なぜ、人は群れるのか...
人との付き合いに飽きれば、自然との戯れを欲し、いつも何かと接していないと落ち着かない。それゆえに、自我を肥大化せずにはいられないのか。知識や美徳を求めるのも、詫や寂を欲するのも、その類いであろうか。人はみな、寂しさに耐えながら生きている。ただ、それだけのことかもしれん...
人間には、心地良いものに群れる習性がある。虫が灯りに引き寄せられるように。都合の良い解釈で集まり、似たもの同士の相乗効果によって感情論を増幅させる。個人で見せる豊富な寛容さや冷静さは、集団の中ではまったくの無力。人間社会では、善玉菌より悪玉菌の方が感染力が強そうだ。堂々とした悪徳と陰湿な正義が同居し、加害者が正義を装って被害者の側に回ることもあれば、真の被害者が退場させられることだってある。売り言葉に買い言葉... 何気ない一言に怒号が群れ、理性の検閲官を自認する者が、ますます横暴に振る舞う。たとえ小さな善意の集まりであっても、しばしば大きな悪意へ変貌し、正義ですら社会的制裁だけでは飽き足らず、ストレス解消の道具とされる。
人の集まるところに欲望が群がる。善意によって集められた支援金は、多額なだけに質ちが悪い。一人で良い目にあうと、それを誰かに伝えたくてしょうがないものらしい。善意の性分は、押し売り根性と相性がいい。
人には、集団からはみ出すことを嫌う性向がある。派閥を作っては、自ら思考することを放棄し、一人の長に意思決定を委ねる。正直者は堕落と官僚主義に押し流され、集団的な堕落は、不和から生じるのと同じくらい同意からも生じる。戦争とは、集団性の産物でしかあるまい。
おまけに、プレゼン力やアピール術が物を言うと真理は多数決に流され、魔女狩りの類いは過去にもまして牙を剥く。情報が氾濫する社会では、情報のS/N比を低下させ、弁論術はソフィストの時代よりもいっそう盛況となる。露出狂と暇人が共謀してゴミ投稿を煽り、ネット資源を浪費し続ける。
こりゃ負けちゃおれん!そして、自己の馬鹿を曝け出し、自己の馬鹿を舐めるように愛しながら書く。そう、ジャンク長文で応酬だ!
1. 個人と集団の差異
人体は原子の集まりによって形成され、そこには一つの魂が宿る。人間社会は個人の集まりによって形成され、ここにもまた集団的な意思が生じる。個人と集団の違いは、原子には意思なるものがないが、個人にはあるということぐらいであろうか。純粋なものが集まれば秩序が生じ、意思あるものが集まれば秩序を乱すというのか?だから、政治家どもは思考しない国民を求めているのか?なるほど、思考しない者が思考しているつもりで同調している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。
固い結束はファシズムと相性がいい。自意識を高めた輩が群れると、正義や義務までも凶暴化する。一昔前、B29に竹槍訓練で対抗しても仕方がないと呟けば袋叩きに合い、講和論を唱えようものなら非国民と呼ばれた。そして今、東京オリンピックの開催に苦言をツィートすると非国民と罵られる。福島原発のあの有り様を見て、なにが復興オリンピックなのか?泥酔者にはとんと分からん。
近年、国粋主義や全体主義から離れて、違った形でファシズムが横行する。禁煙ファシズム、エコファシズム、友愛ファシズム、絆ファシズム、原発ファシズム、脱原発ファシズム... 集団が束になって流行めいたものを追いかけるという意味では、一種のファッション感覚。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ...とは、まさにこれだ。高度な情報社会には、戦時中にもまして検閲官どもが溢れている。人間の意思ってやつは、大勢の語り手に圧倒されると、狂気するものらしい。では、誰も悪くないというのか?いや、誰もが少しずつ悪いのだろう...
2. 笑い禁止令
笑いを感じる能力は、音楽を感じる能力と似ている。音楽センスに長けた者が美しいメロディーを感じることができても、目の前にある芸術にまったく気づかない人もいる。そこに確実に存在するものは、音波という物理現象のみ。それを感知する能力は、極めて主観的で、どこか狂っている。論理をもってしても、理性をもってしても、説明できない。だから面白い。真の芸術は、わざわざ権威を示す必要がない。理解者のみが自然に堪能できればいいのだから。それは、聖書を理解できる者が、その権威を示す必要がないのと同じであろう。笑いもまた高度な芸術の領域にあるのだろう。笑いの能力は高等な動物の証とされる。それゆえに検閲の対象は、まずもってこの方面へ向けられる。
しかしながら、理性が暴走すると、冗談も言えない息苦しい社会となる。エイプリルフール禁止運動まである。確かにネット社会には、行き過ぎたイタズラの類いが風説流布となって猛威をふるう。目を覆いたくなるようなものまで。これに対抗して、理性の検閲官はちょっとした冗談でさえ許さず、ソーシャルメディアという裁判に引き出し、集団リンチにかける。リンチに参加するつもりがなくても、無責任にコメントしたり、気軽に賛同するだけで参加させられる。責任ある立場の者が問題を曖昧にする分、明確な意見を言う者がバッシングされる。謝罪はもはや形式だけ、真摯、誠実、反省... こうした言葉をますます安っぽくさせる。凡庸を自覚できなければ、その他大勢にも完璧を求めるというのか。まるで言霊信仰!情報社会が高度化すると、情報の自由化が進み、知識や価値観に多様性をもたらしそうなものだが、逆に同じ解釈をする人々が集まって二極化する。
しかしながら、多様性は寛容性と相性がよく、笑いのセンスほど多様性に富んだものはない。笑いのレベルで社会の成熟度を計ることができよう。冗談も通じない社会となれば、言葉が貧弱になり精神もまた貧弱になる。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、それらが共存するためには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真の意図だと思う。笑いを禁止しなければ理性が保てないとすれば、理性もまたどこか狂っている...
3. バラエティー化と引き算の法則
マスコミの正義ほど違和感を覚えるものはない。悲劇を演出しながら、人格まで事細かく報じ、被害者を晒し者にする。被害者の写真のドアップが、加害者よりも、はるかに放映時間が長いとはこれいかに?マスコミは、人に勝手なキャラクターを植え付け、メディアという舞台で演じさせる。マスコミ嫌いには悪役のレッテルを貼り、媚びを売る者には善人役を与えるのだ。したがって、論理的に語れる者よりも、感情的に巧みな者の方が、好人物の役柄が得られることになる。スポーツ中継では、アスリートですら勝手にキャラクター付けされ、純粋に楽しめない。場内音声のみという選択肢しかないか。題材とは無関係のタレントを出演させ、スポーツや政治など、あらゆる分野にバラエティーを混入し、双方の世界を台無しにする。視聴率主義が、なんでも足し算させようとするのだろうか?
政界にも、足し算の法則に目を奪われ、政党の合併や選挙協力によって支持層を増やそうとする目論見が横行する。まったく性質の合わない政党が結びつけば、却って逃げていく支持者がいる、という思考は働かないらしい。無節操な混ぜあわせは、引き算の法則が働くであろうに...
4. 良識派ども
自称良識派は実名主義を掲げ、理性的な議論を求めるために極論を持ち出す。だがそれは、価値観の押し付けという側面がある。実際、正義感旺盛のネット民によって、実名はオモチャにされ、脅迫、誹謗の類いに曝される。法に基づかない私的制裁が、社会的制裁に変貌するのに大して手間はかからない。これは、実名うんぬんより、集団性の法則として承知しておくべきであろう。自由主義の暴走は、迫害にも自由を与える。
市民運動にだって利権が絡み、真の意味での民主主義運動を見分けることは難しい。中には、純粋な動機で参加している人々もいるが、その運動に利権を絡めた政治屋が暗躍することも多々ある。尚、ここで言う政治屋とは、政治家だけではない。あらゆる集団には謀略好きな輩が必ずいるということだ...
Contents
- 2015-01-25 理性の検閲官ども
- 2015-01-18 暴走老人症
- 2015-01-11 暴走主義
- 2015-01-04 こけた...
- 2014-12-28 "無形化世界の力学と戦略(上/下)" 長沼伸一郎 著
- 2014-12-21 "ラファエロ" 若桑みどり 著
- 2014-12-14 "ラファエロの世界" 池上英洋 著
- 2014-12-07 壊れかけの Raid
- 2014-11-30 "昨日の世界(I/II)" Stefan Zweig 著
- 2014-11-23 "人類の星の時間" Stefan Zweig 著
2015-01-25
2015-01-18
暴走老人症
文豪ゲーテは、七十を過ぎて二十歳前の娘に求婚したという。not 酒豪も負けちゃおれん!一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。ホットな女性の数だけ愛があるとすれば、惚れっぽい独身貴族こそ純粋な平等主義者となろう...
さて、歳を重ねると丸くなると言うが、それは本当だろうか。心配症を募らせ、せっかちになり、頑固になり、嫌味の一つも口にしないと気が済まない。説教することでストレスを発散させているのだ。おまけに、足が臭くなり、口が臭くなり、酒の場で醜態を演じながら、肉体も精神も腐っていくのを感じる。
信じられない速さで去っていく... 時とは、そういうものらしい。だからこそ、自然で風狂な言葉を欲するのであろうか。死に近づけば、詫び、寂びってやつが見えてくるのかは知らん。だが、そうした美意識にでも縋らなければ生きることも難しくなる。沈黙の美徳を忘れ、相手を黙らせてまで議論に割って入り、批判論、いや愚痴論を喋らずにはいられない。これも、ある種の依存症か。
もはや、デジタル依存症などと若者たちに説教を垂れている場合ではない。ちなみに、スマホを自宅に忘れ、オンライン(二段階)認証ができないと騒ぐオヤジがいる。
経験を積んだからといって理性的になるわけではない。経験したからといって理解したことにはならない。生まれたばかりの幼児は、野心や邪心の欠片もない純粋な状態にある。対して、大人はどうであろう。
プラトンは、森羅万象の原型であるイデアなるものを唱えた。魂にも原型のような状態があり、そこから善の根源的な意識が芽生えると。しかし、知識を得れば、そのすべてを脂ぎった欲望に注ぎ込み、もやは知識のない頃の自分を思い出すこともできない。人の言葉は耳に入らず、思いやりや友情などという言葉に照れくささを感じ、正義や道徳という言葉ですら虫唾が走る。子供が素朴な哲学者とすれば、大人は脂ぎった屁理屈屋というわけだ。寛大な者を僻み、人々に愛される者を妬み、知識ある者を羨み... 魂は嫉妬の塊に成り果てる。おまけに寿命が延びれば、生への執着は衰えるどころかますます旺盛となり、命が一番大切だと叫びながら、他人の命を押しのけてまで助かろうとする。そして、どう生きるかではなく、長く生きることが目的と化す。ますます自己保存に執着し、未練を永遠に断ち切れそうにない。
その一方で、余命宣告を受けた者が、超人的な能力を発揮することがある。死に近づくことによってしか、生を問う機会が訪れないというのか。平均寿命が延びれば、新たな世代層が生まれ、社会の構成員が変わり、幼年、少年、青年、壮年、老年の概念も変わっていく。だが、いつの時代も、古き時代を鼻で笑い、新しき時代に過剰な期待をかけることに変わりはない。新技術や最先端という言葉に目を奪われ、進化や進歩という言葉までも迷信化する。そんな時代にあっても数千年前の哲学が輝きを失わないとすれば、人類は慢性的に老人症にかかっているのかもしれん...
受け入れる度量のない子供に道徳観や倫理観を期待しても、人間が人間でなくなることを期待するようなものである。とはいえ、大人だって具体的に指示しなければ、行動できないではないか。大人だって大きな子供でしかない。
孔子曰く... 十五で学問を志し、三十で独立精神を持ち、四十であれこれと迷わず、五十で天命をわきまえ、六十で人の言葉を素直に聞き入れ、七十で思うままに振る舞って、それで道を外れないようになる...
しかし現実は、十歳でお菓子に、二十歳になると快楽に、三十になると野心に、四十になると愛人に、五十になると利欲に憑かれる。そして、迷信、偏見、誤謬へ導き、自分を賢いと信じ、人を見下すような権威主義に陥り、人権はとるに足らないものとなる。都合の悪い問いかけは、脂ぎった魂が常識とやらで片付けてくれるという寸法よ。
腐敗は、生あるものの本質か。自己に疑問が持てなくなったら、腐っていると見るぐらいでちょうどいい。大人から教わることは、たいてい本を読めば済む。だが、子供から教わることは、理屈では説明できないことが多い。R-18 指定すべきは、理性や知性の方かもしれん。酒の味を知らぬ者が、プラトンの「饗宴」を読んだところで得られるものはあるまい...
1. ささやかな煩悩
一霊四魂という思想があると聞く。勇、親、愛、智によって構成される魂が、一つの霊によって統括されるという思想である。いずれの魂も孤立すれば、邪気となる資質を具えている。邪気が悪魔の手に落ちれば、たちまち邪悪な鬼と化す。血塗られた歴史の陰には、いつも邪鬼が潜んでいた。アダムとイブが禁断の果実を食して以来、人間は神の意を解すことができなくなり、お釈迦様ですら菩提樹の下で心を惑わせた。イエスは敬虔な使徒に裏切られ、シーザーは誠実な盟友にあやめられ、芸術を愛した皇帝ネロを暴政に狂わせ、ボルジア家を強欲の代名詞とし、建築家を夢見た内気なヒトラーをば悪魔へ変貌させた。人の心には、恐ろしき邪鬼の棲家がある。歳を重ねれば、心の病を克服することができるだろうか?
仏教では、克服すべき最も根源的な三つの煩悩を三毒と呼ぶそうな。貪、瞋、癡が、それである。一つの欲望を満たせば、すぐに次の欲望に走る。他人が持っているものが良く見え、それを欲する。カネが欲しい、愛人が欲しい、時間が欲しい、快楽が、才能が、知性が、理性が... まったく懲りない性分よ。すべての欲望を放棄できれば、精神は自由になれるであろうに...
しかしながら、精神は欲望によって成長する。欲望を捨てたいというのも、これまた欲望!精神とは、欲望に幽閉された存在というだけのことかもしれん。
一方で、芸術家の目覚めは精神を悟るに、いくら狂っても足りない。四魂の邪鬼を存分に解放させてもなお、猛烈な狂気の調和を目論んでやがる。ただ、能力が欠けていても夢を描くことはできる。偉大な夢を実現できたら、どんなに幸せであろう。せめて過ちを夢に閉じ込められたら、どんなに楽になれるであろう。そして、狂人の悲痛な叫びを聞くがいい... おいらのささやかな望みは、ハーレムに収監されたいだけなのだ!
2. 頭脳年齡と知性年齡
若い頃は、優れた人物の言葉に率直に耳を傾け、同世代の仲間と議論することで、より多くを学ぶことができる。だが、大人になると防衛意識や縄張り意識のようなものが働き、似た者同士で集まろうとする。寛容性では子供の方が優れていそうだ。友情とは、人を利用するために育むものではあるまいに...
本質を学ぼうとする資質も、政治的な思惑に毒された大人よりも、純粋に学びたいと願う子供の方が優っていそうだ。やはり大人になるほど狡猾になるものらしい。
しかしながら、大人や子供の指標は年齡では計れない。仮想社会の奇妙な人間関係が、妙に社会的な意識を成熟させたり、大人顔負けの戦略的思考を実践する者までいる。大人たちがネット社会から子供を守ろうと手引を思案している間に、子供たちは遥かに有用な行動をしている。むしろ大人たちの方が、子供の持ちかける議論に感情的になり、子供じみた犯罪を繰り返しているではないか。
長老という威厳も過去のものか。寿命が延びれば、親より先に逝くケースも増え、世代の概念までも曖昧にさせる。頭脳年齡や記憶年齡というのは、確かにある。肉体が衰えれば、人体の機能組織が衰えるのも道理だ。知識を得ようとする意欲もまた年齡に関係しそうなものだが、死ぬ瞬間までその意欲を持続させる者がいる。持続力とは、天才の特質であろうか。知性年齡や理性年齡なるものは、時間とは別の次元にありそうだ...
3. 遠近法と老眼法
情報の溢れる社会では、あまりにも身近なために、つい見過ごしてしまうことがある。情報収集の難しい時代は、瞬時の変化を探知する微分的視点が必要であったが、今日では、積分的思考の方が有効であろう。世間から少し距離を置くことも大切にしたい。意欲さえあれば、情報は自然に得られる時代、くだらない意欲さえ放棄できれば、くだらない情報は自然に遮断されるであろう...
分かりやすい情報は目の前を通り過ぎて行きやすい。そこに疑問を感じなければ、思考する機会も訪れない。その点、難解な書は思考の材料にうってつけだ。だからといって、理解できると期待してはいけない。目は文章を追うものの、頭は別のことを考え、幽体離脱のような気分にさせる。絵画を鑑賞するようにページを眺め、数十ページ単位で後戻りするのもしばしば。少し目を離し、遠近法のような立体的な観点を要請してくる。そういえば最近、近くが見えにくい... 老眼って言うな!
4. 地球の老化とともに
毎日、顔を合わしていれば、十年経っても変化した様子が見当たらないというのに、十年ぶりに友人に会うと、歳をとったなぁ、という印象を与える。そして、毎日、自分自身を鏡に映し、明日はまだ大丈夫!と自分に言い聞かせる。そして、保証のない安心を買い、不摂生を繰り返す羽目に...
地球環境も似たようなものであろうか。平凡な日常が、環境の変化に気づかせない。百年前の人が現在にタイムスリップしたら、空気の香りや山の景色に驚愕し、町の汚染に幻滅するかもしれない。温暖化と寒冷化の繰り返しは、生物の生存分布に大きな影響を与える。今後、十年から二十年ほどのスパンで世界的な食料危機が訪れると言われている。ある研究報告によると、植物が光合成によって生産する有機物の総量、いわゆる純一次生産が、地球上でほぼ一定だとか。つまり、地球上の植物で養うことのできる生命の総量が決まっているということだ。
もし、その量が限界に近づいているとすれば、酸素を必要とする動物たちを激減させて、二酸化炭素を吸収する植物の社会からやり直さなければなるまい。それが、氷河期の意義であろうか?やがて氷河期を迎え、人類がまた生き延びられるかは知らん。ただ、偉大な地球の歴史に照らせば、エネルギー消費量の高い生物は、その数を思いっきり増やしてきたツケを払わされることになろう...
さて、歳を重ねると丸くなると言うが、それは本当だろうか。心配症を募らせ、せっかちになり、頑固になり、嫌味の一つも口にしないと気が済まない。説教することでストレスを発散させているのだ。おまけに、足が臭くなり、口が臭くなり、酒の場で醜態を演じながら、肉体も精神も腐っていくのを感じる。
信じられない速さで去っていく... 時とは、そういうものらしい。だからこそ、自然で風狂な言葉を欲するのであろうか。死に近づけば、詫び、寂びってやつが見えてくるのかは知らん。だが、そうした美意識にでも縋らなければ生きることも難しくなる。沈黙の美徳を忘れ、相手を黙らせてまで議論に割って入り、批判論、いや愚痴論を喋らずにはいられない。これも、ある種の依存症か。
もはや、デジタル依存症などと若者たちに説教を垂れている場合ではない。ちなみに、スマホを自宅に忘れ、オンライン(二段階)認証ができないと騒ぐオヤジがいる。
経験を積んだからといって理性的になるわけではない。経験したからといって理解したことにはならない。生まれたばかりの幼児は、野心や邪心の欠片もない純粋な状態にある。対して、大人はどうであろう。
プラトンは、森羅万象の原型であるイデアなるものを唱えた。魂にも原型のような状態があり、そこから善の根源的な意識が芽生えると。しかし、知識を得れば、そのすべてを脂ぎった欲望に注ぎ込み、もやは知識のない頃の自分を思い出すこともできない。人の言葉は耳に入らず、思いやりや友情などという言葉に照れくささを感じ、正義や道徳という言葉ですら虫唾が走る。子供が素朴な哲学者とすれば、大人は脂ぎった屁理屈屋というわけだ。寛大な者を僻み、人々に愛される者を妬み、知識ある者を羨み... 魂は嫉妬の塊に成り果てる。おまけに寿命が延びれば、生への執着は衰えるどころかますます旺盛となり、命が一番大切だと叫びながら、他人の命を押しのけてまで助かろうとする。そして、どう生きるかではなく、長く生きることが目的と化す。ますます自己保存に執着し、未練を永遠に断ち切れそうにない。
その一方で、余命宣告を受けた者が、超人的な能力を発揮することがある。死に近づくことによってしか、生を問う機会が訪れないというのか。平均寿命が延びれば、新たな世代層が生まれ、社会の構成員が変わり、幼年、少年、青年、壮年、老年の概念も変わっていく。だが、いつの時代も、古き時代を鼻で笑い、新しき時代に過剰な期待をかけることに変わりはない。新技術や最先端という言葉に目を奪われ、進化や進歩という言葉までも迷信化する。そんな時代にあっても数千年前の哲学が輝きを失わないとすれば、人類は慢性的に老人症にかかっているのかもしれん...
受け入れる度量のない子供に道徳観や倫理観を期待しても、人間が人間でなくなることを期待するようなものである。とはいえ、大人だって具体的に指示しなければ、行動できないではないか。大人だって大きな子供でしかない。
孔子曰く... 十五で学問を志し、三十で独立精神を持ち、四十であれこれと迷わず、五十で天命をわきまえ、六十で人の言葉を素直に聞き入れ、七十で思うままに振る舞って、それで道を外れないようになる...
しかし現実は、十歳でお菓子に、二十歳になると快楽に、三十になると野心に、四十になると愛人に、五十になると利欲に憑かれる。そして、迷信、偏見、誤謬へ導き、自分を賢いと信じ、人を見下すような権威主義に陥り、人権はとるに足らないものとなる。都合の悪い問いかけは、脂ぎった魂が常識とやらで片付けてくれるという寸法よ。
腐敗は、生あるものの本質か。自己に疑問が持てなくなったら、腐っていると見るぐらいでちょうどいい。大人から教わることは、たいてい本を読めば済む。だが、子供から教わることは、理屈では説明できないことが多い。R-18 指定すべきは、理性や知性の方かもしれん。酒の味を知らぬ者が、プラトンの「饗宴」を読んだところで得られるものはあるまい...
1. ささやかな煩悩
一霊四魂という思想があると聞く。勇、親、愛、智によって構成される魂が、一つの霊によって統括されるという思想である。いずれの魂も孤立すれば、邪気となる資質を具えている。邪気が悪魔の手に落ちれば、たちまち邪悪な鬼と化す。血塗られた歴史の陰には、いつも邪鬼が潜んでいた。アダムとイブが禁断の果実を食して以来、人間は神の意を解すことができなくなり、お釈迦様ですら菩提樹の下で心を惑わせた。イエスは敬虔な使徒に裏切られ、シーザーは誠実な盟友にあやめられ、芸術を愛した皇帝ネロを暴政に狂わせ、ボルジア家を強欲の代名詞とし、建築家を夢見た内気なヒトラーをば悪魔へ変貌させた。人の心には、恐ろしき邪鬼の棲家がある。歳を重ねれば、心の病を克服することができるだろうか?
仏教では、克服すべき最も根源的な三つの煩悩を三毒と呼ぶそうな。貪、瞋、癡が、それである。一つの欲望を満たせば、すぐに次の欲望に走る。他人が持っているものが良く見え、それを欲する。カネが欲しい、愛人が欲しい、時間が欲しい、快楽が、才能が、知性が、理性が... まったく懲りない性分よ。すべての欲望を放棄できれば、精神は自由になれるであろうに...
しかしながら、精神は欲望によって成長する。欲望を捨てたいというのも、これまた欲望!精神とは、欲望に幽閉された存在というだけのことかもしれん。
一方で、芸術家の目覚めは精神を悟るに、いくら狂っても足りない。四魂の邪鬼を存分に解放させてもなお、猛烈な狂気の調和を目論んでやがる。ただ、能力が欠けていても夢を描くことはできる。偉大な夢を実現できたら、どんなに幸せであろう。せめて過ちを夢に閉じ込められたら、どんなに楽になれるであろう。そして、狂人の悲痛な叫びを聞くがいい... おいらのささやかな望みは、ハーレムに収監されたいだけなのだ!
2. 頭脳年齡と知性年齡
若い頃は、優れた人物の言葉に率直に耳を傾け、同世代の仲間と議論することで、より多くを学ぶことができる。だが、大人になると防衛意識や縄張り意識のようなものが働き、似た者同士で集まろうとする。寛容性では子供の方が優れていそうだ。友情とは、人を利用するために育むものではあるまいに...
