2011-06-26

"人口論" Thomas Robert Malthus 著

人口の推移には、古くから非線形の問題がある。そこで、実践的な方法として、政治算術という統計学的手法がある。最初の科学的分析は、ジョン・グラント著「死亡表にもとづいた自然的政治的観察」(1662年)あたりであろうか。これは、ロンドン市で死者数を集計することによって、ベストの流行を予測しようとしたものである。彼は、死亡だけでなく出生についても研究し、人口増加は64年ごとに倍増すると結論付けた。実際には、非線形的でもっと抑えられ、環境の変化で人口増加率も変動する。
一方、T.R.マルサスは、人口増加率は人口自体に依存すると主張した。そして、人口は幾何級数的に増加するが、食糧生産は算術級数的つまりは一定の公差しか増加しないとした。すなわち、人口増加がいずれ食料増加を上回り、深刻な食料危機が訪れるとしたのである。マルサスは、貧困の原因を人口問題と絡めた。しかし、多くの経済学の書はマルサスをいまや過去の遺物として扱う。それは、爆発的な人口増加が引き起こした産業革命を経て、技術革新によって莫大な人口を養うことができたからであろう。ただ、経済学が、伝統的に失業問題を疎かにしてきた根源がこのあたりにあるように思えてならない。
地球空間に限りがある以上、人間社会はどこまでの人口増加を許容できるのか?このまま人口増加を続ければ、あらゆる土地は農地とされ、人々は高層ビルに押し込められるだろう。土地の有効活用においても、農地もまた地下深く潜り、あるいは高層化するだろう。あるいは富裕都市は浮遊都市となるのか?
いずれにせよ、いつかは限界に達し、食糧危機、資源不足、エネルギー不足に喘ぐだろう。そして、人間社会は秩序を失い、原始時代へと回帰するのか?その魔のサイクルから逃れるには、技術革新によって宇宙へ飛び出すしかあるまい。かつて先進国が海を渡って植民地を追い求めたように。人類はいまだ消費を煽るだけの経済政策しか見いだせず、持続可能な経済システムを作り出せないでいる。やはり永久機関の実現は不可能なのか?

経済学の系譜を遡れば、マルサスはアダム・スミスを受け継ぐ過渡期に位置づけられる。このあたりの古典派時代は、宗教改革の余韻が残り、倹約を善とし浪費を悪とする思考が強いようだ。倹約といっても、私欲のために財貨を貯めるという意味ではなく、経済循環に貢献するような効率的に金を使うということである。自由放任的な思想も、啓蒙思想に対する反発という形で現れ、極端に自由を崇めるような感覚ではないようだ。
同時代を生きた経済学者では、デヴィッド・リカードと対立的に論じられるのを見かける。実際、二人は対立していたそうな。そして、リカードの方が重要人物として扱われるようだ。確かに、リカードの「比較優位説」を知った時は目から鱗が落ちる思いであった。だが、「人口論」も称賛に値するだろう。それは、現在の社会問題を語っており、その先見性に感服せざるを得ないからだ。「人口論」という題目からしても社会学に属すと言った方がいい。その内容も資本理論や経済循環について語っているわけではなく、経済学に社会学的観点を与えたとも言える。マルサスには、資本理論に没頭した経済学者には見えないものが見えていたようだ。

人類史において、自主的に人口抑制をかけた例はあまりない。戦争や大量殺戮や流血革命、あるいは疫病や気候変動といった人間の不徳と運命的な不幸によって抑制がかけられてきた。現在では、アフリカなどの途上国で人口抑制政策がとられているが、これも国家による強制である。政治的な抑制は奇妙な思惑が絡むので好ましいとは思えないが、こうした風潮は広まるかもしれない。先進国で高齢化社会を迎えて人口安定期に向かう一方で、なおも発展途上国の飢餓が共存する。ただ、富の増加が必ずしも生活環境を良くするわけではない。家族が扶養できないとなれば、結婚をためらうか、子供をつくることをためらうだろう。老後の面倒をみさせるために子孫を残す者もいるだろうが、そんな思惑はだいたい外れるものだ。そして、自主的な傾向として晩婚化や非婚化といった現象が生じる。資本が雇用しうる人口に比して過剰となれば、経済も圧迫される。「人口論」の原理は、まさしくこうしたところにある。
人口が増加するということは、無理やりにでも仕事を創出しなければならない。犯罪の存在は、それを監視する仕事を創出する。ネット社会でウィルスが蔓延すれば、セキュリティ業界が繁盛する。戦争の根絶は、その代替として周期的な飢餓をもたらすだろう。そして、善悪が共存する中で、弱肉強食によって経済循環をもたらす物騒な社会となる。未来社会では、経済刺激策として、影で犯罪やテロや戦争を仕組むことになるかもしれない。いや、既に過去にもあったかぁ...

1. ゴドウィンとコンドルセの批判
本書の特徴は、ゴドウィンとコンドルセの批判書にもなっている。というより、その性格の方が色濃い。名指しせずに皮肉っぽくするとか、もう少し抽象的に綴れないものか。わざわざワイドショーに付き合うこともなかろうに、ちと惜しい気がする。まぁ、読んでる分にはおもろいけど...マルサスは、啓蒙的理性で徹底的に論駁されたようだ。啓蒙思想の全盛時代、よほど感情的風潮に嫌気がさしていたのだろう。後に、カントが三大批判書で攻撃する分野でもある。
科学界ではニュートンの影響力が強く、あらゆる宇宙現象はいずれ科学が解明するだろうと言われた。その意識は現在でも受け継がれるが、科学の進歩は永遠で、ムーアの法則が永遠に続くと考えられた。これを精神面で拡大解釈すると、人間の認識能力は永遠に高められ、いずれ神に登りつめるだろうとなる。身体は次々と病原菌を凌駕しながら寿命を延ばし、ついには人間は完全な理性と身体を獲得して社会は完成するだろうと考える。経済学的に言えば、自由放任思想によって、いずれ経済システムは自然法則によって完成するというわけだ。ゴドウィンとコンドルセの思想の根源には、「人間の完成可能性」なるものがあるという。そして、嫉妬、悪意、復讐という類いの精神は、すべて制度の産物としているそうな。いささか乱暴な議論である。
対して、マルサスは、あまりに完全で理想的な模範は、改善を促進するよりもむしろ阻害するという立場をとる。そして、社会の必要労働を全員に仲良く配分することは不可能としている。
ここでは、人口増加による人間社会の枯渇が、収穫逓減の法則を語っているようにも思えてくる。そして、その先にケインズ的思考が見えてくる。実際、ケインズはマルサスがセイの法則を否定したことを高く評価したという。資本主義は、資本の循環による自然増殖システムとして成り立ってきた。いや、自転車操業システムと言った方がいいか。その循環システムの中で、人間精神は本当に進化しているのか?人類は、神に近づこうとしているのではなく、悪魔になろうとしてはいないか?そもそも、人間という有機的な構造体に無限論が適応できるのか?本書はこうした疑問を投げかけているような気がする。

2. 二つの公準
本書は、二つの公準から組み立てられる。一つは、人間の生存には食料が欠かせないこと。二つは、男女間の情念は自然であり必然であるということ。この二つは人間が生きる上で不変であるとしている。ここでは情念と表現されるが、情欲と言った方がいいかもしれない。情欲と理性ではどちらの方が強いかと問えば、そりゃ情欲だろう。人間社会で最も理性が高いとされ、しかも、それを自負する政治屋たちですら脂ぎった欲望を公然とみなぎらすのだから。一方で貧乏だからといって、性的欲求が減るわけでもない。貧乏子沢山と言われるが、昔は子供も労働力の一員であったから、それなりに合理性はある。避妊対策も貧乏ほど難しい。人間は、世界を愛し、人間を愛し、子供を愛し、...と、あらゆる愛を美徳とする。そういえば、バリバリの実業家は不倫する確率が高いという話を聞いたことがある。創造欲と性欲の根源は同じということか。避妊技術が進化すれば、情念が衰えなくても望まない出産は減るだろうけど。
人間の情念は、人口増加の方向にバイアスをかけるだろう。生物学的には、過去に存在した動物や種族が、性欲を減退させて自然消滅した例がある。生活環境が劣悪となれば、人類もそうなるのかもしれない。寿命が短く流産や夭逝も珍しくない時代に早婚が奨励されたことは、それなりに合理性がある。寿命が延びれば結婚年齢が上昇するのも、それなりに合理性がある。ゴドウィンは、男女間の情念はいずれ理性的に消滅すると主張したという。本書は、二つの公準から次の帰結を導いている。
「人口の力は、人間のための生活資料を生産する地球の力よりも、かぎりなく大きい。人口は、制限されなければ、等比数列的に増大する。生活資料は、等差数列的にしか増大しない。」
生存手段が豊かになれば人口は増加傾向を示し、その結果、人間社会に不均衡が生じ、なんらかの抑制する作用が働くという。その作用とは、紛争や伝染病といった人間の不徳と不幸である。そして、そう遠くない将来、人口を生活資料の水準に等しく抑制する必要に迫られるとしている。

3. 農業と工業の優劣
農業と工業はどちらも商品を生産する産業である。だが、人間が生きる上では喰うことが最優先なので、農業の方が優位であっても良さそうな気がする。
しかし、工業の方がはるかに付加価値が高く、軍備に直結するので、手っ取り早く国力を増大させる。そして、先進国は工業化を推し進め、農作物を輸入に頼る傾向がある。工業化は、工業労働者の所得を上昇させ、農業労働者の所得を虐げてきた。ただ、この時代では、特にフランスのエコノミストたちから、生活必需品を生産する農業は生産的労働とされ、工業は不生産的労働とされ、工業労働者を見下した感覚が残っているようだ。当時の工業市場が不安定なのに対して農業市場が比較的安定していたこともある。第一次産業と第二次産業で分類されるのも、その余韻であろうか?「不健康な製造工業」と表現するあたりは、マルサスの資本者階級への嫌悪感が表れている。
食糧不足はそのまま社会問題となるので、伝統的に政府が使命感を持って農業に介入してきた。それだけに、その性格も保守的になりがちで、現在では余計な政治介入が癒着と化す。地球の未来像を想像すれば、農業優位に回帰し、保守と革新という性格も入れ替わるかもしれない。

4. 救貧法批判
いつの時代も、新興市場は保守派から批判的な目で見られがちだ。産業革命期では、工業の勢いが資本者階級を勢いづけ、労働者をますます隷属的にし、階級間の対立を激化させた。社会不安が蔓延すると、金儲けや金持ちは悪徳とされ、平等を崇める社会主義的な活気が沸き立つものである。そして、生活補助などの社会保障制度の整備が叫ばれる。ちょうどこの頃、フランス革命の気運がイギリスにも伝播したという。
本書は、イングランド救貧法が穀物価格の高騰と貧困を助長する元凶だと指摘している。特に教区法を廃止すべきだと訴えている。この法律は、部分的な成功はあっても独立精神を損なう傾向が強く、自由と平等の真の原理を破壊したという。教区の食糧を期待して結婚したり、自分の子供に不幸を与えながら他人に依存するような風潮が現れたそうな。
また、経済循環を弱めることなく極端な層を一定程度に減少させることは、不可能かもしれないとも言っている。餓死寸前の困窮の存在は、人口過剰の警告として作用するとしている。
「われわれは社会から富と貧困とを排除することをおそらく期待しえないけれども、それでも極端な層の数を減少させ、中間層の数を増大させる統治様式を見いだすことができれば、それを採用するのは、うたがいもなくわれわれの義務であろう。」
生活保護のような政策が、ある程度貧困層の救済に役立つのは間違いないだろう。だが、自立精神を促すものでなければ、再起する意志までも砕かれる。ここが補助金政策の難しいところで、下手をすると単なるバラマキ政策となり財政を圧迫するだけで終わる。また、貧困層の生活が多少なりと改善されれば、物価を高騰させるだろう。そうなると貧困層を拡大するという負のスパイラルに陥るかもしれない。貧乏が明日の活力を生み出すところもあるので、必ずしも悪とは言えない。自立を目指す貧乏ならば名誉であるが、他人にたかる貧乏は不名誉といったところであろうか...

2011-06-19

"サムエルソン 経済学(下)" P.A.Samuelson & W.D.Nordhaus 著

上巻の続き...

経済学は「おニュー」がお好き!
「新古典派」って新しいんだか?古いんだか?「新自由主義」ってどんな自由なんだか?「ニューケインジアン」なんて、ほんの少し改良されたぐらいにしか見えない。それを言い出したら、「ニュープラトン」や「ニューデカルト」など世間は騒がしくしょうがない。「ニューニュートン」なんて言い出したら、ろれつが回らない。大して新しくもないから、わざわざ強調するのか?合理性を強調するのも、そこに大した合理性がないからか?はたまた、他人の出資までも含めておきながら、「自己資本」とはこれいかに...縄張りを強調しているのか?経済学者は寂しがり屋なのだろう。そういえば、80年代頃に流行した「ニューハーフ」という言葉は今も使われるのだろうか?ちなみに、アル中ハイマーは「ニューボトル」に弱い!

時代背景に照らせば、過去の経済学者たちの考えはそれなりに納得できる。
重商主義は、封建的束縛から民衆が解放されつつある時代に、主観の強すぎる価値観に若干の客観的視点を与えた。そして市場メカニズムが、君主の影響や世襲制の強い管理経済の下で、正当な価値をもたらすと考えた。投機行動は、対象となる商品や企業に特別な思い入れがあるわけではなく、その価値が増加することにのみ関心を抱く。投機が機能すれば、企業や政府の思惑を排除した、より客観的な価値が得られるかもしれない。機能すればだけど...
新古典派は古典派を進化させて、経済成長の主な要因は資本と技術革新にあるとした。それは近代経済の根幹でもある。だが、資本投入や経済成長が永遠に続くと考えて、需要よりも供給が優先されるところに弱点がある。すべての発明が公平に満遍なく起こるわけではない。発明が資本や労働に対して有利に働くこともあれば、労働機会を圧迫することもある。当時の識者たちは資本主義を実質賃金の変動で判断した。これは、現在でも残っている傾向であり、実質利子率とインフレ率との関係ばかりを凝視する風潮がある。
その一方で、市場が暴走する様子を見せつけられれば、そこに不完全性があると考えるのも自然であろう。ケインズ理論は、「恐慌」の処方箋としての政府介入の必要性を唱えた。だが、ピラミッドでもなんでも造ってしまえという政府支出は、一部の業界と癒着して無駄な公共投資を助長する。
結局、経済問題は、複合的な方策で臨機応変に対応するしかないのだろう。経済学には、そのために偉人たちの残した多くの遺産がある...はずだが...

