2014-04-13

"新賢明なる投資家(上/下)" Benjamin Graham, Jason Zweig 共著

この書に出会ったのは十年ぐらい前になろうか。いま読み返すと、いっそう輝きを増してやがる。泥酔投資家にとっての自戒の書だ。
ベンジャミン・グレアムは、投資と投機の違いを明確にし、バリュー投資理論を確立した。「賢明なる投資家」の初版は1949年に遡るが、改版を重ね、今日もなお読み継がれている。市場理論は、あまり進化していないということか。進化したのは、価値を歪ませる技術と、その上に乗っかるサヤ取り技術の方であろうか...

十年前を振り返ると...
2002年頃から始まった景気拡大期間は、いざなぎ景気を超える勢いで、市場は楽観ムードに包まれていた。だいたい素人が参入しやすい時期というのは、市場が楽観的な時で、株で儲ける!といった類いの書が大量に出回る。取引手数料を欲する証券会社の後ろ盾で。グレアムに言わせれば、市場参入時期としては間違っていることになろうか。少々無謀な取引に手を出しても大した損をすることもなく、実験するには手頃な時期である。おかげで投機的な行動にのめり込む。デイトレードを一年ほど試して何度か大損すると、センスのなさを悟るものの、トータルではプラスだったので、楽観的であったことに変わりはない。
やがて、精神的な苦痛が襲ってくる。不安が不安を呼び、市場を常にモニタしていないと落ち着かず、取引せずにはいられない。まるで麻薬だ。本職の集中力までも緩慢とさせ、廃人になりそうな気がした。とっくに廃人なのかもしれんが...
人間ってやつは、皆が儲けていると、それに乗り遅れまいという意識が強烈に働く。おまけに、損失を抱えても皆で損をすれば、自分に言い訳ができるという特質を持っている。赤信号、みんなで渡れば怖くない!
「人間のあらゆる不幸の原因は、ただひとつ、部屋でじっとしているすべを知らないことである。」... ブレーズ・パスカル

そんな精神状態から救ってくれたのが本書である。そもそもの目的はなんだったのか?独立のために経済学を学ぶことと、ついでに将来の年金の足しにすることであって、けして大儲けを目論むことではなかったはず。そして、何よりも大切にしたい意志は、社会を生きているのか?それとも、社会に生かされているのか?これを問い続けることだったはず。群衆心理や自己欲望に隷属するのでは話にならん。いくら足掻いたところで、酔いどれごときはアリストテレスの言う生まれつき奴隷よ...
「有名になりたがる者の幸福は他人次第である。快楽を追求する者の幸福は自分ではどうしようもないその場の雰囲気によって変わる。しかし、賢き者の幸福は自分の自由な行動によって大きくなる。」... マルクス・アウレリウス

この書は、グレアム自身が財産を失うという苦悩を体験し、長年に渡って市場心理を観察した反省から成立している。そして、投資戦略は投資家の性格で決まるとしている。投資スタイルは人の数だけあり、自分で見つけるしかないということだ。ポートフォリオの構築では、市場に合わせるのではなく、自分の性格に合わせる方が持続的で、精神的ストレスもなくなる。どうすれば儲かりますか?という質問自体がナンセンス!金融商品ほど他人の意見を当てにする世界は珍しいかもしれない。それだけ、透明性が低いということであろう。なによりも心強いのは、売買のタイミングは本質ではないと語ってくれることである。その根拠は、この言葉でほぼ言い尽くしている。
「賢明な投資家は、株安のときだけ株を保有し、高くなってきたら売却し、再び買える程度に株価が下がってくるまでは債権と現金で身を守る。」
今日では世界中の市場がリアルタイムでつながり、売買のタイミングをあまり気にしなくていいという助言は、時代遅れに映るかもしれない。いかんせん、巧妙なデリバティブ手法を高度な数学モデルで装いながら、バリュー投資とモメンタム投資を統合させようと躍起なのだ。
しかしながら、本来の市場の役割は、正当な価値評価を与えることにあるはず。投資は企業価値を高めることを目的とし、投資家はその配当金を受け取ることで経済循環を促すのが本筋であろう。だが、誰一人として正当な価値を知らないことが、群衆を暗示にかける。
市場が、金融屋の価値観に偏らず、多様な価値観の集合体となれば、人類の普遍性を発揮できるのかもしれない。だが、人間には、大金を前にすると盲目になるという性癖がある。好況であろうが、不況であろうが、その動向に応じて儲かりそうな方向に群がるか、安全そうな方向に群がるか、いずれにせよ資金は右往左往を続ける。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとってできることといえば、欲望と恐怖の狭間を彷徨うことぐらいかもしれん。
「相場とは持続不可能な楽観主義と根拠のない悲観主義との間を永遠に行ったり来たりする振り子である。賢明な投資家とは、楽観主義者に売り、悲観主義者から買う現実主義者である。」

さて、基本的な投資戦略は、ポートフォリオにおける優良債権と優良株式の割合の検討から始まる。つまり、安全資産の比重をどうするかという防衛的戦略である。債権が本当に安全なのかは、時代感覚の違いもあろう。生命保険のように生涯付き合わされる金融商品ともなれば、保険会社の株式を生涯保有するに等しい。安心を買って、安心の奴隷になっては本末転倒だ!
グレアムは、投資家たる者、経営に参加するぐらいの気構えを要請する。判断材料の基本は、ファンダメンタルズ、すなわち国家や企業の財務状況の分析である。だが、人気が集中すれば、すぐに予測水準を上回り、たちまち危険域へ突入する。やはり、補助的にテクニカル分析を組み合わせる必要がある。
幸か不幸か?今のところ、金融危機は市場が楽観的な局面から生じてきた。不調な局面で生じれば、公的資金を投入する余裕もなく、それこそ人間社会の崩壊となるかもしれない。危険域のサインは報道屋が出してくれる。まさに市場の好調振りを報じている時が、それだ。証券アナリストが、買いを煽っている時ほど危険な状況はないだろう。投資家たちがパニックになった時期は、黙っていても売りが殺到し、自動的に手数料が入ってくるという寸法よ。
バリュー投資では、集団心理の洞察と、企業の財務状況の比較が鍵となり、世間の逆を行く忍耐力を養うことになる。プラトンは、統治したいと思わない者が理想的な支配者であるとした。グレアムは、資金を望まないかのように振る舞う者が最高の投資家であるとしている。

1. 防衛的戦略に輪をかけた保守的戦略
健全なポートフォリオをどのように構築するか?まずもって直面する課題がこれだ。本書は、優良債権と優良株式の保有割合を大雑把に提示してくれる。債権の比重を25%から75%にし、残りを株式にせよと。大きな幅を持たせているのは経済市況を睨んでのことで、市場が弱含みでそれを魅力だと判断すれば、最大75%まで増やし、市場が危機水準にあると判断すれば、株式の保有率を25%以下に減らす方針も検討すべきだとしている。だが、この方針は、債権が安全であるという時代認識からきている。
さて、グレアムに言わせると、おいらは思いっきり保守的な投資家ということになろう。本書に提示されるPER(株価収益率)やPBR(株価純資産倍率)の基準からすると、かなり安全な方向に行動しているからである。ただ、市場が好調な時には、どれも水準を越えており、買える銘柄が一つもない。したがって、株式を買い増すのは、ほとんど金融危機後ということになる。そして、普段から保有する銘柄は、配当金を主軸に置く。ヘッジのための信用取引も研究したが、リーマンショックを経験してもなお、その必要性を感じていない。
投資姿勢では、バランスシートの観察に10年ぐらい遡るのは必須で、ポートフォリオの見直しで月に1度、マイナー組み替えで年に1度ぐらいといったところか。落ち着くまで2, 3年ほど苦労したが、できれば生涯放ったらかしにしたい...
「保守的な見方からすれば、信用取引をする素人は、そのこと自体が投機であることを認識すべきであり、彼らにそのことを指摘するのは証券会社の義務である。」
ところで、債権は、古くから株式よりも安全とされるが、それは本当だろうか?近年、政府の社会制度におけるギャンブル性が顕著化してきた。国債や地方債には、本来、災害などの支援的な意味も含まれるはず。だが、巨大なグローバル企業が存在する今日では、国家の枠組みが曖昧になり、国家財政が先に破綻しても不思議はない。
では、不動産はどうだろうか?保険証券はどうだろうか?高度成長期のような右肩上がりの経済状況ならば、少々の浪費は相殺される。だが、年金や信託基金などの運用責任者たちが素直で人が良いだけに、デリバティブ勧誘の餌食にされる。国債や地方債を、年金資金運用機関や預金金融機関などが消化すれば、無意識のうちに間接的に保有させられ、自己のポートフォリオまでも曖昧となる。
では、現金はどうだろうか?為替の役割はますます複雑化する。ユーロのような共通貨幣が、一国の財政リスクによって共倒れしかねない。
... などと眺めていると、安全資産なんてものが存在するのか疑問だ。安全なんてものは相対的なものでしかない。企業倫理や経営哲学の見えやすい株式の方がマシかもしれない。証券取引所の上場基準も当てにはできないが...
いずれにせよ、一般投資家は情報の非対称性からは逃れらない。最初は分散投資のために、業界を満遍なく物色し、保険会社や銀行などの金融株を約20%保有していた。だが、財務報告がどうも肌に合わない。特に自己資本の考え方が嫌いで、株式融資を自己資本と呼ぶことに抵抗がある。返済義務がないと言えばそうなのだが。そこに目をつぶったとしても、自己資本比率では、BIS規定ですら8%程度。素人目で見ればレバレッジ率10倍以上ではないか。日本国債ですら対GDP比で2倍(200%)。尤も、LTCMの破綻やリーマンショックで演じたレバレッジ率は30倍にも膨れた。自己資本と主張するなら、自己責任において処理してもらいたいものだ。
ちなみに、おいらのポートフォリオは、普通株の保有率が90%で、残りはかんぽ保険や社債など。実は、普通株で100%にしたいと思っているぐらい。割合だけ見ればギャンブル性が強く映るかもしれないが、少し視点を変えて、株式の中で配当金用の銘柄と、短期取引用の銘柄で分け、配当金用を50%から90%で幅を持たせている。グレアム流に言えば、前者が優良債権で、後者が株式という位置づけだ。短期取引とは5年未満を想定しているが、実際にはそれを超える銘柄が半分以上あるので、長期と言った方がいいかもしれない。尚、本書は、長期の目安を、7年以上としている。
ちなみに、微妙なのが、今年(2014年)から始まったNISA(少額投資非課税制度)。投資金額は年間100万円ずつ上乗せして、期限5年で最大500万円の元手に対して非課税となる。さっそく戦略を練ってみたものの、長期戦略において、5年間というのが悩ましい。それだけでなく、売買を繰り返すと、すぐに非課税枠を消化してしまうため、よほどの計画性の必要を感じる。まさか!売買を煽るための罠ではあるまいな...

2. 転換証券とワラント
信用状態が芳しくない企業は、市場で普通社債、すなわち、非転換社債を発行することがほぼ不可能であろう。ベンチャー企業と称したところで、その有望性を評価することは難しい。そこで、転換社債やワラント付社債を発行して資金調達をすることが考えられる。ストックオプションのワラントは、普通株を行使価格で購入する長期的な権利として、夢を買わせることができる。経営アドバイスで銀行屋が勧めるケースが往々にあり、新興(信仰)企業の経営者はワラント債を発行する誘惑に駆られ、上場前に経営幹部や従業員に夢を与えようとする。
しかし、グレアムは、当時発達してきたワラント債は大惨事の温床だとしている。ペーパーマネーという怪物を作り出し、投資を投機へ変貌させるというわけだ。バブル時代、ワラントを行使したら、すぐに売り逃げするような行為がよく見られた。上場した瞬間は株価が跳ね上がる傾向があり、IPOの噂を嗅ぎつけるだけで群がる。IT系を称せば尚更だ。
しかし、謎のベールに包まれた実質価値は、上場とともに紙くずとなる。ストック・オプションを公明正大に設定することができるのかは知らんが、一部の人間に特権を与えるということは、一般投資家を馬鹿にするようなものかもしれない。ちなみに、おいらもワラント債を持っていた時期があった...
一方、転換社債は、所定の期間内で普通株に交換することができる権利であり、これまた魅力がある。発行会社にとっては、普通社債より安く資金調達できる上に、株式に転換すれば自己資本となって財務状況を改善する。投資家にとっては、株価が上昇すれば株式に転換し、キャピタルゲインが期待できる。社債として保持しても、利子が確実に受け取れるので安全性が高い。転換債権は、企業側にとっても、投資家にとっても、ワラントより有利そうに見えるが、一概には言えないだろう。言うまでもないが、メリットとデメリットは会社の財務状況にもよる。転換証券が、合併や買収にともなって発行されるケースもある。それは、普通株の事実上の希薄化であり、物理的には1株当たりの企業価値を下げるかに見える。だが、株価は、収益による増加だけでなく、合併や買収で経営改善のアピールができるだけでも上がる場合がある。だからといって、そのタイミングで買うのがいいかどうかは、別の思慮が必要であろう...

