2022-03-20

"複素数30講" 志賀浩二 著

何事も、理解へのプロセスにはリズムが肝要である。対象が難解であれば、尚更。この数学 30 講シリーズは、30 ものステップで軽快なリズムを奏でる。おいらの物事を理解したかどうかの基準に、脳内の思考空間にマッピングできるか... といった感覚があるが、まさに本書は、複素数という複雑な演算体系が幾何学的なイメージで、すっと頭の中に入ってくる。そして、アカデメイアの門に刻まれた文句を想い起こす。幾何学を知らぬ者、くぐるべからず!
ちなみに、おいらは数学屋ではない。単なる数学の落ちこぼれだ。応用数学は、しっかり赤点とったし...


さて複素数とは、なんぞや。それは、実数と虚数が混在する世界。実数とは、いわば実世界の数。
では虚数とは、なんぞや。imaginary number というぐらいだから、単なる想像物か。実存を正確に記述するには、このような仮想的なものに頼らざるを得ないのか...
これと似たような立場に、マイナスの数がある。今日、当たり前のように使われるが、財産がマイナスってどんな状態?実存がマイナス?それは、貨幣のような仮想的な交換価値を前提して、初めて成り立つ概念と言えよう。借金、売掛、債権... こうしたものが財産権のもとで機能するのも、価値換算できる基軸があるからだ。家計の赤字で悩むのも、マイナス換算できるお金という代替価値がなければ説明できないだろう。
マイナスという数が登場した時代、庶民にはなかなか受け入れられなかったであろう。物々交換の時代に、マイナスという数はイメージしずらい。人類は、窮屈な人間社会を生きやすくするために、負債をいくらでも抱えられる仮想的な仕組みを作り上げてきたというわけだ。投資に支えられる経済循環とは、まさにそれであり、資本主義が成り立つのも、まさにそれだ。


そして、虚数である。こいつが庶民に受け入れられるには相当な時間を要するであろう。虚数との出会いは、-1 の平方根に見る。平方根とは、二乗すると元の値に等しくなる数。マイナスの平方根はマイナスと出会えば互いに打ち消し合って実世界に姿を現すが、出会えなければ虚世界に幽閉されたまま。虚数の単位は、i = √-1 で表記され、こんなものは算術のご都合主義から編み出された裏技にも映る。


ところが、だ!
この空想的な数の体系が、一旦、実世界と関係をもつと、たちまち強力な道具となる。カオス世界で生じる複雑な現象を記述するには、「微分方程式 + 複素数」という組み合わせが実に都合よく、電子工学や電磁気学、あるいは量子力学では絶対に欠かせない。
但し、複素数を単純な現象に用いれば、却って厄介になるので要注意!単純な現象とは、一回きりしか微分できない関数で記述できるような...


1. 幾何学操作で演算を単純化
演算を単純化する裏技では、例えば、指数関数的に増大する現象を乗法や加法に引き戻してくれる「対数」ってヤツがある。複素数を用いるメリットもまた、演算を単純化してくれることにある。
実数を、数直線上にマッピングされる一次元空間とするなら、虚数軸を付加して二次元空間にマッピングしたのが複素平面、いわゆるガウス平面である。この二次元空間が、幾何学的な演算作用をもたらしてくれるから、摩訶不思議!
例えば、i を掛けるという演算は、原点を中心に 90 度回転させることを意味し、i2 = -1 は 180°の回転、すなわち逆位相となる。i(愛)ってやつは、二重に掛けると裏目に出るという寸法よ。
ちなみに、巷では、これを「二股かける」という。それで、一筋の愛を貫くのは夢想家で、二股をかけるのが現実主義者ということになるらしい。
ここで重要視される物理量が「位相」ってやつで、演算を単位円内に幽閉するという見方もできよう。ベクトルやノルムに看取られた幾何学演算とでも言おうか、電子スピンや角運動量といった力学現象との相性を感じさせる。複素指数関数と三角関数との関係を記述したオイラーの公式は、まさにそれだ。


「複素数は、平面の回転や相似写像と密接に結びついており微分可能な関数 -- 正則関数 -- は、このような幾何学的な働きの中に、ある平均的な挙動と微細な内在的性質との関連を示してくる。ここにみえる複素数の世界は、ただ単にイデアの世界に漂っているわけではなく、確かに現実の相の1つを実現している。」


2. リーマン球面へのマッピング
複素平面は、原点を中心に回転しても、まったく均質的な様相を保つ。となれば、平面よりも球面の方が相性がよさそうだ。そこで、リーマン球面をガウス平面に絡めて考察してくれる。しかも、一次関数のみで対応づけるというやり方で。
但し、北極点だけは対応する複素数がなく、無限遠点となる。
なるほど、リーマン球面は、ガウス平面の拡張版という見方もできそうだ。となると、平面にこだわらず、立体、いや、多次元ではどうであろう。数学ってやつは、仮想的に次元を増やしていくのが、お得意ときた。
しかしながら、次元を増やしても、四則演算が自由に行えるか、また、回転や相似写像などの幾何学操作も自由に行えるか、と問えば、本書は否定的である。
そういえば、複素数を拡張した体系に、「四元数」ってやつがあるが、乗法の可換則が成り立たない。人間の認識能力では、二次元空間までが最も適しているということか。いや、まだまだ研究途上なのかも...


3. 微分可能という概念の幾何学的見方
物理現象を解析する上で、重要な概念の一つに「線型性」ってやつがある。微分可能と密接に関わる概念だ。本書では、ガウス平面の視点から微分可能かどうかについて考察してくれる。正則関数の平面的展開とでも言おうか...
微分可能かという問い掛けは、解析学では重要な問題であり、おいらが最も関わりを持つのが近似の考え方である。複雑な現象に対して、まず、適合する冪級数を探り、テイラー展開などで近似するという思考プロセスを繰り返し、その先に、あの美しいオイラーの等式に思いを馳せる... といった具合に。
実数の世界での微分は、直線による近づき方が問題となるが、複素数の世界では、平面においてあらゆる方向からの近づき方が問題となり、とても一回きりの微分では収束しそうにない。
そこで、二次元空間の各点でテイラー展開ができるような関数を想定することに。テイラー展開の幾何学的マッピングとでも言おうか。複素解析の思考イメージは、こんな感じ...


