2015-03-08

"言語と精神" Noam Chomsky 著

泉井久之助著「言語研究とフンボルト」によると、ノーム・チョムスキーはフンボルトの路線にあり、またヒュームの説くところに似ていると紹介される。それは、カントの批判哲学に継承される直観主義的な学者だということである。
幼児には、生まれつき言語を習得する能力が具わっている。生まれたばかりの餓鬼には、純粋な共通観念のようなものが見えるのだろうか?もし、この世に普遍言語なるものが存在するとしたら、プラトンが唱えたイデア的な存在、すなわち精神の原型をとどめた者にしか見えないのかもしれん。
しかしながら、一旦知識を獲得すると、知識のなかった頃の自分を思い出すことは難しい。高名な学者たちですら、科学的な見識を重んじるあまり、計量や数値化に因われているではないか。言葉を知れば、喋らずにはいられない。知識を知れば、それをひけらかさずにはいられない。人間精神ってやつは、知識が蓄積されるほど生得性から遠ざかり、何事も理屈で説明できないと落ち着かないものらしい。なるほど、言語の習得とは、自己に言い訳するための屁理屈論であったか...

能書きはさておき、言語機能を一つの有機体として捉える考察は興味深い。一般的に言語能力と呼ばれるものは、自明な精神現象とは言い切れず、仮説の域を脱していないように映る。あるいは、暗黙に前提されるぐらいなものであろうか。
本書は、ア・プリオリな習得能力をもって「生成文法」なるものが育まれるとし、さらに第二言語の学習戦略にまで議論が及ぶ。そして、行動科学は、実際に生じる行動パターンに目を奪われ、心的現象から遠ざかりつつあると指摘している。なにも構造言語学や分類学といった科学的な見識を否定しているわけではなく、一定の成果を認めつつも距離を置いているようだ。
確かに、近代言語学が経験主義的であることは否めない。そうなると、二段階の考察が必要になりそうだ。つまり、言語が生得的に発達する段階と、知的に発展する段階である。本書においても、科学的な分析を取り入れながら「深層構造」「表層構造」の二つの層に着目し、双方を繋げるための直観的な操作に「変形生成文法」という用語を持ち出す。粗削りな見方をすれば、深層構造で意味解釈を与え、表層構造で文法形式を与えるという役割分担になろうが、そう単純ではない。ソシュールは、記号を構成する要素に意味的なものと表象的なものを区別しておきながら、その不分離性を唱えた。身体と魂のごとく、けして切り離せないモナドのような存在と言わんばかりに。
しかしながら、自己精神の中で合理的な文法形成と心理的な意味解釈の融合を図っても、主観は客観を鬱陶しく思い、客観は主観を罵ってやがる。言語の研究から、教示的なことは何一つ言えそうにないではないか。精神を相手取る理論では、様々な変種が生じるのも道理というものか。チョムスキーやフンボルト、あるいはソシュールやヤーコブソンの理論が一枚岩ではありえないし、様々な批判的立場が共存するのは健全であろう。それは人類が、いまだ主観と客観の双方を凌駕できないでいる証であろう...

ところで、言語ってやつは、生活習慣に最も密接に関わるくせに、その正体は見えない。言語とは、やはり空虚な存在なのか?そんなことは問わずとも、薄々気づいている。愛の言葉によって...
精神に関する学問が困難を極めるのは、あまりにも身近にあるからであろう。人間ってやつは、外的な問題に対してはすぐに難癖をつけるくせに、自己の問題となると沈黙しやがる。自分の事を知っているという自負が、もはや疑問すら持てないでいるのか?
ウィトゲンシュタイン曰く、「事物の最も重要な面は、単純さと身近さゆえに覆い隠される。」
もしかしたら、人間は自分が人間であることも、人間がなんであるかも、知らないのかもしれない。デカルトは、物理現象の説明原理に精神の存在を要請して「哲学原理」を書した。ニュートンは、説明の根拠に完全な原理を求めて「自然哲学の数学的原理」を書した。ニュートンもまたデカルトに対抗して、精神までも含めた原理を数学で説明しようと目論んだのであろうか?精神の原理を説明するのは、やはり芸術家の方が優っていそうだ。芸術家が新たな境地を求め続けるのは、人間であり続ける日常に退屈しているからであろうか?ヴィクトル・シクロフスキーという言語学者は、こう語ったという。
「海辺に住んでいる人々は波のささやきに慣れてしまって、それが彼らの耳に入らない。同じ経緯で、われわれには自分たちの発する語が決してと言ってよい程に耳に入らない、... われわれは互いに見合うが、お互いがもはや目に入らない。われわれの世界では知覚は萎え凋んでしまって、残っているものは単なる認知作用である。」

1. コンピュータ神話
1950年代初期、言語学に著しい凋落が生じたという。ヒルベルト問題が提示されたのが1900年、すべての物理現象は数学で解決できると意気込んだ科学者に、ノイマン型コンピュータという強力な武器が加わった時代である。精神という最も神秘的な現象までも、科学で説明できる日はそう遠くないと信じられた。今日ですら、機械翻訳や自動要約といったツールを、鵜呑みにする人を見かける。多言語間で単語と単語を一対一に対応づけ、数学的に定式化したアルゴリズムを崇める人も少なくない。
確かに、通信工学における数学理論は、語彙の作成と配列、あるいは検索技術などで実用性を高めてきた。オートマトン理論を神経学と結びつけたり、音声学をスペクトル解析と結びつけたり、といった技術は一定の成果を挙げている。構造主義的な発想から、刺激(stimulus)と反応(response)を入出力信号と結びつけて、S-Rの心理学を通信モデルとして実装することは、有限領域においてある程度は可能である。生理学的なメカニズムから条件反射の連想を定式化できるか?という問題は、低水準の知覚においては可能であろう。熱い!やら、痛い!やら。
しかし、理性や意志といった精神の根源的な性質となると、どうであろう?言語の本質は、まさにこの領域にある。そこには、無限の単語、無限に組み合わせた文章があるだけでなく、次々と生成される新語もあれば、社会から自然消滅していく死語まである。メモリ空間上のインスタンスのように、使い終わった知識をきちんと消去しないと、社会はゴミで溢れる。言語の体系は生活習慣や環境条件、あるいは自然淘汰などとも結びつき、量子論的進化論という観点も必要であろう。自然言語の研究とは、人間自身の探求であるが故に、その道は永遠であり、挫折感も大きい。ならば、言語の表面的な現象を追いかけるよりも、まずは精神の正体を知ろ!ってか?まさか、チョムスキーはそこまでは言うまい...

2. 深層構造と表層構造
言語を習得すれば、意味と音声の関連付けを身に付けることになる。だが、深層から意味や解釈と結びつき、表層から音声や形式と結びつくといった単純な関係ではなく、表層から意味と結びつくところもあれば、深層から音声と結びつくところもある。とはいえ、深層構造と表層構造との関連づけに何らかの規則性がない限り、人間社会に文法のような現象は生じないだろう。その初期段階における関連づけが、「生成文法」ということになる。
さて、二つの層の関連付けの規則を「文法変形」と呼ぶそうな。「変形生成文法」という用語はこれに由来するという。
本書の事例では、NP(名詞句)やVP(動詞句)を分離しながら、構文木構造が示される。プログラミング言語における構文解析や字句解析と原理的には同じである。人間精神にもコンパイラという神が住んでいるとすれば、苦労はない。深層構造から表層と意味を分離し、主語と述語の関係や動詞と目的語の関係などから基底構造を見せつけられると、確率的ではあるが規則性なるものを感じる。言葉の用法には個人差も大きいが、それぞれ口癖といった形式もある。それがすべてではないにせよ、ある程度の定式化は可能であろう。文法の役割は、ここにあるのだろうけど。
しかしながら、人間の認識能力とは奇妙なもので、言葉が直線的に配列されるにもかかわらず、精神空間には立体的な像を映す。単語が順序正しく整列していても、認識段階では勝手に順序を入れ替えたり、並列に眺めたりしている。絵画でも眺めるように。このような精神現象を構文的な観点から、どう説明できるというのか?幾何学的言語投影論でも唱えない限り、説明できそうな気がしない。もし、言語を精神空間にマッピングできる法則が見いだせるとすれば、それが普遍文法ということになろう。とはいえ、精神空間は何次元なのか、そもそもユークリッド空間にあるのかも知らん。空間の歪は精神状態によっても変化するだろうし、少なくとも泥酔状態の次元はぶっ飛んでやがる。泥酔状態をオートマトン理論でモデリングできれば、数学は真に偉大となろう。深層構造と表層構造の組合せは、無限空間に君臨してやがる。そして、フンボルトのこの言葉ほど本質をついたものはあるまい。
「有限の手段を無限に用いる。」

3. ポール・ロワイヤル文法について
言語学には、哲学的文法と構造言語学の二つの伝統があるという。哲学的文法の代表に、ポール・ロワイヤル文法について言及される。この文法形式が、フランス語で書かれたことは有意義であったという。だが、ラテン語に翻訳されたことが物議をかもしたとか。当時のデカルト主義者たちは、ラテン語を人工的に歪んだ有害な言語と見做していたそうな。問題となったのは、正当な文法からはみ出した慣用という現象を、いかに合理的に説明できるかである。
ところで、自国語の文法的な特徴を真面目に考える時は、外国語との対比においてであろうか。そもそも喋る時に文法なんて意識しない。そんな言い方はしないなどと言うことはできても、文法的な根拠を示せるわけでもない。
とはいえ、感覚に働きかけて、言語の知識を生み出すなんらかのメカニズムはあるはず。基底にある深層は言語形式の抽象的な組織を具え、精神に現存する。そこになんらかの表象信号が生じると、無意識に表層が形成され、内的器官によって知覚される。言語能力とは、深層構造と表層構造を生理的に連結する機能とでもしておこうか。哲学的文法の真の意図は、文章を解釈する技術を提供するよりも、心理学的理論を展開することにあったようである。

