アル中ハイマーは死刑制度に対して反対の立場をとらない。ただ、ここで賛成とはっきり言えないのは、人が人の命を裁けるのか?という一般的な倫理観からではない。執行する人々が気の毒に思うからである。善人と呼ばれる人々の倫理観によって批判にさらされ、正面から向かい合っているのは彼らである。裁判官が極刑を下すにしても重圧がかかる。量刑相場に駆け込むのも仕方がないかもしれない。犯罪者も死刑を承知でやるのだから、判決が下っても止むを得ないという状況を作ることが大切であろう。本書を読んでいると、なんとなくそんなことを考えてしまう。
裁判官というと、出世欲に駆られた凝り固まった官僚という香りがする。アル中ハイマーは裁判所へ行ったことがないから想像するしかない。いや!行ったことあった。しかも呼び出された。本書はそういった先入観を少々和らげてくれる。著者が裁判の傍聴席から目撃した数々の人間模様を紹介している。そこには、嫌味、駄洒落、ブチキレ、諭しのテクニック、時には愛も語り、著者が思わず判事のファンになるような発言もある。また、判決期日を延期してボランティア勧告まで飛び出す。裁判官が考え抜いて選んだ言葉には、個性がうかがえる。裁きっぱなしではなく、法廷での出会いも一つの縁と考え、大切に吟味している裁判官もいる。本書で紹介される裁判官は実名で登場する。彼らは、おそらく裁判官の中でも異端児とされる方々であろう。中には是非出世してもらいたいと思える裁判官もいる。裁判官の評価は、判決や和解を出した数の多さに集約されるという。長々と説諭するぐらいなら、薬物事件の一件でも済ませた方が出世に近づくというわけだ。裁判員制度が始まろうとしている中で、裁判の傍聴風景が少しでも感じ取れるところに、本書の意義がある。また、手軽に読める量で電車の中で読むのにちょうどよいのもありがたい。裁判の傍聴とは、被告の態度と裁判官の言動の双方からして、人間観察におもしろい場所のようだ。
1. 法の仕組み
法の仕組みは、「ある」、「ない」の二項対立の組み合わせであるという。法律の条文に書かれた要件がすべて満たされれば訴えは認められ、ひとつでも要件を満たさなければ訴えは退けられる。何段階にも要件が入り込んで複雑な条文もあるが原理は単純である。むしろ、法というものは単純であるべきであろう。そうでないと違法か合法かの基準がはっきりしなくなる。誰にでも平等で明快な答えを出そうとすれば、きめ細かい配慮には欠け融通がきかない。裁判が無味乾燥な判決文を大量生産し、当事者を置いてきぼりにするのも法の宿命かもしれない。本書は、こうした法律の補完装置として裁判官の役割を浮き彫りにする。裁判官の建前は「法の声のみを語るべき」とされているが、法廷ではしばしば肉声が聞かれるようだ。私情を抑えられず、つい本音がこぼれることもある。それが人情というものである。しかし、中には正当防衛も認められず矛盾を感じる判決もある。被害者であるべき人間が長期の裁判に縛られ、加害者であるべき人間が不起訴処分になる例も多い。また、日本は昔から公事三年と言われ、裁判はとかく時間がかかるという印象がある。特に行政訴訟で差し止めなど滅多に認められない。国を相手どった行政訴訟で住民側が勝訴する確率はわずか3%だそうだ。
2. 極刑
最近の犯罪の残忍さからしても、裁判の判決にはいらいらさせられることもある。おいらは内情を知らずにいい加減に傍観しているだけなので、世論操作に洗脳されているのだろう。それでも、裁判官に対して一つだけ同情することがある。死刑を宣告する重圧である。世間から罵倒されることもある。マスコミは、自らが裁く者とでも自認しているかのように、著名人などを使って世論を煽る。本書は、裁判官が考えられうる手段を駆使して分析している姿も紹介してくれる。いくら極悪人だとしても、人間の命を他人が裁くのに気分が良いわけがない。ただ、残酷な事件が多くなると、その残忍さと量刑相場の板ばさみにもなる。本書は、量刑相場の急激な変化が法の安定を失わせ、特定犯罪の厳罰化は刑罰体系のバランスを崩すと警鐘を鳴らす。事件によっては、あまりに卑劣で心情的に重い刑を宣告したい場合もあるだろう。著者は、裁判官が量刑相場に板ばさみになって軽い刑を宣告する場合、被告人に向けて一段と痛烈な非難を浴びせるような印象を受けると述べている。ただ、裁判官が言葉でバランスを取っても被害者の慰めにはならない。判決の重圧からこんな台詞も飛び出す。
「控訴し、別の裁判所の判断を仰ぐことを勧める」
被害者2人、被害額2千万円の強盗殺人で、相場からして死刑が相当。その時の異例の付言として紹介される。だが、裁判官がこれを言っちゃおしまいだろう。殺意の証明も難しい。犯人が殺意を認めるなど滅多にない。むしろ、殺意を認める人間の方がまともである。少しでも減刑されるならば、どんな演技でもする。相手が死んでも構わないと思えば殺意となるが、こんな行為をすれば相手が死ぬかもしれないという場面でも、充分殺意があると考えて良いと思う。例えば、銃を乱射しておいて殺意はありませんと主張しても通用するとは思えない。しかし、現実にはそれでも過失となることがある。
無期懲役も奇妙な制度である。現実には15年から40年で仮釈放となる。そこで、仮釈放の際、しばしば遺族の意見を聞くようにと付け加えられるらしい。裁判官の被害者への心遣いであるが、そもそも無期ではないのか?それならば、判決に仮釈放の可能性を表す付言が必要であろう。しかし、全国の刑務所は軒並み満室状態で、終身刑の導入どころではないという現実がある。
3. 死刑廃止論
この問題は、よーわからん!その前に終身刑をしっかり執行することである。少なくとも、現状で死刑廃止だけしても仮釈放されるのではおかしい。オウム弁護団の主任弁護士安田好弘氏は、死刑廃止論はいいけど、とにかく時間をかけることと宣言し弁護団全員を了承させたという。本書は引き伸ばし戦略こそ弁護の王道という確信がおありのようでと皮肉る。ただ、やりたくない弁護でも誰かが引き受けなければならない。世間からバッシングにあう事件を担当することは勇気がいる。こうした境遇の弁護ばかりやっているのも同情してしまう。ちなみに、「山口県光市母子殺人事件」で最高裁弁論をドタキャンしたことでも話題になった人でもある。もし、死刑廃止論をこの事件で利用しているとしたら、弁護士失格である。まさか、思想を法廷に持ち込んでいるとは思いたくないが、そうした態度に映ってしまう。死刑制度の是非については人を感情的にする何かがある。おそらく本能と理性がぶつかるからであろう。人間が他人の命を裁くことには疑問が残る。少なくとも執行する立場からは気持ちの良いものではない。死刑にする基準を明確にする必要がある。
4. 中には泣かせる場面
被告人がやたら傍聴席の妻と赤ん坊を気にしている。裁判官が妻と赤ん坊を呼び寄せ、その場で被告人に赤ん坊を抱かせる。そして、二度と犯行に及ばないと誓えるかと迫る。被告人はその場で泣き崩れる。こんな場面は大岡裁きにも思えるが、被告席に家族を招くなどさすがに珍しいケースのようだ。後にその裁判官は取材に、苦笑いしながら次のように答えたという。
「前例もなく勇気のいることだったが、当時は恐いもの知らずだった」
裁判官とは、出世欲の固まった官僚世界でもあるだろうが、どの世界にも異端児はいるものだ。介護疲れの挙句に及んだ心中事件はよく耳にする。運が良いのか悪いのか、片方だけが生き残ると辛い事件になる。こうした介護絡みの事件は今後増えるだろう。悪いのは社会なのか?平和でありながら自殺大国日本という矛盾が見え隠れする。人間は、生きがいを無くすと世の中が地獄に思える。なげやりな考えが他人を巻き添えにすることもある。裁判官の台詞に、こんなものもある。
「早く楽になりたい気持ちはわかる。生き続けることは辛いかもしれない。それでも、地獄をきちんと見て、罪の重さを苦しんでほしい。」
5. メディア用語
法律用語っぽいメディア用語を紹介しているのでメモっておこう。
(1) 「容疑者」は、法律用語では「被疑者」という。
(2) 「被告」
民事裁判で訴えられた人は「被告」であり、刑事裁判では「被告人」と呼ばれる。しかし、報道では刑事裁判でも「被告」と呼ぶため、被告のイメージが悪くなっているようだ。そこで民事で訴えられた側を「相手方」と呼びかえる動きもあるらしい。
(3) 「書類送検」
被疑者を起訴するかの判断を委ねるため、警察官は検察官に捜査情報を送る。報道では、被疑者を逮捕せずに捜査している場合、警察官が事件を検察官に送ることを「書類送検」と呼ぶ。逮捕した被疑者の身柄を一緒に送ることを「身柄送検」と呼ぶ。しかし「送検」とは法律用語にはなく、逮捕していようがなかろうが「検察官送致」というらしい。
(4)「起訴事実」は、法律用語では「公訴事実」という。
Contents
- 2008-03-28 "裁判官の爆笑お言葉集" 長嶺超輝 著
- 2008-03-22 "日本の中世国家" 佐藤進一 著
- 2008-03-16 "異形の王権" 網野善彦 著
- 2008-03-09 "日本の歴史をよみなおす(全)" 網野善彦 著
- 2008-03-02 "近代ヤクザ肯定論" 宮崎学 著
- 2008-02-24 "反転 闇社会の守護神と呼ばれて" 田中森一 著
- 2008-02-17 "「最強情報戦略国家」の誕生" 落合信彦 著
- 2008-02-16 "パソコンで巡る137億光年の旅 宇宙旅行シミュレーション" 4D2U 監
- 2008-02-10 "金融立国試論" 櫻川昌哉 著
- 2008-02-03 "世界を不幸にしたグローバリズムの正体" Joseph E. Stiglitz 著
2008-03-28
2008-03-22
"日本の中世国家" 佐藤進一 著
前記事で網野善彦氏の「異形の王権」を読んでいて、本書を中心に考察している部分があった。なかなかおもしろかったので書店で探してみた。アル中ハイマーのすぐに感化される性格は直らない。
網野氏は、後醍醐天皇の存在が特異な役割を果たしたと考察している。建武の新政が、官司請負制の全面否定、官位相当制と家格の序列の破壊といった体制の全面否定であり、古代以来の議政官会議を解体し、執行機関を全て天皇直轄にした。こうした独裁政治を天皇がやろうとしたのはなぜか?
本書は、その流れを8世紀の律令国家体制までさかのぼり、日本の中世国家の体制を探る。そして、日本の中世国家には二つの体制があったことを物語る。9世紀以降の地方政策の変化と、中央政治機構の改編がいくつもの段階を経て、律令国家が徐々に変質解体していき、ついには王朝国家が生まれる。王朝国家の主柱を官司請負制とするならば、この制度が確立した12世紀前期をもって王朝国家の成立と見ることができる。これが一つ目の中世国家の型である。それから半世紀後、東国に武士政権の鎌倉幕府が誕生した。これが、二つ目の中世国家の型である。この二つの体制において、互いに権力統一への欲求が生じたことは想像に易い。建武の新政は、幕府が倒れた時に乗じた欲求の一つと言える。だが、後醍醐天皇の政権は短命に終わる。本書はこうした流れを精緻に論じている。専門的過ぎてアル中ハイマーには理解の難しい部分もあるが、教科書では味わえないコクのある領域へと導いてくれる。そして、以前からの疑問にたどり付く。天皇家を一王朝と捉えるならば、この時代に滅んでいても何の不思議もない。なぜ存続できたのか?本書では明言されていないが、天皇の象徴的立場の原型がこの時代に隠されていることを示唆している。ただ、本書は王朝国家が実権を失ったところで終えているところがおしい。ちょっとだけ勉強のためにメモっておこう。
1. 律令国家
日本の中世国家の前提は古代国家であり、その最終形態は律令国家体制である。本書は、律令政治を解明するには、天皇権とその行使形態を観察することであると主張する。行使形態とは、太政官の執行権である。太政官は天皇家と直接接触し法を施行する立場にあった。律令制太政官の原型は持統朝に形作られたが、本格的に制定されたのは8世紀初頭の大宝律令である。天皇の詔には必ず太政官が関与する。つまり、天皇、太政官いずれか一方の恣意による発布を防止する仕組みが確立されていた。9世紀になると律令制国家の維持は困難となる。10世紀には新しい王朝国家体制へと変貌する。律令制の危機は、地方の土地支配制度の行き詰まりに見ることができるという。それは、私的な大土地所有に対抗して、皇室領を急激に増大させようとするが、そこに反発が起こる。それを回避するために、荘園整理令を境に地方支配を、太政官から国司に委託する。いわば地方分権である。その結果、公領は減少していき、天皇家の私領を含めて、権門の私領荘園が増大する。
2. 王朝国家
9世紀に律令制中央機構の改革が行われる。この頃、蔵人所(くろうどどころ)と検非違使(けびいし)が登場する。これは、令制定後に新設された官職と言う意味で呼ばれる令外官の一つである。律令国家では太政官が最高の官庁であり、他のすべての官庁はその下に位置する。それに対して蔵人所と検非違使は、天皇直属の官庁である。この存在意義は、律令制の原則的な枠組を超えて、非常事態に天皇の意向を反映させるためのものである。蔵人所は権力を地方に伸ばし、11世紀には地方の貢納組織まで統轄する。検非違使は治安警察機関であり、全ての警察活動を手中にする。こうした動きは、その他の官庁にも影響を与え、天皇色を見せたり、官庁内に賄賂が横行したり、特定氏族による独占世襲など、官僚システムの腐敗が起きる。こうして、9世紀から11世紀にかけて行われた律令政治機構の改革には、新官庁の出現と旧官庁の統合という現象が現れた。短期的には、天皇直轄官庁の新設と太政官の統轄力の低下により、天皇権を強力にする。長期的には、律令官僚制の崩壊である。この期に、国司を始めとする地方氏族が勢力をつけ、新興領主層である武士集団が東国に政権をつくる。
3. 鎌倉幕府
流人である源頼朝に平家討伐の名分を与えたのが、以仁王(もちひとおう)の令旨である。頼朝は平家の擁する安徳帝を否定する。ここで頼朝の二つの政治行動の選択について言及している。一つは、平家を打倒し、安徳帝を廃して以仁王を帝位に就ける。二つは、以仁王を天皇とした東国に新国家を樹立しようとする板東独立論である。頼朝の意思は板東独立論ではない。王朝が頼朝に下した命は諸国守護である。守護地頭が設置されると、武家が全国的に権力を持つようになる。頼朝が得た守護権は、治安警察業務の独占的請負権である。これは、王朝国家で見られた官司請負権とそう変わりはないが、注目すべきは、部分的な権力ではなく、全国隅々に及んだ点である。当時、この強大な職権を頼朝という特定個人に与えたのである。また、武家社会が主従制を根幹にしていることも重要である。頼朝以外の者は王朝と直接接触できない。その後、征夷大将軍は源氏で占められることになる。徳川家康はこの地位にこだわって源氏を名乗った。ただ、頼朝勢力に反発的な地域には特別な制度をおいている。東北には奥州総奉行、九州には鎮西奉行。これらの地方勢力が後に自立することになる。
4. 執権政治
頼朝の急死から承久の乱までの20年は、鎌倉幕府の危機の連続である。頼家の失脚と暗殺、実朝の暗殺を代表とする数々の継承問題で内部紛争が渦巻く。これも王朝による外部の陰謀と、内部の政治操作が見え隠れする。歌人として有名な実朝の暗殺は、単なる後継者争いではなく、朝廷による陰謀であったという説は何かで読んだ覚えがある。実朝死後、後を継いだ藤原頼経が鎌倉に迎えられたのが幼年2歳。北条家の執権が幕府の実権を握る。将軍派と執権派の抗争が常につきまとい、北条一族の嫡流の争いや豪族間の確執も複雑に絡む。やがて執権派が優勢となる。これは、執権派が早くから政所に目をつけ、介入したことが大きいという。政所は、将軍家の牙城であり、衣食住の調達と管理、将軍直轄領の管理など、将軍家の内廷経済を管轄する巨大機関である。これを抑えられると骨抜きになる。御成敗式目の位置付けも、武士のための法令として一般的に教えられるが、執権の北条泰時が中心となっている点からも、北条家の権力拡大の道具とした側面が強いのではないかと思える。結果的に、北条氏の家系、特に得宗家は幕府要職を合理的に独占しているからである。
5. 建武の新政
建武の新政は二つの改革をしようとした。一つは、国司制度の改革であり、国務私領化の否定である。二つは、中央官庁の再編成であり、特定氏族の請負経営化の否定と独占世襲の否定である。しかし、武家の不満は北条家の独占政治であり、武家政治を否定したわけではない。公家の不満は、後醍醐天皇が皇子を鎌倉幕府打倒の功を理由に征夷大将軍を切望したことや、奥州や東国の人事に対するものである。また、地方の領主層では自立の気風が高まる。そして、建武の新政の発足半年にして、地方の領地支配を奥州幕府、関東幕府に実質委ねた。などなどの要因から後醍醐天皇の政権は短命に終わる。
6. 室町時代の役割
本書は、むすびで室町時代について少しだけ触れている。建武の新政が終わった時に天皇家が滅びてもなんの不思議はない。それを解明するためには室町時代を検討する必要がありそうだ。内政的には、律令政治の名残で、室町幕府が王朝権力を吸収した。天皇家が、王朝支配の牙城である京都の市政権を獲得しても、幕府の首長は将軍で武家の代表である限り、公家貴族層に対する身分支配の名分を得ることができない。外交的には、天皇家を国王と位置付けたのは足利義満の功績だろう。日本は明から見れば従属国である。明帝がいったん従属国の特定人物を国王と認めると、別人が国王の地位を冒すことはできない。明との交易が独占的に与えられるからである。こうして政治と経済の両面から天皇家の存続を許した形であるが、更に検討が必要であろうとむすぶ。実は、その更なる検討内容が本当は読みたかったのである。続編を探しにアマゾンの放浪の旅にでもでるか。
網野氏は、後醍醐天皇の存在が特異な役割を果たしたと考察している。建武の新政が、官司請負制の全面否定、官位相当制と家格の序列の破壊といった体制の全面否定であり、古代以来の議政官会議を解体し、執行機関を全て天皇直轄にした。こうした独裁政治を天皇がやろうとしたのはなぜか?