本質を学ぼうとする資質も、政治的な思惑に毒された大人よりも、純粋に学びたいと願う子供の方が優っていそうだ。やはり大人になるほど狡猾になるものらしい。
しかしながら、大人や子供の指標は年齡では計れない。仮想社会の奇妙な人間関係が、妙に社会的な意識を成熟させたり、大人顔負けの戦略的思考を実践する者までいる。大人たちがネット社会から子供を守ろうと手引を思案している間に、子供たちは遥かに有用な行動をしている。むしろ大人たちの方が、子供の持ちかける議論に感情的になり、子供じみた犯罪を繰り返しているではないか。
長老という威厳も過去のものか。寿命が延びれば、親より先に逝くケースも増え、世代の概念までも曖昧にさせる。頭脳年齡や記憶年齡というのは、確かにある。肉体が衰えれば、人体の機能組織が衰えるのも道理だ。知識を得ようとする意欲もまた年齡に関係しそうなものだが、死ぬ瞬間までその意欲を持続させる者がいる。持続力とは、天才の特質であろうか。知性年齡や理性年齡なるものは、時間とは別の次元にありそうだ...
3. 遠近法と老眼法
情報の溢れる社会では、あまりにも身近なために、つい見過ごしてしまうことがある。情報収集の難しい時代は、瞬時の変化を探知する微分的視点が必要であったが、今日では、積分的思考の方が有効であろう。世間から少し距離を置くことも大切にしたい。意欲さえあれば、情報は自然に得られる時代、くだらない意欲さえ放棄できれば、くだらない情報は自然に遮断されるであろう...
分かりやすい情報は目の前を通り過ぎて行きやすい。そこに疑問を感じなければ、思考する機会も訪れない。その点、難解な書は思考の材料にうってつけだ。だからといって、理解できると期待してはいけない。目は文章を追うものの、頭は別のことを考え、幽体離脱のような気分にさせる。絵画を鑑賞するようにページを眺め、数十ページ単位で後戻りするのもしばしば。少し目を離し、遠近法のような立体的な観点を要請してくる。そういえば最近、近くが見えにくい... 老眼って言うな!
4. 地球の老化とともに
毎日、顔を合わしていれば、十年経っても変化した様子が見当たらないというのに、十年ぶりに友人に会うと、歳をとったなぁ、という印象を与える。そして、毎日、自分自身を鏡に映し、明日はまだ大丈夫!と自分に言い聞かせる。そして、保証のない安心を買い、不摂生を繰り返す羽目に...
地球環境も似たようなものであろうか。平凡な日常が、環境の変化に気づかせない。百年前の人が現在にタイムスリップしたら、空気の香りや山の景色に驚愕し、町の汚染に幻滅するかもしれない。温暖化と寒冷化の繰り返しは、生物の生存分布に大きな影響を与える。今後、十年から二十年ほどのスパンで世界的な食料危機が訪れると言われている。ある研究報告によると、植物が光合成によって生産する有機物の総量、いわゆる純一次生産が、地球上でほぼ一定だとか。つまり、地球上の植物で養うことのできる生命の総量が決まっているということだ。
もし、その量が限界に近づいているとすれば、酸素を必要とする動物たちを激減させて、二酸化炭素を吸収する植物の社会からやり直さなければなるまい。それが、氷河期の意義であろうか?やがて氷河期を迎え、人類がまた生き延びられるかは知らん。ただ、偉大な地球の歴史に照らせば、エネルギー消費量の高い生物は、その数を思いっきり増やしてきたツケを払わされることになろう...
2015-01-11
暴走主義
暴走好きな人間という種をこしらえたのは誰か?やはり神も暴走好きであったか...
人はよく、権利だ!義務だ!責任だ!なんてことを言う。だが、そんなものは都合よく解釈されるだけのこと。無駄、無意味、無価値といったものもそうだ。そして、正義ですら解釈される。この方面で、人類はいまだ普遍性なるものを知らない。
パスカルは言った... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。良心の妄想ほど正義と相性のいいものはない。良心ってやつは、押し付けがましく、自信満々なだけに厄介となりやすい。歴史を振り返れば、人類愛を唱える修道士ですら侵略者のごとく残虐行為に及んだ。愛の押し売りほど残酷なものはない。神の代弁者... 神の生まれ変わり... といった思想はいまだ健在。神に憑かれた狂気は、悪魔に憑かれるがごとく。
権利の暴走がタカリ屋を増殖させ、義務の暴走が思考を停止させ、責任の暴走が迷信を助長させる。おまけに、情報社会が高度化すると、皮相の見は独り歩きを始め、庶民の集団性が理性の検閲官となり、魔女狩りの類いはますます猛威をふるう。正義漢とは、一過性の熱病のようなものか。決疑論は集団性によって研ぎ澄まされ、有徳者や有識者ですら駁論を見出すことができないばかりか、煽る側に立つ。ますます自意識を膨らませ、どんな残虐行為でも、これは犯罪ではない!と叫ぶことができるのだ。そして、妄想的な成敗が現実のものとなる。
一方で、必殺仕事人は、お金を貰わないと絶対に仕事をしない。どんなに少ない金額でも、依頼者が精一杯工面したという理由付けだけが、正義の暴走を食い止める唯一の動機となるからだ。理性も、知性も、正義も、道徳も、愛情も... 心地よく響く言葉は、すべて暴走する性質を持っている、と心得ておくぐらいでちょうどいい。善意の増殖は、ある閾値を超えると悪意へ変貌する、と...
では逆に、悪意の増殖は、ある閾値を超えると善意へ向かうだろうか?いや、マクスウェルの悪魔君をもってしても、この方面のエントロピーは絶大だ。逆説的ではあるが、正義という自意識を放棄しなければ、正義を冷静に実践することはできないのかもしれん。ならば、無責任な泥酔者は、世間を笑い飛ばしながら生きていく...
人間ってやつは、心の拠り所となる何かをこしらえないと、不安でしょうがない。神とは、人間が都合よく編み出した偶像であろうか。真理もまた、究極の退屈しのぎのために編み出した妄想であろうか。神の狂信者は神の寛大さに縋って無限の赦しを乞い、真理の探求者は真理の偉大さに縋って無限の知を求める。
しかしながら、不死を求めても永遠の魂は得られず、知識の永続を求めても永劫回帰の道は遥か彼方。人類は、自己存在を証明するための言葉を求めてきた。神の言葉を... 真理の言葉を... そして言葉は知の象徴となった。だが、どんなに言葉を求めても、神も、真理も、一向に見えてこない。生命は定められた道を行くしかなさそうだ。人類は、いまだ自然の意図を解せないでいる。それどころか、自分自身が自然状態であるのかも疑っている有り様。その証拠に、「自然」に対して「人工」という言葉を編み出した。有史以来、人類はせっかく記録という概念を発明しながら、寿命の限界を打ち破れずにいる。
ウィトゲンシュタインは言った... およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては人は沈黙せねばならない... と。もはや、残された道は沈黙しかないというのか。冥界には、沈黙との自然な戯れがあるとでもいうのか。真理の道とは、沈黙を守ることで犠牲を捧げることなのか。だから、あのナザレの人は無実を承知で黙って血を捧げたのか。
しかしながら、言葉を知れば、喋らずにはいられない。知識を得れば、それをひけらかさずにはいられない。経済社会が消費を煽らなければ成り立たないように、知識社会もまた情報を煽らなければ成り立たない。知性ある者が知識を自慢するだろうか?理性ある者が道徳観や倫理観を自慢するだろうか?
そして、鏡の向こうでは、お喋り好きな酔いどれが長ったらしい文章を書き続け、夜の社交場でウンチクを垂れてやがる。パスカルが言うように、やはり人間とは狂うもの、いや、自己陶酔するものらしい... いやいや、君に酔ってんだよ!
1. 覗き穴のモラル
着替えに集中しているホットな女性に声をかけるのは、礼儀に反する。せっかく湯につかってくつろいでいるのに、声をかけるとは言語道断!紳士のおいらができることと言えば、壁穴から温かく見守ってあげることぐらいさ...
2. 理性ってなんだ?
良心と相性のいいものに理性というものがあると聞く。我が家の国語辞典によると... 物事の道理を考える能力。道理に従って判断したり行動したりする能力... とある。道理ってなんだ?... 物事の筋道... とある。筋道ってなんだ?... 物の道理、条理... とある。まるで堂々巡り!国語辞典ですらまともに説明できないものを、一介の酔いどれごときがどうして知り得よう。
数千年に渡って、偉大な哲学者たちは中庸の原理を唱えてきた。万物のバランスこそが宇宙の真理であると。それは、陽と陰、善と悪、美と醜など、あらゆる対比から生じる相対性認識論と言うべきものである。精神を歪ませれば、あらゆる病を引き起こす原因となる。いや、歪んだ心で眺めれば、病気はむしろ健康に見えるか。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とは、まさにそれだ。なんと幸せなんだろう。人間とは、幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり冷酷になるものらしい。カントは、理性批判の中で普遍的な道徳法則のようなものを語った。道徳ですら、理性ですら、暴走する危険性があることを匂わせて。徳(とく)がちょいと濁ると、毒(どく)となる。道徳(どうとく)を盲目(もうもく)に崇めれば、猛毒(もうどく)となる。これらの音律が似ているのは偶然ではないのかもしれん。
有徳者どもに理性があるか?と問えば、馬鹿にするな!と言わんばかりに怒鳴る。ならば、いつも憤慨しているのはなぜか?理性の力をもってしても、心を平静に保てないというのか?仮に理性を実践し、義務を果たしているというのなら、その上に何を望むというのか?彼らは本当に自由人なのか?理性の欠片も持ち合わせないアル中ハイマーにとって、こんな言葉はこそばゆい...
3. 知性のコーナーを攻める!
教育が専門化によって没落するという意見を耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。間違っているのは、専門化ではなく、問題に対する理解の深さが欠けていることであろう。つまり、哲学的観点が欠けていること。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。
人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。知識が豊富でも精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれたアル中ハイマーには知性なんぞ永遠に無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしであり続けるだろう。
知性は、健全な懐疑主義と自己啓発された個人主義に支えられている。ならば、精神をちょっと破綻させ、ちょっと狂っているぐらいでちょうどいい。それを自覚できれば、なおいい。ちょっと馬鹿なぐらいでちょうどいい。ちょっと自信がないぐらいでちょうどいい。ちょっと幸せを意識するぐらいでちょうどいい。そして、コーナーの限界を攻めるには、ちょっとアンダーステアぐらいでちょうどいい。
ちなみに、夜の社交場では、ちょいワルぐらいでちょうどいいと助言を頂いたが、清楚で通っているおいらには無理な相談よ!
4. デモクラシーの象徴ども
フランス革命が提示した、自由、平等、博愛という三大原理は、いずれも単独で大暴走する性格を持っている。それは、既に恐怖政治で実証済みだ。三位一体の調和が崩れた時、自由主義が弱肉強食的な資本主義を煽り、平等主義が搾取的な共産主義を敢行し、博愛主義が魔女狩り的な盲目主義を崇める。
愛が暴走する代表的な情念に、愛国心ってやつがある。愛国心の弱点は、自国を誇りに思うことと、他国を蔑んで優位に立つことを混同すること、そして、誰もが狂信的な愛国者へ変貌する恐れがあることだ。国家を支える理想主義には、既に予知された災厄が潜んでいる。経済政策さえうまくやれば、少々無謀でリスクの高い外交政策にも世論は目を瞑る。
民主主義の弱点は、誰もが厄介事に眼を背けることと、責任の所在が明確でないことに加え、集団性がこれらの性質を助長することだ。個人では理性的に振る舞うことができても、集団化すると悪魔化する。しかも、それに気づかない。集団ってやつが人をこうも浅ましくさせるものであろうか。人はみな、少しずつズルい!エリート集団が厄介なのは、責任や義務を巧みに逃れ、権威だけを増幅させることだ。かつて強者が弱者を叩く時代があった。今は弱者がより弱者を叩く。社会システムが抽象化すれば、世論は鈍感になるのか。
どんなに美しい理念も、他との調和を失った途端に暴走をはじめる。善も、悪も、理性でさえ、知性でさえ。そして、暴走してみて初めて、自分自身の愚かさを知る...
人はよく、権利だ!義務だ!責任だ!なんてことを言う。だが、そんなものは都合よく解釈されるだけのこと。無駄、無意味、無価値といったものもそうだ。そして、正義ですら解釈される。この方面で、人類はいまだ普遍性なるものを知らない。
パスカルは言った... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。良心の妄想ほど正義と相性のいいものはない。良心ってやつは、押し付けがましく、自信満々なだけに厄介となりやすい。歴史を振り返れば、人類愛を唱える修道士ですら侵略者のごとく残虐行為に及んだ。愛の押し売りほど残酷なものはない。神の代弁者... 神の生まれ変わり... といった思想はいまだ健在。神に憑かれた狂気は、悪魔に憑かれるがごとく。
権利の暴走がタカリ屋を増殖させ、義務の暴走が思考を停止させ、責任の暴走が迷信を助長させる。おまけに、情報社会が高度化すると、皮相の見は独り歩きを始め、庶民の集団性が理性の検閲官となり、魔女狩りの類いはますます猛威をふるう。正義漢とは、一過性の熱病のようなものか。決疑論は集団性によって研ぎ澄まされ、有徳者や有識者ですら駁論を見出すことができないばかりか、煽る側に立つ。ますます自意識を膨らませ、どんな残虐行為でも、これは犯罪ではない!と叫ぶことができるのだ。そして、妄想的な成敗が現実のものとなる。
一方で、必殺仕事人は、お金を貰わないと絶対に仕事をしない。どんなに少ない金額でも、依頼者が精一杯工面したという理由付けだけが、正義の暴走を食い止める唯一の動機となるからだ。理性も、知性も、正義も、道徳も、愛情も... 心地よく響く言葉は、すべて暴走する性質を持っている、と心得ておくぐらいでちょうどいい。善意の増殖は、ある閾値を超えると悪意へ変貌する、と...
では逆に、悪意の増殖は、ある閾値を超えると善意へ向かうだろうか?いや、マクスウェルの悪魔君をもってしても、この方面のエントロピーは絶大だ。逆説的ではあるが、正義という自意識を放棄しなければ、正義を冷静に実践することはできないのかもしれん。ならば、無責任な泥酔者は、世間を笑い飛ばしながら生きていく...
人間ってやつは、心の拠り所となる何かをこしらえないと、不安でしょうがない。神とは、人間が都合よく編み出した偶像であろうか。真理もまた、究極の退屈しのぎのために編み出した妄想であろうか。神の狂信者は神の寛大さに縋って無限の赦しを乞い、真理の探求者は真理の偉大さに縋って無限の知を求める。
しかしながら、不死を求めても永遠の魂は得られず、知識の永続を求めても永劫回帰の道は遥か彼方。人類は、自己存在を証明するための言葉を求めてきた。神の言葉を... 真理の言葉を... そして言葉は知の象徴となった。だが、どんなに言葉を求めても、神も、真理も、一向に見えてこない。生命は定められた道を行くしかなさそうだ。人類は、いまだ自然の意図を解せないでいる。それどころか、自分自身が自然状態であるのかも疑っている有り様。その証拠に、「自然」に対して「人工」という言葉を編み出した。有史以来、人類はせっかく記録という概念を発明しながら、寿命の限界を打ち破れずにいる。
ウィトゲンシュタインは言った... およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては人は沈黙せねばならない... と。もはや、残された道は沈黙しかないというのか。冥界には、沈黙との自然な戯れがあるとでもいうのか。真理の道とは、沈黙を守ることで犠牲を捧げることなのか。だから、あのナザレの人は無実を承知で黙って血を捧げたのか。
しかしながら、言葉を知れば、喋らずにはいられない。知識を得れば、それをひけらかさずにはいられない。経済社会が消費を煽らなければ成り立たないように、知識社会もまた情報を煽らなければ成り立たない。知性ある者が知識を自慢するだろうか?理性ある者が道徳観や倫理観を自慢するだろうか?
そして、鏡の向こうでは、お喋り好きな酔いどれが長ったらしい文章を書き続け、夜の社交場でウンチクを垂れてやがる。パスカルが言うように、やはり人間とは狂うもの、いや、自己陶酔するものらしい... いやいや、君に酔ってんだよ!
1. 覗き穴のモラル
着替えに集中しているホットな女性に声をかけるのは、礼儀に反する。せっかく湯につかってくつろいでいるのに、声をかけるとは言語道断!紳士のおいらができることと言えば、壁穴から温かく見守ってあげることぐらいさ...
2. 理性ってなんだ?
良心と相性のいいものに理性というものがあると聞く。我が家の国語辞典によると... 物事の道理を考える能力。道理に従って判断したり行動したりする能力... とある。道理ってなんだ?... 物事の筋道... とある。筋道ってなんだ?... 物の道理、条理... とある。まるで堂々巡り!国語辞典ですらまともに説明できないものを、一介の酔いどれごときがどうして知り得よう。
数千年に渡って、偉大な哲学者たちは中庸の原理を唱えてきた。万物のバランスこそが宇宙の真理であると。それは、陽と陰、善と悪、美と醜など、あらゆる対比から生じる相対性認識論と言うべきものである。精神を歪ませれば、あらゆる病を引き起こす原因となる。いや、歪んだ心で眺めれば、病気はむしろ健康に見えるか。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とは、まさにそれだ。なんと幸せなんだろう。人間とは、幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり冷酷になるものらしい。カントは、理性批判の中で普遍的な道徳法則のようなものを語った。道徳ですら、理性ですら、暴走する危険性があることを匂わせて。徳(とく)がちょいと濁ると、毒(どく)となる。道徳(どうとく)を盲目(もうもく)に崇めれば、猛毒(もうどく)となる。これらの音律が似ているのは偶然ではないのかもしれん。
有徳者どもに理性があるか?と問えば、馬鹿にするな!と言わんばかりに怒鳴る。ならば、いつも憤慨しているのはなぜか?理性の力をもってしても、心を平静に保てないというのか?仮に理性を実践し、義務を果たしているというのなら、その上に何を望むというのか?彼らは本当に自由人なのか?理性の欠片も持ち合わせないアル中ハイマーにとって、こんな言葉はこそばゆい...
3. 知性のコーナーを攻める!
教育が専門化によって没落するという意見を耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。間違っているのは、専門化ではなく、問題に対する理解の深さが欠けていることであろう。つまり、哲学的観点が欠けていること。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。
人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。知識が豊富でも精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれたアル中ハイマーには知性なんぞ永遠に無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしであり続けるだろう。
知性は、健全な懐疑主義と自己啓発された個人主義に支えられている。ならば、精神をちょっと破綻させ、ちょっと狂っているぐらいでちょうどいい。それを自覚できれば、なおいい。ちょっと馬鹿なぐらいでちょうどいい。ちょっと自信がないぐらいでちょうどいい。ちょっと幸せを意識するぐらいでちょうどいい。そして、コーナーの限界を攻めるには、ちょっとアンダーステアぐらいでちょうどいい。
ちなみに、夜の社交場では、ちょいワルぐらいでちょうどいいと助言を頂いたが、清楚で通っているおいらには無理な相談よ!
4. デモクラシーの象徴ども
フランス革命が提示した、自由、平等、博愛という三大原理は、いずれも単独で大暴走する性格を持っている。それは、既に恐怖政治で実証済みだ。三位一体の調和が崩れた時、自由主義が弱肉強食的な資本主義を煽り、平等主義が搾取的な共産主義を敢行し、博愛主義が魔女狩り的な盲目主義を崇める。
愛が暴走する代表的な情念に、愛国心ってやつがある。愛国心の弱点は、自国を誇りに思うことと、他国を蔑んで優位に立つことを混同すること、そして、誰もが狂信的な愛国者へ変貌する恐れがあることだ。国家を支える理想主義には、既に予知された災厄が潜んでいる。経済政策さえうまくやれば、少々無謀でリスクの高い外交政策にも世論は目を瞑る。
民主主義の弱点は、誰もが厄介事に眼を背けることと、責任の所在が明確でないことに加え、集団性がこれらの性質を助長することだ。個人では理性的に振る舞うことができても、集団化すると悪魔化する。しかも、それに気づかない。集団ってやつが人をこうも浅ましくさせるものであろうか。人はみな、少しずつズルい!エリート集団が厄介なのは、責任や義務を巧みに逃れ、権威だけを増幅させることだ。かつて強者が弱者を叩く時代があった。今は弱者がより弱者を叩く。社会システムが抽象化すれば、世論は鈍感になるのか。
どんなに美しい理念も、他との調和を失った途端に暴走をはじめる。善も、悪も、理性でさえ、知性でさえ。そして、暴走してみて初めて、自分自身の愚かさを知る...
2015-01-04
こけた...
証拠物件1:
昨年は午年ということで、跳ね馬のごとく駆け抜けるつもりであったが、暴れ馬のごとくこけた!バイクの修理代が痛い...
今年は、羊のごとくおとなしくするつもりでいる。おっと!夜の社交場方面から初詣のお誘いが...
昨年は午年ということで、跳ね馬のごとく駆け抜けるつもりであったが、暴れ馬のごとくこけた!バイクの修理代が痛い...
今年は、羊のごとくおとなしくするつもりでいる。おっと!夜の社交場方面から初詣のお誘いが...
2014-12-28
"無形化世界の力学と戦略(上/下)" 長沼伸一郎 著
本棚を掘り起こしていると、とんと覚えのないヤツを見つけた。「物理数学の直観的方法」の著者が、人間社会の力学をミリタリーバランスの観点から定量的に語ろうというのである。我が家で数十ページほど立ち読みしてみると、これがなかなか!購入履歴を遡ると、およそ十年前に買ったことになっている。記憶力がないということが、いかに幸せであるか...
そういえば、政治家の資質には、理系出身者が相応しいと考えていた時期があった。厳密には、自然学者と言った方がいい。しかーし、未納三兄弟!などと発言して墓穴を掘った某党首が理学部出身と知るや、そんな考えをあっさりと捨てた。おまけに、その御仁は首相になった挙句、原発事故でせっかく放射能予測システムSPEEDIがありながら情報を開示しなかった。環境汚染を語る前に科学が政治に汚染されているとは...
プラトンは政治を哲学者の手に委ねることを理想とした。真理の探求に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。そして、夜の社交場ではセクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も捨てがたい...
価値の無形化は、貨幣の発明から始まった。能力は賃金で査定され、信用は利息で精算され、欲望はインフレ率で測られ、希望は株式市場に委ねられ、命ですら貨幣換算される。さらに、電子マネーや暗号通貨の登場により、貨幣自体が曖昧な存在となった。精神の持ち主とは、奇妙なものよ。精神自身の実体を説明できなければ、どこにでも都合よく代替価値を見出すことができるのだから...
人間社会における競争原理は、価値の創出合戦によって繰り広げられる。そう、価値こそがパワーの源泉なのだ。古代、人間の価値は、腕力、脚力、格闘力で測られた。それは、オリュンピア祭典競技の種目に見てとれる。国力では武力が指標とされてきた。やがて、これらのパワーは機動性や柔軟性に呑み込まれていき、腕力は智力に、武力は戦術や戦略にとって代わる。重装歩兵が主力であった時代、アレキサンダー大王は騎兵の機動力に注目してアケメネス帝国を制した。フリードリヒ大王は奇襲をもってオーストリア軍を制した。第二次大戦でドイツの用いた電撃戦は、機甲部隊と航空部隊との連携によって高い機動性を発揮した。
一方、大日本帝国は自ら空母の機動性を証明しながら、大艦巨砲主義に固執した。太平洋戦争の敗因では、索敵の不徹底や暗号神話に陥った硬直性など、情報戦略のお粗末さがよく指摘される。それも一因ではあるが、本質的な問題ではあるまい。近代戦争はそのまま消耗戦と化す。ウィリアム・ペティの政治算術から受け継がれる国力試算は、既に武力から工業力へ移っていた。工業資本の付加価値性と物量こそが、武力の機動性と柔軟性をもたらしたのである。
では、現在はどうであろうか... 戦後、国力の指標は経済力に向けられた。経済が整わないうちは、いくら軍事力を強化しても持続できない。さらに、経済循環を円滑にするために、購買意欲を誘う宣伝力が注目される。現在では、プレゼン力と呼ばれるやつだ。宣伝力が武力として有効であることに最も早く気づいた戦略家は、ヒトラーかもしれない。宣伝相という要のポストを設置し、映画製作やらで見事に正義を装った。
もはや無形化は単なるアナロジーの域を脱し、情報が物質に替わるという文明上の問題を抱えている。静かに語られる真理よりも、大声で誇張し、分かりやすい言葉で反復効果を狙う方が世論を席巻できるとすれば、人間社会はますますロストワールド化していくであろう。とはいえ、悲観論ばかりでもない。ネット社会では、一権力によって情報操作が思うようにならなくなった。それは、ある意味健全かもしれん...
