2010-04-04

パソコン(x64)買っちゃった!

ものは、DELL Studio XPS8100 (Core i7-860 2.8GHz + Win7)...
メーカ品のデスクトップPCを買うのは二十年振りであろうか。10万円代で、そこそこ性能のあるマシンを得ようとすれば自作するしかないと思ってきたが、この値段でこのスペックならメーカ品も悪くない。ちなみに、MSのOSではWin2kが最も安定していると思っているが、どんどん迫害されていく。次は64bitだと思っていたところ、DELLさんが妙なキャンペーンをやっている。期限付きで16万円以上買うと2万円off!ということで、オプションを調整して15万円以内に抑えた。しかし、似たようなキャンペーンをいつもやってるみたいやなぁ。
銀行振込で手数料を覚悟していたが、コンビニ決済できるのがいい。いまどき当たり前か?
新しいものを導入するとなると、理屈は大して変わらないだろうという感覚が先行し、だんだん億劫になってくる...なーんて発言すると、「もう年ですねぇ!」とからかわれる。「感覚の抽象レベルが上がった」と言ってほしいなぁ。

1. マシンは快適!
まず、接続する...
あれ?DVIポートが二つある。仕様では一つだと思っていたが、 nVidia GeForce GTS 240が二つ持っているのかぁ。マルチディスプレイはなかなか快適!その代わりアナログRGBがない。いらんいらん!しかし、ディスプレイのアナログRGB側に、わざわざVGA/DVI変換コネクタが繋がったまま梱包されている。そのように繋げって誘導しているようなもんやんけ!出荷検査の名残か?ということで直で繋ぐ。
HDMIもあるなぁ。さっそく、テレビに繋ごうとするとケーブルが届かん!長いやつを調達せねば...
さて、起動してみる...
第一声、思いっきり静か!マシンが静かなことが、これほど快適とは知らなんだ。HDDのインジケータも小さくて、電源が入っているのか疑いたくなる。ケースを一度も開けてないのも不思議な感じだ。中身が仕様通りかは知らん!小人でも入ってんじゃねーか?ホットなお姉さん系が入っているなら、パフォーマンスが悪くて、少々拗ねられてもOKよ!
次に感動するのは、速い!速い!i7の4コアは、Hyper Threadingとかいうやつで8コアに見えるんだぁ。L3キャッシュも8MBある。慣れ親しんできたFSBは、QPI機構とやらに変わって高速になるようだ。おまけに、ターボブーストがある。こいつは化け物か?なんとなくヘネパタを読み返したくなる。ところで、パタヘネと呼ぶ人も多いが、どちらが一般的なんだろう?
メモリ6GBも、すげー時代だ!640KB超えの問題でEMSが登場した時代が懐かしい。とはいえ、なーんにもしてないのにOSが1GBも喰うのは、いかがなものか。
ちょいと、画像処理回路のシミュレーション時間を計測してみよう。電源オプションはハイパフォーマンスに設定して...わぁお!10倍速い。こりゃ「シミュレーションが一晩かかるので飲み屋からログを監視してます!」なーんて言い訳ができなくなるなぁ。5,6個のCPUが、80%近辺で一斉に稼働すると、なかなか爽快!クロックアップも眺めがいい。ブーストメータは3.4GHzを示す。ターボ限界値は、通常の2.8GHz(133MHzの21倍)に対して、3.467GHz(133MHzの26倍)のようだ。あまり仕事をしていない時は、1.2GHz(133MHzの9倍)までクロックダウンする。
しかし、この速さにも2、3日で慣れてしまうのは虚しい。すぐに贅沢に慣らされるのは、人間の悲しい性であろうか。

2. キーボードの哲学
このセットで不満なのは日本語キーボードしか選択できなかったことぐらいか。ノートは選べるのに。どこかにオプションが隠れているのか?どうせ交換するから関係ないのだが...
我が家にはUSBキーボードがない。10以上愛用してきたPlathome FKB8579をPS2/USB変換するという手もあるが、そろそろヘタってきた。今でも気に入っているので追加購入したいが、販売中止は残念!
ということで、憧れのPFU Happy Hacking Pro2を購入。キーボードで2万円は、ちと高い!しかも、カーソルキーがないのが、ちと不安!だが、キー感触と指の動きは、長時間叩くのにストレスとなるので、こだわってみるのも悪くない。なるほど、さすがに噂通りの感触だ。叩く音も心地よく精神衛生に良い。キーの感触を調べるために、シフトキーならシステムに影響を与えないだろうと思って5回連続で押すと、なんと!「固定キーを有効にする」などと言ってきやがる。ほぉ、Win2kも。恐るべし!Windows....
右小指がFnキーに奪われるが、小指の動きが鈍いから困ったものだ。一説によると、小指をよく運動させると、脳を活性化させてボケ防止にもなるんだとか。それでも、ブログ記事の一つも書けば、だいたい慣れてくる。思ったよりカーソルキーがないことも気にならない。逆に、home, end, PgUp, PgDnにも自然に指が伸びるようになり、ブラインドタッチが加速する。とはいっても、無刻印版を買う勇気は生涯持てないだろう。
装備としては、USBが2ポートあるのはありがたいが、フラッシュメモリを差すと電源供給量が不足と警告される。だが、マシン上部には、いい感じで2ポートあるから気にならない。
ところで、このキーボードには、なんとなく哲学を感じる。それはキーの抽象化である。そう、哲学的思考の源泉には、抽象化の概念がある。コンパクトなキーボードは、腕の位置を固定させ、指のストロークを短くし、無駄な動きを省く。机上スペースもすっきり。だからといって、無暗に省略すればいいというものではない。精神がフロー状態になった時、キーを探すような行為が生じるということは、集中力の妨げにもなろう。レーシングドライバが、アクセル/ブレーキペダルにこだわり、バケットシートを装着するのと同じ理屈だ。キータッチの軽いアンダーステアは、思い切って踏み込めるというわけだ。熟成させたマシンが手足になって、はじめて精神を存分に解放できる。

3. Win7で愚痴る!
パソコンを入手して、まずやること言えば、OSのまっさらインストール。余計なドライバが入っているのが気に食わない。そして、2、3度はやり直す羽目になる。完全フォーマットしないと気が済まない質だが、そんな時代でもないのかもしれない。ということで、今回は面倒なことを省くことにした。使うOSで一度もインストール経験がないのは初めてだろう。今後は知らんが...
さて、環境設定だ...
  • なんだ!この貧弱なスタートメニューは...クラシックメニューはお亡くなりになったらしい。これだけで小一時間も悩んでしまったではないか。使い方を強要するような宗教的な発想は勘弁願いたい。ということで、Vista Start Menuを導入。
    尚、最新版は、StartMenu 7 に変更された模様。...(2012-7-1)
  • デスクトップのアイコン配列も鬱陶しい。それを調整するための[デザインの詳細設定]を探し出すだけで放浪してしまう。なんで[ウィンドウの色]の中にあるんだ?デザインの中に色があるのが普通じゃねぇか、と思うのは酔っ払いの感覚か?
  • Windows Explorerとかいうファイルマネージャもどきは、defaultでファイルメニューがないのに戸惑ってしまう。代わりに[整理]とかいう訳の分からんものがある。大量にファイル操作するには、視覚性よりも操作性を重視したい。この点はWin3.1時代のシンプルさで充分だと思っている。ただ、圧縮ファイルの中身がシームレスに覗けるのは良い機能かもしれない。一瞬、実体を見つけるのに戸惑ったが。
  • フォルダの共有では、従来の共有アイコンがなくなり、共有状態を詳細ウィンドウに表示しやがる。表示スペースの無駄だ!マニュアルでアイコン変更か?なんともしまらねぇ。共有しない方に鍵マークを付けることはできるのかぁ。アイコンから鍵マークを消すには、右クリックで一旦共有してマークを消し、次にプロパティで共有解除すればええんだけど...本筋じゃないよなぁ。他にやり方があるんだろう。もしかして、同じ共有なしでも、鍵マークの有無でセキュリティ上の意味合いか違うのか?右クリックから簡単に共有状態を変更できるのも、プロパティでせっかく設定したものがチャラにされそうで怖い。セキュリティがうるさい割りには、仕様がバラバラでねぇかい?
  • IME2007も奇妙なことになっている。IME2000にあった[直接入力時にツールバーを隠す]という機能がなくなったようだ。[アクティブでないときに透明]ってのはあるが、アクティブの意味が...そもそも、直接入力が言語システムに関係あるのか?なーるほど!入力後の文字列でも一発で再変換できるというわけか。言語システムを補助的な位置付けにしている人間には、お節介な機能である。技術系の人間で鬱陶しいと思っている人も少なくないだろう。せめて隠す設定がほしい!キー設定には、[IMEオン/オフ]というメソッドが用意されるが、別のキーに割り当てる気にもなれん。ちなみに、XPあたりからの仕様でIME2002では、それだけのためにフリーソフトがあるようだ。また、学習が足らないせいか?変換精度が悪過ぎる。
全般的にかゆい所に手が届きにくいという思想は相変わらずのようだが、Win7は更に深く眠ったところにあるようだ。属性を直観的に辿り難いということは思想的におかしくねぇか?一般的にトラブルが生じないように設計すると、こうなるのだろうか?やっぱり、Win2kの方がマシのように思える。
機能が増えるのと、思想が複雑化するのとでは意味が違う。安易な自動化と同期化は、利便性をもたらす以上に、人間の操作ミスとの区別を曖昧にし、むしろ混乱を招くであろう。MS製品を買うのは10年振りだが、奇妙な宗教化が進んではいないか?ノートPCでは、Ubuntuを検討したい。
しかーし、この程度の愚痴が可愛いものだと知るのに、大して時間はかからないのであった。なぜなら、後述するOffice2007が、かるーく吹き飛ばしてくれるのだから。

4. アプリは、ほぼ問題なく稼働
Program Filesが、x86と区別されるのは管理しやすいかもしれない。32bit版は、x86互換モードでインストールして、ほぼ大丈夫。
ただ、思いっきり古い二つのアプリで癖のある不具合があった。いずれも、Win7の基本I/Fとうまく通信できていない模様。一つは、アプリを終了してもプロセスが残るものがあるが、しっかりとプロセスを切ってやれば問題なさそう。二つは、ファイル保存画面でファイル名が反映されないものがあるが、対策パッチで解決した。
おっと!気を抜いていたら、いつのまにかCnsMinが入ってしまった。JWord 1.x系の仕業か。こんな勝手に入ってくる奴は、腕によりをかけて抹殺する。それが仕事人の勤めなのさ!
さて、ブラウザを設定しようとすると...なんでIE8は、64bit版と32bit版があるんだ?アイコンには、わざわざ64ビットと明示され、おまけに32bit版がdefaultだ。64bit版はベータ版ってことか、いや!これを使うと、ろくなことにならないという警告に違いない。
ついでに、Chromeを入れてみよう。なるほど、軽い!pdfをよく見るので、クィックビューはいいかもしれない。ただ、Bloggerユーザが言うのもなんだが、gさんのサービスは初期の品質がいつもグルグルだからなぁ。と思いきや、これなら使えるかも。プラグイン系がIEと違うが、いずれjava系も必要だろう。ということで、しばらくChromeを試すことにした。
こうしてみると、64bit版のアプリが少ないのが、ちと寂しい!
とりあえず、Avast5 + Windowsファイアウォール + Windows Defender + POPFileで運用してみることにした。Avastの重さを感じないのがいい。ちなみに、数年前から愛用しているPOPFileのベイズ・アルゴリズムには一発で惚れた。だって、嫌な奴からのメールをspamと認識するんだもん。ファイアウォールも、Cygwin系でいくつか弾いてくれたから一応効いてそうだ。ただ、ポート毎というよりは実行ファイル毎に設定するようだが、一見分かり易いようで、よく分からん。ポートの多くが[任意]に設定されているのも恐ろしいような気がする。[ホームネットワーク]に設定すると、ほとんど通してくれるのかなぁ?んー、酔っ払いには難しい。

5. Office2007で大爆発!
何を血迷ったかオプションに追加してしまった。Office2000を持っているが迫害されつつある。貸借対照表をExcelで管理しているので簡単には捨てられない。Office2007の評判の悪さは知っている。わざわざOffice2003に戻したという話も聞く。しかし、たかが表計算やワープロで、そんなに使い勝手が変わるわけないだろう。皆さん大げさなんだからと思っていた。
さて、Excelを起動すると...なんじゃこりゃ!
Win7の思想の悪さなんて一遍に吹っ飛んだ!なるほど、Win7の引き立て役というわけか。前々からExcelとWordが同じ会社の製品とは思えないと感じてはいたが、Windows系とOffice系が同じ会社の製品とはとても思えない。昔は、Excelの評判は良く、むしろWordの評判が悪かった。日本語ワープロは日本製じゃないとダメかとも言われた。とうとうExcelが悪評を超えたというわけか。
ノートPCの小さい画面だと爆発しているだろう。クイックメニューのセンスの悪さは、他のアプリとの釣り合いがとれん!バージョン情報を見るだけで放浪してしまったではないか。おまけに、2007形式で保存すると拡張子が変わる。機能アップしたからであろうが、互換形式でしか使う気がせん!リンクさせるといちいちセキュリティセンターが騒ぐのに戸惑ったが、信頼できる場所を指定してやれば問題ないので、この思想は使えるかもしれない。それにしても、OSレベルでセキュリティ思想があって、アプリレベルでもあるとうことは、マルチユーザ同士で信用ならんということか?いや、アプリ製作者がOSを信じられないに違いない。
これだけ改宗運動の激しいアプリを見たことがない。ヘビーユーザほど戸惑うだろう。アクションを起こす度に悩まされるのは、ロールプレイングゲームをやってる気分だ。なるほど、乗り換え抵抗感を緩和し、自由競争を促進するとは、MSさんもなかなか味な事をなさる。ご厚意に甘えて、OpenOffice.orgを真面目に検討せねばなるまい。
一方、Wordは少しだけ許せるかもしれない。育ててきた目次の自動生成の仕掛けが、そのまま移植できそうだから。
更に驚くことに、Win7の起動時にデスクトップガジェットが時々立ち上がらない現象があって、不安定なOSだなぁと思っていたら、その原因も2007絡みのようだ。アクションセンターが騒ぐので何事かと思えば、パッチ情報には...
「KB974164: IME2007修正プログラム(2009/8/25)...2007 Office systemの日本語版がインストールされているコンピューター上では、Windowsを再起動すると、Sidebar.exeプロセスが応答を停止する場合があります。」
まさしくこれだ!なんで言語システムとOfficeとデスクトップガジェットが関係あるの?Sidebarの動きを邪魔しているんだとしたら、マルウェアじゃねぇか?こりゃ呪われてるわ!
2007は鬼門の数字といわけか。ラッキーセブンに辿り着くには厄払いが2000回必要かもしれない。ちなみに、厄数2007を因数分解すると、3^2 * 223 となる。3月22日に納品され、23日にセッティングしたのが祟られたのか?

ところで、精神が強烈な愚痴の呪縛に嵌ると、くだらない愚痴にまで波及するから困ったものだ。
ドキュメントは、何を使って作成しようが自由である。pdfで配ればいいのだから。しかし、プログラムに食わせるデータをExcelマクロで作成するのは勘弁してくれ!移植性が悪くてしょうがない。それだけのためにOfficeを買わされた業者は気の毒である。アプリやOSに依存するような仕事のやり方は、なるべく避けようぜ!ツール依存のスクリプトも、なるべく避けようぜ!ツールが高価だからWin版でないと入手しずらいというのは分かる。うちも貧乏業者だから同じだ。フリーで固めても、そこそこの環境が構築できるし。だとしても、Unixエミュレートが難しいわけではないだろう。なにもDOSスクリプトが悪いと言っているのではない。移植性を問題にしているだけだ。その人にとって効率性を見出せるならば、どんな言語を使おうが自由なんだけどさぁ~。
また、ツールの使い手が近くにいるのは便利である。ただ、存在感をそれのみでアピールするのはいかがなものか。人間の存在価値は思考力や想像力で高めたいものである。チェッ!悪酔いしちまったぜ!

6. Media Playerで年を感じる
最も時代から取り残されたことを実感させられたのが、これかもしれない。音声出力の光端子(S/PDIF)が標準装備されるのはありがたい。いまどき当たり前か?nVidiaのドライバは、なんで32bit版が入ってんだ?ということで64bit版に変更。DVDを再生しながら多少作業してもコマ落ちしない...Codec側に仕掛けがあるのかなぁ?
こりゃええわ!でも、ちょっと足回りが気になる。サウンドカードにこだわってもよかったか。ビデオカードにもこだわるべきだったか。しまった!Officeの値段でそれぞれグレードアップできた。ここでも祟るか厄数2007...
アルバムに登録しておけば、いちいちCDを棚から取り出さなくていい。利便性は肉体を衰えさせるのか。取り込みの速さもええ!煙草1本吸っている間にCD5、6枚はいける。「コピーガード規定を了承するか?」と聞かれるが、データを移植する気はないので素直に従う。ただ、他のマシンで再生すると、どんな仕掛けが待ち構えているのか気になる。なるほど、ライセンスが要求されるのかぁ。んー...これ以上は沈黙!
パソコンでマルチメディアなんて、いまいち気が乗らなかったが、マシンがこれだけ静かだと意識が変わりそうだ。むかーし、聞いていたCDをひっぱりまわしていると、古い記憶が蘇る。なにしろ、アンプは山水、スピーカはDIATONE...システムはバラで...なんて言ってた世代である。新人時代、職場には真空管アンプを自作したと自慢する先輩がごろごろしていた。今では、TRiOのアンプKA990はいまだ現役だ!なーんて話をしていると、どこの国のメーカですか?と聞かれる始末。電子部品がへたってきて熱が入らないと調子が悪いが、なんとか誤魔化し誤魔化し25年になる。だが、このエンブレムは捨てられん。ナカミチのデッキは、もう死んでるだろう。当時、ブランド名がなくなるという噂を嗅ぎつけると、価格が暴落するタイミングを狙って徹夜で並んだものだ。新しいものを導入すると、古き時代が蘇るとは...精神とは奇妙なものである。

2010-04-01

「勝ち逃げの死神」と呼ばれた雀士

オケラのアル中は、ドスの利いた声でつぶやいた。
「一人勝ちするのは悪い奴!これが、ハコテンの美学というものさ!」

鏡の向こうの住人に、「勝ち逃げの死神」と呼ばれた伝説の雀士がいるという。いつも赤い顔しながら「ああ気持ちええ!」とつぶやくのだそうな。滅多に出会うことができないのだが、今日四月一日、偶然そこを通りかかった。桜祭りに招かれて夜の社交場へ向かうところらしい。そこで、ドサクサに紛れてインタビューを試みた。その、しつこく!まったり!とした言葉を、脂っこく!記述してみよう。

勝ちたいという欲望が、負けたくないという恐怖を掻き立てる。欲望と恐怖は人間の持つ本能であり、そこから逃れることはできない。本能が故に、相手との距離をはかり、間合いはかり、そこに駆け引きが生まれる。恐怖心とは、防衛本能であり、それすら呑み込む力、それが相手に無気味さを与える。つまり、勝負とは、恐怖心のやりとりに他ならない。
となれば、恐怖心を凌駕する方法は、精神を無心、無我の境地に置くしかあるまい。そして、本能のままに、その瞬間を楽しむ快感と喜びを養うことが肝要となる。自分の能力を信じ、迷いを払拭できれば、自らの行動に恐怖を感じることはない。いや!純粋な恐怖を感じることができると言った方がいい。純粋な恐怖は、脂ぎった欲望の裏にある恐怖とは異次元にある。勝負に集中する純粋な精神に、脂ぎった欲望の入り込む余地などないのだ。無意識無想となれば相手に隙を与えない。その狂気こそ無気味の正体である。
博奕打とは、楽をしながら金儲けをする人種である。そのために、情報収集に努め、敵を知り、己の技を磨く奇妙な人種でもある。怠惰を求めるが故に、勤勉に辿りつくというわけさ!

