今日は選挙である。所詮参議院であるが既に期日前投票に行っている。
アル中ハイマーにもまだ社会的インセンティブが働くようだ。
投票を済ませたからには朝からベロンちゃんである。
アル中ハイマーには既に道徳的インセンティブは働かないようだ。
ブログの記事もそれらしいものを選びたい。と思っているとちょうど良い本を見つけた。既に読んだ本を読み返すのも経費の節約になる。
アル中ハイマーの経済的インセンティブは健在のようだ。
本書は本棚奥深く眠っていた。読んだ記憶が薄っすらとある。ちょうど読み返したいと思っていた名著である。読んだのは社会人になったばかりの頃だ。
現在16進数で20代だから。。。なーんだ!5年ぐらい前のことかあ!尚、年齢表記にはアルファベットを要する。
本書の冒頭には、執筆した動機は第一次大戦後の混乱を解明することにあったとある。いかにも、アル中ハイマーが喰いつきそうな台詞である。「世論」は1922年に刊行された歴史的な名著古典と言われるだけあって当時の洞察力には感心させられる。分類すると社会学になるのだろうが、心理学の面かもら考察され、時には歴史を感じ、哲学にも通ずる。何よりも凄いところは、現代に照らし合わせてもまったく違和感がない。世論を動かす情報のあり方や民主主義の特性などがよく描かれている。リップマンが将来予測をしていたかどうかはわからないが、今生きていたら自画自賛していたことだろう。本書のように昔から名著として読まれつづけているものは真理を語っているからであろう。古典に親しむのもなかなかおもしろい。有名な本だけに、著名なジャーナリストや社会学者、政治家が読んだことだろう。その結果できたものが、今の情報社会であり政治社会ということかあ。なんとも皮肉に思えて酔っ払いには理解できない世界である。本書の内容を記事にまとめるのは至難の業である。重たい本だからである。しかし、記事にしてみると意外とシンプルになってしまった。そもそもアル中ハイマーに重たいものを記憶できようはずもない。
では、少し酔いが覚めたところで気まぐれで章立ててみよう。
1. 擬似環境
本書は、人の行動と心理のメカニズムを「擬似環境」という言葉で関連付けている。それは、事実から乖離したイメージ環境のようなものを作り上げるということである。世界の出来事などは、情報の時間差もあれば、発信者の主観が入り込むなどの要因から擬似環境が生じる。人の行動は、この擬似環境に影響を受けるが、現実との乖離が大きいほど矛盾が生じる。人間が物事をイメージする際、見て定義するのではなく、定義してから見ると語られるあたりは、説得力のある考察だと感心する。人間は、体験から虚構な世界を作りあげる性質があるのだろう。おいらのような馬鹿には、まず情報を解読する前に下準備が必要である。即座に反応できないからである。その時点ですでに虚構の世界をさまよっている。人間は単純な性質を好む。ほとんどの事柄について自己分析した結果、単純にモデル化してしまいがちである。
2. ステレオオタイプ
人間がイメージをつくる際、ある種の固定概念によってイメージが左右されることはよくあることだ。こうした状況を社会学ではステレオタイプと呼ぶ。多くの人々が、同じ考えや態度や見方を共有している状態になり、ある種の紋切型態度をとってしまう。この固定概念が擬似環境と結びついて、都合の良い情報を取り入れたり偏見が生じるといった、世論が加速する状態を生み出す。世論はステレオタイプに初めから汚染されているものと考える必要がありそうだ。しかし、ステレオタイプは政治情報の乏しい一般人にとって時間を節約してくれる役目もある。盲目とは、時間を節約して気楽に酔っ払えることを意味している。本書は、このような特性を古い世代の経済学者によって無邪気に規格化されてきたと、当時の経済神話を語ってくれる。また、歴史上の考察もおもしろい。歴史上の善悪を語ったものに、過去を客観的に考察しているものはほとんどないと述べている。民族間で起きた揉め事が感情的に言い伝えられるのは、時間観をご都合主義にしている典型であろう。当時の出来事を今の道徳観で裁定することはよく見かける。もしアル中ハイマーに、歴史上の条件がそのまま降りかかったとしたら、果たして当時の人間の行為を批判できるような行動を取れるだろうか?仮に最新鋭の道徳観で武装していたとしてもである。
3. 民主主義
本書は、当時の民主主義のあり方や風潮を語ってくれる。当時は、人々が公共の事柄について有効な意見をもっていなければならないという夢物語のような社会が弁じられていた様が語られる。民主主義者たちは、報道界こそ、こうした補完機能を持つものだと信じていたようだが今と変わっていない。
著者曰く。
「私は主張したい。政治とふつう呼ばれているものにおいても、あるいは産業と呼ばれるものにおいても、選出基盤のいかんによらず、決定を下すべき人々に、見えない諸事実をはっきり認識させることのできる独立した専門組織がなければ、代議制に基づく統治形態がうまく機能することは不可能である。」
当時のジャーナリズムは、適切な世論作りには不完全であり、むしろ健全性が損なわれていると攻撃している。果たしてマスコミが第三者機関になりうるだろうか?現在もまた、自己主張を煽り、正義の味方を気取るマスコミや評論家連中がいるように感じるのは、きっとアル中ハイマーが世の中に悪酔いしているからに違いない。
4. 結び
著者は、本書の結びの章で、世論の発生がいかに政治や社会を正常化する方向に結び付けられるか、数々の問題に対する結びとして最後に何を語るべきか、について悩んだ様を語ってくれる。アル中ハイマーも、これほどの重たい本の結末をどう処理するか期待していたところである。いろいろとネタを用意していたようだが、結局「理性」に訴えるしかない。と片付けている。最も単純で最も難しい結論に達しているように思える。確かに、真の政治家や指導者というものが判別できれば、理性という言葉には説得力がある。しかし、その判別は所詮無理であろう。本書も政治に理性を求めるのは不可能であると悲観的見解を述べている。と同時に、希望を持つべきであると励ましているかのようにも思える。思ったより簡単に片付けられているのは拍子抜けである。しかし、これだけ重たい文献に対して、「理性」の一言をぶつけるあたりは、逆に本書の価値を高めているように思える。生物遺伝子は突然変異するものである。現在が悲観的だからといっても、もしかしたら人間が突然変異し楽観的な結論に達するかもしれない。コクのあるスコッチも酒樽で長く眠っている間に熟成される。社会だって熟成されて突然変異する可能性だってないとは言えない。
最後に、題目「世論」について、酔っ払いの見解も語らずにはいられない。そもそも世論はどうやって発生するのだろう。人間は、あらゆるものに興味を持つ。退屈しない生活を求めるのである。意外性があってはじめてニュースの価値が上がる。よって、世論が盛り上がるのも、その変化に富んだものに向けられ、慣れ親しむと廃れてしまう。世論が維持される期間は極めて短いのである。政治家やマスコミが正義感たっぷりに主張する時、例外なく主語に「国民は」という言葉を添える。まあ、国民という言葉は幅広いし、議員や、マスコミも国民であることに間違いはない。ここで、ジャーナリズムの本質について語っていると思われる個所があったので付け加えておく。
「ニュースのはたらきは、一つの事件の存在を合図することである。真実のはたらきは、そこに隠される諸事実に光をあて、相互に関連付け、人々がそれを拠り所にして行動できるような現実の世界を描き出すことである。これらが一体化した時、世論の力が発揮される。」
健全な世論の形成はありうるだろうか?一つは子供の頃からの教育にかかっている。ということは、大人では変化できないということか。いつのまにか本書と同じ悲観論に達している。
ということで結論は、世論は擬似環境に左右されつつ、あっちの店が良いか、こっちの店が良いか揺れ動く。千鳥足でさまよった挙句、虚しく帰路につく。目が覚めると記憶が辿れない。そこには、携帯番号付きの妙な名刺が目の前に散りばめられている。こうして擬似環境は忘れられていく運命にある。
Contents
- 2007-07-29 "世論(上/下)" Walter Lippmann 著
- 2007-07-23 "Fedora7で作る最強の自宅サーバー" 福田和宏 著
- 2007-07-22 "あやつられた龍馬" 加治将一 著
- 2007-07-15 "石の扉" 加治将一 著
- 2007-07-08 "獄中からの手紙" ローザ・ルクセンブルク 著
- 2007-07-01 "絞首台からのレポート" ユリウス・フチーク 著
- 2007-06-24 "人を動かす「韓非子」の帝王学" 中島孝志 著
- 2007-06-17 "行動経済学" 友野典男 著
- 2007-06-10 "早わかり物理50の公式" 岡山物理アカデミー 編
- 2007-06-03 "これならわかるC++" 小林健一郎 著
2007-07-29
2007-07-23
"Fedora7で作る最強の自宅サーバー" 福田和宏 著
いつのまにか名前がfedora coreからfedoraになっている。
extraパッケージがcoreと一体化したからのようだ。アップデートするのも面倒だけど、LiveCDとかいうのにつられて買ってしまった。インストールしなくてもCDで起動して遊べるからおもしろい。でも飽きちゃった。どうせインストールするからどうでもええのである。
では、!さっそくインストール!
ありゃ!GUIで任意のポートのセキュリティレベルが反映されないぞ!
まあー!コマンドでやりゃええんだけど。
おおー!バグジラに情報が載っている。
ほおー!セットアップ時の設定は反映されるんだ。
ほんで!これをインストール後に動かすには。これで良さそうだ!
なんか!SELinuxの思想が変わってそうだなあ。
んんー!今のところKernel Panicが出ない。機嫌はよさそうだ。
ちなみに、おいらの頭はいつもKernel Panic !!!である。
本書は入門書でとても丁寧に書いてくれるので、アル中ハイマー病にはうれしいのである。ただ、ほとんど読んでいない。いままでの設定で動かないはずもなく、困った時にはきっと活躍するだろう。
さあ、サーバテストをしよう。やはり夜の社交場から覗かないとテストとは呼べないのである。
extraパッケージがcoreと一体化したからのようだ。アップデートするのも面倒だけど、LiveCDとかいうのにつられて買ってしまった。インストールしなくてもCDで起動して遊べるからおもしろい。でも飽きちゃった。どうせインストールするからどうでもええのである。
では、!さっそくインストール!
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まあー!コマンドでやりゃええんだけど。
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ほおー!セットアップ時の設定は反映されるんだ。
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んんー!今のところKernel Panicが出ない。機嫌はよさそうだ。
ちなみに、おいらの頭はいつもKernel Panic !!!である。
本書は入門書でとても丁寧に書いてくれるので、アル中ハイマー病にはうれしいのである。ただ、ほとんど読んでいない。いままでの設定で動かないはずもなく、困った時にはきっと活躍するだろう。
さあ、サーバテストをしよう。やはり夜の社交場から覗かないとテストとは呼べないのである。
2007-07-22
"あやつられた龍馬" 加治将一 著
本書は「石の扉」に続いてフリーメーソンの物語である。
著者は、幕末の志士達とフリーメーソンの関わりを示した歴史書のつもりかもしれないが、アル中ハイマーには推理小説ばりでなかなかおもしろい。そこには、坂本龍馬がなぜ暗殺されたか?仕組んだ奴は誰か?その状況証拠を順に暴いていく。
龍馬といえば幕末時代。日本の大改革の時代として語られる文献も多い。ただ、アル中ハイマーはこの時代にいまいち興味がもてない。昔読んだ本の影響だろう。無理に美化された印象があり説得力を欠くからである。政治の泥臭い部分をさらけ出して歴史のこくが出るというものである。本書は、そうした印象を違った角度から見直させてくれるのでアル中ハイマーには意義深い。
物語は、龍馬暗殺事件で一般的に語られる歴史に矛盾を呈するところから始まる。龍馬には二階奥の部屋に陣取り刺客対策をしているなど危機管理意識があった。にも関わらず抵抗した形跡がないなど不自然なところが多い。周囲の証言も矛盾だらけだという。これは、誰も真相が語れない大きな力が存在するのではないかと示唆している。
そして、龍馬の行動を追っていく。龍馬の脱藩は特殊任務であり諜報活動であったことが語られる。武士の世界では、脱藩は重大犯罪であり罪は家族にまで及ぶ。しかし、土佐藩からはお咎めなし。藩内にも自由に出入りできた。これはいかにも奇妙である。また、龍馬のような下級武士が、いきなり歴史の表舞台に現れること自体が疑問であるという。幕末の志士に歴史のロマンを感じたり憧れを描いている人は衝撃を受けるかもしれない。ただ、明治維新のような時代に数々の陰謀が取り巻いてもなんら不思議はないのである。
時代背景は、幕末の志士達は欧州列強から国を守ろうとした。自由貿易で近代文化を取り入れる必要があり開国へと走った。英国もまた自由貿易により影響力を増したかった。英国から見れば、幕末の志士達は反体制テロリストにでも見えたことだろう。武士の魂を葬り東洋の島国を転覆させようなどと考えていただろう。いずれにせよ、双方とも攘夷派を一掃しようと考え利害関係は一致していた。これは一般的な歴史が示している通りである。数々の歴史本では、幕末の志士達は西欧の自由や平等という価値観に憧れたことが語られるが、フリーメーソンが持つ神秘性となんとなくつながりそうだ。また、同じ島国でもある世界最強の大英帝国に学びたいと憧れたりもしただろう。大英帝国こそ大日本帝国の産みの親かもしれない。
では、その黒幕とは?「石の扉」でも取り上げたトーマス・グラバーである。幕末の志士達が英国へ留学できたのもグラバーの支援による密航であると語られる。
幕末当時活躍した藩と言えば、薩摩藩と長州藩だろう。おいらは、幕末の大改革に、なぜ遠く離れた薩摩藩が主役になれたのかという疑問を持っていた。江戸時代の藩の収入は石高で決まる。貿易でも収入を得ていた薩摩藩は自由貿易の大切さを知っている。外国と密かに交流していたからには情報の優位性もあったであろう。薩摩藩と言えば、西郷隆盛が主役で、島津斉彬、大久保利通などとつづくが、大阪実業界トップにも君臨した五代友厚の扱いは地元では低いらしい。本書では、五代がグラバーの秘密工作員だったという仮説を述べている。グラバー邸は、倒幕の志士たちの隠れ家となっており、五代もその一人であるという。実は幕府と倒幕派には秘密ルートがあったこと、倒幕派でも武闘改革派と無血改革派があり、これら全てがグラバーで結びつく様子が語られていく。
五代の活躍に生麦事件の処理を紹介している。
薩摩藩の大名行列に英国人が通りかかったところを藩士が無礼打ちした事件である。この代償に軍船を明渡した疑いがある。西洋の近代兵器と戦ったところで勝ち目がないと見て、頑固な薩摩藩の意地を立てて密かに英国と取引したものである。
長州藩については下関事件を取り上げている。
歴史では、和平交渉が決裂し英仏米蘭の連合艦隊に一斉砲撃したことになっている。しかし、実は和平交渉は儀式であり英国側の真意は攘夷派撲滅の口実がほしかっただけだったという。平和を求めたが蹴られたという既成事実を完璧に演出したのである。これは欧米の伝統的手法なのか?酔いがまわってきたせいか真珠湾とイラクを思い重ねてしまう。
やはり外交手法については、日本は伝統的に遊ばれているようだ。日本の政治が三流と言われる原因は外交交渉だけではないだろうが、民主主義の世界では、政治的に優位に運ぶためには要望だけでは戦術にならない。無理やりにでも何らかの正当と思わせる理由が必要である。それが議会を動かす力であり他国への説得力である。理由付けを作る諜報活動も民主主義が生み出した高等技術と言えるだろう。現に英国は幕府側の人間ともうまく情報交換していたらしい。表向きは中立の立場をとっていたが諜報活動に余念がない。結果的に幕府側は英国の術中に嵌った。さすが最先端の民主主義国家である。英国政府は、誇り高き武士に気づかれなぬよう、あくまでも秘密裏に事を起こしている。本書は、明治維新を起こさせたグラバーとアーネスト・サトウの英国諜報ラインを暴いた感じである。各藩を倒幕派に走らせた駐日英国公使ハリー・パークスの巧みな倒幕工作と合わせて語られる。日本中を軍艦で脅し回って、残ったのは会津、長岡、南部、二本松などいずれも内陸で英国軍艦を目撃できない所か、海に面していても英国軍艦が立ち寄れない小港をかかえる藩である。歴史は英国の武力に屈した感がある。
いよいよ、龍馬暗殺事件の結末に迫る。
本書は、薩長同盟における坂本龍馬の影響がどれほどあったのか?疑問を投げる。そもそも脱藩した下級武士がそれほどの仲介ができるのか?やはり黒幕はグラバーということになる。
歴史では、坂本龍馬と中岡慎太郎の2人は京都近江屋に滞在中、京都見廻組に襲撃されたことになっている。免許皆伝の凄腕の二人が反撃の間を与えずに暗殺されている。龍馬に至っては拳銃を撃つ暇も与えていない。また、隊長がやられたというのに事件直後陸援隊も海援隊も騒いでいない。本書は改革派が分裂していた仮説を持ち出す。無血改革派と武闘改革派の対立である。目的が一致しても方法論をめぐって対立することはよくある。
まあ、そんな内輪揉めはいいとして肝心の2人を暗殺した奴は誰やねん?
