入手したはいいが、その場しのぎで、十年、二十年と放置してきた奴らがいる。ヘネパタか、パタヘネか、こいつらはその代表。本書もその類いで、章ごとに完結し、元が辞書的な構成になっている。そして、心の奥から貧乏性がつぶやいてやがる。せっかく買ったんだから... って。そろそろ引退勧告されそうな身で、再トライ!といこう。こいつを拾い読みするだけで書籍代も助かるし...
Linux のソースコードは自由に目にすることができ、その気になれば自分なりにカスタマイズすることもできる。とはいえ、いきなりコードを手にしても、途方に暮れるばかり。そんな時に指南役となってくれるのが、この詳解である。
おそらく、ソフトウェア屋さん向けに書かれたものであろう。だが、CPU を活かすためのカーネルという見方をすれば、ハードウェアの仕組みにも踏み込む。実際、コードのカスタマイズが求められるケースは、ハードウェア依存の高い部分が多い。おいらはプログラマではないが、それでも、割り込みベクタ、例外ハンドラ、同期処理、MMU、あるいは、ブートシーケンスぐらいは基本知識として持っておいて損はない。実際、知らなければ、プロセッサや周辺回路の設計で困るし...
本書の有り難いところは、コードの実装イメージを優先してくれることである。もちろんコードの厳密性も重要だけど、少々の効率性は犠牲にしてでも。例えば、schedule() 関数のカスタマイズでは、かなり教育を意識している。著者の二人はローマ大学の先生で、この詳解はイタリアの有数の工科大学で教材にされているそうな...
マルチタスク環境で主役を演じる機能といえば、プロセスの切り替えやそのスケジューリングといったところ。プロセスの切り替えでは、時間間隔、すなわちクォンタムが、システムの最適値として問われる。
さらに、今日当たり前となったマルチプロセッサ環境では、プリエンプティブか、ノンプリエンプティブか、がより重視される。Unix 環境では、ジョブに一定時間を割り当てるプリエンプティブな方式が当たり前のように用いられるが、リアルタイム処理ではそうはいかない。Linux の場合、ユーザプロセスがプリエンプティブでも、ノンプリエンプティブな部分も混在しており、本書は、負荷の高いシステムでは既定のクォンタムでは大きすぎることを指摘している。
また、スワップとキャッシュの位置づけを明確にしている。今日の OS は、幸いにも物理メモリをすべて管理する必要はない。ハードウェアの強力な支援があるからである。それだけに、スワップとキャッシュのトレードオフはより顕著化する。キャッシュは、メモリ領域を犠牲にしてでもパフォーマンスを向上させ、スワップはアクセス速度を犠牲にして、利用可能なメモリ領域を拡大させる。すべてキャッシュで済めばいいが、スワップはメモリ不足時の最終手段という考え方もできる。いわば保険として。そして、ゾンビプロセスとの葛藤では、今日のガベージコレクションを思い浮かばせる。
個人的には、モノリシックカーネルという特徴も味わいたい。本来の Unix 思想は、メモリ管理やファイルシステムなどを独立させて小さな部品を集めてシステムを構築するというものだが、あえて Linux は、これらすべてをカーネルに取り込んで一つのアドレス空間で実行させようとする。しかも、カーネルモジュールに対して、機能のアップデートや削除を動的に行える仕組みを備えている。
... こうした技を魅せつけられれば、いくらアホな天の邪鬼でもちょっといじってみたくなる。この酔いどれ庶民には高価なシステムは高嶺の花で、非力な x86 系のためのチューニング思想の方がありがたい。
近年の Linux は行儀よくなったもので、あのメッセージに出くわす機会がぐっと減った。ちと淋しいけど。歳のせいか、安定志向に走り、CentOS に鞍替えしてからは、とんとご無沙汰。そこで、わざと発生させて、心のオアシスを求めるのであった...
Kernel Panic !!!
ところで、「プロセス」という概念は、あまりに慣れ親しみ過ぎて、その意味を問うたこともない。簡単に言えば、「プログラムの実行時におけるインスタンス」として定義される。通常、割り込みは、「プロセッサが実行する命令列を変更するイベント」として定義されるとか。
こうした用語の捉え方を眺めるだけでも、当たり前といえばそうなのだが、その意味を再確認する上で古典を読む意義は大きい。いや、愉快!
尚、デッドロック回避に用いられる「セマフォ」という概念には苦労した記憶が蘇る。考え方は単純でも、抽象化されたデータ型に馴染むには、ちと時間がかかる。抽象数学に悩まされてきたように...
Contents
- 2019-04-28 "詳解 Linux カーネル" Daniel P. Bovet & Marco Cesati 著
- 2019-04-21 "ガロアの夢 群論と微分方程式" 久賀道郎 著
- 2019-04-14 "群論への30講" 志賀浩二 著
- 2019-04-07 "天才ガロアの発想力 - 対称性と群が明かす方程式の秘密" 小島寛之 著
- 2019-04-01 人生の操作性は、軽いアンダーステア...
- 2019-03-24 "近世数学史談" 高木貞治 著
- 2019-03-17 "コペルニクス・天球回転論" Nicolaus Copernicus 著
- 2019-03-10 "アルマゲスト" プトレマイオス 著
- 2019-03-03 "インフレーション宇宙論" 佐藤勝彦 著
- 2019-02-24 "エドガー・アラン・ポー 怪奇・探偵小説集(2)" Edgar Allan Poe 著
2019-04-28
2019-04-21
"ガロアの夢 群論と微分方程式" 久賀道郎 著
三十年間、ずっと纏わり付いてくる奴がいる。あぁ、捉えどころのない微分方程式!物語は、こんな言葉から始まる...「そして山の裂目(クレパス)にのまれてしまったとさ...」
現実世界を生きるには、難問に遭遇しても、とりあえず答えを出していかないと前に進むことが難しい。数学の世界には、そうした暫定的な処理に、漸近線や近似解といった有用な方法論がある。微分方程式ってやつが、いかに解けないケースが多いことか。特異解が現実解を覆い隠すのである。解が見つけられなければ、解のある微分方程式で代替するか、解そのものを近似するか。あるいは、いくつかの方程式を連らね、それぞれに定義域を割り当てて連続性を保ったりと、誤魔化し、誤魔化し、生きている。
とはいえ、妥協人生も悪くない。人間社会では、真理よりも、真理っぽく見えることの方がずっと実用的なのだ。いや、完全な真理なんぞ見たくもない!という深層心理が働いているのやもしれん。そりゃ、自己の本性を知っちまえば、絶望するしかあるまい。
情報社会では、検索アルゴリズムにおいて、100% 満足のいく結果をじっくりと得るよりも、80% ぐらい満足できる答えを手っ取り早く得る方が有用である。人間は多忙なのだ。
素数定理でも近似法が幅を利かせているではないか。デジタル社会で絶対に欠かせないコンピューティングに目を向ければ、見過ごせない弱点を浮き彫りにする。浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE 754 の意義を匂わせてやればいい。システムエラーの回避に欠かせない前提が、数学の領域を制限することを。実数演算で冪乗の壁を乗り越えられない限り、近似の概念に頼らざるを得ない。だがそれは、数学の落ちこぼれには、ありがたいことである...
本書は、著者が東京大学教養学部のゼミナールで行った講義の記録で、題目には「群論と微分方程式」とある。ガロア理論は告げている... 二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない... と。それは代数方程式に対して、どこまで解けるかを問うたもの。ここでは、微分方程式に対して、どこまで解けるかを問う。
ガロアの思惑は代数方程式論では成功を見たが、同様の考察が微分方程式においても可能であるか。この問題に生涯を賭けたソフス・リーは、リー群を編み出した。だが、微分方程式の群論的考察という意味では、リー自身は決定的な寄与はできなかったそうで、ピカールやベシオに受け継がれ、さらに代数化されて、リットやコルチンという流れ。線型常微分方程式を群論的に扱う試みは、多くの偉大な数学者が挑み、まだまだ未知数が多い。
しかしながら、この講義はそのような大理論を展開する場ではなく、かなり制限を与えてくれる。題材とされるのは「フックス型微分方程式」と「モノドロミー群」。耳慣れない用語に尻込みしそうになるが、なんのことはない。フックス型は、こんな形をしている。しかも、二階微分で扱ってくれる...
これをベースにすれば、たいていの現象を近似できるだろう。ちょっと乱暴に言えば、こういうことらしい...
「フックス型の微分方程式とは、解がみな確定特異点しかもたぬ有理関数係数の微分方程式のことである。」
また、monodromy を辞書で引くと、一人芝居、ひとりで回る... といった意味を見つける。そして、対象となる現象を、部分集合を連ねて移動体とし眺めてみる。関数の特性を離散的な部分集合で近似するようなイメージで、集合の塊が螺旋状を回転しながら移動していく様子を想像してみるのである。
R ∋ { A0, A1, A2, A3, ... }
A0 ∪ A1 ∪ A2 ....
A0 ∩ A1 ∩ A2 ....
二次元平面で眺めれば、実数同士の直積のような空間をイメージできる。それは、複素平面でも同じこと。ただしこれは、monodromy の用語に誘われて、独り善がりな解釈を試みた結果であって、本書の意図からは酷く逸脱しているだろう。酔いどれ天の邪鬼の目には、ストルツ角領域ってやつが、螺旋状に吸い込まれていく現象に見えるもんだから... 久賀先生ごめんなさい!
それはさておき、連続性を保証してくれれば、微分可能であることが前提できる。このように対象を限定することは、一般法則を求める数学屋には許せないことかもしれない。しかし、ガロア理論が視覚化できて、教育には良さそう...
「空疎な一般論よりは、深みを偏愛するわれわれ数論屋としては、構造の豊かな特殊な族をこそ求めるべきであろう。それゆえ、われわれの関心の対象を、Euler 積分を持つもののみに限ることとする。」
とはいえ、群論の視点から微分方程式を考察するというのは、やはり尋常ではない。ようやく群論という巨大な要塞の入り口に立つことができたと思ったら... ようやく空間イメージができるようになったと思ったら... またもや自由群にしてやられる。自由ってやつは、数学界においても、やはり手に負えないものらしい。
そして、講義は、HATTARI... で締めくくられる...
「ほとんどが検証されていない事実(?)ばかりである。すなわち、ほとんどすべてハッタリである。わずかな兆候に想像力を無限大に働かせて外挿してゆくのだ。数学はこのような段階が一番たのしい...」
現実世界を生きるには、難問に遭遇しても、とりあえず答えを出していかないと前に進むことが難しい。数学の世界には、そうした暫定的な処理に、漸近線や近似解といった有用な方法論がある。微分方程式ってやつが、いかに解けないケースが多いことか。特異解が現実解を覆い隠すのである。解が見つけられなければ、解のある微分方程式で代替するか、解そのものを近似するか。あるいは、いくつかの方程式を連らね、それぞれに定義域を割り当てて連続性を保ったりと、誤魔化し、誤魔化し、生きている。
とはいえ、妥協人生も悪くない。人間社会では、真理よりも、真理っぽく見えることの方がずっと実用的なのだ。いや、完全な真理なんぞ見たくもない!という深層心理が働いているのやもしれん。そりゃ、自己の本性を知っちまえば、絶望するしかあるまい。
情報社会では、検索アルゴリズムにおいて、100% 満足のいく結果をじっくりと得るよりも、80% ぐらい満足できる答えを手っ取り早く得る方が有用である。人間は多忙なのだ。
素数定理でも近似法が幅を利かせているではないか。デジタル社会で絶対に欠かせないコンピューティングに目を向ければ、見過ごせない弱点を浮き彫りにする。浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE 754 の意義を匂わせてやればいい。システムエラーの回避に欠かせない前提が、数学の領域を制限することを。実数演算で冪乗の壁を乗り越えられない限り、近似の概念に頼らざるを得ない。だがそれは、数学の落ちこぼれには、ありがたいことである...
本書は、著者が東京大学教養学部のゼミナールで行った講義の記録で、題目には「群論と微分方程式」とある。ガロア理論は告げている... 二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない... と。それは代数方程式に対して、どこまで解けるかを問うたもの。ここでは、微分方程式に対して、どこまで解けるかを問う。
ガロアの思惑は代数方程式論では成功を見たが、同様の考察が微分方程式においても可能であるか。この問題に生涯を賭けたソフス・リーは、リー群を編み出した。だが、微分方程式の群論的考察という意味では、リー自身は決定的な寄与はできなかったそうで、ピカールやベシオに受け継がれ、さらに代数化されて、リットやコルチンという流れ。線型常微分方程式を群論的に扱う試みは、多くの偉大な数学者が挑み、まだまだ未知数が多い。
しかしながら、この講義はそのような大理論を展開する場ではなく、かなり制限を与えてくれる。題材とされるのは「フックス型微分方程式」と「モノドロミー群」。耳慣れない用語に尻込みしそうになるが、なんのことはない。フックス型は、こんな形をしている。しかも、二階微分で扱ってくれる...
| d2w dz2 |
+ | P(z) | dw dz |
+ | Q(z)w | = | 0 |
これをベースにすれば、たいていの現象を近似できるだろう。ちょっと乱暴に言えば、こういうことらしい...
「フックス型の微分方程式とは、解がみな確定特異点しかもたぬ有理関数係数の微分方程式のことである。」
また、monodromy を辞書で引くと、一人芝居、ひとりで回る... といった意味を見つける。そして、対象となる現象を、部分集合を連ねて移動体とし眺めてみる。関数の特性を離散的な部分集合で近似するようなイメージで、集合の塊が螺旋状を回転しながら移動していく様子を想像してみるのである。
R ∋ { A0, A1, A2, A3, ... }
A0 ∪ A1 ∪ A2 ....
A0 ∩ A1 ∩ A2 ....
二次元平面で眺めれば、実数同士の直積のような空間をイメージできる。それは、複素平面でも同じこと。ただしこれは、monodromy の用語に誘われて、独り善がりな解釈を試みた結果であって、本書の意図からは酷く逸脱しているだろう。酔いどれ天の邪鬼の目には、ストルツ角領域ってやつが、螺旋状に吸い込まれていく現象に見えるもんだから... 久賀先生ごめんなさい!
それはさておき、連続性を保証してくれれば、微分可能であることが前提できる。このように対象を限定することは、一般法則を求める数学屋には許せないことかもしれない。しかし、ガロア理論が視覚化できて、教育には良さそう...
「空疎な一般論よりは、深みを偏愛するわれわれ数論屋としては、構造の豊かな特殊な族をこそ求めるべきであろう。それゆえ、われわれの関心の対象を、Euler 積分を持つもののみに限ることとする。」
とはいえ、群論の視点から微分方程式を考察するというのは、やはり尋常ではない。ようやく群論という巨大な要塞の入り口に立つことができたと思ったら... ようやく空間イメージができるようになったと思ったら... またもや自由群にしてやられる。自由ってやつは、数学界においても、やはり手に負えないものらしい。
そして、講義は、HATTARI... で締めくくられる...
「ほとんどが検証されていない事実(?)ばかりである。すなわち、ほとんどすべてハッタリである。わずかな兆候に想像力を無限大に働かせて外挿してゆくのだ。数学はこのような段階が一番たのしい...」
2019-04-14
"群論への30講" 志賀浩二 著
我武者羅にやっているうちに、突然、視界が開ける瞬間がある。ある種の突然変異であろうか。そんな感覚に見舞われることを期待しながら、むかーし、返り討ちに遭ったヤツに再挑戦!抽象数学の醍醐味を味わいたくて...
