2023-10-29

"日本の居酒屋文化 - 赤提灯の魅力を探る" Michael S. Molasky 著

居酒屋というと、大勢でワイワイやってるイメージ。こっちときたら騒がしいのが大の苦手で、独りでチビチビやりたいもんだから、どうも馴染めない。
高度な情報化社会では、静かに呑み歩くのも難しい。食べログや口コミといったサイトで評判が広まり、それで常連客が逃げ出すようでは、せっかくの隠れ家も台無し!
大衆酒場ですら赤提灯をぶら下げている所もあって、カテゴリも当てにならない。
しかし、ここで言う居酒屋は、独りでぶらりと立ち寄れるような、それこそカウンタでチビチビやるイメージ。カウンタとは、もてなす側ともてなされる側とを隔て、駆け引きする場、勝負する場... というのが、おいらの持論である。バーしかり、小料理屋しかり、寿司屋しかり... 癒しの場で緊張感を煽ってどうする。もう三十年になろうか、和装女将がもてなしてくれる小料理屋風の呑み屋に通い詰めた記憶が蘇る。いろいろと社会勉強させてもらったっけ。口説き文句は大失敗に終わったけど...

「地元に根付いた個人経営の赤提灯こそ日本の呑み屋文化の核心だと思っている...
居酒屋は味と価格だけではない、五感をもって満喫する場所である、というのが私の持論である。さらに、居酒屋は『味』よりも『人』である、と確信している...」

こう主張するマイク・モラスキーさんって、どちらの御出身?
アメリカ中西部生まれのれっきとしたガイジンさん!なので、ネイティブライターのような洗練された文章は書けない... 編集作業では細かい修正で余分な手間を取らせてしまった... などと謙遜しているが、どうしてどうして!
いま、日本人よりも日本人っぽい日本文化論に出会えた喜びに浸っている。やはり文化を論じる場合、ちょいと距離を置く方がよさそうだ。
四十年もの居酒屋体験談。自ら「居酒屋愛好家」、あるいは「赤提灯依存症」と称し、北海道から沖縄まで、角打ちから割烹まで... 角打ちの真髄に至っては「最低の価格、最小限のもてなし、最大限の癒し。」と...
彼は何を求め、そこへ足を運ぶのか。おそらくこの書も、鯵のさしみや〆鯖を肴に、日本酒をチビチビやりながら書いたに違いない。こっちも負けじと、純米酒をやらずに読むわけにはいかない...

本書は、「地の味わい」「場の味わい」、そして「人間味」という三つの観点から居酒屋探訪記を物語ってくれる。経験を積んだ居酒屋からは、貫禄を感じさせられることがあるという。
「貫禄」という言葉を国語辞典通りに、身に備わった風格や威厳... とするのでは足りない。それでも大まかな共通点が見受けられる。店主にせよ、店自体にせよ、気取らず、飾らないところ、あるいは、自分自身や店に自信を持ち、自然に醸し出す雰囲気があるところ。そして、店の味わいを守るためには、客に好かれなくてもええ!という覚悟をもって営業方針を貫いているところ。要するに、淡々と仕事をし、店を大事にしているだけだが、こういうシンプルな動機に人生哲学を魅せてくれるのも、居酒屋の魅力としておこうか...

「小ぢんまりしたローカルな居酒屋であればあるほど、多面的な機能を秘めているように思う。だからこそ常連客にとって、行きつけの居酒屋はまるで『聖地』のように感じられ、それゆえに、彼らはその店独自の雰囲気が壊されないように、侵入してくる一見客をしばらくは番犬のごとき注意深さで『見張っている』わけだ。」

2023-10-22

"ソネット集" William Shakespeare 作

シェイクスピアをまともに読んだのは、五十を過ぎてからのこと。ちょいと言い訳するなら、初めてのシェイクスピア体験は義務教育の文化祭あたり。学生時代は劇場にも何度か足を運び、モチーフにした映画も多く、直接触れずとも、これほど筋書きを知っている作家も珍しい。
ゲーテは、カントをこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている... と。シェイクスピアという作家は、まさにそんな存在である。
筋書きを知っていれば、小説を読むのも億劫になるが、媒体が違えば、違った光景を魅せてくれること疑いなし。なんとなく体裁が悪いと思いつつ、四大悲劇に手を出せば、ハムレットには、気高く生きよ!このままでいいのか?と問い詰められ、リア王には、道化でも演じていないと老いることも難しい!と教えられ、マクベス物語に至っては魔女どもの呪文にイチコロよ。おいらは暗示にかかりやすいときた。そして、「ソネット集」には、人間とは、こうも滑稽な生き物なのか... と。
ここまで来るのに、半世紀も生きねばならなかったとは... 怠惰な詩神よ。真実をなおざりに、沈黙の言い訳はよせ!
尚、高松雄一訳版(岩波文庫)を手に取る。

ソネットとは、ルネサンス期イタリアに発する十四行詩のこと。この形式がイギリスに渡ると、ひときわ異彩を放つソネット文学が生まれた。シェイクスピアの「ソネット集」がそれである。
但し、この作品について知られている事実は、ごくわずかだという。詩作した人物がシェイクスピアであることは間違いなさそうだが、刊行となるとトマス・ソープなる人物が浮かび上がる。しかも、校正の状態などから推して、シェイクスピア自身は目を通していないようだとか。なかなかの謎めいた作品である。
詠われる人物にしても、美貌の男子に、黒い女(ダーク・レディ)とくれば、シェイクスピア自身の愛の遍歴か。黒い女とただならぬ関係を歌えば、小悪魔か、高級娼婦か。美男子への愛を熱く歌えば、同性愛説も囁かれる。登場人物の身分や実名を追えば、謎が謎を呼び、興味が興味をそそり、想像が想像を掻き立てる。作者がシェイクスピアというだけで文学史上の問題となり、専門家の間で様々な説が飛び交う。

しかしながら、天邪鬼な読み手には、そんなことはどうでもええ。背後に潜む事実関係なんぞに興味はない。目の前の字句を素直に追うだけだ。
とはいえ、その解釈となると、やはり天邪鬼。愛の讃美歌が、どこか皮肉まじりに響く。文壇では神と悪魔の相性はすこぶる良いと見え、慰安と絶望が交差し、天国と地獄が表裏一体で仕掛けてきやがる。
天使は悪魔のごとく真実を覆い隠し、股ぐらから梅毒を撒き散らす。愉快!愉快!
のぼせ上がった美貌への愛に無慈悲を喰らわせ、黒衣裳をまとって愛の喪に服す。愉快!愉快!
かくして愛は道化に成り果て、犬にでも喰わせちまえ!これで犬儒学派に鞍替えよ。シェイクスピア文学は、こうでなくっちゃ!

シェイクスピア自身も、あの世で専門家たちの論争を尻目に、単に思いついた言葉を形式的に整えてみただけよ!って笑い飛ばしているやもしれん。詩人は文章を整えるだけでいい。それで学識は優雅な美しさを飾りたて、粗野な無知を知識と同じ高さに引き上げてくれる。愛の十字架を背負う者に慰めはいらぬ。醜い姿になる前に、ご自分を蒸留しちまいな!ってか。
さらに、愛の讃美歌を拾うと...