なにー!ジェフリー・アーチャーばりじゃん!
なぜそう思ったかって?たまたま「ケインとアベル」を観ただけのことで特に意味はない。
本書は、幕末の志士の誰がフリーメーソンだったかという証拠はないが、フリーメーソンによって影響されたのは確かであると語られる。いったい明治維新とは日本人にとってなんだったのか?「君が代」の元曲でさえ英国人の作曲であるとしめくくっている。
日本は大英帝国にあやつられて近代化した様子が語られているのだが、見解はもう一つあるだろう。日本が大英帝国を逆利用したとは取れないだろうか。この時代、西欧のご都合主義で、植民地化が進む中国人は正直者で、自立を目指した日本人は信用ならないというのを昔本で読んだのを思い出す。
W.リップマンは書籍「世論」の中で、陽気なアイルランド人、論理的なフランス人、規律正しいドイツ人、無知なスラブ人、正直な中国人、信用ならない日本人、などの固定概念を持っていると記している。
本書を読んで日英同盟までの歴史は描かれた筋書きのように思える。英語が国際語となったのは第二次大戦で米英が勝ったからと言う人も多いだろうが、キリスト教の宣教活動とフリーメーソンの役割は大きいだろう。本書で語られる数々の仮説が全ての矛盾を解明しているとは到底思えない。ただ、一般的に語られる歴史よりも説得力を感じるのは、アル中ハイマーがただの酔っ払いだからかもしれない。
著者は、幕末の志士達とフリーメーソンの関わりを示した歴史書のつもりかもしれないが、アル中ハイマーには推理小説ばりでなかなかおもしろい。そこには、坂本龍馬がなぜ暗殺されたか?仕組んだ奴は誰か?その状況証拠を順に暴いていく。
龍馬といえば幕末時代。日本の大改革の時代として語られる文献も多い。ただ、アル中ハイマーはこの時代にいまいち興味がもてない。昔読んだ本の影響だろう。無理に美化された印象があり説得力を欠くからである。政治の泥臭い部分をさらけ出して歴史のこくが出るというものである。本書は、そうした印象を違った角度から見直させてくれるのでアル中ハイマーには意義深い。
物語は、龍馬暗殺事件で一般的に語られる歴史に矛盾を呈するところから始まる。龍馬には二階奥の部屋に陣取り刺客対策をしているなど危機管理意識があった。にも関わらず抵抗した形跡がないなど不自然なところが多い。周囲の証言も矛盾だらけだという。これは、誰も真相が語れない大きな力が存在するのではないかと示唆している。
そして、龍馬の行動を追っていく。龍馬の脱藩は特殊任務であり諜報活動であったことが語られる。武士の世界では、脱藩は重大犯罪であり罪は家族にまで及ぶ。しかし、土佐藩からはお咎めなし。藩内にも自由に出入りできた。これはいかにも奇妙である。また、龍馬のような下級武士が、いきなり歴史の表舞台に現れること自体が疑問であるという。幕末の志士に歴史のロマンを感じたり憧れを描いている人は衝撃を受けるかもしれない。ただ、明治維新のような時代に数々の陰謀が取り巻いてもなんら不思議はないのである。
時代背景は、幕末の志士達は欧州列強から国を守ろうとした。自由貿易で近代文化を取り入れる必要があり開国へと走った。英国もまた自由貿易により影響力を増したかった。英国から見れば、幕末の志士達は反体制テロリストにでも見えたことだろう。武士の魂を葬り東洋の島国を転覆させようなどと考えていただろう。いずれにせよ、双方とも攘夷派を一掃しようと考え利害関係は一致していた。これは一般的な歴史が示している通りである。数々の歴史本では、幕末の志士達は西欧の自由や平等という価値観に憧れたことが語られるが、フリーメーソンが持つ神秘性となんとなくつながりそうだ。また、同じ島国でもある世界最強の大英帝国に学びたいと憧れたりもしただろう。大英帝国こそ大日本帝国の産みの親かもしれない。
では、その黒幕とは?「石の扉」でも取り上げたトーマス・グラバーである。幕末の志士達が英国へ留学できたのもグラバーの支援による密航であると語られる。
幕末当時活躍した藩と言えば、薩摩藩と長州藩だろう。おいらは、幕末の大改革に、なぜ遠く離れた薩摩藩が主役になれたのかという疑問を持っていた。江戸時代の藩の収入は石高で決まる。貿易でも収入を得ていた薩摩藩は自由貿易の大切さを知っている。外国と密かに交流していたからには情報の優位性もあったであろう。薩摩藩と言えば、西郷隆盛が主役で、島津斉彬、大久保利通などとつづくが、大阪実業界トップにも君臨した五代友厚の扱いは地元では低いらしい。本書では、五代がグラバーの秘密工作員だったという仮説を述べている。グラバー邸は、倒幕の志士たちの隠れ家となっており、五代もその一人であるという。実は幕府と倒幕派には秘密ルートがあったこと、倒幕派でも武闘改革派と無血改革派があり、これら全てがグラバーで結びつく様子が語られていく。
五代の活躍に生麦事件の処理を紹介している。
薩摩藩の大名行列に英国人が通りかかったところを藩士が無礼打ちした事件である。この代償に軍船を明渡した疑いがある。西洋の近代兵器と戦ったところで勝ち目がないと見て、頑固な薩摩藩の意地を立てて密かに英国と取引したものである。
長州藩については下関事件を取り上げている。
歴史では、和平交渉が決裂し英仏米蘭の連合艦隊に一斉砲撃したことになっている。しかし、実は和平交渉は儀式であり英国側の真意は攘夷派撲滅の口実がほしかっただけだったという。平和を求めたが蹴られたという既成事実を完璧に演出したのである。これは欧米の伝統的手法なのか?酔いがまわってきたせいか真珠湾とイラクを思い重ねてしまう。
やはり外交手法については、日本は伝統的に遊ばれているようだ。日本の政治が三流と言われる原因は外交交渉だけではないだろうが、民主主義の世界では、政治的に優位に運ぶためには要望だけでは戦術にならない。無理やりにでも何らかの正当と思わせる理由が必要である。それが議会を動かす力であり他国への説得力である。理由付けを作る諜報活動も民主主義が生み出した高等技術と言えるだろう。現に英国は幕府側の人間ともうまく情報交換していたらしい。表向きは中立の立場をとっていたが諜報活動に余念がない。結果的に幕府側は英国の術中に嵌った。さすが最先端の民主主義国家である。英国政府は、誇り高き武士に気づかれなぬよう、あくまでも秘密裏に事を起こしている。本書は、明治維新を起こさせたグラバーとアーネスト・サトウの英国諜報ラインを暴いた感じである。各藩を倒幕派に走らせた駐日英国公使ハリー・パークスの巧みな倒幕工作と合わせて語られる。日本中を軍艦で脅し回って、残ったのは会津、長岡、南部、二本松などいずれも内陸で英国軍艦を目撃できない所か、海に面していても英国軍艦が立ち寄れない小港をかかえる藩である。歴史は英国の武力に屈した感がある。
いよいよ、龍馬暗殺事件の結末に迫る。
本書は、薩長同盟における坂本龍馬の影響がどれほどあったのか?疑問を投げる。そもそも脱藩した下級武士がそれほどの仲介ができるのか?やはり黒幕はグラバーということになる。
歴史では、坂本龍馬と中岡慎太郎の2人は京都近江屋に滞在中、京都見廻組に襲撃されたことになっている。免許皆伝の凄腕の二人が反撃の間を与えずに暗殺されている。龍馬に至っては拳銃を撃つ暇も与えていない。また、隊長がやられたというのに事件直後陸援隊も海援隊も騒いでいない。本書は改革派が分裂していた仮説を持ち出す。無血改革派と武闘改革派の対立である。目的が一致しても方法論をめぐって対立することはよくある。
まあ、そんな内輪揉めはいいとして肝心の2人を暗殺した奴は誰やねん?
なにー!ジェフリー・アーチャーばりじゃん!
なぜそう思ったかって?たまたま「ケインとアベル」を観ただけのことで特に意味はない。
本書は、幕末の志士の誰がフリーメーソンだったかという証拠はないが、フリーメーソンによって影響されたのは確かであると語られる。いったい明治維新とは日本人にとってなんだったのか?「君が代」の元曲でさえ英国人の作曲であるとしめくくっている。
日本は大英帝国にあやつられて近代化した様子が語られているのだが、見解はもう一つあるだろう。日本が大英帝国を逆利用したとは取れないだろうか。この時代、西欧のご都合主義で、植民地化が進む中国人は正直者で、自立を目指した日本人は信用ならないというのを昔本で読んだのを思い出す。
W.リップマンは書籍「世論」の中で、陽気なアイルランド人、論理的なフランス人、規律正しいドイツ人、無知なスラブ人、正直な中国人、信用ならない日本人、などの固定概念を持っていると記している。
本書を読んで日英同盟までの歴史は描かれた筋書きのように思える。英語が国際語となったのは第二次大戦で米英が勝ったからと言う人も多いだろうが、キリスト教の宣教活動とフリーメーソンの役割は大きいだろう。本書で語られる数々の仮説が全ての矛盾を解明しているとは到底思えない。ただ、一般的に語られる歴史よりも説得力を感じるのは、アル中ハイマーがただの酔っ払いだからかもしれない。
2007-07-15
"石の扉" 加治将一 著
立ち読みをしていると、なんとなく懐かしいキーワードにぶつかった。フリーメーソンである。フリーメーソン、ユダヤ、世界大金融といえば、陰謀めいたものを感じて一昔前に興味を持ったことがある。
本書は陰謀説とは少し離れて柔らかい感じがする。フリーメーソン紹介書といったところだろう。冒頭から事実に基づくとある。信憑性があるかどうかは意見が分かれそうだが、読み物としてはなかなかおもしろい。記事にするからには買ってしまうのだ。
フリーメーソンは、世界最古にして最大の秘密結社である。
思想は、自由、救済、真理、平等、友愛。思想信条を一つにすることもなく強制もない。宇宙には人間の及ばないなにか至高なるものがあって、それを神と呼び、その存在を信じている。どこの宗教の信者も問わない。守るべき戒律はない。
アル中ハイマーは、なんとなく高度な理性と秩序に支配された世界であるという印象を持っている。宗教の香りもするが、宗教は愛も育てるが憎しみも育てるので簡単には説明がつかない。
なぜ、秘密組織が何百年も続いているのか?なぜフリーメーソンが世界を動かしていると噂されるのか?世界に400万人のメンバーを有し共通の掟を持っている。そんな大人数で何をやっているのか?
世界征服、ユダヤの陰謀、カルト教団、更には宇宙人の侵略などいろいろと噂される中で、本書はこれらの陰謀めいた話を否定する。フリーメーソンというだけで暗号やサインで互いに分かち合えれば、世界各国で要人を紹介してもらったり、VIP待遇もあるというから興味を持たざるをえない。さっそく、酔っ払い気分で勝手に章立ててまとめてみることにしよう。なぜかって、そこに泡立ちの良いビールがあるから。
1. その語源
フリーは自由。メーソンは石工。欧州の街並みは、城、教会、家などの建物から、道路、橋、水道というインフラまで石造りで埋め尽くされる。石こそ国家の要であり、石工は重要な位置付けにあった。城などは国家の最新鋭防衛システムであり、石工のマスター(親方)は国防の重要人物である。石工のマスターを束ねるグランドマスターは国防長官といったところだろう。あの荘厳なゴシック建築を見れば圧倒される。石工も馬鹿にはできないのである。言い伝えによると、初代グランドマスターは世界一栄華を極めていたイスラエルの王、ソロモン王だったらしい。ただし、史実上の裏づけがなくメーソンの経典に書いてるだけである。こうした話から、ユダヤ教を崇拝し、ユダヤ陰謀説などとこじつけられる材料とされるのだろう。いずれにせよ、ユダヤ教、キリスト教の影響を受けているのは確かなようだ。また、フリーは自由と訳すよりは、免除と訳すべきらしい。税金の免除など、数々の特権が与えられたという意味で捉えるべきのようだ。よって、フリーメーソンとは、上級資格をもった石工という意味である。
2. その原形
国家事業として建設を行う場合、石工職人を募る必要がある。この時、資格制度があれば職人の区分けが容易い。これがフリーメーソンの原形であるという。職人の区別は階級で管理される。この資格を売買する輩もいたので極刑で管理されていたようだ。この管理体制、階級体制がピラミッド型になっている。こうしたことから、ピラミッドはフリーメーソンが建設したと主張する人もいるようだが決定的証拠はない。本書もピラミッド建設にフリーメーソンが関わっているという仮説を支持している。そもそもフリーメーソンの性格からして証拠が残されている方がおかしいという。
しかし、統制が確立している組織とは、だいたいがピラミッド型の管理体制になっていると思うのはアル中ハイマーだけだろうか?
