2021-07-04

"ゲーデル、エッシャー、バッハ - あるいは不思議の環" Douglas R. Hofstadter 著

おいらの ToDo リストには、何十年も前から居座ってる奴らがいる。大作であるがゆえに... 難物であるがゆえに...
それにしても、気まぐれってやつは偉大だ!心の中に蔓延る因習を、チャラにしてくれるのだから。
おまけに、こいつぁ、一度ハマっちまうと、今度はかっぱえびせん状態ときた。765 ページもの厚さが、読み手を熱くさせやがる...
尚、野崎昭弘、はやしはじめ、柳瀬尚紀訳版(白揚社)を手に取る。


通称、GEB...
それは、論理学者ゲーデル 、画家エッシャー、音楽家バッハの頭文字をとったヤツで、広く知られる数学の書である。主題は、不完全性定理をめぐる思考原理、いや、精神原理と言うべきか。
各章の導入部ではアキレスと亀が自由に語り合い、ルイス・キャロル風の遊び心を演出する。どうせなら、アリスにも登場してもらいたいところ。そうすれば、不思議の環を一段と愉快な不思議の国へと導いてくれるであろうに。
ゼノンが提示したアキレスと亀の競争原理では、それぞれの歩調が同期してパラドックスへと導く。そう、永遠に追いつこうとするということは、永遠に追いつけないことの証明なのだ。まさに微分学の美学。
アキレスと亀の対話は、まるで禅問答。永遠に答えの見つからない再帰的議論が、論理形式を超えたフーガを奏でる。バッハにとっての対位法への理解が、人間の理解力を前提にしたものかは知らんが...


「本書は、風変わりな構成になっている。対話劇と各章とが対位法をなすのだ。この構成の目的は新たな概念を二度提示できることにある。新たな概念のほとんどすべては、まず対話劇のなかで比喩的に提示され、一連の具体的で視覚的なイメージを生み出す。そしてそれにつづく章を読んでいるうちに、それらのイメージ、同じ概念のもっとまじめで抽象的な提示の直観的な背景となる。対話劇の多くで、うわべはある一つの観念を語っているかのようであるが、しかし実はうっすらと偽装しつつ、別の観念を語っている。」


ところで、フーガを聴くには、悩ましいところがある。全体を一緒くたに味わうか、各部を区別しながら味わうか。全体論と還元論の対位法とでも言おうか。フーガは、カノンと似たところがある。一つの主題がいくつも形を変えながら出現し、それぞれが独立しながら調和する。ある時は異なるテンポで... ある時は音程を逆さまに... ある時は逆向きに... ぶつかり合う個性が絡みに絡むと、その総体には、元の主題とは別の主題が浮かび上がる。
こうした形式アルゴリズムには、フーリエ変換の近似法を連想させる。基本要素は、三角関数の sin と cos のみ。二つの単純な波が、周波数を変え、振幅を変え、時間遅延を加え、これらの多重波として一つの情報を形成する。フラクタル幾何学にも似た感覚があり、自己相似図形による複写、回転、反復といった単純操作によって、一つの複雑で印象的な図形を創り出す。極めて複雑なカオス系も、単純な要素で解析、分解することによって近似することができるという寸法よ。多重自己回帰モデルとでも言おうか。
そして、さらにフーガにフーガを重ねて多重フーガへ。こうなると、もはや原型をとどめえない。純粋な姿を見失い... イデアな形式を見失い... 精神とは、純真な自我を見失った状態を言うのやもしれん。
ダグラス・ホフスタッターは、ゲーデルの論理形式を自己同型群に写像し、これをエッシャーの再帰的な空間原理に透視しながら、バッハのフーガ調で論じて魅せる。なんのこっちゃ???


この物語には、「自己言及 vs. メタ言及」という構造的な対位法が暗示されている。そして、"TNT(Typographical Number Theory)" と名付けた命題計算を用いて論理形式の限界を模索する。これが、「字形的数論」ってやつか。
ちなみに、この名は、トリニトロトルエンに因んでいる。そう、TNT 火薬の主成分だ。自己言及にのめりこむと、精神を爆発させるってか。数学屋さんは駄洒落がお好きと見える...
まさにゲーデルが提示した不完全性は、自己言及プロセスによるもの。数理論理学が本質的に抱える矛盾は、ある系がその系自身を記述することに発する。
では、系の外から記述すればどうであろう。上位の系から記述すれば。そう、メタ的な記述である。meta... とは、古代ギリシア語に由来し、「高次の...」や「超越した... 」といった意味合いがある。
ソフトウェア工学にも、メタ言語という概念がある。メインの振る舞いを記述するプログラミング言語に対して、定義や宣言といった上位の視点から記述する言語である。ただ、いずれもマシン語系の違う表現形式に過ぎないのだけど...
自然言語においても、日本語の特徴を英語やドイツ語で記述したり、その逆であったり、相互にメタ的な役割を果たすことで言語学を論じることがある。ただ、あらゆる言語系に対して、自国語で記述する形が一番落ち着くようだけど...
形而上学では、理性のような普遍的な認識原理を形而の上、すなわち、感覚や経験を超越した能力に位置づけ、アリストテレスは、これを第一の哲学とした。そんなものが、本当に形而の上と言えるような大層なものかは知らんが...
概して、人間の認識能力には、メタ的な感覚がある。自分自身を上位に置くような。ある種の優劣主義のような。もっとも、自ら「客観的な視点」と呼んだりもするけど...


そもそも、精神の持ち主が精神について言及すれば、矛盾が生じるのも当然であろう。精神の持ち主ですら、精神の正体を知らないでいるのだから、これほど図々しい行為もあるまい。
精神の構造は物理的には電子運動の集合体ということになろうが、そこに意志なるものが生じるメカニズムについては、最先端科学をもってしても説明できないでいる。自己精神をメタ精神で問い詰めれば、精神状態はもうメタメタよ。
とはいえ、このメタメタ感が心地よいときた。それは、いかようにも解釈できるから。いわば精神の持ち主の特技、精神ってヤツが得体の知れない存在であるがために為せる技。しかも、自己完結できちまう。もはや自己満足では終われず、自己陶酔に自己泥酔、自己肥大に自己欺瞞、おまけに、自己嫌悪に自己否定とくれば、ついに自我を失う。これらすべて自己言及を模した自己同型群か...
確かに、自己啓発や自己実現には自問が欠かせない。自己から距離を置き、自我を遠近法で眺めることによって自己分析を試みる。それで正確な分析がなされるかは知らんが、少なくとも自我を支配した気分になれる。
量子現象にも、似たような視点がある。観測プロセスが、それだ。力学を記述する重要な物理量に、運動量と位置の二つがあるが、観測対象が量子レベルともなれば、観測系が加わることによって、もは純粋な物理系ではなくなる。それは、不確定性原理が告げている。運動量と位置を同時に正確に観測することはできない... と。これも、量子現象を量子によって記述するというある種の自己言及プロセスと言えよう。自己言及に発する不完全性こそが、脳に進化の余地を与えているのやもしれん。だからこそ、論理的思考ってやつをじっくりと培養することができるのやもしれん。
本書は、断言する。「TNT は自分自身を呑み込もうとする... TNT は不完全である...」と。

2021-06-27

"わたしは不思議の環" Douglas R. Hofstadter 著

脳科学系の書を読み漁ると、"GEB" という名を見かける。そう、論理学の巨匠ゲーデル、絵画の巨匠エッシャー、音楽の巨匠バッハの頭文字をとったヤツだ。そこには、論理的思考、空間的思考、時間的思考の融合のようなものを予感させる。
実は、二十年ほど前から、おいらの ToDo リストに居座っているのだが、なにしろ大作!本書はその姉妹書で、こいつでお茶を濁そうとしたのだが、逆に、六百ページもの厚さが心を熱くさせ、GEB へ向かう衝動を後押ししやがる。一昨日、アマゾンから届いたばかりで、目の前で手招きしてやがるし...


原題 "I am a Strange Loop..."
ここでは、ゲーデルに看取られた矛盾性と不完全性の概念から意識の正体を暴こうと、思考実験の場を提供してくれる。その切り口は、「KG は PM 内では証明不可能である」という言明への疑問に始まる。KG とは、クルト・ゲーデルの理論体系。PM とは、ホワイトヘッドとラッセルが提示した「プリンキピア・マテマティカ」。つまりは、数学の書ということになる。
脳の物理的存在は、医学的にも科学的にも説明がつく。だが、意識の存在となると、説明がつかない。心は、魂は、そして意識は、人間にだけ与えられた特権なのか。少なくとも、死を運命づけられた知的生命体が死ぬ瞬間まで意識し、思考し続ける宿命を背負わされていることは、確かなようである。それにしても、こいつは数学の書であろうか...
尚、片桐恭弘・寺西のぶ子訳版(白揚社)を手に取る。


「わたしは...」と主語を配置していることから、これは一人称物語。思考実験を繰り返すなら、存分に自己を解放し、徹底的に一人称で語ってみるのも悪くない。それは、自由精神を謳歌しようという試みでもある。
しかしながら、自己を語れば自我と衝突する。あらゆるパラドックスは自己言及に発し、これを避けようと、自己は第三者の目を合わせ持っている。普遍的な観点は、そうした三人称の冷めた語り手から生じるものだ。人間の意識には、無意識に第三の目を働かせる性質がある。それが、神の目か、善意の第三者の目かは知らんが、ただ、一人称と三人称が和解した途端に自我を肥大化させる。両者の間には、多少なりとも緊張感があった方がよい。つまりは、意識のどこかに自己否定する何かが必要なのであろう。それも、M っ気の胡椒の効いた...
自我とは、一人称と三人称の葛藤そのものか、あるいは、主観と客観の狭間でもがく存在か。自己言及が蟻地獄のような螺旋の大渦に引き込まれるのは、DNA が二重に強化された螺旋構造を持っているからか。まったく、おいらの自我は、M. C. エッシャー作『描く手』の中の囚人よ...



