2008-10-26

"方法序説" René Descartes 著

科学者の本を読んでいると、デカルトの解釈について語っているものをよく見かける。それも、科学や数学の根底に哲学があることの証であろう。その解釈とは、デカルトの言葉をめぐってのものである。デカルトの名前を見かけるごとに、なにやら懐かしい風を感じる。ちょいと、昔読んだ本を読み返してみることにした。本書を読んだのは、おそらく20年ぐらい前であろう。デカルト曰く、「我思う、故に我在り」そして、自己の存在を証明し、神の存在までも証明してしまう。ちなみに、アル中ハイマー曰く、「我時々思う、故に我時々存在するような気がする」そして、自己の酔っ払いを証明し、俗世間では皆が泥酔していることを証明してしまう。

古代ギリシャやローマ時代から営まれた奴隷制を核とする伝統主義は、ゲルマン人によってヨーロッパの隅々にまで浸透させた。中世ヨーロッパには、伝統的慣習は絶対であるという思想を元に、ローマ教会の権威によって統一された世界がある。しかし、その時代に思想の大変革が起こる。宗教改革やルネサンスである。宗教改革は伝統主義を打ち破り、奴隷に強制された労働の価値が見直される。奴隷は農奴という地位を獲得し、労働そのものが神聖なものへと変貌する。この思想の流れは、いずれ資本主義や民主主義といった思想を加速させることになる。その一方で、ルネサンスは昔の時代を懐かしんだ文化の再発見をする。そこには秩序を重んじる思想がある。そして、宗教改革による人間の解放と、それを秩序立てる文化思想が融合し、政治思想的なものが誕生する。従来のローマ教会を中心としたヨーロッパ集合体のようなものが、いずれ国家単位による政治体制を形成することになる。デカルトはそうした変革の流れで生きた偉人の一人であるが、変革気運が一気に高まり近代社会の基礎とも言える時代を生きたのも、単なる偶然ではないのかもしれない。

デカルトの言葉は揶揄されることも多い。ただ、そう簡単に片付けられるような内容だったっけ?高尚な哲学者や文学者というものは、物事をストレートに表現しないことも多い。そこに、照れ隠しのように暗喩めいたものを匂わせ、どことなく芸術性を高める。逆に、一つ二つの言葉から、とんでもない解釈を生み、それが流布されることもある。哲学や思想の解釈では、どれが正しいかというのが重要であるが、どの解釈を好むかも重要な要素としたい。それにしても、哲学という世界には、なんと無意味な命題が氾濫していることか。人間の存在すら無意味であるという証なのかもしれない。多くの哲学者や数学者は人間の精神を論理的に解明しようとしてきた。はたして、論理的思考がどこまで真理に近づけるだろうか?ウィトゲンシュタイン曰く、「示すことができても語ったことにはならない。」まさしく、デカルトの言葉は、とらえどころのない命題である。

「方法序説」は、デカルトが初めて公刊した著作であるが、1637年に著名者なしで出版されたという。正確なタイトルは、こんな感じで長ったらしい。「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」これは、500ページを越える大著で、最初の序文78ページが「方法序説」に当たるらしい。デカルトは、精神と身体、主体と客体の二元論、精神と神の形而上学、数学をモデルとする方法論、自然や宇宙の探求など、新しい学問を提示する。ただ、デカルトの生きた時代は、ガリレオの断罪事件でも見られるように、新しい思想を唱えると弾劾された時代でもある。コペルニクスの書が法王庁の禁書目録に加えられ、宇宙の無限を構想したジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられるなど、アリストテレスやスコラ哲学に反する説は、死に処せられた。こうした時代背景で、異端審問に怯えつつ「方法序説」の発刊をためらう様がうかがえる。自然学全体を秩序立てて調べようとした著書「世界論」は、刊行を中止したという。なんとなく愚痴っぽい文章には社会への反感が表れる。だが、普遍的な価値を信じ、使命感により後世に残すことを決意した旨を語ってくれる。本書は、真理を探究するための方法を万人向けに示すものではなく、デカルト自身が真理探究をした体験談である。

1. 学問の探求
冒頭から「良識は、この世でもっとも公平に与えられるもの。」と始まる。デカルトは、良識は誰もが十分に具わっていると主張する。真偽を区別する能力は、本来、良識や理性と呼ばれるもので平等に具わっているという。よって、意見が分かれるのは、ある人が他の人よりも理性が具わっているということではなく、異なる道筋で導き、同一のことを考察していないことから生じるというのである。また、大きな魂ほど、最大の美徳とともに最大の悪徳をも生み出す力があると語る。デカルトは、次のように学問の探求へと誘う。
「雄弁術には、比べるもののない力と美がある。詩には、うっとりするような繊細さと優しさがある。数学には、精緻を極めた考案力がある。神学は、天国に至る道を教えてくれる。歴史や寓話は、世紀を渡って人々と交わる旅へ導く。哲学は、どんなことでも、もっともらしく語り、学識の劣る人に自分を賞賛させる手だてを授ける。法学、医学は、それを修める人に名誉と富をもたらす。」
学問するということは、どんなに迷信めいたことや怪しげなものにも、欺かれないように気をつけるために良いものであると語る。たとえ、修辞学などを習っていなくても、強い思考力を持ち、自らの思考を秩序よく明晰で分かりやすくする人ほど、主張を納得させることができるという。そして、その着想は人の意にかない、しかも、それを文飾と優美の限りをつくして表現できる人は、詩法など知らなくても最良の詩人であると語る。
デカルトは数学を愛した。それは論証の確実性と明証性に惹かれたからである。これとは反対に、習俗を論じたストア派の書物は、壮麗で豪華ではあるが、酷く美徳を持ち上げ、この世の何よりも尊重すべきものと見せかけるので、砂上の楼閣であると酷評する。ストア派が語る美徳は、無感動、傲慢、絶望、親族殺しになることが多いと皮肉る。また医学への思いも熱く語る。健康はまぎれもなくこの世で最上の善であると考えた。精神でさえも健康に依存するものだ。人間を賢明で有能にする共通な手段があるとすれば、それは間違いなく医学の中にあると信じているという。その中で、機械的な人体論、心臓と血液循環、動物と人間の差異などが哲学的に語られる。
デカルトは言う。
「生きるために残った時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使うまいと決心した。」

2. 「我思う、故に我在り」
形而上学的では、まず自らが何ものかを定義でなければならない。しかし、目の前の実体が、何もかも夢を見ているかのように感じることはよくある。人生そのものが夢のようでもある。身体もなく、世界もなく、自分のいる場所など無いと想像するのは案外簡単である。だからといって、自分が存在しないと想像するのは難しい。この精神の存在を説明するのは難しいものだ。デカルトの言葉は、思考することこそ、自分自身の実体を認識できるというものである。逆に言えば、思考をやめるだけで、自分自身が存在する理由もなくなる。自己という実体の本質は、考えるということだけであって、存在するためにどんな場所も必要なく、いかなる物質的なものにも依存しないということである。ここでは、魂は身体という物体と完全に区別される。そして、精神は身体よりも認識しやすく、たとえ身体がなかったとしても認識できるものだと語る。人間が実体を意識する時、だいたいはその形やら色やら五感で感じられるものをイメージするだろう。しかし、デカルトは、何かをイメージできないと考えられない人は、神を認識することも、魂が何であるかを認識することもできないという。デカルトは、神や魂の存在が信じられない人々に語りかける。身体や天体や地球が存在するというのだって不確かであると。神の存在を前提としなければ、三角形の角の和がニ直角に等しいなどの幾何学の問題も、夢の思考も、人の想像力も、説明できないではないかと。よって、全て実在であり、神に由来することは真であると。
そうなると、天邪鬼のアル中ハイマーは思いっきり疑問を投げつけてやるのだ。人間の観念に虚偽や不完全性が含まれるのはなぜか?人間は完全無欠ではないことをどう説明するのか?神は完全でまったく真であるはずではないのか?神に由来するということは、真理や完全性が無に由来するのと、同じくらい矛盾するではないか?ちなみに、デカルトもこうした疑問があることも認めているようだ。

2008-10-19

"ソクラテスの弁明・クリトン" プラトン 著

学生時代から、それほど感性が変わっているとは思えないのだが、昔読んだ本が新鮮に感じられるのは、自分自身に多少の変化があるのだろうか?いや!単に記憶領域が破壊され、精神が泥酔したに過ぎない。アル中ハイマーが、本書に出会ったのは、おそらく20年ぐらい前であろう。本棚を整理していると、なんとなく読み返したくなった。なぜか?ブログを始めてから、こういう心情になることが多い。それも悪くない。書籍代も節約できてありがたい。

奴隷制度の盛んな古代ギリシャ時代にあって、現在においても全く違和感なく読めるのも不思議である。それだけ「人間」の範囲が進化したという証であろうか?人類の歴史は、「人間」という身分を巡っての抽象化の歴史と言ってもいい。アリストテレスの世界観には「生まれつき奴隷」という概念がある。対して、ディオゲネスの逸話には、こんなものがある。「人間どもよ!と叫ぶと人々が集まった。おれが呼んだのは人間であって、がらくたなんぞではない。」労働は奴隷に強制し、哲学できる身分と言えば「人間」という特権階級に与えられた時代。哲学は多忙過ぎる労働者には馴染まない。そこには素朴な精神の解放が求められるからである。哲学は暇人の学問であると思う所以である。

プラトンの対話篇の中でも、「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「ファイドン」の三つの作品は、ソクラテスを登場させる不朽の名作と言えるだろう。プラトンは、ソクラテスの生き様に影響を受け、真の哲学を会得しようとした。ソクラテスがいかに生きたかは、彼自身書き残したものがないため、弟子たちの描いたものに頼るしかない。これらは、おそらく創作的なものが多く、神聖化あるいは理想化したところもあるだろう。どこまで、ソクラテスの精神に近づいているかは、歴史的には解明する術がないようだ。ただ、プラトンという詩人を通して、一つの芸術に達しているのは間違いない。プラトンは、ソクラテスの行動を正しいものとして証明しようとする。師と仰いだソクラテスが、不信心にして、新しき神を導入し、青年を腐敗せしむる者として死刑を宣告されたことに我慢がならなかったのだろう。ソクラテスの弁明というよりは、プラトンの代弁と言った方がいい。

1. ソクラテスの弁明
ソクラテスは、裁判によって弾劾される。そして獄中からアテナイ市民に語りかける。その弁明は、ソクラテスが最高の賢者であるという「デルフォイの神託」が下ったところから始まる。ソクラテスは、神託に対する反証をあげるために、賢者たちを尋問してまわる。そして、政治家がほとんど知見を欠いていることを暴いてしまう。詩人にいたっては、作者以上に鑑賞者の方が優れた芸術性を理解していることを見破る。彼は、賢者と言われる人々が虚偽を言いふらしていることを公表したために、多くの敵を作り、多くの誹謗が起こる。賢者の無知を論証するごとに、ソクラテスが賢者であるという評判も高まる。
「人間達よ、汝らのうち最大の賢者は、例えばソクラテスの如く、自分の知恵は実際何の価値もないものと悟った者である。」
ソクラテスが国家の信じる神々を信じないで他の新しき神霊を信じるが故に、青年を腐敗させるとして悪評が広まる。だが、ソクラテスは反論する。国民議会の議員や、裁判官たちに青年を教育したり、善導する力があるのかと。そして、彼らが、青年たちのことを心配などしていないことを論証する。ソクラテス自身は、青年たちを腐敗する者ではない。あるいは、もし腐敗させる者としても故意ではない。ある神々の信仰を教えているところからしても、無神論者ではない。ちなみに、無神論者を罪とする風潮があった時代であるから、そのあたりはしっかりと反論する。ソクラテスは、おそらく、裁判官に媚を売り、罰金も払えば、無罪になったであろうと言われている。友人や弟子たちに説得もされたであろう。だが、自身の信念を変えようとはしなかった。
「死とは、人間にとって幸福の最上なるものかと問えば、知っている者はいない。では、最悪のものかと問えば、人々は覚知しているかのごとく、死を恐れる。」
ソクラテスは、自ら善か悪かも分からないものを恐れたり避けたりはしない。死を恐れて、正義に反して譲歩などするはずもない。死を禍とは思わない。彼は、他の不正裁判によって殺された昔の人々に逢えるとしたら、愉快なことであるとも語る。そして、死を課した人々へ予言する。ソクラテスに課した死刑よりも、遥かに重い罰が諸君に下るであろうと。今よりも多くの問責者が出現し、彼らによって深く悩まされるであろうと。不正裁判で人々を殺すことによって非議を阻止するならば、それは間違いであると。死期に迫った人間には、最も強い予言力を発揮できるとして警告を発する。

2. クリトン
獄舎に面会に来た友人クリトンとソクラテスが対話する。クリトンは、なんとかソクラテスを救おうと思っている。そして脱獄するように説得する。真の賢人の死は世のためにならないと。青年たちを教育できる者が死を望むなど裏切り行為であると。息子達を見棄ててはならない。死は一番楽な道である。徳があって勇敢な人が選ぶ道ではない。一生を徳の涵養に捧げると公言する者なら、なおさらである。不名誉なことであるから熟考してくれと訴える。そして、クリトンの主張するソクラテスの命を救うための論理と、ソクラテスの主張する生き様という論理の問答が始まる。ここで描かれるテーマは、国家の意志に服すべきか、それとも矛盾する正義に従うべきかである。法の決定が個人の意志によって左右されるような国家は存続できない。人々は、法に教育されて、市民権を行使する能力と資格とを獲得している。国民が存続できるのは国法のお陰である。国民は生まれながらにして国民たる義務を果たす契約をしている。ソクラテスはそうした立場を通した。そこには、ソクラテスの愛国心が強かった様が描かれる。しかし、国家こそが不正を行い、正当な判決を下さなかったのだ。これは両者の意見とも一致する。ソクラテスは続ける。死ぬ恐れのある戦場へ送られるだけのことで、戦場でも法廷でも、同じことではないのかと。気に入ることには服従し、気に入らないことには服従しないのでは、もはや国家は成り立たない。国法を無視して、これを滅ぼそうとする行動はできない。これも神のお導きだとする論理が展開される。ソクラテスは自らを死へ導いているかのようである。クリトンは最後に言う。もう何も言うことはないと。

