2023-08-06

"ローマ帝国衰亡史 新訳" Edward Gibbon 著

「すべての道はローマに通ず」という古い格言があるが、三千年紀が幕を開けても尚、色褪せるどころか輝きを増してやがる。「ローマは一日にして成らず」というのもそうだが、本書に限っては、軽妙な文章に乗せられ、一日で読み干しちまった。なんて、もったいないことを...
ローマ帝国史といえば、エドワード・ギボンの名を耳にする。だが、彼の著作「ローマ帝国衰亡史」はいかんせん大作で、ToDo リストに居座ったまま。そこで本書は、この大著から代表的な章を掻い摘んでくれる。それでも、八百ページもの重み。やはり一日にしてしまってはもったいない。じっくりと読み返すとしよう...
尚、中倉玄喜編訳版(PHP研究所)を手に取る。

「昇るものは沈み、生まれるものは死に、朽ちるべきものは朽ちる。」... モハメッド

偉大なローマ帝国は、いかにして滅亡したのか。歴史家の間でも、様々な意見が飛び交う。義務教育では、ゲルマン民族の大移動がその原因だと教わったが、それではあまりに皮相的だ。直接の原因が外敵であったにせよ、様々な要因が複雑に絡んだ結果であることは免れまい。だからこそ多面的な教訓となる。タキトゥス著「年代記」によると、早々繁栄期に自壊の道を辿っていたことが見て取れる。
もともと共和国であったローマは、、初代皇帝アウグストゥスの時代から帝政へと移行した。当初の皇帝たちは、共和国の理念を引き継ぎ、あるいは、引き継いだように見せかけ、元老院も体面上の役割は果たしていたとさ...
共和国の伝統は、古代ギリシア文明を吸収しながら、異文化の中に優れたものを見つければ、積極的に取り入れる。占領地でも風習や宗教などに寛容で、周辺地域の部族から見れば、ローマは憧れな存在でもあったとさ...
やがて、僭帝たちは支配欲と領土拡大欲に憑かれ、伝統的な共和国精神が失われていく。かつての寛容性は影を潜め、血なまぐさい権力闘争に、異教徒の迫害に、蛮族と呼ぶ人々へのあくどい仕打ち... と。人が至福にある時、その背後に迫りつつある衰運を見抜くことは極めて難しい。帝国の臓腑には、慢性的な平和による害毒が徐々に広がり、人心は次第に画一化していったとさ...

「繁栄が衰亡の原理を動かしはじめ、衰微の要因が征服の拡大とともにその数を増やし、やがて時間や事件によって人工的な支柱がとり除かれるや、この途方もない構造物は、みずからの重みに耐えきれず倒壊したのだ。ローマ帝国滅亡の過程は、しごく単純にして明らかである。むしろ驚きを禁じえないのは、何ゆえにかくも長く存続することができたのか、という点にある。」

1. 東西分裂から滅亡のカウントダウン
ローマ帝国の滅亡時期となると、東西分裂後、西ローマ帝国の滅亡をもって... とする意見も見かける。ローマ帝国と呼ぶからには、首都はローマでなければ... という見方はできよう。東ローマ帝国は、ローマらしくないローマ帝国である。というより、ローマからコンスタンティノポリスへ遷都した時点で...
国民の構成も、ローマ人からギリシア人が主流に。そこで、ビザンティン帝国というオリエンタルな呼称がある。ギボンも、西ローマ帝国の滅亡で筆を置こうとした節があるらしい。
しかし、ビザンティン人は、自らをローマ帝国の正統な後裔と位置づけたという。ローマ精神は失っていないというわけか。
国家建設を論じる時、アイデンティティは重要な位置づけにある。そもそも東西に分裂した意図も、あまりに巨大化した帝国を効率よく統治するための政策の一環であり、権力闘争などによる内部分裂ではないようである。しかも、東側の統治者の方が、西側より優れた皇帝を輩出したという経緯もある。そして、コンスタンティノポリスの陥落物語は、衰亡史のクライマックスを飾るに相応しい...

2. キリスト教の存在感と一神教の影響力
国家の形成を論じる時、宗教や信仰を無視できない。共和制の時代、ユピテル神を頂点に多くの神々を崇拝していた。それは、国家的祭儀の形をとりながら、国政とも強く結びついていた。領土拡大とともに、他国の新たな神々が入ってくる。この多神教の世界が、他の神々を受け入れる寛容性となり、共存、融合するようになったという。
かつては、蛮族同士の争いからローマに庇護を求め、そのまま帝国領地に定住するといったケースも多く、すでに蛮族大移動の種が蒔かれていたようである。
しかし、一神教を崇めることによって皇帝の神格化がはじまり、キリスト教が国教となる。一神教は寛容性を欠く側面がある。なにしろ、他の神を認めないのだから。そして、異教徒迫害が正義となる。ニ世紀、リヨンの司教聖エイレナイオスが「異端反駁」で四つの福音以外を異端とした。もともと異端の側にあったキリスト教は、秘密主義を通して多くの福音が点在したはずだが...
四世紀、コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認したが、それは政治が混乱する中でキリスト教徒との妥協であったのだろうか。当初はそうかもしれんが、コンスタンティヌス帝はローマ皇帝として初めてキリスト教徒となり、ニカイア公会議ではアタナシウス派を正統とし、アリウス派を異端とした。ここから、異端派の排除が一気に加速する。
善悪の対立構図は、大衆を扇動するには実に分かりやすく、効果的である。絶対的な神の存在は、相対的な認識能力しか持ち合わていない知的生命体にとって荷が重すぎるのやもしれん。人間味あふれる不完全な神々と戯れている方が身の丈であろう...
そして、この時代の正統派と異端派の分裂は、後のローマ・カトリック教会とギリシア正教会の二大宗派、さらに、プロテスタント宗派を加えるという流れに通ずるものがある。
また、信仰や宗教の教訓としては、政治を司る者が中立を保つことの大切さと、その難しさを物語り、政教分離といった近代政治思想へも通ずるような...

3. ローマ精神と民族大移動
帝国精神は共和国の伝統によって支えられ、蛮族の自発的な臣従に見て取れる。ローマの司法権が及ぶ土地を拡大するにつれ、これに属すことを誇りとする国民精神が育まれていく。東方の遊牧民フン族が西へ移動すると、蛮族が帝国領内に流れ込み、新たな臣民となって割譲された地域に定住するようになったという。このような形でローマ帝国は蛮族を受け入れるようになったとか。
しかし、蛮族は蛮族である。統治者たちの差別意識がむごい仕打ちとなれば、暴力には暴力を。これが、蛮族大移動の原理であろうか。強制された威厳は脆い。これが人間法則というものか。統治の観点からも、自由を排除するより多様性や寛容性といった価値観を受け入れる方が、はるかに合理的であろう。
ローマ帝国史には数々の暴君が出現するが、その都度、改善を試みた賢帝が出現し、そんなところにローマ帝国が長く存続できた要因の一つがありそうである。
そして、この時代の民族大移動が、近代国家の形成を担う民族マップになっていることも興味深い。二十一世紀の今日、欧米諸国で難民や移民を積極的に受け入れる慣習を見かけるが、そこに古典回帰を見る思い。なるほど、すべての道はローマに通ず...