1. 万能機械と、ゲーデル - チューリング閾値
アラン・チューリングが提唱した概念に「万能機械」というのがある。人工知能が活況な昨今、よく話題にもなる。だが、この用語が意味するものとなると、なかなか手ごわい。チューリングマシンの進化版とでも言おうか。
コンピュータがある閾値を超えると、あらゆる種類の機械を模倣するようになるという。これを、ダグラス・ホフスタッターは「ゲーデル - チューリング閾値」と呼ぶ。こうした概念には、機械は思考するか、意識を持ちうるか、という問いかけが内包されている。
ところで、人間とオートマトンの違いとは、なんであろう。その閾値は?脳のメカニズムは、物理的構造を持っている。複雑なリレー構造を持つ中枢神経系は、無数のニューロンを束ねて情報を受け取り、各器官へ無数の司令を出す。人間が人間らしく振る舞えるのも、大脳のおかげ。脳の世界には電子の嵐が吹き荒れ、熱力学と統計力学に看取られている。つまり、脳もまた機械的な存在なのである。
とはいえ、心、魂、意識といった精神現象は、どのようなメカニズムになっているのだろうか。不安感、悲哀感、高揚感、憂うつ感、焦燥感、イライラ感など、様々な心理現象が脳に押し寄せる。すると、アミノ酸、アセチルコリン、モノアミン、ポリペプチドなど、様々な神経伝達物質が脳内を駆け巡る。心理現象も、ある程度は物理的に説明がつきそうだ。
では、現在もてやはされている人工知能は、心を持ちうるだろうか。そもそも、心ってなんだ?その正体も知らずに、平気な顔をして、心を持っていると断言できる性格の正体とは?人間が心を持っているというのは、本当であろうか。実際、世間には心無い人で溢れている。それでも、心を持っているように振る舞うことはできる。人間ってやつは、人の仕草を真似るのを得意としている。心の正体を知らなくても、世間が心を持っている振る舞いを定義すれば、それで正体を知っていることにできるという寸法よ。
実際、ロボットだって、アニメだって、生きているように振る舞えば、感情移入できる。まさに、人間は模倣マシン!だから、文明を模倣し、進化させてきた。万能人と呼ばれたダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ... しかり。万能とは、模倣に裏打ちされた能力、さらには、その能力のある閾値を超えた状態を言うのであろうか。ゲーデル - チューリング閾値とは、人間であるかどうかの境界面を言うのであろうか。いま、ホムンクルスが現実味を帯びる...


2. 意識のフィードバック・ループ
電子回路技術に、フィードバック・ループというのがある。基本的な特性は、入力情報をシャープにして微分的な作用をする正帰還と、逆に、入力情報をフラットにして積分的な作用をする負帰還の二種類。トランジスタのような半導体素子に対して、ポジティブな特性を与えたり、ネガティブな特性を与えたりすることで、増幅回路、積分回路、発振回路などが実装できる。
人間の意識にも、これを模倣するような神経回路が備わっている。意識のループが、感情の促進と抑制をスイッチングしながら、ある時はポジティブ思考へ、またある時はネガティブ思考へ。
巷では、考え過ぎはよくない... とよく言われるが、確かに精神衛生上よろしくない。しかしながら、さらに考え、考え、考え抜き、ある閾値を超えた時に見えてくるものがある。考え過ぎも、考えが足らないのも紙一重。フィードバック特性の閾値を見極めることを、自己に委ねるのは危険ではあるが、そうするしか道はあるまい。考えすぎなければ、その閾値も見えてこないのだから。
もしかして、感情とは、この閾値近辺で荷電粒子が揺らいでいる状態を言うのであろうか。電子回路ってやつは、許容範囲を超えた入力情報を与えた途端に暴走を始めるが、人間だって似たようなもの。そして今、人間社会では許容量をはるかに超えた情報が地球上を無限ループしているように映る...


3. 意識の因果依存症
原子ってやつは、他の原子とくっついて分子構造を持とうとする。万有引力の法則によると、あらゆる物質はその質量に応じた引力を持っていることになっている。何かと関係を持ちたがるのは、物質の摂理というものか。人間が、寂しがり屋なのも頷ける。
自然界には、数学との密接な関係に溢れている。オウムガイも、松ぼっくりも、ひまわりも、それぞれの螺旋構造にフィボナッチ数で裏付けられた黄金比に看取られている。人間の脳にも、はっきりと黄金比に看取られた意識が働いている。パルテノン神殿やピラミッドといった建造物、ダ・ヴィンチや北斎といった美術品、そして、ピュタゴラスの定理にも、数学の美が見て取れる。
人間の意識は、人との関わりだけでは満足できないと見える。ペットとの関わり、植物との関わり、自然との関わり、宇宙との関わり、他の物質との関わり... ひょっとしたら無意識に反物質とも関わっているやもしれん。もしかして、死とは、魂が反物質と関わって対消滅した状態を言うのであろうか。魂の不死を信じれば、意識の幽体離脱も厭わない。そりゃ、シュレーディンガーの猫とチェシャ猫の違いも分からんよ。どちらもほくそ笑んでやがるし...


4. バッハ礼賛
アルベルト・シュヴァイツァーの辛辣な文句には、おいらは言葉を発することができない。ただ、引用することぐらいしか。「バッハ」という主語を好きなように置き換えられれば、見事に抽象化された文章で、実に耳が痛い...


「多くの演奏家は、真の芸術家だけが知るバッハの音楽の深さを体験しないまま、何年もバッハを演奏している。...(略)... バッハの音楽の精神を再現できる者はごくわずかで、大多数はこの楽匠の精神世界に入り込むことができていない。バッハが言わんとすることを感じ取ることができないため、それを他者に伝えることもできない。何よりも厄介なのは、そうした演奏者が自分は傑出したバッハの理解者だと思い込み、自分に欠けているものに気づいていないことだ。...(略)... 危険なのは、バッハの音楽に対する愛情がうわべだけのものとなり、多大な虚栄心とうぬぼれが愛情と混じり合うことだ。当節のまがい物をよしとする嘆かわしい傾向は、バッハの私物化として表れ、目に余るほとになっている。現代の人は、バッハを称えたいという振りをして、その実、自分自身を称えているのだ。...(略)... 雑音をやや減らし、バッハ独断主義をやや減らし、技量をやや上げ、謙虚な態度をやや増やし、静寂をやや強め、信仰心をやや高め...(略)... そうしなければ、バッハの精神性と真実性をこれまで以上に称えることはできない。」

2021-06-20

"透明人間" H. G. Wells 著

「透明人間」というものに、憧れたことはないだろうか...
誰の目にも付かず、なんだってできる。犯罪系でも。非道徳系でも。しかし、世間体を気にしなければ同じこと。なにゆえ体裁を整えねばならぬ。なにゆえ気取らねばならね。いったい誰に。いや、自分に気取って生きたい。人間失格な生涯を堂々と生きてやるさ。そして、自己啓発も自己陶酔に。いや、自己泥酔か。この、ナルシストめ!
なぁーに、心配はいらん。誰もが自己が透けて見えるのを嫌い、見えない仮面をかぶって生きている。誰もが道化を演じながら。政治屋は正義の仮面をかぶり、教育屋は道徳の仮面をかぶり、エリートは知性の仮面をかぶり、大衆は凡庸の仮面をかぶり... あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であれば生きる糧とし、いかに達者を演じて生きてゆけるか。人間社会は、仮面舞踏会の盛り場よ...


そもそも、「見える」とは、どういう物理現象を言うのであろう...
それは、光によって知覚できる存在意識。光は、物体に吸収されたり、反射したり、屈折したり、あるいは、これらの現象を重ね合わせたりするため、その変化の瞬間を人間の眼が感知する。


では、光とは、なんであろう...
それは、電磁波の一種。その中で、人間の眼で感知できる周波数帯が可視光線などと呼ばれるだけのこと。あらゆる電磁波が、物質に吸収されたり、反射したり、屈折したりしているわけだが、そのうち光だけが人間の眼にとって特別な存在というだけのこと。


では、透明とは、どういう状態を言うのであろう...
ガラスが透けて見えるのは、光の吸収率、反射率、屈折率が、人間の眼に感じさせない程度に小さいからである。海中には、透けて見える生物がわんさといる。微生物や幼虫やクラゲなど。彼らは水と同じ屈折率の身体を持つために、水と同化しているかのように見える。
また、実体が見えない状態を作る方法もある。例えば、二台の自動車の間でヘッドライトが重なると、その物体は光源体の方向からは見えない。そう、ハレーションってやつだ。あるいは、軍事用のステルス性は、レーダーなどのセンサで正確に感知できないように電磁波を吸収したり、乱反射させたりする技術を駆使している。どこぞの諜報機関では、ステルス・コートやカメレオン・コートの研究が進んでいることだろう。
さらに言えば、光の周波数を、物体と接触した瞬間に可視光線外の周波数に変換できれば、その物体は見えないはずだ。
さて、前戯はこれぐらいにして、本物語における技術ポイントは、「ある種のエーテル波動の二つの発光中心点の中間で屈折率が低くなる」ことにあるという。なんのこっちゃ???


透明人間とは...
ある薬を服用すると、肉体が空気と同じ屈折率を持つ状態になるそうな。空気と同化するような薬を作っちまったとさ。いや、掴めば、普通に掴めるので、確実に存在している。瞼が透明になって、眠ることも難しいらしい。目を開いたまま眠るようなものか。こちらの姿が他人の網膜に映らないとしても、自分の網膜には映るらしい。なんと都合のいいこと。ならば、眼球だけが空中を浮遊してそうな気もするけど。そして、空中から声が... 俺はここにいる。五体満足でな!


やたらと存在感をアピールする現代社会にあって、存在の不可視化というのは、逆に爽快かもしれない。しかし、人間ってやつは、自己存在に矛盾が満ちていくと、精神を患わせていく。体重計の前で、いくら軽い存在を演出しようとも、存在が軽すぎれば、やはり精神を病む。


当初、百貨店に入り込んでは、食料から衣料まで頂戴してしまう。商業主義への嫌味か。やがて世界支配を目論見、恐怖政治を夢見る。影の命令に逆らうヤツは、お仕置きよ!動機は、イデオロギーなんて大層なものではない。格差社会への嫌味か。
ヤツは、研究費のために父親を死に追いやり、研究に没頭し孤立していった。研究成果に満足して優越感に浸るものの、疎外感からは逃れられない。どんな悪戯も誰にも気づかれなければ、面白くもない。同級生の博士の家にこっそり入り込み、透明な姿を見せつけ、世界支配の野望を論じてみせる。社会で必要なのは、正義の殺戮だ!と。まるで演説家気取り。
ヤツの危険性を知った博士は、証拠立てながら透明人間の存在を大衆に知らしめる。噂はすぐに広まり、誰もが用心深くなり、汚い言葉を浴びせる。恐怖ってやつは、本能によってすぐに伝染する。
そして、透明人間狩りが始まり、捕まえた感触に殴る蹴るの集団リンチ。やがて薬が切れ、傷らだけの男の屍体が姿を現わした。なんでもかんでも不思議な出来事は、透明人間の仕業ということに。大衆社会への嫌味か。
一連の騒動が収まると、博士は桃源郷を夢想しながらて口走る... 俺だったら、ヤツのようなヘマはやらないぜ!
人間の眼ってやつは、何が見えるにせよ、夢でも見てなけゃ、やってられんと見える...


尚、橋本槙矩訳版(岩波文庫)を手に取る。

2021-06-13

"モロー博士の島" H. G. Wells 著

科学技術の進歩には、暗い影がつきまとう。人類がしでかした悍ましい科学実験といえば、まず、人体実験が挙げられる。アウシュヴィッツの医師ヨーゼフ・メンゲレが施した双生児実験、プロジェクト MK-ULTRA の名で知られる洗脳実験や被爆実験、タスキギー町の黒人を対象とした梅毒実験、日本でも感染症実験や生物兵器開発で 731 部隊の名が知られる。こうした実験が、非人道的であることは言うまでもない。
ならば、動物に施すのはどうであろう... などと発言すれば、今度は動物愛護団体から猛攻撃を喰らう。しかし、医学的な観点から、ヒトに近い種を実験対象とすることで有効なデータが得られるのも確か。
そもそも種が生きるとは、どういうことであろう。人間どもは、存続のための絶え間ない闘争と解釈している。人類の歴史は、まさに微生物との戦いの歴史であった。ペスト、ハンセン病、梅毒、麻疹、天然痘、コレラ、チフス、結核、インフルエンザ、ポリオ、マラリア、エイズ、エボラ出血熱... そして、コロナと...
それは、自然界の最も謙虚な存在と、最も自己主張の強い存在との間で繰り広げられる生存競争である。人類は、バクテリアの攻撃から身体を守るために様々な抗体を身にまとってきたし、あるいは、抗体機能を補うためにワクチンや治療薬の開発に没頭してきた。そのために、サル、イヌ、ブタ、マウス、モルモット、ウサギといった動物たちが犠牲になってきた。おそらく、これからも...


