2019-08-11

"インテリジェンス入門 利益を実現する知識の創造" 北岡元 著

インテリジェンス... この用語は、国家戦略と結びついて広まってきた経緯がある。情報活動というよりは諜報活動との結びつきが強く、きわめて政治色の強いイメージ。つい、盗聴や暗殺といった物騒なものを想像してしまう。しかしながら、ここには血沸き肉躍るスパイのエピソードなんぞ、とんと見当たらない。実は、そういうものを期待して本書を手に取ったのだけど...
だからといって期待外れに程遠く、目から鱗が落ちる思い。我が家の辞書を引くと、「知性、知能、理解力...」とある。確かに「諜報」という意味も含まれるが、それではあまりに視野が狭い。本書は、「判断や行動に直結する知識」と定義している。もっと言えば、その知識から創造しうるもの、といったところか。
人間の行動パターンには、自分の利益を守り、それを増進する、という動機がつきまとう。利益とは、なにも金銭欲や権力欲に発するとは限るまい。そういうものが、政治との結びつきが強いのは確かだけど。
ここでは、まず「自らの利益を自覚する」を根底の動機に据える。言い換えれば、自己を観察すること、自分自身をしっかりと知ること。インテリジェンスは、強い者よりも弱い者にとって強みとなりそうである。劣っていると自覚するからこそ、考え、工夫する。目先の儲けよりも、潜在的に得られる何かがあるかもしれない、と。目先の勝ち負けよりも、将来的に得られる大きなものがあるかもしれない、と。
まだ気づいていない利益、そういうものを見抜く目を持ちたいものである。情報とは、現実を写したもの。まずは観ること。そして、自己啓発、自己実現、自己投資の側面から読んでみる。なるほど、インテリジェンスとは、人生戦略と深く結びつく用語であったか...

1. 要求ありき...
まず、インテリジェンスを必要とし、利用する側に、カスタマ(顧客)とリクワイアメント(要求)の存在がある。一方、その要求に答えて情報を収集し、加工、統合、分析、評価、解釈のプロセスを経て、インテリジェンスを生産し、配布する側がある。これを「情報サイド」と呼んでいる。
要求ってやつは、状況に応じて刻々と変化するもので、その都度、両者の調整が必要となる。技術屋の世界でも、要求仕様が変化しなかったケースを経験したことがない。依頼元自身が要求を理解していないケースも珍しくなく、調整しているうちに相互理解を深めていくといったプロセスを踏む。そこで、プロトタイプといった方法が有効であるが、インテリジェンスの現場でも同じような形で試行錯誤を続けるようである。こうしたプロセスを「インテリジェンス・サイクル」と呼んでいる。
個人で完結するなら、カスタマと情報サイドの双方において一人二役を演じることになる。国家機関でも、企業でも、同じ組織内で構成すれば、一人二役と言えなくもないが、たいていは部署が違う。人員不足で一人二役を演じる部署もあろうけど...
もちろん、こうした思考構図は真新しいものではないし、ましてや政治の専有物でもない。ただ具体事例となると、国家安全保障や企業戦略の側面から解説され、CIA や MI5 といった組織を見かける。それも、著者が外交官という経歴の持ち主ということもあろうが、こうした構図を体系的に利用してきた最古の現場となると、やはり国家防衛の場ということになろうか。なぁーに、問題はない。国家防衛の原理は、自己防衛の原理にも応用できるし...
ちなみに、政府情報機関におけるインテリジェンスの意識は、その国の文化や歴史とも深く関係するようである。第二次大戦以前では、アメリカが戦時にのみ重要視したのに対して、イギリスは平時でも重要視してきた点で、その深みと徹底さが伺える。そして日本はというと... 伝統的に情報に疎いという噂は、どうやら嘘ではなさそうだ。
さて、思考の原理には、自問の原理が働く。疑問を持てなければ、思考を働かせることも叶わないし、要求も見いだせない。要求が見いだせなければ、工夫も見いだせない。そして、疑問のレベルが問われるのである。技術とは、こうした工夫の連続状態を言うのであろう。そして、インテリジェンスもまた、ある種の思考技術だと解している。有機体のごとくうごめくものだと...

2. 継続ありき...
本書は、伝統的な三分類法を紹介してくれる。ヒュミント(HUMINT: Human intelligence, 人的情報)、シギント(SIGINT: Signals intelligence, 信号情報)、イミント(IMINT: Imagery intelligence, 画像情報)の三つ。シギントとイミントが技術的手段なので、合わせてテキント(TECHINT:Technical intelligence)とも呼ばれる。
今日、情報の収集方法では、人を介したり、コンピューティングやネットワークを介したりと情報源も多様化し、直接的であったり間接的であったりと階層化も進み、複雑きわまりない融合物として捉える必要がある。
また、平面的に図式化した CIA の古典モデルを紹介してくれる。基本的なステップは、リクワイアメントの伝達、計画、指示、インフォメーションの収集、加工、統合、分析、評価、解釈、そしてインテリジェンスの生産、配布といった流れ。だが現実は、単純な平面図式では表現しきれない。
そこで本書は、立体的で螺旋的なモデルを提示してくれる。cia.gov あたりで見かけたような。ステップ毎に生じる変化に応じて、伝達1, 収集1, 配布1, 伝達2, 収集2, 配布2, 伝達3, ... てな具合に。こまめに生産、配布するとなると、まるでソフトウェアのアップデート。インテリジェンスは、継続的なプロセスだという。本書は、"CI(Competitive Intelligence)" というあまり馴染みのない用語を紹介してくれる。
「CI とは、SCIP(Society of Competitive Intelligence Professionals)によって、『それに基づいて、企業が行動や判断できるようになる程度にまで分析されたインフォメーション』と定義されているが、重要なのは、米国の政府情報組織が過去に培ってきたインテリジェンス関連の手法を企業に適用している点である。」
それは、Xerox, IBM, Motorolra などの大企業ばかりでなく、中小企業にも浸透しているという。マーケティングリサーチにおいて、CI 導入前は、市場状況をある時間で区切ってスナップショットしていたらしいが、導入後は、リアルタイムにアップデートしていく連続的な解析プロセスになったとか。インテリジェンス・サイクルもまた一回転で終わるのではなく、継続的な回転が求められるというわけである。
ただ、こうした思考プロセスは、どんな戦略論にもあてはまるだろう。孫子の兵法でおしまい!というわけにはいかない。クラウゼヴィッツ論でおしまい!というわけにはいかない。どんな優れた理論でも再検証を繰り返し、常に違った視点を養わなければ。やはり知識ってやつは、日常の連続体を言うのであろう。そりゃ、学生時代にいくら勉強しても、社会人になって勉強しなければ、すぐに馬鹿になる。知識を得たいという欲望は、自己の早期警戒機能を磨こうとする意欲... という見方もできよう。
賢い人間と仕事をしていると、やはり疲れる。おいらのような能力のない人間が対等に付き合おうと思えば、知識の予習は絶対に欠かせない。そして、人生観のアップデート呪縛は、うまく習慣づけるとワクワク気分にさせてくれる。人間ってやつは、死ぬ瞬間までアップデートを続けるしかなさそうだ...