2008-10-12

"人間の安全保障" Amartya Sen 著

今夜は、最近マスコミを賑わしている三大キーワード「ノーベル賞」、「株価暴落」、「事故米」で作文して遊んでみたが、ちょっと無理があるなあ。

ちょうどノーベル賞の受賞ラッシュで沸きあがる。それも、理系の分野で日本人が活躍しているのは喜ばしい。だからというわけではないが、立ち読みしながら物色しているとノーベル賞ネタを見つけた。ただ、ここで扱うのは分野が違う。著者アマルティア・センは、アジア初のノーベル経済学賞の受賞者。著者に興味を持ったのは、経済学を社会学の延長として捉えているところである。また、インド人の立場からの意見も興味深い。ちなみに、アル中ハイマーは、ノーベル賞で経済学賞と平和賞を懐疑的に思っている社会の反抗分子である。それも仕方がないだろう。経済学賞では、LTCMで代表されるように、国際経済危機に陥れた人物が受賞している。そもそも、経済学賞はノーベルの意志で継がれた部門ではない。平和賞では、極めて政治色が強く、共産主義体制から民主化への移行に貢献したと言われながら腐敗組織を温存したままの改革だったり、環境問題に貢献したと言われながら指導的立場にあるにも関わらず自国政治の環境意識はほったらかしだったりする。
連日、株価暴落がマスコミを賑わしているが、はたして実態経済はどうなっているのだろうか?最大の問題は、経済が金融システムの依存度の高いところにある。金融危機に陥いると、金融システムの体力がそのまま経済に悪影響を及ぼす仕組みとなっている。銀行の自己資本比率の低さには素人ながら唖然とさせられるが、BIS規制ですら8%の義務しか課していない。しかも、自己資本という定義も怪しい。株券で集めた資本は寄付金ぐらいにしか思っていない。確かに、金融システムからの資金提供が大きければ、それだけダイナミックな経済活動を誘導できるだろう。だが、無理やり資金を動かし不良債権化を拡大する結果を招いている現実は見逃せない。彼らは、リスクを複雑化して偽装するのが得意だ。まるで、将棋のような論理ゲームで不利と見るや、無理やり形勢を複雑化する手を打って、勝負の行方を難しくするかのように。おまけに、格付機関が、そのリスク評価に最高の信用度を与える。まるで、裏取引でもあるかのように。世の中が何かの拍子で社会不安に陥ると、群集意識は一斉に危機感を募らせ、行動もある方向へ一斉に向かわせる。しかも、こうした行動をマスコミの扇動が増幅させる。宇宙の持つ合理性は、群集の持つ不合理な行動によって相殺される。その一方で、常識では不合理とされる現象を、合理性と解釈する人々がいる。ヘッジファンド系の投機家連中は、そうしたイベントをいつも待ち構えている。彼らは、群集が向かう方向と逆ポジションで仕掛ければいい。そもそも、宇宙には合理性というものが存在するのか?人間の都合で解釈されるものではないのか?株価の暴落で資産が減った人々は、こういう危機を理解しているだろうが、それが原因で社会不安まで引き起こされては迷惑な話である。十年に一度、金融危機が起こるという現象からして、もはや、金融システムは社会の邪魔でしかない。一般企業では、金融の依存度を少しでも低減したいという防衛意識も芽生えるだろう。製造業などが、自らのグループ会社に金融部門を設けようとする動きも分からなくはない。資本主義が成熟すると、金融の役割も終わりを告げるのかもしれない。
そもそも、経済は何のために存在するのか?政治や経済が貢献するべきことは、社会安定を図ることではないのか?経済システムは、資産価値の評価を正当なもので安定させる必要がある。いまや、金融システムに依存しない体質を持った社会システムの構築が急務である。そのためにも、資本主義とは何か?民主主義とは何か?という素朴な疑問に立ち返ることであろうが、政治 + 金融 + マスコミという魔のトライアングルにはダース・ベイダーが潜み、人間社会の転覆を目論んでいる。今宵の純米酒は、やけに愚痴っぽくさせやがる。事故米でも入っているのかな?
さあ!遊びはこのぐらいにして、そろそろ本題に入ろう。

ちょうど株価暴落が伝えられることもあり、経済学をネタにするのも悪くないと思ったのだが、本書は社会学に属する。経済学を掘り下げると、どうしてもそうなるのだろう。世界銀行は貧困の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命とすると言われるが、それは本当だろうか?現在のグローバル化に警告を発する専門家も少なくない。彼らはグルーバル化を反対しているのではない。市場の意識や制度的な枠組みにバランスを欠くと訴えている。著者も、そうした中の一人であろう。本書は、市場システムや経済活動が、民主主義の確立や初等教育の拡充といった問題よりも、市場の拡大にばかりに関心を持ち、弱者の社会的機会を奪っていると主張する。題目の「人間の安全保障」とは、紛争や災害、人権侵害や貧困など、地球規模の問題から生命、身体、安全、財産を守ることである。あくまでも個々の人間生活に焦点を当てたもので、軍事的に解釈する「国家の安全保障」という官僚的な概念とは同列に扱ってもらいたくないと熱く語る。そして、人権には倫理的な力と政治的な認知を必要とすることを訴えている。

1. 基礎教育
教育格差を縮めることが、世の中をより安全にし、より公平な場所にできるだろう。これが社会で最重要なのかもしれない。作家H.G.ウェルズは、「世界文化史大系」の中で、「人類の歴史では、教育と破滅のどちらが先になるのか、ますます競争になる。」と述べたという。
本書は、最も基本的な問題は、識字力や計算能力がないことであるという。読み書きや計算、あるいは意思伝達ができないことは、とてつもなく困窮状態と言える。生きることに必要なものが欠乏しているのに、その運命を回避する機会をも奪っていることになる。健康問題においても、感染症の蔓延を教育によって遮断できる。女性の教育と識字力が子供の死亡率を下げる。その一方で、女性の地位向上と自立能力が出生率を下げる。ここでは、イギリス連邦諸国の教育格差を焦点に語られる。それも、著者がインド人だからであろう。植民地時代の過去は根深いものを感じる。著者は、市場システムの擁護派が、学校の授業料を市場原理に任せようとしている動きを牽制している。学校教育は、自己認識や他人を見る目を養うためにも、行われれなければならないだろう。原理主義の宗教学校など、寛容性に欠ける狭量な教育が、子供たちの視野を狭める。公共機関による教育施設がないことが、好戦的な政治活動家によって、宗教学校の人気を助長させる。宗教を中心とした文明で人間を分類することは、政治不安を引き起こす。イギリス政府ですら、宗教別の公立学校を拡大しているという。元々多民族国家でありながら、イスラム教、シク教、ヒンドゥー教学校の創設運動が進んでいるのだそうだ。著者は、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」のような分類は、いかにも西洋主義的で、世界に政情不安を煽るものだと批判する。特にインドを「ヒンドゥー文明」として描いているのは、歴史的配慮が足らないと主張する。おいらは、「文明の衝突」は、おもしろく読んだが、民族問題を抱える社会や多宗教社会では繊細な問題のようだ。日本のなぬるま湯で暮らす酔っ払いは鈍感である。ただ、文明の分類とナショナリズムの高揚を同列にすることもないだろう。

2. グローバル化
グローバル化とは、世界を西洋化することではない。これは多くの経済学者が指摘していることだ。好意的な人は、世界に対して、すばらしい西洋文明の貢献だと考えるだろう。西洋文明が、良し悪しは別にして世界に大きな影響を与えてきたことは事実である。ルネッサンスに始まり、啓蒙思想が生まれ、産業革命へと発展し、西洋諸国の生活水準を上げてきた。その一方で、帝国主義のような支配が、問題の元凶となっているのも確かである。現在においても通商関係のルールは、世界の貧困層をより貧困へと導いている。本書は、こうした西洋化が、グローバル化の本質なのか?と疑問を投げかける。現在のグローバル化を、西洋的な一種の帝国主義と見るのは分からなくはないが、グローバル経済が、様々な地域に貢献している事実もあり、前向きに捉えるべきところもある。ただ、グローバル経済が、民主主義の確立や、初等教育の拡充、または、弱者の社会的機会といった問題に無関心なのも事実である。現在の制度的な枠組みは、全体のバランスを欠き、利益の配分を不公平にする。グローバル化の波は、今後も押し寄せるだろう。グローバル化そのものが悪いのではない。投資家ジョージ・ソロスは、「国際的な企業は、統制の取れていない民主主義国家よりも、秩序の整った組織的な独裁主義国家での活動を好む。」と指摘しているという。

3. 民主主義
民主主義は、歴史的にみても西洋文明だけのものではない。世界の至る所にその源泉を見ることができる。国際社会には、民主主義の本質を、公開選挙と主張する動きがある。しかし、権威主義社会では、独裁政権が驚くべき勝利をおさめた歴史がある。投票行為に圧力をかけられるだけでなく、検閲制度や反体制派の弾圧など、市民の基本的権利や政治的自由を侵害され、公の場で議論すらできなくなる。公開選挙は、一つの手段に過ぎない。これを主眼にすると独裁者を支援することにもなりかねない。公の場の自由な議論と相互の協議を保証することに主眼を置く必要がある。原則は、多様性を認め、多元主義に寛容であることであろう。著者は、民主主義の最重要課題は、公開選挙ではなく、基本的な権利と自由を認めることであり、重要なのは公共の論理であると語る。ところで、民主主義社会では飢餓は起こらないらしい。飢餓が起こるのは、帝国の植民地、軍事独裁政権、一党独裁国家であり、民主主義では、飢餓が起こる前に世論の批判に持ちこたえられないという。もし、飢餓が起こるとしたら、その国の民主主義に欠陥があるということか。著者は、西洋的主張が強い民主主義には、まず選挙という思考が働くことを嘆いている。
ところで、民主主義の基本は多数決と発言する人も多いが、それは本当だろうか?多数決の始まりは知らないが、おそらくローマ皇帝や国王の後継者を選出するあたりであろう。民主主義とは、本来、面倒な仕組みであり、議論の収束が難しい制度である。その効率化を図る一つの手段に過ぎないことを認識するべきであろう。多数決は、少数派に犠牲を強いていることにもなる。多数決の原理は、衆愚化させる可能性を否定できない。

4. インドの核兵器
核兵器や強大な軍事力は、本当に国力を高めるのだろうか?軍事費の圧迫によって、国家を弱体化している面もあるだろう。インドの周辺は、パキスタンや中国の核武装化もあり、ナショナリズムが高揚する地域でもある。日本では、今のところ、核武装の議論は世論によって阻止される。ただ、あまりにも拒否反応が強くて、核武装と原子力を同列に扱われるのはどうかと思う。核兵器は有益で、ただ威嚇のみに存在し、決して使うものではない、といった論調には説得力を感じない。これが、賢明な国家の自衛策なのか?と著者は疑念を抱く。インドやパキスタンだけを非難しても始まらない。そもそも、そうした非難をする国々は、ことごとく核を保有している。地球規模で不均衡な核の秩序が存在する。高度な武器を生産する大国は、軍事産業で自国産業を支えている。顧客を作らなければ、軍事産業は成り立たない。自国の安全のためなら、他国を大量虐殺しても構わないという論理、こうした政治家どもの横暴は、世論が監視するしかない。核を保持すれば、その維持費は税金で賄われることを自覚すべきであろう。核武装によって紛争が抑制できるという主張も怪しい。本書は、少なくともインドとパキスタンの間では、紛争を抑制できていないことを紹介してくれる。世界が冷戦時代に、核の危機から人類滅亡のシナリオを選択してこなかったのは、単なる偶然かもしれない。では、現在はその危機から脱しているのだろうか?更に、危険な領域に入り込んだと見ることもできる。インドでは、核の保有が常任理事国入りできる条件と考える動きもあったようだ。どこの国でもそう考える連中がいる。もし、核保有で常任理事国入りが認められれば、同様の国が増殖する。著者は、インドとパキスタンは、核保有で自ら墓穴を掘っていると嘆いている。

5. 人権と自由
人権を定義づける理論というものがあるのだろうか?人権とは、とらえどころのない概念である。国籍やその国の法律とは関係なく持っていて、誰もが尊重しなければならない基本的な権利、人間が生まれながらに持っている自然権という概念には、説得力が欠けると主張する人も多いようだ。アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言で語る歴史家も多い。日本の憲法にも、基本的人権は謳われる。自然権など戯言に過ぎないという有識者や法理論学者は案外多いらしい。その一方で、過剰な人権を主張する人々がいる。本書は、人権の宣言とは、本質的には倫理的な表明であって、法的な主張ではないと語る。人権が認められれば、その一方で大きな責任を負うことになる。倫理的な義務が生じる。人権を立法化する必要があるのかどうかは分からない。意味がないことなのかもしれない。地球規模で基本的な人権の範囲を規定することも難しい。規定すれば、法的な違反への罰則も必要だろう。著者は、公平に福祉が受けられないからといって人権を侵害していることになるのだろうか?と疑問を投げかける。そもそも経済が貧困で、福祉が成り立たない国があることを訴えている。自由が氾濫すると、人間は自由の概念を拡大する傾向にある。イギリスの経済学者ジェレミー・ベンサムは、法的な立場から自然権を攻撃したという。そして、功利主義が公然と主張される。いかにも経済学者が好みそうな世界である。権利の範囲を議論するならば、義務の範囲も議論されるべきであろう。人権の立法化、制度化の必要はあるのだろうか?制度化されなければ権利は認められないと主張する人もいる。確かに、制度化されないと不安ではある。制度化されない領域で人権を尊重できるほど人類は成熟していないかもしれない。しかし、法律は厳密さを要求するものであり、自然権や人権の自由といったものは厳密性とは相反する概念である。法律は万能ではない。法律とは、所詮、都合が悪くなった人のための言い訳の道具である。国連が主唱した世界人権宣言があるにも関わらず、人権が守られていない国でも公然と軍事援助がなされる。

2008-10-05

"スピノザの世界" 上野修 著

久しぶりにアマゾンを放浪していると、お薦めにスピノザの名前があった。以前から、彼の大作「エチカ」を読んでみたいと思っているが、なかなか手を出す勇気が持てないでいる。とりあえず、本書を手に取ってみよう。
スピノザは、17世紀の偉大な哲学者の一人であり、汎神論を説いた。それは、神(自然)が唯一絶対の実体であるとする考えである。彼は、アムステルダムのユダヤ商人の家庭に生まれ、幼少の頃からユダヤ教団の学校で学ぶが、自由思想家の影響で懐疑的となり、異端のかどで教団を破門となる。匿名で出版した「神学政治論」は無神論との批判を受け禁書ともなっている。その人物像は、批判者からでさえも「有徳なる無神論者」と呼ばれるほど高潔だったという。ちなみに、この形容は無気味な雰囲気を漂わせていたという。そもそも、無神論者を異様な人物とされた時代でもある。質素な暮らしぶりや、ハイデルベルク大学からの招聘を辞退するなどの有名な話も残っているが、決して社交的でなかったわけではなく、知的交流も多かったという。

