理想も、現実も、ちょいと距離を置くのがいい。どちらもすぐに暴走するのだから。自由社会の暴走の激しさときたら... いや、管理社会の暴走だって負けちゃいない。何かを犠牲にしなければ、繁栄できない世界。貪欲と競争が豊かさをもたらす世界。これが人間社会である。ユートピアとは、「どこにも無い」という意味のトマス・モアが編み出した造語で、しばしば非現実を皮肉る代名詞とされる。共産主義という言葉が登場するのは、まだずっと先のことで、彼に共産主義のレッテルを貼るのはちと酷であろう。
ルターにしても、モアにしても、良心の自由と宗教の権威とが対立し、ローマ教皇のもつ二重性に疑問を持たざるをえなかった時代を生きた。イタリアという一国家の君主が、同時に全ヨーロッパの精神的主権者であるという現実を。
そして、理性と信仰の調和を信じ、国家と宗教の和解を信じたものの、モアは斬首刑に処せられる。この事件は「法の名のもとに行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と称される。本書は死の抗議書と言うべきか...
尚、平井正穂版(岩波文庫)を手に取る。
「吠える六頭女怪(スキュラ)だの、狂乱の半人半鳥女怪(セリーノ)だの、人を啖う人喰巨人(リーストリゴン)だの、こういった途方もない怪物くらい、容易に見つかるものはない。ところがこれに反して、公明正大な法律によって治められている国民となると、これくらい世にも珍しく、また見つけるのに困難なものはない...」
ここに描かれる理想郷は、理性的で、合理的な人々の集まり。住民たちの職業は、最低限の衣食住を確保するためのものと、技術によって知識を高めるものばかり。農業、毛織業、亜麻織業、石工職、鍛冶職、大工職以外にこれといったものは見当たらない。怠けることを知らず、無用な仕事や知識に手を出すこともない。わずかな時間に合理的に生産し、余暇を有意義に過ごそうと。知識伝導のための技術として印刷術と製紙術にのみ敬意を払い、人間性を高めるための意思を持続させようと。人口が溢れれば、それだけ仕事を用意しなければならないが、土地空間に適した人口制限も自然に働く。
「学問的素養に富んだユートピアの知識人たちは、生活を豊かにし幸福にするのに少しでも役に立ちそうな工夫を考え出す点においてはまさに天才的である。」
ここでは、なによりも自由精神が重んじられる。それは、自立と自律をともなう自由である。この理想郷を去りたければ、誰も引き止めはしない。だが、この理想郷を侵害する者には容赦しない。戦争で得られる名誉ほど不名誉なものはないと考える一方で、自存自衛のための防衛意識が極めて高い。俗世間の目には触れさせてはならぬシャングリ・ラを彷彿させるような...
「思うにこの国は、単に世界中で最善の国家であるばかりでなく、真に共和国(コモン・ウェルス)もしくは共栄国(パブリック・ウィール)の名に値する唯一の国家であろう。」
このような自立した世界においても、役人は必要なのであろうか。首長は必要なのであろうか。行政は、政(まつりごと)を円滑に行えるよう指導する立場。指導する立場には自ずと上下関係が生じ、権威が寄生する。権威は人を変える。命令する立場であるがゆえに。しかも、一度獲得した地位を絶対に手放そうとしないのが人間の性癖。そして官僚的腐敗を助長する。権威が存在するところには、必ず法が必要というわけか。権威に結びつく権力を制限するための...
ユートピアといえども、法律は必要らしい。では、人間社会における最低限の法律とはなんであろう。ここには私有財産という概念がない。あるのは、すべて共有財産との考え。
しかしながら、共有を崇めると... 私のモノは私のモノ。あなたのモノも私のモノ... となるのが、これまた人間の性癖。こと政治の世界では、共有の概念は官僚的腐敗とすこぶる相性がいいときた。自由と平等はしばしば対立し、下手をすると平等は人間の能力差までも否定する。
共和国、共栄圏、公共繁栄といった言葉は古くから賛美されてきた。だが、人が本当に求めているのは自己繁栄であって、公共の利益は自分が犠牲にならない程度に求めるに過ぎない。自己が他に優越し、自分の属す集団が他の集団に優越し、それで自己満足が得られるのは、いわば人間の本質である。こうした性癖を完全に放棄すれば、それは人間なのであろうか?
では、所有の概念をどう処理するか?誰のモノにするか?この世のすべては、神からの借りモノとでもするか。すると、神に起因する宗教も必要となる。神の存在を持ち出せば、神の代弁者と名乗る者が現れ、魔術や呪文の類いが蔓延る。結局、人間の解釈によって人間の支配する世界となり、神に捧げるはずのものが、強者に生贄を捧げることに。
人間社会には、パラドックスが溢れる。一人の人間の中でさえ利己主義と利他主義が共存する。最も知識に優れた政策立案者が編み出した策定が、しばしば逆効果になるのも道理である。理想郷といえでも、やはり法律は必要なものらしい...
「あらゆる種類の動物が餓鬼のように貪欲になるのは、実に欠乏に対する心配であり、特に人間においては虚栄心である。」
Contents
- 2018-09-30 "ユートピア" Thomas More 著
- 2018-09-23 "ビヒモス - ナチズムの構造と実際" Franz Leopold Neumann 著
- 2018-09-16 "ビヒモス" Thomas Hobbes 著
- 2018-09-09 "リヴァイアサン (全四冊)" Thomas Hobbes 著
- 2018-09-02 "遥かなる未踏峰(上/下)" Jeffrey H. Archer 著
- 2018-08-26 "ケルトの封印(上/下)" James Rollins 著
- 2018-08-19 "ランケとブルクハルト" Friedrich Meinecke 著
- 2018-08-12 "世界史的諸考察" Jacob Burckhardt 著
- 2018-08-05 "音楽における偉大さ" Alfred Einstein 著
- 2018-07-29 "モーツァルト その人間と作品" Alfred Einstein 著
2018-09-30
2018-09-23
"ビヒモス - ナチズムの構造と実際" Franz Leopold Neumann 著
さらにさらに流れ弾...
生涯で一度は読んでみたいと考え、考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある中、海の怪物に手をつけたがために、陸の怪物にも看取られてしまう。そして今、トマス・ホッブズからフランツ・レオポルド・ノイマンという流れ弾まで喰らっちまった。乱読とは、自由精神の体現だ!などと言っている場合ではない。それは、単に感化されやすいってことだ...
バビロニアに起源をもつ終末論には、二つの怪物があると聞く。海を支配するリヴァイアサンと陸を支配するビヒモス。前者は雌、後者は雄とされ、こと悪魔の世界では対で存在することが収まりをよくする。黙示録によると、恐怖の支配をもたらす怪物どもは世界の終末直前に現れ、神に亡ぼされることになっている。他説では、同士討ちになるというのもあるが、いずれにせよ亡びることに。かくして正義と公明の意志の日がやってくるとさ。ところが、海と陸に住む動物たちはそれぞれに恐怖の大王を主と崇め、王国再興を祝う饗宴で双方の肉を喰っちまう。
この伝説は、ユダヤの終末論、ヨブ記、予言書、聖書外典などで言及され、実に多くの解釈を呼び、しばしば政治状態の比喩とされてきた。聖アウグスティヌスはビヒモスの肉にサタンを見たという。ホッブズは、イギリス革命で暴走する大衆の意志をリヴァイアサンと重ね、議会が迷走するアナーキーな様相をビヒモスと重ねて魅せた。そして、ノイマンは、国民社会主義をビヒモスと呼ぶに相応しいと語る...
注目したいのは、これが書かれた時期である。1942年、ロンドンで出版。1944年、「大ドイツ帝国」を加筆。既に原稿は、ドイツのソ連侵攻時には書き上げられていたという。
著者の名からユダヤ系であることは想像に易い。ノイマンは早々アメリカへ亡命する。ヒトラーが経済政策をあっさりと片付け、ドイツ民族の誇りを取り戻してくれたと大衆が熱狂している最中、彼はナチズムの本性を暴いて見せる。政治哲学なき政治、経済理論なき経済と。それは、単なる民族意識を支柱とする文化的体系で、政治、経済、軍事の方面で、これを売り物にしているというのである。不安を煽って安心を提供する手口、これがセールス心理学の鉄則だ。ゲーリングの結合企業群が雇用を支配し、ゲッペルス文学博士の巧みな言葉でプロパガンダの威力を見せつけ、ヒムラーの魔術的思想が不気味さを植え付け、大衆を受動的な生贄にする。経済政策は単なる金持ち批判に発し、政治体制は単なる共和国批判に発し、感情論を煽る。それゆえ、ここには政治哲学も、経済理論も存在しないというのである。現在でも、これほどの考察はなかなか見当たらない。やはり人生の醍醐味は、寄り道、道草、回り道、そして流れ弾の方にあったか...
ちなみに、ノイマンはソ連の諜報員でアメリカで活動していたという説もあるが、真相は知らん...
1. 国民社会主義と国家社会主義という訳語
ナチズムを語るなら「国家社会主義」とする方がよさそうな気がするが、本書はあえて「国民社会主義」という訳語をあてている。それは、アドルフ・ワグナーたちが持ち出した言葉との混同を避けるためだそうな。
また、他にも意図があるようである。ナチズムがイタリアのファシズムと一緒くたに語られるのをよく見かけるが、そのような通念から「国家社会主義」という用語が出回ったところもある。ノイマンは、イタリアの国家至上主義とは異なるナチズム観を強調している。
尚、岡本友孝、小野英祐、加藤栄一訳版(みすず書房)を手に取る。
2. 全体主義的独占資本主義
ヒトラーが利用した経済システムは、ワイマール共和国の産物だったという。独裁政権下で原動力となるカルテルやトラストなどの形態は、ワイマール共和国の下ですでに完成していたと。ドイツ人労働者は企業の巨大化を望む傾向にあるとしているが、大会社に就職したいといった意識はどこの国でも見られる。経済不安となれば尚更だ。こうした独占形態は、自由主義や民主主義とすこぶる相性が悪い。ワイマール共和国の失敗は、共和国という名を掲げながら、経済政策では逆のことをやっていたということか。これは社会主義的な政策でもなければ、共産主義的でもなく、あくまでも資本主義の暴走した形態であり、俗に言う帝国主義なのである。
さらに、資本拡張の動機に、民族主義を結びつけたところがナチズム的である。ゲルマン系民族には、逞しい身体を誇りにするという意識が伝統的にあるという。これに、北欧系の美しさと優秀さを結びつけたのがナチス式アーリアン学説である。
タキトゥスの著作「ゲルマーニア」によれば、アングロサクソンもゲルマン系。優越主義とは、劣等的な存在を定義して初めて成り立つ原理で、人間ってやつは、なにかと格付けがお好きときた。ヴェルサイユ条約以降、叩きのめされてきた民族の誇りをくすぐり、愛国心を刺激するのが大衆を煽る絶好の方法となる。
「大ドイツ帝国」とは、その根底に第一等人種を盟主とするヒエラルキー構想があり、いわば「大東亜共栄圏」とも似ている。ヒトラーの政策は、民族主義とのセット、いや民族主義そのものであって、経済政策と呼べる代物ではないということか。アウトバーン建設や大規模な公共投資は、ケインズ理論の実践と評されることもあるが、本書にはケインズの名は見当たらない。というより、超ハイパーインフレの中でやれる経済政策は、これくらいしかなかったということかもしれない。そして、資本家による独占形態を、党直属の企業を経由して国家による独占形態に変えていく。
全権委任法の成立において、出席議員の必要票数を獲得したことは事実である。だがそれは、多数の共産党や社会民主党の議員が正当な理由もなく逮捕されていた中での出来事。こと政治の世界では、合法的に見せることが合法的となる。ヒトラーはカップ一揆やミュンヘン一揆で悟る。国家権力につくには革命的な方法では不可能であることを。それは、国家機構の助けによってのみ可能せしめることを。そして、すべての権力を合法的に手中に収めたヒトラーは、ワイマール共和国の制度的な民主主義を、儀式的で魔術的な大衆主義に変えてしまう。
政治理論が通用しないとなれば、それは国家なのか?本書は、こう呼ぶことを提案している。「全体主義的独占資本主義」と。なんとも形容矛盾な用語である。「国家資本主義」なんて言葉もよく見かけるが、こと政治体制においては矛盾の方に真理があるのかも。現在でも、経済政策がうまくいけば、大衆は政治家の多少の失態に目をつぶる。逆に、経済政策で失敗すれば、どんなに優れた言葉を発信しても陳腐となる。はたして政治権力が怪物なのか。大衆が怪物なのか。いや人間がそのものが怪物なのか...
3. 反セム族主義
大ドイツ帝国を実現するための最初の課題は、民族団結のための共通の目標をつくること。共通の敵をつくって愛国心を煽るやり方は現在でも見られる政治の常套手段で、優越意識を高めるためにまず格付けをやる。ドイツ人の次は、ウクライナ人、ゴラール人、白系ロシア人で、彼らは特別待遇を受けたという。その次がポーランド人で、その次、つまり最下層がユダヤ人。強制収容所へ送られる順番は、ユダヤ人の後に、ポーランド人、チェコ人、オランダ人、フランス人、そして、反ナチのドイツ人と続く。平和主義者も、保守主義者も、社会主義者も、カトリック教徒も、新教徒も、自由思想家も、あるいは被占領民族もお構いなし。イデオロギー破壊という意味では、見事な平等主義だ。民族に格付けがなされれば、劣等人種からの略奪が合法的となり、純血を守るというスローガンを正当化させる。
労働者寄りの経済政策において最初に標的にされるのは、決まって富裕層。職が奪われていると触れ回り、資本階級で幅を利かせるユダヤ系企業が攻撃対象となる。アーリアン化による独占形態は、銀行業において特に顕著であったという。
国民社会主義の人口政策は、必要な数だけの北欧人種の繁殖を確保するために立法化される。最もうす気味悪いのは、肉体的、生物学的に好ましくないとされた人々の生殖を阻止する立法措置である。SS 隊員の結婚には特別な許可がいる。当時から、ヒムラーは露骨な人種差別論狂信者として知られていたようである。
「国民社会主義は、ユダヤ人の絶滅を唱導した最初の反セム族運動である。しかしこの目標は、『ドイツ人の血の純化』と呼ばれる、より広範な計画の一部分にすぎない。」
反セム族主義は、共通の敵をつくる点において三つの効果をあげたという。
第一に、階級闘争にとって変わる。資本階級への不満を民族闘争にすり替えたこと。
第二に、東部への領土膨張を正当化する。ドイツ人の住む領土は、すべて第一等民族としての主権があると。
第三に、キリスト教批判を抽象化する。反キリスト教の潮流には二つの立場がある。一つは、それがキリスト教的であるがゆえに拒否。二つは、十分にキリスト教的でないがゆえに拒否。
反キリスト教的イデオロギーにおいて、最も強力な感化力を持っていた人物はニーチェだという。ただ、ニーチェは反セム族主義なんぞではないし、それはノイマンも擁護している。哲学思想で都合よく利用された立場は、スコラ神学におけるアリストテレスと似ている。
「反セム族主義は、損なわれた自尊からくる腹立たしさの捌け口をつくり、また新旧中産階級と地主貴族との政治的同盟を可能した。」
4. ゲルマン的モンロー主義
モンロー主義は、アメリカ帝国主義のイデオロギー的基礎である。互いの主権を尊重して相互干渉しない... と言えば聞こえはいいが、お前のやることに口を出さないから、俺のやることにも口を出すな!... という姿勢である。
これをゲルマン風に解釈すると... ドイツ人が住む領土には、すべて第一等民族としての主権がある。さらに拡大解釈すると... ドイツ人が移住した場所はすべて「大ドイツ帝国」の領土となる。そして、世界は一つという大国家思想は、民族を階層化することにすり替えられ、人種差別をも正当化させる。現在でも、市民を多く送り込んで議会を乗っ取ろうとする動きは見られるものの、スケールが違う。地政学を民族主義で解釈すると、こうなるのか。これが「人種的モンロー主義」ってやつなのか。
ノイマンは、国民社会主義が民族のアウタルキーを目指して、外国市場を放棄するなどと信じるのは馬鹿げている、と指摘する。それは、国際法の根本原理である国家主権を人種主権に置き換えただけのこと。これを、プロレタリアート的人種帝国主義と呼ぶのでは説得力に欠ける。本書は、「大ドイツ帝国 = ゲルマン的モンロー主義」という形で論じている。
「この帝国主義的な趨勢はいかなる国際法によっても拘束されず、また、どんな正当化も必要としない。帝国が存在する。そしてその事実が、十分な正当化なのである。」
生涯で一度は読んでみたいと考え、考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある中、海の怪物に手をつけたがために、陸の怪物にも看取られてしまう。そして今、トマス・ホッブズからフランツ・レオポルド・ノイマンという流れ弾まで喰らっちまった。乱読とは、自由精神の体現だ!などと言っている場合ではない。それは、単に感化されやすいってことだ...
バビロニアに起源をもつ終末論には、二つの怪物があると聞く。海を支配するリヴァイアサンと陸を支配するビヒモス。前者は雌、後者は雄とされ、こと悪魔の世界では対で存在することが収まりをよくする。黙示録によると、恐怖の支配をもたらす怪物どもは世界の終末直前に現れ、神に亡ぼされることになっている。他説では、同士討ちになるというのもあるが、いずれにせよ亡びることに。かくして正義と公明の意志の日がやってくるとさ。ところが、海と陸に住む動物たちはそれぞれに恐怖の大王を主と崇め、王国再興を祝う饗宴で双方の肉を喰っちまう。
この伝説は、ユダヤの終末論、ヨブ記、予言書、聖書外典などで言及され、実に多くの解釈を呼び、しばしば政治状態の比喩とされてきた。聖アウグスティヌスはビヒモスの肉にサタンを見たという。ホッブズは、イギリス革命で暴走する大衆の意志をリヴァイアサンと重ね、議会が迷走するアナーキーな様相をビヒモスと重ねて魅せた。そして、ノイマンは、国民社会主義をビヒモスと呼ぶに相応しいと語る...
注目したいのは、これが書かれた時期である。1942年、ロンドンで出版。1944年、「大ドイツ帝国」を加筆。既に原稿は、ドイツのソ連侵攻時には書き上げられていたという。
著者の名からユダヤ系であることは想像に易い。ノイマンは早々アメリカへ亡命する。ヒトラーが経済政策をあっさりと片付け、ドイツ民族の誇りを取り戻してくれたと大衆が熱狂している最中、彼はナチズムの本性を暴いて見せる。政治哲学なき政治、経済理論なき経済と。それは、単なる民族意識を支柱とする文化的体系で、政治、経済、軍事の方面で、これを売り物にしているというのである。不安を煽って安心を提供する手口、これがセールス心理学の鉄則だ。ゲーリングの結合企業群が雇用を支配し、ゲッペルス文学博士の巧みな言葉でプロパガンダの威力を見せつけ、ヒムラーの魔術的思想が不気味さを植え付け、大衆を受動的な生贄にする。経済政策は単なる金持ち批判に発し、政治体制は単なる共和国批判に発し、感情論を煽る。それゆえ、ここには政治哲学も、経済理論も存在しないというのである。現在でも、これほどの考察はなかなか見当たらない。やはり人生の醍醐味は、寄り道、道草、回り道、そして流れ弾の方にあったか...
ちなみに、ノイマンはソ連の諜報員でアメリカで活動していたという説もあるが、真相は知らん...
1. 国民社会主義と国家社会主義という訳語
ナチズムを語るなら「国家社会主義」とする方がよさそうな気がするが、本書はあえて「国民社会主義」という訳語をあてている。それは、アドルフ・ワグナーたちが持ち出した言葉との混同を避けるためだそうな。
また、他にも意図があるようである。ナチズムがイタリアのファシズムと一緒くたに語られるのをよく見かけるが、そのような通念から「国家社会主義」という用語が出回ったところもある。ノイマンは、イタリアの国家至上主義とは異なるナチズム観を強調している。
尚、岡本友孝、小野英祐、加藤栄一訳版(みすず書房)を手に取る。
2. 全体主義的独占資本主義
ヒトラーが利用した経済システムは、ワイマール共和国の産物だったという。独裁政権下で原動力となるカルテルやトラストなどの形態は、ワイマール共和国の下ですでに完成していたと。ドイツ人労働者は企業の巨大化を望む傾向にあるとしているが、大会社に就職したいといった意識はどこの国でも見られる。経済不安となれば尚更だ。こうした独占形態は、自由主義や民主主義とすこぶる相性が悪い。ワイマール共和国の失敗は、共和国という名を掲げながら、経済政策では逆のことをやっていたということか。これは社会主義的な政策でもなければ、共産主義的でもなく、あくまでも資本主義の暴走した形態であり、俗に言う帝国主義なのである。
さらに、資本拡張の動機に、民族主義を結びつけたところがナチズム的である。ゲルマン系民族には、逞しい身体を誇りにするという意識が伝統的にあるという。これに、北欧系の美しさと優秀さを結びつけたのがナチス式アーリアン学説である。
タキトゥスの著作「ゲルマーニア」によれば、アングロサクソンもゲルマン系。優越主義とは、劣等的な存在を定義して初めて成り立つ原理で、人間ってやつは、なにかと格付けがお好きときた。ヴェルサイユ条約以降、叩きのめされてきた民族の誇りをくすぐり、愛国心を刺激するのが大衆を煽る絶好の方法となる。
「大ドイツ帝国」とは、その根底に第一等人種を盟主とするヒエラルキー構想があり、いわば「大東亜共栄圏」とも似ている。ヒトラーの政策は、民族主義とのセット、いや民族主義そのものであって、経済政策と呼べる代物ではないということか。アウトバーン建設や大規模な公共投資は、ケインズ理論の実践と評されることもあるが、本書にはケインズの名は見当たらない。というより、超ハイパーインフレの中でやれる経済政策は、これくらいしかなかったということかもしれない。そして、資本家による独占形態を、党直属の企業を経由して国家による独占形態に変えていく。
全権委任法の成立において、出席議員の必要票数を獲得したことは事実である。だがそれは、多数の共産党や社会民主党の議員が正当な理由もなく逮捕されていた中での出来事。こと政治の世界では、合法的に見せることが合法的となる。ヒトラーはカップ一揆やミュンヘン一揆で悟る。国家権力につくには革命的な方法では不可能であることを。それは、国家機構の助けによってのみ可能せしめることを。そして、すべての権力を合法的に手中に収めたヒトラーは、ワイマール共和国の制度的な民主主義を、儀式的で魔術的な大衆主義に変えてしまう。
政治理論が通用しないとなれば、それは国家なのか?本書は、こう呼ぶことを提案している。「全体主義的独占資本主義」と。なんとも形容矛盾な用語である。「国家資本主義」なんて言葉もよく見かけるが、こと政治体制においては矛盾の方に真理があるのかも。現在でも、経済政策がうまくいけば、大衆は政治家の多少の失態に目をつぶる。逆に、経済政策で失敗すれば、どんなに優れた言葉を発信しても陳腐となる。はたして政治権力が怪物なのか。大衆が怪物なのか。いや人間がそのものが怪物なのか...
