音楽評論家として名高いハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミット。だがここでは、音響哲学者と呼んでおこう。音階やオクターヴといった音楽理論は、ピュタゴラスの時代から数学的に論じられてきた側面がある。音楽は、帰納的なものか、演繹的なものか、と。確かに、ポリフォニーには数学的な原理が見て取れる。
しかし、だ。音を楽しんでこその音楽。心を虜にする音の響きを、数学が支配する客観性の領域に押しとどめるのはもったいない。それは共通主観というものか。あるいは、もっと形而の上にある普遍性というものか。シュトゥッケンシュミットは、数学と反数学の狭間から論じようと試みる。人間には、多くの出来事を同時に感知し追求する能力があり、この能力は訓練によって磨かれる。しかも、こうした感性は帰納的にも演繹的にも発展させられる。数学の美に対称性という概念があるが、音楽にもシンメトリーな美を感じる。生を崇めれば死も崇められ、より高められた苦悩の形式は、生を敵視する衝動までも思い描く。
ただ、既成概念を崩壊させていく中で、シンメトリーを無視した律動構造までもが現れると、人類は本当に対称性という概念を凌駕したのか、と問いたくなる。変革の時代というのは、その機運が強まれば強まるほど、古い観念を否定するだけでなく、すべてを抹殺にかかるところがある。論理学でいうところの全否定ってやつが働くのだ。20世紀とは、自由の暴走の時代であったのか。いずれにせよ、21世紀、22世紀へと移りゆくにつれ、深淵な20世紀論が語られていくであろう...
「19世紀後半のあらゆる芸術には、ロマン派の苦悶が重くのしかかっている。エクトル・ベルリオーズやバイロン卿のパトスと世界苦は、リヒャルト・ヴァーグナーの哲学では、救済の理念のなかに避難所を見いだす、一種の苦難崇拝にまで高められいてる。芸術はずっと前から表現のまったく主観的な手段となり、感情の横溢は古来の形式の限界をふみこえてしまっていた。この意味で、ヴァーグナーは、単に無限なるものを志向するロマンティックな努力をした偉大な理論家というだけでなく、芸術のうえでは絶対に犯してはいけない法則などはもうないと考える世界像を最初につくりあげた人だった。」
本書は、芸術の歩みを社会動向の投影と見て、歴史的洞察で味付けしてくれる。情緒的なものを表現する芸術は、原理的に、本能的に、形式とやらに反抗し、ある形式が支配的な力を持つと、その逆を行く預言者が出現する。モーツァルトには、すべての法則に逆らうかのような旋律が出てくる。
しかし、法則を正しく理解しなければ、正しく逆らうことはできまい。芸術家たちは、模倣に明け暮れながら独自性を目覚めさせていくかに見える。ラファエロしかり、シェイクスピアしかり。健全な懐疑主義を放棄すれば盲目となるばかり。彼らは、そうなることを極端に恐れ、義務や使命にまで高めていくかに見える。偉大な模倣者とでも言おうか。
ここでは、ヴァーグナー信奉者が反ヴァーグナーを目覚めさせていく様子が伺える。その流れはドビュッシーを通じて強まっていったという。形式上のタブーの崩壊では、十二音技法の創始者と目されるシェーンベルクを論じている。シェーンベルクの音楽はなぜ分かりにくいか... 協和音と不協和音の区別が消え... シンメトリーを無視したリズム... などと。十二の音が短い空間に相次いで登場し、しかも同じ音の反復は最小限に抑えられる。それは構成上の必然性からくるのか、あるいは直観が命ずるのか。シェーンベルクは国家社会主義の民族政策によって生存を脅かされた一人で、特に自由という概念に敏感だったと見える。保守派のブラームス党と革新派のヴァーグナー党との対立の余韻が残る時代、新たな自由という風潮をもたらしながらも、そこに孕む危険性を真っ先に感じ取ったのもシェーンベルク自身だったという。ストラヴェンスキーの技法は、彼の技法につながるものだとか。電子音楽の成し遂げた総合的音楽の可能性もまた、シェーンベルクに帰着するという。
新たな秩序が、変化の挙げ句に伝統的な形式に流し込もうという試みに回帰する、ということがある。たまには密教的な抒情詩に立ち返ってみるのも悪くない。どんな学問分野でも技術に凝りすぎると、本質的なものを見失う。そして、この新たな秩序を救ったのもシェーンベルクであったのか...
自由を重んじる芸術精神は、純粋な個人の能力だけでなく、社会的抑圧の反発から生じるところがある。19世紀に栄華を極めた王侯貴族の芸術は、20世紀になると市民的な芸術へと解放され、宗教観にも世俗的な使命が与えられた。19世紀の芸術の中でブルジョア芸術が育まれ、20世紀に開花したという見方もできるだろう。
その影で、二つの大戦を経験するという暗い時代。ファシズムやスターリン主義を旺盛にし、非寛容な政治的作品が溢れる中、芸術活動は警察国家の非人道への抗議という形で現れる。戦争レクイエムを奏で...
芸術家たちが真に芸術に没頭していくと、自然に政治的な思惑から解放され、人類の普遍性に訴えようとするものなのか。音楽家だけでなく、文学者にしても、美術家にしても。こうした衝動は、宗教弾圧の時代にも起こった。ユングが言う集団的無意識ってやつが働くのか...
「自由の状態というものは耐えがたい。この悲しい真理は社会生活ばかりでなく、精神の全領域にも妥当する。どんな法則も存在しないか、あるいは認識されないために、あらゆる可能性が開かれているような状態におかれると、芸術的創造はかえって困難になる。もろもろの形式は感情の裁量に任され、形態と無形態とのあいだにはっきりした境界がひかれなくなる。」
古くから哲学は、パトスとロゴス、感情と理性、主観と客観といった対立を論じてきた。音楽を理論づける上でも、同じような論争を見かける。ただ、理性の擁護者の方が楽であろう。客観的な法則を引き合いに出せば済むし。感情の擁護者は、得体の知れない精神という実体を主観的に唱えるしかない。
音響学的に問えば、騒音と音色を分けるものとは何か?という問題にぶつかり、音響スペクトルを分析しても物理的に区別することは難しい。絶対音感の持ち主ともなると、楽器の奏でる美しい音でも組み合わせによっては騒音に感じると聞く。こうした感覚は、音響現象が極めて生理的なものであることを示している。
ライプニッツは、モナド論の中で「予定調和」なる根本原理を唱えた。肉体と魂は、あたかも協調して振る舞っているかに見えるが、実は肉体は魂があたかも存在せぬかのごとく振る舞い、魂もまた肉体が存在せぬかのごとく振る舞う、といったことを。確かに、人間精神の本質は無意識の側にありそうだ。
一方で、サイバネティックスのように、人間自体が複雑な伝達系や情報システムにほかならないという見方もある。確かに、人間という存在は機械仕掛けのオートマトンに過ぎないのかもしれない。
音楽の構成要素を、音高、音の長さ、音量、音色、そして、音空間などで定義して音の素材を解明したところで、精神の中で総合体として生じる実体をどう説明するか。それは、人間精神の実体が解明されるまで先送りされるであろう。もし仮に、それを AI が解明したとしても、AI は人間なんぞに答えを教えてくれはしないだろう。思考の鈍臭い構造物に付き合っている暇はないと...
Contents
- 2019-06-23 "20世紀音楽" Hans Heinz Stuckenschmidt 著
- 2019-06-16 "詩人の運命 - ディラン・トマスの肖像" John Malcolm Brinnin 著
- 2019-06-09 "中原中也詩集" 大岡昇平 編
- 2019-06-02 "永井荷風研究" 中村真一郎 編
- 2019-05-26 "モーツァルト" 吉田秀和 著
- 2019-05-19 "ソロモンの歌" 吉田秀和 著
- 2019-05-12 "一枚のレコード" 吉田秀和 著
- 2019-05-05 "ウィトルーウィウス建築書" Marcus Vitruvius Pollio 著
- 2019-04-28 "詳解 Linux カーネル" Daniel P. Bovet & Marco Cesati 著
- 2019-04-21 "ガロアの夢 群論と微分方程式" 久賀道郎 著
2019-06-23
2019-06-16
"詩人の運命 - ディラン・トマスの肖像" John Malcolm Brinnin 著
短い時間に魂を燃え尽くして逝った人たちがいる。アルチュール・ランボー、ジョン・キーツ、ハート・クレインらが... 日本にも石川啄木、生田春月、中原中也らが... そして、ディラン・トマスである。
詩人というものは、つくられるものではなく、生まれ出るものらしい。何がこのような人種を創出させるのか。果てしない探求によって虚無感を自ら駆り立て、自我との対決から自己を破滅させる。この型の人間は、自ら破滅できる人々を引き寄せるかに見える。言葉への要求が高すぎると、そうさせるのか。朗読旅行へ出かけては交流会を催し、聴衆の愚鈍な質問にも愛想よく答え、モラリストを演じきる。お寺さんの法話会のごとく。説教好きのなせる業か。ソーシャルネットワークでは、いちいちコメントに反応するだけで気を狂わせるものだが、詩人ともなると、世界の救世主となることを期待する輩を相手にしなければならない。俗人と接触すればするほど、創作意欲を減退させていくとは。詩人にとって、朗読会の開催は義務なのか。書くだけでは不十分なのか。詩人が散文に救いを求めたって、いいじゃないか。芸術家が啓蒙家になる必要はあるまい。人間喜劇をわざわざ悲劇で演じることもあるまい...
「如何なる詩人も、自らの詩のなかにのみ生きることは出来ない。又その詩のみで生きることも出来ない。」
理想の言葉とは、意味と音調が完全に調和しているものを言うのであろう。それは、自己の度量で受け入れられる分には精神安定剤となるが、その度量を越えた途端に吐き気を催す。詩が分かりにくいのは、なにも読者を困らせようというわけではあるまい。芸術は抽象性とすこぶる相性がいい。普遍性に訴えると言葉を曖昧にさせる。崇高な言葉は概して曖昧に見える。
しかし世間は、あまりにも具体的な言葉を求めすぎる。明快さを求めすぎる。それゆえ疲れる。そして、神を信じない者が神を称える詩を読むことに意義を求めようとは...
ディランの浪費癖は酒のせいらしいが、酒で紛らわし... 愛に溺れ... この放蕩ぶりはなにも詩人の専売特許ではあるまい。死を思わずして詩が書けるのか。生とのギャップがそうさせるのか。いや、詩とは、死そのものの体現なのか。ウェールズ訛りの断末魔には、BGM にストラヴェンスキーの「放蕩児の遍歴」がよくあう...
「ぼくは自分の中に、野獣と天使と狂人を持っている。そしてぼくの究明は彼らの行為に関り合い、ぼくの問題は彼らの征服と勝利、また転落と異変であり、ぼくの努力は彼らの自己表現である。」
「誰が この迷路のなかで
この潮の満引と 鱗の小路のなかで
月がふくらませた貝殻のなかで 身をまるめ
魚類の家と地獄の上に畳まれた
倒れた町の船の帆へ逃れるのか
神の緑の神話にひれ伏そうともしないで?