1. 博奕の法則
人間は、理は避けられても、偶然は避けられない。となると、偶然をも味方にすれば無敵となる。合理性は、個人の経験によって育まれる。すなわち、合理性とは、個人の持つ哲学的思考である。相手にとっての不合理性は、こちらにとっては合理性となる。勝負を仕掛けるならば、相手の合理性では計れない領域に誘い込むことだ。相手の思考回路を狂わせるとは、神経戦で精神の風上に立つということである。なんの得もない、ただ無意味に勝負に人生を委ねる。その理不尽こそ博奕の本性!そこには、怠惰を求めて匠を究める精神がある。そうした境地に辿り着いた時、初めて人生の博奕が打てる。
しかし、人間は金が絡むと性格が豹変する。レートが上がれば、勝負の流れを冷静に見極めることができなくなる。すると、精神は、確率論では計り知れない領域へと踏み込む。挙句の果てに、流れを悪くし、自ら蟻地獄へと誘ざなう。博奕とは、賭けるものがあるかないかで、決定的に勝負の性格が変わるゲームである。勝てば賞金が得られるのと、負ければ財産を失うのとでは、プレッシャーの質がまったく違うのだ。失うものがなければ、勝負は単純な能力で決する。だが、失うものが大きければ、純粋な能力を超越した能力が要求される。いくら、相手の手の内が読めても、自分の読みが信じられなくては、既に勝負を降りたことになる。そこには、怯えという防衛本能との葛藤がある。怯えは、精神の論理において最高位にある。怯えに支配された精神は、制御不能に陥る。ここには「負け犬の原理」が働く。つまり、自分の能力に命運を委ねる器量があるかが問われるわけだ。
人間は危機に直面すると、本性を顕にする。人間に完璧な精神力は求められない。完璧な駆け引きなどありえない。もし、完璧な自信に裏付けられる勝負勘があったとしても、それが完璧であるが故に崩れ始めると脆い。もちろん、自らの過信は問題外。強気とは、意地や頑固などではない。それは「強がり」というもので、怯えの裏返しにある。強気の本質とは、流れを読む冷静な判断力である。そこに、博奕のセンスが問われる。
博奕の根底には、人間が生涯に渡って対峙する恐怖心との戦いがある。守るものが大きいほど思い切った行動力が発揮できない。したがって、人生は博奕の最高位にある。

2. 麻雀の原理
麻雀は、先に和了(アガ)ることを競うゲームではない。いかに相手を降ろすかというゲームである。自らのイメージを増幅させた者が勝機を掴む。弱い奴の臭いを嗅ぎつければ、ハイエナのように群がってくる。麻雀とは、神経戦を楽しむゲームである。したがって、打ち筋には人生観が現れる。
打ち筋には、重要な情報とノイズが混在する。その中から重要な情報を嗅ぎ分ける能力と同時に、わずかな偽装情報を絶妙のタイミングで混入させる能力が要求される。これが麻雀のセンスである。勝負の流れを、牌が語りかけてくれる。それに耳を澄まさなければ、はかない誘惑に負け、迷いを見切れず、つい目先の点棒を拾いにいく。麻雀の論理は、一旦流れを失うと、身勝手な合理性に支配され、考えれば考えるほど相手の術中に陥るようにできている。悪い流れで突っ張れば、吸い込まれるように振り込む。これが「絶好のカモの原理」である。
そこで、流れを変える勝負術が必要となる。勝負術で最も重要な前提がブラフだ。それも、単なるブラフでは通用しない。自らの身を削ずるほどの演出がなければ迫力が出ない。まったく採算の合わない愚かな行為に相手は惑わされる。気迫が疑惑を呼び、疑惑が妄想を呼び、妄想が恐怖を呼ぶ。人間は、自分の価値観を完全に超越した不合理性に恐怖を感じる。一度でも場の気配を支配してしまえば、虚もまた実となる。すると、優位な立場にある人間には、安全に打とうとする誘惑が忍び寄る。この誘惑こそ流れを変える好機。一旦流れを呼び込んだら、怒涛のごとく押し潰すのみ。少しでも弱みを見せた相手には、二度と歯向かえないように完膚なきまで叩きのめす。勝負付けは、その場できっちりと済ませておくことが肝要。それで、次の勝負から精神の風上に立つことができる。これが勝負の鉄則である。
麻雀の基本構造は、確率で構成されるように見える。それも間違いではない。だが、賭けるものがあれば心理的要因で構成され、相手の精神を徹底的に捻じ伏せるゲームへと変貌する。牌を狙い撃ちする戦いは、心を狙い撃ちする戦いへと豹変するのだ。そこで、必要となるのが牌の嗅覚と精神の腕力。これは一種の度胸比べにも似た心理があるが、微妙に違う。最終的に、天に身を委ねる度胸を持ち続けられるかが問われる。一度でも精神のバランスを失えば、脆くも崩れ落ちる。
それは、「単騎待ちの原理」が証明している。単に和了(アガ)ることに合理性を問うならば、多面待ちに構えるはず。なのに、わざわざ単騎待ちに構えるのはなぜか?それは、相手に待ちを読ませないための駆け引きである。多くても九連宝燈の九面待ちか、国士無双の十三面待ちだが、単騎待ちは現物以外はすべて当たり牌の可能性がある。スジや牌種による読みは、まったく通用しない。待ちが読めないということは、それだけで相手に恐怖心を植え付ける。恐怖心のやりとりという意味では、これほど合理的な待ちはないというわけだ。
ここには、確率では計り知れない可能性を匂わせば、精神の風上に立てる原理がある。相手の思考を操作するところに麻雀の本質がある。麻雀の原理は、上手い奴が勝つのではない!強い奴が勝つ!

3. 勝ち逃げの法則
振り込めば楽になるという精神こそ肝要だ。死ねば助かるという気持ちが失せた時、勝ちの気配が死んでいく。そして、ただ助かろうとする。これは、博奕で負けが込んだ人間が、最後に陥る思考回路である。こうなると、自ら積み上げてきた合理性はすべて失われる。怯えは、まず、気のはやりや焦りという形で姿を現す。やがて、牌の語りかけが聞こえなくなり、手変わりの気配も見えなくなり、ついには精神のバランスを崩す。勝ち急ぎの気配を見せれば、後は相手のミスをじっと待てばいい。流れが見えれば、見えない振りをするのは簡単であるが、流れが見えなければ、見える振りをするのは難しい。集中力の持続こそ、博奕の生命線。安全に打とうとすると、防御一辺倒となり、完璧に読み切ろうとする迫力が薄れる。おまけに、希望と期待が追い打つをかける。希望ってやつは、危機が迫ると、願望となり、やがて祈りへと変貌する。希望とは弱さであり、期待とはご都合主義に陥ることを意味する。希望や期待は、幻想という形で精神に忍び寄り、精神が錯乱したら、後は地獄へまっしぐら。
相手が恐れるのは、こちらの狂気!だから、先制攻撃で脅しをかけてくる。その反面、脅しがきかなくなると崩れるのも早い。読みが当たったり、シナリオ通りに仕掛けがうまくいっても、その手柄を自慢しては全てが台無しとなる。あくまでも偶然性を装い白痴に振舞う。派手な手を地味に見せる。巧みな技を凡庸に見せる。
迷うから精神の起伏が現れる。迷いとは欲である。和(アガ)りたいという欲、裏をかきたいという欲、勝ちたいという欲、これすべて私欲。私欲の前では目が曇るのみ。欲が大きければ、それに反して、自己矛盾に陥り、自らの退路を狭める。目先の欲を捨て、無我の境地へ到達する集中力をまとわなければ、自我を克服できない。どうせ死ぬなら、強気に打って死ねばいい。常にその揺るぎない精神状態を保つことが鍵となる。これは、「どうにでもなれ!」といった心理に似ているが、無謀とはまるっきり質が違う。博奕の基本精神は、いかに泥酔者の精神が持続できるか、ここに集約される。
認めたくないが、人間は必ず老いる時が来るように、いつかは落ち目が来る。それを冷静に見極めることが肝要。それが引き際ってやつだ。自分の能力が信じられなくなったら、場から降りればいい。そして、伝説の雀士は何かを悟ったかのように雀卓から去ったのあった。これが「勝ち逃げの法則」である。

4. 博奕と市場原理
博奕の法則には、一種の経済学がある。あぶく銭に人生を委ねる点では市場原理に似ている。合理性の根拠を群集心理に求めながら統計学に熱中する。いまや、株式売買でプロとアマチュアの差別化も難しい。ネットが進化した現在では、トレーディングルームを自宅に構築することは容易い。情報格差において、インサイダー情報でもない限り、プロとアマチュアは急速に接近している。
では、どこに違いがあるのか?それは市場への参加を強いられるかどうかの違いである。プロは、他人の資産を運用するために、期限付で成果を出し続けなければならない。株価の上昇局面か下降局面かなど関係なく、常に成果が求められる。だが、経済情勢の複雑化の中で、常に儲かるように仕組むのは至難の業だ。だから、必至に逆ポジションといったテクニックを駆使する。安定した運営を試みるならば、資本力は大きい方がいい。そして、無暗に資金集めに熱中する。だが、資本力が巨大化し過ぎると制御不能に陥り、一旦、負債を抱え始めると後戻りできなくなる。ノーベル賞級のプロ集団でさえ、大規模な破綻は避けられない。逆に言えば、自己資金のみで運営するアマチュア投機家は、彼らよりも精神の風上に立っていると言えよう。リスク局面では静観していればいいのだから。十年に一度の絶好期に市場に参加すればいいぐらいの気持ちでやれば、気楽なものだ。この原理は、博奕の法則に基づいている。あぶく銭を稼ぐための心理構造は、いずれも基本原理は同じである。

2010-03-28

"名画で読み解く ハプスブルク家12の物語" 中野京子 著

前記事の「危険な世界史」にイチコロだったので、著者の作品をもう一冊読んでみることにした。ここでは、名画を鑑賞しながら歴史を眺めるわけだが、肖像画から人間味を暴こうとしたり、血みどろの王朝劇を物語る歴史センスには感服させられる。芸術に疎いアル中ハイマーには絵画の価値はよく分からないのだが、なるほど!歴史物語で武装すれば名画たる所以が見えてくる。ヘタな歴史講義を受けるよりも、はるかにイケてる。中世ヨーロッパ史って、こんなにおもしろかったのかぁ!

学生時代、世界史を学ぶ上で、ハプスブルク家と神聖ローマ帝国の関係には悩まされたものだ。おまけに、数々の王朝を兼任するがために、同一人物でありながら肩書きや名前が異なったりする。カール5世とカルロス1世が同一人物というだけで世界史は嫌になる。カール5世は70以上の肩書きを持っていたという。父フィリップ美公を継いでブルゴーニュ公であり、母方の祖父を継いでスペイン王であり、父方の祖父マクシミリアン1世を継いでドイツ王であり、ローマ王であり、ハンガリー王であり、...もうええっちゅうの!それで、神聖ローマ帝国皇帝としてカール5世、スペイン王としてカルロス1世というわけだ。
そもそも、「神聖」ってなんだ?古代ローマ帝国の幻想でも追いかけていたのか?ヴォルテールは「神聖でもなくローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と皮肉ったという。それが単なる肩書きであっても、ローマ・カトリック教会から明主としてのお墨付きさえもらえれば、全ヨーロッパの最高位に就ける。改めて宗教力の恐ろしさを感じる。ちなみに、ナチスは、神聖ローマ帝国を第一帝国、ビスマルク時代を第二帝国、ヒトラー独裁を第三帝国と呼んだ。
962年オットー1世以来、ドイツ国王が自動的に神聖ローマ皇帝となっていた。しかし、たった一度のビッグチャンスをものにしたハプスブルク家が650年もの間君臨することになる。そのルーツを遡れば、意外にもオーストリアやドイツではなく、スイスの片田舎の一豪族に過ぎなかったというではないか。列強のパワーバランスから偶然転がり込んだ神聖ローマ皇帝の地位、これには歴史の運命を感じざるをえない。その後、周囲の国々と巧みな婚姻外交によって領土を拡大し、その支配権はヨーロッパはもちろん、ブラジル、メキシコ、カリフォルニア、インドネシアにまで及ぶ。一つの王家でこれだけ多くの国の君主を兼任した例も珍しい。それにしても650年はロマノフ王朝300年や徳川250年と比べても凄い!それだけでも継承問題で陰謀めいたものを感じる。
ハプスブルク家には有名な家訓があるという。
「戦争は他の者にまかせておくがいい、幸いなるかなオーストリアよ、汝は結婚すべし!」
ハプスブルク家の血縁の濃さには異様なものがある。王朝が長く続けば、そのプライドも神聖化し、小国の王侯などは不釣合いとされる。名門の出となると、ハプスブルク家同士の血縁から辿るかのように、叔父と姪、いとこ同士、従兄と実妹などで結婚し、長期政権の過程でますます血縁を濃縮させていく。近親相姦のオンパレード。そもそも、カトリックは近親婚を禁止していたのではなかったか?おまけに、不倫、陰謀、ギロチン、銃殺など血なまぐさい話題に事欠かない。あまりの血の濃さかどうかは知らんが、病弱さや変人も登場し、次々と生まれる子供が夭折するといった事態まで起こる。そして、ついに血縁が途絶えた時に王朝は終焉を迎える。これが世襲の定めなのか?

ハプスブルク家と言えば、オーストリア系という印象が強いが、カール5世が隠居した時にスペイン系とオーストリア系に二分される。本書は、予めその題材でスペイン・ハプスブルク家に偏っていると断っている。それも、オーストリア・ハプスブルク家には名画と呼べるものが少ないのだそうな。女傑マリア・テレジアでさえ、価値のある肖像画が残っていないというから、いささか残念である。
宮廷画家がパトロンに媚びるのも仕方がない。肖像画に表れる威風堂々とした姿にも、過度の美化や理想化が現れる。優れた肖像画家を抱えるかどうかだけでも、後世に残す印象は違ってくる。たとえ無能であっても肖像画に誤魔化されて伝説が生まれることもあれば、たとえ有能であっても伝説が残されなければ偉人にはなれない。中でも心を動かされる肖像画と言えば...これに決まっている。おいらはエリザベート皇后にいちころなのだ!エリザベートの時代は、既に写真があったので誤魔化しようがない。なるほど、写真と比べても大差はない。さすが!ハプスブルク家の絶世の美女と謳われるだけのことはある。
ところで、「ハプスブルク家の顎と下唇」という有名な遺伝があるという。確かに、無名画家による「マクシミリアン一世と家族」という絵を観ると異様だ。カール5世は極端な受け口のせいで歯の噛み合わせが悪く、いつも口を開いたままとまで言われるらしい。この優性遺伝が、血族の結婚を繰り返すことによって、極端に歪んだ形で現れることになろうとは...

1. 転がり込んだ神聖ローマ皇帝の座
13世紀、神聖ローマ帝国は群雄割拠の時代。皇帝は世襲ではなく実力者が選挙で選ばれていた。選帝侯たちは20年も帝位を空白にし先送りしていたという。ちなみに、選帝侯とは選挙権のある諸侯。そこへ、しびれを切らせた教皇が指名する。なるべく無能で言いなりになる人物として選ばれたのがハプスブルク伯ルドルフ。選帝侯たちも脅威にならないので喜んだという。
当時、実力ではボヘミア王オットカル2世がいたが、選帝侯たちにしてみれば目障り。やがて、ルドルフとオットカルとの確執が始まり、マルヒフェルトの戦いで激突してルドルフが勝利する。下馬評ではルドルフ不利だったとか。本書は、騎士の様式に反した卑怯な戦法があったか、桶狭間なみの奇襲攻撃が奏功したに違いないと推察している。ルドルフ1世は信長なみの出世をしたのかもしれない。

2. アルブレヒト・デューラー作「マクシミリアン1世」
ルドルフによって強大化したハプスブルク家は、選帝侯たちに警戒される。そして、皇帝位は他家にわたり、安定的にハプスブルク家の世襲となるのに150年かかったという。
15世紀末、ハプスブルク家の英雄マクシミリアン1世が登場する。彼が「中世最期の騎士」と賛えられるのも、ルドルフのような姑息な戦法ではなく、正々堂々と先頭に立って騎士らしく戦ったからだという。「ドイツ人最初のルネサンス人」とも評され、人文主義者や芸術家を庇護し、自分でも詩作したという。現在のウィーン少年合唱団の基礎を創設したのも彼だそうな。デューラーが描いた肖像画には、既に騎士の面影はなく落ち着いた老人の姿がある。本書は、眼光は鋭く策を企む老獪な政治家の顔と評している。
肖像画には、ラテン語で次のように記される。
「史上最大のマクシミリアン帝は、正義と知恵と寛容において、また特にその高邁さにおいて、他のあらゆる王たちに優っていた。皇帝は1459年3月9日に生まれ、1519年1月12日、59歳9ヶ月と25日で崩御した。この偉大なる王に栄光あれ」
マクシミリアン1世は、婚姻外交によってハプスブルク家を安泰させようとする。息子フィリップ美公はスペイン王女フアナと結婚、娘マルガレーテはスペイン王子ファンと結婚。ここに、たすき掛けの二重結婚というややこしい政略があるが、スペインの政情をよく表している。スペインは長らくイスラムの支配下にあり、15世紀になってようやくカトリック教徒が奪還する。フアナは、アラゴン王フェルナンドと、カスティーリャ女王イサベルの間に生まれた。つまり、王と女王の二重支配体制。だから、ハプスブルク家も二重結婚させたわけだ。ただ、その条件に、どちらかの家系が断絶した場合、残された方が領地を相続するという盟約があったという。そして、スペイン王子は結婚式の半年後に突然死、あまりにもハプスブルク家に都合が良すぎる。続いて、9年後にフィリップ美公が突然死、証拠がないとはいえ陰謀としか言いようがない。そして、マクシミリアンの孫カール5世がスペイン王になる。

3. フランシスコ・プラディーリャ作「狂女フアナ」
フィリップ美公とフアナの父フェルナンドが権力抗争中、フィリップ美公は怪死。そして、フアナは遺体とともにスペインの地をさまよう。その葬儀の様子が描かれるこの絵には、フアナの異様な姿がある。彼女は「フアナ・ラ・ロカ(狂女フアナ)」と呼ばれ、夫の死が信じられないのか?復活するとでも信じているのか?防腐処理した遺体とともに長期間彷徨する。遺体をハプスブルク家に奪われるのを恐れて、移動は夜、しかも迂回や逆戻りとでたらめな進行。描かれる付き添い人たちも、呆れ果てた様子がうかがえ、周囲の人々の表情もなんとなく冷たい。居眠りしている者や背を向けている者など、死者への敬意などまるで感じられず、ただ一人フアナだけが悲しみに耽っている様子。フアナは政治的に活躍したわけでもないのに、イサベル女王よりも人気を博したという。女傑マリア・テレジアより、マリー・アントワネットの方が人気があるのと同じように。
美公というからには美男だったのだろう。二人は熱烈な恋をするが、息子が産まれたあたりから疎遠になったという。フアナは夫の浮気に嫉妬した精神不安定が祟る。呪われた彷徨がいつまでも許されるわけもなく、実権を握った父フェルナンドはフアナを幽閉する。プラディーリャは「幽閉中のフアナ」も描いている。いいお婆ちゃんが暖炉でのんびりしている姿は、歴史の物語を知らないと味わえない。幽閉されたフアナがカール5世というスターを産んだように、幽閉されたゾフィア・ドロテアがフリードリヒ大王を産んだ。歴史は繰り返されるとは、よく言ったものだ。

4. ティツィアーノ・ヴィチェリオ作「カール5世騎馬像」
カール5世の頃、神聖ローマ皇帝は暗黙にハプスブルク家の世襲になりつつあったという。そこに、横槍を入れたのがフランソワ1世で、ローマ教皇と共謀して立候補する。おかげで、カール5世は選帝侯たちを買収するために多額の借金をし、それをスペインの重税でまかなったというから不人気になる。両者の戦いはカール5世が圧勝しフランソワ1世を捕虜にするが、解放した途端にまたもやローマ教皇と結託する。怒ったカール5世はローマを攻める。これが悪名高い「ローマ略奪」である。給料のもらえない傭兵たちは、虐殺、放火、強姦などやりたい放題。ローマ人口を三分の一にまで減らしたと言われる。カール5世は、キリスト教の敵トルコやプロテスタントを相手に戦争で明け暮れた。さすがにこの作品には武人としての威厳がある。本書は、兜から鮮やかな赤い房が揺れる姿は、武田騎馬隊のような勇ましさと評している。
絶対主義の時代に、自ら王位を退くなど考えられないだろう。兄弟や親子ですら殺しあう時代である。しかし、カール5世は珍しく自ら退位して修道院に籠もると表明する。それも母フアナが死んだ翌年である。本書は、ローマ略奪やスペイン人によるインカ帝国滅亡など、カトリック教徒として懺悔の心があったのかもしれないと推察している。スペイン王を息子フェリペ2世に、神聖ローマ帝国を弟フェルディナント1世に平和裡に継承する。ここから、ハプスブルク家は、スペイン系とオーストリア系に二分する。

5. ティツィアーノ・ヴィチェリオ作「軍服姿のフェリペ皇太子」
フェリペ2世が君臨したのは、インカ帝国からの略奪、ネーデルランドの弾圧などの黄金時代で、プロテスタント虐殺、事故死、息子殺しと、流血のイメージが纏わりつく。
彼は、4度結婚して、ポルトガル、イングランド、フランス、オーストリアから妻を迎えている。一度目は、ポルトガル王女で難産で死亡。二度目は、イングランド女王メアリー1世でカール5世の命令で結婚する。イングランドでは、カトリック対プロテスタントの抗争が再燃しており、カトリック化を目論んだもの。メアリーは、プロテスタントの反乱者を数百人血祭りにあげる。これが、「ブラッディ・メアリー」の由来で、おいらが好むカクテルである。フェリペは、子が産めないメアリーを見限る。妻を利用して対フランス戦での資金援助を狙ったもので、彼女の葬儀にも出席していないという。なんと!フェリペは次期王女エリザベス1世に内々で結婚を申し込んでいるというから驚きだ。だが、カトリック教徒とは結婚しないと断られたそうな。三度目は、イギリスに敬遠されたので、変わり身早く仇敵フランスのアンリ2世と講和を結び、その娘エリザベートと結婚する。そもそも、エリザベートは生まれて間もなく、フェリペ2世の息子カルロスと婚約していたというから、息子の婚約者を奪ったことになる。おまけに、9年後にカルロスとエリザベートは間をおかず死去したというから、暗黒説が流れるわけだ。ちなみに、ヴェルディの傑作オペラ「ドン・カルロ」は、相思相愛のカルロスとエリザベートが、老王フェリペに仲を引き裂かれ死に至るという物語。四度目は、従兄と実妹との間にできた娘アナと結婚する。次に、スコットランド女王メアリー・スチュアートに密かに接近するが、そのせいでスチュアートはエリザベスから首を刎ねられる。
「スペインが動けば世界は震える、と言われたが、間違いなくフェリペが動けば血が流れたのである。」
フェリペ2世は、処女王エリザベス1世に対しては歯が立たない。ドレークらの海賊行為はエリザベスの支援によるもの。そこで、スペイン無敵艦隊を差し向けるが、アルマダの海戦で敗れた。彼は、拷問、火炙り、生き埋めと、凄まじい異端審問を行うが、カトリックの権威を固守できずプロテスタントの勢いを止めることはできなかった。ちなみに、モンティ・パイソンのジョークにこんなものがあるらしい。
「どんなにひどい目にあおうと、スペインの異端審問にかけられるよりはマシよ」