「愛がつくる最良の習慣は、信じあうふりをすることだ!」

「盲目の愚か者、愛の神よ、私の眼に何をしたのだ。この眼は見てはいるのに見ているものが解っていない。美とは何か知っているし、どこにあるかも見ているのに、最低のものをこよなく優れていると思い込む。私の心も、眼も、まこと真実なるものを見あやまり、いまはこの迷妄の苦しみに憑かれて生きているのだ。」

「愛していなくとも、愛していると言うがいい。いらだちやすい病人でも、死期が近づくと、医者からは良くなりますという言葉しか聞こうとしなくなる。もし私が絶望すれば、狂乱におちいり、狂乱の最中におまえを悪しざまに言うかもしれない。すべてをねじまげる当世の堕落ははなはだしいから、狂った男の中傷でも、狂った聞き手が信じてくれよう。」

2023-10-15

"君あり、故に我あり - 依存の宣言" Satish Kumar 著

サティシュ・クマールは、9 歳にジャイナ教の修行僧となり、18 歳に内なる心の声に従って僧を辞めたという。内なる心の声とは、ガンジー思想への目覚めであろうか。
彼は、無一文でインドから欧米に渡り、8000 マイルもの平和巡礼を行ったことでも知られる。核保有国の政治指導者に「平和のお茶」を届けたのである。その途中、フランスでは牢獄に放り込まれ、アメリカでは銃を突きつけられ...
この行動は、バートランド・ラッセルに触発されたものらしい。ラッセルの非暴力運動は合理主義と両立させ、人道主義をも超越しているという。日本でも平和行進に参加し、東京から広島まで 45 日かけて歩いたそうな...

本書はジャイナ教で彩られている。そして、インドの賢人ヴィノーバ・バーヴェ、自由の預言者ジッドゥ・クリシュナムルティ、数学者で合理主義者バートランド・ラッセル、解放者マーチン・ルーサー・キング、環境経済学者 E.F.シューマッハーと過ごした喜びを物語ってくれる...
尚、尾関修, 尾関沢人訳版(講談社学術文庫)を手に取る。

「この本は心の旅である。私はこの本の中で、多種多様でしかも相互に関連するネットワークとして世界を理解するに至ったインスピレーションの源泉を辿っている...」

サンスクリットの格言に「ソーハム(彼は我なり)」というのがあるそうな。サティシュは、これを「君あり、故に我あり」と解し、デカルトの言葉「我思う、故に我あり」に対抗して魅せる。
そして、西洋の世界観を近世からグローバリゼーションに至る流れを追い、その源泉にデカルト哲学を見る。それは、分割と分離といった二元論的世界観である。我思う... ことにより自己を意識し、故に我あり... と、他との差異で自己を確認する。自己存在を強調し、そのために自己肯定感に苛むとすれば、まさに現代病がそれだ。

本来、多様性を受け入れるはずのグローバリズムは、少数派を次々に飲み込み、価値観を一本化しようとしてきた。すると、これに反発して対極的な価値観が勢いづき、世界は二極化していく。その過程で、対極にあるはずの個人主義と利己主義が結びつき、これに愛国主義が相まって、経済的生産競争や軍備拡張競争を激化させる。
超エリートの政策立案者たちは、いまだ消費を煽る以外に方策が見つけられないでいる。生産と消費に邁進すれば、環境破壊や自然破壊へ突き進むは必定。資本主義と共産主義は、互いにい対立するかに見えるが、自己の利益を優先し、国益を追求する点では同じ。資本主義は資本を喰い潰し、共産主義は個人を喰い潰す。そして、文明人は地球資源を喰い潰し、いったいどこへゆこうとしているのか...

「我々が個人的恐れを精神的に克服できないなら、外部の敵を恐れるように仕向けることは政府や軍事指導者にとってはやさしいことだ。彼らは毎日、敵について語りかける。彼らは恐怖を作り出し、我々をその中に置こうとする。我々は、恐怖に支配されてしまう。隣人を恐れ、ヒンズー教徒を恐れ、イスラム教徒を恐れ、キリスト教徒を恐れ、外国を恐れるようになる。さまざまなグループに分断され、誰かを恐れるようになる。自分の妻や夫、子供すら恐れるようになる...」

しかし、だ。こうした問題すべてを、デカルトのせいにするわけにもいくまい。信仰的に思考するスコラ哲学から脱皮し、主体を客体化して科学的な思考を試みた点は評価できるし、また、それが必要な時代でもあった。それは、サティシュも認めている。彼が主張せんとしていることは、そろそろ新たな世界観へ脱皮する時代が来たのでは... そろそろ人間中心主義から脱皮しては... ということである。
主義主張の対立、イデオロギーの対立、そして何より宗教の対立は、もっと古くからあり、こうした対立構図は、むしろ人間の本質と見るべきであろう。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体は、他との対比や対立から自己を認識するほかはない。デカルトだってあの世でぼやいているに違いない。すべては自己責任で!と... 
しかしながら、自己責任ってやつは、これを実践しようとすると、なかなかの難物。巷では、この用語は、お前が悪い!という意味で使われている。自立という概念にしても、人間には高尚すぎるのやもしれん。
ならば、もっと謙虚に何かに依存しなければ生きられない、とした方が現実的やもしれん。少なくとも地球上を棲家とする生命体は、地球環境に依存している。人類は、自然に依存しなければ生きられないってことだ。
アリストテレスが定義したように、人間がポリス的動物である、というのが本当なら、ポリス、すなわち社会にも依存するほかはあるまい。但し、ポリスとは単に社会を営むだけでなく、最高善を求める共同体という高尚な意味も含まれており、現実社会はそんな大層なものではあるまい。
サティシュは、完全なる依存を宣言する。自己を知らずして自立もあるまい。自己を見つめずして自律も叶うまい。自立や自律ってやつは、必要な依存を受け入れてこそ成り立つ概念やもしれん。自己責任!などと片意地はらんと、もっと自然体に...

「ガンジーにとって知識とは、謙虚さと真実を学ぶための手段だった。ガンジーは『知識は力なり』という考えを捨て去った。知識は奉仕のための道具である、とガンジーは考えた。傲慢さをもたらす知識は真の知識ではないのだ。」

また、平和宗教を論じる上で、イスラム教の思想家マウラーナー・ワヒドゥディン・カーンとの対話は、なかなかの見モノ!
宗教が、しばしば暴力の根源となってきたのも事実。考え方や信条が異なり、信仰が異なるのは、いわば人間の本質であり、これらの差異が対立や紛争を生む。
サティシュは問う。イスラム教の真髄とは何か?と。それは、理論や哲学ではなく、生き方であると。そして、状況が平和である時に、平和な気持ちでいるだけでは不十分だとし、「いかなるときも怒らないようにしなさい!」と説く。
イスラムとは、「平和に」という意味があるそうな。ならば、ジハード、すなわち、聖戦という概念はどう説明できるというのか?ジハードの意味は無惨なまでに誤解されているという。しかも、学殖があり、理性ある人々が、その意味を歪めていると。非暴力思想の根底には、怒りの克服があるらしい...