塩の写真を 風景の悲しみをひろげよ
神の描いた油絵のなかで愛せよ
更に人間から鯨までを映し出せ
緑の子供が 聖杯のように
ベールと尾びれと火と渦まきを通して
時を 画布の小路の上に見ることが出来るように...」
「誇り高くして死ねず 破れ盲いて彼は死んだ
暗黒の道で。そして顔もそむけなかった
冷く優しき男は埋葬した誇りで勇敢であった
あの暗黒の日に。ああ 永遠に
彼よ朗々と生きよ 遂に臨終の時に
山を横切り草の下に恋し そこに生きよ
長い群の中で若く 迷うことも
静まることもなく あの死の遅き日々には...」
詩人というものは、つくられるものではなく、生まれ出るものらしい。何がこのような人種を創出させるのか。果てしない探求によって虚無感を自ら駆り立て、自我との対決から自己を破滅させる。この型の人間は、自ら破滅できる人々を引き寄せるかに見える。言葉への要求が高すぎると、そうさせるのか。朗読旅行へ出かけては交流会を催し、聴衆の愚鈍な質問にも愛想よく答え、モラリストを演じきる。お寺さんの法話会のごとく。説教好きのなせる業か。ソーシャルネットワークでは、いちいちコメントに反応するだけで気を狂わせるものだが、詩人ともなると、世界の救世主となることを期待する輩を相手にしなければならない。俗人と接触すればするほど、創作意欲を減退させていくとは。詩人にとって、朗読会の開催は義務なのか。書くだけでは不十分なのか。詩人が散文に救いを求めたって、いいじゃないか。芸術家が啓蒙家になる必要はあるまい。人間喜劇をわざわざ悲劇で演じることもあるまい...
「如何なる詩人も、自らの詩のなかにのみ生きることは出来ない。又その詩のみで生きることも出来ない。」
理想の言葉とは、意味と音調が完全に調和しているものを言うのであろう。それは、自己の度量で受け入れられる分には精神安定剤となるが、その度量を越えた途端に吐き気を催す。詩が分かりにくいのは、なにも読者を困らせようというわけではあるまい。芸術は抽象性とすこぶる相性がいい。普遍性に訴えると言葉を曖昧にさせる。崇高な言葉は概して曖昧に見える。
しかし世間は、あまりにも具体的な言葉を求めすぎる。明快さを求めすぎる。それゆえ疲れる。そして、神を信じない者が神を称える詩を読むことに意義を求めようとは...
ディランの浪費癖は酒のせいらしいが、酒で紛らわし... 愛に溺れ... この放蕩ぶりはなにも詩人の専売特許ではあるまい。死を思わずして詩が書けるのか。生とのギャップがそうさせるのか。いや、詩とは、死そのものの体現なのか。ウェールズ訛りの断末魔には、BGM にストラヴェンスキーの「放蕩児の遍歴」がよくあう...
「ぼくは自分の中に、野獣と天使と狂人を持っている。そしてぼくの究明は彼らの行為に関り合い、ぼくの問題は彼らの征服と勝利、また転落と異変であり、ぼくの努力は彼らの自己表現である。」
「誰が この迷路のなかで
この潮の満引と 鱗の小路のなかで
月がふくらませた貝殻のなかで 身をまるめ
魚類の家と地獄の上に畳まれた
倒れた町の船の帆へ逃れるのか
神の緑の神話にひれ伏そうともしないで?
塩の写真を 風景の悲しみをひろげよ
神の描いた油絵のなかで愛せよ
更に人間から鯨までを映し出せ
緑の子供が 聖杯のように
ベールと尾びれと火と渦まきを通して
時を 画布の小路の上に見ることが出来るように...」
「誇り高くして死ねず 破れ盲いて彼は死んだ
暗黒の道で。そして顔もそむけなかった
冷く優しき男は埋葬した誇りで勇敢であった
あの暗黒の日に。ああ 永遠に
彼よ朗々と生きよ 遂に臨終の時に
山を横切り草の下に恋し そこに生きよ
長い群の中で若く 迷うことも
静まることもなく あの死の遅き日々には...」
2019-06-09
"中原中也詩集" 大岡昇平 編
ソクラテスの言葉に「良い本を読まない人は字が読めないに等しい。」というのがあるが、そんな心持ちにさせられる領域が確かにある。孔子の言葉に「三十而立、四十不惑、五十知命...」というのがあるが、半世紀も生きて、ようやくこのようなものが読めるようになろうとは...
この書に出会えたのは、音楽評論家吉田秀和氏が、音楽以外のものを... と書いた著作「ソロモンの歌」の中で見かけたおかげ。BGM のような書とでも言おうか、これは救われる。宇宙論では詠嘆調を奏で、堕落論では道化調を奏で、この臨終感ときたら、この黄昏感ときたら、この無力感ときたら... すべての表象をセピア色に変えちまう。人間はこの自然の中で生きている。いや、この自然の中でしか生きられない。そんな当たり前のことを、さりげなく啓示できる人がいる。この手の人種は、啓蒙家としての使命感のようなものに取り憑かれるのであろうか。いや、むしろ自然体だからこそ響くものがあるのだろう。ベートーヴェンをベトちゃんと親しみをもって呼ぶのは、詩人の盲目感を聴覚障害を患った音楽家の絶望感に重ねて見るからであろうか...
今宵は、キューバ葉巻を吹かし、照明を紅葉色に演出。BGM は「月光ソナタ」といこう。この演出にはグレンリベット18年がよくあう...
「もろもろの業(わざ)、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。」... ソロモン
人生観や世界観を表現する手段として、詩を選ぶ人たちがいる。淋しさを知らねば、詩人にもなれまい。自己破滅型の人間でなければ、自己を創造することもできまい。彼らは、孤独愛好家という趣向(酒肴)をよく心得ているようだ。芸術家たちは自我との対立から偉大な創造物に辿り着き、真理の探求者たちは自問することによって学問の道を切り開く。
中原中也という人は、十七歳の頃から本格的な詩作活動を始めたそうな。死の前年に書いた「詩的履歴書」には、こう宣言されるという。
「人間が不幸になつたのは、最初の反省が不可なかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。(略) 私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ。」
この詩人は三十という若さで逝く。まさに三十而立か...
「盲目の秋...
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
その間(かん)、小さな紅(くれなゐ)の花が見えはするが、
それもやがては潰れてしまふ。
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまへに腕を振る。
もう永遠に帰らないことを思つて
酷白(こくはく)な嘆息するのも幾たびであらう...
私の青春はもはや堅い血管となり、
その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。
それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)へ、
去りゆく女が最後にくれる笑(ゑま)ひのやうに、
厳かで、ゆたかで、それでゐて佗しく、
異様で、温かで、きらめいて胸に残る...
あゝ、胸に残る...
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまへに腕を振る。
これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。
これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。
人には自恃があればよい!
その余はすべてなるまゝだ...
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。...」
詩人とは、よほど辛い職業と見える。狂気しなければ到達しえない境地がある。彼らの生き様は滑稽ですらある。いや、あえて道化を演じているのか。活動の出発点は、自我を追い詰めることから始めるしかない。その挙げ句に、人生を自我に乗っ取られる。自己を救おうとすれば、逃避の道しか残されていないというのか。空想に縋るしかないというのか。それで、自ら人生を縮めていくのか...
「なんにも書かなかつたら
みんな書いたことになった
覚悟を定めてみれば、
此の世は平明なものだった
夕陽に向って、
野原に立ってゐた。
まぶしくなると、
また歩み出した。
何をくよくよ、
川端やなぎ、だ...」
既成概念に反発する精神活動は、いつの時代にも見られるが、芸術家には欠かせない資質である。二十世紀初頭にも、ダダイズムという芸術活動が現れた。「ダダイストは永遠性を望むが故にダダ詩を書きはせぬ」という主張もあるが、中原中也もまたそんな一人であろうか。ダダ思想を謳歌し、自我を目覚めさせよ!と自ら鼓舞するかのように。この矛盾感がたまらん...
「南無 ダダ
足駄なく、傘なく
青春は、降り込められて、
水溜り、泡(あぶく)は
のがれ、のがれゆく。
人よ、人生は、騒然たる沛雨(はいう)に似てゐる...」
「幾時代かがありまして
茶色い戦争がありました
幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
今夜此処での一と殷盛り...」
「歴史に...
明知が群集の時間の中に丁度よく浮かんで流れるのには
二つの方法がある。
一は大抵の奴が実施してゐるディレッタンティズム、
一は良心が自ら煉獄を通過すること。
なにものの前にも良心は抂(ま)げらるべきでない!
女・子供のだって、乞食のだって。
歴史は時間を空間よりも少しづつ勝たせつゝある?
おゝ、念力よ!現れよ。」
気難しい作品に癒やされるようになったら、歳をとった証であろう。意識は、ちょいとばかりうつろなぐらいがいい。ちょいとばかり曖昧なぐらいいい。騒々しい社会に慣れちまったら、特にそうだ。具体的すぎる社会は疲れる。
突然、なにかに目覚める瞬間がある。今まで何とも思っていなかった事柄に感動すれば、目の前の幸せに気づいていなかったことを嘆かずにはいられない。この感覚、この喜びは、死ぬ瞬間まで忘れないでいたいものだが、そうもいくまい。そして、脂ぎった魂が救いを求めるとすれば、こういうものになろうか...
「汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革衣
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日が暮れる...」
この書に出会えたのは、音楽評論家吉田秀和氏が、音楽以外のものを... と書いた著作「ソロモンの歌」の中で見かけたおかげ。BGM のような書とでも言おうか、これは救われる。宇宙論では詠嘆調を奏で、堕落論では道化調を奏で、この臨終感ときたら、この黄昏感ときたら、この無力感ときたら... すべての表象をセピア色に変えちまう。人間はこの自然の中で生きている。いや、この自然の中でしか生きられない。そんな当たり前のことを、さりげなく啓示できる人がいる。この手の人種は、啓蒙家としての使命感のようなものに取り憑かれるのであろうか。いや、むしろ自然体だからこそ響くものがあるのだろう。ベートーヴェンをベトちゃんと親しみをもって呼ぶのは、詩人の盲目感を聴覚障害を患った音楽家の絶望感に重ねて見るからであろうか...
今宵は、キューバ葉巻を吹かし、照明を紅葉色に演出。BGM は「月光ソナタ」といこう。この演出にはグレンリベット18年がよくあう...
「もろもろの業(わざ)、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。」... ソロモン
人生観や世界観を表現する手段として、詩を選ぶ人たちがいる。淋しさを知らねば、詩人にもなれまい。自己破滅型の人間でなければ、自己を創造することもできまい。彼らは、孤独愛好家という趣向(酒肴)をよく心得ているようだ。芸術家たちは自我との対立から偉大な創造物に辿り着き、真理の探求者たちは自問することによって学問の道を切り開く。
中原中也という人は、十七歳の頃から本格的な詩作活動を始めたそうな。死の前年に書いた「詩的履歴書」には、こう宣言されるという。
「人間が不幸になつたのは、最初の反省が不可なかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。(略) 私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ。」
この詩人は三十という若さで逝く。まさに三十而立か...
「盲目の秋...
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
その間(かん)、小さな紅(くれなゐ)の花が見えはするが、
それもやがては潰れてしまふ。
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまへに腕を振る。
もう永遠に帰らないことを思つて
酷白(こくはく)な嘆息するのも幾たびであらう...
私の青春はもはや堅い血管となり、
その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。
それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)へ、
去りゆく女が最後にくれる笑(ゑま)ひのやうに、
厳かで、ゆたかで、それでゐて佗しく、
異様で、温かで、きらめいて胸に残る...
あゝ、胸に残る...
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまへに腕を振る。
これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。
これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。
人には自恃があればよい!
その余はすべてなるまゝだ...
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。...」
詩人とは、よほど辛い職業と見える。狂気しなければ到達しえない境地がある。彼らの生き様は滑稽ですらある。いや、あえて道化を演じているのか。活動の出発点は、自我を追い詰めることから始めるしかない。その挙げ句に、人生を自我に乗っ取られる。自己を救おうとすれば、逃避の道しか残されていないというのか。空想に縋るしかないというのか。それで、自ら人生を縮めていくのか...
「なんにも書かなかつたら
みんな書いたことになった
覚悟を定めてみれば、
此の世は平明なものだった
夕陽に向って、
野原に立ってゐた。
まぶしくなると、
また歩み出した。
何をくよくよ、
川端やなぎ、だ...」
既成概念に反発する精神活動は、いつの時代にも見られるが、芸術家には欠かせない資質である。二十世紀初頭にも、ダダイズムという芸術活動が現れた。「ダダイストは永遠性を望むが故にダダ詩を書きはせぬ」という主張もあるが、中原中也もまたそんな一人であろうか。ダダ思想を謳歌し、自我を目覚めさせよ!と自ら鼓舞するかのように。この矛盾感がたまらん...