ピラミッドは王の墓ではなく公共事業であったという考えはほぼ定着している。では何のために?本書は、何かの儀式を行うための館だったのではないかという仮説をたてている。フリーメーソンのロッジは世界中に散らばっているが、エジプトゆかりの名前を冠したものが多く見られるらしい。なんとなく古代エジプトとの関わりはありそうだ。
3. 十字軍との関わり
素人目に見ても、宗教との関わりがありそうなことは薄々感じる。イスラム教もキリスト教も古代エジプトのイシス信仰を受け継いでいるので関わりがあるだろう。本書でも、イスラム教対キリスト教の構図として十字軍を取り上げている。騎士団は12世紀以降のヨーロッパで発生した強固な結社であり、背景はいずれも反イスラムである。三大騎士団と言えば、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団。テンプル騎士団は、なぜ秘密結社という形態にこだわったのか?彼らの儀式や集会の秘密性。これは独特な世界観を植え付ける心理的作用があるという。武士でも似た面があるが、騎士としての気品の高さだろうか。人間は、あらゆる面で他人より高貴であると思いたいのだろう。ブランド志向や、社会的地位を求めるなどはその典型である。高貴と言われる世界には必ず儀式が存在する。天皇家に見られる儀式も、日常からは遮断されているがゆえに気品が保たれていると言っていいかもしれない。気品とは一般人との差別意識ということか?差別化の度合いは一般社会との乖離度に比例すると述べている。例えば、ゲリラや犯罪組織など、儀式が反道徳的であればあるほど仲間の結束も固い。ロッジを創ることは、餓鬼の頃、仲間で秘密の隠れ家などを作って遊んだ感覚と似ている。本書は、フリーメーソンとテンプル騎士団の共通性について語り、深い関わりを持っていたのではないかという仮説を立てている。十字軍は、ユダヤ人勢力も目障りであった。イスラム教だけでなく、その矛先は旧約聖書を掲げるユダヤ教にも向けられた。ゆえに、ユダヤ人は秘密裏に集会を行い、フリーメーソンという隠蓑を使って差別主義をかわしたという仮説も立てている。
4. 明治維新との関わり
本書は、坂本竜馬の雄大にしてトリッキーな行動はいったいどこから生まれたのか?と疑問を投げる。幕末から明治にかけて活躍した西郷隆盛、高杉晋作、伊藤博文、桂小五郎、五代友厚、岩崎弥太郎らを追っていくと同一人物に辿り着くというのである。ちなみに勝海舟ではない。竜馬が日本初の商社を長崎に設立したことにしても小曾根英四郎の援助があったからで竜馬の人間性をかったとものの本では片付けられるが本書はそうはいかない。竜馬が長崎に滞在した期間から会社設立までの期間が異常に短いこと、竜馬の知名度からして行動のスケールが大きすぎることから、黒幕の存在を指摘する。長崎といえばグラバー邸。明治維新最大の黒幕はトーマス・グラバー。グラバーの封建社会打倒という理念から利害関係が一致したので竜馬を利用したと語られる。著者は、グラバーの生地はスコットランドで、彼はフリーメーソンであると確信していると熱く語る。このあたりは、一生懸命証拠立てして解明しようとしている苦労が伝わるので推理小説のように読める。ちなみに、黒船で来航したペリーもフリーメーソン。終戦のミズーリ艦で調印した時、ペリーが掲げた星条旗を持ち込んだのも、マッカーサーがフリーメーソンだからであると述べている。日本の首相にも。。。あらゆるところにフリーメーソンはいる。プロスポーツ界にも多い。
5. 1ドル札
1ドル札にピラミッドが描かれている。他国の文化遺産がなぜ米国の紙幣に使われるのか?これぞフリーメーソンの象徴なのだという。これは「全能の目」という章で語られているが、その解釈はおもしろい。1ドル札にラテン語でつづられた以下の文章。
「NOVUS ORDO SECLORUM」 新しい世紀の秩序!
「ANNUIT COEPTIS」 我々の計画に同意せよ!
という意味らしい。この2つの文章がピラミッドを囲んで円を描くように配列されている。そこにダビテの星を描くと、ちょうど星の5つの頂点にM,A,S,O,N (メーソン)が重なる。へー!
本書は、アメリカ合衆国、EUも総じてメーソン国家で、フィリピン、ブラジル、アルゼンチンもそうだと言っている。スウェーデンに至っては王室とメーソンがダブっているとまで言っている。歴代の米国大統領にフリーメーソンが多い。ナポレオンもフリーメーソンだったのではないかという歴史家がいる。
本書は全般的にフリーメーソンの行儀の良いところを取り上げている。しかし、これだけの人数がいる以上は、行儀の悪い面もあるはずである。その一つを紹介してくれる。P2事件(プロパガンダ2)。これはイタリア映画「法王の銀行家」で公開されているらしい。複雑に絡み合った陰謀を銀行家を通して描いているのだそうだ。おいらは観ていない。
集団には、その理念がどんなにすばらしくても一部で傲慢な連中が育つ。エリートと称して思い上がって世界金融を支配しようと思っても不思議ではない。時々、フリーメーソンと世界金融の支配を重ねて論じるものを見かける。本書でも、秘密主義で自分達をエリートと思い上がり傲慢になる危険性を述べているが、世界征服など物理的に不可能だと言っている。確かにそうかもしれない。ただ、物理的に不可能だからといって抑止力にはならない。思い上がれば可能性を肯定するだろう。これはフリーメーソンだからというのではなく、秘密主義を共有しエリート集団であると自己認識したときに傲慢さが生まれる。これは人間の真理だろう。こうしたタイプの人間は、特に政治家や官僚など地位のある所に多いように思える。俺が世話してるんだ!俺が金出してるんだ!人間とはそのように変貌するものだ。
特にアル中ハイマーは秘密の会合で有頂天になりやすい。フリーメーソンの理念を見習うべきである。さっそく秘密の場所に行って酒を酌み交わし情報交換をするとしよう。
ただ、その場所をロッジとは言わない。クラブと言っている。
ちょうど案内状が届いている。そこには暗号文で「浴衣祭り」と書いてある。
本書は陰謀説とは少し離れて柔らかい感じがする。フリーメーソン紹介書といったところだろう。冒頭から事実に基づくとある。信憑性があるかどうかは意見が分かれそうだが、読み物としてはなかなかおもしろい。記事にするからには買ってしまうのだ。
フリーメーソンは、世界最古にして最大の秘密結社である。
思想は、自由、救済、真理、平等、友愛。思想信条を一つにすることもなく強制もない。宇宙には人間の及ばないなにか至高なるものがあって、それを神と呼び、その存在を信じている。どこの宗教の信者も問わない。守るべき戒律はない。
アル中ハイマーは、なんとなく高度な理性と秩序に支配された世界であるという印象を持っている。宗教の香りもするが、宗教は愛も育てるが憎しみも育てるので簡単には説明がつかない。
なぜ、秘密組織が何百年も続いているのか?なぜフリーメーソンが世界を動かしていると噂されるのか?世界に400万人のメンバーを有し共通の掟を持っている。そんな大人数で何をやっているのか?
世界征服、ユダヤの陰謀、カルト教団、更には宇宙人の侵略などいろいろと噂される中で、本書はこれらの陰謀めいた話を否定する。フリーメーソンというだけで暗号やサインで互いに分かち合えれば、世界各国で要人を紹介してもらったり、VIP待遇もあるというから興味を持たざるをえない。さっそく、酔っ払い気分で勝手に章立ててまとめてみることにしよう。なぜかって、そこに泡立ちの良いビールがあるから。
1. その語源
フリーは自由。メーソンは石工。欧州の街並みは、城、教会、家などの建物から、道路、橋、水道というインフラまで石造りで埋め尽くされる。石こそ国家の要であり、石工は重要な位置付けにあった。城などは国家の最新鋭防衛システムであり、石工のマスター(親方)は国防の重要人物である。石工のマスターを束ねるグランドマスターは国防長官といったところだろう。あの荘厳なゴシック建築を見れば圧倒される。石工も馬鹿にはできないのである。言い伝えによると、初代グランドマスターは世界一栄華を極めていたイスラエルの王、ソロモン王だったらしい。ただし、史実上の裏づけがなくメーソンの経典に書いてるだけである。こうした話から、ユダヤ教を崇拝し、ユダヤ陰謀説などとこじつけられる材料とされるのだろう。いずれにせよ、ユダヤ教、キリスト教の影響を受けているのは確かなようだ。また、フリーは自由と訳すよりは、免除と訳すべきらしい。税金の免除など、数々の特権が与えられたという意味で捉えるべきのようだ。よって、フリーメーソンとは、上級資格をもった石工という意味である。
2. その原形
国家事業として建設を行う場合、石工職人を募る必要がある。この時、資格制度があれば職人の区分けが容易い。これがフリーメーソンの原形であるという。職人の区別は階級で管理される。この資格を売買する輩もいたので極刑で管理されていたようだ。この管理体制、階級体制がピラミッド型になっている。こうしたことから、ピラミッドはフリーメーソンが建設したと主張する人もいるようだが決定的証拠はない。本書もピラミッド建設にフリーメーソンが関わっているという仮説を支持している。そもそもフリーメーソンの性格からして証拠が残されている方がおかしいという。
しかし、統制が確立している組織とは、だいたいがピラミッド型の管理体制になっていると思うのはアル中ハイマーだけだろうか?
ピラミッドは王の墓ではなく公共事業であったという考えはほぼ定着している。では何のために?本書は、何かの儀式を行うための館だったのではないかという仮説をたてている。フリーメーソンのロッジは世界中に散らばっているが、エジプトゆかりの名前を冠したものが多く見られるらしい。なんとなく古代エジプトとの関わりはありそうだ。
3. 十字軍との関わり
素人目に見ても、宗教との関わりがありそうなことは薄々感じる。イスラム教もキリスト教も古代エジプトのイシス信仰を受け継いでいるので関わりがあるだろう。本書でも、イスラム教対キリスト教の構図として十字軍を取り上げている。騎士団は12世紀以降のヨーロッパで発生した強固な結社であり、背景はいずれも反イスラムである。三大騎士団と言えば、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団。テンプル騎士団は、なぜ秘密結社という形態にこだわったのか?彼らの儀式や集会の秘密性。これは独特な世界観を植え付ける心理的作用があるという。武士でも似た面があるが、騎士としての気品の高さだろうか。人間は、あらゆる面で他人より高貴であると思いたいのだろう。ブランド志向や、社会的地位を求めるなどはその典型である。高貴と言われる世界には必ず儀式が存在する。天皇家に見られる儀式も、日常からは遮断されているがゆえに気品が保たれていると言っていいかもしれない。気品とは一般人との差別意識ということか?差別化の度合いは一般社会との乖離度に比例すると述べている。例えば、ゲリラや犯罪組織など、儀式が反道徳的であればあるほど仲間の結束も固い。ロッジを創ることは、餓鬼の頃、仲間で秘密の隠れ家などを作って遊んだ感覚と似ている。本書は、フリーメーソンとテンプル騎士団の共通性について語り、深い関わりを持っていたのではないかという仮説を立てている。十字軍は、ユダヤ人勢力も目障りであった。イスラム教だけでなく、その矛先は旧約聖書を掲げるユダヤ教にも向けられた。ゆえに、ユダヤ人は秘密裏に集会を行い、フリーメーソンという隠蓑を使って差別主義をかわしたという仮説も立てている。
4. 明治維新との関わり
本書は、坂本竜馬の雄大にしてトリッキーな行動はいったいどこから生まれたのか?と疑問を投げる。幕末から明治にかけて活躍した西郷隆盛、高杉晋作、伊藤博文、桂小五郎、五代友厚、岩崎弥太郎らを追っていくと同一人物に辿り着くというのである。ちなみに勝海舟ではない。竜馬が日本初の商社を長崎に設立したことにしても小曾根英四郎の援助があったからで竜馬の人間性をかったとものの本では片付けられるが本書はそうはいかない。竜馬が長崎に滞在した期間から会社設立までの期間が異常に短いこと、竜馬の知名度からして行動のスケールが大きすぎることから、黒幕の存在を指摘する。長崎といえばグラバー邸。明治維新最大の黒幕はトーマス・グラバー。グラバーの封建社会打倒という理念から利害関係が一致したので竜馬を利用したと語られる。著者は、グラバーの生地はスコットランドで、彼はフリーメーソンであると確信していると熱く語る。このあたりは、一生懸命証拠立てして解明しようとしている苦労が伝わるので推理小説のように読める。ちなみに、黒船で来航したペリーもフリーメーソン。終戦のミズーリ艦で調印した時、ペリーが掲げた星条旗を持ち込んだのも、マッカーサーがフリーメーソンだからであると述べている。日本の首相にも。。。あらゆるところにフリーメーソンはいる。プロスポーツ界にも多い。
5. 1ドル札
1ドル札にピラミッドが描かれている。他国の文化遺産がなぜ米国の紙幣に使われるのか?これぞフリーメーソンの象徴なのだという。これは「全能の目」という章で語られているが、その解釈はおもしろい。1ドル札にラテン語でつづられた以下の文章。
「NOVUS ORDO SECLORUM」 新しい世紀の秩序!
「ANNUIT COEPTIS」 我々の計画に同意せよ!
という意味らしい。この2つの文章がピラミッドを囲んで円を描くように配列されている。そこにダビテの星を描くと、ちょうど星の5つの頂点にM,A,S,O,N (メーソン)が重なる。へー!