「表向き『共和国』という名称と体面とを維持した初期の皇帝らによる巧妙な政策、多数の軍事僭帝によって引き起こされた国内の混乱、キリスト教の発展と各宗派、コンスタンティノポリスの建設、帝国の分裂、ゲルマン人やスキタイ人の侵入と定着、国内法の制定・編纂、モハメッドの性格と宗教、教皇の現世支配、シャルルマーニュによる西ローマ帝国の復興とその後の衰微、ラテン人による東方への十字軍遠征、サラセン人やトルコ人の征服事業、東ローマ帝国(ビザンティウム)の滅亡、中世におけるローマ市の状況と変遷等々、まことに、各種の原因とそれにつづく現象とが、かくまでに興趣に富むさまざまなかたちをとって現れている歴史はほかにない。しかしながら、この主題の重要性や多彩性を大いに強調する歴史家も、だれであれ、かならずしや自己の力量不足を痛感せざるを得ないことだろう。」
... エドワード・ギボン

2023-07-30

"市民政府論" John Locke 著

右と左に二極化する現代社会において、右往左往する大衆を前に、自由主義や民主主義の在り方を問う。多数派に委ねられる民主政治は、市民の大多数が愚かだと、愚かな政治家どもがのさばり、衆愚政治と化す。アリストテレスは民主制を最悪な政治システムと酷評したが、それも頷けよう。それでも、君主がことごとく僭主となることを顧みれば、独裁制よりはマシか...
市民社会を支える上で、いまや欠かせない自由主義と民主主義は双子の兄弟のようなもの。その根底に立ち返ろうとすれば、避けては通れない人物がいる。そう、人間悟性論を著したジョン・ロックだ。彼の著作では、「完訳 統治二論」加藤節訳版(岩波文庫)に触れたことがある。再読も考えたが、できれば軽く流したいし、どうせなら翻訳者も変えてみたい。そこで、統治二論の第二編(後編)に位置づけられる「市民政府論」というわけである。軽くは流せないけど...
尚、角田安正訳版((光文社古典新訳文庫)を手にとる。

古くから哲学者たちは、人間の本質に根ざした共同体の在り方を思い描く上で、人間の自然状態というものを問うてきた。それは、基本的人権と深くかかわる設問である。ロックは主張する。人は生まれながらにして「生命、自由、財産」を守る権利があると。これらの権利はどんな権力にも制限されるものではないと...
中でも、最も厄介なのが、自由ってやつだ。こいつを野放しにすれば、獣が群れる弱肉強食の社会となり、人権なんぞは虚構に成り下がる。ロックは補足する。「生まれつき理性をそなえているからこそ、生まれつき自由なのである。」と...
しかし、理性なんてものは、最初から備わっているわけではあるまい。共同体の中で、その生活経験から身につけていくものであろう。となると、共同体が先か、理性が先か、といった鶏と卵のような関係を問うことに...
人間の自然状態に、理性は本当に備わっているのだろうか。ただ、これを前提にしないと、人間の尊厳が失われる。いや、経験を積むと、誰もが自然に身につけられるもの、とすることはできそうか...

自然状態には、自然法なるものが暗黙に機能するようである。それは、理性の叫びか、良心の叫びか。耳を傾ければ、理性の声が聞こえてくる。何人も、他人の生命や健康、自由や財産を侵害してはならない、と。それは、自分自身の生命や健康、自由や財産が侵害されることを嫌ってのこと。
人間が単独で生きてゆけるなら、自然法だけで十分であろう。だが、共同体の中で生き、その規模が大きくなるほど、ルールとその成文化が必要となる。価値観の違う人が集まれば、尚更。
人間ってやつは、 何事も明文化しないと落ち着かない、確固たる根拠がないと落ち着かない、いつも共通意識を確認し合っていないと不安でしょうがない、何事も言葉にしないと不安でしょうがない... そんな存在だ。
そこで、実定法なるものが必要となる。とはいえ、締まりのない大量の条文が形骸化していることは周知の通り。どんな法律も、自然法に適っていなければ、機能しないというわけか...

「地上のいかなる権力にも縛られず、人間の意志や立法権の支配を受けず、自然法以外に人間の従うべき準則が存在しない... これが人間の本来の自由である。それに対して、社会における人間の自由というものがある。そのような自由は、国内で同意にもとづいて制定される立法権力に制約される。」

では、国家の正当性はどこからくるのだろう。国家法が後ろ盾になっているにしても、その国家法は自然法に適っているだろうか。たいていの人は、この世に産まれ落ちると、どこぞの国家に自動的に所属させられるという、いわば奇跡的なシステムに組み込まれている。物心ついた頃には、疑問すら持てないほどに。これを自然状態と言えるだろうか。
現在の国家は、その多くが 18 世紀から 19 世紀頃に出現した「近代国家」と呼ばれる枠組みを継承している。既にプラトンの時代には国家論が唱えられ、現在の枠組みは歴史がまだまだ浅いということになる。古来、哲学者たちが論じてきた自然状態からも、かなり乖離しているのやもしれん。自然法の面影も薄れているようだ。
現代人は、所有権を保持するために実に多くの法律を編み出してきたし、さらに、その数を増やそうとしている。共同体の目的は、自らの所有権を保全することなのか。
少なくとも、ロックが唱えた「生命、自由、財産」が保障されなければ、国家ってやつは、その存在意義すら失う。そして、国家を支える「社会契約説」とやらが浮かび上がってくる...

「人間はみな、本来的に自由で平等である。そして、独立している。同意もしていないのにこの状態を追われるとか、他者の政治的権力に服従させられるとかいったことは、あり得ない。本来そなわっているはずの自由を投げ出し、わが身を市民社会のきずなに結びつける方法は一つしかない。それは、ほかの人々との合意にもとづいて共同体を結成することによる。共同体を結成する目的は、自分の所有物(生命、自由、財産)をしっかりと享有し、外敵に襲われないよう安全性を高めるなど、お互いに快適で安全で平和な生活を営むことにある。」

多くの国家は、立法権を国民の代表機関である議会に委ねる。我が国の憲法でも、第四十一条に「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」と謳われる。そこで、ロックは主張する。立法部は常設する必要がないと。いや、常設するとむしろ弊害になると。
人間ってやつは、とかく権力を握りたがる性癖を持っている。最高権力を常設すれば、その地位に就こうと躍起になるばかりか、一旦獲得しちまえば、法律を改竄してでも権力にしがみつこうとする。立法権は国家の最高権力では収まらず、ひとたび共同体から委託されると、それを引き受けた者にとって神聖なものとなる。それだけに、立法権は恐ろしい。この権力を一部の人間が独占すると、さらに恐ろしい。人間社会には、神になりたがる奴らで溢れている。専制政治の最大の弱点は、こういうところに露わとなるであろう...

2023-07-23

"スモール・イズ・ビューティフル" Ernst Friedrich Schumacher 著

「人間は小さいものである。だからこそ、小さいことはすばらしい...」

八年ぐらい前になろうか、原題 "Small is Beautiful" については、「人間復興の経済」と題した斎藤志郎訳版(佑学社)を手にした。そんなことも忘れていたのだけど、ブログに記録していたことが功を奏す。
実は、既に買った本を数年後にまた買ってしまい、ブルーになるという経験が何度もあるのだ。今度は、サティシュ・クマールの編んだ「風船社会の経済学」(前記事)に触発されるも、どうせなら別版にトライしたい。そこで、小島慶三、酒井懋訳版(講談社学術文庫)というわけである。邦題の様変わりもあるが、翻訳者が違うと、こうも光景が違うものであろうか。だから、おもろい!時間が経てば読み手の感覚も変わり、さらに違うものがある。だから、おもろい!再読の妙とは、こんなところにあるのだろう...

