2018-09-02

"遥かなる未踏峰(上/下)" Jeffrey H. Archer 著

古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。
ジェフリー・アーチャー... 学生時代に追尾していた作家の一人だが、社会人になってすっかりご無沙汰。何冊か再読したものの...
推理小説には魔物が住むという。一度手をつけると、つい一気読みしてしまい、朝日が眩しい。おまけに、おいらの読書スタイルの基本が、このジャンルときた。恐々、表紙をめくってみると...
「この作品は実話に触発されたものである。」
こいつが、ジョージ・マロリーを綴った物語だということがすぐに分かる。彼が、そこに山があるから... と答えたかどうかは知らん。確実に言えることは、なぜ読むのか?と聞かれれば、そこに本があるから... と答えるってことだけだ。推理モノに歴史が絡むと、もう衝動を抑えられない...

歴史ってやつは、一つの偉業に対して一人の英雄を欲する。だが、どんな偉業にも、そこに到達するために捧げられてきた生贄たちがいる。ニュートン力学は、なにもニュートンだけの偉業ではあるまい。そこに至るまでの叡智の積み重ねがあったはずだ。ゲーデルはこんなことを言った... 不完全性定理は自分が発見しなくても誰かが発見しただろう... と。この主張はおそらく正しい。真理の概念は必然であり、概念の方が歴史の中を散歩している。人類がずっと努力を続け、その意志を伝承する人々がいる限り、幸運に恵まれる瞬間がある。それが誰の偉業かって?そんなことは報道屋や政治屋に任せておけばいい。興味があるのは、成功からよりも失敗からの方が多くを学べるってことだ...

アーチャーは、登山家マロリーを人類初のチョモランマ征服者として描こうとする。だがそこに、確実な証拠は見当たらない。そもそも、生還できなかったのに登頂と言えるのか。それでも偉大な試みである。イギリスは、スペイン無敵艦隊を破り、さらに産業革命の勢いで世界を席巻し、偉大な戦争と呼んでは愛国心旺盛な時代に、国家の誇りを賭けて挑んだ北極点と南極点の到達で遅れをとってしまった。地球上で残された地点は世界最高峰!国王陛下の民の一人が、栄誉を勝ち得んがために...
アーチャーは、こうした時代背景に、西部戦線の暗い影や、資本主義とマルクス主義の対立といった光景をさりげなく盛り込む。物語では、南極探検家ロバート・スコット大佐の講演会にマロリーが出席する場面がある。スコット隊は犬ゾリにこだわったが、アムンゼン隊はエンジン付ソリも投入するってさ...
「われわれの目的は昔から変わることなく、自然の力に対する人間の能力を、機械の助けに頼らずに試すことにある...」
マロリーは酸素ボンベの投入をめぐって隊員と口論になる。だが、彼自身が投入を拒否したことで頂上を目前に撤退。
「おまえの手縫いの登山靴だって人工的な補助具だろう...」
そして再挑戦では、酸素ボンベが必要だということを悟ったのだった。
ちなみに、スコット大佐の英雄伝は、シュテファン・ツヴァイクが「人類の星の時間」の中で描いている。到達の栄誉はアムンゼン隊に譲ったが、後の科学的情報はスコット大佐の記録によるところが多く、彼は真の研究者であったと。
だが国家の威信を背負い、スコット隊は全滅した。そして、マロリーも。これがジョンブル魂というものか...

マロリーの遺体が捜索隊に発見されるまで、70年以上もの月日が経っていた。物語は、マロリーが残した妻への手紙をちりばめて構成される。最愛のルースへ... 手紙には、SNS ではけして味わえない重みがある。そして、1924年6月7日を最後に... 君の写真を地球で一番高い地点に置いてくるつもりだ!
なにゆえ最愛の妻を残して、狂気へ向かうのか?なにが使命感を焚きつけるのか?男ってやつは、いくつになってもお山の大将を夢見ている、実にしょうのない生き物である。これが冒険家の心理。おまけに、男ってやつは、愛する女の最初の男でありたいと儚い夢を描いている。そして、最初の登頂者となる夢を描き...
マロリーは失敗の汚点を残したままでは死ねない。再び狂気へ向かわせるのも冒険家の本能か。山は一度征服すれば永遠の恋人となるのかは知らんが、恋は成就した瞬間から堕落をはじめる。到達できなければ、永遠に理想像のまま。小悪魔に魂を売るなら可愛いものだが、チョモランマという山の女神は悪魔よりもタチが悪い。深い霧の中、サロメのように七枚のヴェールを一枚づつ脱ぎ、七つの煉獄山が露わになった時、はじめて人間の能力を思い知らされる...

・田舎の教会墓地で詠まれた悲歌(エレジー)...
 どれほど地位を自慢しようとも、どれほど力を誇示しようとも、
 また、どれほどの美と富を与えられようとも、
 死は免れ得ない。
 栄光の径(みち)は墓場へつづくのみである。
 ... トマス・グレイ

2018-08-26

"ケルトの封印(上/下)" James Rollins 著

原題 "The Doomesday Key"
鍵となる言葉は、"Domesday Book(土地台帳)" と "Doomesday Book(終末の日の書)"...
11世紀、イングランド国王ウィリアムは、王国全域の調査を実施するよう勅命を下したそうな。調査結果は「ドゥームズデイ・ブック」と呼ばれる一冊の長大な書物に編纂され、中世の人々の生活を記録した最も詳細な書物の一つとされる。この壮大な記録は民衆の税金を適切に定めるのが目的... 少なくとも、表向きはそういうことになっている。ただそれにしては、あまりに詳細すぎる。しかも、編纂に当たった学者は一人だけで、難解なラテン語で記されたという。極秘にせねばならぬ事情でもあったのか?台帳には意味ありげな単語がちりばめられる。"vastare(荒廃した)" と...
土地の荒廃は、なにも戦争や略奪で起こるとは限らない。鍵となる土地は、アイルランドとイングランドの間に位置する島。かつてケルト人が所有していた異教徒の聖地。ここに呪われた地でもあるのか?"Domesday" に "o" の一字が加わって "Doomesday"... 単なる土地の記録が「最後の審判」と結びついて伝えられてきたとさ...

ロリンズ小説の魅力は、なんといっても歴史と科学を調和させる手腕。おまけに、知識としての事実と小説としての空想の狭間をさ迷わせ(さま酔わせ)、世界各地を駆け巡るダイナミックさ。歴史は過去の知識を掘り起こす立場にあり、科学は最新の知識を発展させる立場にあり、時間と空間を超えた知識こそ真理へ導くと言わんばかりに。いや、ここでは調和というより対決と言うべきか。古代人と現代人の。何事にも人為的な手が加わると、自然界ではありえない害虫どもが活動を始める。ホモ・サピエンスという種もその類いなのやもしれん...
歴史的事実では、ドゥームズデイ・ブックを支柱に、ケルト伝説、聖マラキの予言、ストーンサークル、黒い聖母などを絡め、科学的事実では、遺伝子組み換え作物、マルサスの人口論、蜂群崩壊症候群などを持ち出し、これらの知識を辿りながら、オスロ港の端に位置して処刑の歴史を持つアーケシュフース城、イングランドからスコットランドを望むバードジー島、北極圏ノルウェー領にあるスヴァールバル世界種子貯蔵庫、ナポレオンが刑務所に転用したクレルヴォー修道院といった地域を駆け巡る。
前提知識が絶対に欠かせないのもこのシリーズの特徴で、それだけで脳みそをグチャグチャにされちまう。それが、前戯好きな M にはたまらん...

特に注目したい地域は、観光地でも有名なホークスヘッド村だ。この周辺に広がるイングランドの湖水地方は、地下の泥炭が何世紀にもわたって燃え続けているという。豊かなピート香を放つスコッチウィスキーの製造に欠かせない特性なのである。ここでは癒やしの村として登場し、のどかな風景を綴った文章に癒やされる。そして、徹夜で一気読みしながら、ピート香こそ抑え気味だが、優雅な香味を放つグレンリベット18年を一本空けちまう。暗闇をさまよって黒い聖母を読破し、その達成感に浸りながら、眩しい朝日を浴びて飲むブラックコーヒーもまた格別...

尚、本書はΣフォース・シリーズ第五作。シリーズゼロから数えると六作目で、邦訳版では最初の作品が五番目に刊行されたという事情から、1, 2, 3, 4, 0, 5 の順にシリーズ番号が振られる。やや苦し紛れ感があるものの。このシリーズは十作を超え、まだまだ続きそうな勢い。おまけに、外伝シリーズまで始まった。惚れっぽい追い手は、いつまでも背中を追い続けるだろう。どんなに離されようとも。永遠に近づこうとするということは、永遠に到達できないことを意味する。その絶望感が快感に変わった時、M 性を覚醒させる。これを微分学の美学という...

1. あらすじ
サン・ピエトロ大聖堂の神父、マリ共和国の赤十字難民キャンプの大学生、プリンストン大学の教授、この三人の殺人事件には共通点があったとさ。彼らは何を調査し、何を知ったのか?そこに残される円環と十字のマーク、そして渦巻模様。この謎に様々な野望が群がり、Σフォースとテロ集団ギルドとの争奪戦が展開される。
鍵の在り処は、聖マラキの生涯と黒い聖母伝説が手がかり。だが、すでに破壊の種子が世界規模で拡散しつつあった。「ドゥームズデイの鍵」とは... それは人類救済の鍵なのか?それとも破滅の鍵なのか?お望みのものを手に入れれば、他の人間が代償を払う。これがスパイの世界の掟だが、信仰の世界も生贄を捧げるのが掟...
ところで、十字マークといえば、キリスト教で象徴的なものだが、紀元前のはるか昔から信仰されてきた。十字は直角を表し、これと真円を崇める伝統をピュタゴラス教団が受け継いだ。美しい形は、人間の魂を癒やしてくれる。彼らは定規とコンパスだけで描ける図形の虜となった。God(神) と Geometry(幾何学)は相性がいいと見える。そして、ギルド(Guild)の頭文字も G とくれば、悪魔との相性も良さそうだ。
この象徴が十字架の磔刑と結びついたのは偶然で、一段と崇高な存在にしたのか。あるいは、意図的に重ねたのか。いずれにせよ、国教に定め、しかも、四つの福音だけ公認すれば、排除の原理が働く。ローマの呪いか。あのナザレの大工のせがれは、あの世で呟いているだろう。わしはカトリック教会なんぞ知らんよ!と...