E.B.ホワイト曰く、「民主主義とは、人々の半分以上が二度に一度以上は正しいという点に、繰り返し気付くことである。」
この言葉は、多数決の限界と民主主義の不完全性を唱えている。民主主義の欠点は、徐々に変化するしかない、変革しずらいシステムということである。経済状況は刻々と変化するために、多くの場合で刺激策を投じた時は手遅れとなる。即座に対応するには、流血革命しかないのか?
市場経済が曝け出す最大の問題は、恐慌であり、極端な貧困と不公平の創出であろう。市場経済が野獣と化すたびに政府は存在感を増す。だが、多くの先進国で政府介入の是非が議論されるのは、しばしば経済政策が失敗するからである。そして、レーガンやサッチャーのように小さな政府を唱える方向と、その後の反発が繰り返されてきた。ただ、こう度々政策転換されては、どの政策が成功して、どの政策が失敗したのかも分からなくなる。そして、ますます論争が激化し、人間社会は経済政策の実験場と化す。
ほとんどの経済分析や巷での討論は、インフレや失業、政府や日銀の政策転換、あるいは自動車産業や半導体産業の景気動向といった短期的な関心事に焦点をあてる。本書は、この手の関心事は長期的な経済成長の潮流の中のさざ波ほどでしかないと指摘している。政府の短期的な政策がうまくいったように見えても、しばしば長期的には悪影響を及ぼす。経済運営や安定社会で求めれるのは長期的視野であろう。だが、世論は目先の方策に注目し、しかも移り気が早い。

1. 経済史の流れ
経済学的な思考の始まりは、既にアリストテレスに見られる。初期の教義は、正当な価格が真の価値を教えるとした。その思想を継承したスコラ学派たちは、貸付金に対する利子を法外な高利として反対した。高利の禁止は、現在においても法律として残っている。
経済学という学問が現れたのは、17, 18世紀の重商主義のあたりであろうか。重要主義者たちは、当時台頭しつつあった民族国家の枠組みの中で、軍事力や経済力を支援した。特に、イギリスやフランスで金銀を信奉する連中が強力で、後にアメリカ革命の引き金となる。デイヴィッド・ヒュームは、重商主義の分析で、「金流動メカニズム論」を提起したという。重商主義は、商品価値を市場メカニズムに委ねるという若干の客観性を与えた。重商主義に強く反対したのが、重農主義で、農業だけが経済的余剰の源泉とした。人間が生きるためには食糧が最も重要であって、重農主義的な考えも分からなくはない。
その頃、経済学を最初に築いたのがアダム・スミスと言われる。善意から法律や規則によって経済を改善しようとしても、世襲的意識や地主の権限などで客観的な裁きはできない。そこでスミスは、むしろ利己心を自由放任のもとで飼い慣らす方が合理的だとし、「神の見えざる御手」に委ねる自然原理、すなわち完全競争市場こそが真理だとした。それも一理あろう。政治家の善意というものは公平性に欠けるのだから。君主制が優勢である時代に、政府の介入を否定したのだから、スミスが庶民的立場にあったとも言えそうだ。
次に、自由放任経済が失速しつつある時、収穫逓減の法則が発見された。その頃、マルサスやリカードが登場する。マルサスは賃金鉄則なるものを言いだし、人口増加が不可避的に労働賃金の水準を押し下げるとした。リカードの貢献は、経済的レントの性質の分析で、その説は今日でも生き残っているという。二人とも、産業革命で資本主義が絶好調にある時、収穫逓減の法則に賭けたようだが、こうした思想は社会主義者たちを喜ばせたことだろう。だが、産業革命をはじめとする技術革新が、収穫低減の法則を凌駕することになる。
続いて、経済学は、新古典派とケインズ派で分裂する。需要曲線を無視して、ひたすらセイの法則を信奉する古典派を継承したのが、新古典派である。だが意外にも本書は、新古典派経済学者たちが、自由放任の信奉者であったと速断してはならないと指摘している。一部はそうだが、大部分では資本主義の不平等性に批判的だったそうな。新古典派は、需要が限界効用に依存するという考えを加えて、市場メカニズムの理論を進化させたという。ワルラスは一般均衡分析の手法を創り上げた。シュンペーターは、一般均衡論を発見したワルラスこそ最も偉大な経済学者だと讃えたという。
その頃、世界大恐慌が発生して資本主義は信用を失い、マルクスの資本論が社会主義者たちを勢い付ける。そして、ケインズ革命が、市場メカニズムの不完全性に対して政府介入を唱え、経済循環におけるマクロ経済学が始まった。ただ、それで自由放任思想が消えたわけではない。自由市場における自由意思論者や、合理的期待形成論者が、それだという。

2. 人口論
T.R.マルサスの「人口論」は、前々から目を付けていたが、本書のお陰で余計に興味がわく。マルサスは、人口増加が経済を圧迫して、労働者を最低生存水準にまで落とすと考えた。その理論によると、賃金が生活水準を上回るたびに人口が増え、やがて生存水準以下の賃金となり、死亡率を高めて人口減少を招くとしている。つまり、賃金が生存水準に等しい時にだけ均衡が得られるというものである。
経済学では、マルサスの評価が意外にも低いようだが、それはなぜだろう?マルサスが産業革命による技術革新の奇跡を予見できなかったのは仕方があるまい。皮肉なことに、産業革命期に爆発的な人口増加が始まる。そして、技術革新が失業を上回る勢いで賃金を高騰させ、急激な経済成長を続けることになる。こうなると、マルサスの理論も廃れてしまう。しかし、現代社会になんらかの警鐘を鳴らしているような気がしてならない。
現在でも遺伝子改良などの農業技術が人口増加傾向を支えているが、エネルギー問題や環境問題が経済成長の足枷になっている。いずれ技術革新で克服されるかもしれないけど。となると、人類は永遠に発明と技術革新からは逃れられそうにない。人類はやがて居住地を地球外に求めるしかなくなるだろう。

3. 比較優位の理論
デヴィッド・リカードは、この理論を発見しただけでも賞賛に値するだろう。とても古典派だと蔑む気にはなれない。各国が共存して国際貿易が成り立つのも、この理論のお陰と言っていい。
絶対優位のメカニズムでは、得意とする分野に特化して生産を拡大すれば効率的な経済が実現できるとしている。しかし、あらゆる物品が対外優位性だけで成り立つとすれば、先進国の効率性がすべての利益を独占してしまうだろう。
対して比較優位のメカニズムでは、対外優位性のない国でも、国内における相対的に能率の良い分野で輸出し、相対的に能率の悪い分野で輸入すれば、国際貿易に充分に参入できるとしている。これは、国々が産業分野において、だいたい特化するようになっていることを説明している。
本書は、そのメカニズムを弁護士と秘書の関係で説明している。ある町で一番有能な女弁護士は、同時にその町一番のタイピストでもある。ここで、なんで性別が関係あるのか知らん?さて、彼女はタイピストとしての秘書を雇って分業すべきか?雇わずに自らタイプの仕事もやった方が効率が良いか?その答えは、秘書を雇うべし!女弁護士の報酬は秘書の給料よりもはるかに高いので、法律に専念した方がより多くの報酬を得ることができるというわけだ。それは、絶対的な関係ではなく相対的な関係からの能率性で結論付けている。
なるほど、この理論で、先進国の慢性的な財政赤字も比較優位性で説明できるかもしれない。まず、発展途上国は、海外投資を受け入れ経済成長を拡大するために債務国となるだろう。やがて、経済が成熟してくると、過去の借金に対して配当や利子が増え、生産も限界に近づく。そして、途上国への投資も必要となり、貸し借りが均衡化し、やがて債権国となるだろう。更に、債権国として成熟すると、対外投資が貿易赤字と均衡し、収支赤字が慢性的になる。したがって、慢性的な財政赤字は先進国の宿命であろうか。逆に言えば、金融投資能力が強力とも言えるのだが。
比較優位の理論は、経済学の相対性理論的な存在なのかもしれない。

4. 保護主義と自由貿易
比較優位の理論は、国々がどのように特化し、いかに国際分業から利益を得るかを教えてくれる。にもかかわらず、政府は保護政策をとり続けるのはなぜか?関税や数量割り当ての形で輸入障壁をつくるのは、絶対優位性を信じているからであろうか?アメリカの自動車産業の衰退が、日本での雇用を生みアメリカに大量失業をもたらした現象を眺めるだけでも、絶対優位性を信じるのに充分ではある。だが、為替変動などのリスクを抑えたり、生産効率を高めるために現地生産という方法を用いれば、現地の雇用問題は結果的に解決するだろう。そもそも現地の人々に収入がなければ商品の購入もできない。また、価格競争において、優劣を極端にしてしまうような関税政策が、経済循環にとって良いはずがない。現実に、政府の奇妙な補助金政策が国内産業を衰退させる。業界が官僚的体質に陥っては経済活動を硬直させるだろう。偏重した政策による国内生産の煽りは経済のどこかに歪みが生じる。
その一方で、保護主義的な政策は、経済人にとっては一般的に否定的であろう。それも一理ある。より公平で効率的な流通機構を持っている国は、その流通システム自体を輸出し、海外の消費者に還元するだろう。ただ、自由貿易の行き過ぎが、独占や寡占を生みだすのも事実である。
極端な自由化は競争の原理を暴走させ、極端な平等化は自国産業を衰退させる。現実に、選挙活動が利益供与を求める政治団体と化し、政治家は平等を掲げながら利益供与政策を公然と実施する。報復のための関税や、対輸入救済策などと叫びながら...

5. 為替レートと国際金融制度
国際金融の歴史は、破綻と再建を繰り返してきた。市場を為替レートが支配する一方で、金融制度で暴走を防止してきた。だが、現在では金融制度がそれほど効果を上げていないように映る。金融制度は民主主義と同じくらい不完全なのかもしれないが、人類はそれに勝る方策をいまだ発見できないでいる。外国為替市場が為替レートを決定する要因は、基本的には貨幣に対する需要と供給の関係にある。貨幣の信用は、貨幣発行者である国の信用でもあって、その国が経済危機となれば暴落するだろう。
かつて為替は金本位制で運営されたが、やがて変動為替相場で運営されるようになる。為替は、生産、インフレ、外国貿易など国家間の主要な項目にかかわってくるので、不完全な市場に委ねるにはあまりにも無神経であろう。そこで、管理された変動為替相場というのが現実的となる。
国際金融制度は、第二次大戦後に急速に進化した。それは、世界恐慌と大戦によって国際経済が破壊された経験とも言えよう。具体的には、GATTとブレトン・ウッズ体制ということになろうか。ブレトン・ウッズ体制が、IMFや世界銀行、あるいは為替率体制を確立する。IMFは、国際的貨幣制度の管理をし、世界銀行は国際的借款のための資本を蓄える。よく耳にするのが、IMFは世界経済の安定を使命とし、世界銀行は貧困層の撲滅を使命とする...ということであるが、ほんまかいな???
第二次大戦後の30年間は、事実上アメリカドルが基軸通貨の役割を果たす。ブレトン・ウッズ体制では金がドルと同等の地位にあったが、1971年にニクソンが公式にドルと金のリンクを切り離してブレトン・ウッズ体制は終焉する。現在は完全に為替率が国際機関によって管理されているわけではない。ほとんどの国で屈伸的な相場を保ちつつ、なんらかの政府管理を共存させている。実際は、世界世論によって国内政策に影響を与えるので、準グローバル化といったところだろうか。アメリカ経済が健在な時代はドルが基軸通貨の役割を果たしてきたが、現在では移り気が多いようだ。だが、経済ニュースを眺めていると、いまだに円高や円安は対ドル相場が強調される。本当に経済情勢に興味のある人は、ユーロやポンドなど、多くの相場を眺めているのだろうけど。
ところで、ギリシャ危機は同じ通貨で統一することの危険性を警告しているように思える。つまり、為替変動が経済リスクを吸収する役割もあるということだ。一国の経済が破綻したとしても、独自貨幣が存在していれば、貨幣の相場が暴落するだけで国外への影響を最小限に抑えられる。イギリスがいまだにポンドを保持している理由は、ユーロ圏への信用格差の問題であろうか?国債がGDP比に対して膨大になろうとも、それを引き受けているのが国内で閉じていれば、国際社会から締め出されるだけで国際的リスクは回避できるだろう。となれば、社会的、経済的リスクを分散する意味でも、価値観の多様性というのが人間社会の実践的方法であろうか。

2011-06-12

"サムエルソン 経済学(上)" P.A.Samuelson & W.D.Nordhaus 著

しばしば、経済政策は富める者を一層豊かにし、貧しい者を一層貧困に追い込む。そして、特定地域に飢餓まで生みだしてきた。現在の市場経済が、金融支配を強めていると感じている人も少なくないだろう。経済が奇妙な方向へ向かってはいないか?と疑問を持ち始めたのは10年ぐらい前であろうか。そして、最も毛嫌いしている学問の書を少しずつ読むようになった。市場経済を少しでも理解するために株式投資にも手を出し、泥酔者心理が投機的行動に向かいやすいのも実感している。
科学的分析とは、現象を説明する時に余計な解釈を排除し、ひたすら真理の探究に努めることであろう。しかし、エコノミストたちは、わざわざ余計な解釈を持ち込んで混乱させやがる。せっかく過去の偉人たちが、優れた着眼点やアプローチ法を提案してきたにもかかわらずだ。その根底には、イデオロギーから脱皮できない複雑な思考回路があるからに違いない。経済学ほど「合理的行動」という言葉を強調する学問も珍しいが、自ら合理性を放棄するかのようでもある。人間は、金が絡むと本性を剥き出しにして冷静さを失うというわけか。実にもったいない学問である。
...というのが経済学の印象である。
ところが、本書はそんなイメージを少し変えてくれる。
経済学系の書を眺めていると、時々サムエルソンを讃える言葉を見かけるので、前々から目を付けていた。しかし、分厚い大百科事典の風貌が威圧感を与える。それでも、図書館で恐る々々近づいてみると、意外にも嵌ってしまった。なるほど、経済学の教科書と言われるだけことはある。用語の説明が丁寧なのがいい。経済学は用語の定義を疎かにしがちだが、その意味で異質である。ケインズの「一般理論」が、経済学を専攻した人ほど読み辛いというのは本当かもしれない。
「経済学とは、さまざまの有用な商品を生産するために、社会がどのように希少性のある資源を使い、異なる集団のあいだにそれら商品を配分するかについての研究である。」
最初に出会うべき書であった。随分と遠回りしたものだ。この書が絶版中とはなんとも惜しい!