「複素数の意味で微分可能ということは、関数が1点の近くで、水が広がっていくような状況になっていることだ。」

2022-03-13

"E=mc2 世界一有名な方程式の「伝記」" David Bodanis 著

E=mc2...
歌姫マライア・キャリーは、この方程式の名を掲げたアルバムをリリースした。彼女のイニシャル "MC" に因んで...


これほど、世間に知れ渡った物理方程式は他にあるまい。だが、その真の意味を知る者は少ない。そもそも、方程式ってやつは、自然法則を記述するだけの無味乾燥な存在。それが一旦、様々な物理現象や社会現象に関係するとなれば、多くの解釈を呼ぶ。人間ってやつは、なにごとにも意味を与えないと落ち着かないと見える。やがて、発見者の思惟とはまったく関係のない領域で、方程式自体が独り歩きを始める。有機体のごとく...


これは、アルベルト・アインシュタインという人物の伝記物語ではない。方程式の伝記物語である。GPS やテレビなどの情報機器、腫瘍の検知に用いられる PET スキャナなどの医療機器、あるいは、原爆開発競争を巡る戦争秘話を通して、世界一有名な方程式に込められた尽きぬ意味を探る。ファラデー、ポアンカレ、ラザフォード、フェルミ、ハイゼンベルク、オッペンハイマーらの人間模様を交えて...
尚、伊藤文英, 高橋知子, 吉田三知世訳版(ハヤカワ文庫)を手に取る。


この方程式は、極めて単純なことを告げている。エネルギーと質量は等価であると...
物質は、自らの運動のしやすさを決定づける性質を持っている。質量と呼ばれるやつが、それだ。
では、エネルギーとは何であろう。ニュートンの運動方程式は、「力」という概念を質量と加速度の積で記述される。エネルギーが質量と関係するからには、力との結びつきを感じずにはいられない。
だが、アリストテレスの運動論以来、力の作用をめぐる議論は迷走を続け、インペトゥス、モーメント、トルク、フォースなどの様々な用語が乱立してきた。
21世紀の今、天動説という発想に感動すれば馬鹿にもされようが、そんなことよりも古代人の発想力への敬服は、広大な地面が球体であることを受け入れたことである。それは、球面上に存在する物体の位置関係では上下の感覚がぶっ飛ぶことを意味し、中心点に引きつける重力の概念を考えざるを得ない。重力とは、まさに重さの力。自己主張の強い人間社会において、存在の重さを計る最も重要な物理量だ。体重計の前では存在の軽さを演じたりしてるけど...
そして、20世紀初頭、この得体の知れない力の概念は、エネルギーというの名のもとで具体的に質量で記述されたとさ。しかも、光速の 2 乗との積で...


c2 という巨大な数が掛けられた贅沢なエネルギーの正体とは...
相対性理論によると、光は天空までも曲げてしまう力が秘められているらしい。光には奇妙な性質がある。常に物質の運動を先んじ、本体から逃げるように放出し続ける。ニュートン力学でも、物体の運動エネルギーは質量と速度の 2 乗の積で記述され、何か運動する要素を 2 乗すれば、なんらかの力が得られそうな予感が...
たった一粒の原子核ですら、光速の 2 乗という途轍もない数値を掛ければ、核分裂を引き起こすような衝撃が。例えば、ウラン 235 に中性子を衝突させたり、プルトニウム 240 を放射性崩壊させたり...
となれば、科学者たちの興味そっちのけで、政治屋どもが群がる。宇宙を支配する法則よりも、人間社会を支配する道具に...
物質を解明するとは、内包されたエネルギーの解放を意味するのか。善悪はそれを用いる者の心の中にある!とはよく耳にする科学者の弁明だが、それは詭弁であろうか。すべては、アインシュタインが悪い?いや、いずれ誰かが導いたであろう。
方程式という言葉の響きは、よほど心地よいと見える。権威ある学者が太鼓判を押せば、そこに人々が群がり、こいつに無限の期待をかけ、自己を暗示にかけちまう。だがそれは、迷信と何が違うのだろう...


本書の逸話では、ナチスの原爆研究で水が大きな役割を果たしたことは興味深い。
水とは、H2O のこと。中性子線を原子核に衝突させようとすると、たいていはかすりもせず、向こうへ飛んでいってしまう。中性子線の速度が速すぎるために。そこで、水をぶつけることによって減速させる裏技を、フェルミが発見したという。厳密に言えば、水素である。水素は重い方がいい。高速の中性子線を減速させるには、重水がうってつけというわけだ。ナチスの重水工場は、ノルウェーのオスロから曲がりくねった 90 マイルほど行った所、ヴェモルクの山奥の峡谷にあったという。その妨害工作は映画にもなり、レジスタンスと科学者の葛藤が思い浮かぶ。
アインシュタインは、ナチスの研究成果を察知して、ルーズベルト大統領に進言したという。ロスアラモスの地が妨害工作の餌食になることはなかった。地勢的な優位もあったが、いずれにせよ科学者は倫理にもとる選択を迫られる。物理学の新たな発見が、最初に軍事利用される運命にあるとは。これが、人間の編み出した政治というものか。
愛国心を掲げる政治屋は多い。が、祖国への忠誠と権力者への服従とでは、まるで意味が違う。自己を支配できない者が他人を支配しようとする。これが人間というものか。だとすれば、政治の力学とは、毒を以て毒を制すしかない、ということか...

2022-03-06

"量子が変える情報の宇宙" Hans Christian von Baeyer 著

原題 "INFORMATION : The New Language of Science..."