本書は、その流れを8世紀の律令国家体制までさかのぼり、日本の中世国家の体制を探る。そして、日本の中世国家には二つの体制があったことを物語る。9世紀以降の地方政策の変化と、中央政治機構の改編がいくつもの段階を経て、律令国家が徐々に変質解体していき、ついには王朝国家が生まれる。王朝国家の主柱を官司請負制とするならば、この制度が確立した12世紀前期をもって王朝国家の成立と見ることができる。これが一つ目の中世国家の型である。それから半世紀後、東国に武士政権の鎌倉幕府が誕生した。これが、二つ目の中世国家の型である。この二つの体制において、互いに権力統一への欲求が生じたことは想像に易い。建武の新政は、幕府が倒れた時に乗じた欲求の一つと言える。だが、後醍醐天皇の政権は短命に終わる。本書はこうした流れを精緻に論じている。専門的過ぎてアル中ハイマーには理解の難しい部分もあるが、教科書では味わえないコクのある領域へと導いてくれる。そして、以前からの疑問にたどり付く。天皇家を一王朝と捉えるならば、この時代に滅んでいても何の不思議もない。なぜ存続できたのか?本書では明言されていないが、天皇の象徴的立場の原型がこの時代に隠されていることを示唆している。ただ、本書は王朝国家が実権を失ったところで終えているところがおしい。ちょっとだけ勉強のためにメモっておこう。
1. 律令国家
日本の中世国家の前提は古代国家であり、その最終形態は律令国家体制である。本書は、律令政治を解明するには、天皇権とその行使形態を観察することであると主張する。行使形態とは、太政官の執行権である。太政官は天皇家と直接接触し法を施行する立場にあった。律令制太政官の原型は持統朝に形作られたが、本格的に制定されたのは8世紀初頭の大宝律令である。天皇の詔には必ず太政官が関与する。つまり、天皇、太政官いずれか一方の恣意による発布を防止する仕組みが確立されていた。9世紀になると律令制国家の維持は困難となる。10世紀には新しい王朝国家体制へと変貌する。律令制の危機は、地方の土地支配制度の行き詰まりに見ることができるという。それは、私的な大土地所有に対抗して、皇室領を急激に増大させようとするが、そこに反発が起こる。それを回避するために、荘園整理令を境に地方支配を、太政官から国司に委託する。いわば地方分権である。その結果、公領は減少していき、天皇家の私領を含めて、権門の私領荘園が増大する。
2. 王朝国家
9世紀に律令制中央機構の改革が行われる。この頃、蔵人所(くろうどどころ)と検非違使(けびいし)が登場する。これは、令制定後に新設された官職と言う意味で呼ばれる令外官の一つである。律令国家では太政官が最高の官庁であり、他のすべての官庁はその下に位置する。それに対して蔵人所と検非違使は、天皇直属の官庁である。この存在意義は、律令制の原則的な枠組を超えて、非常事態に天皇の意向を反映させるためのものである。蔵人所は権力を地方に伸ばし、11世紀には地方の貢納組織まで統轄する。検非違使は治安警察機関であり、全ての警察活動を手中にする。こうした動きは、その他の官庁にも影響を与え、天皇色を見せたり、官庁内に賄賂が横行したり、特定氏族による独占世襲など、官僚システムの腐敗が起きる。こうして、9世紀から11世紀にかけて行われた律令政治機構の改革には、新官庁の出現と旧官庁の統合という現象が現れた。短期的には、天皇直轄官庁の新設と太政官の統轄力の低下により、天皇権を強力にする。長期的には、律令官僚制の崩壊である。この期に、国司を始めとする地方氏族が勢力をつけ、新興領主層である武士集団が東国に政権をつくる。
3. 鎌倉幕府
流人である源頼朝に平家討伐の名分を与えたのが、以仁王(もちひとおう)の令旨である。頼朝は平家の擁する安徳帝を否定する。ここで頼朝の二つの政治行動の選択について言及している。一つは、平家を打倒し、安徳帝を廃して以仁王を帝位に就ける。二つは、以仁王を天皇とした東国に新国家を樹立しようとする板東独立論である。頼朝の意思は板東独立論ではない。王朝が頼朝に下した命は諸国守護である。守護地頭が設置されると、武家が全国的に権力を持つようになる。頼朝が得た守護権は、治安警察業務の独占的請負権である。これは、王朝国家で見られた官司請負権とそう変わりはないが、注目すべきは、部分的な権力ではなく、全国隅々に及んだ点である。当時、この強大な職権を頼朝という特定個人に与えたのである。また、武家社会が主従制を根幹にしていることも重要である。頼朝以外の者は王朝と直接接触できない。その後、征夷大将軍は源氏で占められることになる。徳川家康はこの地位にこだわって源氏を名乗った。ただ、頼朝勢力に反発的な地域には特別な制度をおいている。東北には奥州総奉行、九州には鎮西奉行。これらの地方勢力が後に自立することになる。
4. 執権政治
頼朝の急死から承久の乱までの20年は、鎌倉幕府の危機の連続である。頼家の失脚と暗殺、実朝の暗殺を代表とする数々の継承問題で内部紛争が渦巻く。これも王朝による外部の陰謀と、内部の政治操作が見え隠れする。歌人として有名な実朝の暗殺は、単なる後継者争いではなく、朝廷による陰謀であったという説は何かで読んだ覚えがある。実朝死後、後を継いだ藤原頼経が鎌倉に迎えられたのが幼年2歳。北条家の執権が幕府の実権を握る。将軍派と執権派の抗争が常につきまとい、北条一族の嫡流の争いや豪族間の確執も複雑に絡む。やがて執権派が優勢となる。これは、執権派が早くから政所に目をつけ、介入したことが大きいという。政所は、将軍家の牙城であり、衣食住の調達と管理、将軍直轄領の管理など、将軍家の内廷経済を管轄する巨大機関である。これを抑えられると骨抜きになる。御成敗式目の位置付けも、武士のための法令として一般的に教えられるが、執権の北条泰時が中心となっている点からも、北条家の権力拡大の道具とした側面が強いのではないかと思える。結果的に、北条氏の家系、特に得宗家は幕府要職を合理的に独占しているからである。
5. 建武の新政
建武の新政は二つの改革をしようとした。一つは、国司制度の改革であり、国務私領化の否定である。二つは、中央官庁の再編成であり、特定氏族の請負経営化の否定と独占世襲の否定である。しかし、武家の不満は北条家の独占政治であり、武家政治を否定したわけではない。公家の不満は、後醍醐天皇が皇子を鎌倉幕府打倒の功を理由に征夷大将軍を切望したことや、奥州や東国の人事に対するものである。また、地方の領主層では自立の気風が高まる。そして、建武の新政の発足半年にして、地方の領地支配を奥州幕府、関東幕府に実質委ねた。などなどの要因から後醍醐天皇の政権は短命に終わる。
6. 室町時代の役割
本書は、むすびで室町時代について少しだけ触れている。建武の新政が終わった時に天皇家が滅びてもなんの不思議はない。それを解明するためには室町時代を検討する必要がありそうだ。内政的には、律令政治の名残で、室町幕府が王朝権力を吸収した。天皇家が、王朝支配の牙城である京都の市政権を獲得しても、幕府の首長は将軍で武家の代表である限り、公家貴族層に対する身分支配の名分を得ることができない。外交的には、天皇家を国王と位置付けたのは足利義満の功績だろう。日本は明から見れば従属国である。明帝がいったん従属国の特定人物を国王と認めると、別人が国王の地位を冒すことはできない。明との交易が独占的に与えられるからである。こうして政治と経済の両面から天皇家の存続を許した形であるが、更に検討が必要であろうとむすぶ。実は、その更なる検討内容が本当は読みたかったのである。続編を探しにアマゾンの放浪の旅にでもでるか。
2008-03-16
"異形の王権" 網野善彦 著
本書は、前記事で扱った「日本の歴史をよみなおす(全)」の中でも紹介される。宣伝に乗せられてつい買ってしまった。アル中ハイマーの乗せられやすい性格は直らない。
本書は、前記事と同じく南北朝動乱期を大転換期として捉え、その始まる時期となった後醍醐天皇に焦点を合わせる。「異形の王権」とは、異形の人々を集めて新しい力をよびさました異色の天皇権力の意味である。異形の人々とは非人のことである。乞食、障害や病を持つ者、罪人などは、かつて聖なる者として扱われていた。それも、葬送、処刑、罪を犯した人の住居の破却など、穢れから清める仕事をしていたからである。しかし、この時代を境に非人は差別的様相を呈していく。そして、彼らの反発力を最大限利用し政権として確立したのが「建武の新政」であるという。本書は、こうした背景を後ろ盾にした後醍醐天皇の時代を傍観するとともに、著者独自の考察を加えたものである。中でも庶民の衣裳から社会風潮の変化を考察している点はおもしろい。著者は、歴史学がようやく、民俗学、民具学、宗教学などの諸学に対して開かれた姿勢を見せ始めたと語る。
アル中ハイマーは、昔からつまらない疑問を持っている。
歴史学と、社会学や政治学の違いはなんだろう?過去の事象を扱わずして現代が語れるのだろうか?現在の現象から10年後に起きる事象を予測することは難しい。だが、歴史は繰り返される。歴史学は単に結果論を主張しているに過ぎないのか?歴史の解釈にはいろいろとあって然るべきであろう。にも関わらず歴史学者は、過去の事象に対して結論付けている点があまりにも多すぎるように思える。本書は、多くの疑問の余地を残している。逆にこれぐらいの方が歴史に説得力を感じる。
1. 異形の衣裳
南北朝動乱期、異形の衣裳が爆発的に噴出したという。覆面姿、さまざまな頭巾の着用が流行し、庶民に至るまで多様なスタイルが登場する。女性も覆面や頭巾を付けて男性に混じって旅をするようになる。かぶき者もこの時代から現れる。鎌倉時代まで公家、武家、寺家が懸命に維持しようとしていた服装の禁忌は完全に崩れ去る。こうした文化風潮を「婆娑羅(ばさら)」の風と呼ぶ。本書は、婆娑羅の源流が非人の衣裳であるという。子供に対するイメージの変化も見てとれる。小童は自由で誰にも束縛されない。単に幼くて行動に責任がないというだけでなく、一種の神聖なものがあるという考えは伝統的にあったという。しかし、この時代に非人に近い存在となる。悪党、悪憎、悪童へと転化していく様がうかがえる。身体的条件からは、老人、琵琶法師、盲人も差別されていく。浮浪人、乞食人もしかり。弱者への軽蔑の認識が芽生える時代でもあったことを考察している。
2. 扇の魔力
扇で顔を隠すしぐさや女性が口元を袖口で覆うしぐさは、扇を持ち歩く階層に広く見られる光景である。ただ注目すべきは、こうした事例が大道や河原、寺院や道場の周辺、いわば公界の場で異常な事態を見なければならない場合のしぐさであるという。そのしぐさの意味は、悪霊に通ずる穢れが及ぶのを避ける行為であるのは明らかである。扇には呪力でもあったのだろうか?宗教的意味合いがあるのかもしれない。人間は、別世界の人間になることを願望として持っているのかもしれない。恐いもの見たさもこの心理に通ずるものを感じる。
3. 異形の力
非人騒動といわれた百姓一揆は、非人の衣裳をまとっていた。彼らは、自らを非人と名のってデモをする。非人の魔力とでも言うべきか、権力者に立ち向かう時に異様な威圧感を示したと想像できる。聖なるものの象徴として意識されていたのだろう。俗世間からは規制されない自由なものを、意味しているのかもしれない。しかし、この頃から異類異形は忌み嫌う存在へと意識が変わり、無縁の思想が生まれる。日本人には、どんな罪人であろうと、死んでしまえば罪人扱いしないという独特の風習がある。これも、なんとなく無縁の思想に通ずるものを感じる。こうした風習は外国人には理解されないだろう。おいらには、墓碑にまでも唾を吐きかける行為の方が理解できない。現在の日本でもグローバル化が進んでいるだろうから、そうした行為も見られるようになるのかもしれない。もし、そうなると少し寂しい。
4. 異形の王権
後醍醐天皇の存在が、否定的に捉えるか肯定的に捉えるかは議論の分かれるところだろう。ただ、特異な役割を果たした天皇であることは間違いない。建武の新政は、王朝国家の体制として定着していた官司請負制の全面否定、官位相当制と家格の序列の破壊、職の体系の全面否定であり、古代以来の議政官会議を解体し、執行機関を全て天皇直轄にした。これは、宋朝の君主独裁政治をモデルにしている。目的のためには手段を選ばず、観念的、独裁的、謀略的で、しかも不撓不屈。このあたりは佐藤進一氏の著作「日本の中世国家」を中心に語られる。早々、明日にでも本屋で購入することにしよう。
後醍醐天皇は異類異形といわれた悪党から非人までを軍事力として動員し、内裏の出入りまで許可した。この時代、まだ非人は差別の枠に押し込まれてはいないが、その方向への強い力が働いていただろうと語る。後醍醐天皇は、そうした差別への方向からの反発力を王権に利用したのではないか。また、社会と人間の奥底に潜む力を表に引き出すことによって、その立場を保とうとしたのではないか。などと考察する。こうした行動は後醍醐天皇の直面した危機によるものであるだろう。古代以来、天皇制で直面した最も深刻な危機がこの時代にあった。鎌倉幕府の成立、承久の乱での敗北後、天皇家の支配権は東国には及ばなくなる。蒙古来襲を契機に九州までも幕府の権力下に入る。一般的には、10世紀以降、摂関政治、院政と規定され、天皇不執政の時期と見るのが通説である。ただ、本書は、室町時代や江戸時代と同一視してはならないと主張する。天皇家、貴族、官人諸家の分裂、抗争が深く根付いた時代でもあり、天皇家の支配力が衰え始めたのは後醍醐天皇以降に顕著になったという。後醍醐天皇の行動は、そうした危機感への反発を含んでいたことだろう。そして、権威の誇示をはかったのではないか?と考察している。後醍醐天皇の王権もわずか3年で没落する。しかし、執念とも言うべき南朝を立てて、60年にもわたって南北朝動乱期となる。天皇の確実な権威が失われたと知った武士、商工民、百姓にいたる各層の人々の中から、自治的な一揆、自治都市、自治的な村落が成長してくる。こうした動きは、権力の分散を引き起こし、権力による統合を難しくする。人間関係においても計算高く利害関係が支配する風潮となっていく。こうした背景で貨幣の役割も大きくなる。この時代に、天皇の地位のあり方そのものに本質的変化があったと主張している。天皇の聖なる存在はこの時期に失われ、その復活は明治維新まで待たれることになる。歴史的に見れば、天皇家は単なる一つの王朝というだけで、とっくに滅んでいても不思議はない。神聖的なものとして扱われている意味は律令政治にさかのぼるのだろうが、だからといって存続する理由もない。では天皇制の意義とはなんだろう?権力と象徴の二重構造が日本の歴史を複雑にしているのは間違いないだろう。現在ではその意義も外交上変化しているだろう。歴史的意義とは変化していくものである。
本書は、確かな歴史認識の元に天皇制の有り方も考えなければならないと主張する。しかし、天皇制については各方面から政治力が働くため、学校教育はもちろん、評論家が力説しているような意見ではまともな情報を入手するのは難しい。政治家に至っては支持母体に従うだけで耳を傾ける価値もないだろう。冷静に研究がなされた古代史家の文献を読むのが一番であるが、過去の統治権力によって捻じ曲げられた可能性も大きい。もしかしたら、既に裏の政治力でまともな文献は抹殺されているかもしれない。こんな状況で天皇制を世論任せにするのは危険である。一般人が考えられるような土俵つくりが必要であるが、マスコミにその役目が果たせるだろうか?天皇の議論はタブー化された社会でもある。酔っ払いには傍観するしかない。
本書は、前記事と同じく南北朝動乱期を大転換期として捉え、その始まる時期となった後醍醐天皇に焦点を合わせる。「異形の王権」とは、異形の人々を集めて新しい力をよびさました異色の天皇権力の意味である。異形の人々とは非人のことである。乞食、障害や病を持つ者、罪人などは、かつて聖なる者として扱われていた。それも、葬送、処刑、罪を犯した人の住居の破却など、穢れから清める仕事をしていたからである。しかし、この時代を境に非人は差別的様相を呈していく。そして、彼らの反発力を最大限利用し政権として確立したのが「建武の新政」であるという。本書は、こうした背景を後ろ盾にした後醍醐天皇の時代を傍観するとともに、著者独自の考察を加えたものである。中でも庶民の衣裳から社会風潮の変化を考察している点はおもしろい。著者は、歴史学がようやく、民俗学、民具学、宗教学などの諸学に対して開かれた姿勢を見せ始めたと語る。
アル中ハイマーは、昔からつまらない疑問を持っている。
歴史学と、社会学や政治学の違いはなんだろう?過去の事象を扱わずして現代が語れるのだろうか?現在の現象から10年後に起きる事象を予測することは難しい。だが、歴史は繰り返される。歴史学は単に結果論を主張しているに過ぎないのか?歴史の解釈にはいろいろとあって然るべきであろう。にも関わらず歴史学者は、過去の事象に対して結論付けている点があまりにも多すぎるように思える。本書は、多くの疑問の余地を残している。逆にこれぐらいの方が歴史に説得力を感じる。
1. 異形の衣裳
南北朝動乱期、異形の衣裳が爆発的に噴出したという。覆面姿、さまざまな頭巾の着用が流行し、庶民に至るまで多様なスタイルが登場する。女性も覆面や頭巾を付けて男性に混じって旅をするようになる。かぶき者もこの時代から現れる。鎌倉時代まで公家、武家、寺家が懸命に維持しようとしていた服装の禁忌は完全に崩れ去る。こうした文化風潮を「婆娑羅(ばさら)」の風と呼ぶ。本書は、婆娑羅の源流が非人の衣裳であるという。子供に対するイメージの変化も見てとれる。小童は自由で誰にも束縛されない。単に幼くて行動に責任がないというだけでなく、一種の神聖なものがあるという考えは伝統的にあったという。しかし、この時代に非人に近い存在となる。悪党、悪憎、悪童へと転化していく様がうかがえる。身体的条件からは、老人、琵琶法師、盲人も差別されていく。浮浪人、乞食人もしかり。弱者への軽蔑の認識が芽生える時代でもあったことを考察している。
2. 扇の魔力
扇で顔を隠すしぐさや女性が口元を袖口で覆うしぐさは、扇を持ち歩く階層に広く見られる光景である。ただ注目すべきは、こうした事例が大道や河原、寺院や道場の周辺、いわば公界の場で異常な事態を見なければならない場合のしぐさであるという。そのしぐさの意味は、悪霊に通ずる穢れが及ぶのを避ける行為であるのは明らかである。扇には呪力でもあったのだろうか?宗教的意味合いがあるのかもしれない。人間は、別世界の人間になることを願望として持っているのかもしれない。恐いもの見たさもこの心理に通ずるものを感じる。
3. 異形の力
非人騒動といわれた百姓一揆は、非人の衣裳をまとっていた。彼らは、自らを非人と名のってデモをする。非人の魔力とでも言うべきか、権力者に立ち向かう時に異様な威圧感を示したと想像できる。聖なるものの象徴として意識されていたのだろう。俗世間からは規制されない自由なものを、意味しているのかもしれない。しかし、この頃から異類異形は忌み嫌う存在へと意識が変わり、無縁の思想が生まれる。日本人には、どんな罪人であろうと、死んでしまえば罪人扱いしないという独特の風習がある。これも、なんとなく無縁の思想に通ずるものを感じる。こうした風習は外国人には理解されないだろう。おいらには、墓碑にまでも唾を吐きかける行為の方が理解できない。現在の日本でもグローバル化が進んでいるだろうから、そうした行為も見られるようになるのかもしれない。もし、そうなると少し寂しい。
4. 異形の王権
後醍醐天皇の存在が、否定的に捉えるか肯定的に捉えるかは議論の分かれるところだろう。ただ、特異な役割を果たした天皇であることは間違いない。建武の新政は、王朝国家の体制として定着していた官司請負制の全面否定、官位相当制と家格の序列の破壊、職の体系の全面否定であり、古代以来の議政官会議を解体し、執行機関を全て天皇直轄にした。これは、宋朝の君主独裁政治をモデルにしている。目的のためには手段を選ばず、観念的、独裁的、謀略的で、しかも不撓不屈。このあたりは佐藤進一氏の著作「日本の中世国家」を中心に語られる。早々、明日にでも本屋で購入することにしよう。
後醍醐天皇は異類異形といわれた悪党から非人までを軍事力として動員し、内裏の出入りまで許可した。この時代、まだ非人は差別の枠に押し込まれてはいないが、その方向への強い力が働いていただろうと語る。後醍醐天皇は、そうした差別への方向からの反発力を王権に利用したのではないか。また、社会と人間の奥底に潜む力を表に引き出すことによって、その立場を保とうとしたのではないか。などと考察する。こうした行動は後醍醐天皇の直面した危機によるものであるだろう。古代以来、天皇制で直面した最も深刻な危機がこの時代にあった。鎌倉幕府の成立、承久の乱での敗北後、天皇家の支配権は東国には及ばなくなる。蒙古来襲を契機に九州までも幕府の権力下に入る。一般的には、10世紀以降、摂関政治、院政と規定され、天皇不執政の時期と見るのが通説である。ただ、本書は、室町時代や江戸時代と同一視してはならないと主張する。天皇家、貴族、官人諸家の分裂、抗争が深く根付いた時代でもあり、天皇家の支配力が衰え始めたのは後醍醐天皇以降に顕著になったという。後醍醐天皇の行動は、そうした危機感への反発を含んでいたことだろう。そして、権威の誇示をはかったのではないか?と考察している。後醍醐天皇の王権もわずか3年で没落する。しかし、執念とも言うべき南朝を立てて、60年にもわたって南北朝動乱期となる。天皇の確実な権威が失われたと知った武士、商工民、百姓にいたる各層の人々の中から、自治的な一揆、自治都市、自治的な村落が成長してくる。こうした動きは、権力の分散を引き起こし、権力による統合を難しくする。人間関係においても計算高く利害関係が支配する風潮となっていく。こうした背景で貨幣の役割も大きくなる。この時代に、天皇の地位のあり方そのものに本質的変化があったと主張している。天皇の聖なる存在はこの時期に失われ、その復活は明治維新まで待たれることになる。歴史的に見れば、天皇家は単なる一つの王朝というだけで、とっくに滅んでいても不思議はない。神聖的なものとして扱われている意味は律令政治にさかのぼるのだろうが、だからといって存続する理由もない。では天皇制の意義とはなんだろう?権力と象徴の二重構造が日本の歴史を複雑にしているのは間違いないだろう。現在ではその意義も外交上変化しているだろう。歴史的意義とは変化していくものである。
本書は、確かな歴史認識の元に天皇制の有り方も考えなければならないと主張する。しかし、天皇制については各方面から政治力が働くため、学校教育はもちろん、評論家が力説しているような意見ではまともな情報を入手するのは難しい。政治家に至っては支持母体に従うだけで耳を傾ける価値もないだろう。冷静に研究がなされた古代史家の文献を読むのが一番であるが、過去の統治権力によって捻じ曲げられた可能性も大きい。もしかしたら、既に裏の政治力でまともな文献は抹殺されているかもしれない。こんな状況で天皇制を世論任せにするのは危険である。一般人が考えられるような土俵つくりが必要であるが、マスコミにその役目が果たせるだろうか?天皇の議論はタブー化された社会でもある。酔っ払いには傍観するしかない。
2008-03-09
"日本の歴史をよみなおす(全)" 網野善彦 著
タイトルの(全)とは、なんだろう?と思ったら、「日本の歴史をよみなおす」と「続、日本の歴史をよみなおす」の2冊をまとめたものらしい。更に文庫本化されている。2倍でコンパクト!アル中ハイマーはなんとなく得した気分で幸せである。
本書が扱う時代は、13世紀から14世紀の南北朝動乱期。この時代は、現在の転換期と同じような大きな変化が起こり、この時代の考察は現在の社会を考える上でも意義深いと語られる。それは、社会や商業の形体、宗教の意識、差別感覚の発達などの変化である。ここで言う差別感覚とは、身分や階級ではなく非人の扱いである。そして、中世の日本社会が本当に農業社会であったのか?日本文化の持つ特有性は、島国であるがゆえの孤立国家により作り出せれたものなのか?という一般の歴史で語られてきたことに疑問を投げかける。歴史家の落とし穴は、もっぱら文献資料を扱うことにあるという。多くの歴史資料が国家制度の影響下にあり、それを率直に受け入れたことによって、多くのゆがんだ歴史像を提供していると指摘する。本書に感銘を受けたのは、民族学や考古学からも考察され、庶民の側から歴史を概観できるところである。日本社会には、建前と本音の二重構造が潜在する。その中で庶民の視点まで掘り下げた本質的な考察が難しいのも事実だろう。これは、歴史学に限らず経済学や社会学などにも言える。中世の日本というと、庶民は貧困に喘いでいたという印象があるが、本書は少々違った印象を与えてくれる。
1. 文字社会
中世における日本人の識字率は世界的に見ても恐ろしく高い。特に女性の識字率が高い。また、平仮名、片仮名、漢字の3種類の文字を使いこなす民族も珍しいだろう。平仮名や片仮名の混ざった文章が登場するのが10世紀頃、13世紀後半までは文書全体の20%ぐらいに仮名文字が混ざっていたが、室町時代の15世紀に入ると60%から70%へ跳ね上がったという。それも片仮名は少数派で平仮名の勢力が強い。公文書など堅苦しいものは片仮名で、読みやすく庶民文化に親しんだのが平仮名という傾向がある。女性が平仮名を多用したことから、女性文字と言わることもある。三島由紀夫著の「文章読本」でも「枕草子」「源氏物語」など、日本文学の源流が女流文学であると述べていたのを思い出す。中世から女性がすぐれた文学を生み出した民族も珍しいだろう。しかし、こうした女流文学が生まれたのは14世紀までだったという。この頃に、女性軽視の社会的意識が生まれたのだろうか?鎌倉、室町時代には、平仮名が男性社会にも普及する。こうした文字が普及した社会とは、何を意味するのだろうか?文字の普及とはその実用性と関係がある。文書が増えれば文章にも品がなくなる。こうして日本語は口語調に変化してきた。インターネット時代では、気軽に記事が公開できる分、言葉も荒れる。現在では、翻訳語の勢力も強い。おいらは翻訳語に犯されて、本筋の日本語を使いこなせない。識字率の高さは、文書を前提とした政治体制をつくる。これは世界の中でも特異な国家だという。政治家が自己主張するのに文書を棒読みする癖は文字社会の伝統かもしれない。行政も文書主義を厳格に実施し、口頭でものが動かない社会となる。ただ、共通認識を明文化できるという長所もある。日本人が語学を勉強する時、文法主義に陥るのも、こうした伝統があるからかもしれない。言葉を知らないと馬鹿にされるが、言葉の持つ意味を本質的に理解しているかは疑わしい。そもそも、全てを言葉で表現できると信じることに限界があるだろう。
2. 商業と金融
和同開珎が鋳造されたのが8世紀始め。当時は、貨幣というより一種の呪術的な意味をもっていたようだ。まだ、社会が貨幣を必要としていない。13世紀の後半から14世紀にかけて貨幣の流通が本格的に始まる。拝金主義もこの頃生まれたという。注目すべきは、流通した銭が、中国の宋銭、元銭、明銭だったという。当時の日本には、銅の産出も活発で鋳造技術もあった。にも関わらず支配者は銭を造ろうとはしなかった。後醍醐天皇が銭を造ろうとしたぐらいで、王朝も幕府もそういう発想を持たなかった。本書は、中世日本が市場社会を受け入れられない体質があったという。物々交換は贈与互酬の関係になり、人のつながりを深く結びつけ、特定の人間同士でしか交流しない。しかし、市場原理は無縁の人間の交流があって盛んになる。物と人も世俗の縁から切れて無縁となる。そう言えば、金融の場で利息という発想も不思議である。金融の起源を遡ると「出挙」に帰着する。出挙は稲作と結びついており、最初に獲れた初穂は神に捧げられ、神聖な蔵に貯蔵される。そして翌年、神聖な種籾として農民に貸し出される。収穫期が来ると、借りた種籾に若干の神へのお礼を付けて蔵に戻す。これが利息の始まりだという。金融行為そのものが神聖なものだったのである。こうした金融行為がしだいに、現代の感覚でも理解できる世俗的な性格を持ち始めたのが14世紀頃だという。
3. 鎌倉新仏教と非人
この時代に鎌倉新仏教という新しい宗派が登場する。本書は、海外でキリスト教が果たした役割を鎌倉新仏教が果たしたのではないかと考察している。贈与互酬を基本とする社会で、神仏との特異なつながりをもつ場、無縁の場を提供したのが鎌倉新仏教であるという。寺社の修造のための寄付金集めが神聖的に行われたのは想像がつく。鎌倉新仏教系の寺院が、祠堂銭を元に金融活動を行い、それで寺院を運営していた。しかし、16世紀に入るとキリスト教を含む新興宗教は大弾圧される。織田信長、豊臣秀吉、江戸幕府によって、宗教は独自の力を持つことができなかった。日本の支配者は、政治に対する宗教の影響の恐ろしさを認識していた。こうした宗教弾圧は、差別意識にも影響を与えたという。非人とは、なんらかの理由で平民の共同体の中に住めなくなった人である。そこには障害や病を持つ者、身寄りの無い者など、広義では犯罪人で放免になった者や川原者も含む。「身分外の身分」という位置付けが一般的なようだ。しかし、本書は職能民の面をもっていると語る。ただ、この主張は学界では市民権を得ていないらしい。なんとなく著者の愚痴が聞こえてきそうである。仕事は、葬送、処刑、罪を犯した人の住居の破却などで、「穢れから清める」という意味がある。よって、穢れを清める力をもっている神聖な側面もあるという。彼らは乞食になったりする。乞食は仏教では世を捨てた人の修行の一つで、乞食に物を施すことは、仏に対する功徳であると考える。乞食は仏の化身でもある。彼らには、職能から神仏に直属するという誇りもあったという。しかし、13世紀後半の文献「天狗草紙」では、非人を「穢多」という言葉で表し、明らかな差別語を用いる動きが現れた。この時代に、穢れに対する差別と、非人への救済という思想のぶつかり合いが始まった様がうかがえる。この頃、遊女も非人と同じ扱いを受けるようになる。浄土宗や一向宗、時宗にせよ、日蓮宗にせよ、また禅宗や律宗にせよ、いわゆる鎌倉新仏教は、悪人、非人、女性、穢れの問題に、正面から取り組もうとした。しかし、世俗の権力によって徹底的に弾圧される。そして、日本社会では、被差別部落、ヤクザ、遊女、博奕打に対する差別が定着していくことになると考察している。
4. 女性の身分
宣教師ルイス・フロイスが残したものにこんなものがあるらしい。
「日本の女性は処女を重んじない。夫婦の財産は別で時には妻が夫に高利で貸し付ける。離婚も不名誉ではなく再婚に支障を来たさない。夫に断らないで何日でも自由に外出できる。」
これには著者も驚いたようだ。日本の女性に対する偏見ではないのか?中世ヨーロッパの女性の地位が非常に低いことに比べれば、日本の女性は比較的強い立場に写ったというのが本当のところではないだろうか。しかし、本書はもう少し突っ込んだ考察を進める。明治維新頃の離婚率の高さから、江戸時代の離婚率の高さを推測できるという。幕府の法制から、離婚権は夫側にあったというのも実態とは違う可能性を指摘する。というのも、日本は極度に建前を気にする社会だからである。本書は、女性の貞操観はかなり後に確立されたのではないかと推測している。女性の識字率の高さから見ても教育レベルの高さが想像できる。「三くだり半」という言葉は、伝統的に使われた可能性もあるだろう。案外フリーセックスの時代だったのかもしれない。鎌倉時代では、御家人の名主に女性がなっている例も多いという。通説では女性がかなり虐げられていたことになっているが、女流文学が高度に発展していることとは、少々矛盾を感じる。著者は、こうした通説にはまだまだ研究の余地が残されていると述べている。日野富子は将軍の奥方でありながら、大名たちに多額の金を貸し、財を蓄積したと非難される。これも氷山の一角であり、彼女だけを悪女にするわけにはいかないだろうと語る。しかし、14世紀頃から女性の地位も失墜していったという。
5. 日本と天皇
天皇の称号が定着したのは推古天皇からと言われていたが、最近では律令の規定により持統天皇からというのが古代史家の間でも通説のようだ。日本という国名も、遣唐使の時から使われているようで、ほぼ同じ時期に確立したと思われる。ということは、聖徳太子は日本人じゃないのか?「日本」とは王朝でも地名でもない。「ひのもと」は中国からみて日の出の方向で、中国を意識した名称である。律令制が天命思想を前提としているのに対して、日本では独特の解釈がなされたという。天皇には、律令制の皇帝としての存在と神聖な王としての存在がある。家元制度や職能別の世襲制が固まっていき、その頂点に天皇家という世襲制がある。南北朝動乱時、天皇が権力を失いながらも、なぜ生き延びたのか?天皇家が一つの王朝であるならば、滅亡すれば別の王朝が誕生するだけのことである。日本には、無理やり天皇家を存続させて、権力だけ持ち回りしてきた歴史がある。神になろうとした織田信長がもう少し長生きしていたら、天皇家は滅ぼされていたかもしれない。この権力と象徴という二重構造が日本の歴史を複雑なものにしているように思える。歴史的にも、南北朝のどちらが本流かという議論がなされてきた。そこには政治支配者の思惑も絡む。万世一系というのも疑わしい。徳川家康だって源氏を名乗った。系譜をめぐった論争は、皇室への冒涜と批難され抹殺された歴史家も多いことだろう。
6. 百姓は農民?