「南無 ダダ
足駄なく、傘なく
青春は、降り込められて、
水溜り、泡(あぶく)は
のがれ、のがれゆく。
人よ、人生は、騒然たる沛雨(はいう)に似てゐる...」
「幾時代かがありまして
茶色い戦争がありました
幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
今夜此処での一と殷盛り...」
「歴史に...
明知が群集の時間の中に丁度よく浮かんで流れるのには
二つの方法がある。
一は大抵の奴が実施してゐるディレッタンティズム、
一は良心が自ら煉獄を通過すること。
なにものの前にも良心は抂(ま)げらるべきでない!
女・子供のだって、乞食のだって。
歴史は時間を空間よりも少しづつ勝たせつゝある?
おゝ、念力よ!現れよ。」
気難しい作品に癒やされるようになったら、歳をとった証であろう。意識は、ちょいとばかりうつろなぐらいがいい。ちょいとばかり曖昧なぐらいいい。騒々しい社会に慣れちまったら、特にそうだ。具体的すぎる社会は疲れる。
突然、なにかに目覚める瞬間がある。今まで何とも思っていなかった事柄に感動すれば、目の前の幸せに気づいていなかったことを嘆かずにはいられない。この感覚、この喜びは、死ぬ瞬間まで忘れないでいたいものだが、そうもいくまい。そして、脂ぎった魂が救いを求めるとすれば、こういうものになろうか...
「汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革衣
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日が暮れる...」
2019-06-02
"永井荷風研究" 中村真一郎 編
アヴァンギャルドに立って、タンブールを鳴らす... かつて、そんな作家がいたそうな。これほど社会と調和しない作家も珍しい。それは、老愁ただよう追悼歌のような小説「濹東綺譚」に見て取れる。浪漫派の詩人バイロンやキーツらは南欧の明るい風土に逃れたが、荷風は故国からの逃避を空想しながらも、そうはしない。この現実嫌悪者にして不適合な社会に引き止めたものとはなんであったのか。
それは皮肉にも、あれだけ毛嫌いした文壇からの讃美であったという。自然主義陣営からも反自然主義陣営からも拍手喝采。自分が意識しなくても、世間から無責任に先鋒役を与えられることがある。鷗外には啓蒙家としての自覚があったように見えるが、荷風にはそれが見えない。空虚と倦怠の人生物語こそ彼の作風。
「今の世にも一人位小生の如きものあるもさして害にはなるまじ萬事楽天的に暮し居候」
荷風は富裕で教養豊かな家庭の生まれ。一族は枢密顧問官や大使や大学教授や牧師として名を成した家柄だという。鹿鳴館時代の典型のような家庭、いやゆるハイカラさん。恵まれながらも親に歯向かい、親類からは道徳上の罪人と見られる。この青年を反逆たらしめたものとはなんであったのか。
それは、自然主義作家として知られるゾラとの出会いに始まったそうな。明治維新後の急激な近代化の波。ここには、父と子の思想的な世代間対立が見られる。子が芸術家のような不安定な職業を選ぼうものなら、形式を重んじる父はこれに反対。荷風は、アメリカで暮らし、フランスに渡り、西洋の伝統と哲学を肌で感じると、西洋かぶれしていく日本社会に嫌悪感を覚えたと見える。寺田透は、こう書いている。
「荷風の小説の中には、腕力権勢富貴に対する慢性的敵視がある。徒党を厭ひ自分ひとりの好みを貫かうとする心情の誇示がある。ひかげの花に対する不楡の興味がある。卑小なもの、繊弱なもの、亡び人とするものの運命に寄せる常習的詠嘆がある。歓楽の謳歌と悲哀の愛撫がある。過去の燗熟に対する絶えざる懐古がある。これらは正しく昨日まで戦時禁制品であった。たしかに僕らはさういふものに飢えていた。」
こうしてみると、「自然主義」という用語もなかなか手強い。真理を描こうとすれば、美化を否定することもしばしば。世間の言う理性ってやつは本当に真理なのか。正義ってやつは本当に真理なのか。主張した者の勝ちだとすれば、文化は退廃している証。健全な懐疑心を持ち続けることは難しい。真の自然主義者ならば、わざわざ自分が自然主義だと主張したりはしないのではないか。すでに、勝手に、静かに、自然を謳歌しているのではないか。むしろ、何かに抑圧されているから大声で訴え、憤慨するのではないか。酔いどれ天の邪鬼が大声で自由が欲しいと叫んでいる間に、才能豊かな連中は静かに自由を謳歌してやがる。
人間嫌いでなければ、人間観察もままなるまい。力まず率直に人間を曝け出し、自ら自分を不幸にするパラドックスに放り込む勇気。小説家たらしめる論理への目覚め。社会に席のない個人主義は、矛盾を越えて自己啓発、自己完結、自己実現を旺盛にしていき、なすがままに孤独へ導く。いかに絶望哲学を学び、これに同感しても、人間はなかなか絶望しないものである。個人は絶望しても、人類は絶望せず繁殖を続ける。現世に絶望しても来世への希望は捨てきれない幸せな性癖の持ち主。
荷風にとっての誠実とは、自己に対して論理的に生きること、自己の文学理論を忠実に敢行すること、それが不幸へ導こうが悔いることはない。こうした作家のアウトローぶりに、どことなく惹かれのも、読み手もまたなんらかの抑圧の中で生きているからであろう。自然主義が自由主義とすこぶる相性がいいのは確かだ。福田恆存は、こう書いている。
「自然主義の文芸理論は、あるがまゝの人間の描写であり、醜悪と俗臭との完膚なきまでの剔抉ではありましたものゝ、それは所詮、自己完成をめざす道程においてであり、その目標を背景として作者の誠実をば読みとるといふのが、これら自然主義作品の正当な読書法なのであります。」
ところで、明治以降の近代文学を眺める時、東京出身と地方出身の差異を感じる。荷風は東京生まれで、ほとんどの作品が東京を舞台とし、東京人を十分すぎるほどに意識している。昭和初期、荷風は現代文学の代表者として、逍遥、鷗外、紅葉、露伴、四迷、漱石の六人を挙げたという。鷗外以外は、江戸っ子気風。
とはいえ、東京人にも、下町育ちと山ノ手育ちに分けて観察することができるそうな。下町を町人的とすれば、山ノ手は武士的、前者が庶民的とすれば、後者は貴族的... といった具合に。下町は社交的な気風があり、山ノ手は孤立した知識人を育てがちだとか。荷風は山ノ手風の典型というわけか。谷崎潤一郎や芥川龍之介などは下町風に分類できるのかは分からないが、荷風とはやはり人間の型が違うようである。
近代小説は、その発生期において市民のものであったという。西欧において、近代小説を生んだのはイギリスの市民階級だとか。日本で小説が最初に現れたのは、江戸の町人階級だとか。小説は、市民を主人公とし、市民の生活や感情を描き、市民がそれを愉しんで読む芸術であった。それは、貴族的な文芸に比べて社会的なものであったとか。小説という形式は、己れ一人の魂を歌う孤独で隠者的な詩人であるよりは、一般人と悲喜を共にする日常生活を物語に仕組み、これに民衆は慰められる。詩を崇高な救済とするならば、小説は雑居な救済とでも言おうか。話好き、噂好きの社交芸術という見方もできなくはない。したがって、小説は多様性とすこぶる相性がいい。
となれば、山ノ手風の孤独愛好家たる荷風にとっての小説は、反対の態度となりそうである。ただ、多様性と相性がいいのなら、なんでもあり。社交的だろうが、反社交的であろうが、一向に構わない。一見、矛盾しそうな論理だが、多様性は矛盾をも飲み込み、矛盾をも心地よいものとする。
そして荷風は、戦時中、抑圧された時期に多くの執筆をしたため、戦後、その反動で解き放たれたとさ...
それは皮肉にも、あれだけ毛嫌いした文壇からの讃美であったという。自然主義陣営からも反自然主義陣営からも拍手喝采。自分が意識しなくても、世間から無責任に先鋒役を与えられることがある。鷗外には啓蒙家としての自覚があったように見えるが、荷風にはそれが見えない。空虚と倦怠の人生物語こそ彼の作風。
「今の世にも一人位小生の如きものあるもさして害にはなるまじ萬事楽天的に暮し居候」
荷風は富裕で教養豊かな家庭の生まれ。一族は枢密顧問官や大使や大学教授や牧師として名を成した家柄だという。鹿鳴館時代の典型のような家庭、いやゆるハイカラさん。恵まれながらも親に歯向かい、親類からは道徳上の罪人と見られる。この青年を反逆たらしめたものとはなんであったのか。
それは、自然主義作家として知られるゾラとの出会いに始まったそうな。明治維新後の急激な近代化の波。ここには、父と子の思想的な世代間対立が見られる。子が芸術家のような不安定な職業を選ぼうものなら、形式を重んじる父はこれに反対。荷風は、アメリカで暮らし、フランスに渡り、西洋の伝統と哲学を肌で感じると、西洋かぶれしていく日本社会に嫌悪感を覚えたと見える。寺田透は、こう書いている。
「荷風の小説の中には、腕力権勢富貴に対する慢性的敵視がある。徒党を厭ひ自分ひとりの好みを貫かうとする心情の誇示がある。ひかげの花に対する不楡の興味がある。卑小なもの、繊弱なもの、亡び人とするものの運命に寄せる常習的詠嘆がある。歓楽の謳歌と悲哀の愛撫がある。過去の燗熟に対する絶えざる懐古がある。これらは正しく昨日まで戦時禁制品であった。たしかに僕らはさういふものに飢えていた。」
こうしてみると、「自然主義」という用語もなかなか手強い。真理を描こうとすれば、美化を否定することもしばしば。世間の言う理性ってやつは本当に真理なのか。正義ってやつは本当に真理なのか。主張した者の勝ちだとすれば、文化は退廃している証。健全な懐疑心を持ち続けることは難しい。真の自然主義者ならば、わざわざ自分が自然主義だと主張したりはしないのではないか。すでに、勝手に、静かに、自然を謳歌しているのではないか。むしろ、何かに抑圧されているから大声で訴え、憤慨するのではないか。酔いどれ天の邪鬼が大声で自由が欲しいと叫んでいる間に、才能豊かな連中は静かに自由を謳歌してやがる。
人間嫌いでなければ、人間観察もままなるまい。力まず率直に人間を曝け出し、自ら自分を不幸にするパラドックスに放り込む勇気。小説家たらしめる論理への目覚め。社会に席のない個人主義は、矛盾を越えて自己啓発、自己完結、自己実現を旺盛にしていき、なすがままに孤独へ導く。いかに絶望哲学を学び、これに同感しても、人間はなかなか絶望しないものである。個人は絶望しても、人類は絶望せず繁殖を続ける。現世に絶望しても来世への希望は捨てきれない幸せな性癖の持ち主。
荷風にとっての誠実とは、自己に対して論理的に生きること、自己の文学理論を忠実に敢行すること、それが不幸へ導こうが悔いることはない。こうした作家のアウトローぶりに、どことなく惹かれのも、読み手もまたなんらかの抑圧の中で生きているからであろう。自然主義が自由主義とすこぶる相性がいいのは確かだ。福田恆存は、こう書いている。
「自然主義の文芸理論は、あるがまゝの人間の描写であり、醜悪と俗臭との完膚なきまでの剔抉ではありましたものゝ、それは所詮、自己完成をめざす道程においてであり、その目標を背景として作者の誠実をば読みとるといふのが、これら自然主義作品の正当な読書法なのであります。」
ところで、明治以降の近代文学を眺める時、東京出身と地方出身の差異を感じる。荷風は東京生まれで、ほとんどの作品が東京を舞台とし、東京人を十分すぎるほどに意識している。昭和初期、荷風は現代文学の代表者として、逍遥、鷗外、紅葉、露伴、四迷、漱石の六人を挙げたという。鷗外以外は、江戸っ子気風。
とはいえ、東京人にも、下町育ちと山ノ手育ちに分けて観察することができるそうな。下町を町人的とすれば、山ノ手は武士的、前者が庶民的とすれば、後者は貴族的... といった具合に。下町は社交的な気風があり、山ノ手は孤立した知識人を育てがちだとか。荷風は山ノ手風の典型というわけか。谷崎潤一郎や芥川龍之介などは下町風に分類できるのかは分からないが、荷風とはやはり人間の型が違うようである。
近代小説は、その発生期において市民のものであったという。西欧において、近代小説を生んだのはイギリスの市民階級だとか。日本で小説が最初に現れたのは、江戸の町人階級だとか。小説は、市民を主人公とし、市民の生活や感情を描き、市民がそれを愉しんで読む芸術であった。それは、貴族的な文芸に比べて社会的なものであったとか。小説という形式は、己れ一人の魂を歌う孤独で隠者的な詩人であるよりは、一般人と悲喜を共にする日常生活を物語に仕組み、これに民衆は慰められる。詩を崇高な救済とするならば、小説は雑居な救済とでも言おうか。話好き、噂好きの社交芸術という見方もできなくはない。したがって、小説は多様性とすこぶる相性がいい。
となれば、山ノ手風の孤独愛好家たる荷風にとっての小説は、反対の態度となりそうである。ただ、多様性と相性がいいのなら、なんでもあり。社交的だろうが、反社交的であろうが、一向に構わない。一見、矛盾しそうな論理だが、多様性は矛盾をも飲み込み、矛盾をも心地よいものとする。
そして荷風は、戦時中、抑圧された時期に多くの執筆をしたため、戦後、その反動で解き放たれたとさ...
