間違いない。ただ、やたらと外部資本を注入することが良いのか?よく見かけるエンジニア会社について言うならば、ベンチャーキャピタルに、日本の場合は銀行系であるが、安易に資本注入してもらって経営が安定したと喜んでいる経営者がいる。そして、資本家の口出しには逆らえなくなる。従業員の方を向いていた経営者は、徐々に資本家の方を向くようになる。資本家の中には、金勘定ばかりに長けていてエンジニアの体質を理解していない人も多い。そもそも、金融系とエンジニア系の神経ベクトルは真逆にある。エンジニア出身の社長は経済学の素人という引け目からか?金融系の意見を素直に受け入れるところがある。彼らは金のプロであってエンジニア会社の経営プロではないのだが。社長も経営責任がある以上、経済学を勉強するべきだが、面倒なことは事務方に任せる傾向がある。側近の中に信頼できる事務方のパートナーがいれば良いが。したがって、目先の売上に囚われるあまり、人材派遣のような仕事に追われるケースを見かける。そうなると、優秀な人材が逃げていき人材の入れ替わりの激しい会社へと変貌する。人材の質も低下する。また、株式を公開した途端におかしなことになる会社も見かける。そもそも売却目当ての経営者もいる。経営者はなぜ目先が曇るのだろうか?そもそも、なぜ会社を起こそうと考えたのだろうか?人間は金が絡むと変貌するようだ。ところで、将来変貌する未公開株があるんだけど、いつでも簿価でお譲りしますよ!時価で換算すると...あれ?減価償却されてるのか?

本書は、経済学のイデオロギーを整合しようとする。そして、古典派とケインズ派の弱点を議論し、現在では崩壊したとされるマルクス主義の誤解を解いている。かつて、社会主義は資本主義の枯渇によって始まったという意見があった。世界恐慌はその証であると。しかし、資本主義の行き詰まりで生じたならば、なぜ資本主義先進国であるイギリスやアメリカで起こらないのか?なぜ資本主義後進国のロシアで起こったのか?これは昔から持っている疑問である。本当の意味での社会主義は未だ出現していない可能性がある。こうした議論は、歴史に立ち返り、経済学の哲学的意義を考察する必要がある。本書は、驚くことに経済学でも名著と呼ばれるものが多くあることを教えてくれる。それにもまして驚くのは、絶版になっている本も多いことであるが。新しい経済学者の本を読むよりも、こうした名著を読みあさった方が、まともな解釈が得られそうだ。経済学の本を読む時は、いかにも論理的な考察がなされているようでも疑ってかかる癖がある。どこか条件が抜けていることが多い。どんな学者でも論理的な議論を好むのは理解できる。そうでなければ学問ではない。経済学者は数学的関数やチャートを用いて格好良く見せようとする傾向が強いように思える。しかし、こうした印象は本書のおかげで少しイメージが変わった。

本書で注目したいのは「私的所有の概念」である。最近、「会社は誰のものか?」という論争をよく見かける。それも、市場経済が本当に合理性に基づいているのか?と疑いの目が向けられている証でもあろう。本書は資本主義の根幹にある「私的所有」の概念を強調する。それは「所有」と「占有」という概念で分けられる。つまり、株主が「所有者」であり、従業員や管理者は「占有者」である。そもそも私的所有権は、処分や担保などのいかなる行為も許される権利が法律で定められている。つまり、形の上では株主が持っているものを、管理者や従業員が間借りして働いていることになる。いくら従業員や管理者が自分が所有者であると主張しても、彼らに会社を自由にさせてよいことにはならない。本書は「会社は資本家のものである」と断言している。そして、「私的所有の概念」が日本人には理解できていないと指摘している。なるほど、所有の概念はその通りであろう。論理的に反論するつもりはない。だが、アル中ハイマーの直感は何かひっかかると訴えている。そこで、「会社は誰によって成り立っているか?」と問い直すと、それは従業員であり管理者であろう。では、「会社は誰のために存在するのか?」と問い直すと、それは顧客であり社会的意義であろう。「経営責任を負うのは誰か?」と問えば、それは経営陣となる。従業員はいつでも辞められるし、顧客はいつでも他社に乗り換えられる。質問の角度を少し変えただけでも実に多くの要素が絡む。いずれにせよ会社を私物化できるものではない。社会への影響力が大きい企業ほどそうなる。果たして一方向からの問いかけを議論することに意味があるのか?経済学を胡散臭いと思う理由がここにある。永続的な企業を望めば、あらゆる要素がバランスした健全な状態を保つ必要がある。そして、「会社はなんのために存在するのか?」と問えば、アル中ハイマーは「少なくとも社会の害になるぐらいなら潰れた方がいい」と答えるのであった。所有の概念には人間のエゴイズムが潜む。愛というエゴは、相手を所有しているという錯覚から始まる。会社を誰が所有するかなど法律上の問題でしかない。法律とは、都合が悪くなった時の言い訳のために存在する。ところで、官僚の所有の概念は奇妙である。どうやら税金を所有していると思っているようだ。公務員の減給が議論されると、「私たちが何か悪いことした?」と反論する。財政赤字ということは、既に経営破綻に陥っていることを意味するのだが。そこには組織が潰れないという前提がある。やはり、官僚も潰さないといけないようだ。