2. 人口抑制
この物語は、一つの問題を提起している。それは、マルサスが「人口論」でも唱えた人口抑制という問題である。量子力学は告げる... あらゆる物理現象は、臨界点に達した途端にまったく違った局面へ移行する。その存在すら危ぶまれるほどの... と。このまま人口増殖が続けば、いずれ食料供給量の臨界点に達し、人類の 90% が餓死の危機に追い込まれる、と予測する研究報告もある。マルサスの理論を克服したのは産業革命であったが、技術力によって、さらなる人口増殖を促進してしまったとも言える。青天井となった性向が暴走を止められないのは、金融危機が示してきた。
しかしながら、人口抑制はデリケートな問題であり、人口増加を抑制するための提言が極端に走っている面があることも否めない。強制的な産児制限、不妊手術、子供を作らない家庭に報奨金を支払うといった類いである。そうした政策が現実味を帯びる日が来ないよう願いたいものだが、差別好きな種は必要な人間と不要な人間で線引する。古代都市国家スパルタでは、未熟児や奇形児が廃棄された。優生学との境界も曖昧で、他族を劣等種族とみなすカルト集団もあれば、民族優越説なんぞを唱えはじめると、ヒトラーの最終的解決を想起させる。そして、正義をまとって異教徒の抹殺が使命となる。これはもう人間という種の性癖である。
本物語では、暗躍する民間企業が、石油化学製品から遺伝子組み換え種子産業へ鞍替えした目的を、世界規模で食糧の安定供給を目指す!と宣言しながら...
「石油を支配すると国家を支配できる。だが、食糧を支配すれば世界中の人々を支配することができる。」
ところで、化学兵器もどきの戦術は、古代エジプト時代からあったらしい。疫病を流行らせて民族レベルで抹殺しようといった類いの。井戸などに毒を仕込むのも古くからあるやり方。敵対国家の混乱を目的とした通貨偽造の歴史も古く、この手の発想で古代人と現代人との違いは技術と巧妙さぐらいであろう。人類のずる賢さという性癖は、エントロピーに逆らえないと見える...

3. 蜂群崩壊症候群
2006年から2008年頃、ミツバチの大量失踪事件が発生したと報道された。飼育されていた三分の一ものミツバチが何の前触れもなく姿を消したとか。「いないいない病」なんて俗語を耳にしたような記憶がかすかにある。ナッツ類、アボガド、キュウリ、大豆、カボチャなどの受粉に影響を与え、食料供給にも深刻な問題を与える。様々な憶測を呼び、地球温暖化や環境汚染が原因とする説もあれば、遺伝子組み換え作物が原因とする説もあり、宇宙人の仕業という説まである。
しかし、原因はすこぶる単純なものらしい。フランス政府がイミダクロプリドとフィプロニルという二つの農薬を禁止したところ、数年でミツバチが戻ってきたという。マスコミは、この成功例を報道しないらしい。ニュース価値がないんだってさ...
本物語では、暗躍する民間企業がこの現象を利用して、食糧供給量を制御しようとする。遺伝子組換え作物の種子が風で飛ばされ、他の畑や種苗会社の農場などに紛れ込むと、新種の害虫を誕生させる。ミツバチの個体数を制御するだけで、食糧供給量が制御できるという寸法よ。そして、トウモロコシを遺伝子操作するだけで...

4.スヴァールバル世界種子貯蔵庫
食糧の安定供給は、今日の重要課題の一つ。百年前、アメリカで栽培されたリンゴの品種は七千種以上あったが、現在では三百種にまで減少したという。七百種近くあった豆も、わずか三十種になったとか。実に、世界の生物多様性の 75% が、一世紀の間に消えてしまったというのである。絶滅種を救う!これがスヴァールバル世界種子貯蔵庫の主な目的で、世界中の種子がここに収容される。世界の種子銀行だ!地球最後の日のための種子貯蔵庫として、別名「ドゥームズデイ貯蔵庫」と呼ばれるそうな。種子版のノアの方舟か!
スヴァールバル諸島は、ノルウェーの北岸と北極の中間に位置する極寒の地にある。まさに人間の目の届かない場所に人間が建設したのだったが...
尚、本物語では、ホッキョクグマが警備に一役買っているが、それも事実だそうな...

5.聖マラキの予言
12世紀、アイルランドのカトリック司祭メル・メドック、後の聖マラキは、ローマへの巡礼中に幻覚を見たそうな。それは、世界の終末に至るまでのローマ法王に関するもの。112名のローマ法王についての暗号めいた予言は記録され、ヴァチカン公文書館に所蔵されたが、後に行方不明となり、16世紀に再発見されたという。その経緯から、偽物と見る歴史家もいるらしい。
いずれにせよ、予言は無気味なまでに的中しているそうな。例えば、ウルバヌス8世は「百合と薔薇」と形容されているとか... 彼は赤い百合を紋章とするフィレンツェ生まれ。パウロ6世は「花の中の花」... 彼の紋章は三輪の百合の花。ヨハネ・パウロ1世は「月の半分の」... 彼の法王在位期間は、半月から次の半月までのわずか一ヶ月。ヨハネ・パウロ2世は「太陽の労働によって」... 日食の比喩として一般的に使用される表現で、彼は日食の起きた日に生まれた。2013年に退位したベネディクト16世は「オリーブの栄光」... 名前の由来となったベネディクト会はオリーブの枝がシンボル。
そして何よりも気がかりは、法王ベネディクト16世が予言に記された111番目の法王だということである。つまり、次の法王のもとで世界は終末を迎えるということか...
「聖なるローマ教会への最後の迫害の中で、ローマびとペトロが法王の座に就く。彼は数多くの苦難の中で信者たちを導くであろう。その後、七つの丘の都は崩壞し、恐ろしい審判が人々のもとにくだされるであろう。」
2013年3月、アルゼンチン生まれのフランシスコが新たな法王に選出された。史上初のアメリカ大陸出身の法王誕生である。彼が、「ローマびとペトロ」なのか?ただし、最後の法王だけは番号が振られていないらしい。なので、111番目から最後までの間には、名前の挙げられていない法王が何人もいるのではないか、と楽観視する歴史学者も少なくない。そもそもローマ教会の運命で世界の運命を決めてもらいたくないものである。世界の宗教は実に多様性に満ちているのだから...

6. ケルト伝説
「荒廃した」と記される地域の一つに、アイルランドとイングランドの間に位置する荒れ果てた島があるという。古代ケルト人の聖地であったバードジー島。ただ、ケルト人よりも先に定住した民族がある。ストーンサークルといえば、最も有名なのはストーンヘンジだが、イングランド各地に点在する遺跡で、この島にも巨大な石が環状に並べられるという。宇宙人の仕業という説もあるが、ケルト人でなくても、そこに神が宿ると信じるだろう。
アイルランド神話によると、ケルト人が最初にアイルランドへやってきた時、すでにフォモール族という巨人族がおったとさ。ノアによって呪われたハムの子孫とも言われる。ケルト人とフォモール族は領有をめぐって何百年にも渡って争ったそうな。フォモール族は武器には長けていないものの、疫病を感染させる技術を持っていて、侵略者に「痩せ衰える死」を与えたとか。
フォモール族の女王は病を癒やす大いなる力を持っていて、疫病を治すことができたという。ケルト人がアイルランドを征服することになるが、女王の癒やしの力は崇拝され、この周辺を聖地としたらしい。アーサー王伝説にしても、アヴァロンをバードジー島が起源と信じている人も多いようである。ちなみに、アヴァロンはアーサー王の剣エクスカリバーが作られた場所で、地上の楽園とされる。
しかしながら、ケルト人もまたローマ人に征服される運命にある。この島は二万人の聖人が埋葬されることでも知られるそうな。まさに巡礼の島か!ローマ人もここを聖地としたのか?文化ってやつは、完全に抹殺したようでも、実は自然に組み込まれて生き残る性質を持っている。寄生虫のように。
「ドゥームズデイの鍵」とは、疫病を発生させる毒薬か?それとも、疫病の治療薬か?いや、その両方か?

7. 黒い聖母伝説
黒い肌で表現した像や絵画が、ヨーロッパ各地に点在するという。ポーランドのチェンストホヴァの黒い聖母、スイスの隠者の聖母、メキシコのグアダルーペの聖母など...
黒い聖母の作品には不思議な力が宿ると主張する学者もいれば、肌が黒いのはロウソクのすすが積もったり、木製の像や古い大理石が年代とともに変色しただけという学者もいる。カトリック教会は、こうした像や絵画の持つ意味や不思議な力に関しては、一切言及しないとの立場をとっているという。
本物語では、フォモール族の女王の肌が黒かったことから、黒い聖母伝説とのつながりを示唆する。肌の黒い巨人族は、古代エジプトの種族という説もあるという。フォモール族は、農業技術をケルト人に伝えているとか。ナイル川流域で培った技術を。
イングランドの各地に点在するストーンサークルを作ったのも、古代エジプト人ではないかと主張する歴史学者もいるようだ。アイルランドのタラにある新石器時代の埋葬地から、釉薬を使用した陶製のビーズで装飾を施した遺体が発見されているという。ツタンカーメンの墓から発見されたものとほぼ同じものだとか。イングランドのハル近郊には、紀元前1400年頃と推定されるエジプト様式の大きな船も発見されているとか。ヴァイキングなどの海洋民族がイギリス諸島を訪れるはるか昔に。ケルト人は、エジプトの女神イシスを崇拝したということか?

