2023-11-26

"山椒魚戦争" Karel Čapek 著

カレル・チャペックは、チェコの作家...
チェコというと、重々しい歴史を背負った印象がある。それもステレオタイプであろうが、歴史を遡ると、やはり重々しい。フランツ・カフカの場合、ちと異質な世界を魅せてくれたが、暗い感触は、やはり重々しい。

首都プラハは度重なる戦渦に巻き込まれてきた。神聖ローマ帝国の時代には「黄金のプラハ」と形容されるものの、「プラハ窓外放出事件」を発端に、ローマ・カトリックと改革派の衝突から三十年戦争に至る流れがあり、この地にプロテスタントの源泉を見る思い。しかも、チェコ語禁止などの文化弾圧を受けてきた。
ナチス占領下には、親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復として、リディツェ村の住民が老若男女問わず殺害され、村の存在そのもが抹殺された。戦後、リディツェと名のる町があちこちに出現することに...
東西冷戦時代には、「プラハの春」と呼ばれる変革運動が、ソ連主導のワルシャワ条約機構に弾圧され、チェコスロバキア全土を占領下に置いた。
チェコという地には、自由を求める不屈の精神が育まれると見える。本書も、その影を引きずるかのように...

本物語が諷刺であることは、疑いようがない。実際、ナチスがプラハを占領した時、いち早くゲシュタポがチャペック邸にやってきたそうだが、幸か不幸か、チャペックは既に病死していたそうな。

さて、人類がまだ知らぬ未開の地に、高度の知能を備えた生物の世界があるとしたら...
科学的に地球の構造を外観すると、中心には核があり、その周囲にマントルの層があり、その上に地殻が乗っかっていることになっている。だが、それだけだろうか。この地球で、人類にだけ与えられたとされる進化エネルギーが、他の生物にも... という可能性はないのだろうか。物語は、海底奥深くに棲む黒々とした生物との遭遇に始まる。山椒魚に似た姿から魔物と怖れられたが、実は高度な知能の持ち主であったとさ...
尚、栗栖継訳版(ハヤカワ文庫)を手に取る。

生物の種が、この地上を支配するための要件とはなんであろう。知能か。数の原理か。宇宙の重力法則に従えば、一つの要件として、おそらく種全体の総質量が物を言うであろう。アリやハエがいくら繁殖したところで、人類の総質量には遠く及ばない。文明の発達が人口爆発を引き起こし、地上の支配者へ加速させた、ということは言えそうだ。人類に、その資格があるかは知らんが...
では、人類の総質量を上回るほどに繁殖した生物がいたとしたら。しかも、人類に劣らず知能を発達させて...

「もし人間以外の動物が、文明とわれわれの呼んでいる段階に達したとき、人間と同じような愚行を演ずるだろうか。同じように、戦争をやるだろうか。同じように、歴史で破局を体験するだろうか。トカゲの帝国主義、シロアリのナショナリズム、カモメあるいは、ニシンの経済的膨張を、われわれはどんな目で見るだろうか。もし人間以外の動物が、『知恵があり数も多いおれたちにのみ、世界全体を占拠し、すべての生き物を支配する権利があるのだ』と宣言したら、われわれはどう言うだろうか。」

生産と消費を高めることで経済が成り立つ世界では、労働力こそが鍵。文句も垂れず、従順な働きアリは貴重な存在だ。人間は人間を奴隷にしてきた。
一方で、珍種は金になる。しかも、進化した山椒魚は賢く、うまく飼いならせば、人間以上に儲かりそうだ。奴隷商人はどこにでも湧いて出る。動物愛護団体の目を掠め、山椒魚シンジケートが裏社会を牛耳る。選りすぐりの山椒魚は売られ、買われ、交尾させられ、人類をはるかに超える数に繁殖させられる。
しかし、賢い山椒魚は奴隷の代役だけでなく、ご主人様の代役も務まるときた。そして、奴隷叛乱のごとく人間に襲いかかる。
戦争となると、人間を相手にする方が、はるかにやりやすい。同族同士であれば、相手が何を考えているかも分かるし、なにより互いに殺し合うのは人間の得意とするところだ。
21世紀ともなれば、気候温暖化で海面が上昇し、山椒魚の水陸両用体質の方が優位となろう。山椒魚相手では掴み合いにもならないし、海中に向かって銃剣突撃もできない。人類の肉体も海中で生きられるまでに進化させなければ...
そもそも、山椒魚は戦争というものを知らない。だからこそ、合理的に支配し、合理的に抹殺する手段を考案できる。最終的解決ってやつか。知能の発達は恐ろしい。実に恐ろしい。もはや人類は、AI の支援を仰ぐほかはない。それで、AI の奴隷になってりゃ世話ない!

「現在、地球上には、文明化した山椒魚が、約二百億住んでいる。それは全人類のほぼ十倍である。このことから、生物学的必然性と歴史的論理によって、次の結論が出てくる。すなわち、山椒魚は、抑圧されているがゆえに、解放されねばならず、同質であるがゆえに、団結せざるを得ず、そしてこうして、世界始まって以来最強の勢力になった暁には、必然的に世界の支配権を握らざる得ない、ということである。そのとき、山椒魚は人間の存在を許すほどおろかだ、と諸君は思うだろうか。征服した民族や階級を絶滅させないで、奴隷にしたことによって、常におかした人間の歴史的誤りを、山椒魚がくりかえす、と諸君は思うだろうか。人間はエゴイズムから人間と人間とのあいだに新たな差別を、永遠につくり出し、その後、寛容の精神と理想主義から、ふたたび、そのあいだにかけ橋を渡そうとしたのだが、山椒魚も、そのような誤りをくりかえす、と諸君は思うだろうか。」

そしてついに、この長編の最終章で、著者は自問自答しながら山椒魚(サラマンダー)の正体を論じて魅せる...

「チーフ・サラマンダーは、人間なんだ。本名は、アンドレアス・シュルツといってね。第一次大戦当時は、曹長だったんだ。」

チーフ・サラマンダーとは、山椒魚総統のこと。その総統が第一次大戦で曹長だったとなると。盲目的に襲いかかる山椒魚どもはナチス軍団か。
ノルマンディー沖でフランス巡洋艦が山椒魚に魚雷攻撃を喰らえば、U ボートの襲来だ。ただ、海の怪物だけあって、航空機の操縦は苦手と見える。
山椒魚どもは、哲学や芸術というものを知らない。しかし、ボスのお気に入りとなれば、それを収集にかかる。ナチス高官どもの絵画略奪のごく。
そして、本能的な虚栄心と征服欲を剥き出しに山椒魚ダンスに熱狂し、最大のエロチックなイリュージョンを演じる...

「山椒魚には、もちろん精神はない。その点、人間に似ている。」
... G・バーナード・ショー

「マルクス主義者でさえなければ、山椒魚でも、なんでもよい。」
... クルト・フーバー

「きょう私は自作のユートピア小説の最後の章を書きおえた。この章の主人公はナショナリズムである。すじはまったく単純で、世界ならびに人間の滅亡。これは論理のみに基づいた、なんともうとましい一章である。そう、しかし、こういう結末のつけようしかないのである。人類を滅ぼすのは、宇宙の災害ではまずなく、国家・経済・面子といったもろもろの要因だけなのだ。諷刺作品を書くのは、人間が人間たちに向かって語ることのできる最悪のことである。これは、人間たちを非難するのではなく、彼らの実際の行動と思考から単に結論を引き出すだけのことなのである。」
... 付録「異状なし」より

2023-11-19

壁に動画を同化させ、絵画のように鑑賞す... by EH-LS800B

介護ルームの壁を賑やかにし、ボケ老人の頭を少しばかり活性化させようと美術品を物色する。いくつか候補が上がり、うん~... なんとか簡単に差し替えられる方法はないだろうか... などと思案していると、プロジェクタという選択肢を思いつく。おかげで、汚れた壁をせっせと掃除する羽目に...