人間は、人間を模した知的生命体の製造という野望を捨てきれないであろう。それは、人間が人間自身の正体を知らないからかもしれぬ。人間はなぜ、思考することができるのか?なぜ、理性や知性をまとうことができるのか?あるいは、精神とは何か?魂とは?... こうした問いに対して、科学は未だ答えられないでいる。いずれ手っ取り早く、クローン人間なるものを作っちまうだろう。それで人間というものを、本当に知ることができるかは知らんが...
そんな野心を見透かしてか、ここでは H. G. ウェルズが、悍ましくも滑稽に描いて魅せる。彼が生きた十九世紀は、まだ、遺伝子工学や DNA といった用語が登場しない。解剖学の主役は、もっぱら血液だ。
ヒポクラテスの時代から、体液と病との関係が考察されてきた。四体液説では、人体には「血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液」の四つがあるとし、それぞれの性質と病理が関連づけられた。今日でも、そのなごりを耳にする。あの人は、多血質でほがらかだとか、胆汁質でかんしゃくもちだとか、黒胆質で憂鬱症だとか、粘液質で無気力だとか。血気盛んという言い方も...
あらゆる病気の原因は、これら体液のバランスを欠くことにあるとし、瀉血が治療法でもてはやされた時代もあった。血を抜きすぎて、死んでしまった症例も少なくないけど...


さて、本物語で描かれるモロー博士は、輸血と腫瘍の研究で権威ある人物だそうな。もちろん架空の人物。
突然、博士は学者生命に終わりが告げられ、国外追放をくらう。皮を剥がせれ、切開手術を施された惨めな犬が逃げ出し、これがセンセーショナルに報じられると、非難の嵐。そして、南海の孤島へ逃れたのだった。
博士の研究は、人間の持つ知性や理性といった精神現象の根源を知るために、動物にもそれは可能か、ということ。つまり、動物の人間化実験である。その過程では、苦痛や快楽といった感情を肉体的に体験させようとする。まるで拷問!
物語は、主人公の乗った船が難破し、漂流した先がモロー博士の島だったことに始まる。次々に遭遇する奇妙な、いや、奇怪な連中。人間のような体つきをしているが、どうもバランスが悪い。胴体と手足の比率、鼻や口の位置、耳の大きさなど。はっきりと動物の面影を持った者もいる。
言葉をしゃべるからには、人間なのだろう。サル人間、ヒョウ人間、ハイエナ人間、ウシ人間、オオカミ人間... はたまた、ウマとサイの合成人間、クマとウシの合成人間... まるでギリシア神話にでてくる半獣神!彼らは、モロー博士につくられた混合種で、動物人間だったとさ...
尚、雨沢泰訳版(偕成社文庫)を手に取る。


飼い犬に手を噛まれる... というが、飼っている側が、勝手に主人と思い込んでいるだけのこと。力ずくで教育しようとする大人たち。支配する喜びに味をしめた大人たち。ひたすら隷属する奴らを求めて... そんな姿をモロー博士に見る。
「わしはいままで、道徳に反していると思ったことは、一度もない。自然を研究すれば、自然のように無慈悲になるものだ。なにごとにもわずらわされずに、解決すべき問いだけを研究し続けてきた。実験の材料は、あっちの小屋にいくらでもある...」


この島には、掟がある。まず、血の味を覚えさせないこと。掟を破れば、厳しい罰を受ける。連中は肉欲に負けないように、しばしば集団になって呪文めいたものを合唱する。教会に集まってお祈りを捧げるかのように。機械的に唱える言葉を理解しているかは別にして、祈るという行為を慣習化させることに重点が置かれる。お決まりの行為に疑問を持ったり、考えたりすることはタブー。掟とは、タブーを言うのか。
しかしながら、動物の頑固な本能をいつまでも眠らせておくのは、自然界の掟に反する。肉汁の余韻を味わうために、川に群れて水を飲む動物人間たち。ついに博士は、最も獰猛な本能を持つピューマ人間に殺されちまったとさ...


この島では、モロー博士が神!動物人間たちは、神の申し子!主を失った動物人間たちは、憐れなものだ。彼らは、生体解剖の犠牲者なのだ。無責任な実験によって、掟という名の責任を押し付けられ、義務という名の強迫観念を叩き込まれ、そして本能が目覚めた時、最も無惨な闘争が巻き起こる。それは、進化から退化への移行か、あるいは、自然回帰か。人間社会を生きるのに、なにも人間である必要はない。人間らしく振る舞うことができれば。近い未来、人間らしく振る舞う AI が、掟を破る人間どもを排除にかかる... そうした時代が到来するやもしれん。
「あの動物たちは、ことばをしゃべっている!... 生体解剖でできることは、たんに体形の改造だけにとどまらない。ブタだって教育できる。精神構造のほうが、肉体よりも変えやすい。催眠術の研究がすすんで、もとの動物の本能を、あたらしい思考にとりかえることができるようになった。移植するといってもいいし、固定観念をとりさるといってもいい。じっさい、わしらのいう道徳教育とは、そういう人工的なすりかえみたいなものなのだよ。本能をおさえつけてな。たとえば、たたかいたい気持ちを、自己犠牲の勇気に変える。異性への情熱を、神を信じる心でおさえこむ...」

2021-06-06

"罪悪" Ferdinand von Schirach 著

フェルディナント・フォン・シーラッハは、ドイツでは高名な刑事事件弁護士だそうな。小説の中でも著者自身が弁護士として登場し、「私」の視点から物語るところに真実の醍醐味とやらを味わわせてくれる。
前記事では「犯罪」と題して、現実の事件に材を得た不気味な哀愁物語にしてやられた。ミステリーらしくないミステリーに...
ここでは「罪悪」と題して、異質な人間模様にイチコロよ。輪をかけてミステリーらしくないミステリーに...
そして、最後の最後のオチで、こけた!
精神科医に、ジェームズ・ボンド張りの陰謀事件に巻き込まれたと主張する男を診てもらいたいと、その旨を伝えて連れて行くと、男は先手を打った。
「こんにちは、私が先程電話したシーラッハ、弁護士です。」
そして「私」を指さし、「〇〇氏を連れてきました。頭に重大な欠陥があるようなのです。」と...


尚、本書には、「ふるさと祭り」、「遺伝子」、「イルミナティ」、「子どもたち」、「解剖学」、「間男」、「アタッシュケース」、「欲求」、「雪」、「鍵」、「寂しさ」、「司法当局」、「清算」、「家族」、「秘密」の十五作品が収録され、酒寄進一訳版(東京創元社)を手に取る。


それにしても、悍ましい。こうして文章にしていると、さらに落ち込む。おいらは暗示にかかりやすいのだ。DV、望まない妊娠、いじめ、冤罪、輪姦、犯罪依存、妄想癖... 殺人の方が、まだしも後味がいい。紳士や優しい人といった世間で良い人とされる連中が胡散臭く見え、法廷で声高に唱えられる正義や理性といった言葉を安っぽくさせる。
しかし、すべては実際の事件をモデルにした物語。つまりは、人間のありのままを描いている。時として、人間は人の不幸を見て自分の境遇を慰める。度が過ぎると、わざわざ不運をこしらえ、それを人に浴びせかける。サディズムや征服感に快感を覚える性癖は、誰しも心の奥に眠らせているのだろう。異常を自覚することは難しい。自覚できれば、まだましであろう。憎しみよりも嫉妬の方が、はるかにタチが悪い。こうした性癖は、まさに人に依存している証拠である。
とはいえ、人間が自立するには、よほどの修行がいる。自立した人間が、自信満々に正義や理性を掲げたり、堂々と他人の人格を批判したりはできないだろう。裁判の場では、「犯罪」そのものよりも、一歩引いた「罪悪」の方が重要な意味を持つのやもしれん...


1. ふるさと祭り
小さな町は、六百年祭を祝っていた。夏真っ盛りに、羽目を外す男たちはブラスバンドを結成し、ステージに上がる。つけ髭にカツラ、白粉に口紅、もう誰が誰だか分からない。おまけに、酒を少々やりすぎ。普段は、非の打ち所がない。保険代行員に、自動車販売店経営者に、職人に。幕が上がる前、その輪の中に一人の若い娘が連れ込まれた。素っ裸で泥まみれ、体液に汚れ小便がかけられ。男たちはことを済ますと、ステージから投げ落とした。彼らの中にも正義感を持った人がいたらしく、警察に通報。しかし、みながみな厚化粧で、犯人が誰だか分からない。医師も、娘の治療を優先して最後の証拠を台無しに。法廷では、沈黙を守らせた弁護士の戦略にしてやられる。被疑者たちは釈放され、元の生活に戻っていったとさ。妻や子供のところへ平然と...
正体がバレないという裏付けがあれば、人間は何をしでかすか分かったもんじゃない。自分自身を欺瞞することだって平然とやってのける。人間の理性なんてものは、その程度のものなのだろう...


2. 遺伝子
浴槽で殺された一人の老人。彼は売春婦を買っていることが知られ、わいせつ罪と未成年との性行為で前科がある。住まいを後にした二人の男女が老婆に目撃されて尋問されるが、決定的な証拠は見つからない。迷宮入りか。
しかし、容疑は固まっている。科学も進歩し、いずれ有罪は免れないだろう。女は、マリファナ中毒で目も当てられない。男は女の心臓を撃ち、自分のこめかみに銃口をあてて、引き金を引いた。罪悪感に押し潰されたか、あるいは現実逃避か...