2019-05-26
"モーツァルト" 吉田秀和 著
「モーツァルトが一代で絶え、連綿たる王統を作らなかったと言われたら、彼を愛する人たちには我慢がならないかも知れない。けれども芸術における最高の成功は、一つの種族の最後のものになることにあるのであって、最初のものになったことにあるのではない。ことを始めるのは、誰にでもできる。しかし終止符をうつのはむずかしい。終止符をうつとは、つまり凌駕され得ないということだ。」
... ジョージ・バーナード・ショー
吉田秀和氏は、著作「一枚のレコード」の中でこう書いた。「ゲーテを真似て... バッハの味を知らない人は幸福である。その人には、人生で最大の至福の一つが待っているのだから...」 と。おいらは、バッハのところをモーツァルトと読み替えたい。ゲーテは、エッカーマンにこう語ったという。
「人間は再び滅亡しなければならない。凡て、異常な人間はある一定の使命をもち、これを成就するように召されているのだ。彼がその使命を果たすと、もう地上ではその姿では不必要になり、摂理は再び彼を何か他のものに振り向ける。しかしこの地上では万事が自然の道によって起るのであるから、デーモン達は彼を片足ずつ引落すようにして、遂に破滅させる。ナポレオンや他の多くの人物にはこうしたことが起った。モーツァルトは三十五歳で死んだのだ... しかし彼らはその使命を完全に果たした。それに、彼らのゆくべきときが来ていたのだろう。他の人間にも、この長い間持続するように定められた世界で、何か他にすることを残しておいてもらわなければ困ってしまうのだから...」
バッハに学び、ゲーテに愛されたモーツァルト。彼は貧乏のあげく心身ともに酷使し、生き地獄を生きて早死にしたのか。それとも、バッハを知ったがためにバッハと対決し、その喜びの中で死んでいったのか。彼の音楽には、いつも流動してやまないくせに、緊張の方向づけを曖昧にするところがある。あまりに真っ直ぐに生きようとしたがために、多くの曲がり角にぶち当たってしまう、ということはあるだろう。
「モーツァルトにとっては、方向があるから道があるのでなくて、道があるから、そこをゆくのである。その道がどこにゆくか、どうしてそんなに案ずることがあるだろう。出発の時にすでに道はきまっていたのだ。その道中で別の道に魅せられたら、どうしてまがっていけない理由があるだろう。」
モーツァルトがどんなふうに享楽を感じたかは知らない。おそらく享楽の追求に生きたのは確かであろう。でなければ、これほどの夥しい作品を遺すことはできなかったはず。六百を超えるケッヘル番号、中にはまだまだ研究の不十分なものもあり、彼の真意がどうであったか、専門家の間でも論争が続く。ジュピター交響曲にしても、ドン・ジョヴァンニにしても、死者のためのミサにしても、同じ人間が創ったとなれば、この人物の同一性、一貫性、持続性といったものを考えてみないわけにはいかない。
巷には数多のモーツァルト論が溢れ、書き手はそれぞれにモーツァルト色を帯びる。プロの眼にも、やはりモーツァルトは特別な存在と見える。対して、読み手の方はというと、どの書き手のものを読んでも、読んでも、足りないときた。
「ベートヴェンは運命の咽喉首をつかまえて、これと凄絶な格闘を演じた。それは深い責任感の精神でもあり、その闘いを通じて、遂に彼は、宥和による勝利、運命に対する信頼に到達した。... しかし、モーツァルトは、その責任感の精神に欠けているのではないが、それだけに囚われもしない。彼は単にそれから隔絶した仕事を... 孤独の中で... なしとげる必要があっただけなのだ。闘いながら超絶すること、これが現代の私たちが求めていることではなかったろうか。」
昔から、おいらはモーツァルトが好きなつもりでいる。仕事の BGM では、困った時のモーツァルト!という感覚があり、おそらく生涯で一番よく聴いてきた音楽家である。
しかしながら、どういうふうにいいか、喜びのうちにか、悲しみのうちにか、と具体的な感情を問うても答えられそうにない。捉えどころの難しいモーツァルト。得体の知れないモーツァルト。まるでメフィストフェレスの導きのごとく、惹きつけやがる。彼の中に人生のカノンを発見したとしても、レクイエムは永遠に未完成のまま。この天才は、音楽の悪魔性を解き放ってしまったのだろうか。人々は生きるためではなく、死ぬためにここに集まってくるかに見える...
「モーツァルトには、自分の霊の永遠の憩いを祈願する歌を書き上げることが許されなかった。それは、われらのために、十字架に上って、苦しみ、埋められたものの運命に似ていなくもない。しかし、そのような死者のためのミサとして、これは人を救う。死の床にあって、ショパンはこういったという、『私が死んだならば、本当の音楽を鳴らしてほしい。モーツァルトのレクイエムのような!』と。」
そして本書は、モーツァルトの創作の生き様を、こう描写する...
「恐らく人生は賭けであり、戦いであろう。だがその賭けも戦いも戯れなのだ。諸君、忍耐とユーモアを忘れ給うな。苦悩は深いが、よろこびは永遠に過ぎることはない。」
... ジョージ・バーナード・ショー
吉田秀和氏は、著作「一枚のレコード」の中でこう書いた。「ゲーテを真似て... バッハの味を知らない人は幸福である。その人には、人生で最大の至福の一つが待っているのだから...」 と。おいらは、バッハのところをモーツァルトと読み替えたい。ゲーテは、エッカーマンにこう語ったという。
「人間は再び滅亡しなければならない。凡て、異常な人間はある一定の使命をもち、これを成就するように召されているのだ。彼がその使命を果たすと、もう地上ではその姿では不必要になり、摂理は再び彼を何か他のものに振り向ける。しかしこの地上では万事が自然の道によって起るのであるから、デーモン達は彼を片足ずつ引落すようにして、遂に破滅させる。ナポレオンや他の多くの人物にはこうしたことが起った。モーツァルトは三十五歳で死んだのだ... しかし彼らはその使命を完全に果たした。それに、彼らのゆくべきときが来ていたのだろう。他の人間にも、この長い間持続するように定められた世界で、何か他にすることを残しておいてもらわなければ困ってしまうのだから...」
バッハに学び、ゲーテに愛されたモーツァルト。彼は貧乏のあげく心身ともに酷使し、生き地獄を生きて早死にしたのか。それとも、バッハを知ったがためにバッハと対決し、その喜びの中で死んでいったのか。彼の音楽には、いつも流動してやまないくせに、緊張の方向づけを曖昧にするところがある。あまりに真っ直ぐに生きようとしたがために、多くの曲がり角にぶち当たってしまう、ということはあるだろう。
「モーツァルトにとっては、方向があるから道があるのでなくて、道があるから、そこをゆくのである。その道がどこにゆくか、どうしてそんなに案ずることがあるだろう。出発の時にすでに道はきまっていたのだ。その道中で別の道に魅せられたら、どうしてまがっていけない理由があるだろう。」
モーツァルトがどんなふうに享楽を感じたかは知らない。おそらく享楽の追求に生きたのは確かであろう。でなければ、これほどの夥しい作品を遺すことはできなかったはず。六百を超えるケッヘル番号、中にはまだまだ研究の不十分なものもあり、彼の真意がどうであったか、専門家の間でも論争が続く。ジュピター交響曲にしても、ドン・ジョヴァンニにしても、死者のためのミサにしても、同じ人間が創ったとなれば、この人物の同一性、一貫性、持続性といったものを考えてみないわけにはいかない。
巷には数多のモーツァルト論が溢れ、書き手はそれぞれにモーツァルト色を帯びる。プロの眼にも、やはりモーツァルトは特別な存在と見える。対して、読み手の方はというと、どの書き手のものを読んでも、読んでも、足りないときた。
「ベートヴェンは運命の咽喉首をつかまえて、これと凄絶な格闘を演じた。それは深い責任感の精神でもあり、その闘いを通じて、遂に彼は、宥和による勝利、運命に対する信頼に到達した。... しかし、モーツァルトは、その責任感の精神に欠けているのではないが、それだけに囚われもしない。彼は単にそれから隔絶した仕事を... 孤独の中で... なしとげる必要があっただけなのだ。闘いながら超絶すること、これが現代の私たちが求めていることではなかったろうか。」
昔から、おいらはモーツァルトが好きなつもりでいる。仕事の BGM では、困った時のモーツァルト!という感覚があり、おそらく生涯で一番よく聴いてきた音楽家である。
しかしながら、どういうふうにいいか、喜びのうちにか、悲しみのうちにか、と具体的な感情を問うても答えられそうにない。捉えどころの難しいモーツァルト。得体の知れないモーツァルト。まるでメフィストフェレスの導きのごとく、惹きつけやがる。彼の中に人生のカノンを発見したとしても、レクイエムは永遠に未完成のまま。この天才は、音楽の悪魔性を解き放ってしまったのだろうか。人々は生きるためではなく、死ぬためにここに集まってくるかに見える...
「モーツァルトには、自分の霊の永遠の憩いを祈願する歌を書き上げることが許されなかった。それは、われらのために、十字架に上って、苦しみ、埋められたものの運命に似ていなくもない。しかし、そのような死者のためのミサとして、これは人を救う。死の床にあって、ショパンはこういったという、『私が死んだならば、本当の音楽を鳴らしてほしい。モーツァルトのレクイエムのような!』と。」
そして本書は、モーツァルトの創作の生き様を、こう描写する...
