Contents
- 2007-07-08 "獄中からの手紙" ローザ・ルクセンブルク 著
- 2007-07-01 "絞首台からのレポート" ユリウス・フチーク 著
- 2007-06-24 "人を動かす「韓非子」の帝王学" 中島孝志 著
- 2007-06-17 "行動経済学" 友野典男 著
- 2007-06-10 "早わかり物理50の公式" 岡山物理アカデミー 編
- 2007-06-03 "これならわかるC++" 小林健一郎 著
- 2007-05-27 "暗号解読" Simon Singh 著
- 2007-05-20 "フェルマーの最終定理" Simon Singh 著
- 2007-05-13 "ディジタル数値演算回路の実用設計" 鈴木昌治 著
- 2007-05-06 "これなら分かる最適化数学" 金谷健一 著
2007-07-08
"獄中からの手紙" ローザ・ルクセンブルク 著
そのためか自宅でありながら、つい立ち読みしてしまう。アル中ハイマーには、立ち読みの方が緊張感があって気分が出るようだ。ついでに、カウンタがあって美しいお姉さんから凝視でもされたらもっと集中できるのだが。
ローザ・ルクセンブルクは、マルクス主義の政治革命家で、本書は、投獄中、リープクネヒトの妻となった友人宛てに書いた手紙集である。
そう言えば学生時代、マルクス主義やら独裁者の思想などの本ばかり読んでいた時期があった。あまりにも暇だったのだろう。ただ、この頃読んだ本の内容はほとんど覚えていない。当時は、アル中ハイマーには政治思想など理解できないと諦めたものである。
しかし、本書は政治色を微塵も感じさせない。ローザは、政治犯として投獄され、いずれ虐殺される運命にある。そうした暗い人生を加味して読んでも、獄中で書かれたものとは信じられないほどの穏やかさがある。自然の風景が語られ、詩の朗読があり、思い出が語られ、時折、囚われの身の心境を覗かせる。読書しているというよりは、風景画を鑑賞しているかのようだ。人間は自分の運命を悟ると、その瞬間を大切にするだろうか。風景を描写する表現力に文学的な価値がありそうなのは、おいらのようなド素人にでもなんとなく伝わる。
ただ、アル中ハイマーにはこの作品の論評ができない。到底およびもしない高度な文学的領域であるように思えるからだ。当時は難し過ぎて記憶できなかったのかもしれない。そもそも本当に読んだのかも疑わしい。今、スコッチを味わいながら当時を思い出そうとしている。そして、だんだんいい感じになってきた。あー気持ちええ!えーっと!今、何してたんだっけ?そうだF1を観るんだった。
2007-07-01
"絞首台からのレポート" ユリウス・フチーク 著
著者フチークはチェコのジャーナリストで、ナチス占領下のプラハで政治犯とて捕らえられた。彼は、すさまじい拷問に耐え目前の死に向かいつつも抵抗の記録を書き遺した。本書は、歴史的には政治文書として評価されてきたようだが、アル中ハイマーにはなかなかの文学作品である。まるで詩のようなさわりが、あちこちにちりばめられている。そして、個人の描写が勝っていて政治色などあまり感じられない。
前書きに、ゲシュタポが使っていた屋内拘禁室を「映画館」と、誰が名づけたかわからないが、その中で、著者は「私の生涯の映画を百回も観た」と表現している。アル中ハイマーは、人間の生涯とは映画を観るようなものと語られる、この表現が好きである。
これほどの書物を、一度は読んでいるはずなのに覚えていないとは、アル中ハイマー病に犯されているとはいえショックを受けるのである。
アル中ハイマーは、チェコという国に昔から少々興味があり、一度訪れてみたいと思っている。チェコの作曲家ドボルザークの交響曲「新世界より」は、小学生の頃始めて買ってもらったレコードである。また、リディツェ村の話を知ったのが中学生の頃である。ナチス占領下、ラインハルト・ハイドリッヒ暗殺の代償として、リディツェ村の住民を老若男女問わず殺害され村の存在そのもが抹殺される。そして、戦後リディツェと名のる町があちこちに登場する。ハイドリッヒ襲撃事件については本書でも一瞬だけ触れられる。
本書は、まず尋問に抵抗して拷問されている様を描写する。
まだ自分が死ねないことを母親に丈夫に産んでくれたことを嘆いたり、逆に、限りなく遠いところから愛撫のように気持ちよく、やさしい落ち着いた声が聞こえてくる。など、もうろうとした意識、幻想的な感覚といった、夢でも見ているかのような生々しい表現が続く。また、自分自身の危機に対する描写だけではない。周りの人間が死んでいく様も描いている。自分の人生が無駄ではなかったことを自身で励ますかのように、そして、その終わりを台無しにするようなことはしたくないという誇りと意地を張る様子が語られる。
アル中ハイマーには文学的センスが全くないので文章テクニックはわからないが、本書はいたるところに文学的表現がちりばめられ心を穏やかにしてくれる。その例を一つ紹介しよう。下記は拷問に耐えぬいて、やや気力が戻った時の様子を表現している。ちょっと長いが気に入ったのでそのまま引用する。
「復活とはいささか奇妙な現象である。名状しがたいほど奇妙な現象である。よく眠ったあとの晴れた日、世界は魅力的である。ところが、復活の日には、まるでその日がかつて一度もなかったほどよく晴れわたり、またかつて一度もなかったほどよく眠ったような感じがするものである。あなたは人生の舞台をよく知っているような気がしているかもしれない。ところが復活というのは、まるで照明係りがすべての照明灯に明るいレンズをはめ、あなたの目の前に完全照明の舞台を一度に現出させたようなものである。あなたは自分で目がよく見える、と思っているかもしれない。ところが、復活はまるであなたが望遠鏡を当て、同時にその上に顕微鏡を重ねたようなものである。復活とは春さながらの現象で、ごくありふれた環境にも、思いもかけぬ魅力がひそんでいることを春さながらに見せてくれるのである。」
戦時中の囚人の気持ちとはどういうものなのだろうか?そこには、ゲシュタポに逮捕された時点で死を覚悟しているとあるが、希望と絶望の繰り返しの様がうかがえる。ファシズムの死と自分の死のどちらが先か?こうした忍耐競争が世界中で問われたことだろう。また、ファシズムが死ぬまでに、まだ何十万という人の犠牲が必要であることも覚悟しなければならない時代である。そもそも彼らが捕まった理由など何もない。ハイドリッヒ襲撃事件に触れているところで、おもしろいことに、事件が起きる二日前に検挙された人々の罪状が、ハイドリッヒ暗殺に荷担したというのである。処刑するのに理由はいらない。殺す人間のことなど調べる手間が無駄である。目的は民族の抹殺である。そうした時代にあっても人間は希望的観測がつきまとう。戦争の終わる時期について、バラ色の観測が毎週のように生まれる様が語られる。人々はそれを信じる。ここで、もう一つ文章表現に目が留まった。
「人生は短い。それでいてここではあなたは、その人生の一日一日がはやく、よりはやく、この上もなくはやく過ぎ去ることを強く願っているのである。あなたの寿命を刻一刻ちぢめている。生きて帰らぬ時、とらえがたい時が、ここではあなたの味方なのである。なんと奇妙なことだろう。」
本書は人間観察についても鋭い。それは囚人仲間はもちろん、看守から刑務所長に及ぶ。信念を持ちつづける者。裏切る者。ドイツ人看守の間の友情を、互いに監視しあい、互いに密告しあう緊張感のあるものとして描いている。密告により地位を確立する者もいるが、その密告の信憑性など一体誰が調べるものか。陰謀は渦巻く。
本書を読んでいる時、途中で数々の疑問がわいてくる。
死への恐怖から、正気を取り戻すために、記録を遺したのかもしれない。
迫りくる死に向かって遺せる文章とは?
拷問に耐えられず裏切る者もいる。それなのに政治的信念とは何か?
自分自身が死んでいるのか?生きているのか?わからない局面の心理とは?
かすかな痛みと喉の渇きのようなものが、生きていることを実感できる状態とは?そのような極限状態で、抵抗しつづけるとは?
誇りを持ち続けるということは?