封建社会では農業が生産の中心で百姓は農民である。これは日本人の社会観であろう。これは仕方がないことで、学校の教科書がそのように表現している。ある統計情報では秋田藩の人口は76.4%が農民である。しかし、別の資料では百姓が76.4%となっているものを紹介してくれる。他は武士と町人となっているから、ほとんど生産は農業だけということになる。しかし、実際の百姓は、農業はもちろん、製塩、製炭、山林、鉱山、廻船、金融など様々な産業が含まれる。歴史教科書には、水呑百姓は田畑が持てない貧乏な農民と記している。しかし、これは田畑が持てないのではなく、持つ必要のない百姓ということらしい。むしろ比較的豊かで別の産業を営んでいた石高のない人々である。しかも非農業民は少数派ではない。おもしろいことに、「百姓」という言葉はマスメディアの世界では差別語であり、記事には使えないそうだ。中国や韓国では百姓を普通の人と訳すらしい。確かに文字からして農民とする方がおかしい。租税制度そのものが水田を基盤にしているというのも誤解を招く。制度上の用語も農業主義的なものが多い。本書は、田畑を中心とした見方は、歴史を捻じ曲げると指摘する。おいらの認識も年貢というと米しか思いつかない。こうした教育が、土地に対する思い入れの強い民族に仕立てられるのかもしれない。ちなみに、おいらの国語辞典には百姓は農民。おまけに田舎の蔑称とも書いている。もはや国語辞典も信用できないのか?
本書を読み終わって、現在においても日本人が農業を軽視する傾向にあるのは、この時代に源流があるのではないかと思ってしまう。現在の食料自給自足率を極端に下げる傾向は、この時代からの名残とも言えなくもない。また、日本人が宗教への意識が低いのも、その源流が過去の大規模な宗教弾圧にあるのかもしれない。この時代は、銭貨の流通も活発になり、金融業も活発化し、信用経済が芽を出す。土木建築に資本が動き、資本主義的にもなりつつある。大規模な飢饉が起き始めたのも13世紀頃。ずっと昔にも小規模な飢饉が起きているが、この時代から大規模化していると指摘する。これも非農業化にともなう現象と捉えている。課税も土地に対する租税だけでなく、商工業者に対する課税も始まり税収も多様化する。こうした流れは、明治維新で台頭してきた、薩摩、長州、土佐、肥前など海上貿易の盛んだった藩へと受け継がれる。封建社会とは、領主による農民の支配が、基本構造であることを学校で教えられた。しかし、産業が多様化している中で、百姓、つまり一般の人々が、それほど隷属的に従うだろうか?百姓は、多様な社会を築き高度な知恵を持っていたことが想像できる。などなど、通説とは違った歴史が概観できるところがおもしろい。
本書が扱う時代は、13世紀から14世紀の南北朝動乱期。この時代は、現在の転換期と同じような大きな変化が起こり、この時代の考察は現在の社会を考える上でも意義深いと語られる。それは、社会や商業の形体、宗教の意識、差別感覚の発達などの変化である。ここで言う差別感覚とは、身分や階級ではなく非人の扱いである。そして、中世の日本社会が本当に農業社会であったのか?日本文化の持つ特有性は、島国であるがゆえの孤立国家により作り出せれたものなのか?という一般の歴史で語られてきたことに疑問を投げかける。歴史家の落とし穴は、もっぱら文献資料を扱うことにあるという。多くの歴史資料が国家制度の影響下にあり、それを率直に受け入れたことによって、多くのゆがんだ歴史像を提供していると指摘する。本書に感銘を受けたのは、民族学や考古学からも考察され、庶民の側から歴史を概観できるところである。日本社会には、建前と本音の二重構造が潜在する。その中で庶民の視点まで掘り下げた本質的な考察が難しいのも事実だろう。これは、歴史学に限らず経済学や社会学などにも言える。中世の日本というと、庶民は貧困に喘いでいたという印象があるが、本書は少々違った印象を与えてくれる。
1. 文字社会
中世における日本人の識字率は世界的に見ても恐ろしく高い。特に女性の識字率が高い。また、平仮名、片仮名、漢字の3種類の文字を使いこなす民族も珍しいだろう。平仮名や片仮名の混ざった文章が登場するのが10世紀頃、13世紀後半までは文書全体の20%ぐらいに仮名文字が混ざっていたが、室町時代の15世紀に入ると60%から70%へ跳ね上がったという。それも片仮名は少数派で平仮名の勢力が強い。公文書など堅苦しいものは片仮名で、読みやすく庶民文化に親しんだのが平仮名という傾向がある。女性が平仮名を多用したことから、女性文字と言わることもある。三島由紀夫著の「文章読本」でも「枕草子」「源氏物語」など、日本文学の源流が女流文学であると述べていたのを思い出す。中世から女性がすぐれた文学を生み出した民族も珍しいだろう。しかし、こうした女流文学が生まれたのは14世紀までだったという。この頃に、女性軽視の社会的意識が生まれたのだろうか?鎌倉、室町時代には、平仮名が男性社会にも普及する。こうした文字が普及した社会とは、何を意味するのだろうか?文字の普及とはその実用性と関係がある。文書が増えれば文章にも品がなくなる。こうして日本語は口語調に変化してきた。インターネット時代では、気軽に記事が公開できる分、言葉も荒れる。現在では、翻訳語の勢力も強い。おいらは翻訳語に犯されて、本筋の日本語を使いこなせない。識字率の高さは、文書を前提とした政治体制をつくる。これは世界の中でも特異な国家だという。政治家が自己主張するのに文書を棒読みする癖は文字社会の伝統かもしれない。行政も文書主義を厳格に実施し、口頭でものが動かない社会となる。ただ、共通認識を明文化できるという長所もある。日本人が語学を勉強する時、文法主義に陥るのも、こうした伝統があるからかもしれない。言葉を知らないと馬鹿にされるが、言葉の持つ意味を本質的に理解しているかは疑わしい。そもそも、全てを言葉で表現できると信じることに限界があるだろう。
2. 商業と金融
和同開珎が鋳造されたのが8世紀始め。当時は、貨幣というより一種の呪術的な意味をもっていたようだ。まだ、社会が貨幣を必要としていない。13世紀の後半から14世紀にかけて貨幣の流通が本格的に始まる。拝金主義もこの頃生まれたという。注目すべきは、流通した銭が、中国の宋銭、元銭、明銭だったという。当時の日本には、銅の産出も活発で鋳造技術もあった。にも関わらず支配者は銭を造ろうとはしなかった。後醍醐天皇が銭を造ろうとしたぐらいで、王朝も幕府もそういう発想を持たなかった。本書は、中世日本が市場社会を受け入れられない体質があったという。物々交換は贈与互酬の関係になり、人のつながりを深く結びつけ、特定の人間同士でしか交流しない。しかし、市場原理は無縁の人間の交流があって盛んになる。物と人も世俗の縁から切れて無縁となる。そう言えば、金融の場で利息という発想も不思議である。金融の起源を遡ると「出挙」に帰着する。出挙は稲作と結びついており、最初に獲れた初穂は神に捧げられ、神聖な蔵に貯蔵される。そして翌年、神聖な種籾として農民に貸し出される。収穫期が来ると、借りた種籾に若干の神へのお礼を付けて蔵に戻す。これが利息の始まりだという。金融行為そのものが神聖なものだったのである。こうした金融行為がしだいに、現代の感覚でも理解できる世俗的な性格を持ち始めたのが14世紀頃だという。
3. 鎌倉新仏教と非人
この時代に鎌倉新仏教という新しい宗派が登場する。本書は、海外でキリスト教が果たした役割を鎌倉新仏教が果たしたのではないかと考察している。贈与互酬を基本とする社会で、神仏との特異なつながりをもつ場、無縁の場を提供したのが鎌倉新仏教であるという。寺社の修造のための寄付金集めが神聖的に行われたのは想像がつく。鎌倉新仏教系の寺院が、祠堂銭を元に金融活動を行い、それで寺院を運営していた。しかし、16世紀に入るとキリスト教を含む新興宗教は大弾圧される。織田信長、豊臣秀吉、江戸幕府によって、宗教は独自の力を持つことができなかった。日本の支配者は、政治に対する宗教の影響の恐ろしさを認識していた。こうした宗教弾圧は、差別意識にも影響を与えたという。非人とは、なんらかの理由で平民の共同体の中に住めなくなった人である。そこには障害や病を持つ者、身寄りの無い者など、広義では犯罪人で放免になった者や川原者も含む。「身分外の身分」という位置付けが一般的なようだ。しかし、本書は職能民の面をもっていると語る。ただ、この主張は学界では市民権を得ていないらしい。なんとなく著者の愚痴が聞こえてきそうである。仕事は、葬送、処刑、罪を犯した人の住居の破却などで、「穢れから清める」という意味がある。よって、穢れを清める力をもっている神聖な側面もあるという。彼らは乞食になったりする。乞食は仏教では世を捨てた人の修行の一つで、乞食に物を施すことは、仏に対する功徳であると考える。乞食は仏の化身でもある。彼らには、職能から神仏に直属するという誇りもあったという。しかし、13世紀後半の文献「天狗草紙」では、非人を「穢多」という言葉で表し、明らかな差別語を用いる動きが現れた。この時代に、穢れに対する差別と、非人への救済という思想のぶつかり合いが始まった様がうかがえる。この頃、遊女も非人と同じ扱いを受けるようになる。浄土宗や一向宗、時宗にせよ、日蓮宗にせよ、また禅宗や律宗にせよ、いわゆる鎌倉新仏教は、悪人、非人、女性、穢れの問題に、正面から取り組もうとした。しかし、世俗の権力によって徹底的に弾圧される。そして、日本社会では、被差別部落、ヤクザ、遊女、博奕打に対する差別が定着していくことになると考察している。
4. 女性の身分
宣教師ルイス・フロイスが残したものにこんなものがあるらしい。
「日本の女性は処女を重んじない。夫婦の財産は別で時には妻が夫に高利で貸し付ける。離婚も不名誉ではなく再婚に支障を来たさない。夫に断らないで何日でも自由に外出できる。」
これには著者も驚いたようだ。日本の女性に対する偏見ではないのか?中世ヨーロッパの女性の地位が非常に低いことに比べれば、日本の女性は比較的強い立場に写ったというのが本当のところではないだろうか。しかし、本書はもう少し突っ込んだ考察を進める。明治維新頃の離婚率の高さから、江戸時代の離婚率の高さを推測できるという。幕府の法制から、離婚権は夫側にあったというのも実態とは違う可能性を指摘する。というのも、日本は極度に建前を気にする社会だからである。本書は、女性の貞操観はかなり後に確立されたのではないかと推測している。女性の識字率の高さから見ても教育レベルの高さが想像できる。「三くだり半」という言葉は、伝統的に使われた可能性もあるだろう。案外フリーセックスの時代だったのかもしれない。鎌倉時代では、御家人の名主に女性がなっている例も多いという。通説では女性がかなり虐げられていたことになっているが、女流文学が高度に発展していることとは、少々矛盾を感じる。著者は、こうした通説にはまだまだ研究の余地が残されていると述べている。日野富子は将軍の奥方でありながら、大名たちに多額の金を貸し、財を蓄積したと非難される。これも氷山の一角であり、彼女だけを悪女にするわけにはいかないだろうと語る。しかし、14世紀頃から女性の地位も失墜していったという。
5. 日本と天皇
天皇の称号が定着したのは推古天皇からと言われていたが、最近では律令の規定により持統天皇からというのが古代史家の間でも通説のようだ。日本という国名も、遣唐使の時から使われているようで、ほぼ同じ時期に確立したと思われる。ということは、聖徳太子は日本人じゃないのか?「日本」とは王朝でも地名でもない。「ひのもと」は中国からみて日の出の方向で、中国を意識した名称である。律令制が天命思想を前提としているのに対して、日本では独特の解釈がなされたという。天皇には、律令制の皇帝としての存在と神聖な王としての存在がある。家元制度や職能別の世襲制が固まっていき、その頂点に天皇家という世襲制がある。南北朝動乱時、天皇が権力を失いながらも、なぜ生き延びたのか?天皇家が一つの王朝であるならば、滅亡すれば別の王朝が誕生するだけのことである。日本には、無理やり天皇家を存続させて、権力だけ持ち回りしてきた歴史がある。神になろうとした織田信長がもう少し長生きしていたら、天皇家は滅ぼされていたかもしれない。この権力と象徴という二重構造が日本の歴史を複雑なものにしているように思える。歴史的にも、南北朝のどちらが本流かという議論がなされてきた。そこには政治支配者の思惑も絡む。万世一系というのも疑わしい。徳川家康だって源氏を名乗った。系譜をめぐった論争は、皇室への冒涜と批難され抹殺された歴史家も多いことだろう。
6. 百姓は農民?
封建社会では農業が生産の中心で百姓は農民である。これは日本人の社会観であろう。これは仕方がないことで、学校の教科書がそのように表現している。ある統計情報では秋田藩の人口は76.4%が農民である。しかし、別の資料では百姓が76.4%となっているものを紹介してくれる。他は武士と町人となっているから、ほとんど生産は農業だけということになる。しかし、実際の百姓は、農業はもちろん、製塩、製炭、山林、鉱山、廻船、金融など様々な産業が含まれる。歴史教科書には、水呑百姓は田畑が持てない貧乏な農民と記している。しかし、これは田畑が持てないのではなく、持つ必要のない百姓ということらしい。むしろ比較的豊かで別の産業を営んでいた石高のない人々である。しかも非農業民は少数派ではない。おもしろいことに、「百姓」という言葉はマスメディアの世界では差別語であり、記事には使えないそうだ。中国や韓国では百姓を普通の人と訳すらしい。確かに文字からして農民とする方がおかしい。租税制度そのものが水田を基盤にしているというのも誤解を招く。制度上の用語も農業主義的なものが多い。本書は、田畑を中心とした見方は、歴史を捻じ曲げると指摘する。おいらの認識も年貢というと米しか思いつかない。こうした教育が、土地に対する思い入れの強い民族に仕立てられるのかもしれない。ちなみに、おいらの国語辞典には百姓は農民。おまけに田舎の蔑称とも書いている。もはや国語辞典も信用できないのか?
