2020-04-26

"Python によるデータ分析入門" Wes McKinney 著

この酔いどれ天の邪鬼は、Ruby 信奉者である。いや、だった。それも仕事場ではなかなか受け入れてくれない。Ruby はもう死んだのか?やら、Rubyはまだ死んでいない!やらといった記事も見かけるけど...
近年、大人気と評判の Python なら受け入れられるようになったので使うようになったが、あくまでもスクリプト言語としての位置付けであって、まだまだ、Ruby の思考回路から抜けられないでいる。
しかしながら、Python 関連の書籍を漁っているうちに、こいつの本当の魅力は C 言語系との相性の良さではあるまいか、と感じ始めた。Cython プロジェクトなるものも耳にすれば、Visual Studio にも Python ツールを見かけるし...

実際、数値計算ライブラリや画像処理ライブラリには、C言語系の API が溢れている。OpenCV しかり、Dlib しかり、むかーしから愛用してきた LibTIFF しかり... 処理性能を求めれば、低水準言語で扱う場面が増え、ここにスクリプト言語との壁が生じる。その壁も随分と低くなってきてはいるが...
おいらの昔からの考えに、言語依存を避けるため、データの受け渡しにはテキスト形式で I/F するというのがある。テキスト形式であれば、エディタで直接編集できるし、痒いところにも手が届く。
そして、データ解析モデルや演算モデルに GNU Octave(数値演算言語)や Lisp、あるいは C++ を、これらの可視化ツールに gnuplot を、プロセッサや DSP の設計・検証に HDL(ハードウェア記述言語)を、そして、統合環境にスクリプト言語を用いるのが定番となっている。
ただ、受け渡しのための中間ファイルが巨大化する傾向があり、ずっと悩まされてきた。その都度圧縮したりと。ハードディスクも SSD に置き換わって高速化し、搭載メモリも大容量化してきたので、それほど目障ではなくなってきたものの、開発環境を一つの言語システムで完結できれば、それに越したことはない。こんなことは、三十年来、思い描いてきたことではあるけれど、人類の編みだす言語システムに完全で万能なものなんてありえないであろうし、用途によって、場面によって... 適した言語を、気に入った言語を... その都度選択するしかあるまい、というのが現実解だと考えている。否、儚い夢だからこそ追いかけていたい。
ここでは、そんな心を見透かすかのように、Python 上の統合環境を提案してくれる。やはり、蛇の道は蛇か...

本書は、科学計算パッケージ NumPy(Numerical Python)とデータ解析用ライブラリ pandas を話題の中心に据え、NumPy を基盤にした科学計算ライブラリ SciPy や、これらを可視化する描画ライブラリ matplotlib、さらには、これらを統合するシェル環境 IPython を紹介してくれる。

NumPy で注目したいのは、多次元配列オブジェクト ndarray である。モノは二次元配列だが、インデックスによる階層構造によって、見かけの次元を増やすことができる。配列上の操作関数も豊富で、線形代数演算、フーリエ変換、乱数の生成なども提供される。

pandas は、NumPy の高性能の配列計算機能と、表計算ソフトやリレーショナルデータベースの柔軟なデータ操作能力を併せ持つという。SQL との相性の良さも強調される。
当初は、金融分析用に設計されたツールだそうで、洗練されたインデックス付け機能を備え、データの再形成やスライス、ダイシング、集約、部分集合の選択が容易だという。
主要なオブジェクトは、二次元の表形式で、列指向のデータ構造をもつ DataFrame ってやつ。統計解析で知られる R 言語の data.frame オブジェクトに似たものらしいが、機能性は上回ると宣伝している。おいらは R 言語を見かける程度しか触れたことはないが、おかげで、R にも興味を持つ今日このごろであった。
データの受け渡しでは、JOSN や CSV のようなテキスト形式だけでなく、HTML や Web API を用いた読み書き、HDF5 形式を扱う HDFStore クラス、SQL データベースへの Import/Export の事例も紹介される。おいらが忌み嫌う ExcelFile クラスまでも..

SciPy は、これらのパッケージ群を眺めるだけでそそられる。

  • scipy.integrate: 数値積分ルーチンや微分方程式ソルバ
  • scipy.linalg: 線形代数ルーチンや、numpy.linalg で提供される機能を拡張した行列の分解機能
  • scipy.optimize: 線形計画法などの最適化アルゴリズムや、求根アルゴリズム
  • scipy.signal: 信号処理ツール
  • scipy.sparse: 疎(スペース)なデータを持つ行列や線形システムの解法
  • scipy.special: ガンマ関数のような一般的な数学の関数を実装した Fortran のライブラリ SPECFUN を使うためのラッパー
  • scipy.stats: 標準的な連続分布や離散分布(密度関数、サンプラー、連続分布関数)、様々な統計検定、その他の記述統計
  • scipy.weave: 配列計算の加速のために用いるインラインでの C++ コードを利用するためのツール

matplotlib は説明の必要がないほど、おいらの感覚に馴染めそう。ここでは、IPython との統合性が推奨される。
ちなみに、R の ggplot2 や trellis といったパッケージには見劣りするらしい。ますます、R に...

IPython は、いまや科学分野における Python のスタンダードになっているそうな。
ちなみに、著者のウェス・マッキニー氏は、pandas の開発者だけあって、ベストな開発環境を尋ねられたら、即「IPython + テキストエディタ」と答えるそうな...

2020-04-19

"DEBUG HACKS" 吉岡弘隆/大和一洋/大岩尚宏/安部東洋/吉田俊輔 著

コンピュータ業界の格言に「プログラムは思った通りではなく、書いた通りに動く。」というのがある。そして、「思った通り = 書いた通り」を定式化するのは自分自身!何事も思い通りになった時の快感ときたら... これが忘れられなくて、今日もプログラムを書く。まるで麻薬!プログラムを書くのは楽しい。おいらはプログラマではない。でも楽しい...

デバッグの基本姿勢に、状態を見る!ということがある。まずは観ること!これは科学的思考の基本中の基本だ。しかしながら、自分自身を客観的に見ることほど辛いものはない。自分で仕掛けておきながら、自ら姑チェック!なんとも自虐的な世界。
そこには、自己矛盾が多分に含まれる。自分は天才かもしれない!って思うこともある。年に一度や二度は。一方で、つまらないミスで時間を浪費する自分に向かって、バカヤロー!って叫ぶのはほぼ毎日ときた。それでも、真に思い通りになった時の征服感ときたら... 出来の悪い子ほど可愛いと言うが、苦労に苦労を重ねて作り上げたコードほど愛着がわく。自己啓発とは、自己陶酔の類いか。そして、再々々々... 認識させられるのである。自分自身がいかにアホウであるかを。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々... やはりプログラムを書くのは楽しい...

プログラムを書くのは実に愉快。しかしながら、デバッグ作業は辛い。動作が明らかにおかしな時は些細なミスであることが多く、バグも可愛いもの。だが、深刻な問題になりがちなのは微妙に動いている時で、数十時間に一度落ちたり、再現しなかったり、この手のバグの憎らしさときたら。
ちなみに、「バグ」の語源は定かではないが、リレー式計算機の中に紛れ込んだ蛾が誤動作の原因になった事例があるそうな。その蛾は、後に COBOL の開発者となるグレース・ポッパー女史の日記に記念として貼り付けられたと聞く。そういえば、むかーし、おいらが所属していた研究所にネズミホイホイが置いてあった。社内伝説によると、ネズミが電線をかじってシステムダウンし、大騒ぎになった事例があったとか...
バグってやつは、思わぬところに潜んでやがる、実に多種多様な生物。実際、設計作業より検証作業の方がコストは高い。テスト駆動開発(TDD)という考え方もよく耳にするが、そんな小難しい用語は別にして、上流工程からテスト方法を具体的に考慮することが習慣になっている。それだけ痛い目に遭ってきたということか。プログラムの書き方はコーディングルールで規定することができても、バグの在り方を規定することはできない。こいつに対処する最善の方法は、自分で編みだすしかあるまい。常に改善の意識を怠らず...
「デバッグという作業はプログラマが 10 人いれば 10 通りのデバッグ方法があるかのような極めて属人的な作業です。そして、デバッグの達人もいれば、そうでない人もいる。軽やかに、それこそ鼻歌まじりに魔法のようにバグを見つけ出し、直すハッカーもいます。」

