2014-06-01

"不思議宇宙のトムキンス" George Gamow, Russell Stannard 著

懐かしやトムキンス!物理学を専攻した者で、トムキンス冒険物語の存在を知らぬ者はいないだろう。たとえ読んだことがなくても... 定常宇宙説と膨張宇宙説の論争が旺盛な時代、物理学者ジョージ・ガモフは、時空の歪曲や膨張宇宙といった難解な物語を、初心者向けに書き下ろした。近年、この手の科学啓蒙書は当たり前のように書かれ、おいらも学生時代、ブルーバックス教の信者であった。しかし、その先駆者の存在感は衰えるどころか、むしろ輝きを増してやがる。
本書は、ラッセル・スタナードによる新版で、時代に即してオリジナル版からかなり改訂されている。尚、主人公C.G.H.トムキンスは物理学に興味を持つ平凡な銀行員、イニシャルは光速c, 重力g, プランク定数hに由来する。

さて、相対性理論に触れると、最初にぶつかる疑問がこれであろうか。すべての運動が相対的と言っておきながら、光速だけは絶対速度とは、これいかに?やはり神は存在するのか?なぁーに、心配はいらない!光速が不変ならば、時間や空間の方を可変にすればいい。神だって、ご都合主義よ。
人間は、3次元 + 時間という認識空間を生きている。だが、時間次元だけは明らかに異質だ。こいつだけは逆戻りできない。これを説明するために、アインシュタインは時間と空間を区別しない時空という概念を持ちだした。時間と空間は光速に対して数学的に対称性がある、ということにすれば、双方を入れ替えても物理法則が成り立つという寸法よ。そもそも時間が一定などというのは疑わしい。心地よい事は瞬く間に過ぎ去るくせに、忌わしい事はいつまでも居座ってやがる。死に際には走馬灯を見ると言うではないか。時計なんぞで一定に刻まれるとするから、時間依存症で苛む。
人間が何かを認識するには、なんらかの比較の対象を必要とし、その対象を一時的にスタックする機能が求められる。格納された情報は前後関係で結びつけられ、情報を取り出す順番が時の流れを作る。これが記憶のメカニズムだ。人間ってやつは、事象をなんらかの関係で結び付けないと、思考することすらできない。つまり、時間なんてものは、関係によってもたらされる概念であって、認識の産物に過ぎないとでもしておこうか。物事を時系列で秩序立てると、自己存在の瞬間が確認できて、心が落ち着くわけだ。ならば、何も認識しなければ、人間は自然物のままでいられるのか?と問うても、そんなことは知らん。ただ言えることは、質量を持つものはみな、相対性に幽閉された存在だということぐらいであろうか...

まさに、ニュートン力学は質量を持った物体を対象とする。この世界においては、空間と時間は完全に独立した物理量で定義され、すべての運動は時間の関数で記述される。つまり、あらゆる現象は連続性で説明できるという仕掛けだ。対して、量子力学では質量ゼロの素粒子が登場しやがる。光子やら電子やらがそれで、宇宙空間を自由に飛び回ることができる。電子が気の毒なのは、原子核に縛られることである。いや、M性が病みつきになって、自ら自由を放棄したのかもしれん。もともと自由電子と呼ばれたはずだが...
量子の存在は統計的にしか扱えない。不確定性原理は、位置と運動量といった同時に二つの物理量を決定できないという制約を課す。光が絶対速度で決定されるなら、光子の位置ぐらい決定できそうなものだが、そうもいかないらしい。素粒子などと呼んでいるが、本当に粒子なのか?質量もなければ、まるで霊感のような存在。人体が量子で構成されるからには、霊感の強いヤツがいても不思議はあるまい。
また、アインシュタインのあの有名な公式は、エネルギーと質量の等価性を示している。つまり、無から物質を作ることはできないが、エネルギーからは物質を作ることができると言っているのだ。おまけに、エネルギー状態への移行は、プランク定数の定義で離散的にしか行えないことになっている。つまり、宇宙空間のどこでも、何かが突然湧いて出るかもしれないと言っているのだ。物心がつくとは、そんな状態であろうか?実存観念の本質とは、物質よりもエネルギーの方にあるのかもしれん...

1. 同時性の問題
特殊相対性理論は、一様で一定の運動をする系における、時間と空間の関係を論じている。すなわち、等速運動を唱えている。一般相対性理論は、これに重力の作用を加えて抽象度をあげている。すなわち、重力場と加速度運動との等価性を唱えている。重力場とは、空間が曲がっていることの物理的現れであり、その曲率は光線の曲がり具合を観察すればいい。絶対速度が歪めば、時間も歪む。つまり、二点における時間差は、双方の重力ポテンシャルの差で決まることになる。太陽表面上の出来事は、重力ポテンシャルの違いにより、地球表面上よりもゆっくりと進行するだろう。象さんのように体重が大きくて動作が鈍そうに見えても、時間の長さは同じように感じているのかもしれん。
さて、絶対速度が存在するとは、何を意味するだろうか?光速を超えられないとすれば、宇宙現象の同時性なんぞに意味がないということか?少なくとも時間に幽閉された生命体には、そんな気がする。そもそも運動しているかどうかなど、どうでもいいのでは?いくら生に意義を求めてもいずれ無に帰するし、どんなに足掻いても絶対静止には敵わんよ。しかし、生に意義を求めなければ、人生なんて退屈でしょうがない。なるほど、暇つぶしに意義を与えるとは、絶対速度恐るべし!
宇宙年齢が計測できるのも、絶対速度のおかげである。ビッグバン宇宙論が正しければ、絶対速度を物差しとしながら宇宙の果てから届く光を観測すればいい。観測するということは、認識するということ。もし、完全な同時性が成立すれば、宇宙年齡どころか、自分の年齡すら認識できないかもしれない。
しかし、同時性が成立すれば、後悔せずに済みそうな気もする。何事を知るにも、直接経験しない限り、事後報告によってもたらされるのだから。実際、人間社会では既成事実を作った者が勝つ。事実よりも風説流布の方が、はるかに波動エネルギーは巨大だ。光速を絶対速度に崇めれば、それが神となりうるだろうか?いや、いつも一緒だよ!なんて神の前で誓っても当てにはならない。人間社会にとって、絶対的な同時性なんてものは邪魔な存在かもしれん。あるいは、同時性という自由を放棄したからこそ、認識能力というものが成り立つのかもしれん。

2. マクスウェルの魔物
第一種永久機関は、外部からエネルギーを受けることなく、仕事を外部に取り出す機関で、エネルギー保存則に矛盾して実現できないとされる。
一方、第二種永久機関は、何もないところからエネルギーを取り出すのではなく、大地や海や大気といった周囲の熱源からエネルギーを取り出すので、理論的にはイケそうな気もしなくはない。例えば、石油や石炭を燃やす代わりに、水から熱を取り出すといったことが。とはいえ、冷たいものから熱いものへ自然に熱が移動するのも考えにくい。案の定、量子力学は、確率が思いっきり低いというだけで、不可能とまでは言わない。それが、マクスウェルの悪魔ってやつだ。本書は「魔物」と呼んでいるが、物語にはこちらの方がしっくりくる。
個々の分子を観察すると、中にはすばしこいヤツがいる。運動方向を自在に変えられるような。熱力学の第二法則、すなわちエントロピーの法則に逆らうようなヤツが、原子や分子レベルで確率的に存在する可能性がないと言い切れるか?という問題提起である。この魔物にかかれば、瞬間的に熱を移動させ、平坦なところにも温度勾配を作ることだってできるかもしれない。宇宙が138億年も存在してきたなら、そんな現象が一度ぐらいあっても不思議ではあるまい。
なるほど、市場原理は、しばしばエントロピーの呪縛を破って、ブラックホールに吸収される。魔物を見たければ、メフィストフェレスがうようよしてそうな人間社会を観察すればよかろう。そういえば、目の前のウィスキーがいつの間にか無くなっている。突然、魔物が蒸発熱を発したからに違いない。

3. M性な電子たち
「偉大なる建築家ニールス・ボーアが建立(こんりゅう)された美しき原子構造の内部には、さまざまな量子部屋がありましてな、遊び好きの電子たちをそれぞれの部屋に正しく住まわせておくことがわたしの務めというわけです。秩序と規律を保つために、同じ軌道には二つの電子しか飛ぶことを許しておりません。三角関係はトラブルのもとですからな。おたがいに逆のスピンをするもの同士がカップルになっているのがおわかりでしょう。性格が正反対の夫婦のようなものですな。部屋がそうしたカップルで占められてしまえば、第三者の乱入は許されません。これは良くできたルールでして、破られたことはただの一度もありません。電子たちも、これが健全なルールだということはわかってくれているのです。」
良くできたルールかもしれんが、自由を謳歌したい者には甚だ迷惑!一般的に、電子殻にはエネルギー準位の低い方から、K殻, L殻, M殻, ... という居場所が用意されている。ナトリウム原子の価電子となったからには、運命を受け入れるしかない。ナトリウム原子核は、電子を11個抱えており、そこに塩素原子が近づくと、M殻に空きを見つけて穴を埋める。そう、心の隙間を埋めるのだ。電子が不足して原子核がカッカしてくれば、マイナスイオンのひとときを差し上げますわ!って。M性同士がM殻で同居するとは、よくできたものよ。
しかも、パウリの排他原理によって、一つの軌道に同じスピン状態の電子が同居できないときた。M性のくせしやがって、独占欲だけは強い。原子核が負担になる余分な電子を抱えれば、移り気が激しく精神が不安定となる。電子はいつも安定社会への引っ越しを求め、数千個に及ぶ原子が結合したりする。中にはDNAってヤツも居て、昔の思い出に縋りながら必至に忘れまいと、二重螺旋構造というバックアップ機構まで具えてやがる。男性諸君もまた女王様を囲む電子のような存在よ。どうりで、簡単には楕円軌道から逃れられないわけだ。だが、心配はいらない。強烈なオーラを放射する小悪魔が近づけば、簡単にスピンアウトできる。ただ、結婚は恐ろしい!と経験者は愚痴っている。法律という紙切れ一つで、生涯の軌道が運命づけると聞いた。
ところで、電子の寿命は永遠ではないらしい。突然消滅したり。物質とは、役目を終えれば果敢ないものよ。光子にしても光を伝え終えれば消滅する。電子の死は、衝突によって生じるという。問題は衝突の激しさではなく、衝突する相手だ。負電荷を持つ者同士であれば問題ないが、中には正電荷を持つヤツがいる。陽電子ってやつだ。ポジトロンなんてニックネームがあるが、まったくポジティブに見えない。普段は粒子として振る舞いながら、電子と出会った途端に「対消滅」を起こす。無理心中か!同じ電子同士だと思って油断していると、えらい目にあう。合体でもしようものなら身の破滅よ。

4. 素粒子はどこまで素粒子なのか?
物質はこれ以上分割できない基本要素から構成されるという考え方は、古代ギリシアの哲学者デモクリトスまで遡る。atomには、ギリシア語で「分割できないもの」という意味がある。また、物理学では、同じ原子構造を持ちながらアイソトープ(同位体)で区別する。原子核における陽子の数が同じでも、中性子の数が違えば質量も違ってくるので、もっともな見方である。
「中性子だけで置いておくと、たしかに不安定なんじゃがの。原子核内にきっちりと詰め込んで周囲を他の粒子で固めておけば、きゃつらもずいぶん安定するんじゃよ。それもまあ、原子核内の陽子の数にくらべて中性子の数が多すぎなければの話じゃが。もしそうなると、中性子は余分な塗料をマイナス電荷の電子として原子核外に放出して陽子に変わってしまうんじゃ。同様に、陽子の数が多すぎる場合には、陽子は余分な塗料をプラス電荷の電子として放出し、中性子に変わってしまう。こうした調節を、わしらはベータ崩壊と呼んどるんじゃがの。ベータというのはこうした放射性崩壊によって放出される電子につけられた古い呼び名じゃ。」
宇宙は広大なのだから、なにも原子核なんてちっぽけな住まいに、ひしめき合わなくてもいいのに。質量あるものは、満員電車を好むらしい。
さらに、陽子や中性子を構成する物質にクォークが発見されると、アイソスピンという回転の仕方で種別される。本当にスピンしているのかも疑わしいが、物理的にスピンしているような性質を持っているということであろうか。少なくとも、量子状態として見ることはできそうである。この状態を「フレーバー(香り)」と呼び、アップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、トップ、ボトムの6種類で区別される。なぜ香り(flavor)と言うかは知らんが、気配のようなものであろうか?霊感のような...
ただ、すべてに物質が、クォークからできているわけではない。クォークからできているのは重粒子と中間子で、ハドロンと呼ばれるやつ。ハドロンは強い核力を感じるが、軽粒子と呼ばれるレプトンは感じないという。レプトンもスピンの仕方で種別される。
ところで、スピンのパターンには、驚くべき対称性の法則がある。
「自然界にはSU(3)の対称性が成り立っている」
数学には、対称性を観察するのに、群論という便利な道具がある。中でも角運動量にピッタリなのが、ユニタリってやつだ。数学オンチは、こいつで随分と悩まされてきたのだが...
SU(Special Unitary)群とはユニタリ群の部分群で、(3)とは3回転対称性を表す。つまり、±1/3(120度)、±2/3(240度)、±1(360度)で同じ状態になることを意味する。そして、アップクォーク(u)とダウンクォーク(d)で構成される陽子は(u, u, d)、中性子は(u, d, d)と表記される。スピン状態が離散的であるのは、電子軌道が離散的であるのと同様に、プランクエネルギーの介在を想像させる。もっと言うと、スピン状態の離散性が、量子コンピュータの記憶素子としての可能性を匂わせるわけだ。ただ、状態遷移ではかなりのエネルギーを消費するだろう。量子の世界では、なにかと「ポテンシャル障壁」と呼ばれるエネルギー障壁がつきまとう。
また、人間の対称性への思いは、留まるところを知らない。粒子には必ず対となる反粒子が存在するとされる。質量とスピンを同じとし、電荷を逆転させて存在を相殺させるわけだ。粒子と反粒子が衝突すれば、エネルギー保存則に矛盾なく、丸く収まるという寸法よ。こんな仕掛けで、質量の存在を説明できるのかは知らん。確かに、反粒子だけ消滅すれば、質量が残りそうな気がするが、反粒子の方が残るってことはないのか?いや、あるだろう。人間の認識空間に見当たらないだけで。いずれにせよ、素粒子レベルともなると、スピンの仕方の違いだけで物質の存在を抽象化できてしまう。
さらに、話題が超ひも理論にまで及ぶと、物質の存在は単なる振動でしかないってか。いくら人間の個性や人間社会の多様性を強調したとこで、しょぼい存在よ。人間ってやつは、ヒモという背後霊に憑かれた存在というだけのことかもしれん。社会がヒモになり、組織がヒモになり、家族がヒモになるとなれば、女のヒモになるのを夢見る男性諸君で溢れてやがる...

2014-05-25

"銀河の世界" Edwin Powell Hubble 著

物理学を支えてきた研究者には、二つの相補的な資質がある。それは、理論派と観測派(実験派)だ。科学文献では、理論が主役で観測データは付録のように静かに掲載されるのが、一般的であろうか。エドウィン・ハッブルは自ら観測派に属すと語り、少々悔しさを滲ませる。
しかしながら、双方の資質を厳密に区別することは難しい。理論的な推測なくして、適格な観測は成し得ないのだから。実際、ハッブルは観測による標本収集というアプローチから、銀河の距離と遠ざかる速度の法則を導いた。銀河の放射する赤方偏移は近似的な距離の線形関数である、などという法則性を見抜く眼力こそが秘められた資質と言えよう。
本書は、その立場から理論説明よりもデータ解析が主に置かれる。局部銀河群では、M31、M32、NGC205、M33、NGC6822、IC1613 などの詳細データが紹介され... 書籍版プラネタリウムとでもしておこうか。そして、銀河の分布や構造を論じながら、島宇宙仮説と膨張宇宙説の証拠をつきつける。また、宇宙定数についても言及される。アインシュタインは、せっかく編み出した美しい宇宙方程式に自己の思想観念を埋め込んだために、人生最大の失敗!と言わしめた。権威者が自分の過ちを素直に認めることは難しい。健全な懐疑主義こそが、科学に最も求められる資質であろう。そして、啓発された利己主義ってのも付け加えておこうか...