3. 反セム族主義
大ドイツ帝国を実現するための最初の課題は、民族団結のための共通の目標をつくること。共通の敵をつくって愛国心を煽るやり方は現在でも見られる政治の常套手段で、優越意識を高めるためにまず格付けをやる。ドイツ人の次は、ウクライナ人、ゴラール人、白系ロシア人で、彼らは特別待遇を受けたという。その次がポーランド人で、その次、つまり最下層がユダヤ人。強制収容所へ送られる順番は、ユダヤ人の後に、ポーランド人、チェコ人、オランダ人、フランス人、そして、反ナチのドイツ人と続く。平和主義者も、保守主義者も、社会主義者も、カトリック教徒も、新教徒も、自由思想家も、あるいは被占領民族もお構いなし。イデオロギー破壊という意味では、見事な平等主義だ。民族に格付けがなされれば、劣等人種からの略奪が合法的となり、純血を守るというスローガンを正当化させる。
労働者寄りの経済政策において最初に標的にされるのは、決まって富裕層。職が奪われていると触れ回り、資本階級で幅を利かせるユダヤ系企業が攻撃対象となる。アーリアン化による独占形態は、銀行業において特に顕著であったという。
国民社会主義の人口政策は、必要な数だけの北欧人種の繁殖を確保するために立法化される。最もうす気味悪いのは、肉体的、生物学的に好ましくないとされた人々の生殖を阻止する立法措置である。SS 隊員の結婚には特別な許可がいる。当時から、ヒムラーは露骨な人種差別論狂信者として知られていたようである。
「国民社会主義は、ユダヤ人の絶滅を唱導した最初の反セム族運動である。しかしこの目標は、『ドイツ人の血の純化』と呼ばれる、より広範な計画の一部分にすぎない。」
反セム族主義は、共通の敵をつくる点において三つの効果をあげたという。
第一に、階級闘争にとって変わる。資本階級への不満を民族闘争にすり替えたこと。
第二に、東部への領土膨張を正当化する。ドイツ人の住む領土は、すべて第一等民族としての主権があると。
第三に、キリスト教批判を抽象化する。反キリスト教の潮流には二つの立場がある。一つは、それがキリスト教的であるがゆえに拒否。二つは、十分にキリスト教的でないがゆえに拒否。
反キリスト教的イデオロギーにおいて、最も強力な感化力を持っていた人物はニーチェだという。ただ、ニーチェは反セム族主義なんぞではないし、それはノイマンも擁護している。哲学思想で都合よく利用された立場は、スコラ神学におけるアリストテレスと似ている。
「反セム族主義は、損なわれた自尊からくる腹立たしさの捌け口をつくり、また新旧中産階級と地主貴族との政治的同盟を可能した。」
4. ゲルマン的モンロー主義
モンロー主義は、アメリカ帝国主義のイデオロギー的基礎である。互いの主権を尊重して相互干渉しない... と言えば聞こえはいいが、お前のやることに口を出さないから、俺のやることにも口を出すな!... という姿勢である。
これをゲルマン風に解釈すると... ドイツ人が住む領土には、すべて第一等民族としての主権がある。さらに拡大解釈すると... ドイツ人が移住した場所はすべて「大ドイツ帝国」の領土となる。そして、世界は一つという大国家思想は、民族を階層化することにすり替えられ、人種差別をも正当化させる。現在でも、市民を多く送り込んで議会を乗っ取ろうとする動きは見られるものの、スケールが違う。地政学を民族主義で解釈すると、こうなるのか。これが「人種的モンロー主義」ってやつなのか。
ノイマンは、国民社会主義が民族のアウタルキーを目指して、外国市場を放棄するなどと信じるのは馬鹿げている、と指摘する。それは、国際法の根本原理である国家主権を人種主権に置き換えただけのこと。これを、プロレタリアート的人種帝国主義と呼ぶのでは説得力に欠ける。本書は、「大ドイツ帝国 = ゲルマン的モンロー主義」という形で論じている。
「この帝国主義的な趨勢はいかなる国際法によっても拘束されず、また、どんな正当化も必要としない。帝国が存在する。そしてその事実が、十分な正当化なのである。」
2018-09-16
"ビヒモス" Thomas Hobbes 著
生涯で一度は読んでみたいと考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある中、その一つに手を付けたがために、流れ弾に当たってしまった作品も数多ある。酔いどれ天の邪鬼には、寄り道、道草、回り道の類いがたまらないときた。そして、リヴァイアサンという海の怪物が、ビヒモスという陸の怪物へといざなうのである。人間社会という怪物は、神ではなく悪魔に看取られているらしい...
尚、山田園子訳版(岩波文庫)を手に取る。
「リヴァイアサン」は、民主制を唱える群衆が暴徒化する様を一つの人格として描いた作品であった。群衆化すると、個々の意志から乖離して別の意志を持つようになる。この集団的意志が怪物というわけである。人間社会では、どんなに良い事でも同じことをする人が多過ぎると何かと問題が起こる。リヴァイアサンとは、コモン - ウェルスの代名詞というわけである。
そこでホッブズは、主権者の下で社会契約によって統制された集団的人格を要請する。教会を痛烈に批判し、集団社会を怪物のように描けば、無神論者とも、異端者とも、絶対王政主義者とも呼ばれ、世間を敵に回すことに...
一方、「ビヒモス」は、イギリス革命によって主権や秩序が崩壊していく様を回想したもので、トマス・ホッブズ最晩年の作品。ここでは議会が迷走し、はっきりとした形としての怪物が見えてこない。無形化してしまったアナーキーな様、集団的意志を失った様、これが怪物というわけか。人間社会ってやつは、どっちに転んでも怪物になるものらしい...
ここでは、ホッブズが怪物を描くに至った歴史観を垣間見ることができ、「リヴァイアサン」の弁明書と見ることもできよう。
物語は、世代の異なる二人の対話形式で展開される。若き法学徒が質問役となり、老いた異端論者が回答役となり。異端者を焚刑処理できないことの論証まで加えているのは、自分自身に向けられる処刑妄想でもあったのだろうか。
教育で導こうとする方法論ではプラトンの対話形式に見て取れるが、ホッブズの叙述姿勢はとても公平とは言えない。もともとイングランド国教会はローマ教会から分裂した異端の立場にあり、国制では王政と議会の共存する混合君主制を敷いている。ホッブズの宗教論もこの立場を継承して、教皇派聖職者をキリストに従わない輩とし、スコラ神学者をアリストテレス的ですらないとし、プロテスタントの方がまだましだと主張する。だが統治論となると、議会派を嫌悪してチャールズ1世を支持するが、それは伝統的な混合君主制を支持するのでもなければ、議会制民主主義を擁護するものでもなく、ひたすら王を絶対主権者とみなし、王への服従を民衆に求めるのである。世襲の正当性を六百年続いたということだけを根拠に、それで契約を結べというのでは、あまりに薄弱な論拠!
「君主の職務遂行に絶対必要なものは、臣民の服従」と訴え、それはその通りだろう。しかしそれは、主語を「君主」から「法」に置き換えれば、民主制も、貴族制も、君主制も同じこと。おまけに、王を賛美し、王の敗北を素直に認めない記述に、ややうんざり...
それでも、宗教家批判には頷ける点が多く、船舶税をめぐって民衆を煽る議員や有識者たちの様子にも、近年、国民投票で EU 離脱を表明するに至った経緯と重なって映る。スペイン無敵艦隊を破ったとはいえ、まだ制海権を掌握するまでには至っておらず、海岸線に憂いを残していた時代。常に扇動者は言う、税負担を軽くしてやる!と。これに乗せられる無知な怪物という構図は、いつの時代も変わらない...
1. 民衆蜂起の要因
ホッブズは、内戦の原因を七つ列挙している。
第一の堕落者は聖職者、特に長老派。神の代理人と称し、教会の統治権を神から委ねられたと主張する輩。
第二に、ローマ教皇によって統治されるべきとする教皇主義者。
第三に、宗教の自由を求める人々。
第四に、古代ギリシア・ローマ共和国時代の書物を読んで知識をまとった人々が、君主制を批判したこと。
第五に、オランダ商業の繁栄を称賛した人々。宗主国スペインに反逆して自由を勝ち取った栄光を讃えて。
第六に、財産を浪費した怠惰な人々。
最後に、義務に無知な人々。義務とは、王への服従義務のことで、この根拠を擁護する気にはなれない。ただ、民衆蜂起では、必ずと言っていいほど、おこぼれにあずかろうとする輩が出現する。名声を得ようとする者や一旗揚げようとする者など。穏健派は急進派に抹殺される運命にある。
ホッブズが穏健派だったかは知らん。単に絶対君主制支持者だったかもしれないし、その性格は「リヴァイアサン」よりも「ビヒモス」の方が鮮明になってくる。それでも無神論者という批判は当たらないだろう。ある種の群衆論として眺めれば、歴史的背景が傍観できる。
「場所と同様、時間にも高低差があるとしたら、時間の頂上は1640年から60年の間にある、と私は確信している。悪魔の山から見下ろすかのように、この時間の頂上から世の中を見下ろし、とくにイングランドの人間の行動を観察すれば、この世で見ることができる限りのありとあらゆる不正と愚行を、一望の下におさめられるだろう。不正や愚行が人間の偽善や自己欺瞞からどうやって生み出されたのか... 偽善とは不正に不正を、自己欺瞞とは愚行に愚行を重ねることだ。」
2. 世俗的権威の暴走
内戦勃発までにはややこしい経緯があるが、その動機は単純だ。教皇派から異端と呼ばれたイングランド人。ローマ教会では異端は最高の罪であり、迫害対象となる。領土から異端者をすべて追放しろ!と命じ、従わない王を退位させる。教養ある者が聖書を読めば、様々な解釈が生まれ、教会権力に少しでも疑問を呈する者はすべて異端とされる。アカデメイア派、逍遙学派、エピクロス派、ストア派などが異端とされた。アリストテレスを都合よく解釈するスコラ神学者は、もはやアリストテレス的ですらない。
神の言葉を解釈する資格を持つ者とは、どういう人物を言うのか。主権者の分別は、勝手な解釈を広める連中を罰することにあるのか。当時の有名大学が、スコラ派に毒されていた光景を物語る。
「聖書がギリシア語やラテン語で封じ込まれ、説教者が聖書から引き出したことだけを人民に教えるところでは、起こるべくして起こる。」
さて、教皇が世俗的権威を獲得したのは、いつ頃であろうか。ホッブズは、その起源を4、5世紀頃の北方民族の大移動から掘り起こす。怒涛のごとくローマ帝国を襲えば、ローマ市民は教会に救いを求める。教皇は教会権力の装いの下で、君主の世俗的権利を侵害し始め、8世紀から11世紀の教皇レオ3世からインノケンティウス3世の間に教皇権力が最高潮になったという。レオ3世は教会権力を取り戻したカールを大帝にし、以来、教皇が皇帝をあつかましく作りあげるようになったと。
教皇がキリストの代理人だとすれば、皇帝よりも上の存在というわけである。誰のおかげで国を統治できるのか?それが王にとって戒めになるなら、良い慣習かもしれない。
しかしながら、教皇や教会もまた暴走する。教皇は権力を強めるために信仰箇条を追加する。
「聖職者の結婚は不当。」
王は世継ぎがなければ世襲が続かないので、正統な後継者を広く知らしめるために正式な王妃が必要である。それは、王には聖職者になる資格がないことを意味する。聖職者の結婚禁止は、教皇グレゴリウス7世とイングランド王ウィリアム1世の時代に導入されたとか。
さらに、こう定めた。
「司祭への口頭告解が救いに不可欠。」
人々は、世を去る前に告解と赦免がないと救われず、司祭から赦免をもらえれば永遠に破滅しないというわけである。こうした信仰箇条が教会を通じて浸透していくと、人々は王よりも聖職者を恐れる。
そして、イングランド王エドワード3世までの間に、第二の謀略がはじまったという。宗教を一学問とし、アリストテレスの形而上学や論理学に基づく道徳的かつ自然学的な議論によってローマ教会を擁護する。大学が設置され始めたのがカール大帝の頃で、大量のスコラ神学の書物が出回るようになったとか。アリストテレスにとっても迷惑な話であろう...
3. 混合君主制の意義
君主制と民主制は相容れない政体なのであろうか。国王という称号が権威として残るケースがある。イングランドの制定法には、伝統的な憲章として「マグナ・カルタ」がある。君主制を前提としながら、国王の令状を不正取得する主権乱用者から人民を守るための法である。ここでいう君主制とは、人民を守る立場を堅守することであって、僭主制とはまったく相容れない。国王が権力を乱用するのが君主制の欠点であり、狡猾な議員が無知な大衆を扇動するのが民主制の欠点。国王と議会が並列に配置されれば、一方が暴走した時に他方が監視役となって機能しそうなものだが、そうはならないのが人間社会のカオスなところ。となれば、どちらかが大人になって権力を放棄し、権威を残すという形が落とし所になろうか。
イギリス革命では、クロムウェルが政権を掌握し、彼自身が主権者になる可能性もあっただろうし、国王が滅亡する可能性もあっただろう。だが、国王制は残った。一時的に王が処刑されたとしても、滅亡には至らなかった。なぜ、クロムウェルは王の称号を拒んだのか?そこまで厚かましくはなれなかったというのか?その後、民衆は世襲君主の復活を歓迎することに。
似たような歴史現象が、我が国にもある。天皇制がそれである。幾度となく成立した幕府は、天皇家を抹殺することができるほどの権力を掌握したが、滅亡には至らなかった。同等に争った武家には完全抹殺を図ったというのに。天皇の権威に後ろめたさのようなものがあるのか?それは気分の問題か?
いずれにせよ、どの党派にも、どの宗派にも属さないという権威が必要な場合がある。国家的危機に直面した時、中立的な権威こそが庶民を代表できる資格を持ち得る。それは、権力を放棄した大人の権威となろう...
尚、山田園子訳版(岩波文庫)を手に取る。
「リヴァイアサン」は、民主制を唱える群衆が暴徒化する様を一つの人格として描いた作品であった。群衆化すると、個々の意志から乖離して別の意志を持つようになる。この集団的意志が怪物というわけである。人間社会では、どんなに良い事でも同じことをする人が多過ぎると何かと問題が起こる。リヴァイアサンとは、コモン - ウェルスの代名詞というわけである。
そこでホッブズは、主権者の下で社会契約によって統制された集団的人格を要請する。教会を痛烈に批判し、集団社会を怪物のように描けば、無神論者とも、異端者とも、絶対王政主義者とも呼ばれ、世間を敵に回すことに...
一方、「ビヒモス」は、イギリス革命によって主権や秩序が崩壊していく様を回想したもので、トマス・ホッブズ最晩年の作品。ここでは議会が迷走し、はっきりとした形としての怪物が見えてこない。無形化してしまったアナーキーな様、集団的意志を失った様、これが怪物というわけか。人間社会ってやつは、どっちに転んでも怪物になるものらしい...
ここでは、ホッブズが怪物を描くに至った歴史観を垣間見ることができ、「リヴァイアサン」の弁明書と見ることもできよう。
物語は、世代の異なる二人の対話形式で展開される。若き法学徒が質問役となり、老いた異端論者が回答役となり。異端者を焚刑処理できないことの論証まで加えているのは、自分自身に向けられる処刑妄想でもあったのだろうか。
教育で導こうとする方法論ではプラトンの対話形式に見て取れるが、ホッブズの叙述姿勢はとても公平とは言えない。もともとイングランド国教会はローマ教会から分裂した異端の立場にあり、国制では王政と議会の共存する混合君主制を敷いている。ホッブズの宗教論もこの立場を継承して、教皇派聖職者をキリストに従わない輩とし、スコラ神学者をアリストテレス的ですらないとし、プロテスタントの方がまだましだと主張する。だが統治論となると、議会派を嫌悪してチャールズ1世を支持するが、それは伝統的な混合君主制を支持するのでもなければ、議会制民主主義を擁護するものでもなく、ひたすら王を絶対主権者とみなし、王への服従を民衆に求めるのである。世襲の正当性を六百年続いたということだけを根拠に、それで契約を結べというのでは、あまりに薄弱な論拠!
「君主の職務遂行に絶対必要なものは、臣民の服従」と訴え、それはその通りだろう。しかしそれは、主語を「君主」から「法」に置き換えれば、民主制も、貴族制も、君主制も同じこと。おまけに、王を賛美し、王の敗北を素直に認めない記述に、ややうんざり...
それでも、宗教家批判には頷ける点が多く、船舶税をめぐって民衆を煽る議員や有識者たちの様子にも、近年、国民投票で EU 離脱を表明するに至った経緯と重なって映る。スペイン無敵艦隊を破ったとはいえ、まだ制海権を掌握するまでには至っておらず、海岸線に憂いを残していた時代。常に扇動者は言う、税負担を軽くしてやる!と。これに乗せられる無知な怪物という構図は、いつの時代も変わらない...
1. 民衆蜂起の要因
ホッブズは、内戦の原因を七つ列挙している。
第一の堕落者は聖職者、特に長老派。神の代理人と称し、教会の統治権を神から委ねられたと主張する輩。
第二に、ローマ教皇によって統治されるべきとする教皇主義者。
第三に、宗教の自由を求める人々。
第四に、古代ギリシア・ローマ共和国時代の書物を読んで知識をまとった人々が、君主制を批判したこと。
第五に、オランダ商業の繁栄を称賛した人々。宗主国スペインに反逆して自由を勝ち取った栄光を讃えて。
第六に、財産を浪費した怠惰な人々。
最後に、義務に無知な人々。義務とは、王への服従義務のことで、この根拠を擁護する気にはなれない。ただ、民衆蜂起では、必ずと言っていいほど、おこぼれにあずかろうとする輩が出現する。名声を得ようとする者や一旗揚げようとする者など。穏健派は急進派に抹殺される運命にある。
ホッブズが穏健派だったかは知らん。単に絶対君主制支持者だったかもしれないし、その性格は「リヴァイアサン」よりも「ビヒモス」の方が鮮明になってくる。それでも無神論者という批判は当たらないだろう。ある種の群衆論として眺めれば、歴史的背景が傍観できる。
「場所と同様、時間にも高低差があるとしたら、時間の頂上は1640年から60年の間にある、と私は確信している。悪魔の山から見下ろすかのように、この時間の頂上から世の中を見下ろし、とくにイングランドの人間の行動を観察すれば、この世で見ることができる限りのありとあらゆる不正と愚行を、一望の下におさめられるだろう。不正や愚行が人間の偽善や自己欺瞞からどうやって生み出されたのか... 偽善とは不正に不正を、自己欺瞞とは愚行に愚行を重ねることだ。」
2. 世俗的権威の暴走
内戦勃発までにはややこしい経緯があるが、その動機は単純だ。教皇派から異端と呼ばれたイングランド人。ローマ教会では異端は最高の罪であり、迫害対象となる。領土から異端者をすべて追放しろ!と命じ、従わない王を退位させる。教養ある者が聖書を読めば、様々な解釈が生まれ、教会権力に少しでも疑問を呈する者はすべて異端とされる。アカデメイア派、逍遙学派、エピクロス派、ストア派などが異端とされた。アリストテレスを都合よく解釈するスコラ神学者は、もはやアリストテレス的ですらない。
神の言葉を解釈する資格を持つ者とは、どういう人物を言うのか。主権者の分別は、勝手な解釈を広める連中を罰することにあるのか。当時の有名大学が、スコラ派に毒されていた光景を物語る。
「聖書がギリシア語やラテン語で封じ込まれ、説教者が聖書から引き出したことだけを人民に教えるところでは、起こるべくして起こる。」
さて、教皇が世俗的権威を獲得したのは、いつ頃であろうか。ホッブズは、その起源を4、5世紀頃の北方民族の大移動から掘り起こす。怒涛のごとくローマ帝国を襲えば、ローマ市民は教会に救いを求める。教皇は教会権力の装いの下で、君主の世俗的権利を侵害し始め、8世紀から11世紀の教皇レオ3世からインノケンティウス3世の間に教皇権力が最高潮になったという。レオ3世は教会権力を取り戻したカールを大帝にし、以来、教皇が皇帝をあつかましく作りあげるようになったと。
教皇がキリストの代理人だとすれば、皇帝よりも上の存在というわけである。誰のおかげで国を統治できるのか?それが王にとって戒めになるなら、良い慣習かもしれない。
しかしながら、教皇や教会もまた暴走する。教皇は権力を強めるために信仰箇条を追加する。
「聖職者の結婚は不当。」
王は世継ぎがなければ世襲が続かないので、正統な後継者を広く知らしめるために正式な王妃が必要である。それは、王には聖職者になる資格がないことを意味する。聖職者の結婚禁止は、教皇グレゴリウス7世とイングランド王ウィリアム1世の時代に導入されたとか。
さらに、こう定めた。
「司祭への口頭告解が救いに不可欠。」
人々は、世を去る前に告解と赦免がないと救われず、司祭から赦免をもらえれば永遠に破滅しないというわけである。こうした信仰箇条が教会を通じて浸透していくと、人々は王よりも聖職者を恐れる。
そして、イングランド王エドワード3世までの間に、第二の謀略がはじまったという。宗教を一学問とし、アリストテレスの形而上学や論理学に基づく道徳的かつ自然学的な議論によってローマ教会を擁護する。大学が設置され始めたのがカール大帝の頃で、大量のスコラ神学の書物が出回るようになったとか。アリストテレスにとっても迷惑な話であろう...
