2024-12-29

"近代人の誕生 - フランス民衆社会と習俗の文明化" Robert Muchembled 著

近代人とは何者か。それは、ひとつの理想像か。それとも、時代の人間像を映し出した表語に過ぎないのか。
大酒を喰らって淫蕩に耽り、暴力と不潔の代名詞とされてきた民衆が、十五世紀から十八世紀の約四百年に渡って近代文明とやらを育んできた。歴史学者ロベール・ミュシャンブレッドは、人類の近代化に至る生い立ちを、フランスの民衆社会から紐解く...
尚、石井洋二郎訳版(筑摩書房)を手に取る。

「充分に意識していようといまいと、人間の個人的人格というのはいくつもの異なる時代から受け継がれた多様な集合的寄与物の組み合わせである。」

近代文明とは、大衆文化をいうのであろうか。「大衆」という語がいつごろ生まれたかは知らんが、ひとつの人間像として、自由の象徴とされるフランス革命あたりに見ることはできそうか。かくして、エリートが大衆化していくのか、大衆がエリート化していくのか...

「私たちは何者なのか?... 執拗に、また時には人知れずこっそりと、歴史家は自分自身にきわめて密接に関わるこの一般的な問いかけを発してはくりかえす。」

「近代」という語も、定義が難しい。封建的な価値観が崩壊し、個人主義に彩られた合理的、科学的思考を覚醒させた時代といったイメージであろうか。
一つの見方として、市民革命や国民国家といったものを挙げることができよう。王権が衰退し、いよいよ主権国家の成立を見る時代。それを内面的に辿ると、王宮のマナーモデルがまずは都市部へ伝搬し、やがて農村部へ徐々に浸透し、社会全体がお行儀よくなっていく。
モンテスキューの三権分立論、ヴォルテールの寛容論、ルソーの社会契約説といった啓蒙思想と重なり、道徳や正義の観念が強調され、自己抑制の意識を強めていく。それは、民衆が知性を獲得していった時代であろうか。
仮に、近代人が内面的に大きく進歩した人類の姿であるとするなら、やがて出現する国粋主義や帝国主義、さらには過去に類を見ない大量殺戮といった現象をどう説明できるだろう...

「習俗の文明化は差異化をめざすものでり、均質化をめざすものではない。その本質的な機能は、絶対主義をあいだにはさんで経済から宗教にいたるまで、他のさまざまな力が十七・十八世紀にますます厳密に画定しつつあった社会階層秩序を有効化することであった。」

上流への強い憧れは、下流への劣等感を掻き立てる。自由競争社会ともなれば、経済的に、学識的に優越主義を旺盛にさせる。階級のない社会を目指しておきながら、新たな階級を編み出しては再編成されるという寸法よ。近代の経済発展が、こうした競争原理に支えられてきたのも事実。

では、近代人を受け継いだ現代人は、どうであろう。情報社会が高度化していくと、知識は誰にでも入手できるようになる。意欲のある者はますます知識を獲得し、意欲のない者はますます取り残され、意識格差を助長させる。おまけに、現代の大衆はメディアとの結びつきが強く、ネット上には理性の検閲官に溢れ、誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。周りの意識が高まれば、周りの目が気になってしょうがない。自由意志の尊重が、逆に自由精神を圧迫しようとは。人類の進化の過程は、単純な右肩上がりではなさそうだ。「近代人」という語が、過去を懐かしむための語とならぬよう...

2024-12-22

"空白との契約" Stanley Ellin 著

ミステリーっぽくないミステリーで魅了する推理作家というのも珍しい。人間模様こそミステリーと言わんばかりに...
しかし、ここでは一変して、ミステリーっぽいミステリーにしてやられる。スタンリイ・エリンという人は、やはり推理作家であったか...

ある日、一人の男が自動車事故で死んだ。十万ドルの生命保険契約直後に。事故死であれば倍の二十万ドルが遺族に入る。これを自殺と見た私立探偵は、無名女優と夫婦役を演じて現地に乗り込む。男は裕福で地位もあり、社会貢献も献身的で人望を集め、非の打ち所のない人物。
だが、過去の経歴となるとあまりに不明点が多い。しかも、巨額の金を恐喝されていた。この男はどこから来たのか?その正体は?
尚、皆藤幸蔵訳版(ハヤカワ・ミステリ文庫)を手に取る。