1. 資本主義の精神
資本主義こそ宗教的影響を受け、キリスト教圏のみに発達する土壌があったと考察している。資本主義は宗教の関与がなく利潤主義が強いようにも見えるが、実は違うようだ。そこには、カトリックに逆らったプロテスタンティズムから受け継がれる「資本主義の精神」があるという。資本主義の原理では、技術の進歩、資金の蓄積、商業の発達といった条件が必要である。学校教育では、資本主義は産業革命時代から始まったと教える。しかし、歴史的に見ると条件が揃った時代が、ずっと以前からあると指摘している。古代エジプトや古代中国、大航海時代と大発見時代。いずれも資本主義には至っていないという。その原因は「資本主義の精神」が無かったからだと主張している。資本主義の精神とは、目的合理的精神、労働を救済と考えて尊重する精神、利子や利潤を倫理的正当化する精神であるという。その必要性はマックス・ヴェーバーが指摘している。中世ヨーロッパでは、利子を取って金を貸す事は犯罪とされていた。キリストの教えに反するからカトリック教会が禁止した。利子が存在しなければ返却の期限も定まらない。また、商売とは利潤の追求であり、そこに罪悪感があっては経済活動は成り立たない。ところが、カトリック教会は様々な抜け道を講じて財を蓄えた。そもそも宗教がなんで儲かるのか?ご都合主義は宗教の得意とするところである。そうした背景にプロテスタントが立ち上がる。中でも厳格なカルヴァン派の功績が大きいという。カルヴァン派は、宗教から合理性を見出し、利潤追求の正当性を認めたという。人々が本当に欲しがっているものを生産し、適正な価格で市場に供給する事によって得た利潤は、罪どころか隣人愛であると解釈される。ヴェーバーは、プロテスタントが宗教の呪術や魔術から解放し、合理化したところに着目しているらしい。なるほど、労働の精神を救済の精神と結びつけたのは画期的であろう。宗教改革が資本主義を加速させたことに異論を唱えるつもりもない。予定説が、神の御心に従って人間の精神を職業労働に励むことに向けたという議論は多く見られる。だが、資本主義がキリスト教だけの産物と考えるのは少々傲慢に思える。自制の精神から勤勉へと向かわせた土壌は、日本にも伝統的にある。職業労働が隣人愛を示すという考えは、「お客様は神様です」という考えにも通ずるものを感じる。人類には、本質を見極めようとしてきた歴史がある。人間で最も重要なのは「生き方」であろう。職の達人や匠の域に達しようとする願いには、人生の意義を求める精神がある。宗教は「生き方」を示す一つの手段に過ぎない。是非ヴェーバーを読んで自分の解釈を見つけてみたい。

2. 古典派と「セイの法則」
古典派の基本思想に「レッセ・フェール(自由放任)」というのがあるらしい。市場は完全に自由放任された時に最良な状態になるという思想である。アダム・スミスの概念「神の見えざる御手」は有名である。
「市場の自由に任せておけば、最大多数の最大幸福、パレート最適は自ずと達成される。」
スミスは重商主義を批判し市場原理を唱え、自由経済がもたらす効果を哲学的に表した。これを理論的に示したのがデヴィッド・リカードだという。「経済発展を求めるならば市場を開放せよ!」とは、現在でもそのまま使われる言葉である。だた、長期的に見ると、最後には企業の利潤はゼロになり労働者の賃金は最低レベルまで落ち込むと指摘している。シュンペーターは、資本主義が機能し発展し続けるためには、イノベーションが必要であると主張したという。資本主義には、破壊的創造という精神がある。破壊対象は、封建制の基礎となるイデオロギーや伝統主義である。古典派の主張に「セイの法則」がある。市場に供給されたモノは必ず売れるという傲慢な思想である。個々の市場では、売れ残りが生じるが、広範な国全体の市場を見渡せば、需要は必ず供給と等しくなると考える。おもしろいことに、この法則を多くの経済学者があっさりと前提としたために、あちこちで理論公害が見られる。これが今日まで及ぶ経済学の病原であろう。供給過剰は起こり得ない!失業などありえない!なんと心地よい世界であろう。人間は快楽には勝てない。経済人とはおもしろい人種である。この法則は世界恐慌によって完膚までに叩きのめされた。だが、マルクスやケインズから批判されながらも、些細な修正を加えながら今も生き続けている。

3. 比較優位説と絶対優位説
リカードの「比較優位説」は経済学における最大の発見だという。国内市場のみならず、国際貿易においても、自由主義を実現すれば、双方に利益となる事を理論的に証明したそうな。一方、アダム・スミスが説いたのは「絶対優位説」である。これは、自らの得意とする分野に特化して生産を拡大するメカニズムである。先進国の間では、あらゆる面で優位な産業を持ち、それぞれが相乗効果をもたらす。例えば、15世紀頃まで、ポルトガルはイギリスに対して葡萄酒も毛織物も生産コストを抑えることができた。ポルトガルはイギリスよりも先進国だったのである。こうなると、後進国は貿易をする材料がなくなって分業が成り立たない。対して比較優位では、絶対的な生産費ではなく、比率を比較し、双方が相対的に有利な財の生産に特化することによって、自由な貿易が双方に国益をもたらすと考える。サムエルソン博士はその著書「経済学」の中で「比較優位」の合理性を弁護士の例で説明しているという。それによると、弁護士として有能だがタイピストとしても有能な弁護士。はたして、この弁護士はタイピストを雇って分業するべきか?雇わずに自らタイピストの仕事もやった方が儲かるか?答えは雇うべき。敏腕弁護士の報酬はタイピストの給料よりもはるかに高いので、弁護士に専念した方がより多くの報酬を得ることができると説明している。