「恐らく人生は賭けであり、戦いであろう。だがその賭けも戦いも戯れなのだ。諸君、忍耐とユーモアを忘れ給うな。苦悩は深いが、よろこびは永遠に過ぎることはない。」
2019-05-19
"ソロモンの歌" 吉田秀和 著
「かつて起ったこと、それはこれからも起るだろうものと正に同じだ。人間がかつてやってきたもの、それは彼らがこれからもやるだろうことにほかならない。」
... ソロモン
音楽評論家に音楽以外のものを... と勧められて書いたものが、この本だそうな。著者にとって、文学も音楽と同じように心に奏でるものがあると見える。中原中也に宇宙論の啓示を見、吉田一穂に自恃の表出から湧き出る虚無を感じ、荷風に急速な近代化への反発心を共感し、漱石に日本社会の病魔を意識する。その明るい筆の影に、昭和の戦争が深刻化していく様を想像せずにはいられない。
「日本人の最大の特徴は、外国の文物思想の浅薄な模倣をよろこぶ気持ちと、深いところに潜在する排外思想との間の緊張ではあるまいか。その間に調和を求めるものは、どこかに逃避しなければならない。」
芸術は、ある種の社会的反抗から生じるところがある。人間の自由と個人の尊厳こそが、その精神を支える。知性と意志に働きかけ、感情、ことに皮膚感覚に微妙をきわめた音色が聞こえてきそうな...
詩人でなくても、芸術家たちは自己の中に詩を奏でるようである。詩人とは、よほど辛いものらしい。自殺するにせよ、諦念のうちに死ぬにせよ、けして妥協を許さない。自己破滅型人間、いや、自己完成形か。どうしてこんな人種がいるのか、理解を絶する。狂気しなければ到達しえない境地が、確かにある。それは、人生における戦術の問題であろうか。彼らの生き様は滑稽ですらある。いや、あえて滑稽に生きよ!というのか。狂気できない者は未熟児同然というのか。そうかもしれん。彼らは、自分の人生をハッキングしながら生きようというのか...
中原中也との出会いには、こう回想する。
「彼の存在が、私にあきらかにしてくれたことは、一口でいうと、何億という人間の中には、『この宇宙で人間が生きている』という、簡単といえば簡単な事実について、ある意味を、突然、私たちが日常生活ではあまり経験しないような形で、啓示できる人間がいる、ということである。」
吉田一穂については、裸の思想を紹介してくれる。
「だから詩を書くのだ。私は詩人だ。ほかの何者でもない。だが、詩とは何か?詩とは自分の内外にある虚無に向かって、火を放つものだ。詩は、もう一つの宇宙を創る天を低めて自らを神とする術である。」
漱石については、こう語る。
「漱石は、近代百年を通じて、日本人の意識の変化と混乱を最もはっきり意識した人であり、また、その混乱の正体をはっきり意識することに一生を賭けた人であったように見える。その彼が、どんな治療法を示しているか、私にはわからない。彼を読んで私にわかるのは、私たちが病気だということだけである。病気だといえば世界中がそうではないか、と言われるかも知れないが、それなら日本の病気は日本としての非常な特殊性をもっている。」
とはいえ、時事的おしゃべりでは、やはり音楽畑を離れることはできないと見える。カール・リヒターやアルトゥール・ルービンシュタインといった偉大な音楽家たちを、単に音楽の達人としてだけでなく、人生の達人として捉える。バッハがどんな人物だったかは知らない。知る由もない。ただ、音楽に憑かれた人で、探求してやまない人であったことは確かであろう。彼らを語る風景には、ルーベンスやラファエロといった稀代の名画が合いそうだ。そして今宵は、虎の子のフィーヌ・ブルゴーニュをやらずにはいられない...
尚、これはルービンシュタインの言葉として紹介される。
「私は人生をあるがままにうけ入れる。人生とは多くの、より多くの幸福を内蔵しているものだ。たいがいの人は幸福の条件をまず考えるが、幸福とは人間が何の条件も設置しない時、はじめて感じることができるものだ。
... 人生には、より一層の幸福がある。諸君が幸福になるための条件など数えたてず、人生をありのままにうけ入れれば、そこに幸福があるだろう。その時、音楽もきこえてくるだろう。」
... ソロモン
音楽評論家に音楽以外のものを... と勧められて書いたものが、この本だそうな。著者にとって、文学も音楽と同じように心に奏でるものがあると見える。中原中也に宇宙論の啓示を見、吉田一穂に自恃の表出から湧き出る虚無を感じ、荷風に急速な近代化への反発心を共感し、漱石に日本社会の病魔を意識する。その明るい筆の影に、昭和の戦争が深刻化していく様を想像せずにはいられない。
「日本人の最大の特徴は、外国の文物思想の浅薄な模倣をよろこぶ気持ちと、深いところに潜在する排外思想との間の緊張ではあるまいか。その間に調和を求めるものは、どこかに逃避しなければならない。」
芸術は、ある種の社会的反抗から生じるところがある。人間の自由と個人の尊厳こそが、その精神を支える。知性と意志に働きかけ、感情、ことに皮膚感覚に微妙をきわめた音色が聞こえてきそうな...
詩人でなくても、芸術家たちは自己の中に詩を奏でるようである。詩人とは、よほど辛いものらしい。自殺するにせよ、諦念のうちに死ぬにせよ、けして妥協を許さない。自己破滅型人間、いや、自己完成形か。どうしてこんな人種がいるのか、理解を絶する。狂気しなければ到達しえない境地が、確かにある。それは、人生における戦術の問題であろうか。彼らの生き様は滑稽ですらある。いや、あえて滑稽に生きよ!というのか。狂気できない者は未熟児同然というのか。そうかもしれん。彼らは、自分の人生をハッキングしながら生きようというのか...
中原中也との出会いには、こう回想する。
「彼の存在が、私にあきらかにしてくれたことは、一口でいうと、何億という人間の中には、『この宇宙で人間が生きている』という、簡単といえば簡単な事実について、ある意味を、突然、私たちが日常生活ではあまり経験しないような形で、啓示できる人間がいる、ということである。」
吉田一穂については、裸の思想を紹介してくれる。
「だから詩を書くのだ。私は詩人だ。ほかの何者でもない。だが、詩とは何か?詩とは自分の内外にある虚無に向かって、火を放つものだ。詩は、もう一つの宇宙を創る天を低めて自らを神とする術である。」
漱石については、こう語る。
「漱石は、近代百年を通じて、日本人の意識の変化と混乱を最もはっきり意識した人であり、また、その混乱の正体をはっきり意識することに一生を賭けた人であったように見える。その彼が、どんな治療法を示しているか、私にはわからない。彼を読んで私にわかるのは、私たちが病気だということだけである。病気だといえば世界中がそうではないか、と言われるかも知れないが、それなら日本の病気は日本としての非常な特殊性をもっている。」
とはいえ、時事的おしゃべりでは、やはり音楽畑を離れることはできないと見える。カール・リヒターやアルトゥール・ルービンシュタインといった偉大な音楽家たちを、単に音楽の達人としてだけでなく、人生の達人として捉える。バッハがどんな人物だったかは知らない。知る由もない。ただ、音楽に憑かれた人で、探求してやまない人であったことは確かであろう。彼らを語る風景には、ルーベンスやラファエロといった稀代の名画が合いそうだ。そして今宵は、虎の子のフィーヌ・ブルゴーニュをやらずにはいられない...
尚、これはルービンシュタインの言葉として紹介される。
「私は人生をあるがままにうけ入れる。人生とは多くの、より多くの幸福を内蔵しているものだ。たいがいの人は幸福の条件をまず考えるが、幸福とは人間が何の条件も設置しない時、はじめて感じることができるものだ。
... 人生には、より一層の幸福がある。諸君が幸福になるための条件など数えたてず、人生をありのままにうけ入れれば、そこに幸福があるだろう。その時、音楽もきこえてくるだろう。」
2019-05-12
"一枚のレコード" 吉田秀和 著
レコードをコレクションし、自己満足に浸る。それは三十年ぐらい前のこと。今ではレコード針を求めるのも一苦労で、プレーヤーが健在でなければ再生もできない。もはや蓄音機か。そして、CD でコレクションをやり直すも、ハイレゾ音源の出現でまたもや迷走する。
とはいえ、デジタル化によって音質が保たれるということは、幸せな時代を生きていると言わねばなるまい。テクノロジカルに精神が同化した時、ノスタルジアやデジャヴといった感覚へ導かれる...
芸術は、極めて人工的な行為でありながら、自然な感覚に強く訴える。騒々しい日常から逃避するかのように...
おまけに、芸術は、自己主張の強い世界。ことクラシックでは、演奏家たちは誰もが作曲家の意図を忠実に再現していると、その正統性を主張してやまない。そのくせ、ちっとも強制的でなく、威圧的でなく、機械的でなく、鑑賞者に人間味のある自由な空間を提供してくれる。音楽は、心が平静であり続けることを許さない。音楽家たちは無責任にも、絶えずも心をかき乱すよう仕掛けてきやがる。圧倒的な才能たる腕力で無力感に苛ませ、これが心地よいとくれば、M性にはたまらない。
本書で紹介される演奏家たちの音楽哲学も様々で、即興的な天才演奏家あり、およそ考えられる限り完璧な域に達しないと披露しない者あり、一つの曲だけを徹底的に究めるスペシャリストあり... これほどの多様性をドレミファソラシドだけで体現できるとは。音符に魂を吹き込むとは、こういう仕事を言うのであろう。但し、最高のものばかり味わうのでは、ちと疲れる。駄作の存在感も噛み締めなければ。時代、時代に達人が登場し、そのたびに古典は新たな力を得て蘇る。古典ほど長く愛される新作があろうか...
さて、レコードには、作曲家と演奏家がセットになって刻まれる。そして、生涯でこの一枚!となるとなかなか手強い。選曲だけでも大変なのに、演奏家が絡むとほぼ無限に広がる。ベスト 10 を選ぶだけでも葛藤が収まりそうにない。
吉田先生ほどの音楽評論家ですら、「一枚のレコード」と題しておきながら、二十枚じゃ済まない。バッハのカンタータに宇宙論を求め、シューベルトのピアノ書法に清澄な光景を見い出し、はたまた表現主義的なネオバロックに惹かれるかと思えば、トロイメライにスラブ的な憂愁を感じ入り、エロイカシンフォニーに誇りをくすぐられ、魔笛に音楽のアルファとオメガを見るといった具合。音楽の思い出や音楽とのふれあいを風景画のごとく描いて魅せる。
ちなみに、α(アルファ)とΩ(オメガ)はギリシャ語アルファベットの最初と最後の文字で、聖書には神が最初から最後まで看取るという形で、これらの文字が刻まれる。音楽もそういう感覚で刻まれていくのであろう。
吉田先生にとっても、やはりモーツァルトは特別な存在と見える。
「魔笛とは何たる音楽だろう!! この音楽をきいて、胸を打たれない人は、音楽を必要としない人だ。こんなに美しくて、しかも冷たい水が歯にしみるように胸に沁みてくる音楽はほかにない。タミーノの恋心、パミーナの悲しみ、夜の女王の誇り高き怒り、パパゲーノの嘆きと有頂天、ザラストロのくそまじめな説教とモノスタトスの黒い欲望。三人の侍女と三人の童子の、奇妙に無量感を脱した呼びかけ... この中の、そうして、これ以外のすべての一つ一つが、何の作為もなしに、透明な矢のように私たちの胸にまっすぐに走ってくる。この音楽は、私にはほとんど涙なしにはきき終えられないものだが、さてその涙は悲しみから生れたのか、それとも喜びからのものかときかれても、わかったためしがない...」
1. オーマンディの一枚
無理やりにでも「一枚のレコード」とするならば、最初に出会ったものを挙げることはできよう。どんなに美味いラーメン屋に行っても、結局、地元のラーメンの味が忘れられないように...