3. 組織ありき?... いや、弊害?
インテリジェンス・サイクルは、必然的に柔軟性を備えることになり、当然ながら「常識」なんて言葉は忌み嫌われる。とはいえ、インテリジェンスを謳った組織であっても、やはり官僚化、硬直化の波を避けるのは難しい。どこの国でも政府絡みの組織では、カスタマが権威主義者ということがよくあり、情報サイドの方も高度な教育を受けているだけにプライドが高い傾向にある。
本書は、「ストーブパイプス」という用語を紹介してくれる。ストーブの煙突の複数形で、それぞれの煙突の間で相互連絡がないという意味。事例では、ヒュミントを担当する CIA、シギントを担当する NSA(国家安全保障局)、イミントを担当するNGA(国家地球空間情報局)の間で、連絡が悪くなりがちな状況を挙げている。ちなみに、おいらの好きな海外ドラマ「NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班」では、CIA との縄張り争いがすこぶる激しく、おもろい。
また、「最小公分母(ローウェスト・コモン・デノミネータ)」という用語を紹介してくれる。数学では、最小公倍数という用語を使うが、分母の方に重きを置いている点に注目したい。分母の最小公倍数とでも言おうか。プロジェクトマネージャを経験すれば、チームの活力に共通意識が重要であることを知っているだろう。この意識の知的レベルが低下すると、チームそのものの存続が危ぶまれる。志が高く優秀な人材ほど逃げていくからだ。インテリジェンスの世界でも、同じことが起こるようである。問題解決に向かう意識が全員一致であれば、それに越したことはないが、やはり個人差が生じる。底辺を見捨てるわけにはいかず、意識教育が必要となる。コンセンサスと知的レベルの高さは両立できるか?この問題はかなり手強い!
「カスタマーを取り巻く現実を分析すればするほど、情報サイドの人間の視野は拡がって、特定の政策や企業戦略・戦術はむしろ相対化されてしまい、それらのいずれかをサポートするような立場からは、ほど遠くなっていく。インテリジェンスを担当するものに必要とされる視野とはこのようなものなのだ。このようにあらゆる特定の政策や企業戦略・戦術を相対化できるほどに、カスタマーの利益を理解できるような人材を育成することが、最も重要なのである。」

2019-08-04

"現代音楽の創造者たち" Hans Heinz Stuckenschmidt 著

ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットは、アルノルト・シェーンベルクに作曲を学び、音楽批評家として活躍した。ストラヴィンスキーの「春の祭典」が受け入れられなかった時代、音楽家の生産物はますます自由主義と表現主義の混合物という印象を与えていく。音響学の対象となるものすべてが手段と化し、いわばなんでもあり。愛の行為や、酔っ払った聖職者や、幻覚に惑わされるファウスト博士や... 様々な場面で擬音や雑音が用いられ、ジャズの断片までも利用される。精神活動のあらゆる様相を表現するために、複雑なリズム、ポリフォニー、不協和音といったものを融合させ、一つの有機体として浮かび上がらせるのである。音楽は、神への奉仕か、それとも悪魔の技か。シュトゥッケンシュミットは、自由な無調性から電気音楽に至る新たな音楽の時代の勇敢な擁護者を演じてくれる。
「わたしのパンテオンには、多くの神々のための席がある...」

世の中の大きな流れの影では、小さな反抗が育まれる。その小さな力が蓄積された時、新たな風潮が出現する。突然変異のごとく。創造と破壊のサイクル、これが歴史というものか。どうやら人類は飽きっぽいと見える。きまって世紀末に、懐疑的で退廃的な傾向が見て取れるのも気のせいか。だが、その新たな風潮も混乱期を経て、同じ志を持つ者の共鳴を呼び、ある様式に収束していく。ルネサンスの時代にも、古典回帰という思潮の下に多くの万能人を出現させた。
しかしながら、そこに辿り着くまでの過程は十人十色。それは、個々が我流で自由を体現しているからであろう。
世間では、自然主義が勢いづいても逆に超国家主義を旺盛にさせ、ダーウィンの徒が勢いづいても神秘主義者は衰えを知らないというのに、ここに紹介される20人もの音楽家たちは実に多彩、多様に自由を謳歌している。象徴派あり、高踏派あり、印象派あり、古典派あり、主観主義あり、構成主義あり、ロマン主義の残党までいる。人そのものが形式だと言わんばかりに...
正しい反論は、その対象を正しく理解してこそ可能となる。新しい事を始めるという行為が、古いものを熟慮した結果なのか、その行為が盲目的で偶像的な破壊行為に及んでいないか、などと問えば、あるワグナー崇拝者は反ワグナー党に鞍替えし、あるシェーンベルク学徒は反シェーンベルク論をあげつらう。それも人の形式に束縛されず、自己形式を追求した結果であろう。自由とは、能力の解放!才なくば、永遠に呪縛をさまよう、というわけか...