本書は、主に C/C++ の使い手や Linux カーネル開発者を対象とし、Linux 上で動くアプリケーションや、Linux カーネルそのものを話題にしている。おいらがカーネルを書くことはないだろう、おそらくこれからも... ただ覗くのは大好き。低水準のデバッグでは、x86/x64 アーキテクチャやアセンブラ言語の基礎知識も要請してくる。お馴染みの GDB も登場。おいらはハードウェア設計者だが、低水準のデバッグは必要不可欠なので、うってつけの教材かもしれない。
多くのツールを紹介してくれるのもありがたい。達人ともなると、使う道具からして違うようだ。気の利いたところでは、システムコールをトレースする strace、動的解析ツール Valgrind、カーネル情報を取得する kprobes/jprobes など。
興味深いところでは、Linux 環境では定番の oprofile によるプログラムの性能調査。あるいは、KAHO(Kernel Aided Hexadecimal code Operator)というやつを使って、コンパイラによって Optimaized out された変数の値を取得する事例が紹介される。要するに、関数単位で動的に置き換えることができるもので、デバッグ用関数を埋め込む仕掛けを伝授してくれる。最初から関数にデバッグモードを埋め込むというやり方もあるが、リアルタイムシステムでは悩ましいところ。
また、Linux には、システムのメモリ・スワップを使い尽くすと、メモリを確保する最終手段として、プロセスにシグナルを送信し、強制終了させる機能が装備されている。OOM Killer(Out of Memory Killer)が、それだ。これに関する proc ファイルシステムを解説してくれるが、"/proc/meminfo" や "/proc//mem" を覗くだけでも、かなりの情報が得られるだろう。もちろん、Linux カーネルのオプションとして提供されるフォルトインジェクションも見逃せない。

ちなみに、おいらは、プログラミング言語を学ぶならアセンブラ言語から始めるのがいいと考えるネアンデルタール人だが、そんな時代でもあるまい。スクリプト言語が活況な今日では、C言語系をいじるのも億劫だが、関数とマクロの物理構造がイメージできるかどうかは大きな違いがある。
コアダンプの景色も直接関わらなければ、なかなかの眺め!痕跡をセピア色に彩り、デスクトップの背景に貼り付けるのも一献。
今となっては、malloc() の呪いも妙に懐かしい。
Linux も随分と行儀よくなったもので、あの忌まわしいメッセージもとんと見かけなくなった。そこで、わざと発生させてみるのも一献... Kernel Panic !
昨今、プログラミング言語そのものが注目されがちだが、本書は、言語とデバッグを表裏一体の方法論として捉えているのがいい。デバッグという分野は、なかなかハウツー本にはできない。ブレークポイントの設定、ステップ実行、バックトレース、はたまたスタックやレジスタの表示、変数の監視など、やる事は定式化できても、いかに効率的にやるかとなると経験がモノを言う。達人ともなれば、それだけ失敗の経験も豊富のようだ。その意味で、本書は失敗から学ぶ良い事例集と言えよう。失敗の効率化という日頃の意識が、デバッグの達人を育てるらしい...

2020-04-12

"リバースエンジニアリング" Justin Seitz 著

プログラムを書くのは楽しい。プログラマ35歳定年説が囁かれる中、いくつになっても楽しい。おいらはプログラマではない。でも楽しい...
二十年以上前、組込系 OS を五年間ほど書いていた時期もあるにはあるが、あくまでもハードウェア設計者。当時、リアルタイム処理ではアセンブラ言語が主流だった。C コンパイラの性能がいまいちで、移行にはまだまだ感の残る時代である。とはいえ、CPU の方言を強要される日常を思えば、抽象度の高い高水準言語は憧れであり、コンパイラの癖を探りながら効率的な記述の仕方を試行錯誤したものである。
ちなみに、今では超ロングセラーとなった定番書も、「はじめての C」がいいのよ!... なんて理系女子にささやかれると、純真な好青年で通っていたおいらは赤面したのだった。
その高水準の地位も、コンパイル作業不要のスクリプト言語にもっていかれ、いまや低水準に格下げ。だからといって死滅することはあるまい。プロセッサや DSP の設計者にとって、痒い所に手が届く言語はありがたい存在。それに、人間が編み出した言語システムが、完全で万能ってことはないだろう。用途に適した言語を、好きな言語を、興味のある言語を、場面々々で選べばいいだけのこと。一つの言語に固執するということは、一つの文化に幽閉されているようなものだから...

ところで、システムの開発・設計には、デバッグ環境が欠かせない。おいらの感覚では、プロセッサや DSP の設計・検証に HDL(ハードウェア記述言語)を、数値演算モデルやデータ解析モデルに GNU Octave や Lisp、あるいは C++ を、これらの統合環境にスクリプト言語を用いるのが、一つのパターンとなっている。
そして、スクリプト言語に何を使うかが、いつも悩ましいところで、一昔前は、コマンド系に Unix シェルを、ログ管理に Perl を用いるのが定番であった。未だに、sed や awk を重宝してたりして。
ちなみに、おいらは、Ruby 信奉者だが、いや、だったのだが、仕事場ではなかなか受け入れてくれない。Ruby はもう死んだのか?といった記事も見かけるけど...
近年、Python なら受け入れられるようになったので、納品物に Python を、小物に Ruby をというのがパターン化している。できれば、C++ も避けたいところだけど...
尚、データ群を Excel ファイルで!と要求してくる人種は避けている。CSV や JSON のような形式ではダメらしい。ドキュメントを XML で!という要求もちょくちょく見かけるが、こういうのは頷ける。pdf じゃダメというところも見かけるけど。
いずれにせよ、SM 教の高価なツールを買わせようとするのは、零細業者には御勘弁を!おっと!この手の愚痴がはじまると、かっぱえびせん状態に...

さて、本書の副題に、「Python によるバイナリ解析技法」とある。実は、この題目に惹かれて手にとった。まさにデバッグの視点からスクリプト言語を語ってくれるのだから...
特殊な逆アセンブラを構築するにせよ、独自のデバッガを開発するにせよ、Python が最善の選択肢になるというのである。Python と言えば、大人気と評判のスクリプト言語。スクリプト言語がバイナリ領域にまで入り込んできたら、赤面する機会も失いそうで、ちと寂しい。おいらは、プロセッサの設計者なら、アセンブラレベルから学ぶべきだと考えるネアンデルタール人だが、そんな時代でもなさそうだ。
それにしても、Python の構文って、バージョンが 2.x と3.x で、なんでこうも違うの。おいらは、3.x から始めたので、ほとんど問題にならないが、本書は 2.5 で書かれており、いきなり Print "Hello world!" でこけた。システムを構築する上で、過去のしがらみをどこまで引きずるかは悩ましい。SM 教のような引きずり方をするぐらいなら、あっさり捨てる方がましかも。ということで、Python は最新版を使いましょう...

ここでは、まず、Python と C 言語の構造体や共用体との相性の良さを紹介しながら、ヒープ領域やスタック、あるいはレジスタへのアクセス事例を挙げている。
注目したいのは、二つのデバッガを紹介してくれることだ。デバッグのために実動作と違ったルーチンを通るのは、なるべく避けたい。特にリアルタイムシステムでは。となれば、ハードウェアが介在する領域でプログラムを書く必要がある。デバッグでお馴染みの作業といえば、レジスタやメモリの捕捉、スレッドの列挙、デバッグ用イベントハンドラの実装、ブレークポイントの設置といったところであろうか。そんな要求にも応えてくれそうな。
一つは、PyDbg というピュアなデバッガ。プアなおいらは、これだけでも満腹!こいつには、「プロセススナップショット」というクールな機能が搭載されるという。
二つは、Immunity Debugger というなかなか手強いヤツ。脆弱性の検出やマルウェア解析にも利用できる強力な Python ライブラリを提供しているという。エクスプロイトなコードも書けそうな。
おいらの場合、ソースの存在しないレベルでデバッグする場面はほとんどないが、ソースを見なければ書き手の思惑にも惑わされず、純粋な視点で検証できるかもしれない、と、そんなことも感じさせてくれる。痒いところに手が届くという意味では、スクリプト言語がここまでやれる時代になったのかと忸怩たる思い...