「人間復興の経済」は哲学書風でちょいと重い感じもあったが、本書は、ちょいと砕いた感じで軽快に読める。今の風潮には、こちらの方が合っているのだろう。ただ、読みやすいと活字に流され過ぎる感あり。文字の大洪水が苦手なネアンデルタール人には、前者のリズムの方が合ってそうか。とはいえ、再読の場面では、文字の流れは軽快な方がいい。おいらにとって読む順は完璧だ!そして、拾う言葉もおのずと違ってくる...

「人間が全体として真実から逃げる一方だとすると、他方では、真実が四方八方から人間に迫ってきているともいえる。真実の一面に触れるには、昔は一生努力しなければならなかったが、今日では逃げないだけでよい。だが、逃げないということは、なんとむずかしいことだろうか...」

技術屋の間では、"Simple is Best" という信仰が根強い。"Small is Beautiful" も、その類いであろうか。物事を必要以上に複雑に考えることもあるまいが、想像以上に適度に考えることも難しい。
おまけに、自意識ってやつは、大きな流れに飲み込まれたいと見える。たいていの人は大多数派に属すことで安住し、就職先では大企業に人気が集中し、ナショナリストは領土拡大欲に憑かれ、独裁者は巨大兵器に幻想を抱き、独占欲の強い奴は愛の大きさを乞う。
だが実際には、コンパクトで小回りの利くものの方が実用的なことが多い。何事も大き過ぎると手に負えなくなるのが道理。
但し、小さきものが美しいとは限らず、醜態の寄せ集めということも十分にありうる。
"Small is Beautiful" という言葉には、適度な規模と適度な技術、そして総合的な視野という思いが込められているようである。何事も美しさの原理には調和が保たれており、E. F. シューマッハーの唱える仏教経済学とやらに中庸の哲学を見る思い...

「唯物主義者が主としてモノに関心を払うのに対して、仏教徒は解脱(悟り)に主たる関心を向ける。だが、仏教は『中道』であるから、けっして物的な福祉を敵視しはしない。解脱を妨げるのは富そのものではなく、富への執着なのである。楽しいことを享受することそれ自体ではなく、それを焦れ求める心なのである。仏教経済学の基調は、したがって簡素と非暴力である。経済学者の観点からみて、仏教徒の生活がすばらしいのは、その様式がきわめて合理的なこと、つまり驚くほどわずかな手段でもって十分な満足を得ていることである。」

経済学は、利潤や生産効率の最大化といったものを主眼に置き、ひたすら合理的な社会を論じる。それは、誰にとっての合理性であろう。経済学者にとっての合理性か。金融アナリストにとっての合理性か。
そもそも、経済学は何を見据えた学問であろう。人間性は、GDP などでは測れない。国民所得の増大や完全雇用を論じても、人間の豊かさには至らない。人間は仕事を失うと絶望するが、それは単に収入を失うからではなく、規律正しい仕事に内包される活力までも失うからである。
本書の意図には、一度、人間に立ち返ってみよ!という要請があるように思える。人間らしい生き方とは... 人間らしい社会とは... そうした観点から経済学を論じよ!と...

「民主主義、自由、人間の尊厳、生活水準、自己実現、完成といったことは、何を意味するのだろうか。それはモノのことだろうか。人間にかかわることだろうか。もちろん、人間にかかわることである。だが、人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる。そこで、数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えなければならない。経済学がこの点をつかめないとすれば、それは無用の長物である。経済学が国民所得、成長率、資本産出比率、投入・産出分析、労働の移動性、資本蓄積といったような大きな抽象概念を乗り越えて、貧困、挫折、疎外、絶望、社会秩序の分解、犯罪、現実逃避、ストレス、混雑、醜さ、そして精神の死というような現実の姿に触れないのであれば、そんな経済学は捨てて、新しく出直そうではないか...」

2023-07-16

"風船社会の経済学 - シュマッハー学派は提言する" Satish Kumar 編

原題 "THE SCHUMACHER LECTURES"
E. F. シューマッハーといえば、「小さきことの善」を説いた人で、昨日、南米ジャングルから彼の著作「スモール・イズ・ビューティフル」が届いたばかり。本書もまた小さき知の結集といった様相を呈する。叡智とは、多角的な知の総動員!しかしながら、小さきことばかりに目を奪われれば、大局を見失う。ご用心!ご用心!
尚、村山勝茂訳版(ダイヤモンド社)を手に取る。

本書は、E. F. シューマッハーの追悼講演録で、精神医学、歴史学、考古学、言語学、心理学、物理学、未来学、政治哲学といった分野で活躍する八人もの研究者や実践家が入り乱れ、これらをサティシュ・クマールが編む。八人それぞれが専門の枠組みから解き放たれ、地球の在り方や自然との共存を問い、人間らしい社会とは... という観点から社会に物申す。それで新たな見解が得られるわけではないが、知的好奇心とは、それ自体に意義があるのだろう...

「どんな研究分野であれ、新しい着想を得ようとするときに、旧い概念に対する批判や攻撃を加えるという方法は必ずしも有効ではない。垂直に物事を積み上げて、自らにいっそう重い負担をかけて苦しむより、発想を思い切って転換し、要点と思われるところで物事を水平に切って頭を軽くすると新しい着想が得られることがある。」

学問を深化させれば、専門化が進むは必定。だがそれで、専門バカを量産し、知の縦割り社会となるのでは本末転倒である。「風船社会...」と題しているのも、中身は空っぽ!ってかぁ...
しかしながら、現実に目的を求めたところで詮無きこと。この世に合目的なんてものが存在するのかは知らんが、人生に意味を求めずにはいられないのが人間の性(さが)。現代人は、空っぽの中身を連想で埋めようと必死にもがき、仮想化社会にのめり込んでいく。それは、現実に幻滅した結果であろうか...
巷では、リアリティという表現をよく耳にするが、Real と Reality では、ちとニュアンスが違う。現実から現実性へ、実存から実存性へ。精神の実体が自由電子の集合体なのかは知らんが、この塊を魂と呼ぶなら、魂ってやつは、真実よりも真実っぽいものに、本物よりも本物っぽいものに引き寄せられる性質があると見える。そして大衆は、リアルではなく、リアリティに群がる...

「物事はもはや知性ある人間のコントロールを離れ、盲目の権力が敵対する権力に対し、ゲームのルールに従って、両者があらかじめプログラムされたとおりに対応するようになる... そうして、世界権力をめぐる二つの権力のゲームは人間の理性が不在のまま継続し、残された地球の鉱物資源と奴隷的人口の忠誠の獲得を競い、宇宙の覇権とその他もろもろの愚かで自殺的な目標を競うことになる...」

E. F. シューマッハーは、ケインズに師事しつつも、ケインズやマルクスの理論に違和感を覚えるようになったという。今日の経済理論でも、生産力の上昇、国民所得の増大、失業率の改善といったものを論じながら、自然環境の破壊を黙認している。産業革命から続く科学技術の進歩は、莫大な人口増殖を引き起こし、エネルギー危機や資源問題に直面しつつある。人類は、地母神に見放されつつあるようだ。ついでに、月は地球から数センチずつ遠ざかっているとも聞くが、ツキからも見放されつつあるようだ...