原題 "The Man from Nowhere"... これに「空白との契約」という邦題を与えたセンスもなかなか...
ミステリーとしては事故死した男の正体も気になるところだが、物語性としては調査員がフリーランスであることが重要な要素となっている。フリーの調査は、怪しい点を暴き、それを証明できれば謝礼金がもらえる。誰にも雇われておらず、調査費はすべて自前。自殺だと確信したところで、それが証明できなければ、すべてが無意味となる。存在するかしないか、まったく空白のような契約の中で葛藤する私立探偵の人間模様が、このミステリーを成り立たせている。

契約とは、冷徹なもの。明文化した仔細どおりに動くだけ。無名女優との契約もその一つ。冷たい契約関係でのみ生きてきた人間は、そこに契約以上のもの、人間味ある暖かさのようなものが入り込んできた時、どうなっていくか。契約という拠り所を失い、人格までも崩壊させていくのか。
したがって、契約書には契約が破綻した時までもきちんと文書化し、あらゆる状況を網羅しておきましょう... ってかぁ。なるほど、アメリカは契約社会だ!

ここで男の正体について、キーワードを拾っておこう...
事故については... 路面にブレーキ痕なし。解剖で麻薬やアルコールの検出なし。自動車に機械的な欠陥なし。運転中に失神したか、居眠りしたか。過去に失神した経歴はなく、精神病患者でもない。居眠りは証明が難しい。あとは、自殺する確固たる理由は...
男の過去については... 殺人犯か、カストロの自由戦士か、潜水艦で派遣されたナチの破壊工作員か...
うん~... こうした要素だけでは、平凡なミステリーで終わっていたであろう...

2024-12-15

"闇に踊れ!" Stanley Ellin 著

原題 "The Dark Fantastic"... これを「闇に踊れ!」とする翻訳センスはなかなか。人間なんてものは、誰もが社会という名の闇で踊らされる、そんな存在やもしれん。
スタンリイ・エリンといえば、短編「特別料理」の薄気味悪い後味が残ったまま。ここでも、死神に取り憑かれた不気味さを醸し出す。それにしても、これは本当に推理小説であろうか。うん~... 人間模様は、まさにサスペンス!
尚、安倍昭至訳版(創元推理文庫)を手に取る。

「わたしの名はカーワン、六十八歳。白人、男性、引退した歴史学準教授。今、テープレコーダーに向かって語りかけている。わたしは末期的な肺癌患者、余命は数ヶ月。だが、その数ヶ月を約三週間に縮めようとしている。少なくとも六十人の命を道連れに...」

本書には、二つの物語が交錯する。
一つは、ニューヨークに住む年老いた男の独白。親から授かった格式高い屋敷に一人暮らし。隣には親父が建てた古いアパート。住人はユダヤ人夫婦以外はみな黒人。快く思っていない住人どもへの嫌みのオンパレードとくれば、自分と共にアパートを木っ端微塵にする計画を立てる。その仔細をテープレコーダーに録音中!
二つは、私立探偵のイタリア系白人のエピソード。盗難された絵画を取り戻すよう依頼を受け、画廊に接近する。その画廊で働く美人黒人が、一つ目の物語のアパートにかつて住んでいたとさ...

「迫りくる死を告げられたときに人間が示す最初の反応がいかなるものであろうとも、やがてその死の告知は完全に自由な人間にすることを、わたしは知ったからである。奇跡的な状態。そしてわたしはその奇跡の生き証人なのだ。最初はショックと恐怖、次に苦い悔恨。それから、信じられないことに、自由の実感。自由を味わえる喜び...」

この作品は当初、出版拒否されたそうな。なるほど、差別的な表現がえげつない。爆破計画にしても、犯罪の手本になりそうな。おまけに、自爆テロときた!
30% のニトログリセリンに、50% の硝酸ナトリウムに、炭素燃料からなるダイナマイト 72 本とくれば、雷管は市販の雷酸水銀。起爆装置は把手式の電気スパーク。緻密な計算によれば、建物の壁はすべて内側に崩れ落ちるとさ...

「二十人までは通らせよ、二十一人目に石を投げよ。愛でなく、憎しみでなく、ただの運命なり...」

この叙述の奇妙な現実感は、なんであろう。断じて復讐などではない。
では、なんなんだ?社会への苦言か。未来への警告か。それとも、破滅型人間のなせる業か。いや、新時代を画策する歴史的大事業だとさ。
イタリア系にも、ユダヤ系にも、シシリーの末裔にも、ゲットーの末裔にも憎悪を抱く。社会には貪欲なブローカーどもが暗躍し、偽善家センチメンタリストが打ち立てた法律なんぞになんの意味が。内心では外を歩くのさえ怖がっているのに、汝の隣人を愛せよ!とは片腹痛い。臆病と日和見主義に毒された者ども、みな自分ともども死刑だ!最後の審判が下る前に...

