2017-03-26

"歴史哲学講義(上/下)" G. W. F. Hegel 著

晩年ヘーゲルは、ベルリン大学で「世界史の哲学」と題して五回の講義を行ったという。この講義は活字にされることなく、死後1837年出版の「歴史哲学講義」は弟子エドゥアルト・ガンスが編集したものだとか。ヘーゲルが論じた弁証法的方法論には常々興味を持ってきたし、その彼が歴史を哲学的に論ずると宣言すれば、これは見逃せない。それは... 世界史の流れを理性の歩みとして明らかにし、人類の普遍性を自由意思の発展として描き出すこと... だという。過去の事実をそのまま叙述したり、反省を加えたりする歴史家たちのやり方とは一線を画し、人間の本性に立脚し、自由精神を透視してみようという試み。そして、自由意思の生い立ちを、東へ東へ求め、中国、インド、ペルシア、エジプト、ギリシア、ローマ、ゲルマンの順に辿る。
ヘーゲルは、「社会と国家こそが自由を体現する場」だと主張する。自由精神はしばしば悪と手を結んできた。彼は、それが全能の神が創造主であることに矛盾しないとの見解を示そうともがく。善も、悪も、人間の本性であることに疑いの余地はない。メフィストフェレスとも和解せねばならぬとすれば、理性や摂理を信じるだけでは不十分だ。となれば、なぜ完全なる神が、こんな不完全な存在をこしらえたのか?と問わねばなるまい。なるほど、ヘーゲルの歴史哲学とは「弁神論」であったか...

民族や国家の運命、その利害や動向は、道徳とは別の次元に置かれてきた。歴史から得られた教訓は、それに従うどころか、それ自体が都合よく解釈される。現在の知識が経験と理論に裏付けられた最高知として崇められ、過去の教訓は古臭いとして吐き捨てられるのは、いつの時代も同じ。あれだけ貴重な古代ギリシアの叙述が遺されながら、あれだけ貴重な啓蒙時代の書物が溢れていながら。ビスマルクはこんなことを言った... 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
人間が進化しているとすれば、歴史的な変化は望ましい。一時的な後退があったとしても、全体的により良く、より完全に向かっていれば。一般的には、そう考えられている。しかし、愚行を繰り返せば、より滑稽となる。変化を求めているのは、単なる退屈しのぎか。科学的な知識は、確実に増幅している。となれば、客観性はより強化されるはずだが、その分、主観性がより凶暴化して相殺させる。人類にとって、知らない方がよかったという知識も数多くあろう。パンドーラーの箱を開けてしまって後悔しても既に遅し。進化にはリスクをともなう。そして、リスクを凌駕できるほどの進化を遂げているか?が問われる。もはや反省という言葉だけでは不十分だというのか?ヘーゲル先生!
有識者や政治家たちは口を揃えて言う、歴史から学べ!と。しかし、説教じみた語り手ほど、物事を捻じ曲げて解釈する者はいない。それはソフィストの時代から受け継がれてきた。あらゆる戦争は愛国心が歪な形で媒介し、メディアが憎悪を煽り、これに大衆が加担するという構図は、21世紀の今も変わらない。集団性がある方向に一斉に向かった時、個人の自由は圧殺される。
そもそも歴史現象は、自然現象とは違って人間の思惑によって左右される極めて主観的な現象であり、これを客観的に捉えることは不可能なほど難しい。この矛盾は、歴史学が抱える永遠の課題であろう。デイヴィッド・ヒュームはこんなことを言った... 世界は政治哲学をもつにはまだ若すぎる!

ならば、客観的な思考に限界を認め、逆に主観的な思考を存分に解放し、とことん人間の本性を曝け出してみてはどうであろう。人間の本性を考察するということは、自分自身を観察することから始まる。集団から距離を置き、自我からも距離を置いてみる。大抵の人は、自己の内に悪魔の要素が住み着いていることに気づくだろう。理性とは自分の自由を自ら抑制する力であり、自分の理性に自信を持った時点で理性の奴隷となる。自己意識はしばしば理念と対立し、普遍的な絶対者とも対立する。だからこそ抑制との共存によって意識が高められる。相対的な認識能力しか持てない知的生命体にとって、絶対的な観念を見いだすことなどできはしない。自己の自由は、他人の自由を尊重する形で成り立つはずである。自由に生きるには、覚悟がいる、勇気がいる。それは、自律や自立をともなうからだ。物欲に依存することも、組織の中で安住することも、自分自身に同情することも放棄し、自分自身の知性に身を委ねる。
しかしながら、知性ってやつが、いかに脆弱であるか。歴史的人物がしばしば不幸の運命を背負うことは、ぞっとするような事実だが、それによって凡人が慰められるところもある。アレクサンダー大王は早死し、カエサルは暗殺され、ナポレオンは流刑の身となり... 偉業を成し遂げた者が、すべての幸福を勝ち取ったとすれば、どうして偉大と認められよう。真の自由人ならば、嫉妬や憎悪に隷属することもないはずだが...
叙述が宗教の形をとるならば、読者に信じてもらいたいという思惑が働く。だが、哲学の形をとるならば、矛盾を承知し、矛盾を積極的に受け入れ、読者に解釈を委ねるほかはない。少なくとも聖書のように解釈を強制することはできない。凡庸の、いや凡庸未満の酔いどれ天邪鬼が、自由が欲しい!と大声で叫んでいる間も、天才どもは静かに自由を謳歌してやがる...

1. 共同体の原点... 中国
共同体の原点を、東へ、東へと辿り、中国の最古の国家に求める。古代中国には「四書五経」という偉大な書群があるが、本書は「五経」の方に触れ、法律と道徳の源泉を探る。五経とは、歴史の原典「書経」、占いや漢字の元をなす図形を扱った「易経」、古揺を集めた「詩経」、礼儀作法の教説「礼記」、音楽論「楽経」。これに、孔子が手を加えたとされる魯の国の年代記「春秋」を合わせて「六経」とも言われる。
古代中国では、既に歴史を意識して記述を残す文化が確立していたという。これは非常に高度な文化ではあるが、その半面、歴史書の地位が高まり、一度記述されたことは聖典となり、間違いを修正することが難しくなる。歴史家が大きすぎるほどの権威を持つことになり、歴史が政治家たちの正当化のための手段とされれば本末転倒。
また、国土に侵入してくるタタール人との戦いから集団の結束が正義となる。万里の長城は、まさに人類の奇跡的偉業!大統一国家でもなければ成し遂げられなかっただろう。同時に、多民族国家で分裂紛争を繰り返し、結束を崩さないために、新たな風潮や思想は迫害され、革新的な考えが罪に問われる。西洋的な自由精神の観点から、強制的で受動的、主体性を欠く。義務を強制し、法律も義務を基準に定められる。
しかしながら、平等を重んじた国家で、位階に基づく区別があるだけ。西洋的な固定された奴隷身分の概念もなければ、中世には憧れの国家体制と目された時期もある。
だが、行政職に就く目的は、ひたすら高い地位を求めることになり、社会全体が官僚的になりやすい。親は子供を官吏養成に血眼になり、官吏採用も官僚的となる。政府が奨励する学問が尊敬され、そこに人々が群がり、知識そのものが官僚的に。
罪の問われ方では、殺意、過失、偶発事は一切区別されないと指摘している。大罪で裁かれる時は、家族全員が責任を負わされるとか。連帯責任という概念は、日本にも根強くあり、官僚的性質も強い。危険なのは、行動者の主体的自由や道徳心の一切が否定されることだという。
一方で、身分の上下が考慮されず、軍功赫々たる軍司令官ですら同等に裁かれるのは、平等が徹底されていると指摘している。道徳は強制的で平等はあっても自由はないから、政治体制は専制政治にならざるをえない、と指摘しているが、まるで日本国家のことを言われているような...

2. 歪な身分制度... インド
中国とは、正反対の国家としてインドを挙げている。中国では散文的な知性が制度の隅々にまで行き届くが、インドは空想と感情の国であるという。歪な身分制度として名高いカーストは、神話的な発想からきており、差別だけが独り歩きをしている感がある。
インドの教典「ヴェーダ」は、本来バラモンしか読んではならないものらしい。シュードラ(奴隷民)が読むと罰せられるのだとか。優れた書ならば、なにゆえ万民で共有しないのか。知識の独占も、これまた人間の本性である。バラモンは、カーストの最上位に位置する司祭階級で、政治的にも影響力が強く、生きた神のような存在。宗教的な教典ってやつは、縄張り意識が強く、きわめて排他的で、おまけに解釈まで強制する。
とはいえ、上位民が尊敬される生活をしていれば、下位民が反乱を起こすことはない。それぞれの身分には義務が規定されるが、身分が低いほど決まりも少ないという。このような安定した上下関係を皮相的に眺めれば、西洋人の目に理想郷に見える時期もあった。何事も、他人のものがよく見えたりするものだが...
インド宗教の最高位に「ブラフマン」という宇宙論的な根本原理があるという。肉体を否定することによってブラフマンの力を得るらしい。自我とされるアートマンが、ブラフマンと同一となった状態が「梵我一如」ってやつか。仏教でも、無我の境地を最高の精神状態とされる。この宇宙原理から外れると、社会から抹殺されるという暗黙の了解のようなものがあるという。
バラモンは、苦行によって手に入れた宗教の高みを保持し、けして手放すことはない。生まれつき特権が、下位カーストによって神として崇められるとなれば尚更。カーストは単なる階級制度ではなく、宗教によって後押しされた、より根深い掟となっている。
また、中国には自らの手で歴史書を記述する文化があったが、インド史で信頼できるのは、アレクサンダー大王の遠征後に記されたギリシア人の手による記録ぐらいなものだという。バラモンの記述したものは、歴史を明らかにするという点で良心に欠ける、と指摘している。

3. 自由意思の青年期... ギリシア
ヘーゲルは、クセノフォンやプラトンらが生きた古代ギリシャ世界を、歴史の青年期に位置づける。精神の躍動ぶりは、ホメロスの作品にも見て取れる。
ギリシア文化で最高峰をなすアッティカ地方は、もともとはあらゆる部族の避難所であったという。ペルシアやエジプトなどの抑圧から逃れてきた民族と土着民が融合する社会。現在でも、この地域がイスラム世界からの逃避ルートになっている。古代アッティカは、20世紀、新世界アメリカに、ヨーロッパの既成観念に反発した人々が流れ、さらにヒトラーの台頭で多くの知識人が流入した光景にも重なる。
多種多様な民族の合流が、アテナイを中心に民主主義を育んでいった。当初、海洋的な地形から海賊の棲家となるが、クレタ島のミノス王が海賊を制圧。クレタ島は最初に市民政治が確立されたことで知られる。それは、後のスパルタのような一党支配だったという。古代ギリシアの都市国家体制は、しばしば二つで大別される。アテナイ式とスパルタ式が、それだ。多民族の政治体制では民主制が機能しやすく、単一民族では独裁制が育まれやすいということか。
ヘーゲルは、ギリシアの共和制について、三つの特徴を挙げている。
一つは、信託を取り入れた政治。自主的に決断を下すには、確固たる根拠と主体的な強い意思を示す必要があるが、まだ強靭な意志力をもっていなかった時代。ソクラテスですらダイモニオン(精霊)の声に耳を傾ける。
二つは、奴隷制度。市民が自主的に広場で演説を行い、また聴衆し、ギムナジウム(体操場)で体を鍛え、祭典に参加する、といった権利と義務を持つことは民主主義で必要な条件だという。だが、こうした権利を得、哲学をするためには、市民が仕事から解放される必要があり、労働は奴隷のものとなる。
三つは、都市の範囲をこえることなく、小規模な国家でしか機能しないこと。大規模な国家では様々な利害が衝突する。共同体の人員が日常で顔をあわせ、慣習を同じくし、共通の文化によって成り立つ小規模なレベルでなければならなかった。
また、ソロンは財産の多寡によって四つの等級に分け、党派の対立を緩和しようとしたという。四つの等級は、すべてが公共事業を審議し決定する民会には出席できるが、公職に就くことができるのは上位三等級だけ。
注目すべきは、民会を通して僭主ペイシストラトスが権力を握ったことだ。党派の争いが激しくなると、そこにつけ込むように独裁者が現れる。民衆は移り気が激しく、目前の利害に対して簡単にメフィストフェレスに魂を売る。20世紀初頭、世界で最も民主的とされたヴァイマル共和国の行き詰まりが、見事に怪物独裁者の呼び水となった。フランス革命では、自由、平等、博愛を掲げたにもかかわらず、すぐにロベスピエールらの恐怖政治と化し、ナポレオンが登場しなければ収まらなかった。共和制ローマも、帝制へ引き戻された。古代ギリシアには、既に民主主義の弱点と限界が暴かれている。「徳が民主制の基礎である。」とは、モンテスキューの言葉である。
さらに、ペリクレスが民主化を促進した。アレオパゴス(評議会)の権限を制限し、職務を民会と法定に分散。彼は、私生活を犠牲にして祭礼や宴会を自粛し、国家のために尽くした人物として評され、アリストファネスは「アテネのゼウス」と呼んだそうな。
真の民主制で最高権力を握ることができるのは、人格と自信であるとしている。ただ、この二つの性質を巧みに演じることは、政治屋の得意とするところ。自由社会とは、徳のもとで発揮される自然的な監視体制ということは言えるかもしれない。
しかしながら、自由社会アテナイもまた堕落の道を歩む。道徳そのものが堕落の要因となるのはスパルタも同じだが、現れ方が違う。アテナイではあけっぴろげで軽率な党派紛争という形をとり、スパルタでは所有欲と私生活の乱れという形をとる。民衆を扇動する弁論術はアテナイを中心に発達し、ソフィストの活躍の場となった。やがて互いの堕落が引き寄せ合うかのように、ペロポネソス戦争へと導かれる。市民が困窮すれば、唯一の政策が植民地を求めることへ。アテナイは海軍によって外への征服を続け、スパルタは海軍を持たずに内陸支配に固執する。ペロポネソス戦争は、政治体制という価値観をめぐるものであったか。この時代にあって既にイデオロギー戦争の様相を見せる。

4. 哲学的な思想改革... ゲルマン世界
ローマ帝国の厳しい迫害に耐えながらも、国教の地位を獲得したキリスト教は、もともとは寛容な思想だったに違いない。迫害から逃れるために秘密主義をとり、あまり知られていない多種多様な福音が存在したはずだし、だからこそ生き延びることができたのだろう。
しかしながら、四つの福音書を正典とすれば、それ以外は異端とされ、人々を区別なく救済するという本来の目的から逸脱する。その暴挙ぶりは十字軍という形で現れた。アレクサンドリア図書館は襲撃され、ヒュパティアのような優れた知識人を虐殺。宗教の狂乱ほど恐ろしいものはなく、博愛を唱える修道士ですら最も残虐な行為に及ぶ。
宗教弾圧が千年以上も続けば、キリスト教の本来の在り方とはなんぞや?と疑問を持つのも自然であろう。いや、宗教改革までの経過が長過ぎたのは、人間精神に宿る宗教心の根深さを物語っている。野望を抱く政治屋どもが宗教を利用しない手はない。教理が教会から与えられる以上、思考は自由とは言えないし、奴隷となんら変わらない。自分で教理を一つ一つ検証してみるのが哲学というもの。スコラ学者アンセルムはこう言ったという。
「信仰を手にいれたあとに、信仰の内容を思考によってたしかめようとしないのは怠惰である。」
そして、思想改革はゲルマン世界において起こった。ゲルマン民族には、ローマ帝国と敵対する部族と共存する部族が混在する。一般的には、ゲルマン民族の大移動がローマ帝国滅亡の直接的な原因の一つとされるが、タキトゥスの著作「年代記」を読めば、既にローマ社会が堕落していたことを教えてくれる。当初のゲルマン精神では義務の観念が乏しく、個人の意思が強い傾向にあったという。タキトゥスも、神とは無縁の民族として、その粗暴ぶりを記している。何かのきっかけで共同精神を目覚めさせたものと思われるが、ローマという巨大な敵を前にしたからであろうか?
さて、中世の終わりを告げる宗教改革は、カトリック教会の堕落の中で生じた。それは偶然に起こったものでなければ、権力の乱用でもないという。教会の堕落は教会自身に原因があり、欲望や主観的利害、あるいは利己的な意思がそうさせたと。ただし、堕落は教会だけにとどまらず、皇帝しかり、貴族しかり、民衆またしかり。すべてが堕落に見舞われれば、単純素朴な心情から反乱が生じる。それは修道僧ルターに発した。ルターの教えによると、こういうことらしい。
「ここにある無限の主体性、つまり、真の精神性たるイエス・キリストは、けっして目に見える形で目の前に現実に存在するのではなく、人間が神と和解するかぎりで精神的なものとして獲得することができる。つまり、信仰と満足のうちに得られる。」
これは何もカトリックと矛盾するようには見えない。それどころか、キリスト教の原点に立ち返ろうとしているように映る。当時のカトリックは、あまりにも具体的に世俗を支配しようとし過ぎたということか。ルターによる聖書のドイツ語訳は、ルター聖書と呼ばれるくらいだから、よほど影響力があったと見える。そもそも聖書が外国語で訳されることにも論争があった時代で、当時フランス語訳版は作られなかったらしい。国民の書が存在することは、国民に読書能力を要請することになるが、カトリックの国々では、その条件があまりにも満たされていなかったという。宗教改革は、純粋なゲルマン民族にだけ受け入れられたとか。
ちなみに、タキトゥスの著作「ゲルマーニア」によると、イギリスへ移住したアングロ・サクソン系もゲルマン種族としていた。ヒトラーがイギリスに好意的であったとされるのも、このあたりからくるのかもしれない。
ただ、自由意思が認められるのは一部のエリート階層でけで、農奴解放は基本的人権が登場するまで待つことに...
さらに、古代ギリシア文化への回帰という形で現れたルネサンスがドイツに広まる時期と、宗教改革の時代が重なるのも偶然ではあるまい。その意思は、啓蒙時代に受け継がれることに...