本書は、Windows プログラムを題材にしているところが、ちと抵抗のあるところ。おいらが、Windows プログラムを書くことはほとんどないが、それでも、なかなか興味深い話題を提供してくれる。Win 95 時代に猛勉強した記憶がかすかにあるが、まさかこんなところで Windows プログラムに触れることになろうとは。人生行き当たりばったり... やはり、プログラムを書くのは楽しい...
例えば、 DEP(Data Execution Prevention) を回避する事例に、ちとハマってしまった。DEP は、ヒープやスタックなどメモリ領域でのコードの実行を防止するための Windows に実装されるセキュリティ機能。他にも、善意にも悪意にも利用される DLL インジェクションに、油断のならないコードインジェクション。これらの技法を使えば、実行中のプロセスにコードを挿入することができ、その先にトロイの木馬が見えてくる。
また、プロセスを監視するためのフックを仕掛ける方法も紹介してくれる。そして、この二つの関数の構造体にアクセスするだけでも結構遊べる。
一つは、プロセスを生成するための関数 CreateProcessA()。この関数のフラグをうまく設定することによってデバッグ用プロセスモニタに仕立てるというわけである。

BOOL WINAPI CreateProcessA(
  LPCTSTR lpApplicationName,
  LPTSTR lpCommandLine,
  LPSECURITY_ATTRIBUTES lpProcessAttributes,
  LPSECURITY_ATTRIBUTES lpThreadAttributes,
  BOOL bInheritHandles,
  DWORD dwCreationFlags,
  LPVOID lpEnvironment,
  LPCTSTR lpCurrentDirectory,
  LPSTARTUPINFO lpStartupInfo,
  LPPROCESS_INFORMATION lpProcessInformation
);

二つは、Kernel32.dll からエクスポートされる関数 CreateRemoteThread()。スレッドのセキュリティ属性へのポインタにアクセスできそうな仕組みが見て取れる。

HANDLE WINAPI CreateRemoteThread(
  HANDLE hProcess,
  LPSECURITY_ATTRIBUTES lpThreadAttributes,
  SIZE_T dwStackSize,
  LPTHREAD_START_ROUTINE lpStartAddress,
  LPVOID lpParameter,
  DWORD dwCreationFlags,
  LPDWORD lpThreadId
);

2020-04-05

"科學の言葉 = 數" Tobias Dantzig 著

雨降りしきる中、しとしとぴっちゃん気分で古本屋を散歩していると、なにやらノスタルジックな奴に出会った。琥珀色に染まった紙面が風格を漂わせ、そればかりか、書き込みがあちこちにあって元持ち主の情熱までも伝わってきそうな...
初版、昭和二十年(1945年)... 改訂第二版、昭和三十二年(1957年)... とある。おいらは、まだ生を受けていない。ただ、暗示にはかかりやすい。むかーし教科書を赤線だらけにし、何が重要なのか分からないほどにしちまった記憶がかすかに蘇る...

本書は、「数える」という行為をめぐっての物語である。扉を開けると、「数学者でない教養ある人々のための批判的概観」と見出しされる。著者トビアス・ダンツィクは、学校の数学過程が文化的な内容を削って、技術の骨格ばかりを追いかけているために、多くの優秀な人材を遠ざけてしまった、と考えているようだ。そこで、数の進化を文化的に、いや、人間的に物語ろうというのである。
「数」という概念と「数える」という行為は、ともに抽象化の道を歩んできた。数える行為を合理化するために記号を発明すれば、記号の関係性を求めて関数を編み出す。やがて、同じ性質を持つ数の集まりをひと括りにし、性質そのものの関係を探るようになる。「数」という概念は記号で抽象化され、「数える」という行為は関係性を結びつけることに抽象化されてきたのである。
さらに、無限までも数えてやろう!という願望に及ぶと、数の大小という関係は、濃度という概念へ飛躍する。「数える」というからには整数論の領域にあるわけだが、まったく数に見えないのに整数とはこれいかに?有限界の知的生命体が無限界に口を出そうとすると、まったく悪魔じみてやがる。とはいえ、すべては「一対一の対応」という手続きの元で引き出された知識であったとさ...
尚、河野伊三郎訳版(岩波書店)を手に取る。

数の学問は、数を数えることに発する。原始の時代、人類は指を折って数え始め、数の概念はまずもって両手合わせて十本の指に乗っ取られた。人間社会が十進法に席巻されるのも、その名残りか。女性が妊って十ヶ月で出産するのは、単なる偶然かどうかは知らんよ。ある原始民族では、手足合わせて二十進法を用いたという説もあるらしい。
「数える」という意識は、人間の本能に植え付けらたもののようにも感じられる。精神病患者や知的障害者は、心が落ち着かない時に数を数え始めると聞く。ある種の儀式のように。サヴァン症候群のような突飛な能力の持ち主ともなると、数字が風景に見えるらしい。おいらも、デスクトップ上のスキャンカウンタをなんとなく見入ったりする。数には、なにやら心を落ち着かせるものがある。数えるという行為は、人間の進化論とも関係がありそうな...
ちなみに、おいらが美少年と呼ばれた小学校低学年の時代、さんすうが大の苦手であった。放課後、一人残されては計算をやらされる。数ってやつがまったくイメージできず、机の下に手を隠して指を折りながら数える。すると叱られるのだ。堂々とやれ!って。ごもっとも!当時の女の先生が鬼にも、天使にも見えたものである。やがて数の概念が理解空間と結びつきはじめると、いつの間にか、数の虜に。鶴亀算があまりにもすんなり数える概念と結びついて、こいつが方程式ってやつだと理解するのに大して手間はかからなかった。しかしながら、大学の初等教育で再び奈落の底へ突き落とされ、高校までの数学がいかに算数であったかを思い知らされる。抽象化の概念は、指では数えられんよ。数学の落ちこぼれは、こうして今に至るのだった...

しかし、だ。数の学問において、十進法ほど厄介な道具もあるまい。コンピュータは二進法とすこぶる相性がよく、計算機工学やソフトウェア工学などで、8進法や16進法が用いられる。つまり、2の冪乗数があらゆる計算において優れているということだ。ラプラスは、こんなことをつぶやいたとか...
「ライプニッツは二進法の算術に『創造』」の形象を見た... 『一』は神を表し、『零』は空を表す...」
なのに、人類が十本の関節を持つ指を授かったがために、十の数が崇められる。こんな自然法則に反するものを、誰が授けたかは知らんが... ただ人類はどんなことでも、いかようにも解釈できる性癖も授かった。その見返りかは知らんが、幸福の原理として...
ピュタゴラス学派は、当時の四元素「火、水、空気、土」を底辺にした三角数 (4 + 3 + 2 + 1 = 10) をテトラクテュスと呼んで崇めた。三角形の頂点には、神に通ずるものがあるらしい。ただ、数学者が概念でねじ伏せようとも、計算ではレジのおばさんの方が位取りで一枚上手ときた。
ちなみに、鏡の向こうから「十の時が流れる」という名を持つ野郎が、顔を赤らめてこちらを見つめてやがる。どうやら数に酔ったらしい。あヤツはテトラクテュスの申し子か?ダンツィクの言う「人間は万物の尺度である。」という言葉が、嫌みに聞こえてくる...