どんなに理論が優れていようとも、見たまんま!というほど説得力のあるものはあるまい。だが、観測の命は精度にあり、宇宙規模にまで及べば誤差との戦いが宿命づけられる。
研究者たちの精度のこだわりや、道具を駆使する技術的発想は、どこからくるのだろうか?理論家の中には、狂信者のレッテルを貼られたまま世を去った者も少なくない。観測者の中には、結果的に無駄に終わる実験に憑かれて人柱となった者も少なくない。人間自身を知ろうとする執念が、そうさせるのか?まずは、自己存在を強烈に意識させる自己の棲家を知ることだ。
ゲーテは言った、制約の中にのみ巨匠の技が露になると。宇宙の距離梯子は、科学者たちの思考梯子として受け継がれる。観測技術は進化し、信憑性のあるデータは確実に増えていく。もし、ニュートンが今を生きていたら、どんな法則を発見してくれるだろうか?ジョージ・サートンは、こう書いたという。
「現代の聖人は、千年前の聖人より神々しい必要がない。現代の芸術家は、ギリシャ初期の芸術家ほどに偉大である必要もない。実際彼らは劣っていそうだ。そしてもちろん、科学者は昔の科学者より知性的である必要はない。しかし一つだけ確かなことは、科学者の知識は次第により広範になり、同時に正確になっていくということだ。確実な知識の取得と体系化は、人間のみが行える行動で、真に蓄積的で日々進歩するものである。」

ところで、単位系ってやつには、その学問分野の哲学がさりげなく顕れるものだと思う。天文学では、視差(parallax)の観点から生まれた「パーセク」という単位がある。やはり、距離測定の基本は三角法にあろう。比較的近い天体は、地球上の二点による視差や、年周視差によって算出できる。なんといっても、天文学の基礎は掃天観測にあり、統計学と誤差関数の欠かせない世界。この単位だけで、ガリレオから受け継がれる望遠鏡のロマンを感じる。
やがて、遠方の恒星では、光のスペクトルから距離を算出する方法が編み出された。だいたいにおいて恒星は太陽型のスペクトルをもっており、そこに絶対等級との関係が定式化されると、見かけの明るさが距離の二乗に反比例するという法則が利用できる。
さらに遠方の銀河では、セファイド変光星を利用して距離を算出する方法が編み出された。周期的に光度が変化し、宇宙の灯台と呼ばれるやつだ。周期が長いほど明るいという性質が判明すると、周期と絶対等級の関係が定式化され、見かけの明るさと比較しながら距離を推定することができる。
ハッブルの法則は、こうした観測過程から生まれた。彼の主な功績は、ハッブル分類を提唱したこと、セファイド変光星を発見して銀河の距離を測定したこと、そして、銀河の距離と赤方偏移の関係を定式化して宇宙膨張を示したことである。確かに、ここに示される観測データは時代的に古く、銀河までの距離が2倍から5倍ほど短めに示される。だが、宇宙の成り立ちの大枠が変更されたわけではない。本書がその醍醐味を最もよく伝えているのは、理論的な結論よりも観測データから生じる思考過程を大切にしていることである。忘れかけていた技術魂を思い出させてくれるような...

1. ハッブル分類
銀河の大部分は「規則銀河」と呼ばれ、共通パターンは明るい中心核に対して回転対称性を示すこと。対して、「不規則銀河」の方は、数%程度しか存在しないという。そして、規則銀河の構造的特徴を「楕円銀河」,「正常渦巻銀河」,「棒渦巻銀河」の三つに分類する。
とはいえ、見かけの話で、その基準は像の形や明るさの勾配のみ。円に見える銀河だって、本当は球になっているかもしれないし、扁平な銀河なのかもしれない。
まず、扁平率の小さいものから大きなものへと並べ、楕円銀河を左側に置いて右側で二種類の渦巻銀河に分離する。楕円銀河は左から、E0, E1, E2, ... で表され、二種類の渦巻銀河の分岐点は、S0 で表され、続いて、正常渦巻銀河、Sa, Sb, Sc、棒渦巻銀河、SBa, SBb, SBc が配置される。この系列は、銀河の成長過程を示していることが、すぐに想像できる。収縮による回転速度の増加により、扁平率が高くなることが、考慮されているのだろう。その意識は、「初期型」「晩期型」という用語に顕れている。
正常渦巻銀河は、中心核が小さいほど腕がはっきりし、渦巻腕は開いて、しまいには中心核が分からなくなるほど小さくなる。棒渦巻銀河は、外側の領域に同心円上の輪と、中心核の端から端を貫く棒を持つレンズ状の形をしている。ギリシア文字のθのような。そして、中心領域が小さくなるとともに、渦巻きが発達し、星の分布も中心核に集まり、しまいにはS字型となる。二つの渦巻銀河は、最終的に中心領域が小さくなり合流するかのように見える。
不規則銀河にしても、その典型とされるマゼラン銀河などは、晩成型の渦巻銀河に似ているという。そのために、規則銀河の最終段階と見られることもあると。推測の域を出ていないとしながらも。
本質的な現象は、回転対称性を持たないことよりも、中心核がないことの方かもしれない。中心核がないから必然的に回転対称性が持てない、という見方もできそうだから。
「銀河の形の研究は、銀河が強い関係を持った単一の種族を構成しているという結論を導いた。それらは限られた領域に沿って系統的に変化する基本的なパターンを形づくっている。銀河は、形についての規則的な系列を自然に作り、その性質は系列上の標準銀河に縮約される。」
恒星の構造にしても、規模の違いはあれど、太陽型スペクトルでほぼ近似できるようだし、宇宙における物質のあり方は、それほど多様ではないということか。これが自然の摂理というものか。恒星が一度天体を形成すると、ほとんど衝突せず、銀河の重力体系の一員として振る舞う。衝突しなければ、熱エネルギーも極度に減少することはない。この奇跡の調和力は、ダークマターの仕業であろうか?いや、ダースベイダーの野郎に違いない...

2. 銀河の分布
天の川銀河の吸収、散乱物質による見かけの分布を議論している様子は圧巻!当初、銀河が天の川銀河を避けるように分布することが、研究者を悩ませてきたという。仮想的な万有反発力を唱えた研究者もいたとか。
ハッブルは、銀河面に集中して吸収、散乱物質が存在し、低銀緯ほど視界が悪くなることを指摘している。暗黒星雲は、天の川の帯に沿って分布し、天の川銀河の中心核方向に多くあるという。そして、吸収、散乱物質には二種類あるとしている。一つは、暗黒星雲中の塵によるもの。塵による散乱は青い光を吸収し、星の色が全般的に赤く見える。二つは、銀河面に一様に広がる成分で、高温ガス中にある自由電子のトムソン散乱だと考えられている。高温ガスは、ほぼ一定の厚さで銀河円盤内に満ちている。したがって、天体の分布を考察するには、天の川銀河の吸収効果を補正する必要があるというわけだ。
また、小さな銀河の分布は不規則で、大きな銀河の分布は近似的に一様であるとしている。分布の勾配が見つからず、どの方向の観測領域でも、ほぼ同じであると。ただ、この時代では、銀河の規模も限定的とされ、銀河団までの言及はあるが、超銀河団の記述は見当たらない。

3. 銀河の距離
宇宙の距離梯子は、望遠鏡の進化の歴史を如実に物語っている。それは、見かけの明るさの標本集めから始まり、やがて、赤方偏移が距離の一次関数であることが定式化される。
1924年、ハッブルはアンドロメダ銀河の中に、セファイド変光星を発見した。当時、アンドロメダ星雲と呼ばれ、銀河が恒星の集団であるということが、あまり認知されていなかったようである。
さて、天文学には、「H.R(ヘルツシュプルング・ラッセル)図」で示されるように、光スペクトルと絶対等級に重要な関係がある。絶対等級が分かれば、見かけの明るさが距離の二乗に反比例することから算出できるという仕掛けだ。恒星の場合、恒星の発するスペクトルが分れば、絶対等級が推定できる。
対して、銀河の場合は、セファイド変光星の周期と光度の関係を利用する。セファイド変光星は、変光周期が長いほど絶対等級が明るいという性質を持っている。銀河の中にセファイド変光星が見つかれば、その絶対等級から距離が推定できるという仕掛けだ。
「セファイド変光星で距離が決められた銀河の中の最も明るい星は、その絶対光度は天の川銀河の内の最も明るい星と同程度であるという事実が、この結果に整合性をさらに与えている。」

4. 赤方偏移による速度と距離の校正
当然ながら、それぞれの銀河は質量も違えば、大きさも違うし、光度も違う。測定対象によって補正を加える必要がある。ハッブルの法則におけるハッブル定数が、その役割を果たす。本書では、赤方偏移による見かけの明るさを補正する事例が紹介される。
例えば、次式は見かけの等級 mc に対して、⊿m0 は赤方偏移の効果を表している。

  mc = m0 - ⊿m0

赤方偏移の効果は速度が速いほど増加するが、偏移が3000マイル/秒以上になるまでは重要でないとしている。
また、速度の対数 v と見かけの等級 mc の相関が、次式の形で考察される。

  log v = 0.2mc + 補正値

尚、補正値は、銀河や銀河団で値を変えている。速度は、赤方偏移に光速をかけたもの。そして、距離の対数 d の校正が次式で示される。ただし、Mは絶対等級。

  log d = 0.2(mc - M) + 1.513

しかし、このままでは、あまり抽象度を感じない。速度が生じるということは時間に関係するので、ハッブル定数を時間の関数とすれば、もっとシンプルに記述できるだろう。
無数の銀河が一様に分布しながら赤方偏移しているということは、膨張宇宙説の強力な裏付けとされる。速度が対数で表されるということは、指数関数的に遠ざかっていることを示している。天文学がいくら進化しても、宇宙の果てに追いつけそうな気がしない。そして、人間がやりがちな、膨張の中心はどこにあるのか?なんて議論も虚しく映る。
「天文学の歴史は地平線の後退の歴史である。」

2014-05-18

"ワープする宇宙" Lisa Randall 著

猛省す!
女性の物理学者というと、ちと懐疑的であった。知らず知らず偏見があったことに気づかされる。600ペーン超の分厚い重みは、物理学への熱い思いの顕れ。初心者にも配慮しながら数式を徹底的に排除する一方で、深い見識と文才を魅せつける。真理の探求に、理系やら、文系やら、といった枠組みになんの意味があろうか?と問うかのように...

古来、人類は重力の問題に悩まされてきた。自己存在をこれほど強烈に意識させる物理量が他にあろうか。しかしながら、人類はいまだ重力の正体を知らない。普通の感覚では、物体に力が働くということは、何らかの物質の影響を受けているからだと考えるだろう。古代ギリシアでは、なぜ天体に運動が生じるのか?と問えば、真空をめぐっての論争が繰り広げられた。アリストテレスの時代、物理運動はすべて物質の媒介によるものとされ、宇宙には何らかの物質が充満しているからこそ天体に運動が生じるとされた。そして、エーテル充満説として決着を見る。だが、ニュートンが万有引力を提示すると、マイケルソン・モーリーの実験を後ろ盾にして、エーテルの存在が否定された。
では、引力や重力の正体とは何か?
アインシュタインが、あの有名な公式によって質量とエネルギーの等価性を示すと、真空中においてもエネルギーを介して力の作用が生じるとされる。そして、重力の作用を時空の歪で図式化した。こうして、物質が直接接触しなければ力の影響を受けることはないという考えは捨てられ、真空の概念が定着した。哲学的な実存観念においても、質量よりもエネルギーの方が本質である可能性を匂わせたのだった。
さらに、近年の観測結果は新たな問題を突きつける。銀河が今の形を維持するためには、銀河に含まれる星々の総質量では不足しているというのだ。そして今、そのエネルギーの不足分を補っているとされる影の立役者の存在がささやかれている。そぅ、ダークマター(暗黒物質)ってやつだ。しかも、宇宙空間の至るところに暗躍するとされる。宇宙論は、エーテル充満説へ回帰しようとしているのか?
著者リサ・ランドールは、まさにこの問題に挑む。この物語は、余剰次元の歪曲(ワープ)という観点から説明を試みる、ある種の思考実験である。アインシュタインの公式は質量のマイナスを規定しない、なんてことはないだろう。質量がプラスの世界がたまたま有限宇宙とされ、至るところに質量がマイナスの無限宇宙が接触している、という可能性がないとは言えまい。そして、質量を持った知的生命体には、それが認識できないというだけのことかもしれん。もしかしたら、ユークリッド幾何学とは、神がこしらえた悪魔の棲家、または監獄の設計図なのかもしれん...

ところで、量子の世界では、質量ゼロが当たり前のように出現する。光子や電子といった素粒子は、質量を持たないからこそ宇宙の果てまで達することができる。質量が存在するから量子場の影響を受けて、自由運動が制限される。では、質量なんて奇妙な性質は、どこから生じるのだろうか?その原因を、場の量子論が唱える「対称性の破れ」、あるいは「超対称性の破れ」から説明してくれる。
「対称性は重要な要素だが、宇宙はふつう完璧な対称性をまず実現させない。わずかに不完全な対称性が、この世界を興味深い(しかし統制のとれた)ものにしている。」
質量ってやつは、宇宙法則における超常現象なのであろうか?
宇宙法則に完璧な対称性が成り立てば、質量なんて奇妙なものは存在できず、宇宙は平坦で無限でいられるのかもしれない。これが、不確定性原理が暗示していることであろうか?不確定性原理の不思議なところは、不確定となるまでは納得できても、不等号で示されることに不自然を感じる。量子力学では、ある特定の二つの物理量を同時に正確に測定することは不可能とされる。例えば、位置と運動量を測定する場合、先に位置を測定して後に運動量を測定した場合と、その逆では結果が違う。それでも、二つの物理量の曖昧さの積は、プランク定数系よりも大きくなるという符号の方向性だけは残る。
この方向性は何を意味するのだろうか?
観測とは人間が認識しようとする行為であり、純粋な物理現象に観測系が関与すれば時間という次元に幽閉される。質量を持つ物体が関与すれば、物理系は何らかの次元に幽閉されるということであろうか?宇宙の秩序を乱す唯一の要因が質量だとしたら、それを認識せずには生きられない人間は、神の嫌われ者かもしれん。だから、人間は神の気を引こうとして、知らず知らず悪魔になろうとしているのか?
また、あらゆる素粒子は、人間の認識できない余剰次元によって接触しあっている可能性を匂わせてくれる。あらゆる次元が接触しあうには、空間が歪曲している必要がある。というより、人間が勝手に歪曲していると感じているだけのことかもしれん。人間ってやつは、質量を基準にしなければ思考することもできず、おまけにユークリッド空間に幽閉されているときた。
そこで、次元の境界条件としてブレーンの概念を導入すると、思考を助けてくれる。ブレーンとは、膜のように閉じられた次元空間のようなもので、複雑な高次元の風景を眺めるにはうってつけのツールだ。宇宙空間を多層多面にスライスし、人間の住む3次元空間は一枚のブレーンに閉じられていると考える。量子の運動範囲が、ブレーンの境界条件によって決まるというわけだ。素粒子には、自由に通過できるブレーンが決まっている、という性質でもあるのだろうか?人間が認識できる3次元空間と接触できる素粒子にも制限があるとすれば、目の前にあっても気づかないだろう。素粒子物理学では、重要な仮想粒子にグラビトン(重力子)の存在がささやかれる。結局、物質が直接接触しなければ力の影響を受けることはないという考えからは、逃れられないのかもしれん...

1. 重力と階層性(ヒエラルキー)問題
解明されてない大きな問題は、重力ってやつが他の既知の力に比べて、なぜこんなにも小さいかということ。地球という大きな天体の持つ重力に逆らって、ちっぽけな人間は手を上下させたり、ジャンプすることができる。クリップだって磁石に吸い寄せられて浮き上がる。地球上の運動現象は、地球の全質量に逆らって運動できるわけだ。そのくせ太陽や月という膨大な重力とも、うまいこと均衡してやがる。
これをうまく説明できる思考法に「等価原理」がある。それは慣性質量と重力質量を同一視するもので、一般相対性理論の構築原理とされる。つまり、周囲のすべてが自由落下していれば重力場を感じることはない、加速系の中では重力が相殺される、という考え方。おかげで、地球上の生物は地球の自転を感じずに暮らせるという寸法よ。この原理に従えば、重力は等加速度と区別がつかない。だが、実ははっきりと区別がつく。重力が加速度と等価ならば、地球の裏で生じる反対側の加速度運動が説明できない。あらゆる方向に対する力の保存則が成り立たないとなれば、等価原理では局所的にしか加速度に置き換えられない。そこで、重力が二つの物体間に生じる力という考えを捨て、電磁気学のように場の概念を当てはめる。重力場として空間全体を眺めると、時空の歪で説明できるわけだ。
さらに、著者リサ・ランドール、ラマン・サンドラム、アンドレアス・カーチらの共同研究によると、余剰次元の概念を当てはめれば、空間のある領域では重力が強くても、他の領域では一様に弱くなるという。そして、驚くべき発見が紹介される。
これまで余剰次元は微小なものでなければならない、さもなければ目に見えないことが説明できないとされてきたが、なんと!空間の歪曲によって重力の弱さが説明できるだけでなく、余剰空間が曲がった時空の中で適切に歪曲していれば、その広がりは無限になる可能性があるという。有限宇宙は、高次元領域において無限宇宙だというのか?人間は3次元ポケットの住人に過ぎないというのか?... そうかもしれん。肉体とは、一時的に3次元空間に住むための宇宙スーツのようなものであろうか。
また、重力の問題は「ヒエラルキー問題」と関係し、相対性の力は富のトリクルダウン理論のようなものだという。トリクルダウン理論とは、政治家がよく口にする、富裕層に資金を流せば自然に貧困層にまで浸透するという経済理論だ。富の階層構造のように、エネルギーにも階層構造があるとすればイメージしやすい。階層性問題は、膨大なプランクスケール質量と低いウィークスケール質量の比から生じる。プランクスケールでは、長さ 10-35m に対して、プランクスケール質量(エネルギー)は 1019GeV。ウィークスケールでは、長さ 10-17m に対して、ウィークスケール質量(エネルギー)は 103GeV。つまり、エネルギーにおいて、16桁もの量子補正が必要ということだ。適切な補正を怠れば、資金が貧困層に到達する前に、金融危機というブラックホールに捕まるのも道理というものよ。三次元 + 時間という空間は、悪魔が捕まったブラックホールのようなものなのか?