今回、縋るのは、数学30講シリーズ。一つ一つの講義は、10分ほどで読める量で、各々完結しているのも、ちょっとした時間に読もうかという気分にさせてくれる。それでいて、ストーリー性も匂わせてくれる。群論という巨大な要塞も分解してしまうと、軽やかな調べのように流れていくものらしい。そして、ようやく入り口に立てたような気がするのであった...
数学が数を対象とする学問であることは確かである。そして、万物は数である... とのピュタゴラス派の格言を信じるならば、その対象は無限に拡がる。自然数のような数そのものであったり、球形や多面体のような形を成すものであったり、はたまた、方程式のような関連性を記述する文字の羅列であったり...
本書は、まず正多面体から、対称群、交代群、巡回群... の成り行きを追う。群論の特殊な表記法にも馴染みにくいものがあるが、なぜこんな表記に至ったのか、その経緯も軽く解説してくれる。
そして、H を G の部分群とすると、G の元 g に対して、こいつの正体を追っていくわけだが、
gHg-1
巡回群を形成していく様子を眺めるだけでも、そこに暗号システムの源泉が透けて見えてくる。G = { g0, g1, g2, g3, g4, g5 } において、g6 = g0 となれば、巡回群となり、モジュロ演算との相性の良さが浮かび上がる。
そして、巡回群は位数によって分類され、左余剰類や右余剰類の意味を探りながら物語は進んでいく。ここで言う位数とは、有限群の元の個数のことだが、無限集合における濃度のようなものに見えてくる。個数を抽象化すれば、濃度になるってか。なんと、正多面体の頂点が左剰余類に吸い込まれていくではないか。剰余類とは、文字通りモジュロ演算に関係する。
さらに、加群の近さから距離の概念が登場し、位相群へといざなう。アーベル群の可換性から位相の概念へと導くのである。位相とは距離の抽象化というわけか。ここまでくれば、トポロジーが見えてくる。
それにしても、こいつらは本当に数なのだろうか。抽象度を高めるほど、考古学的とも言うべき暗号めいた記法へと導かれる。人間が編み出した自然言語は、宇宙の合理性には適っていないと見える。宇宙が有限ならば、向かう先も有限群ということになりそうか...
抽象的なものを相手にすると、効率的な表現法が求められる。プログラミング言語の世界では、文字列の集合体を効率的に記述する「正規表現」なるものがあるが、群論にもこれに似た思考法があるようだ。数学もまたある種の形式言語というわけか。表記法ってやつは、効率性を追求すると、暗号めいたものになって人間の感覚からは遠ざかっていくものらしい。そして、数論に発する抽象論は、表現論に帰着するのであった...
「群」の定義そのものは、なにも難しいことを告げてはいない。結合法則が成り立って、単位元なるものが存在して、逆元も存在するような代数的体系。ただそれだけのこと。義務教育のレベルでも定義できそうな。しかし、このお告げがなかなかの曲者ときた。交換法則なんて当たり前!なんて気を抜いていると、宇宙には非可換群で満ち満ちていることを思い知らされる。この酔いどれには、可解群や冪零群なんぞに興味はない。もっと実存感のある群を...
そこで、本書で躍動する群は、幾何学的なものが中心となる。シンメトリーを語るなら、まさに見たまんま。三次元空間の住人にとっての最も神聖な形といえば、球体であろうか。半径を元とする真円球の完全性に魅せられて。いや、人間ってやつは、角(かど)が立つものを欲する。自己が巻き込まれない距離で、他人が揉めるのを眺めるのがお好きときた。角のあるものを崇めるなら、プラトン立体であろうか。神聖なプラトン立体は、回転操作によるπの軽やかな調べに乗って、対称性の美へいざなう。
プラトンは、既に正多面体が五種類しかないことを知っていた。どうやって知ったかは知らんが。多面体の属性が、頂点、辺、面の三つであることも見たまんま。正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体をそれぞれ構成する面は、正三角形、正方形、正三角形、正五角形、正三角形となる。正三角形、正方形、正五角形の三つには、神が宿るのかは知らんが。対称性のパターンは、一つの形から出発して、規則立った移動、反転、回転などの操作を繰り返して生成される。この運動の原理を数学的に定式化することが、「群」という考え方の始まりというわけである。
とはいえ、完全な対称性は、ちと窮屈に思える。神の支配力が及び過ぎている感が。抑圧的で宗教的な感が。自然界は、ちょいとバランスを欠くぐらいが収まりがいい。自由を求めるならば、ちょいと調和を欠くぐらいでいい。数学の支配力が及び過ぎるのは疲れる...
「生物の形態や無機物の結晶などにみられる、神の創造としか思えぬような、見事な対称性や、起源をはるかシュメールやエジプトにまでさかのぼる多くの紋様や芸術作品にみられる対称性、これらの対称性は、つねにある特殊な美を表象している。対称性とは何かを分析し、抽象し、一般化していくと、そこに '群' の概念が現われてくる。プラトン的なイデアの世界に立っていうならば、対称性とは群そのものである。」
ところで、本物語の過程で「自由群」なるものが登場する。なんじゃこりゃ?束縛されない関係だとすれば、等式が成り立たないことになるが、となると独立事象ってことか?いや、割り算を介して関係をもつらしい。どうやら自由とは割り切れないものらしい...
「どんな群でも、自由群の商群として表せる。」
んん~、こんなものに何の意味が?自由ほど手に負えないものはない!と告げているのか。どんなに独立した事象であっても、宇宙創生の観点から何らかの関連性を見い出すことができる。宇宙がビッグバン理論のようなただの一点から誕生したとすれば、万物の構造は素粒子レベルでは似たり寄ったり。
そして、関連の度合いが、群論で言うところの位数に相当するのだろうか。位数が素数である場合に何らかの意味が内包されているのだろうか。思考過程では、ひたすら同型を求め... 同類を求め... 仲間を求め... その先に、人間が編み出すクローン人間にも、自己同型の位数がつきまとうのだろうか。やはり、ホモサピエンスという種は、ひたすら関係を求める性癖をもち、群れるのがお好きと見える。群論とは、寂しがり屋の理論であったか...
今回、縋るのは、数学30講シリーズ。一つ一つの講義は、10分ほどで読める量で、各々完結しているのも、ちょっとした時間に読もうかという気分にさせてくれる。それでいて、ストーリー性も匂わせてくれる。群論という巨大な要塞も分解してしまうと、軽やかな調べのように流れていくものらしい。そして、ようやく入り口に立てたような気がするのであった...
数学が数を対象とする学問であることは確かである。そして、万物は数である... とのピュタゴラス派の格言を信じるならば、その対象は無限に拡がる。自然数のような数そのものであったり、球形や多面体のような形を成すものであったり、はたまた、方程式のような関連性を記述する文字の羅列であったり...
本書は、まず正多面体から、対称群、交代群、巡回群... の成り行きを追う。群論の特殊な表記法にも馴染みにくいものがあるが、なぜこんな表記に至ったのか、その経緯も軽く解説してくれる。
そして、H を G の部分群とすると、G の元 g に対して、こいつの正体を追っていくわけだが、
gHg-1
巡回群を形成していく様子を眺めるだけでも、そこに暗号システムの源泉が透けて見えてくる。G = { g0, g1, g2, g3, g4, g5 } において、g6 = g0 となれば、巡回群となり、モジュロ演算との相性の良さが浮かび上がる。
そして、巡回群は位数によって分類され、左余剰類や右余剰類の意味を探りながら物語は進んでいく。ここで言う位数とは、有限群の元の個数のことだが、無限集合における濃度のようなものに見えてくる。個数を抽象化すれば、濃度になるってか。なんと、正多面体の頂点が左剰余類に吸い込まれていくではないか。剰余類とは、文字通りモジュロ演算に関係する。
さらに、加群の近さから距離の概念が登場し、位相群へといざなう。アーベル群の可換性から位相の概念へと導くのである。位相とは距離の抽象化というわけか。ここまでくれば、トポロジーが見えてくる。
それにしても、こいつらは本当に数なのだろうか。抽象度を高めるほど、考古学的とも言うべき暗号めいた記法へと導かれる。人間が編み出した自然言語は、宇宙の合理性には適っていないと見える。宇宙が有限ならば、向かう先も有限群ということになりそうか...
抽象的なものを相手にすると、効率的な表現法が求められる。プログラミング言語の世界では、文字列の集合体を効率的に記述する「正規表現」なるものがあるが、群論にもこれに似た思考法があるようだ。数学もまたある種の形式言語というわけか。表記法ってやつは、効率性を追求すると、暗号めいたものになって人間の感覚からは遠ざかっていくものらしい。そして、数論に発する抽象論は、表現論に帰着するのであった...
「群」の定義そのものは、なにも難しいことを告げてはいない。結合法則が成り立って、単位元なるものが存在して、逆元も存在するような代数的体系。ただそれだけのこと。義務教育のレベルでも定義できそうな。しかし、このお告げがなかなかの曲者ときた。交換法則なんて当たり前!なんて気を抜いていると、宇宙には非可換群で満ち満ちていることを思い知らされる。この酔いどれには、可解群や冪零群なんぞに興味はない。もっと実存感のある群を...
そこで、本書で躍動する群は、幾何学的なものが中心となる。シンメトリーを語るなら、まさに見たまんま。三次元空間の住人にとっての最も神聖な形といえば、球体であろうか。半径を元とする真円球の完全性に魅せられて。いや、人間ってやつは、角(かど)が立つものを欲する。自己が巻き込まれない距離で、他人が揉めるのを眺めるのがお好きときた。角のあるものを崇めるなら、プラトン立体であろうか。神聖なプラトン立体は、回転操作によるπの軽やかな調べに乗って、対称性の美へいざなう。
プラトンは、既に正多面体が五種類しかないことを知っていた。どうやって知ったかは知らんが。多面体の属性が、頂点、辺、面の三つであることも見たまんま。正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体をそれぞれ構成する面は、正三角形、正方形、正三角形、正五角形、正三角形となる。正三角形、正方形、正五角形の三つには、神が宿るのかは知らんが。対称性のパターンは、一つの形から出発して、規則立った移動、反転、回転などの操作を繰り返して生成される。この運動の原理を数学的に定式化することが、「群」という考え方の始まりというわけである。
とはいえ、完全な対称性は、ちと窮屈に思える。神の支配力が及び過ぎている感が。抑圧的で宗教的な感が。自然界は、ちょいとバランスを欠くぐらいが収まりがいい。自由を求めるならば、ちょいと調和を欠くぐらいでいい。数学の支配力が及び過ぎるのは疲れる...
「生物の形態や無機物の結晶などにみられる、神の創造としか思えぬような、見事な対称性や、起源をはるかシュメールやエジプトにまでさかのぼる多くの紋様や芸術作品にみられる対称性、これらの対称性は、つねにある特殊な美を表象している。対称性とは何かを分析し、抽象し、一般化していくと、そこに '群' の概念が現われてくる。プラトン的なイデアの世界に立っていうならば、対称性とは群そのものである。」
ところで、本物語の過程で「自由群」なるものが登場する。なんじゃこりゃ?束縛されない関係だとすれば、等式が成り立たないことになるが、となると独立事象ってことか?いや、割り算を介して関係をもつらしい。どうやら自由とは割り切れないものらしい...
「どんな群でも、自由群の商群として表せる。」
んん~、こんなものに何の意味が?自由ほど手に負えないものはない!と告げているのか。どんなに独立した事象であっても、宇宙創生の観点から何らかの関連性を見い出すことができる。宇宙がビッグバン理論のようなただの一点から誕生したとすれば、万物の構造は素粒子レベルでは似たり寄ったり。
そして、関連の度合いが、群論で言うところの位数に相当するのだろうか。位数が素数である場合に何らかの意味が内包されているのだろうか。思考過程では、ひたすら同型を求め... 同類を求め... 仲間を求め... その先に、人間が編み出すクローン人間にも、自己同型の位数がつきまとうのだろうか。やはり、ホモサピエンスという種は、ひたすら関係を求める性癖をもち、群れるのがお好きと見える。群論とは、寂しがり屋の理論であったか...
2019-04-07
"天才ガロアの発想力 - 対称性と群が明かす方程式の秘密" 小島寛之 著
エヴァリスト・ガロア... この名を聞けば、あの忌々しいヤツが頭をよぎる。群論ってヤツが... おいらを数学の落ちこぼれにした張本人と言ってもいい。おいらは数学屋ではないが、いまだに付き纏ってきやがる。なので、ボトルを差し入れては数学屋さんに計算をお願いする羽目に...
体論はまだいい。四則演算の領域にとどまっている間はまだいい。だが、群論となると、抽象レベルが一段上がり、対象物の正体が一向に見えてこない。群の定義は、なにも難しいことを告げているわけではない。結合法則が成り立って、単位元なるものが存在して、逆元も存在するような代数的体系。ただそれだけのこと。義務教育のレベルでも定義できそうな...
しかし、こいつは二項演算における定義であって、この抽象的な演算系がなかなかの曲者。四則演算の領域をとっくに飛び越え、写像を含めたあらゆる変換系が絡んできやがる。おまけに交換法則が問われると、可換群や非可換群に枝分かれし、もうええっちゅに!算数レベルで眺めれば、交換法則なんて当たり前って感覚が、行列式を眺めれば、宇宙には非可換群で満ち満ちていることを思い知らされる。
対象があまりにも抽象的すぎるから、凡人には姿が見えてこないのか。代数学そのものが、数の代替物を用いて記述する抽象的な学問といえば、そうなのだが...
とはいえ、何事も正体ってやつは、ぼんやりとしているぐらいでちょうどいい。神の正体がはっきり見えたとしたら、おそらく身を委ねる気にはなれないだろう。これぞチラリズム!そして、数学は哲学になるのであった...
ガロアの父は、悪意ある司祭によって中傷され自殺したという。そのために正義感を強め、政治運動を過熱させていったのか。二十歳に女をめぐってピストル決闘で絶命。反抗的なエネルギーを持て余す少年の末路に、政治的な策謀があったかは知らない。
彼の遺書は、「もう時間がない!」から始まる壮絶な数学論文だったという。そこに記される「群」という用語に抵抗感があっても、数の構造や性質を観察すること自体は嫌いではない。本書は、この観察の目に、幾何学的なイメージを与えてくれる。
「群は対称性の表現だ!」
おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間的な脳内マッピングとでも言おうか。昔からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか理解できていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。サヴァン症候群のダニエル・タメットは「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。
本書に登場する幾何学的な操作は、まさに線対称や回転対称といった基本的なものばかり。これでガロアを語ろうというのだから... おかげで、群論への再挑戦!という衝動に駆られる。一度返り討ちにあったことも忘れて...
ガロア理論は告げている。「二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない。」と。五次方程式に解の公式がないことはアーベルによって証明された。だが、解ける場合もあり、アーベルはその判定基準を与えていない。ガロアは方程式が四則演算と冪根で解ける条件を完全に特定したのである。n次方程式を区別することなく群によって表現してみると、自然に解の性質が見えてくるという観点から...
ここで重要な概念は、「自己同型」ってやつだ。それは、代数的な性質を保ちながら対象を写像すること。代数的な性質とは、例えば、四則演算の結果が同じ体にとどまるかを問うた時、自然数体であれば、負の数や少数が生じて整数体や有理数体にはみ出してしまう。そこで、代数的な解法が存在するかを探るということは、代数体の性質を保ちながら体にとどまることができるかを探ることになる。写像が代数体の範疇にとどまれば、方程式の一般的な解法も存在するというわけである。
なるほど、解の発見とは、自己同型群を観察しながら自己を見つめ直し、自我を再発見することであったか。そりゃ、人間には永遠に望めまい。ガロアの発想力は人間離れしている...