かつて人類は、宇宙観を力で語り、エネルギーで語り、そして今、情報で語ろうとしている。物理量では、重力を通して質量ってやつが幅を利かせ、これほど自己存在を強烈に意識させるパラメータはあるまい。
自己主張の旺盛な現代社会において、存在感の可視化はそのまま精神上の問題となる。体重計の上でいくら軽い存在を演じようとも、存在感では重みを求めてやまない。そして今、情報媒体における露出量が存在感に重みを与える。
一方で、騒々しい集団に埋もれながらも、存在の自由を静かに謳歌できる人たちがいる。情報の本質に希少性というものがあるが、彼らこそ密かに希少価値を高めるのやもしれん...


Big Question !
これは、科学界に古くからある神託めいた問い掛けである。宇宙はいかにして誕生したか?人類とは何者か?そして、どこから来、どこへ行くのか?... といった類いの。それは、存在の意味を求めてきた旅と言おうか。いや、解釈をめぐる旅と言おうか...
物理学の研究対象は、天文学から、運動力学、電磁気学、量子力学へと巨大な空間から微小な空間へ迫り、宇宙を構成する物質の根源を探求してやまない。
理解できなければ、それをバラバラにして構成要素へ還元せよ!
人間の理解力には、還元主義的な思考が備わっており、しかもそれは、認識能力との折り合いにおいてなされる。
認識できるものすべてに意味を与えようとは、人間の性癖にも困ったものである。それは、自己存在に意味を与えるための布石か。そもそも、科学者や哲学者が追い求めてきた実在なんてものは、人間認識の産物に過ぎないのやもしれん...
尚、水谷淳訳版(日経BP出版センター)を手に取る。


「物理だけを扱う物理理論は、物理さえも説明できない。私が信じるに、宇宙を理解しようとすれば、同時に人間も理解しなければならない。物理世界は深い意味で人間と結びついている。」
... ジョン・アーチボルト・ウィーラー


情報ってやつは、意味を与えて価値が生まれる。では、何が意味を与えるのか?
人間が、意味ある生き方をするのは難しい。ましてや自分自身で自己に意味を与えるとなると、自己満足から自己陶酔へ、自己肥大から自己欺瞞へ導きかねない。
そもそも、何事も意味を与えないと理解できないものであろうか。情報理論の父クロード・シャノンは、情報という用語の意味を問わず、ひたすら情報の量に着目して、これを定量化する数式を編み出した。対数の底が 2 であることは、Yes か No か、表か裏か... といった二択配列と関係することを暗示し、情報の基本構造がデジタル的であることを示している。
情報量と 2 の冪乗数は、すこぶる相性がいい。0 が認識できるということは、1 をも認識できることを意味する。善を認識すれば、悪をも認識せざるをえない。すべての認識は二項対立の関係から同時に生じ、こうした特性は、相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体の限界であろう。
エントロピーを定式化したボツルマンにしても、合理的な通信符号を発明したモールスにしても、情報自体の意味は問わなかった。ただ、統計学を変革したベイズのような実用的な感性が、情報の事象に対して主観確率なる視点を与えている。
情報は扱い手によって、意味を与える。それが人間であろうが、機械であろうが。実際、情報はただ右から左に流れていくだけにもかかわらず、ある種の有機体のように振る舞い、人々に多大な影響を与える。


情報の意味を問わず、情報の量を問う。これは、人間にとって何を意味するのだろうか?Big Question に加えたい問い掛けである。
そして、それは(IT)、BIT からなるのか?いや、QUBIT からなるのか?量子への問い掛けが、宇宙解明への道となるのか?と。人間ごときが、生と死を同時に体現する量子の多重人格症に問い掛けたところで、精神分裂症を患うのが関の山であろうけど...


「情報という概念が過去数百年をかけて徐々に姿を現してきた様子は、同時に抽象的な量であるエネルギーが十九世紀半ばに誕生した様子とは、著しく異なっている。エネルギーは、二十年という短い期間に、考案され、定義が与えられ、物理学の基礎として確立し、そしてあらゆる科学の礎となった。我々は、情報が何ものかを知らないのと同様に、エネルギーが何ものであるかも知らないが、それでもそれを、新しい厳密な科学的概念として正確な数学的用語で記述し、また商品として測定し、売買し、規制し、課税することができる。情報もまた売買や規制の対象になりつつあるが、それ自体はエネルギーとは大きく異なり、また主観性の趣を呈しているがゆえに、定義するのもエネルギーよりはるかに難しい。」

2022-02-27

"語録 要録" エピクテトス 著

ストイックに生きるとは、どういうことであろう...
辞書を引くと、「禁欲的、克己的...」とある。スコラ哲学には、克己禁欲主義や厳粛主義といった息苦しさを感じる。悲観主義を忌み嫌い、自己肯定感を求めてやまない現代社会の風潮には、不向きな哲学やもしれん。
しかしながら、悲観するからこそ危険を察知する感性が磨かれる。混沌とした現代社会では、重要な観点にリスク管理能力ってやつがある。無知な楽観主義では、リスクを増幅させてしまう。自己否定を試みずに、真の自己肯定感は得られまい。ストア学派は自殺を肯定したと言われるが、寿命の伸びきった現代社会では尊厳死や安楽死といった問題が表面化する。死や苦難もまた人生の一部。これを否定することは、人生そのものを否定することになろう。ウィリアム・ヘイズリットは、こんな言葉を遺してくれた... 死に対する嫌悪感は、人生を無駄に過ごした諦めがたい失望感に比例して増大する... と。
「語録 要録」は、弟子アリアノスが師の言葉を記したものだそうで、これによると、哲学者とは愛叡者のことを言うらしい。はたして、叡智で人を救えるだろうか...
尚、鹿野治助訳版(中公クラシックス)を手に取る。


「ひとの気に入りたいという気持ちから、外部に心惹かれるということが、もしきみに、いちどでもあるならば、きみの計画は、ご破算だと知るがいい。それで、すべてのばあい、哲学者であることで満足したまえ。だが、ひとからもそう思われたいのならば、きみ自身にそう思われるようにするがいい、そうすれば、それで十分であろう。」


時代は、暴君で名を馳せる皇帝ネロの時代。弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、残るは恩師を殺すのみ。家庭教師セネカは自殺を命じられた。ストア派哲学者には、生きづらい時代であったであろう。いや、自分で考えようとするすべての者が...
奴隷出自のエピクテトスは、人間社会の底辺を生きながら哲学者となった。皇帝ネロの臣エパロディトスに仕え、ルフスに哲学を学ぶことを許される。ルフスは、何度かローマを追放された人物。皇帝ドミティアヌスの時代には、ユダヤ人やキリスト教徒が迫害され、哲学者も追放された。この時、エパロディトスが処刑され、エピクテトスも追放されたという。
「ギリシア詞華集」には、こんな碑銘詩が載っているそうな。作者不明で...


