2016-07-17

"企業価値評価 第4版(上/下)" McKinsey & Company, Inc. 著

この書に出会ったのは、十年ほど前になろうか。時折辞書代わりにしてきたが、そういえば一度も読み通したことがない。今、あらためて読む気になろうとは...
「本書は、短期的な視点に立った株式売買で利ざやを稼ぐトレーダー向けのものではない。また、四半期ごとの収益改善によって自社の株価を都合よく上げていこうとする経営者向けのものでもない。」

企業に存在価値を求めるということは、ひいては経営陣や従業員、株主や取引先など、その企業に携わる人たちの存在意義を問うことになり、仕事に対する誇りをくすぐるであろう。それは、哲学的な領域に踏み込むことであり、会社は誰のものか?などという次元の問題ではない。経済学の意義とは何か?と問えば、問題が大き過ぎるものの、一つの使命に価値の定量化という課題がある。
しかしながら、この定量化が貨幣換算と結びついた時、人は目の色を変える。貸借対照表には、借方と貸方という損得勘定で記載され、どうやって儲けを最大化するか?いや、どうやって価値をより高価に見せるか?に執着する。debit と credit をあの有名人が翻訳したためかは知らんが、左側と右側ぐらいの意味に捉えた方がいいと、税理士さんに助言されたものである。
経済学が社会現象を扱う一分野である以上、道徳的心理や倫理的判断を無視することはできない。近年、アクティビストと呼ばれるモノ言う株主たちが現れ、コーポレート・ガバナンスという概念が広まった。それでもなお、株式市場が企業の四半期決算に一喜一憂することに変わりはない。経済学が唱える合理性とは、精神の合理性に適ったものであろうか、はたして人間の普遍性に適ったものであろうか...

「企業価値評価」は、ビジネススクールの教科書や金融機関の研修用テキストとなり、いまや世界標準になっていると聞く。本書は、三人の著者 Tim Koller, Marc Goedhart, David Wessels に加え、監修者本田桂子と翻訳チームを含むマッキンゼー社のコンサルタント軍団が、ノウハウを共有して改訂を重ねてきた第四版。彼らは、心理学と一体化した行動ファイナンスが旺盛な時代になってもなお、市場はファンダメンタルズを反映する!という立場を変えようとはしない。実際、世界恐慌、ブラックマンデー、リーマンショックなど度重なる金融危機に遭遇しながらも、必ず落ち着きを取り戻してきた。短期マネーの買い戻しや、HFT(超高頻度取引)の乱用といったものに、恐怖におののくトレーダー心理が重なると、市場をますます不安定にさせる。だが、株価が実体から乖離することはあっても、それが数年以上続くことはあまりない。経済のファンダメンタルズから株価が乖離するのは、企業家や投資家が経済原則を無視したり、時代が変化したなどと勘違いした結果である。確かに、将来価値を見抜く力を求めたところで、これが最も難しい。
しかしながら、ここに語られる企業価値評価に対する原理は極めて単純である。まず、経営者は資本市場に振り回されず、常に自社価値を把握しておく必要があること。次に、企業価値を理論的に理解するだけでなく、事業が価値創造にどんな意味を与えるかを説明できること。そして、目先の業績よりも長期的な価値創造のために何をしているか、が問われる。こうしたことは株主にも言えるだろうし、伝統的な製造業からハイテク企業まで業種を問わず同じはず。にもかかわらず、不正会計スキャンダルは後を絶たない。隙がなければ、敵対的買収や陰謀の類いにも対抗できるはずだが...

1. 概要
財務諸表には、ROA(総資産利益率)、ROE(自己資本利益率)、営業キャッシュフローなどが記載される。純粋な事業価値を求めるためには、非事業用資産や有利子負債・資本構成が数値を歪めることがあり、直接事業に関係する収益、資産、負債を抽出しなければならない。そして、貸借対照表、損益計算書、利益処分計算書から、バリュードライバーを再構築することになる。
具体的な算定法には、主にエンタプライズDCF法とエコノミック・プロフィット法に焦点を合わせている。どちらも、重要なバリュードライバーに、ROIC(投下資本利益率)と成長率を置いている点は同じ。理論的には、DCF法が最も有効とされるが、主観的な予測に基づく弱点を抱える。DCF法が将来キャッシュフローに着目することは、正論であろう。だが、これを高い精度で予測することは困難であり、分析も複雑になる。営業フリー・キャッシュフローの減少は、業績の悪化によって生じることもあれば、将来への多額の投資によって生じる場合もあるのだから。この点、エコノミック・プロフィット法は、投下資産から創出されるリターンに着目するため、少し概念的に捉えやすい。双方とも数学的に同じ結果になるらしいが、数値を解釈する時の意味合いが違ってくるという。
一方、アナリストレポートや投資銀行の資料では、マルチプル法が多用されるそうな。時価総額を単年度の収益の何倍か、といった視点で捉えれば極めて単純化できる。実際、一般公開されるファイナンス情報には、PER, PBR, EPS といった指標が並ぶ。投資家の間では、成長株と言えばマルチプルの高い株のことを指し、そう考えられる傾向がある。
本書では、企業価値と、EBITA や EBITDA との比で分析する事例が紹介される。同業種や類似企業の比較では、成長率と ROIC の算出だけで十分ということはあるだろう。しかしながら、ROIC が資本コストよりも高く、成長している企業では、EPS の成長率も高いが、その逆は正しくないと指摘している。
また、銀行や保険会社の固有の問題から、エクイティ・キャッシュフロー法を紹介してくれる。この手の業界は、直接の生産物が見当たらず、外部からの価値評価が非常に難しい上に、業績のほとんどが個人情報で固められ、会計報告を信じるしかない、というのが実情だろう。おまけに、ビジネスモデルの性格上、レバレッジ率が高いときた!貸借対照表や損益計算書における勘定科目にしても、一般的な企業とは意味するものが違うように映る。実は、ポートフォリオのバランスを考慮して銀行株を一定の割合で保有していた時期があるが、どうしても馴染めないために完全に手放したという経緯がある。銀行株を勉強するために、この書を入手したのではあったが...
他には、有利子負債・資本構成が大きく変わる場合は、APV(Adjusted Present Value)法を用いるべきだとしている。
すぐに想像できることだが、いずれの方法も相補的な関係にあり、一つの算定法が万能というわけではない。それは、統計学が分布モデルに当てはめようとする思考法に似ている。
また、企業にとって長期戦略こそが要であり、それぞれの算定法から継続価値に意義を求めることになる。持続できない事業が、社会的に役立っているとは考えにくいからだ。いずれにせよ、企業価値創造志向で最も重要なのは、その企業を特徴づけるバリュードライバーを把握することであろう。
さらに、キャッシュフローの予測期間と企業価値の関連性はない!と主張していることにも注目したい。競争が優位にある期間はリターンが通常よりも多く、年毎にキャシュフローを予測した方が合理的という考えがある。これは、初期は資本コストを上回る利益を上げ、徐々に投下資産に対する収益率が資本コストの水準まで減少する、という経済原則に基いている。確かに重要な原則ではあるが、ROIC を過信して企業価値と結びつけることは危険であろう。

2. エンタプライズDCF(Discounted Cash Flow)法
エンタプライズDCF法は、企業のキャッシュフローに純粋に注目していることから、学者や実務家が好むという。企業価値が将来キャッシュフローによって決定されることは正論であろう。そのキャッシュフローは投下資産に対するリターンと成長性で決まる、ということが基本原則としてある。ただ、将来キャッシュフローが正確に算定できれば無敵であろうが、将来予測が主観的であることは否めない。
「DCF法による企業価値評価の精度は、将来予測の良し悪しにかかっている。多くの場合、財務諸表の細かな検討に追われ、経済のファンダメンタルズの分析を忘れがちになる。企業価値は、ROICと成長率によって決まる。したがって、ROICと成長率を、業界全体のエコノミクスと関連づけて予測すること、また、予測した内容を過去の実績と比較検討することが非常に重要なのである。」

算定手順は...

  1. 事業から生み出される営業フリー・キャッシュフローをWACCで割り引き、事業価値を算定する。
  2. 短期保有目的の有価証券、非連結子会社株式、その他の資本投資などを含む非事業用資産の価値を算定する。この非事業用資産の価値と、事業価値の合計が当該企業の企業価値となる。
  3. 資産に占める有利子負債などの株主以外に帰属する価値を特定する。固定金利や変動金利による借入金、年金の積立不足分、あるいは、従業員向けストックオプションや優先株式なども含む。
  4. 企業価値から上記3の価値を除いたものが、普通株主に帰属する株主価値となる。1株当たりの価値は、この株主価値を発行済株式数で割って算出する。

キャッシュフローの成長率が一定だと仮定すると、基本的な算定式は次にようになる。

企業価値 =   営業フリー・キャッシュフローt=1

 資本コスト - g 


営業フリー・キャッシュフロー = NOPLAT - 純投資額
純投資額 = 投下資産t+1 - 投下資産t
ROIC = NOPLAT / 投下資産
投資比率 = 純投資額 / NOPLAT
g = ROIC x 投資比率

純投資額 : ある年の投下資産の純増減額
NOPLAT   : みなし税引後営業利益
ROIC     : 投下資産利益率
WACC     : 有利子負債・株主資本の税引後の加重平均資本コスト
g        : 成長率


売上高とNOPLATが一定の比率で成長し、毎年NOPLATのうち、同じ割合を事業に再投資すると仮定すると...

企業価値 =   営業フリー・キャッシュフローt=1

 WACC - g 

営業フリー・キャッシュフロー = NOPLAT - 純投資額
                             = NOPLAT - (NOPLAT x 投資比率)
                             = NOPLAT x (1 - 投資比率)
                             = NOPLAT x (1 - g / ROIC)

そして、企業価値のバリュードライバー式が得られる...

企業価値 =  NOPLATt=1(1 - g / ROIC)

 WACC - g 

3. エコノミック・プロフィット法
算定結果はDCF法と同じでも、企業がどのように創造するかに着目するのが、エコノミック・プロフィット法だという。DCF法で用いる営業フリー・キャッシュフローは、企業の各年の業績を把握するのに適さないが、エコノミック・プロフィットは適しているという。
エコノミック・プロフィットとは、ある期間に企業が創造するみなしの価値を測るもので、以下のように定義される。

エコノミック・プロフィット = 投下資産 x (ROIC - WACC)
                           = NOPLAT - (投下資産 x WACC)

そして、価値算定式は...

企業価値 = 投下資産 + 将来のエコノミック・プロフィットの現在価値の総和

価値0  = 投下資産0  投下資産0 x (ROIC - WACC)

 WACC - g 
= 投下資産0  エコノミック・プロフィット1

 WACC - g 

一般的には、次のように定義される。


価値0 = 投下資産0

t = 1
 投下資産t-1 x (ROICt - WACC)

 (1 + WACC)t 

ただし、エンタプライズDCF法と算定結果を同値にするためには、以下の点に留意しなければならないという。
  • 投下資産は、期首のものを使う。つまり、前期末の投下資産額。
  • エコノミック・プロフィットとROICの計算には、同じ投下資産額を使う。

投下資産をどう定義するかよりも、一貫性を保つことの方が重要であろうか。こうした会計上の感覚はとっつきにくいものがあるが、貸借対照表を書き慣れれば少し分かってくる。

4. 資産評価モデル CAPM
最も一般的な資産評価モデル CAPM を紹介してくれる。

E(Ri) = rf + βi [E(Rm) - rf]

E(Ri) : 株式iの期待収益率
rf    : リスクフリー・レート
βi   : 市場と株式の連動性
E(Rm) : 市場全体の期待収益率

CAPMでは、リスクフリー・レートとマーケット・リスクプレミアム(E(Rm)との差で定義されるのは、全企業に共通でβのみが企業によって異なるからだという。これは確かな理論に基いているらしいが、実際の適用法につていは具体的に呈示されていないのだとか。そこで本書は、次のように提案している。

  • 先進国のリスクフリー・レートを推定するには、10年満期のゼロクーポン・ストリップス債など、流動性の高い長期国債を利用する。
  • 過去の平均値と将来の予測を踏まえ、現在のマーケット・リスクプレミアムは、4.5 から 5.5 の範囲が妥当と考えられる。
  • 企業のβを推定するには、アンレバード・ベータ(有利子負債がない場合のベータ)の業界平均を求め、それを当該企業の目標とする有利子負債・資本構成に応じて変換する。

リスクフリー・レートの推定では、債務不履行リスクの小さい国債の最終利回りを参考にする、という考え。マーケット・リスクプレミアムの推定では、なるべく長い期間で算術平均する、という考え。しかし、これだけでは心許ない。マーケット・リスクプレミアムの予測はある程度可能だろうが、やはり確率論に頼ることになろう。いずれにせよ資産管理は、金儲けの手段ではなく、いかに資産を守るかという問題である。それを、盲目的に国や行政、あるいは金融機関に委ねていいのか?これまた生き方の問題である。

5. ペッキングオーダー理論
ファイナンスの世界には、資本と有利子負債の間にトレードオフの関係があるという見方に代わり、ペッキングオーダーがあると主張する学派があるという。企業が投資をする際、まず内部の資金を内部留保から利用し、次に社債を発行し、最後に株式を発行するというもので、資金調達手段においてコストの低いものから順番に選択していくという考えである。至極当然のようにも思えるが、安物買いの銭失いとなって、結局コストが高くつくということもあろう。
その一つの原因に、投資家は経営者の財務上の意志決定を社会に対するシグナルとみなすという点を指摘している。例えば、株式が発行されれば、投資家は、経営者が自社株が過大評価されていると考えいてると解釈したり。よって、理性ある経営者は、株式による資金調達が株価下落の原因となることを考慮し、株式発行を最後の手段とするという。
社債についても理屈は同じだが、株式よりは財務上の影響が小さい。この理論では、企業の成熟度が増し、収益性が高くなっていくと、内部で資金調達ができ、社債や株式による資金調達が不要になるという単純な理由で、レバレッジが低くなると考える。
しかしながら、実証的証拠はないと指摘している。例えば、潤沢なキャッシュフローをもつ成熟企業は、最もレバレッジが高い企業群に属するが、ペッキングオーダー理論では、この種の企業はレバレッジが最も低い部類に属すという。また、ハイテク新興企業は有利子負債の比率が多くなるとされるが、実際は最もレバレッジが低い企業の部類に属すという。
確かに、こうしたシグナルは短期的に株価を変動させるが、本質的な価値を増減するものではなさそうだ。資本市場に何らかの期待を抱かせれば、遅かれ早かれ期待に応える必要があり、過度に楽観的なシグナルを送れば期待はずれとなる。
「上場企業の場合、有利子負債・資本構成の決定が、将来見通しに関するシグナルを資本市場に送ることになる。投資家は、当該企業の事業、財務の真に見通しについて、経営者は投資家よりも多くの情報をもっていると考えている。もちろん経営者は、投資家に直接見通しを発表できるし、実際そうしているのだが、投資家は言葉よりも行動を信用する傾向がある。このため社債の発行や償還、増資や自社株買い、配当について決定が下されると、それが財務見通しについての何らかのシグナルではないかと考える。そこで、有利子負債・資本構成を調整する前には、このシグナル効果を意識しておく必要がある。」

6. クロスボーダー
外国企業の価値評価では、各国の会計制度の違い、国際税務、外貨建てによる指標換算、そして、為替リスクなども考慮しなければならない。ただ、各国の会計制度の相違は、急速に減少しているようだ。グローバル・スタンダードとして、IFRS(国際財務報告基準)や、GAAP(米国会計基準)を採用している国が多く、この二つの会計基準の統一化が急速に進められているという。
しかしながら、企業評価には、過去の業績に長期間遡る必要があるので、当時の会計基準の相違が問題となる。デリバティブについては、両基準とも金融資産とみなし、貸借対照表上に時価で記載するという。過去に遡れば、このような扱いをしていた企業はほとんどなかっただろうけど。
ただ、両基準とも、デリバティブ商品の時価変動による損益への影響を回避するためにヘッジ会計を適用することは可能だという。特定の条件が満たされた場合に限られるとしながらも。
引当金については、両基準とも、将来の営業損失を補填する目的の積み立てを禁止する点では、類似しているようだ。赤字が続けば、繰入が認められる引当金はありがたいが、計上のタイミングで微妙に違ってくる。引当金の乱用は、企業価値を歪めることになり、活用に制限が加えられるのは道理である。リストラ関連の引当金の計上には、負債としての定義を満たさなければならないし、損失をどう定義するかは会計上の問題となる。
また、法人所得や配当への課税方法は国によって異なり、近年、法人税が国際競争力の足枷となることが問題視されている。経済特区などで法的、行政的、税務的な優遇や規制緩和の措置を受ける場合は、企業にも勢いを感じるが、こうした条件は政治的リスクに曝されるかもしれない。
多くの国で、連結納税制度が採用され、企業損失との相殺によって節税ができる。多国籍企業が多重課税問題を抱えているとは限らず、国際租税条約によって、課税免除や税額控除などで国家間の合意がある。海外子会社の利益は、国内では課税されないなど。
実際、Amazon や Google などの巨大多国籍企業が、国家間の税制の違いを利用して節税を行っていることが問題視される。それでも、国内のグループ企業間の連結納税が認められていても、国をまたがると認められないということもあるようだ。
配当やキャピタル・ゲインへの課税方法の違いは、株主への実効税率にも影響を及ぼし、法人税と所得税で二重に課税されるケースもある。
為替リスクについては、市場がグローバル化したとはいえ、外貨のままで取引する方が賢明な場合も少なくない。ネット社会ともなれば、国内市場にこだわらなくても、自由に市場を選択できる。上場している主だった企業は他の主だった国でも上場しているし、保守的に考えれば、他国に上場していない銘柄をポートフォリオから除外するという考え方もあろう。外国企業の価値評価を行う際に為替リスクを懸念して、ヘッジ取引に頼るというやり方もあろうが。為替リスクは、企業のファンダメンタルズよりも、各国経済のファンダメンタルズに影響するということも考慮する必要がある。

7. コングロマリット・ディスカウント
古くから、コングロマリット・ディスカウントという議論がある。多角化した企業は、特定領域の事業に専念している企業と比較して、総合的な価値がディスカウントされるという考えである。
しかし、これはコンセンサスになっていないと指摘している。むしろ、プレミアムが上乗せされるという考えもある。確かに、奇妙なブランドイメージが作られたり、一見無関係に見える事業でも想定外の関連性を持つことがある。事業部間で内部取引による効率性もあり、その相乗効果は外からは見えにくい。単純に考えれば、各事業部ごとに価値算定を行い、それらを合計して企業価値を求めることになろうが、必ずしもそれが妥当とは言えないだろう。

8. 日本企業の構造的特徴
本書は、事業価値に非事業用資産を加えたものを企業価値とし、そこから有利子負債を差し引いたものを株主価値としている。しかし、日本企業の場合、事業価値、企業価値、株主価値の構成には、二つの特徴があると指摘している。

「第一の特徴は、非事業資産が大きいこと。」
老舗企業ともなると非事業資産が事業価値よりも上回ることが多いという。欧米企業ではあまり見られない傾向である。非事業資産には、まず、持ち合いの株式があり、メインバンクや取引先の株をかなり保有している。次に、余剰現預金、現預金、あるいは流動資産に含まれる有価証券など。企業が経営上安定していれば、余剰金の使い方には2通り考えられる。配当ないしは自社株買いを通じて株主に還元するか、来るべき成長への投資のために内部留保するか。日本企業は、将来に備えて内部留保を厚くすると、よく指摘される。おまけに、若干の遊休不動産を保有すると。

「第二の特徴は、有利子負債・資本構成が、総じて事業固有のリスクを反映したものになっていないこと。」
欧米では、営業フリー・キャッシュフローのボラティリティに反映される事業リスクと、資本コスト最小化を鑑みて、最適な有利子負債・資本構成を設定するという。そして、その目標に向けて資金調達の調整と自社株買いを行う。
一方、日本企業は、さすがに無借金企業礼賛こそなくなっているものの、有利子負債・資本構成の目標を明確にしているところは皆無だという。負債によって利益を計画的に拡充できるならば合理的となるが、借金に対する偏見があるのも確かである。敵対的買収に対して抵抗があるのは欧米とて同じだろうが、日本の経営者の多くは買収という言葉を極端に毛嫌いする傾向がある。従業員も顧客も幸せになれるのなら、経営的合理性となろうが...

ところで、日本国債が破綻しないのは、経済界の七不思議と言われているかは知らんが、こうした保守的な国民性が、デフォルトのリスクを相殺しているということはあるだろう。なにも企業の価値観までも欧米に合わせる必要はないし、市場の多様化こそ世界経済のリスクを分散することになろう。確かに、若年層が多く、活気溢れる市場は羨ましい。だからといって、高齢化社会にも市場的な役割がある。投資家から見れば面白みがないものの、安定した市場は金融リスクが高まった局面で資金の逃避先となる。リカードが比較優位理論で示したように、絶対的な市場価値よりも、相対的な市場価値を求めるという考えもあろう。
ただし、過激な金融刺激策によって、デフォルトのトリガを弾きかねない水準にあることは否めない...