2. 準結晶と余剰次元
準結晶とは、結晶でもなく、アモルファス(非晶質)でもない、第三の固体と言われる物質である。例えば、準結晶でコーティングされたフライパンは、熱を効果的に分散させて焦げ付かない。この不思議な構造は、余剰次元でしか解明されないという。普通の結晶は、原子や分子が対称的な格子状になって一定の基本配列を繰り返す。対して、準結晶は厳密な規則性が欠けているように見える。この不可解な配列を、高次元の結晶構造として捉え3次元に投射すると、対称性を持った秩序ある構造が見えてくるという。まさかフライパンに、こんな高度なテクノロジーが潜んでいたとは...
さて、人類にも進化過程で、1次元しか認識できない、2次元しか認識できない時代があったのだろう。そして、突然変異によって3次元が認識できるようになったのかは知らん。時間を加えれば、4次元空間。ダーウィンの自然淘汰説風に言えば、認識能力は生存競争において育まれてきた。アボット著「フラットランド」風に言えば、2次元空間の生命体には、3次元の物体が近づくと点からだんだ大きな円になっていき、やがて小さくなって点となって消えるように見える。人間が認識できる宇宙とは、そういう存在であろうか。人間社会で生じる危機的現象も突然出現するように見えて、実は、別の次元から近づいてくるだけのことかもかもしれない。自然災害にしても、金融危機にしても、戦争にしても... そして、地球外生命体は、目の前にある危機から避難しようとしない無謀な知的生命体を、地球という天体上に見つけ、滑稽に思っているのかもしれない。命が最も尊いと叫びながら他人を地獄に陥れ、自らも地獄へ向かう自虐な生命体と...
余剰次元とは、認識する必要のない、生活に支障のない次元ということはできるだろう。では、必要に迫られれば、いつの日か5次元空間が認識できるようになるのだろうか?人間社会は、仮想空間を夢想し続ける。その動機が現実逃避だとしても、仮想次元に慣らされていくうちに、もっと高次な認識が育まれるのかもしれない。3Dテレビのように表示システムの多次元化は、今後も進化を続けるだろう。そしてある日、突然変異を果たした高次元人類が出現するのかもしれない。未来社会では、21世紀という時代は認識次元が幼いために仮想貨幣や領土問題などに惑わされて、3次元空間争奪戦を繰り広げていたなどと嘲笑されるのだろうか?いや、所有をめぐって憤慨する性格は変えられそうにない。多次元空間争奪戦ともなれば、もっと凄いことになりそうだ。魂や霊感までも掌握されそうな... ちなみに、行付けの寿司屋の大将の口癖は... 心を握らせてもらいます!

3. 場の量子論と排他原理
素粒子は、固有スピンの性質の違いでボソンとフェルミオンに種別される。具体的には、スピン角運動量の大きさが換算プランク定数(ℏ)の整数倍か、半整数 (1/2, 3/2, 5/2, ...) 倍かの違い。ただし、回転して相互作用をする性質があるだけで、実際には回転していないそうな。実際の物理運動とは無関係に、量子力学上のスピンというものがあるらしい。
パウリの排他原理によれば、同じタイプのフェルミオンが同じ場所に存在することはできない。例えば、同じスピンを持つ電子同士が同じ場所にいられない。そのおかげで、原子は化学反応の基盤となる構造を保てる。対して、ボソンはパウリの排他原理に従わない。この二つの性質が、対称性の破れ、あるいは超対称性の破れの鍵となる。つまり、質量が生じる可能性である。
さて、最初に場の概念を持ち出しだのは、マイケル・ファラデー。そして、マクスウェルが、電荷と電流の分布から電磁場を記述する一連の方程式を導いた。あの有名な四つの一階微分方程式は、場の概念に波動性を結びつける。そのうち二つを組み合わせると、電場か磁場だけを含んだ二階微分方程式が導けるという特徴が、数学の美を醸し出す。
「場と遠隔作用には大きな概念上の違いがある。電磁気学の場の解釈にしたがえば、電荷が空間の別の領域にすぐさま影響を与えることはない。場は適応の時間を必要とする。運動中の電荷は、そのすぐ近くに場を生みだし、そこで生みだされた場が空間全体に広がっていく。物体が遠くの電荷の運動を知るのは、光がそこに届くまでの時間が経っているからである。したがって電場と磁場は、光の有限の速さが許すよりも速くは変わらない。空間のどの時点でも、場が適応を果たすのは、遠い電荷の効果がそこに達するための時間が経過してからである。」
光も電磁場を形成する。ゲージボソンとして最初に持ちだされたのが光子だが、ゲージという用語はなんのことはない。鉄道のレール間の距離を示す「軌間(ゲージ)」を意味し、光子の伝播のイメージと無理やり重ねたところからきているという。他のゲージボソンには、ウィークポゾンとグルーオンがあり、ウィークポゾンは弱い力を伝え、グルーオンは強い力を伝える。
量子電磁気学は、光子の受け渡しが、どのように電磁気力を生み出すかを予言する。二個の電子は、相互作用領域に入ってきて、光子を受け渡した後、伝えられた電磁気力によって定められた径路に進む。ファインマン図は、この相互作用する場を図式化し、図の各部分に数字を当てはめれば運動が記述できるという仕組み。入ってくる電子が光子を放出し、放出された光子が別の電子に向かって進み、電磁気力を伝え終えると消滅する。そして、電磁気力は電荷を帯びた対象に対して引力や斥力が働く。
素粒子というのは、物質というよりはある種のエネルギー状態で、量子場の励起状態と考える方がよさそうである。換言すると、量子場がなんらかの原因で基底状態を保てなくなり、量子固有の離散的な高エネルギーへ移行した状態とでもしておこうか。素粒子をまったく含まない真空では定常場しか生じないが、素粒子の存在する領域では隆起や振動の起こる場が生じる。これが波動性の正体というものか。しかも、電子や光子を生成、消滅させる場は、どこにでも存在するという。そうでないと、あらゆる相互作用が時空のどの点でも生じるようにならない。現実に、真空にもかかわらず電磁波が伝わる。
んー... エーテルを場と言い換えただけのような気もしなくはない。物質的ではないと言えば、そうなのだが。エネルギーの伝播だけで粒子の生成と消滅が説明できるとすれば、物質ってなんなんだ?単なる認識の産物ということか?認識もまた脳内の量子運動から生じ、認識の生成と消滅を繰り返す。量子場における粒子の生成と消滅は、まさに気移りや気まぐれのメカニズムか。しかも、その制御は確率論的ときた!

4. 弱い力と強い力
物理学者たちは、電磁力、強い力、弱い力、重力の四つの相互作用における統一理論を構築することを夢見てきた。現実世界を説明する上で鍵となるのが、弱い力だという。弱い力の効果を生じさせる素粒子はウィークボソン。それは、W+, W-, Z の三種類があって、Wはプラスとマイナスの電荷を帯び、Zは中性。弱い力は、ある種の核崩壊の要因であって、重い元素の生成に寄与するという。また、恒星が輝きを放つためにも不可欠だとか。水素をヘリウムに変える連鎖反応を引き起こし、宇宙を絶え間なく変化させることを手助けするそうな。
電磁気力と弱い力には、いくつか重要な違いがあるという。中でも奇妙なのが、弱い力は右と左を識別し、粒子とその鏡像が互いに異なる振る舞いをする。「パリティ対称性の破れ」というやつだ。パリティが保存されない分かりやすい例は、人体の心臓が左側にあるといったこと。そのメカニズムは、粒子が右回りと左回りのスピン方向を選ぶことによって生じる。
弱い力の作用を受けるのは、左回りの粒子だけだそうな。なんじゃそりゃ?中性子が崩壊する時に現れる電子は、常に左回りだとか。もしかして、左利きやら、左巻きやらも、弱い力の影響なのか?
弱い力の奇妙な特性を他にも紹介してくれる。なんと、ある種類の粒子を別の種類に変えてしまうんだとか。例えば、中性子とウィークポゾンが相互作用すると、陽子が現れることがあるという。光子はどんな種類の粒子と相互作用したところで、電荷を帯びた粒子の最終的な数は変わらない。対して、電荷を帯びたウィークポゾンが中性子や陽子と相互作用すると、単独の中性子が崩壊し、まったく別の粒子に変わる。
とはいえ、中性子と陽子は質量も電荷も違うので、電荷とエネルギーと運動量を保存するには、崩壊時に陽子だけでなく、電子とニュートリノを生成する。いわゆる、ベータ崩壊だ。
ウィークポゾンが質量を持つことが、弱い力の理論を成り立たせるという。ほんのわずかでも質量があれば、非常に短い距離でしか作用を及ばさず、距離が長くなると存在しないほど弱くなることが、物質の存在を可能にするというわけか。その点、光子やグラビトンは質量ゼロ。だから、永遠に力を伝えられる。
一方、強い力は、どんなに遠くても引きつけてしまい、クォークのような粒子が単独で発見されることはない。クォークを陽子と中性子の姿に結合させたり、クォークをジェットの中に閉じ込めたりできるほど強力。めいっぱい離れたクォークと反クォークは、膨大なエネルギーを蓄えることになるので、その間に別のクォークと反クォークを生み出す方が、エネルギー効率がいい。したがって、クォークと反クォークを引き離すと、真空から新たなペアのクォークと反クォークが生まれるという。ほんまかいな?新たな量子が生まれる前に、宇宙空間が消滅するってことはないのか?あるいは、宇宙が階層化されるとか?
尚、無質量粒子という概念は、素粒子物理学では当たり前のように使われる。粒子に質量がなければ、光速で伝播でき、むしろ、質量がゼロでないゲージボソンの方が特異とされるようだ。人間が安定社会を望んだり、官僚体質に陥りやすいのも、質量を持つ物質の特性からきているのだろうか?

5. フレーバー対称性とヒッグス場
対称性は、物理学や数学では美として崇められる神聖な原理だ。場の量子論では、あらゆる粒子の対となる反粒子が想定される。1個のマイナス電荷を持つ電子に対しては、1個のプラス電荷を持つ陽子では質量が大きすぎるので陽電子を置く。反粒子が時間を遡る粒子となることで、時間の非対称性を相殺することができる。対称性は、場の理論において欠かせない調整原理と言えよう。
ただ、素粒子物理学では、ちと違った対称性を考察する。「内部対称性」ってやつだ。内部対称性とは、空間的な対称性とは違い、完全に別個の物体でありながら、同じ物理法則で交換できるということ。ここでは異なる種類の粒子を関連づけ、かなり抽象的な対称変換を与えており、二つの粒子において電荷と質量が同じならば、同じ物理法則に従うと考える。これを記述するのが、「フレーバー対称性」だという。例えば、電子とミューオンは、電荷を帯びた二つのレプトンで電荷が同じ。質量はまったく違うけど。電子とミューオンは、フレーバー対称性に従って同じように振る舞うと考えるらしい。量子の世界では、質量に意味がないとでもいうのか?質量の抽象化とすれば、女性が喜びそうな原理だ。ただし、電子とミューオンはあまりにも質量が違っていて、厳密には同じようには振る舞わないらしいけど...
さて、量子の世界は、非対称性の世界を、いかに対称性の目で見るかという関係性を問う世界のようである。対して、現実世界は、あらゆる対称性の破れから生じるというわけか。自然界に完全な対称性しか存在しなければ、宇宙は存在しないのかもしれない。それこそ、神に御登場を願うこともない。悪魔が登場する舞台に、神がキャスティングされなければ、なんともしまらない。
本書は、質量を獲得するメカニズムとして「ヒッグス機構」を紹介してくれる。ヒッグス機構は、「自発的対称性の破れ」という現象に依存するという。
自発的対称性ってなんだ?ある夕食の席を考えてみよう。大勢が円卓を囲んで、それぞれの席の間に水の入ったグラスが置かれる。各人は右と左のどちらかのグラスをとる。この際、行儀作法はなしだ。一人が左のグラスをとれば、全員が左のグラスをとらなければ、行き渡らない。誰かがグラスを選んだ途端に、右回りか左回りかのスピンが決定されて、対称性が破れることになる。自発的とは、確率論のようなものか。神だってサイコロを振るらしい。なーんだギャンブル好きじゃん!しかも、質量があれば内部対称性を保存しないという。
では、肝心の質量はどこから生じるのか?
質量ゼロのゲージボソンの偏極は二つしかないが、質量のあるゲージボソンの偏極は三つあるという。質量ゼロのゲージボソンは、常に光速で進み、けして静止しない。したがって、運動方向も一つに決まるので、進行方向に垂直な方向意外の並行な偏極と区別できる。実際、物理的な偏極は垂直方向にしか振動しない。一方、質量のあるゲージボソンは、物体と同様に静止できる。そして、静止時に運動が一方向に定まらないという。これを「縦偏極」と呼んでいる。光が横波で音波が縦波だから、音波のような振動も混在するということか。もしかして、縦波と横波の違いが生じるのは、質量が関与するかどうかの違いなのか?
ヒッグス機構は、質量の問題を解決する唯一の方法とされるそうな。ヒッグス粒子が生じるのは、ヒッグス場においてのみ。ただ、ヒッグス機構という用語は多少ルーズなところがあって、様々なモデルが提唱されているらしい。簡単に言うと、「弱い力の対称性を自発的に破って素粒子に質量を与える」
ヒッグス場では、粒子が一切存在しないくせに非ゼロ値をとることができるという。素粒子の起源は、エネルギーが先か?質量が先か?と問えば、卵と鶏の関係に見えてくる。非ゼロ値の場が帯びている荷量は、現実の世界に存在するという。真空中にもウィーク荷の密度が観測されているそうな。非ゼロ値のヒッグス場は、ウィーク荷を宇宙の至る所に分布させているとか。クォークやレプトンがヒッグス場を通過する際、ウィーク荷と衝突することになるが、跳ね返される時に質量を獲得するという。
では、質量ゼロのゲージボソンが通過するとどうなるのだろうか?エネルギー条件によって確率的に質量を帯びる可能性があるというのか?光子が特別扱いされるのは、ウィーク荷を帯びた真空の場から影響を受けないからだという。光子は電磁気力を伝える粒子なので、電荷を帯びたものとしか相互作用しないから。光子は、ヒッグス場においても、完全に質量ゼロでいられる唯一のゲージボソンだそうな。

6. 超対称性とブレーンワールド
超対称性とは、ボソンとフェルミオンをも入れ替える対称変換である。とてもありそうもない組み合わせで、スーパーパートナーと呼んでいる。究極のスワップ関係か。あらゆる価値が、市場を介して貨幣換算されれば、すべてスワップ可能となる。量子場とは、市場のようなものか?
超対称性が存在するかもしれないという理由は、二つあるという。一つは、超ひもで、二つは、超対称性が階層性問題を解決する可能性があること。ひも理論を持ち出せば、究極の構成単位となり、すべてひもで変換できそうな気がしてくる。
とはいえ、超対称性だって破れの問題がつきまとう。ひも理論では、素粒子はひもの共振モードから生じると考え、振動の仕方は多種多様なために何種類もの粒子に見えるとされる。最初は一種類のひもを想定してきが、現在では何種類もあると考えられている。二次元のひもには、大きく二種類の運動がある。端が開いたものと、閉じたもの。超ひも理論がオリジナルよりも優れている点は、スピン1/2の粒子が含まれることで、電子やクォークのようなフェルミオンを記述できる可能性があるという。
超ひも理論の奇妙な特徴は、9次元 + 時間の10次元でしか意味をなさないことで、他の次元では存在してはならない共振モードが現れるという。発生確率がマイナスになるような。そして、余剰次元は認識できないほど微小に巻き上げられていると考える。このコンパクト化モデルに、「カラビ - ヤウ多様体」という数学のテクニックを紹介してくれる。カラビ - ヤウ多様体は超対称性を保存するという。数学では、多様体や多面体を扱う時、双対性という概念を用いる。ここでは、双対性の驚くべき例を紹介してくれる。なんと!10次元超ひも理論と11次元超重力理論が等しいというのだ。
「強く結合した超ひも理論と弱く結合した11次元の超重力理論との双対性により、強く相互作用する10次元超ひも理論のなかの知りたいことは、外面的にまったく異なる理論での計算をすることで、結果的に何でも計算できる。強く相互作用する10次元超ひも理論によって予言されることは、弱く相互作用する11次元超重力理論からすべて導き出せる。その逆も同じだ。」
エドワード・ウィッテンが提唱した「M理論」とは、11次元超重力理論を統一理論として抽象化しようとしたものらしい。しかしながら、双方には不可解な特徴がある。10次元超ひも理論にはひもが含まれているが、11次元超重力理論には含まれない。この謎は、ブレーンを使えば、すっきり説明できるというわけだが...
さらに、「隔離」という概念を持ち込んで、粒子は異なるブレーンに隔離されている可能性があるとしている。
「超対称性の破れの原因となる粒子が標準モデルの粒子から隔離されているモデルでは、粒子を別のフレーバーに変えてしまうような相互作用を導入せずに、超対称性を破ることができる。」
相互作用をするかどうかがブレーンで違うとすれば、カラビ - ヤウ多様体を持ち出すよりもイメージしやすい。しかも、ブレーンは超対称性を適当に保存しながら、たまーに破られるってか?
んー... 個人が認識できるブレーンの数も違いそうな気がしてきた。これが能力差というものか?運動能力には動体視力ってものがあるが、ボールが止まって見える!というのは本当かもしれん。肉体は現実ブレーンを生きるしかない。だが、魂はもうちょっと自由で天国ブレーンにも地獄ブレーンにも行けそうだ。天才たちは自由ブレーンを生き、凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いは監獄ブレーンに収容される... ってか。