3. 混合君主制の意義
君主制と民主制は相容れない政体なのであろうか。国王という称号が権威として残るケースがある。イングランドの制定法には、伝統的な憲章として「マグナ・カルタ」がある。君主制を前提としながら、国王の令状を不正取得する主権乱用者から人民を守るための法である。ここでいう君主制とは、人民を守る立場を堅守することであって、僭主制とはまったく相容れない。国王が権力を乱用するのが君主制の欠点であり、狡猾な議員が無知な大衆を扇動するのが民主制の欠点。国王と議会が並列に配置されれば、一方が暴走した時に他方が監視役となって機能しそうなものだが、そうはならないのが人間社会のカオスなところ。となれば、どちらかが大人になって権力を放棄し、権威を残すという形が落とし所になろうか。
イギリス革命では、クロムウェルが政権を掌握し、彼自身が主権者になる可能性もあっただろうし、国王が滅亡する可能性もあっただろう。だが、国王制は残った。一時的に王が処刑されたとしても、滅亡には至らなかった。なぜ、クロムウェルは王の称号を拒んだのか?そこまで厚かましくはなれなかったというのか?その後、民衆は世襲君主の復活を歓迎することに。
似たような歴史現象が、我が国にもある。天皇制がそれである。幾度となく成立した幕府は、天皇家を抹殺することができるほどの権力を掌握したが、滅亡には至らなかった。同等に争った武家には完全抹殺を図ったというのに。天皇の権威に後ろめたさのようなものがあるのか?それは気分の問題か?
いずれにせよ、どの党派にも、どの宗派にも属さないという権威が必要な場合がある。国家的危機に直面した時、中立的な権威こそが庶民を代表できる資格を持ち得る。それは、権力を放棄した大人の権威となろう...
2018-09-09
"リヴァイアサン (全四冊)" Thomas Hobbes 著
生涯で一度は読んでみたい... そう考え、考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある。こいつも、その一つ。いくら有名な書とはいえ、イメージが先走り、いまいち気分が乗らない。面倒くさがり屋の心が奥底でつぶやいているのだ。本当に評判どおりのものなのか?と。骨を折ってまで読む価値があるのか?と...
それでも実際に触れてみると、イメージを超えた何かに出会えるかもしれない。期待感とは、見返りを求めることか。それは、宗教と何が違うのだろう。人間そのものが信仰的な存在というわけか。人間ってやつは、何をやるにしても信念や信条なるものの後ろ盾を求めてやまない。つまりは思い込みってやつだ。宗教は、信じる者は救われると説き、信じない者を抹殺にかかる。これに対抗するかのように、信仰の告白は自由を告げる。科学は、疑うことで救われる道を開いてくれた。その意味で、科学もまた相当な宗教といえよう...
「リヴァイアサン」とは、旧約聖書に出てくる海の怪物。トマス・ホッブズは、この怪物になぞらえ政治哲学を著した。それは、自然哲学や形而上学の域を超え、物理学、天文学、幾何学、さらには、修辞学、詩学、音楽... と実に多岐に渡って論じられる。
まず、人間個々の本性を暴きながら、人間社会の自然状態を探る。そのアプローチはロックやルソーに受け継がれるが、今日でも自然状態というものに対する見解や解釈は多く見られる。人間の多様性とは、それほど手強い相手ということだ。そもそも政治という形態は、人間の自然な姿なのだろうか?
ホッブスは、人工的産物だと吐き捨て、戦争状態こそ人間の自然状態であるとし、あの「万人の万人に対する闘争」という言葉が導き出される。この部分だけを読めば、彼が絶対主義者という見方もできなくはないが、全体像を眺めれば、そのような印象は薄れていく。その印象を完全に拭いきれるわけではないにしても...
ちなみに、ホッブズは絶対主権を主張したことで絶対王政主義者とみなされ、痛烈な教会批判をしたことで無神論者とされた。
哲学書の扱いが難しいところは、部分的に言葉を引用しては正反対の印象を与えかねないということ。大作であれば尚更である。
この作品は、イギリス革命の真っ只中に書かれた。ピューリタンの暴動を目の当たりにすれば、権利の主張とは暴動なのか?と嘆き、絶対王政を懐かしむのも無理はあるまい。改革というものは血を流すもの、いわば歴史の必然なのかもしれない。
フランス革命では、ブルボン王朝の絶対王権を倒した直後の共和制が恐怖政治と化すと、ナポレオンの呼び水となった。明治維新でも、血なまぐさい暗殺が横行すると、幕府の方がましという風潮があった。ヒトラーに至ってはワイマール共和国の合法的産物である。
かのアリストテレスは、君主制、貴族制、民主制の三つの政治体制を唱え、中でも民主制は最悪だというような愚痴を遺した。民主国家アテナイの凋落ぶりを目の当たりにし、その救世主を、自ら家庭教師を務めたアレキサンダー大王に託したのかは知らんよ...
一方、ホッブズは唱える。政治体制はあくまでも手段であって、民意をいかに政治に反映させるかが本質であると...
本書には、「コモン - ウェルス」という用語がちりばめられる。直訳すると「公衆の財産」ということになるが、この目的は、君主制であろうが、貴族制であろうが、民主制であろうが同じというわけである。ローマ帝国は君主制を敷きながら、元老院を置いて民衆的統治を行った。本当に君主が存在するならば、君主制も悪くない。だが歴史を振り返れば、君主はみな僭主と化した。一人の君主がいたとしても、その後継者は僭主となり、長続きしないばかりか、どんどん泥沼化していき、王朝そのものを終焉させるしか手がなくなる。
対して、民主制は一時的には暴走しても、自己再生する力がかすかに残されている。国家元首がころころ変わっても、政治権力を抑制できる柔軟性こそが民主主義の原理としてある。したがって、民主主義は崇めるほどのものではなく、歴史的経験から比較的ましであったということ。それも、改良に改良を加えてきた民主制によって...
但し、ホッブズがそういう意図で書いたかどうかまでは知らんよ。評判どおりの絶対君主制支持者だったかもしれないし、それは陸の怪物「ビヒモス」がより鮮明にしてくれるだろう...
尚、水田洋訳版(岩波文庫)を手に取る。
1. 集団的意志という怪物
「リヴァイアサン... すなわち、教会的および市民的国家の質料、形相、および力」
リヴァイアサンとは、集団的意志とでも言おうか。人間社会では、どんなに良い事でも同じことをする人が多過ぎると、何かと問題が起こる。集団化すると、個々の意志から乖離して別の意志を持つようになり、善人の集団が悪魔化する現象も、そう珍しいことではない。生物界は、弱肉強食の法則を与えても同族の抹殺までには至らないが、人間社会は、同族間の競争の原理によって機能している。やはり怪物か!
伝統的な倫理的問題に、人間は生まれつき善人か、悪人か、という論争があるが、ホッブズは後者側であろうか。ただ、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、善悪のどちらかだけを認識することは不可能であろうし、悪人ほど善人ぶるのが上手いというのも道理である。宗教的な理性の渦巻く時代、ホッブズにしても、マキャヴェッリにしても、人間の醜態という視点から政治倫理を問うた意味は大きい。さて、ここに理性の人工的完成を見ることができるだろうか。そりゃ無理な話よ...
「各人が各人を敵に争う戦争状態こそ人間の自然状態であり、国家とは、平和維持のために絶対主権をもって君臨すべく創出されたいわば人工的人間にほかならない。」
2. コモン - ウェルスと正義
ホッブズは、自然権に生まれながらの平等と自由を唱えながらも、競争からくる争論への愛好や安楽への愛好からくる社会的服従といった性癖を暴き、自惚れからくる虚しい企てや有能という自負からくる野心といった行動パターンを分析する。称賛への愛好から生じる徳性への愛好などは見返りを求める性向で、親切心からくる信任や無知からくる慣習への執着などの見方は、まさに悪魔じみている。ホッブズは告げる。平等から不信が生じ、不信から戦争が生じると。人間は、無知な平和愛好家であり続けるというわけか...
「余暇は哲学の母であり、コモン - ウェルスは、平和と余暇の母である。」
平和主義で最も重視されるのが、正義の概念である。それは、軍事力をも凌駕する力の概念。では、正義とはなんぞや?正義は、自然状態なのか?ホッブスに限らず、正義は理性に反しないというのが一般的な見解であろうが、それは本当だろうか?
歴史を振り返れば、正義を掲げる政治指導者ほど胡散臭いものはない。国家間の争いでは双方の国民が正義を掲げ、外交の場では正義が交換財となる。これを世間では現実主義と呼ぶ。あらゆる論争で打ち負かした方が正義となれば、報道屋はいつも正義漢ぶり、弁論技術をどんどん旺盛にさせる。それは、ソフィストの時代と何が違うのだろう...
「正義と所有権は、コモン - ウェルスの設立とともにはじまる。」
3. 社会契約と国家
「社会契約論」といえばルソーの書として有名だが、社会契約という概念そのもは既に古代ギリシア時代に見て取れる。そこで問われるのが、契約の対象は神か?教会か?それとも国家か?
社会と契約するには、法がその役割を果たす。では、法を作り出す主体は誰か?本書は、生存権を自然権として論じているが、それを保障する法もまた自然法から逸脱した人工物として君臨している。国家という形態は、何をもって正当化できるだろうか?それは、自己存在に対する安全保障が担保されなければなるまい。
本書には、防衛権という言葉は登場しないが、国家権力の絶対性を論じ、他の存在権をも侵さないということを含めて自由の概念を生起させている。イギリス革命の争点の一つに、国家主権が国王にあるか、議会にあるか、というのがあるが、内乱に乗じて教皇主義の復権を目論む連中が見てとれる。ホッブズは教会権威をも国家権力の下に置くべきだとして、法王は全世界の主ではないと釘を刺す。
となれば、宗教の自由を唱えているように見えてもよさそうなものだが、キリスト教の絶対性は堅守していると見える。前半の二冊で人間論と国家論を唱えておきながら、後半の二冊では激烈な教会批判に費やされ、スコラ神学者への攻撃も凄まじい。科学的な視点を加えれば、奇蹟を起こす預言者も減少し、聖書が彼らの地位に取って代わる。しかも、これだけ聖書の言葉が多く引用されれば、説教嫌いな天の邪鬼は、ちとうんざり...
競争原理に対して、ロックは生産の概念を導入することで緩和し、ルソーは歯止めとなる理性の存在を強調したが、ホッブズはあまりにも正面から立ち向かったがために、主権と人権との対立を激烈にしたと見える。いずれにせよ、宗教も、哲学も、なにかの手段に過ぎない。
ちなみに、明治政府の文部省は、この書に「主権論」の邦題を与えたというから、その意図も垣間見る思いである...
それでも実際に触れてみると、イメージを超えた何かに出会えるかもしれない。期待感とは、見返りを求めることか。それは、宗教と何が違うのだろう。人間そのものが信仰的な存在というわけか。人間ってやつは、何をやるにしても信念や信条なるものの後ろ盾を求めてやまない。つまりは思い込みってやつだ。宗教は、信じる者は救われると説き、信じない者を抹殺にかかる。これに対抗するかのように、信仰の告白は自由を告げる。科学は、疑うことで救われる道を開いてくれた。その意味で、科学もまた相当な宗教といえよう...
「リヴァイアサン」とは、旧約聖書に出てくる海の怪物。トマス・ホッブズは、この怪物になぞらえ政治哲学を著した。それは、自然哲学や形而上学の域を超え、物理学、天文学、幾何学、さらには、修辞学、詩学、音楽... と実に多岐に渡って論じられる。
まず、人間個々の本性を暴きながら、人間社会の自然状態を探る。そのアプローチはロックやルソーに受け継がれるが、今日でも自然状態というものに対する見解や解釈は多く見られる。人間の多様性とは、それほど手強い相手ということだ。そもそも政治という形態は、人間の自然な姿なのだろうか?
ホッブスは、人工的産物だと吐き捨て、戦争状態こそ人間の自然状態であるとし、あの「万人の万人に対する闘争」という言葉が導き出される。この部分だけを読めば、彼が絶対主義者という見方もできなくはないが、全体像を眺めれば、そのような印象は薄れていく。その印象を完全に拭いきれるわけではないにしても...
ちなみに、ホッブズは絶対主権を主張したことで絶対王政主義者とみなされ、痛烈な教会批判をしたことで無神論者とされた。
哲学書の扱いが難しいところは、部分的に言葉を引用しては正反対の印象を与えかねないということ。大作であれば尚更である。
この作品は、イギリス革命の真っ只中に書かれた。ピューリタンの暴動を目の当たりにすれば、権利の主張とは暴動なのか?と嘆き、絶対王政を懐かしむのも無理はあるまい。改革というものは血を流すもの、いわば歴史の必然なのかもしれない。
フランス革命では、ブルボン王朝の絶対王権を倒した直後の共和制が恐怖政治と化すと、ナポレオンの呼び水となった。明治維新でも、血なまぐさい暗殺が横行すると、幕府の方がましという風潮があった。ヒトラーに至ってはワイマール共和国の合法的産物である。
かのアリストテレスは、君主制、貴族制、民主制の三つの政治体制を唱え、中でも民主制は最悪だというような愚痴を遺した。民主国家アテナイの凋落ぶりを目の当たりにし、その救世主を、自ら家庭教師を務めたアレキサンダー大王に託したのかは知らんよ...
一方、ホッブズは唱える。政治体制はあくまでも手段であって、民意をいかに政治に反映させるかが本質であると...
本書には、「コモン - ウェルス」という用語がちりばめられる。直訳すると「公衆の財産」ということになるが、この目的は、君主制であろうが、貴族制であろうが、民主制であろうが同じというわけである。ローマ帝国は君主制を敷きながら、元老院を置いて民衆的統治を行った。本当に君主が存在するならば、君主制も悪くない。だが歴史を振り返れば、君主はみな僭主と化した。一人の君主がいたとしても、その後継者は僭主となり、長続きしないばかりか、どんどん泥沼化していき、王朝そのものを終焉させるしか手がなくなる。
対して、民主制は一時的には暴走しても、自己再生する力がかすかに残されている。国家元首がころころ変わっても、政治権力を抑制できる柔軟性こそが民主主義の原理としてある。したがって、民主主義は崇めるほどのものではなく、歴史的経験から比較的ましであったということ。それも、改良に改良を加えてきた民主制によって...
但し、ホッブズがそういう意図で書いたかどうかまでは知らんよ。評判どおりの絶対君主制支持者だったかもしれないし、それは陸の怪物「ビヒモス」がより鮮明にしてくれるだろう...
尚、水田洋訳版(岩波文庫)を手に取る。
1. 集団的意志という怪物
「リヴァイアサン... すなわち、教会的および市民的国家の質料、形相、および力」
リヴァイアサンとは、集団的意志とでも言おうか。人間社会では、どんなに良い事でも同じことをする人が多過ぎると、何かと問題が起こる。集団化すると、個々の意志から乖離して別の意志を持つようになり、善人の集団が悪魔化する現象も、そう珍しいことではない。生物界は、弱肉強食の法則を与えても同族の抹殺までには至らないが、人間社会は、同族間の競争の原理によって機能している。やはり怪物か!
伝統的な倫理的問題に、人間は生まれつき善人か、悪人か、という論争があるが、ホッブズは後者側であろうか。ただ、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、善悪のどちらかだけを認識することは不可能であろうし、悪人ほど善人ぶるのが上手いというのも道理である。宗教的な理性の渦巻く時代、ホッブズにしても、マキャヴェッリにしても、人間の醜態という視点から政治倫理を問うた意味は大きい。さて、ここに理性の人工的完成を見ることができるだろうか。そりゃ無理な話よ...
「各人が各人を敵に争う戦争状態こそ人間の自然状態であり、国家とは、平和維持のために絶対主権をもって君臨すべく創出されたいわば人工的人間にほかならない。」
2. コモン - ウェルスと正義
ホッブズは、自然権に生まれながらの平等と自由を唱えながらも、競争からくる争論への愛好や安楽への愛好からくる社会的服従といった性癖を暴き、自惚れからくる虚しい企てや有能という自負からくる野心といった行動パターンを分析する。称賛への愛好から生じる徳性への愛好などは見返りを求める性向で、親切心からくる信任や無知からくる慣習への執着などの見方は、まさに悪魔じみている。ホッブズは告げる。平等から不信が生じ、不信から戦争が生じると。人間は、無知な平和愛好家であり続けるというわけか...
「余暇は哲学の母であり、コモン - ウェルスは、平和と余暇の母である。」
平和主義で最も重視されるのが、正義の概念である。それは、軍事力をも凌駕する力の概念。では、正義とはなんぞや?正義は、自然状態なのか?ホッブスに限らず、正義は理性に反しないというのが一般的な見解であろうが、それは本当だろうか?
歴史を振り返れば、正義を掲げる政治指導者ほど胡散臭いものはない。国家間の争いでは双方の国民が正義を掲げ、外交の場では正義が交換財となる。これを世間では現実主義と呼ぶ。あらゆる論争で打ち負かした方が正義となれば、報道屋はいつも正義漢ぶり、弁論技術をどんどん旺盛にさせる。それは、ソフィストの時代と何が違うのだろう...
「正義と所有権は、コモン - ウェルスの設立とともにはじまる。」
3. 社会契約と国家
「社会契約論」といえばルソーの書として有名だが、社会契約という概念そのもは既に古代ギリシア時代に見て取れる。そこで問われるのが、契約の対象は神か?教会か?それとも国家か?
社会と契約するには、法がその役割を果たす。では、法を作り出す主体は誰か?本書は、生存権を自然権として論じているが、それを保障する法もまた自然法から逸脱した人工物として君臨している。国家という形態は、何をもって正当化できるだろうか?それは、自己存在に対する安全保障が担保されなければなるまい。
本書には、防衛権という言葉は登場しないが、国家権力の絶対性を論じ、他の存在権をも侵さないということを含めて自由の概念を生起させている。イギリス革命の争点の一つに、国家主権が国王にあるか、議会にあるか、というのがあるが、内乱に乗じて教皇主義の復権を目論む連中が見てとれる。ホッブズは教会権威をも国家権力の下に置くべきだとして、法王は全世界の主ではないと釘を刺す。
となれば、宗教の自由を唱えているように見えてもよさそうなものだが、キリスト教の絶対性は堅守していると見える。前半の二冊で人間論と国家論を唱えておきながら、後半の二冊では激烈な教会批判に費やされ、スコラ神学者への攻撃も凄まじい。科学的な視点を加えれば、奇蹟を起こす預言者も減少し、聖書が彼らの地位に取って代わる。しかも、これだけ聖書の言葉が多く引用されれば、説教嫌いな天の邪鬼は、ちとうんざり...
競争原理に対して、ロックは生産の概念を導入することで緩和し、ルソーは歯止めとなる理性の存在を強調したが、ホッブズはあまりにも正面から立ち向かったがために、主権と人権との対立を激烈にしたと見える。いずれにせよ、宗教も、哲学も、なにかの手段に過ぎない。
ちなみに、明治政府の文部省は、この書に「主権論」の邦題を与えたというから、その意図も垣間見る思いである...
2018-09-02
"遥かなる未踏峰(上/下)" Jeffrey H. Archer 著
古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。
ジェフリー・アーチャー... 学生時代に追尾していた作家の一人だが、社会人になってすっかりご無沙汰。何冊か再読したものの...
推理小説には魔物が住むという。一度手をつけると、つい一気読みしてしまい、朝日が眩しい。おまけに、おいらの読書スタイルの基本が、このジャンルときた。恐々、表紙をめくってみると...
「この作品は実話に触発されたものである。」
こいつが、ジョージ・マロリーを綴った物語だということがすぐに分かる。彼が、そこに山があるから... と答えたかどうかは知らん。確実に言えることは、なぜ読むのか?と聞かれれば、そこに本があるから... と答えるってことだけだ。推理モノに歴史が絡むと、もう衝動を抑えられない...
歴史ってやつは、一つの偉業に対して一人の英雄を欲する。だが、どんな偉業にも、そこに到達するために捧げられてきた生贄たちがいる。ニュートン力学は、なにもニュートンだけの偉業ではあるまい。そこに至るまでの叡智の積み重ねがあったはずだ。ゲーデルはこんなことを言った... 不完全性定理は自分が発見しなくても誰かが発見しただろう... と。この主張はおそらく正しい。真理の概念は必然であり、概念の方が歴史の中を散歩している。人類がずっと努力を続け、その意志を伝承する人々がいる限り、幸運に恵まれる瞬間がある。それが誰の偉業かって?そんなことは報道屋や政治屋に任せておけばいい。興味があるのは、成功からよりも失敗からの方が多くを学べるってことだ...
アーチャーは、登山家マロリーを人類初のチョモランマ征服者として描こうとする。だがそこに、確実な証拠は見当たらない。そもそも、生還できなかったのに登頂と言えるのか。それでも偉大な試みである。イギリスは、スペイン無敵艦隊を破り、さらに産業革命の勢いで世界を席巻し、偉大な戦争と呼んでは愛国心旺盛な時代に、国家の誇りを賭けて挑んだ北極点と南極点の到達で遅れをとってしまった。地球上で残された地点は世界最高峰!国王陛下の民の一人が、栄誉を勝ち得んがために...
