娯楽数学の真髄をもう一冊...
いまだにマーティン・ガードナーの世界に魅せられるのは、童心に返りたいという意識がどこかにあるからであろうか。酔いどれ天の邪鬼にだって、若き日を懐かしみ、若さを羨むことがある。だがもし、若返ることができ、もう一度世間を渡り歩いて来なければならないとすれば、やはり煩わしいものがある。戻りたいのは過去ではない。記憶と知識をそのままに肉体だけを若返らせ、脳内活動を活性化させたいだけ。なんと都合のいいことを。なぁーに、脳内チップにデータをダウンロードすればいいだけのこと。若いうちに。いや、もう手遅れか。いやいや、構造主義風に言えば、人間の身体もまたサイボーグだ。はたして、それは人間なのか?人間とは、どういう存在なのか?精神の持ち主のことを言うのか?だが、科学はいまだ精神の正体を明確に説明できないでいる。精神の正体も知らぬ者が精神を崇めても... などと問えば、循環論に陥る。
まさに、パラドックスの世界は循環論法と自己言及論に毒されている。自己言及で最も単純なものは、「この文は嘘である」といった形式。この文章を信じるにしても、信じないにしても、悪魔との取引を強いられる。ただ、悪魔をも味方につけなければ、世間を渡り歩いて行くことは難しい。
哲学には、形而上学という大層な代物がある。メタ的な観点から物事をさらに上位から眺める立場を要請するのである。精神ってやつが、形而の上位に存在するのか、はたまた下等な存在なのかは知らんが...
言語学は、自然言語を語るための最適な言語は何か?という慢性的な課題を抱えている。日本語を構造的に説明するために、日本語で語っては矛盾が生じる。だからといって、外国語で日本語を語っても、自然言語というものが社会風土にどっぷりと浸かって変化してきただけに、その本質的な性質に踏み込むことは難しい。
プログラミング言語では、ある言語システムを記述するための上位言語に何を選ぶべきか?という議論をよく見かける。そして、メタ言語もメタメタになるという寸法よ。
数学は、論理の不完全性を証明した。少なくとも人間が構築する論理は。となれば、パラドックスは、忌み嫌うよりむしろ歓迎すべきだろう。その役割は、論理暴走のチェック機構として、ひいては、自分自身の在り方を問う機構として。
レイモンド・スマリヤンは、「この本の題はなにか?」と題する論理パズルの本を書き、その二年後、「この本に題はいらない」と題する本を書いたそうな。バーナード・ショーはこう言ったとか。
「ただ一つの黄金の法則は、黄金の法則がないことだ。」
パラドックスを後押しする概念に、時間の一方向性がある。それは、人間の認識能力の限界を示している。エドウィン・A・アボットは著作「フラットランド」の中で、二次元平面の世界に幽閉された住民たちを滑稽に描いて魅せた。まさに人間の欲望は、時間の矢という次元に幽閉されている。次元ってやつは、幾何学構造の支柱を成す、いわば自然界の構造を支配する存在であって、この基本原理に一方向性しかない!なんてことがありうるのだろうか?数学の美には必ず対称性を見出すことができる。なのに、時間という存在だけは、どうも異物感を拭えない。
純粋数学の定理は、次元によって乱されることはあまりないが、応用数学の定理の多くは時間の関数で定義される。時間ってやつは、認識の産物でしかないのか。
パラドックスは、正しいと思うような前提に対して、およそ想像もつかない結論が導かれた時に生じる。それは感覚や感情からくるもので、逆理や背理の類いは大抵この心理的な罠に落ちる。
では、正しいと思うような前提とは、どこから生じるのか?認識の揺れは経験から生じ、まさに誤謬は余計な知識から発する。人間は、経験や知識を常識に昇華させては精神の防波堤を築く。ここに心の拠り所を求めるのだ。常識を否定すれば、過去の知識を否定することに繋がり、ひいては今まで生きてきた自己をも否定しかねない。その結果、考えることを放棄して思考停止状態に陥る。これが幸せの正体か。
脂ぎった大人になればなるほど、柔軟な思考を持ち続けることが難しく、よほどの修行を要する。子供のように矛盾を素直に受け入れ、かつ自己否定に陥ってもなお愉快でいられるとしたら、真理の力は偉大となろう。なるほど、ゆかいなパラドックス!とは、この道であったか...
1. 無限の悪魔
ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽したのは、そこに悪魔が住み着いているとでも考えたからか。単位正方形の対角線の長さが、定規のメモリをいくら細かくしても正確に測れないというのは、数を崇める宗派にとって由々しき問題である。そして十九世紀、数の理論が集合論に及ぶと、悪魔を目覚めさせた。
有限集合では... 元の集合が真部分集合と一対一で対応する... なんてことはありえない。全体は必ず部分よりも大きいとするのが、部分集合の中でも真の部分集合とされる所以である。
ところが、無限集合では違う。こんな定義すらあるぐらい。
「真部分集合との間に一対一の対応がつくような集合のことを無限集合と呼ぶ。」
数学者は無限には濃度があると主張する。アレフ(ℵ)がそれだ。自然数の集合の濃度は、アレフゼロ。偶数の集合も、奇数の集合も、アレフゼロ。つまり、こうなる。
ℵ0 + ℵ0 = ℵ0 ???
対角線論法は、まさに写像のパラドックスを示している。実数全体の集合が無限直線上の数と一対一で対応する... ここまではいい。
しかし、だ。これが平面上のすべての点、さらに三次元空間上の、さらにさらに四次元空間上の、n次元空間上の... となると、写像の概念そのものを疑わずにはいられない。
そして、無限濃度はさらに抽象レベルを昇華させ、カントール集合論に対して、非カントール集合論に分派した。ユークリッド幾何学が、第五公準の矛盾をついて非ユークリッド幾何学と分派したように。
こうしてみると、パラドックスこそが数学の歴史に見えてくる。それは、悪魔との取引の歴史だ!というのは言い過ぎであろうか...
2. 統計の嘘と平等視の原理
いまや、初歩的な統計の知識を具えていないと、生きるのが難しい時代。保険、福利厚生、公衆衛生、広告、報道など多岐に渡って、数理統計なしでは運用が成り立たない。とはいえ、統計情報ってやつは、扱いを一つ間違うとまったく別の結論を導く。
マスコミがよく報じるものに「平均的な家庭」、「平均的な生活」、「平均所得」といったものがある。だが、平均ってやつは偏り方を示さないので、格差を闇に葬ってしまうばかりか、平均的な... という奇妙な価値観を押し付けてしまう。世論調査などは、質問の仕方でいかようにも操作できる。
本書は、平均値、中央値、最頻値という三つの尺度を持ち出し、民主主義の公平性を皮肉る。やはり統計は嘘をつくものらしい。
人間ってやつは、確率が低そうに見えるものを偶然と呼び、そこに因果関係を結び付けずにはいられない。決定論や運命論がそれだ。
例えば、統計のパラドックスに、有名な誕生日のネタがある。出鱈目に選んだ 23 人の中で、誕生日が一緒なのは 50% よりやや高く、40 人ともなれば 90% に跳ね上がる。そして、女性を口説くネタにするわけだ。運命の赤い糸は、いかようにも結ぶことができるし、いかようにも切ることができるという寸法よ。
また、偉大な数学者は長男が大半だそうな。というより、どんな社会でも、最も数の多いのが長男か長女となる。一人っ子なら、そのまんま。二人兄弟で、男と女なら、どちらも長男と長女。同性でも確率 1/2。そして、次男、三男、四男... の順に確率は減っていく。
著名な人物と同じ誕生日だとか、同じ出身地といった類いは、しばしば特別な偶然だと思い込ませる。
人間ってやつは、常に特別な存在でありたいと願っているようだ。いや、都合が悪くなると、すばやく大多数の中に紛れ込む。統計ってやつは、都合よく解釈できる代物というわけだ。ベンジャミン・ディズレーリは、うまいことを言った... 嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である... と。アドルフ・アイヒマンにかかれば、悲劇までも統計にしちまう... 一人の死は悲劇だが、百万の死は統計に過ぎない... と。
さらに、統計の捉え方で興味深いものに、ケインズが呼んだ「平等視の原理」というものを紹介してくれる。不確定な事象に対して、真か偽かの根拠が見つからないような場合、等しい確率で見積もりやすい、という根拠不十分な原理である。例えば、核戦争の起こる確率は?と問えば、有識者たちは五分五分と答える。不合理な確率が、不合理な結論を導き、不合理な行動を煽る。これが人間社会というものか。論理的矛盾をついた悪名高き歴史を持ってきた原理というわけである。
人間ってやつは、具体的な数値を見せられると、客観性に満ちていると思い込む傾向があるが、実は、数値そのものに主観性が満ち満ちている。裏付けってやつの威力は強力だ。いや、裏付けがありそうに装うことが...
3. 信者の賭け
宗教を信じるか信じないかを問いかける皮肉めいた問題に、あの有名な「パスカルの賭け」がある。ブレーズ・パスカルは、キリスト教の信仰が得かどうかを問うた。教会を信じなかった場合、教会が誤っていれば何も失わず、教会が正しければ地獄で限りない苦痛に直面するだろう。教会を信じた場合、教会が誤っていれば何も得をせず、教会が正しければ天国で永遠に幸福を得るだろう。したがって、教会が正しい方に賭ける方が有利だってさ。
キリスト教に限らず、あらゆる宗教は、信じることによって救われると教える。ならば、すべての宗教を信じればどうだろう。所詮、人間がこしらえたもの。宗教も、神という概念も。一つの宗派に固執したところで矛盾からは逃れられないのだから、すべての宗派を受け入れ、矛盾を歓迎してみてはどうだろう。それは、すべての宗教を信じないのと同じことのようにも映る。そして、無神論者や無宗教者の方が、高貴な宗派に見えてくる...
ところで、霊感商法は騙される側にも問題があると、よく言われる。とはいっても、だ。人間ってやつは、何かに縋らなければ生きてはゆけない存在。文化庁の統計によれば、日本の宗教法人の数は18万を超える(平成28年度)。未登録数を合わせれば、20万を超えるそうだ。そして、信者の数はというと、少なく見積もって、延べ1億8千万人、潜在的に2億人くらいになりそう。人口をはるかに超えるとは、これいかに?宗教なんて信用ならない!なんて言いながら、厄年になれば厄払いはするし、家を建てる時には地鎮祭をやるし、葬式仏教は大盛況ときた。人が死ねば墓が必要になり、墓地が高いとなれば納骨堂と契約を結び、自動的に宗派の会員となり、信者の数に加えられる。なるほど、「信者」と書いて「儲かる」ってか...
4. サイクロイドの誘惑
「自転車の車輪の上部は下部より速く動いているのを、ご存知ですか?」
実は知っているけど、改めて問われると、なんとなく感動してしまう。車輪の縁のある任意の点に着目して、どういう軌道を描くかを作図すれば、サイクロイド曲線になることは義務教育時代に証明済み。サイクロイド曲線は、車輪の頂点に向かって加速し、頂点に到達すると今度は地面に向かって減速する。しかも、地面との接点で瞬間的に静止してやがる。円の中心が単純な等速運動をしているにもかかわらず、外円では想像もつかない運動が生じているだけでなく、静止が関与しているところに、なんとなく感動してしまうのである。
静止には、不思議な力が宿る。人間は心拍停止を忌み嫌うが、心臓の運動にもどこかに瞬間的な静止状態があるはず。だから、永遠の静止に真の安らぎが求めるのか?いや、これも悪魔の仕業か?パラドックスってやつは、無限によって悪魔を目覚めさせ、統計によって嘘まみれにし、ついに永遠の静止へ導こうってか...
Contents
- 2018-04-15 "aha! Gotcha ゆかいなパラドックス(1, 2)" Martin Gardner 著
- 2018-04-08 "aha! Insight ひらめき思考(1, 2)" Martin Gardner 著
- 2018-04-01 超自然主義を見た... 人生はノーパンだ!はかない...
- 2018-03-25 "宇宙を復号(デコード)する" Charles Seife 著
- 2018-03-18 "ハイイロガンの動物行動学" Konrad Zacharias Lorenz 著
- 2018-03-11 "文明化した人間の八つの大罪" Konrad Zacharias Lorenz 著
- 2018-03-04 "ソロモンの指環" Konrad Zacharias Lorenz 著
- 2018-02-25 "一外交官の見た明治維新(上/下)" Ernest Mason Satow 著
- 2018-02-18 "ゲーテとの対話(上/中/下)" Johann Peter Eckermann 著
- 2018-02-11 "0ベース思考" Steven D. Levitt & Stephen J. Dubner 著
2018-04-15
2018-04-08
"aha! Insight ひらめき思考(1, 2)" Martin Gardner 著
古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい香りのする書を見つけた。マーティン・ガードナーの世界に魅せられたのは三十年以上前、おいらが美少年と呼ばれていた頃だ。今でも感動してしまうのは、進歩のない証か。エレガントな問題集には娯楽数学の極意が詰め込まれ、答えが見つかった時、ついニヤリとしてしまう。何かを悟った瞬間とは、そうしたものか。逆に答えが見つからなければ、ムヤムヤ感が溜まり、今夜は眠らせないよ!とピロートークを仕掛けてきやがる。それが、M にはたまらないときた...
ひらめきとは、突然変異の類いか。それとも、眠っていた意識が目覚めたに過ぎないのか。寝ずに考え抜き、夢の中まで攻め倒し、それでもどうにもならない難問が、まったく予期せぬタイミングで、ふとしたことから解決してしまうことがある。トイレで思いついたり、風呂場で思いついたり... アルキメデスの逸話は、下半身を解放してやることが解決の糸口であることを証明しているのか。どうやらフル思考は、フルちん志向と相性がいいらしい。
考えるとは、言葉を使って論理を展開すること。言葉とは記号であり、数学的に記述できれば、いっそう論理展開の道筋が見えてくる。そして、言葉を正しく知り、論理的思考を深めれば、日常の問題をもっと正しく、もっと賢く解決できるようになるはずだ。
しかしながら、論理数学ってやつは、ゲーデルが示したように不完全性の悪魔に取り憑かれている。すべての問題を演繹的に解決できればいいが、帰納的な思考も用いなければ、現実的な解決は望めない。この帰納的な思考に、自己矛盾という悪魔が背後霊のごとくつきまとう。証明も反証もできない無矛盾性に遭遇すれば、非決定性の問題で袋小路に迷い込む。
ライプニッツは、論理学を "Ars combinatoria(組合せ術)" と呼んだそうな。組合せ論において、不可能性の証明ほど難しいものはない。人類の未解決問題であった四色定理にしても、ケプラー予想にしても、答えを出したのはコンピュータであった。数学の問題は、なんでもコンピュータにかけちゃえ!という時代の到来か?
現実世界が論理で解決できないとなれば、トンチも有効な解決策となろう。本書にも、トンチ先生が登場する。トンチにはユーモアが含まれ、それはある種のジョークから発している。ジョークは感情で理解する領域にあり、人によってはジョークにならないこともある。アハ!とひらめく瞬間とは、こうした遊び心から発し、なによりも子供心から発している。マーティン・ガードナーは、たまには童心に帰ろうよ!と誘ってくる。創造力とユーモアには、密接な相関関係がありそうだ。
形式論理学だけで人間社会のあらゆる問題が解決できるならば、人間は精神を獲得する必要がなかったのかもしれない。いや、精神を獲得したがために、人間はこうも苦悩するのか。ニーチェはうまいことを言った... 笑いとは、地球上で一番苦しんでいる動物が発明したものである... と。だから、弁証法ってやつが重宝されるのか。なるほど、論理数学者とは、屁理屈屋であったか...
本書にはユーモアとは裏腹に、組合せ論、幾何学、数論、論理学など多岐に渡って、深遠な数学の概念がちりばめられる。人類の文明の始まりを規定することは難しいが、一つの考え方として、数を数えるようになったのが始まり、とすることはできよう。整数は、現実社会において実に有用な概念である。しかも、プラス側に重要な意味がある。なぜかって?人生という自然界にとって実にちっぽけな空間を生き抜くには、プラス思考でもなければやってられんよ。
人間の世界では具体的な数を与えることによって生活が営まれるが、数学の世界では問題の一般化が問われ、n という抽象化された数の法則が求められる。数の n への昇華とでもしておこうか。こうした数学的な思考の始まりは、ディオファントスの算術に見てとれる。線形方程式ってやつに。入力値を n で与え、多項式を n 次元で規定できれば、アルゴリズムを編み出すことが可能となり、コンピュータにかけてお仕舞い。プログラミングでは、いかに効率的なアルゴリズムを実装できるかが問われる。このテクニックは、時にはアートと呼べるほどのエレガントさを具えている。
本書は、OR(オペレーション・リサーチ)という研究分野を紹介してくれる。OR では、しばしば実務上の問題をグラフ化して考えるというから、グラフ理論にも通ずる。グラフ理論では、最小の極大木を求める「クラスカル法」のようなうまいやり方も見かけるが、「シュタイナーの木」のようなNP困難な問題もある。
グラフ志向は、今日のネットワーク制御でもよく用いられる。例えば、インターネットでは、物理的な距離を計測するよりも、ルーティング経路や帯域幅などで数値化するホップ数やメトリックのような見方が有用となる。こうした最適化の思考は... 料理人が厨房で最も効率的に多くの料理をこしらえるには... 企業が最も効率的な人員配置をするには... 最もコストのかからない軍事行動を行なうには... といった戦略的問題で有効となる。
そして、人生戦略に思考が及べば、今やることの優先順位を考えずにはいられず、今宵も眠れそうにない。寝不足こそ、思考を鈍らせる最大の敵にもかかわらず。なので、Aha! でも読んでストレス解消といきたい...
1. 組合せ論について
タイル貼りの問題では、正方形のパーツを並べていく分にはなんの悩みもないが、長方形となるとちと悩んでしまう。不規則な敷地をきちんと埋め尽くせるか?の問いには、その証明を奇数パリティを用いてエレガントにやってのける。
また、誤った錠剤の入った瓶を探す問題では、基数システムと結びつけて簡単に解決して魅せる。二進数と結びつけて。整数ならば、どんな数でも 2 の累乗で表すことができ、二進法はコンピュータ工学では欠かせない道具だ。こうした思考法は、デジタルシステムの誤り訂正システムでよく使う手である。
おまけに、トーナメント表で不戦勝者の数を決定する問題では、データソーティングと思考が同じときた。
組合せ論では、すべての組合せパターンを抽出し、それぞれの事象にとどまる可能性を探る。その意味で、最悪から逃れるためのパターン検索、という見方もでき、ここに確率論の本質を垣間見る。つまり、生き延びるための事象はどれか?という意味で。
そして、組合せによってグループ化や階層化する戦略は集合論にも通じ、組合せ論、確率論、集合論の三つの原理が切っても切り離せない関係にあることを味あわせてくれる。
2. 幾何学について
図形には、対称という美の概念がある。それは、形を移し替えても、幾何学的性質はそのままというもの。ユークリッド幾何学では、移動、回転、反射、拡大縮小といった操作を行った時に形の不変性を問い、アフィン幾何学では、形がある方法で引き伸ばされた時にベクトル的な不変性を問い、位相幾何学では、ゴム製の物を変形させるように乱暴にゆがめても、その基本的性質の不変性を問う。
さて、よく見かけるケーキを平等に切るといった問題では、差分法的な発想が登場する。微分の基本的な思考がこんなところに。ただ、誰も不平を言わないように切る実践的な方法となると、切る人の選択権の優先順位を下げるのが有効となろう。人間社会では、完全な平等よりも、平等そうに見える方が、はるかに重要なのだ。
極点を周遊するパイロットの話では、航程線(等角航路)という面白い曲線を扱う。到着場所は極点に収束することに。
元の鞘に収まるという話では、直線の剣ならば間違いなく鞘に収まるが、曲線ならばどこまで許容できるだろう?と問えば、近代科学で重要視される螺旋形が浮かび上がる。それは、自然界にあふれる形で貝殻や植物などに見つけることができ、DNA の分子構造もこれに従う。
ただ、螺旋構造は必ず右巻きか左巻きで規定されるので、対称性という観点からはどうであろう。人間社会には、実に多くの右巻きの概念が溢れている。時計回りに、ネジ、ボルト、ナットなど。そして、理髪店の看板も右側に登っていくように見える。回転軸に対して並進という意味で、やはり対称性を保っている。ちなみに、酔いどれ天の邪鬼のつむじは左巻きかは知らん...
3. 数論について
n への昇華を求めれば、n の呪縛に嵌まる。自然数の呪縛ってやつに。数え方のトリックでは、加算、減算、乗算、除算の四つの演算が、人間社会で主役を演じている。
しかし、だ。コンピュータの世界では、第五の演算と呼ばれるモジュロ演算こそが主役!数え方の合理性という意味では、人間はあまり合理的な存在ではないということか。
本書では、列をつくって行進する時に、最後尾に何人残るかで、全体の人数が簡単に把握できるという発想を魅せつける。何人の列にするかが、何を法とする剰余演算と等価になる。この思考法は、孫子の剰余定理としても知られ、数の循環性という性質を利用したもの。
ちなみに、孫子の兵法の孫子とは別人で、古代中国の数学書「孫子算経」に掲載される。
宗教的な匂いがプンプンする古典的な問題「ヨセフスの問題」もまた、数の循環性を問うものとして知られる。
また、n 個の物を m 個の箱に整理整頓する考えを、数学者たちは「鳩の巣原理」と呼ぶ。そう、あのディリクレの編み出した思考法だ。そこには、一対一で対応できない無限集合の影がつきまとう。
さらに、互いの数が素であるという性質が、時計の長針、短針、秒針が一致する時間が、12時以外にはないことを簡単に証明してくれる。
なるほど、モジュロ演算、ヨセフスの問題、鳩の巣原理、互いに素といった概念を数の循環性という観点から念じれば、一つの強力な道具が見えてくる。今日のネット社会を根本から支えてくれる暗号システムが、それだ。エラトステネスの篩のようなアルゴリズムは、古代数学者たちによって示されてきた。まさか!素数の発見者が、21世紀の暗号システムで根幹をなすとは思いもしなかったことだろう。さらに素数定理の精度が上がり、ゴールドバッハ予想までも凌駕すれば、人間社会はどうなるのだろう... と夢を膨らませずにはいられない。
4. 論理学について
論理的思考では、おそらく演繹的な思考が王道なのであろう。しかしながら、帰納的な思考がなければ、現実社会を生き抜くことは難しい。
帰納法という用語には、本質的に二つの意味があるという。科学的帰納法と数学的帰納法である。科学的帰納法とは、特定のものを観察することから、普遍的な結論へと飛躍するプロセスである。例えば、何羽かのカラスが黒いという事実を認めれば、すべてのカラスは黒いという結論を導く。もちろん、この結論は確実なものとはならないし、一つの例外が認められれば、この法則はおじゃん!
対して、数学的帰納法は、科学的帰納法とはまったく違い、すべて演繹的な思考で導き出され、その法則の可能性は無限までも凌駕しうる。神をも凌駕しようってか。ただ、演繹的な思考で導くのに、帰納法とは、これいかに?
ところで、論理学の言い回しでは、なぞなぞのような紛らわしい記述によく出くわす。法律の条文、定義、規格といった記述にも顕著に現れ、政治屋ならこれを利用しない手はない。
本書は、ディスコのチークタイムで男女の組合せを扱う問題で、パターンを視覚化する「チャートメソッド」という概念を持ち出す。コンピュータ工学を学べば、カルノー図やクワイン・マクラスキー法といった論理式を簡略化する方法に出くわすが、これらに通ずるものがある。
形式論理学の基本的な形に、二元的な関係がある。もし... ならば... という文章の形が、その典型例。論理の基本構造は、二分岐で組み立てられ、条件の階層化によって複雑な論理回路を構成していく。
したがって、データ構造と分岐構文を理解できれば、ほぼプログラムが書けるだろう。分岐構造を持たないプログラム言語をおいらは知らない。とはいえ、プログラミング言語を操る上でデータ構造を理解することが、なかなか手ごわいのだけど...
5. いまさらだけど... 感動!
「リングの面積は、リングの内部のひくことのできる最長の長さを直径とするような円の面積に等しい。」
この驚くべき定理は、円の面積を求める公式で簡単に証明できる。内側の円の半径を、最小値に近づけ、ゼロとなったらどうなるか?と考える。すると、内側の円に外接する弦の長さが直径と同じになる。
すなわち、弦の長さが分かれば、どんな円であろうと、リングの面積が分かるという寸法だ。おそらく義務教育の時代に出くわしたような気がするが、いまさらながら感動してしまう!
6. 少なくとも一つは... という型の問題
この類いの問題は、昔からある楽しい数学のパズル。本書は、よくある問題として、レストランで帽子を間違える話を紹介してくれる。
不注意なクローク係が、番号札と帽子の組を合わせず、出鱈目に番号札を渡してしまったとさ。少なくとも一人が帽子を返してもらえる確率は?この確率は、帽子の数が大きくなるほど、ある値に近づくという。
1 + (1/e)、つまり 1/2 強に...
e とは、ネイピア数で、この無理数が誤り率の限りない答えを示していることに、なんとなく惹かれる。
ちなみに、数学界には、二つの超越数の派閥がある。円周率π派と、ネイピア数 e 派である。誰がどちらの派に属すかはすぐに見分けられる。酔いどれ天の邪鬼は、e 派だ。その証拠に、脚線美に自然美の対(つい)を感じる。断じてオッパイ星人ではない...
ひらめきとは、突然変異の類いか。それとも、眠っていた意識が目覚めたに過ぎないのか。寝ずに考え抜き、夢の中まで攻め倒し、それでもどうにもならない難問が、まったく予期せぬタイミングで、ふとしたことから解決してしまうことがある。トイレで思いついたり、風呂場で思いついたり... アルキメデスの逸話は、下半身を解放してやることが解決の糸口であることを証明しているのか。どうやらフル思考は、フルちん志向と相性がいいらしい。
考えるとは、言葉を使って論理を展開すること。言葉とは記号であり、数学的に記述できれば、いっそう論理展開の道筋が見えてくる。そして、言葉を正しく知り、論理的思考を深めれば、日常の問題をもっと正しく、もっと賢く解決できるようになるはずだ。
しかしながら、論理数学ってやつは、ゲーデルが示したように不完全性の悪魔に取り憑かれている。すべての問題を演繹的に解決できればいいが、帰納的な思考も用いなければ、現実的な解決は望めない。この帰納的な思考に、自己矛盾という悪魔が背後霊のごとくつきまとう。証明も反証もできない無矛盾性に遭遇すれば、非決定性の問題で袋小路に迷い込む。
ライプニッツは、論理学を "Ars combinatoria(組合せ術)" と呼んだそうな。組合せ論において、不可能性の証明ほど難しいものはない。人類の未解決問題であった四色定理にしても、ケプラー予想にしても、答えを出したのはコンピュータであった。数学の問題は、なんでもコンピュータにかけちゃえ!という時代の到来か?