4. 一般性と普遍性
チョムスキーは、レヴィ=ストロースの原始的心性の分析を称賛する。レヴィ=ストロースは、意識的に構造言語学、とりわけプラハ学派のトゥルベツコイとヤーコブソンを取り入れているという。そして、音素分析と同類の手順を社会や文化の下部体系に適用することはできないとしている。無限の多様性を強調しているところにも、フンボルトの継承を感じる。
所詮、生得的な能力を取り戻すことは、脂ぎった欲望を知ってしまった泥酔者には無理な話よ!できることと言えば、多様性に寛容になるよう努力するぐらい。おまけに、自己の言語体系の中で直観を意識することもできず、口の動くままに身を委ねるのみ。心にもないことを口に出すのは、潜在意識がそうさせるのか?語彙の集合から勝手に優先順位が付けられるのか?回帰的に思考を繰り返した結果として言葉を発しているのだろうけど、その意識すらない。脳の中で生じる神経系を辿ることなど不可能だ。それこそ霊媒師にでも依頼するか。
精神空間が主観性に支配されているとしたら、地上の誰にでも理解できる共通言語には、かなり制限を与えることになろう。そうなると、言語は単純化し、本来の特徴である自由度を失うのではないか。だから、世界規模でメディアが発達すると、言葉の揚げ足を取り合い、単純な言葉で罵り合うのか?共通や共有の意識ばかりを崇めれば、言葉は分かりやすい方向に傾倒し、言葉の裏を読むことや、暗喩や比喩といった技巧が廃れるのではないか?
その一方で、芸術心と戯れる人たちによって言語技術は高められる。となると、言語の用法は二極化して、普遍言語から遠ざかっていくのか?実際、グローバル化の時代に、意識格差、情報格差、教育格差、所得格差... などの二極化現象が生じている。能動的な生き方をするか、受動的な生き方をするかの違いが、そうさせるのかは知らん。
それはさておき、言語にとって相性がいいのは、経済的合理性と精神的合理性のどちらであろうか?少なくとも普遍性とは、一般性とまったく異質なもののようである。尚、多数決の原理は普遍性よりも一般性の方を好むようである。

5. 第二言語の学習戦略
第一言語を学ぶ時は精神状態は極めて純粋にあるが、第二言語を学ぶ時は少し事情が違う。それは、余計な知識が邪魔をするということだ。文法を真面目に勉強すると言語の習得が遅れるとも聞く。言語をビジネスや金儲けの手段と考えれば、脂ぎった欲望が精神を支配し、もはや純粋な欲求が見失われるのだろうか?まだしも趣味や興味といった動機の方が、純粋な欲求に近い。第一言語と第二言語の習得レベルを同列に位置づけられる能力が、多言語話者とさせるのだろう。本当に普遍言語や生成文法なるものがあるとすれば、普遍的な欲求というものもあるのかもしれない。
チョムスキーは、知覚表象が第一次構成物で、文法はあくまでも第二次構成物としている。文法ってやつは、ある程度の習得があって、初めて機能するものかもしれない。ただ、基本的な文法が幼児によって形成されるという事実から、目を背けるわけにもいくまい。
「人間の精神はなにかの種類の真の理論を想い描くことに生まれながらの順応性をもっている。... 人間はもし自己の要求に順応した精神という賜物をもっていなかったならば、いかなる知識も獲得できなかったことであろう。」
さて、実践的な言語学習法では、限りなく第一言語の習得状態に近い精神状態を保つことになりそうだ。まずは、幼児的な視点で基本的なフレーズを真似て、それを繰り返す。そこそこ知識が蓄積されると、本当の意味で言語の発達を試みる。大まかにはこの二段階を踏むことになろう。ただ、最初の段階でも、そこそこの応用力が身につくだろうから、段階の移行過程は連続的で、自然な流れになるのだろう。学習の仕方もまた無限にありそうだ。どんな知識を獲得するにも、方法論は人の数だけあるぐらいに思った方がいい。
いずれにせよ、言語とは学ばされるものでもなければ、教えられるものでもなく、自発的な欲求に身を委ねるしかあるまい。したがって、アル中ハイマーは純粋な欲求に身を委ねて、外人パブへと消えていくのであった...

2015-03-01

"言語研究とフンボルト" 泉井久之助 著

ここに、フンボルト人間論という視点から言語学を語ってくれる書がある。それは、カントの批判哲学に触発されたドイツ精神史の一物語、といったところであろうか...
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、「一つの言語」という名辞を初めて使った人だそうな。この用語には、全人類の普遍言語を模索するという壮大な構想が伺える。言語が精神の投影だとすれば、言語の発達は精神の成熟度の指標となろう。本書で語られる言語哲学には、思想のための言語と実践のための言語の双方を凌駕すること、及び、様々な言語環境に身を置くことで自己育成を図ることを主眼とし、精神の発達を第一義的とする考えがあるようだ。そして、「内的言語形式(die innere Sprachform)」という用語を持ち出す。
「言語は常に人間の主観性の模写であろうとし、思惟は音形にはいって、はじめて客観的に認識されうるものとなる。主観と思惟は、言語において客観化されようと待っている。人間は、その思惟において生き生きと明瞭に認識するところは、これを言語に出さずにはいられない。しかし言語に表現する時には、同時に思惟において概念を判明にする契機がなくてはならぬ。フンボルトのいう表現とはこの判明化の意味である。」

言語は主観によってもたらされ、主観は客観に恋い焦がれ、記述によって客観化されようと望んでやがる。数学という言語には客観性と単純化という神が宿り、プログラミング言語には利便性と分かりやすさという神が宿る。だが、これらの神の正体は、いずれも直観による人間の思惑であって、直観もまた極めて主観に近い領域にある。
では、自然言語には、どんな神が宿るであろうか。言語の法則には法律と似た事情があり、国語学者は言葉の乱れに憤慨してやまない。それでもなお、詩人は孤高の道を行き、優れた文学作品は国語辞典を超越した表現力を発揮する。なるほど、芸術には自由精神という神が宿るようである。
人類が精神の正体を知らぬ今、言語に変化の余地を残さねば、精神を存分に記述することはできまい。言語の体系を語るのに、どんな合理的な記法を持ってしても、思弁的にならざるを得ない。ソシュールの記号論にしても、チョムスキーの深層構造にしても、なるほどと思わせるものの、それですべてが解決できるとは思えない。人間社会の多様性を相手取ることは極めて手強く、いまだ言語学は無限の坑道にある。したがって、言語には自由と柔軟性の神が宿るとしておこうか...
「態度と方法は、われわれにおいて自由である。何の主義、何の態度、何の学説によらなくてはならない... ということはない。過去でもそうであったし、将来もそうであるにちがいない。われわれは進んでみずからの手を敢えて縛る必要はない。対象は言語自体であって、その学説ではない。」

この時代、万能な天才を多く輩出したルネサンス時代から啓蒙時代を経て、まだその思想的余韻が残る。何事も本質を見極めようとすれば、学問の垣根に囚われることなく、自然に学際的となるであろう。
当時、フンボルトは様々な学問に精通した異色の政治家として知られ、学問では弟アレクサンダー・フォン・フンボルトの方が自然学者として知られていたようである。ナポレオン戦争後のヨーロッパ再編の時代、フンボルトはプロイセン第二位の全権大使として活躍。政界を隠退し、本格的に言語学者の道を歩むことになったのは、根っからの真理の探求者であったからであろうか。早朝から深夜まで制約がなければ、精神を存分に解放できる。真理の探求者にとって、これほど喜ばしい環境はない。現役から隠退した途端に生き方が分からなくなるとしたら、それは生きてきたのか、生かされてきたのか。そもそも人間は、死ぬまで人間を隠退することはできない。どんなに自発的に生きていると信じていても、人間は何かに依存せずには生きられない。精神活動が記憶と知識に頼るしかないとすれば、既に言語によって支配されている。確かに、言語を超越した精神活動は存在しうる。だが、それを記述できなければ、後世に残すことはできず、もはや永劫回帰は望めまい。ソクラテスがあえて記述を残さなかったのは、言語の限界を悟っていたからであろうか?フンボルトの言語研究の立場は、この言葉で言い尽くされている。
「人間は言語によってはじめて人間である。しかし、その言語を考案するには、すでにまず、人間でなくてはなるまい。」

1. 政治家フンボルト
ナポレオンの圧政から解放されると、全ヨーロッパでナショナリズムが目覚めていく。啓蒙主義の伝統は国家啓蒙主義へと微妙に変化し、やがて訪れる国家民族主義への変貌を予感させる。フンボルトもまた反フランス的な愛国者だったそうな。彼の全権としての立場は、こういうものだったという。
「国家を損なうのは戦争ばかりではない。防衛の手段を奪われて敵の餌食になるなら、平和こそ却って国家を頽廃に導くではないか...」
政治と学問の両刀使いの新しいタイプの政治家は、論理は鋭く弁が立ち、外国からも警戒される。オーストリア宰相メッテルニヒを筆頭に。とかく才ある者は身内からも疎んじられるもので、プロイセン宰相ハルデンベルクからも疎まれる。タレーランは詭弁主義の権化と罵ったものの、その才能は認めていたようである。
フンボルトの構想は、南はオーストリアを北はプロイセンを盟主とし、全ドイツの愛国主義的な大同団結を図ろうというもの、そして、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝を復活させ、進歩的な立憲君主国家を構築しようというものだったようである。イギリスの自由選挙制度を批判し、ルソーの社会契約論を斥け、モンテスキューの三権分立をもプロイセンの伝統に合わないとし、その上で、国民に道徳的な義務を植え付けようと。道徳や理性という美しい理念の強制によって団結を図ることほど、国粋主義と結びつきやすいのも確かだ。緩やかに結ぼうとするメッテルニヒと、頑強に結ぼうとするフンボルトの対立は、憲法案において鮮明になる。だが、ドイツ憲法は充分に機能していなかったようで、後にビスマルクがまとめた国は小ドイツであって、オーストリアは加わっていない。
政治思想とは、哲学的な理念を押し立てることから出発するものであろうが、理念だけでは政治的に無力となる。1819年、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、宰相にハルデンベルクとフンボルトのどちらを選択するかを迫られた時、ハンデンベルクを選んだ。そして、政界を去る。