4. ケインズ理論
世界恐慌によって、ケインズ理論は必然的に生まれたと言っていいだろう。市場のメカニズムが機能不全に陥った場合、国家の経済介入も已む無しという風潮が生まれた。セイの法則を信奉する古典派が「供給」を主眼にしているのに対して、ケインズ理論では「需要」が主眼となる。つまり、需要がないところに供給しても商品が売れるはずがない。逆に言うと、無理やり需要を創出すれば、供給が増えるということである。これが有効需要の原理である。したがって、その主な政策は有効需要の創出となる。この理論で成功したのがヒトラーで、アウトバーンを造り軍事拡大を推し進め無理やり雇用を創出した。ケインズ理論では、ルーズベルトのニューディール政策を思い浮かべる人も多いだろう。この政策がどこまで機能したかは意見の分かれるところである。本書は、ニューディールを中途半端な政策で、むしろ第二次大戦が後押しした結果だと見ている。ちなみに、アル中ハイマーは第二次大戦に引き込んだのもニューディール政策の一環だと見ている。ここで注目すべきは、ケインズ自身が公共事業の中身はなんでも良いと述べたというのである。つまり、ピラミッドでもええのだ。ここにケインズ理論の弱点がある。ケインズ理論を最初に実践した政治家はピラミッド造りに励んだ古代エジプトの大王様ということか。ケインズ理論の落とし穴は、「クラウディング・アウト(締め出し)」であり、インフレであるという。貨幣価値は一定であると考えインフレを無視した結果、生産力不足だけでなく、資金不足も有効需要の原理が通用しない状況になる。人々が不景気で安定志向になると、貯蓄は証券に変えられず投資の効率性を失う。公共投資のために市場の資金を国が吸い上げると、民間企業への貸し出しが減る。公共投資にともなう資金需要増が利子率を上昇させ、民間の設備投資の意欲を削ぐ。そして、公共投資による民間締め出しが起こる。本書は、古典派は需要に対する研究が足らなかったが、ケインズ派は供給に対する分析が足りなかったと指摘している。政策で無理やり有効需要を創出しても、その規模が生産力を上回るインフレを引き起こすのであれば効果がない。ケインズ経済学は、完全雇用を達成する前に深刻なインフレに見舞われた。景気刺激策として国が有効需要を創出しても、それが元で価格上昇を招くのであれば、商品の国際競争力は失われる。そして、より安価な海外製品が市場に流入し輸入超過を招く。有効需要の増分は輸入増で相殺され国内生産は締め出しをくらう。そして古典派の勢力の復活を見る。いまだに、「自由放任主義」と「有効需要創出」の論争は決着を見ない。そもそも、対立しなければならないところに経済学の根深い病魔がるように見える。

5. 誤解されたマルクス主義
マルクスの「疎外」とは何か?資本主義は巨大な機械と化し、そこに組み込まれた人間は、無力感に絶望して「疎外」感を味わう。そこで、資本主義を批判するマルキストや左翼は「疎外」という言葉を連呼した。しかし、マルクスが指摘した「疎外」とは、社会現象には法則性がある事を主張しただけだという。
「経済、社会、歴史には、それを動かす一般法則が存在し、人間にはこの法則を操作する力などない。」
なるほど、経済原理の法則性には人間は無力ということか。資本主義を批判したところで、社会主義にも経済法則がある。市場では、価格も需要と供給によって自然に決定される。これがマルクスの本質だという。おいらは「マルクス = 社会主義」という印象を持っていたが、経済学における「疎外」とは、市場原理の本質を語っているようで、むしろ資本主義に近いように思える。ただ、マルクスがこれほどの発見をしたにもかかわらず、マルキスト達はそれに気づいていないと指摘している。その証拠に、ソ連こそ非マルクス政策を進めたという。ソ連は、経済法則を無視して計画性のない計画経済で国を滅ぼした。しかも、経済活動の生命線であるゼロ金利によって追い討ちをかけ、利子が発生しないから未払いが蔓延する。ものは作られず、仮に作られたとしても流通しない。在庫が残ったところで、利子が減るわけでもなく給料が減るわけでもない。こうして見ると、日本の官僚はマルキストと同じに思えてくる。ただ、日本の経済力も捨てたもんじゃない。崩壊せずになんとか耐えている。経済政策をも経済力が凌駕しているということか。ただし今のところは。日本の企業は政治を信用せずに自ら防衛策を実施している。企業戦略で重要な情報戦略でさえも、自前でやってきた伝統がある。

6.官僚制は腐朽する
ヴェーバーは官僚制について鋭い考察をしているようだ。本書は、もしヴェーバーが生きていて、日本の官僚制を目の当たりにしたら、こんなに凄いサンプルはないと随喜するに違いないと語る。学校教育では、日本の官僚制は明治時代に、西洋の官僚制をモデルにしたと教わった。そのモデルはドイツであるが、当時のドイツの官僚制は手本にできるほどの段階ではなかったという。むしろ、日本の官僚制の手本は中国の科挙であろう。科挙の制度は、高級官僚をペーパーテストで募集する仕組みである。奈良時代に一度輸入され、風土に合わず平安時代に廃止された。儒学を重用した徳川幕府でさえ、科挙には見向きもしていない。ところが、明治時代になって突如導入した。科挙の弊害というのは恐ろしく根深いものがある。中国で科挙が生まれたのが隋代で600年頃。そして、制度として完成したのは宋代で960年頃。気が遠くなるほど時をかけて築いたにもかかわらず、手の施しようもないまま腐敗し、ついに廃止されたのが1905年。その間、実に1300年もかかっている。それに引き換え日本では100年で見事に科挙を再現してしまった。科挙の求めるところは、身分に関係なく誰でも公平に官僚への道が開かれる仕組みである。ただ、公平性の美しさには罠が潜む。貴族制度が蔓延る社会で有用であっても、貴族が一掃された平民社会では逆に弊害となる。つまり、ペーパーテストでしか官僚を補充できない。アメリカでは、大統領が変われば一斉に高級官僚も総入れ替えとなる。そして、民間で叩き上げられ、功績が認められると登用もされる。日本では一度ペーパーテストに合格すれば生涯保証される。そして出世にしか興味のない集団と化し、志も良識もない官僚を大量生産してしまった。そう言えば、日本の高級官僚は宦官のようになってしまったと発言した某都知事がいた。決まったレールを走るように飼い馴らされた人間は、現実適応能力がなく危機に対処できない。絶対主義時代ヨーロッパにも家産官僚制があった。国家のものは王のもの、王のものは私のものと思っている家産官僚は、賄賂と給料の区別もつかない。日本の官僚は、国家の財産は納税者のものという意識すらない。本書は次のように語る。
「残念ながら、日本には、やれ「ケインズは死んだ」だの、「古典派は古い」だのと聞く耳を持たない輩が多い。実際、どちらの処方箋も日本では上手く作動しないが、その原因は「理論」にある訳ではない。両派が研究の対象としている資本主義と、その精神がないからである。」
役人が無能で汚職ばかりしている国ではケインズ政策は作用しない。ましてや、役人が勝手気ままに市場に干渉するようでは古典派の理論も作用しない。経済理論以前に、まず腐朽した官僚と家産官僚制を駆逐することであろう。官僚の仕事はただ一つ、不公平のない社会システムの構築である。しかし、人間がつくるものは自らを優遇する。日本で三権分立が機能していると信じている人は少ないだろう。官僚が唱える中立独立は自ら運営するシステムを言う。官僚が保護した産業ほど競争力を失い廃れていくとはどういうことか?人間は社会からの存在意義を失うことを恐れる。それ故に権威を誇示する。だが、権威の誇示は皮肉にも自らの存在意義を失う結果を招く。