2018-08-19

"ランケとブルクハルト" Friedrich Meinecke 著

前記事「世界史的諸考察」の余韻に浸りながら古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。ドイツ史学界といえば、まずレオポルト・フォン・ランケの名を思い浮かべるが、その正統的な継承では、ヤーコプ・ブルクハルトに続いてフリードリヒ・マイネッケという流れがあるらしい。実は学生時代、ランケの「世界史」が未完に終わったことを知り、せめて選集ぐらいはと思い大学の図書館を漁ったものの、全巻見つけられず頓挫したまま。こうして断片の作品を漁ってお茶を濁し続け、もう三十年が過ぎた。
当時、ルネサンス時代の万能人たちに惹かれ、ランケの復古主義的な香りにも誘われたように記憶している。どんな分野であれ、創始者というのはそれなりに崇められるもので、ランケにもそのような地位を感じたものである。ところが、ブルクハルトに出会って風がちと変わり、天の邪鬼な惚れっぽい性癖がマイネッケへと導くのであった...
尚、中山治一, 岸田達也訳版(創文社)を手に取る。

歴史家が歴史学者になりきることは難しい。ナショナリズムを旺盛にする点では他の学問を寄せ付けないほど。当事者となれば尚更だ。とはいえ、学問の本質は客観的な視点を与えることであり、そうでなければ存在意義すら疑われる。宗教的な解釈の強すぎる時代、最初に実証主義的な立場を表明したランケの功績は大きい。
しかしながら、この大家をもってしても、まだまだ神の摂理に縋っていたようである。マイネッケは、ランケが提唱した「世界史の規則的な継続発展」という概念は信頼に足るか?と疑問を投げかける。ランケとブルクハルトの政治権力に対する態度は真逆である。ランケにとって権力は神の摂理が支配するもの、ブルクハルトにとって権力は悪、それも必要悪と見たようである。
古来、人間は生まれつき善か、生まれつき悪か、という論争があるが、ランケとブルクハルトの対置はその伝統を引き継いでいるかのようである。一人が、歴史にとって人間は何を意味するのか?と問えば、もう一人が、人間にとって歴史は何を意味するのかと問う。多神教の時代、人間にとって神は何を意味するのか?と問うたならば、一神教の時代にも同じことを問わねばなるまい。
歴史とは、ランケにとって神聖物だったのか、ブルクハルトにとって人類の恥部だったのか。両者とも歴史学者としての権威を獲得しているものの、プロイセン風ドイツ育ちと、中立国スイス育ちという地理的背景が、情熱的な語り手と冷めた目線の語り手とに分ける...

では、マイネッケはというと、ランケとブルクハルトを相互補完する立場を表明し、中道を模索する。あまりにも人間的なものを洞察した点では、ブルクハルトに軍配を上げ、国家、民族、制度といった客観的に考察すべき形成物に対して超人間的なものを要請した点では、ランケに軍配を上げる。
ブルクハルトの「人間的なもの」というのは、人間の本性、すなわち醜態にも深い洞察を与えたという意味で、はるかに現実的である。歴史とは、現実の連続であり、そこから目を背けるわけにはいかない。
だからといって、ランケも捨てたもんじゃない。ランケの「超人間的なもの」というのは、ニーチェが唱えた超人や永劫回帰にも通ずるものがある。
ただ、全般的には現実主義者持ちで、ブルクハルト評価の裏にランケ批判が見てとれる。真理が一つかは知らん。一つである必要があるのかも知らん。ただ、真理への道は多様性に満ちているのは確かなようである...

1. 歴史の距離感
歴史に法則性のようなものを感じても、そこに明確な法則があるのかは知らん。科学的に言えば、法則と法則性ではまったく次元が違う。どうしても説明のつかない法則性に対して神の意志を持ち出せば、それは宗教と何が違うのだろう。
歴史は不完全性に満ち満ちている。なにゆえ完全者が、なにゆえ万能者が、こんなものをこしらえたのか。しかも、繰り返し繰り返し。すべての出来事は必然だというのか。社会に蔓る悪は、善を認識させるための特効薬とでもいうのか。まったく神の忍耐強さには頭が下がる。すべてを神のせいにすれば、そりゃ楽よ。そして、いつか成熟した人間社会が実現されると儚い希望を抱き続ける。
しかしながら、人間の悪魔じみた性癖こそ歴史の本性であった。おそらくこれからも。集団性が暴走を始めると、もう手がつけられない。感情論が加熱すると、自分の主張がねじ曲がっていることにも気づかない。
だから、余計に優越感に浸ろうと懸命になる。学問ですら流行に走り、偏見を増殖させる。ヘーゲル的な歴史哲学にも危険性はあろうが、集団的な歴史観の危険性の方がはるかに大きいように思えてならない。
したがって、歴史学者の使命は、まずもって集団社会から距離を置くことになろう。ただ遠くからとはいえ、あまりに悪徳を眺め過ぎると、厭世観を肥大化させてしまう。集団性との距離感はなかなか手強い。ランケも、ブルクハルトも、歴史の理想像というものを描いたに違いない。そして、マイネッケも。人間社会が神の合目的に適っているかという観点では、ランケは楽観主義者で、ブルクハルトは悲観主義者である。
マイネッケはというと、二つの大戦というさらなる絶望を体験することになる。彼は、歴史考察の危険性を軍国主義、ナショナリズム、資本主義という三要素の結びつき方によって論じる。それぞれの要素が単独で非難されるべきものではなく、三者の運命的な出会いによって深淵に突き落とされたと。その態度は、必死に歴史との距離をはかろうとするかのように映る。ランケと距離をはかり... ブルクハルトと距離をはかり... 自己と距離をはかり...
「まず、軍国主義は国民皆兵制の導入によってはかりしれない物理的な力を獲得し、さらにそれは、ナショナリズムの興隆とあいまって、本来は弱小国の防衛手段であったはずの国民皆兵制を攻撃的手段へと転化し、西洋にとって戦争の危険となった。そしてこれらのものの上に、さらに資本主義的大工業による強力な技術的戦争手段の生産ということがくわわる。これらの諸要素の結合は、権力手段の拡大をひきおこし、これは権力政治に屈強の手段をあたえることになって、ここに国家理性の危機が生まれる。」

2.君主制と人民主権
十九世紀の生命要素として、ランケは、第一に君主制と人民主権という二つの原理の対立を強調し、第二に物質力の無限の展開を指摘する。
ついで、ブルクハルトは、フランス啓蒙思想とイギリス産業革命の結びつきという側面から、大衆の欲望が増大していく様を指摘する。しかも、その欲望を満たすべく国家の力が大衆の要求に応じて、ますます強大にならざるをえないと。
フランス革命からビスマルクに至る革命の時代、ランケとブルクハルトは両者とも力づくの行動を毛嫌いする保守派であり、ナショナリズムを旺盛にさせる近代国家の出現に戸惑ったと見える。フランス革命の論調では、ブルクハルトはランケよりもいっそう強く拒絶する。
それでもマイネッケは、近代民主主義の頑強な敵手とされるブルクハルトが、ランケより内面的に近く感じられると評している。
歴史事象の根底を懐疑的に捉えているのはブルクハルトの方であろう。ビスマルクの論調では、ランケは不快な現象と捉え、なかなか受け入れられなかったと見えるが、ブルクハルトは、ビスマルクが出現しなくても、大衆マキャベリズムへの流れは逆らえないと見ている。
そして、こう問わずにはいられない。かつての理想主義者たちが唱えたように、共和国化したからといって戦争は減ったか?と。悲劇を予言する眼光はまさにカッサンドラのごとく。案の定、大衆はナチス政権を許すことに...
「ブルクハルトは、あたかも鋭敏な地震計のように、大衆運動の中に潜伏していた最悪の可能性、すなわち極悪の人間どもが大衆の指導者としてあらわれてくることを感知する。」

3. 政治権力と文化
ランケも、ブルクハルトも、政治権力と文化の関係を論じたという。その違いは、神聖で高尚なものと捉えたか、俗物で劣等なものと捉えたか。
こうしてみると、文化の定義もなかなか手強い。まず自発的な活動であるということは言えそうか。それが普遍的であるかどうか、しかも、精神の発展を伴っているかどうか、などと線引きすれば、哲学的になり、やはり文化ということになる。だからといって、それ以外にも、充分に文化的なものを見つけることができる。隷属しているからといって、即座に文化的ではないとも言えまい。好んで隷属する場合もあれば、隷属していることに気づかない場合もある。人間の本性すべてが文化的要素になりうるはずだ。
ブルクハルトは、権力を握るための活動も、物質的な目的のための活動も、文化と見做す。悪徳までも。
歴史物語は、政治の側面から伝えられることが圧倒的に多く、支配者の系列や政変を論ずることで時代変化を追う傾向がある。平和で安定した時代の歴史は、退屈なものだ。それゆえ、政治というものが、高等な分野という印象を与える。
しかしながら、政治の世界ほど人間の醜態を曝け出すものはあるまい。支配欲、権力欲、名声欲、独占欲、金銭欲、物欲... あらゆる脂ぎった欲望を網羅し、まずワイドショーのネタで困ることはない。政治の役割が国民の幸福を実現することにあるとすれば、政治家に求められる最も重要な素養は、政策とその実行力ということになる。人格や高潔さなどは二の次。実際、民主主義の根幹をなす選挙では消去法が機能する。最も道徳的であるべき業界が法律のストレステストを繰り返すのは、自ら条文を検証しているとでもいうのか。もはや毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか。二人の巨匠でなくても、政治的分析よりも文化的分析の方がはるかに高等に見えてくる。ただ、ランケの「世界史」は、文化的なアプローチを重要視すると宣言しながら、そうはなりきれなかったと見える...