「エピクテトス、奴隷の身に生まれ、身体は不自由、イロスのごとき貧しかりしが、神々の友なりき」


イロスとは、ホメロスの作品に出てくる乞食の名。生まれつきの苦難から生まれた悲観哲学、いや、やせ我慢の哲学とでも言おうか。しかしながら、自分の力ではどうしようもない境遇に置かれても、ひたすら耐えるだけの忍従の哲学ではない。むしろ、逆境に動じない、不動心の哲学と言うべきか。後に、「自省録」を遺した皇帝マルクス・アウレリウスは、宇宙論的な道徳を探求し、ひたすら不動心を求めた。真の自由人になろうと...
ちなみに、ラテン語に "nil admirari" という言葉があると聞く。「何事にも動じない」といった意味である。この言葉の域に達するには、よほどの修行がいる。ストイックに生きるとは、そういうことなのであろう...


どん底を生きれば、あとは這い上がっていくだけ。しかし、這い上がれない現実とどう向き合うか。金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏に... これが現代社会の縮図。哲学ってやつは、用い方を誤ればむしろ害になる。それは哲学に限ったことではないけれど...
自己の弱さを知るから強くなれる。悩み続けるから賢くもなれる。真理を見るにも勇気がいる。自己を知ろうものなら覚悟がいる。勇気も覚悟もなければ、哲学には近づかぬこと。真理は知らぬ方が身のため。そして、無知の哲学を実践するさ...


人間社会は矛盾に溢れている。慎重でありながら大胆に... とは、なかなかの難題をつきつける。調和させるよりも、対立させたままの方が楽なことが多い。あまりに多い。なのに...
自己主張に明け暮れれば、他人の目を気にしながら生きていることになる。無視されても愉快に生きるのは難しい。空気のように生きるのは難しい。自己を支配できなければ、他人を支配しようとする。幸福に隷属し、知識に隷属し、そうやって生きてゆくのが関の山。哲学に人類を救え!などと吹っかける気にはなれんよ。宗教だって救ってくれないではないか。それどころか、受難を与えてやがる。救いを求めるなら、音楽に、芸術に... そして自然の偉大さに縋るほかはあるまい...

2022-02-20

"西田幾多郎哲学論集 I - 場所・私と汝 他六篇" 上田閑照 編

この大作を II だけでお茶を濁そうとしたが、いつのまにか III に触れ、仕舞に I へ振り出し。最初から順に追えばいいものを。人生行き当たりばったり...


おいらには、難解な書に悶々とそそられる性癖があると見える。
煮え切らない述語の群れ... 「純粋経験」に、「行為的直観」に、「非連続の連続」に、「弁証法的一般者」に、「絶対矛盾的自己同一」に... もうええっちゅうの。
しかし、慣れとは恐ろしいものだ。「自己自身を限定する...」といった言葉を繰り返し読んでいると、やがて呪文に聞こえ、違和感が薄れていく。節度や節制、あるいは、広大な宇宙空間におけるちっぽけな有限性... などと勝手な語釈を与えて理解した気分にもなれる。そして、読破した瞬間のクタクタ感がたまらん!ときた...


ここでは、処女作「善の研究」に発する「純粋経験」の立場を経て、「私と汝」といった自己投影を通して「場所」という概念を提示する。
そして、論集 II の「論理と生命」などで論じる弁証法的な立場に、論集 III の「自覚について」などから導かれる直観の立場を加え、最晩年に見る「絶対矛盾的自己同一」という概念への布石を垣間見る。
まさか!この振り出しで、西田哲学の思考プロセスに出会えようとは...
まさか!この振り出しで、悶々とした言葉の群れがクリアになっていこうとは...
この順で手を出したのは単なる偶然だけど、それが功を奏したか。いや、お茶を濁そうとした副次的効果か。いやいや、最初から順番に追っても、それはそれで違った景色が見えたであろう。何はともあれ、この難物の一群に手を出した偉大なる気まぐれに感謝したい...


尚、本書には、「種々の世界」、「働くものから見るものへ(序)」、「直接に与えられるもの」、「場所」、「左右田博士に答う」、「叡智的世界」、「無の自覚的限定(序)」、「私と汝」の八篇が収録される。


ところで、ここで言う「場所」とは、なんぞや?
キェルケゴールは、こんな言葉を遺した... 人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係。すなわち、この関係には自己自身に関係するものすべてが含まれる... と。関係の... 関係の... 関係の...と、まるで無限循環。いや、無間地獄。狂ったか?キェルケゴール!
相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体が自己を確認しようとすれば、他との関係から導くしかあるまい。そして自己は、関係の中で安住の場を求める。つまりは、居場所を求めて。場所とは、自己を映し出す鏡のようなものか。自分探しの旅とは、単なる居場所を求める旅、すなわち関係を求める旅ということになろうか。いや、関係を清算する旅も捨てたもんじゃない。
この場所を求める旅で、西田幾多郎は純粋経験の立場から、弁証法的な立場や自覚の立場を経て、ついには、「絶対矛盾的自己同一」などという支離滅裂な言葉を発する。
自我と対峙すれば、やはり狂うほかはあるまい。西田哲学の純粋経験に、プラトンのイデアが香り、カントのア・プリオリを見るのも、こうした用語を編み出した彼らが、時代を越えて狂気を共感していたからに違いない。しかも、彼らは狂い方をよく心得ていたと見える。哲学するとは、そういうことなのだろう。狂わなきゃ、理性なんてものも見えてこない。しかも、それを自覚できなければ。そして、自我を支配できなければ、他人の支配にかかる...


