状況が混沌とすればするほど政治力がものをいう。人間社会とはそうしたものだ。悲しいかな、真に技術に執心する者ほど政治に関心が薄く、そうした策謀に疎いものである。電話を発明した人は誰か?と問えば、真っ先にアレクサンダー・グラハム・ベルの名が挙げられる。理科の教科書や子供向けの伝記物語、そして権威ある学術書に至るまで。特許を巡っては、イライシャ・グレイとの争いが知られているが、グレイの出願が数時間遅れたことが不運な野呂間とされ、歴史からその名は消えた。歴史とは無残なもので、一番でなければ抹殺される運命にある。bell(鐘)という名が、電話により一層インパクトを与えたのかは知らん。
しかしながら、産業革命がもたらした発明の時代とは、一攫千金の時代。けして一人の発明者が崇められるほど単純な時代ではなかったはず。ましてや通信業界は、自由精神を体現するツールとして強力なだけに、そこに政治力が関与すると、いびつな世界にしてしまう。おまけに、儲け話が絡めば野心家どもが群がるは必定。実際、ベルが創設に関与した AT&T の前身ベル・テレフォン・カンパニーは、世界最大の収益を独占した。今日の特許闘争でも、争っている当人たちではなく、第三者のものではないか?といった多くの疑問が投げかけられる。
「歴史の勝者は、物事がどのように記憶されるかをコントロールするのに最適な立場にいる。」
サイエンス・ライターのセス・シュルマンは、ベルの実験ノートを見て腑に落ちない点を見つける。12日間の空白... そして、突然わいて出たアイデア... これが天才のなせる業!と片付けてしまえば、それでお仕舞い。
しかし、シュルマンはベルの足跡を執念で追い、そこに渦巻く政治的思惑を突きとめる。神格化されたベル伝説の裏に、法律家ガーディナー・ハバードたちの限りなく疑わしい陰謀があったことを。
ベルの資料が米国議会図書館で見事な目録まで添えられるのに対して、グレイの業績に関する文献は数も少ない。そんな不利な状況でも、グレイが受けた不当な仕打ちを明らかにしようとしたロイド・テイラー博士のような人たちがいる。テイラーは、グレイの親族から長年忘れられてきた書類の山を引き取っていたという。その意志を引き継いだシュルマン。事実を細い糸でつなぎ合わせれば、まさに糸電話の伝言ゲーム... ベルは電話のアイデアを盗んだのか?
とはいえ、歴史を完全に明るみにすることは不可能であろう。真相を知るのは当事者だけであるばかりか、当事者ですら分かっていないこともある。当時の電信から派生した電話にしても、さらに派生したインターネットにしても、人間社会でこれだけ恩恵を受けていれば、誰が発明者だ!などと権威を振りかざしたところで詮無きこと。この物語は、いわばベル崇拝者へ叩きつけた挑戦状と言えよう...
「電話の発明に関するこの研究で、わたしが何かを学んだとすれば、それは、歴史というものは、常に挑み、問いたださねばならないということである。この点で妥協すれば、世代から世代へとささやかれる歪められた物語を暗黙のうちに受け入れてしまうことになり、その結果、まるで小どもが電話機を真似て遊ぶ伝言ゲームのような状況に陥ってしまうだろう。」
ベルの実験ノートは、高解像度デジタル再生画像としてネットに公開された。インターネットで情報検索する利便性は驚異的で、いまや大概の知的情報が入手できる時代となった。ただ、あまり便利な環境を提供してくれるがために、現地に行ってまで調査しようという気分が起こらないのも事実で、おいらのような面倒臭がり屋には実に都合のいいツールである。言い換えれば、一度真実という地位を獲得すれば、勝者になれるという恐ろしいツールでもある。インターネットには実に多くのヒントが埋れている。にもかかわらず、なかなか自分の目で見ようとはしない。こうしてブログを書いているおいらも、この一冊を読んだだけで分かった気になろうとしている。
一方、ここで紹介される実際に多くの資料館を訪れる様子は、推理小説バリ!シェルマンはインターネット上にある一つの仮想知識を現実知識へ変えてくれた... というのは、ちと大袈裟であろうか。
「ベルに名声をもたらした有名な物語が、史上最もおぞましい剽窃の中心人物として彼を永遠に留めるものになっているのだ。」
1. アイデアは盗まれたのか?
電話の基本原理は、リード線を振動させて電磁石の接触と非接触の状態を交互に繰り返すことによって、振動周期に対応する断続電流を生じさせるというもの。この断続電流は、電信線を伝わって離れた場所にある受信機のリード線を共振させる。
ちなみに、これを制御するための開閉回路は、今日では可変抵抗回路と呼ばれ、重宝されている。この可変抵抗の原理を、最初に理解した人物という意味では、ベルは賞賛に値するだろう。だが、発明家が問題とするのは、現実に振動させる方法である。
グレイが考案したのは、送信部の導線を液体中で振動させるという液体送信機だったという。ところが、ベルの実験ノートには、こうした液体を試すといった徴候がまったく見られないばかりか、ベルがイギリスに送った出願特許にも、可変抵抗に関するパラグラフが含まれていなかったという。なのに、アメリカ特許庁への出願直前に、とってつけたようにグレイの構成図が描かれていたとか...
「発明者が、自分の発明の要となる特徴を、最後の瞬間まで見落としているなど、あまりに妙ではないか?」
こんな見え透いた剽窃行為を認めたとなれば、ベルの不手際というより、米国特許庁の不手際を明るみにする事件となる。ベルの特許が「電信の改良」であるのに対して、グレイの出願は「電信によって音声を送受信するための装置」で、後者の方が電話を意識した題目である。ベルにとって電話は、派生的な玩具としか考えていなかったのかもしれない。ベルが名付けた「多重電信」とは、複数のメッセージ周波数を互いに干渉しないように同時に送受信するというもので、現存の電信をより商業的に活用するという意味で政府や企業からの圧力が強かったと見える。
テイラー博士は、数々の未発表文献から、ベルがグレイの液体送信機の構成を盗用したと確信したという。グレイは、ベルよりも一年も早く、かなり洗練されたミュージカル・テレフォンの受信機を製作して、公で演奏していたらしい。そして、博士はグレイを可変抵抗の原理を実際に機能させた最初の人物と結論づけている。本書も、この結論に吸い寄せられるように未公開資料を辿る。しかし...
2. 人徳者がなぜ?
あまり知られていないが、エジソンとベルは同年齢で、1847年に12日違いで生まれたそうな。二人は、性格も生い立ちも、発明に対するアプローチもまったく違い、激しく競い合ったこともあまり知られていないようである。
エジソンは、短気な独学者で白熱電球を発明し、実験派として知られる。
対して、ベルは、ボストン大学で教鞭をとり、洗練された貴族のような雰囲気の持ち主で、理論が実験的研究を先導すべしとする理論派だったという。また、ヘレン・ケラーにサリバン先生を引き合わせた逸話に象徴されるように、聴覚障碍者の熱心な教育者としても知られる。本書に紹介される知人たちの証言にしても、ベルの評判はすこぶる良い。
そんな人格者がなぜ?ただ、人徳者や正直者というのは、政治屋どもに利用されやすい側面がある。ベルの運命を変えたのは、妻メイベルとの出会いであったのかもしれない。ベルは、聴覚障碍者学校の生徒メイベルに恋をする。ベルの純粋さは、彼の日記、助手ワトソンの証言、メイベルや彼女の母親に送った手紙からも見て取れる。
だが皮肉なことに、メイベルの父ガーディナー・ハバードは辣腕弁護士で有能な実業家であった。ベルは開発スポンサーとしてハバードに頼ろうとするが、逆に野心に飲み込まれてしまう。
そして、特許審査官ゼナス・ウィルパーを抱き込むよう画策した証拠が浮かび上がる。ウィルパーの宣誓供述書には、金銭の受け渡し、非公開のグレイの仮特許を見せるよう強制されたことが記される。だが、彼はアルコール中毒を自認しており、法的な価値は失われたようである。そもそもグレイが最初に申請したのは仮特許であって、公開される類いのものではない。なのに、ベルとグレイがやり取りした手紙の中で、ベルは仮特許の詳細についてうっかり漏らしているらしい。ベルの特許は、実際に動作するものがないにもかかわらず出願され、しかも異例の速さで承認された。
さらに、ハバードの画策は続く。1876年、アメリカ独立百年祭のフィラデルフィア万博で、錚々たる審査員の前で実演させた。客観的に見れば、技術的にはグレイの実演が優っていたようだが、高い評価を受けたのは実演をうまくやったベルの方であった。政治的な振る舞いが奏功したものの、ベルには憂鬱な気分が残る。
「生涯を通して、ベルは聴覚障害の問題に深い関心を抱き続けました。実際、このうえなく謙虚で人間性にあふれる人物だった彼は、自分は電話の発明者としてよりも聴覚障害の教師として人々に記憶されたいと家族に話していました。」
3. 先人たちの功績
1878年、ベルと同時代の電気研究者ジョージ・プレスコットは、「しゃべる電信機、、会話する蓄音機、そしてその他の新奇な装置」という本を出版したという。
1939年、電気技術者ウィリアム・エイトケンは「誰が電話を発明したのか?」という本の中で電話の歴史を再検討したという。
さらに、1995年、ルイス・コーは「電話とその数名の発明者たち」の中でこのテーマを再度取り上げているという。
これらの研究者たちの一致した意見では、物理学者で内科医チャールズ・グラフトン・ペイジの貢献が賞賛される。1837年、ペイジは電磁石に流れる電流を素早く遮ると、電磁石が音を立てることに気づいたという。この効果を「電気音楽」と名付け、電流を遮断する速さを変えると音が変化することを発見したとか。ベルが生まれる十年前である。
ヘルムホルツも自身の音響理論を検証するために作った音叉音響器に言及しているというから、当時、音響と電気を結びつける研究がいかに魅力的であったかを物語っている。
また、1854年、チャールズ・ブルサールの論文「電気による会話の伝送」には、電気回路を開閉することで音声が伝達できる原理について驚くほど的確に記述されているとか。
さらに、1883年、シルヴァヌス・トンプソンは、「フィリップ・ライス : 電話の発明者」でライスの業績を広めたという。ライスは控え目な性格で、あまり裕福ではなく、政治力のある人間とも、科学の専門知識を持つ人間とも、繋がりがなかったという。つつましい学校教師という境遇では、世間の注目や賞賛を集めることは叶うまい。対して、グレイはアメリカで第一級の電気技術者として名を馳せ、実力者たちとも強い結びつきがあり、弁護士を雇えるほど裕福であったというから、発明戦術家としてはやはり野呂間だったのだろうか。
ベルの世代は、なかば漁夫の利を得た格好である。
4. 電話誕生秘話と厄介な文献
「ワトソン君、ちょっと来てくれたまえ!」
電話で最初に交わされたとされるこの言葉は、ロマンチックな誕生秘話として語り継がれる。だがこれも、ニュートンの万有引力の発見にともなうリンゴ伝説のごとく、誰かが盛り上げるために加えた神話の類いか。ディブナー科学史研究所の所長代理ジョージ・スミスは、こう述べたという。
「教科書の著者たちは、科学の記述に関しては誤りを避けようと大いに努力するのに、その周辺の歴史についての記述となると、実際の歴史資料を参照してチェックする労を取らずに、ほかの教科書の記述をそのまま使ってしまうことが多いようだ。」
また、高く評価された厄介な文献も紹介してくれる。1973年出版のピューリッツァー賞を受賞した歴史家ロバート・ブルースの著作「孤独の克服 - グラハム・ベルの生涯」である。ブルースは、グレイこそベルのアイデアを盗んだとして非難しているという。その書きっぷりは自信に溢れ、いかにも権威があると。さすがピューリッツァー賞!
5. ダウド裁判
ウエスタン・ユニオンは、グレイやエジソンをはじめとする数名の発明家から電話に関する一連の特許ライセンスを受け、法的な権利を確保したと主張して子会社を通じて電話のサービスを提供しはじめた。
対して、ベル・テレフォン・カンパニーは、ウエスタン・ユニオンの電話事業を停止させようと、ベルの特許権を主張し、子会社の社長ピーター・ダウドを訴えた。そう、ダウド裁判である。当然ながら、この法廷はベルとグレイの対決の場となる。
当時、当事者全員が公判前に宣誓供述書を作成するように義務づけられていたという。ハバードはベルに供述書を書くよう求めたが、ベルはそれを拒んだとか。ベルが電話に対する排他的権利を主張しない限り、ベル・テレフォン・カンパニーは裁判に負ける公算が高い。しかし、ベルは何度催促されても応じようとはしない。わざわざそんな時期に妻と旅行に出かけているのも、気持ちが伝わる。結局はハバードの説得に応じ、何度も証言台に立つことに。ベルは、この裁判を転換期に電話の研究を放棄したという。そして、妻メイベルへの手紙にこう綴ったとか...
「電話の恩恵を受けていられる以上、誰がそれを発明したかなんて、世間には関係ないはずだ。そのためにこそ骨身を削って働いた目標のものを手に入れた以上、つまり、わたしの大事ないとしい妻である君を獲得できた以上、世間が電話のことを何と言おうと、わたしには関係ないはずだ。」
Contents
- 2017-07-09 "グラハム・ベル空白の12日間の謎" Seth Shulman 著
- 2017-07-02 初体験!博多港クルージングパーティ...
- 2017-06-25 WUuu... の呪いは、酔いどれ愚者を創造者へアップデートできるか?
- 2017-06-18 "全貌ウィキリークス" Marcel Rosenbach & Holger Stark 著
- 2017-06-11 "たいした問題じゃないが - イギリス・コラム傑作選" 行方昭夫 編訳
- 2017-06-04 "英文快読術" 行方昭夫 著
- 2017-05-28 "天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎" 長谷部浩 著
- 2017-05-21 "シンボリック・マネジャー" T. Deal & A. Kennedy 著
- 2017-05-14 "失語症と言語学" Roman Jakobson 著
- 2017-05-07 "家飲み&外飲みがもっと楽しくなるカクテルの話" 佐藤喜代八 監修
2017-07-09
2017-07-02
初体験!博多港クルージングパーティ...
先週日曜日、バーの五周年パーティで博多港マリエラ・クルージングを体験させていただいた。マスターとは、彼の中洲デビュー当時からの付き合いで、二十年くらいになろうか。お酒の弱いバーテンダーはよく見かけるが、彼はその中でも弱い。その分、デリケートなお酒を作るとも言えそうか。いや、最近はお弟子さんに任せっきりか...
地下とはいえ、中洲のど真ん中に店を構え、そして独立五年目で船を一隻チャータし、百人以上詰めかけたという次第。短い期間で、こんな立派な催しが企画できるとは、大したものである。
ちなみに、おいらも今年で独立十五周年。十周年には、ささやかな酒席を催したが、いつもの飲み会と何が違うんだって突っ込まれる始末であった...
ところで、日曜、祭日といえば、どこへ行っても人が多い上に、行付けの店が総閉まり。なので、天の邪鬼の休日は世間とは真逆である。連休には存分に集中して仕事をし、年末には除夜の鐘が BGM で鳴り響き、年が明けた瞬間にも気づかない。仕事は半分趣味のようなもの。電子回路設計なんて、ちまちましたことは、好きでもなければ、やってられんだろう。
そして、イベントが日曜日にあるということで、出席するか?ちと悩んでしまった。バーテンダー仲間では、その方が都合がいいようである。最近、騒々しい飲み会は、たいてい欠席するようにしている。歳のせいか、優先順位を気にするようである。
しかし、だ!クルージングとなると、話は違ってくる。人生で優先すべき事は何か?今の仕事は、それほど重要な事か?と問えば、答えはすぐに見つかる。初体験!という言葉の響きには、いくつになってもワクワクさせられるものがある...
案内状に、ドレスコードは赤!
何か一つ赤いものを身につけて... とのことなので、ワインレッドの裏地に、ブラックラベル風の着物でチラリズムを演出する。ただ、上品な海上(会場)で裏地を見せる機会があるはずもなく、わざわざ自分でめくってアピール。なんて上品な客だろう。千鳥足には船の揺れで相殺させ、赤ワインに酔った体もしっかりとした足取りに見えるという寸法よ...
音楽の演出は感動モノ!
お酒や食事が華やかなのは想定内だとしても、音楽の演出には感動した。ピアノ、バイオリン、ハープに、アルゼンチンタンゴの楽器バンドネオンのライブ。惚れっぽいおいらはイチコロよ。バンドネオン演奏者の川波幸恵さんは、2016年世界チャンピオンだそうな。CDも発売され、9月にもコンサートがあるというので、さっそくチケット状況をググる。
何に感動したかって、選曲が... なにしろ仕事で BGM にしている曲のオンパレード。そして、"You Raise Me Up" が奏でられた時、つい陶酔してしまう。いや、泥酔か。どうやら、おいらの仕事のリズムは、船の揺れにマッチしているらしい。
てなわけで、マスターには悪いが、パーティそっちのけで最前列で聴き入ってしまう。まさに人生の優先順位を謳歌したひとときであった...
地下とはいえ、中洲のど真ん中に店を構え、そして独立五年目で船を一隻チャータし、百人以上詰めかけたという次第。短い期間で、こんな立派な催しが企画できるとは、大したものである。
ちなみに、おいらも今年で独立十五周年。十周年には、ささやかな酒席を催したが、いつもの飲み会と何が違うんだって突っ込まれる始末であった...
ところで、日曜、祭日といえば、どこへ行っても人が多い上に、行付けの店が総閉まり。なので、天の邪鬼の休日は世間とは真逆である。連休には存分に集中して仕事をし、年末には除夜の鐘が BGM で鳴り響き、年が明けた瞬間にも気づかない。仕事は半分趣味のようなもの。電子回路設計なんて、ちまちましたことは、好きでもなければ、やってられんだろう。
そして、イベントが日曜日にあるということで、出席するか?ちと悩んでしまった。バーテンダー仲間では、その方が都合がいいようである。最近、騒々しい飲み会は、たいてい欠席するようにしている。歳のせいか、優先順位を気にするようである。
しかし、だ!クルージングとなると、話は違ってくる。人生で優先すべき事は何か?今の仕事は、それほど重要な事か?と問えば、答えはすぐに見つかる。初体験!という言葉の響きには、いくつになってもワクワクさせられるものがある...
案内状に、ドレスコードは赤!
何か一つ赤いものを身につけて... とのことなので、ワインレッドの裏地に、ブラックラベル風の着物でチラリズムを演出する。ただ、上品な海上(会場)で裏地を見せる機会があるはずもなく、わざわざ自分でめくってアピール。なんて上品な客だろう。千鳥足には船の揺れで相殺させ、赤ワインに酔った体もしっかりとした足取りに見えるという寸法よ...
音楽の演出は感動モノ!
お酒や食事が華やかなのは想定内だとしても、音楽の演出には感動した。ピアノ、バイオリン、ハープに、アルゼンチンタンゴの楽器バンドネオンのライブ。惚れっぽいおいらはイチコロよ。バンドネオン演奏者の川波幸恵さんは、2016年世界チャンピオンだそうな。CDも発売され、9月にもコンサートがあるというので、さっそくチケット状況をググる。
何に感動したかって、選曲が... なにしろ仕事で BGM にしている曲のオンパレード。そして、"You Raise Me Up" が奏でられた時、つい陶酔してしまう。いや、泥酔か。どうやら、おいらの仕事のリズムは、船の揺れにマッチしているらしい。
てなわけで、マスターには悪いが、パーティそっちのけで最前列で聴き入ってしまう。まさに人生の優先順位を謳歌したひとときであった...
2017-06-25
WUuu... の呪いは、酔いどれ愚者を創造者へアップデートできるか?
SM 狂の十字架バージョンでは...
記念日に呪われ、非生産性な騒動に巻き込まれた。ようやく平和が訪れ、仲間内で合言葉となっていた WUuu... の声も聞かれなくなった。
ちなみに、WUuu... とは、Windows Update の略で、うぅぅ... と唸りながら発声する。
今度は、Creators Update...
ある仕事場の環境で新規に一台購入すると、既に Creators Update 版であり、こいつがなかなか安定している。なので、残りの Win マシン10台をアップデートに踏み切った。
おぉ~、安定してそうじゃないかぁ... 気持ち悪いほどに... こんな当たり前のことで感動させてくれるとは... なるほど、これが SM 狂戦略であったかぁ...
そして、酔いどれ愚者の生産性までも高め、創造者へアップデートしてくれるってかぁ?
しかしながら、これで「WUuu... の呪いは解けた!」と宣言する自信は、まだ持てないでいる。出来の悪い子ほど... と言うが、安定さえしちまえば、Win10 群もなかなか可愛い連中である。ただし、これで仕事をした気分になってはいけない。環境に翻弄されているということは、本来の仕事が疎かになっているということだ。
猛省!実に、エンジニアらしくない...
今回は、ファイル共有で嵌ってしまった。結論から言うと、帯域系に問題を抱えていた。具体的には、 受信時のウィンドウ幅である。なのに、ひたすらファイル共有を疑い、あれこれ設定を試した挙句徹夜してしまう。この手のトラブルはシステムの根本的な問題なので、最初に気づきそうなものだが...
Win10 の一連のアップデートは、ある教訓を与えている。目先の現象に囚われ、エラーメッセージを冷静に捉えることができず、設定を感覚的にいじっている。とにかく動けばいいってな感じで躍起になっているのだ。
経験を積めば、蓄積された知識の方が先立ち、改めて現象を観るという基本的な思考が疎かになる。思い込みってやつだ。歳をとるとせっかちになるのか。問題を抽象化することが悪いことではない。ただ、思い込みと紙一重だということも忘れてはなるまい。
そして、WUuu... の呪いは、この酔いどれ愚者に一つの教訓を与えてくれた。それは... まず観ることだ!
さて、酔いどれ愚者の思考の流れを追っておこう...
1. バージョン 1703, ビルド 15063.413...
ぱっと見た目には、すっきりした感がある。スタートメニューのタイルをグループ化して、まとめることができる。iPhone のように。鬱陶しいアプリ一覧も非表示にできる。
しかーし、例のごとく、関連付け、キーバインド、規定の IME などの設定がチャラ。しかも、マシンによって症状が違うときた。おっと!プリンタが使えない。再設定すればいいのだけど...
こうした些細なものがボディブローとして利いてきて、生産性を思いっきり低下させる。吹聴される大型アップデートってやつは、そもそもアップデートと呼べる代物なのか?
... こうして、まずは愚痴るのであった...
2. ファイル共有でトラブル?いや、犯人はチューニングレベルだった...
あれ?おいら愛用の Surface Pro3 だけが、ファイル共有できない。しょっちょう外部環境に曝しているので、よそ者とでも認識されたのか?とはいえ、同じ SM 狂の製品だよ。
症状は、時間がかかった末に、マシンが見つかりません!ときた。外からマシン名は見えていて、ping も通るし、アクセス権も問題なし。ファイアウォールも問題なし。この手のトラブルは、バージョンが混在した時に、マスターブラウジングの問題でよく見かける... などと思い込み、マシンの起動タイミングや共有設定をあれこれ試す。
そして、半ば諦めかかった、その時...
気分転換にネットサーフィンをやっていたら、通信負荷が異常なほど重い!iPhone 経由のテザリングでも、やはり重い!もしかして、本当にタイムアウト?素直にエラーメッセージを受け取れば、早々に気づいていただろうに。
... 要するに、ファイル共有の問題ではなかった...
3. TCP の自動チューニングレベルで通信負荷を改善!
通信負荷が問題だとすれば、ハードウェアに根本的な問題を抱えているかもしれない。そして、ドライバのバージョンを確認、再インストールも試みたがダメ!WiFiルータとの相性か?
あるいは、IPv6 と IPv4 の混在が問題なのか?とはいえ、今更 v4 に統一するのも時代錯誤だし、v6 に完全移行するにもバックボーンが v4 で、結局は中途半端。
help を読むと、最も賢い設定のようにも見えなくはない。どうやら、受信ウィンドウをどんなシナリオにも最適にしてくれるらしい...
実験では、"normal" が一番速そうに感じるが、ウィンドウ幅を広げる方向にしたいので、"restricted" をしばらく試すことに。「いくつかのシナリオで制限されます...」とあるので、ちと気がかりだけど...
てなわけで、これで解消された!はぁぁ~...
そして今、すこぶる安定している。気持ち悪いほどに...
自動化宗教に懐疑的な酔いどれ天の邪鬼は、手動でルータに合わせこんでもいいと思っているぐらいだけど、あまり現実的ではなさそうだ。特にモバイル環境では...
記念日に呪われ、非生産性な騒動に巻き込まれた。ようやく平和が訪れ、仲間内で合言葉となっていた WUuu... の声も聞かれなくなった。
ちなみに、WUuu... とは、Windows Update の略で、うぅぅ... と唸りながら発声する。
今度は、Creators Update...
ある仕事場の環境で新規に一台購入すると、既に Creators Update 版であり、こいつがなかなか安定している。なので、残りの Win マシン10台をアップデートに踏み切った。
おぉ~、安定してそうじゃないかぁ... 気持ち悪いほどに... こんな当たり前のことで感動させてくれるとは... なるほど、これが SM 狂戦略であったかぁ...
そして、酔いどれ愚者の生産性までも高め、創造者へアップデートしてくれるってかぁ?
しかしながら、これで「WUuu... の呪いは解けた!」と宣言する自信は、まだ持てないでいる。出来の悪い子ほど... と言うが、安定さえしちまえば、Win10 群もなかなか可愛い連中である。ただし、これで仕事をした気分になってはいけない。環境に翻弄されているということは、本来の仕事が疎かになっているということだ。
猛省!実に、エンジニアらしくない...
今回は、ファイル共有で嵌ってしまった。結論から言うと、帯域系に問題を抱えていた。具体的には、 受信時のウィンドウ幅である。なのに、ひたすらファイル共有を疑い、あれこれ設定を試した挙句徹夜してしまう。この手のトラブルはシステムの根本的な問題なので、最初に気づきそうなものだが...