5. 悪魔との和解が急務... 現代
ところで、宗教嫌いなおいらは、昔からプロテスタントという用語の扱いが微妙だと感じてきた。ルター派もあればカルヴァン派もあるし、反カトリックという意味では英国国教会を含む場合もあり、実に多種多様。カトリックからの分裂派という意味で、東方教会やロシア正教会までは含まないようだけど...
すべてを遡れば、だいたい同じところに辿り着くという意味では、信仰心は人類にとって普遍的な存在なのだろう。おいらは無宗教者で無神論者であるが、それでも、なんとなく宇宙論的な絶対的存在を信じているし、それが宗教の言う「神」とは違うような気がしてならないというだけのこと。実際、キリスト教徒と称して科学的な見地から教会とは距離を置いたり、独自のキリスト教を再構築する人もいるし、安楽死ビジネスを敬虔なキリスト教徒が運営していたりする。そういう人たちは布教という行為には、あまり出ないようである。人間の信仰心は実に多種多様で、精神を宗教団体などという枠組みで画一化できるものではないし、ましてや強制できるものでもあるまい。仲間意識を煽る人ほど人頼みに走り、人に依存しようとしているだけのことかもしれん。
ユダヤ教はエジプトの神から派生し、キリスト教はユダヤ教から派生し、イスラム教にしてもこれらの影響を受けている。古代ギリシア時代には、ゼウスを中心としながらも実に個性的な神々が共存していたが、一神教になった途端に歪になるのかは知らん。人々を救済するはずの宗教が寛容性を失い、排外主義に憑かれた時、悪魔と化すのかも知らん。どんな大罪人でも懺悔すれば救済されるというのに、異端というだけで罪のない人々まで抹殺にかかるとは、これいかに?しかも、紛争は近い地域や近い思想の間で生じやすいし、親兄弟の間で生じる憎しみほど根が深い。人間ってやつは、本質的に差別好きで、縄張り意識が強く、自己存在を強調せずにはいられない。善や徳を唱える前に、メフィストフェレスと和解することの方を優先するべきなのかもしれん...

2017-03-19

"花伝書(風姿花伝)" 世阿弥 著

「ひとつ、この口伝に、花を知ること。まづ仮令、花の咲くを見て、万に花とたとへ始めしことわりをわきまふべし。そもそも、花といふに、万木千草において、四季をりふしに咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑにもてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知るところ、すなわち、おもしろき心なり。花と、おもしろきと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあればめづらしきなり。」

春風駘蕩の奥義とは、こういうものを言うのであろうか...
これは、芸人たる心得と、芸の実力を発揮する方法を綴った秘伝の書である。まず、幽玄たらんことを第一とし、面白きことを第二とす。そして、幽玄と物真似を二大要素に据え、その真髄は花を知ること、能も花と知るべし!... と能芸の極意を語ってくれる。ゆえに、「風姿花伝」と言う。花とは、目に見える美しさだけでなく、奥深き趣きを具えてこその美。六百年も前、わが国でこのような体系的な芸術論が語られていたとは...
人の一生とは、狂言のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、武士の仮面をかぶれば武士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であれば生きる糧とし、いかに達者を演じきるか。人間なんてものは、物狂いを演じながら生きているぐらいの存在なのかもしれん...
尚、本書には、川瀬一馬による現代語訳が付せられる。

「花伝書」は、世阿弥の著作のごとく言われてきたが、実は世阿弥は筆記者であり、編者であり、これを口述して授けたのは父の観阿弥だそうな。芸術の本質を考究すれば、自ずと人生論の性格を帯びてくる。世阿弥は、能の位を「幽玄の位」と「闌ける位」とで区別し、前者を生得の才、後者を年劫を積み重ねた才とし、双方の位を兼ね備えた者を達人と呼ぶ。
とはいえ、そんな奴は百年に一人の逸材。幽玄でない芸人でも長けることはあるし、幽玄な芸人でも長けることは難しい。ならば、双方を知るために、どう生きるか、人の道を究めようとすることこそ肝要というわけである。なるほど、初心忘るべからず!とは、父の遺言であったか...
「上手にも悪きところあり、下手にも善きところかならずあるものなり。これを見る人もなし。主(ぬし)も知らず。上手は名をたのみ、達者に隠されて、悪きところを知らず。下手は、もとより工夫なければ、悪きところをも知らねば、善きところの、たまたまあるをも、わきまへず。されば、上手も下手も、互ひに人にたづぬべし。さりながら、能と工夫を究めたらんは、これを知るべし。」

鎌倉末期、観阿弥は、滑稽卑俗なモノマネ芸であった申楽を、芸術性豊かな歌舞本位の新たな申楽にやりかえた。世阿弥は、父の意志を継ぎ、将軍義満をはじめとする室町武士の鑑賞を勝ち得るに至った。
とはいえ、申楽者たちは、なお卑屈な立場から抜け出ることができないでいる。庶民の心、人の心、分からずして、何が芸術だ。演戯から共感を呼び、役者と観衆の一体感こそ舞台演芸の真髄。即興性とは、一期一会になぞらえた一期一芸ごときもの。観阿弥は、人の心を写す方法論として物真似芸に重きを置き、仕手も、見手も、身分の隔たりを無にしようと思いを込める。この口述は、子への伝授というより、芸術家としての自覚を高めようとしたもののように映る。人間として低級卑俗から抜け出すために、謙遜と節度を重んじるかのように...
「私儀に言ふ。そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし。究め究めては、諸道ことごとく寿福延長ならんとなり。」
しかしながら、見物の側が奇妙な縄張りを囲うは、いつの時代も同じ。現在でも、歌舞伎役者たちが、気軽に観に来てください!と言ってくれるのは、おそらく本音であろう。その一方で、見物人たちが奇妙な身分差別をこしらえ、敷居を高くしてやがる。歌舞伎座あたりに出かけようものなら、セレブリティかぶれが、セレブ風を吹かせながら、着る物をめぐって火花を散らす。こちらの流儀が常識ざんす!貧乏くさくて不愉快ざんす!ってな具合に。本当の金持ちなら、貧乏人に絡んでまで自尊心を満足させようとはしないはず。人に難癖をつけずにはいられないとすれば、人に依存しながらて生きているようなもの。もとが滑稽芸なら、見物人も滑稽を演じるとうわけか...
「芸の家というものは血統が続くのが家ではない、芸の真髄が続くのが家である。人間は人の形をしているのが人間ではない、人の道を知っているのが人間である。(現代語訳)」

1. 芸の道 = 人の道
世阿弥は、芸の道をこう綴る。
...
七歳で芸の道に入り、子供の思うようにやらせよ。「自然といたすことに、得たる風体あるべし。」
十二三で調子が合うようになり、芸を仕込むべし。「童形なれば、なにをしたるも幽玄なり。」
十七より、最も重要な時期。声変わりで花が枯れ、腰つきも風情も変わり、嫌になってくる。一生の分かれ目はここにある。
二十四五、一期の芸が定まる時期。声変わりも落ち着き、身体も成人となり、若盛りゆえに上手を買いかぶる。自惚れのままの一時的な花に過ぎないと知れ。
三十四五、盛りの絶頂、名声を得る時期。だが、名声を得ることが目的ではない。いまだ真の花を究めぬと知れ。
四十四五、能の作法を悟るも、やり方を変えていく時期。花が枯れ、年老いていくが人の道。
五十有余、無用の事をしないという他は手立てがない。とはいえ、ものの善悪をようやく知る。「能は、枝葉もすくなく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。」
...
これは、孔子道ではないか!孔子は言った... 十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず... と。人の道には、死ぬ瞬間にしか悟れないものがあるようである。それをほんの少しでも覗き見るには、絶え間なく続く今を精一杯生き、準備を怠らぬように...

2. 物学道 = 物真似道
本書では「物学」と書いてモノマネと読み、物学び(ものまなび)という思いが込められる。赤子は親の仕草を真似て学ぶ。子供は大人の行いを真似て学ぶ。人間性もまた、何かを手本としながら、あるいは反面教師としながら学ぶものである。
観阿弥の説く物真似とは、姿や振る舞いをそっくり真似るという意味だけではない。具体的には、まず十体の風体を会得せよ!と説く。十体とは、歳相応にて、女、老人、直面(ひためん)、物狂(ものぐるい)、法師、修羅、神、鬼、唐事。これらをすべて会得すれば、工夫によって細かく変化させ、百種にも拡張できるという。
さらに、十体を会得する以上に大切なことは、未来の花を忘れてはならぬ!と。幼少の風姿、初心の態度、壮年期のやり方、老齢の味というように、その時期々々において自然に具わった風体を演じる。ある時は子供や若者の能に見え、ある時は壮年期の役者かと思われ、また随分年劫を積んだようにも見えて、同じ人物が演じていると思われぬようにやる。
幼年の時から老後までの芸を、すべて一度に持つという理屈は、まるで多重人格論。いや時間を統合したパラレルワールドか。これを「年々去り来たる花」と称している。ただし、この芸境に達した役者は昔も今も知らないという。
芸能の位が上がったために過去の風体を捨ててしまうのでは、花の種を失う。万事に抜け目なく生きろ!とは、無限の境地を要請しているようなものだが、到達できないとすれば、永遠に暇つぶしができる。生きることが精一杯ならば、死を恐れている暇などない。
「ひとつ、そもそも因果といって、善い時、悪い時というのがあるのも、工夫をこらして見ると、要するにそれは珍らしい、珍らしくないの二つになる。上手な者がやった同じ能を、昨日と今日と続けて見たとして、前におもしろいなと見たことが、後ではまたおもしろくもない時があるというのは、昨日おもしろかったと思っていたのが、今日は珍らしくないために、よくないと思うのだ。その後また善い時があるのは、前に悪かったのにと思う気持ちが、また珍らしいということに返って、おもしろくなるのである。(現代語訳)」

3. ひためん(直面)と仮面
田楽と武家との結びつきは、源平時代に遡るそうな。そして鎌倉時代、田楽は武家社会の生活を反映し、武士が愛好する舞台芸能の中心となっていく。「田楽」と呼ぶからには、名の由来が田んぼであることは想像に易い。鎌倉殿と主従関係にある御家人たちが地方に散らばって舞台芸能を広め、今度は地方芸能として育まれて、逆に都で珍しい地方芸が人気を博し、都に本座、新座の田楽座が起こったという。都と農村が相互に影響しあって、能へと発展していったということらしい。禅の修養や武士道が、広く地方百姓まで浸透していった様子が、この時代に見て取れる。
芸術がいかに人間の本性を暴くものかを物語っていれば、やはり政治権力と相性が悪い。室町時代、世阿弥が低級卑俗とされた能芸を存続させるために、将軍義満のご機嫌取りもやったことだろう。芸を開花させるのは、根気のいる仕事だ。何事も世間を生き延びるためには、したたかさが求められる。能の精神は、権威主義から距離を置き、謙遜の態度を伝統にするしかなかったのかもしれない。だが世俗では、仕手も見手も自我を肥大化させていくのが世の常。だからこそ、皮肉芸や滑稽芸がより輝く。非道を行う者が、人道を説くというわけか...
鎌倉末期、近畿地方に栄えた申楽諸座の中、まず近江申楽の日吉座が起こり、天女の舞いという形が生まれ、これに仮面を使用したのが歌舞の芸だという。一方、仮面を使用しないのが、田楽の特色だったとか。本来の申楽は、メーキャップのみで仮面をかけることはなかったようである。仮面を用いたのは、歌舞の達者があまり美人ではなかったということであろうか?それとも、男が演じるからであろうか?仮面が無表情であるがゆえに、型を重んじるようになったということはあるかもしれない。
ひためんと仮面は、本音と建前を使い分ける技に通ずる。古代より世界各地で、美女の官能的な歌舞の伝統が見られる。ギリシア神話に登場する妖精やニンフなど、天使に天女の舞いを重ねたりと。日本では、歌舞を文芸的に発展させたのが、大和申楽座の観阿弥だったという。世阿弥が綴る普遍的精神を鑑みれば、ユネスコの無形文化遺産に登録されるのも、分かるような気がしてくる。しかしながら、能の精神が見えていないのは、むしろ日本人の方やもしれん...