本書で、まず気づかされたのは、経済学用語が異質だということである。
例えば、「限界」とか「性向」といった言葉のニュアンスが、本来の日本語とまるっきり違う。
「限界」は、ある一単位の増加に対して、何かが増加する量を示す場合に使う。限界というよりは「より均衡」ぐらいでいいだろう。「限界費用」で言えば、生産量を一単位追加する時、その分の追加費用を意味する。これは、単位生産量に対する費用の変化量であって、関数の傾きや勾配を示している。そして、導関数で簡単に求められることがすぐに分かる。つまり、費用関数の微分が「限界費用」である。「限界消費性向」で言えば、消費関数における単位あたりの勾配ということになる。本当に限界に達するという意味では、傾きや勾配がゼロに近づいて関数が平らになる部分ということになる。
「性向」は、精神的傾向というよりは比率の意味合いが強い。「消費性向」で言えば、消費に向かう意欲といった精神的傾向に思えるが、実は可処分所得のうちの消費の割合を指す。つまり、消費性向 + 貯蓄性向 = 1 の関係にある。単に、可処分所得に対する消費率や貯蓄率で良さそうなものである。ただ、精神的傾向を数字で表すとなれば割合ということになるのだろう。それも、分からなくはないが...
ちなみに、国会討論で消費性向の議論がされると、酔っ払いにはチンプンカンプン!彼らの議論から乗数効果との関係がまったくイメージできない。本書は、このあたりも説明してくれる。そして、「インフレ」にも専門家によって解釈の違いがあることを指摘している。インフレ率が明確に定義できてもインフレそのものの判定は、消費者物価指数や生産者物価指数、あるいはGDPデフレータなどでなされ、しかも、これらの指数は前年度比で示されるに過ぎない。したがって、指数自体にどこまで妥当性があるのかを判別するのは難しく、インフレかデフレかも様々な見解が入り混じる。そして、明らかにインフレ、明らかにデフレとなって見解の一致をみるので、経済政策は手遅れになりがちとなる。こうした曖昧な解釈が氾濫した状況でインフレ懸念といった議論がなされるから、経済政策が混乱するのも仕方があるまい。
...なるほど、本書を読めば、チンプンカンプンな経済討論がだいたい翻訳できそうだ。ちょいと前までは、マネーサプライを貨幣供給量と表現することにも違和感があった。「選好」や「効用」といった言葉もとっつきにくい。「好み」と「満足」でだいたい表現できそうだが...
本書の翻訳では、spending(支出)やcrowding out(押し出す)などをカタカナのまま残すという配慮がなされる。やはり微妙にニュアンスが違うようだ。経済学はほとんど欧米からの輸入であり、用語を日本語に当て嵌める難しさがある。それは、どの学問でも見られる傾向であるが、特に経済学では普通の言葉が奇妙な専門語化しているところに、より混乱を招く要因があるように思える。経済学者の感覚が一般から乖離していて、それが翻訳語にも現れているのか?それとも、経済学者は、普通の言葉に風変わりな意味合いを持たせながら、専門の縄張りを築こうとしているのか?一般人を締め出すには最高の方策ではあるが...

経済報道がチンプンカンプンなのは、経済学の専門性が高いのだろうと思った時期もあった。だが、ちょいと考えてみれば、経済ほど日常生活に直結するものはない。所得がなければ生活もできないし、収入があれば消費と貯蓄の割合を考えるのは当たり前だ。あらゆる流通や職業は、需要と供給の関係から生じる。実は、経済学ってあまり専門性がないんじゃないかい?
人々は、家計や所属する企業など個々の構成体としてミクロ経済学と直接的に拘わり、財政赤字や税制や国際貿易など選挙の争点でマクロ経済と間接的に拘わる。したがって、マクロ経済の方が専門性が高く、政治屋や報道屋によって欺瞞されやすい。おまけに、情報の偏りは思考を偏重させる。結局、民主主義は報道の奴隷になるしかないのか?
政治屋たちは、互いの経済知識がないことを罵り合い、国会は経済用語の試験場と化す。しかし、考えようによっては、それで経済政策が先送りされるのは最善策かもしれない。基本的に経済政策への期待度は乗数効果的なものが大きい。つまり、失策もまた乗数効果を発揮するだろう。くだらない経済政策を実施するぐらいならば、何もしない方がマシということになりそうだ。そして、自由放任思想は永遠に活気づくわけか。大方の経済政策は、需要と供給のメカニズムに対する善意によって実施されるが、それが未熟なためにしばしば非効率を生み出す。特定業界へ利益をもたらしても社会全体として不況になるばかりか、優遇したはずの産業ですら打ち上げ花火で終わり、産業自体を壊滅させてしまうことも珍しくない。おまけに、再建意欲までも失わせ、補助金をたかる構図が完成する。
それは、重商主義時代からの経済政策の伝統であろうか。マクロ経済学は、いまだ失業のメカニズムを説明できないでいる。人間社会が高度化、複雑化するほど、インフレと失業が同時に克服できないのは、それが真理だからであろうか?政府の経済政策は、迷走を続けるしかないのか?おまけに、国が富めば財政赤字は慢性化するしかないのか?それは、時間の収支や人生の収支が常に赤字であるように...

1. 経済学のパラドックス
マクロ経済の現象が、しばしばミクロ経済では正反対の現象になる。個人や企業体にとって好ましいことが、社会全体としては好ましくない方向に作用することは珍しくない。
本書は、それを「節倹のパラドックス」や「合成の誤謬」で紹介する。マクロ経済学で分かりにくいのは、貯蓄が投資と一致するという考え方であろうか。貯蓄が増えることは個人的にはありがたいことだが、全体ではそれが投資に向かわなければ経済循環は硬直化する。家計(ミクロ的)では、貯蓄した分がすべて投資に回ることはない。貯蓄が増えれば投資も増える傾向にあるだろうが、通帳の残高を眺めて快感を得る人もいるだろう。投資量が貯蓄量と同じになるという考えは、安易過ぎるような気がする。
しかし、マクロ的には、その年度の投資の追加量から貯蓄の追加量が決定され、政府支出が総投資量へどのように刺激されるかという議論が盛んに行われる。それは、国の貸借対照表からある程度は理解できる。実際に、行政は予算の全額を消化しなければならないと思っている。ただ、経済政策を決定する政府与党を選択するのは有権者であり、ほとんど家計感覚で経済政策を眺めているだろう。民衆が、まともにマクロ経済学を勉強するわけがないのだから。となれば、政治屋や報道屋は、民衆にいかにミクロ経済との違いがあるかを説明する義務があろう。しかし、当選しか考えない政治屋は良いことしか言わないし、それを信じて民衆は一票を投じる。結局、国家財政は悲惨な方向に向かうしかないのか?国債の累積赤字がGDP比200%になるのを知れば、世論はなんとなく増税の必要性を認めるだろう。海外からも増税を指摘されるとなれば、デフォルトの危機か?と不安にもなろう。昨年6月のサミットで財政赤字目標が掲げられ、日本が例外扱いされたのは不名誉であるが、そんなことは言ってられない。だが、大震災に遭遇してもなお、相変わらず国会は揉めている。これぞパラドックスだ。

2. 経済学の基本原理を抜粋すると、こんな感じであろうか...
(1) 経済循環の源泉は貨幣
貨幣が登場してから経済学が誕生したと言ってもいいだろう。貨幣は交換の潤滑油となり、仮想社会を構築した。古代から、偽造貨幣を製造して敵国の経済を破綻させようと目論んできた。現在では、電子マネーの登場などで更に利便性を高め仮想化を拡大する。金融社会は、貨幣供給に乗数効果をもたらし、ますます実態経済を曖昧にする。

(2) 基本的な原理は、需要と供給の関係
求める者がいなければ、価値という概念も成り立たないだろう。

(3) あらゆる傾向は、「収穫逓減の法則」と似た状況にある
限界効用も逓減の法則に従うという。成長はいずれ息切れし、資源や資本もいずれ枯渇するだろう。人口も増加傾向にある。こうしたことを相殺してきたのが、産業革命などの技術革新であった。では未来は?

(4) 乗数理論的な現象
莫大な人口社会では、経済効果は善し悪しにかかわらず乗数的な傾向を見せる。それは世論の反応も同じだ。

(5) 莫大な人口増加に対応するためには、無理やりにでも職を生みだす必要がある
利便性が高まれば仕事が減って楽になりそうなものだが、その分失業も増える。高度な情報化社会が利便性をもたらせば、情報漏洩やコンピュータウィルスなどの高度な社会問題が生じる。いまやセキュリティ対策は当然だという風潮があり、無防備な者が悪いと煽りながら強迫観念にまで押し上げて、セキュリティ業界が繁盛する。これも必要悪なのか?まさか、ウィルスをばらまいているのは、セキュリティ部門じゃねぇだろうなぁ...

(6) 自由と平等の綱引き
どちらも美しい言葉だけに憑かれやすい。

3. マクロ経済学
ジェームス・トービン曰く、「総じて経済の目的と言えば、現在または将来の消費のための財貨またはサービスの生産である。私は思うに、挙証責任は常に、生産増加でなく減少をはかるもの、利用できるはずの人間なり機械なり土地なりを遊ばせておくものの側にある。この種の無駄を正当化するために如何に数多くの理由が発見できるかは驚くばかりだ。たとえば、インフレの心配、国際収支の赤字、予算の不均衡、国の過大な負債、ドルへの信頼の喪失などの理由がそれである。」
マクロ経済学を本格化させたのは、経済に対して政府介入の必要性を認めさせたケインズ革命である。マクロ経済が右肩上がりの成長を続けていれば、民衆は個々の構成体のミクロ経済だけを気にしていればいい。だが、経済が息切れをすると、政府介入が必要となる。とはいっても、政府介入の度合いを決めるのは難しい。政府に積極的な役割を求めるか静観を求めるかは、経済学派で最も意見の分かれるところであろう。景気動向によっても介入レベルが変わってくる。景気動向の指標では、GDP、雇用率、インフレ率、輸出額などに注目する。
今日よく見かける議論は、潜在的生産力との比較でGDPギャップであろうか。尚、本書は、時代からしてGNPを用いている。ただ、GNPだけでなく、経済純福祉の概念を取り入れているところに注目したい。経済的に豊かになると余暇の時間が増える。人生としては、こちらの方が贅沢であろう。だが、福祉度が上昇して心理的に満足しても、GNPは下がることになる。これを経済指標としてマイナスと捉えるのはいかがなものか、と疑問を呈している。
更におもしろいのは、GNPの議論で、通常の経済学では扱われないアングラ経済の重要性を指摘している点である。ところで、GDP指標には、アンダーグラウンド的な領域はどこまで反映されているのだろうか?麻薬取引やマネーローンダリングなどを加えると、病院や弁護士の需要が高まるだろうから間接的に含まれているのだろう。いや、裏社会はほとんど表沙汰にならないはずなので、それらを加えるとGDPが倍に跳ね上がったりして...政治屋が、ここぞという時に根拠もなく名目GDP目標を高く設定できるのは、裏社会を体験的に熟知してのことか?