2. 自己育成と国家機能限界論
人類は、宗教の限界を経験し、国家の限界を経験してきた。自由精神は、どんなに優れた思想をもってしても、どんなに強力な武力をもってしても、強制などで鎮圧できるものではない。だが、有識者どもは、けしからん!と憤慨しながら、罰則の強化によって鎮圧するよう求める。相対的な価値観しか持てない人間にとって、自分の道徳観に自信を持つということは、他人の道徳観を蔑むことになろう。人間には、自分の理解できないものを認めようとはしない性癖がある。だから、第三者の目を要請する。精神を外界に晒すことは、けして自己を失おうとするものではなく、むしろ自己の素材を内的に検証することである。言語とは、そのための役割を果たすものであって、コミュニケーションやプレゼンテーションの手段であるばかりではあるまい。比較言語学とは、なにも言語や文化の優越性を掲げるものではないはずだ。
しかしながら、言語学が政治と結びつき、やがて民族優越主義の時代を迎えることに。フンボルトにもエリート主義的な態度が見られるものの、環境の多様性を自己育成の必要条件としている。ジャワ島のカヴァ語といったマライ・ポリネシア諸言語の広範な比較研究では、現地調査の執念を伝統とし、レヴィ=ストロースなどの民族学者に受け継がれているものと思われる。そして、自己育成に「国家機能限界論」を結びつけている。
「単なる力にもその働く場としての一つの対象が要る。単なる形式... 純粋な思想... にも、自らの刻印を印しつつ自らを永続せしむべき地盤として素材がいる。同様に人間にとっても自己以外に一つの世界がなくてはならない。自己の活動と認識の圏を拡大しようとする人間の努力は、このゆえにこそ起こりうるのである。しかしこの世界から得、もしくは世界において自己の外に実現しうるものは、実は人間にとって真の問題ではない。問題はもっぱら自己を内的に改善し高貴にするにある。あるいは少なくとも内的な不安の鎮静にある。純粋に、その窮極の目的性において見れば、要するに人間の思惟は、自己を自己に対して完全な理解の対象たらしめんとする精神の試みであり、人間の行為は自己内において自由であり独立であろうとする意志の一つの試みであり、その外的な営為の全体は一般に、自己において懈怠にあらざらんとする一つの努力に外ならない。そして思惟と行為の二つの実現は、ただ第三者、すなわち非人間的なるもの、すなわち世界の表象とその加工によって可能なのであるから、人間ができるだけ世界の多くを把握し、能う限り緊密にこれと結ぼうとするのも、また自然の勢といわなくてはならない。」

3. 言語研究と言語哲学
啓蒙思想から受け継がれる科学的な洞察が、構造主義的な観点を育んできた。19世紀初頭、印欧比較言語学が成立して、フンボルトのインド・ヨーロッパ語族の研究が花開く。
フンボルトの科学的分析は、物象性、外対性、特に音形性で成果を上げたという。人間の口の形はだいたい決まっていて、発する周波数が限定的だから、音声学は物理学である程度説明がつく。
しかし、意味論においてはどうだろうか?それこそ客観性や形式性からは程遠い。フンボルトの意図は、科学的な見地よりも精神分析に重きを置いている。比較言語学が機能するのは、比較対象が相互に類似点を持っている場合においてだが、人類の扱う言語はどんなものでも類似点を見つけることができると信じていたようである。言語を客観的に解明するということは、まさに人間精神を解明するに等しく、主観に支配された精神をどうやって記述するか、という途方も無い問題を抱えている。フンボルトがア・プリオリ的な直観主義者であったことは、必然なのかもしれない。
本書は、似たような思想路線の言語学者に、ノーム・チョムスキーを紹介してくれる。チョムスキーはフンボルトと等しく、またヒュームの説くところとも似ているという。ただ、チョムスキーの用語に「深層構造」という階層的な方法論があるが、本書は論理的な根拠は見いだせないとしている。ロマーン・ヤーコブソンの音形論も論理実証的な考察に基づく理論として知られるが、これまた一般言語論には至らないとしている。ソシュールはデカルト的な清掃工作を言語学の方法論に試みた人と言われるらしいが、一応成功するものの、彼もまた経験的な言語学者として一般性の域に達していないとしている。
こうした理論は数学的過ぎるということであろうが、そもそも自然言語を完全な法則や理論に当てはめることなどできるのだろうか?今日では、むしろコンピュータ科学の分野で役立ってきたと言えよう。プログラミング言語における構文解析や字句解析、あるいは、通信設計における語彙の作成と配列、検索技術などで実用性が高い。どんな言語を用いるにしても、例外的な扱いが生じる。数学ですら不完全性定理に見舞われているではないか。どんな学問であれ、一般性と普遍性は混同されがちである。三角形の内角の和が二直角に等しいということは、ユークリッド幾何学における一般性であって、宇宙における普遍性ではない。言語研究と言語哲学の違いとは、こうした一般性と普遍性の探求の違いに表れているのかもしれない。
直観は偉大であるが、人間の言語能力を生得的であると信じるがあまりに、思考を硬直させる恐れがある。そこで、哲学者クヮインという人物を紹介してくれる。どこかで聞いた名だが、クワイン・マクラスキー法の???どうやらそうらしい。カルノー図と同様の目的で使われるブール関数を簡略化する方法で、コンピュータ工学を学んだ人なら聞いたことがあるはず。クヮインは物理学にも精通し、経験的な見方も取り入れて、無限性においてはチョムスキーよりも分があるという。言語研究の流れは、科学的な立場から受け継がれる面が強いようである。
では、こうした傾向に対して、フンボルトの言語哲学はどうあり続けたのであろうか?はたして彼は、言語の本質を掴み得たのであろうか?それも疑わしい。既に数千年の歴史が、それは不可能という結論を出しているのかもしれん。フンボルトは、一般文法なるものを嫌ったという。多くの言語から浮かび上がった論理的操作、すなわち結果論に過ぎないとして。
「私は無限に富んでいる、何となれば地上に私が有効に摂取し得ないものは一つとしてないから。しかもまた無限に貧しい、何となら到達し得べからざるものへの憧憬が常に私を満たしているからである。かつて私は宗教的だったことはない。しかも篤信の人と全く異なるところがない。何となれば私は所有し把握し得べからざる無限なるものに常に心を惹かれ、最も好んで畢竟、永遠なる一つの理念において生活しているからである。」

4. 言語の分類
「言語は本質的に総合である。そして一つの連続体である。」
文章は順序正しく直線的に書かれる。しかし、文豪の手にかかれば、立体的な像を見せてくれる。ページ順に行儀よく並ぶ文字の大群が一斉に押し寄せると、頭の中で再マッピングされ、記憶と精神の空間において有機体のような存在となる。それは、文法論だけでは説明できない精神現象だ。文法には、一般的に規定される外面的なものと、暗黙のうちに自我に形成される内面的なものがある。フンボルトが問うたのは、内的現象の方であろうか。
「若干の固定したクラスに言語を分類しようとするのは悲しむべき思想である。それはまた言語の生きた個性を抹殺するものだ。」
しかしながら、本書に示される四つの種別も、若干の固定したクラスに映る。言語を構造的に分類する場合、「孤立語」「膠着語」「屈折語」、そして、フンボルトが土着言語の研究から唱えた「抱合語」の四つに種別する見方があるという。
屈折語は、原則として意義部と形態部(文法部)とを切り離せないという。意義と文法的役割が、同時にしかも有形的に与えられる特徴があると。主語として立ち、格、数、性において形容詞の形を決定し、数において動詞と一致し、文全体の可能性を決定している。しかも、文における個々の語の独立性は、このために却って明瞭である。単位においても全体構造は予想される。こうした特徴から、総合的に最も完全で最も自由であるとしている。
膠着語は、意義部と形態部の総合が充分でないという。単に接合があるのみで、屈折語のような融着はないと。
抱合語は、原則として文形の全体が固定し、総合の作用には全体を予想する単位と、単位を予想する全体の自由な交流による軽快で冷静な活動がないという。
フンボルトは、これら四つのタイプで、屈折語こそが最も完成度が高いとしたようである。そして、最高位から屈折語、膠着語、抱合語、孤立語の順に評し、サンスクリットとシナ語は屈折と孤立において両極をなすとしている。
ただ、このようなランク付けは独断的な印象も与える。フンボルトがインド・ヨーロッパ語族主義と言われる所以であろうか。西欧中心主義の旺盛な時代ではある。実際、哲学するのに最も適した言語はドイツ語とする哲学者は少なくない。英語は現象の言語で、ドイツ語は理念の言語である、といった具合に。文学作品を、英語で読むのとドイツ語で読むのとでは、ニュアンスも大きく違うだろう。現代の傾向では、屈折語的な特徴が失われ、孤立語的、膠着語的な性格が強まり、特に英語において顕著なようである。源氏物語のような古典を読む場合でも、古典語と現代語では印象が随分違う。言語で精神を完全に記述できないとすれば、文学や哲学の作品では、言葉の裏を読むという技術が求められる。作者の意図を汲み取るには、読者の側からも登っていくしかあるまい。
しかし、情報が溢れる社会ともなれば、分かりやすく簡易的な文章に群がり、文章を隅々まで読むよりもインデックスの検索に注力する、といった皮相的な傾向を強める。

