2012-11-04

ポータルサイト変更...GさんからYaさんか?いや、Neちゃんとバイブする!

夏頃であろうか、Gさんサービスが次々と抹殺される中、iGoogleの終了(2013年11月1日)がアナウンスされた。一年以上前から宣言してくれるのは助かるが、愛用してきただけに痛い!まさか、Blogger の廃止なんてこともありうるのか?覚悟しておく必要はあるかもしれない。いつサービスやサイトが閉鎖され、一瞬のうちに大企業が消え、それどころか、産業ごと頓死しても不思議ではない時代。Gさん依存を見直すのに良い機会か。その前に、コンピューティング依存が問題か。だが、人間は何かに依存しなければ生きてはいけない。
ちなみに、アルコール依存のリスク管理はバッチリだ!スコッチ、ブランデー、ラム、純米酒、焼酎、たまにフルーティーなカクテル...これだけ分散させればヘベレケで幸せ!

さて、次の入り口をどこにするか?まず、My Yahoo! を一ヶ月ほど試行してみる。んー、そんなに悪くない。巷では、Netvibes もなかなからしい。おフランス育ちだけに恐る恐る近づいてみると、ほとんど日本語化が進んでいる。軍配を上げるなら、Netvibes であろう。レイアウトの自由度とコードを埋め込める柔軟性が気に入った。対して、My Yahoo! の広告の仰々しさは、Yaさんの押し売りか。
色分けすると、運用効率を目指す Netvibes、ショッピングやオークションまでも含めた統合環境を目指す My Yahoo! といったところであろうか。ユーザ囲い込みの観点から、哲学的に惹きつけようとするのに対して、大々的な広告塔になりきろうとする、といった違いであろうか。とりあえず、コード集めの視点から Netvibes、コンテンツ集めの視点から My Yahoo! で併用してみる。おかげさまで、i(愛)のあるGさんはいつでも葬れる。もちろんメインは、おNeちゃんに決まってるやん!おフランス娘に、Yaさんがバックにつけば最強よ。これで毎日バイブす...やめられまへんなぁ~

1. Netvibes
レイアウトの自由度、コンテンツの柔軟性、運用の効率性、そして、ユーザの自立性といった哲学がうかがえる。サービスなんてものは、サービス会社に提供してもらうものではなく、利用者自身で構築するものかもしれん。I/F設計さえちゃんとしていれば、パーツを集めてくればいいので、コンテンツにこだわる必要はない。こういうのを魅せつけられると、コンテンツにこだわっていた自分が馬鹿らしくなる。その特徴はこんな感じ...

  • ウィジットの柔軟性が高い!この仕掛だけでも、かなりの可能性が見えてくる。
    「HTML」や「HTML editor」で Javascript やブログパーツが直接埋め込める。
    「Web Page」でURLが指定でき、いざとなればどこのサイトでもコンテンツ化できる。
    ちなみに、マーケット情報は次のサイトから株価やチャートを埋め込んでいる。
    http://www.invest-jp.net/
    http://finance.mvon.net/tool/makeboard.html
  • 検索エンジンがオン・オフできる。これは意外と大きい機能で、表示スペースが効率化できる。 ポータルサイトでは、検索エンジンを目立つところに配置する文化が根付いている。 ほとんどのブラウザが検索I/Fを持っているというのに。こんな当たり前なことを気づかせてくれる。
  • レイアウトの自由度が高い!タブ別にコンテンツを横4列まで配置可。横幅も自由に変えられる。
  • コンテンツが豊富!Googleカレンダーや Google Map などGさんサービスとの連携もなかなか。
    「E-mail Wizard」は、GMail, Yahoo!mail, Hotmaiil、その他POPに対応。
    「SNS Wizard」は、Facebook, Twitter, Linkedin との連携に対応。
  • RSSリーダとしてのユーザビリティはかなりいい。未読数も一目瞭然!
  • しかし... ちと重い!記事のリアルタイム性を重視している模様。
    日本人向けのコンテンツもいまいちか。天気予報は地域設定ができるものの、国内予報と微妙に違う。

2. My Yahoo!
広告の鬱陶しさだけで、ヤル気が失せる。なので、最初にブラウザ側でやる作業が、アドオン「Adblock」でPRの抹殺!その特徴はこんな感じ...

  • 日本人向けのコンテンツでは、Netvibes よりもいいものがある。天気予報や電力使用率など。Yahooファイナンスのポートフォリオがコンテンツとして用意されるのがありがたい。
  • 背景テーマは少ないが、タブごとに選択できる。
  • しかし... レイアウトをはじめ自由度が低い。分かりやすいとも言えるが。
    検索エンジンが当然ながら Yahoo!

3. ついでに、iGoogle
コンテンツでは「ピンポイント天気予報」と「雨雲レーダ」がお気に入りだったが、おかげでこだわりは薄れた。
さて、Gさんについて何か書こうとすると、Blogger の愚痴が始まった!
...ラベル数の値が一致しないことがあった。...統計情報はチャラにされたこともあった。数値そのものもあてにならない。...作成した文章に奇妙なhtmlタグが入ることもあった。おかげで、必ずhtmlモードでコードを確認する癖がついた。...
このような細かな不具合がユーザの気づかない所で頻繁に起こっている。また、新機能の品質の悪さは当たり前という感覚が定着し、半年は近寄らないことが習慣となった。圧倒的多数が気づかなければ、なんでもありか?これが、Gさん式民主主義なのか?
とはいえ、自由度が高いのも確かで、Gさん依存は相変わらず高い。所詮、俗世間の酔っ払いはサービスの奴隷よ。

2012-10-28

"幾何学入門(上/下)" H. S. M. Coxeter 著

マンデルブロは、著書「フラクタル幾何学」の中で自己アフィン性について熱く語ってくれた。次は、基本に戻ってハロルド・スコット・マクドナルド・コクセターに挑戦してみる。しかし、これが入門書とは...手強い!
本書は、ユークリッド幾何学から、アフィン幾何学、射影幾何学、位相幾何学(トポロジー)、そして、四次元幾何学すなわち多胞体までを概観してくれる。20世紀になると代数学や解析学の発達により、幾何学は補助的な地位に追いやられた。コクセターは、幾何学の名誉回復の趣旨で、この書を記したという。そして、古典への回帰とその重要性を仄めかす。
「本書全体の流れる統一的な筋は、変換群の思想、一言でいえば、シンメトリー(対称性)である。」

幾何学の歴史には、ユークリッド原論の第五公準をめぐっての攻防がある。それは平行線公理と呼ばれ、五つの公準の中で、こいつだけが明らかに異質だ。ここに、ユークリッドは非ユークリッド幾何学の可能性を示唆していたと想像するのは、考え過ぎだろうか...などと発言すると学生時代に笑われたものである。
ここでは、第五公準を境界にして、アフィン幾何学と絶対幾何学とで区別される。アフィン幾何学とは、第五公準を崇める立場にあり、ひたすら平行移動で変換系を構築しようとするもの。逆に言えば、第三公準や第四公準で示される円や角といった概念を無視する。いや、疎かにするぐらいか。対して、絶対幾何学とは、最初の四つの公準だけに依拠する立場にあり、平行性の概念を無視するもの。こちらは完全無視か。いずれも非ユークリッド幾何学に位置づけられるが、どちらが抽象度が高いかは知らん。アフィン幾何学は、特殊相対性理論で適用したミンコフスキーの時空にも成り立つという。幾何学的操作の基本には鏡映、回転、併進があり、線対称や点対称といった対称性の原理に見舞われる。そして、ベクトルが強力な道具となる。

「ベクトルと平行移動とは、呼び名はちがっているが、事実上は同じものである。」...ヘルマン・ワイル

図形を分割して順序に着目すると、そこに連続性のなんたるかが見えてくる。分割単位を無限小にすれば微分に結びつく。
「ふつうに行われている平行の概念は、少し拡張して、2直線は共通点をもたないか、2点以上を共通するとき平行としておく方が何かとつごうがよい。」
連続の公理については様々な記述があろうが、一つはコーシー点列が極限を持つということは言えそうか。となると、ユークリッド幾何学の多くの命題はアフィン幾何学に属すのだろう。ただ、絶対幾何学と名付けるからには、こちらの方が高尚さを匂わせる。なんとなく聖書にも通じそうなネーミングだから。トポロジーのドーナツとコーヒーカップが同じ形だなんて宇宙人の発想としか思えないし、射影幾何学にしても透視図法(いわゆる遠近法)やケプラーの無限遠点は芸術の視点だ。デザルグの定理に関する記述は、まさに芸術家の眼を物語る。
「2つの三角形が1点を中心として配景的なら、それは直線と軸としても配景的であり、また逆に、直線として配景的なら、点を中心としても配景的である。」
しかし、いくら非ユークリッドを主張したところで、双方ともユークリッドの部分幾何学であることに変わりはない。物理空間であろうと、精神空間であろうと、どんなに空間概念が進化しようとも、ユークリッドの亡霊からは逃れられない。やはり、ユークリッドの作品と後世に渡って構築されてきた完璧な証明群は、人類最高の記念碑と言わねばなるまい。

「数学は真理であるばかりでなく、最上の美でもある。数学は、ちょうど彫刻のそれのように、冷たく厳しい美であって、われわれの弱点をひきつけることは絶対ない。数学は、この上なく純粋で、最高の芸術のみが示しうるあの強固な完璧さに達することができる。」...バートランド・ラッセル

解析幾何学で、絶対に欠かせないのが座標の概念である。おかげで、方程式が導入でき、あらゆる変換系が説明できる。行列式は一段と輝きを放ち、三角関数もまた生きるというもの。方程式を単純化して事物の本質に迫ろうとすれば、座標系の方に手を加えることだってできるし、幾何学的な形そのものが座標系になることだってできる。円錐曲線の性質は、放物線を特別な形状空間に幽閉する。まさに相対的な認識能力しか持てない人間の技である。座標系を勝手にいじるなんて、絶対座標系を持った神には思いつきもしないだろう。
「解析幾何学というのは、n 次元の空間の点を、座標という n 個の順序のついた数の組で表わす方法であるといってよい。」
精神空間が歪んでいれば、真っ直ぐなものも曲がって見えるだろうし、曲がったものが真っ直ぐに見えることもあろう。実際そういう言い方をする。心が曲がっているなどと。数学は直線を好むが、芸術心は曲線美を好む。美を競う女体は至る所に曲線を魅せつけ、女どもはくびれ作りに執心だ。男どもは男どもで右曲がりのダンディズムを目指す。精神空間に曲率があるとしたら、心が曲がっている方が正常なのかもしれん。そして、精神になんとなく角度があることを感じながら、三角形に憑かれる。ピタゴラスの定理やヘロンの公式を眺めるだけで落ち着くのは、三角形に心のふるさとを感じるからであろうか?二体問題は完璧に解けるのに、三体問題になると途端に解けない。だが、人は皆、複雑で退屈しない空間がお好き。だから、三角関係や三面記事を好むのか?やはり心が曲がってそうだ。
非ユークリッド空間に馴染めば、2平面が交わっても直線を共有しないことがあると言われても、まごつくことはないだろう。しかし、主観には様々な曲率が混在しているように思える。曲率の違った空間を複合して精神空間を形成すれば、それは何幾何学と呼ばれるのだろうか?多重人格の正体は、多重曲率空間であったか...

「わたくしは、自分が世間の眼にどう映っているかは知らない。けれども自分自身としては、海辺にあそんでいて、時折ふつうよりもなめらかな石や美しい貝をみつけて楽しんでいる子供にすぎないのではないかと思われる。しかも真理の大洋はまるで未知のままに、わたくしの眼前によこたわっている。」...アイザック・ニュートン

本書の話題は、目が回るほど豊富だ。定規とコンパスで作図できる条件とフェルマー素数の関係、等長変換と相似変換、結晶格子学、黄金分割と葉序、テンソル記法とクリストッフェル記号、デュパンの標形、デザルクの定理、完全6点列、有限回転群とプラトン立体の関係、四色問題と六色定理、オイラーの多面体定理とヒーウッドの定理、多胞体とシュレーフリの公式など...難解ではあるが、眺めているだけでなんとなく癒される。こういう感覚になれるのは...真理の偉大さがそうさせるのか?やはり真理とは、人をMにするものらしい。

1. 完全6点列と調和点列
射影幾何学の最も美しい特質の一つは、双対原理であるという。射影平面上の定理では、「点」と「直線」という語を入れ替えても、定理が依然として成り立つというから驚きだ。共線変換では、直線を直線に、点列を点列に、線束を線束に、完全四角形を完全四角形に変換する。相反変換では、点を直線に、直線を点に、点列を線束に、完全四角形を完全四辺形に変換する。
尚、完全四角形とは、平面上の4つの任意の点を2点ずつ2組に分ける組み合わせは3通りあり、これらの点を結ぶと6本の直線が引け、その4点と6直線とでできる図形である。完全四辺形とは、平面上に4本の直線があり、どの2本も平行ではなく、どの3本も共通の交点をもたない場合、直線どうしの6個の交点からなる図形である。
「完全四角形の2組の対辺がそれぞれ垂直ならば、残りの1組の対辺も垂直である。」
また、無限遠点が特別な役割を果たさないという事実を強調するために、重心座標を放棄するという。具体的には、完全6点列が調和点列になる特殊な例を紹介してくれる。完全6点列とは、完全四角形の6直線を、その頂点を通らない任意の直線で切ってできる図形のことで、6点列が特殊な場合において調和点列をなすという。ちなみに、調和点列では、任意の点 A, B, C, D が直線上にある時、AB : BC = AD : DC の関係になる。
完全6点列の各点は、残りの5つの点から一意的に定まるわけだ。任意の点を直線上以外に選び作図していく様を眺めれば、調和点列は定規だけで作図できることが見えてくる。そして、調和点列を射影座標と見ることもでき、二次元空間を一次元空間に投射していると解することもできる。

射影幾何学の基本定理:
「射影変換は、1つの点列の中の3点と、他の点列の中のそれに対応する3点を指定すれば、一意的に定まる。」

2. 有限回転群と無境界仮説
回転とは、例えば集合 (a, b, c, d, e, f) において、a と b を交換し、 c を d に、d を e に、f はそのままといった変換をする。要するに部分的な巡回置換だ。こうした巡回群を、幾何学的に解釈するとどうなるか?例えば、正三角形を一辺について対称変換を行い、この操作を繰り返せば、正四面体が形成される。このような回転群は必然的に円軌道を描くだろう。しかも有限回に閉じられるはず。なるほど、有限回転群と巡回群は同型の群と見なすこともできそうか。次の記述が、五つのプラトン立体に通ずるのは言うまでもない。