2014-05-11

"宇宙創成(上/下)" Simon Singh 著

人類の知りたいという執念には驚くべきものがある。それは、自分自身を知るための旅だ。どこから来て、どこへ行くのか?これを問い続け、自己の棲家である宇宙の正体を知らずにはいられない。つまり、人類は自分が何者かも知らない。己を知る欲望こそ、科学の原動力である。古来、哲学者たちが夢見たことは、その数千年後、ポアンカレの語ったこの言葉で言い尽くされていよう。
「科学者が自然を研究するのは、それが役に立つからではない。科学者が自然を研究するのは、そのなかに喜びを感じるからであり、そこに喜びを感じるのはそれが美しいからである。もしも自然が美しくなかったなら、それは知るに値しないだろうし、もしも自然が知るに値しなかったら、命は生きるに値しなかったろう。もちろんここで私は五感を刺激する美、質と見かけの美について語っているのではない。そのような美の価値を低く見てはいない。それどころがそうした美を高く評価している。ただ、そのような美は、科学とは関係がないということだ。科学にかかわる美は、各部分が調和した秩序からもたらされ、純粋な知性によって把握されるような、より深い美なのである。」

世界中のあらゆる文化が、独自の宇宙創成モデルを作った。創造主という神話を。ビッグバンモデルが優れているのは、誰にでもイメージしやすいこと。案の定、カトリック教会は教義の後ろ盾とした。人間の客観性への憧れは、信仰への頑固さに劣らない。客観的に述べると宣言された有識者どもの主張が、客観的であったためしはない。無い物ねだりというやつか。アインシュタインは常識というものを激しく批判したという。「18歳までに身につけた偏見の寄せ集め」と...
慣習に培われた常識とやらに蝕まれていくと、やがて疑問すら持てなくなる。常識に囚われるということは、自発的な思考意欲を失ったと見るべきかもしれない。まずは自分が信じているお気に入りの仮定を捨ててみることだ。人間の思考において主観性が強いのは、自然の姿であろう。それを承知してこそ、思考結果を検証するための客観性の役割が見えてくる。物理学では、理論構築において論理思考が牽引し、実験結果によって実証されてきた。その過程で、理論の根拠にしようと自ら目論んだ実験が、結果的に反証してしまうこともある。いわば、自己否定に追い込まれるのだ。
マイケルソンは、エーテル説を実証しようとしたが、マイケルソンとモーリーの実験は反対の答えを証明してしまった。彼は、結果が容易に受け入れられず、こうもらしたとか。
「愛しいエーテルは打ち捨てられてしまったが、私は今も多少の愛着を感じている。」
ラザフォードは、J.J.トムソンが提唱した「プラムプディングモデル」、いわゆる、ぶどうパンモデルを実証しようとしたが、あっさりと覆された。
アインシュタインは、静止した永遠宇宙を信じて、せっかくの美しい重力場方程式に奇怪な宇宙定数を加えたがために、「人生最大の失敗」と言わしめた。
理論派は徹底的に論理にこだわり、実験派は徹底的に精度にこだわる。科学は、その互いの資質の相補作用によって成り立つ。本書は、理論派にケプラー、ルメートル、フリードマン、アインシュタインといった面々を、実験派にエラトステネス、ガリレオ、ハッブルといった面々を紹介しながら、宇宙論をめぐる科学史を外観してくれる。また、ガモフ、アルファー、ハーマンらのビッグバン宇宙論派と、ホイル、ゴールド、ボンディらの定常宇宙論派の論争もなかなかの見モノ。尚、表題は「ビッグバン宇宙論」から「宇宙創成」に改題される。
それにしても、神は究極の退屈しのぎを作ったものよ。ビッグバンという現象は、もしかしたら神の死を意味するのか?だとすれば、揉め事をこしらえ、不完全な遺産を残したことになる。なんと無責任なヤツか!
「創造主である巨人が死ななければならなかったことから、人間は永遠に苦労するように運命づけられた。」

ところで、「科学」や「科学者」という用語は、意外にも新しいらしい。
1834年、ヴィクトリア朝の博識家ウィリアム・ヒューエルが「scientist(科学者)」という造語を用いたのが初めだそうな。ラテン語で知識を意味する「scientia」に由来。それまでは、「natural philosopher(自然哲学者)」と呼ばれていたという。
確かに、哲学は主観によって牽引されてきた。いや、直観と言うべきか。アインシュタインが時空の概念を持ち出す百年も前、カントがア・プリオリな認識に時間と空間の二つを置いたことは、直観の偉大さを示している。そして、冷静な目としての論理性で補完しながら、熱狂や迷信に対する解毒剤としてきた。真理に近づくために主観性だけでは不十分だと知れば、悟性が客観性を求めるは必定。ヒューエルがどういう意図で、このような用語を持ちだしたかは知らんが、客観性を強調したことは想像に易い。
とはいえ、科学は自然との相性がすこぶるよく、哲学にしても人間の自然の姿に意義を求めるため、自然哲学という用語も捨てがたい。
そういえば、日本語の「科学」という用語も奇妙な漢字が当てられる。「科」を「学ぶ」とはすべての学科を含むニュアンスを与える。実際、人文科学、社会科学などの用語が編み出されてきた。現在では客観性という意味で用いられることが多いか。いずれにせよ、客観性のレベルは、数学のものとは比べものにならない。
「どんな科学分野でも、人が初心者であることをやめてその分野の達人となるには、自分は一生初心者のままだと知ったときである。」... ロビン・ジョージ・コリングウッド

1. アリストテレスの呪縛
神話という語は、物語を意味するギリシャ語の「ミュトス」に由来するそうな。他にも「権威ある言葉」という意味もあるとか。世界中の神話は、その社会で絶対的な真理を表してきた。神話は信仰や迷信と強く結びつき、これに疑問を呈する者はことごとく罰せられる。そんな時代が長く続いた後、紀元前6世紀頃、知識人たちは突如として様々な可能性を考えるようになったという。哲学者たちは、広く受け入れられていた神話的宇宙観を捨て、自分なりの説明を自然学の下で作り出す。
例えば、ミレトスのアナクシマンドロスは、地球の周りには火に満ちた環(わ)が回っていて、太陽はその環に開いた穴であるとしたという。月や星も同じように、天空に空いた穴であると。小学校の工作で見かけそうな手作りプラネタリウムの発想か。
コロポンのクセノパネスは、地球は可燃性のガスを放出していて、夜のうちに溜まり、臨界質量に達すると発火して太陽になると考えたという。ガスの玉が燃え尽きると再び夜が訪れ、後に火花として星々が残ると。月もまたガスが溜まっては燃えるという周期で動いていると。
本格的な合理主義運動は、紀元前540年頃のピュタゴラスに始まる。「万物は数である」という信仰だ。弦の長さを半分にすると1オクターブ高い音が生じ、元の音と調和することに気づくと、一弦琴を使って和音の理論を構築した。一般的に弦の長さを調整する時、元の弦に対して簡単な比になるようにすると、元の音と調和する。弦の長さを3対2にすると今日で言う5度の音程になり、複雑な比にすると不協和音になる。太陽も月も、星々も、すべての天体運動が数学で説明されると、天空の音楽理論が構築される。宇宙が数によって調和しているとなれば、人間社会におけるあらゆる運動が数学モデルで構築される。気象観測、市場予測、人口予測など。カオスを前にして、やや息切れ気味ではあるものの...
アリストテレスの時代、惑星のループ軌道がカオスに映ったことだろう。自己存在の大前提とされる大地が丸いというだけで、人々はまるで悪魔の世界であるかのように戸惑い、知性の崩壊から理性の崩壊を招いてきた。おまけに、地球は太陽の周りを回り、太陽系も銀河系も運動しているとなれば、黙殺せずにはいられない。
しかし、現代人はアリストテレスの世界観を本当に捨てきれているだろうか?リンゴが木から落ちるのを見て、自発的に落下しているのか?地球の重力に引き寄せられているのか?と問えば、相対的な解釈はどちらでも可能だ。ならば、自分は社会を生きているのか?社会に生かされているのか?を問うてみるがいい。人間ってやつは、何かを中心に置き、しかもそれに向かって運動していないと落ち着かないものらしい。そして、いくら客観的な知識を蓄えたところで、いくら神を崇めたところで、最終的に自分を中心に置くことになる。重い物体も軽い物体も同時に落下するって本当なのか?と問うてみても、たとえガリレオが正しいと知っていても、やっぱり酔いどれはアリストテレスの世界で生きている。その証拠に、アルコール濃度が重いほど肉体も精神も沈むのが速い!

2. 宗教から科学への回心
宗教が科学理論を支持したところで、なんの援護にもならない。証券アナリストが、ほら当たった!と自慢するのと同類か。
アリストテレスは、哲学的な考察から重い物体は軽い物体よりも速く落下すると論じた。ガリレオは実験によってその間違いを証明したが、アリストテレスは既に神聖化された人物。ガリレオには権威の反対を主張する勇気があった。望遠鏡によって測定精度という観点を、科学にもたらした貢献は大きい。ガリレオは異端審問でこう反論したという。
「聖書は天国への行き方を教えるものであって、天の仕組みを教えるものではありません。」
科学者には政治的に振る舞うのが苦手な人が多い。その功績は死後に称えられるケースも珍しくない。何かにつけて常識を持ち出し、道徳を持ち出し、その究極に神を持ち出すのは、無知を覆い隠す絶好の手段となろう。ベラルミーノ枢機卿はこう述べたという。
「地球が太陽のまわりを回ると主張することは、イエスは処女から生まれてはいないと主張するのと同様に誤りである。」
聖書の馬鹿馬鹿しい解釈のおかげで、その反発として科学的思考が生まれ、宇宙創成モデルの構築が始まった。ダーウィンの進化論が登場すれば、人類の歴史もすぐに覆される。マックス・プランクは、こう述べたという。
「重要な科学上の革新が、対立する陣営の意見を変えさせることで徐々に達成されるのは稀である。サウロがパウロになるようなことがそうそうあるわけではないのだ。現実に起こることは、対立する人々がしだいに死に絶え、成長しつつある次の世代が初めから新しい考え方に習熟することである。」
尚、サウロはキリスト教徒迫害者であったが、奇跡的な回心を遂げて使徒パウロという呼び名となった。

3. ビッグバン宇宙論への道
アインシュタインは、重力場方程式に宇宙定数を付け加えた。それ故に、一般相対性理論と静的で永遠宇宙という概念を両立させることができる。
対して、アレクサンドル・フリードマンは、重力場方程式の美しさのみに着目したために、宇宙に自由な形を与えた。特に重要なのは、宇宙定数がゼロの時の宇宙モデルで、動的に発展することが示されたこと。動的とは、激烈な崩壊によって終焉を迎えることを意味する。最初は膨張によって始まり、重力に対抗できるだけの勢いがある。そして、宇宙が重力に対抗する方法は、三つの可能性が考えられる。
第一の可能性は、宇宙の平均密度が高く、与えられた体積中に含まれている星の数が多い場合。星が多ければ重力の総和が大きくなり、やがて星が引き寄せられて膨張が止まる。宇宙は収縮に転じ、ついに完全に潰れる。
第二の可能性は、星の平均密度は低いものと仮定した場合。重力の総和が宇宙の膨張を押さえこむことなく、どこまでも膨張を続ける。
第三の可能性は、宇宙の密度は高くも低くもない場合。重力のために膨張速度は小さくなるが、膨張が完全に止まることはない。宇宙は収縮して一点になることもなければ、無限大に膨張することもない。
これらの中でどのパターンになるかは、宇宙が膨張を始めた時の速度と、宇宙に含まれる物質の総和で決まる。いずれにせよ、フリードマンが提示したのは、宇宙は変化するという発想だ。多くの物理学者が宇宙定数を歓迎し、一般相対性理論が固定観念になりつつある中、フリードマンはコペルニクス的な柔軟性を披露した。にもかかわらず、アインシュタインの方がはるかに名声が高い。37歳の若さで死んだこともあろうか。理論家の多くは狂信者として世を去っていく。エドウィン・ハッブルの観測によって宇宙の膨張が発見されると、高く評価されることになるが、死後のこと。
聖職者で宇宙論研究者のジョルジュ・ルメートルは、ビックバン・モデルをはじめて合理的に説明したという。彼は、放射性崩壊というプロセスを知っていたようだ。ウランなどの大きな原子が壊れて小さな原子になる時、粒子、放射線、エネルギーを放出する。まさに原子モデルを宇宙モデルと重ねた発想だ。そして、フリードマンより少し運が良かったようである。ハッブルが発見した大ニュースを耳にすることができたのだから。
「宇宙について無知であればあるほど、宇宙を説明するのは簡単だ。」... レオン・ブランシュヴィック

4. 宇宙論と望遠鏡
宇宙論の発展に望遠鏡の進化は欠かせない。パルサー(脈動星)の発見が、一般相対性理論が予言する重力波の存在を匂わせる。宇宙の灯台と言われるやつだ。
1700年代、ハーシェル(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェル)は、太陽系が天の川銀河という星団の集団に埋もれていることを示した。では、天の川銀河は宇宙で唯一の銀河なのか?あらゆる星雲は天の川銀河の内側にあるのか?外側にあるのか?シャルル・メシエは、星雲のカタログを作る。
1912年、ヘンリエッタ・リーヴィットは、ケフェウス型変光星、いわゆるセファイドを調べることで、距離を見積もることができることを示した。天文学者は宇宙を測定するための物差しを手に入れた。セファイドは、安定した平衡状態にはなく状態が揺れ動く。圧縮と膨張を繰り返す風船のような。この発見だけでも、宇宙の膨張と収縮を予感させる。北極星も代表的なセファイドで、天空に同じ位置にありながら明るさが変化する。
1923年、ハッブルは、アンドロメダ星雲内のケフェウス型変光星を見つけ、天の川銀河の遥か遠くにあることを示した。ほとんどの星雲が天の川銀河とは別物で、宇宙は銀河に満ちていた。
原子は決まった波長の光を放出したり吸収したりするので、分光学によって星の光を調べれば星が何でできているかが分かる。ハギンズ夫妻は、星の光の波長がわずかにずれていることを観測する。それはドップラー効果によって説明できる。銀河の大半は、天の川銀河から赤方偏移を示すことが観測された。ハッブルの法則は、銀河の距離と速度の関係を示す。それは、宇宙の膨張を予感させるだけでなく、なんらかの出発点があったことを予感させる。聖書は正しかった!と叫んで飲み明かした宗教家も少なくなかったろう。

5. 原子モデルと核反応
ルメートルは、宇宙の始まりは、極めて小さく有限な状態を持った原初の原子が平衡を失って、放出した結果だとした。フリードマンはちと違う。宇宙は原初の原子から始まったのではなく、一点から始まったとした。ゼロからの創成ならば、時間も空間も有限ということか?完全なる神が消滅するとなれば、宗教家にとっては由々しき問題!
ビッグバンモデルを受け入れるには、科学的にも無視できない問題がある。豊富に存在する物質もあれば、稀にしか存在しない物質もあるのはなぜか?物体が均等に存在しないのはなぜか?宇宙は大きくて重い元素ではなく、小さくて軽い元素で占められている。元素の存在率は、水素の90% 、ヘリウムの0.9%。ここから原子を理解しようという試みが始まる
アーネスト・ラザフォードは、ラジウム原子にアルファ粒子を衝突させる実験から、一つの原子核と多数の電子からなる原子モデルを提唱した。原子核は、陽子と電荷を持たない中性子で構成され、しかも原子に対して驚異的に小さい。陽子と電子の数は、原子の種類を決める重要な指標で原子番号とされる。
水素とヘリウムは、小さくて軽い方から二つの元素。陽子と電子をやりとりすることによって、他の原子に変わる。これが放射の背後にあるメカニズムである。ラジウムのような重い原子の原子核は非常に大きく、88個の陽子と138個の中性子を含んでいる。このような大きな原子核は不安定であることが多く、より小さな原子核の状態に移ろうとする。ラジウムの場合、2個の陽子と2個の中性子をアルファ粒子として吐き出し、86個の陽子と136個の中性子を含むラドンに変わる。アルファ粒子とは、ヘリウム原子核の別名だ。大きな原子核が小さな原子核に分かれるプロセスが核分裂である。逆に、水素のような軽い原子と中性子を核融合させれば、ヘリウム原子核に変わる。
水素は比較的安定しているので核反応は自発的に起こらないが、高温高圧などの適切な条件下で起こる可能性がある。水素が核融合してヘリウムになるメリットは、ヘリウムの方がより安定しているからだという。そのエネルギーは、どこから来るのか?それがアインシュタインのあの有名な公式で、エネルギーと質量の等価性が示される。安定した原子状態ほど、核反応が生じた時のエネルギーは莫大なものとなる。水素の核融合爆弾は、プルトニウムの核分裂爆弾よりも、いっそう破壊的というわけだ。核反応の研究が、水素とヘリウムの存在比率に矛盾することなく、ビッグバンモデルを裏付ける。
では、既に宇宙が存在する中で、ビッグバン級の核反応が発生したらどうなるだろうか?宇宙は階層構造となるのか?あるいは、宇宙は破壊されるのか?時間と空間の始まりを宇宙創成、すなわちビッグバンに求めるならば、自由意志の正体とは、空間を自由に泳いでいた原初時代の自由電子の名残であろうか?人間のあらゆる細胞は原子で構成され、当然ながらそこには原子核に捕まった電子がいる。電子の中には、DNAよりも微小な記憶素子が埋め込まれているのだろうか?いずれにせよ、安定志向が強いほど改革は難しく、それだけ大きなエネルギーが必要となるのは道理であろう...