4. 経済政策
主な政府政策は、財政政策、金融政策、対外関係、所得政策の四つだという。
財政政策は、政府支出と課税の調整である。政府支出は、公共事業などで雇用を創出する場合など、経済全体の支出にも関係する。景気刺激策として課税を減らせば、消費意欲を刺激できるだろう。租税項目で、投資課税優遇措置などで減税の特典を与えれば、投資誘導もできるだろう。
金融政策は、貨幣量を調整することにより間接的に利子率を変動させ、GDPの縮小やインフレ抑制をする。
対外関係は、通商政策によって自国の貿易に影響を与える。その主な手段は為替レートの調整である。
所得政策は、より正確には賃金物価政策と呼ばれるという。インフレを抑制する伝統的な方法は、政府が財政政策や金融政策を用いて経済活動を減速させ、失業率を高めるという荒療法であった。だが、民衆の支持は得られないので、政府は失業率を抑制しながらインフレ抑制を模索してきた。賃金の引き下げは労働者が抵抗する最も厄介な方策であり、今日ほとんど耳にすることはない。
ところで、アメリカの政策担当者は、極端にインフレを恐れる傾向にあるように映るのは気のせいか?インフレ傾向が生産や雇用を過剰にし、いずれしわ寄せがくるのは明らかで、資産価値を目減りさせる恐れがあるので、その気持ちも分からないではない。とはいえ、アメリカは高い失業率を維持してきたという現実がある。
「指導者が、合衆国で民主党員であるか共和党員であるかの別なく、イギリスでは保守系、フランスでは社会主義系という違いがあっても、国は、失業とインフレーションとのあいだの短期的な競合的選択を免れることはできない。すべての国民が学んだことは、物価と賃金が自由市場で決定される経済においては、インフレ率を削減する政策のためには高失業率と大GNPギャップという高い代償を払わなければならぬという教訓である。」
経済が成熟するほど、インフレと失業を同時に克服できないのは、それが真理だからかもしれない。

5. 乗数理論と貨幣供給の仕組み
乗数モデルは数学的には単純である。
例えば、追加的所得に対して、3分の2が常に消費されるとすれば、乗数連鎖の合計は以下のようになる。

 1 + 2/3 + (2/3)^2 + (2/3)^3 + ... = 1/(1 - 2/3) = 3

この乗数効果は、投資と産出の関係にも適応される。
更に、銀行の貨幣供給の仕組みが乗数効果と絡むと、興味深いことになる。銀行の準備金は、預金の支払いに対して備える金額で、実際には3%から12%で規定されているという。仮に10%としよう。ある人が1,000ドルを預金すると、銀行は100ドルだけ準備金として保持し、900ドルをどこかに投資して利子率を稼ごうとする。投資先がその900ドルを更にどこかの銀行に預けると、その準備金で10%だけ保持しながら90%をどこかに投資できる。それを繰り返せば、数学的には貨幣供給量がたちまち10,000ドルになるという。

 $1,000 x (1 + 9/10 + (9/10)^2 + (9/10)^3 + ...) = $1,000 x (1/(1-9/10) = $10,000

なんとも奇妙な話だ。少なくとも財務表では、貨幣量は増殖することになるのだから。金融業は一般企業とは違った対応が必要なのだろう。だが、現実には政治的に癒着しやすい構造がある。無理やり国債を引き受けさせられるという気の毒な面もあるけど。
貨幣量の仮想化が加速すれば、政府の貨幣政策も効果を失うだろう。そうえいば、中国は金融引き締めのために、銀行準備金を史上最高水準まで引き上げたりしているなぁ。別の仮想化の思惑があるのかもしれないが...
ところで、貨幣の発明者は偉大である。なにしろ、価値を永遠に増幅させる仕組みを作り出したのだから。人間は、価値を知らないから、無理やり価値評価して満足感を得ようとする。そりゃ、実体のないものに憑かれるわけだ。人間社会が仮想化に邁進するのは、それが精神の本質だからかもしれない。
オスカー・ワイルド曰く、「冷笑家(シニック)とはどんな人間か。それは、あらゆるものの価格を知っていて、何ひとつ価値を知らぬ人間のことである。」

下巻へ続く...

2011-06-05

"価値と資本(I/II)" John Richard Hicks 著

岩波文庫版の「価値と資本(上/下)」を本屋で見かけたのは、三、四年前であろうか。それが貴重な機会だったことを後で知ることになる。復刊したと思ったら、すぐに絶版になるのだから。手に入らないとなると、欲求は余計に駆り立てられる。ということで、図書館をあさってみた。
本書は、岩波現代叢書版の全二巻で、I巻が1952年発行、II巻が改訂1965年発行というアンバランス。I巻は旧漢字で少々悩まされる。こういう古典こそ電子書籍に期待したい。

J.R.ヒックス著「経済史の理論」には、彼がノーベル経済学賞を受賞した時、次のように語ったと解説されていた。
「そこからすでに抜け出してきた仕事に対して栄誉を与えられたことについては、複雑な心境である。」
経済学者が自らの業績を皮肉るのも珍しい。自分の研究を検証し改めることは、自己否定にもなるので勇気のいることだろう。なんとなく彼の前半の作品「価値と資本」に興味がわく。副題には「経済理論の若干の基本原理に関する研究」とある。この「若干」というところに控え目な様子がうかがえる。
「最後にわたくしは、必要とされる種類の世界観を理論だけから形成することができるとは考えない。われわれが案じて採ることのできる経済哲学に到達しうるまでには、あらかじめわれわれの動学的過程を、資本主義の発展に関するわれわれの歴史的知識と対決させることが特に必要である。」
本書には、至る所に「不完全」という言葉が躍る。経済現象を法則化できないと言い訳めいても映るが、それが現実だ。あらゆる価格が需要と供給の均衡で決まるならば、健全な交換システムが構築できるだろう。だが、需要曲線にしても供給曲線にしても、商品個々によって違えば、経済状況によっても曲線が左右に移動し、厳密には決定できない。方程式が決定できないとなれば体系的理論も色褪せる。そして、できることといったら条件を前提しながら、傾向を示すぐらいか。
一般的には、商品需要が高まれば価格は上昇し、利率も多少なりと上昇する傾向があるぐらいのことは言えるだろう。貨幣の限界効用を不変と仮定すれば、商品価格の下落が需要を高めるぐらいのことは言えるだろう。しかし、現実はそう単純ではない。一次的効果が的確に予測できても、だいたいにおいて二次的効果は逆方向に作用したり、直接的効果と間接的効果で相殺したりする。貨幣は、あらゆる取引の代替物として価値の指標とされるが、貨幣そのものの価値が変動する。本来、貨幣価値と商品価値の間に一定の比率が認められてもよさそうなものだが、これまた将来価値という予測不能な評価が加わる。これらすべては主観的傾向が強い。
更に、価格予想はあらかじめ市場に盛り込まれたりと様々な形で作用する。例えば、証券から貨幣への需要の移動を助長しても、利率の過敏な反応が商品価格の上昇を抑制するかもしれないし、商品需要の増加が貨幣需要と相殺して利率は上昇しないかもしれない。はたまた、富裕層では価格上昇がかえって需要を誘発するかもしれない。おまけに、エコノミストたちが自身満々に語る経済予測が、多くの選好や効用に影響を与えやがる。
となれば、「不完全」を連呼して、愚痴ってないとやってられない。
本書は、「所得効果などの現象から一般的に言えることは何一つない!」とまで言っている。

本書の流れは...
前半部は、欲望と満足の関係から主観的価値を論じながら、ワルラスやパレート流の理論を吟味する。そして、従来の乾燥的な議論が現実の経済から乖離してきたことを回想する。
後半部は、動学的経済学の基礎を扱い、貯蓄と投資、利子と物価、ブームとスランプを対比させながら限界効用を論じる。そして、動学的均衡の結論は、ケインズ理論に近いと認めている。
また、一般均衡経済学において、動学的理論を持ち出したサミュエルソン教授の貢献を讃えている。さっそくサミュエルソンの「経済学」を検索してみると、これまた絶版中か。流れに任せて、次に借りてくるかぁ...

本書の主題は、貨幣、貯蓄、投資の総括的な変化が、価格、生産、利率に及ぼす効果についてである。それは、ミクロ経済の観点から生産、消費、投資などの行動を考察しているが、マクロ経済の足掛かりになりそうだ。
その特徴は、時間概念としての利率の扱いであろうか。つまり、動学的な分析である。長期間で観察すれば、静学的に捉えるのもそれなりに合理性があろう。しかし、経済現象には、過敏に反応する要素、そこそこ柔軟な要素、硬直化した要素など、あまりにも性質の違うものが複雑に絡む。投入と生産、収入と支出、契約と遂行、貸付と返済などを対応させても、同時に施行されるわけではない。時間の経過は価値の変化をもたらし、それを吸収する役割を果たすのが利率ということになる。利率は危険度の指標としての役割もあるが、時間的リスクと捉えてもいいだろう。ちなみに、ケインズは「利子率は流動性をある一定期間手放すことに対する報酬である。」と語った。
ところで、名目利率が常に正を示すのはなぜか?限りなくゼロに近づくことはあるが...利率は人間の欲望を写しだしているのか?何をやっても時間の収支は赤字なので、その慰めのために編み出した仕掛けなのか?いくらGDPがプラス成長をしても、人生の豊かさがプラスになるとは限らない。人間が経済現象を解釈しようとすれば、自然現象から乖離していく。需要と供給は相変わらず非対称性のままだ。実質利率の計算式が機能しているのかも疑わしい。そもそも、真の利率を人間が算出できるとしたら、経済現象は完璧に説明できるのではないか?今日、利率は崇められるほどの信用は得ていない。それどころか、経済学を批判する立場の人々からは悪魔とされる。熱力学ではエントロピーが正になると主張するが、経済学では利率が常に正を示す。人間認識が関与するあらゆる物理現象は、エントロピー増大の法則に従いカオスへ向かうというわけか。

人間が生きるということは消費を意味する。したがって、消費動向を測定することは意義深い。消費者の行動は、欲望と満足によって測られるが、これらを数値化することは難しい。経済学用語で言えば、消費者需要と限界効用ということになろうか。主観性を数値化できるということは客観性で測定することであり、既に矛盾している。これが経済学の最大の問題であろうか。
価値判断とはまさしく人生観を表わしている。それは所得や家族構成などによっても影響され、更に人生観の多様化が進む。したがって、平均的な家庭を対象にした経済政策を施しても特定の所得層にだけ効果を与えるだけで、むしろ不公平を助長することになろう。GDPのような経済指標は、あくまでも平均値に過ぎない。一様分布を示すような状況ならば平均値の意味も大きいが、多様化の進む状況では平均値の意味を汲み取ることは難しい。ましてや格差の大きい社会では平均値はずっと上方にあり、平均値を過信すれば経済刺激策の対象は高所得層に向けられる。富裕層が牽引役となって貧困層を活性化させるという意見もあるが、効果が行き渡る前に不況局面に突入するのが経済サイクルというものである。
一方で、平等という癒し系の言葉に憑かれ、すべての所得層を対象とした経済政策を施そうなどという思考は、社会分析や経済分析を放棄したと言えよう。不況局面であっても、すべての産業が不調なわけではない。好況局面であっても、すべての産業が好調なわけではない。成長する産業があれば衰退する産業もある。経済危機とは、あらゆる財が下落し代替財が存在しないような状況であって、まさしくこうした状況に経済政策を必要とする。
しかし、ケインジアンを自称する政治屋たちは、どんな経済局面であっても不況政策を実施しろ!と叫ぶ。その裏で、特定団体への利益供与、あるいは政治屋と民間団体の癒着構造が見え隠れする。おそらく、ケインズはあの世で呟いているだろう。「私はケインジアンではない!」と...

1. 消費者余剰と限界効用
消費者心理は所得効果の影響が大きいという。必需品に対する購買意欲は一般的な傾向を示すだろうが、所得の違いは代替品の選択幅を変える。
本書は、経済理論のあらゆる法則において、所得効果がなんらかの不完全性をもたらすという。商品の価格設定が高いか安いかという評価にも個人差がある。評価以上に高いと思えば購入を控えたり、あるいは、購入後に後悔したりするだろう。販売側も、ボランティアでない限り、商品を過小評価して販売するケースはごく稀だ。となれば、総効用と総市場価格とのあいだにギャップが生じることになり、消費者は支払い価格よりも効用の余剰を享受することになる。商品が増えれば有難味も薄れ、限界効用は逓減するだろう。需要曲線が右下がりになる根拠がここにあるようだ。贅沢品は限界効用逓減の法則が顕著に現れやすいだろう。必需品は最初から限界に近いだろうから。景気が低迷して物価が高騰しても、必需品なら買うしかない。消費者は奴隷化し、仕舞いには暴動を起こすしかあるまい。いずれにせよ、消費者余剰の総収支は消費者から見て赤字になりそうな気がする。

2. 補完財と競争財
ある商品が、補完財となるか競争財となるかは、個人の価値観で違うだろう。また、価格の変化が、それが補完財になったり競争財になったりと消費者の意識を変えることもあろう。富裕層はより高い質を求め、貧困層はより低価格な代替品を求めるといった傾向もある。はたまた、どんな代替品ですら買えない困窮もある。贅沢さの指標も個人差が生じる。
となれば、商品科目によって経済政策の重みが違ってもよさそうなものである。昔々、米価が経済指標として使われたのはそれなりに合理性があった。現在では、消費税があらゆる物品に対して同率というのが、はたして合理的なのかは疑問だ。ただ、消費税だけで社会の多様性に追従できるほどの指標を示すことは難しいだろうが...
中世では、教育格差、情報格差、経済格差など、あらゆる格差が生まれつき存在していた。個々に能力差があるのは自然であるが、それが運命付けられるのは経済循環の観点からも合理的とは言えない。近代化はあらゆる運命的格差を排除してきた。しかしまた、逆戻りの感がある。競争と協調、自由と平等は、振り子のように揺れ動く。自然界において、あらゆる状態を継続しようとすれば、周期的運動が必要なのだろう。

3. 動学的均衡
静学的に扱う間は明らかにならなかった事が、動学的に扱うと明らかになった事があるという。それは、投入量と産出量の関係で表わされる生産関数が、中間生産物の数量に依存することだそうな。
では、中間生産物の数量や資本量はいかに決定されるのか?それは利率を通じて決定されるという。なるほど、低い利率は、より長い中間過程を促し、中間生産物の数量も大きくなるというわけか。中間生産過程における資本量が利率との関係を与えると言ってもいいかもしれない。
動学的均衡では、利率や為替レートなどリアルタイム的に変動する要素が重要な役割を果たす。ただ、貯蓄と投資が時間的に均衡するのは、ほんの一瞬であろう。長期的な生産計画は安定的な運営をもたらし、長期的な低利率が経済均衡に近づけるのかもしれない。しかし、現実には、低利率のまま低迷した経済が継続中だから頭が痛い。しかも低利率だからリスクも低いとも言い切れない。
本書は、時間的要素を排除してきたことが、利子理論の妨げになってきたと指摘している。
マーシャル流に言えば、こういうことらしい。
「すべての商品について一時的均衡を与えうるほどの短い期間はまず存在しない。
すべての商品の供給がその期間内に調整できるほどの長い期間はまず存在しない。」
経済学は、短期と長期という変数を加えて、ますます混沌へと向かうわけか。政府の打ち出す景気刺激策は打ち上げ花火で終わることが多く、その後の経過ではむしろ悪影響を与えるのもうなずける。となると、ちょっとぐらいの不況では余計な経済政策はやらない方がいいのだろう。普段は国会で揉めてるぐらいで丁度いいのかも。刺激というからには瞬間的に煽るということなのだが、経済危機ともなれば多少の経済的暴力も必要となろう。
ところで、現在では、情報化社会がリアルタイム性を高め、投機行動を煽り不均衡が顕著化する。高度な情報化社会では、情報の優位性が失われ均衡へ近づきそうなものだが...市場に参加するプレイヤーは経済人的価値観が強く、一般社会の価値観ほどには多様化が進んでいないのか?いや、人間の欲望は一方向性が強いだけのことかもしれん!
そもそも、価格変動が予測しやすいのは不均衡状態という矛盾がある。バブル経済では株価が上昇し、経済危機では株価は下落するのは、アル中ハイマーなド素人でも予測できる。したがって、投機屋が不均衡状態を好むのも自然であろう。均衡状態がすべての人々にとって合理的とは言えないのだ。いや、バブル経済が永久に継続するならば、すべての人々にとって合理的だろう。長続きせず、簡単に弾けてしまうから困ったちゃんとなる。しかも、弾力性の許容範囲を軽く超える。その時期を予測することもほぼ不可能で、確率論に頼るしかない。つまり、博奕なのだ。
投機行動を悪魔のように言う評論家もいるが、投機にも経済循環の役割がある。投機行動は、対象物への思い入れを排除して価格の高下のみに反応するので、機能すれば客観的な価値を与えるかもしれない。機能すればだけど...そうなれば、群集心理を出し抜いて儲けようなどという恣意的な影響も薄れるかもしれない。アノマリーな現象も減るかもしれない。クリスマスのようなイベントは景気刺激策としての役割も大きいのだが...