ガロアの思考法は、体と群という二つの数学構造を行き来しながら、「方程式の話を対称性の観点から群の話に置き換えた」ということのようである。関数的な操作では恒等写像や共役写像に重要な役割が与えられるものの、幾何学的な操作では、二次方程式の解から作った群を二等辺三角形の底辺の線対称に帰着させ、三次方程式の解から作った群を正三角形の対称性に帰着させ、四次方程式の解から作った群を四角形の対称性に帰着させる。そして、五次方程式の解から作った群を五角形の対称性に帰着させることができれば... ということになるが、かなり複雑であることが想像できる。正五角形のような対称性に収まる場合もあるけど。
解の部分群が巡回群になってくれさえすれば、なんらかの対称性を見出すことができ、このあたりに代数的な解法が存在するかどうかの判定基準が隠されていそうである。
本書は、ハッセ図で部分群を図式化してくれる。ハッセ図とは、部分群の家系図のようなもので、群の対応が視覚化できる。ハッセ図を用いて部分群をいじりたおす!という視点から、いわば、代数学と幾何学の相性を語ってくれているのである。
ところで、二次方程式の解の公式は義務教育で習ったが、三次方程式のものとなるとまったく相手にされない。二次方程式の解の公式は、幾何学的な操作でも証明ができるし、判別式の意義も説明しやすいというのもあろうけど。
そもそも解が存在するということは、因数分解ができることを意味する。三次では、一次と二次の積に分解すればいいので、おぞましい公式なんぞ覚えるのも馬鹿らしいってか。
そこで、本書で紹介されるフォンタナ(タルターリア)の思考法が参考になる。彼は、わざわざ x = y + z を代入して、元々一つしかない変数を一つ増やしたという。三次方程式を一次方程式と二次方程式の連立方程式に帰着させるのである。
ただ、このやり方では、なぜ解けるのかが見えてこないし、三次方程式における解法は感覚的なもののように映る。
ちなみに、フォンタナとカルダーノは、三次方程式の解法の発見における中心的な人物で、論争のエピソードもある。タルターリアは「吃音」を意味し、フォンタナは幼少期にフランス軍の略奪によって顎に障害を負い、言葉が不自由になってそう渾名されたのだとか。おそらく論争は苦手であったろう...
体論はまだいい。四則演算の領域にとどまっている間はまだいい。だが、群論となると、抽象レベルが一段上がり、対象物の正体が一向に見えてこない。群の定義は、なにも難しいことを告げているわけではない。結合法則が成り立って、単位元なるものが存在して、逆元も存在するような代数的体系。ただそれだけのこと。義務教育のレベルでも定義できそうな...
しかし、こいつは二項演算における定義であって、この抽象的な演算系がなかなかの曲者。四則演算の領域をとっくに飛び越え、写像を含めたあらゆる変換系が絡んできやがる。おまけに交換法則が問われると、可換群や非可換群に枝分かれし、もうええっちゅに!算数レベルで眺めれば、交換法則なんて当たり前って感覚が、行列式を眺めれば、宇宙には非可換群で満ち満ちていることを思い知らされる。
対象があまりにも抽象的すぎるから、凡人には姿が見えてこないのか。代数学そのものが、数の代替物を用いて記述する抽象的な学問といえば、そうなのだが...
とはいえ、何事も正体ってやつは、ぼんやりとしているぐらいでちょうどいい。神の正体がはっきり見えたとしたら、おそらく身を委ねる気にはなれないだろう。これぞチラリズム!そして、数学は哲学になるのであった...
ガロアの父は、悪意ある司祭によって中傷され自殺したという。そのために正義感を強め、政治運動を過熱させていったのか。二十歳に女をめぐってピストル決闘で絶命。反抗的なエネルギーを持て余す少年の末路に、政治的な策謀があったかは知らない。
彼の遺書は、「もう時間がない!」から始まる壮絶な数学論文だったという。そこに記される「群」という用語に抵抗感があっても、数の構造や性質を観察すること自体は嫌いではない。本書は、この観察の目に、幾何学的なイメージを与えてくれる。
「群は対称性の表現だ!」
おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間的な脳内マッピングとでも言おうか。昔からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか理解できていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。サヴァン症候群のダニエル・タメットは「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。
本書に登場する幾何学的な操作は、まさに線対称や回転対称といった基本的なものばかり。これでガロアを語ろうというのだから... おかげで、群論への再挑戦!という衝動に駆られる。一度返り討ちにあったことも忘れて...
ガロア理論は告げている。「二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない。」と。五次方程式に解の公式がないことはアーベルによって証明された。だが、解ける場合もあり、アーベルはその判定基準を与えていない。ガロアは方程式が四則演算と冪根で解ける条件を完全に特定したのである。n次方程式を区別することなく群によって表現してみると、自然に解の性質が見えてくるという観点から...
ここで重要な概念は、「自己同型」ってやつだ。それは、代数的な性質を保ちながら対象を写像すること。代数的な性質とは、例えば、四則演算の結果が同じ体にとどまるかを問うた時、自然数体であれば、負の数や少数が生じて整数体や有理数体にはみ出してしまう。そこで、代数的な解法が存在するかを探るということは、代数体の性質を保ちながら体にとどまることができるかを探ることになる。写像が代数体の範疇にとどまれば、方程式の一般的な解法も存在するというわけである。
なるほど、解の発見とは、自己同型群を観察しながら自己を見つめ直し、自我を再発見することであったか。そりゃ、人間には永遠に望めまい。ガロアの発想力は人間離れしている...
ガロアの思考法は、体と群という二つの数学構造を行き来しながら、「方程式の話を対称性の観点から群の話に置き換えた」ということのようである。関数的な操作では恒等写像や共役写像に重要な役割が与えられるものの、幾何学的な操作では、二次方程式の解から作った群を二等辺三角形の底辺の線対称に帰着させ、三次方程式の解から作った群を正三角形の対称性に帰着させ、四次方程式の解から作った群を四角形の対称性に帰着させる。そして、五次方程式の解から作った群を五角形の対称性に帰着させることができれば... ということになるが、かなり複雑であることが想像できる。正五角形のような対称性に収まる場合もあるけど。
解の部分群が巡回群になってくれさえすれば、なんらかの対称性を見出すことができ、このあたりに代数的な解法が存在するかどうかの判定基準が隠されていそうである。
本書は、ハッセ図で部分群を図式化してくれる。ハッセ図とは、部分群の家系図のようなもので、群の対応が視覚化できる。ハッセ図を用いて部分群をいじりたおす!という視点から、いわば、代数学と幾何学の相性を語ってくれているのである。
ところで、二次方程式の解の公式は義務教育で習ったが、三次方程式のものとなるとまったく相手にされない。二次方程式の解の公式は、幾何学的な操作でも証明ができるし、判別式の意義も説明しやすいというのもあろうけど。
そもそも解が存在するということは、因数分解ができることを意味する。三次では、一次と二次の積に分解すればいいので、おぞましい公式なんぞ覚えるのも馬鹿らしいってか。
そこで、本書で紹介されるフォンタナ(タルターリア)の思考法が参考になる。彼は、わざわざ x = y + z を代入して、元々一つしかない変数を一つ増やしたという。三次方程式を一次方程式と二次方程式の連立方程式に帰着させるのである。
ただ、このやり方では、なぜ解けるのかが見えてこないし、三次方程式における解法は感覚的なもののように映る。
ちなみに、フォンタナとカルダーノは、三次方程式の解法の発見における中心的な人物で、論争のエピソードもある。タルターリアは「吃音」を意味し、フォンタナは幼少期にフランス軍の略奪によって顎に障害を負い、言葉が不自由になってそう渾名されたのだとか。おそらく論争は苦手であったろう...
2019-04-01
人生の操作性は、軽いアンダーステア...
今日、四月一日...
海辺で恵風に誘われ、軽やかにステアリング操作でもやりたくなる気分。ただ、来た道を振り返ってみると、堂々と冗談の言える日に冗談では済まなくなる。そして、つくづく思う。人生の操作ってやつが、いかに難しいことか... と。十年後の自分を思い描いてみたところで、その通りになったためしがない。なにゆえ、未来像なんてものを描こうとするのか。現在に絶望すれば、未来に希望を抱かずにはいられない。未来像とは、偶像崇拝の類いか。未来に希望を見い出せなければ、過去を懐かしむしかない。すると今度は、昔はよかった... などと老人癖がでる。俗世間には、現実逃避症候群が蔓延しているようだ。ナポレオンはうまいことを言った、「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」と...
人間ってやつは、長く生きれば生きるほど頑固になる。今まで生きてきたことを否定したくないからだ。ならば、ちょいとばかり自己を疑ってかかるぐらいでいい。自己否定は危険な試みではあるけど。イングリッド・バーグマンはうまいことを言った、「幸福とは健康と記憶力の悪さじゃないかしら。」と...
そして、人生の曲がり角を軽いアンダーステアで流そうとしたら、重いゲシュタルト崩壊を引き起こすのであった...
すべてが計画通りに進み、成すことすべてが完全に制御できれば、豊かな人生になるだろうか。いや、それはそれで窮屈なものとなろう。力み過ぎては、人生の曲がり角でスピンする。オーバーステアでは、問題の周りをぐるぐる回ってしまう。人生を彩るには、少しばかり荷重の抜ける余地を残したい。自然に荷重が抜けるように少し力を抜き、そして、精神をちょいと破綻させてみてはどうか。ちょいと狂ってみてはどうか...
人間ってやつは、ちょいと馬鹿なぐらいがいい。ちょいと自信がないぐらいがいい。ちょいと不器用なぐらいがいい。それを自覚できれば、なおいい。だから懸命になれる。ほんのちょっぴり幸せを感じるぐらいでいい。人間ってやつは、幸せ過ぎても、不幸過ぎても、残酷になれるものらしいから。どうやら欲望エントロピーは、軽いインフレを求めているようだ。
目の前は少しばかり霞んでいるぐらいがいい。これがチラリズムの哲学。物事は、ちょいと曖昧なぐらいがいい。意識は、ちょいとばかりうつろなぐらいがいい。騒々しい社会に慣れちまったら、特にそうだ。具体的すぎる社会は疲れる。
ニュートンの法則によると、地球上の重力はすべての物体に平等に働くことになっている。だが、人間は自分の存在感を強調する余り、他人より大きな重みを求めてやまない。いや、影では、女性諸君は体重計の前で軽い存在を演じているらしい。鏡の前での念入りな厚化粧も、ひび割れしては、お肌の曲がり角も曲がりきれないと見える。
夜の社交場では、常識や形式を重んじる理性者どもが、ちょいワルオヤジを演じてやがる。不良ぶるのがモテる秘訣と言わんばかりに。これが右曲がりのダンディズムってやつかは知らん。
女性諸君も、男性諸君も、人生のコーナーをやや攻めすぎていると見える。
知性のコーナーを攻めるのも、なかなか手強い。学問が専門化によって没落するという意見をよく耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。問題は専門化ではなく、問題そのものが理解できていないことだ。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。いくら知識で武装しても、精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれた酔いどれ天の邪鬼には知性なんぞ無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしでしかない。
そして今日、四月一日に得られた帰結は...
人生のコーナーを限界まで攻めるには、ちょいとアンダーステアぐらいがいい。どうやらアル中ハイマー病とは、精神と記憶がアンダーステア状態にあることを言うらしい...
海辺で恵風に誘われ、軽やかにステアリング操作でもやりたくなる気分。ただ、来た道を振り返ってみると、堂々と冗談の言える日に冗談では済まなくなる。そして、つくづく思う。人生の操作ってやつが、いかに難しいことか... と。十年後の自分を思い描いてみたところで、その通りになったためしがない。なにゆえ、未来像なんてものを描こうとするのか。現在に絶望すれば、未来に希望を抱かずにはいられない。未来像とは、偶像崇拝の類いか。未来に希望を見い出せなければ、過去を懐かしむしかない。すると今度は、昔はよかった... などと老人癖がでる。俗世間には、現実逃避症候群が蔓延しているようだ。ナポレオンはうまいことを言った、「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」と...
人間ってやつは、長く生きれば生きるほど頑固になる。今まで生きてきたことを否定したくないからだ。ならば、ちょいとばかり自己を疑ってかかるぐらいでいい。自己否定は危険な試みではあるけど。イングリッド・バーグマンはうまいことを言った、「幸福とは健康と記憶力の悪さじゃないかしら。」と...
そして、人生の曲がり角を軽いアンダーステアで流そうとしたら、重いゲシュタルト崩壊を引き起こすのであった...
すべてが計画通りに進み、成すことすべてが完全に制御できれば、豊かな人生になるだろうか。いや、それはそれで窮屈なものとなろう。力み過ぎては、人生の曲がり角でスピンする。オーバーステアでは、問題の周りをぐるぐる回ってしまう。人生を彩るには、少しばかり荷重の抜ける余地を残したい。自然に荷重が抜けるように少し力を抜き、そして、精神をちょいと破綻させてみてはどうか。ちょいと狂ってみてはどうか...
人間ってやつは、ちょいと馬鹿なぐらいがいい。ちょいと自信がないぐらいがいい。ちょいと不器用なぐらいがいい。それを自覚できれば、なおいい。だから懸命になれる。ほんのちょっぴり幸せを感じるぐらいでいい。人間ってやつは、幸せ過ぎても、不幸過ぎても、残酷になれるものらしいから。どうやら欲望エントロピーは、軽いインフレを求めているようだ。
目の前は少しばかり霞んでいるぐらいがいい。これがチラリズムの哲学。物事は、ちょいと曖昧なぐらいがいい。意識は、ちょいとばかりうつろなぐらいがいい。騒々しい社会に慣れちまったら、特にそうだ。具体的すぎる社会は疲れる。
人間は、人生のアマチュアであり続ける。合理主義は肩がこる。ならば、ちょいと不合理なぐらいがいい。人生には、道草、寄り道の類いが不可欠だ。あの大女優のセリフ「すこし愛して、なが~く愛して...」とは、なかなかの真理をついている。その証拠に、ハスキーな甘い声にイチコロよ。人生のコーナーを攻めるには、ステアリング舵角を小さめに、流れるように生きたいものである。五感をニュートラルにして...
ニュートンの法則によると、地球上の重力はすべての物体に平等に働くことになっている。だが、人間は自分の存在感を強調する余り、他人より大きな重みを求めてやまない。いや、影では、女性諸君は体重計の前で軽い存在を演じているらしい。鏡の前での念入りな厚化粧も、ひび割れしては、お肌の曲がり角も曲がりきれないと見える。
夜の社交場では、常識や形式を重んじる理性者どもが、ちょいワルオヤジを演じてやがる。不良ぶるのがモテる秘訣と言わんばかりに。これが右曲がりのダンディズムってやつかは知らん。
女性諸君も、男性諸君も、人生のコーナーをやや攻めすぎていると見える。
知性のコーナーを攻めるのも、なかなか手強い。学問が専門化によって没落するという意見をよく耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。問題は専門化ではなく、問題そのものが理解できていないことだ。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。いくら知識で武装しても、精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれた酔いどれ天の邪鬼には知性なんぞ無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしでしかない。
そして今日、四月一日に得られた帰結は...
人生のコーナーを限界まで攻めるには、ちょいとアンダーステアぐらいがいい。どうやらアル中ハイマー病とは、精神と記憶がアンダーステア状態にあることを言うらしい...