「工業経済が中央集権化と資本集約的生産の一定の限界に達してしまったら、今度は横断的情報網と意思決定をより多く用いて、地方分権的な経済活動や政治形態へと方向転換せざるをえない... さもなければあまりにも階級組織化され、官僚化された制度における深刻なボトルネックに陥って、どうしようもなくまってしまう...」

2023-07-09

"啓蒙とは何か 他四篇" Immanuel Kant 著

昔からそうなのだが、おいらには「啓蒙」という用語が、イマイチしっくりこない。押し売りの類いか。宣教と何か違うのか。そんな眼で見ちまう。天邪鬼にも困ったものだ。
辞書を引くと、「人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするよう教え導くこと...」とある。「啓」は、開く、教え導く... といった意。「蒙」は、暗い、愚か、無知... といった意。よって、愚か者を導くといった意味になりそうな... 
しかし、西洋語の "Enlightenment(英)", "Lumières(仏)", "Aufklärung(独)" は、いずれも「光」や「明るさ」といった意味合いが強い。つまり、光を見るのは自分自身の力であること... 誰かの思想に乗っかるにせよ、教え導くのは自分自身であること... といったところであろうか。「開眼」という語に近いような...

17 世紀から 18 世紀にかけて、ホッブズ、ロック、ヒューム、モンテスキュー、ルソーらは、人間の自然状態を盛んに論じた。理性の原因を人間の本性に求め、自然に発する理性の実践によって自立を促すといった目論見である。それで、彼らの啓蒙思想は完成を見たであろうか。いや、まだ始まったばかりか。いやいや、ソクラテスの時代からずっと続いてきたような。カントは大衆を鼓舞する。人の意見を当てにして生きている大人どもよ、大人になれ!と...

尚、本書には、「啓蒙とは何か」「世界公民的見地における一般史の構想」「人類の歴史の憶測的起源」「万物の終り」「理論と実践」の五篇が収録され、篠田英雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用しえない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは自身に責めがある。というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから『敢えて賢こかれ!』、『自分自身の悟性を使用する勇気を持て!』... これがすなわち啓蒙の標語である。」

本書で目を引くのは、「世界公民的...」という用語と、成熟した個人の行動に「理論と実践の一致を見る」という観点である。
まず、「世界公民的...」というのは、犬のディオゲネスが唱えた世界市民構想に通づるものがある。現代風に言えば、国民である前に、市民であれ!といったところであろうか。
イギリス革命やフランス革命などの市民革命の連鎖を経て、「近代国家」と呼ばれる政治形態が各地に出現した。現在の国家の枠組みは、この頃の形態をほぼ引き継いでいる。つまり、現在の国家という概念は、三百年ほどの歴史しかないということになる。おそらく、プラトンが唱えた国家論とも随分違うものなのだろう。
やがてグローバリズムの波が押し寄せ、国家という概念も随分と曖昧なものになった。とはいえ、ナショナリズム的な精神高揚は、19世紀頃からあまり変わっていないような。国家の枠組みに囚われた者とハミ出した者とで、世論が二極化するのも無理はない。ただ、自由主義や資本主義は、国家の枠組みから解放させてあげた方が機能すると見える...

次に、「理論と実践の一致を見る」という観点では、理想高過ぎ感は否めない。どんなに立派な理論でも、実践で役立たずでは意味がない。そればかりか、理想が現実を歪めちまうこともよくある。大衆社会では、理論と実践はしばしば矛盾し、たいてい実践が重んじられる。実践は難しい。理論はさらに遠く、道徳原理は遥か彼方なり...
しかしながら、カントは敢えて理論と実践の一致を唱える。理論が実践に近づくのか、実践が理論に近づくのか。いずれにせよ、調和や中庸といった概念を必要とするだろう。例えば、道徳を理論とするなら、義務が実践に位置づけられる。道徳哲学とは、自己が幸福になる方法を教えるのではなく、共同体にとって幸福に値するようなものを教える学を言うそうな。しかも、その学には義務が必然的に伴うとか...
そして、道徳と義務の一致を見る時、最高善という概念が薄っすらと浮かび上がる。アリストテレスのポリス構想にも通ずるような。自己啓発や自己実現といった地道な行動に、啓蒙を見る思い。そのためには、道徳だけでは不十分!ましてや幸福なんぞを目的にしても満たされるはずもない。道徳原理や義務遵守に定言命法を要請してくるとは、なんと酷なことを。凡人は、屁理屈でも唱えてないとやっとられん!

「無知な人が、自分で実践と思いなしているところのものについて、理論はもともと不必要であり無くても済むものだなどと放言しているのは、まだしも我慢できる。しかし利口ぶった人が、理論とその価値とを、(ただ頭脳を訓練する目的だけの)学課としては認めるが、しかしいざ実践ということになると、様子ががらりと変ってくるとか、或いは学校を出て実社会に出ると、これまで空虚な理想や哲学者の夢に徒に追随してきたことをしみじみと感じるとか、... 要するに、理論ではいかにも尤もらしく聞こえることでも、実践にはまったく当てはまらないなどと主張するにいたっては、とうてい我慢できるものではない。」

うん~... 最も理論を実践に近づけているのは、道徳哲学よりも科学やもしれん。客観的な法則は、思い込みの強い人間の思考をねじ伏せちまう。宗教裁判なんぞを鑑みると、時間はかかるにせよ。なので、カントに限らず、啓蒙思想家たちが宗教政策に対して批判的な立場をとったのは頷ける。
本書の影で、啓蒙思想ってやつが近代国家の出現や科学革命の布石に見えてくる、今日このごろであった。そして、おいらも啓蒙されたい。M だし...

2023-07-02

"プロレゴメナ" Immanuel Kant 著

"Prolegomena" とは、ギリシア語で序論を意味し、正確な表題は「およそ学として現われ得る限りの将来の形而上学のためのプロレゴメナ(序論)」となるらしい。ここに、批判哲学の建築スケッチを見る思い。哲学の建設には自省がつきもの。自省の建築には自己否定がつきもの。批判哲学の建築に、健全な懐疑心なくして成り立つまい。自己否定に陥っても尚、愉快になれるなら真理の力は偉大である...
尚、篠田英雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

「人間の理性は、たいへん建築好きにできているので、なんべんとなく高い塔を築いては、あとからまたそれを壊して、土台が丈夫にできているかどうかを調べたがるものである。人間が理性的になり賢くなるのに遅すぎるということはない。しかし透徹した洞察をもつのが遅れると、これを活用することがそれだけ困難になるのである。」

カントの三大批判書に触れたのは、十年以上前になろうか。ブログの履歴を辿ると、そういうことになっているが、つい此の間だったような...
その第一弾「純粋理性批判」には形而上学への皮肉が込められていたが、刊行当初、それが形而上学そのものの否定と解され、有識者たちに猛攻撃を喰らったようである。著名な書には曲解がつきもの。難解な哲学書ともなれば、尚更。そもそも哲学とは、抽象的な概念の集合体であり、様々な解釈を呼ぶものだ。読者は、分かったような、分からないような、その境界をさまよいながら、自我の中に眠っていた思考を呼び覚ます。眠らせたままの方が幸せやもしれんが...

本書は、曲解への反駁として書かれているが、カントにしては文体が平明。実に、らしくない!そのためか、形而上学への皮肉が、より冴えてやがる。実に愉快!偉大な哲学者の愚痴が聞けるのもいい。いまだ人類は真の形而上学を手に入れていない!と言わんばかりに。これも曲解であろうか...