現実世界が論理で解決できないとなれば、トンチも有効な解決策となろう。本書にも、トンチ先生が登場する。トンチにはユーモアが含まれ、それはある種のジョークから発している。ジョークは感情で理解する領域にあり、人によってはジョークにならないこともある。アハ!とひらめく瞬間とは、こうした遊び心から発し、なによりも子供心から発している。マーティン・ガードナーは、たまには童心に帰ろうよ!と誘ってくる。創造力とユーモアには、密接な相関関係がありそうだ。
形式論理学だけで人間社会のあらゆる問題が解決できるならば、人間は精神を獲得する必要がなかったのかもしれない。いや、精神を獲得したがために、人間はこうも苦悩するのか。ニーチェはうまいことを言った... 笑いとは、地球上で一番苦しんでいる動物が発明したものである... と。だから、弁証法ってやつが重宝されるのか。なるほど、論理数学者とは、屁理屈屋であったか...
本書にはユーモアとは裏腹に、組合せ論、幾何学、数論、論理学など多岐に渡って、深遠な数学の概念がちりばめられる。人類の文明の始まりを規定することは難しいが、一つの考え方として、数を数えるようになったのが始まり、とすることはできよう。整数は、現実社会において実に有用な概念である。しかも、プラス側に重要な意味がある。なぜかって?人生という自然界にとって実にちっぽけな空間を生き抜くには、プラス思考でもなければやってられんよ。
人間の世界では具体的な数を与えることによって生活が営まれるが、数学の世界では問題の一般化が問われ、n という抽象化された数の法則が求められる。数の n への昇華とでもしておこうか。こうした数学的な思考の始まりは、ディオファントスの算術に見てとれる。線形方程式ってやつに。入力値を n で与え、多項式を n 次元で規定できれば、アルゴリズムを編み出すことが可能となり、コンピュータにかけてお仕舞い。プログラミングでは、いかに効率的なアルゴリズムを実装できるかが問われる。このテクニックは、時にはアートと呼べるほどのエレガントさを具えている。
本書は、OR(オペレーション・リサーチ)という研究分野を紹介してくれる。OR では、しばしば実務上の問題をグラフ化して考えるというから、グラフ理論にも通ずる。グラフ理論では、最小の極大木を求める「クラスカル法」のようなうまいやり方も見かけるが、「シュタイナーの木」のようなNP困難な問題もある。
グラフ志向は、今日のネットワーク制御でもよく用いられる。例えば、インターネットでは、物理的な距離を計測するよりも、ルーティング経路や帯域幅などで数値化するホップ数やメトリックのような見方が有用となる。こうした最適化の思考は... 料理人が厨房で最も効率的に多くの料理をこしらえるには... 企業が最も効率的な人員配置をするには... 最もコストのかからない軍事行動を行なうには... といった戦略的問題で有効となる。
そして、人生戦略に思考が及べば、今やることの優先順位を考えずにはいられず、今宵も眠れそうにない。寝不足こそ、思考を鈍らせる最大の敵にもかかわらず。なので、Aha! でも読んでストレス解消といきたい...
1. 組合せ論について
タイル貼りの問題では、正方形のパーツを並べていく分にはなんの悩みもないが、長方形となるとちと悩んでしまう。不規則な敷地をきちんと埋め尽くせるか?の問いには、その証明を奇数パリティを用いてエレガントにやってのける。
また、誤った錠剤の入った瓶を探す問題では、基数システムと結びつけて簡単に解決して魅せる。二進数と結びつけて。整数ならば、どんな数でも 2 の累乗で表すことができ、二進法はコンピュータ工学では欠かせない道具だ。こうした思考法は、デジタルシステムの誤り訂正システムでよく使う手である。
おまけに、トーナメント表で不戦勝者の数を決定する問題では、データソーティングと思考が同じときた。
組合せ論では、すべての組合せパターンを抽出し、それぞれの事象にとどまる可能性を探る。その意味で、最悪から逃れるためのパターン検索、という見方もでき、ここに確率論の本質を垣間見る。つまり、生き延びるための事象はどれか?という意味で。
そして、組合せによってグループ化や階層化する戦略は集合論にも通じ、組合せ論、確率論、集合論の三つの原理が切っても切り離せない関係にあることを味あわせてくれる。
2. 幾何学について
図形には、対称という美の概念がある。それは、形を移し替えても、幾何学的性質はそのままというもの。ユークリッド幾何学では、移動、回転、反射、拡大縮小といった操作を行った時に形の不変性を問い、アフィン幾何学では、形がある方法で引き伸ばされた時にベクトル的な不変性を問い、位相幾何学では、ゴム製の物を変形させるように乱暴にゆがめても、その基本的性質の不変性を問う。
さて、よく見かけるケーキを平等に切るといった問題では、差分法的な発想が登場する。微分の基本的な思考がこんなところに。ただ、誰も不平を言わないように切る実践的な方法となると、切る人の選択権の優先順位を下げるのが有効となろう。人間社会では、完全な平等よりも、平等そうに見える方が、はるかに重要なのだ。
極点を周遊するパイロットの話では、航程線(等角航路)という面白い曲線を扱う。到着場所は極点に収束することに。
元の鞘に収まるという話では、直線の剣ならば間違いなく鞘に収まるが、曲線ならばどこまで許容できるだろう?と問えば、近代科学で重要視される螺旋形が浮かび上がる。それは、自然界にあふれる形で貝殻や植物などに見つけることができ、DNA の分子構造もこれに従う。
ただ、螺旋構造は必ず右巻きか左巻きで規定されるので、対称性という観点からはどうであろう。人間社会には、実に多くの右巻きの概念が溢れている。時計回りに、ネジ、ボルト、ナットなど。そして、理髪店の看板も右側に登っていくように見える。回転軸に対して並進という意味で、やはり対称性を保っている。ちなみに、酔いどれ天の邪鬼のつむじは左巻きかは知らん...
3. 数論について
n への昇華を求めれば、n の呪縛に嵌まる。自然数の呪縛ってやつに。数え方のトリックでは、加算、減算、乗算、除算の四つの演算が、人間社会で主役を演じている。
しかし、だ。コンピュータの世界では、第五の演算と呼ばれるモジュロ演算こそが主役!数え方の合理性という意味では、人間はあまり合理的な存在ではないということか。
本書では、列をつくって行進する時に、最後尾に何人残るかで、全体の人数が簡単に把握できるという発想を魅せつける。何人の列にするかが、何を法とする剰余演算と等価になる。この思考法は、孫子の剰余定理としても知られ、数の循環性という性質を利用したもの。
ちなみに、孫子の兵法の孫子とは別人で、古代中国の数学書「孫子算経」に掲載される。
宗教的な匂いがプンプンする古典的な問題「ヨセフスの問題」もまた、数の循環性を問うものとして知られる。
また、n 個の物を m 個の箱に整理整頓する考えを、数学者たちは「鳩の巣原理」と呼ぶ。そう、あのディリクレの編み出した思考法だ。そこには、一対一で対応できない無限集合の影がつきまとう。
さらに、互いの数が素であるという性質が、時計の長針、短針、秒針が一致する時間が、12時以外にはないことを簡単に証明してくれる。
なるほど、モジュロ演算、ヨセフスの問題、鳩の巣原理、互いに素といった概念を数の循環性という観点から念じれば、一つの強力な道具が見えてくる。今日のネット社会を根本から支えてくれる暗号システムが、それだ。エラトステネスの篩のようなアルゴリズムは、古代数学者たちによって示されてきた。まさか!素数の発見者が、21世紀の暗号システムで根幹をなすとは思いもしなかったことだろう。さらに素数定理の精度が上がり、ゴールドバッハ予想までも凌駕すれば、人間社会はどうなるのだろう... と夢を膨らませずにはいられない。
4. 論理学について
論理的思考では、おそらく演繹的な思考が王道なのであろう。しかしながら、帰納的な思考がなければ、現実社会を生き抜くことは難しい。
帰納法という用語には、本質的に二つの意味があるという。科学的帰納法と数学的帰納法である。科学的帰納法とは、特定のものを観察することから、普遍的な結論へと飛躍するプロセスである。例えば、何羽かのカラスが黒いという事実を認めれば、すべてのカラスは黒いという結論を導く。もちろん、この結論は確実なものとはならないし、一つの例外が認められれば、この法則はおじゃん!
対して、数学的帰納法は、科学的帰納法とはまったく違い、すべて演繹的な思考で導き出され、その法則の可能性は無限までも凌駕しうる。神をも凌駕しようってか。ただ、演繹的な思考で導くのに、帰納法とは、これいかに?
ところで、論理学の言い回しでは、なぞなぞのような紛らわしい記述によく出くわす。法律の条文、定義、規格といった記述にも顕著に現れ、政治屋ならこれを利用しない手はない。
本書は、ディスコのチークタイムで男女の組合せを扱う問題で、パターンを視覚化する「チャートメソッド」という概念を持ち出す。コンピュータ工学を学べば、カルノー図やクワイン・マクラスキー法といった論理式を簡略化する方法に出くわすが、これらに通ずるものがある。
形式論理学の基本的な形に、二元的な関係がある。もし... ならば... という文章の形が、その典型例。論理の基本構造は、二分岐で組み立てられ、条件の階層化によって複雑な論理回路を構成していく。
したがって、データ構造と分岐構文を理解できれば、ほぼプログラムが書けるだろう。分岐構造を持たないプログラム言語をおいらは知らない。とはいえ、プログラミング言語を操る上でデータ構造を理解することが、なかなか手ごわいのだけど...
5. いまさらだけど... 感動!
「リングの面積は、リングの内部のひくことのできる最長の長さを直径とするような円の面積に等しい。」
この驚くべき定理は、円の面積を求める公式で簡単に証明できる。内側の円の半径を、最小値に近づけ、ゼロとなったらどうなるか?と考える。すると、内側の円に外接する弦の長さが直径と同じになる。
すなわち、弦の長さが分かれば、どんな円であろうと、リングの面積が分かるという寸法だ。おそらく義務教育の時代に出くわしたような気がするが、いまさらながら感動してしまう!
6. 少なくとも一つは... という型の問題
この類いの問題は、昔からある楽しい数学のパズル。本書は、よくある問題として、レストランで帽子を間違える話を紹介してくれる。
不注意なクローク係が、番号札と帽子の組を合わせず、出鱈目に番号札を渡してしまったとさ。少なくとも一人が帽子を返してもらえる確率は?この確率は、帽子の数が大きくなるほど、ある値に近づくという。
1 + (1/e)、つまり 1/2 強に...
e とは、ネイピア数で、この無理数が誤り率の限りない答えを示していることに、なんとなく惹かれる。
ちなみに、数学界には、二つの超越数の派閥がある。円周率π派と、ネイピア数 e 派である。誰がどちらの派に属すかはすぐに見分けられる。酔いどれ天の邪鬼は、e 派だ。その証拠に、脚線美に自然美の対(つい)を感じる。断じてオッパイ星人ではない...
2018-04-01
超自然主義を見た... 人生はノーパンだ!はかない...
今日、四月一日、午前四時... ステーキハウスでこってりとした朝食をとり、いつもの一日が始まる。脂ぎった精神には、ジューシーな脂肪分を摂取せねば...
ポータルサイトを訪れては、右から左へ流れていく情報の群れ、群れ、群れ... そして、じっと手を見る。我、退屈なり!
物憂い小春日和が、すべてを物語っているではないか。劇的なドラマなどあろうはずがないと。ちょっとした変化に期待しても、想定外の変化は迷惑千万!最後の砦を頑なに守ろうと必死だ。自我という砦を...
すべてを曝け出し、自然体でいることが、如何に難しいか!これを素直に実践できれば、思考の柔軟性を富ませるであろうに...
おいらはポーカーフェースが苦手だ。シリアスな顔は1分ともたない。慣れない筋肉を使えば、顔の筋肉がつる!自然体を体現するには、まずは力まないこと。まずもって自己を欺瞞しないこと。だが、自分に嘘をつかないで生きることが、如何に難しいか!そもそも嘘をついていることに、自分自身が気づかないでいる。
むかーし、ノーパン喫茶というのがあったと聞く。ノーパンしゃぶしゃぶってのも耳にした。そんな専門用語を羅列されても、おいらには何のことやら?まったく縁がない!決してない!断じてない!
ちなみに、「忘れっぽい嘘つきほど、気の毒なものはない。」とは、F・M・ノールズの言葉だ。
自己とはなんだ?交通事故の類いか?欺瞞とはなんだ?銀杏の類いか?夜の社交場で出会い頭に店に入ると、いつも乾き物をつまんでいる。
すべてを曝け出し、自然の姿のままでいることが、如何に難しいか!いくら仕事場が完全個室で、生まれたままの姿でいられるとはいえ、玄関のチャイムが鳴るとパンツを履くのに大慌て。実に果敢ない!思考が集中していれば、我を忘れてスッポンポンでお出迎え。その時に限って女性のセールスときた。いや、セールスお断りを強烈にアピールできれば、OK!ある落語家は言った... 人生はノーパンだ!はかない!
1. フル思考とフルチン志向
ゲシュタルト崩壊を起こした今、夢も現実もごっちゃ。妄想に耽り、妄想が妄想を呼び、妄想の産物が煩悩を神格化させる。それでもなお、ナマの女体に遠く及ばないとは、どういうわけだ?
思考を自由に解放することが、如何に難しいか!思考の制御は実に手強い。集中力ってやつは、いつも気まぐれときた。思考の方向性を誘導することはできても、難題を本当の意味で解決するためにはフル思考を要請する。最も理想的な精神状態と言えば、フロー状態であろう。無我の境地に達することができれば、雑念が完全に消え去り、時間や空間を超越した快楽へ導かれる。
ただ奇妙なことに、着想が湧いて出る瞬間は、思考しようという思惑から解放された場面に遭遇する。トイレで遭遇するという人もいるが、おいらの場合はお風呂!気分転換にスパでオイルマッサージを受けていると、突然解決策が頭に浮かび、メモに走る。かのアルキメデスには、叫びながら浴場から素っ裸で飛び出したという武勇伝がある。ヘウレーカ!フル思考とフルチン志向はすこぶる相性が良いと見える...
2. 裸体族を夢見て...
かつて人間社会は自然界の一員であった。現在もそうなのかは知らんが、自然回帰への憧れとして、ヌーディスト祭りなるものが出現した。それは、現代社会がもはや自然には戻れないという絶望感の現れか?どこかに人工的文化に歯止めをかけないとまずいとの考えからか?ナチュラリストと呼べば聞こえはいいが、ヌーディストと呼ばれると赤面しちゃう。
自由な身体の文化は、十八世紀末にドイツで始まったと聞く。それは、工業化や近代化に反発する形で現れた。その伝統は、1927年に公開されたサイレント映画「メトロポリス」に通ずるものがある。近未来批判ってやつだ。ナチス時代に廃止されるものの、その後、アーリア人の身体を語る文化として復権したらしいが、七十年代の旧東ドイツで盛んになったとか。FNN ビーチなどは伝統精神を守っているようで、一度誘われたことがあるが、その精神が健在とはいえ、若者離れが進んでいるとも聞く。
やはり生まれたままの姿は、自然とすこぶる相性がいい。家の中でもフルチンでいたいが、家族がいればそうもいかない。一人暮らし時代の、あのぶーらぶらな生活が懐かしい...
3. 自然学は、やめられまへんなぁ...
天文学がまだ占星術の域を脱せず、ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽していた時代、科学的な知的探求は「自然哲学」と呼ばれた。「科学」という用語が広く認知されるようになったのは十七世紀頃、科学革命の時代になってからである。
アリストテレスは、「自然学」という大作を成立させ、形而上学を第一の哲学、自然学を第二の哲学とした。彼の運動論は、「存在」という観念的な上位概念から発しており、実際、物質的存在を強烈に印象づける物理量が「重力」ってやつだ。命の重さを問うたところで、人間は明確な重さの尺度を持ち合わせていない。ひたすら自己存在の重さをアピールし、女性は天空の聖母に憧れて体重計の御前で存在の軽さを演じる。人間ってやつは、なにごとにも存在を意識した途端に、その存在意義を求めてやまない。そして、精神という得体の知れない存在を、形而の上に位置づけるのである。人間の存在が自然界の合目的に適っているか?って、そんなことは知らんよ。
そういえば、ある作家が、こんなことを言ったとか、言わなかったとか...
さて、諸君は自然哲学者と宗教家との違いをご存知だろうか。自然哲学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、真理が見つからないと嘆いては、弁証法級の屁理屈を並べて自己満足に浸る連中。宗教家とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、それを見つけたと豪語しては、信じる者は救われると吹聴して回る連中... と。
ちなみに、「信じる者」と書いて「儲かる」となる。自然学にせよ、信仰にせよ、やめられまへんなぁ...
「満足は、自然の与える富である。贅沢は、人間の与える貧困である。」... ソクラテス
「自然によってつくられた、人間と野獣との違いよりもはるかに大きな違いが、教育というものによって、人間と人間との間にできるものである。」... ジョン・アダムズ
「すべては自然が書いた偉大な書物を学ぶことから生まれる。人間が造る物は、すでにその偉大な書物の中に書かれている。」... アントニ・ガウディ
ポータルサイトを訪れては、右から左へ流れていく情報の群れ、群れ、群れ... そして、じっと手を見る。我、退屈なり!
物憂い小春日和が、すべてを物語っているではないか。劇的なドラマなどあろうはずがないと。ちょっとした変化に期待しても、想定外の変化は迷惑千万!最後の砦を頑なに守ろうと必死だ。自我という砦を...
すべてを曝け出し、自然体でいることが、如何に難しいか!これを素直に実践できれば、思考の柔軟性を富ませるであろうに...
おいらはポーカーフェースが苦手だ。シリアスな顔は1分ともたない。慣れない筋肉を使えば、顔の筋肉がつる!自然体を体現するには、まずは力まないこと。まずもって自己を欺瞞しないこと。だが、自分に嘘をつかないで生きることが、如何に難しいか!そもそも嘘をついていることに、自分自身が気づかないでいる。
むかーし、ノーパン喫茶というのがあったと聞く。ノーパンしゃぶしゃぶってのも耳にした。そんな専門用語を羅列されても、おいらには何のことやら?まったく縁がない!決してない!断じてない!
ちなみに、「忘れっぽい嘘つきほど、気の毒なものはない。」とは、F・M・ノールズの言葉だ。
自己とはなんだ?交通事故の類いか?欺瞞とはなんだ?銀杏の類いか?夜の社交場で出会い頭に店に入ると、いつも乾き物をつまんでいる。
すべてを曝け出し、自然の姿のままでいることが、如何に難しいか!いくら仕事場が完全個室で、生まれたままの姿でいられるとはいえ、玄関のチャイムが鳴るとパンツを履くのに大慌て。実に果敢ない!思考が集中していれば、我を忘れてスッポンポンでお出迎え。その時に限って女性のセールスときた。いや、セールスお断りを強烈にアピールできれば、OK!ある落語家は言った... 人生はノーパンだ!はかない!
1. フル思考とフルチン志向
ゲシュタルト崩壊を起こした今、夢も現実もごっちゃ。妄想に耽り、妄想が妄想を呼び、妄想の産物が煩悩を神格化させる。それでもなお、ナマの女体に遠く及ばないとは、どういうわけだ?
思考を自由に解放することが、如何に難しいか!思考の制御は実に手強い。集中力ってやつは、いつも気まぐれときた。思考の方向性を誘導することはできても、難題を本当の意味で解決するためにはフル思考を要請する。最も理想的な精神状態と言えば、フロー状態であろう。無我の境地に達することができれば、雑念が完全に消え去り、時間や空間を超越した快楽へ導かれる。
ただ奇妙なことに、着想が湧いて出る瞬間は、思考しようという思惑から解放された場面に遭遇する。トイレで遭遇するという人もいるが、おいらの場合はお風呂!気分転換にスパでオイルマッサージを受けていると、突然解決策が頭に浮かび、メモに走る。かのアルキメデスには、叫びながら浴場から素っ裸で飛び出したという武勇伝がある。ヘウレーカ!フル思考とフルチン志向はすこぶる相性が良いと見える...
2. 裸体族を夢見て...
かつて人間社会は自然界の一員であった。現在もそうなのかは知らんが、自然回帰への憧れとして、ヌーディスト祭りなるものが出現した。それは、現代社会がもはや自然には戻れないという絶望感の現れか?どこかに人工的文化に歯止めをかけないとまずいとの考えからか?ナチュラリストと呼べば聞こえはいいが、ヌーディストと呼ばれると赤面しちゃう。
自由な身体の文化は、十八世紀末にドイツで始まったと聞く。それは、工業化や近代化に反発する形で現れた。その伝統は、1927年に公開されたサイレント映画「メトロポリス」に通ずるものがある。近未来批判ってやつだ。ナチス時代に廃止されるものの、その後、アーリア人の身体を語る文化として復権したらしいが、七十年代の旧東ドイツで盛んになったとか。FNN ビーチなどは伝統精神を守っているようで、一度誘われたことがあるが、その精神が健在とはいえ、若者離れが進んでいるとも聞く。
やはり生まれたままの姿は、自然とすこぶる相性がいい。家の中でもフルチンでいたいが、家族がいればそうもいかない。一人暮らし時代の、あのぶーらぶらな生活が懐かしい...
3. 自然学は、やめられまへんなぁ...
天文学がまだ占星術の域を脱せず、ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽していた時代、科学的な知的探求は「自然哲学」と呼ばれた。「科学」という用語が広く認知されるようになったのは十七世紀頃、科学革命の時代になってからである。
アリストテレスは、「自然学」という大作を成立させ、形而上学を第一の哲学、自然学を第二の哲学とした。彼の運動論は、「存在」という観念的な上位概念から発しており、実際、物質的存在を強烈に印象づける物理量が「重力」ってやつだ。命の重さを問うたところで、人間は明確な重さの尺度を持ち合わせていない。ひたすら自己存在の重さをアピールし、女性は天空の聖母に憧れて体重計の御前で存在の軽さを演じる。人間ってやつは、なにごとにも存在を意識した途端に、その存在意義を求めてやまない。そして、精神という得体の知れない存在を、形而の上に位置づけるのである。人間の存在が自然界の合目的に適っているか?って、そんなことは知らんよ。
そういえば、ある作家が、こんなことを言ったとか、言わなかったとか...
さて、諸君は自然哲学者と宗教家との違いをご存知だろうか。自然哲学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、真理が見つからないと嘆いては、弁証法級の屁理屈を並べて自己満足に浸る連中。宗教家とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、それを見つけたと豪語しては、信じる者は救われると吹聴して回る連中... と。
ちなみに、「信じる者」と書いて「儲かる」となる。自然学にせよ、信仰にせよ、やめられまへんなぁ...
「満足は、自然の与える富である。贅沢は、人間の与える貧困である。」... ソクラテス
「自然によってつくられた、人間と野獣との違いよりもはるかに大きな違いが、教育というものによって、人間と人間との間にできるものである。」... ジョン・アダムズ
「すべては自然が書いた偉大な書物を学ぶことから生まれる。人間が造る物は、すでにその偉大な書物の中に書かれている。」... アントニ・ガウディ
2018-03-25
"宇宙を復号(デコード)する" Charles Seife 著
宇宙の基本教義の一つに... エネルギーは創造されも、破壊されもしない... というのがある。熱力学の法則は... 熱量は無からは創造できない。系を撹乱することなく、仕事をすることはできない。永久機関を組み立てることなど不可能だ... と告げる。どうやら宇宙に存在しうるエネルギーの総量は一定のようである。
では、エネルギーとは何か?今日、エネルギーは物理法則を根底から支える物理量として君臨しているが、そもそもは力の源として、得体の知れないものとして捉えられてきた。アリストテレスの運動論以来、力の作用をめぐる議論は迷走を続け、インペトゥス、モーメント、トルク、フォースなど様々な用語が乱立してきたのである。アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示し、力は質量を通じてエネルギーという具体的な物理量と結びついた。
さらに、著者チャールズ・サイフェは、この物理量の抽象化を試みる。「情報」という概念によって。彼に言わせると、相対性理論も量子力学も情報の理論だという。
相対性理論は、核心において情報をいかに速く伝送するかの理論... といえばその通りだろう。その限界は光速によって定められる。
量子力学は、観測系が関わると物質から真の情報が引き出せないことを告げ、真空状態であっても、量子のゆらぎによって粒子と反粒子の対消滅を繰り返し、情報の痕跡らしきものを残すと言っている。
なるほど、どちらもシャノンの理論より先に現れたものの、しっかりと情報理論が絡んでやがる。情報ってやつは、掴みどころのない抽象的な存在ではなく、シャノンのおかげで具体的に数値化でき、物理量として計測できる。だからこそコンピュータ工学の礎をなす。インターネットで体現される情報エネルギーの威力は凄まじい。そして、復号(デコード)とは、情報をいかに解釈するか、ということになる。こうしてみると、あらゆる学問、あらゆる知識が、情報の手先に見えてくる...
また、エネルギーの絶対的な法則に、エントロピーってやつがある。覆水盆に返らず... 喰ったラーメンは胃袋の中... 空けちまったボトルにおとといおいで... といった類いは、すべてこの法則の支配下にある。おまけに、時間の矢という一方向性が、人間の認識能力を記憶の時間軸に幽閉しやがる。
そして、情報理論にも情報エントロピーってやつがあるが、本書はこれをさらに抽象化した観点から、量子力学が唱えるデコヒーレンスを持ち出す。生きている、かつ、死んでいるといった重ね合わせ状態で存在することが、なぜ量子にはできて、猫にはできないのか?というシュレーディンガーの謎掛けも、デコヒーレンスが理解の助けになると...
