2022-01-30

"善の研究" 西田幾多郎 著

善...
こいつを語るには、決まりが悪い。脂ぎった天の邪鬼な心には、後ろめたささえ感じる。いいことをして、それが人のためになったり、社会の役に立ったりすると、清々しい気持ちにもなるが、むしろ反発しちまう。まったく、汚れちまった悲しみに... といった心境である。
西田幾多郎は、若かりし日の考えを惜しみなく披露してくれる。善とは、人格の実現のことを言うらしい...


「善とは自己の内面的要求を満足する者をいふので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求であるから、之を満足すること即ち人格の実現といふのが絶対的善である。」


本書には、「統一力」という用語がちりばめられる。思惟、意思、判断... こうした認識現象は、すべて統一力の作用だというのである。実在とは、意識活動であり、意識活動とは、主観の統一力の働きによって成り立つものらしい。その背後にあるのは、自己の存在意識。自己の奥底から込み上げる防衛本能が、そうさせるのか。無数の自由電子の集合体である精神なるものが、ある種の秩序を形成する。喜び、怒り、悲しみといった感情の表れも、ある種の統合的な精神状態。自我の克服とは、内面に生じる複合的作用を統一する力を言うのであろうか。おいらは、この統一力なるものを、調和させる感性、バランスさせるセンス、均衡させる能力... などと解している。
ところで、意識統一なるものは、自覚できるものなのだろうか。自我ですら手に負えないというのに。まったく哲学者ってやつは、凡人にあまりに高尚なものを要請してきやがる...


統一力ってやつは、極めて主観的な能力であろう。ただ、主観に閉じ籠もっていても、その能力は引き出せまい。客観との協調によってしか。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体の宿命であろう。主観の統一に客観の統一、そして双方の統一... これが理性ってやつか。
しかしながら、様々な矛盾に遭遇すれば、統一よりも分裂の方が楽になれる。精神分裂症も、ある種の自己防衛本能が働いているのだろう。無理やり統一して息苦しくなるぐらいなら、矛盾はそのままにしておきたい。おいらは理性ってやつが、大の苦手ときた。
そもそも、認識能力の根底にあるものとは、なんであろう。西田幾多郎は「純粋経験」なるものを持ち出す。それは、心理的色彩をもっているらしいが、主観というよりは客観との調和、いや、主客を超越した概念とでもいおうか。なにやらプラトン風のイデア論を彷彿させる...


「経験するといふのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てゝ、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といつて居る者も其実は何等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、真に経験其儘の状態をいふのである。」


西田幾多郎は、宗教のあるべき姿についても言及している。宗教とは神との関係、あるいは神との関係を求めてのもの。ただ、神に見返りを求めるなど、真の宗教心とはいえまい。宗教は自己の安心、自我の平穏のためにあるということさえ誤っているのかもしれん。その意味で、宗教は真理的であり、極めて哲学的なような気がする。
宗教ってやつは、愛を最高善に掲げるが、元来、愛とは統一を求める情念を言うらしい。自己統一の要求が自愛であり、自他統一の要求が他愛であるという。神の作用が万物の統一作用であるなら、神の他愛はその自愛となる。そして、神の御前で主客の統一を見るのであろうか。となると、現存する宗教は、実に宗教らしくない!ということになる...


「宗教的要求は自己に対する要求である。自己の生命に就いての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一して之に由りて永遠の真生命を得んと欲するの要求である。パウロが既にわれ生けるにあらず基督我にありて生けるなりといつた様に、肉的生命の凡てを十字架に釘付け了りて独り神に由りて生きんとするの情である。真正の宗教は自己の交換、生命の革新を求めるのである。... {略)... かくして宗教的要求は、人心の最深最大なる要求である。」

2022-01-23

スタートページの模様替え...

なにを始めるにしても、気分の問題は大きい。一日の始まりとなれば、尚更。そこで、マンネリ化してきたスタートページの模様替えというわけである...

思えば、スタートページの乗り換えで、おいらの移り気は激しい。愛ある G さんに、M な Ya さんに、Ne ちゃんとバイブに、愛ある苦労人と...
iGoogle, My Yahoo!, Netvibes, iChrome... ダジャレ好きは、もはや老害だ!

そして今、chrome の拡張機能 ProductivityTab(PT) を愛用している。もう何年になるだろう。カスタム css で彩りながら。当初、"transparent" 属性がうまく機能せず、PRO 版じゃないとダメかなぁ... と思ってきたが、今試すと Free 版でも問題ない。
なので、「グラデーション効果 + 半透明効果」で気分転換といこう!




バックグラウンドには、GIF animation を採用し、渦巻く大銀河で光沢効果を演出。アイコンや背景などのコンテンツは、なるべくローカル側に配置する。オンライン環境が当たり前の昨今、だからこそ、依存しないようオフラインでもそこそこの見映えに。電子機器への依存は仕方がないにして、せめてもの足掻きである。
尚、PT は、ローカルファイルへの参照がデフォルトで拒否されている。これを許可するには、拡張機能の管理より、"ファイルの URL へのアクセスを許可する" を設定。

ちなみに、環境は...
  Chrome 64bit Ver. 97.0.4692.99 (Official Build)
  ProductivityTab — Custom Homepage Dashboard Ver. 3.0.45.5

カスタム css は... おまけ!
尚、!important 宣言はあまり使いたくなかったのだけど...
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.widget{
  margin-bottom:0px !important;
  background-color:transparent !important;
}
.menu-button:hover{background-color:#D23F31 !important;}
.menu-button{background-color:#008b8b !important;}
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  background: linear-gradient(to left top, rgba(0,255,255,0.8), rgba(47,79,79,0.8));
  height:36px;
  display:flex; justify-content:center; align-items:center;
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2022-01-16

関係の関係に、その関係する関係の関係に狂う... 未練は男の甲斐性よ!