本書を読み終わって、現在においても日本人が農業を軽視する傾向にあるのは、この時代に源流があるのではないかと思ってしまう。現在の食料自給自足率を極端に下げる傾向は、この時代からの名残とも言えなくもない。また、日本人が宗教への意識が低いのも、その源流が過去の大規模な宗教弾圧にあるのかもしれない。この時代は、銭貨の流通も活発になり、金融業も活発化し、信用経済が芽を出す。土木建築に資本が動き、資本主義的にもなりつつある。大規模な飢饉が起き始めたのも13世紀頃。ずっと昔にも小規模な飢饉が起きているが、この時代から大規模化していると指摘する。これも非農業化にともなう現象と捉えている。課税も土地に対する租税だけでなく、商工業者に対する課税も始まり税収も多様化する。こうした流れは、明治維新で台頭してきた、薩摩、長州、土佐、肥前など海上貿易の盛んだった藩へと受け継がれる。封建社会とは、領主による農民の支配が、基本構造であることを学校で教えられた。しかし、産業が多様化している中で、百姓、つまり一般の人々が、それほど隷属的に従うだろうか?百姓は、多様な社会を築き高度な知恵を持っていたことが想像できる。などなど、通説とは違った歴史が概観できるところがおもしろい。
2008-03-02
"近代ヤクザ肯定論" 宮崎学 著
前記事の「反転」では、元検事さんの本を読んだ。今度は、裏社会の立場の本を読んでみるのもおもしろそうだ。本書に興味を持ったのは著者の経歴である。父は伏見のヤクザ寺村組の親分。早大在学中は日本共産党のゲバルト部隊に属したとある。なんとなくド迫力の香りがする。ただ、意外なことに、社会学的に考察している点はおもしろい。歴史の面からも、日露戦争後、ブルジョアとプロレタリアの棲み分けがはっきりしていた時代から、戦後急速に民主化が進んだ時代を経て、バブルに至るまでを底辺社会の視点から概観できる。
戦後の名だたるヤクザは、被差別部落や在日コリアン、その他に島の出身者が多いという。瀬戸内の島々、奄美、沖縄、済州島など。また、教育レベルの低い者や障害者もいる。社会的弱者が生き延びるためには群れるしかない。こうした背景でヤクザの存在意義が語られる。中でも山口組は利益社会型としての先駆者であったという。三代目組長田岡一雄氏は、ヤクザが博奕で食っていく時代は終わったと断言し、組員が正業を持ち一般社会の中に入るべきであると説いている。また、柳川組の谷川康太郎氏の言葉は印象的である。
「何が善で何が悪だといえるのは、まだ余裕のある人間だ。ドストエフスキーの"罪と罰"なんて所詮インテリの精神的遊戯だ。そんなことで飢えた人間は満たされない。」
そこには、ヤクザしかなれない人がいる。麻薬密売でしか生きていけない人がいる。任侠や愛国とか言う前にそういう現実がある。彼らは右翼団体や政治団体とは一線を画す。本書の目的は、こうした世界があることを伝えることであると語る。そして、そこにヤクザという選択肢があったことに文句がつけられるだろうか?と問いかける。
アル中ハイマーには、善悪を超えた領域など想像もできない。ただ、ヤクザは、前科、出身、国籍、経歴をいっさい問わない唯一の集団なのかもしれない。そういえば、小学生の頃、同級生にヤクザの息子がいた。少々喧嘩早いところもあったが、まったく違和感がなく結構いい奴だったので一緒に遊んだりもした。中学生になる頃、既に上級生の子分を10人ほど引き連れていた。本人は以前のように気軽に話しかけてくるが、遠い存在であることを認識させられた。おいらはすぐに転校したから、あれからどうしているか知らない。当時住んでいた公団の横にヤクザの幹部か、あるいは組長の豪邸があった。同級生とは苗字が違うが親戚とか言っていたような気がする。その名も梶原さん。まさか本書に登場する人物とは関係ないだろうなあ。その豪邸には大勢の組員が出入りしていたが、お行儀の良い人達であった。ただ、大きなドーベルマンが数匹飼われていて近寄りがたかった。優しそうなおじさんが、よく背中の刺青を見せてくれたことに、幼少ながら面白がっていたのを思い出す。今思うと恐ろしい地域に住んでいたものだ。先日も発砲事件のニュースが流れていた。
1. 労働力供給業と芸能興行
海運業は、貨物取扱量の変動が季節的にも日々においても激しい。船会社や荷主は、経営コストを下げるために港湾運送業を直営にせず、下請業者にリスクを背負わせる。下請業者も、大手業者に直属して大口取引を独占したり、雇用する労働者を最小限に抑えたりして、リスクに対抗する。直属関係は縄張りを生み、荒らす者には暴力的な手段が取られる。労働者を最小限に抑えるために、日雇い労働者や臨時労働者で雇用調整する。いきなり船が入ってきた時は、即座に労働力を供給する必要もある。過酷な労働に人員を集めるには、前歴を問わず、荒くれ者や流れ者が多く、強い統率力なしでは運営できない。いつでも労働力をプールするには、底辺社会、裏社会とのルートをもつことが有利となる。これぞヤクザの真骨頂である。港湾荷役から労働供給者として独立したものの一つに山口組があった。日本の経済成長とともに、ヤクザは労働組織から必要に応じて自然発生したのである。また、吉本興業の用心棒をした関係からも芸能界にもつながる。大阪相撲の興行権も獲得する。芸能プロダクションが地方興行権を得るには、その縄張りにお伺いをたてなければならない。芸能人につきものの数々のトラブルを揉み消す役目もある。興行権といえばプロレス界もその典型である。興行権を手にすれば、芸能界も牛耳れるという構図である。山口組は労働力供給業と芸能興行の二つの事業で成長していく。
2. 利益社会型としてのイノベーション
労働現場で、親方・子方関係が支配していた時代があった。企業は現場の管理を直接できなかった。ところが高度成長期になると、技術革新による生産の合理化が進み、企業が現場の労働者をも直接掌握できるようなる。これを牽引したのが自動車産業である。代表的なものがフォード・システムである。自動車産業は購入部品など下請依存の高い産業であり、自社の系列化により下請企業群を直接従わせる。その延長上に日産のOES(Order Entry System)やトヨタのカンバン方式がある。変動的な人件費も同一規格にパッケージ化される。こうした流れは、様々な産業へと波及する。山口組が支配していた神戸湾の港湾荷役では、ベルトコンベヤー、クレーン、フォークリフトを導入する。下請業者がこうした機械に設備投資すると採算が合わない。そこでリース業者が生まれる。港湾においてはコンテナ化も進む。こうなるとヤクザが支配していた臨時の労働者供給が必要とされない。ヤクザの残された道は、企業化するか退散するかしかない。これは親方・子方制が解体されることを意味する。このような時期に山口組は土建業に進出し、タクシー業、生コンクリート運輸業などと関わりを持つ。一般企業にとって、トラブル処理は、ヤクザの使い道として重宝される。ゼネコンで雇われた多くの中に荒くれ者や流れ者が含まれるのは普通であり、彼らのトラブルを親会社が処理していてはコストがかかる。むしろ、お守り料としてヤクザに裏金を還流した方が安上がりである。また、企業社会の負のサービス業として民事介入暴力で活動する。総会屋、会社ゴロ、金融者、整理屋、示談屋、取立屋、パクリ屋、サルベージ屋、アパート屋などで、紛争介入の手数料を稼ぐ。こうした利益社会に順応していったヤクザは山口組だけだったという。
3. 同和利権の誕生
行政の行動様式は、事なかれ主義の官僚体質が支配的である。名指しで糾弾されたり、デモや街宣車から、管理能力を問われると震え上がる。彼らは、差別糾弾という看板を掲げて強面のヤクザが乗り込んでくると迎合的になる。これが解放運動や同和団体と称するヤクザとの癒着を生み、同和利権が誕生することになったという。同和対策の関係官庁は、自治省(現在の総務省)である。当時、この中央官庁から都道府県に副知事として下っていき、その後知事となるケースも多い。そういう人物に同和対策室経験者が非常に多いという。暴露本では、同和関係の大物政治家を実名で紹介しているものもある。いわゆるエセ同和である。
4. 権力の手先と反権力の闘争集団
国家権力の正統性を普遍化するには、暴力の独占と法の支配が必然である。ただ、実際はそこまで徹底することはできない。経済活動に閉塞感が生まれるのもよくない。資本主義には、ある程度ヤクザが存立できる余地が残されていたようだ。国家権力からみて一元的な管理の下に従っているヤクザは存続が認められ、逆らうものは潰される。民主化運動や冷戦構造の中で沸き起こった共産主義者による武装闘争においてもヤクザは活躍する。戦後の警察力だけでは統治できない混沌とした時代には、地方の隅々まで把握したヤクザの存在は大きかった。政治思想に感化されたヤクザもいる。右翼団体や共産主義の中にも存在する。政治介入すれば、国家権力が脅しにかかる。あまり締め付けるとヤクザも反抗する。国家権力とヤクザの互いの脅し合いでバランスされる。こうした時代に、山口組は、政治色の弱いヤクザであったことが、うまく共存できた理由の一つであると語る。暴力団全国一斉取締キャンペーンで警視庁が本腰を上げた時、数々のヤクザ組織が潰されたが、山口組は潰れなかった。これは、水面下で兵庫県警と山口組が癒着しているからであるという。ただ、それだけではない。田岡氏は従来型の山口組は解体するつもりであったという。そもそも全国制覇の進展で山口組は大きくなり過ぎた。大組織になると愚か者も出てくる。少数精鋭にしなければならないと語っていたらしい。少数精鋭で経営効率を向上させ、一時的に縮小しても、更に巨大化して発展する企業も多い。山口組もその一例となる。警察のキャンペーンは、資金源を断ちヤクザを産業から放逐した。しかし、中小ヤクザを壊滅させただけで、むしろ寡占化を促進させた結果になったという。バブル期においても経済の裏側でヤクザが活躍したことは容易に想像がつく。大企業や金融機関が、ヤクザを存分に利用して巨利を得ようとしなければ、バブルは起きなかったかもしれないとさえ語る。政官財の中枢を担うパワーエリート達が陰の財テクに励む。そうしたダーティな部分にヤクザは入り込む。どちらもヤクザであることに違いはない。
5. ヤクザの存在意義
警察の頂上作戦によってヤクザは解体されていった。ヤクザの人員減少は警察も胸を張る。しかし、ヤクザを辞めた人間はいったいどこへ行ったのだろう?結局、社会の隙間に潜り込んでしまい、以前とは区別がつかないところで犯罪をする。むしろ犯罪は巧妙となり、悪戯な詐欺行為が散乱する。統制が取れていたヤクザ組織とどちらが良かったのだろうか?答えを出すのは難しい。人間社会が複雑化する限り、ある確率で犯罪は存在し続けるだろう。下層社会が拡大すれば尚更である。現在では格差社会と言われている。フリーター化、人材派遣化していく様も近代ヤクザの傾向であるという。表向きクリーンでも、その実態はヤクザである企業はますます増える。更に、グローバル化の波も押し寄せる。資本や労働が有利な方向へと移動しやすくなり、経済国境もなくなる。日本にも世界レベルの格差社会が到来するかもしれない。そうなると、新ヤクザ構想もグローバル化するのだろうか?
戦後の名だたるヤクザは、被差別部落や在日コリアン、その他に島の出身者が多いという。瀬戸内の島々、奄美、沖縄、済州島など。また、教育レベルの低い者や障害者もいる。社会的弱者が生き延びるためには群れるしかない。こうした背景でヤクザの存在意義が語られる。中でも山口組は利益社会型としての先駆者であったという。三代目組長田岡一雄氏は、ヤクザが博奕で食っていく時代は終わったと断言し、組員が正業を持ち一般社会の中に入るべきであると説いている。また、柳川組の谷川康太郎氏の言葉は印象的である。
「何が善で何が悪だといえるのは、まだ余裕のある人間だ。ドストエフスキーの"罪と罰"なんて所詮インテリの精神的遊戯だ。そんなことで飢えた人間は満たされない。」
そこには、ヤクザしかなれない人がいる。麻薬密売でしか生きていけない人がいる。任侠や愛国とか言う前にそういう現実がある。彼らは右翼団体や政治団体とは一線を画す。本書の目的は、こうした世界があることを伝えることであると語る。そして、そこにヤクザという選択肢があったことに文句がつけられるだろうか?と問いかける。
アル中ハイマーには、善悪を超えた領域など想像もできない。ただ、ヤクザは、前科、出身、国籍、経歴をいっさい問わない唯一の集団なのかもしれない。そういえば、小学生の頃、同級生にヤクザの息子がいた。少々喧嘩早いところもあったが、まったく違和感がなく結構いい奴だったので一緒に遊んだりもした。中学生になる頃、既に上級生の子分を10人ほど引き連れていた。本人は以前のように気軽に話しかけてくるが、遠い存在であることを認識させられた。おいらはすぐに転校したから、あれからどうしているか知らない。当時住んでいた公団の横にヤクザの幹部か、あるいは組長の豪邸があった。同級生とは苗字が違うが親戚とか言っていたような気がする。その名も梶原さん。まさか本書に登場する人物とは関係ないだろうなあ。その豪邸には大勢の組員が出入りしていたが、お行儀の良い人達であった。ただ、大きなドーベルマンが数匹飼われていて近寄りがたかった。優しそうなおじさんが、よく背中の刺青を見せてくれたことに、幼少ながら面白がっていたのを思い出す。今思うと恐ろしい地域に住んでいたものだ。先日も発砲事件のニュースが流れていた。
1. 労働力供給業と芸能興行
海運業は、貨物取扱量の変動が季節的にも日々においても激しい。船会社や荷主は、経営コストを下げるために港湾運送業を直営にせず、下請業者にリスクを背負わせる。下請業者も、大手業者に直属して大口取引を独占したり、雇用する労働者を最小限に抑えたりして、リスクに対抗する。直属関係は縄張りを生み、荒らす者には暴力的な手段が取られる。労働者を最小限に抑えるために、日雇い労働者や臨時労働者で雇用調整する。いきなり船が入ってきた時は、即座に労働力を供給する必要もある。過酷な労働に人員を集めるには、前歴を問わず、荒くれ者や流れ者が多く、強い統率力なしでは運営できない。いつでも労働力をプールするには、底辺社会、裏社会とのルートをもつことが有利となる。これぞヤクザの真骨頂である。港湾荷役から労働供給者として独立したものの一つに山口組があった。日本の経済成長とともに、ヤクザは労働組織から必要に応じて自然発生したのである。また、吉本興業の用心棒をした関係からも芸能界にもつながる。大阪相撲の興行権も獲得する。芸能プロダクションが地方興行権を得るには、その縄張りにお伺いをたてなければならない。芸能人につきものの数々のトラブルを揉み消す役目もある。興行権といえばプロレス界もその典型である。興行権を手にすれば、芸能界も牛耳れるという構図である。山口組は労働力供給業と芸能興行の二つの事業で成長していく。
2. 利益社会型としてのイノベーション
労働現場で、親方・子方関係が支配していた時代があった。企業は現場の管理を直接できなかった。ところが高度成長期になると、技術革新による生産の合理化が進み、企業が現場の労働者をも直接掌握できるようなる。これを牽引したのが自動車産業である。代表的なものがフォード・システムである。自動車産業は購入部品など下請依存の高い産業であり、自社の系列化により下請企業群を直接従わせる。その延長上に日産のOES(Order Entry System)やトヨタのカンバン方式がある。変動的な人件費も同一規格にパッケージ化される。こうした流れは、様々な産業へと波及する。山口組が支配していた神戸湾の港湾荷役では、ベルトコンベヤー、クレーン、フォークリフトを導入する。下請業者がこうした機械に設備投資すると採算が合わない。そこでリース業者が生まれる。港湾においてはコンテナ化も進む。こうなるとヤクザが支配していた臨時の労働者供給が必要とされない。ヤクザの残された道は、企業化するか退散するかしかない。これは親方・子方制が解体されることを意味する。このような時期に山口組は土建業に進出し、タクシー業、生コンクリート運輸業などと関わりを持つ。一般企業にとって、トラブル処理は、ヤクザの使い道として重宝される。ゼネコンで雇われた多くの中に荒くれ者や流れ者が含まれるのは普通であり、彼らのトラブルを親会社が処理していてはコストがかかる。むしろ、お守り料としてヤクザに裏金を還流した方が安上がりである。また、企業社会の負のサービス業として民事介入暴力で活動する。総会屋、会社ゴロ、金融者、整理屋、示談屋、取立屋、パクリ屋、サルベージ屋、アパート屋などで、紛争介入の手数料を稼ぐ。こうした利益社会に順応していったヤクザは山口組だけだったという。
3. 同和利権の誕生
行政の行動様式は、事なかれ主義の官僚体質が支配的である。名指しで糾弾されたり、デモや街宣車から、管理能力を問われると震え上がる。彼らは、差別糾弾という看板を掲げて強面のヤクザが乗り込んでくると迎合的になる。これが解放運動や同和団体と称するヤクザとの癒着を生み、同和利権が誕生することになったという。同和対策の関係官庁は、自治省(現在の総務省)である。当時、この中央官庁から都道府県に副知事として下っていき、その後知事となるケースも多い。そういう人物に同和対策室経験者が非常に多いという。暴露本では、同和関係の大物政治家を実名で紹介しているものもある。いわゆるエセ同和である。
4. 権力の手先と反権力の闘争集団
国家権力の正統性を普遍化するには、暴力の独占と法の支配が必然である。ただ、実際はそこまで徹底することはできない。経済活動に閉塞感が生まれるのもよくない。資本主義には、ある程度ヤクザが存立できる余地が残されていたようだ。国家権力からみて一元的な管理の下に従っているヤクザは存続が認められ、逆らうものは潰される。民主化運動や冷戦構造の中で沸き起こった共産主義者による武装闘争においてもヤクザは活躍する。戦後の警察力だけでは統治できない混沌とした時代には、地方の隅々まで把握したヤクザの存在は大きかった。政治思想に感化されたヤクザもいる。右翼団体や共産主義の中にも存在する。政治介入すれば、国家権力が脅しにかかる。あまり締め付けるとヤクザも反抗する。国家権力とヤクザの互いの脅し合いでバランスされる。こうした時代に、山口組は、政治色の弱いヤクザであったことが、うまく共存できた理由の一つであると語る。暴力団全国一斉取締キャンペーンで警視庁が本腰を上げた時、数々のヤクザ組織が潰されたが、山口組は潰れなかった。これは、水面下で兵庫県警と山口組が癒着しているからであるという。ただ、それだけではない。田岡氏は従来型の山口組は解体するつもりであったという。そもそも全国制覇の進展で山口組は大きくなり過ぎた。大組織になると愚か者も出てくる。少数精鋭にしなければならないと語っていたらしい。少数精鋭で経営効率を向上させ、一時的に縮小しても、更に巨大化して発展する企業も多い。山口組もその一例となる。警察のキャンペーンは、資金源を断ちヤクザを産業から放逐した。しかし、中小ヤクザを壊滅させただけで、むしろ寡占化を促進させた結果になったという。バブル期においても経済の裏側でヤクザが活躍したことは容易に想像がつく。大企業や金融機関が、ヤクザを存分に利用して巨利を得ようとしなければ、バブルは起きなかったかもしれないとさえ語る。政官財の中枢を担うパワーエリート達が陰の財テクに励む。そうしたダーティな部分にヤクザは入り込む。どちらもヤクザであることに違いはない。
5. ヤクザの存在意義
警察の頂上作戦によってヤクザは解体されていった。ヤクザの人員減少は警察も胸を張る。しかし、ヤクザを辞めた人間はいったいどこへ行ったのだろう?結局、社会の隙間に潜り込んでしまい、以前とは区別がつかないところで犯罪をする。むしろ犯罪は巧妙となり、悪戯な詐欺行為が散乱する。統制が取れていたヤクザ組織とどちらが良かったのだろうか?答えを出すのは難しい。人間社会が複雑化する限り、ある確率で犯罪は存在し続けるだろう。下層社会が拡大すれば尚更である。現在では格差社会と言われている。フリーター化、人材派遣化していく様も近代ヤクザの傾向であるという。表向きクリーンでも、その実態はヤクザである企業はますます増える。更に、グローバル化の波も押し寄せる。資本や労働が有利な方向へと移動しやすくなり、経済国境もなくなる。日本にも世界レベルの格差社会が到来するかもしれない。そうなると、新ヤクザ構想もグローバル化するのだろうか?