2019-03-24
"近世数学史談" 高木貞治 著
歴史は、正確な記録をもって史実となす。それは、読み物としては無味乾燥なものとなろう。しかし、だ。史論となると別だ。史論は各人各様でなければ。ましてや史談となると。そして、客観論を主体とする数学の権威が、ガウス、アーベル、ガロアらを思いっきり主観で語ると宣言すれば、見過すわけにはいかない...
「回顧は、老人の追想談になるのが普通で、それは通例不確かなものであることが世間の定評であるようであります。それは当然不確かになるべきものだと考えられます。遭遇というか閲歴というか、つまり現在の事だって本当には分らない。それは当然主観的である。しかも過去は一たび去って永久に消滅してしまう。そうしてそれを回想する主観そのものも年とともに易(かわ)って行くのであるから、まあ大して当てになるものではない。これは一般にそうだろうが、今私の場合は確かにそうなのだから、むしろ始めから、自己中心に、主観的に、過去を回顧すると、明言して置くのが安全であろう。」
なにをもって近代数学の起点とするか。その一つに、微積分法の発見をもって、という見方がある。だが、理論なんてものは、突然湧いて出るものではない。ニュートンやライプニッツといった偉大な先駆者もいれば、アルキメデスを挙げる呑気な見方もある。18世紀になると、ベルヌーイ家、オイラー、ラグランジュ、ラプラスらの時代がやってきて、微積分法を拡充させた。
しかしながら、ここではガウスに屈する。それは、正十七角形の作図法というセンセーションな発見に始まったとさ。
正多角形の中で、三角形、五角形、十五角形、あるいは、辺数を倍にしていく図形ならば、それが作図可能なことは、酔いどれ天の邪鬼でもなんとなく分かる。だが、十七角形となると、そこに芸術を見る思い。なにしろ、ガウスの円周等分論が後ろ盾になっているのだから。すなわち、xn - 1 = 0 において n =17 の時、この方程式が平方根によって解き得ることに基づいている。円周等分の理論は二千年来の快挙、いまだ人類はコンパスと定規に取り憑かれているようだ。どうやら神はフリーハンドがお嫌いと見える。いったい神は人間に何を描かせようというのか...
ところで、方程式をめぐる物語は、整数論、積分論、楕円関数論へと導かれるが、その影に解析学を感じるのは気のせいであろうか。おいらは数学屋ではない。数学屋にボトルの差し入れで計算をお願いする技術屋で、要するに数学の落ちこぼれ。数学屋を理想派とするなら技術屋は現実派、いわば実装屋である。実装屋にとって、方程式の解を丹念に正確に導くよりも、手っ取り早く近似値を得る方がずっと現実的である。特に、あの忌々しい微分方程式ってヤツは...
微分方程式を一つの抽象として捉えることはできよう。微分方程式の理論一般がそうであるように、ある設定のもとで解の存在が問われる。そこで、無限級数の総和が収束するというだけで、ささやかな光明となる。永遠に足し算をやって、なぜ発散しないのか?そこに魔術を感じずにはいられない。ゼータ関数なんて、まさにオイラーマジック。収束することを保証さえしてくれれば、上位項を適当に選ぶだけで近似値が得られ、テイラー展開やマクローリン展開といった方法論が存在感を増す。すべての現象を、たとえ近似とはいえ解析可能になれば、数学は真に偉大な学問となろう。アーベルやガロアらは、無限の数の羅列に宇宙征服の夢でも描いていたのだろうか...
1. ガウスの美学
ガウスは常に研究の成果が完成されたる芸術的作品の如き形式を具えることを努めた... と伝えられる。数学の定理に神を見ようとすれば、不完全では神に失礼だ。完成された芸術のみを発表するという美学。計算狂ガウスにして、そうならしめたのか。彼は検証を急がない。結論を急がない。この姿勢は、アーベルやヤコービとは大分違うようである。
ヤコービは、「ガウス流の厳格主義!そんな暇があるものか」と言い放ったとか。そのために、ガウスは自ら論争の種をまく。
例えば、最小二乗法の先発権をめぐってルジャンドルとの間に生じた一悶着。ガウス本人が気にかけなくても、ガウスを崇拝する弟子たちが黙っちゃいない。
また、関数論の起源をいつとするか?と問えば、1825年、コーシーの複素積分に関する論文をもって、とするのが一般的なようである。留数という語も、コーシーに発していると認識している。コーシーは、フランスのガウスとも評される人物。しかし、ガウスは既にこのアイデアを自家用として秘蔵していたという。1851年にようやく到達した関数論の基本定理とされるコーシーの積分定理が、40年前にガウスによって明確に述べられていることが書簡の中に見つかったとか。ガウスには、関数論の歴史的発見に、それほどの価値を見い出せなかったと見える。
「ガウスが進んだ道は即ち数学の進む道である。その道は帰納的である。特殊から一般へ!それが標語である。それは凡ての実質的なる学問に於て必要なる条件であらねばならない。数学が演繹的であるというが、それは既成数学の修業にのみ通用するのである。自然科学に於ても一つの学説が出来てしまえば、その学説に基づいて演繹をする。しかし論理は当たり前なのだから、演繹のみから新しい物は何も出て来ないのが当り前であろう。若しも学問が演繹のみにたよるならば、その学問は小さな環の上を永遠に週期的に廻転する外はないであろう。我々は空虚なる一般論に捉われないで、帰納の一途に精進すべきではあるまいか。」
2. Notation でなく、Notion に由って...
数学は、しばしば無味乾燥な表記法とみなされる。だが、高度な抽象論を求めれば、表記よりも概念を上位とみなすであろう。形而上学のごとく。おいらは、数学は哲学である!と考えている。微分方程式を前にして袋小路に陥る時は、だいたい記号の群れに囚われている。解が明らかになるということは、記号で明確に表記できるということ。それゆえ記号に囚われる。だから数学で落ちこぼれ、いまや数学屋に媚びを売るしかない。本書は、そんな嘆きをディリクレ小伝で励ましてくれる。
「偶然の事情に由って -- 多くは伝来上 -- 或る問題にからまっている夾雑物を洗い落として、問題の本質を直視することが、しばしば進歩の鍵である。その一例がここにもある。成るべく計算を厭うて、概念その物を議論の基礎にすることがヂリクレの長所としてたたえられる。計算は盲目で行き当たりばったりである。思想は目明きで目標を直視する。『盲目の計算の極小を以って、目明きの極大へと、問題を追いつめるのがヂリクレの流儀で、それこそ本当のヂリクレの原則(Dirichlet's Principle)と言うものであろう』とは、ミンコフスキの巧まい洒落(の拙い直訳)である。ヂリクレに限るのではない、既にオイラーであったか、ガウスであったかに関して、『Notation(記号)でなくnotion(概念)に由って』という格言を前に引いたが、これも同じ意味である。優れた数学者は決して形式屋(Formelmensch)ではない。」
3. 割りを食ったかルジャンドル?
G.(ガウス)との比較で、三人の L. が槍玉に挙げられる。既に老大家となったラグランジュ、ラプラス、ルジャンドルの中で、特に、割りを食っている感のあるルジャンドル。整数論、幾何学原理、楕円関数といった仕事のやり方で、ことごとく対照的に描かれる。とはいえ...
「このような対照に於て、我々は成心を以って L. を抑えて G. を揚げるのではない。気紛れな『歴史』が稀に見せてくれる面白い芝居が、ここに演ぜられたのである。新しい時代は新しい人物に由って興るが、ルジャンドルは恰も過ぎ行く時代を代表するような位置にいて、新旧分岐の場面を鮮かにする役をしたのである。」
「回顧は、老人の追想談になるのが普通で、それは通例不確かなものであることが世間の定評であるようであります。それは当然不確かになるべきものだと考えられます。遭遇というか閲歴というか、つまり現在の事だって本当には分らない。それは当然主観的である。しかも過去は一たび去って永久に消滅してしまう。そうしてそれを回想する主観そのものも年とともに易(かわ)って行くのであるから、まあ大して当てになるものではない。これは一般にそうだろうが、今私の場合は確かにそうなのだから、むしろ始めから、自己中心に、主観的に、過去を回顧すると、明言して置くのが安全であろう。」
なにをもって近代数学の起点とするか。その一つに、微積分法の発見をもって、という見方がある。だが、理論なんてものは、突然湧いて出るものではない。ニュートンやライプニッツといった偉大な先駆者もいれば、アルキメデスを挙げる呑気な見方もある。18世紀になると、ベルヌーイ家、オイラー、ラグランジュ、ラプラスらの時代がやってきて、微積分法を拡充させた。
しかしながら、ここではガウスに屈する。それは、正十七角形の作図法というセンセーションな発見に始まったとさ。
正多角形の中で、三角形、五角形、十五角形、あるいは、辺数を倍にしていく図形ならば、それが作図可能なことは、酔いどれ天の邪鬼でもなんとなく分かる。だが、十七角形となると、そこに芸術を見る思い。なにしろ、ガウスの円周等分論が後ろ盾になっているのだから。すなわち、xn - 1 = 0 において n =17 の時、この方程式が平方根によって解き得ることに基づいている。円周等分の理論は二千年来の快挙、いまだ人類はコンパスと定規に取り憑かれているようだ。どうやら神はフリーハンドがお嫌いと見える。いったい神は人間に何を描かせようというのか...
ところで、方程式をめぐる物語は、整数論、積分論、楕円関数論へと導かれるが、その影に解析学を感じるのは気のせいであろうか。おいらは数学屋ではない。数学屋にボトルの差し入れで計算をお願いする技術屋で、要するに数学の落ちこぼれ。数学屋を理想派とするなら技術屋は現実派、いわば実装屋である。実装屋にとって、方程式の解を丹念に正確に導くよりも、手っ取り早く近似値を得る方がずっと現実的である。特に、あの忌々しい微分方程式ってヤツは...
微分方程式を一つの抽象として捉えることはできよう。微分方程式の理論一般がそうであるように、ある設定のもとで解の存在が問われる。そこで、無限級数の総和が収束するというだけで、ささやかな光明となる。永遠に足し算をやって、なぜ発散しないのか?そこに魔術を感じずにはいられない。ゼータ関数なんて、まさにオイラーマジック。収束することを保証さえしてくれれば、上位項を適当に選ぶだけで近似値が得られ、テイラー展開やマクローリン展開といった方法論が存在感を増す。すべての現象を、たとえ近似とはいえ解析可能になれば、数学は真に偉大な学問となろう。アーベルやガロアらは、無限の数の羅列に宇宙征服の夢でも描いていたのだろうか...
1. ガウスの美学
ガウスは常に研究の成果が完成されたる芸術的作品の如き形式を具えることを努めた... と伝えられる。数学の定理に神を見ようとすれば、不完全では神に失礼だ。完成された芸術のみを発表するという美学。計算狂ガウスにして、そうならしめたのか。彼は検証を急がない。結論を急がない。この姿勢は、アーベルやヤコービとは大分違うようである。
ヤコービは、「ガウス流の厳格主義!そんな暇があるものか」と言い放ったとか。そのために、ガウスは自ら論争の種をまく。
例えば、最小二乗法の先発権をめぐってルジャンドルとの間に生じた一悶着。ガウス本人が気にかけなくても、ガウスを崇拝する弟子たちが黙っちゃいない。
また、関数論の起源をいつとするか?と問えば、1825年、コーシーの複素積分に関する論文をもって、とするのが一般的なようである。留数という語も、コーシーに発していると認識している。コーシーは、フランスのガウスとも評される人物。しかし、ガウスは既にこのアイデアを自家用として秘蔵していたという。1851年にようやく到達した関数論の基本定理とされるコーシーの積分定理が、40年前にガウスによって明確に述べられていることが書簡の中に見つかったとか。ガウスには、関数論の歴史的発見に、それほどの価値を見い出せなかったと見える。
「ガウスが進んだ道は即ち数学の進む道である。その道は帰納的である。特殊から一般へ!それが標語である。それは凡ての実質的なる学問に於て必要なる条件であらねばならない。数学が演繹的であるというが、それは既成数学の修業にのみ通用するのである。自然科学に於ても一つの学説が出来てしまえば、その学説に基づいて演繹をする。しかし論理は当たり前なのだから、演繹のみから新しい物は何も出て来ないのが当り前であろう。若しも学問が演繹のみにたよるならば、その学問は小さな環の上を永遠に週期的に廻転する外はないであろう。我々は空虚なる一般論に捉われないで、帰納の一途に精進すべきではあるまいか。」
2. Notation でなく、Notion に由って...
数学は、しばしば無味乾燥な表記法とみなされる。だが、高度な抽象論を求めれば、表記よりも概念を上位とみなすであろう。形而上学のごとく。おいらは、数学は哲学である!と考えている。微分方程式を前にして袋小路に陥る時は、だいたい記号の群れに囚われている。解が明らかになるということは、記号で明確に表記できるということ。それゆえ記号に囚われる。だから数学で落ちこぼれ、いまや数学屋に媚びを売るしかない。本書は、そんな嘆きをディリクレ小伝で励ましてくれる。
「偶然の事情に由って -- 多くは伝来上 -- 或る問題にからまっている夾雑物を洗い落として、問題の本質を直視することが、しばしば進歩の鍵である。その一例がここにもある。成るべく計算を厭うて、概念その物を議論の基礎にすることがヂリクレの長所としてたたえられる。計算は盲目で行き当たりばったりである。思想は目明きで目標を直視する。『盲目の計算の極小を以って、目明きの極大へと、問題を追いつめるのがヂリクレの流儀で、それこそ本当のヂリクレの原則(Dirichlet's Principle)と言うものであろう』とは、ミンコフスキの巧まい洒落(の拙い直訳)である。ヂリクレに限るのではない、既にオイラーであったか、ガウスであったかに関して、『Notation(記号)でなくnotion(概念)に由って』という格言を前に引いたが、これも同じ意味である。優れた数学者は決して形式屋(Formelmensch)ではない。」
3. 割りを食ったかルジャンドル?
G.(ガウス)との比較で、三人の L. が槍玉に挙げられる。既に老大家となったラグランジュ、ラプラス、ルジャンドルの中で、特に、割りを食っている感のあるルジャンドル。整数論、幾何学原理、楕円関数といった仕事のやり方で、ことごとく対照的に描かれる。とはいえ...
「このような対照に於て、我々は成心を以って L. を抑えて G. を揚げるのではない。気紛れな『歴史』が稀に見せてくれる面白い芝居が、ここに演ぜられたのである。新しい時代は新しい人物に由って興るが、ルジャンドルは恰も過ぎ行く時代を代表するような位置にいて、新旧分岐の場面を鮮かにする役をしたのである。」
2019-03-17
"コペルニクス・天球回転論" Nicolaus Copernicus 著
プトレマイオスの大著に遭遇すれば、こいつに向かう衝動は抑えられない。
ニコラウス・コペルニクス... 彼は、中世まで支配的だったアリストテレス=プトレマイオス流の地球中心説を真っ向から反対する宇宙論を唱えた。それは、地球の地位、ひいては地球に住む人間の地位を1ランク下げるものとなる。地球の不動から太陽の不動へ視点が移れば、次は太陽の不動に疑いの目が向けられる。彼の太陽中心説は、科学革命の引き金となった。
しかしながら、自転や公転の証拠がまだ発見されていない時代である。自転の証拠としてはフーコーの振り子が、公転の証拠としてはベッセルの年周視差やブラッドリーの光行差などが挙げられるが、いずれも18世紀以降のお話。これは16世紀の物語で、天文学はまだ自然哲学の域を脱していない。地球の地位を下げるとなれば、神に看取られた人間を崇める宗教だって黙っちゃいない。コペルニクス革命は、まさに思想革命であった。彼が健全な懐疑心を目覚めさせようという意図でやったかは知らんが...