ジャイナ教について言えば、ジャイナとは、勝利を意味するそうな。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラとは、偉大なる戦士を意味するとか。だが、その言葉に反し、ジャイナ教ほど非暴力と平和に重きを置く宗教はないという。では、誰に対する勝利か?それは、自己に打ち勝つことであり、自我の克服であると...
これと同様、イスラムの教祖マホメットも偉大な将軍だったそうな。ジハードは、戦いを意味するのではなく、葛藤を意味するんだとか。最大の葛藤は、自我と戦い、怒りに勝ち、自尊心を克服すること。そして、不公正や強者による弱者の搾取と闘わなければならないという。しかも、非暴力的に。これが本来のジハードだそうな。それ故、マウラーナー・ワヒドゥディンは、こう唱える。
「良きイスラム教徒であるためには、我々は同胞のイスラム教徒だけでなく、ヒンズー教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、その他すべての人々を愛する必要がある。困難なことかもしれないが、そのようなビジョンがなければ宗教にはなんの意味もない。」

うん~... 仏陀も、他人を傷つけることは自分自身を傷つけること!と説いた。イエスも、汝の敵を愛せよ!もう一方の頬をも向けなさい!と説いた。
しかしながら、どんな高尚な思想を唱えようと、どんなに高い理想を掲げようと、人間ってやつは言葉でいかようにも操れる。未だ人類は、すべての真理を言い表せるほどの言語システムを獲得できていない。愚人は、なにかと言葉を欲する。具体的な言葉を欲する。そして、言葉は厄介となる。だから、あのナザレの大工のせがれは、沈黙のうちに十字架刑を受け入れたのであろう。民衆が沈黙で悟れるほど賢くないとはいえ。その意図の理解に、数千年の歳月がかかろうとも...

「ヒンズー教徒の非二元論の信念は、ジャイナ教徒の非絶対論に相当するものである。非二元論は時として、現実の単一性と理解されてきた。しかし、ゴーパールジー(サティシュの師)は次のように信じていた。... 非二元論は、自己か他者か、ということより、宇宙の多面的な性格を表している。多様性とは分裂や断絶ではなく、言葉では完全に言い表すことの不可能な、相互に関連した全体のことなのだ。人が何かを話すとき、真実の一側面について語ることはできても、真実全体を語ることはできない。だから我々は、少なくとも言葉や心によって、全体的で絶対的な理解を完全に手に入れることは不可能だ、ということを認めるべきなのだよ。言葉は真実の一側面に近づくことくらいしかできない。その向こうには、ただ沈黙があるのみだ...」

2023-10-08

"エリザベスとエセックス" Lytton Strachey 著

リットン・ストレイチーは、"Portraits in Miniature (邦題: てのひらの肖像画)"と題し、18 篇ものささやかな人物像を通して、イギリスの一時代を炙り出した(前記事)。
この伝記作家は、自分自身が生きたヴィクトリア朝の時代を呪い、過去の時代に思いを馳せたのか。ここでは、歳の差の恋愛物語を通して、エリザベス朝の時代を物語ってくれる。
生涯独身を通し、聖母マリアのごとく処女として崇められた女王エリザベス一世。スペイン無敵艦隊に大勝利した英雄。だが、彼女とて一人の女であった。いつまでも女であった。しかも平凡な。愛人の噂も絶えず...
53 歳にして、20 歳にも満たないエセックス伯爵と出会ったことは不幸だったのか。熟年の恋は始末が悪い。人間ってやつは、自由よりも束縛にこそ真の自由を見るのやもしれん。そして、禁断にこそ真の恋を...
尚、福田逸訳版(中央公論社)を手に取る。

「エリザベス朝の人々に見られる一貫性の欠如は、人間に許される限界を遥かに越えている... 狡猾かと思えば純真、繊細かと思えば残忍、そして敬虔かと思えば好色、かかる存在に筋の通った説明を与えるなど一体可能であろうか... それはバロックの時代であった。そして、恐らく彼らの内部構造と外部装飾とのずれこそ、エリザベス朝人の神秘の原因を最も端的に物語るものなのだ... まさにバロック的人物と言える存在が、他でもない、エリザベスその人である。」

エリザベスの治世は、二つに分けられるという。スペイン無敵艦隊を撃破するまでの三十年と、その後の十五年。前者は、いわば準備段階で、その結果、イングランドは統一国家となり、後に大英帝国となって七つの海を支配することになる。
エリザベス女王は、精神の支柱にイングランド国教会を据え、民衆に国家という概念を植え付けた。そして、スペインの横暴を撥ねつけ、ローマの圧力にも屈せず、イングランドを帝国へと導いた。
だが、こうした功績は英雄的な資質の為せるわざではなかったという。激動の時代を生き抜くには、何よりも政治的手腕と慎重さが肝要で、むしろ、のらりくらりとかわした結果であったと...

「変化に富むがゆゑに自然は麗し」... これは、エリザベスが好んだ格言だそうな。彼女自身の振る舞いも自然に劣らず変化に富む。ある時は気の荒い貴婦人、ある時は厳しい顔つきの実務家、ルネサンスの教養に溢れ、六カ国語をこなし、優れた音楽家で舞踏も得意、会話はユーモアのみならず気品と機知に溢れ、確かな社交感覚の持ち主とくれば、こうした変幻自在な振る舞いが、外交手腕と結びついて、激動の時代を生き延びたという見方もできる。
ストレイチーは、この女王の多芸ぶりと優柔不断ぶりを、エセックス伯爵という一人の男を通して物語る。この若き男子も、熟女の寵愛の受け方をよく心得ている。人に支配されるのを好まず、最高権力者である女王の寵愛という特権を掌握し、軍隊の後ろ盾に支えられ、またそのことを十分に承知していればこそ、国家にとって危険な人物となる。宮廷内では警戒心が広がる。数々の戦場で無能ぶりを曝け出し、名誉挽回でアイルランド総督に任命されるも、アイルランド叛乱の鎮圧に失敗して失脚。ついにはクーデターを起こし、反逆罪。かくして女王の寵臣は、首斬り役人の斧によってその首を斬り落とされたのだった... 享年 34 歳。
真実を悟った老婆は、すでに67歳。どちらが弄び、どちらが弄ばれたのか。互いの引力が運命を弄んだのやもしれん...