本書は、こうした力関係を、陸軍、空軍、海軍の性質に分類しながら、経済を陸軍力に、メディアを空軍力に、研究機関の知的影響を海軍力に結びつけて考察している。そして、米ソ冷戦構造を無形化された準三次大戦に位置づけ、第一大戦や第二次大戦との類似性を分析している。
注目したいのは、「運動量保存の法則」、「最小語数の原理」、「パターン再現仮説」の三つの概念を柱にしていること。二つの大戦が軍備競争によって約5年かかったのに対し、冷戦は資本主義と共産主義の経済対立によって50年を要した。一般的に軍事予算は、GDP比のほぼ1割とされる。残りを経済力で換算すれば、経済部門は軍事部門に比べて鈍速だが、その分体重が重く、比率は10倍で等しくなる。
また、マスコミ屋と空爆屋との類似性から「情報制空権」の重要性を物語る。
「ある概念は、それがたった一語で内容を表現できる場合にのみ、一般社会に爆発的に流布する。そしてそれは表現に2語以上を要する複雑な概念を常に駆逐する。」
確かに、機動性や柔軟性においては、軍事力よりも経済力が、経済力よりも情報力の方が優っている。メディアに至っては、むしろ流動性と言った方がいい。速度の影響力は絶大であり、ニュートン力学においても質量と速度の積によってパワーが定義される。現実に、経営戦略では意思決定能力が問われ、資源の集中と敏速な行動こそが成功の鍵を握る。
「経済的世界においても、その運動を本質的に決定している抽象的要素の相対的な関係が同じである限り、対応する軍事的世界において起こったのと全く同じ力学によって必ず支配され、相互の動きは基本的に同じパターンに従う。」
しかしながら、最も重要な要素に「知的制海権」の概念を持ち出している。
「現状を見る限りでは、インターネットの興隆に代表されるように、"様々な垣根を取り払って文明を速くする"テクノロジーによって世界統合に行き着く道が圧倒的に優位にあり、対抗馬にはもはや安楽死以外の選択はあり得ないかのように見える。しかしここで一つ考慮すべきことがあり、それは"伝統的な垣根を残して文明を遅くする"側に人類はどの程度の頭脳を投入してきたのだろうかということである。」
流動性の高さが機動性を発揮するのも事実だが、流動性が高すぎると、自身の中に力学を構築する前に流動体の奴隷と化す。手段にばかり目を奪われ、地に足がつかない戦略が横行するのは、まさにそういう状態であろう。いくら経済力や情報力を強化したところで、真の底力は深遠な道理を踏まえた知的能力に辿り着くはずだ。
ただ神の目には、戦争も経済も、はたまた超新星やブラックホールも、同じ物理現象に映っているのかもしれん。だから野放しにしているのか?戦争にしても、経済にしても、人間社会の手段に過ぎないと。では、どちらを選択するか?それは人類の叡智にかかっているとするしかあるまい...
1. 核兵器と精神力学
機動性や柔軟性を唱えたところで、それは社会に適合する上での相対的な特徴でしかない。いくら優れた特徴を備えていても、時代に受け入れられなければ、変質扱いされる。
核兵器は物理的に絶大な破壊力を持つが、使用するとなると、これほど硬直した融通のきかない兵器はない。核はもはや人間社会における相対的な武器を超越し、絶対的な破壊力の前では戦争の抑止力というより、人類滅亡のリスクとして機能する。この抑止力が、5年の軍事戦争を50年の経済戦争へ転嫁させた。事実上使用できなければ、経済的負担となるだけ。にもかかわらず、核のパワーに憑かれた政治指導者はごまんといる。自己の悪魔を制するには、悪魔に縋るしかないってか...
権力を暴力と置き換えれば、モンテスキュー式の暴力分立の原理がここにある。冷戦時代、核兵器の存在を意識しながら、戦車や戦闘機による小規模の戦闘が水面下で生じてきた。そして、長い時間を経て小さなエネルギーが蓄積し、巨大帝国を自然に崩壊させた。幸いにも人類滅亡の危機は避けられたわけだ。アルキメデスが言った... 我に支点を与えれば、地球を動かして見せよう!... というのは本当かもしれん。
本書は「通常兵器の相対的核兵器化」という考えを持ちだしている。核兵器の代理兵器と言おうか。そして、その延長上に「経済力の相対的軍事力化」という概念を持ち出す。
戦争を国家権力の及ぶ国境線を動かす仕事量とするならば、経済はグローバル化によって国境線を曖昧にする仕事量とすることはできそうである。平和時の交通事故の死者、自殺者、災害死などの社会的リスクは、死者の観点からすると戦争時と原理的には同じかもしれない。
「かつて平和を語っていた者が今や戦争を語り、かつて戦争を語っていた者が平和を語り始めたという立場の皮肉な逆転はこのような理由による。」
また、冷戦構造における西側勝利の最大要因は、半導体技術の登場だとしている。ハイテクが庶民に浸透し、豊かな生活をもたらした。東西の生活水準の格差は、民衆の大量流出を招いた。いまや、半導体業界の動向が、経済動向を判断する上で重要なファクタとなっている。しかし、一般報道では携帯端末といった身近なハイテク商品が話題になるだけ。所詮、半導体は部品よ!開発現場でも半導体技術者は粗末に扱われている... などと自分の立場を愚痴るのもなんだが... 所詮、人間は部品よ!
しかしながら、いくら核兵器を多様な兵器で置き換え、さらに軍事力を経済力に代替して、機動性や柔軟性をもって制圧しようとも、絶対的な自然力には到底敵わない。人間のできることといえば、せいぜいリスクを回避するぐらいなもの。いくらテクノロジーを進化させようとも、人間の頭脳の中で働くソフトウェアはほとんど変化しないし、精神力学はあまり変わらんようだ...
2. 情報制空権と運動量保存則の罠
空軍の威力は絶大であり、味方の犠牲を最小限にできるために、空軍至上主義に陥りやすい。だが、地上制圧が主目的であり、空爆しかできない軍隊では都合が悪かろう。むしろ宗教力の方が影響が強そうだ。戦争状態で地上を制圧する役割が陸軍力だとすれば、非戦争状態では経済力や文化力ということになる。ただし、ここで言う経済力や文化力は、政治的に仕向けられた思惑とは一線を画す。空爆的な威力を発揮するメディアの誇張が事実を伴わなければ、空回りするのも道理。情報化社会が高度化するほど、冷笑や虚無主義へ誘導するというのは本当かもしれん...
ちなみに、トーマス・ジェファーソンの言葉に、こんなものがあるそうな。
「良い政府が存在するが良い新聞が存在しない世界よりも、良い新聞だけが存在して良い政府が存在しない世界のほうが良い。」
人間には自分の意見と合う者同士で群れる習性があり、報道屋だけに中立の立場を課しても無理というもの。歴史を振り返れば、新聞が戦争を煽ってきた例は実に多い。そして敗戦が濃厚になると、平和主義者に豹変して戦犯探しに明け暮れる。英雄に持ち上げながら、一夜にして国賊扱い。専門家でも意見が分かれるところを、メディアは都合の良い立場しか取り上げない。著名人に罠をしかけ、スキャンダラスな事を言わせて注目を集めようとするのも彼らの常套手段で、勝手に人物像をでっちあげて抹殺にかかる。実際、マスコミ手法にはガスライティング的なものも少なくない。空爆で攻撃するパイロットは海兵隊などと違い、殺す相手を直接見なくて済む。だから、残虐性に疎いのかは知らん。
「ある事業がメディアの支援を受けながら行われる場合、事業完成までに要する時間の 1/10 の時間でメディアはそれを陳腐化させ、精神的な力を奪う。これが運動量法則の罠である。」
3. 知的制海権
伝統的な海軍の任務は、制海権の確保、パワープロジェクション(戦力投射)、プレゼンス、シーレーンの防衛といったところであろうか。総合的な戦略では、海を制して、いかに陸上に戦力を投射するかが問われ、その役割は空母の登場で、より直接的となった。経済的に言えば、企業の研究部門が新技術を開発して市場の膠着状態を一変することができれば、市場に投射できる。
政策で大きな役割を担う研究部門といえば、シンクタンク系である。ただ残念なことに、国家レベルでシンクタンクを機能させるアメリカに対して、日本では政府系シンクタンクが弱点とされる。かつては、総合商社や金融機関といった民間のシンクタンクがその役割を担い、官僚集団がそれらの機能を補ってきた。代替のシンクタンク機関を構築せずに官僚支配を弱めれば、もはや国家の頭脳は麻痺するだろう。そうした構造が官僚支配を助長する結果を招いてきたわけだが...
経済活動は多様化し社会構造も複雑化していく中で、バラバラの行動パターンによって、ゲリラ戦の様相を呈していく。手段が多様化する中で合理性を求めるならば、分進合撃といった戦略が必要であるが、国家レベルの知的戦略がないために、民間の研究部門が危機感を募らせる一方で、公共の研究機関は予算獲得に奔走する始末。
また、天然資源の乏しい我が国にとって、シーレーンの防衛は死活問題となる。それは、そのまま技術のシーレーンと結びつき、教育機関や研究機関が知識の補給線となる。かつては、技術力に直結する理工系が重要視された。現在では、仮想価値を煽ることで経済循環を促すことができる金融の異常発達が、原理的にそれを補っている。だがそれも、砂上の楼閣であることは否めない。MBAの取得に躍起になるような風潮では持続性に欠ける。金儲けに直結する知識ばかりに偏れば、知的柔軟性を失い、やがて知識の大艦巨砲主義に成り下がるであろう。
多様性と柔軟性は相性がよく、兵器と同様、知識も多様性によって相乗効果が期待できる。しかしながら、人間には目先の勢いに惑わされる習性がある。太平洋戦争時代、海軍の外交的見解よりも陸軍の精神論の方が、一般庶民には分かりやすかった。ドイツ陸軍の勢いに惑わされて、アメリカの工業力という潜在的な能力が見えなかった。現在でも、政治的リスクを無視して新興国の勢いに釣られて進出するなどの経済活動が旺盛である。しかも、研究部門を放棄してまで売上至上主義に突っ走った企業も少なくない。バブルの後遺症かは知らんが。バブル景気とは、高度成長時代に蓄積された平和ボケという堕落エネルギーがもたらした結果と見ることもできよう。
本書は、余剰労働をサービス業にばかり転化すれば頭でっかちな経済システムとなり、「万人が万人の召使になる」社会となり、さらに競争が激化すれば「万人が万人の奴隷になる」社会に堕落する、と警鐘を鳴らす。サービス業の概念も随分と多様化しているので、そこに知的部門を見出すこともできようが。
知的資源は目に見えにくいだけに、これを主軸とした国家戦略を練ることは難しく、よほどの計画性を要する。政治ジャーナリズムは、政治家の無力や無能を言い立て、政治不信こそが社会の閉塞状態の根源であると非難するが、それは本質的な問題ではなさそうである。情報制空権や知的制海権を確保しようという国家戦略すら存在しないのだから...
「政治家たちは情報制空権も知的制海権もない状態で、国旗の下の防御拠点に立てこもる以上の選択が最初から与えられていない。それゆえ政治家のどんな交代劇も、せいぜいマジノ線の防衛指揮官に誰がなるかということ以上の意味をもともと持ち得ないことは明らかなのであり、大衆がそれに無関心になるのはむしろ当然であろう。」
4. ハートランドと地政学
伝統的な戦術や戦略における理論において、地理的優位性というものがあり、戦略的要地をいかに制すかが勝敗の鍵となる。地政学の結論を大雑把に言えば、こういうこと。
「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する。」
ハートランドとは、大陸の心臓部という意味で、ハルフォード・マッキンダー著「デモクラシーの理想と現実」の中で、ユーラシア大陸の中核地域を中軸地帯と呼んだことに始まる。ヨーロッパを含むユーラシア大陸が地上の陸地の大部分を占めることから、これが世界島というわけだ。
ただ世界島の中で、戦略的要地は時代によって変化してきた。例えば、ローマ帝国の海軍力の低下を、閉鎖海戦略にあるとしている。地中海がローマ陸軍に制圧され、閉鎖海となったことで、コップの中の海軍と化し衰退したという。陸軍が強すぎても、海軍が強すぎても、はたまた空軍が強すぎても、うまくいかない。古くからヨーロッパとアジアの主導権争いでバルカン半島が要地とされ、第二次大戦では資源要地をめぐる戦いとなった。つまり、兵力の機動における地理的要地から、強力な武器のエネルギー源となる資源的要地へと移行してきたわけだが、無形化社会では、柔軟性と寛容性を持った知的要地へと移行していくのであろう。
従来の戦略には、「戦略的影響力は距離の2乗に反比例して減衰してゆく」という原則があるという。戦略的要地の概念も、距離の概念も、根本的に見直す必要がありそうだ。文化の中心地という意味ではあまり変わらないかもしれないが、流通経路、情報経路といったものが要地となる。実際、人間の集約力ではメガターミナル構想、物資の集約力ではメガフロート構想、資金の集約力ではメガバンク構想、情報の集約力ではビッグデータ構想、生産の集約力では多国籍企業化といった戦略がある。
日本列島は、太平洋上の航路において地理的条件は良い。だが同時に、中途半端な空港や港湾建設が乱立すれば、ガラパゴス化しやすいという脆さも抱えている。なにも海上封鎖などに頼らなくても、一国をガラパゴス化することは可能なのだ。にもかかわらず、政治屋どもは相変わらず地方へに利益供与に執心し、いまだ領地の幻想に憑かれている。おまけに、情報封鎖がお好きときた。冷戦構造が終結し、大国の影響力が弱まりつつある時代に、寄りかかり外交では危険である。既に準四次大戦が始まっているというのに...
「日本側が認識すべき厳しい現実は次のことである。... 現代世界では情報制空権さえもっていれば、"真実(少なくとも政治レベル)"は作れるのであり、そして中華文明圏の上空において、日本側が情報制空権を握れる見込みはほとんどないということである。」
もはや唯一の戦略は、単なる民主主義のレベルを超え、普遍的な理念を持つことしかあるまい。しかしながら、人間社会には陸軍的な論理に引きずられやすい傾向がある。愛国心ってやつは陶酔しやすいだけに歪みやすい。数千年に渡って変えられなかった意識を無形化世界の力学によって変えることは、突然変異でも起こらない限り難しかろう...
そういえば、政治家の資質には、理系出身者が相応しいと考えていた時期があった。厳密には、自然学者と言った方がいい。しかーし、未納三兄弟!などと発言して墓穴を掘った某党首が理学部出身と知るや、そんな考えをあっさりと捨てた。おまけに、その御仁は首相になった挙句、原発事故でせっかく放射能予測システムSPEEDIがありながら情報を開示しなかった。環境汚染を語る前に科学が政治に汚染されているとは...
プラトンは政治を哲学者の手に委ねることを理想とした。真理の探求に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。そして、夜の社交場ではセクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も捨てがたい...
価値の無形化は、貨幣の発明から始まった。能力は賃金で査定され、信用は利息で精算され、欲望はインフレ率で測られ、希望は株式市場に委ねられ、命ですら貨幣換算される。さらに、電子マネーや暗号通貨の登場により、貨幣自体が曖昧な存在となった。精神の持ち主とは、奇妙なものよ。精神自身の実体を説明できなければ、どこにでも都合よく代替価値を見出すことができるのだから...
人間社会における競争原理は、価値の創出合戦によって繰り広げられる。そう、価値こそがパワーの源泉なのだ。古代、人間の価値は、腕力、脚力、格闘力で測られた。それは、オリュンピア祭典競技の種目に見てとれる。国力では武力が指標とされてきた。やがて、これらのパワーは機動性や柔軟性に呑み込まれていき、腕力は智力に、武力は戦術や戦略にとって代わる。重装歩兵が主力であった時代、アレキサンダー大王は騎兵の機動力に注目してアケメネス帝国を制した。フリードリヒ大王は奇襲をもってオーストリア軍を制した。第二次大戦でドイツの用いた電撃戦は、機甲部隊と航空部隊との連携によって高い機動性を発揮した。
一方、大日本帝国は自ら空母の機動性を証明しながら、大艦巨砲主義に固執した。太平洋戦争の敗因では、索敵の不徹底や暗号神話に陥った硬直性など、情報戦略のお粗末さがよく指摘される。それも一因ではあるが、本質的な問題ではあるまい。近代戦争はそのまま消耗戦と化す。ウィリアム・ペティの政治算術から受け継がれる国力試算は、既に武力から工業力へ移っていた。工業資本の付加価値性と物量こそが、武力の機動性と柔軟性をもたらしたのである。
では、現在はどうであろうか... 戦後、国力の指標は経済力に向けられた。経済が整わないうちは、いくら軍事力を強化しても持続できない。さらに、経済循環を円滑にするために、購買意欲を誘う宣伝力が注目される。現在では、プレゼン力と呼ばれるやつだ。宣伝力が武力として有効であることに最も早く気づいた戦略家は、ヒトラーかもしれない。宣伝相という要のポストを設置し、映画製作やらで見事に正義を装った。
もはや無形化は単なるアナロジーの域を脱し、情報が物質に替わるという文明上の問題を抱えている。静かに語られる真理よりも、大声で誇張し、分かりやすい言葉で反復効果を狙う方が世論を席巻できるとすれば、人間社会はますますロストワールド化していくであろう。とはいえ、悲観論ばかりでもない。ネット社会では、一権力によって情報操作が思うようにならなくなった。それは、ある意味健全かもしれん...
本書は、こうした力関係を、陸軍、空軍、海軍の性質に分類しながら、経済を陸軍力に、メディアを空軍力に、研究機関の知的影響を海軍力に結びつけて考察している。そして、米ソ冷戦構造を無形化された準三次大戦に位置づけ、第一大戦や第二次大戦との類似性を分析している。
注目したいのは、「運動量保存の法則」、「最小語数の原理」、「パターン再現仮説」の三つの概念を柱にしていること。二つの大戦が軍備競争によって約5年かかったのに対し、冷戦は資本主義と共産主義の経済対立によって50年を要した。一般的に軍事予算は、GDP比のほぼ1割とされる。残りを経済力で換算すれば、経済部門は軍事部門に比べて鈍速だが、その分体重が重く、比率は10倍で等しくなる。
また、マスコミ屋と空爆屋との類似性から「情報制空権」の重要性を物語る。
「ある概念は、それがたった一語で内容を表現できる場合にのみ、一般社会に爆発的に流布する。そしてそれは表現に2語以上を要する複雑な概念を常に駆逐する。」
確かに、機動性や柔軟性においては、軍事力よりも経済力が、経済力よりも情報力の方が優っている。メディアに至っては、むしろ流動性と言った方がいい。速度の影響力は絶大であり、ニュートン力学においても質量と速度の積によってパワーが定義される。現実に、経営戦略では意思決定能力が問われ、資源の集中と敏速な行動こそが成功の鍵を握る。
「経済的世界においても、その運動を本質的に決定している抽象的要素の相対的な関係が同じである限り、対応する軍事的世界において起こったのと全く同じ力学によって必ず支配され、相互の動きは基本的に同じパターンに従う。」
しかしながら、最も重要な要素に「知的制海権」の概念を持ち出している。
「現状を見る限りでは、インターネットの興隆に代表されるように、"様々な垣根を取り払って文明を速くする"テクノロジーによって世界統合に行き着く道が圧倒的に優位にあり、対抗馬にはもはや安楽死以外の選択はあり得ないかのように見える。しかしここで一つ考慮すべきことがあり、それは"伝統的な垣根を残して文明を遅くする"側に人類はどの程度の頭脳を投入してきたのだろうかということである。」
流動性の高さが機動性を発揮するのも事実だが、流動性が高すぎると、自身の中に力学を構築する前に流動体の奴隷と化す。手段にばかり目を奪われ、地に足がつかない戦略が横行するのは、まさにそういう状態であろう。いくら経済力や情報力を強化したところで、真の底力は深遠な道理を踏まえた知的能力に辿り着くはずだ。
ただ神の目には、戦争も経済も、はたまた超新星やブラックホールも、同じ物理現象に映っているのかもしれん。だから野放しにしているのか?戦争にしても、経済にしても、人間社会の手段に過ぎないと。では、どちらを選択するか?それは人類の叡智にかかっているとするしかあるまい...
1. 核兵器と精神力学
機動性や柔軟性を唱えたところで、それは社会に適合する上での相対的な特徴でしかない。いくら優れた特徴を備えていても、時代に受け入れられなければ、変質扱いされる。
核兵器は物理的に絶大な破壊力を持つが、使用するとなると、これほど硬直した融通のきかない兵器はない。核はもはや人間社会における相対的な武器を超越し、絶対的な破壊力の前では戦争の抑止力というより、人類滅亡のリスクとして機能する。この抑止力が、5年の軍事戦争を50年の経済戦争へ転嫁させた。事実上使用できなければ、経済的負担となるだけ。にもかかわらず、核のパワーに憑かれた政治指導者はごまんといる。自己の悪魔を制するには、悪魔に縋るしかないってか...
権力を暴力と置き換えれば、モンテスキュー式の暴力分立の原理がここにある。冷戦時代、核兵器の存在を意識しながら、戦車や戦闘機による小規模の戦闘が水面下で生じてきた。そして、長い時間を経て小さなエネルギーが蓄積し、巨大帝国を自然に崩壊させた。幸いにも人類滅亡の危機は避けられたわけだ。アルキメデスが言った... 我に支点を与えれば、地球を動かして見せよう!... というのは本当かもしれん。
本書は「通常兵器の相対的核兵器化」という考えを持ちだしている。核兵器の代理兵器と言おうか。そして、その延長上に「経済力の相対的軍事力化」という概念を持ち出す。
戦争を国家権力の及ぶ国境線を動かす仕事量とするならば、経済はグローバル化によって国境線を曖昧にする仕事量とすることはできそうである。平和時の交通事故の死者、自殺者、災害死などの社会的リスクは、死者の観点からすると戦争時と原理的には同じかもしれない。
「かつて平和を語っていた者が今や戦争を語り、かつて戦争を語っていた者が平和を語り始めたという立場の皮肉な逆転はこのような理由による。」
また、冷戦構造における西側勝利の最大要因は、半導体技術の登場だとしている。ハイテクが庶民に浸透し、豊かな生活をもたらした。東西の生活水準の格差は、民衆の大量流出を招いた。いまや、半導体業界の動向が、経済動向を判断する上で重要なファクタとなっている。しかし、一般報道では携帯端末といった身近なハイテク商品が話題になるだけ。所詮、半導体は部品よ!開発現場でも半導体技術者は粗末に扱われている... などと自分の立場を愚痴るのもなんだが... 所詮、人間は部品よ!
しかしながら、いくら核兵器を多様な兵器で置き換え、さらに軍事力を経済力に代替して、機動性や柔軟性をもって制圧しようとも、絶対的な自然力には到底敵わない。人間のできることといえば、せいぜいリスクを回避するぐらいなもの。いくらテクノロジーを進化させようとも、人間の頭脳の中で働くソフトウェアはほとんど変化しないし、精神力学はあまり変わらんようだ...
2. 情報制空権と運動量保存則の罠
空軍の威力は絶大であり、味方の犠牲を最小限にできるために、空軍至上主義に陥りやすい。だが、地上制圧が主目的であり、空爆しかできない軍隊では都合が悪かろう。むしろ宗教力の方が影響が強そうだ。戦争状態で地上を制圧する役割が陸軍力だとすれば、非戦争状態では経済力や文化力ということになる。ただし、ここで言う経済力や文化力は、政治的に仕向けられた思惑とは一線を画す。空爆的な威力を発揮するメディアの誇張が事実を伴わなければ、空回りするのも道理。情報化社会が高度化するほど、冷笑や虚無主義へ誘導するというのは本当かもしれん...
ちなみに、トーマス・ジェファーソンの言葉に、こんなものがあるそうな。
「良い政府が存在するが良い新聞が存在しない世界よりも、良い新聞だけが存在して良い政府が存在しない世界のほうが良い。」
人間には自分の意見と合う者同士で群れる習性があり、報道屋だけに中立の立場を課しても無理というもの。歴史を振り返れば、新聞が戦争を煽ってきた例は実に多い。そして敗戦が濃厚になると、平和主義者に豹変して戦犯探しに明け暮れる。英雄に持ち上げながら、一夜にして国賊扱い。専門家でも意見が分かれるところを、メディアは都合の良い立場しか取り上げない。著名人に罠をしかけ、スキャンダラスな事を言わせて注目を集めようとするのも彼らの常套手段で、勝手に人物像をでっちあげて抹殺にかかる。実際、マスコミ手法にはガスライティング的なものも少なくない。空爆で攻撃するパイロットは海兵隊などと違い、殺す相手を直接見なくて済む。だから、残虐性に疎いのかは知らん。
「ある事業がメディアの支援を受けながら行われる場合、事業完成までに要する時間の 1/10 の時間でメディアはそれを陳腐化させ、精神的な力を奪う。これが運動量法則の罠である。」
3. 知的制海権
伝統的な海軍の任務は、制海権の確保、パワープロジェクション(戦力投射)、プレゼンス、シーレーンの防衛といったところであろうか。総合的な戦略では、海を制して、いかに陸上に戦力を投射するかが問われ、その役割は空母の登場で、より直接的となった。経済的に言えば、企業の研究部門が新技術を開発して市場の膠着状態を一変することができれば、市場に投射できる。
政策で大きな役割を担う研究部門といえば、シンクタンク系である。ただ残念なことに、国家レベルでシンクタンクを機能させるアメリカに対して、日本では政府系シンクタンクが弱点とされる。かつては、総合商社や金融機関といった民間のシンクタンクがその役割を担い、官僚集団がそれらの機能を補ってきた。代替のシンクタンク機関を構築せずに官僚支配を弱めれば、もはや国家の頭脳は麻痺するだろう。そうした構造が官僚支配を助長する結果を招いてきたわけだが...