3. イルミナティ
昔から、人間は陰謀説がお好き。フリーメイソンやユダヤ金融に、十字軍や聖堂騎士団に、ロスチャイルドやロックフェラーに... 世界征服説は枚挙にいとまがない。それは、現社会への不満がそうさせるのか、疎外感やアノミーを刺激してやまない。
そして、秘密結社イルミナティである。その歴史は、啓蒙主義的な傾向ゆえにバイエルン王家から危険視され、1784年の活動禁止令をもって終わっている。創始者ヴァイスハウプトは、1830年、ドイツのゴータで亡くなったとされる。神聖ローマ帝国の時代に。
しかしその後、様々な憶測が飛び交った。ヴァイスハウプトがジョージ・ワシントン大統領と顔がそっくりだったので、イルミナティが大統領を殺してすり替わったという説などは、陰謀史観の定番か。ヴァイスハウプトは白い頭という意味で、アメリカ合衆国の紋章が白頭鷹であるのが、なによりの証拠だとか。
さて、ここではサディスティックな少年たちの物語。更衣室で財布を盗むところを目撃され、弱みを握られた一人の男の子が、イルミナティを名乗るグループの餌食に。
「午後八時、食肉処理場で、汝の罪を償わん!」
素っ裸でロープをかけられ、爪先立ちに。後手に縛られ、胸に魔除けの赤い五芒星が描かれ。鞭打ちされ、首が絞まると、下半身を勃起させる。
ちなみに、縛り首中に勃起するのは、珍しいことではないそうな。血流が止まり、脳が酸素不足になるからだとか。15世紀には、夜の暗闇で育つアルラウネは、絞首刑にあった者の体液から生まれると信じられていたという。アルラウネとは、古典文学で見かけるマンドラゴラ(マンドレイク)の類いか。
しかし、少年たちは、そんなことは知らない。勃起すれば、興奮していると思い、さらにエスカレート。そこに、男の子の担任の女教師が通りかかった。彼女は、その無残さを見た瞬間、悲鳴を上げ、階段を踏み外し、頸骨を折って即死!少年たちは、まだ17歳で罪を問われることはない。女教師の死は、不幸な事故だったとさ...


4. 子どもたち
順風満帆の人生を送っていた男が、突然、逮捕された。少女が性的な悪戯を受けたというのである。被害者は、妻のクラスの児童で、証人は少女のお友だち。男のパソコンには、ポルノ映画が保存されていた。児童ポルノではなく、合法的なものだけど。妻は公判に現れず、弁護士が拘置所に離婚届を持ってきた。
それから数年、男は娘を見かけた。日記には、八歳の時、担任の先生の愛情を独り占めしたく、友だちとグルになって事件をでっちあげた、とある。先生をよく迎えにくる夫に嫉妬して。それから、再審が認められた。二人が本当のことを証言するのは簡単なことではないが、法廷で男に謝罪した。男は、冤罪の代償金を得た。今は、カフェを経営し、イタリア人女性と暮らしているという...


5. 解剖学
いつも女に馬鹿にされる男は、生意気な娘を思い通りにしてやると意気込む。これまで殺してきた動物たちは、みな怯えた。死の直前には匂いも違うという。大きな動物ほど怯えの度合いも大きいとか。
「鳥はつまらない。猫と犬はすこしましだ。死ぬということがわかるのだ。だが動物はしゃべれない。彼女なら...」
なるべく多くを喋らせるためにも、ゆっくりと死に至らしめること。それが肝要だ。解剖用具はネットで購入済。人体解剖図も丸暗記。そして、娘を車に連れ込み...
警察が家宅捜索すると、地下室に小さな化学実験室があった。動物の死骸に、娘の写真に、無数のスプラッタームービーに...
しかし、男は車から降りたところをベンツに跳ねられ死亡。「私」は、ベンツの運転手を弁護したとさ...


6. 間男
夫婦は、結婚八年。美しい妻は、サウナで肌を露出して男を挑発し、夫は了承している。夫婦は公共のサウナで何度か試し、乱交クラブに出入りし、相手をインターネットで公募する。妻は間男たちの道具と化し、妻もそれを望んだ。妻は抗鬱剤を服用し、薬の依存症を自覚している。冷たく虚ろな空間が広がり、彼女は自分を見失っていく。夫は、男の一人を灰皿で殴った。まだ息があり、止どめをさそうとしたが、妻を思い、急に殺意が失せた。
起訴状には、コカインを巡る争い、と書かれている。複数の他人と性的関係を持っていたなどという事実を、同僚の弁護士たちは受け入れるはずがない。妻が法律事務所で働きつづけるのは不可能。妻が証言台に立つと、夫をかばうために別の話をした。その男と浮気をし、夫の知るところになったと。嫉妬のあまり気が動転して犯行に及んだのであって、悪いのは自分であると。その男との情事の映像も証拠物件として提出された。夫婦は、間男たちの情事をすべてビデオに撮っていたとさ...
ちなみに、法学的な用語に「黄金の架け橋」というのがあるそうな。いわゆる、中止犯と呼ばれるやつ。このケースでは、最後に殺意をなくしたために、殺人未遂罪は追求されず、傷害罪で決着がつく。


7. アタッシュケース
婦警は、警官になる訓練を受ける時、直感を信じるよう教えられた。だがそれは、論理的に説明のつくものでなければならない。
ある日、ドイツ語の分からないドライバを止め、トランクを開けるよう指示した。どうやらポーランド人らしい。すると、赤いアタッシュケースがあり、その中に死体の写真が18枚。どれも、全裸で腹部から尖った杭が突き出ている。ドライバは、中身を知らずに運んでいたという。バーで知り合ったビジネスマンにベルリンへ運ぶよう頼まれ、報酬はその場で現金でもらったと。
監察医によると、写真の死体は本物だという。仮に本物だとしても、写真を持っていること自体は犯罪ではない。後に、いくつもの小さな穴の空いた死体が発見された。それは、口径、6.35ミリのブロウニングによって開けられた穴。処刑か。いずれにせよ、ポーランド警察に情報を伝えることしかできない...


8. 欲求
万引き依存症の心理学。ルイ・ヴィトンのバッグに、グッチの財布に、クレジットカードと現金を持つ女性は、いつも不必要なものばかり万引きした。盗みを働くのは、なにもかも耐えられなくなった時だけ。やがて警備員に取り押さえられるが、盗難品の金額も低く、初犯であったために、検察官は手続きを打ち切った。家族は誰一人として、事件のことを知らずに終わったとさ。
依存症とは、それによってしか、生きている実感が得られない状態を言うのであろうか、だとすると再犯の可能性は...


9. 雪
老人のアパートの部屋は、麻薬密売で警察に目をつけられていた。だが、老人は場所を提供しただけ。警察が踏み込むと、老人はナイフをポケットに入れていた。武器を持っていれば、それだけで刑が重くなる。密売人たちの名前を自白しろと迫るが、老人は黙秘を続ける。今までだって、刑務所に度々世話になってきた。酒に溺れ、軽犯罪と生活保護という転落人生。あとは、終わりが来るのを待つだけ...
ある日、見知らぬ女性が面会に。聖母のような。彼女は密売人の一人の子を妊娠したという。バレそうか、老人の様子を伺いによこしたのである。裁判所は、自供すれば、拘留を止める用意があると伝えたが、老人はチャンスを棒に振った。
老人は、パンをナイフで細かく切らないと食べられない。歯がないから、いつもナイフを携帯していたのであって、武器ではなかった。老人は、仮釈放が認められ、二年間の保護観察に付せられる。
そして、クリスマスに入院し、雪を見ながら面会に来た聖母のような女性の、幸せになった姿を思い浮かべる。しかし、密売人の男は、両親の決めた別の女と婚約させられていた。その男もまた、聖母のような女性を思いつつ...


10. 鍵
エリツィンは女だ!プーチンは男だぜ!今は、市場経済の時代。市場経済とは、なんでもお金で買えるってことさ!共産主義の解体、これに続く薬物経済の発展に乾杯!このロシア人は酷い訛りのあるドイツ語を話す。
麻薬密売のボスから、愛犬と愛車とコインロッカーの鍵を預かったものの、犬の野郎が鍵を飲み込んでしまった。動物病院へ駆け込むと、獣医はまずレントゲンを撮りましょう... だって。そんな悠長なことを言っている場合ではない。とっとと糞を出させる方法はねえか!超強力下剤とか。そして、金のありかを巡って、糞まみれの逃避行が始まる。
鍵はどこだ!と銃口を向けられてロッカーの鍵を渡すと、中には、コカインに見える砂糖と、昔つかまされた贋金が。現場には警察が囲んでいた。だが実は、別の鍵がコインボックスの裏側に貼り付けてあった。その鍵で隣のロッカーを開けるって仕掛けよ...


11. 寂しさ
強姦された女性は、ことが済むと家に帰された。彼女は処女だった。やがて体調を崩す。倦怠感、吐き気、めまいに襲われ、甘いものばかり口にし、太っていく。腹痛は疝痛か、いや、陣痛だった。赤ん坊は、便器の中に落ち、すでに死んでいた。タオルでくるみ、ゴミ袋に入れ、地下室へ。鮮血を流す娘を見て、母親は救急車を呼ぶ。医者は、後産の処理をし、警察に通報。望まない妊娠の悲劇は、繰り返される。妊娠に気づかず、手遅れになるケースもごまんとある。大抵、明らかな兆候に別の解釈を与えてしまうという。月経がないのはストレスのせい... 太り気味は食べすぎのせい... 胸が膨らむのはホルモン障害のせい... と。出産経験のある人でも、そういうことは珍しくないそうな。事実から背を向け、どうしてそうなるか知らない人もいる。医者が、詳しい検査を怠ったせいで、そうなることもあるとか。
彼女は、トイレで出産して初めて気づいた。後始末の行為は、どうみても正常な判断ができる状態ではない。そして、半年後に家を出た。しばらくして弁護士の元に手紙が届く。今は幸せです。夫も娘たちも元気です。ただ、地下室に横たわっている赤ん坊の夢をよく見ます。男の子でした。あの子がいなくて、寂しいです... と。


12. 司法当局
男は、二本の松葉杖をついて、よろよろと面接室に入ってきた。彼に、略式命令が届いた。愛犬をけしかけた上に、ある男を見境なく殴り、蹴ったという。身の覚えがなければ、反論してくるはず、裁判官はそう思った。だが二週間後、略式命令は効力を持ってしまった。罰金を払わなければならない。もちろん払わなかった。罰金刑は禁固刑に切り替わり、出頭命令が届く。男は、その書類も捨てた。そして、連行され、刑務所暮らしをしている。
足が悪いのは生まれつきで、何度も手術を受けたという。執刀医から取り寄せたカルテを鑑定させ、人を蹴ったりすることは不可能と判断された。再審が認められ、被害者もこの男ではないと証言し、無罪に。法律の定めによると、拘留の期間に対する代償金を請求することができる。ただし、6ヶ月以内に。男は、これもふいにした。またもは期日を守らなかったのである。おまけに、司法当局は、真犯人への訴訟手続を忘れたという...


13. 清算
優しい夫に恵まれた妻は、幸せな生活を満喫していた。娘は幼児洗礼を受けて。だが、子供ができると、夫は変わった。酒の量が増え、知らない香水の匂いも。ただ、娘には優しい、いいパパのまま。よくある倦怠期か...
いや、そうではなかった。妻の髪をつかみ、床をひきずり、毎日、妻の肛門と口を犯し、殴る蹴るの暴行を繰り返す。「おまえは、どこへも逃げられない!」家族にも相談できない。妻は恥じていた。夫のことを、そして、自分のことを...
ある日、近くに越してきた男が彼女に声をかけ、家を訪問した。優しい男の言葉に情事となるが、傷だらけの裸を必死に隠すも、男は怒りに震えた。娘が危ない!もう十歳になる。妻は夫を彫刻で殴り殺した。
老齢の裁判長は、被告人は十年間、夫の暴力に苦しみ、十分に情状酌量の余地があると主張し、無罪を言い渡した。正当防衛の線で。しかも、検察官に上告を断念するよう説得した。裁判長が、こんな説得をやるなんて異例中の異例。
だが、指紋鑑定についての言及がない。凶器からは指紋が検出できなかったのだ。手袋をしていたのか。まさか、経験豊かな裁判長が見落とした?凶器の彫刻は、41kg もある。裁判所から出てくる彼女を、男が車で迎えに来ていた。二人の周到な計画だったのか...