2017-03-12

"お能・老木の花" 白洲正子 著

能といえば...
紋切り型の舞台演芸というイメージが強く、どうも近寄りがたい。日本の伝統芸能を日本人が馴染めないとは、どういうわけだ?海外公演の話はよく耳にするし、ユネスコの無形文化遺産にも登録されているというのに... などと思ってきた。
ところが、映画「のぼうの城」で、成田長親を演じる野村萬斎さんの田楽踊りは、滑稽ながらも奇妙な美を醸し出す。

♪~ がってんかぁ?... がってんじゃあ、がってんがってんがってんじゃあ ~♪
♪~ れんろんれんろんれんろんやぁ... ひょろろん、ひょろろん ~♪

その動きには、自由奔放でありながらも、何かに裏付けられた型というものを感じる。そして、漫才や落語も伝統的な話芸の型から派生したものであろうし、多分、その原点も庶民を喜ばすことを快感とする遊び心から発しているだろうし、多分、型破りという型もあるのではないか... というふうに考えるようになった。おかげで、つまらないイメージーも少しやわらぎ、ときどき貧乏臭い着物姿で博多座へも出かけるようになった。
本書は、そんな酔いどれド素人にも分かったような気分にさせてくれる入門書で、「お能」、「梅若実聞書」、「老木の花」の三作品が収録される。おまけに、いきなり冒頭から仕掛けてくるフレーズにイチコロよ!
「お能というものはつかみどころのない、透明な、まるいものである、と一口に言ってしまうこともできます。同時に何千何万のことばをつらねても、言いつくせないものであります。芸術はすべてそのようにとめどのないものですが、それは片手にのせるほどの小さな茶碗一個でも完全に表現することができます。お能もまたそのとめどのないものの円満な代表者であります。」

芸が術となった時、権威をまとい、敷居が高くなり、鑑賞者に高みに登ってこい!と要請してくる。本書は、そんな術も、もともとは娯楽芸、いや滑稽芸から発していることを教えてくれる。
「お能は純粋に民族的のところから発生した...」
そもそも芸術と自由精神は相性がいいはずで、自由人は型に嵌められることを極端に嫌う。
しかし、だ。型に真理の奥義が秘められているとすれば、どうであろう。型の本質を見極めようという欲求に憑かれては、型と型破りの境界をさまよい、模写を尽くす。そして、神と腕比べをし、ついに、自我に参った!と言わせた瞬間、真の型破りが始まる。これが独創性ってやつか。こうした傾向は、ルネサンス時代の芸術家たちにも見られる。ラファエロしかり、ミケランジェロしかり、ダヴィンチしかり... 模写を尽くす根本的な動機は物マネに発し、その根底には大人たちの仕草に憧れる子供心がある。
一方で、マックス・ヴェーバーは、プロテスタンティズムの禁欲精神が、資本主義的な自由精神を覚醒させたと論じた。愛は障害があるほど燃え、禁断の愛では炎はより大きくなる。逆説的ではあるが、模倣が独創を育み、抑圧が自由を覚醒させるのは、相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体の宿命であろう。厳格な型と厳しい稽古に裏付けられた自由精神の芽生え。それは、真に型を習得した者にしか打ち破れない領域にあるのやもしれん...
「... 名人なる者はこれもまた一個の不完全な人間で、いわゆる芸術家として発言することもしないほどの職人であればこそ『お能』が演じられるのです。」

舞台芸術というものは、その時代の民衆を喜ばせるものでなければならないわけで、社会慣習が変われば型も変化していく。人を喜ばせる芸も、見慣れてくれば、喜びは半減していく。観衆の目は肥えていき、贅沢になっていき、より刺激を求めてくる。おのずと芸にも磨きがかかり、巧妙かつ高度化して、ついに術の域に達する。
そして、庶民には手の届かない存在になるとは、なんと皮肉であろう。偉大な芸術を目の前にすれば、手も足もでない。十分に成熟した芸術は、信仰と見分けがつかない。無知を知れば、黙って見るほかはない。最低な感想は、作者や演技者はいったい何が言いたいのか?といったものだ。自己の能力が自己の自由を奪うとなれば、世阿弥の言葉がぐさりと刺さる。

 惣じて目ききばかりにて能を知らぬ人もあり。
 能をば知れども目のきかぬもあり。
 目智相応せばよき見てなるべし
 ...「花鏡」批判の事

1. お能と能楽
「能楽」といういかめしい言葉が通用するようになったのは、明治になってからだという。江戸時代にも能楽という用語はあったようだが、「お能」や「乱舞」などと呼ぶ方が一般的だったらしい。お能の前身は猿楽とされるが、そんな単純なものでもないようだ。
「お能がいつ、どこで、どうして発生したかと言うことは、おそらくだれにもはっきりと言えないと思います。舞踊の歴史は人類とともに古いのです。お能はその長い長い舞踊史をつづるクサリの一部です。ひとつのクサリが他のクサリを生み、長くなるにしたがってたがいにもつれ合い、こんがらかってしまいました。そのクサリのひとつひとつを名づけて、あるいは傀儡子(くぐつ)、あるいは侏儒舞(ひきひとまい)、あるいは白拍子、あるいは曲舞、あるいは田楽、あるいは咒師(じゆし)、... などと申します。」
他には、奈良時代に中国から伝来した「散楽」というクサリもあるという。観阿弥は結崎座の座頭で、大和猿楽の一派。別の一派に近江猿楽というのもあるとか。世阿弥は競争相手の近江猿楽の特長にも目をつけ、大和猿楽に一部は吸収され、一部は滅んだという。
能楽とは、お能でもあり、乱舞でもあり、猿楽、散楽、申楽でもあり、猿楽の能と呼ばれたりもし、おまけに猿楽同士の枠をも集めたもので、まさに掴みどころがない。だがそれは、結果を見てそう言えるのであって、世阿弥の意図したことかは定かではない。
さらに、能には「中心といえるものがない」と指摘している。中心がなければ、すべてが中心を主張し、芸術家のエゴイズムを助長する。エゴイズムが肥大化した時に自由が見えてくるのだろうが、それができるのは名人だけだろう。中心点は無数の点となり、無限という無は無意識の象徴にまで高められ、そこから思いがけぬ美が生じるというものか。
最上の演出を「冷えたる能」とか、「闌けたる位」とか言うそうな。してみると、わび、さび、陰翳、冷え、枯れといった言葉も逆理であって、文字通り受け取るわけにはいかない。美の完全は、宇宙の不完全によって生じる。不完全とは柔軟性であり、柔軟性は自由精神と相性がすこぶるいい。黄金の茶室などは美の愚弄、冒涜の類い。凡人が真似れば、自我を肥大化させるだけで、権威主義の餌食となる。
また、お能は、武士がこしらえた文化だという。鎌倉時代の田楽が武家社会の生活を反映していたようである。武士には、いつ死が訪れるか分からない。元服すれば、まずもって切腹の作法が伝授される。生の儚さを、型に縋る思いであったのだろうか。
平安朝の文化人の理想は、現世に快楽を求めることで、来世は現世の延長と考えていたという。黙って極楽を待つより、今を極楽へ。お能には、幽玄との対話が組み込まれる。幽霊、神、鬼、天狗、化身、草木の精、狂人、神がかりなどが登場するのも、ある種の現実逃避であろうか。来世を描けば、現世に皮肉を込めずにはいられない。お能は型に嵌まりすぎていて、芝居のような個性がないとも言われる。
だがそれは、あまりにも抽象的だからということらしい。いや、普遍的と言った方がいいかもしれない。現実の人間はあまりにも個性が溢れ、能にとっては煩わしい存在であり、幽霊の方が煩わしくないとでもいうのか。死人と付き合う方が分かりやすいと言えば、そうかもしれん。幽玄に羽衣を着せて虚像を演じるのも、仏像や聖像を拝むのも、はたまた彫刻や絵画を賞賛するのも、たいして変わらないと言えば、そうかもしれん...
「芸術家は自然に対してさほど忠実でなくても、またその反対に自然がほとんど消滅していても芸術が成りたつことは、お能のもつ不自然さがもっともよく証明いたします。」

2. 世阿弥
室町時代には、お能は非芸術的な演戯とされたそうな。ある歴史書によると、江戸時代、歌舞伎役者は河原者や河原乞食などと呼ばれ、卑しめられたと聞く。これと同じような処遇であろうか。娯楽芸は庶民から発した文化であり、身分の高い連中には、やはり低俗なのか。現在でも、お笑い芸を低俗とする論調を見かける。笑いの感情は、高等な動物の証だとも言われるのだけど。
この卑しいお能を芸術にまで育てたのが、世阿弥である。世阿弥は美しい少年で、将軍足利義満の目に留まったという。義満がどれほど芸術的な精神を持ち合わせていたかは知らんが、その派手好きは金閣寺に見て取れる。世阿弥は、謙虚に、したたかに生きたという。自己の内にある芸術家を抑えつけてまで、自己を殺してまで。芸術家を気取らない芸術家といったところであろうか。純粋な精神から発する芸術は、真理を暴くために、しばしば政治の思惑と対立する。しかも、民衆への影響力が強く、政治家は無視できない。それは、いつの時代でも同じだ。
本書は、身の程を知っていたから、お能の型を完成させられたと指摘している。言い換えれば、世渡り上手とも言えそうで、芸術家としての立場は千利休と対称的ですらある。利休の運命が、自分の意にかなっていたかは別にして。
ただ、義満に寵愛されながらも、その愛に溺れず、世阿弥の作品の中に一つとして将軍を讃えたものは見当たらないそうな。将軍の機嫌をとってまで生き永らえようとは思わなかったということか。やはり自由精神は芸術家にとって命か...
世阿弥は理論家でもあり、「花伝書」をはじめ十六もの書を残したという。そこには能の本質、構成法、教育方針などが語られているとか...
「世阿弥の遺書が現代人をまんぞくさせるのは、今から五百年も前に私たちと同じことを思っていた人があるということを発見することにあります。」

3. 序破急
日本の伝統芸能に限らず、舞台劇を鑑賞する人は、「序破急」という言葉を耳にしたことがあるだろう。いわゆる三幕構成である。世阿弥は、こう書いているという。

「序ははじめであるから正しい姿である。また自然の姿である」
「破はそれに和してこまかく手をつくし注釈をほどこす部分である」
「急は急速におしつめて最後をかざる部分である」

お能の場合、正式な番組は五つで構成されるそうな。一、脇能... 二、修羅能... 三、かつらもの(または三番目物とも)... 四、狂女物あるいは四番目物...五、切能。このうち、脇能と修羅能が「序」、かつらものが「破」、切能は「急」に属すという。
なんとなく、プラトンが唱えた「イデア論」、あるいは、ヘシオドスの唱えた人間の「五つの種族」に通ずるものを感じる。序に精神の原型、すなわち純粋な魂を据え、狂気の末に鉄の種族へと変化していく様に...

4. 香道
本書は、お能とお香の類似性を語ってくれる。これは、リラクゼーションのためにお香を焚く酔いどれには見逃せない。お香ほど抽象的なものもあるまい。そこにあるのは香木と煙だけ、あまりにも自然であるがゆえに誤魔化せない。匂いは純粋に直感を刺激し、お香には匂いを楽しむという遊び心が具わっている。無意識と遊び心の共存だ。お能の役者もありのままの姿を演じながら、なんらかの型を強要している。
香道における志野宗信は、お能における世阿弥のような存在。彼は、香木を六種類に分類したという。それは「六国」とも「六木」とも言われる。それぞれ南の国の名をとって、伽羅(きやら)、羅国(らこく)、真那伽(まなか)、真南蛮(まなばん)、寸聞多羅(すもたら)、佐曾羅(さそら)と名付けたという。六歌仙にかたどって六種五味を嗅ぎ分けると...

  • 伽羅 = 苦... 品位高く優にして苦味を主とす。高尚なる事雲上人の如し、故に僧正遍昭とす。
  • 羅国 = 辛... 薫り鋭く苦味を帯びて白檀の如き処あり。凛然たる武士に似たり。業平の表面女色を装へど内心の大志を抱けるに比すべし。
  • 真那伽 = 鹹... 薫り軽く艶にして早く香の失するを良しとす。少し癖ありて愁を含める女に似たれば小野とす。
  • 真南蛮 = 甘... 甘味を主とす。他に劣りて卑しき処あり。故に山賤の花蔭に休らへる黒主に適すべし。
  • 寸聞多羅 = 酸... 酸味を主とす。品位優ならず。いはば商人のよき衣着たりとやいはむ。故に此を康秀と見たつべし。
  • 佐曾羅 = 酸... 香気冷やかにして酸上品なるは伽羅に紛ふ処あり。高尚なれば高僧の部として喜撰に擬す。

この六種五味を会得すれば、何百何千ものお香をききわけられるとのこと。そして、この五味が、お能の五つの構成に通ずるというわけである。すなわち、優美で品のよい伽羅は「かつらもの」、白檀のように凛然たる羅国は「修羅能」、愁いを含む真那伽は「狂女物」、やや品の落ちる真南蛮は「他の四番目物」、最も優美でない寸聞多羅は「切能」、冷ややかにすがすがしい佐曾羅は「脇能」と...
「知識をもたないために直感にたよるほかはない... 人間の知識が発達するにつれてにぶくなった直感は、人が知識にたよれない場合に限り溌剌とよみがえる...」

5. 梅若実聞書
梅若六郎の父、梅若実が73歳で隠居に際してのエピソードを紹介してくれる。著者は「花伝書」を携えて、「先生、この本をお読みになったことありますか。これこそ本当の芸術論というものです。」という挑戦的な質問に、翁はこう答えたという。
「いえ、そういうけっこうな書物がある事は聞いておりましたが、未だ拝見したことはございません。芸が出来上がるまで、決して見てはならないと父にかたく止められておりましたので。... しかし、もういいかと思います。が、私なぞが拝見して解りますでしょうか...」
人生という厳しい修行を生きた者にしか発せない言葉であろう。どんな難解な書を読んでも、分かった気になれる惚れっぽい酔いどれとは大違い。全然分かっていないから、分かったふりが平然とできる。
また、名人の芸に対する態度を、アランことエミール=オーギュスト・シャルティエの文章と重ねている。
「剣術を習った人はよく知っている様に、腕をのばそうとする努力は、まさにその努力の為に、腕を完全に伸ばし切る事を不可能にする。この様な場合には、反対に、その事に頭を使わないで成功する様な、何かしら柔軟なもの、無関心なものが必要である。... 大衆が喜ぶのは、その結果よりも、結果を生む為にはらわれる努力の方に拍手喝采をするのであって、実際の話が、我々は自己の欲望に褒美を出しているのだ。」
剣術も一種の舞踊と言えよう。いずれも究極の意味において、敵は相手ではなく、己にある。結果として相手を負かすことよりも、真の意味で己に勝つ... 何かを悟った境地とは、こういうものを言うのであろうか。心眼とは、目が見える以上に見えるものらしい。凡人は、目が見えたところで盲目であり続ける...

6. 老木の花
「初心忘るべからず」とは、世阿弥の言葉と言われる。その言葉にふさわしい能の名人に、友枝喜久夫という人を紹介してくれる。渡辺保という人は、こう評したという。
「仕舞はその姿勢 - 構えが大事である。ところが友枝喜久夫の構えは、一見構えともいえないような無雑作なものである。右手に持った扇がダラリと下がっている。この無雑作な扇が、しかし身体全体に不思議な色気を漂わせるから不思議である。無雑作に見えても技術をこえなければ持てる扇ではない。技術によって技術にとらわれず。すなわちそこに自由な心境がある。」
無雑作から生まれる技術とは、無からの有への体現であろうか。能を難解なものにしたのはインテリであって、芸術に祭りあげ、専門家がそれに便乗して権威主義を造りあげたが、友枝喜久夫にはそれがないという。
「一時的な快楽を与えて過ぎ去って行くものと、血の出るような訓練をして、技術を超越したところに現れる不滅の美は、その強烈なことにおいて変りはなく、たまたま会えるか会えないか、見物の心ひとつにある。テレビの普及は私たちを怠け者にしてしまい、受動的にしかものが見られなくなっている。解らないとか難しいというのも現代のマスコミが作り出した概念にすぎず、そんなことをいい出したら、絵や彫刻だって能以上に解らないし、難しいのである。」

2017-03-05

"知性改善論" Baruch De Spinoza 著

宇宙論的な神を唱えれば、無神論者のレッテルを貼られ、長らくタブー視されたスピノザ哲学。だが、人間の編み出した宗教の教義など普遍性には遠く及ぶまい。汎神論論争の帰結が、スピノザ哲学を不動の地位に押し上げるとは、なんとも皮肉である。真理を探求すれば懐疑主義となり、独りよがりの自問自答に耽る。それは疑い深いのとは違う。健全な懐疑主義と啓発された利己主義こそが、真理探求者の資質とでもしておこうか。時勢に逆らってまで信念を貫く姿勢は、酔いどれ天の邪鬼にはたまらない...
本書は、知性の方法論を語ってくれる。注目したいのは、事物理解の方法として、定義を重視している点である。優れた定義が、優れた認識を与えるというわけだ。優れた質問が優れた結論へ導くものだが、そこには、きちんとした定義が前提される。定義が不明瞭であれば前提を見失い、議論は迷走する。誤謬の原因の多くは、ここにあるのではあるまいか...

ところで... 知性とはなんであろう?
知性をうまく定義することができれば、人生に意味を与えることができそうだ。しかしながら、これを定義することが最大の難題である。スピノザは、最高善を唱えている。それは、人間の至高の幸福としての真理を探求する意志とでも言おうか、能動的な精神の姿であって、極めて自由意志に近いものであろう。
「知性」を我が家の国語辞典で引くと、「物事を知り、考えたり判断したりする能力...」とある。思考力や判断力には、おのずと限界がある。肉体で成り立つ人間は有限的な存在でしかなく、量子論的に言っても、質量ある物体は有限的な存在でしかない。そもそも真理なんてものは、人間が勝手に編み出した退屈しのぎの概念かもしれないし、そんなものは存在しないのかもしれない。仮に存在するとしたら、おそらく無限の体系にあるのだろう。
では、幽体離脱した魂は、無限的な存在になりうるだろうか?遺伝子や記憶子の継承によって、普遍的価値観へ昇華させることができるだろうか?時間の矢に幽閉され、空間次元の非対称性に幽閉される人間の認識能力が、唯一活路を見出すとすれば、それは世代を超越した永劫回帰にあろうか。ニーチェが問題提起したあれだ。スピノザだって、知性への道を完全に記述できると思ってはいまい。なるほど、どんな賢人であっても、自分自身を真理会得者などとは呼ばないものらしい...