1. 心を乱す無理数 vs. 心を癒やす超越数
計算において、なにかと面倒なヤツがいる。無理数ってやつが、それだ。しかも、幾何学で最も純粋とされる図形に出現しやがる。正方形の対角線と、直径を 1 とする真円周の長さに...
有理数があれば、どんな微細な数でも記述できそうなものである。分母の桁をどんどん増やしてやればいいのだから。数直線上の連続性を保つために無理数の存在が欠かせないとは、これいかに?おかげで、数学は分裂症を患わずに済むのだけど、ヤツの存在を隠蔽しようとしたピュタゴラス教団の考えも分からなくはない。
無理数の存在が面倒であるように、有理数が無限と絡むとやはり面倒となる。コンピュータだって万能じゃない。実際、実数演算は近似法で誤魔化されている。もし浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754 の意義を匂わせてやればいい。2の冪乗数は偶数であり、奇数は奇っ怪な存在なのかは知らん。素数は、奇っ怪な存在か純粋な存在かも知らんが、暗号システムを根底から支え、ネット社会では絶対に欠かせない存在である。有理数と無理数の絡みでは、オイラーの等式にゾクゾク感を喰らう。超越数の代表格とされる自然対数の底と円周率が虚数を介して絡むと、整数になるというのだから...

  e = -1

自然美の対を心底感じさせるものといえば、なんといっても二本の脚線美。これに、おっ!πが絡むと、空虚な精神を平穏に整えてくれるのは確かだ。超越数ってやつは、そこに法則性を見い出したとしても、人間が編み出した概念なんぞでは説明の及ばない、もっと形而の上にある存在のように見えてくる。だから、超越した数なのである。

「神霊は、我々が負の単位 -1 の想像的平方根と呼ぶ解析のあの驚異のうちに、あの理想世界の前兆のうちに、存在と非存在との間のあの両棲類のうちに、その崇高なるはけ口を見出した。」
... ゴットフリート・ライプニッツ

2. 演繹法 vs. 帰納法
あらゆる体系を抽象化する思考アプローチに、二つの極性がある。演繹法と帰納法が、それだ。演繹法は、基本となる大前提から小前提に向かって法則性を導いていくアプローチで、三段論法がその代表。帰納法は、多くの事象から共通点を見出して法則性を導いていくアプローチ。数学の王道は、おそらく演繹法であろう。演繹法による帰結は反証の余地を与えないが、帰納法は一つの反証によって崩れる脆さがある。普遍的な言明と事例的な言明とでは、前者の方が圧倒的に説得力がある。そりゃ、現象をすべて演繹できるならそれに越したことはないが、現実世界は帰納法に頼らないと説明できない領域があまりに大きい。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとって、王道だけでは心許ない。
ダンツィクは、「数学は演繹的科学」としながらも、帰納法を「出直しによる推理」と位置づける。出直し... 大いに結構ではないか。あらゆる常識も一度は疑ってみて、再検証してみるのがええ。演繹的と表現するからには、完全演繹とはなるまい。四色問題やケプラー予想で用いられた戦略は、まさに帰納法的な思考であった。カオスの世界では、最も客観性を重んじる数学ですら確率的な厳密さを受け入れざるを得まい。
そして、厳密に対する準厳密、定理に対する準定理... といった位置付けも必要となろう。客観性を最高レベルで用いようとする数学であっても、やはり主観性からは逃れられそうにない。人間が思考するということは、そういうことだ。ガリレオの逆理をついたカントールは、論理の王国を直観の王国へ引き戻した。無限と戯れる才能豊かな連中にとって、厳密な世界は息が詰まると見える。王道は肩がこる。おいらは邪道を行きたい。王道とは、邪道があってこその王道なのだから...

「数学の本質はその自由にある。」... ゲオルク・カントール

2020-04-01

ジョークの言える日に、真面目にファルス論でも...

「嘘というものがなければ、人間は絶望と退屈で死んでしまうであろう。」... アナトール・フランス

今日、四月一日は、堂々とジョークの言える日。巷では、そういうことになっている。
しかしながら、エイプリルフール禁止令をあちこちで見かける昨今。フェイクの拡散が日常茶飯事となれば、あえて、そんな日をつくる必要もないか。毎日がエイプリルフールなら、まったくおめでたい世の中。冗談の言える日ぐらい、真面目に語ろう!いや、エイプリルフール禁止令そのものがジョークということもある。
現代語辞典では、ジョークの定義も随分と変容したようだ。真面目に語って笑えるなら、それこそ真のジョークなのやもしれん...

「笑いとは、地球上で一番苦しんでいる動物が発明したものである。」... ニーチェ

世間では、笑いよりも涙の方が高尚とされる。だが、人間の情念は涙を誘うよりも笑いを誘う方がはるかに難しい。悲しみには人類の共通観念があり、死や命の儚さを匂わせればたいてい涙を誘う。
一方、笑いほど文化や慣習に影響されるものはない。笑いは否定をも肯定する。おまけに、涙をも乗り越える。故に、戯作をもって笑劇を演じることが、高尚な生き方ということになろうか。今日では、苦悩を笑い飛ばす能力が問われる。人間の滑稽を見て、これを笑い飛ばせるかどうか。これこそ真の道徳論なのやもしれん。少なくとも、理性をストレス解消のために用い、いつも憤慨する道徳論者よりはましか...

「人が死んでも、人生は依然として可笑しく、人が笑っても、人生は依然として深刻である。」... バーナード・ショー

笑いの世界にも、大衆の目には晒してはならない領域がある。大衆は臭い。どんなに良いことでも、同じことをする人が多すぎると、なにかと問題になるのが人間社会。どんなに良い人でも、集まりすぎると集団的悪魔に変貌する。俗人どもが、こぞって自己肯定に奔走しているのに対し、芸術家どもは自己を侮辱することによって自我の魔術性を露わにする。この自殺行為によって、芸術は芸術たりうる。芸術精神は自己の滑稽に発し、自己の風刺によって自らの悪魔性を炙り出す。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、真理の力は偉大となろう...

「ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。」... 坂口安吾

パスカルが言ったように、人間は狂うものらしい。狂わなければ、まともな笑いにもありつけない。人の一生とは、狂言のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、武士の仮面をかぶれば武士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であれば生きる糧とし、いかに達者を演じきるか。人間なんてものは、物狂いを演じながら生きるぐらいの存在か。自己を見つめているだけで自然に笑みがこぼれる... そんな人生はいずこに...

「人生は近くで見れば悲劇だが、遠目に見れば喜劇である。」... チャールズ・チャップリン

2020-03-22

"空間・時間・物質(上/下)" Hermann Weyl 著

ヘルマン・ワイルの著作「シンメトリー」(前記事)で詩的な数学に触れながら、厳密な理解を要請してくる、この大著を読破するのに一ヶ月を費やしたものの、消化不良感に満ち満ちてやがる。
しかしながら、難解な書に触れる喜びというものがある。なにもかも分かりやすさに流される現代社会にあって、この天の邪鬼な性癖ときたら難解なものにこそ癒やされる。我武者羅に噛み付いているうちに、なんとなく理解した気分になれることだってある。ページを捲っては立ち止まり、ページを戻ってはまた進む。三歩進んで二歩下がるの精神が、相対的な前進へと導いてくれる。いや、ワンツーパンチを喰らって、一歩進んで二歩下がるってか。おまけに、最終ページに辿り着いた時のクタクタ感がたまらん。M だし...

本書は、一般相対性理論の数学的解説書としての性格を帯びている。
原著 "Raum, Zeit, Materie" は、1917年の夏学期に国立チューリッヒ高等工業学校で行った講義を元に書かれたもので、1918年に刊行されたそうな。その動機は、偉大な相対性理論という課題をかりて、哲学的、数学的、物理学的思考が互いに浸透し合うことの一つの例を示したいという願望に誘われたとか。アインシュタインの論文から、わずか二年後に...
相対性理論の根幹には時間と空間を統合した時空の概念があり、この連続体の歪みをもって、ニュートン力学で言うところの力や質量を説明して魅せた。ワイルは、空間、時間、物質の関係を統合的に叙述し、理論の生みの親以上にその本質を描ききったと評されたという。彼はこんなことをつぶやいたとか...
「私は、真と美を統一するように仕事をしてきたが、真か美かどちらかを取れと言われたら、美をとるよ!」
尚、 内山龍雄訳版(ちくま学芸文庫)を手に取る。

相対性理論は科学理論には珍しく、一般大衆にも関心を引いた。それは、人間の認識能力そのものが相対的だからであろう。ニュートンは絶対空間や絶対時間なるものを論じた。ならば、絶対幾何学なるものを構築することは可能であろうか。ワイルは、そんな問い掛けをしながら、アフィン幾何学、リーマン幾何学、計量幾何学... と渡り歩き、n次元多様体に救いを求めるかのように彷徨う。
幾何学を構築するためには、その空間に存在する物質の状態を記述するための座標系を必要とする。ユークリッド幾何学では、直角という性質がその役割を演じ、人間の認識空間では、xyz 軸を基準とする。
直角を代数学的に抽象化したものが、直交という概念。直交性を利用した変換系といえば、周波数解析、データ圧縮、近似法などでお馴染みのフーリエ変換やウェーブレト変換を思い浮かべるが、ラプラス変換やアダマール変換などあらゆる変換系が直交性の恩恵を受けている。変換系を直交性に基づいた写像と定義するなら、直交性の見い出だせるところに、相対的な幾何学を構築することができそうか...