ところで、本書で用いられる「電気音楽」という表現は、いつしか「電子音楽」と呼ばれるようになった。その流れは、電子工学との相性の良さを告げている。もっと言えば、数学との相性である。音響学の数学的な研究は、古代から受け継がれてきた。ピュタゴラス音律などがそれである。オクターブ内に12音を均等配置すれば、その組み合わせは単純に、12! = 479,001,600 通り。音楽家たちは、これらのパターンから、不協和音のみならず、雑音までも芸術の枠組みで語り始めた。数学には素数という崇められる存在があるが、小節にもプリミティブな音列が存在するのだろうか...
どんな学問分野であれ探求が進めば、いずれタブーを冒す。動は反動を呼ぶ!これが物理法則というもの。新たな方法論を編み出せば、伝統を汚すとの批判を受ける。だが、新たな試みによってのみしか古典の理解を深めることはできまい。電子音楽には音楽の解放という意義深いものがあり、けしてバッハやモーツァルトを古臭いと蔑むことにはならない。そして今宵の BGM は、「大ト短調交響曲」でいこう...
「あたらしい音の全交響曲は、工業的世界のなかで現われ、われわれの一生を通じて、日々の意識の一部をなしている。もっぱら音をあつかっている一個の人間が、以上のあたらしい音によって、昔とかわらずにいるはずはあるまい。そこで、現代音楽の演奏会を聞いたあとでは、一体、たいていの作曲家は、つんぼなのか、それとも数百年以来、オーケストラが作り出してきた音で満足しているほど想像力が貧弱なのかと、考えないわけにゆかない。」

2019-07-28

"シェーンベルク" Hans Heinz Stuckenschmidt 著

音楽のド素人でも、つい読みいってしまう音楽論というものがある。それは、歴史を投影しているからであろう。いや、音響論からの視点も見過ごすわけにはいかない。つまりは、数学的な側面からの見方である。
十九世紀から二十世紀初頭、近代社会は自由精神を目覚めさせ、王侯貴族のものであった芸術はブルジョア階級を経て解放へと向かった。これに共鳴するかのように、伝統派のブラームス党と急進派のヴァーグナー党が激しく対立。その新たな風潮を呼び込んだのが、シェーンベルクだったという。彼の編み出した十二音技法とは、自由や平等を旺盛にしていく時代に、十二音すべてを平等に扱おうとした結果であろうか。一つのオクターブに十二音を均等配置し、その組み合わせは、12! = 479,001,600 通り。これらの音列から発せられるリズムとやらの音響現象に無限の可能性を探る。これが音楽家の仕事というわけか。
シェーンベルクの音楽は分かりにくい!とは、よく耳にする。だがそれは、無調音楽に関してのものだろう。ピカソだって「泣く女」のような絵ばかり書いたわけではないし、シェーンベルクだって、弦楽四重奏曲や管弦楽曲にロマン派の余韻を漂わせている。
とはいえ、詩句もなく、韻律もなく、詩節もなく、ただ心の中で奏でる音を気の向くままに書くとは、いかなる境地であろう。音楽の散文とでも言おうか。音素材の弁証法とやらに固執している感もある。協和音と不協和音の境界を曖昧にし、雑音をも区別せず、調性から脱した域に入って、すべての音楽形式の束縛から逃れようと...

しかしながら、法則ってやつは、正しく理解されなければ、正しく反抗することができない。この天才とて、やはりバッハは特別な存在だったと見える。バッハの平均律からヴァーグナーの半音階手法を経て、対比すべくものを目覚めさせていく。
こうして眺めていると、相対的な認識能力の持ち主は幸せかもしれない。ある一つの何かを認識できれば、その対称的な存在をも認識できるようになる。ただそれも、才能豊かな者の特権ではあろうけど。
そして、あまりに急進的な試みは、却って古典回帰の魂を呼び覚ます。妥協なき探究心は、順行だけでは飽き足らず、やがて逆行へ転じ、さらに逆行の逆行へと導かれる。惑う星がごとく...
さて、今宵の BGM は、保守派の憤慨を買ったとされるリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」でいこう。いや、ショパンの影を感じるドビュッシーも捨てがたい...

「シェーンベルクは、作曲技法の天才的学者であり、自分がドイツ = オーストリア音楽の伝統の最大の道と信じたところを、まっしぐらにつきすすんだ人間である。調性の廃棄と不協和音の解放の結果として考えられる、すべての音響の価値の均等化が、彼の仕事である。彼が、道に到達したのは、思弁によるのでなくて、内面の声に強要されたからであるということこそ、論議の余地のないほど明瞭に、彼の生成の道程を証明するものである。この様式が新しい音楽の表現の可能性としてはっきりさせたこと、即ち、4度和声、調性的にあいまいにされた導音の技法、非合理的な、小節縦線を否認するようなリズムの扱い、やたらと多い加線と非旋律的な歩みをもった旋律の扱い、線的ポリフォニーと、ソナタの図式からうけついだ展開的構成の原子化、こういったものはすべて、今日では、すでに歴史的なものになり、ほとんどあらゆる重要な作曲家の語法の資源になってしまっている。」

ところで、音楽には、ピュタゴラスの時代から数学的に論じられてきた歴史がある。そして、平均律の導入によってオクターブを平均的に十二分割すると、音響組織の合理化が促され、自由な転調、半音の等価性といったものが原理的に示された。さらに、機械的な作曲法まで提示されると、コンピュータでも作曲できそうに思える。今では、AI がそれをやっているし...
ある形式を徹底的に追求すれば、それに反する形式が見えてくる。何か一つに気づけば、倍、倍、倍... と覚醒させていく可能性がある。この認識過程は、数学に看取られているのだろうか。べき乗数に支配されて...
まさに、十二音技法の応用は無限の可能性を示唆している。それは、精神的合理性と数学的合理性は合致するか、と問い掛けているようにも見える。神は退屈しているに違いない。絶対的な認識能力を会得してしまったがために、もう覚醒させるものがないのだから。そして羨ましがっているだろう。人類は対位法なるものの完成を永遠に見ることはできまい。この幸せ者め!と...

2019-07-21

"マルチモニタに睨まれて... 八面楚歌!?

モニタってやつは、向こうから一方的に光を放ち、こちらは受け身でそれを見る。だから、出力装置なのである。しかしながら、八面にも囲まれると、向こうからも見られている感じがして、なんとも奇妙な気分になる。テレビ会議中にポーズをとってたりして...
誰かがリモートで仕掛けているのか?贅沢にも二面でリソース監視をやれば、お返しに八つの目線で人間監視をくらう。仮想ワークスペースを加えれば、どれだけの影の眼に見張られていることやら。仮想空間ってやつは恐ろしい。入力と出力の役割を曖昧にさせやがる。そもそも人間精神の実在が曖昧なのだから、まったく違和感なし。
今、自己監視の主導権を取り戻さねば...