スピノザになんとなく興味を持つのは、宗教が主張する神とは一線を画し、極めて科学的に捉えようとしているところである。それは、神というより宇宙法則という意味合いが強い。彼は、全ての事物や現象を神と呼び、そこには全て実体があると主張する。そこには、気象現象で雨や風や気圧といった様々な物理現象を組み合わせて「台風」と呼ぶように、神はあらゆる事物の属性から成り立つ唯一の実体、他を絶する実体といった考えがある。人間の精神も、一つの属性で一つの自然現象と捉える。名著「エチカ」は、正確には「幾何学的秩序で証明されたエチカ(倫理学)」というらしい。そして、ユークリッドを引き合いに出し、神や人間の自由について、幾何学的に考察されているという。はたして、ユークリッド的な幾何学原論のような主張が、哲学をどこまで掘り下げられることができるのだろうか?公理系のような書き方で、どこまで語ることができるのだろうか?幾何学仕様の倫理学というのも、なんとなく謎めいている。「エチカ」の訳書は、岩波文庫から出ているので、いずれ挑戦してみたい。本書は、スピノザがどんな事を語ったのか?どんなものを見たのか?を紹介してくれる入門書である。

スピノザは、世界そのものが真理でできており、人間はその真理の一部であると語る。そして、人間の精神も真理の一部であり、思考が真ならば、思考されている事柄と一致しなければならないという。また、現実にある事柄で、それを対象とする真なる思考に一致しないようなものはないと語る。だが、ばらばらに存在する人間が、知性において全員一致する真理に到達しようとしているとは、なんとも信じ難い。人間の真なる思考も、真理空間の一部に過ぎないというなら、なんとなく分からなくはない。そもそも真なる思考とは何か?そういうものが存在するとしても、未だに人類は到達できていない。いや、永遠に到達できないかもしれない。ただ、アル中ハイマーの思考が真だとすると、宇宙はハーレムになってしまう。多数決が正義だとすれば、多くの男性諸君に支持される真理であろう。

スピノザが、世間から無神論者とされるところは、ニヒリズムにも通ずるものがある。それも、宗教とは違って無条件に受け入れるのではなく、論理的解明を試みる世界があるからであろう。哲学は精神の論理的探求を求め、宗教は精神の絶対的服従を求める。人類が哲学を論理的に解明しようと試みるのは、宇宙の正体が単純な法則に従っているに違いないと信じるからであろう。そこには、真理には美しい何かがあると信じてきた偉大な哲学者や科学者の執念がある。だが、哲学的思考が人間の精神の領域に到達すると、ついに語れない境界があることを知らされる。哲学は、誰のためにも語ることはない。うんちくや説教も垂れない。ただ、闇雲に真理を探究し、永遠の旅を続けるだけである。スピノザは、永遠についても語る。ここでいう永遠とは、始まりも終わりもない無限の時間のことではない。今あるリアルな存在のこと。時間はリアルな瞬間の連続であるが、その瞬間が永遠の真理だという。真理は時間の影響を受けないと言ってくれれば、なんとなく分かった気になれるのだが、はたして、そう言っているのだろうか?
「人間精神は身体とともに完全には破壊されず、その中の永遠なる何ものかが残る。」
これは、魂は不滅と言っているのだろうか?少なくとも死後の魂とは違うようだ。また、何が残るというのか?記憶や名誉のようなものか?それだって、歴史上の人物以外は、ほとんど無名で残らない。歴史だって、いつまで残るかわからない。DNAのことか?物質の構成要素である原子ことか?ここで、はっきりした答えがあると、いんちき宗教になり下がるであろう。真理は、ベールのようなもので包むから崇高な地位に押し上げることができる。女性の持つチラリズムにこそ美的興奮を与える何かがある。その探求を永遠に求めることが男の美学というものだ。そこには、「意味があるのか?」といったくだらない疑問は存在しない。ただ愉快なだけ。答えの見つからない命題を思考し続けると、アルコール欠乏症で手が震えだす。

1. 知性改善論
スピノザの著書「知性改善論」は、「エチカ」の入門書に仕立てようとしたものであるが、解説書のようなものを期待してはならないという。幾何学的でわざと解説を拒んでいるようでもあると紹介される。「知性改善論」の冒頭で、スピノザが哲学を始めた理由が語られる。天才でも始まりは平凡なようだ。全ての事象が空虚で無価値であることが経験で分かってくると、真の善というものは存在するのだろうか?といった疑問がわく。スピノザは、他の全てを捨て去っても、それだけで心が刺激されるようなものが存在しないだろうか?そういうものが見つかれば、喜びを永遠に享楽できるのではないか?と考えたという。だが、人間の欲求は、富、名誉、快楽に帰着する。どんなに善や道徳を語ろうとも言い訳に見えてくる。道徳が自己目的化すると人を、ますますダメにする。スピノザ自身、所有欲、官能欲、名誉欲を捨てることができなかったと告白する。こうしたものを悪と呼んだところで、決して悪を捨て去ることなどできない。捨て去ろうと思っている間は、捨てられないことを証明しているようなものである。そして、善悪を語る道徳家は悪の塊ということになる。ところが、精神の探求を続けると、こんなものへの執着がなくなり、妨げにすらならないことが理解できるという。禁欲が探求を可能にするのではなく、探求が禁欲を不要とするというのだ。これが悟りの境地ということか?そもそも捨て去るべき欲望など存在しないということか?知性と欲望が対立するのではなく、知性そのものが欲望である。精神の探求そのものが欲望である。欲望を遠ざけては、真理へ近づくことなどできないということだろうか。

2. 目的と衝動
目的とは、何かを達成するものであり、そのために努力するものだろう。ここでは努力は義務となる。だが、スピノザは、目的とは衝動であると語る。自分が目的に向かっていると、勝手に信じているだけのことかもしれない。人間は、その目的が善と信じているから、努力し犠牲も強いる。そして、努力や犠牲といった行為そのものも善と信じる。だが、目的や義務を追求していくと、エゴや自己愛に辿り着く。結局、欲望のためであり、衝動からくることに気づかされる。こうなると、人間の意識は、すべてあべこべに表象している可能性がある。人間は自由意志を信じ、万事は目的のために為されると信じても、自由意志の存在すら示すことができない。「エチカ」の理論では、人間は意欲や衝動を意識できるが、心が動く原因までは解明できないという。おいらは、精神の本質は「気まぐれ」であると考えている。最も人間らしい感情が「気まぐれ」であると思っている。義務や目的のために精神を制御しているつもりでも、実は衝動に支配される。義務感が強い人ほど、実は、ちゃらんぽらんなのかもしれないと思うことがある。欲望や衝動を自由に放任できる人ほど、義務や努力に励むのかもしれない。それは、義務の本質を探究しようとせず、ただ従うことに命をかける人とは違う。スピノザは、欲望とは意識を伴った衝動であると語る。ここで、おもしろいのは、「目的とは衝動である」と語りながら、「衝動とは目的とは言えない」とも語る。この非対称性が重要であって、これが抜けるとスピノザは単なる欲望至上主義に陥る。本書は、ここを理解することがスピノザの理解への鍵であると語る。目的のために欲望を捨て去らなければならないという発想は間違いで、単に強い欲望が弱い欲望に勝っていると考えるべきだという。道徳家が意見するような、善なる目的のために欲望を断念するということではない。善には優先順位があるということである。では、最高の善とはなんだろうか?スピノザは、より強い存在になりたい、より完全になりたいという欲望が、最高の善であると考えている。人間の本性の探求、完全な人間とは?という問い、こうしたものへ近づくことが享楽へと導くという。スピノザは、欲望や自己愛を肯定している。人間は案外素直に自分を愛することが難しい。それは利己的でエゴな部分が共存するからである。それでも、人間の自己愛は寛大で、自分自身が一番可愛い。利己とエゴは人間の持つ本質であろう。自己肯定の衝動は精神の本質なのかもしれない。その本質を誤魔化し、自己愛を公然と言えるように武装したものが道徳というものの正体ではないだろうか。

3. 宇宙の真理
あらゆる宗教は「神」の存在を出発点とする。しかし、スピノザは「神」は出発点ではなく定理として導く。実体とは、唯一性、自己原因と永遠性、無限性などの属性を持ち、その正体を考察していくうちに、無限なる本質、無限の属性を持つ絶対的な実体が現れる。「神」は、これらを表現するのに都合の良い言葉ということである。自然は、目的のために働くものではない。なんだか分からないが、とにかく何かがある。そうした中で、神の存在は、公理から演繹されて、どうしても出現してしまうという。神の存在は、ある種の避けがたい論理的帰結なのかもしれない。多くの神の存在論というのは、胡散臭いものがある。だが、ここで現れる神は、むしろ、偉大な宇宙といった感がある。いくら無神論者であっても、絶対的に逆らえない実体かあるような気がするものだ。ところが、人間のご都合主義はおもしろいもので、幸福が訪れれば自分自身の努力のお陰だと喜び、災難に遭遇すれば神にすがる。神は万物を創造したという説はよく耳にするが、スピノザは神を創造者とは言わない。動物だの、地震だの、戦争だの、いろいろな有限な存在や出来事があり、これら全てを包括して無限に実体が存在する。これがスピノザのいう神である。人間の存在意義、宇宙の存在意義なんてものはありえないのかもしれない。それは、ただ存在するだけ。登山家は言う。「なぜ山に登るのか?そこに山があるから」アル中ハイマーは言う。「なぜビールを飲むのか?そこにビールがあるから」

4. 精神
デカルトは人間の精神を一つの実体と考えた。つまり、精神は物体的属性とは違った属性を持つ実体である。そうなると、思考の位置付けはどうなるのか?人間の内に現れる思考は、精神の実体と一致するというのか?また、思考と身体に共通点すら見えないので、精神と身体が一つである状態すら想像できない。酔っ払いには、ますます人間という実体が見えなくなる。デカルトが「心身合一の問題」を残したのも分かる。
スピノザは、精神も一つの事物と捉えた。というより、精神なんてものは無く、ただ思考のみが存在すると考える。いずれにせよ神や自然の属物である。これで問題が解決するとは思えない。ただ、デカルトのように精神の実体を求めるよりは想像しやすい。スピノザは、神にも人間にも自由意志など存在しないと主張する。そして、自由意志の否定が、安らぎと幸福を教え、運命に振り回されない力を与え、自らを許し、人間を許し、社会を許し、神と世界を許すという倫理観が得られると結論付けている。自由意志を信じたところで、酔っ払いは気まぐれに支配される。自由な決意が、物事を語り、全ての行為に及ぶと信じても、それは目をあけながら夢を見ているようなものかもしれない。スピノザは、精神の決意と身体の決定は、表現が違うだけで同じ行為であるという。それゆえに、身体を蔑視する闇雲な精神主義におさらばしたというわけだ。人間を許せないというのは、そもそも人間には自由意志があると信じているからである。不快に思うのは、相手の自由意志によって引き起こされると考えるからである。だからと言って、自然現象のように許すことなどできようか?台風から避難するように、不快から遠ざかるしかないということか。だから、酔っ払いはいつも酒に逃避するのか。スピノザの倫理は、徹底して自己肯定の原理に基づいているようだ。間違って解釈すると、利己的になりそうである。人間の歴史は理性よりも感情によって導かれてきた。人間は孤立の恐怖から逃れるために群がる。その代表が国家である。国家は政治を生んだ。もし、人間の本性が最も有益なものへ向かうならば、何の方策も必要としないはずである。だが、政治は、群れに共通の恐怖を与え、あたかも一つの精神によって結びついているかのように仕向ける。
賢人は、魂の平安を有しているというが、賢人の精神が乱れないというのは本当だろうか?そもそも、賢人は存在するのだろうか?そのように装うのが巧みな人はいる。アル中ハイマーは、感情的になりやすく、精神はしばしば乱れる。不快な感情を察知して、予め逃避するように努めるがうまくいかない。賢くありたいとは思うが、知識を得たところで賢人になれるわけでもない。

2008-09-28

"ナポレオン言行録" ナポレオン・ボナパルト 著

前記事でニーチェを読んでいると、学生時代、独裁者の心理に興味を持っていたことを思い出す。本書に出会ったのは20年以上前。コニャックを飲みながら本棚を眺めていると、なんとなく読み返したくなる。
一般的に呼ばれる「ナポレオン戦争」は、人類史上初めての世界規模の戦争と言える。アル中ハイマーは、これこそ第一次世界大戦と呼ぶに相応しいと思っている。だが、あえてナポレオンその人の名で呼ばれるところは、それだけインパクトのある人物であったことの証であろう。その影響範囲はアメリカや極東にまで及ぶ。ナポレオンは、フランス領ルイジアナをアメリカへ売却し北米大陸から撤退した。中南米のフランス領およびオランダ領はことごとくイギリスによって攻略された。そして、イギリス海軍による海上封鎖によって米英戦争が勃発する。長崎で起きたフェートン号事件も、ナポレオン戦争が波及したものと言える。当時、そうした興味から本書を読んだはずなのだが、その印象はジョゼフィーヌへのラブレターのオンパレードということぐらいしか残っていない。不貞の女性がそこまで愛される資格もないのだろうが、不安、悲しみ、希望など愛にあふれた詩が綴られていたように記憶している。ところが、今読むと、愛妻への手紙もさることながら、戦争を続けなければならなかった心境や、彼の理想としたヨーロッパ観が描かれていることに感動してしまう。特に、セントヘレナでの回想は、文人ナポレオンの姿が現れる。素朴な心情に、威風堂々としながらも風流。自らの思想の気高さを語り、時には自らの手段の誤りを認める。もはや、表舞台がなくなる運命にあると、自らの回想録に浸るしかないのだろうか。最高潮な時ほど見えないものも多いが、流人の身ともなれば率直な姿や、自らを美化した姿も見えてくる。そして、ナポレオンは歴史家となった。また、ローマ皇帝を擁護している部分もある。ローマ皇帝たちはタキトゥスが中傷するほど悪い人間ではなかったと語り、尊敬の念も抱く。こうした回想場面は、全く記憶に留まっていないので、新鮮な書物として読める。これも記憶領域の破壊されたアル中ハイマーの特権なのである。