そして、おいらが美少年と呼ばれていた小学校低学年の頃、曲名も分からず、テレビで聞いた記憶を頼りにレコード屋に連れて行ってもらった記憶が蘇る。それが何だったのか?結局分からず、ジャケットのオーケストラの見栄えだけで選んだ一枚が... 「新世界交響曲」、ユージン・オーマンディ + ロンドン交響楽団... であった。レコードの解説には、こうある。
「かつて... フィラデルフィア管弦楽団という天下の銘器は、ストコフスキーによってつくられ、オーマンディによってかき鳴らされる... といわれたものだ。」
おかげで、おいらの音楽鑑賞人生はオーマンディに始まり、コレクション人生はフィラデルフィア管弦楽団に始まったのだった。
本書にも、オーマンディのエピソードが綴られる。彼はこう言ったそうな。
「フィラデルフィア管弦楽団の音ということがよく言われるが、あれは私の音であり、オーマンディ・トーンと呼んで欲しい。」
2. 魔王に惹かれて
シューベルトにはデモーニッシュな面があり、魔王には何がしら不思議な力が宿る。国粋的で、大衆動員的な気配。志賀直哉は、この音楽を「子供を持ったことのない男の無思慮な残酷さ」と言って酷評したそうな。だが、この深く食い入ってくる悪魔性にどことなく惹かれるのは、吉田先生とて同じようである。
3. バロックな自由のエチケット
「十七世紀から十八世紀のバロックの音楽では、楽譜の書き方が近代のそれと違っていて、演奏されるべき音のすべてを、一つ一つ克明に書きつけておくというのでなく、楽譜に書かれたものを実際の音として現実化するに当っては、演奏家の判断、つまり彼らの趣味と手腕、音楽的教養と知性といったものに任せる部分が少なからずあった。特に、当時はまた、描写的標題音楽では、ソリストに最大限の自由を保証することがエチケットとされていたのである。」
とはいえ、デジタル化によって音質が保たれるということは、幸せな時代を生きていると言わねばなるまい。テクノロジカルに精神が同化した時、ノスタルジアやデジャヴといった感覚へ導かれる...
芸術は、極めて人工的な行為でありながら、自然な感覚に強く訴える。騒々しい日常から逃避するかのように...
おまけに、芸術は、自己主張の強い世界。ことクラシックでは、演奏家たちは誰もが作曲家の意図を忠実に再現していると、その正統性を主張してやまない。そのくせ、ちっとも強制的でなく、威圧的でなく、機械的でなく、鑑賞者に人間味のある自由な空間を提供してくれる。音楽は、心が平静であり続けることを許さない。音楽家たちは無責任にも、絶えずも心をかき乱すよう仕掛けてきやがる。圧倒的な才能たる腕力で無力感に苛ませ、これが心地よいとくれば、M性にはたまらない。
本書で紹介される演奏家たちの音楽哲学も様々で、即興的な天才演奏家あり、およそ考えられる限り完璧な域に達しないと披露しない者あり、一つの曲だけを徹底的に究めるスペシャリストあり... これほどの多様性をドレミファソラシドだけで体現できるとは。音符に魂を吹き込むとは、こういう仕事を言うのであろう。但し、最高のものばかり味わうのでは、ちと疲れる。駄作の存在感も噛み締めなければ。時代、時代に達人が登場し、そのたびに古典は新たな力を得て蘇る。古典ほど長く愛される新作があろうか...
さて、レコードには、作曲家と演奏家がセットになって刻まれる。そして、生涯でこの一枚!となるとなかなか手強い。選曲だけでも大変なのに、演奏家が絡むとほぼ無限に広がる。ベスト 10 を選ぶだけでも葛藤が収まりそうにない。
吉田先生ほどの音楽評論家ですら、「一枚のレコード」と題しておきながら、二十枚じゃ済まない。バッハのカンタータに宇宙論を求め、シューベルトのピアノ書法に清澄な光景を見い出し、はたまた表現主義的なネオバロックに惹かれるかと思えば、トロイメライにスラブ的な憂愁を感じ入り、エロイカシンフォニーに誇りをくすぐられ、魔笛に音楽のアルファとオメガを見るといった具合。音楽の思い出や音楽とのふれあいを風景画のごとく描いて魅せる。
ちなみに、α(アルファ)とΩ(オメガ)はギリシャ語アルファベットの最初と最後の文字で、聖書には神が最初から最後まで看取るという形で、これらの文字が刻まれる。音楽もそういう感覚で刻まれていくのであろう。
吉田先生にとっても、やはりモーツァルトは特別な存在と見える。
「魔笛とは何たる音楽だろう!! この音楽をきいて、胸を打たれない人は、音楽を必要としない人だ。こんなに美しくて、しかも冷たい水が歯にしみるように胸に沁みてくる音楽はほかにない。タミーノの恋心、パミーナの悲しみ、夜の女王の誇り高き怒り、パパゲーノの嘆きと有頂天、ザラストロのくそまじめな説教とモノスタトスの黒い欲望。三人の侍女と三人の童子の、奇妙に無量感を脱した呼びかけ... この中の、そうして、これ以外のすべての一つ一つが、何の作為もなしに、透明な矢のように私たちの胸にまっすぐに走ってくる。この音楽は、私にはほとんど涙なしにはきき終えられないものだが、さてその涙は悲しみから生れたのか、それとも喜びからのものかときかれても、わかったためしがない...」
1. オーマンディの一枚
無理やりにでも「一枚のレコード」とするならば、最初に出会ったものを挙げることはできよう。どんなに美味いラーメン屋に行っても、結局、地元のラーメンの味が忘れられないように...
そして、おいらが美少年と呼ばれていた小学校低学年の頃、曲名も分からず、テレビで聞いた記憶を頼りにレコード屋に連れて行ってもらった記憶が蘇る。それが何だったのか?結局分からず、ジャケットのオーケストラの見栄えだけで選んだ一枚が... 「新世界交響曲」、ユージン・オーマンディ + ロンドン交響楽団... であった。レコードの解説には、こうある。
「かつて... フィラデルフィア管弦楽団という天下の銘器は、ストコフスキーによってつくられ、オーマンディによってかき鳴らされる... といわれたものだ。」
おかげで、おいらの音楽鑑賞人生はオーマンディに始まり、コレクション人生はフィラデルフィア管弦楽団に始まったのだった。
本書にも、オーマンディのエピソードが綴られる。彼はこう言ったそうな。
「フィラデルフィア管弦楽団の音ということがよく言われるが、あれは私の音であり、オーマンディ・トーンと呼んで欲しい。」
2. 魔王に惹かれて
シューベルトにはデモーニッシュな面があり、魔王には何がしら不思議な力が宿る。国粋的で、大衆動員的な気配。志賀直哉は、この音楽を「子供を持ったことのない男の無思慮な残酷さ」と言って酷評したそうな。だが、この深く食い入ってくる悪魔性にどことなく惹かれるのは、吉田先生とて同じようである。
3. バロックな自由のエチケット
「十七世紀から十八世紀のバロックの音楽では、楽譜の書き方が近代のそれと違っていて、演奏されるべき音のすべてを、一つ一つ克明に書きつけておくというのでなく、楽譜に書かれたものを実際の音として現実化するに当っては、演奏家の判断、つまり彼らの趣味と手腕、音楽的教養と知性といったものに任せる部分が少なからずあった。特に、当時はまた、描写的標題音楽では、ソリストに最大限の自由を保証することがエチケットとされていたのである。」
2019-05-05
"ウィトルーウィウス建築書" Marcus Vitruvius Pollio 著
何を建て、何を築くか...
「建築」という概念も、二千年もの月日が流れると、随分と変質してきたようである。原題 "De Architectura" は、現代語の "architecture" で認知される建築術の範疇に収まりそうにない。それは、建築技術や土木技術はもちろん、音楽論、機械技術、造兵技術にまで及び、都市計画から国家防衛論までも視野に入る。ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築をあらゆる芸術の総体と捉えた。建築家という人種は、五感を存分に解放できる空間を求め、その空間のみが五感を超越した六感なるものを生起させる、かのように考えるものらしい。真の自由は、まさに空間にあると言わんばかりに...
「学問なき才能あるいは才能なき学問は完全な技術人をつくることができない... そして願わくば、建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである。」
時代は、アウグストゥスの時代。建築様式ではドリス式やイオニア式は廃れ、コリント式に取って代わっていたという。にもかかわらず、この建築書は、ローマ帝政時代に好んで用いられた様式にはあまり触れず、ドリス式やイオニア式に多くのページを割く。ウィトルウィウスは、古き様式に何を求めたのだろうか。人間社会ってやつは、繁栄の度が過ぎると、やたらと流行り建造物を乱立させるものだが、ローマ帝政時代にもそのような傾向があったと見える。この書は、時代への苦言と解するのは行き過ぎであろうか...
ちなみに、公共浴場については、ローマ時代に thermae(テルマエ)と呼ばれたが、ここでは、balneae(バルネアエ)という語を用い、この分野でも建築の地位が確立されていたことが見て取れる。
技術の進化が抽象的な概念を具現化していく。学問の進化が学問分野を細分化していく。各分野で専門性を高めれば高めるほど専門バカを量産し、門外漢を閉め出す。それで、哲学的な論点を見失うとしたら、それは進化なのだろうか。知識の総体を眺める立場と、より深い知識を探求する立場のバランスは、いつの時代も問われてきた。
技術の進化が大いなる利便性をもたらしてきたのは確かだ。今日、続々と出現する電子機器によってユーザたちは達人レベルに飼い慣らされ、もはや道具を使っているのやら、道具に使われているのやら。そして今、巷を騒がす AI ってやつは機械なのか、道具なのか。それとも、人間の方が...
AI は情報を集積し、学習し、そのデータを元に機能する。高度な計算や状況分析の分野では非常にありがたい代物である。となると、人間らしい知識とは、どんなものを言うのであろう。文明が高度化するほど、人間は人間自身を見失わせるのか。人体を構造的に眺めれば、原子や電子の集合体でしかないし、人間もまたオートマタに過ぎないのかもしれない。心臓の鼓動が、ゼンマイ仕掛けのオルゴールと何が違うというのか。精神の正体は、単なる自由電子の集合体なのかもしれない。純粋な意志が集まり過ぎると、脂ぎった意志に変貌するらしいことは、人間社会という集団性が示している...
さて、本書は建築のバランス感覚を成立させる要素として、「オールディナーティオー」、「ディスポシティオー」、「エウリュトミア」、「シュムメトリア」、「デコル」、「ディストリブーティオー」という用語を持ち出す。現代語で表現するなら、数学的な対称性やシンメトリーな美、調合性や均衡性といった感じになろうか...
「オールディナーティオーとは、作品の肢体が個別的に度に適っていることであり、全体的比例をシュムメトリアに即して整えることである。」
「ディスポシティオーとは、物をぴったりと配置することであり、その組み合わせによって作品を質を以て立派につくり上げることである。」
「エウリュトミアとは、美しい外貌であって、肢体の組立てにおいて度に適って見えることである。」
「シュムメトリアとは、建物の肢体そのものより生ずる工合よき一致であり、一定の部分が個々の部分から採られて全体の姿に照応することである。」
「デコルとは、建物が是認された事物によって権威をもって構成され、欠点なく見えることである。」
「ディストリブーティオーとは、材料や場所を工合よく配分することであり、工事の際の費用の計算によって細かく割り振ることである。」
ウィトルウィウスは、こうした用語に数学を結びつけ、当時、基本物質とされた四元素(気、地、火、水)を体現する場としての空間論を唱える。それは、神の宿る場としての、あるいは、魂の居心地の良い場としての宇宙論という見方もできよう...
「建築術の理論とコンパスの作図を通じて宇宙における(太陽の)挙動が見いだされる。宇宙は自然万物を総括する最高のものであり、星群と星の軌道で形成された天空である。それは、軸の両端を中心として、絶えず地と海のまわりを回転している。実に、ここで自然を支配する力は(宇宙を)このように建築的に組立て、中心としての両端を、一は地と海から天頂にあるいは北斗七星そのもののうしろに配置し、他は反対に地中を通って南方に配置した。」
人間は、その本性において模倣的である。技術の習得も、芸術の習得も、その鍛錬において似たところがある。何を師範にするか、それを作品に求めるか、師匠に求めるか、はたまた書に求めるか...