2008-02-24
"反転 闇社会の守護神と呼ばれて" 田中森一 著
アル中ハイマーは特捜と言えば国策捜査を思い出す。その手の本の中毒なのかもしれない。ただ、本書も、検察の基本方針はそもそも国策であると断言しているからおもろい。
著者は、元特捜部検事で弁護士に転向した、いわゆるヤメ検弁護士である。極貧家庭で育ちバブル時代を生きた著者は、特捜時代にはエース検事と呼ばれ、数々の事件で政界の汚職を暴こうとした。しかし、上層部の圧力で潰され検事人生に虚しさを感じ弁護士に転向する。その手腕を買って当然のごとく裏社会の実力者が近づく。そして、7億円のヘリコプターを購入するなど豪華な生活を手にした。しかし、順風満帆の中、古巣の特捜部に目をつけられ懲役三年の実刑を受ける。
本書は、著者の人生観とバブル時代を回想した告白本である。そこには、検察内部の暴露、国会議員、官僚、ヤクザ、地上げ屋、芸能人などが実名で登場するからおもろい。結構分厚く文字もぎっしり詰まっているが、文章のリズムが合うのか?つい一気に読んでしまう。一流の検事らしく論理思考に長けているかと思えば、人情溢れる話も多い。
1. 赤レンガ派と現場捜査派
検事の種類には、赤レンガ派と現場捜査派の二種類があるという。赤レンガ派とは、法務省旧舘の赤レンガの建物を指し、法務省の勤務経験が長い法務官僚のことである。東大法学部卒のエリート官僚や閨閥を後ろ盾にしている検事がこれであり出世が約束されている。赤レンガ派は事情聴取ひとつとっても優遇され、参考人程度の取り調べしかやらない、というより、それしかできないのが大半だという。にも関わらず最近の検察トップはこの赤レンガ派の連中で占めらる傾向にあるらしい。かたや現場捜査派が検事総長まで昇り詰めるのは、ごく稀ではあるが中にはいるようだ。特捜部は憧れの部署であり入るのも難しい。多くの現場捜査派のたたき上げ検事は、せいぜい地検の検事正どまりであり、その前に退官するケースも多い。こういう人達が、刑事事件に強いとされるヤメ検弁護士となるようだ。多くの現場捜査検事は、検察庁の徒弟制度の壁に悩むという。検察キャリアと呼ばれる人達は、クビをかけた博打のような取り調べはやらない。あえて危険を冒してまで供述を取ろうとはしない。失敗さえしなければ自然と出世できるからである。そこが現場捜査派で、たたき上げの人間とは違うところだと語る。役所は複雑に利害が絡み合っているため、それが捜査の弊害になることも少なくないことは想像に易い。省庁は予算を握っているところが圧倒的に強い。旧大蔵省や財務省が中央官庁の最高位に位置し大きな顔をする。検察庁も大蔵官僚には弱くなかなか捜査に踏み込めない。同様に大阪府警の予算を握っている大阪府庁はなかなか摘発できない。そこで大阪地検がその任を担う。地方の検察庁も似たような構図で成り立っているようだ。検察庁と言っても、所詮行政の一機関であり、捜査では縦割りの弊害に苦しむと語られる。
2. 商人の街と政治の街
警視庁は天国、大阪府警は地獄だと語る。大阪府警は職人かたぎの警察官が多く、警視庁はスマート。大阪府警は、ある程度容疑を自白させてから検察庁に預ける。この良し悪しはあるだろうが、これが行き過ぎた取り調べとなり暴力に発展することもある。大阪では、土地柄から経済中心で社会が動く。そこには役所や暴力団などが複雑に絡む。人種問題もあり、同和団体、在日韓国人、朝鮮人も多く、その影響力も強い。大阪は、犯罪頻度や悪質度からしてもタフな土地柄のようだ。大阪府警の幹部達はこんな愚痴をこぼす。
「ヤクザや在日の連中は、まだ片言でも日本語が喋れるだけましや。同和の連中は日本語さえ通用せえへんのやから。ただ暴れるだけや!」
実際、同和団体の若者が糾弾と称して税務署に大勢押しかけ、机を引っくり返したり、職員の胸ぐらをつかんだりといった乱暴が少なくないらしい。人種差別と称してやりたい放題で、これにマスコミも便乗するから被害者意識は助長される。そう言えば、某外国人ジャーナリストの著書で同和問題を楯にした国会議員を列挙したものを思い出す。この分野はタブー化されている。おいらも、出身地からして同和教育を受けた。部落出身者は悲惨な人生を送っている。ろくな教育も受けていないので、社会からやっかいな仕事を押し付けられる。仕方なくヤクザになる者も少なくない。いつの時代も弱い者が損をする。彼らを利用した政治活動などは卑劣極まりない。
一方、東京地検特捜部では、尋問もしていない上役の検事が事実関係に手を加えることもあるという。よく検事調書は作文であると言われる。最初から筋書きを組み立てて、いざ政界に踏み込むとなると寸止めで解決することになる。この点では、大阪流のたたき上げ検事は慣習に従わないプライドがあるようだ。しかし、所詮一検事の力ではどうにもならない。いよいよ政界へ喰い込めると思った時「天の声が下る」。これがエリートの生き方であると語られる。どこにでも見えない敵が潜む。それは内なる敵であり出世欲により支配される。著者は、単身赴任中に、浮気してるという嫌がさせの電話を奥さんにされたという。こうした話は、外務省の暴露本でも良く耳にする。高級官僚は精神的には暇なのかもしれない。エリートほど、たわいも無いことで揉めることが好きなようだ。
3. ヤクザの習性
ヤクザは所詮ヤクザであると語られる。物事を強引に押し通し世間から忌み嫌われる。しかし、物事の道理が本当にわかっていたら、ヤクザなんかにはならない。物心ついた時には、父親に博打場へ連れられる。そうやって育った人間は心底博打が悪いとは思わない。極貧の家に育ち、子供の頃からカツアゲで自活していた人間は、恐喝、タカリは生きる術に過ぎない。子供の頃から喧嘩に明け暮れた人間は、暴力を悪だとは思わない。仲間がやられれば復讐するのが道義である。世間とは、ものさしが違うだけのことである。育った環境から既に、ヤクザ稼業として食っていくしか考えられない人間になっている。言葉は悪いが、生まれながらの犯罪者という人達が現実にいる。犯罪者には若い頃から苦労した者も多いようだ。その結果、欲望をむき出しのケダモノや極悪非道になる者もいれば、苦労の挙句、世間よりもはるかに人間的に洗練される者もいる。著者が検事をやっている時は、徹底的に悪を叩きのめすことだけ考えていたようだが、事件の原因を考えると、根っ子の弱い人間ほど犯罪に走ることに、虚しさを感じている様が伝わる。国会議員にも性質が悪い人間も少なくない。ちやほやされる分ある意味でヤクザより性質が悪い。総理の親戚の悪事を揉み消すための姑息な手段や、覚醒剤中毒の治療までやったという。よくテレビ出演し大臣にもなった人間が借金から逃げ回り、土下座して回るほどのお調子者で、挙句の果てに逮捕される話などは笑い話でしかない。
博打といえば、おいらの親父は博打好きである。競輪、競馬、オートにボート。パチンコはプロ級と自負。運転免許を持たない親父は、こともあろうにおふくろにボート場まで運転させ、駐車場で待たせていたこともあった。幼少のおいらは、その駐車場の隅から、微かに見えるボートを遠目で覗いていた記憶がある。サラ金に手を出すわ。消費者金融と称するようになってカードローンもお得意様。外面が良いだけに親戚の受けもいいから余計に頭にくる。その反動でおいらは無愛想で変わり者扱いだ。里帰りする度に親父と衝突したものだ。親父は、おいらをケチで金の亡者と思っている。どっちが金の亡者か?頭がおかしくなる。両親が離婚しないでいるのは不思議でしょうがない。夫婦というのは奥が深いもののようだ。ただ、おふくろは、今も当時の証文を内緒で大事に保管している。お陰で、おいらは麻雀というゲームは好きだが、ギャンブルは一切やらない。しかし、DNAは恐ろしいもので誤魔化せない。その分人生の博打をやっている。
4. バブル時代
バブルの代表格は株式投資であろう。著者は、検察時代から投資の勉強で株にも手を出したらしい。なんとなく博打ともイカサマともつかない世界のように思えたという。女遊びで高価な靴や時計のプレゼントに消えた。駆け出しの女優など、トンマな足長おじさんをやっていたという。株式投資でも凄腕のようだ。おいらも経済学を勉強のために株式投資をしているが、なにしろスケールが違う。儲けた額も、損した額も身を滅ぼすほどである。こういう話を聞くと、おいらもくだらない記憶が蘇る。かつて、ある女性から「ハイヒールを忘れたから買っといて!」というメールを受けた。さっそく、おいらは夜の社交場近くのヒール店に一人で恥ずかしそうに入る。どれを選んでよいかわからないので悩んでいると店員が近づく。「これなど、いかがでしょう!今人気がありますよ!」おいらは、その場を逃げだしたかったが、いちおう色の好みだけは伝える。そして、「すぐに使うから包まなくていいよ!」って言うと、店員から「お客さんが履かれるんですか?」と止めを刺される。ちなみに、おいらに女装の趣味はない。
ここで、印象の残った文章があったので、そのまま引用する。
「人間社会には汚い世界がある。必然的にドブを生む。犯罪者は、そうしたドブのエキスを吸いながら罪を犯す。検事を含め法曹界におけるわれわれの仕事は、所詮ドブ掃除に過ぎない。正義を振り立て、人をリードする仕事ではない。人間のやったことを後始末するだけだ。それも人間のいちばん汚い部分の後始末である。検事や弁護士のバッチを光らせて傲慢な顔で闊歩するほどの仕事ではない。」
著者は犯罪者の複雑な家庭や貧乏に喘いだ環境から、ある程度擁護した優しさを持っているようだ。ヤクザの親分が半端な苦労をしていないことや、在日韓国人が差別を受けて悲惨な状況から這い上がってきた人生を擁護している。そして、著者自身が、あまりにも社会環境に同情しすぎたと語る。ヤクザの親分がいくら人間的に洗練されているからといって、その子分が極悪非道では擁護できるはずもない。一人の人間をどの部分に光を当てるかで人の評価も変わってくる。本書は、闇の暴露本に留まらず、説得力ある人生観を披露している。おいらも自分の生立ちを、このぐらいの文章で綴れると格好がつくのだが、とても太刀打ちできない。せいぜい酒を飲んでブチブチと愚痴を言いながらグレるのが関の山である。
著者は、元特捜部検事で弁護士に転向した、いわゆるヤメ検弁護士である。極貧家庭で育ちバブル時代を生きた著者は、特捜時代にはエース検事と呼ばれ、数々の事件で政界の汚職を暴こうとした。しかし、上層部の圧力で潰され検事人生に虚しさを感じ弁護士に転向する。その手腕を買って当然のごとく裏社会の実力者が近づく。そして、7億円のヘリコプターを購入するなど豪華な生活を手にした。しかし、順風満帆の中、古巣の特捜部に目をつけられ懲役三年の実刑を受ける。
本書は、著者の人生観とバブル時代を回想した告白本である。そこには、検察内部の暴露、国会議員、官僚、ヤクザ、地上げ屋、芸能人などが実名で登場するからおもろい。結構分厚く文字もぎっしり詰まっているが、文章のリズムが合うのか?つい一気に読んでしまう。一流の検事らしく論理思考に長けているかと思えば、人情溢れる話も多い。
1. 赤レンガ派と現場捜査派
検事の種類には、赤レンガ派と現場捜査派の二種類があるという。赤レンガ派とは、法務省旧舘の赤レンガの建物を指し、法務省の勤務経験が長い法務官僚のことである。東大法学部卒のエリート官僚や閨閥を後ろ盾にしている検事がこれであり出世が約束されている。赤レンガ派は事情聴取ひとつとっても優遇され、参考人程度の取り調べしかやらない、というより、それしかできないのが大半だという。にも関わらず最近の検察トップはこの赤レンガ派の連中で占めらる傾向にあるらしい。かたや現場捜査派が検事総長まで昇り詰めるのは、ごく稀ではあるが中にはいるようだ。特捜部は憧れの部署であり入るのも難しい。多くの現場捜査派のたたき上げ検事は、せいぜい地検の検事正どまりであり、その前に退官するケースも多い。こういう人達が、刑事事件に強いとされるヤメ検弁護士となるようだ。多くの現場捜査検事は、検察庁の徒弟制度の壁に悩むという。検察キャリアと呼ばれる人達は、クビをかけた博打のような取り調べはやらない。あえて危険を冒してまで供述を取ろうとはしない。失敗さえしなければ自然と出世できるからである。そこが現場捜査派で、たたき上げの人間とは違うところだと語る。役所は複雑に利害が絡み合っているため、それが捜査の弊害になることも少なくないことは想像に易い。省庁は予算を握っているところが圧倒的に強い。旧大蔵省や財務省が中央官庁の最高位に位置し大きな顔をする。検察庁も大蔵官僚には弱くなかなか捜査に踏み込めない。同様に大阪府警の予算を握っている大阪府庁はなかなか摘発できない。そこで大阪地検がその任を担う。地方の検察庁も似たような構図で成り立っているようだ。検察庁と言っても、所詮行政の一機関であり、捜査では縦割りの弊害に苦しむと語られる。
2. 商人の街と政治の街
警視庁は天国、大阪府警は地獄だと語る。大阪府警は職人かたぎの警察官が多く、警視庁はスマート。大阪府警は、ある程度容疑を自白させてから検察庁に預ける。この良し悪しはあるだろうが、これが行き過ぎた取り調べとなり暴力に発展することもある。大阪では、土地柄から経済中心で社会が動く。そこには役所や暴力団などが複雑に絡む。人種問題もあり、同和団体、在日韓国人、朝鮮人も多く、その影響力も強い。大阪は、犯罪頻度や悪質度からしてもタフな土地柄のようだ。大阪府警の幹部達はこんな愚痴をこぼす。
「ヤクザや在日の連中は、まだ片言でも日本語が喋れるだけましや。同和の連中は日本語さえ通用せえへんのやから。ただ暴れるだけや!」
実際、同和団体の若者が糾弾と称して税務署に大勢押しかけ、机を引っくり返したり、職員の胸ぐらをつかんだりといった乱暴が少なくないらしい。人種差別と称してやりたい放題で、これにマスコミも便乗するから被害者意識は助長される。そう言えば、某外国人ジャーナリストの著書で同和問題を楯にした国会議員を列挙したものを思い出す。この分野はタブー化されている。おいらも、出身地からして同和教育を受けた。部落出身者は悲惨な人生を送っている。ろくな教育も受けていないので、社会からやっかいな仕事を押し付けられる。仕方なくヤクザになる者も少なくない。いつの時代も弱い者が損をする。彼らを利用した政治活動などは卑劣極まりない。
一方、東京地検特捜部では、尋問もしていない上役の検事が事実関係に手を加えることもあるという。よく検事調書は作文であると言われる。最初から筋書きを組み立てて、いざ政界に踏み込むとなると寸止めで解決することになる。この点では、大阪流のたたき上げ検事は慣習に従わないプライドがあるようだ。しかし、所詮一検事の力ではどうにもならない。いよいよ政界へ喰い込めると思った時「天の声が下る」。これがエリートの生き方であると語られる。どこにでも見えない敵が潜む。それは内なる敵であり出世欲により支配される。著者は、単身赴任中に、浮気してるという嫌がさせの電話を奥さんにされたという。こうした話は、外務省の暴露本でも良く耳にする。高級官僚は精神的には暇なのかもしれない。エリートほど、たわいも無いことで揉めることが好きなようだ。
3. ヤクザの習性
ヤクザは所詮ヤクザであると語られる。物事を強引に押し通し世間から忌み嫌われる。しかし、物事の道理が本当にわかっていたら、ヤクザなんかにはならない。物心ついた時には、父親に博打場へ連れられる。そうやって育った人間は心底博打が悪いとは思わない。極貧の家に育ち、子供の頃からカツアゲで自活していた人間は、恐喝、タカリは生きる術に過ぎない。子供の頃から喧嘩に明け暮れた人間は、暴力を悪だとは思わない。仲間がやられれば復讐するのが道義である。世間とは、ものさしが違うだけのことである。育った環境から既に、ヤクザ稼業として食っていくしか考えられない人間になっている。言葉は悪いが、生まれながらの犯罪者という人達が現実にいる。犯罪者には若い頃から苦労した者も多いようだ。その結果、欲望をむき出しのケダモノや極悪非道になる者もいれば、苦労の挙句、世間よりもはるかに人間的に洗練される者もいる。著者が検事をやっている時は、徹底的に悪を叩きのめすことだけ考えていたようだが、事件の原因を考えると、根っ子の弱い人間ほど犯罪に走ることに、虚しさを感じている様が伝わる。国会議員にも性質が悪い人間も少なくない。ちやほやされる分ある意味でヤクザより性質が悪い。総理の親戚の悪事を揉み消すための姑息な手段や、覚醒剤中毒の治療までやったという。よくテレビ出演し大臣にもなった人間が借金から逃げ回り、土下座して回るほどのお調子者で、挙句の果てに逮捕される話などは笑い話でしかない。
博打といえば、おいらの親父は博打好きである。競輪、競馬、オートにボート。パチンコはプロ級と自負。運転免許を持たない親父は、こともあろうにおふくろにボート場まで運転させ、駐車場で待たせていたこともあった。幼少のおいらは、その駐車場の隅から、微かに見えるボートを遠目で覗いていた記憶がある。サラ金に手を出すわ。消費者金融と称するようになってカードローンもお得意様。外面が良いだけに親戚の受けもいいから余計に頭にくる。その反動でおいらは無愛想で変わり者扱いだ。里帰りする度に親父と衝突したものだ。親父は、おいらをケチで金の亡者と思っている。どっちが金の亡者か?頭がおかしくなる。両親が離婚しないでいるのは不思議でしょうがない。夫婦というのは奥が深いもののようだ。ただ、おふくろは、今も当時の証文を内緒で大事に保管している。お陰で、おいらは麻雀というゲームは好きだが、ギャンブルは一切やらない。しかし、DNAは恐ろしいもので誤魔化せない。その分人生の博打をやっている。
4. バブル時代
バブルの代表格は株式投資であろう。著者は、検察時代から投資の勉強で株にも手を出したらしい。なんとなく博打ともイカサマともつかない世界のように思えたという。女遊びで高価な靴や時計のプレゼントに消えた。駆け出しの女優など、トンマな足長おじさんをやっていたという。株式投資でも凄腕のようだ。おいらも経済学を勉強のために株式投資をしているが、なにしろスケールが違う。儲けた額も、損した額も身を滅ぼすほどである。こういう話を聞くと、おいらもくだらない記憶が蘇る。かつて、ある女性から「ハイヒールを忘れたから買っといて!」というメールを受けた。さっそく、おいらは夜の社交場近くのヒール店に一人で恥ずかしそうに入る。どれを選んでよいかわからないので悩んでいると店員が近づく。「これなど、いかがでしょう!今人気がありますよ!」おいらは、その場を逃げだしたかったが、いちおう色の好みだけは伝える。そして、「すぐに使うから包まなくていいよ!」って言うと、店員から「お客さんが履かれるんですか?」と止めを刺される。ちなみに、おいらに女装の趣味はない。
ここで、印象の残った文章があったので、そのまま引用する。
「人間社会には汚い世界がある。必然的にドブを生む。犯罪者は、そうしたドブのエキスを吸いながら罪を犯す。検事を含め法曹界におけるわれわれの仕事は、所詮ドブ掃除に過ぎない。正義を振り立て、人をリードする仕事ではない。人間のやったことを後始末するだけだ。それも人間のいちばん汚い部分の後始末である。検事や弁護士のバッチを光らせて傲慢な顔で闊歩するほどの仕事ではない。」
著者は犯罪者の複雑な家庭や貧乏に喘いだ環境から、ある程度擁護した優しさを持っているようだ。ヤクザの親分が半端な苦労をしていないことや、在日韓国人が差別を受けて悲惨な状況から這い上がってきた人生を擁護している。そして、著者自身が、あまりにも社会環境に同情しすぎたと語る。ヤクザの親分がいくら人間的に洗練されているからといって、その子分が極悪非道では擁護できるはずもない。一人の人間をどの部分に光を当てるかで人の評価も変わってくる。本書は、闇の暴露本に留まらず、説得力ある人生観を披露している。おいらも自分の生立ちを、このぐらいの文章で綴れると格好がつくのだが、とても太刀打ちできない。せいぜい酒を飲んでブチブチと愚痴を言いながらグレるのが関の山である。
2008-02-17
"「最強情報戦略国家」の誕生" 落合信彦 著
本屋を放浪していると、ある本に目が留まった。多分売れ筋なのだろう。なかなか陳列が絶妙である。アル中ハイマーは商売戦略の罠に嵌りやすい。著者の本は、昔、何冊か読んだ記憶がある。懐かしさにも誘われて、なんとなくハードボイルドな気分で立ち読みするのである。しばらくすると、カウンターから鋭い視線を感じる。なかなか可愛いお姉さんだ。どうやらおいらに気があるらしい。ドスの利いた声で「この本を頼む!」と話しかける。お姉さんは決まりきった営業文句であっさりとかわす。どうやら照れ屋さんのようだ。
スパイ天国日本。情報漏洩で同盟国に信用すらされない日本。伝統的に情報音痴な日本。こんな国に自立を求めるのは無理な話かもしれない。東西冷戦が終結し平和の時代が来るかと思えば、前にもまして、ナショナリズム、地域紛争、宗教的狂信、環境問題、資源帝国主義、拉致、核拡散などなど危険な時代に突入する。各国は国家存亡のため、諜報活動をますます強化する。こうした諜報活動は、軍事面のみに留まらず外交戦略、経済戦略にも大きな影響を与える。本書は、厳しいこの時代で先進国の一角を担うには、まともな諜報機関を設置する必要があると訴える。では、どんな組織が日本に相応しいだろうか?四代諜報機関、モサド、CIA、SIS(MI6)、KGBを元に考察している。
1. インテリジェンスなき国家
日本でも諜報機関と称される組織がいくつかある。ただ、内閣情報調査室、公安調査庁など、スケールが小さすぎるという。活動内容も国内中心で、世界を網羅する諜報機関というよりは、保安機関というべきだろう。警視庁公安部にしても保安機関である。そうなると外務省が諜報活動の中心となる。外務省にも国際情報統括官組織なるものがあるがほとんど機能していないという。もはや日本には、国家にアンテナがないのか。外交官、自衛官、また、海外で活躍する民間企業にしても、外国からしかけられるトラップに嵌る。日米自動車問題で、日本の通産省や運輸省、自動車業界のリーダ達の電話を盗聴するなどは当然のように行われる。しかし、あまりに日本の政治家の行動に次元の低さを感じると語る。優秀な諜報機関が出現するのは、歴史的にみても危機に直面している国家であろう。16世紀のイギリスから始まり、現在ではイスラエルのモサドのように。日本には卓越した諜報機関がないにも関わらず、世界第二位までの経済大国になった。国家戦略とは別に、民間企業が個々に成長した。これはなぜか?民間企業そのものが情報収集してきた結果であろう。日本の総合商社は諜報機関の役割を果たしていた。少なくともいままでは、外務省の情報よりも、商社マンの情報の方がはるかに価値のあるものだった。それは、企業としての生存競争の中で危機意識を持っていた証である。日本政府は、経済発展は民間企業に任せ、軍事はアメリカに頼り、外交は形だけのものでやってきた。情報を同盟国に頼ったところで、日本にとって重要事項を隠される可能性だってある。所詮、各国は自国の国益しか考えない。インテリジェンスなき国家はインテリジェンスな動きができない。諜報界でよく言われる言葉にこんなものがあるらしい。「友好的な国はある。しかし友好的な諜報機関はない」
2. 日本の国家諜報機関(NIA)の青写真
もし日本に総合諜報機関を作るとしたら、プロトタイプとして何を参考にしたらいいだろうか?本書は四代諜報機関からヒントを探る。CIAは、その動き一つで世界の運命が変わると言っても過言ではない。ターゲットのレベルが違う。日本がここまで責任を負うことはないだろう。日本は優秀な保安機関を持っている。これを基盤として権限と管轄を広げれば効率が良い。問題は対外諜報網である。SISをプロトタイプにすべきだという意見も多くあるようだ。ただ、SISは外務省管轄である。長官の任命権も外務大臣に与えられる。本書は、日本で外務省管轄にするには問題があると指摘する。省組織が脆弱で、しかもつまらない派閥ごっこがのさばる。内部監察も確立されていない。この点は、佐藤優氏の著作を読んでも伝わってくる。本書は、政府内での位置付けはモサドのように、完全独立機関とするのが良いと提案する。政治色が一切あってはならない。首相直轄とする。もちろん、長官は政治家であってはならない。さしあたっては、自衛隊か公安調査庁、または内閣情報調査室出身者とする。構造的には、SISのように、上層部をできるだけスリムにして、重要な現場層を厚くすると良いと語る。上層部が少ないとマネジメントは大変だが、無駄な脂肪がなく効率が良い。また、会議をする必要もない。官庁でも企業でも、会議が多いところほどエネルギッシュさやバイタリティに欠ける。会議が多いということは、個人のイニシアティブが少ないということであり、悪く言えば誰も責任を取らない。会議出席者全員の責任となり誰も傷つかないのは日本の体質である。諜報機関にそんな余裕はない。トップから個人に至るまで、個人のイニシアティブで行動しなければならない。
本書は、全組織図を具体的に提示する。人数はざっと6000人と概算している。もちろん人員は極秘であるので、公務員名簿に実名で載ることもない。まあ、政府省庁が多くの無駄な金を使っていると思えば、このぐらいの組織は必要なのだろう。当然、機密費扱いでマスコミの攻撃を受けるだろう。どこぞの機密費問題と一緒にされても困るのだが。そもそも、日本にはそこまで危機が迫っているわけではないので、モサドのように首相命令で誰でも殺すというようなことは必要ない。地味な情報収集に徹すればいいはずである。優秀な人材による情報収集力はモサドに見習うべきであると語られる。まあ、CIAのような卓越したハイテクに依存するのも問題があるのかもしれない。
3. 日本で活躍する諜報員