6. ディエゴ・ベラスケス作「ラス・メニーナス(宮廷の侍女たち)」
中央に幼いマルガリータ王女が描かれるこの作品は、ゴア、ピカソ、マネらを魅了した「絵画の中の絵画」と評されるという。フェリペ4世は、最初フランスのアンリ4世の娘と結婚し、息子パルタザール・カルロスと娘マリア・テレサをもうける。しかし、息子は早死に王妃も亡くなる。そして、血の近いマリアナと再婚するが、次々と子供が夭折してマルガリータだけが残る。そこで、問題となるのが後継者。マリア・テレサはルイ14世と婚約していたのでマルガリータしかいない。そこへ、マリアナは遅ればせながらカルロス2世を産む。これがハプスブルク家にとって凶だったという。まだしも、マルガリータが王女になっていた方が、王朝は延命できていただろうと。カルロス2世は「呪われた子」と呼ばれたという。あまりにも濃縮された血によって後継ぎが生まれない。おまけに、見た目からして病人。スペインの財産を、フェリペ3世、フェリペ4世、カルロス2世が食い潰す。しかし、王朝は無能続きだからといって簡単に亡ぶものではない。確実に亡ぶのは後継ぎがいなくなった時。ついに、スペイン・ハプスブルク家は、そういう事態に直面する。オーストリア・ハプスブルク家は、カルロス2世が死ぬのを待ち構えていた。同じくスペインと婚姻関係にあるフランスも虎視眈々と狙っていた。そして、13年間のスペイン継承戦争の後に、王冠を手にしたのはブルボン家である。以降、ハプスブルク家は永久にイベリア半島から撤退することになる。

7. ジュゼッペ・アルチンボルド作「ウェルトゥムヌスとしてのルドルフ2世」
一方、オーストリア・ハプスブルク家では、多民族を束ねる困難が付きまとう。ボヘミアやハンガリーを支配下に治めても、常に独立の機会をうかがっている。オスマン・トルコとの攻防が続き、宗教改革でプロテスタントが目障りでしょうがない。兄カール5世から神聖ローマ帝国を継承したフェルディナント1世はプロテスタントと戦ったが、その息子マクシミリアン2世は信仰の自由を認めた。マクシミリアン2世の妻はカール5世の娘で、こてこてのカトリック教徒なので、夫婦仲が良いはずがない。その反目する両親の子ルドルフ2世は、ハプスブルク家で群を抜いた変わり者だったという。それは、アルチンボルドに描かせた肖像画を観れば一目瞭然。アルチンボルドは、動植物、野菜、果物、魚介類などを緻密に組み合わせて人間の顔に見立てた「合成人面像」で知られる。この作品を肖像画と言っていいのか?分からんが、パロディとしか言いようがない。普通なら処罰されそうな作品だが、わざわざルドルフ2世が依頼したものだという。ちなみに、「ウェルトゥムヌス」とは、季節を司る植物の神のことらしい。「ウェルトゥムヌス」は変身能力を持ち、農民や植木職人や葡萄摘みや兵士や釣り師などに、自在に姿を変えるという。この絵には、洋梨、葡萄、さくらんぼ、桃、林檎、イチゴ、カボチャなどで顔の部位が描かれる。林檎ならば知恵、葡萄ならば喜び、玉ねぎならば不死、百合ならば清浄、といった解釈ができるそうだが、その意味は現在でも完全には解明されていないようだ。ルドルフ2世は、女性嫌いでもないのに、結婚せず世継を残さない。政治にも関心を持たず、城に籠ったオタク。奇人でありながら、最高の教養人だったという。大航海時代を反映して、美術品、異国の動植物、宝飾品、古代遺物、外国の貨幣など、新奇で珍奇なものの収集家で博物学の先駆者だという。当時、天文学と占星術は同列にあり科学と迷信が混在した時代、ルドルフ2世は占星術師としてケプラーを庇護したという。後を継いだ従弟フェルディナント2世は、三十年戦争に導いている。カトリック対プロテスタントの最大にして最後の宗教戦争は、ドイツを荒廃させ、ハプスブルク家はブルボン家に敗れ、フランスの優位性が確定する。この戦争で、ルドルフ2世のコレクションはかなりの部分が破壊され散逸したという。

8. エリザベート・ヴィジェ=ルブラン作「マリー・アントワネットと子どもたち」
「赤字夫人」と呼ばれるマリー・アントワネットは贅沢三昧。おかげで反オーストリア派の格好の餌食となる。女盛りの32歳を描いたこの絵には、王妃の美しさと愛らしい子供達たちの姿がある。だが、当時この絵は人気がなかったらしい。憎まれ役の王妃は優しく家庭的なイメージをアピールして悪評を揉み消そうとしたが、単なるプロパガンダと見なされたという。ただ、アントワネットの表情も虚ろで、あまり幸せそうな印象を与えない。幼児ベッドには無人、ここに寝ているはずの次女が亡くなったばかりで、悲しみの王妃を表しているという。しかし、今更オーストリア女に同情する余地はなかった。その二年後、ルイ16世とアントワネットはギロチンで斬首される。
「ときおり芸術家が、世界を包括するような大きな題材のかわりに、一見小さな素材を取り上げて自らの創作力を証明するように、運命もまた、どうでもいいような主人公をさがしだしてきて、もろい材料からも最高の緊張を生み出せることを、また弱々しく意志薄弱な魂からも偉大な悲劇を展開できることを、わざわざ証明してみせることがある。そのような、はからずも主役を演じさせられることになった悲劇のもっとも美しい例が、マリー・アントワネットである」
...シュテファン・ツヴァイク著...

9. トーマス・ローレンス作「ローマ王(ライヒシュタット公)」
ジョージ3世の宮廷画家トーマス・ローレンスは、モデルを実際よりも魅力的に描く達人として、王侯貴族から人気があったという。フランス革命直後、フランツ2世は、「コルシカの成り上がり者」と見下したナポレオンに神聖ローマ皇帝位を放棄させられる。ナポレオンは、愛妻ジョゼフィーヌに子が産めないことで離縁し、新たな王妃として王家の王女を物色していた。そして、フランツ2世の娘マリア・ルイーズに目をつけるが、もはやフランツ2世に逆らう勇気はない。敗戦国の憐れなプリンセス、それだけでもルイーズに人気があってもよさそうなものだが、人受けが悪いという。美人でなかったのもあるが、鈍感さと冷淡さによる無神経さが祟ったようだ。
ナポレオンとの間にできた子ライヒシュタット公は、生まれてすぐにローマ王の称号を得る。その4年後、ナポレオンはエルバ島に流され、母子ともにハプスブルク家に出戻りするが、ライヒシュタット公は憎き敵の実子で邪魔な存在。フランス語を使うことを許されず、宮廷の外へも出られない囚われの身となる。ナポレオン2世と呼ばれた彼は、父ナポレオンを崇拝していたという。

10. フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター作「エリザベート皇后」
フランツ2世亡き後、政治能力がなく、世継を残すのが無理とされる人間が扱いやすいという宰相メッテルニヒの意向で、フェルディナント1世(300年前の先祖と同名)が継ぐ。だが、メッテルニヒへの批難が大きくなり、メッテルニヒは一旦イギリスへ亡命。一緒にフェルディナント1世も退位。その後継者にカール大公で決まるはずが、その妻ゾフィが反対したという。この愚物を皇帝にしたら、ハプスブルク家が滅亡するからと。そして、息子フランツ・ヨーゼフを帝位に就ける。ただ、ゾフィの判断は当たったという。ヨーゼフは、フランス二月革命が飛び火したウィーン三月革命を収束させ、ハンガリー蜂起も鎮圧した。そして、戻ってきたメッテルニヒを政治顧問にして、在位68年の長期政権となる。
ヨーゼフはバイエルン公国の王女ヘレーネと縁組したが、対面の場であろうことか、その妹のシシィことエリザベートに恋をする。その美貌からして無理もない。母ゾフィに従順な彼はこの一度だけ反抗したという。宮廷生活に慣れないエリザベートはハプスブルク家のしきたりに合わず、壮絶な嫁姑戦争が勃発したという。ちなみに、エリザベートの肖像画の美しさは完璧だ!本書は、内面や人生の空虚さを埋めるために、際限なく外見を磨かずにはいられなかった痛々しさを感じると評している。美は偉大である。職場放棄した彼女だったが民衆の人気は揺るがない。しかし、美は時には仇となる。若さを失っていくと、彼女は人前に顔をさらすのを極端に嫌い、当時すでに存在していたパパラッチを避けていたという。そんな時「マイヤーリンク事件」。息子ルドルフは母から引き裂かれゾフィに育てられる。彼は母の愛に飢えていたという。そして、マイヤーリンクの狩猟館で、男爵令嬢とピストル心中。エリザベートは喪服姿で放浪するが、その途中イタリア人アナーキストに暗殺される。その動機は王族なら誰でもよかったというものらしい。
帝国の終焉は間近に迫る。イタリアを失い、プロイセンに敗れ、統一ドイツから排除される。残るは、オーストリア=ハンガリー二重帝国。フランツ・ヨーゼフが後継者に指名したのが、甥フランツ・フェルディナント。しかし、サラエボでセルビア人に暗殺され、第一次大戦の引き金となる。実質上、ハプスブルク家の最後の皇帝がフランツ・ヨーゼフとなる。

11. エドゥアール・マネ作「マクシミリアンの処刑」
フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアンは、兄が幼少期から帝王学を学ぶ影で不満を持っていたという。彼はベルギーの王女シャルロッテと結婚、夫婦ともに野心家でプライドが高かったという。そこへ、ナポレオン3世はメキシコ皇帝にならないかと誘う。ナポレオンの甥ルイ・ボナパルトで、マルクスが、その著書「ルイ・ボナパルトとブリュメール18日」でイカサマ師と蔑んだ人物である。これには母ゾフィが反対する。ナポレオン3世を「嘘つきメフィスト」と信用していないからだ。しかし、マクシミリアン夫婦は皇帝という地位に誘惑されてメキシコへ赴く。既に、メキシコはアメリカの圧力を受けて、イギリスとスペインが撤退しており、フランスだけがなんとか植民地化を諦めないでいる。現地へ到着したマクシミリアンには、ほとんど政治的権限はなかった。しかも、劣勢と見るや、マクシミリアンと義勇兵を残してフランス軍は撤退し、その地で銃殺される。この絵には、その時のナポレオン3世の悪党振りが告発されているという。実際に写真も残っているから逃れようがない。描かれる銃を撃つ兵士たちの軍服は、フランス軍のものに似ている。おまけに、とどめの弾丸を込めている赤い帽子の男はナポレオン3世に似ているという。これは、ナポレオン3世に騙された姿を描く風刺画なのかもしれない。

2010-03-21

"危険な世界史" 中野京子 著

宣伝文句には、「毒が強すぎてクセになる激烈エピソード100」とある。歴史的人物たちのスキャンダル!歴史をこういう角度から眺めてみるのも悪くない。ただ、著者が女性というと、こってりした恋愛もののイメージが強く、歴史ものには合わないような気がして少々躊躇してしまう。
ところが、どうしてどうして!毒舌とユーモアたっぷりの文面は、皮肉と解釈すべきか...どこまでが真実で、どこから冗談なのか?その境界が絶妙!歯切れの良さとリズム!ファンになりそう。

時代は17世紀から19世紀あたり、マリー・アントワネット前後100年を物語る。あらゆるエピソードに、アントワネット生誕何年前とか没後何年と補足される。そして、平気で時代が前後するので、目が回るかと思えばそうでもない。その構成が逆に緊張感をほぐし、ストレス解消にええから不思議だ。いつの時代でも、政界の陰謀や策略はつきものだが、その上に宗教改革以降の思想転換や、科学の進歩といった激動期も重なって話題には事欠かない。18世紀になると、医学界では人体解剖の関心が高まり、絞首刑の死体だけでは不足し、医学用の死体が売買される。無断で墓地から死体を掘り返す「復活屋」が現れたり、騒ぎ立てる遺族のいない浮浪者や売春婦や孤児が狙われ殺人が蔓延る。もはや、需要と供給の関係に憑かれた人間の欲望には限りが無い。本書は、宮廷世界に蔓延る亡霊の類いが、血なまぐさい香りを放ちながら、露骨な権力抗争、愛情の縺れからくる残虐、美徳と悪徳の表裏一体といった人間の本性を暴露する。そして、様々な人物の関わりに運命とも言える偶然性を味あわせてくれる。愛という感情はもっとも素直な分、その原因性から生じる恨みつらみはもっとも醜態を曝け出すというわけか。
人生に影響を与えそうな偶然の出会いや出来事に、運命的なものを感じることがある。まさしく、歴史とは、そうしたものの積み重ねであろう。本書は、「シンクロニシティ(共時性)」という言葉を紹介してくれる。
「いくつかの出来事が偶然に、しかしまるで偶然以外の何かが作用しているかのように、同時に起こること」

ユングは、「因果律とは別の連関で結ばれた心理的並行現象」と定義しているという。たまーに、恥ずかしげもなく「運命の赤い糸」などとロマンチックに語る人を見かけるが、こっちの方が恥ずかしくなる。技術革新が進めば、赤い糸もコードレス化するだろうに。皮肉屋バーナード・ショーは、ある女優から「あなたの頭脳と私の容姿を持ち合わせた子供がで生まれたらステキじゃない?」と暗にプロポーズされ、「私の容姿とおまえさんの頭脳を持った子ができたら、どうんするんだい!」と言い返したという話もあるらしい。
歴史に限らず日常においても、今にして思えば不吉な予兆だったと振り返ることがある。結果的に円満に済めば、ほとんど気づくこともないのだろうが。人間はしばしば不幸を言い当てる。それは幸福の正体を知らないからであろうか。

偉人が吐く言葉には、なんとなく説得力があり意味深長に見えるから不思議だ。「光を、もっと光を!」これはゲーテ臨終の言葉として名高いが、なにも崇高な意味ではなく、単に「寝室が暗いのでカーテンを開けてくれ!」ぐらいの意味だったらしい。後世のゲーテ信奉者が深読みしただけのことかもしれん。
それにしても、歴史上の人物たちの虚像と実像の落差には目を見張るものがある。なるほど、偉人ともなれば演技力も半端ではないというわけか。カメラのない時代、宮廷画家の腕次第で権力者の肖像画の値打ちも変わる。いくら偉大であっても、肖像画が傑作で残されなければ、その威風も伝わらない。逆に、無能な王でも、お抱え画家が天才であれば、威風が残せるというわけか。
「一国を統治する立場になった者は、何を言われてもびくともしない神経をもたないと務まらない。」
そう言えば、ちょっと前に鈍感力を貫いた首相がいた。これも本音であろう。社会を愚痴りながら、無責任を貫く一介の酔っ払いこそが、もっとも幸せに違いない。

1. フランスかぶれの時代
当時、ヨーロッパでは、なにかとヴェルサイユ宮殿に似た宮殿を建てたがり、フランスファッションに憧れるといった風潮が現れたという。各国の王侯たちは、競ってルイ14世の猿真似をし、大王フリードリヒですらパリに憑かれた。ルイ14世を崇めるライプニッツは学術書をラテン語で書いたが、一般書ではフランス語で書いたという。カサノヴァの回想録もフランス語だそうな。フリードリヒ大王からポツダムへ招待されたヴォルテールは、こうもらしたという。
「ここはフランスです。みんなフランス語しか話しません。ドイツ語は兵士と馬のためにあるだけです。」
ドイツ宮廷では、フランス語ができないと出世できなかったという。上流階級でフランス語を話せない人はいなかったが、ドイツ語を話せない人間はいくらでもいたんだとか。ロシアの状況も同じで、片田舎の地主ですら子供にフランス語を習わせたという。ちなみに、貴婦人が母国語で恋を打ち明けたことがないんだとか。
なんとなく日本人の英語コンプレックスと重なる。英語が苦手な親ほど、子供に幼少の頃から英語漬けにしたがるという話を聞いたことがあるが、ほんまかいな?パソコン教育にも似たような状況がある。学校でパソコン教育があるというが、何を教えるんだろう?使うだけならパソコンは道具に過ぎないが、コンピュータ工学でも教えるのか?携帯を使いこなす方が、よっぽど難しいと思うが...昔のそろばん教育のようなものか?ガキに道具を与えておけば数ヶ月で習得する。知人の3歳ぐらいの子は、字も読めないのに勝手に起動してゲームをやった後、きちんとシャットダウンさせるらしい。文字を追いかけるのではなく、感覚的にクリックする場所を覚えるそうな。言語も、文学的に探求するなら別だが、普段は伝達の道具に過ぎない。どうも教育の場は、学問と道具の使い分けを間違っているような気がしてならない。人間は恐れに対して過剰に反応するというわけか。

2. マリー・アントワネットと不吉な予兆
マリア・アントーニアが7歳の時、ただ一度ハプスブルク宮廷で6歳のモーツァルトに会っているという。二人の派手な生活と借金まみれ、その最期も共同墓地に埋葬されるなど似たような人生がある。マリアは、ルイ16世との政略結婚でアントワネットと改名。「赤字夫人」と言われる浪費家の彼女は、国家財政を崩壊させて処刑された。彼女には、結婚の悲劇を予感させるような出来事がいくつかあったという。オーストリアからフランスに贈られたゴブラン織の絵が、ギリシャ神話の王女メディアという最悪のテーマ。ちなみに、メディアは裏切った夫との間の子供を殺し、夫の新婦も殺したとされる。この贈り物の背景には、無神経なお役所仕事があったという。その証人がゲーテで著書「詩と真実」に詳しく記されるという。また、結婚契約書にサインする時、インクを落として染みができたり、式典の花火が晴天から突然雷鳴轟く大嵐となって中止になったという。
その100年後、ハプスブルク家150年で最高の美女と謳われたシシーことエリザベートの結婚式の時も、馬車から降りようとした瞬間、彼女の頭を飾っていたティアラが転がり落ちたという。これも、不幸な結婚生活と暗殺を暗示していたのか?
更に、オーストリア大公フランツ・フェルディナントは、狩猟で白いアルプスカモシカを撃った。「神の使いなので殺した人間は一年以内に死ぬ」という周囲の忠告を無視して。そして翌年、サラエボでセルビア人青年に暗殺されて、第一次大戦の引き金となった。

3. どんな病気にも瀉血
マリー・アントワネットは出産の時、部屋の蒸し暑さとストレスに耐えかねて失神したという。その時、侍医が脚の血管から血を抜き、しばらくして王妃の意識が戻ったので人々は安堵したという。これが、人類最古の治療法の一つと言われる瀉血療法である。長らくヨーロッパでは、病気になると血が腐敗するので人為的に体外へ出せばいいという考えがあった。この療法は中世で占星術と結びつき、瀉血カレンダーまでもが出回ったという。そして、外科医の前身である床屋が瀉血を受け持ったという。聴診器を発明した病理学者ラエネクは、肺結核の喀血を防ぐのに瀉血を推奨したことでも知られるそうな。瀉血の方法では、切開して静脈から血を抜く方法だけではなく、ヒルも使われた。現在でも、血行を助けるためにヒルを使う例を聞いたことがある。ちなみに、アル中ハイマーは、たまーに血を抜くと新たな血が生成されて循環がよくなるような気がする。なので、年に2、3回献血しているのだが、単に看護婦さんから血を抜かれるのを喜ぶMという噂もある。

4. 太陽王ルイ14世のコンプレックス
ルイ14世は4歳で即位し、ヨーロッパ史上最長の72年間フランスに君臨した。ただ、身長160センチそこそこ。ハイヒールを履いたり、17歳からかつらを付けて偉丈夫ぶりを演じる。おまけに、羽飾りの帽子までかぶる。寝る時もかつらを取る姿を臣下には見せなかったという。本書は、「太陽王にしてこのコンプレックス!」と賛える!