「3次元の有限回転群は、巡回群 Cp(p = 1, 2, 3, ...)、二面体群 Dp(p = 2, 3, ...)、
四面体群 A4、八面体群 S4、20面体群 A5 にかぎる。」

ところで、有限回転群に支配された空間とは、どんな世界であろうか?1点を通るすべての直線が一巡して元へ戻るように、1直線上の点の集合は閉じている。有限の平面に閉じられる点が、直線上を永遠に進めば、元の位置に戻る。すると、回転群をどんどん細かく分割していき、無限集合に拡張しようとすると、直線はやがて曲率を持ち始め、ついには円になるということであろうか?距離の変換によって、直線は円に近づき無限遠となって極限は消滅する。数学的に言えば、集積点が消滅する。第五公準を仮定しなければ、永遠に円の中に幽閉されるではないか。これが宇宙の無境界仮説の正体なのか?んー...そうだと勝手に解釈しても、今度は曲率が負になる空間が説明できない。曲率が負になる空間を、単純に曲率が正の宇宙の外側の空間とすればいいのか?だとすると、宇宙の外側の空間では、二度と同じ位置に戻れないということか?そうかもしれん。これが時間の正体なのか?だから、人はいつも心の外で後悔し続ける。これを客観性と言うのかは知らん。人間が思考するとは、ハムスターが回し車の中で永遠に走っているような状態を言うのかもしれん。

3. テンソル記法とクリストッフェル記号
「有名なリッチの記法を導入しよう。この記法は意味深くもあり経済的である。この助けがなかったとしたら、一般相対論を定式化することはおそらく不可能であったろう。」
テンソルは、多次元の行列として表現できる便利な道具で、線形性を扱う時に病みつきとなる。例えば、ベクトル空間の基底 r1, r2, r3 に対して、双対基底 r1, r2, r3 を用いると、次のように表せる。

  rα・rβ = δαβ

δは、クロネッカーのデルタとして知られる。ただし、αとβは、単なる添字にすぎない。この記法を幾何学に持ち込むと、r1 は、平面 r2r3 に垂直で、長さは、r1・r1 = 1 となる。r2 や r3 についても同様。また、共変テンソル gαβ = rα・rβ と、反変テンソル gαβ = rα・rβ という二つの対称行列の積は単位行列となる。
そして、クロネッカーのデルタと似た交代記号を紹介してくれる。交代エプシロンとかいうもので、なかなか便利そうな形をしている。

  εαβγ = εαβγ = 1/2(β - γ)(γ - α)(α - β)

さらに、クリストッフェル記号を見せられると、ある種の巡回群が見えてくる。

  第一種クリストッフェル記号: Γij,k = 1/2{ (gjk)i + (gik)j - (gij)k }

これが測地線の大定理として紹介されると、精神空間もテンソル記法でモデリングできるのではないかと思えてくる。

4. デュパンの標形とオイラーの公式
デュパンの標形が、曲面率を与えるオイラーの公式になるプロセスは感動モノだ。

デュパンの定理:
「たがいに直交する3つの曲面系では、そのうちの1系の曲面上の曲率線は、かならず2つの系の曲面の交わりになっている。」

リューヴィルの定理:「すべての等角変換は球を球に移す。」

曲面がモンジュの形 z = F(x, y) で与えられると、導関数は次のようになる。

  z1 = ∂z/∂x, z2 = ∂z/∂y, z11 = ∂2z/∂x2, z12 = ∂2z/∂x∂y, z22 = ∂2z/∂y2

そして、マクローリン展開すると、次のようになるという。

  z = z(0, 0) + z1x + z2y + 1/2(z11x2 + 2z12xy + z22y2) + 1/6(z111x3 + ...) + ...
     = 1/2(b11 x2 + 2 b12xy + b22y2)

この平行平面の切り口は円錐曲線の形になっている。デュパンの標形とは次のようなもので、これと相似になるということらしい。

  b11 x2 + 2 b12xy + b22 y2 = ±1

また、標形上で任意の方向での動径の長さは、この方向での法曲率半径の平方根に等しいという。原点からのベクトル r(x, y, z) において、法曲率 k とすると、次の関係が得られるという。

  r = 1 / √|k|

これを極座標系に変換すると、曲面率を与えるオイラーの公式になる。

  k = k(1) cos2 θ + k(2) sin2 θ

5. オイラーの多面体定理とヒーウッドの定理

  V - E + F = 2 (V:頂点の数, E:辺の数, F:面の数)

これがオイラーの多面体定理である。任意のコンパクトな曲面上に対して成り立つ公式に拡張すると、次のようになるという。

  V - E + F = χ ≦ 2

χをオイラー - ポアンカレの標数と呼ぶそうな。
また、ヒーウッドの定理は、任意の曲面を塗り分けるのに十分な色数を規定する。
「種数 χ < 2 の曲面上の地図を塗り分けるには、高々 N 色で十分である。」

  N = {7 + √(49 - 24χ)} / 2

ここで種数について議論され、種数 p において次式が成り立つという。

  χ = V - E + F = 2 - 2p

尚、球面は種数0、円環面(トーラス)は種数1の閉曲面となり、この場合の種数は穴の数ということになろうか。ただ、ヒーウッドの公式は、以下の形の方をよく目にする。

  N = {7 + √(1 + 48p} / 2

6. 正多面体と正多胞体
正多胞体とは、3次元の正多面体すなわちプラトン立体を四次元に拡張したものである。正多面体は、正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の5種類ある。一方、正多胞体は、正五胞体、正八胞体、正十六胞体、正二十四胞体、正百二十胞体、正六百胞体の6種類ある。これらをシュレーフリ記号で表すと、次のようになる。
尚、シュレーフリ記号は、構成面の正 p 角形、各頂点に集まる面数 q とした時、4次元では {p, q} を胞(セル)と呼び、一辺に集まる胞数 r とすると、{p, q, r} の形で表す。


シュレーフリ記号V, E, F
正四面体{3,3}4,6,4
正四面体(立方体){4,3}8,12,6
正八面体{3,4}6,12,8
正12面体{5,3}20,30,12
正20面体{3,5}12,30,20
  (V:頂点の数, E:辺の数, F:面の数)


シュレーフリ記号N0, N1, N2, N3
正五胞体{3,3,3}5,10,10,5
正八胞体{4,3,3}16,32,24,8
正16胞体{3,3,4}8,24,32,16
正24胞体{3,4,3}24,96,96,24
正120胞体{5,3,3}600,1200,720,120
正600胞体{3,3,5}120,720,1200,600
  (N0:頂点の数, N1:辺の数, N2:面の数, N3:胞の数)

こうして頂点や辺や面や胞の数を眺めるだけで、対称性の原理に秘められた真理の数なるものの存在を予感させる。「万物は数である」と信じても不思議はないか。やはり、幾何学は宗教であったか。

2012-10-21

"フラクタル幾何学(上/下)" Benoit B. Mandelbrot 著

買ったはいいが、一年ぐらい積まれたまま、亡霊のように付き纏う奴らがいる。それは未読エリアと呼ばれ、退治に乗り出しても乗り出しても、部屋の一郭に代わる代わる陣取ってやがる。もはや、混沌とした知識の山が異次元空間に埋もれていくのを、指をくわえて見ているしかない。中でも、こいつは一際手強い。なにしろ数学界の怪物を相手取るのだから...

怪物たちは、非整数次元や非整数微積分という奇妙な空間に住んでやがる。非整数というからには離散性を否定する。しかし、だ。連続性を主張しながら、微分不可能とはどういうわけか?ユークリッド幾何学では、点、線、面...を、0次元、1次元、2次元...に対応させる。つまり、次元は整数で組み立てられる。非ユークリッド幾何学の立場にトポロジー(位相幾何学)があるが、位相においては連続性を保っても、次元の移行ではやはり離散性を示す。徹底的に連続性を崇めるならば、空間次元においても連続性を保ちたい。そこで登場するのがフラクタル次元だ。
フラクタル幾何学とは、ユークリッド幾何学やトポロジーで常識とされる離散的次元を連続的次元に拡張しようとするもの、とでも言っておこうか。尚、ライプニッツは、既に微積分を非整数で一般化していたそうな。その意味で、古典数学に隠された素顔を暴こうとする試みである。ユークリッド空間では、直線は1次元だが、海岸線は平面に拡がるので2次元ということになる。トポロジー空間では、直線も海岸線も同じ線だから、位相で抽象化されて1次元となる。ところが、フラクタル空間では、直線より海岸線の方がどう見たって複雑なのだから1次元より大きく、正方形のように面を埋め尽くすわけでもないのだから2次元より小さいとする。こうした視点は極めて感覚的ではあるが、合理性があるかもしれない。
議論する時、人は「思考の次元が違う」などと言い相手を蔑む。次元は認識空間において自己存在にかかわる重要な問題なのだ。そこで、3次元空間に肉体を置くと知りながら、精神という証明のしようのない空間に救いを求める。やはり次元の違う自我がどこかに存在するのだろうか?精神空間にはフラクタル次元のようなものが形成されているのだろうか?おそらくそうだろう。その証拠に、いつもフラフラよ!千鳥足になってどんなに複雑な軌道を描こうとも、俺は酔ってないぜ!と主張し、真っ直ぐ歩いているつもりでいるのだから。

フラクタル幾何学を実践面から眺めると、まだまだ未知数のようだ。とりあえず統計解析の分野で利用されるのだろう。おいらは、統計学と聞くと拒否反応を示す。というのも、分布モデルに当てはめることに執着し過ぎるように思えるからである。モデリングに失敗すれば、簡単にピント外れな議論に陥り、たちまち誤謬をばらまくことになる。その意味で、数学から程遠く、社会学に近い印象がある。なによりも、型に嵌めようとする考え方が嫌いなのだ。その代表と言えば、ガウス分布。正規分布とも言うが、何が正規なんだか?初等教育で学業成績の偏差を例に持ち出せば、学生は素直にうなずく。しかし、現実社会には非ガウス分布が溢れている。新たな問題が発生すると、とりあえずガウス分布に当て嵌めてみる。その考えが悪いとは思わないが、信仰化する傾向がある。株式市場ですら、ちょいと前までガウス過程を想定してきた。ド素人感覚で言えば、関数の直交性や対称性から地道に解析すればいいものをと思うのだが、おそらく複雑系を相手取ると、なんらかの法則や型に嵌め込んで近似する方が現実的なのだろう。
本書は、統計理論があまりにもガウス過程を信じこんできた弊害を指摘している。ガウス過程に着目して非定常性を想定するために、スケーリング則に持ち込めず、幾何学的な解析ができないと。逆に、定常性に着目して非ガウス過程を受け入れれば、安定した確率過程でモデリングできるという。スケーリングとは、拡大縮小や鏡映や回転などの幾何学的な変換操作とでもしておこうか。その重要な特性に自己相似性があるが、ここでは「自己アフィン性」という用語を持ち出している。
ところで、アフィン変換って、ユークリッド幾何学で言うところの第5公準を中心にした物の考え方じゃなかったっけ?つまり、ひたすら平行移動だけで変換系を説明しようするもので、その中心的概念は合同や相似ということになる。学術的な立場からすると、曲率を中心にしたトポロジーとは真逆な発想で、抽象レベルでは低い方向に映る。
そこで、例のごとく思考が勝手に暴走を始めるのであった...
相似性だけで複雑な現象に追従しようとすれば、拡大縮小、回転、鏡映、反転、ループ、カスケードなどの操作が必要になる。ただ、時間軸と空間軸で同じ相似比ではかなり制約を受けるので、各々の次元で独立した相似比に対応させることになる。連続性を保つならば、どこかに不動点が存在するかもしれない。不動点が存在しなければ単純な平行移動で、不動点が存在すれば逆変換と捉えることもできそうか?つまり、回転操作に対して不動点で簡略化できるということか?その意味では抽象レベルが高い方向なのか?また、スケーリングでは、対数スケールや指数スケールに留まらず、あらゆる関数的スケールまでも含まれるのであろう。ただ言えることは、その根底に対称性の原理があるということ、そして、手に負えない無秩序な現象に対して唯一秩序として引き止めてくれるのがスケーリングであるということ、ぐらいであろうか。
...などと勝手に解釈してみたものの、自分の理解力の乏しさを露呈する結果となってしまった。だが、なぜか心地良い。難解な書とは、M本能を呼び覚ますものなのか?

本書は、最初に多くの知見をまとめたエッセイであることが宣言され、フラクタル理論が完成にまだ遠いことも曝け出す。特定のケーススタディの形式で記述されるのは、まだ結論めいたものが打ち出せないからであろう。分布モデルの型に嵌めるというより型を模索するという意味では、統計学よりも解析学に近いか。抽象化のアプローチとは対立的で、現実からのアプローチという意味では、数学よりも科学に近いか。フラクタルにとって、スケーリングが重要な概念であることは分かる。幾何学的解析には欠かせない視点であろうから。しかし、非スケーリングなフラクタル集合も紹介されるから、訳が分からん。フラクタル次元が複雑度を示すのに有効であることは分かる。ただ、フラクタルかそうでないかの曖昧さは拭えない。一応、このように定義される。
「フラクタルとは、ハウスドルフ - ベシコビッチ次元が、トポロジカル(位相)次元よりも大きくなる集合である。...
非整数Dを持つすべての集合はフラクタルである。...」
次元の索引では、ペアノの平面充填曲線は、D = 2、カントールの悪魔の階段は、D = 1 で、いずれも「予想に反してフラクタルでない集合」に分類される。そうなると、カントールの悪魔の階段をフラクタルとするには、別の概念が必要になりそうだ。んー...フラクタルの定義そのものがぼやけてくる。また、割れたガラスの断面がフラクタルとは似つかないものに対して、石や金属の破砕(フラクチュア)面はフラクタルだという。フラクタル理論があらゆる複雑系を言い当てるほど万能でないことは、確かなようだ。フラクタル性は、純粋ランダム性とも違う次元にありそうか。

1. フラクタルの研究方針...ブラウン運動、非整数次元、くりこみ論
物理的なブラウン運動の幾何学モデルにウィーナー過程があるという。連続的な確率過程で、ランダムウォークを分析する時に重要な概念とされるそうな。意外にも、ブラウン運動は単純な現象だという。直線運動と衝突だけで説明できるのだから、単純と言えば単純か。そして、紹介される事例の多くは、ブラウン運動を修正したものである。
最も基本的な操作は、自己相似形のカスケードで生成される。ある次元 D において、自己相似形に支配されるということは、全体が相似比 r で N個の部分に分割できるということである。その関係は、次式のようになる。

  r = 1 / N1/D

変形すると、

  NrD = 1
  D = log N / log (1/r)