物質が宇宙の隅々にまで行き渡ろうとしているとしたら、情報もまた宇宙の隅々にまで伝わろうとしているのだろう。無毛定理は、ブラックホール理論の基本教義の一つとしてある。この暗黒の天体はすべてを飲み尽くし、毛もないというわけだが、それは何を意味しているのだろうか?巨大な情報貯蔵庫なのか?ブラックホールは、究極のコンピュータになろうとしているのか?いや、悪魔が、限りない重力を元手にあらゆる情報を収集しようと目論んでいるかもしれない。人間が、楽してすべての知を得ようとするように。
ただ、人間が収集する情報は冗長性に満ちているが、おそらくブラックホールには冗長性なんて概念の欠片もないだろう。そして、ブラックホールの死とともに、すべての情報は解放されるのか?人間の死によって、自由意思が完全に解放されるように。なるほど、馬鹿は死ななきゃ治らない!とは、この原理であったか...
「論理的で一貫性(コヒーレント)のある不条理を棄てて、非論理的で一貫性のない不条理を受け入れるというのは、いったいどんな解放なんだい。」
... ジェイムズ・ジョイス「若き芸術家の肖像」より。
本書は、「情報」という概念について考え直す機会を与えてくれるが、さらに、「観測」という概念についても改めて考えさせられる。ハイゼンベルグの不確定性原理は、観測者が相補的な二つの属性を同時に正確に測定することは不可能だと言っている。これは、情報への制約だ。では、観測者とは誰か?なにも人間のような知的生命体である必要はあるまい。
量子力学は、「ゆらぎ」という概念を唱える。反物質は物質に触れた途端に消滅し、その質量はエネルギーとなって、束の間の存在という痕跡を残す。何かに触れるということは、何かと関係するってことだ。それは、何か情報を伝えたことを意味するのか?なるほど、存在とは、情報の痕跡を残すことであったか...
ところで、自己存在を強烈に印象づける力の類いに重力ってやつがある。まさに人間の命は重さにかかっており、それが自意識の源ともなれば誰もが血眼。ただ、人間は明確な重さの尺度を持ち合わせていない。自意識が強くなるほど、なんでもいいから何かと関わりたくてしょうがない。それは、自己との関わりでも構わない。孤独愛好家は独り言で充分に心を満たす。自己啓発や自己実現もまた自己観測の類いで、自己情報の収集を意味する。まるで観測依存症!
これほど情報を欲するのは、物質の性癖か?何かに絡まずにはいられないのは、「量子のからみ」の影響か?ついでに、なんでもワイドショー化してしまうのも、物質の性癖か?人間ってやつは、夢想、瞑想、妄想を続けてもなお飽き足らず、仮想空間をさまようことのできる情報的存在というわけか。そして、いつも心はゆらいでいる。自己存在を自己否定によって抹殺するのも、存在のゆらぎってやつか...
1. エントロピーと情報理論の相性
ボルツマンの墓碑には、あの公式が刻まれる。そう、エントロピー S の公式だ。
S = k log W
W は、存在しうる状態の数。k は、ボルツマン定数。
ボルツマンは、躁と鬱の状態を繰り返す双極性障害に苦しみ、自ら命を絶ったと伝えられる。それは、自ら存在のゆらぎ、すなわち対消滅を体現したのであろうか...
一方、シャノンが提示した公式がこれ。
S = - ΣPi log Pi
Piは、送られた情報量の中に、あるメッセージが含まれる確率。
二つの方程式は、そっくり。情報量に生起確率が絡むと、エントロピーになるってか。あらゆる物理現象、あらゆる人生、あらゆる運命は、確率論に支配されている。すべての物質の存在や状態は確率的に表せる。おそらく反物質も。アインシュタインは「エントロピーはすべての科学の第一法則」と言ったが、どうやら本当らしい。
とりうる状態 W = 1 の状況下では、エントロピーは永遠に S = 0 のままとなり、確率が存在するということが、あらゆる変化や進化に柔軟性を与えることを表している。男が生まれるのも、女が生まれるのも、はたまた天才が生まれ出るのも、障碍者が生まれ出るのも、遺伝子の組換え確率であり、運命論を信じるか、決定論を信じるかも、自由意思の選択確率だ。犯罪も、戦争も、災害も... 人間の気まぐれにも困ったものだが、神の気まぐれには往生する。
また、シャノンは、情報量にマイナス符号を与えているので、負のエントロピーやネゲントロピーとも言われる。情報もまたエネルギーのように... 創造されも、破壊されもしない... ということか。
ちなみに、シャノンはこの関数を「インフォメーション」と呼ぶことを考えたが、あまりにも使い古された用語なので、「不確実性」と呼ぶことにしたそうな。そして、フォン・ノイマンと意見交換をしたところ、彼はもっといい考えを思いついたという。
「エントロピーと呼ぶのがいい。理由は二つある。第一に、きみの不確実性関数は統計力学ではその名前で用いられてきたのだから、名前はもうある。第二に、こちらのほうがもっと重要だが、エントロピーとは何なのか、だれも知らないから、論争ではいつもきみが有利だ。」
2. 対数の妙技
エントロピーと情報理論の公式は、どちらも対数を基調にしている。対数で定義される方程式は、底を省略して記述されることが多く、本質的な現象を掴むには、むしろ底は曖昧な方がいい。対数は、単なる指数関数の逆関数という以上に、抽象化した思考方法を与えてくれる。エントロピーの公式こそ、底にネイピア数 e を選んだがためにボルツマン定数に存在感を与えているが、実は、底に何を選ぼうが大した問題ではない。
例えば、コンピュータ工学では、ブール代数という古典的な論理法を用いる。それは、真か偽かという二値を問うもので、そのまま 0 と 1 の値に対応し、トランジスタの on/off 制御に用いられる。そして、とりうる状態が N 通りあれば、log N のビット数があれば事足りる。これは底に 2 を選んだ場合で、情報理論の基礎をなす。チューリングマシンの消費量は、ビットの浪費で決まるという見方もできるわけだ。
ちょいと眺め方を変えると、2進法であれば N はそのまま桁数となるが、底に整数 n を選べば n 進法の桁数とほぼ等しくなり、モジュロ演算とすこぶる相性がいいことが見て取れる。ここが対数の凄いところ。
したがって、年齢表記に、かつて2進法とすこぶる相性のいい16進法を用いていたが、最近はモジュロ演算で若返りを図る。何を除数に選ぶかは精神の状態数で決まり、不安定状態が多いほど精神エントロピーも増大するという寸法よ...
3. 重ね合わせと絡み合い
「重ね合わせ」ってやつは、ぞっとする現象だ。一つの電子の経路に対して干渉縞ができるということは、電子の伝達に波動性があることを意味する。だがそれは、粒子という観点から伝達経路が一つではないことを意味する。しかも、スピンが逆ときた。情報の観点から言えば、0 と 1 が同時に伝わった状態である。これは、ハイゼンベルグの行列理論で数学的に説明がつく。そりゃ、猫も悩む。俺は生きているのか?それとも死んでいるのか?と...
波とは、統計的な情報である。個人が粒子性だとしたら、人間社会という集団が波動性であり、互いに相容れないのも道理かもしれない。一人で生きていれば間違いなく責任は自分にあるが、集団の中にいれば責任の所在も曖昧。存在しているか、存在していないかも曖昧。実に、曖昧とは心地よいものだ。
「量子のからみ」ってやつも、実に薄気味悪い作用だ。光速よりも速く情報が伝わるとすれば、時間は無ということか。テレポーテーションといえば、SFの世界では瞬間移動を思わせるが、量子の世界では物質ではなく情報をテレポートさせる。
テレポーテーションが過激な解釈だというなら、平行宇宙だって過激さでは負けてない。多宇宙の重ね合わせ... 宇宙の分裂... 選択肢の同時進行... 互いに因果関係がなく、同時に存在する世界とは?EPR対(スピン共鳴)は、それを体現しているというのか?
情報が光速を超えられないとすれば、独立した世界にならざるをえないが、そもそも「相対性理論」という名で、光速という絶対速度を規定するところが奇妙である。
しかしながら、因果関係がないとすれば、それは複写でもなければ、移動でもなく、完全な独立事象となる。単なるそっくりさんか?自分のそっくりさんは世界に三人いると言われるが、これだけ人口が溢れていれば驚くほどでもない。仮に、夢と現実が同時進行したところで、どちらが本当の自分なのかは、どうせ分かりゃしない。夢に酔うか、酒に酔うか、結局は同じこと。
そして、その正体が瞬間的な意思疎通だとしたら、しかも科学的に実証できるとすれば、気味の悪い遠隔操作が可能となる。そりゃ、政治野心家どもが量子コンピュータの研究に慌てて予算をつけるのも無理はない。おまけに、自分の方が遠隔操作されていることに気づかなければ幸せだ...
4. エントロピーとデコヒーレンス
微視的な世界と巨視的な世界とでは、なぜこうも異なる振る舞いをするのか?そこにどんな境界条件があるというのか?デコヒーレンスとは、量子が観測者になったような状態で、環境あるいは他の量子と絡んだ途端に、どちらかの状態に落ち着くというのか?どうやら、デコヒーレンスが猫を殺すらしい。
猫は生まれた時から環境に触れ、他となんらかの関係を持っているので、量子のような純粋な存在ではありえない... などといえば、プラトンの唱えたイデア論にも通ずる。物質とは、もはや原型をとどめていない状態ということか?そうなると、量子コンピュータに用いられるキュービット(量子ビット)ってやつは、デコヒーレンスを喰らうとどちらかの状態に安定して、もはや量子情報ではなくなるのではないか?物質の世界にどっぷりと居座る人間には、もはや検証できないシステムということか?
キュービットのデコヒーレンスで系のエントロピーは増大するという。どれだけ増大するかは、k log 2 といった形をとる。キュービットならシュレーディンガーの猫の状態を記述できるが、それがデコヒーレンスによって検証できないことになる。
検証できないシステムの意義とは、なんであろう?なぁーに心配はいらない。巷でもてはやされている AI だって、勝手に答えを出してくれる。計算過程なんぞどうでもいい。人間はブラックボックスの出力する答えを鵜呑みにすればいいのだ。なんと便利な世の中だろう。ん?それは宗教と何が違うのだろうか?デコヒーレンスは、エントロピーよりも強力な信者を生みそうだ。
古来人類は、意識とは何かを定義することに苦慮してきた。シュレーディンガーは、「生命とは何か」という本を書き、エントロピーの観点から考察している。人間の脳は、意識と無意識の境界をさまよい、思考が具体的な形として現れた時、これを閃きと言ったりする。ある考えが凝結し、意識の前面に現れた瞬間に意識となる。こうした精神状態も、デコヒーレンスとの境界面をさまよっていることになるのだろうか?
あらゆる苦悩は、自己を意識することから始まる。何かに集中している時、完全に時間の概念がぶっとび、ある種のトランス状態となって快感となり、崇高な気分になれることが度々ある。無意識、無心、無想、無我といった境地こそ、至福のひとときを与えてくれるのだ。量子論研究者の中には、意識の正体をこのように見ている人もいるらしい。
「人間の思考は、初め前意識で重ね合わせ状態にあり、それから重ね合わせが崩れ、波動関数が収縮するとともに意識に現れる...」
では、エネルギーとは何か?今日、エネルギーは物理法則を根底から支える物理量として君臨しているが、そもそもは力の源として、得体の知れないものとして捉えられてきた。アリストテレスの運動論以来、力の作用をめぐる議論は迷走を続け、インペトゥス、モーメント、トルク、フォースなど様々な用語が乱立してきたのである。アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示し、力は質量を通じてエネルギーという具体的な物理量と結びついた。
さらに、著者チャールズ・サイフェは、この物理量の抽象化を試みる。「情報」という概念によって。彼に言わせると、相対性理論も量子力学も情報の理論だという。
相対性理論は、核心において情報をいかに速く伝送するかの理論... といえばその通りだろう。その限界は光速によって定められる。
量子力学は、観測系が関わると物質から真の情報が引き出せないことを告げ、真空状態であっても、量子のゆらぎによって粒子と反粒子の対消滅を繰り返し、情報の痕跡らしきものを残すと言っている。
なるほど、どちらもシャノンの理論より先に現れたものの、しっかりと情報理論が絡んでやがる。情報ってやつは、掴みどころのない抽象的な存在ではなく、シャノンのおかげで具体的に数値化でき、物理量として計測できる。だからこそコンピュータ工学の礎をなす。インターネットで体現される情報エネルギーの威力は凄まじい。そして、復号(デコード)とは、情報をいかに解釈するか、ということになる。こうしてみると、あらゆる学問、あらゆる知識が、情報の手先に見えてくる...
また、エネルギーの絶対的な法則に、エントロピーってやつがある。覆水盆に返らず... 喰ったラーメンは胃袋の中... 空けちまったボトルにおとといおいで... といった類いは、すべてこの法則の支配下にある。おまけに、時間の矢という一方向性が、人間の認識能力を記憶の時間軸に幽閉しやがる。
そして、情報理論にも情報エントロピーってやつがあるが、本書はこれをさらに抽象化した観点から、量子力学が唱えるデコヒーレンスを持ち出す。生きている、かつ、死んでいるといった重ね合わせ状態で存在することが、なぜ量子にはできて、猫にはできないのか?というシュレーディンガーの謎掛けも、デコヒーレンスが理解の助けになると...
物質が宇宙の隅々にまで行き渡ろうとしているとしたら、情報もまた宇宙の隅々にまで伝わろうとしているのだろう。無毛定理は、ブラックホール理論の基本教義の一つとしてある。この暗黒の天体はすべてを飲み尽くし、毛もないというわけだが、それは何を意味しているのだろうか?巨大な情報貯蔵庫なのか?ブラックホールは、究極のコンピュータになろうとしているのか?いや、悪魔が、限りない重力を元手にあらゆる情報を収集しようと目論んでいるかもしれない。人間が、楽してすべての知を得ようとするように。
ただ、人間が収集する情報は冗長性に満ちているが、おそらくブラックホールには冗長性なんて概念の欠片もないだろう。そして、ブラックホールの死とともに、すべての情報は解放されるのか?人間の死によって、自由意思が完全に解放されるように。なるほど、馬鹿は死ななきゃ治らない!とは、この原理であったか...
「論理的で一貫性(コヒーレント)のある不条理を棄てて、非論理的で一貫性のない不条理を受け入れるというのは、いったいどんな解放なんだい。」
... ジェイムズ・ジョイス「若き芸術家の肖像」より。
本書は、「情報」という概念について考え直す機会を与えてくれるが、さらに、「観測」という概念についても改めて考えさせられる。ハイゼンベルグの不確定性原理は、観測者が相補的な二つの属性を同時に正確に測定することは不可能だと言っている。これは、情報への制約だ。では、観測者とは誰か?なにも人間のような知的生命体である必要はあるまい。
量子力学は、「ゆらぎ」という概念を唱える。反物質は物質に触れた途端に消滅し、その質量はエネルギーとなって、束の間の存在という痕跡を残す。何かに触れるということは、何かと関係するってことだ。それは、何か情報を伝えたことを意味するのか?なるほど、存在とは、情報の痕跡を残すことであったか...
ところで、自己存在を強烈に印象づける力の類いに重力ってやつがある。まさに人間の命は重さにかかっており、それが自意識の源ともなれば誰もが血眼。ただ、人間は明確な重さの尺度を持ち合わせていない。自意識が強くなるほど、なんでもいいから何かと関わりたくてしょうがない。それは、自己との関わりでも構わない。孤独愛好家は独り言で充分に心を満たす。自己啓発や自己実現もまた自己観測の類いで、自己情報の収集を意味する。まるで観測依存症!
これほど情報を欲するのは、物質の性癖か?何かに絡まずにはいられないのは、「量子のからみ」の影響か?ついでに、なんでもワイドショー化してしまうのも、物質の性癖か?人間ってやつは、夢想、瞑想、妄想を続けてもなお飽き足らず、仮想空間をさまようことのできる情報的存在というわけか。そして、いつも心はゆらいでいる。自己存在を自己否定によって抹殺するのも、存在のゆらぎってやつか...
1. エントロピーと情報理論の相性
ボルツマンの墓碑には、あの公式が刻まれる。そう、エントロピー S の公式だ。
S = k log W
W は、存在しうる状態の数。k は、ボルツマン定数。
ボルツマンは、躁と鬱の状態を繰り返す双極性障害に苦しみ、自ら命を絶ったと伝えられる。それは、自ら存在のゆらぎ、すなわち対消滅を体現したのであろうか...
一方、シャノンが提示した公式がこれ。
S = - ΣPi log Pi
Piは、送られた情報量の中に、あるメッセージが含まれる確率。
二つの方程式は、そっくり。情報量に生起確率が絡むと、エントロピーになるってか。あらゆる物理現象、あらゆる人生、あらゆる運命は、確率論に支配されている。すべての物質の存在や状態は確率的に表せる。おそらく反物質も。アインシュタインは「エントロピーはすべての科学の第一法則」と言ったが、どうやら本当らしい。
とりうる状態 W = 1 の状況下では、エントロピーは永遠に S = 0 のままとなり、確率が存在するということが、あらゆる変化や進化に柔軟性を与えることを表している。男が生まれるのも、女が生まれるのも、はたまた天才が生まれ出るのも、障碍者が生まれ出るのも、遺伝子の組換え確率であり、運命論を信じるか、決定論を信じるかも、自由意思の選択確率だ。犯罪も、戦争も、災害も... 人間の気まぐれにも困ったものだが、神の気まぐれには往生する。
また、シャノンは、情報量にマイナス符号を与えているので、負のエントロピーやネゲントロピーとも言われる。情報もまたエネルギーのように... 創造されも、破壊されもしない... ということか。
ちなみに、シャノンはこの関数を「インフォメーション」と呼ぶことを考えたが、あまりにも使い古された用語なので、「不確実性」と呼ぶことにしたそうな。そして、フォン・ノイマンと意見交換をしたところ、彼はもっといい考えを思いついたという。
「エントロピーと呼ぶのがいい。理由は二つある。第一に、きみの不確実性関数は統計力学ではその名前で用いられてきたのだから、名前はもうある。第二に、こちらのほうがもっと重要だが、エントロピーとは何なのか、だれも知らないから、論争ではいつもきみが有利だ。」
2. 対数の妙技
エントロピーと情報理論の公式は、どちらも対数を基調にしている。対数で定義される方程式は、底を省略して記述されることが多く、本質的な現象を掴むには、むしろ底は曖昧な方がいい。対数は、単なる指数関数の逆関数という以上に、抽象化した思考方法を与えてくれる。エントロピーの公式こそ、底にネイピア数 e を選んだがためにボルツマン定数に存在感を与えているが、実は、底に何を選ぼうが大した問題ではない。
例えば、コンピュータ工学では、ブール代数という古典的な論理法を用いる。それは、真か偽かという二値を問うもので、そのまま 0 と 1 の値に対応し、トランジスタの on/off 制御に用いられる。そして、とりうる状態が N 通りあれば、log N のビット数があれば事足りる。これは底に 2 を選んだ場合で、情報理論の基礎をなす。チューリングマシンの消費量は、ビットの浪費で決まるという見方もできるわけだ。
ちょいと眺め方を変えると、2進法であれば N はそのまま桁数となるが、底に整数 n を選べば n 進法の桁数とほぼ等しくなり、モジュロ演算とすこぶる相性がいいことが見て取れる。ここが対数の凄いところ。
したがって、年齢表記に、かつて2進法とすこぶる相性のいい16進法を用いていたが、最近はモジュロ演算で若返りを図る。何を除数に選ぶかは精神の状態数で決まり、不安定状態が多いほど精神エントロピーも増大するという寸法よ...
3. 重ね合わせと絡み合い
「重ね合わせ」ってやつは、ぞっとする現象だ。一つの電子の経路に対して干渉縞ができるということは、電子の伝達に波動性があることを意味する。だがそれは、粒子という観点から伝達経路が一つではないことを意味する。しかも、スピンが逆ときた。情報の観点から言えば、0 と 1 が同時に伝わった状態である。これは、ハイゼンベルグの行列理論で数学的に説明がつく。そりゃ、猫も悩む。俺は生きているのか?それとも死んでいるのか?と...
波とは、統計的な情報である。個人が粒子性だとしたら、人間社会という集団が波動性であり、互いに相容れないのも道理かもしれない。一人で生きていれば間違いなく責任は自分にあるが、集団の中にいれば責任の所在も曖昧。存在しているか、存在していないかも曖昧。実に、曖昧とは心地よいものだ。
「量子のからみ」ってやつも、実に薄気味悪い作用だ。光速よりも速く情報が伝わるとすれば、時間は無ということか。テレポーテーションといえば、SFの世界では瞬間移動を思わせるが、量子の世界では物質ではなく情報をテレポートさせる。
テレポーテーションが過激な解釈だというなら、平行宇宙だって過激さでは負けてない。多宇宙の重ね合わせ... 宇宙の分裂... 選択肢の同時進行... 互いに因果関係がなく、同時に存在する世界とは?EPR対(スピン共鳴)は、それを体現しているというのか?
情報が光速を超えられないとすれば、独立した世界にならざるをえないが、そもそも「相対性理論」という名で、光速という絶対速度を規定するところが奇妙である。
しかしながら、因果関係がないとすれば、それは複写でもなければ、移動でもなく、完全な独立事象となる。単なるそっくりさんか?自分のそっくりさんは世界に三人いると言われるが、これだけ人口が溢れていれば驚くほどでもない。仮に、夢と現実が同時進行したところで、どちらが本当の自分なのかは、どうせ分かりゃしない。夢に酔うか、酒に酔うか、結局は同じこと。
そして、その正体が瞬間的な意思疎通だとしたら、しかも科学的に実証できるとすれば、気味の悪い遠隔操作が可能となる。そりゃ、政治野心家どもが量子コンピュータの研究に慌てて予算をつけるのも無理はない。おまけに、自分の方が遠隔操作されていることに気づかなければ幸せだ...
4. エントロピーとデコヒーレンス
微視的な世界と巨視的な世界とでは、なぜこうも異なる振る舞いをするのか?そこにどんな境界条件があるというのか?デコヒーレンスとは、量子が観測者になったような状態で、環境あるいは他の量子と絡んだ途端に、どちらかの状態に落ち着くというのか?どうやら、デコヒーレンスが猫を殺すらしい。
猫は生まれた時から環境に触れ、他となんらかの関係を持っているので、量子のような純粋な存在ではありえない... などといえば、プラトンの唱えたイデア論にも通ずる。物質とは、もはや原型をとどめていない状態ということか?そうなると、量子コンピュータに用いられるキュービット(量子ビット)ってやつは、デコヒーレンスを喰らうとどちらかの状態に安定して、もはや量子情報ではなくなるのではないか?物質の世界にどっぷりと居座る人間には、もはや検証できないシステムということか?
キュービットのデコヒーレンスで系のエントロピーは増大するという。どれだけ増大するかは、k log 2 といった形をとる。キュービットならシュレーディンガーの猫の状態を記述できるが、それがデコヒーレンスによって検証できないことになる。
検証できないシステムの意義とは、なんであろう?なぁーに心配はいらない。巷でもてはやされている AI だって、勝手に答えを出してくれる。計算過程なんぞどうでもいい。人間はブラックボックスの出力する答えを鵜呑みにすればいいのだ。なんと便利な世の中だろう。ん?それは宗教と何が違うのだろうか?デコヒーレンスは、エントロピーよりも強力な信者を生みそうだ。
古来人類は、意識とは何かを定義することに苦慮してきた。シュレーディンガーは、「生命とは何か」という本を書き、エントロピーの観点から考察している。人間の脳は、意識と無意識の境界をさまよい、思考が具体的な形として現れた時、これを閃きと言ったりする。ある考えが凝結し、意識の前面に現れた瞬間に意識となる。こうした精神状態も、デコヒーレンスとの境界面をさまよっていることになるのだろうか?
あらゆる苦悩は、自己を意識することから始まる。何かに集中している時、完全に時間の概念がぶっとび、ある種のトランス状態となって快感となり、崇高な気分になれることが度々ある。無意識、無心、無想、無我といった境地こそ、至福のひとときを与えてくれるのだ。量子論研究者の中には、意識の正体をこのように見ている人もいるらしい。
「人間の思考は、初め前意識で重ね合わせ状態にあり、それから重ね合わせが崩れ、波動関数が収縮するとともに意識に現れる...」
2018-03-18
"ハイイロガンの動物行動学" Konrad Zacharias Lorenz 著
エソロジー(= 動物行動学)の権威者コンラート・ローレンツ博士。彼に言わせると、ハイイロガンのつがいは、生涯貞節な夫婦として添い遂げるものらしい。だが同時に、移り気の早い衝動を合わせ持ち、つい不倫までやっちまう。オスもメスも愛に狂うのだとか...
博士は、人間と交流するに最も相応しい動物は、犬の次にハイイロガンだと断言し、相似アナロジーを愉快に物語ってくれる。ハイイロガンは、コンタクトコールとディスタントコールを発して自己主張する。接触したいという表現声と、置き去りにしないでという表現動作を繰り返すことによって。動物の抽象化の能力は、人間よりもはるかに劣り、因果関係を見出すような思考能力が欠如している。それだけに慣習の奴隷となる。では、人間は?なるほど、エソロジーとは、人間学であったか...
「ハイイロガンもまた、人間にしかすぎないんじゃないの...」
研究者がひとたび研究対象を選択すれば、生涯の大部分を費やすほどのものとなる。彼らが取り憑かれる動機とは、いかなるものであろう。その対象に興味があることは間違いあるまい。だが、それだけだろうか。生涯をかけても決定的な成果が得られるのは、ごく稀。研究分野とは、そうしたものだ。問題を解決する度に新たな問題が生じ、研究の成果は、世代を超えた系統として眺めることになる。
そして、成果よりも動機の方にこそ、人類の叡智と呼べるものがあるのだろう。個人の手柄なんぞどうてもいい。趣味が使命に昇華した動機は、押し付けがましい義務などとは格が違う。自然科学者ならば、やがて使命感のようなものを芽生えさせるであろう。天職に巡り会えれば、この上ない幸せ。その動機は、すこぶる単純な自由精神から発し、愛好家魂に支えられている。
ところが、一旦、専門家という地位を獲得すると、権威主義に埋没してしまう。専門領域を聖域とばかりに。これも、ある種の縄張り意識であろうか。となると、「専門家」という人種の定義も微妙となる...