5. ナポレオンに翻弄された人々
ナポレオンが王よりも偉大な人民の皇帝となった時、交響曲三番に取り組んでいたベートーヴェンは、次のように吐き捨てたという。
「彼もだたの人間に過ぎなかった。これからは己の野心のため、全ての人権を踏みにじり、専制君主となろう」
そして、「ボナパルト」という題名を消して、「シンフォニア・エロイカ(英雄交響曲)」と名付けた。ナポレオンは、政略的に親族たちを王侯貴族に取り立てた。マルクスは著書「ルイ・ボナパルトとブリュメール18日」で、ナポレオンの甥を英雄の猿真似と評した。ナポレオンがエルバ島を脱出しパリへ進軍中との報は、全ヨーロッパを震撼させる。新聞も態度を一変させ、「コルシカの怪物」と罵っていたのが、「皇帝陛下パリへご帰還」と英雄に仕立てる。ルイ18世も慌てふためいて亡命。そこに、ジャン=ピエール・コルトーという彫刻家を紹介している。彼は、アカデミー・ド・フランスからナポレオンの全身像の制作を依頼されたが、途中で失脚したので、ルイ18世像に変更させられる。そこへ、ナポレオンの脱出騒ぎ。コルトーは、またまたナポレオン像の続きを命じられる。しかし、百日天下に終わってセント・ヘレナへ流刑となり、またまたルイ18世像に方向転換。いい加減にせい!と言ったかどうかは知らんが、大サロンに設置されたルイ18世像の出来はあまりよろしくないとの評判だそうな。

6. フリードリヒ大王の大ファン
フリードリヒは、各国の王侯たちの憧れでもあった。小国プロイセンを短期間で強国に押し上げ、軍事的外交手腕を見せつける。その一方で、詩作、作曲、演奏、哲学を書すなど精神的魅力もあり、啓蒙的専制君主のリーダー的存在である。オーストリア継承戦争でマリア・テレジアは大王を憎むが、なんとその息子ヨーゼフ2世は大王に憧れたという。ちなみに、テレジアの大王に対する恨みはカール6世の残した詔書からきているようだ。それは、豊臣秀吉が、我が子可愛さに五大老五奉行に繰り返し誓詞を書かせたのと同じで、詔書を無視して大王がオーストリアに軍事行動をしかけたわけだ。ただ、不倶戴天の仇になる前、テレジアと大王は政略結婚させられそうになったことがあるという。テレジアはハプスブルク家では珍しく恋愛結婚した。だが、もし実現していれば、ナポレオンの出る幕はなかったかもしれないと仄めかす。
ここで、もっと強烈な大王ファンを紹介している。ピョートル3世が即位した時、ロシアとプロイセンは七年戦争の真っ最中。前エリザヴェータ女帝が、フランスのポンパドゥール夫人と、オーストリアのマリア・テレジアと組んで三方から攻める。本書は、女性ばかりの攻撃なので、「ペチコート作戦」と呼んでいる。ところが、ピョートル3世は大王の肖像画に跪いたり、プロイセン式軍服を着るなど熱烈な崇拝者。彼は、エリザヴェータ女帝が崩御すると、プロイセンと講和を結び、軍事援助を申し出る始末。大王が敗戦濃く自殺を覚悟した時、ピョートル3世による援助は奇跡としか言いようがない。大王は「ツァーリ(ロシア皇帝)は神のごときお人です」と礼状を書いたという。人生最大のピンチを乗り切ったフリードリヒは、ますます国を強化して名声を轟かせる。一方、ピョートル3世は、この間抜けな皇帝では国の行く末が危ういと見て奥方に暗殺される。その奥方こそ!エカテリーナ女帝という巡りあわせ。

7. だんだんよくなるプロイセン遺伝子
「売り家と唐様で書く三代目」という川柳がある。初代で苦労して財産を残しても、三代目にもなると没落して家を売りに渡し、その売り家札の筆跡は中国風で洒落ているという意味。つまり、遊芸にふけって、商いの道をないがしろにする人を皮肉ったもの。歴史においても三代目が体制の鍵を握るとはよく言われる。本書は、世代が進むごとに出来がよくなる珍しいケースを紹介している。初代のフリードリヒ1世は、ブランデンブルク選帝侯の地位には満足できず、ハプスブルク家からプロイセン王という名目だけの地位を買った。無能な彼はそれで満足して贅沢三昧、ルイ14世の宮廷生活を猿真似して終わる。こうした父を眺めながら息子フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、一変して質実剛健を旗印にし「軍人王」と呼ばれる。しかし、音楽や文学といった教養を無意味と切り捨てた。質素、倹約、粗野な父にうんざりした息子フリードリヒ2世は、文武両道を具えた偉大な啓蒙君主フリードリヒ大王となる。こうしてみると、反面教師という遺伝子が受け継がれているようだ。

8. ピョートル大帝は分裂病か?
ロマノフ王朝五代目ピョートル大帝は、織田信長をスケールアップしたような独裁者にして改革者だという。領土拡大戦争と反対派弾圧で血みどろの政策、それと同時に近代化を推進したことでも知られる。彼は、ヨーロッパから多くの学者を招き、その中に数学のベルヌーイ一族や巨匠オイラーもいた。その一方で、正妻を修道院へ閉じ込めたり、息子に死刑を言い渡すなど分裂的な振る舞いもある。ヨーロッパの外遊では、一兵卒ミハイロフとして偽名で変装して一行に紛れたという。だが、身長2メートルもあるので誰が見てもバレバレ!歓迎する側も困惑して影武者にも挨拶するという気の遣いよう。彼は、「双子座生まれの二重人格者」と呼ばれるらしい。当時、太陽王ルイ14世を真似る王侯が多い中、その変人振りが逆に魅力があったと評されるという。

9. エカテリーナ2世の細い細い運命
ゾフィは、細い血縁を辿って、大ロシア帝国皇太子妃へと導かれたという。ピョートル大帝が急死し、権力抗争の中で、次々に5人の皇帝が即位する。まず、ピョートル大帝の後妻エカテリーナ1世、次いでピョートル大帝の先妻の孫、異母兄の娘、異母兄の曾孫、後妻の娘エリザヴェータと続く。そして、エリザヴェータに子がなかったために、姉の息子である甥を後継者に指名。ついでに、妃候補に甥の父方の遠縁にあるゾフィが選ばれる。ゾフィは美貌を誇る女帝の試験を受け、美しくないという理由で気に入られたという。彼女はエカテリーナと改名させられ、遊び惚ける夫を尻目に勉学に励み、女帝から嫌われぬように目立たぬように振舞い、密かに野心を育み貴族や軍隊を味方につけたという。そして、女帝が亡くなり夫が即位すると、愛人を妻にしてエカテリーナを排除すると知って先制して夫を殺す。ちなみに、その死は脳卒中と公表されたという。こうして、ロシア人の血縁ではない新女帝が、34年間に渡って君臨することになる。しかも、ロシア歴代皇帝のうちで畏敬をもって「大帝」と呼ばれるのは、ピョートル大帝とエカテリーナ2世の二人だけだという。

10. 不人気ナンバーワンのジョージ1世
国民の不人気ナンバーワンのイギリス国王と言えば、ジョージ1世だそうな。彼は、絶世の美女と名高い妻ゾフィア・ドロテアを北ドイツの古城に32年間も幽閉したという。かつて、ジョージ1世の母は天然痘で顔が醜くなったという理由で、ドロテアの父から婚約破棄されていた。おまけに、ジョージ1世はマザコンという噂もあるから、昼メロにでてきそうな設定だ。寂しいドロテアはスウェーデン貴族ケーニヒスマルク伯爵と駆け落ちの約束をする。だが、伯爵は行方不明となり、後に死体で発見される。そして、ドロテアは飼い殺しの運命となる。国民がろくに英語の話せない新王を嫌ったのは、この王妃への酷い仕打ちが最大の理由だという。ちなみに、ドロテアの娘は同名でフリードリヒ・ヴェルヘルム1世と政略結婚させられる。そして、二人の男子を産むが、次々と早死にし、三男だけは乳母まかせにせず自ら育てる。その子は母親譲りのフランスかぶれのため、父親から軟弱者と罵られたという。その子が、偉大なるフリードリヒ大王である。
ところで、神聖ローマ帝国ハノーヴァ選帝侯ゲオルク、このドイツ人がイギリス国王ジョージ1世となったのは、前王女アンに世継がなかったからだそうな。母方がイギリス王室の遠縁にあるのと、本人がプロテスタントということでの即位ということらしい。だが、アンは17回か18回か妊娠しているという。これほど死産流産を繰り返した原因は不明のようだ。アンは「ブランデーおばちゃん」と渾名されるほど酒好きだったという。アル中が祟って、身長が低いうえに激太りのため、なんと!棺は正方形だったとか。ほんまかいな?

11. 「着衣のマハ」と「裸のマハ」
スペイン史上最悪の王妃マリア・ルイサは、恋人マヌエル・ゴドイを見初めると、夫カルロス4世公認の不倫相手にしたという。しかも、宰相の地位まで与えるが、ゴドイは次々と愛人をつくる。当時、スペインは激しいカトリック国で裸の絵はご法度であったが、ゴドイは隠し持っていたという。ナポレオンの侵攻で家宅捜索された時に発見された有名なゴアの「マハ」の二枚の絵は、ゴドイの愛人がモデルだったとか。普段は「着衣のマハ」が飾られ、回転させると「裸のマハ」になる仕掛けだそうな。この裸体画が問題となって異端審問に問われるが、王妃とともに国外逃亡する。

12. 第九の呪い
ベートーヴェンが第九を完成させた時、ウィーンではロッシーニのイタリア・オペラが流行っていた。新聞も、モーツァルトやベートヴェンはもう古いと評したという。機嫌を悪くしたベートーヴェンは、第九はプロイセン王に献呈し、初演はベルリンで行うと宣言。慌てたウィーンの貴族たちは、初演の名誉をウィーンの都に与えてくれるように署名運動したという。ベートーヴェンは了承したが、自分で指揮すると言い張る。だが、彼の難聴は完全に聞こえなくなっていた。そこで、二人の指揮者で演奏することで妥協する。楽団員はもう一人の指揮者の指示に従い、ベートーヴェンの指揮は無視され、どんどん曲と動作は離れていったという。その演奏後、彼は三年足らずで世を去る。以来、大作曲家は交響曲を九作書くと死ぬという「第九の呪い」が囁かれるようになったという。なるほど、ブルックナー、ドボルザーク、ヴォーン・ウィリアムズなど、呪われた作曲家は多い。マーラーは、第九交響曲を交響曲と呼ばず「大地の歌」と名付けたが、十番目の交響曲を作曲中に病死。シベリウスは第八を書き終えた段階で楽譜を焼き捨て、そのお陰で長生きしたという。

13. さまようハイドンの頭蓋骨
ハイドンがコンサートツアーに出かける時、モーツァルトが「英語もできないのに大丈夫ですか?」と心配すると、彼は「わたしには音楽という共通語がある」と答えたというエピソードは知られる。彼の交響曲集「ザロモン・セット」の第六番ニ長調は「奇蹟」と呼ばれるという。イギリス公演中、聴衆がハイドンの指揮ぶりを間近で見たくて椅子を勝手に前へずらすと、突然巨大なシャンデリアが落下した。もし、椅子を移動していなければ大惨事になっていた。そこから「奇蹟」と呼ばれるらしい。幸運に恵まれたハイドンだが、頭蓋骨は不幸な彷徨をしたという。死後11年目に別の墓地へ埋葬しなおすことになって、棺を開けると頭蓋骨が消えていた。当時、骨相学が流行っていて、犯人は頭蓋骨研究者で、見せびらかすために居間に飾っていたという。その後、人手を転々とし、150年近くも頭蓋骨だけさまよい続け、ようやく墓場に戻されたという。ところで、戻された頭蓋骨は本物かいな?DNA鑑定なんて時代じゃないだろうに。

14. 早すぎる埋葬
キリスト教は基本的に土葬である。そこで、奇妙な現象を紹介してくれる。埋葬場所を移すために掘り返すと、遺体の腐敗が遅かったり、棺の中で遺体の位置が変わっていたりと。また、顔を恐怖に歪ませ、爪が血まみれだったこともあるという。つまり、埋められた後に蘇生して、苦しんで死んだ様子がうかがえるわけだ。こうした現象が、吸血鬼伝説を盛り上げる。エドガー・アラン・ポーは、小説「早すぎる埋葬」で、「まだ生きているうちに埋葬されるのは、疑いもなくこの世の人間の運命のもっとも恐ろしいもの」と記したそうな。サディズムで知られるサド侯爵は、この早すぎる死を恐れ、晩年ホテルのベッドで「死んでいるように見えますが、死んではいません」というメモを置いたという。ジョージ・ワシントンも「絶対三日間は墓に入れないでほしい」と秘書に残したという。現在では、棺に本人の愛用した携帯を添えるという話も聞く。電波が届けばなんとかなりそうだが、火葬だったら...?

15. 疑わしいルソーの名声
ナポレオンをはじめルソーの自然崇拝や文明批判に影響を受けた偉人は多い。ルソーは著書「エミール」で全人的教育論を展開している。ところが、この本が出版された二年後、匿名のスクープが出回ったという。彼には愛人がいて5人の子供を産ませたが、名前すら与えず孤児院に捨てたという。これは、ルソーの論敵ヴォルテールが流布したとされるらしい。当時の孤児院は、赤ん坊の場合、初年で三分の二が死んだというから殺すのと大差ない。彼は「告白」で弁明しているという。「エミール」には、「父親としての義務を果たせない者は、父親になってはいけない」とか、「貧困も仕事も、子どもを養育しない理由にはならない」などとほざいているらしい。捨て子が珍しくない時代とはいえ、ルソーの名声があまり傷ついていないのはどういうわけか?だから、酔っ払った天邪鬼は、極端な理想なんぞを掲げる教育者や道徳家という人種をイカサマ師と呼ぶわけだ。

16. 人間公衆トイレ
当時のパリは、トイレの臭いでいちころだったらしい。法律で規制しても、排水の問題で川の汚染は深刻だったという。死体解剖の後、ばらばらにしてトイレに流したりもしたそうな。パリは1830年まで公衆トイレがなく、ロンドンは更に遅れて1852年まで公衆トイレがなかったという。ところで、貴婦人たちは舞踏会でどうやってたんだろう?庭先で...
バケツをもって道端に立つ「人間公衆トイレ」といった仕事まであったというから、パリの優雅なイメージが一遍に吹っ飛ぶ。このあたりは酒を飲みながらは読めない。シラフだともっと強烈かも!

17. カストラート
大浪費芸術が華やかな時代、カストラートと呼ばれる去勢歌手たちが活躍した。アラブや中国の宦官たちとは違って政治的に去勢したのではなく、オペラのためだけに去勢手術を受ける。去勢することによって男性ホルモンの分泌を抑制し、変声期による声帯の成長を人為的に妨げ、少年のままの美しい声を維持するわけだ。ただ、手術の失敗で死ぬケースもある。性(せい)を捨てて声(せい)を取る、まさに命がけの芸術というわけか。したがって、カストラートのなり手は下級階層出身者ばかりだったという。

18. エスカリーナ2世に拝謁した日本人
一介の船頭で大黒屋光太夫という人が、ロシアの宮廷に行った記録が残っているそうな。船員16人とともに江戸へ向かう途中、暴風雨でアリューシャン列島の孤島に流される。彼らは、イルクーツクまで帰国許可書をもらいに行くが、日本語教師にさせられて嘆願書は揉み消される。年月が経って生き残ったのは3人。埒があかないので女帝へ直訴。その苦労話を聞いたエスカリーナは、憐れに思い帰国の手配をした。ところが、日本へ帰国するとそのまま幽閉されたという。本書は、貴重な体験をした人物を生かそうとしない幕府の無能さを嘆いている。そういえば、イラクで人質になって無事に解放されても、自己責任という言葉を浴びせ掛け、世論の餌食になった人達がいた。彼らも独自の人脈や貴重な情報を持っていただろうに、その体験だけでも外務省筋と仲良くなっても良さそうなものだが...その後どうなったのやら...

19. イメージだけが一人歩きするナイチンゲール
ナイチンゲールは、経済白書や保険関係の統計資料を研究し、統計学の草分けとも評されるという。彼女は、舌鋒鋭く誰にも容赦がないので、「足るを知らず怒れる者」との異名をとったという。ただ、彼女は生前から既に伝説的な存在だったそうな。ヴィクトリア朝時代、まだ働く女性が軽蔑される中、意志を貫いて療養所の監督職を得た。その直後、クリミア戦争が勃発。寄付金と個人財産を使って、38人の看護婦をひきつれてトルコへ向かう。新聞は「白衣の天使」ともてはやす。しかし、実際に看護婦をしていたのは、ほんの短期間だったという。高い知力と政治力を駆使して本当に活躍をするのは、それから先のことだそうな。

2010-03-14

"ルイ・ボナパルトとブリュメール18日[初版]" Karl Marx 著

「歴史は二度繰り返す。最初は悲劇として、二度目は喜劇として。」
とは、よく耳にする言葉である。その源泉がこんなところにあろうとは!立ち読みしていて、偶然出会えたことに感激している。本書が「資本論」と並んでカール・マルクスの歴史的名著であることを、今日知った。

「ブリュメール18日」とは、ナポレオンの起したクーデターである。しかし、ここではその甥ルイ・ボナパルトが起したクーデターを題材にしている。それは、クーデターに至るまでのフランス第二共和制を物語るドキュメンタリーといったところか。ちなみに、ブリュメールはフランス革命暦の霧月のこと。
マルクスは、この小規模なクーデターを英雄の偉業の猿真似と皮肉る。そして、ボナパルトをナポレオンの甥という名声だけで権力を掌握した人物と評している。ボナパルトは、ルンペンプロレタリアートを支持基盤として、皇帝ナポレオン三世となって独裁を確立した。ルンペンプロレタリアートとは、労働者階級でも下級の小作農や貧困層のことで、いわば階級をなしていない階級である。本書は、底辺層から巻き起こる滑稽な世論が独裁者を後押しするという民主主義の弱点を露呈する。これは、甥の事業を英雄の偉業と重ねたパロディと言っていい。マルクスは、ボナパルトをナポレオンの仮面を付けてナポレオンを演じた道化人、あるいはイカサマ師と蔑む。
それにしても、本書に登場する政党名から団体名が、どこぞの国の政治情勢とほとんど一致し、今現在を物語っているかのように錯覚するのはどういうわけか。偉大な歴史は繰り返さなくても、くだらない歴史は繰り返すのか?

90年代初頭、ソ連をはじめとする共産主義体制が崩壊し、マルクス主義は葬り去られたかに思われた。ところが、近年マルクスが見直される動きがある。当時、共産主義や社会主義の存在が、民主主義や自由主義の暴走を防ぐ役割を担っていたと見ることもできるかもしれない。だとすれば、いまやその抑制を自己解決に求めるしかない。そこで、マルクスが注目されるのだろうか?歴史的にみて社会主義という言葉はあまり良い印象を与えない。平等という名の元で合法的に搾取が行われ、自由を迫害するイメージがある。単に労働者の自由を訴えただけで、反体制論者や政治犯として裁かれるといったことは、多くの国々で経験している。未だに、社会主義的な政策を「アカ」と叫び、共産主義化するのではないかという懸念が根強くある。
一方、資本主義経済は、資本をフィードバックしながら、その反復原理によって自己増殖するシステムである。言い換えれば、投資循環が経済の生命線と言えよう。物を作り続け、革新的精神を休ませることは許されない。そう、まさしく自転車操業システムを強迫観念まで押し上げている。いや、資本主義に限らず、人間が生きること自体が、自転車操業に象徴されるのかもしれない。本来、人間にとって必要なものは物品である。なのに、貨幣という流通のための代替物が発明されてから、存在を無へ、無を存在へと価値観を変えた。まさしく資本主義は空虚な証券価値によって構成される。証券価値は、巨大インフレによって瞬時に百倍にも千倍にも暴落させた例がある。人間社会は、存在の社会から無形化社会へと歩みを続け、更に技術革新によって証券すら電子化され、ますます仮想化へと突き進むかのように映る。人間は、幻想化の過程で無形化の本質へ迫り、ついには精神の虚しさを悟るのであろうか?
マルクスは「資本論」で、貨幣で構成される幻想システムを解明しようと試みた。「資本論」が経済の観点から空虚に迫ったと解するならば、「ルイ・ボナパルトとブリュメール18日」は、政治の観点から空虚に迫ったと解することができそうだ。マキャヴェリは「君主論」で、君主は善人である必要はないが、善人に見えなければならないと述べたという。現実に、改革派と自称する輩が、狂人的な保護主義者だったりする。政治家が、自ら歴史上の偉人になぞらえ、行動を美化する滑稽な姿をよく見かける。彼らは、歴史ロマンを夢見ながら幻想を追いかけているわけか。

本書には、初版でありながら、最後に「第二版への序文」という珍しい項がある。そこには、「たんに誤植を訂正し、いまではもう理解できない当てこすりを削除するだけにしておいた」と記される。第二版では、かなりの形容が削られニュアンスも違うらしい。その簡潔ぶりは、かえって奇怪な解釈を生むかもしれないという。初版の方が、文学性があり毒舌も効いていてストレス解消に良さそうだ。

1. 歴史は二度繰り返す
この冒頭からの書き出しは有名だそうな。
「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えることを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。ダントンの代わりにコシディエール、ロベスピエールの代わりにルイ・ブラン、1793~95年のモンターニュ派の代わりに1848~51年のモンターニュ派、小男の伍長と彼の元帥たちの円卓騎士団の代わりに、借金を抱えた中尉たちを手当たり次第にかき集めて引き連れたロンドンの警官!天才のブリュメール18日の代わりに白痴のブリュメール18日!そしてブリュメール18日の第二版が出版された状況も、これと同じ戯画である。」
ヘーゲルが指摘したのは、国家の大変革が二度繰り返された時、民衆はそれを正しいものと認めるといった話である。それは、ナポレオンの二度の敗北、ブルボン王朝の二度の追放と重ねながら、一度目は偶然でも、二度目は確かな現実になるという主張である。本書は、更に加えて、一度目の悲劇と二度目の喜劇で、偉大な出来事と滑稽な出来事を関連付ける。