7. 資本主義は何によって没落するか?
シュンペーターは、資本主義はその成功ゆえに没落すると述べたという。資本主義を維持するためには革新が必要である。しかし、小企業は大企業に吸収され、更に巨大企業となり、英雄的企業はいずれなくなるだろうと予測する論者も多い。やがて、巨大企業内でできる官僚的な経営者によって革新が止まる。巨大化した企業は、工場や従業員を把握することができなくなり、実体すらつかめなくなる。巨大企業の所有者も、何を所有しているのかを実感できなくなる。かつては、私有財産に愛着を持ち、企業や仕事に情熱を持って資本主義は発展してきた。巨大企業の下では、所有そのものに魅力がなくなり、私有財産も崩壊していくのだろうか?

2009-02-08

"アジャイル プラクティス" Venkat Subramaniam & Andy Hunt 著

本屋で、前記事の「アジャイル レトロスペクティブズ」の隣に陳列されていたので、ついでに買った。「Practices of an Agile Developer」という言葉になんとなく惹かれる。優秀な方々の習慣は気になるものだ。本書は、人生にリズムとバランスの大切さを改めて教えてくれる。その証拠に、各章には気分とバランス感覚という文字が鏤められる。酔っ払いにとって気分とリズムほど大切なものはない。

アジャイルとは、より良いソフトウェア開発方法を解明しようとするものであり、その重視する項目は以下のようなものだという。
・プロセスやツールよりも、- 人と人との交流を
・包括的なドキュメントよりも、- 動作するソフトウェアを
・契約上の交渉よりも、- 顧客との協調を
・計画に従うことよりも、- 変化に適応することを

ここで注意すべきは、左側の項目の価値を認めていることである。それを前提として右側の項目の価値をより重視する。アジャイルの本質は、適応力と協調を重んじる人々が、きちんと動作するソフトウェアを開発することであり、結果を出すことに専念するプロの集団を前提としている。そして、チームにとってモチベーションを保つには、計画を絶対視するよりも、自然で継続的なスタイルへと変化させることが肝要であるという。なるほど、こうした本は頭の整理ができておもしろそうだ。アル中ハイマーの主な仕事は、デジタル回路のアルゴリズム開発やLSI設計である。この分野は、言語による手法が進み随分とソフトウェア化が進んでいる。また、機能検証では、実装のモデリングやテストの自動化などで、プログラム開発を要求される。したがって、本書のようなソフトウェアの分野であっても、その思想は参考にできる。

ソフトウェアの開発は、そのライフサイクルが継続する限り続く。ユーザが使い続ける限り、本当の意味での完成はないのだろう。継続的なフィードバックは、もはやプロジェクト期間など意味をなさないように見える。技術習得、要求変更、製品展開、ユーザのトレーニングなど、すべてにおいて活動は継続される。これがアジャイルな開発スタイルだという。開発のプロセスは複雑で、些細な問題を放置すると、やがて状況は悪化し手に負えなくなる。問題にうまく対処する方法はただ一つ、システムに対してエネルギーを継続的に注入するしかないという。これがソフトウェア開発のエントロピーというわけか。人間社会にも多くの類似したケースを見つけることができる。混乱と危機に陥る前に継続的に監視し問題が小さなうちから対処するのが、アジャイルの本質のようだ。ここで注目したいのは、アジャイル開発で最も信頼を置くのは人であることを強調しているところである。

おいらがプロジェクトを担当する時、リーダをさせられることが多い。単に年齢によるものであろう。そこでは、必ず自ら設計するモジュールを持つことにしている。それがどんなに小さくても。それも設計者の気持ちを忘れないためと言い訳しているが、実は設計も楽しいのだ。最近では、検証環境を作る方がおもしろいので、立場を利用して環境構築を担当する。回路設計を言語で行うといっても、その記述方法は実装の制限に見舞われる。その点、検証モジュールは機能のモデリングや環境の自動化など、その手段において制限に見舞われることはあまりない。顧客によっては使う言語を指定してくる場合もあるが、手抜きをする方向でなければ、交渉でだいたい誤魔化せる。
ドナルド E. クヌース曰く。
「新しい分野のシステムを担当する設計者は、実装にも全面的に関わらなければならない。」
ある経営者に、プロジェクトリーダは、コーディングしてはならないと言われたことがある。おいらはこの意見に否定的である。リーダも少しは設計の醍醐味を味わいたいものである。