5. シラーやゲーテとの親交
フンボルトが主観主義であったのは、カントの影響というより、カント研究に没頭したシラーの影響のようである。その理想は、カントの批判精神に、プラトンやアリストテレスに発する美的精神を融合して、人間論を完成させようというもの。フンボルトはある論文を発表した時、こう言ったとか、言わなかったとか...
「内容はカントのごとくであって、カントのようではなかった。だからカントはよく解らない!」
カントを知り尽くしたという自負があるからこそ、あえてこう言ったのかは知らん。
また、古典の翻訳作業では、ゲーテに手助けを乞うているそうな。ゲーテの詩「ヘルマン・ウント・ドロテーア」は、ホメロスと同じようにダクテュロスの六脚韻を踏んでいるという。ゲーテとは、古代哲学を尊重する観点から意気投合したようである。哲学の究極目的は、人間そのものである。あらゆる美学は人間性に起因し、それゆえに美と道徳も一致することができる。芸術は、趣味を超越した自己育成をもたらすであろう。客観性は、人間性を排除しようとする試みであり、主観性を崇める理由がここにある。それは、客観性を排除しようとするのではなく、相補関係にあろうとすること。ゲーテは、こう語ったという。
「主観のなかにあるすべては客観のなかにある。しかもなおそれだけでは納まらない、何かまだあまりがある。客観のなかにあるすべては主観のなかにある、しかもなお何かあまりがある。」

6. 近代言語学事情
「少なくともその主流を占める近代の実証的な言語学は... 言語という心理的、社会的、または人間的な現象は、どのようにしてこれを最も合目的的に記述し理解すべきか... を、問題としている。言語は何であるか... あるいは、言語的総合はどうして可能であるか... のような思弁は、それぞれ哲学の分野に依託して、一応はかえりみるところがないと、いってもよい。言語学の問題の据え方においては、言語の存在と作用の客観的な現実性は、自明のことだとしているのである。」
言語学には歴史性の他に共時性という見方があり、さらに、比較言語学や音声学といった見方も現れ、そこに心理学が結びついてきた。そして、社会学や人類学の領域まで踏み込み、方言や言語の分布という観点から言語地理学という分野も開拓されてきた。このような様々な合理的な分析は、西洋を中心に行われてきたが、極めて思弁的であることも否めない。
本書は、言語学の勃興、凋落が特に激しくなったのは、第二次大戦以降だと指摘している。あらゆる分野に科学技術が導入され、新言語理論は主にアメリカで起こる。数理・計量言語学である。こうした数学的な理論が、充分に言語の用法とは合致せず、一般言語理論として発展するには至らなかったという。さらに、モリス・スウォデシュという人が言語年代論を唱えてから、外象的な面に囚われるようになったと指摘している。
しかしそれは、言語学だけの問題ではあるまい。社会全体、ひいては精神に関わるすべての学問が抱える問題であろう。大昔から弁論術や修辞学がもてはやされ、現代ですらプレゼンテーション技術が象徴するように、そこそこ理があって、見栄えの良いものに目が奪われがちだ。メディアが発達するほど、群れの本性を目立たせるだけのことかもしれん。ステレオタイプ的な見方や流言蜚語の類いなど、概して人間は噂話がお好きよ!

2015-02-22

もしも、負け組のアル中ハイマーが「負け惜しみ論」を語ったら...

もしものコーナー... だめだこりゃ!

自称「時代の敗北者」、人間以下、いや未満の人生... そして、人間が苦手になる。苦手というからには、人間の何かを恐れている。優位性を求めるとは、ある種の自慰行為であろうか。人類は、いまだ絶対的な価値を知らない。つまり、相対的な価値判断しかできないということだ。自己満足に浸るために、他よりも優位な要素をあら探しをしてまで求める。幸せの正体も知らない。だから無限に幸せを願う。真の豊かさを知らない。だから底なしに銭を欲する。
世間には、勝ち組やら、負け組やらで区別したがる連中で溢れている。勝ち組とは、ある基準に照らして、自分よりも下等の立場を無理やり作り出す自慰行為の類いであろうか。負け組に属すことを素直に認められる余裕のある者は、ごく少数派であろう。そもそも負け方を知らぬ者が、勝ち方を知るはずもない。もし失敗したことがないと主張する者がいれば、失敗の定義がどこか間違っているか、失敗を認識することすらできないのだろう。惰性的な平和、惰性的な幸せに縋って生きていれば、それほど失敗を感じなくて済む。真の勝者は、敗者を知るが故に敗者をいたわる余裕がある。あるいは、勝者と敗者の概念すら持ち合わせないのかもしれん。
同情は快い。悩む人の立場に自分を置き、しかも、自分は苦しんでいないことを確認できるのだから。羨望は辛い。幸福な人を見ることは、自分の不幸を確認することだから。すべては人と人との相対的な関係から生じる情念に支配されている。ならば、真の幸福は孤独の中にあるということはないだろうか。とはいえ、孤独を真に味わえるのは、人間関係を謳歌した者かもしれん。恋愛や友情を飽きるほど体験した者かもしれん。人間関係を謳歌できる者もまた、孤独を知らなければできまい。結局、同時に知ることになるとすれば、やはり孤独もまた人間関係の中にありそうだ...

苦しむ人を憐れむことができるのは、苦しい目に遭った経験があるか、苦しい目に遭うことを恐れているからであろう。そして、現実に苦しんでいる人は自分を憐れむだけである。軽蔑している人の幸福を軽んじるのは、いわば人間の本性。古来、奴隷は虐待され、貧乏人はますます貧乏へ、弱者はますます弱々しく生きることを強要されてきた。どんなに平等を崇めたところで、目に見えない階級制度が生じる。これも、相対的な情念に支配される社会の宿命か。
政治屋ってやつは相手を罵ることしか知らない、まったくネガティブキャンペーンのお好きな連中だ。おまけに、メディアがその選挙運動を後押しする。政治の世界で、純粋な観念の持ち主が決定的な役割を演じることは稀である。歴史を振り返れば、思想観念がはるかに劣っていても、巧妙に振舞うことの得意な人物が決定的な仕事をしてきた。政治使命は、理性と責任から生じるのではなく、疑念や不徳によって動かされてきた。すべては、いかがわしい性格と不十分な悟性によって運営されている。権力者が無慈悲でいられるのは、一般人になるつもりがないからに違いない。金持ちが貧乏人に苛酷なのは、貧乏になるつもりがないからに違いない。エリートが庶民を馬鹿にするのは、庶民になるつもりがないからに違いない。
人が死んだり苦しんだりするのを毎日見て生きている医師は、そうした運命に鈍感になっていくのかは知らん。法律の網をくぐりながら生きている政治家は、悪徳が見えなくなっていくのかは知らん。道徳を強制しながら生きている教育者は、理性がなんたるかが見えなくなっていくのかは知らん。そして、嫉妬心や虚栄心という自分の狂気沙汰を治す術を、負け組の酔いどれにはとんと分からん...

高度な情報社会がグローバリズムを急速に拡大させ、情報や知識が思うまま手に入るようになった。ならば、人間は知性を進化させ、精神を成熟させそうなものだが、実際は、情報格差、知識格差、所得格差、世代間格差など様々な認識格差を生じさせ、いっそう勝者と敗者の意識を区別する。能動的に生きる者はより能動的に、受動的に生きる者はそれなりに... 機会均等という一見美しい理念も、格差社会の餌食と化す。できる者は静かに実行し、できない者は能書きを垂れるしかない。そして、おいらはジャンク長文を書き続ける。
グローバル競争を、弱肉強食と同一視する者も少なくない。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真意だと思う。
ネット社会には、国際感覚に旺盛な集団がある一方で、国粋主義に邁進する集団がある。自己存在を意識せざるを得ない社会では、似たもの同士で集まり、卑屈がより卑屈にさせ、優越がより優越にさせ、集団の持つ性癖をより際立たせる。今日の勝者が、明日には敗者になる時代、どこの国でも国民意識の二極化が進み、世論は激しく右往左往している。
だが、おいらは、中庸の原理を唱えない偉大な哲学者を知らない...

2015-02-15

もしも、泥酔した反社会分子が「おもてなし論」を語ったら...

もしものコーナー... だめだこりゃ!

文化とは、どこの国でも押し付けがましいところがある。特に日本文化は、型や様式に嵌める傾向が強い。ある外人さんが、こんな指摘をしてくれた。欧米式は働きかける文化で、日本式は恵む文化であると。恵むというよりは、与えると言った方がいいだろう。西洋レストランでは、メニューに書き出して選択肢を与えるよう配慮され、懐石料理では、出されたものをそのまま楽しめるよう配慮される。能動的な意志と受動的な意志の違いは、意外と大きい。サービスを受ける側にとって、選択の自由が束縛されるとすれば、息苦しくも感じよう。おもてなし!は、能動的な文化に慣れ親しんだ人々にとっては、余計なおせっかいになりかねない。幸せの押し売りの類いか。
一方で、郷に入っては郷に従え、と言うように、まずは相手の出方をじっくりと見聞する態度は、積極的に文化を受け入れるという見方もできる。自由に対する意識の違いとでも言おうか。
そもそも、お客人をもてなす風土のない地域が、どこにあろう。あまり日本固有の文化だと強調すれば、自惚れが酷いと思われるのがオチだ。

たまーに、外国人お断り!という旅館を見かける。外国語が喋れる従業員が一人もいなくて対応できず、迷惑をかけるという善意からの発言であるが、異民族で交流するのが当たり前の国では、差別意識が強い国と勘違いされる。
お客さんを迎えるために、完璧な対応や準備が必要だという考え方は、プロ意識として確かにある。だが、あまりにも閉鎖的な態度は、交流以前に摩擦を招くだろう。もてなす側がすべてを抱え込むか、あるいは、お客が自発的に溶け込むかの違いもある。わざわざ遠くから日本文化を嗜みに来た連中が、欧米式のおもてなしを期待するはずもあるまい。

こうした感覚は、言語に対する態度にも見て取れる。外国語を話す時、あまりにも文法を気にし、完璧に喋ろうとするために、日本人は完全主義者か?と指摘されることがある。いや、そんなことはない。面倒なことは、ついイエスと答えてしまう。
ただ、いい加減な事でも自信満々に喋ってくれば、萎縮してしまいがち。それは相手が日本人であっても同じ。外人さんが皆そういうタイプというわけではないし、意思表示やコミュニケーションの苦手な人もいる。ダーティハリーがお喋りじゃ、様にならんよ。
とはいえ、わざわざ極東の異文化を求めるほどのツワモノたちが機関銃のように喋ってくれば、圧倒されるのも仕方あるまい。もともと日本の慣習では、傲慢な態度は好まれないし、自信満々な態度に照れくささも感じる。だが、控え目に見せながらも、心の底では反対の意志を燃やしているところがある。プレゼンテーションやアピールが苦手と指摘されるのも、そうした慣習からであろう。
しかし、だ。客に有無も言わさず、隙を見せないという意味では、おもてなし!こそ、完全主義の象徴かもしれん。達人ともなれば、お客人に自由を与えていると思い込ませながら、選択肢を完全に支配し、おもてなしの奴隷とさせる。
ちなみに、行付けのバーに行けば、オーダーもしていないのに、これを飲んでみてください!と、極上の酒が出される。おかげで、おいらはオーダーの仕方がすっかり分からなくなってしまった。これも、M性の定めなのさ!