「一人の研究者の生涯にわたる関心が沸き起こってきた深層の原因を探ることは、楽しいだけでなく、ことのほか啓発的な試みでもある。とりわけ有益なのは、研究対象を選んだ理由を見いだすことである。」
人間の行動パターンなんてものは、ほとんど自己存在、ひいては自己愛で説明がつくだろう。行動は繰り返されることによって慣習化し、儀式化し、社会常識となっていく。しかも、無意識に。いや、盲目的に。それは動物でも同じようである。つまり、行動の根底には、種を維持するための本能が働くということ。この本能の最たるものに、繁殖という行動がある。しかしながら、個体の繁殖率を高めることが、必ずしも種全体の利益になるわけではない。過剰繁殖となれば、自然淘汰より熾烈な種内淘汰が始まる。自殺という現象は、他の動物ではあまり見かけない。高い社会性を持つ動物や、人間と関わったがために、引き起こされる事例は多く見かけるけど。人間社会とは、愚かな種内淘汰の特別な事例なのかは知らん...
1. 刷り込み
「刷り込み」とは、一般的に行動が特定の対象に結びつけられる獲得過程であると理解されている。だが、この定義は誤解されやすく、しばしば学習過程の一つとして、教育の場に持ち込まれる。しつけの一環として...
対して、動物行動学で言うところの「刷り込み」とは、もっと動物の根源的な、種の根源的なものから発しているようである。人間で言うところの生得的な、さらに認識論的に、アプリオリな... と言えば、ちと大袈裟であろうか。少なくとも、他の学習過程とは大きく違うようである。
第一の特徴は、報酬や強化を必要とせず、特定の刺激状況と絆を固定するには、単に受け身で接するだけで充分だということ。
第二の特徴は、その不可逆性で、一旦獲得すると取り消すことが極めて難しいこと。
第三の特徴は、数時間しか継続しない極めて狭い発達段階に限定されること。
そして最も注目すべき特徴は、非常に説明の難しいことだけど、刺激を出すのが個体ではなく、種にかかわるということ。
例えば、マガモの刷り込み過程では、数時間に限定されるそうな。孵化したばかりの雛が、はじめて目にしたものを母親と思い込む。それが博士であれば、いつまでも博士について回る。まるで「トムとジェリー」の一話を観ているようである。取り消しが効かないとなると、他の学習過程とは完全に区別される。鉄は熱いうちに打て!と言うが、本当らしい...
そういえば、刷り込みのような根源的な現象からは遠ざかるが、小学校時代、子供の教育は小学校低学年までが勝負!と熱心に教育論を語ってくれた担任の女性教師がいた。一年生の時は何度ビンタを食らったことか。ちょっとでもズルをしたり、誤魔化そうとするだけで猛烈に叱られ、当時、恐怖心しかなかったような気がする。
ところが、上級生になると優しく諭す穏便な教師に変貌していた。諭すというより暗示にかけると言った方がいい。あまり幼い時期に叩けば虐待となる。間違いをした時に徹底的に叱る!そのようなことのできる時期は、意外と短いようである。人間に自尊心があれば、動物にも自尊心があるということであろうか...
2. エソグラム
ローレンツ博士は、行動システムの目録やレパートリーを「エソグラム」と呼び、それぞれの動物行動は厳密にプログラムされているという。しかも、きわめて早期に成熟すると。動物種の解発機構を理解するには、まずは本能運動の体系を理解することだという。哺乳類、特に霊長類のような高度に発達した哺乳類では、道具的な学習、すなわち、オペラント条件づけによって獲得された行動様式が非常に大きな役割を果たす。それはあまりにも多種多様で、行動様式の目録を作成するなどとても望めそうにない。
しかし、ハイイロガンの行動様式となると、はるかに単純な構造で好運な状況にあるという。エソグラムの意義は、まずもって種の特異的な本能運動を観察すること。ほとんどの本能運動には、「生得的解発機構(AAM)」があるという。動物種には、生得的な行動様式のシステム特性があると。しかも、刺激への欲求メカニズムは、種の維持機能から比較的簡単に認めることができるという。
本能運動は長く抑制されると、徐々に落ち着きがなくなっていき、やがて爆発する。本能運動とは、なかなか手ごわい用語だが、とりあえず、内因性の刺激欲求と中枢性のメカニズムの協調の結果とでもしておこうか。
ただし、特有な自発性を持ち、外部からの刺激作用がなくても本能運動は現れるものらしい。心理学で言うところのゲシュタルト知覚は、人間にとっての生得的な生理的装置であり、それによって刺激データの連鎖、あるいは、規則的な連なりを認知することができる。これが自発的なのか、無意識的なのかは微妙である。ただ、いびつな社会でゲシュタルト崩壊が生じるのは、比較的簡単に説明がつきそうか。要するに、ある種の防衛本能が働いているということだろう。
ところで、種の維持機能とは、自由精神の原型のようなものであろうか。プラトンは、人間精神の純粋な形である「イデア」なるものの存在を説いた。ゲーテは、植物の特徴的な器官をすべて持つ「原植物」なるものの存在を主張した。
しかしながら、そのような原型的な存在は、現世に見つけられそうにない。遺伝的に残された形質、あるいは、遺伝的にプロブラムされた運動様式の欠片を見つけることができるとしても。進化の道は、非遺伝的な変化をともなう外部環境に左右される。
もし仮に、人間精神の純粋な形を見い出そうとすれば、それは自然界の動物に見ることができるだろう。人間社会では報酬を与えてくれる者がボスとなり、構成要素の一員として飼われる。人間はみな、パブロフの犬よ。人間社会には、生まれるとすぐに国籍や自治体といった集団社会に組み込まれるという奇跡的なシステムがある。無意識に帰属意識が植え付けられ、地元出身というだけで支持したり、妙に仲間意識を煽ったりと、もはや帰属意識に縋らなければ生きてはいけない。アリストテレスの唱えた生まれつき奴隷説も、あながち否定できまい。自律的な本能運動の動機づけには、本当に自発性があるのだろうか。自ら隷属を望むなら、それも自発性ということになるのだろう...
博士は、人間と交流するに最も相応しい動物は、犬の次にハイイロガンだと断言し、相似アナロジーを愉快に物語ってくれる。ハイイロガンは、コンタクトコールとディスタントコールを発して自己主張する。接触したいという表現声と、置き去りにしないでという表現動作を繰り返すことによって。動物の抽象化の能力は、人間よりもはるかに劣り、因果関係を見出すような思考能力が欠如している。それだけに慣習の奴隷となる。では、人間は?なるほど、エソロジーとは、人間学であったか...
「ハイイロガンもまた、人間にしかすぎないんじゃないの...」
研究者がひとたび研究対象を選択すれば、生涯の大部分を費やすほどのものとなる。彼らが取り憑かれる動機とは、いかなるものであろう。その対象に興味があることは間違いあるまい。だが、それだけだろうか。生涯をかけても決定的な成果が得られるのは、ごく稀。研究分野とは、そうしたものだ。問題を解決する度に新たな問題が生じ、研究の成果は、世代を超えた系統として眺めることになる。
そして、成果よりも動機の方にこそ、人類の叡智と呼べるものがあるのだろう。個人の手柄なんぞどうてもいい。趣味が使命に昇華した動機は、押し付けがましい義務などとは格が違う。自然科学者ならば、やがて使命感のようなものを芽生えさせるであろう。天職に巡り会えれば、この上ない幸せ。その動機は、すこぶる単純な自由精神から発し、愛好家魂に支えられている。
ところが、一旦、専門家という地位を獲得すると、権威主義に埋没してしまう。専門領域を聖域とばかりに。これも、ある種の縄張り意識であろうか。となると、「専門家」という人種の定義も微妙となる...
「一人の研究者の生涯にわたる関心が沸き起こってきた深層の原因を探ることは、楽しいだけでなく、ことのほか啓発的な試みでもある。とりわけ有益なのは、研究対象を選んだ理由を見いだすことである。」
人間の行動パターンなんてものは、ほとんど自己存在、ひいては自己愛で説明がつくだろう。行動は繰り返されることによって慣習化し、儀式化し、社会常識となっていく。しかも、無意識に。いや、盲目的に。それは動物でも同じようである。つまり、行動の根底には、種を維持するための本能が働くということ。この本能の最たるものに、繁殖という行動がある。しかしながら、個体の繁殖率を高めることが、必ずしも種全体の利益になるわけではない。過剰繁殖となれば、自然淘汰より熾烈な種内淘汰が始まる。自殺という現象は、他の動物ではあまり見かけない。高い社会性を持つ動物や、人間と関わったがために、引き起こされる事例は多く見かけるけど。人間社会とは、愚かな種内淘汰の特別な事例なのかは知らん...
1. 刷り込み
「刷り込み」とは、一般的に行動が特定の対象に結びつけられる獲得過程であると理解されている。だが、この定義は誤解されやすく、しばしば学習過程の一つとして、教育の場に持ち込まれる。しつけの一環として...
対して、動物行動学で言うところの「刷り込み」とは、もっと動物の根源的な、種の根源的なものから発しているようである。人間で言うところの生得的な、さらに認識論的に、アプリオリな... と言えば、ちと大袈裟であろうか。少なくとも、他の学習過程とは大きく違うようである。
第一の特徴は、報酬や強化を必要とせず、特定の刺激状況と絆を固定するには、単に受け身で接するだけで充分だということ。
第二の特徴は、その不可逆性で、一旦獲得すると取り消すことが極めて難しいこと。
第三の特徴は、数時間しか継続しない極めて狭い発達段階に限定されること。
そして最も注目すべき特徴は、非常に説明の難しいことだけど、刺激を出すのが個体ではなく、種にかかわるということ。
例えば、マガモの刷り込み過程では、数時間に限定されるそうな。孵化したばかりの雛が、はじめて目にしたものを母親と思い込む。それが博士であれば、いつまでも博士について回る。まるで「トムとジェリー」の一話を観ているようである。取り消しが効かないとなると、他の学習過程とは完全に区別される。鉄は熱いうちに打て!と言うが、本当らしい...
そういえば、刷り込みのような根源的な現象からは遠ざかるが、小学校時代、子供の教育は小学校低学年までが勝負!と熱心に教育論を語ってくれた担任の女性教師がいた。一年生の時は何度ビンタを食らったことか。ちょっとでもズルをしたり、誤魔化そうとするだけで猛烈に叱られ、当時、恐怖心しかなかったような気がする。
ところが、上級生になると優しく諭す穏便な教師に変貌していた。諭すというより暗示にかけると言った方がいい。あまり幼い時期に叩けば虐待となる。間違いをした時に徹底的に叱る!そのようなことのできる時期は、意外と短いようである。人間に自尊心があれば、動物にも自尊心があるということであろうか...
2. エソグラム
ローレンツ博士は、行動システムの目録やレパートリーを「エソグラム」と呼び、それぞれの動物行動は厳密にプログラムされているという。しかも、きわめて早期に成熟すると。動物種の解発機構を理解するには、まずは本能運動の体系を理解することだという。哺乳類、特に霊長類のような高度に発達した哺乳類では、道具的な学習、すなわち、オペラント条件づけによって獲得された行動様式が非常に大きな役割を果たす。それはあまりにも多種多様で、行動様式の目録を作成するなどとても望めそうにない。
しかし、ハイイロガンの行動様式となると、はるかに単純な構造で好運な状況にあるという。エソグラムの意義は、まずもって種の特異的な本能運動を観察すること。ほとんどの本能運動には、「生得的解発機構(AAM)」があるという。動物種には、生得的な行動様式のシステム特性があると。しかも、刺激への欲求メカニズムは、種の維持機能から比較的簡単に認めることができるという。
本能運動は長く抑制されると、徐々に落ち着きがなくなっていき、やがて爆発する。本能運動とは、なかなか手ごわい用語だが、とりあえず、内因性の刺激欲求と中枢性のメカニズムの協調の結果とでもしておこうか。
ただし、特有な自発性を持ち、外部からの刺激作用がなくても本能運動は現れるものらしい。心理学で言うところのゲシュタルト知覚は、人間にとっての生得的な生理的装置であり、それによって刺激データの連鎖、あるいは、規則的な連なりを認知することができる。これが自発的なのか、無意識的なのかは微妙である。ただ、いびつな社会でゲシュタルト崩壊が生じるのは、比較的簡単に説明がつきそうか。要するに、ある種の防衛本能が働いているということだろう。
ところで、種の維持機能とは、自由精神の原型のようなものであろうか。プラトンは、人間精神の純粋な形である「イデア」なるものの存在を説いた。ゲーテは、植物の特徴的な器官をすべて持つ「原植物」なるものの存在を主張した。
しかしながら、そのような原型的な存在は、現世に見つけられそうにない。遺伝的に残された形質、あるいは、遺伝的にプロブラムされた運動様式の欠片を見つけることができるとしても。進化の道は、非遺伝的な変化をともなう外部環境に左右される。
もし仮に、人間精神の純粋な形を見い出そうとすれば、それは自然界の動物に見ることができるだろう。人間社会では報酬を与えてくれる者がボスとなり、構成要素の一員として飼われる。人間はみな、パブロフの犬よ。人間社会には、生まれるとすぐに国籍や自治体といった集団社会に組み込まれるという奇跡的なシステムがある。無意識に帰属意識が植え付けられ、地元出身というだけで支持したり、妙に仲間意識を煽ったりと、もはや帰属意識に縋らなければ生きてはいけない。アリストテレスの唱えた生まれつき奴隷説も、あながち否定できまい。自律的な本能運動の動機づけには、本当に自発性があるのだろうか。自ら隷属を望むなら、それも自発性ということになるのだろう...
2018-03-11
"文明化した人間の八つの大罪" Konrad Zacharias Lorenz 著
学問でよく見かける態度に、専門家が自身の専門分野に苦言を呈すというものがある。ある種の批判哲学と言おうか。そもそも学問とは、客観性を保とうとする立場であって、その方向性には常に検証の目が配られる。おのずと自分自身の思考にも懐疑的な立場をとることになり、自虐的でもある。本書もその類いの一つ、科学者が語る科学への苦言の書である。
深刻な集団的攻撃性をもたらす文化的要素の一つに、イデオロギーってやつがある。世間では、すぐに利己的な態度に目くじらを立てるが、しばしば利他的な態度にも害となるケースがある。流行の知識は大衆を惑わし、流行の学問は、宗教以上に悪影響をもたらす危険性を孕んでいる。
「科学者はたった一つのイデオロギーしかもつことができません。そしてそのイデオロギーとは、イデオロギーをもたないということなのです!」
科学や技術が人間社会を豊かにしてきたのは確かだ。しかし、いくら文明を発達させようとも、人間もまた自然に依存した動物の一員であることに変わりはない。人間社会で、自然体でいるには肩が凝る。グローバリズムによって世界は広がっているというのに、一人の人間が生きる空間はますます息苦しくなる。孤独愛好家を増殖させるのは、本能が退化しているからであろうか。それとも、自然回帰にノスタルジアのようなものを感じるからであろうか。やはり地上の動物には、共通した行動パターンが遺伝子に刷り込まれているらしい。古代ローマの言葉に、"Homo homini lupus.(人間は人間にとって狼である。)"というのがあるが、これは怖ろしく真のようである...
動物行動学の権威で知られるコンラート・ローレンツ博士は、八つの大罪を提示し、近代社会に警鐘を鳴らす。八つとは... 人口過剰、自然な生活空間の荒廃、人間どうしの競争、虚弱化による感性や情熱の萎縮、遺伝的な衰弱、伝統の崩壊、教化されやすさの増殖、そして核兵器。中でも悪の根源を人口過剰とし、他の大罪はその派生的現象としている。その意味では、「七つの大罪」と題した方が、芸術的にも信仰的にも語呂がよさそうな気もしなくはないが、悪徳の原型としての枢要罪という観点から、「八つの大罪」の方が語呂がいいのかもしれん...
また、核兵器の項は記述が非常に短く、むしろ楽観視している。現象がひきおこす危険性に比べれば避けやすいというのである。科学者の発言としては少々意外だが、まだ人間の意志の働く範疇といえば、そうかもしれない。
しかしながら、理性もまた精神現象の一つである。核のボタンを押すことのできる人間は限られた権力者であって、彼らの衝動にかかっている。それでも、具体的な手段にすぎず、抽象度では格下という見方はできそうか...
「えせ民主主義的な教義は七番目までの人間性喪失の過程を促進している。この教義は人間の社会的な行動や道徳的な行為が系統発生で進化した神経系や感覚器の体制によってきまるのではなくて、もっぱら人間の個体発生の途中でそのときそのときの文化的環境をつうじてえられた『条件づけ』によって左右される。」
1. エソロジー(= 動物行動学)とは、どんな学問?
ローレンツ博士は、「行動を比較研究する科学」と定義している。生物学や生態学を動物だけでなく人間の行動にも適用するというもので、すぐに人間行動学という用語を思い浮かべるが、ここでは生態系の構造主義のようなものを感じる。
というのも、内分秘腺の構造をサブシステムとして捉え、衝動のメカニズムを分析する上で重要な位置づけを与えている。本能に理性が結びつくメカニズムにしても、知識を獲得する過程にしても、パターンマッチングや学習能力、あるいは洞察力が生得的な行動様式として DNA 二重螺旋構造の鎖に自然に組み込まれ、自律した衝動と化すといった具合に。知能もまた、系統発生的に生じた行動プログラムというのである。
また、客観よりも客観性、普遍よりも普遍性により価値を求めるあたりは、確率論的ですらある。確かに、進化の過程で重要な役割を果たす突然変異や遺伝子の再編成、あるいは自然淘汰といった現象も確率に支配されている。
ただ、こうした議論は真新しい科学ではなく、ダーウィン以来の生物学の方法を行動の研究に適用したにすぎない。行動とは、生物的、生理的な現象のこと。エソロジーとは、行動という現象に重きを置く学問というわけか。
したがって、この学問は、まず行動を観察するところから始まる。とはいえ、科学とは観察からはじまるもの。つくづく思うのだが、「科学」という用語も奇妙である。「科」を「学ぶ」と書けば、すべての学科を含むニュアンスを与える。学問の意義は、主観性の強すぎる人間精神に客観性の視点を与えることによってバランスさせ、知の世界を広げようという試み、ということができよう。それには、まず現象を観察し、現在の状態を的確に把握するという思考を働かせる。その意味で、科学的な要素を含まない学問があろうか。実際、社会科学、人文科学、人間科学、精神科学、心理科学など、多くの分野と結びついている。人間を知ろうと思えば、人間観察が鍵となる。なるほど、真新しい学問ではなさそうである。
過去の人物の偉大さを知るのに、その人物の記述を読んだだけではなかなか知り得ないものがあるが、影響を受けた人たちを通じて、その偉大さが伝わってくるということはよくある。この一冊も、その類いと言えよう。本書の場合、その偉大な人物とは、チャールズ・ダーウィンである...
2. 人口論
日本社会では、少子化問題が大きく取り沙汰される。なぜ大問題なのか?その動機は極めて単純で、経済が枯渇しているから。おまけに、大人たちの世代の面倒を見る将来的な世代が枯渇しそうだから。寿命が延びれば新たな世代層が生まれ、相対的に若年層が減少するのは当たり前。そして、絶対数においても減少の兆しがある。少しでも人口減少に転じれば、社会の破滅、ひいては民族滅亡にまで不安を増長させる。これは、もうパブロフ的反応である。そのくせ待機児童の問題を抱え、すべては大人たちの都合で問題を複雑化させる。
仮に経済が堅調で、かつ将来への憂いが解消されれば、老後の面倒を見てくれるはずの子供は、むしろ鬱陶しい存在とされるだろう。それとも、楢山節考のような棄老伝説までも、視野に入れなければならんのか...
世界に目を向ければ、子供の数を制限する政策は見かけても、寿命を制限する政策までは見かけない。大人どもには、もともと人口が多すぎるという発想はないのか?一億もの人口を抱える先進国は、広大な領土を持つアメリカを除けば、日本ぐらいなもの。自然に人口制限がかかっているとしたら、むしろ喜ばしい現象ではないのか?
人口問題については、過去にも偉大な提言がある。マルサスの人口論がそれである。この問題を凌駕したのは、あの産業革命だ。人類は、偉大な技術力をもって多くの人口を養えるほどの豊かな社会を築き、急激な人口増殖によって産業を拡大してきた。近代経済は、贅沢な物量によって拡大してきたのである。増幅回路のシステム設計は技術的には単純で、正のフィードバックをかけ続ければいい。人類が発明した資本主義とは、まさに資本の循環によって自然増殖をもたらすシステムである。実際、政策立案者は、いまだに消費を煽る以外に方策がないと見える。
そして再び、マルサスのように問い掛けなければなるまい。どこまで人口増加を容認できるのか?と。人間の都合による土地改良や品種改良は、どこまで容認できるのか?と。地球環境を本気で保護しようとすれば、人類の方が地球から去っていくしかないのかもしれん。体質改良を図って火星や月にでも移住するしか。経済問題を凌駕する方策が、本当に人口増加しかないとすれば...
「正のフィードバックの回路はふつうは個々の生物体にはみつからない。総体としての生命だけが、この無軌道を許しながら今日までみかけ上罰せられずにいる。有機的な生命は、たいへん珍しい性質をそなえたダムのように、浪費しつつある宇宙のエネルギーの流れの中に自分を組み入れ、負のエントロピーを食べ、エネルギーをもぎとってはそのエネルギーで成長する。そして自分の成長によって形を整え、ますます多くのエネルギーをもぎとる。すでにとりこんだエネルギーが多ければエネルギーをそれだけ速くもぎとれる。だからといっていまだに過剰増殖やカタストローフに至らないのは、非生物界の無情な力である確率の法則が、生物の増殖を制限しているからである。」
3. 報酬と罰の二重原理
文明人は、近代化した環境支配によって仕方なく、快と不快の経済市況に身を委ねてきたという。しかも、その進化の方向は、不快を触発する刺激には敏感になり、快を触発する刺激には鈍感になる方向にあると。人間は、不快に対する不寛容さをまし、快の誘引力も低下しているというのである。真の快楽を知らず、目先の現象に惑わされる傾向にあるというわけか。
奇妙なことに、生産者の商業戦略がインスタントな喜びを奨励すれば、これに負けじと、消費者もお得な分割払いに飛びつき、互いに生産と消費の奴隷と化す。現代人はますます利便性と自動化に邁進し、快と不快の生理的メカニズムの虜になっていく。ネット社会には、けしからん!と息巻く理性の検閲官どもが溢れ、エイプリルフールをささやかに催す喜びまでも奪われていく。理性ってやつが、ストレス解消の手っ取り早い手段となっているのである。実存の厳しさを知らない時代は、勇敢さを追求する必要はなくなった。あらゆる欲望はインスタント化し、愛の形もチンして終わり。愛が崇高だって?ご冗談でしょう。神の前で誓った結婚ですら、老後の不安解消のための救済処置として機能しているではないか。人を愛すのはいいが、人から愛されたいという衝動は少しばかり大きすぎる。面倒臭がり屋には辛い時代である。
では、文明社会とは、生物学的には病理的な現象であろうか?どうやらそうらしい。人間自身も、人間社会が自然から逸脱した状態であることは薄々気づいている。その証拠に、「自然」という用語に対して「人工」という用語を対立させる。
「古典的なパブロフ型条件反応を形成する能力のあるすべての生物では、この過程は相互的作用をもつ二つのタイプの刺激によって影響を受ける。そのひとつは、すでに生じている行動を強める強化刺激であり、もうひとつはすでに生じている行動を弱めたりまったく抑制したりする消去刺激である。人間の場合には第一のタイプの刺激のはたらきは快感と結びつき、第二のタイプの刺激のはたらきは不快感と結びついている。そして、高等動物の場合にはこれは要するに報酬と罰であるといったとしても、けっしてそれほど擬人化したことにはならない。」
4. 行動主義への反駁
本書は、行動主義派の反駁の書ともなっている。行動主義心理学者の大部分は、行動には生まれつきの要素は一つもない、と主張していたそうな。そして、このドグマは、あらゆる空論家たちの確信を強めるのに役立ったが、宗派間の教義を和解させるには役立たないと吐き捨て、こんな挑戦的なフレーズを叩きつける。
「人間は誰でも等しく成長する権利があるということは、疑いようのない倫理的な真理である。けれどもこの真理は、あらゆる人間がもともと等価であるという偽りに歪曲されやすい。行動主義の教義は、さらに一歩先をいっている。同じ外的条件のもとで成長すれば誰もが平等になれるし、しかもこうした条件さえ理想的なら誰でもまったく理想的な人間になれる、というのである。そこで人間は、いかなる遺伝的な性質も、とりわけ社会的な行動や社会的な欲求を決定するいかなる遺伝的性質ももっているはずがない、もっとうまくいえば、もっている必要がないということになる。」
深刻な集団的攻撃性をもたらす文化的要素の一つに、イデオロギーってやつがある。世間では、すぐに利己的な態度に目くじらを立てるが、しばしば利他的な態度にも害となるケースがある。流行の知識は大衆を惑わし、流行の学問は、宗教以上に悪影響をもたらす危険性を孕んでいる。
「科学者はたった一つのイデオロギーしかもつことができません。そしてそのイデオロギーとは、イデオロギーをもたないということなのです!」
科学や技術が人間社会を豊かにしてきたのは確かだ。しかし、いくら文明を発達させようとも、人間もまた自然に依存した動物の一員であることに変わりはない。人間社会で、自然体でいるには肩が凝る。グローバリズムによって世界は広がっているというのに、一人の人間が生きる空間はますます息苦しくなる。孤独愛好家を増殖させるのは、本能が退化しているからであろうか。それとも、自然回帰にノスタルジアのようなものを感じるからであろうか。やはり地上の動物には、共通した行動パターンが遺伝子に刷り込まれているらしい。古代ローマの言葉に、"Homo homini lupus.(人間は人間にとって狼である。)"というのがあるが、これは怖ろしく真のようである...