さらに... 知性を導くための道具とはなんであろう?
知性はしばしば知識と混同されるが、まったく違うもののように映る。知性は知識によってもたらされるが、知識を詰め込んだところで知性が得られるものではない。知識の宝庫と言えば学問だ。最高の仕事が最高の道具によってもたらされるように、最高の知性もまた優れた学問によってもたらされるであろう。
しかしながら、学問は手段でしかない。知識とて記憶と忘却に見舞われ、人間の都合でどちらかが選択される。実際、凡人の学問は最高善を求めず、金銭欲、名誉欲、快楽の手段と化す。有識者や有徳者ですら名誉を重んじるがために、相手の名声を傷つけることに必至で、感情の捌け口としているではないか。真理ってやつが、おぼろげに存在すると信じたところで、精神そのものが存在するのかも、いまいち自信が持てず、確実に実感できるものに縋るのも道理である。
世間が求める善と真理探求者が求める善が真逆であれば、真理探求者は、寒山拾得のごとく社会から距離を置くか、あるいは、シャングリ・ラのごとく世間の目に晒されない領域を求めるであろう。
デカルトが、人間は思惟する存在だと明言しても、なぜ思惟するのかまでは答えられない。キェルケゴールが、それは人間が精神であるからだと答えても、精神の正体までは答えられない。いまだ人間は認識の正体を知らないでいるのだ。どうして事物が存在し始めたのか?存在の根源とは何か?それは、単なる認識の産物ではないのか?実は、すべてが虚構であり、真理もまた空虚ということはないのか?脳の形成では、原子や電子が無数に集まることで意識なるものが生じる。そして、それが精神へと昇華し、精神の持ち主は思惟せずにはいられない。ただ、それだけのことかもしれん...

そもそも... 自己の正体も知らない人間が真理を知ることができるのか?
論理を駆使したところで、すぐに矛盾にぶつかり、弁証法を用いて堂々巡り。自己の正体も知らないから幸せ者なのかもしれん。だから、哲学という学問が成り立つのかもしれん。どうせ凡人には真理を見極めることなんてできんよ。
具体的な方法論では、せめて消去法を用いるぐらい。現実を生きるには、反省の認識が有効となる。そして、人生は思考実験の場となる。この実験を放棄すれば、真理の探求を放棄したことになり、生きる意義の大半を失うことになろう。能動的に思考することを放棄すれば、知識や情報に惑わされるだけの存在となろう。だから、デカルトは「省察」ってやつを書いたのかは知らん...
「精神は理解することがより少く知覚することがより多ければ、それだけ大きな虚構能力を有し、また理解することがより多ければ、それだけそうした能力が減少するということを特に注意しなければならない。」

2017-02-26

"世界を変えた17の方程式" Ian Stewart 著

「"~に等しい" という言葉をうんざりするほど繰り返さないために、私が仕事でよく使っているとおり、一対の平行線、つまり同じ長さの二本線 "=" を使うことにする。二つのものとして、これ以上等しいものはないからだ。」
... ロバート・レコード「知恵の磁石」より

世界を変えた... とは、良い影響を与えたという意味だけではない。実際、方程式そのものが真理であったとしても、用い方を間違えれば、途轍もない危機を招く。量子力学しかり、遺伝子工学しかり、金融工学またしかり...
科学者は、善悪はそれを用いる者の心の中にある!と訴える。それは詭弁であろうか。方程式に権威ある学者が太鼓判を押すと、人々はそこに群がる。変数を与えるだけで世界が分かると信じて。カオス社会では特にそうだ。「方程式」という言葉の響きは、よほど心地よいと見える。こいつに無限の期待をかけ、自己を暗示にかけちまうのだから。誰も検証できないとなれば尚更。そうなると、迷信と何が違うのだろう。仮に絶対的な方程式が存在するとして、その奴隷になることが幸せなのかは知らん。間違えない人生が楽しいのかも分からん。ただ言えることは、方程式は道具である。もっと言うなら、知識は道具であり、これを用いるのが知性である。哲学のない道具は危険となろう。一流の板前さんは、包丁一本にも職人魂を宿らせる。
ところで、知性ってなんだ???

方程式は、しばしば人類の道筋を示してきた。それは、自然界の本質を記述しているからだ。しかし、数学者イアン・スチュアートは、世間の粗略な扱いに不満をぶちまける。
「歴史書には王や女王や戦争や自然災害の記述に満ちあふれているが、方程式はほとんど登場しない。それは偏った扱いようだ!」
方程式は記号で表されるが、ある種の言語として振る舞い、自然言語に勝るとも劣らない説得力を持つ。その力は、抽象化と客観性に裏付けられる。ただ、この二つの形容詞は、そのニュアンスが学問分野によって微妙に違う。
「抽象化」という用語は、哲学者、科学者、芸術家などは「より真理に近い」といった普遍性と重ねた意味合いで用いるが、政治家や経済人などは「曖昧さ」という意味を込めて、具体的に示さなければ何の意味もない!と吐き捨てる。学芸に理解のない者は、芸術家の抽象表現に対して、何が言いたいのか?と最低な感想をもらす。
「客観性」という用語では、有識者たちが客観的に語ると宣言して、そうだったためしがない。客観性の度合いでは、数学は他の追従を許さないものの、不完全性の呪縛からは逃れられない。
ちなみに、ヴィクトリア女王時代、マイケル・ファラデーはロンドンの王立協会で、磁気と電気の関係を実験で説明したそうな。言い伝えによると、ウィリアム・グラッドストーン首相は、それに何か現実的な意義があるのか尋ねると、ファラデーはこう答えたという。
「そうですね、いつかこれに税金を掛けることになるでしょう...」
尚、この逸話を裏付ける証拠はないそうだが、埋もれさせるには惜しい!

17 の方程式とは...
ピタゴラスの定理、対数、微積分、ニュートンの重力法則、-1 の平方根、オイラーの多面体公式、正規分布、波動方程式、フーリエ変換、ナヴィエ=ストークス方程式、マクスウェル方程式、熱力学の第二法則、相対論、シュレーディンガー方程式、情報理論、カオス理論、ブラック=ショールズ方程式。
本書は、方程式を二種類に大別する。
一つは、様々な数量の関係を表し、真であることが証明された時に定理となるもの。純粋数学がこれに属し、ピタゴラスの定理やオイラーの公式などは恐ろしく真である。
二つは、未知の量に関する情報を与え、科学法則や社会的モデルとなるもの。応用数学や物理数学は大抵これに属し、ニュートンの重力法則や相対性理論などの経験法則がそれである。
前者は厳密な証明によって裏付けられ、後者は実験や観測によって裏付けられる。思考原理の観点から、前者が演繹的で、後者が帰納的という見方もできそうだが、その境界は微妙だ。個人的には、正規分布とブラック=ショールズ方程式あたりに、やや異物感があるものの、世界を変えたという意味では、そうかもしれない。正規分布は、正規という名を与えられたが故に、あらゆる統計モデルに用いられ、数々の誤謬を招いてきた。尚、嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である... とは、ベンジャミン・ディズレーリの言葉だ。
ブラック=ショールズ方程式では、オプション価格の決定法に金融屋が群がり、あの悪名高い LTCM の破綻を招いた。ひいては、リーマン・ショックの警告であったとも言えるわけだが、歴史は繰り返された。アンドリュー・ホールデンとロバート・メイは、こう指摘したという。
「金融生態系では、進化力は、もっとも適応したものでなく、もっとも太ったものを生存させる。」
ピタゴラス教団が、数を占星術と結びつけたのは、現代感覚からすると常軌を逸している。だが今日でさえ、どんなに立派な方程式を編み出したところで、その結果は都合よく解釈される。では、本当に完全な方程式が存在すればどうだろう。人間は思考することをやめ、進化の道は閉ざされるだろう。結局は同じことか...

1.駄洒落と影のつきまとうピタゴラス
ピタゴラスの定理は、「カバに乗った女房」というダジャレに登場するという。ネットでも見かけるあれだ。あるインド人の族長には、三人の妊娠した女房がいたとさ。一人目は水牛の皮の上に、二人目はクマの皮の上に、三人目はカバの皮に上にいた。一人目は男の子を1人、二人目は女の子を1人、三人目は男の子と女の子の双子を産んだ。故に、カバの皮に乗った女房は他の二人の和に等しい。これで有名な定理が例証されたというお話。
これのどこがダジャレなのか?"hippopotamus(カバ)" を "hypotenuse(斜辺)" に、"squaw(女房)" を "square(2乗)" に引っかけているというオチ。実に下らん!
古代ギリシアの自然哲学者たちは、日時計の原理となる影ができる図形に憑かれた。ユークリッド原論にも登場するあれ、そう、グノーモーンってやつだ。ここには直角三角形の原理が内包され、距離を測る人類最初の方法が暗示されている。そう、三角法だ。紀元前五世紀以降、ギリシア哲学者がおしなべて大地が丸いと考えていたことに異論の余地はない。天動説が唱えられ、ピタゴラスの定理は、地図、航海、測量に欠かせない道具となった。
今日では、様々な距離の概念で応用される。それは、地理的な場所だけでなく様々な物理量のベクトル場で論じられ、抽象度の高さを魅せつけている。相対性理論では空間や時間における距離と重力の関係を論じ、情報理論では符号距離を論じ、さらに、解析学では直角という幾何学的概念を直交性という代数学的概念で抽象化し、便利な近似法を与えている。フーリエ変換やウェーブレット変換がそれだ。
日時計の時代から、人類は直角(= 直交)という影を背負って生きることを運命づけられているようだ。幸福のバロメーターとして、人間関係の距離を測る必要もある。そして、アル中ハイマーは夜の社交場で直交配置される点群(店群)へ直行するのであった...

2. ややこしい計算から解放してくれる魔術
人間にとって、掛け算よりも足し算の方がはるかに楽だ。自然対数の底の名を持つマーキストンの第8代領主ジョン・ネイピアは、神秘主義者だったらしく、錬金術や降霊術に携わっていたとされる。
まさに対数は、掛け算を足し算に置き換えてくれる魔法の術!掛け算や割り算、比の計算、平方根や立方根の開平などの計算から解放してくれる。音響工学や電気工学では、dB(デシベル)という単位を用いて増幅回路の利得などで重宝され、デジタルシステムでは、底が 2 の時に重要な意味を与えている。底に何を選ぶかは用途によって変えればいい、という柔軟さこそが真骨頂!人間の直感は絶対値よりも相対値を好むようだ...

3. 微積分学の美学
あらゆる物理現象は、時間とともに変化していく。つまり、すべては時間の関数で表わせるってことだ。そこで、本質的な変化の方向性を観察するには、時間の変化が限りなくゼロになる点における状態を定めればいい、という思考(嗜好)が浮かぶ。微積分が自然界のあらゆるモデリングで活躍の場を与えられる理由が、ここにある。
では、限りなくゼロとは、どういう状態か?「無限小」という物理量を、どうやって正当化するのか?時間をゼロにするということは、次元を一つ落とすこと。これが微積分学における哲学的解釈の一つとしてある。時間という次元をなくせば、連続性から解放され、離散的なスナップ写真が描けるという寸法よ。
しかしながら、人間の認識能力は時間の存在によって成り立ち、時間をゼロにするということは、認識を無にするに等しい。そのためか?限りなくゼロに近づけようとするだけで、けっしてゼロにはならない。これが無限小の正体だ。つまり、永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する。まるで消えゆく亡霊を追いかけるがごとく。ある落語家は言った... 人生はノーパンだ!はかない...

4. 潜在力学
力学とは、物体の運動における力の関係を問う学問である。
そもそも、力ってなんだ?アリストテレスの運動論以来、インペトゥス、モーメント、トルク、エネルギー、フォースなど、様々な用語が乱立してきた。アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示し、力は質量を通じてエネルギーと結びついた。
では、エネルギーってなんだ?力学的エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和で記述され、そこには保存則が成り立つとされる。運動エネルギーの存在は、なんとなく分かる。物体が移動すれば、そこになんらかの力が働くであろうから。
では、位置エネルギーってなんだ?質量と加速度と位置(高さ)で決定される物理量だが、位置ってなんだ?物体が存在するからには、空間のどこかに位置する。つまり、位置は相対的な場所でしかない。位置エネルギーはポテンシャルエネルギーとも呼ばれ、重力などはポテンシャル、すなわち潜在的な力として解釈される。概して人間は潜在能力を持っており、努力によって開花させる者がいれば、ほとんどの者が才能を眠らせたまま。潜在的な存在といっても、自己存在に確証が持てなくなるばかりか、あらゆる存在に疑いを持たずにはいられない。
リンゴは、なぜ地面に落ちなければならないのか?と問えば、それは高い位置にあるからで、すべての地位は失墜する力学が働いているとでも言うのか。政治の力、金の力、愛の力... これらすべて腐敗する運命にあると。どうやらそうらしい。そしてさらに、こう問うであろう。男性諸君は、なぜ小悪魔に落ちなければならぬのか?やはり、人生はノーパンか...

5. 虚像という名の理想
人類は、実数に対して、虚数という仮想的な数を編み出した。実数と虚数の組合わせで表記される複素数は、三角関数を計算する上で優れた手法であり、電磁気学や量子力学では欠かせない。
幾何学的に存在しえない -1 の平方根に、いったいどんな意味があるというのか?しかも、その性質ときたら、乗法と加法の規則を守ってやがる。これは、理想解への道であろうか?最も美しいオイラーの公式は、この虚像の下でネイピア数とπという二つの無理数が戯れると、整数に収束すると告げてやがる...

6. 重ね合わせた猫は不気味
1オクターブを周波数の整数比で作る音律の概念は、既にピタゴラスの時代からある。波動方程式の線形性は、波の重ねあわせによってハーモニーを奏でる。フーリエ変換もまた、正弦波成分と余弦波成分の和によって構成され、周波数スペクトラムという概念を与えている。信号成分を周波数リストで記述すれば、再現性が高く、デジタル信号処理とすこぶる相性がいい。
実際、フーリエの考えた熱方程式は、恐ろしく波動方程式に似ていたという。マクスウェルの方程式もまた、ある種の波動方程式という見方ができよう。div(発散)とrot(回転)の演算子で、電場と磁場の見事な対称性を示している。マクスウェルは、エーテル説を信じて実証しようとしたが、光の波動性を匂わせてしまったことで、思い悩んだと伝えられる。
さて、あらゆる物理運動は、なんらかの振動を備えている。そもそも、物体の基本要素である原子や電子が振動している。となれば、振動の重ねあわせによって、存在そのものが定義されるのも道理であろう。直感では、物質の存在を粒子性によって示したいという衝動が働くが、存在の本質は、むしろ波動性の方にあるのかもしれない。
マクスウェルの方程式は、確率論に基づいた最初の物理法則という見方もできそうである。電子工学で用いられる電流や電圧の単位は、あくまでも統計的な物理量であって、電子の個々を制御しているわけではない。ひょっとしたら、マクスウェルの悪魔に憑かれた電子が、1個ぐらいどこかに存在するかもしれない。人間社会にも犯罪確率があるように、同じ教育を受けたからといって、同一の人間性が生まれるわけではない。
実際、量子の振る舞いは不気味だ。「シュレーディンガーの猫」という思考実験を試せば、確率と重ね合わせ状態の違いとは何か?と問わずにいられない。すべての現象が重ねあわせ状態で存在するとしたら、なぜ宇宙は古典的に見えるのだろうか?人間認識のスケールでは確率になるが、プランクスケールでは重ねあわせ状態になるというのか?おまけに、波動性ってやつは、振動に加えて位相を持ってやがる。しかも、不思議なことに位相は複素数で扱われる。つまり、虚数(= 虚像)というわけだ。
位相の違う波を重ねあわせれば、まったく違う状態になりうるし、情報がうまいこと相殺されることもある。となれば、猫の存在を問う前に、猫そのものが判別できないかもしれない。
定常位相の原理ってなんだ?光学系のすべての量子状態を重ねあわせると、光線は最短時間の経路をとるとされるが、やはり道を選択するというのか?
デコヒーレンスってなんだ?互いに干渉すれば、波動関数を収縮させ、やはり道を選択するというのか?
これらの原理は、同じ分子構造を持ちながら、まったく違う人格を作るのと同じ原理であろうか?現実に時間の波によって状態は変化し、人格までも変わっていく。時間とは、一列に行儀よく順番に並んでいるものなのか?時間が単なる意識の産物だとしたら?あらゆる物理現象が単なる観測の産物でしかないとしたら?現実逃避でパラレルワールドに縋るのも無理はない。その結果、猫が生きているか死んでいるか?そんなことは知らんよ。自分自身が十年後に生きているかも知らんし、今を精一杯生きるだけだ。量子コンピュータってやつは、猫の非人道的な扱いに復讐を企てようとしているのか?夜の社交場で男性諸君が概して子猫ちゃんにひれ伏すのも、神の企てであろうか...