2. 第一期: 二月革命の時代(1848.2.24 ~)
ルイ=フィリップ国王が失脚すると、政府自身が臨時政府であると宣言した。この宣言は、決定したものがすべて暫定的に過ぎないと自称しているようなもので、無責任と言えよう。既成権益は解体されないまま暫定政府にとどまり、金融貴族の独占的支配は打倒されない。となれば、暴動が起こり、共和制に移行するのは必然と思われた。だが、その共和制が様々な立場で都合よく解釈される。プロレタリアートは社会的共和制を訴え、ブルジョワジーは市民的共和制を訴えた。しかし、パリのプロレタリアートは、ユートピア的な馬鹿げた思いつきしかなかったので、市民的共和制が勝利したという。ただ、当時の市民的共和制は、市民活動を意味しているのではないようだ。既存権益を打破するという名目で市民活動を煽り、結果的に権限を横取りして、市民にはなんの恩恵もないというわけか。

3. 第二期: 共和制、憲法制定国民議会の時代(1848.5.4 ~ 1849.5.28)
憲法制定国民議会の時代は、共和派のブルジャア的分派の支配と解体の歴史であるという。この分派は、ルイ=フィリップの君主時代から共和派野党として政界に公認されていた。たとえ思想が違っていても共通利害によって結びつくのが政治というものか。彼らは数の和を強調するが、あの政党と結びついたがために、逆に支持しない人が多数現れることを考えられない。排他的なブルジョア共和制は、社会主義的思想を排除しようと画策したが、排他思想は長くは続かない。それは、共和制憲法とパリの戒厳令に要約される。この時期、様々な自由が制定されたという。個人の自由、出版の自由、言論の自由、結社の自由、集会の自由、学問の自由、宗教の自由などなど。これらの自由は、フランス市民の無条件の権利として宣言される。ただし、その条文の傍注には「公共の安全」によって制限するとある。これがくせ者で、警察権限は絶対という条件を装った罠であったという。傍注付きで起草するのは、官僚派の得意とするところで、どんなに魅力的な条文であっても、抜け道によって国家権力をいくらでも拡大できる。現在においても、立派な人権規定がありながら事実上反古にしている国がある。条文法あるいは制定法至上主義に陥ると、抜け道をすべて塞ぐために別の条文で穴埋めしなければならず、結局、条文が無限に起草されることになる。憲法の本質は慣習法にあるとは、よく耳にする。アメリカ合衆国憲法は、あらゆる独裁者の出現を拒むように考案されたが、その論理的弱点を数学者ゲーデルが指摘した。条文だけで道徳を規定できるほど、人間精神は単純な構造をしていない。
憲法の投票の間、ブルジョア共和派の軍人カヴェニャックがパリで戒厳令を維持し、反対派は裁判なしでことごとく流刑に処される。だが、大統領にルイ・ボナパルトが選出されると、カヴェニャックと憲法制定議会の独裁を終結させ、ブルジョア共和派は没落する。

4. 第三期: 立憲共和制、立法国民議会の時代(1849.5.28 ~ 1851.12)
第一次フランス革命期は、立憲派のジロンド派、ジャコバン派の支配が続いた。どの党派も革命からは遠い立場であったため、同盟軍によってギロチンへ送られ、革命の気運を急速に高めた。
しかし、1848年の革命は、それとは逆の現象だという。プロレタリアの党は、小市民的民主派の付録のようなもので、民主党はブルジョア共和派に寄りかかる。ブルジョア共和派は、かろうじて足元が固まったかと思ったら、すぐさま秩序党の肩にもたれる。秩序党は、肩をすぼめてブルジョア共和派を引っくり返し、武力権力の肩にしがみつく。あらゆる党派が、寄りかかったり背後から襲ったりと滑稽な姿を曝け出す。本書は、既に革命は後戻りしていたと指摘している。社会=民主党の本来の性格は、資本と賃金労働の二つを対立させるのではなく、調和させるために民主的=共和制を要求するものだったという。これは、民主的方法を前提とする。そして、小市民は、原理的に利己的な階級利害を貫徹するような視野の狭い連中ではないと指摘している。むしろ、自分たちの解放は普遍的な条件によって救済されると考える知的な人々であると。だが、民主党ほど自分の力量を過大評価する党はないし、軽々しく状況を見誤る党もないと皮肉っている。ボナパルトは、自らの王政復古欲を陰謀によって合法的に実現する。その背後で金融貴族が活躍したのは想像に易い。ボナパルトは、普通選挙権の復活を唱え、大ブルジョワジーを味方につけた。やがて、秩序党は解体され、国民議会は腐敗し力を失う。

5. 国民投票と代表制の弱点
国民議会が選挙民を制限するのに対して、ボナパルトは普通選挙権を復活させ、国民からの人気を得た。ヒトラーにしても、幾度も国民投票に訴え合法的に独裁者になった。独裁は、国民投票という民主主義の象徴とも言うべきシステムから忍び寄るわけか。そこには、腐敗した共和制と国民議会に幻滅した世論が、幻想に憑かれるように過去の英雄を崇めて、その血筋を支持する様子が語られる。民衆は、政治にうんざりすると強烈な指導力のある政治家の登場を願う。おまけに、マスコミが奇妙に煽り、大した事でもないのに誇張して英雄を仕立てる。世論の暴走は政治不信が高まった時に起こりやすく、救世主を求めるかのように滑稽な世論が巻き起こる。ボナパルトは、まさしく社会の底辺層であるルンペンプロレタリアートの支持を得て政権を握った。独裁形態は、自由主義とは矛盾するが、民主主義とは矛盾しないのかもしれない。

6. 帝政復古のパロディ
ブルジョワジーは議会的共和制の中で享楽をつくすが、「共和国万歳!」と叫ぶ王政派によって葬られた。ブルジョワジーはプロレタリアートの支配に逆らったが、ボナパルトを首領とするルンペンプロレタリアートに支配され、秩序維持を名分とした国家権力によって弾圧された。プロレタリアートは社会主義の勝利!と叫ぶが、それはボナパルトの勝利であって、いわばプロレタリアートを利用した独裁の勝利である。独裁を揺るぎない体制とするには、その手先機関を強化する必要がある。巨大な官僚組織に強力な軍事組織を持つ国家機構は、ナポレオンが完成させたものだ。ただ、ナポレオン治下での官僚制は、ブルジョワジー階級に用意された統治手段に過ぎなかった。ルイ=フィリップ治下でも、官僚制は支配の道具でしかなかった。ところが、ボナパルト治下では、秘密警察的な性格を帯びたという。ナポレオンの軍隊は、分割地農民の名誉を代表するもので、外国からの圧力に対抗する愛国心と所有意識の理念的形態であった。しかし、ボナパルト治下でのフランス農民は、国内の執政官と租税徴収官の敵であったという。本書は、大衆の愚かさがブルジョワジーをボナパルトに売り渡したと指摘する。むしろ、ブルジョワジーとプロレタリアートが協力して、独裁を食い止めるべきだったと。

7. ボナパルトの本性
本書は、ボナパルト一派を、国民に費用を負担させ自らに慈善を施すという意味で「慈善協会」と呼んでいる。ボナパルトは、合法的に恐喝まがいなことをして、大衆的形態で個人的な利益を得たという。
「年老いた、ずるがしこい放蕩児である彼は、諸民族の歴史的生活とその国事行為を最も卑俗な意味での喜劇として、大げさな衣裳や言葉やポーズがきわめてけちくさい下劣な行為を覆い隠すのに役立つ仮面舞踏会として、理解している。」
演壇や新聞は弾圧され、ボナパルト批判で攻撃するジャーナリストたちは、ブルジョア陪審員たちに調達不可能な罰金刑や、恥知らずの懲役刑を宣告したことは全ヨーロッパを驚かせたという。
「執行権力の自立性は、自らを正当化するのに、その首長がもはや天才を必要とせず、その軍隊がもはや栄誉を必要とせず、その官僚制がもはや道徳的権威を必要としない場合に、あからさまに際立つ。」
国家機構が強化された体制では、もはや酔っ払った政治家で充分というわけか。ボナパルトは、最も人口の多い階級である分割地農民を代表しており、ボナパルト家は農民である。すなわち、ブルボン王朝の土地所有王朝とは違って人民大衆の王朝である。しかし、これは農民から皇帝復活を騙し取った結果であって、革命的農民ではなく保守的農民を代表していたという。農地を解放するのではなく、むしろ既得農地を守り、古い秩序で守られる農民の代表だったというわけか。彼は、軍隊で農民狩りをし、農民の大量投獄と流刑を行った。これにフランスの半分にわたる農民が蜂起する。
本書は、ナポレオンの代役となるために小規模であるがクーデターを実行する必要に迫られたと分析している。ちなみに、ナポレオンはアレクサンドロスを思い起こしたが、ボナパルトはバッカスを思い起こしたという。アレクサンドロスは英雄だが、バッカスはローマ神話のワイン神である。

2010-03-07

"パンセ" Blaise Pascal 著

ブレーズ・パスカルといえば、理系の人間には「パスカルの原理」や「パスカルの定理」の方が馴染みがある。だが、本書に登場する「人間は考える葦である」という言葉や、「クレオパトラの鼻」の一節は広く知れ渡り、多くの書物で引用される。よって、ずーっと前から一度は読んでみたいと思っていたが、いかんせん大作だ。ようやく気が向いてくれたのはありがたい。彼の才能はあらゆる方面に向けられるため、その本業が何かは知らない。ただ、偉大な科学者や数学者が哲学や神学に目覚めた例は多い。天才たちは、自然科学や論理学に限界を感じ、ついには哲学や神学に踏み込まないと説明できない領域があることを悟るのであろうか?
「パンセ」とは、一般的に「思想」と訳されるようだが、ここでは「宗教よりの哲学」とでも言っておこうか。本書を読めば、パスカルが純真なキリスト信者であることが分かる。だが、ここに顕れるのは単純な宗教心ではなく、論理的に信仰しているように思える。単なる宗教を崇めるだけの書ならば読む気にもなれないが、随所に皮肉が込められるのがいい。したがって、本書をキリスト哲学と解釈している。
「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである。」

本書は、「神なき人間」としての生来の人間の姿を考察するところから始まり、悪徳から生じる醜さと、考えることの偉大さという二重性から精神の矛盾を指摘する。この二重性は、人間性と神性という霊感で説明される。そして、矛盾の原因は人間の罪にあり、罪から解放し幸福を導くものはキリスト教に他ならないと結論付ける。そこには、キリスト教の弁証法的な考察が展開される。また、イエスをメシアと崇めながら、キリスト教の運営については批判的な言葉が随所に鏤められる。真のキリスト信者は少ないだとか、信者の多くは迷信に頼っているとか、宗教裁判を「堕落した無知」と嘆く。なるほど、キリスト教徒とイエス信者では意味が違うというわけか。
「キリスト教をほんとうだと信じることによってまちがうよりも、まちがった上で、キリスト教がほんとうであることを発見するほうが、ずっと恐ろしいだろう。」
おそらく、あのヘブライ人は噂されるほどの偉大な人物だったに違いない。だが、偉大な思想を伝承するのは凡庸な人々であり、崇高過ぎる思想は都合の良い解釈で歪められる。司祭たちは、自らの存在意義を強調するように解釈するだろう。罪人たちは、改心すれば全てを水に流してくれると解釈するだろう。伝統や思想を思考することなく、ただ従うのであればカルト化するしかない。となれば、聖書を単なる読み物として出版し、解釈を一般の読者に委ねた方がいい。聖書を宗教書としてではなく哲学書として読むならば、悪くないかもしれない。宗教は遠くから眺めるぐらいでちょうどいい。近づき過ぎれば、盲目となって狂乱してしまう。
キリスト教の根幹が、本書の言う人間性と神性の共存だとするならば、それほど悪い信仰だとは思えない。ただ、宗教に頼らなくても、自己の人間性と同時に、何か崇高な神からのお告げのような、良心の呼びかけのようなものを感じることがある。経験だけでは説明のつかない「良心の呵責」と言おうか。これを霊感と言うのかは知らん。あらゆる宗教の創始は素晴らしかったに違いない。だから、少なからず信者がいる。だが、崇拝の度が過ぎれば脳死状態に陥る。まさか、偉大な神が「人間に思考を止めろ!」とは教えないだろう。そのように解釈する人は少ないだろうが、そのように実践している人は多い。ならば、最初から精神なんて機能を与えなければいいものを。神は残酷だ!ならば、宗教として崇めるのではなく、生き方として示す程度にすればいいものを。人間にとって重要なのは生き方である。宗教や哲学は、生き方の参考にする手段に過ぎない。

無限の空間と永遠の沈黙が人間を恐れさせる。人間は、無限の存在をなんとなく感じても、その正体を知らない。無限という数字が存在しても、その正体が偶数なのか奇数なのかも知らない。有限と無限の境界線を定義できても、そこに何があるかを知らない。したがって、人間が神の正体を知らなくても、神の存在を信じても不思議ではない。たとえ無神論者であっても、なんとなく神のような、到底敵わない絶対的な真理のような存在を感じる。それにしても、神の代理人と称する人間の数の多さには驚くべきものがある。宗教を信じるも信じないも、人生の賭けというわけか。
「人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない。」

1. パンセのいきさつ
「パンセ」は、パスカルの言葉の断片集である。その経緯をたどると複雑な事情があるようだ。彼の死後(1662年)、発見された文集はあまりにも未完成なために出版が断念されたという。初版が出版されたのは死後7, 8年も経った後、これがポール・ロワヤル版と呼ばれる。ちなみに、この編者の名は不明らしい。
そして、1842年に哲学者ヴィクトール・クーザンが原稿と大きく違うことを指摘し、1844年に原稿に忠実な版がフォジェールによって公刊されたという。なるほど、なんとなく熟成ワインの香りがするわけだ。「パンセ・ド・フォジェール」なーんて極上のワインがあってもよさそうなものだ。
その後、1897年のブランシュヴィック版が多数派になったという。ちなみに、この版が初心者にはとっつき易いらしい。本書もこの版を主体にしているという。
更に、戦後ラフュマが唱えた版など、多くの研究者によって改訂され続けたそうな。

2. 普遍的な人
社会では、専門家という看板を揚げなければ、その分野では相手にされない。人々は、なにかと代名詞を欲しがり、名刺にはややこしい肩書きを付ける。しかし、普遍的な人は看板などまっぴらだという。
「人は普遍的であるとともに、すべてのことについて知りうるすべてを知ることができない以上は、すべてのことについて少し知らなければならない。なぜなら、すべてのことについて何かを知るのは、一つのものについてすべて知るよりずっと美しいからである。このような普遍性こそ、最も美しい。」
そもそも、専門家ってなんだ?あらゆる学問が人間精神にかかわるのであれば、すべての人が専門家になりうるはず。そして、その方面に好奇心を持った人が専門家となるのが自然であろう。一つの専門分野を徹底的に探求したところで、その分野を悟るところまでは到達できないだろう。その領域で精神の悟りのような境地に達することができるのは、一部の天才たちに与えられた幸せであろう。どうせ悟れないなら、広範に学問してみるのも悪い選択ではない。いずれにせよ、生き方の好みの違いであろうか。

3. 想像力と誤謬
想像力は、誤りと偽りの主で、いつもずるいと決まっていないだけに一層ずるい奴だという。そして、理性を脱線させるものが想像力であって、理性が想像力に完全に勝つことはできないという。また、識者は自信を持って議論するが、真に分別のある人は恐る恐る議論すると指摘している。確かに、想像力には賢さと愚かさが同居する。想像力は誤謬へ導くための欺瞞的能力を持っている。法律家は客観的判断力の持ち主と自認する。その想像力はますます理性に自信を持たせ、より一層の判断力の持ち主と自負する。だから、一般的に常識とされる「見直し」という態度がとれない。エリートの自信とは恐ろしいものがある。古い考えが誤謬へ導くとは限らない。逆に、新しい考えの魅力によって誤謬へ導くこともある。人間は、慢性的に誤謬の原理という病を患っている。したがって、世界一公平無私な人間であっても、自らの事件の裁判官になることは許されないはずだ。しかし、政治家たちは自ら立法権を持つ。しかも、議員たちは論争で相手を罵り合う。そこにある矛盾は共存できるかもしれないのに、無理やり排他論理に従う。おまけに、彼らは「平行線の原理」に憑かれながら「先送りの法則」を見出す。
エピクテトス曰く、「われわれは、人に頭が痛いでしょうと言われても怒らないのに、われわれが推理を誤っているとか、選択を誤っていると言われると怒るのは、なぜだろうか?」
人間が悪徳や欠陥を持つことは悪であろうが、それが人間の持つ属性ならば受け入れるしかない。だが、それを認めようとしないがために、更なる欺瞞で覆い隠す。真実を語る人を憎み、自分に有利に働きかける人を好む。おまけに、自分の本性とは掛け離れた欺いたところを評価されたいと欲する。これが自己愛というものか?
「びっこの人が、われわれをいらいらさせないのに、びっこの精神を持った人が、われわれをいらいらさせるのは、どういうわけだろう。それは、びっこの人は、われわれがまっすぐ歩いていることを認めるが、びっこの精神の持ち主は、びっこをひいているのは、われわれのほうだと言うからである。そうでなければ、われわれは、同情こそすれ、腹を立てたりなどしないだろう。」

4. 気を紛らわす
人間を楽しませるのは、戦いであって勝利ではないという。すべての探求や賭け事までもが、終わった途端にうんざりし、支配欲は支配してしまうと萎える。討論とは、意見を戦わせたいだけであって、結論を求めているのではないのかもしれない。何かに熱中するのも、人生というギャンブルをするのも、単に気を紛らわしているだけかもしれない。人間は、騒ぎを好み揉め事を好む。他人の不幸に関心を持ち、自分の境遇の気を紛らわせる。批評するのも気の紛らわしにちょうどよい。人間は永遠に評論家であり続けるであろう。たとえ、不幸に見舞われても、それが気を紛らわしてくれるならば、その瞬間だけ幸福を感じられるのかもしれない。逆に、どんなに幸福であっても倦怠感が募り、気を紛らわすことができなければ虚しくもなる。
権力者は、朝から忙しく多くの人に面会し、自分というものを考える余裕がないという。そして、ただ他人がやってくるだけで自分の存在を実感し、その地位であることに喜びを感じることの他に何があろうか、と皮肉る。どんな権威も、その真偽は別にして、ただ自分を経由するだけで満足する。単に存在感を誇示できればそれでいい。人間は、自分の愚かな姿を知らない方が幸せであろう。世間体ばかり気にしながら生きるのも、気を紛らわす手段である。では、気を紛らわすことを排除した時、そこに何が残るのだろうか?あまりの退屈さに精神は消耗するのであろう。

5. クレオパトラの鼻
「人間のむなしさを十分に知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるだけでいい。」
ここで、クレオパトラの鼻がもっと短かったら歴史が変わっただろうというフレーズが登場する。もっとも、これは精神の虚しさを恋愛の原因に求める例え話であって、真面目に歴史を語っているわけではない。恋愛の原因が何かは分からないが、その恐るべき結果は全世界を揺るがす戦争をも引き起こすというわけか。
「人間は死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした。」

6. 正義と無知
「自然法というものは疑いなく存在する。しかし、このみごとな腐敗した理性は、すべてを腐敗させてしまった。何ものも、もはやわれわれのものではない。われわれのものと呼ぶものは、人工的なものである。元老院の決議と人民投票とによって、罪が犯される。われわれは、昔は悪徳によって苦しんだが、今は法律によって苦しんでいる。」
誤りを正すという類の法律ほど、誤りだらけのものはないという。そして、法律が正しいという理由だけで法律に服従する者は、精神の内に正義を持たず、法律の本質に服従しているのではないと指摘している。なるほど、法律を持ち出して正義を唱える者は、もはや理性感情を失っているわけか。それで、政治家は法律を持ち出して言い訳に徹するわけか。
「世の中で最も不合理なことが、人間がどうかしているために、最も合理的なこととなる。」
人間は笑うべきものであり不正であるから、人間が作った法律が合理的となり公正になるという。政治指導者に最も有徳で有能な人物を選ぼうとすれば、たちまち罵りあいとなる。理性的な人間ほど、自らをわきまえ、自己主張を宣伝することはしないだろう。したがって、政治報道はR-18指定するがよかろう。
「流行が好みを作るように、また正義をも作る。」
社会の秩序を守るためには、権力に従わなければならない。したがって、正しいものに力を与える必要がある。だが、人間は、正義がなんたるかを見極められずに、多数決という実践的で巧妙な手段を編み出した。力の正当化は多数派に支配される。しかも、高度な情報化社会には、ほんの小さな正義っぽい意見を増幅する力がある。ただ、世論が大衆の叡智となることもあるから、一方向からの観察だけでは決定できない。本書は、真理が自然的な純粋な無知のうちにあるという。無知の結集が叡智となりうるのか?なるほど、思い上がった知識を、抑制できる唯一の方法は、無知を悟った時であろう。こうなると、無知を馬鹿にはできない。もしかすると、無知が真理に近づく最高の方法なのかもしれない。
「多数主義は最善の道である。それはあらわであり、服従する力を持っているから。とはいえ、これは最も無能な人々の意見である。...人は、守らざるを得ないことを正義と呼ぶ。」