動物行動学の権威で知られるコンラート・ローレンツ博士は、八つの大罪を提示し、近代社会に警鐘を鳴らす。八つとは... 人口過剰、自然な生活空間の荒廃、人間どうしの競争、虚弱化による感性や情熱の萎縮、遺伝的な衰弱、伝統の崩壊、教化されやすさの増殖、そして核兵器。中でも悪の根源を人口過剰とし、他の大罪はその派生的現象としている。その意味では、「七つの大罪」と題した方が、芸術的にも信仰的にも語呂がよさそうな気もしなくはないが、悪徳の原型としての枢要罪という観点から、「八つの大罪」の方が語呂がいいのかもしれん...
また、核兵器の項は記述が非常に短く、むしろ楽観視している。現象がひきおこす危険性に比べれば避けやすいというのである。科学者の発言としては少々意外だが、まだ人間の意志の働く範疇といえば、そうかもしれない。
しかしながら、理性もまた精神現象の一つである。核のボタンを押すことのできる人間は限られた権力者であって、彼らの衝動にかかっている。それでも、具体的な手段にすぎず、抽象度では格下という見方はできそうか...
「えせ民主主義的な教義は七番目までの人間性喪失の過程を促進している。この教義は人間の社会的な行動や道徳的な行為が系統発生で進化した神経系や感覚器の体制によってきまるのではなくて、もっぱら人間の個体発生の途中でそのときそのときの文化的環境をつうじてえられた『条件づけ』によって左右される。」
1. エソロジー(= 動物行動学)とは、どんな学問?
ローレンツ博士は、「行動を比較研究する科学」と定義している。生物学や生態学を動物だけでなく人間の行動にも適用するというもので、すぐに人間行動学という用語を思い浮かべるが、ここでは生態系の構造主義のようなものを感じる。
というのも、内分秘腺の構造をサブシステムとして捉え、衝動のメカニズムを分析する上で重要な位置づけを与えている。本能に理性が結びつくメカニズムにしても、知識を獲得する過程にしても、パターンマッチングや学習能力、あるいは洞察力が生得的な行動様式として DNA 二重螺旋構造の鎖に自然に組み込まれ、自律した衝動と化すといった具合に。知能もまた、系統発生的に生じた行動プログラムというのである。
また、客観よりも客観性、普遍よりも普遍性により価値を求めるあたりは、確率論的ですらある。確かに、進化の過程で重要な役割を果たす突然変異や遺伝子の再編成、あるいは自然淘汰といった現象も確率に支配されている。
ただ、こうした議論は真新しい科学ではなく、ダーウィン以来の生物学の方法を行動の研究に適用したにすぎない。行動とは、生物的、生理的な現象のこと。エソロジーとは、行動という現象に重きを置く学問というわけか。
したがって、この学問は、まず行動を観察するところから始まる。とはいえ、科学とは観察からはじまるもの。つくづく思うのだが、「科学」という用語も奇妙である。「科」を「学ぶ」と書けば、すべての学科を含むニュアンスを与える。学問の意義は、主観性の強すぎる人間精神に客観性の視点を与えることによってバランスさせ、知の世界を広げようという試み、ということができよう。それには、まず現象を観察し、現在の状態を的確に把握するという思考を働かせる。その意味で、科学的な要素を含まない学問があろうか。実際、社会科学、人文科学、人間科学、精神科学、心理科学など、多くの分野と結びついている。人間を知ろうと思えば、人間観察が鍵となる。なるほど、真新しい学問ではなさそうである。
過去の人物の偉大さを知るのに、その人物の記述を読んだだけではなかなか知り得ないものがあるが、影響を受けた人たちを通じて、その偉大さが伝わってくるということはよくある。この一冊も、その類いと言えよう。本書の場合、その偉大な人物とは、チャールズ・ダーウィンである...
2. 人口論
日本社会では、少子化問題が大きく取り沙汰される。なぜ大問題なのか?その動機は極めて単純で、経済が枯渇しているから。おまけに、大人たちの世代の面倒を見る将来的な世代が枯渇しそうだから。寿命が延びれば新たな世代層が生まれ、相対的に若年層が減少するのは当たり前。そして、絶対数においても減少の兆しがある。少しでも人口減少に転じれば、社会の破滅、ひいては民族滅亡にまで不安を増長させる。これは、もうパブロフ的反応である。そのくせ待機児童の問題を抱え、すべては大人たちの都合で問題を複雑化させる。
仮に経済が堅調で、かつ将来への憂いが解消されれば、老後の面倒を見てくれるはずの子供は、むしろ鬱陶しい存在とされるだろう。それとも、楢山節考のような棄老伝説までも、視野に入れなければならんのか...
世界に目を向ければ、子供の数を制限する政策は見かけても、寿命を制限する政策までは見かけない。大人どもには、もともと人口が多すぎるという発想はないのか?一億もの人口を抱える先進国は、広大な領土を持つアメリカを除けば、日本ぐらいなもの。自然に人口制限がかかっているとしたら、むしろ喜ばしい現象ではないのか?
人口問題については、過去にも偉大な提言がある。マルサスの人口論がそれである。この問題を凌駕したのは、あの産業革命だ。人類は、偉大な技術力をもって多くの人口を養えるほどの豊かな社会を築き、急激な人口増殖によって産業を拡大してきた。近代経済は、贅沢な物量によって拡大してきたのである。増幅回路のシステム設計は技術的には単純で、正のフィードバックをかけ続ければいい。人類が発明した資本主義とは、まさに資本の循環によって自然増殖をもたらすシステムである。実際、政策立案者は、いまだに消費を煽る以外に方策がないと見える。
そして再び、マルサスのように問い掛けなければなるまい。どこまで人口増加を容認できるのか?と。人間の都合による土地改良や品種改良は、どこまで容認できるのか?と。地球環境を本気で保護しようとすれば、人類の方が地球から去っていくしかないのかもしれん。体質改良を図って火星や月にでも移住するしか。経済問題を凌駕する方策が、本当に人口増加しかないとすれば...
「正のフィードバックの回路はふつうは個々の生物体にはみつからない。総体としての生命だけが、この無軌道を許しながら今日までみかけ上罰せられずにいる。有機的な生命は、たいへん珍しい性質をそなえたダムのように、浪費しつつある宇宙のエネルギーの流れの中に自分を組み入れ、負のエントロピーを食べ、エネルギーをもぎとってはそのエネルギーで成長する。そして自分の成長によって形を整え、ますます多くのエネルギーをもぎとる。すでにとりこんだエネルギーが多ければエネルギーをそれだけ速くもぎとれる。だからといっていまだに過剰増殖やカタストローフに至らないのは、非生物界の無情な力である確率の法則が、生物の増殖を制限しているからである。」
3. 報酬と罰の二重原理
文明人は、近代化した環境支配によって仕方なく、快と不快の経済市況に身を委ねてきたという。しかも、その進化の方向は、不快を触発する刺激には敏感になり、快を触発する刺激には鈍感になる方向にあると。人間は、不快に対する不寛容さをまし、快の誘引力も低下しているというのである。真の快楽を知らず、目先の現象に惑わされる傾向にあるというわけか。
奇妙なことに、生産者の商業戦略がインスタントな喜びを奨励すれば、これに負けじと、消費者もお得な分割払いに飛びつき、互いに生産と消費の奴隷と化す。現代人はますます利便性と自動化に邁進し、快と不快の生理的メカニズムの虜になっていく。ネット社会には、けしからん!と息巻く理性の検閲官どもが溢れ、エイプリルフールをささやかに催す喜びまでも奪われていく。理性ってやつが、ストレス解消の手っ取り早い手段となっているのである。実存の厳しさを知らない時代は、勇敢さを追求する必要はなくなった。あらゆる欲望はインスタント化し、愛の形もチンして終わり。愛が崇高だって?ご冗談でしょう。神の前で誓った結婚ですら、老後の不安解消のための救済処置として機能しているではないか。人を愛すのはいいが、人から愛されたいという衝動は少しばかり大きすぎる。面倒臭がり屋には辛い時代である。
では、文明社会とは、生物学的には病理的な現象であろうか?どうやらそうらしい。人間自身も、人間社会が自然から逸脱した状態であることは薄々気づいている。その証拠に、「自然」という用語に対して「人工」という用語を対立させる。
「古典的なパブロフ型条件反応を形成する能力のあるすべての生物では、この過程は相互的作用をもつ二つのタイプの刺激によって影響を受ける。そのひとつは、すでに生じている行動を強める強化刺激であり、もうひとつはすでに生じている行動を弱めたりまったく抑制したりする消去刺激である。人間の場合には第一のタイプの刺激のはたらきは快感と結びつき、第二のタイプの刺激のはたらきは不快感と結びついている。そして、高等動物の場合にはこれは要するに報酬と罰であるといったとしても、けっしてそれほど擬人化したことにはならない。」
4. 行動主義への反駁
本書は、行動主義派の反駁の書ともなっている。行動主義心理学者の大部分は、行動には生まれつきの要素は一つもない、と主張していたそうな。そして、このドグマは、あらゆる空論家たちの確信を強めるのに役立ったが、宗派間の教義を和解させるには役立たないと吐き捨て、こんな挑戦的なフレーズを叩きつける。
「人間は誰でも等しく成長する権利があるということは、疑いようのない倫理的な真理である。けれどもこの真理は、あらゆる人間がもともと等価であるという偽りに歪曲されやすい。行動主義の教義は、さらに一歩先をいっている。同じ外的条件のもとで成長すれば誰もが平等になれるし、しかもこうした条件さえ理想的なら誰でもまったく理想的な人間になれる、というのである。そこで人間は、いかなる遺伝的な性質も、とりわけ社会的な行動や社会的な欲求を決定するいかなる遺伝的性質ももっているはずがない、もっとうまくいえば、もっている必要がないということになる。」
2018-03-04
"ソロモンの指環" Konrad Zacharias Lorenz 著
悪霊までも支配したと伝えられる叡智の持ち主、ソロモン王。彼には「魔法の指環の助けをかりて動物と話をした...」という伝説がある。どうやら、旧約聖書にある「けものや鳥や這うものや魚たちの話をした」という一節を、「... と話をした」と読み違えたことに発するらしい。
だがここに、指環の力なんぞに頼らなくても、動物たちとの会話を謳歌したオヤジがいる。古代の王様のように、ありとあらゆる動物と語り合えたわけではないにしても。そのオヤジとは、動物行動学の権威で知られるコンラート・ローレンツ博士だ。彼は遺伝的に引き出される解発因としての動物たちの行動や意識を観察し、その実体験を物語ってくれる。副題に「動物行動学入門」とあるが、むしろ「人間行動学入門」したほうがいい。そして、その延長上に人口論が見えてくる...
「この眼で美をみたものは死の手にゆだねられることはないけれども、自然の美しさを一度でもみつめたことのあるものは、もはやこの自然から逃れることはできない。そのような人間は、詩人か自然科学者のいずれかになるほかはない。もしほんとうに眼をもっていたならば、とうぜん自然科学者になるだろう。」
「動物の話を書くためには、生きている動物たちにあたたかい、偽りのない感覚をもっていなくてはならない。」
そんな資格を持った人間なんているのだろうか?動物について語ると称して、動物については何も知らない。それどころか、人間という動物についても。そして、信仰の捌け口を宗教や哲学に求めるほかはない...
ところで、自分が人間だと思える時って、どんな時だろう。なぜ、自分は人間だと信じることができるのだろう。周りが人間だらけで、単なる同族だと思っているだけのことだろうか。他の動物よりも知能が優れているという差別意識がそうさせるのだろうか。
好物のミミズを博士の口元へ運ぶ鳥は、博士を同族と見ているようだ。生まれたばかりの赤ん坊の鳥は、はじめて眼にした博士を母親だと思い込んでいるようだ。人間と付き合っているうちに、動物たちの方が人間だと思い込んでいるのかもしれない。このようなエピソードは、「トムとジェリー」の一話を眺めているようで、鬱陶しい社会に慣らされた身には和ましい。
無に帰する恐怖は生あるものの本能。動物たちは息巻く... オレの平和を乱すヤツは誰だ!と。縄張り意識、所有の概念、居場所への執着... こうした情念が無意識に働くのは、動物でも同じようである。人間ってやつは、この意識をより強烈にさせ、自分の人生にまで意義を求めてやまない。惰性的な慣習を義務だと主張しては異口同音に身を委ね、それで安眠安住できるという寸法よ。およそ人間ほどしぶとい動物はいない。どんな劣悪な環境に追い込まれようとも、けして希望を捨てない。いや、捨てきれないのだ。おそらく人類滅亡に瀕しても...
エゴイズムのない人間はいない。いや、エゴイズムは動物の本能というべきか。だが同時に、高等とされる動物には、集団生活の中で自然に育まれる節制の原理が働く。種の保存原理と言うべきものが。本書には、モラルの起源を見ている思いである。そして、ダーウィンの「種の起源説」が一層輝いて見えてくる。自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様化する必要がある、というのが真意だと思う...
1. 逆檻の原理
動物愛好家というのは、概して動物の良い面から書こうとするものだが、ローレンツ博士は正反対の試みを突きつけ、まずもって動物たちへの忿懣から書き下ろす。なんでも擬人化してしまう動物好きは、自分が話すことを動物が理解していると主張して譲らない。それどころか、ペットに家族の一員としての絆を強要する。博士は、こうした人間側の思いを真っ向から否定にかかる。動物園で満足して暮らしている動物には、ばかにセンチメンタルな同情を寄せるくせに、本当に辛い思いをしている動物の気持ちには気づかないものだと。檻の中では、動物たちの背中がしょんぼりと見え、いかに精神的にかたわであるか。それは、満員電車の中でぎくしゃくしているサラリーマンを観察しているようでもある。
動物を飼いたいという願望は、太古から人間の心に住み着いている。それは、文明を獲得した知的生命体が、自然という失われた楽園に抱く郷愁のようなものであろうか。人間と動物とではあまりに世界観が違いすぎる。互いに理解しようなどとは無理な話。人間同士ですら互いに理解できないというのに。神の前で誓った人間愛ですら当てにならないというのに、なにが動物愛だ。ペットを選ぶにしても、自分の世話が及ぶ範囲、すなわち、飼い主の寛容さの程度で決まる。まずは、そこから認めようというわけである。
だからといって、ネズミを放し飼いにし、こいつが家中を走り回り、あちこちをかじっていく様を見守ることができようか。洗濯物のボタンを片っ端から食いちぎるオウムを、笑顔で観ていることができようか。家の中で飼い慣らすことのできないという性質を持つハイイロガンが、毎晩寝室に入り込んでは共に夜を過ごし、朝になると窓から自由に飛び立っていく光景を黙認できようか。
このような馬鹿げた苦心談は必要不可欠なのか?と問えば、どうやらそうらしい。ちなみに、モラリストとして知られるモンテーニュはうまいことを言った... 結婚は鳥カゴに似ている。外にいる鳥は必死に入ろうとし、中にいる鳥は必死に逃げ出そうとする...と。
「大型インコ類は、ただ利口なだけではなく、精神的にも肉体的にも異常なほど活発なのである。おそらく大型のカラス類とともに、囚人の感じる倦怠の苦しみを知っている唯一の鳥だろう。しかしこの真にあわれむべき動物をあわれむ人はだれもいない。無理解にも、愛情深い女主人は、その鳥がひょいひょい頭をさげるのを、おじぎをしているのだと思っている。とんでもない。これはもともとは鳥がカゴから逃げ出す出口をさがし、なんとかして飛びだそうというはかない望みで、もがきまわった行動がすっかり身についてしまったものなのだ。こういう不幸な鳥を自由にしてやってみたまえ。数週間、いや数ヶ月間、鳥は飛びたとうともしないだろう。」
2. アクアリウムは一つの世界
アクアリウムは、地球上におけるのと同じく、動物と植物が一つの生物学的な平衡の下で生活している。植物は動物が吐き出す炭酸ガスで息をし、動物は植物が吐き出す酸素を吸って息をする。植物は自分の身体を作るために炭酸ガスを費やすばかりか、呼吸に使うよりも多量の酸素を吐き出す。生産性という意味では動物よりもはるかに優れている。静寂しきった身体だからこそできる芸当か。
一方で動物は、無駄な動きばかりするものだから、酸素を思いっきり費やす。あり余った酸素を前に、先祖の動物たちは、それを使い切ろうと浪費癖がついたようである。おまけに、その浪費遺伝子を、最も忠実に受け継いだのが人間か。
植物は、静寂で無駄口をたたかず、平穏で寛容だ。なにしろ生物の排泄物や死骸までも、バクテリアに分解されて生じた物質と同化させ、再び物質の大循環系に組み入れるのだから。この循環の平衡がちょっとでも乱れると、たちまち悪循環に陥る。水槽の中に、これ以上の動物は不要だと分かっていても、もう一匹魚を入れてみたいという衝動に駆られる。そして酸素欠乏が生じ、アクアリウムというちっぽけな世界を破壊してしまうのである。腐ってゆく動物の死骸には莫大なバクテリアが増殖し始め、水は濁り、溶存酸素量は急激に減少し、動物たちが追うように死んでゆく。この悪循環は容赦なく進行し、ついに植物までも殉死へ。アクアリウムは、もはや悪臭を放つドクロの肉汁と化す。
アクアリウム愛好家は、エアーポンプで人工的に空気を水中に送り込み、この危険を防ごうとする。だがそれでは、アクアリウムの真の魅力は損なわれる。実は、ちょっと餌を与えるぐらいで、生物学的に特に世話をする必要はないという。平衡状態が保てれば、掃除してやる必要もないという。枯れた植物の組織や動物の排出物が底に溜まっても、砂にしみこんで肥料となっていくので、気にすることはないと。まさにアクアリウムとは、自然界の自由意志を体現する場。人間にとって汚物の沈積物があるにもかかわらず、水は高山の湖のように澄み切り、臭いもない。その魅力は、ちっぽけな世界が自立し、自律し、そして、自活しているところにある。この世界を手に入れるには、かなりの謙虚さと自制心が必要だ。うっかり世話をしては駄目!それが善意からのものであっても...
とはいっても、ある程度思い通りに支配できる世界でもある。水槽の大きさ、中に住まわせる生き物、好みの水草など、ある程度の選択肢が許される。ただそれには、多くの経験と生物学的な勘が要る。底にしく砂、水槽の大きさや置き場所、湿度や光の条件、中に入れる動物や植物の種類と数など。この自然モデルの構築は、まさに神にでもなった気分。これこそが究極の管理技術やもしれん。
騒々しい人間社会に嫌気がさせば、癒やさる空間として、激しく動き回る生き物よりも熱帯魚のような静かな魚類を選びたい。世界を完結できるという意味では、まさに人口論を体現する場と言えよう。自然界をそのままを再現しようと思えば、池から水網一つで掬ってくるのが一番だと助言してくれる。
しかしながら、水槽の世界にも、恐ろしい肉食系がいる。掬ってきた生き物の中には、たいていゲンゴロウの幼虫が一匹や二匹混ざっている。こいつは相対的に、大きさ、貪欲さ、獲物を殺す狡猾さの面で、虎、ライオン、狼、シャチ、サメ、狩人バチのような名うての捕食動物のものの数ではないらしい。ゲンゴロウの幼虫は、体の外で消化する数少ない動物の一つ。獲物に注入する分泌物は獲物の内臓を溶かして液体状にしてしまい、幼虫は鉗子の中の菅を通して吸い込む。水草に隠れて待ち伏せし、少しでも動く物体ならなんでも盲目的に襲いかかる。アクアリウムのような狭い空間に大きなゲンゴロウの幼虫がニ、三匹もいると、二、三日足らずで食べ尽くしてしまう。それからは、もっぱら共食いだ。大抵の動物は、餓死しそうになっても、同族までは喰おうとはしないものだが...
そういえば、かつて人食い人種というのがいたと聞く。大飢饉に襲われれば、屍体を貪るような異常行動も記録される。家畜同然に扱われた奴隷が、その対象にされたということも考えられる。人間ってやつは、飢えると何をしでかすか分からない。理性に縋ったところで、これほど脆く崩壊しやすいものはない。ゲンゴロウってやつが、人間種に見えてくるのは気のせいであろうか...
3. オオカミ系とジャッカル系
思い浮かべる忠誠な動物といえば、犬だ。忠犬から権力者の犬など、良い意味でも悪い意味でも代名詞のように使われ、無駄な死を「犬死に」なんて言ったりもする。哲学界に目を向ければ、犬は乞食の代名詞のようにも言われ、必要最低限のものしか欲しないという意味で「犬儒学派」というのもある。ちなみに、一目置かれるディオゲネスも、この一派とされるが、おいらは子猫ちゃん派だ!
さて、ペットとしての犬の歴史は長いそうな。新旧石器時代の境目ごろ、最初の家畜としてトルフシュピッツ犬が現れたという。ジャッカルの血をひいた半家畜化された犬で、狩人のキャンプについてまわり、人間の食べかすを漁る。サーベルタイガーやホラグマなどの猛獣が近づいたら凄まじい声で吠えてくれるので、番犬としての役割が与えられたとか。人間と犬の古い結びつきは、両者の自発的な意志によって、なんの強制もなく契約されたようである。人間が犬を忠実で恭順な友と呼ぶのも、その所以であろうか。他の動物が囚われの身という経緯で家畜になったのとは違うようだ。
野生犬が一人の主人に抱く愛着は、群れのリーダーに抱く愛着がごとく。犬がたった一人の主人に強い結びつきを誓うのは、やはり謎である。そして、人間自身もまた、犬に見習って人間の犬になるのかは知らん。
一方、猫は違うらしい。とても家畜とは言えないし、これほど自由に振る舞っているヤツも珍しい。そして、男性諸君が子猫ちゃんの犬となっていくのは、やはり謎である。
ところで、犬の系統によっても忠誠の誓い方が違うようである。ジャッカル系とオオカミ系とでは、気質の本質的な違いが見られるそうな。ジャッカルはもともと定住性の動物で、たまたまその場所に住み着いて群れをなしているらしい。
対して、獲物を求めて徘徊してまわるオオカミの群れは、がっちり組んだ、まったく排他的な社会を形成するという。仲間同士で死んでも守ろうとする意志、妥協のない排他性と勇敢な集団性は、なんといってもオオカミの特性である。
ジャッカル系は、誰とでも仲良しになりすぎで、誰が綱をひっぱっても喜んでついていく。オオカミ系は、一度忠誠を誓ったら永久にその人の犬となり、知らない人には尻尾すら振らない。
「二君に仕えぬというオオカミ系のイヌの忠誠さを味わった人は、もはやジャッカル系のイヌを飼っても幸せにはなれない。」
しかしながら、欠点も大きい。もし何かの理由でオオカミ系の犬を手放すことになると、完全に心理的平衡を失うという。モラルが崩壊し、鳥小屋を襲い、悪事に悪事を重ね、そこらじゅうをうろつきまわり、野良犬のレベルにまで転落するのだとか。ゲシュタルト崩壊ってやつは、忠誠心の強いデリケートな感覚にこそ起こりやすいようである。
さらに、オオカミの血の濃い犬ほど、その並外れた忠実さと愛着の深さにもかかわらず、けっして従順ではないという。野性的な自立性は保たれているということか。オオカミ系の犬は、大型ネコ族の性質を多く持っているという。それは、死ぬまで君の友、だが、けっして奴隷にはならないという性質である。あなたなしでは生きていけないわ... なんて台詞を吐きながら、しっかりと自分というものを持ってやがるし、気まぐれな行動も多い。どうりで犬族の男どもは、子猫ちゃんの性質に隷属するわけだ...
ジャッカル系の犬はまるで違い、古くから家畜化されたために、子供っぽいところが残っているという。声をかければ喜んで近寄ってきて、ほとんど本能的に言うことをきくのも、幼稚な忠誠である。主人だけでなく誰にでもなつき、いわば万人の犬であって、すぐに盗まれる。
だからといって、忠誠心を求めてオオカミ系の犬をペットにしようとしても、調教済みのものを飼っても無駄だ。一人の調教師に忠実なはずだから。そこで、双方の長所を受け継ぐために、品種改良を試みるのが人間ってやつだ。オオカミ系とジャッカル系を無理やり交尾させ、自然界にあふれる多様性を人間の都合で変質させてしまう。
そして、自然から逸脱した多種多様な品種に溢れ、もはや純血な生態系を見つけるのも難しいときた。孤独を信念に持つオオカミなら辛うじて森に生息するが、人間に近すぎたジャッカルはとうに絶滅しちまったとさ...
4. 勝者の社会的抑制
「カラスは仲間の目玉をえぐらない。」という諺があるそうな。ハシボソガラスやワタリガラスは同族の仲間の目玉をつつかないし、懐つけば飼い主の目玉もつつかないらしい。博士が飼っているワタリガラスのロアを腕にとまらせ、わざと顔をくちばしに近づけ、下向きに曲がった恐ろしい先端すれすれに目玉を差し出したことがあるという。すると、ロアは実に感激的なことをやったとか。神経質というか、なかば苦しそうな態勢から、くちばしを眼から遠ざけるように振る舞ったと。これは信頼なのか?あるいは服従なのか?
とはいえ、カラスはやはり猛獣だ。くちばしに目玉を近づけるなど自殺行為。人間同士でも、被害妄想者にいきなり射殺されるかもしれない。カラスにも衝動というものがあろうに。同類虐殺の防止本能といった動物学法則でもあるのか?
一方で、動物界で最も高等とされる人間は人間を虐殺する。そればかりか民族レベルで抹殺にかかる。友愛や博愛を唱える修道士でさえ異教徒を相手にすれば、人格を変貌させる。こうした行為は動物界では見られないが、少なくとも同じ人間の種だとは思っていないからやれる行為だろう。
それでも救いはある。絶望の中で死を覚悟してもなお必死に抵抗する者が、敗北を認めた途端に敵対心を消失させることが、しばしば見られる。ホメロスが描いた古代ギリシアの戦士たちは、降伏時に、兜と槍を捨てて跪き、首を垂れた。負けを認めた武士は、潔く首を差し出した。すると、殺しやすい姿勢を無防備に見せることによって、却って相手を殺しにくくしてしまうという不思議な心理が働く。同情心のようなものが。こうした心理が働くのは、なにも人間界だけのものではないらしい。動物界でも、情けを乞う方の個体は、攻撃者に向かって身体の最も弱い部分を差し出すという。敵が殺そうとして襲いかかる時に狙う部分を。鳥の場合は、多くの場合が後頭部を差し出すのだとか。社会的動物の服従の態度は、すべて同じ原理に基づいているという...
