2023-03-05

"世界で一番美しい元素図鑑" Theodore Gray 著 & Nick Mann 写真

原題 "THE Elements"
世界を最も客観的に、合理的に、論理的に、構造的に、機能的に、効率的に... 表記したものとはなんであろう。人間の認識能力において、目くじらを立てるほど重要視するものに存在感とやらがある。それは、もともと主観的な感性の領域にあったが、科学の進歩とともに客観的な知性が、その領域を侵食しつつある。だからといって、完全に客観的な領域に入り込んでしまうことはあるまい。人間の思考そのものが、主観的なのだから...

実存の法則では、物理方程式がドラマチックに記述して魅せる一方で、周期表が無味乾燥な原子番号を淡々と羅列していく。太陽がむさぼり喰う H(水素) を一番目に掲げて。どんなに地味でもエッチが一番!やめられまへんなぁ~...
様々なマニアックの収集家を見かけるが、元素の収集が趣味というセオドア・グレイも、なかなか洒落ている。とはいえ、化け学の実験は命がけ。核物質をちょいと包んでくれ!というわけにはいかんよ...
尚、若林文高監修, 武井摩利訳版(創元社)を手に取る。

実体を理解できなければ、それをバラバラにして構成要素に還元せよ!
古代の自然哲学者たちが編み出した原子論的な思考法は、量子論や素粒子物理学に受け継がれてきた。人間の認識プロセスには、もともと還元主義的な思考が備わっているようだ。しかもそれは、自らの認識能力との折り合いにおいてなされる...

「いかなるものも、無に帰することはありえない。万物は分解されて元素に帰する。」
... ルクレティウス「事物の本性について」より

さて、周期表はすべて埋め尽くされたであろうか...
原子番号は、原子核に含まれる陽子の数で決まり、陽子はプラスの電荷を持つ。原子核の周りには電子軌道があり、そこにはマイナスの電荷を帯びた電子が陽子と同じ数だけ存在し、電気的に釣り合っている。
しかしながら、太陽の周りを回っている惑星のような軌道イメージではない。それは、不確定性原理に看取られた世界で、ある時間に存在する場所を特定させてはくれない。量子とはそんな奴らだ。そこに本当に存在するかも分からないとすれば、確率論に縋るしかあるまい。

本書は、「確率の雲」という用語を持ち出しているが、おいらはある種の確率分布と捉えている。
確率の雲には、s, p, d, f といった種類の軌道があるという。s 軌道は完全な球形で 1 つのタイプしかないが、p 軌道は互いに直行する三方向(x軸, y軸, z軸)に 3 つのタイプがあり、さらに、d 軌道は 5 つのタイプ、f 軌道は 7 つのタイプといった具合。
電子は内部状態にスピンを持ち、1 つの電子軌道にアップスピンとダウンスピンの 2 個が入ることができる。
例えば、水素は電子が 1 個で、1s 軌道。ヘリウムは電子が 2 個で、ともに 1s 軌道。これで周期表の最上段は定員いっぱい。
つまり、周期表の形を決めているのは、電子軌道の 1s から 7p までの充填順というわけである。充填の仕方が問題となれば、位相幾何学との相性も見えてくる。
そして、軌道はエネルギーの低い方から高い方へ順番に埋まっていくとさ...

原子番号と混同してしまいそうな物理量に原子量ってやつもあるが、ちと違う。それは、原子 1 個の質量で、だいたい原子核を構成する陽子と中性子の数の合計で決まり、複数の同位体が含まれればその平均値で表記される。
陽子、中性子、電子の数で元素が規定できるのなら、いくらでも人工的に作れそうなもの。かのニュートン卿までも錬金術にハマったのは無理もあるまい。実際、「人工元素」という用語も見かける。ただ、半減期が短く、あまりに崩壊が速く、哀れなほど短命であるがゆえに自然界で発見しにくいものを、瞬間的に無理やり状態を造り出しただけのことかもしれんが...

本書は、電子が存在する様子を三次元モデルでイメージさせてくれるが、軌道が埋まっていく様子はきわめて微妙かつ複雑で、義務教育で叩き込まれたように、最外殻の電子が一個失われて別の原子の電子が入り込んで化合物になる、といった単純なメカニズムではなさそうである。その方がイメージはしやすいけど。
化け学を理解する方便として、電子は離散的な軌道を持つ電子殻に存在するとすれば、最外殻の電子の数が同じ原子同士で、互いに似た化学特性を見つけることができる。これこそが周期表の根本原理であり、化学反応への理解は一番外側の電子殻を紡ぐ物語となる...




ざっと周期表を外観しておこう...
元素には固相、液相、気相があって融点と沸点も様々、まるで多様化社会を投影するかのようで、化合物ともなると、その組み合わせは無限の可能性を匂わせる。人間界にとって、有用な元素もあれば、どうでもいい元素もある。いや、まだ利用価値を見いだせないでいるだけかも...

上図の左から...
第 1 列目は、水素(原子番号1)はいささか例外的だが、それ以外はアルカリ金属と呼ばれ、水と反応すると引火性の高い水素ガスを発生する。ナトリウムの塊を湖に投げ込んだ日にゃ、とんでもないことに...
第 2 列目は、アルカリ土類金属と呼ばれ、アルカリ金属と同様、水と反応して水素ガスを発生する。ただ、アルカリ金属よりもおとなしい連中で、例えば、カルシウムなどは携帯式水素発生器に使われる。
中央の幅広いブロックは、遷移金属と呼ばれ、産業界でも大活躍。金属の代表といえば、鉄であろうか。こいつに錆びるという物理現象がなければ、これほど有用な物質もあるまい。
対して、金や白金のように、きわめて高い耐腐食性を持つものがある。黄金の永遠の輝きは他を寄せ付けないにしても、見た目で価値評価されるのは人間社会とて同じ。
遷移金属は、水銀以外はかなり硬い。いや、水銀もうんと冷やすと思いっきり凝固し、超伝導体として期待される。
右ブロックの赤茶色の左下三角形は金属、右上三角形は非金属。これらの金属は程度の差はあれど電気伝導性を持っているが、非金属は絶縁体である。
金属と非金属に挟まれたオレンジ色のブロックは、半金属とメタロイドの名を持つ日和見主義者たち。ハイテク産業で注目される半導体の材料は、ここに含まれる。半導体とは、半分導体ってことだ。それは、電圧や光や温度などの外的要因を与えることによって、電気を通したり絶縁したりできることを意味する。金属の様々な電気特性は、それだけで微量な信号を増幅させることができ、現代の通信システムに欠かせない。
右からの 2 列は、ハロゲンと呼ばれ、純粋状態ではとても扱いにくい奴ら。反応性が極めて高く、悪臭が酷い。例えば、塩素は第一次大戦で毒ガスに使用されたが、化合物になると、フッ素入り歯磨きや食塩などの家庭用品となる。
一番右端の列は、希ガス(貴ガス)と呼ばれる。貴(noble)は、下層階級に関心を示さず超然としているという意味。他の元素と結びつくことがほとんどなく、不活性な特性は、反応性の高い元素を閉じ込めるシールドに使われたり...
下の 2 段は、希土類と呼ばれ、上段はランタノイド、下段はアクチノイドと呼ばれる。それぞれ一つのマスに15個もの元素が配列され、ランタノイドはあまりにそっくりな元素ばかりで、本当に別々の元素なのか長い間議論されてきたそうな。放射性を持つ同位体が一つ存在するだけで、その一族のみんなが悪評を買うのは、人間社会とて同じ。
対して、アクチノイドは放射性元素ばかりで、ウランとプルトニウムが悪名高い。

下の 2 段は、あまりに似通った元素群のために拡張されたものだが、こうした拡張性は他にも発見されそうな予感がする。今のところ、7p を超えるエネルギーを持つ電子軌道は見つかっていないようで、周期表は二次元配列で事足りているが、いずれ三次元配列が、いや、多次元配列が必要になるのかも。宇宙の膨張が、次元を増やしながら空間を拡大しているのかは知らんが、その構成要素である元素だって... ついでに人間の認識能力だって...

おまけ...
セオドア・グレイは、煙と蒸気の違いをヨウ素に教わったと、その体験談を熱く語ってくれる。黒い背景に映えるヨウ素蒸気の写真を撮ろうとして随分時間を無駄にしたそうな。背景には、ダークモードが映えるってかぁ...
煙は光を反射する微粒子の集まりなので、黒い背景の前で横から光をあてれば写真に写る。
一方、蒸気はたとえ色付きの蒸気でも、黒い背景の前で写真に撮ることは不可能だという。光を当てても、光を反射するほどの大きさの粒子は存在せず、目に見えない分子があるだけ。蒸気を見やすくする唯一の方法は、明るい色の背景の前で、蒸気を通り抜けてくる光が蒸気分子に吸収されるのを利用することだとか。なるほど、元素収集家らしいエピソードである...

2023-02-26

"マーカス・チャウンの太陽系図鑑" Marcus Chown 著

こういうのが書棚の片隅に一冊でもあると、部屋全体の収まりがいい...
天空には、なにやら懐かしいものがある。地上は、どこも息苦しい。日々忙殺に追われ、目線はいつも下を向き、空を見上げる余裕なんてあるもんか。
しかし、だ。途方もなく広大な宇宙の片隅に浮かぶちっぽけな天体の上で、なに悩むことがあろう。薄っぺらな大気層を隔てた向こう側には、想像を絶する世界が拡がるというのに...
脂ぎった大人が、童心に返るのは難しい。そんな輩には、こんな一冊でもないと救われんよ。そして今、プラネタリウムソフト "Stellarium" を操作しながら、この太陽系図鑑に目を細めている...
尚、糸川洋訳版(オライリー・ジャパン)を手に取る。

人類の地図への思いは、とどまることを知らない。それは、いまだ人間が人間自身を知らずにいるってことか。自分自身を知るために、まず自分の棲家、生きている地盤、己の立ち位置を確認せずにはいられない。
大航海時代には、冒険家たちがおおよその陸地の輪郭を掴み、その白地図を地理学者たちが埋め尽くしてきた。宇宙時代が幕を開けると、宇宙飛行士たちがおおよその天体の軌道に身を委ね、その背後に潜む重力図を科学者たちが埋めにかかった。
ここではマーカス・チャウンが、探査機や天体望遠鏡などが撮影した画像で、太陽系の正体を暴きにかかる。X線、紫外線、赤外線、電波とあらゆる波長を駆使して...