「自己に対するものは単なる存在ではなくして自己自身を表現するものでなければならない、広義においてそれは汝というものでなければならない。而して私は私の行為によって汝を限定し、汝は汝の行為によって私を限定する。」


哲学者たちときたら、互いに微妙なニュアンスの違いを新語を編み出して穴埋めをする。それで、議論は成り立っているだろうか。いや、彼らは自由気ままに言葉を発してるだけで、そもそも、そこに議論なんてものは存在しないのかもしれない。
キェルケゴールは関係の中に絶望を見た。カントは理性までも批判に晒した。西田幾多郎は自己否定をも厭わない。いずれも、M でなければ、できない芸当だ。死を拒否しては真の生は見えてこない。死への嫌悪感は、有意義な人生に反比例して増すものらしい。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、真理の力は偉大となろう。
それにしても、西田幾多郎哲学論集の三冊を見渡しても、これだけ中庸の哲学を匂わせながら、節度や節制といった用語は見当たらない。ましてや、ちっぽけな有限性などは。おいらの解釈は、著者の意図からはかなりズレていそうだ。それで、ちっぽけな幸せでも感じられれば、ええんでないかい。おいらも M だし...


「私はカント哲学の如き立場において始めて真に自己自身の中に他を見るという自覚的自己というものを考えることができると思う。自然というものが唯一の実在としてすべてのものの底に考えられた時、我々は自覚的自己という如きものを考えることができない。自覚的自己の実在性というものが考えられるには、自然は純我の綜合統一によって構成せられるという如き立場がなければならない、客観性というものが単に自己の外に見られるのでなく内に見られるという意味がなければならない。」

2022-02-13

"西田幾多郎哲学論集 III - 自覚について 他四篇" 上田閑照 編

この大作を II だけでお茶を濁そうとしたが、いつのまにか III を手にしている。アマゾンでは、I も手招きしてやがるし。最初から順番に追えばいいものを。人生行き当りばったり。おいらには、難解な書に悶々とそそられる性癖があるときた。読破した瞬間の脱力感に便乗して自我からの脱皮を試みるものの、ますます自我に縛られていく。もっと縛って!M だし...


II では、西田哲学独特の述語の群れにしてやられた。「行為的直観」、「非連続の連続」、「弁証法的一般者」、「自己同一的に自己自身を限定」といった用語に、身勝手な語釈を与えてなんとか乗り切る。外国語を翻訳するが如く。それで、著者の意図に適っているかは知らんよ...


ここでも似たような述語が鏤められ、「絶対矛盾的自己同一」という用語に翻弄されっぱなし。相対的な認識能力しか持ち合わせていない人間に、「絶対」とはどういうわけか。すでに自己矛盾を孕んでいる。だから、精神は矛盾からは絶対に逃れられないってか。
まず、人間の知覚器官が外部環境から何かを感じ取ると、それを脳がなんとなく処理する。それが自己にとって善いか悪いか、差異を感じながら少しずつ情報を蓄積していく。経験を積み重ねていくと、善と悪の振幅が徐々に大きくなり、やがて道徳観念なるものが浮かび上がる。善悪などという対称的な価値観は、精神の内で同時に目覚めさせていくのだろう。この振幅が大きくなりすぎて極端な道徳で抑圧しようとすれば、同時に極端な背徳が解放され、自我はますます肥大化する。善も悪も自我の本性。これを自己が統一するのは至難の業。つまりは、自己同一とは、自我を支配するってことか。あるいは、自己を超越した自己を求めよ!とでも。だとすれば、「絶対矛盾的自己同一」とは、なんと大きな問題を課すことか...


尚、本書には、最晩年の六年間に書かれた論文より、「絶対矛盾的自己同一」、「歴史的形成作用としての芸術的創作」、「自覚について」、「デカルト哲学について」、「場所的論理と宗教的世界観」の五篇が収録される。


まず、自己に何を求めるか。そこには自覚の問題がある。自己を知るには勇気がいる。覚悟がいる。だから、「自覚」と書く。自覚とは、自己の投影。自己を欺いて、自己同一は覚束ない。自己を暴くには、主観的な目と客観的な目が向けられる。
外から観察するには、一旦、自己否定してみるのも必要であろう。健全な懐疑心を離れて、科学はありえない。悲観主義に陥ることを恐れることもあるまい。自己は意識的であり、自律的であり、理性的な面を持ち合わせ、定言的命令風でもある。むしろ、無知な楽観主義よりはましであろう。
カントは理性までも批判の対象とした。理性を崇めれば、理性に奢り溺れる。自己を超越した人間は、神を見るのか、それとも悪魔を見るのか。天の邪鬼な魂には、メフィストフェレスがほくそ笑む...


しかしながら、巷では自己肯定感を煽ってばかり。そのためのハウツー本も大盛況ときた。デカルト風に、ひたすら思惟すれば、自己の存在を確認することはできるが、それだけでは足りない。カント風に、ひたすら主観の声に耳を澄まして自己を探求するのもいいが、それでも何か足りない。ヘーゲル風に、自己存在を弁証法という論理の天秤にかけてみるのもいいが、どうも踏み込みが甘い。
そこで、西田幾多郎は、あえて自己否定を試みる。絶対矛盾的自己同一という世界観は、自己否定から導かれるものらしい。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、それこそ真の自己肯定と言わんばかりに...


「生命の世界というのは、物質の世界と異なり、自己自身の中に自己表現を含み、自己の内に自己を映すことによって、内と外とを整合的に、作られたものから作るものへと動き行く世界... 即ち自己自身によってあり、自己自身によって動く世界である。自己自身の中に自己否定を含み、自己において自己を映すことによって、否定の否定、即ち自己肯定的に、無限の自己自身を形成する。此の如き方向が時の方向である。矛盾的自己同一世界は、自己の中に自己焦点を含み、動的焦点を中軸として、無限に自己自身を限定して行くのである。」

2022-02-06

"西田幾多郎哲学論集 II - 論理と生命 他四篇" 上田閑照 編

哲学書ってやつは、なかなかの難物である。アリストテレスの形而上学にせよ、ヘーゲルの弁証法にせよ、カントの批判哲学にせよ、体系的に書かれたものを読むのに、プラトンの饗宴のようにはいかない。しかしながら、なにやら悶々とそそるものがある。怖いもの見たさのような。おまけに、読破した瞬間のクタクタ感がたまらん。M だし...