これがフラクタル次元である。ユークリッド次元を E とすると、0 ≦ D ≦ E の関係になる。具体的な事例がわんさと紹介されるが、気になるところをつまんでおこう。
(E: ユークリッド次元, D:フラクタル次元, DT: トポロジカル次元)

・海岸線(リチャードソンの指数)E = 2,D = 1.2,DT = 1
・カントール集合(カントールダスト)E = 1,D = log2/log3,DT = 0
・トリアディックなコッホ曲線E = 2,D = log4/log3,DT = 1
・アポロニウスのガスケットE = 2,D = 1.3058,DT = 1
(正確な上限と下限は、1.300197 < D < 1.314534)
・一様なフラクタル乱流E = 3,D = 2.5 ~ 2.6,DT = 2

しかしながら、フラクタル次元が整数の場合もあるようだ。

・E ≧ 2 における連続的なブラウン軌跡D = 2,DT = 1
・E = 2 における連続的なブラウン関数D = 3/2,DT = 1
・E > 2 における連続的なブラウン関数D = 1 + (E - 1)/2,DT = 1

連続なブラウン運動の軌跡と関数は同値にならないという。だから区別して記述される。尚、ブラウン運動という用語そのものが曖昧だという。確かに、時間的な軌跡と事象的な関数では、観点が違うような気がする。本書の話題は、このブラウン運動を基本に置きながら修正を加えていくことになる。
また、重要な概念に「くりこみ論」がある。くりこみ群の目的は、観測における粗視化の度合いを変えたときの物理量の変化を定量的に捉えることだという。その特徴は、逆変換をもたず、粗視化した状態を与えても一意的に元の状態に戻らないという。例えば、乱流は自己相似的ないくつかの渦に分解され、散逸に終わるという。エントロピーの法則に従うのだろうか?このようなモデリングには、ハミルトニアンを用いる方法があるそうな。有限にくりこまれたハミルトニアンは、ある程度縮小された図形の分布を与えるという。そして、この極限の分布がフラクタル次元を与えるはずだとしている。なかなか手強い研究方針だ。様々なランダム図形の結合確率分布を求めるようなものであろうか?

2. カントールの悪魔の階段
病的とされるカントール集合だが、原理そのものは単純だ。まず、線分 [0, 1] を3等分し、中央区間 [1/3, 2/3] を取り除く。残った部分を更に3等分して、中央区間を取り除く。この操作を無限に繰り返し、残った点の集合である。操作方法を眺めれば、通信回線におけるバーストエラーの分布モデルをイメージさせる。
そのフラクタル次元は、D = log2 / log3 = 0.6309...
1より小さいとは、存在するようで存在しないような...存在確率と相性が良さそうな...
本書は、「カントールダスト」という用語を提唱している。これは、言うまでもなく不連続体である。ところが、カントール関数は単調増加の連続体になるから摩訶不思議。カントール関数とは、カントール集合に質量の概念を持ち込んだようなものらしい。
まず、元の棒の長さと質量をともに 1 とし、横座標 R の値が、0 から R の間に含まれる質量を M(R) とする。ギャップには質量がないので、M(R) が変化しない区間がある。そして、座標 (0, 0) から (1, 1) まで増加するグラフを描くと、なんと!質量の概念を加えるだけで不連続体が連続体になってやがる。しかも、微分不可能ときた。この階段は、一様性が欠落したカントールの棒を、一様で均質なものに写像するという芸当をやってのける。
また、ギャップ(隙間)をトレマと呼んでいる。ギリシャ語では穴を意味するそうな。ちなみに、重要な科学的意味を伴って活用されない最も短いギリシャ語であろうと、笑わせてくれる。
トレマ側が重要なモデリングになることもある。トレマの長さの和は次のようになる。

  1/3 + 2/32 + ... + (2k)/3k+1 + ... = 1

これは、乗数理論モデルをイメージさせる。こうなると、連続性の定義そのものを見直す必要があるかもしれない。そして今、知らず知らずして悪魔の階段を登っているってことはないだろうか?千鳥足で歩きながら記憶がぶっ飛ぶとは、まさに不連続体への写像を体現しているのではないか?

3. 宇宙のクラスター化
膨張宇宙と言われるが、物質密度は均等化するようには見えない。銀河はその集団性を壊そうとはしない。物質の世界では、ポリマーのような重合した巨大分子が、複雑な幾何構造を維持しながらブラウン運動をする。通信回線ではエラーの出現に間欠性が見られ、磁気記憶装置の誤り訂正符号はバーストエラーに対処する。そして、なによりも人間社会は群衆化を好む。どうやら自然界は、均等性よりもクラスター化を望んでいるようだ。完全な分散システムを構築することは、ほぼ不可能なのかもしれん。
宇宙の均等化と言えば、オルバースのパラドックスという有名な逆説がある。天体が一様に分布していれば、すなわち、あらゆるスケールに対して D = 3 と仮定すれば、昼夜を問わず光り輝くことになる。しかし、宇宙のクラスター化を前提にすれば、このパラドックスを回避できるという。たとえ宇宙が無限空間であったとしても。フラクタル宇宙の研究者たちは、そのことに気づいていたという。しかし、歴史は彼らを病的に扱ってきたという。
その功績ではフルニエの宇宙モデルを紹介してくれる。科学界では嫌われ者だそうな。ユグノー教徒を祖先に持ち、唯心論者で宗教的神秘者でもあったというから、そのせいかは知らん。フルニエは、盲人が文字を聞くことができる人工器官を作ったり、初めてロンドンからテレビ信号を送ったりした人物だという。マンデルブロは、ケプラーへの反論として持ちだそうとしなかった議論を、フルニエへの反論として持ち出すことに納得がいかない様子だ。
ところで、宇宙の密度って、どうやって定義するのだろうか?
まず、地球を中心に定義してみよう。半径 R の球内の質量 M(R) とすると、次式で近似できる。

  M(R) / [(4/3)πR3]

R を無限にすると、近似密度が収束する極限値として宇宙密度が定義できるという寸法だ。ただ、宇宙が球形なのかは知らん。過去の観測値では、望遠鏡で観測できる範囲が拡がるにつれ、近似密度は驚くほど規則正しく減少しているという。そして、次式の関係でうまく推測できるそうな。

  M(R) ∝ RD

カントールダストでも同じ結果を得たという。地球近辺から始めれば、最初は3次元が現れることになる。そして、周辺には物質がないから、次に0次元がくるのか?さらに観測範囲を拡げて物質にぶつかると、また3次元に戻るのか?大雑把には、0 < D < 3 あたりの分布になりそうか。フルニエの理論値では D = 1 となるらしいが、最良の推定では D ≒ 1.23 になるという。ただ、宇宙密度が正に収束する必要があるのかは知らん。それに、宇宙が時間とともに膨張しているのなら、フラクタル次元は時間の関数にならなくていいのか?

4. コンピュータ回路の幾何学
複雑なコンピュータ回路では、多数のモジュールに細分化される。多数の要素 C とし、多数のターミナル T を介して周辺機器と接続されるとすると、数%の誤差で次式の関係があるという。

  T1/D ∝ C1/E

いわゆる、レントの法則か。実際、電子回路設計では、これと似た感覚でゲート規模の見積もりをやる。C をモジュール全体の体積、T を分割されたモジュールの表面積の和と捉えれば、幾何学的考察ができるはずだ。モジュールの表面積の和とは、インターフェースの持つ総ビット数、あるいは総情報量という見方をすればいい。ただ、モジュールの質の概念が曖昧で経験的なものが大きい。つまり、勘よ。尚、同じ性能分析が人間の能力においても説明できるかは知らん。例えば、脳のつまり具合や質量やらで。

5. R/S解析とハースト指数
ハロルド・エドウィン・ハーストは、アスワンハイダムの計画にあたり、ナイル川の流量分析から、R/S解析とハースト指数を考案したという。
0 年から t 年までの川の流量を総計したものを X(t) とする。t を 0 から d まで変化させ、d 年目における平均値からの増加量と減少量の累積和を求め、その累積和の最大値と最小値の差を R(d) とする。これは、当面の d 年間を支障なく過ごすために備えるべく貯水量ということになる。そして、次式を導いたという。

  R(d)/S(d) ∝ dH

S(d)はスケーリング因子で、とりあえず標準偏差としておこうか。解釈が間違っていたらごめんなさい。というのも、こう記される。
「0 年からd 年の間の標本の平均流量を各年の流量から引いて調整し、t が 0 から d まで変化するときの調整された X(t) の最大値と最小値の差によって R(d) を定義する。」
この調整というニュアンスがよく分からん。おまけに、各年の流量はガウス型ホワイトノイズに従うという仮定の元では、S(d) は重要でないとしている。実際は重要らしいが、マンデルブロの論文を読めってか。
ハーストは、マルコフ的であることを期待したが、予想外の結果となったそうな。川の流量では、H はほとんど 1/2 より大きくなるらしい。ナイル川は、H = 0.9 で、各年の流量は独立とは程遠い。セントローレンス川、コロラド川、ロワール川は、H = 0.9 ~ 0.5 だそうな。H の範囲は 0 ≦ H ≦ 1 となり、0.5 より大きければ持続性があり、0.5 より小さければ持続性がないことを意味する。実際、ハースト指数は市場経済でトレンド性を分析するために用いられる。

6. 主観的数学か、芸術的数学か
しばしば数学は客観性に富んだ学問とされるが、次元の中間的な按配を求める発想は主観性の強い数学と言えよう。このような思考は、カントに通ずるものがある。カントは、理性を構築するには客観だけでは不十分だとし、主観で魅了した。彼の重視した主観とは、直観と芸術心である。本読は、美術品にもフラクタルが出現する例を紹介してくれる。啓蒙用聖書の口絵、レオナルド・ダ・ヴィンチの「大洪水」、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」など。
それにしても、コンピュータが作図した仮想惑星、仮想大陸、仮想山脈は、気味が悪いほどリアル!D = 2.1 から 5/2 のブラウン湖の景観、D = 2.3 のブラウン諸島など。「ガウスの山」と呼ばれるCGを眺めるだけで、自然界に存在する複雑系はすべてガウス過程で説明できると錯覚しても仕方があるまい。だが、現実は非ガウス分布に満ち満ちている。そうなると、ガウス分布を用いる正当性を説明する必要がある。山脈はスケールの不変性という特性を持ち、連続的な起伏をもたらす分布が、ガウス分布と相性がいいようだ。最も簡単な起伏はブラウン関数に支配されるという。そして、「非整数ブラウン関数」と名付けている。ブラウン関数の特徴は、どの部分を垂直に切っても、断面は線分のつながりである普通のブラウン関数になることだという。当たり前か。さらに「非ガウスの山」も紹介されるが、これまた気味が悪いほどリアル!ここに提示される数学は、芸術に近い数学なのかもしれん。コンピュータの観点からの芸術とは、些細なバグによってもたらされる結果であろうか?

7. 孤高の英雄たち
今でこそ学問の本流に名を連ねる天才たちだが、彼らが生きた時代には夢想家や異端者とされた人たちが大勢いる。社会から受け入れられるのは、皮肉にも人生の幕を閉じてから。貧乏生活を送り、共同墓地に埋葬された偉人も珍しくない。人類の文明は、こうした孤独の英雄として生きた人々によって支えられる。対して、時代の寵児とされる人たちが、隠れた英雄を覆い隠すかのように生きているのかは知らん。アカデミーや学会などの客観性に富んだとされる団体でさえ、政治的思惑に支配される。あまりにも突飛的な着想がゆえに、審査会から侮辱的な評価を受けたりと。フラクタル幾何学に携わった研究者たちは、まさにそんな人たちの集まりだという。
レヴィ分布のポール・レヴィ、乱流における微分方程式の離散化モデルを提唱したルイス・フライ・リチャードソン、連続時間における確率過程によって株価変動を推測したルイ・バシュリエ、宇宙をスケーリングで説明できるとしたフルニエ、単語の出現頻度の順番と出現確率の関係が反比例するというジップの法則を提唱したジョージ・キングズリー・ジップ、などなど...いずれも、今日もてはやされるロングテール現象やべき乗則を説明するための道具とされるが、その功績はあまり目立たない。真理を探求する匠たちの執念は、けして脂ぎった欲望から生じるものではあるまい。
「現代数学が重視している抽象的な理論からなにか実際の用に役立つことが引き出され得るかという質問に対しては、ギリシアの数学者達が、数時代後に天体の軌道を表現することになるとは思わずに、円錐曲線の諸性質を発見したのは、その純粋な思索が基礎にあったためであると答えておくのがよいだろう...アーメン」

2012-10-14

"美の構成学" 三井秀樹 著

美とは何か?こうした主観的概念への問いは、永遠に繰り返されるであろう。それは、精神そのものが得体の知れない抽象体であることの証であろうか。科学者は単純な理論を美しいと言う。数学者は単純な数式で世界を表せれば、それを美しいと言う。芸術家は本質的なものをうまく体現できた瞬間、新たな世界美に酔い痴れる。いずれも真理の探求とその苦悩から解放された結果であろうか。真理とはよほど心地良いものらしい。
何をするにしても、センスが良いというだけで惹きつけられるものがある。ファッションやインテリアばかりでなく、仕事スタイルやライフスタイル、そして思考のスタイルに。金持ち振りを見せびらかすのではなく、さり気なく演出されるしぐさや哲学に。これぞ美学というものであろうか。それにしても、芸術とは奇妙なものである。写生した絵画が芸術的な評価を受けても、実物には目もくれない。オーケストラの奏でる音はとても自然界ではありえないのに、高尚な趣味とされる。極めて人工的なものに目を奪われるのは、自然を征服したとでもいうのか?いや、永遠に満たされない虚しさを表明しているだけのことかもしれん。