だがここに、指環の力なんぞに頼らなくても、動物たちとの会話を謳歌したオヤジがいる。古代の王様のように、ありとあらゆる動物と語り合えたわけではないにしても。そのオヤジとは、動物行動学の権威で知られるコンラート・ローレンツ博士だ。彼は遺伝的に引き出される解発因としての動物たちの行動や意識を観察し、その実体験を物語ってくれる。副題に「動物行動学入門」とあるが、むしろ「人間行動学入門」したほうがいい。そして、その延長上に人口論が見えてくる...
「この眼で美をみたものは死の手にゆだねられることはないけれども、自然の美しさを一度でもみつめたことのあるものは、もはやこの自然から逃れることはできない。そのような人間は、詩人か自然科学者のいずれかになるほかはない。もしほんとうに眼をもっていたならば、とうぜん自然科学者になるだろう。」
「動物の話を書くためには、生きている動物たちにあたたかい、偽りのない感覚をもっていなくてはならない。」
そんな資格を持った人間なんているのだろうか?動物について語ると称して、動物については何も知らない。それどころか、人間という動物についても。そして、信仰の捌け口を宗教や哲学に求めるほかはない...
ところで、自分が人間だと思える時って、どんな時だろう。なぜ、自分は人間だと信じることができるのだろう。周りが人間だらけで、単なる同族だと思っているだけのことだろうか。他の動物よりも知能が優れているという差別意識がそうさせるのだろうか。
好物のミミズを博士の口元へ運ぶ鳥は、博士を同族と見ているようだ。生まれたばかりの赤ん坊の鳥は、はじめて眼にした博士を母親だと思い込んでいるようだ。人間と付き合っているうちに、動物たちの方が人間だと思い込んでいるのかもしれない。このようなエピソードは、「トムとジェリー」の一話を眺めているようで、鬱陶しい社会に慣らされた身には和ましい。
無に帰する恐怖は生あるものの本能。動物たちは息巻く... オレの平和を乱すヤツは誰だ!と。縄張り意識、所有の概念、居場所への執着... こうした情念が無意識に働くのは、動物でも同じようである。人間ってやつは、この意識をより強烈にさせ、自分の人生にまで意義を求めてやまない。惰性的な慣習を義務だと主張しては異口同音に身を委ね、それで安眠安住できるという寸法よ。およそ人間ほどしぶとい動物はいない。どんな劣悪な環境に追い込まれようとも、けして希望を捨てない。いや、捨てきれないのだ。おそらく人類滅亡に瀕しても...
エゴイズムのない人間はいない。いや、エゴイズムは動物の本能というべきか。だが同時に、高等とされる動物には、集団生活の中で自然に育まれる節制の原理が働く。種の保存原理と言うべきものが。本書には、モラルの起源を見ている思いである。そして、ダーウィンの「種の起源説」が一層輝いて見えてくる。自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様化する必要がある、というのが真意だと思う...
1. 逆檻の原理
動物愛好家というのは、概して動物の良い面から書こうとするものだが、ローレンツ博士は正反対の試みを突きつけ、まずもって動物たちへの忿懣から書き下ろす。なんでも擬人化してしまう動物好きは、自分が話すことを動物が理解していると主張して譲らない。それどころか、ペットに家族の一員としての絆を強要する。博士は、こうした人間側の思いを真っ向から否定にかかる。動物園で満足して暮らしている動物には、ばかにセンチメンタルな同情を寄せるくせに、本当に辛い思いをしている動物の気持ちには気づかないものだと。檻の中では、動物たちの背中がしょんぼりと見え、いかに精神的にかたわであるか。それは、満員電車の中でぎくしゃくしているサラリーマンを観察しているようでもある。
動物を飼いたいという願望は、太古から人間の心に住み着いている。それは、文明を獲得した知的生命体が、自然という失われた楽園に抱く郷愁のようなものであろうか。人間と動物とではあまりに世界観が違いすぎる。互いに理解しようなどとは無理な話。人間同士ですら互いに理解できないというのに。神の前で誓った人間愛ですら当てにならないというのに、なにが動物愛だ。ペットを選ぶにしても、自分の世話が及ぶ範囲、すなわち、飼い主の寛容さの程度で決まる。まずは、そこから認めようというわけである。
だからといって、ネズミを放し飼いにし、こいつが家中を走り回り、あちこちをかじっていく様を見守ることができようか。洗濯物のボタンを片っ端から食いちぎるオウムを、笑顔で観ていることができようか。家の中で飼い慣らすことのできないという性質を持つハイイロガンが、毎晩寝室に入り込んでは共に夜を過ごし、朝になると窓から自由に飛び立っていく光景を黙認できようか。
このような馬鹿げた苦心談は必要不可欠なのか?と問えば、どうやらそうらしい。ちなみに、モラリストとして知られるモンテーニュはうまいことを言った... 結婚は鳥カゴに似ている。外にいる鳥は必死に入ろうとし、中にいる鳥は必死に逃げ出そうとする...と。
「大型インコ類は、ただ利口なだけではなく、精神的にも肉体的にも異常なほど活発なのである。おそらく大型のカラス類とともに、囚人の感じる倦怠の苦しみを知っている唯一の鳥だろう。しかしこの真にあわれむべき動物をあわれむ人はだれもいない。無理解にも、愛情深い女主人は、その鳥がひょいひょい頭をさげるのを、おじぎをしているのだと思っている。とんでもない。これはもともとは鳥がカゴから逃げ出す出口をさがし、なんとかして飛びだそうというはかない望みで、もがきまわった行動がすっかり身についてしまったものなのだ。こういう不幸な鳥を自由にしてやってみたまえ。数週間、いや数ヶ月間、鳥は飛びたとうともしないだろう。」
2. アクアリウムは一つの世界
アクアリウムは、地球上におけるのと同じく、動物と植物が一つの生物学的な平衡の下で生活している。植物は動物が吐き出す炭酸ガスで息をし、動物は植物が吐き出す酸素を吸って息をする。植物は自分の身体を作るために炭酸ガスを費やすばかりか、呼吸に使うよりも多量の酸素を吐き出す。生産性という意味では動物よりもはるかに優れている。静寂しきった身体だからこそできる芸当か。
一方で動物は、無駄な動きばかりするものだから、酸素を思いっきり費やす。あり余った酸素を前に、先祖の動物たちは、それを使い切ろうと浪費癖がついたようである。おまけに、その浪費遺伝子を、最も忠実に受け継いだのが人間か。
植物は、静寂で無駄口をたたかず、平穏で寛容だ。なにしろ生物の排泄物や死骸までも、バクテリアに分解されて生じた物質と同化させ、再び物質の大循環系に組み入れるのだから。この循環の平衡がちょっとでも乱れると、たちまち悪循環に陥る。水槽の中に、これ以上の動物は不要だと分かっていても、もう一匹魚を入れてみたいという衝動に駆られる。そして酸素欠乏が生じ、アクアリウムというちっぽけな世界を破壊してしまうのである。腐ってゆく動物の死骸には莫大なバクテリアが増殖し始め、水は濁り、溶存酸素量は急激に減少し、動物たちが追うように死んでゆく。この悪循環は容赦なく進行し、ついに植物までも殉死へ。アクアリウムは、もはや悪臭を放つドクロの肉汁と化す。
アクアリウム愛好家は、エアーポンプで人工的に空気を水中に送り込み、この危険を防ごうとする。だがそれでは、アクアリウムの真の魅力は損なわれる。実は、ちょっと餌を与えるぐらいで、生物学的に特に世話をする必要はないという。平衡状態が保てれば、掃除してやる必要もないという。枯れた植物の組織や動物の排出物が底に溜まっても、砂にしみこんで肥料となっていくので、気にすることはないと。まさにアクアリウムとは、自然界の自由意志を体現する場。人間にとって汚物の沈積物があるにもかかわらず、水は高山の湖のように澄み切り、臭いもない。その魅力は、ちっぽけな世界が自立し、自律し、そして、自活しているところにある。この世界を手に入れるには、かなりの謙虚さと自制心が必要だ。うっかり世話をしては駄目!それが善意からのものであっても...
とはいっても、ある程度思い通りに支配できる世界でもある。水槽の大きさ、中に住まわせる生き物、好みの水草など、ある程度の選択肢が許される。ただそれには、多くの経験と生物学的な勘が要る。底にしく砂、水槽の大きさや置き場所、湿度や光の条件、中に入れる動物や植物の種類と数など。この自然モデルの構築は、まさに神にでもなった気分。これこそが究極の管理技術やもしれん。
騒々しい人間社会に嫌気がさせば、癒やさる空間として、激しく動き回る生き物よりも熱帯魚のような静かな魚類を選びたい。世界を完結できるという意味では、まさに人口論を体現する場と言えよう。自然界をそのままを再現しようと思えば、池から水網一つで掬ってくるのが一番だと助言してくれる。
しかしながら、水槽の世界にも、恐ろしい肉食系がいる。掬ってきた生き物の中には、たいていゲンゴロウの幼虫が一匹や二匹混ざっている。こいつは相対的に、大きさ、貪欲さ、獲物を殺す狡猾さの面で、虎、ライオン、狼、シャチ、サメ、狩人バチのような名うての捕食動物のものの数ではないらしい。ゲンゴロウの幼虫は、体の外で消化する数少ない動物の一つ。獲物に注入する分泌物は獲物の内臓を溶かして液体状にしてしまい、幼虫は鉗子の中の菅を通して吸い込む。水草に隠れて待ち伏せし、少しでも動く物体ならなんでも盲目的に襲いかかる。アクアリウムのような狭い空間に大きなゲンゴロウの幼虫がニ、三匹もいると、二、三日足らずで食べ尽くしてしまう。それからは、もっぱら共食いだ。大抵の動物は、餓死しそうになっても、同族までは喰おうとはしないものだが...
そういえば、かつて人食い人種というのがいたと聞く。大飢饉に襲われれば、屍体を貪るような異常行動も記録される。家畜同然に扱われた奴隷が、その対象にされたということも考えられる。人間ってやつは、飢えると何をしでかすか分からない。理性に縋ったところで、これほど脆く崩壊しやすいものはない。ゲンゴロウってやつが、人間種に見えてくるのは気のせいであろうか...
3. オオカミ系とジャッカル系
思い浮かべる忠誠な動物といえば、犬だ。忠犬から権力者の犬など、良い意味でも悪い意味でも代名詞のように使われ、無駄な死を「犬死に」なんて言ったりもする。哲学界に目を向ければ、犬は乞食の代名詞のようにも言われ、必要最低限のものしか欲しないという意味で「犬儒学派」というのもある。ちなみに、一目置かれるディオゲネスも、この一派とされるが、おいらは子猫ちゃん派だ!
さて、ペットとしての犬の歴史は長いそうな。新旧石器時代の境目ごろ、最初の家畜としてトルフシュピッツ犬が現れたという。ジャッカルの血をひいた半家畜化された犬で、狩人のキャンプについてまわり、人間の食べかすを漁る。サーベルタイガーやホラグマなどの猛獣が近づいたら凄まじい声で吠えてくれるので、番犬としての役割が与えられたとか。人間と犬の古い結びつきは、両者の自発的な意志によって、なんの強制もなく契約されたようである。人間が犬を忠実で恭順な友と呼ぶのも、その所以であろうか。他の動物が囚われの身という経緯で家畜になったのとは違うようだ。
野生犬が一人の主人に抱く愛着は、群れのリーダーに抱く愛着がごとく。犬がたった一人の主人に強い結びつきを誓うのは、やはり謎である。そして、人間自身もまた、犬に見習って人間の犬になるのかは知らん。
一方、猫は違うらしい。とても家畜とは言えないし、これほど自由に振る舞っているヤツも珍しい。そして、男性諸君が子猫ちゃんの犬となっていくのは、やはり謎である。
ところで、犬の系統によっても忠誠の誓い方が違うようである。ジャッカル系とオオカミ系とでは、気質の本質的な違いが見られるそうな。ジャッカルはもともと定住性の動物で、たまたまその場所に住み着いて群れをなしているらしい。
対して、獲物を求めて徘徊してまわるオオカミの群れは、がっちり組んだ、まったく排他的な社会を形成するという。仲間同士で死んでも守ろうとする意志、妥協のない排他性と勇敢な集団性は、なんといってもオオカミの特性である。
ジャッカル系は、誰とでも仲良しになりすぎで、誰が綱をひっぱっても喜んでついていく。オオカミ系は、一度忠誠を誓ったら永久にその人の犬となり、知らない人には尻尾すら振らない。
「二君に仕えぬというオオカミ系のイヌの忠誠さを味わった人は、もはやジャッカル系のイヌを飼っても幸せにはなれない。」
しかしながら、欠点も大きい。もし何かの理由でオオカミ系の犬を手放すことになると、完全に心理的平衡を失うという。モラルが崩壊し、鳥小屋を襲い、悪事に悪事を重ね、そこらじゅうをうろつきまわり、野良犬のレベルにまで転落するのだとか。ゲシュタルト崩壊ってやつは、忠誠心の強いデリケートな感覚にこそ起こりやすいようである。
さらに、オオカミの血の濃い犬ほど、その並外れた忠実さと愛着の深さにもかかわらず、けっして従順ではないという。野性的な自立性は保たれているということか。オオカミ系の犬は、大型ネコ族の性質を多く持っているという。それは、死ぬまで君の友、だが、けっして奴隷にはならないという性質である。あなたなしでは生きていけないわ... なんて台詞を吐きながら、しっかりと自分というものを持ってやがるし、気まぐれな行動も多い。どうりで犬族の男どもは、子猫ちゃんの性質に隷属するわけだ...
ジャッカル系の犬はまるで違い、古くから家畜化されたために、子供っぽいところが残っているという。声をかければ喜んで近寄ってきて、ほとんど本能的に言うことをきくのも、幼稚な忠誠である。主人だけでなく誰にでもなつき、いわば万人の犬であって、すぐに盗まれる。
だからといって、忠誠心を求めてオオカミ系の犬をペットにしようとしても、調教済みのものを飼っても無駄だ。一人の調教師に忠実なはずだから。そこで、双方の長所を受け継ぐために、品種改良を試みるのが人間ってやつだ。オオカミ系とジャッカル系を無理やり交尾させ、自然界にあふれる多様性を人間の都合で変質させてしまう。
そして、自然から逸脱した多種多様な品種に溢れ、もはや純血な生態系を見つけるのも難しいときた。孤独を信念に持つオオカミなら辛うじて森に生息するが、人間に近すぎたジャッカルはとうに絶滅しちまったとさ...
4. 勝者の社会的抑制
「カラスは仲間の目玉をえぐらない。」という諺があるそうな。ハシボソガラスやワタリガラスは同族の仲間の目玉をつつかないし、懐つけば飼い主の目玉もつつかないらしい。博士が飼っているワタリガラスのロアを腕にとまらせ、わざと顔をくちばしに近づけ、下向きに曲がった恐ろしい先端すれすれに目玉を差し出したことがあるという。すると、ロアは実に感激的なことをやったとか。神経質というか、なかば苦しそうな態勢から、くちばしを眼から遠ざけるように振る舞ったと。これは信頼なのか?あるいは服従なのか?
とはいえ、カラスはやはり猛獣だ。くちばしに目玉を近づけるなど自殺行為。人間同士でも、被害妄想者にいきなり射殺されるかもしれない。カラスにも衝動というものがあろうに。同類虐殺の防止本能といった動物学法則でもあるのか?
一方で、動物界で最も高等とされる人間は人間を虐殺する。そればかりか民族レベルで抹殺にかかる。友愛や博愛を唱える修道士でさえ異教徒を相手にすれば、人格を変貌させる。こうした行為は動物界では見られないが、少なくとも同じ人間の種だとは思っていないからやれる行為だろう。
それでも救いはある。絶望の中で死を覚悟してもなお必死に抵抗する者が、敗北を認めた途端に敵対心を消失させることが、しばしば見られる。ホメロスが描いた古代ギリシアの戦士たちは、降伏時に、兜と槍を捨てて跪き、首を垂れた。負けを認めた武士は、潔く首を差し出した。すると、殺しやすい姿勢を無防備に見せることによって、却って相手を殺しにくくしてしまうという不思議な心理が働く。同情心のようなものが。こうした心理が働くのは、なにも人間界だけのものではないらしい。動物界でも、情けを乞う方の個体は、攻撃者に向かって身体の最も弱い部分を差し出すという。敵が殺そうとして襲いかかる時に狙う部分を。鳥の場合は、多くの場合が後頭部を差し出すのだとか。社会的動物の服従の態度は、すべて同じ原理に基づいているという...
2018-02-25
"一外交官の見た明治維新(上/下)" Ernest Mason Satow 著
十九世紀末から二十世紀初頭、アーネスト・サトウは大英帝国の極東政策における主導的外交官として知られる。サトウというのは日本ではありふれた名だが、日系人ではない。ドイツ東部出身なのでドイツ人ということになりそうだが、当時はスウェーデン領にあって、出生時の国籍はスウェーデン人ということになるらしい。
とはいえ、ナポレオン興亡時代に幼少期を過ごし、地図の色の変わるがままに、スウェーデン人、ドイツ人、フランス人、ロシア人へと転身、そしてロンドンに定住、しかもソルブ系(スラブ系)である。彼にとって国籍という概念は、あまり意味がないのかもしれない。また、貿易商の家の出ということもあり、時代の趨勢や世界の情勢に目を向ける下地が自然に育まれたようである。
さて、明治維新とは、どんな革命だったのだろう...
日本では英雄伝説として語られがちだが、革命ってやつは極めて国家論に陶酔した社会で起こりやすい。案の定、日本国内は攘夷論と開国論で割れた。開国論に対抗するのは鎖国論のはずだが、これを通り過ぎて「夷狄追放」を合言葉とし、幕府が頼りないとなれば、これに尊王論が加わり、一気に倒幕論へ傾く。世論の不満を徳川家が一身に受け止め、最後に会津藩が尻拭いという構図である。
そして、官軍が進軍した先に何があるというのか...
これが一番重要なのだが、いつの時代でも急進派は穏健派の要人までも抹殺してしまう。そんなナショナリズムの傾向を強める時代では、外国人の目というより、国籍という帰属意識の薄い人物によって綴られる回想録は特に興味深い。このような文献が日英同盟への布石となった... と解するのは行き過ぎであろうか。結果論かもしれんが...
この書は、太平洋戦争終戦前二十五年もの間、日本では禁書とされてきたそうな。こっそりと非売品で配布された経緯はあるらしいが、検閲にひっかかって全章がそっくり抹殺されたりと、「鬼畜米英」が標語となっていた時代である。
数々の事件に巻き込まれ、斬首刑や腹切などの場面も盛り沢山。自ら身の危険を晒しながらも、機知に富んだ奇行や紅毛膝栗毛なユーモラス。当時の日本社会の人情や風情を垣間見る思いである。人生の成功とは、筆を優しくさせるものらしい...
尚、坂田精一訳版(岩波文庫)を手にする。
1. 開国と治外法権
サトウが日本へ赴任した1862年、ペリー提督に始まった対日貿易におけるアメリカの主導権は、すでに資本主義の先進国イギリスに移っていた。彼は横浜港に到着すると、いきなり生麦事件を目の当たりにする。他にも、鎌倉事件、長崎の水兵殺害事件、備前事件、堺事件、さらに、サトウ自身も襲撃を受けた経験が綴られ、文化摩擦によって実に多くの外国人が死傷した様子を物語る。
相手が外国人であろうと無礼があれば、武士には特権がある。切捨御免!これに攘夷思想が結びつけば、役人も見て見ぬふり。当初、外国人たちは日本人の残虐行為に接しては理解に苦しみ、日本固有の頑冥な世界観と野蛮な風習のせいだと考えたようである。
そして、外交交渉や通商条約で必ず持ち出されるのが「治外法権」という概念。法とは、慣習との結びつきが強いものであり、誤解が元で法律に触れることも度々ある。法的な駆け引きにおいて自由と平等が天秤にかけられ、先方の法律で自由な活動が制限されるのは御免蒙る。だが、外交上の法的な温床も微妙に変質し、犯罪者を保護する方向に働く場合もある。今日、問題が取り沙汰される日米地位協定もその類い。客人の安全保障という意味では同じことか。犯罪に関しては、人間である以上、各国でお互い様といえばそうなのだが...
集団社会において、よそ者との摩擦、すなわち縄張り意識が絡んだ時にはデリケートな問題となる。現在でも、グローバリズムが急進すれば、却ってナショナリズムを旺盛にさせ、排外主義ならぬ廃絶主義と化す。古代ギリシア人がバルバロイと呼べば、ナポレオン時代にはバーバリアンと呼び、徐々に夷狄や野蛮といった蔑視のニュアンスを帯びてくる。民族優越主義もこの類い。西洋人から見れば、世界地図の隅っこに住む蛮族だし、日本人から見れば、やはり蛮族なのである。
外国人の中には、わざわざ遠くからやってきた客人という意識を持った者もいるだろう。当初、礼儀作法や挨拶などから、無礼、憤慨という形で現れる。特に形式を重んじる公家や武家の社会では、面子こそ命。おまけに、侍は威信をまとっており、庶民と接する方が自然に振る舞えたと見える。
そして、文化の摩擦は、法律の摩擦という形で露わになる。開国、すなわち、自由貿易を認めるということは、治外法権の議論を避けられないことを意味する。
2. ヨーロッパの掃溜め... 横浜
16世紀半ば、日本はすでにヨーロッパと自由に貿易をしていた。ポルトガルの宣教師が九州で歓迎され、オランダ、スペイン、イギリスがこれに続いたが、秀吉によるキリシタン迫害から徳川幕府による鎖国政策によって、長崎だけが特別な地となった。サトウが赴任してきた時は、安政の条約で外国貿易のために港を開いて、もう三年が経っていたが、長崎は進んだ町だったようである。
一方、神奈川は条約によって最初に西洋人の居留地に定められた東海道の要所だが、横浜は商業都市としてはまだ未熟な地だったようで、商売に無知な山師連中が溢れ、約束の破棄や詐欺は珍しくなかったという。生糸に砂が混じっていたり、重い紙紐で結わえてあったり... 税関の役人が賄賂を要求すれば、西洋人も負けじと巧みに振る舞って役人のおこぼれを頂戴したり... まったく時代劇で見かける、お代官様!の世界。横浜在住の外国人社会を「ヨーロッパの掃溜め」と称したという。サトウが、いきなり生麦の地で事件に遭遇したことも、こうした背景との関係が見えてくる。犯人探しをめぐっては、なかなか役人が本気になってくれず、苛立ちを隠せない。
「日本語には定冠詞というものがなく、英語では、"The treaties are sanctioned." というのと、単に、"Treaties are sanctioned." というのではひじょうに大きな差異があるが、日本語では両方とも同じ表現の形式をとるからである。そして、私たちは、大君の閣老がわれわれをペテンにかけて、時間をかせぐために、責任のがれのあいまいな用語を使用しようとは、全く思いも及ばなかったのである。」
3. 薩摩と長州、攘夷論から開国論へ
将軍配下の武家支配は、中世ドイツの国情に似ているという。王侯の乱立した政体である。伊藤俊輔(後の博文)は、こう語ったという。
「大名がみな勝手に助力の手を差し控えたり、各藩の大名がまちまちの流儀で軍隊の教練をやったりするのを放任するかぎり、日本は強国にはなり得ない。北ドイツ連邦で、その実例が繰りかえされた。弱小な諸侯は、より強大な者に併合されるほかはないのだ。」
日本は島国ということもあり、今まで外国からの侵入の恐れがなかったために、強力な中央集権国家の必要性がない。おまけに、蒙古襲来の危機に際しては神風伝説が生まれた。
徳川時代には、譜代大名が外様大名の監視役として配置される形式が顕著となる。参勤交代や大名行列は、特に遠方の、とりわけ九州の大名連には顰蹙を買った制度である。何かと難癖をつけては、お家断絶へ追い込む空気が漂う。やがて、外国からの圧力が譜代も外様もないという意識を強めていく。ここに廃藩置県の意義がある。
とはいえ、倒幕の先鋒役を演じた薩摩藩や長州藩にしても、当初は攘夷論が旺盛であったようである。生麦事件では、島津家の行列に遭遇して乗馬したままのイギリス人を、薩摩藩士たちが殺傷。イギリスは補償を求めて艦隊を派遣し、鹿児島の街を砲撃した。薩英戦争である。町を破壊された薩摩藩は、攘夷決行がいかに無謀であるかを知り、一転してイギリスとの親善を図る。
これと同様の意識変化が、長州藩でも起こる。攘夷論の先鋒に下関海峡航行中の外国船を砲撃した。下関戦争である。英、仏、米、蘭の四ヶ国連合艦隊の砲撃はひとたまりもなく、長州藩もまた攘夷決行の無謀を知る。
そして、開国思想へと傾くと、京の都で反目しあった薩摩と長州が手を組み、倒幕論で一致していく。だからといって、攘夷論が完全に失せたわけではあるまい。とりあえず列強国と仲良くし、富国強兵の道を探るといった穏健な攘夷論がくすぶる。
では、幕府の方針はどうであったのか?ペリー提督の圧力で、最初に開国論へ向かったのは、むしろ幕府の方である。幕府が主権者であれば、各藩の面子を考慮しなければならない。特に、御三家への配慮を。水戸藩は、京都の攘夷派と結んで、幕府を仇敵視していたという。実際、桜田門外の変で条約締結の責任者である大老井伊直弼を暗殺したのは、水戸の浪士。1867年、徳川慶喜は、内乱勃発の懸念から自ら将軍職を退いた。大政奉還である。天皇を主権者とした強力な国家を建設する必要性は、徳川家も認識していた。
しかしながら、徳川家が存続すれば、廃藩置県にまで及ばない。それは、徳川幕府が豊臣家の存続を許さなかったことと酷似している。
また、世間では「幕府は二股政策をやっている」という噂が広まっていたようである。幕府は大名と外国の板挟みになって、双方に矛盾した言質を与えていたというもので、将軍が大名に外国人追放の命を下したというのである。あるいは、外国人追放の命の根源は、朝廷にあるかもしれない。日本社会には、天子様には逆らえないという論理が、正義の旗で巧みに利用されてきた歴史がある。真相は不明だが、政変時には諜報活動も盛んで、様々な情報が錯綜するもの。
「当時外国人の間では、名分上の君主という単なる名目中に存在する無限の権威についてはまだ全く思い及ばなかったし、また外国人の有した日本史の知識では、日本の内乱の場合に天皇(ミカド)の身柄と神器を擁することのできた側に常に勝利が帰したという事実がまだわからなかったからだ。おそらく、世界のどの国にも、日本の歴代の皇帝(エンペラー)ほど確固不動の基礎に立つ皇位についた元首は決してなかったろう。」
4. 惚れ薬には佐渡の土
日本の諺に、「惚れ薬には佐渡の土」というのがあるそうな。黄金の国ジパングの名を伝えたのはマルコポーロの「東方見聞録」で、佐渡の金山については外国人たちも見逃せなかったと見える。
そして、七尾は、加賀、越中、能登に三国に渡る良港の地であり、貿易港の候補地として目をつける。この地は加賀藩の支配下にあるが、幕府が外国貿易のために召し上げようとすれば、加賀藩士たちも警戒して外国人たちに対して曖昧な返事に徹する。いくら自由貿易を唱えても、どうせ利益は幕府が独占しちまうのさ... などと人足たちの愚痴まで聞こえてきそう。海外貿易に対する権益をめぐっては、目の上のたんこぶは幕府という空気が、藩士だけでなく、庶民にまで漂っている。
正義を掲げるには、誰かを悪者にするやり方が手っ取り早いわけだが、これに各国の思惑も絡み、海外商社が暗躍する。幕府側に肩入れする者あり、新興勢力に肩入れする者あり。偽文書の類いも横行。どっちにせよ、勝てば官軍!正義の御旗ってやつは、後ろめたさをなくさせ、相手を合法的に抹殺する法則とさせる...