経済活動は多様化し社会構造も複雑化していく中で、バラバラの行動パターンによって、ゲリラ戦の様相を呈していく。手段が多様化する中で合理性を求めるならば、分進合撃といった戦略が必要であるが、国家レベルの知的戦略がないために、民間の研究部門が危機感を募らせる一方で、公共の研究機関は予算獲得に奔走する始末。
また、天然資源の乏しい我が国にとって、シーレーンの防衛は死活問題となる。それは、そのまま技術のシーレーンと結びつき、教育機関や研究機関が知識の補給線となる。かつては、技術力に直結する理工系が重要視された。現在では、仮想価値を煽ることで経済循環を促すことができる金融の異常発達が、原理的にそれを補っている。だがそれも、砂上の楼閣であることは否めない。MBAの取得に躍起になるような風潮では持続性に欠ける。金儲けに直結する知識ばかりに偏れば、知的柔軟性を失い、やがて知識の大艦巨砲主義に成り下がるであろう。
多様性と柔軟性は相性がよく、兵器と同様、知識も多様性によって相乗効果が期待できる。しかしながら、人間には目先の勢いに惑わされる習性がある。太平洋戦争時代、海軍の外交的見解よりも陸軍の精神論の方が、一般庶民には分かりやすかった。ドイツ陸軍の勢いに惑わされて、アメリカの工業力という潜在的な能力が見えなかった。現在でも、政治的リスクを無視して新興国の勢いに釣られて進出するなどの経済活動が旺盛である。しかも、研究部門を放棄してまで売上至上主義に突っ走った企業も少なくない。バブルの後遺症かは知らんが。バブル景気とは、高度成長時代に蓄積された平和ボケという堕落エネルギーがもたらした結果と見ることもできよう。
本書は、余剰労働をサービス業にばかり転化すれば頭でっかちな経済システムとなり、「万人が万人の召使になる」社会となり、さらに競争が激化すれば「万人が万人の奴隷になる」社会に堕落する、と警鐘を鳴らす。サービス業の概念も随分と多様化しているので、そこに知的部門を見出すこともできようが。
知的資源は目に見えにくいだけに、これを主軸とした国家戦略を練ることは難しく、よほどの計画性を要する。政治ジャーナリズムは、政治家の無力や無能を言い立て、政治不信こそが社会の閉塞状態の根源であると非難するが、それは本質的な問題ではなさそうである。情報制空権や知的制海権を確保しようという国家戦略すら存在しないのだから...
「政治家たちは情報制空権も知的制海権もない状態で、国旗の下の防御拠点に立てこもる以上の選択が最初から与えられていない。それゆえ政治家のどんな交代劇も、せいぜいマジノ線の防衛指揮官に誰がなるかということ以上の意味をもともと持ち得ないことは明らかなのであり、大衆がそれに無関心になるのはむしろ当然であろう。」
4. ハートランドと地政学
伝統的な戦術や戦略における理論において、地理的優位性というものがあり、戦略的要地をいかに制すかが勝敗の鍵となる。地政学の結論を大雑把に言えば、こういうこと。
「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する。」
ハートランドとは、大陸の心臓部という意味で、ハルフォード・マッキンダー著「デモクラシーの理想と現実」の中で、ユーラシア大陸の中核地域を中軸地帯と呼んだことに始まる。ヨーロッパを含むユーラシア大陸が地上の陸地の大部分を占めることから、これが世界島というわけだ。
ただ世界島の中で、戦略的要地は時代によって変化してきた。例えば、ローマ帝国の海軍力の低下を、閉鎖海戦略にあるとしている。地中海がローマ陸軍に制圧され、閉鎖海となったことで、コップの中の海軍と化し衰退したという。陸軍が強すぎても、海軍が強すぎても、はたまた空軍が強すぎても、うまくいかない。古くからヨーロッパとアジアの主導権争いでバルカン半島が要地とされ、第二次大戦では資源要地をめぐる戦いとなった。つまり、兵力の機動における地理的要地から、強力な武器のエネルギー源となる資源的要地へと移行してきたわけだが、無形化社会では、柔軟性と寛容性を持った知的要地へと移行していくのであろう。
従来の戦略には、「戦略的影響力は距離の2乗に反比例して減衰してゆく」という原則があるという。戦略的要地の概念も、距離の概念も、根本的に見直す必要がありそうだ。文化の中心地という意味ではあまり変わらないかもしれないが、流通経路、情報経路といったものが要地となる。実際、人間の集約力ではメガターミナル構想、物資の集約力ではメガフロート構想、資金の集約力ではメガバンク構想、情報の集約力ではビッグデータ構想、生産の集約力では多国籍企業化といった戦略がある。
日本列島は、太平洋上の航路において地理的条件は良い。だが同時に、中途半端な空港や港湾建設が乱立すれば、ガラパゴス化しやすいという脆さも抱えている。なにも海上封鎖などに頼らなくても、一国をガラパゴス化することは可能なのだ。にもかかわらず、政治屋どもは相変わらず地方へに利益供与に執心し、いまだ領地の幻想に憑かれている。おまけに、情報封鎖がお好きときた。冷戦構造が終結し、大国の影響力が弱まりつつある時代に、寄りかかり外交では危険である。既に準四次大戦が始まっているというのに...
「日本側が認識すべき厳しい現実は次のことである。... 現代世界では情報制空権さえもっていれば、"真実(少なくとも政治レベル)"は作れるのであり、そして中華文明圏の上空において、日本側が情報制空権を握れる見込みはほとんどないということである。」
もはや唯一の戦略は、単なる民主主義のレベルを超え、普遍的な理念を持つことしかあるまい。しかしながら、人間社会には陸軍的な論理に引きずられやすい傾向がある。愛国心ってやつは陶酔しやすいだけに歪みやすい。数千年に渡って変えられなかった意識を無形化世界の力学によって変えることは、突然変異でも起こらない限り難しかろう...
2014-12-21
"ラファエロ" 若桑みどり 著
「ラファエロには、ただ一つの傑作というものはない。彼のどの作品にも、"刹那よ、とどまれ!"ということはできない。彼は水であり、河である。それも、澄んだ河である。まわりのものを誰よりもみごとに映して見せる、鏡のごとき河である。彼が本当に持っていたもの、それは透明さなのだ。それは、自己の色を持たないということを意味している。」
ラファエロは、盛期ルネサンスの三大巨匠の中でも地味な存在、いや、他の二人があまりにも強烈なキャラクターであったと言った方がいい。レオナルドは科学者、哲学者であり、その万能者ぶりは群を抜いている。おまけに、同性愛の容疑をかけられた。ミケランジェロは、神がかりな新プラトン主義者であった。
レオナルドにとって、自然界は既に秩序が失われ、怪奇と謎の得体の知れぬ創造と破壊を繰り返す、魔術的な力の場であったという。より人間と神との対立を敏感に感じ取ったミケランジェロは、ルター派のような神による救済を信じることができず、烈しく苦しみ抜いた生涯を送ったという。
対して、ラファエロは、それほど深く思い悩む人ではなかったようである。その思想は大衆性に根ざしたもので、意図的に宗教的な権威を批判したのか?あるいは、素朴な感情がゆえに崇高な思想を排除したのか?本書は、レオナルドとミケランジェロが改革家ならば、ラファエロは神のごとき剽窃家であったとしている。
芸術家は、革命家になるか、剽窃家になるかのどちらかだ。...ポール・ゴーギャン
しかしながら、バロック期に宗教の大衆化の波が訪れると、むしろラファエロ芸術が権威と結びつく。16世紀半ば、反宗教改革のカトリック教は大衆性に着目し、ミケランジェロを避難してラファエロを持ち上げた。崇高で重々しい歴史を説くよりも、分かりやすく、親しみやすく、面白がらせる方が洗脳しやすい。そして、ロマン主義の時代になると、古き様式の権化とされ、激しい批判に晒される。ジョルジョ・ヴァザーリはこう語ったという。
「私はかく思う。ラファエロはミケランジェロに比肩しようとしたが彼に近づくことはできなかった。そこで彼はこの巨匠の手法を真似ることを止め、別の分野で、カトリック的な名声を得ることにした。たとえ誰であるにせよ、我々の世代の人間が、ミケランジェロの作品のみを研究しようとすれば、我々は彼の極度の完璧さにはけっして至りつくことはできない。... だが、カトリックの教えと、他の分野とをめざせば、自分たちにもこの世に役立つことができよう。」
1. 異色の肖像画
肖像画の技術において、レオナルドの「モナ・リザ」がバイブル的な存在であったことは確かであろう。それが男性像であっても、人物の角度といい、色彩の用い方といい、「アーニョロ・ドーニの像」、「一角獣と貴婦人」、「唖の女」、「バルダッサーレ・カスティリオーネの像」などの作品に見て取れる。
しかしながら、「ラファエロとその友人の像」は、やや異色である。晩年によく見られる様式だそうで、古典主義の原理からまったく外れているという。37歳という若さで死に、晩年と呼ぶのも、ちと違和感があるが。
非常に強い明暗と極端な短縮法、おまけに偏った配置は、確かにレオナルド式とは程遠い。画面の大部分を占める武人のポーズは、上半身をひねり、差し出された手が妙に強調されている。光のあたり具合では、後ろで控えているラファエロの肖像が浮き出されるような仕掛け。一瞬、友人が主役かと思いきや、じっくり眺めると、やはり主役はラファエロ自身か。遠近法と光源効果を巧みに組み合わせた手法を魅せつける。
2. 古典主義とキリスト教文化の不完全な統一
レオナルドとミケランジェロは、古典主義とキリスト教文化をルネサンスにおいて見事に統一した。対して、ラファエロには、その統一性において不完全だという酷評がある。
その対象とされる作品が「墓へと運ばれるキリスト」。フィレンツェ時代の最終作品で、まだ未熟だったということか。本書は、その意味を擁護している。この作品は、息子を殺されたアタランタ・バリオーニの依頼によるもので、死者を運ぶ若者と嘆くマグダラのマリアに、母とその子の肖像を描かなければならなかったという。主要人物は、バリオーニ家の人々というわけだ。重厚な歴史画に個人の肖像画を埋め込むという構想が、なんともアンバランスな感じを与える。
しかしながら、神話の世界において、優美な女神の裸体像などは完成度が高い。「三美神」では、互いに背く貞節と甘美を結び、そこに我を配置した三位一体図は、宗教画の域を脱しており、高尚さや崇高さを失いつつも、節約簡素な古典的イメージを醸し出す。背く二つの徳の仲裁に入れば、二倍の徳をともなって、我に返るとでも言いたげな...
「アダムとエヴァ」は、ユリウス2世の依頼で「著名の間」の天井の区画に描かれた作品で、キリストによる贖罪の原因となった人間の祖先の原罪を表しているのだとか。
この手の作品は、芸術性が高いのかもしれないが、裸体の不自然さと、無理なポーズが理解不能。完成度において一貫性を欠いているのは、パトロンの思惑次第というところもありそうか...
一方で、聖母の特徴は、一貫性を保っている感がある。「ひわの聖母」、「緑野の聖母」、「カニーニの聖家族」、「フォリーニョの聖母」などは、連作として眺めると聖母へ昇華していく様子が伺える。
3. 神学的ヒエラルキー
「アテナイの学堂」は、階段を使った見事な遠近法の中に古代ギリシアの偉人たちを勢揃いさせる。階段は、形而上から形而下に渡る学問の格付けであろうか... といったことは前記事で触れた。
これと似たような主題に「聖体の講義」という作品がある。「講義」というネーミングはヴァザーリの記述から誤って伝えられ、この構図に相応しくないと指摘している。本来、教会または秘蹟のトリオンフォ(勝利)と題されるべきであると。画面の中心は、輝く聖体盒に入った聖餅で遠近法的中心点になっていて、同時に、天と地、霊と肉との奇蹟的な合体である秘蹟の意味が、遠近消失点と合致しているという。そこに三位一体のシンボルが加わり、縦軸に天と地の人々の半円状の環が取り巻いているという構想だとか。地上の人物がだいたい実在人物の肖像画とされるのも、「アテナイの学堂」と同じ趣向か。ルネサンス期の人物像を、天球に配置して崇めようとでも...
また、「パルナソス」では、9人のムーサイ(詩女神)に囲まれて、丘の頂で竪琴を奏でるアポロンを中心に、古今の詩人たちや神々が並ぶ。左側には盲目のホメロスとかたわらにダンテ、右側にはバルダッサーレ・カスティリオーネとも、ミケランジェロとも言われる人物。9人のムーサイに支配される9つの詩の分類に従って、新旧の詩人が選ばれているという。古代の詩人に、ルネサンス期の人文主義者たちの肖像を置いて、古代文芸の復活をイメージしていると。
とはいえ、「聖体の講義」と「パルナソス」の二つの作品は空間的な精彩を欠いており、「アテナイの学堂」ほど遠近法と神学的ヒエラルキーという構想が結びついたものはあるまい。
4. 遠近法の破綻と崇拝の破綻
「ヘリオドロスの追放」は、16世紀の激情に放り込まれるような作品で、右側に激情が集約され、左側に不安が集約されるという構想。神殿から略奪するヘリオドロスを馬で踏みにじる天の騎士と、恐れおののく女子供たちの表情が、事件の残忍さを物語る。さらに、左端で平然と傍観している人物はユリウス2世か。静と動の意識的な配置が、劇場鑑賞を思わせ、激情の明暗と遠近法が見事に融合する。
「ペテロの救出」にも、明暗の調和による激情の物語がある。中央には、鉄格子の中で眠るペテロと、救出しようとする天使の姿を輝かせる。右側には、天使に導かれて牢を出るペテロと眠りこける兵士たち。左側には、囚人の逃亡を知って駆けつける兵士たちが、月光の下で浮かび上がる。
これとは対照的に、激情とは一変した冷静さで奇蹟を物語っているのが、「ボルセーナのミサ」。1263年にボルセーナで起こった事件を題材に、不信の司祭が手にした聖餅が血を流した奇蹟を描いている。ユリウス2世と従者たちは、奇蹟を予知していたかのような冷静さで、背後で群衆がざわめき、ロウソクがゆらめく。奇蹟の偉大さをユリウス2世の前では当然とし、逆説的に教皇の偉大さを示しているとすれば、却って庶民が期待する激的なものは伝わらない。
さらに、「ボルゴの火事」では、遠近法によって主題が隠された感がある。9世紀半ば、レオ4世の治世に起こった火事を鎮める奇蹟を、時の教皇レオ10世の讃美として描いた作品。中央のはるか遠くに、教皇らしき人物が見えるものの、火事で大騒ぎしている民衆が強調され、もはや主題は奇蹟というより火事そのもの。壺に水を入れて運ぶ人々、裸体で壁をよじ登ろうとする男、壁の上から子供を拾い上げようとする女、老人を背負って逃げ惑う男、両腕を祈るように掲げる女たち... A.M.ブリッツィオは、「ギリシア悲劇の舞台」と解した方がいいと言ったそうな。
ついに、「オスティアの戦い」では、遠近法が崩壊する。空間的構想より主題を強調することで、合理的な空間を形成することはあるだろう。だが、題名からして海戦が主題であるはずなのに、船団は遠くに描かれ、手前で人々がごった返している様子。祈っている人々や司祭やら、負傷者や捕虜やら、床を掃除している男やらが目立ち、もはや何を描きたいのかも伝わらない。遠近法の破綻が精神の破綻にも映るのは、パトロンである教皇の精神を映し出しているのであろうか。なぁーんだ、このブログと同じじゃないか...
ラファエロは、盛期ルネサンスの三大巨匠の中でも地味な存在、いや、他の二人があまりにも強烈なキャラクターであったと言った方がいい。レオナルドは科学者、哲学者であり、その万能者ぶりは群を抜いている。おまけに、同性愛の容疑をかけられた。ミケランジェロは、神がかりな新プラトン主義者であった。
レオナルドにとって、自然界は既に秩序が失われ、怪奇と謎の得体の知れぬ創造と破壊を繰り返す、魔術的な力の場であったという。より人間と神との対立を敏感に感じ取ったミケランジェロは、ルター派のような神による救済を信じることができず、烈しく苦しみ抜いた生涯を送ったという。
対して、ラファエロは、それほど深く思い悩む人ではなかったようである。その思想は大衆性に根ざしたもので、意図的に宗教的な権威を批判したのか?あるいは、素朴な感情がゆえに崇高な思想を排除したのか?本書は、レオナルドとミケランジェロが改革家ならば、ラファエロは神のごとき剽窃家であったとしている。
芸術家は、革命家になるか、剽窃家になるかのどちらかだ。...ポール・ゴーギャン
しかしながら、バロック期に宗教の大衆化の波が訪れると、むしろラファエロ芸術が権威と結びつく。16世紀半ば、反宗教改革のカトリック教は大衆性に着目し、ミケランジェロを避難してラファエロを持ち上げた。崇高で重々しい歴史を説くよりも、分かりやすく、親しみやすく、面白がらせる方が洗脳しやすい。そして、ロマン主義の時代になると、古き様式の権化とされ、激しい批判に晒される。ジョルジョ・ヴァザーリはこう語ったという。
「私はかく思う。ラファエロはミケランジェロに比肩しようとしたが彼に近づくことはできなかった。そこで彼はこの巨匠の手法を真似ることを止め、別の分野で、カトリック的な名声を得ることにした。たとえ誰であるにせよ、我々の世代の人間が、ミケランジェロの作品のみを研究しようとすれば、我々は彼の極度の完璧さにはけっして至りつくことはできない。... だが、カトリックの教えと、他の分野とをめざせば、自分たちにもこの世に役立つことができよう。」
1. 異色の肖像画
肖像画の技術において、レオナルドの「モナ・リザ」がバイブル的な存在であったことは確かであろう。それが男性像であっても、人物の角度といい、色彩の用い方といい、「アーニョロ・ドーニの像」、「一角獣と貴婦人」、「唖の女」、「バルダッサーレ・カスティリオーネの像」などの作品に見て取れる。
しかしながら、「ラファエロとその友人の像」は、やや異色である。晩年によく見られる様式だそうで、古典主義の原理からまったく外れているという。37歳という若さで死に、晩年と呼ぶのも、ちと違和感があるが。
非常に強い明暗と極端な短縮法、おまけに偏った配置は、確かにレオナルド式とは程遠い。画面の大部分を占める武人のポーズは、上半身をひねり、差し出された手が妙に強調されている。光のあたり具合では、後ろで控えているラファエロの肖像が浮き出されるような仕掛け。一瞬、友人が主役かと思いきや、じっくり眺めると、やはり主役はラファエロ自身か。遠近法と光源効果を巧みに組み合わせた手法を魅せつける。
2. 古典主義とキリスト教文化の不完全な統一
レオナルドとミケランジェロは、古典主義とキリスト教文化をルネサンスにおいて見事に統一した。対して、ラファエロには、その統一性において不完全だという酷評がある。
その対象とされる作品が「墓へと運ばれるキリスト」。フィレンツェ時代の最終作品で、まだ未熟だったということか。本書は、その意味を擁護している。この作品は、息子を殺されたアタランタ・バリオーニの依頼によるもので、死者を運ぶ若者と嘆くマグダラのマリアに、母とその子の肖像を描かなければならなかったという。主要人物は、バリオーニ家の人々というわけだ。重厚な歴史画に個人の肖像画を埋め込むという構想が、なんともアンバランスな感じを与える。
しかしながら、神話の世界において、優美な女神の裸体像などは完成度が高い。「三美神」では、互いに背く貞節と甘美を結び、そこに我を配置した三位一体図は、宗教画の域を脱しており、高尚さや崇高さを失いつつも、節約簡素な古典的イメージを醸し出す。背く二つの徳の仲裁に入れば、二倍の徳をともなって、我に返るとでも言いたげな...
「アダムとエヴァ」は、ユリウス2世の依頼で「著名の間」の天井の区画に描かれた作品で、キリストによる贖罪の原因となった人間の祖先の原罪を表しているのだとか。
この手の作品は、芸術性が高いのかもしれないが、裸体の不自然さと、無理なポーズが理解不能。完成度において一貫性を欠いているのは、パトロンの思惑次第というところもありそうか...
一方で、聖母の特徴は、一貫性を保っている感がある。「ひわの聖母」、「緑野の聖母」、「カニーニの聖家族」、「フォリーニョの聖母」などは、連作として眺めると聖母へ昇華していく様子が伺える。
3. 神学的ヒエラルキー
「アテナイの学堂」は、階段を使った見事な遠近法の中に古代ギリシアの偉人たちを勢揃いさせる。階段は、形而上から形而下に渡る学問の格付けであろうか... といったことは前記事で触れた。
これと似たような主題に「聖体の講義」という作品がある。「講義」というネーミングはヴァザーリの記述から誤って伝えられ、この構図に相応しくないと指摘している。本来、教会または秘蹟のトリオンフォ(勝利)と題されるべきであると。画面の中心は、輝く聖体盒に入った聖餅で遠近法的中心点になっていて、同時に、天と地、霊と肉との奇蹟的な合体である秘蹟の意味が、遠近消失点と合致しているという。そこに三位一体のシンボルが加わり、縦軸に天と地の人々の半円状の環が取り巻いているという構想だとか。地上の人物がだいたい実在人物の肖像画とされるのも、「アテナイの学堂」と同じ趣向か。ルネサンス期の人物像を、天球に配置して崇めようとでも...
また、「パルナソス」では、9人のムーサイ(詩女神)に囲まれて、丘の頂で竪琴を奏でるアポロンを中心に、古今の詩人たちや神々が並ぶ。左側には盲目のホメロスとかたわらにダンテ、右側にはバルダッサーレ・カスティリオーネとも、ミケランジェロとも言われる人物。9人のムーサイに支配される9つの詩の分類に従って、新旧の詩人が選ばれているという。古代の詩人に、ルネサンス期の人文主義者たちの肖像を置いて、古代文芸の復活をイメージしていると。
とはいえ、「聖体の講義」と「パルナソス」の二つの作品は空間的な精彩を欠いており、「アテナイの学堂」ほど遠近法と神学的ヒエラルキーという構想が結びついたものはあるまい。
4. 遠近法の破綻と崇拝の破綻
「ヘリオドロスの追放」は、16世紀の激情に放り込まれるような作品で、右側に激情が集約され、左側に不安が集約されるという構想。神殿から略奪するヘリオドロスを馬で踏みにじる天の騎士と、恐れおののく女子供たちの表情が、事件の残忍さを物語る。さらに、左端で平然と傍観している人物はユリウス2世か。静と動の意識的な配置が、劇場鑑賞を思わせ、激情の明暗と遠近法が見事に融合する。
「ペテロの救出」にも、明暗の調和による激情の物語がある。中央には、鉄格子の中で眠るペテロと、救出しようとする天使の姿を輝かせる。右側には、天使に導かれて牢を出るペテロと眠りこける兵士たち。左側には、囚人の逃亡を知って駆けつける兵士たちが、月光の下で浮かび上がる。
これとは対照的に、激情とは一変した冷静さで奇蹟を物語っているのが、「ボルセーナのミサ」。1263年にボルセーナで起こった事件を題材に、不信の司祭が手にした聖餅が血を流した奇蹟を描いている。ユリウス2世と従者たちは、奇蹟を予知していたかのような冷静さで、背後で群衆がざわめき、ロウソクがゆらめく。奇蹟の偉大さをユリウス2世の前では当然とし、逆説的に教皇の偉大さを示しているとすれば、却って庶民が期待する激的なものは伝わらない。
さらに、「ボルゴの火事」では、遠近法によって主題が隠された感がある。9世紀半ば、レオ4世の治世に起こった火事を鎮める奇蹟を、時の教皇レオ10世の讃美として描いた作品。中央のはるか遠くに、教皇らしき人物が見えるものの、火事で大騒ぎしている民衆が強調され、もはや主題は奇蹟というより火事そのもの。壺に水を入れて運ぶ人々、裸体で壁をよじ登ろうとする男、壁の上から子供を拾い上げようとする女、老人を背負って逃げ惑う男、両腕を祈るように掲げる女たち... A.M.ブリッツィオは、「ギリシア悲劇の舞台」と解した方がいいと言ったそうな。
ついに、「オスティアの戦い」では、遠近法が崩壊する。空間的構想より主題を強調することで、合理的な空間を形成することはあるだろう。だが、題名からして海戦が主題であるはずなのに、船団は遠くに描かれ、手前で人々がごった返している様子。祈っている人々や司祭やら、負傷者や捕虜やら、床を掃除している男やらが目立ち、もはや何を描きたいのかも伝わらない。遠近法の破綻が精神の破綻にも映るのは、パトロンである教皇の精神を映し出しているのであろうか。なぁーんだ、このブログと同じじゃないか...