3. 安全域の概念
投資には、「安全域」の概念が必要であると指摘している。だが、完全な安全域など存在しないだろう。人生そのものが安全域にはなく、災害や事故は確率論でしか語れない。だから保険というものが機能する。現在では、グレアム流の安全株を選ぼうにも、基準が厳しすぎて、そんなものは見当たらない。リスク分散にしても、昔ほどは機能しないだろう。世界中の市場がリアルタイムで結び付けられ、金融機関の間ではアルゴリズムを使った自動売買を行う高頻度取引(HFT)が盛んとなり、いまやコンマ何秒で差益を決する。複雑な投機行為が絡むと、瞬時に波動エネルギーが蓄積され、市場変動の振幅は拡大しつつある。知らず知らずにデリバティブで強烈に結び付けられ、投資と投機の境界すら曖昧だ。大衆が大挙して押し寄せれば、リスク分散だけでは対処できない。実際、金融危機の規模は拡大しており、今の時代だからこそ、微分的な思考よりも積分的な思考の方が役立つだろう。
高度成長時代であれば、少々無謀な投資も機能した。その影で賢明な主婦たちの行動が、巨大な預貯金をもたらした。7%という夢のような金利は、10年の複利計算でほぼ倍になる。その一方で、ギャンブラー亭主どもが金は天下の回り物などとほざいては、財形貯蓄まですっからかんにする。金利といえば借金の事しか考えず、貸出金利と預入金利の差など構っちゃいない。そういう輩に限って保険が必要だと騒ぎよる。これが、当時の一般的な家庭像であろうか。いや、我が家の構図よ。人間ってやつは、安全な時に危険を犯し、危険な時に安全の幻想に縋るらしい...
「知恵の神オーディンがトロールの王を訪ね、王の腕をつかみながら、どうすれば混沌に打ち勝つことができるのだ、と尋ねた。そなたの左目をいただきたい。そうすれば教えて差し上げよう、とトロールの王は言った。オーディンはためらうことなく左目を差し出して、教えてくれ!と縋る。するとトロールの王はこう言った。両目を見開いてよく見ることだ!」... ジョン・ガードナー

4. グレアムからの四つのアドバイス
  • 第一原則... 自分が何をしているのかを知れ。己の事業を知れ。
  • 第二原則... 決して自分の事業を他人任せにしてはならない。他人に任せるのであれば、彼のやることに対して注意を怠らず、かつ十分に理解することができ、その人の誠実さと能力に絶対の信頼が置けるという並々ならぬ確証が持てなければならない。
  • 第三原則... 信頼の置ける計算の結果、相応の利益を得るチャンスが十分にあると考えられる場合を除いて、その事業(投資)に踏み出してはならない。特に、利益よりも損失のほうが多いであろう投機的行為には手を出してはならない。
  • 第四原則... 自分の知識や技術に勇気をもって従え。事実に基づく結論を自ら下し、その判断が正しいと確信したのなら、たとえ他人がそれに対して躊躇したり異なった考えを持っていようが、自分の判断に従って行動せよ。

5. テキサス州の古いジョークだそうな...
学校の先生がビリー・ボブに問題を出す。
「君は12匹の羊を飼っていたが、1匹が柵を越えて逃げてしまった。後に残っている羊は何匹かね?」
「一匹も残っていません」と、ビリーは答えた。
「よろしい。君は引き算が分かっていないようだね。」
「たぶん分かっていません。でも、うちの羊のことなら何でも知っています!」

2014-04-06

"訣別 ゴールドマン・サックス" Greg Smith 著

... 麻雀教室をやるんだ。そこらの闇市のおっさんたちに麻雀の面白さを教える。カモ教育だ。今までの博奕打ちは、猟師が海で魚捕るみてぇにボッタクるばかりで、客の養成をしなかった。だからカモがどんどんいなくなる。百姓みてぇに、種を蒔いて、育てて、それを戴くようにするんだ。
... 映画「麻雀放浪記」より

信用という言葉の意味を解する時、経済学におけるものほど違和感を持つことはない。信用取引は、けしてデリバティブと切り離せない。デリバティブってやつは、債権、株式、為替、コモディティなど市場で取引される資産から価値を派生させたもので、巨額な担保、すなわち借金の上に成り立っている。中には評価不能なほど複雑なものまである。例えば、ある債権からリスク部分を切り離して証券化すれば、債権の委譲なしに信用リスクのみを委譲することができる。こんな証券を結合したり、スワップしたりなどで金融テクニックを駆使すれば、現物そっちのけで信用だけが独り歩きを始める。まさに、価値の幽体離脱!
2008年に勃発したリーマンショックでは、投資銀行の無謀なデリバティブ商品に、保険業界のスワップ商法が安全性を装い、おまけに、格付業界の保証つきときた。どんな業界であれ、調査や格付といった統計情報は、業界や大企業が裏から手を回すだけでいくらでも装える。そして、金融のプロですら価値評価のできない水準に膨らませてしまう。金融屋の言い分は、いつもこうだ。
「みんな大人でしょう。私どもは洗練をきわめた機関投資家です。自分たちが何をやっているか、きちんとわかっています。」
アンドリュー・ロス・ソーキンは著書「リーマン・ショック・コンフィデンシャル(TOO BIG TO FAIL)」で、金融界に欠けているものはただ一つ、純粋な人間性だと語った。ここでは、倫理性の欠如が指摘される。こうした苦言を呈する人たちの存在が復元作用をもたらすというのも、アメリカ経済の強みではあろうけど...

著者グレッグ・スミスは、2000年ゴールドマン・サックスに入社し、わずか3年目で20億ドルもの先物取引をこなす。20代後半にはヴァイス・プレジデントとなってデリバティブ・デスクで活躍するものの、やがて社風の変化に疑問を持つようになり、12年後に退職。著者が嘆く社風の変化とは、長期戦略から短期戦略へ、投資から投機へ、そして、目先の収益を上げる者が出世する体質へと変貌する様である。
そもそも、投資銀行とヘッジファンドが共存できるのか?という疑問がある。投資と投機は似て非なるもの。投資戦略とは、投資先の企業価値を高めることであり、そのために長期的な視野が求められるのであって、瞬間的なサヤ取りゲームとは相容れない。もちろんリスクヘッジも必要だが、なぜこちら方が主業務になりえたのか?それは、部門間の縦割り構造にあるようだ。
本書は内部告発の類いとは、ちと違う。ウォール街の内側から業界体質を語った回想録である。今日の金融業界を手っ取り早く知りたければ、ゴールドマン・サックスを観察すればいいと聞くが、まさにその類い。ここには、企業組織が経営哲学を見失えば、短期的な収益主義に走るという典型的な事例がある。哲学を失った能力主義ほど危険なものはなく、エリートづらをしているだけにタチが悪い。
「長期志向のビジネス・モデルが主流の経済では、企業の収益はより安定的で、しかもどうやって収益が上げられているかには、透明性が生じる。これは株主にとっても、よりよい結果だ。株主は、仕事が安定的に入っていくる、収益の流れが予測可能な企業を好むものだからである。今日の"金を掴んで、走れ!"式のビジネスモデルは、無責任だし、持続可能でもない。」

さて、デリバティブの代表的なものに先物取引がある。大阪商人が始めた先物取引は、自然災害などで不安定になりがちな米価を安定させ、社会不安を抑制することが目的であった。農作物を生産すること自体が未来への賭けであり、将来価値を経済法則によって予め決定することができれば、保険として機能させることができる。現在でも、信用取引を理解し、うまく利用すれば、リスクヘッジとして機能する。派生的な存在というものは、脇役を演じてこそ輝く。
ところが、今日のデリバティブは、むしろ主役を演じながら信用不安を拡大している。オマハの賢人バフェットは、デリバティブを大量破壊兵器と呼んだ。銀行業務にしても、証券業務にしても、保険業務にしても、生産社会における補佐役であり、その主な役割は正当な価値評価にあるはず。しかし、自ら価値評価を複雑化し、サヤ取りに執着すれば、なーんの生産性もないことを目立たせるばかりか、破壊屋の本性までも曝け出す。それは、人間社会の補佐役である政治屋が目立ちたがるのと原理は同じだ。結局、市場に参加していない普通の人々の年金や資産が、市場のボラティリティとともにボラれるという寸法よ。
「金融界に関しては、実は大いなる誤解が存在する。ウォール街が扱うのはエリート層の金持ちばかりで、そういった連中は金を失っても当然だという見方だ。それは裏返せば、普通の人々は、金融界の問題だらけの仕事の進め方や奇妙な悪習からは、影響を受けないという見方でもある。だが、これほど誤った認識はない。」

1. 投資銀行からヘッジファンドへ
そもそもゴールドマン・サックスでは、自己資金を投じて投機的な取引を行うことは、規制上許されていないという。長期戦略のために取引先との信用を第一にし、けして目先の儲けに走るような社風ではないと。その理念を、9.11多発テロ事件直後の職場の空気で物語ってくれる。
「今こそ、他社とは違うということを見せつけなくては。ゴールドマン・サックスがゴールドマン・サックスであると、世間に知らせるのだ。顧客の無理な要求にも、できるだけ応えるようにしよう。すぐに利益がでなくてもかまわないから、みんなが立ち直るのを助けるのだ。今、そういう態度をとれば、必ず記憶しておいてもらえる。」
なのになぜ???
ゴールドマン・サックスの傘下に「グローバル・アルファ」という旗艦ヘッジファンドがある。いわゆる、クオンツ・ファンドの類い。その戦略は、高度な数学を用いて定量分析を行い、リスク管理のための金融モデルをつくったり、複雑怪奇なデリバティブの価格モデルを構築するなどして、バリュー投資とモメンタム投資を効果的に統合するというもの。
ちょうど2006年頃、市場は9.11から続いた長い不況から脱し、さらに住宅ローンの条件が緩和され、FRBが金融システムに低利資金をどんどん注入したおかげで、新たなバブルが到来していた。人々はサブプライム住宅ローンに群がる。このようなトレンドが楽観的な状態では、彼らの数学モデルは非常に機能する。
しかし、どんなに優れた公式を編み出したところで、サヤ取りがゼロサムゲームである以上、みんなが同じ数式に群がって、いずれ行き詰まる。数学モデルの弱点は、特異点に陥ると突然機能しなくなることだ。空間的に言えばブラックホール、力学的に言えばアトラクターのような状態だ。バブルの難点は、それが終わってみないとバブルだったことに気づかないこと。
また、企業組織というものは、稼ぎ頭となった部署の発言権が強まり、その部門の出身者が出世する傾向がある。全収益に占める比重が高くなれば、誰も口出しできなくなり、ますます縦割り構造を強める。ある種の官僚化だ。
ゴールドマン・サックスでは、百万ドルを超える収益をもたらす大型取引を「エレファント級売買」と呼ぶそうな。多くの社員がエレファント狩りに乗り出せば、ますます短期的な自己勘定取引にのめり込んでいく。金融機関にとって、デリバティブが一番儲かるのは市場が激変する時である。黙っていても手数料が入ってくるのだから。2008年から2009年初頭、ゴールドマン・サックスのいくつもあるデリバティブ・デスクは、どこもボロ儲け。その巨額の利益は、身を挺して顧客の投資を守ることで得たものではなく、顧客がパニックに陥ってデリバティブ商品を売る際に多額の手数料で儲けたものだという。
ちなみに、18世紀のイギリスの金融家ネイサン・ロスチャイルドの格言に、こんなものがあるそうな。
「路上に血が流れる時こそが、買い時なのだ。」
金融屋の報酬には驚くべきものがある。2006年、ゴールドマン・サックスの社長となっていたゲーリー・コーンの報酬は5000万ドルに達していたとか。天文学的な収入を得たことで、精神は摩訶不思議な次元へ突入したかに見える。近衛兵に囲まれ、VIP待遇漬けとなれば目も曇る。肥大する自意識の前では、人間の理性なんて簡単にぶっ飛ぶであろう。2009年の金融危機の年ですら、ゴールドマン・サックスの社員報酬総額は160億ドルであったという。それも前年実績の47%も上回るのだとか。尚、著者の報酬も50万ドルだったという。世間の資本市場の活力を維持することが主目的の仕事にしては、馬鹿馬鹿しいほど良い報酬だったと回想している。
報酬制度の悪習(悪臭)が指摘されて久しいが、いまだ健在のようだ。はたして今日の経済システムは、本来支払われるべき給料がその業界に支払われているだろうか?ある経済学者は語っていた。基礎物理学者はトレーダーなみに給料をもらうべきであると。もっとも、真理を探求しようという者が、あまり報酬にこだわることもないだろうけど...

2. ポールソンとブランクファイン
2006年、市場が沸き、顧客の誰もが自信満々で売買に参加し、デリバティブ営業は収益を上げ続ける。その頃、CEOヘンリー・ポールソンが財務長官に任命され、ロイド・ブランクファインが会長兼CEOになる。政府高官に就任する際、利益相反を回避するために所有していた株式を売却しなければならない。ポールソンは、ゴールドマン・サックスの株をすべて売却するが、景気がピークの時期で、売却額も5億ドルにのぼるとか。公職に就くための強制的な売却となれば、キャピタル・ゲイン課税もなされない決まり。
もっとも社内におけるポールソンの命運は尽きていたようで、引退の花道として財務長官への転出を選んだという冷笑的な見方もある。というのも、ポールソンは投資銀行畑の人間で、後任のブランクファインはトレーダーだそうな。ブランクファイン率いるFICC部門と株式部門は、ゴールドマン・サックスの収益の半分以上を稼ぎ出していたという。ちょうど社風の変化に則った人事というわけか。
1990年末から2000年初頭にかけて、企業合併買収や企業金融といった投資銀行業務が収益の原動力であったが、2006年頃には、自己資金で投機を行うことで儲ける自己勘定取引が原動力となる。この戦略転換で、ゴールドマン・サックスは、他の投資銀行の二倍、三倍という収益を上げた。市場の流動性を無理やり煽り、自ら価値の歪を生じさせて、その差額で儲ける。サヤ取り効果の最大化を目指す戦略だ。予知能力を備えた天才というのがブランクファインの社内評価、対してポールソンは率直で保守的で古風な投資銀行家と評される。
利益を一番上げている者のところに権力が移るのはウォール街の論理、というより企業の論理であろう。ポールソン時代の初期は、まだ企業理念がしっかりしていたという。とはいえ、財務長官という看板が、ゴールドマン・サックスの安全性を後押ししたことは否定できない。ベア・スターンズやリーマン・ブラザーズが破綻し、信用崩壊が明るみになった時ですら、財務長官ポールソンも、ニューヨーク連邦準備銀行総裁ガイドナーも、まるで先を心配していない態度で、営業戦略でも投資銀行の中で特別な存在であるかのように触れ回る。
「世界経済は崩壊寸前です。ご自分をお守りになって、競争相手に比べて一頭地を抜くには、奇跡の解決策が必要です。わが社が御社のために作成した特注の仕組み金融商品を売買なさるべきです。」
この特注の金融商品こそが、悪性デリバティブそのものだった。そして2008年、リーマン・ショック...
ポールソンは、ビッグ9のトップをワシントンに呼び出し、数千億ドル規模の資金提供を提示する。TARP(不良資産救済プログラム)が議会を通過。ある意味、投資銀行の内情を知るポールソンが財務長官だったのは、幸運だったのかもしれない。多大な犠牲を払ったとはいえ、日本に比べればはるかに事態の収拾が早かった。リーマン・ブラザーズは、魔女狩りの類いの犠牲者だったのかもしれん。
しかし、だ。救済とは誰のための救済なのか?401kがすっからかんになる人も大勢いるというのに、ここが救済されることはまずない。あの世で煮えくり返っている中小企業の社長さんも少なくあるまい。エリート連中は、多額の教育費を投じて、いったい何を勉強してきたというのか...

3. 資金調達トレード
投資銀行ってやつは、一般の銀行とは違い、預金者というものを持たない。また、一般の銀行が非常時に命綱として使える連邦準備制度からの低利融資も受けられない。そこで、貸し倒れ引当金を積み増して財務体質を強化したり、経営陣の念頭にある事業に投入したりするために、「資金調達トレード」という手法を編み出したという。
その仕掛けは...
まず、ドイツやオランダ、あるいはアメリカの資金運用管理会社や年金基金、アジアや中東の国富ファンドなどの顧客が、投資銀行にかなりの金額の現金を一年契約で投じる。この投じた資金に対して、投資銀行は顧客が選んだ運用成績の指標、例えば、S&P500指数やラッセル2000小型株指数に、極めて大きなクーポンを上乗せした利回りを保証する。顧客は、よそでは得られない好条件を与えられ、ゴールドマン・サックスもまた、低い利回りで多額の資金が調達できる。
しかし、顧客には大きな不利な点がある。それは取引相手リスクが生じるということ。すなわち、情報の非対称性の罠だ。投資銀行が経営破綻に陥れば、顧客が投じた資金は雲散霧消となる。ゴールドマン・サックスは、サブプライム住宅ローンの焦げ付きが明るみになってもなお、資金調達トレードを勧めていたという。

4. 四種類の顧客タイプ
顧客のタイプには、賢い顧客、邪な顧客、単純な顧客、そして、質問の仕方を知らない顧客の四種類があるという。
「賢い顧客」は、大手ヘッジファンドや機関投資家のうちで、銀行やトレーダーが手を尽くして助けてくれるところを指す。調査レポートやIPO(新規株式公開)や増資などの市場最新情報も、正直で偏向のないデリバティブ価格モデルも、入手できるような。だが、賢い顧客が入手できる最も重要な財産は人材だという。優秀な人々が、彼らのために働いてくれると。彼らに利幅の大きな金融商品を押し付けたりはしないという。押し付けても、撥ねつけられ、却って疑われることになろう。本当の意味で信用を理解している顧客というわけか。
「邪な顧客」は、限度ぎりぎりまで利益を増やそうとするため、極めて頭がいいという。インサイダー情報によって儲ける人もいれば、わざと悪評を流して、空売りを仕掛けることもある。実際、ネット社会には、この手の情報が氾濫している。
「単純な顧客」は、肉食系揃いのウォール街では、捕食される小動物以外の何ものでもないという。感情の起伏が激しく、奇矯な発言をしたり、激昂するような女王様タイプが多いとか。
しかしながら、最も気の毒な結果になるのは、「質問の仕方を知らない顧客」だという。単純な上に、お人好しとなれば、エレファント級売買を仕掛ける絶好の標的というわけだ。公務員の年金基金や、慈善団体、財団、信託基金の運用責任者に多いタイプだそうな。ヘタすると、国家の年金制度まで喰い物にされる。
賢い顧客が増えれば増えるほど、市場が安定し、長期的な利益が保証されるだろう。だが、短期的に出し抜こうとする者が必ずいるし、周期的に訪れる金融危機は人間社会の法則に映ってならない。それは、強欲と恐怖心は表裏一体という法則である。どっちが表かは知らんが。人間ってやつは、自我の中のエゴイズムを呼び覚ましながら、自ら精神崩壊へと導き、その中でしがみつく相手を欲している、ただそれだけの存在なのかもしれん...