かつて自民党副総裁だったある人物は1990年北朝鮮を訪問した時、北朝鮮のエージェント・オブ・インフルエンスであることを自ら暴露してしまった。金日成に彼の家系は北朝鮮に繋がっていると言われて感激のあまり涙を流したという。国税局の幹部の話によると、その後脱税で捕まった時、彼の家には刻印のない金の延べ棒が発見されたらしい。刻印なしの金の延べ棒を製造しているのは世界でも北朝鮮だけである。朝鮮総連の元幹部が外国人登録違反で摘発された時も、彼は警視庁に圧力をかけた。また、朝鮮総連へ警視庁が不当な圧力をかけたと抗議団を結成した時、当時民社党の国会議員二人が一緒に行動していたという。こんな節操のない輩が日本の政治をやっているのも嘆かわしい。愛人と称して外国人エージェントを囲っている政治家もいるに違いない。これでは、エージェント・オブ・インフルエンスのオンパレードである。どこの国でも国家反逆罪で逮捕されるが、日本では保安機関が動くこともない。主権が侵されることもOK。拉致もOK。更にリベラルと自認するマスコミは社説でバックアップする。全く自分では意識していなくても、ごく自然のうちにある国のエージェントになってしまうケースも多い。一部の政治家、マスコミ、文化人や学者、政党、日教組などなど。
4. 報告書「JAPAN2000」
1991年アメリカは「JAPAN2000」で日本研究の報告書をまとめている。そこには、Defcon One(軍事警戒レベル1)と最高レベルの脅威を示しているという。当時、ソ連は崩壊への道を辿っていた。強敵ソ連の脅威が無くなれば、CIAの存在価値も薄くなる。もはや軍事レベルで対抗できる国がないと見るや、日本やドイツをターゲットに置く。ドイツは東西統一で混乱状態にある。よって、日本が狙われる。人種的にも狙いやすいのだろう。その方法は、日本人が金の亡者であり、利益至上主義であると宣伝する。そして、証券業界、ゼネコンの腐敗をスキャンダル化した。この分野は旧体質でグローバル化に合わない日本の弱点でもある。更に、金融業界の不良債権問題を顕著化し日本経済を叩く。これは全てCIAの策謀であるという。9.11事件や、小泉&ブッシュ関係から、一時的にバッシングを止めたが、2015年には日本は先進国の地位から滑り落ちると予告した報告書をCIAが2000年に作成した。ただ、これは予告ではない。占い師があなたの命はあと何年ですと言えば、殺せば当たるのだ。本書は、CIAが予測したことは面子をかけてでも、しかけてくるはずだと警告している。また、「JAPAN2000」で奇怪なことがある。最大の欠点である諜報機関が存在しないことには一切触れていない。スパイの存在さえ認めないことや、先進国の中で唯一機密漏洩法がないことにも触れない。信用できない国で重要な情報をシェアできないことも指摘していない。なぜだろう?日本に本物の諜報機関が設立されると困るからであると語る。現状のアメリカによる情報依存を続けてほしいのだ。アメリカにとって都合の良い情報で日本をコントロールしておきたいのである。日本が経済大国になっただけでも脅威なのに、更に諜報大国にでもなられたらやっかいだろう。経済と外交を制するものが世界を制する。これをCIAが一番良く知っている。もし、まともな諜報機関があれば拉致問題もここまでこじれる前に防衛できたであろう。どの国も存亡のために必至になる。その生存を保障するのが諜報力である。日本は、1985年にスパイ防止法案を、マスコミや野党の攻撃で廃案となった。相変わらず国家休業状態であると語られる。
5. 情報音痴
日本人ほど情報という言葉を使う人種はいないという。情報というものの本当の意味を分かっている人間はあまり口にしないのかもしれない。自衛隊にしても、政府にしても脇の甘さは半端ではないと語る。明日のためのノーガード戦法ということか?そしてパンチドランカーとなる。もっと恐ろしいのは、中国や北朝鮮に簡単に、自衛官や民間企業あるいは一般市民が巻き込まれるケースが多いことである。敵方エージェントを引き抜く手法はMICE、M(金)、I(イデオロギー)、C(コンプロマイズ)、E(エゴ)であるという。金で釣ったり、濡れ場を隠し撮りされて脅したり、日本人が良く行くカラオケバーなどで巧みに罠をしかける。愛想良く笑顔で接待され、持ち上げられることに日本人は弱い。顔が利くなどと勘違いして情報を落として回る。女性の前では、名刺やメモで連絡先を置いていってくれる。これは、アル中ハイマーの行動パターンそのものである。2004年の上海日本領事館の電信員の自殺や自衛隊員事件で、カラオケバーは敬遠しているはずだと思ったら、そうでもないという。懲りない連中であると語られるが耳が痛い。
「普通の悪党でも人を殺すことはできる。しかし、殺しを自殺と見せかけるには諜報機関の才能を必要とする。」
「普通のアル中でも酔っ払うことはできる。しかし、アル中ハイマーにああ気持ちええ!と言わせるには、凄腕のバーテンダーの才能を必要とする。」
スパイ天国日本。情報漏洩で同盟国に信用すらされない日本。伝統的に情報音痴な日本。こんな国に自立を求めるのは無理な話かもしれない。東西冷戦が終結し平和の時代が来るかと思えば、前にもまして、ナショナリズム、地域紛争、宗教的狂信、環境問題、資源帝国主義、拉致、核拡散などなど危険な時代に突入する。各国は国家存亡のため、諜報活動をますます強化する。こうした諜報活動は、軍事面のみに留まらず外交戦略、経済戦略にも大きな影響を与える。本書は、厳しいこの時代で先進国の一角を担うには、まともな諜報機関を設置する必要があると訴える。では、どんな組織が日本に相応しいだろうか?四代諜報機関、モサド、CIA、SIS(MI6)、KGBを元に考察している。
1. インテリジェンスなき国家
日本でも諜報機関と称される組織がいくつかある。ただ、内閣情報調査室、公安調査庁など、スケールが小さすぎるという。活動内容も国内中心で、世界を網羅する諜報機関というよりは、保安機関というべきだろう。警視庁公安部にしても保安機関である。そうなると外務省が諜報活動の中心となる。外務省にも国際情報統括官組織なるものがあるがほとんど機能していないという。もはや日本には、国家にアンテナがないのか。外交官、自衛官、また、海外で活躍する民間企業にしても、外国からしかけられるトラップに嵌る。日米自動車問題で、日本の通産省や運輸省、自動車業界のリーダ達の電話を盗聴するなどは当然のように行われる。しかし、あまりに日本の政治家の行動に次元の低さを感じると語る。優秀な諜報機関が出現するのは、歴史的にみても危機に直面している国家であろう。16世紀のイギリスから始まり、現在ではイスラエルのモサドのように。日本には卓越した諜報機関がないにも関わらず、世界第二位までの経済大国になった。国家戦略とは別に、民間企業が個々に成長した。これはなぜか?民間企業そのものが情報収集してきた結果であろう。日本の総合商社は諜報機関の役割を果たしていた。少なくともいままでは、外務省の情報よりも、商社マンの情報の方がはるかに価値のあるものだった。それは、企業としての生存競争の中で危機意識を持っていた証である。日本政府は、経済発展は民間企業に任せ、軍事はアメリカに頼り、外交は形だけのものでやってきた。情報を同盟国に頼ったところで、日本にとって重要事項を隠される可能性だってある。所詮、各国は自国の国益しか考えない。インテリジェンスなき国家はインテリジェンスな動きができない。諜報界でよく言われる言葉にこんなものがあるらしい。「友好的な国はある。しかし友好的な諜報機関はない」
2. 日本の国家諜報機関(NIA)の青写真
もし日本に総合諜報機関を作るとしたら、プロトタイプとして何を参考にしたらいいだろうか?本書は四代諜報機関からヒントを探る。CIAは、その動き一つで世界の運命が変わると言っても過言ではない。ターゲットのレベルが違う。日本がここまで責任を負うことはないだろう。日本は優秀な保安機関を持っている。これを基盤として権限と管轄を広げれば効率が良い。問題は対外諜報網である。SISをプロトタイプにすべきだという意見も多くあるようだ。ただ、SISは外務省管轄である。長官の任命権も外務大臣に与えられる。本書は、日本で外務省管轄にするには問題があると指摘する。省組織が脆弱で、しかもつまらない派閥ごっこがのさばる。内部監察も確立されていない。この点は、佐藤優氏の著作を読んでも伝わってくる。本書は、政府内での位置付けはモサドのように、完全独立機関とするのが良いと提案する。政治色が一切あってはならない。首相直轄とする。もちろん、長官は政治家であってはならない。さしあたっては、自衛隊か公安調査庁、または内閣情報調査室出身者とする。構造的には、SISのように、上層部をできるだけスリムにして、重要な現場層を厚くすると良いと語る。上層部が少ないとマネジメントは大変だが、無駄な脂肪がなく効率が良い。また、会議をする必要もない。官庁でも企業でも、会議が多いところほどエネルギッシュさやバイタリティに欠ける。会議が多いということは、個人のイニシアティブが少ないということであり、悪く言えば誰も責任を取らない。会議出席者全員の責任となり誰も傷つかないのは日本の体質である。諜報機関にそんな余裕はない。トップから個人に至るまで、個人のイニシアティブで行動しなければならない。
本書は、全組織図を具体的に提示する。人数はざっと6000人と概算している。もちろん人員は極秘であるので、公務員名簿に実名で載ることもない。まあ、政府省庁が多くの無駄な金を使っていると思えば、このぐらいの組織は必要なのだろう。当然、機密費扱いでマスコミの攻撃を受けるだろう。どこぞの機密費問題と一緒にされても困るのだが。そもそも、日本にはそこまで危機が迫っているわけではないので、モサドのように首相命令で誰でも殺すというようなことは必要ない。地味な情報収集に徹すればいいはずである。優秀な人材による情報収集力はモサドに見習うべきであると語られる。まあ、CIAのような卓越したハイテクに依存するのも問題があるのかもしれない。
3. 日本で活躍する諜報員
かつて自民党副総裁だったある人物は1990年北朝鮮を訪問した時、北朝鮮のエージェント・オブ・インフルエンスであることを自ら暴露してしまった。金日成に彼の家系は北朝鮮に繋がっていると言われて感激のあまり涙を流したという。国税局の幹部の話によると、その後脱税で捕まった時、彼の家には刻印のない金の延べ棒が発見されたらしい。刻印なしの金の延べ棒を製造しているのは世界でも北朝鮮だけである。朝鮮総連の元幹部が外国人登録違反で摘発された時も、彼は警視庁に圧力をかけた。また、朝鮮総連へ警視庁が不当な圧力をかけたと抗議団を結成した時、当時民社党の国会議員二人が一緒に行動していたという。こんな節操のない輩が日本の政治をやっているのも嘆かわしい。愛人と称して外国人エージェントを囲っている政治家もいるに違いない。これでは、エージェント・オブ・インフルエンスのオンパレードである。どこの国でも国家反逆罪で逮捕されるが、日本では保安機関が動くこともない。主権が侵されることもOK。拉致もOK。更にリベラルと自認するマスコミは社説でバックアップする。全く自分では意識していなくても、ごく自然のうちにある国のエージェントになってしまうケースも多い。一部の政治家、マスコミ、文化人や学者、政党、日教組などなど。
4. 報告書「JAPAN2000」
1991年アメリカは「JAPAN2000」で日本研究の報告書をまとめている。そこには、Defcon One(軍事警戒レベル1)と最高レベルの脅威を示しているという。当時、ソ連は崩壊への道を辿っていた。強敵ソ連の脅威が無くなれば、CIAの存在価値も薄くなる。もはや軍事レベルで対抗できる国がないと見るや、日本やドイツをターゲットに置く。ドイツは東西統一で混乱状態にある。よって、日本が狙われる。人種的にも狙いやすいのだろう。その方法は、日本人が金の亡者であり、利益至上主義であると宣伝する。そして、証券業界、ゼネコンの腐敗をスキャンダル化した。この分野は旧体質でグローバル化に合わない日本の弱点でもある。更に、金融業界の不良債権問題を顕著化し日本経済を叩く。これは全てCIAの策謀であるという。9.11事件や、小泉&ブッシュ関係から、一時的にバッシングを止めたが、2015年には日本は先進国の地位から滑り落ちると予告した報告書をCIAが2000年に作成した。ただ、これは予告ではない。占い師があなたの命はあと何年ですと言えば、殺せば当たるのだ。本書は、CIAが予測したことは面子をかけてでも、しかけてくるはずだと警告している。また、「JAPAN2000」で奇怪なことがある。最大の欠点である諜報機関が存在しないことには一切触れていない。スパイの存在さえ認めないことや、先進国の中で唯一機密漏洩法がないことにも触れない。信用できない国で重要な情報をシェアできないことも指摘していない。なぜだろう?日本に本物の諜報機関が設立されると困るからであると語る。現状のアメリカによる情報依存を続けてほしいのだ。アメリカにとって都合の良い情報で日本をコントロールしておきたいのである。日本が経済大国になっただけでも脅威なのに、更に諜報大国にでもなられたらやっかいだろう。経済と外交を制するものが世界を制する。これをCIAが一番良く知っている。もし、まともな諜報機関があれば拉致問題もここまでこじれる前に防衛できたであろう。どの国も存亡のために必至になる。その生存を保障するのが諜報力である。日本は、1985年にスパイ防止法案を、マスコミや野党の攻撃で廃案となった。相変わらず国家休業状態であると語られる。
5. 情報音痴
日本人ほど情報という言葉を使う人種はいないという。情報というものの本当の意味を分かっている人間はあまり口にしないのかもしれない。自衛隊にしても、政府にしても脇の甘さは半端ではないと語る。明日のためのノーガード戦法ということか?そしてパンチドランカーとなる。もっと恐ろしいのは、中国や北朝鮮に簡単に、自衛官や民間企業あるいは一般市民が巻き込まれるケースが多いことである。敵方エージェントを引き抜く手法はMICE、M(金)、I(イデオロギー)、C(コンプロマイズ)、E(エゴ)であるという。金で釣ったり、濡れ場を隠し撮りされて脅したり、日本人が良く行くカラオケバーなどで巧みに罠をしかける。愛想良く笑顔で接待され、持ち上げられることに日本人は弱い。顔が利くなどと勘違いして情報を落として回る。女性の前では、名刺やメモで連絡先を置いていってくれる。これは、アル中ハイマーの行動パターンそのものである。2004年の上海日本領事館の電信員の自殺や自衛隊員事件で、カラオケバーは敬遠しているはずだと思ったら、そうでもないという。懲りない連中であると語られるが耳が痛い。
「普通の悪党でも人を殺すことはできる。しかし、殺しを自殺と見せかけるには諜報機関の才能を必要とする。」
「普通のアル中でも酔っ払うことはできる。しかし、アル中ハイマーにああ気持ちええ!と言わせるには、凄腕のバーテンダーの才能を必要とする。」
2008-02-16
"パソコンで巡る137億光年の旅 宇宙旅行シミュレーション" 4D2U 監
本書は、アマゾンのお薦めにあったので、つい買ってしまった。アル中ハイマーは、まとめ買いする時、勢いでショッピングカートをクリックする癖がある。酔っ払いは、ネット商法に引っかかりやすいのである。専門書かと思ったら、単なるMitakaの使い方であった。しかも、わざわざ古いバージョンを買わなくても。
まあいいや!「君のためにプラネタリウムを用意したんだ!」なーんてプレゼントすれば点数稼ぎができる。
4D2Uとは、国立天文台4次元デジタル宇宙プロジェクトのことで、「4-Dimensional Digital Universe」を略して4D2Uという。2Uってなんだろうと思ったら、Dが2つでD2だった。また、2Uは"to you"と同音で、「4次元をあなたに」という意味もこめているらしい。この台詞は使えそうだ。
Mitakaとは、フリーソフトの4次元宇宙ビューアのことである。本書には、おまけでムービーも附属されているが、これもダウンロードできる。
Mitaka自体は、なかなかおもしろい。星座を眺めたり、天体を眺めたり、惑星や衛星の運動の相関関係を眺めたりできる。いろんな所へ動こうと思えばできるのだが、勝手に動いてくんないかなあ。酔っ払いは、最初に指示したら、勝手にシミュレーションやってくれるSimCityのようなゲームが好きだ。旅行プランはこっちで立てるから、後は船長さんにお任せしたい。BGMにホルストの「惑星」でも流して、ブランデーを飲みながら、ボケーっと宇宙旅行を夢見れれば幸せである。
まあいいや!「君のためにプラネタリウムを用意したんだ!」なーんてプレゼントすれば点数稼ぎができる。
4D2Uとは、国立天文台4次元デジタル宇宙プロジェクトのことで、「4-Dimensional Digital Universe」を略して4D2Uという。2Uってなんだろうと思ったら、Dが2つでD2だった。また、2Uは"to you"と同音で、「4次元をあなたに」という意味もこめているらしい。この台詞は使えそうだ。
Mitakaとは、フリーソフトの4次元宇宙ビューアのことである。本書には、おまけでムービーも附属されているが、これもダウンロードできる。
Mitaka自体は、なかなかおもしろい。星座を眺めたり、天体を眺めたり、惑星や衛星の運動の相関関係を眺めたりできる。いろんな所へ動こうと思えばできるのだが、勝手に動いてくんないかなあ。酔っ払いは、最初に指示したら、勝手にシミュレーションやってくれるSimCityのようなゲームが好きだ。旅行プランはこっちで立てるから、後は船長さんにお任せしたい。BGMにホルストの「惑星」でも流して、ブランデーを飲みながら、ボケーっと宇宙旅行を夢見れれば幸せである。
2008-02-10
"金融立国試論" 櫻川昌哉 著
日本の経済政策の流れを追いかけてアマゾンを放浪していると、本書にたどり着いた。タイトルが仰々しいので、ド素人のアル中ハイマーについていけるかどうか不安であったが、金融システムの入門書としてもいけている。ただ、議論が偏っている部分もあるが、この世にすべてお見通しのスーパーブックなんて存在するとは思えない。考えるヒントを与えてくれるだけでもありがたい。
アル中ハイマーが、銀行業が胡散臭いと思う理由の一つに自己資本の考え方がある。そもそも民間経営だから、自己資本で運営するのが基本だろうと考えている。その水準の低さにも唖然であるが、専門家が経験値から算出した数字だから素人に議論の余地はない。ただ中身については、株式は自己資本で、債権を他人資本として扱うのも奇妙である。返済義務の有無で区別されるのだろうが、どちらも他人が投資しているではないか?本書は、こうしたことに疑問を持つことは間違っていないと語ってくれるのがうれしい。銀行は自己資本を持ちたがらないという意識が働くらしい。外部からの余計な口出しを嫌うのも分かる。銀行の最大の問題は、国民世論に銀行は潰せないという先入観があることだろう。金融危機になっても税金が投入されるからには、経営意識は改善されない。おまけに、とんでもない金融商品を考えだして経済混乱を招く。まるで自爆テロである。最近の金融不安はその最たるものだろう。リスクに対する正確な評価ができないことが問題である。銀行業はアンタッチャブルな世界である。いまや、金融政策という特効薬による景気誘導は効かなくなってきた。それも経済構造が、金融システムによる支配力を弱めた傾向かもしれない。もし、金融支配が弱まれば、世論は不健全な銀行を潰すことに躊躇しなくなるだろう。
アル中ハイマーは、経済不安に陥れる要因の一つに、不健全な金融体質に投機的なマネーを煽る政策が輪をかけることだと考えている。現在の市場経済が、世界的に投機的なマネーのリスクにさらされている感は否めない。貧困層を拡大させ必要以上の不平等社会が、長期的に栄える社会とは思いたくない。その中で経済学の役割とはなんだろう?政策エリートたちが市場経済の活性化と称して政策を立案すると、なぜか投機的なマネーを呼び込む結果となる。社会不安により株価の変動を煽り、乱高下はヘッジファンドの餌食となる。上辺だけ好景気と叫んだところで、GDPなどの経済指標は総合指数を示しているに過ぎない。これは下層階級を拡大し、庶民を奴隷化するための陰謀なのか?そうした風潮の中、日本ではどんな経済政策によって、その傾向を強めたのだろうか?これがアル中ハイマーの知りたいところである。本書はそうした流れをバブル崩壊あたりから追ってくれる。
1. オーバーバンキング
オーバーバンキングは、貸出過剰、銀行数過剰、預金過剰が上げられるが、本書は主に預金過剰を扱う。といっても預金過剰だから貸出過剰となるのだが。80年代以降、慢性的な資金過剰の銀行が様々な弊害をもたらした。不動産融資シェアの多い建設や不動産部門の貸出を増した結果、バブルを誘発したことは周知の通りである。90年代になると貸出は頭打ちとなって減少する。本書のデータによると、注目すべきは、金融危機が叫ばれながらも銀行預金は増えていることである。預金過剰は貸出リスクの審査を甘くし、無理やりにでも貸出したという。世論が煽る銀行の貸し渋りという現象は本当だろうか?不良業者に貸出すぐらいなら渋った方が良い。しかし、まともな審査ができないのであれば、優良業者までもが資金繰りに苦しむ。問題は貸出リスクの正確な審査ができないことだろう。身近で見かけるのは、ベンチャーキャピタルが新興産業やハイテク産業に投資する光景である。ベンチャーキャピタルとはいえ銀行系である。審査となると内容が把握できない。すると地元で有力な知識人や有名大学の学者などに意見を求める。意見した者に責任が及ぶわけがない。ちなみに、彼らは特許という言葉に弱い。監査システムだけでも機能していれば、少なくとも追加融資による被害は最小限にできるはずだ。追加融資が簡単に決まると分かれば、怠慢経営をする。これは、まさか故意にやっているのか?見かけ上の評価価値を上げ、解体し売却益でも得ようとしているのか?そして、誰かに地雷を踏ませようとしているのか?日本の社会システムの伝統に、監査システムの不備がある。人がそんな悪いことをするはずがないという概念を一般的に持っているのも人間味があって嫌いではない。本書は、会計システムにも問題があると主張する。会計システムでは融資資金が時価評価されない。追加融資は不良業者を延命させるだけであるが、会計上の先送りという見方もできる。見かけ上の誤魔化しという意味では同じだ。審査の甘さと会計上の問題がソフト・バジェット問題となる。経営の悪化した企業ほど法律の扱いは巧みである。法律を楯にしだしたら、そこには怪しい香りが漂う。法律は問題が起きた時の言い訳のための手段に過ぎない。
2. 銀行 vs. 株式市場
市場経済の活性化には、金融システムの役割が大きいのはわかる。銀行システムと株式市場で、どちらが中心になれば良いかという議論も絶えない。銀行の存在価値は審査機能を持っていることである。取引で困るのは信用の評価である。そこには情報の非対称性が潜む。その監視機能が働かなければ、株式市場で直接投資する方が効率的である。株式市場は一部の被害者は発生するものの、不良業者をあっさりと切り捨てる。不良債権の山となるのは、銀行屋は預金を庶民から借りたお金であることを認識していないからであろう。本書は、銀行と株式市場の役割を解説してくれる。企業家の経営努力が高く、技術進歩に結びつく業界では、株式市場が有利で、企業内に蓄積された継続的な知識が重視されるならば、銀行システムが有利であるという。経済が革新型の時は株式市場が牽引し、経済が改良型の時は銀行システムが機能するようにバランスすることが良いと語る。ただ、なまじ銀行が企業再建能力を持っているがために経済革新を阻むこともある。
3. BIS規制
BIS規制は、自己資本比率8%の確保を義務づけリスク規制した国際ルールである。その定義は、Tier1 + Tier2。Tier1資本は、株式含み益と内部留保。ここまではいい。Tier2資本は、未実現のキャピタルゲイン45%、貸倒引当金、未実現の剰余金、満期が5年を超える劣後債となっている。未実現のキャピタルゲインって評価できるのだろうか?当然、時価評価されないと意味がない。Tier2資本は、各国の事情を勘案して特別ルールとして認められたらしい。ちなみに、米国や英国では未実現のキャピタルゲインや劣後債は自己資本として認められないらしい。BIS規制は、各国の運営次第で骨抜きにされる可能性がある。破綻に向かった銀行ほど、劣後債を発行しているという。劣後債は銀行の発行する債券である。経営が苦しい企業がやたら債券を乱発しているのを身近でも見かける。しかも、その劣後債を買っているのが、持ち合い関係にある生命保険会社だという。銀行が危機になると、政府は劣後債の残額保護で救済する。また、銀行の安易な資本拡充策にも劣後債が利用されているという。問題の一端は、規制タイミングが悪かったことも指摘している。リスクの高い融資は既成事実であり、続けるかどうかが重要である。融資途上の会計処理も問題になる。規制当局がBIS規制を守るために、暗黙の会計操作を認めたという。BIS規制の運営が不良債権を拡大した結果になったという。その証拠に規制後90年代になって不良債権は拡大している。ところが、ここでおもしろい現象を紹介してくれる。地方銀行に対してはBIS規制が機能したというのだ。大手銀行と地方銀行で差別的待遇でもあったのか?結果、公的資金が使われた。1回目が1998年、2回目が1999年、そして2003年で不良債権がむしろ増大している。不良先は、助ければ助けるほど破綻規模を倍化する。この心理は人間の本質かもしれない。このパチンコ台はあと千円つぎ込めばフィーバーするぞ!