1. 直交と場の哲学
現実世界は、物質と呼ばれる材料からできており、あらゆる材料は空間によって実在し、時間によって認識される。つまり、空間は、物質の存在する場として解釈される。「存在」という哲学的な意味を数学的に定義するならば、一部の空間を占有し、一時的に時間軸に配置される、ということになろうか。相対的な幾何学では、空間、時間、物質という三つの概念が運動によって結び付けられる。すなわち、存在するとは、運動するということだ。物質に絶対静止なる状態が存在するかどうかは知らんが...
物質の運動が場を規定する一つの要因となっているのは確かであろう。量子力学的には、物質が空間を形づくるという見方があり、「物質が場を生み出し、またその状態を一意的に規定する。」としても違和感なし。物体の運動は力と慣性の間で実現され、慣性場は物質との間に相互作用を持つ実在であるからして...
では、重力の実在はどうであろう。本書は、力とは別物で、むしろ慣性に属すべきものとしている。こうした見方によって、相対性理論は重力を場の歪みで説明できるというわけである。
「慣性場に対する物質からの影響は重力の現象として現れる。これこそアインシュタインの重力理論の核心である。」

では、場は自己を認識した時に生じるのか、あるいは、自己は場の存在が前提されて認識できるものなのか、と問えば、鶏が先か卵が先か論争に巻き込まれた感がある。
ユークリッド幾何学にしても、非ユークリッド幾何学にしても、第五公準を境界面にした抽象レベルの違いに過ぎない、といえばその通りだろう。どの段階で自己を認識できるかは別にして、それぞれ渡り歩く幾何学空間に抽象レベルという境界面があるように、人間の精神空間にも認識レベルという境界面があるのだろう。
慣性力、電磁力、重力など物理量が存在するところに場が存在し、そこに時空対称性なるものを見つける。直交性もある種の対称性。場とは、対称性に看取られた認識空間を言うのであろうか... などと思考をめぐらせているうちに、直交と場の哲学に放り込まれていく。どんな専門分野にせよ、それを究めようとすれば哲学者になるものらしい。
おかげで、場末の我が家から、ぐるぐるマップ上に直交配列される夜の社交場へ直行せずにはいられない。そこには、ホットな女性の重力場が生じているに違いない。ただ、女性ってやつは、なぜか体重計の前で軽い存在を演じてやがる...

2. 時間と空間に分解、そして、長さ!?
ところで、おいらには、時間の記述には微分が、空間の記述には積分が相性がいい... という感覚がある。そして、時空を理解するためには、時間と空間を分解してみるのがええと...
本書は、ローレンツ変換において、時間的成分に相当するものがエネルギー保存則で、空間的成分に相当するものが運動量保存則、という見方を提示している。ここまではええ...
しかしながら、空間の形成ではガウスの定理に看取られ... 空間内の振る舞いではマクスウェル方程式に看取られ... いずれも、おいらを電磁気学で赤点に貶めた奴らときた。
おまけに、数学の道具では、テンソル、双線型形式、二次形式が重要な役割を演じてやがる。ワイルは、テンソル解析を意のままに使いこなせるよう練習せよ!と要求してくる。すべての運動する物体にテンソルが規定できると宣言し、一般相対性理論を理解するには、テンソルに看取られた空間認識が必要だというのである。そして、空間を理解するには「エネルギー・運動量テンソル」ってやつが鍵になりそうだ。
テンソル演算そのものはそう複雑でもなく、ベクトルの親分ぐらいの感覚でいる。だがこいつを、ある規定された幾何学と結びつけようとすると、なかなか手強い。共変と反変の違いにしても、アフィン幾何学から計量幾何学へ移行した途端に、単なる表現の違いというところに落ち着く...
「座標系に依存する数個の変数列の一次形式は、その変数列のうち、座標系の基礎ベクトルの変換に反傾に変換される変数列を任意の反変ベクトルの成分でおきかえ、また共傾に変換される変数列を任意の共変ベクトルの成分におきかえることによって、この一次形式が座標系の選びかたに無関係な一定の値をもつようになるときは、この変数列の一次形式は、実はひとつのテンソルである。」

ワイルは、計量の本質をこう言い放つ!
「質量はその本質をかえりみれば、一種の長さである。」
ん~...
「幾何学的な、また物理学的な量はすべて、スカラーか、ベクトルか、あるいはテンソルのいずれかである。このことこそ、これらの量を内包している空間の数学的性質を物語る。」
ん~...
すべての物理量を長さで規定できるような幾何学を想定することが可能ということか。時間も長さで規定できるといえばそうだけど、時間の意味するものはその瞬間の状態にある。座標系で言えば、位置情報に意味がある。少なくとも人間の認識空間では、そうだ。ワイルは、空間の構造に対して、群論的な連続体をイメージさせようと仕掛けてくる。ガリレオ = ニュートン群からローレンツ = アインシュタイン群といったイメージを...
さらに、「距離多様体」という概念を持ち出して、アフィン的に接続されたアフィン接続多様体なるものを提示している。
確かに、重力を空間の歪みで記述すれば、距離の概念が生じる。では、他の力はどうであろう。様々な物質が相互作用する空間とは、それぞれの力を距離で記述した多様体が並列的に、あるいは、階層的に接続されたような空間であろうか...
やはり、ん~...
「長さ」のことをゲージと言い、場の理論に「ゲージ理論」ってやつがあるが、どうやらこの書に由来するらしい。おいらの空間認識では、「長さ」という概念をどんなに抽象化したところで、やはり「長さ」なのである。そもそも「長さ」ってなんだ???数学の落ちこぼれは、ますます計量テンソルとの距離を感じるのであった...

2020-03-15

"シンメトリー" Hermann Weyl 著

小雨じめつく中、なんとも虚ろな気分で古本屋を散歩していると、数学を文学のように嗜める書に出会う。こいつぁ... 群論の入門書ではないか!いや、そこそこかじって余韻に浸る書であろうか。厳密な数学を空虚な気分で眺めると文学になるのか... ここに抽象化の真の意味が暗示されていそうな... なるほど、数学の詩人と謳われたヘルマン・ヴァイル。空虚な空間には、高度なシンメトリーが具わっているらしい...
しかしながら、よりずっと厳密に理解を要請する大著「空間・時間・物質」が、本書の横で手ぐすね引いて待ち構えてやがる...
尚、遠山啓訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

数学屋たちは、数と数字の違いにこだわる。数は概念を示す。だから、万物は数である... との信仰が輝く。数字はそれを表す記号。すなわち、ただの手段。この手段を文学作品のように記述できれば、概念化され、心に調和をもたらす。
シンメトリーとは、まさに人の心に調和をもたらす空間概念である。この空間において、芸術は左右対称を、論理学は二項対立を根本原理とし、数学はその双方を相手取る。哲学は、二律背反の原理に中庸を見い出そうとし、数学は、数の抽象化によって調和を発見しようとする。
数の抽象化で最高峰に位置づけられるのが、群論である。合言葉は... 自己同型の集まりは群をつくる!自己同型とは、代数的な性質を保ちながら写像すること。代数的な性質とは、例えば、四則演算の結果が同じ体にとどまるかを問うた時、自然数体であれば、負数や少数が生じて整数体や有理数体にはみ出てしまう。演算結果が同じ体にとどまるかどうかを探ることは、数の性質を知る上で重要な鍵となり、方程式の解が代数体にとどまるならば、その方程式には代数的な解が存在することを意味する。解の発見とは、自己同型群を観察しながら自己を見つめ直し、自我を再発見するってことか。そして本書の中に、数学は哲学である... との持論を再発見するのであった...