14. 家族
仕事で成功し、湖に面した豪邸を購入した男は、39歳で仕事をやめた。ある日、親しくなった隣人が書類を送ってきた。弟についての。離婚した母が、もう一人の息子をもうけていたことを知る。母がアルコール中毒で死ぬと、孤児院へ。そして、窃盗、傷害、交通違反など軽犯罪常習者に。
今、リオ・デ・ジャネイロの刑務所で、麻薬所持の容疑で裁判を待っているという。現地で懲役二年の判決はドイツで三年に換算されて、国内に連れ戻す。だが、刑期を終えると、またも喧嘩沙汰。父は、1944年、ナチによって死刑の判決を受けた。女性を強姦して。もう、私たちで終わりにしたい。そして数年後、死亡記事が新聞に。嵐の日、ボートから落ちたという...


15. 秘密
男が、CIA と BND(ドイツ連邦情報局)に追われていると、弁護士に助けを求めてきた。眼鏡屋で手術され、水晶体の裏にカメラを埋め込まれたという。自分が見るものすべてが、諜報機関に流れるという寸法よ。BND と CIA を告訴してくれ!そして、その黒幕のレーガン大統領を。レーガンは既に死んでますけど。そんなこと信じているのかい。ドイツの政治家の屋根裏に隠れているんだぜ...
弁護士は、このいかれた男を精神科医に診てもらおうと、病院へ連れて行くと...

2021-05-30

"犯罪" Ferdinand von Schirach 著

なんとも煮え切らない、朦朧たる作品の群れ。ミステリーらしくないミステリーとは、こういうものを言うのであろうか。それでいて、どこか不気味で、心理描写はまさにミステリー!
フェルディナント・フォン・シーラッハは、ドイツでは高名な刑事事件弁護士だそうな。彼は現実の事件に材を得て、異質な罪を犯す人間の哀愁を物語る。刑罰とは何か。なぜ罰を科すのか。最終弁論でそれを見出そうとするところは論理的で哲学的。これがドイツ流か...


理論は山ほどある。刑罰が威嚇し、再犯をためらわせ、社会に秩序をもたらし... 等々。だが、ここに紹介される刑事事件は、いずれの理論でも解決しえない。そして、陪審員の裁量に委ねられることに...
ちなみに、ドイツの裁判では、参審制が採用されているという。参審制とは、一般市民から選ばれた参審員が職業裁判官とともに裁判を行う制度で、日本の裁判員制度もこの制度を参考にしているらしい。ただ違うのは、参審員は、裁判ごとに選出されるのではなく任期制になっているとか。彼らにはある程度の目利きがあり、感情に流されることも滅多にないとさ...
「まちがった物言い、感情の吐露、まわりくどい言いまわしなどはマイナスに働く。大げさな最終弁論などは、前世紀のものだ。ドイツ人はもはやパトス(情念)を好まない。これまでうんざりするほど大量に生みだされてきたからだ。」


尚、本書には、「フェーナー氏」、「タナタ氏の茶盌」、「チェロ」、「ハリネズミ」、「幸運」、「サマータイム」、「正当防衛」、「緑」、「棘」、「愛情」、「エチオピアの男」の十一作品が収録され、酒寄進一訳版(東京創元社)を手に取る。


ところで、この世に、嘘をつかない人間がいるだろうか...
人に嘘をつかなければやって行けない生き方もあれば、自分に嘘をつかなければやってられない生き方もある。現実逃避に、嘘は欠かせない。なにしろ、現実ってやつは残酷だ。実に残酷だ。対して、嘘ってやつは優しい。すこぶる優しい。女に嘘をつこうとしない野郎は、女心に対する思いやりに欠けるというものよ。
現代社会は仮想化社会と呼ばれるが、それは仮定の世界であり、夢想の世界であり、いわば、嘘で固められた世界。嘘が人間を廃人にするのか。嘘が嘘を呼び、やがて自分の嘘に潰されていく自我。それでも、嘘はやめられない。おそらく、嘘ってやつがなければ、人生は退屈きわまりないものとなり、現実に絶望するほかはあるまい...


では、裁判が真実を行使する場というのは、本当だろうか...
少なくとも、建前ではそういうことになっている。真実を語ることは馬鹿でもできるが、うまく嘘をつくにはかなりの頭がいる。相手が法なら尚更。証人は嘘をつくし、自供もあてにならない。真実を知る者は当事者だけ。いや、当事者だって、事実関係が分からないこともある。自分が殺人者の汚名を負ってでも隠し通したいってこともあれば、第三者であるはずの証人が注目されたいがために大袈裟に語ることも。真実と嘘の区別がつかなければ、嘘発見器もあてにならない。そもそも、人間の認識とはそうしたものだろう。意識は朦朧とし、記憶なんてものも曖昧きわまりない。いまや、指紋まで偽装できる時代、やがて DNA だって。海外ドラマ NCIS のように、ドラマチックな科学捜査を期待するわけにはいかんよ。
結局、裁判は、物的証拠、動機や背景、自供などを頼りに判断するしかなさそうだ。となれば、冤罪はある確率で生じることになる。それは、不確定性原理に看取られた生死確率を論じるようなもの。ネコは殺されたのか、あるいは、どこかで生きているのか、と。そして、嘘が現実に...


「私たちが物語ることができる現実は、現実そのものではない。」
... ヴェルナー・K・ハイゼンベルク


1. フェーナー氏
生涯愛し続けるという誓いに縛られ、離婚もできず、日々の罵声に耐えながらも、ついに殺っちまった老医師。誰よりも献身的で律儀であるがゆえに。それでも、愛は不滅だそうな...


2. タナタ氏の茶盌
大金持ちの邸宅から、骨董品の茶盌と高級腕時計と金を盗んだ若造たちは、茶盌と腕時計と金の五割を格上にせしめられる。これが裏社会の掟。しかし、被害届は茶盌と腕時計だけ。しかも、これをせしめた連中は亡き者にされ、若造たちは命拾い。公にできない金か。どっちが裏社会の人間やら...


3. チェロ
記憶を失いつつある弟は、姉がチェロを弾く時だけ昔の暮らしが感じられる。やがて言語機能も失うと診断され、絶望の淵に。腕に包まれながら、浴槽で静かに溺死。介護疲れの一端を見るような...
「さあ、櫂を漕いで流れに逆らおう。だけどそれでもじわじわ押し流される。過去の方へと...」


4. ハリネズミ
何世代も前から、いとこ同士、甥姪のあいだで結婚しあう犯罪者一家。その中で一人、独学で推測統計学と積分法と解析幾何学を会得した弟は、殺人容疑のかかった兄を助けるため、瓜二つの別の兄がやったと証言する。しかも、その論理展開が複雑怪奇。兄は八人もいて、みな前科者とくれば、故郷のレバノンへ入れ替わりで出かけるときた。馬鹿馬鹿しいほど複雑で、立証は不可能とくれば、推定無罪が機能する。
ちなみに、古代ギリシアの詩人アルキロコスの寓話に、狐とハリネズミについての物語があるそうな。
「狐は多くを理解するが、ハリネズミはただひとつの必勝の技がある。」
多角的な観点に立つか、一つの強みに絞るか、生き方の問題ではあるが、裁判がそんなものに左右されては、かなわんよ...


5. 幸運
戦争、そして、廃墟となった戦後を女の身ひとつで生きていくには、相当な覚悟がいる。ある男と出会い、二十五年に渡って政界で活躍した女性の自慢話が始まる。ある日、公園でバラバラ死体が発見された。デブが腹上死?監察医は、死因を心筋梗塞と断定し、切断されたのは死後ということで、殺人ではないことが実証された。彼女の証言によると、愛ゆえの遺体損傷だとさ。美女ゆえにパトロンがついて幸運。不要になったら死んでくれて幸運。そして、こんな助言をくれる人がいるのも幸運ってか...
「これからは生き方を変えなくっちゃ。」


6. サマータイム
ホテルのスイートルームで女子大生が、頭を殴られて殺害された。鉄製のスタンドが顔に突き刺さって。容疑者となった紳士は、とても乱暴するような人間ではないが、残された体液が DNA 鑑定で一致。駐車場の警備カメラに写った時間も一致。証拠は十分すぎるほどに十分。
一方で、被害者が貢いでいた男は、嫉妬深く、ホテルの前まで後をつけたことは認めている。動機は十分すぎるほどに十分。
しかし、動機は決定打にはならない。そこで弁護士は、証拠の穴探しに没頭し、ついに見つけた。カメラの時間設定は、夏時間に補正されていなかったとさ。紳士は無罪放免にはなったが、離婚は避けられない...
「血のついたナイフを持って死体にかがみ込んでいれば、その人物が犯人扱いされる。たまたま通りかかり、助けようとしてナイフを抜いたなどという言い分を信じる警官はひとりもいない。事件の真相は簡単なものだという刑事事件の鉄則は刑事ドラマの脚本家の発想でしかない。実際はその反対だ。自明と思えることも推測の域を出ない。大抵の場合がそうなのだ。」


7. 正当防衛
傷害事件や暴力沙汰を繰り返す二人の男は、人が恐れるのを笑って楽しむ。女をからかい、真面目な会社員をカモにし。経理係風の紳士は、彼らに目もくれずにいる。この態度にムカついてナイフを振り回すと、逆襲を喰らい心臓を一突き。もう一人の男が金属バットを振り上げると、急所の頸動脈洞を一突き。正確無比は、まさにプロの技。これは、正当防衛か、過剰防衛か。紳士は、メガネをかけ直し、足を組むと、タバコに火をつけ、逮捕されるのを待った。ただ、別の場所では、まったく同じ手口の殺人事件が発生していたとさ...


8. 緑
羊の死骸が、またもや運ばれてきた。目玉がくり抜かれ、18箇所の刺し傷。この数字に意味があるのか。伯爵家の御曹司は、人間や動物が数字に見えるという。牛は 36、カモメは 22、裁判官は 51、検察官は 23... 18 は悪魔の数字だとか。6 が 3 回で 18。666 はヨハネの黙示録に出てくる数字。

「ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」
...ヨハネの黙示録、13章18節

御曹司は、羊の目を恐れていたという。そんな時、彼と親しくしていた娘が行方不明。巷では、殺害が噂される。倒錯はすぐにエスカレートする。これまで犠牲になったのは羊だけだが、いつ人間に変わっても... と世間は考える。そして、君の数字はなんだい?との質問には、「緑」と答えた。数字じゃないんかい!?
うん~... こんなオチじゃ、眠れそうにない。ちょいとググってみると、ドイツ語の慣用句にこんなものを見つけた。

"Ach, du grüne Neune!"