しかし、アル中ハイマーはいつのまにか答えを出すことを放棄している。せっかくの文学作品に理屈などいらない。いつのまにか、そうした心持で読んでいる。
本書が世に出回ることができたのは、監房に紙と鉛筆を持ち込み、書いている間ずっと見張りをし、原稿を獄外へ持ち出した看守がいるからである。本書では、その看守の様も語られる。最初、ドイツ人看守が紙と鉛筆を持ってきた時は、話がうま過ぎて信用できなかったとある。その看守は、ドイツ人と名乗っているが実はチェコ人であった。後書きには、この原稿がゲシュタポの家宅捜索から逃れた様を解説してくれる。
それにしても、昔読んでいるはずの本の記憶が全くないというのは幸せにしてくれることもある。自分の本棚が新鮮に見えるのである。今、更におもしろそうな本が埋もれていないか探している。宝はアマゾンの中だけにあるのではない。灯台もと暗しである。本棚を眺めているだけで一杯やれるとは、のどかな一日である。
2007-06-24
"人を動かす「韓非子」の帝王学" 中島孝志 著
今日は腕の付け根と背中が痛い。腕はアンダーステアなのでキーを叩くのがしんどい。よって、本日のブログネタは簡単に処理できるものを選びたい。
本書は、ハードカバーの単行本で200ページ超あるが、字は大きく隙間も大きい。いかにも年寄り向きの作りで、最近小さい字を読むのが億劫なアル中ハイマーにはありがたい。
また、構成は各章とも、1. 原文をくだいた文章、2. 原文っぽい古文風、3. 解説、と、内容が3回繰り返されているので実質読む量も少ない。よって一気に読めるので手軽である。たまにはこういう本をネタにしないと息切れしてしまう。
本書は、一言で言うと、"人をマネジメントするには、人間通になれ!"ということだろう。宣伝文句には、「人を思いのまま動かす悪のノウハウ満載」とある。なんとなくアル中ハイマーが喰いつきそうなフレーズである。ただ、マネジメントの失敗続きで、なぜうまくいかないのかという解を、本書に求めても無駄だろう。人を動かすとは、そう簡単なものではない。ハウツウものにできるほど体系化できるものではないのだ。そもそも本から教訓を得て実践してもぎこちないだけである。優れたリーダーは自然と振舞うものである。むしろ、本書を読んでうまくいく人は元々人間掌握の資質がある人だろう。または、そこそこうまく振舞っている人間が自己確認のために読むのにおもしろいだろう。普段の人間性こそ重視すべきである。アル中ハイマーは、あらためて人の上に立つことの難しさを感じさせられるのである。
1. 独裁者。
本書では、善いリーダー像の対極的な人間像として独裁者をいたるところに鏤めている。独裁者やワンマン経営者の組織では秩序がなく、その場でころころと指針を変える。こうした組織では、リーダー1人の心中を推し量ることだけが幹部の仕事である。上り坂では直感が当たりカリスマと崇められるが、下り坂では地獄へ真っ逆さま。資金力もなく総合力に劣る組織が、ライバルに挑むにはゲリラ戦に持ち込む。こうした状況では、一人一人の人材パワーに負うところが大きいにも関わらず、無視するリーダが多い。リーダーがワンマンであればあるほど、その周りにはイエスマンばかりはびこる。本書は、特に日本の企業社会はイエスマンが増殖しやすい傾向にあるという。過度の忖度社会を指摘している。それはそれで良い面もあるのだが一理ある。ただ、理不尽なことまで押し付けられるのは、忖度ではなく脅迫である。これを過度の忖度と表現しているのだろう。理不尽に対抗する人ほと去っていく。そういう人ほど戦力であり他社でも通用するから、なおさらである。よほど気を引き締めないと裸の王様になる。会議ではワンマンショー!偉い方は部下が馬鹿に見えてしょうがないのだろう。
2. 人気と人望は違う。
「いくら部下が優秀であっても、年上であっても、彼らが"さすがだ"と一目置くものを指導者は持たなければならない。だからといって全ての能力が部下を凌駕する必要はない。1つか2つでよい。その最低限、熱意は必要である。自分以上の集団の中でリーダーシップを発揮するには人望がなければならない。人望のある人物は損得では動かない。」
酔っ払いも負けじと主張するのだ。人を褒めることは、人を叱ることができる人の権利である。人を雇うことは、人を首にする勇気を持った人の権利である。可哀想だからといってやたら仕事を受けたり、人を受け入れたりすると破綻する。責任を負わされた先任から去っていく。
また、かつて功労があったからといって、その礼に人事をするととんでもないことになると語られる。功には碌で報いて、地位、ポジションで報いるものではないという。褒めることは簡単だが、叱るのは難しい。更に難しいのは人を切ることである。更に難しいのは自分を抜擢してくれた恩人に対するリストラである。歴史の長い上場企業や伝統企業にはびこる老害はすべてここに原因がある。功績のある会長や相談役というポジションに居座る人物を解任できない理由がここにあると指摘している。
3. 部下の一生は最初の上司で決まる。
「一人目の上司で7割が決まり、二人目の上司で9割が決まる。本人が切り開くのは1割しかない。」
これは、思いっきり反論したくなる。あまりにも他力本願過ぎるからだ。本書が言いたいのは、それだけ心して新人を育てよ!という意味だろう。また、こうも述べている。
「新人教育で重要なのは仕事のスキルやノウハウではない。取り組み姿勢。心の部分。価値観である。スキルやノウハウはリーダよりも優れた人材は多くいるし、本人の勉強意欲でも対応できる。重要なのは、いつの時代でも価値観である。」
なるほど、これならば反論する気持ちが静まってしまう。あるバーテンダーのジントニックを無理やり飲まされた後に、店長のサイドカーを食らった気分である。
アル中ハイマーは先輩に恵まれている。いつも厳しい先輩が、おいらが大失敗した時、怒られると思ったら妙に寛大だった。余計に失敗を恥じたものである。また、別の先輩は、「初めてやった技術だから失敗した。なんてのはプロの台詞じゃない!」と言った瞬間は、かっこええと思ったものだ。馬鹿なおいらを根気強く論文の指導をしてくれた大先輩。もちろん夜の社交場も、手取り足取りと。それぞれ分野別に恵まれたものである。恩返しで後輩の育成に務めなければならないのだが、なにしろ短気が災いして、数多い優秀な人材の芽をつんできたことだろう。福沢諭吉曰く。「実学とは一流の人と出会うことである。」同感である。
4. モルトケ
本書は、世界最高の軍師と歴史上名高い、プロシア国の参謀モルトケを紹介している。一番の要職に就ける人材とは、能力が高くて欲のない人間。無益な欲得にとらわれないで課題を突破することに知恵を絞るので、リーダにうってつけというわけだ。二番目は、能力もないし、欲もない人間。こういう人は人畜無害。三番目は、能力も欲もある人間。しかしリーダには向かない。特に、この手の人間は周りの人間が馬鹿に見えるから自信過剰で人の意見を聞かない。更に、いったんポストを与えると独断専行しがちである。最も悪い人事は、能力がないのに出世意欲だけは異常に強い。これ以上、組織にとって人畜有害なものはないだろう。
5. 本書は、本音をやたら表に出すものではないという。
相手の様子を伺いながら、人を説得するには相手の目線にあわせることであると述べている。まったく、その通りである。しかし、とっとと本音をぶつけないと会議が早く終わらない。アル中ハイマーは長時間の会議が大嫌いである。1時間が限界である。交渉は肩が凝る。そもそも相手を説得しようとは思わない。本音をぶつけて合意できなければ無理に交渉を進めることはない。金儲けをしたければ、あらゆる仕事に手を出せば良いが長続きする気がしない。重要なのは長続きさせることである。しばしば本音を利用され損をすることもある。それはそれで良い。どうせ、それっきりの付き合いである。この点は、アル中ハイマーは頑固おやじである。よって評判も悪い。しかし、この一本気で強がっている酔っ払いは、ただ能力がなくて何もできないことを隠しているに過ぎない。
6. 最終的には人徳かなあ。
結局、人間掌握するには誤魔化しはきかない。人徳が重要ということになりそうだ。本書でも、数箇所に人徳という言葉が登場する。そう言えば、おいらは会話で人徳という言葉を使ったことがない。
人徳を持った人は言うだろう。「私は人徳を持っていない。」
人徳を持っていない人は言うだろう。「人徳とは。。。こういうものだ。」こうして説教が始まる。
アル中ハイマーは言うだろう。「人徳って焼酎の銘柄かい?」
おいらがこの言葉で唯一思い出せるのは戦国シミュレーションゲームで、武将のパラメータに人徳度というのがある。この数字が高いとゲームを有利に展開できるので、なんとなくすげーものだという意識がある。その数字を高めるには官爵を得ることである。どうやら地位と名誉に比例するものらしい。なんとなく本書とは違うもののようだ。
やっぱりアル中ハイマーには、人徳という幻の焼酎を探してさまよう方がお似合いである。ということで、秋は酒蔵めぐりの旅を計画することにしよう。
2007-06-17
"行動経済学" 友野典男 著