人類は、古くから美しい形やプロポーションに憧れ、造形に対して調和の美を求めてきた。美の摂理は、伝統的な様式の踏襲と芸術家たちの直感に支えられてきた。どんなに複雑な形でも、対称性を示すだけでなんとなく和む。なにしろ、人体という入り組んだ形に対して、脚から頭までシンメトリーというだけで美人の概念が成り立つのだから。美に共感が生じるということは、そこになんらかの普遍的な感覚があるのだろう。構成学とは、まさに美の原理体系を学術的に模索しようとするものである。著者は、構成学という学問があまり認知されていないことを嘆く。電子工学や宇宙工学を学ぶためには、基礎である物理学の諸原理を学ばなければ話にならない。ところが、構成学を学ばなくてもグラフィックデザインやファッションデザインはできる。こうした背景が、構成学を魅力のない学問にしていると指摘している。確かに独学型のデザイナーは少なからずいる。国語教育から逸脱した小説家が大勢いるように。だからといって、基本を疎かにすることにはならない。独学ほど能動的な学び方はないだろう。学問には堅苦しい印象もあるが、実は、芸術と同じくらい自由とすこぶる相性がいい。おそらく構成学的な思考は古くからあり、独学的な歩みを遂げてきたのであろう。古代の建造物や美術品には、シンメトリーや黄金比やルート矩形といった数理的原理が多大に盛り込まれる。やはり、人間はユークリッド幾何学の純粋さに居心地の良さを感じるようだ。
しかし、学問として本格的に始まったのは、1919年ドイツの造形学校「バウハウス」からだそうな。そして、色の三要素、色彩対比、配色や単純な幾何学的形体を用いたリズムやコンポジションなどが盛んに研究されたという。ちょうど産業革命後、世界中に工業生産の波が押し寄せた時代と重なる。機械生産からは見出せない美的感覚の必要性から、構成学なるものが生じたという。その理念は、ネーミングからして後の構造主義に通ずるものを感じる。「構成」はドイツ語の「Gestaltung」、英語の「Construction」の翻訳というから、建築的発想を主眼にしているようだ。ちなみに、ガウディは自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家になり、建築家のみが他の芸術を支配する空間を組織できるとした。バウハウスは、ガウディ精神が受け継がれるように映る。

人間の造形に対する美的感覚は、極めて複雑な形を相手にする。人は奇妙な曲線美や不条理な形に芸術を感じる。日本の伝統美では、茶碗にみる釉薬の流れや、滲み、かすれ、あるいは偶発的に生じるひび割れや墨流しのようなパターンまで、わび、さびの表象としてきた。まさに芸術は、理不尽さを見せつける。
一方で、数学には複雑な形を分析する手法にフラクタル理論がある。その基本概念は、自己相似形を用いて、鏡映、回転、平行移動、拡大縮小といった幾何学操作にある。フラクタル幾何学の父ブノワ・マンデルブロは、雲と山の風景をデジタル数値のみで写真のようなリアルな映像を再現して世間の度肝を抜いた。以降、フラクタル・パターンが各国で次々と発見される。フラクタル理論は、どんな複雑系も定量化できる可能性を示唆している。実際、この偉大な数学者は、あるインタビューで経済学者を名乗り、株式市場の分析をやってのけた。構成学にも、鏡映や回転といった幾何学操作によって造形の美を解析しようとしてきた歴史がある。
本書は、バウハウスの理念からフラクタル理論までの構成学の歩みを概観してくれる。構成学とは、人間の美的感覚に数理的秩序を結びつけ、さらに哲学までも結びつけようとする学問というわけか。改めて科学と芸術の相性の良さを感じるのであった...

1. デザイン運動のはじまり
ヴィクトリア朝の時代、大量生産による安価で粗悪な商品が溢れたという。19世紀、産業革命によって引き起こされた工業生産に対抗して、アーツ・アンド・クラフツ運動が起こる。ウィリアム・モリスは画家や工芸家に働きかけた。機械生産は人間性を疎外すると。職人ギルドの造形精神を取り戻せと。しかし、彼は過去の伝統的様式に囚われない。機械生産を否定しつつも革新的なデザイン精神を模索したころから、モリスは近代デザインの父と呼ばれるそうな。デザイン運動はヨーロッパ各地に飛び火する。パリではアール・ヌーボー様式、そのオーストリア版でウィーンで結成されたのがゼセッション、ドイツではユーゲント様式がそれぞれ展開される。この時代、美を工学的に研究する教育分野を必要とした。この頃、工業製品の品質向上と効率化を図るための標準化運動が発生し、やがて規格化運動へと発展する。20世紀初頭に設立されたドイツ工作連盟(DWB)のムテジウスやベーレンスが起こした標準化運動は、日本工業規格(JIS)の原型になっているという。

2. バウハウスとメディアラボ
バウハウスとメディアラボとは、まったく関係なさそうだが、実は血統を受け継いでいるそうな。1919年、国立バウハウスは、ワイマール共和政の元で、世界初の本格的なデザイン教育機関として創立。もっとも19世紀中頃から、イギリスをはじめヨーロッパ各地に、専門的な職能技術を教える学校や工芸学校は存在したらしい。だが、職能に特化したものではなく、美術、建築、工業、手工業、工芸など広範な造形活動に共通する原理や理論が扱われたのは初めてだったという。初代学長ワルター・グロピウスには、芸術と技術の統合の最終的な姿は建築であるという信念があったという。彼もDWBの一員。フォトモンタージュや多重露光による超現実的表現、あるいは、カメラを使わないフォトグラムや、現像途中で故意に光線を入れ画像の反転現象を起こすソラリゼーションなど、光による新たな表現法が登場する。そして、平面から立体への展開、様々なテクスチャの試みなどが、構成教育のカリキュラムに組み込まれていく。タイポグラフィやグラフィックデザインが登場したのもこの頃。こうした試みが今日のコンピュータグラフィックスの礎となる。
ところが、1933年バウハウスはナチス政権下で弾圧され、ドイツを追われた教授陣はアメリカに渡る。その一人モホリ・ナジは、1937年シカゴにニューバウハウス(アメリカンスクール・オブ・デザイン)を設立。1939年シカゴ・デザイン学校に改名し、1949年にイリノイ工科大学に併合。ナジの弟子ギオルギー・ケペッシュは、マサチューセッツ工科大学に招聘され、メデイアラボの前身、高等視覚研究所を設立。こうして、IITとMITが世界の工業デザイン、建築デザインの最先端をいく教育機関として君臨することになったという。ケペッシュは、視覚伝達の重要性を説き、科学と芸術の共生による視覚言語の研究を行ったという。その意志を継ぐMITメディアラボは、マルチメディアの基礎研究を行い、マンマシンインターフェースの概念を生み出すことになる。

3. 黄金比と造形美の原理
「形体は機能に従う(Form follows function)」という機能主義、あるいは実用主義は古くからある。技術業界には "Keep it simple, stupid!" という思想があり、技術屋は不必要な複雑性を嫌う。単純化思想はあらゆる構成的なものに用いられ、美の基本理念とされてきた。古代遺跡にも、ピラミッドや古墳など単純な幾何学的原理が見られる。構成学では、分割やプロポーション、そして、シンメトリー、リズム、バランス、ハーモニー、コンポジションなどの美的原理を理解することが重要だという。そして、造形の中でも、最も重要な原理は分割とプロポーションだとしている。
黄金比は、パルテノン神殿からルネサンス美術など基本尺度とされてきた。
尚、黄金比とは、a : b = b : (a + b) の関係、具体的には、1 : (1 + √5) / 2 となる。
1 : 1 のシンメトリーな関係は安定して動きのない状態をイメージさせ、むしろ威圧的な印象を与える。宗教的な儀式や祭壇の境界の配置などは、すべてシンメトリーであり、これが調和の原点とされてきた。だが、物体の本質は静止よりも運動にあり、動きや変化には黄金比の方が視覚的に心地良いとされる。静止とは相対的に定義できる状態であり、人類は絶対静止なるものをいまだ知らない。古代ギリシア文明は、ユークリッド幾何学をはじめ、黄金比、シンメトリー、ルート矩形など、数理性の研究に優れた功績を残した。ミロのビーナスでは、当時の理想的な女体像を見ることができる。黄金比やルート比は日常にも見られるという。クリスマスカード、手紙や色紙の縦横サイズ、文字のレイアウト、生け花の按配、インテリアやファッションなど。ルート比では、1 : √2 の関係がよく用いられるという。
では、黄金比はなぜ美しく見えるのか?等差数列や等比数列のパターンも悪くないが、グラデーションを実現するパターンにフィボナッチ数列がある。それは、前項と次項を足したものが、その次の項となるような数列で、最初は荒っぽいが徐々に黄金比に近づいていく。おいらは擬似乱数を作る時や、ちょっとした気まぐれなパターンデータを作るのに重宝している。20世紀、生物学者ダーシー・トムソンらが、巻貝の螺旋形、ひまわりの種、サボテンの刺など、動植物の美しく見える配列がフィボナッチ数列になっていることを発見したという。黄金比をもつ相似性には、自然美に通ずるものがあるらしい。人間も自然界の生物だから、そこに美を感じても不思議はないか。ハナミズキの木は、120度ごとに同じ葉が出ていて、3分の1の自己同型になっているという。ホトギスの葉も、中心軸から左右に出て180度ごとに同じ形が現れ、2分の1の自己同型になっているという。
一方、日本文化では、1 : 1, 1 : 2, 1 : 3 といった単純な整数比が美の原理とされる。畳や建築基準も 1 : 2 で構成される。千利休は茶の道を「数奇道」とした。その意味では、日本の伝統美は静止の美と言えるのかもしれない。
ところで、古今東西、美人のプロポーションの探求は止むことがない。プロポーションにも数理的な原理がある。その証拠に、男性諸君は八頭身美人に弱い。これが整数比である意味は、女性は静的で物静かな性格が好まれるということか?ちなみに、昨夜は静かで知的なボディラインを求めて、夜の社交場へ繰り出したはずが...

2012-10-07

"茶の本" 岡倉覚三 著

岡倉天心こと本名岡倉覚三。著書「茶の本」は新渡戸稲造の「武士道」や内村鑑三の「代表的日本人」と並んで、日本人が英語で書いて日本の文化と思想を欧米に紹介した作品として知られる。尚、本書は村岡博による翻訳版。いずれも別の日本人によって翻訳されるという風変わりな経緯がある。自ら英文で記したのは、西洋人の翻訳では真意が伝わらないと考えたからであろうか?欧米で評価され逆輸入される形は現在でも見かけるが、ある種の西洋コンプレックスの顕れであろう。時代は19世紀、欧米では西洋中心主義全盛の時代。天心は東洋文化に対する偏見への悔しさを滲ませる。
「インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。西洋の諸君、われわれを種にどんなことでも言ってお楽しみなさい。アジアは返礼いたします。」

これは茶の本ではない。天心が茶道にどこまで精通していたかは知らん。ただ、茶を通じて人生を語り、老荘と禅那を説き、さらに芸術観賞に至るのには感服せざるを得ない。そう、これは茶の哲学である。
「茶道は、美を見ださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である。」
茶道と言えば、堅苦しい礼儀作法や儀式を重んじる印象を与えるが、それだけではない。厳正でありながら、風雅な気質から喜怒哀楽や滑稽を重ね、侘び、寂びを交える世界である。天心は、茶室の建築様式、あるいは茶器などの美術品や華道といった多彩な詩趣との調和の中で、悟りを開こうとする。そして、茶室を「好き屋」、「空き家」、「数寄屋」や「すきや」などと言い換えて、語呂と戯れるかのようにその意義を語る。茶碗は人間享楽を煎じるところ、茶の湯は享楽の涙にあふれ、飲み干せばすぐに乾く、と言わんばかりに。なによりも、惚れ惚れするようなフレーズの数々に、言葉の力とやらを見せつけやがる。

真の美はただ不完全を心の中に完成する人によってのみ見ださせる。...
心は心と語る。無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。...
われわれは万有の中に自分の姿を見るに過ぎないのである。...

相対的感覚から絶対美なるものを見出し、空虚から実体を語り、不均衡から均衡を導き、そして人間の不完全性から自然美の完全性を求める。これが天心哲学の極意というものか。
「傑作というものはわれわれの心琴にかなでる一種の交響楽である。」
茶が芸術であるならば、絵画のように傑作も駄作もあるはず。その奥底には、自己に向かって微笑むような気高い奥義が秘められている。だからこそ、「茶気」という言葉は「茶目っ気」という俗語で受け継がれ、「茶化す」という余裕を与えるような言葉が生まれるのであろう。これこそが精神の奥行きであり、寛容さであり、人生に美と和楽を授けてくれる。
...などと褒めちぎれば、目の前の茶碗だって照れくさそうにしてやがる。もちろん今宵は、純米酒「天心」をやっている。茶碗に注いで。ちなみに、製造元溝上酒造は地元コース、河内貯水池へ向かう途上にある。

1. 茶道
「宋の詩人李仲光(りちゅうこう)は、世に最も悲しむべきことが三つあると嘆じた、すなわち誤れる教育のために立派な青年をそこなうもの、鑑賞の俗悪なために名画の価値を減ずるもの、手ぎわの悪いために立派なお茶を全く浪費するものこれである。」
茶が粗野な状態から理想の域に達するには、唐朝の時代精神を要したという。8世紀頃、仏教、道教、儒教が混在する時代、茶道の鼻祖とされる唐の陸羽(りくう)が「茶経」を書した。ここに、茶の湯に万有を支配するものと同一の調和と秩序が現れ、高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達したという。15世紀、将軍足利義政が茶の湯を奨励し、禅の儀式にまで高められた。茶道は、神聖で背後に微妙な哲理が潜み、道教の仮りの姿であったという。
茶道の奥義は、「不完全なもの」を崇拝することにあるという。人生という不可解なものに照らしあわせる道とでも言おうか。単なる審美主義ではなく、倫理、宗教と合わせて、天人に関するすべての見解を表すもの。そして、清潔を厳しく説く衛生学、複雑な贅沢ではなく純粋な慰安を教える経済学、宇宙に対する比例感を定義する精神幾何学となり、東洋民主主義の真精神を表しているという。