2014-04-01

大きな愛... 小さな気持ち...



I



1オクターブ低い声で... 君に酔ってんだよ!(小さな気持ち = 手抜き記事)
Copyright(C) 2014年4月1日限定 "ピロートークに翻弄される男" All Rights Reserved.

本日四月一日、某出版社から地域限定で「大きな愛の指南書」が発行されると聞いた。さっそく書店に行くも、既に売り切れ!この幻の指南書は永遠に手に入るまい...


男運のない女のことをカンガルーが笑う!って言うんですって。
「警部補・古畑任三郎スペシャル 笑うカンガルー」より...

2014-03-23

"バロック音楽名曲鑑賞事典" 礒山雅 著

二十年前はモーツァルト以降にしか興味がなかったが、ここ数年はバロック音楽ばかり。だが、バッハ以前となると、あまり知らない。そんな初心者のために、西洋音楽史の専門家が百曲を厳選してくれる。話題が豊富でまったりとしながら、それでいてしつこくない。BGMを聴きながら本を読むことはよくあるが、本の方がバックグランドを演じてくれるのも悪くない。BGMには微妙な存在感が要求される。インパクトがありすぎても、感動しすぎてもいけない。しかも、思考のリズムが合わなければ気分を害す。さりげなく肩の力を抜いてくれるような存在でなければ...
さっそく購入検討に入る。カッチーニ、モンテヴェルディ、ヘンデル、ラモー、コレッリ、ジェミニアーニ、タルティーニ... 書籍もそうだが、音楽のToDoリストが溢れてやがる。セネカよ、やはり凡庸には、いや凡庸未満には人生は短い!

音楽が精神において大きな役割を果たすとすれば、音楽の観点から歴史を眺めることにも意味があるはず。音楽は、戴冠式、軍事、斬首刑、葬儀、礼拝、祭典など、政治的にも社会的にも欠かせない道具とされてきた。好きな音楽を聴きながら死にたい、という人もいる。敬虔な人は違う。死が来世への旅立ちだとすれば、葬儀に音楽という祝福は欠かせないらしい。自分のための葬送曲を、当代一の音楽家に依頼するなど贅沢な話よ。
だが、自己存在を永遠に刻もうと目論んだところで、神から祝福されるのは偉大な芸術を残す作曲家の方である。西洋史におけるクラッシク音楽は、宗教音楽として発達してきた。政治が腐敗すれば、音楽に祈りを込める。それは現在とて同じ。音楽家の本質的な役割は、ここにあるのかもしれない。
しかしながら、バロックいう言葉には「いびつな真珠」という意味がある。カトリック教会の目には、宗教心から離れて世俗化していく音楽が、秩序を乱すものに映ったことだろう。対抗宗教改革のさなか、社会全体が極度に寛容性を失うと、古代ギリシア・ローマ時代の自由意志を懐かしむ風潮が生じた。ルネサンスってやつだ。バロック音楽には、その精神を受け継ぎ、過剰な宗教心から脱皮を図ろうとする意志を感じる。モノローグな独り善がりにも映るが、むしろ聡明な対話と捉えるべきかもしれない。宗教的な説教は鬱陶しくてかなわないが、普遍的な音楽となると話は別だ。言葉の布教には頑なに耳を覆っても、自然な音楽には素直に耳を澄ますことができる。やはり、あのナザレの大工の倅は余計な事を言わなかったに違いない...

ここに選考されるCDやDVDは、ピリオド楽器(古楽器)によるものを優先したという。具体的な楽器を想定して作曲されるだけにオリジナル楽器に注目しないと、真の着想は見えてこないだろう。ただ、現代楽器によるアレンジも悪くない。古楽器が認知されると、逆にモダン楽器による演奏が再評価される。
おいらのバロック音楽観賞は、パッヘルベルの「カノン」に始まる。有名なだけに様々な形式で演奏される。弦合奏、オーケストラ、管楽合奏... はたまた、電子演奏から携帯の着信音まで。本書は、この曲は味付けすればするほどムード音楽になってしまうと指摘している。それが人気の源泉でもあろうけど。いま、50弁オルゴールで聴きながら記事を書いている。うん~、たまらん...
ところで、この手の書に触れると、いつも思うことがある。それは「アリア(Aria)」という用語について。英語で言えば、air... 空気のように奏でるといった意味であろうか。どうもマリア(Maria)と重ねてしまう。宗教音楽という印象が強いからであろうか?あるいは、単なる語呂であろうか?聖女の名とされるのも、空気のような自然回帰の意味が含まれるのではないか、などと考えるわけだ。そして、ガイア(Gaia)も同じ音律を奏でる。ヘシオドスが大地の母としたやつだ。なぁーに、駄洒落好きというだけのことよ...
さて、アリア曲といえば、三大アヴェ・マリアであろう。最初に知ったのは、バッハとグノーのアヴェ・マリア。シューベルトのアヴェ・マリアも悪くないが、やはりカッチーニのアヴェ・マリアは絶品!その日の気分で変わるのだけど...
尚、「G線上のアリア」がなぜアリアなのかは、バッハのオリジナルに由来する。タイムスリップしてバッハに直接「G線上のアリア」は素晴らしいと感想を述べたところで、なんじゃそりゃ?って答えられるのがオチだろう。アウグスト・ウィルヘルミが、管弦楽組曲第3番(BWV1068)の第二楽章をヴァイオリンの独奏曲に編曲したのは19世紀後半。ニ長調をハ長調に変え、第一ヴァイオリンの主旋律をオクターブ下げて、一番低い弦のG線のみで演奏するようにした。よって、チェロのような太く朗々とした曲想となる。しかし、原曲は弦合奏と通奏低音のために書かれたという。しかも、原曲の素晴らしさは格段上にあるとか。四声の弦の精妙で陰翳に富んだ絡み合いがこの曲の生命線で、その肝心な絡みがヴァイオリンとピアノの編曲では読み取りにくいという。空間の深みが違うらしい。そういえば、頻繁に聴くわりには、原曲の方は聴かない。
ちなみに、演奏中に、確実にG線を切断するには300万ドルが相場だと聞く。演奏者にもヴァイオリンにも傷ひとつ付けずに。ゴルゴ13「Target.7 G線上の狙撃」より...

1. バロック史
17世紀初めから18世紀前半にかける音楽史はルネサンスの流れを汲む。やはり中心はイタリアであろうか。それは、ブルボン家の初代王アンリ4世とフィレンツェのマリア・デ・メディチの婚礼を記念して、ヤーコポ・ペーリのオペラ「エウリディーチェ」が上演されたあたりから始まる。実際、バロック時代の幕開けの象徴的作品で一般的に挙げられるのが、このオペラだそうな。1600年というキリのいい年に、フィレンツェのピッティ宮殿で初演されたという。しかし、まだ実験的な色彩が強く、本格的な幕開けにはジューリオ・カッチーニを推し、その歌曲「アマリリ麗し」を薦めてくれる。
また、初期バロック音楽の流れでは、声楽曲がクラウディオ・モンテヴェルディに代表されるならば、器楽曲、特に鍵盤楽曲はジローラモ・フレスコバルディを頂点にするという。そのライバルに、北方オルガン音楽の源流ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクを位置づけ、対して、フレスコバルディから南方のオルガン/チェンバロ音楽の流れが発したという。この二つの流れは、後にバッハによって総合されることになる。
個人的には、イタリアの情熱をヴァイオリン曲に感じる。コレッリの「クリスマス協奏曲」や「ソナタ集作品5」などに。おまけに、イタリア風のソネットが付せられると文学的に演出される。ヴィヴァルディの「四季」のように。この曲は、四季おりおりの風物を嗜む日本文化とよく適合する。
一方で、ドイツが中心という印象は、日本の義務教育の影響であろうか。音楽史におけるアルプスという境界は、なんらかの関係があるのかもしれない。ドイツにしても、フランスにしても。ドイツ音楽の父と呼ばれるハインリヒ・シュッツは、意外にもコラールを民衆的な形で使った作品がないという。対して、ミヒャエル・プレトーリウスにはコラールの素朴な編曲がたくさんあるらしく、舞曲集「テルプシコーレ」を紹介してくれる。
ところで、ヨハン・ヨーゼフ・フックスという名を聞かないが、音楽文献では重要な人物らしい。ハプスブルク家の宮廷楽長を務め、代々の皇帝の信望も厚く、大看板という言うべき音楽家だそうな。「グラドゥス・アド・パルナッスム(パルナッソス山への階梯)」と題する対位法の理論書を書いた権威者だとか。モーツァルトも、作曲のレッスンにフックスの課題を用いているという。

2. フランス音楽史
時代背景には、アンリ4世がナントの勅令によって宗教融和を図り、続くルイ13世が国力を蓄えながら芸術の発展にも乗り出し、ついに太陽王ルイ14世の下で最盛期を迎え、その後の衰退...という流れがある。宗教的なコラールが組織される時代でもあり、ヨーロッパの王侯たちがフランスかぶれとなった時期と重なる。
フランス音楽史を紐解くと、至るところでフランス派とイタリア派の対立をめぐる記述に出会うという。フランス派の筆頭はルイ14世時代の宮廷音楽家ジャン = バティスト・リュリで、イタリア派の筆頭はマルカントワーヌ・シャルパンティエ。シャルパンティエはヴェルサイユの要職に就くこともなかったという。国家の威信を背景にする批判があり、イタリアで純粋に学びたい音楽家たちは圧力をかいくぐって活動していたとか。
また、フランスにおけるクラヴサン音楽(チェンバロ音楽)の発展の前提に、リュート音楽の流行があるという。17世紀前半、フランスでは貴婦人のサロンが発展し、その花形楽器がリュートだったそうな。ロマンスには、ギター風の伴奏で歌うエール・ド・クール(歌曲)が欠かせない。クラヴサンに取って代わったのは、11本から20本以上の調弦を絶えずやらなければならないリュートの煩わしさにあるという。だが、手間をかけて雅を育むことで、高級芸術の雰囲気を醸し出すということはあるだろう。興隆時代のリュート音楽を代表するのはドニ・ゴーティエだそうだが、作曲家ではロベール・ド・ヴィゼを紹介してくれる。社交や舞踏の場にもギターが進出しつつあった時期に出現し、国王のギター教師でもあったという。

3. バッハの幾何学的構想
バッハの楽譜が図形的な美しさを持つことは、広く知られる。クロスしながら戯れる線の軌跡には、相似形、回転形、拡大縮小形といったユークリッド幾何学が現れる。いったい幾何学が、音楽とどう結びつくというのか?本書は、その様子を「ゴルトベルク変奏曲」で紹介してくれる。バッハの鍵盤作品中で際立って華麗な技法を連ねているのが、この曲だそうな。両手はしばしば交差され、名技性を高める。カノンのような厳格な対位法が随所に用いられ、それを3の倍数の変奏に割り振ったりと、数学的な構成が歴然であるという。目で見て秩序あるものが、耳に自然な自由を与えてくれるとは...
バッハは音楽を耳のためだけに書いたのではないようだ。知覚能力において、目と耳には何かつながりがあるのだろうか?感動する音楽や絵画に出会うだけで鳥肌が立つのも、なんらかの周波数を感じ取っているのだろう。人は芸術を味わうために五感を総動員する。幾何学や数学に美を感じるのも、そうした類いであろう。バッハは、人間のために音楽を捧げたのではなく、心の中に描いた彼自身の神に捧げたとでもいうのか。バッハが思考のBGMに合うのは、そのあたりにあるのかもしれん...

4. バッハの無伴奏チェロ組曲
チェロの独奏曲さえ稀であった時代、バッハは無伴奏による大曲を六曲セットで書いた。チェロはバイオリンほど小回りがきかないから、重音の乱舞するフーガだの、大きく積み重なるシャコンヌだのが登場しないという。サラバンド楽章ほどの重音で落ち着いた場面においても、たっぶりと多声的であるという。単音をかけめぐらせるだけのように見えるジグにおいても、複数の旋律を隠すような形で対位法的な仕掛けが施されているとか。
尚、ちと補足すると、無伴奏チェロ組曲は、プレリュード(前奏曲), アルマンド, クーラント, サラバンド, メヌエット, ジグ(終曲)という形式をとる。
バッハは、チェロという楽器そのものが和声的な効果を内包していることをしっかりと洞察していたという。低音域に発する豊富な低音が響きを融合させるのは、女性合唱よりも男性合唱の方がよくハモるのと原理は同じであると。無伴奏チェロ組曲第1番ト長調(BWV1007)は知名度が高い。だが、本書は第3番ハ長調(BWV1009)を薦めてくれる。フラウンス風の壮麗さとは、こういうものをいうのであろうか...