2015-02-08

肥大化する諜報化社会

おいらは、SNS が嫌いだ!

諜報システムは、それ自体が肥大化したモンスターとなった。2002年頃であろうか、DARPA(国防高等研究計画局)のTIA(全情報認知)プログラムが物議を醸した。このプログラムは国民と議会の反発を買い、頓挫したかに見えたが、NSAとAT&Tの関与が暴露され、当時の大統領ブッシュも認めた。次に大統領となったオバマは、通信業者による盗聴を強く批判した。そして2013年、スノーデン氏の暴露で騒ぎおる。今更なにを!
政府の教訓ってやつは、次はもっとうまくやる!ってことか...

プライバシーポリシーでは、心地良いフレーズが踊る。
"we may share your personal information..."
share を use と置き換えるとゾッとする。we ってのも怪しい。政府や企業、テロリストまでも含まれるということだ。国民のため!などという決まり文句ほど胡散臭いものはあるまい。自分も、家族も、政治団体も、みんな国民だということだ。
通信業者は、平然とこんなことを宣言する。
「当社は、利用目的の達成のために、利用者から個人情報をご提供いただくことがあります。」
サポートサービスでは、自宅にサービスマンが伺わなくても、遠隔操作でパソコンの設定をやってあげます!というのも見かける。なんと無防備な!
アンケートを求める団体を見かければ、時代遅れと思う反面、まだしも健全かもしれない。ちなみに、日本人がアンケートで平気に名前や住所を書き込む姿を見て、なんと無防備な!とある外人さんがつぶやいていた。
SNS を取り巻く世界には、個人情報の分析から利益を上げるビジネスモデルによって這い上がってきた企業が群がる。犯罪者は自己顕示欲が強い傾向にあり、過激な発言を追跡するだけで犯罪性との関連性を特定できるだろう。だが、冗談であることが一目瞭然であっても、コンピュータはお構いなし。みんなで盛り上がって飲もうぜ!を仲間内の言葉で、アルコールエネルギーを爆発させようぜ!なんてつぶやこうものなら、犯罪者リストに登録される。実際、ツィートによって爆弾魔と間違えられ、入国拒否を受けた人がいる。子供とプロレスごっこをしている父親の姿を、母親が面白半分でネットに投稿すると、ドメスティックバイオレンスで告発された事例もある。
いまや匿名の意味も薄れた。削除されたはずのデータにしても、本当に削除されたという保証はどこにもない。匿名の発言は誠実さに欠け、実名を出せば秩序を取り戻せるなどと主張する有識者どもは、そんなことを本当に信じているのか。普通の人は隠し事など持つはずがない!などと発言する有徳者どもは、マスコミ天国でも唱えているのか。きっとそういう聖人は、自宅の映像をネットに公開されても、目くじらを立てたりはしないだろう。

意欲さえあれば、情報は自然に得られる時代、くだらない意欲さえ持ち合わせなければ、くだらない情報は自然に遮断されるであろう。加熱する情報社会では、世間から距離を置くことが実践的な解となることが多い。そして、無気力とニヒリズムが旺盛となる。
いまやビッグデータは、漏洩経路を辿ることもできず、独り歩きを始めた。人類の叡智を共有する!とは、なんと美しい理念であろう。クラウド化すればすべて持たなくて済む、いや、持った気になれる。半導体の進化によって、本格的なウェアラブル時代が到来しつつあり、肉体にもビルトインされる。身体の一部となれば、落としたり、失くしたりする心配もない。めでたしめでたし!
そして、すべての位置情報が明るみになり、立ち寄った店も一目瞭然。営業マンもサボれない。自動車はネットでつながり、どこから遠隔操作されて事故を誘発されたか分からない。キャンペーン商品や贈り物など、どこにGPS発信器が仕込まれているか分からない。それでもなお最先端を生きている気分になれれば、めでたしめでたし!
SNS でつながっているだけで、友人になった気分になれる。政府も、有名人も、みんなお友達!めでたしめでたし!
あまりにもリアリティな映像が、自己補正能力を麻痺させ、乗り物酔いにさせる。逆に、慣れない現実社会に引き戻されれば、それだけで世間に酔う。そして、なんとなく夜の社交場に通うのも、脳に半導体チップが埋め込まれているからに違いない... やっと説明ができた。めでたしめでたし!

2015-02-01

メタ化社会か、メタメタ化社会か

主体を観察しようとすれば、客体の眼を要請し、互いに立場を交換しあうことになる。客観だけでは心許無い、ましてや主観だけでは危険だ。主体が魂となれば尚更。そこで、主体が主体を導くような仕掛けを欲する。こいつは、既に自己矛盾に陥ってやがる。魂の持ち主は、永遠に己を知ろうとし、また永遠に己を知り得ないということか...

あらゆる学問分野で、それ自体を研究対象とするための「メタ(meta)」という用語を見かける。メタ認知、メタ言語、メタマテリアル、メタ数学などなど。この用語には、高次の... 超... などの意味があるが、客観性や抽象化といった意味も含まれる。自己を見つめようとすれば、自分自身を超越した能力を自我に求め、自分自身が第三者になりきろうとする。この、なりきった第三者ってヤツが厄介なことが多い。人間の欲望は衰えを知らない。知性や理性を高めれば、さらに高次の理想像を求めるは必定。そして、神にでもなろうというのか。エリートたちが上から目線となるのも至極当然。ならば、知性を高めても、理性を高めても、それだけでは危険ということになる。では、他に何を求めればいいというのか。
メタ精神に惹かれるのは、現実逃避への願望でもある。哲学することが心地良いのは、現実世界が真理からあまりにも乖離しているからであろう。それ故に、自己の及ばない次元を夢想できる。そして魂だけが、風狂の言葉を求めて放浪の旅へ出かけていくという寸法よ。幽体離脱した後には、ぺんぺん草も生えやしない。メタ精神ってやつは、自ら精神をメタメタにしていくものらしい...

ところで、メタ哲学と言うべきものに「形而上学」という大層な代物がある。形而の上と書いて、形のない、時間や空間までも超越した、超自然的な、超理念的な... といった思想観念を持ち上げる。対して、形あるもの、時間や空間などの物理量で測れるもの、実形態... といったものを「形而下」と呼ぶ。要するに、人間の普遍性や理性といった精神現象でしか説明できないものを高度な学問に位置づけて、他を見下ろすわけだ。
しかしながら、精神が形而よりも上にあると、どうして言えよう。哲学が自問の原理に支えられている以上、哲学を愛する者は哲学にも疑いを持つことになる。対象は自己にも向けられ、自己存在にも疑いを持たずにはいられない。自己否定に陥ってもなお心が平穏でいられるならば、真理の力は偉大となろう。矛盾の原理こそが究極の暇つぶしとさせ、官能の喜びとさせるであろう。それだけに際どい学問となる。ときには、人間の掟に背き、自己に構築された原則を破り、あるいは、自分の人間性や人格までも否定し、自己愛の虚しさを知り、ついに精神を無に帰する。ヘタすると肉体までも連動させ、取り返しがつかない。精神が偶像となれば、肉体もまた偶像となり、肉体が自我に弄ばれるという寸法よ。抽象化の原理が自己と他の区別までも呑み込み、自己に対しても残虐行為に及ぶ。そうなると、形而より下等な存在となろう。哲学には、自発的で能動的な精神活動が要求される。真理の道は険しい。それを承知できぬ者は、哲学に近づかぬ方がよい。惰性的な幸せを求めるだけなら、むしろ宗教の方がうってつけだ。
そこで、哲学する時は、自我の原子構造をいつでも分解できる準備を整えておきたい。魂は常になんらかの泥酔状態にあるだけに、自己陶酔を中性に保てなければ、たちまち危険となる。そう、強烈なアルコール濃度ほど矛盾の緊張をほぐしてくれるものはあるまい。自己に幻滅しても、愉快な独り言が止まらなければ、それでええんでないかい...

1. 騒がしい社会
主体が語り始めると、特権的な権利ばかりを主張し、そこに集団性が結びつくと、排他原理が働く。騒がしい社会では、自己の言葉ですら聞こえてこない。そして、理性者を自認する者の言葉がもてはやされる。もはや社会と距離を置き、自問の能力を取り戻さなければならない。だが、精神の限界に挑んだ者は、狂人扱いされ、社会から抹殺される。狂気を知らずして、どうして常識を知り得よう。
人間にとって、当たり前と思えることが、いかに心の拠り所となりうるか。なんの疑問もなく受け入れられることが、いかに幸せであるか。精神の存在自体が不確かなものなのだから、それも致し方あるまい。ある大科学者は、「常識とは18歳までに身につけた偏見の塊」と言ったとか言わなかったとか。ソクラテス風に言えば、無知を自覚できない者は永遠に無知であり続ける。つまり、人は誰もが無知だということだ。ならば知恵を身につけ、悪人になるしかないではないか。善人尚もて往生をとぐ、いわんや悪人をや... とはこの道か。そして、理性が暴走し、正義が暴走し、自己愛を強固にしながら一層手に負えない存在となっていく。
現代の天才は、古代の天才ほど神がかっている必要はない。現代の芸術家は、ルネサンス期の芸術家ほど偉大である必要はない。実際、劣っていそうだ。科学が進歩し、知識が広まれば、有徳者も有識者も昔ほど知的である必要はない。実際、最も騒ぎおる。知性の凡庸化、理性の凡庸化とは、人間社会に何をもたらそうとしているのだろうか...