2. 道教と禅道
茶の湯は禅の儀式の発達した形態であり、道教は審美的な理想の基礎を与え、禅はこれを実践的なものにしたという。
まず、道教に目を向けてみよう。
老子曰く、「物有り混成し、天地に先だって生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり。独立して改めず。周行して殆(あやう)からず。もって天下の母となすべし。吾れ其の名を知らず。これを字(あざな)して道という。強いてこれが名をなして大という。大を逝(せい)といい、逝を遠といい、遠を反という。」
天地より先に、カオス(混沌)が生じた。静かで無形で何事にも依存せず、あらゆるところを動き回る。これを母となすべきだが、名も知らない。とりあえず「道」とし、あえて「大」とで呼ぶか。大なるがゆえに果てしなく広がり、果てしなく遠く、はるか遠くに達して戻る。果てしなく先に何かを悟る。これが「道」というものか。まるでヘシオドスの「神統記」を思わせる一節だ。
一定や不変は、成長停止を表す言葉に過ぎないという。
屈原(くつげん)曰く、「聖人はよく世とともに推移す。」
「道」は経路を意味し、宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとする永遠の成長というわけか。道教では、絶対的な宇宙観念は相対的だという。倫理学において、道教徒は法律道徳を罵倒したとか。彼らにとって、正邪善悪は単なる相対的な言葉でしかなく、定義は制限になるからである。無限宇宙に矛盾するというわけか。
「社会の慣習を守るためには、その国に対して個人を絶えず犠牲にすることを免れぬ。教育はその大迷想を続けんがために一種の無知を奨励する。人は真に徳行ある人たることを教えられずして行儀正しくせよと教えられる。われらは恐ろしく自己意識が強いから不道徳を行なう。おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。他人に真実を語ることを恐れているから良心をはぐくみ、おのれに真実を語るを恐れてうぬぼれを避難所にする。」
道教の考えでは、物事の釣り合いを保って己の地歩を失わず、他人に譲りながら、個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならないという。これが、精神の相対性原理というものか。己を虚にし、他人を自由に受け入れれば、すべての立場で自由に行動できるのだろうか?全体は部分を支配できるのだろうか?生の術を極めるとは、虚の美徳を極めるということであろうか。
次に、禅に目を向けてみよう。
禅は、禅那からとった名で、その意味は静慮であるという。精進静慮によって、自性了解の極致に達することができると教える。静慮は、悟道に入ることのできる六波羅蜜の一つで、釈迦牟尼はその後年の教えで特に力説したとされるそうな。禅道もまた相対を崇拝し、真理は反対なものを会得することによってのみ達せられると考えるらしい。悪を知らずして、善を知ることができない。だからといって、悪行を実践するということにはならない。人には、追体験能力や先験的能力というものがある。
また、禅道は、個性主義を強く唱えているという。全体の調和における個精神の美徳である。精神の働きに関係しない一切のものは実存ではないとするあたりは、アリストテレスのモナド的な思考を感じさせる。禅は、しばしば正統の仏道の教えと相反したという。道教が儒教と相反したように。先験的洞察においては、言語はただ思想の妨害になるという。精神の抽象化は、言葉では限界があるということであろう。経験的思考が真理の妨げになると言っているのだろうか?なんとなくカントのア・プリオリな概念にも通ずる。禅の主張によれば、事物の相対性から大小の区別がなく、一原子の中にも大宇宙がある可能性があるとなる。ただ、相対性は単なる人間認識の産物だとすれば、無意識無想こそが真理ということになりはしないか。

3. 花道(華道)
花道が生まれたのは、15世紀頃で、茶道とほぼ同時期だという。始めて花を生けたのは仏教徒だったとか。千利休と同じ頃、織田有楽、古田織部、光悦、小堀遠州、片桐石州らが、競って新たな配合を作る。
だが、生花は、茶室にある他の美術品と同様、装飾の全配合の従属的なものであったという。花の宗匠が現れ、花を花だけのために崇拝するようなことが起こったのは、17世紀中旬。形式派と写実派の二大流派が生じる。池の坊を家元とする形式派は、絵画の狩野派に相当する古典的理想主義を狙っていたという。一方、写実派は、自然をモデルに、ただ美的調和を表現する助けとなるような修正を加えただけとか。
しかしながら、花の宗匠の生花よりも、茶人の生花の方が、ひそかに同情を持つと言っている。茶人の花は、適当に生ける芸術であって、人生と真に密接な関係を持っているから、心に訴えるものがあるという。そこで、形式派や写実派に対して、茶人の花こそ自然派と呼んでいる。
「どうして花はかくも美しく生まれて、しかもかくまで薄命なのだろう。虫でも刺すことができる。最も温順な動物でも追いつめられると戦うものである。...花は皆、破壊者に会ってはどうすることもできない。彼らが断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわれらの無情の耳へは決して達しない。」
人々は、花に癒されながら、花の叫びが聞こえない。なんと不条理な。真の愛とは、見返りを求めいないということであろうか。

4. 千利休(宗易)
日本で偉い茶人は、みんな禅を修めた人だという。
「宗教においては未来がわれらの背後にある。芸術においては現在が永遠である。」
芸術を真に観賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す者によってのみ可能だという。あらゆる状況において平静を保ち、談話は周囲の調和を決して乱さぬようにする。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子、これすべてが芸術的人格の顕れであり、審美主義の禅だという。日本の有名な庭園は、すべて茶人によって設計されたという。人格と芸術の一体感、総合的な調和、これぞ日本式美徳ということであろうか。ちなみに、ガウディは建築家だけが総合的な芸術家になれるとし、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となった。
また、自己を律する道を知らない者は、外観は幸福に努めても、絶えず悲惨な状態にあると指摘している。心の安定を心がけたところで、すぐに荒波に呑まれる。利休は、死刑執行の日でもなお、門人を最後の茶会に招いたとされる。その時、笑を浮かべて残した言葉がこれ。
「人生七十 力囲希咄 吾が這(こ)の宝剣 祖仏(そぶつ)共に殺す」
「力囲希咄」を利休がなんと読んだかは分からないが、「りきいきとつ」という読みは「茶話指月集」にならっているという。その意味も、茶人の間で問題になっていて諸説があるらしい。今泉雄作氏の説では、禅の喝のような一種の間投詞で、「ええんじゃないの」という意味があるんだとか。死に向かう覚悟か?あるいは気合のようなものであろうか?

2012-09-30

"饗宴" プラトン 著

お馴染みのソクラテスが登場する対話篇の一つだが、ここでは、ちと違った趣向(酒肴)が凝らされる。それは、多重間接談話という形式に、およそ哲学とは思えない筋書きである。又聞きの又聞きという語り話の中で、酒盛りには欠かせない酔っ払いが乱入し、対してソクラテスは飲んでも飲んでもけして酔わないという構図。しかも、この物語には、愛を題材にした「無知の知」の奥義が秘められる。その酔っ払いの能書きがこれ!
「理知の視力は、肉眼の視力がその減退期に入ると、ようやくその鋭さを増し始めるものだ」
知への愛求こそが、盲目から解放される唯一の方法というわけか。これを開眼というかは知らん。それにしても、知識とは奇妙なものよ。知れば知るほど分からなくなるのだから。それどころか、自分の無能ぶりを簡単に暴き、疎ましくもある。
さて、「酔っ払い + 愛」とくれば、夜の社交場の図式である。知的なボディラインを求めて繰り出すとしよう。そして、「酒にけして酔わない。君に酔っているだけさ!」という口癖を持つ酔っ払いの噂話を又聞きするのであった。

原題「シュンポシオン」とは、「共に飲む」ぐらいの意味だそうな。シンポジウムの語源でもある。なるほど、有識者どもの討論会が、千鳥足で迷走するのも道理というものか...
悲劇詩人アガトンの祝宴に招かれた識者たちは、ワインの盃を重ねながら、右廻りにエロス(愛)の讃美を語っていく。そして真打登場、ソクラテスは最高愛について語り始める。しかも、巫女ディオティマに聞いた愛の説を報告するという形で。ソクラテス自身は、無知を自覚する者というわけだ。
いつもの対話篇ならば、ここで終わるのだろうが、更に酔っ払いが乱入する。酒宴に招かれていないアルキビアデスは既に泥酔状態。このソクラテス敬愛者は、どうせ自分を愛してくれない!と絡み、ソクラテスの右に座る。すると、次はアルキビアデスが語る番。彼はソクラテスを妬みながらも、この人物を讃美する演説を始めた。プラトンは、ソクラテスを最高愛の具現者として、第三者に語らせている。酒はしばしば本音を吐く道具とされるが、この酔っ払いに正直者という役割を与えている。
おまけに、全体構成がややこしい!酒宴の様子をアポロドロスが、酒宴に列席したアリストデモスから話を聞き、ある友人に語るという設定。アポロドロスとアリストデモスもソクラテス敬愛者。敬愛者が、列席した敬愛者から、敬愛者が語った演説のことを聴き、それを友人に語って聴かせる。おそらく、この友人もソクラテス敬愛者であろう。ソクラテスが何を語ったかを教えてくれと熱心に頼んでいるのだから。まるで敬愛者たちの伝言ゲーム!つまり、二重、三重...の間接談話という構成。話がだんだん大きくなって、やがて無条件の信仰に達する。崇拝とはそういうものかもしれん。
ちなみに、アポロドロスは、ソクラテスの臨終に際し、弟子の中で最も烈しく泣き、弱気男と渾名されたそうな。尚、「ビブリオテーケー(ギリシャ神話)」の編纂者と時代が違うので別人。プラトンは、この激情家をもってソクラテスの愛を語らせていることになる。
遠近法というものは、事実関係を浄化させ、平凡なことも意義あるものに見せるところがある。人物を讃美するにしても、第三者に語らせる方が説得力を持つ。こうも構成がややこしいと、凝り過ぎに感じそうなものだが、不思議とそうでもない。むしろ複雑な間接談話が、崇高な文学作品に仕上げている。他の登場人物にしても、悲劇詩人や喜劇詩人、あるいはソフィストや医者といった当時の識者たちの風潮をよく表している。プラトン文学の中でも、技巧の結集された白眉ものか。

ところで、エロス(愛)をテーマにしているのはなぜか?ソクラテスといえば最高善を説く者、その背後に徳なるものの存在がちらつく。
まず、当時の社会的風潮を五人の識者の演説によって明らかにされる。古代ギリシアには、ヘシオドスやホメロスの宇宙観に立脚した倫理的なエロス観があったようだ。ヘシオドス著「神統記」は、カオス(混沌)から永久に揺るがないガイヤ(大地)とエロスが生じたとした。つまり、エロスは最古に属する神で、両親というものがない。最も勇敢とされる軍神アレスですらエロスの虜になれば、最勇敢者はエロスということになりそうなもの。これほど原型的で偉大な神なのに、有識者や教育者たちはエロスを教えることを避ける。確かに、エロスには赤面する行為をともなうし、性教育はタブー化されやすい。ただ、愛という情念は美しさから発する性質がある。なぜか?あらゆる知覚の中で美だけが特権を得ている。自然美、芸術美、数学の美、宇宙法則の美といったものが崇高とされる。一方で、美女に憑かれた途端に小悪魔の虜となり、美体(びたい)はたちまち媚態(びたい)へと変貌する。これほど、善悪の双方において人間精神に取り憑く情念も珍しい。人間どもが神々に直接触れるなど恐れ多いことだが、エロス神だけは向こうから近づいてくる。半神のごとく人間と神の間を行き来しながら、神々との仲介役を進んで演じてやがる。俗人の愛といえば、およそ家族愛、友人愛、隣人愛、恋愛といったものであろうか。こうした愛は個人の価値観で解釈され、愛情劇が愛憎劇となるのに大して手間はかからない。
そこで、プラトンはこの厄介な愛に対して最高愛の存在を唱える。天上の愛と万人向けの愛を区別し、肉体美から精神美へ、更にフィロソフィア(智慧の愛)にまで精神を高めよと。智慧の愛求をもって、霊魂浄化できるということらしい。そして、美のイデアは、愛のイデア、善のイデアへと昇華し、原型的な存在を直観できる境地に達するとでも言うのか?理論上の知識が実践上の知識とならなければ、不完全たるを免れない。よって、哲学は、生きる術(すべ)、すなわち生き方となるはず。しかし、これが至難の業!
ソクラテスは、最後の一人が酔い潰れるまで会話に付き合い、ただ一人乱れることなく立ち去る。なるほど、霊魂浄化された者とは、浴びるほどのアルコール濃度にも耐えうる肉体と精神を併せ持つというわけか。

1. 五人の演説
最初の演説者は、ファイドロス。プラトン著「パイドロス」では、高名な弁術家リュシアスの心服者として登場し、リュシアスの愛に関する演説に傾倒したとされる。エロスとは、最大福祉の源泉、全生涯の指針となるべきものと主張する。
二番目の演説者は、パゥサニヤス。プラトン著「プロタゴラス」では、アガトンの愛者とされるが、ここではソフィストの代表のような存在であろうか。愛の女神は二種類あると主張する。一つは天上の子、ウラノスの娘。二つは万人向けのもの、ゼウスとディオネの娘。天上の愛とは、精神的なもの、万人向けの愛とは、衝動的で肉欲的なもの。愛は、正しく行われた場合には美しく、正しからぬ場合には醜くなり奴隷根性を生じさせる。有徳の意に従うのは美しく、放縦に従うのは恥ずべきこととしている。
三番目の演説者は、医者エリュクシマコス。医術の面から説き起こす。
「医術とは、約言すれば、充足と排泄とに関して体内に起る愛的現象(エローティカ)の知識である」
飲食は健康のために善とも悪ともなりうる。実際、人体は善いものを吸収し、悪いものを排泄する。しかし、そうとも言い切れない。消化能力を超えて栄養を摂取すれば、脂肪が増え、悪玉コレステロールが蓄積される。となれば、精神の消化できない領域で知識を詰め込めば、悪知恵になるかもしれない。
四番目の演説者は、ギリシャ最大の喜劇詩人アリストファネス。ギリシャ神話から性の原始的本性に立ち返る。もともと人間の性には三つあったという。男性と女性、そして両性の結合。男性は太陽から、女性は地球から、両性は月から形状を成したという。だが、三つ目の性は罵詈の言葉として残される。ギリシャ語では太陽は男性を表し、月はオルフィック教的に、男女両性という考えがあるそうな。男と女が出会わなければ子孫も残せない。両輪が揃って完全を成すとなれば、人間は割符に過ぎないという。エロス神だけが、男女を合体させ、原型に戻そうとするわけか。失われた半身を求めるのは、もはや本能!これには逆らえまい。しかし、どんなに愛しあって合体しようとも、心が一つになることはけしてない。けしてだ!プラトンよ!この矛盾をどう説明するのか?
五番目の演説者は、悲劇詩人アガトン。伝統的神話に立ち返るが、ファイドロスの捕捉的な位置づけか。

2. ソクラテスの演説
人は、何かを所有していれば、それを求めたりはしないだろう。したがって、愛を獲得した者は、愛を求めたりしないはず。しかし、金持ちがさらに金持ちになりたいと欲求し、健康な人がさらに健康を欲求するのはなぜか?既に所有しているからといって、それを失わないとは限らない。結局、人間は永遠に所有したいと願うのではないか。そして、究極の永遠が、不死ということになろうか。子孫を残そうと願うのも、肉体の不死を継続したいがためかもしれない。
さて、ソクラテスには魂の不死という基本思想がある。そして、婦人ディオティマに愛について質問した時の話を始める。それによると、エロスは知恵と無知の中間にある神だという。善でもなければ、美でもないことを自認した神。正しき意見を抱いて、その根拠を示すことができないのは、知識でも無知でもないという。エロスは善悪の中間にあるらしい。
知恵のある者は、知恵を求めようとはしないだろう。また、無知者も知恵の存在を知らなければ、それを求めることはない。無知者が甚だ厄介なのは、この点にあるという。ただ、無知を知るとなれば話は変わってくる。知恵に欠乏を感じることができれば、愛智者になれるかもしれない。
では、愛は人間にどういう利益をもたらすのか?エロスは美を求める。ここで美の代わりに善をおくとしよう。善から何が得られるのか?と問えば、それは幸福であるという。幸福者が幸せでいられるのは、善きものを所有するからであると。
では、愛は万人にとって共通のものか?万人が共通なものを永遠に愛求するならば、どうして特定の人を愛し、他の人を愛していないなどと言うのか?人々は、愛の中から特定の種類のものだけを取り出し、総括的な名前を付けて、愛と呼んでいるに過ぎないという。愛という言葉は、なんとなく心を癒してくれる。しかし、愛の正体を知る者はおらず、個人が都合よく解釈しているに過ぎない。エロス的欲情によって、創造欲や独占欲を掻き立て、仕事の活力となるのも事実。英雄色を好む!とは、そういうことであろう。何人をも愛せよ!と唱える聖職者が誰とでも愛を育むとなれば、自ら生殖者へ変貌する。
しかしながら、最高善とは、最高美を観ることだとしている。美しき肉体から美しき活動へ導かれ、美しき学問へと進み、美そのものの学問にほかならぬ学問へ到達し、美の本質を認識するに至ると。美の本質を観るに至ってこそ、生き甲斐なるものが観えてくると。地上にも天上にもないものが、直観においてのみ存在を認識できると...