プロセスの遵守の度合いを評価の重点に置いている組織がある。そこには、定められたプロセスに従ってさえいれば、この世は全てうまくいくという宗教じみた理屈がある。失敗した時の責任逃れに絶好の言い訳にもなる。ISO9001を取得して喜んでいる組織のお偉いさんは、それで全てうまくいくと狂信している。定められたプロセスがチームに禍をもたらすケースは意外と多いのだが。プロジェクトは生き物のように絶えず変化する。体系化できるならば悩みも減るだろうが、できないのが人間社会というものである。応急処置が泥沼の原因になることは、多くのエンジニアが初期の段階で経験しているだろう。応急処置は悪魔のように誘惑してくる。だが、長期的視野に立てば自ら地雷を埋め込むようなものである。常に物事の本質を解き明かそうとすることが、プロ意識というものであろう。計画段階で、流用モジュールを使えばスケジュールが短縮できるといった意見は必ず飛び出す。流用できるかどうかの検討は慎重でなければ危険だ。そこには、政治的な思惑が絡むことが多い。既に流用モジュール設計者が辞めていて、問題が発覚しても原因すら追求できないといった事態も珍しくない。そんな事は新人君でさえ理解できそうなものだが、なぜか部長クラスのお偉いさんは政治力で捻じ伏せる。彼らには、開発の結果よりも重要なことがあるに違いない。窮地に追い込まれたプロジェクトを救うために、アジャイル プラクティスを導入することは良いかもしれない。ただし、一気に導入することは危険であろう。本書も、改革する上で、何もかも一気に変えてしまうのはプロジェクトを潰すことになるので、その導入方法は段階的でなければならないと警告している。ただ、潰れた方がためになるプロジェクトが存在するの事実である。

1. 設計は指針であって指図ではない!
設計がなくては、きちんとした開発はできないだろう。しかし、設計に縛れら過ぎてもいけないという。新しいソースの統合に伴う混乱を最小限に抑えるために、早めにビルド、こまめにビルド、定期的にリリースすることが重要だと主張している。設計には二つのレベルがあるという。戦略的設計と戦術的設計である。事前に行う設計が戦略的設計で、通常この段階では要件を深く理解できていないだろう。よって、大まかな戦略を示すことになる。早い段階で綿密な詳細に深入りすれば、本質を見失う恐れがある。一方、メソッド、パラメータ、オブジェクト間の相互作用のシーケンスなどは、戦術的設計の段階となる。設計は、正しい方向を示す道しるべにならなければならないという。また、優れた設計は正確であっても精密ではないという。そうだろう、最初から綿密に練られた計画が、その通り実行された例を見たことがない。設計とは、目的や意図を示したもので、具体的な手順を記したものではないと語られる。

2. ドキュメントの位置付け
ドキュメントの位置付けをどうするかは悩ましい。最初から詳細に明確に書ければ悩みも減る。しかし、コーディングしてみて、後からドキュメントに記載するといった手順を踏むこともある。この時、設計書というよりコード説明書という位置付けになる。いずれにせよ必要な説明書を省くべきではないだろう。ある程度の設計指針を記載できても、詳細まではなかなか固まらない。抽象レベルを下げていくうちに、逆に抽象レベルの高いところに変更が入る場合も起こる。上をいじったり下をいじったりして固めていくのが設計の醍醐味でもある。ただ、本書は早い段階からコーディングすることを推奨している。ここで注意すべきは、設計が不要と言っているわけではない。設計が、設計書によって行き詰まることのないように、という程度の意味である。設計をともなわないで、コーディングに突入することは危険である。あくまでもバランス感覚が重要で、設計者のセンスが最も現れるところでもある。また、設計書を渡せば、後はタイピストがコーディングするという方法は好ましくないと指摘している。
「まともな設計は、積極的にコードを書くプログラマから生まれる。」
おいらも自らコーディングしたい。コーディングは気分転換にもなるから。

3. フレームワークの有害
プロジェクトでやみくもにフレームワークを選ぶのは危険であろう。新しい技術やフレームワークの検討には、その採用根拠を明確にし、慎重であるべきである。職務経歴書の見映えを良くするために選択しても成功するわけがない。だからといって、避けていては技術習得の機会を失う。その按配は悩ましい。経営陣には、安易にツールコンサルタントの雄弁さに乗せられて、採用すると天国にでも行けると信じてしまう人がいる。そうしたツールはだいたいオーバースペックである。フレームワークも一種の布教活動であの世へ導かれる。フレームワークやツールは、あくまでも手段であって、それ自体が本質ではない。アル中ハイマーがツール至上主義に陥ることはありえない。酔っ払いはツールを使いこなすことすらできないから。

4. 早いうちにデプロイを自動化する
ターゲットマシンへのデプロイは、再現可能な方法で行わなければならないという。ほとんどの開発者は、最終段階になるまでデプロイの問題に目を向けたがらないらしい。しかし、依存するコンポーネントやデータファイルが足りなかったり、ディレクトリ構造が不適切だったりすると後戻りすることになる。おいらは、ディレクトリ構造やファイル名で最初に思いっきり悩む。夜のテクニシャンは前戯に夢中になるのだ。そして、最初からリリース状態を構築することをイメージする。後から、徐々に膨れ上がるのが見えているから、リリースプロセスは、最初から軌道に乗せておきたい。最初にリリース構造を見せておくと顧客を安心させられ、信頼を得ることもできる。また、顧客に仕様変更が容易かどうかを早めに判断させるのは、有効な戦略ともなる。もし顧客側の水面下で仕様について揉めている場合、その可能性を早めに表明してくれる。ちなみに、仕様変更が起こらない仕事を経験したことがない。相手に気を使わせるのも戦略である。どうせ顧客と揉めるなら早い方がいい。後になればなるほど殺気立つ。