2018-08-12

"世界史的諸考察" Jacob Burckhardt 著

歴史をつくる!
この言葉には、なにやら魅力的な響きがあり、英雄伝説を想起せずにはいられない。だが、英雄を必要とする社会は病んでいる証。悪に反発して善が生起し、善に退屈して悪が蔓延り、精神の最も病んだ時代に救世主あらわる。これが歴史というものか...
かのアレキサンダー大王は本当に偉大だったのだろうか。フリードリヒ大王やナポレオンはどうか。ウェルギリウスの登場は必然だったのだろうか。バッハやラファエロはどうか。そして、ツァラトゥストラの人格までも再評価してみたくなる。
歴史上の人物といえば、政治的な偉大さが優先されがち。だが、なによりも格別な存在は精神を征服した者である。宗教の創始者たちの扱いは他を寄せ付けない。それが反駁の形をとろうが、無神論を唱えようが、異教徒ですら意識せずにはいられない。
歴史の評価は、古くなるほど神格化し、現代に近づくほど移ろいやすい。現代の天才は古代の天才ほど神がかっている必要はないし、現代の芸術家はルネサンス期の芸術家ほど万能である必要もない。実際、劣っていそうだ。科学が進歩し、知識が広まれば、有識者たちも昔ほど知的である必要はない。実際、最も騒ぎおる。時代を経験するほど知性や理性が凡庸化していくとすれば、いよいよ平等の時代の到来か。
あらゆる歴史事象は、それぞれに転換点を示してきた。変化のない平凡な時代に歴史はつくられない。そして、いつの時代にも歴史はつくられてきた。人間社会は揉め事に事欠かない。こと政治においては、人間のワイドショー好きな性癖を隠しようがない...

大家ランケに学び、ニーチェとも交流したことで知られるヤーコプ・ブルクハルト。彼は反歴史哲学の立場を表明し、体系的なものを断念すると宣言する。それが、ヘーゲルに対するものであることは想像に易い。ヘーゲルの歴史哲学に対しては、偉大な試みに感謝すべきとしながらも、歴史と哲学は根本的に相い容れないと皮肉る。
「歴史哲学は一つの半人半馬(ケンタウル)で、形容詞において矛盾を犯すものといえる。なぜならば歴史とはすべての並列を許すことで、それは非哲学であり、哲学は序列をつけることで、それは非歴史だからである。」
ルソーの契約説に対しては、建設されるべき国家について説くことは、荒唐無稽!と言い放つ。確かに、それは空想的な理想主義かもしれない。歴史学は、現象を淡々と観察する立場であって、最善の場合でも、目的を不十分に、副次的に要求するだけ... だとか。哲学は普遍的な立場をとろうとする限りでは、歴史学よりも上にありそうか。こと人間社会においては、理想と現実が一致することはごく稀で、人類はいつも現実に翻弄されてきたし、理想論ってやつは仮説的な補助手段に過ぎないといえば、そうかもしれない。ましてや偉大な精神の歴史を、理性の向かうべき道としたところで詮無きこと。
しかしながら、哲学だって、過去の精神をないがしろにしては、偉大な精神を構築することは不可能である。ある学術研究によると、人類の進化は五千年前にとっくに終焉したという報告もあるが、あながち否定はできまい。古代エジプトのメネス王国のような考古学的伝承は、壮大な前史があったことを暗示している。
「最も傷ましく歎かわしいのはエジプトの精神発達史が不可能だという事実である。それを人は精々仮定的な形式で例えば伝奇小説(ロマン)として与え得るに過ぎない。やがてギリシア人において自然科学にとっての全くの自由の時代が来た。ただ彼等がそのためにしたところは比較的少なかった。なぜならば国家と思弁と彫塑的芸術が彼等の精力を先取りしてしまったからである。」

歴史家が客観性を保つ立場であることは疑いようがない。だが、これが最大の難題!人間のあらゆる解釈や思考が主観によって導かれ、歴史家たちの見解が歴史をつくってきたとも言えよう。ブルクハルトは、この... 歴史家が歴史をつくった... という見解を拒絶するかのように、従来の歴史評価に疑問を呈す。
学問をやる以上、懐疑論がつきまとうのは健全であろう。過去の思考に疑いを持ち、自己の思考に疑いを持ち、そして、どこまで懐疑的でいいか、そのバランス感覚が求められる。その意味で酔いどれ天の邪鬼の眼には弁証法的にすら見え、けしてヘーゲルと相い容れないようには見えないのであった。ここに、歴史哲学体系を真っ向から批判し、それでいて実に、歴史哲学的な性格を帯びた博大な書に出会えたことを感謝したい...
尚、藤田健治訳版(岩波文庫)を手に取る。
「極めて疑わしい、また疑わしさを免れないのは、教会の首長達の偉大さである。グレゴリウス七世とか聖ベルナルドゥスとかインノケンティウス三世とか、恐らくはさらに一層後期の人々のそれであろう。」

1. 三すくみ論
ブルクハルトは、歴史の考察を国家、宗教、文化の三つの関係から迫る。互いの規制関係として。国家は政治と密接にかかわり、宗教は教会と密接にかかわり、政治と教会の緊張関係が権力の均衡を保ち、政治と教会が手を結べば文化が監視役となる。時には、文学や哲学が国家を讃美したり、美術や音楽が教会に奉仕したり。二つが手を結んで規制を企てれば、一つが反抗して自由精神を目覚めさせるといった構図である。数学には三角形を崇めてきた歴史があり、人間ってやつは、三角関係がお好きと見える。
政治の在り方を問うたアリストテレスは、最善なのは君主制で、次に貴族制で、最悪なのは民主制というようなことを書いた。だが、真の君主はどこにも見当たらず、ことごとく僭主と化す。有識者や有徳者の集団ですら権力を握るとそうなる。人間の自尊心は、少しばかり大きすぎるようだ。自己肯定が少しばかり強すぎるようだ。やはり人間社会は、毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか。
そして今日、様々な政治体制が試されてきた中で、民主制が比較的マシとされる。政体の移行段階では無政府状態が出現し、政権交代のたびに無党派層を増殖させる。もはやアリストテレスが唱えた三つの政体では不十分、無政府状態も普遍の代表に加えねば。最も聖なる原理、そう、あの三位一体論は、こと人間世界では三すくみ論と化す...
ちなみに、ランケはこう言ったという。
「主権在民ということほど影響を及ぼした政治的理念は一つとして存在しない。折々は退けられ単に一般の見解を規定するに止まりながら、やがてまたふたたび突発的にあらわれ出て公然と認められ、決して実現されないがしかもいつも人の心に食い込んで行く点で、それは近代世界の永遠に醗酵する酵母である。」

2. 自己を克服できなければ、他人を征服にかかる...
宗教の偉大さは、人間の欠陥を超感性的な力で補足する試み。精神を無限の宇宙に引き入れ、崇高さをもって教化する。それ故、あらゆる道徳が宗教によって裏付けられれば、宗教戦争は最も恐ろしく、残酷なものとなる。宗教もまた応急処置的な手段の一つと心得ておかねば。もはや、あらゆる宗派から距離を置く無宗教という立場も普遍の代表に加えねば...
あらゆる闘争には、盲目的な美化がつきもの。国家も、宗教も、文化も、盲目的に礼賛されやすい。愛国心ってやつは、しばしば他民族に対する傲慢の形で現れ、政治ジャーナリズムが集団性の牙を剥く。自己を克服できなければ、他人を征服にかかる。これが人間の本性と心得ておかねば...
「国家は個人の利己の排除によって生じたのではなくて、国家はこの排除そのものでありその調整そのものであり、従ってそこでは最大限に多数の利害や利己が永続的に勘定が合い、遂には国家の存続が自己の生存と完全にからみ合うようになる。ついで国家がもたらし得る最高のものはよき国民連の義務感、すなわち祖国愛である。
...
もし国家が社会だけがなし得、またなすことを許される倫理的なものを直接実現しようと意図するならば、それは一つの堕落であり、術学的官僚主義的な不遜に外ならない。」

2018-08-05

"音楽における偉大さ" Alfred Einstein 著

もし、大バッハがいなかったら... 歴史は誰かにその代役を与えたであろう。バッハもまた誰かの代役を演じただけなのかもしれん。偉大さとは、偶然の出会いの積み重ね。もし、この出会いがなかったら... もし、この人物が生まれてこなかったら... つい、そんな安っぽい運命論を想像してしまう。ゲーデルは晩年、こんなことをつぶやいた... 不完全性定理は自分が発見しなくても、いずれ誰かが発見するだろう... と。この発言はおそらく正しい。真理の概念は必然的であり、概念の方が歴史の道を散歩している。人間とは、それを見つけ出すだけの存在であろうか...

本書は、"a controversial book" と呼ばれたそうな。褒めてくれそうな人には褒められ、非難を浴びせそうな人には非難されそうな。誰が偉大で誰が偉大でないか... そんな議論はほとんど主観的、いや独断的、好みや影響された人物を贔屓してしまう。
百年もすれば歴史の評価も変わる。バッハが登場すると、シュッツの輝きは弱まり、文献学に名を残すのみ。偉大さとは、実にはかない!尤も彼らは、自分が偉大だと思って生きたわけではあるまい。純粋に音楽の真理を探求した結果であろう。
ここに語られる、時代に逆らった者と時代とともに歩んだ者、早く生まれ過ぎた者と遅く生まれ過ぎた者、彼らは互いに影響しあい、互いに影響されて生きた。偉大さとは、まさに相乗効果が生み出した産物といえよう。人類の遺産を見つけ出す手助けをしてくれるアルフレート・アインシュタインという文才に出会えたことは、凡庸な音楽好きには大きな喜びである...