コンセプトは、「動画を壁に同化させ、絵画のように鑑賞す!」
空間心理として、境界線がしっかりとしたテレビやスクリーンなどで繊細な大画面を眺めていると、鑑賞者を疲れさせてしまうところがある。第一の目的は、リラクゼーション!
老人施設では映画やドラマを上演したりするが、痴呆症患者は内容についていけず、すぐに眠ってしまう。どうせ眠っちまうなら、気持ちよくなる映像を流したらどうだろう... と考え、例えば、RelaxationFilm.com あたりをターゲットに。実際、海外の風景を流していると、これは近くのどこどこの山だ!どこどこの川だ!などと一種のデジャヴのような感覚に見舞われるようである。物理学的な観点からしても、自然風景というものは、地球上のどこでも大した違いはないのかもしれない。
そして、認知症予防学会のお医者さんたちと連携してモニタリングしているうちに、うちでも思い切って投資してみることに...
ついでに、痴呆症を相手にしていると、怒ることも、押し付けることもできず、こちら側のストレスもほぐすことに...

まず、要求仕様は...
  • 設置場所は部屋の隅っこに固定したい。専門用語で「超短焦点」と言うらしい。プロジェクタの位置ズレはかなりシビアで、その度に調整するのでは介護ストレスを増幅させちまう。
  • 明るさは、3000 lm 以上。我が家の介護ルームは西日がきつい...
  • 解像度は、4K 相当。大画面ではある程度の画質が欲しい。
すると、EPSON EH-LS800B が浮上する。
超短焦点に、4000 lm に、4K 対応に... モノはいい!だが、コスパが悪い!
画像性能だけなら半額以下で買えそうだが、超短焦点は外せない。
おかげで、真面目に NAS 環境を検討してみたくなる、今日このごろであった...




1. Android TV 搭載 
オンラインの WiFi 環境さえあれば、YouTube などが流せて、とりあえず遊べる。
但し、仕様には WiFi 5 とあるが、なぜか?5GHz 帯が拾えない。うん~... 伝送方式や暗号方式をいろいろ試してみたが。2.4GHz 帯では重いデータがたまにコマ落ちする。アクセスポイント側で帯域を広げれば、ギリギリ許せるかなぁ...
尚、アクセスポイントは、BUFFALO WXR-11000XE12 を Wireless Bridge モードで運用中。電波状況も、すこぶるいい!Ethernet の口があれば中継機に接続して、プロジェクタに関係なく、6E でも飛ばせるんだけどなぁ...
ちなみに、EH-LS800B のファームには「有線 LAN」という設定項目がある。
# 追記: ファームをアップデートしたからか?いつのまにか 5GHz 帯が拾えるようになった。二年後に気づくとは...

2. Chromecast built-in
chrome ブラウザから全画面キャストを流せば、なんでもあり!ってのは大袈裟にしても、たいていのことはできる。プレゼンソフトでも、動画再生ソフトでも。
例えば、スライドショーをやるには、愛用の画像ビューワ IrfanView を使って風景画でも、日本画でも...

3. USB メモリから動画再生
"MoviePlayer" というアプリが既にインストールされ、USB 外部メモリから動画が再生できる。ファイル形式は、webm, mp4, mkv などに対応。
但し、mkv では、オーディオトラックが Dolby Audio 形式の場合、手動で切り替えないと音がでない場合あり。認識してくれるのだから、自動で切り替わってもよさそうなものだけど...
さて、YouTube は広告が、10分か、20分置きに割り込んできて、Relaxation Film を流してもリラックスできない。1 分間も流された日にゃ、従来の民放と何が違うのやら。その度にスキップボタンを押すのでは却ってストレスになる。おまけに、アカウント作るといいことあるよ!みたいなメッセージが鬱陶しい。広告ブロック撲滅キャンペーンかは知らんが...
なので、動画を手元に落とし、USB SSD(NTFS)経由でオフライン再生する。

4. その他
YAMAHA のスピーカ 2.1ch が搭載され、音質はまあまあ。
画面の境界線にぼかし機能があって、壁に同化しやすい。但し、もう少しぼかせると、もっと馴染みそうで、ぼかし効果の段階設定があるとありがたい。
スクリーンサイズは、150 インチまでの仕様だが、我が家にそんな壁はない。もったいないけど、120 インチ弱に抑えて...

5. おまけ
ストアでブラウザアプリを探しているが、操作性がイマイチ。テレビ対応のブラウザなどいろいろと試してみたが、リモコンの方がショボいのかも。わざわざニュースなどに特化したアプリをインストールしなくても、ブラウザの操作性が良ければ、なんでもあり!ってことになりそうなんだけど。いや、パワフルなモバイル機器とリンクすれば、なんでもあり!ってかぁ...

2023-11-12

"その言葉、異議あり! - 笑える日米文化批評集" Michael S. Molasky 著

「本書は、不良学者の無駄な時間の産物... まず役立たないという、へそ曲がりの意向から成り立っている。」こう宣言するマイク・モラスキーさん。
それでも、「逆説的に、このような、単なる遊びのつもりの非実用主義の姿勢こそ、知的な発見に不可欠」と自ら鼓舞する。いや、開き直りか。未練は男の甲斐性よ!
副題に「笑える日米文化批評集」とあるが、笑えるというより苦笑か。いや、冷笑か。アメリカ人の目で日本を観察し、日本ツウの目で祖国アメリカを振り返り、疑問に思うことを皮肉まじりに物語る。やはり文化ってやつは、距離を置いて眺める方がいい。それで文化論に遠近法が成立するかは微妙だけど。
それにしても、アメリカと日本を往き来する曖昧な立ち位置は、居心地が良さそう...

「どちらの社会の完全なるインサイダーでもアウトサイダーでもない、そのような立場だからこそ、想像力を刺激され、批評眼が磨かれる。」

モラスキーさんには、ジャズ喫茶論(前記事)と居酒屋文化論(前々記事)にしてやられた。この大学教授ときたら、自ら「フーテンのモラ」と名乗り、日本全国をハシゴ。これを文化研究などと称し、思うままに日本探訪記を綴って魅せる。それこそ、日本人よりも日本人っぽい文脈をもって...
本書は、所々で英語のニュアンスを日本語で要約してくれるものの、あまり英語の勉強にはならない。むしろ、和製英語や日本語の使われ方に違和感を持つエピソードの方が興味深く、日本語の勉強になるから、語彙の逆輸入現象!とでも言おうか...
そういえば、むかーし、日本人のくせに着物も着れへんのか!とガイジンさんに大阪弁で馬鹿にされことがあったっけ。おかげで今では、出かける時は必ず和服である。

本書の言葉遊びは愉快!実に愉快!
語彙の乏しいおいらだって、言葉に関しては、いろいろ思うところはある。言語は使いやすく、分かりやすい方向へ流れ、意味合いも時代に流されやすいのは確か。この柔軟性こそが言語システムを進化させ、人類を進化させてきたのも確か。ただ、ネアンデルタール人のおいらが、現代語についていけないだけのことである。

言葉の乱用が、言葉を安っぽくさせるところがあるのも確か。本書とは関係ないが、例えば、謝罪や所信表明で見かける「真摯に受け止めます!」といった言い回しのおかげで、「真摯」という用語は、おいらの頭の中で胡散臭いという意味に変調される。
差別用語ともなると、有識者や教育家どもがこぞって目くじらを立てるが、それを禁止したおかげで、もっと具体的で過激な言葉を浴びせるのでは、差別を助長しているように見える。しかも陰湿に。昔の映画を鑑賞していると、なんでこれを禁止用語にせにゃあかんのか、と思うこともある。差別意識を問題提起する映画も成り立たなくなるのでは...
そもそも、差別のない社会ってあるのか。言葉を禁ずるより、言葉をどう意識するかの方が問題であろうに。そんなことを考えながら読んでいる読者も、かなりのへそ曲がりということであろう。

「検閲官のようにあれもこれも使用禁止語とするような『政治的に正しい』ならそれでよしとする、安易なポリティカル・コレクトネスはつまらないと思っている。いや、はっきり言えば、差別用語だからといってある表現を禁止する行為自体は怠け者のやり方だと思う。それよりも、その単語に付着しているイデオロギーや、それが含む偏見的発想などを、なるべく印象に残るような形で明るみに出せば、少なくとも良識ある人ならば、もう少し自覚して使うようになることを期待できると思う。あるいは初めてその問題点を意識した人は、その表現を使わないようになるかもしれない。」

さて、いつも長過ぎる前戯はこのぐらいにして、数多い体験談の中からちょいと気に入ったところを拾ってみよう...