5. PIEの原則
PIE(Program Intently and Expressively)とは、意図を明確に表現するコードを書くことだという。コードは開発が進むにつれ徐々に巨大な怪物へと変貌し炎上することもある。そこには、時間を惜しむために、問題の先送りという悪魔のささやきがある。適度なプレッシャーを保ちながら開発をするには、コードをいつも健康状態に保つことであろう。本書はコードの巧妙さよりも明瞭さを強調する。そして、プロジェクト期間中に留まらず、開発後においても拡張性を維持するべきだと語る。コメントを多く残すように指示する人も多いが、逆に混乱を招くこともある。これはドキュメントも同じである。ドキュメントには思想を残して、コードとセットで考えたい。あまり詳しすぎると、二重にコーディングしているようなものである。
昔、コード = ドキュメントという思想に何度もトライした記憶が蘇る。言葉をマクロ化して分かりやすい表現に置換したりと。あまり膨らみ過ぎて、特殊言語の開発をしているような気分になった。分かりやすさを追求するあまり、性能も犠牲にする。確かに、コードが分かりやすくドキュメントの地位に引き上げることができれば一石二鳥である。しかし、プログラム言語はあまり読みやすいものではない。言語仕様を知らない人間には、チンプンカンプンで議論の題材にはできない。また、いくら分かりやすく書いたつもりでも、一年後にコードを読み返すとがっかりさせられる。そこにはセンスの無さ醜さが散乱する。万能なコードを書くのは難しく、いつもトレードオフがつきまとう。適切な言葉を選ぶだけでもコードの読みやすさは格段に上がる。すべてはエンジニアのバランス感覚に支配され、継承の深さや階層の深さといった構造的センスにもバランス感覚が現れる。優秀なプログラマはネーミングのセンスが良い。こうした感覚は習慣からきているのだろう。普段から読書したりと情報収集に抜け目がない。繊細な気配りをする彼らには学ぶべきところが多い。

6. デバッグ
デバッグがスケジュール的に難しいのは、所要時間が読み辛いところである。問題もランダムに発生する。本書は、ソリューションログをつけることによって、問題と解決策を再利用することを推奨している。例外処理にはいつも悩まされる。プログラム構造には、あらゆる例外を報告させるべきであるという。そして、発生した例外は、すべて対処するか、あるいは伝播させないことだという。エラーメッセージを埋め込むにしても、そのセンスは難しい。役立つログはバグの対処に有効である。それがプログラムの欠陥なのか、環境に依存するのか、ユーザ側のミスなのか、エラーの種類が識別できる工夫も大切である。
バージョン管理システムを導入するのは一つの管理手法であろう。ただ、神のように崇めて強制する人もいる。
「バージョン管理システムを使わないことよりも悪いことは、管理システムを間違って運用することだ」
そもそも、コードの健康状態を公開することが目的であり、それを共有することに価値がある。テストが通らないものを公開しても意味がない。チーム内に一人として認識のずれた人がいると機能しない。
コードレビューは欠陥除去率が80%を超える方法であるという。おいらはチームの技術共有という意味で実施している。新メンバーの認識違いを感知するのにも有効である。ただ、スケジュール上、十分な時間を確保することは難しい。エンジニアの中には恥ずかしがり屋も多く拒む人もいる。ただ、優秀なプログラマのコードを見るのは勉強になるので、他人のコードを見ることを拒む人は少ない。説明がスムーズになされるコードは読みやすく、ドキュメントと突き合わせれば表現のチェックもできる。

2009-02-01

"アジャイル レトロスペクティブズ" Esther Derby & Diana Larsen 著

本屋を散歩していると、ある言葉が目に留まった。Agile Retrospectives...副題には「ふりかえりの手引き」とある。つまり、プロジェクトの事後分析である。全ての道筋は過去を振り返り、自らを評価することから始まるといったところだろうか。不況時に、自らを省みて立ち止まって読んでみるのも悪くない。
最近なぜか?教育係の依頼が多い。教えられることなんて何も無いのに。年寄り扱いされてるってことか?失敬な!ちなみに、夜の社交場では、娘のようなお姉様方にお子ちゃま扱いされている。
今宵は、本書に乗せられて自らの体験談を語ってみたくなった。人生は短い。アル中ハイマーと出会ったがために、無駄な時間を過ごした人も多いことだろう。この場をかりて「深くお詫び申し上げます!」

著者のEstherとDianaは、Norm Kerthとともに、Retrospectivesのファシリテーションにおける世界的な権威者なのだそうだ。ただ、その思想は極めて日本人的であることに驚かされる。組織運営の本質的な思想に国境はないということだろう。プロジェクトは刻々と変化し、チームは生き物のように常にうごめく。どんなにうまくいったチームだからといって、次もうまくいくとは限らない。状況をいち早く掌握するためには日々の観察が大切であり、それを整理するために時々振り返る必要がある。著者たちは「Retrospectives」のことを、仕事が一段落した後にメンバーが集まり、やり方やチームワークを点検し、改善する特別なミーティングに位置付けている。
「チームの問題は、技術的な問題と同じくらい、時にはそれ以上に、手ごわいものだ。」
本書は、具体的な訓練方法まで紹介してくれるので、どこから手を付けてよいか分からない人には参考になるだろう。ただ、それが絶対というわけではない。メンバーや環境など、まったく同じ条件で仕事ができるはずもないので、最適な方法はいつも異なるだろう。重要なのはその根底に潜んだ思想である。くだらないプロジェクトに時間を浪費するほど人生は長くない。目的はただ一つ、人生を楽しもうとしているだけなのだ。
ところで、ベンチャーと称する会社と関わると、いろんな経歴を持った人間が入社してくる。それでも、多くが大企業を経験している。そして、おもしろいことに出身会社によって文化傾向が現れる。自分の哲学に走る傾向や、責任範囲を決めてひたすら自己防衛に走る傾向などなど。こうした傾向が出身会社の文化に反発したものなのか、そのまま継承しているのかは知らない。そこで、まずメンバーの認識合わせから始める必要がある。文化の融合とはおもしろいものだ。