本書は、アメリカ合衆国、EUも総じてメーソン国家で、フィリピン、ブラジル、アルゼンチンもそうだと言っている。スウェーデンに至っては王室とメーソンがダブっているとまで言っている。歴代の米国大統領にフリーメーソンが多い。ナポレオンもフリーメーソンだったのではないかという歴史家がいる。
本書は全般的にフリーメーソンの行儀の良いところを取り上げている。しかし、これだけの人数がいる以上は、行儀の悪い面もあるはずである。その一つを紹介してくれる。P2事件(プロパガンダ2)。これはイタリア映画「法王の銀行家」で公開されているらしい。複雑に絡み合った陰謀を銀行家を通して描いているのだそうだ。おいらは観ていない。
集団には、その理念がどんなにすばらしくても一部で傲慢な連中が育つ。エリートと称して思い上がって世界金融を支配しようと思っても不思議ではない。時々、フリーメーソンと世界金融の支配を重ねて論じるものを見かける。本書でも、秘密主義で自分達をエリートと思い上がり傲慢になる危険性を述べているが、世界征服など物理的に不可能だと言っている。確かにそうかもしれない。ただ、物理的に不可能だからといって抑止力にはならない。思い上がれば可能性を肯定するだろう。これはフリーメーソンだからというのではなく、秘密主義を共有しエリート集団であると自己認識したときに傲慢さが生まれる。これは人間の真理だろう。こうしたタイプの人間は、特に政治家や官僚など地位のある所に多いように思える。俺が世話してるんだ!俺が金出してるんだ!人間とはそのように変貌するものだ。
特にアル中ハイマーは秘密の会合で有頂天になりやすい。フリーメーソンの理念を見習うべきである。さっそく秘密の場所に行って酒を酌み交わし情報交換をするとしよう。
ただ、その場所をロッジとは言わない。クラブと言っている。
ちょうど案内状が届いている。そこには暗号文で「浴衣祭り」と書いてある。
2007-07-08
"獄中からの手紙" ローザ・ルクセンブルク 著
本棚を整理していると、読んだ覚えのない本をたくさん見つけた。前記事ではその中から「絞首台からのレポート」ユリウス・フチーク著を取り上げたが、本書もその中の一つである。見つけた場所からして、同じく20年ぐらい前に読んだのだろう。本書は100ページ超と薄く、手紙であるため手軽に読める。
そのためか自宅でありながら、つい立ち読みしてしまう。アル中ハイマーには、立ち読みの方が緊張感があって気分が出るようだ。ついでに、カウンタがあって美しいお姉さんから凝視でもされたらもっと集中できるのだが。
ローザ・ルクセンブルクは、マルクス主義の政治革命家で、本書は、投獄中、リープクネヒトの妻となった友人宛てに書いた手紙集である。
そう言えば学生時代、マルクス主義やら独裁者の思想などの本ばかり読んでいた時期があった。あまりにも暇だったのだろう。ただ、この頃読んだ本の内容はほとんど覚えていない。当時は、アル中ハイマーには政治思想など理解できないと諦めたものである。
しかし、本書は政治色を微塵も感じさせない。ローザは、政治犯として投獄され、いずれ虐殺される運命にある。そうした暗い人生を加味して読んでも、獄中で書かれたものとは信じられないほどの穏やかさがある。自然の風景が語られ、詩の朗読があり、思い出が語られ、時折、囚われの身の心境を覗かせる。読書しているというよりは、風景画を鑑賞しているかのようだ。人間は自分の運命を悟ると、その瞬間を大切にするだろうか。風景を描写する表現力に文学的な価値がありそうなのは、おいらのようなド素人にでもなんとなく伝わる。
ただ、アル中ハイマーにはこの作品の論評ができない。到底およびもしない高度な文学的領域であるように思えるからだ。当時は難し過ぎて記憶できなかったのかもしれない。そもそも本当に読んだのかも疑わしい。今、スコッチを味わいながら当時を思い出そうとしている。そして、だんだんいい感じになってきた。あー気持ちええ!えーっと!今、何してたんだっけ?そうだF1を観るんだった。
そのためか自宅でありながら、つい立ち読みしてしまう。アル中ハイマーには、立ち読みの方が緊張感があって気分が出るようだ。ついでに、カウンタがあって美しいお姉さんから凝視でもされたらもっと集中できるのだが。
ローザ・ルクセンブルクは、マルクス主義の政治革命家で、本書は、投獄中、リープクネヒトの妻となった友人宛てに書いた手紙集である。
そう言えば学生時代、マルクス主義やら独裁者の思想などの本ばかり読んでいた時期があった。あまりにも暇だったのだろう。ただ、この頃読んだ本の内容はほとんど覚えていない。当時は、アル中ハイマーには政治思想など理解できないと諦めたものである。
しかし、本書は政治色を微塵も感じさせない。ローザは、政治犯として投獄され、いずれ虐殺される運命にある。そうした暗い人生を加味して読んでも、獄中で書かれたものとは信じられないほどの穏やかさがある。自然の風景が語られ、詩の朗読があり、思い出が語られ、時折、囚われの身の心境を覗かせる。読書しているというよりは、風景画を鑑賞しているかのようだ。人間は自分の運命を悟ると、その瞬間を大切にするだろうか。風景を描写する表現力に文学的な価値がありそうなのは、おいらのようなド素人にでもなんとなく伝わる。
ただ、アル中ハイマーにはこの作品の論評ができない。到底およびもしない高度な文学的領域であるように思えるからだ。当時は難し過ぎて記憶できなかったのかもしれない。そもそも本当に読んだのかも疑わしい。今、スコッチを味わいながら当時を思い出そうとしている。そして、だんだんいい感じになってきた。あー気持ちええ!えーっと!今、何してたんだっけ?そうだF1を観るんだった。
2007-07-01
"絞首台からのレポート" ユリウス・フチーク 著
久しぶりに本棚を整理していると、読んだ覚えのない本をたくさん見つけた。本書もその一つである。見つけた場所からして、多分20年ぐらい前に読んだのだろう。一度読んだ本を読み返すなど専門書でもない限り絶対にやらなかったことであるが、気まぐれはよくある。読んだ本を思い出せないとは、なんのための読書かわからない。時々昔の本を読み返してみることにしよう。その時期感じた感覚とは違う発見があるかもしれない。なかなかおもしろそうだ。このような気分になれたのもブログ効果かもしれない。自分の書いたブログも後に読み返せる日がくるのを楽しみにするのである。
著者フチークはチェコのジャーナリストで、ナチス占領下のプラハで政治犯とて捕らえられた。彼は、すさまじい拷問に耐え目前の死に向かいつつも抵抗の記録を書き遺した。本書は、歴史的には政治文書として評価されてきたようだが、アル中ハイマーにはなかなかの文学作品である。まるで詩のようなさわりが、あちこちにちりばめられている。そして、個人の描写が勝っていて政治色などあまり感じられない。
前書きに、ゲシュタポが使っていた屋内拘禁室を「映画館」と、誰が名づけたかわからないが、その中で、著者は「私の生涯の映画を百回も観た」と表現している。アル中ハイマーは、人間の生涯とは映画を観るようなものと語られる、この表現が好きである。
これほどの書物を、一度は読んでいるはずなのに覚えていないとは、アル中ハイマー病に犯されているとはいえショックを受けるのである。
アル中ハイマーは、チェコという国に昔から少々興味があり、一度訪れてみたいと思っている。チェコの作曲家ドボルザークの交響曲「新世界より」は、小学生の頃始めて買ってもらったレコードである。また、リディツェ村の話を知ったのが中学生の頃である。ナチス占領下、ラインハルト・ハイドリッヒ暗殺の代償として、リディツェ村の住民を老若男女問わず殺害され村の存在そのもが抹殺される。そして、戦後リディツェと名のる町があちこちに登場する。ハイドリッヒ襲撃事件については本書でも一瞬だけ触れられる。
本書は、まず尋問に抵抗して拷問されている様を描写する。
まだ自分が死ねないことを母親に丈夫に産んでくれたことを嘆いたり、逆に、限りなく遠いところから愛撫のように気持ちよく、やさしい落ち着いた声が聞こえてくる。など、もうろうとした意識、幻想的な感覚といった、夢でも見ているかのような生々しい表現が続く。また、自分自身の危機に対する描写だけではない。周りの人間が死んでいく様も描いている。自分の人生が無駄ではなかったことを自身で励ますかのように、そして、その終わりを台無しにするようなことはしたくないという誇りと意地を張る様子が語られる。
アル中ハイマーには文学的センスが全くないので文章テクニックはわからないが、本書はいたるところに文学的表現がちりばめられ心を穏やかにしてくれる。その例を一つ紹介しよう。下記は拷問に耐えぬいて、やや気力が戻った時の様子を表現している。ちょっと長いが気に入ったのでそのまま引用する。
「復活とはいささか奇妙な現象である。名状しがたいほど奇妙な現象である。よく眠ったあとの晴れた日、世界は魅力的である。ところが、復活の日には、まるでその日がかつて一度もなかったほどよく晴れわたり、またかつて一度もなかったほどよく眠ったような感じがするものである。あなたは人生の舞台をよく知っているような気がしているかもしれない。ところが復活というのは、まるで照明係りがすべての照明灯に明るいレンズをはめ、あなたの目の前に完全照明の舞台を一度に現出させたようなものである。あなたは自分で目がよく見える、と思っているかもしれない。ところが、復活はまるであなたが望遠鏡を当て、同時にその上に顕微鏡を重ねたようなものである。復活とは春さながらの現象で、ごくありふれた環境にも、思いもかけぬ魅力がひそんでいることを春さながらに見せてくれるのである。」
戦時中の囚人の気持ちとはどういうものなのだろうか?そこには、ゲシュタポに逮捕された時点で死を覚悟しているとあるが、希望と絶望の繰り返しの様がうかがえる。ファシズムの死と自分の死のどちらが先か?こうした忍耐競争が世界中で問われたことだろう。また、ファシズムが死ぬまでに、まだ何十万という人の犠牲が必要であることも覚悟しなければならない時代である。そもそも彼らが捕まった理由など何もない。ハイドリッヒ襲撃事件に触れているところで、おもしろいことに、事件が起きる二日前に検挙された人々の罪状が、ハイドリッヒ暗殺に荷担したというのである。処刑するのに理由はいらない。殺す人間のことなど調べる手間が無駄である。目的は民族の抹殺である。そうした時代にあっても人間は希望的観測がつきまとう。戦争の終わる時期について、バラ色の観測が毎週のように生まれる様が語られる。人々はそれを信じる。ここで、もう一つ文章表現に目が留まった。
「人生は短い。それでいてここではあなたは、その人生の一日一日がはやく、よりはやく、この上もなくはやく過ぎ去ることを強く願っているのである。あなたの寿命を刻一刻ちぢめている。生きて帰らぬ時、とらえがたい時が、ここではあなたの味方なのである。なんと奇妙なことだろう。」
本書は人間観察についても鋭い。それは囚人仲間はもちろん、看守から刑務所長に及ぶ。信念を持ちつづける者。裏切る者。ドイツ人看守の間の友情を、互いに監視しあい、互いに密告しあう緊張感のあるものとして描いている。密告により地位を確立する者もいるが、その密告の信憑性など一体誰が調べるものか。陰謀は渦巻く。
本書を読んでいる時、途中で数々の疑問がわいてくる。
死への恐怖から、正気を取り戻すために、記録を遺したのかもしれない。
迫りくる死に向かって遺せる文章とは?
拷問に耐えられず裏切る者もいる。それなのに政治的信念とは何か?
自分自身が死んでいるのか?生きているのか?わからない局面の心理とは?
かすかな痛みと喉の渇きのようなものが、生きていることを実感できる状態とは?そのような極限状態で、抵抗しつづけるとは?
誇りを持ち続けるということは?
しかし、アル中ハイマーはいつのまにか答えを出すことを放棄している。せっかくの文学作品に理屈などいらない。いつのまにか、そうした心持で読んでいる。
本書が世に出回ることができたのは、監房に紙と鉛筆を持ち込み、書いている間ずっと見張りをし、原稿を獄外へ持ち出した看守がいるからである。本書では、その看守の様も語られる。最初、ドイツ人看守が紙と鉛筆を持ってきた時は、話がうま過ぎて信用できなかったとある。その看守は、ドイツ人と名乗っているが実はチェコ人であった。後書きには、この原稿がゲシュタポの家宅捜索から逃れた様を解説してくれる。
それにしても、昔読んでいるはずの本の記憶が全くないというのは幸せにしてくれることもある。自分の本棚が新鮮に見えるのである。今、更におもしろそうな本が埋もれていないか探している。宝はアマゾンの中だけにあるのではない。灯台もと暗しである。本棚を眺めているだけで一杯やれるとは、のどかな一日である。
著者フチークはチェコのジャーナリストで、ナチス占領下のプラハで政治犯とて捕らえられた。彼は、すさまじい拷問に耐え目前の死に向かいつつも抵抗の記録を書き遺した。本書は、歴史的には政治文書として評価されてきたようだが、アル中ハイマーにはなかなかの文学作品である。まるで詩のようなさわりが、あちこちにちりばめられている。そして、個人の描写が勝っていて政治色などあまり感じられない。
前書きに、ゲシュタポが使っていた屋内拘禁室を「映画館」と、誰が名づけたかわからないが、その中で、著者は「私の生涯の映画を百回も観た」と表現している。アル中ハイマーは、人間の生涯とは映画を観るようなものと語られる、この表現が好きである。
これほどの書物を、一度は読んでいるはずなのに覚えていないとは、アル中ハイマー病に犯されているとはいえショックを受けるのである。
アル中ハイマーは、チェコという国に昔から少々興味があり、一度訪れてみたいと思っている。チェコの作曲家ドボルザークの交響曲「新世界より」は、小学生の頃始めて買ってもらったレコードである。また、リディツェ村の話を知ったのが中学生の頃である。ナチス占領下、ラインハルト・ハイドリッヒ暗殺の代償として、リディツェ村の住民を老若男女問わず殺害され村の存在そのもが抹殺される。そして、戦後リディツェと名のる町があちこちに登場する。ハイドリッヒ襲撃事件については本書でも一瞬だけ触れられる。
本書は、まず尋問に抵抗して拷問されている様を描写する。
まだ自分が死ねないことを母親に丈夫に産んでくれたことを嘆いたり、逆に、限りなく遠いところから愛撫のように気持ちよく、やさしい落ち着いた声が聞こえてくる。など、もうろうとした意識、幻想的な感覚といった、夢でも見ているかのような生々しい表現が続く。また、自分自身の危機に対する描写だけではない。周りの人間が死んでいく様も描いている。自分の人生が無駄ではなかったことを自身で励ますかのように、そして、その終わりを台無しにするようなことはしたくないという誇りと意地を張る様子が語られる。
アル中ハイマーには文学的センスが全くないので文章テクニックはわからないが、本書はいたるところに文学的表現がちりばめられ心を穏やかにしてくれる。その例を一つ紹介しよう。下記は拷問に耐えぬいて、やや気力が戻った時の様子を表現している。ちょっと長いが気に入ったのでそのまま引用する。
「復活とはいささか奇妙な現象である。名状しがたいほど奇妙な現象である。よく眠ったあとの晴れた日、世界は魅力的である。ところが、復活の日には、まるでその日がかつて一度もなかったほどよく晴れわたり、またかつて一度もなかったほどよく眠ったような感じがするものである。あなたは人生の舞台をよく知っているような気がしているかもしれない。ところが復活というのは、まるで照明係りがすべての照明灯に明るいレンズをはめ、あなたの目の前に完全照明の舞台を一度に現出させたようなものである。あなたは自分で目がよく見える、と思っているかもしれない。ところが、復活はまるであなたが望遠鏡を当て、同時にその上に顕微鏡を重ねたようなものである。復活とは春さながらの現象で、ごくありふれた環境にも、思いもかけぬ魅力がひそんでいることを春さながらに見せてくれるのである。」
戦時中の囚人の気持ちとはどういうものなのだろうか?そこには、ゲシュタポに逮捕された時点で死を覚悟しているとあるが、希望と絶望の繰り返しの様がうかがえる。ファシズムの死と自分の死のどちらが先か?こうした忍耐競争が世界中で問われたことだろう。また、ファシズムが死ぬまでに、まだ何十万という人の犠牲が必要であることも覚悟しなければならない時代である。そもそも彼らが捕まった理由など何もない。ハイドリッヒ襲撃事件に触れているところで、おもしろいことに、事件が起きる二日前に検挙された人々の罪状が、ハイドリッヒ暗殺に荷担したというのである。処刑するのに理由はいらない。殺す人間のことなど調べる手間が無駄である。目的は民族の抹殺である。そうした時代にあっても人間は希望的観測がつきまとう。戦争の終わる時期について、バラ色の観測が毎週のように生まれる様が語られる。人々はそれを信じる。ここで、もう一つ文章表現に目が留まった。
「人生は短い。それでいてここではあなたは、その人生の一日一日がはやく、よりはやく、この上もなくはやく過ぎ去ることを強く願っているのである。あなたの寿命を刻一刻ちぢめている。生きて帰らぬ時、とらえがたい時が、ここではあなたの味方なのである。なんと奇妙なことだろう。」
本書は人間観察についても鋭い。それは囚人仲間はもちろん、看守から刑務所長に及ぶ。信念を持ちつづける者。裏切る者。ドイツ人看守の間の友情を、互いに監視しあい、互いに密告しあう緊張感のあるものとして描いている。密告により地位を確立する者もいるが、その密告の信憑性など一体誰が調べるものか。陰謀は渦巻く。
本書を読んでいる時、途中で数々の疑問がわいてくる。
死への恐怖から、正気を取り戻すために、記録を遺したのかもしれない。
迫りくる死に向かって遺せる文章とは?
拷問に耐えられず裏切る者もいる。それなのに政治的信念とは何か?
自分自身が死んでいるのか?生きているのか?わからない局面の心理とは?
かすかな痛みと喉の渇きのようなものが、生きていることを実感できる状態とは?そのような極限状態で、抵抗しつづけるとは?