5. ヘンデルの開放感
ヘンデルの特徴は、なんといっても野外的な大らかさと開放感。その有名な逸話がある。イタリア留学を終えてハノーファー宮廷に招かれ楽長となり、その一年後、楽長在任のままイギリスに渡ってロンドンに定住。ところが、イギリス国王が交代し、ハノーファー選帝侯がドイツからジョージ1世を称して乗り込んできた。慌てたヘンデルは一計を案じ、舟遊びの際、美しい音楽を提供して、主君との仲直りに成功したとさ...
近年の研究では、この逸話が成立しないことが定説になっているそうな。それでも、水上の音楽が国王の舟遊びのために作曲され、テムズ河で演奏されたのは確からしい。高原風でもあるが、あくまでも水上の音楽とういわけか。
また、ヘンデルのオペラには難しい問題があるという。その理由の一つは、ナポリ派の流れを汲み、レチタティーヴォを挟むアリアの連続として書かれていることに起因するという。重唱は稀で、合唱もほとんど現れないため、短調な印象を与えかねない。個々のアリアは美しい旋律で綴られ、演奏効果も申し分ないが、完成度が高い分、羅列という印象も生まれやすいという。
さらに、ほとんどアリアが高音部譜表で、高声用に書かれているとか。それは、主役にカストラート歌手を使うため、どこまでもソプラノやメゾソプラノのアリアが続くということらしい。だからといって、男性役にテノールやバリトンを当てては、華やかさが失われる。したがって、ヘンデルのオペラ上演には、優れたカウンターテナー歌手が欠かせないという。そして、演出家が、それを強調してセックスアピールのある舞台を作り出す傾向があり、そのことがヘンデル人気を後押ししているという。
本書は、英雄オペラから「ジュリアス・シーザー」、魔法オペラから「アルチーナ」を紹介してくれる。ちなみに、ヘンデルは同じ歳のアレッサンドロ・スカルラッティと、ローマで鍵盤の腕比べをしたという逸話もある。

6. タルティーニの逸話「悪魔のトリル」
ジョゼッペ・タルティーニのヴァイオリン・ソナタト短調「悪魔のトリル」をめぐる逸話を紹介してくれる。夢の中で悪魔と契約したタルティーニは、悪魔がヴァイオリンを熟練と知性とをもって演奏しているのを聴いたという。だが、目を覚ますと、その曲を思い出そうにも思い出せない。彼は、自分の最上の作品を作曲し、それを「悪魔のソナタ」と呼んだという。そして、悪魔の演奏に遥かに及ばなかった、とつぶやいたとか、つぶやかなかったとか...
この逸話は、フランスの修道士の回想録に基づくもので、事実の裏付けはないそうな。

2014-03-16

"モーツァルト = 二つの顔" 礒山雅 著

モーツァルト論には、小林秀雄の有名な「ト短調」をキーワードにしたものがあるそうな。対して本書は、「ト長調が綴る飛翔のイメージ」こそが、モーツァルトの真髄であると主張する。だからといって、ト短調論に対してト長調論をもって反駁しようなどという意図はないようである。モーツァルトの生きた時代は、音楽史上、最も長調が優勢であったという。その背景には、進歩を奉じて幸福を追求する啓蒙思想があり、積極的な社会風潮があるのも確か。だからこそ却ってシリアスな短調を洗練させるところがある。個人的には、ト短調の方に魅力を感じる。三代交響曲に魅せられたのは中学生の頃であろうか。仕事中のBGMで最も活用してきたのが、交響曲第40番ト短調である。交響曲第41番ハ長調「ジュピター」も最高だが、BGMには少々明るすぎる。チャイコフスキーの交響曲もそうだが、昔から短調系が肌に合うようである。どこかの音階が半音下がるだけで気分が変わる。このあたりに気まぐれの制御法があるのではないかとずーっと模索してきたが、アルコール濃度で半音分解する方が手っ取り早いようである。今度、バーテンダーに「短調カクテル」でもリクエストしてみるか...
それはさておき、おいらは、交響曲こそクラシック!というベートーヴェン的な考えに感化されてきた。ところが、ここではモーツァルトの本質を主にオペラへ向けられ、新鮮な感覚を与えてくれる。モーツァルト時代、シンフォニーはまだ主役ではなかったようである。これから始まる演奏は何々調です!と宣言されるぐらいの前座の役割でしかなかったとか。ファンファーレやフィナーレのような形式であろうか。本書は、悲劇物語を明るい調子で演出する洒落やユーモアを、オペラや歌曲の中に見出してくれる...

モーツァルトが類い稀な天才であったことは言うまでもない。しかし、それは彼一流の演技でもあったという。彼の才能振りでは、言語脳と音楽脳を使い分けたという話を聞く。妻と会話をしながら作曲をし、相互能力を触発させたという逸話もある。
一度書いた楽譜をまったく修正しないといった伝説は、どうやら誇張らしい。モーツァルトといえども、スケッチをやり、手直しをし、捨てるべきを捨て、時間をかけて作曲したようである。偉大な才能に一面的な讃美を与え、人物像を神話化してしまうことがある。鑑賞者は身勝手な理想像を描くものである。
一方で、才能をひけらかせば、敵意や嫉妬から根も葉もないことを言いふらす者がいる。オペラ作品には数々の女性が登場し、しかも特定の女性歌手のために書かれた曲も多いとくれば、女癖の噂は絶えない。大衆ってやつは、なにかとスキャンダラスな話題がお好き。天真爛漫かつ下品といった印象は、映画「アマデウス」の影響もあろうか。
借金まみれであったのも、個人的な問題もあろうが、社会的な問題も大きいようである。共同統治者女帝マリア・テレジアの崩御を受けて、その長男ヨーゼフ2世が単独統治を行い、啓蒙専制君主が改革をもたらす。民衆王と呼ばれながら対トルコ戦争が致命傷となり、ウィーンでは経済恐慌に陥る。貴族とて音楽どころではなく、モーツァルトの作品も激減したという。そんな時代であっても、登場率や演奏率の下降は見られないらしいけど。見栄っ張りで浪費癖であったのも確かなようで、気前よく、呑気で、無頓着で、ビリヤード好きだったとか。ギャンブラー説には、多くの学者が異論を唱えているけど。
杜撰で自己管理のできない人物と思われがちだが、正反対な性格も見せる。父レーオポルトが几帳面で管理主義の権化のような人物だったそうで、その血を受け継いでいるところがある。お馴染みのケッヒェル番号は、モーツァルト自身が目録を作成していたお陰で実現できたという。600曲を超える作品を第三者が整理するとなると至難の業。1862年、ルートヴィヒ・フォン・ケッヒェルは、成立年代順の番号を振った全作品の目録を出版。おかげで、その番号は作品の顔となり、マニアともなればケッヒェル番号で作品をそらんじる。それでも、目録に記載されない作品もあるそうな。大曲や知名度の高い曲でさえ。目録と自筆楽譜の食い違いもあるという。モーツァルトがフリーメイソンだったことは広く知られる。そのためかは知らんが、目録にも神秘が満ちているようである...

1. オペラに見るモーツァルト思想
「フィガロの結婚」(K.492)を人間愛の讃美としながら、「ドン・ジョヴァンニ」(K.527)をモーツァルトの最も暗いオペラと評される。「フィガロの結婚」には、貴族の専横を打破しようとする平民の心意気が満ちている。そのことが、啓蒙的改革への情熱と呼応して皇帝の支持を受ける反面、オペラ受容層の貴族たちに不快を招くことに。ウィーン上演が早々に打ち切られ、しばらく日の目を見なかったという。
しかし、プラハで圧倒的な人気を博す。この作品に張り巡らせた反体制思想が、ハプスブルク家の支配にあえぐプラハ市民に熱烈に受け入れられたようである。その後、「ドン・ジョヴァンニ」が成立し、ここにもプラハへのメッセージが込められているという。それは、強烈な性的、実存的な訴えかけで、キェルケゴール的な直接的でエロス的な段階であると。覆面の主人公たちが農民たちとジョヴァンニ邸に集い、自由万歳!と叫べば、ドン・ジョヴァンニは死を選ぶ自由に酔いしれる。そして、啓蒙社会における抑制エネルギーの蓄積から下克上を予感させる。ウィーンで受け入れられなかったモーツァルト思想は、プラハで開花したというわけか。
ちなみに、交響曲第38番ニ長調「プラハ」(K.504)もいい...

2. モーツァルトの女性観
本書は、モーツァルトの人間好きを指摘している。幼児の頃から人なつこく、人見知りせず、どんな人ともすぐに友達になれる性格で、終生変わらなかったとか。その反面、人と距離を置くことが苦手で、貴族にことさら遜ったり、聖職者を敬ったりができなかったという。
人間好きなのか、女好きなのかは知らんが、オペラ作品の中に女性遍歴を垣間見ることができる。「コジ・ファン・トゥッテ」(K.588)に道徳者の伝統的な批判が付きまとうのも、女性の貞操観念を堕落させていく物語の宿命であろう。登場する二人の姉妹フィオルディリージとドラベッラは、本当の愛を味わっていると思い込んでいるものの、まだ幼い憧れの空想段階にある。だが、男たちの激しい求愛が混乱へ陥れる。しばしば、フィオルディリージの方は、ドラベッラと対照的に、最後まで貞操を貫こうとしたと解釈される。だが、それは間違っていると指摘している。それもそのはず、結局「女はみなこうしたもの!」と歌われるのだから。やはり女性はロマンスに弱い。ましてや、戦地に赴く男どもに、どこまで義理立てする必要があろうか。モーツァルトは、女性ばかりに押し付けられる貞操観念の重さに、不自然さを感じていたようである。
一方で、「コンサート・マリア」という歌劇とは別の独立曲がある。モーツァルト研究では後回しにされがちな分野だそうな。9歳(1765年)から最期(1791年)にかけて書かれ、モーツァルトの成長を伺うのにかっこうなジャンルだという。それは、コンサート用に独立曲として書かれたものと、他の作曲家のオペラに挿入するための代替曲として書かれたもの、の二種類あり、いずれも特定の歌手が想定され、存分に個性が発揮できるように配慮されているという。マンハイムで知り合った初恋の人アロイージア・ヴェーバーは傑出したコロラトゥーラ歌手で、その妹で妻となるコンスタンツェもソプラノ歌手で、彼女らに捧げた曲もある。独自のマリア像を、世俗の女性関係に求めたのかは知らんが、コンサート・マリアには、生涯をかけてモーツァルトの女性関係が刻まれているのかもしれん...

3. 歌曲に見る堕落論
歌曲は、ほとんど制約のないジャンルで、ひねりを利かせ、ユーモアを忍ばせ、時には正攻法で意表を突き... そんな多彩な仕掛けが張りめぐらされているという。あまりにも洒落ていて、意識されないほどに。ただ、そんな自由なジャンルなのに、30曲ほどしかない。
歌曲「すみれ」(K.476) の詩はゲーテが綴る。一般的には、すみれの花と羊飼いのイメージから可憐という印象を与え、民謡風の純真な可愛い曲と評される。しかし、その実態は、牧場で人知れず起こった惨劇だという。美しいすみれが無残に踏み潰される、あっという間の出来事を、ゲーテが何食わぬ顔で晴朗に歌い出しているとか。やってきた娘が、すみれに目もくれず、踏み潰して... それを見て喜んでいた自分が死ぬのも、彼女によって... といった具合に。本書は、挿入される物語と曲の調子が不均衡で、美化して歌われ過ぎだと指摘している。これも、芸術家の遊び心であろうか。ファウスト博士が、メフィストフェレスと戯れるかのような。ゲーテが大のモーツァルト愛好家だったのも、作風に通ずるものがある。
また、歌曲ならではの恋愛物語には、思いっきり男性諸君のエゴイズムを演出する。接吻やら、抱きしめるやらと、女体をむさぼる姿を、のどかな恋愛物語に変えてしまうほどの音調によって。幸福像に、さりげなく死霊を重ねると言えば大袈裟であろうか。いや、勝手に聴衆が幸福と思っているだけのことかもしれん。単純な長調が天真爛漫な気分を煽る。天真爛漫とは、自己主張の根源であり、エゴイズムの源泉と解することもできそうか。そして、これらを克服することこそ、すなわち、堕落の道にこそ、真理の道があるとでもいうのか...

4. 三大交響曲
交響曲第39番変ホ長調(K.543)、交響曲第40番ト短調(K.550)、交響曲第41番ハ長調「ジュピター」(K.551)、これらは言うまでもなく、モーツァルトの交響曲においてピークの作品である。そういえば三曲を順番に聴いてしまうが、本書はそれもそのはずだと教えてくれる。変ホ長調のみが堂々たる序奏を持っていて最初に置かれることに意味があり、ハ長調の壮大なフーガがフィナーレとなって、これらにト短調がうまく対比されながら真ん中で座り心地が良い... といった構想になっている。
「終結フーガをもつ彼の偉大なハ長調シンフォニーは、すべてのシンフォニー中、第一のものである。この種のどんな作品にも、天才の神々しい火花が、これほど明るく、美しく輝くものはない。すべてが天上の妙音であり、その響きは、偉大な光栄ある行為のように心へと語りかけ、心を感激させる。すべてがこの上なく崇高な芸術であって、その威力の前に、精神は身を屈して驚嘆するのである。」
ジュピター神のごとく、天上の芸術というわけか。しかし、おいらには40番が一番思考のBGMに合う...

5. 聴衆を超えた幻想芸術
コンツェルトは、本書ではあまり触れられないが、モーツァルトの最高のジャンルの一つであろう。ピアノ協奏曲第20番ニ短調(K.466)は、モーツァルトが一連の快活なコンツェルト人気の流れを突然断ち切った、最初の短調協奏曲だそうな。モーツァルト芸術が聴衆を超え、難解な世界へ踏み込む一歩となったということか。もっとも、その後の長い受容の歴史が、この作品を最高の人気曲の一つへ押し上げることになる。ピアノ協奏曲第26番ニ長調「戴冠式」(K.537)よりも...
また、「フィガロの結婚」の創作の合間をぬって作曲されたピアノ四重奏曲ト短調(K.478)には... これは騒音だ!とても楽しめない!という感想さえ記録されているという。
「訓練を受けていない耳では作品の中の彼についていくのはむずかしい。かなり経験を積んだ耳でも、何度も聴かなくてはならない。」
こういう感想を意外に思うのは、現代ではモーツァルトの高級芸術が庶民化している証であろうか。確かに、複雑で疲れる。だが、おいらの大好きな曲の一つで、精神空間がぐちゃぐちゃにされるような幻想感がいい。
現代思想に飽きれば、逆に古典に新鮮さを感じる。ルネサンス期に古典回帰を懐かしんだのも、そこに新鮮な解放感があったからであろう。いつの時代でも、現在の自分を嘆けば昔を懐かしみ、単純さに退屈すれば複雑さに救いを求めるものである。

6. バッハとモーツァルト
バッハとモーツァルトは、通常バロック派と古典派で区別されるが、近年の研究では二人の連続性に注目されるという。18世紀を通じて、弦楽器や管楽器に大きな変化が見られないからだそうな。鍵盤楽器は別だけど。むしろ、モーツァルトとブラームスらのロマン派とを区別するのであろう。ブラームスやブルックナーで定着する豊かで長いレガートは、まだモーツァルト時代には存在しないという。本書は、モーツァルト時代を味わうには、古楽器演奏を勧めてくれる。古楽器が普及し認知されると、逆にモダン楽器による演奏の再評価という流れになるのだけど...
さて、19世紀的な「歌う原理」に対して、「語る原理」がまだ有効であったと捉えるそうな。だからといって、モーツァルトが18世紀の革新者であることを否定しているわけではない。素人感覚で眺めても、バッハとモーツァルトの間にはなんらかの境界がありそうだし、バッハから異質な変化を見せるのも明らかだ。おまけに、作風は正反対ときた。バッハのカンタータと言えば、神やら愛やら接吻やらを大袈裟に歌い、真面目臭く、説教じみて聞こえる。バッハを素直に聴けるようになったのは、30代半ば頃であろうか。対して、モーツァルトは照れくさそうに茶化すところが昔から肌に合う。
しかしながら、晩年の作品にはバッハの模倣に通ずるものがあるらしく、精神的な共通点が見出せるという。皇帝ヨーゼフ2世から音譜が多すぎると批判されたのは、オペラ「後宮からの逃走」(K.384)に関するものだったと思う。だが晩年は、信じられないほど簡明な転換が著しいという。難解な作品を残してきた天才芸術家が、晩年になって自然へ回帰し、簡明な作風を露わにするのをよく見かける。これが人間の普遍性というものであろうか...