2016-07-10

"フラー制限戦争指導論" J. F. C. Fuller 著

英国陸軍少将ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーは、機甲部隊を中心に据えた機動戦略を提唱したことで知られる。しかし、伝統的な将校たちの反発を受けて頓挫。イギリス人の理論がドイツ人によって実践されるとは、なんと皮肉であろう。そう、グデーリアンの電撃戦である。
ナポレオン戦争と二つの大戦は、非戦闘員に多大な犠牲を強いてきた。もはや近代戦争は、消耗戦、総力戦の様相を呈す。無差別爆撃を戦略爆撃と呼ぶことに抵抗を感じる人は少なくないだろう。「制限」というからには、敗北主義のイメージを与えかねない。案の定、攻撃性旺盛な連中から批判を受けてきた。
フラーは、攻撃こそ最大の防御!を信条とする連中を、クラウゼヴィッツを皮相的にしか解釈できない輩だと吐き捨て、戦争のもつ政治的な意義を再定義しようとする。備えこそ最大の防御!というわけだ。真の軍人精神にはスポーツマンシップに通ずるものがある。格闘性の激しい競技ほど自制と厳格なルールが求められるように。敵対心を煽って無謀な行為を勇敢と履き違えるような旧式軍人は、いまや無用だ。

「制限戦争」という言葉には、全世界から戦争をなくすことは可能であろうか?という普遍的な問いが暗示されている。偏重した善は悪魔にも匹敵する。博愛を唱える修道士が、最も残虐な行為に及ぶのも道理というものか。そして、あらゆる行為を正当化するために、正義と大義が道具とされてきた。犯罪心理を考慮しない有識者どもが唱える道徳論ほど陳腐なものはあるまい。
哲学や科学は普遍性を追求する世界であり、いわば理想を求める世界。そのために現実から目を背けがち。一方、政治や経済は現実を直視し、実益を求める世界。そのために目先の利益に目を奪われがち。理想主義には、誰にとって理想かという問題を抱え、その対極にテロリズムを置くことができよう。現実主義には、哲学なき利益に執心し、その対極に弱肉強食を置くことができよう。どちらも排他的思考を旺盛にさせる。クラウゼヴィッツが言うように「戦争は一つの政治的手段」とするならば、人間精神に内在する悪魔性からも目を背けるわけにはいかない。力とペテンは、平和時には悪徳とされるが、戦時には美徳とされるのだ。戦争を根絶することができれば、世界は本当に平和になるだろうか...
「原始人の最も危険な敵は自分の属している人種の敵であった。今日でも、人間が人間の唯一の敵である。そして人が人を攻撃するのは50万年前と全く同じである。戦争と狩猟は昔からアピールする。これは本能的に、どんな子供でも鉄砲が好きで、大人が殺害にスリルを感じるゆえんである。」

そもそも、何のために戦争をやるのか?それは、集団的な自己存在の強調、集団的な自我の肥大化と見ることはできる。民族優越主義もその現れ。本書は、「戦争の真の目的は平和であり、勝利ではない。」と唱える。そして、敵を撃滅して一方的に意志を強制することの愚かさを説いている。平和こそが政治を支配する第一の観念であるとすれば、勝利は平和を達成する一手段に過ぎないことになり、無制限戦争の意味は自ずと失うであろう。
しかしながら、戦争をやる理由がイデオロギーや宗教の対立である場合、国家や民族の根絶までも獰猛に欲する。実際、二つの大戦では無差別攻撃が正当化された。民主主義といっても実に多様な形態があり、自国の民主主義を平和愛好の唯一の手段として崇めるのは危険である。平和にしても様々な解釈があり、真の国際調和を意味する場合もあれば、国際的不和や緊張関係によって殺し合いを抑制するという場合もあり、後者の方が現実的であることが多い。
「冷戦」という言葉は、戦闘状態の継続を意味していたが、ある種の平和状態と見ることもできよう。その証拠に、冷戦構造が終結して平和が訪れたかと言えば、むしろ危険を増している。核兵器といった大量破壊兵器が大規模な戦争を抑止しているとはいえ、新たなゲリラ戦術が生まれ、従来型兵器への依存度は変わらない。本書には、「小銃が歩兵を生み出し、歩兵が民主主義を作った」という記述がある。ネット社会では情報の民主化が進み、国家はサイバー攻撃に晒されている。これもある種のゲリラ戦だ。戦闘様式は、技術進歩にともなって合理化するどころか、より複雑化している。
平和の概念を支える原則の一つに、世界人権宣言などが掲げる「すべての人間は平等」という理想があるにはある。それは政教分離によって支えられる原則であるが、法律でいかに定めようとも完全に政教分離を果たした国家はない。おそらく、人間社会から信仰心を根絶することは不可能であろう。無神論者だって、宗教が唱える神を信じないだけで、宇宙論的な独自の神を構築する。無宗教家だって、既存の宗教が唱える教義に納得できないだけで、自己の中に論理的な信仰を構築する。精神の持ち主が、自己存在に何らかの意義を求めるのは自然であり、生きた証ってやつを求める。
もし、このような思考傾向が相手を煙たいと感じさせ、紛争の根源的な要因であるとすれば、無制限戦争をいかに回避するか、ということに注力することの方が現実的な解となろう。現実を生きるということは、妥協を生きることであり、和平条約の類いがすべて妥協の産物である。

1. 絶対君主の戦争様式
本書は、制限戦争の起源を18世紀の絶対君主の時代に求めている。宗教戦争は三十年戦争で頂点に達し、飢えた人民の大群を産み出した。人口は激減し、人肉食いもあったという。そして、一般市民が傭兵たちの恐ろしい野蛮行為の犠牲になった。絶対君主は、この宗教戦争の廃墟の中から生まれたという。
15世紀頃の専制君主に対して、ルイ14世の処世上の身分は神の摂政としての絶対的地位を確保し、全ヨーロッパの模範となった。その傾向は、軍事面において顕著だったようである。15世紀の専制君主の権力が傭兵に依存したのに対し、17、18世紀の絶対君主は常備軍に権力の基礎を置いたという。常備軍の成立はシャルル7世による親衛隊の編成に遡るが、範となるのは1643年、大コンデ率いるフランス軍がロクロワの戦いでスペインを破った時だとか。常備軍の規模は国力と関係する。国民経済が破壊された状況で常備軍を養うことはできないのだから。そして、ここに制限軍事力という概念が生まれたという。常備軍の意義は、なんといっても非戦闘員との明確な区別にある。
フリードリヒ大王の時代には強制的な徴兵と厳格な規律が、戦術を密集陣形による作戦に限定する主因になったという。この時代の戦争は恐ろしく犠牲者が少なかったとか。戦争は形式的なものとなり、しばしば限定的な戦闘で済んだという。敵の領内に侵入し、相手を右往左往させるだけでも大成功だったと。殺し合いというより脅し合いか、罵り合い。制限戦争で立案される作戦は、疲弊戦が基本原則であったという。だから、スペイン継承戦争あたりまで惰性的な戦争が続いたのであろうか?歴史家ガリエルモ・フェレーロは、合理的で無感動な戦争様式について、こう記したという。
「制限戦争は、18世紀の最も崇高な実績の一つであった。それは、温室植物の種類に属し、したがって貴族的かつ良質の文明の中にだけしか繁茂し得ないものであった。われわれはもはやそれを繁茂させることができない。それは、フランス革命の結果失ってしまった素晴らしいものの一つである。」

2. 国民戦争の原動力
本書は、絶対君主時代の制限戦争を終焉させ、破壊と殺戮の野蛮な形に逆戻りした転換期がフランス革命だとしている。つまり、絶対大衆主義が絶対君主を追放し、大衆の熱狂が国民戦争を覚醒させたというのである。そして、古臭くなった制限戦争と未発達の無制限戦争の二つの形態が初めてぶつかったのは、1792年のヴァルミーの戦いだとしている。
とはいえ、フランス革命は周辺諸国で歓迎された。オーストリア支配から解放されることを熱望した民衆には、自由の観念が輝いて映ったことだろう。
「原始部族は武装した遊牧民の集団であり、各々が戦士であった。部族全員が戦争に従事するので、戦争は総力戦である。しかし人類が野蛮時代に代って農業文明の時代を迎えると、ごく少数の例外を除き、人々は狩りや遊牧の生活をすてるようになった。以来、非戦闘員である食物生産者と戦士との間に差別が生れたのである。古代の都市国家においては、十分な資格を有する市民のみが市民軍に入隊できた。封建時代には、騎士とその家族達が召集の主体となったが、それは全人口のごく一部分にすぎなかった。そして、絶対君主の時代には、一般市民はまったく戦争の域外に立った。この区別がいまや廃止され、武装した遊牧民の集団に復帰することになった。ただし、今度は国家的立場においてである。」
やがて、国家軍を増強するために徴兵制が合法的に組み込まれていく。国民の熱狂を一旦冷静にさせるための手段として法律の存在意義が増すものの、政治家は法律の解釈を捻じ曲げて熱狂を煽動してきた。いわば、論理学の盲点をついて。国民を煽動するには感情論に訴えるのが手っ取り早い。ナポレオンは、国民を奮起させるために敵国を完全に打倒しなければならなかった。民意が戦争を支持すれば当然の帰結。そのことを証明して見せたのが宣伝省を重視したヒトラーである。大日本帝国では、大衆に神の国と思い込ませた。国民啓蒙の原則は、現在とて変わらない。民族優越性をちょいとくすぐれば国民をヒステリクックにさせる。宗教戦争が異教徒への憎悪から生じる衝動だとすれば、国民戦争は周辺国への憎悪から生じる衝動である。自己の内に真の誇りがあるとすれば、相手を罵るようなネガティブキャンペーンに執心するだろうか?民主主義の原動力は、友愛にもまして憎悪にあることを心得ておくべきであろう...
「民主主義の原動力は他人を愛することではない。それは外部のすべてのもの、部族、徒党、党派、あるいは国民に対する憎悪である。このような一般意志は総力戦を予言する。そして憎悪こそが最も権力のある新兵募集官なのである。」

3. クラウゼヴィッツの理論
クラウゼヴィッツの格言には、暴力を容認したものも多く見かける。「敵の打倒こそが唯一の実体である。」といった類いである。本書は、クラウゼヴィッツの原則を三つ挙げている。一つは、 敵軍の征服と撃滅。二つは、 敵軍の侵略活動を可能ならしめる物的要素の奪取。三つは、世論の獲得。こうした言葉が、暴力至上主義の弟子たちを誤った方向へ導いたと指摘している。
とはいえ、戦争が政治の手段である以上、軍人にも政治的な視野が求められる。太平洋戦争時代の日本帝国軍人と違って、今日の軍人には外交的感覚にも敏感でなければならない。政治は社会の利害を代表し、戦争は無政府国家でない限り、政治から生まれる。軍事的観点は政治的観点に従属するが、その逆はありえない。クラウゼヴィッツの理論には、これが大前提されるはずである。
本書は、クラウゼヴィッツの欠点は、戦争の真の目的は平和であって勝利ではないことを、理解させられなかったことだと指摘している。つまり、政治の一手段であるならば、征服や撃滅などとは表現しなかっただろうと。だがそれは、戦闘員に向けられた表現であって、まさか非戦闘員に向けられるとまでは考えていなかったのではないか。どんなに優れた哲学書であっても、解釈する者によって正反対の結論が見いだされることはよくある。法律の解釈ですら、いくらでも戦争を正当化することはできるのだから。ルソーが言うように... 人間は高尚な野蛮人!というのは本当かもしれん...
一方で、クラウゼヴィッツこそが、大衆に対する戦争の衝撃的効果の重要性を早くから認識していた人物で、戦争と政治の関係を唱えたことで軍事理論に一大貢献をもたらしたと評している。確かに、世論の後押しがなければ政治は動かないし、ましてや国民戦争などありえないだろう...

4. マルクスの弁証法
産業革命によって兵器の近代化をもたらし、戦争を総力戦とさせたのも確かだ。大量殺戮の始まりである。そして、巨大な産業都市の出現、人口密度の増加、生産性の合理性をもたらし、戦争論もまた人口論と結びつく。
南北戦争は、産業革命の影響を受けた最初の大戦争だという。それは驚くほど近代的戦争だったそうな。木製の迫撃砲、翼付手榴弾、ロケット、各種仕掛装置などが駆使され、ガトリング砲やスペンサー銃が登場し、さらに、魚雷、地雷、機雷、野戦通信、電光通信、手旗信号が試されたという。
しかしながら、それよりも本質的な影響を、マルクスの主張した階級闘争に求めている。階級間のいがみ合いは、国王や君主の時代、あるいは封建時代にもあった。ただ、産業革命が資本家階級と労働者階級をより明確に区別し、階級単位で団結する傾向を強めたということである。社会主義者たちは、プロレタリアートという恒久的賃金労働者を出現させたと主張する。マルクスはヘーゲル哲学の影響を受けながらも、ヘーゲル弁証法を逆転させる立場だったという。それは、マルクス自身もそう語ったとか。
まず、マルクスの自明の理とするもの、それは物質世界こそを基礎とし、唯一の実存とし、そこから社会構造や社会的意識を捉える。この史的唯物論は、生産関係を巡っての階級闘争という位置づけ。資本主義は、金持ちはますます金持ちとなり、貧乏人はますます貧乏人になる、という矛盾を抱えている。この矛盾を克服した時、生産効率を最大限にまで発展させることができると考えるのも悪くない。
しかし、だ。資本主義を否定したところで、資本家でもない、労働者でもない、全く新しい階級の出現を予期することはできたであろうか?つまり、官僚階級による搾取構造である。クラウゼヴィッツ主義は戦争を手段として敵国政府の転覆を狙ったが、マルクス主義は革命を手段として自国政府の転覆を狙った。前者が戦時における戦争論だとすれば、後者は平時における戦争論とすることはできるかもしれない。
尚、マルクス弁証法における階級矛盾をピーター・ドラッガーは、こう指摘したという。
「恐らく、現代における最大の誤謬はこれといった特色も、社会性もなく、各個ばらばらな集まりである大衆を金科玉条のように讃美する神話の存在である。たしかに、大衆というのは社会的腐敗や階級的害毒の結果生まれたものである。...
大衆の危険性は彼らが反抗するという点にあるのではない。反抗なるものは、これを単なる抗議とみれば、社会生活における参加の一形態であるといえるからである。危険性はまさに大衆の参加能力の欠如にある。...
彼らは社会的地位も機能もないので、社会というものは、悪魔のような、不合理かつ不可解な脅威以外なにものでもない。...
どのような合法的政府も、彼らには専制独裁政府に思える。したがって、彼らは常に非理性的行動に訴えるか、ないしは専制独裁者が変革を約束しさえすれば、その専制独裁者にさえ従おうとする。...
彼らは既成の社会秩序さえ変革してくれるなら、どんなことでもうのみにできる。換言すれば、大衆は常に、権力のために権力を求める煽動政治家や独裁者のえじきになることになっている。力さえあれば、大衆を簡単に隷属的で、否定的な地位につけることができる。...
大衆の動きさえも制止できないような微力な社会なら、そんな社会は消滅してしまう。」

5. イデオロギー戦争
第一次大戦の主目的は、産業上、商業上のものであったが、交戦国は戦争の性格についての観念を持たずに参戦し、完全な膠着状態に陥って、やっと産業と科学に訴えたという。結局この戦争は、海上封鎖によるドイツ国民の飢えと、ロシアとドイツの双方における革命によって終結した。
では、第二次大戦の性格は、どういったものであろうか。資本主義が世界大恐慌によって弱点を露呈すると、自由主義は堕落したと見做され、共産主義やファシズムが勢いづく。そこに、経済的救世主として登場したのは、ニューディール政策を掲げたルーズベルトと、国家社会主義を掲げたヒトラー。戦争の目的は、道徳的闘争や経済的闘争の領域に一層深く拡大されていく。
本書は、ソ連のアキレス腱は、第一線にあるのではなく、内部戦線にあるとしている。その統計的証拠として、ソ連国民の半数が非ロシア系の人民であることを指摘し、しかも、その多くは民族意識が強く、モスクワ支配に反抗的であると。レーニンですらこう語ったという。
「世界中で、ロシアほど多くの人民が圧政を受けているところはない。大ロシア人は全人口の 43% を占めるに過ぎない。すなわち半分以下なのである。残りの人民は他国民だとしてロシア国民としての諸権利を有していない。ロシアの人口1億7千万人の内、約1億人は圧政に虐げられ、いかなる権利も有していない。」
スターリンの圧政は、どのツァーリよりも比較にならぬほど残虐なものであった。巨大ロシアを分裂させるには、ヒトラーが解放者として国境を超え、集団農業化に終止符を打つだけでよかった。これこそがスターリンが最も恐れた戦略であろう。当初、ドイツ側に走ったソ連兵も多かったようである。ウクライナではドイツ軍を解放軍とみなし、一般人民に迎えられたという記録もある。グデーリアンは、白ロシア人が食糧を運んでくれたと回想している。
しかし、親衛隊が乗り込んでくると状況は一変。ヒトラーはスラブ民族を人間以下の存在として抹殺にかかったために、巨大ロシアを団結させてしまった。領土を拡大しても秩序が保てず、レジスタンスやゲリラを旺盛にし、内外に敵をつくることに。
「ソ連の弱点はわれわれの強みである。ソ連の強みはわれわれがその弱点について無知なことである。」
このことは、大陸進出を目指した大日本帝国陸軍にも同じことが言える。中国は蒋介石の国民党と毛沢東の共産党で対立していたが、力づくで侵略したために双方を結束させてしまった。すでに世界はイデオロギー戦争の時代へと移行していたにもかかわらず、当時の日本軍人が国際感覚に敏感であったとは考えにくい。それは、太平洋戦争末期、対米英との仲介役をソ連に打診したという外交的な感覚の鈍さに見て取れる。
とはいえ、ルーズベルトでさえイデオロギーに対して、ぼんやりとした認識しか持っていなかったと指摘している。ルーズベルトは、チャーチルは根っからの帝国主義者でスターリンは違うと見ていて、対日戦争でスターリンの力が必要だと考えていたという。原爆開発も途上でアメリカの優位性が明確でなかったために、親スターリン派を演じていただけかもしれないが。チャーチルにしてみれば、ヒトラーよりはまし、ぐらいなものだろう。地理的な位置が反対だったら、どちらと手を結んでいたことやら...