カントは、形而上学への道筋を、四つの問い掛けで組み立てる。
一つに、純粋数学はどうして可能か。
二つに、純粋自然科学はどうして可能か。
三つに、形而上学一般はどうして可能か。
そして、学として形而上学はどうして可能か... と。

ユークリッド原論には、五つの公準が規定される。純粋幾何学は、これ以上証明のやりようのない純粋な命題で構築されている。第五公準は反駁されたにせよ...
カントは、時間と空間をア・プリオリな認識として規定した。この二つを、経験に依拠しない、人間の根源的な純粋認識に位置づけたのである。公準も、アプリオリも、人間の認識能力の限界を示しており、直観の限界を暗示している。そして、純粋理性というものを探究すれば、この限界に挑むことになる。
純粋数学の真理は、絶対的必然性を帯び、まったく経験に依拠せず、ア・プリオリ的である。数学的判断と哲学的判断はともに理性的であるが、前者は直観的で、後者は論証的。いや、屁理屈的か。
したがって、純粋理性の建築には、論証だけで組み立てられるものではなく、直観で補完する必要がある。形而上学を学と成すにも、悟性だけでは心もとなく、直観と経験、主観と客観の協調が求められる。しかも、自我という閉じられた空間で。
「学として形而上学が可能か」との問い掛けは、詰まるところ、理性が学問として可能かを問うているようなもの。これも曲解であろうか...

カントは、「純粋理性批判」に至った経緯で、ヒュームが形而上学で持ち出した問題意識に触発されたと告白する。それは、「原因と結果との必然的帰結」という視点だそうな。たいていの認識過程は演繹的に導くことができるが、その必然性を突き詰めたところ、その先に純粋理性、すなわちアプリオリなるものを見たようである。そして、普遍的な原理において、理性の限界を規定するに至ったと。
理性は、自制において機能する。自分自身の理性に自信を持つということは、すでに理性が暴走を始めている。理性の暴走ほど厄介なものはない。信念や信仰を後ろ盾に、残虐行為までも正当化しちまうのだから。やはり、理性にも限界を規定する必要がありそうだ。それは、自分自身の認識能力の限界を知ること。すなわち、己を知ること。そして、ソクラテスの時代から唱えられてきた格言に回帰する... 汝自身を知れ!これも曲解であろうか...

2023-06-25

"天才の精神病理 - 科学的創造の秘密" 飯田真 & 中井久夫 著

精神病理学の応用領域に、「病跡学(Pathographie)」というのがあるそうな。
"Pathographie" という語は、精神医学者メビウスによって編み出され、天才人の精神医学的伝記という意味が込められているとか。
当初、芸術家や思想家が研究対象とされ、科学者はあまり注目されなかったらしい。芸術家や思想家の天才ぶりは独特な個性によるもので、それは極めて主観的であり、精神性の研究にもってこい。
対して科学者はというと、客観的な法則を探究する連中で、一見、精神性に乏しそうに見える。しかしながら、法則や理論に至る過程では強烈な個性が発揮され、科学者のドラマティックぶりも負けちゃいない。
ただ、精神性の探究が精神病へ導くことと紙一重であることに違いはなく、芸術家や思想家同様、自ら命を絶つ者も少なからずいる。いつ何時、ぼんやりとした不安に襲われることやら...

アリストテレスは、こんな言葉を遺した... 狂気の要素のない偉大な天才は、未だかつて存在したことがない... と。天才とは、ある種の精神異常者を言うのであろうか。中には、自ら異常性を認め、あるいは、精神の避難所をうまく見つけ、発病の危機を免れる者もいる。ある者は小説を書くことに、ある者は音楽を奏でることに、ある者は絵を描くことに... それは、人間社会の煩わしさから逃れるためか。そして、科学に取り憑かれる者も...

科学者たちは、数学に没頭し、論理にのめり込む。論理には不意打ちがない。数学の定理にしても、容易く反証できるものではなく、実に安定している。そして、論理と数学で構築された科学の体系は、ある種の宇宙を築き上げる。不安定の渦巻く人間社会への恐怖心が、安定した宇宙法則を欲するのであろうか。
人間にとって想定外はすこぶる恐ろしいと見え、巷では怒号の嵐が吹き荒れる。なるほど、科学の体系は居心地が良さそうだ。孤高な研究室こそが我が聖域!こうして、人間嫌いを加速させていくのか...

科学法則の多くは、数学によって記述される。客観性において、数学は飛びっ切りの学問だ。自己の主観が手に負えないから、客観に逃れるのか...
数には、不思議な力がある。精神病患者や知的障害者は心が落ち着かないと、数を数え始める。ある種の儀式となって。サヴァン症候群のような突飛な能力の持ち主ともなると、数字が風景に見えるらしい。おいらも、デスクトップ上のスキャンカウンタをなんとなく見入ったりする。数には、なにやら心を落ち着かせるものがあるらしい。数は自己治療の処方箋か。万物は数なり!とは、よく言ったものだ...

さて本書は、六人の科学者の気質から「分裂病圏、躁うつ病圏、神経症圏」に分類し、自己形成の過程、独特な学問のやり方、内面から湧き出る創造性といったものを紹介してくれる。
六人とは、アイザック・ニュートン、チャールズ・ダーウィン、ジグムント・フロイト、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、ニールス・ボーア、ノーバート・ウィーナー。
フロイトとウィトゲンシュタインを科学者とするのに、ちと違和感があるものの、フロイトが自然科学者として出発し、科学的な観点から精神分析学を創設したこと、ウィトゲンシュタインもまた数学者ラッセルに惹かれて論理学に傾倒し、論理哲学論考を書したことを鑑みれば、収まりもいい。
尚、著者は「てんかん圏」の科学者を加えることができなかったことを口惜しむ...

そして、それぞれの気質から研究姿勢の特徴を挙げている。
分裂病圏の学者は、直観的、体系的、世界超脱的、革命的といった特徴があり、ニュートンとヴィトゲンシュタインがこのグループに属すと。アインシュタインも、ニュートン力学同様、相対性理論という宇宙体系を構築したことで、このグループに分類している。
躁うつ病圏の学者は、経験的、感覚的、伝統志向的、斬新的といった特徴があり、ダーウィンとボーアがこのグループに属すと。
神経症圏の学者は、境界領域の探究、離れた領域の結合といった特徴があり、フロイトとウィーナーがこのグループに属すと。

分裂病圏の人は、精神的危機を局所化する能力が乏しいという。危機を局所化できなければ、全体に及ぶ。ゆえに、世界全体を創り変えなければ気が済まず、物理法則に体系化を求める才に富むということか。理想郷のようなモデルを夢想したり、誇大妄想や被害妄想に憑かれたりするのも、ある種の現実逃避やもしれん...
躁うつ病圏の人は、分裂病圏のような独自性や飛躍性はないが、まだ現実を見失わず、現実世界に庇護の場を求めて安住を図ろうとするという。勤勉、几帳面、徹底的といった執着気質も覗かせる...
神経症圏の人は、ちと異質で、社会的状況や歴史的背景をもって関連性を模索する傾向にあるという。あらゆる事象に関連性を求めるということは、孤立を極端に恐れているということか。不安神経症、強迫症、恐怖症、ヒステリー、心気症などの複雑な様相は、他との関係から生じる性質で、依存性に執着しているとも言えそうか...

「科学のあゆみを病蹟学の立場から眺めてみると、まず分裂病圏の科学者によって一つの学問の体系が一挙に創始され、躁うつ病圏の科学者はそれを肉づけ、現実化し、発展させたりする。また躁うつ病圏の科学者は科学的伝統の担い手となり、それを次代に継承する役割を果たしたり、ときには先行する学説や事実を統一して総合的な学説を編み出す場合もある。神経症圏の科学者のある者は、かけ離れた事実、異なった学問領域を架橋し、相互の連関をさぐる働きをするという印象がある。このように、科学の発展段階とさまざまの気質的特徴との出会いが人を科学へとみちびき、科学の歴史的発展を担う大きな要因の一つとなっているのではなかろうか。この仮説を跡づけることは、なお今後の研究に待ちたい。」

2023-06-18

"精神科治療の覚書" 中井久夫 著

精神病棟をイメージさせるものに、鉄格子の窓や施錠された扉といったものがある。正気と狂気の境界として。それは、異常者を隔離するためのものか。それとも、純真な心の持ち主を保護するためのものか。そして、自分はどちらの側にいるのか...