1. 盲人に道を教えてもらう超方向音痴!
モラスキーさんは、超人的な方向音痴だそうな。自分の子供から「ザ・U ターン・キング」と嘲笑されるほどに。東京で迷子になった時、 なんと!盲人に道を教えてもらったという。相手が白い杖を手にしていることにも気づかず。すぐに謝ろうとしたが、丁寧に道順を教えてくれたそうな。
目が見えるから、本当に見えているとは限らない。真理ともなると、盲人よりも見えていない事が多い。ただ、見えた気になっている事も多いので、それで相殺され、うまくバランスされるのだろう...

2. 取扱説明書はホラー映画?
日本の家電品の取扱説明書は、古典的なホラー映画に似ているという。その構造は、こんな感じだそうな...
まず、表紙デザインで読者に安心感を与え、油断させる。次に、危険!警告!事項によって脅し、そして、穏やかな注意!お願い!でやや安心させ、ようやく本題である使い方の説明で、さらに安心させる。だが再び、故障や異常などの対処で不安に陥れ、最後に、アフターサービスの説明で再び安心させて、完結!オーブントースターひとつとっても、爆発しそうで使えねぇじゃん!
しかし、契約書ともなると、欧米のドキュメント文化の方が詳細に仕組まれていそうである。近年、日本でも通信サービスや保険などで事細かく記載されるようになったが、安易な宣伝パンフレットで決めちまう習慣は如何ともし難く、まともに契約書を読んでいる人はごくわずかであろう。
尚、携帯の解約を、本書では奴隷解放宣言と称している。

3. SPAM vs. spam
日本語で "spam" といえば、迷惑メールのことだが、アメリカで "SPAM" というと食料品をイメージするそうな。それは、すでに調理された保存肉のことで、冷蔵庫がまだ普及していない時代に人気を博したとか。第二次大戦中の兵士の糧食にあやかって、これから死んでいく人間に喰わせる肉!といった意味にもなるらしい。
ジャンクメールにジャンクフードをかければ、同じスパムってかぁ...

4. Bush & Rice
Bush とは、ジョージ・W・ブッシュ元大統領。Rice とは、コンドリーザ・ライス元大統領補佐官。二人の対照的な人物像は、アメリカという国の二面性を反映しているという。それぞれの出身地から、テキサスなまりの強烈な白人男性と、南部なまりをまったく見せない黒人女性という配置。
ブッシュは、マッチョな言葉遣いで乱れた英語を多用し、挑戦的なフレーズを好む。
対して、ライスは、言葉を慎重に選び、外交官のように正確さと曖昧さを織り交ぜる芸達者ぶりは、馬鹿にされるような隙を与えない。ブッシュは、父親も大統領なら、裕福な家系を後ろ盾に。ライスは、人種的なハンディを克服する上で完璧な英語を操り、完璧な仕事をする必要があったと見える。
このような人物配置は、アメリカ民主主義を語る上で、あるいは、政治的メッセージとして重要な意味を持つ。
では、日本は?閣僚に女性を何人配選ぶかで騒いでいるようでは、女性に失礼であろう。やはり個々の能力を語らないことには...

5. 日本人の日本人論
日本はユニークだ... 日本語は難しい... 日本は島国だから... 日本は単一民族だから... といった類いの日本人論に物申す。昔から馬鹿げていると指摘されてきた議論だが、それも優越主義の表れか。
片言の日本語を喋れば、言語障害者のように見られ、それで見た方はというと、まともな日本語を喋っているのかも怪しい。近年、「おもてなし」なんて用語も、日本文化特有の意識として使われる傾向があるが、世界を見渡しても、もてなさない文化の方が珍しい。
人間ってやつは、帰属意識のようなものが自然に身につくもので、他に対して何かと優越したがるものである。
しかし、皮肉はなかなか厳しい...
「単一民族論は純血幻想に依拠しているイデオロギーであり、論理的に極限まで追求したら『近親婚こそ理想的だ』という結論に行き着くはずである。」

6. 大と小の体験!
初めて来日し、トイレで流そうとしたら、「大」と「小」の文字に戸惑ったそうな。漢字の意味は知っていたという。しばらく考えて、突然、意味を悟り、無事に難を逃れたとさ...
「初めて異文化に接する時、まさにこのような小さな体験が大きな比重を占めるようになるものだ...」

7. せめて名前だけでも幻想を...
アメリカの街づくりでは、自ら破壊した自然を道路などの名前だけで復活させるような自然回帰幻想があるという。
対して日本では、密集した住宅状況からの解放願望が、マンションやアパートの名前に反映されているとか。
"mansion" を辞書で引くと大邸宅や豪邸といった意味がひっかかる。これを集合住宅という意味で用いるのは日本だけらしい。
日本では、マンションに限らず、横文字がオシャレと言わんばかりに多用される。それで飽きてくれば、イタリア語に。ダサいとなれば、おフランス語!そして、学者までも横文字を乱用。高級そうな用語で実体を誤魔化そうとするのは、どこの世界も同じか...

2023-11-05

"ジャズ喫茶論 - 戦後の日本文化を歩く" Michael S. Molasky 著

前記事では、日本人よりも日本人っぽい居酒屋文化論にしてやられた。青い目のガイジンさんと呼ばれるのを嫌い、千鳥足放浪記を夢見て...
ここではジャズ喫茶論を熱く語ってくれる。ジャズ喫茶未経験者の門外漢が読む本ではないかもしれんが、こんな描写に、おいらはイチコロよ!

「ドアをあけてみると、さらなる異様な世界が展開される。思わず耳をふさぎたくなるほどの大音量で音楽が鳴っている。アメリカで聴きなれたジャズの生演奏や、自宅にある安っぽいオーディオやラジオで聴いてきた音量とは雲泥の差で、むしろそれは、ロック・コンサートを思わせる爆音である。店内の風景も実に異様に映る。霧がかかった夕暮れのごとく、目を凝らさないと何も判別できない。店内は暗く、しかも青い煙が重々しく漂っている。徐々に目が慣れてくると、椅子に座る人たちの姿が浮き上がる。その様は人間の死体かミイラのようで、首をたらし不動のまま点在している...」

ジャズ喫茶というのは、日本独特の文化だそうな。ジャズやカフェといった要素は輸入品でも、これらを融合したカルチャーとなると、日本のものということになるらしい。著者は、自らこう名乗る...