2016-07-03

"リデルハート戦略論(上/下)" B. H. Liddell-Hart 著

真の平和論を語れるのは、知性ある軍人のなせる業であろうか... 平和を望むなら戦争を理解せよ!人間を理解するためには、己の内にある悪魔性を知れ!自己にとっって、憎悪、嫉妬、復讐の類いほど手に余るものはない。しかし、これが人間の本質である。
愛国心は悪人の最後の隠れ家である... とは、サミュエル・ジョンソンの言葉だ。愛国心そのものが悪いわけではない。だが、情愛ほど暴走しやすいのも確か。犯罪心理学では、平和愛好家の隠された好戦性というものが指摘される。穏健な人ほど一旦ブチ切れると、一層暴力的になる。不必要な危険を招き入れるのは、無防備な平和論者の方であろう。
近現代の軍人には、ますます国際的視野が要求され、時には狡猾さも必要である。そして、戦略なき政策は危険となり、哲学なき戦略は戦争へと導くであろう。
近年、イスラム国の脅威を世界への挑戦と捉える欧米諸国から見れば、今まで敵であったアサド政権は、敵の敵。もし復縁すれば、第二次大戦でアメリカとソ連が同盟し、対日戦線で中国国民党と共産党とが手を握った構図と似ている。これも政治的合理性ではあるが、ロシアがアサド政権を軸にIS対抗策を打ち出したことによって混迷度を増すことに。
一方で、伝統的に外交感覚に乏しい日本は、無策を続ける。失策を続けるよりはましか。
金を失うのは小さく、名誉を失うのは大きい。しかし、勇気を失うことは全てを失う... とは、チャーチルの言葉だ。
「道義的義務感を尊重しない国ほど物質的な力 - 罰を受けずに挑戦するにはあまりにも強すぎる実力を抑止する力 - をより尊重する傾向がある。同じように、弱い者いじめ型や強盗型の人間は、自力で立ち向かってくる人間に対しては攻撃をためらうということは個人について共通する経験である。そのためらい方は平和型の人間が、自分よりも強い攻撃者と取り組み合うのをためらうよりもはるかに強い。」

B. H. リデルハートの「間接的アプローチ理論」は、クラウゼヴィッツの「戦争論」と並び称される。ここには、人間的要因の支配する世界における生命の法則らしきものが綴られる。それは、真理の追求のみが真の戦略を与え、長期的な人生戦略につながるということである。
攻撃は最大の防御なり!... という格言をよく耳にする。しかし本書は、これを見事に反証して見せる。戦争の花形は確かに攻勢にあるが、戦略の本質はむしろ防勢にあるということを。
過去一世紀を振り返っても、軍事ドクトリンの規範では、敵の主力を叩け!というのが本筋とされてきた。しかし、間接的アプローチでは、主力を遠回しに攻撃する戦略が重視される。短期決戦で済むのであれば、主力を直接叩く方が合理的であるが、長期戦になるほど直接的アプローチは犠牲が大きい。ましてや殺戮など余計な行為であり、なによりも愚かである。
直接的アプローチが簡単にどんでん返しを喰らうのに対して、間接的アプローチは戦略を重厚なものとさせ、一度流れをつかむと容易には押し返されない。備えが十分であれば、仕掛けるよりも仕掛けさせる方が優位となろう。
リデルハートは、戦略に対して、より抽象度の高い「大戦略」という用語を持ち出す。戦術が戦略の下位で適用されるように、戦略もまた大戦略の下位で適用される。
「戦争遂行者は戦略家以上の人物でなければならない。その人物は指導者と哲学者を結びつけたような人物でなければならない。戦略というものは、その主体が敵を欺騙する術と関係しているので、それ自体が道徳に対立するものであるのに対して、大戦略は道徳と両立する傾向を持っている。」

人間同士の敵対ほど相対性理論を体現するものはあるまい。矛盾とは、盾と矛の関係。優れた作戦は、相対的に愚かな統帥に対して通用し、上手をいく統帥には通用しない。どんなに愚かな作戦でも、相手がもっと愚かであれば成功する、ただそれだけのこと。歴史的成功とは、まさに相対的関係において生じるのであって、絶対的な戦略などありえない。
したがって、軍事行動には、常にギャンブル性がつきまとう。石橋を叩いても渡らない!とまで言われた家康とて、関ヶ原で万万勝てるとは思っていなかったはず。戦は、なるほどやってみなきゃ分からん。
クラウゼヴィッツは言った... 「政治目標が最終目的であり、戦争はその目的に到達するための一つの手段である。」と... ならば、自国の軍事力を過信して賭けをやる政治家ほど、公共物を私物化した状態があろうか。クラウゼヴィッツはこうも言った... 「あらゆる軍事行動には、知性の力とその効果が行き渡っているべきもの。」と... 知性ある者が、どうして国民の命を犠牲にしてまで賭けにでることができようか。戦争を始める者は、よもや負けるとは思っていないだろう。一旦始めてしまえば後戻りできない。戦争状態では人間の最も野蛮な面を曝け出し、憎悪の念は拭えない。仲間が殺される現場で、どうして敵に寛容でいられよう。味方や一般市民を誤爆、誤射することだってある。犠牲者を最小限にするよう周到に計画された戦争であっても、しばしば泥沼化する。そうなれば、直接行動に目が奪われる。戦局が思わしくなければ尚更。そして、政治家は必ず戦争の正当性を精神論に訴え、愛国心を煽る。合言葉は決まって... 正義だ!戦争に踏み切る前は慎重だった世論もまた徐々に真実を見失い、ちょっとでも苦言を呈すと非国民!と罵声を浴びせる。言論の自由は迫害され、敵の文化までも全面否定し、敵を知り己を知れば百戦殆うからず!という黄金律までも忘却の彼方...
こうした傾向は、悪化したプロジェクトで、納期は絶対死守!などと従業員を鼓舞するマネージャの言動、あるいは、株式市場で業績悪化のためにトレンドに逆らってまで資金投入を続ける行動などと似ており、いわば敗者の心理状態にある。人間のギャンブル性は依存症とも相性がよく、負け始めるとますます止められなくなる。相手を撃滅させることにしか打開策を見出だせない戦略家は、消費を煽ることしか経済対策を打ち出せない政治家にも似たり。そして、どんな戦争でも、どうやって終わらせるか?が大問題となり、第三者が尻拭いをさせられる。
したがって、戦略の定義には責任の範囲を明確にすることも含まれ、勝とうが負けようが戦後処理の方がはるかに重要となる。戦争に勝っても人は死ぬ。いったい誰が勝ったのやら...

1. 孫子の黄金律
本書は、紀元前5世紀から20世紀までの戦争を分析し、間接的アプローチの戦略的使用がいかに有効であったかを物語る。古代や中世の統帥たちが戦略的に意図していたかは別にして、結果的に間接的アプローチによって成功したこと。そして、近代戦争では総力戦と化し、補給戦略などの間接的アプローチの重要性が増し、より長期的な戦略が求められるようになったこと。その反面、突撃や主力決戦といった直接的アプローチが、いかに国力を消耗させ、自滅へと導いてきたかということ。
さらに、核兵器をはじめ爆撃用兵器の大型化にともなって戦術的に融通が利かなくなり、柔軟性の高いゲリラ型戦略の進展を助長したこと... 現代では、更に巧妙なサイバー攻撃が用いられる。
戦略の極致は、いかなる激しい戦闘もなしで、最小限のコストで事態を決着させることにある。その事例では... カエサルのイレルダ作戦、クロムウェルのプレストン作戦、ナポレオンのウルム作戦、モルトケのマクマオン軍の包囲(セダンの戦い)、アレンビーのサマリア丘陵地帯におけるオスマン帝国包囲(メギッドの戦い)、グデーリアンの電撃戦... などが議論の対象となる。
そして、「孫子の兵法」から実に多くの言葉が引用される。どんなに技術や戦術が進化しようとも、二千年以上前から人間の心理的原理は変わっていないということか。人間の行動を抽象化、パターン化しようとすれば、極限状態にある戦争ほど良いモデルはあるまい...

「あらゆる戦争は欺瞞のうえに成り立っている。したがって攻撃が可能なときには、それが不可能なように敵に思わせなければならない。」

「長期戦で利益を得た国は一つもない。戦争の悪について熟知している者だけが、戦争で利益を得る方法をよく理解している。」

「最高の戦争のやり方は、戦わずして敵の抵抗を排除することになる。」

2. 戦略とは...
戦術と戦略を分類して議論する場合、責任範囲を明確にすることと深くかかわる。しかしながら、リデルハートは、戦術と戦略をカテゴリーで分けることは議論するには便利だが、けして分離できないとしてる。両者は相互に影響し合うだけでなく、一方が他方と一体化する場合もあるからである。
クラウゼヴィッツは、戦略をこう定義している。
「戦争の目的を達成する手段として戦闘を用いるための術である。」
この定義の欠点は、戦略が政策の分野に、あるいは、より高度な戦争指導の分野に踏み込んでいることだと指摘している。政府の責任までも軍事指導者が負うべきではないと。そして、もう一つの欠点は、戦略の意味を、純粋な戦闘の使用に局限している点だという。そのために、目的と手段を混同する考えがドイツ統帥部に蔓延していったと。特に、誤解の種となったクラウゼヴィッツの言葉に、これを挙げている。
「戦略の唯一の目標は戦闘であり、勝利は血をもって贖うものである。」
戦略家が戦略と戦術を混同してしまっては、血に飢えた狼となるは必定。忌まわしい戦争の時代に戦いで死ねるのは、軍人にとって幸せではあろうけど...
クラウゼヴィッツの書は抽象度が高いために、言葉の表面だけを追えば多分に誤解されやすい。そもそも哲学書にはそういう性格があり、記述によって精神の領域に踏み込もうとすれば、言葉の限界にぶつかる。真に言葉の意味を理解するには、全体構成から立体的に読み解く必要がある。
したがって、哲学的思考に疎い者が読むと、作者の意図とはまったく正反対の結論さえ導き出すことがある。実に多くの哲学者や思想家が、後世のほとんど言いがかりのような批判に曝されるのも道理である。
さて、戦略と政治の役割については、もう少し明確な区別が欲しい。フリードリヒ大王やナポレオンのように、戦略と政治の二つの機能が一人の人物の中に統一されている場合、両者を区別しないことは大した問題にならなかった。だが近現代では、シビリアンコントロールが主流であり、専制君主的な軍人兼政治家は稀である。かつて戦時下の戦争指導者や軍部は政策の領域まで口を出し、その権限までも要求した。現在の民主主義国家でも、政治家が軍事的手段に干渉する傾向がある。モルトケは、クラウゼヴィッツよりも明確かつ賢明に戦略を定義づけたという。
「戦略とは、見通しうる目的の達成のために、将帥にその処理を委任された諸手段の実際的適用である。」
軍の司令官は、あくまでも政府の雇用者というわけだ。さらに、リデルハートは戦略を再定義している。
「戦略とは政策上の諸目的を達成するために軍事的手段を分配し、適用する術である。」

3. 大戦略とは...
政治目的と軍事目的を明確に区別せよ!とはよく耳にする。だが実際は、この二つを完全に分離することは難しい。国家は、政策遂行のために戦争をするのであって、戦争のために戦争をするのではない。ただ、軍事目的は政治目的における一つの枝葉に過ぎない、ということは心得ておくべきだろう。
本書は、軍事目的は政治目的によって支配されるべきで、政策は軍事的に不可能なことを要求しないことを基本条件としている。戦争指導の方針を示す政策、すなわち、戦略目的を支配するものをより高次な基本的政策とするならば、大戦略は政策と同じ意味を持つことになる。
ではなぜ、わざわざこんな言葉を用いるのだろうか?より差し迫った意味が欲しいようである。少なくとも福祉や社会制度などとは区別すべきである。
例えば、資源を政治目的とする場合、これを確保する基本政策が戦争を手段とした大戦略ということになる。国家の経済資源や人的資源の開発を図ることも、国力としての軍事力と関係し、産業間の資源配分も含まれる。近年、軍事費の有り方は、よく対GDP比で議論される。
また、国民の意欲を涵養するための精神的資源は、戦力の保持と同様に重要だ。戦略で見通すことのできる範囲は戦争に限られるが、大戦略の視野は戦争を超越して戦後の平和にまで及び、安全保障政策まで踏み込む。そして、目的と手段は釣り合っているか?が問われる。目的と手段が混同されるだけでなく、目的が立派すぎて手段がおぼつかないこともあれば、手段が目的を無視して独り歩きをはじめることもある。技術偏重も、理想主義も、平和主義も、過剰となれば危険となろう...

4. ナポレオン方式
適応力は、生命におけるのと同様、戦争においても生存を支配する法則だという。戦争は、環境に対する人間闘争の集中された形態に他ならない。
戦争の原則は一言で言えば「集中」であるとしている。より厳密に言えば「弱点に対する力の集中」であり、相対的には敵軍の分散に依存することを意味する。逆説的ではあるが、自軍を分散することによって敵軍が分散せざるを得ない状況を作り、その隙に自軍を集中させて優位に立つ。したがって布陣では、分散と集中の連続した形態をとる機動力が要となる。基本的な誤りは、自軍の集中のために敵に集中する時間を与えること。
ナポレオンは、戦略的にも戦術的にも「速度による質量の倍加」をもたらしたという。当初は、やはり天才戦略家であったか。彼は、18世紀の二人の優れた軍事研究家ブールセとギベールの理論を継承している。それは、作戦計画が枝分かれを持ち、一つは失敗がありえないほど確実な作戦とすることや、師団編成という概念をもたらしたことである。それまでの陸軍戦略は、フリードリヒ大王をはじめ国家軍の単位で行動を起こしていたが、ナポレオンは師団構成という形で進化させた。
しかしながら、ロシア遠征では、45万もの大軍のために、ほとんど一直線の配備をとることになる。巨象は動きが鈍く事実上の虚像となるは、自然の結果。
おまけに、ロシア軍の自国を焦土化する巧妙な退避戦略が、機動の欠点を際立たせた。もっともロシアの広大な領土が前提条件にあるわけで、うまく誘い込まれたのである。伸びきった補給線が、やがて臨界点に達するのは自明の理。勝ち続けているという幻想が、軍人のプライドをくすぐり、さらに進軍を続けようという誘惑に駆られる。
それは企業戦略でも同じで、ちょっと儲け過ぎると拡販路線をとってリスクを自ら拡大してしまう。上昇トレンドの勢いに乗せられて必要以上にレバレッジをかければ、他人資本がまるで自己資本のように見えてくるものである。はたして領土が本当に自分のものになっているのやら?と疑問すら感じなくなるのだ。そして、軍事資本が無制限に投入できると思い込み、悲劇をさらに拡大させる。まさに負の連鎖。
「人材の銀行にいわば白地式小切手口座を所有することという点で、ナポレオン戦争と第一次大戦は、きわめて類似した結果を示したことは奇妙なことである。いずれの場合もその結果が激しい火砲射撃の方式と関連していることも奇妙なことである。その意味は、惜しみない資源の投入は浪費を生む、ということであろう。これは、奇襲や機動を手段とする兵力の節用という考え方とは正反対のものである。」

5. 第一次大戦
独仏国境線は意外と短く、わずか150マイル余り。だが、ベルギーやルクセンブルクを含めると機動性の余地が出てくる。フランスの当初の計画は、大規模の要塞群によって防勢をとり、反撃を喰らわすというもの。そのために、アルザス - ロレーヌの国境線に沿って要塞が創設され、ドイツ軍を誘い込むためにトルエー・ドゥ・シャルメ峡谷のような間隙を残したという。
しかし、ドイツの「シュリーフェン計画」によってフランスの思惑は外れる。それは、主力をベルギーから迂回させて、右翼の側面から奇襲するというもの。フランス軍統帥部は、ドイツ軍がベルギーへ侵入を開始した時でさえ、マース川以東の狭い正面に限定されると予測したという。奇襲が成功するのは、相手側の楽観主義によるところが大きい。
一方で、せっかく奇襲に成功しつつある中で、用心深さのために躊躇する事例もまた多い。シュリーフェン計画もまた、参謀総長モルトケ(大モルトケよりも若い小モルトケ)が台無しにしてしまう。フランスの攻勢につられて右翼を後回しにし、主力を正面に布陣させてしまったのだ。主力を右翼に転移させれば、敵の主力が集結する左翼が弱体化するものの、右翼にとどまる兵力が大きいほど、背後攻撃が一層決定的になる。正面攻撃を避けて、犠牲を小さくするとうのが、当初の計画である。
本書は、失敗要因の一つに鉄道の発達を指摘している。鉄道という固定化された交通線に軍隊が依存したために、攻勢も防勢も兵力を集中させる傾向があると。鉄道に依存した融通の利かない配備については、日露戦争のシベリア鉄道に依存したロシア軍についても言及される。日露両軍が、その目標に固執したがために正面衝突を繰り返し、互いに犠牲を拡大したという。西部戦線では、独仏の初期戦略の失敗によって、続く四年間を塹壕戦という膠着状態に陥れた。戦車が登場し、最初こそ恐れさせたが、動きが鈍く恰好の標的となった。おかげで戦車の評価が下がり、次の戦争で電撃戦の奇襲性を助長させたという見方もできる。
ところで、西部戦線の膠着状態は、他の戦線から見れば、ドイツ軍の主力を釘付けにしているという見方もできる。当時、海軍大臣だったウィンストン・チャーチルは、こう語ったという。
「連合を組んでいる敵の諸軍は一体のものとして見るべきである。現代の戦いでは距離と機動力に関する概念が大きく変わっており、ある別の戦域で敵軍に与える打撃は、古典的戦争での敵翼側への攻撃に匹敵する。」
イギリス首相ロイド・ジョージもまた、敵の裏口へ通ずるバルカン半島へ主力部隊を転用すべきと主張したという。しかし、イギリス軍はバルカン半島へ兵力を小出しにして、使い果たしてしまう。
そして、本当の意味で第一大戦に決着をつけたのは、海軍力による海上封鎖だったと結論づけている。戦闘による大出血や勝利が不可能と知った精神的ダメージも大きいが、それ以上に国民の飢餓が深刻だったという。戦争を終わらせるために、皮肉にも革命に頼ることになった。しかも、ロシアとドイツの双方で...

6. ヒトラー方式
ヒトラーは、初期戦略で慎重に計画し、経済的効果、精神的効果を狙っている。平和愛好家たちは、ヒトラーの企図を予測することが緩慢だったために暴走を許した。「我が闘争」という著作まで準備し、意思を明確にしているにもかかわらず。人間ってやつは、自分の目で見ているがために、逆に何が真実かを見逃しやすい。秘密はしばしば公然と見せつけられているにもかかわらず、不都合なものには目を背ける傾向がある。これこそが深層心理を巧みについたヒトラーの秘匿の術だったのかもしれない。
そして、資本主義者と社会主義者を巧妙に衝突させた隙に、ワイマール憲法の弱点に乗じて独裁者となった。これほど大々的に宣伝活動を煽動の道具にした政治家は、かつていなかった。見事な間接的アプローチである。
「民主主義諸国の政府が、ヒトラーが次に進む道の予測に失敗した方法ほど、後世の歴史家にとって奇妙に思われることはないだろう。ヒトラーほど大きな野心を抱いた人物にして、自分の目標達成のための全般的手順と具体的方策の両面にわたり、あれほど明らかにあらかじめ暴露してみせた者は他には全くいないからである。」
ドイツの軍事的教義に対して、ヒトラーがいかに斬新的であったかは、ルーデンドルフとの比較から考察される。ルーデンドルフは、ミュンヘン一揆でヒトラーと共にベルリンへ行進した仲間。彼にとってのクラウゼヴィッツ理論の欠陥は、犠牲という代償を無視して無制限の暴力行動へ突進しすぎるという点ではなく、その突進が不十分であったこと。そして、「国家の軍隊化それ自体を目的としない限り、戦争とは目的を持たない手段になる。」と考えたそうな。ルーデンドルフが戦争の下に政策が位置づけられるのに対して、ヒトラーは、戦争を政治の手段の一つとした点で、クラウゼヴィッツに近い。
とはいえ、戦略と政策の二つの機能を兼ね備える総統の地位を獲得し、アレクサンドロス大王やカエサル、あるいはフリードリヒ二大王やナポレオンと同じような利点を享受することになる。

7. 第二次大戦
ジークフリート線は、フランス軍に対する威嚇もあろうが、それ以上に、第一次大戦で傷つけられた国民の誇りを取り戻すための戦略と見ることはできよう。当初、ドイツ軍統帥部でシュリーフェン計画の踏襲が検討されていたことは、グデーリアンの著書でも回想されている。第一次大戦の反省から、この計画が忠実に実行されていれば、十分に戦果が望めるという考えである。
しかし、ヒトラーには硬直化した陸軍司令部が気に入らなかったと見える。そこで、「マンシュタイン計画」が検討される。マジノ線を正面から突破するためには、アルデンヌの森がルートとなり、この方面では装甲部隊の展開が困難に見えるが、マンシュタインはそれは可能であるとの結論を出した。この計画を決定づけたのは、歴史的にはメヘレン事件によって情報漏れを恐れたということになっているが、わざと漏洩させたとの見解も耳にする。
それはともかく、ヒトラーが長期戦を危惧していたことは間違いあるまい。長期戦となれば中立国が連合国側につくだろうし、連合国の軍備拡張が追いついてくることも予測できる。さらに、アメリカの参戦も考えていただろう。それは、第一次大戦で検証済みである。
したがって、第一次大戦のような初期戦略の失敗は許されない。グデーリアンの電撃戦は、要地を正面突破したという意味では直接的アプローチではあるが、航空部隊と装甲師団の連携した三次元攻撃という意味では意外性をもつ間接的アプローチであった。そして、マジノ線をあっさりと無力化した。
しかし、とどめの段階で、最後の脱出港ダンケルクへの突進を中止したのは様々な憶測を呼ぶ。ルドルフ・ヘスの不可解なイギリスへの飛行など、ヒトラーがイギリスとの講和を望んでいたという可能性である。
確かに対イギリス戦争は困難な問題ではあるが、見方によっては単純である。イギリスはヒトラーが大きなミスを犯すまで持ちこたえなければならなかった。対ナポレオンでもそうであったように。ナポレオン戦争と二つの大戦では、イギリスの海上封鎖が機能した。それは、ドイツ側にも同じことが言えたはずである。実際、イギリスの物資力は植民地やアメリカの支援に頼っていたのだから。ブリテンの戦いで空爆目標を空軍要地からロンドンなど都市に変更しなかったら、あるいは、Uボート戦略でもっと潜水艦生産を集中させていたら...
ヒトラーは、空軍と機械化部隊を連携させる斬新な方式を編み出しておきながら、戦局が膠着状態に陥ると、ついに東部戦線で古典的な方法に頼るという重大なミスを犯す。ヒトラーが軽蔑したドイツ軍司令部以上に硬直化した思考に陥ってしまったのだ。ヒトラーとドイツ軍統帥部では侵攻計画を異にする。ヒトラーは、レニングラードを主目標とし、バルト海側を安全にしてフィンランドど提携し、また、経済的要因としてのウクライナの農業資源と、ドニエプル川下流の工業地帯を奪取したいと考えたという。この二つの目標は、地理的に両極端にある。グデーリアンは首都モスクワまで二百マイルに迫ると、再びソ連の兵力が結集する時間を与えないことの重要性を唱えたが、聞き入れられず一時期解任された。マンシュタインも解任された。やがて冬将軍が到来し、広大なロシア領をさまようことに。
本書は、ポーランドを防衛ラインとすれば、地理的に兵力集中の観点からドイツ軍は優位を保っていたと指摘している。ロシア領土内に深く踏み入るほど、部隊の大展開が必要となって優位性を失う。それは、ナポレオン戦争でも二つの大戦でも同じ。歴史は繰り返される... とは、よく言ったものである。

8. 戦後処理のための戦争
ドイツ軍の東部戦線の有り様は、大日本帝国陸軍が中国大陸に侵攻し、泥沼化していった状況と酷似している。さらに、マッカーサーの奪還戦略では迂回方式が採用された。「飛石作戦」によって島々の守備隊を孤立させ、自然の抑留地として取り残されたのである。軍部は「満蒙は日本の生命線」と主張しながら、シーレーンの崩壊によって真の生命線が絶たれた。この点は、ヒトラーがスターリングラードにこだわった思考回路と似ている。
また、本書では言及されないが...
大戦略の観点から、ノルマンディー上陸後、自由主義国と共産主義国との間で、既に戦後処理の主導権争いが意識されていたことは想像に易い。ヤルタ会談はその前哨戦だ。ヨーロッパではベルリンへ向かっての進軍競争が展開された。連合国は、勝ち戦と分かっていながら無謀な作戦をとっている。マーケット・ガーデン作戦もその一つ。この時期には豊富な物量に支えられ、戦局に大きな影響を与えないとはいえ、出さなくてもいい犠牲を出した。ヨーロッパ戦線では、クリスマスまでに終わる!といった楽観的動機で無駄な犠牲を出した事例は実に多い。
日本においても、アメリカは占領政策で主導権を握りたかったはず。本土決戦で長引けば、ソ連が北海道分割占領を要求してくることも十分に予測できる。その方策としての原爆投下の是非は別にして、ソ連の対日参戦のタイミングと重なるのは偶然ではあるまい。米英にとって、戦後の世界における共産主義化に懸念があったことは確かであろう。イデオロギー戦争ともなれば、クラウゼヴィッツの唱えた政治の一手段を超越し、もはや平和のための戦争ではなく、戦争のための戦争となっていくのかは知らん...