精神病とは、どんな病を言うのであろう。一般的には、心の病と認知されている。心とは、なんであろう。漱石の「こころ」を読めば、それが傷つきやすいものということは分かる。しかし、心ってやつは気まぐれだ。はずんだり、沈んだり、いろいろしやがるし、こいつを正気に保つことは難しい。

身体の持ち主が、一度も身体を病まずに生涯を終えるとは考えにくい。ならば、精神の持ち主が、一度も精神を病まずにいることの方が異常やもしれん...


しかしながら、自分自身の精神が異常だと認めることは難しい。自己の存在否定にもつながる。日本の村社会では世間体も気になるところ。精神科にかかる人は、藁をも掴む思いであろう。

お座なりの精神安定剤を処方して、とっとと追っ払われるに違いないと思いつつも、あなたは何でもない!と追い返されることの少ない科ではある。分かるよ!分かるよ!なんて安易な慰めは、分かってたまるか!と却って意固地にさせる。

患者が口にしていないことまで言い当ててしまう医者もいる。しかしそれでは、すべてお見通しよ!と威圧感まで植え付けてしまう。

あらゆる病気で言えることだろうが、患者が主役でなければ、病に立ち向かうことも難しい。難病では尚更。死にたいと言っている患者の看病は辛い。死を目前にしてホッとすることすらある。

どんなに優秀な医者でも、患者の協力なしでは仕事はできまい。人間の精神を相手取るのにプロもアマもあるまい。精神科医とは、精神から距離を置くことのできる人を言うのであろうか。となれば、人間離れした職業と言えそうだ。精神にのめり込んだベテラン患者の方が当てになるやもしれん。そして、ニーチェやカフカの狂気にこそ救われる...


「病人でいることの方がまだしも幸せで、病気が治ればもっと過酷な運命が待っている人はたくさんいる。そういう人が積極的に治ろうという気を起こさないからといって責めることはできない。いわゆる『二次的疾病利得』と真っ向から戦って勝ち味はない。それは、人間の本性そのものと戦うことであろう。病気は不幸だが、世の中には病気以上の不幸も多いことを医者は忘れがちである。だから、『安心して病気が治れる』条件をつくるように、本人と話し合い、周囲に働きかけ、理解を求めることは、身体病の治癒を早めることが少なくない。」


本書は、患者と家族と医師の呼吸が合うか合わぬかを問題視している。治療は契約ではなく、合意に始まるという。そして、治療のテンポとリズムは、「律速過程」に注視せよ!と。

律速過程とは、いくつかの過程からなる複合的な過程がある場合、その進行速度は最も遅い素過程で決まるというもの。たいていの家族は焦り気味で、医師もそれに釣られる傾向があり、置いてけぼりを喰らうのは、いつも患者本人。分裂病ともなれば自己主張は極めて困難であり、周りの誰か一人が自己主張を強めれば悪循環となる。

問い掛けが、人を追い詰める。論理が人を追い詰める。論理思考の自己管理は意外と繊細で、強要すれば、さらに追い詰める。そして、患者も、医師も、家族も、弁証法的になっていく。つまりは、あらゆる矛盾とどう向き合っていくかってこと。

古くから、医者は哲学者であるべき!という考えもあるが、一理ある。とはいえ、人生の在り方なんそを問えば、回復過程が目的論に、因果論に、運命論に... 侵されていき、人生にうんざりする。

会話では、良き聞き手になれ!との助言をよく耳にするが、「聴く」と「聞く」では態度に違いがあるという...


「『聴く』ということは、聞くことと少し違う。病的な体験を聞き出すことに私は積極的ではない。聞き方次第では、医者と共同で妄想をつくりあげ、精密化してゆくことになりかねない。『聴く』ということは、その訴えに関しては中立的な、というか『開かれた』態度を維持することである。」


注目したいのは、患者と接する態度に「沈黙」を重要視している点である。人間の最も説得力のある態度は、沈黙やもしれん。それは二千年前、ゴルゴダの丘で沈黙のままに十字架刑を受け入れた行動に見て取れる。

だが、この態度が最も難しいことは、三千年紀を迎えた今日の有識者たちの態度を見れば分かる。沈黙とは、孤独においてのみ機能するものなのか。いや、それはそれで独り言がうるさくてかなわん...


「おそらく、患者をことばで正気を証明せねばならないような状況に置くことは、患者の孤独を深め、絶望を生む。孤独な人に対して、それをことばでいやすことはできない。そばにそっといること、それが唯一の正解であろう。患者のそばに黙って三十分を過ごすことのほうが、患者の『妄想』をどんどん『なぜ』『それから』『それとこれとの関係は?』ときいてゆくよりずっと難しいことであるが...

なぜ、患者のそばに沈黙して坐ることがむつかしいのだろう。むつかしいことは、やってみればすぐ判る。奇妙に、しなければならない用事、待っている仕事、などなど思い出される。要するにその場を立ち去る正当な理由が無限に出てくるのである。このいたたまれなさを体験することは、精神科医となってゆくうえで欠かせない体験として人にすすめている。」


何事にもリスクはつきものだが、精神科医でいることにもリスクがあるという。それは、患者に対するリスクと自分に対するリスクであると。

すべての治療行為が試行錯誤のうちに施され、患者に対して負荷テストの意味を持つことは避けられない。患者がいかに好ましいと思っていても、その意味は変わらない。精神とは、それほど得体の知れないものだ。

対して医者はというと、カリスマ症候群に罹るケースも珍しくないらしい。そして、患者とカリスマ者は鏡像関係にあるという...


「患者は思考が吹き込まれる。カリスマ者は自分の思考を人に押し込む...

患者は自分の思考を抜き取られる。カリスマ者は他者の思考を奪う...

患者は自分をとがめる声を聞く。カリスマ者は他人をとがめる声を放つ...

患者は外部から自分が操られる。カリスマ者は自分が他者を操る...

患者は幻影を抱く。カリスマ者は他人に幻影を抱かせる...

患者は被影響体験をもつ。カリスマ者は他人に影響を与える快適な体験を自覚する...」 

2023-06-11

"分裂病と人類" 中井久夫 著

どんよりした薄曇りの中、いつもの古本屋をぶらり。すると、冒頭の一文に目が留まる。「分裂病...」の部分を薄っすら曇らせると、あらゆる場面で教訓となりそうな...

「これは分裂病問題へのきわめて間接的なアプローチにすぎない。しかしこのような巨視的観点から眺め直してみることも時には必要ではあるまいか...」

本書は、人間が本質的に抱えてきた分裂病を、歴史事象に照らして物語ってくれる。それは、思考や言語、知覚や感情などの歪によって特徴づけられる精神病の一つで、現在では「総合失調症」と呼ばれる。
歴史は告げる。文化を融合させてきた地域が、常に先進的であったことを。融合とは、改善、工夫を重ねること。
イスラム文化とギリシア・ローマ文化を引き継いだヨーロッパは、医学を進化させてきた。その背景で図書館が焼かれ、人も焼かれてきたが、この二元性こそ人類の分裂症たる所以。産業革命から疎外が生まれ、生産社会が異常者の許容性を狭め、フランス革命が恐怖政治を呼び込めば、フーコー風の狂気を覚醒させる。人類史に、分裂病の記念碑を見る思い...