本書は、まえがきに行動経済学の入門書とあるが、現状の経済学の限界を指摘している。そこには、「行動経済学」に対して従来型を「標準的経済学」と呼び、標準的経済学が、超合理的な行動をとる非人間的な学問で、現実から掛け離れたものであると攻撃する。そして、今や経済学は、心理学や脳神経科学などを取り入れた学際的な学問にしなければならないと主張する。中でも、一番印象に残っているのは、ある実験調査で「経済学を勉強すれば利己的になる」という仮説を唱えているところである。非経済学専攻の学生は、歳とともに協力を選ぶ者が多くなる。これは一般的傾向である。一方、経済学専攻の学生は、協力を選ぶ者が少ない。というのである。この結果に否定的な実験もあるという補足付きで述べているが、こうした観点でこの学問を覗くと納得させられるところが多いのである。
この本を読んでいると、かつて"Common Stocks and Uncommon Profits(1958年)"の著者フィリップ・フィッシャーが記していたことを思い出す。アル中ハマーの記憶力を最大限駆使して読み返してみると、
「経済予測に頼るのは止めることである。経済学理論としては間違っていないが、予測そのものが信頼できない。為替相場も同じで、この複雑系を予測できるほど経済学は進んでいない。経済学は上辺の現象を追いかけすぎて、本質を見抜こうとする努力を怠ってきた歴史がある。大半の頭脳をもっと建設的に使われれば、古典派を脱することもできたであろう。」
といった内容が書かれている。当時、フィッシャーの言葉をなんとなく理解していたつもりだが、本書のおかげで理解を深めることができる。この感触からして、今宵の純米酒はなかなかいけそうだ。経済学に実感がわかず、難しく感じるのは、アル中ハイマーの頭が悪いということで片付けるのは早計だと思い始めたのである。
1. 標準的経済学
標準的経済学で対象としている経済人とは、極めて合理的に行動する人種であると紹介する。
「自分の嗜好が明確で矛盾がなく常に不変であり、自分の効用を最大にできる意思決定能力を持っている。他人のことは一切顧みず、自己の物質的利益を最大にすることだけを追求する利己的な人間である。いわゆる倫理、道徳という概念は持ち合わせない。」
と述べている。 なるほど、私益が得られる機会があれば、どんな小さなチャンスも見逃さないという性質が派生的に導かれる。標準的経済学は、このような人種が経済活動する前提に立った学問だというのである。
更に続けると、市場における淘汰論が展開される。非合理性に行動する主体は市場から排除されるから、実質的に経済に影響を及ぼすのは合理的な主体しか残らないという。アル中ハイマーがひっかかっている点は、ここである。一見理論的で、学術的であるから、納得というよりは説得されている感じがする。例えば、ボランティアや献血はありえないと予測されるなど、しばしば現実に起きる事を予測できないという。
一方で、この学問は、経済人という仮説は強すぎるということも認めている。だからといって適当な理論も見当たらないから、合理的な分析を進めるために暫定的に認めているという半ば諦めたものであるという。こうした議論は政治的によく見られる。こうなると幻滅しかない。おいらに言わせれば分析放棄論である。そもそも、経済理論とは規範理論であり、人々の行動を予測するのではなく、人々が、どう行動するべきかを示したものだという。もはや経済分析ではなく説教論である。
2. 行動経済学
ここで、アル中ハイマーは一つの疑問にぶつかる。
経済は一言で言えば金(価値)の動きであり、人間の感情が左右されやすい世界である。詐欺行為などは金銭が絡むことが多く、巧みに心理を攻撃してくる。それにも関わらず、今更心理学やら他の学問を取り入れるとはどういうことか?
本書は、過去の経済学に心理学を組み込むことは何度も試されたが、あえなく玉砕した様が語られる。そうした背景で1978年ノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンが登場する。彼は標準的経済学が仮定している超合理性を、人間の認知能力の限界から体系的に批判した最初の経済学者であると紹介される。本書は「行動経済学元年は、1979年」としている。
古典派経済学では、現実から掛け離れた考察や主張が世間を席巻したことが語られるが、古典派ならばやむを得まい、科学でも天動説やら、宗教的影響を受けた理論が席巻したものだ。しかし、1979年に現実にそぐう見方が始まったとは驚きである。とっくにおいらは生まれているではないか。なんとなく経済学は、どんくさい頑固な学問という印象を受けるのである。背景からして、経済学が必要に迫られる人々とは、金持ちだけかもしれない。政治家や地主など支配層に見られる地位と名誉の世界である。おいらは経済学は理系だと思っている。現象の解析が数学的だったり物理学的だったりするからである。そうすると進化という意味では、それほど差があるとも思えない。自然科学は、貧困層など関係なく興味が湧けば研究できる世界なので学問の底辺も広い。こうした底辺だけを比較すると経済学が後進的なのも仕方がないのかもしれない。マスコミ等でよくみかける経済評論家がどんくさそうに見えるのは単なる偶然だろう。アル中ハイマーは、酔った勢いで拡大解釈をするのである。
本書では、行動経済学を、完全合理性を否定するが、ランダム性を主張しているのではなく、ある一定の基準から外れる限定合理性を持つと述べている。
3. ヒューリスティック
人間の経験や学習から得られたり、直感的に判断する手法である。対比されるのが、手順を踏めば厳密な解が得られるアルゴリズム手法である。ヒューリスティックは、合理性に直感的バイアスをかける。経済予測や政治予測を確率で述べる場合、ほとんど直感的判断による主観確率が多い。主観確率は過去にあった事象から記憶を辿って確率として押し上げる。大地震が起きて防災グッズが売れたり、BSE問題で牛肉忌避運動になるのも、その例である。起こってしまったことを予見していたように意見することも後知恵バイアスが働いている。株価が下がった時、「そうなると思っていたよ!」などと素人でも意見する。
"代表性による罠"も取り上げている。おいらはいつも討論会などで、女性の代表や各国の代表と称してコメントしている人の信憑性に疑問を持つ。身近な人には逆の意見を持つ人が多いのは、周りに天邪鬼しかいないからだろうか?類は友を呼ぶ。
市場において誰にも答えられない疑問に、株価はどうやって決まるのか?というのがある。経済や企業の基本的な実力であるファンダメンタルズに基づいて決定されるというのが標準的ファンダメンタルズ理論の主張である。しかし、投資家は適正な株価水準を知らないのが現状であることを指摘している。せいぜい、日経平均などの数々の指標を過去から推測するだけである。
ファンダメンタルズ原理主義者と称しているアル中ハイマーには頭が痛い指摘である。確かに、株価収益率や資産倍率などから過去の水準に対して判断しており、その水準を微調整しているに過ぎない。株価は将来予測に基づくと言われ、マスコミ等で材料は折込済みなどと報道されるが、では、将来とはいつか?そんな基準があろうはずがない。おいらは、夜な夜なテクニカル分析を繰り返していたことに気づかされるのである。アル中ハイマーは本日より、ファンダメンタルズ原理主義を廃し、夜のテクニシャンと名乗ることにする。
4. プロスペクト理論
標準経済学の効用関数に対する「価値関数」と確率に重みを付ける「確率加重関数」により構成される。価値関数の特性は、人間の心理は、大きな変化が起きると、利得に対してリスク回避的で、損失に対してリスク追及的である。しかし、小さい変化が起きると、その逆になるという。確かに人間の意識は、同額であるならば利得よりも損失に対する不満の方が大きい。損切りは難しいが、少しでも儲けが出るとすぐに手仕舞うといった行動も説明がつく。プラスの刺激よりもマイナスの刺激の方がより敏感である。確率加重関数とは、価値関数に事象が起きる確立を掛け合わせたものである。確率が小さいところでは過大評価され、確率が大きいところでは過小評価される。人間は極端な変化は好まない。不確実性も好まない。総合すると、確率が高いところでは、利得に関してはリスク回避、損失に関してはリスク追求。確率が低いところでは、利得に関してはリスク追求、損失に関してはリスク回避と述べている。
また、保有効果についても述べている。つまり、保有している資産の価値は多めに見積もる傾向にある。これは、企業などの組織についても言える。自分自身の地位や名誉を守ろうとする行為や所属する部署に愛着を感じるなどで、改革路線に影響を与える。政府の認可や免許など法的権利にしても、規制緩和により手放すことを強いる政策に対して、想定以上の抵抗が表れる。人間には、安いからとか効率的だからと言って、簡単にシステムを変えようとはしない現状維持バイアスがある。うすうす感じていたが、人間社会には、完全な効率的システムや、完全な公正はそぐわないものらしい。例えば、賃金アップの労使交渉では、労働者側は必ず現時点からのアップを要求する。しかし、物価上昇率など世界的水準からみた場合は高いレベルにあるなどは考慮しない。名目賃金を切り下げると抵抗は大きいが、インフレ期にには名目賃金を下げることなく、実質賃金を下げることができる。これは不公正とみなされないのはなぜだろう。アル中ハイマーの昔から持つ疑問である。