キェルケゴールは、「人間とは精神である。精神とは自己である...」と言い放った。では、自己とは何か?彼によると、自己とは自己自身にまつわるあらゆる関係を言うらしい。それは、自己自身を問うのではなく、自己と関係するものの中から自己を見い出すということ。自分探しの旅で、自己に直接問いかけても答えは見つからない。自己の関係に問い、その関係する関係に問い、さらに関係の関係に... 狂ったか、キェルケゴール!
尚、Kernel Panic! の元凶は、依存関係地獄にある...


考えてみれば、宇宙空間に存在するあらゆる物体は分子構造を持つ。それは、原子と原子の関係によって存在するってことだ。素粒子ってやつが、どこまで素なのかは知らんが、単体で静かに存在することが苦手と見える。人間の精神にしても、物理的には単なる自由電子の塊でしか説明がつかない。こんなちっぽけな塊に意志があるぐらいだから、巨大な宇宙という塊に意志があっても不思議はあるまい。それが、神の意志ってやつかは知らんが...


まさに、人間社会は関係によって成り立つ。関係とは、なにも人と人との関係だけではない。知識との関係、感覚との関係、意識との関係... そして、すべての関連性がデータベース化される時代。まったく面識のない、見知らぬ人から多くを学べる時代。むしろ、人間同士の関係は、ちょいとばかり距離を置く方がいい。そして、自己とも距離を置き、自己の重荷を軽くする。すでに、「自己責任」という言葉は、お前が悪い!という意味で使われているし...


インターネットやソーシャルメディアといったものが、情報を入手する手段を隅々に行き渡らせ、知識を得る機会を均等化させる。だが逆に、意欲のある人はますます意欲的になり、受け身の人はますます流されやすくなり、意識格差はますます拡大していく。それは、貧乏人はますます貧乏に、金持ちはより金持ちに... の原理に似ている。
関係を迫る社会が孤独感を異様に煽り、繋がりを煽る風潮が独りで居ることを必要以上に恐れさせる。なにごとも恐怖を植え付ければ、人間はそれに群がる。光に群がる虫どものように...
但し、孤独感ってやつは、集団の中にこそある...


仮想的に関係を結び付けられた空間には、無言の自己主張が渦巻き、無言の競争がひしめく。電話でひつこく勧誘し、誇大広告を巻き散らかす宣伝戦略は、いまや逆効果。おかげで、真摯な活動にも詐欺の目が向けられる。
自己肯定感がもてはやされる社会では他人否定が心の支えになり、関係の肥大化が孤独愛好家を増殖させる。騒々しい社会では、逆に、本当に人々を感動させ、本当に意味を考えさせるような、静かな存在が求められる。
それを牽引してくれるのが、音楽や映像の分野であろうか。つまりは、芸術性。偉大な芸術は、そこに存在するだけで鑑賞者に心地よい沈黙を与えてくれる。
その一方で、芸術家たるもの狂気しなければ、才能を発揮することができない。音楽家が狂えば、聴衆もつられて狂う。小説家が狂えば、読者も負けじと狂う。熱愛も、憎悪も、すべては関係から生じる狂気。人間ってやつは、人間との関係によって狂うものらしい...


そして、重要な関係の一つに、時間との関係がある。過去から現在へつながる時間軸に、自己の居場所を求める。精神病とは、心理学的には精神内時間の連続性が失われた状態を言うらしい。記憶の断絶は恐ろしい。それは、今まで生きてきた証を放棄するに等しい。過去に執着するのは、無駄な人生ではなかったと信じたいがため。関係とは未練か。夜の社交場ともなると、未練は男の甲斐性よ!などという口説き文句も飛び出す。
しかしながら、すべてを断ち切ることができれば、どんなに自由であろう。精神病とは、自由の究極な状態を言うのやもしれん...

2022-01-09

仕事場に理想郷を求めて自己陶酔... 酔わなきゃ、やっとられん!

仕事や学習のスタイルは、十人十色。視覚や聴覚を刺激するタイプに、嗅覚や味覚を刺激するタイプに、運動と連動させるタイプに、読み書きを重視するタイプに... と。思考空間とは、五感を総動員する場!とでもしておこうか...


おいらの場合、聴覚と嗅覚に運動を連動させる。思考を促そうとする場に、BGM は欠かせない。そして、お香を焚き、外の景色を眺めながらベランダを歩き回る。なので、仕事場である自宅は、2階のベランダを広めに設計してある。ベランダには何も置かず、殺風景なままがいい。その解放感が、思考を解放する。
ちなみに、1階は完全介護ルーム化で合理化を図る。
解放感といえば、フル思考を促すためにフルチンでいたいが、同居人がいるとそうもいかない。オンライン会議が割り込めば、やはりそうもいかない。思考がドン詰まれば、公園までお散歩(逍遥)。リュケイオンの歩廊とまではいかないものの、気分に浸ろうと...