なにゆえ、これほど難解なのか。なにゆえ、これほど難解にする必要があるのか...
その理由の一つに、用語の扱いや独特な表現の仕方がある。真理に立ち向かうには、まず、思惟・思考する自己と対峙することになる。なにごとも、自分自身で感じとれなければ始まらない。だが、あらゆる矛盾が自己言及に発する。不完全性定理は告げる。形式的体系の中から、その体系の無矛盾性を証明することは不可能である... と。
そもそも、精神の持ち主が精神の正体を知らずにいることが問題である。自己にとって自我ほど手に負えないものはない。人間にとって得体の知れない精神ってやつを、人間自身が編み出した言語で記述しようとするところに無理がある。真理を探求し、それに言及するということは、言語機能の限界に挑むということ。
但し、この広大な宇宙に、真理というものが本当に存在するのかは知らん。その空間の住民が、どう認識するか、どう感じるか、どう解釈するか、ただそれだけのことやもしれん。その心理過程において、物理的合理性と精神的合理性との間で折り合いをつけようと、もがいているだけのことやもしれん...


さて、難解な書を読むコツとして、おいらはよく用語や表現の置換を試みる。なにも哲学書に限ったことではない。自分の言葉に置き換えてみる行為は、外国語の翻訳に似ている。それで、作者の意図に沿っているかは知らん。が、少なくとも分かった気になれる。分かった気になれることが幸せの第一歩。凡庸な読み手が、それ以上に何ができよう。
とはいえ、「ア・プリオリ」という語を置き換える気にはなれない。「先天的」や「先験的」とするのではイマイチ。無理やり置き換えるぐらいなら、そのままにしておいた方がいい。このような語を編みだす哲学者たちの文学センスには感服する。彼らが表現主義的になるのは理に適っているのかもしれん...
本書には、「行為的直観」「非連続の連続」「弁証法的一般者」「自己同一的に自己自身を限定」といった述語が鏤められ、「行為的自己の立場」、「弁証法的一般者としての世界」、「論理と生命」、「行為的直観」、「人間的存在」の五篇が収録される。


尚、以下は、酔いどれ天の邪鬼が勝手気ままに翻訳したものであり、西田先生が意図したものかは知らん。おそらく、まったくの的外れ。勝手な解釈を加えることによって、この難物が格段と読みやすくなる、ただそれだけのこと...


「行為的直観」とは、なんぞや?
直観ってやつは極めて主観的な領域にある。だが同時に、様々な経験の積み重ねから自己の中で知識が再構築された感がある。主観と客観の協調によって生じるような...
これに、「行為的」という語をくっつけると、能動的な意思が印象づけられる。自由意思にも、能動的な意思と受動的な意思があろう。能動的な意思は、自立的や自己組織的、あるいは、自己実現や自己啓発といったものを駆り立てる。
一方で、受動的な意思は、諦めにも近いものがあるが、運命論に身を委ねるのとも、ちと違う。自然に身を委ねるとすれば、それはむしろ能動的に状態を受け入れるという態度にもなろう。
こうしてみると、能動的と受動的の境界もなかなか微妙である。主観と客観の境界もしかり。そして、自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大、おまけに、自己嫌悪に自己否定とくれば、自我を失う危険をともなう。自己を知るには勇気がいる。巷では「自己責任」という語が渦巻いているが、自我に責任を持てる人間がどれほどいるというのか。こんな語は、既にお前が悪いという意味で使われているし...


「我々が知的自己の立場に立って考える時、主観と客観とは何処までも対立する、我の世界と物の世界とは何処までも対立する、ノエマとノエシスとは単に相反する方向と考えられる。しかし我々の行為ということは主観が客観を主観化することであり、逆に客観が主観を客観化することである。行為的自己の立場というのはいわゆる主観客観の対立を越えた立場でなければならない。」


「非連続の連続」とは、なんぞや?
自由意思ってやつは、個人が持っているものだが、歴史という時間軸で眺めると、なにか共通の伝承的な意思が働いているような気もしなくはない。それが、DNA や遺伝子によって受け継がれているのかは知らんが...
離散的に点在する個々の意思が歴史空間において連続性を保つような、人類の見えざる意思というものが働いているような。それが、人類の普遍性というものかは知らんが...
アリストテレスは言う、人間はポリス的動物である... と。ポリスってやつは、最高善を目的とした共同体のようなもので、素材因、形相因、作用因、目的因で構成されるらしい。つまりは、因果関係によって。それは、空間的にも時間的にも。空間的には社会の一員として、時間的には歴史の経過の中で。そして、西田は言う、自己は社会的・歴史的でなければならない... と。


「私が考える故に私があるのではなく、私が行為するが故に私があるのである。考えるということが既に行為の意義を有する故でなければならぬ。而して行為的自己と考えられるものは社会的・歴史的でなければならない。社会的・歴史的限定として私と汝というものが考えられるのである。」


「弁証法的一般者」とは、なんぞや?
人間の生きる意義というものを論じ始めたら、社会的意義とは?歴史的意義とは?などと大袈裟な問題になる。自分自身の存在意義を問えば、ちっぽけに感じ、自虐的にも、自暴自棄にもなろう。そして、心の中で矛盾との葛藤が始まる。論理的に物事を捉える眼を成熟させるほど、矛盾の渦に引き込まれていく。まさにブラックホール!
だが、矛盾という概念が存在しなければ、人類が弁証法なるものを編み出すことはなかったであろう。精神の持ち主が自己について思惟すれば、論理的に組み立てようとする。その論理体系が、なにもヘーゲルやマルクスが定式化したものである必要はない。むしろ、自分自身で定式化したものでなければ...
弁証法的一般者とは、個人が独自に論理体系を構築し、社会的に生きる意義を考え、それを求める意識の高い一般人... などと解すれば頷ける。だが、なんと高尚な社会であろう。むしろ、理想高すぎ感は危険である。矛盾を素直に受け入れて生きていくのは難しい。屁理屈でもなんでも理由付けして生きてゆかねば、やってられんよ。哲学に、人類を救え!などと吹っかける気にはなれんよ...