ニュートンは絶対空間や絶対時間なるものを論じたが、そんなものが存在するかどうかは知らんよ。ただ言えることは、相対的な認識能力しか持ち合わせない生命体には、到底及ばないってことだ。直接認識できないとすれば、概念によって認識できる気分にはなれそうか。何事にも気分は重要だ。特に、心の持ち主には...
左も右も、善も悪も、相対的な概念であって、人間社会によって都合よく決められた基準に過ぎない。はたまた対称性も非対称性も。美術史家ダゴベルト・フライは、こんなことを言ったとか...
「シンメトリーは静止と束縛をあらわし、非対称は、運動と弛緩をあらわす。前者は秩序と法則を、後者は不分明と偶然を、また、前者は、法則のもっている厳密性と強制を、後者は、生命と遊戯と自由とをあらわしている。」

シンメトリーとは比の調和によって支えられる、いわば主観の概念である。鏡映、平行移動、回転といった幾何学操作によって点集合を変換し、この同型を探る過程に数学美を見る。ここに絶対客観なるものは見当たらない。だから、客観性なのである。
客観性とは、自己同型群における不変性を問うことであろうか。普遍的な美を追求することであろうか。様々な変換によって、どこまで同型を保ちうるか、どこまで代数的性質を保ちうるか、そして、どこまで数学美を体現できるか、などと問えば、その先に、自己相似形を追いかけるフラクタル幾何学が見えてくる。フェリックス・クラインは言う、「幾何学は、変換群によって定義される。」と...
ただし、本書には「フラクタル」という用語は見当たらない。

ところで、おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間的な脳内マッピングとでも言おうか。子供の頃からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか理解できていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。サヴァン症候群のダニエル・タメット氏は「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。
よく数学で用いられる連続体やら、よく物理学で用いられる空間やら、こうした用語は単なる概念、もっといえば、人間の想像の産物にすぎないのではなかろうか。あらゆる関連性も...

2020-03-08

"ビーグル号航海記 新訳(上/下)" Charles Darwin 著

ヒトという種は、猿の進化版か、それとも猿の方が進化版か。地球に住む生命体の物理構造を辿れば、だいたい同じ分子に行き着く。糖質、タンパク質、核酸といった生体高分子と呼ばれるやつに。さらに辿れば、この宇宙に存在するすべての物体は、素粒子レベルでは同じ物理構造を持っている。種の起源を辿れば、やはり同じこと。自由意志の正体が単なる自由電子の集合体なのかは知らんが...
ここで注目したいことは、種が変化するってことだ。分子の組み合わせを微妙に変化させながら、体内に侵入してきた病原体に対して抗体を形成したり、厳しい気候に適合するために身体部位を変化させたり、環境が違えば、そこに住む生物の特徴にも違いを見せる。地理的に同じ諸島に属していても、それぞれの島で生物の特徴が違うばかりか、生態系からして違う。
本旅行記は、地球を一周しながら実に多種多様な光景を物語っており、ここに進化論構想の源泉を見る思い。進化とは、まさに変化を言う。いや、退化もそうか...
尚、荒俣宏訳版(平凡社)を手に取る。
「自然の偉大な運行においてまるっきり用をなさないように見える動物に遭遇すると、われわれはすぐに、なんでこんなものが創造されたのか、と首をひねりたくなる。しかしつねづね肝に銘じておくべきは、ところ変わればそれが社会の欠くべからざる成員であるか、あるいは過去の一時期そうであったものだろう、とみなす心がまえである。」

とはいえ、人間は変化を嫌うところがある。キリスト教世界では、種は神の創造物であり、生まれつき運命づけられた存在とされる。生物種が変化していくなんてもってのほか。世間では、チンパンジーの身体にダーウィンの顔をくっつけた風刺漫画が舞った。
ただ、あまりに変化なしでは退屈病を患わせてしまう。安住できる程度の小さな変化を求めてやまないのは、進化の過程があまりに長い年月を要するからであろう。物質ってやつは、原子が個々で存在する分には殺風景だが、分子として結合を始めるとまるで落ち着きを見せない。変身願望にでも取り憑かれたように。
この願望エネルギーが溜りに溜まると、ポテンシャル障壁を破って突然変異まで引き起こす。生物種に普遍の原理を求めるとすれば、まさに変化こそが法則ということになろう。
ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様化する必要がある、というのが真意のような気がする。ここでは、普遍性と多様性の相性の良さを物語ってくれる。現代社会では、どんな良いことでも同じことをする人が多すぎると何かと問題になる。一つの種が多すぎるとなれば、同じ種の中で多様化するほかはあるまい...

自然界では、運動する物体はすべて動力機関として働く。生物もまた一つの動力機関であることは確かだ。その証拠に、ひたすらエネルギーを消費する存在で、喰って排泄するだけの存在。人間社会で人が生きるということは、ゴミや排泄物を出すってことだ。そして、街づくりで最も深刻な問題がゴミ処理と排泄物処理ということになり、ここに文明の度合いが顕れる。もやは現代人は、野生のポテトを見る機会を失った。曲がったキュウリすらとんと見かけない。それが、高度な文明なのかは知らん...
「人は長いこと粗末な肉食だけをつづけると、脂肪分がとてもほしくなる。そこで純粋なオイル状の脂肪を、平気で大量に消費するようになる... これは、おもしろい生理学的事実だ。」

自然界には、生命が存在することによって台無しにしてしまう領域がある。不毛な土地の奇異な眺めにも、植物すら存在しないがために、ある種の威厳が備わる。敬愛する大自然がここまで残酷になれるものか、と嘆かわしい現象を引き起こすこともしばしば。
だから、人間は大自然に神を見る。自然は、宗教が安易に唱える「調和」ってやつの難しさを教えているようでもある。
人間社会には、何事も経験しなければ分からない、とする考えが蔓延している。奴隷に冷たい人は奴隷の立場に身を置いたことがない、としか想像できないとすれば、なんと絶望的であろう。人間社会は、永遠に奴隷制度に依存するほかはあるまい。
ちなみに、昔から言われてきた説に、こんなものがあるそうな。「利己心というものは残虐行為が行きすぎるのを止める」という説だが、あながち否定はできまい...

1. 科学者魂を垣間見る...
「ビーグル号航海記」は、艦長ロバート・フィッツロイ大佐が表明した一つの要望によって生まれたという。大佐は科学者の同乗を望み、これにダーウィンが志願する。その目的の裏には、政治的思惑と科学的好奇心が複雑に絡んでいたことだろう。海運国家としての使命も付け加えておこうか。地質学調査は金脈探索や鉱山開発を目的とし、原住民調査は後の奴隷支配を匂わせ、宣教師の派遣は精神的支配の布石。
しかし、ダーウィンの科学者魂は、そんな政治的な思惑をとうに越え、純粋な好奇心に邁進する。彼の記述には、旅の風景を喜びで彩るという思索が感じられる。まるで画家のように。どんな光景を前にしても失望はなく、ここにダーウィン流観測哲学を見る思い...
「わたしが強く信じてしまったことは、こうだ ―― 音楽を例にとると、音符が全部理解できて正当な感受性をもっている人は、音楽全体をもっと完全に楽しむことができるだろう、それと同じように、一つのすばらしい風景をあらゆる角度から調べる人も、風景が見せる全体の組み合わせの効果を完全に理解できるのだ、と。したがって、旅をする人はまず植物にくわしくなければならない。なぜなら、どんな風景も主たる装飾は植物が担っているからである。大きな裸岩が集まった光景は、どんなに殺風景であっても、少しのあいだなら壮大な印象を与えてくれるが、すぐに単調な眺めとしか思えなくなってしまう。ただし、この岩だけの眺めに、たとえば北チリのように、明るく多彩な色を塗りつければ、幻想的な風景となる。植物で覆えば、美しい絵とはいかないまでも、それなりの景色になるに違いないのだ。」

2. サンゴ礁に関する考察は圧巻...
「リーフをつくるサンゴは、地下面に上下の振動があったことを物語る驚くべき記念碑を、ずっと積みあげつづけ、しかも、それを守ってきた。われわれがいま見るバリアリーフはどれも、大地がそこで沈んでいることを示す証拠物であり、アトールはどれも、島が海中に沈んだことを示す記念碑なのだ。こうしてわれわれは、一万年の長寿に恵まれて変化の記録をずっととりつづけてきた地質学者から教えを受けるかのように、一つの巨大なからくりに関する手がかりを、いくつか獲得することになった。それは、地球の表面を切れぎれにして、陸と海をとりかえてしまうからくりなのである。」