左六面がメインマシン(Win 10 Pro)、右縦二面がサブマシン(CentOS 7) ...(上写真)
尚、Pro にしたのは、Active Directory 環境が欲しかったため...
おまけに、箱の中ではイルミネーションの共演ときた。
ケースは、be quiet! DARK BASE 700 BGW23 ...(下写真)




こいつに負けじと、Animation GIF を拾ってきては GIMP2 で分解・加工し、Rainmeter にコマ送りで埋め込む。こんな作業を何度繰り返したことやら。写真では分かりにくいが、実はあちこちでアニメーションしまくり。
あらゆる球体が回転してるわ、猫の亡霊もどきがうごめいているわ、妖怪もどきが散歩してるわ、黒目がウインクで誘ってるわ... おまけに、物体の動力源に 6 気筒やら 4 ストロークやらがピストン運動に励み、Core i9 BOX の中では、14nm のダイが点滅し、パネルの中の道は永遠に続く...
数学諸君だって黙っちゃいない。方程式の踊りを横目にピュタゴラスが三角関係で悩ましく周り、フラクタルがふらふらしている側を流体力学が流しをやり、DNA が螺旋ダンスで行列式と戯れ、黄金比が巨大な目ん玉の瞳孔へと無限小に吸い込まれ、おっ!πもポロリ... 節操のないデスクトップになっちまった。まったく、be Quiet!
画面はあるだけ消費し、贅沢はあるだけ浪費する、ってか。今、デスクトップの素材探しより、人生の素材探しである...




それにしても、デスクトップに数式をでかでかとアニメーションさせるのは、おいらにとっては新たな感覚。ちょっぴり癒やされたりして。「万物は数である」との信仰も悪くない。学生であれば、英単語あたりをスライドショーさせたりするのであろうか...

1. Nagios ってどうよ...
システムの入れ替えついでに、監視ツールを見直すことに。愛用してきた Zabbix をお払い箱にするつもりはない。ただ、他のヤツも試してみたい。そこで、Nagios というわけである。
さすがにメジャーなだけあって情報が豊富で、インストールで苦労することもなかった。監視機能はプラグインで実装する形で、雛形も多く用意されている。ping, disk, users, procs, load, swap, ssh, http, snmp など。こいつらを軽くカスタマイズすればいい。ほとんどそのまま使えるけど。
ちなみに、Zabbix は、テンプレートをいじり倒す仕組み。
また、クライアント側には、NRPE(Nagios Remote Plugin Executor)という監視用プラグインがあって、こいつをインストールしておけば、NRPE 用ポートを開けておくだけで監視対象にすることができる。
ちなみに、Zabbix は、サーバエージェントとクライアントエージェント、これにデータベースサーバを加えた構成で、この部分だけを見れば、Nagios の方が扱いやすい。
ただ、グラフ機能となると、Nagios の本体に見当たらない。今回は、PNP4Nagios を導入してまあまあ。Nagiosgraph というのもなかなからしいので、いずれ試してみたい。
ちなみに、Zabbix のグラフ機能は、スクリーン機能で x 行 y 列に配置でき、マップ機能でネットワーク構成がお絵書きでき、しかも、こいつらをスライドショーできる。実は、この機能が病みつきで、Zabbix はやめられまへん...

2. 改めて、Zabbix に病みつき...
今回、システムの入れ替えで、Zabbix もインストールをやり直したが、いつのまにか標準テンプレートが増えているような。気のせいか?前にインストールした時は、snmpwalk コマンドで MIB を歩き回ったものだが。[テンプレート作成]で、"Template SNMP Device" を選択するだけで、とりあえずうまくいく。
Zabbix も Nagios も snmpwalk コマンドを一度も叩かずに設定が終わって、狐につままれたような。ちと不安だから、確認のために叩いたけど...
そして、Zabbix のリカバリ機能に病みつき。LLD(Low Level Discovery)ってやつが実装されていて、対象機器を動的に設定できる。テンプレートは機器の内部構成やバージョンの違いなどによって微妙な調整が必要だったりするが、こいつのおかげで作業を抽象化してくれる。実は、このテンプレート管理が結構面倒だったりする。
ただし、LLD 更新間隔は、default で 3600 秒になっていて、対象機器がなかなか反映されず、かなり悩んでしまった。酒のつまみを用意している間に、いつのまに監視用アイテムが増えて、ビックリ!

3. chrome のタブ自動切替に病みつき...
監視モニタ用にブラウザの存在は欠かせない。そして、chrome ウェブストアで、"Revolver Tabs" という拡張機能を発見!
タブを周期的に切り替えてくれる。Zabbix だけならスライドショー機能で事足りるが、複数のツールを眺めるなら、こいつはええ...

2019-07-14

パワフルなヤツを黙らせよ!

管理者権限の必要な複数のアプリケーションをバッチで起動したい!... そんなことがよくある。今までは、DOS スクリプトでバッチファイルを作成し、これを管理者権限を与えたショートカットで実行していた。
尚、ショートカットには、[詳細設定]に "管理者として実行" というオプションがある。

そして今、マシンを入れ替え、マルチモニタの増築ついでに、バッチファイルをランチャーに埋め込みたい!... とふと思ってしまう。すると、バッチファイルにどうやって管理者権限を与えるか?という問題に出くわす。Linux なら、この手の問題で悩むことがあまりないのだけど...
おっと!PowerShell がありがたいオプションを持っていた。Start-Process スレッドで、"-verb runas" を指定すればいい。
しかし、これだけでは、PowerShell のウィンドウが開いて鬱陶しい。
さらに、ありがたいオプションがあった。"-WindowStyle Hidden" を指定すればいい。
例えば、こんな感じでバッチファイルを仕込んでおく...

  powershell start-process hogehoge.bat -WindowStyle Hidden -verb runas

しか~し...
これでもほんの一瞬だけ PowerShell のウィンドウが開きやがる。なんとも中途半端な仕様である。この現象が気になるかどうかは人それぞれであろうが、おいらは気になって眠れそうにない。
ん~... どうやら外部の言語系で黙らせるしかなさそうだ。そして、何を使うか悩んでいると、Win 10 には、VBScript が標準装備されていた。中身がこんな感じの hogehoge.vbs ファイルを作成し、こいつをランチャーに埋め込んで実行することに...

  CreateObject("WScript.Shell").Run "powershell start-process -WindowStyle Hidden hogehoge.bat  -verb runas", 0

末尾の ",0" がおまじない。例えば、おいらが愛用している Rainmeter であれば、こんな感じで埋め込む。

  ...
  [HOGEHOGE_EXECUTE]
  Meter=xxx
  LeftMouseUpAction =!execute ["hogehoge.vbs"]
  ...

ん~... 2段階で実行するのも...
PowerShell は、パワフルなヤツでいろんなことができそうだけど、なんとも中途半端な存在に映ってしまう今日このごろであった...

2019-07-07

フルーティなヤツら...