太陽系とは、太陽の重力の影響下にある天体の集合。質量でいえば、太陽の誕生時に余ったほんのわずかな廃材を太陽に足したもので、その歴史は、45億5千万年前に遡る。つまり、質量の 99.8% は太陽そのものというわけだ。廃材とは単なる燃えカスか、あるいは、自ら輝けないヤツら。
しかしながら、興味深さの度合いでいえば、質量比は無視され、むしろ廃材の存在感が大きくなる。なぜかって?そりゃ、地球が廃材の方にあるから。
そして、人間社会を地球の重力の影響下にある地球系とするなら、この集合物の存在意識もまた廃材の方に向けられる。体重計の上でいくら軽い存在を演じようとも...

地球が中心とされた時代、星々は天球上に固定され、恒常的な運動を繰り返すものとされた。これが、恒星と呼ばれる所以である。
だが、中には軌道が定まらず、行ったり来たりとその場を惑う星がある。これが、太陽系図鑑で主役を演じる惑星どもだ。"planet" の語源は、ギリシア語の「さまよう者」や「放浪者」といった意味に由来する。
太陽を中心とすれば、地球から見た惑星が、このような動きをするのは当たり前。いや、本当に当たり前なのか。実は、本当にさまよっているのでは。少なくとも、惑星どもの周りを回っている衛星の重力に引っ張られ、ゆらぎながら動いている。
摩訶不思議なことに、この惑う星どもは、ある平面に沿った帯上で公転している。類は友を呼ぶ... と言うが、揃いも揃って、近似される一つの平面上に存在するとは。同一円盤状で、LP レコードのように何かを奏でようってか?
古代人たちは、この夜空を横切る狭い帯に点在する星々を線で結び、黄道十二星座ってやつをこしらえた。黄道とは、天球上を太陽が一年かけてゆっくりと移動する道筋だ。太陽系の天体が太陽を中心に円盤状に配置されていることから、惑星どもは黄道近辺で見えるという理屈である。言い換えれば、黄道近辺にしか、惑う奴らがいないってことになるが、それは何を意味するのだろう。
最も近くにある月は、肉眼で見える最もでかい天体だが、こいつときたら、さらにまったく違う動きをしやがる。しかも、月が黄道を横切ると、どんでもない現象が。昼を闇に葬る皆既日食を古代人たちは凶兆として恐れ、現代人は天体ショーとして和む。黄道には魔物が棲むのか...

太陽系を内側から外観すると、まず四つの岩石質の惑星に出くわす。水星、金星、地球、火星が、それである。続いて、四つの巨大ガス惑星に遭遇する。木星、土星、天王星、海王星が、それである。
これら二つの種族の間を、小惑星と呼ばれる岩石質の破片の大群が周回し、巨大ガス惑星の外側を「カイパーベルト」と呼ばれる氷を主成分とする破片の大群が周回している。
さらに、はるか遠くの外縁には「オールトの雲」と呼ばれる領域があり、そこには氷を主成分とする一兆個もの彗星が存在するとされている。太陽系の果てに、彗星の貯蔵庫があるってか。
ただ、これらすべてが同一円盤状に配置されているとすれば、地球にとって衝突の脅威となる彗星は黄道面からやってくることになる。いや近年、仮想的な面「空黄道面」ってのも見かける。彗星がやってくる軌道は、この二つの面に集中しているらしい。太陽系の果てにも、魔物が棲むのか...

しかし、人間ってやつは、見えない存在、認知できない存在、理解できない存在... こうしたものを魔物のせいにする性癖がある。そこに重力源があるはずだと信じつつも。暗黒物質や暗黒エネルギーも、その類いであろうか...
ちなみに、科学界には二つの魔物が棲むと言われている。ラプラスの悪魔に、マクスウェルの悪魔に...

古くから知られる木星は、大きさ、質量ともに太陽系最大の惑星で、古代神話では主神ジュピターとして崇められる。ここに神の棲家があるかは知らんが、生命の棲家は見当たらない。
有史以来、怪しい暗赤色で手招きしてきた火星には、かつて海が存在したかも... 水があれば生命が存在したかも... と興味が絶えない。古い過去に火星は分厚い大気を持っていたとされるが、今はない。重力が弱いから失ったのか、なにかの衝突で吹き飛ばされたのか。岩石に浸透したのか。
火星人というキャラクターは古くから想像され、小説にも描かれてきた。そんな懐かしい記憶が遺伝子に組み込まれ、地球人は火星から移住してきたという説も見かける。火星は、化石燃料を使い切った地球の成れの果てか...
土星は、木星に次いで二番目にでかく、土星の環は、それそのものが天体ショーとなる。その美しさと存在感は、十分すぎるほどだが、ここにも生命の棲家は見当たらない。

宇宙への思いは、地球外の知的生命体の存在を予感させてきた。彼らとの遭遇は科学者たちの夢である。
しかし、その確率は、おそらく途轍もなく低くかろう。長い宇宙の歴史から見ても、人類が存続する期間はわずかであろうし、他の知的生命体と同時期に存在することも難しかろう。ただ、生命の痕跡に遭遇する確率は、もう少し高いはずだ。
地球は、いずれ絶滅するだろう。科学では、生命が存在するには水が欠かせないとされている。それが本当なら、どこかに生命さえいてくれれば、人類の移住計画も可能ならしめる。
ボイジャー探査機に搭載されたレコード盤は、地球外の知的生命体に届くかもしれない。その時、人類が存続していればいいが、その前に地球が存続しているかも怪しい。あるいは、どこかの惑星に移住した元地球人が、このレコード盤を回収しているやもしれん。タイムカプセルってやつは夢があっていい。童心に返れそうな、そんな思いをこの図鑑に託す...

2023-02-19

"ファスト & スロー(上/下) - あなたの意思はどのように決まるか?" Daniel Kahneman 著

原題 "Thinking, Fast and Slow"
人間の思考回路には、直感や感情を担う「システム 1」と、熟考を担う「システム 2」があるという。システム 1 は、手っ取り早く、これといった努力なしに無意識的に作動する。対して、システム 2 は、意識的に努力してようやく作動し始め、その重要な役割として、システム 1 の判断や決定をモニタする機能が備わり、必要に応じて修正したり、停止したりする。
尤も、そのようなシステムが脳の中に存在するはずもなく、脳の機能を比喩的に表現しているだけのこと。これに近い思考の区別に主観と客観ってやつがあるが、二つのシステムは、どちらも主観の領域にあり、システム 2 は、若干の客観性を持ち合わせている。どちらも人間味あふれた特徴を有し、システム 1 は気まぐれ!システム 2 は怠け者!
これを長所とするか、短所とするかは、己次第だが、どちらの特徴も意思決定において足枷せとなる性癖となる。自分の信念や願望を疑うことは、控えめに言っても難しい。好調の時ですら難しい。それを最も必要とする時は、さらに難しくなる。高度な認知能力を有する知的生命体にとって、認知バイアスとの葛藤は宿命やもしれん。
ちなみに、笑顔をつくってみると気分が明るくなるのは、本当らしい...

さて、この読書体験を主導しているのは、どちらのシステムであろう。こいつを読むのに、認知能力を極限まで働かせること請け合い。
読み手として、この書をどう解するか。その手腕を見極めるために自己を分析し、自己を語ることができるのは、システム 2 である。自己主張の強いおいらのことだ、システム 2 は、いつでも思考を制御できると自信満々で、自分こそが主役だと思い込んでいることだろう。
しかしながら、本書の主役は、システム 1 だと告げている。これは、自我意識の主導権をめぐって、二つの架空のキャラクターが織りなす物語である。
尚、村井章子訳版(早川書房)を手に取る。

本書は、「システム 1」と「システム 2」の二項対立に加え、さらに二つの対立構図を配置している。

一つは、「エコン」「ヒューマン」
行動経済学者リチャード・セイラーは、経済学者が定義する合理的経済人をエコン類(Econs)と呼び、ヒューマンと区別して揶揄したそうな。エコンは、完璧な計算能力と意志決定能力を持っているが、ヒューマンは、錯覚し、欺瞞し、間違いを犯し、自信過剰で意志が弱い。エコンこそが理想高すぎの架空の人間像というわけである。
但し、エコンのような理想モデルを仮定すると、理論は組み立てやすい。

二つは、「経験する自己」「記憶する自己」
経験する自己とは、現在経験している状態の評価を、そのまま総合的な自己評価とすり替える自己である。結婚や恋愛、あるいは仕事などで充実している時は、なんでもうまくいきそうで、人生は素晴らしいと思えるものだが、それらが一転して、破綻したり、貧困に陥ったりすると、不遇な人生を呪ったり、絶望したりする。
一方、記憶する自己とは、エピソードやストーリーの要点や印象を記憶し、その記憶を元に判断や決定をする自己である。時間を置いて冷静に自己を見つめる目は、後者で養われる。

こうした見方を表現する経済学用語に「効用」ってやつがある。経済学者は、この用語に二つの意味を与えてきたという。
一つは、ジェレミ・ベンサムが提起した快楽や苦痛の経験を尺度とする効用で、本書はこれを「経験効用」と呼ぶ。
二つは、好ましさや望ましさといった意味合いで、冷静になってあとから感じるような効用で、本書はこれを「決定効用」と呼ぶ。
例えば、期待効用理論では、決定効用を支配すべく合理性を論じる。二つの効用は、経済主体が合理的あるという前提において一致するが、長い間、経済学者は不一致の状況を想定してこなかった。
尚、効用については、著作「ダニエル・カーネマン心理と経済を語る」で、これを主題に論じられている(前記事)。

自己が経験している瞬間、瞬間に、快楽や苦痛に振り回されるとしたら、自己を冷静に語れるのは、その状況を記憶している自己ということになる。
しかしながら、記憶がまともに残るとは限らない。自己防衛本能が、自己の都合のよい形で記憶することもあれば、トラウマとなって神経症やヒステリーを引き起こす要因となったり、記憶そのものを抹殺することもある。
本書は、記憶の心象現象として、特に「持続時間の無視」「ピーク・エンドの法則」に注目している。
人間の脳は、物事を抽象化し、コンパクトに記憶する習性がある。記憶容量の効率化を図るためかは知らんが。たいてい快楽は長く感じたいし、苦痛は短く済ませたいものだが、快楽も、苦痛も、最も強く感じた瞬間が記憶に残りやすい。恐怖やショックなどはインパクトの瞬間が記憶に刻まれ、時間感覚を麻痺させることもある。あるいは、平凡な出来事には、平均的な印象が、その総和の代用となることもある。終わりよければすべてよし... というが、まさにピーク・エンドの法則を物語っている。ステレオタイプとして印象づけられるのもその類いか。人種や国籍、世代や地域、職業や専門、性別や血液型など、あらゆる属性が自分の世界観で決定づけてしまう傾向がある。この多様化の時代に... 
とはいえ、意思決定のために、多種多様なパターンすべてを観察している時間はない。人生は短いのだ。
自己欺瞞を自己が見抜くには、よほどの修行がいる。心理操作によって記憶をすり替え、記憶を再構築することも可能だ。嘘だと分かっていても、それを続けていくと、やがて本当だと信じ込んでしまうこともある。社会風潮や情報流布などの外的要因で、ニセの記憶を摺り込まれることもしばしば。高度な情報化社会ともなれば、尚更。記憶とは、人に操作されるものであり、また、自ら操作できるものでもあるらしい。しかも、無意識に...