とはいえ、完全に集中し、一旦、思考空間の中に入っちまえば、外部環境はほとんど気にならない。仕事場の整備は、あくまでもフロー状態へ導く工夫の一つ。
オフィスチェアにも気を使う。長時間キーボードを叩く場面では、姿勢だけでなく、腕や指のポジショニングも重要。なので、オフィスチェアにバケットシートは理に適っていると思う。思考の合理性は、精神空間を適切な環境に同化させることによって促すことができよう。
但し、この場に、動画は禁物!... と考えてきたが、なんとなく物足りなさを感じる今日このごろ。YouTube から、4K/8K の風景動画を垂れ流しつつ、Wuauquikuna の素朴な調べに、なにやら忘れかけているものを思い出させてくれるような、そんな感覚に見舞われる。
さらに、The Piano Guys の解放的な演出に癒やされ、Peter Bence vs. Peter Buka の魅惑的な着想に翻弄され、Simply Three にシンプルに生きようと意欲を掻き立てられ、裸足で熱唱するパワフルな Adele に生きる力を注入され... 思考のリズムを触発するはずの空間が、仕事場の概念すらぶっ飛んじまう有り様。


無論、理想的な仕事場を得たからといって、能力が上がるはずもなく、むしろ劣悪な環境でひらめくことも多々ある。介護モードともなれば、炊事や掃除が良い気分転換になり、買い物が良い運動になり、思考のリズムを作る。料理は結構好きだったりして、お料理教室に通いたいぐらい。ただ、お風呂の掃除だけは、どうもリズムが合わん。
そして、つくづく思う。介護とは、ひとことで言えば、ウンコ掃除!人間ってやつは、摂取して排泄するだけの存在か... と。それ以外は、可もなく不可もなく、何かに集中している時がもっとも幸せ... と。
考えてみれば、宇宙空間に存在するすべての物体は熱機関として機能している。少なくとも分子構造を持つ物体は、何らかのエネルギーを吸収し、交換エネルギーを放出しながら存在している。人間とて例外ではなく、喰ったら出すだけのこと。仕事をやるにしても、何らかのエネルギーを放出しており、これを生き甲斐にできれば幸せになれそうだ。幸せになる必要があるかどうかは知らんが...


仕事場に理想郷を求めるのは、所詮、自己満足の世界。いや、自己陶酔の。集中した状態とは、自己の中に入り込んだ状態で、すこぶる心地よい。それは、泥酔状態と何が違うのだろう。夜の社交場までも仕事場と化し、君に酔ってんだよ!なんてセリフも飛び出す。仕事に酔おうが... 誰に酔おうが... 人生ってやつは、まったく酔わなきゃ、やっとられん!


「幸福になる必要なんかないと、自分を説き伏せることに成功したあの日から、幸福が僕の中に棲みはじめた。」
... アンドレ・ジッド

2022-01-02

時を刻む新たな相棒を加え、人生をシンプルに刻む...

Simple is the best...
エンジニアなら、この呪文の偉大さを味わったことがあろう。
なんの因果か、人生をシンプルに刻もうと頭を丸坊主にしちまった。かなり薄めで、周りはビックリした様子。実は、行付けの理髪店で、スキンヘッドにして!ってお願いしたら、メンテが大変だからやめた方がええよ!って言われた。近頃、ファッションボーズというものがあるという。それでも、ほんまに切っちゃうよ!って念を押されたけど、いまさら髪型にこだわることもあるまい。
介護モードを軽減するためにも、自分の身には手間をかけたくないし、このぐらいの気分転換も悪くない。介護は大変なストレスだけど、人間観察や身体の使い方、将来への備えなどの勉強にもなる。
そして、外出時はたいてい着物。簡単な着方を教わっているので着衣は三分もあれば。おかげで、お寺さんですか?と声を掛けられることも... サングラスをかけると近寄りがたいとも...
ちなみに、女が前髪を切ると、過去を断ち切る、新境地、あるいは覚悟、なんて意味があるらしい。男が坊主になると、すべてを捨て去る、猛省、ってなるらしいが、おいらの場合、悪いことをしたわけではない。いや、そんな記憶がない。もともとアル中ハイマー病だし、単に頭をシンプルにしただけのことよ...


時を刻むのもシンプルに...
SKAGEN SKW6106 をずっと愛用してきた。北欧デンマーク発の時計ブランドである。なかなかのお気に入りだけど、クロノグラフは使わないし、インダイヤルの日付調整も、ちと面倒。なので、余計な機能を取っ払ったタイプも欲しい。
そこで、北欧デンマーク発に南欧イタリア風味を加えてみるのはどうか... ってなもん。庶民のささやかな贅沢を満喫しつつ。
モノは、KLASSE14 Volare Vintage Gold VO18VG004M で、ヴィンテージ感がなかなか。おまけに、交換用の黒革ベルト(TiCTAC別注)が付属され、スプリング感のあるレバーで簡単に付け替えられる。おかげで、時を刻むパターンが、その日の気分で三つになり、ヒップフラスコで乾杯!



2021-12-26

"古寺巡礼" 和辻哲郎 著

紅葉香る並木道に沿って古本屋を散歩していると、古寺を巡る印象記なるものに出逢う。この記録に沿って、奈良の地を逍遙してみるのも悪くない。リュケイオンの徒のごとく。てなわけで、この書を観光の手引きとして眺めている。
しかしながら、美術品を理解することは難しい。骨董品ともなると、美的感覚を超えた何かがあり、歴史の重みに威圧感、恐怖心までも呼び寄せる。芸術性を味わうには、こうした造詣味ある解説書でも伴わないと...