「自己同一的に自己自身を限定する」とは、なんぞや?
まず、自己同一とは、主体の統一を言うのであろうか。いや、主体だけでは心許ない。精神内に生じる矛盾を統一するには、主客が対立している場合ではない。だが、その意識的統一にはよほどの修行がいる。自己を取り巻く空間は、どこまでも矛盾がつきまとう。それは、精神を獲得した知的生命体の宿命であろう...
主体を外部から観察すれば、自己否定は避けられない。第三者の目は自己に容赦ない。自己が自己に容赦ない心境とは。自己は、自己矛盾と自己否定をともなって自己を形成していく。知が不完全であることを自覚させ、さらに無知を自覚させるのは、自己自身でしかない。
しかしながら、無知を知ることは、ソクラテスの時代から問われてきた難題中の難題である。自己の中に自己矛盾の存在を認めた時、そこには自己を超えたものが働いている。合理的に生きようとすれば、まず自己の内にある性癖、悪癖の類いを知らねばなるまい。自己の悪魔性を知らねばなるまい。そして、弁証法的に自己の内で統一的な見解を見い出し、妥協で終わるか、あるいは、答えが見つからないまま問い続けるか。この問い続ける行為が、歴史的に継承されてきたということか。自己自身を限定するとは、答えが見つからないことを謙虚に受け入れ、それでもなお問い続けるってことか。それを自覚した上で節度ある中庸の哲学を目指すってことか...
だとしても、自己を超越しなければ、自己同一なるものを発見することはできないであろう。主観と客観の調和だけで、自己を超越することができるのだろうか?哲学者という人種は凡庸な読み手に、随分と酷な要請をしてきやがる。そりゃ、素直に挫折感を喰らう方が幸せやもしれん。巷で忌み嫌われる悲観主義だって捨てたもんじゃない。悲観主義的な思考は、危機を敏感に察知できる能力でもあり、無知な楽観主義よりもはるかにましであろう。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、真理の力は偉大となろう...


「世界は何処まで行っても自己矛盾的である。...(略)... 理性とはかかる現実の自己媒介作用である。...(略)... 論理が生命の媒介となる時、それが弁証法的である。しかし生命は論理によって弁証法的となるのではない。生命は固(もと)、弁証法的なのである。論理が弁証法的であるのは、それは生命の媒介となるが故である。」

2022-01-30

"善の研究" 西田幾多郎 著

善...
こいつを語るには、決まりが悪い。脂ぎった天の邪鬼な心には、後ろめたささえ感じる。いいことをして、それが人のためになったり、社会の役に立ったりすると、清々しい気持ちにもなるが、むしろ反発しちまう。まったく、汚れちまった悲しみに... といった心境である。
西田幾多郎は、若かりし日の考えを惜しみなく披露してくれる。善とは、人格の実現のことを言うらしい...


「善とは自己の内面的要求を満足する者をいふので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求であるから、之を満足すること即ち人格の実現といふのが絶対的善である。」


本書には、「統一力」という用語がちりばめられる。思惟、意思、判断... こうした認識現象は、すべて統一力の作用だというのである。実在とは、意識活動であり、意識活動とは、主観の統一力の働きによって成り立つものらしい。その背後にあるのは、自己の存在意識。自己の奥底から込み上げる防衛本能が、そうさせるのか。無数の自由電子の集合体である精神なるものが、ある種の秩序を形成する。喜び、怒り、悲しみといった感情の表れも、ある種の統合的な精神状態。自我の克服とは、内面に生じる複合的作用を統一する力を言うのであろうか。おいらは、この統一力なるものを、調和させる感性、バランスさせるセンス、均衡させる能力... などと解している。
ところで、意識統一なるものは、自覚できるものなのだろうか。自我ですら手に負えないというのに。まったく哲学者ってやつは、凡人にあまりに高尚なものを要請してきやがる...


統一力ってやつは、極めて主観的な能力であろう。ただ、主観に閉じ籠もっていても、その能力は引き出せまい。客観との協調によってしか。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体の宿命であろう。主観の統一に客観の統一、そして双方の統一... これが理性ってやつか。
しかしながら、様々な矛盾に遭遇すれば、統一よりも分裂の方が楽になれる。精神分裂症も、ある種の自己防衛本能が働いているのだろう。無理やり統一して息苦しくなるぐらいなら、矛盾はそのままにしておきたい。おいらは理性ってやつが、大の苦手ときた。
そもそも、認識能力の根底にあるものとは、なんであろう。西田幾多郎は「純粋経験」なるものを持ち出す。それは、心理的色彩をもっているらしいが、主観というよりは客観との調和、いや、主客を超越した概念とでもいおうか。なにやらプラトン風のイデア論を彷彿させる...


「経験するといふのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てゝ、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といつて居る者も其実は何等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、真に経験其儘の状態をいふのである。」


西田幾多郎は、宗教のあるべき姿についても言及している。宗教とは神との関係、あるいは神との関係を求めてのもの。ただ、神に見返りを求めるなど、真の宗教心とはいえまい。宗教は自己の安心、自我の平穏のためにあるということさえ誤っているのかもしれん。その意味で、宗教は真理的であり、極めて哲学的なような気がする。
宗教ってやつは、愛を最高善に掲げるが、元来、愛とは統一を求める情念を言うらしい。自己統一の要求が自愛であり、自他統一の要求が他愛であるという。神の作用が万物の統一作用であるなら、神の他愛はその自愛となる。そして、神の御前で主客の統一を見るのであろうか。となると、現存する宗教は、実に宗教らしくない!ということになる...