「ソクラテス的様態。親愛なる故ソクラテスに一言。汝は堕落の代理人なり。親愛なる独善的リベラリストの愚者と、ブランガの栄光のため社会改良制度にひたむきに貢献した愚者にも一言。われわれを取り巻く荒廃はすべて汝らがもたらした荒廃である。わたしの大事業もまた荒廃を一つ残すだろう...」

歪んだ正義感、独り善がりな使命感とやらは、ある種のイデオロギー、価値観、倫理観、世界観から生じる。そして、狂った世を道連れにせずにはいられない。表現主義に覆われた社会では、正義をまとった誹謗中傷の嵐が荒れ狂う。論理主義が言い訳を巧みにし、支離滅裂な言葉を浴びせかければ、まさに言葉遊び。そもそも、小説を書くことが言葉遊び。
しかしながら、どんな言葉遊びも、最期の叙述となると神聖なものとなる。臨終の言葉とは、そうしたもの。だから人は最期に告白文を書きたがるのか。狂人の書いた名文なんぞ、ポイ!

「これからの叙述は完全なる理性的精神の証拠に... 最も頭の鈍い精神科の藪医者でさえその頭に詰め込む必要のある証拠に... いかなる法定にも、この大事業を常軌を逸した行為と断じさせないだけの証拠に... 証拠???

2024-12-08

"背徳者" André Gide 著

福音書に愛想を尽かされた人間の物語とは、こういうのを言うのであろうか...
「狭き門より入れ!(前記事)」の訓示に逆らい、異常な情熱をもって学術研究に消磨してきた青年学者。彼が肺結核を患い、死の淵から蘇って見えてきたものとは...
尚、川口篤訳版(岩波文庫)を手に取る。

生きるということを、どう解釈するか。その答えを神学者に求めたところで、死後の世界を提示するだけ。天国に行きたければ... と。哲学者に求めても... 理論哲学者は面倒な現実から目を背け、数理哲学者は自己存在に関わる様々な量の計算に耽り、あとはニーチェ風に生き様を冷笑するか、パスカル風に死に様を見下すか。学者馬鹿ってやつは、平凡な馬鹿よりもタチが悪いと見える。それで背徳者に成り下がってりゃ、世話ない...

「僕は... 僕はただ話したいのだ。自由を得る道などは問題ではない。困難なのは自由に処する道だ。」

死にかけた父に促され、愛してもいない女性と結婚するも、その妻には看病の重荷を背負わせる。病気が回復に向かうや生の喜びに浸り、幼き頃から叩き込まれてきたキリスト教の訓示に背いて享楽に走る。すると今度は、その生活ぶりが妻に負担をかけ、とうとう瀕死の状態に。男は看病の末に、妻の死という重荷を背負う。

人間は自由を求めてやまない。境遇が過酷であれば尚更...
しかし、自由とはなんであろう。贅沢三昧な生活が自己を破滅にかかる。宗教に縋ったところで、現実逃避に救いを求めるばかり。哲学に目覚めたところで、自己破滅型人間を助長させるばかり。それで何が会得できるというのか。雄弁に、抗弁に、詭弁に、論弁に、屁理屈弁に... 言い訳の技術を磨いていくばかり。人生とは、自己に何か言い聞かせながら生きていく、ただそれだけのことやもしれん...

「死ぬほどの病苦に悩んだものにとって、遅々たる回復ほどみじめなものはない。一度死の翼に触れられたあとは、かつて重要に思われたものも、もう重要ではなくなる。重要らしく見えなかったもの、あるいは存在さえ知らなかったものが、かえって重要になって来る。われわれの頭に積み重ねた既得の知識は、白粉のように剥げ落ちて、ところどころに生地、つまり隠れていた正体がむき出しに見えて来る。」

幸福なんてものは、平穏で淡々としたもの。これについて語ることは難しい。人間の語るに足る所業は苦痛しかないのか。無論、幸福な人間には語れまい。自分の不幸を愛し、舐めるように語る。そこに第三者として自我が介入し、自己を審判にかける。病的な性癖を自ら語るのは難しい。自由な語りには、これを統制し、調和する知的努力が欠かせない。だが、その努力も強い野望をともなわなければ...