2016-06-26

ポータルサイト変更... MなYaさんから愛あるGさんへ回帰!

2012年下旬、iGoogle のサービス終了にとまない、My Yahoo! に宗旨替えした。
今度は突然、My Yahoo! から2016年9月29日をもって終了!との通知を受け、目が点になる。せめて半年ぐらい猶予が欲しいところ。ちなみに、i(愛)ある G さんは一年以上の猶予をくれた。
OS業界にせよ、通信業界にせよ、よくこうも雑用を増やしてくれるものだ。MS教(= SM狂)の十字架バージョンでがようやく落ち着いたと思ったら。便利やら、新しいやら、散々勧誘しておきながら、変わり身の早さは政治屋のごとく。世間に酔わされながら生きていくユーザは奴隷になるしかない。どうせ、おいらはドMよ!.

おかげで、自分にとってのポータルサイトの位置づけを改めて考えさせられる。
そもそも、My Yaさんがなくなると、なぜ痛いのか?実際、Neちゃんとバイブこと Netvibes をヘルプ役に指名している。Neちゃんは柔軟性の高さと設計思想が気に入っているものの、体が重いので No.1 にはなれない。
一方、My Yaさんは比較的軽いとはいえ、コードも埋められず、テーマもしょぼい!
そこで前々から、愛ある Chrome に目をつけていたが、Gさん依存症は避けたく、いまいち踏み切れないでいた。
ところで、iChrome は語呂がいまいちで、愛称するのが難しい。愛あるGさんの後継ぎで、愛の苦労人とでも呼んでおこうか。こいつを使い始めて、一週間になるが、大した問題もなく、癖も見えてきたし、なかなか快適!

● Yaさんと縁が切れると、本当に痛いのか?
特に、Yaさんファイナンスを埋め込むポートフォリオ機能は、ルーティンワークに馴染んでいる。そもそも、Yaさんファイナンスを、ポータルサイト経由で閲覧しなければならない理由とは何か?ブラウザ起動時に複数のサイトを開いて、ブラウザ側のタブに配置してもいいし、起動時でなくても、複数タブを同時に開く Seesion Manager という拡張機能を愛用している。あるいは、愛の苦労人にリンクを埋め込んでもいい。
では、直接サイトを閲覧するとなると、Yaさんファイナンスである必要があるのか?Yaさんの株式情報はどうせ数十分ほどディレイしているし、証券会社や他のサイトにリアルタイムでもっと充実したサービスがわんさとある。
結局、痛い!と思ったのは、急に告げられてムッとしただけで、冷静に考えれば見直しの機会が与えられ、むしろありがたいのではないか。Yaさんとも、あっさり手が切れそうだし。ただし、Neちゃんと切れるのはまずい!

● 愛の苦労人を試すも、愛あるGさんに戻った感がある...




1. まぁまぁ軽い!なんといっても目障りな広告がない!

2. 表示形式の柔軟性がイマイチ!
表示の融通が利かないのは、愛あるGさんの時代と似たようなもの。例えば、天気ウィジェットの文字がバカでかい。せめて列ごとに幅調整ができるとありがたい。せめてタブ毎に設定できるとありがたい。作りがシンプルだから、軽くてストレスを感じなくて済むのだろうけど。尚、Pro版ではもう少しいじることができそう...

3. ホームボタンに勝手にマッピングされ、余計なお世話!
ホームボタンに愛の苦労人が設定されるのは結果的に不満はないが、試行段階では余計である。尚、起動アドレスは、"ichro.me/redirect"
ちなみに、「iChrome 新しいタブ」という補助的な拡張機能もあって、新しいタブから起動させることもできるが、そこまでやらんでもええや。

4. ツールバーのスタイルをボタンにするとスッキリ!
スタイル設定で [ボタン] を選択すると、最上部の検索スペースが消えてシンプルになる。タブレットでは僅かな表示スペースでも気になってしょうがないので、意外と重宝する。

5. ファイルレベルでバックアップができ、移植も簡単!
ファイルにバックアップできるので、Gさんアカウントにログインしなくても設定が保存できる。環境ごとの移植も簡単!
ただし、Google Now などログインしていないと使い勝手の悪いウィジェットも多々あるので、アカウントと連動する方が安心はできそうだけど...

6. タブ操作も簡単!
タブへ飛ぶ時は、画面左右に表示される矢印ボタンか、カーソルキーでもOK。所定のタブに飛びたい時は、右上ボタンの一覧から選択できる。

7. RSSリーダとしてもまあまあ!
ただし、Neちゃんは未読記事をハイライトしたり、未読数も表示してくれて、彼女の尽くしようは捨てがたい。さすがに愛の苦労人だけあって、彼女と縁が切れないよう按配が絶妙だ!

8. htmlコードが埋め込める!
この機能は、愛あるGさんの時代から装備されている。
あれ?昔、動いていたコードが動かない。どうやら、外部参照の JavaScript コードがうまく動いてくれないようだ。Neちゃんの上では激しく動いているので、ブラウザの問題ではなく、愛の苦労人の問題か。ウィジェット内は、HTML と JavaScript のコードを置く場所が別々にあって、スクリプト自体は所定の場所に書けば動く。とりあえず、簡単なコードでいくつか確認した。Hollow world! の表示やブラウザの判別など。セキュリティ上、外部参照のコードがデフォルトで許可されてない可能性は考えられる。PHPなら動くなぁ... うん~、要研究!
こいつが解決すれば、小悪魔とも縁が切れてスッキリするんだけどなぁ...
尚、iframe 内にwebページを埋め込むウィジェットも装備されるが、そこまでやらんでもええや。

9. [カスタム CSS] で愛の苦労人を手なずけられるか?
CSS を直接記述できる領域があって、大抵のことはカスタマイズできそうだが、構造を解析するのに苦労しそう... 要研究!とりあえず、背景画像をスクロールしないようにした。

10. Pro 版の背景動画に誘惑されそう!
Pro版の背景画像には動画も用意されていて、フリー版でもプレビューのみ可。草木や葉っぱが風に揺れる様、川や滝の流れ、海岸の波打ち際、小鳥の飛ぶ光景など和めるテーマもあって、いい感じ。尚、背景画像のダウンロードは、フリー版のデータも含めて、Proユーザのみ可。
ちなみに、CCleaner(フリーのお掃除ソフト: : ver 5.19.5633-64bit)で、Google Chrome の [インターネット一時ファイル] にチェックを入れて掃除をやると、なんと設定した背景画像が消えちまった!Pro版では、こういうこともなくなるのかなぁ?復帰には、愛の苦労人を再インストールする羽目に。
とはいえ、環境のバックアップと復元は簡単だし、たかだか拡張機能の再インストールに大して手間はかからない。

2016-06-19

"絶対音感" 最相葉月 著

「音楽は言葉で説明するものではない。表現がすべてであり、わかる人にはわかる、わからなければそれもやむをえない。だが、そう突き放されることでどれだけの音楽が私たちの手を離れていっただろう。言葉で説明することを邪道とする固定観念は、鑑賞者よりもむしろ音楽家自身を不自由にしてきたのではないだろうか。それが彼らのストイシズムである一方で、呪縛となっていたことは否めない。」

人間が「絶対」と呼ぶものは、本当に絶対なのか?崇めるほどのものなのか?絶対音感は、音楽家には、特に指揮者には必要な能力だとも聞く。その能力が、カリスマ性を後押しするのも確かであろう。絶対音感のない音楽家には劣等感のために口を閉ざす人もいて、能力の有無を質問することすらタブー化してしまう。確かに、心の拠り所となるものが絶対的な存在となれば、楽になれる。だがそれは、ある種の宗教にも似たり。なによりも芸術心は自由精神に支えられ、社会の画一化された常識や絶対的な観念から、一瞬でも解放してくれるところに芸術の意義がある。既成の価値観の破壊活動ということもできるわけで、あらゆる学問がそうした性格を持っているはずだ。
ピアノはこう弾きなさい!小説はこう書きなさい!絵画はこう描きなさい!と強制することが良いことなのか、はたまた英才教育が正しいのかは分からない。そういう時期も必要なのかもしれない。もちろん基礎を学ぶことは大切で、感情を表現する技巧を追求することが間違っているとは思はない。技術や知識があるからこそ、そのレベルに応じた自己表現が可能になるのだから。
ただ、手段が目的化することはよくある。哲学をともなわない芸術や技術は、それ自体が色褪せてしまう。特殊能力を獲得することに執着し、強迫観念にまで高められた時、もはや真の目的を見失うであろう。
一方で、鑑賞者の側もぼんやりとしているわけにはいかない。芸術家とともに高みに登っていかなければ。鑑賞者が最低な感想をもらす場合もある。作者はいったい何が言いたいのか?と... もはや目的が目先の利益へと偏重し、自然に裏打ちされた芸術作品が語りかけてくれる声も耳には届かない。せめて子供たちの才能や個性は、大人どもの脂ぎった欲望から遠ざけてあげたいものだ...
「全身の奥深く眠り、容易には取り出せない幼い頃の記憶。私たちはそれを往々にして天性と呼ぶ。そして、そう呼んだときから何かが半分くらい見えなくなる。それを手にした人も、手にすることができなかった人も...」

一方で、絶対音感は、音楽の本質ではないと言う人も少なくない。モーツァルトやベートーヴェンには絶対音感があったと言われるが、おいらの好きなチャイコフスキーにはなかったと言われる。音楽家にとっては絶大な道具となるのだから、あるに越したことはない。だが、あまりに研ぎ澄まされすぎた能力は、精神に弊害をもたらすこともしばしば。そもそも、絶対音感の定義が難しい。ニューグローブ音楽事典によると、こう記されるという。
「ランダムに提示された音の名前、つまり音名が言える能力。あるいは音名を提示されたときにその高さで正確に歌える、楽器を奏でることができる能力。」
耳から入ってくる音が即座にドレミで言い当てられるということは、感覚的に捉える音の世界を、言語脳を働かせて論理的に捉えることができるわけで、いわば、デジタル記法で表現できる能力と言えよう。つまり、言語解釈を左脳の機能と決めつけず、右脳と柔軟かつ絶妙に協調することで、音楽の意志を言葉で感じることができるということだ。
しかしながら、現実の音は、すっきりと音名に収まるものではない。すべての音を周波数で言い当てるという方法もあるが、真の自由を求めれば無理数に頼ることになる。魂がデジタルに幽閉された世界とは、いかなるものであろうか。ただでさえ騒がしい社会にあって、耳から入ってくる情報がすべて言語と結びつけば、やかましくてしょうがない。
デジタル信号の優位性は、情報伝達の正確な復元性にある。心に思い描いたメロディを、その場で書き写すとは、まさに作曲家に求められる能力。近代化社会では、便宜上デジタルを用いることが多く、シャノン的な二項対立の思考を要請してくる。
しかしながら、精神にとっては、どこか曖昧なアナログの方が居心地がよいと見える。聴覚が歪んでいれば、少々音程のずれた音楽でも心地良く聴こえ、精神が歪んでいれば、歪んだ社会を生きるのに都合がいい。
「絶対音感 = 万能というイメージが、さまざまな幻想と誤解を生み出していった。それは、創造性を左右する魔法の杖でもなければ、音楽家への道を約束する手形でもなかった。」

1. 音響心理学と共感覚
本書は、絶対音感が実に多様な精神現象であることを教えてくれる。
絶対音感が災いして街に溢れる音という音に無関心ではいられない人々がいる。会話の声、電話の音、照明や空調の音、車のクラクション、救急車のサイレン... こうした音がすべて調和するとは考えにくい。読書をしながら BGM が聴けないという人、音楽が周りの音と調和しないと気持ちが悪いという人、ホールの雑音までも音譜として浮かび上がり、気になって演奏に支障をきたすという音楽家など。
一方で、なんなく絶対音感を受け入れられる人々がいる。1Hz ずれた音をしっかりと認識しながらも、周りの調律と合わせて音名と関連づけることができる音楽家など。相対音感に絶対音感を調和させることが自然にでき、音感の抽象レベルが高いということか。絶対音感そのものが害になるのではなく、これを絶対化することの方が、はるかに害になるようである。
また、音楽を聴くと、色彩が見えてくる人々もいるという。ある楽器の音色から赤色が見えたり、ある旋律を聴くと金色が見えたりと。「色聴」という視覚と聴覚が連携する共感覚である。
そういえば、特定の能力を発揮するサヴァン症候群にも、数字から形や色が見えたり、匂いを感じたりする人がいると聞く。色と感情にも相関性がある。赤は情熱、青はクールなど、色彩が明るいか暗いかだけでも気分が変わる。ちなみに、風俗店の壁はピンク系で演出している場合が多い、とバーで聞いた。
共感覚の持ち主は、多感性に恵まれた感性豊かな人で、生まれつき芸術センスを持ち合わせているのかもしれん...

2. ミッシングファンダメンタルと音の死角
音響心理学に、「ミッシングファンダメンタル」という概念があるそうな。心理的印象をもたらす音の要素に、音の高さ、大きさ、音色がある。人間は声や楽器から聴こえる音を、基本周波数を下に感じ取る。純音であれば、単純に基本周波数が耳に入ってくる。だが、実際の音の周波数スペクトルには基本周波数以外の周波数成分が多く含まれている。
そこで、周波数の合成によって、物理的に存在しない周波数を複合音として聴かすこともできる。例えば、片耳に 1000Hz と 1400Hz、反対耳に 1200Hz と 1600Hz を呈示すると、200Hz が聴こえるらしい。脳の幻想によって生じる音というわけだ。ただ誰でも、ミッシングファンダメンタルが感じ取れるわけではない。
また、絶対音感の持ち主でも聴音できない音があるという証言を紹介してくれる。ジャズのテンションと呼ばれるコードトーンを聴いた時、その音名が分からないというピアノ教師。テンションは、音と音がぶつかるので汚く聴こえるという。クラッシックの場合は非和声音だが、ジャズでは緊張感を生むために和声音として使用されているものだったという。絶対音感が先天的なものなのか後天的なものかは分からないが、おそらく双方と関係があるのだろうが、絶対的な能力にも死角があるようである。

3. 「固定ド唱法」と「移動ド唱法」
日本人には絶対音感を持つ人が多く、また欲しがる人も多いという。それは早期教育の影響のようである。そのためかは知らんが、技術偏重で、演奏者に教養の欠片もないと酷評されることも多いようである。
教育の場では、ドレミのダブルバインドがさらに混乱を招いているという。義務教育では「移動ド唱法」が用いられるが、専門教育では「固定ド唱法」が用いられるそうな。
1939年、ロンドンの国際会議で定められた基準音によれば、A(ラ) = 440Hz、C(ド) = 約261Hz に固定された。ところが、義務教育ではドレミは音名ではなく階名であり、何調であっても、長調の主音は「ド」、短調の主音は「ラ」となる。そのために、絶対音感で訓練してきた子供たちは、移動ド唱法に馴染めないらしい。文部省の言い分によると、相対的なドレミの規定は、まったくの素人でも音楽に馴染めるにように考慮されているんだとか。
音の表現法は、イタリア語であったり、フランス語であったり、国によって様々。固定ド唱法を採用しているフランス、イタリア、ロシアなどは、階名は、J. J. ルソーが提唱した数字譜を用いるという。
音名も階名も同じ名前を用いるところに、日本固有の問題があるようである。太平洋戦争時代にはイロハ音名を用い、音感教育も盛んだったという。来襲した飛行機の型を識別したり、B29 の高度を計測したり、スクリュー音で敵船の型や進行方向を感知したりと。交流したヒトラーユーゲントに高度な音感を持つ子供が多かったらしく、その影響もあるようだ。イロハ音名は国粋主義の現れかは知らんが、音名と階名を区別するチャンスはあったようである。

4. 基準音 A = 440Hz の呪縛
1939年、国際規約において気温20℃で、A音は、440Hz と制定された。オーケストラに安定した基準音を提供できる人がいるとありがたい。本書は、「人間音叉」と呼んでいる。
ところが、世界各国でオーケストラの基準音が上昇する傾向にあるという。アメリカでは、カーネギーホールをはじめ主要なホールのスタインウェイピアノの基準音は、442Hz だとか。深刻なのは、ベルリン・フィルやウィーン・フィルの基準音の上昇で、絶対音感だけの問題ではなく、オーケストラ全体の音質にまで影響する事態だという。古楽ブームの影響もあるようで、バッハやモーツァルトの時代は、現在より半音から全音低く調律されていたとされるらしい。
特に、バイオリンなどの弦楽器の音色に影響を与え、オーケストラ全体の緊張感が高まり、音程や音色を均質化するとの批判もあるようである。フルトヴェングラーやカラヤンのもとで打楽器の首席奏者を務めた作曲家ヴェルナー・テーリヒェンは、ベルリン・フィルをバベルの塔に喩えて、こう語ったという。
「コミュニケーション手段としての言語の混乱は、多くの現代曲が理解できないことと対応している。音楽は魂の言語だ。だが、魂は高々と積み上げる嵩上げを必要としない。魂が求めているものは内面への道なのだ。」

5. 妥協の調律「十二平均律」
音階における人間の生得的な性質は、ピュタゴラスの時代から知られている。周波数比率が整数比となる 2:1 のオクターブ、3:2 の完全五度、4:3 の完全四度など、耳に心地よく完全に協和する音の関係が完全音程である。十二音階でいえば、オクターブは「ド」と「ド」の八度の関係、完全五度は「ド」と「ソ」、完全四度は「ド」と「ファ」となり、オクターブが最も協和する。音律は、この音程関係を周波数で相対的に規定したもので、平均律は、1オクターブを12等分した西洋音楽で最も一般的に用いられる音律である。
この音律が成立するまでの歴史は長い。ピュタゴラス音律は、オクターブ、四度、五度のみを用いて音階を構成しようというもの。
12世紀には音楽が複雑化して、三度(ドとミ)の関係が多用されたという。だが、三度音程は周波数比が、64:81 と複雑なため、響きが粗く、同時に2音を奏でると音がワンワン唸るとか。
そこで、響きを美しくするために、三度音程の周波数比を、4:5 にし、これが純正律だという。主要三和音、「ド・ミ・ソ」、「ソ・シ・レ」、「ファ・ラ・ド」の周波数比がすべて 4:5 となり、唸りや粗さがなく、グレゴリオ聖歌のように透明感があるのが特徴だとか。
しかし、純正律で演奏できるのは、ハ長調、ヘ長調、ト長調しかなく、一曲の中に様々な転調のある場合、唸りが生じてウルフトーンと呼ばれる汚い音が響いてしまうという。
そこで、この転調の問題を解決したのが、「十二平均律」というわけである。18世紀末からドイツで普及し、19世紀後半に世界中に広まったとされる。平均律は、純正律に比べると、三度や五度の音程は少し汚く濁って響くが、どの調にも均等なために転調が可能である。そのために、「妥協の調律」とも言われるそうな。
ピアノによって絶対音感を身につけた人たちの大半は、この十二平均律をラベリングした人ということか。テレビから流れる音楽から街角で流れるBGMの群れなど、耳から無理やり入ってくる音楽すべてが平均律で則っているとすれば、聴覚が離散化していることは否めない。そして、木々のざわめき、滝の音、川のせせらぎなど、自然の音を聴く能力は退化するのだろうか?それは、絶対音感の持ち主だけの問題ではなさそうである。

2016-06-12

"音さがしの本 リトル・サウンド・エデュケーション" R. Murray Schafer 著

土砂降りで雨音のやかましい梅雨の日、古本屋を散歩していると、音のオアシスのような書を見つけた。論理的な記述から解放してくれるような... 惚れっぽい酔いどれは今、ドビュッシーの「野を渡る風」と「西風の見たもの」を聴きながら記事を書いている...