2023-10-01

"てのひらの肖像画" Lytton Strachey 著

イギリスの本屋には、伝記コーナーがしっかりと設けられているそうな。古本屋ともなると、年季の入った、それこそ歴史を感じさせる区画を演出しているらしい。昔から伝記が読み物として親しまれてきたお国柄というわけか...
一人の人物を語るということは、その人物が生きた時代を語るということ。人類の歴史を個人の歴史の集合体として眺めれば、まさに本書がそれを体現してくれる...
尚、中野康司訳版(みすず書房)を手に取る。

「過去に関する事実を、芸術の力を借りずにただ集めただけでは、それは単なる事実の寄せ集めにすぎない。もちろんそういうものが役に立つこともあるが、それは断じて歴史ではない。すなわち、バターと卵と香草を寄せ集めてもオムレツにならないのと同じである。」

原題 "Portraits in Miniature"
これに「てのひらの肖像画」という邦題を与えた翻訳センスもなかなか。ここで言う肖像画とは、単なる人物像ではない。スナップ写真のような静止画でもない。もっと連続的で動的な... ある人物を遠近法で眺めながら、自分自身に返ってくる何かを感じるような...
リットン・ストレイチーは、18 篇ものささやかな人物像を連結して、16 世紀から 19 世紀頃のイギリスの社会風潮を炙り出す。彼は、遠い昔に思いを馳せ、彼自身が生きたヴィクトリア朝の時代を呪ったか。18 世紀頃の文才には柔和に美点を持ち上げ、19 世紀頃の文才には辛辣な批評を喰らわす。
例えば、デイヴィッド・ヒュームには、中世の神学的思考を一掃し、理性を純粋に発揮して公平無私の精神を実践したと、神わざのごとく称賛し、エドワード・ギボンには、節度ある理性と調和という天性の資質の持ち主として憧憬する。
一方、トーマス・カーライルには、度の過ぎる道徳癖によって自らの芸術的才能をぶちこわしたと手厳しい上に、カーライルに私淑したジェイムズ・アントニー・フルードに至っては、偏狭なプロテスタンティズムに幼稚な倫理観と切り捨てる。

「盲目はつねに悲劇を招くが、巨大な力を暴走に変え、高邁な夢を妄想に変え、巌のごとき自信を当惑と悔恨と苦悩に変えてしまう盲目は、まことに悲惨かつ哀れである。」

ヴィクトリア朝の時代といえば、産業革命によって国家経済を進展させ、帝国主義へ邁進していく時代。文学や芸術までもが、やがて訪れる偏狭な愛国主義へ傾倒していく。ストレイチーは、そんな兆しでも感じ取ったのだろうか。「文体は精神を映す鏡」としながら、雄弁家の文体には「もはや繊細さや洗練を期待しても無駄!」と言い放つ。芸術精神の持ち主だからこそ、時代の変化に感じ入るものがあるのやもしれん。特に、世界が狂気へ向かう時は...

「この世にはもはやかつての面影はなかった。何かがおかしくなっていた。あの騒乱と、あの改革と、それからまた改革の改革。まともに相手にする必要はなさそうだ。居眠りをしていたほうがよさそうだ。」

また、6 人のイギリスの歴史家を論じながら、歴史学のあるべき姿についても断片的に暗示している。6 人とは、ヒューム、ギボン、マコーリー、カーライル、フルード、クレイトン。
まず、歴史家の素質には、三つあるという。一つは、事実を吸収する能力。二つは、吸収した事実を叙述する能力。そして三つは、視点である。だが、三つ目を備える歴史家は、なかなかいないと苦言を呈す。
「歴史はなによりも物語」という。だが、書き手が語り手となり、歴史家が雄弁家となれば、それは悲劇の時代か。雄弁家の困ったところは、聴衆を自由にさせないことだ。歴史家が道徳を説く必要もあるまいが、雄弁家は道徳や倫理に血眼になる。まるで聖職者!
歴史書が道徳臭を漂わせれば、トゥキュディデスの神秘的な智慧やタキトゥスの迫力に思いを馳せる。主題を本当に理解している歴史家は、そうはいないという。それでも仕事を成し遂げられるのはなぜか。自分自身を知り、自分自身の限界を知り、その上で自己の中に調和を保ち続ける能力。これこそが、歴史家の資質というものか。客観的な立場を保つには、批判的な視点が欠かせない。ストレイチーは、ギボンを内面的調和を保つ名人!と称賛する...

「明確な視点をもつということは、対象に共感を抱くということではない。むしろ逆だと言ってよい。不思議なことに、偉大な歴史家は自分の題材と敵同士みたいに睨み合っている場合がじつに多い。たとえば、洗練された冷笑家のギボンは『ローマ帝国衰亡史』において、野蛮と迷信の叙述に二十年を費やした...」

2023-09-24

"ダーウィンの警告(上/下)" James Rollins 著

本書は、シグマフォースシリーズ第 10 弾、邦訳版は 0 から数えるので、第 9 弾となる。このシリーズは、いつのまにやら第 14 弾まで足を伸ばし、なかなか追いつけずにいる。
しかし、推理モノはいかん。ちょいと手を出すと、かっぱえびせん状態。特に、作家ジェームズ・ロリンズと翻訳者桑田健のコンビは。おかげで、徹夜明けのブラックコーヒーが美味い...

原題 "The Sixth Extinction"
第六の絶滅とは、何を意味するのか。進化論を唱えたダーウィンの警告とは... それは、人類は本当に進化しているのか?という問い掛けでもある...

「絶滅が規則であって、生存は例外である。」... カール・セーガン

古生物学者たちの推定では、地球上の生態系は、過去に五度の絶滅を経験しているという。一度目は、約四億年以上前のオルドビス紀末、ほとんどの海洋生物が姿を消した。二度目は、約三億年以上前のデボン紀末、三度目は、ニ億五千年前のペルム紀末、陸と海の双方で 90% 以上が死滅した。四度目は、約ニ億年前の三畳紀末、そして五度目は、六千五百年前の白亜紀末、恐竜が絶滅した。原因については、地球規模の気候変動やプレートの移動、あるいは、隕石の衝突などが考えられている。
おかげで、人類は大手を振って生きられる時代を迎え、いまや地上を支配するに至った。だが、かつての原因に加え、大量生産や大量消費で人口増殖を爆発させ、自らこしらえた深刻な環境問題に直面している。過去四百年で実に多くの生物種が絶滅し、かつての絶滅率と比較してもかなり高い割合で進行しているようだ。
そして現在、科学者たちは、地球上の生態系が六度目の絶滅へ向かっていると結論づけたという...

「この惑星上の生命は常に微妙なバランスのもとに成り立っている。それぞれがつながり合った複雑な関係性は、驚くほどもろい存在である。主要な構成要素を取り除けば、あるいはただ変化させただけでも、その複雑な網はほつれ、破れてしまう。」

物語は、カリフォルニア州の軍事研究施設から、爆発とともに謎の物質が流出したことに始まる。施設から発信された最後のメッセージは... 殺して!私たち全員、殺して!
謎の物質とは、なんらかの生命体か。その遺伝子構造からは、必須元素であるリンの代わりにヒ素が検出された。ヒ素を必要とする生命体の生物圏が、地球上のどこかに存在するのか。遺伝子の螺旋構造が、糖のデオキシリボースを根幹としていないとすると...
真相を知るはずの研究所長は拉致され、その行方を追っていくと、南米奥地で環境保護者がやっていた禁断の遺伝子実験と、南極大陸に潜む「影の生物圏」とが、あるキーワードで結びつく。そのキーワードとは、「XNA(ゼノ核酸)」
それは、情報貯蔵生体高分子として、DNA や RNA の代替となる合成物質。地球上の多種多様な生物種は、A, C, G, T というわずか四つの遺伝文字に基づいている。スクリプト研究所は、この配列に人工の塩基対 X, Y を加えた細菌を作り出すことに成功した。しかも、DNA より耐性があることが証明され、理論上はすべての生物の DNA と置き換え可能だという。かつて地球上の生物は、XNA の方が優位を占めていたと考えられているらしい。
本書は、DNA を「利己的」と形容し、XNA を「破壊的」と形容する。そうした生命の生き残りが、人類より優れた遺伝構造を持ち続け、今もどこかで...