2014-03-09

"ヒトはなぜ戦争をするのか?" Albert Einstein, Sigmund Freud 共著

この組み合わせに目を疑った... アインシュタインとフロイト???
1932年、国際連盟はアインシュタインに、ある依頼をしたという。
「人間にとって最も大事な問題をとりあげ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください!」
そして、とりあげた問題は戦争、相手はフロイトだったとか。ナチズムに握り潰され、長らく忘れ去られてきた二人の往復書簡が甦る。それは、憎悪と攻撃性という人間本性を巡っての対話であった。アインシュタインは、権利と権力の関係から議論を求める。フロイトは、これに賛同するものの、権力より暴力という、もっと剥き出しにした言葉を用いたいと提案する...

翌1933年、アインシュタインはナチズムに追われアメリカに亡命。彼が有識者こそ暗示にかかりやすいと主張したのは、まさにヒトラーの演説に狂気した群衆心理を物語っている。真理を探求するには、科学だけでは不十分だということを痛感したのであろう。ここに、科学者と心理学者を結びつけることに。
1938年、フロイトもまたロンドンに亡命。第一次大戦の教訓から発足した国際連盟は、人類史上初の試みであり、世界から戦争をなくすための唯一の希望であった。しかし、独立機関として機能せず、第二次大戦の勃発で失敗に終わり、20世紀は大量殺戮の世紀と化す。その思想は国際連合に受け継がれるものの、各国の思惑が絡むことに変わりはない。
司法機関を権力と分離させることは極めて難しく、国際機関でさえ正義の下で機能させることは不可能なほど難しい。それは、正義という言葉があまりにも美しい印象を与えるわりに、普遍性や客観性からは程遠いことにある。歴史を振り返れば、脂ぎった権力ほど正義を巧妙に利用してきた。しかも、彼ら自身が正義者だと信じ込んでいる。人間ってやつは、自分の道徳観に自信を持つと、ろくなことにならないようだ。そこで、現実的な対策として実践されてきたのが、モンテスキュー式権力分立の原理である。人間社会ってやつは、毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか?そいつは、真理の探求という普遍原理よりも優るとでも... そうかもしれん。

1. アインシュタインからフロイトへ
「ナショナリズムに縁がない私のような人間から見れば、戦争の問題を解決する外的な枠組みを整えるのは易しいように思えてしまいます。すべての国家が一致協力して、一つの機関を創りあげればよいのです。この機関に国家間の問題についての立法と司法の権限を与え、国際的な紛争が生じたときには、この機関に解決を委ねるのです。」
ところが、すぐに問題にぶつかる。司法は人間が創り出したもので、周囲の様々な圧力を受け、正義はすぐさま宣伝やパフォーマンスに置き換えられる。自由や平等、あるいは友愛や博愛といった響きの良い言葉ほどタチの悪いものはない。
アインシュタインは、国際平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を放棄しなければならないと主張する。そして、人間の心に問題があるとし、第一に権力欲を放棄することができない特質を挙げる。教養のない者を導けばいいというものではなく、むしろ知識人の方が暗示にかかりやすいと。机上の言葉を頼りに、複雑な現実を安直に捉えようとするからだと。教育者、報道屋、宗教屋たちが、政治的に扇動される当時の様子は... 今もあまり変わらんようだ...

2. フロイトからアインシュタインへ
「むき出しの現実の力を理念の力に置き換えるなど、今でも無理なのです。失敗するのは必至です。法といっても、つきつめればむき出しの暴力にほかならず、法による支配を支えていこうとすれば、今日でも暴力が不可欠なのです。このことを考慮しなければ、大きな過ちを犯すことになります。... 人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにない!」
今日、世界中の民族を支配しているのは、ナショナリズムという理念であろうか。フロイトは、ナショナリズムこそがすべての国々を敵対させる原因だとしている。そして、原始時代に遡って考察し、人間の本性を暴こうとする。
一般的には、権利と暴力は正反対のものと思いがち。だが、権利の行動は、暴力と深く結びついてきた。人と人の間には利害の衝突があり、ほとんど力関係で決着がつけられる。人間とて動物なのだ。文明の発達が、腕力競争を武器競争へ変化させ、やがて科学戦争、経済戦争、情報競争といった頭脳戦へと移行させてきた。唯一の救いは、人間の場合、暴力の前に意見や思想の対立があることだ。極めて抽象的なレベルで意見が衝突することもある。フロイトは、こうした特質のおかげで、暴力以外の解決策の可能性があるとしている。
実際、暴力による支配から法による支配へと変化してきた。法を編み出したのは、多くの弱い人々が結集し、権力者の強大な力に対抗して権利を認めさせた結果であろう。
しかし、今度は集団性が暴力を剥き出しにする。狡猾な政治屋どもは、腕力よりも集団性を利用する方が効果的だということを熟知している。君主制を打倒した共和制の下で恐怖政治が行われると、民衆は強烈なリーダーシップを持つ政治家の登場を願う。その結果、再び独裁者の台頭を許す。対立や衝突の生じない社会は存在しない。神の前で誓った二人ですら、利害関係から敵対心を剥き出しにするではないか。相対的な認識能力しか発揮できない人間が自己存在を確認するには、その対象を必要とする。愛の情念は、憎の情念との相対的な関係から生じる。実は、正義と暴力は相性がいいものなのかもしれん...

3. 共同体を形成するものとは
共同体を支えているものは、感情の結びつき、あるいは一体化ないし帰属意識というやつであろうか。もっと言うならば、哲学的な共通意識とでもしておこうか。だが、手段に目を奪われれば、絆などという心地よい言葉だけがひとり歩きを始め、感情的な行為に及ぶ。
汎ギリシア理念では、バーバリアン(野蛮人)より優れているという自負があった。その意識はアンピクティオニア(隣保同盟)、信託、祝祭劇などにはっきりと現れ、ギリシア人同士の争いが熾烈をきわめずに済んだ。だが、争いを根絶することはできない。ライバルを蹴落とすために、一部のギリシア都市は、天敵ペルシアと手を組んだ。ルネサンスにおけるキリスト理念では、多くの人がキリスト者としての一体感を強く感じていた。にもかかわらず、大小のキリスト教国が互いに衝突すると、イスラム教のスルタン(君主)に助けを求めた。人間ってやつは、いとも簡単に戦争に駆り立てられるものである。
アインシュタインは、憎悪に駆られるのは人間の本能であり、相手を絶滅させようとする欲求が潜んでいるとしている。フロイトもこれに同意し、攻撃性を戦争に結び付けないために、他に捌け口を見つけることが重要だとしている。
そして、人間の衝動には二つあるとしている。一つは、保持し統一しようとする衝動で、エロスや性的本能である。権力者は性欲が強いとよく言われるが、英雄色を好むというやつか。二つは、破壊し殺害しようとする衝動で、攻撃や破壊の本能である。
両者とも愛と憎しみの対立から生じる。物理学的に言えば、引力と斥力の関係にある。だからこそ、これらが釣り合うように精神のバランスを求める。片方を悪として排除すれば、他方が暴走を始める。愛もまた独占欲から生じる。憎しみを悪として排除すれば、愛が暴走を始め憎しみ以上にタチが悪い。自己愛が自分を主役にしたいと欲すれば、そこにも攻撃性が生じる。愛を崇め過ぎれば、愛を安っぽくさせるだけよ。
しかしながら、衝動もまた人間には必要な情念である。芸術とは、まさに衝動の爆発した結果である。悪意や攻撃性こそが、革命や創造性を掻き立てる。そして、情念の行き過ぎを意識できるから、抑制しようとする意識も働く。これが中庸の原理というものであろうか。そもそも人間の本性を排除しようとすることが、宇宙法則に逆らっていると見るべきではあるまいか...
「共産主義者たちも、人間の様々な物質的な欲求を満足させて人間たちの間に平等を打ち立てれば、人間の攻撃的な性質など消えると予測していました。けれども、このようなことは幻想にすぎません。今、ボルシェヴィキの人たちはどのような有様を呈しているでしょうか。武装化に余念がなく、実に入念な武装化をはかっています。そのうえ、ボルシェヴィズムを信奉しない人間への激しい敵意と憎悪こそ、彼らを一つに結びつける大きなものとなっているのです。」

2014-03-02

"精神分析学入門(I/II)" Sigmund Freud 著

精神科医ジークムント・フロイトは、第一次大戦下でシェルショックが社会問題となった時代を生きた。現在では、戦闘ストレス反応(combat stress reaction)と呼ばれる。塹壕で手足を失い、化学兵器で目や耳や顔面を失い、アメリカ赤十字社によって作られたパリのアトリエには、傷を隠すための義肢やマスクが作られ数多くの人が訪れた。
フロイトは、従来の催眠術から決別し精神分析療法を確立する。本書は、1915 - 16年と、1916 - 17年の冬学期の二期に分けて行われた講義記録である。ただ、「精神分析学」と題しておきながら、精神病という言葉が数えるほどしか見当たらない。精神分析というと、素人感覚では心理学と結びつけてしまうのだが、どうやら鬱病や躁病の類いとは違うようである。
「ノイローゼ論は精神分析そのものなのです。」
神経症(ノイローゼ)と心身症の違いも微妙に見えるが、ここで扱われる題材が心の病であることは間違いなさそうである。まぁ、分類や定義は専門家に任せるとして、重要なのは治療法としての心の接し方であろう。
注目したいのは、自由連想や夢判断の観点から無意識を徹底的に扱っている点と、エゴイズムよりもナルシシズムを重視しながら、心的エネルギーの本質を性的欲動に求めている点である。この本能的エネルギーを「リビド(Libido)」と呼んでいる。対して、死への欲動を「タナトス(Thanatos)」と呼ぶらしい。生への活力は性欲より発するというわけか。暗示にかかりやすい酔っ払いは、さっそく夜の社交場へ繰り出すのであった...

さて、自我は意識されたものであろうか?いくら自由意志があると信じても、人体活動のほとんどは無意識の領域にある。呼吸を意識的に止めることはできても、心臓は止められない。精神活動では、気分をある程度誘導することはできても、決定的な集中力や思考力は気まぐれに委ねられる。突然アイデアが浮かぶかと思えば、突然ヤル気が失せたりと、思い通りにならない自我にうんざり。夢の中まで攻め倒さないと、思考ってやつはなかなか言うことをきいてくれない。自由意志の本性は、意識の側よりも無意識の側に比重が大きいような気がする。
「自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活のなかで無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていない。」
普段、間違えようのない作業でも、しくじることがある。冷静に振り返ると、魔が差したり、平常心でなかったり。そんな時、ちょいと言葉に耳を傾け、相槌をするだけでも、心を落ち着かせることができる。自由に言葉を発する機会を与えれば、治療の糸口が見えることもあろう。夢には潜在意識が詰まっている。犯罪科学には、催眠術を利用して記憶を蘇らせる方法もある。自由連想によって精神を解放すれば、潜在意識を顕在化することもできるかもしれない。
しかしながら、無意識な領域を意識するとは、既に自己矛盾を孕んでおり、かなり危険を伴うであろう。自己の防衛本能が、苦い体験を心の奥底に押し込めることもある。あまりにも衝撃的な事故を体験すれば、その前後の記憶が失われるとも聞く。無意識が防衛本能の領域にあれば、それを意識した途端に無防備を覚悟せねばなるまい。精神の内に健全な悟性が最後の判決を下す法廷として認められるならば、大した問題にはならないのかも。
しかし、ノイローゼ患者となると、どうであろうか?知らない方が幸せってこともある。正しい判断が下されない状態では、人は皆ノイローゼということになろうか。とはいえ、どんなに優れた知識を身につけても、やはり判断を誤るではないか。せめてノイローゼ状態を自覚できる者の方が、自我を知る機会が得られ、救われるのではないか。精神の限界に挑む芸術家は、常に精神病の境界をさまよっていることになる。人間には、プライドという奇妙な意識がある。おそらく潜在的には、自分のことは自分が一番よく知っているのだろう。だが、愚かな自分をけして認めようとはしない。知らない方が幸せだと潜在的に知っているのかもしれん。これは俺の真の姿じゃねぇ!と。プライドに縋って生きれば、プライドが崩れた途端にズタズタになる。人を気にし、世間を気にするようなプライドは、見栄っ張りから意地っ張りへと変貌させる。所詮人間ってやつは、何を拠り所に生きるか?どこに居場所を求めるか?それを探しながら生きているだけの存在。それがはっきりと見えなければ、自らどこかの神経系を遮断せずにはいられない。これがノイローゼの正体だとすれば、ノイローゼを患っていない人間などどこにいるというのか...

1. 夢学
夢占いの類いは古代から伝えられる。英雄誕生伝説で予知夢が伝えられたり、一富士二鷹三茄子が縁起の良い夢とされたり。人間は夢現象を、何かの象徴や予兆にしたがる。それは、未来への不安から生じるのだろう。予知夢が未来願望から生じるとすれば、デジャブのような心理現象は過去への回帰願望であろうか?望郷の念は、心の拠り所、すなわち帰属意識の再確認から生じるのかもしれん。
フロイトは、夢そのものがノイローゼ的な症状だという。
「抑圧された無意識が自我からある程度の独立を獲得した結果として、たとえ自我に依存する対象配備が睡眠に都合のよいようにすべて停止されたとしても、無意識が、睡眠願望には服さずその配置をつづけるものと仮定しなければ、夢の成立を説明することができません。」
夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば、外界との交渉を断ち、完全に刺激を遮断してくれるが、中途半端な眠りは、なんらかの心的現象をともなう。眠りは、生理学的には休養であるが、心理学的には何を意味するのだろうか?現実逃避か?永遠の眠りの妨げか?はたまた、熟睡を求めるのは、死への憧れか?
いずれにせよ、夢という現象には何らかの意味が隠されているのだろうが、理解不能なほど多義的だ。夢ってやつは見ている間は妙にリアリティがあって、絶対にありえないシチュエーションなのに、意図も簡単に信じ込む。現在と過去の人間関係がごっちゃになっていたり、仮想的な人物や歴史上の人物までも登場させたり、まったく支離滅裂!不安や願望で説明できる単純な夢もあれば、わざわざストレスを求める夢まである。矛盾だらけのシチュエーションに何の疑問を持たず同化できるということは、論理的に物語を感じ取る神経と、リアリティを感じ取る神経は別物ということにしないと説明がつかない。となると、今見ている現実が、どうして夢でないと言い切れるだろうか?まぁ、夢だと信じたところで、同じくらい現実である可能性もあるわけだ。精神そのものが不確実性に満ちているのだから、夢も、現実も、そうなる運命なのかもしれん。もはや、夢の内容を解釈しようなんて絶望的に思える。フロイトも、夢の内容を解釈しようとするのではなく、夢を見る心理状態に着目すべきだと語っている。
「ある心的過程の意識性または無意識性とはその心的過程の一つの属性にすぎず、必ずしも一義的にとらえうる明確な属性ではないと断言することです。」
睡眠状態は、催眠状態と似ている。眠っている耳元で第三者が嫌な事を囁けば、うなされかねない。夢現象を神経系の遮断効果と捉えれば、快感だけを感じ取るような覚醒状態とも似ている。神経系を制御できれば、人間の意志なんて、いかようにも誘導できそうか。人体が量子力学で裏付けられた機械的構造をしている限り、ありえそうな話だ。それどころか、誰もが洗脳状態にあり、人間社会そのものが洗脳しあわなければ成り立たない世界なのかもしれん...