騒がしい社会に慣らされれば、沈黙して周りの音に耳を傾けることを忘れる。つい周りに負けじと声高に捲し立て、自分の心に耳を澄ますことまで怠ってしまう。日常、耳にする音から、どれだけ音の風景を感じながら生きているだろうか...
Soundscape の提唱者マリー・シェーファーは、普段の生活の中から音の素材を探すエクササイズを紹介してくれる。少しの間、静かに座って耳を澄ましてみよう... 聞こえた音を紙に書き出してみよう... 書きだした音を大きな音から小さな音まで並び替えてみよう... 一番綺麗だった音は?一番嫌いな音は?こうしたことを家や公園や学校で試してみよう... 街角で目を閉じたまま試してみよう... 外へ出てリスニング・ウォークをやってみよう... 音の日記をつけてみよう... といった具合に。尚、Soundscape とは、音の風景といった意味で、Landsacpe(景観)に対比する造語である。
本書の対象は、十才から十二才の子供に相応しく、中高校生にとっても刺激的だとしている。しかし、だ。むしろ耳の腐った大人のための書ではあるまいか。そこに皮肉を感じるのは、おいらの魂が腐っている証であろうか...
「おしゃべりをしながら、何かを聞くのはむずかしいことだ。一日のわずかな時間でいいから、みんながおしゃべりをやめて、世界に耳を傾けるようになったら良いのに、と思うことがある。世界はきっともっと住みやすい場所になるだろう。」

音とは何かを探求すれば、必然的に沈黙とは何かを問うことになる。しかしながら、自然界に完全な沈黙は見当たらない。風のざわめき、木々の擦れる音、小川のせせらぎ、滝の音、鳥のさえずり、虫の鳴き声... 人間が一人いるだけで、息遣い、足音、関節の音、心臓の音... おまけに生活空間には、コンピュータ、エアコン、冷蔵庫などの機械音が散乱し、静まった部屋ですら時計の音がカチカチと...
それでいて、自動車のエンジン音やバイクの単気筒音に心が踊らされる一方で、軍事基地周辺でヘリコプターやジェット機の音を聞かされれば気が狂いそうになる。
様々な音環境において、真に聴覚が欲するものとは何であろう?ハイパーソニック・エフェクトを唱えた大橋力氏は、著作「音と文明 音の環境学ことはじめ」の中で、必須音という概念を持ち出していた。物質の世界にビタミンのような必須栄養素があるように、音の世界にも生きるために欠かせない音素があると。しかも、可聴域を超える音域にも、善かれ悪しかれ生理的に影響を与えるものがある。ひと昔前は、鉛筆が紙の上を走る音が心地よかったものだが、今では、キーボードを叩く音が静かな空間を支配し、これまた心地良い。無響音室に入ると居心地の悪さを感じるのは、やはり何か音素を求めているのだろうか?情熱的な夜でピロートークに心の拠り所を求めるのも、やはり何かの囁きを欲しているからに違いない...

1. 心に奏でる懐かしい音
長らく人間の耳の可聴域は、20Hz から 20kHz とされてきた。CD が登場した時代、アナログレコードの方が耳に優しい!などと感想をもらすと馬鹿にされたものだ。そして今、巷で騒がれるハイレゾ音源には、可聴域の上限をはるかに超える周波数成分が含まれる。わざわざ自然の環境音を求めて CD を買い求めたところで、サンプリング周波数 44.1kHz、すなわち、再生周波数の上限 22kHz の壁に阻まれる。
確かに、オーケストラやバンドの演奏を聴くとワクワクする。だが、大き過ぎる音に気をつけなければ、鼓膜を傷つける。自然界の音は、人間の聴覚をあまり傷つけたりはしない。いくら土砂降りの音がうるさくても、嵐や雷の音が轟こうとも、耳を傷つけたりはしない。真夏に発情期のごとくアブラゼミのやつらが鳴き狂えば、精神までも狂わされるけど。情報が洪水のように溢れる社会では、人を盲目にさせるだけでなく、耳までも難聴にさせるものらしい...
「サウンドスケープは、いつだって変化している。古い音は、いつも消えていく。いったいそういう音は、どこにいってしまうのだろう?前に聞いたことがあるのに、もうぜったいに聞くことができない音を、いくつくらい知っているかな?」

2. 音楽と論理性
音楽を記号によって表現すれば、より複雑になっていく。それは、知性や理性では収拾のつかない言葉以前の混沌を記述しようとするからであろう。とはいえ、音楽そのものがメソッド化し、洗練されていくこと自体は悪いことではない。問題なのは、そこに音楽そのものへ向かう求心力があるかどうか...
「数字を含む言語は、巷の事象を合理的に写し取るための最も効率のよい道具である。論理に裏づけされたそのようなマナーを、西洋人たちはロゴスと呼んだ。知性や理性は、ことばを基盤としたロゴスによって成り立っている。では、音楽はこのロゴスによって隅々まで解明されるのだろうか。十九世紀、西洋音楽の修辞学の伝統も、ことばと完全に一致するわけではない。音響を数値化してみても、われわれは数に心を動かされるわけではないようだ。」

3. BGM を心の拠り所に
音楽は、いろんな気持ちにさせてくれる。BGM をちょいと付け加えることによって、その場所がもっと楽しくなる。勉強や仕事をする場所は、静かな方が適していると言われる。共有の場所では、音楽の好みも違えば、個々の精神状態も違うので、その通りだろう。しかし、一人の環境ではどうだろうか?
十年以上前、ベンチャー企業と称するアドベンチャーな会社で働いていた頃、会話もなく静まり返った職場が心地よかった。電話の音は迷惑千万!メールやメッセンジャーは環境に良いツールだとつくづく感じたものである。ただ、キーボードを叩く音が気になってしょうがない。やがて従業員たちはヘッドホンを着用するようになった。あちこちの大企業から逃避してきた人の集まりでは、自然に自由な空気が漂い始める。それぞれに音楽を聴いて互いの領域を侵犯しないように心がける。もっとも独立しちゃえば、独りの空間を謳歌し、独り言も言いたい放題!しばしば仕事の気分を盛り上げるために音楽で誘導する。

4. 聴覚に発する想像力
聴覚に対する想像力は、視覚に対するそれとは広がりが違う。見たまんまという説得力では視覚の方が優るが、芸術心の根本には雰囲気ってやつがあり、感覚や感性が潜在意識を覚醒させる。感知能力の指向性においても、視覚は目で見通すことのできる範囲に限られ、聴覚は上下左右ほぼ全球面をカバーし、危険察知能力で聴覚に頼るところが大きい。

「ラジオドラマはやっぱりいいですねぇ。ぼくの持論なんですけど。ラジオドラマには、デレビドラマにはない良さがある。例えば、テレビで SF をやるとしますよね。アメリカ映画に負けない映像を作るためには SFX やら、コンピュータグラフィックスやら、やたらお金がかかるわけです。
ところがラジオなら、ナレーターがひとこと、ここは宇宙!と言うだけで、もう宇宙空間になっちゃうんですから。人間に想像する力がある限り、ラジオドラマには無限の可能性がある。ぼくはそう思うなぁ。ぼくは好きだなぁ、ラジオドラマ!」
... 映画「ラヂオの時間」より

2016-06-05

"新文章読本" 川端康成 著

立ち読みをしていると、吸い込まれるように手にとってしまう類いに、文章読本ってやつがある。小説家たちが名文を集めて解説を施した文章論である。
なぜ、こんなものに?文章をうまく書きたいという意識が、心のどこかに残っているのか?義務教育の時代、文章力の欠如は既にお札付き。作文の悪い例として皆の前で読まれ、以来、国語は大っ嫌いになり、成績は常に学年最下位。諦めの境地は、開き直りの境地にある。そんなおいらでも、文章を書くことは嫌いではない。まず、いかに読むかを問う三島由紀夫版を、次に、いかに書くかを問う丸谷才一版を、そして、本格派の誉れ高い谷崎潤一郎版を手にとってきた。
「文は人なり」とはビュフォンの言葉だが、川端は「文章は人間の命」と書いている。本書には、技巧や技術といったものが見当たらない。理論的文章論では語れない文章論があると言わんばかりに...
「文章の不可欠の要素について... すなわち、調子、体裁、品格、含蓄、余韻等についても、説明すべきことは多い。しかし一面また思えば、少なくとも小説の文章に於ては、くりかえしてのべ来った如く、凡百の理論も一つの実践に劣る。いずれを優とし、いずれを劣とする方則も、こと文章に関してはあり得ぬ。理論上の劣をとりあげて、名文となし得た作家も少なくないし、理論上の優をふみながら、遂に名文を書き得なかった例はまた頗る多いのである。」

逝ってしまった者は、少なからず生きる者を不安にする。それは、生きてある者もまた同じ運命にあることを、知らしめているからではない。死者が今もなお揺り動かしてやまないのは、この世に何かを残しているからだ。意志の痕跡なるものを... 忘却してしまうには後ろめたさを感じるようなものを...
文章とは、一つの生命体のごときもの。大袈裟に言えば、単語の選択ひとつにも、書き手の魂が宿る。川端は、文章とは作家にとって皮膚のようなものだという。確かに、文章と魂はけして切り離せないモナドロジー風な感覚を覚える。ただ、すべての文章がそうなるわけではない。ほとんどの文書は命が与えられる前に消え去っていき、鳥肌が立つようなものは達人の手によって命が吹き込まれる。真の文章か?誤魔化しの文章か?小説家にとって、命がけの問い掛けとなろう。本物と信じているものが実は誤魔化しであると知った時、彼らは地獄を見る。文体の破壊を試みては、魂の破壊を招いてきた作家たち。書けなくなることも珍しくない。表記法の合理化が進んでも、はたして精神の合理化は進んでいるのか。新たな境地を求めるとは、精神破綻を覚悟するということか。言葉の商業主義化が進む御時世、小説家にはいつまでも自由の砦を守っていってほしい...

尚、これは、フローベールの有名な言葉だそうな。モーパッサンの「ピエールとジャン」の中にあるとか...
「われわれの言おうとする事が、例え何であっても、それを現わすためには一つの言葉しかない。それを生かすためには、一つの動詞しかない。それを形容するためには、一つの形容詞しかない。さればわれわれはその言葉を、その動詞を、その形容詞を見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるために良い加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。どんな微妙なことでも、ボワロオの『適所におかれた言葉の力を彼は教えぬ』という詩句の中に含まれた暗示を応用すれば、いいあらわすことが出来る。」

1. 文章のノスタルジー
川端は、文章を単なる小説の一技術とみなす風潮が、どれほど文学を貧しくしてきたか、と問いかける。
「つねに新しい文章を知ることは、それ自身小説の秘密を知ることである。同時にまた、新しい文章を知ることは、古い文章を正しく理解することであるかも知れぬ。」
言葉の変化は、思いのほか早い。平安時代には平安調の言葉があり、元禄時代には元禄調の言葉があり、現代には現代調の言葉がある。同時に時代を超えた文章の調子がある。鴎外調、夏目調、芥川調、鏡花調、荷風調... 等々。はたまた世界を股にかける文脈の力がある。ホメロス調、ダンテ調、ゲーテ調、ドストエフスキー調... 等々は翻訳語までも凌駕する。もはや名文は作者の元を離れ、独り歩きをはじめる。幽体離脱がごとく。かと思えば、名文は読者たちの魂と結びつき、それぞれの心の中で生き続ける。霊魂融合がごとく。
人類の叡智としての文体の普遍性と、個人の心の中で奏でるリズムの多様性は、こうも相性が良いものであったか。おいらの場合、読書にはその時々の気分に合った BGM が欠かせない。生命の宿る文章には、ある種のノスタルジアを覚える。
「少年時代、私は源氏物語や枕草子を読んだことがある。手あたり次第に、なんでも読んだのである。勿論、意味は分りはしなかった。ただ、言葉の響や文章の調を読んでいたのである。それらの音読が私を少年の甘い哀愁に誘い込んでくれたのだった。つまり意味のない歌を歌っていたようなものだった。しかし今思ってみると、そのことは私の文章に最も多く影響しているらしい。その少年の日の歌の調は、今も尚、ものを書く時の私の心に聞えて来る。私はその歌声にそむくことは出来ない。」

2. 文章の第一条件
世間では、芸術的文章と実用的文章を区別するようだが、川端はこの差別を認めない。文章とは、感動の発するままに、思うことを率直に簡潔に分り易く述べることを良しとするからであると。文章の第一条件は、簡潔と平明にあるという。いかなる美文も、理解を妨げるものは卑俗な拙文にも劣ると。
しかしながら、作家と読者の間で心理活動を一致させることは難しい。作家の複雑な心理過程を率直に描写したところで、誤解を招くこともしばしば。高尚な芸術を理解するには、読者もまた高みにのぼらなければならない。読者の目が肥えてくると、今度はより優れた芸術性を求めてくる。そうなると、どちらが牽引役なのやら。
かつて文章は、小説家のものであった。高度な情報化社会では、発言のためのツールが豊富になり、あらゆる専門知識が庶民化していく。言葉の理解は、人と人との間の契約によって成り立ち、完全な自由を求めたはずの文章が、今度は制約を受けることになる。
「言葉は人間に個性を与えたが同時に個性をうばった。一つの言葉が他人に理解されることで、複雑な生活様式は与えられたであろうが、文化を得た代りに、真実を失ったかもしれない。」

3. 独自の文体への夢
「作者の気魄と気品とが溌剌と躍動し超俗の風懐が飄々と天上に遊ぶ『気韻生動』の境地は、芸術の妙境には相違ないが、現代作家のうちでは僅かに徳田秋声、泉鏡花、葛西善蔵、志賀直哉、横光利一等の数氏にしか、これを見ることが出来ないのは残念である。」
年の功を経てくると、文章の癖は風格や心境の衣を纏うものらしい。細かい文章を書く作家は、だいたい話上手なのだとか。繊細で多感であるがゆえに、想像力を豊かにさせるのだろうが、同時に精神的リスクを抱えている。文章が精神の投影であるならば、精神の限界を攻めるは必定。おまけに、芸術は孤独と相性がいい。
一方、読者は気楽なもんだ。自分自身の文体を築き上げる必要もなければ、ただ好みの作家を嗅ぎ分けるだけでいい。作家たちの敏捷自在な心の働きが、読み手をふと文章の幻想世界へ導いてくれる。とはいえ、凡人は凡人で夢がある。独自の文体は、生涯をかけて獲得すればいい。いや、獲得できれば運がいい...
「文章でもつねに怠らぬ努力は、いつか作者の血となり肉となるのではあるまいか。才能豊かな作家は、その才能によって、自らの文章を作るであろうし、一方才能薄い作家は作家で、努力のはてに、己の文脈を発掘するであろう。すでに述べた先輩作家の中でも、泉鏡花、里見弴の両氏にくらべて、単に文章の生まれつき才能の点からいえば、徳田秋声、菊池寛の両氏のごときは、はるかに劣る。しかしながら、その作品を今日みれば、それぞれの特長の上に立派な文章の花は咲くといえようか。生まれつきの天分によって切り開いた、鏡花、弴両氏の文章の持たぬ世界を、秋声、寛両氏は、努力の涯に作り上げたといえるであろう。」

4. 口語体と文語体
古典文学は、文語体で書かれた。そこには、土佐日記や源氏物語のような和文調と、保元物語や平治物語のような軍記物に見られる漢文調がある。和文調は早くから廃れたが、漢文調は意外にも簡素な音律が長持ちさせたようである。ホメロス調が生き残ってきたのは、その音律にあるのだろう。偉人たちの名言にも、どことなく音調が整っている。端的なリズムは、記憶に残りやすい。そこに口語体が結びつけば尚更。現在でも、分り易くインパクトのあるキャッチフレーズ戦略が重宝される。
とはいえ、文語体も捨てたもんじゃない。音感的効果と視覚的効果の双方に訴えることで、文章に高級感を演出する。いずれにせよ、文章がいかに書き手の魂を描写できるか、そして、いかに読者に訴えられるか、に尽きるのであろうけど。
「国民性を変えずして、言語の変化は困難である。ましてや国民性と俗にいわれるところのものは、単に精神的なことのみではなく、気候、風土、体格、習慣等に厚く裏打ちされていることを思えば、一層である。」
時代はいつも新たな文体を求め、いっそう喋るような表現を要請してくる。TED.com などに見るプレゼン手法は、この類いか。言語システムは、やはり自然で精神により近い形を求めるようである。
自然主義派の態度は「話すように書く」、対して、文藝時代派の態度は「書くようにして書く」であるという。新しい時代の新しい精神は、新しい文章によってしか表現できないと。そして、国語教育に苦言を呈す。
「最近の、新仮名遣いの問題、漢字制限の問題もその間に政治的な一種の強いるものがなければ、容易に否定も肯定も出来ないであろう。徒らな懐古趣味や保守主義は、生きている言葉を死滅させること、無理解な統制が言葉を枯死せしめると同様、罪は共通する。」

5. センテンスの長短
「センテンスの長短は、それぞれ特長と欠点を持って、その優劣は決すべきではないが、要は、用語と同様、このセンテンスの長短にそれぞれの作家の作風あり、と知るべきである。」
センテンスの長短にも作家の文学観が現れるようで、戦後、センテンスが長くなる傾向にあったという。西洋文学の影響か。
尚、川端自身は、センテンスの短い作家に分類されるそうで、だからといって、短いセンテンスの賛美者ではないと語る。心の中に奏でる音調は、人それぞれ。種々風趣を含ませてこそ、真の文章が生まれるという。一概には言えないが、短編小説には短いセンテンスが、長編小説には長いセンテンスが合うようである。
また、作家の健康状態の反映とする説もある。血気盛んな青年は、ダイナミックな文体を綴るのに短いセンテンスを用い、老年になると、センテンスも次第に内省的に緩やかな長い波を持つようになるとか。おいらの文章が長ったらしく、まったりしてくるのも、歳のせいであろうか。
長いセンテンスは、詳悉法の傾向を帯び、多分に修辞とも握手するという。もし、長いセンテンスが、修辞と握手せず常識と握手すれば、冗長で退屈極まる文章になるに違いないと。それゆえ詞姿の変化を好み、修辞を愛する作家は、長いセンテンスによる複合文を多く駆使すると。
短いセンテンスは、素朴で明快な感じがある。圧力感を与えることもあろうが、説得力があるとも言える。漱石の「吾輩は猫である」に見るピリオド越えの技には、溜め息しか出ない。
ちなみに、技術論文や研究論文では短いセンテンスが好まれる。だが、天の邪鬼な酔いどれは、センテンスだけでなく内容まで冗長ときた。おまけに、冗談の一つも忍ばせないと気が済まない。そういえば、むかーし、ある会社で悪い事例として紹介されたこともある。
川端は、文章の第一条件に簡潔と平明を挙げていた。短いセンテンスの方が、簡潔で分かりやすい。ただ警戒ずべきは、長所に酔って、うかと短所を見逃してしまう、とも言っている。
「短いセンテンスは、時として色も匂いもない。粗略単調な文章となる危険を持つ。性急で、無味乾燥な、文章となれば、そこに詩魂も枯れ、空想の翼も折れるであろう。反面、長いセンテンスは、徒らに冗長に失してその頂点を見失う事が多い。」

6. 描写万能論批判
新進作家時代に、小島政二郎が唱えた「描写万能論」というものもあるそうな。川端は、描写と説明の調和論を唱える。描写と説明は、車の両輪の如く、文章には欠かせないという。描写とは、事物を具象化すること、具体的に書き現すこと、感覚に訴える世界を言葉で築きあげること。説明とは、より客観的な視点を加えることになろうか。主観と客観の調和という見方もできそうで、ある種の対称性をなしている。
「描写も説明も、立派な文章の場合は、渾然一になるべきで、描写のための描写、説明のための説明ということは敢言すれば邪道であろう。描写すべきところは描写し、説明すべきところは説明する... 文章の要は、そこにつきる。」

2016-05-29

"富嶽百景・走れメロス 他八篇" 太宰治 著

おいらは、「走れメロス」を一度も読んだことがない。なのに、これほど筋書きを知っている小説があろうか。それは、待つという行為に焦点を合わせたもの。作品そのものより、こんな逸話の方を知っているとは、なんとも奇妙である。

... 太宰は執筆のため熱海の宿を借りた。金を使い果たしたことを妻に伝えると、壇がお金を持ってきてくれた。その日のうちに、二人は酒を飲んで金を使い果たしてしまう。ミイラ取りがミイラになったとさ。太宰は宿代が払えず、金を借りに単身東京へ帰るが、何日待っても戻ってこない。しびれを切らした壇が東京へ帰ると、なんと太宰は借金を言い出せずに、井伏の家で将棋をさしていたという。怒った壇は、太宰から思いがけぬ言葉を耳にする...
「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。
 この言葉は弱々しかったが、強い反撃の響きを持っていたことを今でもはっきりと覚えている。」
... 檀一雄「小説 太宰治」より

「走れメロス」は、明るい友情物語として親しまれている。だが、それは太宰の本意であったのか。信頼されているから裏切れないとすれば、信頼されていなければ裏切れるというのか。ここには、ある種の見返りの原理が働いている。太宰にとって、正義だの、誠実だの、友情だの、権威だの、名誉だの... すべて通俗で嘘っぱちだったのか。そして、崇高な世界観も、自然な芸術も、彼自身の文体も... だから、虚無な自我を抹殺せずにはいられなかったのか...
太宰は、百四十近い短編を残し、四十で死んだ。小説でも書いていなければ、やってられない人生とは、いかなるものか。自我を肥大化させた結果なのか。理想が高すぎるが故の結末か。芸術家だから余計に感じるのかもしれない。凡人は目の前の幸せにすら気づかないでいる。醜い自我を曝け出さなければ、自惚れ屋でなければ、狂うほどのものがなければ、小説なんて書けやしまい。出来の悪い子ほど可愛いというが、出来の悪い自我ほど可愛いものはない。可愛がるからこそ、出来が悪いのかもしれんが...