7. 神が存在する方に賭けたパスカル
パスカルは悪魔の代弁者を演じて、神が存在する確率を論じた。
「神が存在するほうに賭けたときの、利益と損失を比べてみよう。それらの2つの可能性を見積もってみよう。賭けに勝てばすべてが手に入る。負けても何も失わない。だから迷わずに、神が存在するほうに賭けなさい。... 勝てば限りなく幸福な無限の人生が手に入るのに対し、負ける可能性は有限で、賭けるものも有限だ。したがって、勝ちと負けのリスクが等しいゲームにおいて賭けるものが有限であり、勝ったときに得られるものが無限であれば、この論述には無限の力がある。」
...「パンセ」より

8. カオスに隠された連続性と離散性の調和
カオスのような複雑な世界は、だいたい偏微分方程式で記述される。ブラック=ショールズ方程式もこの類い。分からない対象は、考えうる変数をすべて洗い出し、これらの和として記述すれば、とりあえずのモデルが構築できる。それ故に、この場合の抽象化は、そのまま曖昧さを表すことになる。しかも、微分方程式ってやつは必ず解けるという代物ではない。
数学者たちは、高速なコンピュータを利用して近似法に頼ってきた。そこで、流体力学で有用とされるナヴィエ=ストークス方程式が登場する。こいつは、ニュートンの第二法則の姿を変えたものという見方ができるという。
圧力p, 応力T, 体積力f の関係を表し、こんな形をしている。

  ρ(∂v/∂t + v・∇v) = -∇p + ∇・T + f  (ρ: 密度, v: 速度)

とはいえ、基本的な問題は残されたまま。この方程式が導く解が実在するという数学的保証はあるのか?それは、あらゆるカオスな世界につきまとう問題である。
一方で、カオス理論は、連続時間の微分方程式から脱皮して、離散的な写像として記述している。

  Xt + 1 = kXt(1 - Xt)  (X: 個体数, k: 増加率, t: 現世代, t + 1: 次世代)

この方程式は、利用可能な資源に限界がある場合、生物の個体数が世代ごとにどう変化するかをモデル化している。すこぶる単純な形でありながら、元となる非線形性が複雑なダイナミクスの根源であることを示しており、ランダムの裏に秩序が隠されている可能性を匂わせる。
ところで、未来永劫に有効であり続ける方程式の解というものが、カオスの世界で存在しうるだろうか?結局は、統計力学的に、より改善された近似モデルを模索するしかないような気もする。実際、方程式が美しい対称性を示しても、その解が対称性を保つとは限らない。エントロピーがそれだ。秩序と無秩序という対称性を示しても、その解は時間の矢に支配される。覆水盆に返らず... と言うが、喰っちまったラーメンは腹の中!その痕跡は排泄物に見いだすしかない。おまけに、健康状態か、体調不良か、でも姿形を変えやがる...

2017-02-19

"四色問題" Robin Wilson 著

「四色あれば、どんな地図でも塗り分けられるか?」
小学生に出題されるような塗り絵の問題。だが数学界は、これを証明するのに百数十年もの月日を要した。しかも、1976年、ヴォルフガング・ハーケンとケネス・アッペルが導いた解決法は、コンピュータに千時間以上も計算させるというものだった。つまり、証明のプロセスを見た者は誰もいないってことだ。これは本当に数学なのか?G.H.ハーディは言った... 醜い数学は永遠に居場所を見出すことはできない... と。アッペル自身もこう語ったという...
「これはひどい数学だ。数学は、簡潔でエレガントであるべきなのに... と言う人がいた。わたしも同感だ。簡潔でエレガントな証明ができれば、それにこしたことはなかった。」

数学の命題は、単純であればあるほど証明が難しい。まず問われるのは、抽象化された問題を、いかに数学の問題として組み立て直すか?人間社会には、現象は単純明快であっても、問題の本質が理解できていないために、実に的外れな解決策が横行する。数学界の難問として知れ渡れば、アマチュア数学家やパズル愛好家だけでなく、宗教界や文壇からも人々が群がる。ルイス・キャロルやポール・ヴァレリーまでも... 一つの問題に取り組むのに、専門の垣根を取り払った人々が集まる光景を目にすれば、学問のあるべき姿は、むしろこちらの側にあるように映る。
しかしながら、四色問題は「ヒルベルトの23問題」に含まれず、数学界の本流から外された。この問題が解けないのは一流の数学者が取り組んでいないからだ!とも言われ、講義中に証明してやる!と豪語する者もいた。
ただ、ある種のタイル張りアルゴリズムと捉えれば、ケプラー予想とまったく無関係とも言えまい。実際、どちらもコンピュータが解き、大量の演算量と情報パターンを要するという意味では同じ性質を持っていそうである。それは、染色体のような構造体から遺伝情報を見つけるようなものであろうか?本物語でも、染色多項式が鍵を握っているし。無数の細胞から成る人体マップも、人間社会に拡大していく地図パターンも同類項と言えば、そうかもしれない。つまりは、組合せ論の世界!
さらに、地図の二次元パターンを多面体の押し潰した形として眺めれば、面の数、頂点の数、辺の数の三要素に還元できる。つまりは、交点と連結の問題であり、グラフ理論の世界!今日の通信網、交通網、社会ネットワーク、人体ネットワークなどの問題を支える分野である。グラフ理論の最も簡単なケースは、オイラーが提示した「ケーニヒスベルクの問題」に遡る。そう、一筆書きの問題だ。
本書では、アウグスト・フェルディナント・メビウスの「五人の王子の問題」について議論される。それは、王様が死んだら王国を五つに分けなさい、という遺言に発する。前提条件は、どの領土も、他の四つの領土と境界線を共有しなければならない。それが不可能なことは直観的に分かる。つまり、王様の意志は、王国を分けるな!ということだ。
さらに、四色問題をオイラーの「多面体公式」と「数え上げ公式」の応用として物語ってくれる。そして、決め手となった概念は「不可避集合」と「可約配置」であったとさ...

ところで、数学の難題が解決されると、哲学の問題を大きくさせるとは... やはり数学は哲学であったか。
画家は、描こうとする対象を色分けする。描かれる側だって、他とは違うように描いて欲しい。平面上で国や州を区別するには、四色あれば事足りる。地球儀のような球面上でも同じだ。しかし、ドーナツのようなトーラス上で同じことをやろうとすれば、七色が必要になる。空間ってやつは、歪むほど自己主張を強め、差別化を欲するものらしい。これが多様化ってやつか?はたして空間は歪んでいくものなのか。それとも空間の住人の方が歪んでいくのか。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とはこの道であったか...
はたしてコンピュータを用いた証明法によって、数学の美意識は変わるだろうか?いや変わらないだろう。近現代社会は、コンピューティングに頼らなければ機能せず、ネット依存症やデジタル依存症をますます高める。だからこそ、純粋な美をより欲するに違いない。ただ、その美も人類の手元から遠ざかっていくように映る。現代人は、ますます現実逃避を強めていくというわけか...
この証明で言えることは、少なくともアルゴリズムは正しく、コンピュータの計算さえ間違っていなければ、この証明はほぼ間違いないということ。そして、現代の数学者のほとんどがこの結果を受け入れているということである。
しかしながら、コンピュータは万能ではない。現実に実数演算は近似値で誤魔化され、πですら無理数であるが故に切り捨てられる。もし、浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754 の意義を匂わせてやればいい。危惧されることは、四色定理が証明されたことで、この問題から優秀な数学者が手を引くことだろう。いや、後の天才がエレガントな証明法を発見する希望はある。いずれにせよ、凡庸な酔いどれには同じことか。どんな知識も、著名人や権威者が唱えたというだけで鵜呑みに、いや、ぐい呑みにできるのだから...

1. 問題提起と三枝地図
物語は、オーガスタス・ド・モルガン教授がウィリアム・ローワン・ハミルトン卿に宛てた一通の手紙に始まる。それぞれ、ド・モルガンの法則とハミルトニアンで名を馳せた数学者。ド・モルガン教授は、ある学生から、地図を塗り分ける際、四色で事足りることを指摘されたという。ある学生とは、フランシス・ガスリー。弟フレデリック・ガスリーが言うには、兄フランシスがそれを証明したというのだ。だが、それがどんな証明法かは知られていない。答えを見いだせないド・モルガン教授は、ハミルトン卿にこの問題を持ちかけたところ、反応はそっけなかったという。

さて、四色問題を幾何学的に記述すれば...
まず境界線と交点で構成され、隣り合う二つの領域は一本の境界線を共有する。その場合に色分けするというだけのこと。ただし、一つの交点だけで接する場合は、同じ色で塗ってもいい。この制限がなければ問題が成り立たない。
例えば、一つの領域を四つの領域で囲めば、中心の領域に一色と周りの領域に二色で、合計三色が必要となる。周りの領域が、2以上の偶数個であれば、これで事足りる。だが、一つの領域を三つの領域で囲めば、中心の領域に一色と周りの領域に三色で、合計四色が必要となる。周りの領域が、3以上の奇数個であれば、そうなる。ここには、環との関係を匂い立たせる。ちなみに、二色だけで色分けできる有名な配置に、チェス盤がある。
では、この境界線に着目した時、根本的な素となる配置はあるだろうか?そこで、すべての交点でちょうど三本の境界線が会する場合だけを考える。その素となるモデルに「三枝地図」が紹介される。そして、証明へのアプローチは、四色では塗り分けられないと仮定した三枝地図をリストアップして、それらを反証するという形で展開される。これを本書は「最小反例」と呼び、四色では塗り分けられない地図の中で、これより少ない国からなる地図はどれも四色で塗り分けられるようなものを見つける、という戦略である。
しかしながら、命題を反証するのは一つの例外を示せばいいが、証明となると、すべてのパターンで示さなければならない。帰納法的なアプローチの弱点がここにある。言い換えれば、無限にも見える配置のパターンを有限界に代替できることを示せば、道は開ける...

2. オイラーの多面体公式
まず、四色定理の証明に至る鍵に、オイラーの多面体公式が位置づけられる。面の数を F、頂点の数を V、辺の数を E とすると...

  F - E + V = 2

オーギュスタン=ルイ・コーシーは、この公式が平面上に射影した多面体についても成り立つことを証明した。この時、外部領域を含めるかが問われ、含めないと右辺は 1 となるが、含めると 2 となってまったく同じになる。
これを四色問題に置き換えると...

  国の数 - 境界線の数 + 交点の数 = 2 (外部領域を含む)

ちなみに、穴が開いた場合の多面体では次のように拡張される。h は穴の数。

  F - E + V = 2 - 2h

そして、h個の穴があいているトーラス上の地図は、下式の H(h) 色で塗り分けられることが、パーシー・ヘイウッドによって予想されたという。

  H(h) = [1/2 (7 + √(1 + 48h))]

つまり、穴一つのトーラス(h = 1 の時)では、七色定理が成り立つというわけだ。四色問題(h = 0 の時)では H(h) = 4 となる。ただ、ヘイウッドは、この公式の証明には至っておらず、これまた70年以上もの歳月を要することになる。

3. オイラーの数え上げ公式
次に、地図上の境界線と交点を全て数え上げるという戦略を用いる。
二つの隣国を持つ国がC2個、三つの隣国を持つ国がC3個、四つの隣国を持つ国がC4個... と描かれる時、外部領域を含めた国の総数 F は...

  F = C2 + C3 + C4 + C5 + C6 + C7 + ...

それぞれ、二辺国、三辺国、四辺国 ... と呼ぶことにしよう。
どの二辺国にも、境界線が二本あるから、C2個の二辺国は、2C2本の境界線に囲まれる。
どの三辺国にも、境界線が三本あるから、C3個の三辺国は、3C3本の境界線に囲まれる。
どの四辺国にも、境界線が四本あるから、C4個の四辺国は、4C4本の境界線に囲まれる。
よって、境界線の総数 E は、各境界線の両側に国があって二倍になるので、こうなる。

  2E = 2C2 + 3C3 + 4C4 + 5C5 + 6C6 + 7C7 + ...
  E = C2 + 3/2・C3 + 2C4 + 5/2・C5 + 3C6 + 7/2・C7 + ...

交点も同様に数え上げる。ここで対象とするものは、三枝地図である。
V個の交点のそれぞれに三本の境界線があるので、合計は 3V に思われれるが、各境界線は二個の交点を結んでいるので、境界線が二回ずつ数えられてしまう。よって、3V = 2E としなければならない。

  3V = 2C2 + 3C3 + 4C4 + 5C5 + 6C6 + 7C7 + ...
  V = 2/3・C2 + C3 + 4/3・C4 + 5/3・C5 + 2C6 + 7/3・C7 + ...

これをオイラーの多面体公式に代入すると、三枝地図の数え上げ公式はこうなる。

  4C2 + 3C3 + 2C4 + C5 - C7 - 2C8 - 3C9 - ... = 12

ここで、係数が 4 から順に1づつ減じていることに注目したい。しかも、六辺国が現れない。三枝地図の数え上げ公式では、すべてが 0 になることはありえないし、右辺が正の数である以上、少なくとも地図上には、二辺国、三辺国、四辺国、五辺国のうち一つが存在することを意味する。
しかも、12 という数字が、最小反例になりうるパターンを匂い立たせている。少なくとも正の項の合計が、12個となるような地図だ。本書は、このような形を「隣国は五つだけ定理」と呼んでいる。
「どんな地図にも、五個以下の隣国しか持たない国が、少なくとも一つ含まれている。」

オイラーの「多面体公式」と「数え上げ公式」から得られる帰結は、四色定理の中核をなしているという。四色問題が解けなかった原因の一つは、二次元の思考次元に幽閉されていたからということか...

4. 不可避集合と可約配置
巨匠オイラーの頭脳を借りて、三枝地図を描く場合には、二辺国、三辺国、四辺国、五辺国という基本セルが提示された。このどれかを利用しない限り、三枝地図は描けないということだ。これらを「不可避集合」と呼んでいる。
オイラーの多面体公式と数え上げ公式は、少なくとも正の項が12個となるような地図に、最小反例なるものを匂い立たせていた。12個の領域からなる平面図を多面体に戻してみると、十二面体を思い浮かべる。十二面体と言えば、自然界のデザインに多く見られるパターンだ。例えば、柘榴石の結晶は菱型十二面体構造を持つし、三次元充填を論ずる時に鍵を握る多面体でもある。
一方、「可約配置」とは、最小反例に含まれないような領域の配置のことで、二辺国、三辺国、四辺国はすべて可約配置である。ある地図が可約配置を含んでいる時、これを除いた残りの地図が四色で塗り分けられるならば、必要に応じて塗り直しをすることで、四色の塗り分けを地図全体に拡張することができる。もし、五辺国も可約であることが証明できれば、四色問題は解けたことになるという寸法よ。
そして、四色問題は、いよいよ不可避集合と可約配置を探す段階へ...