アーチャーは、こうした時代背景に、西部戦線の暗い影や、資本主義とマルクス主義の対立といった光景をさりげなく盛り込む。物語では、南極探検家ロバート・スコット大佐の講演会にマロリーが出席する場面がある。スコット隊は犬ゾリにこだわったが、アムンゼン隊はエンジン付ソリも投入するってさ...
「われわれの目的は昔から変わることなく、自然の力に対する人間の能力を、機械の助けに頼らずに試すことにある...」
マロリーは酸素ボンベの投入をめぐって隊員と口論になる。だが、彼自身が投入を拒否したことで頂上を目前に撤退。
「おまえの手縫いの登山靴だって人工的な補助具だろう...」
そして再挑戦では、酸素ボンベが必要だということを悟ったのだった。
ちなみに、スコット大佐の英雄伝は、シュテファン・ツヴァイクが「人類の星の時間」の中で描いている。到達の栄誉はアムンゼン隊に譲ったが、後の科学的情報はスコット大佐の記録によるところが多く、彼は真の研究者であったと。
だが国家の威信を背負い、スコット隊は全滅した。そして、マロリーも。これがジョンブル魂というものか...
マロリーの遺体が捜索隊に発見されるまで、70年以上もの月日が経っていた。物語は、マロリーが残した妻への手紙をちりばめて構成される。最愛のルースへ... 手紙には、SNS ではけして味わえない重みがある。そして、1924年6月7日を最後に... 君の写真を地球で一番高い地点に置いてくるつもりだ!
なにゆえ最愛の妻を残して、狂気へ向かうのか?なにが使命感を焚きつけるのか?男ってやつは、いくつになってもお山の大将を夢見ている、実にしょうのない生き物である。これが冒険家の心理。おまけに、男ってやつは、愛する女の最初の男でありたいと儚い夢を描いている。そして、最初の登頂者となる夢を描き...
マロリーは失敗の汚点を残したままでは死ねない。再び狂気へ向かわせるのも冒険家の本能か。山は一度征服すれば永遠の恋人となるのかは知らんが、恋は成就した瞬間から堕落をはじめる。到達できなければ、永遠に理想像のまま。小悪魔に魂を売るなら可愛いものだが、チョモランマという山の女神は悪魔よりもタチが悪い。深い霧の中、サロメのように七枚のヴェールを一枚づつ脱ぎ、七つの煉獄山が露わになった時、はじめて人間の能力を思い知らされる...
・田舎の教会墓地で詠まれた悲歌(エレジー)...
どれほど地位を自慢しようとも、どれほど力を誇示しようとも、
また、どれほどの美と富を与えられようとも、
死は免れ得ない。
栄光の径(みち)は墓場へつづくのみである。
... トマス・グレイ
ジェフリー・アーチャー... 学生時代に追尾していた作家の一人だが、社会人になってすっかりご無沙汰。何冊か再読したものの...
推理小説には魔物が住むという。一度手をつけると、つい一気読みしてしまい、朝日が眩しい。おまけに、おいらの読書スタイルの基本が、このジャンルときた。恐々、表紙をめくってみると...
「この作品は実話に触発されたものである。」
こいつが、ジョージ・マロリーを綴った物語だということがすぐに分かる。彼が、そこに山があるから... と答えたかどうかは知らん。確実に言えることは、なぜ読むのか?と聞かれれば、そこに本があるから... と答えるってことだけだ。推理モノに歴史が絡むと、もう衝動を抑えられない...
歴史ってやつは、一つの偉業に対して一人の英雄を欲する。だが、どんな偉業にも、そこに到達するために捧げられてきた生贄たちがいる。ニュートン力学は、なにもニュートンだけの偉業ではあるまい。そこに至るまでの叡智の積み重ねがあったはずだ。ゲーデルはこんなことを言った... 不完全性定理は自分が発見しなくても誰かが発見しただろう... と。この主張はおそらく正しい。真理の概念は必然であり、概念の方が歴史の中を散歩している。人類がずっと努力を続け、その意志を伝承する人々がいる限り、幸運に恵まれる瞬間がある。それが誰の偉業かって?そんなことは報道屋や政治屋に任せておけばいい。興味があるのは、成功からよりも失敗からの方が多くを学べるってことだ...
アーチャーは、登山家マロリーを人類初のチョモランマ征服者として描こうとする。だがそこに、確実な証拠は見当たらない。そもそも、生還できなかったのに登頂と言えるのか。それでも偉大な試みである。イギリスは、スペイン無敵艦隊を破り、さらに産業革命の勢いで世界を席巻し、偉大な戦争と呼んでは愛国心旺盛な時代に、国家の誇りを賭けて挑んだ北極点と南極点の到達で遅れをとってしまった。地球上で残された地点は世界最高峰!国王陛下の民の一人が、栄誉を勝ち得んがために...
アーチャーは、こうした時代背景に、西部戦線の暗い影や、資本主義とマルクス主義の対立といった光景をさりげなく盛り込む。物語では、南極探検家ロバート・スコット大佐の講演会にマロリーが出席する場面がある。スコット隊は犬ゾリにこだわったが、アムンゼン隊はエンジン付ソリも投入するってさ...
「われわれの目的は昔から変わることなく、自然の力に対する人間の能力を、機械の助けに頼らずに試すことにある...」
マロリーは酸素ボンベの投入をめぐって隊員と口論になる。だが、彼自身が投入を拒否したことで頂上を目前に撤退。
「おまえの手縫いの登山靴だって人工的な補助具だろう...」
そして再挑戦では、酸素ボンベが必要だということを悟ったのだった。
ちなみに、スコット大佐の英雄伝は、シュテファン・ツヴァイクが「人類の星の時間」の中で描いている。到達の栄誉はアムンゼン隊に譲ったが、後の科学的情報はスコット大佐の記録によるところが多く、彼は真の研究者であったと。
だが国家の威信を背負い、スコット隊は全滅した。そして、マロリーも。これがジョンブル魂というものか...
マロリーの遺体が捜索隊に発見されるまで、70年以上もの月日が経っていた。物語は、マロリーが残した妻への手紙をちりばめて構成される。最愛のルースへ... 手紙には、SNS ではけして味わえない重みがある。そして、1924年6月7日を最後に... 君の写真を地球で一番高い地点に置いてくるつもりだ!
なにゆえ最愛の妻を残して、狂気へ向かうのか?なにが使命感を焚きつけるのか?男ってやつは、いくつになってもお山の大将を夢見ている、実にしょうのない生き物である。これが冒険家の心理。おまけに、男ってやつは、愛する女の最初の男でありたいと儚い夢を描いている。そして、最初の登頂者となる夢を描き...
マロリーは失敗の汚点を残したままでは死ねない。再び狂気へ向かわせるのも冒険家の本能か。山は一度征服すれば永遠の恋人となるのかは知らんが、恋は成就した瞬間から堕落をはじめる。到達できなければ、永遠に理想像のまま。小悪魔に魂を売るなら可愛いものだが、チョモランマという山の女神は悪魔よりもタチが悪い。深い霧の中、サロメのように七枚のヴェールを一枚づつ脱ぎ、七つの煉獄山が露わになった時、はじめて人間の能力を思い知らされる...
・田舎の教会墓地で詠まれた悲歌(エレジー)...
どれほど地位を自慢しようとも、どれほど力を誇示しようとも、
また、どれほどの美と富を与えられようとも、
死は免れ得ない。
栄光の径(みち)は墓場へつづくのみである。
... トマス・グレイ
2018-08-26
"ケルトの封印(上/下)" James Rollins 著
原題 "The Doomesday Key"
鍵となる言葉は、"Domesday Book(土地台帳)" と "Doomesday Book(終末の日の書)"...
11世紀、イングランド国王ウィリアムは、王国全域の調査を実施するよう勅命を下したそうな。調査結果は「ドゥームズデイ・ブック」と呼ばれる一冊の長大な書物に編纂され、中世の人々の生活を記録した最も詳細な書物の一つとされる。この壮大な記録は民衆の税金を適切に定めるのが目的... 少なくとも、表向きはそういうことになっている。ただそれにしては、あまりに詳細すぎる。しかも、編纂に当たった学者は一人だけで、難解なラテン語で記されたという。極秘にせねばならぬ事情でもあったのか?台帳には意味ありげな単語がちりばめられる。"vastare(荒廃した)" と...
土地の荒廃は、なにも戦争や略奪で起こるとは限らない。鍵となる土地は、アイルランドとイングランドの間に位置する島。かつてケルト人が所有していた異教徒の聖地。ここに呪われた地でもあるのか?"Domesday" に "o" の一字が加わって "Doomesday"... 単なる土地の記録が「最後の審判」と結びついて伝えられてきたとさ...
ロリンズ小説の魅力は、なんといっても歴史と科学を調和させる手腕。おまけに、知識としての事実と小説としての空想の狭間をさ迷わせ(さま酔わせ)、世界各地を駆け巡るダイナミックさ。歴史は過去の知識を掘り起こす立場にあり、科学は最新の知識を発展させる立場にあり、時間と空間を超えた知識こそ真理へ導くと言わんばかりに。いや、ここでは調和というより対決と言うべきか。古代人と現代人の。何事にも人為的な手が加わると、自然界ではありえない害虫どもが活動を始める。ホモ・サピエンスという種もその類いなのやもしれん...
歴史的事実では、ドゥームズデイ・ブックを支柱に、ケルト伝説、聖マラキの予言、ストーンサークル、黒い聖母などを絡め、科学的事実では、遺伝子組み換え作物、マルサスの人口論、蜂群崩壊症候群などを持ち出し、これらの知識を辿りながら、オスロ港の端に位置して処刑の歴史を持つアーケシュフース城、イングランドからスコットランドを望むバードジー島、北極圏ノルウェー領にあるスヴァールバル世界種子貯蔵庫、ナポレオンが刑務所に転用したクレルヴォー修道院といった地域を駆け巡る。
前提知識が絶対に欠かせないのもこのシリーズの特徴で、それだけで脳みそをグチャグチャにされちまう。それが、前戯好きな M にはたまらん...
特に注目したい地域は、観光地でも有名なホークスヘッド村だ。この周辺に広がるイングランドの湖水地方は、地下の泥炭が何世紀にもわたって燃え続けているという。豊かなピート香を放つスコッチウィスキーの製造に欠かせない特性なのである。ここでは癒やしの村として登場し、のどかな風景を綴った文章に癒やされる。そして、徹夜で一気読みしながら、ピート香こそ抑え気味だが、優雅な香味を放つグレンリベット18年を一本空けちまう。暗闇をさまよって黒い聖母を読破し、その達成感に浸りながら、眩しい朝日を浴びて飲むブラックコーヒーもまた格別...
尚、本書はΣフォース・シリーズ第五作。シリーズゼロから数えると六作目で、邦訳版では最初の作品が五番目に刊行されたという事情から、1, 2, 3, 4, 0, 5 の順にシリーズ番号が振られる。やや苦し紛れ感があるものの。このシリーズは十作を超え、まだまだ続きそうな勢い。おまけに、外伝シリーズまで始まった。惚れっぽい追い手は、いつまでも背中を追い続けるだろう。どんなに離されようとも。永遠に近づこうとするということは、永遠に到達できないことを意味する。その絶望感が快感に変わった時、M 性を覚醒させる。これを微分学の美学という...
1. あらすじ
サン・ピエトロ大聖堂の神父、マリ共和国の赤十字難民キャンプの大学生、プリンストン大学の教授、この三人の殺人事件には共通点があったとさ。彼らは何を調査し、何を知ったのか?そこに残される円環と十字のマーク、そして渦巻模様。この謎に様々な野望が群がり、Σフォースとテロ集団ギルドとの争奪戦が展開される。
鍵の在り処は、聖マラキの生涯と黒い聖母伝説が手がかり。だが、すでに破壊の種子が世界規模で拡散しつつあった。「ドゥームズデイの鍵」とは... それは人類救済の鍵なのか?それとも破滅の鍵なのか?お望みのものを手に入れれば、他の人間が代償を払う。これがスパイの世界の掟だが、信仰の世界も生贄を捧げるのが掟...
ところで、十字マークといえば、キリスト教で象徴的なものだが、紀元前のはるか昔から信仰されてきた。十字は直角を表し、これと真円を崇める伝統をピュタゴラス教団が受け継いだ。美しい形は、人間の魂を癒やしてくれる。彼らは定規とコンパスだけで描ける図形の虜となった。God(神) と Geometry(幾何学)は相性がいいと見える。そして、ギルド(Guild)の頭文字も G とくれば、悪魔との相性も良さそうだ。
この象徴が十字架の磔刑と結びついたのは偶然で、一段と崇高な存在にしたのか。あるいは、意図的に重ねたのか。いずれにせよ、国教に定め、しかも、四つの福音だけ公認すれば、排除の原理が働く。ローマの呪いか。あのナザレの大工のせがれは、あの世で呟いているだろう。わしはカトリック教会なんぞ知らんよ!と...
2. 人口抑制
この物語は、一つの問題を提起している。それは、マルサスが「人口論」でも唱えた人口抑制という問題である。量子力学は告げる... あらゆる物理現象は、臨界点に達した途端にまったく違った局面へ移行する。その存在すら危ぶまれるほどの... と。このまま人口増殖が続けば、いずれ食料供給量の臨界点に達し、人類の 90% が餓死の危機に追い込まれる、と予測する研究報告もある。マルサスの理論を克服したのは産業革命であったが、技術力によって、さらなる人口増殖を促進してしまったとも言える。青天井となった性向が暴走を止められないのは、金融危機が示してきた。
しかしながら、人口抑制はデリケートな問題であり、人口増加を抑制するための提言が極端に走っている面があることも否めない。強制的な産児制限、不妊手術、子供を作らない家庭に報奨金を支払うといった類いである。そうした政策が現実味を帯びる日が来ないよう願いたいものだが、差別好きな種は必要な人間と不要な人間で線引する。古代都市国家スパルタでは、未熟児や奇形児が廃棄された。優生学との境界も曖昧で、他族を劣等種族とみなすカルト集団もあれば、民族優越説なんぞを唱えはじめると、ヒトラーの最終的解決を想起させる。そして、正義をまとって異教徒の抹殺が使命となる。これはもう人間という種の性癖である。
本物語では、暗躍する民間企業が、石油化学製品から遺伝子組み換え種子産業へ鞍替えした目的を、世界規模で食糧の安定供給を目指す!と宣言しながら...
「石油を支配すると国家を支配できる。だが、食糧を支配すれば世界中の人々を支配することができる。」
ところで、化学兵器もどきの戦術は、古代エジプト時代からあったらしい。疫病を流行らせて民族レベルで抹殺しようといった類いの。井戸などに毒を仕込むのも古くからあるやり方。敵対国家の混乱を目的とした通貨偽造の歴史も古く、この手の発想で古代人と現代人との違いは技術と巧妙さぐらいであろう。人類のずる賢さという性癖は、エントロピーに逆らえないと見える...
3. 蜂群崩壊症候群
2006年から2008年頃、ミツバチの大量失踪事件が発生したと報道された。飼育されていた三分の一ものミツバチが何の前触れもなく姿を消したとか。「いないいない病」なんて俗語を耳にしたような記憶がかすかにある。ナッツ類、アボガド、キュウリ、大豆、カボチャなどの受粉に影響を与え、食料供給にも深刻な問題を与える。様々な憶測を呼び、地球温暖化や環境汚染が原因とする説もあれば、遺伝子組み換え作物が原因とする説もあり、宇宙人の仕業という説まである。
しかし、原因はすこぶる単純なものらしい。フランス政府がイミダクロプリドとフィプロニルという二つの農薬を禁止したところ、数年でミツバチが戻ってきたという。マスコミは、この成功例を報道しないらしい。ニュース価値がないんだってさ...
本物語では、暗躍する民間企業がこの現象を利用して、食糧供給量を制御しようとする。遺伝子組換え作物の種子が風で飛ばされ、他の畑や種苗会社の農場などに紛れ込むと、新種の害虫を誕生させる。ミツバチの個体数を制御するだけで、食糧供給量が制御できるという寸法よ。そして、トウモロコシを遺伝子操作するだけで...
4.スヴァールバル世界種子貯蔵庫
食糧の安定供給は、今日の重要課題の一つ。百年前、アメリカで栽培されたリンゴの品種は七千種以上あったが、現在では三百種にまで減少したという。七百種近くあった豆も、わずか三十種になったとか。実に、世界の生物多様性の 75% が、一世紀の間に消えてしまったというのである。絶滅種を救う!これがスヴァールバル世界種子貯蔵庫の主な目的で、世界中の種子がここに収容される。世界の種子銀行だ!地球最後の日のための種子貯蔵庫として、別名「ドゥームズデイ貯蔵庫」と呼ばれるそうな。種子版のノアの方舟か!
スヴァールバル諸島は、ノルウェーの北岸と北極の中間に位置する極寒の地にある。まさに人間の目の届かない場所に人間が建設したのだったが...
尚、本物語では、ホッキョクグマが警備に一役買っているが、それも事実だそうな...
5.聖マラキの予言
12世紀、アイルランドのカトリック司祭メル・メドック、後の聖マラキは、ローマへの巡礼中に幻覚を見たそうな。それは、世界の終末に至るまでのローマ法王に関するもの。112名のローマ法王についての暗号めいた予言は記録され、ヴァチカン公文書館に所蔵されたが、後に行方不明となり、16世紀に再発見されたという。その経緯から、偽物と見る歴史家もいるらしい。
いずれにせよ、予言は無気味なまでに的中しているそうな。例えば、ウルバヌス8世は「百合と薔薇」と形容されているとか... 彼は赤い百合を紋章とするフィレンツェ生まれ。パウロ6世は「花の中の花」... 彼の紋章は三輪の百合の花。ヨハネ・パウロ1世は「月の半分の」... 彼の法王在位期間は、半月から次の半月までのわずか一ヶ月。ヨハネ・パウロ2世は「太陽の労働によって」... 日食の比喩として一般的に使用される表現で、彼は日食の起きた日に生まれた。2013年に退位したベネディクト16世は「オリーブの栄光」... 名前の由来となったベネディクト会はオリーブの枝がシンボル。
そして何よりも気がかりは、法王ベネディクト16世が予言に記された111番目の法王だということである。つまり、次の法王のもとで世界は終末を迎えるということか...
「聖なるローマ教会への最後の迫害の中で、ローマびとペトロが法王の座に就く。彼は数多くの苦難の中で信者たちを導くであろう。その後、七つの丘の都は崩壞し、恐ろしい審判が人々のもとにくだされるであろう。」
2013年3月、アルゼンチン生まれのフランシスコが新たな法王に選出された。史上初のアメリカ大陸出身の法王誕生である。彼が、「ローマびとペトロ」なのか?ただし、最後の法王だけは番号が振られていないらしい。なので、111番目から最後までの間には、名前の挙げられていない法王が何人もいるのではないか、と楽観視する歴史学者も少なくない。そもそもローマ教会の運命で世界の運命を決めてもらいたくないものである。世界の宗教は実に多様性に満ちているのだから...
6. ケルト伝説
「荒廃した」と記される地域の一つに、アイルランドとイングランドの間に位置する荒れ果てた島があるという。古代ケルト人の聖地であったバードジー島。ただ、ケルト人よりも先に定住した民族がある。ストーンサークルといえば、最も有名なのはストーンヘンジだが、イングランド各地に点在する遺跡で、この島にも巨大な石が環状に並べられるという。宇宙人の仕業という説もあるが、ケルト人でなくても、そこに神が宿ると信じるだろう。
アイルランド神話によると、ケルト人が最初にアイルランドへやってきた時、すでにフォモール族という巨人族がおったとさ。ノアによって呪われたハムの子孫とも言われる。ケルト人とフォモール族は領有をめぐって何百年にも渡って争ったそうな。フォモール族は武器には長けていないものの、疫病を感染させる技術を持っていて、侵略者に「痩せ衰える死」を与えたとか。
フォモール族の女王は病を癒やす大いなる力を持っていて、疫病を治すことができたという。ケルト人がアイルランドを征服することになるが、女王の癒やしの力は崇拝され、この周辺を聖地としたらしい。アーサー王伝説にしても、アヴァロンをバードジー島が起源と信じている人も多いようである。ちなみに、アヴァロンはアーサー王の剣エクスカリバーが作られた場所で、地上の楽園とされる。
しかしながら、ケルト人もまたローマ人に征服される運命にある。この島は二万人の聖人が埋葬されることでも知られるそうな。まさに巡礼の島か!ローマ人もここを聖地としたのか?文化ってやつは、完全に抹殺したようでも、実は自然に組み込まれて生き残る性質を持っている。寄生虫のように。
「ドゥームズデイの鍵」とは、疫病を発生させる毒薬か?それとも、疫病の治療薬か?いや、その両方か?
7. 黒い聖母伝説
黒い肌で表現した像や絵画が、ヨーロッパ各地に点在するという。ポーランドのチェンストホヴァの黒い聖母、スイスの隠者の聖母、メキシコのグアダルーペの聖母など...
黒い聖母の作品には不思議な力が宿ると主張する学者もいれば、肌が黒いのはロウソクのすすが積もったり、木製の像や古い大理石が年代とともに変色しただけという学者もいる。カトリック教会は、こうした像や絵画の持つ意味や不思議な力に関しては、一切言及しないとの立場をとっているという。
本物語では、フォモール族の女王の肌が黒かったことから、黒い聖母伝説とのつながりを示唆する。肌の黒い巨人族は、古代エジプトの種族という説もあるという。フォモール族は、農業技術をケルト人に伝えているとか。ナイル川流域で培った技術を。
イングランドの各地に点在するストーンサークルを作ったのも、古代エジプト人ではないかと主張する歴史学者もいるようだ。アイルランドのタラにある新石器時代の埋葬地から、釉薬を使用した陶製のビーズで装飾を施した遺体が発見されているという。ツタンカーメンの墓から発見されたものとほぼ同じものだとか。イングランドのハル近郊には、紀元前1400年頃と推定されるエジプト様式の大きな船も発見されているとか。ヴァイキングなどの海洋民族がイギリス諸島を訪れるはるか昔に。ケルト人は、エジプトの女神イシスを崇拝したということか?