3. ガラパゴスへの思い...
このような大自然物語に触れていると、人類には、どこか本能の奥深いところに自然回帰を欲するような原始的な意志が、まだ残されているような気がしてくる。原生動物の記憶か?遺伝子か?は知らんが、都会的な気取ったものに反抗心を抱くところが、なんとなくあるのだ。単に天の邪鬼な心が、そうさせるのかもしれんが...
文明化の波が地球の隅々に伝わり始めた19世紀、ゴールドラッシュの波がインディオの土地を穴ぼこだらけにしちまったとさ。21世紀の現在でも、余暇に自然を求めてやまない人々の影で、観光客の群れに荒らされる世界遺産という構図がある。ここに物語られるガラパゴス諸島の光景には、やはり癒やされる。大衆の目には触れさせてはならぬ楽園が、地上にはまだまだあることを教えてくれるのだから...
しかしながら、「ガラパゴス化」という用語は、現代社会では忌み嫌われる。孤立を恐れてはソーシャルネットワークに縋り、電子機器の奴隷と化し、ますます依存症を深めていく。慢性的な退屈病を患えば、いつも刺激を求めて徘徊し、慢性的な関係依存症を患えば、仮想社会を徘徊してやまない。騒々しい空間で自己を見つめ直そうとすれば、孤独を渇望し、誰とでも繋がろうとする社会ともなると、逆に孤独愛好家を増殖させる。人間社会に嫌気が差さないと、なかなか自然には目を向けないものである。
人間は何かに依存しなければ生きてはゆけない。空間にあっては集団社会に寄りかかり、時間にあっては自我に振り回され、そして、なによりも自然界の一員として存在する。自然だけを相手取るならそれほど悩まなくて済みそうだが、集団社会に自我が結びついた途端に人生は修羅場と化す。
そして、現代社会における恐怖の最たるものが、孤独死ってやつだ。なにゆえ、こうも恐れるのか。誰に看取られて逝きたいというのか。どんなに立派な墓を作ったところで、時代の流れと共に無縁墓となるは必定。墓の面倒を見る人がいなければ、共同墓地に入る方が賑やかそうだ。
そこで、無人島に真の自由を夢見る。群島は、それ自体が一つの小宇宙。嘆かわしいのは「ガラパゴス化」の方であろうか。いずれ、この忌み嫌われる用語に生命の故郷を感じる日が来るやもしれん...

2020-03-01

"燃えさかる火のそばで シートン伝" Julia M. Seton 著

古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風のような... そんなフレーズに出会った。
「バッファローの風が私たちの生活の中を吹くとき、私は燃えさかる火のそばで耳を傾けた。最初私の耳はその音をそのままに聞くことはできなかった。私の耳が調和しなかったのだ。しかし私は常にその風の存在には気がついていた。ただ長い間、はっきりそれを理解できないことで、私の心は落ちつかなかった。私には聞きとれなかったし、はっきりとわからなかったが、しかし私はそれを感じていた。」

おいらは、美少年と呼ばれていた頃から科学が大好きだったが、その中で敬遠してきた分野がある。生物学がそれだ。特に動物学を敬遠してきた。「シートン動物記」といえば、絵本で見たような... そんな感覚がかすかに残るだけ。小鳥を飼ったり、昆虫採集をやったりもしたが、あまり長続きしなかったような...
この感覚は未だ継続中で、呪縛を解こうと必死にもがくも、純真な子供心を取り戻すことは、脂ぎった大人には難しすぎる。ダーウィンの大作に触れるのにも、かなりの時間を要した。そして、シートンの大作となると、これに向かう勇気はまだない。おいらのタスク管理ツールには、このような ToDo リストに昇格しきれない、準 ToDo リストで溢れてやがる。
とりあえず、アーネスト・トンプソン・シートンの二番目の夫人ジュリアが記したシートン伝でお茶を濁すとしよう...
尚、佐藤亮一訳版(早川書房)を手に取る。

ボーイスカウトの創始者としても知られるシートン。幼き彼が会得した生活信条がこれだそうな。
「生きる喜びを求めよ!」
そして、天与の権利とは何か?と問いかける。
動物と人間の権利が衝突した場合、人間の方を優先するのは文明社会では当たり前。これに疑問を投げかけようものなら、環境ヒステリーなどとレッテルを貼られ、猛攻撃をくらう。それは、シートンの時代だけでなく、現代とて炎上沙汰をくらう。確かに、どんな議論にも右派もいれば、左派もいるし、中庸でいることの方がはるかに難しい。ただ世紀が変わると、どちらがヒステリーだったか再評価されるのが、人類の歴史である。
殺してしまった夥しい生命の権利はどうなるのか?と問えば、人間社会における最高の権利、すなわち、強者の天与の権利などという考えが浮かんでくる。そして、人間社会の合理性は自然界の合理性に適っているだろうか?と問わずにはいられない。かつて、希望の満ちた土地にバッファローの風が吹いていた。やがて、バッファローやカモシカの姿が消え、風は止んでしまった。動物の息苦しい世界は、人間だって息苦しい...

とはいえ、人間社会に嫌気が差さないと、なかなか自然には目を向けないもの。社会学者マックス・ヴェーバーは、学問は自然の真相に到達するための道である... と説いた。かつて科学は自然哲学と呼ばれ、自然との調和から人間の合理性というものを問うた。いつの間にか、その対象は自然物に対して人工物で区別され、人間社会における合理性を問うようになった。
産業革命に始まる経済的大成功は、爆発的な人口増殖を招く。そして、人に依存し、組織に依存し、社会に依存しているうちに、最も依存しているはずの自然との関わり方が見えなくなる。そもそも人間が多過ぎるのだ。地球という有限のアクアリウムにおいて、人間の数だけは限りがないなんてことはありえない。
自然は常にそこにある。目の前に見えなくても。自然は自立自尊している。だから依存症患者の憧れの的。原始林の中では、誰にも罰せられずに野蛮人でいられる。いや、文明社会だって競争原理に囚われた野蛮人で溢れている。天災と人災はどちらが恐ろしいだろうか。天災が神の仕業なら、人災は悪魔の仕業か。そして、神と悪魔が手を取り合って、もっと恐ろしい災いに見舞われるのかは知らん...
「まったく虚構というのは、一般的には扱いやすい。『半分が真実である嘘は』詩人の言葉によれば『危険なものである』という。その中に存在する僅かな真実の要素が、それに戦う力と生命とを与えて、もっと悪くしてしまうからだ。... そういう危険な語り方をするのが、民間伝説なのだ。そして時代から時代へと残存していくすべての伝説にみられるその力の強さは、僅かの事実に由来するということは、かなり確かなことである。」

それにしても、これは科学だろうか。ある者は文学だという。また、ある者は描く動物があまりに人間的だという。動物の生き方を人間の感情に対比させ、さらには神話や古典文学にも対比させ、まるでイソップの寓話。この動物物語を科学と呼ぶには、ちと躊躇する。
ここでは、シートン流の言語哲学を垣間見る。彼は、緻密な科学者である面と、想像力豊かな物語作家である面とを奇妙に合わせもっていたという。詩情や哀愁に満ちた物語... くだけた文章へのこだわり... こうした要件が、堅苦しい論説よりも説明に余裕を持たせる。科学書を読みやすく配慮することによって、読者の心を用語にではなく、考え方に向けさせる。学者連の論説では、難解きわまる特殊な用語を多用しては自分の研究に権威を与えようとする動きが見られるが、シートンはこうした傾向に一石を投じる。
動物観察は、多様性に満ち満ちており、専門用語でひと括りに説明できるものではあるまい。それは、人間観察とて同じ。シートンは、動物を説明するのに三つの要件を挙げている。

  • 第一に、例外的な動物を一匹選んでもよい。
  • 第二に、それと同類の動物の冒険や性質を、その一匹に代表させてもよい。
  • 第三に、作者は同類の動物が実際にそんなことをするのがわからなくても、種々の行動をさせてもよい。

もはや、客観性を放棄しているような、いや、客観性の限界を生物学に投影しているような。要するに、あらゆる動物行動は、可能性でしか説明のしようがないということか。つまりは、確率論でしか。物理学にしても、しばしば量子の個々の運動を確率的に論じ、統計力学で処理する。ましてや、その量子の大集合体である動物の個々の行動を説明するとなると...
ここに多様性が、確率論を通じて普遍性と結びつく思い。さらには、文学が多様性を通じて科学と結びつく思い。もう一つついでに、シートンの観察哲学にダーウィン思想を見る思い。自然と戯れるとは、こうした結びつきを楽しむことを言うのやもしれん。そして、この言葉がいつまでも残るのであった...
「人間のこの世における一番重要な仕事は、『自分自身を知ることである』と教えられた。」

2020-02-23

"英語で手帳をつけてみました" 有子山博美 著

何を学ぶにせよ、手段は人それぞれ。慣れ親しむことこそ肝要。楽しめれば、尚いい...
言語は手ごわい。なにしろ精神を相手取る代物だ。母国語として、精神空間で絶対的な地位を確立している日本語ですら、うまく操れないというのに。同じ単語でも、会話の相手と同じイメージを描きながら喋っているのだろうか?と思うこともしばしば。客観性の強い専門用語ですら、専門家の間でニュアンスが違うと見える。
しかし、それでコミュニケーションが成り立っているのだから、人間社会は摩訶不思議!いや、成り立っていると思い込んでいるだけのことやもしれん...