「経験と記憶を混同するのは、強力な認知的錯覚である。これは一種の置き換えであり、すでに終わった経験も壊れることがありうる、と私たちに信じ込ませる。経験する自己には発言権がない。だから記憶する自己はときにまちがいを犯すが、しかし経験したことを記録し取捨選択して意志決定を行う唯一の存在である。よって、過去から学んだことは将来の記憶の質を最大限に高めるために使われ、必ずしも将来の経験の質を高めるとは限らない。記憶する自己は独裁者である。」

人間の思考は、慣れ親しんだ考えに吸い寄せられる傾向があり、それで安心を買う。「認知容易性」ってやつか。
本書をどう解するかという問題にしても、最初から自分の考えで偏重しながら読み進めているかもしれない。認知バイアスを論じた書を認知バイアスによって解するとは、ソクラテスの時代から問われてきた「無知を知る」という難題にも似たり。自分の思考を知るということは、そういうことなのであろう。今の自分の行動は、本当に自分の意思に従っているだろうか。自我ほど手に負えないヤツはない。しかも、せっかくヤル気になっているところに、ややこしいことを問い掛けてきやがる。無論、おいらにだって意思はある。ただ、暗示にかかりやすい...

「リバタリアン・パターナリズムでは、市民が自分たちの長期的利益に資する意思決定ができるよう、国をはじめとする行政機関や制度が市民をナッジすることを認める。ナッジとは、そっと押すとか、促す、誘導する、といった意味合いである。年金制度への加入をデフォルトの選択肢にしておくことなどは、ナッジの一例である。チェック欄にマークを入れるだけで簡単に非加入を選べる場合、自動加入方式が個人の自由を侵害するとは主張できまい。」

本書は、日常生活があらゆる認知バイアスにしてやられていることを再認識させてくれる。
企業家の経営哲学に魅了されれば、その経営手法までよく見えたり... ハロー効果の類いか。
気の合わないお偉さんの言葉が、発言前から馬鹿げていると嘲笑ったり... プライミング効果の類いか。
確率という魔の数値を提示されるだけで、行動意欲を掻き立てられたり... フレーミング効果の類か、あるいは、アンカリング効果の類いか。
普段、利益に対して保守的なはずなのに、ちょいと損失を出すとギャンブル的な行為に走ったり... プロスペクト理論の類いか。
... などなど、まったく心理学用語に翻弄されっぱなし!

また、「モーゼの錯覚」と呼ばれる問題を紹介してくれる。「モーゼは何組の動物を方舟に乗せたか?」こんなことを話の流れで問われれば、違和感はない。だが、ちょいと考えると、モーゼは誰も方舟に乗せてはいないし、主語をノアにするべきだと気づく。モーゼとノアは、旧約聖書の登場人物として結びつけられる。脳内の連想記憶メカニズムとは、こんなもんか...
おまけに、説得力のある文章術まで助言してくれる。原則は、認知負担をできるだけ減らし、視認性を高めること。難解な言葉を避け、文章をシンプルに覚えやすくする。フォントにも配慮して。格言風に仕立てると、洞察に富んだ文章を装うことができるんだとか...

さらに、資本主義経済のメカニズムにも言及され、その原動力の一つに楽観的な起業家精神を挙げている。楽観主義はごくありふれた傾向ではあるが、企業家たちのリスクテイクこそが経済循環を活性化させているのは確かであろう。
但し、論語は告げている。過ぎたるは猶及ばざるが如し... と。
そこで、保守的な戦略として、損失に利得の二倍の重みをつけるという見方は、心理的に頷ける。
そして、リスクポリシーは告げる。トレーダーのように行動し、みみっちく勝って負けを抑えよ!と。だが、このポリシーを麻雀で実践すると、ビッグに放縦することになる。
こうした構図は、自信満々のコンサルタントに高い報酬を支払うのと何が違うのだろう。資本主義経済で合理的に行動することが、いかに難しいことか...

「計画の錯誤は、数ある楽観バイアスの一つにすぎない。私たちの大半は、世界を実際よりも安全で親切な場所だとみなし、自分の能力を実際よりも高いと思い、自分の立てた目標を実際以上に達成可能だと考えている。また自分は将来を適切に予測できると過大評価し、その結果として楽観的な自信過剰に陥っている。意思決定におよぼす影響としては、この楽観バイアスは認知バイアスの中でも最も顕著なものと言えるだろう。楽観バイアスは好ましくもあるが危険でもある。」

2023-02-12

"ダニエル・カーネマン心理と経済を語る" Daniel Kahneman 著

専門用語ってやつは、その表現の仕方に違和感を覚えるものを見かける。語彙が乏しいから、そんな風に見えちまうのだろうが、特に経済学には、それが多く感じられる。
おまけに、そのニュアンスまでも専門家の間で白黒つけられ、ちょいと違った風に用いようものならアホウ呼ばわれ。疑問すら持てないとすれば、どちらが。同じ阿呆なら踊らにゃ損々!
経済学ときたら、日常用語までも専門用語のように扱う。そこで、用語の定義から始める専門書に出会えば、それだけで敬するところがある。本書も、そうした一冊。門外漢の読者への気遣いもあろうけど...
そして、本書に収録される二つの論文に、おいらはイチコロよ!
尚、友野典男監訳、山内あゆ子訳版(楽工社)を手に取る。

「効用はどんな時も最大化されるものであると仮定すると、欲求の性質について驚くべき推論をしてしまうことになる。それは、人間はいついかなる時にも合理的な選択をするはずだという考え方につながる。こうした方法論はいろいろと使い勝手があるし、経済学者にとっては紛れもなく魅力的ではある。だがこれは、いまだに実証されていない危うい土台に立ったものだ。このコラムでは、検証可能な効用最大化仮説の一つについて論じて行くことにしよう... それは間違いだ、ということが分かる。」
... リチャード・セイラーとの共著論文「効用最大化と経験効用」より

「昔から経済学者は、人が示す好み(顕示選好と言う)についての研究を好んで行ってきた。つまり、好きだ嫌いだと口に出して言った意思や、主観的な報告ではなくて、人が実際に選んだ物事や決定を観察するということだ。しかし人間はよく、自分自身の幸せに単純にはつながらない選択を行っている。一貫性のない選択をすることもしょっちゅうだし、経験から学ばず、取引を嫌がり、他人と比べて自分はどうだということに満足の基準を置き、その他ありとあらゆるところで合理的な経済主体の標準モデルから外れている。」
... アラン・B・クルーガーとの共著論文「主観的な満足の測定に関する進展」より

心理学者ダニエル・カーネマンは、自らの考えが「プロスペクト理論」に至った様子を物語ってくれる。それは、不確実な状況下での意思決定モデルに関するもので、この研究によって彼はノーベル経済学賞を受賞した。心理学者がノーベル経済学賞とは、なんとも奇妙な取り合わせだが、この学問もようやく人間を見るようになったというわけか。
カーネマンは、人間の経済行動を心理学的に考察したことで、行動経済学の創始者の一人とされる。「行動経済学」という用語にも、ちと違和感があるが、そもそも人間の行動分析に、心理的な視点を欠いていたことが異様であったと見るべきであろう。
本書には「効用」という用語が散りばめられ、この用語にもずっと違和感を持ってきた。効用の最大化ってなんだ?欲望の最大化ってことか?しかも、これが満たされると、経済的均衡状態になるってか?経済人モデルが狼なら、経済学者も狼ってかぁ...

本書の考察で、鍵となる心理学的な性質を三つ挙げておこう。そして、これらがそのまま効用の担い手となる。

一つは、状態よりも変化に意識が向くという性質。
伝統的な経済学では、富の水準を効用の担い手としてきた。対して、現状に対する変化という視点を与えたのが、経済学者ハリー・マーコウィッツだったという。だた、この段階ではまだ思考のスケッチにすぎず、このアイデアを根本から詳述したものがプロスペクト理論ということらしい。
例えば、心理的には、年収一千万円といった絶対値よりも、年収二割増、四割増といった相対値に反応しやすい。さらに、二割減、四割減となれば、目くじらを立てるは必定。効用を満足度で計測するなら、絶対的な水準よりも、現状に対する変化に反応しやすい。売上や利益についても、似たような反応を示すであろうし、目標を掲げる時も相対的な割合で表現することが多い。効用の最大化、あるいは、満足の最大化という視点は、現実の人間感覚をあまり反映していないようである。

二つは、直感は知覚メカニズムに似ているという性質。
知覚は、見たまんまの分かりやすさという利点もあるが、錯覚や錯視の類いを誘発させるという欠点もある。こうした性質において、直感と知覚のメカニズムが類似しているという。
迷った時、手っ取り早く答えを出さなければならない場合、直感が頼りになる。確かに、人間の直感は高度なこともやってのけるが、系統だった認識バイアスにかかりやすいし、知覚のように惑わされやすい。経験を積めば、直感を直観に昇華させることもできようが、そうなる前に非合理的な行動を誘発する。
ちなみに、直感的にある程度正しい答えを得るような手法を「ヒューリスティック」と言うが、これは心理学的な用語らしい。コンピュータ科学でも見かける用語で、最適化の問題で正解率と睨めっこしながら発見的な手法が用いられる。
「メタヒューリスティクス」なんて用語も見かけるし、直感も科学的に計測することが可能になった時代ではある。

三つは、利得よりも損失に意識が向きやすいという性質。
たった一つの否定的な感情のために、エピソード全体が色付けされる傾向にあるという。人は普段、肯定的な感情で落ち着いているが、否定的な感情が一つ紛れ込めば、それは重大な意味を持つことになると。
例えば、人を評価する時、気に入らない短所が一つあれば、長所が見えなくなることがある。周りが得をして自分だけが得をできなかった場合では、大損した気分にもなる。
概して人は、肯定的な感情より否定的な感情の方に反応しやすい。古い諺に、隣の芝は青い... というのがあるが、これもその類いであろう。

本書は、これら三つの性質を踏まえて、効用の測定に「U指数(経済不快指数)」というものを提案している。経済指標に、GDP や景気動向指数などに加えてみてはどうかと。
尚、U は、unpleasant(不快)、あるいは、undesirable(望ましくない)の意。
従来の経済学の指標を正の指標とすれば、これは負の指標ということなろうか。
「効用」という用語には、二つの意味があるという。
一つは、主観的な好ましさを示すもので、本書は「決定効用」と呼んでいる。
二つは、結果と結びついた快楽体験に基づくもので、本書は「経験効用」と呼んでいる。
後者は、功利主義で知られるジェレミ・ベンサムが提起したものらしく、アルフレッド・マーシャルに至るまで「快楽の流れ」という概念だったという。それ以降は、前者の意味でも解されるようになったようである。
「しかも、幸福とは瞬間的な経験効用の経時的な総和であるとまで定義されている。」
そういえば現在でも、世界幸福度ランクングといった指標がしばしば報じられる。上位の順位はどうでもいいとしても、下位の順位はそこそこ妥当かも...