「かつてイギリスはパークス以上に献身的な公僕を代表として派遣したことがなかったということ、そして日本自身としても、パークスのおかげを被っており、日本はこれに報いることができず、また充分にパークスの努力を認めてさえもいないということを知る必要がある。もし、彼が1868年の革命の際に別の側(幕府側)に立っていたならば、あるいは、彼が多数の公使仲間と一緒に単純な行動に組していたならば、王政復古の途上にいかんともなし難い障害が起こって、あのように早く内乱が終熄することは不可能だったであろう。」
とはいえ、ナポレオン興亡時代に幼少期を過ごし、地図の色の変わるがままに、スウェーデン人、ドイツ人、フランス人、ロシア人へと転身、そしてロンドンに定住、しかもソルブ系(スラブ系)である。彼にとって国籍という概念は、あまり意味がないのかもしれない。また、貿易商の家の出ということもあり、時代の趨勢や世界の情勢に目を向ける下地が自然に育まれたようである。
さて、明治維新とは、どんな革命だったのだろう...
日本では英雄伝説として語られがちだが、革命ってやつは極めて国家論に陶酔した社会で起こりやすい。案の定、日本国内は攘夷論と開国論で割れた。開国論に対抗するのは鎖国論のはずだが、これを通り過ぎて「夷狄追放」を合言葉とし、幕府が頼りないとなれば、これに尊王論が加わり、一気に倒幕論へ傾く。世論の不満を徳川家が一身に受け止め、最後に会津藩が尻拭いという構図である。
そして、官軍が進軍した先に何があるというのか...
これが一番重要なのだが、いつの時代でも急進派は穏健派の要人までも抹殺してしまう。そんなナショナリズムの傾向を強める時代では、外国人の目というより、国籍という帰属意識の薄い人物によって綴られる回想録は特に興味深い。このような文献が日英同盟への布石となった... と解するのは行き過ぎであろうか。結果論かもしれんが...
この書は、太平洋戦争終戦前二十五年もの間、日本では禁書とされてきたそうな。こっそりと非売品で配布された経緯はあるらしいが、検閲にひっかかって全章がそっくり抹殺されたりと、「鬼畜米英」が標語となっていた時代である。
数々の事件に巻き込まれ、斬首刑や腹切などの場面も盛り沢山。自ら身の危険を晒しながらも、機知に富んだ奇行や紅毛膝栗毛なユーモラス。当時の日本社会の人情や風情を垣間見る思いである。人生の成功とは、筆を優しくさせるものらしい...
尚、坂田精一訳版(岩波文庫)を手にする。
1. 開国と治外法権
サトウが日本へ赴任した1862年、ペリー提督に始まった対日貿易におけるアメリカの主導権は、すでに資本主義の先進国イギリスに移っていた。彼は横浜港に到着すると、いきなり生麦事件を目の当たりにする。他にも、鎌倉事件、長崎の水兵殺害事件、備前事件、堺事件、さらに、サトウ自身も襲撃を受けた経験が綴られ、文化摩擦によって実に多くの外国人が死傷した様子を物語る。
相手が外国人であろうと無礼があれば、武士には特権がある。切捨御免!これに攘夷思想が結びつけば、役人も見て見ぬふり。当初、外国人たちは日本人の残虐行為に接しては理解に苦しみ、日本固有の頑冥な世界観と野蛮な風習のせいだと考えたようである。
そして、外交交渉や通商条約で必ず持ち出されるのが「治外法権」という概念。法とは、慣習との結びつきが強いものであり、誤解が元で法律に触れることも度々ある。法的な駆け引きにおいて自由と平等が天秤にかけられ、先方の法律で自由な活動が制限されるのは御免蒙る。だが、外交上の法的な温床も微妙に変質し、犯罪者を保護する方向に働く場合もある。今日、問題が取り沙汰される日米地位協定もその類い。客人の安全保障という意味では同じことか。犯罪に関しては、人間である以上、各国でお互い様といえばそうなのだが...
集団社会において、よそ者との摩擦、すなわち縄張り意識が絡んだ時にはデリケートな問題となる。現在でも、グローバリズムが急進すれば、却ってナショナリズムを旺盛にさせ、排外主義ならぬ廃絶主義と化す。古代ギリシア人がバルバロイと呼べば、ナポレオン時代にはバーバリアンと呼び、徐々に夷狄や野蛮といった蔑視のニュアンスを帯びてくる。民族優越主義もこの類い。西洋人から見れば、世界地図の隅っこに住む蛮族だし、日本人から見れば、やはり蛮族なのである。
外国人の中には、わざわざ遠くからやってきた客人という意識を持った者もいるだろう。当初、礼儀作法や挨拶などから、無礼、憤慨という形で現れる。特に形式を重んじる公家や武家の社会では、面子こそ命。おまけに、侍は威信をまとっており、庶民と接する方が自然に振る舞えたと見える。
そして、文化の摩擦は、法律の摩擦という形で露わになる。開国、すなわち、自由貿易を認めるということは、治外法権の議論を避けられないことを意味する。
2. ヨーロッパの掃溜め... 横浜
16世紀半ば、日本はすでにヨーロッパと自由に貿易をしていた。ポルトガルの宣教師が九州で歓迎され、オランダ、スペイン、イギリスがこれに続いたが、秀吉によるキリシタン迫害から徳川幕府による鎖国政策によって、長崎だけが特別な地となった。サトウが赴任してきた時は、安政の条約で外国貿易のために港を開いて、もう三年が経っていたが、長崎は進んだ町だったようである。
一方、神奈川は条約によって最初に西洋人の居留地に定められた東海道の要所だが、横浜は商業都市としてはまだ未熟な地だったようで、商売に無知な山師連中が溢れ、約束の破棄や詐欺は珍しくなかったという。生糸に砂が混じっていたり、重い紙紐で結わえてあったり... 税関の役人が賄賂を要求すれば、西洋人も負けじと巧みに振る舞って役人のおこぼれを頂戴したり... まったく時代劇で見かける、お代官様!の世界。横浜在住の外国人社会を「ヨーロッパの掃溜め」と称したという。サトウが、いきなり生麦の地で事件に遭遇したことも、こうした背景との関係が見えてくる。犯人探しをめぐっては、なかなか役人が本気になってくれず、苛立ちを隠せない。
「日本語には定冠詞というものがなく、英語では、"The treaties are sanctioned." というのと、単に、"Treaties are sanctioned." というのではひじょうに大きな差異があるが、日本語では両方とも同じ表現の形式をとるからである。そして、私たちは、大君の閣老がわれわれをペテンにかけて、時間をかせぐために、責任のがれのあいまいな用語を使用しようとは、全く思いも及ばなかったのである。」
3. 薩摩と長州、攘夷論から開国論へ
将軍配下の武家支配は、中世ドイツの国情に似ているという。王侯の乱立した政体である。伊藤俊輔(後の博文)は、こう語ったという。
「大名がみな勝手に助力の手を差し控えたり、各藩の大名がまちまちの流儀で軍隊の教練をやったりするのを放任するかぎり、日本は強国にはなり得ない。北ドイツ連邦で、その実例が繰りかえされた。弱小な諸侯は、より強大な者に併合されるほかはないのだ。」
日本は島国ということもあり、今まで外国からの侵入の恐れがなかったために、強力な中央集権国家の必要性がない。おまけに、蒙古襲来の危機に際しては神風伝説が生まれた。
徳川時代には、譜代大名が外様大名の監視役として配置される形式が顕著となる。参勤交代や大名行列は、特に遠方の、とりわけ九州の大名連には顰蹙を買った制度である。何かと難癖をつけては、お家断絶へ追い込む空気が漂う。やがて、外国からの圧力が譜代も外様もないという意識を強めていく。ここに廃藩置県の意義がある。
とはいえ、倒幕の先鋒役を演じた薩摩藩や長州藩にしても、当初は攘夷論が旺盛であったようである。生麦事件では、島津家の行列に遭遇して乗馬したままのイギリス人を、薩摩藩士たちが殺傷。イギリスは補償を求めて艦隊を派遣し、鹿児島の街を砲撃した。薩英戦争である。町を破壊された薩摩藩は、攘夷決行がいかに無謀であるかを知り、一転してイギリスとの親善を図る。
これと同様の意識変化が、長州藩でも起こる。攘夷論の先鋒に下関海峡航行中の外国船を砲撃した。下関戦争である。英、仏、米、蘭の四ヶ国連合艦隊の砲撃はひとたまりもなく、長州藩もまた攘夷決行の無謀を知る。
そして、開国思想へと傾くと、京の都で反目しあった薩摩と長州が手を組み、倒幕論で一致していく。だからといって、攘夷論が完全に失せたわけではあるまい。とりあえず列強国と仲良くし、富国強兵の道を探るといった穏健な攘夷論がくすぶる。
では、幕府の方針はどうであったのか?ペリー提督の圧力で、最初に開国論へ向かったのは、むしろ幕府の方である。幕府が主権者であれば、各藩の面子を考慮しなければならない。特に、御三家への配慮を。水戸藩は、京都の攘夷派と結んで、幕府を仇敵視していたという。実際、桜田門外の変で条約締結の責任者である大老井伊直弼を暗殺したのは、水戸の浪士。1867年、徳川慶喜は、内乱勃発の懸念から自ら将軍職を退いた。大政奉還である。天皇を主権者とした強力な国家を建設する必要性は、徳川家も認識していた。
しかしながら、徳川家が存続すれば、廃藩置県にまで及ばない。それは、徳川幕府が豊臣家の存続を許さなかったことと酷似している。
また、世間では「幕府は二股政策をやっている」という噂が広まっていたようである。幕府は大名と外国の板挟みになって、双方に矛盾した言質を与えていたというもので、将軍が大名に外国人追放の命を下したというのである。あるいは、外国人追放の命の根源は、朝廷にあるかもしれない。日本社会には、天子様には逆らえないという論理が、正義の旗で巧みに利用されてきた歴史がある。真相は不明だが、政変時には諜報活動も盛んで、様々な情報が錯綜するもの。
「当時外国人の間では、名分上の君主という単なる名目中に存在する無限の権威についてはまだ全く思い及ばなかったし、また外国人の有した日本史の知識では、日本の内乱の場合に天皇(ミカド)の身柄と神器を擁することのできた側に常に勝利が帰したという事実がまだわからなかったからだ。おそらく、世界のどの国にも、日本の歴代の皇帝(エンペラー)ほど確固不動の基礎に立つ皇位についた元首は決してなかったろう。」
4. 惚れ薬には佐渡の土
日本の諺に、「惚れ薬には佐渡の土」というのがあるそうな。黄金の国ジパングの名を伝えたのはマルコポーロの「東方見聞録」で、佐渡の金山については外国人たちも見逃せなかったと見える。
そして、七尾は、加賀、越中、能登に三国に渡る良港の地であり、貿易港の候補地として目をつける。この地は加賀藩の支配下にあるが、幕府が外国貿易のために召し上げようとすれば、加賀藩士たちも警戒して外国人たちに対して曖昧な返事に徹する。いくら自由貿易を唱えても、どうせ利益は幕府が独占しちまうのさ... などと人足たちの愚痴まで聞こえてきそう。海外貿易に対する権益をめぐっては、目の上のたんこぶは幕府という空気が、藩士だけでなく、庶民にまで漂っている。
正義を掲げるには、誰かを悪者にするやり方が手っ取り早いわけだが、これに各国の思惑も絡み、海外商社が暗躍する。幕府側に肩入れする者あり、新興勢力に肩入れする者あり。偽文書の類いも横行。どっちにせよ、勝てば官軍!正義の御旗ってやつは、後ろめたさをなくさせ、相手を合法的に抹殺する法則とさせる...
「かつてイギリスはパークス以上に献身的な公僕を代表として派遣したことがなかったということ、そして日本自身としても、パークスのおかげを被っており、日本はこれに報いることができず、また充分にパークスの努力を認めてさえもいないということを知る必要がある。もし、彼が1868年の革命の際に別の側(幕府側)に立っていたならば、あるいは、彼が多数の公使仲間と一緒に単純な行動に組していたならば、王政復古の途上にいかんともなし難い障害が起こって、あのように早く内乱が終熄することは不可能だったであろう。」
2018-02-18
"ゲーテとの対話(上/中/下)" Johann Peter Eckermann 著
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ... この文豪について語り始めると、かっぱえびせん状態になり、一晩中、酒を酌み交わしても足らない。義務教育時代、すっかり文学嫌いにされたものの、この酔いどれ天の邪鬼を救ってくれた作家の一人。ファウスト博士ときたら実に珍しい個性の持ち主なものだから、内面を追感することは困難ときた。では、メフィストフェレスの方はどうだろう。皮肉な言葉のおかげで偉大な人間世界を忠実に再現しているではないか。メフィストフェレスこそ救世主!真理を語ってくれるのは、やはり悪魔であったか...
ただ、自分の生涯をかけてまで一人の人物に夢中になれるヨハン・ペーター・エッカーマンという人には感服してしまう。同時代を生きたという幸運に恵まれたこともあろう。ゲーテの書き手としてのパワーは、晩年になって衰えるどころか、却ってキレてやがる。なにしろ七十を過ぎて二十歳前の小娘に求婚するほどの情熱漢、偉大な生気の持ち主。彼の生に対する執念と行動力は、見習わずにはいられない。さっそくマリーエンバートへ直行し、ゲーテと饗宴だ。ちなみに、おいらは「マリーエンバート」を「夜の社交場」と訳すのであった...
ゲーテの作品に触れるにしても、翻訳者の力を借りる。おいらの語学力では、原語で味わうには辛すぎる。それでもなお詩的な文体に魅せられるとは、どういうわけか?原文の美しさに、訳文が釣られるのだろうか?作品の偉大さが、翻訳者を自然に導くのだろうか?もし普遍的な精神なるものがあるとすれば、普遍的な言語のリズムというものがあるのだろう。
しかしながら、言葉は災いを呼ぶもの。ゲーテとて例外ではなく、やはり悪口を言う評論家たちの餌食となってきた。大きな論争では、ニュートン力学とヘーゲル弁証論の二つを挙げておこう。
ニュートンの科学的立場に対しては、人間精神の存在の解釈において大きな誤謬になると指摘している。ゲーテの「色彩論」は、生理的色彩を直観的演繹法によって綴ったもので、ある種の主観的なプリズム実験であり、単に現象として捉えたニュートンの「光学」とは一線を画すというわけである。
ヘーゲルの思考法は、誰の心にも宿る矛盾を法則化し方法論としたもので、これに対しては、偽を真とし、真を偽とするために精神の技術や有能性がみだりに悪用されるとしている。
本書に見られる弁明風の言葉は論争というほどの調子ではないが、面白おかしく書きたてる新聞屋が煽っているということはあるだろう。
「まず第一に無知ゆえの敵がいる。私を理解せず、無知ゆえに私を非難する連中だ... けれども、この手合は自分のやっていることの意味を知らないのだから、まだ許すこともできよう。
つぎに、数の上で多勢いるのが、嫉妬する連中だ。私の名声にけちをつけて破滅させようと躍起になっている...
つづいては、自分の成功がたいしたものでなかったので、敵にまわった連中がいる。私のせいで冷飯を食わされる羽目におちいったといって、憎んでいる...
第四には、しかるべき理由があって敵にまわった連中がいる。私も人間である以上、欠点や弱点を持っているから、書いたものにそれが現れざるをえない...」
1. エンテレヒーとデモーニッシュ
ゲーテは、精神現象における生気を語る上で「エンテレヒー」という用語を持ち出す。自然は、エンテレヒーなくして活動できないと。自己を偉大なエンテレヒーならしめよと。エンテレヒーこそ生産性や創造性の源、偉大な創意の源泉というわけである。ここに精神のエントロピーのようなものを感じるのは気のせいであろうか...
また、「デモーニッシュ」という用語を持ち出す。宇宙や人生の謎、悟性や理性では解き明かせないものという意味で。ナポレオン、フリードリヒ大王、ピョートル大帝などの天才的傾向は、これに属すという。
無意識に高次な努力を続ける幸福者、神がかった才能や理念の乗り移った無限の奉仕者、こういう人たちには世間の煩わしい言葉が耳に入らないものらしい。自然の言葉しか耳に入らず、だから安心して衝動に身を委ねられる。祈ったり、信じたりする必要もなく、感謝するのみ。ましてや神に見返りを求めるなど。自分の職に使命感が与えられれば幸せであろう。ラファエロも、モーツァルトも、シェークスピアも、きっとそうした類いの人間だったのだろう。
「優秀な人物のなかには、何事も即席ではできず、何事もおざなりに済ますことができず、いつも一つ一つの対象をじっくりと深く追求せずにはいられない性質の持主がいるものだ。このような才能というものは、しばしばわれわれにじれったい気を起させる。すぐさまほしいとねがうものを、彼らはめったにみたしてはくれないからだね。けれども、こういう方法でこそ、最高のものがやりとげられるのだよ。」
さて、これらの用語に「直観」という語を当ててみると、カントとの親和性が見えてくる。カントの三大批判書もまた偉大な直観を唱えたもので、酔いどれ天の邪鬼は、これを「崇高な気まぐれ」と呼んでいる。
ニュートンやヘーゲルが客観性に重きを置いたのに対して、カントやゲーテが主観性、すなわち直観に重きを置いたという見方はできそうだが、そう単純ではあるまい。いずれにせよ、双方の立場は補完関係にあるということ。文学作品としての面白さは、後者の側にあるのは確かだけど。
ただ、ニュートンから科学全盛の時代へと向かい、後にヒルベルト問題が掲げられ、宇宙や人間社会のすべてが科学や数学で説明できると豪語された時代へ向かいつつあった。そんな時流に、ゲーテやカントのような直観を重んじる立場が攻撃されるのも、仕方がないのかもしれない。カントは理性批判を書いた。次に誰かが感性批判と悟性批判を書くことになるだろう。かつて、ゲーテはカントをこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えているのだ... と。この言葉を、そっくりゲーテ老翁に捧げたい...
2. 書き手と読み手
ところで、読書というものは不思議なものである。一旦、こいつの虜になると、いくら読んでも足らない。満腹感というものがまるで得られないのだ。そして、次の作品にいっそうの期待をこめ、まったく贅沢を助長しやがる。
ただ、その贅沢を得んがために、ますます古典へ向かうとは、どういうわけか?現代が枯渇しているというのか?それとも、童心に帰りたいという潜在意識でもあるのか?いや、プラトンの言うイデア回帰のようなものかもしれない。権威的な一神教の神を強要すれば、多神教の時代を懐かしみ、ギリシア・ローマ文化へと古代回帰する。ルネサンスがそれだ。万物は回帰する... というのは本当らしい。いくら生に執着したところで、いずれ死に帰する。人生行路とは、原点回帰をめぐる巡礼の旅のようなものであろうか。いや、過去に絶望すれば、未来に根拠のない希望を抱く。つまりは、現実逃避というだけのことよ...
作家たちは、何を書こうとしているのだろう。既にホメロスが、アキレウスとオデュッセウスという最も勇敢な者と最も賢明な者については書いてしまったし、過去の偉人たちが、精神を描き尽くしてしまったではないか。後に遺された仕事とは?小説家たちは、偉大な心理学者でもある。精神というものが完全に説明できないばかりか、その存在すら疑わしいとくれば、いくらでも書けるという寸法よ。
小説家たちは精神に内包される矛盾と対峙し、多重人格性を体現し、精神分析のために自己からの幽体離脱をも厭わない。書いてるものが自我と調和できれば幸運であろう。だが、自我との対決は危険だ。下手すると、自己を抹殺にかかる衝動に駆られる。自分でこしらえたものに惑わされ、ゲーテとてメフィストフェレスに憑かれる。穏健な自由主義者が求めるものは自然療法か。主義主張という現代病を患わせなければ、書くものもなくなるであろうに...
「本物の自由主義者は、自分の使いこなせる手段によって、いつもできる範囲で、良いことを実行しようとするものだ。必要悪を、力づくですぐに根絶しようとはしない。賢明な進歩を通じて、少しずつ社会の欠陥を取り除こうとする。暴力的な方法によって、同時に同量の良いことを駄目にするようなことはしない。このつねに不完全な世界においては、時と状況に恵まれて、より良いものを獲得できるまで、ある程度の善で満足するのだよ。」
では、読者の方はどうであろう。
多くの作品を読み散らかして、ようやく総括された何かが読み取れそうな気がする程度で、すべての言葉から含蓄を読み取ろうなど無理な話。病的なほどの作品の群れが押し寄せれば、読者もまた狂わされる。書き手の独創性には、まったくまいる。読み手を無力にするだけでなく、その無力感がたまらないときた。おいらは、M だし。
玄人の書き手がド素人の読み手に高みに昇って来いと仕掛けてくれば、ディレッタント魂を呼び覚まさずにはいられない。これぞ至福の時間!酔いどれ天の邪鬼ときたら、本と BGM があれば、たいてい事足りる。おっと、それと熟成された酒だ。実は、こうした空間が最も贅沢なのやもしれん...
「自由とは不思議なものだ。足るを知り、分に案んじることを知ってさえいれば、誰だってたやすく十分な自由を手に入れられる。いくら自由がありあまるほどあったところで、使えなければ何の役に立つだろう!...
誰でも健康にくらせて、自分の職にいそしむだけの自由さえあれば、それで十分なのだ...
われわれは自分の上にあるものをすべて認めようとしないことで、自由になれるのではなく、自分の上にあるものに敬意を払うことでこそ、自由になる。なぜなら、自分の上にあるものを尊敬することで、自分をそこまで高め、上にあるものの価値をみとめることで、自分自身がいっそう高いものを身につけ、それと同じものになる価値があることをはっきりとあらわすからなのだ。」
ただ、自分の生涯をかけてまで一人の人物に夢中になれるヨハン・ペーター・エッカーマンという人には感服してしまう。同時代を生きたという幸運に恵まれたこともあろう。ゲーテの書き手としてのパワーは、晩年になって衰えるどころか、却ってキレてやがる。なにしろ七十を過ぎて二十歳前の小娘に求婚するほどの情熱漢、偉大な生気の持ち主。彼の生に対する執念と行動力は、見習わずにはいられない。さっそくマリーエンバートへ直行し、ゲーテと饗宴だ。ちなみに、おいらは「マリーエンバート」を「夜の社交場」と訳すのであった...
ゲーテの作品に触れるにしても、翻訳者の力を借りる。おいらの語学力では、原語で味わうには辛すぎる。それでもなお詩的な文体に魅せられるとは、どういうわけか?原文の美しさに、訳文が釣られるのだろうか?作品の偉大さが、翻訳者を自然に導くのだろうか?もし普遍的な精神なるものがあるとすれば、普遍的な言語のリズムというものがあるのだろう。
しかしながら、言葉は災いを呼ぶもの。ゲーテとて例外ではなく、やはり悪口を言う評論家たちの餌食となってきた。大きな論争では、ニュートン力学とヘーゲル弁証論の二つを挙げておこう。
ニュートンの科学的立場に対しては、人間精神の存在の解釈において大きな誤謬になると指摘している。ゲーテの「色彩論」は、生理的色彩を直観的演繹法によって綴ったもので、ある種の主観的なプリズム実験であり、単に現象として捉えたニュートンの「光学」とは一線を画すというわけである。
ヘーゲルの思考法は、誰の心にも宿る矛盾を法則化し方法論としたもので、これに対しては、偽を真とし、真を偽とするために精神の技術や有能性がみだりに悪用されるとしている。
本書に見られる弁明風の言葉は論争というほどの調子ではないが、面白おかしく書きたてる新聞屋が煽っているということはあるだろう。
「まず第一に無知ゆえの敵がいる。私を理解せず、無知ゆえに私を非難する連中だ... けれども、この手合は自分のやっていることの意味を知らないのだから、まだ許すこともできよう。
つぎに、数の上で多勢いるのが、嫉妬する連中だ。私の名声にけちをつけて破滅させようと躍起になっている...
つづいては、自分の成功がたいしたものでなかったので、敵にまわった連中がいる。私のせいで冷飯を食わされる羽目におちいったといって、憎んでいる...