誇りを持ち続けるということは?
しかし、アル中ハイマーはいつのまにか答えを出すことを放棄している。せっかくの文学作品に理屈などいらない。いつのまにか、そうした心持で読んでいる。
本書が世に出回ることができたのは、監房に紙と鉛筆を持ち込み、書いている間ずっと見張りをし、原稿を獄外へ持ち出した看守がいるからである。本書では、その看守の様も語られる。最初、ドイツ人看守が紙と鉛筆を持ってきた時は、話がうま過ぎて信用できなかったとある。その看守は、ドイツ人と名乗っているが実はチェコ人であった。後書きには、この原稿がゲシュタポの家宅捜索から逃れた様を解説してくれる。
それにしても、昔読んでいるはずの本の記憶が全くないというのは幸せにしてくれることもある。自分の本棚が新鮮に見えるのである。今、更におもしろそうな本が埋もれていないか探している。宝はアマゾンの中だけにあるのではない。灯台もと暗しである。本棚を眺めているだけで一杯やれるとは、のどかな一日である。
2007-06-24
"人を動かす「韓非子」の帝王学" 中島孝志 著
昨日は久しぶりにカート三昧である。土砂降りの中、10ヒート以上は走っただろう。路面は超ウェットだが、もちろんタイヤはスリック、気分はドライである。アル中ハイマーはウェットが得意である。だが思ったようにタイムが出せない。久しぶりとはいえ平凡なタイムではフラストレーションがたまる。近いうちにリベンジだ。とりあえずドライマティーニでリベンジしよう。
今日は腕の付け根と背中が痛い。腕はアンダーステアなのでキーを叩くのがしんどい。よって、本日のブログネタは簡単に処理できるものを選びたい。
本書は、ハードカバーの単行本で200ページ超あるが、字は大きく隙間も大きい。いかにも年寄り向きの作りで、最近小さい字を読むのが億劫なアル中ハイマーにはありがたい。
また、構成は各章とも、1. 原文をくだいた文章、2. 原文っぽい古文風、3. 解説、と、内容が3回繰り返されているので実質読む量も少ない。よって一気に読めるので手軽である。たまにはこういう本をネタにしないと息切れしてしまう。
本書は、一言で言うと、"人をマネジメントするには、人間通になれ!"ということだろう。宣伝文句には、「人を思いのまま動かす悪のノウハウ満載」とある。なんとなくアル中ハイマーが喰いつきそうなフレーズである。ただ、マネジメントの失敗続きで、なぜうまくいかないのかという解を、本書に求めても無駄だろう。人を動かすとは、そう簡単なものではない。ハウツウものにできるほど体系化できるものではないのだ。そもそも本から教訓を得て実践してもぎこちないだけである。優れたリーダーは自然と振舞うものである。むしろ、本書を読んでうまくいく人は元々人間掌握の資質がある人だろう。または、そこそこうまく振舞っている人間が自己確認のために読むのにおもしろいだろう。普段の人間性こそ重視すべきである。アル中ハイマーは、あらためて人の上に立つことの難しさを感じさせられるのである。
1. 独裁者。
本書では、善いリーダー像の対極的な人間像として独裁者をいたるところに鏤めている。独裁者やワンマン経営者の組織では秩序がなく、その場でころころと指針を変える。こうした組織では、リーダー1人の心中を推し量ることだけが幹部の仕事である。上り坂では直感が当たりカリスマと崇められるが、下り坂では地獄へ真っ逆さま。資金力もなく総合力に劣る組織が、ライバルに挑むにはゲリラ戦に持ち込む。こうした状況では、一人一人の人材パワーに負うところが大きいにも関わらず、無視するリーダが多い。リーダーがワンマンであればあるほど、その周りにはイエスマンばかりはびこる。本書は、特に日本の企業社会はイエスマンが増殖しやすい傾向にあるという。過度の忖度社会を指摘している。それはそれで良い面もあるのだが一理ある。ただ、理不尽なことまで押し付けられるのは、忖度ではなく脅迫である。これを過度の忖度と表現しているのだろう。理不尽に対抗する人ほと去っていく。そういう人ほど戦力であり他社でも通用するから、なおさらである。よほど気を引き締めないと裸の王様になる。会議ではワンマンショー!偉い方は部下が馬鹿に見えてしょうがないのだろう。
2. 人気と人望は違う。
「いくら部下が優秀であっても、年上であっても、彼らが"さすがだ"と一目置くものを指導者は持たなければならない。だからといって全ての能力が部下を凌駕する必要はない。1つか2つでよい。その最低限、熱意は必要である。自分以上の集団の中でリーダーシップを発揮するには人望がなければならない。人望のある人物は損得では動かない。」
酔っ払いも負けじと主張するのだ。人を褒めることは、人を叱ることができる人の権利である。人を雇うことは、人を首にする勇気を持った人の権利である。可哀想だからといってやたら仕事を受けたり、人を受け入れたりすると破綻する。責任を負わされた先任から去っていく。
また、かつて功労があったからといって、その礼に人事をするととんでもないことになると語られる。功には碌で報いて、地位、ポジションで報いるものではないという。褒めることは簡単だが、叱るのは難しい。更に難しいのは人を切ることである。更に難しいのは自分を抜擢してくれた恩人に対するリストラである。歴史の長い上場企業や伝統企業にはびこる老害はすべてここに原因がある。功績のある会長や相談役というポジションに居座る人物を解任できない理由がここにあると指摘している。
3. 部下の一生は最初の上司で決まる。
「一人目の上司で7割が決まり、二人目の上司で9割が決まる。本人が切り開くのは1割しかない。」
これは、思いっきり反論したくなる。あまりにも他力本願過ぎるからだ。本書が言いたいのは、それだけ心して新人を育てよ!という意味だろう。また、こうも述べている。
「新人教育で重要なのは仕事のスキルやノウハウではない。取り組み姿勢。心の部分。価値観である。スキルやノウハウはリーダよりも優れた人材は多くいるし、本人の勉強意欲でも対応できる。重要なのは、いつの時代でも価値観である。」
なるほど、これならば反論する気持ちが静まってしまう。あるバーテンダーのジントニックを無理やり飲まされた後に、店長のサイドカーを食らった気分である。
アル中ハイマーは先輩に恵まれている。いつも厳しい先輩が、おいらが大失敗した時、怒られると思ったら妙に寛大だった。余計に失敗を恥じたものである。また、別の先輩は、「初めてやった技術だから失敗した。なんてのはプロの台詞じゃない!」と言った瞬間は、かっこええと思ったものだ。馬鹿なおいらを根気強く論文の指導をしてくれた大先輩。もちろん夜の社交場も、手取り足取りと。それぞれ分野別に恵まれたものである。恩返しで後輩の育成に務めなければならないのだが、なにしろ短気が災いして、数多い優秀な人材の芽をつんできたことだろう。福沢諭吉曰く。「実学とは一流の人と出会うことである。」同感である。
4. モルトケ
本書は、世界最高の軍師と歴史上名高い、プロシア国の参謀モルトケを紹介している。一番の要職に就ける人材とは、能力が高くて欲のない人間。無益な欲得にとらわれないで課題を突破することに知恵を絞るので、リーダにうってつけというわけだ。二番目は、能力もないし、欲もない人間。こういう人は人畜無害。三番目は、能力も欲もある人間。しかしリーダには向かない。特に、この手の人間は周りの人間が馬鹿に見えるから自信過剰で人の意見を聞かない。更に、いったんポストを与えると独断専行しがちである。最も悪い人事は、能力がないのに出世意欲だけは異常に強い。これ以上、組織にとって人畜有害なものはないだろう。
5. 本書は、本音をやたら表に出すものではないという。
相手の様子を伺いながら、人を説得するには相手の目線にあわせることであると述べている。まったく、その通りである。しかし、とっとと本音をぶつけないと会議が早く終わらない。アル中ハイマーは長時間の会議が大嫌いである。1時間が限界である。交渉は肩が凝る。そもそも相手を説得しようとは思わない。本音をぶつけて合意できなければ無理に交渉を進めることはない。金儲けをしたければ、あらゆる仕事に手を出せば良いが長続きする気がしない。重要なのは長続きさせることである。しばしば本音を利用され損をすることもある。それはそれで良い。どうせ、それっきりの付き合いである。この点は、アル中ハイマーは頑固おやじである。よって評判も悪い。しかし、この一本気で強がっている酔っ払いは、ただ能力がなくて何もできないことを隠しているに過ぎない。
6. 最終的には人徳かなあ。
結局、人間掌握するには誤魔化しはきかない。人徳が重要ということになりそうだ。本書でも、数箇所に人徳という言葉が登場する。そう言えば、おいらは会話で人徳という言葉を使ったことがない。
人徳を持った人は言うだろう。「私は人徳を持っていない。」
人徳を持っていない人は言うだろう。「人徳とは。。。こういうものだ。」こうして説教が始まる。
アル中ハイマーは言うだろう。「人徳って焼酎の銘柄かい?」
おいらがこの言葉で唯一思い出せるのは戦国シミュレーションゲームで、武将のパラメータに人徳度というのがある。この数字が高いとゲームを有利に展開できるので、なんとなくすげーものだという意識がある。その数字を高めるには官爵を得ることである。どうやら地位と名誉に比例するものらしい。なんとなく本書とは違うもののようだ。
やっぱりアル中ハイマーには、人徳という幻の焼酎を探してさまよう方がお似合いである。ということで、秋は酒蔵めぐりの旅を計画することにしよう。
今日は腕の付け根と背中が痛い。腕はアンダーステアなのでキーを叩くのがしんどい。よって、本日のブログネタは簡単に処理できるものを選びたい。
本書は、ハードカバーの単行本で200ページ超あるが、字は大きく隙間も大きい。いかにも年寄り向きの作りで、最近小さい字を読むのが億劫なアル中ハイマーにはありがたい。
また、構成は各章とも、1. 原文をくだいた文章、2. 原文っぽい古文風、3. 解説、と、内容が3回繰り返されているので実質読む量も少ない。よって一気に読めるので手軽である。たまにはこういう本をネタにしないと息切れしてしまう。
本書は、一言で言うと、"人をマネジメントするには、人間通になれ!"ということだろう。宣伝文句には、「人を思いのまま動かす悪のノウハウ満載」とある。なんとなくアル中ハイマーが喰いつきそうなフレーズである。ただ、マネジメントの失敗続きで、なぜうまくいかないのかという解を、本書に求めても無駄だろう。人を動かすとは、そう簡単なものではない。ハウツウものにできるほど体系化できるものではないのだ。そもそも本から教訓を得て実践してもぎこちないだけである。優れたリーダーは自然と振舞うものである。むしろ、本書を読んでうまくいく人は元々人間掌握の資質がある人だろう。または、そこそこうまく振舞っている人間が自己確認のために読むのにおもしろいだろう。普段の人間性こそ重視すべきである。アル中ハイマーは、あらためて人の上に立つことの難しさを感じさせられるのである。
1. 独裁者。
本書では、善いリーダー像の対極的な人間像として独裁者をいたるところに鏤めている。独裁者やワンマン経営者の組織では秩序がなく、その場でころころと指針を変える。こうした組織では、リーダー1人の心中を推し量ることだけが幹部の仕事である。上り坂では直感が当たりカリスマと崇められるが、下り坂では地獄へ真っ逆さま。資金力もなく総合力に劣る組織が、ライバルに挑むにはゲリラ戦に持ち込む。こうした状況では、一人一人の人材パワーに負うところが大きいにも関わらず、無視するリーダが多い。リーダーがワンマンであればあるほど、その周りにはイエスマンばかりはびこる。本書は、特に日本の企業社会はイエスマンが増殖しやすい傾向にあるという。過度の忖度社会を指摘している。それはそれで良い面もあるのだが一理ある。ただ、理不尽なことまで押し付けられるのは、忖度ではなく脅迫である。これを過度の忖度と表現しているのだろう。理不尽に対抗する人ほと去っていく。そういう人ほど戦力であり他社でも通用するから、なおさらである。よほど気を引き締めないと裸の王様になる。会議ではワンマンショー!偉い方は部下が馬鹿に見えてしょうがないのだろう。
2. 人気と人望は違う。
「いくら部下が優秀であっても、年上であっても、彼らが"さすがだ"と一目置くものを指導者は持たなければならない。だからといって全ての能力が部下を凌駕する必要はない。1つか2つでよい。その最低限、熱意は必要である。自分以上の集団の中でリーダーシップを発揮するには人望がなければならない。人望のある人物は損得では動かない。」
酔っ払いも負けじと主張するのだ。人を褒めることは、人を叱ることができる人の権利である。人を雇うことは、人を首にする勇気を持った人の権利である。可哀想だからといってやたら仕事を受けたり、人を受け入れたりすると破綻する。責任を負わされた先任から去っていく。
また、かつて功労があったからといって、その礼に人事をするととんでもないことになると語られる。功には碌で報いて、地位、ポジションで報いるものではないという。褒めることは簡単だが、叱るのは難しい。更に難しいのは人を切ることである。更に難しいのは自分を抜擢してくれた恩人に対するリストラである。歴史の長い上場企業や伝統企業にはびこる老害はすべてここに原因がある。功績のある会長や相談役というポジションに居座る人物を解任できない理由がここにあると指摘している。
3. 部下の一生は最初の上司で決まる。
「一人目の上司で7割が決まり、二人目の上司で9割が決まる。本人が切り開くのは1割しかない。」
これは、思いっきり反論したくなる。あまりにも他力本願過ぎるからだ。本書が言いたいのは、それだけ心して新人を育てよ!という意味だろう。また、こうも述べている。
「新人教育で重要なのは仕事のスキルやノウハウではない。取り組み姿勢。心の部分。価値観である。スキルやノウハウはリーダよりも優れた人材は多くいるし、本人の勉強意欲でも対応できる。重要なのは、いつの時代でも価値観である。」
なるほど、これならば反論する気持ちが静まってしまう。あるバーテンダーのジントニックを無理やり飲まされた後に、店長のサイドカーを食らった気分である。
アル中ハイマーは先輩に恵まれている。いつも厳しい先輩が、おいらが大失敗した時、怒られると思ったら妙に寛大だった。余計に失敗を恥じたものである。また、別の先輩は、「初めてやった技術だから失敗した。なんてのはプロの台詞じゃない!」と言った瞬間は、かっこええと思ったものだ。馬鹿なおいらを根気強く論文の指導をしてくれた大先輩。もちろん夜の社交場も、手取り足取りと。それぞれ分野別に恵まれたものである。恩返しで後輩の育成に務めなければならないのだが、なにしろ短気が災いして、数多い優秀な人材の芽をつんできたことだろう。福沢諭吉曰く。「実学とは一流の人と出会うことである。」同感である。
4. モルトケ
本書は、世界最高の軍師と歴史上名高い、プロシア国の参謀モルトケを紹介している。一番の要職に就ける人材とは、能力が高くて欲のない人間。無益な欲得にとらわれないで課題を突破することに知恵を絞るので、リーダにうってつけというわけだ。二番目は、能力もないし、欲もない人間。こういう人は人畜無害。三番目は、能力も欲もある人間。しかしリーダには向かない。特に、この手の人間は周りの人間が馬鹿に見えるから自信過剰で人の意見を聞かない。更に、いったんポストを与えると独断専行しがちである。最も悪い人事は、能力がないのに出世意欲だけは異常に強い。これ以上、組織にとって人畜有害なものはないだろう。
5. 本書は、本音をやたら表に出すものではないという。