それにしても、本書の図柄を眺めていると、数学と芸術の相性の良さを感じずにはいられない。理念においても、表現においても、ヘレニスティックな香り漂う。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この大技術書を美術図鑑として眺めている...
「建築」という概念も、二千年もの月日が流れると、随分と変質してきたようである。原題 "De Architectura" は、現代語の "architecture" で認知される建築術の範疇に収まりそうにない。それは、建築技術や土木技術はもちろん、音楽論、機械技術、造兵技術にまで及び、都市計画から国家防衛論までも視野に入る。ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築をあらゆる芸術の総体と捉えた。建築家という人種は、五感を存分に解放できる空間を求め、その空間のみが五感を超越した六感なるものを生起させる、かのように考えるものらしい。真の自由は、まさに空間にあると言わんばかりに...
「学問なき才能あるいは才能なき学問は完全な技術人をつくることができない... そして願わくば、建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである。」
時代は、アウグストゥスの時代。建築様式ではドリス式やイオニア式は廃れ、コリント式に取って代わっていたという。にもかかわらず、この建築書は、ローマ帝政時代に好んで用いられた様式にはあまり触れず、ドリス式やイオニア式に多くのページを割く。ウィトルウィウスは、古き様式に何を求めたのだろうか。人間社会ってやつは、繁栄の度が過ぎると、やたらと流行り建造物を乱立させるものだが、ローマ帝政時代にもそのような傾向があったと見える。この書は、時代への苦言と解するのは行き過ぎであろうか...
ちなみに、公共浴場については、ローマ時代に thermae(テルマエ)と呼ばれたが、ここでは、balneae(バルネアエ)という語を用い、この分野でも建築の地位が確立されていたことが見て取れる。
技術の進化が抽象的な概念を具現化していく。学問の進化が学問分野を細分化していく。各分野で専門性を高めれば高めるほど専門バカを量産し、門外漢を閉め出す。それで、哲学的な論点を見失うとしたら、それは進化なのだろうか。知識の総体を眺める立場と、より深い知識を探求する立場のバランスは、いつの時代も問われてきた。
技術の進化が大いなる利便性をもたらしてきたのは確かだ。今日、続々と出現する電子機器によってユーザたちは達人レベルに飼い慣らされ、もはや道具を使っているのやら、道具に使われているのやら。そして今、巷を騒がす AI ってやつは機械なのか、道具なのか。それとも、人間の方が...
AI は情報を集積し、学習し、そのデータを元に機能する。高度な計算や状況分析の分野では非常にありがたい代物である。となると、人間らしい知識とは、どんなものを言うのであろう。文明が高度化するほど、人間は人間自身を見失わせるのか。人体を構造的に眺めれば、原子や電子の集合体でしかないし、人間もまたオートマタに過ぎないのかもしれない。心臓の鼓動が、ゼンマイ仕掛けのオルゴールと何が違うというのか。精神の正体は、単なる自由電子の集合体なのかもしれない。純粋な意志が集まり過ぎると、脂ぎった意志に変貌するらしいことは、人間社会という集団性が示している...
さて、本書は建築のバランス感覚を成立させる要素として、「オールディナーティオー」、「ディスポシティオー」、「エウリュトミア」、「シュムメトリア」、「デコル」、「ディストリブーティオー」という用語を持ち出す。現代語で表現するなら、数学的な対称性やシンメトリーな美、調合性や均衡性といった感じになろうか...
「オールディナーティオーとは、作品の肢体が個別的に度に適っていることであり、全体的比例をシュムメトリアに即して整えることである。」
「ディスポシティオーとは、物をぴったりと配置することであり、その組み合わせによって作品を質を以て立派につくり上げることである。」
「エウリュトミアとは、美しい外貌であって、肢体の組立てにおいて度に適って見えることである。」
「シュムメトリアとは、建物の肢体そのものより生ずる工合よき一致であり、一定の部分が個々の部分から採られて全体の姿に照応することである。」
「デコルとは、建物が是認された事物によって権威をもって構成され、欠点なく見えることである。」
「ディストリブーティオーとは、材料や場所を工合よく配分することであり、工事の際の費用の計算によって細かく割り振ることである。」
ウィトルウィウスは、こうした用語に数学を結びつけ、当時、基本物質とされた四元素(気、地、火、水)を体現する場としての空間論を唱える。それは、神の宿る場としての、あるいは、魂の居心地の良い場としての宇宙論という見方もできよう...
「建築術の理論とコンパスの作図を通じて宇宙における(太陽の)挙動が見いだされる。宇宙は自然万物を総括する最高のものであり、星群と星の軌道で形成された天空である。それは、軸の両端を中心として、絶えず地と海のまわりを回転している。実に、ここで自然を支配する力は(宇宙を)このように建築的に組立て、中心としての両端を、一は地と海から天頂にあるいは北斗七星そのもののうしろに配置し、他は反対に地中を通って南方に配置した。」
人間は、その本性において模倣的である。技術の習得も、芸術の習得も、その鍛錬において似たところがある。何を師範にするか、それを作品に求めるか、師匠に求めるか、はたまた書に求めるか...
それにしても、本書の図柄を眺めていると、数学と芸術の相性の良さを感じずにはいられない。理念においても、表現においても、ヘレニスティックな香り漂う。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この大技術書を美術図鑑として眺めている...
2019-04-28
"詳解 Linux カーネル" Daniel P. Bovet & Marco Cesati 著
入手したはいいが、その場しのぎで、十年、二十年と放置してきた奴らがいる。ヘネパタか、パタヘネか、こいつらはその代表。本書もその類いで、章ごとに完結し、元が辞書的な構成になっている。そして、心の奥から貧乏性がつぶやいてやがる。せっかく買ったんだから... って。そろそろ引退勧告されそうな身で、再トライ!といこう。こいつを拾い読みするだけで書籍代も助かるし...
Linux のソースコードは自由に目にすることができ、その気になれば自分なりにカスタマイズすることもできる。とはいえ、いきなりコードを手にしても、途方に暮れるばかり。そんな時に指南役となってくれるのが、この詳解である。
おそらく、ソフトウェア屋さん向けに書かれたものであろう。だが、CPU を活かすためのカーネルという見方をすれば、ハードウェアの仕組みにも踏み込む。実際、コードのカスタマイズが求められるケースは、ハードウェア依存の高い部分が多い。おいらはプログラマではないが、それでも、割り込みベクタ、例外ハンドラ、同期処理、MMU、あるいは、ブートシーケンスぐらいは基本知識として持っておいて損はない。実際、知らなければ、プロセッサや周辺回路の設計で困るし...
本書の有り難いところは、コードの実装イメージを優先してくれることである。もちろんコードの厳密性も重要だけど、少々の効率性は犠牲にしてでも。例えば、schedule() 関数のカスタマイズでは、かなり教育を意識している。著者の二人はローマ大学の先生で、この詳解はイタリアの有数の工科大学で教材にされているそうな...
マルチタスク環境で主役を演じる機能といえば、プロセスの切り替えやそのスケジューリングといったところ。プロセスの切り替えでは、時間間隔、すなわちクォンタムが、システムの最適値として問われる。
さらに、今日当たり前となったマルチプロセッサ環境では、プリエンプティブか、ノンプリエンプティブか、がより重視される。Unix 環境では、ジョブに一定時間を割り当てるプリエンプティブな方式が当たり前のように用いられるが、リアルタイム処理ではそうはいかない。Linux の場合、ユーザプロセスがプリエンプティブでも、ノンプリエンプティブな部分も混在しており、本書は、負荷の高いシステムでは既定のクォンタムでは大きすぎることを指摘している。
また、スワップとキャッシュの位置づけを明確にしている。今日の OS は、幸いにも物理メモリをすべて管理する必要はない。ハードウェアの強力な支援があるからである。それだけに、スワップとキャッシュのトレードオフはより顕著化する。キャッシュは、メモリ領域を犠牲にしてでもパフォーマンスを向上させ、スワップはアクセス速度を犠牲にして、利用可能なメモリ領域を拡大させる。すべてキャッシュで済めばいいが、スワップはメモリ不足時の最終手段という考え方もできる。いわば保険として。そして、ゾンビプロセスとの葛藤では、今日のガベージコレクションを思い浮かばせる。
個人的には、モノリシックカーネルという特徴も味わいたい。本来の Unix 思想は、メモリ管理やファイルシステムなどを独立させて小さな部品を集めてシステムを構築するというものだが、あえて Linux は、これらすべてをカーネルに取り込んで一つのアドレス空間で実行させようとする。しかも、カーネルモジュールに対して、機能のアップデートや削除を動的に行える仕組みを備えている。
... こうした技を魅せつけられれば、いくらアホな天の邪鬼でもちょっといじってみたくなる。この酔いどれ庶民には高価なシステムは高嶺の花で、非力な x86 系のためのチューニング思想の方がありがたい。
近年の Linux は行儀よくなったもので、あのメッセージに出くわす機会がぐっと減った。ちと淋しいけど。歳のせいか、安定志向に走り、CentOS に鞍替えしてからは、とんとご無沙汰。そこで、わざと発生させて、心のオアシスを求めるのであった...
Kernel Panic !!!
ところで、「プロセス」という概念は、あまりに慣れ親しみ過ぎて、その意味を問うたこともない。簡単に言えば、「プログラムの実行時におけるインスタンス」として定義される。通常、割り込みは、「プロセッサが実行する命令列を変更するイベント」として定義されるとか。
こうした用語の捉え方を眺めるだけでも、当たり前といえばそうなのだが、その意味を再確認する上で古典を読む意義は大きい。いや、愉快!
尚、デッドロック回避に用いられる「セマフォ」という概念には苦労した記憶が蘇る。考え方は単純でも、抽象化されたデータ型に馴染むには、ちと時間がかかる。抽象数学に悩まされてきたように...
Linux のソースコードは自由に目にすることができ、その気になれば自分なりにカスタマイズすることもできる。とはいえ、いきなりコードを手にしても、途方に暮れるばかり。そんな時に指南役となってくれるのが、この詳解である。
おそらく、ソフトウェア屋さん向けに書かれたものであろう。だが、CPU を活かすためのカーネルという見方をすれば、ハードウェアの仕組みにも踏み込む。実際、コードのカスタマイズが求められるケースは、ハードウェア依存の高い部分が多い。おいらはプログラマではないが、それでも、割り込みベクタ、例外ハンドラ、同期処理、MMU、あるいは、ブートシーケンスぐらいは基本知識として持っておいて損はない。実際、知らなければ、プロセッサや周辺回路の設計で困るし...
本書の有り難いところは、コードの実装イメージを優先してくれることである。もちろんコードの厳密性も重要だけど、少々の効率性は犠牲にしてでも。例えば、schedule() 関数のカスタマイズでは、かなり教育を意識している。著者の二人はローマ大学の先生で、この詳解はイタリアの有数の工科大学で教材にされているそうな...