本書は、岩波文庫で絶版となっているようだ。もったいない!原標題を「ナポレオンの不滅の頁」と言うらしい。そこには、手紙、布告、戦報、語録など厳選されたものが並び、ナポレオンの自筆によって残された生々しさがある。編集者オクターブ・オブリ氏によると、ナポレオンの文章には、イタリア風なところもあるという。ナポレオンは、フランス語とイタリア語を操り、フランス語に当てはまらない言葉をイタリア語に求めている。ただ、思想も文章もイタリア的ではなく、フランス的で省略や簡潔なところもあるが、これは、フランス語固有なものだという。軍人の布告の中にも詩人としての姿を現す。また、自らを解放者と呼び、その傲慢さには見事な独裁者振りがある。ナポレオンは新聞の重要性を理解していた。フランス革命も新聞が無ければ成り立たなかったかもしれない。彼は新聞を監視し鼓吹する。そして、世論を惹きつけるための論説も書いている。政治家が偉業を成し遂げるためには、詩的な風格と傲慢さの両方を具える必要があるのだろう。偉大な行動には、一種の興奮状態になることもある。詩的でなく、高揚のセンスを欠き、知識や視野の狭い政治家は、つまらない政治屋ということか。精神の詩人は多くの書物で見かけられるが、ナポレオンは政治や戦争を通しての行動の詩人と言える。

ヨーロッパのこの時代は、一時的とはいえ世論の支持がないと独裁者として君臨できないはずである。にも関わらず、ナポレオンという独裁者の出現を許したのはなぜか?フランス革命が起こりブルボン王朝は崩壊する。しかし、革命後の共和政はすぐに恐怖政治へと変貌する。こうなると、歴史の振り子は王政復古へと振れそうだが、そうはならなかった。それも、人民の王家に対する反感が根強いものだったのかもしれない。君主制を避けたからといって独裁者が出現しないわけではない。また、共和政と民主政を比べるべくもないが、現在においても、マスコミなどの世論扇動によって恐怖政治のような流れを感じることがある。大衆は感情に流されてきた歴史がある。こうした光景は、どんな政治体制であっても、人間に内在する本質なのかもしれない。民主主義を永続させるためには、民衆が世論扇動に惑わされないように思考するしかない。ところで、近代民主主義に独裁者が出現する可能性はないのだろうか?ゲーデルは合衆国憲法の条文で独裁者が現れる可能性を指摘したという話を読んだ覚えがある。人類の発明した言葉による条文によって、論理的矛盾を完全に解消できるとは信じていない。戦争放棄を謳ったところで、戦争を完全に回避できるわけではない。歴史には平和主義者によって戦争を招いた例も多い。そこで、条文を補完するための慣習が必要となる。人類は未だ恒常不変の善悪を知らないのだから。

1. ラブレター
やっぱり、妻ジョゼフィーヌへの手紙が多い。自らの名誉へ執着するのは、彼女が名誉へ執着しているからだとか、戦場で早く勝利しようとするのは、彼女に一日でも早く会うためだとか、手紙をくれないことを嘆いたり、まるで片思いかのような必死さが伝わる。本書で一番多く登場する単語は、「ジョゼフィーヌ」であろう。そこには、皇后のためなら二十万人を犠牲にしても構わないなどという傲慢さが表れる。ナポレオンは、妻ジョゼフィーヌとの間に子が生まれないのは、自分の能力のせいだと疑っていたようだ。家族会議でも、ジョゼフィーヌとの間に子ができないことを精神的苦痛であると語る。そして、愛人マリア・ヴァレフスカ伯爵夫人との間で子供ができて、離婚を決心したと言われている。ちなみに、ジョゼフィーヌは、ナポレオンとの結婚が再婚で連れ子もいた。不貞も多かったと言われる。離婚後、オーストリア大公の娘マリ=ルイーズと再婚し、ナポレオン二世が誕生する。当初、ルイーズはナポレオンとの結婚を望まなかったが、宰相メッテルニヒの策略で実現したという。そして、二人の皇后への書簡が続く。なかなかマメなおっさんである。もし、この時代にインターネットがあったら、戦争中に嫁さんとチャットしている光景が目に浮かぶ。

2. 皇帝としての立場
ナポレオンは、帝政時代、ヨーロッパにおける自らの地位について語る。そこには、戦争を持ちかける心理がうかがえる。当時ヨーロッパでは、五つか六つの名家が帝位や王位を分け合っていた。それぞれの名家は、一介のコルシカ人が帝位の一つについていることに我慢できない。これら名家に対抗するためには、ナポレオンの恐怖下に置くことのみが、彼らと同等の立場を維持できる。ナポレオンという皇帝が、恐れられる者でなければ、フランス帝国は滅ぼされると考えていた。ナポレオンは、他国の企てを監視し鎮圧せずにはいられない。他国から威嚇されれば反撃せずにはいられない。古い家柄の王にとっては些細な事でも、ナポレオンにとっては存亡をかけた重要な問題となる。もし、息子が同じ態度を取り続けなければ、簡単に帝位から失脚するであろう、と語るあたりは、一つの君主制を固めるためには一人の人間では成しえないことを理解していたとも言える。ルイ14世にしても、長く続いた王家の継承者でなければ、簡単に王位を失っていたかもしれない。ナポレオンにとって、自身の存続やフランス帝国の存亡が、侵略戦争にかかっていた。

3. フランス革命を回想
イギリスは、数々の植民地の喪失、特に北アメリカの独立について、ルイ16世を赦していなかったという。ルイ16世は、高慢な政策によって、フランス海軍を世界第一の列に押し上げた。もし、フランス革命が起こらなかったら、ルイ16世によって英仏両国で通商貿易を独占し、両国民の恩人となるはずだったという。フランス革命は、初期においてルイ16世の庇護の下に進行した。ところが、民衆が宮殿を囲み、王が侮辱された事件が起こる。これは、フランス人によってのみ惹き起こされたのではなく、イギリスの悪しき助言があったという。その後、ルイ16世はヴァレンヌへ逃亡。これは裏切りとされ、王位を転覆させようとした少数派の餌食とされた。コブレンツにおける亡命軍の集結、ピルニッツの会議、滑稽なプロイセンとの戦争、更に滑稽なのが組織されていないフランス軍を前に退却したプロイセン軍、これらが、革命熱を最高潮にした。そして、立法議会から、国民公会の時代へと移り、革命を恐怖政治へと変貌させた。イギリスは、こうしたフランスの破壊的徴候を見て喜んだ。しかし、イギリスは敵を見誤ったがために、革命の気運が飛び火した。ルイ16世の処刑という暴挙を傍観していると、共和国という恐ろしい力が起こる。イギリスはフランスを圧殺しようと、ヨーロッパに莫大な軍援助金をばらまいたが、その負債を各国は冷ややかに見ていた。プロイセンはイギリスから離れ、ロシアは遠く見守っていた。ただ、オーストリアだけが復讐すべき侮辱を受けていた。エスパニアは、おのが利益のためなら血縁関係をも犠牲にする。イギリス首相ピットの反革命戦略は、オーストリアと神聖ローマ帝国といったゲルマン諸国のみがささえていた。キブロンでは、ブルターニュ海岸から身を投げた亡命者や銃殺された亡命者を、イギリス艦隊は傍観した。ピットはイギリス議会で、こうした政策の犠牲になった者たちを持ち出されると、イギリス人の血が流されなくて良かったと答えたという。キブロンの出来事は、フランスにとってのみ不幸をもたらし、イギリスにしてみれば金がかかっただけであると語る。

4. ナポレオンの理想
ナポレオンは、ヨーロッパを一つの世界帝国として再構築する理想を掲げていたようだ。アウステルリッツで勝利した時、アレクサンドルを捕虜にもできたが自由の身にした。イエナで勝利した時、プロイセンの王家に王位を残した。ヴァグラムで勝利した時、オーストリアの君主国を分割することを怠った。これらを、寛大処置として非難されても仕方が無いと振り返る。それは、もっと高い思想に憧れ、ヨーロッパ諸国の利害の融和を夢見ていたという。人民と王たちを和解させようという野心を抱いていた。そのために、王たちの支持も必要とした。人民による非難も覚悟の上だったが、自らを全能だと信じていた。エスパニアについては、後方に放置した事で、イエナでの対戦中、宣戦布告された。この侮辱を罰するべきだった。勝利の疑いもなかった。しかし、この勝利の容易さが逆に迷わせた。エスパニア国民は政府を軽蔑していたので、平和裡に改革ができると信じていた。そこで、自由主義的な憲法を与え、ナポレオンの兄弟を王に据えた。これはエスパニア国民から反感を買う。彼らの王朝を変えるべきだと思ったのは軽率だったと語る。ポーランドについては、再建しなければ、オーストリアとプロイセンは、依然として世界最大のロシア帝国に立ち向かわなければならない。1812年には、オーストリア、プロイセン、ドイツ、スイス、イタリアはフランス軍旗の下に進軍していた。もし、ロシア遠征で勝利していたら、ヨーロッパにおける百年の平和問題は解決されていたと主張する。しかし、そこにはフランス帝国が第一であるという前提がある。あらゆる独裁者たちは、ことごとく同じ論理に辿り着くようだ。自らが中心となって...という論理である。

5. 自画像
ナポレオンは、自己防衛のためにしか、決して征服を行ったことはないと主張する。そして、フランスは、無政府状態にあり、共和国を救うために独裁者が必要であったと語る。ヨーロッパはフランスの諸原理のためにフランスと戦うことを止めなかった。打倒されないためには、打倒するしかなかった。平和な時であれば、独裁は行わず憲法による統治を進めていたという。また、自らの行動を、当時のヨーロッパで最も自由主義的なものであったと主張する。無政府状態の溝を埋め、革命の汚れをすすぎ、民衆を栄光へ導き、王たちの地位を固めた。もはや、歴史家は、自分を批判することなどできないと語る。更に、ナポレオンは自問する。自分がどこから来たのか?どういうものか?どこへ行くのか?この神秘的な疑問が宗教へと走らせる。そこで、教育が待ったをかける。宗教にとって教育と歴史は大敵であり、宗教は人間の不完全さによってゆがめられる。ナポレオンでさえも信仰には逆らえない。盲目的に信じられれば幸せであろう。ナポレオンは言う。イエスが神になれたのは十字架の上で死んだからである。世界平和のために、ナポレオンもルソーも生まれてこなかった方がよかったのだろうか?それは未来が教えてくれるだろうと。

6. ナポレオンの戦争論
本書には、あちこちにナポレオンの戦争論がちりばめられる。それは、クラウゼヴィッツの「戦争論」を思わせるところがあって興味深い。その言葉を拾ってみよう。
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避けられない戦争は常に正戦である。あらゆる攻撃的戦争は侵略戦争である。作戦計画は前提や状況に応じて無限に変化する。軍学とは、戦地にどれくらい兵力を投入できるかを計算することである。軍学は、好機を計算し、次に偶然を数学的に考慮することにある。しかし、こうした科学と精神の働きを一緒に持っているのは天才だけである。創造のあるところには、常に科学と精神の働きが必要である。偶然を評価できる人物が優れた指揮官である。指揮をする術を知るためには服従する術を知らなければならないというが、40年間服従することしか知らない人間は、もはや指揮能力はない。60歳を過ぎた将軍があってはならない。名誉ではあるが、何もすることのない地位を与えるべきだ。作戦会議を重ね過ぎると、最悪の策が採られる。最悪な策とは最も臆病な策である。戦闘の翌日に備えて新鮮な部隊を温存しておく将軍は敗れる。将軍は常にその場に居るべきである。ガリアを征服したのはローマ軍ではなくカエサルである。ローマを恐れさせたのはカルタゴ軍ではなくハンニバルである。ヨーロッパ最強の三大国から、プロイセンを7年間防衛したのはプロイセン軍ではなくフリードリヒ大王である。フランス軍が最強なのは下士官が引っ張るからである。対等な立場だから、下士官は兵卒を傷つけない。仕官たちが亡命し、下士官が将軍や元帥になったから無敵なのである。フランスの兵隊は他の国の兵隊よりも統率が難しい。それは機械ではなく分別ある連中だからである。フランスの兵隊が議論好きなのは、頭がいいからである。彼らは作戦計画と機動演習とを議論する。そして、作戦行動を是認し、指揮官を尊敬していれば、どんなことでもできる。だが、その逆の時は失敗する。退却の術はフランス軍には難しい。敗北は隊長の信頼を失い、命令に反抗する。ロシアや、プロイセンや、ドイツの兵隊は、義務観念から持ち場を守るが、フランスの兵隊は名誉観念から持ち場を守る。前者は敗戦に無関心だが、後者は敗戦に屈辱を感じる。国民的栄光と戦友の尊敬よりも、生命を大切にする者はフランス軍の一員になるべきではない。
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2008-09-21

"ツァラトゥストラはこう言った(上/下)" ニーチェ 著

学生時代、新潮文庫版の「ツァラトストラかく語りき」を読んだ。もう20年以上前かあ。本屋を散歩していると、なんとなく岩波文庫版が目に留まる。そういえば、学生時代、独裁者の心理に興味を持っていた時期があった。その時、ニーチェに影響された独裁者につられて読んだのである。もしかしたら、アル中ハイマーのニヒリズムの原点は、この本にあるかもしれない。本書は間違いなく名著だ。だが、薦めはしない。今、酒樽の中から神託が下った。「汝は再び、これを買うであろう!」

そこには、国家は敵、親友は最大の敵、道徳や宗教を否定し、学者は嘘つき、詩人は口先だけ、聖職者は誹謗者、人間は生まれながらに死を運命づけられた死刑囚、といった御託が並べられる。「神は死んだ!」この言葉で象徴されるように、読み方を間違えると危険な思想に嵌りそうな香りがしたのを思い出す。純情なアル中ハイマーは、ニーチェのおかげで哲学恐怖症と宗教拒否症を患ったものである。それでも、人間の深層心理を鋭く抉る感覚には魅了された。それが今読むと不思議なことに癒される。それだけ邪悪な社会を見てきたということか?いや!単に精神が泥酔しているに過ぎない。どんなものであれ、出会った時の精神状態によって解釈が違うことがよくある。気づかなかった日常の幸福にも、やがて見落としていたことに気づく日がくるかもしれない。ただ、こういう本は、酔っ払いのお喋りが「かっぱえびせん」状態になるから困ったものだ。しかも、鏡の向こうの住人が、赤い顔をして「ああ気持ちええ!」と呟きながら延々と話しかけてくる。