マシンの入れ替えついでに、オーディオ系統を見直すことに...
そして、Realtek High Definition Audio にちとハマってしまう。最新版の Realtek HD Audio Driver(Ver 6.0.1.8710) をインストールすると、微妙にうまくいかない。光端子とスピーカ出力をショートカットキーで切り替えられるようにしているが、スピーカ側のサウンドエフェクトが効かない。設定はできるのだけど。光端子側は正常。マザーボード ASRock Z390 Extreme4 には、Realtek ALC1220 Codec が搭載されているので、どちらも動くはず。そこで、古いバージョン(Ver 6.0.1.7960)をどこからか拾ってきてインストールすると、うまくいった。
尚、音声出力の切り替えには、DefaultAudioChanger(Ver x64_1.0.3)をずっと愛用している。

ついでに、フルーティなヤツらをいじる...
Windows Media Player 用の視覚エフェクトに、FRUITY というソフトウェアがある。こいつのメータ類が凝っていて意外とおもろい。ただ、デザインツールの使い勝手がいまいちで、慣れるまで一苦労だけど。そして、こんな感じで、いくつかの視覚パターンを作っているが、この酔いどれ天の邪鬼がデザインすると、どうも節操がない...






デスクトップのカスタマイズツールでは、Rainmeter を愛用しているが、オーディオ制御系がちと不安定。ソースのスイッチングなど。使えないほどではないのだが。凝ったイコライザや VU メータなどを公開してくれる人たちがいて惜しいのだけど、おいらの能力ではうまくチューニングできないでいる。
てなわけで、オーディオ系は、このあたりで落ち着いてる...

WMP + XTHREE(スキン) + FRUITY + DefaultAudioChanger

ちなみに、Win10 は、タスクトレイのスピーカアイコンからアプリケーションごとに音声出力デバイスを選択できるようになった。

[サウンド設定を開く] -> [アプリの音量とデバイスの設定]

2019-06-30

コアも、スレッドも、2倍!2倍!

サブマシンがへたってきた。基板が反ってきたのか、メモリの接触が甘い。SDRAM の端子をアルコールで軽く拭いて挿し直せば復活するが、季節の変わり目にまたぶっ飛ぶ。年に、二、三度の頻度は、サーバマシンとしては許せない。十年無休で働いてもらい、そろそろかぁ... ついでに、おいらもそろそろかぁ...
尚、退役マシンは、DELL Studio XPS 8100。
さて次のマシンは、やはりメーカ品より BTO がいい。部品の選択肢が広がるし、余計なソフトウェアも入っていないし...

1. 今回のテーマは...
まず、CPU は、8 コア、16 スレッドにこだわりたい。ついでに、マルチモニタの増築。今まで、メインマシン + サブマシンを、4画面 + 2画面で構成していたが、これを、6画面 + 2画面へ。
そして、新マシンの構成は...

  CPU            : Intel Core i9 9900K(UHD Graphics 630搭載)
  Mother Board   : ASRock Z390 Extreme4   -> 2画面出力
  Graphics Board : nVidia GeForce RTX2060 -> 4画面出力
  CPU Cooler     : COOLER MASTER MasterLiquid ML240L RGB
  SSD & RAM      : 1TB & 32GB
  Case           : be quiet! DARK BASE 700 BGW23

GPU 搭載の Core i9 を選択。9900K は熱対策をそれなりにやらないとヤバいようで、CPU クーラーをちょっぴり派手に。当初、表示パフォーマンスがいまいちかと思いきや、UHD Graphics 630 のドライバを最新版にすれば、そうでもない。




ぐるぐるマップを眺めると、なかなかの迫力!
ただ、これだけの画面に囲まれると、向こうからも見られている感じがして、なんとも恥ずかしい気分になる。テレビ会議中にポーズをとったりして...
これで、ほぼ理想的な仕事環境が整ったと満足しているが、だからといって能力があがったと勘違いしてはまずい。むしろ贅沢が祟って感覚が鈍るかもしれないし、恵まれれば工夫も怠る。もっと恐ろしいことは、こんな贅沢も三日もすれば慣れちまったってことだ。自己啓発、自己実現、そして自己投資ってやつは、結局は自己陶酔の類いか...

2. まずは実験...
購入前に、現行マシンで構成を試してみた。4画面ではグラフィックボードの 4 ポートで事足りたが、6画面ではマザーボードの 2 ポートを加える。

  CPU            : Intel Core i7-7700(HD Graphics 630搭載)
  Mother Board   : ASRock Z270 Extreme4   -> 2画面出力
  Graphics Board : nVidia GeForce GTX1060 -> 4画面出力

マザーボード側の GPU を活かすために、UEFI で設定変更。

  [IGPU Multi-Monitor] = "Enable"

画面が増えても、負荷はあまり増えていない模様。当初、再起動に問題があったが、UEFI をアップデートしてうまくいった。
それにしても、BIOS レベルでいじるとなると、それなりに緊張が走るものだが、ASRock のマザーボードには、"Internet Flash" なんてものがあって、これをクリックするだけでアップデートしてくれる。拍子抜け!
ちなみに、むかーし、BIOS を壊した経験があり、会社の ROM ライタで焼き直して四苦八苦したのは、もう三十年前の話。パソコンがどんどんプラモデル化するようで、非常にありがたいことなんだけど、まったく緊張感がないのも寂しい気がする。贅沢な愚痴か...
さぁ、実験もうまくいったことだし、新マシンはお気に入りの ASRock をベースに... というのが事の経緯である。

3. 病みつき... be quiet!
PURE BASE 600 の隣に DARK BASE 700 が並ぶと、なかなかの眺め。高さの違いが、ちと気になるけど。
DARK BASE 700 のフロントパネルには、6色のイルミネーション機能が搭載され、単色や点滅などのパターンがスィッチで切り替えられる。後ろの PURE BASE 600 に反射していい感じ。
ちなみに、Core i9 が入っていた BOX(写真右下)は、オブジェに使える...




ちょっと面を食らったのが、DARK BASE 700 には、フロントパネルに光学ドライブを据え付けるスペースがない。前面がすっきりして、ええ感じなんだけど、最近のケースって、そういう傾向にあるのだろうか。
そういえば、光学ドライブはあまり使わないばかりか、いざ使う時でも、OS の入れ替えか、レスキューか、あるいは、ディスク廃棄時に物理フォーマットするぐらいなもの。おいらの用途では、USB で外付けする方が理に適っている。ノートパソコンにも使えるし。
ちなみに、退役マシンを物理フォーマットしようとしたら、ようやくドライブが壊れていることに気づく有り様。

4. イルミネーションなヤツら...
箱の中で、密かにイルミネーションに励むヤツらがいる。ASRock が静かに点滅し、COOLER MASTERがド派手に...
マザーボードには、"ASRock Polychrome RGB Utility" とやらが装備され、UEFI で速度やイルミネーションパターンが設定できる。Breathing, Cycling, Random など。音楽と同期させるのもなかなか。
ちなみに、MasterLiquid シリーズの RGB コントローラが見当たらず、箱の中を探し回ってしまった。電源周辺のカバーを外して、ようやく見つかる。それにしても、こいつはコントローラに見えない。単なる接続部品にしか...