6. 宇宙マイクロ波背景放射とゆらぎ
宇宙マイクロ波背景放射(CMB放射)とは、全天空からほぼ等方的に観測されるマイクロ波である。ビッグバン後に、宇宙の温度が下がって電子と陽子が結合して水素原子を生成し、宇宙が放射に対して透明になった時代のスナップショットと考えられている。宇宙の晴れ上がりの時期の名残か。
密度のゆらぎは、あらゆる現象で見られる。人間社会にも過密と過疎が生じるように、CMB放射にもゆらぎがあるらしい。宇宙初期に生じたゆらぎだとすれば興味深い。COBEチーム(宇宙背景放射探査機)は、ゆらぎの検出に没頭する。ビッグバンから1秒のうちに超高温だった宇宙は膨張して急激に冷え、温度は数兆度から数十億度にまで下がる。その頃、主として陽子と中性子と電子からなり、すべては光の海に浸されていた。それから数分のうちに、水素原子である陽子は他の粒子と反応して、ヘリウムなどの軽い原子核を形成する。最初の数分で、宇宙に存在する水素とヘリウムの比率がほぼ決定されたという。宇宙は、その後も膨張を続け、冷え続ける。この頃の宇宙は、簡単な原子核と、エネルギッシュに飛び回る電子と、膨大な光が存在し、それらがぶつかり合って、跳ね飛ばされる。約30万年が経過すると、温度が十分に下がり、電子の速度が落ちて原子核に捕まり、原子が形成されたという。これ以降、光はほぼ何にも邪魔されず、宇宙をまっすぐ突き進むようになったとか。この光こそが、ガモフ、アルファー、ハーマンらによって予測された宇宙マイクロ波背景放射というわけか。これは、光によるビッグバンのこだまだという。宇宙が平坦でないのも、ビッグバンから30万年後の密度のゆらぎによるものらしい。
1979年、アラン・グースはインフレーション理論を提唱した。宇宙は、一定に膨張してきたのではなく、インフレーション期に一気に膨張し、やがて膨張速度が衰えたというもの。インフレーション期には、ゆらぎも大きかったことだろう。では、やがて膨張は止まるのか?そして、収縮に転じるのか?
まぁ、宇宙からやってくる電磁波の研究もいいが、逆に何を放射しているかということには、科学者はあまり気にしないようだ。地球外生命体から見れば、地球ってやつは惑星のくせしやがって、様々な電波を放出するだけでなく、衛星という宇宙ゴミをまき散らす奇妙な天体に映っているかもしれん。到底自然界では説明のつかない悪魔の棲家にでも...

7. 暗黒物質と暗黒エネルギー
近年の観測によると、銀河の周辺部にある星は非常に大きな速度で運動しており、銀河内部にあるすべての星々の重力を合わせても、銀河の形をつなぎとめるには足りないことが示された。そこで、膨大な量の暗黒物質、すなわち光を出さない重力子のようなものがあり、星たちの軌道をつなぎとめているという説がある。
この物質の天体からの候補は、MACHO(Massive Astrophysical Compact Halo Object)というカテゴリーがあり、ブラックホール、小惑星、巨大な木星型惑星などが分類される。素粒子からの候補では、WIMP(weakly interacting massive particles)というカテゴリーの粒子が想定されている。
1990年代末、宇宙の膨張速度は減速どころか加速を続け、自爆しようとしているという説が検討される。宇宙を膨張に駆り立てているものとは何か?それが暗黒エネルギーってやつか?実は、暗黒物質ってやつが、古くから噂されてきたエーテルってことはないのだろうか?
ビッグバンを仮定すれば、ビッグクランチを想像することも難しくない。あるいは、その間を揺らぐビッグバウンスを繰り返しているのか?いずれにせよ、いまだ人類は宇宙の正体のほとんどを知らないでいる。分からないことがあり続けるということは、幸せなのかもしれない。ビッグバン以前にはどうなっていたのか?この問いに対する神学版とも言うべき答えで、聖アウグスティヌスの言葉を引き合いに出すと...
「神は天地創造以前に何をしていたのか?神は天地創造以前に、そういう質問をするあなたのような人間のために、地獄を作っておられたのだ。」

2014-05-04

AL-Mail とお別れ... 秀丸君よろしく!

GW連休をきっかけに、ようやく踏ん切りがついた。二十年近く付き合ってきた AL-Mail とお別れすることを。今頃なにをやってんだか... 引退間際の古代人は、夜の社交場でも未練がましい!

履歴を調べると、ユーザ登録をしたのが1996年。16bit版から使ってきたわけだ。2006年からアップデートされていないが、Win7(64bit版)上でも動くし、不具合はプラグインでごまかしごまかし、それほど不都合を感じていない。ただ、時代遅れであることは間違いなく、何年も前から乗り換えを考えてきた。とはいえ、メーラは基幹ソフトの一つで、データベース代りにも使ってきただけに、それなりに思い入れがある。
AL-Mail の良さは、基本構造が単純で、プラグインによる拡張性が高いこと。ユーザ側に好きなように拡張させる思想が好きなのだ。スレッド機能、複数アカウントの制御、Secure Tunnel などはプラグインで追加できるし、セキュリティソフトやスパムフィルタなど外部プログラムとの連携で困ったことがない、いや記憶にない。起動オプションがあるので、コマンド制御もできる。ファイル構成がシンプルなために、バックアップスクリプトが書きやすく、他のマシンへの移植も容易。しかも、データ管理がテキスト形式であるため、どんなエディタでも開くことができ、復旧作業で最悪を回避できる。なによりもトラブルに強い点が手放したくない理由であった。ちなみに、拡張性においては、emacs のマクロ機能と比ぶべくもないが、手軽さでは遥かに AL-Mail の方がいい。
さて、次は何にしよう?天の邪鬼な性格は変えようがなく、MS系を避ける方針に変わりはない...

1. メーラの選定
メジャーなのは、Thunderbird あたりか。まず、こいつを試してみると、機能はまったく問題ないが、ちと重い!やはりメーラには軽快感がほしい。
次に、Becky! を試してみると、シェアウェアってのが気になるが、重要なソフトだけに少しぐらいお金を払ってもいい。操作性もよく、軽快、これで決まり!と思っていたら...
ついでに秀丸メールを試してみると、データ管理がバイナリ形式になるのは時流であろうと諦めていたところ、こいつはテキスト形式でやんの。ファイル構成もシンプルで、むしろ、AL-Mail よりいい。機能性も高く、複数アカウントとの相性もいい。おまけに、シェアウェアだが、秀丸エディタのライセンスを持っているので無料で使える。
てなわけで、秀丸君、今後ともよろしく!

2. 秀丸メールへの移行作業
AL-Mail からの移行には、三つのマクロが公開されている。

  データ用: hmml_import_alml_104.lzh
  アドレス帳用: cnvadr_alml2hmml_104.lzh
  振り分け設定用: cnvflt_al2hmml_100.lzh

データはアカウント別に変換するようで、仕掛けが分からず二度ほど失敗するが、分かっちまえば問題なく終わる。アドレス帳では階層エラーが発生した。ただ、AL-Mail のアドレス帳は、Group... End Group キーワードという単純な構成で、自前で csv変換プログラム(数行)を書いて、インポートしておしまい。後で気づいた事だけど、秀丸メール側は、G1/G2... という単純なキーワードで構成されるので、エディタ上で置換した方が早そう。
また、テンプレートとシグネチャには、以下のファイルがアカウント別に生成される。この構成は、AL-Mail よりもいい。尚、拡張子が .bin でも中身はテキストで、アカウント情報(account.bin)などはバイナリ。

  新規用: t_newmail.bin
  返信用: t_reply.bin
  転送用: t_forward.bin
  シグネチャ: sign.bin

複数アカウントにおける POP/SMTP over SSL の管理も楽。POPFile との連携も問題なし。尚、秀丸メール内蔵の迷惑フィルタを使ってみる手もあるが、単語群をせっかく育ててきたので、POPFile をそのまま使う。
また、64bit版には注意事項があるので、当初、32bit版をインストールしていた。でも、アプリケーションはなるべく 64bit版で揃えたく、インストールし直すと、ホームディレクトリを指定するだけでデータは継承できる。当たり前だろうけど。

結局、移行作業で問題になった点は特になし!作業には、1日かかると見ていたが、1時間もかからなかった。
てなわけで、もっと早くやりゃよかった!と思う今日このごろであった...

2014-04-27

"政治論集" David Hume 著

啓蒙時代の哲学書に触れると、デイヴィッド・ヒュームの名をよく見かける。彼の主著「人間本性論」はなかなか手強そうだ。入門書として「政治論集」と呼ばれるエッセイ集で、お茶を濁してみよう...

ヒュームの立場は、共和主義的な自由主義に立脚している点ではありふれた思想にも映る。ただ注目したいのは、アダム・スミスに先んじて経済原理から自由主義を唱えている点である。古典的な共和主義では、宗教的な道徳感情に支配され、商業的な欲望を悪習と見做す禁欲主義が旺盛であった。自由の基盤には、土地が中心に据えられてきた。言い換えれば、自己存在を確認できる場所を中心にした考え方である。ヒュームは、まず土地への執着に疑問を投げかける。そして、商業的な欲望と禁欲的な欲望の差異に対して、人間本性から迫ろうとする。商業活動は、自由精神とすこぶる相性がいい。土地への従属精神は、商業活動によって解放されてきたとも言えそうか。
しかしながら、土地依存症は、人間社会の発達とともに組織依存症から情報依存症へと変化してきた。自己存在の確認できる場所もまた仮想空間へと移行する。精神現象そのものが幻覚なのだから問題ないってか。俗世間の泥酔者には、仮想と幻想の違いがとんと分からん...

当時の政治の理想像では、トマス・モアのユートピアが思い描かれるようである。ヒューマニズムを信奉する点では、時代的差異をほとんど感じない。ただ、労働を奨励しておきながら富を憎む思考回路は、マルクス主義に通ずるものがある。労働に励めば生産物を潤し、商業活動が盛んになり、富が増大するのも道理であろうに...
ヒュームは、商業を強欲と結びつけて断罪する社会風潮に、我慢ならないようである。彼は、そんな時代にあって経済的自由主義を大胆に提唱する。そして、富と徳は本当に両立できないのか?と問いかける。伝統的な道徳観念では、奢侈を怠惰の代名詞とし、快楽を悪徳としてきた。だが、勤勉によって富が獲得されるのも事実。貧困のために書物も買えないようでは、知識を得る機会までも奪われる。勤勉を放棄した道徳的堕落と、自由活動に執着した欲望的堕落は、どちらも人間の本性だ。富を欲することも、権力を欲することも、名誉を欲することも欲望ならば、健康を欲することも、愛することもまた欲望、抑制することも、禁欲もこれすべて欲望なのである。欲望は人間の本性であって、その一部を抹殺すれば、精神のバランスを欠き、他の本性を剥き出しにする。歴史を振り返れば、修道士ですら征服者同様、残虐行為に及んできたではないか。幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり人間は冷酷になるようである。
「人びとが快楽に関して洗練の度をまぜばますほど、どんな種類の快楽にも過度に耽ることはますます少なくなる。」

本書は、商業、貨幣、利子、貿易差額などに関する論説において、哲学者と政治家の役割を語る。資本と労働の生産利用という経済原理の確立では、スミスに譲ることになるのだが...
ヒューム以前の政治学は、経済問題を軽視してきた。重商主義は、空虚な理想主義への反発から生じたとも言えそうか。オランダは、ヨーロッパのどの国よりも先んじて、商業共和国を謳歌した。やがてイギリスが追い越し、自由主義との結びつきから、商業ヒューマニズムを形成することになる。欧米式資本主義は、契約の原理に支えられている。ひいては、神との契約であり、そこに帳簿の正当性を与える。実践的には商法の進化であり、法律が商業活動の後ろ盾となる。民衆の商業活動が、法律を庶民化させてきたという見方もできるかもしれない。
とはいえ、宗教的政治による既得権益を、自由主義的商業が解放したとしても、やはり不正は蔓延る。そればかりか、過度の経済活動がしばしば災いをもたらし、極度の貿易不均衡が戦争の火種となってきた。公債や金融は有益な公共財ではあるが、度を越して用いれば経済危機を招く。いまや、信用経済は国家の枠組みを越え、手に負えない怪物となった。
ヒュームの視点には、商業と自由の結びつき、あるいは平和を前提とした産業がある。そして、強欲を克服し、自由を制御し、平和で安定した社会を築くにはどうすればいいか?これを問うている。頼みとするものは知性と徳性であろう。だが、いまだ人類は強欲を克服できないでいる。金銭欲とは不思議なもので、金持ちほど旺盛になるらしい。権力欲とて同じようだ。政治家になるべき者ほど自ら資格を疑い、自分の道徳に自信満々な者ほど目立ちたがる。これが政治の世界というものか。哲学者が統治する国家を理想像とするのは、やはり夢想ではなかろうか?プラトン君!

1. 政治の世界
ヒュームは、人間本性的に政治論、経済原理、人口論を語ってくれる。それは、利害関係を楯にした嫉妬の力学とでもしておこうか。嫉妬、憎悪、競争心、見返り... こういった思惑が本音を建前で偽装する。ナショナリズムは感情論と結びつきやすいだけに仮想敵国をでっちあげ、かたや経済や文化が繁栄すれば、流言蜚語の類いから陰謀や罠まで仕掛ける。平和に寄与する経済交流や文化交流に励む人々にとっては、はなはだ迷惑であろう。
そもそも、国連という世界規模の同盟が存在すれば、わざわざ国別に友好関係を斡旋する必要があるのか?いかに国連が独立権限を持たず、各国の思惑が絡み、本来の機能を果たしていないかという証でもあろう。本来の政治活動とは、人類の普遍的価値を求めるための集団的行動とならなければならないはず。それとも、政治とは、人間の醜態を曝け出すためにあるというのか?いわば、理性の捌け口として。なるほど、理性のない者に理性の捌け口はいらない。法律の限界実験をしながら、自分の理性の限界を試しているとでも言うのか?陰謀が渦巻くところに、必ず政治力が働く。政治力や権力のないところに陰謀は成り立つまい。
「浅薄な思想の人間は誰も、健全な知性の持ち主までも、思想家、形而上学者、改良家だと非難しがちであって、自分の弱い理解力が及ばないことは何であれ正しいとは認めたがらない。」
政治が、慢性的に矛盾を抱えるのは、強欲が絡み合うからなのか?確かに、政治には大義が必要である。だが、政治家どもの理屈では、野心と志を混同させ、国家の面子よりも政治家の面子が優先されるではないか。おまけに、人を貶め、蔑むことに懸命で、公の場ではパフォーマンスで勝つことに懸命だ。ヒュームは、政治が突発性や偶然性、あるいは少数の人間の気まぐれに依存してはならないと語る。そして、嫉妬の競争原理を、建設的な競争原理へ向かわせる術を模索するものの... やはり、毒を以て毒を制す!の原理に縋るしかないのではないかい!
「すべての人間のうちで、政治的企画室というのは、権力を握ると、これほど有害なものはないし、権力をもたなければ、これほど滑稽なものもない。」