尚、本書には、コペルニクスの主著「天球回転論」から第一巻と、太陽中心説の構想を記した未刊論文「コメンタリオルス」が掲載され、高橋憲一(みすず書房)訳版を手に取る。
トルニの人ニコラウス・コペルニクスの「天球回転論」全6巻
「好学なる読者よ。新たに生まれ、刊行されたばかりの本書において、古今の観測によって改良され、斬新かつ驚嘆すべき諸仮説によって用意された恒星運動ならびに惑星運動が手に入る。加えて、きわめて便利な天文表も手に入り、それによって、いかなる時における運動も全く容易に計算できるようになる。だから、買って、読んで、お楽しみあれ。」
幾何学ノ素養ナキ者、入ルベカラズ!
天空を眺めれば、四角い天体なんぞとんと見かけない。すべてが球形で円運動をしているとすれば、おそらく宇宙も球形だろう... ぐらいの想像はやる。人間が空想する世界は、真円や真球が収まりがよく、角が立たない事が心を落ち着かせると見える。
ただどんな形にせよ、宇宙が形をもっているということは、その空間は有限であることを告げている。そして、中心点はどこか?という議論になるが、母なる大地が運動しているなんて考えたくもない。地震で揺れるだけで恐れおののく人間にとっては、平らでどっしりとした存在であってほしい。想像の域とはいえ、古代人たちは大地が丸いというだけでもよく受け入れたものである。
神の支配に宇宙法則を重ねて見るは、まさに宗教原理。プラトンは、宇宙が数学に支配されているという思想を持っていたと伝えられる。一様円運動の原理を初めて唱えたのは、ピュタゴラス学派だという説もある。プラトンはアカデメイアの門下生に問うた... どのような秩序立った一様円運動を仮定すれば、惑星運動の現象は救われうるだろうか... と。これに一つの答えを与えたのが、エウドクソスの同心天球説である。以来、ヒッパルコスの周転円説などを経て、プトレマイオスの体系が構築された。
そして今、天動説と地動説では、どちらが優れているかと問えば、地動説だと断言できる。なぜなら、小学校で習ったから。自分で確かめたわけでもなければ、確かめる術すら知らず、偉い人が言うことだから間違いないだろう... ぐらいなもの。酔いどれ天の邪鬼にとっての知識とは、そんなものよ。惑星という名は、そこの住人が惑わされ続けるからこそ、そう呼ぶに相応しい...
プトレマイオスは、すでに宇宙の中心が地球ではないことに気づいていた形跡がある。本人が自覚できず、けして認めない事柄であっても、心のずっとずっと奥底の無意識の領域で薄々認めているということが、人間にはよくある。そして、コペルニクスがやったことは、実はプトレマイオスの再表現ではなかったのか、と解すのはちと行き過ぎであろうか...
天動説に憑かれたプトレマイオスは、恒星連中の運動に明確な説明を与えたが、天空をさまよう連中を説明するのに苦慮した。順行したり、逆行したりする星々を。planet はギリシア語の PLANETES(さまよう者)を語源に持つ。彼が持ち出した離心円とエカントという概念は、さまよう連中の中心は地球から少しずれていることを主張しており、これは同心天球説の改良版と言っていい。
だからといって、大地が動いていることまでは認められない。宇宙の中心はあくまでも地球であり、さまよう連中が異常であり、アノマリなのである。
しかし、宇宙を創造した完全なる神が、アノマリな連中をこしらえるだろうか。やはり宇宙は運動論に矛盾しないように構成されている必要がある。そして、アノマリな観測データを救済しようとあらゆる仮説を試みる、これこそが科学の使命というものか。コペルニクスが天空モデルに託した「7つの要請」と「34個の円」には、そんなものを感じる...
1. 7つの要請
コペルニクスの地動説構想を初めて記した自筆原稿は残っていないそうな。多くの書簡からその構想を見つけることができ、その写本が次々と受け継がれる中で一つの小論(コメンタリオルス)として伝えられるらしい。コメンタリオルスには、天界運動モデルに7つの要請がなされる。
2. コペルニクスの34個の円
コメンタリオルスでは、天界運動モデルをこう結論づけている。
「かくして、水星は全部で7つの円でめぐっている。金星は5つ。地球は3つ。その周りを月が4つ。最後に、火星・木星・土星はそれぞれ5つ。したがって、以上の次第であるから、全部で34個の円で十分であり、それらによって宇宙の全構造および星々の輪舞全体が説明されることになる。」
34個の輪舞とは、こんな感じ...
・水星
[経度運動] 5つ : 1つの天球、2つの周転円、軌道半径を変えるトゥースィーの対円
[緯度運動] 2つ : 黄道面に対して軌道面が傾斜しているために見える輪舞
・金星
[経度運動] 3つ : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 2つ : 黄道面に対して軌道面が傾斜しているために見える輪舞
・地球
[経度運動] 3つ : 年周回転、日周回転、地軸の輪舞
・月
[経度運動] 3つ : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 1つ : 交点の移動
・火星、木星、土星
[経度運動] 3つ x3 : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 2つ x3 : 軌道面を振動させるトゥースィーの対円
ニコラウス・コペルニクス... 彼は、中世まで支配的だったアリストテレス=プトレマイオス流の地球中心説を真っ向から反対する宇宙論を唱えた。それは、地球の地位、ひいては地球に住む人間の地位を1ランク下げるものとなる。地球の不動から太陽の不動へ視点が移れば、次は太陽の不動に疑いの目が向けられる。彼の太陽中心説は、科学革命の引き金となった。
しかしながら、自転や公転の証拠がまだ発見されていない時代である。自転の証拠としてはフーコーの振り子が、公転の証拠としてはベッセルの年周視差やブラッドリーの光行差などが挙げられるが、いずれも18世紀以降のお話。これは16世紀の物語で、天文学はまだ自然哲学の域を脱していない。地球の地位を下げるとなれば、神に看取られた人間を崇める宗教だって黙っちゃいない。コペルニクス革命は、まさに思想革命であった。彼が健全な懐疑心を目覚めさせようという意図でやったかは知らんが...
尚、本書には、コペルニクスの主著「天球回転論」から第一巻と、太陽中心説の構想を記した未刊論文「コメンタリオルス」が掲載され、高橋憲一(みすず書房)訳版を手に取る。
トルニの人ニコラウス・コペルニクスの「天球回転論」全6巻
「好学なる読者よ。新たに生まれ、刊行されたばかりの本書において、古今の観測によって改良され、斬新かつ驚嘆すべき諸仮説によって用意された恒星運動ならびに惑星運動が手に入る。加えて、きわめて便利な天文表も手に入り、それによって、いかなる時における運動も全く容易に計算できるようになる。だから、買って、読んで、お楽しみあれ。」
幾何学ノ素養ナキ者、入ルベカラズ!
天空を眺めれば、四角い天体なんぞとんと見かけない。すべてが球形で円運動をしているとすれば、おそらく宇宙も球形だろう... ぐらいの想像はやる。人間が空想する世界は、真円や真球が収まりがよく、角が立たない事が心を落ち着かせると見える。
ただどんな形にせよ、宇宙が形をもっているということは、その空間は有限であることを告げている。そして、中心点はどこか?という議論になるが、母なる大地が運動しているなんて考えたくもない。地震で揺れるだけで恐れおののく人間にとっては、平らでどっしりとした存在であってほしい。想像の域とはいえ、古代人たちは大地が丸いというだけでもよく受け入れたものである。
神の支配に宇宙法則を重ねて見るは、まさに宗教原理。プラトンは、宇宙が数学に支配されているという思想を持っていたと伝えられる。一様円運動の原理を初めて唱えたのは、ピュタゴラス学派だという説もある。プラトンはアカデメイアの門下生に問うた... どのような秩序立った一様円運動を仮定すれば、惑星運動の現象は救われうるだろうか... と。これに一つの答えを与えたのが、エウドクソスの同心天球説である。以来、ヒッパルコスの周転円説などを経て、プトレマイオスの体系が構築された。
そして今、天動説と地動説では、どちらが優れているかと問えば、地動説だと断言できる。なぜなら、小学校で習ったから。自分で確かめたわけでもなければ、確かめる術すら知らず、偉い人が言うことだから間違いないだろう... ぐらいなもの。酔いどれ天の邪鬼にとっての知識とは、そんなものよ。惑星という名は、そこの住人が惑わされ続けるからこそ、そう呼ぶに相応しい...
プトレマイオスは、すでに宇宙の中心が地球ではないことに気づいていた形跡がある。本人が自覚できず、けして認めない事柄であっても、心のずっとずっと奥底の無意識の領域で薄々認めているということが、人間にはよくある。そして、コペルニクスがやったことは、実はプトレマイオスの再表現ではなかったのか、と解すのはちと行き過ぎであろうか...
天動説に憑かれたプトレマイオスは、恒星連中の運動に明確な説明を与えたが、天空をさまよう連中を説明するのに苦慮した。順行したり、逆行したりする星々を。planet はギリシア語の PLANETES(さまよう者)を語源に持つ。彼が持ち出した離心円とエカントという概念は、さまよう連中の中心は地球から少しずれていることを主張しており、これは同心天球説の改良版と言っていい。
だからといって、大地が動いていることまでは認められない。宇宙の中心はあくまでも地球であり、さまよう連中が異常であり、アノマリなのである。
しかし、宇宙を創造した完全なる神が、アノマリな連中をこしらえるだろうか。やはり宇宙は運動論に矛盾しないように構成されている必要がある。そして、アノマリな観測データを救済しようとあらゆる仮説を試みる、これこそが科学の使命というものか。コペルニクスが天空モデルに託した「7つの要請」と「34個の円」には、そんなものを感じる...
1. 7つの要請
コペルニクスの地動説構想を初めて記した自筆原稿は残っていないそうな。多くの書簡からその構想を見つけることができ、その写本が次々と受け継がれる中で一つの小論(コメンタリオルス)として伝えられるらしい。コメンタリオルスには、天界運動モデルに7つの要請がなされる。
- 要請1. あらゆる天球ないし球の単一の中心は存在しないこと。
- 要請2. 地球の中心は宇宙の中心ではなく、重さと月の天球の中心にすぎないこと。
- 要請3. すべての天球は、あたかもすべてのものの真中に存在するかのような太陽の周りをめぐり、それゆえ、宇宙の中心は太陽の近くに存在すること。
- 要請4. [太陽・地球の距離]対[天空の高さ]の比は、[地球半径]対[太陽の距離]の比よりも小さく、したがって、天球の頂きに比べれば、感覚不可能なほど小さい。
- 要請5. 天空に現れる運動は何であれ、それは天空の側にではなく地球の側に由来すること。したがって、近隣の諸元素とともに地球全体は、その両極を不変にしたまま、日周回転で回転しており、天空と究極天は不動のままである。
- 要請6. 太陽に関する諸運動として我々に現象するものは何であれ、それは太陽が機因となっているのではなく、地球および我々の天球(我々はあたかも或る他の1つの星によるかのように、太陽の周りをそれによって回転している)が機因となっていること。かくして地球は複数の運動によって運ばれていること。
- 要請7. 諸惑星において逆行と順行が現われるのは、諸惑星の側にではなく、むしろ地球の側に由来していること。したがって、天界における数多くの変則的な現象に対しては、地球の1つの運動で十分である。
2. コペルニクスの34個の円
コメンタリオルスでは、天界運動モデルをこう結論づけている。
「かくして、水星は全部で7つの円でめぐっている。金星は5つ。地球は3つ。その周りを月が4つ。最後に、火星・木星・土星はそれぞれ5つ。したがって、以上の次第であるから、全部で34個の円で十分であり、それらによって宇宙の全構造および星々の輪舞全体が説明されることになる。」
34個の輪舞とは、こんな感じ...
・水星
[経度運動] 5つ : 1つの天球、2つの周転円、軌道半径を変えるトゥースィーの対円
[緯度運動] 2つ : 黄道面に対して軌道面が傾斜しているために見える輪舞
・金星
[経度運動] 3つ : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 2つ : 黄道面に対して軌道面が傾斜しているために見える輪舞
・地球
[経度運動] 3つ : 年周回転、日周回転、地軸の輪舞
・月
[経度運動] 3つ : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 1つ : 交点の移動
・火星、木星、土星
[経度運動] 3つ x3 : 1つの天球、2つの周転円
[緯度運動] 2つ x3 : 軌道面を振動させるトゥースィーの対円
2019-03-10
"アルマゲスト" プトレマイオス 著
地球は丸い... そんなの当たり前。地動説... そんなの常識。そんなことは小学生にも指摘されそう...
しかし、だ。自分の力でどれだけ裏を取ってきたのか?と問えば、誰かに貰い受けた知識に過ぎない。世間から馬鹿にされないために知ったか振りをし、虚栄を張っているだけのこと。誰かが創作した地球や宇宙の写真を見せつけられ、単に信じてきたとすれば、それは宗教と何が違うのだろう。そして、Xplanet, Stellarium, Celestia といった天体ソフトウェアを眺めながら、プトレマイオス大先生に癒やされようとは...
どんなに優れた知識を与えられても、この酔いどれ天の邪鬼はアリストテレスの世界でしか生きられない。真空では、すべての物体は同時に落下する... なんてガリレオ大先生に教わってもピンとこない。重いヤツの方が速く落ちる... とする方が、やはり収まりがいい。その証拠に、女性諸君は体重計の前で軽い存在を演じようと躍起になっているし、アルコール濃度の重い方が沈むのも速い...