「私は、この書を告訴状とも弁護論ともしようとしたのではない。... (中略)... 勝利も敗北も明白に提示していない。... (中略)... 要するに、私は何物も証明しようとしたのではない。よく描き、描き上げたものをよく照らし出そうとしたのである。」

2024-12-01

"狭き門" André Gide 著

ルカ伝第十三章二十四節、及び、マタイ伝第七章十三節に曰く...
「力を尽くして狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者おおし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見いだす者すくなし。」

父を早く亡くし、母の悲劇にも触れ、感受性を強めていく少年ジェローム。彼は叔母の家に身を寄せ、従姉妹アリサとジュリエットと一緒に過ごすことに。やがて年上のアリサに恋心を抱く。アリサもジェロームに好意的だが、妹ジュリエットもジェロームに恋する。キリスト教が理想とする禁欲的な世界に憧れるアリサは、妹への遠慮もあって結婚を拒み続ける。ジュリエットが身を引いても気持ちは変わらず。アリサは地上の幸福を放棄し、天上の幸福を夢見て命を落とす。ジェロームは、アリサの遺した日記の思いを背負って生きていくことに...
尚、山内義雄訳版(新潮文庫)を手に取る。

「今の曲をもう一度!滅入っていくような調べだった。まるで菫の咲いている土手を、その花の香をとったりやったりして、吹き通っている懐かしい南風のように、わしの耳には聞こえた。もうたくさん...。よしてくれ。もうさっきほどに懐かしくない。」
... シェイクスピア

幸福の感じ方は人それぞれ。自分の辛苦に対する対価として味わう者もいれば、幸せを演じ、それを人に見せつけることによって味わう者もいる。
幸福とは、滅びへの序章か。自己嫌悪も、自己憐憫も、自己愛の類い。愛とは、滅びへの道しるべか。
恋ってやつは、成就した途端に幻滅する。ならば、あえて成就させず、美しいままにしておく方がいい。いや、幻滅して現実を知る方がましか。不幸を知らずして、幸福を知ることも叶うまい...

「自ら進んで引かれるままになっているときには、人は束縛を感じません。しかし、それにあらがい、遠ざかろうとするとき、はじめて激しい苦しみを感じます。」

狭き門とは、自己犠牲の徳を言うのであろうか。アリサは、殉教者か、解脱者か。
自虐によって、自己を正当化することもできよう。自己を不幸のヒロインに仕立て、純粋なままに死んでいくのもよかろう。そして、その生き様を、その死に様を、ニーチェ風に忌まわしく眺めるもよし、パスカル風に皮肉交じりに見下すもよし。いずれにせよ、人の生き方なんて、いかようにも解釈できる。ジャック・リヴィエールは、この本をこう評したそうな...

「これについては語りたくないほどな書物、読んだことさえ人に話したくないほどな書物、あまりに純粋であり、なめらかなるがゆえに、どう語っていいかわからないほどな作品。これこそまさに一息に読まれることを必要とする作品。愛をもって、涙をもって、ちょうどアリサがある美しい日に、ぐったりと椅子に腰をおろして読むように...」

2024-11-24

"田園交響楽" André Gide 著

ベートーヴェンは、五つの楽章を通して田舎の風景を記した。「田園における楽しき心の目覚め」、「小川のほとりの景色」、「田舎人の歓会」、「雷雨、嵐」、「嵐のあとの喜びと感謝」と...
こうした風景は、盲人にはどのように見えるのだろう。目が見えなければ色が分からない。だが、音楽には音色(ねいろ)というのがある。金管楽器、弦楽器、木管楽器... それぞれに固有の音色を放つ。色が光の波長なら、音色もまた音の波長。波打つものは互いに干渉し、共鳴し合う。そして、会話で交わされる比喩の共鳴が、音色を確かなものに...
尚、川口篤訳版(岩波文庫)を手に取る。

物語は、白痴で盲目の美少女に出逢った牧師が、神から義務を授かったと、彼女を連れ帰ったことに始まる。
しかし、牧師には妻と息子がいた。実の家族以上に愛情を注いで彼女を教育していくうちに、聖職者が信奉する博愛は異性への愛へ。いや、最初から下心があったのやもしれん。男の本能が、義務と偽らせて...
牧師の息子も彼女に惹かれていく。こちらはまともな愛か。いや、平凡な。だが、牧師は息子の愛をも遠ざける。
愛は人を盲目にさせるというが、どうやら本当らしい。身体的な盲目と精神的な盲目とでは、どちらが不幸か。マタイの福音書は告げる... 盲人を導く盲人よ。そんな輩は捨ておけ!盲人もし盲人を導かば、二人とも穴に落ちん!