7. 人間は考える葦である
「理性は主人よりもずっと高圧的にわれわれに命令する。なぜなら、後者に服従しなければ不幸であるが、前者に服従しなければ、ばかであるから。」
人間は、ひとくきの葦に過ぎず、自然の中で最も弱いものであるという。しかし、それは考える葦である。人間は考えることによって偉大にもなれるし、考えることに道徳の原理があるという。そして、立てつづけの雄弁さが退屈させるように、偉大さを感じるにはそこから離れる必要があるという。人間は考えることによって尊厳が得られることもあれば、愚かな行為を招くこともある。自らの尊厳を守るために、自殺という矛盾を犯すことすらある。世間では、極度の才知は狂乱者と批難される。だが、中庸を良しとするのは、多数者が編み出した概念であるという。多数者が凡庸な人間を好むのは、そこに仲間意識があるからで、単なる才能への僻みなのか?自分よりも劣っていると認識した人間に優しいのは、自己の優位性に満足するからか?人間社会には、運命とも言うべき不平等が付きまとう。だが、それが最高の圧制にまで高められるところに虚しさがある。精神には偉大さと惨めさが共存する。この二面性は、並外れた思い上がりから絶望にまで及び、どちらに偏っても精神病を患うから困ったものだ。
「あることについての真理が知られていない場合、人間の精神を固定させる共通の誤りがあるのはよいことである。...なぜなら人間のおもな病は、自分の知りえないことについての落ち着かない好奇心だからである。こんな無益な好奇心のなかにいるよりも、誤りのなかにいるほうが、まだ、ましである。」

8. キリスト教の解釈
「自分の悲惨を知らずに神を知ることは、高慢を生み出す。神を知らずに自分の悲惨を知ることは、絶望を生み出す。」
信仰には、理性と習慣と霊感の三つの手段があるという。キリスト教は霊感を排除する信仰を受け入れないという。それは、理性と習慣を排除するのではなく、理性と習慣が霊感に謙ることを教えているという。ここで言う霊感とは、自然原理のような偉大な宇宙原理のような存在であろうか?だが、現実には、理性と習慣を排除して、ひたすら霊感に頼る輩が多いようだ。しかも、その霊感を幻想と錯覚し、外的なものに助けを期待する迷信と化す。これこそ、人間の高慢ではないのか?
本書は、キリスト教批判者の誤解を解こうとする。それは、一人の偉大な神を崇拝することではなく、自己の二つの性質「人間性」と「神性」を結びつけるものだという。
「二種の人々がいるだけである。一は、自分を罪びとだと思っている義人、他は、自分を義人だと思っている罪びと。」
この二重性を知るところに神の憐れみが現れるというのが、キリスト教の根本原理だという。しかし、キリスト教を崇めている連中が、本当にそう解釈しているのだろうか?邪悪な人間は、ご都合主義によって、なんでも救いを求めれば助けてくれると信じるであろう。世界に絶対的な価値観を提示できる宗教があれば、こんなにも多くの宗教は存在しないはずだ。どの宗教を信じようが勝手であるが、異教徒を罵ることが宗教の本質とは思えない。ならば、その中間にある無宗教が良さそうだが、彼らは無宗教者ですら異教徒扱いする。所詮、その宗教に所属しないと分かち合えない理屈がある。宗教の矛盾は、知恵と愚かさが共存していることに気づかないことであろう。酔っ払った天邪鬼は、宗教のように「信じろ!」と言われれば疑うし、哲学のように能書きを並べれば「ほんまか?」と思考を試みる。そして、完璧な論理性を主張すれば、そこに矛盾性を探さずにはいられない。
「奇跡を信ぜよ!...人が真の奇跡を信じないのは、愛が欠けているからである。」
その通りかもしれない。酔っ払いには愛が欠けている。愛が何たるかも知らない。だが、世の中には、愛を語りながら愛の欠けた凡庸な人々で溢れかえっている。となると、キリスト教は凡庸な人々を救済できないということになりはしないか?どうりで、アル中ハイマーには宗教など理解できないわけだ。

9. 論争の原理
「信仰は互いに矛盾しているように見える多くの真理を含んでいる。...これらの矛盾のみなもとは、イエス・キリストにおける神人両性の結合である。...信仰と道徳とについて、相容れないように見えながら実は一つの驚くべき秩序においてことごとく共存するきわめて多くの真理がある。」
論争は、排他論理を前提としているように映るが、単に相手の真理を批難しているだけのことかもしれん。平和主義者は、戦争を完全に否定するが、戦争状態を知らなければ、真の平和を説くことはできない。遠い場所で起こる戦争を安心して眺めながら、平和論議はお盛んだ。戦争を国と国の喧嘩と解釈するならば、喧嘩は至る処に存在する。人間社会は、平和ボケと戦争狂気を繰り返す運命にあるのかもしれない。矛盾と排他論理を混同すると、奇妙なことが起こる。人間は、矛盾に対して激しく目くじらを立てる。矛盾という真理から、わざわざ遠ざかろうとするかのように。人間は、精神の持つ矛盾を弱点と解釈するのだろうか?もし、矛盾を長所と解釈すれば、人間はどういう反応を示すのだろうか?まぁ!酒でも飲もうや!となるかもしれない。
「僕は主人のすることを知らない。主人が彼に用事だけを言いつけて、目的を示さないからだ。そして、これこそ僕が盲目的に従い、しばしば目的にそむくゆえんである。しかし、イエス・キリストは、われわれに目的を示された。だのに、あなたがたはその目的を破壊している。」

2010-02-28

"存在と時間(上/下)" Martin Heidegger 著

マルティン・ハイデガー著「存在と時間」は、いくつかの翻訳版があるようだが、本書は、ちくま学芸文庫版(訳:細谷貞雄)である。

難解な哲学書を読むといつも思うことがある。用語の使い方が一語多義的とでも言おうか、その発言に一貫性さえ疑いたくなる。しかも、辞書にも載っていない作者独自の用語が登場し困惑さを増す。だが、その困惑さには真理という味付けがなされるせいか、心地良いものがあるから不思議である。哲学者は、人々が国語辞典の世界に幽閉されるのを横目で眺めながら、存分に自由を謳歌しやがる。哲学書とは、作者が自ら創造主となる世界というわけか。本書はその傾向が際立っている。翻訳するにしても、通常の日本語に対応させると違和感があるのだろう。おそらく研究者の間で、ハイデガー語録といったものが出回っているに違いない。あるドイツ人は、「存在と時間」は、いまだドイツ語ですら翻訳されていないと語ったという。そもそも、精神を表象するのに、言語体系で言い尽くすことなどできない。哲学するとは、言語の限界に挑むことであろう。したがって、哲学書が文学作品としての芸術性を発揮するのも道理というものである。
古来、人間精神は実存の概念と対峙してきた。「存在」とは、実に分かりきった概念であるが、その正体を厳密に暴こうとすると説明できない。そして、自己の存在そのものを疑いたくなる。不思議なことに、人間は物事を理解しようとすればするほど深みに嵌り、無限地獄に陥る。人間は解釈することができても、永遠に理解することはできないであろう。したがって、理解した気分になれることほど幸せなことはない。神は、人類が歴史をあげて永遠に見つからない真理に取り組んでいるのを眺めながら、滑稽に思っているに違いない。

人間の認識能力には、「存在」という基底認識があるように思える。つまり、認識は、精神の中ですべての対象の存在を意識するところから始まる。その対象が現実的に、あるいは仮想的に存在するかは別にして。これがデカルト的な実存であろうか。そして、「存在」の対象としてのスーパークラスに自己の実存があり、すべての認識はサブクラスとして派生しているかのように映る。これがプラトン風のイデア論に通ずるものを感じるわけだ。したがって、すべての認識は自己の実存を前提としている。その前提が崩れた時、自己喪失に悩み、精神分裂に陥る。人間がもっとも怒りを覚えるのは、自尊心を傷つけられることであろうか。これは、自己の存在を否定されることへの反応である。地位や名誉を誇示したり、既得権益にしがみつくのも、自己の存在意義を求めているのだろう。こうしてブログを書くのも自己の存在を確認しているのかもしれない。したがって、充実とは、自己の存在を確認できる瞬間ということになろう。そして、自己の存在を無意味と結論付ければ、自ら命を絶つ。人間は、自己の存在という実存証明のできない概念を追いかけながら、そこになんらかの意味を持たせたいと願って生きている。
「存在」を基底認識とするならば、「時間」もまた、基底認識に限りなく近い位置にあるような気がする。人間は、あらゆる存在を時間の流れの中で認識しているように思えるから。時間を抽象化すると、過去、現在、未来で集約できる。ただ、現在だけが瞬間という特異な性質を持っている。認識は現在という瞬間にだけあり、精神はその瞬間しか味わうことができないのに、過去と未来を意識しながら、現在の存在位置を確認する。しかも、過去と未来は永遠に感じる。両者の性質は完全に異なり、過去は悲しみと失望で暗く、未来は繁栄と喜びで明るい。おまけに、過去は片時も休むことはなく未来を抹殺し続ける。昨日はおとといの未来であり、明日はあさっての過去であって、結局は同じものなのに。突然人生の岐路を向かえると、その重要さにも気づかず、後になって準備が整っていなかったことを悔やむ。おまけに、神は「おとといおいで!」と囁きやがる。これを「後悔先に立たずの原理」という。
本書がカントの主張をちりばめながら論究しているあたりは、カント哲学を前提にしているのだろう。カントが純粋主観を存分に堪能させてくれるのに対して、ハイデガーは客観を混ぜながら味付けする。前者はモルトの味わい深さを語り、後者はブレンデッドも負けていないと語りかける。だが、結局、客観の限界から主観に引き戻される感がある。やはりモルトかぁ。いずれにせよ、哲学するとは、美味い酒を飲むことに違いはなさそうだ。カントは、認識の第一歩を「関心」で語った。ハイデッガーは、実存認識の第一歩を「気分」で語る。ちなみに、アル中ハイマーは、それらを「気まぐれ」と呼んでいる。

カントは、純粋な認識を「空間」と「時間」だけで説明し、「ア・プリオリ」という言葉を登場させた。ハイデガーは、更に掘り下げて、空間性よりも時間性を崇高な地位に置きつつ、実存性に時間性を加えた「現存在」という言葉を登場させる。そして、「現存在」の本質的目的は、良心を持とうとする意志と死へ向かう存在によって規定されるという。ただ、実存の概念が説明できないのに、その終焉である死の概念を説明できるはずもない。
おいらの感覚では、すべての認識は精神の中で空間イメージとして意識しているような気がする。ボトルという空間の中で酒が存在するように、すべての存在認識は、なんらかの空間を前提している。数学の方程式や命題を理解しようとする時も、独自の空間イメージを想像しながら思考している。ただ、肉体や物体は空間の中で物理量として測れるが、精神の実体を測ることはできない。現実に、強烈なアルコール度数は実存空間を崩壊しやがる。となれば、精神に空間的イメージが無くても、なんらかの認識ができるのだろうか?
本書は、存在認識の根底に時間性があると主張する。精神から時間性までも奪ってしまえば、認識すらできないのだろうか?すべての事象は時間性という無常の中で存在するのだろうか?いや、そうとも言い切れまい。何かに集中すれば、精神はフロー状態となって、無我の境地のような心地良い気分になることがある。これは時間が無と化す現象のように思える。しかし、崇高な無限を感じる瞬間と説明できなくもない。時間ゼロも無限時間も一種の時間性であり、本書の言うように、精神は時間性に支配されるのかもしれない。精神病患者が時間の断絶によって分裂症を起こす現象も、通常の人が時間の連続性を認識するのに対して、離散的に認識しているという説明ができるかもしれない。では、精神の持つ純粋量を時間性だけで規定すれば、果たして精神の存在を説明できるのか?本書は、それで完結するわけではない。訳者細谷貞雄氏の後書きの言葉は印象的である。
「卓越した著作というものは、それが未完結のままであるときには、完成した著作とはことなる一種特有の衝動を読者に与えるものである。」
本書は、様々な立場から解釈がなされ、様々な評価と批判が試みられてきたという。その真意は、依然としてモザイクのままだ。あらためて哲学とは、無責任に問題提起をしながら、完結できない学問であることを知らされる。すべての学問が、そうした性格を持っているのかもしれないが...
哲学という一見高度に見える学問は、生きる上であまり役に立たない。この学問は苦悩する具体的な問題に何一つ答えてくれない。論理的な解明を深めようとすると鬱病にさえなる。だからといって、それ以上に何ができようか?自己にとって重要なのは「生き方」である。人間は、自己の存在に重みがあると信じながら生きている。ハイデガーは、このような人間の有様を「現存在」と呼んでいるのだろうか?本書は、ひたすら「現存在」について言及を繰り返す。実存論は、盲目なパラドックスと不条理との衝突で挫折するか、あるいは、ご都合主義の一人合点で空転するよりほかはないかのように。「現存在」は、自己の存在を了解しながら宇宙空間と慣れ親しむ。そこに理論的な洞察を必要としない。目の前の純米酒の存在に、理論的な意味など必要ないのだ。味わい深い酒を求めてとか、癒しの空間を求めて、なんて理由はいらない。五感を総動員させて精神と戯れたいからなどという御託もいらない。アル中ハイマーが実存論の本質を語るとすれば、「そこに酒があるから」と一言で片付けるのであった。

尚、以下は、難解な文章に、泥酔者が勝手な解釈を加えた結果である。

1. 現存在
哲学の「存在」は、原子のような物理学的な存在を問題にするのではなく、生への問い掛けを探求する。精神を生物学に組み込んだところで、なんの埋め合わせにもならない。精神は、ただ「生きているだけ」では説明がつかないのだ。本書は、現存在の構成要素は「世界 = 内 = 存在一般」であるという。世界の内とは、空間を意味し、現存在とは、空間で互いの存在を意識し合う存在者といったところだろうか。ただ、空間の存在は物理的な存在であり、客観的事実あるいは客体である。それが認識の中で、主観的あるいは主体と混ざりながら、精神という得体の知れない存在者が浮上する。得体が知れないから霊的な洗脳も現れる。精神が単純明快な構造であれば問題にもされないだろう。だが、人間は得たいの知れないものに憑かれる習性があり、おまけに錯覚や誤謬を犯す。誤謬認識は、信じている間は正当化され、もはや、現存在を客観性だけで説明することはできない。主体とは、人間が精神を獲得した時点で成り立つ概念と言ってもいいだろう。自分がそこに居るということは、環境を含めた主体として認識される。人間が主観的思考が強いのも、自らの存在意義を認めたいという欲望が働いているだけのことかもしれない。精神を持つということは、他から差別して自己の優位性を保ちたいと願う一種の自己主張なのかもしれない。生存競争に勝利したいという一種の自己防衛なのかもしれない。思い上がった時に一種の解放感のような喜びを感じるのも、快感を求める本能なのかもしれない。とはいえ、この主体的認識を感情論だけで説明することはできそうにない。

2. 用具的存在者
人間は、あらゆる事物との関わりを認識する。関わりとは、有用性や利便性といった意識である。対象が人間同士であっても、自己の都合によって道具としての認識が働く。道具の持つ性格は、それが持つ属性にかかわるもので、客観的に存在する。人間は、道具の属性という知識を持っている。だが、それを用いる時、主観的な認識が介在する。道具は、優れたアイデアによって使われて、はじめて能力を発揮する。道具は、しばしば製作者の意図と反する使われ方をする。数学は客観的な道具であるが、科学や工学で用いられる時その使い方までも意図されるわけではない。古代数学者は、素数の発明が暗号化アルゴリズムに使われるとは考えもしなかっただろう。まさか、占いの手段が、コンピュータ工学に利用されるなどとは思いもしなかっただろう。太陽という天体は、日常生活に明るさや温かさを提供し、現在ではエネルギー資源となる。つまり、人間は自然の存在物ですら道具と見なしてきた。自然に芸術性を感じるのも、精神を癒すための道具と解釈することができる。客体は、精神の中で主体と結びついてこそ、その威力を発揮すると言ってもいい。本書は、人間認識で「主観 = 客観 = 関係」を前提しなければならないと主張している。

3. 死に臨む意識
実存を語るには、実存しない状態を考察してみるのもいい。そこで、人間が必ず直面する問題に死がある。この絶対的な存在に代理人を立てることはできない。しかし、自らの死を認識するには、その瞬間の前後を認識できなければならない。現在という瞬間は、過去と未来に挟まれながら連続性で認識されるのであって、もはや自らの死を語ることは不可能であろう。ただ、他人の死から肉体の残存を観察すれば、客体的に体感することはできる。とはいっても、人間の実体を肉体のみで説明することはできない。死の解釈は様々である。影響力のある者は、死んでもなお人々の心の中に生き続ける。こうした心情は、実存論と言うよりは、むしろ信仰に属すのかもしれない。学問においても死の解釈は異なる。生物学では、死は生命現象の一つであり、その人の生きた証は遺伝子構造で受け継がれる。歴史学では、人物の残した功績が伝えられる。神学では、呪術や霊感といった力を発揮する。いずれにせよ、人間世界における勝手な解釈に過ぎないが、最も客観性に近いのは生物学的な解釈であろう。ならば、実存も生物学的に解釈するのが自然に思える。だが、人間認識は極めて主観的な領域にあるから厄介なのだ。死の概念が客観的になれないのは、死人の立場を語れる人間がいないからであろう。人間が死について最も親身に語れるのは、自らの死が迫った時だけかもしれない。人間は自らの死から逃れられない。だが、精神的に死の意識から逃れることはできるかもしれない。悔いのない人生を送ろうと考えるのは、死に臨む意志を示している。老人病とは、自らの死を恐れず、自然を受け入れる度量を身に付けることかもしれない。「生きる」とは、自己の死を受け入れる精神修行の場と言えよう。死を覚悟できた時に真の幸福が得られるのかもしれない。命を賭けられるものが見つかれば、幸せになれるだろう。
本書は、「時は過ぎ去る」と言うのに、「時が発生する」と言わないのはなぜか?と問い掛ける。人間は不快な状態があれば、「時間よ去れ!」と念じ、不快が永遠に続くと思い込めば、墓場で安住したいと考える。人生とは、死までの暇つぶしであり、生き甲斐とは、死の恐怖から逃れる手段というわけか。

4. 良心の呼びかけ
第三者から呼びかけられるような存在を感じることがある。これが良心というものか。カントは、道徳形成において、自己の中で立法的な立場のような認識が主導すると語った。それは、良心の呵責とでも言おうか、自己を客観的な立場に置こうとする意志である。人間は、主観性によって精神が暴走することを、本能的に知っているのかもしれない。人間精神には、自らを談判する機能が具わっている。同時に、良心的意志には、世間体を気にしながら自己を客観的に装う見栄もあるのだが。孤独を求めるのも、精神の中の第三者に相手にしてもらいたいという意識が働いているのかもしれない。あるいは、孤独を感じながら世間の中の位置付けを客観的に確認しようとしているのかもしれない。こうした意識は、自己への関心によって生じるのだろう。人間は寂しがり屋なのさ!人間は、あらゆるものを批判しながら、愚痴を言いながら、勝手な能書きを並べながら、自己の存在を確認しているのだろう。精神は自己の立法権を有し、最高裁のようなものを自己の中に形成する。これが理性というやつか?
本書は、良心の呼びかけは、了解の意識が働いている証だという。良心の呵責を感じるのは、そこに「負い目」があるからであろう。では、誰が負い目を告げるのか?宗教家は平気でそれが神であると答える。なるほど、精神構造をすべて神のせいにすれば楽になれる。そして、犯罪も残虐もすべて神のせいにできるわけだ。義務とか責務の根源は、自己の実存認識からくるように思える。つまり、自らの存在を無意味にしたくないという欲望に過ぎない。存在とは、重荷なのか?良心の根源も、負い目であり、重荷なのか?精神を持つこと自体が重荷だとすれば、キェルケゴール的な絶望が見えてくる。人間は恥ずかしい過去を隠しながら生きている。自虐的な精神も一種の呼びかけであろう。自虐的な心は、良心の存在を確認しながら精神に一種の平穏をもたらす。ただ、度が過ぎるとノイローゼになる。良心は、前向きにも後ろ向きにも警告を発する。良心の自己満足と、良心の呵責によって。絶対的な価値観を見出すことが不可能であれば、相対的な価値観に頼るしかない。そして、他人よりも優れた認識の持ち主であることを競う。その認識を知識や経験で武装する。したがって、知的生命体が精神を持つということは、欲望の度を増すことになろう。そして、究極の知的生命体は悪魔へと進化するだろう。神は退屈しているのかもしれない。神は、悪魔という永遠のライバルが登場するのを酒を飲みながら、のんびりと待ち受けているのかもしれない。