Win10 の一連のアップデートは、ある教訓を与えている。目先の現象に囚われ、エラーメッセージを冷静に捉えることができず、設定を感覚的にいじっている。とにかく動けばいいってな感じで躍起になっているのだ。
経験を積めば、蓄積された知識の方が先立ち、改めて現象を観るという基本的な思考が疎かになる。思い込みってやつだ。歳をとるとせっかちになるのか。問題を抽象化することが悪いことではない。ただ、思い込みと紙一重だということも忘れてはなるまい。
そして、WUuu... の呪いは、この酔いどれ愚者に一つの教訓を与えてくれた。それは... まず観ることだ!
さて、酔いどれ愚者の思考の流れを追っておこう...
1. バージョン 1703, ビルド 15063.413...
ぱっと見た目には、すっきりした感がある。スタートメニューのタイルをグループ化して、まとめることができる。iPhone のように。鬱陶しいアプリ一覧も非表示にできる。
しかーし、例のごとく、関連付け、キーバインド、規定の IME などの設定がチャラ。しかも、マシンによって症状が違うときた。おっと!プリンタが使えない。再設定すればいいのだけど...
こうした些細なものがボディブローとして利いてきて、生産性を思いっきり低下させる。吹聴される大型アップデートってやつは、そもそもアップデートと呼べる代物なのか?
... こうして、まずは愚痴るのであった...
2. ファイル共有でトラブル?いや、犯人はチューニングレベルだった...
あれ?おいら愛用の Surface Pro3 だけが、ファイル共有できない。しょっちょう外部環境に曝しているので、よそ者とでも認識されたのか?とはいえ、同じ SM 狂の製品だよ。
症状は、時間がかかった末に、マシンが見つかりません!ときた。外からマシン名は見えていて、ping も通るし、アクセス権も問題なし。ファイアウォールも問題なし。この手のトラブルは、バージョンが混在した時に、マスターブラウジングの問題でよく見かける... などと思い込み、マシンの起動タイミングや共有設定をあれこれ試す。
そして、半ば諦めかかった、その時...
気分転換にネットサーフィンをやっていたら、通信負荷が異常なほど重い!iPhone 経由のテザリングでも、やはり重い!もしかして、本当にタイムアウト?素直にエラーメッセージを受け取れば、早々に気づいていただろうに。
... 要するに、ファイル共有の問題ではなかった...
3. TCP の自動チューニングレベルで通信負荷を改善!
通信負荷が問題だとすれば、ハードウェアに根本的な問題を抱えているかもしれない。そして、ドライバのバージョンを確認、再インストールも試みたがダメ!WiFiルータとの相性か?
あるいは、IPv6 と IPv4 の混在が問題なのか?とはいえ、今更 v4 に統一するのも時代錯誤だし、v6 に完全移行するにもバックボーンが v4 で、結局は中途半端。
いやいや、ずっとずっと単純に Windows 側の TCP/IP 系の設定がおかしい?そして、TCP のパラメータを確認すると...
受信ウィンドウ自動チューニングレベルが、通常は、"normal" に設定されるようだけど、Surface だけが "experimental" になっている。なんじゃこりゃ?Surface は実験台か?help を読むと、最も賢い設定のようにも見えなくはない。どうやら、受信ウィンドウをどんなシナリオにも最適にしてくれるらしい...
C:\> netsh int tcp show global TCP グローバル パラメーター ---------------------------------------------- Receive-Side Scaling 状態 : enabled Chimney オフロード状態 : disabled 受信ウィンドウ自動チューニング レベル : experimental アドオン輻輳制御プロバイダー : default ECN 機能 : disabled RFC 1323 タイムスタンプ : disabled 初期 RTO : 2000 Receive Segment Coalescing 状態 : enabled 非 Sack の Rtt 回復性 : disabled SYN の最大再送信数 : 2 Fast Open : enabled ペーシング プロファイル : off ---------------------------------------------- C:\> netsh interface tcp set global ? ... autotuninglevel - 次のいずれかの値を指定します: disabled : 受信ウィンドウを既定値に固定します highlyrestricted : 受信ウィンドウの既定値を少しだけ超えて拡大できるようにします。 restricted: : いくつかのシナリオで制限されますが、受信ウィンドウの既定値を超えて拡大できるようにします。 normal : 受信ウィンドウをほとんどすべてのシナリオに合わせて拡大できるようにします。 experimental : 受信ウィンドウを極端なシナリオにも合わせて拡大できるようにします。 ...
実験では、"normal" が一番速そうに感じるが、ウィンドウ幅を広げる方向にしたいので、"restricted" をしばらく試すことに。「いくつかのシナリオで制限されます...」とあるので、ちと気がかりだけど...
てなわけで、これで解消された!はぁぁ~...
C:\> netsh interface tcp set global autotuninglevel=restricted
そして今、すこぶる安定している。気持ち悪いほどに...
自動化宗教に懐疑的な酔いどれ天の邪鬼は、手動でルータに合わせこんでもいいと思っているぐらいだけど、あまり現実的ではなさそうだ。特にモバイル環境では...
2017-06-18
"全貌ウィキリークス" Marcel Rosenbach & Holger Stark 著
情報告発サイト「ウィキリークス」は、戦争日誌や外交公電など各国政府の機密情報を続々と暴露してきた。ただ、そこに真新しいコンセプトを感じるわけではない。内部告発系では多くの先行サイトを見かけるし、こうした風潮はデジタル時代が生んだ必然性とも言えよう。政治ってやつが、その性格上いかに胡散臭いものであるか、それを長い歴史を通じて印象づけてきたということである。公開された情報の中身を吟味すれば、世間が騒ぐほどセンセーショナルかと言えば、そうでもない。推理小説ファンならば、十分想像できる範疇。むしろ、公式に明るみになったことがセンセーショナルなのである。
映画「コンドル」では、平凡に世界各国の推理小説を読んで報告書を提出するだけが仕事という情報部員が、たまたま中東における陰謀を暴いてしまったために暗殺に追い込まれる。最後に逃げ込んた先はニューヨークタイムズ。しかし、本当に記事になるのか?と疑問を投げかけて終わる。映画公開から数十年後、皮肉なことにイラク戦争が勃発。大量破壊兵器保有の証拠とされているものは虚偽である、とスッパ抜いたのがウィキリークスである。当時の小泉政権は真っ先に米国政府を支持し、日本政府にまともな情報機構がないことを露呈した。情報力がないということは、判断力がないことを意味する。つまり、他人からの情報を盲目的に信じるしかないってことだ。
今日、宗教の重要性が広く疑問視されているように、政治もまたその必要性が疑問視されている。その一因に、政治に対するジャーナリズムが十分に機能していないと広く考えられていることが挙げられる。ネットで情報検索する習慣のある人は、テレビや新聞で報じられるニュースがいかに偏狭であるかに気づくだろう。その分、ネットには極端な情報も溢れているのだけど...
ウィキリークスは各国政府から槍玉に挙げられたが、むしろ彼らの出現は今日のジャーナリズムの在り方を問うている。創設者ジュリアン・アサンジは、こう豪語する。
「ウィキリークスは世界最強の諜報機関になれる... 人民の諜報機関だ!」
ディオゲネスが唱えた世界市民思想から、カントが唱えた国際的平和連合を思わせるような動機。著者の二人、マルセル・ローゼンバッハとホルガー・シュタルクは、ウィキリークスの源泉は、既に啓蒙時代に見て取れると指摘している。彼らは、密着取材を許され、メディアパートナーとして活動を共にしてきたという。そして、ウィキリークスの偉業を讃えるだけでなく、システムの脆さやアサンジ個人の汚点までも浮き彫りにし、友情と失望と裏切りの物語が綴られる。いわば、暴露サイトの裏舞台を暴露するドキュメントである。
「ウィキリークスは世界各国の政府から、政治的な統制力を奪おうとしているのではない。支配とは何かについて疑問を投げかけているのだ。突然、何を秘密にするか決める権利は自分にもあると主張する、新しい役者が舞台に登場したのである。」
ウィキリークスが公開した資料は、半端な量ではない。イラクの戦争日誌では40万件にのぼり、米国務省の外交公電では、1966年から2010年に渡って25万件を超える。米国政府は、ウィキリークスを国家安全保障上の脅威と位置づけ、ビン・ラディンと同一視した。
しかし、本当に国家の敵ならば、情報を秘密裏に敵国に売ることもできたはずである。しかも、とんでもない高額で。密告者たちがウィキリークスに情報を持ち込んだのは、一国家や一企業に憎悪を抱いていたからであろうか?もし暴露対象がアメリカではなくロシアや中国であったならば... いや、アメリカだから、この程度で済んでいるという見方もできるかもしれない。独裁的な国家や抑圧的な国家ならば、諜報員を派遣してまで抹殺にかかるだろう。彼らの事故に見せかける業は超一流だ。とはいえ、密告者たちの社会的な居場所がなくなれば、敵陣営は歓んで迎え入れる。
アメリカが標的にされやすい理由の一つに、言語の問題もあろう。世界の標準言語の地位にある英語圏は比較的狙われやすい。実際、アジアや中東などの独裁政権よりも、欧米の民主主義政府に不都合な情報が多数を占めている。民主主義が機能していれば、不正が明るみになりやすいとも言えよう。情報告発サイトの存在意義は、いかに公平で中立の立場を堅守できるかにかかっているのだが、これは人類にとって永遠の課題となろう...
ウィキリークスの評価では、デジタル社会らしく、賛成派と否定派が両極端にある。奇妙なのは、大手メディアがこぞって否定的なことだ。ジャーナリズム魂は失われたのか?確かに、彼らの行為は無謀だし、アサンジの言動にしても偏執狂的で、生理的にも受け入れがたい面がある。
しかしながら、アクの強い政治屋どもには、アクの強い存在でしか対抗できない。こと政治の世界では、純粋な観念の持ち主ほど排除され、思想観念ではるかに劣っていても、巧妙に振舞うことの得意な人物が生き残る。歴史事象は理性と責任から生じるのではなく、疑念や不徳、いかがわしい性格や不十分な悟性によって生じてきた。毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないとすれば、まさにこれが政治の矛盾である。
ウィキリークスがやったことは、正義なのか?情報テロなのか?否定派は言う... 機密文書の公開が民主主義を脅かす... と。だが、それは本当だろうか?これは、無政府思想という一種のアンタッチャブルを示唆している。そもそも国家は必要なのか?国家という概念も、プラトンが唱えたものから随分と変容したようである。
ジョージ・オーウェルは、小説「1984」の中で無限の力を持つ監視国家を題材にした。アサンジは、この小説に描かれるような独裁国家の対極にある世界を実現しようとしたのだろうか?国家が完全にコントロールを失った社会とは、まさに無政府状態。だが、理性ある市民社会であるならば、無宗教でも、無政府でも、問題はないはずだ。従来のメディアは、政治システムの安定が崩れることを恐れて政権の側に立とうとする。それが民主主義を守ることなのか?アサンジは逮捕できても、情報は逮捕できない。
「学問はよりよい目的のために使わなければならない。世界に欠けているのは理論の知識ではなく、政治を実際にどう機能させるかという知識だ。」
ところで、"Wiki" を名乗るからには、ウィキペディアと混同される。アサンジは、ウィキペディアとのリンクを意識して、この名を用いたようである。ただ、コンセプトがちと違う。ウィキリークスが、提供される秘密文書をそのまま公開するのに対して、ウィキペディアは、情報の内容をめぐって討議し、より客観性に近づけようとする。
ちなみに、ウィキペディアで「ウィキリークス」を検索すると、しっかりと「ウィキペディアを運営しているウィキメディア財団とは全く関係ありません」と記載されている。ジミー・ウェールズから、一緒にせんでくれ!との声が聞こえてきそうだ...
1. ハッカーたちのサブカルチャー
本書の主要舞台は、ハッカーのサブカルチャーである。自由に対する独自の価値観と倫理観を持ち、権威を嫌い、分権化を促進する人種の集まり。その意味では、科学者や数学者によく見られるアナーキスト的な感覚を持っている。
ハッカーと世界主要政府の間における自由をめぐる争いは、1990年代にエスカレートした。いまや世界標準となった暗号化プログラム PGP をめぐっては、米国政府は NSA ですら破れないコードが気に入らず、禁止しようとした。だが、オープンソース化を一国の政府が規制することはできず、仕様は RFC に公開されている。このフリーなハッカーの一員に、アサンジも参加していたという。
しかしながら、サイバー攻撃に晒される今日、ハッカーという言葉は悪いイメージを与えている。もともとは高度な技術のイメージがあったはずで、技術系の書籍に Hacks... といったタイトルをよく見かける。かつてアサンジは、通信会社ノーテルのネットに侵入したことがあるという。少年時代には NASA をハッキングしたとか。スティーブン・レビーの著書「ハッカーズ」には、すべての情報は自由で利用できるようにするべきだ!というプログラマ魂が語られている。だがそれは、あくまでも人類の叡智という立場であって、けして他人に迷惑をかけるものではないはずだ。
ウィキリークスの情報を平等にそのまま公開するという方針が、スティーブン・レビーの思想を受け継いでいることは頷ける。とはいえ、歴史を振り返ると、科学や技術の世界に政治的思惑が入り込むと、ろくなことにはならないことが見て取れる。政治的思惑とは、世界を支配しようする野望である。人間ってやつには、誰にでも誇大妄想化する性癖が潜んでいる。おまけに、実体の正義にうんざりすれば、仮想世界で正義を旺盛にさせる。楽観的に始めたプログラマの腕試しは、やがて情報は権力であるということを目覚めさせ、情報の主権を握る者が正義であるという妄想にかられる。コンピュータの脆弱性もさることながら、人間の理性ほど脆弱なものはない。
かつてプログラマだったアサンジもまた、政治的な振る舞いで天才的な才能を開花させた。アサンジという人物が、ビジョンとカリスマ性を具えていることは確かなようである。だが、資金集めや政治的態度がグロテスクになっていくと、もはや技術者ではなく、政治活動家の顔がそこにある。
そして、組織の No.2 であったダニエル・ドムシャイト=ベルグを失望させた。彼は、割の合わない仕事を大量にこなしているだけでなく、個人資産までもつぎ込み、エキセントリックで一貫性を欠くこともあるアサンジに対して、客観的かつシステマチックなやり方で、うまくバランスをとってくれる存在だったという。持ち前の愛想のよさで組織の潤滑油ともなっていたとか。彼が去れば、才能豊かなプログラマ・アーキテクトも去っていくばかりか、かつての仲間たちが批判的な立場へ導かれていく...
2. ウィキリークスの弱点
民主主義国家では、政治を行う者は選挙によって選出される。では、政治活動が市民に十分に知れ渡っているかと言えば、そんな幻想を描いている人はごく少数派であろう。選挙制度の存在が、政治家にも、民衆にも、民主主義国家だと思い込ませるための手段になってはいないか?だから、選挙に勝利した者やその陣営は、支持されたと思い込んで大々的な勝利宣言を掲げる。実は競争相手が不甲斐ないだけで、仕方なく選ばれた微妙な立場であるにもかかわらず。つまり、ここには消去法が働いている。
政治と民衆の間には、常に情報の非対称性の問題がつきまとう。そこで、ジャーナリズムには第三者の目としての役割がある。大手メディアが政府発表を鵜呑みにした報道しかできないとすれば、大本営が乱立するようなもので余計にタチが悪い。報道番組にしても企業スポンサーに支えられている以上、その企業に不利なことは発言できない。クラブ活動の大好きな記者連中よりも、フリーランスに期待するしかなさそうだ。
今日、多くの人が抱く政治やジャーナリズムへの不満を代弁するメディアとしてインターネットが存在感を増している。常に民衆は情報の非対称性を破る存在を求めている。確かに、インターネットは情報を提供する側に平等な機会を与えている。だが同時に、情報を享受する側が自発的な人と受け身な人で意識が大きく違い、却って情報格差を生み出しているのも確かだ。なによりも情報は真実が重要であって、信憑性とは違う。ウィキリークスに対する最も大きな批判は、真実に対して無責任だということだ。だがそれは、従来のジャーナリズムとて同じではないか...
ウィキリークスの最大の弱点は、情報を検証する能力がほとんどないことだ。相手を陥れるために捏造だって十分に考えられる。公開基準も、政治的、倫理的、歴史的に重要なものとしているが、実に曖昧!おまけに、その決定権はアサンジ自身にあると主張しており、神にでもなったつもりか!との非難は免れない。スクープというものは、それが自分自身の手による取材でなされた場合、ジャーナリスト冥利に尽きるだろう。だが、ウィキリークスがやっていることは、他人が提供したものを公開するだけ。アサンジには、ジャーナリストの誇りなんぞどうでもいいのかもしれない。
また、もう一つ大きな弱点を露呈する。それは、情報提供者の身の安全を確保する能力である。高いリスクを冒した情報提供者に対して、果たすべき義務がある。実際、アサンジだけでなく、情報提供者も逮捕されているし、古くは殺害された者もいるらしい。この能力に欠けることは、内部告発機構として致命的である。後に、こうした弱点を意識して、大手メディアと手を組むことになったのは賢明であろう。伝統的なジャーナリズムには証拠を調査する編集部があり、ウィキリークス単独では、素材のすべてに目を通し、吟味し、評価し、分析するにはあまりにも荷が重すぎる。
尚、ウィキリークスの立ち上げの文章には、こう書かれているという。
「人は政府の真の計画と行動様式を知っている場合にかぎり、その政府を支持しようと本気で決断することができる。歴史的に見て、開いた政府がもっとも生き残れる形というのは、情報の公表と暴露の権利が保護されている形である。こうした保護が存在しないところでは、それを確立することが我々の使命となるだろう。」
3. 右派か?左派か?
どちらに属すかといえば、アサンジ自身が言うように左派といことになろうか。時には、ティーパーティーを組織する保守右派や、キリスト教原理主義者たちの支持を受けたり、人口中絶反対派がそうであったりと、右派ではないとも言えない。少なくとも古典的な左派ではなさそうだ。平和主義者ではなさそうだが戦争には反対しているし、さらに、反権威主義、自由、自己実現、自律という言葉を操り、帝国主義に反対している。
本書は、アナーキストとしての国家軽視と、スターリン主義者の非情さを持っていると指摘している。国家や階級制度に対する深い猜疑心が、アサンジをして政治家にしてしまった理由の一つだとしている。その意味で、マルクス主義的な階級闘争にも通ずるものがある。アサンジ自身は、左翼にうんざりさせられることは多い!と語ったとか。フェミニストや共産主義者にうんざりする気持ちもよく分かる。独裁的な政権の内幕を明らかにすれば、陰謀は権力維持のための重要な要素だということが見えてくる。アサンジは、陰謀者の間のすべての結びつきを切断すれば、陰謀はストップすると主張したようだが、はたしてそうだろうか?理想もまた暴走する性癖がある。ただ、脂ぎった政治腐敗には、これまた脂ぎった理想をもって対抗するしかないのかもしれない。そのために、極右も極左も演じることになる...
4. 情報を敵に回せば...
2008年、プライベート・バンキングを攻撃対象に選んだ。スイスのユリウス・ベア銀行である。ケイマン島支店のルドルフ・エルマーから入手した不正融資行為に関する内部資料の公開。いわゆる、「エルマー文書」だ。キューバから南に300キロほど離れたケイマン諸島の首都ジョージタウンは、世界でも指折りの金融センターになっている。タックス・ヘイヴンだからだ。エルマーは、これに加担する慢性的な金融業界の中にあって罪悪感を持ったようである。ユリウス・ベアは、ウィキリークスを提訴するが、株価が暴落し訴えを取り下げた。
ちなみに、同じタックス・ヘイヴン関係のスキャンダルでは「パナマ文書」があるが、日本の大手マスコミはこちらの方を大きく報じた。
ウィキリークスと一戦交えようとすれば、ユリウス・ベア銀行は敗北に終わる。だが、それは企業だけではない。2008年、BND(ドイツ連邦情報局)の報告書が公開された。そこには、コソボのアルバニア人とコソボ解放軍がマフィアの活動に巻き込まれ、政治腐敗と組織犯罪が横行する経緯が書かれていた。ただ、これは内部告発ではないらしい。BNDは、対応のまずさを露呈する。長官エルンスト・ウーアラウは、情報の消去を要求するとともに、刑法を適応すると脅したのだ。デジタル時代に、BND 長官の権威を振りかざしても顰蹙を買うだけ。おまけに、長官の抗議メールがウィキリークスによって公開されると、報告書が本物であるとお墨付きを与えてしまう。
5. 情報を編集して鉄則を破る...
ウィキリークスの公開基準には、二つの鉄則があるという。一つは、投稿された証拠品が一定の基準を満たしていれば、それだけで公表する。曖昧な基準だけど。二つは、文書は一切編集しないで、そのまま公表する。
だが、この基本原則を破ってまで踏み切った超弩級素材がある。そう、"Collateral Murder" と題するビデオだ。特別サイトも新設され、YouTube でも閲覧できる。そこには、アパッチ攻撃ヘリのパイロットの会話が収録される... おい、みんな死んだよな... ああ、見事なもんだ... 証拠隠滅では、生きた証人を完璧に抹殺せよ!... といった台詞は、陰謀映画そのもの。
しかしながら、ビデオに編集を加えたことが、信憑性に欠けるとして非難される。組織内部にも、原則から逸脱したとして難色を示す人たちがいたようである。素材をそのまま公表することは、伝統的なジャーナリズムの有り方を問うものであったはず。編集すれば、意見表明したことになるし、なによりも真実性が半減する。今回は、あまりにジャーナリステッィクすぎた。しかも、アサンジの独断によって。
アサンジ自身は、並行して未編集のオリジナル素材も公開しているので問題ないとしているが、巷では面白おかしく編集された方が広まるもの。特にインターネットの凶暴性がここにある。真実の共有といえば、その理念は美しい。だが、虚偽の拡散となれば、その理念は悪魔と化す。さらに悪いことに、情報提供者の名が漏洩し、逮捕された。ハッカー仲間から漏れたようである。彼を法的に守る手段は、ウィキリークスにはない。
民主主義的な国家であれば、どこの国でも情報公開法の類いがある。賞味期限が過ぎれば情報は公開されることになっているが、政治は今動いている。このような不都合な証拠は抹殺されるだろう。それが、ジョージ・W・ブッシュ大統領時代の事件とはいえ、オバマ大統領時代のホワイトハウスのホームページにおける、この宣伝文句がなんとも虚しい。もう、トランプ氏になっちゃったけど...
「政治の透明性は責任感につながり、政府が何をしているのか、市民に情報を提供します。」
映画「コンドル」では、平凡に世界各国の推理小説を読んで報告書を提出するだけが仕事という情報部員が、たまたま中東における陰謀を暴いてしまったために暗殺に追い込まれる。最後に逃げ込んた先はニューヨークタイムズ。しかし、本当に記事になるのか?と疑問を投げかけて終わる。映画公開から数十年後、皮肉なことにイラク戦争が勃発。大量破壊兵器保有の証拠とされているものは虚偽である、とスッパ抜いたのがウィキリークスである。当時の小泉政権は真っ先に米国政府を支持し、日本政府にまともな情報機構がないことを露呈した。情報力がないということは、判断力がないことを意味する。つまり、他人からの情報を盲目的に信じるしかないってことだ。
今日、宗教の重要性が広く疑問視されているように、政治もまたその必要性が疑問視されている。その一因に、政治に対するジャーナリズムが十分に機能していないと広く考えられていることが挙げられる。ネットで情報検索する習慣のある人は、テレビや新聞で報じられるニュースがいかに偏狭であるかに気づくだろう。その分、ネットには極端な情報も溢れているのだけど...
ウィキリークスは各国政府から槍玉に挙げられたが、むしろ彼らの出現は今日のジャーナリズムの在り方を問うている。創設者ジュリアン・アサンジは、こう豪語する。
「ウィキリークスは世界最強の諜報機関になれる... 人民の諜報機関だ!」
ディオゲネスが唱えた世界市民思想から、カントが唱えた国際的平和連合を思わせるような動機。著者の二人、マルセル・ローゼンバッハとホルガー・シュタルクは、ウィキリークスの源泉は、既に啓蒙時代に見て取れると指摘している。彼らは、密着取材を許され、メディアパートナーとして活動を共にしてきたという。そして、ウィキリークスの偉業を讃えるだけでなく、システムの脆さやアサンジ個人の汚点までも浮き彫りにし、友情と失望と裏切りの物語が綴られる。いわば、暴露サイトの裏舞台を暴露するドキュメントである。
「ウィキリークスは世界各国の政府から、政治的な統制力を奪おうとしているのではない。支配とは何かについて疑問を投げかけているのだ。突然、何を秘密にするか決める権利は自分にもあると主張する、新しい役者が舞台に登場したのである。」
ウィキリークスが公開した資料は、半端な量ではない。イラクの戦争日誌では40万件にのぼり、米国務省の外交公電では、1966年から2010年に渡って25万件を超える。米国政府は、ウィキリークスを国家安全保障上の脅威と位置づけ、ビン・ラディンと同一視した。
しかし、本当に国家の敵ならば、情報を秘密裏に敵国に売ることもできたはずである。しかも、とんでもない高額で。密告者たちがウィキリークスに情報を持ち込んだのは、一国家や一企業に憎悪を抱いていたからであろうか?もし暴露対象がアメリカではなくロシアや中国であったならば... いや、アメリカだから、この程度で済んでいるという見方もできるかもしれない。独裁的な国家や抑圧的な国家ならば、諜報員を派遣してまで抹殺にかかるだろう。彼らの事故に見せかける業は超一流だ。とはいえ、密告者たちの社会的な居場所がなくなれば、敵陣営は歓んで迎え入れる。
アメリカが標的にされやすい理由の一つに、言語の問題もあろう。世界の標準言語の地位にある英語圏は比較的狙われやすい。実際、アジアや中東などの独裁政権よりも、欧米の民主主義政府に不都合な情報が多数を占めている。民主主義が機能していれば、不正が明るみになりやすいとも言えよう。情報告発サイトの存在意義は、いかに公平で中立の立場を堅守できるかにかかっているのだが、これは人類にとって永遠の課題となろう...