2. 自由と公信用
人間社会には、生まれるとすぐに強制的にどこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。人間は、生まれる地を自由に選べないばかりか、生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり、人間はまず不自由を体験することになる。だから、本能的に自由に憧れるのかは知らん。おまけに、無条件に租税の義務までも背負わされる。こうしたシステムが機能するのは、ひたすら慣習が支えているからであろう。人間には、本性的に当たり前という感覚に慣らされる性質がある。本書は、こうした性質に「公信用」という語を当てる。
犯罪を見れば、警察に知らせるという性質が、自動的に治安システムとして機能させる。だが、公信用が崩壊すると、国家は成り立たない。私有財産を守る権利が維持されない社会に、信用など担保できない。すべてを自己責任に委ねれば無法地帯となろうし、すべての判断を世論に委ねれば法治国家を放棄することになろう。自己責任と公信用の按配こそが、社会を維持させるというわけか。慣習の力、恐るべし!
となれば、いくら自由を唱えたところで制限されることになる。自由精神の本質は、自らの自由をいかに抑制できるかにかかっているのかもしれん。人間社会には、哲学的、思弁的な原理体系が必要であろうが、民衆は思弁的な点では極めて粗雑となりがち。空気を大切にする社会は空気に呑まれやすく、村八分社会では哲学することも難しい。
一方で、自分の利益を放棄してまで、他人の意思のままになろうとする人も少ない。主権者に正義の保護が前提されなければ、義務を課すこともできない。人間は何らかの代償がないと動かないというのか。その代償が、正義と結びつくかは別にして。なるほど、神に対してですら見返りを求めてやがる...
「貧しい農民や職人が自分の国を離れる自由な選択権があると、まじめに主張できるであろうか?外国の言葉も生活様式も知らず、稼いだわずかな賃金でその日暮らしをしているのだから。ある人が眠っているあいだに船に乗せられ、船から離れようとする瞬間に、大洋に落ちて死んでしまうにもかかわらず、船内に留まっていることによって、その人が船長の支配に自由な同意を与えているのだ、と主張するのと同然であろう。」

3. 民主主義の本性
民主主義には、議会を支配すれば都市を乗っ取ることだってできるという危険がある。ある地方議会を、圧倒的過半数で占拠すれば、外国から動員された移住者によって現地人の発言を沈黙させ、部分的に別の国家に組み込むことだってできる。また、偽装貨幣の鋳造が、貨幣量を増大させることによってインフレを引き起こし、ライバル国の経済を転覆させようとする目論みも、よく機能する。古来、このような政治的な陰謀がしばしば実施されてきた。
現在ですら、ライバル国を蹴落とすことによって自国の安泰を図るという思惑は、当たり前のように実行される。政治は正義などという心地よいもので支えられているのではなく、政治家たちの集団的動物性によって支えられている。だから、いつの時代も、政治不要説ならぬ政治家不要説がくすぶるのか。あるいは、自己の幸福を確保するためには他人の犠牲が必要だという人間の本能が、そうさせるのか。政治現象とは、突き詰めれば、自己存在、ひいては自己愛の強調なのであろう。その具体的な解決手段が、暴力か話し合いかの違いぐらいなもの。この違いが大きいのも事実だけど...
クセノフォンは、「ソクラテスの饗宴」の中で、アテナイの民衆の暴政をごく自然に叙述しているという。
「かつて富をもっていたときよりも、貧乏な現在のほうが私ははるかに幸福である。それはちょうど恐怖よりも安心な状態にあるほうが、奴隷よりも自由人が、機嫌をとるより取られるほうが、疑われるより信頼されるほうが、幸福であるのと同じである。以前は、私はあらゆる密告者に気を使わざるをえず、いくばくかの賦課金がいつもかけられ、また都市を留守にすることはけっして許されなかった。ところが、貧乏な今では、私は偉そうな顔つきをし、他人を脅している。金持ちは私を恐れ、あらゆる種類の礼儀と尊敬の念を示してくれる。だから私はこの都市で一種の僭主になっている。」

4. 老齢と成熟
宇宙を永遠ないし不滅と断定できる根拠は、何一つ見当たらない。いつか宇宙が滅亡するならば、幼年期、青年期、壮年期、老年期といった段階があるのだろう。人間社会にも。
しかしながら、幼年期よりも青年期が、壮年期よりも老年期が、成熟していると言えるだろうか?人間社会は、若年であれ、青年であれ、壮年であれ、老年であれ、文句を垂れる量で存在感を強調する力学の世界である。寿命が延びれば、新たな世代層が生まれる。かつて人間50年という時代があったが、いまや60代ですら老齢と見なされない。高齢化社会や少子化社会と言われながら、世界全体では人口増加に歯止めがきかない。地球資源は限られているというのに。自発的に人口を抑制する傾向が生じるのは、悪いことなのだろうか?日本の人口がたった半世紀で、8千万人が1億2千万人にも膨れ上がったことは自然現象で片付け、ちょっとぐらいの人口減少を民族滅亡説のように目くじらを立てる。現在の世代バランスの歪は、過去の人口増加率に問題があるとは考えず、現在の繁殖意欲や養育制度の問題だとする。
はたまた、歳を重ねれば、決まって過去を懐かしみ、現在の有り様を嘆く。自己存在に自信が持てなくなるからか?そして経験を積めば、寛容性が増すと言えるだろうか?短気になり、イライラを募らせ、文句を垂れるようになるのは、人生の終焉に焦りを感じるからか?組織に隷属してきた連中が高度成長時代を謳歌し、今度は老後を謳歌する権利を要求するどころか、年金をご褒美だと考えている。惰性的な制度によって企業年金をたかり、現役社員の収入をたかる。歳を重ねると、若者以上に欲望をむき出しにし、パイの争いは世代間闘争となる。社会制度が崩壊するのも時間の問題か。尤も、褒美をあげるべき者ほど、そんなものに期待せず、自発的に生きようとするのだろうけど。
いずれ、社会制度や年金、国家の支配までも、グローバル企業に委ねる時代がくるのかもしれん。国防産業がアウトソーシングされるように。政治に哲学が期待できなければ、国会議員も、国家元首も、スポーツの代表監督のように、海外で実績を積んだ政治哲学者が雇われる日が来るのかもしれん...

5. 王位と中立性
人間社会では、しばしば集団性の気紛れによって論争が巻き起こる。権力者を巻き込みながら偏見に満ちた応酬となり、嫉妬が嫉妬を呼び、憎悪が憎悪を呼び、公共の自由は興奮のるつぼと化す。民主主義社会では、支持するのも批判するのも自由。だが、その基準が好き嫌いで判断されるとすれば、それは議論に参加する資格があるのだろうか?後援会だから、地元出身だから、ライバル政党だからという動機では、ただの応援団に過ぎない。すると、冷静に議論できる立場は、どの党派にも依存しない哲学者のみということになりそうだが、そんな人はこの世にいるのか?人間は誰しも群れるのがお好き!自分の意思で考えているつもりになって洗脳されることが、いかに心地よいかを潜在的に知っている。それは、催眠療法が示している。
政治において中立の立場に置くことがいかに難しいことか、これをヒュームは匂わせる。そこで、国家を統一する上で、都合のよい立場にイギリスには王室の役割がある。英国王のスピーチが、歴史的な窮地でいかに励みとなってきたことか。パパラッチの餌食にされるのは、なんとも気の毒である。我が国にも、似たような立場に象徴天皇がある。どんな政治的意見にも肩入れしないことが、唯一、国民の統一的立場に立てるという原理を成立させる。安直に言葉にできないという窮屈な立場であるが、一旦言葉を発すると首相のそれとは重みがまるで違う。それは、大震災で発せられた言葉を見れば、一目瞭然であろう。政治や世論が悪しき方向に向かった時、唯一歯止めとなる可能性を秘めた立場である。政治利用しようなどとは言語道断!だが、戦後においても、天皇の存在を政治利用しようとする目論見がいくつも見られる。したがって、皇居は永田町とは距離を置き、京の都あたりに設置する方が相応しい気がする。

2014-04-20

"功利主義論集" John Stuart Mill 著

功利主義という用語は、掴みどころがなく手強い。古くから道徳哲学を信奉する人々に批判されてきたのも、ジェレミ・ベンサムの唱えた最大幸福原理が、快楽の総和として計算されるからである。いわば、GDPのような経済指数として。現在でも、経済人の価値観に偏っていると叩かれる一方で、その批判者たちもまた客観性を欠くと反撃を食らう。この用語を曖昧にしているのは、正義と幸福の観念を支柱にしているからであろう。人間社会はこの二つの観念なくしては成り立たず、共通の合言葉として君臨している。
しかしながら、厄介なことに、正義にしても、幸福にしても、個人によって求めるものが違う。人間は本性的に利己的で、この性質を完全に排除しようとすれば、今度は別の本性が暴走を始める。多様性もまた人間本性的で、これを軽視すると、正義の観念は、すぐさま宣伝やバフォーマンスの類いで扇動され、幸福の観念は、幸福の使者を自負する者によって有難迷惑を撒き散らす。
人間の本性の一部を、単純に悪だと片付けて抹殺すれば、そこに残されるのは人間なのであろうか?功利性にしても、正義にしても、道徳にしても... こうした用語は、真の自由人にとっては強力な武器となろうが、群衆心理や自己欲望に隷属する俗人には危険な道具となる。自由人ってやつは、真理の探求という険しい道ですら、快楽の美酒に変えてしまうようである。本書は、まさに高次の快楽とは何かを問うている。
「満足した豚よりも不満を抱えた人間の方がよく、満足した愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方がよい。」

功利主義が唱えられたのは18世紀頃、最初はペイリーらによって神学的功利主義として提示され、後にベンサムやミルらによって理論体系化がなされた。
しかしながら、功利主義的な発想は、既に古代ギリシア哲学に見つけることができる。プラトンは著書「国家」の中で、政治の役割は国家全体ができるだけ幸福になるよう仕向けることだとし、アリストテレスは著書「政治学」の中で、私有財産の観点から政治算術のような考え方を匂わせている。ミルは、こうした古代哲学に立ち返ってベンサム主義と一線を画し、改良した功利主義を唱えている。
本書の特徴は、ミルの思考過程を辿るかのように論説集が組み立てられていることにある。まずセジウィックの論説を批判し、次にベンサムの功利主義を語り、ヒューウェルの道徳哲学を批判した後に、ミルが再構築した功利主義を論じている。ベンサムへの批判は、だいたいにおいて道徳感情や倫理観が欠けているというもの。確かに、功利性ってやつは、経済的な損得勘定や利害関係と相性がよさそうに映る。ミルも、ベンサムの人間観察が浅はかであることを指摘している。快楽の所在についてはあまり論じていないと。ベンサムは、人間の道徳判断が結局は利己的であり、道徳感情にあまり期待しないという立場のようである。それでも、ミルは積極的な評価を与えている。宗教的な道徳感情の強い時代に、科学的な観点からの思考習慣を政治学に取り入れたとして。そして、ベンサム主義を足がかりに、人間の多様な価値観を認めつつ、多面的な功利主義を構築しようと試みる。
「徳は望まれるべきだけでなく、利害関心を離れてそれ自体として望まれるべきものである。」

ところで、建設的な批判とは、こういうものを言うのであろうか...
ミルは、相手の主張を否定するのではなく、うまくいなしている感がある。批判的論争ってやつは、互いに言葉の揚げ足をとり、本質的な問答から乖離して泥沼化しやすく、聴衆者はどちらにも加担したくない、といった構図になりがちである。
「すでに社会的感情を発達させている人は、自分以外の同胞を幸福の手段をめぐって相争う競争相手と考えたり、自らの目的を達成するために同胞たちの目的が挫折するのを望んだりすることはありえない。」
例えば、キリスト教の根源的な営みにしても、多様性に満ちている。ローマ教会に頼らず独自に修正したキリスト教を唱える者もいれば、神の定義を宇宙法則に求めるようなキリスト教徒もいる。そもそも宗教原理ってやつは、寛容性を伴うから救われるのであろうに...
「キリスト教を批判する人がその真理や好ましい傾向をイエズス会士あるいはシェーカー教徒が抱いている見解に基づいて判断するとしたら、その批判者はどのように思われるだろうか。」
批判や議論のあり方とて、同じようなもの。どんなに優れた哲学書でも、まったく隙のない記述などありえようか。すべての状況を想定して記述することが不可能となれば、偉人の残した書は言葉足らずに欠席裁判を強いられる宿命を背負う。後出しジャンケンの餌食よ!そして、不合理な批判が別種の不合理な批判を呼び、批判の堂々巡りを始める。人間ってやつは、なにかと揉め事がお好き!人生とは、よほど退屈なものらしい...
「ロックが用いなければならなかった以外の議論が彼の結論のいくつかを立証するために不可欠であるという理由で彼を攻撃することは、証験論を書かなかったという理由で福音主義者を非難するようなものである。問題は、ロックがどのようなことを述べていたかではなく、彼が現在に至るまでの自分に対する反論すべてを聞いたとしたらどのようなことを述べるかということである。」

1. セジウィックの論説
地質学者で聖職者でもあるアダム・セジウィックは、直観主義の立場からジョン・ロックの経験論と、ウィリアム・ペイリーの神学的功利主義を批判したそうな。セジウィックは、正義をなすための道徳判断を下す能力、いわば道徳感情は生得的であると唱え、道徳感情を経験的とすれば、計算高い思惑と結びつくとしているらしい。
だからといって、直観的な道徳感情を、神聖視するのは行き過ぎであろう。確かに、閃きやア・プリオリな認識を与えてくれる直観は、偉大である。おいらには、気まぐれこそ崇高な精神に映る。しかし、その直観から生じた観念を、科学的、論理的に検証してこそ、より確信へと導くことができよう。ミルは、なにも直観的思考を批判しているわけではない。なによりも芸術心が拠り所にする思考法であることは、誰もが認めるところである。本書は、不可解な先天的能力を学術的に説明できるまで理解し、後天的能力として道徳観念を導くべきだとしている。直観学派に対して、功利主義を帰納学派としているところにも、その意識が見える。

2. ヒューウェルの道徳哲学
ウィリアム・ヒューウェルは、セジウィックと似た立場で、直観主義的な立場からベンサムを批判したそうな。ミルは、残念ながらイングランドの大学は、正統とされる思想以外は受け入れない宗教的組織だと指摘している。真理よりも、宗教、保守主義、平和といったものが重要視されると。言うまでもなく、後ろ盾はイングランド国教会であるが、その傾向がヒューウェルの哲学思想にも顕れているらしい。キリスト教に限らず、宗教的な道徳観念では、苦痛を美徳とする傾向がある。それは、精神修行や苦行といった形に顕れる。逆に言えば、快楽は悪徳の象徴とされる。ミルは、ヒューウェルが功利主義を利己主義と取り違えていると指摘している。
ベンサム主義の原理では、快を増大させ、苦痛を予防することが、道徳への道と考える。それゆえに、快を悪とする主張に対して、すべて反対者と見なす。宗教的禁欲主義とは、まさにこの類いであろう。宗教的道徳観では、苦痛こそ追求するもので快は避けるものと考え、自虐行為ですら賞賛する。そのために報酬や将来の恩恵を期待したりはしないかと言えば、そうでもない。ベンサムは、こうした考えを一般化して禁欲主義としているそうな。ベンサム主義者は盲目的に忠誠を誓ったりはしないという。
だが現実社会は、宗教思想や会社組織の創始者というだけで崇められる。その功績や考え方を理解するのではなく、人物を盲目的に崇め、いわば神格化させてしまう。批判する側もまた盲目的に人物を攻撃する。ベンサムは、このような流動的な見識に、道徳の基礎を置いたのではないという。最大多数の最大幸福とは、普遍的価値観を前提にしているのであって、単純な多数決に委ねたわけではないということか。有徳者や有識者たちにありがちなのが、正義がなんであるかを説明できず、感覚で正義を押し付け、義務がなんであるかを説明できず、感覚で義務を押し付ける。彼らは、直感を直観へ昇華させることができないでいる。有徳者や有識者ですらこんな有り様なのに、酔いどれごときがどうして理性なんぞ理解できようか...