若き日に印象に残ったことを記録しておくことは、なかなか面白そうだ。数十年後の自分へのメッセージとして。歳を重ねていくと感動が薄れていく。羞恥心への負い目からか、脂ぎってしまった心は、もはや純真な頃を思い出せないでいる。まったく、汚れちまった悲しみに... といった心境である。
「この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば、それは幼稚であることと不可分である。幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである。今はどれほど努力してみたところで、あのころのような自由な想像力の飛翔にめぐまれることはない。そう考えると、三十年前に古美術から受けた深い感銘や、それに刺戟されたさまざまな関心は、そのまま大切に保存しなくてはならないということになる。」


若き日の和辻哲郎は、唐招提寺、薬師寺、法隆寺、中宮時など奈良近辺の寺々に遊び、日本文化の源泉探しの旅へといざなう。通常、日本のお寺や仏像を論じる場合、中国文化やお釈迦さまの影響を考察するものだが、もっと西方のガンダーラやペルシア、さらにはギリシアへ至る道筋からその原点を探る。
イデアに看取られた旅行記とでもしておこうか。プラトンは、精神の原型のようなものをイデアと呼んだが、そんな純真な存在を現代社会に見つけることは叶うまい。おそらくプラトンが生きた時代ですら。
アレキサンダー大王は、小アジア、エジプト、ペルシアを征服し、その地の統治者に現地人を多く採用したと伝えられる。それは家庭教師アリストテレスの助言か、あるいは、よそ者が統治するより合理的と考えたのか。大王の東方遠征はインドに至り、ヘレニズム文化とオリエント文化の融合を想像させる。
そして、中国を経て日本へと通ずる壮大な旅を、奈良時代や平安時代の歴史観光から紐解くという試みである。


ギリシア神話には、実に多種多彩で人間味溢れた神々が住み着いていた。その代表は、主神ゼウス。全能者みずから動物に化け、女神たちに近づいてはあちこちで孕ませ、人間の美女にまで手を出して多くの半神半人を生み出す始末。その女ったらしぶりときたら、まったく懲りない雷オヤジよ。ゼウスの子供たちは様々な得技を持ち、神といえども得手不得手を心得ていた。この主神ゼウスを理想化し、一神教にまで崇めたのが、キリスト教やイスラム教である。その理想高すぎ感は、不完全な人間ゆえの憧れというものか...
神に近づくための修行にも段階が規定され、聖職者にも階級制度が設けられる。それは、キリスト教、イスラム教、仏教のいずれにも見られる現象で、神の声を聞くには資格がいるらしい。
ヴェーダを聖典とするバラモン教やヒンドゥー教は、死に至る様々な道をこしらえた。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道といった六道輪廻を。死の世界には、現世の生き方がそのまま投影される。差別好きで、優越感に浸りたがる人間のことだ、生き方にも格付けがなされる。
そして、精神の段階を置き去りにし、名声や肩書に目を奪われようとは。それは、宗教の世界だけでなく、人間社会に蔓延るあらゆる集団や組織において...
「しかし浄土の幸福が現世の享楽の理想化に過ぎないという点は動かせない。不完全な人間存在が完全な生への願望を含むところに深い宗教的な要求の根がある。それは官能的悦楽のより完全な充足を求める心としても現われ得るだろう。」


奈良には、観音と呼ばれる像だけでも多種多彩なものがある。ギリシア神話の神々のごとく。写真で紹介されるものでは、三月堂本尊不空羂索観音、聖林寺十一面観音、百済観音、法寺十一面観音、薬師寺東院堂聖観音、夢殿観音、中宮寺観音... 等々。
ギリシア風の芸術家は、自然主義的な写実を好む傾向があり、例えば、聖母マリア像には、母の慈愛と処女の清らかさという女性の理想像が伺える。
一方、インド風の芸術家は、一つ一つの人体を精巧に描きながら、自然をまったく無視したやり方も厭わないようで、観音菩薩の穏やかな表情に慈悲と威厳を感じるものの、人間離れ感が強い。
そして、日本風の芸術家はというと、人間味溢れた作品も多く、インド風でありながらギリシア風でもあるという。
鬼や悪魔までも神格化し、不思議な生気を感じて思わずたじろぐことも。いずれも偶像崇拝の類いではあろうが、超人的な存在でなければ崇拝も叶うまい。
とはいえ、芸術作品には、人の精神を高め、人の心を浄化し、自省までも促す力がある。皮肉なことに宗教よりも...
和辻哲郎は、薬師寺の吉祥天女について、こう感想をもらす。
「誇大して言えば少し感性的にすぎる。細い手や半ば現われたかわいい耳も感性的な魅力を欠かない。要するに、これは地上の女であって神ではない。ヴィナスに現われた美の威厳は人に完全なるものへの崇敬の念を起こさせるが、この像にはその種の威厳も現われていないと思う。しかし単に美人画として見れば、非の打ちどころのないものである。」

2021-12-19

"風土 - 人間学的考察" 和辻哲郎 著

こいつぁ... 人間精神の風土哲学とでも言おうか...
文化論とは、比較の論とも言える。故に、理解への道は二つ。他文化との差異において自文化を位置づけるか、他文化を摂取する過程を通して自文化を受け止めるか。人間は、単に過去を背負うだけでなく、魂に根付いた土着をも背負って生きている。この時間軸が自己に与える影響は、想像しているよりもはるかに大きい...