鍵となる言葉は、"Domesday Book(土地台帳)" と "Doomesday Book(終末の日の書)"...
11世紀、イングランド国王ウィリアムは、王国全域の調査を実施するよう勅命を下したそうな。調査結果は「ドゥームズデイ・ブック」と呼ばれる一冊の長大な書物に編纂され、中世の人々の生活を記録した最も詳細な書物の一つとされる。この壮大な記録は民衆の税金を適切に定めるのが目的... 少なくとも、表向きはそういうことになっている。ただそれにしては、あまりに詳細すぎる。しかも、編纂に当たった学者は一人だけで、難解なラテン語で記されたという。極秘にせねばならぬ事情でもあったのか?台帳には意味ありげな単語がちりばめられる。"vastare(荒廃した)" と...
土地の荒廃は、なにも戦争や略奪で起こるとは限らない。鍵となる土地は、アイルランドとイングランドの間に位置する島。かつてケルト人が所有していた異教徒の聖地。ここに呪われた地でもあるのか?"Domesday" に "o" の一字が加わって "Doomesday"... 単なる土地の記録が「最後の審判」と結びついて伝えられてきたとさ...
ロリンズ小説の魅力は、なんといっても歴史と科学を調和させる手腕。おまけに、知識としての事実と小説としての空想の狭間をさ迷わせ(さま酔わせ)、世界各地を駆け巡るダイナミックさ。歴史は過去の知識を掘り起こす立場にあり、科学は最新の知識を発展させる立場にあり、時間と空間を超えた知識こそ真理へ導くと言わんばかりに。いや、ここでは調和というより対決と言うべきか。古代人と現代人の。何事にも人為的な手が加わると、自然界ではありえない害虫どもが活動を始める。ホモ・サピエンスという種もその類いなのやもしれん...
歴史的事実では、ドゥームズデイ・ブックを支柱に、ケルト伝説、聖マラキの予言、ストーンサークル、黒い聖母などを絡め、科学的事実では、遺伝子組み換え作物、マルサスの人口論、蜂群崩壊症候群などを持ち出し、これらの知識を辿りながら、オスロ港の端に位置して処刑の歴史を持つアーケシュフース城、イングランドからスコットランドを望むバードジー島、北極圏ノルウェー領にあるスヴァールバル世界種子貯蔵庫、ナポレオンが刑務所に転用したクレルヴォー修道院といった地域を駆け巡る。
前提知識が絶対に欠かせないのもこのシリーズの特徴で、それだけで脳みそをグチャグチャにされちまう。それが、前戯好きな M にはたまらん...
特に注目したい地域は、観光地でも有名なホークスヘッド村だ。この周辺に広がるイングランドの湖水地方は、地下の泥炭が何世紀にもわたって燃え続けているという。豊かなピート香を放つスコッチウィスキーの製造に欠かせない特性なのである。ここでは癒やしの村として登場し、のどかな風景を綴った文章に癒やされる。そして、徹夜で一気読みしながら、ピート香こそ抑え気味だが、優雅な香味を放つグレンリベット18年を一本空けちまう。暗闇をさまよって黒い聖母を読破し、その達成感に浸りながら、眩しい朝日を浴びて飲むブラックコーヒーもまた格別...
尚、本書はΣフォース・シリーズ第五作。シリーズゼロから数えると六作目で、邦訳版では最初の作品が五番目に刊行されたという事情から、1, 2, 3, 4, 0, 5 の順にシリーズ番号が振られる。やや苦し紛れ感があるものの。このシリーズは十作を超え、まだまだ続きそうな勢い。おまけに、外伝シリーズまで始まった。惚れっぽい追い手は、いつまでも背中を追い続けるだろう。どんなに離されようとも。永遠に近づこうとするということは、永遠に到達できないことを意味する。その絶望感が快感に変わった時、M 性を覚醒させる。これを微分学の美学という...
1. あらすじ
サン・ピエトロ大聖堂の神父、マリ共和国の赤十字難民キャンプの大学生、プリンストン大学の教授、この三人の殺人事件には共通点があったとさ。彼らは何を調査し、何を知ったのか?そこに残される円環と十字のマーク、そして渦巻模様。この謎に様々な野望が群がり、Σフォースとテロ集団ギルドとの争奪戦が展開される。
鍵の在り処は、聖マラキの生涯と黒い聖母伝説が手がかり。だが、すでに破壊の種子が世界規模で拡散しつつあった。「ドゥームズデイの鍵」とは... それは人類救済の鍵なのか?それとも破滅の鍵なのか?お望みのものを手に入れれば、他の人間が代償を払う。これがスパイの世界の掟だが、信仰の世界も生贄を捧げるのが掟...
ところで、十字マークといえば、キリスト教で象徴的なものだが、紀元前のはるか昔から信仰されてきた。十字は直角を表し、これと真円を崇める伝統をピュタゴラス教団が受け継いだ。美しい形は、人間の魂を癒やしてくれる。彼らは定規とコンパスだけで描ける図形の虜となった。God(神) と Geometry(幾何学)は相性がいいと見える。そして、ギルド(Guild)の頭文字も G とくれば、悪魔との相性も良さそうだ。
この象徴が十字架の磔刑と結びついたのは偶然で、一段と崇高な存在にしたのか。あるいは、意図的に重ねたのか。いずれにせよ、国教に定め、しかも、四つの福音だけ公認すれば、排除の原理が働く。ローマの呪いか。あのナザレの大工のせがれは、あの世で呟いているだろう。わしはカトリック教会なんぞ知らんよ!と...
2. 人口抑制
この物語は、一つの問題を提起している。それは、マルサスが「人口論」でも唱えた人口抑制という問題である。量子力学は告げる... あらゆる物理現象は、臨界点に達した途端にまったく違った局面へ移行する。その存在すら危ぶまれるほどの... と。このまま人口増殖が続けば、いずれ食料供給量の臨界点に達し、人類の 90% が餓死の危機に追い込まれる、と予測する研究報告もある。マルサスの理論を克服したのは産業革命であったが、技術力によって、さらなる人口増殖を促進してしまったとも言える。青天井となった性向が暴走を止められないのは、金融危機が示してきた。
しかしながら、人口抑制はデリケートな問題であり、人口増加を抑制するための提言が極端に走っている面があることも否めない。強制的な産児制限、不妊手術、子供を作らない家庭に報奨金を支払うといった類いである。そうした政策が現実味を帯びる日が来ないよう願いたいものだが、差別好きな種は必要な人間と不要な人間で線引する。古代都市国家スパルタでは、未熟児や奇形児が廃棄された。優生学との境界も曖昧で、他族を劣等種族とみなすカルト集団もあれば、民族優越説なんぞを唱えはじめると、ヒトラーの最終的解決を想起させる。そして、正義をまとって異教徒の抹殺が使命となる。これはもう人間という種の性癖である。
本物語では、暗躍する民間企業が、石油化学製品から遺伝子組み換え種子産業へ鞍替えした目的を、世界規模で食糧の安定供給を目指す!と宣言しながら...
「石油を支配すると国家を支配できる。だが、食糧を支配すれば世界中の人々を支配することができる。」
ところで、化学兵器もどきの戦術は、古代エジプト時代からあったらしい。疫病を流行らせて民族レベルで抹殺しようといった類いの。井戸などに毒を仕込むのも古くからあるやり方。敵対国家の混乱を目的とした通貨偽造の歴史も古く、この手の発想で古代人と現代人との違いは技術と巧妙さぐらいであろう。人類のずる賢さという性癖は、エントロピーに逆らえないと見える...
3. 蜂群崩壊症候群
2006年から2008年頃、ミツバチの大量失踪事件が発生したと報道された。飼育されていた三分の一ものミツバチが何の前触れもなく姿を消したとか。「いないいない病」なんて俗語を耳にしたような記憶がかすかにある。ナッツ類、アボガド、キュウリ、大豆、カボチャなどの受粉に影響を与え、食料供給にも深刻な問題を与える。様々な憶測を呼び、地球温暖化や環境汚染が原因とする説もあれば、遺伝子組み換え作物が原因とする説もあり、宇宙人の仕業という説まである。
しかし、原因はすこぶる単純なものらしい。フランス政府がイミダクロプリドとフィプロニルという二つの農薬を禁止したところ、数年でミツバチが戻ってきたという。マスコミは、この成功例を報道しないらしい。ニュース価値がないんだってさ...
本物語では、暗躍する民間企業がこの現象を利用して、食糧供給量を制御しようとする。遺伝子組換え作物の種子が風で飛ばされ、他の畑や種苗会社の農場などに紛れ込むと、新種の害虫を誕生させる。ミツバチの個体数を制御するだけで、食糧供給量が制御できるという寸法よ。そして、トウモロコシを遺伝子操作するだけで...
4.スヴァールバル世界種子貯蔵庫
食糧の安定供給は、今日の重要課題の一つ。百年前、アメリカで栽培されたリンゴの品種は七千種以上あったが、現在では三百種にまで減少したという。七百種近くあった豆も、わずか三十種になったとか。実に、世界の生物多様性の 75% が、一世紀の間に消えてしまったというのである。絶滅種を救う!これがスヴァールバル世界種子貯蔵庫の主な目的で、世界中の種子がここに収容される。世界の種子銀行だ!地球最後の日のための種子貯蔵庫として、別名「ドゥームズデイ貯蔵庫」と呼ばれるそうな。種子版のノアの方舟か!
スヴァールバル諸島は、ノルウェーの北岸と北極の中間に位置する極寒の地にある。まさに人間の目の届かない場所に人間が建設したのだったが...
尚、本物語では、ホッキョクグマが警備に一役買っているが、それも事実だそうな...
5.聖マラキの予言
12世紀、アイルランドのカトリック司祭メル・メドック、後の聖マラキは、ローマへの巡礼中に幻覚を見たそうな。それは、世界の終末に至るまでのローマ法王に関するもの。112名のローマ法王についての暗号めいた予言は記録され、ヴァチカン公文書館に所蔵されたが、後に行方不明となり、16世紀に再発見されたという。その経緯から、偽物と見る歴史家もいるらしい。
いずれにせよ、予言は無気味なまでに的中しているそうな。例えば、ウルバヌス8世は「百合と薔薇」と形容されているとか... 彼は赤い百合を紋章とするフィレンツェ生まれ。パウロ6世は「花の中の花」... 彼の紋章は三輪の百合の花。ヨハネ・パウロ1世は「月の半分の」... 彼の法王在位期間は、半月から次の半月までのわずか一ヶ月。ヨハネ・パウロ2世は「太陽の労働によって」... 日食の比喩として一般的に使用される表現で、彼は日食の起きた日に生まれた。2013年に退位したベネディクト16世は「オリーブの栄光」... 名前の由来となったベネディクト会はオリーブの枝がシンボル。
そして何よりも気がかりは、法王ベネディクト16世が予言に記された111番目の法王だということである。つまり、次の法王のもとで世界は終末を迎えるということか...
「聖なるローマ教会への最後の迫害の中で、ローマびとペトロが法王の座に就く。彼は数多くの苦難の中で信者たちを導くであろう。その後、七つの丘の都は崩壞し、恐ろしい審判が人々のもとにくだされるであろう。」
2013年3月、アルゼンチン生まれのフランシスコが新たな法王に選出された。史上初のアメリカ大陸出身の法王誕生である。彼が、「ローマびとペトロ」なのか?ただし、最後の法王だけは番号が振られていないらしい。なので、111番目から最後までの間には、名前の挙げられていない法王が何人もいるのではないか、と楽観視する歴史学者も少なくない。そもそもローマ教会の運命で世界の運命を決めてもらいたくないものである。世界の宗教は実に多様性に満ちているのだから...
6. ケルト伝説
「荒廃した」と記される地域の一つに、アイルランドとイングランドの間に位置する荒れ果てた島があるという。古代ケルト人の聖地であったバードジー島。ただ、ケルト人よりも先に定住した民族がある。ストーンサークルといえば、最も有名なのはストーンヘンジだが、イングランド各地に点在する遺跡で、この島にも巨大な石が環状に並べられるという。宇宙人の仕業という説もあるが、ケルト人でなくても、そこに神が宿ると信じるだろう。
アイルランド神話によると、ケルト人が最初にアイルランドへやってきた時、すでにフォモール族という巨人族がおったとさ。ノアによって呪われたハムの子孫とも言われる。ケルト人とフォモール族は領有をめぐって何百年にも渡って争ったそうな。フォモール族は武器には長けていないものの、疫病を感染させる技術を持っていて、侵略者に「痩せ衰える死」を与えたとか。
フォモール族の女王は病を癒やす大いなる力を持っていて、疫病を治すことができたという。ケルト人がアイルランドを征服することになるが、女王の癒やしの力は崇拝され、この周辺を聖地としたらしい。アーサー王伝説にしても、アヴァロンをバードジー島が起源と信じている人も多いようである。ちなみに、アヴァロンはアーサー王の剣エクスカリバーが作られた場所で、地上の楽園とされる。
しかしながら、ケルト人もまたローマ人に征服される運命にある。この島は二万人の聖人が埋葬されることでも知られるそうな。まさに巡礼の島か!ローマ人もここを聖地としたのか?文化ってやつは、完全に抹殺したようでも、実は自然に組み込まれて生き残る性質を持っている。寄生虫のように。
「ドゥームズデイの鍵」とは、疫病を発生させる毒薬か?それとも、疫病の治療薬か?いや、その両方か?
7. 黒い聖母伝説
黒い肌で表現した像や絵画が、ヨーロッパ各地に点在するという。ポーランドのチェンストホヴァの黒い聖母、スイスの隠者の聖母、メキシコのグアダルーペの聖母など...
黒い聖母の作品には不思議な力が宿ると主張する学者もいれば、肌が黒いのはロウソクのすすが積もったり、木製の像や古い大理石が年代とともに変色しただけという学者もいる。カトリック教会は、こうした像や絵画の持つ意味や不思議な力に関しては、一切言及しないとの立場をとっているという。
本物語では、フォモール族の女王の肌が黒かったことから、黒い聖母伝説とのつながりを示唆する。肌の黒い巨人族は、古代エジプトの種族という説もあるという。フォモール族は、農業技術をケルト人に伝えているとか。ナイル川流域で培った技術を。
イングランドの各地に点在するストーンサークルを作ったのも、古代エジプト人ではないかと主張する歴史学者もいるようだ。アイルランドのタラにある新石器時代の埋葬地から、釉薬を使用した陶製のビーズで装飾を施した遺体が発見されているという。ツタンカーメンの墓から発見されたものとほぼ同じものだとか。イングランドのハル近郊には、紀元前1400年頃と推定されるエジプト様式の大きな船も発見されているとか。ヴァイキングなどの海洋民族がイギリス諸島を訪れるはるか昔に。ケルト人は、エジプトの女神イシスを崇拝したということか?
2018-08-19
"ランケとブルクハルト" Friedrich Meinecke 著
前記事「世界史的諸考察」の余韻に浸りながら古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。ドイツ史学界といえば、まずレオポルト・フォン・ランケの名を思い浮かべるが、その正統的な継承では、ヤーコプ・ブルクハルトに続いてフリードリヒ・マイネッケという流れがあるらしい。実は学生時代、ランケの「世界史」が未完に終わったことを知り、せめて選集ぐらいはと思い大学の図書館を漁ったものの、全巻見つけられず頓挫したまま。こうして断片の作品を漁ってお茶を濁し続け、もう三十年が過ぎた。
当時、ルネサンス時代の万能人たちに惹かれ、ランケの復古主義的な香りにも誘われたように記憶している。どんな分野であれ、創始者というのはそれなりに崇められるもので、ランケにもそのような地位を感じたものである。ところが、ブルクハルトに出会って風がちと変わり、天の邪鬼な惚れっぽい性癖がマイネッケへと導くのであった...
尚、中山治一, 岸田達也訳版(創文社)を手に取る。
歴史家が歴史学者になりきることは難しい。ナショナリズムを旺盛にする点では他の学問を寄せ付けないほど。当事者となれば尚更だ。とはいえ、学問の本質は客観的な視点を与えることであり、そうでなければ存在意義すら疑われる。宗教的な解釈の強すぎる時代、最初に実証主義的な立場を表明したランケの功績は大きい。
しかしながら、この大家をもってしても、まだまだ神の摂理に縋っていたようである。マイネッケは、ランケが提唱した「世界史の規則的な継続発展」という概念は信頼に足るか?と疑問を投げかける。ランケとブルクハルトの政治権力に対する態度は真逆である。ランケにとって権力は神の摂理が支配するもの、ブルクハルトにとって権力は悪、それも必要悪と見たようである。
古来、人間は生まれつき善か、生まれつき悪か、という論争があるが、ランケとブルクハルトの対置はその伝統を引き継いでいるかのようである。一人が、歴史にとって人間は何を意味するのか?と問えば、もう一人が、人間にとって歴史は何を意味するのかと問う。多神教の時代、人間にとって神は何を意味するのか?と問うたならば、一神教の時代にも同じことを問わねばなるまい。
歴史とは、ランケにとって神聖物だったのか、ブルクハルトにとって人類の恥部だったのか。両者とも歴史学者としての権威を獲得しているものの、プロイセン風ドイツ育ちと、中立国スイス育ちという地理的背景が、情熱的な語り手と冷めた目線の語り手とに分ける...
では、マイネッケはというと、ランケとブルクハルトを相互補完する立場を表明し、中道を模索する。あまりにも人間的なものを洞察した点では、ブルクハルトに軍配を上げ、国家、民族、制度といった客観的に考察すべき形成物に対して超人間的なものを要請した点では、ランケに軍配を上げる。
ブルクハルトの「人間的なもの」というのは、人間の本性、すなわち醜態にも深い洞察を与えたという意味で、はるかに現実的である。歴史とは、現実の連続であり、そこから目を背けるわけにはいかない。
だからといって、ランケも捨てたもんじゃない。ランケの「超人間的なもの」というのは、ニーチェが唱えた超人や永劫回帰にも通ずるものがある。
ただ、全般的には現実主義者持ちで、ブルクハルト評価の裏にランケ批判が見てとれる。真理が一つかは知らん。一つである必要があるのかも知らん。ただ、真理への道は多様性に満ちているのは確かなようである...
1. 歴史の距離感
歴史に法則性のようなものを感じても、そこに明確な法則があるのかは知らん。科学的に言えば、法則と法則性ではまったく次元が違う。どうしても説明のつかない法則性に対して神の意志を持ち出せば、それは宗教と何が違うのだろう。
歴史は不完全性に満ち満ちている。なにゆえ完全者が、なにゆえ万能者が、こんなものをこしらえたのか。しかも、繰り返し繰り返し。すべての出来事は必然だというのか。社会に蔓る悪は、善を認識させるための特効薬とでもいうのか。まったく神の忍耐強さには頭が下がる。すべてを神のせいにすれば、そりゃ楽よ。そして、いつか成熟した人間社会が実現されると儚い希望を抱き続ける。
しかしながら、人間の悪魔じみた性癖こそ歴史の本性であった。おそらくこれからも。集団性が暴走を始めると、もう手がつけられない。感情論が加熱すると、自分の主張がねじ曲がっていることにも気づかない。
だから、余計に優越感に浸ろうと懸命になる。学問ですら流行に走り、偏見を増殖させる。ヘーゲル的な歴史哲学にも危険性はあろうが、集団的な歴史観の危険性の方がはるかに大きいように思えてならない。
したがって、歴史学者の使命は、まずもって集団社会から距離を置くことになろう。ただ遠くからとはいえ、あまりに悪徳を眺め過ぎると、厭世観を肥大化させてしまう。集団性との距離感はなかなか手強い。ランケも、ブルクハルトも、歴史の理想像というものを描いたに違いない。そして、マイネッケも。人間社会が神の合目的に適っているかという観点では、ランケは楽観主義者で、ブルクハルトは悲観主義者である。
マイネッケはというと、二つの大戦というさらなる絶望を体験することになる。彼は、歴史考察の危険性を軍国主義、ナショナリズム、資本主義という三要素の結びつき方によって論じる。それぞれの要素が単独で非難されるべきものではなく、三者の運命的な出会いによって深淵に突き落とされたと。その態度は、必死に歴史との距離をはかろうとするかのように映る。ランケと距離をはかり... ブルクハルトと距離をはかり... 自己と距離をはかり...
「まず、軍国主義は国民皆兵制の導入によってはかりしれない物理的な力を獲得し、さらにそれは、ナショナリズムの興隆とあいまって、本来は弱小国の防衛手段であったはずの国民皆兵制を攻撃的手段へと転化し、西洋にとって戦争の危険となった。そしてこれらのものの上に、さらに資本主義的大工業による強力な技術的戦争手段の生産ということがくわわる。これらの諸要素の結合は、権力手段の拡大をひきおこし、これは権力政治に屈強の手段をあたえることになって、ここに国家理性の危機が生まれる。」
2.君主制と人民主権
十九世紀の生命要素として、ランケは、第一に君主制と人民主権という二つの原理の対立を強調し、第二に物質力の無限の展開を指摘する。
ついで、ブルクハルトは、フランス啓蒙思想とイギリス産業革命の結びつきという側面から、大衆の欲望が増大していく様を指摘する。しかも、その欲望を満たすべく国家の力が大衆の要求に応じて、ますます強大にならざるをえないと。
フランス革命からビスマルクに至る革命の時代、ランケとブルクハルトは両者とも力づくの行動を毛嫌いする保守派であり、ナショナリズムを旺盛にさせる近代国家の出現に戸惑ったと見える。フランス革命の論調では、ブルクハルトはランケよりもいっそう強く拒絶する。
それでもマイネッケは、近代民主主義の頑強な敵手とされるブルクハルトが、ランケより内面的に近く感じられると評している。
歴史事象の根底を懐疑的に捉えているのはブルクハルトの方であろう。ビスマルクの論調では、ランケは不快な現象と捉え、なかなか受け入れられなかったと見えるが、ブルクハルトは、ビスマルクが出現しなくても、大衆マキャベリズムへの流れは逆らえないと見ている。
そして、こう問わずにはいられない。かつての理想主義者たちが唱えたように、共和国化したからといって戦争は減ったか?と。悲劇を予言する眼光はまさにカッサンドラのごとく。案の定、大衆はナチス政権を許すことに...