バッハやヘンデルにしても、モーツアルトやベートヴェンにしても、ヴァーグナーやブラームスにしても、ショパンやシューベルトにしても、ベルリオーズやヴェルディにしても... 彼らはもはや人間ではない。人間精神を徹底的に研究し、完全に人間を真似ることのできた半神半人だ。音譜は物理周波数を与えるだけの数学的な記号に過ぎないが、この手段をもって普遍的な言語体系を構築している。言語ってやつが、精神活動を通してしか実存し得ないことを、見事に体現している。
音響芸術は、言語芸術に対して翻訳が無用な分、優位にあるように思える。声楽曲では、多少なりと翻訳が必要なものの。芸術作品ってやつは、崇高な地位にあればあるほど解釈が難しい。これに人工言語による翻訳の苦難が加わると、翻訳者の技術力によって作品の景色ががらりと変わる。詩は散文よりも、叙事詩は長編小説よりも、音調的である分、より永遠的になる。こと音楽においては形式なしでは無に等しく、偉大な作曲家たちは方言を語ったわけではなく、最も純粋な言語、すなわち最も純粋な形式を語ったということになろうか。それを普遍性と呼んでも、それほど大袈裟ではあるまい。
おまけに、この記念碑的な連中ときたら、驚異的な多産性を魅せつける。シンフォニーの群れ... コンチェルトの群れ... オペラの群れ... ピアノ曲の群れ... それぞれが一つの物語を語り、これらの群れが集まって一つの宇宙を創造する。ケッヘル番号や BWV のおびただしい数。モーツアルトやシューベルトのような早世の人物ですら膨大な群れを所蔵している。真理への執念がそうさせるのか。大量生産は偉大さから遠ざかりそうなものだけど...
天才たちの生涯を通しての内的強制は、超自然的で悪魔じみており、デモーニッシュといった言葉ではとても表現しきれない。ヴァーグナーを多血質と呼んだり、ショパンを憂鬱質と呼んだりするのは、それほど間違ってはいないだろう。どんなに人間性を非難されようとも、どんなに人格を貶されようとも、作品の方が音楽家から幽体離脱をはかり、独り歩きをはじめる。もはや、この音楽家は、イタリア的とか、フランス的とか、ドイツ的とか、そうした帰属意識に根ざした議論は無用だ。彼らは、普遍性の世界に身を委ね、超国民性を発揮する。西洋の形式でありながら、東洋の文化にも訴えるものが大きい。思いっきり信仰的でありながら、宗教という枠組みをはるかに超越している。凡人は自己が征服できなければ、他人を征服にかかるが、天才は自己の征服に忙しく、他人にかまっている暇などないと見える。ましてや世間にかまっている暇など。普遍性とは、多様性に存分に寛大で、よほど心地よいものと見える。
そして、かつてのバッハ嫌いは、いまやバッハの虜に... かつてのモーツアルト好きは、いまやモーツアルト狂になっちまったとさ...

1. 完全性なるもの
芸術に完全性なるものが存在するのだろうか。天才たちには完成形なるものが見えるのだろうか。あるいは、彼らもまた妥協の世界を生きているのだろうか。凡人と同じく自己満足の世界を生きているのだろうか。対位法は、すでに完成しているのだろうか。少なくとも、彼らは作品群の中に一つの宇宙を描く。完全な宇宙というものが存在するのかは知らん。もし存在するとして、どれほどの意義を持つのかも知らん。人間は不完全な人生を送る運命を背負う。人生の BGM となる未完成曲を心の中で奏で、我が人生、未完なり!と叫びながら...
永遠に無知であることが、それを自覚できることが、人生を退屈させないで済む。宗教だって、永遠に盲目でいることが幸せだと言っているではないか。シューベルトの遺産「未完成交響曲」が完成しなかったことは、そこに大きな意義が唱えられていそうだ。人類の叡智とは、偉大な未完成を相続する幸せを世代に渡って謳歌するってことだろうか...
「一芸術家の偉大さは、一つの内的世界の建設であり、この内的世界を外的世界に媒介する能力である。両者は不可分なものであって、そのいずれも他のものなしには考えられない。最も強烈な感情と最も生き生きした想像力も、それが公表されなければ、人類にとって無価値である。最も偉大な形式的才能も、それが一つの宇宙を形成することのできる創造力に仕えるのでなければ、無価値である。」

2. 永持ちな万能性
偉大さの条件とされるものに、独創性ってやつがある。世間は、オリジナル性を声高に主張しては、コピーものを俗悪のごとく言う。
では、独創性とはなんであろう。人間という存在に、まったくゼロから何かを創造する力があるというのか。
本書には「永持ち」という言葉がちりばめられる。永持ちする偉大さと、その偉大さに出くわす幸福は、適切な時期にやってくるものらしい。
しかも、偉大な相続遺産なしには不可能なようだ。ルネサンス期の万能人たちは、偉大な作品を徹底的に模倣し続けた。ラファエロにしても、シェイクスピアにしても、偉大な遺産に魅せられ、それを継承しながら独創性を発揮するに至り、ゲーテは独創的な作家で終わらず、芸術的な大家となった。彼らの模倣は、猿真似とはまったく異質で、世間で言われるコピーものとは異次元にある。何事も早すぎても、遅すぎても、うまくいかない。自己の中で何かが覚醒させるまで、じっと待つしかない。真理のエネルギーが蓄積して自然に爆発するのを。その覚醒される瞬間を見逃さぬよう、常に準備を怠るな!独創性の源泉は継続性にあり!というわけか。
とはいえ、凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼は、そのような幸福な出会いに気づかないばかりか、報われることを期待しすぎるものだから意志も永持ちしない...
「真実の偉大さには万能性が不可欠である。それは二重の意味における万能性であって、すべての、あるいは少なくとも多くの音楽諸分野の支配の意味においての万能性か、あるいはある分野の専門家としても新しい世界像を提出し、以後働き続け生み続けるような内面生活の持続的な豊富化を提出するという意味における万能性か、いずれかである。」

「かくして生けるものは
 結果から生ずる結果によって新しい力を得る。
 なぜなら、心、この恒常なるもの
 それのみが、人間を持久するものにするのだ。」
... ゲーテ

2018-07-29

"モーツァルト その人間と作品" Alfred Einstein 著

アインシュタインの名でもアルフレートの方。あの物理学者アルベルトの親戚という説もあるらしいが、真相は知らない。この音楽学者はモーツァルトと結びついて伝えられるそうな。シュヴァイツァーがバッハと結びついて伝えられるように。彼の著作「音楽と音楽家」を読んだ時、モーツァルトに関する記述がおざなりな印象を与えていたが、実はそうではなく、別格に取り上げていることを知って本書を手に取る。おまけに、A5判に 5cm と厚い。表題 "MOZART" の印字も風格を帯び、翻訳者浅井真男氏も熱くなると見える...

モーツァルトほど多種多様な作品を遺せば、どのように整理すればいいか悩ましい。時系列に並べてみるのも、彼の心変わりが追え、学術的にも合理性に適っていそうである。実際、ケッヘル番号には広大なモニュメントが刻まれる。それでも、彼の全生涯に渡る前進や後退、あるいは空白のすべてが保存されているわけではないし、叙述があまりにも伝記的なものに規定されてしまう恐れがある。
そこで本書は、ジャンル別の考察を試みる。とはいえ、この方法でも別の危険を冒すことになろう。声楽曲が器楽曲に影響されたり、その逆もあったりで、同質のものがジャンルの壁で引き離されるかもしれない。シンフォニーと室内楽曲を区別しても若干混乱をきたすし、室内楽曲と野外楽曲を分断しても同じこと。
ただ、これほどジャンル別の完成度が高いと、その危険性も低いということのようである。おまけに、クラシックのド素人には馴染みやすい構成で、本書がモーツァルトの作品目録になってくれる。
そもそも、モーツァルト自身にジャンルという意識があったのだろうか?いや、明確に意識していた形跡があるらしい。というより、意外にも形式主義的な側面を覗かせる。彼にとってアリアはアリアであり、ソナタはソナタであり、それぞれに彼なりの法則を見い出し、それを決して打ち破ることはなかったという。音楽精神では自由を信条としながら、音楽形式では伝統を保持していたということか。革命家らしく形にこだわらない独創性を備えているようで、実のところ、彼の中の形式主義が一般的な音楽論では計れなかっただけのことかもしれん...
「モーツァルトのような偉大な人間は、すべての偉大な人間と同じく、われわれが一般に肉体と精神、動物と神の混合物と名づけることができるような、人間という異常な種類の生物の高められた実例であり、見本である。この見本が偉大であればあるほど、二元性はますます明らかに現れ、二つの反対力のあいだの闘争はますますきわだち、調停はますます立派になり、調和、つまり不協和音の和音のなかへの解決は、ますます輝かしくなる。」

ところで、読書には BGM が絶対に欠かせない。仕事でもそうだ。BGM に用いるものでは、おそらくモーツァルトが一番多い。昔は、四大シンフォニー(K.504, 543, 550, 551)をよく用いていたが、今では声楽曲でも、協奏曲でも、なんでもあり。BGM ってやつは、あまり好きな曲でも困る。脇役の方に気を取られては本末転倒。あくまでも控え目な存在でなければ。
ところが、モーツァルトときたら、音楽を中心に置こうが、円周上に置こうが、同心円上でうまく調和してくれる。ただ、気分によって、モーツァルトが合わない日もあるにはある。そんな日は、チャイコフスキーでもショパンでも選択肢はいくらでもある。
もちろん今宵の BGM は、モーツァルトだ!と、いきたいところだが、モーツァルトについてこれほど熱く語られる書を前に、どちらが主役なんだか。まるで BGM の共食い!てなわけで、今宵の BGM は、ブランデーといこう...