2012-09-23

"プロタゴラス ソフィストたち" プラトン 著

当代随一のソフィストと謳われるプロタゴラスにソクラテスが弁論で挑むという、プラトンの対話篇の一つ。この物語がソフィストへの批判書であることは、想像に易い。だが、プロタゴラス自体には一般のソフィストたちよりも圧倒的に高い格付けをし、敬意を払っている。それは、議論の終結を互いの讃辞で締めくくるところに表れる。しかも、再会を約束するという親愛ぶり。名士を持ち上げながら世情を風刺するという、お馴染みの構成か。
いや、一味違う!自己主張にとらわれず、ひたすら論理性を追求した挙句、両者とも自己矛盾に陥る。これが哲学論議の醍醐味というものか。なるほど、精神の学問はメタ学問というわけか。そりゃ、メタメタにもなろうよ。

プロタゴラスは、アプデラの生まれで、言論にかけての第一人者とされる人物。その有名な言葉がこれ。
「人間は万物の尺度である。あるものについてはあるということの、あらぬものについてはあらぬということの」
この言葉の解釈は様々であろうが、とりあえず...
宇宙にどんなに美しい真理が存在しようとも、人間の認識能力を超えた領域でそれを知ることはできない。そぅ、世界は普遍的な真理よりも認識によって構築されている。しかも、質ちが悪いことに、認識能力は個々に多様である。
...とでもしておこうか。
対して、ソクラテスの教義に「人間が悪を為すのは無知にほかならない」というのがある。知の探求によって認識能力を養い、精神が高みに登るという考え方では、両者は似ている。精神が高みに登るとは、徳や善を知るということであり、国家社会の一員として持つべき徳性を会得すること。この思想が、古代ギリシア哲学の根幹にある。
そこで、プラトンは問題を提起する。徳は教えられうるものか?徳が知識であるなら、教えられるはずだと。親が徳の持ち主であれば、子供も必然的に教育によって徳の持ち主になるだろう。だが、現実にそんな事例はごく希だ。その子が犯罪をする事例は簡単に見つかるけど。議題そのものは「メノン」と同じ。だが、興味深いのは両者とも自己批判をしているかのように映る物語性である。しかも、議論の盛り上がりに、大物ソフィストたちがついてこれない滑稽さを見せる。
まず、徳には、正義、節制、勇気、敬虔、知恵という5つの要素があるという前提が構築される。ただ、これらの要素は部分として分離できる性質なのか、総合として分離できない性質なのか、はっきりしない。徳性を成立させるために、プロタゴラスが戒律や分別から迫るのに対して、ソクラテスは技術と知識で凌駕しようとする。そして、両者は、知恵が最も重要であると位置づけ、他のすべての要素に知恵が介在することで合意する。確かに、すべての要素において正しい知識がなければ実践もできないだろう。
しかし、だ!ソクラテスは、徳は教えられないものと主張していたくせに、徳の最も重要な要素は知であるとことを自ら提起しながら、いつのまにか徳は教えられるものということを証明しようと必死になっている。プロタゴラスもまた、徳を教えられるものと主張していたくせに、反論しているうちに徳は知識以外のものであることを証明しようと躍起になっている。ついに、ソクラテスは、もしかしたら徳は教えられるかもしれない?ぐらいの感覚になり、プロタゴラスも、もしかしたら徳は教えられないかもしれない?ぐらいの感覚になる。そぅ、両者は自己矛盾という共通観念において共感するのであった。なんというオチか。哲学とは、精神とは、自己矛盾との、自我との、葛藤というわけか。なるほど、人生とは、自ら墓穴を掘ることであったか。

1. ソフィストたち
プロタゴラスは、国から国へと渡る途中、弁論で魅惑し、知識人を誘い連れまわっている。大勢の聴講者を募って、賢人ぶりを武装しようという魂胆か?現代でも、有識者や有徳者どもが多数派工作で持論を武装しようとする姿をよく見かける。おまけに、討論会では声の大きい者、自信満々に語る者が勝利する。もはや言論力は、論理性の戦いではなく心理戦と化す。なるほど、人間ってやつは多数決に弱いものらしい。寂しがり屋め!これが衆愚政治の正体かは知らん。
さて、偉大なソフィストがアテナイへやって来た大ニュースが伝わると、青年ヒッポクラテスは興奮してソクラテスの所へ駆け込んだ。この青年は、国家の要人になりたいという野心を持ち、プロタゴラスに弟子入りしたいと考えている。
ソクラテスは青年に問う。金銭を払ってまで、精神の教師がいったい何を教えてくれるというのか?画家は絵画の技術を教え、音楽家は音楽の技術を教え、医者は医術を教える。対して、言論に秀でた者は言論術を教える。学識とは、民衆を扇動する技術を会得することなのか?識者の側にいることで、優れた人物になれると信じこませる術を。
「君には、自分がいま、魂をどのような危険にさらそうとしているかがわかっているのかね?」
そういう術を使う人ほど、よくよく気をつけなければならないと指摘する。それによって招く妬み、そして、敵意や陰謀などは、けして小さなものではないことを。ソフィストとは、「魂の糧食となるものを商品として卸売りしたり、小売りしたりする者」と定義している。ただ、魂の糧食が有益なものか?有害なものか?あえて明らかにしない。その煮え切らない様に皮肉が満ちている。やはり、真理はモザイク画と相性がいい。

2. 人に何が教えられるというのか?
国家社会のための技術とは、国家社会の一員として優れた人物をつくることだという。いつの時代も政治塾は盛況のようだが、何を教えているのだろうか?チルドレン選挙戦略の一環か?人間社会では、何かと専門家に頼ろうとする傾向がある。専門知識に敬意を払うのは自然であろう。ただ、自ら思考することまで放棄してしまうのでは、意味が違う。知識は教えてもらうものという意識が強いのは、暗記教育の弊害であろうか?何々学校や資格教材が繁盛するのも、教官や教材が自動的に与えられる便利さがある。そう言うアル中ハイマーも、かつて英会話学校へ通っていたし、よくセミナーに参加したりする。人間ってやつは面倒臭がり屋なのだろう。
しかし、自分に適した教材を探すのも学ぶ過程の一つであり、独学の面白さには敵わないだろう。学ぼうとする意欲満々の人が学ぶ時間を省略するとは、これいかに?読書家が速読法に惹かれるのにも似たり。愛する人と一緒にいると、時間よ止まれ!などと願うくせに、愛する対象が本となると、わざわざ読書の時間を省こうとする。ちなみに、夜の社交場では速愛法なるものを実践する者がいると聞く。
また、教育そのものを崇めるのも危険であろう。一般的に、犯罪を防止する方法は教育にあると考えがちである。ほとんどの意識向上キャンペーンは、そういう考えからくる。地球温暖化、エイズ予防、酔っ払い運転など。おまけに、有徳者どもは、人々に徳性がなければ社会は成り立たないと主張する。教育によってすべてが解決できるならば、常識者がダイエットや禁煙に失敗することもないはず。教育者が道徳を破壊し、政治家が法律を無力化し、経済学者が経済危機を煽り、友愛者が愛を安っぽくしやがる。人間が持つ人間性ってやつは脆いものよ。あらゆる規範を人間性に頼るのは軽率であろう。善悪の知識を持っていたとしても、必ず悪を避け善を行うかは疑わしい。悪にも惹かれるものがある。暴力映画や戦争映画のあの盛況ぶり、あるいは異性的な魅力がちょいワルを演じたりする。悪にも程度を計りながら節制の原理が働く。
善悪を知っても、その程度が個人に委ねられるとすれば、教育に絶望する。なんとか救済できないものか?そこで、哲学は、都合よく最高善という概念を生み出した。最高善とは、幸福のことである。だが、幸せもまた個人の多様な価値観に委ねられる。人間ってやつは、わがままにできているものらしい。では、教育とはいったい何を教えるものなのか?人にいったい何が教えられるというのか?ひたすら思考を高めよ!と言うことぐらいしかできないのかもしれん。精進しろ!と助言することぐらいしか。

3. 討論会と中庸の原理
「言論の場に立ち向かう者は、対話を行う両者に対して、公平な聞き手でなければならないけれども、平等な聞き手であってはならないのだ」
公平に耳を傾けても人の尺度はそれぞれ。となると、個々の判断でより多くの価値を認めるべきということになろうか。討論は口論とも違う。討論は好意を持つ者同士で行うが、口論は敵対同士で行う。ほとんどの政治討論会が醜態を曝け出すのは、後者だからであろう。目的論と方法論で意見を戦わせれば、議論は迷走するしかあるまい。良策を編み出すという目的よりも、選挙戦の前哨戦が目的となれば、相手の意見を否定することが前提とされる。国会のオヤジどもを真似て、生徒会や児童会でヤジり合ったり、メールをしたりと困ったものよ。もはや政治討論は、R-18指定にするがよかろう。なるほど、討論会が深夜に放送されるのは、青少年への配慮か。
討論中に、優れた見解が聞ければ、幸せになれるに違いない。しかし、意見が合わないことを、心地よいもの、快いもの、そういう境地にするのは難しい。だいたい、どちらかがこれ以上やると揉めるからと、主張を取り下げるか、やめるかであろう。本物語で展開される討論会は、一つの理想像を提示している。目的が共通意識としてはっきりしていれば、こういう議論も成り立つのかもしれない。両者が興奮気味になる場面もあるけど、それはそれで人間味があっていい。
「言論の手綱を解きゆるめて、言論がもっと堂々と優雅な姿をわれわれにあらわすことができるようにしたまえ。またプロタゴラスのほうも、帆綱をすっかり伸ばしきって順風に満帆をゆだね、言論の海原遠くのがれて陸地を見失うことなかれ。ねがわくは両人ともに、中庸の道を進まれんことを。」

2012-09-16

"パイドロス" プラトン 著

プラトンは、膨大な著作を対話篇という形式で残した。実在する人物を登場させ、その人物を持ち上げながら世情を皮肉る。しかも、師ソクラテスが記述を残さなかったことをいいことに、この賢者に代弁させやがる。なるほど、哲学とは、人物をスパイシーに評し、酒の肴にする技であったか。
本書は、愛の語りを交えながら言論の技術に迫り、哲学の根源的な魅力を語ってくれる。そして、哲学者を愛知者、すなわち「知を愛し求める者」と定義している。今もなお、プラトンの言葉が力を持ち続けるのは、魂が不死であるという証しであろうか?あるいは、記憶媒体の存在が前提されるだけのことであろうか?いずれにせよ、近代社会においてさえ、巧妙な弁論法や修辞法がもてはやされることに変わりはない。

プラトンの基本的な思考は、形相(エイドス)から出発している。アリストテレスにも同じことが言えるが、形相に対する解釈が、ちと違う。プラトンは、あらゆる形相には万物の根源であるイデアなるものが存在すると考え、人間精神が本能的に善を欲するのも、善のイデアがあるからだとする。精神の鍛錬をすれば、その先天的な知識も想起できるというわけだ。対して、アリストテレスは、あらゆる形相を魂と分離できない形而上学的な存在と考え、精神は後天的で経験的なものとする。両者をカント風に言えば、純粋理性と実践理性の対立といったところであろうか。こうして見ると、この世のあらゆる論争は、プラトンとアリストテレスの哲学的論争に帰着するような気がする。宇宙論の歴史とは、プラトン対アリストテレスの代理戦争を繰り返してきただけのことか?もっと言うならば、二人の言行が記録として残されるだけのことであって、彼らもまた誰かの代理戦争をしていたのかもしれん。精神ってやつは、数千年前から、いや数億年前から、ほどんど進化していないのかもしれん。

「人間がものを知る働きは、人呼んで形相(エイドス)というものに即して行われなければならない、すなわち、雑多な感覚から出発して、純粋思考の働きによって総括された単一なるものへと進み行くことによって、行われなければならない」
ここでは、形あるもの、色あるもの、重さあるもの、こうした特徴は「固体にまつわる属性」とし、美しきもの、智なるもの、善なるもの、こうした特徴は「神にまつわる属性」として区別している。前者は視覚や嗅覚などの五感から生じ、人間の認識はまずここから始まる。そして、後者によって認識を補正しながら、精神の高みに登るといったところであろうか。ちなみに、後者を第六感と言うかは知らん。ここで言う神とは、宗教的な存在ではなく、宇宙論的な存在と言うべきであろう。それは、プラトン思想の根底に、天文学と幾何学に基づいた自然法則の崇拝があるからである。
ところで、愛とか恋とかいうやつは、どちらの属性に分類されるのだろうか?本書は、神にまつわる属性としている。しかし、原始的な情念には美に惹かれる心がある。あらゆる知覚の中で、美だけが特権を得ているのはなぜか?自然の美、芸術の美、数学の美などが崇高とされる一方で、美女や小悪魔に憑かれた途端に、美体(びたい)はたちまち媚態(びたい)へと変貌する。認識能力が美という視覚から発する(ハッスル)のであれば、一度は美女と恋に落ちなければなるまい。快楽が想起の前兆ならば、ハッスル系の店も体験せねばなるまい。肉体への愛は、固体への愛に他ならないとしてもだ。そして、固体も崇拝するに価すると悟れるかもしれないではないか。知性や徳性といった得体の知れないものを愛するより、女体という確実な個体を愛したい。そして、愛を金で買う!これが最も有意義な金の使い方というわけさ。
...男性諸君の影の代弁者より。