尚、藪内清(恒星社)訳版を手に取る。
クラウディオス・プトレマイオス。このギリシアの天文学者は、二世紀頃、アレキサンドリアで活躍したようである。
"Almagest" という書名は、プトレマイオス自身が名付けたものではないらしい。元々の書名は判明しておらず、現存するギリシア語写本によると、「数学的集成」やら「天文学大集成」やらと書かれているそうな。
後のアラビア語の翻訳時に "kitāb al-majisṭī" という名が与えられ、さらにラテン語の翻訳時に、現在のアラビア風の表題になったとか。
それは、「最大の書」や「偉大な知識」といった意味で、歴史的にはユークリッドの「原論」に通ずるものがある。「原論」は、ユークリッド自身が定理を組み立てたというよりは、古代ギリシア数学の知識をまとめあげた業績が評価される。「アルマゲスト」も、プトレマイオスの独創性も含まれようが、古代ギリシア天文学の知識をまとめあげたという感が強い。本書には、先人ヒッパルコスの名がちりばめられる。
時代は、ローマの支配下にあってギリシア学問の伝統が衰え始め、知の中心はアラビアへ移行しつつあった。この大著は、イスラム世界からヨーロッパへ逆輸入する形で出現し、アラビア語写本からラテン語写本を経て伝えられてきた。
そして、コペルニクス大先生の大著が台頭してくると、だんだん見棄てられていく。おそらく「原論」を読む人が多少なりともいても、「アルマゲスト」を読もうとする人はごく少数派であろう。
しかしながら、宇宙に幻想を抱き続ける衝動は、古代人も現代人も変わらない。どんなに優れた観測データで裏付けされ、どんなに明らかな証拠をつきつけられても、人間の精神宇宙までは変えられない。宇宙空間がどんなに解明されたとしても、精神空間の正体は知らないままでいるし、コペルニクス大先生の教えで地球中心説から解き放たれても、自己中心説からは逃れられないのである。
もし仮に、天空に惑星が存在せず、恒星だけで構成されているとしたら、天動説は不滅だったかもしれない。惑星とは惑う星と書く。planet の語源はギリシア語の "ΠΛΑΝΗΤΕΣ(PLANETES)" に発し、「さまよう者」という意味合いがある。天空で円運動をする恒星たちは互いに安定した位置を保ち、そこに星座を描く。だが、それらの位置をさまよう星たちがいる。星座という規律から外れた異端児たちが。古代神話で語り継がれる神々、マーキュリー、ヴィーナス、マーズ、ジュピター、サターンってやつは、どうやら惑わせる存在らしい。
本書には、「アノマリ」という用語がちりばめられる。つまり、記述の多くは変則性を語っているわけだ。ここで主役を演じるのは、太陽の重力に幽閉された星々。空を眺めて、最も目立つものが太陽、次に月、そして惑星諸君。太陽の道筋に黄道十二宮を見いだして形而上学的な意味を与え、そこに神を見ようとする。古代ギリシア人は、太陽の影を落とすグノーモンという図形に取り憑かれ、直角三角形を崇めた。火星、水星、木星、金星、土星の五惑星の軌道にもそれぞれに個性があり、プトレマイオスはそれぞれに詳細なアノマリ表を提示する。ここに内惑星と外惑星の傾向が見てとれるとはいえ、あまりに個性があり、あまりに複雑。彼は、理論体系を構築することに惑わされるあまり、距離といった概念にあまり関心がなかったと見える。
プトレマイオスの体系で、何よりも崇められる概念が真円であり、楕円軌道は真円の多重構造で無理やり当て嵌める。この思考方法で、惑星運動の順行と逆行という摩訶不思議な現象にも、とりあえず説明がつく。大きな円である従円とその円周上を動く点を中心点とした周転円という見事な古典モデル。そして、円に内接する辺の考察に没頭し、ここにプトレマイオスの定理(トレミーの定理)を垣間見る。その執念には凄まじいものがあり、その緻密さに感動すら覚える。プトレマイオスは真円に神を見ようとしたのか。楕円の作図法は、知っていれば単純だが、これを最初に考えた人は、実は最も偉大な幾何学者かもしれない。
ちなみに、こうした作図法を近似法として眺めれば、コンピュータゲームに登場するキャラクタを表現する方法などに似ている。複雑な物体を表現する時、楕円を重ねて境界線を作ったりと。真円だけで構成できれば、処理速度も上がるだろう...
さらに、地球を中心点に置くと、惑星の軌道が微妙にずれるので、その補正に「離心円」と "Equant(エカント)" という概念を導入している。離心円とは、地球からちょっと離れた点を中心点とする円周上を太陽が運動するとし、エカントとは、その中心点から地球と反対の位置にある点のこと。離心円という概念を考案したのはヒッパルコスであろうか。エカントの導入は、地球を絶対的な地位から少し脱落させていると言えよう。どうやらプトレマイオスにして地球は中心ではないらしい。
自ら輝ける恒星は神に看取られているのかは知らん。他の光でしか輝くことのできない惑星や衛星は悪魔に看取られているのかは知らん。太陽、地球、月の大きさと距離が、ちょうど皆既日食が起こるように絶妙に配置したのは誰か?などと製造責任を問う気もない。ただ、人間ってやつが天空に翻弄されてきた存在で、これからもそうあり続けるであろうことは確かなようである。
また、物理量の観点から眺めると、人間が自己存在を最も認識できる量が重力であることを感じさせる。重力に支配された思考回路では、宙に浮いた存在を想像しにくい。そこで、天空の星々を固定するために支えているものは?と問うた時、アリストテレスはエーテルなるものを提唱した。星々を構成するものが、四元素、すなわち、火、空気、水、土であるならば、宇宙空間を構成するものは第五元素のエーテルで、空間はこいつに満たされているというわけである。プトレマイオスも、このエーテル説を継承している。
だが、歴史はエーテルの存在を否定した。そして今、最先端科学は真空中にも何かが存在することを告げている。巷を騒がせているダークマターやら、ダークエネルギーやらは、実はエーテルのことですか?プトレマイオス大先生!?
しかし、だ。自分の力でどれだけ裏を取ってきたのか?と問えば、誰かに貰い受けた知識に過ぎない。世間から馬鹿にされないために知ったか振りをし、虚栄を張っているだけのこと。誰かが創作した地球や宇宙の写真を見せつけられ、単に信じてきたとすれば、それは宗教と何が違うのだろう。そして、Xplanet, Stellarium, Celestia といった天体ソフトウェアを眺めながら、プトレマイオス大先生に癒やされようとは...
どんなに優れた知識を与えられても、この酔いどれ天の邪鬼はアリストテレスの世界でしか生きられない。真空では、すべての物体は同時に落下する... なんてガリレオ大先生に教わってもピンとこない。重いヤツの方が速く落ちる... とする方が、やはり収まりがいい。その証拠に、女性諸君は体重計の前で軽い存在を演じようと躍起になっているし、アルコール濃度の重い方が沈むのも速い...
尚、藪内清(恒星社)訳版を手に取る。
クラウディオス・プトレマイオス。このギリシアの天文学者は、二世紀頃、アレキサンドリアで活躍したようである。
"Almagest" という書名は、プトレマイオス自身が名付けたものではないらしい。元々の書名は判明しておらず、現存するギリシア語写本によると、「数学的集成」やら「天文学大集成」やらと書かれているそうな。
後のアラビア語の翻訳時に "kitāb al-majisṭī" という名が与えられ、さらにラテン語の翻訳時に、現在のアラビア風の表題になったとか。
それは、「最大の書」や「偉大な知識」といった意味で、歴史的にはユークリッドの「原論」に通ずるものがある。「原論」は、ユークリッド自身が定理を組み立てたというよりは、古代ギリシア数学の知識をまとめあげた業績が評価される。「アルマゲスト」も、プトレマイオスの独創性も含まれようが、古代ギリシア天文学の知識をまとめあげたという感が強い。本書には、先人ヒッパルコスの名がちりばめられる。
時代は、ローマの支配下にあってギリシア学問の伝統が衰え始め、知の中心はアラビアへ移行しつつあった。この大著は、イスラム世界からヨーロッパへ逆輸入する形で出現し、アラビア語写本からラテン語写本を経て伝えられてきた。
そして、コペルニクス大先生の大著が台頭してくると、だんだん見棄てられていく。おそらく「原論」を読む人が多少なりともいても、「アルマゲスト」を読もうとする人はごく少数派であろう。
しかしながら、宇宙に幻想を抱き続ける衝動は、古代人も現代人も変わらない。どんなに優れた観測データで裏付けされ、どんなに明らかな証拠をつきつけられても、人間の精神宇宙までは変えられない。宇宙空間がどんなに解明されたとしても、精神空間の正体は知らないままでいるし、コペルニクス大先生の教えで地球中心説から解き放たれても、自己中心説からは逃れられないのである。
もし仮に、天空に惑星が存在せず、恒星だけで構成されているとしたら、天動説は不滅だったかもしれない。惑星とは惑う星と書く。planet の語源はギリシア語の "ΠΛΑΝΗΤΕΣ(PLANETES)" に発し、「さまよう者」という意味合いがある。天空で円運動をする恒星たちは互いに安定した位置を保ち、そこに星座を描く。だが、それらの位置をさまよう星たちがいる。星座という規律から外れた異端児たちが。古代神話で語り継がれる神々、マーキュリー、ヴィーナス、マーズ、ジュピター、サターンってやつは、どうやら惑わせる存在らしい。
本書には、「アノマリ」という用語がちりばめられる。つまり、記述の多くは変則性を語っているわけだ。ここで主役を演じるのは、太陽の重力に幽閉された星々。空を眺めて、最も目立つものが太陽、次に月、そして惑星諸君。太陽の道筋に黄道十二宮を見いだして形而上学的な意味を与え、そこに神を見ようとする。古代ギリシア人は、太陽の影を落とすグノーモンという図形に取り憑かれ、直角三角形を崇めた。火星、水星、木星、金星、土星の五惑星の軌道にもそれぞれに個性があり、プトレマイオスはそれぞれに詳細なアノマリ表を提示する。ここに内惑星と外惑星の傾向が見てとれるとはいえ、あまりに個性があり、あまりに複雑。彼は、理論体系を構築することに惑わされるあまり、距離といった概念にあまり関心がなかったと見える。
プトレマイオスの体系で、何よりも崇められる概念が真円であり、楕円軌道は真円の多重構造で無理やり当て嵌める。この思考方法で、惑星運動の順行と逆行という摩訶不思議な現象にも、とりあえず説明がつく。大きな円である従円とその円周上を動く点を中心点とした周転円という見事な古典モデル。そして、円に内接する辺の考察に没頭し、ここにプトレマイオスの定理(トレミーの定理)を垣間見る。その執念には凄まじいものがあり、その緻密さに感動すら覚える。プトレマイオスは真円に神を見ようとしたのか。楕円の作図法は、知っていれば単純だが、これを最初に考えた人は、実は最も偉大な幾何学者かもしれない。
ちなみに、こうした作図法を近似法として眺めれば、コンピュータゲームに登場するキャラクタを表現する方法などに似ている。複雑な物体を表現する時、楕円を重ねて境界線を作ったりと。真円だけで構成できれば、処理速度も上がるだろう...
さらに、地球を中心点に置くと、惑星の軌道が微妙にずれるので、その補正に「離心円」と "Equant(エカント)" という概念を導入している。離心円とは、地球からちょっと離れた点を中心点とする円周上を太陽が運動するとし、エカントとは、その中心点から地球と反対の位置にある点のこと。離心円という概念を考案したのはヒッパルコスであろうか。エカントの導入は、地球を絶対的な地位から少し脱落させていると言えよう。どうやらプトレマイオスにして地球は中心ではないらしい。
自ら輝ける恒星は神に看取られているのかは知らん。他の光でしか輝くことのできない惑星や衛星は悪魔に看取られているのかは知らん。太陽、地球、月の大きさと距離が、ちょうど皆既日食が起こるように絶妙に配置したのは誰か?などと製造責任を問う気もない。ただ、人間ってやつが天空に翻弄されてきた存在で、これからもそうあり続けるであろうことは確かなようである。
また、物理量の観点から眺めると、人間が自己存在を最も認識できる量が重力であることを感じさせる。重力に支配された思考回路では、宙に浮いた存在を想像しにくい。そこで、天空の星々を固定するために支えているものは?と問うた時、アリストテレスはエーテルなるものを提唱した。星々を構成するものが、四元素、すなわち、火、空気、水、土であるならば、宇宙空間を構成するものは第五元素のエーテルで、空間はこいつに満たされているというわけである。プトレマイオスも、このエーテル説を継承している。
だが、歴史はエーテルの存在を否定した。そして今、最先端科学は真空中にも何かが存在することを告げている。巷を騒がせているダークマターやら、ダークエネルギーやらは、実はエーテルのことですか?プトレマイオス大先生!?
2019-03-03
"インフレーション宇宙論" 佐藤勝彦 著
おいらが美少年と呼ばれていた中高生時代、ブルーバックス教に嵌っていた記憶がかすかに蘇る。なんといっても分かった気にさせてくれるのがいい。そして今、行き詰まった設計作業を尻目に、初心者向けの宇宙論で気分転換といこう...
宇宙創生を記述する有力な仮説と目される「インフレーション理論」は、1980年代のはじめ、佐藤勝彦氏とアラン・グース氏によって提唱された。数学的に表現するならば「指数関数的膨張モデル」といった具合になるが、インフレーションの名はグースの命名センスによるものらしい。
この理論の前にも有力視された宇宙モデルがあった。「ビッグバン理論」がそれである。しかしながら、平坦性問題や地平線問題、あるいはモノポールの発生となると説明がつかない。宇宙の創生モデルを構築するには、どうしても特異点が避けられないのである。
ここで言う特異点とは、密度の無限大や温度の無限大などで物理法則が破綻することを意味する。宇宙が膨張しているということは、時間を逆に辿ると、空間がどんどん小さくなり、エネルギー密度がどんどん高くなり、宇宙の始まりを点とした場合、ついにはエネルギー密度が無限大になってしまう。
つまりは、物理法則を超越した概念を必要とし、キリスト教の言う、神の一撃!ってやつに縋るしかない。もちろん科学者の立場としては許しがたいことだ。
本書は、ビッグバン理論で説明できない難題に対して、「超大統一理論」が重要な鍵になることを物語ってくれる。物理学には、もともと四つの力を記述する理論がある。質量を持つものの間で働く重力、電荷を持つものの間で働く電磁気力、クォークの結合や原子核を形成する強い力、中性子のベータ崩壊などを引き起こす弱い力と。これらの力の性質があまりにも違いすぎれば、統一理論にも段階が生じる。電磁気力と弱い力は、電弱統一理論としてすでに完成。あとは、これに強い力を加えた大統一理論、さらに、重力を加えた超統一理論を待つばかり...
注目したいのは、宇宙の進化の過程において、生物の進化と同じように、物理法則が枝分かれしていったという説である。現在、観測される加速膨張は、「第2のインフレーション」と呼ばれている。
まず、宇宙の始まりが点だとすれば、その点はどこから来たのか。それはトンネル効果で説明される。トンネル効果とは、電子が本来通過できないはずのところ、すなわちポテンシャル障壁を、ある確率で通過してしまう現象である。どこか別の空間から、電子が突然わいて出たってか。となると、一つを意味するユニバースという宇宙像も、マルチバースへと想像が膨らむ。ブラックホールが別空間の入口で、ブラックホールの数だけ宇宙があるってか。
次に、点から次元へ拡大していったとすれば、人間の認識能力が「三次元 + 時間」に幽閉されるのは、宇宙年齢からすると、かなり初期の段階で DNA の分子構造が形成されたということであろうか。そして、人類の住む宇宙の次元はさらに多様化し、物理法則も多様化していくのだろうか。超ひも理論は、10次元や11次元を唱えれば宇宙が説明できるとか言っている。
ただ、法則までもがあまりに多様化してしまえば、それは法則と呼べるものなのだろうか。いずれ、人間社会のように法則も役に立たなくなるってか。人間の認識能力が、ある物理法則の系に幽閉されていることは、幸せな空間を生きているということかもしれない。宇宙の未来像がいくらでも想像できるのだから。少なくとも、光速が絶対的な物理量として君臨している間は。そして、人間の目で真の光が見えた時、宇宙の正体を見るであろう。そこで神を見るのか、悪魔を見るのかは知らんが...
ところで、物理学には、なんだか分からないけど、あると便利な概念が数多ある。数学が編み出したマイナスやゼロといった概念は、もともとは仮想的な量であった。計算する上で、実に都合にいい便宜上の存在だったのである。やがて、マイナスは家計の赤字などと結びつき、ゼロは財産の果敢なさなどと結びついて、すっかり実感できる物理量となった。日常生活では自然数だけで十分であったはずが、引き算や割り算をやれば整数や有理数が必要となり、実数がなければ建築物も建てられない。演算によって系が閉じられないという現象が数の概念を拡げていき、物理量に拡大解釈をもたらしてきたのである。
人間が認識する上で最も存在感を示す量といえば、時間と空間であろう。こいつらときたら、自己存在を強烈に意識させやがる。カントはアプリオリと呼んで特別な量として論じ、物理学ではセットにして時空という量で扱う。古代人は星々を眺めながら自己認識を中心に、人類の住む宇宙とはどんな存在か?そこに存在する天体や生命体はどうやって誕生したのか?宇宙の誕生と終焉はいつか?などと問い、様々な宇宙モデルを描いてきた。近代物理学はこの伝統を受け継ぎ、今なお宇宙モデルをあれこれ想像しているところである。だからといって、物質界で説明ができないとなれば反物質なるものを登場させ、まったく何も存在しないはずの真空にも僅かなエネルギーがあると主張しては宇宙を膨張させ、おまけに、虚時間を想定しては宇宙創生前の時間までも扱えってしまうとは。プラスの現象にはマイナスの概念を仮定して相殺してしまえば、エネルギー保存則に矛盾せず説明できるという寸法よ。観測結果に合わせて概念を生み出しているとすれば、それは科学なのだろうか...