プロジェクトの状態を見るには、本音を言わせることが重要であろう。それには愚痴らせるのが良いと思っている。それも冗談で言える段階から。愚痴が出るということは反発するパワーが残されている証でもある。体制の維持が目的ならばイイ子ちゃんほど都合の良いものはない。だが、改善が目的ならば、むしろ弊害となる。完璧な体制などありえない。もし満足しているならば、宗教化が進み思考停止になっていると見る方が正しいだろう。沈黙の抗議が始まれば手遅れである。そうならないように、笑いながら愚痴れる環境を作ることに専念する。おいらのプロジェクト手法は、これに尽きる。技術的な問題は比較的対応しやすい。もし、メンバーが技術問題を抱えていれば、人前で喋らせればいい。すると、メンバーは自分で喋っているうちに自らの思考を整理して、いつのまにか自ら解決策を見出す。周りはそれを聞いてやるだけでいい。悩み事を相談していたはずが、いつのまにか解決方法を自ら自信満々に語っている。こうした光景がしばしば見られるからおもしろい。ただ、リーダの存在感が薄れてちょっと寂しい。挙句に飲まずにはいられず、場所を変えてそのまま宴会となる。したがって、プロジェクトリーダはアル中ハイマー病患者が多いはずだ。

人の評価は難しい。好き嫌いという感情も介入する。客観的な評価を求めるために、数字で段階評価する光景をよく見かける。これがまったく意味がないとは言わないが、どれほどの効果があるのだろうか?カリスマ性5、技術力3、発想力4、協調性1、まるでシミュレーションゲームだ。評価項目に当てはまらない事象や表現できない事象も多い。評価される側も、売上などの数字で部署や人の評価を求める人がいる。しかし、経営の立場から考えると奇妙な話である。誰が担当してもそれなりに成果の出る仕事と、失敗する可能性は高いが将来を睨んで挑戦したい仕事とでは、どちらに優秀な人材を投入するだろうか?困難な仕事ほど優秀な人材を配置するのが合理性というものである。おいらの評価基準は単純だ。その人が組織にとって居なくなったらどれだけ困るかである。ただ、居なくなって初めて、その人の価値が認識できるから困ったものである。恋愛は別れた時に、その人の良さが見える。

プロジェクト改善のアプローチで全ての問題を列挙して、解決策を見出すべきだと主張する人がいる。そして、一つの問題に一つの解決策を対応つける光景をよく見かける。それも手法の一つであろうが、分析すれば一つの問題から派生していることが多い。何もかも列挙するといきなり挫折が見えてくる。長続きするためには高い可能性を維持することであろう。ただ、目標を視覚化できるチャートは、メンバーの意識合わせに役立つ。少なくとも計測可能で達成可能なものでなければ、メンバーの共通目標にはできない。最初にプロジェクトの方向性を明白にすることが重要で、ここで時間をかけることを面倒だとは思わない。むしろ、ここで時間をかけた分、後で時間が短縮でき、時間的にもエネルギー的にも十分見合うものとなる。また、メンバーの意識が合えば、重要な問題が発生した場面でも少々無理がきく。問題発生は常に想定しておくべきである。チーム内を円滑にするために、笑いネタにできる人間が一人いるとありがたい。馬鹿を演じられる人間は貴重である。実は賢いと認められた人間の成せる技である。リーダ自身の馬鹿げた行動を暴露するのもいい。チーム内には常に笑いを起こせる共通のネタを仕込んでおきたい。おいらのプロジェクトは運良くメンバーに恵まれてきた。それなりに楽しくやれてきたからである。失敗もあるが今では笑い話にできる。

突っ走らないと気が済まない人がいる。全体の方針が決まらないのに、勝手に検証環境を作り始めたりといった行動をとる。自分の仕事が遅れることで、責任を負うのが嫌だと明るみに主張する人もいる。誰も責任を押し付けようなどと思っていないのだが、そのような政治的な体験をしてきた人は多い。部分的に進んでも、足並みが揃わないと、後戻りすることになると説得しても無駄である。あえて、そうした人の行動を止めたりはしない。それでストレスから回避できるのであればそれもいいだろう。こういう人は作業をしていないと落ち着かない。コードを書くことが精神安定剤になっている。無闇にコンピュータに向かっている時間が長い人の仕事量が多いとは限らないのだが。人間を言葉だけで啓蒙することは無理である。新たな思考方法を本に求めるにしても、どこかに興味や共感できる思考の欠片を持っているから、その本を選ぶことができる。むしろ言葉だけで簡単に操れる人間の方が怪しい。事前検討や上流工程を綿密にやれば、日程の精度が高まり、結果的に仕事が加速することを体験させなければならない。それまで我慢するしかない。何事も結果が付いて来ないと説得力はない。
また、仕事のパターンを形式化することを好む人がいる。形式化できるに越したことはないが、できないのが人間社会というものである。また、ワンパターンの仕事スタイルは硬直化の要因にもなる。それに人間であるからには、作業よりも思考することに価値を見出したい。優秀な人ほど事前検討を大切にし、無駄を排除しようと努力しているように思える。彼らは一番大きな無駄は後戻りすることだと知っている。逆に、無駄な努力を多く経験してきたとも言える。世の中は無駄に満ち満ちている。無駄から学ぶことも多い。こうなると無駄は無駄ではなくなる。プロジェクトリーダは、しばしば様々な形の人間関係で衝突することがある。ただ、不思議なのは、最初に苦労した人ほど後々うまくいくケースが多いことだ。また、人間的に合わないという直観は最初に働く。こうした現象を経験から学ぶが、その要因を論理的には説明できない。

本書が推奨するRetrospectivesの手順は、次のようなものである。
1. 場を設定する
2. データを収集する
3. アイデアを出す
4. 何をすべきかを決定する
5. レトロスペクティブズを終了する
おいらは「場を設定する」が一番重要だと思っている。以降の項目はプロジェクトを実施する上で必然だから、ほとんどの人が試行するだろう。それらを有効にするには、いかに場を設定するかにかっていると思っている。