相手の様子を伺いながら、人を説得するには相手の目線にあわせることであると述べている。まったく、その通りである。しかし、とっとと本音をぶつけないと会議が早く終わらない。アル中ハイマーは長時間の会議が大嫌いである。1時間が限界である。交渉は肩が凝る。そもそも相手を説得しようとは思わない。本音をぶつけて合意できなければ無理に交渉を進めることはない。金儲けをしたければ、あらゆる仕事に手を出せば良いが長続きする気がしない。重要なのは長続きさせることである。しばしば本音を利用され損をすることもある。それはそれで良い。どうせ、それっきりの付き合いである。この点は、アル中ハイマーは頑固おやじである。よって評判も悪い。しかし、この一本気で強がっている酔っ払いは、ただ能力がなくて何もできないことを隠しているに過ぎない。
6. 最終的には人徳かなあ。
結局、人間掌握するには誤魔化しはきかない。人徳が重要ということになりそうだ。本書でも、数箇所に人徳という言葉が登場する。そう言えば、おいらは会話で人徳という言葉を使ったことがない。
人徳を持った人は言うだろう。「私は人徳を持っていない。」
人徳を持っていない人は言うだろう。「人徳とは。。。こういうものだ。」こうして説教が始まる。
アル中ハイマーは言うだろう。「人徳って焼酎の銘柄かい?」
おいらがこの言葉で唯一思い出せるのは戦国シミュレーションゲームで、武将のパラメータに人徳度というのがある。この数字が高いとゲームを有利に展開できるので、なんとなくすげーものだという意識がある。その数字を高めるには官爵を得ることである。どうやら地位と名誉に比例するものらしい。なんとなく本書とは違うもののようだ。
やっぱりアル中ハイマーには、人徳という幻の焼酎を探してさまよう方がお似合いである。ということで、秋は酒蔵めぐりの旅を計画することにしよう。
2007-06-17
"行動経済学" 友野典男 著
アル中ハイマーが市場経済に興味を持ち始めたのは5年ほど前からである。せっかく興味を持つのだから、教科書とも言うべき経済学や金融論の書籍を読むべきだと考えた。 そして実行してみると、どれもなんとなく読み辛いような受け入れ難いような、難しいという印象を持っている。感覚的には、数学や物理学の方がはるかに難しいと思うのだが、自然科学の分野の方がおもしろく受け入れられるのはなぜだろう?こうした疑問は、アル中ハイマーには経済学など理解できる頭脳を持ち合わせないという悲観的な結論に向かわせていた。そのような時、いくつかの受け入れやすい本に出会い少し勇気を取り戻すことができた。本書もその中の1つである。
本書は、まえがきに行動経済学の入門書とあるが、現状の経済学の限界を指摘している。そこには、「行動経済学」に対して従来型を「標準的経済学」と呼び、標準的経済学が、超合理的な行動をとる非人間的な学問で、現実から掛け離れたものであると攻撃する。そして、今や経済学は、心理学や脳神経科学などを取り入れた学際的な学問にしなければならないと主張する。中でも、一番印象に残っているのは、ある実験調査で「経済学を勉強すれば利己的になる」という仮説を唱えているところである。非経済学専攻の学生は、歳とともに協力を選ぶ者が多くなる。これは一般的傾向である。一方、経済学専攻の学生は、協力を選ぶ者が少ない。というのである。この結果に否定的な実験もあるという補足付きで述べているが、こうした観点でこの学問を覗くと納得させられるところが多いのである。
この本を読んでいると、かつて"Common Stocks and Uncommon Profits(1958年)"の著者フィリップ・フィッシャーが記していたことを思い出す。アル中ハマーの記憶力を最大限駆使して読み返してみると、
「経済予測に頼るのは止めることである。経済学理論としては間違っていないが、予測そのものが信頼できない。為替相場も同じで、この複雑系を予測できるほど経済学は進んでいない。経済学は上辺の現象を追いかけすぎて、本質を見抜こうとする努力を怠ってきた歴史がある。大半の頭脳をもっと建設的に使われれば、古典派を脱することもできたであろう。」
といった内容が書かれている。当時、フィッシャーの言葉をなんとなく理解していたつもりだが、本書のおかげで理解を深めることができる。この感触からして、今宵の純米酒はなかなかいけそうだ。経済学に実感がわかず、難しく感じるのは、アル中ハイマーの頭が悪いということで片付けるのは早計だと思い始めたのである。
1. 標準的経済学
標準的経済学で対象としている経済人とは、極めて合理的に行動する人種であると紹介する。
「自分の嗜好が明確で矛盾がなく常に不変であり、自分の効用を最大にできる意思決定能力を持っている。他人のことは一切顧みず、自己の物質的利益を最大にすることだけを追求する利己的な人間である。いわゆる倫理、道徳という概念は持ち合わせない。」
と述べている。 なるほど、私益が得られる機会があれば、どんな小さなチャンスも見逃さないという性質が派生的に導かれる。標準的経済学は、このような人種が経済活動する前提に立った学問だというのである。
更に続けると、市場における淘汰論が展開される。非合理性に行動する主体は市場から排除されるから、実質的に経済に影響を及ぼすのは合理的な主体しか残らないという。アル中ハイマーがひっかかっている点は、ここである。一見理論的で、学術的であるから、納得というよりは説得されている感じがする。例えば、ボランティアや献血はありえないと予測されるなど、しばしば現実に起きる事を予測できないという。
一方で、この学問は、経済人という仮説は強すぎるということも認めている。だからといって適当な理論も見当たらないから、合理的な分析を進めるために暫定的に認めているという半ば諦めたものであるという。こうした議論は政治的によく見られる。こうなると幻滅しかない。おいらに言わせれば分析放棄論である。そもそも、経済理論とは規範理論であり、人々の行動を予測するのではなく、人々が、どう行動するべきかを示したものだという。もはや経済分析ではなく説教論である。
2. 行動経済学
ここで、アル中ハイマーは一つの疑問にぶつかる。
経済は一言で言えば金(価値)の動きであり、人間の感情が左右されやすい世界である。詐欺行為などは金銭が絡むことが多く、巧みに心理を攻撃してくる。それにも関わらず、今更心理学やら他の学問を取り入れるとはどういうことか?
本書は、過去の経済学に心理学を組み込むことは何度も試されたが、あえなく玉砕した様が語られる。そうした背景で1978年ノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンが登場する。彼は標準的経済学が仮定している超合理性を、人間の認知能力の限界から体系的に批判した最初の経済学者であると紹介される。本書は「行動経済学元年は、1979年」としている。
古典派経済学では、現実から掛け離れた考察や主張が世間を席巻したことが語られるが、古典派ならばやむを得まい、科学でも天動説やら、宗教的影響を受けた理論が席巻したものだ。しかし、1979年に現実にそぐう見方が始まったとは驚きである。とっくにおいらは生まれているではないか。なんとなく経済学は、どんくさい頑固な学問という印象を受けるのである。背景からして、経済学が必要に迫られる人々とは、金持ちだけかもしれない。政治家や地主など支配層に見られる地位と名誉の世界である。おいらは経済学は理系だと思っている。現象の解析が数学的だったり物理学的だったりするからである。そうすると進化という意味では、それほど差があるとも思えない。自然科学は、貧困層など関係なく興味が湧けば研究できる世界なので学問の底辺も広い。こうした底辺だけを比較すると経済学が後進的なのも仕方がないのかもしれない。マスコミ等でよくみかける経済評論家がどんくさそうに見えるのは単なる偶然だろう。アル中ハイマーは、酔った勢いで拡大解釈をするのである。
本書では、行動経済学を、完全合理性を否定するが、ランダム性を主張しているのではなく、ある一定の基準から外れる限定合理性を持つと述べている。
3. ヒューリスティック
人間の経験や学習から得られたり、直感的に判断する手法である。対比されるのが、手順を踏めば厳密な解が得られるアルゴリズム手法である。ヒューリスティックは、合理性に直感的バイアスをかける。経済予測や政治予測を確率で述べる場合、ほとんど直感的判断による主観確率が多い。主観確率は過去にあった事象から記憶を辿って確率として押し上げる。大地震が起きて防災グッズが売れたり、BSE問題で牛肉忌避運動になるのも、その例である。起こってしまったことを予見していたように意見することも後知恵バイアスが働いている。株価が下がった時、「そうなると思っていたよ!」などと素人でも意見する。
"代表性による罠"も取り上げている。おいらはいつも討論会などで、女性の代表や各国の代表と称してコメントしている人の信憑性に疑問を持つ。身近な人には逆の意見を持つ人が多いのは、周りに天邪鬼しかいないからだろうか?類は友を呼ぶ。
市場において誰にも答えられない疑問に、株価はどうやって決まるのか?というのがある。経済や企業の基本的な実力であるファンダメンタルズに基づいて決定されるというのが標準的ファンダメンタルズ理論の主張である。しかし、投資家は適正な株価水準を知らないのが現状であることを指摘している。せいぜい、日経平均などの数々の指標を過去から推測するだけである。
ファンダメンタルズ原理主義者と称しているアル中ハイマーには頭が痛い指摘である。確かに、株価収益率や資産倍率などから過去の水準に対して判断しており、その水準を微調整しているに過ぎない。株価は将来予測に基づくと言われ、マスコミ等で材料は折込済みなどと報道されるが、では、将来とはいつか?そんな基準があろうはずがない。おいらは、夜な夜なテクニカル分析を繰り返していたことに気づかされるのである。アル中ハイマーは本日より、ファンダメンタルズ原理主義を廃し、夜のテクニシャンと名乗ることにする。
4. プロスペクト理論
標準経済学の効用関数に対する「価値関数」と確率に重みを付ける「確率加重関数」により構成される。価値関数の特性は、人間の心理は、大きな変化が起きると、利得に対してリスク回避的で、損失に対してリスク追及的である。しかし、小さい変化が起きると、その逆になるという。確かに人間の意識は、同額であるならば利得よりも損失に対する不満の方が大きい。損切りは難しいが、少しでも儲けが出るとすぐに手仕舞うといった行動も説明がつく。プラスの刺激よりもマイナスの刺激の方がより敏感である。確率加重関数とは、価値関数に事象が起きる確立を掛け合わせたものである。確率が小さいところでは過大評価され、確率が大きいところでは過小評価される。人間は極端な変化は好まない。不確実性も好まない。総合すると、確率が高いところでは、利得に関してはリスク回避、損失に関してはリスク追求。確率が低いところでは、利得に関してはリスク追求、損失に関してはリスク回避と述べている。
また、保有効果についても述べている。つまり、保有している資産の価値は多めに見積もる傾向にある。これは、企業などの組織についても言える。自分自身の地位や名誉を守ろうとする行為や所属する部署に愛着を感じるなどで、改革路線に影響を与える。政府の認可や免許など法的権利にしても、規制緩和により手放すことを強いる政策に対して、想定以上の抵抗が表れる。人間には、安いからとか効率的だからと言って、簡単にシステムを変えようとはしない現状維持バイアスがある。うすうす感じていたが、人間社会には、完全な効率的システムや、完全な公正はそぐわないものらしい。例えば、賃金アップの労使交渉では、労働者側は必ず現時点からのアップを要求する。しかし、物価上昇率など世界的水準からみた場合は高いレベルにあるなどは考慮しない。名目賃金を切り下げると抵抗は大きいが、インフレ期にには名目賃金を下げることなく、実質賃金を下げることができる。これは不公正とみなされないのはなぜだろう。アル中ハイマーの昔から持つ疑問である。
5. フレーミング効果
同じ状況であるにも関わらず、変化の方向で人間は全く違う感情になるという。同じ問題でも、肯定的に捉えた場合と、否定的に捉えた場合では答えが違う。景気指標でも、雇用率 90 %と表現するか、失業率 10 %と表現するかで世論の方向性を操作できるかもしれない。
また、初期値効果についても語る。パソコンの環境を初期状態でそのまま使っている人は多いだろう。一般的ユーザは分からない領域をいじることはない。これもユーザを扇動する有効な手法である。初期設定を選んだからといって、人間はそのシステムを信任しているとは限らないだろう。こうした話はすぐに国政選挙を思い出す。例えば裁判官の信任、不信任の意思表示がそれである。バツを書かない限り自動的に信任したことになるとは、これいかに?おいらは、裁判官の信任には大抵バツを書く。わからなければ信任できないからである。わからないから何も記載しない。これが信任する方向にバイアスがかかるのはシステムが間違っているとしか思えない。そもそも選挙に行くということは、それなりに意思表示があるということである。マスコミは、決まって投票率が国政に対する不満の指標であると主張する。評論家や知識人と言われる人々は、生放送でシステムの欠陥を指摘しないのはなぜだろう?あらゆる官僚主導で調査される市場調査やアンケートの類は、このような手法であるに違いない。そうでなければ、これだけ第3セクターで失敗し、箱物ができては廃れるなどを繰り返すわけがない。「こんな場所に、こんなもん建てても無駄だ!」という台詞は、その辺の婆さんでも吐いている。これを専門家が分からないはずがない。これを地位と名誉のバイアスと言うのである。
経済学では、過去に払った費用を埋没費用という。
プロジェクトの検討には多大な労力と時間を費やしてきたとなると、なんとしても実行に移したいと考える。乗りかかった船だから途中で降りられないといった発言はよく見かけられる。しかし、こうした状況を考慮することは合理的行動とはいえない。その要因の一つは評判である。途中で止めると過去の判断が間違っていたことになる。つまり自尊心が傷つくことを避ける働きである。二つはヒューリスティックの過剰な一般化である。「無駄にするな!」とは子供のころからよく聞かされた言葉である。この効果は年齢を重ねれば、ますます顕著になる。これぞ公共事業の真理である。ただ、日本の場合、そもそも予算取りが、手段ではなく目的であるために、途中で止める前に最初からするな!という事例が多過ぎる。
6. 選択のパラドックス
経済学や意思決定理論では、選択肢は多い方が人々は自由に選択できて満足度が大きいという前提が、暗黙の法則になっているらしい。この発想は自由主義思想とも結びついており世間を席巻しているが幻想だろうと述べている。しかし、お姉ちゃんの選択肢は多い方が幸せである。おいらには無限に広がる大宇宙である。マーケティング戦略にうなぎの例がある。特上、上、並とあれば、上を選択する人は多い。つまり、一番売りたいものを真中にランクする効果である。祖母の葬式で葬儀屋から、松、竹、梅でコースが選択できる場合、竹を選んだ。梅だと、亡くなった人にあまりに失礼だと思ったからである。しかし、明細を見て驚いた。ちょうちん一つが5万円。これは高い!実はレンタル料と知って更に驚いた。「買ったんじゃねーのかよ!」どうりで使い古している感じがする。冠婚葬祭でケチることなど、あまり聞かない。ぼったくりに合う悲しい性である。おいらも飲み屋でケチることはあまりしなかったが、生まれ変わることにした。07式アル中ハイマーは、フルパワー改造だ!