5. シャットダウンもどきには...
イルミネーション機能はなかなか楽しめる。しかし、シャットダウンしても光りっぱなしでは鬱陶しい。てなわけで、マザーボードの ACPI(電源管理)をいじる。
ちなみに、Win 7 のシャットダウンはスリープ状態が S5 だが、Win 10 のシャットダウンもどきはスリープ状態が S4 である。
ASRock のマザーボードは、UEFI で 以下の Deep Sleep モードを選択できる。

  [Deep Sleep] = "Enabled in S4-S5"

ちなみに、CentOS 7(サブマシンを Linux 化)は以下で OK!

  [Deep Sleep] = "Enabled in S5"

しかしこれは、Win10 が登場した時から気になっている仕様である。きちんとシャットダウンできない!?Win 8 あたりから、そうなっているらしいが、少なくともデスクトップでは余計である。人間の行動パターンからして、機械が異常状態に陥れば、それをリセットしたいと考えるだろう。その手段の第一候補がパソコンの場合、シャットダウンということになる。そんな時にシャットダウンが当てにならないとすれば、人間の方が異常状態に陥りそうである。
巷では「ハイブリッドシャットダウン」などと呼ばれているらしいが、おいらは「シャットダウンもどき」と呼んでいる。OS 側でも、高速スタートアップを無効にするなど細かく設定できそうだが、マシンが異常状態に陥っている時でも、そんなものを当てにしていいものなのか。なにしろ、知らず知らずのうちに、マシンが勝手に目を覚ましそうな仕様なのだ。どうせなら、おいらが深い眠りについている間に、仕事も勝手に片付けておいてよ...

2019-06-23

"20世紀音楽" Hans Heinz Stuckenschmidt 著

音楽評論家として名高いハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミット。だがここでは、音響哲学者と呼んでおこう。音階やオクターヴといった音楽理論は、ピュタゴラスの時代から数学的に論じられてきた側面がある。音楽は、帰納的なものか、演繹的なものか、と。確かに、ポリフォニーには数学的な原理が見て取れる。
しかし、だ。音を楽しんでこその音楽。心を虜にする音の響きを、数学が支配する客観性の領域に押しとどめるのはもったいない。それは共通主観というものか。あるいは、もっと形而の上にある普遍性というものか。シュトゥッケンシュミットは、数学と反数学の狭間から論じようと試みる。人間には、多くの出来事を同時に感知し追求する能力があり、この能力は訓練によって磨かれる。しかも、こうした感性は帰納的にも演繹的にも発展させられる。数学の美に対称性という概念があるが、音楽にもシンメトリーな美を感じる。生を崇めれば死も崇められ、より高められた苦悩の形式は、生を敵視する衝動までも思い描く。
ただ、既成概念を崩壊させていく中で、シンメトリーを無視した律動構造までもが現れると、人類は本当に対称性という概念を凌駕したのか、と問いたくなる。変革の時代というのは、その機運が強まれば強まるほど、古い観念を否定するだけでなく、すべてを抹殺にかかるところがある。論理学でいうところの全否定ってやつが働くのだ。20世紀とは、自由の暴走の時代であったのか。いずれにせよ、21世紀、22世紀へと移りゆくにつれ、深淵な20世紀論が語られていくであろう...
「19世紀後半のあらゆる芸術には、ロマン派の苦悶が重くのしかかっている。エクトル・ベルリオーズやバイロン卿のパトスと世界苦は、リヒャルト・ヴァーグナーの哲学では、救済の理念のなかに避難所を見いだす、一種の苦難崇拝にまで高められいてる。芸術はずっと前から表現のまったく主観的な手段となり、感情の横溢は古来の形式の限界をふみこえてしまっていた。この意味で、ヴァーグナーは、単に無限なるものを志向するロマンティックな努力をした偉大な理論家というだけでなく、芸術のうえでは絶対に犯してはいけない法則などはもうないと考える世界像を最初につくりあげた人だった。」

本書は、芸術の歩みを社会動向の投影と見て、歴史的洞察で味付けしてくれる。情緒的なものを表現する芸術は、原理的に、本能的に、形式とやらに反抗し、ある形式が支配的な力を持つと、その逆を行く預言者が出現する。モーツァルトには、すべての法則に逆らうかのような旋律が出てくる。
しかし、法則を正しく理解しなければ、正しく逆らうことはできまい。芸術家たちは、模倣に明け暮れながら独自性を目覚めさせていくかに見える。ラファエロしかり、シェイクスピアしかり。健全な懐疑主義を放棄すれば盲目となるばかり。彼らは、そうなることを極端に恐れ、義務や使命にまで高めていくかに見える。偉大な模倣者とでも言おうか。
ここでは、ヴァーグナー信奉者が反ヴァーグナーを目覚めさせていく様子が伺える。その流れはドビュッシーを通じて強まっていったという。形式上のタブーの崩壊では、十二音技法の創始者と目されるシェーンベルクを論じている。シェーンベルクの音楽はなぜ分かりにくいか... 協和音と不協和音の区別が消え... シンメトリーを無視したリズム... などと。十二の音が短い空間に相次いで登場し、しかも同じ音の反復は最小限に抑えられる。それは構成上の必然性からくるのか、あるいは直観が命ずるのか。シェーンベルクは国家社会主義の民族政策によって生存を脅かされた一人で、特に自由という概念に敏感だったと見える。保守派のブラームス党と革新派のヴァーグナー党との対立の余韻が残る時代、新たな自由という風潮をもたらしながらも、そこに孕む危険性を真っ先に感じ取ったのもシェーンベルク自身だったという。ストラヴェンスキーの技法は、彼の技法につながるものだとか。電子音楽の成し遂げた総合的音楽の可能性もまた、シェーンベルクに帰着するという。
新たな秩序が、変化の挙げ句に伝統的な形式に流し込もうという試みに回帰する、ということがある。たまには密教的な抒情詩に立ち返ってみるのも悪くない。どんな学問分野でも技術に凝りすぎると、本質的なものを見失う。そして、この新たな秩序を救ったのもシェーンベルクであったのか...