2014-12-14
"ラファエロの世界" 池上英洋 著
1520年... 美術の教科書では、この年をもってルネサンス期の終焉とするそうな。なんのことはない、ラファエロが亡くなった年である。彼を盛期ルネサンスとマニエリスムのどちらに区分するかは微妙であろう。既にバロック様式を体現していたとする意見も耳にする。37歳という早すぎる死にも、係わりがあるかもしれない。芸術家として成熟を極めた年齡とは言い難いのだから。いずれにせよ、芸術様式がある年をもって突然変化するわけもなく、歴史における便宜上の問題でしかあるまい。
さて、盛期ルネサンスの三大巨匠といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ。代表作でいえば、レオナルドの「ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)」や「最後の晩餐」、ミケランジェロの「ダヴィデ」とすぐに思い浮かべることができる。
しかし、ラファエロのものとなると、どうであろう。そういえば、ある専門家は、ラファエロ好きなどと発言すると変わり者という目で見られる、と語っていた。三人の中で最も地味な存在という印象もあるが、実は一番好きな画家だ。もっとも美術的な価値は分らないが、動的な物語に惹かれるのである。
あの「アテナイの学堂」には、ネオプラトニズムが存分に顕れている。古代ギリシアの偉人たちが賑やかに勢揃いし、しかも、ルネサンスの著名人たちをモデルにするという洒落が利いている。中央のプラトンのモデルがレオナルドというだけで、その存在感が伺える。階段の下で、のんびりと肘をついているヘラクレイトスのモデルは、ミケランジェロ。右下で幾何学を講義するユークリッドのモデルは、建築家ドナト・ブラマンテ。ラファエロ自身は、右端で遠慮気味に顔を覗かせるアペレスとして描かれる。個人的に見過ごせないのが、階段の中央でだらしなく横たわっている犬のディオゲネス。このモデルは誰であろうか?乞食の代名詞をわざわざ名指しすることもなかろうが...
こうした着想は、古代文化に匹敵するほどの偉大な時代を生きていることへの自負心であろうか。美術オンチの酔いどれですら、いつかはヴァチカンの「ラファエロの間」を訪れてみたいと夢見るのであった...
万能人を多く輩出したのも、この時代の特徴であろう。ミケランジェロにしても、ラファエロにしても、芸術家でありながら建築家でもあった。レオナルドに至っては、科学者、数学者、あるいは発明家とも呼ばれる別格。
ルネサンス時代に古典文化を重ねるということは、多彩な学問の融合が要求されるであろう。そもそも古代ギリシア・ローマ文化は神話的な多神教の世界であり、キリスト教的な一神教の世界とは相反する。そこで、聖書の下で、神話の中に登場する神々の新たな解釈が求められる。おそらく、信仰心を超越した普遍的な抽象レベルにおいて、思想の融合を図るしかあるまい。この時代の芸術家たちが自然科学にも精通していたことは、必然だったのかもしれない。幾何学に精通した様子は、遠近法の作品群が如実に物語っている。信仰的な矛盾を犯しながらも、古典回帰の思想が生まれたのは、よほど宗教の暴走を嘆いた時代ということであろうか...
18世紀になると、産業革命とともに中産階級が台頭し、絶対君主の庇護にあった美術作品は批判の的とされる。ロマン主義の時代には、ラファエロ芸術もアカデミズムの権化として攻撃されたという。芸術作品が、政治思想の象徴として描かれてきたのも事実。ラファエロがルネサンス期の最後を飾ったことも、古典至上主義の代名詞とされた一因であろう。芸術作品に宗教思想のレッテルを貼って、古臭いカノンなどと攻撃を受けたり。偉大な思想は、後世の解釈のされ方によって、ほとんど言いがかりのような批判に曝されることがある。今を生きる人間は、流行の意見に惑わされがちで、純粋な価値が見えないもの。
しかしながら、偉大な芸術は、時代の潮流から切り離されて、純粋に評価させようとする力がある。死後に再評価されるのは、偉大な学芸家の宿命なのかもしれん...
1. アテナイの学堂
階段を使った見事な遠近法の中に古代ギリシアの偉人たちが勢揃いする作品で、「署名の間」に描かれたフレスコ壁画。ただ、人物にばかり目がいっていたが、本書はその構造上の解説を加えてくれる。
聖堂の象徴的なアーチの奥に、二体の巨大な大理石像が配置され、左側がアポロン、右側がミネルヴァ(アテーナー)で、芸術と知識のシンボルが描かれるという。ルネサンス芸術とギリシア知識の融合というわけか。神話の神々は多神教、いわば、異教徒の神だが、これらが教会支配下の中心、つまりは聖堂において集約されるってか。どんな異教であろうがキリスト教の下で一元化できるというのも、ちと無理があるけど。なるほど、パトロンは戦争好きのレッテルを貼られた教皇ユリウス2世か...
ところで、この作品には昔から考えさせられることがある。それは、階段が何を意味しているかということ。最上段では、自著「ティマイオス」を脇に抱えるプラトンと、隣で語り合うアリストテレスも何やら著作を抱え、二人で共に歩きながら、やがて階段を降りるであろうことを想像させる。最上段が最上の哲学の原型であるイデアだとすれば、階段の下へ行くほど現世に近づき、どんな叡智もやがて庶民化していき、下っていく... と解するのは行き過ぎであろうか?階段の下でヘラクレイトスが肘をついているのは、現世で諦めの境地に達したようにも映る。階段下の右側で民衆相手に講義しているユークリッドは、幾何学と現実空間の親和性を物語っているのであろうか。ラファエロ自身をアペレスに重ねて、幾何学のグループに属しているのも興味深い。
犬儒学派ディオゲネスが階段の中央で横たわり、まだ階段の下に足が到達していないのは、この狂えるソクラテスはまだ救いの領域にあるとでもいうのか?あるいは、昔を懐かしんで階段を登ろうとし、疲れきっているのか?はたまた、形而上から形而下への格付けなんてものは、所詮人間が編み出した価値観に過ぎないと蔑んでいるのか?
尚、この作品には、女性数学者ヒュパティアも描かれるが、別の作品「天体の起動」に描かれる天使に祝福される女性もヒュパティアではないかと想像してしまう。映画「アレクサンドリア」でも描かれた彼女は、狂信的なキリスト教徒に八つ裂きにされる運命を辿る。「天体の起動」もまた「署名の間」に描かれたフレスコ画だそうな...
2. 女の達人!?
「美術家列伝」の著者ジョルジョ・ヴァザーリは、ラファエロの早すぎる死の一因を過度の女好きに求めたという。神々しい女性を描いた作品群が、親しみやすい雰囲気を漂わせているのは、実存する女性を描いたためだとか。しかし、派手な女性関係を噂されながらも、特定の女性との交際を裏付ける資料はほとんど残っていないという。証拠を残さないとは、よほどの達人か!
パトロンの枢機卿メディチ・ビッビエーナから、姪マリア・ビッビエーナを紹介されて婚約したのは確かなようである。だが、婚礼に至らぬまま、彼女は1514年に急死したとか。彼女への遠慮からか、あるいは、枢機卿の推挙で聖職者としての重職に就く可能性があっためか、表向きは生涯童貞を宣言したという説もあるそうな。一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。愛はホットな女性の数だけあるとすれば、独身貴族こそ純粋な平等主義者となろう。実際、彼は生涯独身を通したという。
この時代の肖像画は、男性像であっても、人物の角度といい、色彩の用い方といい、レオナルドの「モナ・リザ」がかなり意識されているようである。
作品「ラ・フォルナリーナ」には、腕輪に「RAPHAEL VRBINAS」と銘記され、ラファエロの「秘めたる花嫁」という伝説が生まれたという。パン屋の娘という意味だが、日本流であれば、ラファエル命!と腕に入墨をやるところであろう。シエナ出身のマルゲリータ・ルーティがモデルとされ、高級娼婦との説もあるらしいが、実在人物かも定かではないらしい。
作品「ヴェールをかぶった婦人(ラ・ヴェラータ)」に描かれる女性もフォルナリーナと同じ人物とする説もあれば、花嫁特有の仕草から、婚約者マリア・ビッビエーナと考えられるむきもあるという。
さらに本書は、ちと興味深い指摘をしている。それは、作品「システィーナの聖母(サン・シストの聖母)」のマリアにも酷似していること。愛する女性を理想化し、聖母として神格化させることは、男の深層心理としてありがちな話である。ましてや、女性の死が早いとなれば、若く美しいままの姿で記憶に留めることであろう...
さて、盛期ルネサンスの三大巨匠といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ。代表作でいえば、レオナルドの「ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)」や「最後の晩餐」、ミケランジェロの「ダヴィデ」とすぐに思い浮かべることができる。
しかし、ラファエロのものとなると、どうであろう。そういえば、ある専門家は、ラファエロ好きなどと発言すると変わり者という目で見られる、と語っていた。三人の中で最も地味な存在という印象もあるが、実は一番好きな画家だ。もっとも美術的な価値は分らないが、動的な物語に惹かれるのである。
あの「アテナイの学堂」には、ネオプラトニズムが存分に顕れている。古代ギリシアの偉人たちが賑やかに勢揃いし、しかも、ルネサンスの著名人たちをモデルにするという洒落が利いている。中央のプラトンのモデルがレオナルドというだけで、その存在感が伺える。階段の下で、のんびりと肘をついているヘラクレイトスのモデルは、ミケランジェロ。右下で幾何学を講義するユークリッドのモデルは、建築家ドナト・ブラマンテ。ラファエロ自身は、右端で遠慮気味に顔を覗かせるアペレスとして描かれる。個人的に見過ごせないのが、階段の中央でだらしなく横たわっている犬のディオゲネス。このモデルは誰であろうか?乞食の代名詞をわざわざ名指しすることもなかろうが...
こうした着想は、古代文化に匹敵するほどの偉大な時代を生きていることへの自負心であろうか。美術オンチの酔いどれですら、いつかはヴァチカンの「ラファエロの間」を訪れてみたいと夢見るのであった...
万能人を多く輩出したのも、この時代の特徴であろう。ミケランジェロにしても、ラファエロにしても、芸術家でありながら建築家でもあった。レオナルドに至っては、科学者、数学者、あるいは発明家とも呼ばれる別格。
ルネサンス時代に古典文化を重ねるということは、多彩な学問の融合が要求されるであろう。そもそも古代ギリシア・ローマ文化は神話的な多神教の世界であり、キリスト教的な一神教の世界とは相反する。そこで、聖書の下で、神話の中に登場する神々の新たな解釈が求められる。おそらく、信仰心を超越した普遍的な抽象レベルにおいて、思想の融合を図るしかあるまい。この時代の芸術家たちが自然科学にも精通していたことは、必然だったのかもしれない。幾何学に精通した様子は、遠近法の作品群が如実に物語っている。信仰的な矛盾を犯しながらも、古典回帰の思想が生まれたのは、よほど宗教の暴走を嘆いた時代ということであろうか...
18世紀になると、産業革命とともに中産階級が台頭し、絶対君主の庇護にあった美術作品は批判の的とされる。ロマン主義の時代には、ラファエロ芸術もアカデミズムの権化として攻撃されたという。芸術作品が、政治思想の象徴として描かれてきたのも事実。ラファエロがルネサンス期の最後を飾ったことも、古典至上主義の代名詞とされた一因であろう。芸術作品に宗教思想のレッテルを貼って、古臭いカノンなどと攻撃を受けたり。偉大な思想は、後世の解釈のされ方によって、ほとんど言いがかりのような批判に曝されることがある。今を生きる人間は、流行の意見に惑わされがちで、純粋な価値が見えないもの。
しかしながら、偉大な芸術は、時代の潮流から切り離されて、純粋に評価させようとする力がある。死後に再評価されるのは、偉大な学芸家の宿命なのかもしれん...
1. アテナイの学堂
階段を使った見事な遠近法の中に古代ギリシアの偉人たちが勢揃いする作品で、「署名の間」に描かれたフレスコ壁画。ただ、人物にばかり目がいっていたが、本書はその構造上の解説を加えてくれる。
聖堂の象徴的なアーチの奥に、二体の巨大な大理石像が配置され、左側がアポロン、右側がミネルヴァ(アテーナー)で、芸術と知識のシンボルが描かれるという。ルネサンス芸術とギリシア知識の融合というわけか。神話の神々は多神教、いわば、異教徒の神だが、これらが教会支配下の中心、つまりは聖堂において集約されるってか。どんな異教であろうがキリスト教の下で一元化できるというのも、ちと無理があるけど。なるほど、パトロンは戦争好きのレッテルを貼られた教皇ユリウス2世か...
ところで、この作品には昔から考えさせられることがある。それは、階段が何を意味しているかということ。最上段では、自著「ティマイオス」を脇に抱えるプラトンと、隣で語り合うアリストテレスも何やら著作を抱え、二人で共に歩きながら、やがて階段を降りるであろうことを想像させる。最上段が最上の哲学の原型であるイデアだとすれば、階段の下へ行くほど現世に近づき、どんな叡智もやがて庶民化していき、下っていく... と解するのは行き過ぎであろうか?階段の下でヘラクレイトスが肘をついているのは、現世で諦めの境地に達したようにも映る。階段下の右側で民衆相手に講義しているユークリッドは、幾何学と現実空間の親和性を物語っているのであろうか。ラファエロ自身をアペレスに重ねて、幾何学のグループに属しているのも興味深い。
犬儒学派ディオゲネスが階段の中央で横たわり、まだ階段の下に足が到達していないのは、この狂えるソクラテスはまだ救いの領域にあるとでもいうのか?あるいは、昔を懐かしんで階段を登ろうとし、疲れきっているのか?はたまた、形而上から形而下への格付けなんてものは、所詮人間が編み出した価値観に過ぎないと蔑んでいるのか?
尚、この作品には、女性数学者ヒュパティアも描かれるが、別の作品「天体の起動」に描かれる天使に祝福される女性もヒュパティアではないかと想像してしまう。映画「アレクサンドリア」でも描かれた彼女は、狂信的なキリスト教徒に八つ裂きにされる運命を辿る。「天体の起動」もまた「署名の間」に描かれたフレスコ画だそうな...
2. 女の達人!?
「美術家列伝」の著者ジョルジョ・ヴァザーリは、ラファエロの早すぎる死の一因を過度の女好きに求めたという。神々しい女性を描いた作品群が、親しみやすい雰囲気を漂わせているのは、実存する女性を描いたためだとか。しかし、派手な女性関係を噂されながらも、特定の女性との交際を裏付ける資料はほとんど残っていないという。証拠を残さないとは、よほどの達人か!
パトロンの枢機卿メディチ・ビッビエーナから、姪マリア・ビッビエーナを紹介されて婚約したのは確かなようである。だが、婚礼に至らぬまま、彼女は1514年に急死したとか。彼女への遠慮からか、あるいは、枢機卿の推挙で聖職者としての重職に就く可能性があっためか、表向きは生涯童貞を宣言したという説もあるそうな。一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。愛はホットな女性の数だけあるとすれば、独身貴族こそ純粋な平等主義者となろう。実際、彼は生涯独身を通したという。
この時代の肖像画は、男性像であっても、人物の角度といい、色彩の用い方といい、レオナルドの「モナ・リザ」がかなり意識されているようである。
作品「ラ・フォルナリーナ」には、腕輪に「RAPHAEL VRBINAS」と銘記され、ラファエロの「秘めたる花嫁」という伝説が生まれたという。パン屋の娘という意味だが、日本流であれば、ラファエル命!と腕に入墨をやるところであろう。シエナ出身のマルゲリータ・ルーティがモデルとされ、高級娼婦との説もあるらしいが、実在人物かも定かではないらしい。
作品「ヴェールをかぶった婦人(ラ・ヴェラータ)」に描かれる女性もフォルナリーナと同じ人物とする説もあれば、花嫁特有の仕草から、婚約者マリア・ビッビエーナと考えられるむきもあるという。
さらに本書は、ちと興味深い指摘をしている。それは、作品「システィーナの聖母(サン・シストの聖母)」のマリアにも酷似していること。愛する女性を理想化し、聖母として神格化させることは、男の深層心理としてありがちな話である。ましてや、女性の死が早いとなれば、若く美しいままの姿で記憶に留めることであろう...
2014-12-07
壊れかけの Raid
いまだ、ハードディスクがいきなり壊れるという経験がないのは、幸運であろう。この手の呪いは、なんらかの前兆がある。不良セクタが見つかるやら、アクセスのリトライが増えるやら、異音が鳴り始めるやら...
そして今回は、BIOS がゲロを吐く... "AHCI PORT0 Device Error"
Win7(64bit)でも... "ハードディスクの問題が検出されました"
モノは、DELL Studio XPS8100(2010年購入)内蔵 HDD...
Seagate ST3500418AS(500GB/7,200RPM)
# Motherboard: 0T568R(SATA)
お陀仏になる前に交換することに...
Western Digital WD5003AZEX(500GB/7,200RPM)
1. Win7 の復旧で、ちと手間取る...
いきなりインストールで失敗!途中で固まる。たまたまかと思いきや、再度やってもダメ。
あっそうだ!BIOS の S-ATA 設定が、RAIDモードになっていた。Win7 のインストーラは対応していないが、必要なドライバを参照できるようになっている。DELL提供のドライバディスクにある RAIDドライバを、外部のメディアに展開しておいて、インストーラに食わせればいい。いや、最新版をどこからかダウンロードしてきた方がいいだろう。
さて、パーティションは、ブート領域に 100MB を確保する仕様になっている。なるほど、ここにシステムを置いて、起動安定性を確保するという戦略か。壊れたら、とりあえずこの領域を修復すれば起動はできる。
しかし、HDD が破壊される確率は、物理構造に依存することに変わりはない。システム領域よりも、データ領域のバックアップの方が重要であろう。
2. RAID から ATA へ
ところで、RAID にする意味ってあるんだっけ?内蔵HDD が一台しかないというのに。購入時、なぜ RAIDモード?と思ったが、深くは突っ込まなかった。工場出荷状態で、数MB のゴミのようなパーティションを切っているのは、気になっていたが...
ミラーリングだけなら、外付 HDD で十分!ただ、速度重視で内蔵HDDを増設して、RAID 0 で組む手はある。
とはいえ、Surface Pro3 のおかげで SSD に魅せられ、少々静かでパフォーマンスの高い HDD を持ちこんでも、まったく感動できない有り様。SSD で RAID を組むなら元気も出そうか?
てなわけで、BIOS の設定をATAモード(no AHCI)で再構築することにした。
3. ネアンデルタール人のバックアップ思想
ちっぽけな事業所とはいえ、ミラーリング(RAID 1)ぐらいは構築しておきたい、と考えたのが十年以上前。当時、RAIDといえば、サーバといった大掛かりなイメージがあった。そして、大昔のバックアップ思想が残っている。作業領域の差分データをサーバへ ftp して一括管理し、サーバ側で日々の差分をバックアップして、週末に全体を再構築するといった具合。大規模な事業所ならともかく、バックアップテープの発想だ。こんなやり方はとっとと捨てたいところだが、せっかく自動化しているのだからもったいない!という意識が妙に働く。これには、深かぁ~い言い訳がある。面倒くさい上に、当時の思考回路が再現できないときた。
見直せど見直せど、なお我が魂、官僚主義に沈みつつ、じっと手を見る...
そして今回は、BIOS がゲロを吐く... "AHCI PORT0 Device Error"
Win7(64bit)でも... "ハードディスクの問題が検出されました"
モノは、DELL Studio XPS8100(2010年購入)内蔵 HDD...
Seagate ST3500418AS(500GB/7,200RPM)
# Motherboard: 0T568R(SATA)
お陀仏になる前に交換することに...
Western Digital WD5003AZEX(500GB/7,200RPM)
1. Win7 の復旧で、ちと手間取る...
いきなりインストールで失敗!途中で固まる。たまたまかと思いきや、再度やってもダメ。
あっそうだ!BIOS の S-ATA 設定が、RAIDモードになっていた。Win7 のインストーラは対応していないが、必要なドライバを参照できるようになっている。DELL提供のドライバディスクにある RAIDドライバを、外部のメディアに展開しておいて、インストーラに食わせればいい。いや、最新版をどこからかダウンロードしてきた方がいいだろう。
さて、パーティションは、ブート領域に 100MB を確保する仕様になっている。なるほど、ここにシステムを置いて、起動安定性を確保するという戦略か。壊れたら、とりあえずこの領域を修復すれば起動はできる。
しかし、HDD が破壊される確率は、物理構造に依存することに変わりはない。システム領域よりも、データ領域のバックアップの方が重要であろう。
2. RAID から ATA へ
ところで、RAID にする意味ってあるんだっけ?内蔵HDD が一台しかないというのに。購入時、なぜ RAIDモード?と思ったが、深くは突っ込まなかった。工場出荷状態で、数MB のゴミのようなパーティションを切っているのは、気になっていたが...
ミラーリングだけなら、外付 HDD で十分!ただ、速度重視で内蔵HDDを増設して、RAID 0 で組む手はある。
とはいえ、Surface Pro3 のおかげで SSD に魅せられ、少々静かでパフォーマンスの高い HDD を持ちこんでも、まったく感動できない有り様。SSD で RAID を組むなら元気も出そうか?
てなわけで、BIOS の設定をATAモード(no AHCI)で再構築することにした。
3. ネアンデルタール人のバックアップ思想
ちっぽけな事業所とはいえ、ミラーリング(RAID 1)ぐらいは構築しておきたい、と考えたのが十年以上前。当時、RAIDといえば、サーバといった大掛かりなイメージがあった。そして、大昔のバックアップ思想が残っている。作業領域の差分データをサーバへ ftp して一括管理し、サーバ側で日々の差分をバックアップして、週末に全体を再構築するといった具合。大規模な事業所ならともかく、バックアップテープの発想だ。こんなやり方はとっとと捨てたいところだが、せっかく自動化しているのだからもったいない!という意識が妙に働く。これには、深かぁ~い言い訳がある。面倒くさい上に、当時の思考回路が再現できないときた。
見直せど見直せど、なお我が魂、官僚主義に沈みつつ、じっと手を見る...
2014-11-30
"昨日の世界(I/II)" Stefan Zweig 著
歴史とは、客観的に語られてこそ、より輝きを放つもの。だが、ツヴァイクは、あえて自我を主役に据えた歴史小説を綴る。大量殺戮の世紀と化した20世紀の証言者という使命を背負うかのように...
しかしながら、自我を綴ることは危険だ。自ら無へ帰することになりかねない。
「私が物語るのは、私の運命ではなく、ひとつの世代全体の運命である...」
こう記した二年後、亡命先のリオ・デ・ジャネイロで、再婚して間もない夫人と共に命を絶つ。これはツヴァイクが残した最晩年の自伝書であるが、ヨーロッパ文化が残した遺書と言うべきかもしれん...
近い過去にあっては人間悲劇、遠い過去にあっては人間喜劇となるのが、歴史というものか。同じ愚行を繰り返しているだけなのに、時間の観念のみが心持ちを変える。同じ言葉を発しても、同世代の人間にはライバル意識を燃やし、大昔の偉人には素直に耳を傾けることができる。そのくせ死人に口なしの原理に縋って、過去の人たちに子どもじみた議論を持ちかけては欠席裁判を仕掛ける。
講和を唱えようものなら、ヨーロッパでは敗北主義者と罵られ、日本では非国民と罵られた時代。自由論者も平等論者も同じく狂気し、もはや勝利か!破滅か!の選択肢しか与えられない。この物語の影には、不可能な賠償金を課せられ、空前のハイパーインフレに喘いでいた経済を、あっさりと立て直した独裁者の演説に陶酔する大衆がつきまとう。政治家ってやつは、経済政策さえうまくやれば、少々悪い政策を持ち込んでも大衆を黙らすことができると考える。そして、知らず知らずのうちにメフィストフェレスに魂を売るのだ。
「歴史は、同時代人には、彼らの時代を規定している大きなさまざまな動きを、そのほんの始まりのうちに知らせることはしない、というのが、つねに歴史のくつがえしえぬ鉄則である。そこで私も、いつ初めてアドルフ・ヒトラーの名前を聞いたのかをもはや思い出すことはできない。」
ツヴァイクがユダヤ人としてウィーンに生を享けた1881年、神聖ローマ帝国が解体されたとはいえ、依然ハプスブルク家はオーストリア = ハンガリー帝国として強大な勢力を保っていた。芸術の都ウィーンは、まだ世界市民的な風潮が旺盛だったようである。文化だけでなく民族的に、ドイツ人も、チェコ人も、ユダヤ人も、時には愚弄しあうことがあったとはいえ、共存共栄の下で暮らしていたという。
やがて、新たなスピードの時代が訪れる。自動車や航空機などの機械化が進み、電話やラジオが普及すると、憎悪のヒステリーを世界中に感染させていく。その意味では、グローバリズムの波に対抗して愛国心を煽ったり、インターネットの普及によって欺瞞情報を瞬時に拡散させる現代と何が違うというのか。人間社会ってやつは、善玉菌より悪玉菌の方が感染力が強いようである。普遍的な学問よりも金儲けの手段を学ぶ方が手っ取り早いし、子供じみた衝動に駆られ続けるのは、何千年もの昔から変わらない。究極の知性人が、社会嫌いになり、人間嫌いになり、自己嫌悪に陥るのは必然なのか。彼らには、寒山拾得のごとく社会から距離を置き、あるいは、世間の目に晒してはならないシャングリ・ラのような保護区が必要なのかもしれん。
ツヴァイクもまたそうした知性人たちの例に漏れず、やがて勃発する第一次大戦に絶望し、わずかな望みを託した国際連盟にも絶望し、さらに第二次大戦へ突入するだけでは飽き足らず、ゲットーを目の当たりにして、人間というものに完全に絶望し、その批判的言論が亡命生活を余儀なくされる。
「しかし、私はそれを嘆くまい。故郷なき者こそが、新しい意味において自由であり、何ものにも束縛されない者のみが、もはや何ものをも顧みる必要がない。」
1. ファシズムとステレオタイプ
ツヴァイクが、「マリー・アントワネット」や「ジョゼフ・フーシェ」のような伝記小説を残したのは、フランス革命に始まる民主主義の本性を暴きたかったからかもしれない... と、なんとなくそう思いながら読んでいる。
「ジョゼフ・フーシェ」は、不本意ながらナチズムの国家主義者たちに愛読されたようである。確かに、政治陰謀のバイブルのような小説だ。人間社会には常に集団的な野獣性が潜んでおり、政治戦略はこれをいかに利用するかにかかっている。フロイトは、破壊的な衝動によって理性が簡単に無力化される性質を指摘し、パスカルは、人間を狂うものと定義した。集団性の前では、理性とてファシズム化する。禁煙ファシズム、環境保護ファシズム、動物愛護ファシズム、絆ファシズム...