本書には「魚服記」、「ロマネスク」、「満願」、「富嶽百景」、「女生徒」、「八十八夜」、「駈け込み訴え」、「走れメロス」、「きりぎりす」、「東京八景」の戦前の十作品が収録される(岩波文庫)。どの作品も比喩や暗示が効いていて、なんとも煮え切らない、いや、見事な思わせぶり。そして、やがて辿り着く人間失格を予感させる。漠然とした不安とは、文学への殉教であったか...

1. 魚服記
本州北端の梵珠山脈に、馬禿山というのがあるそうな。麓を流れる滝では、夏の末から秋にかけてよく紅葉し、人々で賑わうという。父と娘が、この地に移り住んできたのは、娘スワが十三の時。二人は炭小屋に住む。父は滝壺のわきに小さな茶店を開き、店番はスワの役目。黄昏時に父が迎えに来ると、いつもの平凡な会話をする。「なんぼ売れた... なんも...」
ある日、スワは滝壺の傍に佇み、昔、父親が話したことを思い出す。それは、三郎と八郎という木こりの兄弟の物語。弟の八郎が魚をたくさんとって帰ると、兄の三郎が帰らぬうちに一匹食べ、二匹三匹と食べてはやめられず、全部食ってしまう。そして、喉が渇いて井戸の水をすっかり飲み干すと、体中に鱗が吹き出て、大蛇になってしまった。三郎が帰ってきて「八郎やぁ」と呼ぶと、大蛇が涙をこぼして「三郎やぁ」と答えたとさ。
さて、この日も父が迎えに来ると、「なんぼ売れた」と聞く。だが、スワは答えない。まことに木こりの兄弟の会話のごとく、虚しさを感じるのだった。そして帰り道...
スワは父に聞く、「お父(ど)。おめえ、なにしに生きでるば。」
父は肩をすぼめて答える、「わからねじゃ。」
スワは厳しい顔で言う、「くたばったほうあ、いいんだに。」
父は、ぶちのめそうと思ったが、こらえて受け流した、「そだべな、そだべな。」
スワは、その返事が馬鹿くさくて怒鳴る、「あほう、あほう。」
盆が過ぎて茶店をたたむと、父は炭を背負って村へ売りに出かけ、スワは一人残って茸を採りに行く。父は、炭や茸がいい値で売れると、決まって酒臭い息をして帰ってくる。この日は、木枯らしのために朝から山が荒れていた。父は早暁から村へ降りていき、スワは一日中小屋へ籠もっていた。夜になり、うとうと眠っていると、白いものが舞い込む。初雪である。疼痛!身体がしびれるほど重い。おまけにあの臭い息。
スワは「あほう。」と叫んで外へ出た。吹雪の中、滝に吸い込まれるように歩き、低い声で「お父(ど)!」と言って飛び込んだ。気がつくと辺りは薄暗く、滝の響きが頭の上でかすかに感じられる。ここは水底、スワは大蛇になってしまったのだと思った。「うれしいな!もう小屋へ帰らなくていい」と言うと、口ひげが大きく動く。スワは大蛇ではなく、鮒になって泳ぎまわっていた。そして、滝壺へ吸い込まれていく。太宰の運命となる入水自殺を暗示するかにように...

2. ロマネスク
三つの物語の共演...
「私たち三人は兄弟だ。きょうここで会ったからには、死ぬとも離れるでない。いまにきっと私たちの天下が来るのだ。私は芸術家だ。仙術太郎氏の半生と喧嘩次郎兵衛氏の半生とそれから僭越ながら私の半生と三つの生きかたの模範を世人に書いて送ってやろう。かまうものか。うその三郎のうその火炎はこのへんからその極点に達した。私たちは芸術家だ。王侯といえども恐れない。金銭もまたわれらにおいて木の葉のごとく軽い。」

一つ目の物語「仙術太郎」
津軽の庄屋、鍬型惣助は、幼い息子の太郎の発する言葉から、預言者としての能力を信じる。親馬鹿か。太郎は、仙術の本に没頭する。蔵の中で一年修行し、ようやくネズミと鷲と蛇になる術を覚えた。とはいえ、単にその姿になるだけのことで別段面白くもない。惣助はもはや我が子に絶望していた。それでも負け惜しみに、出来過ぎた子なのじゃよ!
太郎は、津軽一番の男になりたいと念じ、十日目に成就する。だが、鏡を覗いて驚く。色が抜けるように白く、頬はしもぶくれで、もち肌、目は細く、口ひげがたらりと生えている。それは天平時代の仏像の顔であって、しかも股間の逸物まで古風にだらりとふやけている。仙術の本が古すぎたのだ。古風な二枚目は現代の間抜け面、これでは女にモテない。おまけに、仙術の法力を失って元に戻れない。太郎は絶望し、村から出て行く。あらゆる欲望が無欲の境地へ導き、ついに、人間であることを飽きさせるものであろうか...
「太郎の仙術の奥義は、ふところ手して柱か塀によりかかってぼんやり立ったままで、おもしろくない、おもしろくない、おもしろくない、おもしろくないという呪文を何十ぺん何百ぺんとなくくりかえしくりかえし低音でとなえ、ついに無我の境地にはいりこむことにあったという。」

二つ目の物語「喧嘩次郎兵衛」
醸造業を営む鹿間屋逸平の長男は世事に鈍く、己の思想に自信が持てず、父の言うとおりに生きた。次男の次郎兵衛は兄と違い、是々非々の態度を示す傾向があり、商人根性を嫌った。それだから、ならず者と評判される。次郎兵衛は、二十二歳の時、喧嘩上手になってやると意気込む。馬鹿な目にあった時は、理屈も糞もない。ただ力が正義!
まず、喧嘩は度胸。次郎兵衛は、度胸を酒でこしらえる。次に、ものの言いよう。喧嘩の前には気のきいたセリフが欲しいと日夜訓練。そして、いよいよ喧嘩の修行に励む。彼は武器を嫌った。卑怯だから。殴る時の拳を研究した挙句、殴り方にもコツがあることを発見する。また、自分の身体を隅々まで殴ってみて、眉間と鳩尾(みぞおち)が急所であることを知る。男の急所を狙うのは、やはり卑怯。
父は、次郎兵衛が何かしらの修行をしていることに気づき、大物になったように感じ、火消し頭の名誉職を継がせた。しかし、名誉が与えられると、皆から慕われ喧嘩の機会が減る。やけくそで背中に刺青をすると、ならず者にまで敬われ、完全に喧嘩の望みが絶たれる。
ある日、妻の酌で酒を飲みながら、俺は喧嘩に強いんだぞ!とじゃれてみせ、妻を殺してしまった。次郎兵衛は、牢獄で念仏ともつかぬ歌を、憐れなふしで口ずさむ。
「岩にささやく 頬をあからめつつ おれは強いのだよ 岩は答えなかった」
人間ってやつは、自分の能力を誰かに認めてもらいたくてしょうがいないもの、つまらぬ見栄のために墓穴を掘る...

三つ目の物語「うその三郎」
宗教学者の原宮黄村の息子、三郎は父の蔵書を次々に売却し、六冊目に見つかり折檻された。泣く泣く悔悟を誓うが、これが嘘の始まり。
三郎は、隣家の愛犬を殺した。ある夜、犬はけたたましく吠え、父は三郎に見に行ってこい!と命じる。犬がじゃれつき、甘ったれた様子に憎悪を抱いて、石を投げつけると、頭に命中して死んだ。そして、犬は病気で明日死ぬかもしれません、と報告した。
三郎は、遊び仲間を橋から突き落として殺した。理由はない。拳銃を持てば、ぶっ放したくなる発作と似た気分に襲われた。そして、友人が川に落ちたと叫んで泣きじゃくり、人々の同情を引く。葬儀にも平然と参列した。
人に嘘をつき、己に嘘をつき、犯罪ですら美化し、とうとう嘘の塊と化す。「人間万事嘘は誠」
父、黄村が死んだ。遺言には、こう書かれていた。
「わしはうそつきだ。偽善者だ。... わしは失敗したが、この子は成功させたかったが、この子も失敗しそうである。」
三郎は、ハッとする。見透かされたか。三郎の罪は、幼き頃の人殺しから始まった。父の罪は、己の信じきれない宗教を人に信じさせたことにあった。重苦しい現実を少しでも涼しくしようと、人は嘘をつく。適量を越えると、さらに濃度の高い嘘をつく。まるで麻薬だ。嘘の技術は切磋琢磨され、やがて引け目を感じることもなくなり、自我の中で真実の光を放つ。もはや、無意識無感動の痴呆の態度に救いを求めるしかない。しかし、これも嘘だ。嘘のない人生なんてあるものか...

3. 満願
恐ろしく短い、超短編小説... 小説「ロマネスク」を書いていた頃のエピソード。
ある夜、酔って自転車に乗り、怪我をした。傷は浅いが、出血が酷く、慌ててお医者さんに駆けつける。町医者も同じくらい酔っていて、ふらふらと診察室に現れたので、互いに大笑いする。その夜から、二人は意気投合。
医者の家では、五種類の新聞をとっていて、毎朝、読ませてもらうために散歩で立ち寄る。その時刻に、薬を取りに来る若い女性。医者は、「奥さん、もうすこしの辛抱ですよ!」と大声で叱咤する。旦那さんは三年前に肺を悪くしたが、だんだん良くなっている様子。
そして八月の終わり、奥さんが白いパラソルをくるくる回して歩き、その姿が一段と美しく見える。すると、医者の奥さんがささやく。
「今朝、おゆるしが出たのよ!」
おゆるしとは、なんだ?夫婦生活のことか。
「あれは、お医者の奥さんのさしがねかもしれない。」
あれとはなんだ?医者の奥さんも欲求不満を愚痴って、早くおゆるしを出してあげなさいよ!ってか。執筆で苦慮するもやもやさを、性欲のもやもやと重ねたような物語であった...

4. 富嶽百景
御坂峠の頂上には天下茶屋という小さな茶店があるそうな。昭和十三年の初秋、思いを新たにする覚悟で甲州へ旅に出た。井伏鱒二が初夏の頃から、この二階に籠って仕事をしていることを、知っていたからである。この方面からの眺めは富士三景の一つに数えられるが、あまり好きではないという。それどころか軽蔑していると。
「富士には月見草がよく似合う... 富士なんか、あんな俗な山、見たくもない、高尚な虚無の心...」
井伏が帰京すると、今度は太宰が九月から十一月まで、御坂の茶屋の二階で仕事をした。富士三景とへたばるほどの対話。どうも俗だねぇ。お富士さん...
太宰は、世間を恐れていたのか?それとも人間を恐れていたのか?富士はみんなが崇める存在、だから反発しているのか。心を癒やすために他の山に登っても、甲州のどの山からも富士が見え、却って気が重くなる。
しかしながら、さんざんコケにした富士を、いつの間にか心のつぶやきの相手にしている。お富士さんに化かされ、妥協し、頼みの相手とし... 弄ばれているのは、いったいどっちだ。
「世界観、芸術というもの、あすの文学というもの、いわば、新しさというもの、私はそれらについて、まだぐずぐず、思い悩み、誇張ではなしに、身もだえしていた。」
十一月になると、外套を着た若い娘二人が訪れた。シャッターを切ってくださいな!都会風の女性から頼まれて、狼狽する。だが、レンズを覗くと、二人をレンズから追放して、こっそり富士山だけを撮った。現像したら驚くだろうなぁ... 次の日、山を降りた。冗談でもやってなきゃ、生きちゃおられん...

5. 女生徒
女性の独白体は、太宰文学のお家芸とう評判を聞いた。なるほど、文体のリズムはお見事!
主人公は、お茶ノ水のある女学校に通う少女。彼女にとって朝は、かくれんぼの時、押入れの中で隠れていて、突然、襖をあけられ、みぃつけた!と大声で言われるような、ちょっと照れくさい感じ。いや、もっとやりきれない虚無な世界。悲観的で、後悔するばかりの毎日。
父の死を考えると不思議に思えてくる。死んでいなくなるということは、どういうことか。平凡な日常で哲学するものの、苦労知らずでポカンと生きていれば、感受性の処理がおぼつかない。
大人たちは、もっともらしいことを言う。宗教家は信仰の大切さを説き、政治家は正義を声高に唱え、作家は気取った言葉を用い、教育家はいつも恩、恩、恩...
批判しても責任は持たない。本当の意味の自覚、自愛、自重がない。本当の意味の謙遜がない。みんな同じことを言っているだけ。独創性に乏しく、模倣があるだけ。上品ぶっても気品がない。しかし、そんな大人たちの態度が、自分にそっくりなことに気づいていく。
「自然になりたい。すなおになりたい。... 本なんか読むのやめてしまえ。観念だけの生活で、無意味な、高慢ちきの知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。」
感傷に浸っても、自己愛を慰めているだけ。本当の自由は、いったいどこにあるの?過去、現在、未来を重ねながら、心の準備が整わないまま大人になっていく。素直に生きる難しさと、卑屈に生きる現実。こうしたものをひっくるめて、漠然とした不安として描かれる。情緒不安定で自省的な心を、懐かしんで書いているような...

6. 八十八夜
作家の笠井さんは、信州へ旅に出た。痴呆症のごとく。分かっているのは、一寸先は闇だということだけ。人生とは、それが望むものでないとしても、前に進むしかない。認識能力がエントロピーに支配されている以上、油断は禁物。必死に生きていくか、必死に死んでいくか、他に選択肢はない。いや、もう一つだけある。死んでいるかのように生きること。卑屈に、静かに狂気を謳歌すること。まるで死神よ。
「非良心的な、その場限りの作品を、だらだら書いて、枚数の駈けひきばかりして生きて来た。芸術の上の良心なんて、結局は、虚栄の別名さ。浅はかな、つめたい、むごい、エゴイズムさ。生活のための仕事にだけ、愛情があるのだ。陋巷の、つつましく、なつかしい愛情があるのだ。」
過去をすべて捨て去ることができたら、幸せになれるだろうか。しかし、笠井さんは、過去を捨て去ったわけではない。
去年の秋、諏訪の温泉で下手な仕事をまとめるためにお世話になった女中さんが忘れられない。秘かに期待を膨らませるアバンチュール!旅館に着くと、女中の声がさわやかに響く。浴場で泳いだ。バックストロークまで敢行した。そして、酒をくらった。ベロンベロン!女中さんが寝床を敷いてくれたが、ゲロを吐いた。すぐに敷布を換えてくれた。もう紳士ではありえない。これもロマンス?
翌朝、女中さんと顔を合わし、いたたまれない。羞恥や後悔などそんな生ぬるいものではない。死んだふりをしたい。だが、女中さんは爽やかに応じてくれた。玄関では、女将をはじめ女中さんたちが、笑みでお見送り。その中を、逃げるように旅館を去っていく。
「世界の果てに、蹴込まれて、こんどこそは、いわば仕事の重大を、明確に知らされた様子である。どうにかして自身に活路を与えたかった。暗黒王。平気になれ。まっすぐに帰宅した。お金は、半分以上も、残っていた。要するに、いい旅行であった。皮肉でない。笠井さんは、いい作品を書くかもしれぬ。」

7. 駈け込み訴え
キリストへの思いを、イスカリオテのユダに代弁させる。ただ愛が欲しいと...
あなたは、いつも優しく、いつも正しく、いつも貧しい者の味方で、いつも輝くばかりに美しかった。だが、先に逝ってしまわれた。無責任だ!無報酬の純粋な愛を受け入れよ、薄情な主よ!
宗教で何が救われるというのか?あなたに殉ずる他に何が出来るというのか?俗界は、人間には危険過ぎる。弱い卑屈な心が肥大化すると、もう手がつけられない。自我に対してですら復讐の鬼と化す。天国へ来い!ペテロも来い、ヤコブも来い、ヨハネも来い、みんな来い!俗世から足を洗おう。足だけ洗えば、みんな汚れのない清い身体になれる。
「ペテロに何ができますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、背筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんてばかげたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、ばかな奴らだ。」

8. 走れメロス
「メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」

(M: メロス, D: ディオニス王)
M: 市を暴君の手から救うのだ。
D: おまえがか?しかたのないやつじゃ。おまえなどには、わしの孤独の心が分からぬ。
M: 人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑っておられる。
D: 疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ。信じては、ならぬ。... わしだって、平和を望んでいるのだが。
M: なんのための平和だ。自分の地位を守るためか。罪のない人を殺して、何が平和だ。
D: 口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹わたの奥底が見え透いてならぬ。
D: 三日目には日没までに帰って来い。遅れたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっと遅れて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。はは。命が大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、分かっているぞ。

ディオニス王の台詞の方が、説得力を感じるのは、おいらの心が歪んでいる証であろうか。おっと!今度は、メロスの台詞に説得力を感じている。
「正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。」

そして、ついにディオニス王の台詞で赤面してしまう。いや、こそばゆい。
「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

9. きりぎりす
この作品でも女性の独白体を魅せつける。三行半とは、建前では夫から妻への離婚状とされるが、実はこれが真髄か!貧乏暮らしの時代、夫は天使のような存在であった。しかし、夫が名声を得ると、妻はぞんざいに...
「孤高だなんて、あなたは、お取り巻きのかたのお追従の中でだけ生きているのにお気がつかれないのですか。あなたは、家へおいでになるお客様たちに先生と呼ばれて、だれかれの絵を、片端からやっつけて、いかにも自分と同じ道を歩むものはだれもないような事をおっしゃいますが、もしほんとうにそうお思いなら、そんなにやたらに、ひとの悪口をおっしゃってお客様たちの同意を得る事など、いらないと思います。あなたは、お客様たちから、その場かぎりの御賛成でも得たいのです。なんで孤高な事がありましょう。」
妻が一人で寝ていると、背中の下でコオロギが賢明に鳴いている。泣いているのは妻か。いや、夫か。
「この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。」

10. 東京八景
「東京八景。私は、その短編を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本の倫理においても、この年齢は、すでに中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しいかなそれを否定できない。覚えておくがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、だれにも媚びずに書きたかった。」
作家にとって書きたいものを書くということは、意外と難しいものらしい。注文がこなければ、書きたいものも書けない。恐ろしいことは、書きたいものがなくなること。さらに恐ろしいことは、何も書けなくなること。
この作品は、太宰治の経歴が一望できる。パビナール注射の副作用から悪癖を覚えて中毒になり、人間失格へまっしぐら。
しかしながら、文学作品としては、らしくない。淡々と綴られる様子にちょっと拍子抜け。主人公が自分自身では思うように書けないのか?誰かに置き換え、仮面をかぶらないと、面白く書けないのか?いや、トリを飾る作品として期待が大き過ぎたのかもしれん。いやいや、ここまで読み進めて、ついに読者の方が精神破綻を起こしちまったのかもしれん...