"Life will find a way.”
「生命は生きるための道を見つける。」
... 映画「ジェラシック・パーク」より

また本書には、氷で覆われていない南極大陸と思われる古代の地図が何枚か登場する。これらの地図は、実在するそうな。古代人は現在考えられているよりもはるか昔に、世界中の大洋を航海していたらしい。南極大陸には、まだまだ人類の踏み入れたことのない未開の地が残されているのだろうか。
しかし、古代知識の宝庫であったアレクサンドリア図書館は、ずっ~と昔に破壊された。過去に数々の図書館が焼かれ、どれほどの知識が灰燼に帰してしまったことか。現代人が知識の再獲得に乗り出したところで、まだその序章ということか...

「人類の歴史を通じて、知識は増加と減少、隆盛と衰退を繰り返している。かつて知られていたことが、時間の流れの中で忘れ去られ、時には何百年もの長い歳月を経た後に再発見されることもある。」

環境主義にもいろいろあろうが、本書に登場する環境保護者の言い分は、なかなかの見もの...
彼が作ったものとは、プリオンの一種か。プリオンとは、タンパク質からなる感染性因子。ある種の殻のようなもの。しかも、とびっきり頑丈な。ウィルスの DNA の一部を切り取り、外来の XNA と入れ替えると、その遺伝子配列が殻を開く鍵のような役割を果たすという。
そして、感染力の強いノロウィルスの遺伝子を操作し、致死性の高いプリオンを短時間で広範囲にばらまくようにしたのか。いや、この合成物が人間や動物を殺すことはない。感染性蛋白質に手を加え、認知障害をもたらそうという企てか。
しかし、頑丈な殻に収納されたウィルスが、人間の神経機能を破壊し尽くすのでは。いや、怖がることはない。致死性を取り除き、おまけに一定の段階に達したら自己破壊するように手を加えた... ってさ。

「ある種の贈り物だよ。この贈り物を受け取った感染者は、より質素な、より自然と調和した形で、高次認知機能から解放されて残りの人生を過ごすことができる。言葉を変えれば、我々を動物と同じ状態にするというわけだ。それによって地球はよりよい環境になる。非人道的な行為こそが人類のためになるのだよ。もはや我々は、倫理を振りかざすだけの獣(けだもの)も同然じゃないか。我々が宗教や政府や法律を必要としているのは、その卑しい本性を少しでも抑えようとしているからにほかならない。私の意図は、知性という名の疾患を取り除くことにある。人類こそがより力強い存在で、この惑星にとってよりふさわしい存在だ、などという思い違いをさせるような欺瞞を排除することにある。」

歪んだ正義、暴走した正義が、テロリズムを覚醒させる。人間ってやつは、自己主張や自己存在の正当化のためには、いかようにも理屈づけをやる、特異な存在なのであろう。
現実に、森を焼き払い、海を汚染し、氷冠を融かし、二酸化炭素を大気中にばらまいてきた。人類こそが大絶滅を引き起こす原動力で、人類自身が絶滅の危機にある... という主張も否定できない。人間にとっての天国は、自然界にとって地獄なのか。それとも、自然界にとっての天国は、人間にとって地獄なのか。今、人類は自然との付き合い方が問われている...

「社会というのは支配のための破壊的な幻想であって、それ以上の何物でもない。」

2023-09-17

"チンギスの陵墓(上/下)" James Rollins 著

本書は、シグマフォースシリーズ第 9 弾。邦訳版は 0 から数えるので、第 8 弾となる。このシリーズは、いつのまにやら第 14 弾まで足を伸ばし、なかなか追いつけずにいる。おいらにとって推理モノは、読書の基本ジャンルとはいえ、手を出すには勇気がいる。つい徹夜で一気読みしちまい、翌日は、まず仕事にならん。まるで麻薬!作家ジェームズ・ロリンズと翻訳者桑田健のコンビは、特にタチが悪い。やめられまへんなぁ...

原題 "The Eye of God"
なにゆえ、こいつの邦題が「チンギスの陵墓」となるのか?それが、読者に課したテーマである。「神の目」に映った未来と、その墓の暴かれし日が時空でもつれ合う時、世界は終わりを告げる...

物語は、米国の軍事衛星が彗星の尾に接近後、地球に墜落したことに始まる。衛星に搭載された観測用の水晶には、彗星が地球に衝突した後、廃虚と化した都市群が映し出された。
一方、ローマに送りつけてきた考古学的な頭蓋骨にも、世界が滅びるとの予言が記されていた。しかも、水晶が捉えた映像と頭蓋骨に記された期日は、同じ四日後が刻まれている。
頭蓋骨は誰のもので、予言の主は?という疑問は置いといて、衛星は時空をさまよって、時間を先取りしたというのか。衛星の名を、IoG(Interpolation of the Geodetic Effect: 測地線効果内挿)とし、こいつの語呂合わせで Eye of God. では、ちとこじつけ感が...
ちなみに、「神の目」は実在するらしい。科学者たちは、これまでに四つの完璧な球体の水晶を生成しているという。これらは、重力観測衛星のジャイロスコープとして、地球周辺の時空の曲率の計測に使用されているとか。神の目が複数存在するとは... 宇宙は多神教であろうか...

「過去、現在、未来の違いは、頑固なまでに消えることのない幻想にすぎない。」
... アルバート・アインシュタイン

量子の世界では、過去、現在、未来の順番を問わない。生と死を同時に体現しちまう、まったくシュレーディンガーの猫のような奴ら。神の目とは、猫の目のようなものか...
すべてを知り尽くした全能者ともなれば、過去も、現在も、未来も、時間という一つの次元に収まった同列の概念に過ぎない。それを尻目に、過去を悔い、現在で藻掻き、未来に翻弄されるのは、時間の矢に幽閉された知的生命体の宿命。そして、死んだと思われた登場人物が、ことごとく生きていたとする展開は、シュレーディンガーの猫を夢見る人間どもの滑稽な願望が透けて、ちとこじつけ感が...