7. 近視眼的な心になる傾向
一般にほとんどの経済的な意思決定は異時点間の選択である。長い時間に渡って効用が少しずつ得られる。人は将来の利得を割り引く傾向にあると述べている。また、将来的にだんだんと良くなる上昇系列を選択する傾向にあるとも述べている。身近な幸せを望みながら将来の上昇志向を好むのは、人間の欲の真理かもしれない。株価においても、一時的に下降トレンドが生じて、トータルでは合理的であったとしても、徐々にでも上昇トレンドを選択する傾向にあるという気持ちは理解できる。人間は不快な時は時間が長く感じるが、快い場合は短く感じる。お姉ちゃんの手を握っている時間は短いが、おっさんとの握手は辛いものである。
時間的な人間の心理として、協力関係を述べている。短期間であれば進んで協力したり、奉仕したりする人間は、意外と数がある。しかし、長期間になれば、だんだん協力関係が減少するという。では、協力関係を維持する方法とはなんだろう?処罰の役割は大きいと指摘している。ここでの処罰とは刑罰や罰金だけではなく、悪評や村八分など社会的制裁も含む。これは、完全な利己主義者であっても多少の協力をさせることは可能である。しかし、実験的に、利己主義者は所詮利己主義で、本質的には変えられないことも付け加えている。処罰の効果を指摘しながら、逆に処罰で低下するモラルも述べている。人間は、悪いことをするとモラル的に反省するが、処罰が加わるとモラルが消えるという。人間は罰せられると、罪が消えると思うのかもしれない。裁判システムは罪を取引のできる定量的なものにしているのかもしれない。そうなると、市場における制裁システムの効果とは、どうなるのだろう?悪評による社会的制裁の方が効果的かもしれない。人は公正であることを求める性質もあるだろう。何をもって公正かとなると、本書は平等性からくるだろうと主張する。
この根本は人を羨む心ではないだろうか。人を羨む心は、参照できる範囲から生まれる。自分から見て、到底別世界の人間には、憧れても羨むことはない。しかし参照できる身近な範囲となると、同じ生活レベルの人間の行為には憧れではなく羨む心となる。よって、その人間が参照できる範囲がその人間の器というものだろう。
ここで、「情けは人のためならず」という諺の解釈について紹介しているのでメモっておこう。最近「情けをかけるのは人のためにならないから、止めたほうがいい」と解釈する人が多いという。ちなみに、めぐりめぐって自分のためになるから、情けは自分のためである。というのが本筋である。アル中ハイマーは、人に酒をつぐと、酒が大量につぎ返されて潰される。よって、情けをかけると不幸が返ってくると解釈している。
8. 感情の役割とはなんだろう?
感情的になると、人間的に成熟度が低いと見られそうだ。よって感情的にならず、常に冷静に意思決定できる人間は知的で品格を感じる。それは本当だろうか?なぜ人間は感情を持っているのか?
人間は、過酷な進化の中で、瞬間的に判断しなければならない危機に直面したはずである。この状況からいち早く反応するためには、合理的思考など悠長に構えていられなかっただろう。よって、直感で判断し行動しなければならない状況は多かったはずである。その進化の過程で自然と身についた武器かもしれない。人間が近視眼的な行動をするのも、かつての進化で今生きることが大変だった時代のなごりかもしれない。
本書では、合理的な推論や、冷静な計画による決定が必ずしも上手くいくとは限らないと述べている。よりよい意思決定のための重要な役割が感情であるという。このことが、最近、心理学、脳神経科学の発展により、明らかにされつつあることを主張している。経済学には人の感情というのは不要と考えられているのが一般的なようだ。しかし、行動経済学の最先端のテーマは、感情の積極的な意義をめぐるものであると語られる。
直感は、思ったよりも当たっている場合がある。仕事などで問題解決の手段として結構直感からアプローチしている。ただ、その直感とは経験から養われているのも事実である。そもそも、選択肢が多い場合に、時間的な制限もあるので、全てのパターンを検証するなど不可能である場合が多い。よって、ある程度の選択肢を放棄せざるをえない。本当に経験から直感が養われるならば、直感に頼って生きれば、良い年寄りに収束するかもしれない。ただ、若い頃の武勇伝は凄いこといなりそうだ。
本書は、まえがきに行動経済学の入門書とあるが、現状の経済学の限界を指摘している。そこには、「行動経済学」に対して従来型を「標準的経済学」と呼び、標準的経済学が、超合理的な行動をとる非人間的な学問で、現実から掛け離れたものであると攻撃する。そして、今や経済学は、心理学や脳神経科学などを取り入れた学際的な学問にしなければならないと主張する。中でも、一番印象に残っているのは、ある実験調査で「経済学を勉強すれば利己的になる」という仮説を唱えているところである。非経済学専攻の学生は、歳とともに協力を選ぶ者が多くなる。これは一般的傾向である。一方、経済学専攻の学生は、協力を選ぶ者が少ない。というのである。この結果に否定的な実験もあるという補足付きで述べているが、こうした観点でこの学問を覗くと納得させられるところが多いのである。
この本を読んでいると、かつて"Common Stocks and Uncommon Profits(1958年)"の著者フィリップ・フィッシャーが記していたことを思い出す。アル中ハマーの記憶力を最大限駆使して読み返してみると、
「経済予測に頼るのは止めることである。経済学理論としては間違っていないが、予測そのものが信頼できない。為替相場も同じで、この複雑系を予測できるほど経済学は進んでいない。経済学は上辺の現象を追いかけすぎて、本質を見抜こうとする努力を怠ってきた歴史がある。大半の頭脳をもっと建設的に使われれば、古典派を脱することもできたであろう。」
といった内容が書かれている。当時、フィッシャーの言葉をなんとなく理解していたつもりだが、本書のおかげで理解を深めることができる。この感触からして、今宵の純米酒はなかなかいけそうだ。経済学に実感がわかず、難しく感じるのは、アル中ハイマーの頭が悪いということで片付けるのは早計だと思い始めたのである。
1. 標準的経済学
標準的経済学で対象としている経済人とは、極めて合理的に行動する人種であると紹介する。
「自分の嗜好が明確で矛盾がなく常に不変であり、自分の効用を最大にできる意思決定能力を持っている。他人のことは一切顧みず、自己の物質的利益を最大にすることだけを追求する利己的な人間である。いわゆる倫理、道徳という概念は持ち合わせない。」
と述べている。 なるほど、私益が得られる機会があれば、どんな小さなチャンスも見逃さないという性質が派生的に導かれる。標準的経済学は、このような人種が経済活動する前提に立った学問だというのである。
更に続けると、市場における淘汰論が展開される。非合理性に行動する主体は市場から排除されるから、実質的に経済に影響を及ぼすのは合理的な主体しか残らないという。アル中ハイマーがひっかかっている点は、ここである。一見理論的で、学術的であるから、納得というよりは説得されている感じがする。例えば、ボランティアや献血はありえないと予測されるなど、しばしば現実に起きる事を予測できないという。
一方で、この学問は、経済人という仮説は強すぎるということも認めている。だからといって適当な理論も見当たらないから、合理的な分析を進めるために暫定的に認めているという半ば諦めたものであるという。こうした議論は政治的によく見られる。こうなると幻滅しかない。おいらに言わせれば分析放棄論である。そもそも、経済理論とは規範理論であり、人々の行動を予測するのではなく、人々が、どう行動するべきかを示したものだという。もはや経済分析ではなく説教論である。
2. 行動経済学
ここで、アル中ハイマーは一つの疑問にぶつかる。
経済は一言で言えば金(価値)の動きであり、人間の感情が左右されやすい世界である。詐欺行為などは金銭が絡むことが多く、巧みに心理を攻撃してくる。それにも関わらず、今更心理学やら他の学問を取り入れるとはどういうことか?
本書は、過去の経済学に心理学を組み込むことは何度も試されたが、あえなく玉砕した様が語られる。そうした背景で1978年ノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンが登場する。彼は標準的経済学が仮定している超合理性を、人間の認知能力の限界から体系的に批判した最初の経済学者であると紹介される。本書は「行動経済学元年は、1979年」としている。
古典派経済学では、現実から掛け離れた考察や主張が世間を席巻したことが語られるが、古典派ならばやむを得まい、科学でも天動説やら、宗教的影響を受けた理論が席巻したものだ。しかし、1979年に現実にそぐう見方が始まったとは驚きである。とっくにおいらは生まれているではないか。なんとなく経済学は、どんくさい頑固な学問という印象を受けるのである。背景からして、経済学が必要に迫られる人々とは、金持ちだけかもしれない。政治家や地主など支配層に見られる地位と名誉の世界である。おいらは経済学は理系だと思っている。現象の解析が数学的だったり物理学的だったりするからである。そうすると進化という意味では、それほど差があるとも思えない。自然科学は、貧困層など関係なく興味が湧けば研究できる世界なので学問の底辺も広い。こうした底辺だけを比較すると経済学が後進的なのも仕方がないのかもしれない。マスコミ等でよくみかける経済評論家がどんくさそうに見えるのは単なる偶然だろう。アル中ハイマーは、酔った勢いで拡大解釈をするのである。
本書では、行動経済学を、完全合理性を否定するが、ランダム性を主張しているのではなく、ある一定の基準から外れる限定合理性を持つと述べている。
3. ヒューリスティック
人間の経験や学習から得られたり、直感的に判断する手法である。対比されるのが、手順を踏めば厳密な解が得られるアルゴリズム手法である。ヒューリスティックは、合理性に直感的バイアスをかける。経済予測や政治予測を確率で述べる場合、ほとんど直感的判断による主観確率が多い。主観確率は過去にあった事象から記憶を辿って確率として押し上げる。大地震が起きて防災グッズが売れたり、BSE問題で牛肉忌避運動になるのも、その例である。起こってしまったことを予見していたように意見することも後知恵バイアスが働いている。株価が下がった時、「そうなると思っていたよ!」などと素人でも意見する。
"代表性による罠"も取り上げている。おいらはいつも討論会などで、女性の代表や各国の代表と称してコメントしている人の信憑性に疑問を持つ。身近な人には逆の意見を持つ人が多いのは、周りに天邪鬼しかいないからだろうか?類は友を呼ぶ。
市場において誰にも答えられない疑問に、株価はどうやって決まるのか?というのがある。経済や企業の基本的な実力であるファンダメンタルズに基づいて決定されるというのが標準的ファンダメンタルズ理論の主張である。しかし、投資家は適正な株価水準を知らないのが現状であることを指摘している。せいぜい、日経平均などの数々の指標を過去から推測するだけである。
ファンダメンタルズ原理主義者と称しているアル中ハイマーには頭が痛い指摘である。確かに、株価収益率や資産倍率などから過去の水準に対して判断しており、その水準を微調整しているに過ぎない。株価は将来予測に基づくと言われ、マスコミ等で材料は折込済みなどと報道されるが、では、将来とはいつか?そんな基準があろうはずがない。おいらは、夜な夜なテクニカル分析を繰り返していたことに気づかされるのである。アル中ハイマーは本日より、ファンダメンタルズ原理主義を廃し、夜のテクニシャンと名乗ることにする。
4. プロスペクト理論
標準経済学の効用関数に対する「価値関数」と確率に重みを付ける「確率加重関数」により構成される。価値関数の特性は、人間の心理は、大きな変化が起きると、利得に対してリスク回避的で、損失に対してリスク追及的である。しかし、小さい変化が起きると、その逆になるという。確かに人間の意識は、同額であるならば利得よりも損失に対する不満の方が大きい。損切りは難しいが、少しでも儲けが出るとすぐに手仕舞うといった行動も説明がつく。プラスの刺激よりもマイナスの刺激の方がより敏感である。確率加重関数とは、価値関数に事象が起きる確立を掛け合わせたものである。確率が小さいところでは過大評価され、確率が大きいところでは過小評価される。人間は極端な変化は好まない。不確実性も好まない。総合すると、確率が高いところでは、利得に関してはリスク回避、損失に関してはリスク追求。確率が低いところでは、利得に関してはリスク追求、損失に関してはリスク回避と述べている。
また、保有効果についても述べている。つまり、保有している資産の価値は多めに見積もる傾向にある。これは、企業などの組織についても言える。自分自身の地位や名誉を守ろうとする行為や所属する部署に愛着を感じるなどで、改革路線に影響を与える。政府の認可や免許など法的権利にしても、規制緩和により手放すことを強いる政策に対して、想定以上の抵抗が表れる。人間には、安いからとか効率的だからと言って、簡単にシステムを変えようとはしない現状維持バイアスがある。うすうす感じていたが、人間社会には、完全な効率的システムや、完全な公正はそぐわないものらしい。例えば、賃金アップの労使交渉では、労働者側は必ず現時点からのアップを要求する。しかし、物価上昇率など世界的水準からみた場合は高いレベルにあるなどは考慮しない。名目賃金を切り下げると抵抗は大きいが、インフレ期にには名目賃金を下げることなく、実質賃金を下げることができる。これは不公正とみなされないのはなぜだろう。アル中ハイマーの昔から持つ疑問である。
5. フレーミング効果
同じ状況であるにも関わらず、変化の方向で人間は全く違う感情になるという。同じ問題でも、肯定的に捉えた場合と、否定的に捉えた場合では答えが違う。景気指標でも、雇用率 90 %と表現するか、失業率 10 %と表現するかで世論の方向性を操作できるかもしれない。
また、初期値効果についても語る。パソコンの環境を初期状態でそのまま使っている人は多いだろう。一般的ユーザは分からない領域をいじることはない。これもユーザを扇動する有効な手法である。初期設定を選んだからといって、人間はそのシステムを信任しているとは限らないだろう。こうした話はすぐに国政選挙を思い出す。例えば裁判官の信任、不信任の意思表示がそれである。バツを書かない限り自動的に信任したことになるとは、これいかに?おいらは、裁判官の信任には大抵バツを書く。わからなければ信任できないからである。わからないから何も記載しない。これが信任する方向にバイアスがかかるのはシステムが間違っているとしか思えない。そもそも選挙に行くということは、それなりに意思表示があるということである。マスコミは、決まって投票率が国政に対する不満の指標であると主張する。評論家や知識人と言われる人々は、生放送でシステムの欠陥を指摘しないのはなぜだろう?あらゆる官僚主導で調査される市場調査やアンケートの類は、このような手法であるに違いない。そうでなければ、これだけ第3セクターで失敗し、箱物ができては廃れるなどを繰り返すわけがない。「こんな場所に、こんなもん建てても無駄だ!」という台詞は、その辺の婆さんでも吐いている。これを専門家が分からないはずがない。これを地位と名誉のバイアスと言うのである。
経済学では、過去に払った費用を埋没費用という。
プロジェクトの検討には多大な労力と時間を費やしてきたとなると、なんとしても実行に移したいと考える。乗りかかった船だから途中で降りられないといった発言はよく見かけられる。しかし、こうした状況を考慮することは合理的行動とはいえない。その要因の一つは評判である。途中で止めると過去の判断が間違っていたことになる。つまり自尊心が傷つくことを避ける働きである。二つはヒューリスティックの過剰な一般化である。「無駄にするな!」とは子供のころからよく聞かされた言葉である。この効果は年齢を重ねれば、ますます顕著になる。これぞ公共事業の真理である。ただ、日本の場合、そもそも予算取りが、手段ではなく目的であるために、途中で止める前に最初からするな!という事例が多過ぎる。
6. 選択のパラドックス
経済学や意思決定理論では、選択肢は多い方が人々は自由に選択できて満足度が大きいという前提が、暗黙の法則になっているらしい。この発想は自由主義思想とも結びついており世間を席巻しているが幻想だろうと述べている。しかし、お姉ちゃんの選択肢は多い方が幸せである。おいらには無限に広がる大宇宙である。マーケティング戦略にうなぎの例がある。特上、上、並とあれば、上を選択する人は多い。つまり、一番売りたいものを真中にランクする効果である。祖母の葬式で葬儀屋から、松、竹、梅でコースが選択できる場合、竹を選んだ。梅だと、亡くなった人にあまりに失礼だと思ったからである。しかし、明細を見て驚いた。ちょうちん一つが5万円。これは高い!実はレンタル料と知って更に驚いた。「買ったんじゃねーのかよ!」どうりで使い古している感じがする。冠婚葬祭でケチることなど、あまり聞かない。ぼったくりに合う悲しい性である。おいらも飲み屋でケチることはあまりしなかったが、生まれ変わることにした。07式アル中ハイマーは、フルパワー改造だ!
