2014-11-09

"エリック・エヴァンスのドメイン駆動設計" Eric Evans 著

ドメイン駆動設計(Domain-driven design)とは、モデリングパラダイムを中心に据えたソフトウェア設計手法である。おいらはプログラマではないが、あらゆる分野の研究、開発、設計が、効率化とコスト削減のためにデスクトップ上に展開される御時世。プログラミングをまったくやらなくて済むなんて職場を、おいらは知らない。統計モデルの記述には数値演算言語が、電子回路の実装にはハードウェア記述言語が、データベースの管理にはSQLが、Webの構築にはマークアップ言語が、などなど... 古くから、脳をモデリングするための人工知能言語が研究され、新しいところでは、ゲーム開発用のスクリプト言語が登場する。いわゆる、ドメイン固有言語ってやつだ。こうした言語は、各々の分野で本質を見極めようとする動機から生まれ、おかげで、システムのプリミティブな知識を知らずとも、本来の仕事に集中することができる。本書は、コンポーネント群から分離した本質を抽出するプロセスに、「蒸留(distillation)」という語を当てる。モデルとは、蒸留された知識を言うそうな。今宵は、余計な知識を揮発させるために、熟成された蒸留酒をやらずにはいられない...

ソフトウェアの設計は、対象が目に見えないだけに、メタファ的な発想を要求してくる。いわば、概念と実体を結びつける空想力だ。リファクタリングやリポジトリ、あるいはレイヤ化アーキテクチャといった発想は、システムを理解する上で重要な概念となる。こうした思考法は、ソフトウェアに限らず、多くのシステム開発で参考にできるはずだ。現実に、システムを本当に理解している人は、そういるもんじゃない。技術屋の関心事は特定の技術に向けられ、営業屋は顧客の要求がすべてだと考え、お偉いさんは納期や政治的な事ばかりに気を配る。顧客だって提案に反応するだけで、本当に要求するべきものを知っているわけではあるまい。強烈な責任分解が悪しきシステムを生み出し、複雑なシステムほど手に負えなくなるのも道理である。
「大規模な構造を適用すべきなのは、モデルの開発に不自然な制約を強いることなく、システムを大幅に明確化する構造が見つけられた時だ。うまく合わない構造なら、ない方がましなのだから、包括的なものを目指すのではなく、出てきた問題を解決する最小限のものを見つけることが一番だ。"より少ないことは、より豊かなこと(Less is more)"なのだ。」

本書が提供してくれるものは、ソフトウェアの核心にある複雑さを相手取るための思考法である。それは、設計上の意思決定を行うフレームワークと、ドメイン設計について議論するための技術的な語彙であり、語彙の定義こそが要だ!ということを教えてくれる。つまり、顧客から開発者に至るまで対話できる共通ボキャブラリの構築である。なによりも強調していることは、チームをより効果的に導くこと、ビジネスエキスパートとユーザにとって意味ある設計に集中させること、そして、深いモデルとしなやかな設計を目指して試行錯誤の継続が重要だとしている。
ここには、エリックの経験則が綴られる。むかーしから蓄積されてきた愚痴が、つい爆発してしまうのは、それだけ現場の本音を物語っているからであろう。設計者が顧客を説得できないのは、システムのポリシー、ひいては哲学がないからに違いない。もっと言うなら語彙が乏しい。専門に閉じこもればシステムとしてのドメインが見えなくなる、高度な技術に凝り固まればユーザの気持ちが見えなくなる... とは、実に頭の痛い御指摘!こいつは、実践に概念を結びつけるための哲学書である。そして、ドメイン駆動設計には非常に高度な設計スキルを養う機会が溢れていることを教えてくれる。
尚、対象読者には、オブジェクト指向, UML, Javaなどの基本的な知識が必要としているが、プログラミングを趣味ぐらいにしか考えていないアル中ハイマーでも抵抗感がない。もっとも仕事も趣味の延長ぐらいにしか考えていないが...

1. ドメインとユビキタス言語
ところで、ドメインってなんだ?改めて突き付けられると、なかなか手強い用語であることに気づかされる。辞書を引くと、領域、範囲、分野、あるいは、境界や定義域といった意味を見つける。通信業界ではネット―ワックの管理単位とし、ディレクトリサービスでは共有範囲や利用者グループの範囲とする。ソフトウェア工学は仮想的な領域を扱うことが得意なだけに、用語の量や複雑さに圧倒される。活動や関心の範囲を抽象化し、実体を含む領域もあれば、実体を含まない概念だけの領域までも編み出しやがる。モデルは、この重荷と格闘するためのツールであり、シンプルに組み立てられた知識の表現形式である。したがって、ドメインとは、知識が厳密に構成され、効率的に抽象化された定義域とでもしておこうか。
自然言語も、人間のコミュニケーションツールとしてのドメイン固有言語と言えるかもしれない。あらゆる学問で情報交換を効率的に行うために専門用語が編み出されるが、これも同じようなものであろうか。そして、システムは言語である、とでもしておこうか。
それは、技術者に留まらず、ユーザを含めたシステムに携わるすべての連中とコミュニケーションできる手段となるべきもの。本書は「ユビキタス言語」と呼んでいる。ユビキタスとは、チームの至ることころに存在するという意味で使われている。
しかしながら、言語の柔軟性は想像以上に手強い。言語表現は、精神活動の投影でもあるのだから。例えば、「信用」という用語は、経済学のものと心理学のものとでは大きな隔たりがあるし、「客観」という用語は、数学のものと他の学問のものとでは度合いがまったく違う。客観性の強いはずの技術用語ですら微妙なニュアンスの違いを見せる。パッケージ、コンポーネント、インスタンス、エンティティなど、これらの用語は専門によって使い方が違ったり、企業組織や開発グループによっても微妙に解釈が違ったりする。オブジェクト指向を一つとっても捉え方は様々で、美しいモジュール性を励行したり、カプセル化や継承を強調したり、メソッド操作の一貫性を保ったりと。Wikipediaや用語辞典に頼り過ぎると、却って混乱することもある。
チームに浸透する微妙なニュアンスは、実践でしか育まれるものではない。最初の会議で、用語群の定義を大切にするマネージャを見つければ、それだけで信頼に値するだろう。プロジェクトマネージャとは、ある種のシナリオライターだと、おいらは考えている。その一方で、長嶋茂雄ばりの英語まじりで、何を言っているか分からないお偉いさんを見かけるけど...
どんなシステムを設計するにしても、その仕事に適した用語群が形成されるはずだ。言語とは、記号で記述するものだけでなく、構造図、振る舞い図、関連図といった視覚的に訴える手段も含めておこう。言語は、柔軟性こそ味方につけるべきである。プロジェクト内で用いられる言語が、設計の楽しさを醸し出し、我がチームの合言葉となることを願いたい...

2. レイヤ化アーキテクチャとドメイン層
本書は、システムアーキテクチャを四つの層に分けて分析することを推奨している。上位から、ユーザインターフェース層、アプリケーション層、ドメイン層、インフラストラクチャ層である。ユーザインターフェース層はユーザの要求や状態などを管理、アプリケーション層は処理やトランザクションなどの管理、インフラストラクチャ層は上位のレイヤを支える技術を提供する。
注目したいのは、ドメイン層を独立させていることだ。この層では、概念や規定の責務を負うという。いわば、設計思想を担う核心部分というわけだが、これを分離する感覚がとっつきにくい。そもそも思想や哲学というものは概念的なものであって、しかもシステム全体に浸透すべきものであり、すべてのレイヤを含んでいそうなもの。しかし、概念と手段を明確に区別することにも、一理ありそうだ。ドメイン層がアプリケーション層とインフラストラクチャ層の間に位置するのは、思想と実践の架け橋にでもなろうというのか。
ところで、古くから、MVCというデザインパターンがある。モデル、ビュー、コントローラで分離する設計概念である。ビューとコントロ―ラを結合させて、ドキュメント/ビュー構造にも馴染みがある。ドメイン層という発想は、こうした流れから派生しているようである。そうなると、ドメイン層は実装よりもドキュメントとの結びつきが強そうに映る。なるほど、ユビキタス言語との結びつきが鍵というわけか。
実際、多くのエンジニアが手段に目を奪われ、本質的な要因を理解しようとしない。コマンドの叩き方やコードの書き方を工夫すれば、目的に適った動きをしてくれるので、それで理解した気分になれる。コンピュータサイエンスの視点からモノを見るエンジニアは意外と少ない。そんな必要もないのかもしれんが。些細な問題を抱えても目先の対処で誤魔化すために、潜在的に大きな問題を抱えるケースも珍しくない。あるいは逆に、冗長的な方法論や過剰な機能を付加して、自ら墓穴を掘るケースもある。
しかしながら、モデリングパラダイムによく適合した実装技術を身に付けるとなると、かなり骨が折れる。手っ取り早く、オブジェクト指向あたりでええじゃん!と、つい考えてしまう。実際、言語システムを選択することで、設計思想の確立を肩代わりさせることもある。設計グループには文化があり、そこに実装に用いる言語がどっぷりと浸かっている。設計文化が、言語そのものとか、コーディングルールだと主張する人も珍しくない。そのために、どの言語システムを選ぶべきか、という論調になりがちである。
「モデルに貢献する技術的な人はだれでも、一定の時間をコードに触れることに費やさなければならない。プロジェクトで主に果たしている役割が何であれ、そうしなければならないのだ。コードの変更に対して責任を負う人はだれでも、コードを通してモデルを表現することを習得しなければならない。すべての開発者は、モデルに関する議論にいずれかの段階で参加して、ドメインエキスパートと話をしなければならない。その他の方法で寄与する人々は、ユビキタス言語を通じてモデルに対する考え方をダイナミックに交換する際に、コードに触れる人々を意識して巻き込まなければならない。」