やがて、盲目の少女は視力回復手術を受ける。彼女が見たものは... そのために自殺を図り、一度は命をとりとめるも...
おそらく、盲人にしか見えないものがあるのだろう。不幸な境遇を知る人にしか見えない幸福があるように。真理を見るには資格がいるらしい。
悲しいことに、幸福を素直に喜べない不器用な人たちがいる。純真無垢な人間が自分の存在位置を知ったら、それは罪か。
自分のために苦しんでいる人たちがいる。それを知ってしまったら、罪を感じなければならないのか。神は無情だ!いや、神の声を代弁する聖職者はただの生殖者であった、というだけのことやもしれん...

2024-11-17

"ビジョナリー・カンパニー ZERO" Jim Collins, William Lazier 著

「ビジョナリー・カンパニー」シリーズに出会ったのは、二十年以上前になろうか。「時代を超える生存の原則」、「飛躍の法則」、「自分の意志で...」と、いまだ本棚の隅っこで存在感を示してやがる。さすがに再読する気にはなれないが、ゼロを目にすれば回帰せずにはいられない。
相変わらず、教訓めいたフレーズのオンパレード!今更感が漂いつつも、またもやジム・コリンズにしてやられる...
尚、土方奈美訳版(日経BP)を手に取る。

「価値観から始まり、常に価値観に立ち戻る。」

「偉大な企業という目的地があるわけではない。ひたすら成長と改善を積み重ねていく、長く困難で苦しい道のりだ。」

「企業が追跡すべきもっとも重要な指標は、売上高や利益、資本収益率やキャッシュフローではない。」

「正しい事業のアイデアより、正しい人材のほうがはるかに重要だ。」

「リーダーシップとは、サイエンス(理屈)ではなくアート(技能)だ。」

「起業家の成功は『何をするか』ではなく、『何者であるか』によって決まる。」

副題に「ゼロから事業を生み出し、偉大で永続的な企業になる」とある。
しかし、だ。力量の遠く及ばない凡人がビジネス上の大成功物語を夢見ても詮無きこと。そもそも、ゼロから始める必要もなければ、偉大になりたいわけでもない。
それでも、自分が大切なものを知らないまま生きているのではないか、という不安感を少しばかり鎮めてくれる。自分の生き方に誇りを持ち、最期に有意義な人生であったと思えれば、それが幸せというものか。ビジネスがギャンブルなら、人生もまたギャンブル!それで、自分の価値観や世界観は人生を賭けるに値するか、などと自問してりゃ世話ない...

「根本的問いは『あなたが達成しようとしているビジョンは何か』だ。」
... 心理学者アブラハム・マズロー

ところで、企業の意義とはなんであろう。そこに所属する意義とはなんであろう。生活費のためというのは避けられない。だが、それだけでは寂しい。古代の叙事詩人ヘーシオドスが唱えたように仕事は人生と直結する。
そして企業は、人生観を体現する場ともなりうる。にもかかわらず、経済学者や金融アナリストたちは、効用最大化といった概念を崇めすぎる感がある。
本書はまず、人生哲学における価値観やビジョンといったものを掲げる。逆に言えば、価値観やビジョンに共感できなければ、関係を持つ意味を失うことになる。しかも、成長が良いものとは限らない。現実に、急成長が後に望ましくない結果を生み出すこともある。永続的であろうとすれば、問題とすべきは成長の中身!こうした視点は、このレトロな書が今更感を吹っ飛ばしてくれる...

「大多数の人は良い仕事をしたいと思っている。誇りを持てる事業に参画したいと願っている。困難な仕事に挑戦し、自分の力を証明する機会を欲しがっている。仲間に頼りにされれば、応えようとする。敬意をもって扱われれば、並外れた仕事をやってのける。」

「企業を利益という観点から定義すると、説明することはできない。(中略)利益最大化という概念は実のところ、無意味である。(中略)企業を評価する第一の指標は、利益を最大化しているか否かではなく、経済活動のリスクをカバーするのに十分な利益を生み出しているかだ。」
... ピーター・F・ドラッカー