「風土」は、古くは「水土」と呼ばれ、土地の気候や地質、地形や景観などの総称であったり、文化の形成や精神に影響を及ぼす環境であったり、あるいは、宗教的風土や政治的風土といった言い方をする。人間は、自然環境だけに影響されて生きているわけではない。むしろ、社会を通して人間同士の影響の方が強いかもしれない。
文明人ってやつは、最も依存しているはずの自然との付き合い方を忘れちまうのか。書物、メディア、技術などあらゆる社会的産物が人格形成に影響を与え、教育がより高度な偏見をもたらす。利便性に憑かれ、意思力が養われない教育が、精神を堕落させるのかは知らんが、ジョン・アダムズは、こんなことを言った...「自然によってつくられた人間と野獣との違いよりもはるかに大きな違いが、教育というものによって人間と人間との間にできるものである。」と...

1. 風土とは...
和辻哲郎は断じる。「風土とは、人間の精神構造の中に刻みこまれた自己了解の仕方に他ならない...」と。風土の現象は、芸術、信仰、風習などに露わになる、いわば、人間生活の表現様式であるという。個人的でありながら社会的でもある二重性格の内にある自己了解という行為は、同時に歴史的であり、歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない... と。
カントは、ア・プリオリな認識に空間と時間を規定した。すなわち、自己存在という認識原理は、空間性と時間性に発すると。風土とは空間性であり、歴史とは時間性であり、まさに、自己存在という認識契機を自己了解において論じている。
こうして眺めていると、「風土」という用語もなかなか手ごわい。あまりに広範な意味を含み、単なる自然環境や社会環境などでは足りない。存在認識の仕方など、人間の認識能力すべてを飲み込んでしまうような。
自己を満足させようとすれば、自己言及の群れが押し寄せてくる。自己啓発に自己実現、自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大... そして、自己嫌悪に自己否定とくれば、ついに自我を失う。人間の認識能力なんてものは、すべて自己了解の仕方に過ぎないのやもしれん...
「かくのごとく風土は人間存在が己れを客体化する契機であるが、ちょうどその点においてまた人間は己れ自身を了解するのである。風土における自己発見性と言われるべきものがそれである。我々は日常何らかの意味において己れを見いだす。あるいは愉快な気持ち... あるいは寂しい気持ち... このような気持ち、気分、機嫌などは、単に心的状態とのみ見らるべきものではなくして、我々の存在の仕方である。」

2. 三つの類型
和辻哲郎は、人間の風土的な多様性を「モンスーン、沙漠、牧場」の三つの類型で抽象化して魅せる。やや、こじつけ感も否めないが、なかなか興味深い。マリア様がモンスーン的か、牧場的か、はたまた沙漠的かは知らんが...

「モンスーン」とは、季節風のこと。特に、熱帯の大洋から陸に吹き付ける夏の風を指し、アラビア語由来とされる。気候面では、暑熱と湿気が同時に押し寄せる特性があり、生活面では、暑さより湿気の方が耐え難く、暑さより湿気の方が防ぎにくいといった特徴がある。それ故、自然に対する抵抗力が弱いという。運命論を受け入れる傾向にあるのも、そうした風土的な要件によるものであろうか。春風駘蕩の哲学を育むのも...
尚、モンスーンの型どおりの土地柄といえばインドだが、支那や日本もこの型に含めている。日本の場合、さらに台風や地震などの災害が多く、地母神ガイアで象徴される母なる大地への想いも、ちと複雑やもしれん...

「沙漠」とは、"desert" の訳語だが、意味するものがちと違う。地域的には、アラビア、アフリカ、蒙古などに広がる不毛の地。雨量の欠乏した乾燥を本質とし、自然には生気がない。荒々しく空虚な場。人間性をも捨象するような...
渇きの生活が水源の奪い合いとなり、死を目の当たりにしながら、闘争心や対抗心を育むという。こうした土地柄が、人間の絶対服従を求めるヤーヴェのような人格神を必要とするのであろうか。
とはいえ、現代社会を見渡せば、世界はことごとく乾燥そのもの。街中に植えられた少しばかりの樹木を除いては、人工物で埋め尽くされる。巨大モニュメントは、渇ききった人間の象徴か...
「自然への対抗が最も顕著に現れているのはその生産の様式である。すなわち沙漠における遊牧である。人間は自然の恵みを待つのではなく、能動的に自然の内に攻め入って自然からわずかの獲物をもぎ取るのである。かかる自然への対抗は直ちに他の人間世界への対抗と結びつく。自然との戦いの半面は人間との戦いである。」