アル中ハイマーの住む業界では精神病や脳卒中といった病を患う人が多いようだ。それが当人だけでなく、奥さんや家族に伝染するのは偶然だろうか?ちなみに、おいら自身が5年ほど前に脳梗塞と診断されたことがある。即日入院させられたが、厳密には一歩手前であろう。酔っ払っているお陰でまったく自覚症状がない。医者は騒ぎおるわい!ただ、看護婦さんに会える口実を与えてくれたことを喜んでいる。
哲学という一見高度に見える思考は、生きる上であまり役には立たない。哲学は苦悩する具体的な問題に何一つ答えてくれない。論理的な解明を深めると鬱病にさえなる。だからといって、それ以外に何ができるだろうか?できるだけ抽象的に語り、様々な解釈を思わせる可能性を示せば、そこには、崇高な地位へと押し上げる何かがある。これが哲学の極意というものだ。 絶望という名の希望は、生きる上で時々立ち止まり、そして、時々振り返ることの大切さを教えてくれる。本書には、絶望の末に到達したニヒリズムがある。

宇宙の存在意義とは、自らの精神を意識できる瞬間でしか意味がないのだろうか?魂が死んだらどうなるのか?人類が宗教を発明した理由の一つは、人生がこの世で終わるのでは、たまらない!と人々が願うからであろう。無神論者であっても、「あの世」とか、「天の声」といった言葉を使うものだ。ご都合主義の人間が、来世を信じるのも分からなくはない。いずれ、地球は死滅し、人類が死滅する日がくるだろう。そうなると、自分の生きた証どころか、人類の歴史が全て失われる。宇宙の歴史からすれば、人間など「うじ虫ども」の地位にしかない。偉大な生物の歴史では、一匹のプランクトンよりも役立った人間などいないのかもしれない。

本書は、この手の文献にしては珍しく注釈がない。文章も翻訳にしては分かりやすく、仏教的な用語に置き換えていると思われる部分もある。だいたい、この手の本が読み易いわけがない。直訳するとへんてこな日本語になるはずだ。訳者氷上英廣氏の意向が感じられる。こうした意図は、学術的な立場からすると許されないだろうが、酔っ払った凡庸な読者にはありがたい。
「ツァラトゥストラ」とは、古代ペルシャのゾロアスター教の開祖の名前である。ニーチェは、主人公にツァラトゥストラを登場させ自らの哲学を代弁させる。これは、矛盾した宗教への挑戦か?善悪を語る道徳への皮肉か?キリスト教をパロッた場面もちりばめられる。そこには、「人間は人間を克服しなければならない」と語り、「超人」と「永遠回帰」という二つの概念が語られる。凡人は生まれて死ぬものであり、無情な時間の中でもがく。だが、「超人」は、この時間をも克服してしまう。それは、自己目的で完結してはならず、時代のかけ橋となることを意味する。そのために自らの没落を勧める。没落とは自己犠牲とも微妙に違う。人間の最も恐れるものは退化である。それは、自らの意志を次の世代に受け継ぐことの意義を教えている。だが、精神や道徳は、何度試みては失敗し誤ったことか。人間とは単なる試みなのか?昔から受け継がれた理性によって、今もなお精神は錯乱する。「永遠回帰」は自己克服と成熟を求めるが、人類は物事の真理を探求しながら、未だに答えを見つけられない。人類は未だ恒常不変の善悪を知らない。そもそも、善悪は存在するのだろうか?人間を克服するとは、善悪の創造者になることである。そのために思考し続けるが、精神は迷い続け、永遠に矛盾と対峙する運命にあるようだ。

人生には悩みが付きまとう。生き甲斐なんてものは、思い上がりなのだろうか?謙遜という意志ほど難しいものはない。人間はなぜ生きようとするのか?そこには限りない欲望が渦巻く。幸福は、苦痛を忘れた瞬間に訪れる。その瞬間を作ってくれる芸術や音楽には、癒しの力がある。逃避的で消極的な幸福は、癒しの空間を与えてくれる。だが、ニーチェは、更に生きる苦痛を正面から受け止めよ!「勇気こそ人生の先史学」と訴える。消極的な幸福よりも、積極的に覚悟を決めることによって癒される何かがあるというのか?永遠に苦悩する勇気によって、次の瞬間に何かが悟れるとでもいうのか?それが「永遠回帰」ということか?本書は、人間を蔑み、人生を散々否定的に語っておきながら、それを直視し真理を探究し続けることにこそ、自己克服があると語る。自由な精神を獲得するには、究極まで思考し続けるしかない。だが、どうせ答えなど見つからない。真理には不思議な性質があって、近づこうとすれば逆に遠ざかる。まるでホットな女性のように。

さて、次の20年後に読み返すと、どんな解釈が得られるだろうか?その頃は何歳だ?今、16進数で20代だから...そのうち16進演算も怖くなりそうだ。次はモジュロ計算で生まれ変わるとしよう。
それでは、大作の中からストレス解消になりそうな愚痴っぽいところを、ほんの少し摘んで要約しておこう。なぜかって、そこに辛さの効いたカラムーチョがあるから。この辛さはビールのピッチをあげる。

1. 人間
ツァラトゥストラが愛する人間は、没落を願う人間、破滅に向かう人間である。ツァラトゥストラは病人には寛大だ。神を渇望する人々には、実に多くに病的な輩がいる。暗黒な時代では、信仰は妄想であり、理性は狂乱となり、冷静な懐疑は罪とされる。世界の背後には、救済と称した信仰が蔓延り血が流される。そして、戦争や闘争といった悪は必然となる。人間は、徳どうしの妬みや不信と誹謗からは逃れられない。人間は徳によって滅びようとする。かつて精神は神であった。やがてそれは人間となった。今では賤民にまでなり下がる。

2. 国家
国家は冷めた怪物である。国家は民族であると嘘をつく。民族には、善悪を表す言葉に風習と掟がある。国家があらゆる言葉を駆使して善悪を語っても、それは全て盗み取ったものだ。国家にひれ伏し拝むならば、この新しい偶像は人々に餌をばらまき、人々から美徳と誇りを買い取る。国家は余計な人間を生みだし、庶民の財産を盗み取る。この窃盗を教養と呼ぶ。中には人々を感情で逆なでする者もいる。これを新聞と呼ぶ。彼らは互いに貪りあう。この余計な人々は、富を手に入れ権力を欲する。だが、ますます貧しくなることに気づかず、王座を欲する。まるで王座に幸福があるかのように。だが、王座は泥に過ぎない。国家という新しい偶像を崇拝する者どもは、ことごとく悪臭を放つ。

3. 民族
地上において善悪ほど大きな力を持ったものはない。まず、民族が生きていくには、善悪の評価が必要である。どんな民族も隣国どうしで理解し合ったものはない。民族にとって手に入れることの難しいものが善である。民族を支配と勝利と栄光に導き、隣国にとって恐怖と嫉妬の的にされることが、高貴なものとなる。ギリシァ人は、他者よりも秀でることを美徳とした。ペルシァ人は、真実を語ること、弓矢に練達することが困難であると知りつつも好んだ。ユダヤ人は、父母を敬い、父母の意志に従うことを不滅とした。ドイツ人は、忠誠を尽くし、たとえ悪いことでも名誉と血を賭けることを教えとし、自らを強制した。民族にとって善悪の価値は自己を維持するために必要だった。だが、人類はいまだに共通の目標を見つけることができない。人類に目標がないのなら、人類そのものもまだ成り立っていないということではないか。

4. 自由な死
「ふさわしい時に死ね!」。これがツァラトゥストラの教えである。だが、ふさわしい時に生きたことがない者が、どうしてふさわしい時に死ねようか。ツァラトゥストラは言う。「余計な人々は、そもそも生まれてこなければよかった。」余計な人々は死をもったいぶる。全ての者が死を重大視する。だが、死はいまだに祝祭とまではならない。多くの人は、自らの真理をつかむ頃には、あまりにも歳をとり過ぎる。栄光を欲する者は、良い潮時に名誉に分かれを告げ、良い時に逝くという難しい術を習得しなければならない。あのヘブライ人イエスは、あまりに早く死んだ。彼がもっと長生きしていれば、おそらく彼自身の教えを撤回したであろう。撤回できるほど十分高貴な人間だったが、未熟なうちに死んだ。

5. 聖職者
生きるということは羞恥の連続である。他人を同情することで自らの幸福を確認する。自己を喜ばせようとすれば、他人を悲しませ困難や迷惑を与える。小さな悪行を楽しめば、大きな悪行をしなくて済む。裁判で裁かれれば、罪を償ったと勘違いして自らの罪を忘れる。聖職者たちは、あまりにも苦悩してきた。そのため彼らは他の者にも苦悩を与える。彼らの謙遜ほど復讐心に満ちたものはない。救済は、偽りの価値と虚妄の言葉を浴びせかける。彼らの神の愛し方は、人間を十字架にかけることしかできなかった。彼らは屍として生きようとした。自らの屍を黒衣で覆い、その説教からも死体置場の嫌な臭いがする。彼らの同情によって神は死んだ。教会は神の墓場である。

6. 有徳者
有徳者たちは、なぜ徳に対する報酬を受けるのか?徳はそれ自体が報酬ではないのか?徳には、報いと罪という嘘っぱちが持ち込まれる。有徳者は、自らを高めるために、他人を低める。徳は必要だと叫ぶより、警察は必要だと叫んだ方が説得力がある。名高い賢者たちは、大衆に奉仕し、迷信に奉仕してきたのであって、真理に奉仕してきたのではない。だから、大衆に尊敬される。彼らは大衆の代弁者として誇りを持つ。まるで神の代弁者かのように。

7. 詩人
詩人は嘘をつき過ぎる。弟子がなぜか?と質問する。ツァラトゥストラは「なぜ?」と尋ねられると困る人間だと白状する。だが、ツァラトゥストラも詩人なのだ。詩人は、知識に乏しく学ぼうとはしない。だから嘘をつかざるをえない。詩人は、淋しい丘に寝ころび耳を澄ませると、天地がささやいてくれると、得意げにふれまわる。詩人は、天上と言って神々を比喩するが、それは表面に過ぎず自らを深く見せかけようとしているだけ。詩人の精神は見物人を欲する。自虐的な「精神の苦行僧」は、詩人から生まれた。

8. 善人
あらゆる人間は、いたわられ同情されたがっている。善人と自称する者は、無邪気に嘘をつく。善人たちは、同情という嘘をつくように教える。隣人愛という言葉ほど嘘と偽善のために役立ったものはない。かつて人々は予言者と占い師を信じた。運命という言葉を信じた。やがて人々は、予言者と占い師を疑うようになった。そして、一切は自由であり、自由意志を信じるようになった。しかし、それは妄想であって、本当は何も分かってはいない。かつて、略奪はいけない、殺してはいけない、ということが神聖とされた。だが、生きること自体が略奪と殺害を含んでいる。善人は、古い価値を壊す者を犯罪者と呼ぶ。そして、創造する者を憎む。なぜならば、善人たちが創造できないからである。善人たちは、新しい価値を掲げる者を十字架にかける。善人たちは常に終わりの始まりである。

9. 先史学
昔々紀元の始まった頃、ローマは堕落し娼婦になり下がった。ローマ皇帝は家畜になり下がり、神様もユダヤ人になった。ツァラトゥストラは言う。「私以上に神をなすものがあろうか。神は死んだ!」そして、人々を無神論に改宗させる。神は死ぬしかなかった。神は、人間の奥底に隠された汚辱と醜悪を見た。神の同情は少しも羞恥を知らなかった。人間はそのような目撃者がいることにに堪えられない。人間とは、なんと醜く、苦しげに喘ぎ、無駄な羞恥に満ちていることか。にも関わらず、人間は自分自身を愛する。自らを散々軽蔑しながら自らを愛す。人間の自己愛はよほど広大なものに違いない。人間には古くからの恐怖心がある。それが洗練され、知性化され、今では学問と呼ばれるに至った。そして、勇気こそが先史学である。人間はあらゆる動物の勇気を妬み奪い取った。

2008-09-14

"ポアンカレ予想を解いた数学者" Donal O'Shea 著

ポアンカレ予想を解いた数学者と言えば、グレゴリー・ペレルマン。彼を知ったのは、フィールズ賞を辞退した唯一の数学者として話題になった時である。彼は数学界からも去った。金銭にも名誉にも興味を示さなかった彼の残した言葉はこれである。
「有名でなかった頃は何を言っても大丈夫だが、有名になると何も言えなくなってしまう。だから、数学から離れざるを得なくなった。」
偉大な仕事を成し遂げるためには純粋な精神が必要なのだろう。科学者が科学以外に関わらなくてよければ、それは一つの理想像と言える。本書は、様々な書籍で見られるように、数学の難問の発端を古代ギリシャに求め、人類の遺産として残された歴史ロマンを語る。そこには、幾何学が非ユークリッド世界へと飛び出し、位相幾何学、微分幾何学へと発展した数学史が描かれる。アル中ハイマーには、トポロジーの世界は酔っ払った景色にしか見えないのだが、本書のおかげでなんとなく興味が持てるようになった。
本書は、地球儀と世界地図を対応させるように、二次元の折り紙の世界から説明してくれる。こうした初心者への配慮がうれしい。地図から再現される地球の形は、ドーナツ形にも、無限に伸びる円筒にもなる可能性がある。これは、北極と南極が地図という座標系における特異点と見ることもできる。二次元の地球表面は、三次元の視点からでしか観察できない。三次元の宇宙の形は、四次元の視点が必要であるが、四次元の世界は人間には体感できない。ところが、数学は四次元の世界どころかn次元の世界をも定義できる。ポアンカレ予想とは、宇宙を理解する上で中心的な役割を果たす物体の理論で、宇宙のあり得る形に関する大胆な推測である。