4. 竹中再生プログラム
2002年の金融再生プログラムで、初めてガバナンス問題に踏み込んだ金融危機対策である。不良債権と自己資本のより厳格な計算を求めるのは当然の流れである。銀行が危機に陥ったと認識されれば銀行を国有化でき、経営責任を追及できる仕組みに改める。ただ本書は、そもそも破綻しそうな銀行がいきなり国際基準を満たせるのか?と疑問を投げかける。しかし、いままでの自己資本比率を満たすならば、なんでもあり会計よりは、はるかにましである。本書は、大手銀行は増資先を貸出先に求めるのは禁止すべきであると指摘する。自ら融資した資金で増資に応じさせるのは、持ち合いを強化する。やっぱり中途半端な政策のようだが、政治は妥協の世界でもある。国有化した銀行の処遇はどうなるのかという疑問も湧く。本来なら市場原理に委ねるべきであろう。政府の監視下では、同じことを繰り返しそうだ。その証拠に国有化されたりそな銀行の歩みが語られる。それでも、国有化により海外のヘッジファンドの介入を避けたのは良かったかもしれない。竹中プログラムは、銀行システムを安定化し、その成果で株価が上昇しているかのような印象を与える。しかし、酔っ払いには、投機的マネーの拡大で銀行システムが安定したとう実感が涌かない。それは、ダイエーの処理にも現れている。本書は順序が逆で、株価が上昇したから金融システムが安定したと分析している。米国のIT産業が牽引した結果、日本の製造業を回復させた。日本の金融システムを、製造業が救ってくれたと主張している。日銀総裁が、速水氏から福井氏に代わったのも大きいという。銀行の当座預金の枠を拡大し、市場の流動性リスクを減少させた。更に福井総裁は、銀行の保有株を全額買い取る覚悟があるとまで発言し、金融システムに株式市場の影響を遮断する強い姿勢を見せたという。
本書は、竹中金融行政の中心は合併促進であると語る。破綻寸前の銀行への対処方法は、一つは破綻処理を行うハード路線がある。これは痛みをともない、預金保護や貸出先の中小企業を救うとなると政治的にも判断が難しい。そこで、二つは合併手法であるソフト路線を用いる。比較的健全な銀行を一緒にしてしまうことで、ダメな銀行をどさくさに紛れて消してしまうという戦略である。しかし、投資には大きすぎると限界効率があることを注意しなければならないと指摘する。
5. デフレの本質
デフレとは、一般的な物価水準の持続的な下落現象である。統計的には、消費者物価指数やGDPデフレーターが下がる。マスコミはデフレ不況が庶民の所得を奪うような報道をするが、もともと日本は物価の高い国である。酔っ払いにはデフレは歓迎する部分もある。本書は、物価が安くなることは良いが、そのプロセスに問題があるという。全ての財が同じように下落するなら生活に実害はない。しかし、契約によって決まる価格がある。給料は物価下降に即連動するものではない。それでも民間企業の給料は比較的デフレに連動するが、公務員の給料は連動しない。金利は一定でも実質金利は変わる。預金の面では有利に働くが、借金は負担を増す。年金も実質受取額は増える。年金は掛ける若い世代から、受給者の年寄りに再分配されることになる。つまり、デフレ問題は、市場価格と契約価格でゆがみが生じることにあるという。ほとんどの運転資金を借金からまかなう企業にとって苦しい状況となる。では、デフレの世界的な位置付けはどうなるのだろうか?生活品の中には輸入品も多い。輸出品ともバランスしないといけない。為替レートの影響もあるだろう。デフレの克服に、金融緩和政策でマネーサプライを誘導することは、もはや効き目がないようだ。では、市場価格に連動するように契約価格を決めてやればいいではないか?しかし、インフレ率は、簡単には決められそうにないようだ。その都度ガイドラインを変えるのもシステムの複雑化を招いて詐欺行為を誘発しそうである。要は不平等のない仕組みが作れればいいのだが、経済政策はますます混沌としてきそうである。
6. ペイオフ
預金保険法では、銀行が破綻した場合、預金保険機構が預金保証する。銀行は、預金保険機構に加入することが義務づけられ保険料を支払う。しかし、実際には、保険料でまかなわれているのは18%だという。半分は国債でまかなわれるらしい。本来保険とは当事者同士で負担するものではないのか?生命保険しかり、自動車保険しかりである。本書は、預金保険制度は国民を保護しているように見えるが、銀行のモラルハザードを引き起こすと主張する。ペイオフの狙いは、このような銀行の悪行を断ち切るためのもので、預金者に銀行を真面目に選択するように誘導できると主張する。ペイオフと言っても預金者の立場からすれば、一千万円ずつ各銀行に分散させるだけであり、むしろ、経営能力のない銀行を救済していることになるだろう。分散できない貧乏人のリスクは同じである。仮に銀行が潰れた場合、財源は公的資金しかないだろう。銀行が潰れる前ならば金融システムの安定化という名目で政府の監視下にもできるだろうが、潰れてしまってから税金投入となると、世論が許すだろうか?その銀行の影響範囲にもよるだろうが、世論を押し切ってまで政府が決断できるだろうか?また、政府の決断に期待して、経営が悪化している銀行に保証という言葉だけでずっと預け入れるとは到底思えない。よって、情報を透明化するための制度整備が一番であろう。いずれにしても現行のペイオフには現実性がない。足利銀行が破綻しても実施されなかった。金融庁は、地方銀行の更なる破綻に備えて公的資金を注入しやすくする「金融機能強化法案」を提出し、年金法案と一緒に、どさくさまぎれに可決させたという。どうやら金融庁にはペイオフを実施する覚悟はないようだ。本書は、銀行毎にではなく個人毎に、最低金額で保証すべきであると主張する。そうすれば、金持ちの金は他の市場に流れるかもしれない。しかし、個人の全ての口座を申告しなければならない。財産の自己管理も要求される。サラリーマンは税金管理すら他人任せのお国柄である。財産と税金の管理制度も一掃しないと難しいだろう。本書は、総合課税方式も提案している。これは賛成できる。銀行預金を株式市場などに流すにしても、課税が不公平では誘導できない。所得も多様化しているので、個別に税計算しなければならないのは面倒でもある。
7. 郵貯民営化
郵貯は、政府系金融機関や特殊法人に貸出し、巨額な不良債権を作り出しているのは周知のとおりである。そういう意味で郵貯改革は必要であり、その手段で民営化するのも良いだろう。本書は、政府保証の乱発は慎むべきであると警告している。貯金を保護することは、貯金を持たない人間にも肩代わりさせることで不公平であると語る。その通りではあるが、金融不安が間接的に他へも影響を与える。民営化では国家保証をどこまで削れるかが焦点となる。また、政府がどこまで出資するかも問題である。最初は、多く出資して徐々に民間に手放すことになるだろう。収益が上がれば順調に手放すことができるが、収益が上がらなければ災いとなる。郵貯民営化でよく聞かれる議論は、貸出業務を認めるかどうかである。反対派は融資先を監査するノウハウがないと主張する。民間の貸出業務を圧迫するという意見もあるが、民営化しておきながら民間を圧迫するとはこれいかに?そこで国債保有機関としてのナローバンク論も浮上する。それでは収益が上がらないだろう。本書は、国債保有しているからといっても、金利のリスクにはさらされ、安定経営となるかどうかは分からないと語る。いずれにしても民営化したのだから、優秀な経営者に任せるしかない。下手に政府が口出しすれば、収益が上がらなければ政府の責任となり、公的資金注入で国民が背負うことになる。本書は、郵政民営化が成功するか失敗するかは大した問題ではないというドライな発言をする。むしろ、失敗した時にきちんと破綻させて、精算させる仕組みがあるかどうかが問題であるという。破綻した場合、国債の受け皿はどうなるのだろうか?国債残高の増加ペースは異常である。もしかして郵貯民営化って、財政当局が国債消化を目指したものではないだろうなあ?社会システムとは不思議なもので、政府が口出すと失敗する運命にあるのだろうか?いや!そんなことはない。国のエリートたちがそんな馬鹿なことをするはずがない。きっと、ダースベイダーの陰謀に違いない。
アル中ハイマーが、銀行業が胡散臭いと思う理由の一つに自己資本の考え方がある。そもそも民間経営だから、自己資本で運営するのが基本だろうと考えている。その水準の低さにも唖然であるが、専門家が経験値から算出した数字だから素人に議論の余地はない。ただ中身については、株式は自己資本で、債権を他人資本として扱うのも奇妙である。返済義務の有無で区別されるのだろうが、どちらも他人が投資しているではないか?本書は、こうしたことに疑問を持つことは間違っていないと語ってくれるのがうれしい。銀行は自己資本を持ちたがらないという意識が働くらしい。外部からの余計な口出しを嫌うのも分かる。銀行の最大の問題は、国民世論に銀行は潰せないという先入観があることだろう。金融危機になっても税金が投入されるからには、経営意識は改善されない。おまけに、とんでもない金融商品を考えだして経済混乱を招く。まるで自爆テロである。最近の金融不安はその最たるものだろう。リスクに対する正確な評価ができないことが問題である。銀行業はアンタッチャブルな世界である。いまや、金融政策という特効薬による景気誘導は効かなくなってきた。それも経済構造が、金融システムによる支配力を弱めた傾向かもしれない。もし、金融支配が弱まれば、世論は不健全な銀行を潰すことに躊躇しなくなるだろう。
アル中ハイマーは、経済不安に陥れる要因の一つに、不健全な金融体質に投機的なマネーを煽る政策が輪をかけることだと考えている。現在の市場経済が、世界的に投機的なマネーのリスクにさらされている感は否めない。貧困層を拡大させ必要以上の不平等社会が、長期的に栄える社会とは思いたくない。その中で経済学の役割とはなんだろう?政策エリートたちが市場経済の活性化と称して政策を立案すると、なぜか投機的なマネーを呼び込む結果となる。社会不安により株価の変動を煽り、乱高下はヘッジファンドの餌食となる。上辺だけ好景気と叫んだところで、GDPなどの経済指標は総合指数を示しているに過ぎない。これは下層階級を拡大し、庶民を奴隷化するための陰謀なのか?そうした風潮の中、日本ではどんな経済政策によって、その傾向を強めたのだろうか?これがアル中ハイマーの知りたいところである。本書はそうした流れをバブル崩壊あたりから追ってくれる。
1. オーバーバンキング
オーバーバンキングは、貸出過剰、銀行数過剰、預金過剰が上げられるが、本書は主に預金過剰を扱う。といっても預金過剰だから貸出過剰となるのだが。80年代以降、慢性的な資金過剰の銀行が様々な弊害をもたらした。不動産融資シェアの多い建設や不動産部門の貸出を増した結果、バブルを誘発したことは周知の通りである。90年代になると貸出は頭打ちとなって減少する。本書のデータによると、注目すべきは、金融危機が叫ばれながらも銀行預金は増えていることである。預金過剰は貸出リスクの審査を甘くし、無理やりにでも貸出したという。世論が煽る銀行の貸し渋りという現象は本当だろうか?不良業者に貸出すぐらいなら渋った方が良い。しかし、まともな審査ができないのであれば、優良業者までもが資金繰りに苦しむ。問題は貸出リスクの正確な審査ができないことだろう。身近で見かけるのは、ベンチャーキャピタルが新興産業やハイテク産業に投資する光景である。ベンチャーキャピタルとはいえ銀行系である。審査となると内容が把握できない。すると地元で有力な知識人や有名大学の学者などに意見を求める。意見した者に責任が及ぶわけがない。ちなみに、彼らは特許という言葉に弱い。監査システムだけでも機能していれば、少なくとも追加融資による被害は最小限にできるはずだ。追加融資が簡単に決まると分かれば、怠慢経営をする。これは、まさか故意にやっているのか?見かけ上の評価価値を上げ、解体し売却益でも得ようとしているのか?そして、誰かに地雷を踏ませようとしているのか?日本の社会システムの伝統に、監査システムの不備がある。人がそんな悪いことをするはずがないという概念を一般的に持っているのも人間味があって嫌いではない。本書は、会計システムにも問題があると主張する。会計システムでは融資資金が時価評価されない。追加融資は不良業者を延命させるだけであるが、会計上の先送りという見方もできる。見かけ上の誤魔化しという意味では同じだ。審査の甘さと会計上の問題がソフト・バジェット問題となる。経営の悪化した企業ほど法律の扱いは巧みである。法律を楯にしだしたら、そこには怪しい香りが漂う。法律は問題が起きた時の言い訳のための手段に過ぎない。
2. 銀行 vs. 株式市場
市場経済の活性化には、金融システムの役割が大きいのはわかる。銀行システムと株式市場で、どちらが中心になれば良いかという議論も絶えない。銀行の存在価値は審査機能を持っていることである。取引で困るのは信用の評価である。そこには情報の非対称性が潜む。その監視機能が働かなければ、株式市場で直接投資する方が効率的である。株式市場は一部の被害者は発生するものの、不良業者をあっさりと切り捨てる。不良債権の山となるのは、銀行屋は預金を庶民から借りたお金であることを認識していないからであろう。本書は、銀行と株式市場の役割を解説してくれる。企業家の経営努力が高く、技術進歩に結びつく業界では、株式市場が有利で、企業内に蓄積された継続的な知識が重視されるならば、銀行システムが有利であるという。経済が革新型の時は株式市場が牽引し、経済が改良型の時は銀行システムが機能するようにバランスすることが良いと語る。ただ、なまじ銀行が企業再建能力を持っているがために経済革新を阻むこともある。
3. BIS規制
BIS規制は、自己資本比率8%の確保を義務づけリスク規制した国際ルールである。その定義は、Tier1 + Tier2。Tier1資本は、株式含み益と内部留保。ここまではいい。Tier2資本は、未実現のキャピタルゲイン45%、貸倒引当金、未実現の剰余金、満期が5年を超える劣後債となっている。未実現のキャピタルゲインって評価できるのだろうか?当然、時価評価されないと意味がない。Tier2資本は、各国の事情を勘案して特別ルールとして認められたらしい。ちなみに、米国や英国では未実現のキャピタルゲインや劣後債は自己資本として認められないらしい。BIS規制は、各国の運営次第で骨抜きにされる可能性がある。破綻に向かった銀行ほど、劣後債を発行しているという。劣後債は銀行の発行する債券である。経営が苦しい企業がやたら債券を乱発しているのを身近でも見かける。しかも、その劣後債を買っているのが、持ち合い関係にある生命保険会社だという。銀行が危機になると、政府は劣後債の残額保護で救済する。また、銀行の安易な資本拡充策にも劣後債が利用されているという。問題の一端は、規制タイミングが悪かったことも指摘している。リスクの高い融資は既成事実であり、続けるかどうかが重要である。融資途上の会計処理も問題になる。規制当局がBIS規制を守るために、暗黙の会計操作を認めたという。BIS規制の運営が不良債権を拡大した結果になったという。その証拠に規制後90年代になって不良債権は拡大している。ところが、ここでおもしろい現象を紹介してくれる。地方銀行に対してはBIS規制が機能したというのだ。大手銀行と地方銀行で差別的待遇でもあったのか?結果、公的資金が使われた。1回目が1998年、2回目が1999年、そして2003年で不良債権がむしろ増大している。不良先は、助ければ助けるほど破綻規模を倍化する。この心理は人間の本質かもしれない。このパチンコ台はあと千円つぎ込めばフィーバーするぞ!
4. 竹中再生プログラム
2002年の金融再生プログラムで、初めてガバナンス問題に踏み込んだ金融危機対策である。不良債権と自己資本のより厳格な計算を求めるのは当然の流れである。銀行が危機に陥ったと認識されれば銀行を国有化でき、経営責任を追及できる仕組みに改める。ただ本書は、そもそも破綻しそうな銀行がいきなり国際基準を満たせるのか?と疑問を投げかける。しかし、いままでの自己資本比率を満たすならば、なんでもあり会計よりは、はるかにましである。本書は、大手銀行は増資先を貸出先に求めるのは禁止すべきであると指摘する。自ら融資した資金で増資に応じさせるのは、持ち合いを強化する。やっぱり中途半端な政策のようだが、政治は妥協の世界でもある。国有化した銀行の処遇はどうなるのかという疑問も湧く。本来なら市場原理に委ねるべきであろう。政府の監視下では、同じことを繰り返しそうだ。その証拠に国有化されたりそな銀行の歩みが語られる。それでも、国有化により海外のヘッジファンドの介入を避けたのは良かったかもしれない。竹中プログラムは、銀行システムを安定化し、その成果で株価が上昇しているかのような印象を与える。しかし、酔っ払いには、投機的マネーの拡大で銀行システムが安定したとう実感が涌かない。それは、ダイエーの処理にも現れている。本書は順序が逆で、株価が上昇したから金融システムが安定したと分析している。米国のIT産業が牽引した結果、日本の製造業を回復させた。日本の金融システムを、製造業が救ってくれたと主張している。日銀総裁が、速水氏から福井氏に代わったのも大きいという。銀行の当座預金の枠を拡大し、市場の流動性リスクを減少させた。更に福井総裁は、銀行の保有株を全額買い取る覚悟があるとまで発言し、金融システムに株式市場の影響を遮断する強い姿勢を見せたという。
本書は、竹中金融行政の中心は合併促進であると語る。破綻寸前の銀行への対処方法は、一つは破綻処理を行うハード路線がある。これは痛みをともない、預金保護や貸出先の中小企業を救うとなると政治的にも判断が難しい。そこで、二つは合併手法であるソフト路線を用いる。比較的健全な銀行を一緒にしてしまうことで、ダメな銀行をどさくさに紛れて消してしまうという戦略である。しかし、投資には大きすぎると限界効率があることを注意しなければならないと指摘する。
5. デフレの本質
デフレとは、一般的な物価水準の持続的な下落現象である。統計的には、消費者物価指数やGDPデフレーターが下がる。マスコミはデフレ不況が庶民の所得を奪うような報道をするが、もともと日本は物価の高い国である。酔っ払いにはデフレは歓迎する部分もある。本書は、物価が安くなることは良いが、そのプロセスに問題があるという。全ての財が同じように下落するなら生活に実害はない。しかし、契約によって決まる価格がある。給料は物価下降に即連動するものではない。それでも民間企業の給料は比較的デフレに連動するが、公務員の給料は連動しない。金利は一定でも実質金利は変わる。預金の面では有利に働くが、借金は負担を増す。年金も実質受取額は増える。年金は掛ける若い世代から、受給者の年寄りに再分配されることになる。つまり、デフレ問題は、市場価格と契約価格でゆがみが生じることにあるという。ほとんどの運転資金を借金からまかなう企業にとって苦しい状況となる。では、デフレの世界的な位置付けはどうなるのだろうか?生活品の中には輸入品も多い。輸出品ともバランスしないといけない。為替レートの影響もあるだろう。デフレの克服に、金融緩和政策でマネーサプライを誘導することは、もはや効き目がないようだ。では、市場価格に連動するように契約価格を決めてやればいいではないか?しかし、インフレ率は、簡単には決められそうにないようだ。その都度ガイドラインを変えるのもシステムの複雑化を招いて詐欺行為を誘発しそうである。要は不平等のない仕組みが作れればいいのだが、経済政策はますます混沌としてきそうである。
6. ペイオフ
預金保険法では、銀行が破綻した場合、預金保険機構が預金保証する。銀行は、預金保険機構に加入することが義務づけられ保険料を支払う。しかし、実際には、保険料でまかなわれているのは18%だという。半分は国債でまかなわれるらしい。本来保険とは当事者同士で負担するものではないのか?生命保険しかり、自動車保険しかりである。本書は、預金保険制度は国民を保護しているように見えるが、銀行のモラルハザードを引き起こすと主張する。ペイオフの狙いは、このような銀行の悪行を断ち切るためのもので、預金者に銀行を真面目に選択するように誘導できると主張する。ペイオフと言っても預金者の立場からすれば、一千万円ずつ各銀行に分散させるだけであり、むしろ、経営能力のない銀行を救済していることになるだろう。分散できない貧乏人のリスクは同じである。仮に銀行が潰れた場合、財源は公的資金しかないだろう。銀行が潰れる前ならば金融システムの安定化という名目で政府の監視下にもできるだろうが、潰れてしまってから税金投入となると、世論が許すだろうか?その銀行の影響範囲にもよるだろうが、世論を押し切ってまで政府が決断できるだろうか?また、政府の決断に期待して、経営が悪化している銀行に保証という言葉だけでずっと預け入れるとは到底思えない。よって、情報を透明化するための制度整備が一番であろう。いずれにしても現行のペイオフには現実性がない。足利銀行が破綻しても実施されなかった。金融庁は、地方銀行の更なる破綻に備えて公的資金を注入しやすくする「金融機能強化法案」を提出し、年金法案と一緒に、どさくさまぎれに可決させたという。どうやら金融庁にはペイオフを実施する覚悟はないようだ。本書は、銀行毎にではなく個人毎に、最低金額で保証すべきであると主張する。そうすれば、金持ちの金は他の市場に流れるかもしれない。しかし、個人の全ての口座を申告しなければならない。財産の自己管理も要求される。サラリーマンは税金管理すら他人任せのお国柄である。財産と税金の管理制度も一掃しないと難しいだろう。本書は、総合課税方式も提案している。これは賛成できる。銀行預金を株式市場などに流すにしても、課税が不公平では誘導できない。所得も多様化しているので、個別に税計算しなければならないのは面倒でもある。
7. 郵貯民営化
郵貯は、政府系金融機関や特殊法人に貸出し、巨額な不良債権を作り出しているのは周知のとおりである。そういう意味で郵貯改革は必要であり、その手段で民営化するのも良いだろう。本書は、政府保証の乱発は慎むべきであると警告している。貯金を保護することは、貯金を持たない人間にも肩代わりさせることで不公平であると語る。その通りではあるが、金融不安が間接的に他へも影響を与える。民営化では国家保証をどこまで削れるかが焦点となる。また、政府がどこまで出資するかも問題である。最初は、多く出資して徐々に民間に手放すことになるだろう。収益が上がれば順調に手放すことができるが、収益が上がらなければ災いとなる。郵貯民営化でよく聞かれる議論は、貸出業務を認めるかどうかである。反対派は融資先を監査するノウハウがないと主張する。民間の貸出業務を圧迫するという意見もあるが、民営化しておきながら民間を圧迫するとはこれいかに?そこで国債保有機関としてのナローバンク論も浮上する。それでは収益が上がらないだろう。本書は、国債保有しているからといっても、金利のリスクにはさらされ、安定経営となるかどうかは分からないと語る。いずれにしても民営化したのだから、優秀な経営者に任せるしかない。下手に政府が口出しすれば、収益が上がらなければ政府の責任となり、公的資金注入で国民が背負うことになる。本書は、郵政民営化が成功するか失敗するかは大した問題ではないというドライな発言をする。むしろ、失敗した時にきちんと破綻させて、精算させる仕組みがあるかどうかが問題であるという。破綻した場合、国債の受け皿はどうなるのだろうか?国債残高の増加ペースは異常である。もしかして郵貯民営化って、財政当局が国債消化を目指したものではないだろうなあ?社会システムとは不思議なもので、政府が口出すと失敗する運命にあるのだろうか?いや!そんなことはない。国のエリートたちがそんな馬鹿なことをするはずがない。きっと、ダースベイダーの陰謀に違いない。
2008-02-03
"世界を不幸にしたグローバリズムの正体" Joseph E. Stiglitz 著
アル中ハイマーが本書を読んだのは二年前である。良書だと思うので記事に残すことにした。最近、サブプライムローンという言葉が世間を賑わす。アル中ハイマーは、経済が不安定になる要因の元凶は、本当にここにあるのか疑問に思っている。投機的な経済行動をする連中は証券価値の乱高下を歓迎する。乱高下する材料さえあれば、なんでもありである。急激な乱高下は、実質価値に対して評価価値が大きく乖離した時に起きる。たとえ価値が下がったとしても、逆ポジションで仕掛ける。現在のデリバティブは、投機的な行動を刺激するルールに思えてならない。よって、酔っ払いはデリバティブ商品に手を出さない。歴史的には、商品価値が自然災害などで変動することは、それこそ経済混乱を招いていた。米が経済の主要を成していた時代では、凶作によって米価が大幅に変動することは望ましくない。こうした変動リスクを避けるために、世界に先駆けて大阪で先物取引が始まったはずである。