1. 救世主モーツァルト
アルフレートの著作「音楽と音楽家」には、バッハやヘンデルが世を去った十八世紀中頃、音楽界がガラントなものと学問的なものとに分裂し、かつてない危機に見舞われたと綴られていた。本書には、その分裂的危機を融合した救世主が描かれる。そして、この記述がどの場面かを想像せずにはいられない...
「プラーハ=シンフォニーの緩徐楽章のなかには、モーツァルトがその生涯の終わりに到達した、ガラントと学問的との驚嘆すべき融合を示す一つの例が含まれている。そこではすでに提示部のなかにウニソノの動機が現われる。これはただちにヴァイオリンと低音のあいだのカノン的な対話によって進行し、他の弦楽器とホルンの単純な和声的充填をも伴っている。しかし展開部においてこのカノンは、それ自体も半音階をもっていっそう際立って来るばかりでなく、充填も、ことに第二ヴァイオリンにおいていっそう激しくなる。」

2. 偉大な模倣者
モーツァルトほどの人物でも、ベートヴェンのような主題を案出していないと非難を受けたようである。それも、楽曲のほとんどが注文依頼によって創作されたという経緯がある。
この世のあらゆる偉人たちが、過去の偉業に敬意を表して模倣者であったことも忘れてはなるまい。ラファエロしかり、シェイクスピアしかり、これぞ人類の叡智。モーツァルトの場合、それが父レーオポルトであり、シューベルトであり、ハイドンとアードルガッサーであり、ヘンデルであり、そしてバッハであったとさ。対位法で絶頂に導いたのも、大バッハを知ってからのようである。
バッハを研究する機会を与えたのは、音楽ディレッタントのファン・スヴィーテン男爵と出会ったことだという。彼はフリードリッヒ大王の近くにあって、大王がファン・スヴィーテンの興味をバッハへ向けさせ、さらにモーツァルトへ伝授されたという流れ。偉大な歴史事象には、しばしば偶然がともなう。導き、導かれる者同士というのは、どこか共感できるものがあると見える。
「平均律クラヴィーア曲集」と「フーガの技法」を知ったモーツァルトは、さらに超自然的な内的強制に目覚めていく。何かに取り憑かれたかのように悪魔じみていき、もはや注文作曲家の域を超えていた。モーツァルトにとって、間違った音は世界秩序の毀損であった。バッハがそうであったように。ゲーテがメフィストフェレスに執心したように、偉大な芸術家は自分の作品に取り憑かれ、自己の模倣者となっていく。「魔笛」(K.620)が訴えるものも、やはりメフィストのような存在であろうか...
「彼の倫理的な危険について言われたことは、あらゆる想像力豊かな人間、なかんずく劇的天才にあてはまる。ゲーテも、自分のなかにはあらゆる犯罪を犯す素質がある、と言った。無道者シェイクスピアの物語は真実ではなく、それ自体としてあまりにも無邪気ではあるが、とにかくうまく作られている。なぜなら、巨大な想像力と暗示敏感症を持つ人々が、彼らの危険な性向を芸術に変容させ、マクベス夫人、メフィスト、ドン・ジョヴァンニのような形姿を創造するのである。」

3. 芸術の犠牲者となったザルツブルク人
モーツァルトは、どこにも安住できなかったという。彼が生まれたザルツブルクにも、彼が死んだウィーンにも。旅こそ、彼の生涯のほとんどを占めている。
ところで、ザルツブルク人というのは、当時のドイツにおいて、真面目さ、賢明、合理的などの点で、あまり評判がよくなかったそうな。反対に、肉体的享楽に極度に耽溺するが、精神的享楽を嫌い、粗野的と見られていたという。南ドイツの道化喜劇の中で、滑稽な主人公に与えられるあらゆる性質の代表者であったとか。
モーツァルト自身も、そんな故郷を幼き頃から愚弄していたという。周りには、ミュンヘンがあり、ウィーンがあり、ヴェネツィアがあり、その三角網の中心にザルツブルクがある。彼は救いを求めて、あらゆる方向に旅をする。
また、この天才児は、父レーオポルトに温室植物のように育てられたという。芸術家としては成熟していても、人間としては子供のまま。いや、永遠に子供だったのか。彼は純真すぎた。あまりにも激しすぎた。私生活においては中庸というものがまるでない。音楽では、これほどの調和を見せておきながら。
旅先では後見人を必要とし、いつも母親が同行したという。地位獲得における失敗の連続、女性関係における失敗の連続。天才とは、ある種の障碍的な要素なのか。モーツァルトの最も相応しい居場所は、歴史の世界、すなわち死後の世界だったのやもしれん...
「このかぎりで、われわれは言うことができよう、人間モーツァルトは彼の芸術の地上的な器だったと... のみならず人間モーツァルトは音楽家モーツァルトの犠牲だったとさえ。しかし自分の芸術に取り憑かれた偉大な芸術家は誰でも、個人としてはその芸術の犠牲である。」

4. 控え目な万能者
音楽家の得意な楽器、あるいは、贔屓の楽器があれば、それを神格化する作風となるのも道理である。ベートーヴェンの場合はピアノに明確な意思が込められるが、モーツァルトもやはりピアノであろうか。ただ、ベートーヴェンほどの明確さは見えない。多彩な技術や自己の意思を控え目にするのが、モーツァルト流というわけか。モーツァルトは、マンハイムのヴァイオリニスト、フレンツルについてこう記したという。
「... 彼はむずかしいものを演奏する。しかし聴き手はそれがむずかしいことに気づかないで、自分もすぐに真似ができるように思う。これこそ真の技術である...」
まさに、この言葉を自分の中で実践しようと、対位法という技術を出来る限り隠そうとする。骨の折れる仕事は作曲家自身が引き受け、その努力を聴衆には気づかれないように楽しませてくれる。こうした控えめを信条とした調和の作風が、主役に置いても、BGM に置いても、違和感のないものにしているのやもしれん...
「声楽作曲家としてのモーツァルトと器楽作曲家としてのモーツァルトといずれが偉大であったか、『フィガロの結婚』(K.492)や『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)と、ハ長調シンフォニー(K.551)やハ短調ピアノコンチェルト(K.491)やハ長調弦楽五重奏曲(K.515)とはどちらが上位にあるか、という問題を自分に提出してみると、モーツァルトの万能性ということが明白になる。」

5. カトリックを超越したカトリック者
モーツァルトがフリーメイソンであったことは広く知られる。フリーメイソンには、カトリックとプロテスタントの双方から非難されてきた歴史があるが、キリスト教的であることは同じ。ルターにしたって、最初からプロテスタントを唱えていたわけではあるまい。カトリックが集団暴走を始めれば、一旦福音に立ち返り、教会が暴走すれば、そこから距離を置く。国に苦言を呈す者だって愛国心が足らないと非難を受けるが、国を愛するからこそ政権や支配者を批判するのではないか。国に忠誠を誓うとは、権力者に忠誠を誓うことではない。ましてや独裁者に。
カトリック教会に懐疑的だからといって、プロテスタントの急進的な態度に接すれば、これまた懐疑的となる。十分にカトリック的でもなければ、十分にイエス的でもないと。フリーメイソンとは、真のキリスト教徒の避難場所だったのだろうか。
モーツァルトの世界観は、普遍的で超国民的であったという。彼には、国に属すということにあまり興味がなかったと見える。憎悪や嫉妬で歪んだ愛国心なんぞ、どこ吹く風よ!ひたすらアリアとの和解を求め、自我との和解を求め。モーツァルトは、他ならぬモーツァルトであったのだろう。彼の無頓着な態度は、宗教観に限らず芸術観においてもよく現れている。モーツァルトは、カトリックよりもカトリック的だったのやもしれん...
ちなみに、リヒャルト・ヴァーグナーは、こんな記述を遺したそうな。
「素朴な、真の霊感をうけた芸術家は有頂天の無分別さで自分の芸術作品に飛びこむが、これが完成し、現実となって自分のまえに姿を現わすときにはじめて、自分の経験から本当の反省の力をかちうる。そしてこの反省の力が一般には彼を錯覚から守るのだが、特別な場合、つまり彼が再び霊感を受けて芸術作品へと駆り立てられるのを感ずる場合には、反省の力は彼を支配する力を再び全く失ってしまうのである。オペラ作曲家としての経歴に関してモーツァルトの性格を最もよく現わしているのは、彼が仕事にとりかかる時ののんきな無選択ぶりである。彼はオペラの基礎となっている美学的疑惑に思いを致すことなどは思いもよらないので、むしろ最大の無頓着さをもって自分に与えられたあらゆるオペラのテクストの作曲に取りかかったのである。そればかりでなく、このテクストが、純粋な音楽家としての自分にとってありがたいものであるかどうかにさえ無頓着であった。あちこちに保存されている彼の美学上の覚書や意見を全部とりまとめてみても、彼の反省のすべてが、あの有名な自分の鼻の定義以上に達しえないことはたしかである。」

2018-07-22

"自伝と書簡" Albrecht Dürer 著

先週、馬車旅の車窓を彩る絵画を BGM に「ネーデルラント旅日記」を嗜んだ。今宵、旅の余韻に浸って、虎の子のフィーヌブルゴーニュをやっている。本書は、その姉妹編に位置づけられる遺文集で、ここでも肖像画や風景画、あるいは宗教画が足りない言葉を補っている。飾らない文面の数々、尤も文学作品としての意図は微塵も感じられない。言葉ってやつは、余計なことを喋らない方が重みを与えるものらしい。酔いどれ天の邪鬼には、到底到達しえない境地か。ここには、ルネサンス画家の福音が刻まれる...

アルブレヒト・デューラーは五十を過ぎて、自伝という自画像で何を語ろうというのか。1498年の自画像では派手な服装をまとい、やや斜めにポーズをとる。その歳の充実ぶりを誇らしげに語るように。
とはいえ、若き日に残した尊厳ある容貌が、年老いた自己を慰めるためのものとなっては惨め。過去の栄光に縋るなんぞ御免!後世、自画像に宗教批判のレッテルを貼られてはかなわん。絵画に人類を救え!などとふっかけられてもかなわん。製造者責任を問うなら、鑑賞者責任も問いたい。そんな愚痴も聞こえてきそうな...