「牧場」とは、wiese や meadow の訳語だが、家畜を囲う場、あるいは、家畜の飼料を栽培する土地といった意味を強める。機械的で疎外的な現実としての工場も、牧場の延長上に配置して...
ちなみに、ヨーロッパには雑草がないと言われるそうな。ほんまかいな?夏の乾燥と冬の湿潤という安定した気候サイクルが、雑草を駆逐して全土を牧場たらしめるという。日本の梅雨のようなジメジメした気候では雑草との戦いを強いられるが、ヨーロッパにはそんな苦労がないとか。ほんまかいな?まぁ、雑草の程度の問題なのだろうけど...
規則正しい循環雨季の到来が、農作物を安定供給する。安定した気候ゆえに、人間の目には自然が従順に見え、自然合理性が人間合理性と結びつき、ホッブズ、ロック、ルソーらが自然状態を論じてきた伝統も分かるような気がする。安定した土壌は、冒険心を駆り立てる。大航海時代がヨーロッパに発したのも、そうした土壌があるからかもしれない。
そして、活動の自由、精神の自由が哲学を育むという。ゴシック文化や啓蒙主義、あるいは、人文主義的な思想が発達するのも、合理的精神や論理的思考を育むのも、そうした風土との関係からであろうか。ヨーロッパの自然科学は、牧場的風土の産物だという...
「牧場的風土においては理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。」

ちなみに、ヘーゲルも三つの自然類型を規定したそうな。
一つは、広い草原や平地を持った水のない高原。遊牧の掟や族長政治といったものの影響力が強いが、発展性が乏しい。
二つは、大河の貫流し灌漑する河谷の平野。移り行きの国土。安定した土壌で農業と国家が発達し、文化の中心となり、君主と隷属の関係が著しい。
三つは、海に隣接する海岸の国土。海路によって世界を結びつけ、商業が発達し、征服欲や冒険心がわきあがり、市民の自由が自覚される。

なるほど、和辻哲郎の三つの類型は、ヘーゲルからのアップデート版のようだが、旧バーションも捨てがたい...

2021-12-12

"イシ 北米最後の野生インディアン" Theodora Kroeber 著

自由に生きるとは、どういうことであろう。自然と戯れながら生きることができれば... 孤独とは、どういう状態を言うのであろう。集団の中にこそ、それがある...


「イシの足は、幅広で頑丈、足の指は真直ぐできれいで、縦および横のそり具合は完璧.... 注意深い歩き方は優美で、一歩一歩は慎重に踏み出され、まるで地面の上をすべるように足が動く... この足取りは侵略者が長靴をはいた足で、どしんどしんと大またに歩くのとは違って、地球という共同体の一員として、他の人間や他の生物と心を通わせながら軽やかに進む歩き方... イシが今世紀の孤島の岸辺にたった一つ遺した足跡は、もしそれに注目しようとしさえすれば、おごり高ぶって、勝手に作り出した孤独に悩む今日の人間に、自分はひとりぼっちではないのだと教えてくれることだろう。」
... シオドーラ・クローバーの娘アーシュラ・クローバー・ル=グウィン


物語は、未開の地に隠れ住む一人のインディアンが、突然、文明の地に姿を現したことに始まる。その名は、イシ。白人の集団的残虐行為によって、皆殺しにされた部族の最後の生き残り。1911年、彼は飢えに耐えられず、畜殺場のほとりで犬に追い詰められ逮捕された。部族の運命と同じく、死を覚悟して...
ところが、運命とは皮肉なもので、白人の世界に迷い出たことで厚遇と友情に囲まれ、カリフォルニア博物館に迎えられる。天然記念物のようにマスコミに晒し者とされ、原住民の研究材料とされるは必定。それでも、イシは快活な忍耐心で凛々しく生きたという...
尚、行方昭夫訳版(岩波書店、同時代ライブラリー)を手に取る。


「イシと彼の部族の歴史は否定しようもなくわれわれ自身の歴史の一部となっている。われわれは彼らの土地を吸収して自分たちの所有地にしてしまった。それに応じて、彼らの悲劇をわれわれの伝統と道徳の中にとりいれ、それについての責任ある管理人とならねばならない。」
... シオドーラ・クローバー


1916年、イシは亡くなった。それ以来、彼の物語は人々の記憶から薄らいでいく。ようやく一般人にも書き残しておこうという考えが関係者の頭に浮かんだのは、1950年代になってからのこと。
文化人類学者アルフレッド・L・クローバーは、イシと最も親しくしていた人物の一人だが執筆を望まなかったという。それは、暗い歴史を物語ることになるからであろうか。あるいは、イシという人物を晒し者にしたくなかったからであろうか。アルフレッドの仕事は、カリフォルニア原住民の言語や暮らしなどの情報を収集すること。そのために、大量殺戮の目撃者となった。イシの遺体を解剖するという話があった時、こう言い放ったという。
「科学研究のためとかいう話が出たら、科学なんか犬にでも食われろ!と私の代わりに言ってやりなさい。」
そして、イシの物語を書くことになったのは、少し距離を置く妻シオドーラ・クローバーである。本書は、第一部「ヤヒ族イシ」と第二部「ミスター・イシ」で構成され、前半でインディアン種族として生きた運命、後半で文明社会を生きたイシの生き様を物語ってくれる...
「おそらく人間の歴史の感覚というものは、思春期から大人になりかけたときと、老境に達して、人生の永遠の真実を再評価し、熟考し、すすんでそれとかかわりを持つ余裕の生じたときとに、さしせまった鋭いものになるのであろう。」