5. ヘーシュの放電法、そして、D可約配置とC可約配置
不可避集合を探索するために、ハインリヒ・ヘーシュの考案した「放電法」を利用することが検討される。ちなみに、ヘーシュのアイデアを「放電法」と名付けたのは、四色問題を解決したヴォルフガング・ハーケンだそうな。
三枝地図において、二辺国、三辺国、四辺国は、すでに不可避集合であることが示されたので、まず、五辺国を中心に電荷を +1, 六辺国に 0, 七辺国に -1、八辺国に -2 ... という具合に割り当てる。電荷の総和は、数え上げ公式のやり方と同じ。電荷は周辺にも及び、五辺国では周辺国に 1/5 ずつ放電する。
そして、正の電荷が維持されれば、不可避集合の仲間入り。次は、六辺国を中心に... といった具合に調べていく。つまり、総電荷が変化しないように地図上で電荷を移動させるのが、放電プロセスである。ただ、放電のやり方は周辺領域に対して均等でいいのだろうか?
次に、可約配置はどうやって探索するのか?可約性を見つける根本の考えに、「ケンプ鎖」という概念が紹介される。法定弁護士にしてアマチュア数学家アルフレッド・ブレイ・ケンプの名に因む。それは、中心の領域を囲むリンクを色分けする考え方で、数珠の組合わせをイメージすれがいいだろう。ケンプ鎖の思考原理は、二色だけで塗り分けられた領域に、領域が追加されるごとに二色を入れ替えることによって、ほぼ収まるのではないか... てな具合か。
さらに、ヘーシュはケンプのアイデアを発展させて、二つの塗り分けを「D可約」と「C可約」で区別している。D可約配置とは、環をなす領域の塗り分けが、すべて良い塗り分けに変換できるような配置。「良い塗り分け」という表現が微妙だが、C可約との差別化で気持ちは伝わる。
C可約配置とは、考慮すべき環の塗り分けの個数を減らすような変更を受けてはじめて可約性が証明されるような配置。
そして、四色問題は、放電法とD可約とC可約の議論が中心となっていく。

6. バーコフ・ダイヤモンド
ジョージ・デヴィット・バーコフは染色多項式を考案し、特定パターン「バーコフ・ダイヤモンド」が可約であることを証明したという。彼は最小反例の中に環をなす場合を考えたが、それはケンプのアイデアを一般化する試みだったとか。バーコフの試みから、続々と可約配置が提案されることになる。
ここで、色の数を λ で表記する。λは、3以上の任意の整数。ある国 A は、λの任意の色で塗ることができ、隣国 B は、λ - 1 の任意の色で塗ることができ、さらに、A と B に接する国は、λ - 2 の任意の色で塗ることができる。そして、塗り分ける方法の数 P(λ) において、次式が成り立つ。

  P(λ) = λ・(λ - 1)・(λ - 2)2

これが、「バーコフの染色多項式」と呼ばれる。
四色であれば、塗り分けられる方法は、P(4) = 4 x 3 x 22 = 48 通りあるというわけだ。バーコフ・ダイヤモンドを赤(r)、緑(g)、青(b)、黄(y)の四色で塗り絵をする rgby 配列の議論は、染色体構造を想像させる。




ちなみに、四色問題とは直接関係はないが、ジェラルド・バーマンとビル・トゥットが導いた奇妙な帰結を紹介してくれる。
なんと!λが黄金比 τ に対して、λ = τ2 の時、P(λ) が極端に 0 に近づくというのだ。黄金比とは、これ...

  τ = 1/2 x √ (1 + √5)

その性質では、次式が成り立つことがすぐに導出できる。

  τ2 = τ + 1

染色多項式が黄金比と関係があるならば、バーコフ・ダイヤモンドにも自然の偉大な法則が隠されているのやもしれん..

7. 反証パターンの有限化
1965年頃、ハインリヒ・ヘーシュとカール・デュレがコンピュータを利用して配置の可約性を調べ始める。有限のパターンに絞り込むことさえできれば、後はコンピュータが片付けてくれる。
ところで、ヘーシュの放電法では、反証パターンになりうる悪い配置が、8900種類もあるという。ハーケンとアッペルがやったことは、ヘーシュの放電法を改良して、約2000個にまで絞り込み、シラミ潰しに可約配置であることを示した、ということである。後に、反証パターンは1400個余りにまで整理されたようである。
結局、この手の問題は、反証パターンになりうるケースをいかに効率的にできるか、にかかっているということか。今後も、CPUやメモリなどのリソース性能は向上し、チューリング完全に近づこうとするだろう。だが、不完全性の呪縛からは永遠に逃れられそうにない。人間が出来ることといえば、アルゴリズムを検証することと、実在するコンピュータの計算完全性を問うことぐらいであろうか...

2017-02-12

"ケプラー予想 - 四百年の難問が解けるまで" George G. Szpiro 著

ヨハネス・ケプラーは、こんなことを主張した。
「同一の球を最も効率よく三次元空間に詰め込む方法は、オレンジの積み方と同じである。」
そんなことは大科学者に言われなくても、八百屋のオヤジが店でやっているし、小学生でも知っている。しかしながら、この単純な命題を証明するのに、実に四百年もの歳月を要した。しかも、答えを提供したのはコンピュータである。
では、証明したとされる天才数学者トマス・ヘールズは何をやったのか?その証明を受け入れた数学者たちも、いったい何を検証したというのか?プログラム自体を検証するしかあるまい。すなわち、そのアルゴリズムを。実際、証明論文にはプログラムコードが相当部分を占めていたという...
「ケプラー予想の証明が、数学者たちの知恵袋の一端として受け容れられつつある一方で、疑問も出はじめた。これは本当に証明なのだろうか?数学的真理は、力ずくで証明できるものなのだろうか?コンピュータが間違っている可能性はないのか?従来の証明のエレガンスと、コンピュータを使った証明とをどう比べろというのか?この証明から、いったいわれわれは何を学んだのか?」

人間には、便利なものはなんでも利用せずにはいられないという性癖がある。人間は機械を道具とし、人間をも道具としてきた。かつて人間の思考アルゴリズムに奴隷根性を植え付け、今では文句ひとつ垂れないコンピュータにアルゴリズムを植え付ける。
そして、コンピュータが初めて定理の証明で主役を演じた時、数学界に激震が走った。四色問題がそれである。アルゴリズムは検証できても、その結果はコンピュータが答えるだけ。実際に証明を見た者は誰もいないってことだ。純粋主義者は、ブラックボックスが出力する結果を素直に受け容れられるだろうか?それは、迷信的原理主義者が医療の進歩に抱くような偏見であろうか?自然法則を相手取るのに人間の知性では限界がある、とは多くの知識人が認めるところ。だが、数学の研究にコンピュータを用いるとなると、数学界を二分する。かつて科学は地動説によって迷信を打倒した。そして今、コンピュータが人間の知性を打倒しようとしているのか?いまや、証明の意味も、定理の概念も、変わろうとしているのやもしれん...

とはいえ、コンピュータにも見過ごせない弱点がある。現実に、実数演算は近似値で誤魔化される。浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754 の意義を匂わせてやればいい。ゼロ除算にせよ、無理数の丸め込みにせよ、都合よく定義されるだけで、システムエラーの回避に欠かせない規則が前提される。良識のある人なら、数の重要な特性を切り捨てるコンピュータを、純粋な数学の証明に用いるのは狂気の沙汰!と考えるかもしれない。チューリングマシンには非決定性の問題がつきまとうのだから...
ユークリッドは、見たまんまを公理で定義し、それに準じる要請を公準と位置づけ、人間にはこれ以上証明できない素朴な命題があることを示した。しかも「原論」には、無限を相手取る時のお手本が示される。「素数は無限に存在する」という命題には、最大素数が存在すると仮定した場合に矛盾が生じるという形で、実に単純に、実にエレガントに証明して見せた。もし、これをコンピュータでやろうとすれば、最大素数の存在を仮定した時点で破綻している。答えが無限に存在すれば、永遠に計算を続けることになるのだから...
では、反証パターンを有限界で示すことができるとすれば、どうだろう。四色問題では、反例の可能性がある1936種類もの地図をリストアップして、シラミ潰しに調べさせたという。コンピュータは計算を1200時間も続けたとか。
ケプラー予想でも、反証となりうる有限個のリストに還元し、それらを一つ一つ消去していく戦略がとられる。この戦略で重要な鍵は、いかに命題に特化した効率的なアルゴリズムを編み出すか?近年、自動定理証明という概念を耳にする。決定可能性のベンチマーク的な評価は、確率的ですらある...
「ヘールズによるケプラー予想の証明は、本質的に最適化の問題である。」

演繹法から導かれる証明は美しく、おそらく、これが数学の王道であろう。対して、帰納法で迫る証明には矛盾性が紛れ込むことを不完全性定理が暗示している。だからといって後者が邪道とは言えまい。実社会では、どちらの方法論も有益であり、互いに補完関係にある。四色問題やケプラー予想で用いられる戦略は、まさに帰納法的なアルゴリズムである。カオスの世界では、最も客観性を重んじる数学ですら確率的な厳密さを受け入れざるを得ないのかもしれない。そして、厳密に対する準厳密、定理に対する準定理、といった概念も...
「ゴルトバッハ予想は 0.9999 の確率で真であり、完全に真であるかどうかは百億ドルの予算で決定されるだろう。」

1. 充填問題と接吻問題
予想は、証明されて初めて定理に昇格する。フェルマー予想はフェルマーの最終定理となり、四色問題は四色定理となり、そして、ケプラー予想は充填定理と呼ばれる。球の充填問題は、接吻数問題とも呼ばれ、できるだけ多くの相手とキスする効率的な方法を見つけることにある。球の定義を、中心からの距離で与えた半径 r 以内に存在する点の集合とすれば、次元に関係なく同じ問題が成り立つ。

  • 一次元空間の球は、中心点からの線分 = 2r
  • 二次元空間の球は、中心点からの円の面積 = πr2
  • 三次元空間の球は、中心点からの球の体積 = (4/3)πr3
  • 四次元空間の球は、中心点からの四次元超球の体積 = (1/2)π2r4

二次元において...
円の充填問題を最初に広めた書物は、一般的にケプラーの小冊子「六角形の雪について」とされるそうな。
ただ本書は、ルネサンスの画家アルブレヒト・デューラーの功績を挙げている。デューラーは画法幾何学という新たな分野を生み、ケプラーが彼の著作に触れたことは十分に考えられる。そして、デューラーとケプラーが六方配置が最密充填だと主張し、ラグランジュがほぼ仕上げたという流れ。
しかし、ラグランジュは充填問題に興味がなかったようで、結局、二次元の証明はフェイエシュ = トートが完成させたという。しかも、トートは、ケプラー予想の証明にコンピュータを使うことを初めて提起した人物だそうな。
コンピュータに計算させるためには、変数を有限個に絞れるかが課題となる。例えば、50個の球の場合、それぞれ中心点の座標は (x, y, z) で与えられ、すべての配置は、150個の変数で決定できる。それは、境界条件をそれぞれ接触することとした、150個の非線形連立方程式を解くことに等しい。これだけでも気の遠くなる作業だが、時代はコンピュータを急速に発展させていた...

三次元において...
球の充填密度は、空間内で球が占める体積と、その空間の体積の比として見ることができる。これは密度の極限値として定式化できそうだし、有限空間であればトートが示したように微分方程式で迫れそうだ。
問題は、無限空間においてどうか?直感的には、一次元ではマッチ棒を並べるだけ、二次元では円の六方配置、三次元では球の立方格子をすぐに思い浮かべる。すぐに、一つの球に12個の球が接触できることも想像できる。いや、ひょっとしらた13個目と接触できるかもしれない。
そう主張したのはグレゴリーで、これにニュートンが反発して論争となった。証明できなければ仮説の域を脱し得ないわけだが、仮説嫌いなニュートンでも論争はお好きと見える。そりゃ、夜の社交場で何人の女性とキスできるかは、男性諸君にとって由々しき問題だ!
クルト・シュッテとファン・デル・ヴェルデンは、それぞれ別の方法で次のことを証明したという。
「十三個の球を接触させるためには、真ん中の球の半径は 1 よりも大きくなければならない。」
一人でも多くの女性とキスしたければ、より大きな人間になれ!ってか。
尚、ニュートン数は、一次元では 2、二次元では 6、三次元では 12。そして、規則的な配列という条件つきで、巨匠ガウスが証明した。
しかし最大の問題は、不規則な配列の場合である。というのも、12個の球は、わずかながらも動く余地を持ってやがる。ほんの少しずつ身体をずらしていけば、ひょっとしたら13人目とキスできる羨ましい野郎が、どこかにいるかもしれない。グレゴリーの気持ちも十分すぎるほどに分かる。
ガウスの時代から百年が過ぎれば数学界の屈辱的な問題となり、偽の証明法も発表され、数学界は混沌としていく。そして、真打ちヘールズの登場。藁にも縋る... と言うが、藁とはコンピュータであったか...

2. ガウスの思考法... 二次形式と三次元格子
本書は、ケプラー予想が証明されるまでの物語が、二次形式との関係をめぐるものであったことを教えてくれる。二次形式の特徴に判別式がある。例えば、この形では...

  q(x, y) = a2x2 + 2bxy + c2y2

そして、これがお馴染みの判別式...

  ⊿ = a2c2 - b2

この判別式と、格子の間に密接な関係がある。まず格子の基底を定義する。二次元格子は二つの方向に対してベクトルで定め、それぞれの成分を、xy 座標にマッピングする。もちろん座標は直角である必要はない。その位置面積は、判別式の平方根に等しい。そして、円の詰め込み方は、この座標系をどのように潰せばいいかという問題に置き換えられる。

三次元ではどうか...
1831年、ほとんど無名の数学者ルートヴィヒ・アウグスト・ゼーバーは、「正値三変数二次形式の諸性質について」という本を出版したそうな。とにかく回りくどく長ったらしいものだったらしいが、この書に目を留めたのがガウスだったという。三変数二次形式の判別式は、充填問題にとって重要な比となる。例えば、この形では...

  q(x, y, z) = a2x2 + b2y2 + c2z2 + 2dyz + 2exz + 2fxy

そして、判別式はこうなる...

  ⊿ = a2b2c2 - a2d2 - b2e2 - c2f2 + 2def

ゼーバーが注目した比は、直方体の体積の二乗 a2b2c2 を、潰れた格子に対する二次形式の判別式で割ったものだという。すなわち、直立した箱の体積の二乗を、潰れた箱の体積の二乗で割ったものである。その比は常に 2 以下になるというのがゼーバーの直観で、これを証明したのがガウスだという。

  a2b2c2 / ⊿ ≦ 2

さらに、ガウスはこれに幾何学的な解釈を与えたという。上式を変形すると...

  √⊿ ≧ abc/√2 ≒ 0.707abc = (1 - 0.293)abc

この式から、ガウスは格子の体積に対して「29.3% 以上小さいものは存在しない」と主張したという。半径 r = 1 とすると、球の体積は、4π/3 ≒ 4.189。立方体の体積は、一辺が 2 の 3 乗 = 8。球の体積を確保しながら立方体を潰して、23.9% 以上小さくなることがないとすれば、箱の最小体積は...

  8 x (1 - 0.293) ≒ 5.657

よって、最密充填密度はこうなる。

  4.189 / 5.657 ≒ 74.05%

この体積を持つ箱はどんな形をしているだろうか?
それは、いかなる条件下で  a2b2c2 / ⊿ が 2 になるかを問うことに等しいというわけである。そして、ガウスが得た答えは、格子の角度θにおいて cos θ = 1/2 の時、すなわち、60度に傾いた時だという。ケプラーが予想した面心立方格子と六方最密充填のことである。どうやらガウスまでは、数学はエレガントな地位を確保していたようである...