ウィキリークスの評価では、デジタル社会らしく、賛成派と否定派が両極端にある。奇妙なのは、大手メディアがこぞって否定的なことだ。ジャーナリズム魂は失われたのか?確かに、彼らの行為は無謀だし、アサンジの言動にしても偏執狂的で、生理的にも受け入れがたい面がある。
しかしながら、アクの強い政治屋どもには、アクの強い存在でしか対抗できない。こと政治の世界では、純粋な観念の持ち主ほど排除され、思想観念ではるかに劣っていても、巧妙に振舞うことの得意な人物が生き残る。歴史事象は理性と責任から生じるのではなく、疑念や不徳、いかがわしい性格や不十分な悟性によって生じてきた。毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないとすれば、まさにこれが政治の矛盾である。
ウィキリークスがやったことは、正義なのか?情報テロなのか?否定派は言う... 機密文書の公開が民主主義を脅かす... と。だが、それは本当だろうか?これは、無政府思想という一種のアンタッチャブルを示唆している。そもそも国家は必要なのか?国家という概念も、プラトンが唱えたものから随分と変容したようである。
ジョージ・オーウェルは、小説「1984」の中で無限の力を持つ監視国家を題材にした。アサンジは、この小説に描かれるような独裁国家の対極にある世界を実現しようとしたのだろうか?国家が完全にコントロールを失った社会とは、まさに無政府状態。だが、理性ある市民社会であるならば、無宗教でも、無政府でも、問題はないはずだ。従来のメディアは、政治システムの安定が崩れることを恐れて政権の側に立とうとする。それが民主主義を守ることなのか?アサンジは逮捕できても、情報は逮捕できない。
「学問はよりよい目的のために使わなければならない。世界に欠けているのは理論の知識ではなく、政治を実際にどう機能させるかという知識だ。」
ところで、"Wiki" を名乗るからには、ウィキペディアと混同される。アサンジは、ウィキペディアとのリンクを意識して、この名を用いたようである。ただ、コンセプトがちと違う。ウィキリークスが、提供される秘密文書をそのまま公開するのに対して、ウィキペディアは、情報の内容をめぐって討議し、より客観性に近づけようとする。
ちなみに、ウィキペディアで「ウィキリークス」を検索すると、しっかりと「ウィキペディアを運営しているウィキメディア財団とは全く関係ありません」と記載されている。ジミー・ウェールズから、一緒にせんでくれ!との声が聞こえてきそうだ...
1. ハッカーたちのサブカルチャー
本書の主要舞台は、ハッカーのサブカルチャーである。自由に対する独自の価値観と倫理観を持ち、権威を嫌い、分権化を促進する人種の集まり。その意味では、科学者や数学者によく見られるアナーキスト的な感覚を持っている。
ハッカーと世界主要政府の間における自由をめぐる争いは、1990年代にエスカレートした。いまや世界標準となった暗号化プログラム PGP をめぐっては、米国政府は NSA ですら破れないコードが気に入らず、禁止しようとした。だが、オープンソース化を一国の政府が規制することはできず、仕様は RFC に公開されている。このフリーなハッカーの一員に、アサンジも参加していたという。
しかしながら、サイバー攻撃に晒される今日、ハッカーという言葉は悪いイメージを与えている。もともとは高度な技術のイメージがあったはずで、技術系の書籍に Hacks... といったタイトルをよく見かける。かつてアサンジは、通信会社ノーテルのネットに侵入したことがあるという。少年時代には NASA をハッキングしたとか。スティーブン・レビーの著書「ハッカーズ」には、すべての情報は自由で利用できるようにするべきだ!というプログラマ魂が語られている。だがそれは、あくまでも人類の叡智という立場であって、けして他人に迷惑をかけるものではないはずだ。
ウィキリークスの情報を平等にそのまま公開するという方針が、スティーブン・レビーの思想を受け継いでいることは頷ける。とはいえ、歴史を振り返ると、科学や技術の世界に政治的思惑が入り込むと、ろくなことにはならないことが見て取れる。政治的思惑とは、世界を支配しようする野望である。人間ってやつには、誰にでも誇大妄想化する性癖が潜んでいる。おまけに、実体の正義にうんざりすれば、仮想世界で正義を旺盛にさせる。楽観的に始めたプログラマの腕試しは、やがて情報は権力であるということを目覚めさせ、情報の主権を握る者が正義であるという妄想にかられる。コンピュータの脆弱性もさることながら、人間の理性ほど脆弱なものはない。
かつてプログラマだったアサンジもまた、政治的な振る舞いで天才的な才能を開花させた。アサンジという人物が、ビジョンとカリスマ性を具えていることは確かなようである。だが、資金集めや政治的態度がグロテスクになっていくと、もはや技術者ではなく、政治活動家の顔がそこにある。
そして、組織の No.2 であったダニエル・ドムシャイト=ベルグを失望させた。彼は、割の合わない仕事を大量にこなしているだけでなく、個人資産までもつぎ込み、エキセントリックで一貫性を欠くこともあるアサンジに対して、客観的かつシステマチックなやり方で、うまくバランスをとってくれる存在だったという。持ち前の愛想のよさで組織の潤滑油ともなっていたとか。彼が去れば、才能豊かなプログラマ・アーキテクトも去っていくばかりか、かつての仲間たちが批判的な立場へ導かれていく...
2. ウィキリークスの弱点
民主主義国家では、政治を行う者は選挙によって選出される。では、政治活動が市民に十分に知れ渡っているかと言えば、そんな幻想を描いている人はごく少数派であろう。選挙制度の存在が、政治家にも、民衆にも、民主主義国家だと思い込ませるための手段になってはいないか?だから、選挙に勝利した者やその陣営は、支持されたと思い込んで大々的な勝利宣言を掲げる。実は競争相手が不甲斐ないだけで、仕方なく選ばれた微妙な立場であるにもかかわらず。つまり、ここには消去法が働いている。
政治と民衆の間には、常に情報の非対称性の問題がつきまとう。そこで、ジャーナリズムには第三者の目としての役割がある。大手メディアが政府発表を鵜呑みにした報道しかできないとすれば、大本営が乱立するようなもので余計にタチが悪い。報道番組にしても企業スポンサーに支えられている以上、その企業に不利なことは発言できない。クラブ活動の大好きな記者連中よりも、フリーランスに期待するしかなさそうだ。
今日、多くの人が抱く政治やジャーナリズムへの不満を代弁するメディアとしてインターネットが存在感を増している。常に民衆は情報の非対称性を破る存在を求めている。確かに、インターネットは情報を提供する側に平等な機会を与えている。だが同時に、情報を享受する側が自発的な人と受け身な人で意識が大きく違い、却って情報格差を生み出しているのも確かだ。なによりも情報は真実が重要であって、信憑性とは違う。ウィキリークスに対する最も大きな批判は、真実に対して無責任だということだ。だがそれは、従来のジャーナリズムとて同じではないか...
ウィキリークスの最大の弱点は、情報を検証する能力がほとんどないことだ。相手を陥れるために捏造だって十分に考えられる。公開基準も、政治的、倫理的、歴史的に重要なものとしているが、実に曖昧!おまけに、その決定権はアサンジ自身にあると主張しており、神にでもなったつもりか!との非難は免れない。スクープというものは、それが自分自身の手による取材でなされた場合、ジャーナリスト冥利に尽きるだろう。だが、ウィキリークスがやっていることは、他人が提供したものを公開するだけ。アサンジには、ジャーナリストの誇りなんぞどうでもいいのかもしれない。
また、もう一つ大きな弱点を露呈する。それは、情報提供者の身の安全を確保する能力である。高いリスクを冒した情報提供者に対して、果たすべき義務がある。実際、アサンジだけでなく、情報提供者も逮捕されているし、古くは殺害された者もいるらしい。この能力に欠けることは、内部告発機構として致命的である。後に、こうした弱点を意識して、大手メディアと手を組むことになったのは賢明であろう。伝統的なジャーナリズムには証拠を調査する編集部があり、ウィキリークス単独では、素材のすべてに目を通し、吟味し、評価し、分析するにはあまりにも荷が重すぎる。
尚、ウィキリークスの立ち上げの文章には、こう書かれているという。
「人は政府の真の計画と行動様式を知っている場合にかぎり、その政府を支持しようと本気で決断することができる。歴史的に見て、開いた政府がもっとも生き残れる形というのは、情報の公表と暴露の権利が保護されている形である。こうした保護が存在しないところでは、それを確立することが我々の使命となるだろう。」
3. 右派か?左派か?
どちらに属すかといえば、アサンジ自身が言うように左派といことになろうか。時には、ティーパーティーを組織する保守右派や、キリスト教原理主義者たちの支持を受けたり、人口中絶反対派がそうであったりと、右派ではないとも言えない。少なくとも古典的な左派ではなさそうだ。平和主義者ではなさそうだが戦争には反対しているし、さらに、反権威主義、自由、自己実現、自律という言葉を操り、帝国主義に反対している。
本書は、アナーキストとしての国家軽視と、スターリン主義者の非情さを持っていると指摘している。国家や階級制度に対する深い猜疑心が、アサンジをして政治家にしてしまった理由の一つだとしている。その意味で、マルクス主義的な階級闘争にも通ずるものがある。アサンジ自身は、左翼にうんざりさせられることは多い!と語ったとか。フェミニストや共産主義者にうんざりする気持ちもよく分かる。独裁的な政権の内幕を明らかにすれば、陰謀は権力維持のための重要な要素だということが見えてくる。アサンジは、陰謀者の間のすべての結びつきを切断すれば、陰謀はストップすると主張したようだが、はたしてそうだろうか?理想もまた暴走する性癖がある。ただ、脂ぎった政治腐敗には、これまた脂ぎった理想をもって対抗するしかないのかもしれない。そのために、極右も極左も演じることになる...
4. 情報を敵に回せば...
2008年、プライベート・バンキングを攻撃対象に選んだ。スイスのユリウス・ベア銀行である。ケイマン島支店のルドルフ・エルマーから入手した不正融資行為に関する内部資料の公開。いわゆる、「エルマー文書」だ。キューバから南に300キロほど離れたケイマン諸島の首都ジョージタウンは、世界でも指折りの金融センターになっている。タックス・ヘイヴンだからだ。エルマーは、これに加担する慢性的な金融業界の中にあって罪悪感を持ったようである。ユリウス・ベアは、ウィキリークスを提訴するが、株価が暴落し訴えを取り下げた。
ちなみに、同じタックス・ヘイヴン関係のスキャンダルでは「パナマ文書」があるが、日本の大手マスコミはこちらの方を大きく報じた。
ウィキリークスと一戦交えようとすれば、ユリウス・ベア銀行は敗北に終わる。だが、それは企業だけではない。2008年、BND(ドイツ連邦情報局)の報告書が公開された。そこには、コソボのアルバニア人とコソボ解放軍がマフィアの活動に巻き込まれ、政治腐敗と組織犯罪が横行する経緯が書かれていた。ただ、これは内部告発ではないらしい。BNDは、対応のまずさを露呈する。長官エルンスト・ウーアラウは、情報の消去を要求するとともに、刑法を適応すると脅したのだ。デジタル時代に、BND 長官の権威を振りかざしても顰蹙を買うだけ。おまけに、長官の抗議メールがウィキリークスによって公開されると、報告書が本物であるとお墨付きを与えてしまう。
5. 情報を編集して鉄則を破る...
ウィキリークスの公開基準には、二つの鉄則があるという。一つは、投稿された証拠品が一定の基準を満たしていれば、それだけで公表する。曖昧な基準だけど。二つは、文書は一切編集しないで、そのまま公表する。
だが、この基本原則を破ってまで踏み切った超弩級素材がある。そう、"Collateral Murder" と題するビデオだ。特別サイトも新設され、YouTube でも閲覧できる。そこには、アパッチ攻撃ヘリのパイロットの会話が収録される... おい、みんな死んだよな... ああ、見事なもんだ... 証拠隠滅では、生きた証人を完璧に抹殺せよ!... といった台詞は、陰謀映画そのもの。
しかしながら、ビデオに編集を加えたことが、信憑性に欠けるとして非難される。組織内部にも、原則から逸脱したとして難色を示す人たちがいたようである。素材をそのまま公表することは、伝統的なジャーナリズムの有り方を問うものであったはず。編集すれば、意見表明したことになるし、なによりも真実性が半減する。今回は、あまりにジャーナリステッィクすぎた。しかも、アサンジの独断によって。
アサンジ自身は、並行して未編集のオリジナル素材も公開しているので問題ないとしているが、巷では面白おかしく編集された方が広まるもの。特にインターネットの凶暴性がここにある。真実の共有といえば、その理念は美しい。だが、虚偽の拡散となれば、その理念は悪魔と化す。さらに悪いことに、情報提供者の名が漏洩し、逮捕された。ハッカー仲間から漏れたようである。彼を法的に守る手段は、ウィキリークスにはない。
民主主義的な国家であれば、どこの国でも情報公開法の類いがある。賞味期限が過ぎれば情報は公開されることになっているが、政治は今動いている。このような不都合な証拠は抹殺されるだろう。それが、ジョージ・W・ブッシュ大統領時代の事件とはいえ、オバマ大統領時代のホワイトハウスのホームページにおける、この宣伝文句がなんとも虚しい。もう、トランプ氏になっちゃったけど...
「政治の透明性は責任感につながり、政府が何をしているのか、市民に情報を提供します。」
2017-06-11
"たいした問題じゃないが - イギリス・コラム傑作選" 行方昭夫 編訳
たいした問題じゃない... と言えば、そうかもしれない。哲学とはそうしたものだ。しかし、それがなければ人生は味気ない。なにも重々しく構えることはない。思わずニヤリとしてまう文体の群れ、群れ、群れ... 英国紳士風のユーモアを皮肉屋が仕掛けてくれば、酔いどれ天の邪鬼はイチコロよ...
英国には、文学の一ジャンルとしてエッセイの地位が高いという伝統があるらしい。その源泉はシェイクスピアやフランシス・ベーコンあたりに遡るのであろうが、評論とたがわぬ堅苦しさが残る。十八世紀になるとジャーナリズムが勃興し、ジョゼフ・アディソンやリチャード・スティールらが、政治経済だけでなく風俗慣習や身近な出来事などを題材にしたという。十九世紀には、チャールズ・ラム、ウィリアム・ヘイズリット、リー・ハントらが、一段と庶民に親しみやすいものにしたとか。特に、ラムの「エリア随筆」は傑作として名高いそうな。
そして二十世紀初頭、A. G. ガードナー、E. V. ルーカス、ロバート・リンド、A. A. ミルンといった名エッセイストを輩出した。本書は、この四人の選集である。
尚、リンドは二十世紀のラムと称されるそうな。ミルンの児童小説「クマのプーさん」は日本でも親しまれている。
四人とも、ジャーナリストで、作家で、批評家で、文化人で、新聞雑誌のコラムを担当したという似たような経歴を持つ。このようなエッセイ文学が開花した時期が第一次大戦前後と重なるのは、暗い出来事を明るく書いてないとやってられん!とでも思ったのか。彼らは年齢が多少違えば、出身地も背景も違う。なのに、それぞれの作品群には多くの共通点が見出せる。無意識と習慣の奴隷、関心と無関心の境目、忘却と幸福の相性、嫉妬と愛情の癒着、怠惰と迷信の法則、規則と自由のバランス、名誉と偶像の崇拝、動物愛護と人間虐待の矛盾... といった対称的題材を表裏一体として描きながら人間性の滑稽と醜態を暴く。それでいて人間の弱さには温かい目を注ぎ、書き手自らダメ人間を演じて、人間悲劇を人間喜劇として描写する。ちょいと考えてみれば、どれも古代から哲学者たちが論争してきた題材ばかり。ここには、人類の普遍性のようなものが語られているのやもしれん... と言えば、ちと大袈裟であろうか...
読者というのは、自分の思考に近い作品を好むもので、おいらの場合は、特に無意識と無関心についての記述に惹かれる。人の本性が無意識の領域にあるとすれば、概して人間は自我を知らないことになる。心の落ち着く場所が見つからず、魂に余裕がないとすれば、そして、それに気づかなければ、ぼんやりとした不安に襲われ、苛立ちを隠せないだろう。道徳家や有識者たちは、なにゆえ、いつも、けしからん!と憤慨しているのか。せかせかした日常に慣らされてしまえば、本当に大事なことを見失ってしまう。一度死んでみなきゃ、それを見直す機会も訪れないということか。とはいえ、生まれ変わることができたとしても、同じ過ちを繰り返すだけのことよ...
人は誰でも、社会の出来事すべてを引き受けるだけの度量を持ち合わせていない。何かしら専念しようと思えば、無関心の才能が求められる。宣教師は、異教徒を改宗させようとするあまり、金銭なんぞに構っている暇はあるまい。哲学者は、真理を見極めようとするあまり、俗世間の道楽に惑わされている場合ではあるまい。プラトンの記述によると、ソクラテスですら饗宴で酒をあおったようだが、それでもなお無関心な態度を崩さず、思いに耽ったことだろう。酒は心がけよりも、命がけよ...
しかしながら、無関心が必ずしも美徳とはなりえない。幸せを求めれば、何かを犠牲にせざるを得ない。名声不朽の人は、ある程度の人間性を放棄してきたことだろう。歴史上の偉人たちは、世間が大事にする多くのことに無関心でいただろう。人格ってやつは、何について無関心でいられるかで規程できるのやもしれん...
さて、本書には、四人それぞれに八点前後の短篇が収録される。全部で32作品もあるわけで、この中からお気に入りを選ぶのにも骨が折れる。そこで、読んだ記憶を墓石に刻むがごとくお気に入りの骨を、いやフレーズを拾っておこう...
1. ガードナー
「事実についての自分の解釈を疑ってみるのはよい習慣であり、また、他者の動機についての自分の解釈を疑ってみるのはもっとよい習慣である。十中八、九間違っているものだ。」
「サミュエル・バトラーが言ったように、人は、あるものについて、知っているのを意識しなくなって、初めてそれを知るのだ。それを知っているかどうかなど考えていると、次の瞬間に忘れる。」
「自由を現実のものとする社会秩序を享受するためには、個人の自由を制限することに同意しなくてはならない。自由はただ個人的なものというだけでなく、社会的な契約でもある。利害の調和である。他人の自由を侵さぬ限り、私には好き勝手にする自由がある。」
「無名の人やおとなしい人の権利を守るのは、小国の権利を守るのと同様に大切である。車を乗り回している連中がわざと警笛を大きくならしているのを聞くと、私は煮えくり返る思いがする。ドイツがベルギーを乱暴に蹂躙した時と同じ怒りだ。」
「今の複雑な世界では、我々は完全なアナキストにもなれないし、完全な社会主義者にもなれない - その両方の賢明なごちゃ混ぜでなくてはならない。二つの自由 - 個人の自由と社会的な自由 - を守らなければならない。一方で役人を監視し、他方でアナキストを警戒しなければならない。私はマルキストでもないし、トルストイ的社会主義者でもなく、両方の妥協の産物である。」
2. ルーカス
「ブレイクの詩を、いつものように不正確ながら、口ずさんでいた...
他人の悲しみを見て
悲しくならずにいられようか
いやいやそんなことはあり得ない
決して決してありえない」
「書くのに難儀すれば、読むのは楽。」
「悪い人たちじゃないけれど... 私のアキモネを根分けさせようという考えに取りつかれているのよ。こんな平和に満ちた庭園にまで、革命的な考え方が侵入してくるなんて、とても不思議な話だわ。」
3. リンド
「厳密な道徳家、少なくともピューリタンにとっては、あらゆる種類の自己耽溺は悪習であり、時間厳守が一種の自己耽溺であるのは疑いようがない。怠惰と面倒を避けたいという願望に根ざしているのだ。イギリス人は、諸民族の中で一番怠惰な民族であるから、もし時間厳守を守っていさえすれば、多くの余計な仕事や心配から免れると知って、時間厳守の教義を説き出したのである。ひどい自己中心主義の分派にすぎない。」
「子供のとき最小の努力で生きてゆく方法を身につけるだけの狡さがなかったおかげで、大人になってから苦労するのである。」
「日常生活では、詩への無関心は人類のもっとも目立つ特徴の一つである。偉大な詩が人類の最大の業績だということを否定する人はほとんどいないのだが、詩を読む人は殆どいないのだ。宗教の重要性が今日ひろく疑問視されているように、詩の重要性はいつか疑問視されるようになるのだろうか?それとも、詩は資産があって詩心のある人に相応しい仕事として尊敬され続けるのであろうか?」
「人間の人間に対する残虐行為は無数の人々を悲嘆に暮れさせており、その数は有史以来どんどん増えているのは確かである。しかし、人間性の気高い矛盾によって、仲間の人間に対しては狼である人間が、他の生き物に対して驚くべき優しさを繰り返し示してきた。」
「忘れっぽい人は人生を最大限に生かそうとする人なので、平凡なことはうっかり忘れることが多い。ソクラテスやコールリッジに手紙を出してくれと頼む人などどこにいるか。彼らは、投函などを無視する魂を持っているのだ。」
4. ミルン
「一般の人は空を見上げて、大空の下で自分がいかに卑小かと思うのだが、占星術の信者は天を見上げて、自分の圧倒的な偉大さを今更のように感知するそうだ。私は自分が信じていなくてよかったと思う。」
「天気の話では熱っぽく議論を戦わせることは殆どない。議論しないのであれば、意見が同じ者同士が親しみを覚えることもない。しかし、食べ物の好みははっきり差があるので、明確に意見の一致があれば、それはあらゆる結びつきの中でもっとも親密なものとなる。」
英国には、文学の一ジャンルとしてエッセイの地位が高いという伝統があるらしい。その源泉はシェイクスピアやフランシス・ベーコンあたりに遡るのであろうが、評論とたがわぬ堅苦しさが残る。十八世紀になるとジャーナリズムが勃興し、ジョゼフ・アディソンやリチャード・スティールらが、政治経済だけでなく風俗慣習や身近な出来事などを題材にしたという。十九世紀には、チャールズ・ラム、ウィリアム・ヘイズリット、リー・ハントらが、一段と庶民に親しみやすいものにしたとか。特に、ラムの「エリア随筆」は傑作として名高いそうな。
そして二十世紀初頭、A. G. ガードナー、E. V. ルーカス、ロバート・リンド、A. A. ミルンといった名エッセイストを輩出した。本書は、この四人の選集である。
尚、リンドは二十世紀のラムと称されるそうな。ミルンの児童小説「クマのプーさん」は日本でも親しまれている。
四人とも、ジャーナリストで、作家で、批評家で、文化人で、新聞雑誌のコラムを担当したという似たような経歴を持つ。このようなエッセイ文学が開花した時期が第一次大戦前後と重なるのは、暗い出来事を明るく書いてないとやってられん!とでも思ったのか。彼らは年齢が多少違えば、出身地も背景も違う。なのに、それぞれの作品群には多くの共通点が見出せる。無意識と習慣の奴隷、関心と無関心の境目、忘却と幸福の相性、嫉妬と愛情の癒着、怠惰と迷信の法則、規則と自由のバランス、名誉と偶像の崇拝、動物愛護と人間虐待の矛盾... といった対称的題材を表裏一体として描きながら人間性の滑稽と醜態を暴く。それでいて人間の弱さには温かい目を注ぎ、書き手自らダメ人間を演じて、人間悲劇を人間喜劇として描写する。ちょいと考えてみれば、どれも古代から哲学者たちが論争してきた題材ばかり。ここには、人類の普遍性のようなものが語られているのやもしれん... と言えば、ちと大袈裟であろうか...
読者というのは、自分の思考に近い作品を好むもので、おいらの場合は、特に無意識と無関心についての記述に惹かれる。人の本性が無意識の領域にあるとすれば、概して人間は自我を知らないことになる。心の落ち着く場所が見つからず、魂に余裕がないとすれば、そして、それに気づかなければ、ぼんやりとした不安に襲われ、苛立ちを隠せないだろう。道徳家や有識者たちは、なにゆえ、いつも、けしからん!と憤慨しているのか。せかせかした日常に慣らされてしまえば、本当に大事なことを見失ってしまう。一度死んでみなきゃ、それを見直す機会も訪れないということか。とはいえ、生まれ変わることができたとしても、同じ過ちを繰り返すだけのことよ...
人は誰でも、社会の出来事すべてを引き受けるだけの度量を持ち合わせていない。何かしら専念しようと思えば、無関心の才能が求められる。宣教師は、異教徒を改宗させようとするあまり、金銭なんぞに構っている暇はあるまい。哲学者は、真理を見極めようとするあまり、俗世間の道楽に惑わされている場合ではあるまい。プラトンの記述によると、ソクラテスですら饗宴で酒をあおったようだが、それでもなお無関心な態度を崩さず、思いに耽ったことだろう。酒は心がけよりも、命がけよ...
しかしながら、無関心が必ずしも美徳とはなりえない。幸せを求めれば、何かを犠牲にせざるを得ない。名声不朽の人は、ある程度の人間性を放棄してきたことだろう。歴史上の偉人たちは、世間が大事にする多くのことに無関心でいただろう。人格ってやつは、何について無関心でいられるかで規程できるのやもしれん...
さて、本書には、四人それぞれに八点前後の短篇が収録される。全部で32作品もあるわけで、この中からお気に入りを選ぶのにも骨が折れる。そこで、読んだ記憶を墓石に刻むがごとくお気に入りの骨を、いやフレーズを拾っておこう...
1. ガードナー
「事実についての自分の解釈を疑ってみるのはよい習慣であり、また、他者の動機についての自分の解釈を疑ってみるのはもっとよい習慣である。十中八、九間違っているものだ。」
「サミュエル・バトラーが言ったように、人は、あるものについて、知っているのを意識しなくなって、初めてそれを知るのだ。それを知っているかどうかなど考えていると、次の瞬間に忘れる。」
「自由を現実のものとする社会秩序を享受するためには、個人の自由を制限することに同意しなくてはならない。自由はただ個人的なものというだけでなく、社会的な契約でもある。利害の調和である。他人の自由を侵さぬ限り、私には好き勝手にする自由がある。」
「無名の人やおとなしい人の権利を守るのは、小国の権利を守るのと同様に大切である。車を乗り回している連中がわざと警笛を大きくならしているのを聞くと、私は煮えくり返る思いがする。ドイツがベルギーを乱暴に蹂躙した時と同じ怒りだ。」
「今の複雑な世界では、我々は完全なアナキストにもなれないし、完全な社会主義者にもなれない - その両方の賢明なごちゃ混ぜでなくてはならない。二つの自由 - 個人の自由と社会的な自由 - を守らなければならない。一方で役人を監視し、他方でアナキストを警戒しなければならない。私はマルキストでもないし、トルストイ的社会主義者でもなく、両方の妥協の産物である。」
2. ルーカス
「ブレイクの詩を、いつものように不正確ながら、口ずさんでいた...