2. 相互理解
世間には、なんでも対話で片付くという楽観論がくすぶる。だが、互いに冷静さを欠く状況では、却って感情論を助長するだけ。仮想社会で、強いつながりよりも弱いつながりを求めるのは、それなりに合理性がある。関係が近すぎるから、互いの存在を意識し過ぎる。社会で優位に立とうとすれば、互いに弱みを握ろうとする。これすべて自己防衛本能の裏返しだ。相手が心地良い存在であり続ければ問題ないが、人間関係にそんな理想像は描けない。少しでも機嫌を損なうと、それが溜まりに溜まり、やがて罵り合い、傷口に塩を塗るような発言を繰り返す羽目に。
関係とは、間合いをはかること。互いに意識しないこと、互いに距離を置くことが効用となる場合が多々ある。神の前で誓った二人ですら、法の調停を求める。個人には意思があるだけに、個人からも、社会からも影響される。そして、人間嫌いにもなれば、社会嫌いにもなり、挙句の果てに自己嫌悪に陥る。SNSを増殖させる社会では、SNS嫌いも増殖させる。相互関係で距離をはかることも、メタ思考としておこうか...

3. メタ言語
プログラミング言語には、自己ホスティングという概念がある。言語系自体が解析処理まで記述できる能力を持つということだ。古来、自然言語にもそうした試みがある。母国語の研究は、ひたすらそれ自体の言語で記述されてきた。客観的な観点を与えるために、外国語で記述すればいいというものではない。言語体系そのものが、精神を投影するという自己矛盾を孕んだ存在なのだから。すなわち、言語を語るとは、自分を語ることであり、ひいては人間を語ることになる。そして、人類の普遍性なるものを探求すれば、自然言語がどこまでメタ言語になりうるか?これが問われるであろう。
しかしながら、母国語に対しては、どうしても愛着と贔屓目で見がちだ。外国語との比較によって、母国語の特徴をより鮮明に映し出すことはできるだろう。いずれにせよ、万能な言語はこの世に存在しない。もし存在するとすれば、人間は精神の正体を知ったことになる。いや、ひょっとすると既に知っているのかもしれん。だから、躊躇なくメタメタ化社会へ邁進できるのかは知らんよ...

2015-01-25

理性の検閲官ども

なぜ、人は群れるのか...
人との付き合いに飽きれば、自然との戯れを欲し、いつも何かと接していないと落ち着かない。それゆえに、自我を肥大化せずにはいられないのか。知識や美徳を求めるのも、詫や寂を欲するのも、その類いであろうか。人はみな、寂しさに耐えながら生きている。ただ、それだけのことかもしれん...

人間には、心地良いものに群れる習性がある。虫が灯りに引き寄せられるように。都合の良い解釈で集まり、似たもの同士の相乗効果によって感情論を増幅させる。個人で見せる豊富な寛容さや冷静さは、集団の中ではまったくの無力。人間社会では、善玉菌より悪玉菌の方が感染力が強そうだ。堂々とした悪徳と陰湿な正義が同居し、加害者が正義を装って被害者の側に回ることもあれば、真の被害者が退場させられることだってある。売り言葉に買い言葉... 何気ない一言に怒号が群れ、理性の検閲官を自認する者が、ますます横暴に振る舞う。たとえ小さな善意の集まりであっても、しばしば大きな悪意へ変貌し、正義ですら社会的制裁だけでは飽き足らず、ストレス解消の道具とされる。
人の集まるところに欲望が群がる。善意によって集められた支援金は、多額なだけに質ちが悪い。一人で良い目にあうと、それを誰かに伝えたくてしょうがないものらしい。善意の性分は、押し売り根性と相性がいい。
人には、集団からはみ出すことを嫌う性向がある。派閥を作っては、自ら思考することを放棄し、一人の長に意思決定を委ねる。正直者は堕落と官僚主義に押し流され、集団的な堕落は、不和から生じるのと同じくらい同意からも生じる。戦争とは、集団性の産物でしかあるまい。
おまけに、プレゼン力やアピール術が物を言うと真理は多数決に流され、魔女狩りの類いは過去にもまして牙を剥く。情報が氾濫する社会では、情報のS/N比を低下させ、弁論術はソフィストの時代よりもいっそう盛況となる。露出狂と暇人が共謀してゴミ投稿を煽り、ネット資源を浪費し続ける。
こりゃ負けちゃおれん!そして、自己の馬鹿を曝け出し、自己の馬鹿を舐めるように愛しながら書く。そう、ジャンク長文で応酬だ!

1. 個人と集団の差異
人体は原子の集まりによって形成され、そこには一つの魂が宿る。人間社会は個人の集まりによって形成され、ここにもまた集団的な意思が生じる。個人と集団の違いは、原子には意思なるものがないが、個人にはあるということぐらいであろうか。純粋なものが集まれば秩序が生じ、意思あるものが集まれば秩序を乱すというのか?だから、政治家どもは思考しない国民を求めているのか?なるほど、思考しない者が思考しているつもりで同調している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。
固い結束はファシズムと相性がいい。自意識を高めた輩が群れると、正義や義務までも凶暴化する。一昔前、B29に竹槍訓練で対抗しても仕方がないと呟けば袋叩きに合い、講和論を唱えようものなら非国民と呼ばれた。そして今、東京オリンピックの開催に苦言をツィートすると非国民と罵られる。福島原発のあの有り様を見て、なにが復興オリンピックなのか?泥酔者にはとんと分からん。
近年、国粋主義や全体主義から離れて、違った形でファシズムが横行する。禁煙ファシズム、エコファシズム、友愛ファシズム、絆ファシズム、原発ファシズム、脱原発ファシズム... 集団が束になって流行めいたものを追いかけるという意味では、一種のファッション感覚。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ...とは、まさにこれだ。高度な情報社会には、戦時中にもまして検閲官どもが溢れている。人間の意思ってやつは、大勢の語り手に圧倒されると、狂気するものらしい。では、誰も悪くないというのか?いや、誰もが少しずつ悪いのだろう...

2. 笑い禁止令
笑いを感じる能力は、音楽を感じる能力と似ている。音楽センスに長けた者が美しいメロディーを感じることができても、目の前にある芸術にまったく気づかない人もいる。そこに確実に存在するものは、音波という物理現象のみ。それを感知する能力は、極めて主観的で、どこか狂っている。論理をもってしても、理性をもってしても、説明できない。だから面白い。真の芸術は、わざわざ権威を示す必要がない。理解者のみが自然に堪能できればいいのだから。それは、聖書を理解できる者が、その権威を示す必要がないのと同じであろう。笑いもまた高度な芸術の領域にあるのだろう。笑いの能力は高等な動物の証とされる。それゆえに検閲の対象は、まずもってこの方面へ向けられる。
しかしながら、理性が暴走すると、冗談も言えない息苦しい社会となる。エイプリルフール禁止運動まである。確かにネット社会には、行き過ぎたイタズラの類いが風説流布となって猛威をふるう。目を覆いたくなるようなものまで。これに対抗して、理性の検閲官はちょっとした冗談でさえ許さず、ソーシャルメディアという裁判に引き出し、集団リンチにかける。リンチに参加するつもりがなくても、無責任にコメントしたり、気軽に賛同するだけで参加させられる。責任ある立場の者が問題を曖昧にする分、明確な意見を言う者がバッシングされる。謝罪はもはや形式だけ、真摯、誠実、反省... こうした言葉をますます安っぽくさせる。凡庸を自覚できなければ、その他大勢にも完璧を求めるというのか。まるで言霊信仰!情報社会が高度化すると、情報の自由化が進み、知識や価値観に多様性をもたらしそうなものだが、逆に同じ解釈をする人々が集まって二極化する。
しかしながら、多様性は寛容性と相性がよく、笑いのセンスほど多様性に富んだものはない。笑いのレベルで社会の成熟度を計ることができよう。冗談も通じない社会となれば、言葉が貧弱になり精神もまた貧弱になる。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、それらが共存するためには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真の意図だと思う。笑いを禁止しなければ理性が保てないとすれば、理性もまたどこか狂っている...

3. バラエティー化と引き算の法則
マスコミの正義ほど違和感を覚えるものはない。悲劇を演出しながら、人格まで事細かく報じ、被害者を晒し者にする。被害者の写真のドアップが、加害者よりも、はるかに放映時間が長いとはこれいかに?マスコミは、人に勝手なキャラクターを植え付け、メディアという舞台で演じさせる。マスコミ嫌いには悪役のレッテルを貼り、媚びを売る者には善人役を与えるのだ。したがって、論理的に語れる者よりも、感情的に巧みな者の方が、好人物の役柄が得られることになる。スポーツ中継では、アスリートですら勝手にキャラクター付けされ、純粋に楽しめない。場内音声のみという選択肢しかないか。題材とは無関係のタレントを出演させ、スポーツや政治など、あらゆる分野にバラエティーを混入し、双方の世界を台無しにする。視聴率主義が、なんでも足し算させようとするのだろうか?
政界にも、足し算の法則に目を奪われ、政党の合併や選挙協力によって支持層を増やそうとする目論見が横行する。まったく性質の合わない政党が結びつけば、却って逃げていく支持者がいる、という思考は働かないらしい。無節操な混ぜあわせは、引き算の法則が働くであろうに...