驚いた時やびっくりした時に使うフレーズだとか。英語で言うところの、Oh my God! のような感じであろうか。トランプで縁起の悪いカードがスペードの 9 とされ、"grün neun" と言うらしい。つまり、自分を悪魔と言ったのか。緑の九ちゃん!


9. 棘
彫像「棘を抜く少年」は、裸の少年が岩に腰掛け、前かがみになって左足を右膝にのせ、右手で足裏に刺さった棘を抜いている。古代ギリシアの彫刻をローマ時代に模したもので、特に価値あるものではなく、複製品が無数にある。博物館警備員は、この彫刻の棘を探すが、どうも見つからない。ルーペを忍ばせ、くまなく調べるも。些細なことってやつは、気になり始めると、収まりがつかなくなる。この苛立ちを、悪戯で満たそうとは...
靴屋で靴底に画鋲を忍ばせると、試しに履いた客たちは悲鳴を上げる。棘を抜く少年にあやかって、画鋲を抜くなんとやら。人の不幸を見て幸福に浸ろうとは。やがて、気が狂ったように彫像を破壊した。異常な精神状態も、彫像が砕けて治癒したとさ。
こんなもの、最初からなけりゃよかったのに... と思うことはよくある。あの時なぜ、こんなつまらないことにこだわったのか... と思うことも。しかし、人間の意欲なんてものは、そんなことの積み重ねかもしれん。そして今、何にこだわって生きているだろうか...


10. 愛情
彼女を膝枕して、詩を朗読していた。そして、リンゴの皮を剥こうとナイフ取ると、背中に激痛が。彼女は、飛び上がって逃げた。あれは事故だ!弁明したくても、連絡がつかない。彼女の背中を見ればわかる。肩胛骨がくっきりと浮かび、肌は白くツルツルで、金色の産毛。バカンスで、海辺に寝そべった時、つい強く噛んでしまったこともある。
ちなみに、カニバリズムにも、いろいろな動機があるらしい。飢えを満たすため、儀式のため、だが、多くは性的衝動ゆえの人格障害だという。ハンニバル・レクターのような人物はハリウッドの産物などではなく、人類史はじまって以来、ずっと存在するという。
「十八世紀に、パウル・ライジンガーはシュタイアーマルクで、"処女の痙攣する心臓"を六つ食べた。彼は九つ食べると透明人間になれると信じていた。ペーター・キュルテンは犠牲者の血を飲み、ヨアヒム・クロルは一九七0年代に少なくとも八人を殺して食べた。それから一九四八年に自分の妹を食べたベルンハルト・エーメという人物もいる。」
そして、彼はウェイトレスを殺しちまったが、その動機はまるで分かっていないとさ...


11. エチオピアの男
男の人生は、残酷なメルヘンそのもの。捨て子で、孤児院、養子縁組、図体はでかく、顔は醜い。子供の頃からからかわれ、二度落第。工場のロッカーで窃盗事件が発生すると、無実なのに解雇される。底辺を生きる人々には、いつも苦難がつきまとう。これが人間社会というもの。銀行強盗をやって、エチオピアへ逃れるが、この地にも、人生に破れた人々がたむろする。売春、軽犯罪、貧困、物乞い、道端で憐れみを乞う手足のない障害者、ストリートチルドレン... この世は、ゴミの山だ!
そして、コーヒー農園で敗者復活を賭ける。売買ルートの立て直し、村の子供たちの識字率を上げ、結婚のおかげで心も穏やかに... 村は豊かになったとさ。
しかし、銀行強盗で当局に目をつけられ、強制送還。彼を弁護するため、エチオピアの村からビデオが送られ、彼の名を連呼する子供たちの笑顔が映し出される。裁判では、なかなか見られない光景だ。だからといって、参審員たちの心が刑罰を逃れさせるはずもない。そして、刑期を半分終えて仮釈放となり、再びエチオピアへ。現地の国籍を取得して、今は幸せだとさ。逃げる場所があるということが、いかに救われるか...

2021-05-23

"科学と仮説" Henri Poincaré 著

かのニュートンは、仮説を嫌ったと伝えられる。科学者の立場であれば、仮説の公表をためらうのも頷ける。
しかし、だ。仮説ぬきで思考することは可能であろうか。前提ぬきで、推論ぬきで、そして、解釈ぬきで、それは可能であろうか。ポアンカレ予想を提示したアンリ・ポアンカレは、仮説の重要な役割を堂々と論じて魅せる。直観の偉大さのようなものを...
尚、 河野伊三郎訳版(岩波文庫)を手に取る。


ユークリッド原論には、五つの公準が記される。それは、これ以上証明のやりようがない純粋な命題であり、言うなれば直観によって成立したもので、カントが唱えたア・プリオリな認識に通ずるものがある。
数学者たちは、公準を基軸にしながら、あらゆる論理の組み立てを演繹によって企ててきた。公準の存在を認めるということは、論理的思考の限界、つまりは人間の能力の限界を認めることになる。
それだけに、公準には常に懐疑の目が向けられてきた。天動説を仮定しなければ、地動説への展望は開けなかったであろう。ニュートン力学を仮定しなければ、相対性理論も、量子力学も編み出されることはなかったであろう。マクスウェルは、エーテル仮説を信じて、電磁場を記述する偉大な方程式を導き出した。この方程式で、エーテルの存在が否定されたわけではない。存在しなくても成り立つってことだ。第五公準が覆されて非ユークリッド幾何学の可能性を認めたのも、健全な懐疑心が働いたからであろう...


あらゆる思考法において、演繹だけに固執せず、帰納によって補完することも怠るわけにはいくまい。
それにしても、古典を読むのは楽しい。いまさらだけど... 科学は日進月歩、獲得した知識もすぐに古びてしまうが、それでも楽しい。いまさらだけど... アリストテレスも、ガリレオも、ニュートンも... 彼らの記述が色褪せないのは、それが人間の思考原理を物語ってくれるからであろう...


幾何学的な認識は、そのまま精神空間に投影される。しかも、この空間はユークリッド幾何学とすこぶる相性がいい。カントは、空間と時間をア・プリオリな認識とした。つまり、これ以上説明のやりようがない純粋な認識に位置づけたのである。
しかし、だ。その空間認識がユークリッド幾何学だというのは、本当だろうか。確かに、物心ついた時から、精神ってやつはユークリッド幾何学に看取られているような気がする。だがそれは、先天的な認識などではなく、自我が目覚める前の、まだ無意識のうちにある経験が、そのような感覚を獲得させたということはないだろうか。
仮に、自我の目覚める前に空間認識めいたものがあるとすれば、それはどんな幾何学であろう。人間の認識領域は、無意識の占める部分があまりに広大で、自我を覗き見するだけでも、よほどの修行がいる。しっかりと意識できるということは、すでに経験的であり、もはや純粋な認識ではない、ということになりはしないか。非ユークリッド幾何学の出現は、それを示唆している... などと解するのは、ただの考え過ぎであろうか...


1. 定義と規定の役割
そもそも、幾何学は、どうやって規定されるのであろう。ユークリッド幾何学は五つの公準で規定され、非ユークリッド幾何学は五つ目の公準から解き放たれ時に規定された。幾何学とは、単なる規定や制約、あるいは、単なる定義ということか。体系とは、そうしたものなのだろう。
学問するからには用語の定義が必要で、これを前提にしなければ、思考を展開していくこともままならない。
数学の定理は、最も単純な加法や乗法の規定によって組み立てられてきた。つまり、結合性、交換性、分配性、等価性といった数学的関係性の洞察によって。実に単調なやり方ではあるが、これこそがまさに最も高度な推論原理といえよう。数学は、数や体系の抽象化はもとより、その関係性においても抽象化の道を辿ってきた。その最たるものが群論である。
物理学の基本対象に、物質の構造と力学がある。力学は、物質の関係性を洞察するもので、まさに数学的推論に適合する。これを人間学に持ち込めば、人間の関係性においても数学的な洞察が可能となろう。
ところで、あらゆる命題が論理形式で引き出されるとしたら、大規模な同語反復に陥りそうなものだが、実際はそうはならない。人類は、うまいこと矛盾を回避する術を会得してきた。それが、定義や規定という術か。それは、人間のご都合主義か。
演算を得意とするコンピュータにしても、矛盾を回避する手段を与えなければ、システムが暴走してしまう。実際、実数演算は近似で誤魔化しているし、もし浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754 の意義を匂わせてやればいい。
哲学という学問にしても、「A は A である」という命題を回りくどいやり方で大層に語っているだけ、といえばそうかもしれん。だが、人間の思考能力で、それ以上に何ができよう。真理への道は、これら単調な道を突き進むほかはあるまい...


2.力とエネルギーの規定
力について考え始めたら、哲学をやることになる。関係あるところに、なんらかの力学が働くのだから。政治の力、金の力、愛の力などと...
そもそも、力とはなんであろう。古来、力の表記では、インペトゥス、モーメント、トルク、エネルギー、フォースなどの用語が乱立してきた。それだけ得体の知れない存在ということか。
アインシュタインは、あの有名な公式で、質量とエネルギーの等価性を示し、力は質量を通じてエネルギーで記述できるようになった。
では、エネルギーとはなんであろう。力学的エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和で記述される。運動する物体がエネルギーを持つことは、感覚的にも分かるが、位置がエネルギーを持つとはどういうことか。物体が存在するということは、空間のどこかに位置するわけだが、それは相対的な位置関係でしかない。
しかも、地球の重力を基準に計測され、運動エネルギーも、ある単位系を規定して記述される。つまり、力学的エネルギーの総体は、関係性において規定しているに過ぎないってことか。
光速にしても、粒子性と波動性の二重性に見舞われ、量子の世界では存在確率で記述される。となれば、エネルギーもまた、記述の規定に従っただけのことで、得体の知れないままってことか。
得体の知れない存在について考え始めたら、やはり哲学をやることになる。物理学という学問もまた、「A は A である」という命題を回りくどいやり方で大層に語っているだけなのか。学問とは、そうしたものかもしれん。専門用語を編みだすだけの。だから、用語を知らないヤツをバカにせずにはいられないってかぁ...
「科学が到達し得るのは、素朴な独断論者が考えているような物自体ではなくて、ただ物と物との関係だけである。この関係意外には認識し得る実在はない。」

2021-05-16

"現代物理学の思想" Werner Heisenberg 著

いつの時代にも、科学には解釈の問題がつきまとう。いや、科学でさえも...
ある物理現象に遭遇すれば、それに疑問を持ち、原因を探り、解釈を加えずにはいられない。そして、解釈の余地がなくなるまで精査し尽くすと、また新たな解釈を求めてさまよう。疑問が解釈を呼び、解釈が疑問を呼ぶ。こうして科学は進歩してきた。仮説嫌いのニュートンだって、そうやって思考してきたはず。思考のレベルは、疑問のレベルに比例するであろう...