3. リファクタリングとリポジトリ
ドメインモデルを習得するためには、リファクタリングが鍵になるという。戦略的設計には、より深い洞察へ向かうリファクタリングが必要だというわけだ。政治的に言えば、ビジョンってやつか。最初からシステムを理解している者など、そういるものではない。すべては試行錯誤によって導かれるであろう。システムってやつは、機能追加や修正にともなうバージョンアップを繰り返すうちに、いつのまにか設計思想を見失って硬直化し、やがて過去の遺物と化す。
リファクタリングの対象は、モジュールそのものに向かいやすく、設計思想といった上流工程に向かうことはあまりない。インターフェースを保持しながら、構成要素の中身を再検討することはよくやるが、一度決定した全体構成を見直すことをあまりやらない。変更リスクが大きいからだ。
しかし、ドメインレベルで思考することによって、システムそのものが生き物のように進化するという。それは、構成の分離と統合、用語の定義といった様々な境界を明確にしながら、さらに再定義すること、そして、システムに柔軟性を持たせると同時に、異質な設計の紛れ込む余地を許さないことを目的とする。ひとことで言えば、アジャイルに、PDCA(Plan - Do - Check - Act)を回転させるといったところであろうか。
また、リポジトリのテクニックが重要だとしている。データベースへの問い合わせは、過去を遡る手段となる。そして、データベースの構造、すなわちデータ構造そのものが、ドメイン設計にとって根幹となるはずだ。各メソッドのデータ構造へのアクセス方法が、一貫性を保つルールを自然に育むだろう。リファクタリングの意義は、完璧な設計などありえないというコア思想を見直す習慣を身に付けることになる。その習慣が、技術と品質の妥協を許さない技術者魂を呼び起こすであろう。最終的にシステムは、ユーザにとって役立つものでなければ意味がないが、その前にエンジニアにとっても役立つものとしたい。コードの保守は、後々重要な知識の蓄積となって返ってくる。モデルとは、システムの物語を伝えるためのものなのかもしれん。
「深いモデルは、ドメインエキスパートの主要な関心事と、それに最も深く関連した知識に関する明快な表現を提供するが、一方で、ドメインの表面的な側面は捨て去るのだ。」

4. 副作用の宿命
モジュール化によって、様々な副作用の余地を残すのは危険であろう。関数の設計であれば、副作用のないことを期待するが、完全に副作用を排除することも難しいので、どのような作用が生じるか明示しておく必要がある。ライブラリの揃える関数群の引数や戻り値の一貫性や、操作性の一貫性が、他のモジュールへの影響を小さくする。あるモジュールを使用する場合、その実装について悩まされ、コードを確認しなければならないとすれば、カプセル化の価値は失われる。設計思想の違うモジュールの結合によって構成されたブラックボックスは、深刻な問題を抱えている可能性が高い。強烈なものになると、「解析済みの問題」と称して、これらを仕様書に羅列したものを見たことがある。10項目ほどの。これを使えば開発期間が短縮できると、意気込んだお偉いさんとセットで。解析済みってどういう意味かは知らんが、問題を修正してから持ってこいよ!それとも修正できないほど深刻ってか?幸か不幸か、この手の直感は外れたことがない。意図を明確にしておけば、インターフェース仕様が適さないことは明白になるはず。にもかかわらず、政治的な意図で工程が短縮できるとすれば、設計とはなんなんだ?技術とはなんなんだ?おっと、愚痴が加速する!
設計思想の一貫性を保つことは、システムが複雑になるほど不可能なほど難しい。クックブックのようなルールで対処できるものではない。やむを得ず矛盾を許す箇所も生じるだろう。どんな規則にも、例外が生じることは覚悟しておいた方がいい。それでもなお一貫性を保とうとする努力を怠ることはできない。それが、エンジニアの宿命なのかもしれん。物理学者が不確定性原理に、数学者が不完全性定理に、哲学者が二律背反に立ち向かうように...

5. 腐敗防止層と例外処理
ドメイン層とは、ちと違うが、概念を独立させるという意味でイメージしやすい事例を紹介してくれる。「腐敗防止層」とは、なかなか興味深いネーミングだ。究極の例外処理と解するのは、大袈裟であろうか...
どんなに優れたシステムでも、数年後には腐敗する。これは自然法則と思うぐらいで丁度いい。そこで、腐敗の傾向をモデリングできるとありがたい。腐敗防止層のインターフェースとは、どのようなものであろうか?もしかすると、政治色の強いお偉いさんの思考にも、なんらかの傾向があるのだろう。整合性のための自動チェック機構のようなものがモデリングできれば、政治屋を黙らせることができるだろうか。
古代中国は、近隣の遊牧騎馬民族の襲撃から国境を守るために万里の長城を築いた。だが、誰も通れない防壁だったわけではなく、規制しながらも交易は認めたという。大軍の侵略に対して頑強な障害物であればよかったのだ。なるほど、きちんと境界条件が定義されていることが重要だ!という教訓か...

2014-11-02

"人月の神話" Frederick P. Brooks, Jr. 著

コンピューティングの世界は日進月歩。チューリングマシンが考案されて一世紀に満たず、いまだ過渡期にあるのだろう。ここに、出版後20年経っても色褪せない書がある。プロジェクトの事情はあまり変わっていないようだ...
「人月」という用語は、開発、設計、製造などあらゆる生産工程において用いられる。それは、人と月の積で表される工数の単位で、二つの項が互いに交換できるという意味がある。人と月が交換可能となるのは、作業者たちの間でコミュニケーションを図らなくても仕事が分担できる場合や、機械的な作業に徹することができる場合。エンジニアのスキルには個人差があり、時には十倍もの能力差を見せる。
にもかかわらず、人月の幻想に憑かれたお偉いさんは、労力と進捗を混同した見積もり計算を続ける。マイルストーンを美しく見せることが管理者の仕事と言わんばかりに... 表面的な技術を寄せ集め、結合すればいいという安直な考えに走れば、却って現場を混乱させ、お粗末な結果を招くことは何度も経験してきたはずなのに... ゴールとスケジュールが予算に適ったものなど見たことがない。そして、ブルックスの法則がこれだ。
「遅れているソフトウェアプロジェクトへの要員追加は、さらにプロジェクトを遅らせるだけだ!」
尚、著者フレデリック・ブルックスは、1999年チューリング賞を受賞し、IBM System/360 の父としても知られる。再読に際して、20周年記念増訂版を手にする...

「銀の弾などない!」という主張は、なかなか挑発的である。ムーアの法則に従って、メモリ容量やCPU性能など、ハードウェアリソースが飛躍的に進化する中、ソフトウェアの生産性において格段の向上をもたらすプログラミング技法は、ここ10年登場しない!と断言しているのだ。
確かに、構造化技法やオブジェクト指向といったパラダイム変化を見せつつも、これが最高というものがなかなか見当たらない。複合的に技法を導入し、しかもプログラマのセンスに委ねられているのが現実である。その状況は、多様化するプログラミング言語に見てとれる。関数型プログラミング、オブジェクト指向プログラミング、ジェネリックプログラミング...  あるいは、マルチパラダイムプログラミングなどなど。言語に愛着を持った連中が、それぞれにこれが一番だと主張する様は宗教論争にも映る。
本書は、そうした技法を度外視して、プロジェクトチームの在り方や管理手法の側から問うている。その前提に本質性と偶有性とを混同しないこととし、概念構造体やソフトウェア実体の側面から議論を展開する。
「すべてのソフトウェア構築には、本質的作業として抽象的なソフトウェア実体を構成する複雑な概念構造体を作り上げること、および、偶有的作業としてそうした抽象的実存をプログラミング言語で表現し、それをメモリスペースとスピードの制約内で機械言語に写像することが含まれている。」
本質性と偶有性とは、アリストテレスを彷彿させる概念だ。ここでの偶有性には、偶然発生するという意味ではなく、副次的や付随という意味が込められているようだが、本質に対するその場しのぎ!という意味も感じられる。そして、最も重要な事柄は、「コンセプトの完全性」「アーキテクトの資質」であるとしている。ハードウェアリソースの奴隷となる前に、ソフトウェアとして見失ってはならないものがあろう。これはソフトウェア論ではない。ある種の組織論である。

手段に目を奪われがちなのは、なにもソフトウェアに限ったことではない。おいらはプログラマではないが、ここに語られるチームの鉄則は他の業界にも十分適用できるだろう。ソフトウェアの構築には、強い変化を意識させられる。自分自身を変えよ!と要請してくるほどの。プロジェクトマネジメントは極めて社会学的で心理学的な分野であるからして、ソフトウェア手法の柔軟性の高さは、不変な精神活動において大いに参考になるはずだ。
「ソフトウェアエンジニアリングというタールの沼は、これから当分の間厄介なままだろう。人間が、手の届く範囲の、あるいはぎりぎりで届かないところにあるシステムを、ずっと試していくことは容易に想像がつく。おそらくソフトウェアシステムは、人間の作り出したもののうちで最も複雑なものだろう。この複雑な作品は私たちに多くのことを要求している。この分野を引き続き展開させていくこと、より大きな単位に組み立てることを学ぶこと、新しいツールを最大限使用すること、正当性が立証されたエンジニアリング管理方法に最大限順応すること、常識から自由になること、それに誤りを犯しがちな点と限界を気づかせてくれる神の与えた謙遜の心を。」

1. コンセプトの完全性
「コンセプトの完全性こそ、システムデザインにおいて最も重要な考慮点だと言いたい。一つの設計思想を反映していれば、統一性のない機能や改善点など省いたシステムの方が、優れていてもそれぞれ独立していて調和のとれていないアイデアがいっぱいのシステムよりましである。」
ソフトウェアの目的の一つは、システムを使いやすくすること。使いやすいとは、機能を使うためにマニュアルを読んだり、知識を覚えたり、調べたりする労力を省いてくれることである。そのために様々な言語に対応したり豊富な機能を備えるわけだが、複雑な処理をシステムに肩代わりさせるのに、一切のマニュアルなし!というわけにもいくまい。あるいは、使いやすいく簡単というだけでも、豊富な機能というだけでも、良いデザインとは言えまい。
「システムのアーキテクチャとは、ユーザーインターフェースについての完全かつ詳細な仕様書であると考える。それは、コンピュータにとってはプログラミングマニュアルであり、コンパイラにとっては言語マニュアルである。制御プログラムにとっては、機能を呼び出すのに使用される言語のマニュアルである。そして、システム全体にとっては、利用者が自分の仕事全部をこなすために調べなければならないマニュアルを集めたものになる。」
古くから、機能の豊富さこそが最高のものとされる傾向がある。ソフトウェアの軽快さを犠牲にしてまで、使いもしない、見向きもされない機能が装備されるとは、これいかに?セカンドシステム症候群とは、まさに多機能主義に陥って、最初の哲学を見失った姿だ。哲学のない技術は危険であろう。とはいえ、システム設計者にとって、システムの一貫性を保つことほど難しいことはない...