5. フレーミング効果
同じ状況であるにも関わらず、変化の方向で人間は全く違う感情になるという。同じ問題でも、肯定的に捉えた場合と、否定的に捉えた場合では答えが違う。景気指標でも、雇用率 90 %と表現するか、失業率 10 %と表現するかで世論の方向性を操作できるかもしれない。
また、初期値効果についても語る。パソコンの環境を初期状態でそのまま使っている人は多いだろう。一般的ユーザは分からない領域をいじることはない。これもユーザを扇動する有効な手法である。初期設定を選んだからといって、人間はそのシステムを信任しているとは限らないだろう。こうした話はすぐに国政選挙を思い出す。例えば裁判官の信任、不信任の意思表示がそれである。バツを書かない限り自動的に信任したことになるとは、これいかに?おいらは、裁判官の信任には大抵バツを書く。わからなければ信任できないからである。わからないから何も記載しない。これが信任する方向にバイアスがかかるのはシステムが間違っているとしか思えない。そもそも選挙に行くということは、それなりに意思表示があるということである。マスコミは、決まって投票率が国政に対する不満の指標であると主張する。評論家や知識人と言われる人々は、生放送でシステムの欠陥を指摘しないのはなぜだろう?あらゆる官僚主導で調査される市場調査やアンケートの類は、このような手法であるに違いない。そうでなければ、これだけ第3セクターで失敗し、箱物ができては廃れるなどを繰り返すわけがない。「こんな場所に、こんなもん建てても無駄だ!」という台詞は、その辺の婆さんでも吐いている。これを専門家が分からないはずがない。これを地位と名誉のバイアスと言うのである。
経済学では、過去に払った費用を埋没費用という。
プロジェクトの検討には多大な労力と時間を費やしてきたとなると、なんとしても実行に移したいと考える。乗りかかった船だから途中で降りられないといった発言はよく見かけられる。しかし、こうした状況を考慮することは合理的行動とはいえない。その要因の一つは評判である。途中で止めると過去の判断が間違っていたことになる。つまり自尊心が傷つくことを避ける働きである。二つはヒューリスティックの過剰な一般化である。「無駄にするな!」とは子供のころからよく聞かされた言葉である。この効果は年齢を重ねれば、ますます顕著になる。これぞ公共事業の真理である。ただ、日本の場合、そもそも予算取りが、手段ではなく目的であるために、途中で止める前に最初からするな!という事例が多過ぎる。
6. 選択のパラドックス
経済学や意思決定理論では、選択肢は多い方が人々は自由に選択できて満足度が大きいという前提が、暗黙の法則になっているらしい。この発想は自由主義思想とも結びついており世間を席巻しているが幻想だろうと述べている。しかし、お姉ちゃんの選択肢は多い方が幸せである。おいらには無限に広がる大宇宙である。マーケティング戦略にうなぎの例がある。特上、上、並とあれば、上を選択する人は多い。つまり、一番売りたいものを真中にランクする効果である。祖母の葬式で葬儀屋から、松、竹、梅でコースが選択できる場合、竹を選んだ。梅だと、亡くなった人にあまりに失礼だと思ったからである。しかし、明細を見て驚いた。ちょうちん一つが5万円。これは高い!実はレンタル料と知って更に驚いた。「買ったんじゃねーのかよ!」どうりで使い古している感じがする。冠婚葬祭でケチることなど、あまり聞かない。ぼったくりに合う悲しい性である。おいらも飲み屋でケチることはあまりしなかったが、生まれ変わることにした。07式アル中ハイマーは、フルパワー改造だ!
7. 近視眼的な心になる傾向
一般にほとんどの経済的な意思決定は異時点間の選択である。長い時間に渡って効用が少しずつ得られる。人は将来の利得を割り引く傾向にあると述べている。また、将来的にだんだんと良くなる上昇系列を選択する傾向にあるとも述べている。身近な幸せを望みながら将来の上昇志向を好むのは、人間の欲の真理かもしれない。株価においても、一時的に下降トレンドが生じて、トータルでは合理的であったとしても、徐々にでも上昇トレンドを選択する傾向にあるという気持ちは理解できる。人間は不快な時は時間が長く感じるが、快い場合は短く感じる。お姉ちゃんの手を握っている時間は短いが、おっさんとの握手は辛いものである。
時間的な人間の心理として、協力関係を述べている。短期間であれば進んで協力したり、奉仕したりする人間は、意外と数がある。しかし、長期間になれば、だんだん協力関係が減少するという。では、協力関係を維持する方法とはなんだろう?処罰の役割は大きいと指摘している。ここでの処罰とは刑罰や罰金だけではなく、悪評や村八分など社会的制裁も含む。これは、完全な利己主義者であっても多少の協力をさせることは可能である。しかし、実験的に、利己主義者は所詮利己主義で、本質的には変えられないことも付け加えている。処罰の効果を指摘しながら、逆に処罰で低下するモラルも述べている。人間は、悪いことをするとモラル的に反省するが、処罰が加わるとモラルが消えるという。人間は罰せられると、罪が消えると思うのかもしれない。裁判システムは罪を取引のできる定量的なものにしているのかもしれない。そうなると、市場における制裁システムの効果とは、どうなるのだろう?悪評による社会的制裁の方が効果的かもしれない。人は公正であることを求める性質もあるだろう。何をもって公正かとなると、本書は平等性からくるだろうと主張する。
この根本は人を羨む心ではないだろうか。人を羨む心は、参照できる範囲から生まれる。自分から見て、到底別世界の人間には、憧れても羨むことはない。しかし参照できる身近な範囲となると、同じ生活レベルの人間の行為には憧れではなく羨む心となる。よって、その人間が参照できる範囲がその人間の器というものだろう。
ここで、「情けは人のためならず」という諺の解釈について紹介しているのでメモっておこう。最近「情けをかけるのは人のためにならないから、止めたほうがいい」と解釈する人が多いという。ちなみに、めぐりめぐって自分のためになるから、情けは自分のためである。というのが本筋である。アル中ハイマーは、人に酒をつぐと、酒が大量につぎ返されて潰される。よって、情けをかけると不幸が返ってくると解釈している。
8. 感情の役割とはなんだろう?
感情的になると、人間的に成熟度が低いと見られそうだ。よって感情的にならず、常に冷静に意思決定できる人間は知的で品格を感じる。それは本当だろうか?なぜ人間は感情を持っているのか?
人間は、過酷な進化の中で、瞬間的に判断しなければならない危機に直面したはずである。この状況からいち早く反応するためには、合理的思考など悠長に構えていられなかっただろう。よって、直感で判断し行動しなければならない状況は多かったはずである。その進化の過程で自然と身についた武器かもしれない。人間が近視眼的な行動をするのも、かつての進化で今生きることが大変だった時代のなごりかもしれない。
本書では、合理的な推論や、冷静な計画による決定が必ずしも上手くいくとは限らないと述べている。よりよい意思決定のための重要な役割が感情であるという。このことが、最近、心理学、脳神経科学の発展により、明らかにされつつあることを主張している。経済学には人の感情というのは不要と考えられているのが一般的なようだ。しかし、行動経済学の最先端のテーマは、感情の積極的な意義をめぐるものであると語られる。
直感は、思ったよりも当たっている場合がある。仕事などで問題解決の手段として結構直感からアプローチしている。ただ、その直感とは経験から養われているのも事実である。そもそも、選択肢が多い場合に、時間的な制限もあるので、全てのパターンを検証するなど不可能である場合が多い。よって、ある程度の選択肢を放棄せざるをえない。本当に経験から直感が養われるならば、直感に頼って生きれば、良い年寄りに収束するかもしれない。ただ、若い頃の武勇伝は凄いこといなりそうだ。
2007-06-10
"早わかり物理50の公式" 岡山物理アカデミー 編
本書は、こうした先生方が高校から大学初年次レベルの物理を、公式を通して語ってくれるという企画であり、いかにもブルーバックスらしい。岡山といえば、応用数学や最適化数学で執筆している岡山大学教授金谷健一氏の本を読んだ。アル中ハイマーのような酔っ払いにでも、なんとなく理解させてくれた気になったので感謝している。岡山県は、理科系の学生を育てようという気運でも高まっているのだろうか?いや、酔っ払いが出くわした、ただの偶然である。
アル中ハイマーは、高校時代物理学が好きだった。先生が好きだったからである。おいらのクラスは、たまたま珍しい名前の人間が集まっていた。その一人であるアル中ハイマーの姓は珍しく名は当て字でフルネームで正確に読まれたことがない。幼少の頃には、からかわれることも度々であった。こうした社会状況は性格を妙に攻撃的にしたり、天邪鬼にしてしまう。そして、アル中ハイマーは甲高い声で叫ぶのであった。社会の馬鹿やろう!