ところで、この手の古書を読むと、いつも思うことがある。五百年も前のものを現代語に訳す翻訳者のセンスというものを。当時の光景を完全に再現することは、ほぼ不可能だろう。ましてや外国語だ。翻訳者前川誠郎氏は、デューラーの旅への思いを感じ取るために、この原文を読者に音読してみることを勧めてくれる。

"Dornoch wurd ich gen Polonia reiten vnder kunst willen jn heimlicher perspectiua, dy mich einer leren will. Do wurt ich vngefer jn 8 oder 10 dagen awff sein gen Fenedig wider zw reitten, Dornoch will ich mit dem negsten potten kumen. O wy wirt mich noch der sunen friren. Hy pin jch ein her, doheim ein schmarotzer."

O wy ... からはほとんど鼻歌だとか。デューラーは九月下旬のヴェネツィア書簡で、あと一ヶ月ほどしたらと帰国を仄めかす。だが、なかなか腰を上げる気にはなれず、ニュルンベルクへ帰郷したのは翌年の二月。イタリア・ルネサンスの虜になったか。「ネーデルラント旅日記」にしても、目的が皇帝カルロス5世への請願であったにせよ、芸術家の性癖は隠しようがない。本能の赴くままに...
しかしながら、この自由人の晩年は、宗教改革の機運が高まり、新旧諸派の抗争や農民戦争を経て、17世紀には三十年戦争に至り、欧州が荒廃していく暗い時代の幕開け。自由精神を信条とするルネサンスが呼び水となったことは否めない...

1. 自伝的な点鬼簿
本書には、まず家譜と覚書が綴られる。そのきっかけは、岳父ハンス・フライの死だったという。すべての人間模様をキリスト降臨祭の元で語る点鬼簿は、神に祝福された家系を強く意識していたことが伝わる。戦慄的な臨終記では、自分自身が父の臨終に立ち会うに値しなかったとぼやき、家族の肖像画で物語を補う。
ところで、画家がしばしば企てる鳥瞰図という形式は、自分の作品に天からの祝福を求めてのことか...

2. ピルクハイマー宛とヤーコプ・ヘラー宛の対照的な書簡
ピルクハイマー宛書簡では、ヴェネツィア滞在費を賄うなど、大才を認めて援助を惜しまなかった彼への感謝の念は、気が狂いそうなほどに... と綴り、その息遣いが伝わる。
しかしながら、ヴェネツィア書簡で見せる人間性とは逆に、ヤーコプ・ヘラー宛書簡では絵画製作の経緯を時日を追って綴り、狡猾な商人ぶりを披露する。芸術家だって一人の人間、裏の顔のない人間なんて皆無。別段違和感なし...

3. 年金関係書簡
1512年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、ニュルンベルク行幸を機に、自己の治績を記念する製作を依嘱したという。「凱旋(トリウンフ)」と総称される厖大な版画作品は、木版画192枚を貼り合わせる「凱旋門」と137枚の「凱旋車」からなるとか。「凱旋門」は、1517年末に完成したそうだが、「凱旋車」は未完に終わったという。
マクシミリアン1世は、画家への報酬をニュルンベルク市税の免除という形で市側に負担を求めたが、市参事会がこれを拒否。デューラーは要人に書簡し、皇帝の説得工作をすすめる。皇帝マクシミリアン1世は、ニュルンベルク市からの年金支給は、国庫の上納金から差し引くよう指示する特権状を発行した。
だが、これもまた延滞し、新皇帝カルロス5世に嘆願することに。それが、「ネーデルラント旅日記」へとつながる。

4. 数学への招待状と理論書への招待
ほとんどおまけにような存在だが、ヨーハン・チェルッテ宛の書簡が興味深い。なにしろ幾何学の命題へ招待しているのだから。
ちなみに、デューラーは、ガスパール・モンジュの画法幾何学にも影響を与えたという話を何かで読んだ覚えがある。あのケプラーの充填問題でも、彼の功績を挙げる人もいる。当時から数学者としても知られていたようで、ユークリッドの幾何学原理をドイツ語に訳したいという人のためのコメントも見られる。
また、著作「人体均衡論」の刊行は、デューラーの死後であったが、出版に至る非難への葛藤が見て取れる。人間五十を過ぎると、理論家になりがち。いや、屁理屈屋になりがち。ただ、デューラーが唱えているのは理論と実践の両方である。そして、理論の書を書いた動機を語ってくれる。
「双方に通じた人、則ち学問を学ぶとともに自ら作品を製作する人たちだけが、彼らの望む完全な目標に到達することができる...」

2018-07-15

"ネーデルラント旅日記" Albrecht Dürer 著

1520年夏、五十に差しかかろうとする画家は、妻を伴ってニュルンベルクから遠くネーデルラントへ長旅に出たそうな。年金支給が滞り、神聖ローマ皇帝へ請願するためだという。ちょうど新皇帝となったカルロス5世が、アーヘンで戴冠式を行うことになっていたのである。
しかしながら、アーヘンを通り過ぎてアントウェルペンまで足を伸ばし、ここを滞在拠点として文字通りネーデルラントをめぐる大旅行記を展開する。一年もの月日をかけて。
人間五十になれば、理論的になる。人の生き死にに意味を求め、屁理屈にもなる。そして、哲学は暇人の学問となる。デューラーは自分探しの旅を求めたのやもしれん...

とはいえ、とはいえ...
こいつは、ほとんど収支報告書ではないか。飛脚にいくら払ったとか、賭けでいくら負けたとか、食事代、洗濯代、入湯代、理髪代... なんとケチ臭いことを。プロテスタントらしく、借方と貸方で構成される西洋式バランスシートの源泉を見る思いである。そういえば、マックス・ヴェーバーはプロテスタンティズムの禁欲精神が資本主義を開花させたと論じたが、それに通ずるものがある。
文学作品として眺めると、嘆願状を起草してくれたデジデリウス・エラスムスの登場や、マルティン・ルターの逮捕劇が盛り込まれるものの、どうも物足らない。いや、余計なことを語らないから、文章に重みが出るのやもしれん...
尚、エラスムスは、ルターに影響を与えた人物ではあるが、論争相手としても知られる。カトリック教会批判という立場は共有するものの、中道派エラスムス、改革派ルター、急進派カルヴァンといった位置づけであろうか。
ルターが破門されると福音主義が加速し、逮捕されたことが広まれば宗教改革の機運を高めていく。ゴリアテとは、人間社会という巨大生物を言うのか。実は、この逮捕劇はルターを匿ったザクセン選帝侯フリードリッヒ賢公の書いた芝居であったが、デューラーはそれを知らない。そして、エラスムスへ哀悼文を書き、万事を放擲して蹶起するよう懇願するのである。

帳簿にして帳簿文学たらしめるものとは、なんであろう。やり残したことがあれば、人生の収支はいつも赤字。未練という名の赤字を背負い...
さすが、アルブレヒト・デューラー!馬車旅の車窓にはスケッチ風の風景画がよく合う。アントウェルペン港やアーヘン大聖堂がブランデーのごとく演出され、文字を補う静止画群が動画を十分に物語っているではないか。明暗画法が人生の明と暗を見事に物語っているではないか。年金暮らしとなれば節約を強いられ、教会や修道院、諸侯や市の要人、画家仲間から援助を受け、肖像画を描いてパンを得る。ドイツ・ルネサンスの代表的な人物ともなれば、大きな栄誉と寵遇を受けるのも自然の流れ。それは、寄付金で作られた聖道の旅であったというわけか...
そういえば、デューラーは、ガスパール・モンジュの画法幾何学にも影響を与えたという話を何かで読んだ覚えがある。偉人の産物には収集家が群がり、切り売りされる運命にある。ラファエロのものは、死後すべて散逸した。しかし、晩年の作品群で彩る旅行記として遺されれば、それを免れるのかも...

2018-07-08

鞄作りの心(HERZ)に魅せられて...

HERZ はドイツ語でハート(心)...
クビをなが~くして待っていた HERZ の鞄が届いた。ここに辿り着くのに半年もかかってしまう。何を買うにせよ慎重すぎるほどに考え込むのは、酔いどれ天の邪鬼の悪い癖だ。いや、考えている時間がたまらない。東京本店と博多店の工房を見学させてもらい、同じ技術屋として職人魂を共感せずにはいられない。恋は成就した瞬間に冷めるというが、こいつはそうはならないだろう...
ところで、心といえば、行付けの寿司屋の大将が意味ありげな笑みを浮かべて、心をにぎります... なんて気色の悪いことを言うもんだから、そのイメージがどうにも頭にこびりついて離れない。ここではドスの利いた声で、心をえぐります... とでも言っておこうか...




ENJOY THE AGING...
店内に年季の入った鞄が展示され、その重厚感がなかなか。新品と並べて、三年後にはこうなりますよ!ってな具合に。そして、古びた方が欲しいと思ってしまう始末。長く使えば愛着もわき、共に過ごしてきた時が刻まれる。経年変化を楽しむのも、コンセプトの一つというわけである。自然な仕上がりで、自然な変色感を味わう趣向(酒肴)。
ただ、余計な施しをしていない分、アフターケアがちと気になる。当初、革が固い感じがしたが、一週間もすれば馴染んでくる。箱から取り出す時に少し爪でひっかいてしまい、いきなりブルーになったが、その傷もオイルで馴染ませていくうちに、違和感がなくなっている。雨に濡れるとシミになりそうで慌てて拭いたりもしたが、そこまで神経質になる必要はなさそうか。傷やシミをあえて隠さず、模様のように自然に同化させていく感じであろうか。メンテナンスの頻度は、二ヶ月に一度くらいでいいとのことだが、手に入れてまだ一ヶ月だというのに毎週磨いている有り様。二、三度オイルを塗ると微妙に変化しはじめ、ええ感じ...
革の色は、キャメル、チョコ、ブラック、グリーン、レッドがラインナップ。変色具合は色によっても差がでるが、キャメルが一番変化に富んでいそうである。レッドは、ちと派手かなぁ... と思っていたが、実物の変色具合はなかなか。ブラックは、あまり変化が目立たないが、それでもいい味がでている。
尚、ロゴ入りのコップ置きをおまけしてもらった(写真中央下)。黒革の変色具合いをお確かめてください... と。

そして、ビジネスに新たな相棒が二つ加わった...
一つは、ダレスタイプのセカンドバック(写真右: キャメル)。
コンパクトで取っ手のついたものは、ありそうでなかなか見つからない。夜の社交場で絶対に欠かせない相棒だ。
二つは、グラッドストン風ボストンバッグ(写真左: チョコ)。
レトロなトランクケースが欲しかったのだが、こちらの方がイメージに合う。使い勝手は少々犠牲にしてもよかったのだが、そんなに悪くない。二本のベルトが面倒臭そうに見えたが、実は差し込み式金具になっていて簡単に外せる。あとは、タブレット端末用にインナーバッグも欲しい(レッド or グリーンで検討中)... といったところであろうか。実は、着物で出かけることが多いので、和服に合う出張用の鞄が欲しかったのである。大割鞄のパンタフレームが、まだファスナーのない19世紀の旅を思わせる。さっそくノスタルジックな出張計画を練るとしよう。いざ温泉へ!