2. アーキテクトの資質
コンセプトの完全性とは、一つの原理を反映することであり、ある種の芸術性を具えている。鑑賞者や批判者の意見をすべて取り入れては、芸術の高邁さは失われる。芸術とは、啓発された利己主義者のものだ。そこで、一つのシステムは、一つの芸術作品として捉えたい。
「制約が芸術のためになると納得させるような美術や工芸品の例はたくさんある。芸術家の格言に曰く、"形式は自由な創造の源だ"。最悪の建築物は、用途に対してコストを掛け過ぎたものだ。バッハの創造的な作品には、定められた様式のカンタータを毎週作り出さなければならないという要請に押しつぶされたところなど微塵も見られない。」
芸術作品となると、少数のアーキテクトによってアイデアが創出されることになり、プロジェクトマネージャの権限は絶大となろう。プロジェクトチームは君主制になりがちだ。とはいえ、アーキテクトが創造的楽しみを独占し、実装者の創意工夫を締め出すのでは、単なる作業者の集団に成り下がる。インプリ屋に成り下がって、ただ仕様書に従うだけではチームの活力が失われ、ましてや予算とスケジュールに押し潰されれば、命令に対して感情的にもなる。やはりチームには民主制の余地を残したい。メンバーが自由に発言し、それを芸術の域にまとめ上げるのが、プロマネの仕事としておこうか。
実際、好転したプロジェクトには、あらゆる意思決定の権限を持つマネージャが、穏やかな独裁者として振る舞っているものである。メンバーに高位な意思を伝授し、相互に切磋琢磨し、技術に対して積極的な関心を持つ風潮を大切にしたい。とはいえ、メンバーに作る喜びを与え続けることほど、難しいものはないのだけど...

3. 生産性 vs. 品質... 本当に銀の弾はないのか?
銀の弾などない!とは、憂鬱なテーマでもある。間接的にゲーデルの不完全性定理を語っているような。ただ、これを悲観主義とするのはあんまりだ。楽観主義では何も解決できないし、最終的に勝利するのは現実主義であろう。まったく市場原理と似ている。ブルックスは、プログラマの楽観主義は職業病だと言っている。
「懐疑主義は楽観主義とは違う。輝かしい進展は見えないが、そう決めてかかることはソフトウェアの本質から離れている。実際のところ多くの頼もしい新機軸が着々と進められている。それらを開発、普及、利用するという厳しいが一環した努力こそ、飛躍的な改善をもたらすはずだ。王道はない。しかし、道はある。」
あれだけもてはやされたオブジェクト指向は、銀の弾になりえたであろうか?このパラダイム変革には、様々な見解がある。モジュール性と美しいインターフェースを励行することや、カプセル化を強調すること、あるいは、継承を強調すること。別の見方では、強い抽象データ型を強調し、特定のデータ型には特別な操作によってのみ扱うことが保証されるべき... などなど。様々な特徴を有するが故に、コードを書く人の必要と好みに応じて取り込まれる。ちなみに、ある組織では、継承禁止令!があると聞く。権限者が理解できないから、嫌いだから、禁止ってのもどうかと思うが...
コーディングルールをあまり厳密にすると、思考の柔軟性が失わる。それよりも、変わったコードを書く人には、コードレビューを開催してもらうことだ。手段ではなく、哲学の方を共有すべきであろう。
カプセル化は大好きな概念だが、見知らぬ人が設計したものをブラックボックスで流用するとなると、ちと抵抗がある。ソフトウェアの再利用は、生産性と品質の双方において重要な役割を果たすだけに、お偉いさんは工程が短縮できると信じこむ。そして、中身の検討を無視し、もはや何を設計しているのかも分からなくなる。
「右手がやっていることを左手が知らないせいで、スケジュールの惨憺たる状態だとか、機能がうまく合っていないとか、システムのバグといったことが一度に生じる。... チームは憶測でばらばらになっていく。」
ところで、ソフトウェア業界は、生産性と品質のどちらに目を向けるべきであろうか?現代の風潮は、品質よりも利便性が圧倒的に優勢にあろうか。実際、Webサービスには、些細な不具合が何年も放置されたまま。無料だから仕方がないと諦めているユーザも少なくあるまい。実用面で問題にならないと言えばそうなのだが...
しかしながら、品質を着実に確保していかなければ、そこから派生する設計までも爆弾を抱えることになる。品質はコストに影響を与えるために、お偉方は目を瞑りたいようだが、品質を重んじなけば、自己の進歩も見えてこない。多くのプロマネは、系統だった品質管理の欠如とスケジュールの破綻に相関関係があることを経験的に知っているだろう。
確かに、完全な品質を実現することは不可能だ!ただ、人類の進化論には、突然変異という離散的な現象がある。それは、継続されたな意志によって生じるエネルギーの蓄積からもたらされる。つまり、こだわりってやつよ。楽観主義から意志エネルギーの蓄積は望めまい。
ソフトウェアの歴史は、いまだ過渡期にあり、一概に銀の弾はない!とも言い切れまい。いや、人類の歴史そのものが、いまだ過渡期にあるのかもしれん。そういえば、ケイパーズ・ジョーンズ氏は日本講演で、ソフトウェア業界には大事なものが欠けていると語った。本書にも、彼の言葉が紹介される。
「品質にこそ焦点を絞るべきなのであり、生産性は後からついてくる。」

4. ドキュメントの試行錯誤
自然言語は、定義のための厳密性を欠く。そこで、現実的な手段として形式的定義といった表記を用いる。プログラミングとは、まさに形式的な記述の積み重ねだ。厳密な記述は、分かりやすい記述とは性質が異なる。それ故に、マニュアルが曖昧になることもしばしば。法律の条文が極めて形式的なのは、厳密性を求めるからである。求めたからといって、得られるとは限らんが...

「簡潔に言うっていうのはすごくいい。自分が今どこにいるか知っていようが知っていまいが。」...サミュエル・バトラー

かつて、コードを説明する手段としてフローチャートが過大評価された。今では、フローチャートという言葉すらあまり聞かない。UMLのアクティビティ図のような派生的な技法は見かけるものの。コードを読む手がかりとしては、むしろテーブルやデータ構造、あるいはモジュール定義や構造記述の方が重宝される。
プログラミング言語が進化すれば、ドキュメントの書き方や用い方も変化するだろう。形式化と柔軟性の按配は、いつの時代でも、どんな分野にも、つきまとう問題である。いつも言っていることだが、我がチームではドキュメントの書き方を規定しない。分かりやすく、好きなように、思ったように書くようにと... 参考にするのはいいが、少しは独自性を見せようと... 芸術性とは主観性に支配されるもの、存分に精神を解放しようではないかと...
「表現はプログラミングの本質である。」

2014-10-26

"MAKERS" Chris Anderson 著

Do it yourself !... とは、起業家には不可欠な精神であろう。
財務処理から流通手配や営業交渉まで、それがたとえ苦手な仕事であっても、すべて自分でこなさなければならない。いくら頼りになる相談役や事務屋が側にいても、すべての責任は自分に降りかかる。そんな面倒なことを背負い込んでまで、独立を望むのはなぜか?それは、本当の自由を欲するからであろう。少なくとも、おいらの場合はそうだ。
しかしながら、自由ってやつも、なかなか手強い!自由の範囲を広げようとすればするほど、依存度を高め、ますます責任や義務が増していく。勢いに乗って事業を拡大すれば、維持するための資金が増大する。銀行やベンチャーキャピタルからの融資を受け入れれば、今度は間接的に支配される。もはや事業は誰のものやら。自由を求めて集まってきた従業員たちは、窮屈さを感じて逃げ出す。ベンチャーと称する企業で、創業時のメンバーが大勢残っているケースをあまり見かけない。こんなはずじゃなかった!と呟いている経営者も少なくあるまい。金儲けが目的ならば、あえてそれを望んでいるのかもしれんが...

DIY の根源的な動機は、日曜大工のような気軽さから発する。基本は、仕事が好きであること、仕事を楽しむこと。そうでなければ探究心は失われ、作る喜びがなければプロフェッショナル感を味わうこともできない。趣味をビジネスにできればなおいい...
しかしながら、20世紀型ビジネスモデルでは、製造手段そのものは企業によって支配され、作り手のものではなかった。いつの時代も経済の根幹を支えているものは、やはり生産力。人間が生きるということは消費を意味し、いくら流通業やサービス業が成長したところで、生産物がなければ成り立たない。にもかかわらず、今日の社会は、価値を変動させてサヤ取りに執心する金融屋や、情報を煽って目立ちたがる報道屋によって支配されている。
本書は、国力を維持するものは本質的な生産力であるとし、デスクトップと工作機械が仮想空間上で結びついた時、企業が独占してきた製造手段が庶民化し、メイカーたちによる真の生産社会が形成されるとしている。これが、21世紀の新産業革命というわけか。産業革命とは、単なる技術革新ではなく、社会的な意識改革までも引き起こすことを言うのであろう。DIY から発するカスタム製造やデザイン思想が、はたまた製造技術のオープン化が、はたして真の民主主義をもたらすであろうか...
ちなみに、コリイ・ドクトロウのSF小説に「メイカーズ(Makers)」という作品があるそうな。そこにはこう描かれるという。
「ゼネラル・エレクトリック、ゼネラル・ミルズ、ゼネラルモーターズといった社名の企業はもう終わっている。富を全員で分け合う時代がやってきた。頭のいいクリエイティブな人たちが、それこそごまんと存在するちっぽけなビジネスチャンスを発見し、そこでうまく儲けることになる。」