3. ヘールズの思考法... ドロネー星とスコア方式
ケプラー予想で運試しをした二十世紀の数学者のほとんどは、空間を分割するために「ボロノイ・セル」を用いたという。距離空間という概念を用いるわけだが、同一距離にある点集合を扱う場合に都合がいい。ケプラー予想は、同一距離間にある点集合を、いかに合理的に配置するか、と見ることもできそうである。優れた球充填においては、ボロノイ・セルが小さくなりそうな予感がする。
しかし、それだけでは不十分で、ヘールズは新たなアプローチを模索したという。「ドロネー三角形分割」である。この方法は、ある意味でボロノイ・セルの空間分割とは逆の関係にある。隣接する球の中心同士を線で結ぶと、全空間が四面体で分割されることが想像できる。四つの頂点で四面体ができ、二つの球がボロノイ・セルの壁で隔てられる時、それぞれの球の中心を結んだものがドロネー四面体の辺になるような感じ。つまり、ドロネー四面体はボロノイ・セルの双対的な関係になるようだ。
ボロノイ・セルは様々な形をとりうるのに対して、ドロネー分割は四面体だけで空間を分割する。ヘールズは、ボロノイ・セルとドロネー四面体を合わせたハイブリッド型のアプローチを発見したという。

具体的には、三つの工程を提案している...
ネットを編むこと、空間を分割すること、そして空間をもう一度分割すること。
まず、球がぎっしりと詰まった状態で、一つの球を選んで核とする。核の中心点から隣接球の中心点まで赤い線を引いて、ワイヤーメッシュのようなものを描く。
次に、ワイヤーが核の表面を抜ける点に印をつける。核の表面上で隣り合う印を黄色い線でつなぐと、手毬のような模様ができ、これが核をくるむネットとなる。
さらに、ワイヤーの間に赤い壁をはめ込むと、赤い四面体の集まりができる。そして、核と隣接球のまわりに青いボロノイ・セルを組み立てる。
... こうして空間は二度分割される。一度目は赤い四面体によって、二度目は青いボロノイ・セルによって。以上のような手続きで、各球のまわりに星状構造ができる。その構成要素は、赤い四面体と、青いセル。赤い四面体が十分に小さければ基本構成要素として採用し、さもなければ対応する青いセルを採用するといった具合。
こうしてできあがった星状構造は、青いセルのいくつかの面に、赤い四面体が突き刺さったような形になる。これを「ドロネー星」と呼んでいる。この赤と青の二色が、ハイブリッド型アプローチを象徴している。
ネットと星には互換性があるという。ネットを構成する線は、星が核の表面を突き抜けるときの交線になっていると。星とネットには密接な関係があり、そこにスコアを定義する。だが、線の色が黄色だけでは生彩を欠くので、赤い壁が核を突き抜けるループはオレンジ色(= 黄 + 赤)に、青い部分が核を突き抜けるループを緑色(= 黄 + 青)に、緑のループとオレンジのループが隣り合っている時は、線の片面はオレンジ、他面は緑として、カラフルに定義して見せている。つまり、ネットのスコアはループの形と色によって完全に決まるというのである。オレンジ色のループは余剰金、緑のループは割増金、片面がオレンジ色、もう片面が緑色の場合は、隣り合うループのそれぞれに対応する方法を割り当てるといった具合に。うん... 数学というより経営工学だ!

計算方法はこんな感じ...
正三角形のループに対するスコアは 1 ポイント。それ以外の三角形は 0 ポイントから 1 ポイントの間。四角形では、0 ポイント。それ以外のループはマイナスポイント。そして、合計が 8 ポイント以上になることはないという。この 8 ポイントが、密度 74.05% に対応する。
面心立方充填と六方最密充填はともに、8 個の正四面体と 6 個の正八面体から構成され、これに対応するネットは、8 個の正三角形と 6 個の正方形からなる。
余剰金と割増金の計算方式によると、正四面体つまり正三角形のスコアは 1 ポイント、正八面体つまり正方形のスコアは 0 ポイントとなり、8 個の正三角形は全部で 8 ポイントとなって、6 個の正方形はスコアに寄与しない。したがって、ケプラー予想の配置は、8 ポイントになるというのだ。うん... なんとも狐につままれたような気分、もし条件に漏れがなければ...
ヘールズは、ネットの構成に、35個の不等式を条件に課したという。ケプラー予想を、ドロネー星のスコアを最適化する問題に置き換えたというわけである。サイエンス・ライターのサイモン・シンは、ヘールズのアプローチをこう表現したという。
「五十個の球からなる配置の密度を、百五十次元のグラフとして描き出す。そうして描かれたグラフは、百五十次元の風景のようなものになるだろう。その風景の上に、百五十次元の屋根をかけていく。屋根ができたら、そのピークを探す。その後、風景の中で一番高い丘に触れるところまで屋根を下ろしていく。屋根が一番低くなったとき、そのピークの高さはちょうど 8 ポイントになるだろう... すべてが予定通りに進むならば」

2017-02-05

愛の電話にダックをかまし... 重低音で愛してやるぜ!





「愛の電話 + セブン教」に改宗して数ヶ月が経った。音楽再生では EarPods をメインにし、これはこれで思ったほど悪くなかったりする。
しかしながら、やはり耳に馴染んできたカナル型(audio-technica)を復活させたい。標準付属のイヤホンジャック変換アダプタ(写真左)を経由すると、イマイチ。音域が狭いのかと思いきや、ボリュームを最大にすれば聞こえなくはないし、どうもバランスがよろしくない。おいらの腐った耳でも、いや、腐っているから余計に感じるのかもしれない。イコライザをカスタマイズしてはみたが、それだけの問題ではなさそうである。
ちなみに、愛用している音楽プレーヤは ONKYO HF Player... 3Dエフェクトのアプリでは Boom もなかなか...
Bluetooth イヤホンも検討したが、やはり有線の方がいい。充電も面倒だし...
となると、Lightning が鬼門か?いや、デジタル信号がそのまま出力されるので、D/A コンバータ次第でどうにでもなるという考え方もできる。ちと嵩張るけど...

てなわけで、ポータブル DAC を購入した。Lightning に直接接続できるタイプもあるが、愛の電話以外で使えないのもシャクだし、USB タイプを選択。したがって、Lightning/USB 変換アダプタも必要となる。そして、ここに落ち着く...

  M-AUDIO MICRO DAC 24/192 + Lightning/USBカメラアダプタ(写真右)

型名からして 24bit/192kHz ハイレゾ対応。1万円弱でこの仕様なら悪くない。ボリュームが DAC 側についているのもいい。
ところで、USB アダプタは電源の供給不足などでトラブりやすく、なかなか侮れないアイテムである。おいらは保守的なネアンデルタール人なので、Apple 純正品を Apple Store から購入した。ここのオンラインストアを試すのは初めてだが、Apple ID 不要のゲスト購入もでき、コンビニ決済もできてなかなか便利。ちと高いけど...

おかげで、音質はまあまあ、愛用のカナル型も戻ってきてくれて、幸せ...
ただ、バッテリーの減りは少しばかり早くなるし、たまーに「接続中のアクセサリは消費電力がおおきすぎます」なんてゲロも吐くけど...

2017-01-29

十周年企画... 名言集(社会、政治、経済編)

引き続きブログ開設十周年企画、すなわち、手抜き記事「社会、政治、経済編」を。新年早々、コピペ時代を謳歌する...

正義!理性!... こんな言葉を耳にすると、なにやらこそばゆい。それは、酔いどれ天邪鬼の精神が歪んでいる証であろう。世間とは恐ろしいものだ。全員が間違っている時は、全員が正しいことになるのだから。「世論はつねに私刑である。私刑はつねに娯楽である。」とは、芥川龍之介の言葉である。
一方、政治家たちは、こうした言葉がお好きなようである。言い訳には、真摯に受け止める!と決まり文句。謙遜というものが悪徳を知ってからでなければ身につかないとすれば、彼らの弁明が法律に縋り、法律のストレステストを繰り返すのも道理である。彼らの雇う優秀なコンサルタントは、正義や理性までも道具にする。政治の対立とは、まさに正しさを競うゲーム。正しさを争うことが正しいとするなら、既に循環論に陥っている。今、ラジオから中島みゆきの歌が聴こえてくる...
♪♪♪... 正しさと正しさとが相容れないのは、いったい何故なんだぁ~ Nobody is Right... Nobody is Right... ♪♪♪

人間には縄張り意識という性癖がある。かつて学問は総合的な知識の世界とされ、科学は自然哲学と呼ばれ、自然との調和から人間というものを問うた。その流れは、いつの間にか自然物に対して人工物で区別され、人間社会だけの合理性を問うようになった。人口が爆発的に増殖すれば、最も依存している自然との関わり方が見えなくなるのか。もちろん個人であらゆる学問を究めることは不可能だし、何か一つの専門を選択せざるをえない。しかしながら、他の分野についてなんらかの理解がなければ、自分の専門にも暗くなる。真理を探求する場に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。夜の社交場では間違いなく、セクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も必須だ!

1. 社会

「自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活のなかで無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しか与えられていない。」... ジークムント・フロイト

「人々について知りたければ、身のまわりを見まわすがよい。だが人間を知ろうとするなら、遠くを見ることを学ばなければならない。共通の本性を発見するためには、まず差異を観察する必要がある。」
「人間が未知の土地に敢然と立ち向かったこの戦場に、次第に無秩序のうちに一つの単調な植物相が再生したが、その無秩序は、偽りの無垢の表情の下に戦いの記憶と経過を保っているだけに、なおのこと人を欺くのである。」
... クロード・レヴィ=ストロース

「病気こそは、人間の条件のうちの最たるものといえるだろう。なぜならば、動物でも疾病にはかかるけれど、病気におちいるのは人間だけなのだから。」... オリバー・サックス

「魂の病を治すことができるためには、哲学者でなければならない。実際、この病の起源は、病人が善と見做す、一つの事柄への激しい欲望にほかならないのだから、医師のなすべき義務は病人に、彼が熱望している事柄は表面的には善であっても実際には悪であるのを、明確な理由によって証拠だててやり、自分の誤りを悟るようにすることである。」... ミシェル・フーコー

「自分自身否認を必要としている医師は、否認を患者に見いだす。対決をためらわない医師は、彼らの患者もまた対決をためらわないことを見いだす。否認の必要度は、医師自身の否認の必要度と正比例する。だがこれはまだ問題の半面でしかない。」... エリザベス・キューブラー=ロス

「私は『見る』ために手術を受けたわけではないのです。『見る』とはどういうことかを知るために、手術を受けたのです。」... ロバート・カーソン著「46年目の光」より

「注意を払おうとしない読者にわからせる方法を、わたしは知らない。」
「精神的な事がらにおいては、可能性の限界は、わらわれが考えるほど狭いものではない。限界を狭くしているものは、われわれの弱さ、悪徳、偏見である。」
「ある土地に囲いをして、これはおれのものだ!と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会(国家)の真の創立者であった。」
「わずかなことしか知らない人は多くのことを語り、多くのことを知っている人はわずかなことしか語らない。無知な人間は自分が知っていることをなんでも重要なことだと思い、だれにでもそれを話す。」
「書物の悪用は学問を殺す。人々は、読んだことは知っているのだと思い、自分はそれを学ぶ必要はないと思い込んでいる。あまりたくさん読むことは、なまいきな無学者をつくるのに役立つにすぎない。」
... ジャン=ジャック・ルソー

「思想が人間をもっぱら論理的に強制する力が、歴史上いかに巨大な意義をもったにしても、マルクス主義はその顕著な一例であるが、人間の頭脳にある経験的、歴史的事象は、通例、心理的に制約されたものと理解されるべきであって、論理的に制約されたものと理解されてはならない。」... マックス・ヴェーバー

「資源が枯渇して富が満足に全体に行きわたらなくなると、決まって弱者は強者に自由を捧げる。しばしば大衆は、富者から富を奪い、貧者に施すことを約束する煽動政治家たちに追随する。」
... Vernon Gill Carter & Tom Dale 著「土と文明」より

「ニュースのはたらきは、一つの事件の存在を合図することである。真実のはたらきは、そこに隠される諸事実に光をあて、相互に関連付け、人々がそれを拠り所にして行動できるような現実の世界を描き出すことである。これらが一体化した時、世論の力が発揮される。」... ウォルター・リップマン

「プロパガンダの秘訣とは、狙った人物を、本人がそれとはまったく気づかぬようにして、プロパガンダの理念にたっぷりと浸らせることである。いうまでもなく、プロパガンダには目的がある。しかし、この目的は、ぬけめなく、卓越した技量で、覆い隠されていなければならない。その目的が達成すべき相手が、それとまったく気づかないほどに。」... ヨーゼフ・ゲッベルス

「良い政府が存在するが良い新聞が存在しない世界よりも、良い新聞だけが存在して良い政府が存在しない世界のほうが良い。」... トーマス・ジェファーソン

「イデオロギーが統一されていても文化的に分裂している国は分裂する。イデオロギーが異なっても文化的に共通すれば統合される。文明の衝突こそが人類の根本的問題であり最も根深い。」... サミュエル・P・ハンティントン

「満足した豚よりも不満を抱えた人間の方がよく、満足した愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方がよい。」... ジョン・スチュアート・ミル

「極端に幸福な人間も、極端に不幸な人間も、同様に冷酷になりやすい。修道士と征服者とがその証拠である。優しさと憐れみとをもたらすのは、中庸および幸運と悪運との混合のみである。」... シャルル・ド・モンテスキュー

「有名になりたがる者の幸福は他人次第である。快楽を追求する者の幸福は自分ではどうしようもないその場の雰囲気によって変わる。しかし、賢き者の幸福は自分の自由な行動によって大きくなる。」... マルクス・アウレーリウス

2. 政治

「政治では、恐怖で始まることは、普通、愚行で終わる。」... サミュエル・テイラー・コールリッジ

「情報に精通した有権者がいなければ、政治家は底辺の10億人の国を写真撮影の機会に利用する。」... ポール・コリアー

「民主主義とは、人々の半分以上が二度に一度以上は正しいという点に、繰り返し気付くことである。」... E.B.ホワイト

「軍国主義とは、いたずらに軍隊の形式論を弄んだり、軍人の大言壮語や行き過ぎた軍人精神を市民生活に導入しようとすることしか考えていない。もとより真の軍人ならばそんなものは排斥する。軍人こそ戦争の恐ろしい結果を本当に知るものであって、だからこそ人間として戦争を否定するのであり、名誉心にかられての侵略や武力政策の思想は、およそ軍人とは縁遠いものなのである。」... ハインツ・グデーリアン

「戦争遂行者は戦略家以上の人物でなければならない。その人物は指導者と哲学者を結びつけたような人物でなければならない。戦略というものは、その主体が敵を欺騙する術と関係しているので、それ自体が道徳に対立するものであるのに対して、大戦略は道徳と両立する傾向を持っている。」... バジル・リデルハート

「原始人の最も危険な敵は自分の属している人種の敵であった。今日でも、人間が人間の唯一の敵である。そして人が人を攻撃するのは50万年前と全く同じである。戦争と狩猟は昔からアピールする。これは本能的に、どんな子供でも鉄砲が好きで、どんな大人でも殺害にスリルを感じるゆえんである。」... ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー

「私有のないところに不正はありえない。」
「父親の権力は、未成年のために子供が自分の固有権を処理できない場合にのみ存在し、政治権力は、人々が自分自身で処分できる固有権を持つ場合に、そして、専制権力は、まったく固有権をもたない人々に対して存在する。」... ジョン・ロック

「世界は政治哲学をもつにはまだ若すぎる。」
「政治的企画室というのは、権力を握ると、これほど有害なものはないし、権力をもたなければ、これほど滑稽なものもない。」
... デイヴィッド・ヒューム

「君主にとって必要なのは、信義の資質を有することではなく、それを持っているように見えることである。」... ニッコロ・マキャヴェッリ

「日本では平和ボケという言葉が使われることが多くなっている。その言葉を借りるなら、負けると分かっている戦争で徹底抗戦するなどと予測する専門家たちこそが、まさに平和ボケしていたのである。」... 加藤健二郎

「友好的な国はある。しかし友好的な諜報機関はない。」
「普通の悪党でも人を殺すことはできる。しかし、殺しを自殺と見せかけるには諜報機関の才能を必要とする。」
... 落合信彦

「本当の情報操作とは嘘に基づくものではない。部分的事実を誇張して相手側に間違った評価を与えることである。」
「霞ヶ関と永田町は隣町だが、その距離は実はいちばん遠い。なぜなら、地球を反対側に一周しなくては行き着けないからである。」
... 佐藤優

「世界的な陰謀を研究する時に、あらゆる悪の根源は大掛かりなユダヤ人の陰謀であると決めつけるヒトラー主義を鵜呑みにしてはならない。こうした企みを抱くグループは国際銀行家であって、特定の人種や宗教ではなく金と権力への渇望であることを心に留めておくことが肝要である。」... W・クレオン・スクーセン

3. 経済

「おお、売りに出された都市よ、この都市は、買い手が見つかれば、たちまち消えてなくなるだろう。」... サルスティウス「ユグルタ戦記」より

「銀行家とは、資金を必要としない人たちに貸したがる連中のことを言う。」... 経済学の格言より

「A から略奪を行い B に支払いをする政府は、いつでも B の支持を期待できる。」... ジョージ・バーナード・ショー

「穀倉が作物でいっぱいなときでも、飢饉が起こりうる。」... アマルティア・セン

「地球はすべての人間の必要を満たすのに十分なものを提供するが、すべての人間の貪欲を満たすほどのものは提供しない。」... マハトマ・ガンジー

「ムダを経済効果といい替えるのは、諸官庁や特殊法人の間では常識です。ムダな支出が五兆円と聞けば、誰もが腹を立てますが、経済効果が五兆円ならば、国民の賛同が得られます。」... パオロ・マッツァリーノ