そもそも、人は自分の好みが分かっているだろうか。無意識の領域は、ことのほかでかい。実は、何に満足できるかも、よく分かっていないのでは。企業の提案や政府の経済政策に乗っかっているだけで、それに文句を垂れているだけでは。効用を肯定的な部分で計測するよりも、否定的な部分で計測する方が合理的という見方はできるかもしれない。
そういえばアンケートの類いで、とても満足、満足、普通、あまり満足でない、まったく満足できない... といったものによく出くわす。どうでもいいから相手にしなかったり、あまりの不満のためにアンケートに協力しないという選択肢もあろうし、文句を言わずにはいられないこともあろう。大した不満がなければリップサービスも飛び交う。こうしたアンケートは、真相を反映することが難しいように思えるが、企業はやたらと、こういうデータに群がる。
ネットでは口コミやレビューを参考にすることはあるが、ちょいと不満かちょいと満足の具体的な意見が役に立ちそうな気がする。あまり極端なものはフィルタをかけて...
人間の心理は、満足すればすぐに忘れたり、不満への怨念がいつまでも残ったりする。殴った方は忘れても、殴られた方はなかなか忘れないものだ。満足度が低い方が本音が出やすい!ってことはあるかもしれない。
ちなみに、おいらがプロマネをやる時、チームの精神状態を計測するために、メンバーが愚痴を言いやすいように心掛けている。愚痴を言うのは、道徳的な観点から悪いとされるが、おいらはそうは思わない。愚痴の質こそ問題にすべきであろう。愚痴が冗談で言える間はチームの健康状態を良好と見るが、愚痴が言えないばかりか冗談も出なくなると、かなり深刻と見る。この際、褒め言葉はまったく参考にならないし、ましてや世辞なんぞ...

「幸福な家庭は皆似ているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の様を異にしている。」
... トルストイ「アンナ・カレーニナ」より

最後に、共同研究者への追悼文に印象深いものがあるので、抜粋しておこう...

「大きな影響力のある人が亡くなるということは、その人一人がこの世からいなくなるというだけでは済みません。その人に影響を受けた一人ひとりの中で、何かが死んでしまうのです。
  ...
エイモスほど自由な人を私は他に知りません。彼があれほど自由でいられたのは、彼が同時に誰よりも規律ある人だったからなのです。
  ...
われわれ二人の間では、相手の言おうとしていることを、言った本人よりも聞いている方がより深く理解してしまうという摩訶不思議なことが、何度も、何度も起きました。昔ながらの情報理論の法則に反して、われわれの間では、受け手の側が送られた情報よりも多くを受け取ってしまうということが普通だったのです。もしこんなことが起きないのなら、共同研究がどんなに素晴らしいものかを知ることもできないだろうと思います。」
... エイモス・トヴェルスキー追悼より

2023-02-05

"アルゴリズム思考術 - 問題解決の最強ツール" Brian Christian & Tom Griffiths 著

人が合理的に生きることは難しい。独りでいる分にはそうでもなく、賢明な人も大勢いて、少しばかり楽観的な見方もできるが、集団化しちまうと、途轍もなく悲観的にならざるをえない。そもそも人類が合理的な存在ならば、これほどの爆発的な人口増殖を招かなかったであろうし、地球環境をこれほど侵食することもなかったであろう。合理的に生きるためには客観的な視点も必要だが、それは人間の本能に逆らった側面がある。だからこそ、客観的な視点に惹かれ、合理的な生き方に焦がれるのやもしれん。
しかし、多様化社会では合理性もまた多様化が進み、経済合理性にばかり目を奪われていては、輪をかけてカオスな非合理性に見舞われる。
本書は、そんな非合理的な人間社会を合理的に生きるための指針として、「アルゴリズム思考術」なるものを伝授してくれる。
尚、田沢恭子訳版(早川書房)を手に取る。

アルゴリズムとは、イスラム帝国の数学者アル=フワーリズミーの名に由来する代数的解法を言うが、現在ではもっと広い意味で解され、本書は「問題解決に用いられる有限な一連の手順」と定義している。
それは、きわめて形式的で、機械的で、コンピュータとの相性も良く、こんなものが人間社会のあらゆる問題に有効だとすれば、人間そのものがマシンのような存在だと言っているようなもの。実際、そうなんだろう。AI の登場で、それも現実味を帯びてきたし...
コンピュータそのものは数学的な構造をしており、その振る舞いは、どんなプログラミング言語を用いるにせよ、順次処理、条件分岐、反復処理でだいたい説明がつく。そこで重要となる要素は、これらの処理にひっかけるデータである。データという概念も抽象的で、なかなか手ごわいのだけど...
そして、人間の行動パターンも、これらの振る舞いにだいたい当てはめることができよう。例えば、人がいつも悩まされる「選択」という行為は条件分岐にあたり、問題解決のための意思決定はまさにこれである。その選択肢は、悩みにひっかけるデータにかかっており、認識能力や経験値などで決まる。
尚、選択肢をあまり広げると目移りして、ネストが深くなるからご用心!

「チューリングマシン」の名を掲げるアラン・チューリングは、機械か人間かの判定方法を考案した。人間である条件とはなんであろう。世間では、人間には心があると言われる。
「心」ってなんだ?辞書を引くと、「人間の理性、知性、感情、意志などの働きの元になるもの、または、その働きそのもの...」とある。言葉で定義すれば、こんな表現になるのだろう。しかし、定義できるからといって理解したことにはなるまい。人間は心というものを知っているのだろうか。人間は、本当に人間自身を知っているのだろうか...
心は、人と人とのコミュニケーションにおいて感じ取ることができる。ならば、人とコンピュータとのコミュニケーションにおいて心を感じ取ることができれば、コンピュータも心を持ちうるということになるかもしれない。そして、コンピュータの物理構造から心の正体も見えてくるかもしれない。コンピュータが、人間とは何かを教えてくれるってか。最も人間味に欠け、最も人間らしくない奴が...
おいらの心は、あの SF 作家風の言葉をつぶやいてやがる... 発達し過ぎたコンピュータ科学は、悪魔とまったく見分けがつかん!

さて、いつも長過ぎる前戯はこのぐらいにして...
本書は、日々出くわす問題にコンピュータアルゴリズムを適用するという観点から、効率的な思考法を提示してくれる。そればかりか、合理的な人生哲学を暗示しているような...
ソート理論には整理整頓の哲学を魅せられ、キャッシュ理論には忘却の哲学が刻まれ、スケジューリングには人生で何を優先すべきかを考えよ!と諭される有り様。
人生は短い!完璧な答えを求めて彷徨うより、いくらか妥協して前に進む方が有意義なことが多い。それは、客観的な妥協、あるいは、合理的な妥協とでも言おうか。合理的な人生は、妥協の哲学に看取られているようである...

「完璧は善の敵である。」... ヴォルテール

1. 37% ルールで行動のタイミングをはかる...
最適停止問題では、やめるタイミングを教えてくれる。
その代表例に、秘書問題がある。秘書を一人雇うのに、どれだけの面接を繰り返せば、最良の人が雇えるか。採用はその場で即座に決め、不採用にした応募者は、もう採用できないこととする。
そして、面接回数の指標に、「37% ルール」ってやつを紹介してくれる。
例えば、100人の応募者の中から選ぶとすると、最初の 37 人は検討のみとし、能力や人格など観察して採用基準を定める。以降の応募者からその基準に則って採用すれば、最良の秘書を雇う確率が最大になるという寸法よ。
37% とは、具体的には、1/e で、e はネイピア数。サンプル数が多いほど精度が上がる。
ネイピア数とは自然対数の底であり、こいつを確率論に持ち込むと、数字の魔術にしてやられる。確率論こそが、合理的な妥協というわけか...
そういえば、これに近い考えを、おいらもやっている。本を買う時は、最初の 1/3 を立ち読みして決めたり、アマゾンを放浪する時は、リストアップした中から 1/3 に絞り、さらに 1/3 に絞り、これを繰り返して 照準を絞るといった具合に...
もっといい物が見つかる... という思いのために、先送りして後悔することはよくある。もっといい人に出会えるかも... という心理は、結婚相談所でも働くらしいが、理想高すぎ!と説教をくらうのがオチ。
ちなみに、初恋は実らないもの... と言うが、このルールに従うらしい。
そして、早々に判断してしまうと、情報カスケードの落とし穴に出くわす。ネット社会では集団極性化という現象もあり、サイバーカスケードという用語も見かける。ハードウェアにも接続方法の有効な手段としてカスケード接続ってやつがあり、電力網のトラブルでもカスケード障害ってやつがある。
人間心理には連鎖的につながることを好む性癖があり、巷では、心地よく響く「絆」という言葉が乱用される。それで早々に繋がっちまうと、後悔先に立たずってか。いや、みんなで落ちれば怖くない...

2. ギッティンズ指数を悲観的に見るか、楽観的に見るか...
実行タイミングを最適なものにするには、探索と活用のトレードオフに悩まされる。どこまで探索し、いつ活用に移るか。
最も単純なアルゴリズムでは、「勝てばキープ、負ければスィッチ」という考え方がある。うまくいけばやり方を変えない... というのは良さそうだが、うまくいかなければやり方を変える... というのは、あまりにせっかちな。どんなにいいレストランでも、たまには外れの料理もあろうに...
そこで、「ギッティンズ指数」というものを紹介してくれる。経済学者は、未来より現在に価値があるという見方を「割引」と呼ぶそうな。未来に期待しない現実主義者というわけか。先物では信用取引などと呼称しながら、現物を人質にしてやがるし。なるほど、信用ならぬ取引というわけか...
さて、ギッティンズ指数では、幾何級数的に割引関数を想定する。未来を割引く関数ってのも、未来に希望が持てないようで、悲観主義にも見えてくる。当初、統計学者ギッティンズは「動的配分指数」と呼んだそうだけど...
探索しながら良いタイミングで活用するという問題は、例えば「多腕バンディット問題」に見られる。それは、最も良いアームを候補の中から順次に探す問題で、アームという奇妙な名はスロットマシン、すなわちバンディットマシンの比喩からきている。
そして、「利得が幾何級数的に割引されていく多腕バンディット問題は完全に解決できる。」という。
未来を割引くという考えが馴染まなければ、後悔に着目するという見方もある。そこで、後悔を最小化する「信頼上限アルゴリズム」というものを紹介してくれる。後悔を最小化できると考えられれば、楽観主義にも見えてくる。見方をちょいと裏返しただけで、悲観主義も、楽観主義も、気分の問題か。どちらもうまく扱えば、視界良好!どちらも扱いを間違えれば、ドツボ!