1. 場を設定する
場を設定するとは、議論に適した雰囲気を作り出すことで、最も気を使うのは議論の所要時間であろう。忙しいメンバーにとって、だらだらとした議論はストレスとなる。本書は、最初に所要時間を明確にすることが大切だと述べている。会議の進め方がメンバーに浸透していれば、なおのこと良い。もう一つ気を使うことが、発言に遠慮がちな人が多いことである。エンジニアの中には気難しい人間も多い。実は、おいら自身が人見知りが強く気難しい人間で喋ることが苦手である。と言っても誰も信じてくれない。また、プライドなのか?問題を自分だけで抱え込む人がいる。追い詰められてから公表すると、責任問題にもなり、他のメンバーから批難される恐れがある。事前に問題を明るみにするためにも雰囲気は重要である。議論するからには、全員に喋ってもらはないと意味がない。いかに大人しい人に喋ってもらうかは苦労するが、チームの一員として自覚させるためには必要である。大人しい人を表に出すためには、その人の担当を表に出せば良い。インターフェースを話題にすれば、責任感さえ持っていれば、嫌でも発言せざるをえない。本書は、チームに約束が重要であると語る。約束は、メンバーに協調した振る舞いや、責任を持たせることができるという。ただ、経験的にはチーム内の約束事はいつのまにか暗黙の了解となっている。互いに成長したいという意識が一致していれば、自然とチーム内に規則が生まれるような気がする。

2. データを収集する
本書は、客観的な事実はデータの一部でしかなく、データの半分以上は感情であると語っている。確かに、感情は、事実やチームについて重要なことを教えてくれる。ストレス情報に敏感でなければリーダは務まらない。リーダにとって有用な情報は感情であり、メンバーにとって有用なのは客観的な情報である。所詮、人間は感情の動物だ。論理が万能と信じるのは危険である。論理に一瞬でも隙があると、メンバーは不快になる。それが、感情によって微妙に左右され、更に決断の段階で左右される。ならば、最初から感情の存在を認めた上で、対処する方が現実的である。ただ、エンジニアは感情を表に出したがらない傾向にある。無理に感情を煽るのも逆効果となる。

3. アイデアを出す
アイデアを出す段階では、場が設定できていれば、あまりリーダが積極的に発言する必要はないだろう。後は、自然の成り行きに任せる。ただ、プロジェクトから一歩下がった視点を与えることは重要である。おいらは哲学的な思考を重視する。それは、各メンバーに仕事で何か得るものがあるか、それを実感できているか、を問うことである。どんな仕事でも、その前提にはそれぞれの人生がある。今後も役立つ手法を使うか、一時的なもので誤魔化すかは、モチベーションにも影響を与える。ひょっとしたら、その人は、会社を辞めてもっと良い生き方を見つけるかもしれない。おいらは、組織の枠組みにとらわれない付き合いをしたいと願っている。その延長上に、チームの目指すべきものを見つけたい。

4. 何をすべきかを決定する
プロジェクトリーダの仕事は、何をすべきかを決定することが目的である。本書は、あまり多くの改善項目を試すのではなく、絞ることが重要だと語る。

5.. レトロスペクティブズを終了する
本書の流れで、この項目は少々気になる。文書化、フォローアップ、点検と改善、ここまでは想像がつく。ただ、本書は、最重要なものにこれを挙げている。
「メンバーの作業に感謝することを忘れない。」
プロジェクトリーダは、当然感謝の気持ちを持つだろう。しかし、その気持ちは伝わっているものと考え、しばしば態度に示すことを省く。それが照れくさいところもある。本書は、そうした態度を省いてはならないと主張する。ということで、この場を借りて皆様に感謝致します!
また、リリース後のRetrospectivesでは、チーム外にも招待状を出し、新しい参加者を募ることを薦めている。チーム外の付き合いは、政治的な思惑も絡むから難しい。それが社外となると尚更である。本書は、そうした啓蒙運動を積極的に行うように推奨している。ただ、あからさまに啓蒙して周るのは布教活動のようで肌に合わない。そもそも、それほど自信のあるやり方をしているわけでもない。

6. プロジェクトリーダの役割
リーダもつい議論に参加してしまいがちだ。しかし、リーダの仕事はプロセス管理にある。本書では、それをアクティビティ、集団ダイナミックス、時間の管理であると述べている。そして、自らの強い意見は避け、中立の立場に徹することと、メンバーの感情や反応を管理することで、議論の成果に貢献することが重要である語る。もし、リーダだけが重要な情報を知っている場合は、その役割を一時的に離れる旨を知らせて、議論に参加するのもいいだろう。その立場を明確することに注意を払うのは大切である。頻繁に立場を変えるのも混乱を招くだけである。本書は、一番やってはいけないことは、相手を批難することであるという。これは、場を設定するところで、メンバーの認識合わせができていれば、互いに批難するような場面を事前に回避できるだろう。やたら、技術や戦略を持ち込んで管理しようとするリーダをよく見かける。ただ、管理で一番神経を使うのは感情的なものである。ここが管理できなければ、どんなテクニックを持ち込んでも効果はない。そして、何よりも大事なのが、リーダ自身の自己管理である。これは孤独との闘いでもある。

7. 改善
継続中のプロジェクトを改善するよりも、新規でやり直す方が手っ取り早い。慣習化した行動を改めるよりも、新しい行動を加える方が楽である。チーム改革とは、そんなものだろう。本書は、新しいスキルを身に付けるのに、ミスをしても構わないことをメンバーに伝えることを薦める。改善の責任はメンバーで共有することであって、一人がチームの救世主になると、共同作業を台無しにする恐れがある。また、それに追従するだけで頼りない集団になってしまう。その人の肩にかかるというのは、それだけリスクを伴う。おいらがカリスマ性を信じないのは、このあたりに理由がある。