1. インディアン種族の呪われた運命
それは、1844年に始まったという。メキシコ政府は土地所有認可を濫発し、それを合衆国政府が承認した。インディアン種族の土地は、法の下で、権利を主張する自由主義によって略奪されたのである。
原住民の死因の多くは強制移住によるものだという。抵抗する者は集団虐殺。文明から様々な感染病も撒き散らされた。麻疹、水痘、天然痘、結核、マラリア、腸チフス、赤痢など。売春も知らず、性病とも無縁だった女性たちも...
西部開拓史や西部劇などでは、よくインディアンが野蛮で残虐者として描かれているが、馬や牛を盗んだり、時々殺人を犯すぐらいは、些細な仕返しにも映る。法律用語に「正当な征服」なんてものがあるのかは知らんが...
「孤絶した共同体という現象は人間の歴史上稀であるが繰り返し起こる現象である。社会的、相互交流的、拡散的である人間の性質の故に、こういう社会は呪われた運命にある...」


2. 文明人ミスター・イシ
イシが、文明社会を生きた期間は五年間。たったの五年間。結核というこれまた文明からの死の賜物によって。彼は忍耐強く、不平も言わず、看護師たちに気遣い、世話をかけまいと静かに死を受け入れたという。アルフレッドは、どれほどの悲しみ、どれほどの怒りや責任を感じたことだろう。
文明社会を襲う恐怖心よりも強い孤独感。それは、現代人が抱える病理。死を選ぶ者が、なんと多いことか。仲間意識などという美談は、見返りの舌を垂れてやがる。天然記念物的なイシを見世物にして金儲けを企む者はあとをたたず、映画出演の要請やマスコミの餌食に。イシの目には、文明人とやらが、つまらぬ連中に映ったことだろう。
現代社会を生きるための知識を知らぬということが、無知といえるだろうか。人類は、道具を発明することによって文明を育んできた。だが、その文明人が道具なしで生きる術を忘れちまった。最先端商品に目を奪われ、虜になり、そして依存する。誰にでも使える道具を手にし、思考する面倒から解放され、それが自由の正体か。生物が最も依存しているはずの自然を知らずに生きているのが、人間ってやつか...
「彼の魂は子供のそれであり、彼の精神は哲学者のそれであった。」

2021-12-05

"青い鳥" Maurice Maeterlinck 著

童心に帰るのは難しい。脂ぎった大人には、さらに難しい。いまさら童話なんぞを... と思いつつ。気まぐれってヤツは、いつやってくるか分からん...


ところで、青い鳥が幸せを運んでくるってのは、本当だろうか...
かの偉大なアニメには、宇宙脱走犯「青い鳥」なんて逸話も見かける。無理やり幸福光線を浴びせかけ、まるっきり的外れな願いを叶えて、みんなを不幸にしちまう凶悪犯。この野郎を、岡っ引きのチルチルとミチルが追うというドタバタ劇である。高橋留美子も、メーテルリンクにはイチコロだったと見える。
それにしても、メルヘンチックなオリジナルより、そちらの方に癒やされようとは、もはや魂の腐敗は止められそうにない。夜の社交場では、おいらが幸せにしてやるぜ!なんて台詞まで飛び出す始末。
アンドレ・ジッドは、こんな言葉を遺してくれた。「幸福になる必要なんかないと、自分を説き伏せることに成功したあの日から、幸福が僕の中に棲みはじめた。」と...


さて、物語は、クリスマス・イブに薄気味悪い老婆が、ティルティルとミティル兄妹の家を訪ねたことに始まる。老婆は見るからに醜いけど、妖精なんだって。その妖精の娘は、ひたすら幸せになりたがる病にかかっちまったとさ。娘を救おうと、どこかに青い鳥はおらんかねぇ... 鳥籠にコキジバトがいるけど、あまり青くないねぇ...
そして、二人の兄妹は、妖精と一緒に青い鳥探しの旅に出るのだった。まず妖精の邸宅を訪れ、記憶の国、夜の城、月夜の森、幸福の館、真夜中の墓地、未来の王国を巡って...
尚、江國香織/訳 + 宇野亜喜良/絵(講談社文庫版)を手に取る。


サンタのおじさんは、お金持ちの家にはやって来る。だが、貧しい家では、ママがお願いに行けなかったから、来年はきっと大丈夫よ!と慰める。来年は遠い。幼い子には、遥か彼方。ティルティルとミティル兄妹には妹が二人いたが、すでに亡くなっている。貧しい家では、子供を無事に育て上げるのも大変。
記憶の国では、この世にはいないお爺ちゃんやお婆ちゃん、妹たちと出会い、過去の思い出に浸る。だが、ここには青い鳥はいない。過去に縋っても、幸福は得られないの?
幸福の館では、様々な贅沢三昧を検分する。金を持つ贅沢、土地を持つ贅沢、満たされた虚栄の贅沢、何もしない贅沢、必要以上に眠る贅沢、ぶくぶく太る贅沢、不幸な人たちを救いたがる贅沢、宇宙の摂理を知る贅沢など。しかし、ここにも青い鳥はいない。贅沢は幸福ではないの?
夜の城や月夜の森では、光が問題となる。月の光に照らされる死んだ鳥たちは誰が殺したの?真夜中の墓地では、みんながみんな天国へ行けるわけではない。未来の王国に希望を託したところで同じこと。偉大な未来に絶望するか。明るい未来に退屈病を患うか。
そして、現実に引き戻される。すべての旅は夢だったの?目を覚ますと、鳥籠のコキジバトが青く見える。これが、クリスマスプレゼントなの?色彩の特性には三原色ってやつがある。色付きメガネで見れば、好きな色に見えることも。色盲なら想像で補うことも。すべては見方次第!凡人は、目の前の幸せにも気づかない...