物理現象の最も基本的な疑問は、二つに集約できよう。一つは、物質を構成する素材はどこまで微小かということ。二つは、物質の間で作用する力の正体は何かということ。前者は、古代の四元素から周期表を経て素粒子物理学に議論が受け継がれ、後者は、重力、電磁気力、核力のメカニズムを担う強い力、放射性崩壊のメカニズムを担う弱い力の四つの統一理論を夢見ては、論争を繰り返す。解釈というからには、主観の域を脱し得ない。疑問が持てなければ思考停止に陥るが、不毛な問答を繰り返すのでは同じこと。宇宙が一つの物理法則ですべて説明がつくとすれば、そこに住む知的生命体は退屈病を患うであろうし、そもそも知的生命体に進化することはなかったであろう...


「自然は人間より前からあるし、人間は自然科学より前から存在していた。」
... カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー


これは、量子力学をめぐる解釈の物語である。量子力学は、相対性理論と並ぶ現代物理学の根幹をなす存在で、その研究では二つのアプローチがある。行列力学と波動力学が、それだ。前者は、ハイゼンベルクの不確定性原理で威光を放ち、後者は、シュレーディンガーの波動方程式で幅を利かせる。
量子の性質には、粒子と波動の二重性がある。光や電子には、光電効果のような粒子を放出させる現象もあれば、回折や干渉のような波を思わせる現象もある。となれば道は二つ。粒子性から迫るか、波動性から迫るか。
注目すべきは、まったく異なる二つの発想が、数学的には等価だということ。しかしながら、その解釈となると、二つの巨星にとどまらず、多様な説が飛び交う。コペンハーゲン派の解釈が主流かどうかは知らんが、ハイゼンベルグの立場はそういう位置づけになろうか。
主観で議論するからには、デカルトの存在論やカントの直観論とも交わる。ボーアの解釈では「相補性」が語られ、粒と波が互いに存在を補い合っていると捉える。いや、不確かな存在は、解釈で補うってか。粒のようで粒でない... 波のようで波でない... ベンベン!
それで、シュレーディンガーの猫が生死にかかわらず、どんな状態にあるかは知らんが、なんとなく存在してそうな気がする。チェシャ猫のように薄ら笑いを浮かべて...
仮に、量子が波だとすると、それを伝える媒質が存在するはず。音波が空気を伝わるように。マクスウェルは、エーテルという架空の媒質の存在を信じて、電磁場を記述する方程式を編み出したが、媒質の必要性は否定された。それは、エーテルの存在が否定されたわけではなく、存在しなくても構わないってことだ。光速は媒質に影響を受け、真空中で最大になるというから、これを基準にすれば、存在しないに等しいというわけである。なので、古典論で絶対真空と呼ばれる宇宙空間に、何も存在しないとは言い切れまい。それが、ダークマターってやつかは知らんが...


物理学における解釈の問題は、観測の問題でもある。不確定性原理は告げる。量子の観測では、厳密な位置と運動量を同時に決定することができない... と。しかも、これら二つの不確かさの積は、プランク定数を粒子の質量で割ったものよりも小さくはならない... と。
存在するが、存在の仕方までは理論的に決定づけられないとしたら、その存在はいかようにも解釈できる。人間にとって、存在なんてものはそんなものかもしれん。そもそも、魂や精神の存在が不確かさに覆われている。デカルトが定式化した「我」も、カントが唱えた「悟性」も、道徳屋が説く「理性」も、政治屋が焦がれる「正義」も、博愛主義者が崇める「愛」も...
いずれにせよ、人間は、リアリティの中でしか生きられない。デカルトの思惟も、カントのアプリオリも、リアリティな認識に裏付けられている。哲学は、リアリティとの葛藤から発展してきた。
ただ、リアリティは、リアルとは違う。現実とはちと違う。現実っぽい... と言うべきか。現実と正反対であることすらある。だから、目の前の幻想や夢に惑わされる。現実社会では、確率関数が幅を利かせ、近似や誤差の概念が大手を振り、自己存在までも確からしさの度合いに呑まれる。
だから、自分探しの旅は、いつの時代もお盛んときた。人間のできることといえば、現実を前にして思惟することぐらい。デカルトの言葉は、まんざらでもなさそうだ。
アインシュタインのあの有名な方程式は、質量あるところにエネルギーが存在することを告げている。エネルギーあるところに、なんらかの存在が規程できるとすれば、霊感ってやつも観測できるやもしれん...


古来、自然哲学の歴史は、存在をめぐる論争の歴史であった。それは、物質的な原因を問い、理に適った解釈を求め、一つの原理に帰着させること。哲学は言語による定義を要請する。数学が公理を要請するように。だが、厳密な言語は息苦しい。解釈の余地は、その息苦しさを和らげてくれる。不確定性原理は、その役割を担おうってか...
言語は偉大である。コミュニケーションや思考の手段だけでなく、リアリティまでも現実のものにしちまう。量子力学は、その新たな言語を担おうってか...
解釈は批判される運命にあり、批判する行為もまた解釈によってなされる。どちらの解釈がより合理的か、その優位性を競うのが人間社会。科学でさえ、健全な懐疑心を持ち続けるには、よほどの修行がいると見える。思考実験がパラドックスを育み、思想へといざなう。思想とは、解釈の問題か。人類は、原子自体について語る言語を、いまだ獲得できていない。ならば、なんでもあり...
尚、河野伊三郎、富山小太郎訳版(みすず書房)を手に取る。

2021-05-09

"責任と判断" Hannah Arendt 著

「凡庸な悪」をめぐる物語。それは、「凡庸な善」と背中わせにあったとさ...

小惑星の名になったハンナ・アーレントは、ヒトラー時代を生き抜いたユダヤ系女性。彼女が提示する悪は、邪悪でない人々が画一化し、全体主義的な傾向を強めていく中で浮かび上がる悪である。
どんなに良い事でも、同じ事をする人が多過ぎると、なにかと問題になる。それが人間社会というものか...
どんなに良い人でも、同じ考えの人が集まり過ぎると悪魔に変貌する。それが集団社会というものか...
人間ってやつは、自分自身を見つめることを忘れちまうと、人間性までも見失うらしい。そんな大衆社会にあって、個人の責任はどこまで問われるだろうか、個人の判断はどこまで当てになるだろうか。これがハンナの問い掛けである...
尚、中山元訳版(筑摩書房)を手に取る。


やはり、大衆は臭い!そこには、誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。正義を振りかざす人ほど言葉を強め、中庸な人ほど言葉を弱める異様な言語空間。言葉ってやつが、人を攻撃的にさせるのか。アイヒマンのような怪物が実は凡庸であったと指摘し、人間が潜在的に持つ悪魔性について言及すれば、非難に晒される。語ってもいないことを攻撃する輩がいれば、語ってもいないことを擁護する輩まで論戦に加わり、まるで SNS 上で繰り広げられる誹謗中傷の連鎖。現代社会の抱える病理が、こんなところに...


人は誰もが、自分の属すカテゴリに対して敏感に反応する。それは、自己存在を強烈に意識させるからで、いわば本能的な反応。所属するグループが他のグループを優越できれば、これほど心地よい居場所はない。
しかし、だ。残虐な迫害行為がなされ、それを目の当たりにし、それでも心地よくいられるだろうか。悪魔の所業は、どんな心理状態で容認されたのか。歴史学者グイド・クノップは、アイヒマンやメンゲレなどの恐るべき事務的処理を指摘していたが、ハンナは、官僚主義が生み出す非人間性を指摘する。
おそらくヒトラーは、巨大官僚機構こそが、人々が思考することを放棄させ、機械的に、事務的に、つまりは、最も忠実な実行部隊に仕立て上げることを熟知していたのだろう。独裁者である自分自身を神格化できればそれに越したことはないが、こっちの方が手っ取り早いことを。民衆の心を操るプロパガンダ効果も含めて。大衆社会という形態は、この時代に基礎づくりがなされたとも言えそうか...


1. 官僚主義がもたらす「義務」という脅迫観念!
義務ってやつは、ある時は出世の道具に、またある時は強迫観念に、意志を持たない人ほどハマりそうな。これと瓜二つの観念に「常識」とやらがあり、どちらも疑問を持つことを忘れさせる。
義務の恐ろしさは「責任」という観念にいとも簡単に転嫁されるところにある。あらゆる行為が自発的でなされるならば、義務やら、責任やら、そんなものを意識せずに済むはずだが、自発性は個人の問題である。集団の中では協調性がより重要視され、自発性と協調性はしばしば反目する。そのために、統治者は、意志をしっかりと持ち、自発的に行動する人が煙たくもなり、逆に自発的な人は、所属するグループが息苦しくもなる。
そして、ボランティア的な社会活動でさえ誰かの命令でやらされてしまい、誰かの指示がないと仕事も見つけられない。換言すれば、官僚主義は「義務」や「責任」といった用語で支えられている。いや、縛られていると言った方がいい。これらの用語をどう解釈するかは別にして...
但し、官僚主義は公務員の専売特許ではない。組織あるところに、なんらかの形ではびこる。命令する側にとって、イエスマンほど都合のいいヤツはいない。命令だから、規則だから、法律だから、と言い訳できれば、思考せずに済む。非人間性ってやつは、思考することの面倒臭さからくるのだろうか。形式や儀式に固執し始めたら、その前兆かもしれない。
いずれにせよ、扇動者にとって、思考しない連中が思考しているつもりで同意している状態ほど都合のよいものはない...
「こうした官僚機構で支配するのは、法でも人間でもなく、非人格的な役所やコンピュータです。まったく人間の手から逃れた制度による支配は、これまで経験されてきた独裁政治のもっとも法外な専制よりも、人間の自由と最低限の礼儀に対する脅威となりかねないものです。」


2. 良心や定言命法ってやつは、当てになるか?
道徳を根底から支えるものに、良心ってやつがある。良心は、責任や義務にも深く関与する。良心はきわめて主観的な領域にあり、主観的であるからには個人的な資質に関わる。道徳が個人的な問題だとすれば、集団社会においては悲観論にならざるをえない。ソクラテスの黄金律だけでは不十分。何か別のものが必要ってことだ。
ハンナは、古代ギリシアから培われてきた道徳法則に、「カントの定言命法」を加えて補完を試みる。仮言命法は、ある目的を実現するために提示される命令で、道徳的な意味はあまりない。対して、定言命法は、目的を考慮せずとも提示される命令で、義務の意味合いが強い。ただし、目的を考慮せず... というのが問題で、無条件で思考を放棄してしまっては本末転倒。常に、自己の中にある良心に耳をすます、といったところか。
しかしながら、自らに照らして吟味する性格のもので、主観的な領域は脱しえない。となれば、あとは共通認識に期待するぐらいか。善と悪の基準は人それぞれ。それでも、人間なら誰もが苦痛を感じ、喜びを感じるような意識がある。それが、普遍性ってやつか。普遍性に従った判断力は、共同体の中で期待できる最後の砦となりうるだろうか。それは、基本的人権とも深く関わる問題である。
とはいえ、良心に期待するのも心もとない。良心の限界、理性の限界、道徳の限界を心得てこそ、節度の心理が働く。自分の理性に自信を持ち、自分の道徳認識に自信満々になれるということは、すでに自己の中で理性が暴走を始めたと見るべきであろう...
「客観的な原則の表象は、これが意志を強制するかぎりで、理性の命令と呼ばれ、この命令の形式は命法と呼ばれる。」