2024-11-10

"専門家の予測はサルにも劣る" Dan Gardner 著

ダン・ガードナーという人は、なかなか挑発的なタイトルを掲げる。証券アナリストに対しても、似た表現を見かけるけど...
しかし、賢い専門家もいる。健全な懐疑心を持ち合わせ、無知の原理を心得た専門家もいる。本書の対象は、メディアで露出度の高い専門家だ。有名になればなるほど予測が当てにならないとは、これいかに...
はずしてばかりでは自然消滅しそうなもの。ところが、こと予測の世界ではそうはならない。自信満々に主張するからこそ視聴者は耳を傾け、格好よく断言するからこそ人は信用する。彼らはよく間違えるが、決して曖昧なことは言わない。要するに、当たろうが、はずれようが、どうでもいいってことだ。
聞き手はというと、同調する意見を自信満々に発言してくれれば、それで心地よくなれる。たとえ反対意見でも攻撃対象にすれば、それで心地よくなれる。メディアは視聴率が上がれば、それでいい。そもそもメディアとは、そうしたものだ。
もはや正しい予測は無用!正しく判断できれば、それでいい。だが、それが一番の難題!正しく予測する以上に...
尚、川添節子訳版(飛鳥新社)を手に取る。

「科学の最も重要な産物は知識である。しかし、知識の最も重要な産物は無知である。」
... 理論物理学者デイヴィッド・グロス

わずかでも合理的な懐疑心があれば、占星術や迷信の類いを信じたりはしないだろう。だが、専門家ってやつは優秀で知識の豊富な人種で、その思考法も合理的。少なくとも、そう見える。
聞き手も、正しいことを信じるのではなく、信じたいことを信じる。分かりやすく、ドラマチックな物語に惹かれる。おまけに、何もないところにパターンを見つけ、無作為な結果に意味を与えようとする。いくら自己欺瞞に満ちていようが...
こうした性質は、おそらく本能的なもので自己存在とも深く関わるのであろう。それは、自分の人生に意味を与えようとするのと、同じことやもしれん...

「どのようなケースでも必ず、賛成する理由と反対する理由があり、つまり、どちらを選択してもその反対理由を押し切って選んだことになる。こうなると不協和が生じるため、自分の結論に賛成する要素を過大に評価し、反対する方を小さく見ることで合理化しようとする。」

人間の認知能力には、必ずバイアスがかかる。確証バイアスに、現状維持バイアスに、後知恵バイアスに、ネガティビティバイアスに、利用可能性ヒューリスティックに... 枚挙にいとまがない。それは、心理的に避けられない性癖だ。
政治家の世界では、正しさは重要ではない。重要なのは大衆を確信させること。メディアが欲しいのは正しい意見ではない。専門家の意見がニュースを作成する側と一致しないことは、よくある。どちらにも、どうせ大衆はすぐに忘れてくれる!という思惑が渦巻いている...

「人間は未来が見えないと、待つことしかできないという不安な状態になる。」
... 心理学者ダニエル・ギルバート

人間は、不確実性を嫌う。それは、不安感と同期するからであろう。したがって、あらゆる商売戦略で不安を煽る風潮がある。どんな結果であろうと、未来を予測し、それに対処し、安心を買いたい!ただ、それだけのこと。
しかし、この心理学を人間の愚かさと吐き捨てるわけにはいくまい。迷信や宗教を拒絶し、楽観論や陰謀論を受け入れず、メディアや専門家の意見までも認めないとすれば、あとは何が残るというのか。自己はそれほど信頼に値するのか。自分自身しか信じられないとしたら、それこそ危うい事態だ。
いや、心配はいらん。自己正当化のパターンはいくらでもある。それこそ人類の偉大な創造性であり、進化の産物である。そして、この皮肉に満ちた楽観主義の言葉で終えるとしよう...

「同志たちよ!社会主義の勝利は間違いない。マルクスは時期を外しただけなんだ!」

2024-11-03

"ホモ・ルーデンス - 人類文化と遊戯" Johan Huizinga 著

人類には、「ホモ・サピエンス」という呼び名がある。知恵ある人、賢者といった意味で...
しかしそれは、人類に相応しい呼び名であろうか。金融アナリストが練りに練ったポートフォリオは、おサルさんのダーツ並とくれば、超エリートがこしらえた政策立案はことごとく裏目。ノーベル賞級の経済学者が国際規模の経済危機に陥れ、国家を代表する政治家が政治不信を増幅させる。そればかりか、教育家が教養を偏重させ、愛国者が敵対心を煽り、聖職者が神を擬人化し、博愛者が愛を安っぽくさせる。お節介な有識者どもよ!なに故、こうも社会をいじりたがる。どうやら、そこには見えざる手が働くと見える。