3.コペルニクスの原理で大胆に...
地球は宇宙の中心ではない。太陽しかり、銀河系しかり。これが、コペルニクスの宇宙観である。では、自分の立ち位置は、宇宙のどのあたりにあるのだろう。とりあえず、中心と端っこの中間の 50% あたりとする。コペルニクスの原理を確率論に適用すると、こうなるらしい。
確率論には、最尤推定ってやつもある。50% とするのも、あまりに安直だが、尤もらしい確率というのも、なかなかの安直ぶり。しかし、こうした大雑把な予測が、生きる上で意外と役に立つ。すべての人間が平等というのを信じれば、平均値を頼りにする最も平凡な戦略もありだ。
宝くじのように期待値が算出できれば、もうちょっとましな見方もできよう。ただ、当たる確率は売り場で違う!と主張するマニアもいるが、あながち嘘とは言えまい。こうした数値を、ベイズの法則でいうところの無情報事前分布として眺める手もある。
ベイズの法則は、条件付き確率と事前確率で組み立てられるが、本書は「事前に持った信念と観察された証拠をどう結びつけるか」という視点を与えてくれる。
しばしば人間は、行動せねばならぬ時、大胆さが求められるものだ。そして、十分に努力した結果なのだから... と自分に納得させ、自分に言い訳できることも、生きる上では必要であろう。それは、諦めの境地とは違う。運命論に身を委ねるのとも違う...

4. ランダム戦略で偶然任せに...
人間が当てずっぽうにやれば、神頼み!となるが、コンピュータがやると、ことのほか重要な役割を持つ概念がある。ランダム性ってやつが、それだ。
計算機工学では、論理的に解くのが絶望的なほど複雑な問題でも、乱数を用いて近似解を得るというアプローチがある。乱択アルゴリズムの代表といえば、モナコのカジノに因んだ名で知られる「モンテカルロ法」がある。量子力学のシミュレーションモデルなどで見かけるやつだ。
乱数は、難題に対する最後の砦となりうる。例えば、複雑な入力パターンを持つブラックボックスをテストする場合、とりあえず入力条件の組み合わせに乱数を放り込んで、手っ取り早く検証モデルのプロトタイプを作っちまうという手は、なかなか有効である。
但し、コンピュータアルゴリズムで生成する乱数は、何らかの手順を踏んで生成するのだから、疑似乱数にならざるをえない。真の乱数を生成するには、量子現象に基づいた物理デバイスでも持ち出さないとできないだろう。
そんなデバイスからデータを呼び出す特別な関数を実装した CPU があれば、不確定性原理に看取られた世界へアクセスできそうだ。
とはいえ、アルゴリズムで生成された疑似乱数には再現性があり、検証プロセスのような用途では、むしろ都合がいい。再現性のない現象を検証するのは、途轍もなく厄介である。だから、ランダムではなく、ランダム性なのだ。
つまり、人間の都合のよい程度にランダムであることが、現実社会を生きるための指針となる。偶然に身を委ねるとはいえ、あまりに想定外の偶然は困る。
本書は、乱択アルゴリズムの例に「ミラー = ラビン素数判定法」ってやつを紹介してくれる。素数の判定は、今日ではインターネットの暗号システムで核となっている技術で、この判定法を用いれば、任意の精度で巨大な数でも、すばやく素数かどうかをが見分けられるという。しかし、「おそらく素数」「ほぼ確実に素数」などと表現されれば、これは本当に数学であろうか。こんなものが実用的だということは、それだけ暗号解読が途轍もなく困難であるかを示しているのだけど...
人間社会というカオスの中を生きていくには、完全な確信を得るよりも、確率的に、近似的に、偶然的に、だいたいの確信にすばやく近づくことの方が幸せなのかもしれん。どうせ確信もまた、ある種の思い込みだ。科学がどんなに進歩しようとも、迷信に惑わされる人類の性癖は治りそうもない...

2023-01-29

"超予測力 - 不確実な時代の先を読む10カ条" Philip E. Tetlock & Dan Gardner 著

「優れた判断力プロジェクト」の主催者フィリップ・テトロックは、「平均的な専門家の予測の正確さは、チンパンジーが投げるダーツと同じ...」という調査報告を発表した。
この発言は、なにも驚くほどのものではない。すでに市場予測では、証券アナリストたちの当てずっぽうぶりに似たような表現が用いられてきたし、大手マスコミにしても決まり文句を平然と報じるばかり。当たり障りのない要因を一つ持ち出しては、利益確定売り... だとか、ダウ平均に刺激されて... だとか、FRB の利上げ観測で... だとか。それで視聴者も分かりやすいし、分かった気にもなれる。
しかし、経済市況がそう単純な現象でないことは明らかだ。だからといって、こうした情報を無益として切り捨てるのはやり過ぎであろう。それを材料に、自ら調べればいい。そして、専門家の意見に反論できるほどの考えを持ちたいものである...

この調査報告で興味深いのは、さらに踏み込んで、そうした専門家の中にも、ごく少数の並外れた予測力を持つ人たちを発見していることである。本書は、彼らを「超予測者」と呼ぶ。しかも、その資質では、超優秀でなくても、ちょいと優秀な人ならできそうなものばかり。「できそう」と「できる」とでは、雲泥の差だけど...
例えば、慎重で謙虚、柔軟で知的好奇心旺盛、内省的で自己批判的、数字に強く確率論的な洞察に優れ... といったことである。健全な懐疑心の持ち主とでも言おうか。
学習プロセスでは、挑戦、失敗、分析、再挑戦... といった単純なサイクルが提示される。誰もが生まれた時から実践してきた基本的な思考プロセスだが、脂ぎった大人が地道にやるのは難しく、難癖をつけては近道するのがオチ。これを、超予測者は素直にやってのける。オタク的な継続力とでも言おうか。童心を忘れずにいられるのも、超予測者の資質であろう。そして、最も重要な心得は、予測に絶対はない!ってこと...
尚、土方奈美訳版(早川書房)を手に取る。

「専門家とその予測を否定する立場と擁護する立場を両極とすれば、その中間にある合理的な見方を提示していく余地は十分にある。否定派にも一理ある。予測市場には、いかがわしい洞察を売り歩く怪しげな輩もいる。先を読むということについては、どうしても越えられない壁もある。未来を知りたいというわれわれの欲求は、常にその能力を超えてしまう。しかしあらゆる先読みを無益と否定するのもまた行き過ぎだ。状況によって、またある程度であれば、将来を読むことは可能であり、それに必要な能力は知的で柔軟で努力を惜しまない人間であれば誰でも伸ばせると私は考えている。『楽観的な懐疑論者』とでも呼んでいただきたい。」

そもそも、予測に求めるものとはなんであろう。予測は正確を旨とするとは、よく言われれるが、はたしてそうだろうか。当たらなくて良かったという予測もある。例えば、核戦争はいずれ起こる!と、かなり前から予測されてきたが、人類はそんなに愚かなのか?抑止力となっている面もある。では、核戦争は起こらない!に一票か。いや、それではあまりに楽観視しすぎであろうし、単なる先送りでもある。
予測は正確であることに越したことはない。だが、どんな予測も最初はいい加減なもの。いい加減だからといって切り捨てては何も始まらない。ならば、予測そのものよりも、予測に至るプロセスを大切にしたいものである。

「認知的不協和に対処するのは難しい。『同時に二つの矛盾する考えを抱きながら、うまく折り合いをつけていけるかが一流の知性の持ち主かの試金石となる』と F・スコット・フィッツジェラルドも自伝的エッセイ『崩壊』に書いている。われわれはナチス政権に対する感情と、国防軍の組織的強靭さに対する客観的判断を切り離し、国防軍が当然破壊されるべきおぞましい組織であったと同時に、われわれも学ぶべきところがある優れた組織であったことを理解しなければならない。ここに論理的矛盾はない。心理的矛盾があるだけだ。超予測者をめざすならば、それは克服する必要がある。」

それにしても、平均的な専門家が当てずっぽうより精度の低い予測しかできないという指摘も、にわかに信じがたい。一般的に揶揄される専門家は、だいたい平均レベルにある人たちのようだが、露出度の高いコメンテータの類いか。一度でも重要な予測を当てれば、そこに人は群がり、カリスマ予測者に祭り上げるのが集団社会。予想屋がいい加減なら、それに群がる連中もいい加減なもの。
予測とは恐ろしい行為だ。当たると褒められ、外れると馬鹿にされ、知らぬが仏ということもある。メディアで知識をひけらかし大言壮語する専門家を横目に、水面下では専門家よりも見識の深い素人が静かに暗躍している。とかく知的活動では、アマチュア感覚の方が有利なことも多い。研究や調査では自由な発想が要求され、なによりも遊び心が求められる。ここに、権威や名声は無用だ。「超予測者」という称号をもらっても、却って息苦しそうだ。尤も彼らにそんな自覚はないだろうけど...

1. 鍵はフェルミ推定か...
予測プロセスでは、ノーベル物理学者の名に因んだ「フェルミ推定」というヤツがある。おいらのお気に入りの思考法で、社会学系の書でも見かける。本書でも、これを鍵にしている。
例えば、「シカゴにいるピアノ調律師は何人か?」という問題に対して、まずシカゴの人口を仮定し、ピアノを保有する世帯は何割か?ピアノの調律頻度は?一日に一人で何台のピアノを調律するか?... といった具合に推定していく。最初は、当てずっぽうで構わない。それぞれの問いに適当な数値を当てはめていき、最終的な問いに答える、といった思考プロセスである。調査を進めるうちに知識が蓄えられ、分解されたそれぞれの問いに対して、徐々に精度の高い数値を与えることができる。ここには、情報論と確率論の巧みな協調が組み込まれており、頭の体操にもってこい...