自由を重んじる芸術精神は、純粋な個人の能力だけでなく、社会的抑圧の反発から生じるところがある。19世紀に栄華を極めた王侯貴族の芸術は、20世紀になると市民的な芸術へと解放され、宗教観にも世俗的な使命が与えられた。19世紀の芸術の中でブルジョア芸術が育まれ、20世紀に開花したという見方もできるだろう。
その影で、二つの大戦を経験するという暗い時代。ファシズムやスターリン主義を旺盛にし、非寛容な政治的作品が溢れる中、芸術活動は警察国家の非人道への抗議という形で現れる。戦争レクイエムを奏で...
芸術家たちが真に芸術に没頭していくと、自然に政治的な思惑から解放され、人類の普遍性に訴えようとするものなのか。音楽家だけでなく、文学者にしても、美術家にしても。こうした衝動は、宗教弾圧の時代にも起こった。ユングが言う集団的無意識ってやつが働くのか...
「自由の状態というものは耐えがたい。この悲しい真理は社会生活ばかりでなく、精神の全領域にも妥当する。どんな法則も存在しないか、あるいは認識されないために、あらゆる可能性が開かれているような状態におかれると、芸術的創造はかえって困難になる。もろもろの形式は感情の裁量に任され、形態と無形態とのあいだにはっきりした境界がひかれなくなる。」

古くから哲学は、パトスとロゴス、感情と理性、主観と客観といった対立を論じてきた。音楽を理論づける上でも、同じような論争を見かける。ただ、理性の擁護者の方が楽であろう。客観的な法則を引き合いに出せば済むし。感情の擁護者は、得体の知れない精神という実体を主観的に唱えるしかない。
音響学的に問えば、騒音と音色を分けるものとは何か?という問題にぶつかり、音響スペクトルを分析しても物理的に区別することは難しい。絶対音感の持ち主ともなると、楽器の奏でる美しい音でも組み合わせによっては騒音に感じると聞く。こうした感覚は、音響現象が極めて生理的なものであることを示している。
ライプニッツは、モナド論の中で「予定調和」なる根本原理を唱えた。肉体と魂は、あたかも協調して振る舞っているかに見えるが、実は肉体は魂があたかも存在せぬかのごとく振る舞い、魂もまた肉体が存在せぬかのごとく振る舞う、といったことを。確かに、人間精神の本質は無意識の側にありそうだ。
一方で、サイバネティックスのように、人間自体が複雑な伝達系や情報システムにほかならないという見方もある。確かに、人間という存在は機械仕掛けのオートマトンに過ぎないのかもしれない。
音楽の構成要素を、音高、音の長さ、音量、音色、そして、音空間などで定義して音の素材を解明したところで、精神の中で総合体として生じる実体をどう説明するか。それは、人間精神の実体が解明されるまで先送りされるであろう。もし仮に、それを AI が解明したとしても、AI は人間なんぞに答えを教えてくれはしないだろう。思考の鈍臭い構造物に付き合っている暇はないと...

2019-06-16

"詩人の運命 - ディラン・トマスの肖像" John Malcolm Brinnin 著

短い時間に魂を燃え尽くして逝った人たちがいる。アルチュール・ランボー、ジョン・キーツ、ハート・クレインらが... 日本にも石川啄木、生田春月、中原中也らが... そして、ディラン・トマスである。
詩人というものは、つくられるものではなく、生まれ出るものらしい。何がこのような人種を創出させるのか。果てしない探求によって虚無感を自ら駆り立て、自我との対決から自己を破滅させる。この型の人間は、自ら破滅できる人々を引き寄せるかに見える。言葉への要求が高すぎると、そうさせるのか。朗読旅行へ出かけては交流会を催し、聴衆の愚鈍な質問にも愛想よく答え、モラリストを演じきる。お寺さんの法話会のごとく。説教好きのなせる業か。ソーシャルネットワークでは、いちいちコメントに反応するだけで気を狂わせるものだが、詩人ともなると、世界の救世主となることを期待する輩を相手にしなければならない。俗人と接触すればするほど、創作意欲を減退させていくとは。詩人にとって、朗読会の開催は義務なのか。書くだけでは不十分なのか。詩人が散文に救いを求めたって、いいじゃないか。芸術家が啓蒙家になる必要はあるまい。人間喜劇をわざわざ悲劇で演じることもあるまい...
「如何なる詩人も、自らの詩のなかにのみ生きることは出来ない。又その詩のみで生きることも出来ない。」

理想の言葉とは、意味と音調が完全に調和しているものを言うのであろう。それは、自己の度量で受け入れられる分には精神安定剤となるが、その度量を越えた途端に吐き気を催す。詩が分かりにくいのは、なにも読者を困らせようというわけではあるまい。芸術は抽象性とすこぶる相性がいい。普遍性に訴えると言葉を曖昧にさせる。崇高な言葉は概して曖昧に見える。
しかし世間は、あまりにも具体的な言葉を求めすぎる。明快さを求めすぎる。それゆえ疲れる。そして、神を信じない者が神を称える詩を読むことに意義を求めようとは...
ディランの浪費癖は酒のせいらしいが、酒で紛らわし... 愛に溺れ... この放蕩ぶりはなにも詩人の専売特許ではあるまい。死を思わずして詩が書けるのか。生とのギャップがそうさせるのか。いや、詩とは、死そのものの体現なのか。ウェールズ訛りの断末魔には、BGM にストラヴェンスキーの「放蕩児の遍歴」がよくあう...
「ぼくは自分の中に、野獣と天使と狂人を持っている。そしてぼくの究明は彼らの行為に関り合い、ぼくの問題は彼らの征服と勝利、また転落と異変であり、ぼくの努力は彼らの自己表現である。」

「誰が この迷路のなかで
 この潮の満引と 鱗の小路のなかで
 月がふくらませた貝殻のなかで 身をまるめ
 魚類の家と地獄の上に畳まれた
 倒れた町の船の帆へ逃れるのか
 神の緑の神話にひれ伏そうともしないで?
 塩の写真を 風景の悲しみをひろげよ
 神の描いた油絵のなかで愛せよ
 更に人間から鯨までを映し出せ
 緑の子供が 聖杯のように
 ベールと尾びれと火と渦まきを通して
 時を 画布の小路の上に見ることが出来るように...」