3. ベンサム主義
ベンサムの格言にこういうものがあるそうな。
「すべての人が一人として数えられ、誰も一人以上として数えられない。」
多数決の原理は民主主義と相性が良さそうに映るが、そこには落とし穴がある。実際、多数決を民主主義の象徴として崇める政治屋は多い。そのために多数派工作に余年がなく、選挙屋になりさがる。正義ってやつは、道徳を基準として実践されるわけではない。法と道徳は一致すべきなのだろうが、現実にそうなっていない。幸福にしても道徳観念から構築されるべきなのだろうが、道徳観念もまた普遍性に達していない。人類は、いまだ善悪すらきちんと規定できないでいる。正義がこれほど脆弱にもかかわらず、政治屋どもは堂々と正義を主張する。なんと厚かましいことか。
デヴィット・ヒュームの言葉に、こんなものがあるそうな。
「世界は政治哲学をもつにはまだ若すぎる!」
正義や幸福や道徳という用語は、心地よく響くだけに、民衆を欺瞞する道具とされる。義務という用語も怪しい。自分で判断できず、ただ組織の命令に従うことが義務なのか?義務の正体をきちんと説明できずに、義務が果たせるのか?そして、権利とは、義務をともなうもののはずだが。平等という用語も危険である。公平とは似ても似つかぬ。ベンサムの唱える個人目的にしても、少々経済的動機が優勢のようである。
「最大幸福が道徳の原理であってもそうでなくても、現に人々は自分自身の幸福を望んでおり、したがって自分たちの幸福を増進してくれる他者の行為を好み、自分たちの幸福を明らかに脅かすような行為を嫌悪する。ベンサムが前提に置いたのはこのことだけである。」

4. 功利主義
功利主義とは、功利性を究極的な価値の原理とする理論であるという。倫理的な観点では、正義は善悪という道徳基準によって決定されるとし、社会的な観点では、個人の功利性に結びついた社会的功利性の向上が社会目的とされる。本書は、その特徴を四つ挙げている。
  • 帰結主義... 正義は結果的に社会的な善で規定される。結果主義とも言えそうか。
  • 福利主義... 共同体全体の幸福を考慮する。
  • 総和主義... 人員に優劣をつけることがなく、全体幸福量の総和を志向する公平性。
  • 最大化主義... 幸福の総量を最大化するとは、まさに経済原理か。
ミルの主張する功利主義には、道徳権利が前提される。しかしながら、多様な価値観を総合的に解決するには、最低基準を規定する方が実践的であろう。これが、基本的人権というものであろうか。法律の役割にしても、正義をなすことではなく、なるべく不正義をなさないようにする。推定無罪にも、功利性が働いていると言えよう。
... などと言えば、なんとも消極的な動機にも映る。神に縋るのと大して変わらないような。しかし、真の自由人は、法律や神も、理性や道徳も、意識せずとも自然に振る舞い、自然に義務を果たせるのであろう。逆説的ではあるが、高次な快楽を求めるには、最低限の規定を与えるだけで、なるべく自由の余地を与えた方がいい、とすれば積極的な動機となろうか。
「人生における個人的な楽しみを放棄することによって世界の幸福の総量を増大させることができるとき、楽しみを自ら放棄することのできる人々は本当に賞賛されるべき人々である。しかし、何らかの他の目的のためにそうしていたり、他の目的のためにそうしていると公言したりしている人は、自分が念頭においているような禁欲主義者と同じ程度にしか賞賛に値しない。」
功利主義を端的に言えば... 一般的な価値観の基準では最低限の道徳性を規定することぐらいしかできない、そして、社会全体では高次の快楽を求めるように意識を向けることで集団的な利益をもたらす... といったところであろうか...

2014-04-13

"新賢明なる投資家(上/下)" Benjamin Graham, Jason Zweig 共著

この書に出会ったのは十年ぐらい前になろうか。いま読み返すと、いっそう輝きを増してやがる。泥酔投資家にとっての自戒の書だ。
ベンジャミン・グレアムは、投資と投機の違いを明確にし、バリュー投資理論を確立した。「賢明なる投資家」の初版は1949年に遡るが、改版を重ね、今日もなお読み継がれている。市場理論は、あまり進化していないということか。進化したのは、価値を歪ませる技術と、その上に乗っかるサヤ取り技術の方であろうか...

十年前を振り返ると...
2002年頃から始まった景気拡大期間は、いざなぎ景気を超える勢いで、市場は楽観ムードに包まれていた。だいたい素人が参入しやすい時期というのは、市場が楽観的な時で、株で儲ける!といった類いの書が大量に出回る。取引手数料を欲する証券会社の後ろ盾で。グレアムに言わせれば、市場参入時期としては間違っていることになろうか。少々無謀な取引に手を出しても大した損をすることもなく、実験するには手頃な時期である。おかげで投機的な行動にのめり込む。デイトレードを一年ほど試して何度か大損すると、センスのなさを悟るものの、トータルではプラスだったので、楽観的であったことに変わりはない。
やがて、精神的な苦痛が襲ってくる。不安が不安を呼び、市場を常にモニタしていないと落ち着かず、取引せずにはいられない。まるで麻薬だ。本職の集中力までも緩慢とさせ、廃人になりそうな気がした。とっくに廃人なのかもしれんが...
人間ってやつは、皆が儲けていると、それに乗り遅れまいという意識が強烈に働く。おまけに、損失を抱えても皆で損をすれば、自分に言い訳ができるという特質を持っている。赤信号、みんなで渡れば怖くない!
「人間のあらゆる不幸の原因は、ただひとつ、部屋でじっとしているすべを知らないことである。」... ブレーズ・パスカル

そんな精神状態から救ってくれたのが本書である。そもそもの目的はなんだったのか?独立のために経済学を学ぶことと、ついでに将来の年金の足しにすることであって、けして大儲けを目論むことではなかったはず。そして、何よりも大切にしたい意志は、社会を生きているのか?それとも、社会に生かされているのか?これを問い続けることだったはず。群衆心理や自己欲望に隷属するのでは話にならん。いくら足掻いたところで、酔いどれごときはアリストテレスの言う生まれつき奴隷よ...
「有名になりたがる者の幸福は他人次第である。快楽を追求する者の幸福は自分ではどうしようもないその場の雰囲気によって変わる。しかし、賢き者の幸福は自分の自由な行動によって大きくなる。」... マルクス・アウレリウス

この書は、グレアム自身が財産を失うという苦悩を体験し、長年に渡って市場心理を観察した反省から成立している。そして、投資戦略は投資家の性格で決まるとしている。投資スタイルは人の数だけあり、自分で見つけるしかないということだ。ポートフォリオの構築では、市場に合わせるのではなく、自分の性格に合わせる方が持続的で、精神的ストレスもなくなる。どうすれば儲かりますか?という質問自体がナンセンス!金融商品ほど他人の意見を当てにする世界は珍しいかもしれない。それだけ、透明性が低いということであろう。なによりも心強いのは、売買のタイミングは本質ではないと語ってくれることである。その根拠は、この言葉でほぼ言い尽くしている。
「賢明な投資家は、株安のときだけ株を保有し、高くなってきたら売却し、再び買える程度に株価が下がってくるまでは債権と現金で身を守る。」
今日では世界中の市場がリアルタイムでつながり、売買のタイミングをあまり気にしなくていいという助言は、時代遅れに映るかもしれない。いかんせん、巧妙なデリバティブ手法を高度な数学モデルで装いながら、バリュー投資とモメンタム投資を統合させようと躍起なのだ。
しかしながら、本来の市場の役割は、正当な価値評価を与えることにあるはず。投資は企業価値を高めることを目的とし、投資家はその配当金を受け取ることで経済循環を促すのが本筋であろう。だが、誰一人として正当な価値を知らないことが、群衆を暗示にかける。
市場が、金融屋の価値観に偏らず、多様な価値観の集合体となれば、人類の普遍性を発揮できるのかもしれない。だが、人間には、大金を前にすると盲目になるという性癖がある。好況であろうが、不況であろうが、その動向に応じて儲かりそうな方向に群がるか、安全そうな方向に群がるか、いずれにせよ資金は右往左往を続ける。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとってできることといえば、欲望と恐怖の狭間を彷徨うことぐらいかもしれん。
「相場とは持続不可能な楽観主義と根拠のない悲観主義との間を永遠に行ったり来たりする振り子である。賢明な投資家とは、楽観主義者に売り、悲観主義者から買う現実主義者である。」

さて、基本的な投資戦略は、ポートフォリオにおける優良債権と優良株式の割合の検討から始まる。つまり、安全資産の比重をどうするかという防衛的戦略である。債権が本当に安全なのかは、時代感覚の違いもあろう。生命保険のように生涯付き合わされる金融商品ともなれば、保険会社の株式を生涯保有するに等しい。安心を買って、安心の奴隷になっては本末転倒だ!
グレアムは、投資家たる者、経営に参加するぐらいの気構えを要請する。判断材料の基本は、ファンダメンタルズ、すなわち国家や企業の財務状況の分析である。だが、人気が集中すれば、すぐに予測水準を上回り、たちまち危険域へ突入する。やはり、補助的にテクニカル分析を組み合わせる必要がある。
幸か不幸か?今のところ、金融危機は市場が楽観的な局面から生じてきた。不調な局面で生じれば、公的資金を投入する余裕もなく、それこそ人間社会の崩壊となるかもしれない。危険域のサインは報道屋が出してくれる。まさに市場の好調振りを報じている時が、それだ。証券アナリストが、買いを煽っている時ほど危険な状況はないだろう。投資家たちがパニックになった時期は、黙っていても売りが殺到し、自動的に手数料が入ってくるという寸法よ。
バリュー投資では、集団心理の洞察と、企業の財務状況の比較が鍵となり、世間の逆を行く忍耐力を養うことになる。プラトンは、統治したいと思わない者が理想的な支配者であるとした。グレアムは、資金を望まないかのように振る舞う者が最高の投資家であるとしている。

1. 防衛的戦略に輪をかけた保守的戦略
健全なポートフォリオをどのように構築するか?まずもって直面する課題がこれだ。本書は、優良債権と優良株式の保有割合を大雑把に提示してくれる。債権の比重を25%から75%にし、残りを株式にせよと。大きな幅を持たせているのは経済市況を睨んでのことで、市場が弱含みでそれを魅力だと判断すれば、最大75%まで増やし、市場が危機水準にあると判断すれば、株式の保有率を25%以下に減らす方針も検討すべきだとしている。だが、この方針は、債権が安全であるという時代認識からきている。
さて、グレアムに言わせると、おいらは思いっきり保守的な投資家ということになろう。本書に提示されるPER(株価収益率)やPBR(株価純資産倍率)の基準からすると、かなり安全な方向に行動しているからである。ただ、市場が好調な時には、どれも水準を越えており、買える銘柄が一つもない。したがって、株式を買い増すのは、ほとんど金融危機後ということになる。そして、普段から保有する銘柄は、配当金を主軸に置く。ヘッジのための信用取引も研究したが、リーマンショックを経験してもなお、その必要性を感じていない。
投資姿勢では、バランスシートの観察に10年ぐらい遡るのは必須で、ポートフォリオの見直しで月に1度、マイナー組み替えで年に1度ぐらいといったところか。落ち着くまで2, 3年ほど苦労したが、できれば生涯放ったらかしにしたい...
「保守的な見方からすれば、信用取引をする素人は、そのこと自体が投機であることを認識すべきであり、彼らにそのことを指摘するのは証券会社の義務である。」
ところで、債権は、古くから株式よりも安全とされるが、それは本当だろうか?近年、政府の社会制度におけるギャンブル性が顕著化してきた。国債や地方債には、本来、災害などの支援的な意味も含まれるはず。だが、巨大なグローバル企業が存在する今日では、国家の枠組みが曖昧になり、国家財政が先に破綻しても不思議はない。
では、不動産はどうだろうか?保険証券はどうだろうか?高度成長期のような右肩上がりの経済状況ならば、少々の浪費は相殺される。だが、年金や信託基金などの運用責任者たちが素直で人が良いだけに、デリバティブ勧誘の餌食にされる。国債や地方債を、年金資金運用機関や預金金融機関などが消化すれば、無意識のうちに間接的に保有させられ、自己のポートフォリオまでも曖昧となる。
では、現金はどうだろうか?為替の役割はますます複雑化する。ユーロのような共通貨幣が、一国の財政リスクによって共倒れしかねない。
... などと眺めていると、安全資産なんてものが存在するのか疑問だ。安全なんてものは相対的なものでしかない。企業倫理や経営哲学の見えやすい株式の方がマシかもしれない。証券取引所の上場基準も当てにはできないが...
いずれにせよ、一般投資家は情報の非対称性からは逃れらない。最初は分散投資のために、業界を満遍なく物色し、保険会社や銀行などの金融株を約20%保有していた。だが、財務報告がどうも肌に合わない。特に自己資本の考え方が嫌いで、株式融資を自己資本と呼ぶことに抵抗がある。返済義務がないと言えばそうなのだが。そこに目をつぶったとしても、自己資本比率では、BIS規定ですら8%程度。素人目で見ればレバレッジ率10倍以上ではないか。日本国債ですら対GDP比で2倍(200%)。尤も、LTCMの破綻やリーマンショックで演じたレバレッジ率は30倍にも膨れた。自己資本と主張するなら、自己責任において処理してもらいたいものだ。
ちなみに、おいらのポートフォリオは、普通株の保有率が90%で、残りはかんぽ保険や社債など。実は、普通株で100%にしたいと思っているぐらい。割合だけ見ればギャンブル性が強く映るかもしれないが、少し視点を変えて、株式の中で配当金用の銘柄と、短期取引用の銘柄で分け、配当金用を50%から90%で幅を持たせている。グレアム流に言えば、前者が優良債権で、後者が株式という位置づけだ。短期取引とは5年未満を想定しているが、実際にはそれを超える銘柄が半分以上あるので、長期と言った方がいいかもしれない。尚、本書は、長期の目安を、7年以上としている。
ちなみに、微妙なのが、今年(2014年)から始まったNISA(少額投資非課税制度)。投資金額は年間100万円ずつ上乗せして、期限5年で最大500万円の元手に対して非課税となる。さっそく戦略を練ってみたものの、長期戦略において、5年間というのが悩ましい。それだけでなく、売買を繰り返すと、すぐに非課税枠を消化してしまうため、よほどの計画性の必要を感じる。まさか!売買を煽るための罠ではあるまいな...

2. 転換証券とワラント
信用状態が芳しくない企業は、市場で普通社債、すなわち、非転換社債を発行することがほぼ不可能であろう。ベンチャー企業と称したところで、その有望性を評価することは難しい。そこで、転換社債やワラント付社債を発行して資金調達をすることが考えられる。ストックオプションのワラントは、普通株を行使価格で購入する長期的な権利として、夢を買わせることができる。経営アドバイスで銀行屋が勧めるケースが往々にあり、新興(信仰)企業の経営者はワラント債を発行する誘惑に駆られ、上場前に経営幹部や従業員に夢を与えようとする。
しかし、グレアムは、当時発達してきたワラント債は大惨事の温床だとしている。ペーパーマネーという怪物を作り出し、投資を投機へ変貌させるというわけだ。バブル時代、ワラントを行使したら、すぐに売り逃げするような行為がよく見られた。上場した瞬間は株価が跳ね上がる傾向があり、IPOの噂を嗅ぎつけるだけで群がる。IT系を称せば尚更だ。
しかし、謎のベールに包まれた実質価値は、上場とともに紙くずとなる。ストック・オプションを公明正大に設定することができるのかは知らんが、一部の人間に特権を与えるということは、一般投資家を馬鹿にするようなものかもしれない。ちなみに、おいらもワラント債を持っていた時期があった...
一方、転換社債は、所定の期間内で普通株に交換することができる権利であり、これまた魅力がある。発行会社にとっては、普通社債より安く資金調達できる上に、株式に転換すれば自己資本となって財務状況を改善する。投資家にとっては、株価が上昇すれば株式に転換し、キャピタルゲインが期待できる。社債として保持しても、利子が確実に受け取れるので安全性が高い。転換債権は、企業側にとっても、投資家にとっても、ワラントより有利そうに見えるが、一概には言えないだろう。言うまでもないが、メリットとデメリットは会社の財務状況にもよる。転換証券が、合併や買収にともなって発行されるケースもある。それは、普通株の事実上の希薄化であり、物理的には1株当たりの企業価値を下げるかに見える。だが、株価は、収益による増加だけでなく、合併や買収で経営改善のアピールができるだけでも上がる場合がある。だからといって、そのタイミングで買うのがいいかどうかは、別の思慮が必要であろう...