「ブルクハルトは、あたかも鋭敏な地震計のように、大衆運動の中に潜伏していた最悪の可能性、すなわち極悪の人間どもが大衆の指導者としてあらわれてくることを感知する。」
3. 政治権力と文化
ランケも、ブルクハルトも、政治権力と文化の関係を論じたという。その違いは、神聖で高尚なものと捉えたか、俗物で劣等なものと捉えたか。
こうしてみると、文化の定義もなかなか手強い。まず自発的な活動であるということは言えそうか。それが普遍的であるかどうか、しかも、精神の発展を伴っているかどうか、などと線引きすれば、哲学的になり、やはり文化ということになる。だからといって、それ以外にも、充分に文化的なものを見つけることができる。隷属しているからといって、即座に文化的ではないとも言えまい。好んで隷属する場合もあれば、隷属していることに気づかない場合もある。人間の本性すべてが文化的要素になりうるはずだ。
ブルクハルトは、権力を握るための活動も、物質的な目的のための活動も、文化と見做す。悪徳までも。
歴史物語は、政治の側面から伝えられることが圧倒的に多く、支配者の系列や政変を論ずることで時代変化を追う傾向がある。平和で安定した時代の歴史は、退屈なものだ。それゆえ、政治というものが、高等な分野という印象を与える。
しかしながら、政治の世界ほど人間の醜態を曝け出すものはあるまい。支配欲、権力欲、名声欲、独占欲、金銭欲、物欲... あらゆる脂ぎった欲望を網羅し、まずワイドショーのネタで困ることはない。政治の役割が国民の幸福を実現することにあるとすれば、政治家に求められる最も重要な素養は、政策とその実行力ということになる。人格や高潔さなどは二の次。実際、民主主義の根幹をなす選挙では消去法が機能する。最も道徳的であるべき業界が法律のストレステストを繰り返すのは、自ら条文を検証しているとでもいうのか。もはや毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか。二人の巨匠でなくても、政治的分析よりも文化的分析の方がはるかに高等に見えてくる。ただ、ランケの「世界史」は、文化的なアプローチを重要視すると宣言しながら、そうはなりきれなかったと見える...
当時、ルネサンス時代の万能人たちに惹かれ、ランケの復古主義的な香りにも誘われたように記憶している。どんな分野であれ、創始者というのはそれなりに崇められるもので、ランケにもそのような地位を感じたものである。ところが、ブルクハルトに出会って風がちと変わり、天の邪鬼な惚れっぽい性癖がマイネッケへと導くのであった...
尚、中山治一, 岸田達也訳版(創文社)を手に取る。
歴史家が歴史学者になりきることは難しい。ナショナリズムを旺盛にする点では他の学問を寄せ付けないほど。当事者となれば尚更だ。とはいえ、学問の本質は客観的な視点を与えることであり、そうでなければ存在意義すら疑われる。宗教的な解釈の強すぎる時代、最初に実証主義的な立場を表明したランケの功績は大きい。
しかしながら、この大家をもってしても、まだまだ神の摂理に縋っていたようである。マイネッケは、ランケが提唱した「世界史の規則的な継続発展」という概念は信頼に足るか?と疑問を投げかける。ランケとブルクハルトの政治権力に対する態度は真逆である。ランケにとって権力は神の摂理が支配するもの、ブルクハルトにとって権力は悪、それも必要悪と見たようである。
古来、人間は生まれつき善か、生まれつき悪か、という論争があるが、ランケとブルクハルトの対置はその伝統を引き継いでいるかのようである。一人が、歴史にとって人間は何を意味するのか?と問えば、もう一人が、人間にとって歴史は何を意味するのかと問う。多神教の時代、人間にとって神は何を意味するのか?と問うたならば、一神教の時代にも同じことを問わねばなるまい。
歴史とは、ランケにとって神聖物だったのか、ブルクハルトにとって人類の恥部だったのか。両者とも歴史学者としての権威を獲得しているものの、プロイセン風ドイツ育ちと、中立国スイス育ちという地理的背景が、情熱的な語り手と冷めた目線の語り手とに分ける...
では、マイネッケはというと、ランケとブルクハルトを相互補完する立場を表明し、中道を模索する。あまりにも人間的なものを洞察した点では、ブルクハルトに軍配を上げ、国家、民族、制度といった客観的に考察すべき形成物に対して超人間的なものを要請した点では、ランケに軍配を上げる。
ブルクハルトの「人間的なもの」というのは、人間の本性、すなわち醜態にも深い洞察を与えたという意味で、はるかに現実的である。歴史とは、現実の連続であり、そこから目を背けるわけにはいかない。
だからといって、ランケも捨てたもんじゃない。ランケの「超人間的なもの」というのは、ニーチェが唱えた超人や永劫回帰にも通ずるものがある。
ただ、全般的には現実主義者持ちで、ブルクハルト評価の裏にランケ批判が見てとれる。真理が一つかは知らん。一つである必要があるのかも知らん。ただ、真理への道は多様性に満ちているのは確かなようである...
1. 歴史の距離感
歴史に法則性のようなものを感じても、そこに明確な法則があるのかは知らん。科学的に言えば、法則と法則性ではまったく次元が違う。どうしても説明のつかない法則性に対して神の意志を持ち出せば、それは宗教と何が違うのだろう。
歴史は不完全性に満ち満ちている。なにゆえ完全者が、なにゆえ万能者が、こんなものをこしらえたのか。しかも、繰り返し繰り返し。すべての出来事は必然だというのか。社会に蔓る悪は、善を認識させるための特効薬とでもいうのか。まったく神の忍耐強さには頭が下がる。すべてを神のせいにすれば、そりゃ楽よ。そして、いつか成熟した人間社会が実現されると儚い希望を抱き続ける。
しかしながら、人間の悪魔じみた性癖こそ歴史の本性であった。おそらくこれからも。集団性が暴走を始めると、もう手がつけられない。感情論が加熱すると、自分の主張がねじ曲がっていることにも気づかない。
だから、余計に優越感に浸ろうと懸命になる。学問ですら流行に走り、偏見を増殖させる。ヘーゲル的な歴史哲学にも危険性はあろうが、集団的な歴史観の危険性の方がはるかに大きいように思えてならない。
したがって、歴史学者の使命は、まずもって集団社会から距離を置くことになろう。ただ遠くからとはいえ、あまりに悪徳を眺め過ぎると、厭世観を肥大化させてしまう。集団性との距離感はなかなか手強い。ランケも、ブルクハルトも、歴史の理想像というものを描いたに違いない。そして、マイネッケも。人間社会が神の合目的に適っているかという観点では、ランケは楽観主義者で、ブルクハルトは悲観主義者である。
マイネッケはというと、二つの大戦というさらなる絶望を体験することになる。彼は、歴史考察の危険性を軍国主義、ナショナリズム、資本主義という三要素の結びつき方によって論じる。それぞれの要素が単独で非難されるべきものではなく、三者の運命的な出会いによって深淵に突き落とされたと。その態度は、必死に歴史との距離をはかろうとするかのように映る。ランケと距離をはかり... ブルクハルトと距離をはかり... 自己と距離をはかり...
「まず、軍国主義は国民皆兵制の導入によってはかりしれない物理的な力を獲得し、さらにそれは、ナショナリズムの興隆とあいまって、本来は弱小国の防衛手段であったはずの国民皆兵制を攻撃的手段へと転化し、西洋にとって戦争の危険となった。そしてこれらのものの上に、さらに資本主義的大工業による強力な技術的戦争手段の生産ということがくわわる。これらの諸要素の結合は、権力手段の拡大をひきおこし、これは権力政治に屈強の手段をあたえることになって、ここに国家理性の危機が生まれる。」
2.君主制と人民主権
十九世紀の生命要素として、ランケは、第一に君主制と人民主権という二つの原理の対立を強調し、第二に物質力の無限の展開を指摘する。
ついで、ブルクハルトは、フランス啓蒙思想とイギリス産業革命の結びつきという側面から、大衆の欲望が増大していく様を指摘する。しかも、その欲望を満たすべく国家の力が大衆の要求に応じて、ますます強大にならざるをえないと。
フランス革命からビスマルクに至る革命の時代、ランケとブルクハルトは両者とも力づくの行動を毛嫌いする保守派であり、ナショナリズムを旺盛にさせる近代国家の出現に戸惑ったと見える。フランス革命の論調では、ブルクハルトはランケよりもいっそう強く拒絶する。
それでもマイネッケは、近代民主主義の頑強な敵手とされるブルクハルトが、ランケより内面的に近く感じられると評している。
歴史事象の根底を懐疑的に捉えているのはブルクハルトの方であろう。ビスマルクの論調では、ランケは不快な現象と捉え、なかなか受け入れられなかったと見えるが、ブルクハルトは、ビスマルクが出現しなくても、大衆マキャベリズムへの流れは逆らえないと見ている。
そして、こう問わずにはいられない。かつての理想主義者たちが唱えたように、共和国化したからといって戦争は減ったか?と。悲劇を予言する眼光はまさにカッサンドラのごとく。案の定、大衆はナチス政権を許すことに...
「ブルクハルトは、あたかも鋭敏な地震計のように、大衆運動の中に潜伏していた最悪の可能性、すなわち極悪の人間どもが大衆の指導者としてあらわれてくることを感知する。」
3. 政治権力と文化
ランケも、ブルクハルトも、政治権力と文化の関係を論じたという。その違いは、神聖で高尚なものと捉えたか、俗物で劣等なものと捉えたか。
こうしてみると、文化の定義もなかなか手強い。まず自発的な活動であるということは言えそうか。それが普遍的であるかどうか、しかも、精神の発展を伴っているかどうか、などと線引きすれば、哲学的になり、やはり文化ということになる。だからといって、それ以外にも、充分に文化的なものを見つけることができる。隷属しているからといって、即座に文化的ではないとも言えまい。好んで隷属する場合もあれば、隷属していることに気づかない場合もある。人間の本性すべてが文化的要素になりうるはずだ。
ブルクハルトは、権力を握るための活動も、物質的な目的のための活動も、文化と見做す。悪徳までも。
歴史物語は、政治の側面から伝えられることが圧倒的に多く、支配者の系列や政変を論ずることで時代変化を追う傾向がある。平和で安定した時代の歴史は、退屈なものだ。それゆえ、政治というものが、高等な分野という印象を与える。
しかしながら、政治の世界ほど人間の醜態を曝け出すものはあるまい。支配欲、権力欲、名声欲、独占欲、金銭欲、物欲... あらゆる脂ぎった欲望を網羅し、まずワイドショーのネタで困ることはない。政治の役割が国民の幸福を実現することにあるとすれば、政治家に求められる最も重要な素養は、政策とその実行力ということになる。人格や高潔さなどは二の次。実際、民主主義の根幹をなす選挙では消去法が機能する。最も道徳的であるべき業界が法律のストレステストを繰り返すのは、自ら条文を検証しているとでもいうのか。もはや毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか。二人の巨匠でなくても、政治的分析よりも文化的分析の方がはるかに高等に見えてくる。ただ、ランケの「世界史」は、文化的なアプローチを重要視すると宣言しながら、そうはなりきれなかったと見える...
2018-08-12
"世界史的諸考察" Jacob Burckhardt 著
歴史をつくる!
この言葉には、なにやら魅力的な響きがあり、英雄伝説を想起せずにはいられない。だが、英雄を必要とする社会は病んでいる証。悪に反発して善が生起し、善に退屈して悪が蔓延り、精神の最も病んだ時代に救世主あらわる。これが歴史というものか...
かのアレキサンダー大王は本当に偉大だったのだろうか。フリードリヒ大王やナポレオンはどうか。ウェルギリウスの登場は必然だったのだろうか。バッハやラファエロはどうか。そして、ツァラトゥストラの人格までも再評価してみたくなる。
歴史上の人物といえば、政治的な偉大さが優先されがち。だが、なによりも格別な存在は精神を征服した者である。宗教の創始者たちの扱いは他を寄せ付けない。それが反駁の形をとろうが、無神論を唱えようが、異教徒ですら意識せずにはいられない。
歴史の評価は、古くなるほど神格化し、現代に近づくほど移ろいやすい。現代の天才は古代の天才ほど神がかっている必要はないし、現代の芸術家はルネサンス期の芸術家ほど万能である必要もない。実際、劣っていそうだ。科学が進歩し、知識が広まれば、有識者たちも昔ほど知的である必要はない。実際、最も騒ぎおる。時代を経験するほど知性や理性が凡庸化していくとすれば、いよいよ平等の時代の到来か。
あらゆる歴史事象は、それぞれに転換点を示してきた。変化のない平凡な時代に歴史はつくられない。そして、いつの時代にも歴史はつくられてきた。人間社会は揉め事に事欠かない。こと政治においては、人間のワイドショー好きな性癖を隠しようがない...
大家ランケに学び、ニーチェとも交流したことで知られるヤーコプ・ブルクハルト。彼は反歴史哲学の立場を表明し、体系的なものを断念すると宣言する。それが、ヘーゲルに対するものであることは想像に易い。ヘーゲルの歴史哲学に対しては、偉大な試みに感謝すべきとしながらも、歴史と哲学は根本的に相い容れないと皮肉る。
「歴史哲学は一つの半人半馬(ケンタウル)で、形容詞において矛盾を犯すものといえる。なぜならば歴史とはすべての並列を許すことで、それは非哲学であり、哲学は序列をつけることで、それは非歴史だからである。」
ルソーの契約説に対しては、建設されるべき国家について説くことは、荒唐無稽!と言い放つ。確かに、それは空想的な理想主義かもしれない。歴史学は、現象を淡々と観察する立場であって、最善の場合でも、目的を不十分に、副次的に要求するだけ... だとか。哲学は普遍的な立場をとろうとする限りでは、歴史学よりも上にありそうか。こと人間社会においては、理想と現実が一致することはごく稀で、人類はいつも現実に翻弄されてきたし、理想論ってやつは仮説的な補助手段に過ぎないといえば、そうかもしれない。ましてや偉大な精神の歴史を、理性の向かうべき道としたところで詮無きこと。
しかしながら、哲学だって、過去の精神をないがしろにしては、偉大な精神を構築することは不可能である。ある学術研究によると、人類の進化は五千年前にとっくに終焉したという報告もあるが、あながち否定はできまい。古代エジプトのメネス王国のような考古学的伝承は、壮大な前史があったことを暗示している。
「最も傷ましく歎かわしいのはエジプトの精神発達史が不可能だという事実である。それを人は精々仮定的な形式で例えば伝奇小説(ロマン)として与え得るに過ぎない。やがてギリシア人において自然科学にとっての全くの自由の時代が来た。ただ彼等がそのためにしたところは比較的少なかった。なぜならば国家と思弁と彫塑的芸術が彼等の精力を先取りしてしまったからである。」
歴史家が客観性を保つ立場であることは疑いようがない。だが、これが最大の難題!人間のあらゆる解釈や思考が主観によって導かれ、歴史家たちの見解が歴史をつくってきたとも言えよう。ブルクハルトは、この... 歴史家が歴史をつくった... という見解を拒絶するかのように、従来の歴史評価に疑問を呈す。
学問をやる以上、懐疑論がつきまとうのは健全であろう。過去の思考に疑いを持ち、自己の思考に疑いを持ち、そして、どこまで懐疑的でいいか、そのバランス感覚が求められる。その意味で酔いどれ天の邪鬼の眼には弁証法的にすら見え、けしてヘーゲルと相い容れないようには見えないのであった。ここに、歴史哲学体系を真っ向から批判し、それでいて実に、歴史哲学的な性格を帯びた博大な書に出会えたことを感謝したい...
尚、藤田健治訳版(岩波文庫)を手に取る。
「極めて疑わしい、また疑わしさを免れないのは、教会の首長達の偉大さである。グレゴリウス七世とか聖ベルナルドゥスとかインノケンティウス三世とか、恐らくはさらに一層後期の人々のそれであろう。」
1. 三すくみ論
ブルクハルトは、歴史の考察を国家、宗教、文化の三つの関係から迫る。互いの規制関係として。国家は政治と密接にかかわり、宗教は教会と密接にかかわり、政治と教会の緊張関係が権力の均衡を保ち、政治と教会が手を結べば文化が監視役となる。時には、文学や哲学が国家を讃美したり、美術や音楽が教会に奉仕したり。二つが手を結んで規制を企てれば、一つが反抗して自由精神を目覚めさせるといった構図である。数学には三角形を崇めてきた歴史があり、人間ってやつは、三角関係がお好きと見える。
政治の在り方を問うたアリストテレスは、最善なのは君主制で、次に貴族制で、最悪なのは民主制というようなことを書いた。だが、真の君主はどこにも見当たらず、ことごとく僭主と化す。有識者や有徳者の集団ですら権力を握るとそうなる。人間の自尊心は、少しばかり大きすぎるようだ。自己肯定が少しばかり強すぎるようだ。やはり人間社会は、毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか。
そして今日、様々な政治体制が試されてきた中で、民主制が比較的マシとされる。政体の移行段階では無政府状態が出現し、政権交代のたびに無党派層を増殖させる。もはやアリストテレスが唱えた三つの政体では不十分、無政府状態も普遍の代表に加えねば。最も聖なる原理、そう、あの三位一体論は、こと人間世界では三すくみ論と化す...
ちなみに、ランケはこう言ったという。
「主権在民ということほど影響を及ぼした政治的理念は一つとして存在しない。折々は退けられ単に一般の見解を規定するに止まりながら、やがてまたふたたび突発的にあらわれ出て公然と認められ、決して実現されないがしかもいつも人の心に食い込んで行く点で、それは近代世界の永遠に醗酵する酵母である。」
2. 自己を克服できなければ、他人を征服にかかる...
宗教の偉大さは、人間の欠陥を超感性的な力で補足する試み。精神を無限の宇宙に引き入れ、崇高さをもって教化する。それ故、あらゆる道徳が宗教によって裏付けられれば、宗教戦争は最も恐ろしく、残酷なものとなる。宗教もまた応急処置的な手段の一つと心得ておかねば。もはや、あらゆる宗派から距離を置く無宗教という立場も普遍の代表に加えねば...
あらゆる闘争には、盲目的な美化がつきもの。国家も、宗教も、文化も、盲目的に礼賛されやすい。愛国心ってやつは、しばしば他民族に対する傲慢の形で現れ、政治ジャーナリズムが集団性の牙を剥く。自己を克服できなければ、他人を征服にかかる。これが人間の本性と心得ておかねば...
「国家は個人の利己の排除によって生じたのではなくて、国家はこの排除そのものでありその調整そのものであり、従ってそこでは最大限に多数の利害や利己が永続的に勘定が合い、遂には国家の存続が自己の生存と完全にからみ合うようになる。ついで国家がもたらし得る最高のものはよき国民連の義務感、すなわち祖国愛である。
...
もし国家が社会だけがなし得、またなすことを許される倫理的なものを直接実現しようと意図するならば、それは一つの堕落であり、術学的官僚主義的な不遜に外ならない。」
この言葉には、なにやら魅力的な響きがあり、英雄伝説を想起せずにはいられない。だが、英雄を必要とする社会は病んでいる証。悪に反発して善が生起し、善に退屈して悪が蔓延り、精神の最も病んだ時代に救世主あらわる。これが歴史というものか...
かのアレキサンダー大王は本当に偉大だったのだろうか。フリードリヒ大王やナポレオンはどうか。ウェルギリウスの登場は必然だったのだろうか。バッハやラファエロはどうか。そして、ツァラトゥストラの人格までも再評価してみたくなる。
歴史上の人物といえば、政治的な偉大さが優先されがち。だが、なによりも格別な存在は精神を征服した者である。宗教の創始者たちの扱いは他を寄せ付けない。それが反駁の形をとろうが、無神論を唱えようが、異教徒ですら意識せずにはいられない。
歴史の評価は、古くなるほど神格化し、現代に近づくほど移ろいやすい。現代の天才は古代の天才ほど神がかっている必要はないし、現代の芸術家はルネサンス期の芸術家ほど万能である必要もない。実際、劣っていそうだ。科学が進歩し、知識が広まれば、有識者たちも昔ほど知的である必要はない。実際、最も騒ぎおる。時代を経験するほど知性や理性が凡庸化していくとすれば、いよいよ平等の時代の到来か。
あらゆる歴史事象は、それぞれに転換点を示してきた。変化のない平凡な時代に歴史はつくられない。そして、いつの時代にも歴史はつくられてきた。人間社会は揉め事に事欠かない。こと政治においては、人間のワイドショー好きな性癖を隠しようがない...