マルチタスク環境で主役を演じる機能といえば、プロセスの切り替えやそのスケジューリングといったところ。プロセスの切り替えでは、時間間隔、すなわちクォンタムが、システムの最適値として問われる。
さらに、今日当たり前となったマルチプロセッサ環境では、プリエンプティブか、ノンプリエンプティブか、がより重視される。Unix 環境では、ジョブに一定時間を割り当てるプリエンプティブな方式が当たり前のように用いられるが、リアルタイム処理ではそうはいかない。Linux の場合、ユーザプロセスがプリエンプティブでも、ノンプリエンプティブな部分も混在しており、本書は、負荷の高いシステムでは既定のクォンタムでは大きすぎることを指摘している。
また、スワップとキャッシュの位置づけを明確にしている。今日の OS は、幸いにも物理メモリをすべて管理する必要はない。ハードウェアの強力な支援があるからである。それだけに、スワップとキャッシュのトレードオフはより顕著化する。キャッシュは、メモリ領域を犠牲にしてでもパフォーマンスを向上させ、スワップはアクセス速度を犠牲にして、利用可能なメモリ領域を拡大させる。すべてキャッシュで済めばいいが、スワップはメモリ不足時の最終手段という考え方もできる。いわば保険として。そして、ゾンビプロセスとの葛藤では、今日のガベージコレクションを思い浮かばせる。
個人的には、モノリシックカーネルという特徴も味わいたい。本来の Unix 思想は、メモリ管理やファイルシステムなどを独立させて小さな部品を集めてシステムを構築するというものだが、あえて Linux は、これらすべてをカーネルに取り込んで一つのアドレス空間で実行させようとする。しかも、カーネルモジュールに対して、機能のアップデートや削除を動的に行える仕組みを備えている。
... こうした技を魅せつけられれば、いくらアホな天の邪鬼でもちょっといじってみたくなる。この酔いどれ庶民には高価なシステムは高嶺の花で、非力な x86 系のためのチューニング思想の方がありがたい。
近年の Linux は行儀よくなったもので、あのメッセージに出くわす機会がぐっと減った。ちと淋しいけど。歳のせいか、安定志向に走り、CentOS に鞍替えしてからは、とんとご無沙汰。そこで、わざと発生させて、心のオアシスを求めるのであった...
Kernel Panic !!!
ところで、「プロセス」という概念は、あまりに慣れ親しみ過ぎて、その意味を問うたこともない。簡単に言えば、「プログラムの実行時におけるインスタンス」として定義される。通常、割り込みは、「プロセッサが実行する命令列を変更するイベント」として定義されるとか。
こうした用語の捉え方を眺めるだけでも、当たり前といえばそうなのだが、その意味を再確認する上で古典を読む意義は大きい。いや、愉快!
尚、デッドロック回避に用いられる「セマフォ」という概念には苦労した記憶が蘇る。考え方は単純でも、抽象化されたデータ型に馴染むには、ちと時間がかかる。抽象数学に悩まされてきたように...
2019-04-21
"ガロアの夢 群論と微分方程式" 久賀道郎 著
三十年間、ずっと纏わり付いてくる奴がいる。あぁ、捉えどころのない微分方程式!物語は、こんな言葉から始まる...「そして山の裂目(クレパス)にのまれてしまったとさ...」
現実世界を生きるには、難問に遭遇しても、とりあえず答えを出していかないと前に進むことが難しい。数学の世界には、そうした暫定的な処理に、漸近線や近似解といった有用な方法論がある。微分方程式ってやつが、いかに解けないケースが多いことか。特異解が現実解を覆い隠すのである。解が見つけられなければ、解のある微分方程式で代替するか、解そのものを近似するか。あるいは、いくつかの方程式を連らね、それぞれに定義域を割り当てて連続性を保ったりと、誤魔化し、誤魔化し、生きている。
とはいえ、妥協人生も悪くない。人間社会では、真理よりも、真理っぽく見えることの方がずっと実用的なのだ。いや、完全な真理なんぞ見たくもない!という深層心理が働いているのやもしれん。そりゃ、自己の本性を知っちまえば、絶望するしかあるまい。
情報社会では、検索アルゴリズムにおいて、100% 満足のいく結果をじっくりと得るよりも、80% ぐらい満足できる答えを手っ取り早く得る方が有用である。人間は多忙なのだ。
素数定理でも近似法が幅を利かせているではないか。デジタル社会で絶対に欠かせないコンピューティングに目を向ければ、見過ごせない弱点を浮き彫りにする。浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE 754 の意義を匂わせてやればいい。システムエラーの回避に欠かせない前提が、数学の領域を制限することを。実数演算で冪乗の壁を乗り越えられない限り、近似の概念に頼らざるを得ない。だがそれは、数学の落ちこぼれには、ありがたいことである...
本書は、著者が東京大学教養学部のゼミナールで行った講義の記録で、題目には「群論と微分方程式」とある。ガロア理論は告げている... 二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない... と。それは代数方程式に対して、どこまで解けるかを問うたもの。ここでは、微分方程式に対して、どこまで解けるかを問う。
ガロアの思惑は代数方程式論では成功を見たが、同様の考察が微分方程式においても可能であるか。この問題に生涯を賭けたソフス・リーは、リー群を編み出した。だが、微分方程式の群論的考察という意味では、リー自身は決定的な寄与はできなかったそうで、ピカールやベシオに受け継がれ、さらに代数化されて、リットやコルチンという流れ。線型常微分方程式を群論的に扱う試みは、多くの偉大な数学者が挑み、まだまだ未知数が多い。
しかしながら、この講義はそのような大理論を展開する場ではなく、かなり制限を与えてくれる。題材とされるのは「フックス型微分方程式」と「モノドロミー群」。耳慣れない用語に尻込みしそうになるが、なんのことはない。フックス型は、こんな形をしている。しかも、二階微分で扱ってくれる...
これをベースにすれば、たいていの現象を近似できるだろう。ちょっと乱暴に言えば、こういうことらしい...
「フックス型の微分方程式とは、解がみな確定特異点しかもたぬ有理関数係数の微分方程式のことである。」
また、monodromy を辞書で引くと、一人芝居、ひとりで回る... といった意味を見つける。そして、対象となる現象を、部分集合を連ねて移動体とし眺めてみる。関数の特性を離散的な部分集合で近似するようなイメージで、集合の塊が螺旋状を回転しながら移動していく様子を想像してみるのである。
R ∋ { A0, A1, A2, A3, ... }
A0 ∪ A1 ∪ A2 ....
A0 ∩ A1 ∩ A2 ....
二次元平面で眺めれば、実数同士の直積のような空間をイメージできる。それは、複素平面でも同じこと。ただしこれは、monodromy の用語に誘われて、独り善がりな解釈を試みた結果であって、本書の意図からは酷く逸脱しているだろう。酔いどれ天の邪鬼の目には、ストルツ角領域ってやつが、螺旋状に吸い込まれていく現象に見えるもんだから... 久賀先生ごめんなさい!
それはさておき、連続性を保証してくれれば、微分可能であることが前提できる。このように対象を限定することは、一般法則を求める数学屋には許せないことかもしれない。しかし、ガロア理論が視覚化できて、教育には良さそう...
「空疎な一般論よりは、深みを偏愛するわれわれ数論屋としては、構造の豊かな特殊な族をこそ求めるべきであろう。それゆえ、われわれの関心の対象を、Euler 積分を持つもののみに限ることとする。」
とはいえ、群論の視点から微分方程式を考察するというのは、やはり尋常ではない。ようやく群論という巨大な要塞の入り口に立つことができたと思ったら... ようやく空間イメージができるようになったと思ったら... またもや自由群にしてやられる。自由ってやつは、数学界においても、やはり手に負えないものらしい。
そして、講義は、HATTARI... で締めくくられる...
「ほとんどが検証されていない事実(?)ばかりである。すなわち、ほとんどすべてハッタリである。わずかな兆候に想像力を無限大に働かせて外挿してゆくのだ。数学はこのような段階が一番たのしい...」
現実世界を生きるには、難問に遭遇しても、とりあえず答えを出していかないと前に進むことが難しい。数学の世界には、そうした暫定的な処理に、漸近線や近似解といった有用な方法論がある。微分方程式ってやつが、いかに解けないケースが多いことか。特異解が現実解を覆い隠すのである。解が見つけられなければ、解のある微分方程式で代替するか、解そのものを近似するか。あるいは、いくつかの方程式を連らね、それぞれに定義域を割り当てて連続性を保ったりと、誤魔化し、誤魔化し、生きている。
とはいえ、妥協人生も悪くない。人間社会では、真理よりも、真理っぽく見えることの方がずっと実用的なのだ。いや、完全な真理なんぞ見たくもない!という深層心理が働いているのやもしれん。そりゃ、自己の本性を知っちまえば、絶望するしかあるまい。
情報社会では、検索アルゴリズムにおいて、100% 満足のいく結果をじっくりと得るよりも、80% ぐらい満足できる答えを手っ取り早く得る方が有用である。人間は多忙なのだ。
素数定理でも近似法が幅を利かせているではないか。デジタル社会で絶対に欠かせないコンピューティングに目を向ければ、見過ごせない弱点を浮き彫りにする。浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE 754 の意義を匂わせてやればいい。システムエラーの回避に欠かせない前提が、数学の領域を制限することを。実数演算で冪乗の壁を乗り越えられない限り、近似の概念に頼らざるを得ない。だがそれは、数学の落ちこぼれには、ありがたいことである...
本書は、著者が東京大学教養学部のゼミナールで行った講義の記録で、題目には「群論と微分方程式」とある。ガロア理論は告げている... 二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない... と。それは代数方程式に対して、どこまで解けるかを問うたもの。ここでは、微分方程式に対して、どこまで解けるかを問う。
ガロアの思惑は代数方程式論では成功を見たが、同様の考察が微分方程式においても可能であるか。この問題に生涯を賭けたソフス・リーは、リー群を編み出した。だが、微分方程式の群論的考察という意味では、リー自身は決定的な寄与はできなかったそうで、ピカールやベシオに受け継がれ、さらに代数化されて、リットやコルチンという流れ。線型常微分方程式を群論的に扱う試みは、多くの偉大な数学者が挑み、まだまだ未知数が多い。
しかしながら、この講義はそのような大理論を展開する場ではなく、かなり制限を与えてくれる。題材とされるのは「フックス型微分方程式」と「モノドロミー群」。耳慣れない用語に尻込みしそうになるが、なんのことはない。フックス型は、こんな形をしている。しかも、二階微分で扱ってくれる...
| d2w dz2 |
+ | P(z) | dw dz |
+ | Q(z)w | = | 0 |
これをベースにすれば、たいていの現象を近似できるだろう。ちょっと乱暴に言えば、こういうことらしい...
「フックス型の微分方程式とは、解がみな確定特異点しかもたぬ有理関数係数の微分方程式のことである。」
また、monodromy を辞書で引くと、一人芝居、ひとりで回る... といった意味を見つける。そして、対象となる現象を、部分集合を連ねて移動体とし眺めてみる。関数の特性を離散的な部分集合で近似するようなイメージで、集合の塊が螺旋状を回転しながら移動していく様子を想像してみるのである。
R ∋ { A0, A1, A2, A3, ... }
A0 ∪ A1 ∪ A2 ....
A0 ∩ A1 ∩ A2 ....
二次元平面で眺めれば、実数同士の直積のような空間をイメージできる。それは、複素平面でも同じこと。ただしこれは、monodromy の用語に誘われて、独り善がりな解釈を試みた結果であって、本書の意図からは酷く逸脱しているだろう。酔いどれ天の邪鬼の目には、ストルツ角領域ってやつが、螺旋状に吸い込まれていく現象に見えるもんだから... 久賀先生ごめんなさい!
それはさておき、連続性を保証してくれれば、微分可能であることが前提できる。このように対象を限定することは、一般法則を求める数学屋には許せないことかもしれない。しかし、ガロア理論が視覚化できて、教育には良さそう...
「空疎な一般論よりは、深みを偏愛するわれわれ数論屋としては、構造の豊かな特殊な族をこそ求めるべきであろう。それゆえ、われわれの関心の対象を、Euler 積分を持つもののみに限ることとする。」
とはいえ、群論の視点から微分方程式を考察するというのは、やはり尋常ではない。ようやく群論という巨大な要塞の入り口に立つことができたと思ったら... ようやく空間イメージができるようになったと思ったら... またもや自由群にしてやられる。自由ってやつは、数学界においても、やはり手に負えないものらしい。
そして、講義は、HATTARI... で締めくくられる...
「ほとんどが検証されていない事実(?)ばかりである。すなわち、ほとんどすべてハッタリである。わずかな兆候に想像力を無限大に働かせて外挿してゆくのだ。数学はこのような段階が一番たのしい...」
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