2018-07-01

"確信する脳 - 「知っている」とはどういうことか" Robert A. Burton 著

神経科医ロバート・バートンは、大胆な仮説を提示する。
「確信とは、それがどう感じられようとも、意識的な選択ではなく、思考プロセスですらない。確信や、それに類似した『自分が知っている内容を知っている(knowing what we know)』という心の状態は、愛や怒りと同じように、理性とは別に働く、不随意的な脳のメカニズムから生じる。」

"knowing what we know..." というフレーズは、絶対に分かっている!という強いニュアンスを与える。確信の根底には、意志の力では変えられない神経学的要素があるというのである。人間ってヤツは本性的に頑固者らしい。経験を積み、歳を重ねていくごとに頑固オヤジとなっていくのは自然な姿というわけか。考えを新たにするということは、過去の考えを捨てること、すなわち、自分の過去を否定することになり、感情的になるのも道理である。
知っている事をどのように知っているのか?と自問すれば、確かに、論理的な思考よりも感覚的な思いの方が強いような気がする。感覚であるなら、錯覚や誤謬が生じる。感覚であるなら、意識的に操作することも難しい。思い込みってやつは、誰にでもある。学問は、そうした感覚を排除しようとするところに意義を求める。
そこで「客観性」という用語が重視されるが、こいつがなかなか手強い。そもそも思考している心理状態が極めて主観的であり、既に自己矛盾を孕んでいる。
実際、人間社会には感情論が溢れ、原理主義も花盛り、創造説や民族優越説などに盲信する人々が少なからずいる。政治家や有識者にしたって、客観的に語ると宣言してそうだったためしがなく、自己主張に説得力を与えようと数字を提示して客観性を演出する。ちなみに、ベンジャミン・ディズレーリはこんな言葉を残した... 嘘には三種類ある。嘘、大嘘、そして統計である... と。
人間の思考は主観に支配されているからこそ、客観性に焦がれるのか。同じく、「柔軟性」という用語にも、人々は焦がれる。そして、「頑固」という言葉には、「信念」という用語を当てて自己を欺く。
「知識の最も重要な産物は無知である。」... 理論物理学者デイビッド・グロス

本書は、確信と知識の対決の物語である。そして、ニューラルネットワークや深層心理学などでよく見かける「入力 - 隠れ層 - 出力」という思考モデルを提示する。
鍵を握るのは中間層。一般的な思考分析では、時系列や因果関係などの経路を追うが、それは結果論であって、実際の思考過程は並列的である。意図的に思考を促すことはできても、本当に求めているレベルでアイデアが出現する瞬間は無意識的である。逆に、手が付かない心理状態によく襲われ、酔いどれ天の邪鬼の思考回路は極めて気まぐれときた。なかなか仕事に集中できず、夜な夜な掃除を始めることだって珍しくない。こうして文章を書いている瞬間も、手が勝手にキーボードを叩いている。むしろ思考分析は、既に生じた思考を成熟させていく過程で重要となろう。思考するとは、脳が時間を再編成している過程を言うのであろうか...
理性も、知性も、人間の考えるという行為はどれも同格で、すべてが感覚的で生理的と言えばそうかもしれない。確信!とは、どういうことか?そんなものは幻想か?信じたいという単なる願望か?思い込みの強いという生理的な本性を踏まえた上で、確信の力を削ぐことができれば、嫌いな分野や他の学問にも多少なりと耳を傾けることができるやもしれん...
「無知ではなく、無知に無知なことが、知識の死である。」... アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド

1. 既知感 "feeling of knowing..."
本書には、「既知感」という用語が散りばめられるが、翻訳者岩坂彰氏が訳語として選んだ造語だそうな。この語には、既視感との類似性を感じさせる。知識のデジャブか。いや、感覚や情動のデジャブか。岩坂氏はこう書いている。
「翻訳に起因する弱点を超えた強さが、本書には確かに感じられる。それは、私の神経系の隠れ層の委員会で、理論面への不満票よりも、著者の真摯な問題意識への共感票が多かったからだろう。」
合理性には、人間を超えたレベルでの合理性と、個人における精神的な合理性とがある。物事を知っている!と感覚的に捉えることが、いかに安心感を与えてくれることか。逆に、知らない!ということが、いかに不安にさせることか。
人がモノを知っている時、それは知識と呼ばれる。何かを知っていると自覚できる状態とは、知識と既知感が合わさった状態で、知識と既知感は別物というわけか。実際、知識を持っていても、それに気づかないことがあれば、知識を持っていなくても、知っていると思い込むことがある。既知感なしに知識を有する場合の例では、盲視現象を挙げている。
生きていく上で、確実に判断できるものがなくても、時には確信して行動することも必要であろう。不確実性に不快感を覚えても、これに耐えることを学ぶことも...
とはいえ、無意識の領域に、自己の本性が内包されているとすれば、自己を知ることに対して絶望的である。無意識の自己に、どう自己責任を押し付けようというのか。意識的思考は、認知の氷山の一角なのかも。
神経心理学では、情動知能(EQ: Emotional Intelligence Quotient)という用語をよく耳にする。心の知能指数と呼ばれるやつだ。この指標が、どれほどの客観性を担保できるのかは知らない。
ただ、思考の性質が、理性ではなく感覚で認知するとすれば、おそらく理性も感覚で認知するのだろうが、心のどこかに歯止めとなる感覚が必要となる。そして、心のモニタシステムもまた感覚ということになろう。自分の限界を認知できることも自己の能力ではあるが、この能力もまた感覚ということになろう。知識を身にまとうだけでは不十分だということか...
「無神論を唱えるある知人に、実はかつてペンテコステ派の再生運動(情緒的、神秘的、超自然的な宗教経験を重視するキリスト教内部の宗教運動)のメンバーだったと、こっそり打ち明けられたことがある。彼の再生運動と無神論的な思考とが、同じような遺伝的要因から生じて、どのように正反対の結論に至ったかは、さほど想像力を働かせなくとも理解できる。」

2. 確信という依存症
本書は、人間の本能には、信仰感、目的感、意味感が必要だという。世間では、正確性よりも正確感が重んじられる。人生の意味や目的が本当に必要なのではない。意味感や目的感に浸りたいだけだ。真理を求めるのは、それがないと生きられないからではない。盲目感に耐えられないだけだ。本当に自己存在に意義を求めているのではない。存在感を噛み締めたいだけだ。正義感に燃えては批判癖がつき、高い倫理観を求めては意地悪癖がつき、理性や知性までもストレス解消の手先となる。人間ってやつは、まったく感覚依存症ときた。おまけに、これらの感覚は、いつも見返りをねだってやがる。
思考が感覚に支配されるからには、そこには必ずバイアスがかかる。自己存在を正当化しようという意志のバイアスが。このバイアスが無意識の領域から発しているとすれば、やはり制御不能ということか。確信するという心理状態は、これらの感覚を後ろ盾にしなければ、ありえないということか。
本当の自由なんぞ、この世にありはしない。あるのは自由感だけだ。あるのは自己満足感だけだ。そして、この感覚が精神的合理性となり、これに客観性がほんの少し加わった時、確信という強い心理状態へ導かれる。確信への自問は、自我を相手取るだけに手強い...
「自分が正しいと主張し続けることは、生理学的に見て依存症と似たところがあるのではないだろうか。遺伝的な要因も含めて。自分が正しいことを何としても証明してみせようと頑張る人を端から見ると、追求している問題よりも最終的な答えから多くの快感を得ているように思える。彼らは、複雑な社会問題にも、映画や小説のはっきりしない結末にも、これですべて決まり、という解決策を求める。常に決定的な結論を求めるあまり、最悪の依存症患者にも劣らないほど強迫的に追い立てられているように見えることも少なくない。おそらく、実際そうなのだろう。知ったかぶりという性格特性も、快い既知感への依存症とみることはできないだろうか。」

3. プラセボ効果とコタール症候群
プラセボ効果は、手術をしたことにしたり、効かない薬を与えたりで、治ったと思い込ませる偽りの治療法である。実際、絶望的な病状に対して何も施していないのに、患者は完全に治ったと信じて劇的に回復させる事例もあると聞く。すべては気の持ちよう... と言うが、そこまで確信できる根拠とは。信じる者は救われる!というのもあながち嘘ではなさそうだ。ちなみに、「信者」と書いて「儲かる!」となる。
コタール症候群は、何も現実的に感じられない死人も同然といった精神状態に陥る、ある種の否定妄想である。自分を死人も同然と定義付け、死んだ人間を治療しても意味がないとして、あらゆる治療を拒否する。心臓の鼓動を感じても、それだけでは生きた証にならないというわけである。そして、ある患者の言葉がなんとも印象的である。
「死んでいるということのほうが、生きていることを示すどんな反証よりも、現実的に感じられる...」