2. ノイローゼ論
ノイローゼは、オーストリアの生理学者ヨーゼフ・ブロイアーが発見したものだそうな。ヒステリー患者をうまく治癒させたことが発見のきっかけになったとか。彼は、フロイトの共同研究者でもあったが、後に性愛の問題に絡んで決別したらしい。
尚、フランスの精神科医ピエール・ジャネも、同じようなことを証明し、文献ではジャネが先んじているという。偉業は、下地を固めてきた無名の研究者たちの努力の上に成り立ち、その過程で、たまたま名声を得る者がいる。どんな発見も一遍に成し遂げられるものはなく、必ずしも功績が元の発見者に帰するものではない。しかし、そういう研究事情を知りながら、現在でもなお経済的な成功者ばかりが脚光を浴びる。人間には、目の前の現象しか見ようとしない傾向がある。これも、ある種のノイローゼ状態であろうか...
さて、誰だって不安や恐怖を感じるだろうし、その感じ方にも個人差がある。不安や恐怖から逃れるために、妙に怒りっぽくなったり、攻撃的になったりする。強迫観念が神経症レベルにまで高められると、自分とはまったく関係のない考えに囚われ、なんの縁もない衝動に駆られ、しかも、そんな事を実行したところでなんの満足も得られないというのに、どうしてもやらずにはいられない。そこに、集団意識が加われば、社交恐怖、広場恐怖、SNS恐怖となって襲ってくる。そもそも社会や共同体には、個人の欲動を犠牲にする側面がある。だからといって、騒がしい世間に対抗して心を閉ざせば、自ら不決断や無気力を呼び込んでしまう。やがて重大犯罪を犯す誘惑に憑かれたり、神の言葉を実行するといった幻覚が見えたりする。ぞっとした衝動から身を守るためには、自由を放棄するしかない。ノイローゼとは、自由と束縛を極端に自己完結させようとする自我の魂胆であろうか?
強迫ノイローゼの患者は、もともとはエネルギッシュな性格の人で、異常に自我執着が強いことが多く、人並み外れて豊かな知的天分を持っているのが通例だという。たいていは高い道徳水準にまで達し、良心的過ぎて几帳面であると。ノイローゼが性格の特質との矛盾から生じるとすれば、下手に自覚できる能力があるが故に患うということであろうか。ならば、自己矛盾を素直に受け入れ、自己が狂人であることを受け入れるしかないではないか。世間が狂っているならば、馬鹿にされるぐらいでちょうどいい...

3. リビド論
フロイトが人間の最も原始的な動機に、性的欲動を位置づけたのは、第一次大戦という時代背景があるように思える。つまり、大量の死骸を目の当たりにすることによって、遺伝子保存の危機を本能的に感じるということである。... と解するのは行き過ぎであろうか?
人の本性は、極限状態に露わになる。性愛には奇妙な現象があり、自己愛を強調しすぎるために自虐的になることすらある。好きな人にわざと意地悪をしたり、自ら悲劇のヒーローを演じたり。愛欲には、拒否される願望もある。おまけに、障害が大きいほど燃え上がり、成就した途端に冷める。健康的で陽気な人物像はドラマの主人公になりにくい。どこか陰りのある過去を持ち、何かに必死に耐えて生きているような人物に惹かれるもの。健康で完璧な人間を眺めても退屈するだけだ。そこで、自我ってやつがシナリオをでっち上げ、ナルシストを演じさせるという寸法よ。
人間は、快楽動物であろうとすることを蔑み、知的動物であろうとする。だが実際には、快楽を締め出すことはできず、建て前と本音を巧みに使い分ける。羞恥を軽蔑すれば、自我を攻撃し、自我を攻撃できなければ、他人を攻撃する。結局、羞恥のはけ口を求めているだけなのかもしれん。自我が空想を膨らませていくのは、リビドの責任転嫁の結果であろうか?
尚、リビドが空想に逆戻りする症状を、ユングは「内向」と名付けたそうな。内向者は、まだノイローゼではないが、極めて不安定な状態にあるという。リビドが常に別のはけ口を求め、少しでも心の均衡が破れると、すぐに症状に現れるような。だが、一旦ノイローゼに陥ると、心の均衡どころか、現実と空想すら区別できない。リビドが現実で満足が得られないと知るや、内向と結びついて地獄へまっしぐら。これがノイローゼというものであろうか...
ところで、よく少子化問題の議論で、人間は生殖機能が基本であるから、子供を作るのは当然だといったことを言う人がいる。生物学的には、生物には遺伝子を残すという役割もあろうが、地球の表面積に対して保存本能が数の調整を試みるかもしれない。無知性で無理性なアル中ハイマーの遺伝子を残すことは世のためにならんだろうし。
では、心理学的にはどうであろうか?生殖機能だけではキスや自慰行為は説明がつかないし、もはや愛撫も前戯もピロートークも無用となろう。チラリズムなんて嗜好はどこからくるのだろうか?エロティズムは性欲から生じるだけでなく、芸術の領域にも官能性はある。性の世界においては、生殖目的よりも愛欲や快楽の方が優勢なようである。性欲に任せて繁殖を続ける方が社会を崩壊させるだろうし、性欲、食欲、金銭欲、権力欲、名声欲... といったものが自制できるから、人間社会は成り立つのであろう。
一方で、性欲が仕事の活力となっているところがある。「英雄色を好む」説は本当かもしれない。出世とホルモンが関連するという研究報告もあるし、職場での情事は燃えると聞く。だが、仕事ができるから収入も増えるのであって、「金の切れ目が縁の切れ目」説の方を支持したい。性欲の解放は、理性と反するように言われるだけにタブー化されやすく、多くの場合、猥褻や破廉恥で片付けられる。
しかし、これ以上、人間本性的なものがあろうか。性的な話題で照れるのも、本性を隠したいだけかもしれない。一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。愛はホットな女性の数だけあるとすれば、独身貴族は純粋な平等主義者となろう。おっと、性欲論を語り始めると、独り善がり論へ吸い込まれる。これもノイローゼというものであろうか...

4. 感情転移
医師への信頼が、異性への愛に変化するなどは普通に生じるという。どんなに年老いても。若い女性患者と年配の医師の間で、娘として可愛がられたいといったこともあるそうな。医師は複数の患者を抱えているので、嫉妬が生じる。そりゃ!男性諸君は美しい女医に憧れるだろう。
さて、感情転移が、治療の大きな原動力になりうるという。感情転移には、陽性と陰性があるらしい。医師との間で共同に営まれれば、陽性となって信頼という権威を持つことに。だが、陰性となれば、抵抗して言葉に耳をかすこともないという。愛情が、敵対心に変貌するのも紙一重ってか。愛が深いほど憎しみもひとしお、決着をつけるものもは患者の知的な洞察ではないようだ。知的な洞察は、むしろ邪魔になるという。信頼とは愛から生じるもので、論証といった知的な部分ではないということか。信頼を無条件の愛に転嫁するということか。既に、論理的に思考できるような精神状態ではないのだろう。そうなると、医学よりも宗教の方が救えるかもしれん。
しかしながら、こうした心理的療法はナルシシズム的ノイローゼには通用しないという。ナルシシズム的ノイローゼは、感情転移の能力がないか、あっても不十分だとか。彼らが医師を拒むのは、敵意からではなく無関心のためで、しかも、感化も受けないという。プライドが高く、常に自力で立ち直ろうとするだけにタチが悪い。自我を増幅させた頑固さには、精神分析療法も無力だとか...

2014-02-23

"エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話" Paul Valéry 著

ヴァレリーが、プラトン風の対話篇を書いているとは知らなんだ。本書に収録される三作品は、彼の最も美しいとされる対話篇だそうな。文学作品への想いが自然な物理現象として現れると、もはや余計な知識はいらない。文章の流れとは、川の流れのごときものであったか...
しかしながら、あらゆる物理現象は、観測することによって認識される。人間の認識能力では、観測系の介在なしに物理系を構築することができないのだ。人間が認識した途端に、あらゆる現象を捻じ曲げて見ていることになる。自然のままの自分の姿すら見えない。精神の投影を崇高な光に頼ったところで、光ってやつは障害物の前で反射し、屈折し、たちまち分散してしまう。人間ってやつは、生きている間に様々な知恵をつけ、その積み重ねが狡猾さを身に付ける。光はいつも回折し、余計な知識が真理への道を回り道させる。今宵も、琥珀色に染まったグラスの反射光がまぶしく、目の前がよく見えん...

「人間であるか精神になるか、そのどちらかを選ばねばならない。人間が行動できるのは、ただただ知らずにいることができ、人間の特異な奇癖である認識の一部分で満足できるからに他ならない、つまりこの認識というものは必要以上にすこし大きすぎるのだ!」

プラトン風の対話篇であるからには、ソクラテスが登場する。しかも、冥界に。お宅が隠遁したのは、騒ぎ立てる俗人どもが煩わしいからですかねぇ、ソクラテスさん?
「死者の国では思考は分割できない。いまではわたしたちはあまりに単純化されていて、何かある思考が動きはじめると、その動きが終点に達するまで、じっと堪え忍んでいるしかないのだ。生者には肉体があり、そのおかげで認識を中断して出ていったり、また戻ってきたりできる。生者は一軒の家と一匹の蜜蜂とからできているわけだ。」
魂が肉体という宿に住み着いている間は、純真な思考を呼び起こすこともできないというのか?ならば、目の前で思考している者がいれば、静かに見守り、余計な口出しをして邪魔をしないでおこう。ましてや人の話している途中で、言葉の揚げ足をとったり、大声で割り込んだりするのはやめるがいい。自由に話すから、自由に質問できる。まずは自分に問い、そして自分に答えることだ。沈黙を守ることで相手に犠牲を捧げることが、真理への道となろう。
ソクラテスは、一旦、理性をも蔑み、アンチソクラテスを演じて見せる。自己否定の試みか。既に社会が腐敗していれば、やがて肉体も腐り果てる。先んじて肉体を棄て、雲や風の動きに魂を同化させる方が、よっぽど有意義だとでも言わんばかりに...
「あの下界では、不滅だった、... 死すべき者たちに関連してのことさ!... しかし、ここでは... いや、ここというところはない、わたしたちがいま言ったことは、すべて、この冥界の沈黙の自然な戯れに他ならない、わたしたちを操り人形のようにあつかった、向こうの世界の、とある修辞家の気まぐれと同じように!」
なるほど、ソクラテスの試みもまた修辞家の気まぐれで、そこに不滅があるというわけか。そして、この気まぐれな修辞家こそが、ヴァレリーさん御自身でしたか...

「人間は自然全体ではなく、ただその一部を必要としている。もっとひろい考え方をして全体を所有したいと望むのが哲学者だ。だが人間は生きることしか望んでいなくて、鉄も青銅も必要とするのではなく、あるしかじかの硬さ、あるしかじかの可延性を必要としているにすぎない。... 人間は自分の目的しか見つめない。」

1. エウパリノス
ソクラテスとパイドロスを登場させ、冥界で対話させる。パイドロスは、高名な弁術家リュシアスの心酔者で、プラトン著「饗宴」にも登場する。話題は、偉大な建築家エウパリノスの言葉をめぐってのもの。
「愛する対象が人びとを動かすように、わたしの神殿は人びとを動かさねばならぬ。」
自然哲学への想いを強めるあまりに、人工物の限界を悟り、ついには建築物の可能性までも圧殺してしまうのか。なぁーに、心配はいらない。建築物の静的空間の中で、精神活動を反映する音楽へと議論が及ぶと、まさに静と動の調和芸術として蘇る。沈黙の建築が、魂の中で歌いかける建築へと昇華させるのだ。ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築はあらゆる芸術の総合であり、建築家のみが総合的芸術作品を完成することができるとした。澄みわたった空の中に旋律の大建造物を想い描くと、一方の側に音楽と建築、他方の側にいろいろな芸術を位置づけるよう導かれるという。額縁に囚われた絵画は事物なり人物なりを装うだけ、彫刻も同じで視界を飾る一部分に過ぎないと。
確かに、絵画は静の手段である。だが、巨匠が手掛ければ、動画よりもはるかに動的な物語を演出するではないか。額縁が世界を閉じるというなら、壁画はどうか?建築物の装飾はどうか?そこに、なんらかの幾何学的形象が生じ、哲学的意義を与えるならばどうであろう。空間的な静と時間的な動とのコラボレーションこそが、ある種の小宇宙を形成する。永遠の存在を代弁する不動性と、奏でながら瞬時に過ぎ去る流動性との調和が、無限の宇宙を物語っているではないか...

2. 魂と舞踏
ソクラテスとパイドロスに、エリュクシマコスが加わって、舞踏の意義についての論議が始まる。エリュクシマコスは、同じくプラトン著「饗宴」に登場する医者で、ソクラテスの思想を注いで欲しいと願っている。だが、凡人は、知性よりも明日にも役立ちそうな知識に目を奪われ、美味の餌食となる。いくら思想のご馳走にありついても、消化不良に陥っては元も子もない。すると、医者の立場から身体の健康を気遣わずにはいられない。
川がただ水を上から下に流すだけの存在だというなら、人間はどうであろう。喰ったものを排泄しているだけではないか。しかも、川の流れよりもはるかに早く果てる。民衆の気移りは激しく、世論は右往左往し、どんな頑固爺であっても、自然の意志力には遠くおよばない。そんなものに、理性を獲得する能力があるというのか?本当に、魂は人間固有のものなのか?どんなに立派な人間であっても、喰うためなら何でもやる。生きるためなら何でもやる。理性が働くのは心に少し余裕がある場合であって、自己存在に保証がなければ何でもしでかす。だから、見下しながら施すか、見返りを求めながら施す。肉体が優雅に踊っていられるのも、魂に余裕があるからだ。知性も同じよ。モノの本質を見極めようとするのも、心のゆとりからくる。そこで逆説的ではあるが、自己の正体を知るために、純粋な魂を呼び起こすために、一旦、舞踏の享楽に身を委ねてみてはいかが...
「真実と虚偽とは同一の目的をめざす、... 同じひとつのものが、別々の仕方で振舞うだけで、わたしたちは嘘つきにもするし、真実を語る者にもする。」
ムーサイの舞いに見蕩れ、一旦、官能の世界へと魂を誘なう。優雅な踊り子たちと音楽の共演の中に身を委ね、さらに酒によって魂を浄化する。すると、素朴な無知者でも、自然美を見分ける能力を纏うことができるとでもいうのか?甘美な接吻の渦の中で、高貴な美脚をむさぼり、知性豊満なボディラインに顔をうずめてみよとでも。よーく分かった!さっそく従おう。真理の素はハーレムであり、真理の道とはエクスタシーへの道であったか...