ところが、多分最初で最後であろう、その物理学の先生が、初対面で全ての人間の出席を間違うことなく完璧に読み上げた。当時、歓声が涌いたことを鮮明に覚えている。これほどの気遣いができる先生を嫌いになる理由などない。その頃を思い出して、なんとなく本書に吸い込まれるのである。
本書の中には、先生方のエピソードや主観も混ざっていて読み物としてもおもしろい。物理学は、仮説から実験を通して、その証拠を積み上げることにより物理法則として証明されていく。よって、証明されるまでは、ある程度都合の良い解釈がまかり通る。こうしたことが歴史的に起こっており、物理学のご都合主義として語られる。この点は数学と少々異なるようだ。サイモン・シンは書籍「フェルマーの最終定理」で数学の証明の出発点は公理である。完全な論理的証明がなされた時、初めて定理となる。よって、一度証明された数学の定理は永遠に真である。といったことを語っている。説得力だけでは数学の方が一枚上かもしれない。
また、科学の世界にも政治力があることも語られる。その例が、法則や原理など、本当の発見者でない人の名前がついてしまうことを上げている。ニュートンの肖像画が残っていても、それと同じ時期に活躍した科学者の肖像画もなければ名前も薄い優秀な人々が多く存在する。悲しいかな、科学の世界にも政治力はあるのだ。こうした事に学生諸君は目くじらを立てなくても良い。重要なのは中身なのである。と語られる。さすが学校の先生、教育に余念がない。
本書は全般的に公式の厳密さよりも意味あいを重視しているので、読み物として楽しめる。酔っ払いには、公式の厳密さは悪酔いのもとである。やはり気持ちよく酔うには、なんとなく理解できたような気になることが重要なのだ。アル中ハイマーは、マクスウェルでも読み返してみるかという気が、ほんの少し起きるのである。では、もう一杯、ほんの少しスコッチをオーダーして今夜の締めとしよう。
2007-06-03
"これならわかるC++" 小林健一郎 著
入門書は馬鹿にはできない。当り前と思っていたおまじないも、意外とわかっていないことがある。本書は、専門書といってもまったく畏まった感じがなくパラパラと手軽に読めるところがうれしい。たまには、このような本でリフレッシュするのも良いのである。アル中ハイマーの記憶領域はリフレッシュサイクルを短くしないと保持できない。それに難しい専門書を読むのがすっかり億劫になってしまった。新しい発見はないものの復習と思えばそれでいいのだ。でも、1,900円は元取れてるかなあ。
さて、アル中ハイマープログラムでも作ってみよう。
-----------------------------------
クラス "酔っ払い"
{
メンバ関数(= 行動パターン):
・ちょいと寄る(店) { 返り値 "口癖" };
・一杯飲む(酒) { 返り値 "口癖" };
}
クラス "悪友" : 継承 "酔っ払い"
{
メンバ関数(= 行動パターン):
・暗黙に誘う { 返り値 "一言" };
}
メイン・プログラム
{
アル中ハイマー = new 酔っ払い;
仕事仲間 = new 悪友;
お姉さん = new 癒し系;
「仕事終わりやした!」 = 仕事仲間 -> 暗黙に誘う;
「1軒だけっすよ!」 = アル中ハイマー -> ちょいと寄る(寿司屋);
「もう1軒だけっすよ!」= アル中ハイマー -> 一杯飲む(純米酒);
「しょーがねーなあ!」 = アル中ハイマー -> ちょいと寄る(クラブ活動);
「君に酔ってんだよ!」 = アル中ハイマー -> 一杯飲む(ボトル);
「俺に火をつけやがったなあ!」= お姉さん -> マッチを擦る;
「ああ気持ちええ!」 = アル中ハイマー -> ちょいと寄る(バー);
「もう帰りたくない!」 = アル中ハイマー -> 一杯飲む(死神カクテル);
delete アル中ハイマー;
「記憶がない!」 = std::目が覚める;
}
-----------------------------------
おえー!実行するとcore(ゲロ)を吐いてしまった。
原因は、"悪友"クラスは"酔っ払い"クラスを継承しているが、フレンド関係がないのでプライベートに関われないに違いない。
2007-05-27
"暗号解読" Simon Singh 著
「フェルマーの最終定理」に続いて、またもやサイモン・シンと青木薫氏の名コンビである。おいらは、ますますファンになるのである。本書は、暗号の世界に歴史背景を結び付けてくれる。そして、その時代に似合った暗号技術を語っており、素晴らしい読み物に仕上がっている。
暗号演算というとアル中ハイマーは逃避してきた世界である。モジュラ演算は、ぐるぐる回って酔っ払いと周期が合いそうではあるが、DESやらRSAという言葉が出ただけで悪酔いしたものである。しかし、本書を読んで、最初から勉強し直そうかなあ?という意欲が湧くのである。
1. 簡単な転置式と換字式から始まる。
その方式は暗号アルファベットに置き換えるという単純なものであるが馬鹿にはできない。これが基本であり本書でも丁寧に解説されている。現在の暗号方式も思想は変わっていないのである。
換字式の代表はカエサル暗号であり、千年にわたって使われてきた。これを解読したのがアラビア人である。そこには、数学、統計学、言語学が高度に発達しており、神学的要素も必要であったことが語られる。具体的には単語や文字の出現頻度を統計的に解析し、そのばらつきを平文サンプルと照らし合わせて文字との対応をつけるわけだ。暗号の世界は、数学だけではなく、歴史学、言語学、文化との結びつきも語られていくので、全く頭が痛くならず、つい読み入ってしまうのである。
2. 多暗号アルファベットを利用したヴィジュネル暗号
16世紀末、複数の暗号アルファベットを切り替えていく方法が発明される。基本は換字式暗号と同じである。ただ、1つの文字に対応する文字が一つとは限らないので頻度分析による解読も難しくなる。ヴィジュネル暗号は、26種類の暗号アルファベットを用いる。アルファベットを順にシフトしたものなので26種類となる。それぞれの文字にどの暗号アルファベットを割り当てるかは、キーワードで決める。キーワードの文字列が、暗号アルファベットの順番を決めるのである。キーワードが長ければそれだけ使っている暗号アルファベットの種類が多いことになるので複雑化する。この方法は、手間がかかり使い勝手が悪いことから、当初は使われなかったようだ。だんだんエニグマに近づいてきている。アル中ハイマーはワクワクしてくるのである。
18世紀に入ると、ヨーロッパ列強は暗号解読チーム、ブラック・チェンバーを設立するなど、単暗号システムは通用しなくなる。更に19世紀に電信が発明され遠距離通信革命が後押しをする。ここで、ヴィジュネル暗号に挑んだチャールズ・バベッジが紹介される。彼は、現代的なコンピュータの雛型というべきものを作ったことで知られる。多暗号システムは単暗号システムに比べれば格段に複雑であるが、機械装置を使えば解読可能となる。
フランスはドイツとの戦争で苦悩した歴史から、諜報活動の進化した様を語る。第一次大戦時、換字式と転置式を組み合わせたADFGVX暗号をドイツが採用する。ADFGVXは、モールス信号に置き換えた時に区別しやすい6文字である。この時、敵の無線オペレータの癖までも聞き分けていたという。モールス信号の間のあけ方、送信速度、点と線の相対的長さの違いからオペレータを識別し、発信源もわかるのだそうだ。
3. いよいよ暗号機エニグマ(謎)の登場である。
エニグマは、ドイツのシェルビウスが発明した機械式である。その構造を書いてみよう。
- まず、暗号円盤(スクランブラ)が、1文字に対応した文字を出力する。単アルファベット暗号。
- 次に、1文字変換した直後に暗号円盤を1文字分回転(アルファベットなら1/26回転)する。同じ文字を繰り返して入力しても、別の文字が現れるわけだ。これだけでは、同じ文字を入力し続ければ周期性が現れるという弱点がある。
- そして、第二のスクランブラを導入する。第二のスクランブラは第一のスクランブラがある程度回転して初めて一目盛だけ回転する。スクランブラを二つに増やす利点は、第二のスクランブラが出発点に戻るまで暗号化のパターンが繰り返されないことである。
- 更にエニグマには2点が追加されている。一つは、第三のスクランブラが装備される。26 x 26 x 26 = 17576通り。二つは、レフレクター(反射器)の装備。配線を逆向きにたどる。レフレクタは固定で回転しないので、パターンを増やすことはできない。しかし、暗号化と復号はミラープロセスであり、復号化を容易にする役目がある。
更に初期設定として、スクランブラの配置や向き、プラグボードによる配線の変更。ああ悪い酔いしそうだ。
第一次大戦が終わって、米英仏は暗号解読不能として熱意は消えた。もはや手足をもがれたドイツは脅威ではないのである。人間は危機感を持つと情熱にかられるのだろう。その時代に危機感を持っていたのはポーランドである。東には共産圏の拡大を狙うロシア、西には領土を取り戻そうとするドイツ。