他人の悲しみを見て
悲しくならずにいられようか
いやいやそんなことはあり得ない
決して決してありえない」
「書くのに難儀すれば、読むのは楽。」
「悪い人たちじゃないけれど... 私のアキモネを根分けさせようという考えに取りつかれているのよ。こんな平和に満ちた庭園にまで、革命的な考え方が侵入してくるなんて、とても不思議な話だわ。」
3. リンド
「厳密な道徳家、少なくともピューリタンにとっては、あらゆる種類の自己耽溺は悪習であり、時間厳守が一種の自己耽溺であるのは疑いようがない。怠惰と面倒を避けたいという願望に根ざしているのだ。イギリス人は、諸民族の中で一番怠惰な民族であるから、もし時間厳守を守っていさえすれば、多くの余計な仕事や心配から免れると知って、時間厳守の教義を説き出したのである。ひどい自己中心主義の分派にすぎない。」
「子供のとき最小の努力で生きてゆく方法を身につけるだけの狡さがなかったおかげで、大人になってから苦労するのである。」
「日常生活では、詩への無関心は人類のもっとも目立つ特徴の一つである。偉大な詩が人類の最大の業績だということを否定する人はほとんどいないのだが、詩を読む人は殆どいないのだ。宗教の重要性が今日ひろく疑問視されているように、詩の重要性はいつか疑問視されるようになるのだろうか?それとも、詩は資産があって詩心のある人に相応しい仕事として尊敬され続けるのであろうか?」
「人間の人間に対する残虐行為は無数の人々を悲嘆に暮れさせており、その数は有史以来どんどん増えているのは確かである。しかし、人間性の気高い矛盾によって、仲間の人間に対しては狼である人間が、他の生き物に対して驚くべき優しさを繰り返し示してきた。」
「忘れっぽい人は人生を最大限に生かそうとする人なので、平凡なことはうっかり忘れることが多い。ソクラテスやコールリッジに手紙を出してくれと頼む人などどこにいるか。彼らは、投函などを無視する魂を持っているのだ。」
4. ミルン
「一般の人は空を見上げて、大空の下で自分がいかに卑小かと思うのだが、占星術の信者は天を見上げて、自分の圧倒的な偉大さを今更のように感知するそうだ。私は自分が信じていなくてよかったと思う。」
「天気の話では熱っぽく議論を戦わせることは殆どない。議論しないのであれば、意見が同じ者同士が親しみを覚えることもない。しかし、食べ物の好みははっきり差があるので、明確に意見の一致があれば、それはあらゆる結びつきの中でもっとも親密なものとなる。」
2017-06-04
"英文快読術" 行方昭夫 著
グローバル化していく社会にあって、英語に無関心でいることは難しい。受験生は仕方ないとして、突然、海外赴任を命じられる事もある。具体的な動機が見つからなくても、せめて英語ぐらいは... と漠然と考えている人も少なくないだろう。欧米人並に操りたいと理想を膨らます人から、海外旅行で道を聞く程度まで、目標設定によって挫折感も違ってくる。日本の英語教育には、入試対策が巧妙化するだけで、中学二年生ぐらいから徐々に落ちこぼれていくという悲しい現実がある。大学は、非常識なほど難しい題材を扱い続ける。その難易度が格付けと言わんばかりに。英語教育が英語嫌いを助長するとは、なんとも皮肉である。
では、学校の教材や参考書が悪いのだろうか?本書は、そうではないと指摘している。日本語の達者なアメリカ人のエピソードでは、日本の学校教育のように要領よく教えれば、文法的に酷い間違いをするアメリカ人も減るだろう、と言ったとか。それで成果は?と問えば、一言もない。楽しんで参考書を読んだなんて記憶はまったくないし、一時的な入試対策では卒業とともに廃棄してしまった。手段ばかりに目を奪われ、本来の目的を見失っていた典型である。そして、最初から教材探しに翻弄する羽目に...
あのシドニーシェルダンのオーソン・ウェルズが演じるシリーズを購入したのは、二十年前になろうか。そぅ、ドリッピーだ!英会話学校へ通えば、外国人講師から broken english を勧められる。最初から完璧に喋ろうとしても言葉が出てくるはずもなく、もっと人生楽しもうぜ!ってな具合に。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を題材とした英会話講座に参加すれば、いい歳こいたオヤジが学生に混じって、いまさらアリスもないだろう!と恥ずかしい思いもしたが、実に楽しかった。習うより慣れろ!とは、プログラミング言語と同じ。
そんなおいらだって、そこそこ喋れるようになった時期がある。だが、使わないとやはり衰える。いまだに外国人の前ではジェスチャーが多く、失語症のような感覚に見舞われる。老齢化って言うな!英語で失敗し、恥をかくこと幾度と知れず。どうやら英文と戯れることを、またもや忘れかけているようだ。
本書は、英語再入門のための指南書である。具体的な活用事例として、小説の retold 版を紹介してくれるのがありがたい。著者行方昭夫氏には、サマセット・モーム小説の翻訳で魅せられた。小説と戯れるような感覚で英語長文に触れられれば... この感覚こそ、解読術ならぬ快読術!それは、速読術ならぬ速愛術のようなものか...
言語習得に、単語と熟語、文法、文章読解という三つの力を鍛えることは、いつの時代も変わらない。ただ、英語と日本語は物理的に周波数帯が違うわけで、巷を騒がしている「聞き流すだけで...」といった宣伝文句にも一理ある。
一方で、海外留学をすれば、すぐに身につくというものでもない。却って大量な英語に圧倒されて引き篭もってしまい、そのまま帰国するケースも珍しくない。結局はコミュニケーション能力が問われる。
いずれにせよ学習法は千差万別。自分にあった方法は、いくら遠回りをしても自分で見つけるしかあるまい。具体的な生活の場で会話を訓練すれば規則も自然に身につく、という考えもあろう。実際、英語圏の国では子供でもすらすらと喋っているし、日本人の子供だって立派に日本語を操る。
では、子供と大人とでは何が違うのか?少なくとも、いい大学に入りたい、いい職業に就きたい... などという脂ぎった動機は持ち合わせていないだろう。母親に相手にしてもらいたい、単に興味がある... といった純真な心から発しているように見える。大人どもは、知識でも、技術でも、なんでも手っ取り早く身につけたいと考える。他人の知識や経験を活用し、自分だけは損をしたくないと考える。労力最小の原理に取り憑かれているのだ。人間ってやつは、経験を積んでいくうちに、面倒くさがり屋になっていく動物のようである。
昔から、数ヶ月で英語がものになる!といった宣伝文句を見かける。だが本書は、あえて、じっくりと長文を味わおう!という視点から、英語学習の明るい面を強調してくれる。とはいえ、長文と戯れるのは、やはり骨が折れる。読書体力を養わねば... それは英語に限ったことではない。
1. 誤訳について
日本語と英語では系統があまりにも違うだけに、熟練した翻訳家であっても誤訳はつきもの。そもそも、日本語で会話していてもよく勘違いはするし、客観性を保つべき法律においてすら解釈をめぐってしばしば論争になる。それは、言語システムの特性と言ってもいいだろう。言葉が精神の投影だとすれば、精神を完全に解明されていない今、言語システムには曖昧さがつきまとい、その柔軟性が進化をもたらす。弁証法ってやつは、永遠に廃れることはあるまい。しかも、言語は時代によっても変化し、社会風習との結びつきが極めて強い。
ただ、真のグローバリゼーションな社会であれば、なにも英語にこだわることはあるまい。いまだ人類は、絶対的な言語システムを編み出せないでいるのだから。どんな言語にも長短はある。古代には、ギリシア語世界、アラビア語世界、中国語世界があった。禅の伝道者は、真の数学を追求したければラテン語から学べと説くだろう。ユークリッドは原論をギリシア語で書き、後にアラビア語からラテン語に翻訳された。ニュートンはプリンキピアをラテン語で書いた。太陽王ルイ14世の時代には、知識人はこぞってフランス語かぶれになった。現在、英語が主流となったのは、ナポレオン戦争や二つの大戦の結果だけがそうさせたのではあるまい。大航海時代の宣教師たちの下地があってこそ。
言語に群がる特性は、政治や経済の力関係だけでなく、学問分野や専門職業との深い結びつきがある。英語圏の国は意外と少なく、公用語であっても主要語になっていない国も多い。ヨーロッパ大陸では、ドイツ語、フランス語、スペイン語の方が実用的かもしれない。
そして、多様性という人間の特性を存分に発揮し、翻訳界はますます活況となろう。第一外国語だけでなく第二外国語を学ぶ意義は、言語の長所と短所を互いに認識させることにあるのだと思う。実際、原作者が翻訳版からヒントを得て、改訂版に反映させるというケースもよく見かける。逆に、翻訳が酷すぎるために絶版に追い込まれるケースもある。せっかくの原書を台無しにする罪は重い。解釈をめぐる批判は、人間の多様性を相手取るだけに一筋縄ではいかない。
ぶっちゃけた話、意図的に非難しようと思えば、どんな優れた訳書でも、あたかも間違いだらけのような印象を与えることはできるのだそうな。批判ってやつは、よほど良識をもってやらないと意地悪や難癖となる。ド素人から見れば、専門家レベルの誤訳指摘は五十歩百歩という気もしなくもないのだけど。ただ、日本語力の違いをまざまざと魅せつけ、むしろ日本語の勉強になって、おもろい!
2. オススメの参考書
意外にも、英文解釈のための参考書に、受験参考書をあげている。解説まで施され、一般に英文を正しく読もうとする大人にとって、この上なく優れた教材だという。確かに、高校までの語彙に限定され、専門知識も不要だし、問題作成に膨大なエネルギーが注がれていることは間違いない。しかし、アレルギーが...
当時、ひたすら受験のために要領をえようとしただけで、十分に活用したか?と問えば、そんなことは断じてない。本書で紹介される小説の抜粋は、長文の横に解説が施され、参考書の形式そのものだ。英語学習で最も不足しているのは、平易な英文をたくさん読むことだという。そして、具体的に、こういうものを薦めてくれる。
あれ?「英文標準問題精講」は見覚えがあるような...
3. 気軽に辞書を引こう!
当たり前のことだけど、日本語の小説を読む時ですらしばしば辞書を引く。今ではネット空間に辞書があるので、かなり気軽に引ける。
特に、用例を見よ!と、「ホレーショーの哲学」というものを紹介してくれる。シェークスピアの「ハムレット」にある台詞で...
"There are more things in heaven and earth, Horatio,/ Than are dreamt of in your philosophy."
「ホレーショー、天と地の間には、いわゆる哲学などでは夢にも考えぬことがあるものだ。」
"your philosophy" とすれば、普通は「君の哲学」と訳されるが、"your" を辞書で引けば、「(通例けなして)いわゆる、かの、例の」といった説明もあるという。
辞書にすべての事例を載せるのは不可能。辞書は万能ではないし、使いこなしてこそ価値がでる。英語だけでなく、日本語にも精通しなくては、いい翻訳は生まれない。そこで、役に立つ表現辞典を紹介してくれる。
例えば、"reserved man" を「ひっ込み思案の人」と訳しているんだとか。なかなか洒落た辞書のようだ...
また、イディオムに注目せず、正しい英文快読はありえない!と強調している。"you know" とはよく使うフレーズで、「ご存知のとおり」といった意味。しかし、相手が知らないことを皮肉って、「なんじ知れ!」という命令形もよく使われるという。"you see" もよく使うが、これも同じようなものか。
そして、イディオムに重点を置いた辞書も紹介してくれる。
興味深いところでは、"had better" が命令口調であることを知らずに、えらい目にあった人の事例を紹介してくれる。あるアメリカ人の老教授を案内していて、こう言って機嫌を損ねたという。
"You had better go there by taxi."
こう言えば感謝されたかもと...
"Perhaps it would be better to go by taxi."
こんな実践的な事例は、入試対策を前提とした教育では教わることもないか...
4. 自動詞と他動詞の区別
日本人の英語解釈で問題なのが、自動詞と他動詞の区別ができないことだと指摘している。英語圏の人々は、自動詞と他動詞の違いに敏感なことは分かる。日本人がこの感覚に疎いのは、自己主張の傾向が少ないということもあろう。日本語では主語を曖昧にする傾向がある。英語の方が論理的な言語ともされるし、時制を重視する点も、日本人の感覚になかなか合わないところがある。
例えば、ある日本語を学んだ英米人のエッセイには、「こわい」という語を習って、とても驚き、信じられなかったと書いているそうな。「とてもこわかった」と「それはこわい芝居よ」を英語で言えば、こうなる。
"I was very frightened." / "It was a very frightening drama."
"frightened" も "frightening" も、日本語では同じ「こわい」で済ますことに納得できないらしい。
さらに、興味深い事例として、ひと昔前の男性化粧品のテレビコマーシャルをあげている。
"For exciting young men."
字幕に「エキサイトする若いきみたちに」と入っていたとか。学生たちに、この宣伝文句の正しい日本語訳を求めると、たいてい「わくわくする青年のために」といった訳をするという。
そこで、女性をわくわくさせたければ、マンダムを使用しなさい!という宣伝ではないのか?と問う。そして、「女性をエキサイトさせるのに、自分がエキサイトしては駄目だ。客を笑わせる落語家は自分自身は笑わないものだよ」と説明すると、「女の子の心をときめかせる若い男性諸君に」という正解を示したとさ...
"You're irritating." 「君はぼくをいらつかせる。」
これには、95% の学生が「君はいらいらしている」と訳すという。ちなみに、ネット上の機械翻訳では、両方でてくるなぁ...
5. 長文を味わう!
本書は、味わい深い四つの作品から長文を抜粋してくれる。参考書風に単語や熟語の解説が施されるので、小説のように読めて、なかなか乙である。だが、ちょいと考えてみると、学生時代にやっていた訓練ではないか!大っ嫌いだったはずだが、こうも自然にやれるとは...
ただ、自分の翻訳が正しいかを検証するために、全訳が欲しい!と思っていたら、最後に付録されていた。それに気づかず、読みきれたのが幸せ...
"The Year of the Greylag Goose"
ハイロガンのつがいは、普通、一生貞節な夫婦として添い遂げる。だが、劇的な状況が生じて中断することもある。突然、違った相手と熱烈になったり、不倫も。雄も雌も愛に狂う、まるで人間のような奴らだ。知性の面で動物は劣っているが、感情や情緒の面では... それは、脳の部位や構造によって裏付けられる。
"At the River-Gates"
第一次大戦に出征していった兄貴。塹壕の地獄からの声。兄貴が出征してから、水門を開きに行くのは父の仕事。ある日、嵐の夜、ずぶぬれで悪戦苦闘している父を助けたのは、戦地にいるはずの兄貴だった。そして翌日、兄貴の戦死の電報が... わしは今では老人じゃよ!と弟が懐かしそうに兄弟愛を語る。
"Introduction to ISHI IN TWO WORLDS"
イシの物語は、「ロビンソン・クルーソー」を逆にしたような物語。クルーソーの孤独は、海で嵐という自然の猛威によってもたらされたが、イシの孤独は同じ人間での卑劣な集団行為によるもの。イシは、白人から皆殺しにされた野生インディアンの最後の生き残りとして、家族の惨死を悲しみつつ、何年間も身を隠して暮らした。悲惨な暮らしに耐えられなくなって、白人の世界に迷い出た時、待っていたのは覚悟していた死ではなく、皮肉にも思いやりと友情であった。
"The Summing Up"... これは、一年ぐらい前に記事にしたので省略。
では、学校の教材や参考書が悪いのだろうか?本書は、そうではないと指摘している。日本語の達者なアメリカ人のエピソードでは、日本の学校教育のように要領よく教えれば、文法的に酷い間違いをするアメリカ人も減るだろう、と言ったとか。それで成果は?と問えば、一言もない。楽しんで参考書を読んだなんて記憶はまったくないし、一時的な入試対策では卒業とともに廃棄してしまった。手段ばかりに目を奪われ、本来の目的を見失っていた典型である。そして、最初から教材探しに翻弄する羽目に...
あのシドニーシェルダンのオーソン・ウェルズが演じるシリーズを購入したのは、二十年前になろうか。そぅ、ドリッピーだ!英会話学校へ通えば、外国人講師から broken english を勧められる。最初から完璧に喋ろうとしても言葉が出てくるはずもなく、もっと人生楽しもうぜ!ってな具合に。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を題材とした英会話講座に参加すれば、いい歳こいたオヤジが学生に混じって、いまさらアリスもないだろう!と恥ずかしい思いもしたが、実に楽しかった。習うより慣れろ!とは、プログラミング言語と同じ。
そんなおいらだって、そこそこ喋れるようになった時期がある。だが、使わないとやはり衰える。いまだに外国人の前ではジェスチャーが多く、失語症のような感覚に見舞われる。老齢化って言うな!英語で失敗し、恥をかくこと幾度と知れず。どうやら英文と戯れることを、またもや忘れかけているようだ。
本書は、英語再入門のための指南書である。具体的な活用事例として、小説の retold 版を紹介してくれるのがありがたい。著者行方昭夫氏には、サマセット・モーム小説の翻訳で魅せられた。小説と戯れるような感覚で英語長文に触れられれば... この感覚こそ、解読術ならぬ快読術!それは、速読術ならぬ速愛術のようなものか...
言語習得に、単語と熟語、文法、文章読解という三つの力を鍛えることは、いつの時代も変わらない。ただ、英語と日本語は物理的に周波数帯が違うわけで、巷を騒がしている「聞き流すだけで...」といった宣伝文句にも一理ある。
一方で、海外留学をすれば、すぐに身につくというものでもない。却って大量な英語に圧倒されて引き篭もってしまい、そのまま帰国するケースも珍しくない。結局はコミュニケーション能力が問われる。
いずれにせよ学習法は千差万別。自分にあった方法は、いくら遠回りをしても自分で見つけるしかあるまい。具体的な生活の場で会話を訓練すれば規則も自然に身につく、という考えもあろう。実際、英語圏の国では子供でもすらすらと喋っているし、日本人の子供だって立派に日本語を操る。
では、子供と大人とでは何が違うのか?少なくとも、いい大学に入りたい、いい職業に就きたい... などという脂ぎった動機は持ち合わせていないだろう。母親に相手にしてもらいたい、単に興味がある... といった純真な心から発しているように見える。大人どもは、知識でも、技術でも、なんでも手っ取り早く身につけたいと考える。他人の知識や経験を活用し、自分だけは損をしたくないと考える。労力最小の原理に取り憑かれているのだ。人間ってやつは、経験を積んでいくうちに、面倒くさがり屋になっていく動物のようである。
昔から、数ヶ月で英語がものになる!といった宣伝文句を見かける。だが本書は、あえて、じっくりと長文を味わおう!という視点から、英語学習の明るい面を強調してくれる。とはいえ、長文と戯れるのは、やはり骨が折れる。読書体力を養わねば... それは英語に限ったことではない。
1. 誤訳について
日本語と英語では系統があまりにも違うだけに、熟練した翻訳家であっても誤訳はつきもの。そもそも、日本語で会話していてもよく勘違いはするし、客観性を保つべき法律においてすら解釈をめぐってしばしば論争になる。それは、言語システムの特性と言ってもいいだろう。言葉が精神の投影だとすれば、精神を完全に解明されていない今、言語システムには曖昧さがつきまとい、その柔軟性が進化をもたらす。弁証法ってやつは、永遠に廃れることはあるまい。しかも、言語は時代によっても変化し、社会風習との結びつきが極めて強い。
ただ、真のグローバリゼーションな社会であれば、なにも英語にこだわることはあるまい。いまだ人類は、絶対的な言語システムを編み出せないでいるのだから。どんな言語にも長短はある。古代には、ギリシア語世界、アラビア語世界、中国語世界があった。禅の伝道者は、真の数学を追求したければラテン語から学べと説くだろう。ユークリッドは原論をギリシア語で書き、後にアラビア語からラテン語に翻訳された。ニュートンはプリンキピアをラテン語で書いた。太陽王ルイ14世の時代には、知識人はこぞってフランス語かぶれになった。現在、英語が主流となったのは、ナポレオン戦争や二つの大戦の結果だけがそうさせたのではあるまい。大航海時代の宣教師たちの下地があってこそ。
言語に群がる特性は、政治や経済の力関係だけでなく、学問分野や専門職業との深い結びつきがある。英語圏の国は意外と少なく、公用語であっても主要語になっていない国も多い。ヨーロッパ大陸では、ドイツ語、フランス語、スペイン語の方が実用的かもしれない。
そして、多様性という人間の特性を存分に発揮し、翻訳界はますます活況となろう。第一外国語だけでなく第二外国語を学ぶ意義は、言語の長所と短所を互いに認識させることにあるのだと思う。実際、原作者が翻訳版からヒントを得て、改訂版に反映させるというケースもよく見かける。逆に、翻訳が酷すぎるために絶版に追い込まれるケースもある。せっかくの原書を台無しにする罪は重い。解釈をめぐる批判は、人間の多様性を相手取るだけに一筋縄ではいかない。
ぶっちゃけた話、意図的に非難しようと思えば、どんな優れた訳書でも、あたかも間違いだらけのような印象を与えることはできるのだそうな。批判ってやつは、よほど良識をもってやらないと意地悪や難癖となる。ド素人から見れば、専門家レベルの誤訳指摘は五十歩百歩という気もしなくもないのだけど。ただ、日本語力の違いをまざまざと魅せつけ、むしろ日本語の勉強になって、おもろい!
2. オススメの参考書
意外にも、英文解釈のための参考書に、受験参考書をあげている。解説まで施され、一般に英文を正しく読もうとする大人にとって、この上なく優れた教材だという。確かに、高校までの語彙に限定され、専門知識も不要だし、問題作成に膨大なエネルギーが注がれていることは間違いない。しかし、アレルギーが...
当時、ひたすら受験のために要領をえようとしただけで、十分に活用したか?と問えば、そんなことは断じてない。本書で紹介される小説の抜粋は、長文の横に解説が施され、参考書の形式そのものだ。英語学習で最も不足しているのは、平易な英文をたくさん読むことだという。そして、具体的に、こういうものを薦めてくれる。
- 原仙作著, 中原道喜補訂 「英文標準問題精講」
- 芹沢栄「英文解釈法」
- 朱牟田夏雄「英文をいかに読むか」
あれ?「英文標準問題精講」は見覚えがあるような...
3. 気軽に辞書を引こう!
当たり前のことだけど、日本語の小説を読む時ですらしばしば辞書を引く。今ではネット空間に辞書があるので、かなり気軽に引ける。
特に、用例を見よ!と、「ホレーショーの哲学」というものを紹介してくれる。シェークスピアの「ハムレット」にある台詞で...
"There are more things in heaven and earth, Horatio,/ Than are dreamt of in your philosophy."
「ホレーショー、天と地の間には、いわゆる哲学などでは夢にも考えぬことがあるものだ。」
"your philosophy" とすれば、普通は「君の哲学」と訳されるが、"your" を辞書で引けば、「(通例けなして)いわゆる、かの、例の」といった説明もあるという。
辞書にすべての事例を載せるのは不可能。辞書は万能ではないし、使いこなしてこそ価値がでる。英語だけでなく、日本語にも精通しなくては、いい翻訳は生まれない。そこで、役に立つ表現辞典を紹介してくれる。
- 中村、谷田貝、両氏「英和翻訳表現辞典」
例えば、"reserved man" を「ひっ込み思案の人」と訳しているんだとか。なかなか洒落た辞書のようだ...
また、イディオムに注目せず、正しい英文快読はありえない!と強調している。"you know" とはよく使うフレーズで、「ご存知のとおり」といった意味。しかし、相手が知らないことを皮肉って、「なんじ知れ!」という命令形もよく使われるという。"you see" もよく使うが、これも同じようなものか。
そして、イディオムに重点を置いた辞書も紹介してくれる。
- 「新クラウン英語熟語辞典」
- 多田幸蔵「英語動詞句活用辞典」
興味深いところでは、"had better" が命令口調であることを知らずに、えらい目にあった人の事例を紹介してくれる。あるアメリカ人の老教授を案内していて、こう言って機嫌を損ねたという。
"You had better go there by taxi."
こう言えば感謝されたかもと...
"Perhaps it would be better to go by taxi."
こんな実践的な事例は、入試対策を前提とした教育では教わることもないか...
4. 自動詞と他動詞の区別
日本人の英語解釈で問題なのが、自動詞と他動詞の区別ができないことだと指摘している。英語圏の人々は、自動詞と他動詞の違いに敏感なことは分かる。日本人がこの感覚に疎いのは、自己主張の傾向が少ないということもあろう。日本語では主語を曖昧にする傾向がある。英語の方が論理的な言語ともされるし、時制を重視する点も、日本人の感覚になかなか合わないところがある。
例えば、ある日本語を学んだ英米人のエッセイには、「こわい」という語を習って、とても驚き、信じられなかったと書いているそうな。「とてもこわかった」と「それはこわい芝居よ」を英語で言えば、こうなる。
"I was very frightened." / "It was a very frightening drama."
"frightened" も "frightening" も、日本語では同じ「こわい」で済ますことに納得できないらしい。
さらに、興味深い事例として、ひと昔前の男性化粧品のテレビコマーシャルをあげている。
"For exciting young men."