「ゲーテの『ファウスト』が今日までヨーロッパの知識人にくり返し読まれているのは、いわばこの書がゲーテ自身の精神の遍歴であると同時に、近代への転機におけるヨーロッパ知識人の集団的自叙伝とでもいうべき含みがあるからではなかろうか...」

人類が地上に出現して以来、地理学的に大きく地球を変貌させた現象には、少なくとも三つあるという。第一に、最初の農民である焼畑工作民の出現で、地上の一次林を漸減し、絶滅へ向かわせたこと。第二に、遊牧民による過放牧で、多くの森林や草原を砂漠に変えたこと。そして第三に、資本主義であると...
人類は獣に狩られる立場から、獣を狩る立場へと鞍替えし、やがて農耕や牧畜を営み、定住するようになった。狩猟、採集の経済から生産経済への転換である。人類が育んできた集団性という性癖は、この過程で増幅させてきたと思われる。
そこで、「農耕社会の強迫的親和性」という用語が持ち出される。慣習の力は恐ろしい。集団性が絡むと、さらに恐ろしい。集団社会で育まれた慣習は、義務に昇華され、強迫観念にまで押し上げられ、村八分社会の誕生を見る。精神病の始まりがいつかは知らんが、集団社会の歩みとともにあったことは確かであろう。
精神の源泉とは何か。心の源泉とは何か。人が真に孤独なら、そもそも精神なんて機能を必要としないのやもしれん。精神を獲得しなければ、精神病を患わせることもなかろうに...

動物は、なんらかの病を抱えて生きている。肉体を獲得すれば、身体に付随する病を患う。一過性の病から慢性的な難病まで。完全な五体満足の持ち主なんて、そうはいない。精神を獲得すれば、精神に付随する病を患う。五体満足でも精神が病めば、そちらの方が深刻である。身体的な病は外面に表れ自覚もしやすいが、精神的な病は内面に籠もり自覚することも難しい。そればかりか、精神を病んでいるのはお前の方だ!と罵る始末。そうでなければ同情こそすれ、どうして腹を立てよう。
分裂病を患えば、そこに狂気が認められ治療が施される。だが、その治療法にも、非人間的に拘束するやり方と人間的に温和なやり方とが現れる。治療を施す医師も、分裂状態ってか...
そこで、精神病の治療には、医師ではなく哲学者があたるべき、という考えが古くからある。というより、医師は哲学する者でなければ、心理学者も、社会学者も、経済学者も、政治学者も... そして、数学は哲学である。さらに、哲学を伴わない科学技術は危険である、とまで付け加えておこうか...

集団社会もまた、あらゆる矛盾が渦巻き、まさに分裂状態!
超エリート経済学者が練りに練った経済政策は、ことごとく外れ、使命感に燃える政治家が案出した政策は、ことごとく裏目。科学の最先端を突っ走る物理学は不確定性に道を阻まれ、厳密性を重んじる数学ですら不完全性に見舞われる。学問全体が、いや、人間社会こそが分裂病を患っているのでは。ならば、個人が分裂病を患うのは、むしろ正気ということは。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!

本書は、分裂病の要因として「執着気質」に注目している。
ドイツではメランコリー型が注目され、怠惰が主な要因とされるらしいが、逆に、日本では勤勉さが要因とされるケースが多い。
人は誰もが、何らかのこだわりをもって生きている。信仰へのこだわり、儀式へのこだわり、ブランドへのこだわり... そして、人の目を気にする自意識へのこだわり、と。こだわりへの許容度が人格の度量となり、そのまま万病のもとに...

「執着気質の人が『頼まれたら断れない』という裏には世俗化された社会から自らを疎んぜられることの恐怖がある。職人根性の人は、むしろ安易な依頼をかたくなに断る。執着気質の人は、自己の作品の是認の基準を究極には周囲の人々に依存する。職人根性の人は、自らあきたらなければ、自己の辛苦の産物をためらうことなく破棄する。」

2023-06-04

"並行コンピューティング技法" Clay Breshears 著

原題 "The Art of Concurrency"
プロセッサの進化は、ムーアの法則に従って勢いづいてきたが、ここへ来て、クロック周波数は発熱と電力の物理学に屈服しつつある。現在ではエネルギー問題とも相まって省電力化を求める傾向があり、ちょいとダウンクロックさせてでも別の道を探ろうとする。
その一つの方向性に、並行コンピューティング技法がある。いまや、マルチコアやマルチスレッドは当たり前。一人の仕事を大勢に割り振れば、すぐに終わる... と行きたいところだが、うまく分担できなければ、むしろ混乱を招く。オーバヘッドってやつは、仕事を割り振る作業や仕事を集約する作業だけでなく、人間関係の衝突からも生じる。人海戦術で、人の海に溺れることはよくあることだ。マルチスレッド戦術を用いたところで同じこと...
本書で注目したいのは、スレッド化の正当性と、その性能評価である。全般的に、まず逐次ソースコードが提示され、これを並行化するというやり方で、それぞれの実装に対して「実行効率、簡潔性、可搬性、スケーラビリティ」の四つの観点から評価するというストーリー立て...
尚、千住治郎訳版(オライリー・ジャパン)を手に取る。

古くから、プロセッサの性能を最大限に引き出すためのコード手法が工夫されてきた。それも芸術の域に達するような...
リソースが思いっきりショボい時代には、アセンブラ言語に勢いがあり、コンパイラ効率もイマイチで、機械語でガチガチに書いたこともあったっけ。C 言語はというと、高級言語の地位にあって、まるで王子様気取り。リアルタイムシステムでは、使えねぇヤツだと囁かれた。それが今では、低級言語に格下げ!
本書のコード事例でも、最小公倍数的な存在として C 言語が採用され、低級な抽象観念しかイメージできないネアンデルタール人には、むしろ馴染み深い。
リソースが贅沢になれば、それをフル活用するための手法が生まれ、マルチコアが目の前にぶら下がっていれば、これに適合したコードが編み出される。そこで、OS がアプリケーション単位で割り振ったり、プロセス毎に切り替えたり、あるいは、ライブラリが暗黙にスレッド分割してくれれば、ありがたい。
但し、OS に任せるにしても、ライブラリに頼るにしても、根本的な仕掛けを知ると知らないでは大違い。
マルチスレッドプログラミングで最も目につく問題といえば、メモリアクセスの衝突であろうか。スレッド群を公平にスケジューリングすれば、各々がどんな処理をしようが知ったこっちゃない。スケジューラが中身を知らなければ、問題の特定も難しくなる。

本書は、信頼性を重視する立場から、実績のあるライブラリの導入を推奨し、汎用的なライブラリとして OpenMP や Intel TBB(Threading Building Blocks)を用いた事例が多く紹介される。なるべくなら、スクラッチでスレッドを作成することは避けたい。手っ取り早くテンプレートを真似るのが無難か。
スレッド単位で扱えば、それなりに危険を伴うであろう。メモリ領域の衝突やデータの競合も生じ、分割の粒度を細かくすれば、オーバーヘッドも増える。ノイマン型アーキテクチャであるからには、どんな処理であれ、どんなソースコードであれ、スレッド分割することは可能であろうが、あらゆるスレッドが並行化できるわけでもあるまい。逐次処理の多くは何らかの形で依存性を持ち、独立した関数コールや実行順序を問わないループが見つかれば儲けもの。スレッドが単独で起動/終了が可能か?スリープ/再開が可能か?スレッド間の依存性はどうか?などと頭を悩ますぐらいなら、最初から OS に委ねた方が賢明やもしれん。

一つの教訓として、並行性はより上位層で実装すべし!というのがあり、本書でも八つのルールの中で二番目に提示される。アプリケーション単独で性能向上を目指すなら、スレッド単位で検討するべきであろうが、ちょいと捻くれた目で、もっと大雑把にアプリケーション単位やプロセス単位でやるのもあり。そして、OS の性能が悪い!と愚痴るのさ。大昔、コンパイラの性能が悪い!と愚痴ったように...
経験則は告げる、いずれリソースが解決してくれる...と。そして、リソース設計者は、いつも下働きを強いられる運命にあるのさ!これも愚痴かぁ。ムーアの法則にも喰ってかかる... このぉ、人間の欲望に見透かされた法則め!