ちなみに、アンリ・ベルクソンは「ホモ・ファベル」という呼び名を用いたそうな。作る人、創造者といった意味で。確かに人類には、そうした一面もある。だが、あらゆる創造性には、どこか心に余裕めいたものがなければ...
そこで、ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」という呼び名を用いる。遊び心を持った人、遊戯人といった意味で。まさに遊び心から生まれた用語だ。彼は主張する。「人間は遊戯する存在である。先天的な模倣本能に從って...」と。そして、文化因子としての遊戯を問いながら、人間存在としての遊戯を問う...
尚、高橋英夫訳版(中央公論社)を手に取る。

「抽象観念なら、そのほとんど全部を否定し去ることも不可能ではない。正義、美、真理、善意、精神、神、何でもかまわない。また真面目、真摯というものを否定することもできる。だが、遊戯はそうはいかない...」

遊戯といっても、その定義となるとなかなか手ごわい。少なくとも、単なる遊びを超越している。単純な動機に発する衝動から、有り余る生命力の放出と解釈することもできよう。あるいは、緊張からの解放、克己や自制の訓練のための布石、有害な衝動を無害化する鎮静作用、さらに、自我の存在意義とその確認といった目的めいた解釈もできる。
しかしながら、遊戯の本質は、もっと単純で純真な人を夢中にさせる何か、ということになろうか。気まぐれは偉大だ。子供じみた本能に好奇心や興味といった情念があり、ひらめきや発明といったアイデアはここに発する。ワクワクするような雰囲気に包まれ、ささやかな秘め事を帯び、こうした感性こそ遊戯の源泉。日常や慣習から解き放たれ、もはや掟なんぞの及ぶ領域にない。
ちなみに、イギリスの諺に「好奇心は猫を殺す」というのがある。好奇心過ぎて身を滅ぼすといった意味で。御用心!御用心!

「遊戯とはあるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行なわれる自発的な行為、もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に從っている。その規則は一旦受け入れられた以上は絶対的拘束力を持っている。遊戯の目的は行為そのものの中にある。それは、緊張と歓びの感情を伴い、またこれは日常生活とは別のものだという意識に裏づけられている。」

人類は、長い年月をかけて文化を育み、言語を発明したおかげで、言葉と戯れる性癖を培った。言語によって成り立つ学問も、知と戯れる性癖の一つ。哲学対話も、科学論議も、政治論争も、社交遊戯の類い。
ホイジンガは、政治、法律、祭祀、芸術といったあらゆる文化的要素の源泉を遊戯に求め、人間の本質を遊戯で説明して魅せる。宗教の儀式もお祭りから、「政」の訓読みも「まつりごと」となれば、政治も遊戯。とはいえ、宗教的な残虐行為や戦争までも遊戯の延長とは...

ホイジンガは、ナチスがヨーロッパを席巻した過酷な時代を生きた。平然とやってのける残虐行為を目の当たりにすれば、すべてを道化の行為として説明せずにはいられないのだろう。競争や論争も遊戯の変形か。古代の戦争は、英雄伝を夢見ては名誉を競い合った。そうした競い合いも、互いに戯れ合う延長上にあったのかもしれない。好敵手という言葉もあるように...

だが、近代戦争は非人間化を加速させていく。政治も法律も硬直した理性に支配され、人間味が薄れていく。知性が豊かになると、理性も高まりそうなものだが、実のところ、理性の凶暴化が始まるのかもしれない。ソーシャルメディアには理性の管理人に溢れ、人間社会には誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。エイプリルフール禁止令まで見かける始末。現代人は、遊び方を忘れちまったのか。理性の大衆化は滑稽だ。これぞホモ・ルーデンス!

そういえば、世阿弥の「風姿花伝」にも、滑稽が芸術の域に達する技芸が論じられていた。シェイクスピアの四代悲劇にしても、道化に真理を語らせる滑稽劇!滑稽こそ人間の本質か。そして、滑稽を高度に発達させた挙げ句に非人間化を成就させ、逆に、AI が人間化していくのやもしれん...

2024-10-27

"人間・この劇的なるもの" 福田恆存 著

人生とは、滑稽劇のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンに、エリートの仮面をかぶればエリートになりきり、セレブリティの仮面をかぶればセレブかぶれにもなる。あとは、幸運であればその流れに乗り、不運であればそれを糧とし、いかに達者を演じるか...
人生なんてものは、得体の知れぬ実存なだけに、こいつに意味を求めずにはいられない。それで、人生の意味を見つけたと信じて優越感に浸ってりゃ、世話ない。意識の権化はいずこに...