すべてのデジタルデザインはソフトウェアが牽引してきた。それは、ひとえに柔軟性にあると言っていい。今日、オープンソースを利用した開発手法が当たり前のように用いられるが、オープン思想は、なにもソフトウェアにだけ特権を与えるものではあるまい。
著者クリス・アンダーソンは、ロングテールの概念や、ビット世界における無料経済モデル(Freemium)を世に知らしめ、名を馳せた。彼自身、オープンハードウェア企業と称す3Dロボティックスを立ち上げ、本書に紹介される3Dプリンタやラピッドプロトタイピング技術などの話題も見逃せない。そして、オープンプラットフォーム上に作られたメイカー企業は、最初からキャッシュフローを生み出すとしている。これは、モノ作りの側から語った経済論!おまけに、技術屋魂をくすぐりやがる。サラリーマン技術者ではなく、アマチュア発明家になれ!と言わんばかりに...
「起業家を目指すメイカーたちにはみな、ヒーローがいる。情熱と工具だけを元手に、やりはじめたら決して諦めなかった人たちだ。彼らは本物のビジネスを築くまで、作りづづけ、建てつづけ、リスクを取りつづけた。自宅の作業台から始まって市場を見つけるまでの道のりや、人の手によるもの作りの物語は、いまとなんら変わることがない。」

1. ビット世界 vs. アトム世界
ビット対アトムの概念は、MITメディアラボの創設者ニコラス・ネグロポンテの提唱から始まる。言い換えれば、ソフトウェア対ハードウェア、情報技術対それ以外、仮想空間対実体空間といった構図だが、そう単純ではない。モノ作りが、企業の隷属から解放されれば、あらゆる概念を変えるであろう。有用な技術に検索や口コミを通して噂を嗅ぎつけた人々が集まってくれば、セールスマンを必要とせず、営業の概念を変える。個人融資で成り立つサイトも多く、スポンサーの概念を変える。新たな三次元製造技術が、ラピッドプロトタイピングを促進し、工場の概念を変える。モノの生産がアイデアの生産へとシフトしていき、生産力の概念は大量生産から創造力や想像力へとより重みを増す。人件費の効率から製造拠点を置くという考えも、製品を提供するための流通効率という考えに移行するだろう。わざわざ通勤する必要もなくなり、職場の概念も変わる。雇用の概念も変わるだろう。企業の従業員名簿に名を連ねることもなく、仕事を受けることができる。失業の概念も変わるだろう。収入がなくても、意欲的な仕事を見つけることは可能である。仕事の動機を生き甲斐に求めるならば、収入目的は優先順位を徐々に下げ、もっと多様化するだろう。そして、発明家の概念は、起業家と結びついていく。自由とは、すべてをなるべく自分でやるってことかもしれん...
「面白いのは、そうした高度の細分化が、かならずしも利益を最大化するための戦略ではないことだ。むしろ、意義の最適化、といった方がいいかもしれない。アダム・デビッドソンはニューヨークタイムズマガジンで、これを中流階級以上の基本的欲求が必要以上に満たされた、豊かな国家がたどる自然の進化だと書いている。」

2. 21世紀型の産業革命
18世紀頃、産業革命に登場した発明家や起業家たちの多くは、裕福な特権階級出身者であった。蒸気機関で名を残したジェームズ・ワットしかり、これをビジネスにしたマシュー・ボールトンしかり。産業革命と言えば希望に満ちた言葉に聞こえるが、発明や起業で必要な遊び心はエリートや富裕層の特権であった。だが、悲観的なマルサスの人口論を凌駕するほどの莫大な富を庶民にもたらすと、人口増加を爆発させ、経済活動を民主化させる。特権階級が牽引役となって富を分散させたのだ。産業革命とは、単なる工業化の恩恵ではない。
「本質的には、産業革命とは、寿命や生活水準、居住地域と人口分布などの、あらゆることに変化を及ぼし、人々の生産性を激的に拡大する一連のテクノロジーを指すのものだ。」
そして今、知識を自由に共有できる時代がやってきた。有名大学の講義はWebで公開され、オープンソース事業には自由に参加でき、意欲さえあればどんどん知識が吸収できる。従来の博士号といった肩書に縋る連中ほど、実践的な知識をあまり持ち合わせないようだ。
インターネット技術は、ビット世界のイノベーションを牽引してきた。だが、無重力経済(weightless economy)、すなわち、情報、サービス、知的財産といった無形ビジネスが話題となりやすい。この流れを21世紀型の産業革命に育てるには、アトム世界にまで広げる必要があろう。
本書は、この新たなパラダイムシフトを「メイカームーヴメント」と呼んでいる。草の根から始まるモノ作りの民主化とでもしておこうか。実際、コンピュータ工学の知識がなくても、ちょいとかじれば誰でもプログラミングできる時代となった。とはいえ、プログラミング技術が庶民化すれば品質の劣る作品が大量生産され、必ずしも良いとは言えないけど。
また、モノ作りの目的からコミュニティは自然に生まれる。格調高い意識の集まりが自然な秩序を生み出し、フラットな人間関係を形成する。誰でも共有できるということは、もちろん悪用のリスクもある。だが、意識のコミュニティを破壊する人がいれば、すぐに退場させられるだろうし、破壊屋が多数派となれば、真のメイカーは去っていくだろう。罵り合いのコミュニティに生産性はなく、志ある者が留まることはあるまい。実際、コミュニティも二極化する傾向にあるようだ。共通意識と哲学的意識がしっかり根付けば、人間ってやつは、意外とうまく民主主義を機能させるのかもしれん。
ただし、オープンモデルは万能ではないことに留意したい。自動車のように人の命にかかわる製品では、製造責任の所在を明確にしておく必要がある。大企業の存在意義とは、まさにここにあろう。従来型の製造モデルを、単に古いから悪いと決めつけない方がいい。

3. モノのロングテールと人材のロングテール
大企業の存続には大量生産が欠かせないが、ニッチ市場に目を向ければ、気楽に構えることができる。ニッチ商品は、たいてい大企業のニーズからではなく、庶民ののニーズから生まれる。大量生産から生まれた商品に飽きると、自分だけのものが欲しくなったりするものだ。まさに日曜大工の感覚でビジネスをやるわけで、そこには遊び心やアイデアが溢れている。ちっぽけな要求を集約して、チリも積もれば... ってやるのが商品におけるロングテールの原理だが、メイカー精神の観点からすると、むしろ人材のロングテールの方が本質かもしれない。
それにしても、あらゆるテクノロジーでコモディティ化が進むのはなぜか?情報が溢れ、生活様式が多様化しているというのに。他社サービスからの移行を促すために、乗り換えリスクを回避するためか?いや、選択肢を奪うことで諦めさせ、最大収益を狙うってか?まさに経済人の価値観だ。依存症を高めることで商売が成り立つとすれば、まるでコモディティ宗教!使いやすい、分かりやすいだけの製品では、深い味わいを求める少数派を満足させることはできまい。ユーザを飼い馴らすには、絶好の戦略ではあるけど。
一方、情熱家の作る作品には、手作り感があって、要求の高い専門性を具えている事が多い。効率的な大量生産品の方が莫大な利益をもたらすが、民主主義の成熟した姿は多様性の方にあるような気がする。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したわけではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、それらが共存するためには、生命体が多様性に富んでいる必要がある、というのが真の意図だと思う。
電子機器の発達は、半導体技術の成長とともに、ムーアの法則に従って指数関数的に加速してきた。半導体は原子制御の世界であり、まだまだ発達の余地がある。量子力学と結びつけば、無限の発展も夢ではなさそうだ。しかし、すべての産業がムーアの法則に従っているわけではない。農業や食糧生産など人間が直接生きることにつながる領域ほど、この法則は成り立たない。寿命が延びたといっても、せいぜい100年ちょい。なによりも人間精神が、進化しているのか?退化しているのか?テクノロジーの進化には、置いてけぼりの精神で相殺し、進化のエネルギー保存則は健在のようだ...

4. デスクトップ工房の「四種の神器」
本書は、テクノロジーの変革ツールを四つ紹介してくれる。3Dプリンタ、CNC装置、レーザーカッター、3Dスキャナがそれだ。
3Dプリンタには、溶融プラスチックを積み上げてオブジェクトを作る方式もあれば、液体または粉末の樹脂にレーザーを照射して固めて、原料容器の中からオブジェクトを浮かび上がらせる方式もあるという。ガラス、鉄、ブロンズ、金、チタン、ケーキ飾りの糖衣など、様々な素材が使えるとか。足場の上に幹細胞を吹き出すことで、生きた細胞から人の組織を作ることにも成功していると聞く。
CNC装置は、3Dプリンタが足し算方式で層を積み上げていくのに対し、引き算方式でドリルを使って削り出すという。この方式で、最小限の材料で最大限の強度がその場で計算されるとか。思い描いたものが、そのまま実物として目の前に現れるとは、なんとも恐ろしい世界だ!こうした技術にバイオテクノロジーが結びつくと、原子を自己組織化して食べ物や飲み物に変えることもできそうか。DNAの複製も?原子構造を維持しながら、複製することも理屈では可能であろう。三次元の仮想空間に臭いや味などの五感までも取り込まれ、もともと仮想空間の得意とする第六感や霊感が結びつくと、人類は五感以上の知覚を獲得するのだろうか?いや、相殺されて五感を麻痺させるだけのことかもしれん。人体をスキャンすれば、人間だって製造できそうか。クローンとは違う視点だが、はたしてそれは人間なのだろうか?
ビット世界をアトム世界に変換きるということは、その逆変換も可能になるかもしれない。リアリティキャプチャってやつだ。社会現象までもキャプチャできれば、政治的に利用される可能性だってある。市場はもともとコンピューティングで動いており、過去の経済現象をキャプチャして再現することも難しくない。ということは、金融工学はリアリティキャプチャの最先端を行っているのか?なるほど、価値を仮想的に煽りながら金融危機を再現してやがる。