「ケインジアンのご信託はしごく明白である。御用心!道徳的な配慮は全然無関係であるだけでなく、実際には障害である。不公正は有益であっても、公正は有益ではないのだから、公正の時代はまだきていない。天国への道は悪しき意図によって舗装されている。」... エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー

「国王や閣僚が民間人の家計を監視し、贅沢禁止法や贅沢品輸入の禁止によって民間人の支出を抑制しようとするのは、まったく不適切だし厚顔無恥である。国王と閣僚は常に例外なく、社会のなかで最大の浪費家である。」... アダム・スミス

「貨幣流通は恐慌なしにもおこなわれうるが、恐慌は貨幣流通なしにはおこりえない。」... カール・マルクス

「グレアムを知らずに投資するのは、マルクスを知らない共産主義者のようなもので、マーケットの原理を知らないのと同じことだ。」
「年金物語の大半は、労働組合の力がゆっくりと増大する物語である。」
「保険にばかげた値段を支払おうという客がいるのに、売らない理由がどこにある。」
... ロジャー・ローウェンスタイン

「相場とは持続不可能な楽観主義と根拠のない悲観主義との間を永遠に行ったり来たりする振り子である。賢明な投資家とは、楽観主義者に売り、悲観主義者から買う現実主義者である。」... ベンジャミン・グレアム

「人間のあらゆる不幸の原因は、ただひとつ、部屋でじっとしているすべを知らないことである。」... ブレーズ・パスカル

「冷笑家(シニック)とはどんな人間か。それは、あらゆるものの価格を知っていて、何ひとつ価値を知らぬ人間のことである。」... オスカー・ワイルド

「金融生態系では、進化力は、もっとも適応したものでなく、もっとも太ったものを生存させる。」... アンドリュー・ホールデン & ロバート・メイ

「残念ながら、日本には、やれ『ケインズは死んだ』だの、『古典派は古い』だのと聞く耳を持たない輩が多い。実際、どちらの処方箋も日本では上手く作動しないが、その原因は『理論』にある訳ではない。両派が研究の対象としている資本主義と、その精神がないからである。」... 小室直樹

2017-01-22

十周年企画... 名言集(歴史、哲学、文学、言語学編)

引き続きブログ開設十周年企画、すなわち、手抜き記事「歴史、哲学、文学、言語学編」を。新年早々、コピペ時代を謳歌する...

人間の本性は、悟性のうちに確固不動なるものを求める。身体と精神は、共に運動する存在でありながら、魂は安住、安定を求めてやまない。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体は、絶対静止なるものを知らない。それゆえ静止に焦がれるのか。
しかしながら、身体にとっての静止とは、死を意味する。身体は本能的に死を恐れながら、魂はというと、怖いもの見たさという衝動に駆られる。ニーチェ曰く、「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」

論理学には、根本的な思考原理に三段論法ってやつがある。こいつは人間精神と非常に相性がよく、大前提、小前提、そして結論へと導くやり方が妙に説得力を与える。それゆえ古来、熱病のごとく研究されてきた。弁論術は、媒辞を通じて命題を原理に還元し、そこには、自己存在の意義を求める思惑が潜んでいる。すべての原因と結果に因果関係を求め、すべての根源に理屈を与え、説明できないものには屁理屈も厭わない。何かのせいにしなければ、生きることも難しいのだ。誤りに門戸を閉ざすならば、真理もまた締め出してしまうだろう。
不完全な存在が求めてはならぬもの、それは完全性であろうか。学識が人間を傲慢にすることもしばしば。知らない相手を小馬鹿にしたり、知識を議論で勝つための道具としたり、結局は自己存在を自己優越に変質させる。答えの見つからない命題を前にすれば、いかようにも解釈でき、そして、説明に困った挙句に登場させるのが、完全なる神の存在である。最後は神に縋り、すべてを神のせいにできれば、神も本望であろう。
論理学に王道があるとすれば、おそらくそれは演繹法であろう。世界を人間の能力だけで完全に説明できるならば、演繹法だけで済むはずだ。
しかしながら、現実社会を生きるためには、帰納法に頼らざるをえない。正当な論理性だけでは、この複雑怪奇な人間社会を説明することができないのだ。善ってやつは、実証的に決定されるのではなく、心のうちに常につきまとう不安によって決定される。そして、形而上学を論じれば、相変わらずプラトンとアリストテレスの代理戦争を繰り返す。いや、プラトンやアリストテレスだって、記録という技術のない時代を生きた先人たちの代理戦争を繰り返していただけのことかもしれない。その証拠に、知の歴史は考古学から脱し得ず、血の歴史を繰り返す。ジョン・スローン曰く、「死んだ人の悪口を言うのはよくないから、生きているうちにせいぜいこきおろしておこう。」

1. 歴史

「人間は自分の歴史をつくる。けれども歴史をつくっていることを知らない。」... カール・マルクス

「自由と平和は、あくまでも原始以来のそれであり、その実体は時代とともに衰弱し、真の意味で自覚された自由と平和と平等の思想を自らの胎内から生み落とすとともに滅びていく。だからこそ、世俗の世界から、この自由と平和の世界に入ることはできても、その逆の道を戻ることは次第に困難、かつときには絶望的と思えるほどになっていく。」... 網野善彦

「人間の性質のうちには寛濶に答えるには寛濶をもってし、充溢に答えるには充溢をもってする、というところがある。」
「歴史は余計な後押しの手を少しも必要とはせず、ただ畏敬をもって叙述する言葉だけを必要とする。」
「歴史は、同時代人には、彼らの時代を規定している大きなさまざまな動きを、そのほんの始まりのうちに知らせることはしない、というのが、つねに歴史のくつがえしえぬ鉄則である。そこで私も、いつ初めてアドルフ・ヒトラーの名前を聞いたのかをもはや思い出すことはできない。」
... シュテファン・ツヴァイク

「私が神から特別に保護されていないという証拠はあるのか。」... アドルフ・ヒトラー

「純粋なアーリア人とは何でしょう?それはヒトラーのようにブロンドで、ゲッペルスのように背が高くて、ゲーリングのように細っそりとしていて、その名前をローゼンベルクという。」... 当時のジョークより

「神聖でもなくローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない。」... ヴォルテール

「人間のもつ人間らしさというものは、脆いものであり、人間性だけに頼るのは軽率であろう。明確な規範をもち、人間性の豊かな社会を土台とする強い国家だけが、歴史のなかで正義から悪が生まれるのを効果的に防ぐことができる。」
「権力は悪である。かぎられた権力で満足できる人間はいない。それができるのは聖人だけであろう。」
... グイド・クノップ

2. 哲学

「百パーセントのアルコールがないように、百パーセントの真理というものはない。」... ジークムント・フロイト

「愛することのすぎたる者は、また憎むことのすぎたる者なり。」... 古代ギリシアの格言より

「理知の視力は、肉眼の視力がその減退期に入ると、ようやくその鋭さを増し始める。」
「言論の場に立ち向かう者は、対話を行う両者に対して、公平な聞き手でなければならないけれども、平等な聞き手であってはならない。」
「死とは、人間にとって幸福の最上なるものかと問えば、知っている者はいない。では、最悪のものかと問えば、人々は覚知しているかのごとく、死を恐れる。」
... プラトン

「最高善が幸福であることは万人の容認せざるをえないところ。だが、幸福の何たるかについては異論がある。」
「人々は、不正をはたらくということは自分の勝手になることだ、だから正しい人間たることも容易なことだと思っている。」
「人は自愛的でなくてはならない。だが世人の多くがそうであるごとき意味においては自愛的たるべきでない。」
... アリストテレス

「人間どもよ!と叫ぶと人々が集まった。おれが呼んだのは人間であって、がらくたなんぞではない。」... ディオゲネス

「知性の欠乏は、とかく多言を弄する。」
「自ら迷わされ、人を迷わし、自ら欺かれ、人を欺く。」
「悪意のある善意というものがあるとするなら、本当に心から憐れむ人は同情するために、哀れな人々の存在を望むこともある。それゆえ、是認されるべき悲しみもあるが、けっして愛されるべきではない。それゆえ、魂を愛する主であられるあなたは、わたしたちよりも、はるかに清く純粋に魂を愛されるのである。」
... 聖アウグスティヌス

「ある人にとっては、優しそうな友人より辛辣な敵の方が役に立つ。敵はしばしば真実を語るが、友人は決して語らぬから。」
... 大カトー

「節度があり気むずかしさや不人情とは無縁の老人は耐えやすい老年を送るが、苛酷さと不人情は、どの世代にあっても煩わしいものだ。」... キケロ

「何にもまして有益なのは、死の定めを思うことである。」
「すべての人間の中で唯一、英知のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、真に生きている人なのである。」
「人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。」
「何にせよ度を過ぎれば害になるが、節度なき幸福は何より危険である。脳を揺さぶり、心を虚ろな妄想へ誘い込み、偽りと真実の中間の靄を大量にまき散らす。徳の支援の下に絶えざる不幸を凌ぐほうが、はてしない度外れの善で破裂するより、どれほどましなことか。断食の死のほうが楽である。食いすぎは破裂させる。」
「怒りの最初の発作を言葉で鎮めようとしてはならない。耳が聞こえず、正気でないのだから。怒りに時の猶予を与えよう。緩和してきたとき、治療はよく効く。目が腫れ上がってる時は手当てを控え、力が冷えて固まっている時、動かすことで刺激する。他の疾患でも、激しい時は同様である。病気の初期段階は安静が癒してくれる。」
... セネカ

「道理があるからといって必ず報われると思うのでは道理から外れている。」
「学んでも考えなければ、はっきりしない。考えても学ばなければ、危険である。」
「自分のことばに恥を知らないようでは、それを実行するのはむつかしい。」
「君子には仕えやすいが、喜ばせるのはむつかしい。道義によって喜ばせるのでなければ喜ばないし、人を使うときには、長所に応じた使いかたをするからだ。小人には仕えにくいが、喜ばせるのはやさしい。喜ばせるのに道義によらなくても喜ぶし、人を使うときには、何でもさせようとするからだ。」
「生まれついてのもの知りは一番上だ。学んで知るのはその次だ。ゆきづまって学ぶ人はまたその次だ。ゆきづまっても学ぼうとしないのは、最も下等だ。」
... 孔子

「知識はこれを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現れる時においてのみ、真に知識になる。」... 新渡戸稲造

「禅とは、中国のタオとインドの仏教を混ぜ合わせ、日本人がこしょうと塩で味付けしたようなものだ。」
「美徳と隣人愛を宣伝しなくなれば、隣人愛は回復する。」
... レイモンド・スマリヤン

「真に神を愛するものは、神からも愛されることを願ってはならない。」
「自由な人間が、死ほどおろそかに考えるものはない。自由人の叡智は、死ではなく生を考えるためにある。」
「精神は理解することがより少く知覚することがより多ければ、それだけ大きな虚構能力を有し、また理解することがより多ければ、それだけそうした能力が減少する。」
... スピノザ

「もし信仰と理知の境が立てられないと、狂信すなわち宗教で常軌を逸したことも反駁できない。」
「必然性と自由が両立できて、同時に自由に束縛されるということができるのでないかぎり、自由であるはずはない。」
...ジョン・ロック

「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである。」
「二種の人々がいるだけである。一は、自分を罪びとだと思っている義人、他は、自分を義人だと思っている罪びと。」
「人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない。」
「キリスト教を本当だと信じることによって間違うよりも、間違った上でキリスト教が本当であることを発見する方が、ずっと恐ろしい。」
... ブレーズ・パスカル

「意識の度が増せば増すほど絶望の度も増す。」
「孤独への衝動は精神の徴候であり、精神のありかたを量る尺度である。」
「勇気をもって挑戦すれば、一時的に足場を失う。だが挑戦しなければ、自分自身を失う。」
... セーレン・キェルケゴール

「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては人は沈黙せねばならない。」... ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

3. 文学

「死というものがなかったなら、この地上に詩人は生まれなかったろう。」... トーマス・マン

「多くの書物は、これほどに明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに。」... イマヌエル・カント

「少なくとも作家の名に値する作家というものは、なによりもまず自分自身のために書く強烈なエゴティストである。なまじ世道人心や良俗教育のために書かれた文学に碌なものがなく、ひたすら自我のカタルシスのために書かれた作品こそが、かえって人間を高め、浄める文学であるというのは、文学の一つの皮肉である。」... 中野好夫

「たいていの本は、小論文で十分。たいていの小論文は、ブログで十分。たいていのブログは、ツイッターで十分。そして、たいていのツイッターは、そもそもツィートするほどの価値はない。昨今、本を書くというのは、期待などという言葉では収まらない大胆な行為だ。」... イアン・ブレマー

「人間は、自由が与えられる途端に自由に飽き、生を与えられる途端に生に耐えがたくなる。」
「現代は、生き延びることにすべての前提がかかっている時代である。それが民主主義だ。」
... 三島由紀夫

「人間であるか精神になるか、そのどちらかを選ばねばならない。人間が行動できるのは、ただただ知らずにいることができ、人間の特異な奇癖である認識の一部分で満足できるからに他ならない、つまり、この認識というものは必要以上に少し大き過ぎるのだ!」
「真実と虚偽とは同一の目的をめざす。 同じひとつのものが、別々の仕方で振舞うだけで、わたしたちを嘘つきにもするし、真実を語る者にもする。」
... ポール・ヴァレリー

「己に嘘をつく者は、腹を立てるのも誰より早い。」
「人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものもない。」
... フョードル・ドストエフスキー

「善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。」... 坂口安吾

「伝統の奴隷にならぬというのが、わたしどもの伝統でしてね。」
「信仰の根幹には中庸があり、いかなる行き過ぎも避けるという徳を説き、逆説的にはその徳そのものの行き過ぎですら避ける。」... ジェームズ・ヒルトン

「時事問題の騒音を BGM にしてしまうのが古典である。同時に、この BGM の喧噪はあくまでも必要なのだ。」
「古典を読むのは、それがなにかに役立つからではない。古典を読まなければならない理由は、ただひとつしかない。それは読まないより、読んだほうがいいからだ。」
... イタロ・カルヴィーノ

「不機嫌は、愚劣な虚栄によって煽られた嫉妬とつねに結びついている。」
「われらの書きしもの、正誤いずれにせよ、われら生くる限り、それを弁護してやまず。われらの死後、いま遊び戯れる子らが裁き手とならん。」
... ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

「人間は、時として、充たされるか充たされないか、わからない欲望のために、一生を捧げてしまう。その愚を哂う者は、畢竟、人生に対する路傍の人にすぎない。」... 芥川龍之介

「人生のあらゆる形式は、その初め生じた時に意義がある。礼をして荘重ならしむるものはその意義である。」... 森鴎外

4. 言語学

「人間は言語によってはじめて人間である。しかし、その言語を考案するには、すでにまず人間でなくてはなるまい。」... ヴィルヘルム・フォン・フンボルト

「母語に対して超越論的であることは難しい。また、母語を外部の視座から問うのは難しい。しかし、そうすることによってしか母語は問われないのかもしれない。そうであるとすれば、私たちははじめからこの困難の中にあることになる。」... 浅利誠

「認識と言語とは厳密な意味で交錯する。両者は、表象のうちに同一の起源と同一の機能原理をもち、互いに支えあい、補いあい、たえず批判しあう。」... ミシェル・フーコー

「言葉はもともと歴史的な存在であり、過去によつて刻印を打たれることではじめて機能が成立するものなのだから、然るべく言葉を選ぶには、その語の由来来歴から現代との関係に至るまでの総体をしつかりと感じ取ってゐなければならない。」... 丸谷才一

「文法は言語の規則とみなされている。だが、日本語をしゃべっている者がその文法を知っているだろうか。そもそも文法は、外国語や古典言語を学ぶための方法として見出されたものである。文法は規則ではなく、規則性なのだ。... 私は外国人のまちがいに対して、その文法的根拠を示せない。たんに、"そんなふうにはいわないからいわない"というだけである。その意味では、私は日本語の文法を知らないのである。私はたんに用法を知っているだけである。」
... 「定本 柄谷行人集、ネーションと美学」より