「自然のまゝに生きるといふ。だが、これほど誤解されたことばもない。もともと人間は自然のまゝに生きることを欲してゐないし、それに堪へられもしないのである。程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがつている。また演じてもゐる。たゞそれを意識してゐないだけだ。さういへば、多くのひとは反發を感じるであらう。芝居がゝった行為にたいする反感、さういふ感情はたしかに存在する。ひとびとはそこに虚偽を見る。だが、理由はかんたんだ。一口でいへば、芝居がへたなのである。」

自我の世界では、誰もが主役。だが、現実の世界では、誰もが主役を演じられるわけではないし、欲してもいない。主役でなければ生きる喜びが得られないわけでもない。それでも、何かを演じたがっている。その意識は、他人にも何かを演じさせなければ成り立つまい。
人間が欲しがっているのは、自己の自由ではないのか。ここでは、「自己の宿命」と表現される。自己の宿命を自覚した時のみ、自由感を味わえるものらしい。自己が居るべきところにある実感、それが宿命感というものらしい。
人は自由であることを信じる。幸福であると思い込む。そうやって現実と折り合いをつけ、自己を納得させながら生きている。成功しても、失敗しても、その結果を必然とし、自己を納得させる。それは、自己がそこに存在しているという実感が欲しいのか。これ以上の自己欺瞞はあるまい...

「人間存在そのものが、すでに二重性をもつてゐるのだ。人間はたゞ生きることを欲してゐるのではない。生の豊かさを欲してゐるのでもない。ひとは生きる。同時に、それを味はふこと、それを欲してゐる。現實の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。それに關らずには、いかなる人生論も幸福論もなりたゝぬ。」

自由は、個人主義との結びつきが強い。本書は、シェイクスピア劇の主人公に個人主義の限界を見る。かの四大悲劇を渡り歩けば、ハムレットの復讐劇に、マクベスの野望劇に、オセローの嫉妬劇に、老王の狂乱劇と動機は単純。だから設定を複雑にせずにはいられないのか。前戯好きにはたまらん。
ハムレットには、気高く生きよ!このままでいいのか?と問い詰められ、リア王には、道化でも演じていないと老いることも難しい!と教えられ、マクベスに至っては魔女どもの呪文にイチコロよ。
四大悲劇の魅力といえば、なんといっても道化が登場するところ。真理を語らせるには、この世から距離を置く者が説得力をもつ。人間が語ったところで、言葉を安っぽくさせるのがオチ。ハムレットやリアの主張を聞いたところで、作者自身の声は聞こえてこない。シェイクスピアはいずこに...

「シェイクスピアから私たちが受けとるものは、作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。シェイクスピアは私たちに、なにかを與へようとしてゐるのではなく、ひとつの世界に私たちを招き入れようとしてゐるのである。それが、劇といふものなのだ。それが、人間の生きかたといふものなのだ。」

シェイクスピアの個人主義の限界に自由の許容範囲を重ねると、まったく正反対にある全体主義が見えてくる。自由主義者は、全体主義を忌み嫌う。だが、全体主義とは、個人を生かすための集合体として結成される。そして、集合体が維持できなければ、奥深い無意識の中で自由が悪魔と結託して個人を抹殺にかかる。
それは、シェイクスピア劇が見事なほどに再現してやがる。全体主義は個人主義の帰結であり、その延長上にあるというわけか...

「自由が正義によつて合理化され、目的として追求されはじめたとき、生命力は希薄になる。いや、個人のうちに全體との默契を可能ならしめる生命力が希薄になるにしたがつて、ひとびとは無目的な自由を恐れはじめ、身を守るために、それに目的や名目を與へて、正義の座に祀り上げるのだ。さうすれば、さうするほど、この形式的な威嚴のうちに機械化された自由が、弱體化した生命力を締めつけてくる。個人を解放するための自由が、個性を扼殺するのだ。」

人々は、全体主義と同様に、死を忌み嫌う。だが、死を遠ざけることによって、生は弱体化していく。生の終わりを考慮しない思想や観念は、幸福をもたらさないばかりか、行き過ぎたヒューマニズムを煽る。せめて、劇の中で臨終体験を...

「生はかならず死によつてのみ正當化される。個人は、全體を、それが自己を滅ぼすものであるがゆゑに認めなければならない。それが劇といふものだ。そして、それが人間の生きかたなのである。人間はつねにさういふふうに生きてきたし、今後もさういふふうに生きつゞけるであらう。」