5. 認識の歴史性
「歴史とは、実存する現存在の、時間のなかで起こる特殊的な経歴であって、そのさい相互存在のなかで過ぎ去りかつ同時に伝承されてきて、今日なお影響しつづけているものが、とくに強い意味で歴史として受けとられるのである。」
歴史は時間的存在者であるという。つまり、経験したことや、過去の出来事もまた、認識の中で存在し続ける。
「死へ臨む本来的存在、すなわち時間性の有限性こそ、現存在の歴史性のかくれたる根拠である。」
歴史が優位性を保つのは、既成事実だからであろう。既成事実は了解して覚悟するしかないのだから。なるほど、女性から「できちゃった!」と告白されれば、男性は沈黙するしかない。そして、自らの実存性を否定しながら法律的に処理する。つまり、法律とは、実存論者の避難場所というわけか。
現在の評価、あるいは位置付けは、歴史に照らして判断される。それは、現在のその瞬間が絶対的な存在ではなく、過去と未来の間で相対的に存在するからである。したがって、理念構築は、経験の積み重ねを前提するしかない。未来予測は、現在の瞬間から予測されるのではなく、過去からの流れから予測される。ニーチェはその著書「反時代的考察」で、好古的、批判的、記念碑的という三つの様式で歴史学を区別したという。なるほど、歴史の解釈には、擁護派と批判派とその中間派で争われる。この三重性で、どれが正しいかを判断することは難しい。ただ、歴史の解釈が多数決で決定付けられるならば、誤謬を犯すことになる。そうなると、おそらく誤謬すら認識できないだろう。ここに歴史学の有害性が現れる。
人間は過去の出来事を忘れても、記憶の欠片の中で時間性を持たせる。記憶違いで前後することがあったり、連続性を失い離散的になっても、不都合を感じないように埋め合わせる。痴呆症を怖れるのは、時間性を失うことを自我を失うことと同じと考えるからであろう。自己喪失とは、自己の時間性を失うことかもしれない。だとすると、記憶が部分的に失われても、時間性を保つために、何かで埋め合わせできれば精神病にならないのだろうか?自我の本質とは、時間性にあるのかもしれない。なんとなく自我(じが)と時間(じかん)には同じ音律を感じる。

6. ヘーゲルの時間的解釈
「歴史の発展は時間のなかへ落ちる」
ヘーゲルは、時間が精神を収容しうるものとして解釈しようと試みたという。アリストテレスの「自然学」では、時間は場所と運動に連関するとし、ヘーゲルはこの伝統を受け継ぐようだ。ただ、ヘーゲルは、時間と空間を並列的に一括したわけではないという。つまり、空間の存在は時間に規定され、空間よりも時間の方がより崇高ということらしい。だが、物体は空間の中で存在しうる。物体である肉体は、宇宙空間の中でしか存在しえない。もし、精神が肉体を離れ死を超越した存在であれば、それは時間の中で存在するのであって、もはや空間など、どうでもええことになる、などと言えば宗教家は喜ぶだろう。精神は、時間を客観的な存在者と認識しているのかもしれないが、主観的に認識しているところが大きい。だって、ホットな女性と空間を共有すれば、時間は思いっきり短く感じるではないか。いや、アインシュタイン的に言えば、女性の発する電磁波効果で空間が歪み、本当に時間は短くなっているかもしれない。
ヘーゲルは、精神が時間という絶対者に支配され、その中へ落ちていくと言っているのか?言い換えれば、時間を凌駕しない限り、真の精神が宿ることはないということか?んー、よく分からん!ということで、購入予定リストにヘーゲル哲学を加えておこう。

2010-02-21

"ゲーテ格言集" 高橋健二 編訳

ゲーテほど、その残した言葉を引用される人物も珍しいだろう。その領域は文学にとどまらず、科学や数学にも及ぶ。なにかにつけて、文章構成にゲーテの言葉を埋め込むと引き締まるから不思議である。アル中ハイマーが誤魔化すためによく使う手だ。
改めて格言集を読むのもおもしろいが、原作を読まないとニュアンスの掴みにくいものも多い。本書は、どの作品から引用しているかが明示されているので、ゲーテの作品の道しるべになってありがたい。
格言の中には、多くの矛盾が見られる。正反対のことが言えるということは、人間の不完全性を暗示していると言えよう。たとえ、その言葉が間違っていると感じたとしても、そんな感覚ですら捻じ伏せてしまうような「言葉の力」なるものがあるように思える。論理を超えた論理性と言おうか...また、ゲーテの哲学には、キリスト教の予定説的な世界観が潜んでいるように映る。それは、運命とも言うべきか、宇宙原理に支配された自然観であって、アリストテレス的な人間中心的で目的論的自然観とは少々異なる。晩年、ゲーテは次の言葉を繰り返したという。
「沈んでは行くが、いつも同じ太陽だ。」
これは、肉体は死んでも精神は永遠であることの隠喩だという。ゲーテのお気に入りは、次の言葉だという。
スピノザ曰く、「真に神を愛するものは、神からも愛されることを願ってはならない。」
なんとなくスピノザの影を感じながら読んでいたが、納得である。

ちょいと、ゲーテの言葉を引用しながら作文してみよう。
ゲーテ曰く、「たやすく獲得されたものは気が向かない。無理に手に入れたものがひどく喜ばす。」
恋愛は、所有していると錯覚するところから始まる。人間は愛する者が幸せになるだけでは満足できない。自分が幸せにしたと自負できなければ気が済まない。自分自身が介在できなければ不幸になることすら望む。単に恋愛で勝利したいがために。これが人間の持つエゴイズムであり、人間特有の「所有の概念」であろうか。実は、人生で所有できるものなんて何もないのに。女性という寿命の長い生き物を理解することは永遠にできないだろう。
ゲーテ曰く、「理解していないものは、所有しているとは言えない。」
一般的に、夫婦の組合わせを眺めると、夫の方が年上というケースが多いのも不思議である。10年も長生きする上に年下では対抗する術がないではないか。とはいっても、若い娘の前でにやけてしまうのは男の悲しい性である。女は永遠の若さを装うために化粧を塗りたくり、男は永遠の若さを信じて女に溺れる。永遠の生を願うかのように。
ゲーテ曰く、「年をとることは何の秘術でもない。老年に堪えることは秘術である。」
男は看取られる運命にあるのか?男は死に顔を曝け出して愚痴られる運命にあるのか?そして、残された女は財産計算に明け暮れる。これが「所有の概念」というものか。したがって、借金を残しておっ死ぬのが男の甲斐性というもである。
...なるほど、ゲーテの言葉を引用するだけで作文は楽しくなる。

さて、酔いが回ってきたところで、気に入ったところを軽くつまんでみよう。なぜかって、そこにスモーキーなモルトにピッタリのおつまみ、燻製チーズがあるから。

1. 真理と誤り
「信用というものは妙なものだ。ただひとりの言うことを聞くと、まちがったり誤解したりしていることがある。多くの人の言うことを聞いてみても、やはり同じ事情にある。普通、多ぜいの言うことを聞くと、全く真相を聞き出すことができない。」

「人間と、人間をとりかこむ色々な条件から、直接生ずる誤りは赦すべく往々尊敬に値する。しかし、誤りの後を追う者はそんなに公平に遇されるわけにはいかない。口真似して言われた真理はもう魅力を失っている。口真似して言われた誤りは味もそっけもなく笑うべきものである。自己の誤りから脱出するのは困難である。往々にして偉大な精神や才能の人においてさえ不可能である。他人の誤りを受け入れながらそれに固執する人は、働きの乏しいことを示す。誤りの本尊の頑固さには腹が立つが、誤りの模倣者の強情さは不愉快でしゃくにさわる。」

「真理と誤りが同一の源泉から発するのは、不思議であるが、確かである。それゆえ、誤りをぞんざいにしてはならぬことが多い。それは同時に真理を傷つけるからである。」

「もし賢い人が間違いをしないとしたら、愚か者は絶望するほかないだろう。」

「権威がなくては人間は存在し得ない。しかし、権威は真理と同様に誤りを伴うものである。それは、個々のものとして消滅すべきものを永遠に伝え、固く把持さるべきものを拒み消滅させる。こうして権威は往々人類をして一歩も先へ歩かせぬようにする原因となる。」

2. 自然と科学
「自然研究の歴史を見て終始気づくことは、観察者が現象からあまりに早く理論に急ぐため、不完全になり仮説的になるということである。」

「プラトンは、幾何学を知らないものを彼の学校に入れなかった。仮に私が一つの学校を作るとすれば、何らかの自然研究をまじめに、かつ厳密に選ばない人間の入学を許さないだろう。」

「でき上がったものが硬化しないように、作りかえるために、永遠の生きた活動が働いている。...瞬間とどまることがあってもそれは外見だけである。永遠なものは一切のもののうちに活動し続ける。万物は存在に執着するならば、崩壊して無に帰するほかはないのだから。」

3. 芸術と文学
「芸術は一種の宗教心に、深いゆるがぬ真剣さに基づいている。それゆえ、芸術は宗教とよく結びつく。宗教は芸術心を必要としない。宗教は独自の真剣さに基づく。」

「われわれは芸術によって最も確実に俗世間を避けることができる。同時に芸術によって最も確実に俗世間と結びつくことができる。」

「古典的なものは健全であり、ロマン的なものは病的である。...新しいからロマン的なのではなく、弱々しく病的で、実際むしばまれているから、ロマン的なのだ。古いから古典的なのではなく、強く生き生きとして、快活で、健康だから、古典的なのである。」

「文学は、人間が堕落する度合いだけ堕落する。」

「フランス語は、書かれたラテン語からではなく、話されたラテン語から生じた。」

「それによってすべてを知るが、結局かんじんなことは何もわからないような本がある。」

4. 政治と歴史
「自分自身の内心を支配することのできぬものに限って、とかく隣人の意志を支配したがるものだ。」

「財貨を失ったのは、...いくらか失ったことだ!新たなものを得なければならない。
名誉を失ったのは、...多く失ったことだ!名声を獲得しなければならない。
勇気を失ったのは、...すべてを失ったことだ!生まれなかったほうがよかっただろう。」

「不正なことが不正な方法で除かれるよりは、不正がおこなわれている方がまだいい。」

「立法者にしろ革命家にしろ、平等と自由とを同時に約束する者は、空想家にあらずんば山師である。」

「歴史を書くのは、過去を脱却する一つの方法である。」

「二つの平和な暴力がある。法律と礼儀作法とがそれだ。」

「優れた人々は他の者より損である。人々は自分を優れた人々と比較できないので、優れた人々を監視する。」

5. 哲学
「こうしてわたしは、たえまなく聖ディオゲネスのように、わたしの樽をころがす。まじめなことあり、冗談のことあり、愛あり、憎しみあり、これかと思えば、あれ、無いかと思えば、何かあるもの。こうしてわたしは、たえまなく、聖ディオゲネスのように、わたしの樽をころがす。」

「人間があんなに犬をかわいがるのに不思議はない。お互いに憐れむに堪えた浅ましい奴なんだから。」
当時、犬儒学派が流行していたことを揶揄しているような...キュニコス派あたりへに皮肉だろうか?その一方で、「聖ディオゲネス」と持ち上げながら...

「各個人に、彼をひきつけ、彼を喜ばせ、有用だと思われることに従事する自由が残されているがよい。しかし、人類の本来の研究対象は人間である。」

「完全は天ののっとるところ、完全なものを望むのは、人ののっとるところ。」

「人間が、かつてできたことを今でもできると考えるのは、きわめて自然である。未だかつてできなかったことを、できると思う人があるのは、いかにもおかしいが、珍しいことではない。」

「不死の思想は、現世の幸福を取り逃がした人の考えることである。」

6. 自己と自由
「考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである。」

「無制限な活動は、どんな種類のものであろうと、結局破産する。」
「豊かさは節度の中にだけある。」

「自分に命令しないものは、いつになっても、しもべにとどまる。」

「人は自分の肉体あるいは精神についてよく考えると、たいてい自分が病気であることを発見する。」

「すべての人間が自由を得るや、その欠点を発揮する。強い者は度を超え、弱い者は怠ける。」

「人は少ししか知らぬ場合にのみ、知っているなどと言えるのです。多く知るにつれ、次第に疑いが生じてくるものです。」

「自分の持っているものを管理することのできる人は裕福です。それを心得なければ物持ちであるということは煩わしいことです。」

「孤独はよいものです。自分自身と平和のうちに生き、何かなずべきしっかりしたことがあれば。」

「感覚は欺かない。判断が欺くのだ。」
「欺かれるのではない、われみずからを欺くのである。」

「情熱は欠陥であるか美徳であるかだ。ただ、どちらにしても度を越えているだけだ。大きな情熱は、望みのない病気である。それを癒し得るはずのものが、かえってそれを全く危険にする。」

「憎しみは積極的不満で、妬みは消極的不満である。それゆえ、妬みがたちまち憎しみに変わっても怪しむにたりない。」

7. 生き方
「すぐれた人で、即席やお座なりには何もできない人がある。そういう人は性質として、その時々の事柄に静かに深く没頭することを必要とする。そういう才能の人からは、目前必要なものが滅多に得られないので、われわれはじれったくなる。しかし、最も高いものはこうした方法でのみ作られる。」

「人は一生のうちにしばしば述懐する。色々なことに手を出すのを避けなければならない、特に、年をとればとるほど新しい仕事につくことを避けなければならない。だが、そんなことを言ったって、自他を戒めたって、だめだ。年をとるということが既に、新しい仕事につくことなのだ。すべての事情は変わって行く。われわれは活動することを全然やめるか、進んで自覚をもって新しい役割を引き受けるか、どちらかを選ぶほかない。」

「人間は現在を貴び生かすことを知らないから、よりよい未来にあこがれたり、過去に媚びを送ったりする。」

「真剣さなくしては、この世で何事もなしとげることができない。教養のある人と呼ばれる人たちの間に、真剣さはほとんど見出されない実情がある。」

「経験したことは理解したと思い込んでいる人がたくさんいる。」

「愚かな者と賢い者は同様に害がない。半分愚かな者と半分賢い者とだけが最も危険である。」

「なんでも初めはむずかしい。それはある意味では本当かもしれない、だが、もっと一般的にはこう言うことができる。...なんでも初めはやさしい。最後の段階をよじ登るのこそ困難で、それをやりとげることは、きわめてまれであると。」

「古い基礎を人々は貴ぶが、同時にどこかで再び初めから基礎を築きだす権利を放棄してはならない。」

「印象を極めて新鮮に力づよく受け入れ、これを味わうということは、青年のうらやむべき幸福です。批判的認識が増すにつれ、次第に、あの濁らぬ喜びの泉は涸れます。」

「少年のころは、打ちとけず反抗的で、青年のころは、高慢で、御しにくく、おとなとなっては、実行にはげみ、老人となっては、気がるで、気まぐれ!
君の墓石にこう記されるだろう。たしかにそれは人間であったのだ。」

2010-02-14

"ファウスト(第一部/第二部)" Goethe 著

ゲーテを好むようになったのは10年ぐらい前であろうか。その頃に本書を読んで、鳥肌の立つような迫力を感じた覚えがある。前記事で「ウェルテル」を扱ったので、ついでに読み返すとしよう。
ゲーテは、この作品を20歳から想を練り、24歳で書き始め、82歳で書き終えたという。彼は83歳で没したので、この天才詩人にして全生涯をかけた大作ということである。本書は戯曲であり、台詞調で、しかも韻文で書かれているので、調子に乗って一気に読んでしまう。それにしても、この癒される感覚はなんなんだ!音楽の流れるような文章の連続には、もはや手も足もでない。真の芸術は鑑賞者を無言にさせるというわけか。うなるような酒が酔っ払いを黙らすかのように。読み終えた時には満腹過ぎて、いまや何を読んだのかも思い出せない。真の感動から感想を語るのは難しい。感じるままに綴ろうとしても、精神をどこか冷めた領域に置かないと文章は書けないから。感想文を書くということは、余韻に浸るには余計な行為なのかもしれん。したがって、この記事を書くために、またまた再読するしかないのであった。

16、17世紀頃、ドイツには「ファウスト伝説」という広く伝えられた魔術伝説があると聞く。古来から魔術は、宗教と同じように人間の魂を支配してきた。だが、宗教と魔術は真逆な立場にある。宗教が神に帰依し身を捧げるのに対して、魔術は策略をもって神にとって代わろうとする。昔々、科学は魔術に属していた。宗教家にしてみれば、科学は神を冒涜する目障りな存在だったことだろう。13、14世紀頃盛んだった錬金術は万物を黄金に化けさせる。医術や錬金術や占星術は神秘思想と結びついて神の行為を自ら行うものと解釈され、錬金術師や占星術師は人間を惑わせる魔術師と呼ばれた。錬金術が化学の前身であるならば、占星術は天文学の前身と言えよう。本作品は、実存したと言われる錬金術師ドクトル・ファウストの伝説を題材にしている。そのラテン語形「ファウストゥス」には、「幸福なる」という意味があるという。いかにも、神にとって代わりそうな名前である。
主人公は、ファウスト博士と悪魔メフィストフェレス。ファウスト博士は、哲学、法学、医学、また要らんことに神学までも研究した大学者である。彼は、学問からは何も得られないと無力感に絶望している。さて、ファウストの運命は、天国と地獄のいずれへ導かれるのか?悪魔メフィストフェレスは、地獄へ導いて見せると、神と賭けをする。そして、ファウストをあらゆる官能的享楽へと誘惑する。女性美を与えながら次の瞬間には悲劇を与えて精神を没落させようというわけだ。だが、ファウストは悲劇の経験を重ねるうちに、精神の本質を悟っていく。日々勤労に励み、自然の脅威や権力の脅威を恐れることなく、自由に生きることを理想とするのである。そして、ファウストは天国へ導かれるように世を去る。ここには、ファウストの感情論にメフィストフェレスのニヒリズムを対抗させた構図がある。そして、悪魔に人間精神の本性を代弁させる様子がちりばめられる。悟性の発達した現実主義者が数々の教訓を与えるのは、夢想家にとってこれほど役立つものはない。悪魔の策略は、人間を没落しようと刺激しながら、かえって神の業を助けるかのようである。なるほど、宗教も魔術も同類項というわけか。そして、アル中ハイマーは魔術を求めて夜の社交場へと繰り出す。酔っ払いを女性美によって没落させようとしても、小悪魔はかえって若返りの薬となろう。

本書には、西洋思想の転換期と言われる宗教改革やルネサンス時代の精神が現れているように思える。それは、カルヴァン主義の予定説的な天職理念と、自由の概念の対比である。また、知識に頼る人間の性格を批難すると同時に宗教批判もうかがえる。
ところで、ファウストはゲーテ自身を描いているのだろうか?そう思っても不思議ではないだろう。ゲーテが体験的な詩人であることは広く知られる。だが、訳者相良守峰氏は、速断できないと指摘している。
また、専門的なことはよく分からないが、ギリシャ神話にまつわる妖怪たちが登場し、妖怪の性格と人間精神の本質とを絡めながら巧みに構成されるあたりの文学的な意義も深いのだろう。なにしろ、ドイツ哲学とギリシャ神話との融合が見られるのだから。本作品から影響を受けた芸術家が多いのは想像に易い。

[舞台の前曲]
座長、座付詩人、道化人の3人の会話から始まる。座長は、詩人と道化人に盛り沢山をお願いする。とはいえ、見物人の多くは退屈まぎれにやってくる。ご馳走の後の腹ごなしにやってくる。新聞を読み飽きた挙句にやってくる。ご婦人は着飾った我が身を見せものにやってくる。こんな観客の前でやる気が出るはずもない。そこで、座長は煙に巻きさえすればいいと説得する。詩人は、ならば奴隷でも探したまえと座長をあしらう。すると道化人は、その結構な力を使って詩人商売でもおやりなさいと詩人をあしらう。
「有頂天になっていると、悩みが生じる、ほら、いつのまにか、ちゃんと一篇の小説だ。」

[天上の序曲]
主は言う「地上の国では永久に何ひとつ気に入るものはないのか。」
悪魔は答える「気に入りませんなあ、あそこはいつも変わらず困ったもんです。」
主は言う「ファウストは、わしのしもべだ。」
悪魔は言う「なるほど、あの男の奉公ぶりは、地上のものではない。...自分に気違いめいたことも半分は気づいているし、快楽をきわめようとする。」
主は言う「人間は、努力する限り迷うものだ。」
神は、ファウストの悩む姿を見て、いずれ正しい道へ導くつもりでいる。対して、悪魔メフィストフェレスは、人間どもは神に与えられた理性をろくな事に使っていないと揶揄する。そして、ファウストを地獄へ導けるかという賭けが始まる。神が去った後、メフィストフェレスは呟く。
「時々、あのおやじに会うのは悪くないて。だからおれは仲違いしないように、気をつけている。悪魔を相手に、あれほど人間らしく口をきいてくれるとは、しかし大旦那として感心なものだ。」

[第一部]
1. 悪魔と契約
学問に絶望したファウストは、地獄や悪魔も恐ろしくはないが、その代わりにあらゆる歓びを奪われた。それでも、一角のことを知っていると己惚れるよりはましだと慰める。ところで、人間は自我を認識できているのだろうか?人間はあらゆるものを認識しようと努力する。そして、認識していると自負した時にやっかいとなる。永遠の真理に近づいたと己惚れ、悟りの境地を見開いたかのように神と同列に置いてしまう。ファウストには二つの衝動の魂が住み着く。一つは、愛欲に燃え官能をもって現世に執着する。もう一つは、塵の世を離れ、崇高な先人の霊界へ昇っていく。ファウストは自らの霊を呼び込み、霊は衝動と共に天と地の間をさまよう。そして、新たな境地へ連れ出してくれることを願う。そこへ、メフィストフェレスが近づき、悪魔と契約すれば永遠の苦痛から解放されると持ちかける。
「悪魔や幽霊には掟がありましてね、忍び込んだ口から出てゆかねばならんのです。はいるときは勝手だが、出るときは奴隷の身です。」
地獄にも規律があって、悪魔は紳士であり、契約を結んでも安全というわけだ。だが、ファウストは困苦や欠乏は美徳であると反論する。安息できるのは墓場だけなのかもしれないと。メフィストフェレスは「そのくせ死は一こう歓迎される客じゃありませんね。」と皮肉る。そして、メフィストフェレス自身が奴隷にも、しもべにもなると言って享楽へと誘う。