「私、生まれはアメリカ、東京は葛飾にひところ暮らし、現在このニッポン列島を放浪している者でございます。姓はモラスキー、名はマイク。人呼んで『フーテンのモラ』と発します!」

そもそも、「ジャズ喫茶」とはなんであろう。戦後を背景にした映画などで耳にしたことはある。1950年代頃に始まり、90年代にはほぼ廃れ、この異様な空間を体験することは、おいらの年代では難しい。ジャズバーなら見かけるが、ジャズ喫茶となるとなかなかイメージできない。本書は、「客にジャズ・レコードを聴かせることが主な目的である喫茶店」と定義している。そのまんまやんけ!
バーと喫茶店の違いを言えば、夜の店か、昼の店か、ぐらいなもの。夜と昼では大きな違いかもしれん。お酒が出てくれば、法的に年連制限も加わるし...
音源が、レコードか、CDか、でも論争があり、こだわりは半端ではなさそうだ。レコードに針を落とす行為が、しべれるとさ。
しかし、個人経営で、こだわりがないという方が珍しい。呑み屋であれ、小料理屋であれ、寿司屋であれ、はまたま、物書きであれ、芸術家であれ、ついでに技術屋であれ... フーテンのモラさんのこだわりも、なかなかのものとお見受けする。そもそも、こだわりのない人間っているのだろうか。いや、いるやもしれん。公平無私と呼ばれる人も見かけるし...

但し、こだわりが強いからといって、正真正銘の通とは限らない。ジャズ喫茶が、自信たっぷりのオヤジが説教を垂れる場となれば、若者たちの足が遠のくは必定。
本書には「ジャズとはなんぞや」を答案用紙に書け!と命令するカルトまがいなマスターまでも登場し、これを「硬派なジャズ喫茶」と呼ぶ。それもごく稀なケースで、たいていは話しやすく快い店主ばかりであったと回想しているものの、あまりにインパクトが強く、「ジャズ喫茶人」などと呼称すれば、ステレオタイプで見ちまいそう。文章の切れが良く、描写があまりにリアルということもあろうか。当時は、ジャズ喫茶のマスターは威張っていて怖いというイメージが定着していたようだ。
ちなみに、東京四谷のジャズ喫茶「いーぐる」のマスター後藤雅洋は、このイメージに皮肉をこめて「ジャズ喫茶のオヤジはなぜ威張っているのか」という本まで出しているそうな。
しかし、説教好きなオヤジはどこにでもいる。呑み屋にも、職場にも、家庭にも... そうしたことを差し引いても、一匹狼風で、変わり者が多いことは確かで、個人事業主のおいらも、この手の人種に属すのは間違いあるまい。そして、この多様化の時代だからこそ、のさばることもできよう...

モラさんは、ジャズ喫茶が醸し出す不気味な空気から「行動文法」を読み取る。
まず、クールに振る舞うこと。次に、お喋りは最低限、そして、レコード鑑賞に陶酔しているというボディランゲージをはっきりとアピールすること。さらに、レコードジャケットやライナーノートを手にとり、たまにはリクエストしてみる... これが、60年代から70年代前半の暗黙のルールだそうな。
ちなみに、ルール破りでは、山下洋輔の武勇伝を紹介してくれる。平気でペチャクチャ喋って「会話禁止!」の紙を目の前に突きつけられたそうな。イエローカードか!一発レッドか!
これに似た光景は、バーやクラブでも見かける。いや、ジャズピアニストとしての反発心の表れか。モラさん自身もピアニストであり、ジャズ喫茶非国民!の同胞が見つかったと安堵した様子。ジャズミュージシャンが従順なジャズ喫茶オタクになることは、かなり難しいと見える。
とはいえ、こうしたルールのおかげで、内向的な性格や自閉症が救われるということもある。レコードという音源技術が、鑑賞者を集団から解放し、そのために疎外させ、私的な行為へと走らせる。
そして、その技術は、デジタルメディアからネットワーク共有という道筋を開き、さらに自己を見つめる機会を与え、孤独愛好家を増殖させる一因ともなる。まさに現代の縮図だ!

本書は、ジャズ喫茶の変遷を物語る上で、日本文化研究者エクハート・デルシュミットの論文を引き合いに出す。
  • 50年代は「学校」... ジャズを勉強する場。マスターが教師となって。
  • 60年代は「寺」... オーディオ装置が整い、店内を暗くし、大音量でレコードをかけ、禁欲的な瞑想の場と化す。
  • 70年代は「スーパー」... フージョンやロックが流行り、客離れ対策として店内を明るくし、流行音楽をかけるようになる。
  • 80年代は「博物館」... ウォークマンや CD が発明されると、わざわざジャズ喫茶で音楽を聴くまでもなく、古い LP やジャケットなど過去を保管する場へ。

モラさんは、このデルシュミット論を元にジャズ喫茶興亡記を論じている。特に、ジャズ喫茶とダンスホールとの関係、あるいは、学生運動や反体制精神との繋がりは興味深い。
そして、ジャズ喫茶の出現から盛衰の歴史を辿ると、概ね三つの要素で説明できるという。三つの要素とは、「欠如」、「距離感」、「希少性」であり、これを「3K原則」と呼ぶ。
欠如とは、一流のライブやジャズ専用のラジオ放送局がなかったこと。
距離感とは、ジャズの本場アメリカからあまりに遠いこと。それは、地理的な要素だけでなく、文化的にも、精神的にも。
希少性とは、生演奏の代替物となる高音質のオーディオシステムが一般人には手が届かなかったこと、あるいは、輸入盤のレコードの入手が難しかったこと。
そして、この 3K が満たされるとともに、ジャズ喫茶は衰退していったとさ...

それにしても、こうしてジャズ喫茶の興亡記を眺めるだけで、戦後の日本社会が外観できようとは。ジャズ喫茶というちっぽけな文化にも、それだけの多面性が備わっていたということであろう。ジャズ喫茶の衰退に、その時代を生きた人間を重ねると、過去の遺物を美化し、懐古したくもなろう。しかし、時間は無常だ!

「結局、私自身がジャズ喫茶とともに歳をとり、周りのオヤジ客にすっかり溶け込む年齢に達してきたわけである。この歳になると、余生よりもすでに生きてきた年月の方が長いという自覚と喪失感が、突然迫ってくることがあるのは、私だけではないだろう。そのせいか、ジャズ喫茶を含め青春時代を振り返るとき、甘美な懐古感に浸かりたくなることは自然な衝動なのかもしれない。あるいは、ジャズ喫茶が消滅していくこと自体が、まるで自分の死期を暗示しているかのように感じる、と言ったら大袈裟だろうか...」

ところで、こんなに熱く語ってくれるフーテンのモラさんには大変申し訳ないが、本書の中で最も感服する文章はジャズ喫茶論とはまったく関係のないところに見つける。それは冒頭にあるこの文章で、おいらが美青年だった頃の記憶が蘇る。やっぱり、日本人よりも日本人っぽい文章を書くお人だ!

「電車が新宿に近づき、おもしろそうな町だから降りてみようじゃないか、と思った瞬間、車両のドアが開き、そのまま人ごみに飲み込まれ流されてしまう。流れに逆らっても身動きできそうにない。魚群のなかの一匹の小魚に化けたと想像する青年は、即座に状況を分析し、対策を講じる... 周りの魚と一定の距離を保ちながら同じ速度で進めば、きっと大丈夫だろう... と。それから、考えることを一切放棄し、流れに身を任せる。徐々に流れと一体化してくると、するすると前進できることに気づき、奇妙な陶酔感さえ覚えはじめる。だが改札口から吐き出されると、突然、魚群も一気に解散してしまう。また陸に足がついたようだ、とふと我に返る。」

2023-10-29

"日本の居酒屋文化 - 赤提灯の魅力を探る" Michael S. Molasky 著

居酒屋というと、大勢でワイワイやってるイメージ。こっちときたら騒がしいのが大の苦手で、独りでチビチビやりたいもんだから、どうも馴染めない。
高度な情報化社会では、静かに呑み歩くのも難しい。食べログや口コミといったサイトで評判が広まり、それで常連客が逃げ出すようでは、せっかくの隠れ家も台無し!
大衆酒場ですら赤提灯をぶら下げている所もあって、カテゴリも当てにならない。
しかし、ここで言う居酒屋は、独りでぶらりと立ち寄れるような、それこそカウンタでチビチビやるイメージ。カウンタとは、もてなす側ともてなされる側とを隔て、駆け引きする場、勝負する場... というのが、おいらの持論である。バーしかり、小料理屋しかり、寿司屋しかり... 癒しの場で緊張感を煽ってどうする。もう三十年になろうか、和装女将がもてなしてくれる小料理屋風の呑み屋に通い詰めた記憶が蘇る。いろいろと社会勉強させてもらったっけ。口説き文句は大失敗に終わったけど...