「宗教的要求は自己に対する要求である。自己の生命に就いての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一して之に由りて永遠の真生命を得んと欲するの要求である。パウロが既にわれ生けるにあらず基督我にありて生けるなりといつた様に、肉的生命の凡てを十字架に釘付け了りて独り神に由りて生きんとするの情である。真正の宗教は自己の交換、生命の革新を求めるのである。... {略)... かくして宗教的要求は、人心の最深最大なる要求である。」

2022-01-23

スタートページの模様替え...

なにを始めるにしても、気分の問題は大きい。一日の始まりとなれば、尚更。そこで、マンネリ化してきたスタートページの模様替えというわけである...

思えば、スタートページの乗り換えで、おいらの移り気は激しい。愛ある G さんに、M な Ya さんに、Ne ちゃんとバイブに、愛ある苦労人と...
iGoogle, My Yahoo!, Netvibes, iChrome... ダジャレ好きは、もはや老害だ!

そして今、chrome の拡張機能 ProductivityTab(PT) を愛用している。もう何年になるだろう。カスタム css で彩りながら。当初、"transparent" 属性がうまく機能せず、PRO 版じゃないとダメかなぁ... と思ってきたが、今試すと Free 版でも問題ない。
なので、「グラデーション効果 + 半透明効果」で気分転換といこう!




バックグラウンドには、GIF animation を採用し、渦巻く大銀河で光沢効果を演出。アイコンや背景などのコンテンツは、なるべくローカル側に配置する。オンライン環境が当たり前の昨今、だからこそ、依存しないようオフラインでもそこそこの見映えに。電子機器への依存は仕方がないにして、せめてもの足掻きである。
尚、PT は、ローカルファイルへの参照がデフォルトで拒否されている。これを許可するには、拡張機能の管理より、"ファイルの URL へのアクセスを許可する" を設定。

ちなみに、環境は...
  Chrome 64bit Ver. 97.0.4692.99 (Official Build)
  ProductivityTab — Custom Homepage Dashboard Ver. 3.0.45.5

カスタム css は... おまけ!
尚、!important 宣言はあまり使いたくなかったのだけど...
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.widget{
  margin-bottom:0px !important;
  background-color:transparent !important;
}
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.menu-button{background-color:#008b8b !important;}
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  background: linear-gradient(to left top, rgba(0,255,255,0.8), rgba(47,79,79,0.8));
  height:36px;
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2022-01-16

関係の関係に、その関係する関係の関係に狂う... 未練は男の甲斐性よ!

キェルケゴールは、「人間とは精神である。精神とは自己である...」と言い放った。では、自己とは何か?彼によると、自己とは自己自身にまつわるあらゆる関係を言うらしい。それは、自己自身を問うのではなく、自己と関係するものの中から自己を見い出すということ。自分探しの旅で、自己に直接問いかけても答えは見つからない。自己の関係に問い、その関係する関係に問い、さらに関係の関係に... 狂ったか、キェルケゴール!
尚、Kernel Panic! の元凶は、依存関係地獄にある...


考えてみれば、宇宙空間に存在するあらゆる物体は分子構造を持つ。それは、原子と原子の関係によって存在するってことだ。素粒子ってやつが、どこまで素なのかは知らんが、単体で静かに存在することが苦手と見える。人間の精神にしても、物理的には単なる自由電子の塊でしか説明がつかない。こんなちっぽけな塊に意志があるぐらいだから、巨大な宇宙という塊に意志があっても不思議はあるまい。それが、神の意志ってやつかは知らんが...


まさに、人間社会は関係によって成り立つ。関係とは、なにも人と人との関係だけではない。知識との関係、感覚との関係、意識との関係... そして、すべての関連性がデータベース化される時代。まったく面識のない、見知らぬ人から多くを学べる時代。むしろ、人間同士の関係は、ちょいとばかり距離を置く方がいい。そして、自己とも距離を置き、自己の重荷を軽くする。すでに、「自己責任」という言葉は、お前が悪い!という意味で使われているし...


インターネットやソーシャルメディアといったものが、情報を入手する手段を隅々に行き渡らせ、知識を得る機会を均等化させる。だが逆に、意欲のある人はますます意欲的になり、受け身の人はますます流されやすくなり、意識格差はますます拡大していく。それは、貧乏人はますます貧乏に、金持ちはより金持ちに... の原理に似ている。
関係を迫る社会が孤独感を異様に煽り、繋がりを煽る風潮が独りで居ることを必要以上に恐れさせる。なにごとも恐怖を植え付ければ、人間はそれに群がる。光に群がる虫どものように...
但し、孤独感ってやつは、集団の中にこそある...


仮想的に関係を結び付けられた空間には、無言の自己主張が渦巻き、無言の競争がひしめく。電話でひつこく勧誘し、誇大広告を巻き散らかす宣伝戦略は、いまや逆効果。おかげで、真摯な活動にも詐欺の目が向けられる。
自己肯定感がもてはやされる社会では他人否定が心の支えになり、関係の肥大化が孤独愛好家を増殖させる。騒々しい社会では、逆に、本当に人々を感動させ、本当に意味を考えさせるような、静かな存在が求められる。
それを牽引してくれるのが、音楽や映像の分野であろうか。つまりは、芸術性。偉大な芸術は、そこに存在するだけで鑑賞者に心地よい沈黙を与えてくれる。
その一方で、芸術家たるもの狂気しなければ、才能を発揮することができない。音楽家が狂えば、聴衆もつられて狂う。小説家が狂えば、読者も負けじと狂う。熱愛も、憎悪も、すべては関係から生じる狂気。人間ってやつは、人間との関係によって狂うものらしい...


そして、重要な関係の一つに、時間との関係がある。過去から現在へつながる時間軸に、自己の居場所を求める。精神病とは、心理学的には精神内時間の連続性が失われた状態を言うらしい。記憶の断絶は恐ろしい。それは、今まで生きてきた証を放棄するに等しい。過去に執着するのは、無駄な人生ではなかったと信じたいがため。関係とは未練か。夜の社交場ともなると、未練は男の甲斐性よ!などという口説き文句も飛び出す。
しかしながら、すべてを断ち切ることができれば、どんなに自由であろう。精神病とは、自由の究極な状態を言うのやもしれん...