第四には、しかるべき理由があって敵にまわった連中がいる。私も人間である以上、欠点や弱点を持っているから、書いたものにそれが現れざるをえない...」
1. エンテレヒーとデモーニッシュ
ゲーテは、精神現象における生気を語る上で「エンテレヒー」という用語を持ち出す。自然は、エンテレヒーなくして活動できないと。自己を偉大なエンテレヒーならしめよと。エンテレヒーこそ生産性や創造性の源、偉大な創意の源泉というわけである。ここに精神のエントロピーのようなものを感じるのは気のせいであろうか...
また、「デモーニッシュ」という用語を持ち出す。宇宙や人生の謎、悟性や理性では解き明かせないものという意味で。ナポレオン、フリードリヒ大王、ピョートル大帝などの天才的傾向は、これに属すという。
無意識に高次な努力を続ける幸福者、神がかった才能や理念の乗り移った無限の奉仕者、こういう人たちには世間の煩わしい言葉が耳に入らないものらしい。自然の言葉しか耳に入らず、だから安心して衝動に身を委ねられる。祈ったり、信じたりする必要もなく、感謝するのみ。ましてや神に見返りを求めるなど。自分の職に使命感が与えられれば幸せであろう。ラファエロも、モーツァルトも、シェークスピアも、きっとそうした類いの人間だったのだろう。
「優秀な人物のなかには、何事も即席ではできず、何事もおざなりに済ますことができず、いつも一つ一つの対象をじっくりと深く追求せずにはいられない性質の持主がいるものだ。このような才能というものは、しばしばわれわれにじれったい気を起させる。すぐさまほしいとねがうものを、彼らはめったにみたしてはくれないからだね。けれども、こういう方法でこそ、最高のものがやりとげられるのだよ。」
さて、これらの用語に「直観」という語を当ててみると、カントとの親和性が見えてくる。カントの三大批判書もまた偉大な直観を唱えたもので、酔いどれ天の邪鬼は、これを「崇高な気まぐれ」と呼んでいる。
ニュートンやヘーゲルが客観性に重きを置いたのに対して、カントやゲーテが主観性、すなわち直観に重きを置いたという見方はできそうだが、そう単純ではあるまい。いずれにせよ、双方の立場は補完関係にあるということ。文学作品としての面白さは、後者の側にあるのは確かだけど。
ただ、ニュートンから科学全盛の時代へと向かい、後にヒルベルト問題が掲げられ、宇宙や人間社会のすべてが科学や数学で説明できると豪語された時代へ向かいつつあった。そんな時流に、ゲーテやカントのような直観を重んじる立場が攻撃されるのも、仕方がないのかもしれない。カントは理性批判を書いた。次に誰かが感性批判と悟性批判を書くことになるだろう。かつて、ゲーテはカントをこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えているのだ... と。この言葉を、そっくりゲーテ老翁に捧げたい...
2. 書き手と読み手
ところで、読書というものは不思議なものである。一旦、こいつの虜になると、いくら読んでも足らない。満腹感というものがまるで得られないのだ。そして、次の作品にいっそうの期待をこめ、まったく贅沢を助長しやがる。
ただ、その贅沢を得んがために、ますます古典へ向かうとは、どういうわけか?現代が枯渇しているというのか?それとも、童心に帰りたいという潜在意識でもあるのか?いや、プラトンの言うイデア回帰のようなものかもしれない。権威的な一神教の神を強要すれば、多神教の時代を懐かしみ、ギリシア・ローマ文化へと古代回帰する。ルネサンスがそれだ。万物は回帰する... というのは本当らしい。いくら生に執着したところで、いずれ死に帰する。人生行路とは、原点回帰をめぐる巡礼の旅のようなものであろうか。いや、過去に絶望すれば、未来に根拠のない希望を抱く。つまりは、現実逃避というだけのことよ...
作家たちは、何を書こうとしているのだろう。既にホメロスが、アキレウスとオデュッセウスという最も勇敢な者と最も賢明な者については書いてしまったし、過去の偉人たちが、精神を描き尽くしてしまったではないか。後に遺された仕事とは?小説家たちは、偉大な心理学者でもある。精神というものが完全に説明できないばかりか、その存在すら疑わしいとくれば、いくらでも書けるという寸法よ。
小説家たちは精神に内包される矛盾と対峙し、多重人格性を体現し、精神分析のために自己からの幽体離脱をも厭わない。書いてるものが自我と調和できれば幸運であろう。だが、自我との対決は危険だ。下手すると、自己を抹殺にかかる衝動に駆られる。自分でこしらえたものに惑わされ、ゲーテとてメフィストフェレスに憑かれる。穏健な自由主義者が求めるものは自然療法か。主義主張という現代病を患わせなければ、書くものもなくなるであろうに...
「本物の自由主義者は、自分の使いこなせる手段によって、いつもできる範囲で、良いことを実行しようとするものだ。必要悪を、力づくですぐに根絶しようとはしない。賢明な進歩を通じて、少しずつ社会の欠陥を取り除こうとする。暴力的な方法によって、同時に同量の良いことを駄目にするようなことはしない。このつねに不完全な世界においては、時と状況に恵まれて、より良いものを獲得できるまで、ある程度の善で満足するのだよ。」
では、読者の方はどうであろう。
多くの作品を読み散らかして、ようやく総括された何かが読み取れそうな気がする程度で、すべての言葉から含蓄を読み取ろうなど無理な話。病的なほどの作品の群れが押し寄せれば、読者もまた狂わされる。書き手の独創性には、まったくまいる。読み手を無力にするだけでなく、その無力感がたまらないときた。おいらは、M だし。
玄人の書き手がド素人の読み手に高みに昇って来いと仕掛けてくれば、ディレッタント魂を呼び覚まさずにはいられない。これぞ至福の時間!酔いどれ天の邪鬼ときたら、本と BGM があれば、たいてい事足りる。おっと、それと熟成された酒だ。実は、こうした空間が最も贅沢なのやもしれん...
「自由とは不思議なものだ。足るを知り、分に案んじることを知ってさえいれば、誰だってたやすく十分な自由を手に入れられる。いくら自由がありあまるほどあったところで、使えなければ何の役に立つだろう!...
誰でも健康にくらせて、自分の職にいそしむだけの自由さえあれば、それで十分なのだ...
われわれは自分の上にあるものをすべて認めようとしないことで、自由になれるのではなく、自分の上にあるものに敬意を払うことでこそ、自由になる。なぜなら、自分の上にあるものを尊敬することで、自分をそこまで高め、上にあるものの価値をみとめることで、自分自身がいっそう高いものを身につけ、それと同じものになる価値があることをはっきりとあらわすからなのだ。」
2018-02-11
"0ベース思考" Steven D. Levitt & Stephen J. Dubner 著
原題 "Think like a freak." に対して邦題「0ベース思考」とするのに、ちと違和感があった。しかし、よくよく読んでみると、翻訳者櫻井祐子氏の抽象化センスはなかなか...
著者は、"Freakonomics" という造語を編み出したあのコンビ、スティーヴン・レヴィットとスティーヴン・ダブナーである。この語に「ヤバい経済学」という邦題を与えた望月衛氏の大胆さにも感服したが、それも、フリークのように考えよう!ってことかもしれん。とはいえ、ゼロから思考(嗜好)するには、なかなか勇気がいる...
フリークをどう訳すか... 変人、奇人、異形、酔狂、気まぐれ、あるいは俗語的に、麻薬中毒者ってのもありか。純真な子供心からの発想は、脂ぎった大人には難しすぎる。特に常識中毒者には。あの大科学者は言った... 常識とは、十八歳までに身にまとった偏見の塊りである... と。
どんな人間だって、今まで生きてきた積み重ねの中で思想や信念なるものを形成していく。価値観や世界観って呼ばれるやつだ。既に知識と経験が思考回路にバイアスをかけている。しかも無意識に。これをゼロにするということは、過去を否定することになりかねないし、ひいては自己否定を自らに課すことにもなる。人の行動を正解と不正解という基準でしか語れない人間、人の生き方を勝ち組と負け組という基準でしか区別できない人間には、無理な相談だ。キェルケゴールは言った... 人生とは、解のある問題ではない。経験を積みあげていくだけの現実である... と。
道徳ってやつがコンパスを狂わせる。間違えない人生が楽しいのかは知らん。失敗しない人生が退屈しないのかは知らん。問題は、失敗すること自体にあるのではなく、失敗の仕方である。やはり人生の醍醐味は、寄り道、回り道、そして失敗の側にあるような気がする。やはり狂気しなければ、思考というものは生まれないような気がする。とはいえ、本書が課してくる方法論は、酔いどれ天の邪鬼にはなかなか手強い...
「脳を鍛え直して、大小問わずいろいろな問題を普通とは違う方法で考える。ちがう角度から、ちがう筋肉を使って、違う前提で考える。やみくもな楽観も、ひねくれた不信ももたずに、すなおな心で考える。」
ここに提示されるのは、インセンティブという視点から人間の行動パターンを扱う、いわば行動経済学の分野であり、それは、ある種のゲーム理論として捉えることはできよう。人間の行動原理は、必要以上にプレッシャーのかかった場面では成功が第一の目的ではなくなり、世間体の方が優先される傾向にあるということ。失敗するにしても言い訳を求めて行動するということ。他人に対しても、自分に対しても。要するに保険をかけているわけだ。だから、馬鹿馬鹿しいと思われるような思い切った判断ができない。その方が成功率が高いとしてもだ。
まず、これを承知しておかなければ、数学的な方法論は役に立たない。経済学では、専門家の予想的中率はチンパンジー並み!というのをよく耳にする。アナリストの株価予想は、猿が投げるダーツの確率と大差ない!といった類いである。実際、官僚、研究者、国家安全保障の専門家、エコノミストたちの将来予測はよく外れる。そこで、コンピュータ工学にも、外挿アルゴリズムというものがあるにはあるが、あくまでも過去のデータを基準にしたもので、コンピュータだって設定条件を間違えば、金融危機や戦争を予測することはできない。
そして、悩みに悩み、夢の中まで考え尽くし、それでも判断がつかなければ、最後に頼れるのがコイン投げ!という寸法よ。これこそ馬鹿馬鹿しいかもしれないが、最もまっとうな選択肢かもしれん。フリークとは泥酔者か。どうりで酔いどれ天の邪鬼には、心地よく響く言葉である。
ところで、学問の方法論に「独学」ってやつがある。まさにゼロから学ぼうとする意志の顕れ。独学こそ知の最高の賜物!とは、酔いどれ天の邪鬼の信条とするところである。0ベース思考の根源に、この独学の奥義が秘められ、それがフリークのように考えるってことだ!と解するのは、やり過ぎであろうか...
1. 童心に返るは難しすぎる...
まずは、知らないことを知らないと素直に認める勇気を持ちたいものだが、酔いどれ天の邪鬼にはそれすら難しい。自分で思考しているつもりでも、他人の思考をコピーしているだけということもある。扇動者にとって、思考できない者が思考しているつもりで同調している状態ほど都合のよいものはあるまい。目の前の幸せに気づかないこともあれば、自分が気づいていないことに気づかないこともある。せめて後で気づけば少しは幸せか、いや、気づかないままの方が幸せか...
人の意見を聞きたいと宣言して、人の言葉に耳を傾けるように振る舞っていても、実は自分自身でアイデアが編み出せないだけ。しかも、自分の価値観から逸脱する規格外の思考にはまったく耳を貸さない大人は実に多い。そればかりか、つまらない質問を仕掛けては、否定的な答えを導こうと躍起になる。ならば、最初から独りで考えた方がましであろうに。大人どもときたら寂しがり屋で、孤独を極端に忌み嫌う。
一方で、純真な子供は純粋な疑問を投げかけ、カスタマレビューやオススメなんてものにちっとも乗ってこない。客観的な目を持っているのは、大人より子どもの方であろうか。少なくとも、政治的、宗教的、経済的な思惑の入り込む余地はなさそうだ。子供より大人の方が騙されやすいというのは、本当かもしれない。
子供たちはよく愚痴る... ぼくたちの気持ちを大人たちは分かってくれない... と。それは当たり前のことだ。大人同志でも互いが分からないというのに、童心なんてとうに記憶素子の中で消去されている。
ちなみに、児童向けにたくさんの本を書いた作家アイザック・バシェヴィス・シンガーは、「なぜ子どものために書くのか」と題したエッセイで、こう書いているという。
「子どもは書評ではなく、本を読んでくれる。批評家のことなんかちっとも気にしない。そのうえ本が退屈なら、遠慮したり権威を恐れたりせずに、これ見よがしにあくびをする。そしていちばんいいことに... また世界中の物書きがほっとすることに... 子どもはお気に入りの作家に、人類を救えだなんてふっかけない。」
2. そもそも問題が分かっていない...
問題解決の場では、良い質問が良い答えを導くと、よく言われる。見当外れな質問に、優れた答えを与えても混乱するだけで、むしろ害をなすと。そもそも問題が分かっていないことが問題なのだ。
お偉いさんは問題点が羅列されるより、解答が羅列される方が安心できると見える。疑問よりも答えを欲し、目先の問題を一つ解決する度に新たな問題をいくつも発生させる。答えの抽象化も大事だが、それ以前に質問の抽象化ができていない。
「自分がすべての答えを知っているわけじゃないと認めるのにこれだけ勇気がいるんだから、正しい問いすら知らないと認めるのがどれだけ難しいかは、推して知るべし。」
3. やめるのはつらいよ...
「やめることは、フリークのように考える方法の核心にある。」
やめることを躊躇わせる力は、少なくとも三つあるという。
一つは、やめるのは失敗を認めること。
二つは、埋没費用という考え。公共事業がこの類いで、今更やめるのはもったいないという思考が働く。
三つは、目に見えるコストにとらわれすぎて、機会費用や逸失利益のことまで頭が回らないという性向。
人間社会には、偏執的なほどに成功物語ばかりが刻まれ、報道屋ときたら失敗に不名誉のレッテルを貼る。優秀な人材は、失敗も少ないと思われるかもしれないが、優秀な人ほどリスクの高い仕事を背負わされるはずだし、失敗経験も豊富なはずだ。仮に、リスクは高いが会社の将来がかかっている仕事と、誰がやってもそれなりに結果が出る仕事とがあるとすると、経営者はどちらに優秀な人材を割り当てるだろう。
失敗せずに生きてきた人は、そもそも失敗の概念を取り違えているかもしれない。失敗するような仕事を任されたことがないか、あるいは、失敗したことにも気づいていないか。正解ばかり当てにしてきた人もまた、正解の概念を取り違えているかもしれない。そして、失敗せずにきた人、正解ばかり答えてきた人、そのような人が出世するような社風をつくってしまえば、優秀な人材は逃避し、凝り固まった人間集団が残る。俗に言う、官僚化や腐敗化ってやつだ。粉飾決算や不正行為などでスキャンダル沙汰になったら、時すでに遅し。現実に、やめるべきプロジェクトが、惰性的に生き長らえている事例はわんさとある。やめれば負け犬となり、体面を保つことに躍起になり、尚更やめられない。まさに世間体の奴隷と化す。
本書は、フリークのように考えれば、やめるべき見極めができ、おまけに、免疫力がアップすると助言してくれる。やはり問題は失敗ではなく、失敗の仕方であったか。一度やめる経験を積めば、やめるような状況に追い込まれる前に十分に分析を施し、軌道修正ができるだろう。
しかしながら、やめる!という選択肢がベストかどうかも、判断するのは難しい。やめなければ、少なくとも現状は維持され、ある種の保険として機能する。保険好きに、フリークのように考えよう!と言っても無理な相談だ。
もし、やめられたら... 失敗から貴重なフィードバックが得られるかもしれないし、もっと生産的で、もっと刺激的で、もっと充実した人生が送れるかもしれない。ただし、有益なフィードバックを得ても、学ぶには時間がかかる。中途半端な見極めで判断を誤れば、さらに暗い思考へと導かれる。
そこで、「やめる」って言葉がおっかないなら、「捨て去る」と言い換えてみよと助言してくれる。失敗ではなく袋小路の発見と捉え、そこから逃れるという考え方である。袋小路だと分かれば、すごい発見だ!結果的に、やめる方が保守的な考え方ということにもなる。だとしても、世間体だけでなく、自分自身の中でも失敗で片付け、イノベーションを極度に恐れてしまう性癖を、心の奥底に押しとどめておくには、よほどの修行が必要である。
「正しい方法とまちがった方法、かしこい方法とおろかな方法、青信号の方法と赤信号の方法があるなんて思い込みを、ぼくたちはこの本を書くことで葬りたい。」
著者は、"Freakonomics" という造語を編み出したあのコンビ、スティーヴン・レヴィットとスティーヴン・ダブナーである。この語に「ヤバい経済学」という邦題を与えた望月衛氏の大胆さにも感服したが、それも、フリークのように考えよう!ってことかもしれん。とはいえ、ゼロから思考(嗜好)するには、なかなか勇気がいる...
フリークをどう訳すか... 変人、奇人、異形、酔狂、気まぐれ、あるいは俗語的に、麻薬中毒者ってのもありか。純真な子供心からの発想は、脂ぎった大人には難しすぎる。特に常識中毒者には。あの大科学者は言った... 常識とは、十八歳までに身にまとった偏見の塊りである... と。
どんな人間だって、今まで生きてきた積み重ねの中で思想や信念なるものを形成していく。価値観や世界観って呼ばれるやつだ。既に知識と経験が思考回路にバイアスをかけている。しかも無意識に。これをゼロにするということは、過去を否定することになりかねないし、ひいては自己否定を自らに課すことにもなる。人の行動を正解と不正解という基準でしか語れない人間、人の生き方を勝ち組と負け組という基準でしか区別できない人間には、無理な相談だ。キェルケゴールは言った... 人生とは、解のある問題ではない。経験を積みあげていくだけの現実である... と。
道徳ってやつがコンパスを狂わせる。間違えない人生が楽しいのかは知らん。失敗しない人生が退屈しないのかは知らん。問題は、失敗すること自体にあるのではなく、失敗の仕方である。やはり人生の醍醐味は、寄り道、回り道、そして失敗の側にあるような気がする。やはり狂気しなければ、思考というものは生まれないような気がする。とはいえ、本書が課してくる方法論は、酔いどれ天の邪鬼にはなかなか手強い...
「脳を鍛え直して、大小問わずいろいろな問題を普通とは違う方法で考える。ちがう角度から、ちがう筋肉を使って、違う前提で考える。やみくもな楽観も、ひねくれた不信ももたずに、すなおな心で考える。」
ここに提示されるのは、インセンティブという視点から人間の行動パターンを扱う、いわば行動経済学の分野であり、それは、ある種のゲーム理論として捉えることはできよう。人間の行動原理は、必要以上にプレッシャーのかかった場面では成功が第一の目的ではなくなり、世間体の方が優先される傾向にあるということ。失敗するにしても言い訳を求めて行動するということ。他人に対しても、自分に対しても。要するに保険をかけているわけだ。だから、馬鹿馬鹿しいと思われるような思い切った判断ができない。その方が成功率が高いとしてもだ。
まず、これを承知しておかなければ、数学的な方法論は役に立たない。経済学では、専門家の予想的中率はチンパンジー並み!というのをよく耳にする。アナリストの株価予想は、猿が投げるダーツの確率と大差ない!といった類いである。実際、官僚、研究者、国家安全保障の専門家、エコノミストたちの将来予測はよく外れる。そこで、コンピュータ工学にも、外挿アルゴリズムというものがあるにはあるが、あくまでも過去のデータを基準にしたもので、コンピュータだって設定条件を間違えば、金融危機や戦争を予測することはできない。
そして、悩みに悩み、夢の中まで考え尽くし、それでも判断がつかなければ、最後に頼れるのがコイン投げ!という寸法よ。これこそ馬鹿馬鹿しいかもしれないが、最もまっとうな選択肢かもしれん。フリークとは泥酔者か。どうりで酔いどれ天の邪鬼には、心地よく響く言葉である。
ところで、学問の方法論に「独学」ってやつがある。まさにゼロから学ぼうとする意志の顕れ。独学こそ知の最高の賜物!とは、酔いどれ天の邪鬼の信条とするところである。0ベース思考の根源に、この独学の奥義が秘められ、それがフリークのように考えるってことだ!と解するのは、やり過ぎであろうか...
1. 童心に返るは難しすぎる...
まずは、知らないことを知らないと素直に認める勇気を持ちたいものだが、酔いどれ天の邪鬼にはそれすら難しい。自分で思考しているつもりでも、他人の思考をコピーしているだけということもある。扇動者にとって、思考できない者が思考しているつもりで同調している状態ほど都合のよいものはあるまい。目の前の幸せに気づかないこともあれば、自分が気づいていないことに気づかないこともある。せめて後で気づけば少しは幸せか、いや、気づかないままの方が幸せか...
人の意見を聞きたいと宣言して、人の言葉に耳を傾けるように振る舞っていても、実は自分自身でアイデアが編み出せないだけ。しかも、自分の価値観から逸脱する規格外の思考にはまったく耳を貸さない大人は実に多い。そればかりか、つまらない質問を仕掛けては、否定的な答えを導こうと躍起になる。ならば、最初から独りで考えた方がましであろうに。大人どもときたら寂しがり屋で、孤独を極端に忌み嫌う。
一方で、純真な子供は純粋な疑問を投げかけ、カスタマレビューやオススメなんてものにちっとも乗ってこない。客観的な目を持っているのは、大人より子どもの方であろうか。少なくとも、政治的、宗教的、経済的な思惑の入り込む余地はなさそうだ。子供より大人の方が騙されやすいというのは、本当かもしれない。
子供たちはよく愚痴る... ぼくたちの気持ちを大人たちは分かってくれない... と。それは当たり前のことだ。大人同志でも互いが分からないというのに、童心なんてとうに記憶素子の中で消去されている。
ちなみに、児童向けにたくさんの本を書いた作家アイザック・バシェヴィス・シンガーは、「なぜ子どものために書くのか」と題したエッセイで、こう書いているという。
「子どもは書評ではなく、本を読んでくれる。批評家のことなんかちっとも気にしない。そのうえ本が退屈なら、遠慮したり権威を恐れたりせずに、これ見よがしにあくびをする。そしていちばんいいことに... また世界中の物書きがほっとすることに... 子どもはお気に入りの作家に、人類を救えだなんてふっかけない。」
2. そもそも問題が分かっていない...
問題解決の場では、良い質問が良い答えを導くと、よく言われる。見当外れな質問に、優れた答えを与えても混乱するだけで、むしろ害をなすと。そもそも問題が分かっていないことが問題なのだ。
お偉いさんは問題点が羅列されるより、解答が羅列される方が安心できると見える。疑問よりも答えを欲し、目先の問題を一つ解決する度に新たな問題をいくつも発生させる。答えの抽象化も大事だが、それ以前に質問の抽象化ができていない。
「自分がすべての答えを知っているわけじゃないと認めるのにこれだけ勇気がいるんだから、正しい問いすら知らないと認めるのがどれだけ難しいかは、推して知るべし。」
3. やめるのはつらいよ...
「やめることは、フリークのように考える方法の核心にある。」
やめることを躊躇わせる力は、少なくとも三つあるという。
一つは、やめるのは失敗を認めること。
二つは、埋没費用という考え。公共事業がこの類いで、今更やめるのはもったいないという思考が働く。
三つは、目に見えるコストにとらわれすぎて、機会費用や逸失利益のことまで頭が回らないという性向。
人間社会には、偏執的なほどに成功物語ばかりが刻まれ、報道屋ときたら失敗に不名誉のレッテルを貼る。優秀な人材は、失敗も少ないと思われるかもしれないが、優秀な人ほどリスクの高い仕事を背負わされるはずだし、失敗経験も豊富なはずだ。仮に、リスクは高いが会社の将来がかかっている仕事と、誰がやってもそれなりに結果が出る仕事とがあるとすると、経営者はどちらに優秀な人材を割り当てるだろう。
失敗せずに生きてきた人は、そもそも失敗の概念を取り違えているかもしれない。失敗するような仕事を任されたことがないか、あるいは、失敗したことにも気づいていないか。正解ばかり当てにしてきた人もまた、正解の概念を取り違えているかもしれない。そして、失敗せずにきた人、正解ばかり答えてきた人、そのような人が出世するような社風をつくってしまえば、優秀な人材は逃避し、凝り固まった人間集団が残る。俗に言う、官僚化や腐敗化ってやつだ。粉飾決算や不正行為などでスキャンダル沙汰になったら、時すでに遅し。現実に、やめるべきプロジェクトが、惰性的に生き長らえている事例はわんさとある。やめれば負け犬となり、体面を保つことに躍起になり、尚更やめられない。まさに世間体の奴隷と化す。
本書は、フリークのように考えれば、やめるべき見極めができ、おまけに、免疫力がアップすると助言してくれる。やはり問題は失敗ではなく、失敗の仕方であったか。一度やめる経験を積めば、やめるような状況に追い込まれる前に十分に分析を施し、軌道修正ができるだろう。
しかしながら、やめる!という選択肢がベストかどうかも、判断するのは難しい。やめなければ、少なくとも現状は維持され、ある種の保険として機能する。保険好きに、フリークのように考えよう!と言っても無理な相談だ。
もし、やめられたら... 失敗から貴重なフィードバックが得られるかもしれないし、もっと生産的で、もっと刺激的で、もっと充実した人生が送れるかもしれない。ただし、有益なフィードバックを得ても、学ぶには時間がかかる。中途半端な見極めで判断を誤れば、さらに暗い思考へと導かれる。
そこで、「やめる」って言葉がおっかないなら、「捨て去る」と言い換えてみよと助言してくれる。失敗ではなく袋小路の発見と捉え、そこから逃れるという考え方である。袋小路だと分かれば、すごい発見だ!結果的に、やめる方が保守的な考え方ということにもなる。だとしても、世間体だけでなく、自分自身の中でも失敗で片付け、イノベーションを極度に恐れてしまう性癖を、心の奥底に押しとどめておくには、よほどの修行が必要である。
「正しい方法とまちがった方法、かしこい方法とおろかな方法、青信号の方法と赤信号の方法があるなんて思い込みを、ぼくたちはこの本を書くことで葬りたい。」
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