「地元に根付いた個人経営の赤提灯こそ日本の呑み屋文化の核心だと思っている...
居酒屋は味と価格だけではない、五感をもって満喫する場所である、というのが私の持論である。さらに、居酒屋は『味』よりも『人』である、と確信している...」

こう主張するマイク・モラスキーさんって、どちらの御出身?
アメリカ中西部生まれのれっきとしたガイジンさん!なので、ネイティブライターのような洗練された文章は書けない... 編集作業では細かい修正で余分な手間を取らせてしまった... などと謙遜しているが、どうしてどうして!
いま、日本人よりも日本人っぽい日本文化論に出会えた喜びに浸っている。やはり文化を論じる場合、ちょいと距離を置く方がよさそうだ。
四十年もの居酒屋体験談。自ら「居酒屋愛好家」、あるいは「赤提灯依存症」と称し、北海道から沖縄まで、角打ちから割烹まで... 角打ちの真髄に至っては「最低の価格、最小限のもてなし、最大限の癒し。」と...
彼は何を求め、そこへ足を運ぶのか。おそらくこの書も、鯵のさしみや〆鯖を肴に、日本酒をチビチビやりながら書いたに違いない。こっちも負けじと、純米酒をやらずに読むわけにはいかない...

本書は、「地の味わい」、「場の味わい」、そして「人間味」という三つの観点から居酒屋探訪記を物語ってくれる。経験を積んだ居酒屋からは、貫禄を感じさせられることがあるという。
「貫禄」という言葉を国語辞典通りに、身に備わった風格や威厳... とするのでは足りない。それでも大まかな共通点が見受けられる。店主にせよ、店自体にせよ、気取らず、飾らないところ、あるいは、自分自身や店に自信を持ち、自然に醸し出す雰囲気があるところ。そして、店の味わいを守るためには、客に好かれなくてもええ!という覚悟をもって営業方針を貫いているところ。要するに、淡々と仕事をし、店を大事にしているだけだが、こういうシンプルな動機に人生哲学を魅せてくれるのも、居酒屋の魅力としておこうか...

「小ぢんまりしたローカルな居酒屋であればあるほど、多面的な機能を秘めているように思う。だからこそ常連客にとって、行きつけの居酒屋はまるで『聖地』のように感じられ、それゆえに、彼らはその店独自の雰囲気が壊されないように、侵入してくる一見客をしばらくは番犬のごとき注意深さで『見張っている』わけだ。」

2023-10-22

"ソネット集" William Shakespeare 作

シェイクスピアをまともに読んだのは、五十を過ぎてからのこと。ちょいと言い訳するなら、初めてのシェイクスピア体験は義務教育の文化祭あたり。学生時代は劇場にも何度か足を運び、モチーフにした映画も多く、直接触れずとも、これほど筋書きを知っている作家も珍しい。
ゲーテは、カントをこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている... と。シェイクスピアという作家は、まさにそんな存在である。
筋書きを知っていれば、小説を読むのも億劫になるが、媒体が違えば、違った光景を魅せてくれること疑いなし。なんとなく体裁が悪いと思いつつ、四大悲劇に手を出せば、ハムレットには、気高く生きよ!このままでいいのか?と問い詰められ、リア王には、道化でも演じていないと老いることも難しい!と教えられ、マクベス物語に至っては魔女どもの呪文にイチコロよ。おいらは暗示にかかりやすいときた。そして、「ソネット集」には、人間とは、こうも滑稽な生き物なのか... と。
ここまで来るのに、半世紀も生きねばならなかったとは... 怠惰な詩神よ。真実をなおざりに、沈黙の言い訳はよせ!
尚、高松雄一訳版(岩波文庫)を手に取る。

ソネットとは、ルネサンス期イタリアに発する十四行詩のこと。この形式がイギリスに渡ると、ひときわ異彩を放つソネット文学が生まれた。シェイクスピアの「ソネット集」がそれである。
但し、この作品について知られている事実は、ごくわずかだという。詩作した人物がシェイクスピアであることは間違いなさそうだが、刊行となるとトマス・ソープなる人物が浮かび上がる。しかも、校正の状態などから推して、シェイクスピア自身は目を通していないようだとか。なかなかの謎めいた作品である。
詠われる人物にしても、美貌の男子に、黒い女(ダーク・レディ)とくれば、シェイクスピア自身の愛の遍歴か。黒い女とただならぬ関係を歌えば、小悪魔か、高級娼婦か。美男子への愛を熱く歌えば、同性愛説も囁かれる。登場人物の身分や実名を追えば、謎が謎を呼び、興味が興味をそそり、想像が想像を掻き立てる。作者がシェイクスピアというだけで文学史上の問題となり、専門家の間で様々な説が飛び交う。

しかしながら、天邪鬼な読み手には、そんなことはどうでもええ。背後に潜む事実関係なんぞに興味はない。目の前の字句を素直に追うだけだ。
とはいえ、その解釈となると、やはり天邪鬼。愛の讃美歌が、どこか皮肉まじりに響く。文壇では神と悪魔の相性はすこぶる良いと見え、慰安と絶望が交差し、天国と地獄が表裏一体で仕掛けてきやがる。
天使は悪魔のごとく真実を覆い隠し、股ぐらから梅毒を撒き散らす。愉快!愉快!
のぼせ上がった美貌への愛に無慈悲を喰らわせ、黒衣裳をまとって愛の喪に服す。愉快!愉快!
かくして愛は道化に成り果て、犬にでも喰わせちまえ!これで犬儒学派に鞍替えよ。シェイクスピア文学は、こうでなくっちゃ!

シェイクスピア自身も、あの世で専門家たちの論争を尻目に、単に思いついた言葉を形式的に整えてみただけよ!って笑い飛ばしているやもしれん。詩人は文章を整えるだけでいい。それで学識は優雅な美しさを飾りたて、粗野な無知を知識と同じ高さに引き上げてくれる。愛の十字架を背負う者に慰めはいらぬ。醜い姿になる前に、ご自分を蒸留しちまいな!ってか。
さらに、愛の讃美歌を拾うと...

「愛がつくる最良の習慣は、信じあうふりをすることだ!」

「盲目の愚か者、愛の神よ、私の眼に何をしたのだ。この眼は見てはいるのに見ているものが解っていない。美とは何か知っているし、どこにあるかも見ているのに、最低のものをこよなく優れていると思い込む。私の心も、眼も、まこと真実なるものを見あやまり、いまはこの迷妄の苦しみに憑かれて生きているのだ。」

「愛していなくとも、愛していると言うがいい。いらだちやすい病人でも、死期が近づくと、医者からは良くなりますという言葉しか聞こうとしなくなる。もし私が絶望すれば、狂乱におちいり、狂乱の最中におまえを悪しざまに言うかもしれない。すべてをねじまげる当世の堕落ははなはだしいから、狂った男の中傷でも、狂った聞き手が信じてくれよう。」

2023-10-15

"君あり、故に我あり - 依存の宣言" Satish Kumar 著

サティシュ・クマールは、9 歳にジャイナ教の修行僧となり、18 歳に内なる心の声に従って僧を辞めたという。内なる心の声とは、ガンジー思想への目覚めであろうか。
彼は、無一文でインドから欧米に渡り、8000 マイルもの平和巡礼を行ったことでも知られる。核保有国の政治指導者に「平和のお茶」を届けたのである。その途中、フランスでは牢獄に放り込まれ、アメリカでは銃を突きつけられ...
この行動は、バートランド・ラッセルに触発されたものらしい。ラッセルの非暴力運動は合理主義と両立させ、人道主義をも超越しているという。日本でも平和行進に参加し、東京から広島まで 45 日かけて歩いたそうな...