世界のあらゆる形について考察する上で、「二次元多様体」または「曲面」という概念がある。全ての二点について、関係を定義できなければ世界地図は成り立たない。つまり、二点間の関係は、二次元で示せる。物体を表現するのに、三次元は必要であるが、二次元多様体は何らかの立体の曲面として表現できる。
また、「境界」という概念がある。二次元多様体には境界を持つものと持たないものがある。平面状の円盤は境界を持つが、球面は境界を持たない。地球の表面を移動する生物が地球の果てを見つけることはできない。厳密に言えば、球に囲まれた球面そのものが境界なのだ。「境界」という概念は、次元をまたがる。ある物体が有限であるためには、境界を持っている必要がある、という考えはよくある勘違いということか。本書を読む時は、こうした考えは捨て去る必要がありそうだ。
いつも思うのだが、天才は特異点が登場するとブチきれた発想をする。宇宙の特異点を消してしまったホーキングしかり。ペレルマンもまた、特異点に立ち向かう。ここでは時間関数ではなく、空間スケールを変数にする。だが、酔っ払いにしてみれば、飲む時間も、夜の社交場の湾曲具合も同じように見える。また、次元の移り変わりも速い。いつのまにか、別の店に瞬間移動するのも、ブラックホール付近では空間多様体が多重連結されている証拠なのかもしれない。ちなみに、次元大介は早撃ち0.3秒、なんといっても、帽子がゾウアザラシのオス四歳の腹の皮製というのが鍵なのだ。

1. トポロジー(位相幾何学)の世界
二つの物体の形が同じであるかどうかは、見る人の観点によって違う。通常、形について語る時は、大きさや距離といった属性に着目する。ここで重要なのは、大きさや距離といった幾何学的な特性は無視することである。引き伸ばしたり、ちょっとした変形などは意味がない。一方の曲面上の点を、他方の曲面上の点に、一対一で対応することができれば、それらの二つの曲面は位相的に同じであると定義する。位相幾何学では、このような同相であるかどうかが議論の的となる。ドーナツのような形状をトーラスといい。多数穴は1穴トーラスの連結和と見なす。したがって、有限な二次元多様体のあり得る形は、平面か、球面か、トーラスのどれかになる。トーラスと球面の違いを区別する方法は、多様体の住人が周遊旅行することを想像する。出発点に糸を結び付け、その糸を垂らしながら旅行し、出発点に戻ると巨大なループが形成される。そこで糸を巻き上げると、住んでいる世界が球面または平面であれば巻き上げられるが、トーラスでは、引っかかって巻き上げられない。つまり、一点上に縮めることができるループがあるかどうかで判別する。これを三次元多様体に拡張することが、宇宙の形に近づく議論となる。現在の有力な説が正しければ、宇宙は有限である。宇宙全体の形を思い描くのが難しいのは、宇宙の外には出られないことだ。これが地球と宇宙の違いである。宇宙に境界がないと仮定しても、無限であるとは言えない。宇宙が無限ではなく、宇宙に壁がないとすれば、宇宙は湾曲しているということか?こうして、宇宙のあり得る三次元多様体とはどんなものかという議論が始まる。

2. ユークリッドの「原論」
ユークリッドの「原論」は厳密性を極めた書物として有名である。となれば、どれほど厳密かという議論は絶えない。ユークリッドは、公理や定義のみに基づいて議論を展開したとされ、何世代にも渡って礼賛される。ただ、暗黙のうちに述べられているものもある。本書は、「原論」の合理的というよりいい加減なものに映る可能性を指摘している。一部の学生には数学離れを引き起こし、自らの理解力を嘆き、数学は高嶺の花だと結論付けてしまう恐れがあるという。特に、第五公準は他の公準に比べてもかなり複雑である。これは、平行線公準としても有名であるが、おいらには何度読み返しても理解が難しい。しかし、人類が示す論理的思考には、直感や暗黙の了解から得られる社会的文脈や、文化的文脈によって継承されるところがある。言語表現にも限界がある。多少の欠陥があるにせよ「原論」の寿命は恐るべきものを感じる。ただ、ユークリッドの著作の半分は残っていないのは残念である。アレキサンドリア図書館の火災がなければ、人類の歴史も違っていたかもしれない。

3. ベルンハルト・リーマン
ガウスは、「原論」の第五公準が成り立たなくても、成立する幾何学があることを確信していたという。そして、曲率をめぐった議論が始まる。平らな平面では、三角形の内角の和は180度である。ただ、空間が湾曲している場合は、これに限らない。180度より大きければ、その平面は、正の曲率を持ち、小さければ負の曲率を持つ。こうした議論が非ユークリッド幾何学を誕生させる。リーマンは微分幾何学を導く。彼は、n次元多様体を実数の配列で表した。点を数とみなし、一次元は一つの実数で数直線上に表れ、二次元は二つの実数で平面上に表れ、三次元は三つの実数で立体の中に表れる。四次元以上は想像できなくても、実数の並びと考えれば定義できる。リーマンは、無限次元多様体の存在までも認めている。数学では、直線を二点間を最短で結ぶ線と定義する。これは「測地線」と呼ばれ、その空間の住人にはまっすぐに見える。直線が定義できれば三角形を定義することができる。三角形は、三本の測地線分を境界とする図形である。三角形が定義できれば曲率を定義することができる。三次元多様体では、一つの点を通過する二次元平面が多く存在する。その点を通過する様々な平面の曲率は、それぞれ異なる可能性がある。二次元多様体で地球のような球面では、子午線と赤道のような大円が測地線である。球面上では三角形の内角の和は180度より大きくなり、曲率は正である。こうした整った形を相手にしているうちは気分がいい。だが、ゴツゴツしたジャガイモのような形に幾何構造があるかと言われると違和感がある。なんといっても、幾何構造の美しさは対称性にある。また、トーラスには、正の曲率と負の曲率が共存する。酔っ払いの神経では、空間のねじり曲がったリーマンの世界に慣れ親しむことができそうもない。よって、ここで芋焼酎をおかわりするとしよう。

4. アンリ・ポアンカレ
クラインとポアンカレは、二次元曲面での位相幾何学が、ユークリッド幾何学と深い関係があることを導いたという。それは、どんな曲面にも曲率が一定になる幾何構造を持たせることができるというのである。そして、曲面の分類が始まる。単位元の多様体の基本群が、三次元球面と同相でない可能性はあるのか?多様体の基本群を、多様体上の一点を基点とするループの集合と定義し、一方のループを変形させると、もう一方のループになれば、同じループと見なす。ループが一つの点にとどまるならば、それを単位元とする。つまり、単位元はループを縮めると一点になる。基本群が単位元になるということは、多様体上のすべてのループを一点に縮められるということで、これを単連結というらしい。そして、ポアンカレは問う。
「三次元球面と同相でない多様体で、その上のすべてのループを一点に縮めることができるものが存在するだろうか?」
境界を持たず、無限に広がることのないすべての単連結な三次元多様体は、三次元球面だけなのか?ポアンカレ予想は一般相対性理論との関わりも大きい。アインシュタインは、重力の正体を時空の曲率とした。アインシュタインは、リーマンの理論が自らの物理法則を説明するのに最適であると認識していたという。物質は時空を湾曲させ、光も曲がる。というより光は測地線に沿って通るだけである。

5. 高次元への展開
ジョン・ミルナーは三次元空間内の閉曲線に関する問題を解決した。どの次元にもユークリッド空間はある。同じように、どの空間にも球面がある。例えば、二次元球面は、三次元空間内である原点から一定の距離だけ離れた点集合である。三次元球面は、四次元空間内である原点から一定の距離だけ離れた点集合である。ただ、ここでいう四次元空間は、四個で一組の実数集合で単なる数学的表現に過ぎない。これはn次元球面に拡張できる。ユークリッド空間内では微積分ができる。微分可能構造とするには、一貫性のある変化率を定義できればいい。つまり、線形ということである。ミルナーは、二つの七次元球面が同相であるにも関わらず、微積分の方法が多く存在し、その値はすべて異なるという衝撃的な発見をしたという。
スティーブン・スメールは、一つ高い次元の多様体の境界にある二つの多様体の性質に関する重要な結果を証明した。そして、3を上回る次元のすべての多様体は、実際には球面であることがわかったという。
ウィリアム・サーストンは、幾何学の流れを根底から変えた。二次元には三種類(平面、球面、トーラス)ある幾何構造が、三次元では八種類あり、それ以外にはないことを示した。
リチャード・ハミルトンは、熱が温かい部分から冷たい部分へ流れるように、多様体では湾曲のきつい部分からゆるい部分へ曲率が流れるという考え方を提唱した。曲率がもっとも大きくなる方向で距離が最も速く縮むように空間上の計量を変えるのである。といっても、温度よりも曲率ははるかに想像が難しい。温かい部分から冷たい部分へ流れる熱法則を定量化するには、ある点を中心とする平均温度へ向かうことを想像すればいい。だが、曲率では、次元が高くなれば変数が増える。また、熱方程式に相当する曲率を表す式を求めなければならない。曲率の変化を表す式、これこそがアインシュタインの直面した問題である。
ここで、自然な変化を表現する解析の道具にラプラシアン演算子がある。これを、ある点を中心とする小さい球面上の数量を平均化することに使う。熱伝導の場合、時間に対する温度の変化率は、ラプラシアンの符号を負にしたものに比例する。ちなみに、金融市場のオプションの値を決めるのに使われるブラック=シュールズ方程式の基盤となるメカニズムは、これと同じである。曲率の場合、これをリッチ・フローと呼ぶらしい。ハミルトンが提案したリッチ・フロー方程式は偏微分方程式である。すべての点のすべての方向で目的の変化率を求めるように、様々な方向の変化率を指定できる意味で、偏微分は有効である。ちなみに、マクスウェルの方程式は、電場と磁場を統一した偏微分方程式である。アインシュタインの方程式は、物質、空間の曲率、重力を結びつける意味で偏微分方程式で表す。流体の流れや熱伝導を支配する方程式も、量子力学のシュレディンガー方程式も、偏微分方程式である。ただ、偏微分方程式にはしばしば特異点が現れる。ハミルトンもこの悲劇からは逃れられない。三次元多様体では、リッチ・フローが特異点を与えることを証明してしまったのだ。ポアンカレ予想への証明は絶望かと思われた。

9. ペレルマン
ペレルマンは計量の階層という概念を持ち出す。大距離スケールでは互いに遠く離れているように見える領域どうしが、小距離スケールでは互いに近づいている可能性があるという。なんと、リッチ・フローが特異点に到達すると、大距離スケールでは別々の連結された部分の領域が隣接する可能性もあるというのだ。ここでは、時間の関数ではなく、スケールをパラメータとしている。数学者は、なるべくなら特異点を避けたいと考えるだろう。ペレルマンはリッチ・フローの特異点について徹底的に追求したという。そして、多様体内の空間が崩壊する寸前まで曲率が大きくなった時、予想外の規則性が生じることを発見した。なんと、特異点が発生した時点で、元の多様体から切り取って、同種の幾何構造を持たせることができるというのだ。特異点では、別の空間を連結させてフローを継続できるとでも言うのか?もしかしたら、これがブラックホールの姿で、この付近で多重連結でもされるのか?都合が悪くなったら多様体を自由に分割したり、合体したりして、なんとも幼稚園で積み木遊びでもしているように見える。ペレルマンは、その多様体が単連結ならば、リッチ・フローが曲率の極限を平坦にならしてくれて、元の多様体と同相な一定の正の曲率を持つ多様体が形成されることを証明したという。んー!ますます酔っ払いの見える空間はねじれていく。
ところで、肝心の宇宙の形はどうなるというのか?現在、多くの天文学者の観察が、宇宙の平均曲率がきわめてゼロに近いことを示唆している。宇宙物理学者の間では宇宙は平坦であるという意見が支配的だが、宇宙はわずかに正の曲率を持っているというのも否定できない。ただ、負の曲率を持っている可能性は、実験的証拠によって否定されているらしい。

2008-09-07

"プログラミングのための線形代数" 平岡和幸 & 堀玄 著

一日中、本屋で数学の本を立ち読みしながら頭の体操をした。んー!やっぱりタダ酒は美味い!本書は、線形代数を題材として、その概念を大切にしている。中でも、数学の道具として有効な行列式を扱っているところがうれしい。ただ、本書は立ち読みで済ませるには少々重たい。ちょいと腕が疲れたので買うことにした。
アル中ハイマーは大学時代に数学を挫折した。特に、ε-δ論法という殺虫効果の強い落ちこぼれスプレーを浴びせかけられると、ピクリともしなくなった。以来、原理の意味合いや過程を無視して、結果だけを使って誤魔化している。数学ができないことが、仕事の幅を狭くしていることは、今でも苦々しく思う。

コンピュータの世界は、ムーアの法則に従い高密度化や高速化が進むとはいえ、その分、高機能が要求される。仕事を容易にこなせるようにツールも進化するが、その分、複雑なアルゴリズムが要求される。人間は、ますます贅沢になるが、それに伴い仕事量も増えるようにできている。「働けど働けど、我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る。」これが労働の法則というものである。自然法則は、人間を永遠に努力させるように留めおくようだ。
おいらの主な業務は、LSIに内臓される電子回路の設計である。設計の基本方針は、分かりやすくするのが最も重要であると考えている。しかし、回路規模や処理速度によって制約を受ける場合も多い。画像処理などの複雑な演算では、いかに効率良く近似値を求めるかが鍵となる。実装の際には、計算量を減らすことも課題の一つである。こうしたアルゴリズムの検討では、数学の道具である行列式の恩恵を受けることも多い。だが、優れた道具を使っても、その変換系が発散してしまうのであれば、物の役には立たない。本書は、その判定を容易にしてくれる固有値と固有ベクトルの概念をわかりやすく説明してくれる。

一つの行列は、ベクトルからベクトルへの写像を示し、一つの変換系を表している。そして、行列の積は、写像の合成であり、変換系の合成とも言える。ここまでは簡単な概念である。だが、昔から連立方程式をまともに解くことしか考えなかったアル中ハイマーには、ブロック行列を使った解法で、行の入れ替えなど単なるご都合主義にも見える操作を繰り返すことによって、いつのまにか解が得られるのを見ると、なんとも魔法のように思えたものである。また、座標系も軸が直交するとは限らないし、内積は座標系が違えば値も変わるし、外積は三次元で扱うには便利であるが特異に思えた。本書は、空間感覚のない酔っ払いでも、行列式を空間に対応させてくれるところがありがたい。空間を引き伸ばせば、体積拡大率は大きくなり、密度が下がるといったことが容易にイメージできる。行列の演算は、Octaveのような数値演算言語を使えば、LU分解までも一発で計算できるが、本書はLU分解の意義も説明してくれる。