経済危機が訪れる周期もだんだん短くなっているような気がする。ただ、本当に危機なのだろうか?生活には実感が涌かない。景気が良いと言われても同様である。単に取引市場が賑わっているだけではないのか?経済運営とは、取引市場のみをコントロールすることが使命なのか?世界銀行は貧困層の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命としているというのは本当なのか?酔っ払いには、目的と行動が乖離しているように見える。アル中ハイマー病とは、一つの実体が二つに乖離して見える病である。
アル中ハイマーは、ノーベル賞で平和賞と経済学賞の存在に疑問を持つ社会の反抗分子である。政治とは平和へ導くための手段ではないのか?世界を危機に陥れた経済学者がなぜ賞賛されるのか?著者スティグリッツ氏もノーベル賞経済学者の一人であるが、彼の本は何冊か読んで感銘を受けた。経済学という言葉には胡散臭い香りがする。この学問は複雑な人間社会を相手取る難しい分野でもある。これを一つのイデオロギーで説明できるとは到底思えない。しかし、それぞれのイデオロギーの主張は、絶対に自分たちは正しいという姿勢を崩さない。これは、経済学だけの問題ではなく、人間の本質かもしれない。人間が認識不足を自ら認識することは難しい。プライドが高ければその難しさを増す。邪悪なプライドは、自らは認めたくない深層心理の領域にある。そんな領域には自ら踏み込みたくない上に、他人から踏み込まれることを嫌う。千鳥足のアル中ハイマーは、踏み込もうにも足が見つからない。
本書を読み物としておもしろくしている理由の一つは、偉い学者が思いっきり愚痴っているところである。翻訳者のテクかもしれないが、そこには愚痴っぽく感情的な文章が表れ、逆に読み手を冷静にさせる。相手が一方的に熱いと、こっちは冷める。これが恋愛の原理というものである。ちなみに、翻訳者は鈴木主税氏で、サミュエル・ハンチントン著の「文明の衝突」などを手がけている方だ。ただ、文章のリズムがなんとなく印象と違う気がする。愚痴の攻撃対象は、IMF、世界銀行、WTOである。中でもIMFをけちょんけちょんに貶す。アメリカ人以外でしかもノーベル賞学者以外の著名人が、こんなことを公然と発言したらスキャンダルで抹殺されるかもしれない。これは社会の反抗分子にはそそられる。
本書は、歴史の流れからグローバリズムからは逃れらないとしながらも、推進される政策は現実的ではないと指摘する。国際経済機関は、相変わらず商業界、金融界の利害を重視する。アル中ハイマーには、東アジア危機やロシア経済の破綻など、あらゆる国際レベルの政策は影の陰謀だと思っている。だから、IMFの意見やワシントン・コンセンサスを素直に受け入れた国ほど経済危機に陥るのだと。しかし、陰謀説は否定されてしまった。国際経済機関は、本当に良いと思ってやっているというのである。では、なぜことごとく失敗するのか?自由化という言葉には、美しい響きがある。金融市場と資本市場の解放、貿易障壁の排除が推進されると、強者は弱者を餌食にしてしまう。これは、未成熟な市場を急激に改革した結果であろう。それでもIMFは主張する。痛みを伴わなければ改革はできないと。痛みが深ければそれだけその後の成長は強大なものになると。マスコミも無責任に煽る。まともな発言者は葬られる。発展途上国が経験した痛みは、はるかに度を超えていた。旧共産主義国には、市場経済すら信じられない人も少なくない。確かに、超エリート達が言うように改革には多少の痛みは必要かもしれない。ただ、その国の文化や慣習に関わるデリケートな問題でもある。民族の生い立ちや培った文化は多様である。その国を熟知した第一級の教育を受けた専門家を無視して政策を練ることなどできない。グローバリゼーションは、単なる自由化ではない、西洋化でもない。
本書は、社会の方向性にもヒントを与えてくれる。著者は、最も重要なのは社会の安定であると語る。そのために、注目すべきは、貧困層、環境問題、雇用状態だと主張する。経済で懸念されるのは、社会不安と政治不安である。人間は不安に駆られると攻撃的になり、犯罪をも増やす。ナショナリズムの高揚も社会不安による現象の一つかもしれない。経済がいくら成長しても、不平等な社会では社会不安を煽り、持続した成長は望めない。経済成長は急成長よりも緩やかに安定した成長が望ましいだろう。貿易黒字の国があるということは、貿易赤字の国があるということである。典型的な中央銀行総裁は、貧困統計ではなくインフレ統計に目を配るという。通商大臣は、汚染指数よりも輸出統計を気にする。労働者は賃金を気にする。投資家は金利を気にする。人間は、直接利害するところに目くじらを立てる。政策論争で自らの私利をあからさまに振りかざす者はいない。政治家は、主語に必ず「国民は、」と発言する。
本書には、日本が登場する場面がほとんどない。だが、日本のことを言われているような気がするのも奇妙である。
1. 国際経済機関のマネジメント
国際経済機関は、世界のための組織でありながら主権は偏っている。IMFの長を務めるのは、決まってヨーロッパ人。世界銀行の長は常にアメリカ人。しかも、各国の代表は、その国の特定の産業や金融機関の利害関係に結びついた人間である。著者は、グローバリゼーションを推進している国際機関に対して、監督機構が存在しないのが問題であると指摘する。植民地時代から彼らの考えはそう変わっていないという。彼らは最も賢い政策を打ち出せると信じている。IMFは、知る必要のある人間の範囲を定めているらしい。失敗しても説明責任を果たさない。それどころか他国の政策がIMFの支持通りに行われていないと非難する。透明性がなく官僚的秘密主義であると語る。支援金はIMFの影響力を増し国家主権を奪う。それは一般企業も同じだ。外部資本が入ると自立が保てなくなる。その資本が効率的に運営されれば良いが、経営陣の官僚主義が横行すると悲惨である。経営が硬直化し、人材は逃避する。補助金と言うと聞こえが良いが、間違うと事業を滅ぼす麻薬となる。
金融市場ほど先進国と発展途上国で格差が大きいものはない。競争力のない金融市場を開放させ、しかも、主力銀行を分割すれば巨大シティに対抗できるはずもない。地元銀行からビジネスを奪うばかりか、彼らは多国籍企業への融資で便宜をはかり、国内企業には貸し渋る。IMFは海外のハイエナに地元産業をさらしてきた。もはやIMFの目的は、国際経済の安定ではなく、自由化することが目的となっていると語る。しかし、世界的権威のある機関に逆らうのは勇気がいる。支援を凍結されると、海外資本を流出することにもなりかねない。各国はIMFからの非難を恐れる。こうした官僚思想の押し付けは、国際機関に限ったことではない。力関係が存在する限りどこにでも見られる。小国の政治指導者で、公然とIMFの政策を拒否し、経済破綻を逃れた方々に敬意を表したい。
2. 東アジア危機
ワシントン・コンセンサスでは、自由化は急ぐほど良いとされる。また、政府は経済への介入を最小限にするべきだとしている。しかし、東アジア諸国では、政府は経済への介入を重要な責任と考えた。貿易の自由化は、輸出産業に新たな雇用が創出されるのを見極めてから徐々に進められた。そうした中、タイ発のバーツ暴落による東アジア危機を向える。これは、資本市場の自由化にともなうホットマネーが元凶であろう。ホットマネーの流出入は、あらゆる資産価値を不安定にする。この時、IMFは財政均衡政策をとった。景気後退に向かい税収が減少するのに合わせて支出も抑えた。歳出削減による縮小政策が、更に経済を縮小してしまう。各国首脳はこの問題を意識していたが、IMFからの非難を恐れて積極的な対抗処置が取れなかった。結局、IMFの怒りをかう覚悟をしたのはマレーシアだけだった。そして、最も被害を最小限に抑え短期間で収拾させた。失業率は、韓国で4倍、タイで3倍、インドネシアでは10倍に跳ね上がった。IMFは各国の金利引上げをせまった。それも25%以上も?それは、金利上昇で、投資対象としての魅力が増し、海外資本が流入するという理屈なのだそうだ。東アジアの金融システムの脆弱さは周知のとおりである。IMFは弱い銀行を閉鎖させようとした。閉鎖するか自己資本比率の基準を満足するかを迫る。自己資本比率を上げる方策は、資本を増やすか、融資を減らすかである。経済下降面で資本を増やすことなどできるはずもない。よって融資を減らす。銀行は、短期融資の支払い繰り延べにも応じない。銀行屋とは、資金を必要としない人たちに貸したがる連中である。各銀行が融資の返済を迫れば、企業は経営難に陥る。学生レベルの議論だ。多くの会社が経営難に陥れば、銀行の自己資本比率はますます低くなる。多くの銀行が破壊的となった。マレーシア政府の規制方針は、銀行が外国為替の不安定性にさらされるのを防いだ。資本取引規制をとったが、投資家離れを招くと国際非難にさらされた。企業に対して外国からの借金に制限を設け、国内銀行からの融資を受けるようにした。急速な資本の流出入を防ぎ、金利も低く抑え会社の倒産を防いだ。資本取引規制は中国もインドもやっていた。独自路線を進んだ国は世界的な危機を逃れた。ただ、本書には登場しないが、東アジア危機については、陰謀説もある。おいらは、過去30年、世界のどこよりも急成長をした地域に対する攻撃だと思った。どうやら黒幕はIMFのようだ。
3. ロシア経済の破綻
旧共産主義国を市場経済へ移行させるのにも国際経済機関は活躍する。IMFは、ルーブルの切り下げによってインフレが起こることを懸念した。そのため、過大評価された通貨価値をロシアに維持させることに固執し、数十万ドル規模の資金援助を実施した。これが、ロシア経済を破綻に追い込んだ。政治介入は最小限に抑えるという方針だったのでは?エリツィン時代の最悪の産物がオリガルヒ(新興財閥)であるという。これは、市場のボリシェビキが、欧米の伝道者と組んで、レーニン手法を用いたようなものだと語る。アメリカ財務省とIMFが強硬に主張したのは、迅速に民営化を行うという毎度の話である。しかし、まだ法が不整備なままでは、消費者は民間業者の食い物にされる。従来の政府独占が民間独占に置き換わっただけのことである。民間が官僚に便宜を図り、政治腐敗も起こる。ただ、よくわからないのが、ロシアほどの大国に国際機関の支援金が必要なのだろうか?そもそもエネルギー資源や天然資源に恵まれた国である。これを民間に再分配すれば良いはずである。あくまでも経済システムの問題であるはずである。政策は、一夜にして物質の価格が自由化された。当然インフレが起きる。貯蓄の価値は目減りする。そして、インフレ抑制で、金利を上げ、金融引締政策を余儀なくされる。物価が高騰したにも関わらず、一部の主力資源については価格が抑えられたままだったという。激安の石油を調達し欧米でさばけば、億万長者になる。独占による大きな利益のせいで、マフィアのような手口や談合が横行する。こうしてエリツィンの友人や同僚は億万長者になったという。民営化レースでは抜け目のない勝者が現れるものだ。そして、緊急支援に総額226億ドルが投じられる。その内訳は、IMFが123億ドル、世界銀行が60億ドル、残りは日本政府が拠出したという。IMFは、エリツィンを政権の座にとどめておくという思惑をもっていた。確かに共産主義に逆戻りされても困る。だが、この融資もオリガルヒが国外に持ち出したという。支援金の効果を知りたければ、キプロス島やスイス銀行を調査すれば良いと語る。そして、世界金融危機へと拍車がかかる。これがLTCMへとつながる。結局、一部の富裕層を富ませ、貧困層を増殖させ、不平等を助長させたに過ぎない。旧共産圏の国々は軒並み追従する。ポーランドはIMFの圧力を無視して成功した。IMF優等生ほど、経済不振に直面する。いまや、ロシアにはマフィア的資本主義が定着しつつあるという。しかし、明るい兆しもある。自分たちが略奪してきた行為を、今度はされないように法の整備が必要なことに気づく。コーポレート・ガバナンスを求める動きがあるようだ。ただ、おいらは、これも人為的にロシアを骨抜きにし、脅威をなくすための陰謀だと思っていた。そもそも、冷戦時代から対立していたのだから動機は十分にある。ウォール街は、ロシアには直接関心を持っていなかったという。ウォール街は、インフレをこの世で最悪の事態だと考える人種らしい。インフレが財産価値を下げ、金利を上げ、債券価格を下げると見るからである。財務当局は失業に関心がないらしい。ウォール街にとって、私有財産以上に神聖なものはないのかもしれない。
経済危機が訪れる周期もだんだん短くなっているような気がする。ただ、本当に危機なのだろうか?生活には実感が涌かない。景気が良いと言われても同様である。単に取引市場が賑わっているだけではないのか?経済運営とは、取引市場のみをコントロールすることが使命なのか?世界銀行は貧困層の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命としているというのは本当なのか?酔っ払いには、目的と行動が乖離しているように見える。アル中ハイマー病とは、一つの実体が二つに乖離して見える病である。
アル中ハイマーは、ノーベル賞で平和賞と経済学賞の存在に疑問を持つ社会の反抗分子である。政治とは平和へ導くための手段ではないのか?世界を危機に陥れた経済学者がなぜ賞賛されるのか?著者スティグリッツ氏もノーベル賞経済学者の一人であるが、彼の本は何冊か読んで感銘を受けた。経済学という言葉には胡散臭い香りがする。この学問は複雑な人間社会を相手取る難しい分野でもある。これを一つのイデオロギーで説明できるとは到底思えない。しかし、それぞれのイデオロギーの主張は、絶対に自分たちは正しいという姿勢を崩さない。これは、経済学だけの問題ではなく、人間の本質かもしれない。人間が認識不足を自ら認識することは難しい。プライドが高ければその難しさを増す。邪悪なプライドは、自らは認めたくない深層心理の領域にある。そんな領域には自ら踏み込みたくない上に、他人から踏み込まれることを嫌う。千鳥足のアル中ハイマーは、踏み込もうにも足が見つからない。
本書を読み物としておもしろくしている理由の一つは、偉い学者が思いっきり愚痴っているところである。翻訳者のテクかもしれないが、そこには愚痴っぽく感情的な文章が表れ、逆に読み手を冷静にさせる。相手が一方的に熱いと、こっちは冷める。これが恋愛の原理というものである。ちなみに、翻訳者は鈴木主税氏で、サミュエル・ハンチントン著の「文明の衝突」などを手がけている方だ。ただ、文章のリズムがなんとなく印象と違う気がする。愚痴の攻撃対象は、IMF、世界銀行、WTOである。中でもIMFをけちょんけちょんに貶す。アメリカ人以外でしかもノーベル賞学者以外の著名人が、こんなことを公然と発言したらスキャンダルで抹殺されるかもしれない。これは社会の反抗分子にはそそられる。
本書は、歴史の流れからグローバリズムからは逃れらないとしながらも、推進される政策は現実的ではないと指摘する。国際経済機関は、相変わらず商業界、金融界の利害を重視する。アル中ハイマーには、東アジア危機やロシア経済の破綻など、あらゆる国際レベルの政策は影の陰謀だと思っている。だから、IMFの意見やワシントン・コンセンサスを素直に受け入れた国ほど経済危機に陥るのだと。しかし、陰謀説は否定されてしまった。国際経済機関は、本当に良いと思ってやっているというのである。では、なぜことごとく失敗するのか?自由化という言葉には、美しい響きがある。金融市場と資本市場の解放、貿易障壁の排除が推進されると、強者は弱者を餌食にしてしまう。これは、未成熟な市場を急激に改革した結果であろう。それでもIMFは主張する。痛みを伴わなければ改革はできないと。痛みが深ければそれだけその後の成長は強大なものになると。マスコミも無責任に煽る。まともな発言者は葬られる。発展途上国が経験した痛みは、はるかに度を超えていた。旧共産主義国には、市場経済すら信じられない人も少なくない。確かに、超エリート達が言うように改革には多少の痛みは必要かもしれない。ただ、その国の文化や慣習に関わるデリケートな問題でもある。民族の生い立ちや培った文化は多様である。その国を熟知した第一級の教育を受けた専門家を無視して政策を練ることなどできない。グローバリゼーションは、単なる自由化ではない、西洋化でもない。
本書は、社会の方向性にもヒントを与えてくれる。著者は、最も重要なのは社会の安定であると語る。そのために、注目すべきは、貧困層、環境問題、雇用状態だと主張する。経済で懸念されるのは、社会不安と政治不安である。人間は不安に駆られると攻撃的になり、犯罪をも増やす。ナショナリズムの高揚も社会不安による現象の一つかもしれない。経済がいくら成長しても、不平等な社会では社会不安を煽り、持続した成長は望めない。経済成長は急成長よりも緩やかに安定した成長が望ましいだろう。貿易黒字の国があるということは、貿易赤字の国があるということである。典型的な中央銀行総裁は、貧困統計ではなくインフレ統計に目を配るという。通商大臣は、汚染指数よりも輸出統計を気にする。労働者は賃金を気にする。投資家は金利を気にする。人間は、直接利害するところに目くじらを立てる。政策論争で自らの私利をあからさまに振りかざす者はいない。政治家は、主語に必ず「国民は、」と発言する。
本書には、日本が登場する場面がほとんどない。だが、日本のことを言われているような気がするのも奇妙である。
1. 国際経済機関のマネジメント
国際経済機関は、世界のための組織でありながら主権は偏っている。IMFの長を務めるのは、決まってヨーロッパ人。世界銀行の長は常にアメリカ人。しかも、各国の代表は、その国の特定の産業や金融機関の利害関係に結びついた人間である。著者は、グローバリゼーションを推進している国際機関に対して、監督機構が存在しないのが問題であると指摘する。植民地時代から彼らの考えはそう変わっていないという。彼らは最も賢い政策を打ち出せると信じている。IMFは、知る必要のある人間の範囲を定めているらしい。失敗しても説明責任を果たさない。それどころか他国の政策がIMFの支持通りに行われていないと非難する。透明性がなく官僚的秘密主義であると語る。支援金はIMFの影響力を増し国家主権を奪う。それは一般企業も同じだ。外部資本が入ると自立が保てなくなる。その資本が効率的に運営されれば良いが、経営陣の官僚主義が横行すると悲惨である。経営が硬直化し、人材は逃避する。補助金と言うと聞こえが良いが、間違うと事業を滅ぼす麻薬となる。
金融市場ほど先進国と発展途上国で格差が大きいものはない。競争力のない金融市場を開放させ、しかも、主力銀行を分割すれば巨大シティに対抗できるはずもない。地元銀行からビジネスを奪うばかりか、彼らは多国籍企業への融資で便宜をはかり、国内企業には貸し渋る。IMFは海外のハイエナに地元産業をさらしてきた。もはやIMFの目的は、国際経済の安定ではなく、自由化することが目的となっていると語る。しかし、世界的権威のある機関に逆らうのは勇気がいる。支援を凍結されると、海外資本を流出することにもなりかねない。各国はIMFからの非難を恐れる。こうした官僚思想の押し付けは、国際機関に限ったことではない。力関係が存在する限りどこにでも見られる。小国の政治指導者で、公然とIMFの政策を拒否し、経済破綻を逃れた方々に敬意を表したい。
2. 東アジア危機
ワシントン・コンセンサスでは、自由化は急ぐほど良いとされる。また、政府は経済への介入を最小限にするべきだとしている。しかし、東アジア諸国では、政府は経済への介入を重要な責任と考えた。貿易の自由化は、輸出産業に新たな雇用が創出されるのを見極めてから徐々に進められた。そうした中、タイ発のバーツ暴落による東アジア危機を向える。これは、資本市場の自由化にともなうホットマネーが元凶であろう。ホットマネーの流出入は、あらゆる資産価値を不安定にする。この時、IMFは財政均衡政策をとった。景気後退に向かい税収が減少するのに合わせて支出も抑えた。歳出削減による縮小政策が、更に経済を縮小してしまう。各国首脳はこの問題を意識していたが、IMFからの非難を恐れて積極的な対抗処置が取れなかった。結局、IMFの怒りをかう覚悟をしたのはマレーシアだけだった。そして、最も被害を最小限に抑え短期間で収拾させた。失業率は、韓国で4倍、タイで3倍、インドネシアでは10倍に跳ね上がった。IMFは各国の金利引上げをせまった。それも25%以上も?それは、金利上昇で、投資対象としての魅力が増し、海外資本が流入するという理屈なのだそうだ。東アジアの金融システムの脆弱さは周知のとおりである。IMFは弱い銀行を閉鎖させようとした。閉鎖するか自己資本比率の基準を満足するかを迫る。自己資本比率を上げる方策は、資本を増やすか、融資を減らすかである。経済下降面で資本を増やすことなどできるはずもない。よって融資を減らす。銀行は、短期融資の支払い繰り延べにも応じない。銀行屋とは、資金を必要としない人たちに貸したがる連中である。各銀行が融資の返済を迫れば、企業は経営難に陥る。学生レベルの議論だ。多くの会社が経営難に陥れば、銀行の自己資本比率はますます低くなる。多くの銀行が破壊的となった。マレーシア政府の規制方針は、銀行が外国為替の不安定性にさらされるのを防いだ。資本取引規制をとったが、投資家離れを招くと国際非難にさらされた。企業に対して外国からの借金に制限を設け、国内銀行からの融資を受けるようにした。急速な資本の流出入を防ぎ、金利も低く抑え会社の倒産を防いだ。資本取引規制は中国もインドもやっていた。独自路線を進んだ国は世界的な危機を逃れた。ただ、本書には登場しないが、東アジア危機については、陰謀説もある。おいらは、過去30年、世界のどこよりも急成長をした地域に対する攻撃だと思った。どうやら黒幕はIMFのようだ。
3. ロシア経済の破綻
旧共産主義国を市場経済へ移行させるのにも国際経済機関は活躍する。IMFは、ルーブルの切り下げによってインフレが起こることを懸念した。そのため、過大評価された通貨価値をロシアに維持させることに固執し、数十万ドル規模の資金援助を実施した。これが、ロシア経済を破綻に追い込んだ。政治介入は最小限に抑えるという方針だったのでは?エリツィン時代の最悪の産物がオリガルヒ(新興財閥)であるという。これは、市場のボリシェビキが、欧米の伝道者と組んで、レーニン手法を用いたようなものだと語る。アメリカ財務省とIMFが強硬に主張したのは、迅速に民営化を行うという毎度の話である。しかし、まだ法が不整備なままでは、消費者は民間業者の食い物にされる。従来の政府独占が民間独占に置き換わっただけのことである。民間が官僚に便宜を図り、政治腐敗も起こる。ただ、よくわからないのが、ロシアほどの大国に国際機関の支援金が必要なのだろうか?そもそもエネルギー資源や天然資源に恵まれた国である。これを民間に再分配すれば良いはずである。あくまでも経済システムの問題であるはずである。政策は、一夜にして物質の価格が自由化された。当然インフレが起きる。貯蓄の価値は目減りする。そして、インフレ抑制で、金利を上げ、金融引締政策を余儀なくされる。物価が高騰したにも関わらず、一部の主力資源については価格が抑えられたままだったという。激安の石油を調達し欧米でさばけば、億万長者になる。独占による大きな利益のせいで、マフィアのような手口や談合が横行する。こうしてエリツィンの友人や同僚は億万長者になったという。民営化レースでは抜け目のない勝者が現れるものだ。そして、緊急支援に総額226億ドルが投じられる。その内訳は、IMFが123億ドル、世界銀行が60億ドル、残りは日本政府が拠出したという。IMFは、エリツィンを政権の座にとどめておくという思惑をもっていた。確かに共産主義に逆戻りされても困る。だが、この融資もオリガルヒが国外に持ち出したという。支援金の効果を知りたければ、キプロス島やスイス銀行を調査すれば良いと語る。そして、世界金融危機へと拍車がかかる。これがLTCMへとつながる。結局、一部の富裕層を富ませ、貧困層を増殖させ、不平等を助長させたに過ぎない。旧共産圏の国々は軒並み追従する。ポーランドはIMFの圧力を無視して成功した。IMF優等生ほど、経済不振に直面する。いまや、ロシアにはマフィア的資本主義が定着しつつあるという。しかし、明るい兆しもある。自分たちが略奪してきた行為を、今度はされないように法の整備が必要なことに気づく。コーポレート・ガバナンスを求める動きがあるようだ。ただ、おいらは、これも人為的にロシアを骨抜きにし、脅威をなくすための陰謀だと思っていた。そもそも、冷戦時代から対立していたのだから動機は十分にある。ウォール街は、ロシアには直接関心を持っていなかったという。ウォール街は、インフレをこの世で最悪の事態だと考える人種らしい。インフレが財産価値を下げ、金利を上げ、債券価格を下げると見るからである。財務当局は失業に関心がないらしい。ウォール街にとって、私有財産以上に神聖なものはないのかもしれない。
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