3. 樹についての対話
古代ローマの詩人ルクレティウスと、ウェルギリウスの「牧歌」に登場する牧人ティティルスが登場する。晩年に相応しい樹齢を思わせるような作品。自然の偉大さに、人間の命の果敢なさを投影するかのような...
人間はたかだか生きて百年だが、植物には何千年と生きるものがいる。有史以来、人間どもをずっと観察してきたヤツもいるだろう。人間の知能で、自然のすべてが語れるとは思えないし、植物に意志があったとしても不思議はあるまい。植物にしても生あるものは、なんらかの周波数を発している。そこに、言葉がないと言い切れるだろうか。人間が言葉として捉えられるのは、知覚能力で制限される特定の周波数範囲においてのみ。自然の声を耳にするには、資格が必要なのかもしれない。曇のない心を持つ者なら、ひょとしたら聞こえるのかもしれない。
しかしながら、人間は純真さを失っていく。生きるための知恵ってやつが、狡猾さを身につけさせるのか。自然が神の恵みならば、知恵は悪魔の恵みなのか。人間どもには、いつだってメフィストフェレスに魂を売る用意がある。人間社会に横行する誇張、流布、デマの類いに耳を傾けるぐらいなら、川の流れる音、波の音、草木が風に揺られる音に耳を傾ける方がいい。芸術の天才たちは、自然とよしみを通じあう能力を持っているのだろうか。その資格を持っているのだろうか...

2014-02-16

"ムッシュー・テスト" Paul Valéry 著

ポール・ヴァレリーといえば、小説家というより評論作家という印象がある。いつも知性溢れる評論振りに魅了され、おかげでポーの「ユリイカ」やパスカルの「パンセ」にも出会うことができた。彼が評論した作品にはすべて触れてみたい!と願っているのだが、なかなか...
さて、「ムッシュー・テスト」は、ヴァレリーの残したただ一冊の小説集だそうな。ごく短い数篇の小説と断章群とから成り、その一つ「ムッシュー・テストと劇場で」は、小林秀雄訳以来(昭和7年)ずっと「テスト氏との一夜」という訳題がつけられてきたという。ムッシュー(Monsieur)という語はよく敬称に用いられるが、翻訳者清水徹氏によると、この小説では少し違うニュアンスを与えていて、わずかな軽蔑と皮肉、あるいは喜劇的な意味が込められているのだとか。また、テスト(teste)は、tête の古い綴りで、「頭、おつむ」といった意味がある。したがって、「ご立派なオッサン」といった感じであろうか。なるほど、評論作家としての優雅な皮肉振りが顕れている。下手な訳題が小説のイメージを壊すことがある。微妙なニュアンスは読者の感性に委ねた方がいい...

「わたしは文学を疑っていた、詩というずいぶん精密な営みに対してまでそうだった。書くという行為は、つねに、ある種の知性の犠牲を要求する。たとえばだれもが知るように、文学書を読むための諸条件は言語への過度の精密さとは相容れない。知性はえてして日常言語に不可能な完璧と純粋を求めたがる。しかし、精神を緊張させなければ快楽をえられない読者などめったにいるものではない。わたしたちは何やら面白がらせなければ読者の注意を惹きつけられないし、こうした種類の注意は受け身なものだ。」
ヴァレリーは、いきなり物書きとしての虚しさを語り始める。そして、テストという人物像は、彼自身の意志に酔っていた時代に、奇怪な自意識過剰の渦中から生み出されたと語る。学問の威信や魅力の大部分は、若干の約束事から借りてきたもので、青春とは、その約束事がよく分からぬ時期であり、また、よく分かってはならぬ時期であるという。人生には、盲目的に従ったり、逆らったりする時期も必要なのだろう。青春期には自由を奪われ息苦しく感じるもので、いまだ盲目的に逆らう酔っ払いは青春真っ盛りよ。
真理を言葉に求めれば、信念や偶像に対する軽蔑から生じる人間の悪魔性を恨み、やがて自己嫌悪に陥る。人格の可塑性は、情緒の激しい若年期に、社会への反抗という形で深く根付いていく。物書きの資質は、こうした精神活動から育まれるのであろう。ムッシュー・テストとは、ヴァレリーの分身であったか...
「存在する一切をただ自分だけに変形し、自分のまえに何が差し出されようと、それを手術してしまう、そんな精神の持ち主と見える存在に対して。わたしは想いをうかべるのだった。」
これは、哲学する自分自身を外から眺めているような人物の物語。哲学を疑う立場からの哲学論議とでもしておこうか。哲学する自分を観察しながら哲学をやり続けると、やがて思想、信条といったものに興味を失っていくのだろうか。客観性を身に付けるとは、そういうことであろうか...
人間は他人との比較、批判によって、自己の鏡像を見出そうとする。自分には自分の姿が見えないのだから。では、鏡像のない人間、あるいは、鏡像を必要としない人間とは、どういう存在であろうか?重量をまとった霊感のごときものか?まさか、それが悪魔ってやつではあるまいな!なぁーに、心配はいらない。人間の精神空間には、神の棲家も用意されている。なんじの悪魔を隠せ!と言うなら、なんじの神を隠せ!とでも言ってやれ!ただし、家を用意したところで、誰が住み着くかは知らん...

ところで、哲学には「形而上学」という大層な代物がある。形而の上と書いて、形のない、時間や空間までも超越した、超自然的な、理念的な... といったメタ的思考が。対して、形あるもの、時間や空間を含めた物理量で計測できるもの、実形態... といったものを「形而下」と呼ぶ。要するに、人間の普遍性や理性といった精神上でしか説明できないものを高度な学問に位置づけて、他を見下ろすわけだ。
しかしながら、精神が形而の上にあると、どうして言えよう?哲学が自問の原理に支えられる以上、哲学を愛する者は哲学にも疑いを持つことになる。対象は自分自身にも向けられ、自己存在にも疑いを持たずにはいられない。自己否定に陥ってもなお精神が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。矛盾の原理こそが究極の暇つぶしとさせ、官能の喜びとさせるであろう。それだけに際どい学問となり、扱いは危険となる。ときには、人間の掟に背き、自我が構築してきた原則を破り、あるいは、自己の人間性や人格までも否定し、自己愛の虚しさを知り、ついに精神を無に帰する。下手すると肉体までも連動させ、取り返しがつかない。メタ的思考も、もうメタメタよ!
精神が偶像となれば、肉体もまた偶像となる。思考の死が肉体の死を招くのかは知らん。精神の持ち主は、常に肉体が自我に弄ばれる宿命を背負う。ここに思考実験の恐ろしさがある。抽象化の原理が自己と他の区別までも呑み込み、自己に対してですら残虐行為に及ぶことがある。そうなると、形而より下等な存在となろう。哲学には、自発的で能動的な精神活動が要求される。真理の道は険しい。それを承知できぬ者は、哲学に近づかぬ方がよい。幸福になりたいだけなら、むしろ宗教の方がうってつけだ。信じるだけで導いてくれるのだから。
そこで、哲学する時は、自我の原子構造をいつでも分解できる準備を整えておきたい。魂は、常になんらかの泥酔状態にあり、自我への陶酔を中性に保てなければ、たちまち危険となる。したがって、哲学するに、アルコール成分は絶対に欠かせない。強烈なアルコール濃度ほど矛盾の緊張をほぐしてくれるものはあるまい。自己に幻滅しても、愉快な独り言が止まらなければ、それでいいではないか。まろやかな香りが孤独を演出すると、そこには、琥珀色に染まったグラスに話しかける自我がいる。ちなみに、ヴァレリーにはフィーヌ・ブルゴーニュがよく合う...

1. 人生の終止符
精神の勝利の瞬間をいくつか数え上げようとすると、くだらない記憶ばかりが蘇る。いくつか読んできた本の内容ですら思い出せない。だから、こんなブログを書いているのかもしれん。思考の履歴を刻むために。良いことばかりが記憶に留まるわけではない。嫌なことを意識して忘れようとしたわけでもない。ただ残ることのできたものが、残っている。そのおかげで、歳をとることにも驚かずに済む。やがて、記憶の蓄積が知性へ昇華させ、死の恐怖を和らげてくれるのだろうか?その恐怖を自然に受け入れられる心境となった時、精神が勝利する瞬間となるのだろうか?それをじっと待ちながら、日々の作業に明け暮れ、自己の年代記を刻み続ける。
しかしながら、どんなに言葉を駆使しても、精神を言い当てるような的確な言葉は見つからない。必死に夢想したところで、自己の理想像を思い浮かべることもできない。思考を重ねれば、自己愛も、自己嫌悪も、その双方で旺盛となる。いつの日か、どちらの自分も受け入れられる時が来るというのか?それが、自分に終止符を打つということなのか?あるいは、単なる諦めの境地であろうか?
「透明な生活を営んでまったくひとめにつかず、孤独に生きて、世のだれよりも先がけて理(ことわり)を知っているひとたちだ。無名に生きながら、彼らはいかなる著名な人物をも二倍に、三倍に、数倍にも偉大にした人物だとわたしに思えた、... 幸運をつかもうと、独自の成果を挙げようと、それを世に示すことなど軽蔑している彼ら。思うに、自分は、そこらへんにあるものとはちがう、などと考えるのは拒んだことだろう...」
思考や行為を完全に自己管理できれば、完全な自由人となれるだろうか?いや、管理できない部分があるから人生は面白い。それを放棄するとは、なんともったいない!気まぐれほど偉大な精神活動はない。そのおかげで、知らない自分を発見することができる。そして、死期もまた突如としてやってくるのだろう。死期までも想定できたら、人生はますますつまらぬものとなりそうだ。生を律する倫理学があるなら、死を基軸に据える哲学があってもいい。精神の危機に対抗するために、死の意義を考え、そこに生の意義を求める。無を基軸とした人生観とでもしておこうか。
しかし、これは賭けだ。人間の能力では到底答えられそうにないのだから。それでもなお賭けに挑むのが、ヴァレリー流倫理学というものであろうか...
「ことはつまり、ゼロからゼロへの移行だ。そして、それが人生なのだ。無意識にして無感覚から、無意識にして無感覚へ。見ることの不可解な移行、なぜならその移行とは、見ないことから見ることへと移ったそのあとで、見ることから見ないことへと移ることなのだから。」

2. 死すべき人間
ヘシオドスの言った「死すべき人間」ってやつは、あらゆる場面で自己愛を見出す能力を持っている。時には自分を偉いと思い、時には自分を愛し、時には厭わしく思い、時には支離滅裂となり... そうしたことが、いかに自己を抹殺していることか。それにも気づかず、権威や名声や地位の殉教者と成り果てる。希望という幻想に魅入られると、絶望という名の希望に憑かれ、ついには人生に疲れる。自我ってやつは精神空間を、下等動物に位置づけるゼロ点と神を位置づける無限大点との間を、恐ろしく敏速に往来してやがる。自己の正体を知らないということが、無と無限の間を瞬時に移動させるのか?まるで株式の変動相場のように。慈しみと憎しみの間を瞬時に往来すれば、いつも両極に吸い寄せられて偏見となる。知性が... 理性が... いったい何を補完してくれるというのか?思想なるもの、信条なるものが馬鹿馬鹿しく見えてくる。これが死すべき人間の本性というなら、そうかもしれん...
「崇高なるものが連中を単純化している。断言してもいい、連中の考えるところは、そろって、しだいに同じことがらのほうへと向かってゆくんだ。やがては危機だか共通の限界だかをまえに、ずらりと等しなみに並ぶことになるのさ。もっともこの場合、法則はそんなに単純じゃないぞ... このわたしにはおかまいなしなんだから、...で ... わたしは現にここにいる。」

3. 意識の産物
「愛すること、憎むことは存在の下位にある。愛すること、憎むこと... それはわたしには偶然のように見える。」
俗人の愛といえば、家族愛、友人愛、隣人愛、恋愛といったものであろう。こうした愛は感受性に囚われる。しかも、憎しみの根源となるのだ。罵り合えば、双方に悪魔を目覚めさせ、空想の中に愛の理想像を描き続ける。憎しみの理想像までも。だから、すぐに現実逃避に走るのか。こんな都合のいい能力は、神ですら及ぶまい。なんでも実現できる神が、空想に縋るはずもない。いや、全能者なら空想をこしらえる能力もあるか。現実世界に、人間なんて不完全なものをこしらえるぐらいだ。まさか!神までもが、現実と空想の区別がつかない?ってことはないだろうなぁ...
すべてが意識の産物だとすれば、現実だろうが、空想だろうが、どっちでもええでねぇかい!ただ、空想だからやり直しができる、なんて特別扱いするから、自我を悲惨へ導く。宇宙にしても記述でしか示せず、紙の上にしか存在しないではないか。無限なんて大した問題じゃなければ、無なんて恐れるに足らん。神(かみ)と紙(かみ)が、同じ音律なのは、偶然ではないのかもしれん。そして、安心して自己を疑い、自己存在を否定することもできるという寸法よ。尚、亭主はかみさんに頭が上がらないものらしい。
道理に幻滅し、成功の確実性に嫌気がさしたら、冒険をしてみることだ。自分の中の所有者をくまなく探してみることだ。完全なんて糞食らえ!人生もまた、意識の産物でしかないのかもしれないのだから...
「わたしは馬鹿者ではない、なぜならば、自分のことを馬鹿者だと思うたびに、わたしは自分を否定しているからだ。自分を殺しているからだ。」

2014-02-09

"怒りについて 他二篇" セネカ 著

セネカをもう一冊...
本書には、「摂理について」、「賢者の恒心について」、「怒りについて」の三篇が収録される。その流れは、まず、自然の摂理によって生じる災難を試練と捉えた運命論を語り、次に、人間社会で受ける不正や侮辱に対抗する恒心を語り、最後に、最も心を乱す怒りの情念に対処する方法論を語る。徳(とく)がちょいと濁ると、毒(どく)となる。道徳(どうとく)を盲目(もうもく)に崇めれば、猛毒(もうどく)となる。これらの語の音律が似ているのは偶然ではないのかもしれん...

ストア派哲学者として知られるセネカは、カリグラ、クラウディウス、ネロという言わば病的で狂乱的な皇帝に仕え、ついには謀反の嫌疑で自裁を命じられる。政界には暗殺や陰謀が渦巻き、いかに毒された時代であったか。それはタキトゥスの批判的叙述を読めば想像に易い。社会の退廃は、思想家の間で道徳観念を優勢にさせる。ストア学派もまた、ローマ帝国にありながら、ポスト・アリストテレスの流れを汲むヘレニズム調の一派として育まれていく。そして、古代ローマ社会にとって、ストア学派はキリスト教の受容の素地となったとも言えそうか。社会の退廃を目の当たりにすれば、人間は誰しも愚痴っぽくなり、説教じみてくるものかもしん。賢者といえども...
ただ、あまりに完全無欠の賢者モデルが提示されると、こそばゆい。エピクロス派を非凡な義務を負わせていると批判して、凡人を導くものでなければ... などと語られるが、やはり凡人未満はストア派になれそうにない。尚、あるパブにセネカさんという女性がいると聞くと、そちら方面のセネカ派にはイチコロよ!