1. 恋(エロース)について
紀元前5世紀頃、リュシアスという高名な弁術家がいたそうな。パイドロスは、リュシアスに心服する者として登場する。リュシアスは、こう述べたという。
「自分を恋している者よりも恋していない者にこそむしろ身をまかせるべきである」
この論旨をめぐって、ソクラテスとパイドロスの対話が始まる。よく、恋は盲目にさせると言われる。恋する者が意見すれば、どうしても贔屓目で見てしまう。となれば、恋の虜になっていない者の意見に耳を傾ける方が有益だという考えは、もっともらしい。
しかし、ちょっと待て!ソクラテスは、恋とはなんぞや?と問う。恋とは、人を勇気づけるものなのか?臆病にさせるものなのか?とんと分からん。恋こがれる者が、命の危険を顧みず犠牲心を発揮するかと思えば、いざ会話をする段になると、はにかんで見せる。恋には打算がある。けして自分自身をなおざりにすることを許さない。愛する者が幸せになるだけでは満足できず、自分が介在できなければ不幸になることすら望む。恋とは、自己愛を膨らませた状態なのか?実際、恋に落ちた人も、自ら正気ではなく、病気であることを認める。
さて、恋とは、一つの欲望であることは明らかであろう。だが、恋をしていない者であっても、美しいものに対して、やはり欲望を持つ。欲望には自己を支配する二つの力があるという。一つは生まれつき具わる快楽への欲望、二つは最善を目指す後天的な分別の心。自己の中で、常にこの二つが互いに相争い、どちらかが勝利する。理性の声によって善へ導かれるならば、それは節制と呼ばれ、盲目的な快楽へと惹かれれば、それは放縦と呼ばれる。快楽の奴隷となった者が、恋の相手を自分にとって快いものに仕立てあげるのは必定。自己が病んでいれば、自分に逆らわないものが快く、自分より優れたものが厭わしくなる。だから、恋する者は相手を劣った存在に仕立てたいという。より無知に、より臆病に、より無能に、より愚鈍に。恋する者は、相手が精神の欠点を持つことに喜びを感じ、必然的に嫉妬深くならざるをえないということか。確かに、賢い相手は疲れるところがある。ソクラテスがいくら賢者であっても、これだけ議論を持ちかけられれば鬱陶しくもなる。できることなら、物静かな愛人を側に置きたい。それが廃人に導かれると分かっていても。なるほど、小悪魔の正体とは、沈黙に癒されたいという願望であったか。
また、自分の恋人には、父母もなく、身内もなく、友もいないことを望むという。交際の邪魔になるからと。そして、、恋の虜になった者は、不実な、怒りっぽい、嫉妬深い、厭わしい人間に、自ら仕立て上げることになるという。
なるほど、恋とは、人を狂気させるものらしい。だが、狂気が悪いと無条件に言えようか?人間の最も偉大なものは、狂気から生まれてきた。芸術にせよ、科学にせよ、天才には神がかった行動が宿る。正気からは凡庸しか生まれない。
では、恋という狂気は、善か?悪か?自己を動かす者のみが自己を見捨てることがないという。狂気が神から授かったものであれば、それは善であると。魂が不死であるなら、精神の活動を止めることはできず、永遠に高みへ登ろうとするのであろう。固体は精神から離脱し、やがて腐敗し死滅していく。快楽の虜も精神を失い、やがて自滅するだろう。恋とは、すでに奴隷根性の染み付いた状態なのかもしれん。自ら恋の奴隷となり、相手に奴隷を演じさせる。そして、互いに演じることに疲れたら破局を迎える。これが所有の原理というものかは知らん。

2. 弁論術について
弁論術は、紀元前5世紀頃シケリア(シシリー)において、テイシアスたち弁論家によって法廷弁論のテクニックという形で始められたとされるそうな。やがて、ソフィストたちの教育と結びつき、法廷論から政治演説にまで応用されるようになる。言論の自由と法の下での平等を建て前とするアテナイでは、世論を動かす方法論として花形的な存在だったという。そして、弁論術の教師が登場すると、模範例を暗記させる教授法が盛んになる。目的から逸脱した弁論のための弁論、文章のための文章、そういったものに関心を集める。リュシアスは、こうした風潮で活躍した弁術家の一人で、ソフィストとは一線を画す純粋な弁術家に属すそうな。プラトンもこの人物に一目置いていた節がある。本書は、当時の有識者に対する批判書であることは間違いないだろう。
21世紀の今ですら、真理を顧みず、ひたすら多数の賛同を得ることに注力する。そこには、知性が暗記力で決まる社会がある。言論術が身の保全と立身を図る技術となれば、政治屋どもが血眼になる。しかも、自分で定義もできないくせに、幸福やら友愛やらを口にする。なるほど、弁論術とは、おべっか術であったか。
本書は、議論をするには、まず対象の本質を見極める必要があると説く。少なくとも、議論の参加者は前提の認識を合わせる必要があろう。だが、多くの場面で、自分が問題の本質を知らないということに気づかない。それを知っているものと決め込んで考察を始めるから、議論は迷走する。
弁論術は、最終的に真実の追求でなければならないとしている。それは、真実というイデアを想起することであると。思惟することが自己との対話であるとすれば、自問自答によって純粋思惟へと導いてくれるだろう。弁論術とは、問答能力とすることができるかもしれない。その試行では、直観性と言語性を駆使することになろうか。
一方で、言葉の力というものがある。言葉が魂と結びついた時、これほど力を発揮するものはない。言葉は、精神の本性を理解する手段となろう。歴史を振り返れば、聴衆を動かす力も言葉であった。演説の天才と評されるヒトラーは、聴衆が自発的に静まり、何か言葉を発するのを期待するまで、喋るのを待った。弁論術が、劇場化するのはやむを得ないのか?言葉は、小さな事を大きく、大きな事を小さく見せることもできれば、真新しい事を古く、古い事を真新しく見せることもできる。そして、無言ですら何かを物語る。言葉は長すぎても短すぎても説得力を失い、また用いるタイミングも重要だ。聞き手が、耳を傾ける度量を具えない限り、どんなに立派な言葉も陳腐となる。また、真理を語ればいいというものでもない。真実が必ずしも真実らしく見えるとは限らないし、嘘の方が真実らしく見えることもある。法廷では、何が真実かを気にかける者なんか、いやしない。重要なのは、真実ではなく、真実らしく見せること。しかも、完璧に証明する必要はない。証明を仄めかすぐらいで、聴衆は勝手に解釈する。社会風潮に逆らわず、多数派に真実だと思い込ませる。これが、弁論術の実践というやつだ。言論の技術だけを問題にするならば、いかに聴衆を誘導するか、ということに傾注すればいい。そして、弁論術とは、精神に優れた者の技というよりは、心理学に精通した者の技ということになろう。それにしても、本質的な目的を忘れ、手段にばかり眼が奪われると、こうも浅ましくなるものか。
しかしながら、言葉というものは最も神の意にかなうようにできているという。幾何学や天文学に見られる神の言葉に耳を傾け、真実の計算なくしては、建築物も成り立たない。そして、言論の技術とは、神の言葉を想起することだとしている。なるほど、宇宙は数学という言語で語られる。プラトンは、真実を知る者のみが知り得る不滅の言葉なるものが存在することを仄めかしている。
「それを学ぶ人の魂の中に知識とともに書きこまれる言葉、自分をまもるだけの力をもち、他方、語るべき人々には語り、黙すべき人々には口をつぐむすべを知っているような言葉だ。」

2012-09-09

"メノン" プラトン 著

メノンは問う、「徳とは、教えることのできるものであるか?それとも、訓練によって身につけられるものであるか?それともまた、訓練しても学んでも得られるものではなく、生まれつきの素質であるか?」
ソクラテスは答える、「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。」

知らなければ、何を探求していいかも分からない。知っていれば、探求する必要もない。要するに、人間は認識能力を超えた領域で思考することはできないというわけか。
しかし、だ!現実に疑問に思っているということは、答えが見つからないにしても、なんらかの認識が働いていることにならないか。この矛盾に、プラトンはどう答えてくれるのか?
もともと人間は、あらゆる知識を持っているという。輪廻を繰り返すうちに、ちょいと重要な事を忘れるだけのことよ、と。それ故に、自問自答を繰り返し、鍛錬によって想起することができるという。知性や徳性とは、想起に他ならないと。魂は不死であり、常に日々学んでいるというわけか。肝心な知識は、DNAにでも記憶されているというのか?
「探求し学ぶということは、魂が生前に得た知識を想起することである。」
これが、プラトン流の想起説というやつか。宗教は、矛盾を毛嫌いし、無理やり辻褄を合わせる。哲学は、矛盾を自然の姿として受け入れ、答えのない世界で心地よく戯れる。ただし、矛盾に対して寛容になることは難しい。

ソクラテスの教義に「徳は知である」というのがある。悪徳を為すのは無知のせいだとする考え。徳が知識であるならば、教えられることができるはず。そして、最高の教育を受けた政治家によって社会を徳へ導くことができるとし、ここに「善く生きる」という政治哲学が結び付く。
しかし、プラトンはそれだけでは説明できないとし、登場人物ソクラテスに代弁させ、巧みに哲学のパラドックスへ誘なう。そぅ、「徳とは、そもそも何であるか?」と根源的な問いに置き換えるのは哲学の常套手段。哲学論議ってやつは、呪文でもかけるように魔法をかけ、行き詰まらせて、途方に暮れさせやがる。
ところで、知らなかったというのは、過失であろうか?アリストテレスもまた無知を罪だとした。熟慮してやった者が、知らなかったと言い訳するはずがないと。
「魂が積極的に心がけたり、受動的に耐えたりするはたらきはすべて、知が導くときは幸福を結果し、無知が導くときは反対の結果になる」
しかし、熟慮したからといって、正しい選択をするとは限らない。どんなに優れた知識を会得しても、やはり判断を誤る。知識とは不思議なもので、深く知るほど分からなくなる。知識は無限なのだ。このあたりは、プラトンもアリストテレスも徳の限界を感じたことだろう。
人は、ちょいワルというものに憧れるところがある。やってはいけないとなると、余計に衝動に駆られ、つい魔が差す。身体に悪いと分かっていても煙草を吸う。身を滅ぼすと分かっていても博奕中毒になる。禁断な恋ほど燃え、灰と化す。善にも程度というものがあろうが、最高善に背いてまで悪を為すことはないのかもしれない。ただし、最高善にも個人差がある。

プラトンは、想起する過程を、メノンに幾何学の問題を解かせることによって実践してみせる。例えば、正方形の面積は、辺を掛け合わせることで求められる。面積を2倍にしたければ、感覚的に辺を2倍にしたくなる。だが、辺を2倍、2倍...していくと、面積は4倍、16倍...と増える。面積を2倍にしたければ、対角線という知識が必要になる。そして、辺を掛けることと対角線という知識だけで、様々な面積の図形を知ることができる。これは、教えられた結果ではなく、メノンが自力で思考した結果である。要所は師の質問によって誘導されるにせよ。ここには、一から多が生成されるという概念がある。実際、幾何学のあらゆる定理は、根源的な公準や公理から組み立てられる。これが、万物の根源であるイデアを想起させるのか?
また、あらゆるものに名前がある以上、それは形を成しているという。そして、形は立体の限界であるとしている。あらゆる物体はプラトン立体に集約できるとでも言いたげな。
なるほど、この物語はプラトン思想の中心テーゼを匂わせているわけか。徳もまた、精神の本質なるイデアのようなものを想起させるのだろうか?徳とは、ある時は教えられるものかもしれない。だが、ある時は教えられないものであろう。そして、学ぶとは、他人から教えられるものではなく、自ら学ぶ能動的な行為ということになる。知らないことが知への渇望となり、これが無知の克服というわけか。徳とは、まさに精神修行の真っ只中にあるのだろう。すなわち、思考の永続的な状態とすることができるかもしれん。
さて、最初の問いに立ち返る。「徳は誰が教えうるであろうか?」ソフィストたちは?政治家たちは?自称教育者とは、あらゆることを学んだと宣言し、教える資格を持つと自認する輩ではないか...徳には、まず人々を正しく支配する能力を有し、そして、勇気、節制、智慧、度量の大きさなどが具わっているのではないか...と議論が盛り上がる。
ちょうどそこに、アニュトスが訪れる。彼の父アンテミオンは、富も才知も兼ね備えた人物で、人を見下すことなく、尊大で嫌味なところもなく、慎み深く礼儀正しいという評判である。そして、息子アニュトスを立派に教育したとなれば、絶好の観察対象となる。ちなみに、アニュトスは、ソクラテスを告発したメレトスの後ろ盾になった人物。その思想は、頑固な保守派で、徹底したソフィスト嫌いとされる。案の定、アニュトスはソフィストたちを蔑む。ソフィストがダメなら、他に誰がいるというのか?そして、徳は教えられるものではないという結論に達する。つまり、アテナイ人には徳が教えられないと。これにアニュトスは怒る。
人間ってやつは、自分の知っていることで、すべてを解決したがるもの。しかも、現実から目を背け、真実を幻想にしてしまう。知っていることは知っている。知らないことは知らない。これが学ぶということであろうか。しかし、これが難しい。そもそも、知っているかどうかが分からない。知った気でいるぐらいが幸せというものか。では、幸せを求める者の精神は、いつか何かに到達することができるだろうか?何かを悟ることができるだろうか?徳が教えられるものでない以上、もはや知識ではない。努力しても、探求しても、徳が具わるかも分からない。それは神のみぞ知る!結局、人間は神の存在に頼らないと、思考を迷走させる運命にあるというのか?永続的な思考というものは知識ではないかもしれないが、知識に劣らず有益であることに変わりはあるまい。

2012-09-02

"ニコマコス倫理学(上/下)" アリストテレス 著

アリストテレスが人生の究極の目的を探求したのは、ソクラテスの「善く生きる」という思想から受け継がれるもので、この点においてプラトンとなんら対立するところはない。そして、現在においても、政治哲学の骨格となっている、はず...
尚、「ニコマコス倫理学」は、息子ニコマコスが編纂したとされる書で、厳密にはアリストテレスの著作ではない。