7. 近視眼的な心になる傾向
一般にほとんどの経済的な意思決定は異時点間の選択である。長い時間に渡って効用が少しずつ得られる。人は将来の利得を割り引く傾向にあると述べている。また、将来的にだんだんと良くなる上昇系列を選択する傾向にあるとも述べている。身近な幸せを望みながら将来の上昇志向を好むのは、人間の欲の真理かもしれない。株価においても、一時的に下降トレンドが生じて、トータルでは合理的であったとしても、徐々にでも上昇トレンドを選択する傾向にあるという気持ちは理解できる。人間は不快な時は時間が長く感じるが、快い場合は短く感じる。お姉ちゃんの手を握っている時間は短いが、おっさんとの握手は辛いものである。
時間的な人間の心理として、協力関係を述べている。短期間であれば進んで協力したり、奉仕したりする人間は、意外と数がある。しかし、長期間になれば、だんだん協力関係が減少するという。では、協力関係を維持する方法とはなんだろう?処罰の役割は大きいと指摘している。ここでの処罰とは刑罰や罰金だけではなく、悪評や村八分など社会的制裁も含む。これは、完全な利己主義者であっても多少の協力をさせることは可能である。しかし、実験的に、利己主義者は所詮利己主義で、本質的には変えられないことも付け加えている。処罰の効果を指摘しながら、逆に処罰で低下するモラルも述べている。人間は、悪いことをするとモラル的に反省するが、処罰が加わるとモラルが消えるという。人間は罰せられると、罪が消えると思うのかもしれない。裁判システムは罪を取引のできる定量的なものにしているのかもしれない。そうなると、市場における制裁システムの効果とは、どうなるのだろう?悪評による社会的制裁の方が効果的かもしれない。人は公正であることを求める性質もあるだろう。何をもって公正かとなると、本書は平等性からくるだろうと主張する。
この根本は人を羨む心ではないだろうか。人を羨む心は、参照できる範囲から生まれる。自分から見て、到底別世界の人間には、憧れても羨むことはない。しかし参照できる身近な範囲となると、同じ生活レベルの人間の行為には憧れではなく羨む心となる。よって、その人間が参照できる範囲がその人間の器というものだろう。
ここで、「情けは人のためならず」という諺の解釈について紹介しているのでメモっておこう。最近「情けをかけるのは人のためにならないから、止めたほうがいい」と解釈する人が多いという。ちなみに、めぐりめぐって自分のためになるから、情けは自分のためである。というのが本筋である。アル中ハイマーは、人に酒をつぐと、酒が大量につぎ返されて潰される。よって、情けをかけると不幸が返ってくると解釈している。
8. 感情の役割とはなんだろう?
感情的になると、人間的に成熟度が低いと見られそうだ。よって感情的にならず、常に冷静に意思決定できる人間は知的で品格を感じる。それは本当だろうか?なぜ人間は感情を持っているのか?
人間は、過酷な進化の中で、瞬間的に判断しなければならない危機に直面したはずである。この状況からいち早く反応するためには、合理的思考など悠長に構えていられなかっただろう。よって、直感で判断し行動しなければならない状況は多かったはずである。その進化の過程で自然と身についた武器かもしれない。人間が近視眼的な行動をするのも、かつての進化で今生きることが大変だった時代のなごりかもしれない。
本書では、合理的な推論や、冷静な計画による決定が必ずしも上手くいくとは限らないと述べている。よりよい意思決定のための重要な役割が感情であるという。このことが、最近、心理学、脳神経科学の発展により、明らかにされつつあることを主張している。経済学には人の感情というのは不要と考えられているのが一般的なようだ。しかし、行動経済学の最先端のテーマは、感情の積極的な意義をめぐるものであると語られる。
直感は、思ったよりも当たっている場合がある。仕事などで問題解決の手段として結構直感からアプローチしている。ただ、その直感とは経験から養われているのも事実である。そもそも、選択肢が多い場合に、時間的な制限もあるので、全てのパターンを検証するなど不可能である場合が多い。よって、ある程度の選択肢を放棄せざるをえない。本当に経験から直感が養われるならば、直感に頼って生きれば、良い年寄りに収束するかもしれない。ただ、若い頃の武勇伝は凄いこといなりそうだ。
2007-06-10
"早わかり物理50の公式" 岡山物理アカデミー 編
岡山物理アカデミーとは、岡山県内の物理教員の集まりらしい。
本書は、こうした先生方が高校から大学初年次レベルの物理を、公式を通して語ってくれるという企画であり、いかにもブルーバックスらしい。岡山といえば、応用数学や最適化数学で執筆している岡山大学教授金谷健一氏の本を読んだ。アル中ハイマーのような酔っ払いにでも、なんとなく理解させてくれた気になったので感謝している。岡山県は、理科系の学生を育てようという気運でも高まっているのだろうか?いや、酔っ払いが出くわした、ただの偶然である。
アル中ハイマーは、高校時代物理学が好きだった。先生が好きだったからである。おいらのクラスは、たまたま珍しい名前の人間が集まっていた。その一人であるアル中ハイマーの姓は珍しく名は当て字でフルネームで正確に読まれたことがない。幼少の頃には、からかわれることも度々であった。こうした社会状況は性格を妙に攻撃的にしたり、天邪鬼にしてしまう。そして、アル中ハイマーは甲高い声で叫ぶのであった。社会の馬鹿やろう!
ところが、多分最初で最後であろう、その物理学の先生が、初対面で全ての人間の出席を間違うことなく完璧に読み上げた。当時、歓声が涌いたことを鮮明に覚えている。これほどの気遣いができる先生を嫌いになる理由などない。その頃を思い出して、なんとなく本書に吸い込まれるのである。
本書の中には、先生方のエピソードや主観も混ざっていて読み物としてもおもしろい。物理学は、仮説から実験を通して、その証拠を積み上げることにより物理法則として証明されていく。よって、証明されるまでは、ある程度都合の良い解釈がまかり通る。こうしたことが歴史的に起こっており、物理学のご都合主義として語られる。この点は数学と少々異なるようだ。サイモン・シンは書籍「フェルマーの最終定理」で数学の証明の出発点は公理である。完全な論理的証明がなされた時、初めて定理となる。よって、一度証明された数学の定理は永遠に真である。といったことを語っている。説得力だけでは数学の方が一枚上かもしれない。
また、科学の世界にも政治力があることも語られる。その例が、法則や原理など、本当の発見者でない人の名前がついてしまうことを上げている。ニュートンの肖像画が残っていても、それと同じ時期に活躍した科学者の肖像画もなければ名前も薄い優秀な人々が多く存在する。悲しいかな、科学の世界にも政治力はあるのだ。こうした事に学生諸君は目くじらを立てなくても良い。重要なのは中身なのである。と語られる。さすが学校の先生、教育に余念がない。
本書は全般的に公式の厳密さよりも意味あいを重視しているので、読み物として楽しめる。酔っ払いには、公式の厳密さは悪酔いのもとである。やはり気持ちよく酔うには、なんとなく理解できたような気になることが重要なのだ。アル中ハイマーは、マクスウェルでも読み返してみるかという気が、ほんの少し起きるのである。では、もう一杯、ほんの少しスコッチをオーダーして今夜の締めとしよう。
本書は、こうした先生方が高校から大学初年次レベルの物理を、公式を通して語ってくれるという企画であり、いかにもブルーバックスらしい。岡山といえば、応用数学や最適化数学で執筆している岡山大学教授金谷健一氏の本を読んだ。アル中ハイマーのような酔っ払いにでも、なんとなく理解させてくれた気になったので感謝している。岡山県は、理科系の学生を育てようという気運でも高まっているのだろうか?いや、酔っ払いが出くわした、ただの偶然である。
アル中ハイマーは、高校時代物理学が好きだった。先生が好きだったからである。おいらのクラスは、たまたま珍しい名前の人間が集まっていた。その一人であるアル中ハイマーの姓は珍しく名は当て字でフルネームで正確に読まれたことがない。幼少の頃には、からかわれることも度々であった。こうした社会状況は性格を妙に攻撃的にしたり、天邪鬼にしてしまう。そして、アル中ハイマーは甲高い声で叫ぶのであった。社会の馬鹿やろう!
ところが、多分最初で最後であろう、その物理学の先生が、初対面で全ての人間の出席を間違うことなく完璧に読み上げた。当時、歓声が涌いたことを鮮明に覚えている。これほどの気遣いができる先生を嫌いになる理由などない。その頃を思い出して、なんとなく本書に吸い込まれるのである。
本書の中には、先生方のエピソードや主観も混ざっていて読み物としてもおもしろい。物理学は、仮説から実験を通して、その証拠を積み上げることにより物理法則として証明されていく。よって、証明されるまでは、ある程度都合の良い解釈がまかり通る。こうしたことが歴史的に起こっており、物理学のご都合主義として語られる。この点は数学と少々異なるようだ。サイモン・シンは書籍「フェルマーの最終定理」で数学の証明の出発点は公理である。完全な論理的証明がなされた時、初めて定理となる。よって、一度証明された数学の定理は永遠に真である。といったことを語っている。説得力だけでは数学の方が一枚上かもしれない。
また、科学の世界にも政治力があることも語られる。その例が、法則や原理など、本当の発見者でない人の名前がついてしまうことを上げている。ニュートンの肖像画が残っていても、それと同じ時期に活躍した科学者の肖像画もなければ名前も薄い優秀な人々が多く存在する。悲しいかな、科学の世界にも政治力はあるのだ。こうした事に学生諸君は目くじらを立てなくても良い。重要なのは中身なのである。と語られる。さすが学校の先生、教育に余念がない。
本書は全般的に公式の厳密さよりも意味あいを重視しているので、読み物として楽しめる。酔っ払いには、公式の厳密さは悪酔いのもとである。やはり気持ちよく酔うには、なんとなく理解できたような気になることが重要なのだ。アル中ハイマーは、マクスウェルでも読み返してみるかという気が、ほんの少し起きるのである。では、もう一杯、ほんの少しスコッチをオーダーして今夜の締めとしよう。
2007-06-03
"これならわかるC++" 小林健一郎 著
入門書であるが、ついブルーバックスに吸い込まれてしまう。サブタイトルには「挫折しないプログラミング入門」とある。まるでプログラミングを見直すかのような言葉に、新しい発見でも期待しつつ買ってしまうのだ。そう言えば、「電子回路シミュレータ入門」も遊べておもしろかった。アル中ハイマーはブルーバックス教の信者かもしれない。
入門書は馬鹿にはできない。当り前と思っていたおまじないも、意外とわかっていないことがある。本書は、専門書といってもまったく畏まった感じがなくパラパラと手軽に読めるところがうれしい。たまには、このような本でリフレッシュするのも良いのである。アル中ハイマーの記憶領域はリフレッシュサイクルを短くしないと保持できない。それに難しい専門書を読むのがすっかり億劫になってしまった。新しい発見はないものの復習と思えばそれでいいのだ。でも、1,900円は元取れてるかなあ。
さて、アル中ハイマープログラムでも作ってみよう。
-----------------------------------
クラス "酔っ払い"
{
メンバ関数(= 行動パターン):
・ちょいと寄る(店) { 返り値 "口癖" };
・一杯飲む(酒) { 返り値 "口癖" };
}
クラス "悪友" : 継承 "酔っ払い"
{
メンバ関数(= 行動パターン):
・暗黙に誘う { 返り値 "一言" };
}
メイン・プログラム
{
アル中ハイマー = new 酔っ払い;
仕事仲間 = new 悪友;
お姉さん = new 癒し系;
「仕事終わりやした!」 = 仕事仲間 -> 暗黙に誘う;
「1軒だけっすよ!」 = アル中ハイマー -> ちょいと寄る(寿司屋);
「もう1軒だけっすよ!」= アル中ハイマー -> 一杯飲む(純米酒);
「しょーがねーなあ!」 = アル中ハイマー -> ちょいと寄る(クラブ活動);
「君に酔ってんだよ!」 = アル中ハイマー -> 一杯飲む(ボトル);
「俺に火をつけやがったなあ!」= お姉さん -> マッチを擦る;
「ああ気持ちええ!」 = アル中ハイマー -> ちょいと寄る(バー);
「もう帰りたくない!」 = アル中ハイマー -> 一杯飲む(死神カクテル);
delete アル中ハイマー;
「記憶がない!」 = std::目が覚める;
}
-----------------------------------
おえー!実行するとcore(ゲロ)を吐いてしまった。
原因は、"悪友"クラスは"酔っ払い"クラスを継承しているが、フレンド関係がないのでプライベートに関われないに違いない。
入門書は馬鹿にはできない。当り前と思っていたおまじないも、意外とわかっていないことがある。本書は、専門書といってもまったく畏まった感じがなくパラパラと手軽に読めるところがうれしい。たまには、このような本でリフレッシュするのも良いのである。アル中ハイマーの記憶領域はリフレッシュサイクルを短くしないと保持できない。それに難しい専門書を読むのがすっかり億劫になってしまった。新しい発見はないものの復習と思えばそれでいいのだ。でも、1,900円は元取れてるかなあ。
さて、アル中ハイマープログラムでも作ってみよう。
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クラス "酔っ払い"
{
メンバ関数(= 行動パターン):
・ちょいと寄る(店) { 返り値 "口癖" };
・一杯飲む(酒) { 返り値 "口癖" };
}
クラス "悪友" : 継承 "酔っ払い"
{
メンバ関数(= 行動パターン):
・暗黙に誘う { 返り値 "一言" };
}
メイン・プログラム
{
アル中ハイマー = new 酔っ払い;
仕事仲間 = new 悪友;
お姉さん = new 癒し系;
「仕事終わりやした!」 = 仕事仲間 -> 暗黙に誘う;
「1軒だけっすよ!」 = アル中ハイマー -> ちょいと寄る(寿司屋);
「もう1軒だけっすよ!」= アル中ハイマー -> 一杯飲む(純米酒);
「しょーがねーなあ!」 = アル中ハイマー -> ちょいと寄る(クラブ活動);
「君に酔ってんだよ!」 = アル中ハイマー -> 一杯飲む(ボトル);
「俺に火をつけやがったなあ!」= お姉さん -> マッチを擦る;
「ああ気持ちええ!」 = アル中ハイマー -> ちょいと寄る(バー);
「もう帰りたくない!」 = アル中ハイマー -> 一杯飲む(死神カクテル);
delete アル中ハイマー;
「記憶がない!」 = std::目が覚める;
}
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おえー!実行するとcore(ゲロ)を吐いてしまった。
原因は、"悪友"クラスは"酔っ払い"クラスを継承しているが、フレンド関係がないのでプライベートに関われないに違いない。
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