1. 並行アルゴリズムの正当性と性質
M. Ben-Ari というコンピュータ科学の教授が、並行アルゴリズムの正当性と性質を一般化したそうな。それを四つにまとめると、こんな感じ...

  • プログラムとは連続したアトミックな実行文である。
  • 並行プログラムは複数のスレッド内のアトミックなインタリーブである。
  • アトミックな実行文のすべての組み合わせは、ここで検証する並行アルゴリズムのすべての性質を満たさなければならない。
  • どのインタリーブでもスレッドの実行文が不公平に除外されることはない。

しかしながら、スレッドすべての組み合わせにおいて、結果が同じになるようにインタリーブするには、かなりの戦略がいる。それぞれのアプリケーション分野における経験値や勘所も必要である。現実には、処理順が規定されるような前後依存を持つスレッドも多く、どんなに頑張っても隅々まで並行化することはできまい。実は、最も扱いの厄介なものが、「公平性」ってやつかもしれん。人間社会と同様に...

2. タスク分解とデータ分解
ソースコードのスレッド化には、大まかに二つのモデルがあるという。「タスク分解」と「データ分解」である。おいらの場合、並列化というと、タスク分解に目がいってしまうが、データ構造とセットで考える必要がありそうだ。
更新処理が独立していれば、並列化できることはすぐにイメージできるし、既にデータ構造をそのようにしている。オブジェクト指向のカプセル化も突き詰めれば、これに通ずるものがある。画像情報のような連続性を保つ大規模なデータ配列を分割することも、効率性を考慮して既にやっている。フィルタのアルゴリズムでは、チャンク(データ分割)の概念も必要である。ただ、スレッド化という視点が抜けていた。

3. 逐次ソースコードの並行化と、そのストーリー立て...
まず、数値演算が並列化に向いていることを匂わせてくれる。いきなりπを近似する数値積分や帰納変数が飛び出し、ループのネスト構造が線形代数の行列式と重なって見えたり、そのまま DFT, FFT, FIR, IIR などの実装がイメージできたり。個人的には、数値演算ライブラリの BLAS や LAPACK を似たような感覚で利用している。

次に、並列和やプリフィックスキャンで軽く流す。この二つのアルゴリズムは、その単純さゆえに並列化の指標になっているという。

そして、MapReduce 構造に並行化を見る。Map と Reduce の二つの組み合わせは、LISP などの関数型言語、あるいは、Ruby や Python でも見かける手法である。
Map 処理は、入力データを何らかの値と組み合わせて、キーと値のペアを生成する。ペアの生成処理を完全に独立させれば、並行化が見えてくる。
Reduce 処理は、Map 処理の結果を集約して、目的に応じた結果を出力する。この二段階の処理構造によってデータがアルゴリズムから分離され、タスクの独立性が高まることを見て取れる。

さらに、ソートとサーチに主眼を置く。一昔前、CPU 時間の 80% 以上はソートに費やされると言われた。昨今、画像処理系の規模が大きくなったとはいえ、現在でもソートやサーチが重要であることに変わりはあるまい。データベースにアクセスすれば、 クエリの結果が表示され、検索エンジンにキーワードをかければ、URL 一覧が表示され、いつもソートとサーチが暗躍している。
どちらもプログラム入門で題材とされるアルゴリズムだが、スレッド化となると侮れない。ソートとサーチに限ったことではないが、いつもバックグラウンドで動作していて欲しい処理があり、そうしたすべてが並列化の対象となろう...

最後に、データの関連性を視覚化するグラフアルゴリズムに並行化を見る。二次元空間に配置されるノードとエッジからなる有限集合を想定し、これらをツリー構造で図示し、各ノードの関係を隣接行列で記述する。ノードは要素、エッジは二つのノードを連結する枝。
そして、エッジの重みの合計を最小とするアルゴリズムを並行化する。そう、グラフ理論でよく見かける最小スパニングツリー(MST: Minimum Spanning Tree)ってやつだ。MST の有名なアルゴリズムに、Kruskal 法と Prim 法がある。本書では両方の逐次コードが紹介されるが、並行化では、Prim のアルゴリズムが採用されている。どちらも重み行列と連結成分で構成されるが、Kruskal のアルゴリズムはスレッドセーフなヒープの実装が必要など、ちと面倒なようである。

4. スレッド設計の八つのルール
本書は、スレッド設計モデルに適用すべき八つの単純なルールを提示している。単純なだけに、すべてを守るのも難しそうだ。ルールは破るためにある... とは、誰の言葉かは知らんが...

ルール1: 真に独立した処理を特定する。
ルール2: 並行性はより上位で実装する。
ルール3: コア数増加に備えスケーラビリティ対応を早期に計画する。
ルール4: スレッドセーフなライブラリを使用する。
ルール5: 適切なスレッドモデルを採用する。
ルール6: 実行順序を前提としない。
ルール7: ローカル変数を使用する、できなければロックで保護する。
ルール8: 並行性向上のためのアルゴリズム変更を恐れない。

5. 性能指標
本書は、性能指標に高速化率と実行効率を挙げている。高速化率は、逐次実行と並列実行の実行時間の比率である。
実行効率は、リソースの消費効率を示し、高速化率をコア数で割って算出される。
高速化率では、 Amdahl の法則と Gustafson-Barsis の法則が紹介される。前者が、逐次ソースコードを並列化することで達成できる高速化率を予測するのに対して、後者は、既存の並列ソースコードからダイレクトに算出する。

[Amdahl の法則]

  高速化率 ≤   1
 (1 - pctPar) + pctPar/p 

  (pctPar: 並行実行時間の割合, p: コア数)

逐次実行時間を 1 とした時、並列化前の実行時間 1 - pctPar と並列化後の実行時間 pctPar/p の合計を分母に配置して、その割合で高速化率の限界を予測する。

[Gustafson-Barsis の法則]

  高速化率 ≤   p + (1 - P)s

  (p: コア数, s: 並列化できない部分の逐次実行時間の割合)

コア数の増加に伴い、データ量も増加することを考慮している。コア数が増えれば、処理したいプログラムの規模が大きくなり、データ量も増えることは予測できる。

現在では、コア数とスレッド数の関係も微妙だ。当然ながら、コア数をはるかに超えるスレッド数の要求もあれば、Intel の THyper-Threading のように、1つのコアで複数のスレッドに対応する仕掛けもある。高速化率と実行効率は、コア数に対してどのくらいの量のスレッド数を起動するのが割りに合うか、という指標にはなる。
しかし、いくらタフな計算を要求されるによせ、システムが完全に乗っ取られるのは、どうであろう。内部からのイベント要求もあれば、外部からの割り込みも発生する。昔から、CPU 資源は周辺機器との取り合いの中にある。
スレッドの公平性は、あらゆるスレッドを受け付ける方向で調整するように仕組まれる。だが実は、総合的な観点から不公平性にこそシステムの合理性があるのやもしれん。いずれにせよ、システムリソースの使用率は、常に余裕を持っておきたい。人間と同様に...