2. 判断力の検証は手ごわい...
一つの業績を語る上で、鍵となるものに判断力ってやつがある。答えが分かっていれば、判断するまでもない。分からないから予測するのであって、予測では何かが起こる可能性を判断することになる。
例えば、天気予報が降水確率で発表されるようになったのは、いつ頃であったか。おいらが美少年の時代、まだ数値発表はなく、天気予報ほど当てにならなものはないというのが定番であった。気象学者は地球を科学する超エリートのはずだが、気象予報となるとまるで権威が感じられない。自信がなけりゃ、うすぐもり... ってやればいいじゃない!なんて、子供なりに嘲笑したりもした。
では、21世紀の今はどうであろう。降水確率 10% でスコールにでも出くわした日にゃ、予測が外れたことになるのだろうか。確率で語れば、言い訳ができるって寸法よ...
本書は、「それは優れた判断であったか」を「それは正しい結果をもたらしたか」にすり替えることはよくあることで、またタチが悪いとも指摘している。
確かに、正しい判断であったかを検証することは比較的簡単である。手っ取り早く結果と照合できるし、後知恵も使える。だが、理に適った判断であったかを検証することはすこぶる難しい。世間は、なんでも結果で評価しがち。だから、歴史的な判断は間違いだらけということにもできるし、歴史専門家にも、そうした傾向があるようだ。現代の世界観や価値観で評価すれば、いつの時代も間違った判断ということになりそうである。
本書は、「その判断が正しかったか」ではなく、「その判断が理にかなっていたか」という視点を強調している...

3. 永遠のベータ版、人生もまた未完なり...
予測には、自信過剰と自信過少の問題がつきまとう。主観的にしか思考力を発揮できない知的生命体にとって、客観的な視点を持つということは本能に逆らった側面がある。それも修行で補うしかあるまい。本書は、自らを磨き続け、やり抜く力を「永遠のベータ」と呼ぶ。
コンピュータ業界では永遠のベータ版という言葉が皮肉の意味で使われるが、常にアップデートを試み、改善に改善を尽くすのが人生というものであろう。わが人生は未完なり!すべてこれ未完なり!
ちなみに、チャーチルとケインズの有名なやり取りで、こんな逸話があるそうな。
チャーチル首相がルーズベルト大統領との会談にのぞんだ時、「あなたの意見が正しいと思いはじめた」と電報を送ると、ケインズは「それは残念。すでに私の意見は変わりはじめた」と返信したとか...

4. 平均的な専門家とは...
平均的な専門家というのは、自分の研究の立場を重視するあまり好みの理論や型に嵌め込んだり、自らの思想信条に固執するあまりお気に入りの因果関係の雛形に押し込もうとしたり、曖昧な答えに我慢ならず無理やりにでも結論を出す傾向があるという。挙げ句に、奇妙な自信を持ち、何事も断言するようになるとか。メディアでは攻撃的な論者をよく見かけるが、その類いか。
確かに注目度は高いし、視聴率も稼げそうだ。しかし、本書に描かれる超予測者像とは真逆に映る。どんな人間のタイプにせよ、自らの間違いを認めることは難しいことだけど...
ただ、「平均」という概念も、なかなかの曲者である。統計学で最も多く出現する数値で、メディアでもよく持ち出されるだけに、余計に厄介だ。ましてや多様化社会では、経済格差、情報格差、意識格差など、あらゆる方面で両極化が進み、平均的な人間像を描くことが難しく、平均が希少となることも珍しくない。
ちなみに、統計学の定番のジョークに、こんなものがあるそうな。
「統計学者は足をオーブンに、頭を冷蔵庫に入れて眠る。そうすると平均が心地よい温度になるから...」

5. 超予測者をめざすための 10 の心得。いや、11番目こそが...
本書の最後には、10 の心得が付録されるが、これといって真新しいものは見当たらない。ただ、11番目の心得こそが、すべてを物語っているように映る...

  1. トリアージ... 直面している問題を難易度や重要度で分類し、集中すべき問題に集中しよう。
  2. 一見手に負えない問題は、手に負えるサブ問題に分解せよ。
  3. 外側と内側の視点の適度なバランスを保て。
  4. エビデンスに対する過小反応と過剰反応を避けよ。
  5. どんな問題でも自らと対立する見解を考えよ。
  6. 問題に応じて不確実性はできるだけ細かく予測しよう。
  7. 自信過少と自信過剰、慎重さと決断力の適度なバランスを見つけよう。
  8. 失敗したときは原因を検証する。ただし後知恵バイアスにはご用心。
  9. 仲間の最良の部分を引き出し、自分の最良の部分を引き出してもらう。
  10. ミスをバランスよくかわして予測の自転車を乗りこなそう。
  11. 心得を絶対視しない!

2023-01-22

"経営の未来 - マネジメントをイノベーションせよ" Gary Hamel & Bill Breen 著

資本主義におけるほとんどの経営管理モデルは、二十世紀初頭に構築されたという。その慣行やルールは、二十一世紀の今でも幅を利かせ、とうの昔に亡くなった思想家や実務家たちの亡霊がまとわりつく... と。
確かに、経営管理の技術や組織構造は、会社が違っても似たり寄ったり。CEO や経営陣たちがすんなり他社に移れるのも、そのためか。しかし、成熟しきった経営管理モデルも、そろそろ次の段階を求めているようである。そして、非営利組織の運営手法の方が興味深い、今日このごろであった...
尚、藤井清美訳版(日本経済新聞出版)を手に取る。

「物理学の法則とは違って、経営管理の法則は既定のものでも永遠のものでもない。そして、それは悪いことでもない。」

おいらは、プロジェクトマネジメントをやることが多い。年齢は関係ないと言いたいが、経験を買われるようである。しかし、経験が邪魔をすることも多々ある。日本のムラ社会には、組織体質の悪弊もある。そんな煩わしいことから逃れ、多様な働き方を求めて独立したはずだったが...
近頃、フリーランスという都合のよい用語もあるが、それでも世間のしがらみから逃れられずにいる。三千年紀は幕を開けた。もはやネアンデルタール人の出る幕ではない。

ところで、マネジメント工学では、ずっと昔から疑問に思ってきたことがある。管理職って何を管理するんだ?管理の必要があるのか?
そもそも、「マネジメント」を「管理」と翻訳するところに違和感がある。仕事なんてものは自発的にやるもので、哲学的な意識が共通していれば、それで十分ではないか。共通しなければ、一緒にやらないだけのこと。おいらは人に命令することが大の苦手で、管理職には不向きな人間である。だから、あっさりと切り捨てる...

また、イノベーションという用語にも、なにやら宗教じみた香りがする。これをやれば、天国にでも行けそうな。そして、開発技法、生産方式、品質管理、サービス提供など、様々な技術や手法がイノベーションの対象とされてきた。企業が唱えてきた呪文は、コスト削減、リエンジニアリング、改善、アウトソーシング、オフショアリング... と枚挙にいとまがない。
そして、go to heaven... それは、すなわち、die out !

「近代経営管理は、ワンセットになった便利なツールや技法だけを言うのではない。トーマス・クーンの乱用され気味の用語を借りるなら、それはパラダイムなのだ。パラダイムは単なる考え方にとどまるものではなく、世界観であり、どのような問題が解決する価値があるか、もしくは解決可能であるかに関する、幅広くかつ深く奉じられている信条である。
  ...
人間は皆パラダイムの囚われ人であり、経営管理者としての人間は、効率の追求を他のあらゆる目標に優先させるパラダイムに縛られている。近代経営管理は非効率という問題を解決するために生み出されたのだから、これは驚くにはあたらない。」

本書で注目したいのは、上流工程を対象としていることである。階層構造では、最上位に位置づけられるのが経営管理イノベーション、次に戦略イノベーション、そして、製品やサービスのイノベーション、業務イノベーションと続く。人間の上流工程となると、人間性を問うことになろうか。仕事となると生き方を問うことになろうか。いずれも、哲学に帰するであろう。イノベーションもずっと人間に近づいてきたようで、これぞマネジメントの本質やもしれん...

「業務効率イコール戦略効率ではない... 企業は業務効率を測定する方法はたくさん持っているが、戦略効率を評価するとなると、ほとんどの企業がお手上げになる。新しいプロジェクトの案をどんどん生み出して検討するプロセスがないとしたら、現在のプロジェクトの構成が人材や資本の最も効率的な使い方であると、企業のリーダはどのようにして確信できるのか。資本や人材がより有望なプロジェクトに自由に移動できないとしたら、適切な資源が適切な機会に配分されていると、どのようにして確信できるのか。答えは簡単で、できないのである。」

こうして眺めていると、組織運営で当たり前とされるトップダウン的な規律は、あまり必要なさそうに見えてくる。いや、むしろ邪魔か...
現場の社員が状況を最も把握しているとすれば、そこに責任を与え、裁量と権限を持たせる方がずっと合理的なはず。自発的で持続的な行動を促すには、社員一人一人が経営戦略に参加しているという意識が持てること。社員が、業績データにリアルタイムでアクセスできることも付け加えておこう。
その心理的要素に、「大学院のような風土」「徹底的にフラットで大胆に分権化された組織」「小規模な自己管理型チーム」「自分の情熱に従う自由」といったものを挙げている。ベストプラクティスは、民主主義的な風土から生まれるというわけである。
しかし、こいつぁ、経営管理モデルというよりは無秩序に近い。いや、人間の本質に根ざした秩序というべきか。だからこそ、一旦、手懐けちまえば最強のイノベーションということになろう。但し、手懐けるまでの道のりは嶮しい...

ちなみに、政治学者フランシス・フクヤマによると、民主主義とは「一連の説明責任のメカニズム」を言うらしい。しかも、「説明責任が大きい体制ほど適応力が高い。」という。
そして、「階層構造ではなく格子構造の組織」「上司はいないが、リーダは大勢いる組織」などの事例を紹介してくれる。
組織運営では、肩書で序列化されたヒエラルキーよりも、責任の所在を明確にする方がずっと合理的というわけか。独裁体制では、ボトムアップの変革の機会はことごとく葬られるであろう。政治のごとく。それで、革命や反乱といった時代遅れの形で露呈するのでは、何をやっているのやら。二十世紀の終盤から、大企業といえども突発的な倒産に晒される事例が目立つ。世紀末現象かは知らんが、安定神話ってやつもまた自然法則に寄り添って崩壊するようである...