4. 利子と流列
経済現象を形成するすべての要素が同等の弾力性を持っているわけではない。証券取引所では、休日もあれば取引時間外もあって、その間にエネルギーが蓄積される。商品では、投入から生産までの過程を通さないと市場に現れないので、必然的にタイムラグが生じる。投入では、労働力や設備投資などが絡むため、生産計画は将来予測を盛り込んだ緻密なものとなろう。在庫管理はそれだけで企業存亡にかかわるので、生産者はリスクを考慮して市場動向をうかがいながら投入量と生産量を決めることになる。タイムラグがあるにせよ一度の投入が一度の生産に対応するような単純な関係であれば、まだしも手に負えそうだが、現実には一対多、多対一、いや、ほとんど多対多という関係であろうか。
そこで、流列の概念が導入される。ちなみに、流列とは、資金の正味額を時系列に並べたような関係とでも言おうか。設備投資などの効果を評価するためには、投入時点や収入と支出の差額の流れなどを時系列で追うようなことが求められる。その特性を眺めていると、微積分が有効な手段となりそうだ。動学的現象の静学的考察といったところか。企業でいう「資本効果」は、消費者でいう「所得効果」に位置付けられるかもしれない。人員や設備投資などの投入は生産工程以外の要素にも絡むので、かなり複雑な関係がありそうだが...
また、利子変化の理論は価格変化の理論よりも、はるかに困難な事情があるという。価格は、現在価格と予想価格の間で断続的に変化する。それは、売られる時期からずれることによって生じるぐらいなものか。対して、利子はあらゆる継続期間の貸付に対する割引率の変化だという。割引価格の系統的な変化はあるだろうが、資金調達などが絡むと借入利率も考慮しなければならない。

5. 不完全な安定性
本書は、一時的という条件付きで「不完全な安定性」を唱える。そして、企業単体や私的個人を分析することによって、それが経済全体系の分析に移行できるとしている。基本的にはミクロ経済の延長上にマクロ経済があるのだろうが、にわかに信じ難たい。
とはいっても、10年前なら簡単に納得していただろう。経済学拒否症のおいらが、独立して少しづつ経済学を勉強するようになると、しばしばミクロ経済とマクロ経済で逆方向のエネルギーが働くことに気づかされる。個人の行動は容易に予測できても、群衆化するとまるで予測できない干渉現象のような別のエネルギーが生じるのだ。物理学で言うと、素粒子単体では運動力学で説明できるのに、群集では波動性を持ち出さないと説明できないのと似ている。現実に、超エリートたちが考案した経済政策はしばしば裏目になる。経済現象を形成するすべての要素が同等の弾力性を持っているならば、本書が言うように不完全性でありながらも力学的には均衡へと向かうだろう。そして、利率の変化が、ある許容範囲においては不安定を抑制する方向に働くだろう。価格の変化も、需要と供給の関係も、ある程度は均衡化に寄与するだろう。
しかし、いくら価格や利率に柔軟性があっても、労働賃金は硬直化する。実質賃金では低下することもあろうが、名目賃金の低下を労働者は絶対に許さない。そうなると、賃金変動は失業者の変動で調整するしかない。だが、安易に労働者をクビにすれば企業イメージを悪くする。したがって、ある程度の自発的失業は社会にとって不可欠となろう。
ケインズは失業と経済均衡の関係を考察した。悲しいかな!安定要因の一つに失業の存在は必要という考えは、本書も認めている。人間に欲望がある限り、新たな工夫を創出し続けるだろう。そして、失敗を繰り返さなければ成長もありえない。経済成長を促すには、ある程度の景気変動は必要であろう。だが、ケインズはすべての財が一斉に暴走することを示した。ユートピアな世界を構築しようとすれば、あらゆる欲望を放棄し、あらゆる認識を放棄するしかなさそうだ。そして、麻薬漬け人生こそ幸福というものか...

2011-05-29

ページの模様替え

Bloggerの新機能「テンプレートデザイナー」が登場してから一年になろうか。gさんのサービスは、だいたい初期品質がグルグルなので、しばらくしてから試すのが癖になっている。
そして、そろそろ模様替えでもするかぁ...と気まぐれに身を委ねるのであった。惚れっぽいアル中ハイマーがブログを続けて5年...これはもう奇跡だ!

1. テンプレートデザイナーはええなぁ!...と思ったけど...
Bloggerは使いにくいという評判をよく耳にする。他を知らないからなんとも言えないけど。確かに、契約ISPが提供するブログサービスのデモを眺めても、デザインは豊富そうだ。ブログを始めたいという人に尋ねられれば、まずBloggerを薦めることはないだろう。文字の大きさやフォントの変更などは直接コードをいじることになるし、背景画像の設定ですらアップロードした場所を確かめてコードに埋めこまなければならない。大したコードじゃないけど。こんな操作性では一般受けしないだろう。逆に、勉強したい人や開拓精神旺盛な人にはお薦めかも。
ところが、「テンプレートデザイナー」はそんなイメージを一掃してくれる。従来の視覚的にモジュールを配置できる機能(ページ要素)との相性もいい。道具が使いやすく機能が豊富となれば、自分のセンスの無さを目立たせることにもなるのだけど。
ただ、アーカイバ型ブログを目指しているので、目次コードは捨てられない。結局テンプレートデザイナーが吐いたコードをいじることになるが、それで問題になることはない。目次のデザインが気に入らなければ、多少の修正を加えればいい。そして、「前の投稿, 新しい投稿」などの固有のコード(nextPrevやPagerなど)を別途用意する。
さて、デザインが完成すると、他のブラウザでも見映えを確認しておこう。
げげ!IE6では、配置がずれるわ...意図しないところにアンダーラインが入るわ...タブが表示されないわ...もうグチャグチャ!余計なカスタマイズをしたせいか?テンプレートデザイナーで作成している他のサイトを覗いてみても、似たような現象がある。はたまたスクリプトが途中で止まる可能性があると警告されるところもある。試行マシンが貧弱だからなのだが、FireFoxの速さを目立たせる結果に終わる。いろいろな雛形が用意されているが、「シンプルデザイン」ぐらいしか使えんということか?途端にヤル気が失せた!
結局、BTemplatesに落ち着く。デザインのセンスは敵わないし、コードも分かりやすい。

2. ユーザを置き去りにするのはやむを得ないのか?
なんのことはない!IE6ユーザを見捨てればいい。知り合いにIE6ユーザはいないのだから。だが、訪問先の企業を覗いてみると、いまだIE6ユーザを見かける。これだけ不況が続けばマシンをアップしろというのも無理があるが、ブラウザぐらい選択肢があろうに。webデザイナーたちも頭を痛めていることだろう。
とはいってもだ!Win2Kとともに迫害を受けるIE6の登場は高々10年前のこと。製品のライフサイクルが短いのは、未成熟な分野ではよくあることだが。
そもそもコンピュータの歴史はやっと半世紀を過ぎたあたり、インターネットに至っては普及しだして20年にもならない。Mosaic(Netscapeの前身)が登場したのが90年代前半、当時アダルト画像のモザイクが解除できる画期的なソフトだと勘違いしたものだ。ちなみに、初めてパソコンを購入したのが25年ぐらい前であろうか。その購入歴を遡ると...FM7から始まってx64まで、ざっと10台ぐらい、ノート型が5台ぐらいであろうか。なんと2年で1台以上購入していることになる。一方オーディオでは、Trioのアンプが25年間現役だ。
旧システムを見捨てるということは、自らの過去を否定することにもなろう。研究開発の分野では、自分たちが開発した技術をすぐに破棄するような自己否定に陥ることがよくある。ほんの数年前の常識がすぐに通用しなくなるのだ。良く言えば柔軟性、悪く言えばユーザを置き去りにする。そして、消費を煽りユーザを犠牲にしながら成長していく。旧デザインを抹殺することが、新デザインへ移行させるための常套手段というわけだ。これが過渡期にある業界の宿命であろうか。
ただ、ソフトウェア業界は永遠に成熟しそうにない。そもそも実体のないものに成熟を求めても無理な話かもしれない。仮想化社会しかり...人間精神しかり...愛しかり...

3. とりあえずチェックしておきたいサイト
つい最近、Bloggerで大規模な障害があった。こんなの初めて...東日本大震災との関係か?と思わせるほどだ。
詳細は、クリボウさんの記事「Blogger に大規模障害、20時間以上にわたって更新不能に」を参照。このサイトは、Draftレベルの情報なども紹介してくれる。
また、目次コードは、@akaさんの記事「Blogger に目次を設置する」を参考にしている。要は、データベースから情報を引っ張るためのキーワードが分かればなんとかなる。このサイトは、ツールの体験談やhtmlの勧告なども紹介してくれる。
お二方のサイトを重宝しているBloggerユーザも多いことだろう。ありがたや!ありがたや!

2011-05-22

初体験!Lispする

初体験!て奴は、いくつになってもゾクゾクさせやがる。
さてLispだが、前々から触れてみたいと考えていた。ポール・グレアム氏の著書「ハッカーと画家」の影響である。そこには、Lispを学べば実際にLispプログラムを書くことがなくても良いプログラマになれると熱く語られていた。
だが、いまいち踏み切れないでいる。いかんせん他のプログラミング言語と見た目が違う。
S式とかいうヘンテコな宣教師が「カッコカッコ...コッカコッカ」と呪文を唱えれば、カッコの奥からletとかいう控えめな教職者がlambda(ラムダ)とかいう名もない浮浪者に見返り(返り値)をねだってやがる。鬱陶しい奴らだ。
今日ではプログラミング言語も多様化し、しかもその多くがLispの特徴を取り入れつつある。わざわざこの古い言語に立ち返らなくても...という意識がどこかにある。プログラマでもないし。
とはいっても、アルゴリズムの勉強のついでに試してみる分には問題はなかろう。そこで、視覚的に遊べそうなスプライン補間とベジエ曲線を題材にしてみた。
詳細は、アル中ハイマーなページ「スプライン補間とベジエ曲線をLispしてみる」を参照されたし。
これでLispの書籍を読んでもなんとかなるだろうか???