言語は手ごわい。外国語ともなれば、文化の違いを思い知らされる。著者の体験談によると、TOEIC 960点でも、いざ外国人を前にすると、英語のフレーズが口からなかなか出てこないらしい。人生は短い。点数競争に興味はない。興味のないことに手を出している余裕はない。外国語そのものに興味を持たねば...
媒体は、映画でも、海外ドラマでも、洋書でも、音楽でも、はたまたゲームでも、なんでもあり。学生時代と違って、大人の勉強は自由でいい。ちなみに、始めておいらを虜にしたセリフがこいつだ...

"Go ahead, make my day."

コンピュータ業界では、プログラミング言語を習得するには、とりあえず書いてみる!理屈は後からついてくる... といった考えがある。自然言語とて同じ、まずは喋りまくること。しかし、ダーティハリーがおしゃべりじゃ、さまにならねぇ...

そういえば、二十年も前になろうか、駅前留学をしたこともあった。セミナーを受講するより、サロンで雑談している方がはるかに勉強になったっけ。おいらに欠けている機能は、英語耳!英語の技術論文や規格書などに触れる機会はあっても、音声に触れる機会が極端に少ない。ようやく周波数に慣れ、それなりに会話ができるようになり、少しは自信もついたが、継続しなければやはり衰える。
先日、産学連携センターのサロンでお茶をしていると、和服を着ていたせいか、数人の外国人に話しかけられた。すると、手を必死に動かしながらも、口はなかなか動いてくれない。一人はドイツ人で英語があまり得意ではないらしく、ハンドサイン・ジェスチャーを駆使していたので、彼とは意気投合した。なるほど、会話では相槌も重要!外国版の相槌の仕方を知っているだけでも、なんとなく会話が成り立った気になれる。ドイツ語と日本語の狭間で、英語が漂っているような奇妙な会話空間は、多様な文化圏に身を置くようで、なかなかエキサイティング!一つの言語圏に支配されない非言語コミュニケーションってやつを体験しているような...
日本では英語にこだわる傾向にあるが、グローバル社会を謳うなら、様々な言語が飛び交うような会話空間こそ自然なのであろう。地球を一周すれば、英語だけでも多様な方言で溢れている。コミュニケーションなんてやつは、それが成り立っていると思い込むことができれば幸せになれる...

何を学ぶにせよ、子供の素朴な学び方が一番参考になる。つまりは、真似ることに始まる。脂ぎった動機は余計だ。
本書は、英語に慣れ親しむための手段を提案してくれる。まずは、生活習慣として、手帳、ToDo リスト、予定帳、日記などを手短な英語にしてみる。そして、「出来事 + 感想」をセットで書く習慣を... と。
人の行動は意外とパターン化されていて、口癖もあるもので、英語のフレーズもこれに乗せるとよさそうだ。英語で手帳をつける時のスマートな書き方を紹介してくれるサイトも多い。
さらに、英単語を分解して語源を辿ったり、反対語、同義語、類似語を拾って、芋づる式に語彙を広げていく。関連付けを意識すると覚えやすい。
また、接頭語や接尾語の意味、動詞や形容詞の名詞化、あるいは、日本語では馴染まない無生物主語といった構文解説は、知っているつもりではいたが、再認識させてくれる。そして、なによりも口に出してみること。音読やシャドーイングの癖を。
要するに、ネイティブな英語に触れる機会を増やし、英語を楽しもうというわけである。人間の精神空間は、ある種の信号処理装置として捉えることができよう。インプットが少なければ、アウトプットも少ない。脳内記憶素子は、様々なインプット情報の関連付けによって活性化される。いや、人体そのものが熱機関としての存在。喰って、排泄するだけの。ただそれだけのことやもしれん...

近年、Online サービスも充実し、その場で翻訳や発音を知ることができるのはありがたい。G さん翻訳も、そこそこ使えるようになってきたし、機械学習やディープラーニングもなかなか侮れない。
いくら辞書を引いても、文章を組み立てる上でコロケーションってやつに悩まされる。単語の結合の仕方には文化的な性質が含まれ、気に入ったフレーズを丸ごと真似て、カスタマイズしていくのが手っ取り早い。それは、日本語の文章を組み立てる時でもやっていることだ。
本書は、そのための良い方法として、名言集を薦めている。ここで紹介してくれるのはこれだ...

"The greater danger for most of us lies not in setting our aim too high and falling short; but in setting our aim too low, and achieving our mark."
... Michelangelo

“The man who thinks he can and the man who thinks he can't are both right. Which one are you ?”
... Henry Ford

名言は洗練されているだけに、デスクトップ上で泳がせておくと、ええ感じ。
そして最近、気に入っているフレーズがこいつだ...

"Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever."
... Mahatma Gandhi

"The highest happiness of man is to have probed what is knowable and quietly to revere what is unknowable."
... Johann Wolfgang von Goethe

なんといっても、音調とリズムがええ...
慣習とは、すなわち、リズム。興味を持ち続けるためには、心地よい周期が欲しい。生活のリズムってやつに。何かを会得したと実感したり、なんらかの達成感を味わえれば、それが、ささやかな恩賞となる。そして、自己にステータスのようなものが感じられる。ゲームをやり続ける動機として、アイテムを集めたり、ポイントを貯めたりといったことがある。キャラクタの成長を自己のステータスに投影するのである。名誉や財産に執着するのも、ある種のステータスを求めてのこと。知識のコレクションやスキルアップにも、同じ心理学が働く。こうなると、自己啓発もリズムに支配されたかっぱえびせん状態!
そして今、嵌っているリズムがこいつだ...

Dressed in black, With slanted hat.
  黒を着こなし、帽子を斜めに構え
No one knows, What you see.
  誰も知らねぇ、奴の目がとらえているものを
  ...
Stylish looks, With shaggy beard.
  粋なルックスに、もじゃもじゃの顎髭
And chicks and scotch, Relieve your pain.
  そして、いかす娘(こ)とスコッチが、奴の苦痛を和らげる
Revolver fires, Let it go!
  リボルバーが火を噴く、もう、手がつけられねぇ!
Trailing notes, And smoking barrel.
  余韻に浸る、煙る銃身に

Like a wolf in bush of ghosts.
  亡霊どもに看取られた狼のように
You never care, Who's gonna get close behind you back.
  奴は気にしない、背後から誰が忍び寄ろうと
Never feel sorry for being all alone.
  孤独でも嘆くことはない
Every minutes, every seconds, every little moments.
  いつ、どんな時でも...

Never be harsh, You're so sweet.
  けして、むごい奴じゃねぇ、あまい奴さ
Gently move, With bitter jokes.
  紳士に振る舞い、きついジョークも飛ばす
Don't look back, The deed is done.
  振り返るな、これで終わりさ
The sun shows up, Just as bright.
  太陽が昇り、辺りが明るくなる
  ...
A man in black.
  黒の似合う奴

... "Revolver Fires" by Lupin the 3rd "Jigen's Gravestone"

こんな臭いフレーズ、どこで使おうか知ったこっちゃないが、俺に言わせりゃ、ロマンに欠けるなぁ...