5. オープンオーガニゼーション
1937年、経済学者ロナルド・コースは、こう言ったという。
「企業は、時間や手間や面倒や間違いなどの取引コストを最小にするために存在する。」
一見もっともらく聞こえる。同じ目的を持ち、役割分担や意思疎通の手段さえ確立できれば仕事がやりやすい、という発想だ。そして、隣の机にいるヤツに仕事を頼むことを、効率性とみなす。対して、サン・マイクロシステムズの共同創業者ビル・ジョイは、こう言ったという。
「いちばん優秀な奴らはたいていよそにいる。」
取引コストの最小化を優先すると、最も優秀な人材とは一緒に仕事ができないというのか?だから、会社が雇った人間としか仕事ができないってか。これを「ビル・ジョイの法則」と呼ぶそうな。なるほど、優秀なエンジニアは外部の人材とのつながりが広い。オープンコミュニティは、企業と違って法的責任とリスクがなく、自由と平等が保たれやすい。彼らには、役職や肩書なんてどうでもいいのだろう。そういえば、巷で仕事は何をしていますか?と尋ねると、会社名を答える人がいると聞く。会社の看板に縋って仕事をする人には、あまり近づきたくない。
もちろんコミュニティだって万能ではないし、ボランティア精神だけで経済が成り立つはずもない。ただ、人材を探すのに組織内にこだわる必要はないし、組織に忠誠を誓い一箇所に集まって仕事をやる必要もないってことだ。
オープンソース化で、無料の研究開発システムを手に入れることだって可能である。製造工程でコストのかかる一つにテストがある。実際、セキュリティソフトや検索ソフトなどのエンジン部分を無料公開することで、ユーザが無意識にテストに参加させられる。高度でテストの難しいソフトほど、マニアが使いこなす傾向があり、苛酷なストレステストにかけられる。大儲けしている企業ですら、製品の品質はボランティアたちの情熱によって支えられているのが現状だ。各自の経験から互いにサポートし合い、ユーザコミュニティを形成し、開発者もユーザとして参加する。効率的な使い方や、不具合を回避する助言は、提供されるマニュアルよりも役立ち、企業の思惑が入り込まない純粋な情報が得られる。有効なサイトには自然に翻訳者が募り、多国語でサポートされる。これこそ民主主義の姿であろう...

6. メイカービジネスの資金調達
高い志を持った愛好家が集まるだけではビジネスは成り立たない。どんな事業にもスタートアップの壁が立ちはだかり、その最初の問題は資金調達であろう。
本書は、裏ベンチャーキャピタルってやつを紹介してくれる。設立時に資金を必要とするのは、商品開発、設備、部品購入、製造などの費用のためで、通常は商品を販売しないと回収できない。そこで、キックスターという企業は、起業家が抱える三つの問題を解決してくれるという。
  • 一つは、売上を予約時に受け取れれば、必要な時に資金を調達できること。
  • 二つは、顧客をファンのコミュニティに変えてくれること。プロジェクトに資金を出すことは、ただの商品予約以上の意味があるという。デザインの生まれる過程で、ファンからアドバイスやコメントがもらえるのは大きい。口コミで評判が広まれば宣伝効果も得られる。ある種のマーケティング戦略というわけだ。
  • 三つは、市場調査を提供すること。初期段階から資金注入の効果が分析できるのは大きい。新会社にとって、これが最も重要かもしれない。
このような資金調達モデルは、寄付金や投資の概念までも変え、「クラウドファンディング」と呼ばれる。実際、気に入ったプロジェクトを見つけて投資したいと考えている人は少なくない。いずれコミュニティ銀行なんてものが登場するかもしれない。杓子定規な株式市場に投資するよりも魅力がありそうだ。ただ、どんな投資システムでも、儲けが保障されると勘違いする人も珍しくなく、巷では見返りがないとすぐに訴えるケースも見かける。
また、エッツィーという最大のメイカー市場を紹介してくれる。手作り品が取引され、高給な芸術品からかぎ針編みなどの小物まで出品されるとか。キックスターと違って、資金調達やモノ作りを助けたりはしないが、ここをきっかけに起業する人も多いという。
従来の企業組織的なものの見方に固執すれば、自然のコミュニティを見失う。モノ作りの背後にある人々の存在を忘れがちとなれば、売上至上主義となり、倫理に反し、持続可能な事業とはならないだろう。創業時の哲学を忘れ、なんのために会社を起こしたのかも分からなくなるケースは、けして珍しいことではない...

2014-10-19

"FREE" Chris Anderson 著

なぜ、最も人気のあるコンテンツを無料にしても商売が成り立つのか?あらゆる価値が貨幣換算される時代では、フリーとは無を意味するはず。フリーを巡っての論争は、間違った状態とするか、自明な結果とするかで二分されてきた。無から有を生み出す概念だけに、誤解されやすく、恐れられもする。だが、いまやフリーは当たり前と考える方が優勢であろうか。著作「ロングテール」で名を馳せたクリス・アンダーソンは、この得体の知れない概念の正体を暴こうとする。そして、二元論に陥ることなく、 読了後にはどちらにも与しないことを願っていると語る。
フリー経済では無料のものが有料よりも価値の高い場合が生じる。それは、貨幣に頼らない価値判断を促しているのだろうか?真の価値で経済循環を促そうとしているとしたら、それは良い風潮かもしれない。生活様式や価値観が多様化する中で、仕事の価値を収入でしか測れないのでは、あまりにも寂しい。オープンソースの世界には、技術を磨くために無料奉仕で仕事をする人たちがいる。ネット社会には、見返りを求めずプロ顔負けの情報を提供する人たちがいる。彼らの創作意欲を動機づけるものが、お金でないとすればなんであろうか。彼らなりに自由を謳歌することであろうか。フリーとは、貨幣経済では無駄を意味しても、精神哲学では自由を意味する。彼らは無駄の意義をよく知っているのだろう。贈与の心理学は、無駄をめぐる倫理観において顕著となる。自己啓発された利己主義ほど力強い動機はあるまい...

今まさに、無の概念を後ろ盾にしたビジネスモデルが社会を席巻しつつある。ソフトウェア業界では、OS, ブラウザ, SNS, 辞書サービス, クラウドサービスなどが無料化され、各種開発ツールまでもオープンソースで提供される。ハードウェア業界もまたその恩恵を受けながら、デスクトップ上の設計やシミュレーション手法によって開発コストを抑え、ますます無へ近づこうとしている。
プロとアマチュアの境界も曖昧になり、むしろ取り組む姿勢、すなわち能動性と受動性でバンドギャップを広げるかに映る。製造工程までもロボット化が進めば、人間から見出せる価値はアイデアを創造する力だけということか。いや、ネット社会にはアイデアまでも溢れ、ちょいとググれば済む話。ほんの一部の頭脳があれば、人間社会は成り立つというのか?その他大勢は、商品同様、人間性においてもコモディティ化が進むというのか?最後の砦は人件費ぐらいなもの、そして人間の価値までも無へ帰するのかは知らん...

とはいえ、フリーは古くからあるマーケティング手法である。95% の製品を売るために、5% を無料で提供するオマケという発想によって。
ところが、コンピューティング上の仮想社会、いわゆるビット世界ではフリーの概念を逆転させる。5% の製品を売るために、95% を無料で提供する「フリーミアム(Freemium)」という発想によって。尚、Freemiumとは、Free(無料)とPremium(割増)を組み合わせた造語で、ベンチャーキャピタリストのフレッド・ウィルソンが広めた。多くのユーザが無料でサービスを謳歌し、グレードの高いサービスを有料にして賄うという意味では、不幸に遭遇した人を金持ちが施す仕組みにも映る。
こうした仕組みを可能にするのは、二つの経済的要素がある。それは、経済学で言うところの限界費用をゼロにすることができること、そして、想像もつかないほどの大規模な市場が潜在的に存在することだ。テクノロジーはムーアの法則に従い、情報処理能力、記憶容量、通信帯域幅の限界費用を限りなくゼロに近づけてきた。市場においては、コンピューティングは1人1台に留まらず、無人機器や無人施設にまで拡大し、もはや人間の数では測れない。製造、販売、流通などあらゆる中間コストがゼロになれば、消費者にとってこれほど嬉しいことはあるまい。仮想店舗の構築にコストがかからないから、ロングテールの概念が成り立つ。電子決済では、1円払うのも百万円払うのも手間は同じで、コンテンツのダウンロードが1円でも商売が成り立つ。取引の基点サーバが海外にあれば、税金の概念までも変える。そして、フリーはユーザを惹きつける最良の価格となった。
一方で、消費者もまた、なんらかの仕事をやっているわけで、生産者でもあることを忘れてはなるまい。結局、キャッシュフローを生み出さなければビジネスは成り立たない、という経済常識は変わらないようだ。
それでもなお、お金のかかるべきでないところがフリーになるとすれば、どうであろう。従来型の経済循環は、必要以上にお金を回そうとしてきた。実際、政治家が打ち出す景気刺激策は、消費を煽るぐらいしか能がない。賃金が下がることに労働者が激しく抵抗すれば、相対的に貨幣価値を下げることになる。労働資本のように硬直性の高い価値と、為替のように柔軟性の高い価値を共存させるには、経済全体としてインフレ方向に振れざるをえない。
その一方で、ネット社会はデフレ側にバイアスをかけるという見方がある。余計なキャッシュフローを抑制するという意味では、そうかもしれない。経済界はデフレを悪魔のように言うが、それは本当だろうか?景気を煽るために無理やり消費者物価指数を高めようとする政策が、はたして理に適っているのだろうか?フリー経済は、インフレやデフレの概念までも変えようとしているのかもしれん...