理性人どもが、なんでもかんでも、けしからん!不謹慎だ!と憤慨すれば、冗談も言えない窮屈な社会となる。笑いの情念は高等な動物にしか持てないとされるが、笑いの質こそが人間社会の成熟度を測る物差しとなろう。
「人間の性質のうちには寛濶に答えるには寛濶をもってし、充溢に答えるには充溢をもってする、というところがある。」
価値観の多様化が進む現代社会にあってもなお、多数派に反対するには勇気がいる。一般市民が魔女狩りのごとく追求し、全体思想を押し付ける風潮があるのは、いつの時代も変わらない。おまけに、有識者どもが率先して吹聴する傾向がある。ファシズム、ナチズム、ボルシェヴィズムといった悪疫は、いずれもナショナリズムが高揚した形で現れた。政治屋どもが正義を掲げれば、報道屋どもはもっと大きな正義を掲げ... 正義の暴走ほどタチの悪いものはない。メディアには公平性と客観性が求められるが、現在のメディアとて、一斉に持ち上げるだけ持ち上げ、叩けるだけ叩き、どちらか一方に傾倒する。いまや、どこの国も民衆の意志は一枚岩ではない。ダブルスタンダードどころかマルチスタンダードだということだ。だが、いつの時代も、国粋主義的な風潮とステレオタイプ的な視点が強調され、傍観と無関心な態度が彼らを暴走させる。そりゃ、ヒステリーな熱狂者と関わりたくはないが、政治ってやつは、性質上こうした連中と結びつきやすい。自国に誇りを持つことと、他国を蹴落とすことでは、まったく意味が違うというのに。民主主義の成熟度は、国粋主義的な傾向の度合いや、ステレオタイプ的な見方の強弱によって測れそうか...
「安定という言葉をずっと前からひとつの幻影として、語彙から消し去ってしまったわれわれならば、あの理想主義に眩惑した世代が、人類の技術的進歩は同じように急速な道徳的向上を無条件にもたらすと信じたその楽天的な幻覚を、冷笑するのもたやすいことである。」
2. 人生大学
「私にとっては、良書は最良の大学のかわりをする、というエマーソンの原理が、確固として妥当し続けて来たのである。人は大学、あるいはギムナジウムにさえも通うことなくして、すぐれた哲学者、歴史家、文献学者、法律学者、そのほかの何にでもなりうる、と私は今日でも確信している。」
生の万象を示してくれる人生の大学を求めて、書物を漁ってまわるのも悪くない。若い頃は、優れた人物から学ぶことも大きいが、同世代の仲間と議論することの方が、より多くを学べたような気がする。本質を学ぶ資質は、政治的な態度に毒された大人よりも、純粋に学びたいと欲する子供の方が優っているのだろう。ある大科学者は、常識とは18歳までに身につけた偏見の寄せ集め、と言ったとか言わなかったとか。偏見に見舞われれば、自己の正当性を主張するのに必至になる。
ツヴァイクの交友関係は、実に広い。少年時代に出会った天才ホーフマンスタールの衝撃に始まり、ヘルツル、リルケ、ヴェルハーレンとの交友を語り、ロラン、ジイド、ヴァレリー、トーマス・マン、バルトーク、フロイト、ゴーリキーといった知識人との回想を織り交ぜる。彼らは、生き証人としての義務を果たすかのように協力しあう。偉大で悲惨な時代だから、互いに引きつけたのだろうか。平和で凡庸な時代では、真の自由について考えることもあまりない。ちなみに、フロイトを真理の熱狂者と呼び、彼はこう語ったという。
「百パーセントのアルコールがないように、百パーセントの真理というものはありませんね。」
狂気の社会では、冷静に物事を考える人間を排除し、子供じみた虚栄心や野心が旺盛となり、エリートほど危険な存在となる。教科課程が生徒を平均化させることを意図し、多数派に属することで安住できるように仕向ければ、権威主義が蔓延り、軍部の思い上がりが民衆を先導する。国家主義を育むには、実に都合のいい構図だ。
政治の思惑が、自己実現をいかに廻り道させてきたことか。粗暴に加担しないというだけでは充分ではない。戦争責任は政治指導者にあるが、独裁者一人でやれるものではなく、民衆の後ろ盾が必要だ。集団の不自然さ、すなわち、無関心を装い傍観者であり続けることが、戦争という不自然な現象を招き入れる。虚栄に乱されず、自由で朗らかな人間でありたいものだが、俗世間の泥酔者には、大人になっても似た者同士で集まることぐらいしかできん。困ったものよ...
3. 引き金の繰り返し
1914年の大戦は、フランツ・フェルディナント夫妻がサラエボで暗殺されたことが引き金となった。だが、この帝位継承者は大衆に人気がなく、愛嬌や人間的魅力に欠けていたとか。対して、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の唯一の子息ルードルフは、感じのいい皇太子だったという。ルードルフはマイエルリンクで銃で死んでいるのを発見されるが、この事件については陰謀説がくすぶる。
しかし政治的には、サラエボ事件の犯人は、ボスニア系セルビア人とされ、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。独墺伊の三国同盟にあったドイツも宣戦布告し、英仏露の三国協商にあったロシアがオーストリアへ宣戦布告すれば、連鎖反応で世界大戦となる。
では、1914年の悲惨を経験しながら、なぜ、1939年にも同じことを繰り返したのか?ツヴァイクの答えは単純だ。1939年には、1914年と同じぐらい子供らしい素朴な信仰を持ちあわせていなかったと。皇帝フランツ・ヨーゼフが84歳にして血の犠牲を欲したことを、誰も疑問に思わなかった。そんなことが、1939年にも起こったというのか...
ヴェルサイユ条約の破綻に幻滅すれば、外交を軽蔑する。ウィルソンの偉大な綱領を信じたところで、はたまたロシア革命に希望を持ったところで、再び地獄に引き戻される。時代は、チェンバレンの妄想的な平和宣言よりも、戦争屋チャーチルを欲した。当初、単なる国境や植民地のための戦争ではなく、イデオロギーの戦争であったはずが、科学の進歩とともに無差別攻撃を容認し、非戦闘員までも犠牲にした。もはや戦争は、勇気と誇りの象徴ではなくなり、憎悪とヒステリーの代名詞となった。シェイクスピアはドイツの舞台から追放され、モーツァルトやワーグナーはイギリスの音楽堂から追放され、道理に適った会話は不可能となり、平和を好む人々までも血の臭いに酔いしれる。結局、二つの大戦は同じ悲劇を繰り返しただけだった。引用されるシェイクスピアの言葉がいつまでも残る...
「こんなに汚れた空は、嵐なしではきれいさっぱりとはならぬわい。」
しかしながら、自我を綴ることは危険だ。自ら無へ帰することになりかねない。
「私が物語るのは、私の運命ではなく、ひとつの世代全体の運命である...」
こう記した二年後、亡命先のリオ・デ・ジャネイロで、再婚して間もない夫人と共に命を絶つ。これはツヴァイクが残した最晩年の自伝書であるが、ヨーロッパ文化が残した遺書と言うべきかもしれん...
近い過去にあっては人間悲劇、遠い過去にあっては人間喜劇となるのが、歴史というものか。同じ愚行を繰り返しているだけなのに、時間の観念のみが心持ちを変える。同じ言葉を発しても、同世代の人間にはライバル意識を燃やし、大昔の偉人には素直に耳を傾けることができる。そのくせ死人に口なしの原理に縋って、過去の人たちに子どもじみた議論を持ちかけては欠席裁判を仕掛ける。
講和を唱えようものなら、ヨーロッパでは敗北主義者と罵られ、日本では非国民と罵られた時代。自由論者も平等論者も同じく狂気し、もはや勝利か!破滅か!の選択肢しか与えられない。この物語の影には、不可能な賠償金を課せられ、空前のハイパーインフレに喘いでいた経済を、あっさりと立て直した独裁者の演説に陶酔する大衆がつきまとう。政治家ってやつは、経済政策さえうまくやれば、少々悪い政策を持ち込んでも大衆を黙らすことができると考える。そして、知らず知らずのうちにメフィストフェレスに魂を売るのだ。
「歴史は、同時代人には、彼らの時代を規定している大きなさまざまな動きを、そのほんの始まりのうちに知らせることはしない、というのが、つねに歴史のくつがえしえぬ鉄則である。そこで私も、いつ初めてアドルフ・ヒトラーの名前を聞いたのかをもはや思い出すことはできない。」
ツヴァイクがユダヤ人としてウィーンに生を享けた1881年、神聖ローマ帝国が解体されたとはいえ、依然ハプスブルク家はオーストリア = ハンガリー帝国として強大な勢力を保っていた。芸術の都ウィーンは、まだ世界市民的な風潮が旺盛だったようである。文化だけでなく民族的に、ドイツ人も、チェコ人も、ユダヤ人も、時には愚弄しあうことがあったとはいえ、共存共栄の下で暮らしていたという。
やがて、新たなスピードの時代が訪れる。自動車や航空機などの機械化が進み、電話やラジオが普及すると、憎悪のヒステリーを世界中に感染させていく。その意味では、グローバリズムの波に対抗して愛国心を煽ったり、インターネットの普及によって欺瞞情報を瞬時に拡散させる現代と何が違うというのか。人間社会ってやつは、善玉菌より悪玉菌の方が感染力が強いようである。普遍的な学問よりも金儲けの手段を学ぶ方が手っ取り早いし、子供じみた衝動に駆られ続けるのは、何千年もの昔から変わらない。究極の知性人が、社会嫌いになり、人間嫌いになり、自己嫌悪に陥るのは必然なのか。彼らには、寒山拾得のごとく社会から距離を置き、あるいは、世間の目に晒してはならないシャングリ・ラのような保護区が必要なのかもしれん。
ツヴァイクもまたそうした知性人たちの例に漏れず、やがて勃発する第一次大戦に絶望し、わずかな望みを託した国際連盟にも絶望し、さらに第二次大戦へ突入するだけでは飽き足らず、ゲットーを目の当たりにして、人間というものに完全に絶望し、その批判的言論が亡命生活を余儀なくされる。
「しかし、私はそれを嘆くまい。故郷なき者こそが、新しい意味において自由であり、何ものにも束縛されない者のみが、もはや何ものをも顧みる必要がない。」
1. ファシズムとステレオタイプ
ツヴァイクが、「マリー・アントワネット」や「ジョゼフ・フーシェ」のような伝記小説を残したのは、フランス革命に始まる民主主義の本性を暴きたかったからかもしれない... と、なんとなくそう思いながら読んでいる。
「ジョゼフ・フーシェ」は、不本意ながらナチズムの国家主義者たちに愛読されたようである。確かに、政治陰謀のバイブルのような小説だ。人間社会には常に集団的な野獣性が潜んでおり、政治戦略はこれをいかに利用するかにかかっている。フロイトは、破壊的な衝動によって理性が簡単に無力化される性質を指摘し、パスカルは、人間を狂うものと定義した。集団性の前では、理性とてファシズム化する。禁煙ファシズム、環境保護ファシズム、動物愛護ファシズム、絆ファシズム...
理性人どもが、なんでもかんでも、けしからん!不謹慎だ!と憤慨すれば、冗談も言えない窮屈な社会となる。笑いの情念は高等な動物にしか持てないとされるが、笑いの質こそが人間社会の成熟度を測る物差しとなろう。
「人間の性質のうちには寛濶に答えるには寛濶をもってし、充溢に答えるには充溢をもってする、というところがある。」
価値観の多様化が進む現代社会にあってもなお、多数派に反対するには勇気がいる。一般市民が魔女狩りのごとく追求し、全体思想を押し付ける風潮があるのは、いつの時代も変わらない。おまけに、有識者どもが率先して吹聴する傾向がある。ファシズム、ナチズム、ボルシェヴィズムといった悪疫は、いずれもナショナリズムが高揚した形で現れた。政治屋どもが正義を掲げれば、報道屋どもはもっと大きな正義を掲げ... 正義の暴走ほどタチの悪いものはない。メディアには公平性と客観性が求められるが、現在のメディアとて、一斉に持ち上げるだけ持ち上げ、叩けるだけ叩き、どちらか一方に傾倒する。いまや、どこの国も民衆の意志は一枚岩ではない。ダブルスタンダードどころかマルチスタンダードだということだ。だが、いつの時代も、国粋主義的な風潮とステレオタイプ的な視点が強調され、傍観と無関心な態度が彼らを暴走させる。そりゃ、ヒステリーな熱狂者と関わりたくはないが、政治ってやつは、性質上こうした連中と結びつきやすい。自国に誇りを持つことと、他国を蹴落とすことでは、まったく意味が違うというのに。民主主義の成熟度は、国粋主義的な傾向の度合いや、ステレオタイプ的な見方の強弱によって測れそうか...
「安定という言葉をずっと前からひとつの幻影として、語彙から消し去ってしまったわれわれならば、あの理想主義に眩惑した世代が、人類の技術的進歩は同じように急速な道徳的向上を無条件にもたらすと信じたその楽天的な幻覚を、冷笑するのもたやすいことである。」
2. 人生大学
「私にとっては、良書は最良の大学のかわりをする、というエマーソンの原理が、確固として妥当し続けて来たのである。人は大学、あるいはギムナジウムにさえも通うことなくして、すぐれた哲学者、歴史家、文献学者、法律学者、そのほかの何にでもなりうる、と私は今日でも確信している。」
生の万象を示してくれる人生の大学を求めて、書物を漁ってまわるのも悪くない。若い頃は、優れた人物から学ぶことも大きいが、同世代の仲間と議論することの方が、より多くを学べたような気がする。本質を学ぶ資質は、政治的な態度に毒された大人よりも、純粋に学びたいと欲する子供の方が優っているのだろう。ある大科学者は、常識とは18歳までに身につけた偏見の寄せ集め、と言ったとか言わなかったとか。偏見に見舞われれば、自己の正当性を主張するのに必至になる。
ツヴァイクの交友関係は、実に広い。少年時代に出会った天才ホーフマンスタールの衝撃に始まり、ヘルツル、リルケ、ヴェルハーレンとの交友を語り、ロラン、ジイド、ヴァレリー、トーマス・マン、バルトーク、フロイト、ゴーリキーといった知識人との回想を織り交ぜる。彼らは、生き証人としての義務を果たすかのように協力しあう。偉大で悲惨な時代だから、互いに引きつけたのだろうか。平和で凡庸な時代では、真の自由について考えることもあまりない。ちなみに、フロイトを真理の熱狂者と呼び、彼はこう語ったという。
「百パーセントのアルコールがないように、百パーセントの真理というものはありませんね。」
狂気の社会では、冷静に物事を考える人間を排除し、子供じみた虚栄心や野心が旺盛となり、エリートほど危険な存在となる。教科課程が生徒を平均化させることを意図し、多数派に属することで安住できるように仕向ければ、権威主義が蔓延り、軍部の思い上がりが民衆を先導する。国家主義を育むには、実に都合のいい構図だ。
政治の思惑が、自己実現をいかに廻り道させてきたことか。粗暴に加担しないというだけでは充分ではない。戦争責任は政治指導者にあるが、独裁者一人でやれるものではなく、民衆の後ろ盾が必要だ。集団の不自然さ、すなわち、無関心を装い傍観者であり続けることが、戦争という不自然な現象を招き入れる。虚栄に乱されず、自由で朗らかな人間でありたいものだが、俗世間の泥酔者には、大人になっても似た者同士で集まることぐらいしかできん。困ったものよ...
3. 引き金の繰り返し
1914年の大戦は、フランツ・フェルディナント夫妻がサラエボで暗殺されたことが引き金となった。だが、この帝位継承者は大衆に人気がなく、愛嬌や人間的魅力に欠けていたとか。対して、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の唯一の子息ルードルフは、感じのいい皇太子だったという。ルードルフはマイエルリンクで銃で死んでいるのを発見されるが、この事件については陰謀説がくすぶる。
しかし政治的には、サラエボ事件の犯人は、ボスニア系セルビア人とされ、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。独墺伊の三国同盟にあったドイツも宣戦布告し、英仏露の三国協商にあったロシアがオーストリアへ宣戦布告すれば、連鎖反応で世界大戦となる。
では、1914年の悲惨を経験しながら、なぜ、1939年にも同じことを繰り返したのか?ツヴァイクの答えは単純だ。1939年には、1914年と同じぐらい子供らしい素朴な信仰を持ちあわせていなかったと。皇帝フランツ・ヨーゼフが84歳にして血の犠牲を欲したことを、誰も疑問に思わなかった。そんなことが、1939年にも起こったというのか...
ヴェルサイユ条約の破綻に幻滅すれば、外交を軽蔑する。ウィルソンの偉大な綱領を信じたところで、はたまたロシア革命に希望を持ったところで、再び地獄に引き戻される。時代は、チェンバレンの妄想的な平和宣言よりも、戦争屋チャーチルを欲した。当初、単なる国境や植民地のための戦争ではなく、イデオロギーの戦争であったはずが、科学の進歩とともに無差別攻撃を容認し、非戦闘員までも犠牲にした。もはや戦争は、勇気と誇りの象徴ではなくなり、憎悪とヒステリーの代名詞となった。シェイクスピアはドイツの舞台から追放され、モーツァルトやワーグナーはイギリスの音楽堂から追放され、道理に適った会話は不可能となり、平和を好む人々までも血の臭いに酔いしれる。結局、二つの大戦は同じ悲劇を繰り返しただけだった。引用されるシェイクスピアの言葉がいつまでも残る...
「こんなに汚れた空は、嵐なしではきれいさっぱりとはならぬわい。」
2014-11-23
"人類の星の時間" Stefan Zweig 著
ほんの一瞬に過ぎ去るからこそ輝いて見える...
毎日が栄光に満たされていれば、退屈病に襲われる。無数の凡庸人で溢れているからこそ、一人の天才が出現する。芸術精神もまた、地道な思考の繰り返しの中から、霊的なものに憑かれる一瞬によって創造される。閃きってやつだ。そして、無限の坦々たる時間が流れ去った後、歴史に刻まれる一瞬が生まれる。平凡の内に一瞬にして宿る天才的資質とは、歴史のみが発明しうる矛盾とでもしておこうか...
時世の勝利者が、歴史の勝利者となるわけではない。どんな星の下に生まれ、どんな運命を背負うかは、やってみなきゃ分からん。だからこそ、終世、活力ある生き方をしたいと願う。情熱を持ち続け、若さを保つ秘訣は、やはりホットな女性との恋ですかねぇ... ゲーテ爺ちゃん!
ツヴァイクの仕事は確固とした形に打ち鍛えられているが、中心にはいつでも炎が燃えている。... リヒャルト・シュペヒト
「ジョゼフ・フーシェ」や「マリー・アントワネット」の本格的な歴史叙述とは違い、ちと趣向(酒肴)を変えた12の物語。歴史の影に潜むウンチク話とは、いかなるものであろうか。得てして、こうした裏話の方に歴史の本質が隠されているものである。現象を皮相的に捉えるのではなく、心情的現象としていかに解釈するか、これぞ歴史小説の醍醐味であろう。
「歴史は余計な後押しの手を少しも必要とはせず、ただ畏敬をもって叙述する言葉だけを必要とする。」
1. 大罪人の逃亡劇から生まれた太平洋の発見
コロンブスの堂々たる誇張癖は、アメリカ大陸をインドだと思い込み、無尽蔵の金があるとスペイン王に報告させた。そして、デスペラードどもがこぞって黄金郷に群がり、数年間で土着民の人口を根絶に致しめる。荷箱に入って密航したバスコ・ヌニェス・デ・バルボアもまた、そうした一人。スペイン王が派遣した総督が命を失ったのも、彼のせいだという。
しかし、スペインは遠い。断頭台に送られる前に権力の横領を正当化するには、なんらかの功績が必要だ。当初、フランシスコ・ピサロと協力して土着民から略奪するが、未開の地を探検するには原住民を味方にする方が得と見て、小王国コイバの酋長カレタの娘を妻にして同盟する。
そして、パナマ地峡の横断に挑む。兵士190人を派遣し、原住民を運搬人や案内人にし、病人や足手まといは見捨てられるという苛酷な旅。土着民の話によれば、ある山の頂上から二つの大洋、すなわち、大西洋とまだ名の付けられていない太平洋が見下ろせるという。山頂に近づくと、あと一歩というところで、バルボアは行進停止を命令する。太平洋を初めて見るキリスト教徒は、自分でなければならないからだ。さらに、酋長は「南の海」の彼方にある国の名を言った。ビルー!どうやらペルーのことらしい。
一方、スペイン王は、バルボアを処罰するために、ペドロ・ペドラリアス・ダビラを派遣して総督に任命した。だが、バルボアの偉業を知ったスペイン王は、、バルボアを臨時総督に任命し、二人で計るよう命令する。次の目標は、新世界の黄金郷を征服すること、すなわち、誰よりも先駆けてペルーを征服すること。しかし、兵員や物資の不足に悩まされ、今度は幸運に恵まれず、その功績を戦友のピサロに譲る。ピサロは、インカ帝国の征服者として知られる人物。バルボアの失敗は、ダビラの嫉妬の餌食に合い、断頭台へ送られる。
「運命というものは運命の寵児たちに対してさえ、決して過度に寛大であることはない。運命の神々は一人の人間に一つ以上の不滅の行為を恵んでさせることは稀である。」
2. コンスタンティノープル陥落のあっけない真相
オスマントルコの穏健な皇帝ムラード(ムラト2世)に代わって、ずるく精悍な若い王子マホメット(メフメト2世)が帝位に就くと、ビザンチンの人々を恐れさせた。トルコ人によって包囲され、最後の皇帝コンスタンティヌス・ドラガセスの帝位も風前の灯。ドラガセスは何度もイタリアへ援軍を要請するが、古来カトリック教とギリシア正教の遺恨は深い。
とはいえ、西方教会も東方教会も元を辿れば同じキリスト教であり、共通の強敵が出現すれば、ローマ法王の特使とギリシア正教の総主教グレゴリウスが肩を並べて和解のミサを行うという奇跡も起こる。しかしながら、歴史において、理性と和解の瞬間ほど、すぐに過ぎ去るものはない。聖堂の中で共同の祈りが行われている間も外では罵り合う始末。またもや狂信主義者どもによって引き裂かれた。
しかし、包囲戦が始まっても、千年に渡って補強されてきた難攻不落の城壁は、最新の大砲をもってしてもびくともしない。マホメットは、どんなに大金を払っても、新しい攻撃手段を作るとの声明を出す。大砲の鋳造家ウルガス、あるいはオルバスという名のハンガリア人はキリスト教徒で、以前コンスタンティヌス皇帝にも仕えていたという。彼は「弩砲」と呼ばれる新型の大砲をこしらえ、マンモスのような大砲の群れが城壁の前に出現した。だが、歴史を変える決定弾とはなりえない。
この時代のトルコとビザンチンの国境は地理的に分かりやすい。ボスポラス海峡のアジア側の海域がトルコ。深く陸地に入り込み、盲腸みたいな形をした「黄金の角」と呼ばれる湾港が、自然の要害となっていた。マホメットは、ハンニバルやナポレオンに匹敵するほどの空想家だという。湾港に船団を侵入させることが不可能と見るや、船団を山越えさせるという途轍もない計画を実行したとか。ハンニバルやナポレオンが、突然アルプス越えでオーストリア人を脅かしたように。だが、これも歴史を変える決定弾とはなりえない。
さて、城壁をめぐる激烈な攻防戦にあって、およそ起こりえないことが起こるものである。「ケルカポルタ」という城門だけが、なぜか?開いたままだったとか。平和時には歩行者たちの通用門として使われるちっぽけな門が、興奮のるつぼの中うっかり忘れられていたのか?歴史的な戦闘が、こんなにあっさりと城門を突破させるとは、なんと間抜けな話!