2. 学問という教義
メフィストフェレスはファウストに扮して学生と面会する。学生は弟子にしてくれと迫る。そこで、まず論理学の勉強を勧める。だが、哲学者があらゆる事象を論理的に導いても、その道理を理解するわけではない。おまけに形而上学を学ぶと、理解できないことでも深遠な意味付けをしてしまう。
次に、法律学は関心しないという。法律や制度には、永遠の病が遺伝されていて、条理が非条理となり、善事が苦悩の種になるから。しかも、人間が生まれながらに有する権利などは問題にすらされないと。
では、神学はどうか?この学問となると、誤った道を避けることが難しいという。神学には多くの毒が潜んでいるが、それが良薬と見分けがつかない。しかも、その教えを金科玉条とする。
また、医学の精神などつかむに造作はないという。
更に、言葉には概念があるはずだが、まさに概念の欠けているところに、言葉がやってくるという。言葉だけで立派に議論もできる。言葉だけで体系化することもできる。言葉だけで立派に信仰を示すこともできる。結局、誰しも自分の学び得るだけしか学べるものではないので、学問に励んでも無駄だと説く。
となれば、何を学ぶのか?メフィストフェレスは、女の操縦術を学ぶことを勧める。女の要求や希望に実直そうに応えれば、それだけで丸め込むことができる。まず、学位をとって優れていることを女性に信じこませれば、いちころ!というわけだ。
悪魔は、必ず魔女のような老婆を登場させて魔術を見せる。メフィストフェレスはその種を明かす。人を騙すには、学問と技術だけでは足らず、忍耐が必要だという。そこで、年季の入った「人間もどき」を登場させて説得させる。なるほど、学者や政治家のような権威も似たようなもので、賢そうに見せなければ詐欺は成立しないというわけか。戒律は、正当な論理が記されるよりも、権威のありそうな言葉を並べる方が、ずっと効果があるだろう。知識や学識は、人を騙すための最高の道具となり、あらゆる権威を手中にする山師を育てるというわけか。人間は、知識や技能といった優位性を築きながら、互いに騙し合いながら生きているのかもしれない。酔っ払いがどんな立派なことを語ろうとも、説得力がないのは道理というものである。

3. 少女マルガレーテ(愛称グレートヘン)との出会い
メフィストフェレスは、ファウストにあらゆる女性の典型のような人物を拝ませる。ファウストはグレートヘンにすっかり夢中になる。嘘などついた事のない、純心な真心というやつで。男を改心させるには、一人のホットな女性がいれば十分というわけか。そりゃそうだ!天使のような女性が教祖様ならば、おいらだってカルト宗教に嵌るだろう。真心という欺瞞は、理性と対立するのか?純心な精神には、やがて悪業が宿る。これが人間の本性か?精神が純心なまま鈍感であり続けることが、唯一の救済法なのかもしれない。理想論ばかり主張しながら、美しい言葉だけで啓蒙できると狂信する思想家は、精神の苦しみが少ないのかもしれない。鈍感だからこそ、自分の価値観が最高だと信じて押し付けがましい態度がとれるのかもしれない。物事を探求し知識を得るほど、ますます理解できなくなり、ますます苦しみを背負い込むような気がする。精神の成長とは、没落を意味するのか?本質が見えたと錯覚したあたりで、思考を止めればいいものを!したがって、純米酒は、純心のままでいられる鈍感力を与えてくれるから美味い!

4. マルガレーテとの悲劇
メフィストフェレスは、ファウストをワルプルギスの夜の饗宴へと連れて行き、官能の泥沼に引きずり込む。ファウストが享楽に溺れていると、その中に不吉なグレートヘンの幻を見つけ、彼女に死刑の危機が迫っていることを知る。グレートヘンはファウストの子供を産んでいた。そして、子供を抱いてさすらった挙句、池に投じて殺してしまった。彼女は重罪人として投獄される。彼女を救わんがためにファウストはメフィストフェレスを伴って牢獄へ救いに行く。しかし、グレートヘンは自らの死を恐れ生を切望しながらも逃げようとはせず、神の審判に委ねて刑に服す。自らの罪を認めているところは純心でもある。そして、グレートヘンは裁かれて死ぬが、天上の声は「救われた」と叫ぶ。だが、罪深き人間の精神を、この一言で救済できるのか?メフィストフェレスは、人間が狂乱するのを楽しむかのように、悲劇的な運命を与えた。

[第二部]
1. 宮廷デビューと懲りないファウスト
ファウストは、悲劇の心を癒すため、自然美の探求者となる。
「虹こそは人間の努力を映す鏡だ。あれに思いをいたせば、もっとよく分かるであろう。人生は、彩られた映像としてだけ掴めるのだ。...一切の無常なるものはただの映像に過ぎぬ。」
立ち直ったファウストは、メフィストフェレスに上流社会へ導かれる。彼は、メフィストフェレスによって巧みに道化の地位を手に入れ、神聖ローマ帝国の王座の間にデビューする。しかし、皇帝は遊び好き、宮廷では享楽に溺れ、国法は行われず、財政困窮で国家は危機に直面している。仮面舞踏会で、ファウストは富貴な神プルートゥスに扮し、メフィストフェレスはその逆の強欲を演じる。二人は、遊戯に陶酔している皇帝に、地価に埋蔵される無限の宝を担保とした兌換貨幣の発行を認めさせる。しかも、皇帝はその記憶すらない。国中が歓楽しているうちに、国家の財政は立ち直り、ファウストは皇帝の信任を得る。
次に、皇帝は世界一の美男と美女とされるギリシア神話上の人物、パーリスとヘーレナを見たいと言い出す。神話上の人物を現世に連れて来ようというのだから、とてつもない欲望である。ファウストはメフィストフェレスの魔力を当てにして承諾する。ちなみに、パーリスはトロイア国の王子で、ヘーレナはスパルタ国の王妃。そして、香の煙の中からパーリスとヘーレナの姿が現れると、ファウストはヘーレナに恋する。ここには、実体のない形態に過ぎない、いわばプラトンのイデアのような存在がある。ファウストがヘーレナに触れた途端に爆発して、霊は霧となって消える。メフィストフェレスは、またもや美女にうつつをぬかす姿を見て、懲りない人間にうんざりする。人間はアダムとイブの時代から、誘惑されっぱなしというわけか。

2. 時空の旅、ギリシャ神話の世界へ
ファウストが書斎へ戻ると、助手ワーグナーが教授となっていた。ワーグナーは人造人間ホムンクルスを造る。小人間ホムンクルスは、レトルトに入れた原料を蒸留して化学的に造られた、いわば肉体を持たない純粋生命体である。ここには唯心論的な世界が組み込まれているようだ。ホムンクルスは、ファウストの夢までも見通す力がある。ファウストはヘーレナの夢を見るが、メフィストフェレスには何も見えない。ファウストは、夢の中で古典的ワルプルギスの夜へと時空の旅をしている。それを追いかけて、ホムンクルスとメフィストフェレスは、古代ギリシャ神話の発祥の地テッサリアへ飛んでいく。場面は、ギリシャ神話にまつわる妖怪たちがたくさん登場し、時空を超えた旅が続く。ヘーレナは、スパルタ王メネラス(メネラオス)の宮殿の前に立っていた。トロイアの城が陥落し、ギリシャ軍によって奪い返された彼女は、夫のメネラスの元へ帰ってきた。宮殿には、醜い妖怪フォルキュアスに変装したメフィストフェレスが現れた。メネラスは、フォルキュアスにヘーレナを神の生贄にするように命じていた。嫉妬のための刑罰である。ちなみに、一般的な説、いわゆる「パリスの審判」によると、パーリスはオリュンポスの女神に惑わされてヘーレナを奪い、それが原因でトロイア戦争が起こったことになっているが、ヘーレナが美男パーリスに誘惑されて、自らトロイアへ走ったという説もあるようだ。フォルキュアスは、助かる道はスパルタ北辺の異民族の首長の元へ逃れるしかないと教える。その首長とはファウストのことである。見事にそそのかし、ファウストはヘーレナと結婚する。そして、二人の間に早熟な天才児オイフォーリオンが生まれる。蛮族に征服されたギリシャが独立戦争を始めた時、オイフォーリオンはその戦争を身近で体験しようとして、両腕を翼のように広げて飛び立つが、深い谷間に墜落死する。ヘーレナも子供の死を追って悲劇で終わる。
グレートヘンといい、ヘーレナといい、悲劇のたびにファウストは精神を目覚めさせていく。その中で、ファウストの心がメフィストフェレスから離れていくのは想定外である。ちなみに、解説ではオイフォーリオンは、イギリスの詩人バイロンの運命を示しているという。バイロンは、若くして世を去ったが、ここにはその才能を惜しんだ意味が込められているそうな。

3. 欲望の変化、美的享楽から国家建設へ
ファウストは、享受のあとはいつも、一人自然の中に逃避する。彼はグレートヘンとヘーレナへの思いに耽っていた。メフィストフェレスは、今度は栄華な王朝生活で誘惑しようとする。しかし、ファウストは名声は空虚であると主張し、あらゆる無限の追求は、もはや人間の幸福のための創造的な活動に変わっていた。美的享楽は終わりをつげ、ファウストの欲望は、隣人のための行動が新たな指針となり、理想国家を築くことへと変貌する。そのためには、まず土地を所有しなければならない。ちょうどその時、皇帝は弊政のために人民に謀反されて僣帝の軍と戦争をしている。皇帝は劣勢であった。そこで、メフィストフェレスは、皇帝に味方して巻き返せば、海岸地帯の土地を褒美にくれるだろうと持ちかける。そして、魔力によって勝利し広大な土地を得る。

4. 開眼
ファウストは、旧制度から解放して新国家を建設し、人々は幸福を得た。だが、丘の礼拝堂のそばに住む老夫婦の小屋が目障り。彼はここから国内を展望したいのだ。老夫婦は立ち退きに応じない。その礼拝堂の鐘がファウストを狂わせる。やむなくメフィストフェレスに命じて老夫婦を移そうとするが、家屋に火をかけるなどの乱暴な振る舞いで老夫婦を殺してしまう。ファウストは移転させよと命じたのであって、殺害せよと命じたわけではない。彼は、その責任を感じて心が重くなる。そこに、焼跡から漂う煙の中から四人の灰色の女が現れた。それは「欠乏」「罪責」「憂愁」「困窮」の四人。「憂愁」のほか三人は、富貴なファウストに近づくことができない。悪魔こそが自由を束縛するものと感じて、メフィストフェレスと縁を切りたいと思っていた。この心の隙間に「憂愁」という幽霊が入り込み、ファウストを盲目にする。結局、人間とは、どんな享楽にも飽くことなく、どんな幸福にも満足せず、移り変わる様をひたすら求め、ついには、永遠の虚無を悟るものなのか?そして、ファウストは百歳に達して開眼する。自由な土地に自由な民と共に過ごしたいと願い、日夜励んで国土を開拓し、自然の脅威や権力の脅威を恐れることなく生きることに喜びを見つける。かくて人生の意義を認めたファウストは言う。
「瞬間に向かってこう呼びかけてもよかろう、留まれ、お前はいかにも美しいと。」
そして、ファウストは死んだ。メフィストフェレスは賭けに勝ったように見えるが、ファウストの描いた理想は天国に近いもので、地獄に属するものではない。天国から舞い降りた天使が撒き散らす紅薔薇は悪魔たちを焼き、ファウストの魂は天使によって救済される。そこに、かつての最愛の女性グレートヘンの魂が贖罪人として現れ、聖母に祈りをささげてファウストの魂が天へ昇る。

2010-02-07

"若きウェルテルの悩み" Goethe 著

岩波文庫の表紙の文句で衝動買いしてしまうことがある。本書はゲーテの晩年の言葉で誘惑しやがる。
「もし生涯に、ウェルテルが自分のために書かれたと感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」
ここには禁断の愛とその破局が描かれ、どう見てもアル中ハイマーの読む世界ではない。だが、今こうしてウェルテルを読んでいる。ゲーテだから読んでいるのだろうが...
本を選ぶ規準は人それぞれであろう。自分の置かれた境遇に類似した世界を求めながら、共感したいがために選ぶ場合もあれば、現実逃避を求めて選ぶ場合もある。本の世界には、精神を別世界へ誘導できるところにおもしろさがある。

人間は、愛する者が幸せになることだけでは満足できない。自分が幸せにしてやらなければ気が済まない。自分自身が介在できなければ不幸になることすら望む。単に恋愛で勝利したいがために。これが、人間の持つエゴイズムであり、人間特有の「所有の概念」といったところであろうか。実は、人生で所有できるものなんて何もないのに。人間にとって、自らの精神の弱点と正面から対峙することは難しい。人間は自らの精神を欺きながら生きている。自らの醜さを見ぬ振りをして生きている。そうでなければやってられない。自らを自殺に追い込んでどうする。自らの醜さと正面から対峙できる勇気は、凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いには持てそうもない。揺るぎない理性を獲得するには、あまりにも人生は短い。そして、泥酔した精神は現実逃避のために夜の社交場に執着する。お金を毟り取られると承知していても。「金の切れ目が縁の切れ目」というわけか。

本書には、なにやら懐かしい香りがする。恋愛は成就するまでの過程が最も幸せな時間であろう。そのじれったさが、切なさとなり苦しみとなるが、後に振り返れば、その時が最も幸せであったことに気づく。幻想を追いかけていると知りながら所有できない苛立ちさ、そのドキドキ感がなんともいえない。所有できないかもしれないという不安は、やがて奪い取りたいというスリルに変化する。不倫は禁断ゆえに燃え上がる。しかし、離婚してそれが成就した瞬間に急激に興醒めする。所有した安心感から緊張感を失い次の刺激を求める。人間は退屈さにすぐに飽きてしまう。精神は、してはならないという意識が衝動へ変化した時に興奮を駆り立てる。精神は怖いもの見たさという欲情に憑かれる。相手を知らないという情報の欠落感が想像を膨らませる。しかし、相手を知り所有できたと錯覚した瞬間から幻滅が始まる。そして、興味は次の所有へと移る。これは恋愛に限らず権益や物質的な奪い合いにも見られる現象である。これが人間の本性であろうか。
ところで、女性の向上心には目を見張るものがある。あれだけ化粧品に執着し、ダイエットに執念を燃やす生き物も珍しい。永遠の若さを獲得しようとする執念には、滑稽とも思える自己満足の世界がある。若いうちは、むしろ自然体の方が美しいのだが、ひたすら塗りたくるのは、もったいない!これが寿命を10年長くする秘訣だろうか?子供ができると、これほど豹変する生き物も珍しい。ちなみに、化粧をするということは、化生に変身するということか?これは、もののけや妖怪の類か?現実を認められる勇気が持てた時に、はじめて冷静な諦めが生じる。
アル中ハイマー曰く、「女は永遠の若さを求めて化粧を塗りたくり、男は永遠の若さを求めてホットな女性の尻を追いかけ続ける。」

本作品は、ドイツ文学を外国に広めた先駆けでもあるという。そして、ヨーロッパでベストセラーとなり、ウェルテル熱なる精神的インフルエンザが広まったという。若者がウェルテルの服装を真似たり、自殺したり、離婚が流行するといった社会現象を引き起こした。当時、ライプチヒ市会はこの作品の発売を禁じたという。同時代のナポレオンも本作品を愛読したと言われる。なるほど、ロッテへの思いは戦場からジョゼフィーヌ宛に書簡されたものに通ずるものを感じる。それは「ナポレオン言行録」にも表れる。
ゲーテは、薄倖なウェルテルの自殺を偉大な行為として描きたかったのだろうか?ここには、ある種の精神の解放が表れている。人間の存在のはかなさといったニヒリズム的な台詞が繰り返される様は、自らを励ましているかのようでもある。心の隙間を埋めるかのように。もはや、ウェルテルの悩みを救済できるのは「笑うセールスマン」しかいないだろう。

1. ウェルテルとゲーテ
本書は、書簡体小説の形態をとることで生々しさを演出する。それもゲーテ自身の体験に基づいているらしい。物語は、主人公ウェルテルが既にアルベルトとの婚約がきまっている女性ロッテへ憧れるところから始まる。二人は付き合うが、いずれ破局することが見えている。居たたまれないウェルテルは別れを告げずに町を去る。しかし、その後も、ロッテとの交際は続き、往復したり手紙のやりとりをする。やがて、成就するはずもない気持ちを、自虐心が追い討ちをかける。ウェルテルは、アルベルトとロッテとの仲を自分が破壊してしまったと感じて、しきりに自分を責める。そして、ロッテが尊敬するほどの女性であることを示そうとするが、この行為が自らを狂わす。数々の失策や屈辱の中でアルベルトへの反感も混じる。ついに、虚しさ切なさが自らを自殺へと追い込む。ウェルテルの死後、残された書簡がロッテに届けられる。そこには、死を決意した様子が感傷的な誇張もなく表される。これは絶望ではなく、自我の狂乱から解放するための自殺であると。ロッテはウェルテルを側に置いておきたかった、自分の兄弟にできたら、自分の女友達と結婚させられたら、などと呟く。アルベルトはロッテがウェルテルの死で感傷に浸るのを見て、おもしろいはずがない。
本書は、愛という熱病が、自らの理性を失わせ、人間のエゴイズムを剥き出しにする標本のようでもある。そこには、悪霊に憑かれたように自己分裂していく様や、熱病に侵された挙句、拳銃自殺するといった様が描かれる。晩年のゲーテは、この作品が出版されて一度も読み返したことがないと語ったという。
「あれは危険な花火だ!読んでいておそろしくなるし、生み出した当時の病的な状態をもう一度くりかえして感ずるのが心配だ。」
大学を卒業したゲーテは父の勧めでライン地方のヴェツラールに行き、帝国高等法院で裁判事務の見習をする。この地には頑固なほどの官僚的空気があったという。階級観念やプロテスタントとカトリックの対立が渦巻く。この町の雰囲気に反感を持っていたことも本書に表れる。また、作品でモデルとなった二人の人物が実存したようだ。アルベルトの原型となったケストナーと自殺したエルーザレムである。ゲーテはヴェツラールで最もケストナーと親しくしていたという。ケストナーは仕事に忙しく社交の席にも顔を出さない内気なタイプ。当初、彼のいいなずけのシャルロッテ・ブフ(愛称ロッテ)とゲーテとの仲に嫉妬や敵意をはさむことなく、むしろ両者を信用して歓迎していたという。ケストナーは本作品がヒットしたことに対抗して、真相を知らしめるために「ゲーテとウェルテル」という本を書いているそうな。友人エルーザレムは、教養も高く頭脳も鋭く、文学、芸術、哲学にも精通していたが、憂鬱で厭世観を持った人間嫌いな資質があったという。彼は人妻を愛し、成就しない恋のために自殺する。後に、ゲーテも人妻に恋をし、エルーザレムの苦悩を実感することになる。こうした背景が本作品を完成させたようだ。

2. 気に入ったフレーズをメモっておこう。
「世の中のいざこざの元になるのは、奸策や悪意よりも、むしろ誤解や怠慢だね。」

「威厳を保たんがためにいわゆる賤民から遠ざかる必要があると信じている人間は、敗北をおそれて敵から身をかくす卑怯者と、同じ批難に価する。」

「たいていの人間は大部分の時間を生きんがために働いて費す。そして、わずかばかり残された自由はというと、それがかえって恐ろしくて、それから逃れるためにありとあらゆる手段を尽くす。おお、人のさだめよ!」

「活動したり探求したりする人間の力には、限界があって制約されている。すべての人の営みは、しょせんはさまざまな欲求を満たすためのものだ。しかも、この欲求とて、そのねがうところはただ、われらのこの哀れな存在を引きのばそうとするにすぎない。」

「不機嫌は...愚劣な虚栄によって煽られた嫉妬とつねに結びついている。」

「全くぼくは一個の旅人、地上の巡礼者に過ぎない。」

人間の精神は、悩みにも苦しみにもある程度までは堪えられるが、やがて限界が訪れる。精神的にも肉体的にも限界を超えた時に、絶望を招いて生を絶つ。これを卑怯者と言えるだろうか?こうした病に陥った人の自殺する行為を弁明する場面で...
「冷静で理性的な人がこうした不幸な人間の状態を見ぬいても、それはむだです!忠告をしても、なんにもなりません!ちょうど健康な人が病人の枕頭に立って、自分の力をほんのすこしでも吹き込んでやることができないようなものです。」

「幸とか不幸とかは、けっきょくはわれわれが自分を対比する対象次第のわけだ。だから孤独ほど危険なものはない。...文学の空想的な幻想に煽られて、しらずしらずに存在の一系列をつくりあげてしまう。そして、自分はその最下位にいるが、自分以外のものはもっとすぐれている、他人は誰でもずっと完全だ、と思い込む。...自分に欠けているものは他人が持っているような気がするものだ。そればかりではない。自分のもっているものを全部他人に贈物にして、おまけに一種のこころよい理想化までする。このようにして、幸福なる人間像ができあがるが、それはわれわれ自身が描きだした架空の幻にすぎない。」