1. 真空の正体
力の統一理論では、「真空の相転移」という概念があるそうな。相転移とは、水が氷になるように、物質の性質(相)がある条件で突然変わること。生命の進化では、突然変異といったものがあるが、真空ではこれに相当するものらしい。宇宙の初期段階において、温度が急激に下がったことで真空の相転移が起こり、空間自体の性質が変化したという。
すると、真空での力の伝わり方も変わっていく。そのような相転移が次々に起こり、重力が枝分かれし、強い力が枝分かれし、電磁気力と弱い力が枝分かれしていったとか。
例えば、水は温度が下がると氷になる。水の状態では、分子はどの方向にも自由に動き回ることができるが、氷の状態では、格子状の結晶となって方向性を持つようになる。こうした相転移で対称性の破れが生じると、「潜熱」という熱エネルギーが生じる。こうした現象が、インフレーション理論では鍵になるという。相転移の事例として、超電導を紹介してくれる。
ところで、真空とは、特別な空間のようである。真空とは、まったく空っぽな状態を言うはずだが、量子力学ではそうは考えない。粒子と反粒子がペアで存在し、普段は相殺してエネルギー的には何も無いような状態である。
例えば、電子には陽電子がセットになって対生成と対消滅を繰り返し、ゆらぎとなって現れるといった具合。おまけに、こんな法則を持ち出されては...
「真空のエネルギーは不思議なことに、宇宙がどんなに大きく膨張しても、密度が小さくなることがないのです。」
真空のエネルギー密度が小さくならないとするならば、空間が広がると、真空中のポテンシャルエネルギーは増大してしまうではないか。宇宙ってやつは、真空にこそ最大の潜在的な熱エネルギーを溜め込んでいるというのか。そして、それが無から明るみになった時、宇宙が真の正体を現すというのか。通常は、無の状態で沈黙が守られていて、滅多に正体をお見せすることはないようだけど。真空に潜むダークマターってやつは、神か?それとも悪魔か?いまや真空の定義を再定義しなくては...
「宇宙は、真空のエネルギーが高い状態で誕生しました。その直後、10のマイナス44乗秒後に、最初の相転移によって重力がほかの三つの力と枝分かれをします。いわゆるインフレーションは、そのあと10のマイナス36乗秒後頃、強い力が残りの二つの力と枝分かれをする相転移のときに起こりました。真空のエネルギーによって急激な加速膨張が起こり、10のマイナス35乗秒からマイナス34乗秒というほんのわずかな時間で、宇宙は急激に大きくなりました。その規模は、10の43乗倍とされています。」
2. 人間原理
宇宙法則を知れば知るほど、「人間原理」なんてものを想像せずにはいられない。そう、人間都合のデザイン論である。
古代の戦争では、皆既日食という現象が歴史を変えてきた。月の大きさと距離、太陽の大きさと距離、これらの絶妙な配置がなければ、皆既日食なんて怪奇な現象は起こらない。月の軌道のおかげで地軸の傾きを安定させ、季節の周期を安定させ、生命の誕生する可能性を示唆する。地球の絶妙な大きさと重力が生命体のバランス維持に寄与する。こうした偶然性は何を意味するのか?誰かが意図したのか?
おまけに、宇宙法則には、様々な物理定数が介在する。光速、重力定数、プランク定数、ボルツマン定数... これらの数値を眺めていると、人間が誕生するように調整されているかのように思えてくる。電磁気力の強度法則をちょいと変えるだけでも、生命は発生しないだろう。α粒子の結合力をちょいと弱めるだけでも、トリプルアルファ反応のような核融合は起こらないだろう。
物理法則には、人間が宇宙の観測者という特別な存在であると信じるに事欠かない。宗教は、神は人間を創造するように宇宙を設計なされた... と唱えるが、科学も負けじと、なかなかの宗教ぶりを発揮する。人間が生きるには、信念や信仰を必要とする。知的生命体に概して備わる性癖なのかは知らんが。精神という能力を獲得し、かつそれを実感でき、しかもその正体を知らないとなれば、それも致し方あるまい。すべての現象をいかようにも解釈できるおめでたい存在となれば、やはり神の仕業か。そして今、巷を騒がせているダークエネルギーは、人間にとって都合のよい量なのだろうか。おそらく究極の物理法則が編み出された時、その方程式の中に定数といった数値は現れないのであろう...
「もしも、宇宙の創生から進化までがすべて物理学の法則にもとづいて決められているならば、宇宙創造において神が自分の意図で何かを選択する余地はない。しかし、もしも神が物理学を超えたものであるならば、神に選択の余地はある。」
3. ポテンシャルエネルギーって...
ところで、学生時代から、なんとなく腑に落ちない物理量がある。ポテンシャルエネルギーってなんだ?人間にも潜在的な能力があるようだ。まだ覚醒していないだけで...
人間が自己存在を最も認識できる物理量といえば、重力であろう。重力を前提としたポテンシャルエネルギーは、位置エネルギーと呼ばれる。物体は高い位置にあるほど、落下した場合に生じる力が大きい。ただ、落下しなければ、何も生じない。
では、真空のポテンシャルエネルギーってなんだ?どこに落下するというのか?それがブラックホールなのか?ブラックホールに出会わなければ、エネルギーは眠ったままなのか?そのまだ目覚めていない物質が、巷を騒がせているダークマターってやつなのか?もし仮に、真空中に膨張すれば働くであろうエネルギーが潜在的に存在するとすれば、それは真空と呼べるものなのか?もはや、真空という用語を再定義しなければ... などと言えば、エーテル説に回帰し、潜在力とともに地獄にでも落ちるさ...
宇宙創生を記述する有力な仮説と目される「インフレーション理論」は、1980年代のはじめ、佐藤勝彦氏とアラン・グース氏によって提唱された。数学的に表現するならば「指数関数的膨張モデル」といった具合になるが、インフレーションの名はグースの命名センスによるものらしい。
この理論の前にも有力視された宇宙モデルがあった。「ビッグバン理論」がそれである。しかしながら、平坦性問題や地平線問題、あるいはモノポールの発生となると説明がつかない。宇宙の創生モデルを構築するには、どうしても特異点が避けられないのである。
ここで言う特異点とは、密度の無限大や温度の無限大などで物理法則が破綻することを意味する。宇宙が膨張しているということは、時間を逆に辿ると、空間がどんどん小さくなり、エネルギー密度がどんどん高くなり、宇宙の始まりを点とした場合、ついにはエネルギー密度が無限大になってしまう。
つまりは、物理法則を超越した概念を必要とし、キリスト教の言う、神の一撃!ってやつに縋るしかない。もちろん科学者の立場としては許しがたいことだ。
本書は、ビッグバン理論で説明できない難題に対して、「超大統一理論」が重要な鍵になることを物語ってくれる。物理学には、もともと四つの力を記述する理論がある。質量を持つものの間で働く重力、電荷を持つものの間で働く電磁気力、クォークの結合や原子核を形成する強い力、中性子のベータ崩壊などを引き起こす弱い力と。これらの力の性質があまりにも違いすぎれば、統一理論にも段階が生じる。電磁気力と弱い力は、電弱統一理論としてすでに完成。あとは、これに強い力を加えた大統一理論、さらに、重力を加えた超統一理論を待つばかり...
注目したいのは、宇宙の進化の過程において、生物の進化と同じように、物理法則が枝分かれしていったという説である。現在、観測される加速膨張は、「第2のインフレーション」と呼ばれている。
まず、宇宙の始まりが点だとすれば、その点はどこから来たのか。それはトンネル効果で説明される。トンネル効果とは、電子が本来通過できないはずのところ、すなわちポテンシャル障壁を、ある確率で通過してしまう現象である。どこか別の空間から、電子が突然わいて出たってか。となると、一つを意味するユニバースという宇宙像も、マルチバースへと想像が膨らむ。ブラックホールが別空間の入口で、ブラックホールの数だけ宇宙があるってか。
次に、点から次元へ拡大していったとすれば、人間の認識能力が「三次元 + 時間」に幽閉されるのは、宇宙年齢からすると、かなり初期の段階で DNA の分子構造が形成されたということであろうか。そして、人類の住む宇宙の次元はさらに多様化し、物理法則も多様化していくのだろうか。超ひも理論は、10次元や11次元を唱えれば宇宙が説明できるとか言っている。
ただ、法則までもがあまりに多様化してしまえば、それは法則と呼べるものなのだろうか。いずれ、人間社会のように法則も役に立たなくなるってか。人間の認識能力が、ある物理法則の系に幽閉されていることは、幸せな空間を生きているということかもしれない。宇宙の未来像がいくらでも想像できるのだから。少なくとも、光速が絶対的な物理量として君臨している間は。そして、人間の目で真の光が見えた時、宇宙の正体を見るであろう。そこで神を見るのか、悪魔を見るのかは知らんが...
ところで、物理学には、なんだか分からないけど、あると便利な概念が数多ある。数学が編み出したマイナスやゼロといった概念は、もともとは仮想的な量であった。計算する上で、実に都合にいい便宜上の存在だったのである。やがて、マイナスは家計の赤字などと結びつき、ゼロは財産の果敢なさなどと結びついて、すっかり実感できる物理量となった。日常生活では自然数だけで十分であったはずが、引き算や割り算をやれば整数や有理数が必要となり、実数がなければ建築物も建てられない。演算によって系が閉じられないという現象が数の概念を拡げていき、物理量に拡大解釈をもたらしてきたのである。
人間が認識する上で最も存在感を示す量といえば、時間と空間であろう。こいつらときたら、自己存在を強烈に意識させやがる。カントはアプリオリと呼んで特別な量として論じ、物理学ではセットにして時空という量で扱う。古代人は星々を眺めながら自己認識を中心に、人類の住む宇宙とはどんな存在か?そこに存在する天体や生命体はどうやって誕生したのか?宇宙の誕生と終焉はいつか?などと問い、様々な宇宙モデルを描いてきた。近代物理学はこの伝統を受け継ぎ、今なお宇宙モデルをあれこれ想像しているところである。だからといって、物質界で説明ができないとなれば反物質なるものを登場させ、まったく何も存在しないはずの真空にも僅かなエネルギーがあると主張しては宇宙を膨張させ、おまけに、虚時間を想定しては宇宙創生前の時間までも扱えってしまうとは。プラスの現象にはマイナスの概念を仮定して相殺してしまえば、エネルギー保存則に矛盾せず説明できるという寸法よ。観測結果に合わせて概念を生み出しているとすれば、それは科学なのだろうか...
1. 真空の正体
力の統一理論では、「真空の相転移」という概念があるそうな。相転移とは、水が氷になるように、物質の性質(相)がある条件で突然変わること。生命の進化では、突然変異といったものがあるが、真空ではこれに相当するものらしい。宇宙の初期段階において、温度が急激に下がったことで真空の相転移が起こり、空間自体の性質が変化したという。
すると、真空での力の伝わり方も変わっていく。そのような相転移が次々に起こり、重力が枝分かれし、強い力が枝分かれし、電磁気力と弱い力が枝分かれしていったとか。
例えば、水は温度が下がると氷になる。水の状態では、分子はどの方向にも自由に動き回ることができるが、氷の状態では、格子状の結晶となって方向性を持つようになる。こうした相転移で対称性の破れが生じると、「潜熱」という熱エネルギーが生じる。こうした現象が、インフレーション理論では鍵になるという。相転移の事例として、超電導を紹介してくれる。
ところで、真空とは、特別な空間のようである。真空とは、まったく空っぽな状態を言うはずだが、量子力学ではそうは考えない。粒子と反粒子がペアで存在し、普段は相殺してエネルギー的には何も無いような状態である。
例えば、電子には陽電子がセットになって対生成と対消滅を繰り返し、ゆらぎとなって現れるといった具合。おまけに、こんな法則を持ち出されては...
「真空のエネルギーは不思議なことに、宇宙がどんなに大きく膨張しても、密度が小さくなることがないのです。」
真空のエネルギー密度が小さくならないとするならば、空間が広がると、真空中のポテンシャルエネルギーは増大してしまうではないか。宇宙ってやつは、真空にこそ最大の潜在的な熱エネルギーを溜め込んでいるというのか。そして、それが無から明るみになった時、宇宙が真の正体を現すというのか。通常は、無の状態で沈黙が守られていて、滅多に正体をお見せすることはないようだけど。真空に潜むダークマターってやつは、神か?それとも悪魔か?いまや真空の定義を再定義しなくては...
「宇宙は、真空のエネルギーが高い状態で誕生しました。その直後、10のマイナス44乗秒後に、最初の相転移によって重力がほかの三つの力と枝分かれをします。いわゆるインフレーションは、そのあと10のマイナス36乗秒後頃、強い力が残りの二つの力と枝分かれをする相転移のときに起こりました。真空のエネルギーによって急激な加速膨張が起こり、10のマイナス35乗秒からマイナス34乗秒というほんのわずかな時間で、宇宙は急激に大きくなりました。その規模は、10の43乗倍とされています。」
2. 人間原理
宇宙法則を知れば知るほど、「人間原理」なんてものを想像せずにはいられない。そう、人間都合のデザイン論である。
古代の戦争では、皆既日食という現象が歴史を変えてきた。月の大きさと距離、太陽の大きさと距離、これらの絶妙な配置がなければ、皆既日食なんて怪奇な現象は起こらない。月の軌道のおかげで地軸の傾きを安定させ、季節の周期を安定させ、生命の誕生する可能性を示唆する。地球の絶妙な大きさと重力が生命体のバランス維持に寄与する。こうした偶然性は何を意味するのか?誰かが意図したのか?
おまけに、宇宙法則には、様々な物理定数が介在する。光速、重力定数、プランク定数、ボルツマン定数... これらの数値を眺めていると、人間が誕生するように調整されているかのように思えてくる。電磁気力の強度法則をちょいと変えるだけでも、生命は発生しないだろう。α粒子の結合力をちょいと弱めるだけでも、トリプルアルファ反応のような核融合は起こらないだろう。
物理法則には、人間が宇宙の観測者という特別な存在であると信じるに事欠かない。宗教は、神は人間を創造するように宇宙を設計なされた... と唱えるが、科学も負けじと、なかなかの宗教ぶりを発揮する。人間が生きるには、信念や信仰を必要とする。知的生命体に概して備わる性癖なのかは知らんが。精神という能力を獲得し、かつそれを実感でき、しかもその正体を知らないとなれば、それも致し方あるまい。すべての現象をいかようにも解釈できるおめでたい存在となれば、やはり神の仕業か。そして今、巷を騒がせているダークエネルギーは、人間にとって都合のよい量なのだろうか。おそらく究極の物理法則が編み出された時、その方程式の中に定数といった数値は現れないのであろう...