字幕に「エキサイトする若いきみたちに」と入っていたとか。学生たちに、この宣伝文句の正しい日本語訳を求めると、たいてい「わくわくする青年のために」といった訳をするという。
そこで、女性をわくわくさせたければ、マンダムを使用しなさい!という宣伝ではないのか?と問う。そして、「女性をエキサイトさせるのに、自分がエキサイトしては駄目だ。客を笑わせる落語家は自分自身は笑わないものだよ」と説明すると、「女の子の心をときめかせる若い男性諸君に」という正解を示したとさ...
"You're irritating." 「君はぼくをいらつかせる。」
これには、95% の学生が「君はいらいらしている」と訳すという。ちなみに、ネット上の機械翻訳では、両方でてくるなぁ...
5. 長文を味わう!
本書は、味わい深い四つの作品から長文を抜粋してくれる。参考書風に単語や熟語の解説が施されるので、小説のように読めて、なかなか乙である。だが、ちょいと考えてみると、学生時代にやっていた訓練ではないか!大っ嫌いだったはずだが、こうも自然にやれるとは...
ただ、自分の翻訳が正しいかを検証するために、全訳が欲しい!と思っていたら、最後に付録されていた。それに気づかず、読みきれたのが幸せ...
- "The Year of the Greylag Goose"「ハイイロガンの春夏秋冬」、動物行動学の創始者ローレンツ博士著
- "At the River-Gates"「水門で」、児童文学者フィリパ・ピアスの短篇「幽霊を見た10の話」に収録
- "Introduction to ISHI IN TWO WORLDS" 「イシの序文」、SF作家ル=グウィンが亡母の著書「イシ - 北米最後の野生インディアン」に寄せた序文。
- "The Summing Up"、サマセット・モーム著
"The Year of the Greylag Goose"
ハイロガンのつがいは、普通、一生貞節な夫婦として添い遂げる。だが、劇的な状況が生じて中断することもある。突然、違った相手と熱烈になったり、不倫も。雄も雌も愛に狂う、まるで人間のような奴らだ。知性の面で動物は劣っているが、感情や情緒の面では... それは、脳の部位や構造によって裏付けられる。
"At the River-Gates"
第一次大戦に出征していった兄貴。塹壕の地獄からの声。兄貴が出征してから、水門を開きに行くのは父の仕事。ある日、嵐の夜、ずぶぬれで悪戦苦闘している父を助けたのは、戦地にいるはずの兄貴だった。そして翌日、兄貴の戦死の電報が... わしは今では老人じゃよ!と弟が懐かしそうに兄弟愛を語る。
"Introduction to ISHI IN TWO WORLDS"
イシの物語は、「ロビンソン・クルーソー」を逆にしたような物語。クルーソーの孤独は、海で嵐という自然の猛威によってもたらされたが、イシの孤独は同じ人間での卑劣な集団行為によるもの。イシは、白人から皆殺しにされた野生インディアンの最後の生き残りとして、家族の惨死を悲しみつつ、何年間も身を隠して暮らした。悲惨な暮らしに耐えられなくなって、白人の世界に迷い出た時、待っていたのは覚悟していた死ではなく、皮肉にも思いやりと友情であった。
"The Summing Up"... これは、一年ぐらい前に記事にしたので省略。
2017-05-28
"天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎" 長谷部浩 著
江戸三座の流れを汲む中村座と守田座の家で生を受けたがために、互いに、十八代目中村勘三郎、十代目坂東三津五郎という名を背負った。片や天才坊やと呼ばれた歌舞伎界のサラブレット、片や重厚な脇役道の家柄を継承。光と影ほどの違いはあれど、十字架を背負うがごとく藝術の殉教者となったことに変わりはない。
二人は奇しくも同学年に生まれ、六十を前に逝く。人間五十年... と歌われるが、今の時代にしては早すぎる。弔辞で三津五郎さんは勘三郎さんに語りかける。
「肉体の藝術ってつらいね!」
化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり... 絵画や小説と違って、まさに肉体芸は儚い...
「... 芝居も踊りも持ち味が違い、二十代から八回も演じた『棒しばり』。はじめの頃は、『お前たちのようにバタバタやるもんじゃない、春風が吹くようにフワッとした感じでやるものだ』と、諸先輩から注意を受けましたが、お互いに若く、負けたくないという心から、なかなかそのようにできなかった。それが、お互いに四十を超えた七回目の上演のとき、『やっと先輩たちの言っていた境地の入口に立てた気がするね』と握手をし合ったことを忘れません。長年の経験を経て、お互いに負けたくないという意識から、君には僕がいる。僕には君がいるという幸せと感謝に生まれ変わった瞬間だったように思います。...」
個人的には、長年名乗ってきた、勘九郎さん!八十助さん!と呼ぶ方がしっくりくる。この業界は、出世魚のごとく名を変えていく。ぶり、はまち、元はいなだの出世魚... とも言うが、二人には原点となった舞台があったという。「納涼歌舞伎」がそれである。初心忘るべからず!との世阿弥の言葉を受け継いだものと言えよう...
二月、八月は、ニッパチといって、客が入らない月とも言われるそうな。大立者といわれる役者は八月に休み、格下の役者が怪談物や本水を使った涼しい演目を見せるのが通例だったとか。二人は、この慣例を逆手にとって自分たちが芯を取って実力を養い、人気を集める公演をとうとう手に入れたという。
立役にとって三十代後半は難しい年頃、若旦那やいい脇役ではそろそろ物足らなくなり、かといって、芯を勤めるにはまだ荷が重い。芸風が微妙に変化しつつある中、円熟の下地となったのが、納涼歌舞伎だったという。八十助さんの言葉を借りれば、「八月は歌舞伎がはじめてのお客様にも愉んでいただける演目を考える」のだそうな。気さくに言葉をかけてくれる勘九郎さんの姿が目に浮かぶ... 博多座の襲名披露に来て下さったお客様はいらっしゃいますか?今日はじめて歌舞伎を観られる方はいらっしゃいますか?... こっちだって応えずにはいられない... よっ中村屋!軽い笑いで緊張感をほぐしてくれるのも、地方公演の魅力。八十助さんにしても、あの優しそうな口調でテレビ視聴者に語りかけていたのを思い出す... どうぞお気軽に観に来てくださいね!だからこそ、おいらのようなド素人でも、日本人であるからには一度は歌舞伎というものを鑑賞してみたい、と足が向く。
にもかかわらず、観客の間では、その御召し物では歌舞伎を汚すざんす!などとセレブリティどもが火花を散らす。どうやら和服の流派の争いのようだ。おいらのような門外漢は、そんなやりとりを遠目で観察する。そもそも舞台芸の真髄は滑稽芸、いわば人間観察の投影の場。なるほど、観客の側も滑稽芸を演じずにはいられないというわけか。人生とは、狂言のようなもの。猿の面をかぶれば猿になりきり、武士の面をかぶれば武士になりきり、セレブリティの面をかぶればセレブかぶれにもなれる。あとは、幸運であれば流れに乗じ、不運であれば逆境を糧とし、いかに達者に振る舞うか。いや、いかに優越感に浸れるか。人生とは、まさに滑稽芸のようなものやもしれん...
1. 血統よりも藝統
勘九郎さんは、生まれた時から様々な藝統を受け継ぐべく立場にあったという。伯父初代吉右衛門の得意とした時代物の演目、母方の祖父六代目菊五郎が五代目菊五郎から引き継いだ世話物や踊り、さらに、父方の祖父三代目歌六が上方の出身だったために上方歌舞伎の血も父十七代目が継承していたとか。幅広い歌舞伎狂言の演目を、父十七代目を通して「家の藝」として受け継ぐ宿命を追っていた。
しかしながら、宿命とは権利でもあり、恵まれた家柄ということもできるわけで、これが誇りとなる。江戸時代、幕府から公認された芝居小屋は、中村座、市村座、森田座(のちの守田座)の三座だけ。劇場の座元には所有権と興行権を与えられ、座頭役者を上回る格式を備えていく。
ただ、明治八年の十三代目引退以来、勘三郎の名跡は系譜上のみ数えられただけで、事実上途絶えていたという。中村もしほが十七代目を襲名したことで、江戸最古の座元として十八代目の意識が課せられることに。
一方、八十助さんは坂東流の重責を担ってきた家に生まれた。七代目三津五郎が子に恵まれず、八代目、九代目と養子、義子が続く。八代目は学者肌で、著書のたくさんある知識人。戦後関西で起こった「武智歌舞伎」では、武智鉄二が理論面を、八代目が実践面を担ったという。
また、九代目は、菊五郎劇団を支える脇役として一生を全うしたという。八代目、九代目と渋い脇役の三津五郎が続いたために、十代目は主役を演じる役者になることが期待されたとか。
三津五郎家は踊りの家ともいわれ、坂東流の代表的な舞踏を継承している。「傀儡師」、「寒山拾得」、「喜撰」、「道成寺」、「流星」などがその代表的な演目。だが、八代目、九代目と脇役が続いたために、家の藝と呼べる芝居は数少ないそうな。おれは捨石になってもいい!という父の思いを、八十助さん自身の言葉で語ってくれる。
母の方は、守田座の座元の家という誇りと執念を持っていたという。というのも、七代目三津五郎は十二代目守田勘弥の長男として生まれたが、三津五郎家の養子に入ったという経緯があるそうな。伝統的な脇役の家柄からの脱皮を、息子に託したということか...
しかしながら、こうした重厚な家柄で育っても、やはり若い頃は、テレビドラマや商業演劇の誘惑に負けることはあろう。どんな天才でも、どんな名人でも、目先の欲望に惑わされない人間はいない。ましてや実力を具え、すぐにでも実現できそうな場面で...
「曇りなき天分が、欲によって乱されていると感じていた。人は愛されることを強く望みすぎてはいけない。それは役者にとっても同じことだ。勘九郎は前のめりに生きていた。それは天才がはじめてあじわった苦悩だったのだろう。」
2. コクーン歌舞伎と平成中村座
伝統芸能のジレンマは、古典に斬新な解釈を打ち出せるか?という問題を抱えている。歌舞伎役者の藝は、いわば神聖化された領域。この領域を再検討し、エンタテイメントとしての演劇を見直す試みが「コクーン歌舞伎」である。回り舞台が常設されていないなど劇場機構に問題があるものの、即興性の舞台は江戸の芝居小屋をイメージしていたようである。芸能は庶民あってのもの、時代に合うものを取り入れ、古典と融合させて新たな解釈を試みながら生き残ってきた。
「歌舞伎はひとつの題材をさまざまなかたちで書き替えていく歴史である。」
尚、串田和美の演出は、歌舞伎用語で「コクーンの型」とも、「串田の型」とも言われる。
勘九郎は敏腕プロデューサーであるばかりか、敬虔な藝術至上主義者の面が同居している。仮説劇場の試みが浅草に居を定めるのではなく、どこへでも歌舞伎専用劇場を用意できる魔法の絨毯となる。
「笑いは演劇にとってもっとも有効な武器である。鑑賞するための伝統藝能であることをいったん投げ捨てて、歌舞伎になじみのない観客を存分に楽しませようとする勘九郎の意図が詰め込まれた舞台だった。」
そして、「東海道四谷怪談」の成功は平成中村座のニューヨーク公演の布石となった。評論家ベン・ブラントレーの劇評がニューヨーク・タイムズ一面に綴られる...
「歌舞伎の伝統に忠実でありながら、それを少しひねったやり方で階級、犯罪、名誉、恥といったテーマを扱い、うねうねと曲がりくねって進むこの物語は、確かに教養マニア向けとういだけではすまない作品といえる...
しかし時間がたつうちに、舞台上の竹格子の後ろにひかえた演奏者たちがかき鳴らす、切迫したように振動し瞑想的に鳴り響く弦の音が役者たちの演技を強調し、彼らの信号的な身振りやしかめた表情の下に、複雑なものが感じられるようになってくる。オープニングで騒々しく始まった滑稽な茶番劇が、いつしか、ドストエフスキーの小説の罪と恐怖の感覚を呼び起こすような、重々しい心理風景に変わっていたのだ。」
勘九郎は、ドストエフスキーと比べられたよ!と鬼の首でも取ったように喜んだそうな。歌舞伎が、現代を生きる演劇として認めれた瞬間であった...
ちなみに、納涼歌舞伎で上演された野田秀樹版「研辰の討たれ」では、こんな台詞を言わせているそうな。
「四十七人もいれば、中には今頃悔やんでいる奴もおりますよ。」
3. 襲名の重み
十七代目勘三郎が残した名言に、こういうものがあるそうな。
「歌舞伎とは、襲名と追善と見つけたり」
実力と人気がともなうから襲名できるのだが、それだけでは足らない。継ぐべく名跡が背負う家の藝の継承者として立っていく決意が求められる。襲名披露の公演では、先人たちの業績を意識し、しかも自分の進むべき道を示すよう考慮される。
三津五郎襲名時には、不思議と人柄までも温厚になる、と語ってくれる。大きく見せようと演じれば、かえって小さくなる。何もせず、自然に大きく見せることだと。賢人には、地位が人をつくると見える。だが、愚人には、地位が人を堕落へいざなう。
「ここには伝承の正しい形が残っている。教える人間が誇りを持ち、教わる人間に尊敬がある。かといって、ひとたび伝えたならば、それを二度目以降は墨守せよとはいわない。自分の自由だ...」
4. 海老蔵襲名時の弁慶代役
海老蔵の父、十二代目市川團十郎は、十九で父の十一代目を亡くしているという。團十郎家は市川宗家といわれ、誇りを高く持ちつつも、親がいないばかりに、こうべを垂れ、苦難を生きてきたことから、人格者として知られるそうな。二代目松緑、六代目歌右衛門、十七代目勘三郎らの指導を受けながら、一人で十代目海老蔵、十二代目團十郎を襲名。
そして、ようやく息子の海老蔵襲名の機会が訪れた矢先、白血病で倒れる。襲名披露公演「勧進帳」での弁慶役は、團十郎。その代役を務めたのが、三津五郎である。まったく稽古なしの代役も驚きだが、円熟期にあることの証である。團十郎は、こんな言葉をよくつぶやいていたそうな。
「日本人として大切なことを伝えたい、それは必ずしも歌舞伎でなくては、とこだわっていた訳ではない。『たまたま自分はこのような少し特殊な環境に生まれ、自分ができるのは歌舞伎を通すこと。日本で培われてきた先人たちの知恵を今こそ見直すべきだ』と常々言っていた。」
5. 踊りの家、三津五郎家の自負
「芝居には、味とか、風(ふう)とか、言いあらわしにくいものが大切だと思います。でも、踊りの場合、それらは後からくるものだと思う。」
踊りは、まずもって身体に叩き込む。極めて人為的でありながら自然と戯れるような極意とは、春風駘蕩がごとし。名人はどんなに曲がった形になっても、お尻の穴から頭の上へ、一本の棒が通っているという。どんなに激しい踊りでも、重心がぶれない、心棒から外れない。まさに、コマとは独楽と書く!
「芝居には、ストーリーがあり、共感して泣けたりとか、感情が外に出てくるものですが、本当にいい踊りを見終わった後って動けない。すごいものを見て、椅子から動けなかったことが何度かありました。芝居を見る感動と、いい踊りを見た時の感動って、種類が違う気がします。」
6. 過激な古典主義者
歌舞伎界には、こんな言葉があるそうな。
「時代に世話あり、世話に時代あり。」
歌舞伎が伝統芸能であるからには、時代物となるは至極当然。だが、どんな時代にも風俗は存在し、義理や人情もあれば、怨みや妬みの類いもあり、愛憎劇も欠かせない。だから人間喜劇として伝えられる。現代の価値観だけで歌舞伎を観ても理解が難しい。歴史を理解するということは、その時代の価値観をも飲み込むこと。そして、現代演劇として成り立たせようと試みたのが、コクーン歌舞伎であり、平成中村座であった。
しかしながら、勘三郎襲名を境に、古典主義者としての一面を露わにしたという。演劇の中心に歌舞伎があるという古き時代を、もう一度取り戻そうと尽力し始めたと。襲名の重責がそうさせたのであろうか。歌舞伎によって現代演劇をも飲み込もうとしたのだろうか。過激すぎた古典主義者だからこそ、古典を超越した創造力に駆り立てられたのやもしれん...
二人は奇しくも同学年に生まれ、六十を前に逝く。人間五十年... と歌われるが、今の時代にしては早すぎる。弔辞で三津五郎さんは勘三郎さんに語りかける。
「肉体の藝術ってつらいね!」
化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり... 絵画や小説と違って、まさに肉体芸は儚い...
「... 芝居も踊りも持ち味が違い、二十代から八回も演じた『棒しばり』。はじめの頃は、『お前たちのようにバタバタやるもんじゃない、春風が吹くようにフワッとした感じでやるものだ』と、諸先輩から注意を受けましたが、お互いに若く、負けたくないという心から、なかなかそのようにできなかった。それが、お互いに四十を超えた七回目の上演のとき、『やっと先輩たちの言っていた境地の入口に立てた気がするね』と握手をし合ったことを忘れません。長年の経験を経て、お互いに負けたくないという意識から、君には僕がいる。僕には君がいるという幸せと感謝に生まれ変わった瞬間だったように思います。...」
個人的には、長年名乗ってきた、勘九郎さん!八十助さん!と呼ぶ方がしっくりくる。この業界は、出世魚のごとく名を変えていく。ぶり、はまち、元はいなだの出世魚... とも言うが、二人には原点となった舞台があったという。「納涼歌舞伎」がそれである。初心忘るべからず!との世阿弥の言葉を受け継いだものと言えよう...
二月、八月は、ニッパチといって、客が入らない月とも言われるそうな。大立者といわれる役者は八月に休み、格下の役者が怪談物や本水を使った涼しい演目を見せるのが通例だったとか。二人は、この慣例を逆手にとって自分たちが芯を取って実力を養い、人気を集める公演をとうとう手に入れたという。
立役にとって三十代後半は難しい年頃、若旦那やいい脇役ではそろそろ物足らなくなり、かといって、芯を勤めるにはまだ荷が重い。芸風が微妙に変化しつつある中、円熟の下地となったのが、納涼歌舞伎だったという。八十助さんの言葉を借りれば、「八月は歌舞伎がはじめてのお客様にも愉んでいただける演目を考える」のだそうな。気さくに言葉をかけてくれる勘九郎さんの姿が目に浮かぶ... 博多座の襲名披露に来て下さったお客様はいらっしゃいますか?今日はじめて歌舞伎を観られる方はいらっしゃいますか?... こっちだって応えずにはいられない... よっ中村屋!軽い笑いで緊張感をほぐしてくれるのも、地方公演の魅力。八十助さんにしても、あの優しそうな口調でテレビ視聴者に語りかけていたのを思い出す... どうぞお気軽に観に来てくださいね!だからこそ、おいらのようなド素人でも、日本人であるからには一度は歌舞伎というものを鑑賞してみたい、と足が向く。
にもかかわらず、観客の間では、その御召し物では歌舞伎を汚すざんす!などとセレブリティどもが火花を散らす。どうやら和服の流派の争いのようだ。おいらのような門外漢は、そんなやりとりを遠目で観察する。そもそも舞台芸の真髄は滑稽芸、いわば人間観察の投影の場。なるほど、観客の側も滑稽芸を演じずにはいられないというわけか。人生とは、狂言のようなもの。猿の面をかぶれば猿になりきり、武士の面をかぶれば武士になりきり、セレブリティの面をかぶればセレブかぶれにもなれる。あとは、幸運であれば流れに乗じ、不運であれば逆境を糧とし、いかに達者に振る舞うか。いや、いかに優越感に浸れるか。人生とは、まさに滑稽芸のようなものやもしれん...
1. 血統よりも藝統
勘九郎さんは、生まれた時から様々な藝統を受け継ぐべく立場にあったという。伯父初代吉右衛門の得意とした時代物の演目、母方の祖父六代目菊五郎が五代目菊五郎から引き継いだ世話物や踊り、さらに、父方の祖父三代目歌六が上方の出身だったために上方歌舞伎の血も父十七代目が継承していたとか。幅広い歌舞伎狂言の演目を、父十七代目を通して「家の藝」として受け継ぐ宿命を追っていた。
しかしながら、宿命とは権利でもあり、恵まれた家柄ということもできるわけで、これが誇りとなる。江戸時代、幕府から公認された芝居小屋は、中村座、市村座、森田座(のちの守田座)の三座だけ。劇場の座元には所有権と興行権を与えられ、座頭役者を上回る格式を備えていく。
ただ、明治八年の十三代目引退以来、勘三郎の名跡は系譜上のみ数えられただけで、事実上途絶えていたという。中村もしほが十七代目を襲名したことで、江戸最古の座元として十八代目の意識が課せられることに。
一方、八十助さんは坂東流の重責を担ってきた家に生まれた。七代目三津五郎が子に恵まれず、八代目、九代目と養子、義子が続く。八代目は学者肌で、著書のたくさんある知識人。戦後関西で起こった「武智歌舞伎」では、武智鉄二が理論面を、八代目が実践面を担ったという。
また、九代目は、菊五郎劇団を支える脇役として一生を全うしたという。八代目、九代目と渋い脇役の三津五郎が続いたために、十代目は主役を演じる役者になることが期待されたとか。
三津五郎家は踊りの家ともいわれ、坂東流の代表的な舞踏を継承している。「傀儡師」、「寒山拾得」、「喜撰」、「道成寺」、「流星」などがその代表的な演目。だが、八代目、九代目と脇役が続いたために、家の藝と呼べる芝居は数少ないそうな。おれは捨石になってもいい!という父の思いを、八十助さん自身の言葉で語ってくれる。
母の方は、守田座の座元の家という誇りと執念を持っていたという。というのも、七代目三津五郎は十二代目守田勘弥の長男として生まれたが、三津五郎家の養子に入ったという経緯があるそうな。伝統的な脇役の家柄からの脱皮を、息子に託したということか...
しかしながら、こうした重厚な家柄で育っても、やはり若い頃は、テレビドラマや商業演劇の誘惑に負けることはあろう。どんな天才でも、どんな名人でも、目先の欲望に惑わされない人間はいない。ましてや実力を具え、すぐにでも実現できそうな場面で...
「曇りなき天分が、欲によって乱されていると感じていた。人は愛されることを強く望みすぎてはいけない。それは役者にとっても同じことだ。勘九郎は前のめりに生きていた。それは天才がはじめてあじわった苦悩だったのだろう。」
2. コクーン歌舞伎と平成中村座
伝統芸能のジレンマは、古典に斬新な解釈を打ち出せるか?という問題を抱えている。歌舞伎役者の藝は、いわば神聖化された領域。この領域を再検討し、エンタテイメントとしての演劇を見直す試みが「コクーン歌舞伎」である。回り舞台が常設されていないなど劇場機構に問題があるものの、即興性の舞台は江戸の芝居小屋をイメージしていたようである。芸能は庶民あってのもの、時代に合うものを取り入れ、古典と融合させて新たな解釈を試みながら生き残ってきた。
「歌舞伎はひとつの題材をさまざまなかたちで書き替えていく歴史である。」
尚、串田和美の演出は、歌舞伎用語で「コクーンの型」とも、「串田の型」とも言われる。
勘九郎は敏腕プロデューサーであるばかりか、敬虔な藝術至上主義者の面が同居している。仮説劇場の試みが浅草に居を定めるのではなく、どこへでも歌舞伎専用劇場を用意できる魔法の絨毯となる。
「笑いは演劇にとってもっとも有効な武器である。鑑賞するための伝統藝能であることをいったん投げ捨てて、歌舞伎になじみのない観客を存分に楽しませようとする勘九郎の意図が詰め込まれた舞台だった。」
そして、「東海道四谷怪談」の成功は平成中村座のニューヨーク公演の布石となった。評論家ベン・ブラントレーの劇評がニューヨーク・タイムズ一面に綴られる...
「歌舞伎の伝統に忠実でありながら、それを少しひねったやり方で階級、犯罪、名誉、恥といったテーマを扱い、うねうねと曲がりくねって進むこの物語は、確かに教養マニア向けとういだけではすまない作品といえる...
しかし時間がたつうちに、舞台上の竹格子の後ろにひかえた演奏者たちがかき鳴らす、切迫したように振動し瞑想的に鳴り響く弦の音が役者たちの演技を強調し、彼らの信号的な身振りやしかめた表情の下に、複雑なものが感じられるようになってくる。オープニングで騒々しく始まった滑稽な茶番劇が、いつしか、ドストエフスキーの小説の罪と恐怖の感覚を呼び起こすような、重々しい心理風景に変わっていたのだ。」
勘九郎は、ドストエフスキーと比べられたよ!と鬼の首でも取ったように喜んだそうな。歌舞伎が、現代を生きる演劇として認めれた瞬間であった...
ちなみに、納涼歌舞伎で上演された野田秀樹版「研辰の討たれ」では、こんな台詞を言わせているそうな。
「四十七人もいれば、中には今頃悔やんでいる奴もおりますよ。」
3. 襲名の重み
十七代目勘三郎が残した名言に、こういうものがあるそうな。
「歌舞伎とは、襲名と追善と見つけたり」
実力と人気がともなうから襲名できるのだが、それだけでは足らない。継ぐべく名跡が背負う家の藝の継承者として立っていく決意が求められる。襲名披露の公演では、先人たちの業績を意識し、しかも自分の進むべき道を示すよう考慮される。
三津五郎襲名時には、不思議と人柄までも温厚になる、と語ってくれる。大きく見せようと演じれば、かえって小さくなる。何もせず、自然に大きく見せることだと。賢人には、地位が人をつくると見える。だが、愚人には、地位が人を堕落へいざなう。
「ここには伝承の正しい形が残っている。教える人間が誇りを持ち、教わる人間に尊敬がある。かといって、ひとたび伝えたならば、それを二度目以降は墨守せよとはいわない。自分の自由だ...」
4. 海老蔵襲名時の弁慶代役
海老蔵の父、十二代目市川團十郎は、十九で父の十一代目を亡くしているという。團十郎家は市川宗家といわれ、誇りを高く持ちつつも、親がいないばかりに、こうべを垂れ、苦難を生きてきたことから、人格者として知られるそうな。二代目松緑、六代目歌右衛門、十七代目勘三郎らの指導を受けながら、一人で十代目海老蔵、十二代目團十郎を襲名。
そして、ようやく息子の海老蔵襲名の機会が訪れた矢先、白血病で倒れる。襲名披露公演「勧進帳」での弁慶役は、團十郎。その代役を務めたのが、三津五郎である。まったく稽古なしの代役も驚きだが、円熟期にあることの証である。團十郎は、こんな言葉をよくつぶやいていたそうな。
「日本人として大切なことを伝えたい、それは必ずしも歌舞伎でなくては、とこだわっていた訳ではない。『たまたま自分はこのような少し特殊な環境に生まれ、自分ができるのは歌舞伎を通すこと。日本で培われてきた先人たちの知恵を今こそ見直すべきだ』と常々言っていた。」
5. 踊りの家、三津五郎家の自負
「芝居には、味とか、風(ふう)とか、言いあらわしにくいものが大切だと思います。でも、踊りの場合、それらは後からくるものだと思う。」
踊りは、まずもって身体に叩き込む。極めて人為的でありながら自然と戯れるような極意とは、春風駘蕩がごとし。名人はどんなに曲がった形になっても、お尻の穴から頭の上へ、一本の棒が通っているという。どんなに激しい踊りでも、重心がぶれない、心棒から外れない。まさに、コマとは独楽と書く!