3. ヘンデルの復活に見る「メサイア」誕生秘話
1737年、急に倒れたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは四ヶ月もの間、まったく身動きができぬ無力の状態にあったという。話すこともできず、右半身不随となり、医者が諦めるほどの重病だったとか。短気な性格が、急激に精神を病ませたのか?医者が熱い湯に3時間以上入ってはいけないと警告したにもかかわらず、毎日9時間も入って意志力を回復させ周囲を驚愕させる。音楽に対する執念がそうさせたのか...
しかし、せっかく創作意欲を取り戻したものの、時代は彼に敵対する。女王崩御のための上演は中止され、スペインとの戦争が始まると民衆は音楽どころではない。評論家からは冷笑され、借金がかさみ、心は暗澹とし、ますます自己に閉じこもる。
1741年8月21日、そんな絶望の日に小包が届く。「サウル」と「エジプトにおけるイスラエル」の台本を書いた詩人ジンネンスからの手紙を添えて。
「新作の詩をお送りする、音楽のけだかい守護神、音楽の不死鳥が、願わくば彼の貧寒な詩に慈悲を垂れて、その翼に乗せて、永遠界の大空に天(あま)がけり給わんことを...」
お前まで嘲るか!と憤るヘンデル。もう一度、冷静に台本を手にしてみると、最初の言葉に「慰めあれ!」とある。この言葉が、彼の本能を刺激したのか?得体の知れぬ好奇心のようなものが、そうさせたのか?一度、肉体の麻痺から立ち上がらせたヘンデルを、今度は、精神の麻痺から立ち上がらせる。そして、歓呼のフレーズに出会う。「ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!(神を頌せよ)」そう、あの名曲だ。三週間自室に閉じこもり、魔術的な素早さで完成させたという。時間の観念をまったく失い、リズムと拍子だけが支配する空間とはいかなるものであろうか...
1742年4月13日、アイルランドの首都ダブリンで講演。この演奏で得た金は、心を開いてくれた感謝とともに、すべて寄付することに決めたという。1759年、重い病にあるヘンデルは74歳。最後の審判を仰ぐ日を、聖金曜日としたいと願う。それは、ちょうど4月13日、メサイアの初演を飾った日。自分が更生されたその日に、世を去りたいというわけか。実際、この無比なる意志力は、死の時期までも支配することに...
4. 一晩だけ宿った才能が生んだ「ラ・マルセイエーズ」
フランスは、急進派の勢いでオーストリア皇帝とプロイセン王に宣戦布告。1792年4月25日、革命政府がオーストリアへ宣戦布告したという知らせがストラスブールに届く。市長ディートリヒ男爵は、大広場で宣戦布告文書をフランス語とドイツ語で読み上げた。初めての軍歌「サ・イラ」は、連隊の歩調とともに軍隊的な調子を帯びていき、カフェやクラブでも歌われる。ディートリヒは、乾杯の時に側にいた要塞守備隊のルジェ大尉が、憲法発布時に自由のための歌を作ったことを思い出し、明日進軍するライン軍のために軍歌を作ってくれと頼んだという。ルジェは、正当な理由もなしに貴族っぽいルジェ・ド・リールと名を変えていたとか。そして、翌日生まれたのが「ラ・マルセイエーズ」。凡庸な才能が、一晩にして天才的な霊に憑かれるとは...
この歌が革命の象徴へと育っていくと、逆に作曲家の名は忘れ去られる。ルジェ・ド・リールという名は、誰一人として顧みる者はなく、楽譜にも名が印刷されなかったという。しかも、この作曲家はまったく革命的でなかったとか。パリの民衆が「ラ・マルセイエーズ」を高唱しながら、チュイルリー宮を襲撃して王位を引きずり下ろした時、革命に酷く幻滅。共和制に宣誓するのを拒み、軍人としてジャコバン党に奉仕するよりも、軍籍から去ることを望んだという。彼は、外国の王冠をかぶった暴君たちを憎んだが、それに劣らず、国民議会の新奇な暴君たちと専制者たちを憎んだという。革命の公安委員会にも公然と反感を示し、革命の象徴を作った男が祖国を裏切った罪に問われた。まだしもギロチン刑にされれば、歴史に名を残したかもしれない。やがてフランス国歌となる作曲家は、地味なうちに人生を終えたという...
5. ナポレオンを百日天下とさせたグルシー元帥
歴史は奇妙な気まぐれによって、重大な運命をそれに相応しくない人物に委ねることがある。凡庸人は、高い地位を得たり、大金を得たりすると、ほんの束の間の幸せを味わうことに没頭する。更なる高みに上る機会を掴んでもなお欲望に溺れ、自己を高めようとはしないことが、凡庸たる所以であろうか。
ウォーターロー(ワーテルロー)の決戦の瞬間が、まさにそれだ。西洋史において、この時代ほどイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアの王侯たちが一致団結を見せたのも、珍しいのではあるまいか。北方からはウェリントンが進軍し、それにブリュッヘア元帥が指揮するプロイセン軍が続く。ライン河畔ではシュヴァルツェンベルクが戦備を整え、後方にはロシア軍。ナポレオンはプロイセン軍をや破り、その追撃を命じた。追撃隊を一任されたのはエマニュエル・ド・グルシー元帥、3分の1もの軍隊を任せる。20年間の数々の戦場で戦うが、目覚ましい功績もなく、ゆっくりと元帥まで昇進した人物だという。ナポレオンの天才的直感とは正反対に、自発的な行動に慣れない人物だとか。ナポレオンも、その器を見抜いていたらしいが、なにしろ忠実な人物。独裁的な人物ほど、やたらとイエスマンを好むようである。
しかし、戦争のような混沌とした状況では、応用力と決断力こそが決め手となる。雨の中、泥道をゆっくりと進軍し、敗走するプロイセン軍の足取りは依然つかめない。農家で朝食をとっていると鈍い轟音が。ナポレオンがイギリス軍を大攻撃しているのは明らか。副官は、大急ぎで砲声の方へ向かうべきだと進言する。だが、ひたすら服従で昇進してきた人物は、新たな命令がない限り、自分の義務から外れるわけにはいかない。副官ジェラールは、自分の分隊だけでも援軍に行かせてくれと歎願するが、拒否される。もう一人の副官ヴァンダームも、この判断に憤慨。その間、ウェリントンはフランス軍の4回の攻撃を押し返すものの、かなりのダメージを受ける。総攻撃を命じようとしたその時、森の中から援軍が現れた。どちらの援軍か?言うまでもなく、ブリュッヘア。3分の1の部隊が無意味にうろつきまわっている間に、プロイセン軍はいち早くイギリス軍と合流したのだった。わずか4時間の地点にありながら、いまだのんびりと追撃を続ける。副官たちは敗戦を悟ったのか、死に場所を求めるかのように森をさまよう...
6. 老人の失恋から生まれた芸術詩「マリーエンバートの悲歌」
1823年9月5日、カルルスバードからエーガーの国道をゆっくりと走る一台の四輪馬車がある。中には、ザクセン・ヴァイマル大公国の枢密顧問官フォン・ゲーテと、老僕と秘書ヨーンの三人。それは、沈黙の旅であったという。74歳のゲーテが19歳の娘ウルリーケ・フォン・レヴェツォフに求婚するも、確かな返事がもらえない。ちなみに、1822年2月、ゲーテは何度も意識を失うほどの重病にかかり、死を感じたという。医者たちも手の施しようのない病状だったとか。そりゃ、恋の熱病は誰にも治せんよ。
6月には、マリーエンバートへ行き、深夜まで女性たちと戯れたとか。お爺ちゃんが、マリーエンバートからカルルスバードへ愛する者を追うが、やはり返事はもらえない。心の中を秋風が吹き抜ける帰路で作られたのが、マリーエンバートの悲歌。
「人が苦しみのあまりに無言になるとき、自分で苦しんでいることを言い現わす術を、一人の神が私に授けている。」
昔馴染みのウェルテルにでも目覚めたのだろうか。人生の最後を恋で締めくくることができれば、なんと素晴らしいことだろう。こりゃ負けちゃおれん!と呟いて、さっそく夜の社交場へ消えていく一人の男を、鏡の向こうに見かける...
7. 西部開拓史を先駆けた破産屋
1834年、西部開拓史の始まりを予感させる時代、ヨーハン・アウグスト・ズーターという男が、妻子を置き去りにしてニューヨークへ渡ったという。破産屋、泥棒、手形偽造者の彼は、荷造人、薬種商、歯医者、売薬商人、居酒屋の主人、宿屋の主人などをやり、時流に乗ってミズーリーへ。そして、財産を売り飛ばして、誰も見極めていないカリフォルニアを目指す。
当時、哀れな漁村だったサン・フランシスコを見て、この土地が大農場に適しているばかりか、一つの王国を建てるに相応しいと感じたという。そして、知事と面会し、開拓権を得る。農場建設から、続々と入植者が流れこんできて、運河や製粉場や工場が作られる。やがて、蒸気機関車がアメリカ全土を横断し、イギリスやフランスの最大の銀行に資金を持つ。45歳で成功した彼は、見捨てた妻子を呼び寄せた。
1848年、使用人の大工ジェイムズ・W・マーシャルが土を掘っていると黄金が出てきたと、慌てて駆け込んできた。これでさらに富めるはずが、瞬く間に噂が広まりコールドラッシュ!銃で意志を通すしか知らない連中が大挙して押し寄せる。従業員たちも仕事が手につかず、巨大経営も停止。財は奪われ、またもや破産屋となる。妻子が到着した時、妻は旅の疲労で死に、三人の息子は静かに農業経営に励む。真の西部開拓史は、ズーターよりも、むしろ三人の息子によって受け継がれているのかもしれん。
1850年、カリフォルニアがアメリカ合衆国連合に組み込まれると、法の秩序がもたらされる。ズーターは、失った土地や運河や製粉場などの所有権を主張して倍賞請求する。1855年、裁判はズーターの権利を認め、世界最高の富豪に返り咲く。だが、またもや致命的な打撃を受け、破産屋へ引き戻す。判決が世間に広まると、民衆が暴動を起こし、裁判所を襲ったのだ。農園は焼かれ、財産は略奪され、長男は暴徒たちに強迫されて拳銃自殺、次男は殺害、三男はスイスに帰る旅で溺死。
辛うじて命を救われたズーターは、すべてを失って気が狂う。25年が過ぎ、数十億ドルの権利を請求しようと惨めにワシントンの裁判所の周りをうろついていると、そこに訴訟をそそのかす弁護士やペテン師がつきまとう。事件を派手に演出するために、おかしな将軍の制服を着せられたりと、不幸な男はまるで操り人形。役人たちの嘲笑の的となった彼は、乞食として死んでいったという。
「依然としてサン・フランシスコとその一体の土地は、他人の所有地の上に立っている。これについての権利のことが問題とされたことはまだない。」
8. ドストエフスキーの作風の転換点
夜中に突然眠りから引きずり起こされると、地下の幽閉室にはサーベルの音がガチャガチャ鳴る。馬車にいきなり押し込まれれば、まるで車輪に揺られる墓穴。行き先は処刑場。
中尉が宣告文を読み上げる... 銃殺刑!
コサック兵が目を布で隠そうとすると、見えなくなる前に辺りをむさぼり見る。光を失った瞬間、忘れ去られていた過去が蘇る。鼓動は静かに弱まり、突如として溢れる浄福感。弾丸をこめる音と、太鼓の音が空気を揺さぶり、その一瞬が永遠に感じられる。
その時、叫び声が聞こえた... 処刑中止!
士官が命令書を読み上げる。皇帝は聖なる意志によって恩赦を与えると。死は突然、こわばった手足の関節から立ち去る。これを機に、ドストエフスキーの作風が社会主義から、キリスト教的人道主義へ変化したとされる。
「そしてそのとき彼は、地上のすべての苦悩が、全世界にその悲しみを熱烈に叫びつづけているのを、今初めて聴きとった。ささやかな者らの声、弱い者らの声、むだな献身をした女たちの声、自嘲する娼婦らの声、つねにしいたげられる者らの黒い恨みの声、どんな微笑にも心をうごかされない孤独者らの声、すすり泣いて悲しみなげく子供らの声、そして、こっそり誘惑におちいった者らの無力な悲嘆、悩みをになっているあらゆる人々の声を彼は聞いた。... 死の中に生をさとった人間にとっては、苦悩が喜びに代わり、幸福が苦痛に変わる。」
9. 時間と空間の概念を変えた大西洋横断ケーブル
サイラス・W・フィールドは、技術屋でもなく、電気の知識もなかったという。だからこそ、海底ケーブルという単純な発想が浮かんだのかもしれない。そのために会社を設立するが、民間企業だけでは資金調達も難しく、国家を巻き込んだ大プロジェクトとなるは必定。こうした地道で遠大な事業計画は、ある種の使命じみた執念が必要である。専門家からも馬鹿にされる。なにしろ、水に弱い電気を海の中に通そうというのだから。
途轍もない遠距離の電線を運ぶだけでも、どんな船舶を用意すればいいか想像もつないし、電線を通したからといって性能テストがうまくいくかも分からない。嵐の吹く大西洋上で苛酷な作業を強いられ、リスクも高い。おまけに、電線の寿命も計り知れない。実際、電信記号が不明瞭になって、すぐに音信不通になったという。当初、あれほど称賛された電信は、無能呼ばわれ。フィールドは罪なき罪人として悪意のこもった憤慨の的となる。英雄に崇めた人物を、一夜にして大罪人に仕立てあげるのは、マスコミの常套。そして6年間、海底ケーブルは忘れ去られる。
19世紀の最も大胆な計画は、内戦や政治の激動によって話題をさらわれた。沈黙が破られるのは1865年のこと。先人たちの熱意が物理的障害を乗り越えて、今日のネット社会を支えている。大陸間の移動速度、情報の伝達速度は、飛躍的に進化した。
しかし、世界旅行で現地を気軽に見聞できるようになり、地域情報がリアルタイムで得られるようになれば、知識を高められ、普遍的価値というものに素早く到達できそうな気もするが、実際には遠ざかっている感がある。時間と空間の概念は、数倍、数十倍とムーアの法則に従って広がっているというのに。どんなに人体の周りが進化しようとも、内的時間と精神空間は変えようがないということか...
10. 未完成に終わったトルストイの戯曲「光闇を照らす」
1890年、トルストイは自伝的な戯曲を書き始める。それは、彼が計画した家出の正当化と、妻への弁明であったという。人生の決心を見い出せないまま、意志の放棄ゆえに、この戯曲は完成に至らない。主人公は、まったく途方に暮れたままで、ただ神に乞い求め、自己矛盾による分裂を早く終わらせるよう祈るのみ。すべてを清算し、家出を敢行するのは、精神の浄化を求めてのことか?いや、現実逃避か...
ツヴァイクは、この未完に仕えながら終曲を綴る。主人公は、サリンツェフという二重人格者ではなく、トルストイという実存者。
学生は議論を持ちかける... 革命に参加すべきだと、大義名分を大切にすべきだと、数々の人命が牢獄で滅んでいく様を知っているあなたなら、それを文章に書き続けるあなたなら、と...
トルストイは反論する... 暴力を是認したことはないと、暴力なんぞで悪を世界から根こそぎ排除できるなどと本気で思っているのか?それこそ思い上がりだ、と...
「まことの強さは暴力に対して暴力をもってこたえることをせず、その力は謙虚さと通じて相手を無力ならしめるのだ。」
その一方で、贅沢な生活を見捨て、巡礼となって旅することが、自分の義務であることを告白する。自分の人生を心の底から深く恥じると。この悩みまでも自慢するとしたら、まさに思い上がりであると。
「たといただ一つの生命でも、その生命の死の責任がわたしにあるということになるなら、わたしは自分の良心に対してその弁明をすることができまい。」
80を過ぎれば、死を見ないふりをすることはできない。死を目前にしてこそ、決意すべきことがあるはず。学生の問うた、実行すべきことを実行しない理由、それは魂の臆病さにほかならない。そして、遺言をしたためる... 全財産を全人類に捧げると、切羽詰まった良心から発した言葉を金儲けの道具にしてはならないと...
トルストイの妻ソフィアは世間では悪妻と評されるが、ツヴァイクは、死を前に妻を証人として呼び寄せ、彼女をヒステリックにさせたのは夫に責任があることを感じているかのように演出する。娘アレクサンドラ(サーシャ)をともなって家出を決心。これが最後の巡礼の旅となる。そして、小さな停車場アスターポヴォの駅長の宿舎で息を引き取る...
11. 南極点到達で名声は奪われたものの、真の研究家であり続けたスコット大佐
人類の飽くなき知への渇望は、とどまるところを知らない。ナイル川の源泉、アマゾンの森林、チベットの屋根... ついに人類を極点へ導くが、数十年も企てられてきた氷の館は、死骸が横たわる氷の棺と化す。33年後、ようやく発見された亡骸は、スウェーデン探検家アンドレー。気球で北極を越えようとした男だ。
アメリカでピアリーとクックが北極探検の準備をしていた頃、ヨーロッパでは二艘の船が南極に向けて出発。ノルウェーのアムンゼンとイギリスのスコット。スコットは真面目で義務感の強い人物だという。何が彼を冒険に駆り立てたのか?全財産を犠牲にしてまで。船の名は「テラ・ノヴァ(新しい土地)」。彼は風変わりな準備をしている。ノアの方舟のごとく、いろいろな動物を積み、船そのものが近代的な実験室のように研究器具を備え、一行には、動物学者、地質学者、技術者など様々な専門家を伴う。計画は壮大な冒険であるものの、緻密に計算された科学調査団のようである。
1910年6月1日、イギリスを出航。ニュージランド側のエヴァンス岬附近に越冬の家を作る。ところが、西方を探索した者たちが、アムンゼンの越冬の家を見つけて愕然とする。この家が、地図上で110キロメートル極に近い位置にあることを知ったのだ。科学調査団は、突然、冒険家に変貌。しかも、国の威信をかけた。もし、アムンゼン隊を偶然見つけなかったら、緻密な計画の上で無事帰還することも適ったかもしれない。
愛情をそそいできた動物たちを殺しながら、白い荒野をさまよい、30人の隊列は20人になり、10人になり... ついに決行のために選抜された5人は、スコット、バウアース、オーツ、ウィルソン、エヴァンス。最初の功績という歴史的な手柄とは、よほど魅力があるものと見える。もはや名誉だけが意志を支える。そして、南極点に到達するが、アムンゼンのキャンプの痕跡を見つけ、悲しげにユニオン・ジャックをアムンゼンの勝利の旗と並べて立てた。帰路はさらに苛酷となる。行きは羅針盤によって極点に導かれるが、帰り道は見失ったら終わり。不名誉な帰国に意志も挫け、病に一人倒れれば、足手まといにならぬよう死に突進。それでもなお科学者たちは、観測の義務を怠らない。16キロもの重量の珍奇な鉱石を積みながら...
一方、目的地まで同行する名誉を得られなかった仲間たちは、数週間、一行の帰りを待つ。救援しようにも悪天候に見舞わる。南極の春は遅い。10月になって、英雄たちの遺骸と遺言を見出すために出発。そして、凍死した悲壮な姿を発見する。
スコットは、到達競争という意味では敗れた。しかし、だ。貴重な標本を残したという意味ではどちらに軍配を上げるだろうか?歴史の勝利は、ちょいと視点を変えるだけで違ったものに映る。人類の目的が、叡智を伝承することにあるとしたら。実際、南極の景色が、乾板やフィルムとして残され、スコットの手記も貴重な情報をもたらしたという。
「わたしは自分が探検家として価値があったかどうかを知らない。... しかしわれわれの実行の結末は、勇気の精神と克己力とがわれわれの種族から今なおなくなっていないことを証明するだろう。」
12. レーニンを革命家に導いた封印列車
世界大戦の間、四方面から囲まれた中立国スイス。それだけに推理小説の舞台としては絶好だ。交戦国の外交使節、経済界の要人、ジャーナリスト、政治家たちが入り混じり、スパイの組織網が互いにしのぎを削る。そんな場所に、情報の材料にほとんどならない人物がいる。カフェにも行かず、口数も少ない。隣人ですらロシア人であることを知らない。しかし、毎日規則正しく図書館へ行き、決まった時間にきっちり帰る。多くを読書し、孤独に学ぶ人物が、世界を驚かせる革命をもたらすとは...
1917年、革命が勃発したとのニュースが飛び込むと、亡命者たちはロシアへ帰国できると歓呼する。偽の旅券を使わず、本名を隠すことなく、堂々と。だが、数日後には失望。ちっとも革命ではなく、政府上層部がドイツとの講和を締結させまいとする、ツァーリに対する叛乱であった。主戦派と帝国主義者、そして将軍たちの陰謀であり、市民革命ではなかったのだ。
レーニンは、マルクス主義的な革命を欲し、なんとか帰国できないかと模索する。ドイツはロシアとの和睦を求めており、ドイツの外交ルートを利用すれば、帰国の道が開けるのではないか。しかし、戦争中に敵国に入ることは、国家反逆罪となる。それを覚悟した無名の亡命者は、既に将来のロシア代表者であるかのように条件を伝え、ドイツ政府に好意を示す。条件とは、列車に治外法権が承認されること。ドイツは焦っていた。アメリカが宣戦布告したからだ。
そして、ドイツ政府の援助で封印列車を確保し、スイスからドイツを経由してペテルスブルグに到着。当時、ペトログラードと呼ばれていた町は、祖国癖に憑かれた愛国心に見舞われ、再逮捕されるのではないかという懸念がある。しかし、亡命からの帰国者は、民衆に盛大に歓迎されるのだった...
毎日が栄光に満たされていれば、退屈病に襲われる。無数の凡庸人で溢れているからこそ、一人の天才が出現する。芸術精神もまた、地道な思考の繰り返しの中から、霊的なものに憑かれる一瞬によって創造される。閃きってやつだ。そして、無限の坦々たる時間が流れ去った後、歴史に刻まれる一瞬が生まれる。平凡の内に一瞬にして宿る天才的資質とは、歴史のみが発明しうる矛盾とでもしておこうか...
時世の勝利者が、歴史の勝利者となるわけではない。どんな星の下に生まれ、どんな運命を背負うかは、やってみなきゃ分からん。だからこそ、終世、活力ある生き方をしたいと願う。情熱を持ち続け、若さを保つ秘訣は、やはりホットな女性との恋ですかねぇ... ゲーテ爺ちゃん!