「なんにも見ようとしない人間がいるとは聞いていたけど、まさかお前は、そんな心のねじれた、無知な人間ではないだろう?でも、見えないものも見なきゃいけないよ!人間っていうのはほんとに妙な生き物だね。妖精たちが減ってしまってからというもの、人間はなにも見ないばかりか、目に見えるものを疑いもしない...」

2021-11-28

"現代建築家集 Venturi Scott Brown & Associates"

紅葉に誘われて古本屋を散歩していると、懐古風のスケッチ群に出逢った。自然に馴染んだ街づくり... 風景に同化した都市計画... こうしたセピア画像に癒やされる。英語の文献だけど、まったく抵抗感なし。活字がちょいと控え目なのがいい。古本にしては、ちと値が張るものの、いつもながら気まぐれは頼もしい。読書の秋というが、本ってやつは、なにも読むためだけのものではあるまい...


空間認識は、人間が生きる上で重要な認識能力の一つ。カントは、空間性と時間性をア・プリオリな認識に位置づけた。建築とは、まさに空間認識の具現化であり、極めて人工的でありながら、実のところ過剰なほど自然を意識している。それは、人間が本能的に思い描く憧れのようなものであろうか...
懐古風な空間性にしても、ノスタルジックな時間性にしても、それらが調和した途端に憩いの場を提供してくれる。調和という観念には、摩訶不思議な力が秘められている。人工物と自然物という矛盾の共存ですら、そこに芸術性が生じ、心の拠り所にしちまう。
ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築をあらゆる芸術の総体として捉えた。建築家という人種は、五感を存分に解放できる空間を求め、その空間のみが五感を超越した六感なるものを生起させる、かのように考えるものらしい。真の自由は、まさに空間にあり!と言わんばかりに...


さて、ヴェンチューリ・スコット・ブラウン & アソシエイツは、20世紀を代表する建築設計事務所として知られる。創始者は、ロバート・ヴェンチューリとその妻デニス・スコット・ブラウン。
本書は、この二人の建築家の作品集で、建築計画に至るスケッチや模型が掲載され、集合住宅に大宇宙を見、個人住宅に小宇宙を見ながら、建築家が思考する空間アルゴリズムを体感させてくれる。
「住宅は内気だが、雄弁である。」


ヴェンチューリとスコット・ブラウンは、ポストモダニズムの建築家に属すらしく、本書の文面からもモダニズムへの反発が読み取れる。建築は正しく建てれば、当然の帰結として健康と幸福が宿る... といったことが叫ばれた風潮への言及や、今日の建築家の集合住宅に対する理想が、住宅市場並みに単調である... といった皮肉まじりの言及に。
「正しく建てる」とは、どういうことであろう。啓蒙主義にしても、理性主義にしても、説教じみていて、押し付けがましいものには反発したくもなる。それが、自由精神というものか。そして答えは、多様化ということになろうが、まさに現代社会が歩んでいる道である。
とはいえ、新しい形式や様式ってやつは、従来のものを批判する形で登場する。改善の余地がなければ、変わる必要もない。芸術ともなれば、鑑賞者は飽きっぽく、いつも刺激に飢えている。人間にとって、退屈病はよほど辛いと見える。それで、人間社会に批判の嵐が吹き荒れるのかは知らんが...
やはり、カントのような批判哲学を実践することは難しい。対象を正しく理解しなければ、正しく批判することができないのは当然だとしても、さらに歴史という時間の流れの中で調和を求めるとなると...


モダニズムは、20世紀初頭、近代化を背景にアヴァンギャルドな造形理念をまとって登場した。ルネサンス風の精神体現より、もっと現実的に、もっと機能的に、もっと合理的に... と。アヴァンギャルドというからには、前衛的で試行錯誤的な意味合いが強かったのかもしれない。
近代化の波は産業革命や科学技術の発達ととともに押し寄せてきたが、極度の合理性は、機械的で、工業的で、無味乾燥なイメージを与え、人間性をも見失わせる。そうした風潮は、ヴァイマル共和政時代に製作されたモノクロサイレント映画「メトロポリス」でも象徴されようし、マルクスら思想家たちが唱えた「疎外」という概念も、近代主義への警鐘と言えよう...


しかしながら、人間にとっての合理性には、精神的合理性と物質的合理性がある。この二重性は、主観性と客観性の駆け引きの中で対峙している。時には矛盾に苛み、時には協調しながら。科学の進歩が客観的な洞察を鋭利にしたのは確かだが、思考するのはあくまでも主体であり、自己である。物理的には無駄な空間も、精神的には有用なことがよくあるし、無味乾燥な芸術作品も、数学的に眺めれば違った光景が見えてくる。
また、自由精神ってやつは、抑圧との関係からいっそう輝く。ロマンティシズムの反動で写実主義や自然主義をもたらすこともあれば、ルネサンスによる古代・古典回帰から、モダニズムによる機能的・合理的造形理念を経て、再びポストモダニズムによって精神性へと引き戻される。自由と抑圧の綱引きに、主観と客観の駆け引きが絡み合って...
主観には思考の深さを牽引する役割があり、客観には感性と知性の均衡を保つ役割がある。その双方を凌駕してこそ、人間的合理性に近づくことができるのであろうし、その過程では、自己肯定も、自己否定も必要であろう。芸術家に自己破滅型を多く見かけるのも頷ける...