本書はジャイナ教で彩られている。そして、インドの賢人ヴィノーバ・バーヴェ、自由の預言者ジッドゥ・クリシュナムルティ、数学者で合理主義者バートランド・ラッセル、解放者マーチン・ルーサー・キング、環境経済学者 E.F.シューマッハーと過ごした喜びを物語ってくれる...
尚、尾関修, 尾関沢人訳版(講談社学術文庫)を手に取る。

「この本は心の旅である。私はこの本の中で、多種多様でしかも相互に関連するネットワークとして世界を理解するに至ったインスピレーションの源泉を辿っている...」

サンスクリットの格言に「ソーハム(彼は我なり)」というのがあるそうな。サティシュは、これを「君あり、故に我あり」と解し、デカルトの言葉「我思う、故に我あり」に対抗して魅せる。
そして、西洋の世界観を近世からグローバリゼーションに至る流れを追い、その源泉にデカルト哲学を見る。それは、分割と分離といった二元論的世界観である。我思う... ことにより自己を意識し、故に我あり... と、他との差異で自己を確認する。自己存在を強調し、そのために自己肯定感に苛むとすれば、まさに現代病がそれだ。

本来、多様性を受け入れるはずのグローバリズムは、少数派を次々に飲み込み、価値観を一本化しようとしてきた。すると、これに反発して対極的な価値観が勢いづき、世界は二極化していく。その過程で、対極にあるはずの個人主義と利己主義が結びつき、これに愛国主義が相まって、経済的生産競争や軍備拡張競争を激化させる。
超エリートの政策立案者たちは、いまだ消費を煽る以外に方策が見つけられないでいる。生産と消費に邁進すれば、環境破壊や自然破壊へ突き進むは必定。資本主義と共産主義は、互いにい対立するかに見えるが、自己の利益を優先し、国益を追求する点では同じ。資本主義は資本を喰い潰し、共産主義は個人を喰い潰す。そして、文明人は地球資源を喰い潰し、いったいどこへゆこうとしているのか...

「我々が個人的恐れを精神的に克服できないなら、外部の敵を恐れるように仕向けることは政府や軍事指導者にとってはやさしいことだ。彼らは毎日、敵について語りかける。彼らは恐怖を作り出し、我々をその中に置こうとする。我々は、恐怖に支配されてしまう。隣人を恐れ、ヒンズー教徒を恐れ、イスラム教徒を恐れ、キリスト教徒を恐れ、外国を恐れるようになる。さまざまなグループに分断され、誰かを恐れるようになる。自分の妻や夫、子供すら恐れるようになる...」

しかし、だ。こうした問題すべてを、デカルトのせいにするわけにもいくまい。信仰的に思考するスコラ哲学から脱皮し、主体を客体化して科学的な思考を試みた点は評価できるし、また、それが必要な時代でもあった。それは、サティシュも認めている。彼が主張せんとしていることは、そろそろ新たな世界観へ脱皮する時代が来たのでは... そろそろ人間中心主義から脱皮しては... ということである。
主義主張の対立、イデオロギーの対立、そして何より宗教の対立は、もっと古くからあり、こうした対立構図は、むしろ人間の本質と見るべきであろう。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体は、他との対比や対立から自己を認識するほかはない。デカルトだってあの世でぼやいているに違いない。すべては自己責任で!と... 
しかしながら、自己責任ってやつは、これを実践しようとすると、なかなかの難物。巷では、この用語は、お前が悪い!という意味で使われている。自立という概念にしても、人間には高尚すぎるのやもしれん。
ならば、もっと謙虚に何かに依存しなければ生きられない、とした方が現実的やもしれん。少なくとも地球上を棲家とする生命体は、地球環境に依存している。人類は、自然に依存しなければ生きられないってことだ。
アリストテレスが定義したように、人間がポリス的動物である、というのが本当なら、ポリス、すなわち社会にも依存するほかはあるまい。但し、ポリスとは単に社会を営むだけでなく、最高善を求める共同体という高尚な意味も含まれており、現実社会はそんな大層なものではあるまい。
サティシュは、完全なる依存を宣言する。自己を知らずして自立もあるまい。自己を見つめずして自律も叶うまい。自立や自律ってやつは、必要な依存を受け入れてこそ成り立つ概念やもしれん。自己責任!などと片意地はらんと、もっと自然体に...

「ガンジーにとって知識とは、謙虚さと真実を学ぶための手段だった。ガンジーは『知識は力なり』という考えを捨て去った。知識は奉仕のための道具である、とガンジーは考えた。傲慢さをもたらす知識は真の知識ではないのだ。」

また、平和宗教を論じる上で、イスラム教の思想家マウラーナー・ワヒドゥディン・カーンとの対話は、なかなかの見モノ!
宗教が、しばしば暴力の根源となってきたのも事実。考え方や信条が異なり、信仰が異なるのは、いわば人間の本質であり、これらの差異が対立や紛争を生む。
サティシュは問う。イスラム教の真髄とは何か?と。それは、理論や哲学ではなく、生き方であると。そして、状況が平和である時に、平和な気持ちでいるだけでは不十分だとし、「いかなるときも怒らないようにしなさい!」と説く。
イスラムとは、「平和に」という意味があるそうな。ならば、ジハード、すなわち、聖戦という概念はどう説明できるというのか?ジハードの意味は無惨なまでに誤解されているという。しかも、学殖があり、理性ある人々が、その意味を歪めていると。非暴力思想の根底には、怒りの克服があるらしい...

ジャイナ教について言えば、ジャイナとは、勝利を意味するそうな。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラとは、偉大なる戦士を意味するとか。だが、その言葉に反し、ジャイナ教ほど非暴力と平和に重きを置く宗教はないという。では、誰に対する勝利か?それは、自己に打ち勝つことであり、自我の克服であると...
これと同様、イスラムの教祖マホメットも偉大な将軍だったそうな。ジハードは、戦いを意味するのではなく、葛藤を意味するんだとか。最大の葛藤は、自我と戦い、怒りに勝ち、自尊心を克服すること。そして、不公正や強者による弱者の搾取と闘わなければならないという。しかも、非暴力的に。これが本来のジハードだそうな。それ故、マウラーナー・ワヒドゥディンは、こう唱える。
「良きイスラム教徒であるためには、我々は同胞のイスラム教徒だけでなく、ヒンズー教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、その他すべての人々を愛する必要がある。困難なことかもしれないが、そのようなビジョンがなければ宗教にはなんの意味もない。」

うん~... 仏陀も、他人を傷つけることは自分自身を傷つけること!と説いた。イエスも、汝の敵を愛せよ!もう一方の頬をも向けなさい!と説いた。
しかしながら、どんな高尚な思想を唱えようと、どんなに高い理想を掲げようと、人間ってやつは言葉でいかようにも操れる。未だ人類は、すべての真理を言い表せるほどの言語システムを獲得できていない。愚人は、なにかと言葉を欲する。具体的な言葉を欲する。そして、言葉は厄介となる。だから、あのナザレの大工のせがれは、沈黙のうちに十字架刑を受け入れたのであろう。民衆が沈黙で悟れるほど賢くないとはいえ。その意図の理解に、数千年の歳月がかかろうとも...