1. フリーの形態
フリーといってもその形態は無数にある。ただ基本的な思考では、内部相互補助というものが働くようである。要するに、他の収益でカバーすることである。
例えば、DVDを買うと2枚目はタダとか、クラブの入場料は女性を無料にするとか... いつも男性諸君は倍返しを喰らうのよ。生命保険は、健康な者が不健康な者をカバーする仕組みで、したがって健康者をいかに募るかがビジネスの鍵となる。フリーとは、こうしたマーケティング戦略を大げさにしたものらしい。
本書は、四つのフリー形態を提示してくれる...
  • 一つは、直接的内部相互補助。消費者の気を引いて、いかに他のモノを買ってみようと思わせるか。
  • 二つは、三者間市場。まず二者が無料で交換することで市場を形成し、三者が追従することで参加のための費用を負担させる。メディア戦略は、この構図が基本であろうか。広告主を基盤にするテレビやラジオの発展型が、google の戦略と言えよう。インプレッションモデルでは、視聴者やリスナの閲覧回数に対して支払われる。他にも、クリック単価(CPC)や成果報酬(CPA)という概念が生まれ、サイト訪問者が有料顧客となった場合にのみ広告料を払うといったモデルが登場した。リードジェネレーション広告では、無料コンテンツに興味を示した見込み客(リード)の氏名やメールアドレスなどの情報に広告主がお金を払う。
  • 三つは、フリーミアム。本書で最も重要視される戦略で、基本版を無料で広め、プレミアム版を有料にする。アプリケーションとOSの関係もこれに属す。OSを無料で配布して有料のアプリケーションで儲けるか、あるいはその逆も。典型的なオンラインサービスには、5%ルールというものがあるという。5%程度の有料ユーザが、無料ユーザを支えていると。
  • 四つは、非貨幣市場。対価を期待せず、提供するものはすべて。それは、喜びや満足感、あるいは知性や感性など、自己存在を確認できるものすべてに価値が生じるといったところか。
さらに、フリーミアムにおける四種類の戦術を提示している...
  • 一つは、期間制限。30日間無料で使用できるアプリなど。
  • 二つは、機能制限。有料でフル機能装備など。
  • 三つは、人数制限。一定数を無料に、それ以上は有料にするなど。
  • 四つは、顧客のタイプによる制限。小規模で創業まもない企業は無料で提供するとか、ビジネスとアカデミックで料金を分けるとか。
いずれの形態も、通信業界やソフトウェア業界でよく見かける価格モデルだ。

2. ペニーギャップ
フリーは気分がええけど、ちと良すぎるところがある。フリーならば多少の品質の悪さに目をつぶることができても、有料なのにフリーよりも品質の悪いものが出回る。最新版を買い続けたところで、機能アップばかり謳いながら、品質ではむしろ劣化しているケースも珍しくない。
ソフトウェア開発で、最もコストのかかる要件の一つにテストがある。ウィルス対策ソフトなどでは、基本エンジンを無料公開すれば、マニアたちが厳しいストレステストをやってくれる。彼らの情報をフィードバックしながら、GUIを整えプラスアルファの機能を盛り込めば、精度の高い製品が安価で提供できる。
フリーは、価格が安いというだけの意味ではなく、そこには別の市場が生まれる。需要供給曲線は、有料市場からフリー市場に移行した瞬間、線形性を失う。ブラックホールかアトラクターに陥ったかのように。ペンシルヴェニア大学のカーティク・ホサナガー教授は、こう語ったという。
「価格がゼロにおける需要は、価格が非常に低いときの需要の数十倍以上になります。ゼロになった途端に、需要は非線形的な伸びを示すのです。」
これが、ペニーギャップってやつか。需要の価格弾力性は、価格を下げれば需要が増すなんて単純なものではない。現実に、たった1円を払わせることが、いかに難しいことか。フリーモデルでは、心理的効果が大きな意味を持つ。
「値段ゼロは単なる価格ではない。ゼロは感情のホットボタン、つまり引き金であり、不合理な興奮の源なのだ。」
行動経済学は、フリーに対する複雑な反応を、社会的意思決定と金銭的意思決定に分けて説明する。無料なものは、使い捨てという心理が働くのも確かだ。あまり注意を払わないことも、フリーの弊害となろう。
しかし、たとえ無料でも資源として存在するならば、大事に使おうという社会的意識が働くかもしれない。そこになんらかの価値を見出すことができれば、粗末にはしないだろう。経済的合理性とは反するかもしれんが。
ちなみに、「economics」の語源は、古代ギリシア語の「oikos(家族)」と「nomos(習慣、法律)」に由来するという。家庭のルールという意味だそうな。家族の絆まで貨幣で測られるのでは敵わん!

3. 潤沢な社会
「潤沢な情報は無料になりたがる。稀少な情報は高価になりたがある。」
フリーになりたがる、という意志と、フリーであるべきだ、という結果では言葉の響きが違う。経済理論では、価格は市場が決定することになっている。
では、無料であるべきか有料であるべきかなんて、市場が決めることができるのか?潤沢となった商品の価値は他へと移り、新たな稀少を求めてそこにお金を落とす。潤沢さに価値を求めるか、それとも、相対的に見いだされる新たな稀少に価値を求めるか、はたまた、その両方か、価値に対する考え方はますます多様化するであろう。人間ってやつは、贅沢に馴らされると、次の刺激を求めてやまない。社会学者ハーバート・サイモンは、こう書いたという。
「情報が豊富な世界においては、潤沢な情報によってあるものが消費され、欠乏するようになる。そのあるものとは、情報を受け取った者の関心である。つまり、潤沢な情報は関心の欠如をつくり出すのだ。」
さて、フリー経済では、無料と有料が極端に乖離しながら、共存できるという奇妙な現象がある。その典型的な事例は、TEDカンファレンスに見ることができよう。参加者にはベラボウに高いチケットを販売しておながら、Web閲覧者には無料公開される。VIPたちにとって、ライブで味わえる幸福感はなによりも代えがたいのであろう。その一方で、一介の貧乏泥酔者でも鑑賞できるのはありがたい。これは、ある種の民主主義の形体を提示している。
「デジタル市場ではフリーはほとんどの場合で選択肢として存在することだ。企業がそうしなくても、誰かが無料にする方法を見つける。複製をつくる限界コストがゼロに近いときに、フリーをじゃまする障壁はほとんどが心理的ものになる。つまり、法律を犯すことの恐れ、公平感、自分の時間に対する価値観、お金を払う習慣の有無、無料版を軽視する傾向の有無などだ。デジタル世界の製作者のほとんどは、遅かれ早かれフリーと競いあうことになるだろう。」

4. フリー経済の参入障壁
従来型の経済モデルで潤ってきた企業にとって、フリーへの参入障壁は大きい。「死ぬ瞬間」の著者で、精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスは、「悲嘆の五段階」という説を唱えたそうな。
本書は、この説にマイクロソフトの事例を重なる。海賊版が多く出回るようになり、不正コピーを撲滅しようとすれば、却ってコストがかかり、ついにはユーザが逃げ出す。一方で、GNUが登場すると、フリーウェアに秩序を与え、特別なライセンス形式がオープンソースの概念を定着させる。なぜマイクロソフトは、Linux を無視してきたのか?
  • 第1段階、否認。いずれ消える、とるに足らないと考える。フリーウェアがマニア仕様であった時代、一般に普及するとは思わない。
  • 第2段階、怒り。Linux がライバルになることが明確になると、今度は敵意を見せ、経済性を攻撃する。真のコストはソフトウェア価格ではなく、サポートなどの維持費にあると主張。Linux を導入すれば専門家にお金を払うことになり、無料は表面上に過ぎないと警告した。
  • 第3段階、取引。マイクロソフトのやり方に怒りを覚えた民主家ユーザたちがいた。彼らは、Linux をはじめ、Apache HTTP Server, MySQL, Perl, Python などのオープンソースを使い続け、その勢力は拡大していった。マイクロソフトの非難戦略は、墓穴を掘る羽目に。
  • 第4段階、抑鬱。オープンソースが使っているライセンスは、GPL。マイクロソフトの戦略と真逆な発想だ。フリーライセンスから、自社製品にウィルスをまき散らす可能性を恐れ、現実からに目を背ける。
  • 第5段階、受容。市場は、三つのモデルに居場所を与えた。すべて無料、フリーウェアに有料サポート、昔ながらのすべて有料...
小口ユーザほど予算がないのでオープンソースを選択する傾向があり、大企業ほどリスクを恐れて金を払う。だからといっって、マイクロソフトのサーバに信頼が置けるのか?そこで、サポート付きの有料 Linux(redhat あたり)を選択する手もある。フリーと相性がいいのは、既存企業よりも新参企業の方であろう。そして、ユーザに愛着を持たせることが、最良の戦略となろうか...

5. クルーノー理論とベルトラン競争
1838年、数学者アントワーヌ・クルーノーは、経済学で傑作とされる「富の理論の数学的原理に関する研究」を出版したという。それは、企業競争を数学的にモデル化したものだそうな。製品競争の中で生産量が増えれば値崩れを起こすので、価格をなるべく高く維持するために、作り過ぎないように生産量を自主的に規制するというもの。生産者側から語った古そうな論理だが、現在でも影響力があるらしい。
1883年、数学者ジョセフ・ベルトランが、クルーノー理論の再評価を試みたという。当初ベルトランも、クルーノーに批判的だったとか。ところが、クルーノーモデルの主要変数を生産高ではなく、価格にして計算してみたところ、整然とした理論になったという。結論はこうだ。企業は生産量を制限し、価格を上げて利益を増すよりも、価格を下げて市場シェアを増やす道をとりやすい。実際、企業は製造コストのギリギリまで安くしようとし、価格を下げるほど需要は増える傾向がある。ベルトランの時代、競争市場はそれほど多いわけでもなく、製品の多様性もなく、価格操作もなかったという。
当時、二人の理論は、経済学モデルを無理やり数学の方程式に持ち込んだとして一蹴されたようである。そして20世紀、競争市場が激化すると二人の数学モデルが再評価されることに...
潤沢な市場では、生産量を増やすのは簡単なので、価格は限界費用まで下がりやすい。実際、ソフトウェアの限界費用はほぼゼロ。それでも、Windows や office を高額で売り続けられるのはどういうわけか?ユーザが多ければ、他の人も使わされることになる。実際、依頼元から excel + VBA の形式でデータが提供されれば、下請けは泣く泣く office を買う。
しかしながら、マイクロソフトが独占してきた市場が、ネット社会によって無料経済を解放してきたのも確かだ。グーグルの万能振りが巨大化すると、独占に至るまでに他の競争相手を創出する。SNSの世界でも、Twitter や Facebook が、そのまま独占しそうな勢いだったが、後続を許している。収穫逓減の法則は、伝統的に生産者側の原理を語っているが、デジタル市場では消費者側の重みが大きい。価格競争で勝てば市場が支配できるかといえば、そうでもない。これは民主主義にとって良い傾向であろう。オンライン市場では、独占の原理よりも多様化の原理の方を求めているように映る...