とはいえ、歴史と科学を融合させるロリンズの手口は、相変わらず切れてやがる。
ざっとキーワードを拾うと、歴史の観点から... 使徒トマスの十字架、フン族の王アッティラ、モンゴル帝国初代皇帝チンギス・ハン。
科学の観点から... オールトの雲、量子力学、ダークエネルギー... といったところ。

まず、彗星はどこからやって来るのか?それは、太陽系の誕生と関係する。ざっと太陽系を外観すると...
お馴染みの八つの惑星の外側には「カイパーベルト」と呼ばれる氷を主成分とする破片の大群が周回しており、はるか遠くの外縁には「オールトの雲」と呼ばれる領域がある。そこには氷を主成分とする彗星が無数に存在するとされている。まるで彗星の貯蔵庫!
しかも、これらすべてが同一円盤状に配置されていて、衝突の脅威となる彗星は黄道面からやってくるというわけだ。
近年、仮想的な面「空黄道面」ってのも耳にする。彗星がやってくる軌道は、この二つの面に集中するらしい。太陽系の果てに、魔物の棲家でもあるのか...

そして、やって来る彗星に、使徒トマスの聖遺物が絡む。トマスの十字架は、約2800年前に、隕石を彫って作られたとされる。東方のネストリウス派の司祭の手によって...
こいつに、ダークエネルギーが潜んでいるのか。現在の科学では、宇宙の質量とエネルギーに占める割合は、通常の原子などの物質が 4.9%、ダークマターが 26.8%、ダークエネルギーが 68.3% と算定されている。つまり、人類の知らないダークな領域が、95% 以上もあるってことだ。
ずーっと昔に衝突した隕石と、今、衝突しようとしている彗星が、同じオールトの雲からやって来たとすれば、同種のエネルギーを帯び、互いに引き寄せ合っている... というのが筋書きである。この聖十字架にダークエネルギーを持った別の物質を反応させて対消滅させれば、彗星の軌道が逸れて、地球への衝突が避けられるって寸法よ。
したがって、シグマの使命は、量子のもつれを断ち切れ!落下した衛星の破片、すなわち、神の目がダークエネルギーを帯びているはずなので、こいつを回収し、十字架に重ねて量子エネルギーを対消滅させよ!

「私たちは星屑(ほしくず)でできている。私たちは宇宙が自らを知るための一つの方法なのである。」
... カール・セーガン

ところで、題目にあるチンギス・ハンといえば、中国北部、中央アジア、東ヨーロッパなどを次々に征服し、人類史上最大規模のモンゴル帝国を築いた人物。当時、世界人口の半数以上を統治したと言われる。彼には血に飢えた暴君のイメージがある一方で、先進的な考えの持ち主でもあったという。初めて国際的な郵便制度を確立し、外交特権という概念を取り入れ、政治の場に女性を登用し、それまでに類を見ないほど宗教に寛容であったとか。
彼が使徒トマスの聖遺物を大切に身に着け、墓場まで持っていったという筋書きも、もっともらしい。チンギスの死後、臣下たちは葬儀や墓の建設に関わった者を全員抹殺したという。そのために、陵墓の所在地は現在に至るまで謎のまま。陵墓には征服した土地から奪った財宝が隠されているとの噂が...

驚くべきことに、全世界の男性の二百人に一人が、チンギスと遺伝的関係があるという。モンゴルの男性にいたっては十人に一人が。これは、ハプログループ C-M217(Y染色体)を構成する 25 の遺伝子マーカーから実証されているそうな。一夫多妻制や数多くの国々を征服したことの痕跡が、遺伝子の征服にも現れているとは...

フン族の王アッティラの墓にも、チンギスと似たような状況があるらしい。アッティラの埋葬に携わった人々も全員抹殺されたとか。西暦 452 年、アッティラはローマへ侵攻したが、ローマ法王レオ 1 世と会見し、勝利を目前にしながら陣を引き払ったという。これは、歴史的にも謎とされているそうな。法王レオ 1 世は、ローマ救済のためアッティラに財宝を献上したかどうかは知らん。それも、強力な呪い?強力な魔除け?
そして、チンギス・ハンが征服の道のりでアッティラの墓を発見し、密かに財宝を受け継いだという筋書きである。結局、シグマの御歴々は、トマスの聖遺物に振り回されたってわけか。真実に翻弄され... 現実に愚弄され... 

「真実とは何か?過去について考えると、これは答えるのが難しい質問である。ウィンストン・チャーチルは、かつて『歴史は勝者によって書かれる』と語った。その通りだとすれば、本当に信用できる歴史的文書などありうるのだろうか?」

「現実とは何か?答えるのが極めて簡単であると同時に、極めて難しい質問でもある。この問題は長年にわたって哲学者と物理学者の双方を悩ませてきた。プラトンは著書『国家』の中で、本当の世界とは洞窟の壁に揺れる影にすぎないと述べた。奇妙なことだが、それから二千年以上を経て、科学者たちも同じ結論に達している。」

それは、量子のゆらぎってやつか...

2023-09-10

"条件なき大学" Jacques Derrida 著

雨降りしきる中、古本屋で宿っていると、ある一文に引き寄せられる。おいらは暗示にかかりやすい...

「今からお話しすることは、おそらく、信仰告白のようなものとなるでしょう。あたかも自分の習慣を守らない許可を、自分の習慣を裏切る許可をみなさん方に求めるかのように振る舞う、そんな教師の信仰告白のようなものになることでしょう。」

「条件なき大学」とは、なんと大胆な題目であろう。ユートピアにでも誘おうというのか。ジャック・デリダは、自前の教育論で大雑把なテーゼを掲げる。それは、大学への信、特に、人文学への信である。大学は真理を公言し、真理に対して際限のない誓約を約束する、と...
真理の世界では、真実や真相が鍵となる。だが、なんでも議論の対象にでき、なんでも問い掛けができ、なんでもありの世界でなければ、深淵な思考は促せまい。思考を高めるためには、真実や真相だけでは足りないってことだ。それを尻目に文学の世界では、フィクションが大手を振って、まるで湯上がり気分の王子様気取り。悪魔や悪徳までも主役に仕立て上げる。デリダは、すべてを言う権利を文学調レトリックで唱えて魅せる。おまけに、きわめて難解な文体で、推理小説バリの演繹力を要請してきやがる...
尚、西山雄二訳版(月曜社)を手に取る。

「私の目からみると、文学はある種の特権を保持しています。文学はエクリチュールの出来事からこの特権を主題化するからです。また、文学はその政治的な歴史を通じて、『すべてを言うこと』を原理的に説明することに結びついているからです。『すべてを言うこと』によって、文学は独特な仕方で、真理、虚構、模像、学問、哲学、法、権利、民主主義と呼ばれるものに関係します。」
... ジャック・デリダ「中断付点」より

大学には自由なイメージがあり、大学は自由な研究の場であるべき、との主張にも頷ける。しかし、研究にはカネがいる。予算が貧弱だと、ろくな研究もできまい。では、スポンサーは?国が予算をつければ、国家や官僚が主導することになる。自由を信条とする大学が政治権力の影響下にあるとは、これいかに。現実に、大学は独立を主張することができずにいる。無条件を原則としたところで、同じこと。結局、教育論ってやつは、合目的性なんぞとは程遠く、市場原理やナショナリズムと結びつく。