「もしも、宇宙の創生から進化までがすべて物理学の法則にもとづいて決められているならば、宇宙創造において神が自分の意図で何かを選択する余地はない。しかし、もしも神が物理学を超えたものであるならば、神に選択の余地はある。」
3. ポテンシャルエネルギーって...
ところで、学生時代から、なんとなく腑に落ちない物理量がある。ポテンシャルエネルギーってなんだ?人間にも潜在的な能力があるようだ。まだ覚醒していないだけで...
人間が自己存在を最も認識できる物理量といえば、重力であろう。重力を前提としたポテンシャルエネルギーは、位置エネルギーと呼ばれる。物体は高い位置にあるほど、落下した場合に生じる力が大きい。ただ、落下しなければ、何も生じない。
では、真空のポテンシャルエネルギーってなんだ?どこに落下するというのか?それがブラックホールなのか?ブラックホールに出会わなければ、エネルギーは眠ったままなのか?そのまだ目覚めていない物質が、巷を騒がせているダークマターってやつなのか?もし仮に、真空中に膨張すれば働くであろうエネルギーが潜在的に存在するとすれば、それは真空と呼べるものなのか?もはや、真空という用語を再定義しなければ... などと言えば、エーテル説に回帰し、潜在力とともに地獄にでも落ちるさ...
2019-02-24
"エドガー・アラン・ポー 怪奇・探偵小説集(2)" Edgar Allan Poe 著
頭がきれる探偵が登場すれば、そいつと張り合う気持ちで読み入り、つい夜を徹してしまう。これが推理小説の醍醐味!そして、意外な結末に悔しい思いをし、もう一勝負を挑む。これが短編集の醍醐味!名探偵と銘打つだけで、その人物の言葉を信じてしまい、読者をステレオタイプに飼い馴らす。これが小説家の腕前!もはや語り手は、読者の代理人として行動してやがる。
たいていの推理小説の構成には、ポーの影を感じずにはいられない。ゲーテはカントをこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている... と。ミステリー界にあって、ポーはまさにそんな存在であろう。彼の仕掛ける基本原理には、読者の心理を操作して物語を真理へ導くところにある。心理も、真理も、音調が同じとくれば、意味するものも紙一重。人間ってやつは、心理的な妄想を満たしてくれるだけで真理に触れた気分になれる、実に幸せな存在ときた。
推理モノの定番といえば、密室のような不可能性と犯人の意外性、盲点に仕組まれるトリック、暗号といったところであろうか。名探偵の引き立て役としての愚鈍な警部の配置も欠かせない。柔軟で行動力のある人物と頭でっかちで官僚的な人物との対比は、平凡な日常に束縛された読者に刺激を与えてくれる。お馴染みのシャーロック・ホームズ、刑事コロンボ、金田一耕助といった名探偵たちにも、ポーが創作した C・オーギュスト・デュパンの面影がある。江戸川乱歩が描いた明智小五郎はまさに生き写し。ここには、推理小説の歴史を垣間見るような作品群... 「モルグ街の殺人」,「ぬすまれた手紙」,「おまえが犯人だ」,「黄金虫」の四篇が収録される。
尚、谷崎精二訳版(偕成社文庫)を手に取る。
「物質界には、非物質界とよく似たものがいたるところにある。それゆえ、隠喩または直喩が、議論を強めたり叙述をかざったりするのにもちいられる修辞学上の独断(ドグマ)が、いくらか真理らしく思われたりする。たとえば惰性力の法則は、物理学でも形而上学でも同一であるらしい。物理学で、大きな物体をうごかすには小さな物体をうごかすよりずっと困難で、それにともなう運動量もこの困難に正比例するとみとめている。このことは、能力の大きい知力は劣等な知力よりもずっとその動作において強く、不変であり有効であるが、その行動のはじまりにあってはずっとぎこちなく面倒で、ためらいがちなものである、と形而上学でいわれることとおなじことである。」
「モルグ街の殺人」
モルグ街の惨劇が新聞に掲載され、デュパンが興味を示す。被害者は母娘。母は、足と腕の骨は挫かれ、脛骨と肋骨が折られ、無残に切り裂かれている。娘は、絞殺され、暖炉の煙突に逆立ち状態に。なんと非人間的な残虐さ。
証言者たちの主張もまちまち... フランス人はスペイン語を話していたと言い、オランダ人はフランス語だと言っている。イギリス人はドイツ語だと思い込んでいるが、ドイツ語を知らない。スペイン人は英語だと思い込んでいるが、英語をちっとも喋れない。イタリア人はロシア人と話したことがないのに。もう一人のフランス人はイタリア語も知らないのに... みながみな自分の話せない言語だと思い込んでいる。ヨーロッパの五大国民の耳では聞き分けられないとなれば、アジア人か?アフリカ人か?犯行現場に残された毛は、人間のものではない。逃走ルートを検討してみても、とても人間の運動能力では説明がつかない。この超人的な身のこなしは... デュパンの推理は、いや、オチは... オランウータン!?
「ぬすまれた手紙」
宮殿で消えた手紙をめぐって、貴婦人からパリ警察に依頼が。政治的陰謀の臭いのする手紙。大臣は貴婦人の弱みを握って権力を思いのままに。スキャンダルネタか?この際、内容はどうでもいい。
手を焼いた警視総監 G はデュパンに意見を求める。手紙は大臣の官邸内にあるはず。しかも、すぐ取り出せるところに。大臣は大胆にも、あえて隠そうとはしない手段に出て、警察を欺く。警視総監は大臣が馬鹿だと決めつける... だって大臣は詩人だよ。詩人なんてものは馬鹿と隣あわせよ... と。
ちなみに、論理学には「媒辞不拡充」という概念があるらしい。「あらゆるばかは詩人である」という大前提に対して、「彼は詩人である」という小前提があり、ゆえに「彼は馬鹿である」と結論づける。これが三段論法。ここで、「ばか」を大名辞、「彼」を小名辞、「詩人」を媒辞または中名辞。媒辞は大前提と小前提を仲立ちし、両方に拡充して意味を結び付けなければならないのに、意味不明で拡充できていない。愚鈍な警視総監を揶揄した概念というわけか。
さて、デュパンは、大臣の狡猾さを逆手にとり、手紙をすり替える。大臣は、貴婦人を権力に従わせたが、今度は貴婦人の権力に従う羽目に。彼はまだ手紙が手元にあると信じており、そのつもりで無茶をやり、政治的破滅を招くであろう。失脚するのだ。地獄に堕ちる道はやすし...
「おまえが犯人だ」
ラットル町で、裕福な老紳士バアナバス・シャットルワージーが殺害された。被害者の甥ペニフェザーが容疑者として拘束される。遺産をめぐって揉めていたという証言もある。
そこで、被害者の親友チャールズ・グッドフェローが、事件の真相を暴こうと乗り出す。彼は「オールド・チャーリー」と呼ばれ、正義の人という評判。しかも、ペニフェザーを弁護し、人間性においても寛大さを印象づける。
発見された弾丸は、ベニーフェザーの鉄砲の口径と一致。動機と情況証拠が揃い、住民の非難轟々の中で法廷に引き出され、陪審員は第一級殺人犯の判決を下す。死刑!
一方、オールド・チャーリーの気高い態度は、住民たちに称賛されて祝賀会が催された。そこに、シャトー・マルゴーの大箱が配送される。箱を開けると、血まみれの死体がむくむくと起き上がって、「おまえが犯人だ!」と告げる。青ざめたグッドフェローは罪を告白する。これは、犯人の良心に訴えた仕掛けだとさ...
「黄金虫」
暗号小説の草分けとも評される作品。黄金虫は金持ちだ... という童謡もあるが、コガネムシはゴキブリの方言という説もあるらしい。この虫にかまれたら、金の臭いをかぎつけ、金の猛者とさせるのか。
ポーは、こいつにキャプテン・キッドの財宝伝説を絡めて、黄金探検活劇へといざなう。語り手の友人ウィリアム・ルグランは新種の昆虫を発見して興奮した様子。その場で羊皮紙を掴んでスケッチを描いたが、木の枝にとまっている甲虫がどうにもドクロにしか見えない。彼は「甲虫は財産の手引き」と主張し、語り手と共に宝探しへ。
羊皮紙にスケッチした時には、何も描かれていなかったはずだが、炙り出しのような化学反応から、文字が浮かび上がる。海賊の暗号文書か?言語解析で、まず用いられる方法は、最も多い文字と最も少ない文字を抽出する。そう、頻度分析だ。各国語には特有の性質があり、例えば、英語では "e" が最も頻度が高いので、これに当ててみる。そして、"e" を含む最もありふれた語は "the" で、その前後の文字に当ててみるといった具合に。これは、初歩的な換字式暗号ではないか。この作品には、ポーの暗号理論が暗示されている、というのはちと大袈裟であろうか...
たいていの推理小説の構成には、ポーの影を感じずにはいられない。ゲーテはカントをこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている... と。ミステリー界にあって、ポーはまさにそんな存在であろう。彼の仕掛ける基本原理には、読者の心理を操作して物語を真理へ導くところにある。心理も、真理も、音調が同じとくれば、意味するものも紙一重。人間ってやつは、心理的な妄想を満たしてくれるだけで真理に触れた気分になれる、実に幸せな存在ときた。
推理モノの定番といえば、密室のような不可能性と犯人の意外性、盲点に仕組まれるトリック、暗号といったところであろうか。名探偵の引き立て役としての愚鈍な警部の配置も欠かせない。柔軟で行動力のある人物と頭でっかちで官僚的な人物との対比は、平凡な日常に束縛された読者に刺激を与えてくれる。お馴染みのシャーロック・ホームズ、刑事コロンボ、金田一耕助といった名探偵たちにも、ポーが創作した C・オーギュスト・デュパンの面影がある。江戸川乱歩が描いた明智小五郎はまさに生き写し。ここには、推理小説の歴史を垣間見るような作品群... 「モルグ街の殺人」,「ぬすまれた手紙」,「おまえが犯人だ」,「黄金虫」の四篇が収録される。
尚、谷崎精二訳版(偕成社文庫)を手に取る。
「物質界には、非物質界とよく似たものがいたるところにある。それゆえ、隠喩または直喩が、議論を強めたり叙述をかざったりするのにもちいられる修辞学上の独断(ドグマ)が、いくらか真理らしく思われたりする。たとえば惰性力の法則は、物理学でも形而上学でも同一であるらしい。物理学で、大きな物体をうごかすには小さな物体をうごかすよりずっと困難で、それにともなう運動量もこの困難に正比例するとみとめている。このことは、能力の大きい知力は劣等な知力よりもずっとその動作において強く、不変であり有効であるが、その行動のはじまりにあってはずっとぎこちなく面倒で、ためらいがちなものである、と形而上学でいわれることとおなじことである。」
「モルグ街の殺人」
モルグ街の惨劇が新聞に掲載され、デュパンが興味を示す。被害者は母娘。母は、足と腕の骨は挫かれ、脛骨と肋骨が折られ、無残に切り裂かれている。娘は、絞殺され、暖炉の煙突に逆立ち状態に。なんと非人間的な残虐さ。
証言者たちの主張もまちまち... フランス人はスペイン語を話していたと言い、オランダ人はフランス語だと言っている。イギリス人はドイツ語だと思い込んでいるが、ドイツ語を知らない。スペイン人は英語だと思い込んでいるが、英語をちっとも喋れない。イタリア人はロシア人と話したことがないのに。もう一人のフランス人はイタリア語も知らないのに... みながみな自分の話せない言語だと思い込んでいる。ヨーロッパの五大国民の耳では聞き分けられないとなれば、アジア人か?アフリカ人か?犯行現場に残された毛は、人間のものではない。逃走ルートを検討してみても、とても人間の運動能力では説明がつかない。この超人的な身のこなしは... デュパンの推理は、いや、オチは... オランウータン!?
「ぬすまれた手紙」
宮殿で消えた手紙をめぐって、貴婦人からパリ警察に依頼が。政治的陰謀の臭いのする手紙。大臣は貴婦人の弱みを握って権力を思いのままに。スキャンダルネタか?この際、内容はどうでもいい。
手を焼いた警視総監 G はデュパンに意見を求める。手紙は大臣の官邸内にあるはず。しかも、すぐ取り出せるところに。大臣は大胆にも、あえて隠そうとはしない手段に出て、警察を欺く。警視総監は大臣が馬鹿だと決めつける... だって大臣は詩人だよ。詩人なんてものは馬鹿と隣あわせよ... と。
ちなみに、論理学には「媒辞不拡充」という概念があるらしい。「あらゆるばかは詩人である」という大前提に対して、「彼は詩人である」という小前提があり、ゆえに「彼は馬鹿である」と結論づける。これが三段論法。ここで、「ばか」を大名辞、「彼」を小名辞、「詩人」を媒辞または中名辞。媒辞は大前提と小前提を仲立ちし、両方に拡充して意味を結び付けなければならないのに、意味不明で拡充できていない。愚鈍な警視総監を揶揄した概念というわけか。
さて、デュパンは、大臣の狡猾さを逆手にとり、手紙をすり替える。大臣は、貴婦人を権力に従わせたが、今度は貴婦人の権力に従う羽目に。彼はまだ手紙が手元にあると信じており、そのつもりで無茶をやり、政治的破滅を招くであろう。失脚するのだ。地獄に堕ちる道はやすし...
「おまえが犯人だ」
ラットル町で、裕福な老紳士バアナバス・シャットルワージーが殺害された。被害者の甥ペニフェザーが容疑者として拘束される。遺産をめぐって揉めていたという証言もある。
そこで、被害者の親友チャールズ・グッドフェローが、事件の真相を暴こうと乗り出す。彼は「オールド・チャーリー」と呼ばれ、正義の人という評判。しかも、ペニフェザーを弁護し、人間性においても寛大さを印象づける。
発見された弾丸は、ベニーフェザーの鉄砲の口径と一致。動機と情況証拠が揃い、住民の非難轟々の中で法廷に引き出され、陪審員は第一級殺人犯の判決を下す。死刑!
一方、オールド・チャーリーの気高い態度は、住民たちに称賛されて祝賀会が催された。そこに、シャトー・マルゴーの大箱が配送される。箱を開けると、血まみれの死体がむくむくと起き上がって、「おまえが犯人だ!」と告げる。青ざめたグッドフェローは罪を告白する。これは、犯人の良心に訴えた仕掛けだとさ...
「黄金虫」
暗号小説の草分けとも評される作品。黄金虫は金持ちだ... という童謡もあるが、コガネムシはゴキブリの方言という説もあるらしい。この虫にかまれたら、金の臭いをかぎつけ、金の猛者とさせるのか。
ポーは、こいつにキャプテン・キッドの財宝伝説を絡めて、黄金探検活劇へといざなう。語り手の友人ウィリアム・ルグランは新種の昆虫を発見して興奮した様子。その場で羊皮紙を掴んでスケッチを描いたが、木の枝にとまっている甲虫がどうにもドクロにしか見えない。彼は「甲虫は財産の手引き」と主張し、語り手と共に宝探しへ。
羊皮紙にスケッチした時には、何も描かれていなかったはずだが、炙り出しのような化学反応から、文字が浮かび上がる。海賊の暗号文書か?言語解析で、まず用いられる方法は、最も多い文字と最も少ない文字を抽出する。そう、頻度分析だ。各国語には特有の性質があり、例えば、英語では "e" が最も頻度が高いので、これに当ててみる。そして、"e" を含む最もありふれた語は "the" で、その前後の文字に当ててみるといった具合に。これは、初歩的な換字式暗号ではないか。この作品には、ポーの暗号理論が暗示されている、というのはちと大袈裟であろうか...
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