「民主主義社会では、権力は上に向かい、説明責任は下に向かう。政治家は自分の選挙区の有権者によって選ばれ、彼らに対して説明責任を負う。そのため、彼らはさまざまな視点を考慮に入れなければならない。企業の世界では、このパターンが逆になっている。社員は上に対して説明責任を負い、その一方で権限は取締役会から下にしたたり落ちる。トップ・マネジメントが説明責任を負っているのは、株主に対してのみだ。問題は、取締役会は価値を創造しないということだ。どれだけの価値が創造されるかは、社員の英知と想像力、それに彼らの戦略がどの程度、尊重されるかによって決まるのである。」

2023-01-15

全自動トイレは懲り懲り... せめて便器の中にやって下さい!

これは、前記事の介護論、いや、介護奮戦記の続編である。介護とは、日々気が狂いそうになる自分との闘い。いや、もう狂っちまったか。だからこんなものを書いているのやもしれん...

さて、全自動トイレを設置して、十年ぐらいになろうか。御老体のために!と思ったけど、余計なお世話であったか...
確かに、全自動は便利だ!前に立つだけで、ようこそいらっしゃいませ!ってな具合に蓋が開き、便座から立つと勝手に流してくれて、おまけに、お尻まで洗ってくれる。おかげで、よそで用を足そうものなら、流し忘れるという大罪を犯しちまう。トイレのペーパーレス化は、オフィスのペーパーレス化のようにはいかんよ。

停電時は大騒ぎ!バケツに水を汲んでよっこらしょ!
定期的に洗浄までやってくれれば、夜な夜な奇妙な機械音がして、年寄りが騒ぎおる。
健康診断で大便検査でもやろうものなら、おっと!せっかく出したものが勝手に流れちまう。
要介護の御老体ともなると、全自動システムでは行動パターンが読めないと見える。用を足し終わっても、立ってパンツを上げているうちに、またやりたくなることも。すでに自動で蓋が閉まっていれば、その上に座って... あちゃぁ!ウォシュレットの上で... あちゃぁ!AI でも搭載してくれ!
まったく肛門の締りが悪い。現代人の肛門を軟弱にさせているのは、この手の機能やもしれん。
肛門の口で詰まるからといって、ボケ爺が自分で指を突っ込んで出そうとしやがる。怒りをぐっと、ぐっと飲み込んで... 時間をかけてもいいから... と、自然に落とすよう再教育し、ようやく大袈裟なことにはならなくなったものの... どんなやり方すれば、こんな所汚れるの?どんなやり方すれば、こんな汚し方するの?どこから掃除したらええのか... 途方に暮れる。何度手を洗っても、臭いが残った感じ。潔癖症になりそう... せめて便器の中にやって下さい!

おまけに、トイレまでも老いて故障が多い...
昨年だけで三度も... 自動洗浄時にエラーランプが点滅して機能停止。モータがいかれて蓋が開かず。水漏れで床が水浸し。といった具合.... その都度、修理費がかさむ。
しかも、この手の機械が故障する時は、きまって真冬のクソ寒い時期ときた。業者によると、交換部品は 12 年間までしか保持しないらしい。
そして今、便座を上げるとエラーランプが点滅してリモコンが反応せず、怪しげな臭いを醸し出している。御老体には、便座を上げる必要がないとはいえ。
なので、ピュアな、いや、プアな型を発注したが、コロナ禍のせいで納期が数ヶ月遅れているところ。故障してからでは手遅れだ!

ちなみに、2階にもトイレがあるが、昔ながらのシンプルなタイプで、築 25 年になるが一度も故障したことがない。便座を温める機能があるぐらいだが、コンセントを抜いたまま。おいらは、プラスチックの生暖か感がどうも苦手で、ウォシュレットも大嫌いなネアンデルタール人だ。
用を足す時ぐらいは、自然でいたい!排便人生こそ、Simple is the best !

2023-01-08

独り善がりな介護論... 地獄を見るのはこれからだ!

まずは、哲学者気取りで自問してみる。人間とはどういう存在か?人生とは、いったいなんなんだ?人間なんてものは、喰って!排泄する!ただ、それだけの存在やもしれん。そんな退屈な日常を紛らわすために、生き甲斐のようなものを見つける。ただそれだけのことやもしれん...

宇宙に存在するすべての物体は、なんらかの原子構造を持っている。原子は単体でも存在しうるが、そのほとんどが互いに結合して分子を成す。結合や分離を繰り返すからには、そこにエネルギーのやりとりがある。人体の構造は、だいたいそれで説明がつくだろう。そして、エネルギーを得るための摂取物と、エネルギー交換に生じる排泄物が問題となる。
では、魂はどうか?精神ってやつは?自由意志ってやつは、おそらく物理的には自由電子の集合体で説明がつくだろう。
しかし、それで自己を納得させられるだろうか...

「幸福になる必要なんかないと、自分を説き伏せることに成功したあの日から、幸福が僕の中に棲みはじめた。」
... アンドレ・ジッド

さて、婆ヤと爺ヤが要介護認定を受け、本格的な介護モードに突入してから五年が経つ。毎年、現状維持を目標に掲げるも、達成できたためしがない。婆ヤがパーキンソン病で難病指定を受け、爺ヤがアルツハイマー型痴呆症とくれば、本ブログのタイトルが「アル中ハイマーの独り言」では洒落にもならん。ただ、二人とも独りでは歩けない有り様で、徘徊できないのが有り難い。

介護を論じれば、体験談をぶちまけ、独り善がりな奮戦記となるは必定。
ヘルパーさんを呼べばいい!施設に入れればいい!... などと安直な助言はまったく役に立たないばかりか、むしろ腹が立つ。散歩に連れて行ってやれ?買い物に連れて行ってやれ?... そんな余裕あるもんか!一般論なんぞ糞食らえ!そして、こっちが糞食らう。
巷では「介護地獄」なんて言葉も飛び交うが、こんなものを書いているのだから、まだまだ余裕がある証拠。戦争をやっている国を思えば、まだまだ平和ボケな悩みやもしれん。
人生百年時代というが、それが本当なら、二十年ぐらいは覚悟せねば... 地獄を見るのはこれからだ!

「一生涯ずっと幸福だって!生きている人間でそんなことに耐えうる人はいないだろう。そうであったら、まさにこの世の地獄になるだろう。」
... バーナード・ショー

しかし考えてみれば、排泄処理さえ克服できれば、なんとかなる。やはり、人間なんてものは排泄するだけの存在か...
まず、トイレが近いのが如何ともし難い。一旦トイレに行かせれば、二時間ぐらいは放置できる。婆ヤと爺ヤが同期した日にや、連れションかぁ...
何をやるにしても、用を足した後のニ時間が勝負!外出にしても、仕事にしても、睡眠にしても... オムツが一回拾ってくれれば、計算上は四時間になるが、排便は算数じゃない。
日常は、変化に飛んでいる。ほんま、ぶっ飛んでいる。打ち身に、捻挫に、腰の疲労骨折に... いつも臨機応変を前提とした計画と予測が肝要だ。でないと心が折れるし、怒りを爆発させちまう。
よく、年寄りは怒りっぽいのがストレスになる!という話を耳にするが、うちは、それがないのが救い。むしろ穏やか。そして、ありがとう!と言う口癖を習慣づけるようにしている。施設や病院でもお世話になるし...

介護と仕事の両立は難しい...
個人事業主でなんとかなっているけど、いや、なんとかなっていないかも。介護のマネジメントは、プロジェクトマネジメントの要領に似ている。
しょんべんまみれで御飯を作り、ウンコまみれでキーボードを叩く。このマルチタスクは、なかなか手ごわい。
どんなやり方すれば、こんな所汚れるの?どんなやり方すれば、こんな汚し方するの?どこから掃除したらええか分からん。何度手を洗っても、臭いが残った感じ。潔癖症になりそう... せめて便器の中にやって下さい!
ご飯といえば、この世代は炭水化物ばかりに目がいき、タンパク質を摂らせるのに一苦労。
なにかと、どうにかなりたい!人間辞めたい!などと口にするのも頭が痛い。論理思考で悲観論をボヤくのはいい。いや、むしろいい。しかし、単にメソメソするのは御免だ!
何か行為をする度に、よっこらしょ!どっこいしょ!と掛け声で御老体を励ましているが、実は、自分自身を励ましている。イライラが募ると、一つ一つの行為が雑になり、足先や手指をぶつけたり、皿や瓶を割ったりと、さらに悪循環。おいらが機嫌が悪いと、御老体の調子も悪くなるので、とにかく笑顔。腹が立っても、目尻の筋肉を緩める訓練。これには、まだまだ修行が足らん!
介護とは、日々、気が狂いそうになる自分との闘い。いや、もう狂っちまったか...

運良く、介護環境は整っている....
週二回デイサービスを利用し、自宅から徒歩五分ぐらいの所。これにショートステイを絡めてなんとか乗り切っている。通所介護や病院など同系列の医療法人を利用し、ケアマネージャさんをはじめ、介護士さん、福祉用具屋さん、お医者さん、看護師さん、栄養士さん、理学療法士さん... ついでに食堂や売店のおばさんたちの連携が素晴らしい。プロとはいえ、彼らの仕事ぶりには頭が下がる。いつも笑顔で... 感謝以外に言葉が見つからない。
医療現場といえば、たいてい医師が主導する立場にあるのだろうが、逆に、介護士さんや看護師さんたちが率先してくれて、お医者さんは後ろから支えてくれるような位置づけ。こうした組織構造は、実に民主主義的で、上の命令がなければ動けない大企業や官僚組織が見習うべきであろう。彼らこそ日本企業の組織の在り方、意識の在り方を問うているような気がする。
延命医療はいらない。一流の医療もいらない。いかに穏やかに人生を完結させるか、これが最大の関心事である。第一希望は自宅のベッドで、第二希望はいつもお世話になっている施設のベッドで... 現実は、そうもいくまいが...

介護グッズも充実してきた...
介護保険で適用される住宅改修を利用し、玄関や風呂場やトイレに手すりを設置。家を建てる時は介護なんてまったく想定してなかったが、理学療法士さんによると、廊下が広く、バリアフリーで、わりと介護向けの構造になっているらしい。
福祉用具は... 歩行器、車いす、シャワーチェア、玄関口とトイレとベッドに補助手すり、あちこちに突っ張り棒... といった具合で、ジャングルジム状態!
ベッドも立ち上がりやすいように、ちょいと床から高さのあるヤツに... あとは、ナースコールに、監視カメラに、音声感知に、人体検知に... 24 時間稼働中!
ちなみに、我が家には、もう一人障害者がいて、2階がオフィスで、1階が障害者施設となっている。コロナ禍前は、技術屋さんがオフィス見学に来たものだが、今では、福祉屋さんの見学がちょこちょこ。介護そのものは辛いが、介護システムの構築は結構楽しかったりして...