2016-05-22

"ロマの血脈(上/下)" James Rollins 著

ようやくシグマフォースシリーズ第四作に突入。だが、このシリーズは十作を超え、もうついていけない。シリーズ物ってやつは、映画にせよ、小説にせよ、三、四作目あたりで精彩を欠いたり、飽きが来たりで、読者のモチベーションが減衰していく。しかし、ロリンズ小説は違う。毎度ながら、歴史と科学を融合させる手腕にイチコロよ!おまけに、静と動、分析と行動、知識とアクションを絶妙に織り交ぜ、歴史の可能性ってやつをプンプン匂わせてやがる。
ただ奇妙なことに、動の領域に文章のオアシスを感じる。静の領域はあまりに知識が溢れ、何度も読み返し、疲れ果てる。無限の知識の中に放り込まれると、アクションの方に安らぎを覚え、静脈と動脈が逆流するかのような感覚に見舞われるのだ。かなりの気合と体力を要するのも、ロリンズ小説の魅力!さて、次の挑戦は何年先になることやら...

本書は、およそ結びつきそうにない二つの血統を題材にしている。それは、古代ギリシアの聖地デルポイの巫女ピュティアと、不思議な占い能力を持つロマ種族である。これらを軸に、歴史的には、ロマの起源、インドのカースト制度、ハラッパー遺跡を絡め、科学的には、人間の予知能力と脳の可塑性、自閉症の中で稀に現れるサヴァン症候群、さらに特殊能力に関する米露の極秘プロジェクトを絡める。
また、地球上で最も汚染された地域の一つに数えられるチェリャビンスク地方や、チェルノブイリ原発事故に関して旧ソ連政府が隠蔽してきた衝撃的な事実は、福島第一原発事故を目の当たりにした我が国としても見逃せない。
ところで、ナノテクノロジーとは驚異的な技術だ。子供たちが持つ特殊能力を増幅させ、大人どもがそれを操ろうというのだから。生まれたばかりの赤ちゃんにマイクロチップを埋め込む外科手術が、法律で定められる時代も近いかもしれない。もし特殊能力を自由自在に制御できるとしたら、そこに野望の持ち主が群がるは必定。歴史を振り返れば、あらゆる独裁者は独善的な平和のために社会を破壊してきた。現存する社会秩序を一度チャラにし、新たな秩序とモラルを再構築しようと目論んできたのである。目的のためには手段を選ばず!の改バージョン、平和のためにはあらゆる犠牲を惜しまず!こうした論理は、愛国心や民族優越主義がいびつな形で肥大化した時に生じる。どんな残虐行為も、劣等人種、あるいは人間以下と見做さない限り、やれるものではない。世界征服の野望に憑かれた輩が、独善的な民族不要説を唱えるならば、まさに自らの種族を抹殺することになろう...

ジェームズ・ロリンズは、この物語が生まれたきっかけに、テンプル・グランディンの言葉を挙げている。
「もし何らかの力で自閉症がはるか昔に地球上から姿を消していたとしたら、人間は今でも洞窟に住み、火のまわりに座って過ごしていることでしょう。」
オリバー・サックスの著作「火星の人類学者」でも紹介されるアスペルガー型自閉症の女性動物学者で、TED.com から彼女のプレゼンテーションを拝見した。本書の自閉症に関する記述は、個人的に共感を覚える。というのも、おいらにはごく身近に重度の知的障害者がいる。この手の症状は自閉症を誘発することが多く、意思伝達能力と社会適応能力の低さから、自己の殻に籠もることが身を守る手段となる。その結果、言語能力や発話能力の遅れや阻害、動作の繰り返しやチック、一つの行動に対する執念などが見られる。だからといって無理やり取り合おうとすると、今度は人格を否定することになり、機能不全に陥ってパニックを起こす。
尚、自閉症の原因については、未だ解明されていないという。自閉症ゲノムプロジェクトと米国立衛生研究所の共同研究によると、ある複数の遺伝子と環境的な要因により発祥するというところまでは分かってきたらしいが...
もっとも本物語に登場するのはサヴァン症候群であり、その中でも世界で数十人しかいないと言われる天才的サヴァンである。超人的な能力を発揮するほど、精神的ストレスとなって自ら寿命を削るとすれば、それは幸せであろうか?狂気を自覚できる能力を持っていれば尚更だ。一方で、世俗的欲望は自覚意識を麻痺させてくれる。人間社会が狂気しても、みんなで自覚できないとすれば、それは幸せであろう...

1. あらすじ
グレイ・ピアース隊長の眼前でホームレス風の男が射殺された。男の名は、MIT の神経学者アーチボルド・ポーク。みすぼらしい姿は、致死量の放射線を浴びていたからである。彼はデルポイの神殿が描かれた硬貨を手に握っていた。放射線の反応する方向を測定器で追っていくと、ポークの娘エリザベスと出会う。狙撃者は特殊能力を持つ少女を連れていたが、目を離した隙に行方不明となる。なんの運命か、その少女をロマの男ルカがグレイの所へ連れてきた。彼女はタージ・マハルの絵を描く。グレイはエリザベスとルカと共に、ポークの足取りを追ってインドへ向かった。
一方、ウラル山脈では、一人の記憶喪失の男が不思議な能力を持つ三人の子供から、僕たちを救い出して!との依頼を受ける。その頃、ニコライ・ソロコフ上院議員とサヴィーナ・マートフ少将は、チェルノブイリ原発を利用したロシア再興計画を進行中。計画に加担させられていたのは、不思議な能力を持つオメガクラスの子供たちで、その能力を増幅させる人体実験には、シグマの存在を疎ましく思うアメリカのグループも関与していた。
グレイたちはポークの同僚ハイデン・マスターソンから情報を得て、パンジャブ地方でギリシアの神殿の遺跡を発見。そして、デルポイの巫女から現代へ繋がる血統の謎を解明するが、ロシア兵に捕らえられてしまう。
三人の子供と行動を共にする記憶喪失の男も、カラチャイ湖の放射線に怯えながら追っ手の巨大猛獣と戦っていた。廃炉となったチェルノブイリ原発四号炉を「新しい石棺」で密閉する式典が進むにつれ、ニコライとサヴィーナによる二つ作戦... 各国首脳を抹殺する「ウラヌス作戦」と、地球の生態系を壊滅させる「サターン作戦」... の開始が迫る。この二つは、第二次大戦でソ連軍が用いた作戦名で、セットで成功させることにより勝利を確定づけたことで知られる。
デルポイの巫女の預言が意味するものとは... 世界は燃えてしまう!人類の運命は、グレイたちでも記憶喪失の男でもなく、意外にも一人の少年の手に委ねられていた...

2. デルポイの神託と巫女ピュティア
デルポイの神託はギリシア神話のオイディプス伝説で描かれ、人々の運命を左右してきた。神殿の入口には、三つの格言「汝自身を知れ」「過剰の中の無」「誓約と破滅は紙一重」が刻まれていたされる。
巫女は霧に包まれながらトランス状態に陥り、依頼者が訊ねる未来について答えた。彼女の神託は古代世界において絶大な影響力を持ち、王や征服者ですら服従し、何千人もの奴隷が解放され、西洋民主主義の種がまかれたとされる。二千年近くに渡って厳重な警護の下に置かれた女性たちは、パルナッソスの山腹にあるアポロン神殿の内部で生活し、預言者として選ばれた一人に「ピュティア」の名が与えられ、その地位は代々受け継がれてきたという。ピュティアの信奉者には、プラトン、ソフォクレス、アリストテレス、プルタルコス、オウィディウスなど錚々たる人物が名を連ね、初期のキリスト教徒たちでさえも彼女を崇拝したという。ミケランジェロは、システィーナ礼拝堂天井画に、キリストの再臨を預言するピュティアの姿を大きく描いている。
また、2001年に、新たな事実が明らかになったそうな。考古学者と地質学者のチームが、パルナッソス山の直下に奇妙な配列のテクトニック・プレートを発見したという。プレートの隙間から炭化水素ガスが放出され、ガスに含まれるエタンには高揚感と幻覚をもたらす作用があるとか。ピュティアが霧に包まれてトランス状態に陥ったのは、このガスを吸引したためであろうか?
しかしながら、キリスト教の台頭でデルポイの神託は衰退し、テオドシウス皇帝はキリスト教をローマ帝国の国教に定めた。
さて、本物語は、398年、ローマ軍がデルポイの神殿を滅亡させる場面から始まる。洞窟の至聖所には神聖なオムパロスがある。それは、「世界のへそ」と呼ばれるもの。そこに、神がかった能力を持つ少女が連れられてきた。百人隊長は少女の引き渡しを要求するが、最後のピュティアとなる巫女は少女をかばって殺される。百人隊長は洞窟内をくまなく探したが、少女の姿はどこにもなかったとさ...

3. ショヴィハニと直観力
死の天使ことヨーゼフ・メンゲレが、双子の子供に特別な関心を寄せていたという話は有名である。アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所で人体実験をやった奴だ。本物語でも、双子の子供に焦点をあて、薄気味悪さを醸し出す。そして、古いジプシーの言葉で「ショヴィハニ」と呼ばれる天賦の才を持つ双子の兄弟が鍵を握る。世界征服を目論む野心家にとって、遠隔透視や予知能力は極めて利用価値が高く、人の心を読む「エンパシー」と呼ばれる能力は利用価値が低いように映るらしい。だが、心を読む能力を極限にまで高めれば、人の心を盗むことだってできる。
ところで、直観の正体とは何であろう?先天的能力とも、後天的能力とも言われるが、おそらくその両方であろう。難題を前にすれば、突然閃いたように理解できる瞬間があったり、解決策が突然夢の中で浮かんだりする。インドを舞台にしているのは、どうやらヨガの行者が持つ驚くべき能力について、生理学的な根拠があるらしい。
例えば、手足や皮膚の血流を調節することで何日も極寒に耐えることができたり、基礎代謝率を下げることで何ヶ月も断食を続けられたり、皮膚の血流を制御することによって人間の意思までも制御できるというもの。心頭を滅却すれば火もまた涼し!とも言うが、もっと科学的なレベルにおいてである。
本来、直観とは、身に迫る危機に対して高められる能力のような気がする。天才的サヴァンの人たちは、知的障害を抱えながらも限られた分野で驚異的な才能を持つ。ずば抜けた計算能力や記憶力、機械操作力、空間認識力、臭覚・味覚・聴覚の識別能力、音楽や絵画の才能など。彼らもまた、何かから自分の身を守ろうとして能力を研ぎ澄ますかのように...
さて、人間は未来を見ることが可能であろうか?本書は、超心理学の研究者ディーン・ラディンが行った実験を紹介してくれる。画面上に様々な写真を映し出す。目を背けたくなるような写真と、心和むような写真を、無作為に混ぜて。数分後には、被験者は目を背けたくなる写真が映し出される前に、たじろぐようになったという。約三秒前に予測できるようになったというわけだ。実験は、賭け事をする人にも行われたという。トランプで良いカードが出る時にはプラスの反応を示し、悪いカードが出る時にはマイナスの反応を示す。すると、その反応がカードをめくる数秒前に現れたという。
原因は分からないが、権威ある学者によると、ごく普通の人でも短時間であれば未来を見ることができるらしい。麻雀では、一発ツモやドラがのるといった匂いを感じることがあるが、これも予知能力であろうか。もっともおいらは、牌の流れ!を読もうとする...

4. 脳の可塑性とヘッブの法則
人間の脳は、三百億個の神経細胞からできていると言われる。各神経細胞は複数のシナプスで結合され、大規模な神経回路が形成される。その数は、十の百万乗の単位。
ちなみに、全宇宙に存在する原子の総数は、十の八十乗ぐらいと言われている。
脳への情報伝達は、電気信号によってもたらされる。ものを見る時は目で見ているのではなく、脳で認識して見ている。耳が聞こえなくなった人が、人工内耳によって聴力を取り戻すことができるのも同じ理屈である。新しい言語能力を獲得する場合でも、言語特有の周波数から言葉を認識できる神経回路が形成される。
したがって、脳の内部に電極を挿入すれば、なんらかの意思制御ができるというのはもっともらしい。電気信号の入力によっては、五感以上の知覚能力を覚醒させる可能性だってある。脳が電気信号の集まりで、しかも新たな信号に対する適応能力を持っているために、外部から電気回路を接続することによって、新たな認識能力を持つこともありうる。人間は生まれつきサイボーグ!というわけだ。
2006年のブラウン大学の実験によると、体が麻痺した患者の脳に微小電極を接続したマイクロチップを埋め込み、その患者は四日間の練習を積んだ後、体を一切動かすことなく頭で考えるだけで、ディスプレイ上のカーソルを動かしたり、電子メールを開いたり、テレビのチャンネルを切り替えたり、ロボットアームを動かしたりできるようになったという。ハーバード大学がラットに行った実験によると、TMSジェネレータ(経頭蓋磁気刺激装置)は、神経細胞の成長を促進することが解明されたという。発育途上の子供の方が、その影響を受けやすい。だが奇妙なことに、学習と記憶に関する領域だけ成長したそうな。
また、神経学には「ヘッブの法則」というものがある。「発火する神経細胞同士は結びつきを強める」というもので、脳のある部分を刺激し続けると、その部分がどんどん強化されていく。外部からの磁気的な刺激によって、神経細胞のスイッチを入れたり切ったりできるとすれば、その能力を操ろうと考える輩が必ず現れる。まさか!メンゲレはこんな実験をやっていたのか?
「我々の行っている実験の内容が、外部の人間に漏れてはならない。そんなことになれば、ナチを断罪したニュルンベルク裁判ですら、交通違反を扱ったのではないかと思われるような事態が起こる。」
尚、誘発された記憶喪失については、主にプロプラノロールを使用して、選択された記憶を薬により消去する技術が実用化されているそうな...

5. スターゲイト計画と科学者の倫理
スターゲイト計画とは、冷戦時代のプロジェクトで、軍事作戦に遠隔透視能力を応用するというやつだ。公式には、アメリカの第二のシンクタンクであるスタンフォード研究所が管轄していた。後に、ステルス技術の開発に関与する機関である。
1973年、スタンフォード研究所は、CIAから委嘱を受けたという。精神力だけで、はるか離れた地点にある物体や活動を監視し、情報を収集することが目的である。非現実的といえばそうかもしれない。だが、どんなにバカバカしい研究でも、敵国が成果を出している可能性があれば、遅れをとるわけにはいかない。CIAの報告書によると、1971年ソ連の計画は突如として最高レベルの機密扱いになったという。実際は、それほど成功例はなかったらしい。だから、1995年に幕引きしたことになっている。それでも、遠隔透視の実験では、15% の有用な結果が得られたという。確率的な値をはるかに上回る数値だ。
例えば、ニューヨーク在住のアーティスト・インゴ・スワンという人は、緯度と経度の座標を与えるだけで、その場所にある建物の形状を詳細に説明することができたという。そのヒット率は 85% 近いとか。顕著な成功例で最も有名なのが、誘拐されたジェームズ・ドジャー准将の救出に関する事例がある。ある遠隔透視者が、准将の監禁された町を言い当てたという。また別の透視者は、監禁されている建物の様子を詳細に描写し、鎖でつながれているベッドの位置まで特定したとか。
さて、本物語では、スターゲイト計画は密かに継続され、しかも、ベルリンの崩壊とともに資金ぶりに行き詰まったロシアが、アメリカの組織「ジェイソンズ」に資金援助を求めたという展開を見せる。ジェイソンズとは、冷戦時代に創設された科学部門のシンクタンクで、著名な科学者たちで構成される実在する組織。
科学者は、政治や軍部の干渉を嫌う傾向がある。それはどこの国でも同じであろう。国家の枠組みを超えた地球レベルの倫理観を唱えるケースもある。人類として踏み入れてはならない境界を侵そうものなら、いくら敵国同士でも互いに協力を求める可能性だってある。本物語は、その科学者たちの良心の呵責とやらに期待するのだが...

6. ロマとカースト
ヨーロッパに移住したジプシーは、当初エジプト出身と言われ、「エイジプトイ」や「ジプシャンズ」と呼ばれ、それが語源とされる。だが、近年の言語学研究によると、ロマ語は古代インドのサンスクリット語が起源だと判明したそうな。ロマはインドの北西部パンジャブ地方を起源とする種族で、すべてのジプシーを含んでいるわけではなさそうだ。ヨーロッパで長い間苦難の時代を強いられてきたが、なぜ移住してきたかは不明だという。
ロマの祖先がインドを脱出したのは、10世紀頃。ちょうど厳格なカースト制度が導入される時代と重なり、歴史学者の間にはカースト間の摩擦が原因ではないかとする説もある。カースト制度の枠組みから外れた最下層の人々は不可触賤民とされ、その中に、泥棒、音楽家、不名誉除隊の軍人のほか、魔術師も含まれていたという。
では、カーストといった差別意識はどこから来ているのか?ヒンドゥー教の言い伝えによると、すべてのヴァルナ、すなわち身分は、インド神話に登場する原人プルシャから誕生したとされるそうな。聖職者や教師などが属するバラモンはプルシャの口から、王族や武士は腕から、商人は腿から、労働者は足から生まれたという。それぞれの階級の中でも上下関係があり、そのほとんどは二千年前の「マヌ法典」によって定められ、しかも、何をやって良いか何をやったら悪いかなど細かく規定されているという。
しかし、五番目のヴァルナである不可触賤民だけはプルシャから生まれたのではないとされ、社会の枠組みから外れた。彼らは、その汚らわしさゆえに普通の人々とは交流できないとされ、動物の皮、血、糞尿、人間の死体の処理を職業としてきた。上位カーストの人々の家や寺院に入ることも禁じられ、同じ食器を使って食事することも認められておらず、上位カーストの人の体の影が触れることすら許されないという。規則を破れば、袋叩きに遭い、強姦され、殺害されるとか。アチュート(アウト・カースト)として生まれれば、死ぬまでアチュートというわけだ。
経済学者アマルティア・センが問題提起した「喪われた女性たち」は国際的に反響を呼んだ。嫁焼き!... 毎年10万人を超える若い女性が焼き殺され、その多くは家庭内暴力だとも聞く。もちろんインドの法律はそうした差別を禁止しているが、実質的にあまり変わっていないらしい。特に地方では差別が根強く残り、現在でも人口の 15% が不可触賤民に分類されるという。慣習とは、恐ろしいものだ!
さて、本物語では、不可触賤民の中に不思議な能力を持つ家系があるとしている。それが「ショヴィハニ」というわけだ。そして、ロマ種族はこの血筋を他には明かさず、近親交配によって維持しようとしたために、遺伝的異常が数多く発生したという。その遺伝子異常の好転した場合が、天才的サヴァンというわけか...

7. タージ・マハルと愛の象徴の恐怖
タージ・マハルは、三百年以上前にムガール帝国の皇帝シャー・ジャハーンにより、最愛の妃が永遠の眠りに就く場所として建設した霊廟である。人々の間では、不滅の愛の象徴とされる。王妃は、旦那から四つの約束を取りつけたという。一つは、自分のために大きな墓を建てること。二つは、皇帝が再婚すること。三つは、皇帝が子供たちを大切にすること。四つは、毎年命日に墓参りをすること。皇帝は約束を守り続け、最愛の妃とともにタージ・マハルに埋葬されたという。
しかし、愛の物語の裏には、必ず血塗られた歴史がある。言い伝えによると、霊廟の完成後、皇帝は建設に携わった職人の手をすべて切り落としたそうな。これに匹敵する壮麗な建築物を二度と造らせないために...

8. 核の遺産
1986年、チェルノブイリ原発の四号炉が爆発した事故では、放射線の影響で十万人以上が死亡し、七百万人が被曝したとされる。その多くが子供たちで、いまだ癌や遺伝子異常の報告が絶えない。さらに近年、悲劇の第二波が訪れた。被曝した子供たちが子供を産む年齢となり、先天性欠損の事例が三割増加したという。1993年にモルドバで生まれた赤ん坊は、二つの頭、二つの心臓、二つの脊髄を持ちながら、手足は二本ずつ。脳が頭蓋骨の外にある状態で生まれた子供など。
しかしながら、もともと核で汚染されてきた地域で、原発事故だけの影響とは言いがたい。ウラル山脈にある旧ソ連時代のプルトニウム工場も、ウラン鉱山で働く囚人の住居として使用された地下都市も実在し、ほとんどの囚人は刑期を終えずに命を落としたという。プリピャチで、厚さ12メートルの巨大な鋼鉄製のシェルターで古い石棺を密閉する計画も事実だとか。
チェリャビンスク地方は、地球上で最も汚染された地域の一つとして数えられる。カラチャイ湖の汚染された湖水は周辺のアサノフ湿地へ漏れ出て、そこに断層が存在するのも事実だそうな。ノルウェーの地球物理学者の調査によると、大地震などが発生して湖底の断層に影響を与えた場合、北極海は死の海と化し、北米や北部ヨーロッパにまで汚染が広がると予想されているという。
2013年、チェリャビンスク州に隕石が落下したと大々的に報じられた。重さ10トンと見られる隕石が。科学者が予想する事態ともなれば、サヴィーナ少将が人工的に作り出そうとした事態が、偶発的に起こる可能性はある。福島第一原発事故を目の当たりにすれば、他人ごとではない...