6. 贈与経済と注目経済
贈与経済ってやつは、非常に分かりにくい。ブログは無料で、通常は広告もなく、誰かが訪問する度に何らかの価値が交換されている。PageRank などの発想は、恐ろしく単純で、恐ろしく機能しやがる。まるで一種の通貨のごとく。リンクを張るだけでページの評判や信用を広め、おかげで仕事を受けることもできれば、評判がお金に変わることもある。
オンラインは、コストが安いという利点以上に流動性の効果が大きい。YouTubeは、千人に一人が動画をアップロードすれば成り立つ。一方で、スパムメールは百万通に一人が反応すれば成り立つ。ちなみに、雑誌業界では、定期購読を勧めるダイレクトメールの返事が、2%以下なら失敗とされるらしい。
簡単に価値が創出できるということは、同時に犯罪リスクをともなう。不正コピーを巡って著作権訴訟をやりあうのは日常茶飯事。真の著作元そっちのけで、というより真の著作者が誰かも分からないにもかかわらず、大声で主張した者の勝ち。風評流布や流言蜚語の類いは冗長されやすく、犯罪の限界効用もゼロとなる。タダより高いものはない!という原理は、やはり働くようだ...
「お金を払わないために時間をかけることは、最低賃金以下で働いていることを意味する。」
また、単に注目されたいという動機でフリー経済に参入する人も多い。基本的な動機が自己存在の確認のための注目度にあるとすれば、フリー経済が民主主義を高度に発達させるかは別の問題か。注目経済について経済学者ゲオルク・フランクは、こう語ったという。
「私が他人に払う注目の価値が、私が他人から受ける注目の量によって決まるとすれば、そこには個々人の注目が社会的株価のように評価される会計システムが生まれる。社会的欲求が活発にやりとりされるのはこの流通市場だ。注目資本の株式取引こそ、虚栄の市(バニティ・フェア)を正しく体現したものにほかならない。」

2014-10-12

"ビジネスは人なり 投資は価値なり" Roger Lowenstein 著

これは、ウォーレン・バフェットの半生を綴った物語である。彼は、金融危機が生じれば政府ですら泣きつくという構図があるほど有名な投資家で、支配下の投資持株会社バークシャー・ハサウェイは世界最大を誇る。その投資人生は、コロンビア大学で教鞭をとるベンジャミン・グレアムとの出会いに始まる。バフェットは、グレアムの唱えたバリュー投資論を信望し、彼の著書「賢明なる投資家」を最高の書と語る。
「グレアムを知らずに投資するのは、マルクスを知らない共産主義者のようなもので、マーケットの原理を知らないのと同じことだ。」
世界恐慌を経験してもなお、ウォールストリートにはテクニカルアナリストが台頭し、近代金融工学はボラティリティばかりを追いかけ、変動率をリスクと同一視する。このようなファンダメンタルズを軽視する戦略は、グレアムやバフェットには気違い沙汰に映ることだろう。バフェットが「オマハの賢人」と称されるのも、あえてウォールストリートに身を置くことを避け、独自性を保ってきたことにある。群衆心理や自己欲望に惑わされやすいカネの世界では、その震源地から距離を置くことこそ肝要。偉大な人物とは、孤高の精神を持ち続けることができる人を言うのであろう...
「歴史に名を残す投資家の中でも、バフェットのビジネスを見る目は抜きんでていた。石油王のジョン・ロックフェラー、慈善家で鉄鋼王のアンドリュー・カーネギー、小売業で有名なサム・ウォルトン、ソフトウェアおたくのビル・ゲイツの共通点は、たった一つの発明や技術革新で財をなしたことである。バフェットはビジネスを研究し、株を選ぶ純粋な投資で財をなした。」

注目したいのは、バフェットの投資論がグレアムのものから発展させていることにある。グレアムの投資論は、1929年に生じた世界恐慌の反省に基いており、極めて保守的な行動原理が唱えられる。元本割れなどもってのほか!と。その基本戦略は、ファンダメンタルズ分析とそこから導かれる割安株の概念、そしてリスク回避のための分散投資にある。
一方、バフェットは、長期戦略とファンダメンタルズ主義の基本理念は同じであるにせよ、割安株の概念を成長株の概念に昇華させ、分散投資の限界から集中投資の効果を唱えている。グレアムが唱える割安株の概念は、財務報告を基準とするのであって、ある種の数値主義とすることができよう。対してバフェットは、経営者の人格、企業哲学、ブランド力など、財務報告に表れない将来性こそ評価すべきだとしている。目に見えぬ価値をいかに評価するか、これこそが投資家の責務と言わんばかりに...
「これはたぶん私の偏見だろうが、集団の中から飛び抜けた投資実績はうまれてこない... ウォールストリートの横並び意識は、いまも昔も変わらないであろう。平均は安全で、平均から外れたものは危険という安易な考えは、いまでもはびこっている。」
分散投資にも大きな障壁がある。そもそも満遍なく業界や企業を十分に分析するなど不可能だ。50ぐらいの優良銘柄を揃えることが理想ではあろうが、選別に時間がかかり過ぎる。ポートフォリオに多様性を持たせると、理論上は、一つの銘柄が下落しても影響を最小限に抑えることができるが、逆に上がった時も利益を分散させてしまう。金融危機ともなれば、市場は連鎖反応を引き起こし、むしろリスクを高めるだろう。不十分な分析で数十銘柄に分散させるぐらいなら、十分に熟知した二つ三つの銘柄に集中させる方が、精神的ストレスからも解放される。グレアム贔屓のおいらでも、この点はバフェットの方が現実的に映る。そして、一般投資家は情報の非対称性を背負うことにも留意したい。
バフェットの投資哲学には、単なる相場師にならない意志を強く感じる。将来性を買うからには、元本割れも覚悟の上か。実際、バフェットに理想とする株式の所有期間を尋ねると、永遠!と答えたそうな。金融屋には信じられないであろう。欲望に憑かれた業界、褒美で釣らなければ動かぬ集団は、脆い!人生には常に運と命(めい)の二つが付きまとい、春夏秋冬の訪れはなにびとにも避けられない。流れを拒めば、自ら不運を掴むことになろう。冬が来てもなお平静でいられるか、ここに人の価値が問われる。試練とは、ある種の運試し、というわけか...

1. マクロ的視野と大局観
バフェットは、マクロ経済的な観点から社会問題をとらえ、心配事のすべては人口問題に始まるとしている。彼は、常に核戦争のリスクと過剰人口を懸念していたとか。広島の原爆投下から、キューバ危機、国粋主義に至る思想に興味を持ち、戦争を避ける方法について研究し、世界が終焉を迎える確率まで計算していたそうな。数学者バートランド・ラッセルの著書にも執心だったという。ちなみに、ラッセルは平和運動家としても知られる。
バフェットの懸念は、マルサス的人口論から発するもので、おそらく地球資源や環境問題といったものも含むのであろう。実際、人口過剰が食糧危機や環境破壊をもたらす。バフェットの財団は、家族計画、性教育、産児制度、中絶問題などに巨額の寄付を提供している。
しかし、地元にあまり寄付をしないことが、ケチ!で有名。それは、ミクロ的な発想があまりないからだそうな。国会議員ともなれば、やたらと地元にハコモノを作っては自分の名前を掲げたがるもので、銅像まで作らせようと目論む者までいる。だが、オマハには、バフェット公園やバフェット美術館などの類いは見当たらないらしい。
また、黒人が多い地域で、居住区も仕事も厳密に分けられる風習があるという。オマハのロータリークラブを退会したのも、会員の人種差別やエリート意識に反発してのこと。金持ちになれば、それが自己満足で終わるような考えを批判している。バフェットの巨額な資産や収入は、究極的には社会のためにならなければならないと考えたそうな。キリスト教圏の国々でしばしば感心させられるのは、貧困への施しや養子縁組を受け入れたりする文化が盛んなことである。日本には少ない傾向である。その分、際立った億万長者も少なく、高度成長時代に一億総中流の意識が植え付けられ、極端な貧困が少ないこともあろうが。
バフェットは、大金持ちになったからといってジェット機を購入するなどという考えを批判したという。とはいえ、やっぱり買っている。社内用とはどういう意味かは知らんが、確かにオマハからウォールストリートは遠い...

2. バフェットの投資哲学
「バフェットがビジネスを評価する際に常に自分に問いかけてきたのは、資本、人材、経験などが十分にあるとして、その企業と競争したらどうなるだろうということだった。」
投資家として大成功を収めれば、株価の価値を見抜くにはどうすればいいか?と多くの人々から聞かれるだろう。そこで、よく債権に例えて説明したという。債権価格は利子から生まれる将来のキャッシュフローに等しく、それを現在価値に割り引いたもので、株価も同じように考えることができる。要するに、株の利率をいかに見積もるか、である。その方法を簡単にまとめると...
  • マクロ経済や経済予測も、他人の株価予測も気にする必要はない。長期的な企業の価値の分析に集中し、将来の収益を予測するべき。
  • 事情に詳しい業界に集中するべきで、どの業界にも必ず原理や法則がある。ちなみに、バフェットの場合は小売りチェーンが多く、時流のテクノロジー株を毛嫌いしている。
  • 株主から預かった資本を自分の財産と同様に考え大切に使用する経営者を見つけるべき。
  • 証券会社の分析ではなく、自ら生のデータを細部にわたって分析するべき。しかし細部にとらわれるのもよくない。自分を信じるようバフェットは強調する。
ただし、投資家としての目利きは抜群でも、経営手腕では劣ることを自覚している。バフェットの口癖がこれ!
「万能選手になる必要はないが、どこに限界があるかは知る必要がある。」
限界を知るということは、限界を試してきたということでもあろう。チャレンジ精神が旺盛でも、これを持続することは難しいし、偉大な投資家が偉大な経営者になれるとは限らない。言葉は単純だが、なかなか辿り着ける境地ではなさそうだ...