議論では、善とは?幸福とは?徳とは?思量とは?選択とは?そして正義とは?と思考を掘り下げながら、アリストテレスの二つの哲学原理を顕にする。それは「中庸の原理」「卓越性の追求」である。
中庸とは、両極端を悪とする考えである。精神を探求するにしても、ほどほどでなければ精神病へ追い込むことになる。真理は、ほどほどに見えるぐらいが幸せというものか。人間を極めるとは、人間を失うことなのかもしれん。
一方、卓越性とは、徹底的に思量することである。俗世間では、考え過ぎは良くないと意見する人がいる。だが、考え過ぎるぐらいでなければ卓説性は得られまい。芸術の境地とは、そういうことであろう。そもそも考え過ぎと思う時点で思考の頂点に到達したと自負するようなもの、神にでもなった気でいることになりはしないか?中庸を知るためにも、両極端を知る必要がある。
そうなると、中庸と卓越性とは、なんとも矛盾する思考にも思えるが、まったく違和感はない。深く思考を試みても、結論が見つからなければ、保留しておけばいい。どうせ結論なんてないんだから。そのぐらいの覚悟がなければ、匠の世界は成り立つまい。すなわち、人生とは思考の限界実験である。最も危険なのは、思考停止に陥ること。知ることについては貪欲を求め、知ったことについては調和を求める。なるほど、矛盾とは心地良いものと、そうでないものがあるらしい。心地よい矛盾ほど、より真理に近いということになろうか。自然界に矛盾という原理が存在しなければ、哲学は成り立たないだろうし、精神も成り立たないのだろう。自己が第二の自己を求めて永遠に苛むのは、精神を獲得した知的生命体の宿命であろうか?
さらに、三つ目の思考原理として「持続性」を付け加えておこう。善を持続することは難しい。だが、悪を持続することも難しい。快楽に耽ることが悪とはいえ、永遠に続けば享楽地獄となる。それは、精神的、肉体的疲労からくるものであろうか?怠惰に浸っても、すぐに退屈病に襲われる。苦痛は、避けても、避けても、やはり苦痛ならぬものが苦痛となる。愛にせよ、憎にせよ、休息にせよ、人間にとって執念とは最も縁遠きものかもしれん。人生とは挫折の繰り返しよ。天才の能力とは、持続力であろうか。いや、永遠に愛する自信はあるぜ!ただ、ちょいと対象が変わるだけのことよ。

最上なのは、みずからすべてをさとるひと、また、よき言葉に従うひとも立派なもの。だが、みずからもさとらず、他に聞くもこころにとどめないのは、せんなきやから。
...ヘシオドス著「仕事と日々」より。

「人間は本性上市民社会的(ポリティコン)なものにできている」
アリストテレスは、善の活動の中でも政治におけるものを最高善に位置づけている。そして、政治的な善とは、民衆の幸福を目的とすることで、自足的でなければならないとしている。自足とは、個人にとって充分という意味ではなく、全市民をも考慮した上で充分ということ。では、幸福とは何か?そこに共通解が見つからないことが、いまだに政治をややこしくしている。幸福を欲望の権利と同一視して、多数決で決定するならば、社会的弱者を虐げることになる。少なくとも、快楽や地位や富に存するものではなさそうだ。
「最高善が幸福であることは万人の容認せざるをえないところ。だが、幸福の何たるかについては異論がある。」
アリストテレスは、卓越性を知性的卓越性と倫理的卓越性に区分し、倫理的卓越性の高まりを求める。倫理的卓越性とは、その名を徳と言う。そして、徳とは、中庸であるとしている。
しかし、アリストテレスは奴隷制度を肯定した人物として、よく批判される。「生まれつき奴隷」を唱えやがったと。だが、本書を読む限りその印象はない。奴隷とは人が人を所有することになるが、所有の概念は個人によって生じるのではなく、社会との関係から生じるとしている。社会との関係とは、君主によって決定づけられるものなのか?そのようにも解釈できるが、ちと違う。君主と僭主は同じ単独支配だが、似ても似つかぬものとしている。君主は自己の利益を考慮せず万人の利益を考慮するが、僭主はまったく反対のことをすると。君主には最高善が前提されるわけか。君主が神のような人物であれば、奴隷であっても不都合はないのかもしれない。だが、歴史に登場したあらゆる君主は、残念ながら僭主であった。それとも古代ポリス時代には真の君主がいたというのか?
尚、国政の形態には、君主制、貴族制、立憲民主制または共和制の三つがあるという。最善なのは君主制で最悪なのは民主制だとし、僭主制は君主制の逸脱形態としている。現実に、社会的な力関係が生じるのは避けられない。組織構造には必ず上下関係があるし、取引関係も顧客に従わなければ成り立たない。あるいは、人生経験や能力の違いから人を敬う気持ちが自然に発する。現在ですら、労働者は企業の半奴隷となって働き、下請業者は半強制労働を強いられる。会議の休憩中、大会社の連中が連休に何をするか雑談している時、こちらは工程の遅れを取り戻す思案をしているものよ。どんな人間だって何かに依存しなければ生きてはいけないし、依存するものに対して奴隷となって生きるしかあるまい。もしかして、アリストテレスは差別制度を容認したのではなく、人間の社会的性質を述べただけなのか?結局、本書は最高善の探求を政治家に求めて終わっている。「より善き人間たらしめようと欲すること」、そうした人間が政治をやるべきだと。「ニコマコス倫理学」は、アリストテレス著「政治学」の前段に位置づけられているわけか。この古典にも挑戦してみる必要がありそうだ。プラトン著「国家」と合わせて...はぁ~道は遠い...

1. 幸福とは
幸福が、卓越性や学習や訓練によって生じるとしても、やはり神的なものに属するところがあると認めている。美しく生まれるのも、健康な身体であるのも、何らかの恵があるからであろう。動物に生まれるのも、植物に生まれるのも、人間に生まれるのも、やはり神の仕業であろうか?人間に生まれることが、本当に幸せなのかは知らんが。
さて、幸福とはいかなるものか?ソロンの言葉に「その最後を見とどける」というのがあるそうな。人生を評するには死後でなければ語れない。だが、死者は語れない。人生とは自己評価もできないものなのか?なるほど、人は死に顔を曝しながら、生き残った者に愚痴られる運命にあるのよ。生き残った者が死者にまで価値観を押し付け、幸せそうな顔をして死んでいったなどと後付けで評す。なんと身勝手な、そして不幸のレッテルを貼るがいい。少なくとも、生きている間は生きている者同士で付き合いたい、死んだら死んだ者同士で付き合い、生きている者に眠りを邪魔されたくないものだ。
人生とは、大半が自己満足の世界なのであろう。そして、その瞬間、瞬間で味わい、自己評価するしかあるまい。とても他人が評価できるものとは思えない。幸福とは、生きているその瞬間の精神活動ということができそうか。幸福な人は、卓越的に活動し、外的な環境に恵まれ、しかも、それが生涯に渡って続く、ということはできるかもしれない。そして、相応しい死に方をするというのを付け加えておこうか。

2. 徳とは
徳とは、卓越性だという。そして、知性的卓越性と倫理的卓越性を区分し、前者を経験的で後天的なもの、後者を習慣づけによって生じるとしている。ちなみに、「倫理的」(エーティケー = エートス的)という言葉は、「習慣」(エトス)から転化したものだそうな。倫理とは、習慣すなわち生き方、そして最も重要な徳とは、人の生き方ということになろうか。
「倫理的な卓越性ないしは徳は本性的に与えられているものではない。それは行為を習慣化することによって生れる」
そもそもの政治の起こりとは、「慣習 = 倫理的卓越性 = 徳」という図式から生じたのかもしれない。いくら政治で成文法を整えたとしても、それが慣習とならなければ、法律として機能しない。しかし、政治家は、条文の解釈をめぐって、いつも法律の眼を掻い潜る。これが「政治家の原理」だとすれば、「政治の原理」と似ても似つかぬものということになる。なるほど、政治家は法律の限界実験をしているのか。
この時代、卓越性というものについて最も勉強したのは政治家だという。市民は、その善き人の卓越性に耳を傾け法律に従い、人間たらしめることにあったと。だが、今ではその面影もない。ユーロ危機がギリシャに端を発したのは民主政治が衆愚政治と化した結果であろうか?

3. 中庸とは
倫理的卓越性とは、情念や能力などではなく、中庸を極めた状態だとしている。物事には調和と適合というものがある。中庸とは、それを悟った自然体とでも言おうか。恐怖と平然に関しては勇敢が中庸、快楽と苦痛に関しては節制が中庸だという。財貨の贈与と取得に関しては、寛厚が中庸で、過超と不足は放漫とケチだという。名誉と不名誉に関しては、矜持が中庸で、過超と不足は倨傲と卑屈だという。中庸は穏和であり、その対極は怒りんぼと意気地なしだという。
「両極端は中に対しても、また相互の間においても反対的である」
ただし、中庸を、無感覚と解するのでは違う。プラトンは、まさに悦びを感ずべきことがらに悦びを感じ、苦痛を感ずべきことに苦痛を感じることが必要であると説いた。これが、教育というものであろうか。徳にとって、快楽も苦痛も知る必要があるのだろう。となると、SもMも知らなければ、真の快楽も分からないというのか?この実験は、癖になりそうで怖い!

4. 正義とは
正義とは、どのような中庸の状態であろうか?正義は、適法的で均等的だとしているが、必ずしも善ということにはならない。このあたりに最大多数の幸福と多数決の問題にぶつかるのだろう。実践的には、運不運に左右される事柄に対する是正という意味での善ということのようだ。法は、理性を実践的な方法で導く手段ではあるが、多少の補正をしているに過ぎないのだろう。せいぜい、不均等を是正すること、いや、是正しようと努めているぐらいか。必ずしも、政治的正義とあらゆる善が一致するわけではない。政治では、最善策よりもそこそこ良策の方が機能する。歴史には、法は徳よりも優先された事例がある。諸葛亮の「泣いて馬謖を斬る」とは、まさに軍律の遵守を優先した結果である。人材の少ない蜀の国にあって、あえて愛弟子を処刑した。権力者だからこそ庶民に模範を示し、自己の徳を犠牲にした。それが理不尽であっても。このあたりが法の限界であろうか。
過多をむさぼることが悪徳だとしても、必ずしも不正義にはならない。だが、非難が巻き起これば、邪悪も不正義となりうる。法が裁かなくても、社会の眼が裁くことはよくある。こうした社会機能が法を補っているのだろう。しかし、民衆はよく暴走する。
「ひとびとは、不正をはたらくということは自分の勝手になることだ、だから正しい人間たることも容易なことだと思っている。」
そもそも、徳全般に対する正義なんてものは、存在しないのかもしれない。正義が実践において生じるならば、その限界は法の限界に近いところにありそうだ。
「法律は政治学の作品のごときものである。」
いや国家の作品、いや国民性のバロメータと言った方がいいかもしれない。
また、実践的な正義として、配分的正義と矯正的正義を議論している。配分的正義は、「幾何学的比例」という見慣れない言葉を用いている。三角形の底辺と高さのような、二つの要素の比例関係から全体の比例関係が生じるような関係で、現代風に言えば等比級数的というイメージであろう。現実に、所得税が累進課税であるのは、この原理からきている。対して、矯正的正義は、「算術的比例」に基づくという。矯正的とは、罪人を罰するための量刑などがこれにあたる。ただ、現在の量刑が比例的かどうかは知らん。無期懲役刑をくらっても、十年もすれば仮釈放で出てくるとは、これいかに?あるいは、死刑が随分と軽んじられているのか?アリストテレスの時代は、裁判官の裁量で比例関係を保つことができたのであろうか?

5. 愛(フィリア)とは
愛は、卓越性と切り離せないという。一般的に、愛は善とされる。おそらく愛も徳から生じるのであろう。互いに親愛であれば、正義など無用であろうか。ただ、愛と憎は背中合わせにあり、これほど両極端を行き来する情念も珍しい。愛することは難しい。いや、そんなことはない。夜の社交場では速愛法なるものを実践している、者がいると聞く。教祖様にいたっては誰とでも愛し合い、合体してまで身も心も蝕む。愛の価値を下げやがるのは友愛型人間ってやつか。
さて、愛にも三種類あるという。善きもの、快適なもの、有用なもの、に対する愛。しかしながら、善のための愛が最高だという。愛は、最も永続するものに価値があるのだろう。家族愛や郷土愛のような無条件に生じる愛もある。では、恋愛は永続するだろうか?そりゃ、するさ。ただ相手が変わるだけのことよ。愛のためなら(小)悪魔も必要さ。現実に、愛の関係には優劣がある。金銭的に服従したり、生活的に依存したりと。あなたなしでは生きられない!なんて、うまい事を言う。優劣関係にすれば、だいたい逆転するけど。力関係による愛、政治力による愛、慣習による愛、いずれも生活目的を結びつけるだけで、幻想ではないのか?人間は人間を利用しながら生きている。これも愛か?では、卓越性に即した愛とは?卓越した愛は永続的だという。永続する愛といえば自己愛が基本であろう。自分を愛せずして、どうして人を愛せる。だが、アリストテレスは、愛の最高位は国家共同体に対する愛だという。親友や家族よりも優先されるとも解釈できる。ちと危険か。
「ひとは自愛的でなくてはならない。だが世人の多くがそうであるごとき意味においては自愛的たるべきでない。」
んー...難しい言い回しだ。人類の歴史では、政治を優先するあまりに愛国心を煽った例が実に多い。戦争の原因のほとんどは愛国心から生じてきた。アリストテレスは、紛争もまた「一方的優位性の上に立つ愛」だとしている。憎しみも愛の裏返しとなれば、博愛主義者も喜ぶだろう。
好意もまた、愛の類いのように思われる。相手が気づかない場合もある。だが、好意は愛ではないという。好意には切実さが欠けていて、欲求が含まれていないからだそうな。愛は行動を伴い、好意は眺めるだけというわけか。憧れも好意に含まれるのであろう。見守るだけの方がはるかに災いを避けられそうだけど。
「愛においては、愛されるよりも愛することが本質的である。」
愛は、報われないと苦痛になる。愛が深まると、相手の価値観を否定することになるとは。真の愛とは、見返りを求めいないということか。すこし愛して、ながーく愛して!というのが、真理かもしれん。これも中庸の原理であろうか。孫に囲まれ、愛する者に見守られて死にたいというのが普通の感覚であろうが、所詮、自己愛の強調でしかない。孤独死を受け入れ、共同墓地に入るのを覚悟する、そんな覚悟を自然に受け入れられる人こそ、強靭な理性の持ち主なのかもしれん。死して屍拾う者なし!