さて21世紀になった現在、最も危機感のある国はどこだろう?日本は最も危機感のない国かもしれない。第二次大戦は情報戦でもあった。日本はパープル暗号の過信で情報が筒抜けとなる。この反省が生かされていれば良いと願うばかりである。実はとてつもない実力を備えた国であると信じたい。
ポーランドはあらゆる諜報活動の末、エニグマのレプリカを作製する。そのスパイ活動の様が語られる。エニグマへの攻撃は「反復は機密保護の敵」という事実に的を絞って攻め抜いたことが語られる。ドイツ人は、無線の干渉やオペレータの人為ミスを避けるためにメッセージの冒頭で鍵の反復を行った。また、オペレータはメッセージ毎に3文字の鍵をランダムに選ぶことになっている。戦争の最中、疲労した人間がランダムに選ぶエネルギーは残っていない。よってエニグマ機のキーボードに並んでいる隣り合う3文字を使ったり、ガールフレンドのイニシャルなどを繰り返すなど、人為的ミスを繰り返した。こうした手がかりを利用して解読につながる。解読に功績を上げた人物をあげるときりがないが、しいて言えばアラン・チューリングを上げている。極秘裏に活動し歴史に登場できないので「前線に出なかった恥さらし」として痛烈な批判を受けたようだ。英雄伝が語られるまでには何十年を要する世界である。その時には既に死んでいる人も多い。悲しい性である。チューリングは41歳で自殺している。
4. 究極の暗号は考古学かもしれない。
第二次大戦時に活躍したアメリカのナヴァホ暗号が紹介される。これは単純にアメリカ原住民の言葉で、原住民を通信兵として採用した。この暗号は手も足も出なかったらしい。暗号解読には手掛かりとなる文脈を知っている必要があるが、ナヴァホ暗号には、この前提が無い。そして、本書は古代文字の解読へと話が進む。考古学者は究極の暗号解読者かもしれない。古代文字の解読の中で最も魅力的なものとしてエジプトのヒエログリフを紹介している。そして、同じ内容がギリシャ文字、デモティック、ヒエログリフの3通りの文字により刻まれたロゼッタストーンへとつながる。ちなみに、アル中ハイマー語を解読できるのは飲み屋の姉ちゃんだけである。
5. コンピュータ暗号DESの登場。
コンピュータ暗号といっても、その手続きの大半は従来の方法と変わらない。機械式暗号とコンピュータ暗号の違いは、コンピュータは仮想暗号機をまねる。処理速度が速い。スクランブルにかける対象はアルファベットではなく数字である。ということぐらいである。アメリカは、商用暗号の標準化を目指して公募した。その候補である金星暗号(ルシファー)をIBMが開発した。そのスクランブルの操作手順を書いてみよう。
- メッセージを二進数に変換して長い数字の列にする。
- 長い数字の列を64bit単位に分割してブロックを作る。
- ブロック内の数字をでたらめに組替えたのち32bitの2つの小ブロックに分割する。
- 分割した小ブロックの右側を暗号化関数に通して複雑な変換を行い左側に置く。
- これに先ほどの小ブロックの左側を加算して右側に置く。ここまでの操作をラウンドと呼ぶ。
- このラウンドを16回繰り返す。
この暗号はあまりに強力過ぎて、国家安全保障局(NSA)が横槍を入れた。つまり、NSAが解読できない暗号を標準化するわけにはいかないのだ。そして、政治力を発揮され56bitに制限、NSAの持つ世界最大のコンピュータで解読可能とする範囲に弱めた。これがDES暗号である。
6. 公開鍵暗号RSAの誕生。そしてPGP暗号へ。
暗号で永遠のテーマといえば鍵配送問題である。銀行などは秘密のデータを送らなけらばならない。
この配送費用は経営上の問題にもなる。二千年に渡って秘密鍵は送信者から受信者へ渡さなければならないという公理に疑問を持つものはいなかった。従来の暗号化、復号は、双方向関数で成り立っていた。つまり対称性である。ディフィー、ヘルマン、マークルは、一方向関数に注目した。一方向関数をたくさん見つける数学の領域にモジュラ算術がある。そして、暗号と復号には別の鍵が使われるという非対称性暗号システムの概念が誕生する。しかし、まだ概念である。
実用化に貢献したのは、リヴェスト、シャミア、アドルマンの3人である。2つの素数の積を取ることにより一方向関数を手に入れる。3人の頭文字をとってRSA暗号と名づけられる。2つの素数の積が公開鍵で、公開鍵が充分大きければ、二つの素数を発見することは事実上不可能である。専門家の試算で、10の130乗程度の数字の素因数分解に要する時間は、Pentium100MHz, RAM 8MBで50年ほどかかるという。重要な銀行取引では、少なくとも10の308乗ぐらいの公開鍵を使うようだ。
1980年代は、RSA暗号も強力なコンピュータを持った政府と軍部と大企業ぐらいにしか使われなかった。今日の情報化社会では個人情報の保護は当り前でありパソコンにも搭載されている。この貢献にフィル・ジマーマンを紹介している。彼は、冷戦時代に反核運動でも知られる政治活動家でもあった。冷戦が終了して、個人情報の保護を訴えるようになり、PGP(Pretty Good Privacy)システムの構築に尽力した。これは、今日利用されているデジタル署名などの機能が盛り込まれている。PGPについても、安全な暗号システムが構築されると、テロリストや犯罪者の証拠を得ることは困難になるという理由から政府の介入がある。RSAデータ・セキュリティ社は、PGPに"海賊ソフト"のレッテルを貼った。ジマーマンは武器商人として告発され、FBIの追求を受けることになる。現在でも、安全性の高い暗号システムの善悪は論争されている。暗号推進派は、かつて個人情報がこれほど漏洩しやすくなった時代はないと言う。高度なテロリストや犯罪者は政府が規制しても無駄である。政府規制により弱体化された一般市民の個人情報が悪用されるだけである。アル中ハイマーは、どちらの立場を取るだろうか。ネットで買い物をする立場上、保護してもらいたい。今日、暗号の安全性は鍵のサイズにかかっている。アメリカ政府は規制方向だ。日本も同じだろう。日本の場合は、更にぬるま湯の感覚で意識すらもうろうとしている。電子商取引が盛んになれば、当然、暗号推進派を指示する人間が多数を占めることになるだろう。こうした動きはビジネス界の利害と関わるので、産業界も後押しするはずである。最も不安なのは監視側のモラルかもしれない。
7. 量子化暗号の時代か?
本書は暗号作成者と暗号解読者の戦いを物語る。いつかは暗号解読者が勝利する繰り返しであるが、今日では暗号作成者が勝利を収めようとしている。暗号の黄金時代の到来なのだ。PGPで暗号化されたメッセージを解読するには、世界中のコンピュータを導入しても宇宙の年齢の1200万倍の時間がかかると推定されているらしい。しかし、いずれも解読不能とされた暗号システムが解読されてきたのは歴史が示している。
PGP暗号は歴史を繰り返さないというのか?実は解読の目処が立っているかもしれない。歴史を振り返っても、解読に成功した技術が明るみになるのは数十年経ってからである。
暗号は、とうとう数学界の永遠のテーマとなっていた素因数分解にたどり着いた。暗号解読者は、抜本的に新しいタイプのコンピュータを模索している。量子コンピュータである。とうとう光の登場である。原子力発電所で起こっている核反応を計算できるのは量子論だけである。DNAを説明できるのも、太陽がなぜ輝くのかも、CDを読み取るレーザー装置の設計も。
本書は、「量子コンピュータが実現できれば、現在のあらゆる暗号を葬り去り、計算すること自体が新時代へと突入するだろう。」と言っている。1985年ドイチェが、普通のコンピュータと量子コンピュータの違いを論文にしている。「普通のコンピュータは一度に一つの問題しか解けないが、量子コンピュータは同時に二つの問題を入力でき、問題への対応が重ね合わせとなる。」
んー。並列処理とも違うようなイメージで紹介されるが、分かったような分からないような?これを理解するには飲みが足りないようだ。
本書もふれているが、ここで上がった有名人の他に匿名で活躍した人々の功績は大きい。秘密を重要とする分野であるだけに、匿名の人間の方が凄い人物がいるのかもしれない。この分野に限らず世の中を本当に支えているのは、そうした無名の人物の功績が大きい。当然であるが、暗号の世界をリアルタイムに公表できるわけがない。一般人には歴史を振り返ることしぐらいしかできない。表面化した政治力や、マスコミによる扇動・流布に対抗する手段はあるのだろうか?どうやらアル中ハイマーには世間の波に揺られて酔っ払うしかないようだ。
読み終わって第一声は、「さすがサイモン・シン!」である。
すっかり気分を良くしたアル中ハイマーは、映画「エニグマ」でも観ながらもう一杯やることにしよう。
ああ、@#$%^&*!!!(アル中ハイマー暗号)
2007-05-20
"フェルマーの最終定理" Simon Singh 著