「誇り高くして死ねず 破れ盲いて彼は死んだ
 暗黒の道で。そして顔もそむけなかった
 冷く優しき男は埋葬した誇りで勇敢であった
 あの暗黒の日に。ああ 永遠に
 彼よ朗々と生きよ 遂に臨終の時に
 山を横切り草の下に恋し そこに生きよ
 長い群の中で若く 迷うことも
 静まることもなく あの死の遅き日々には...」

2019-06-09

"中原中也詩集" 大岡昇平 編

ソクラテスの言葉に「良い本を読まない人は字が読めないに等しい。」というのがあるが、そんな心持ちにさせられる領域が確かにある。孔子の言葉に「三十而立、四十不惑、五十知命...」というのがあるが、半世紀も生きて、ようやくこのようなものが読めるようになろうとは...
この書に出会えたのは、音楽評論家吉田秀和氏が、音楽以外のものを... と書いた著作「ソロモンの歌」の中で見かけたおかげ。BGM のような書とでも言おうか、これは救われる。宇宙論では詠嘆調を奏で、堕落論では道化調を奏で、この臨終感ときたら、この黄昏感ときたら、この無力感ときたら... すべての表象をセピア色に変えちまう。人間はこの自然の中で生きている。いや、この自然の中でしか生きられない。そんな当たり前のことを、さりげなく啓示できる人がいる。この手の人種は、啓蒙家としての使命感のようなものに取り憑かれるのであろうか。いや、むしろ自然体だからこそ響くものがあるのだろう。ベートーヴェンをベトちゃんと親しみをもって呼ぶのは、詩人の盲目感を聴覚障害を患った音楽家の絶望感に重ねて見るからであろうか...
今宵は、キューバ葉巻を吹かし、照明を紅葉色に演出。BGM は「月光ソナタ」といこう。この演出にはグレンリベット18年がよくあう...

「もろもろの業(わざ)、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。」... ソロモン

人生観や世界観を表現する手段として、詩を選ぶ人たちがいる。淋しさを知らねば、詩人にもなれまい。自己破滅型の人間でなければ、自己を創造することもできまい。彼らは、孤独愛好家という趣向(酒肴)をよく心得ているようだ。芸術家たちは自我との対立から偉大な創造物に辿り着き、真理の探求者たちは自問することによって学問の道を切り開く。
中原中也という人は、十七歳の頃から本格的な詩作活動を始めたそうな。死の前年に書いた「詩的履歴書」には、こう宣言されるという。
「人間が不幸になつたのは、最初の反省が不可なかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。(略) 私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ。」
この詩人は三十という若さで逝く。まさに三十而立か...

「盲目の秋...
 風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

 その間(かん)、小さな紅(くれなゐ)の花が見えはするが、
  それもやがては潰れてしまふ。

 風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

 もう永遠に帰らないことを思つて
  酷白(こくはく)な嘆息するのも幾たびであらう...

 私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

 それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)へ、
  去りゆく女が最後にくれる笑(ゑま)ひのやうに、

 厳かで、ゆたかで、それでゐて佗しく、
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る...

    あゝ、胸に残る...

 風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

 これがどうならうと、あれがどうならうと、
 そんなことはどうでもいいのだ。

 これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
 そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

 人には自恃があればよい!
 その余はすべてなるまゝだ...

 自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
 ただそれだけが人の行ひを罪としない。...」

詩人とは、よほど辛い職業と見える。狂気しなければ到達しえない境地がある。彼らの生き様は滑稽ですらある。いや、あえて道化を演じているのか。活動の出発点は、自我を追い詰めることから始めるしかない。その挙げ句に、人生を自我に乗っ取られる。自己を救おうとすれば、逃避の道しか残されていないというのか。空想に縋るしかないというのか。それで、自ら人生を縮めていくのか...

「なんにも書かなかつたら
 みんな書いたことになった

 覚悟を定めてみれば、
 此の世は平明なものだった

 夕陽に向って、
 野原に立ってゐた。

 まぶしくなると、
 また歩み出した。

 何をくよくよ、
 川端やなぎ、だ...」

既成概念に反発する精神活動は、いつの時代にも見られるが、芸術家には欠かせない資質である。二十世紀初頭にも、ダダイズムという芸術活動が現れた。「ダダイストは永遠性を望むが故にダダ詩を書きはせぬ」という主張もあるが、中原中也もまたそんな一人であろうか。ダダ思想を謳歌し、自我を目覚めさせよ!と自ら鼓舞するかのように。この矛盾感がたまらん...

「南無 ダダ
 足駄なく、傘なく
  青春は、降り込められて、

 水溜り、泡(あぶく)は
  のがれ、のがれゆく。

 人よ、人生は、騒然たる沛雨(はいう)に似てゐる...」

「幾時代かがありまして
  茶色い戦争がありました

 幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

 幾時代かがありまして
  今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
   今夜此処での一と殷盛り...」

「歴史に...
 明知が群集の時間の中に丁度よく浮かんで流れるのには
 二つの方法がある。
 一は大抵の奴が実施してゐるディレッタンティズム、
 一は良心が自ら煉獄を通過すること。

 なにものの前にも良心は抂(ま)げらるべきでない! 
 女・子供のだって、乞食のだって。

 歴史は時間を空間よりも少しづつ勝たせつゝある? 
 おゝ、念力よ!現れよ。」

気難しい作品に癒やされるようになったら、歳をとった証であろう。意識は、ちょいとばかりうつろなぐらいがいい。ちょいとばかり曖昧なぐらいいい。騒々しい社会に慣れちまったら、特にそうだ。具体的すぎる社会は疲れる。
突然、なにかに目覚める瞬間がある。今まで何とも思っていなかった事柄に感動すれば、目の前の幸せに気づいていなかったことを嘆かずにはいられない。この感覚、この喜びは、死ぬ瞬間まで忘れないでいたいものだが、そうもいくまい。そして、脂ぎった魂が救いを求めるとすれば、こういうものになろうか...

「汚れつちまつた悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れつちまつた悲しみに
 今日も風さえ吹きすぎる

 汚れつちまつた悲しみは
 たとへば狐の革衣
 汚れつちまつた悲しみは
 小雪のかかつてちぢこまる

 汚れつちまつた悲しみは
 なにのぞむなくねがふなく
 汚れつちまつた悲しみは
 倦怠のうちに死を夢む

 汚れつちまつた悲しみに
 いたいたしくも怖気づき
 汚れつちまつた悲しみに
 なすところもなく日が暮れる...」