変換系は、それが発散するかどうかは重要な問題となる。もともとの対象が対角行列ならば問題はない。大抵の行列は乗算やN乗すると極端に複雑になる。ところが、うまい具合に正則行列を見つけて対角化できれば、発散するかどうかが判別できる。対角化さえできれば、演算数を大幅に減らし、実際に解ける可能性が出てくる。微分方程式も対角化できれば解ける。固有値の目的は、それを使って行列の対角化ができると見ることもできる。ある行列に固有値と固有ベクトルが求まる絶妙なケースが見つかれば、標準形に持ち込むことができる。ただ、おいらには固有ベクトルが複素数の領域になるとわけがわからない。
ニールス・アーベルの証明やガロア理論の結論では、5次以上の代数方程式の解は存在しない。これは、5x5以上の行列で固有値を求める方法がないということである。つまり、有限回の計算で固有値をピッタリ求める一般的な計算法が存在しない。したがって、コンピュータの計算では、相似変換を繰り返して徐々に対角行列に近づけていくという反復計算が用いられる。本書は、その近似法のアルゴリズムとしてJacobi法とQR法が紹介される。

対角という性質には、複雑な物事を単純化する何かがありそうだ。周波数解析で有名なフーリエ解析やウェーブレット解析では、直交性質を利用する。この数学の美しい性質が、波のゆらぎを観察するのに適しているのも偶然ではない。そして、酔っ払って千鳥足で歩くゆらぎ具合も解析されるのである。夜の社交場を見渡せば、行付けの店が、ことごとく「鴎外通り」から対角に配置されているのも偶然ではない。これも、くだらない精神を酔わせ、人生を単純化する効果がある。

2008-08-31

"ホーキング 虚時間の宇宙" 竹内薫 著

著者の本は何冊か読ませてもらっている。そのくだいた表現力には毎度関心させられる。おいらは、技術の話を人に説明する時、いつも悩まされる。大学では数式で誤魔化す先生も多い。ところが、著者はほとんど言葉で流すところが凄い。哲学や思想の領域まで踏み込まないと、分かりやすく表現するのは難しいだろう。学生の理系離れが叫ばれる昨今、こうした企画は貴重である。

アル中ハイマーには、量子論の世界はなんでもありなのか?と思えて仕方がない。真空で何もない空間に、都合よくエネルギー保存則が成り立つようにプラスとマイナスの粒子が突然発生し、更に都合よく、ブラックホールになるかならないかの境界線で、プラスとマイナスが分かれて、一方は放射し、一方は吸い込まれる。これ全て不確定性で片付けられても、酔っ払いには「飲みが足らん!」と言われているようである。アインシュタインですら、量子論には抵抗感があったというから尚更である。更にホーキングは、実時間では特異点に始まり特異点に終わると言われる宇宙も、虚時間という概念を持ち込んで、特異点を無くしてしまい、宇宙の境界線すら消してしまう。天才が考えることは、どこかブチ切れている。地球表面上に住む人間は、地球の果てを求めて探検しても、その果てを見つけることはできない。これは、平面上を歩いていると信じていても、実は球面上を移動していることを知らずに、境界の無い世界をさまよっているようなものである。実数の指数関数も、虚数の概念を持ち込めば、複素平面上をぐるぐると回る。そもそもマイナスとマイナスを掛けるとプラスになるという発想は、人類のご都合主義によるものなのだろうか?むしろ、虚数の世界にこそ、自然法則が顕になる何かがあるのだろうか?人類は、実存論への答えすら見つけられず、空虚な世界をさまよう運命にあるようだ。
実は、おいらも虚時間を体感している。行付けの店に入り込めば、ブラックホールに落ちるかのようにアルコールによって分子レベルまで分解される。そして、気づいた時には亜空間な別の店に存在する。その店間経路は、虚時間によって受け継がれることにしなければ説明がつかない。

スティーブン・ホーキングは、「車イスのニュートン」と呼ばれ、ニュートンが在職したルーカス職の数学教授を勤めた。彼はALS(筋萎縮性側索硬化症)という不治の病にかかったことでも有名である。ALSは、発病すると手足の自由がきかなくなり、話すことも食べることも呼吸さえも困難になる難病である。発病当初は余命数年と宣告されたという。しかし、彼は前進を続け現在も活躍する。発病した頃、最愛の女性と結婚し三人の子供をもうけ、巨大な富を得て、そして、離婚、再婚と波乱万丈である。
科学者の世界には、二つの相反する研究態度がある。それは、実在論と実証論である。自然現象を、なんらかの物理的存在理由があると考えるか、あってもなくてもいいと開き直るかの違いである。ホーキングは典型的な実証論者のようだ。その理論を分かりにくくしている原因がこの思想にありそうだ。彼は、自分の研究の利点を強調する時に、他人の欠点を嘲笑うことが多いという。頭にくると電動イスで相手の足を轢いてしまうという逸話がたくさん残っているらしい。
本書は、ホーキングの研究論文は、一貫してアインシュタインの正統な後継者を思わせるものがあると語る。彼は、アインシュタイン理論をブラックホールや宇宙といった対象にあてはめた。そして、相対性理論に量子効果を加味した考察が特色である。本書はこの言葉から始まる。
「ホーキング博士によれば、ブラックホールは、本当はグレーホールであり、つまり、熱くて周囲に放射を出しているのであり、時間が経つと蒸発して消えてしまうのだそうである。」
通常の物質は、いろいろな分子からできていて、色や堅さといった属性を持っている。ところがブラックホールは、質量、電荷、角運動量といった属性しか持たない。では、ブラックホールに落ちた情報はどこへ行くのだろうか?存在し続けるのか?永遠に失われるのか?2004年ダブリン会議でのホーキングの講演はこうした問題を扱っていた。ホーキングは、アインシュタインとファインマンを足して2で割ったような人だという。アインシュタインの重力理論に、ファインマン流の経路和をつかった量子論を利用するからである。歴史的には、理論物理学者は相対論派と量子論派に分かれる。現代物理学の懸案は、重力理論と量子力学を統一して、量子重力理論を構築することである。そのアプローチに、どちらから迫るかという選択がある。「超ひも理論」の素粒子物理学者は、量子力学からアプローチしたものである。ホーキングは重力理論からアプローチする。そして、異常なほど宇宙の始まりについて固執する。まるで旧約聖書に反論するかのように。

1. 相対性理論
相対性理論では、時空という概念がある。単に時間と空間を一緒にしたものではなく物理的に混ざったりする。また、数式だけでは理解し辛いので、ビジュアル的に捉えられるように時空図が考案されている。時空図は、三次元で表現され、縦軸の時間に対して、二次元平面の空間を表す。本書も、この時空図を使って説明してくれる。また、幾何学単位系を用いてできるだけ省略する。(光速cを1とし、ニュートンの重力定数Gを1とし、プランク定数hも1とする)本書は、アインシュタインは物理学を幾何学としてとらえたが、その精神からするとあらゆる物理量の単位をなくして、純粋な数字であつかう方が自然なのだろうと語る。ちなみに、特殊相対性理論は、特殊な座標変換に対して物理量は不変であると主張する。対して、一般相対性理論は、光速を固定する。どんな変換系であろうと、どんな空間であろうと光速が変化しないということは、時間と空間の方が伸び縮みするということである。アインシュタイン理論では、空間の曲率は物質の質量に比例するので、平らなユークリッド空間からズレが生じる。つまり、空間が曲がっているということは、物質が存在するということと同義である。

2. 特異点を追求した科学者たち
(a) カール・シュヴァルツシルト
シュヴァルツシルトはブラックホールの半径を計算した。彼は重力場を記述する特殊解を見つけ、ブラックホールの存在を示唆した。これは「シュヴァルツシルト半径」や「事象の地平線」と呼ばれ、時間が消えて空間が無限大になる境界線である。通常の星では、シュヴァルツシルト半径は星の半径よりも十分小さいので、星の内部に隠れる。
(b) スブラマニアン・チャンドラセカール
重い星は自らの重力によって収縮し潰れるはずである。しかし、量子論では星が潰れるのを防ぐ面白い法則がある。それが「パウリの排他律」である。同じ状態にある電子どうしをくっつけることはできないということがわかっているらしい。つまり、重い星がある程度まで収縮すると電子どうしが接近して反発するようになる。パウリの排他律とは、電子どうしが互いに排他的になるという意味である。しかし、チャンドラセカールは、太陽の1.4倍より重い星の場合、パウリの排他律による反発力でも支えきれずに星が潰れてしまうことに気づいた。星が収縮し続けると、いずれシュヴァルツシルト半径という魔の領域に到達するかもしれない。すると、時間が消えて空間が無限大になるような時空の境界線が、星の外部にはみ出してしまう。
(c) ハートランド・スナイダー
光は音波と同じように遠ざかると周期が間延びするので、星が収縮している間は光波も間延びする。しかし、ある程度収縮すると光波も安定する。ブラックホールが「凍りついた星」と呼ばれる所以である。ところが、星の表面で観測すると別の光景が待っている。観測者にしてみれば、シュヴァルツシルト半径を超えたとしても、それを感じる徴候は何もない。そこでは、重力もさほど強くなく、空間に亀裂が入るわけでもない。観測者の時計が止まることもない。しかし、一旦シュヴァルツシルト半径の内側に入ったら、そこから脱出することはできない。観測者は、どんどん中心に向かって落下しつづけることに気づくだろう。やがて、観測者は左右から押し付けられ、上下に引き伸ばされる力「潮汐力」を感じる。そして、身体もバラバラになり分子レベルまで分解され点にまで潰される。スナイダーは、シュヴァルツシルト半径が後戻りできない線であることと、遠方からは凍りつく場所であることを示した。シュヴァルツシルト半径では、光でさえ脱出できない。
(d) ロジャー・ペンローズ
魔の境界線は消え去っても、ブラックホールの芯が残る。この芯こそが特異点である。特異点といっても、大きさがゼロの点で、物理量が定義できるわけではない。物理学者はこの特異点に悩まされる。分母にはゼロを与えられない。ここで本書は、地球儀を使って、おもしろい特異点の話をしてくれる。地球儀は、どこの都市でも緯度と経度という座標系で場所を特定できる。しかし、北極と南極は特定できない。緯度が90度でも経線が集中する。これも、緯度線と経度線という座標系に潜む特異点である。では、シュヴァルツシルト半径の数学的特異点とは、座標系がまずいのであって、適した座標系に変換すれば除去できるのだろうか?どんな座標系でも除去できない本物の特異点がある。それは、温度や圧力、空間の曲がり具合といった物理量自体が無限大になる点である。ペンローズが証明したのが、まさしくこの本物の特異点の存在である。ブラックホールの芯では、そこで物理が終わってしまう。時間と空間の終わりである。
(e) ホーキング
ホーキングは、ブラックホールになる仮定を時間反転して、宇宙の始まりは特異点であり、ビッグバンから始まる宇宙論を証明した。ただし、ホーキングの特異点原理は、アインシュタインの重力理論が前提である。もし、アインシュタインの理論が間違っているとしたら、この証明は学術的意味を失う。ここで微妙なのが、宇宙の初期状態では、アインシュタインの重力理論は成り立たないと考えている物理学者が多いことである。
ホーキング曰く。「特異点定理は、必ずしも時間の始まりがあったということではなく、アインシュタインの重力理論だけでは、宇宙の始まりは扱えないことを意味している。」

3. ホーキング放射
ホーキングの計算によると、シュヴァルツシルト半径はブラックホールの質量に比例するという。そして、ブラックホールの面積は質量の二乗に比例し、ブラックホールの温度は質量に反比例する。つまり、熱いブラックホールは軽く、冷たいブラックホールは重いことになる。ホーキングは、ブラックホールが周囲に熱を放出する割合を求めた。これが「ホーキング放射」である。通常、星が崩壊してできたブラックホールは、最低でも太陽の質量の1.4倍が必要で非常に冷たい。通常のブラックホールは周囲の宇宙の温度よりも圧倒的に低い。だから、周囲から吸収する熱の方が、放射する熱よりも大きい。だが、宇宙が膨張しつづけると宇宙の温度はどんどん下がり、いずれブラックホールの温度は宇宙の温度よりも高くなるだろう。その時点から、熱の流れが逆転し、ブラックホールは熱とエネルギーを放出し始める。周囲からエネルギーを失うにつれて、ブラックホールは軽くなり熱くなる。そして、ほとんど絶対零度に近い宇宙空間でブラックホールだけがどんどん熱くなる。やがて、エネルギーを放出し続けると、しまいには質量はゼロになって蒸発してしまうという筋書きだ。だが疑問は残る。光さえ脱出できないのに、なぜ放射できるのだろうか?その答えは量子論の不確定性原理にあるという。いよいよ、やっかいな「ハイゼンベルクの不確定性原理」が登場する。ホーキング放射のメカニズムでは、まず、シュヴァルツシルト半径の近辺で粒子と反粒子が生成され、そのどちらかがブラックホール内に落ち込み、残された方が遠方へ逃げていくという。この粒子と反粒子は、ともに量子であり互いに反対の電荷をもち、短時間だけ存在してやがて衝突して消えるもので、仮想粒子と呼ばれる。本来、真空には何も存在しないが、エネルギーと時間の不確定性により、極めて短時間でエネルギーが「ゆらぐ」ことが可能だという。真空ではエルギーがゼロだから、粒子が一つ生成されるのであれば、エネルギー保存則が成り立たない。そこで、ペアでならプラスとマイナスで「ゆらぐ」ことが可能というわけだ。シュヴァルツシルト半径の外では、粒子と反粒子はすぐに衝突して消えてしまう。しかし、境界線では、都合よく内側に生成された方が特異点に向かって落ちていき、残った方は自ら消えることができないので外へ逃げていく。こうして、ブラックホールから粒子が放射されるように見え、ホーキング放射として観測されるという。ただ、放射される側は、プラスのエネルギーと決まっていて、特異点へ落ちるのは必ずマイナス側というのも奇妙な話である。
そのことについてホーキングはこう語っているという。
「ブラックホールの内部の重力場は極めて強いので、その中では実存粒子でさえも負のエネルギーをもつことができる。」