しかしながら、最も頼りになる武器は、オムツだ!
なんといっても、オムツの性能がいい。自分でも試してみたが、災害時などでも使えそうだし、まだまだ研究の余地あり。
あまりカバー回数の多いやつに頼ると、オムツが重くなって却って被害が大きくなる... といった助言も頂く。簡易トイレという手もあるが手間がかかりそうで、今のところ却下。オムツの中で行儀よくやってもらうよう教育し、ようやく大袈裟なことにならなくなったところ。そのうち、AI 搭載のスマート・オムツなんてものが登場しないかと、笑いながら本気で期待しつつ。
いま最も幸せなひとときは、仕事に集中できる時間。タスクスケジューラが 24 時間コンビニ営業となれば、唯一の頼みはオムツだ!

車いすの性能もいい...
モノは、グレイスコア・アジャスト GRC-51B(松永製作所)。病院などに設置されている車いすは、点字ブロックなどの小さな段差に車輪を取られるが、こいつは滑らかに走行できる。しかも、ブラック色でスタイリッシュ!
こんな立派なヤツでなくていいのだけど、在庫はこれしかないから... 製造業者が是非試してみて!って言うから... と、福祉用具屋さんが即日持ってきてくれた。折りたたみ式に背折れ式でコンパクト。パンクレスタイヤもいい。病院では、パンクしているやつをよく見かけるし。難を言えば、重さが 17kg もあって自動車のトランクに乗せるのに一苦労...

はぁ~...
思いっきり愚痴っぽく書いてみたが、文章にすると冷静になれる。ストレス解消にもなる。論理的思考の威力か。
しかし考えてみれば、いい経験をさせてもらっているのやもしれん。少なくとも、人生の終わり方を見せてもらっている。どんなにみっともなくとも、人の目を気にしている余裕はない。そして、自分自身をどう終わらせるか... これに答えを見つけなければ... 見つけられずに人生を終えそうだけど... 美しく歳をとるなんて、夢のまた夢!

ついでに...
昨年の真夏、一家揃って新型コロナにやられた。みんな 39 度以上の熱が出て、婆ヤは血を吐いて意識を失う。とはいえ、全員分の救急車を呼ぶわけにもいかず、一家揃って死ぬのもいいかと思ったりもした。意識は朦朧とし、不安もなく、そのまま天国へ行けそうな。婆ヤのベッドは血の海に。爺ヤのベッドはウンコの海に。おいらは炎天下に 39 度の熱で、布団の処分に、ベッドメイキングに... そんな地獄も、一週間で過ぎ去り、今では笑い話。
三回のワクチンが効いたのか。おいら一人なら、ちょっいと熱の高い風邪のレベルであった。ただ、後遺症か、御老体は二人とも足取りが悪く、パーキンソン病の症状も顕著に。
心理学によると、笑うと心身ともに良好になるというので、御老体をくすぐったりしているところ。ほんま、笑ってないとやってられんわ...

2023-01-01

独り善がりな読書論... 速読術は速愛術のようにはいかんよ!

まずは、冒険家気取りで自問してみる。なぜ本を読むのか?そこに本があるから...

目的がないと生きてゆけないとすれば、人生はにがいものとなろう。読書を趣味にするとは、どういうことか。一旦、読書空間に入り込めば、自我から解放され、現実から解放され、まったくの別世界へ導かれる。不思議の国のアリスのように...
音楽を聴くのも、映画を観るのも、スポーツを観戦するのも、同じこと。そもそも趣味なんぞに、目的があるのか。そんな大層なことでは、趣味とは言えまい。趣味には、目的にも束縛されない自由が欲しい。これぞ、読書の目的だ!

「夏の夜の夢よ!私の歌は、空想のように目的がない。
 たしかに恋のように命のように、神と自然のように目的がない!
 わが愛する天馬(ペガサス)は、自由自在に地を走り天を飛び
 物語(ファーベル)の世界を駆けまわる。」
... ハインリヒ・ハイネ著「アッタ・トロル」より

読書スタイルは、十人十色。読書を論じれば、体験談のオンパレードとなり、独り善がりとなるは必定。本を読むことに愉悦を覚える人は、我流の読書論といったものが湧き上がるだろう。読書を論じるなんて、読書好きでもなければやるまい。
読書好きとは、じっくり読む人のことを言うと思いきや、そうでもないらしい。巷では、速読法なるものがもてはやされる。愛する人には、なるべく長く一緒にいたいと切望するのに、相手が本となると、なるべく早く通り過ぎたいとは、これいかに?
カントの三大批判書を速読できる才能は尊敬に値するが、羨ましいとは思わない。プラトンの「饗宴」なら速読できそうだが、そんなもったいないことを...

本の虫!という形容もあるが、どのくらいの量を読めば、その称号に相応しいのだろう。ある大学の先生は、月に四、五十冊も読むと聞く。確かに、だらだらと文字を追いかけるより、倍速で追いかける方が集中力も増す。
しかし、読書は一期一会!やはり多読より精読!いや、多愛も捨てがたい。いやいや、なんとしても多愛だ!とはいえ、速読術は速愛術のようにはいかんよ...

「よく、速読が良いか精読が良いかと訊ねられることがあるが、必要に応じて、どちらでもすぐやれなければ、どちらも役に立たない。... 精読も速読も、習慣の問題で、いずれも一種の才能である。精読しようにも、その習慣を持たない人は、読み方を知らないものである。」
... 福原麟太郎

読書好きと本好きとでは、微妙に違う。シリーズものではコレクションしておきたものがある。本棚の片隅で、読まれずに愚痴ってる奴らが。それで、もったいない病が疼けば、しゃあない!
読書には、読書体力もいる。読破した瞬間のクタクタ感がたまらん。M だし!
一冊を読めば、賢くなった気分にもなれる。昨日の自分より今日の自分の方が。すると、読書を重ねれば、どんどん賢くなっていきそうなものだが、ふと十年を振り返ると、あまり代わり映えのしない自分がいる。読書とは、なんと虚しい行為であろう。
難解な書に手を出せば、無力感に襲われるのは分かっている。それでも、ほんの一部分だけでも理解した気分になれれば、大きな達成感が得られ、その感情連鎖に癒やされる。まるで麻薬中毒!ソクラテスは無知を装って対話を仕掛け、読者に自省を促すが、おいらは苛つくばかり。おいらはベーコンの言葉が好きだが、いまだ懐疑的ときた...

「読書は満ちた人をつくる。」... フランシス・ベーコン

読書家とは、どういう人を言うのであろう。どこででも本が読めるというぐらいでないと、読書家とは言えまい。おいらは、電車の中でとか、休憩時間にとか、そういった読み方ができない。電車の中ではうとうとしたいし、休憩時間にはぼんやりしたい。
そして、読書の時間は、決まって書斎に籠もる。「明窓浄机」という言葉もあるが、あえて照明を落としてセピア色で彩り、ページには LED ライトでスポットを浴びせ、BGM で臨場感を高めながら、お香を炊いて気分をほぐし、ちびちびとヴィンテージ物で喉を潤す。読書空間とは、五感を総動員して愉悦する場!まったくの贅沢なひととき!やめられまへんなぁ...

読書なしの人生なんて想像だにできん。依存症だ!そう悟って衝動に身を委ねるものの、巷にはあまりに多くの本が溢れてやがる。読みたい本を片っ端から相手にすれば、それはそれで無駄な人生となろう。
しかし、無駄でない人生とは、どんな人生であろう。結局、自己満足に縋るほかはない。自己啓発によって自己陶酔に溺れ、自己実現によって自己泥酔のうちに死んでいく、それ以外にどんな道があるというのか...

書物は、それ自身の運命を持つという。名著ともなれば、著者の手を離れ、独り歩きを始める。読み手が本を選ぶなら、書き手だって読み手を選びたいであろうに。ここには暗黙の不平等契約が成立する。
いや、安直な読み手を追い払う手はある。しっかりとした文章で、しっかりとした構成で仕掛ければ、しっかりとした読み手が集まってくる。小説の文章が単純で分かりやすいのでは、味も素っ気もない。
読み手の本選びにも、流行を追うという本能めいた感覚がある。誰もが知っていることを知らないと、不安に駆られるものだ。情報の性質からして、誰もが知らないことを知っていることの方が希少価値が高いはずだけど...
クチコミやオススメの類いが流布し、それが瞬時に拡散する時代では、目を閉じることも難しい。情報の自由化は、偽情報の自由化でもある。
そこで、古典という選択肢がある。時代の篩にかけられ、それでもなお輝きを失わないのが古典である。
ただ、偉大な書き手たちが欠席裁判を強いられるのも気の毒ではある。本人が亡くなったから、批判しやすいというのもある。そりゃ、死んでも死にきれまい...

いずれにせよ、自分のモノの見方や考え方を把握しておかなければ、本を選ぶことも儘ならぬ。まずは、己を知ること。それは、何千年も前から唱えられてきたことだ。なんらかの興味があるから、その本を選ぶことができる。本選びとは、似た者同士の集いとも言えよう。
一方で、必読書百選!といった宣伝文句を見かける。なんとなく読まないと気まずいような。本選びのアウトソーシング!本を選ぶ労力を考えれば、実にありがたい!
しかし、だ。あえて逆を行くという手もある。いつの時代も、流行ってやつは、だいたい修正されていくもの。ならば、天邪鬼な人生も悪くない...

「大事なのは本を読むことではなく、考えること。まず考えれば、何を読めばいいかだってわかるんです。まとまった時間があったら本を読むなということです。本は原則として忙しいときに読むべきものです。まとまった時間があったらものを考えよう。」
... 丸谷才一

昨今、本は魔力を失ったと言われる。インターネットに圧倒され、SNS に圧倒され、知識を得るのに、本に頼るまでもない。ただ、たやすく手に入る知識は、たやすく人を流す。どこへ流すかは知らんが...
ちなみに、藁人形の赤い糸を解くと、地獄へ流してくれる... という呪術あがると聞く...
ある研究報告によると、スマホで読書すると読解力が落ちる!というのも見かける。視野が狭まって呼吸のリズムが狂うのか、あるいは、前頭前野が余計な活動を強いるのかは知らんが...
本を読むという行為は、1 ページずつ捲り、1 行ずつ活字を追うというだけに留まらない。行間を読むには修行がいる。分かりやすい文面ばかり追えば、言葉の深みは読めなくなるだろう。本には印刷の重みがあり、そこが電子メディアの弱点かもしれん...
分かりやすい文面では、却って本質がぼやける。なぁ~に、心配はいらない。本質とは、もともとぼやけたものだ。空気を読む前に、行間を読むことに集中するとしよう...