「芝居には、ストーリーがあり、共感して泣けたりとか、感情が外に出てくるものですが、本当にいい踊りを見終わった後って動けない。すごいものを見て、椅子から動けなかったことが何度かありました。芝居を見る感動と、いい踊りを見た時の感動って、種類が違う気がします。」
6. 過激な古典主義者
歌舞伎界には、こんな言葉があるそうな。
「時代に世話あり、世話に時代あり。」
歌舞伎が伝統芸能であるからには、時代物となるは至極当然。だが、どんな時代にも風俗は存在し、義理や人情もあれば、怨みや妬みの類いもあり、愛憎劇も欠かせない。だから人間喜劇として伝えられる。現代の価値観だけで歌舞伎を観ても理解が難しい。歴史を理解するということは、その時代の価値観をも飲み込むこと。そして、現代演劇として成り立たせようと試みたのが、コクーン歌舞伎であり、平成中村座であった。
しかしながら、勘三郎襲名を境に、古典主義者としての一面を露わにしたという。演劇の中心に歌舞伎があるという古き時代を、もう一度取り戻そうと尽力し始めたと。襲名の重責がそうさせたのであろうか。歌舞伎によって現代演劇をも飲み込もうとしたのだろうか。過激すぎた古典主義者だからこそ、古典を超越した創造力に駆り立てられたのやもしれん...
2017-05-21
"シンボリック・マネジャー" T. Deal & A. Kennedy 著
本棚を眺めていると、なんとなく懐かしい用語に目が留まる。こいつに出会ったのは、二十年くらい前になろうか...
80年代から90年代にかけて日本社会がバブルを謳歌していた頃、アメリカの産業はことごとく日本の製造業に脅かされ、日本に学べ!といった書が数多く出版された。しかしながら、ハーバード大学教授のテレンス・ディールとマッキンゼー社のアラン・ケネディは、こうした論調に苦言を呈す。日本の経営方式を真似ても、根本的な解決策になるとは思わないと。また、MBA分析、ポートフォリオ理論、費用曲線などを駆使する経営方式を弄しても、解決できるとは思わないと...
常に生き残ってきた企業には、近代経営学だけでは説明のつかない何かがある。同じ方法論を用いながらも、片やマンモス企業に成長すれば、片や早々に消え去る。企業とは、本来、人間による人間のための組織であるはず。そこには、きちんとした理念や価値観がある。巷では、社風と呼ばれるやつだ。本書は、より抽象度の高い「企業文化」という言葉を用いている。人が集まれば、集団の気質や個性が育まれ、それなりに理念や価値観なるものが生じてくるもので、その共通意識は文化となって現れる。健全な文化は集団の中で強い意志となり、企業体は精神的な総体となって強力となる。当時のアメリカにも、こうした企業精神を持つ偉大な企業が存在した。NCR, GE, IBM, P&G, 3M, Xerox など。その創設時の考えや方法を見直してみてはどうだろう、というのが本書の主旨である。
そして21世紀、経営陣の浅はかな行動によって危機的状況に追い込まれる企業の多い昨今、今度はこの書が日本企業に苦言を呈しているように映る...
「人が企業を動かしていることを忘れてはならない。そして、文化がいかにして人びとを結びつけ、日々の生活に意味と目的を与えているかについて、先人の教訓を学びなおさなければならない。」
なぜ働くのか?と聞けば、ほとんどの人が、お金を得るため、食うため、生活のため、と答えるだろう。だが、文化が非常に強く浸透した企業体では、心の奥底にある動機は、それだけにとどまらない。文化は強かろうが、弱かろうが、組織全体になんらかの影響を及ぼす。従業員たちの関心事は、どんな決定が下されるか?どんな人物が昇進するか?といったことから、好みの服装やスポーツや芸能にまで至り、互いの人間性にも少なからず影響を与え合う。それが、哲学的な意識や普遍的な価値観のレベルで影響し合うとしたら、どうであろう。仕事そのものが自己を高める手段となり、自己実現へと導くとしたら、どうであろう。「シンボリック・マネジャー」とは、そのような企業文化を体現する象徴的管理者のことを言う。本書は、組織の構造や戦略は、実体よりも象徴にあるという見方を示し、合理的管理者との対比から語ってくれる。
今日、MBAの取得などに躍起になる風潮がある。金儲けに直結する知識に群がるのは、いつの時代でも同じ。そもそも企業とは利潤を求める場所であり、こうした傾向が、経済的合理性という観点を与えてくれるのも確かだ。しかしながら、精神的合理性という観点からは、どうであろう。本書は、なにも合理的管理者を否定しようというのではなない。むしろ、企業の象徴的存在が別の役割を担おうというわけである。それは、独裁者のようなアクの強い管理者のことではなく、そうした頑固なタイプとは反対の人物。人間性を見抜き、育て、使い分ける手腕の持ち主。自ら英雄になろうとするよりも英雄を育てようとするタイプ。人を知るための忍耐力を人一倍具え、感受性が豊かでデリカシーに富むような、すなわち人間通の、人間観察の、人間の達人のような人間である。どうやら、カリスマ性だけでも勤まらないようである。野心家よりも淡々とした人物の方が相応しいのかもしれない。状況が変わって機能を必要としなくなれば、素早く身を引くような。管理者の立場に未練がないような。それだけ軽い存在だということを自分に言い聞かせているような。高尚な哲学者のような。
... などと書き並べれば、おいらにはまったく無縁の性格ではないか!と、二十年経った今も落ち込むのであった...
1. 文化は確実な投資物件!
社員が、互いに領分を侵すことなく、同じ方向に進めるのは、何の力によるものだろう。一つの答えは、不文律と相互理解、もう一つの可能性は、権限の分散だという。中央集権化した権限、形式化された手続き、厳格な階級制度などに強く依存することなく、自律と管理が調和した組織である。こうした傾向を文化と呼ぶからには、宗教めいたところも多分にある。ただし、盲信とはちと違う。信念にしても、理念にしても、どこか自発的な要素から発しており、しかも、自然に溶け込んでおり、強要的なものがまったく感じられない。
活気のあるチームでは、共有哲学を隠喩したような合言葉が生まれるのを、よく見かける。その合言葉が、目先の仕事、くだらない仕事を排除し、本当の意味で合理性をもたらす。そのような意識が組織全体に根付いていれば、危機的状況に陥っても少々無理がきくし、根付いていなければ、従業員は報酬額ばかりを口にしては、さっさと逃げ出すだろう。
どんな組織でも、重要な問題を解決し、利益に大きく貢献した英雄がもてはやされる。ただ、文化を根付かせ、本当の意味で持続的に貢献している真の英雄は、縁の下の力持ちの方かもしれない。しかも、そうした人物ほど表立って評価されないものである。
理念が隅々にまで行き届いた企業には、非公式でまったく形式張っていない伝達機構が存在するという。成文化されていないのが特徴で、柔軟性を持ちながらもルールは厳格だとか。共有された意識が厳格と言うべきであろうか。本書は、これを「文化のネットーワーク」と呼び、その役割分担を、語り役、聖職者、耳打ち役、スパイ、秘密結社、うわさ屋などの性格から解き明かそうとする。彼らは、悪知恵の働く連中から政治利用されやすい立場でもある。しかし、共有する哲学的意識を重視すると同時に、互いの自由意志を尊重するので、組織系統を越えた存在であろうとする。会社が理念から外れようとすれば、こうした連中が歯止めとなろう。シンボリック・マネジャーとは、文化のネットワークの成員を熟知し、彼らの活用法をよく心得ており、しかも真の英雄として暗躍し、言動そのものが経営理念を体現するような人物というわけか。ただし、企業文化を正式な声明書として記せば、聖書さながらのぎこちないものとなろう。文化の押し付けは、しばしば逆効果となることに留意したい...
2. ダミー定理と行動心理学
むかーし「ダミー定理」という用語を耳にした。それは、80対20の法則のように、真に活動を牽引しているのは少数派にあるという見方である。この定理によると、n人のグループにおいて、k人がダミーで、n に対する k の比率は 2/3 とされる。どんなグループでも、2/3 はダミーというわけだ。経済学者や統計学者は、こうした考えがお好きなようである。世の中にそんなに大勢のダミーが存在するのだろうか?自分でも意識できないような隠れた役割というものはないのだろうか?
しかしながら、こうした法則を持ち出さない限り、企業社会で高額の報酬を平然ともらっている連中が大勢いる事実を、説明できない。そして、有能な経営者がダミー定理を活用する事例が紹介される。例えば、三菱系の会長は、日本社会の終身雇用問題についてインタビューを受けた時のエピソードがある。中間管理職の職務遂行能力が低下してきたらどうするのか?終身雇用を建前としてどのように扱うのか?との問いに、会長は即座にこう答えたそうな。
「その問題については大いに研究しています。まず、彼の成績をあげるために何かうつ手はないかどうか、状況を調べます。しかし、彼の成績不振の原因がどうしても掴めない場合には、昇進させます。なぜなら、72.4 パーセントの確率で、昇進させるとたちまち成績があがるからです。」
組織内において、自分がダミー的な存在ではないか?という不安は、誰にでもあるだろう。昇進すれば、そのような不安を払拭でき、ダミー的な振る舞いを捨てるというわけだ。ある種の行動心理学である。
逆に、ピーターの法則というものも耳にする。人は能力の限界まで昇進し、そこでキャリアが行き詰まるという見方である。こちらの方が正論に見えるが、現実社会は実に多くのダミー的な存在によって成り立っている。そのダミー的な存在から真に評価すべき人物を知っているのは、管理者よりむしろサブカルチャーに身を置く連中であって、経営陣からはなかなか見えないものである。となれば、このような社会学の法則を利用するのも一つの手かもしれない。
ちなみに、ナポレオンは、ただの記章で価値のないレジオンドヌール勲章を復活させたことで、評論家たちの痛烈な非難を浴びた時に、こう反論したそうな。
「部下は、言葉ではなく、金ピカの飾りで導くものだ。」
実に皮肉に満ちた言葉ではあるが、見事に人間の本質を言い当てている。もちろん功績は認められるべきであって、認めることがさらなる偉大な動機となろうが、正当な評価がなされない組織では、むしろ文化を破壊することになろう...
3. IBMの餌づけエピソード
個性主義が行き過ぎても、はたまた画一的過ぎても、会社の活気は失われる。業界体質から、無法者を歓迎する会社もあれば、能力よりも秩序を重んじる会社もある。遊び心を奨励する会社があったり、野心や独立心を旺盛にさせる会社があったり、あるいは、少しでも集団意識から逸脱すると、けしからん!と叱られる会社があったり、企業風土というものは実に様々だ。GEで重役になれるような人物が、Xeroxでは失脚するということも、その逆もありうる。雁字搦めに規則で縛られたいM君もいれば、儀礼儀式にうるさく、官僚的な命令を下すことを好むS氏もいる。だからこそ、会社を選ぶ時は、看板や報酬に惑わされることなく、自分に合った企業風土を見つけたいものである。
ところで、アメリカ流のジョークには感服させられる。副社長の退任劇では、副社長のテーブルや椅子を彼の面前で火焙りにしたり、偉いぞ賞!でかした賞!あるいは、今週の殉教者賞など。IBM創始者の息子トーマス・ワトソン・ジュニアは、こう語ったそうな。
「餌づけされた鴨はもうどうこへも行こうとはしません。企業は野生の鴨を必要としていると確信します。IBMでは、彼らを餌づけしないように心がけています。」
すると、透かさず社員がこう返したという。
「野生の鴨でも隊列を組んで飛びます!」
この抗言は、たちまち教訓の一部に組み込まれたとさ...
4. 日本株式会社
日本企業の成功の大きな理由の一つは、国全体として、一つの非常に強い、緊密な文化を維持していることだと指摘している。個々の企業がそれぞれに強い文化を持つだけでなく、企業、銀行、政府との連繋をも含めた一つの文化を形成している。
例えば、ソニーが初めてニューヨーク支社を創設すると、これに続け!と日本電気や日立製作所などの営業マンたちが密かに集まって祝杯をあげた、などのエピソードはいまだに語り継がれる。ひと昔前、総合商社が世界各地の情報を集める重要な役割を担っていた。いわば産業界の諜報機関として。言い換えれば、政府系のシンクタンクは当てにならないってことだ。長い間、国家レベルの諜報機関が存在しないことは、我が国の弱点されてきた。外交能力の乏しい国家が経済大国にまでのし上がったのは、奇跡と言わざるをえない。
「日本株式会社とは実に企業文化の概念を全国規模に拡大したものである。」
しかしながら、成功してきた大企業でも、やはり官僚主義は蔓延する。時代にそぐわない惰性的な会計処理を見直すこともできなければ、粉飾決算として明るみになり、スキャンダル沙汰となる。社員全員で苦しみを分かち合おうってか?汚染水を川に垂れ流しするような行為に、従業員が反発しないようでは先行きは暗い。皮相的な儀礼や形式だけが継承され、企業精神ってやつはどこへやら?忘年会に欠席するヤツは査定するぞ!などと豪語する取締役がいる。集まることが団結力だと思っているようなマネジャーがいる。飲みニュケーションを優先させる空気の中で、サッカーの代表チームの試合を優先する人がいてもいいではないか。なによりも自発性、自主性が重んじられるべきであって、強迫しなければ参加を促せないとすれば、どこか間違っている。
一方で、アメリカでは、国家レベルで日本社会のように意識を一方向に向けることはできないだろう。それでも成功の陰には、個々の会社で効率的で、持続可能な文化が強い推進力として働いている。そうした意識傾向は、日本式だとか、アメリカ式だとかで区別できるものではなく、人間学の問題である。すべては、従業員にヤル気をおこさせることができるか、それを継続させることができるかにかかっている。個性や多様性が結束した時のパワーは、より計り知れないものとなろう...
80年代から90年代にかけて日本社会がバブルを謳歌していた頃、アメリカの産業はことごとく日本の製造業に脅かされ、日本に学べ!といった書が数多く出版された。しかしながら、ハーバード大学教授のテレンス・ディールとマッキンゼー社のアラン・ケネディは、こうした論調に苦言を呈す。日本の経営方式を真似ても、根本的な解決策になるとは思わないと。また、MBA分析、ポートフォリオ理論、費用曲線などを駆使する経営方式を弄しても、解決できるとは思わないと...
常に生き残ってきた企業には、近代経営学だけでは説明のつかない何かがある。同じ方法論を用いながらも、片やマンモス企業に成長すれば、片や早々に消え去る。企業とは、本来、人間による人間のための組織であるはず。そこには、きちんとした理念や価値観がある。巷では、社風と呼ばれるやつだ。本書は、より抽象度の高い「企業文化」という言葉を用いている。人が集まれば、集団の気質や個性が育まれ、それなりに理念や価値観なるものが生じてくるもので、その共通意識は文化となって現れる。健全な文化は集団の中で強い意志となり、企業体は精神的な総体となって強力となる。当時のアメリカにも、こうした企業精神を持つ偉大な企業が存在した。NCR, GE, IBM, P&G, 3M, Xerox など。その創設時の考えや方法を見直してみてはどうだろう、というのが本書の主旨である。
そして21世紀、経営陣の浅はかな行動によって危機的状況に追い込まれる企業の多い昨今、今度はこの書が日本企業に苦言を呈しているように映る...
「人が企業を動かしていることを忘れてはならない。そして、文化がいかにして人びとを結びつけ、日々の生活に意味と目的を与えているかについて、先人の教訓を学びなおさなければならない。」
なぜ働くのか?と聞けば、ほとんどの人が、お金を得るため、食うため、生活のため、と答えるだろう。だが、文化が非常に強く浸透した企業体では、心の奥底にある動機は、それだけにとどまらない。文化は強かろうが、弱かろうが、組織全体になんらかの影響を及ぼす。従業員たちの関心事は、どんな決定が下されるか?どんな人物が昇進するか?といったことから、好みの服装やスポーツや芸能にまで至り、互いの人間性にも少なからず影響を与え合う。それが、哲学的な意識や普遍的な価値観のレベルで影響し合うとしたら、どうであろう。仕事そのものが自己を高める手段となり、自己実現へと導くとしたら、どうであろう。「シンボリック・マネジャー」とは、そのような企業文化を体現する象徴的管理者のことを言う。本書は、組織の構造や戦略は、実体よりも象徴にあるという見方を示し、合理的管理者との対比から語ってくれる。
今日、MBAの取得などに躍起になる風潮がある。金儲けに直結する知識に群がるのは、いつの時代でも同じ。そもそも企業とは利潤を求める場所であり、こうした傾向が、経済的合理性という観点を与えてくれるのも確かだ。しかしながら、精神的合理性という観点からは、どうであろう。本書は、なにも合理的管理者を否定しようというのではなない。むしろ、企業の象徴的存在が別の役割を担おうというわけである。それは、独裁者のようなアクの強い管理者のことではなく、そうした頑固なタイプとは反対の人物。人間性を見抜き、育て、使い分ける手腕の持ち主。自ら英雄になろうとするよりも英雄を育てようとするタイプ。人を知るための忍耐力を人一倍具え、感受性が豊かでデリカシーに富むような、すなわち人間通の、人間観察の、人間の達人のような人間である。どうやら、カリスマ性だけでも勤まらないようである。野心家よりも淡々とした人物の方が相応しいのかもしれない。状況が変わって機能を必要としなくなれば、素早く身を引くような。管理者の立場に未練がないような。それだけ軽い存在だということを自分に言い聞かせているような。高尚な哲学者のような。
... などと書き並べれば、おいらにはまったく無縁の性格ではないか!と、二十年経った今も落ち込むのであった...
1. 文化は確実な投資物件!
社員が、互いに領分を侵すことなく、同じ方向に進めるのは、何の力によるものだろう。一つの答えは、不文律と相互理解、もう一つの可能性は、権限の分散だという。中央集権化した権限、形式化された手続き、厳格な階級制度などに強く依存することなく、自律と管理が調和した組織である。こうした傾向を文化と呼ぶからには、宗教めいたところも多分にある。ただし、盲信とはちと違う。信念にしても、理念にしても、どこか自発的な要素から発しており、しかも、自然に溶け込んでおり、強要的なものがまったく感じられない。
活気のあるチームでは、共有哲学を隠喩したような合言葉が生まれるのを、よく見かける。その合言葉が、目先の仕事、くだらない仕事を排除し、本当の意味で合理性をもたらす。そのような意識が組織全体に根付いていれば、危機的状況に陥っても少々無理がきくし、根付いていなければ、従業員は報酬額ばかりを口にしては、さっさと逃げ出すだろう。
どんな組織でも、重要な問題を解決し、利益に大きく貢献した英雄がもてはやされる。ただ、文化を根付かせ、本当の意味で持続的に貢献している真の英雄は、縁の下の力持ちの方かもしれない。しかも、そうした人物ほど表立って評価されないものである。
理念が隅々にまで行き届いた企業には、非公式でまったく形式張っていない伝達機構が存在するという。成文化されていないのが特徴で、柔軟性を持ちながらもルールは厳格だとか。共有された意識が厳格と言うべきであろうか。本書は、これを「文化のネットーワーク」と呼び、その役割分担を、語り役、聖職者、耳打ち役、スパイ、秘密結社、うわさ屋などの性格から解き明かそうとする。彼らは、悪知恵の働く連中から政治利用されやすい立場でもある。しかし、共有する哲学的意識を重視すると同時に、互いの自由意志を尊重するので、組織系統を越えた存在であろうとする。会社が理念から外れようとすれば、こうした連中が歯止めとなろう。シンボリック・マネジャーとは、文化のネットワークの成員を熟知し、彼らの活用法をよく心得ており、しかも真の英雄として暗躍し、言動そのものが経営理念を体現するような人物というわけか。ただし、企業文化を正式な声明書として記せば、聖書さながらのぎこちないものとなろう。文化の押し付けは、しばしば逆効果となることに留意したい...
2. ダミー定理と行動心理学
むかーし「ダミー定理」という用語を耳にした。それは、80対20の法則のように、真に活動を牽引しているのは少数派にあるという見方である。この定理によると、n人のグループにおいて、k人がダミーで、n に対する k の比率は 2/3 とされる。どんなグループでも、2/3 はダミーというわけだ。経済学者や統計学者は、こうした考えがお好きなようである。世の中にそんなに大勢のダミーが存在するのだろうか?自分でも意識できないような隠れた役割というものはないのだろうか?
しかしながら、こうした法則を持ち出さない限り、企業社会で高額の報酬を平然ともらっている連中が大勢いる事実を、説明できない。そして、有能な経営者がダミー定理を活用する事例が紹介される。例えば、三菱系の会長は、日本社会の終身雇用問題についてインタビューを受けた時のエピソードがある。中間管理職の職務遂行能力が低下してきたらどうするのか?終身雇用を建前としてどのように扱うのか?との問いに、会長は即座にこう答えたそうな。
「その問題については大いに研究しています。まず、彼の成績をあげるために何かうつ手はないかどうか、状況を調べます。しかし、彼の成績不振の原因がどうしても掴めない場合には、昇進させます。なぜなら、72.4 パーセントの確率で、昇進させるとたちまち成績があがるからです。」
組織内において、自分がダミー的な存在ではないか?という不安は、誰にでもあるだろう。昇進すれば、そのような不安を払拭でき、ダミー的な振る舞いを捨てるというわけだ。ある種の行動心理学である。
逆に、ピーターの法則というものも耳にする。人は能力の限界まで昇進し、そこでキャリアが行き詰まるという見方である。こちらの方が正論に見えるが、現実社会は実に多くのダミー的な存在によって成り立っている。そのダミー的な存在から真に評価すべき人物を知っているのは、管理者よりむしろサブカルチャーに身を置く連中であって、経営陣からはなかなか見えないものである。となれば、このような社会学の法則を利用するのも一つの手かもしれない。
ちなみに、ナポレオンは、ただの記章で価値のないレジオンドヌール勲章を復活させたことで、評論家たちの痛烈な非難を浴びた時に、こう反論したそうな。
「部下は、言葉ではなく、金ピカの飾りで導くものだ。」
実に皮肉に満ちた言葉ではあるが、見事に人間の本質を言い当てている。もちろん功績は認められるべきであって、認めることがさらなる偉大な動機となろうが、正当な評価がなされない組織では、むしろ文化を破壊することになろう...
3. IBMの餌づけエピソード
個性主義が行き過ぎても、はたまた画一的過ぎても、会社の活気は失われる。業界体質から、無法者を歓迎する会社もあれば、能力よりも秩序を重んじる会社もある。遊び心を奨励する会社があったり、野心や独立心を旺盛にさせる会社があったり、あるいは、少しでも集団意識から逸脱すると、けしからん!と叱られる会社があったり、企業風土というものは実に様々だ。GEで重役になれるような人物が、Xeroxでは失脚するということも、その逆もありうる。雁字搦めに規則で縛られたいM君もいれば、儀礼儀式にうるさく、官僚的な命令を下すことを好むS氏もいる。だからこそ、会社を選ぶ時は、看板や報酬に惑わされることなく、自分に合った企業風土を見つけたいものである。
ところで、アメリカ流のジョークには感服させられる。副社長の退任劇では、副社長のテーブルや椅子を彼の面前で火焙りにしたり、偉いぞ賞!でかした賞!あるいは、今週の殉教者賞など。IBM創始者の息子トーマス・ワトソン・ジュニアは、こう語ったそうな。
「餌づけされた鴨はもうどうこへも行こうとはしません。企業は野生の鴨を必要としていると確信します。IBMでは、彼らを餌づけしないように心がけています。」
すると、透かさず社員がこう返したという。
「野生の鴨でも隊列を組んで飛びます!」
この抗言は、たちまち教訓の一部に組み込まれたとさ...
4. 日本株式会社
日本企業の成功の大きな理由の一つは、国全体として、一つの非常に強い、緊密な文化を維持していることだと指摘している。個々の企業がそれぞれに強い文化を持つだけでなく、企業、銀行、政府との連繋をも含めた一つの文化を形成している。
例えば、ソニーが初めてニューヨーク支社を創設すると、これに続け!と日本電気や日立製作所などの営業マンたちが密かに集まって祝杯をあげた、などのエピソードはいまだに語り継がれる。ひと昔前、総合商社が世界各地の情報を集める重要な役割を担っていた。いわば産業界の諜報機関として。言い換えれば、政府系のシンクタンクは当てにならないってことだ。長い間、国家レベルの諜報機関が存在しないことは、我が国の弱点されてきた。外交能力の乏しい国家が経済大国にまでのし上がったのは、奇跡と言わざるをえない。
「日本株式会社とは実に企業文化の概念を全国規模に拡大したものである。」
しかしながら、成功してきた大企業でも、やはり官僚主義は蔓延する。時代にそぐわない惰性的な会計処理を見直すこともできなければ、粉飾決算として明るみになり、スキャンダル沙汰となる。社員全員で苦しみを分かち合おうってか?汚染水を川に垂れ流しするような行為に、従業員が反発しないようでは先行きは暗い。皮相的な儀礼や形式だけが継承され、企業精神ってやつはどこへやら?忘年会に欠席するヤツは査定するぞ!などと豪語する取締役がいる。集まることが団結力だと思っているようなマネジャーがいる。飲みニュケーションを優先させる空気の中で、サッカーの代表チームの試合を優先する人がいてもいいではないか。なによりも自発性、自主性が重んじられるべきであって、強迫しなければ参加を促せないとすれば、どこか間違っている。
一方で、アメリカでは、国家レベルで日本社会のように意識を一方向に向けることはできないだろう。それでも成功の陰には、個々の会社で効率的で、持続可能な文化が強い推進力として働いている。そうした意識傾向は、日本式だとか、アメリカ式だとかで区別できるものではなく、人間学の問題である。すべては、従業員にヤル気をおこさせることができるか、それを継続させることができるかにかかっている。個性や多様性が結束した時のパワーは、より計り知れないものとなろう...