大家ランケに学び、ニーチェとも交流したことで知られるヤーコプ・ブルクハルト。彼は反歴史哲学の立場を表明し、体系的なものを断念すると宣言する。それが、ヘーゲルに対するものであることは想像に易い。ヘーゲルの歴史哲学に対しては、偉大な試みに感謝すべきとしながらも、歴史と哲学は根本的に相い容れないと皮肉る。
「歴史哲学は一つの半人半馬(ケンタウル)で、形容詞において矛盾を犯すものといえる。なぜならば歴史とはすべての並列を許すことで、それは非哲学であり、哲学は序列をつけることで、それは非歴史だからである。」
ルソーの契約説に対しては、建設されるべき国家について説くことは、荒唐無稽!と言い放つ。確かに、それは空想的な理想主義かもしれない。歴史学は、現象を淡々と観察する立場であって、最善の場合でも、目的を不十分に、副次的に要求するだけ... だとか。哲学は普遍的な立場をとろうとする限りでは、歴史学よりも上にありそうか。こと人間社会においては、理想と現実が一致することはごく稀で、人類はいつも現実に翻弄されてきたし、理想論ってやつは仮説的な補助手段に過ぎないといえば、そうかもしれない。ましてや偉大な精神の歴史を、理性の向かうべき道としたところで詮無きこと。
しかしながら、哲学だって、過去の精神をないがしろにしては、偉大な精神を構築することは不可能である。ある学術研究によると、人類の進化は五千年前にとっくに終焉したという報告もあるが、あながち否定はできまい。古代エジプトのメネス王国のような考古学的伝承は、壮大な前史があったことを暗示している。
「最も傷ましく歎かわしいのはエジプトの精神発達史が不可能だという事実である。それを人は精々仮定的な形式で例えば伝奇小説(ロマン)として与え得るに過ぎない。やがてギリシア人において自然科学にとっての全くの自由の時代が来た。ただ彼等がそのためにしたところは比較的少なかった。なぜならば国家と思弁と彫塑的芸術が彼等の精力を先取りしてしまったからである。」
歴史家が客観性を保つ立場であることは疑いようがない。だが、これが最大の難題!人間のあらゆる解釈や思考が主観によって導かれ、歴史家たちの見解が歴史をつくってきたとも言えよう。ブルクハルトは、この... 歴史家が歴史をつくった... という見解を拒絶するかのように、従来の歴史評価に疑問を呈す。
学問をやる以上、懐疑論がつきまとうのは健全であろう。過去の思考に疑いを持ち、自己の思考に疑いを持ち、そして、どこまで懐疑的でいいか、そのバランス感覚が求められる。その意味で酔いどれ天の邪鬼の眼には弁証法的にすら見え、けしてヘーゲルと相い容れないようには見えないのであった。ここに、歴史哲学体系を真っ向から批判し、それでいて実に、歴史哲学的な性格を帯びた博大な書に出会えたことを感謝したい...
尚、藤田健治訳版(岩波文庫)を手に取る。
「極めて疑わしい、また疑わしさを免れないのは、教会の首長達の偉大さである。グレゴリウス七世とか聖ベルナルドゥスとかインノケンティウス三世とか、恐らくはさらに一層後期の人々のそれであろう。」
1. 三すくみ論
ブルクハルトは、歴史の考察を国家、宗教、文化の三つの関係から迫る。互いの規制関係として。国家は政治と密接にかかわり、宗教は教会と密接にかかわり、政治と教会の緊張関係が権力の均衡を保ち、政治と教会が手を結べば文化が監視役となる。時には、文学や哲学が国家を讃美したり、美術や音楽が教会に奉仕したり。二つが手を結んで規制を企てれば、一つが反抗して自由精神を目覚めさせるといった構図である。数学には三角形を崇めてきた歴史があり、人間ってやつは、三角関係がお好きと見える。
政治の在り方を問うたアリストテレスは、最善なのは君主制で、次に貴族制で、最悪なのは民主制というようなことを書いた。だが、真の君主はどこにも見当たらず、ことごとく僭主と化す。有識者や有徳者の集団ですら権力を握るとそうなる。人間の自尊心は、少しばかり大きすぎるようだ。自己肯定が少しばかり強すぎるようだ。やはり人間社会は、毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか。
そして今日、様々な政治体制が試されてきた中で、民主制が比較的マシとされる。政体の移行段階では無政府状態が出現し、政権交代のたびに無党派層を増殖させる。もはやアリストテレスが唱えた三つの政体では不十分、無政府状態も普遍の代表に加えねば。最も聖なる原理、そう、あの三位一体論は、こと人間世界では三すくみ論と化す...
ちなみに、ランケはこう言ったという。
「主権在民ということほど影響を及ぼした政治的理念は一つとして存在しない。折々は退けられ単に一般の見解を規定するに止まりながら、やがてまたふたたび突発的にあらわれ出て公然と認められ、決して実現されないがしかもいつも人の心に食い込んで行く点で、それは近代世界の永遠に醗酵する酵母である。」
2. 自己を克服できなければ、他人を征服にかかる...
宗教の偉大さは、人間の欠陥を超感性的な力で補足する試み。精神を無限の宇宙に引き入れ、崇高さをもって教化する。それ故、あらゆる道徳が宗教によって裏付けられれば、宗教戦争は最も恐ろしく、残酷なものとなる。宗教もまた応急処置的な手段の一つと心得ておかねば。もはや、あらゆる宗派から距離を置く無宗教という立場も普遍の代表に加えねば...
あらゆる闘争には、盲目的な美化がつきもの。国家も、宗教も、文化も、盲目的に礼賛されやすい。愛国心ってやつは、しばしば他民族に対する傲慢の形で現れ、政治ジャーナリズムが集団性の牙を剥く。自己を克服できなければ、他人を征服にかかる。これが人間の本性と心得ておかねば...
「国家は個人の利己の排除によって生じたのではなくて、国家はこの排除そのものでありその調整そのものであり、従ってそこでは最大限に多数の利害や利己が永続的に勘定が合い、遂には国家の存続が自己の生存と完全にからみ合うようになる。ついで国家がもたらし得る最高のものはよき国民連の義務感、すなわち祖国愛である。
...
もし国家が社会だけがなし得、またなすことを許される倫理的なものを直接実現しようと意図するならば、それは一つの堕落であり、術学的官僚主義的な不遜に外ならない。」
2018-08-05
"音楽における偉大さ" Alfred Einstein 著
もし、大バッハがいなかったら... 歴史は誰かにその代役を与えたであろう。バッハもまた誰かの代役を演じただけなのかもしれん。偉大さとは、偶然の出会いの積み重ね。もし、この出会いがなかったら... もし、この人物が生まれてこなかったら... つい、そんな安っぽい運命論を想像してしまう。ゲーデルは晩年、こんなことをつぶやいた... 不完全性定理は自分が発見しなくても、いずれ誰かが発見するだろう... と。この発言はおそらく正しい。真理の概念は必然的であり、概念の方が歴史の道を散歩している。人間とは、それを見つけ出すだけの存在であろうか...
本書は、"a controversial book" と呼ばれたそうな。褒めてくれそうな人には褒められ、非難を浴びせそうな人には非難されそうな。誰が偉大で誰が偉大でないか... そんな議論はほとんど主観的、いや独断的、好みや影響された人物を贔屓してしまう。
百年もすれば歴史の評価も変わる。バッハが登場すると、シュッツの輝きは弱まり、文献学に名を残すのみ。偉大さとは、実にはかない!尤も彼らは、自分が偉大だと思って生きたわけではあるまい。純粋に音楽の真理を探求した結果であろう。
ここに語られる、時代に逆らった者と時代とともに歩んだ者、早く生まれ過ぎた者と遅く生まれ過ぎた者、彼らは互いに影響しあい、互いに影響されて生きた。偉大さとは、まさに相乗効果が生み出した産物といえよう。人類の遺産を見つけ出す手助けをしてくれるアルフレート・アインシュタインという文才に出会えたことは、凡庸な音楽好きには大きな喜びである...
バッハやヘンデルにしても、モーツアルトやベートヴェンにしても、ヴァーグナーやブラームスにしても、ショパンやシューベルトにしても、ベルリオーズやヴェルディにしても... 彼らはもはや人間ではない。人間精神を徹底的に研究し、完全に人間を真似ることのできた半神半人だ。音譜は物理周波数を与えるだけの数学的な記号に過ぎないが、この手段をもって普遍的な言語体系を構築している。言語ってやつが、精神活動を通してしか実存し得ないことを、見事に体現している。
音響芸術は、言語芸術に対して翻訳が無用な分、優位にあるように思える。声楽曲では、多少なりと翻訳が必要なものの。芸術作品ってやつは、崇高な地位にあればあるほど解釈が難しい。これに人工言語による翻訳の苦難が加わると、翻訳者の技術力によって作品の景色ががらりと変わる。詩は散文よりも、叙事詩は長編小説よりも、音調的である分、より永遠的になる。こと音楽においては形式なしでは無に等しく、偉大な作曲家たちは方言を語ったわけではなく、最も純粋な言語、すなわち最も純粋な形式を語ったということになろうか。それを普遍性と呼んでも、それほど大袈裟ではあるまい。
おまけに、この記念碑的な連中ときたら、驚異的な多産性を魅せつける。シンフォニーの群れ... コンチェルトの群れ... オペラの群れ... ピアノ曲の群れ... それぞれが一つの物語を語り、これらの群れが集まって一つの宇宙を創造する。ケッヘル番号や BWV のおびただしい数。モーツアルトやシューベルトのような早世の人物ですら膨大な群れを所蔵している。真理への執念がそうさせるのか。大量生産は偉大さから遠ざかりそうなものだけど...
天才たちの生涯を通しての内的強制は、超自然的で悪魔じみており、デモーニッシュといった言葉ではとても表現しきれない。ヴァーグナーを多血質と呼んだり、ショパンを憂鬱質と呼んだりするのは、それほど間違ってはいないだろう。どんなに人間性を非難されようとも、どんなに人格を貶されようとも、作品の方が音楽家から幽体離脱をはかり、独り歩きをはじめる。もはや、この音楽家は、イタリア的とか、フランス的とか、ドイツ的とか、そうした帰属意識に根ざした議論は無用だ。彼らは、普遍性の世界に身を委ね、超国民性を発揮する。西洋の形式でありながら、東洋の文化にも訴えるものが大きい。思いっきり信仰的でありながら、宗教という枠組みをはるかに超越している。凡人は自己が征服できなければ、他人を征服にかかるが、天才は自己の征服に忙しく、他人にかまっている暇などないと見える。ましてや世間にかまっている暇など。普遍性とは、多様性に存分に寛大で、よほど心地よいものと見える。
そして、かつてのバッハ嫌いは、いまやバッハの虜に... かつてのモーツアルト好きは、いまやモーツアルト狂になっちまったとさ...
1. 完全性なるもの
芸術に完全性なるものが存在するのだろうか。天才たちには完成形なるものが見えるのだろうか。あるいは、彼らもまた妥協の世界を生きているのだろうか。凡人と同じく自己満足の世界を生きているのだろうか。対位法は、すでに完成しているのだろうか。少なくとも、彼らは作品群の中に一つの宇宙を描く。完全な宇宙というものが存在するのかは知らん。もし存在するとして、どれほどの意義を持つのかも知らん。人間は不完全な人生を送る運命を背負う。人生の BGM となる未完成曲を心の中で奏で、我が人生、未完なり!と叫びながら...
永遠に無知であることが、それを自覚できることが、人生を退屈させないで済む。宗教だって、永遠に盲目でいることが幸せだと言っているではないか。シューベルトの遺産「未完成交響曲」が完成しなかったことは、そこに大きな意義が唱えられていそうだ。人類の叡智とは、偉大な未完成を相続する幸せを世代に渡って謳歌するってことだろうか...
「一芸術家の偉大さは、一つの内的世界の建設であり、この内的世界を外的世界に媒介する能力である。両者は不可分なものであって、そのいずれも他のものなしには考えられない。最も強烈な感情と最も生き生きした想像力も、それが公表されなければ、人類にとって無価値である。最も偉大な形式的才能も、それが一つの宇宙を形成することのできる創造力に仕えるのでなければ、無価値である。」
2. 永持ちな万能性
偉大さの条件とされるものに、独創性ってやつがある。世間は、オリジナル性を声高に主張しては、コピーものを俗悪のごとく言う。
では、独創性とはなんであろう。人間という存在に、まったくゼロから何かを創造する力があるというのか。
本書には「永持ち」という言葉がちりばめられる。永持ちする偉大さと、その偉大さに出くわす幸福は、適切な時期にやってくるものらしい。
しかも、偉大な相続遺産なしには不可能なようだ。ルネサンス期の万能人たちは、偉大な作品を徹底的に模倣し続けた。ラファエロにしても、シェイクスピアにしても、偉大な遺産に魅せられ、それを継承しながら独創性を発揮するに至り、ゲーテは独創的な作家で終わらず、芸術的な大家となった。彼らの模倣は、猿真似とはまったく異質で、世間で言われるコピーものとは異次元にある。何事も早すぎても、遅すぎても、うまくいかない。自己の中で何かが覚醒させるまで、じっと待つしかない。真理のエネルギーが蓄積して自然に爆発するのを。その覚醒される瞬間を見逃さぬよう、常に準備を怠るな!独創性の源泉は継続性にあり!というわけか。
とはいえ、凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼は、そのような幸福な出会いに気づかないばかりか、報われることを期待しすぎるものだから意志も永持ちしない...
「真実の偉大さには万能性が不可欠である。それは二重の意味における万能性であって、すべての、あるいは少なくとも多くの音楽諸分野の支配の意味においての万能性か、あるいはある分野の専門家としても新しい世界像を提出し、以後働き続け生み続けるような内面生活の持続的な豊富化を提出するという意味における万能性か、いずれかである。」
「かくして生けるものは
結果から生ずる結果によって新しい力を得る。
なぜなら、心、この恒常なるもの
それのみが、人間を持久するものにするのだ。」
... ゲーテ
本書は、"a controversial book" と呼ばれたそうな。褒めてくれそうな人には褒められ、非難を浴びせそうな人には非難されそうな。誰が偉大で誰が偉大でないか... そんな議論はほとんど主観的、いや独断的、好みや影響された人物を贔屓してしまう。
百年もすれば歴史の評価も変わる。バッハが登場すると、シュッツの輝きは弱まり、文献学に名を残すのみ。偉大さとは、実にはかない!尤も彼らは、自分が偉大だと思って生きたわけではあるまい。純粋に音楽の真理を探求した結果であろう。
ここに語られる、時代に逆らった者と時代とともに歩んだ者、早く生まれ過ぎた者と遅く生まれ過ぎた者、彼らは互いに影響しあい、互いに影響されて生きた。偉大さとは、まさに相乗効果が生み出した産物といえよう。人類の遺産を見つけ出す手助けをしてくれるアルフレート・アインシュタインという文才に出会えたことは、凡庸な音楽好きには大きな喜びである...
バッハやヘンデルにしても、モーツアルトやベートヴェンにしても、ヴァーグナーやブラームスにしても、ショパンやシューベルトにしても、ベルリオーズやヴェルディにしても... 彼らはもはや人間ではない。人間精神を徹底的に研究し、完全に人間を真似ることのできた半神半人だ。音譜は物理周波数を与えるだけの数学的な記号に過ぎないが、この手段をもって普遍的な言語体系を構築している。言語ってやつが、精神活動を通してしか実存し得ないことを、見事に体現している。
音響芸術は、言語芸術に対して翻訳が無用な分、優位にあるように思える。声楽曲では、多少なりと翻訳が必要なものの。芸術作品ってやつは、崇高な地位にあればあるほど解釈が難しい。これに人工言語による翻訳の苦難が加わると、翻訳者の技術力によって作品の景色ががらりと変わる。詩は散文よりも、叙事詩は長編小説よりも、音調的である分、より永遠的になる。こと音楽においては形式なしでは無に等しく、偉大な作曲家たちは方言を語ったわけではなく、最も純粋な言語、すなわち最も純粋な形式を語ったということになろうか。それを普遍性と呼んでも、それほど大袈裟ではあるまい。
おまけに、この記念碑的な連中ときたら、驚異的な多産性を魅せつける。シンフォニーの群れ... コンチェルトの群れ... オペラの群れ... ピアノ曲の群れ... それぞれが一つの物語を語り、これらの群れが集まって一つの宇宙を創造する。ケッヘル番号や BWV のおびただしい数。モーツアルトやシューベルトのような早世の人物ですら膨大な群れを所蔵している。真理への執念がそうさせるのか。大量生産は偉大さから遠ざかりそうなものだけど...
天才たちの生涯を通しての内的強制は、超自然的で悪魔じみており、デモーニッシュといった言葉ではとても表現しきれない。ヴァーグナーを多血質と呼んだり、ショパンを憂鬱質と呼んだりするのは、それほど間違ってはいないだろう。どんなに人間性を非難されようとも、どんなに人格を貶されようとも、作品の方が音楽家から幽体離脱をはかり、独り歩きをはじめる。もはや、この音楽家は、イタリア的とか、フランス的とか、ドイツ的とか、そうした帰属意識に根ざした議論は無用だ。彼らは、普遍性の世界に身を委ね、超国民性を発揮する。西洋の形式でありながら、東洋の文化にも訴えるものが大きい。思いっきり信仰的でありながら、宗教という枠組みをはるかに超越している。凡人は自己が征服できなければ、他人を征服にかかるが、天才は自己の征服に忙しく、他人にかまっている暇などないと見える。ましてや世間にかまっている暇など。普遍性とは、多様性に存分に寛大で、よほど心地よいものと見える。
そして、かつてのバッハ嫌いは、いまやバッハの虜に... かつてのモーツアルト好きは、いまやモーツアルト狂になっちまったとさ...
1. 完全性なるもの
芸術に完全性なるものが存在するのだろうか。天才たちには完成形なるものが見えるのだろうか。あるいは、彼らもまた妥協の世界を生きているのだろうか。凡人と同じく自己満足の世界を生きているのだろうか。対位法は、すでに完成しているのだろうか。少なくとも、彼らは作品群の中に一つの宇宙を描く。完全な宇宙というものが存在するのかは知らん。もし存在するとして、どれほどの意義を持つのかも知らん。人間は不完全な人生を送る運命を背負う。人生の BGM となる未完成曲を心の中で奏で、我が人生、未完なり!と叫びながら...
永遠に無知であることが、それを自覚できることが、人生を退屈させないで済む。宗教だって、永遠に盲目でいることが幸せだと言っているではないか。シューベルトの遺産「未完成交響曲」が完成しなかったことは、そこに大きな意義が唱えられていそうだ。人類の叡智とは、偉大な未完成を相続する幸せを世代に渡って謳歌するってことだろうか...
「一芸術家の偉大さは、一つの内的世界の建設であり、この内的世界を外的世界に媒介する能力である。両者は不可分なものであって、そのいずれも他のものなしには考えられない。最も強烈な感情と最も生き生きした想像力も、それが公表されなければ、人類にとって無価値である。最も偉大な形式的才能も、それが一つの宇宙を形成することのできる創造力に仕えるのでなければ、無価値である。」
2. 永持ちな万能性
偉大さの条件とされるものに、独創性ってやつがある。世間は、オリジナル性を声高に主張しては、コピーものを俗悪のごとく言う。
では、独創性とはなんであろう。人間という存在に、まったくゼロから何かを創造する力があるというのか。
本書には「永持ち」という言葉がちりばめられる。永持ちする偉大さと、その偉大さに出くわす幸福は、適切な時期にやってくるものらしい。
しかも、偉大な相続遺産なしには不可能なようだ。ルネサンス期の万能人たちは、偉大な作品を徹底的に模倣し続けた。ラファエロにしても、シェイクスピアにしても、偉大な遺産に魅せられ、それを継承しながら独創性を発揮するに至り、ゲーテは独創的な作家で終わらず、芸術的な大家となった。彼らの模倣は、猿真似とはまったく異質で、世間で言われるコピーものとは異次元にある。何事も早すぎても、遅すぎても、うまくいかない。自己の中で何かが覚醒させるまで、じっと待つしかない。真理のエネルギーが蓄積して自然に爆発するのを。その覚醒される瞬間を見逃さぬよう、常に準備を怠るな!独創性の源泉は継続性にあり!というわけか。
とはいえ、凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼は、そのような幸福な出会いに気づかないばかりか、報われることを期待しすぎるものだから意志も永持ちしない...
「真実の偉大さには万能性が不可欠である。それは二重の意味における万能性であって、すべての、あるいは少なくとも多くの音楽諸分野の支配の意味においての万能性か、あるいはある分野の専門家としても新しい世界像を提出し、以後働き続け生み続けるような内面生活の持続的な豊富化を提出するという意味における万能性か、いずれかである。」
「かくして生けるものは
結果から生ずる結果によって新しい力を得る。
なぜなら、心、この恒常なるもの
それのみが、人間を持久するものにするのだ。」
... ゲーテ
2018-07-29
"モーツァルト その人間と作品" Alfred Einstein 著
アインシュタインの名でもアルフレートの方。あの物理学者アルベルトの親戚という説もあるらしいが、真相は知らない。この音楽学者はモーツァルトと結びついて伝えられるそうな。シュヴァイツァーがバッハと結びついて伝えられるように。彼の著作「音楽と音楽家」を読んだ時、モーツァルトに関する記述がおざなりな印象を与えていたが、実はそうではなく、別格に取り上げていることを知って本書を手に取る。おまけに、A5判に 5cm と厚い。表題 "MOZART" の印字も風格を帯び、翻訳者浅井真男氏も熱くなると見える...
モーツァルトほど多種多様な作品を遺せば、どのように整理すればいいか悩ましい。時系列に並べてみるのも、彼の心変わりが追え、学術的にも合理性に適っていそうである。実際、ケッヘル番号には広大なモニュメントが刻まれる。それでも、彼の全生涯に渡る前進や後退、あるいは空白のすべてが保存されているわけではないし、叙述があまりにも伝記的なものに規定されてしまう恐れがある。
そこで本書は、ジャンル別の考察を試みる。とはいえ、この方法でも別の危険を冒すことになろう。声楽曲が器楽曲に影響されたり、その逆もあったりで、同質のものがジャンルの壁で引き離されるかもしれない。シンフォニーと室内楽曲を区別しても若干混乱をきたすし、室内楽曲と野外楽曲を分断しても同じこと。
ただ、これほどジャンル別の完成度が高いと、その危険性も低いということのようである。おまけに、クラシックのド素人には馴染みやすい構成で、本書がモーツァルトの作品目録になってくれる。
そもそも、モーツァルト自身にジャンルという意識があったのだろうか?いや、明確に意識していた形跡があるらしい。というより、意外にも形式主義的な側面を覗かせる。彼にとってアリアはアリアであり、ソナタはソナタであり、それぞれに彼なりの法則を見い出し、それを決して打ち破ることはなかったという。音楽精神では自由を信条としながら、音楽形式では伝統を保持していたということか。革命家らしく形にこだわらない独創性を備えているようで、実のところ、彼の中の形式主義が一般的な音楽論では計れなかっただけのことかもしれん...