2016-05-15

"ユダの覚醒(上/下)" James Rollins 著

久しぶりに推理モノ... 久しぶりにジェームズ・ロリンズ... 歴史と科学を絡める手腕は相変わらず!事実とフィクションの按配が絶妙で、その境界を心地よくさまよわせてくれる。下手な歴史書よりも、下手な科学書よりも奥ゆかしい。
本書は、「マギの聖骨」、「ナチの亡霊」に続く、シグマフォースシリーズ第三作。ただ、このシリーズは十作を超え、もうついていけない。学生時分なら、間違いなく追尾していたであろう。社会人になると、このジャンルを読む機会がぐんと減った。一度手をつけると、一気に読み干さないと気が済まない。二、三日寝なくとも。まるで麻薬よ!そろそろ隠遁して本性を解放したい、と思う今日このごろであった...

今回のテーマは、歴史的にマルコ・ポーロの東方見聞録、科学的に遺伝子工学を題材にしながら、現在にも通ずる環境破壊や科学の暴走を暗示している。
驚いたのは、人間の DNA のうち、実際に機能しているのは 3% に過ぎないとのことである。残り 97% はジャンクDNAと見なされ、なんの意味もないのだそうな。ただ、その一部はウイルスの遺伝子コードと酷似しているという。現在の通説では、将来起こりうる病気から保護する役割を担っているとされるとか。
実のところ人間は、眠っている DNA から何かを覚醒させようとしている、ということはないだろうか?2015年、科学者はヒトの胚の遺伝子を編集し始めたと大々的に報じられ、今日、遺伝子工学のモラルハザードが問題視される。ついに、パンドラの匣を開けるか?人間の欲は計り知れず、病気だけでなくあらゆる方面で優位に立とうとする。なにしろ差別の好きな生き物なのだから。そして、遺伝子の格付けが始まる。価格競争も激化し、オークションも登場するだろう。長寿遺伝子、スポーツ遺伝子、学者遺伝子... 人々は流行遺伝子に群がるだろう。人間社会は、このまま人間の遺伝子組換えを許し、危険なバイオテクノロジーの道を進むのだろうか?いや、すでに人間が越えてはならぬ領域に足を踏み入れているやもしれん...
ところで、人間は、かつて人食い人種だったのだろうか?人間ってやつは、飢えると何をしでかすか分からない。理性に縋ったところで、これほど脆く崩壊しやすいものもない。大飢饉に襲われれば、屍体を貪るような異常行動も見られる。家畜同然に扱われた奴隷が、その対象にされたということも考えられなくはない。いずれにせよ、最新の遺伝子研究によると、人肉を食した場合にだけ感染の可能性がある病気に対抗するための特定の遺伝子が、すでに人体に組み込まれているそうな。
尚、飽くことのない食欲を伴うプラダー・ウィリー症候群という恐ろしい遺伝子異常は、食人とは一切関係ないとのことである。

物語の謎解きは、地理的にも、歴史的にも、アジアとヨーロッパの接点をなすイスタンブールから始まる。鍵をマルコ・ポーロのイタリアへの帰路に求め、時代を遡る。問題は、インド洋のクリスマス島で発生した疫病。科学者は、古代ウイルスの菌株が存在することを指摘する。各種の疫病を引き起こす原因となるバクテリアの祖先、その名は「ユダの菌株」。テロリストの手に落ちれば、生物兵器ともなる代物だ。昨今の世界情勢では、知識こそが真の武器となる。石油などの天然資源よりも、どんな最新兵器よりも。DARPA(米国国防省高等研究企画庁)の諜報機関シグマフォースとしては見逃せない。
ところで、こんなものがマルコ・ポーロと、どう結びつくというのか?彼は、自分の旅路について、語ろうとしなかったことが一つだけあったという。また、彼の遺体は埋葬されたサン・ロレンツォ教会から忽然と姿を消し、行方不明のままだとか。東方見聞録にも記されなかった事実とは?
推理小説の醍醐味は、緻密に組み立てられた論理性に支えられているが、さらに歴史の可能性ってやつを匂わせてやがる。それは、歴史や科学、はたまた考古学といった学問研究が、暗号解読のような推理思考と相性がいい証拠であろう...

1. あらすじ
独立記念日、グレイ・ピアース隊長のもとに、かつて闘ったギルドの女工作員セイチャンが助けを求めてきた。彼女は組織のある計画に反発し、抜け出してきたという。その計画とは、マルコ・ポーロの謎にまつわるもの。
ギルドとは、各国の諜報機関が目を光らせるテロリスト集団。最新の科学技術の捜索と奪取を目的とする点で、シグマとライバル関係にある。ギルドのスパイは、各国政府や諜報機関、主要なシンクタンク、国際的な調査機関の内部にも潜り込んでいると噂される。かつてシグマも痛い目に合っており、ペインター・クロウ司令官はセイチャンを警戒する。
グレイは、ギルドの襲撃を受け、両親を人質にとられた。手がかりは、セイチャンが持っていたオベリスクの中に隠されていたアグレー修道士の十字架と「天使の文字」。アグレー修道士とは、マルコ・ポーロの聴罪司祭。グレイは、セイチャンとヴァチカンの考古学者ヴィゴーの協力のもと、「東方見聞録」から削除された章の調査に当たる。
一方、シグマのモンク・コッカリスとリサ・カミングズは、クリスマス島で発生した奇病を調査するため向かった先で、ギルドの襲撃を受けた。捕まったリサは、巨大クルーズ船に設けられた研究施設で病原菌「ユダの菌株」の解明に迫られる。こいつが生物兵器として用をなすには、解毒剤も必要というわけだ。リサは、発症した患者の中で、ただひとり生き残った女性スーザンに解明のヒントがあると確信する。
突如発生した人肉を欲するようになる奇病と、東方見聞録から削除された章が、どう結びつくのか?グレイたち歴史調査隊が「天使の文字」を解読しつつある中、リサたち科学調査隊は遺伝子工学から謎に迫り、歴史と科学の道筋はある場所で結びつく。ある場所とは、かつてマルコ・ポーロが訪れながらも秘密にしてきたというアンコール遺跡であった...

2. マルコ・ポーロの旅... すべての謎はここに始まる
1271年、17歳の青年マルコ・ポーロはアジアへ旅立ち、フビライ・ハンの宮殿を訪れた。彼は父親と叔父とともに賓客として20年間を中国で過ごす。そして、1295年、ヴェネツィアへ帰還。
フビライ・ハンは、マルコ・ポーロが帰国する際、14隻の船と600人の随行者を提供した。それは、ペルシアに嫁ぐコカチン王女を送り届けるための護衛である。
しかし、2年間の航海で帰国したのは、2隻と18人の随行者だけ。他の者たちの行方は謎である。ポーロは死に際して、「私が目にしたことの半分しか話していない。」との言葉を遺したと伝えられる。東方見聞録にも遠回しにしか触れられていない。
また、コカチン王女との恋の噂が残されているそうな。王女の髪飾りを死ぬまで大切に保管していたことから。
埋葬後の遺体がサン・ロレンツォ教会から姿を消し、いまだに所在が判明していないというのも事実だそうな。
そもそも、マルコ・ポーロの目的は何だったのか?ポーロ、父、叔父の3人は、法王グレゴリウス10世の命で派遣されたヴァチカンの最初のスパイとする説がある。強力なモンゴル帝国を偵察するための。そして、極秘の旅行記が機密公文書館に隠されているというのである。ヴァチカンの記録文書によると、2名のドミニコ会修道士が同行したが、数日後に2名とも帰国したと記されるという。
だが、旅行者に一人ずつ修道士が同行するのが当時の慣習であったと主張する人もいる。では、もう一人の修道士とは誰か?ポーロは自分の聴罪司祭を何かの理由で残してきたというのか?本物語では、アグレー修道士は法王グレゴリウス10世の甥に当たるとしているが、実在したかは知らん。
また、ペルシア湾の入り口にあるホルムズ島にはコカチン王女の墓があるらしい。おまけに、棺には二つの遺体が添い寝しているとか...

3. 東方見聞録... この原典は存在しない
何度も写本を重ねており、それらの複製版や翻訳版を比較すると、記述の食い違いが随所に見られるそうな。あまりにも食い違いが多いので、マルコ・ポーロという人物が実在したのか?という疑問すら投げかける研究者もいるとか。この旅行記は、フランスの作家ルスティケロが物語として書き留めたが、創作ではないか?という疑惑まであるらしい。
実際、中国の記述では、重大な欠陥があると批判されている。お茶を飲む習慣や、纏足の習慣や、箸の使用についても一切触れられず、万里の長城の記述もまったくないという。
一方で、正しい記述も数多くある。磁器の独特な製法や石炭の燃焼法、さらに世界で初めて使用された紙幣についても記されているという。
ただ、ルスティケロは、序文で東南アジアの島々で何らかの悲劇が起こったことを匂わせているとか。
分かっていることは、一行はインドネシアで5ヶ月もさまよった末、無事に脱出できたのは、ごく一部であったこと。多くの歴史学者は、船団に疫病が発生したか、海賊の襲撃に遭遇したのではないか、と推測しているようである。しかし、そんな重要な出来事があれば、むしろ記述を残しそうなもので、死の床に就いた時ですら話すことを拒んだとされる。
さて、東方見聞録の初版はフランス語で書かれたが、本物語では、彼の存命中にイタリア語で出版する動きがあったとしている。それを後押しをしたのが、あのダンテとしているから面白い。その失われた章というのがこれ。
「第六十ニ章 語られることのなかった旅路、および禁じられた地図」
そこには、密林の奥地での出来事が記される。石段や広場に散乱する死体に大型アリが無数にたかる。生きている者ですら、死体と同じく四肢の皮膚は腐食し肉が剥き出しになっている。膿んだみみず腫れや出来物で全身が覆われた者や、腹部が異様に膨張した者や、目が見えない者や、全身を掻き毟る者や、切断された手や脚を手にした者たちが野獣のように向かってきたという。人が人を食らう衝撃にただ佇むのみ。まさに「死の都」の様子が記述されていたというのである。そして、最後に遺された言葉が、これだ。
「これを読む者よ、心して覚悟を決めよ。地獄への門は、あの都に開かれた。その門が閉ざされたのか否か、私にはわからない。」

4. 天使の文字... 人類の誕生以前に遡る文字!?
天使の文字とは、ヨハネス・トリテミウスとハインリッヒ・アグリッパの二人が考案したもの。彼らによると、これらの文字を研究することによって天使との交信が可能になるという。それは古代ヘブライ文字に基づいており、同様にユダヤ教のカバラの信奉者たちは、ヘブライ文字の形や曲線を研究することで、内なる知識への道が開かれると信じている。トリテミウスは、自分の考案した天使の文字がヘブライ文字の最も純粋な最終形だと主張したという。彼の著作「ステガノグラフィア」は、オカルトを扱った書だと見なされ、禁書目録に記載された。
しかし実は、天使研究と暗号解読を複雑に絡ませながら論じた書だったのか?恐ろしい真理を伝えるためには、天使の文字で記述して封じ込めることこそが、俗人の目に触れさせずに、危険を回避する最良の方法というわけか。では、トリテミウスが瞑想によって辿り着いた内なる知識とは?
本物語では、天使の文字が羅列される模様が、DNAの二重螺旋構造に似ているとしている。実際、DNAコードのパターンと、人間の言語の中に見られるパターンを比較するという科学研究がある。統計学で用いられる「ジップの法則」によると、すべての言語には繰り返し使用される単語に特定のパターンがあるとされる。単語の出現頻度の順位と出現率との関係をグラフにすると、一直線を示すというものだ。その関係は、世界中の言語で共通だという。英語も、ロシア語も、中国語も... そして、DNAコードもまったく同じパターンを示すという。言語記号が魂の投影だとすれば、そこには人間の目的という潜在意識でも記述されているのだろうか?死を恐れるがために生に執着し、そこに意義を求めずにはいられない。遺伝子はそのようにプログラムされているのだろうか?
尚、現代科学では、遺伝子コードに言語が隠されているとされるが、どんな内容が記されているかは明らかになっていない。

5. 黒死病の襲来
ペストが最初に襲ったのは、黒海沿岸に位置するカッファの町であったという。強大なモンゴル帝国のタタール族が、ジェノヴァ人の商人や貿易商の住むこの町を包囲した。やがてモンゴル軍の兵士たちに、燃えるような傷みを伴う腫れ物と激しい出血という疫病が蔓延し始めた。長引く包囲に業を煮やし、疫病で死んだ兵士の死体を投石器で城壁内へ投げ込み、たちまち疫病は広まったという。
1347年、ジェノヴァ人は12隻のガレー船でイタリアのメッシーナ港へと逃げ帰った。この時、黒死病がヨーロッパの地に足を踏み入れたと言われる。
また、17世紀に黒死病が席巻した時、イングランドのイーム村では、他の地域と比べて非常に高い生存率を示したという。その理由は、村人の多くが「デルタ32」という突然変異した遺伝子を保有していたからだとか。小さな村では村人同志の結婚が普通で、村人のほとんどがその遺伝子を受け継いでいた。
尚、中世に鼠径腺ペストが突然ゴビ砂漠で発生し、世界人口の三分の一を死に至らしめた原因は、未だ明らかになっていない。そればかりか、ここ百年を振り返っても、SARS や鳥インフルエンザなど数多くの疫病がアジアを起源として世界的に流行しているが、その原因も完全に解明されたわけではない。
さて、本物語では、14世紀に黒死病がヨーロッパを席巻した後に、ポーロ家の子孫が秘密の書をローマ法王に寄贈したらしい事実が浮かび上がる。しかも、この時期にポーロ家の記録がすべて消され、マルコ・ポーロの遺体までもがサン・ロレンツォ教会から姿を消したとか。何かの陰謀の力が、ポーロ家の痕跡を抹殺にかかったのか?

6. シアノバクテリア... こいつを殺人鬼に変貌させるもの
「乳海」と呼ばれるインド洋における乳白色の発光現象がある。それは、赤潮とはちょっと違うようだ。赤潮は藻類が大量発生したもので、光は発光性バクテリアが原因だという。また、世界各地で、乳白色に輝く藻が大量発生するケースは珍しくないとか。海には、古代の変性菌、毒クラゲ、ファイヤーウィードなどが蘇りつつあり、藻類が大量発生した箇所からは有毒ガスが検出されているとのこと。ファイアーウィードとは、藻類とシアノバクテリアの合いの子のような生物で、毒性を放出するという。
シアノバクテリアは、バクテリアの中でも最古の種類の一つに数えられ、世界最古の化石の中にも発見されているそうな。四十億年前から生存する地球で最初に生まれた生命体の一つで、植物のように光合成を行い、太陽の光から食糧を生成することもできるという。しかも環境への適合性が極めて高く、地上のあらゆる場所に生息するとか。海水中にも、淡水中にも、土壌中にも、岩石の中にも。ただ、シアノバクテリアそのものに害はない。
例えば、致死性の高いものに炭疽菌がある。学名「バシラス・アンスラシス」と呼ばれ、反芻動物に感染する事例がほとんど。ウシ、ヤギ、ヒツジなど、人間に感染する場合もある。だが、バラシス属は世界各地の土壌に存在し、まったく無害だという。
セレウス菌も良性の一つで、世界中の庭に生息している。
遺伝子構造がほとんど同じでありながら、一方が殺傷力を持ち、もう一方がほとんど無害となるのは、プラスミドという二つの遺伝子コードの環だけにあるという。プラスミドとは、染色体 DNA から独立した環状の DNA のことで、自由に浮遊するこの遺伝子コードを持つバクテリアは珍しいとのこと。
では、このプラスミドは、どこからやってきたのか?プラスミドの進化上の起源は、謎だそうな。最新の理論ではウィルス起源説が有力視されているという。それは、バクテリオファージとかいうバクテリアだけに感染するウィルスが起源ではないかという説。ペスト菌もまた同じプロセスで、プラスミドによって毒性が倍増された変質バクテリアということであろうか?
さらに、人間の体内にある細胞は 10% だけで、残りの 90% がバクテリアから成るという事実も見逃せない。現代科学は、恐竜の絶滅を完全に説明できたわけではあるまい。
さて、本物語では、クリスマス島に生息する陸生のアカガニの異常行動によって問題が発覚する。この大型カニは、毎年、産卵期に数百万匹もの数で海に向かって大移動することで知られる。その爪は、車のタイヤをパンクさせるほど強力。こいつらが凶暴になって人間を襲う。しかも、時期に関係なく、どこかを目指してやがる。カニの神経系を操っているものとは?ただ不思議なことに、こいつらには二つのタイプのウイルスが共存するという。それは、トランス型とシス型と呼ばれるもので、前者がバクテリアを凶暴化させ、後者が治癒効果を持つのだとか...

7. ユダの菌株... 三つの宿主に寄生する!?
吸虫類の多くは、三つの宿主に寄生する。ヒト肝吸虫の産んだ卵は糞便として体外に排出され、下水を流れ、巻貝などの腹足類の体内に入る。卵からかえった幼虫は、貝の体外に出て、次の宿主を探す。幼虫は魚に飲まれ、その捕獲された魚を人間が食べる。人体に入った幼虫は肝臓まで移動し、成虫のヒト肝吸虫となり、あとは肝臓内で幸せな生涯を過ごす。
では、ユダの菌株も似たような生涯を送るというのか?槍形吸虫も、牛、腹足類、蟻の三つの宿主に寄生するという。注目すべきは、蟻に住み着いた時で、槍形吸虫は蟻の神経中枢を支配し、行動パターンまでも変えてしまうとか。ユダの菌株が、なんからの方法で人間に寄生し、その中枢神経を支配しようとしているというのか?生物界の掟は、これだ。
「悪影響を与えることだけしか考えていない有機体は存在しない... どんな生命体も、生き延びて、繁殖して、繁栄することを望む。」

8. アンコール遺跡
アンコールの歴史は、各寺院に彫られたレリーフの研究を継ぎはぎにした程度にしか分かっていないという。住民の運命も不明のまま。古代クメール文明がタイに侵略されて消滅したのは事実だが、多くの研究者はそれは二次的な影響に過ぎないと考えているという。実際、侵略したタイ人が、この地に留まっていない。クメール族が仏教のより穏健な宗派へと改宗した結果、軍事力が弱まったとする説もあれば、国を支えていた広大な灌漑設備と運河がシルトの堆積などで老朽化したために衰えたとする説もある。さらには、この地域が定期的な疫病の発生に悩まされていたとする歴史的証拠も見つかっているそうな。
さて、本物語では、グレイの一行とリサの一行が、アンコール・トムで自然に引き合うように合流し、その本山であるバイヨン寺院に迫る。人類が誰も住んでいなかった地域へ足を踏み入れた時、病原菌が世界にばらまかれた事例はいくらでもある。黄熱病、マラリア、眠り病... AIDS だってそうだ。それまで動物にしか感染しなかったものが。クメール族がこの地域を開拓した時、何かが住民の間に放たれたのだろうか?

9. 乳海攪拌
ヒンドゥー教の天地創造神話に「乳海攪拌」というのがある。これを表す彫刻には、二つの勢力が描かれる。神々と阿修羅の一団で、互いに大蛇の両端を持って綱引きをしている。蛇神ヴァスキを綱の代わりにして、大いなる魔法の山を回転させようと。山を回転させると、海は白く泡立ち始め、泡の中から「アムリタ」と呼ばれる不死の霊薬が生成されたとさ。山の下にいる巨大亀はヴィシュヌ神の化身で、山が沈まないによう支えながら神と阿修羅に手を貸している。蛇神ヴァスキは、引っ張られた挙句に気分が悪くなり、強い毒を吐く。そのせいで神々と阿修羅も具合が悪くなるが、ヴィシュヌ神が毒を飲み干してくれたおかげで命は救われた。さらに攪拌を続行すると、不死の霊薬だけでなく、「アプサラ」と呼ばれる天女も誕生したとさ。めでたしめでたし!
そういえばギリシア神話でも、美女神アプロディテは不死の肉から白い泡が湧き立って誕生したとされる。もっともこちらは男根から泡立つのだけど、なんとなく重なって映る。
古代人が自然現象を科学的に説明できるわけもなく、神話ってやつは暗喩めいたところがある。海で遭難しやすい地域には、怪物伝説が多く伝えられる。
さて、本物語では、乳海攪拌に乳白色の発光現象を重ねている。海の中で泡立ちながら、光る物質とは何か?バイヨン寺院の地下の洞窟にある池には大量のバクテリアが眠っており、まさにパンドラの匣が開かれようとしていた。
しかしながら、毒性を持つはずのバクテリアが、ある人物にだけ神から授かった薬となる。一度ウイルスに感染した身体に免疫ができ、さらに二度目の感染によって悪玉菌を善玉菌に変貌させるだけでなく、ウイルスを完全に退治してしまうということは、ありえそうな話である。どんな自然現象も、どんな科学技術も、神にも、悪魔にもなる。いずれも人間の解釈というだけのことかもしれん...