2017-05-14
"失語症と言語学" Roman Jakobson 著
「失語症による損傷は、幼児の習得順序を逆に再現する。... 言語の障害のされ方はでたらめではなく、一定の法則に従っているということ、そして言語学の技術と方法論とを首尾一貫して適用していくことをしないかぎり、言語の退行現象の基底にある法則を見出すことはおそらくできないだろう。」
言語学者ロマーン・ヤーコブソンは、心理学、神経学、病理学などとも協調する学際的な立場をとり、精神科医との連携が欠かせないと強く主張する。彼が語尾を強める背景には、フロイト学派への牽制がある。当時のフロイト学派は、言葉が理解できなくなったり、話すことができなくなったりする症状を、まだ病理の方面からでしか捉えていなかったようである。進化への道と退化への道は、互いに逆ベクトルの関係にあると言えばもっともらしい。そして今、人類は進化の過程にあるのか、はたまた...
進化の過程を自然に体現する赤児という生き物は、驚異的な学習能力を発揮しやがる。言葉を覚えるというのは、かなり高度な努力が要求されるはず。なのに、おぎゃー!としか発っせないガキどもが、たった数ヶ月でクーイングから喃語へ進化し始め、やがて身振りとともに言葉もどきを発声するようになり、数年もすれば大人が理解できる言葉を操る。大人どもが外国語を習得するのに、十年かけても苦労が絶えないというのに...
幼児と大人の違いとは、なんであろう。まず知識ゼロからのスタートは、学び方に偏見がないということがあろう。金儲けのため... 地位を得るため... といった脂ぎった欲望を知る由もない。子供の純真な好奇心ほど旺盛なものはない。意味的な価値観を獲得する初期の段階では、余計な知識もなければ雑念もなく、なんでも素直に受け入れられる度量がある。
対して、大人どもときたら他人の論調を受け入れがたいところがあって、説明に困った時には、それは常識だ!と一言で片付ける。知識や技術に理解のない大人の見解は、こんな事に何の意味があるのか?こんなものが何の役に立つのか?といった類いで、芸術作品に対しても、作者はいったい何が言いたいのか?などと最低な感想をもらす。英語の学習法に対してはもっと顕著で、聴き流すだけ... といったキャッチフレーズにこぞって群らがる。インプットが少ない幼児が言葉遅れの傾向を示すのも確かで、日本語と英語の音声周波数帯が違うのも間違いなく、それなりに説得力のある文句ではある。ただ、与えられる情報量に処理能力がついていけなければ、却って害になる。鍵となるのは、音声周波数が言語脳と結びつくかどうかであって、言語脳が形成される前に単なる音として耳が慣らされてしまえば本末転倒。
結局、大人どもの意識には、楽して得をしたい!努力の見返りが欲しい!といった最小労力の原理が働くというだけのこと。そういえば、むかーし睡眠学習というメソッドがもてはやされた。大人はみな面倒臭さがり屋よ。おまけに、経験を積み、歳を重ねていくと、意識改革までも難しくなる。知識の見直しは、過去の否定になりかねない。大人どもは自己肯定を意識するあまり過去に縋り、餓鬼どもは前世の悪行をものともしないのである...
ところで、失語症の対極に、お喋り症候群とも言える病がある。お笑い芸人なら、口から生まれた!などと冗談も通じよう。会話が達者ならば、それはむしろ才能だ。しかしながら、独りぼっちでグラスに向かって話しかけているとしたら... 氷を人差し指で回しながら、君って冷たいね!ってな具合に... アル中ハイマー病患者にとっては、こちらの方が由々しき問題だ!独り言の意義とは、なんであろう。言葉を発することが精神安定剤となることがある。知識を膨らませるために、話し手と聞き手の共同作業を独りで演じきれるとしたら、高度な精神状態とも言えよう。
孤独と相性のいい芸術は、いわば独り善がりの世界。最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は騒動のうちになされる... とは、トーマス・エジソンの言葉だ。まさに哲学は自問自答を根幹に置き、自己否定に陥ってもなお心が平穏であることを要請してくる。それは自立への意志であり、自由への意志である。
言葉を武器とする小説家のような人種は、最初から精神病棟の入り口に立たされているようなもの。失語症が言葉や文脈の関係を断ち切ることによって生じるとすれば、これまた関係性からの自立、すなわち、依存症からの脱却とも言える。自立や自由への思いが強い人ほど、危険性が高いということか。自立と孤独とを混同してはならなるまい。
「自律には価値があるが、孤立は常に有害である。」
人間が精神的ダメージを受けやすい状況は、概して恐怖心との関連性が強い。精神を活性化させるには、ヨガ、瞑想、禅、茶道、華道といった外来的方法もあるが、自我が無意識に自己解決を試みるとしたら、どんな方法をとるだろうか。失語症も、独り言も、自我が試みるマインドフルネスの一種であろうか。無意識というからには自己の制御不能な領域から発するわけで、すでに自我は別の人格へ移行しているのかもしれない。
したがって、本ブログが「アル中ハイマーの独り言」と題しているからには、けして本心ではない!と語尾を強めて言い訳しておこう...
1. 恐るべしガキ!恐るべし模倣者!
周りに人がいようが、いまいが、赤子は泣く。人に振り向いてもらいたいという欲求は、泣けば相手をしてくれるという経験を重ねていくうちに後から目覚めていく。周囲との関係から存在を意識するようになると、やがて自分の居場所というものを追求するようになり、言葉は自己存在との関係から発達していく。乳幼児は喃語の時期に、多種多様な音を発する。舌打音、口蓋化子音、円唇化子音、半閉鎖音、歯擦音、口蓋垂音など。だが、単語を習得する段階になると、これらの音をほとんど消失してしまう。
ここで興味深いのは、言語習得の努力によって、軟口蓋音、歯擦音、流音などを意味論的な価値と結びつけて、再度、獲得しなおすという指摘である。つまり、知識の獲得によって、音声的豊饒から音声的制限へ移行するというのである。
言語機能の発達によって、感嘆詞や擬音語は主役の座からおろされる。幼児語が自己の中で再認識された時、音素の意味論的な傾向が言語記号と結びつき、音素の選択肢が制限される。無意識的な自由から意識的な制限への移行... とでも言おうか。知識がなければ、理性も知性も育まれない。理性や知性を獲得すれば、自ら自由を制限する力を持つようになる。言語習得の法則も、これに従うらしい。子供には、まず喋ることを教え、次に黙ることを教えよ... とは誰の言葉であったか。
幼児の学び方は、単純明快!それは大人たちの物真似から始まる。そもそも人間の創造性とは、何らかの影響によってもたらされる結果であって、いわば模倣を原理としている。ダ・ヴィンチにしても、ミケランジェロにしても、ラファエロにしても、修行時代、多くの模写に励んだ結果、自然に独創性が生じるのを待った。完全な無から創造できるのは、神ぐらいなものか。幼児の模倣は、知識を無意識に借用しつつ創造するのであって、猿真似とはちと違うようである。模倣を超越した次元で、原型から創造的逸脱を要求するような。そこに模倣の対象を選ぼうとする意志はない。書を選び、師を選び、弟子入りしたり、帰依したりするのは大人の意志だ。知識を都合よく選択によって狭め、常識と非常識を篩いにかけ、偏狭にあるのはむしろ大人の方か...
「一言にして言えば、幼児は自ら模倣されつつある模倣者なのである。」
2. 言語の対称性と非可逆性
物理学では対称性の理論が重宝される。しかも、完全な法則ではなく、対称性の破れってやつがつきまとう。人間もまた、物理学の法則に従っているのかは知らんが、だいたいにおいて対立的な関係を好み、しかも、どこか適度の自由を求めている。体系が不完全であるがゆえに進化の余地を残し、自由度と柔軟性によって秩序と無秩序までも調和させるのである。言語体系の変遷は、国語の法則などで強制できるものではない。不完全な人間にとって、完全な法則よりも法則たらんとすることが、心の休まる存在となろう...
幼児の場合、最初に鼻音と口腔音の対立が生じるという。やがて言語の最小体系に、母音と子音の対立が現れる。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとって、物事は区別によって認識され、二項対立によって構築されていく。それは極めて離散的な、デジタルな世界であり、シャノンの情報理論にも通ずる。自己存在を心地よいものとするには、自己優位説を唱えるのが手っ取り早く、人間が差別好きというのも頷けよう。
また、世界のあらゆる言語にある共時態には、非可逆連帯関係の法則が見出せるという。例えば、幼児の音韻体系では、軟口蓋と硬口蓋子音の習得は、唇音と歯音の習得を前提にするケースがあるとか。タタール語では、軟・硬口蓋子音を欠き、多くの言語でも軟口蓋や硬口蓋鼻音を欠くケースがあり、その場合でも唇音と歯音を欠くとか。世界諸言語で、軟・硬口蓋子音の存在には唇音と歯音が同時に存在するが、その逆は成り立たないそうな。摩擦音の習得にも閉鎖音を前提にするという。摩擦音が完全に欠けた言語は存在しても、閉鎖音のない言語は存在しないのだそうな。
ちと話は違うが、日本語でも反対語が見当たらないことがある。慣習的に反対語を必要としなかったのか。そんな時は否定文を用いればいい。論理学には、いざという時に全否定という裏ワザもある。言語体系が完全であれば、言い訳の隙も与えず、精神病から逃れる道も閉ざされよう。非可逆の法則は、人間にとって拠り所になっているのやもしれん...
3. 母音と子音
人間の身体は、息を吐く物理的構造に鼻と口の二本の管を具える。かくして最初に、塞いだ管と開いた管の対立が生じたという。口腔閉鎖音や鼻閉鎖音など。次に、一本の管と二本の管の対立が生じる。母音と子音がそれで、前者は鼻の管を塞ぎ、後者は鼻の管を開く。母音はそのままでも、子音は複雑に分化していく。多くの共存を望むならば、選択肢を増やして分岐を多様化させるのは、ダーウィンの法則がごとし。
ところで、日本語の特徴は、母音を強く発し、鼻の管を塞いだ音が強調される傾向にある。言葉を学ぶ時は書くことを基調とし、文字がそのまま発生記号の役割を持つ。
対して、英語の特徴は、子音を強調する傾向があり、おのずと発声周波数帯が違ってくる。それは、言葉を学ぶ時に喋ることを基調としているからであろう。
日本語の五十音に対してアルファベットは26文字と少ないが、発音記号を含めれば音素的にはむしろ多彩である。西洋人の中には、言葉は喋れても文字が書けないという人が意外に多いと聞く。日本人は、だいたいどちらもできる。こうした違いは、コミュニケーションの仕方にも現れる。日本人は発音に無頓着なところがあり、よく外国人から、口の動きがはっきりせず、もごもごしていると指摘される。それは、英語の L と R が区別できないことにも現れている。日本語には、音素的にカタカタで柔軟に対応できる仕組みがあるとはいえ、厳密な発声法は表記できないのである。
さて、幼児の言語習得では、最初の母音対立は、最初の子音対立より後だという。それゆえ、子音が既に弁別的機能を満たしているにもかかわらず、他方で、一つの母音が子音の変種のような素材でしかないような段階があるとか。
また、音素的価値と記号的価値はどちらが原始的かは、失語症にも現れるようである。精神科医の観察から、言語障害では、第一に鼻母音が消失傾向にあり、同時に流音の対立も消失しやすいという。第二次母音は第一次母音より消失しやすく、摩擦音や半閉鎖音は閉鎖音へ変わり、軟口蓋子音は口腔前方子音より先に失われるという。そして、唇音と母音の A が、破壊に対抗する最後の音素だそうな。
老人が口から名詞がとっさに出てこなくて、あれ、これ、それ、などと代名詞に頼ろうとするのも、外国人との会話で、大袈裟なジェスチャーに頼るのも、とっさに言葉が出ずに、えー、んー、などと発声してリズムをとるのも、ある種の失語症に見えてくる...
4. 失語症タイプを区別する二分法
病理学的には、言葉が理解できない感覚性失語症と、言葉は理解できるが話すことができない運動性失語症とに分類されるが、ここでは、言語学的に六つの失語症タイプを紹介してくれる。言葉が理解できなければ黙るしかなく、理解できても口から言葉が出てこなければ、やはり黙るしかない。結局、同じことと言えばそうなのだが、治療法となるとやはり複雑である。ヤーコブソンは、失語症タイプの基礎に三つの二分法を置く。
第一の二分法... 符号化障害 対 解読障害
符号化障害では、構成要素が正常でも文脈で障害を起こし、逆に解読障害では、文脈が正常でも構成要素に障害を起こすという。前者は、結合や近接性における障害で、後者は選択や類同性における障害であると。
文脈が組み立てられなければ、統辞的な関係が崩壊し、支離滅裂となる。一方で、単語が貧困化すれば、選択の余地をなくし、文体までも貧素になる。ただ、二重否定のような構文は、正常者であっても理解が難しいし、難解な哲学書が誰でも理解ができるとは思えないし、誰でもどこか符号化障害や解読障害のようなものを抱えているのであろう...
第二の二分法... 制約 対 崩解
第一の二分法から薄められた型があるという。符号化障害の中の動的失語タイプと、解読障害の中の意味性失語タイプである。符号化障害にともない、視覚像をもった夢が抑制されるという症状もあるそうな。符号信号から視覚信号へ変換される際の崩解という見方もできそうか。
正常な言語では語類と統辞機能との間に区別があるが、意味性失語症ではこの二重性が失われるという。操る語が制約されると、言いたいことが制約され、精神までも制約を受ける。単語がある文脈に固定されて、言葉がやけに形式的になるのも、ある種の制約と言えよう。制約と崩解は、対立関係というよりは表裏一体に見えてくる。動的失語は静的文脈に支配され、自ら自由を束縛にかかる。意味性失語は統辞規則を単純化し、自己を窮屈にする。そうなると、義務的規則も考えものだ。礼儀作法で多用される決まり文句や書式の慣習化は、便利でありながら思考を低下させかねない...
第三のニ分法... 連続(継時性) 対 共起(同時性)
言語系が破壊されれば、単語と単語、文と文における、連続性か、同時性か、のどちらかが障害されているのだろう。もっと言うなら、精神病のほとんどは、なんらかの時間的関係性を失った状態なのだろう。自己防衛本能が、都合の悪い関係性を自動的に断ち切ってくれることは、ありがたいことではあるが...
中でも興味深い病状に、求心性失語と健忘性失語を紹介してくれる。求心性失語は、同時的結合における符号化障害で、健忘性失語は、継起的選択における解読障害だという。前者は、言語の音連続における共起的構成要素の配列のみが関与する近接性障害で、後者は、純粋な類同性に基づいた文法的連続体のみが関与する類同性障害であるとか。求心性失語は弁別素性の近接性における障害で、健忘症失語は語配列の類同姓における障害ということらしい。
同音異義語や類音異義語を弁別するには、文脈から判断しなければならず、これらを多用するのにも高度な技術が要求される。音素的に調和する詩文的な技巧にも、連続性と同時性が多分に関与する。文面に語呂合わせが出現するのは、高度な精神状態の表れであろうか。となると、音律的な駄洒落も高度な技術の一つと言えよう。酒に酔うと駄洒落がでやすくなるのも、この手の障害であろうか。ちなみに、あるバーテンダーは「酒に落ちる」と書いて「お洒落!」などと能書きを垂れていたが、棒が一本足らんよ!
言語学者ロマーン・ヤーコブソンは、心理学、神経学、病理学などとも協調する学際的な立場をとり、精神科医との連携が欠かせないと強く主張する。彼が語尾を強める背景には、フロイト学派への牽制がある。当時のフロイト学派は、言葉が理解できなくなったり、話すことができなくなったりする症状を、まだ病理の方面からでしか捉えていなかったようである。進化への道と退化への道は、互いに逆ベクトルの関係にあると言えばもっともらしい。そして今、人類は進化の過程にあるのか、はたまた...
進化の過程を自然に体現する赤児という生き物は、驚異的な学習能力を発揮しやがる。言葉を覚えるというのは、かなり高度な努力が要求されるはず。なのに、おぎゃー!としか発っせないガキどもが、たった数ヶ月でクーイングから喃語へ進化し始め、やがて身振りとともに言葉もどきを発声するようになり、数年もすれば大人が理解できる言葉を操る。大人どもが外国語を習得するのに、十年かけても苦労が絶えないというのに...
幼児と大人の違いとは、なんであろう。まず知識ゼロからのスタートは、学び方に偏見がないということがあろう。金儲けのため... 地位を得るため... といった脂ぎった欲望を知る由もない。子供の純真な好奇心ほど旺盛なものはない。意味的な価値観を獲得する初期の段階では、余計な知識もなければ雑念もなく、なんでも素直に受け入れられる度量がある。
対して、大人どもときたら他人の論調を受け入れがたいところがあって、説明に困った時には、それは常識だ!と一言で片付ける。知識や技術に理解のない大人の見解は、こんな事に何の意味があるのか?こんなものが何の役に立つのか?といった類いで、芸術作品に対しても、作者はいったい何が言いたいのか?などと最低な感想をもらす。英語の学習法に対してはもっと顕著で、聴き流すだけ... といったキャッチフレーズにこぞって群らがる。インプットが少ない幼児が言葉遅れの傾向を示すのも確かで、日本語と英語の音声周波数帯が違うのも間違いなく、それなりに説得力のある文句ではある。ただ、与えられる情報量に処理能力がついていけなければ、却って害になる。鍵となるのは、音声周波数が言語脳と結びつくかどうかであって、言語脳が形成される前に単なる音として耳が慣らされてしまえば本末転倒。
結局、大人どもの意識には、楽して得をしたい!努力の見返りが欲しい!といった最小労力の原理が働くというだけのこと。そういえば、むかーし睡眠学習というメソッドがもてはやされた。大人はみな面倒臭さがり屋よ。おまけに、経験を積み、歳を重ねていくと、意識改革までも難しくなる。知識の見直しは、過去の否定になりかねない。大人どもは自己肯定を意識するあまり過去に縋り、餓鬼どもは前世の悪行をものともしないのである...
ところで、失語症の対極に、お喋り症候群とも言える病がある。お笑い芸人なら、口から生まれた!などと冗談も通じよう。会話が達者ならば、それはむしろ才能だ。しかしながら、独りぼっちでグラスに向かって話しかけているとしたら... 氷を人差し指で回しながら、君って冷たいね!ってな具合に... アル中ハイマー病患者にとっては、こちらの方が由々しき問題だ!独り言の意義とは、なんであろう。言葉を発することが精神安定剤となることがある。知識を膨らませるために、話し手と聞き手の共同作業を独りで演じきれるとしたら、高度な精神状態とも言えよう。
孤独と相性のいい芸術は、いわば独り善がりの世界。最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は騒動のうちになされる... とは、トーマス・エジソンの言葉だ。まさに哲学は自問自答を根幹に置き、自己否定に陥ってもなお心が平穏であることを要請してくる。それは自立への意志であり、自由への意志である。
言葉を武器とする小説家のような人種は、最初から精神病棟の入り口に立たされているようなもの。失語症が言葉や文脈の関係を断ち切ることによって生じるとすれば、これまた関係性からの自立、すなわち、依存症からの脱却とも言える。自立や自由への思いが強い人ほど、危険性が高いということか。自立と孤独とを混同してはならなるまい。
「自律には価値があるが、孤立は常に有害である。」
人間が精神的ダメージを受けやすい状況は、概して恐怖心との関連性が強い。精神を活性化させるには、ヨガ、瞑想、禅、茶道、華道といった外来的方法もあるが、自我が無意識に自己解決を試みるとしたら、どんな方法をとるだろうか。失語症も、独り言も、自我が試みるマインドフルネスの一種であろうか。無意識というからには自己の制御不能な領域から発するわけで、すでに自我は別の人格へ移行しているのかもしれない。
したがって、本ブログが「アル中ハイマーの独り言」と題しているからには、けして本心ではない!と語尾を強めて言い訳しておこう...
1. 恐るべしガキ!恐るべし模倣者!
周りに人がいようが、いまいが、赤子は泣く。人に振り向いてもらいたいという欲求は、泣けば相手をしてくれるという経験を重ねていくうちに後から目覚めていく。周囲との関係から存在を意識するようになると、やがて自分の居場所というものを追求するようになり、言葉は自己存在との関係から発達していく。乳幼児は喃語の時期に、多種多様な音を発する。舌打音、口蓋化子音、円唇化子音、半閉鎖音、歯擦音、口蓋垂音など。だが、単語を習得する段階になると、これらの音をほとんど消失してしまう。
ここで興味深いのは、言語習得の努力によって、軟口蓋音、歯擦音、流音などを意味論的な価値と結びつけて、再度、獲得しなおすという指摘である。つまり、知識の獲得によって、音声的豊饒から音声的制限へ移行するというのである。
言語機能の発達によって、感嘆詞や擬音語は主役の座からおろされる。幼児語が自己の中で再認識された時、音素の意味論的な傾向が言語記号と結びつき、音素の選択肢が制限される。無意識的な自由から意識的な制限への移行... とでも言おうか。知識がなければ、理性も知性も育まれない。理性や知性を獲得すれば、自ら自由を制限する力を持つようになる。言語習得の法則も、これに従うらしい。子供には、まず喋ることを教え、次に黙ることを教えよ... とは誰の言葉であったか。
幼児の学び方は、単純明快!それは大人たちの物真似から始まる。そもそも人間の創造性とは、何らかの影響によってもたらされる結果であって、いわば模倣を原理としている。ダ・ヴィンチにしても、ミケランジェロにしても、ラファエロにしても、修行時代、多くの模写に励んだ結果、自然に独創性が生じるのを待った。完全な無から創造できるのは、神ぐらいなものか。幼児の模倣は、知識を無意識に借用しつつ創造するのであって、猿真似とはちと違うようである。模倣を超越した次元で、原型から創造的逸脱を要求するような。そこに模倣の対象を選ぼうとする意志はない。書を選び、師を選び、弟子入りしたり、帰依したりするのは大人の意志だ。知識を都合よく選択によって狭め、常識と非常識を篩いにかけ、偏狭にあるのはむしろ大人の方か...
「一言にして言えば、幼児は自ら模倣されつつある模倣者なのである。」
2. 言語の対称性と非可逆性
物理学では対称性の理論が重宝される。しかも、完全な法則ではなく、対称性の破れってやつがつきまとう。人間もまた、物理学の法則に従っているのかは知らんが、だいたいにおいて対立的な関係を好み、しかも、どこか適度の自由を求めている。体系が不完全であるがゆえに進化の余地を残し、自由度と柔軟性によって秩序と無秩序までも調和させるのである。言語体系の変遷は、国語の法則などで強制できるものではない。不完全な人間にとって、完全な法則よりも法則たらんとすることが、心の休まる存在となろう...
幼児の場合、最初に鼻音と口腔音の対立が生じるという。やがて言語の最小体系に、母音と子音の対立が現れる。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとって、物事は区別によって認識され、二項対立によって構築されていく。それは極めて離散的な、デジタルな世界であり、シャノンの情報理論にも通ずる。自己存在を心地よいものとするには、自己優位説を唱えるのが手っ取り早く、人間が差別好きというのも頷けよう。
また、世界のあらゆる言語にある共時態には、非可逆連帯関係の法則が見出せるという。例えば、幼児の音韻体系では、軟口蓋と硬口蓋子音の習得は、唇音と歯音の習得を前提にするケースがあるとか。タタール語では、軟・硬口蓋子音を欠き、多くの言語でも軟口蓋や硬口蓋鼻音を欠くケースがあり、その場合でも唇音と歯音を欠くとか。世界諸言語で、軟・硬口蓋子音の存在には唇音と歯音が同時に存在するが、その逆は成り立たないそうな。摩擦音の習得にも閉鎖音を前提にするという。摩擦音が完全に欠けた言語は存在しても、閉鎖音のない言語は存在しないのだそうな。
ちと話は違うが、日本語でも反対語が見当たらないことがある。慣習的に反対語を必要としなかったのか。そんな時は否定文を用いればいい。論理学には、いざという時に全否定という裏ワザもある。言語体系が完全であれば、言い訳の隙も与えず、精神病から逃れる道も閉ざされよう。非可逆の法則は、人間にとって拠り所になっているのやもしれん...