「ヒンズー教徒の非二元論の信念は、ジャイナ教徒の非絶対論に相当するものである。非二元論は時として、現実の単一性と理解されてきた。しかし、ゴーパールジー(サティシュの師)は次のように信じていた。... 非二元論は、自己か他者か、ということより、宇宙の多面的な性格を表している。多様性とは分裂や断絶ではなく、言葉では完全に言い表すことの不可能な、相互に関連した全体のことなのだ。人が何かを話すとき、真実の一側面について語ることはできても、真実全体を語ることはできない。だから我々は、少なくとも言葉や心によって、全体的で絶対的な理解を完全に手に入れることは不可能だ、ということを認めるべきなのだよ。言葉は真実の一側面に近づくことくらいしかできない。その向こうには、ただ沈黙があるのみだ...」

2023-10-08

"エリザベスとエセックス" Lytton Strachey 著

リットン・ストレイチーは、"Portraits in Miniature (邦題: てのひらの肖像画)"と題し、18 篇ものささやかな人物像を通して、イギリスの一時代を炙り出した(前記事)。
この伝記作家は、自分自身が生きたヴィクトリア朝の時代を呪い、過去の時代に思いを馳せたのか。ここでは、歳の差の恋愛物語を通して、エリザベス朝の時代を物語ってくれる。
生涯独身を通し、聖母マリアのごとく処女として崇められた女王エリザベス一世。スペイン無敵艦隊に大勝利した英雄。だが、彼女とて一人の女であった。いつまでも女であった。しかも平凡な。愛人の噂も絶えず...
53 歳にして、20 歳にも満たないエセックス伯爵と出会ったことは不幸だったのか。熟年の恋は始末が悪い。人間ってやつは、自由よりも束縛にこそ真の自由を見るのやもしれん。そして、禁断にこそ真の恋を...
尚、福田逸訳版(中央公論社)を手に取る。

「エリザベス朝の人々に見られる一貫性の欠如は、人間に許される限界を遥かに越えている... 狡猾かと思えば純真、繊細かと思えば残忍、そして敬虔かと思えば好色、かかる存在に筋の通った説明を与えるなど一体可能であろうか... それはバロックの時代であった。そして、恐らく彼らの内部構造と外部装飾とのずれこそ、エリザベス朝人の神秘の原因を最も端的に物語るものなのだ... まさにバロック的人物と言える存在が、他でもない、エリザベスその人である。」

エリザベスの治世は、二つに分けられるという。スペイン無敵艦隊を撃破するまでの三十年と、その後の十五年。前者は、いわば準備段階で、その結果、イングランドは統一国家となり、後に大英帝国となって七つの海を支配することになる。
エリザベス女王は、精神の支柱にイングランド国教会を据え、民衆に国家という概念を植え付けた。そして、スペインの横暴を撥ねつけ、ローマの圧力にも屈せず、イングランドを帝国へと導いた。
だが、こうした功績は英雄的な資質の為せるわざではなかったという。激動の時代を生き抜くには、何よりも政治的手腕と慎重さが肝要で、むしろ、のらりくらりとかわした結果であったと...

「変化に富むがゆゑに自然は麗し」... これは、エリザベスが好んだ格言だそうな。彼女自身の振る舞いも自然に劣らず変化に富む。ある時は気の荒い貴婦人、ある時は厳しい顔つきの実務家、ルネサンスの教養に溢れ、六カ国語をこなし、優れた音楽家で舞踏も得意、会話はユーモアのみならず気品と機知に溢れ、確かな社交感覚の持ち主とくれば、こうした変幻自在な振る舞いが、外交手腕と結びついて、激動の時代を生き延びたという見方もできる。
ストレイチーは、この女王の多芸ぶりと優柔不断ぶりを、エセックス伯爵という一人の男を通して物語る。この若き男子も、熟女の寵愛の受け方をよく心得ている。人に支配されるのを好まず、最高権力者である女王の寵愛という特権を掌握し、軍隊の後ろ盾に支えられ、またそのことを十分に承知していればこそ、国家にとって危険な人物となる。宮廷内では警戒心が広がる。数々の戦場で無能ぶりを曝け出し、名誉挽回でアイルランド総督に任命されるも、アイルランド叛乱の鎮圧に失敗して失脚。ついにはクーデターを起こし、反逆罪。かくして女王の寵臣は、首斬り役人の斧によってその首を斬り落とされたのだった... 享年 34 歳。
真実を悟った老婆は、すでに67歳。どちらが弄び、どちらが弄ばれたのか。互いの引力が運命を弄んだのやもしれん...

2023-10-01

"てのひらの肖像画" Lytton Strachey 著

イギリスの本屋には、伝記コーナーがしっかりと設けられているそうな。古本屋ともなると、年季の入った、それこそ歴史を感じさせる区画を演出しているらしい。昔から伝記が読み物として親しまれてきたお国柄というわけか...
一人の人物を語るということは、その人物が生きた時代を語るということ。人類の歴史を個人の歴史の集合体として眺めれば、まさに本書がそれを体現してくれる...
尚、中野康司訳版(みすず書房)を手に取る。

「過去に関する事実を、芸術の力を借りずにただ集めただけでは、それは単なる事実の寄せ集めにすぎない。もちろんそういうものが役に立つこともあるが、それは断じて歴史ではない。すなわち、バターと卵と香草を寄せ集めてもオムレツにならないのと同じである。」

原題 "Portraits in Miniature"
これに「てのひらの肖像画」という邦題を与えた翻訳センスもなかなか。ここで言う肖像画とは、単なる人物像ではない。スナップ写真のような静止画でもない。もっと連続的で動的な... ある人物を遠近法で眺めながら、自分自身に返ってくる何かを感じるような...
リットン・ストレイチーは、18 篇ものささやかな人物像を連結して、16 世紀から 19 世紀頃のイギリスの社会風潮を炙り出す。彼は、遠い昔に思いを馳せ、彼自身が生きたヴィクトリア朝の時代を呪ったか。18 世紀頃の文才には柔和に美点を持ち上げ、19 世紀頃の文才には辛辣な批評を喰らわす。
例えば、デイヴィッド・ヒュームには、中世の神学的思考を一掃し、理性を純粋に発揮して公平無私の精神を実践したと、神わざのごとく称賛し、エドワード・ギボンには、節度ある理性と調和という天性の資質の持ち主として憧憬する。
一方、トーマス・カーライルには、度の過ぎる道徳癖によって自らの芸術的才能をぶちこわしたと手厳しい上に、カーライルに私淑したジェイムズ・アントニー・フルードに至っては、偏狭なプロテスタンティズムに幼稚な倫理観と切り捨てる。

「盲目はつねに悲劇を招くが、巨大な力を暴走に変え、高邁な夢を妄想に変え、巌のごとき自信を当惑と悔恨と苦悩に変えてしまう盲目は、まことに悲惨かつ哀れである。」

ヴィクトリア朝の時代といえば、産業革命によって国家経済を進展させ、帝国主義へ邁進していく時代。文学や芸術までもが、やがて訪れる偏狭な愛国主義へ傾倒していく。ストレイチーは、そんな兆しでも感じ取ったのだろうか。「文体は精神を映す鏡」としながら、雄弁家の文体には「もはや繊細さや洗練を期待しても無駄!」と言い放つ。芸術精神の持ち主だからこそ、時代の変化に感じ入るものがあるのやもしれん。特に、世界が狂気へ向かう時は...

「この世にはもはやかつての面影はなかった。何かがおかしくなっていた。あの騒乱と、あの改革と、それからまた改革の改革。まともに相手にする必要はなさそうだ。居眠りをしていたほうがよさそうだ。」

また、6 人のイギリスの歴史家を論じながら、歴史学のあるべき姿についても断片的に暗示している。6 人とは、ヒューム、ギボン、マコーリー、カーライル、フルード、クレイトン。
まず、歴史家の素質には、三つあるという。一つは、事実を吸収する能力。二つは、吸収した事実を叙述する能力。そして三つは、視点である。だが、三つ目を備える歴史家は、なかなかいないと苦言を呈す。
「歴史はなによりも物語」という。だが、書き手が語り手となり、歴史家が雄弁家となれば、それは悲劇の時代か。雄弁家の困ったところは、聴衆を自由にさせないことだ。歴史家が道徳を説く必要もあるまいが、雄弁家は道徳や倫理に血眼になる。まるで聖職者!
歴史書が道徳臭を漂わせれば、トゥキュディデスの神秘的な智慧やタキトゥスの迫力に思いを馳せる。主題を本当に理解している歴史家は、そうはいないという。それでも仕事を成し遂げられるのはなぜか。自分自身を知り、自分自身の限界を知り、その上で自己の中に調和を保ち続ける能力。これこそが、歴史家の資質というものか。客観的な立場を保つには、批判的な視点が欠かせない。ストレイチーは、ギボンを内面的調和を保つ名人!と称賛する...