思わず著者のファンになってしまった。きっと翻訳者の青木薫氏もうまいのだろう。本書の凄いところは、それほど数学の知識を必要とせずに数学のロマンを語り、読みものとして充分成り立っているところである。なによりも酔っ払いに読ませるところが凄い!そこには、数々の数学者が、一見簡単そうに見える難解な定理に挑み失敗し、ついに解き明かすまでの歴史ロマンが語られる。また、日本人や女性の活躍も取り上げられ、人種や差別の枠を越えている点も感銘を受ける。これはあとがきにもあるが、翻訳者の意見と一致するところである。
ここでフェルマーの最終定理を紹介しよう。
X^n + Y^n = Z^n (nは2より大きい整数) において整数解をもたない。
n = 2 であれば、ピュタゴラスの定理である。
フェルマー自身は証明により確信していたらしいが、証明したものがどこにも残っていない。彼は自分が証明した問題を他人に出して困らせるような冗談が好きだったようだ。本書は、フェルマーから350年、数学者は失われた証明を再発見しようと挑んだがことごとく失敗した。そしてワイルズにより終止符をうつ。という物語である。
1. まずはピュタゴラスから始まる。
時代は古代ギリシャ。ピュタゴラス教団は宗教集団で、その崇拝物の一つが「数」である。数と数の関係を理解することで、宇宙の霊的神秘が明らかになり、神々に近づけると信じていた。約数の和がそれ自身と同じになる数、完全数は宗教的意味合いとも関わりが深い。例えば、神が天地創造に6日かけたと主張するのは、6が完全数だからである。また、完全数は常に連続した自然数の和で表現できることや、2のべき乗数との関係を考察するなど、エレガントな性質に気づき、完全性の概念に魅了されるのである。ピュタゴラスと言えば「万物は数なり」。例えば、音の調和と数の調和から、心地よい音程の規則を追求し和音の原理を発見する。こうして自然界には必ず数が潜むとされ、規則性を探すようになっていく様が語られる。
数学的証明と科学的証明との違いについて以下のように述べられる。
「典型的な数学的証明は一連の公理から出発する。そして論理的な議論を積み重ねて結論に達する。公理が正しく論理が完全であれば得られた結論は否定できない。こうして得られた結論が定理である。数学の定理は、この論理的プロセスから成り立っており、一度証明された定理は永遠に真である。一方、科学的証明は、ある自然現象を説明するために仮説をたてる。その現象が仮説と合致していれば、その仮説にとって有効となる。更に、その仮説は他の現象も予測できなければならない。この予測を試すために実験が行われる。実験で成功すれば、更に仮説を支える証拠となる。こうして収集された証拠が圧倒的になった時に、この仮説が科学的理論として受け入れられる。」
つまり、数学的証明は絶対であり、どこか神に通するものを感じる。数学は究極の宗教かもしれない。逆に、科学理論は完全に証明されているわけではない。理論が正しい可能性はきわめて高いと言えるだけで真実の近似でしかないというのである。ピュタゴラスの最大な貢献は「数学は、他のどんな学問にもまして主観を排した学問である。」と語られる。
2. 数々の偉大な数学者が挑んで失敗した。
数学者は、フェルマーの時代には数の愛好家である。そして、18世紀にはプロの問題解決人となる。これはニュートンの自然界への応用による功績が大きい。その時代にオイラーが登場する。
オイラーは、三体問題をアルゴリズムをフィードバックし、これを繰り返すことにより近似していく手法を編み出した。オイラーのこの定理への取り組みは、背理法の一つ無限降下法を使った。それは、まず解が一つ存在すると仮定して、それが無限の下降階級まで解を求めていく。そして、これが整数であることに矛盾があるとして証明した。
これは n = 3 の時に成功する。n = 4 に拡張するのは虚数の概念を取り入れる必要があった。
それでも n = 3 までしか証明できなかった。こうして、世界一の難問に最初の突破口を開いた功績者として紹介される。
女性の数学者を認めない差別背景に苦悩しても、この定理に取り組んだソフィー・ジェルマンが、n = 5 の場合において貢献したことを紹介している。本書はフランスが生んだ最も知性ある女性に対する政治的扱いを嘆いている。
「彼女の業績を踏み台にして羨むべき栄誉の殿堂入りを果たした人々は恥じるべきである。」
現代では知識人やマスコミによる論調に流され、何が真実かわからないことが多い。いつの時代も歴史学者は論調に流される傾向にあるようだ。
これだけの問題に対して、史上最も優れた数学者と言われるガウスが挑んでいないのも不思議である。E.T.ベルは、フェルマーを「アマチュアの大家」と呼び、ガウスを「数学者の王」と呼んでいる。ガウスはこの定理に対して何の興味も湧かない主旨のことを述べている。
「このような肯定も否定もできない命題なら私はいくらでも作ることができる。」
現代の情報化社会にあってアマチュアとプロの境界線が難しい。ただ、当時からそういう状況はあったようだ。本書では、ガウスがこう述べるのはプロのプライドなのか?実は挑戦して成果が得られなかったのではないか?と疑問の目で記述される。
更に読み進み、話が論理学に及ぶと酔いも最高調となる。
ゲーデルの不完全性定理の登場で、フェルマーの最終定理も決定不可能かもしれないと示唆する。実は数学者とはただの酔っ払いではないのか?と仮説を立ててみるとアル中ハイマーには親しみを感じる。しかし、この天才連中は宇宙人のようである。やはりアル中ハイマーだけが、ただの酔っ払いであるという虚しい証明に辿り着きそうなのでこれ以上考えないことにしよう。
3. いよいよアンドリュー・ワイルズの登場。
彼は、現代数学が共同研究という文化を持つ中、あえて時代を逆行するがごとく孤独を選んだ。まずは、楕円方程式の研究から始める。ここで楕円方程式はモジュラー形式と関係づけられるという谷山=志村予想の貢献が語られる。おいらはモジュラー形式と聞いただけで頭がグルグルになる。ちょっと一息して純米系に変えよう。
ところで、26とはすげー数である。25 = 5^2, 27 = 3^3 つまり、平方数と立方数に挟まれる数字はただ一つなのである。ああええ気持ち!
背理法によるアプローチにより道筋が示される。谷山=志村予想を証明できれば、フェルマーの最終定理の証明につながるという道筋だ。更に、帰納法による証明を試みる。ある命題が、nで成り立つことを証明し、n + 1 でも成り立つことを証明できれば、無限の世界を証明できる。また、ガロアの群論を利用する。ここで、ガロアについては悲劇の生涯を紹介してくれる。
そして発表!
その証明に対する検証期間、待機している時の心境が語られる。そして問題発覚。なんと些細な問題と思っていたものが重大欠陥だったのだ。発表から6ヶ月が過ぎようとしていた時、証明は風前の灯火となりつつあった。数学の証明は、途中の苦労よりも、最後に完成させたものに勲章が与えられる。どうしても、レフリー以外の数学者に論文を見せる気になれなかったようだ。功績を独り占めしたかったのもあるだろう。誰しもある意識である。
そうこうしていると、ノーム・エルキースがフェルマーの最終定理に反例を挙げた。彼はオイラーの予想に反例を示した人物である。数論界では、谷山=志村予想が成り立つと仮定して証明されたものが何十もある。これは大事件である。しかし、この電子メールの発信は4月1日、回りまわって遅れて広まった。エイプリルフールというオチだ。
そろそろワイルズ自身、敗北を認める覚悟をする。最後の1ヶ月と決めて、失敗した原因を検証しているうちに、突然、欠陥の修正の足がかりを掴む。そして、楕円方程式の世界とモジュラー形式の世界が統一。数学の大統一である。これは、古代ギリシャ時代からの楕円方程式の古典的な未解決問題を、モジュラーの道具で再調査できるという快挙である。
4. 今後の数学界。
さて、次の難題はなんだろうか?本書はいくつか紹介してくれる。
素数の問題も、摩訶不思議な世界である。全ての偶数は素数の和で表現できるか?という問題はオイラーをもってしても証明できなかった。
ケプラーの球体充填問題の中で、ウーイー・シアンがケプラー予想の証明を発表した。これもまた欠陥があり、修正の修正を繰り返し混乱しているがシアン自身誤りを認めない。本書は、数学界がいかに自己管理制度に依存しているかを露呈している。
「トップクラスの大学に終身在職権を持つほどの教授がインチキな主張をするはずがなく、欠陥を指摘されれば、すぐに主張を撤回するだろう。という風習がある。」
実に明確で、自己理性の効いたすばらしい世界であるが、こうも述べている。
「自己管理制度を逆手に取る者は、長引く混乱を引き起こすことができるだろう。その人物の後をついてまわって、インチキな主張をするたびに化けの皮を剥がして回るほどの暇な人間はいないからである。」
現代は、これにマスコミが加担するなどの社会的問題があるものの、真の数学者は相手にしないのだ。真の有能な人物とは、無駄な事柄には関わらないのかもしれない。人生は短いのである。