4. 良識派ども
自称良識派は実名主義を掲げ、理性的な議論を求めるために極論を持ち出す。だがそれは、価値観の押し付けという側面がある。実際、正義感旺盛のネット民によって、実名はオモチャにされ、脅迫、誹謗の類いに曝される。法に基づかない私的制裁が、社会的制裁に変貌するのに大して手間はかからない。これは、実名うんぬんより、集団性の法則として承知しておくべきであろう。自由主義の暴走は、迫害にも自由を与える。
市民運動にだって利権が絡み、真の意味での民主主義運動を見分けることは難しい。中には、純粋な動機で参加している人々もいるが、その運動に利権を絡めた政治屋が暗躍することも多々ある。尚、ここで言う政治屋とは、政治家だけではない。あらゆる集団には謀略好きな輩が必ずいるということだ...

2015-01-18

暴走老人症

文豪ゲーテは、七十を過ぎて二十歳前の娘に求婚したという。not 酒豪も負けちゃおれん!一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。ホットな女性の数だけ愛があるとすれば、惚れっぽい独身貴族こそ純粋な平等主義者となろう...

さて、歳を重ねると丸くなると言うが、それは本当だろうか。心配症を募らせ、せっかちになり、頑固になり、嫌味の一つも口にしないと気が済まない。説教することでストレスを発散させているのだ。おまけに、足が臭くなり、口が臭くなり、酒の場で醜態を演じながら、肉体も精神も腐っていくのを感じる。
信じられない速さで去っていく... 時とは、そういうものらしい。だからこそ、自然で風狂な言葉を欲するのであろうか。死に近づけば、詫び、寂びってやつが見えてくるのかは知らん。だが、そうした美意識にでも縋らなければ生きることも難しくなる。沈黙の美徳を忘れ、相手を黙らせてまで議論に割って入り、批判論、いや愚痴論を喋らずにはいられない。これも、ある種の依存症か。
もはや、デジタル依存症などと若者たちに説教を垂れている場合ではない。ちなみに、スマホを自宅に忘れ、オンライン(二段階)認証ができないと騒ぐオヤジがいる。

経験を積んだからといって理性的になるわけではない。経験したからといって理解したことにはならない。生まれたばかりの幼児は、野心や邪心の欠片もない純粋な状態にある。対して、大人はどうであろう。
プラトンは、森羅万象の原型であるイデアなるものを唱えた。魂にも原型のような状態があり、そこから善の根源的な意識が芽生えると。しかし、知識を得れば、そのすべてを脂ぎった欲望に注ぎ込み、もやは知識のない頃の自分を思い出すこともできない。人の言葉は耳に入らず、思いやりや友情などという言葉に照れくささを感じ、正義や道徳という言葉ですら虫唾が走る。子供が素朴な哲学者とすれば、大人は脂ぎった屁理屈屋というわけだ。寛大な者を僻み、人々に愛される者を妬み、知識ある者を羨み... 魂は嫉妬の塊に成り果てる。おまけに寿命が延びれば、生への執着は衰えるどころかますます旺盛となり、命が一番大切だと叫びながら、他人の命を押しのけてまで助かろうとする。そして、どう生きるかではなく、長く生きることが目的と化す。ますます自己保存に執着し、未練を永遠に断ち切れそうにない。
その一方で、余命宣告を受けた者が、超人的な能力を発揮することがある。死に近づくことによってしか、生を問う機会が訪れないというのか。平均寿命が延びれば、新たな世代層が生まれ、社会の構成員が変わり、幼年、少年、青年、壮年、老年の概念も変わっていく。だが、いつの時代も、古き時代を鼻で笑い、新しき時代に過剰な期待をかけることに変わりはない。新技術や最先端という言葉に目を奪われ、進化や進歩という言葉までも迷信化する。そんな時代にあっても数千年前の哲学が輝きを失わないとすれば、人類は慢性的に老人症にかかっているのかもしれん...

受け入れる度量のない子供に道徳観や倫理観を期待しても、人間が人間でなくなることを期待するようなものである。とはいえ、大人だって具体的に指示しなければ、行動できないではないか。大人だって大きな子供でしかない。
孔子曰く... 十五で学問を志し、三十で独立精神を持ち、四十であれこれと迷わず、五十で天命をわきまえ、六十で人の言葉を素直に聞き入れ、七十で思うままに振る舞って、それで道を外れないようになる...
しかし現実は、十歳でお菓子に、二十歳になると快楽に、三十になると野心に、四十になると愛人に、五十になると利欲に憑かれる。そして、迷信、偏見、誤謬へ導き、自分を賢いと信じ、人を見下すような権威主義に陥り、人権はとるに足らないものとなる。都合の悪い問いかけは、脂ぎった魂が常識とやらで片付けてくれるという寸法よ。
腐敗は、生あるものの本質か。自己に疑問が持てなくなったら、腐っていると見るぐらいでちょうどいい。大人から教わることは、たいてい本を読めば済む。だが、子供から教わることは、理屈では説明できないことが多い。R-18 指定すべきは、理性や知性の方かもしれん。酒の味を知らぬ者が、プラトンの「饗宴」を読んだところで得られるものはあるまい...

1. ささやかな煩悩
一霊四魂という思想があると聞く。勇、親、愛、智によって構成される魂が、一つの霊によって統括されるという思想である。いずれの魂も孤立すれば、邪気となる資質を具えている。邪気が悪魔の手に落ちれば、たちまち邪悪な鬼と化す。血塗られた歴史の陰には、いつも邪鬼が潜んでいた。アダムとイブが禁断の果実を食して以来、人間は神の意を解すことができなくなり、お釈迦様ですら菩提樹の下で心を惑わせた。イエスは敬虔な使徒に裏切られ、シーザーは誠実な盟友にあやめられ、芸術を愛した皇帝ネロを暴政に狂わせ、ボルジア家を強欲の代名詞とし、建築家を夢見た内気なヒトラーをば悪魔へ変貌させた。人の心には、恐ろしき邪鬼の棲家がある。歳を重ねれば、心の病を克服することができるだろうか?
仏教では、克服すべき最も根源的な三つの煩悩を三毒と呼ぶそうな。貪、瞋、癡が、それである。一つの欲望を満たせば、すぐに次の欲望に走る。他人が持っているものが良く見え、それを欲する。カネが欲しい、愛人が欲しい、時間が欲しい、快楽が、才能が、知性が、理性が... まったく懲りない性分よ。すべての欲望を放棄できれば、精神は自由になれるであろうに...
しかしながら、精神は欲望によって成長する。欲望を捨てたいというのも、これまた欲望!精神とは、欲望に幽閉された存在というだけのことかもしれん。
一方で、芸術家の目覚めは精神を悟るに、いくら狂っても足りない。四魂の邪鬼を存分に解放させてもなお、猛烈な狂気の調和を目論んでやがる。ただ、能力が欠けていても夢を描くことはできる。偉大な夢を実現できたら、どんなに幸せであろう。せめて過ちを夢に閉じ込められたら、どんなに楽になれるであろう。そして、狂人の悲痛な叫びを聞くがいい... おいらのささやかな望みは、ハーレムに収監されたいだけなのだ!

2. 頭脳年齡と知性年齡
若い頃は、優れた人物の言葉に率直に耳を傾け、同世代の仲間と議論することで、より多くを学ぶことができる。だが、大人になると防衛意識や縄張り意識のようなものが働き、似た者同士で集まろうとする。寛容性では子供の方が優れていそうだ。友情とは、人を利用するために育むものではあるまいに...
本質を学ぼうとする資質も、政治的な思惑に毒された大人よりも、純粋に学びたいと願う子供の方が優っていそうだ。やはり大人になるほど狡猾になるものらしい。
しかしながら、大人や子供の指標は年齡では計れない。仮想社会の奇妙な人間関係が、妙に社会的な意識を成熟させたり、大人顔負けの戦略的思考を実践する者までいる。大人たちがネット社会から子供を守ろうと手引を思案している間に、子供たちは遥かに有用な行動をしている。むしろ大人たちの方が、子供の持ちかける議論に感情的になり、子供じみた犯罪を繰り返しているではないか。
長老という威厳も過去のものか。寿命が延びれば、親より先に逝くケースも増え、世代の概念までも曖昧にさせる。頭脳年齡や記憶年齡というのは、確かにある。肉体が衰えれば、人体の機能組織が衰えるのも道理だ。知識を得ようとする意欲もまた年齡に関係しそうなものだが、死ぬ瞬間までその意欲を持続させる者がいる。持続力とは、天才の特質であろうか。知性年齡や理性年齡なるものは、時間とは別の次元にありそうだ...

3. 遠近法と老眼法
情報の溢れる社会では、あまりにも身近なために、つい見過ごしてしまうことがある。情報収集の難しい時代は、瞬時の変化を探知する微分的視点が必要であったが、今日では、積分的思考の方が有効であろう。世間から少し距離を置くことも大切にしたい。意欲さえあれば、情報は自然に得られる時代、くだらない意欲さえ放棄できれば、くだらない情報は自然に遮断されるであろう...
分かりやすい情報は目の前を通り過ぎて行きやすい。そこに疑問を感じなければ、思考する機会も訪れない。その点、難解な書は思考の材料にうってつけだ。だからといって、理解できると期待してはいけない。目は文章を追うものの、頭は別のことを考え、幽体離脱のような気分にさせる。絵画を鑑賞するようにページを眺め、数十ページ単位で後戻りするのもしばしば。少し目を離し、遠近法のような立体的な観点を要請してくる。そういえば最近、近くが見えにくい... 老眼って言うな!