1. 戸惑い
まず、Lispの外観を眺めるために、C言語用のアルゴリズムを書き換えるところから始めてみた。その出来具合があまりに気に入らないので、Rubyのコードを書いて比べてみた。
当初、変数のスコープの感覚がいまいち掴めないでいたが、あの忌々しい let が解決してくれる。ただ、letというキーワードはニュアンスの掴みどころがない。英語力が乏しいからそう思うのだろうけど。ちなみに、好きなフレーズに「let it be.」というのがあるが、強制や説得などをまったく感じさせない。とても変数の束縛とは相容れないような気もするが、逆に「let内は自由の楽園」といった感覚であろうか。スコープといえば、Rubyの気に入っている機能の一つに、ループ系などでイテレータを使うとスコープを生成してくれるというのがある。変数の奇妙な使い回しを未然に防いでくれるのがいい。だから、for文はあまり使わなくなった。Rubyに限らず他の言語にもイテレータ的な思想はあるが、Lispにもあるのだろうか?近代言語の思想的な話をすると、だいたいLispに辿り着くという話も聞くが...自分で作れってことか?
また、関数もマクロもリスト型データで抽象化されるので、すべてがカッコの中に収まるのがおもしろい。これが呪文の根源だ。リスト型データ構造の本質はカッコにあるのかもしれない。ちなみに、lispの終了コマンドも(exit)とカッコで囲まれる。すべてがリスト型の要素というわけだ。関数の返り値は、複数のデータ群を渡すことができるし、リスト型で表現できるものならなんでもありの感がある。
それにしても、関数とマクロの違いは見た目では分かりづらい。抽象度が高いと言えばそうなのだが、その分どちらで実装したらいいか悩ましいところか。
さらに、ちょっと敷居を感じるのが、演算式の前置記法であろうか。スプライン補間では、演算コードを思いっきり見づらくするのだが、ベジエ曲線ではそこそこすっきりする。与えられた座標から滑らかな曲線を得るための補間法という意味では、どちらも似たようなアルゴリズムなのだが。ただ、C言語的な思考で構築されているアルゴリズムであることは確かである。
関心させられたことは、初期値を埋め込む癖が自然につくことだ。最近の言語はその傾向にあるのだが、古くからある思想としては素晴らしい。

2. 道は遠い!
やはり最大の問題は、いかにLisp風に思考できるかにかかっているようだ。むかーしから気づいていたことだが、改めて頭の固さを思い知らされる。
試しているうちに、汎用的な関数があると便利だということが分かってくる。map系の関数が充実してそうだし、このあたりを変形すると効率が大幅に改善されそうだ。そんなことはどんな言語でも言えることだが、特にLispは自由度が高い分、ユーザ任せなところが多いような気がする。拡張性とは自由を重んじるということか。なるほど、自由への道が険しいことは歴史が示している。それだけに大人の言語と言えるかもしれない。
言語とは、自然言語も含めて表現の手段に過ぎない。だが、その手段が精神と結びついた時に恐ろしく合理性を発揮する。プログラミング言語では、自然言語と違って客観性を重んじる。しかし、純粋な客観性は純粋数学にしか見当たらない。あらゆる物理現象は観測系が加わって認識され、その観測系は人間認識によって構築される。いくら客観性を強調したところで、主観性から逃れる術がないのだ。となれば、主観性と客観性のバランスが重要となる。
プログラミング言語においても、言語に適合した主観的思考方法というものがあるのだろう。Cのコードを単純に書き換えたところで、Lispの長所が浮き彫りになるとも思えない。ましてや文化が違い過ぎれば、長所どころか短所の方が目立つかもしれない。まだまだ道は遠い!
人類が相対的な価値観しか構築できないのであれば、思考を広げるためにも言語の多様化は歓迎するべきであろう。異なる言語で書き換えてみることで見えてくる文化もある。翻訳の意義とは、言語の特徴を再認識させることであろうか。

3. 今後、読んでみたい書籍
これでLispの書籍を読む下地ができたであろうか?今のところ購入予定の書籍は…
  • 「初めての人のためのLISP」 竹内郁雄 著
  • 「On Lisp」 Paul Graham 著
  • 「実践Common Lisp」 Peter Seibel 著
これらを読んだ後でも感想を書いてみたい。さて、いつになることやら...

2011-05-15

ルータのグレードアップ、RT105eからRT107eへ

マシンのグレードアップとともにGigabitイーサへ移行しつつあると、今度はルータの性能が目につく。Yamaha RT105eは、100base-TXで繋がるものの、スループット16Mbpsは問題か。もぅ10年かぁ...お疲れ様でした!
いまどき有線の時代でもないのかもしれん。運命の赤い糸もコードレス化が進んでいるようだし。それでもアル中ハイマーは、安定した母艦環境がないと落ち着かない古代人なのだ。

1. 未練たらたら...
RTX1200を狙い続けて一年、なんといってもスループット1Gbps(VPNでも200Mbps)は魅力だ。しかし高い!消費電力も、ちと気になる。どうせバックボーンもついていかないし。サブモニタに流し目をやりながら作業していると、両目が片方に寄っていきそう。RTX1200でカレイ目になり、iPad2でヒラメ目になっていく。
そんなこんなで踏み出せないでいたが、あいだをとってRT107eを購入した。スループット200Mbps(VPNでも80Mbps)は現環境にちょうどいい。数値表記だけを比較すると、10倍ぐらいの性能は出せそう。実効値は当てにできないけど。ただ、中途半端なグレードアップで、4万円はちと高いか。
...てなわけで、RT105eが遊んでいる。Corega FSW-8A(100M SW)のおまけつきで、もってけ泥棒!(翻訳すると、マッカラン一杯...)

2. 売上に貢献してるなぁ..,
なぜYamaha製にこだわるかというと、10年前に勤務していた会社のルータが、RT300iだったというだけのこと。トンネル工事では相性のいいものを選びたい。むかーしから在宅勤務が大好きだった。いや、古びた温泉旅館で仕事したいがために有休をフル消化したものだ。
当初から、「出力方向は原則許可し、必要に応じて禁止する。入力方向は原則禁止し、必要に応じて許可する。」(RT107e取扱説明書 p70)という平凡な思想が守られているのもいい。

ちなみに、我が家の歴代ルータは...
2001.03 Yamaha RT60w
2001.06 NETGEAR FR314
2001.07 Yamaha RTA54i
2002.06 Yamaha RTA55i (バックアップ経路用)
2002.06 Yamaha RT105e
2011.05 Yamaha RT107e

中でもRT105eは、IPsec搭載で安定感も抜群だった。ファームウェアは、Rev.6系が一番安定していると思っている。NetVolanteシリーズは安定感がいまいちのイメージが残ったままだが、今はどうなんだろう?
RT107eは、Rev.8系かぁ。型番からするとRT105eの後継機種なんだろう。外観も似てるし。使い勝手の違いは、かんたん設定(httpd)が実装されているぐらい。ファームのアップデートもhttpd経由でできる。尚、機器の背面には「DOWNLOADボタン」なんてものもあるが、安易に許可したくない。また、telnetをとんと使わなくなったので、sshdが実装されているのがいい。

3. 設置しよう...
ルータってやつは通信制御を自分自身に設定するという自己矛盾に陥りそうな性質があって、外からコマンドが受け付けられる状態にするまでが悩ましい。遠隔操作でミスろうものなら目も当てられない。むかーし、拠点まで深夜に車を走らせたことがあったけか。なので、ISDNなどのバックアップ経路を確保していた。
さて、設定ではコンソールに慣れているのでhttpdは余計な機能かとも思ったが、とりあえず繋ごうとする時に非常に便利だ。まったく悩まずに交換工事は10分で完了!
わぁお!syslogが溢れてる。おまけに、むかーしのVPN設定の残骸やらがあって訳が分からん。ついでにファイアウォールの見直しやなぁ...と思ったはいいが、フィルタリング設定の感覚をすっかり忘れている。LAN側とWAN側の二つの境界でそれぞれIN/OUTの設定ができるんだっけ...などと思い出しながら、むかーしの徹底ガイド本を引っ張り出す。しばらく遊べそうだ。

4. 速度を測定してみよう...
RT107e = 約30Mbps, RT105e = 約7Mbps。約4倍のアップかぁ。
ISPは、J-com 40Mコース(上り2Mbps)だから、契約表記に対して75%程度。
ネットサーフィンぐらいしかやらないライトユーザなのでこれで十分なのだが、コース名からして90%(36Mbps)ぐらいは期待してしまう。ベストエフォートだし、サーバの混み具合や経路によっても違うだろうから、鵜呑みにはできないけど。
体感的には、ブラウザにサクサク感があり、Ustreamも若干動きがよくなったような。パッケージ群のupdate(yum)も数倍速くなった。とはいえ、1時間もすりゃ慣れるから虚しい。
んー...続いてバックボーンが気になり始めた。これで5年はもたせたいが、またもや「安物買いの銭失い」の法則に陥るか?

以下、測定結果をメモっておく。
試行ブラウザ: Google Chrome 11.0.696.68
上りは、RT105eの方が若干速い傾向にある。フィルタリング設定の違いか?
ちなみに、90%以上で「おめでとうございます」と出る。下位からの割合を示されてもうれしくないけど。

 ==== RT107e =====
ブロードバンドスピードテスト 通信速度測定結果
http://www.bspeedtest.jp/ v3.0.1
測定時刻 2011/05/14 04:38:14
回線種類/線路長/OS:CATV/-/Windows 7/福岡県
サービス/ISP:-/J-COM 40Mコース
サーバ1[N] 30.5Mbps
サーバ2[S] 30.8Mbps
下り受信速度: 30Mbps(30.8Mbps,3.86MByte/s)
上り送信速度: 2.0Mbps(2.03Mbps,254kByte/s)
診断コメント: J-COM 40Mコースの下り平均速度は18Mbpsなので、あなたの速度はかなり速い方です!おめでとうございます。(下位から95%tile)

 ==== RT105e ====
ブロードバンドスピードテスト 通信速度測定結果
http://www.bspeedtest.jp/ v3.0.1
測定時刻 2011/05/14 04:44:58
回線種類/線路長/OS:CATV/-/Windows 7/福岡県
サービス/ISP:-/J-COM 40Mコース
サーバ1[N] 6.65Mbps
サーバ2[S] 7.31Mbps
下り受信速度: 7.3Mbps(7.31Mbps,914kByte/s)
上り送信速度: 2.4Mbps(2.49Mbps,312kByte/s)
診断コメント: J-COM 40Mコースの下り平均速度は18Mbpsなので、あなたの速度は少し遅い方です。(下位から20%tile)

2011-05-01

パソコン(x64)買っちゃった!...その後

本記事は、「パソコン(x64)買っちゃった!(2010-4-4)」のコメントを整理して記事に昇格させたものである。要するに、今週はおサボり!そろそろブログを書くのが億劫になる今日この頃であった。

[ Win7(64bit版)のアプリケーション動作状況について... ]
余った部品をかき集めて古いマシンを復活させ、Win2Kをアプリケーション検証用に。もうしばらく捨てられそうにない。

1. Cygwin-X(ver1.7.5-1) が不安定...(2010-5-1)
startxで起動すると不安定。アプリケーションがしばしば *.stackdump を吐く。
 "exception::handle: Exception: STATUS_ACCESS_VIOLATION"
/usr/bin/startxwin.exe で起動すれば一見安定するかに見えたが、やはり *.stackdump を吐く。
 "C:\cygwin\bin\run.exe /usr/bin/bash.exe -l -c /usr/bin/startxwin.exe"
ver1.7.9-1も ...(2011-3-29)
さらに、Xming(6.9.0.31)経由で試しても状況は変わらない。
例えば、こんな感じで試している。
 /cygdrive/c/Program\ Files\ \(x86\)/Xming/Xming.exe :0 -clipboard -multiwindow &
 # /cygdrive/c/Program\ Files\ \(x86\)/Xming/Xming.exe :0 -clipboard -screen 0 1024x768@1 &
 /bin/run.exe -p /usr/X11R6/bin xterm -display 127.0.0.1:0.0 -ls &

忘れた頃に、CygwinX はどうなったか?と聞かれるので付け加えておく。...(2012-2-28)
随分前から安定しているみたい。
・Cygwin Ver1.7.11-1
Explorerから直接、c:\cygwin\bin\ash.exe を起動して、/bin/rebaseall を実行すると、dll系のエラーがとれた。
・avast Ver7.0.1407
[ファイルシステムシールド] -> [自動サンドボックス] - > X系の実行ファイルをエントリ。
# 警告される度に許可すればいいが、手動でエントリする方が安心か。

2. NextFTP4(ver4.89)が使用不能!と思いきや...(2010-11-1)
転送中に度々停止する。途中でコマンドが応答しなくなる模様。64bit版も32bit版も同じ。ファイアウォールを設定しても転送中に止まる現象は変わらない。10年以上愛用してきただけに残念!
...と思いきや、アプリ側のサウンド設定を止めると動いたという話を聞いた。半信半疑で試してみると動いているみたい。(ver4.90もOK!)...しばらく様子を見てみよう。
ver4.91 ではサウンド関係が修正されて、正常になったみたい。...(2011-6-18)

3. MS-IME2007から、MS-IME2010へ、そして、Google IMEへ。...(2011-4-25)
変換精度が悪過ぎ! いい加減学習せい!我慢できずIME2010をダウンロード!...(2010-8-1)
軽くなって、いろんな意味で安定したような気がする。アクションセンターも、くだらないことで騒がない。ちょっとだけ2007の呪いから解放されたかなぁ...
Service Pack 1 で更に安定度が増した、ような気がする。しかーし、変換精度は相変わらず悪い。
我慢できず、Google 日本語入力に乗り換えた。...(2011-4-25)
変換精度はかなり改善され、ストレス激減!ただ、IMEパッドがないのが惜しい。
それにしても、なんでDLページにバージョン表記しないのか?Chromeも。自動更新されるとはいえ、今使っているのが最新版かを調べるだけで目が回る。さすが、ぐるぐるさん!Chromeの方は「アップデートを確認してます」の後に表示されるからまだ安心できるか。そもそも品質に問題がなければ、ユーザにバージョンを意識させない文化も成り立つかもしれないけど。品質に問題があれば、逆にトラブルの隠蔽に見えてくる。
いつのまにか、Google IME に手書き文字認識機能が追加されていた。...(2011-9-16)
ver 1.1.770.0 からのようだ。いまごろ気づくとは...それにしては精度が悪い!1.2.825.0 になっても。

4. デスクトップアイコンの左下矢印が大き過ぎて目障り!...(2010-8-1)
方法は二つあって、いずれもレジストリを修正すればよさそう。副作用もあるらしいから注意。
一つは、「IsShortcut」を削除するらしい。
二つは、矢印を空の画像に見せかけて「Shell Icons」に指定するらしい。
\windows\system32\shell32.dll,50 に空のアイコンがあるので、これを指定する。自分で作ってもいいけど...そろそろ我慢できなくなってきたなぁ...と、いまだにぶつぶつ言っている。

[ DELLパソコン(Studio XPS8100)について... ]
1. ディスクドライブのEjectボタン...(2010-8-1)
ボディに、ディスクドライブのejectボタンが見つかった。気づくまでに3か月かかるとは情けない!!!
何かの拍子に手が触れてトレイが開いたのにビックリ!右側の切れ目はデザインかと思いきや、実はEjectボタンだった。
ちなみに、フロントボディにUSBポートがあることに気づくいたのが3日目だったか。仕様にはフロントにポートがあると記載されているので、なんとなく窪みをスライドさせてみた。これも単なるデザインかと思いきや...
他にも、何か隠されたアイテムがあるかも...といろいろ押してみる。

2. マルチディスプレイ環境は病みつき!...(2010-8-1)
Chrome + iGoogle をセカンダリ表示で快適!もうちょっとで余ったディスプレイを人にやるところだった。

3. マウスのボタンが6つもあると目が回るかと思ったが、ようやく慣れてきて快適!...(2010-8-1)
ただ、マウスの速度変更ボタンは使いきらん。

2011-04-24

"形而上学(上/下)" アリストテレス 著

例のごとく難解な書を手にすれば、思考が勝手に暴走をはじめる。一つ一つの文面が論理的であっても、それらが複雑に絡み合ううちに矛盾らしきものが顕わになる。そこに一貫性があるのかも疑いはじめ、ついには複雑な体系らしきものが亡霊のごとく浮かび上がる。
単独で存在する光子が粒子性を示す間は、まだしもニュートン力学で説明できるが、、群をなして押し寄せる光が波動性を示せば巨大エネルギーの塊と化し、もはや人間の手には負えない。難解な書とは、まるで不確定原理を体現するかのようだ。
難解な文章がBGMのごくと流れ去れば、そこに自由気ままな解釈を加えずにはいられない。したがって、ここで述べる事がアリストテレスの意図したものかどうかは知らん。詭弁論ならいくらでも語ってやるぜ!