「モーツァルトのような偉大な人間は、すべての偉大な人間と同じく、われわれが一般に肉体と精神、動物と神の混合物と名づけることができるような、人間という異常な種類の生物の高められた実例であり、見本である。この見本が偉大であればあるほど、二元性はますます明らかに現れ、二つの反対力のあいだの闘争はますますきわだち、調停はますます立派になり、調和、つまり不協和音の和音のなかへの解決は、ますます輝かしくなる。」
ところで、読書には BGM が絶対に欠かせない。仕事でもそうだ。BGM に用いるものでは、おそらくモーツァルトが一番多い。昔は、四大シンフォニー(K.504, 543, 550, 551)をよく用いていたが、今では声楽曲でも、協奏曲でも、なんでもあり。BGM ってやつは、あまり好きな曲でも困る。脇役の方に気を取られては本末転倒。あくまでも控え目な存在でなければ。
ところが、モーツァルトときたら、音楽を中心に置こうが、円周上に置こうが、同心円上でうまく調和してくれる。ただ、気分によって、モーツァルトが合わない日もあるにはある。そんな日は、チャイコフスキーでもショパンでも選択肢はいくらでもある。
もちろん今宵の BGM は、モーツァルトだ!と、いきたいところだが、モーツァルトについてこれほど熱く語られる書を前に、どちらが主役なんだか。まるで BGM の共食い!てなわけで、今宵の BGM は、ブランデーといこう...
1. 救世主モーツァルト
アルフレートの著作「音楽と音楽家」には、バッハやヘンデルが世を去った十八世紀中頃、音楽界がガラントなものと学問的なものとに分裂し、かつてない危機に見舞われたと綴られていた。本書には、その分裂的危機を融合した救世主が描かれる。そして、この記述がどの場面かを想像せずにはいられない...
「プラーハ=シンフォニーの緩徐楽章のなかには、モーツァルトがその生涯の終わりに到達した、ガラントと学問的との驚嘆すべき融合を示す一つの例が含まれている。そこではすでに提示部のなかにウニソノの動機が現われる。これはただちにヴァイオリンと低音のあいだのカノン的な対話によって進行し、他の弦楽器とホルンの単純な和声的充填をも伴っている。しかし展開部においてこのカノンは、それ自体も半音階をもっていっそう際立って来るばかりでなく、充填も、ことに第二ヴァイオリンにおいていっそう激しくなる。」
2. 偉大な模倣者
モーツァルトほどの人物でも、ベートヴェンのような主題を案出していないと非難を受けたようである。それも、楽曲のほとんどが注文依頼によって創作されたという経緯がある。
この世のあらゆる偉人たちが、過去の偉業に敬意を表して模倣者であったことも忘れてはなるまい。ラファエロしかり、シェイクスピアしかり、これぞ人類の叡智。モーツァルトの場合、それが父レーオポルトであり、シューベルトであり、ハイドンとアードルガッサーであり、ヘンデルであり、そしてバッハであったとさ。対位法で絶頂に導いたのも、大バッハを知ってからのようである。
バッハを研究する機会を与えたのは、音楽ディレッタントのファン・スヴィーテン男爵と出会ったことだという。彼はフリードリッヒ大王の近くにあって、大王がファン・スヴィーテンの興味をバッハへ向けさせ、さらにモーツァルトへ伝授されたという流れ。偉大な歴史事象には、しばしば偶然がともなう。導き、導かれる者同士というのは、どこか共感できるものがあると見える。
「平均律クラヴィーア曲集」と「フーガの技法」を知ったモーツァルトは、さらに超自然的な内的強制に目覚めていく。何かに取り憑かれたかのように悪魔じみていき、もはや注文作曲家の域を超えていた。モーツァルトにとって、間違った音は世界秩序の毀損であった。バッハがそうであったように。ゲーテがメフィストフェレスに執心したように、偉大な芸術家は自分の作品に取り憑かれ、自己の模倣者となっていく。「魔笛」(K.620)が訴えるものも、やはりメフィストのような存在であろうか...
「彼の倫理的な危険について言われたことは、あらゆる想像力豊かな人間、なかんずく劇的天才にあてはまる。ゲーテも、自分のなかにはあらゆる犯罪を犯す素質がある、と言った。無道者シェイクスピアの物語は真実ではなく、それ自体としてあまりにも無邪気ではあるが、とにかくうまく作られている。なぜなら、巨大な想像力と暗示敏感症を持つ人々が、彼らの危険な性向を芸術に変容させ、マクベス夫人、メフィスト、ドン・ジョヴァンニのような形姿を創造するのである。」
3. 芸術の犠牲者となったザルツブルク人
モーツァルトは、どこにも安住できなかったという。彼が生まれたザルツブルクにも、彼が死んだウィーンにも。旅こそ、彼の生涯のほとんどを占めている。
ところで、ザルツブルク人というのは、当時のドイツにおいて、真面目さ、賢明、合理的などの点で、あまり評判がよくなかったそうな。反対に、肉体的享楽に極度に耽溺するが、精神的享楽を嫌い、粗野的と見られていたという。南ドイツの道化喜劇の中で、滑稽な主人公に与えられるあらゆる性質の代表者であったとか。
モーツァルト自身も、そんな故郷を幼き頃から愚弄していたという。周りには、ミュンヘンがあり、ウィーンがあり、ヴェネツィアがあり、その三角網の中心にザルツブルクがある。彼は救いを求めて、あらゆる方向に旅をする。
また、この天才児は、父レーオポルトに温室植物のように育てられたという。芸術家としては成熟していても、人間としては子供のまま。いや、永遠に子供だったのか。彼は純真すぎた。あまりにも激しすぎた。私生活においては中庸というものがまるでない。音楽では、これほどの調和を見せておきながら。
旅先では後見人を必要とし、いつも母親が同行したという。地位獲得における失敗の連続、女性関係における失敗の連続。天才とは、ある種の障碍的な要素なのか。モーツァルトの最も相応しい居場所は、歴史の世界、すなわち死後の世界だったのやもしれん...
「このかぎりで、われわれは言うことができよう、人間モーツァルトは彼の芸術の地上的な器だったと... のみならず人間モーツァルトは音楽家モーツァルトの犠牲だったとさえ。しかし自分の芸術に取り憑かれた偉大な芸術家は誰でも、個人としてはその芸術の犠牲である。」
4. 控え目な万能者
音楽家の得意な楽器、あるいは、贔屓の楽器があれば、それを神格化する作風となるのも道理である。ベートーヴェンの場合はピアノに明確な意思が込められるが、モーツァルトもやはりピアノであろうか。ただ、ベートーヴェンほどの明確さは見えない。多彩な技術や自己の意思を控え目にするのが、モーツァルト流というわけか。モーツァルトは、マンハイムのヴァイオリニスト、フレンツルについてこう記したという。
「... 彼はむずかしいものを演奏する。しかし聴き手はそれがむずかしいことに気づかないで、自分もすぐに真似ができるように思う。これこそ真の技術である...」
まさに、この言葉を自分の中で実践しようと、対位法という技術を出来る限り隠そうとする。骨の折れる仕事は作曲家自身が引き受け、その努力を聴衆には気づかれないように楽しませてくれる。こうした控えめを信条とした調和の作風が、主役に置いても、BGM に置いても、違和感のないものにしているのやもしれん...
「声楽作曲家としてのモーツァルトと器楽作曲家としてのモーツァルトといずれが偉大であったか、『フィガロの結婚』(K.492)や『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)と、ハ長調シンフォニー(K.551)やハ短調ピアノコンチェルト(K.491)やハ長調弦楽五重奏曲(K.515)とはどちらが上位にあるか、という問題を自分に提出してみると、モーツァルトの万能性ということが明白になる。」
5. カトリックを超越したカトリック者
モーツァルトがフリーメイソンであったことは広く知られる。フリーメイソンには、カトリックとプロテスタントの双方から非難されてきた歴史があるが、キリスト教的であることは同じ。ルターにしたって、最初からプロテスタントを唱えていたわけではあるまい。カトリックが集団暴走を始めれば、一旦福音に立ち返り、教会が暴走すれば、そこから距離を置く。国に苦言を呈す者だって愛国心が足らないと非難を受けるが、国を愛するからこそ政権や支配者を批判するのではないか。国に忠誠を誓うとは、権力者に忠誠を誓うことではない。ましてや独裁者に。
カトリック教会に懐疑的だからといって、プロテスタントの急進的な態度に接すれば、これまた懐疑的となる。十分にカトリック的でもなければ、十分にイエス的でもないと。フリーメイソンとは、真のキリスト教徒の避難場所だったのだろうか。
モーツァルトの世界観は、普遍的で超国民的であったという。彼には、国に属すということにあまり興味がなかったと見える。憎悪や嫉妬で歪んだ愛国心なんぞ、どこ吹く風よ!ひたすらアリアとの和解を求め、自我との和解を求め。モーツァルトは、他ならぬモーツァルトであったのだろう。彼の無頓着な態度は、宗教観に限らず芸術観においてもよく現れている。モーツァルトは、カトリックよりもカトリック的だったのやもしれん...
ちなみに、リヒャルト・ヴァーグナーは、こんな記述を遺したそうな。
「素朴な、真の霊感をうけた芸術家は有頂天の無分別さで自分の芸術作品に飛びこむが、これが完成し、現実となって自分のまえに姿を現わすときにはじめて、自分の経験から本当の反省の力をかちうる。そしてこの反省の力が一般には彼を錯覚から守るのだが、特別な場合、つまり彼が再び霊感を受けて芸術作品へと駆り立てられるのを感ずる場合には、反省の力は彼を支配する力を再び全く失ってしまうのである。オペラ作曲家としての経歴に関してモーツァルトの性格を最もよく現わしているのは、彼が仕事にとりかかる時ののんきな無選択ぶりである。彼はオペラの基礎となっている美学的疑惑に思いを致すことなどは思いもよらないので、むしろ最大の無頓着さをもって自分に与えられたあらゆるオペラのテクストの作曲に取りかかったのである。そればかりでなく、このテクストが、純粋な音楽家としての自分にとってありがたいものであるかどうかにさえ無頓着であった。あちこちに保存されている彼の美学上の覚書や意見を全部とりまとめてみても、彼の反省のすべてが、あの有名な自分の鼻の定義以上に達しえないことはたしかである。」
モーツァルトほど多種多様な作品を遺せば、どのように整理すればいいか悩ましい。時系列に並べてみるのも、彼の心変わりが追え、学術的にも合理性に適っていそうである。実際、ケッヘル番号には広大なモニュメントが刻まれる。それでも、彼の全生涯に渡る前進や後退、あるいは空白のすべてが保存されているわけではないし、叙述があまりにも伝記的なものに規定されてしまう恐れがある。
そこで本書は、ジャンル別の考察を試みる。とはいえ、この方法でも別の危険を冒すことになろう。声楽曲が器楽曲に影響されたり、その逆もあったりで、同質のものがジャンルの壁で引き離されるかもしれない。シンフォニーと室内楽曲を区別しても若干混乱をきたすし、室内楽曲と野外楽曲を分断しても同じこと。
ただ、これほどジャンル別の完成度が高いと、その危険性も低いということのようである。おまけに、クラシックのド素人には馴染みやすい構成で、本書がモーツァルトの作品目録になってくれる。
そもそも、モーツァルト自身にジャンルという意識があったのだろうか?いや、明確に意識していた形跡があるらしい。というより、意外にも形式主義的な側面を覗かせる。彼にとってアリアはアリアであり、ソナタはソナタであり、それぞれに彼なりの法則を見い出し、それを決して打ち破ることはなかったという。音楽精神では自由を信条としながら、音楽形式では伝統を保持していたということか。革命家らしく形にこだわらない独創性を備えているようで、実のところ、彼の中の形式主義が一般的な音楽論では計れなかっただけのことかもしれん...
「モーツァルトのような偉大な人間は、すべての偉大な人間と同じく、われわれが一般に肉体と精神、動物と神の混合物と名づけることができるような、人間という異常な種類の生物の高められた実例であり、見本である。この見本が偉大であればあるほど、二元性はますます明らかに現れ、二つの反対力のあいだの闘争はますますきわだち、調停はますます立派になり、調和、つまり不協和音の和音のなかへの解決は、ますます輝かしくなる。」
ところで、読書には BGM が絶対に欠かせない。仕事でもそうだ。BGM に用いるものでは、おそらくモーツァルトが一番多い。昔は、四大シンフォニー(K.504, 543, 550, 551)をよく用いていたが、今では声楽曲でも、協奏曲でも、なんでもあり。BGM ってやつは、あまり好きな曲でも困る。脇役の方に気を取られては本末転倒。あくまでも控え目な存在でなければ。
ところが、モーツァルトときたら、音楽を中心に置こうが、円周上に置こうが、同心円上でうまく調和してくれる。ただ、気分によって、モーツァルトが合わない日もあるにはある。そんな日は、チャイコフスキーでもショパンでも選択肢はいくらでもある。
もちろん今宵の BGM は、モーツァルトだ!と、いきたいところだが、モーツァルトについてこれほど熱く語られる書を前に、どちらが主役なんだか。まるで BGM の共食い!てなわけで、今宵の BGM は、ブランデーといこう...
1. 救世主モーツァルト
アルフレートの著作「音楽と音楽家」には、バッハやヘンデルが世を去った十八世紀中頃、音楽界がガラントなものと学問的なものとに分裂し、かつてない危機に見舞われたと綴られていた。本書には、その分裂的危機を融合した救世主が描かれる。そして、この記述がどの場面かを想像せずにはいられない...
「プラーハ=シンフォニーの緩徐楽章のなかには、モーツァルトがその生涯の終わりに到達した、ガラントと学問的との驚嘆すべき融合を示す一つの例が含まれている。そこではすでに提示部のなかにウニソノの動機が現われる。これはただちにヴァイオリンと低音のあいだのカノン的な対話によって進行し、他の弦楽器とホルンの単純な和声的充填をも伴っている。しかし展開部においてこのカノンは、それ自体も半音階をもっていっそう際立って来るばかりでなく、充填も、ことに第二ヴァイオリンにおいていっそう激しくなる。」
2. 偉大な模倣者
モーツァルトほどの人物でも、ベートヴェンのような主題を案出していないと非難を受けたようである。それも、楽曲のほとんどが注文依頼によって創作されたという経緯がある。
この世のあらゆる偉人たちが、過去の偉業に敬意を表して模倣者であったことも忘れてはなるまい。ラファエロしかり、シェイクスピアしかり、これぞ人類の叡智。モーツァルトの場合、それが父レーオポルトであり、シューベルトであり、ハイドンとアードルガッサーであり、ヘンデルであり、そしてバッハであったとさ。対位法で絶頂に導いたのも、大バッハを知ってからのようである。
バッハを研究する機会を与えたのは、音楽ディレッタントのファン・スヴィーテン男爵と出会ったことだという。彼はフリードリッヒ大王の近くにあって、大王がファン・スヴィーテンの興味をバッハへ向けさせ、さらにモーツァルトへ伝授されたという流れ。偉大な歴史事象には、しばしば偶然がともなう。導き、導かれる者同士というのは、どこか共感できるものがあると見える。
「平均律クラヴィーア曲集」と「フーガの技法」を知ったモーツァルトは、さらに超自然的な内的強制に目覚めていく。何かに取り憑かれたかのように悪魔じみていき、もはや注文作曲家の域を超えていた。モーツァルトにとって、間違った音は世界秩序の毀損であった。バッハがそうであったように。ゲーテがメフィストフェレスに執心したように、偉大な芸術家は自分の作品に取り憑かれ、自己の模倣者となっていく。「魔笛」(K.620)が訴えるものも、やはりメフィストのような存在であろうか...
「彼の倫理的な危険について言われたことは、あらゆる想像力豊かな人間、なかんずく劇的天才にあてはまる。ゲーテも、自分のなかにはあらゆる犯罪を犯す素質がある、と言った。無道者シェイクスピアの物語は真実ではなく、それ自体としてあまりにも無邪気ではあるが、とにかくうまく作られている。なぜなら、巨大な想像力と暗示敏感症を持つ人々が、彼らの危険な性向を芸術に変容させ、マクベス夫人、メフィスト、ドン・ジョヴァンニのような形姿を創造するのである。」
3. 芸術の犠牲者となったザルツブルク人
モーツァルトは、どこにも安住できなかったという。彼が生まれたザルツブルクにも、彼が死んだウィーンにも。旅こそ、彼の生涯のほとんどを占めている。
ところで、ザルツブルク人というのは、当時のドイツにおいて、真面目さ、賢明、合理的などの点で、あまり評判がよくなかったそうな。反対に、肉体的享楽に極度に耽溺するが、精神的享楽を嫌い、粗野的と見られていたという。南ドイツの道化喜劇の中で、滑稽な主人公に与えられるあらゆる性質の代表者であったとか。
モーツァルト自身も、そんな故郷を幼き頃から愚弄していたという。周りには、ミュンヘンがあり、ウィーンがあり、ヴェネツィアがあり、その三角網の中心にザルツブルクがある。彼は救いを求めて、あらゆる方向に旅をする。
また、この天才児は、父レーオポルトに温室植物のように育てられたという。芸術家としては成熟していても、人間としては子供のまま。いや、永遠に子供だったのか。彼は純真すぎた。あまりにも激しすぎた。私生活においては中庸というものがまるでない。音楽では、これほどの調和を見せておきながら。
旅先では後見人を必要とし、いつも母親が同行したという。地位獲得における失敗の連続、女性関係における失敗の連続。天才とは、ある種の障碍的な要素なのか。モーツァルトの最も相応しい居場所は、歴史の世界、すなわち死後の世界だったのやもしれん...
「このかぎりで、われわれは言うことができよう、人間モーツァルトは彼の芸術の地上的な器だったと... のみならず人間モーツァルトは音楽家モーツァルトの犠牲だったとさえ。しかし自分の芸術に取り憑かれた偉大な芸術家は誰でも、個人としてはその芸術の犠牲である。」
4. 控え目な万能者
音楽家の得意な楽器、あるいは、贔屓の楽器があれば、それを神格化する作風となるのも道理である。ベートーヴェンの場合はピアノに明確な意思が込められるが、モーツァルトもやはりピアノであろうか。ただ、ベートーヴェンほどの明確さは見えない。多彩な技術や自己の意思を控え目にするのが、モーツァルト流というわけか。モーツァルトは、マンハイムのヴァイオリニスト、フレンツルについてこう記したという。
「... 彼はむずかしいものを演奏する。しかし聴き手はそれがむずかしいことに気づかないで、自分もすぐに真似ができるように思う。これこそ真の技術である...」
まさに、この言葉を自分の中で実践しようと、対位法という技術を出来る限り隠そうとする。骨の折れる仕事は作曲家自身が引き受け、その努力を聴衆には気づかれないように楽しませてくれる。こうした控えめを信条とした調和の作風が、主役に置いても、BGM に置いても、違和感のないものにしているのやもしれん...
「声楽作曲家としてのモーツァルトと器楽作曲家としてのモーツァルトといずれが偉大であったか、『フィガロの結婚』(K.492)や『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)と、ハ長調シンフォニー(K.551)やハ短調ピアノコンチェルト(K.491)やハ長調弦楽五重奏曲(K.515)とはどちらが上位にあるか、という問題を自分に提出してみると、モーツァルトの万能性ということが明白になる。」
5. カトリックを超越したカトリック者
モーツァルトがフリーメイソンであったことは広く知られる。フリーメイソンには、カトリックとプロテスタントの双方から非難されてきた歴史があるが、キリスト教的であることは同じ。ルターにしたって、最初からプロテスタントを唱えていたわけではあるまい。カトリックが集団暴走を始めれば、一旦福音に立ち返り、教会が暴走すれば、そこから距離を置く。国に苦言を呈す者だって愛国心が足らないと非難を受けるが、国を愛するからこそ政権や支配者を批判するのではないか。国に忠誠を誓うとは、権力者に忠誠を誓うことではない。ましてや独裁者に。
カトリック教会に懐疑的だからといって、プロテスタントの急進的な態度に接すれば、これまた懐疑的となる。十分にカトリック的でもなければ、十分にイエス的でもないと。フリーメイソンとは、真のキリスト教徒の避難場所だったのだろうか。
モーツァルトの世界観は、普遍的で超国民的であったという。彼には、国に属すということにあまり興味がなかったと見える。憎悪や嫉妬で歪んだ愛国心なんぞ、どこ吹く風よ!ひたすらアリアとの和解を求め、自我との和解を求め。モーツァルトは、他ならぬモーツァルトであったのだろう。彼の無頓着な態度は、宗教観に限らず芸術観においてもよく現れている。モーツァルトは、カトリックよりもカトリック的だったのやもしれん...
ちなみに、リヒャルト・ヴァーグナーは、こんな記述を遺したそうな。
「素朴な、真の霊感をうけた芸術家は有頂天の無分別さで自分の芸術作品に飛びこむが、これが完成し、現実となって自分のまえに姿を現わすときにはじめて、自分の経験から本当の反省の力をかちうる。そしてこの反省の力が一般には彼を錯覚から守るのだが、特別な場合、つまり彼が再び霊感を受けて芸術作品へと駆り立てられるのを感ずる場合には、反省の力は彼を支配する力を再び全く失ってしまうのである。オペラ作曲家としての経歴に関してモーツァルトの性格を最もよく現わしているのは、彼が仕事にとりかかる時ののんきな無選択ぶりである。彼はオペラの基礎となっている美学的疑惑に思いを致すことなどは思いもよらないので、むしろ最大の無頓着さをもって自分に与えられたあらゆるオペラのテクストの作曲に取りかかったのである。そればかりでなく、このテクストが、純粋な音楽家としての自分にとってありがたいものであるかどうかにさえ無頓着であった。あちこちに保存されている彼の美学上の覚書や意見を全部とりまとめてみても、彼の反省のすべてが、あの有名な自分の鼻の定義以上に達しえないことはたしかである。」
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