3. 母音と子音
人間の身体は、息を吐く物理的構造に鼻と口の二本の管を具える。かくして最初に、塞いだ管と開いた管の対立が生じたという。口腔閉鎖音や鼻閉鎖音など。次に、一本の管と二本の管の対立が生じる。母音と子音がそれで、前者は鼻の管を塞ぎ、後者は鼻の管を開く。母音はそのままでも、子音は複雑に分化していく。多くの共存を望むならば、選択肢を増やして分岐を多様化させるのは、ダーウィンの法則がごとし。
ところで、日本語の特徴は、母音を強く発し、鼻の管を塞いだ音が強調される傾向にある。言葉を学ぶ時は書くことを基調とし、文字がそのまま発生記号の役割を持つ。
対して、英語の特徴は、子音を強調する傾向があり、おのずと発声周波数帯が違ってくる。それは、言葉を学ぶ時に喋ることを基調としているからであろう。
日本語の五十音に対してアルファベットは26文字と少ないが、発音記号を含めれば音素的にはむしろ多彩である。西洋人の中には、言葉は喋れても文字が書けないという人が意外に多いと聞く。日本人は、だいたいどちらもできる。こうした違いは、コミュニケーションの仕方にも現れる。日本人は発音に無頓着なところがあり、よく外国人から、口の動きがはっきりせず、もごもごしていると指摘される。それは、英語の L と R が区別できないことにも現れている。日本語には、音素的にカタカタで柔軟に対応できる仕組みがあるとはいえ、厳密な発声法は表記できないのである。
さて、幼児の言語習得では、最初の母音対立は、最初の子音対立より後だという。それゆえ、子音が既に弁別的機能を満たしているにもかかわらず、他方で、一つの母音が子音の変種のような素材でしかないような段階があるとか。
また、音素的価値と記号的価値はどちらが原始的かは、失語症にも現れるようである。精神科医の観察から、言語障害では、第一に鼻母音が消失傾向にあり、同時に流音の対立も消失しやすいという。第二次母音は第一次母音より消失しやすく、摩擦音や半閉鎖音は閉鎖音へ変わり、軟口蓋子音は口腔前方子音より先に失われるという。そして、唇音と母音の A が、破壊に対抗する最後の音素だそうな。
老人が口から名詞がとっさに出てこなくて、あれ、これ、それ、などと代名詞に頼ろうとするのも、外国人との会話で、大袈裟なジェスチャーに頼るのも、とっさに言葉が出ずに、えー、んー、などと発声してリズムをとるのも、ある種の失語症に見えてくる...
4. 失語症タイプを区別する二分法
病理学的には、言葉が理解できない感覚性失語症と、言葉は理解できるが話すことができない運動性失語症とに分類されるが、ここでは、言語学的に六つの失語症タイプを紹介してくれる。言葉が理解できなければ黙るしかなく、理解できても口から言葉が出てこなければ、やはり黙るしかない。結局、同じことと言えばそうなのだが、治療法となるとやはり複雑である。ヤーコブソンは、失語症タイプの基礎に三つの二分法を置く。
第一の二分法... 符号化障害 対 解読障害
符号化障害では、構成要素が正常でも文脈で障害を起こし、逆に解読障害では、文脈が正常でも構成要素に障害を起こすという。前者は、結合や近接性における障害で、後者は選択や類同性における障害であると。
文脈が組み立てられなければ、統辞的な関係が崩壊し、支離滅裂となる。一方で、単語が貧困化すれば、選択の余地をなくし、文体までも貧素になる。ただ、二重否定のような構文は、正常者であっても理解が難しいし、難解な哲学書が誰でも理解ができるとは思えないし、誰でもどこか符号化障害や解読障害のようなものを抱えているのであろう...
第二の二分法... 制約 対 崩解
第一の二分法から薄められた型があるという。符号化障害の中の動的失語タイプと、解読障害の中の意味性失語タイプである。符号化障害にともない、視覚像をもった夢が抑制されるという症状もあるそうな。符号信号から視覚信号へ変換される際の崩解という見方もできそうか。
正常な言語では語類と統辞機能との間に区別があるが、意味性失語症ではこの二重性が失われるという。操る語が制約されると、言いたいことが制約され、精神までも制約を受ける。単語がある文脈に固定されて、言葉がやけに形式的になるのも、ある種の制約と言えよう。制約と崩解は、対立関係というよりは表裏一体に見えてくる。動的失語は静的文脈に支配され、自ら自由を束縛にかかる。意味性失語は統辞規則を単純化し、自己を窮屈にする。そうなると、義務的規則も考えものだ。礼儀作法で多用される決まり文句や書式の慣習化は、便利でありながら思考を低下させかねない...
第三のニ分法... 連続(継時性) 対 共起(同時性)
言語系が破壊されれば、単語と単語、文と文における、連続性か、同時性か、のどちらかが障害されているのだろう。もっと言うなら、精神病のほとんどは、なんらかの時間的関係性を失った状態なのだろう。自己防衛本能が、都合の悪い関係性を自動的に断ち切ってくれることは、ありがたいことではあるが...
中でも興味深い病状に、求心性失語と健忘性失語を紹介してくれる。求心性失語は、同時的結合における符号化障害で、健忘性失語は、継起的選択における解読障害だという。前者は、言語の音連続における共起的構成要素の配列のみが関与する近接性障害で、後者は、純粋な類同性に基づいた文法的連続体のみが関与する類同性障害であるとか。求心性失語は弁別素性の近接性における障害で、健忘症失語は語配列の類同姓における障害ということらしい。
同音異義語や類音異義語を弁別するには、文脈から判断しなければならず、これらを多用するのにも高度な技術が要求される。音素的に調和する詩文的な技巧にも、連続性と同時性が多分に関与する。文面に語呂合わせが出現するのは、高度な精神状態の表れであろうか。となると、音律的な駄洒落も高度な技術の一つと言えよう。酒に酔うと駄洒落がでやすくなるのも、この手の障害であろうか。ちなみに、あるバーテンダーは「酒に落ちる」と書いて「お洒落!」などと能書きを垂れていたが、棒が一本足らんよ!
2017-05-07
"家飲み&外飲みがもっと楽しくなるカクテルの話" 佐藤喜代八 監修
音楽鑑賞にアルコール成分が欠かせないように、アルコールをやる時には、BGM が絶対に欠かせない。どちらが主役かって?どちらでもいいではないか。トスカニーニが軽快なコスモポリタンを引き立てれば、フルトヴェングラーが濃厚なアブジンスキーを演出してやがる。それはアプロディテ的な女神の誘いか、それともファウスト的な悪魔の囁きか。マスターに「コスモポリタンのフローズンって作れないの?」と挑発すると、これがフローズン版の別名「コスモポリちゃんです!」とすぐに応じてくる。客の方はというと、既に「アブちゃん好きー」状態でチャイコフスキーとの区別もつかないときた。さらに、スピリタスで追い打ちをかければ、96% の人格が崩壊する。これは、天国への道か?地獄への道か?どちらの道を行こうが、本人が気づかなければ、しらふでも同じことではないか...
バーには、大人のこだわりが満ち満ちている。バックバーは、バーテンダーの鏡!と言われ、ボトル群の背景がバーテンダーの後ろ盾となって、君に酒の味が分かるのかい?と挑戦状を叩きつけてくる。店の雰囲気はオーセンティックに演出され、生け花やお香といったささやかな演出もあり。そうなると、客だって勝負せずにはいられない。必死に予備知識を身につけてスマートにオーダーしようと。ホットな女性を連れていれば尚更だ... などと息巻いていたのは、二十年くらい前であろうか。くつろぐための場所で、なぜこうも緊張感を煽るのか。
しかし今では、オーダーせずとも、「これ飲んでみて下さい!」と勝手に出され、注文の仕方がまったく分からなくなっちまった。ある種の自動化システム!人間ってやつは、贅沢に慣らされると思考が停止する。いや、カウンターでは余計なことを考えず、人生について考えよ!と導いているに違いない...
かつて錬金術師たちは、蒸留してできる強いエキスを、ゲール語で Uisge-beatha(ウィシュケ・ベーハ)と呼び、これが訛ってウィスキーと呼ばれるようになったと伝えられる。そう、「生命の水」って意味だ。こいつを飲み干すことによって幸せになれるなら、まさに魔術!
はたまた、ワインから蒸留の過程を経て、これにキリスト教が結びつくと、ラテン語で spirit と呼ばれた。そう、「聖霊」って意味だ。蒸留技術とは、実に恐ろしい。腐った液体を昇華させ、聖者の血とさせるのだから。蒸留崇拝はジン、ウォッカ、テキーラ、ラムへと受け継がれ、いまや世界四大スピリッツとして君臨している。
さらに恐ろしいことに、アルコール濃度に比例して口元の筋肉までも操られ、真実の血清と化す。俗に言うレディキラー・カクテルってやつを企てたところで、自白させられるのはこっちの方だ。そして、マダムキラーはマダムにやられる。
パンチの強いレディたちにも御用心!ピンクレディ、ホワイトレディ、パッシモレディが妖精のごとく色鮮やかに誘惑してきても、半分以上はドライジンだ。ローズカクテルにも、棘があると分かっちゃいるが、つい手が出る。血塗られた女ブラディメアリーときたら、トマト風味が優しく、心地よい眠りへといざなう。身ぐるみ剥がされぬように...
いくら飲みやすく、柔らかく、ブレンド、ビルド、ステア、シェークと技を駆使したところで、脳内に分泌されるアルコール成分は足し算とはならない。掛け算か、いやもっと強烈な冪演算か、いずれにせよ廃人への道をまっしぐら。
そして、女性に向かって、君に酔ってんだよ!とピロートークを仕掛けても、心の中では、氷に向かって話しかける。君って冷たいね!と。ウィリアム・ジェームズという人は、うまいことを言う... 人生は生きるに値するか?それはひとえに肝臓にかかっている... と。
1. カクテルの定義
カクテルの定義は、「ベースに何らかの材料をまぜたミックス・ドリンク」だそうな。そして、ソーダー割りも、水割りも、カクテルの一種だという。チューハイとサワーの違いもよく分からんが、焼酎を炭酸で割れば、これもカクテルの一種ということになる。ノンアルコールも何かを混ぜれば、これもカクテルか。風邪っぽい時に卵酒を飲んだりするが、これもカクテルか。
この定義からすると、カクテルという用語はともかく、その始まりはかなり古いことになる。古代ギリシャ・ローマでは、ワインは濃縮して保存したために、飲む時には水で割る習慣があったという。古代エジプトでは、水で薄めるだけでなく、ビールにハチミツやナツメヤシなどを加えて新たな風味を加えたという。中国の唐では、ワインに馬の乳を混ぜて発酵させた乳酸飲料が飲まれたという。中世ヨーロッパでは、ワインにスパイス、砂糖、シナモンなどを混ぜて飲んだとか。
製氷機が誕生したのは1870年頃、ミュンヘン工業大学のカール・フォン・リンデ教授によって発明されたと伝えられる。バーで氷が利用できるようになったのは19世紀頃で、冷たい飲み物としての本格的なカクテルは、それからということになる。
また、コロンブスが発見したのは新大陸だけじゃない。新大陸から持ち込まれたものは、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、カカオ、煙草、ブドウ(ラプスカ系)、パイナップル、バニラ、トウガラシなどで、酒の飲み方に大きく影響を与えた品々である。
ところで、ノンアルコールでもバーで飲めば、不思議と酔えるらしい。いや、何か盛られているに違いない。その証拠に、毒を盛ってくれ!とバーテンダーに目で訴えている旦那を見かけた...
2. カクテルという名の由来
cocktail とは、雄鶏の尻尾という意味。本書は、この由来について四つの説を紹介してくれる。いずれもアメリカ大陸で生まれた説か。
「樹の枝説」
場所は、メキシコのカンペチェという港町。イギリスの船員たちが酒場で飲まされたのは、ラムやブランデーにいろいろなものを混ぜた飲み物だったという。当時のイギリスでは、酒はストレートで飲むのが当たり前だったとか。そこで、カウンターの中で木製のスティックで混ぜている少年に、それは何?と船員が聞くと、少年はスティックのことを聞かれたと勘違いして、スペイン語で「コーラ・デ・ガジョ(雄鶏の尻尾)」と答えたという。木の皮を剥いでつくったスティックが雄鶏の尻尾に似ていたとさ...
「鶏尾説」
独立戦争の頃、酒場の女店主が反独立軍の大地主宅に侵入し、自慢の雄鶏を盗みだしたという。雄鶏を調理して、オリジナルのさまざまな酒をまぜてつくって、ふるまい、美しい尾は酒の瓶にさして飾ったとか。これが、女店主のオリジナルドリンクとなったとさ...
「コクチェ説」
ニューオリンズにあるフランス人店主の薬局で、薬草酒とコニャックをまぜたコクチェが売られていたという。やがて、コクチェが「複数の酒をまぜたもの」の総称となり、アメリカ風に訛ったという。もとはフランス人がつくった薬草酒だとさ...
「闘鶏説」
自慢の闘鶏を盗まれた田舎町の旅館の店主。父を気遣った美しい娘は、闘鶏を見つけたものと結婚すると発表したという。眉目秀麗な兵士が闘鶏を持って現れた祝いに、自宅にある酒をまぜてふるまったとか。その闘鶏の美しい尾を称えた祝酒だったとさ...
3. 禁酒法とタイアップ
悪法と呼ばれた禁酒法は、なぜ成立したのか?プロテスタントの牧師や女性信者は、反移民、反カトリック運動として禁酒運動をやったという。ヨーロッパ系移民が、酔っ払っては暴力や犯罪を起こしていたとか。酒好きのアイルランド系移民にカトリック教徒が多いことも影響したようである。そして、1920年の選挙で女性参政権が認められ、賛成派多数で成立。
しかしながら、道徳によって厳しく処罰するほど、人間ってやつは、より巧妙な手口を編み出す。必要悪を完全に禁止すれば、アングラ界が活況となるは必定。麻薬のごとくマフィアの主力ビジネスとなり、取締官との癒着、買収が横行。地下へもぐった酒場では所場代や用心棒代を請求。おまけに粗悪な密造酒が出回り、美味く飲むための技術が進化し、腕のいいバーテンダーが引っ張り凧となる。合法的に飲むには、禁酒法施行前に大量に買い込んだ酒を飲むか、処方された薬として飲むか、国外へ行くか。そして、アメリカの禁酒法時代にバーテンダーの輪が世界に広がったとさ...
4. 世界最古のアルコール
世界最古のアルコールは、ブドウを発酵させて醸造されたという。つまり、ワインだ。誕生の歴史は明らかではないそうだが、紀元前二千年頃に成立した最古の文献「ギルガメッシュ叙事詩」の粘土板には、こう彫られているという。
「ノアは船大工たちに牛や羊を殺して与え、赤葡萄ジュース、酒、油、白葡萄酒を飲ませて、方舟をつくらせた...」
また、紀元前四千年のメソポタミア文明初期の遺跡から、ブドウを搾る石臼が発見されているという。ただし、古代のワインは、神に捧げる供え物という意味が強かったようである。
やがて、「パンはわが肉、ワインはわが血」というキリストの言葉がヨーロッパ各地に広まり、王侯貴族や修道院が、神の気を引こうと競ってワインの品質を向上させてきた。さらに植民地時代に、宣教師の派遣で、アメリカ、アフリカ、オーストラリアなどにもワイン作りが広まった。
5. ラムと奴隷制度
ラムの歴史には、悲しい奴隷制度の影がつきまとう。ラムの故郷はカリブ海の西インド諸島で、その誕生はサトウキビが持ち込まれたことがきっかけだったという。ラム誕生には、スペイン探検家が蒸留技術を西インド諸島に伝えたという説と、蒸留技術を持ったイギリス移民がつくり始めたという説の二つがあるとか。
現地人の「酔って興奮した(ランバリオン)」という状態を表す言葉が語源になったというのが通説だそうな。ヨーロッパ、西インド諸島、アフリカという大西洋における三角貿易の発展は、奴隷制度の産物ということもできよう。
尚、行付けのバーでは、ラムの良さを教えてもらい、よくストレートで頂いている。おらいはラムちゃんの奴隷だっちゃ...
6. テキーラの厳しい基準
このメキシコの酒は、偶然の産物のようである。18世紀のスペイン統治時代、ハリスコ州テキーラ村に近いアマチタリヤ山で大きな山火事があったという。焼け跡には、たくさんのマゲイ(竜舌蘭の一種)が黒焦げて、甘い香りを漂わせていたとか。村人が何気なく潰して舐めてみると、甘くて美味しいことから、やがて蒸留して誕生したと言われる。
1902年、植物学者ウェーバーが最適な竜舌蘭の品種を特定し、「アガベ・アスール・テキラーナ」と命名したという。メキシコには竜舌蘭が約400種類も生育しているが、テキーラ村を中心とする特定地域で栽培される、この品種を使った蒸留酒だけが「テキーラ」と名乗ることができるそうな。公認生産番号が与えられ、製造方法もハリスコ州の政府機関に厳重に管理されているという。
バーには、大人のこだわりが満ち満ちている。バックバーは、バーテンダーの鏡!と言われ、ボトル群の背景がバーテンダーの後ろ盾となって、君に酒の味が分かるのかい?と挑戦状を叩きつけてくる。店の雰囲気はオーセンティックに演出され、生け花やお香といったささやかな演出もあり。そうなると、客だって勝負せずにはいられない。必死に予備知識を身につけてスマートにオーダーしようと。ホットな女性を連れていれば尚更だ... などと息巻いていたのは、二十年くらい前であろうか。くつろぐための場所で、なぜこうも緊張感を煽るのか。
しかし今では、オーダーせずとも、「これ飲んでみて下さい!」と勝手に出され、注文の仕方がまったく分からなくなっちまった。ある種の自動化システム!人間ってやつは、贅沢に慣らされると思考が停止する。いや、カウンターでは余計なことを考えず、人生について考えよ!と導いているに違いない...
かつて錬金術師たちは、蒸留してできる強いエキスを、ゲール語で Uisge-beatha(ウィシュケ・ベーハ)と呼び、これが訛ってウィスキーと呼ばれるようになったと伝えられる。そう、「生命の水」って意味だ。こいつを飲み干すことによって幸せになれるなら、まさに魔術!
はたまた、ワインから蒸留の過程を経て、これにキリスト教が結びつくと、ラテン語で spirit と呼ばれた。そう、「聖霊」って意味だ。蒸留技術とは、実に恐ろしい。腐った液体を昇華させ、聖者の血とさせるのだから。蒸留崇拝はジン、ウォッカ、テキーラ、ラムへと受け継がれ、いまや世界四大スピリッツとして君臨している。
さらに恐ろしいことに、アルコール濃度に比例して口元の筋肉までも操られ、真実の血清と化す。俗に言うレディキラー・カクテルってやつを企てたところで、自白させられるのはこっちの方だ。そして、マダムキラーはマダムにやられる。
パンチの強いレディたちにも御用心!ピンクレディ、ホワイトレディ、パッシモレディが妖精のごとく色鮮やかに誘惑してきても、半分以上はドライジンだ。ローズカクテルにも、棘があると分かっちゃいるが、つい手が出る。血塗られた女ブラディメアリーときたら、トマト風味が優しく、心地よい眠りへといざなう。身ぐるみ剥がされぬように...
いくら飲みやすく、柔らかく、ブレンド、ビルド、ステア、シェークと技を駆使したところで、脳内に分泌されるアルコール成分は足し算とはならない。掛け算か、いやもっと強烈な冪演算か、いずれにせよ廃人への道をまっしぐら。
そして、女性に向かって、君に酔ってんだよ!とピロートークを仕掛けても、心の中では、氷に向かって話しかける。君って冷たいね!と。ウィリアム・ジェームズという人は、うまいことを言う... 人生は生きるに値するか?それはひとえに肝臓にかかっている... と。
1. カクテルの定義
カクテルの定義は、「ベースに何らかの材料をまぜたミックス・ドリンク」だそうな。そして、ソーダー割りも、水割りも、カクテルの一種だという。チューハイとサワーの違いもよく分からんが、焼酎を炭酸で割れば、これもカクテルの一種ということになる。ノンアルコールも何かを混ぜれば、これもカクテルか。風邪っぽい時に卵酒を飲んだりするが、これもカクテルか。
この定義からすると、カクテルという用語はともかく、その始まりはかなり古いことになる。古代ギリシャ・ローマでは、ワインは濃縮して保存したために、飲む時には水で割る習慣があったという。古代エジプトでは、水で薄めるだけでなく、ビールにハチミツやナツメヤシなどを加えて新たな風味を加えたという。中国の唐では、ワインに馬の乳を混ぜて発酵させた乳酸飲料が飲まれたという。中世ヨーロッパでは、ワインにスパイス、砂糖、シナモンなどを混ぜて飲んだとか。
製氷機が誕生したのは1870年頃、ミュンヘン工業大学のカール・フォン・リンデ教授によって発明されたと伝えられる。バーで氷が利用できるようになったのは19世紀頃で、冷たい飲み物としての本格的なカクテルは、それからということになる。
また、コロンブスが発見したのは新大陸だけじゃない。新大陸から持ち込まれたものは、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、カカオ、煙草、ブドウ(ラプスカ系)、パイナップル、バニラ、トウガラシなどで、酒の飲み方に大きく影響を与えた品々である。
ところで、ノンアルコールでもバーで飲めば、不思議と酔えるらしい。いや、何か盛られているに違いない。その証拠に、毒を盛ってくれ!とバーテンダーに目で訴えている旦那を見かけた...
2. カクテルという名の由来
cocktail とは、雄鶏の尻尾という意味。本書は、この由来について四つの説を紹介してくれる。いずれもアメリカ大陸で生まれた説か。
「樹の枝説」
場所は、メキシコのカンペチェという港町。イギリスの船員たちが酒場で飲まされたのは、ラムやブランデーにいろいろなものを混ぜた飲み物だったという。当時のイギリスでは、酒はストレートで飲むのが当たり前だったとか。そこで、カウンターの中で木製のスティックで混ぜている少年に、それは何?と船員が聞くと、少年はスティックのことを聞かれたと勘違いして、スペイン語で「コーラ・デ・ガジョ(雄鶏の尻尾)」と答えたという。木の皮を剥いでつくったスティックが雄鶏の尻尾に似ていたとさ...
「鶏尾説」
独立戦争の頃、酒場の女店主が反独立軍の大地主宅に侵入し、自慢の雄鶏を盗みだしたという。雄鶏を調理して、オリジナルのさまざまな酒をまぜてつくって、ふるまい、美しい尾は酒の瓶にさして飾ったとか。これが、女店主のオリジナルドリンクとなったとさ...
「コクチェ説」
ニューオリンズにあるフランス人店主の薬局で、薬草酒とコニャックをまぜたコクチェが売られていたという。やがて、コクチェが「複数の酒をまぜたもの」の総称となり、アメリカ風に訛ったという。もとはフランス人がつくった薬草酒だとさ...
「闘鶏説」
自慢の闘鶏を盗まれた田舎町の旅館の店主。父を気遣った美しい娘は、闘鶏を見つけたものと結婚すると発表したという。眉目秀麗な兵士が闘鶏を持って現れた祝いに、自宅にある酒をまぜてふるまったとか。その闘鶏の美しい尾を称えた祝酒だったとさ...
3. 禁酒法とタイアップ
悪法と呼ばれた禁酒法は、なぜ成立したのか?プロテスタントの牧師や女性信者は、反移民、反カトリック運動として禁酒運動をやったという。ヨーロッパ系移民が、酔っ払っては暴力や犯罪を起こしていたとか。酒好きのアイルランド系移民にカトリック教徒が多いことも影響したようである。そして、1920年の選挙で女性参政権が認められ、賛成派多数で成立。
しかしながら、道徳によって厳しく処罰するほど、人間ってやつは、より巧妙な手口を編み出す。必要悪を完全に禁止すれば、アングラ界が活況となるは必定。麻薬のごとくマフィアの主力ビジネスとなり、取締官との癒着、買収が横行。地下へもぐった酒場では所場代や用心棒代を請求。おまけに粗悪な密造酒が出回り、美味く飲むための技術が進化し、腕のいいバーテンダーが引っ張り凧となる。合法的に飲むには、禁酒法施行前に大量に買い込んだ酒を飲むか、処方された薬として飲むか、国外へ行くか。そして、アメリカの禁酒法時代にバーテンダーの輪が世界に広がったとさ...
4. 世界最古のアルコール
世界最古のアルコールは、ブドウを発酵させて醸造されたという。つまり、ワインだ。誕生の歴史は明らかではないそうだが、紀元前二千年頃に成立した最古の文献「ギルガメッシュ叙事詩」の粘土板には、こう彫られているという。
「ノアは船大工たちに牛や羊を殺して与え、赤葡萄ジュース、酒、油、白葡萄酒を飲ませて、方舟をつくらせた...」
また、紀元前四千年のメソポタミア文明初期の遺跡から、ブドウを搾る石臼が発見されているという。ただし、古代のワインは、神に捧げる供え物という意味が強かったようである。
やがて、「パンはわが肉、ワインはわが血」というキリストの言葉がヨーロッパ各地に広まり、王侯貴族や修道院が、神の気を引こうと競ってワインの品質を向上させてきた。さらに植民地時代に、宣教師の派遣で、アメリカ、アフリカ、オーストラリアなどにもワイン作りが広まった。
5. ラムと奴隷制度
ラムの歴史には、悲しい奴隷制度の影がつきまとう。ラムの故郷はカリブ海の西インド諸島で、その誕生はサトウキビが持ち込まれたことがきっかけだったという。ラム誕生には、スペイン探検家が蒸留技術を西インド諸島に伝えたという説と、蒸留技術を持ったイギリス移民がつくり始めたという説の二つがあるとか。
現地人の「酔って興奮した(ランバリオン)」という状態を表す言葉が語源になったというのが通説だそうな。ヨーロッパ、西インド諸島、アフリカという大西洋における三角貿易の発展は、奴隷制度の産物ということもできよう。
尚、行付けのバーでは、ラムの良さを教えてもらい、よくストレートで頂いている。おらいはラムちゃんの奴隷だっちゃ...
6. テキーラの厳しい基準
このメキシコの酒は、偶然の産物のようである。18世紀のスペイン統治時代、ハリスコ州テキーラ村に近いアマチタリヤ山で大きな山火事があったという。焼け跡には、たくさんのマゲイ(竜舌蘭の一種)が黒焦げて、甘い香りを漂わせていたとか。村人が何気なく潰して舐めてみると、甘くて美味しいことから、やがて蒸留して誕生したと言われる。
1902年、植物学者ウェーバーが最適な竜舌蘭の品種を特定し、「アガベ・アスール・テキラーナ」と命名したという。メキシコには竜舌蘭が約400種類も生育しているが、テキーラ村を中心とする特定地域で栽培される、この品種を使った蒸留酒だけが「テキーラ」と名乗ることができるそうな。公認生産番号が与えられ、製造方法もハリスコ州の政府機関に厳重に管理されているという。
登録:
投稿 (Atom)