本書は「形而上学」と題されるが、この言葉は本文のどこにも見当たらない。一つの哲学用語であろうが、日本語にあてがうために無理やり作り出した翻訳語のようにも映る。そこには「第一の哲学」と表わされ、その学問は「存在としての存在の研究」としている。形而上学とは、人間精神の持つ基底認識についての論考とでも言おうか、自己や精神といった形として存在することを超越した普遍的原理としての存在を研究する学問とでも言おうか。
「真理も友もともに敬愛すべきであるが、友より以上に真理を尊重するのが、敬虔な態度である」
アリストテレスは、真理の探究は困難であるが、ある意味では容易であるという。真理を的確に説明しようとすれば、ほとんど不可能だ。しかし、だいたいこんなもんだろうという程度であれば、誰にだって真理っぽいことは言える。それで失敗することもあまりない。真理ってやつは絶妙な距離感を保ちやがる。しかも、原理や原因性を説明できなくても、絶対的な神の存在を仮定すれば、すべて神のせいにできる。自分の犯した罪ですら。何かにすがっている間は、真の自由意志を獲得することはできないだろう。
実体と本質の違いとは何か?そこに真理がどのように絡むのか?すべては真理かもしれないし、そもそも真理なんてものは存在しないのかもしれない。証明できないということは、どうにでも語れるということだ。多くの真理が日常に溢れながら、同時に誤謬が存在する。これが認識能力を獲得した生命体の宿命であろうか。判断力の実践において、最も簡単な解決法は多数決に委ねることだ。だが、同時に真理から遠ざかることを覚悟せねばなるまい。真理は感覚的なものであると同時に、精神から最も遠いところにあるような気がする。
ならば、たとえ答えが見つからなくても、真理を探究することで精神が癒されるならば、それでええではないか...などと主張すれば、宗教と何が違うのか?と疑問がわいてくる。無条件に信じるのと思考を続けるのとでは全く違う!と強調したところで、脳停止状態にする方がはるかに高度な技に映る。精神の内にある存在認識を探究するということは、思考の根本原理を解明しようとすることであろう。ゆえに、人間の発明した言語を超越した世界に踏み込むことになり、自己矛盾に陥ることは避けられない。一つの言葉の多義的で含蓄のある言い回しは、国語辞典さえも無力化してしまうだろう。もはや、定義できることは数学の領域にしか存在しないのか?真理とは沈黙することなのか?天才は泥酔した読者を弄びやがる。

本書は、ピュタゴラス学徒やプラトン学徒への批判書でもある。その構図は、イデア対エイドスといったところか。ただし、エイドス(形相)という言葉でも、両者の解釈には微妙に違いがあるようだ。プラトンは、イデアという純粋原型のような普遍的実体を前提とし、数学的対象のように数字の大小関係のみで平等に存在するようなものをエイドスとしている。対してアリストテレスは、肉体と精神の結合体をエイドスとし、その多様性から質料も形相も平等に実体としている。あえて言えば、プラトンが普遍主義でアリストテレスが個体主義となりそうだが、そう簡単には片づけられない。原型と多様性の対立、質料と形相の対立、物体優位性と精神優位性の対立...んー、どれもしっくりとこない。もともと、アリストテレスはプラトンの弟子であり、自己批判に陥るところも多分にある。プラトンが数学的対象を重視しているのに対して、アリストテレスは精神的対象を重視しているようでもある。実際に、アリストテレスがローマ教会やスコラ学に影響を与え、その歴史的背景から批判の対象にされることも珍しくない。天動説の側にあったのも事実だし、科学界ではなにかと議論の出発点とされるので、批判の矢面に立たされる。アリストテレスは、あらゆる議論よりも感覚的経験を先に置いていると評されることもある。だとしても当時の科学レベルと比較しても仕方がないし、それで蔑む気にはなれない。少なくとも、論理学の最初の理解者としての地位を損なうものではない。
過去の偉大な思想家が、後の影響の仕方によって、ほとんど言いがかりのような批判を受ける例は実に多い。その偉大さを強調する弟子たちによって、かえって落とされるから滑稽である。宗教団体がビックバン説を支持したところで、量子論学者たちがその宗教を支持するわけではない。宗教とは、都合良く科学を取り入れながら、その優位性を強調するものであるからして。
精神優位性を持ち出せば、霊感主義者を勢いづける。だが、アリストテレスは客観的な存在を否定しているわけではない。ピュタゴラス教団が信奉した「万物は数である」という思考は、プラトンと同じくアリストテレスも受け継いでいる。精神の実体については、形相と単なる素材の結合体との境界線を探究しながら、思惟する実体、認識する実体としての質料、あるいは精神の最小単位のモナド的な存在を論じている。ここには科学や数学の思考の原点を見つけることができ、デカルトも、ニュートンも、ライプニッツも、その影響を受けているものと思われる。ただ、アリストテレスは、プラトンがあまりに数学を研究し過ぎると批判した。数学は哲学であるという信条があるからこそ、プラトンの方が好きなんだけど...

「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」
あらゆる存在の原理と原因性を説明しようとすれば、まず自己の存在を前提しなければならない。では、自己の存在の原理と原因性とは何か?相対的な認識能力しか持てない人間にとって、自ら思惟する意志の存在を説明しようとすれば、何か絶対的な基準となる存在を前提するしかない。その絶対的な存在を、科学は宇宙の起源に求め、宗教は神という創造主の存在に求めてきた。人類はいまだ自己の存在が何であるかを知らないでいる。自己を理解しようとすれば、自己の存在を信じずにはいられない。しかも、自己の意志を正当化しながら、存在意義という妄想を膨らませる。既得権益にしがみつき、必死に自己の存在感を強調しながら、あらゆる正当性も自己の介在なしでは認めようとしない。死んでもなお、銅像などの偶像の建設を願う者までいる。人間にとって自己の存在を否定されることほど不愉快なものはないだろう。それはすべて自己防衛本能の原理に従う。
思惟するとは、認識するとは、何を意味するのか?思考するからには対象が存在する。いや、存在と非存在にかかわらず、そのように思い込むだけのことかもしれない。思い込みとは、欲望のことか?存在には煩わされ、非存在には夢と希望を描く。その一方で、過剰な欲望に対抗して理性を働かせる。そこには、節度と欲望の葛藤がある。夢や希望は無限に思い描くことができるが、現実を見つめれば限界に苛む。理性とは、現実を受け入れることなのか?そして、夢や希望を捨て去れば、限界を感じずに自由でいられるのか?思惟せずに、認識せずにいられれば、最高の自由を獲得できるというのか?そこに最高の幸福が見えてくるのか?人間は、自ら思惟することで精神の囚人として生きている。ならば一旦、自己の存在を無と仮定してみてはどうだろう...

1. アリストテレス
アリストテレスは、プラトンの学園アカデメイアに入門し、アレキサンダー大王の家庭教師となったことは広く知られる。忠実なプラトン学徒でありながら反プラトン主義を開化させるとは、なんとも皮肉だ。彼は、プラトン学徒から離れ自ら学校を創設し、神殿に因んでリュケイオンと名付けた。その学徒たちはペリパトス学徒と呼ばれた。ペリパトスとは「散歩する人々」という意味で、毎朝学校の並木道で散歩しながら哲学論議に耽るのが習慣だったという。
アリストテレスは、ギリシャ文化こそあらゆる文化より優越すると考え、世界の支配国家となるべきだと唱えた。しかし、アレキサンダー大王は、その意に反してアジア遠征でバルバロイ(異民族)との相互融和、東西文化の交流を企図した。大王の死後、アテネで反マケドニア運動が蜂起し、ソクラテスと同じように国家の神々に対する不敬罪を問われる。そして、母の故郷カルキス市に逃亡して、その場で病死したと伝えられる。
彼の功績は、自然学、生物学、霊魂術、弁論術、論理学、政治学、倫理学、教育論など多岐に渡るが、その多くは失われているそうな。それでも作品がかろうじて残るのは、アリストテレス研究者たちの努力によるものらしい。晩年の作品には「ニコマコス倫理学」があり、息子ニコマコスが編集したとされる。こちらも、いずれ挑戦してみたい。
本書は、理論哲学は、自然学と数学と神学の三つのうちにあるとし、中でも神学が最も尊いとしている。霊感的な思想に頼っていた時代だから、神学を中心に置くのもうなずける。プロタゴラスやゴルギアスやプロディコスといったソフィストたちの弁論術が優勢な時代でもある。
ちなみに、プラトンは、ソフィストの術を非存在を対象とする部門に分類したという。ソクラテス、プラトン、アリストテレスと受け継がれた時代は、理論哲学の創世期とも言えよう。そして、若干の客観性を取り入れつつ進化してきたのが、学問ということになろうか。現代思想と比較しても、客観性の抽象レベルで若干の違いを見せるぐらいなものか...

2. 公理と真理
公理は自明の真理であって、けして証明できない。公準のように自明でない真理もあるが、いずれも証明できない。公準によって別の公準が証明できても、それは純粋な証明ではない。自然社会には、こうした受け入れるしかないものが山ほどある。だからといって、これを宗教と言えようか?点や線や面といったものは数学上の概念であって、幅のない点や線、厚みのない平面なんて存在しない。線は点の集まりで説明でき、面は線の集まりで説明できるだけのこと。そして、あらゆる物体は、点や線や面の集合体として説明できるだけのこと。
存在しない概念から存在が説明できるとなれば、既に自己矛盾に陥っている。よって、存在の真理を探究すれば、非存在を無視するわけにはいかない。だから、存在するものは必ず消滅に追い込まれるのか?そこで、単純化した思考が提示できる。それは、そもそも実存なんて幻想に過ぎない!ということだ。人間社会は現実社会を放棄しながら、仮想社会へと向かい、あらゆる実体を誤魔化そうとする。破壊のカオスへ喜んで進むかのように。なるほど、人間の最も幸せな精神状態というのは、現実逃避ということか。
それにしても不思議なのは、完全性や絶対性を知らないくせに、不完全性や相対性を認識できるのはなぜか?死がなんであるかも分からないのに生へ執着するのはなぜか?などと疑問を持ちはじめると、本当に認識できているのか?と疑いたくなる。そして、存在とは人間認識の産物でしかないことになる。人間は思惟する悪魔なのか?自然界にとって、人間認識ほど厄介なものはないのかもしれない。

3. 存在と非存在
認識論でいう「充実体」と「空虚」の違いとは何か?一般的には、前者が存在で、後者が非存在ということになろう。つまり、非存在という存在を認識していることになる。そして、認識できるものはすべて存在すると解釈すれば、デカルトのような神の存在証明が成り立つだろう。人間は、愛という妄想に憑かれ、根拠のないものほど信じやすい。そして、理性の存在が幻想であると悟った時、はじめて理性という現象が生起するのかもしれない。となると、無もまた存在なのか?「何かが欠如している」と言えるということは、欠如した状態が認識できるということだ。自己の存在を前提しながら、その属性については非存在を認識しているという奇妙な関係がある。
ところで、精神が無い状態って、どんな状態であろうか?宇宙空間にとって最も自然な状態なのかもしれない。モナドロジーを信奉する人たちは、あらゆる物質に精神が宿ると考える。彼らは、物質を構成する最小単位が物理学的な素粒子などではなく、形而上学的な精神原子のようなものを想像する。物事を総体として眺めようが、個々の構成要素に注目しようが同じく存在する。にもかかわらず、人間はその違いに格付けを与える。人間が動物から進化する以前から物質は存在したはずだが、その時系列的な解釈で生命体が高尚化すると信じている。
また、誤謬という奇妙な認識も非存在と言えるかもしれない。だが、人間は誤謬を真理と区別なく認識できる特技を持っている。この認識能力は神ですら及ばないだろう。そして、自己の存在を前提できなければ、あらゆる認識論は脆くも崩れる。人間の存在とは、実に果敢ないものである。となれば、誤謬を犯している間は幸せということか。