自由主義社会だからといって、なんでも言えるわけではない。発言の自由には、社会的な責任がともなう。カントは、自分の理性を公的に使用する時は、いつでも自由でなければならない、といったことを主張した。私的に使用する時は、極めて制限されるべきとしながら。カントが生きた時代は、教会権力や国家権力による露骨な検閲制度があったが、21世紀の今、そんな制度は殆ど見かけない。少なくとも民主主義国家では。
だからといって、検閲もどきの機能がなくなったわけではない。ネット社会では、理性の検閲官どもがリアルタイムで監視し、誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。
人は、自分の自由を主張しながら、他人の自由には厳しい。特に、批判的な態度に対して。となれば、例えばヘーゲル哲学を理解しようとすれば、ヘーゲル的な方法と非ヘーゲル的な方法を同時に用いるような、そんな二重思考を試みることも必要であろう。それには、健全な懐疑心、あるいは、健全な批判精神が求められるわけだが、これを実践するにはよほどの修行がいる。
カントの批判哲学は、自らを対立する立場に置くことで、デリダ流の「脱構築」を図ったという見方もできよう。同じやり方で、条件なき大学を論じれば、同時に、条件付き大学を論じることになる。そして、理想と現実のギャップを埋める作業に追われ、ついには、自ら理想高すぎ感を認めざるを得ない。
だから、冒頭の宣言のように「信仰告白のようなもの...」というわけか。だからといって、人文学に教育を救え!などと責任を押し付ける気にはなれんよ。デリダ先生!

本書は、教育論を通じて労働説にも触れている。デリダには、マルクスの労働価値説に対して強い意識を感じる。労働価値説そのものは、政治算術という考え方を提示したウィリアム・ペティに発し、マルクスは労働の剰余価値に着目して、これと利潤との関係を論じて発展させた。現実に、労働が経済的価値を生み出すが、経済的に豊かになってくると生活の余裕を感じ、労働意欲にも差異が生じる。かつて多くを支配してきた強制的、受動的な労働と、わずかに経済的に余裕のでてきた能動的、積極的な労働との間にも、利潤や合理性に差異が生じる。
デリダは、労働の終焉によって目的を成す、といった見方を提示する。もっといえば、従来の労働は終焉し、これから真の労働が始まる... とでも言おうか。大学の研究を従来型の労働と見なすなら、これからの大学の研究は新たな形の労働によってもたらされる。それが、真の人間らしい生き方を意味するのか知らん。人生に合目的なんてものがあるのかもわからん。
ただ、デリダ流に言えば、労働という概念の再構築を促し、労働の「脱構築」ということになろうか。そして、いまだ真の労働は生じておらず、労働の終焉が起源説になるといった表現となり、本書に提示される「労働の終焉 = 目的」という図式になるのではないかと... こんな勝手な解釈では、デリダ先生に叱られそう。
それにしても、これほど読み手に様々な解釈と想像を強いる書き手も珍しい。M には、たまらん!

2023-09-03

"精神について" Jacques Derrida 著

原題 "De l'esprit"
ドイツ語では "Geist"、ラテン語では "Spiritus"、英語では "Spirit"、そして、日本語では「精なる神」と書く。これらの用語は、人間性を表明する重要な意味を持つが、同時に、得体の知れない存在であることを黙認している意味もある。
同じ母国語を用いる人々の間でも、この用語のニュアンスは微妙に違うであろう。時には情熱的に、時には狂乱的に、時には哲学的に、時には弁証的に... それで議論が成り立っているのだから、やはり人間ってやつは、得体の知れない存在である。翻訳するのも困難であろうが、そこは慣例によって、だいたい一対一の語で定義づけされる。でないと、議論も成り立つまい...
尚、港道隆訳版(平凡社ライブラリー)を手に取る。

「De l'esprit` これは大いにフランス語的なタイトルだ。Geist の le geistige や le geistliche(精神的なもの)を聴き理解できるようにするには、あまりにもフランス語的にすぎる。しかしだからこそ、ひとはおそらく、それをドイツ語としてもっとよく聴き取ることになるだろう。おそらく、いずれにせよ、その語を翻訳の試練にかけるべく一外国語の方から鳴り響かせておくならば、いやむしろ語の翻訳に対する抵抗を試練にかけるなら、われわれはこの語のドイツ性にもっと的確な形で敏感になるであろう。そして、われわれが自分の言語(ラング)を同じ試練に従わせるならば...」

副題には、「ハイデッガーと問い」とある。
ジャック・デリダは、ハイデッガー相手に、どんな対決姿勢を見せるというのか。ハイデッガーは著作「存在と時間」の中で警告したという。「いくつかの用語を避ける(vermeiden)べきである」と。それは、回避や否認という意味ではなさそうだ。存在を論じるには存在という用語から距離を置け!といった意味であろうか。翻訳できない用語があることを知れ!といった意味であろうか。そして、「精神」という用語も...
デリケートな用語を文章に直接流し込むと、文体のバランスを欠く。そうした用語から距離を置く記述のテクニックに、引用や原注といったやり方もある。
「精神」とは、神に近づきたいという切望から生じた用語であろうか。神を論じたければ、神という概念を創出した人間を論じる方が合理的かもしれない。それで存在を論じるのに無を論じるってか。自由意志を本望とする書き手は、自らの自由を拘束する。哲学ってやつは、チラリズムに看取られているらしい...

「私の知る限り、ハイデッガーは一度もこう自問しなかった。精神とは何か?と。」

デリダは熱く語る。「精神とは火、炎、燃焼である」と。
ちなみに、キェルケゴールは... 人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは、それ自身に関係する関係の... と、精神の正体をあらゆる総合的な関係で語った。
関わるものに対する情熱によって、あるいは、情熱をもって関わることによって自己が形成されていく。自己実現も、自己啓発も、自己陶酔も、自己泥酔も、なんらかの情熱に導かれ、精神あるところに、熱エネルギーを感じずにはいられない。
しかし、デリダの熱には、もっと重い意味が込められているようである。彼は、ホロコーストの時代を生きたアルジェリア出身のユダヤ系フランス人。古来人類は、街を焼き、建物を焼き、書物を焼き、そして、人間を焼いてきた。集団的な情熱が大衆を煽り、集団的な狂気が非人道的な行為へ走らせる。精神ってやつは、危険である。燃え上がると、更に危険である。
ハイデッガーは、精神を悪と認めつつ、その内にある純粋性を救おうと苦悶したようである。しかも、非キリスト教的に。だが西欧人にとって、キリスト教の呪縛から逃れることは容易ではあるまい。西欧哲学の弱点が、ここにあるのやもしれん。デリダは、それを指摘しているのだろうか...