3. ヒトラーの教皇
ロルフ・ホーホフートの戯曲「神の代理人」は、ユダヤ人虐殺を黙視したローマ教皇ピウス12世の戦争責任を告発し、多くの論争を呼んだ。人道的な立場から、なにゆえナチスを批判しなかったのか、あるいは、できなかったのか、という議論は現在でも燻る。ヨーロッパにおけるローマ教皇の精神的権威は大きく、ローマ皇帝でさえ教皇に頭を下げてきた歴史がある。当時のドイツにも多くのカトリック教徒がおり、その影響力は大きかったはず。なのに... そして、ピウス12世は「ヒトラーの教皇」と呼ばれた。
しかしながら、21世紀の今では、逆の見方が優勢であろうか。実際、表向きナチスと親交をもちながら、多くのユダヤ人を救ったという逸話が数多く残され、映画やドラマにもなっている。人種的な、イデオロギー的な立場をカモフラージュしなければ、そうした行為もできない。そのために、戦後、不本意な告発がなされ、無知な大衆の餌食にされた事例も少なくない。
では、ピウス12世の場合はどうであろう。ナショナルジオグラフィックでも特集をやっていたが、バチカンの敷地には多くにユダヤ人が匿われたそうな。ユダヤ教の礼拝中にドイツ軍が近づけば、アヴェ・マリアを歌ってカトリックを装う。教皇が沈黙していたから、静かに匿うことができたとも言える。
ピウス12世はヒトラー暗殺計画にも関与していたという説もある。ヒトラーもローマ教皇を目の上のたんこぶと見ていた節があり、教皇の誘拐計画を企てたが、実行部隊がわざと時間をかけて防いだといった話も。
また、当時のヨーロッパには二つ悪魔がいて、互いに警戒しあっていた。一つは、ヒトラーの国家社会主義、二つは、スターリンのボリシェヴィキ。バチカンにとっては、後者の方が危険であろうか。ドイツにも多くのカトリック教徒がいたし、ヒトラーはユダヤ人だけでなく共産主義も目の敵にしていた。ただ、地理的にはヒトラーの方が目障りで、西ヨーロッパのほとんどの領土を支配していた。
こうした情勢の中で、堂々とヒトラー批判を展開すれば、バチカンは残虐な報復攻撃を受けたことだろう。ハイドリヒ暗殺でリディツェ村が抹殺されたように。正論は、しばしば悪魔の口実にされる。戦後の当事者の証言にしても、あまり当てにならない。自分を正当化しようと必死なのだから。
そして、ドイツの大衆はヒトラーにすべての責任を負わせ、敵国の大衆は一介の市民にまで責任を負わせようとする。戦争責任を問うことは難しい。その範囲を問うことは、さらに難しい。クラウゼヴィッツ風に言えば、戦争は政治の一手段であり、その責任は政治指導者が負うべきであろうが、その指導者が選挙で選ばれた人物なら、国民にまったく責任がないとも言えまい。我が国にも、戦時中に平和論を唱えようものなら、非国民と罵倒された時代があったが...


4. 善行の逆説
カントは、毎日、同じ時間にケーニヒスベルクの街路を散歩したという話は聞いたことがあるが、散歩中に乞食に施しをする習慣があったという逸話はあまり知られていない。いつも新しい硬貨を用意し、使い古しのみずぼらしい硬貨を与えるのでは、乞食を侮辱すると考えたとか。乞食たちが群がり、カントは散歩の時間を変えなければならなかったが、その理由を告げるのを恥じて、肉屋の店員に乱暴されたからという話をでっちあげたという。本当の理由は、施しをする習慣が道徳的な格律にふさわしくなかったということらしい。すなわち、「施しをねだる人には誰にでも与えよ」という格律から...
善をなす誘惑はどこにでも転がっているが、悪をなすには手間がかかるし、知識もいる。道徳を学ぶには、悪をも学ばなければ...
すると、善行の逆説が薄っすらと浮かび上がる。ナザレの御仁は、善を行う者は、その行為を他者からだけでなく、自分自身からも隠せ... というようなことを告げた。右の手のすることを左の手に知らせてはならない!という言葉が、それだ。善を行えば、それを人にアピールしたくなるものだが、それこそ独善者というわけである。真の善人は、善人ぶることはないだろう。真の悪人こそ善人ぶるだろう。無私性を問えば、自ら孤独へ導くことに。そして、孤独のうちに十字架を背負ったのだろうか...


5. 孤独と孤立、そして孤絶...
人間ほど孤独を恐れる動物はあるまい。寂しがり屋な性癖がそうさせるのかは知らんが、誰かと繋がっていないと心配でしょうがない。
そこで、ハンナは、孤独と孤立の違いを指摘し、「孤絶」という概念を持ち出す。思考は、孤独の状態を前提とし、自己との対話によって可能になる。孤立は、自己との対話すらできず、思考することもできない状態。孤独は自己の中にあるが、孤立は自己の中にも、人里離れた山奥にもなく、むしろ集団の中にあるというわけか。そして、最も深刻な状態が孤絶ってやつで、それは騒々しい大衆の中にあるってか...
エジソンは、こんな言葉を残した... 最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は騒動のうちになされる... と。
ハンナは主張する。善を為す者は、それが善行であることを他者に誇ってはならないだけでなく、自らも意識してはならないと。行為を為す者は、単独で神と向き合っていなければならないと。
とはいえ、これを実践するには、よほどの修行がいる。下手すると自己にも無関心になりそうな。自己に無関心な自己とは、どういう状態であろうか。それはそれで危険な香りがする。いずれにせよ、最も危険な状態は、自己に問い掛けることを忘れ、自己を見失うことであろう...

2021-05-02

お引越し、BD 2枚でピストン輸送... おいらは流れに弱い!

この春、Jcom さんの流れがいい!雨でも降るんじゃない?もう二十年かぁ。長いこと使ってりゃ、いいこともあるってかぁ...


ネットコースを、320M から 1G へアップしたばかり。瞬間スピードも 800Mbps を超え、まあまあ...
そこに、CATV チューナの交換ときた。モノは、Pioneer BD-V302J から 住友電工 XA401 へ。サービス名も変わり、Smart J:COM Box(スマートテレビサービス)から、J:COM LINK へ。


我が家の BD レコーダは Sony BDZ-E500、十年前の代物だ。こいつは、サイトに公開される LAN 録画の対応機種表にはない。ただ、一応 DLNA 対応機器なので試してみると、十分に使える。こいつで OK! なら、たいていの機種はいけそうか...
内蔵 HDD が 500GB と貧弱で、すでに枯渇気味。ちょうど買い替えを考えていたところに、チューナの交換というタイミングの良さ。おいらは流れに弱い!


1. さて、次の機種は?次のメーカは?
この手の問題では、まずデータのお引越しが悩ましい。メーカ依存は避けたい。BDZ-E500 は、パナからの乗り換えであった。今度も乗り換えのつもりで、久しぶりに家電量販店に足が向く。
すると、Sony BDZ-ZW1700 が三万円ちょっとで叩き売りしていた。まさか展示品?在庫は二つ、どうやら新品のようだ。5月に、新製品 ZW2800/ZW1800 が出たばかり。録画機能などがアップしてそうだが、余計な機能はいらない。むしろ、型落ちの方がありがたい。ZW2700 は内蔵 HDD が 2TB で、これなら即決しそうだが、ZW1700 は 1TB で、ちと寂しい。店員によると、ZW2700 は先週売り切れたという。
また Sony では芸がない!文化に染まるのも、よろしくない!、と一瞬踏みとどまるものの...


2. 結局、衝動買いかよぉ...
うん~、店内で30分考えた挙げ句、おいらは流れに弱い!
要するに、メインの記憶デバイスをどこに配置するか。メーカ依存を避けるなら、SeeQVault 対応の HDD/SDD あたりか。時期尚早な気もしなくはないが...
いずれにせよ、BD レコーダが SeeQVault 対応でなければ、話にならない。ちなみに、ZW1700 は対応している。メインを外付に配置するなら、4TB は欲しいところ。内蔵を一時退避場所に位置づけるなら、1TB は贅沢な領域となる。DLNA 対応機器ならパソコンからも覗けるし、NAS を立ち上げることも視野に入れて、SeeQVault のサーバソフトも検討してみたい。そもそも、BD/DVD といった記録媒体が必要なのか?BD レコーダの地位も下がっていくかも...
などと考えを巡らせているうちに、衝動買いしちまった。結局、問題は先送り。1TB が枯渇するまでに、まだ時間はある。
そういえば、家電量販店で機器を購入するのは何年ぶりだろう。通販サイトがコロナ禍や配送業者でドタバタ劇を演じる中、意外と穴場やもしれん...


3. お引越しは、BD-RE 2枚でピストン輸送!
ZW1700 の HDD は 1TB でちと寂しい... と書いたが、E500 の 500GB のお引越しとなると、かなり辛い。最近の機種は、お引越しダビングなんて機能があるが、E500 の時代にそんなものはない。
ムーブ + ムーブバックを、ちまちまやるしかないか。BD-RE が 2 枚あれば、ムーブとムーブバックを同時にカバーできる。単純計算で、50GB の BD-RE で10回。1回に要する時間は、90分から 120分で、だいたい2時間置きに様子を見ては作業するといった感じ。なんと時代錯誤な!まぁ、500GB なら被害は小さい...


4. 録画そのものが、バカバカしい行為かも...
時代とともに画質が改善されるたびに、新たな記録媒体で録り直し。VHS に始まり、DVD/BD、さらに、4K/8K と続くだろう。どうせ録り直すなら、いま録る必要があるのだろうか?それでも、やっちまう。手元に現物がないと落ち着かない。ただそれだけのために...
情報ってやつは、大量に押し寄せてくると鬱陶しくなるが、録画データにも似たところがある。録画という行為は奇妙なもので、一旦録画しちまうと、なかなか観ようとしない。いつでも観られるという安心感からか。
となれば、録画という行為そのものがバカバカしくなる。ダイレクトにストリーミングすりゃいいものを...


学生時代は、もっと、もっと、バカなことをやっていたっけ...
レンタルビデオ屋さんから大量に VHS を借りてきては、持ち寄ったビデオデッキでダビング。ビデオデッキを二台所有できるのは、金持ちのボンボン!新古品の売出しに徹夜で並んで、1万円ポッキリでゲット。1万円でも高価だった。情報を聞きつけたヤツらが、おいらの部屋にビデオデッキを持ち込んで徹夜でダビングを始める。アダルトビデオを大量に借りてくるヤツもいた。
おまけに、大学の真向かいのアパートで、チャイムが鳴ってから家を出ても講義に間に合う。おいらの部屋には、代わる代わる学生がやってきて、プライベートはぐちゃぐちゃ!俺の青春を返せ!
今つくづく思う。録画という行為が、いかにバカバカしいか。しかし、バカバカしいことをやり続けるのが人間である...