ワイルズが純然たる論理を武器にしたのに対して、今後はエレガントな論証ではなく、力ずくの方法に頼ることになるだろう。これが「数学の堕落」と言われている。これはコンピュータ時代を反映しているのだろう。大まかなプログラムを数学者が作ると、遺伝アルゴリズムにより突然変異を起こし子プログラムが作り出される。これを繰り返し問題解決に至るように進化していく。目先の現象を数多く入力することで定理が得られると語られる。定理に対する真偽は答えられても、証明できない時代がくるのかもしれない。アル中ハイマーは、もう少し数学は芸術の領域に留まってほしいと願うのである。
さて、こうなると、フェルマー自身が本当に証明できていたのか?という疑問は残る。ワイルズにしても結局20世紀の手法に頼らざる得なかったわけだ。本当に17世紀の手法で解決できていたのか?そもそも350年前の証明は存在したのか?今も、オリジナルの証明法を発見して地位と名誉を得ようとしている数学者は多勢いるらしい。歴史ロマンは終わらない。酔っ払いの旅はまだまだ続く。すっかり気分を良くしたアル中ハイマーは、映画「ビューティフル・マインド」を観ながらもう一杯やることにしよう。
2007-05-13
"ディジタル数値演算回路の実用設計" 鈴木昌治 著
今年は、のんびり過ぎて気合が入らない。忙しい時には、やりたい事が次から次へと湧いてくる。暇だと何もする気が起きないとは、悲しい性である。やはり連休は仕事をしている方が性に合っているようだ。遊びに行こうにも、混雑に立ち向かう勇気などない。逆に、とことんぼーっとするのもおもしろいかもしれない。そして、朝から酒を食らい、どこまで眠れるか?実験するのである。おかげで腰やら肩が痛くて悲惨であるが、さわやかな連休であった。さて、前置きはこのぐらいにして本題に入ろう。
今回の連休テーマは「基礎を見直す」である。よって、ディジタル回路についても眺めてみることにした。いつか乗算器や除算器などの設計経験をまとめておこうと思っていたら、ちょうど良さそうな書籍があった。おかげでアル中ハイマーの出番は無くなった。これで安心して飲めるというものである。本書はディジタル回路設計の基礎編といったところだろう。やや数学的な厳密性は欠けるものの、イメージ的に捉えやすいので幸せな気持ちにしてくれる。
本書では、初等超越関数に逆数関数、正弦関数、対数関数を扱っている。
一次補間から二次補間、三次補間と級数展開をイメージしやすく記載されている。関数をテーブルを用いた直線補間で近似するなど、酔っ払いの題材としてはちょうどよい。
一次関数とは、さしずめ、ジャックデンプシーといったところだろうか。二次関数は、デンプシーに勝利した時の祝勝会で飲むノックアウトといったところである。三次関数は、アースクエイクということにしよう。おいらは"アブちゃんスキー"と呼んでいるやつだ。
級数展開とは、アル中ハイマーに近似されていく様を表している。
また、浮動小数点演算とIEEE754の意義を説明してくれるのも、流れ弾ではあるが、ありがたい。符号付の乗除算や浮動小数点演算など、できれば避けて通りたい領域でもそれほど抵抗感が無くなるのではないだろうか。こうした内容は専門雑誌を購読すれば断片的に拾えるが、一冊にまとまっているところも助かる。ただ、実装イメージを優先しているため、厳密な数学的解釈は別の本を読む方が良いだろう。このような基本書を読む事は馬鹿にはできない。特にアル中ハイマー病にはありがたいことである。
本書のおかげで、関数をテーブルで近似して遊んでみる気になった。
本書では、逆数関数を直線補間により、テーブル近似する方法が述べられているが、おいらは正弦関数で遊ぶことにしよう。まったく同じやり方ではおもしろくないので少々ひねってみるか。ついでに、octaveを使ってみるのも悪くない。実用的かどうかは別にして、このように手軽に遊べる材料を与えてくれた書籍に感謝するのである。
尚、お遊びの詳細は酔っ払いディオゲネスのページに任せることにしよう。
2007-05-06
"これなら分かる最適化数学" 金谷健一 著
本書は「これなら分かる応用数学教室」の姉妹書である。前書を読んだ時はウェーブレットを理解させてもらったので感謝を込めて本書も購入した。本書は「これなら分かる応用数学教室」ほどのインパクトは無かったが、それなりに理解した気になれたので幸せなのである。
おいらは学生時代から数学は嫌いである。授業となると大嫌いだった。こと科学分野は暗記教育であり、体感できる気がしないからである。試験となると公式のオンパレード。おいらは記憶できないからその場で公式を求めるところから始めなければならない。時間がかかるので大きなハンデである。
どうせ試験用に覚えた知識などリフレッシュサイクルの短い記憶領域にしか留まらない。よって身につくわけがない。こうして成績が悪いことを言い訳するのである。
物事の理解とは、ある程度の素人にでもくだいて説明できることを言うのではないかと思う。数学の先生は、実は数学を理解していない人が多いのではないかと疑問に思うことがある。少なくとも今まで受講したものは言っていることがよくわからないので質問すらできない。しかも、やたら公式で片付けられる。これは、しばしば見かける専門用語をやたら並べて難しく説明する評論家連中のようである。
そもそも理解できないのはアル中ハイマーが馬鹿だから仕方がない。しかし、最近理解させてくれるものもあるから不思議である。アル中ハイマー病の治療として、最初から数学をやりなおすのも悪くないと思う今日この頃である。ただ、少々遅すぎたようだ。フィールズ賞の年齢制限にひっかかってしまうのだ。アル中ハイマーは夢と現実の境界をさまようのである。
ここで取り上げる最適化手法とは、ある状態を最大あるいは最小にする設計手法である。この手法は、利益や損失を求めてリスク管理する場面などで使われているので少々興味がある。本書の前書きにもあるが、「オペレーションズリサーチ(OR)」という分野で用いられる。計算機が発達すると、複雑系を数値化し体系化する様々な手法が栄えるのだろう。プロジェクトマネジメントや戦略論など、その分野は多岐にわたる。最近では、情報通信技術の設計などにも使われる話をよく耳にする。
本書は、例題を用いた丁寧な解説がなされているものと思われる。酔っ払いにでも理解した気になれるからである。なによりも、まず数学的な基礎知識である曲線の法線ベクトルや固有値問題から始まるところがうれしい。
関数の極値を求める問題では、関数の移動方向に対して収束するまで繰り返す反復解法が基本であるが、その代表であるニュートン法を、また、関数を当てはめる問題では最小二乗法などを、前半部で取り上げてくれるのは、アル中ハイマーにでも少しは数学の記憶があることを認識できてうれしい。後半部では、生産ラインの運営効率や、ネットワークの経路解析、文字列の検索解析のような例を体感できるところがうれしいのである。しかし、うれしいことばかりではない。高度な数学的解釈もある。おいらには到底理解できないので読み飛ばすのである。アル中ハイマーは不幸な領域には近寄らないのである。
本書とは関係ないが。。。
複雑系の数値化と言えば、昨日ちょうど将棋チャンネルでコンピュータ将棋の解説をやっていた。3月に行われた渡辺竜王 vs. ボナンザである。チェスではコンピュータが勝ったようだが、将棋では竜王の圧勝だろうと思って大して気にもかけていなかった。しかし、なかなかの内容でおもしろい。
竜王もみっともない姿は見せられないというプライドがあったのだろう。きっちり対策してるように見える。上手く誘いながら予想通り圧勝かのように見えた。
そして妙なボナンザの指し手。実はこれが凄い読みの入った手だったのだ。それを、きっちりと読んで対応するあたりはさすが竜王である。なんて馬鹿馬鹿しい指し手だと思って、うっかり指すとやられてしまうような局面がいくつか見られた。
今回のボナンザは8CPU並列対応。竜王対策に全検索からポイント検索などアルゴリズムの改良もなされているという。いまや、現在のソフトウェアに、ハードウェアの進化で人間を凌駕できると開発者は言う。実際は、最初から予想されていた戦型通りになったり、終盤の評価などまだまだ問題点はありそうだが、少なくともプロ棋士がいつでも勝てるという内容ではない。
番組ではアルゴリズムの紹介も少なからずあった。形勢を評価する時は全ての駒の価値を数値化する。その駒のポテンシャルはもちろん、その駒の位置関係、動ける範囲、駒同士の連携のバランス、などなどを対象としている。そして、総合点で形勢判断するのだが、人間では予想もつかない評価をする。誰が見ても竜王が優勢だろうと思っている場面でも、ボナンザは互角とみてるところなど、現在の形勢評価をログで確認できる。しかも、その判断が絶妙であり、馬鹿馬鹿しい手に見えても、その奥の深さを教えてくれる。更に、ボナンザの読みをその場で対応してのけた渡辺竜王の凄さは感動ものである。ちなみに、渡辺竜王は小学生の頃から見た目が生意気そうだが、まあ棋士はそうした人が多いのだが、ブログを見ていても人間性が出ていて、おもしろく鋭い解説をしてくれるなど、なかなかの紳士で好感が持てる。最近は好きな棋士の一人である。
いまや、新手の発見手段としてコンピュータが使われる時代がきたのかもしれない。羽生世代が登場した頃は定跡破りで衝撃が走ったものだが、現在はコンピュータの登場による衝撃が走る。