さて、心を最も乱す情念といえば、怒りであろうか。そのシンプルな形は復讐心として現れる。他人から不幸を被れば、倍返ししたいというのが人情。おそらく、法律の実践において最も機能するものが、復讐の及ぶ範囲の規定であろう。古くから、復讐行為に制限を与える法律が実践されてきた。ローマの十二表法では、怪我を負わせた者に対して同じ程度の復讐が許され、ハンムラビ法典には、目には目を歯には歯を... といった記述が見られる。武士の時代に仇討ちが合法化されたように、騎士の時代にも決闘の法慣例がある。いずれも同等の報復まででチャラにし、報復が無限に及ぶのを禁じようとするものである。
セネカは、怒りを不正に対する仕返しの欲望であるとしている。しかも、衝動ではなく、きちんと判断した結果であると。だからこそ、陰湿な陰謀といった行為に及ぶ。しかしながら、不正を規定することは難しい。誰もが都合よく解釈し、巧みに主張する者が勝つ社会となれば、正義が不正に加担することになる。怒りの情念は狂気の類いであり、些細な理由とて一旦激怒すれば、正義も真理も見分けがつかない。動物にも、衝動、狂暴、獰猛、攻撃性はあるが、それは怒りではない。動物には不正の概念がないからだ。満腹なライオンは人が側を歩いても襲わない。セネカは、怒りが存在しないのは奢侈がないのと大差ないという。ただし、ある種の快楽に対しては人間よりも無抑制ではあるけれど。
動物には、徳が認められなければ悪徳も認められない。となると、徳だけを持ち、悪徳を持たない人間なんて存在しうるのか?有徳者たちは悪徳にも優れているということか?だから、恥ずかしげもなくモラリストを演じていられるのか?慢性的に恐怖や不安を抱えていれば、その反動で怒りっぽくなり、最も動物性の強い情念を剥き出しにする。だが、怒りも捨てたもんじゃない。自己への怒りとなれば、自省自戒の念へと向かわせるだろう。やはり、怒りは排除すべきものとするより、自然の情念として受け入れ、抑制する手段を考えた方が良さそうである。
そこで、セネカは、生を浪費する人間どもに、時間と死の概念を伝授する。怒った相手には、議論を持ちかけるのではなく、考える猶予を与えること。怒った自己には、生の果敢なさ思うこと。
「何にもまして有益なのは、死の定めを思うことである。」
いかに生を浪費させているかを知り、時間を克服し、存在を克服することこそが、心の平静を取り戻す極意というわけか。
しかしながら、怒りと同様に手強い情念がある。愛こそが、人々を盲目にする恐るべき相手だ。大衆の盲愛が個人崇拝に及べば、残虐な行為ですら命じられるがまま。しかも、自己が制御不能に陥っているにもかかわらず、自由意志で行動していると信じ込む。したがって、怒りに愛が結びついた愛憎劇ほど、最も過酷となろう。憎しみを快楽にしてしまうだけにタチが悪い!
「怒りが自然に即しているかどうかは、人間を観察してみれば明白だろう。心のあり方が健全であるかぎり、人間より穏やかなものがどこにあろう。だが、怒りより過酷なものがどこにあろう。人間以上に他者を愛するものがどこにあろう。怒り以上に憎むものがどこにあろう。人間は相互の助け合いのために生まれた。怒りは破滅のために生まれた。人間は集合を欲する。怒りは離散を欲する。人間は貢献を欲する。怒りは加害を欲する。人間は見知らぬ人すら援助する。怒りは愛しい者すら苛む。人間は他人のため、進んでみずからを危険にさらす。怒りは危険の中へ、もろともに引き込むまで堕ちていく。だから、この獣じみた危険この上ない悪徳を自然の最善にして完全無欠の業に帰す者ほど、自然を理解していない者がどこにいよう。」

1. 摂理について
摂理が存在しながらも、なぜ善き人に災厄が降りかかるのか?自然の摂理とは、無作為にカオスから生じた結果でしかなく、そこには秩序は存在しないのか?宇宙のクラスタ化とは、いわば地方自治における秩序のようなものが自然に形成された姿ではないのか?なぜ、銀河団、太陽系、あるいは地球という単位で秩序らしきものが生じるのか?しかし、地球上にも不規則な現象が生じる。突然の嵐、炸裂する稲妻、怒り狂う火山、滑り落ちる地面、押し寄せる高波... 自然は人間にとって都合のよいものばかりではない。普段は神との和解によって、平穏が保たれているものの...
善き人という定義も難しい。人間社会にとって善き人でも、自然にとってはどうなんだろうか?正義も、道徳も、理性も、知性も... 精神の持ち主の気まぐれや退屈しのぎに過ぎないのかもしれん。精神の鍛錬と解釈すれば、悪もまた善に転換される。質素な生活が不憫とも言えないし、惨めに見えても本人は楽しんでいるかもしれない。一方で、裕福に暮らしてもなお自殺しおる。
「何にせよ度を過ぎれば害になるが、節度なき幸福は何より危険である。脳を揺さぶり、心を虚ろな妄想へ誘い込み、偽りと真実の中間の靄を大量にまき散らす。徳の支援の下に絶えざる不幸を凌ぐほうが、はてしない度外れの善で破裂するより、どれほどましなことか。断食の死のほうが楽である。食いすぎは破裂させる。」
自分に何ができるかは試さずに分かるはずもない。若い時の苦労は買ってでもせよ!と言うが、年を取っても悟れなければ、旅を続けるしかないではないか。寿命が延びれば、親より子供の方が先にあの世へ逝くケースも珍しくない。年齢は抽象化され、定年なんて概念も吹っ飛ぶ。
「私は信じる。不幸に遭わなかった者ほど不幸な者はいない。自分を試すことが許されなかったからだ。」
ストア派は、宇宙が究極的な善によって設計されているという一元的な理性主義の立場をとる。この宇宙原理を神と解することも容易いので、キリスト教とも相性が良さそうである。とはいえ、人の世には不合理が充満する。賢者ソクラテスですら名誉を汚され処刑された。弟子たちが脱走を促したにもかかわらず、国家の名の下で裁かれる方を望んだのだ。彼の意志が、能動的か受動的か、見解が分かれるところであろう。セネカは、能動的試練と捉えている。世間から不正や侮辱を受けても、いかに対処し不動心を会得するか、これを問うている。理性ってやつは、権威や名声なんぞに左右されないものらしい。
「成功は民衆や凡才にすら訪れる。だが、死すべき者を襲う危機と恐怖を打ち倒し、敗北の軛の下へ送り込むのは、偉大な者の本分である。実際、いつでも幸せで、心の苦しみを知らずに人生を送るのは、自然の今一つの部分を知らないでいることである。」

2. 賢者の恒心について
「賢者は安泰である。いかなる不正にも侮辱にも動じない。」
ソクラテスの精神「善く生きる」が、継承された作品ではあるが、どうも説教じみて聞こえる。というのも、賢者は一切の悪徳を持たないので、悪を受けることも、不正を受けることもないというのだ。しかし、ソクラテスは不正を受けて処刑されたではないか。当時のローマの愚暗な風潮から、悪徳を徹底的に糾弾せずにはいられなかったのか?侮辱という人間社会の軋轢や、集団的悪魔を風刺したような皮肉も見られる。おまけに愚痴ぽい。
「われわれは、途方もない浅薄さに至った結果、苦痛はおろか、苦痛の想念に悩まされている始末である。実に幼稚だ。」
不正が悪なくしては存在せず、悪は卑劣さなくしては存在しないとすると、おまけに、卑劣さが高潔さによって占められているところに到達できないとすると、不正が賢者にまで届く道理がないという。
「賢者は怒りを知らない。怒りを駆り立てるのは、不正の様相である。だが、怒りを知らないことは、不正も知らないのでなければ、ありえない。」
しかしながら、誰の威信も傷つけず、身体も傷つけず...という人間が存在するだろうか?社会競争に自身が曝されれば、人が生きるということ自体、誰かを犠牲にしていることにならないのか?賢者は、自分に不正が及ばないことを知っており、それゆえに自信と歓喜に満ちているという。
では、いつも憤慨している有識者や有徳者たちは、賢者とは程遠いというのか?これは納得!侮辱に動かされる者は、自らの内に何ら思慮も自信もないことを暴露しているという。賢者は、そうした心痛や不愉快の感情など、克服するどころか、感じすらないという。鈍感ってことか?不正も侮辱も感じないとすれば、復讐心も生じようがないので、人を罰する立場にはうってつけであろうけど。政治家どうしで罵倒し合い、社会に不快感をまき散らすのは、賢者でない証というのか?これも納得!
では、最高の徳の持ち主とされる政治指導者たちが賢者でないとすれば、どこに賢者がいるというのか?政治とは無縁な僧侶の中にいるというのか?お布施でベンツを乗り回すような、あるいは、神の代理人と自称する者か?どうりで、自信満々に理性を振りかざし、説教したがる輩が大勢いるわけだ。善が人間の本性なら、悪もまた人間の本性。超人でもなければ、完全に不正を断ち切ることなどできまい。悪徳の蔓延る社会が住みづらいのは確かだが、賢者ばかりの社会も窮屈そうである...

3. 怒りについて
社会の幸福を損ねる筆頭がローマ皇帝とすれば、権力抗争で皇帝自身が侮辱の餌食となる。総督、裁判官、民衆までも追従しては、狂気の沙汰よ。怒りは懲罰に貪欲で、自然本性は懲罰を愛好しないという。怒りを、復讐心に限定すれば、そうかもしれない。だが、有徳者や理性者ほど、罰則を強化せよ!と主張するではないか。管理や監視を強化したがるではないか。
怒りは、嫉妬からも差別意識からも生じる。見下した者が自分より賢い行為をなせば、腹立たしくもなる。エリート意識の類いだ。どんなに優れた法案であっても、政治家自身が主役になれなければ、抵抗勢力に成り下がる。自分が介在できなければ、他人の幸せまでも邪魔をする。怒りが自己愛からも生じるとすれば、賢者には自己愛がないというのか?
やはり、怒りとて必要ではなかろうか。自分への嘆きが怒りとなって、自己の欲望を抑制するところがある。怒りは、判断から生じるのか?衝動から生じるのか?ストア派の見解では、心が賛同しているとしている。不正を被って、復讐を熱望するということは、立派に判断が下されていると。ただ、深い思慮の下での判断かは別だが。他人の悪徳に依存するというくらい馬鹿馬鹿しい生き方もなかろう。絶えざる憤怒と憂いのうちに過ぎていく人生なんて。
しかしながら、非難すべきことを目にせず、憤慨せずに済む、なんてことがありえようか。仮に衝動だとしても、それがなければ退屈しそうである。つまらぬミスをした自分に、憤慨することがよくある。反省ではなく、怒るのだ。だから、また同じミスをやる。怒りは、嘘つきや悪賢さに比べれば純真に見える。だが、セネカはそれは純粋ではなく無分別だとしている。愚者、浪費家、放蕩家の類いか。
「怒りは贅沢より悪い。なぜなら、贅沢が堪能するのは自分の快楽であるのに対して、怒りが楽しむのは他人の苦しみだからだ。怒りは悪意と嫉妬を打ち負かす。それらは相手が不幸になるのを欲するのに対して、怒りは不幸にするのを欲するからだ。」
セネカは、怒りに対する処方箋を二つ提案してくれる。
一つは、時間の概念。怒りっぽくなったら、相手にも自分にも猶予を与えること。つまり、遅延だ。時間の役割は、なにも面倒なことを先送りによって安心するためのものではあるまい。時間の収支は常に赤字で、期限に追われ、機嫌を損なう素となる。人間社会では、なんでも早く片付ける事が善とされる。仕事、スポーツ、コンピュータ処理、速読法... これに速愛法を付け加えておこう。それもそのはず、生きる時間が限られているのだから。ただ焦っているだけという見方もできるか。愛する二人は、時間が止まってほしいと願う。それもそのはず、別れる運命を暗示しているのだから。
「怒りの最初の発作を言葉で鎮めようとしてはならない。耳が聞こえず、正気でないのだから。怒りに時の猶予を与えよう。緩和してきたとき、治療はよく効く。目が腫れ上がってる時は手当てを控え、力が冷えて固まっている時、動かすことで刺激する。他の疾患でも、激しい時は同様である。病気の初期段階は安静が癒してくれる。」
二つは、死への想い。永遠の生を承ったかのように怒りを宣言し、束の間の人生を霧消させる。自己の気高い喜びの時間を放棄し、他人の苦痛と呵責に費やす。そして、振り返れば、死が迫っている。
「今後は未熟な者たちと衝突しないようにしたまえ。これまで何も学んでこなかった者は、学ぶことを欲しないものだ。彼には必要以上に自由に説教した。そのせいで、君は彼を改善できす、気持ちを傷つけた。今後は、君の言っていることが真実かどうかだけでなく、聞かされる側が真理に耐えうるかどうか、気をつけるがいい。善き人は注意されるのを喜ぶが、だめな人間ほど教導者の言葉を悪く受けとるのだ。」

4. アリストテレス論
アリストテレスは、怒りの情念を必要とした。それなくしては戦闘は不可能だし、精神と意気に火をつけることもできないと。ただし、それは指揮官ではなく、兵士に必要だとしながら。対して、セネカはこれを誤りだとしている。怒りの特性は頑固さであるが、勇敢さは怒りから生じるものではないと。理性に基づく怒りは、もはや怒りではないということか。
ちょいと、アリストテレスを弁護するなら...
怒りによって描写できる芸術というものがあろう。怒りが制御可能なほど小さい分には、大した問題になるまい。怒りに歯止めをきかせることこそが問われるべきではないか。人間が具える自然の情念を抹殺するとは、神経を切断するようなものではないか。一つの情念を抹殺すれば、別の情念を暴走させ、精神を歪ませることになりはしないか。もっと言うならば、抑制能力を身につける上でも、怒りは必要なのではないか。実際、自然の摂理に対しては、現実を受け止めて試練とせよ、と語っていたではないか。怒りは、人間にとって本当に自然本性的なものではないのか?怒りに対して抑制力を身につければ、あらゆる情念の暴走をも、自己への怒りとして抑制することができるのではないか。これが調和、すなわち、中庸の原理というものではあるまいか...
そもそも、人間精神は常に正気でいることの方が難しい。自己を完全に制御することは不可能であろう。目に見える身体ですら、血液の流れを止めたり、心臓の鼓動を自由に止めたりはできない。ましてや目に見えない、実体があるのかも分からない魂を完璧に制御するなど...

5. 僭主弑殺者の逸話
「怒りについて」で紹介される僭主弑殺者の逸話は、どこかで読んだような気がするのだが、ゼノンのパラドックスの類いであろうか?記憶が定かでない。それは、怒りが僭主をして僭主殺しに手を貸すというお話...
アテナイ王ヒッピアースの暗殺に失敗した者が捕らえられた。共謀者を白状するよう拷問にかけると、王の周りに立つ友人たちと、王の安全を大事にしている人々の名前を挙げていく。ヒッピアースは、名前が挙がる度に一人一人殺すよう命ずる。そして、まだ誰か残っているか?と尋ねると、後はお前一人だ!お前を大事にしている者は一人も残さない!と答える。己の防護を、己の剣で抹殺したのだった...
この逸話は、エレアの哲学者ゼノンに関わるものとされるそうな。
対して、アレクサンドロス大王は豪気だ!侍医ピリッポスの毒に気をつけるよう忠告されても、恐れもせず杯を受け取り、友人を信頼する自分を信じて怒りごと飲み干したのだった...