4. イデア対エイドス
本書は、プラトン学徒が単純物体の存在や非物体的存在は説明しても、運動の原因を見落としていると指摘している。ここでいう運動とは、精神の運動であろうか?更に、原型が本質だとしても、原型から派生した実体があり、これまた存在の本質であるという。
「エイドスを語る人々は、それらを離れて存在するものと説いているが、いやしくもそれらが実体である限り、この点では正しい、しかし、かれらは多くのものの上に立つ一つのものがエイドスであると説いている点では正しくない。」
プラトンは、イデアを本質とし、更に数学的な対象である数字の大小関係のようなものだけをエイドスとし、これら属性を実体と解釈したようだが、アリストテレスは、多様性としてのエイドスをすべて独立した実体としているようだ。それが理想的な存在であろうが、現実に存在するものであろうが、どちらも実体ということなのだろう。いや、イデアのような原型は、実体ではなく理想的な雛形に過ぎないと言っているのだろうか?プラトンは、ある実体を前提しないと存在できないものがあり、同じ存在でも前後関係や先後関係があるとしている。対して、アリストテレスは、属性や付帯的な存在、あるいは偶発的な存在も、等しく実体だと主張する。理性的存在で語るならば、プラトンは理想の原型が実体として存在すると考えるのに対して、アリストテレスは人間が理性の持ち主であるならば、人間の数だけ理性が存在するといったところであろうか。
そもそも、絶対的な理性を獲得したわけではないので、理性の原型を持ち出されても、その正体が分かるはずもない。もし理性の原型が存在したとしても、性格や形相が遺伝子的に受け継がれながら悪徳を身に付けていき、もはや純粋な認識能力がとこにあるかも分からない。それでも、あらゆる物事は無から生じるような気がするのはなぜか?その無が何か原型のようなものを持っていると前提しなければ、実体が生じるとも想像しにくい。よって、イデア論も捨てがたい。ただ、基体なるものを真の実体とし、その基体に属する形どったものは、実体ではないとするのも抵抗がある。
そして、どちらに軍配を上げるかは、状況に応じて都合良く使い分けることになる。質料から実体を演繹する方が、物理学的な物体を元素の集合体と説明するのに似ていて、実体と属性を分ける方が分かりやすいという点ではプラトンか。質料も形相も同じ実体とし、社会学的に多様性を認めているという点ではアリストテレスか。結局、あらゆるものの本質である不滅な実体を示すことはできないし、普遍的なモナドのような実体を示すこともできない。
ただ!確実に言えることは、夜の社交場におけるアル中ハイマーの幽体離脱説を説明するには、イデア論の方が都合がいい。

5. 存在の原理
存在を、消滅しうるか消滅しえないかで分類すると、その実体が少し見えてくるかもしれない。イデア的な存在で消滅しないものがあるとすれば、DNAのようなものか?宇宙空間で消滅しないものがあるとすれば、素粒子のようなものか?何か体系をなして存在しているものは、いずれ消滅するだろうし、宇宙自体が消滅しそうな気がする。実体とは、消滅するものでなければならないのかもしれない。
何かを定義できるということは、何かの原理から演繹されるか、あるいは帰納されるかである。すべての実体が平等に存在するとなれば、数字の大小関係のように相互関係から演繹するぐらいであろう。数は他の数から定義できても、その数自体は証明できない。となると、基準が見えない。数の中にイデア的な存在があるのか?公理が証明できないように、存在もまた証明できないのか?あらゆる存在を数に還元すれば、すべての実体は、関係においてのみ定義できるだろう。だから、あらゆる財産は貨幣で換算され、命ですら貨幣価値で算出される。なるほど、「万物は数である」といわけか。
あらゆる存在は、何らかの関係によってのみ説明できそうだ。いや、そう信じたいから、「君のために俺がいる!」なんて浮いた台詞が吐ける。無を認識できるから有が認識できる。幻想に憑かれるから実存らしきものが見えてくる。存在の原理は、すべてこれで説明できるだろう。ただ、説明できるからといって、それが真理とは言えないけど...
そして、酔っ払いの存在は「なぜ酒を飲むのか?」と問えば、「そこに酒があるから」と単純化できる。これが、純粋な、いや純米な存在の原理ではなかろうか...

2011-04-17

"嘔吐" ジャン=ポール・サルトル 著

「LA NAUSEE (ラ・ノゼ)」とは、ブランデーの銘柄にあってもよさそう。やはり吐くほどの強烈な酒ということになろうか。その訳は、「嘔吐」とするのは誤りで、「吐き気」とするのが正しいという。活字的に座りが悪いことから、この題名になったそうな。ルビを振って「嘔吐(はきけ)」とする話もあったとか...
サルトルというと共産主義者という印象があるので、いまいち読む気がしなかった。しかし、本書はイデオロギーに毒されたところがなく、純粋な文学作品に仕上がっている。そして、実存主義的思考から生じる不条理と対峙する。あらゆるものは偶然的に存在し、それに対して人間は無力だ。その無力感を酒を飲みながら楽しむか、嘆いて絶望感に浸るかは好きにすればいい。もう一つの選択肢として、無意識無想の概念を加えたいところか...
本書が綴るのは、精神に静かに忍び寄る実存的病魔といったものである。人間が思惟したり認識したりする根本的原因は、自己の存在認識にあろう。人間は生涯この基底認識から逃れられない。それは精神を獲得した生命体の宿命であろうか?その正体が見えないだけに、あらゆる悩みの根源となり、慢性的に吐き気に襲われる。
吐き気が永遠に続くとしたら...嘔吐できるものがあれば、まだましというものか。

主人公は、図書館と場末の酒場に通うアントワーヌ・ロカンタンという男。彼は、中央ヨーロッパ、北アフリカ、極東方面を旅行した後、ド・ロルボン侯爵という18世紀の人物に関する史的研究を完成させるために、フランスの港町ブーヴィルに滞在している。そして、いつ日か精神の内に忍び寄る病魔を感じるようになる。ちょっと変で少し窮屈な感じ、ただそれだけのこと。だが、一旦精神の内に適当な場所を見つけたら、静かに収まって動こうとしない。それは思い過ごしに違いない。そう言い聞かせるが、疑う余地がない。やがて明確な形として現れてくるのだから。
仕事としての歴史研究、酒場のマダムとの色事、彼女との甘い思い出、ヒューマニスト独学者との出会い、そのすべてが吐き気を誘う。日常の変化になんとなく居心地が悪い。そう感じるのは、自分が変わったせいだと納得しようとする。なんと不愉快な解決法であろうか。
歴史では社会の閉塞感から大変革をもたらす。人間精神もまた内面の倦怠感から変革を起こすのだろう。ぎくしゃくしたものが一貫性を欠き、その矛盾に苛む。いったい精神の内で何が起こっているのか?思考は言葉と結びつかず、支離滅裂を繰り返し、意識が朦朧としていく。
彼は、ついに悟る。誰の意識の中にもアントワーヌ・ロカンタンなんて人物は存在しないと。それは単なる抽象的な概念のようなものに過ぎないのだと。意識しなければ存在すらできない。人の存在とは、そんなものかもしれない。だから、政治屋や報道屋は自己の存在感を強調しようと大声で叫ぶ。まったく鬱陶しい奴らだ。彼らが存在しなければ、世間は静かになるだろうに...
ところで、自分自身を余計者と考えるのは過失であろうか?社会への絶望、人間への絶望、そして自己への絶望などと膨らませていくと、存在するすべてのものが恥ずかしいものに見えてくる。その苦しみから逃れる術とは?あらゆる存在を否定するしかないのか?そして、苦しみすら存在しないと。
しかし、あらゆる存在は苦しみとの関係において余計なもの...と考えたところで、吐き気は収まらない。そうなると、存在の不条理を覆い隠すために、別のことを見出すしかあるまい。人生は死までの暇つぶしというわけだ。そのためには、自己を欺くことになりそうだが...

「人間が自分の理性を籠絡しておいていかに偽ることができるかに、私は感嘆する。」
人間は本来的に孤独である。あの世へは一人で旅立つしかないのだから。それでも、周りの人々と幸福や不幸を共有しているうちに、孤独ではないと信じられるようになる。いや、信じたいと願っているだけのことかもしれない。実際に、あなたは一人ではない!と励ましてくれる人たちがいる。だが、一人だと思い知らされた時、彼らを詐欺師だと思うだろう。一人かも知れないし、一人ではないかもしれない。どちらも精神にとっては、良くも悪くも作用する。結局、都合良く受け入れるしかあるまい。いずれ周りの友人や同世代の人々が去っていき、孤独に苛まれる日々が来るだろう。
自己の存在を崇めるほど、孤独という反動が返ってきそうだ。ならば、存在を無に還元できれば、真の自由が獲得できるだろうか?それでも孤独を感じるだろうか?世間は孤独を悪のように言うが、そもそも孤独は精神にとって厄介なものなのか?...などと自問しながら、老人病を患っていくのだろう。精神と正面から向き合うということは、孤独を覚悟することなのかもしれない。
有頂天になっている時は、充実感を満喫できて吐き気など催さない。人生で最も自信の持てる時期とは30代前後であろうか。それなりに経験も積み、仕事では中心的な存在となる頃。だが、周りが見えてくると、根拠のない不安に駆られ吐き気を催す。自信を構築してきた知識が、自信を崩壊させていくとは。失敗の可能性が見えてくると、それを極端に恐れるのは、そこに脂ぎった欲望が絡むからであろうか?しかし、それが通り過ぎると気楽になれる。記憶力や思考力の衰えにも諦めが生じ、いい加減さを楽しむようになる。恐怖心よりも精神の麻痺が優勢となれば、絶望ですら感じなくて済む。そして、知に対する純粋な渇望とは、無我の境地ということになろうか。

1. ド・ロルボンという人物の歴史研究
ド・ロルボンは醜男だったという。王妃マリー・アントワネットから面白がられるほどに。だが、宮廷のあらゆる女性をものにした凄腕の持ち主。首飾り事件で怪しい一役を演じて失踪した後、ロシアに現れパーヴェル1世の暗殺に関与したという。続いてインド、シナ、トルキスタンなどでスパイ活動に従事。パリに戻ると、ダングレーム侯爵夫人の唯一の相談役として権力を掌握する。70歳には18歳の美女と結婚。そして、反逆罪に問われ5年の牢獄生活の後に死んだという。ロシア皇帝のために高級スパイを演じながら、ナポレオンのためにアレクサンドルを裏切るという陰謀家。
その隠された歴史を調査するからには、証言の整合性を欠いて苛立つ。証言者たちが、サディズム的魔術師、あるいは理性を失った半狂人といった悪魔的人間に見えてくる。そして、謎めいた人物の存在を研究しているうちに、虚像を追いかけているような感覚に見舞われる。陰謀家には友人らしき者もいない。その孤独感を自分と重ねるかのように人間嫌いに陥る。ロカンタンにとって、自分の存在を正当化できる唯一のものが、研究対象であるド・ロルボンの存在だったのだ。彼は、自らの誤りをド・ロルボンを甦らそうとしたことだったと悟る。
過去の人物を研究すれば、そこに自分の居場所を見つけることができるのか?歴史家とはそうした性分を持った連中なのか?過去に自分の居場所を見つけるとは、なんとロマンティックな。言い換えれば、現在に居場所がないということか。未来に居場所を見つけるよりは確実かもしれないが...

2. カフェ・マブリーのマダム・フランソワーズとの色事
なにかと母港のようにカフェに通う。会話はなんの役にも立たず、ひたすら肉体をむさぼる。これが、憂鬱から解放される唯一の方法なのだ。愛という形のないものよりも、肉体という実体にしがみつくというわけか。だが、ふと現実を振り返ると、吐き気へと引き戻される。
ちなみに、夜の社交場の放浪者は、帰宅した途端に虚しくなり、どっと疲れがでる...と聞いた。

3. 昔の彼女アニーの思い出
過去の甘い思い出が癒してくれるとは限らない。むしろ、その反動で苦々しくなることがある。アニーと音沙汰がなくなって5年が経った。ロカンタンは記憶が甦るたびに吐き気を催す。いつのまにか、その微笑すら思い出せなくなる。そんな時、会いたいという手紙が届く。しかし、会ったところで愉快になれるかは分からない。彼女は高飛車で小悪魔的な存在。その強気の性格から喧嘩をふっかけられるかもしれない。ただ、手紙をもらった瞬間から、忘れていた彼女の微笑が甦る。なんだかんだと言いながら、結局会いに行く。呼び起された情愛を感じたいから...男とは、つまらぬものに期待をかけるものだ。

4. ヒューマニストの独学者
どちらが生を演じるにせよ、ド・ロルボンとロカンタンは互いの存在を必要としている。歴史家が研究を放棄すれば、歴史に埋もれた人物が甦ることはない。ロカンタンは、図書館で研究をしながら、過去の人物と現在の自分との存在関係で苛む。その側には、量子論だろうが進化論だろうが、ひたすらアルファベット順に読み漁るヒューマニスト独学者がいる。退屈を紛らわすことこそ精神の安住と言わんばかりに。
ヒューマニストにもいろいろなタイプがあるようだ。
「責任感の強いヒューマニスト哲学者、人間をあるがままの姿で愛するヒューマニスト、人間をあるべき姿で愛するヒューマニスト、同意を得てから救済するヒューマニスト、意に反しても救済しようとするヒューマニスト、生を愛するヒューマニスト、死を愛するヒューマニスト...」
彼らは互いに憎みあう。それは、個人としてであって人間としてではない。彼らは等しく有識者と呼ばれる。
「ヒューマニズムは、反主知主義もマニ教の善悪二元論も神秘主義も厭世主義も無政府主義も自己中心主義もすべて消化した。」
独学者は、実存と対峙し、自らの存在価値と対峙し、自己嫌悪に陥る。誰も相手にしようとしない哀れなヒューマニスト。教養の夢、協調の夢、そうしたものが一挙に崩壊し、恐怖心は嫌悪感となり、人間嫌いとなって孤独の殻に籠る。おまけに、図書館で触り魔事件を引き起こす助平野郎になりさがった。実存から逃避すると変態行為に及ぶのか?自己の存在を否定し自棄になれば、犯罪を正当化できるというわけか。独学には孤独の修行が欠かせないようだ。
実存を肯定しようが否定しようが、何かに従順になるということは精神を怠惰にするだろう。その一方で、真の自由を求めて思考を続けたとしても、精神の存在は見えてこないだろうし、そのまま居場所を失うだろう。精神とは、怠惰に向かうか居場所を失うかしかないのか?そうなると、精神病患者とは、あえて精神の限界に挑んだ勇気の持ち主ということになりそうだ。
「私は自由である。つまり、もはやいかなる生きる理由も私には残っていない。」