「私は、亡霊と炎と灰とについてお話しようと思う。そして避ける(éviter)が、ハイデッガーにとって、何を言わんとするのかについて...」

デリダが唱える「エクリチュール」という概念は、なかなか手ごわい。とりあえず、思惟する主体の言明、あるいは、書き手の本質の言明、とでもしておこうか。
主体を言明する有効な方法に、書くという行為がある。書くことによって、思惟する自己を確認することができる。主観を観察するのに、客観的な視点は欠かせない。
だが、あまり文体や書き方に集中すると主体そのものを見失い、今度は思惟する自我と対決することになる。エクリチュールという概念をもってしても、やはり自我は手に負えないと見える。ならば、自我を避けるしかあるまい。だが、避けようにも自我の実体すら見えてこない。
ところで、デリダの文体は、翻訳の手口を拘束すると見える。翻訳者の愚痴まで聞こえてきそうな...

「翻訳は常に危険と裏腹だ。翻訳は文化の豊かさに寄与することもあれば、その足を引っ張ることもある。功罪の危うい活動である。そこに、我有化の欲望を持ち込むなら、デリダのテクストそのものを読んでいないという結果を排出するしかない。自ら著名をしたい欲望に突き動かされるのであれば、それ自体を私は否定しないが、そのことがデリダの問いかけを逸する確率を高くする。また翻訳するたびに、翻訳の政治性を改めて考えることを強いられる。『私はまだ読まれていないのではないか』という、不遜との印象を与えかねないデリダ最後のインタヴューでの発言も改めて真摯に受け取りたいと思っている。沈黙と饒舌との間に介在する沈黙の中で...」
... 港道隆

2023-08-27

"ジャック・デリダ入門講義" 仲正昌樹 著

精神を相手どれば、難解な認識論に放り込まれ、次々と造語が編み出される。哲学とは、そうしたものか...

人間の意思には、認識できる領域と、認識できない領域とがある。後者は思いのほか広大であるばかりか、精神そのものが得たいの知れない存在ときた。
そこで、疑問に思う。
「精神」という用語に、誰もが同じイメージを抱いているのだろうか、それで論争は成り立っているのだろうか、と。「精なる神」と書くぐらいだから、なにやら霊感的なものを感じる。おそらく、こいつを論ずる者は、人間は心のある生き物!魂のある生命体!といった定義が前提されるのだろう。それも確信をもってのことかは知らんが...

精神を相手どれば、どんな言語を用いるにせよ、言語体系の限界に挑むは必定。ある時は、ニュアンスの違いを穴埋めするために。ある時は、まったく違う概念を説明するために。またある時は、論争相手を追っ払うために。すべての中立な立場にあるメタ言語なるものが、この世に存在するかは知らん。あるとしたら、数学ぐらいであろうか...

デリダの場合、脱構築、差延、代補、現前の形而上学、エクリチュール、痕跡、パルマコン、コーラ、パレルゴン、憑在論... といった定義の難しい用語のオンパレード。おまけに、 文学風レトリックが多重に絡み、まるでゴルディオンの軛。それは、マニアックな読者を誘うための演出か。あるいは、上っ面な論者を排除するための技法か...
難解な書ってやつは、ほんの一部分だけでも理解した気分になれれば、それだけで達成感が得られ、その感情連鎖がたまらない、麻薬のような存在ではあるのだけど。いや、無力感もなかなか。おいら、M だし!
それにしても、こいつが入門書だというのだから、頭が痛い...

「従来の左派的なテクストは、文体や用語は難しくても、批判の対象とゴールがはっきりしていたので、一定の国語力さえあれば何となく理解することができた。しかしポストモダン系のテクストは、そもそも何をテーマにしているのかさえ分からないことが少なくない。」

さて、ジャック・デリダは、アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。ホロコーストの時代を生き、民族を焼き尽くす炎に、精神の内から燃え上がる炎を重ねて論じて魅せる。
古来人類は、街を焼き、建物を焼き、書物を焼き、そして、人間を焼いてきた。三千年紀が幕を開けると、そうした焼却行為の伝統は、仮想空間での大炎上として受け継がれる。人体を焼くよりマシか。いや、手段が巧妙化しているだけに、余計に厄介やもしれん...

「ヨーロッパの知識人は、その『精神』の名において、ナチスとかファシズム、唯物論、ニヒリズムなどの『野蛮』に対抗しようとしてきたわけですが、それに対してデリダは、その『精神』というのは、実は、『炎と灰』をもたらす『神の霊』、ユダヤ人を燔祭の犠牲として要求した『霊』、ヨーロッパに取り憑き、祓ったはずなのに何度も何度も戻ってくる『亡霊』と同じではないか、と示唆しているわけです...」

1. 音声中心主義と差延
言語学で見かけるラングとパロールという用語は、それぞれ言語と語り言葉といった意味がある。ソシュール言語学では、ラングを社会的な規約に基づく言語体系、パロールを個人的な使用による言葉といった関係にある。
デリダの場合は、書かれた言葉、あるいは書く行為を意味するエクリチュールに注目し、パロールとの関係において論じているという。これを「音声中心主義」というそうな。音声というからには、書かれた言葉というより、語られた言葉という意味合いであろうか...
人間は、何かを明確に認識しようとする時、言語化を試みる。記述することによって、確実な知識にもなる。その記述の差異によって物事の存在を確実に認識でき、物事の再現では言語化や記号化に頼るわけだ。
しかしながら、一旦確認済みの差異も、時間の経過とともに認識の差異が生じる。人間ってやつは、時間とともに変わっていくものだ。それが進化か、退化かは知らんが...
デリダは、差異と時間的な遅延を組み合わせた「差延」という用語を持ち出す。この語は、著作「声と現象」(前記事)でも遭遇したが、音声中心主義では重要な位置づけにあるらしい。認識対象を言語で代弁するなら、時間とともに代弁に差異が生じ、代弁の代弁が必要となり、さらに代弁の代弁の... と。これが「代補」ってやつであろか。ニーチェの永劫回帰にも通ずるような...
すると、「脱構築」という用語もおぼろげに見えてくる。それは、構築物を再構築し、さらに再構築物を再構築し... すなわち、破壊と創造の輪廻ということになろうか...

2. エクリチュールと責任
書く行為、あるいは語る行為を「エクリチュール」というそうな。パロールは、語り言葉という意味だが、さらに語り手の意思を込めた用語のようである。
自ら文体を構築しようとすると、ある種の自己陶酔に見舞われる。主体が文体に乗り移り、逆に、文体が意思や思考を誘導するってこともある。言語で自己を形成する限り、エクリチュールの支配は免れまい。
たいていの書き手はエクリチュール内で帳尻を合わせようとするが、デリダはそんな努力にあまり興味がないようである。矛盾に出くわせば、それを自然に受け入れる。
しかしながら、言葉を発すれば、そこに責任がつきまとう。一貫性がなければ、猛烈な批判にも晒される。精神を相手取るのに、そんなことを気にしても、しょうがないといえば、そうかもしれん。
この世には、心に響く言葉がある。そこに理屈はない。一貫性も期待できない。それでも心に響くのはなぜか。究極の言葉に、沈黙という行為もある。ナザレの大工の倅は、沈黙によって磔刑を受け入れ、すべての責任を背負った。デリダは幼い頃、神霊的な熱狂の言葉が危険であることを、ゲッペルス文学博士によって目の当たりにしたことだろう。お喋りな理性屋どもが言葉を安っぽくするのも道理である...