4. 地球の老化とともに
毎日、顔を合わしていれば、十年経っても変化した様子が見当たらないというのに、十年ぶりに友人に会うと、歳をとったなぁ、という印象を与える。そして、毎日、自分自身を鏡に映し、明日はまだ大丈夫!と自分に言い聞かせる。そして、保証のない安心を買い、不摂生を繰り返す羽目に...
地球環境も似たようなものであろうか。平凡な日常が、環境の変化に気づかせない。百年前の人が現在にタイムスリップしたら、空気の香りや山の景色に驚愕し、町の汚染に幻滅するかもしれない。温暖化と寒冷化の繰り返しは、生物の生存分布に大きな影響を与える。今後、十年から二十年ほどのスパンで世界的な食料危機が訪れると言われている。ある研究報告によると、植物が光合成によって生産する有機物の総量、いわゆる純一次生産が、地球上でほぼ一定だとか。つまり、地球上の植物で養うことのできる生命の総量が決まっているということだ。
もし、その量が限界に近づいているとすれば、酸素を必要とする動物たちを激減させて、二酸化炭素を吸収する植物の社会からやり直さなければなるまい。それが、氷河期の意義であろうか?やがて氷河期を迎え、人類がまた生き延びられるかは知らん。ただ、偉大な地球の歴史に照らせば、エネルギー消費量の高い生物は、その数を思いっきり増やしてきたツケを払わされることになろう...

2015-01-11

暴走主義

暴走好きな人間という種をこしらえたのは誰か?やはり神も暴走好きであったか...

人はよく、権利だ!義務だ!責任だ!なんてことを言う。だが、そんなものは都合よく解釈されるだけのこと。無駄、無意味、無価値といったものもそうだ。そして、正義ですら解釈される。この方面で、人類はいまだ普遍性なるものを知らない。
パスカルは言った... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。良心の妄想ほど正義と相性のいいものはない。良心ってやつは、押し付けがましく、自信満々なだけに厄介となりやすい。歴史を振り返れば、人類愛を唱える修道士ですら侵略者のごとく残虐行為に及んだ。愛の押し売りほど残酷なものはない。神の代弁者... 神の生まれ変わり... といった思想はいまだ健在。神に憑かれた狂気は、悪魔に憑かれるがごとく。
権利の暴走がタカリ屋を増殖させ、義務の暴走が思考を停止させ、責任の暴走が迷信を助長させる。おまけに、情報社会が高度化すると、皮相の見は独り歩きを始め、庶民の集団性が理性の検閲官となり、魔女狩りの類いはますます猛威をふるう。正義漢とは、一過性の熱病のようなものか。決疑論は集団性によって研ぎ澄まされ、有徳者や有識者ですら駁論を見出すことができないばかりか、煽る側に立つ。ますます自意識を膨らませ、どんな残虐行為でも、これは犯罪ではない!と叫ぶことができるのだ。そして、妄想的な成敗が現実のものとなる。
一方で、必殺仕事人は、お金を貰わないと絶対に仕事をしない。どんなに少ない金額でも、依頼者が精一杯工面したという理由付けだけが、正義の暴走を食い止める唯一の動機となるからだ。理性も、知性も、正義も、道徳も、愛情も... 心地よく響く言葉は、すべて暴走する性質を持っている、と心得ておくぐらいでちょうどいい。善意の増殖は、ある閾値を超えると悪意へ変貌する、と...
では逆に、悪意の増殖は、ある閾値を超えると善意へ向かうだろうか?いや、マクスウェルの悪魔君をもってしても、この方面のエントロピーは絶大だ。逆説的ではあるが、正義という自意識を放棄しなければ、正義を冷静に実践することはできないのかもしれん。ならば、無責任な泥酔者は、世間を笑い飛ばしながら生きていく...

人間ってやつは、心の拠り所となる何かをこしらえないと、不安でしょうがない。神とは、人間が都合よく編み出した偶像であろうか。真理もまた、究極の退屈しのぎのために編み出した妄想であろうか。神の狂信者は神の寛大さに縋って無限の赦しを乞い、真理の探求者は真理の偉大さに縋って無限の知を求める。
しかしながら、不死を求めても永遠の魂は得られず、知識の永続を求めても永劫回帰の道は遥か彼方。人類は、自己存在を証明するための言葉を求めてきた。神の言葉を... 真理の言葉を... そして言葉は知の象徴となった。だが、どんなに言葉を求めても、神も、真理も、一向に見えてこない。生命は定められた道を行くしかなさそうだ。人類は、いまだ自然の意図を解せないでいる。それどころか、自分自身が自然状態であるのかも疑っている有り様。その証拠に、「自然」に対して「人工」という言葉を編み出した。有史以来、人類はせっかく記録という概念を発明しながら、寿命の限界を打ち破れずにいる。
ウィトゲンシュタインは言った... およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては人は沈黙せねばならない... と。もはや、残された道は沈黙しかないというのか。冥界には、沈黙との自然な戯れがあるとでもいうのか。真理の道とは、沈黙を守ることで犠牲を捧げることなのか。だから、あのナザレの人は無実を承知で黙って血を捧げたのか。
しかしながら、言葉を知れば、喋らずにはいられない。知識を得れば、それをひけらかさずにはいられない。経済社会が消費を煽らなければ成り立たないように、知識社会もまた情報を煽らなければ成り立たない。知性ある者が知識を自慢するだろうか?理性ある者が道徳観や倫理観を自慢するだろうか?
そして、鏡の向こうでは、お喋り好きな酔いどれが長ったらしい文章を書き続け、夜の社交場でウンチクを垂れてやがる。パスカルが言うように、やはり人間とは狂うもの、いや、自己陶酔するものらしい... いやいや、君に酔ってんだよ!

1. 覗き穴のモラル
着替えに集中しているホットな女性に声をかけるのは、礼儀に反する。せっかく湯につかってくつろいでいるのに、声をかけるとは言語道断!紳士のおいらができることと言えば、壁穴から温かく見守ってあげることぐらいさ...

2. 理性ってなんだ?
良心と相性のいいものに理性というものがあると聞く。我が家の国語辞典によると... 物事の道理を考える能力。道理に従って判断したり行動したりする能力... とある。道理ってなんだ?... 物事の筋道... とある。筋道ってなんだ?... 物の道理、条理... とある。まるで堂々巡り!国語辞典ですらまともに説明できないものを、一介の酔いどれごときがどうして知り得よう。
数千年に渡って、偉大な哲学者たちは中庸の原理を唱えてきた。万物のバランスこそが宇宙の真理であると。それは、陽と陰、善と悪、美と醜など、あらゆる対比から生じる相対性認識論と言うべきものである。精神を歪ませれば、あらゆる病を引き起こす原因となる。いや、歪んだ心で眺めれば、病気はむしろ健康に見えるか。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とは、まさにそれだ。なんと幸せなんだろう。人間とは、幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり冷酷になるものらしい。カントは、理性批判の中で普遍的な道徳法則のようなものを語った。道徳ですら、理性ですら、暴走する危険性があることを匂わせて。徳(とく)がちょいと濁ると、毒(どく)となる。道徳(どうとく)を盲目(もうもく)に崇めれば、猛毒(もうどく)となる。これらの音律が似ているのは偶然ではないのかもしれん。
有徳者どもに理性があるか?と問えば、馬鹿にするな!と言わんばかりに怒鳴る。ならば、いつも憤慨しているのはなぜか?理性の力をもってしても、心を平静に保てないというのか?仮に理性を実践し、義務を果たしているというのなら、その上に何を望むというのか?彼らは本当に自由人なのか?理性の欠片も持ち合わせないアル中ハイマーにとって、こんな言葉はこそばゆい...

3. 知性のコーナーを攻める!
教育が専門化によって没落するという意見を耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。間違っているのは、専門化ではなく、問題に対する理解の深さが欠けていることであろう。つまり、哲学的観点が欠けていること。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。
人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。知識が豊富でも精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれたアル中ハイマーには知性なんぞ永遠に無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしであり続けるだろう。
知性は、健全な懐疑主義と自己啓発された個人主義に支えられている。ならば、精神をちょっと破綻させ、ちょっと狂っているぐらいでちょうどいい。それを自覚できれば、なおいい。ちょっと馬鹿なぐらいでちょうどいい。ちょっと自信がないぐらいでちょうどいい。ちょっと幸せを意識するぐらいでちょうどいい。そして、コーナーの限界を攻めるには、ちょっとアンダーステアぐらいでちょうどいい。
ちなみに、夜の社交場では、ちょいワルぐらいでちょうどいいと助言を頂いたが、清楚で通っているおいらには無理な相談よ!

4. デモクラシーの象徴ども
フランス革命が提示した、自由、平等、博愛という三大原理は、いずれも単独で大暴走する性格を持っている。それは、既に恐怖政治で実証済みだ。三位一体の調和が崩れた時、自由主義が弱肉強食的な資本主義を煽り、平等主義が搾取的な共産主義を敢行し、博愛主義が魔女狩り的な盲目主義を崇める。
愛が暴走する代表的な情念に、愛国心ってやつがある。愛国心の弱点は、自国を誇りに思うことと、他国を蔑んで優位に立つことを混同すること、そして、誰もが狂信的な愛国者へ変貌する恐れがあることだ。国家を支える理想主義には、既に予知された災厄が潜んでいる。経済政策さえうまくやれば、少々無謀でリスクの高い外交政策にも世論は目を瞑る。
民主主義の弱点は、誰もが厄介事に眼を背けることと、責任の所在が明確でないことに加え、集団性がこれらの性質を助長することだ。個人では理性的に振る舞うことができても、集団化すると悪魔化する。しかも、それに気づかない。集団ってやつが人をこうも浅ましくさせるものであろうか。人はみな、少しずつズルい!エリート集団が厄介なのは、責任や義務を巧みに逃れ、権威だけを増幅させることだ。かつて強者が弱者を叩く時代があった。今は弱者がより弱者を叩く。社会システムが抽象化すれば、世論は鈍感になるのか。
どんなに美しい理念も、他との調和を失った途端に暴走をはじめる。善も、悪も、理性でさえ、知性でさえ。そして、暴走してみて初めて、自分自身の愚かさを知る...

2015-01-04

こけた...

証拠物件1:


昨年は午年ということで、跳ね馬のごとく駆け抜けるつもりであったが、暴れ馬のごとくこけた!バイクの修理代が痛い...
今年は、羊のごとくおとなしくするつもりでいる。おっと!夜の社交場方面から初詣のお誘いが...