「明確な視点をもつということは、対象に共感を抱くということではない。むしろ逆だと言ってよい。不思議なことに、偉大な歴史家は自分の題材と敵同士みたいに睨み合っている場合がじつに多い。たとえば、洗練された冷笑家のギボンは『ローマ帝国衰亡史』において、野蛮と迷信の叙述に二十年を費やした...」

2023-09-24

"ダーウィンの警告(上/下)" James Rollins 著

本書は、シグマフォースシリーズ第 10 弾、邦訳版は 0 から数えるので、第 9 弾となる。このシリーズは、いつのまにやら第 14 弾まで足を伸ばし、なかなか追いつけずにいる。
しかし、推理モノはいかん。ちょいと手を出すと、かっぱえびせん状態。特に、作家ジェームズ・ロリンズと翻訳者桑田健のコンビは。おかげで、徹夜明けのブラックコーヒーが美味い...

原題 "The Sixth Extinction"
第六の絶滅とは、何を意味するのか。進化論を唱えたダーウィンの警告とは... それは、人類は本当に進化しているのか?という問い掛けでもある...

「絶滅が規則であって、生存は例外である。」... カール・セーガン

古生物学者たちの推定では、地球上の生態系は、過去に五度の絶滅を経験しているという。一度目は、約四億年以上前のオルドビス紀末、ほとんどの海洋生物が姿を消した。二度目は、約三億年以上前のデボン紀末、三度目は、ニ億五千年前のペルム紀末、陸と海の双方で 90% 以上が死滅した。四度目は、約ニ億年前の三畳紀末、そして五度目は、六千五百年前の白亜紀末、恐竜が絶滅した。原因については、地球規模の気候変動やプレートの移動、あるいは、隕石の衝突などが考えられている。
おかげで、人類は大手を振って生きられる時代を迎え、いまや地上を支配するに至った。だが、かつての原因に加え、大量生産や大量消費で人口増殖を爆発させ、自らこしらえた深刻な環境問題に直面している。過去四百年で実に多くの生物種が絶滅し、かつての絶滅率と比較してもかなり高い割合で進行しているようだ。
そして現在、科学者たちは、地球上の生態系が六度目の絶滅へ向かっていると結論づけたという...

「この惑星上の生命は常に微妙なバランスのもとに成り立っている。それぞれがつながり合った複雑な関係性は、驚くほどもろい存在である。主要な構成要素を取り除けば、あるいはただ変化させただけでも、その複雑な網はほつれ、破れてしまう。」

物語は、カリフォルニア州の軍事研究施設から、爆発とともに謎の物質が流出したことに始まる。施設から発信された最後のメッセージは... 殺して!私たち全員、殺して!
謎の物質とは、なんらかの生命体か。その遺伝子構造からは、必須元素であるリンの代わりにヒ素が検出された。ヒ素を必要とする生命体の生物圏が、地球上のどこかに存在するのか。遺伝子の螺旋構造が、糖のデオキシリボースを根幹としていないとすると...
真相を知るはずの研究所長は拉致され、その行方を追っていくと、南米奥地で環境保護者がやっていた禁断の遺伝子実験と、南極大陸に潜む「影の生物圏」とが、あるキーワードで結びつく。そのキーワードとは、「XNA(ゼノ核酸)」。
それは、情報貯蔵生体高分子として、DNA や RNA の代替となる合成物質。地球上の多種多様な生物種は、A, C, G, T というわずか四つの遺伝文字に基づいている。スクリプト研究所は、この配列に人工の塩基対 X, Y を加えた細菌を作り出すことに成功した。しかも、DNA より耐性があることが証明され、理論上はすべての生物の DNA と置き換え可能だという。かつて地球上の生物は、XNA の方が優位を占めていたと考えられているらしい。
本書は、DNA を「利己的」と形容し、XNA を「破壊的」と形容する。そうした生命の生き残りが、人類より優れた遺伝構造を持ち続け、今もどこかで...

"Life will find a way.”
「生命は生きるための道を見つける。」
... 映画「ジェラシック・パーク」より

また本書には、氷で覆われていない南極大陸と思われる古代の地図が何枚か登場する。これらの地図は、実在するそうな。古代人は現在考えられているよりもはるか昔に、世界中の大洋を航海していたらしい。南極大陸には、まだまだ人類の踏み入れたことのない未開の地が残されているのだろうか。
しかし、古代知識の宝庫であったアレクサンドリア図書館は、ずっ~と昔に破壊された。過去に数々の図書館が焼かれ、どれほどの知識が灰燼に帰してしまったことか。現代人が知識の再獲得に乗り出したところで、まだその序章ということか...

「人類の歴史を通じて、知識は増加と減少、隆盛と衰退を繰り返している。かつて知られていたことが、時間の流れの中で忘れ去られ、時には何百年もの長い歳月を経た後に再発見されることもある。」

環境主義にもいろいろあろうが、本書に登場する環境保護者の言い分は、なかなかの見もの...
彼が作ったものとは、プリオンの一種か。プリオンとは、タンパク質からなる感染性因子。ある種の殻のようなもの。しかも、とびっきり頑丈な。ウィルスの DNA の一部を切り取り、外来の XNA と入れ替えると、その遺伝子配列が殻を開く鍵のような役割を果たすという。
そして、感染力の強いノロウィルスの遺伝子を操作し、致死性の高いプリオンを短時間で広範囲にばらまくようにしたのか。いや、この合成物が人間や動物を殺すことはない。感染性蛋白質に手を加え、認知障害をもたらそうという企てか。
しかし、頑丈な殻に収納されたウィルスが、人間の神経機能を破壊し尽くすのでは。いや、怖がることはない。致死性を取り除き、おまけに一定の段階に達したら自己破壊するように手を加えた... ってさ。

「ある種の贈り物だよ。この贈り物を受け取った感染者は、より質素な、より自然と調和した形で、高次認知機能から解放されて残りの人生を過ごすことができる。言葉を変えれば、我々を動物と同じ状態にするというわけだ。それによって地球はよりよい環境になる。非人道的な行為こそが人類のためになるのだよ。もはや我々は、倫理を振りかざすだけの獣(けだもの)も同然じゃないか。我々が宗教や政府や法律を必要としているのは、その卑しい本性を少しでも抑えようとしているからにほかならない。私の意図は、知性という名の疾患を取り除くことにある。人類こそがより力強い存在で、この惑星にとってよりふさわしい存在だ、などという思い違いをさせるような欺瞞を排除することにある。」

歪んだ正義、暴走した正義が、テロリズムを覚醒させる。人間ってやつは、自己主張や自己存在の正当化のためには、いかようにも理屈づけをやる、特異な存在なのであろう。
現実に、森を焼き払い、海を汚染し、氷冠を融かし、二酸化炭素を大気中にばらまいてきた。人類こそが大絶滅を引き起こす原動力で、人類自身が絶滅の危機にある... という主張も否定できない。人間にとっての天国は、自然界にとって地獄なのか。それとも、自然界にとっての天国は、人間にとって地獄なのか。今、人類は自然との付き合い方が問われている...

「社会というのは支配のための破壊的な幻想であって、それ以上の何物でもない。」