3. 安全域の概念
投資には、「安全域」の概念が必要であると指摘している。だが、完全な安全域など存在しないだろう。人生そのものが安全域にはなく、災害や事故は確率論でしか語れない。だから保険というものが機能する。現在では、グレアム流の安全株を選ぼうにも、基準が厳しすぎて、そんなものは見当たらない。リスク分散にしても、昔ほどは機能しないだろう。世界中の市場がリアルタイムで結び付けられ、金融機関の間ではアルゴリズムを使った自動売買を行う高頻度取引(HFT)が盛んとなり、いまやコンマ何秒で差益を決する。複雑な投機行為が絡むと、瞬時に波動エネルギーが蓄積され、市場変動の振幅は拡大しつつある。知らず知らずにデリバティブで強烈に結び付けられ、投資と投機の境界すら曖昧だ。大衆が大挙して押し寄せれば、リスク分散だけでは対処できない。実際、金融危機の規模は拡大しており、今の時代だからこそ、微分的な思考よりも積分的な思考の方が役立つだろう。
高度成長時代であれば、少々無謀な投資も機能した。その影で賢明な主婦たちの行動が、巨大な預貯金をもたらした。7%という夢のような金利は、10年の複利計算でほぼ倍になる。その一方で、ギャンブラー亭主どもが金は天下の回り物などとほざいては、財形貯蓄まですっからかんにする。金利といえば借金の事しか考えず、貸出金利と預入金利の差など構っちゃいない。そういう輩に限って保険が必要だと騒ぎよる。これが、当時の一般的な家庭像であろうか。いや、我が家の構図よ。人間ってやつは、安全な時に危険を犯し、危険な時に安全の幻想に縋るらしい...
「知恵の神オーディンがトロールの王を訪ね、王の腕をつかみながら、どうすれば混沌に打ち勝つことができるのだ、と尋ねた。そなたの左目をいただきたい。そうすれば教えて差し上げよう、とトロールの王は言った。オーディンはためらうことなく左目を差し出して、教えてくれ!と縋る。するとトロールの王はこう言った。両目を見開いてよく見ることだ!」... ジョン・ガードナー

4. グレアムからの四つのアドバイス
  • 第一原則... 自分が何をしているのかを知れ。己の事業を知れ。
  • 第二原則... 決して自分の事業を他人任せにしてはならない。他人に任せるのであれば、彼のやることに対して注意を怠らず、かつ十分に理解することができ、その人の誠実さと能力に絶対の信頼が置けるという並々ならぬ確証が持てなければならない。
  • 第三原則... 信頼の置ける計算の結果、相応の利益を得るチャンスが十分にあると考えられる場合を除いて、その事業(投資)に踏み出してはならない。特に、利益よりも損失のほうが多いであろう投機的行為には手を出してはならない。
  • 第四原則... 自分の知識や技術に勇気をもって従え。事実に基づく結論を自ら下し、その判断が正しいと確信したのなら、たとえ他人がそれに対して躊躇したり異なった考えを持っていようが、自分の判断に従って行動せよ。

5. テキサス州の古いジョークだそうな...
学校の先生がビリー・ボブに問題を出す。
「君は12匹の羊を飼っていたが、1匹が柵を越えて逃げてしまった。後に残っている羊は何匹かね?」
「一匹も残っていません」と、ビリーは答えた。
「よろしい。君は引き算が分かっていないようだね。」
「たぶん分かっていません。でも、うちの羊のことなら何でも知っています!」

2014-04-06

"訣別 ゴールドマン・サックス" Greg Smith 著

... 麻雀教室をやるんだ。そこらの闇市のおっさんたちに麻雀の面白さを教える。カモ教育だ。今までの博奕打ちは、猟師が海で魚捕るみてぇにボッタクるばかりで、客の養成をしなかった。だからカモがどんどんいなくなる。百姓みてぇに、種を蒔いて、育てて、それを戴くようにするんだ。
... 映画「麻雀放浪記」より

信用という言葉の意味を解する時、経済学におけるものほど違和感を持つことはない。信用取引は、けしてデリバティブと切り離せない。デリバティブってやつは、債権、株式、為替、コモディティなど市場で取引される資産から価値を派生させたもので、巨額な担保、すなわち借金の上に成り立っている。中には評価不能なほど複雑なものまである。例えば、ある債権からリスク部分を切り離して証券化すれば、債権の委譲なしに信用リスクのみを委譲することができる。こんな証券を結合したり、スワップしたりなどで金融テクニックを駆使すれば、現物そっちのけで信用だけが独り歩きを始める。まさに、価値の幽体離脱!
2008年に勃発したリーマンショックでは、投資銀行の無謀なデリバティブ商品に、保険業界のスワップ商法が安全性を装い、おまけに、格付業界の保証つきときた。どんな業界であれ、調査や格付といった統計情報は、業界や大企業が裏から手を回すだけでいくらでも装える。そして、金融のプロですら価値評価のできない水準に膨らませてしまう。金融屋の言い分は、いつもこうだ。
「みんな大人でしょう。私どもは洗練をきわめた機関投資家です。自分たちが何をやっているか、きちんとわかっています。」
アンドリュー・ロス・ソーキンは著書「リーマン・ショック・コンフィデンシャル(TOO BIG TO FAIL)」で、金融界に欠けているものはただ一つ、純粋な人間性だと語った。ここでは、倫理性の欠如が指摘される。こうした苦言を呈する人たちの存在が復元作用をもたらすというのも、アメリカ経済の強みではあろうけど...

著者グレッグ・スミスは、2000年ゴールドマン・サックスに入社し、わずか3年目で20億ドルもの先物取引をこなす。20代後半にはヴァイス・プレジデントとなってデリバティブ・デスクで活躍するものの、やがて社風の変化に疑問を持つようになり、12年後に退職。著者が嘆く社風の変化とは、長期戦略から短期戦略へ、投資から投機へ、そして、目先の収益を上げる者が出世する体質へと変貌する様である。
そもそも、投資銀行とヘッジファンドが共存できるのか?という疑問がある。投資と投機は似て非なるもの。投資戦略とは、投資先の企業価値を高めることであり、そのために長期的な視野が求められるのであって、瞬間的なサヤ取りゲームとは相容れない。もちろんリスクヘッジも必要だが、なぜこちら方が主業務になりえたのか?それは、部門間の縦割り構造にあるようだ。
本書は内部告発の類いとは、ちと違う。ウォール街の内側から業界体質を語った回想録である。今日の金融業界を手っ取り早く知りたければ、ゴールドマン・サックスを観察すればいいと聞くが、まさにその類い。ここには、企業組織が経営哲学を見失えば、短期的な収益主義に走るという典型的な事例がある。哲学を失った能力主義ほど危険なものはなく、エリートづらをしているだけにタチが悪い。
「長期志向のビジネス・モデルが主流の経済では、企業の収益はより安定的で、しかもどうやって収益が上げられているかには、透明性が生じる。これは株主にとっても、よりよい結果だ。株主は、仕事が安定的に入っていくる、収益の流れが予測可能な企業を好むものだからである。今日の"金を掴んで、走れ!"式のビジネスモデルは、無責任だし、持続可能でもない。」

さて、デリバティブの代表的なものに先物取引がある。大阪商人が始めた先物取引は、自然災害などで不安定になりがちな米価を安定させ、社会不安を抑制することが目的であった。農作物を生産すること自体が未来への賭けであり、将来価値を経済法則によって予め決定することができれば、保険として機能させることができる。現在でも、信用取引を理解し、うまく利用すれば、リスクヘッジとして機能する。派生的な存在というものは、脇役を演じてこそ輝く。
ところが、今日のデリバティブは、むしろ主役を演じながら信用不安を拡大している。オマハの賢人バフェットは、デリバティブを大量破壊兵器と呼んだ。銀行業務にしても、証券業務にしても、保険業務にしても、生産社会における補佐役であり、その主な役割は正当な価値評価にあるはず。しかし、自ら価値評価を複雑化し、サヤ取りに執着すれば、なーんの生産性もないことを目立たせるばかりか、破壊屋の本性までも曝け出す。それは、人間社会の補佐役である政治屋が目立ちたがるのと原理は同じだ。結局、市場に参加していない普通の人々の年金や資産が、市場のボラティリティとともにボラれるという寸法よ。
「金融界に関しては、実は大いなる誤解が存在する。ウォール街が扱うのはエリート層の金持ちばかりで、そういった連中は金を失っても当然だという見方だ。それは裏返せば、普通の人々は、金融界の問題だらけの仕事の進め方や奇妙な悪習からは、影響を受けないという見方でもある。だが、これほど誤った認識はない。」

1. 投資銀行からヘッジファンドへ
そもそもゴールドマン・サックスでは、自己資金を投じて投機的な取引を行うことは、規制上許されていないという。長期戦略のために取引先との信用を第一にし、けして目先の儲けに走るような社風ではないと。その理念を、9.11多発テロ事件直後の職場の空気で物語ってくれる。
「今こそ、他社とは違うということを見せつけなくては。ゴールドマン・サックスがゴールドマン・サックスであると、世間に知らせるのだ。顧客の無理な要求にも、できるだけ応えるようにしよう。すぐに利益がでなくてもかまわないから、みんなが立ち直るのを助けるのだ。今、そういう態度をとれば、必ず記憶しておいてもらえる。」
なのになぜ???
ゴールドマン・サックスの傘下に「グローバル・アルファ」という旗艦ヘッジファンドがある。いわゆる、クオンツ・ファンドの類い。その戦略は、高度な数学を用いて定量分析を行い、リスク管理のための金融モデルをつくったり、複雑怪奇なデリバティブの価格モデルを構築するなどして、バリュー投資とモメンタム投資を効果的に統合するというもの。
ちょうど2006年頃、市場は9.11から続いた長い不況から脱し、さらに住宅ローンの条件が緩和され、FRBが金融システムに低利資金をどんどん注入したおかげで、新たなバブルが到来していた。人々はサブプライム住宅ローンに群がる。このようなトレンドが楽観的な状態では、彼らの数学モデルは非常に機能する。
しかし、どんなに優れた公式を編み出したところで、サヤ取りがゼロサムゲームである以上、みんなが同じ数式に群がって、いずれ行き詰まる。数学モデルの弱点は、特異点に陥ると突然機能しなくなることだ。空間的に言えばブラックホール、力学的に言えばアトラクターのような状態だ。バブルの難点は、それが終わってみないとバブルだったことに気づかないこと。
また、企業組織というものは、稼ぎ頭となった部署の発言権が強まり、その部門の出身者が出世する傾向がある。全収益に占める比重が高くなれば、誰も口出しできなくなり、ますます縦割り構造を強める。ある種の官僚化だ。
ゴールドマン・サックスでは、百万ドルを超える収益をもたらす大型取引を「エレファント級売買」と呼ぶそうな。多くの社員がエレファント狩りに乗り出せば、ますます短期的な自己勘定取引にのめり込んでいく。金融機関にとって、デリバティブが一番儲かるのは市場が激変する時である。黙っていても手数料が入ってくるのだから。2008年から2009年初頭、ゴールドマン・サックスのいくつもあるデリバティブ・デスクは、どこもボロ儲け。その巨額の利益は、身を挺して顧客の投資を守ることで得たものではなく、顧客がパニックに陥ってデリバティブ商品を売る際に多額の手数料で儲けたものだという。
ちなみに、18世紀のイギリスの金融家ネイサン・ロスチャイルドの格言に、こんなものがあるそうな。
「路上に血が流れる時こそが、買い時なのだ。」
金融屋の報酬には驚くべきものがある。2006年、ゴールドマン・サックスの社長となっていたゲーリー・コーンの報酬は5000万ドルに達していたとか。天文学的な収入を得たことで、精神は摩訶不思議な次元へ突入したかに見える。近衛兵に囲まれ、VIP待遇漬けとなれば目も曇る。肥大する自意識の前では、人間の理性なんて簡単にぶっ飛ぶであろう。2009年の金融危機の年ですら、ゴールドマン・サックスの社員報酬総額は160億ドルであったという。それも前年実績の47%も上回るのだとか。尚、著者の報酬も50万ドルだったという。世間の資本市場の活力を維持することが主目的の仕事にしては、馬鹿馬鹿しいほど良い報酬だったと回想している。
報酬制度の悪習(悪臭)が指摘されて久しいが、いまだ健在のようだ。はたして今日の経済システムは、本来支払われるべき給料がその業界に支払われているだろうか?ある経済学者は語っていた。基礎物理学者はトレーダーなみに給料をもらうべきであると。もっとも、真理を探求しようという者が、あまり報酬にこだわることもないだろうけど...

2. ポールソンとブランクファイン
2006年、市場が沸き、顧客の誰もが自信満々で売買に参加し、デリバティブ営業は収益を上げ続ける。その頃、CEOヘンリー・ポールソンが財務長官に任命され、ロイド・ブランクファインが会長兼CEOになる。政府高官に就任する際、利益相反を回避するために所有していた株式を売却しなければならない。ポールソンは、ゴールドマン・サックスの株をすべて売却するが、景気がピークの時期で、売却額も5億ドルにのぼるとか。公職に就くための強制的な売却となれば、キャピタル・ゲイン課税もなされない決まり。
もっとも社内におけるポールソンの命運は尽きていたようで、引退の花道として財務長官への転出を選んだという冷笑的な見方もある。というのも、ポールソンは投資銀行畑の人間で、後任のブランクファインはトレーダーだそうな。ブランクファイン率いるFICC部門と株式部門は、ゴールドマン・サックスの収益の半分以上を稼ぎ出していたという。ちょうど社風の変化に則った人事というわけか。
1990年末から2000年初頭にかけて、企業合併買収や企業金融といった投資銀行業務が収益の原動力であったが、2006年頃には、自己資金で投機を行うことで儲ける自己勘定取引が原動力となる。この戦略転換で、ゴールドマン・サックスは、他の投資銀行の二倍、三倍という収益を上げた。市場の流動性を無理やり煽り、自ら価値の歪を生じさせて、その差額で儲ける。サヤ取り効果の最大化を目指す戦略だ。予知能力を備えた天才というのがブランクファインの社内評価、対してポールソンは率直で保守的で古風な投資銀行家と評される。
利益を一番上げている者のところに権力が移るのはウォール街の論理、というより企業の論理であろう。ポールソン時代の初期は、まだ企業理念がしっかりしていたという。とはいえ、財務長官という看板が、ゴールドマン・サックスの安全性を後押ししたことは否定できない。ベア・スターンズやリーマン・ブラザーズが破綻し、信用崩壊が明るみになった時ですら、財務長官ポールソンも、ニューヨーク連邦準備銀行総裁ガイドナーも、まるで先を心配していない態度で、営業戦略でも投資銀行の中で特別な存在であるかのように触れ回る。
「世界経済は崩壊寸前です。ご自分をお守りになって、競争相手に比べて一頭地を抜くには、奇跡の解決策が必要です。わが社が御社のために作成した特注の仕組み金融商品を売買なさるべきです。」
この特注の金融商品こそが、悪性デリバティブそのものだった。そして2008年、リーマン・ショック...
ポールソンは、ビッグ9のトップをワシントンに呼び出し、数千億ドル規模の資金提供を提示する。TARP(不良資産救済プログラム)が議会を通過。ある意味、投資銀行の内情を知るポールソンが財務長官だったのは、幸運だったのかもしれない。多大な犠牲を払ったとはいえ、日本に比べればはるかに事態の収拾が早かった。リーマン・ブラザーズは、魔女狩りの類いの犠牲者だったのかもしれん。
しかし、だ。救済とは誰のための救済なのか?401kがすっからかんになる人も大勢いるというのに、ここが救済されることはまずない。あの世で煮えくり返っている中小企業の社長さんも少なくあるまい。エリート連中は、多額の教育費を投じて、いったい何を勉強してきたというのか...

3. 資金調達トレード
投資銀行ってやつは、一般の銀行とは違い、預金者というものを持たない。また、一般の銀行が非常時に命綱として使える連邦準備制度からの低利融資も受けられない。そこで、貸し倒れ引当金を積み増して財務体質を強化したり、経営陣の念頭にある事業に投入したりするために、「資金調達トレード」という手法を編み出したという。
その仕掛けは...
まず、ドイツやオランダ、あるいはアメリカの資金運用管理会社や年金基金、アジアや中東の国富ファンドなどの顧客が、投資銀行にかなりの金額の現金を一年契約で投じる。この投じた資金に対して、投資銀行は顧客が選んだ運用成績の指標、例えば、S&P500指数やラッセル2000小型株指数に、極めて大きなクーポンを上乗せした利回りを保証する。顧客は、よそでは得られない好条件を与えられ、ゴールドマン・サックスもまた、低い利回りで多額の資金が調達できる。
しかし、顧客には大きな不利な点がある。それは取引相手リスクが生じるということ。すなわち、情報の非対称性の罠だ。投資銀行が経営破綻に陥れば、顧客が投じた資金は雲散霧消となる。ゴールドマン・サックスは、サブプライム住宅ローンの焦げ付きが明るみになってもなお、資金調達トレードを勧めていたという。

4. 四種類の顧客タイプ
顧客のタイプには、賢い顧客、邪な顧客、単純な顧客、そして、質問の仕方を知らない顧客の四種類があるという。
「賢い顧客」は、大手ヘッジファンドや機関投資家のうちで、銀行やトレーダーが手を尽くして助けてくれるところを指す。調査レポートやIPO(新規株式公開)や増資などの市場最新情報も、正直で偏向のないデリバティブ価格モデルも、入手できるような。だが、賢い顧客が入手できる最も重要な財産は人材だという。優秀な人々が、彼らのために働いてくれると。彼らに利幅の大きな金融商品を押し付けたりはしないという。押し付けても、撥ねつけられ、却って疑われることになろう。本当の意味で信用を理解している顧客というわけか。
「邪な顧客」は、限度ぎりぎりまで利益を増やそうとするため、極めて頭がいいという。インサイダー情報によって儲ける人もいれば、わざと悪評を流して、空売りを仕掛けることもある。実際、ネット社会には、この手の情報が氾濫している。
「単純な顧客」は、肉食系揃いのウォール街では、捕食される小動物以外の何ものでもないという。感情の起伏が激しく、奇矯な発言をしたり、激昂するような女王様タイプが多いとか。
しかしながら、最も気の毒な結果になるのは、「質問の仕方を知らない顧客」だという。単純な上に、お人好しとなれば、エレファント級売買を仕掛ける絶好の標的というわけだ。公務員の年金基金や、慈善団体、財団、信託基金の運用責任者に多いタイプだそうな。ヘタすると、国家の年金制度まで喰い物にされる。
賢い顧客が増えれば増えるほど、市場が安定し、長期的な利益が保証されるだろう。だが、短期的に出し抜こうとする者が必ずいるし、周期的に訪れる金融危機は人間社会の法則に映ってならない。それは、強欲と恐怖心は表裏一体という法則である。どっちが表かは知らんが。人間ってやつは、自我の中のエゴイズムを呼び覚ましながら、自ら精神崩壊へと導き、その中でしがみつく相手を欲している、ただそれだけの存在なのかもしれん...

2014-04-01

大きな愛... 小さな気持ち...



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1オクターブ低い声で... 君に酔ってんだよ!(小さな気持ち = 手抜き記事)
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男運のない女のことをカンガルーが笑う!って言うんですって。
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