4. ファインマン流の経路和
物体の移動では、経路の足し算をすることはない。移動の経路は一つだからである。しかし、電子や原子のようなミクロな世界では、あらゆる可能な経路の足し算をして確率を求める。それも、複雑過ぎて確率論に持ち込まないと議論できないからである。学校教育では、光子の入射角と反射角は等しいと習うが、実際は光子の経路は無数にある。足すといっても、方向があるからベクトル演算である。光子の場合は方向を考慮すれば良いが、それ以外の量子となると複雑である。電子は運動エネルギーの他に位置エネルギーも考慮しなければならない。ここでも、位置と運動量の二つの情報は不確定性に支配されるという。量子論の世界では、光は直進するという古い考えを捨てなければならないようだ。ファインマン流に言えば、次のようになるという。
「不確定性原理はもはや原理ではない。それは経路和という原理によって導かれる一つの結果に過ぎない。」
経路和は量子の波動性を示す。もともと粒子と波動の違いは、重ね合わせることができるかどうかである。つまり、干渉効果があるかどうかである。ベクトルが同じ方向を向いていれば強調し、互いに逆方向を向いていれば打ち消しあうのも、波動の性質と言える。ファインマンの矢印である確率振幅は、波動関数と呼ばれることも多いという。但し、量子は粒子性もある。その挙動は確率的な推測しかできず不確定性に支配される。これが量子の本質のようだ。

5. 無境界仮説
古典的には粒子は壁を通り抜けることができないが、量子的には壁を通り抜ける可能性がある。これがトンネル効果である。この通り抜ける確率を表したのが波動関数である。ホーキングは、経路和を使って宇宙の波動関数を計算してみせたという。ところで宇宙に経路なんてあるのか?とりあえず、宇宙の始点をビッグバンとし、終点はビッグクランチとする。その間には、曲率がプラスだったりマイナスだったりと、様々な形をした宇宙がある。宇宙の違う経路とは、アインシュタインの重力理論による空間の曲がり具合ということである。また、空間に存在するあらゆる物質の分布状態も考慮する。そして、ビッグバンから始まったあらゆる空間の曲がり具合と、無数の物質の分布状態を足し算することによって波動関数を求めるという。無数といっても、現実には多数で近似する。その近似方法に、宇宙は「均一」で「等方」であると仮定する。だが、こんな計算が本当にできるのか?学術的に意味があるのか?天才が考えることは神がかりである。更に、ホーキングは特異点すら除去しようと、恐るべき提案をする。
「宇宙の波動関数の境界条件は、境界がないことである」
そもそも境界条件を与えないで、波動関数が得られるのか?どうせ量子重力理論は完成していないので、量子効果によって特異点が消滅するなんて証明できないから、なんでもありなのか?ビッグバンの最初の特異点は尖った点であるが、これを丸く均すことを考える。これは、数学のトリックを使って、時間を虚数にすることで実現できるという。実時間では空間と時間が区別できるが、虚時間では空間と時間の区別ができない。これが、本書では時空図で説明され、なんと!特異点が丸くなっちゃった。言いかえると、密度も温度も無限大という「時間の始まり」は存在しない。では、ファインマンの経路和を宇宙に当てはめる時、なぜ実時間ではNGで、虚時間ならOKなのだろうか?本書は虚数の指数関数を用いて説明する。通常の指数関数はプラス方向に急激に増大する。しかし、虚数の指数関数は波の性質がある。具体的には三角関数でオイラーの公式に従う。実数を虚数にするだけで、急激に増大するものが、くるぐると回る永遠のループになる。ところで、虚時間という概念に何の意味があるのか?ここで重要なのがホーキングの実証論者という哲学的立場である。

6. 超ひも理論
ブラックホールはあらゆる物質やエネルギーや情報を呑みこんでしまう。そして、やがてホーキング放射によって蒸発して消滅する。その際、落ち込んだ情報はどうなるのだろうか?相対論派は、ブラックホールに落ち込んだ情報は回収不能で、蒸発する時に一緒に消滅すると主張する。量子論派は、蒸発する時に元の情報を回収できると考える。この論争の解決策は「超ひも理論」にあるという。超ひも理論では、宇宙のあらゆる物質は、素粒子よりも小さい「ひも」からできていると主張する。そして、「ひも」の様々な振動状態が素粒子に見えるという。「ひも」は、ひも状になったエネルギーという意味のようだ。「ひも」はあまりにも小さいので、数学的にはブラックホールと同等に扱うらしい。そして、物質のエネルギーや情報がブラックホールに落ちこむ際、その全情報は「事象の地平線」にコピーされて残るというのだ。ブラックホールが持っている情報は、その表面積に比例するのである。ただ、ホーキングは情報が消えるという結論に飛びついてしまったという。本書は、ホーキングもアインシュタインと同じく重力理論の影響を強く受け、量子論を受け入れられなかったようだと語る。

2008-08-24

"宇宙を測る" Kitty Ferguson 著

今日は、ブルーバックスを買うと固く決意して本屋へ向かった。最近ブルーバックスをあまり読んでいない。というのも、新刊がいまいち肌に合わない。そろそろ、ブルーバックス教から脱退する頃合なのだろうか?ちなみに、岩波文庫教は衰えを知らない。岩波文庫はウィスキーのように年代物にこそ味わいがある。
立ち読みしながら物色していると、二日酔いで頭が重い。昨晩、はしごをしたようだ。ついでに、「宇宙の距離はしご」も悪くない。店間距離を測るには夜の社交場をはしごする。それは、千鳥足というゆらぎに支配され、予測不能な行動パターンが生じる。宇宙の点間距離を測るのも、量子論のゆらぎに支配され、予測不能な誤差が生じる。アル中ハイマーには、宇宙も夜の社交場も同じ磁場に見える。

本書は、プトレマイオスからホーキングまで、宇宙の果てに挑んだ天才たちの歴史を振り返る。それは、宇宙の距離を測ろうとした歴史であり、測定誤差との戦いでもある。科学が発展すればするほど、課題も増え登場人物も増えていく。そして、研究や実験が個人であったものが、グループによって成し遂げられるようになる。これは、解明する速度よりも、複雑化する速度の方が速いことを示しているのだろうか?コンピュータの構造も、社会システムも、ますます複雑化し、人口も爆発的に増加する。これは全て自然法則で、エントロピー増大の法則へと向かっているのだろうか?
おもしろいことに科学の発展は、人間中心の宇宙から人間の地位をどんどん引き摺り降ろしていく。だが、いつの時代でも宗教は、それに待ったをかけようとする。宗教は、実は神を崇めようとしているのではなく、人間を崇めようとしているのか?一方で、哲学的な精神はそれほど変わらない。現在においても、プラトン哲学が継承されているところがある。それは、どんな複雑な現象も、背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じてきた科学者の執念である。

本書は少々古いので、ホーキングが登場するあたりまでである。それでも、学生時代が思い出されて楽しい。ちなみに、おいらは自らの能力を顧みず、宇宙物理学に夢を見ていた時代がある。
本書には登場しないが、新しい宇宙観では、超ひも理論の登場で、素粒子物理学者によってサイクリック宇宙論を支持する人も多い。宇宙の膨張は、宇宙項と物質の密度との関係によって論じられる。宇宙項とは、真空がどの程度のエネルギーを持つかを表す定数である。宇宙項が大きいほど、エネルギーのタダ食いの効果が大きく、宇宙は速く膨張する。宇宙は永遠に膨張するか、やがて停止し定常宇宙となるか、いや、収縮に転じるかもしれない。インフレーション理論では、宇宙のエントロピーは、ただの一回の指数膨張と、それに次いで起こる再加熱によって作り出されると主張する。一方、サイクリック宇宙論では、ビッグバンとビッグクランチを繰り返しながら、徐々にエントロピーを蓄えてきたと考える。そこから計算されるのが、30回から50回の繰り返しで、その途上に人類は住んでいると主張する。つまり、インフレーションという特殊な時期を考慮する必要がない。宇宙は、ビッグバンとビッグクランチを繰り返していくうちに、だんだん巨大化しているのか?ビッグバンとビッグクランチの境界は、実時間によって受け継がれているのか?ただ、一晩に同じ店へ何度も繰り返して立ち寄る現象は、虚時間を持ち出さないと説明がつかない。

宇宙論には、こんな名言がある。
ホーキング曰く。
「もしも宇宙が永遠の過去から存在するならば、あらゆるものの温度は等しいはずである。」
オルバースのパラドックス。
「空は無限に明るくはない。ゆえに目に見える宇宙は無限ではない。」

1. 視差と光
カッシーニは、火星が地球に最も接近する絶好の機会に、視差法によって距離を測った。そして、ケプラーの法則によって、惑星との距離が算出される。
光の明るさは、光源からの距離の二乗に反比例して減衰する。元々の星の明るさが同じだと仮定すれば、見かけの明るさを比較すれば距離はわかる。しかし、全部同じ明るさと仮定するのも無理がある。ニュートンによって分光学が登場し、星の明るさを分類できる手段を得る。ニュートンの重力の法則は、ケプラーの法則の背後に潜んでいた物理学を構築する。人類の知性の歴史における最も偉大な業績と評される著作「プリンキピア」は、光学、神学、錬金術、微積分など多岐にわたる。ニュートンは、プリズム実験で、すべての光線を一点に集めることはできないと知るや、レンズによる望遠鏡の性能には限界があることに気づく。そして、鏡を使った新型望遠鏡の開発に貢献した。
ハレー彗星の軌道計算で有名なエドモンド・ハレーは、水星の太陽面通過の時刻を計測した。彼は、惑星が太陽面通過の時刻を測定することが正確に測る機会と考え、他の手法はあまり信用していなかったという。ジェームズ・ブラッドレーは、年周視差を試みるが、困難を極めた。そして「光行差」を発見する。つまり、地球の移動方向にずれて見えるのである。また「章動」も発見する。つまり、地球は完全な球ではないので、ぐらつくのである。
ドップラー効果では、遠ざかる星は赤方偏移し、近づく星は青方偏移する。ドップラー効果の応用は、あまり遠くない星群に対しては有効な方法だという。見かけの移動量とドップラー効果を使えば、移動方向の角度が分かる。この方法で、最も近いおうし座にあるヒアデス星団までの距離がわかった。運動星団法である。幸運にもヒアデス星団には、いろんな種類の星が含まれているので、スペクトルによって絶対等級を計算できるようになった。分光視差法である。ドップラー偏移と視線方向の速度を求めた後、星団の平均速度を求めることができる。統計的視差法である。星はいろいろな方向に動くが、星団としては平均化されると仮定するのである。

2. セファイド変光星
ヘンリエッタ・スワン・レヴィットは、マゼラン星雲から整然とした変化を示す変光星があることに気づいた。極大光度へ急激に上昇した後、ゆっくり減光する。これがセファイド変光星である。そして、絶対等級が同じセファイドは、変動周期も同じになることを示した。これは、視差法では測れない遠い星を測定する足がかりとなる。星雲内にセファイドが見つかれば、その変動周期を測ることで、星雲までの距離が測れるようになる。ちなみに、北極星もセファイドである。今では、セファイドは主系列であることがわかっているらしい。主系列とは、水素からヘリウムへの核融合反応が定常的に起こっている状態で、いずれ赤色巨星に達し年老いて終わる星である。主系列を過ぎると、星の中心核は収縮し始める。すると温度が上がって、熱が外層へ流れ出し、一階電離ヘリウム原子を活性化させる。一階電離とは、原子から電子が一個失われている状態を言う。エネルギーが上昇すると、もう一つの電子がたたき出され、原子は二階電離となる。二階電離した原子は、すぐに光を吸収する。その結果、星の大気は不透明となり、熱を閉じ込め、ますます熱くなり膨張する。星の外層は膨れ100倍の大きさにもなる。星が膨張するとエネルギーは広範囲に広がり、外層は冷える。そして、ヘリウム原子が冷えて、二階電離から一階電離へと戻る。大気は再び透明となり収縮し始め、そのサイクルが繰り返される。これが、セファイドのメカニズムである。

3. ビッグバン説
ハッブルとミルトン・ヒューメイソンの共同観測によって、近傍の銀河は別として、他の銀河がどれも遠ざかっていて、互いに離れていくことを発見した。宇宙膨張説の始まりでる。一般相対性理論から、宇宙は膨張するか収縮するかのどちらかになるという結果が得られる。しかし、アインシュタインは宇宙膨張論を嫌っていた。そこで、宇宙定数という宇宙が静止状態になる項を導入した。これは、生涯の最大の失敗であると嘆くことになるが、宇宙定数の概念は、その後も残っている。アレクサンドル・フリードマンは、アインシュタインの理論を額面通り受け入れて、膨張宇宙の可能性を示唆する。ニュートンは、どちらもありえないと考えた。膨張や収縮をするならば、運動の中心というものがなければならない。宇宙が無限の空間で、物質が一様に分布しているとしたら中心はない。しかし、膨張宇宙となると、宇宙誕生がなければならない。ジョルジュ・ルメートルは、宇宙は原始アトムの爆発から始まったと主張した。ビッグバン説である。この説にクエーサーの発見が後押しする。クエーサーのスペクトルは大きな赤方偏移を持ち、遠方で高速に遠ざかるように見える。かなり老齢なものと考えらているが、依然として謎である。ビッグバン説が正しいとすると、宇宙の果てまでの距離を測れば、宇宙の寿命がわかる。

4. インフレーション理論
ビッグバン説における気がかりは、地平線問題と平坦性問題である。地平線問題は、情報が光速より速く伝わらないという前提からくるもので、宇宙背景放射の等方性は問題となる。離れた領域でも放射強度が等しいのである。平坦性問題は、宇宙がすぐさまビッグクランチに陥って崩壊することもなく、また、暴走的に膨張しあっという間に年老いてしまわないのはなぜかという問題である。宇宙の幾何学、曲率は、宇宙の全エネルギー密度によって決まるが、観測される宇宙が極めて平坦であることへの説明がつかない。アラン・グースは、ごく短時間で膨張する宇宙の初期モデルを提唱し、ビッグバン説を補完した。これがインフレーション理論である。これは、ホーキングとペンローズの特異点への挑戦へと導く。いよいよ無境界宇宙へと展開を見せそうだ。量子力学の世界では、素粒子は自発的に生成消滅すると言うから二日酔いには解読できない。ホーキング曰く。「量子論的揺らぎで、何でもできてしまう。」量子論はなんでもありの世界なのか?これは、向い酒をせずにはいられない。なんとなく、昔読んだホーキングの本を読み返したくなってきた。