ツヴァイクの仕事は確固とした形に打ち鍛えられているが、中心にはいつでも炎が燃えている。... リヒャルト・シュペヒト
「ジョゼフ・フーシェ」や「マリー・アントワネット」の本格的な歴史叙述とは違い、ちと趣向(酒肴)を変えた12の物語。歴史の影に潜むウンチク話とは、いかなるものであろうか。得てして、こうした裏話の方に歴史の本質が隠されているものである。現象を皮相的に捉えるのではなく、心情的現象としていかに解釈するか、これぞ歴史小説の醍醐味であろう。
「歴史は余計な後押しの手を少しも必要とはせず、ただ畏敬をもって叙述する言葉だけを必要とする。」
1. 大罪人の逃亡劇から生まれた太平洋の発見
コロンブスの堂々たる誇張癖は、アメリカ大陸をインドだと思い込み、無尽蔵の金があるとスペイン王に報告させた。そして、デスペラードどもがこぞって黄金郷に群がり、数年間で土着民の人口を根絶に致しめる。荷箱に入って密航したバスコ・ヌニェス・デ・バルボアもまた、そうした一人。スペイン王が派遣した総督が命を失ったのも、彼のせいだという。
しかし、スペインは遠い。断頭台に送られる前に権力の横領を正当化するには、なんらかの功績が必要だ。当初、フランシスコ・ピサロと協力して土着民から略奪するが、未開の地を探検するには原住民を味方にする方が得と見て、小王国コイバの酋長カレタの娘を妻にして同盟する。
そして、パナマ地峡の横断に挑む。兵士190人を派遣し、原住民を運搬人や案内人にし、病人や足手まといは見捨てられるという苛酷な旅。土着民の話によれば、ある山の頂上から二つの大洋、すなわち、大西洋とまだ名の付けられていない太平洋が見下ろせるという。山頂に近づくと、あと一歩というところで、バルボアは行進停止を命令する。太平洋を初めて見るキリスト教徒は、自分でなければならないからだ。さらに、酋長は「南の海」の彼方にある国の名を言った。ビルー!どうやらペルーのことらしい。
一方、スペイン王は、バルボアを処罰するために、ペドロ・ペドラリアス・ダビラを派遣して総督に任命した。だが、バルボアの偉業を知ったスペイン王は、、バルボアを臨時総督に任命し、二人で計るよう命令する。次の目標は、新世界の黄金郷を征服すること、すなわち、誰よりも先駆けてペルーを征服すること。しかし、兵員や物資の不足に悩まされ、今度は幸運に恵まれず、その功績を戦友のピサロに譲る。ピサロは、インカ帝国の征服者として知られる人物。バルボアの失敗は、ダビラの嫉妬の餌食に合い、断頭台へ送られる。
「運命というものは運命の寵児たちに対してさえ、決して過度に寛大であることはない。運命の神々は一人の人間に一つ以上の不滅の行為を恵んでさせることは稀である。」
2. コンスタンティノープル陥落のあっけない真相
オスマントルコの穏健な皇帝ムラード(ムラト2世)に代わって、ずるく精悍な若い王子マホメット(メフメト2世)が帝位に就くと、ビザンチンの人々を恐れさせた。トルコ人によって包囲され、最後の皇帝コンスタンティヌス・ドラガセスの帝位も風前の灯。ドラガセスは何度もイタリアへ援軍を要請するが、古来カトリック教とギリシア正教の遺恨は深い。
とはいえ、西方教会も東方教会も元を辿れば同じキリスト教であり、共通の強敵が出現すれば、ローマ法王の特使とギリシア正教の総主教グレゴリウスが肩を並べて和解のミサを行うという奇跡も起こる。しかしながら、歴史において、理性と和解の瞬間ほど、すぐに過ぎ去るものはない。聖堂の中で共同の祈りが行われている間も外では罵り合う始末。またもや狂信主義者どもによって引き裂かれた。
しかし、包囲戦が始まっても、千年に渡って補強されてきた難攻不落の城壁は、最新の大砲をもってしてもびくともしない。マホメットは、どんなに大金を払っても、新しい攻撃手段を作るとの声明を出す。大砲の鋳造家ウルガス、あるいはオルバスという名のハンガリア人はキリスト教徒で、以前コンスタンティヌス皇帝にも仕えていたという。彼は「弩砲」と呼ばれる新型の大砲をこしらえ、マンモスのような大砲の群れが城壁の前に出現した。だが、歴史を変える決定弾とはなりえない。
この時代のトルコとビザンチンの国境は地理的に分かりやすい。ボスポラス海峡のアジア側の海域がトルコ。深く陸地に入り込み、盲腸みたいな形をした「黄金の角」と呼ばれる湾港が、自然の要害となっていた。マホメットは、ハンニバルやナポレオンに匹敵するほどの空想家だという。湾港に船団を侵入させることが不可能と見るや、船団を山越えさせるという途轍もない計画を実行したとか。ハンニバルやナポレオンが、突然アルプス越えでオーストリア人を脅かしたように。だが、これも歴史を変える決定弾とはなりえない。
さて、城壁をめぐる激烈な攻防戦にあって、およそ起こりえないことが起こるものである。「ケルカポルタ」という城門だけが、なぜか?開いたままだったとか。平和時には歩行者たちの通用門として使われるちっぽけな門が、興奮のるつぼの中うっかり忘れられていたのか?歴史的な戦闘が、こんなにあっさりと城門を突破させるとは、なんと間抜けな話!
3. ヘンデルの復活に見る「メサイア」誕生秘話
1737年、急に倒れたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは四ヶ月もの間、まったく身動きができぬ無力の状態にあったという。話すこともできず、右半身不随となり、医者が諦めるほどの重病だったとか。短気な性格が、急激に精神を病ませたのか?医者が熱い湯に3時間以上入ってはいけないと警告したにもかかわらず、毎日9時間も入って意志力を回復させ周囲を驚愕させる。音楽に対する執念がそうさせたのか...
しかし、せっかく創作意欲を取り戻したものの、時代は彼に敵対する。女王崩御のための上演は中止され、スペインとの戦争が始まると民衆は音楽どころではない。評論家からは冷笑され、借金がかさみ、心は暗澹とし、ますます自己に閉じこもる。
1741年8月21日、そんな絶望の日に小包が届く。「サウル」と「エジプトにおけるイスラエル」の台本を書いた詩人ジンネンスからの手紙を添えて。
「新作の詩をお送りする、音楽のけだかい守護神、音楽の不死鳥が、願わくば彼の貧寒な詩に慈悲を垂れて、その翼に乗せて、永遠界の大空に天(あま)がけり給わんことを...」
お前まで嘲るか!と憤るヘンデル。もう一度、冷静に台本を手にしてみると、最初の言葉に「慰めあれ!」とある。この言葉が、彼の本能を刺激したのか?得体の知れぬ好奇心のようなものが、そうさせたのか?一度、肉体の麻痺から立ち上がらせたヘンデルを、今度は、精神の麻痺から立ち上がらせる。そして、歓呼のフレーズに出会う。「ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!(神を頌せよ)」そう、あの名曲だ。三週間自室に閉じこもり、魔術的な素早さで完成させたという。時間の観念をまったく失い、リズムと拍子だけが支配する空間とはいかなるものであろうか...
1742年4月13日、アイルランドの首都ダブリンで講演。この演奏で得た金は、心を開いてくれた感謝とともに、すべて寄付することに決めたという。1759年、重い病にあるヘンデルは74歳。最後の審判を仰ぐ日を、聖金曜日としたいと願う。それは、ちょうど4月13日、メサイアの初演を飾った日。自分が更生されたその日に、世を去りたいというわけか。実際、この無比なる意志力は、死の時期までも支配することに...
4. 一晩だけ宿った才能が生んだ「ラ・マルセイエーズ」
フランスは、急進派の勢いでオーストリア皇帝とプロイセン王に宣戦布告。1792年4月25日、革命政府がオーストリアへ宣戦布告したという知らせがストラスブールに届く。市長ディートリヒ男爵は、大広場で宣戦布告文書をフランス語とドイツ語で読み上げた。初めての軍歌「サ・イラ」は、連隊の歩調とともに軍隊的な調子を帯びていき、カフェやクラブでも歌われる。ディートリヒは、乾杯の時に側にいた要塞守備隊のルジェ大尉が、憲法発布時に自由のための歌を作ったことを思い出し、明日進軍するライン軍のために軍歌を作ってくれと頼んだという。ルジェは、正当な理由もなしに貴族っぽいルジェ・ド・リールと名を変えていたとか。そして、翌日生まれたのが「ラ・マルセイエーズ」。凡庸な才能が、一晩にして天才的な霊に憑かれるとは...
この歌が革命の象徴へと育っていくと、逆に作曲家の名は忘れ去られる。ルジェ・ド・リールという名は、誰一人として顧みる者はなく、楽譜にも名が印刷されなかったという。しかも、この作曲家はまったく革命的でなかったとか。パリの民衆が「ラ・マルセイエーズ」を高唱しながら、チュイルリー宮を襲撃して王位を引きずり下ろした時、革命に酷く幻滅。共和制に宣誓するのを拒み、軍人としてジャコバン党に奉仕するよりも、軍籍から去ることを望んだという。彼は、外国の王冠をかぶった暴君たちを憎んだが、それに劣らず、国民議会の新奇な暴君たちと専制者たちを憎んだという。革命の公安委員会にも公然と反感を示し、革命の象徴を作った男が祖国を裏切った罪に問われた。まだしもギロチン刑にされれば、歴史に名を残したかもしれない。やがてフランス国歌となる作曲家は、地味なうちに人生を終えたという...
5. ナポレオンを百日天下とさせたグルシー元帥
歴史は奇妙な気まぐれによって、重大な運命をそれに相応しくない人物に委ねることがある。凡庸人は、高い地位を得たり、大金を得たりすると、ほんの束の間の幸せを味わうことに没頭する。更なる高みに上る機会を掴んでもなお欲望に溺れ、自己を高めようとはしないことが、凡庸たる所以であろうか。
ウォーターロー(ワーテルロー)の決戦の瞬間が、まさにそれだ。西洋史において、この時代ほどイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアの王侯たちが一致団結を見せたのも、珍しいのではあるまいか。北方からはウェリントンが進軍し、それにブリュッヘア元帥が指揮するプロイセン軍が続く。ライン河畔ではシュヴァルツェンベルクが戦備を整え、後方にはロシア軍。ナポレオンはプロイセン軍をや破り、その追撃を命じた。追撃隊を一任されたのはエマニュエル・ド・グルシー元帥、3分の1もの軍隊を任せる。20年間の数々の戦場で戦うが、目覚ましい功績もなく、ゆっくりと元帥まで昇進した人物だという。ナポレオンの天才的直感とは正反対に、自発的な行動に慣れない人物だとか。ナポレオンも、その器を見抜いていたらしいが、なにしろ忠実な人物。独裁的な人物ほど、やたらとイエスマンを好むようである。
しかし、戦争のような混沌とした状況では、応用力と決断力こそが決め手となる。雨の中、泥道をゆっくりと進軍し、敗走するプロイセン軍の足取りは依然つかめない。農家で朝食をとっていると鈍い轟音が。ナポレオンがイギリス軍を大攻撃しているのは明らか。副官は、大急ぎで砲声の方へ向かうべきだと進言する。だが、ひたすら服従で昇進してきた人物は、新たな命令がない限り、自分の義務から外れるわけにはいかない。副官ジェラールは、自分の分隊だけでも援軍に行かせてくれと歎願するが、拒否される。もう一人の副官ヴァンダームも、この判断に憤慨。その間、ウェリントンはフランス軍の4回の攻撃を押し返すものの、かなりのダメージを受ける。総攻撃を命じようとしたその時、森の中から援軍が現れた。どちらの援軍か?言うまでもなく、ブリュッヘア。3分の1の部隊が無意味にうろつきまわっている間に、プロイセン軍はいち早くイギリス軍と合流したのだった。わずか4時間の地点にありながら、いまだのんびりと追撃を続ける。副官たちは敗戦を悟ったのか、死に場所を求めるかのように森をさまよう...
6. 老人の失恋から生まれた芸術詩「マリーエンバートの悲歌」
1823年9月5日、カルルスバードからエーガーの国道をゆっくりと走る一台の四輪馬車がある。中には、ザクセン・ヴァイマル大公国の枢密顧問官フォン・ゲーテと、老僕と秘書ヨーンの三人。それは、沈黙の旅であったという。74歳のゲーテが19歳の娘ウルリーケ・フォン・レヴェツォフに求婚するも、確かな返事がもらえない。ちなみに、1822年2月、ゲーテは何度も意識を失うほどの重病にかかり、死を感じたという。医者たちも手の施しようのない病状だったとか。そりゃ、恋の熱病は誰にも治せんよ。
6月には、マリーエンバートへ行き、深夜まで女性たちと戯れたとか。お爺ちゃんが、マリーエンバートからカルルスバードへ愛する者を追うが、やはり返事はもらえない。心の中を秋風が吹き抜ける帰路で作られたのが、マリーエンバートの悲歌。
「人が苦しみのあまりに無言になるとき、自分で苦しんでいることを言い現わす術を、一人の神が私に授けている。」
昔馴染みのウェルテルにでも目覚めたのだろうか。人生の最後を恋で締めくくることができれば、なんと素晴らしいことだろう。こりゃ負けちゃおれん!と呟いて、さっそく夜の社交場へ消えていく一人の男を、鏡の向こうに見かける...
7. 西部開拓史を先駆けた破産屋
1834年、西部開拓史の始まりを予感させる時代、ヨーハン・アウグスト・ズーターという男が、妻子を置き去りにしてニューヨークへ渡ったという。破産屋、泥棒、手形偽造者の彼は、荷造人、薬種商、歯医者、売薬商人、居酒屋の主人、宿屋の主人などをやり、時流に乗ってミズーリーへ。そして、財産を売り飛ばして、誰も見極めていないカリフォルニアを目指す。
当時、哀れな漁村だったサン・フランシスコを見て、この土地が大農場に適しているばかりか、一つの王国を建てるに相応しいと感じたという。そして、知事と面会し、開拓権を得る。農場建設から、続々と入植者が流れこんできて、運河や製粉場や工場が作られる。やがて、蒸気機関車がアメリカ全土を横断し、イギリスやフランスの最大の銀行に資金を持つ。45歳で成功した彼は、見捨てた妻子を呼び寄せた。
1848年、使用人の大工ジェイムズ・W・マーシャルが土を掘っていると黄金が出てきたと、慌てて駆け込んできた。これでさらに富めるはずが、瞬く間に噂が広まりコールドラッシュ!銃で意志を通すしか知らない連中が大挙して押し寄せる。従業員たちも仕事が手につかず、巨大経営も停止。財は奪われ、またもや破産屋となる。妻子が到着した時、妻は旅の疲労で死に、三人の息子は静かに農業経営に励む。真の西部開拓史は、ズーターよりも、むしろ三人の息子によって受け継がれているのかもしれん。
1850年、カリフォルニアがアメリカ合衆国連合に組み込まれると、法の秩序がもたらされる。ズーターは、失った土地や運河や製粉場などの所有権を主張して倍賞請求する。1855年、裁判はズーターの権利を認め、世界最高の富豪に返り咲く。だが、またもや致命的な打撃を受け、破産屋へ引き戻す。判決が世間に広まると、民衆が暴動を起こし、裁判所を襲ったのだ。農園は焼かれ、財産は略奪され、長男は暴徒たちに強迫されて拳銃自殺、次男は殺害、三男はスイスに帰る旅で溺死。
辛うじて命を救われたズーターは、すべてを失って気が狂う。25年が過ぎ、数十億ドルの権利を請求しようと惨めにワシントンの裁判所の周りをうろついていると、そこに訴訟をそそのかす弁護士やペテン師がつきまとう。事件を派手に演出するために、おかしな将軍の制服を着せられたりと、不幸な男はまるで操り人形。役人たちの嘲笑の的となった彼は、乞食として死んでいったという。
「依然としてサン・フランシスコとその一体の土地は、他人の所有地の上に立っている。これについての権利のことが問題とされたことはまだない。」
8. ドストエフスキーの作風の転換点
夜中に突然眠りから引きずり起こされると、地下の幽閉室にはサーベルの音がガチャガチャ鳴る。馬車にいきなり押し込まれれば、まるで車輪に揺られる墓穴。行き先は処刑場。
中尉が宣告文を読み上げる... 銃殺刑!
コサック兵が目を布で隠そうとすると、見えなくなる前に辺りをむさぼり見る。光を失った瞬間、忘れ去られていた過去が蘇る。鼓動は静かに弱まり、突如として溢れる浄福感。弾丸をこめる音と、太鼓の音が空気を揺さぶり、その一瞬が永遠に感じられる。
その時、叫び声が聞こえた... 処刑中止!
士官が命令書を読み上げる。皇帝は聖なる意志によって恩赦を与えると。死は突然、こわばった手足の関節から立ち去る。これを機に、ドストエフスキーの作風が社会主義から、キリスト教的人道主義へ変化したとされる。
「そしてそのとき彼は、地上のすべての苦悩が、全世界にその悲しみを熱烈に叫びつづけているのを、今初めて聴きとった。ささやかな者らの声、弱い者らの声、むだな献身をした女たちの声、自嘲する娼婦らの声、つねにしいたげられる者らの黒い恨みの声、どんな微笑にも心をうごかされない孤独者らの声、すすり泣いて悲しみなげく子供らの声、そして、こっそり誘惑におちいった者らの無力な悲嘆、悩みをになっているあらゆる人々の声を彼は聞いた。... 死の中に生をさとった人間にとっては、苦悩が喜びに代わり、幸福が苦痛に変わる。」
9. 時間と空間の概念を変えた大西洋横断ケーブル
サイラス・W・フィールドは、技術屋でもなく、電気の知識もなかったという。だからこそ、海底ケーブルという単純な発想が浮かんだのかもしれない。そのために会社を設立するが、民間企業だけでは資金調達も難しく、国家を巻き込んだ大プロジェクトとなるは必定。こうした地道で遠大な事業計画は、ある種の使命じみた執念が必要である。専門家からも馬鹿にされる。なにしろ、水に弱い電気を海の中に通そうというのだから。
途轍もない遠距離の電線を運ぶだけでも、どんな船舶を用意すればいいか想像もつないし、電線を通したからといって性能テストがうまくいくかも分からない。嵐の吹く大西洋上で苛酷な作業を強いられ、リスクも高い。おまけに、電線の寿命も計り知れない。実際、電信記号が不明瞭になって、すぐに音信不通になったという。当初、あれほど称賛された電信は、無能呼ばわれ。フィールドは罪なき罪人として悪意のこもった憤慨の的となる。英雄に崇めた人物を、一夜にして大罪人に仕立てあげるのは、マスコミの常套。そして6年間、海底ケーブルは忘れ去られる。
19世紀の最も大胆な計画は、内戦や政治の激動によって話題をさらわれた。沈黙が破られるのは1865年のこと。先人たちの熱意が物理的障害を乗り越えて、今日のネット社会を支えている。大陸間の移動速度、情報の伝達速度は、飛躍的に進化した。
しかし、世界旅行で現地を気軽に見聞できるようになり、地域情報がリアルタイムで得られるようになれば、知識を高められ、普遍的価値というものに素早く到達できそうな気もするが、実際には遠ざかっている感がある。時間と空間の概念は、数倍、数十倍とムーアの法則に従って広がっているというのに。どんなに人体の周りが進化しようとも、内的時間と精神空間は変えようがないということか...
10. 未完成に終わったトルストイの戯曲「光闇を照らす」
1890年、トルストイは自伝的な戯曲を書き始める。それは、彼が計画した家出の正当化と、妻への弁明であったという。人生の決心を見い出せないまま、意志の放棄ゆえに、この戯曲は完成に至らない。主人公は、まったく途方に暮れたままで、ただ神に乞い求め、自己矛盾による分裂を早く終わらせるよう祈るのみ。すべてを清算し、家出を敢行するのは、精神の浄化を求めてのことか?いや、現実逃避か...
ツヴァイクは、この未完に仕えながら終曲を綴る。主人公は、サリンツェフという二重人格者ではなく、トルストイという実存者。
学生は議論を持ちかける... 革命に参加すべきだと、大義名分を大切にすべきだと、数々の人命が牢獄で滅んでいく様を知っているあなたなら、それを文章に書き続けるあなたなら、と...
トルストイは反論する... 暴力を是認したことはないと、暴力なんぞで悪を世界から根こそぎ排除できるなどと本気で思っているのか?それこそ思い上がりだ、と...
「まことの強さは暴力に対して暴力をもってこたえることをせず、その力は謙虚さと通じて相手を無力ならしめるのだ。」
その一方で、贅沢な生活を見捨て、巡礼となって旅することが、自分の義務であることを告白する。自分の人生を心の底から深く恥じると。この悩みまでも自慢するとしたら、まさに思い上がりであると。
「たといただ一つの生命でも、その生命の死の責任がわたしにあるということになるなら、わたしは自分の良心に対してその弁明をすることができまい。」
80を過ぎれば、死を見ないふりをすることはできない。死を目前にしてこそ、決意すべきことがあるはず。学生の問うた、実行すべきことを実行しない理由、それは魂の臆病さにほかならない。そして、遺言をしたためる... 全財産を全人類に捧げると、切羽詰まった良心から発した言葉を金儲けの道具にしてはならないと...
トルストイの妻ソフィアは世間では悪妻と評されるが、ツヴァイクは、死を前に妻を証人として呼び寄せ、彼女をヒステリックにさせたのは夫に責任があることを感じているかのように演出する。娘アレクサンドラ(サーシャ)をともなって家出を決心。これが最後の巡礼の旅となる。そして、小さな停車場アスターポヴォの駅長の宿舎で息を引き取る...
11. 南極点到達で名声は奪われたものの、真の研究家であり続けたスコット大佐
人類の飽くなき知への渇望は、とどまるところを知らない。ナイル川の源泉、アマゾンの森林、チベットの屋根... ついに人類を極点へ導くが、数十年も企てられてきた氷の館は、死骸が横たわる氷の棺と化す。33年後、ようやく発見された亡骸は、スウェーデン探検家アンドレー。気球で北極を越えようとした男だ。
アメリカでピアリーとクックが北極探検の準備をしていた頃、ヨーロッパでは二艘の船が南極に向けて出発。ノルウェーのアムンゼンとイギリスのスコット。スコットは真面目で義務感の強い人物だという。何が彼を冒険に駆り立てたのか?全財産を犠牲にしてまで。船の名は「テラ・ノヴァ(新しい土地)」。彼は風変わりな準備をしている。ノアの方舟のごとく、いろいろな動物を積み、船そのものが近代的な実験室のように研究器具を備え、一行には、動物学者、地質学者、技術者など様々な専門家を伴う。計画は壮大な冒険であるものの、緻密に計算された科学調査団のようである。
1910年6月1日、イギリスを出航。ニュージランド側のエヴァンス岬附近に越冬の家を作る。ところが、西方を探索した者たちが、アムンゼンの越冬の家を見つけて愕然とする。この家が、地図上で110キロメートル極に近い位置にあることを知ったのだ。科学調査団は、突然、冒険家に変貌。しかも、国の威信をかけた。もし、アムンゼン隊を偶然見つけなかったら、緻密な計画の上で無事帰還することも適ったかもしれない。
愛情をそそいできた動物たちを殺しながら、白い荒野をさまよい、30人の隊列は20人になり、10人になり... ついに決行のために選抜された5人は、スコット、バウアース、オーツ、ウィルソン、エヴァンス。最初の功績という歴史的な手柄とは、よほど魅力があるものと見える。もはや名誉だけが意志を支える。そして、南極点に到達するが、アムンゼンのキャンプの痕跡を見つけ、悲しげにユニオン・ジャックをアムンゼンの勝利の旗と並べて立てた。帰路はさらに苛酷となる。行きは羅針盤によって極点に導かれるが、帰り道は見失ったら終わり。不名誉な帰国に意志も挫け、病に一人倒れれば、足手まといにならぬよう死に突進。それでもなお科学者たちは、観測の義務を怠らない。16キロもの重量の珍奇な鉱石を積みながら...
一方、目的地まで同行する名誉を得られなかった仲間たちは、数週間、一行の帰りを待つ。救援しようにも悪天候に見舞わる。南極の春は遅い。10月になって、英雄たちの遺骸と遺言を見出すために出発。そして、凍死した悲壮な姿を発見する。
スコットは、到達競争という意味では敗れた。しかし、だ。貴重な標本を残したという意味ではどちらに軍配を上げるだろうか?歴史の勝利は、ちょいと視点を変えるだけで違ったものに映る。人類の目的が、叡智を伝承することにあるとしたら。実際、南極の景色が、乾板やフィルムとして残され、スコットの手記も貴重な情報をもたらしたという。
「わたしは自分が探検家として価値があったかどうかを知らない。... しかしわれわれの実行の結末は、勇気の精神と克己力とがわれわれの種族から今なおなくなっていないことを証明するだろう。」
12. レーニンを革命家に導いた封印列車
世界大戦の間、四方面から囲まれた中立国スイス。それだけに推理小説の舞台としては絶好だ。交戦国の外交使節、経済界の要人、ジャーナリスト、政治家たちが入り混じり、スパイの組織網が互いにしのぎを削る。そんな場所に、情報の材料にほとんどならない人物がいる。カフェにも行かず、口数も少ない。隣人ですらロシア人であることを知らない。しかし、毎日規則正しく図書館へ行き、決まった時間にきっちり帰る。多くを読書し、孤独に学ぶ人物が、世界を驚かせる革命をもたらすとは...
1917年、革命が勃発したとのニュースが飛び込むと、亡命者たちはロシアへ帰国できると歓呼する。偽の旅券を使わず、本名を隠すことなく、堂々と。だが、数日後には失望。ちっとも革命ではなく、政府上層部がドイツとの講和を締結させまいとする、ツァーリに対する叛乱であった。主戦派と帝国主義者、そして将軍たちの陰謀であり、市民革命ではなかったのだ。
レーニンは、マルクス主義的な革命を欲し、なんとか帰国できないかと模索する。ドイツはロシアとの和睦を求めており、ドイツの外交ルートを利用すれば、帰国の道が開けるのではないか。しかし、戦争中に敵国に入ることは、国家反逆罪となる。それを覚悟した無名の亡命者は、既に将来のロシア代表者であるかのように条件を伝え、ドイツ政府に好意を示す。条件とは、列車に治外法権が承認されること。ドイツは焦っていた。アメリカが宣戦布告したからだ。
そして、ドイツ政府の援助で封印列車を確保し、スイスからドイツを経由してペテルスブルグに到着。当時、ペトログラードと呼ばれていた町は、祖国癖に憑かれた愛国心に見舞われ、再逮捕されるのではないかという懸念がある。しかし、亡命からの帰国者は、民衆に盛大に歓迎されるのだった...
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