3. 敵対的買収と際限なき中毒
1980年代... それまでお堅いイメージの投資銀行が、突然、非難の的となる。投資は、投機と買収へと変貌していった。赤いサスペンダーをした若くて金を操る優秀な連中が、M&A市場を戦場に見立て、大企業の経営者たちを恐れさせる光景は、映画「ウォール街」を彷彿させる。日本でもバブルに突入し、M&Aが流行した。
こうした流れでいつも問われるのが、「企業は誰のものか?」である。株主のものと考えるのが、経済人の主流であろう。敵対的買収に成功した者ほど、そう考えるようである。実際、商法でもそう規定されているし。そこで、ちょいと質問の角度を変えてみると...
「企業は誰によって成り立っているか?」と問い直せば、それは従業員であり管理者であろう。では、「企業は誰のために存在するのか?」と問い直せば、それは顧客であり社会的意義であろう。「経営責任を負うのは誰か?」と問えば、それは経営陣となる。これだけ立場の違う人間が複雑に絡めば、企業が私物化できるような代物ではないことは明らかだ。いくら商法で規定しようとも、法律なんてものは都合が悪くなった者が言い訳に使うためにあるだけのこと...
巨大な投資銀行ソロモン・ブラザーズもまた、敵対的買収の対象となり、バフェットに救済を求めた。減収を記録しながら、株主には一銭も配当しないばかりか、経営陣のボーナスだけは毎年支給される体質にうんざり!人間ってやつは、高待遇漬け、高収入漬けに麻痺するもの。そんな時に、不正入札事件が発覚し、信用は地に落ちる。バフェットといえども、あれだけ再建に苦労しながら株を売却するのは投資家としては当然だが、やはり行動はドライか...
1987年のブラックマンデーに至るまで、強気相場の根拠にキャッシュフローが株価を支えている、などという馬鹿げた理屈がまかり通る。PER20倍という歴史的な高値水準を、バフェットは危険水域と考え行動を控える。しかしながら、当時の日本市場では、PERが60倍ってのは当たり前のようにあって、アメリカの経済学者からも不思議とされた。これを根拠に高値水準が正当化されるのも奇妙な話だが、おそらく高度成長時代の名残であろう。そして、バブルが弾けると、日本の市場原理が特別ではなかったことに気づかされる。
ちなみに、現在ではこれと似た感覚に国債の対GDP比がある。200%超えはかつて経験したことのない水準だが、日本は本当に特有なのか?日本市場は、本当に機能しているのか?アル中ハイマーにはとんと分からん。
ブラックマンデーが過ぎ去ってもなお、新たなLBO(レバレッジド・バイアウト)のブームが次々とやってくる。LTCMの崩壊劇しかり、リーマショックしかり... 市場が好調の局面では、欲望が恐怖を押しのける。投資銀行は、マーチャントバンキングを標榜し、LBOの仲介だけでなく自己責任と称して企業を買収するようになる...

4. プロとアマの意識の逆転
バフェットは、投機的意識がプロとアマチュアで逆転したと指摘している。かつてプロは常に冷静に行動し、アマチュアは熱くなって失敗すると言われた。近年、市場はケインズが揶揄した美人コンテストと化し、バフェットの市場観察もケインズの恐慌論を基盤にしているように映る。
金融屋たちは、会社の業績や経営方針といったものに興味がなく、レバレッジ率を高めて儲けを最大化しようと目論む。つまり、他人の資金を当てにするってことだ。プロの資金運用会社は、他人の資金を運用しながら、定期的に実績を示さなけばならない。市場が強気局面でも弱気局面でも。弱気局面では、空売りの技術が必要となり、必然的に信用取引を駆使することになる。信用取引は担保や借金によって成り立つ仕組みであり、返済期限に追われる。担保にした債権や株式の市場評価が下落すれば、保証金を見せなければならない。そのプレッシャーは半端ではあるまい。
一方、アマチュアは無理に信用取引に手を出さずとも、十年や二十年のスパンで構えることができる。行動の柔軟性においては、はるかに有利な立場にあり、精神的にも風上に立てる。もちろんアマチュアだってレバレッジ率を高めれば、リスクは拡大する。それも自己責任の問題であって、自分の財布と相談しながら行動すればいいだけのこと。プロの場合は、組織ぐるみとなって自己責任の範疇をはるかに超え、実際、巨額な公的資金が注入されてきた。バフェットは寓話を持ちだす。
「石油の試掘業者が天国の入り口で、鉱区の空きはないことを告げられた。聖ペテロから一言だけ発言する許可を与えられた彼は、地獄で石油が出たぞ!と叫んだ。天国の石油堀り達は、先を競って地獄に向かった。そして、その試掘業者は天国への入場を許された。ところが、当人は、いえ結構です!本当に石油が出るかもしれないから彼らと一緒に行きます!といった。」

2014-10-05

"完訳 統治二論" John Locke 著

ジョン・ロックといえば、個人的には哲学者の印象が強い。「悟性論」の影響であろう。だが、政治や経済の書では、政治学者と紹介されることが多く、本書にもそんな香りがする。似たような印象に、アダム・スミスのものがある。世間では経済学者と呼ばれるが、「国富論」に触れてみると、そんな狭量な人物でないことが伺える。彼らには、政治学や経済学といった枠組みで人間社会を観察しようなどという意識はなさそうである。
ロックは、人間本性的な集団性から「自然状態」を探り、本来人間が保持すべきもの、所有すべきものを考察する。そして、自然に適った自由と平等の権利が、すべての人間に等しく与えられると主張する。言い換えると、自然に適っていなければ、自由も平等も制限されるということだ。したがって、政治における最重要課題は、法律が誰もが納得できる自然法となりうるか、これが問われることになる。
ひとりの人間が生まれると、血筋でつながった家族という集団単位を形成し、家族同士の結びつきから集団性の意識を育む。集団社会が形成されると、そこにまつりごとが生まれ、代表会が生まれ、首長が生まれ、さらに法が生まれる。誰一人として、生まれる地も、生まれる国も、両親も、自由に選ぶことができない。つまり、人間社会とは、生まれながらにして、どこぞの政治組織に隷属させられる奇跡的なシステムとすることができよう。はたして政治は自然の産物なのか?あるいは政治を自然な存在にし得るか?これが統治論の問い掛けであろう...

「完訳...」と命名されるのは、岩波文庫の「市民政府論」(鵜飼信成訳)が後編だけを掲載したのに対し、本書が全訳版(加藤節訳)ということである。
「前篇では、サー・ロバート・フィルマーおよびその追随者たちの誤った諸原理と論拠が摘発され、打倒される。後篇は、政治的統治の真の起源と範囲と目的とに関する一論稿である。」
統治二論の背景には、王権神授説との宗教的世界観をめぐっての対立が見て取れる。フィルマーは、君主を人間を超越した絶対的存在とし、民衆に服従する宗教的義務を唱えたらしい。対してロックは、君主とて人間であり、人間の自然性を考察しながら宇宙論的義務を見出す、といったところであろうか。そして、政治権力の起源を人民の合意、すなわち社会契約に求めている。
「人間の自由および自分自身の意志に従って行動する自由は、人間が理性をもっているということにもとづくのであって、この理性が、人間に自分自身を支配すべき法を教え、また、人間にどの程度まで自らの意志の自由が許されているかを知らせてくれるのである。」
この書が、ルソーの「社会契約論」の引き金となり、アメリカ独立宣言やフランス革命に影響を与え、その余波が遠く日本国憲法にまで及ぶことは、言うまでもあるまい。また、所有権の起源を労働に求めるあたりは、ある種の労働価値説を唱えており、アダム・スミスやデヴィッド・リカードを経てマルクスに受け継がれているのも確かであろう...

ところで、本書は、翻訳において、ちょっとした特徴を見せてくれる。「文庫版への序」の中で、所有権が身体や人格に及ぶ場合、「固有権(プロパティ)」という訳語を当てると宣言される。所有にもいろいろあるが、政治学や経済学が対象としがちなのは、財産、資産、土地、貨幣、住宅といったものである。ロックの所有は、生命や健康、あるいは自由や平等までも含め、普遍的人権のようなものを唱えている。その権利を得るための責任と義務とは何かを問い、政治の役割を相互保存の保障において問うている。なるほど...
ただ、偉大な哲学書には、一つの用語を多義的に用いたり、一つの概念にいくつもの同義語を当てたりするところがある。真理を探求しようとすれば言語の限界にぶちあたり、必然的に読者の理解力に委ねることになろう。それゆえに難解な書となりがちだが、おかげで思考に柔軟性を与えてくれる。実は多くの哲学者が、この柔軟性を意図しているのではなかろうか。そうせざるを得ないのかもしれんが...
完璧に精神を言い当てるような言語など存在しえないだろうし、もし存在するとすれば、人間は完全に精神の正体を知ったことになる。なんでも特別な用語に当てはめて定義しようとするのが学術界の常套手段であるが、却って奇妙なニュアンスを与えることがある。経済学における「信用」という用語など、その典型であろう。
実際、「固有権」という用語には、民族的な帰属意識やアイデンティティのようなものを感じる。自然状態というより社会状態に近いような。そうしたニュアンスを含めてもあまり違和感はないし、文脈を辿ると、基本的人権や自己保存の保障といった意味合いを強く感じる。固有といっても、私有と共有でも捉え方が違う。まぁ、好みの問題かもしれん。酔いどれ読者は翻訳者の苦労を解せず、さらりと読み流すのであった...

1. 統治二論の背景
ロック自身は、ピューリタンの家庭に生まれ、敬虔なキリスト教徒だったようである。神の目的から自然権を見出すという思惑は変わらないにしても、宗教的な神というより、宇宙論的な神を唱えているように映る。
ただ、第一論には、フィルマーの主著「パトリアーカ」への痛烈な批判が込められ、ちと感情的で、らしくない面も目立つ。自然な統治がなされない場合、すなわち暴力や征服の類いに対して、断固として抵抗する権利や革命の正当性を唱えるあたりは、ピューリタンらしいといえばそうなんだけど...
統治二論の成立には、イングランドの王位継承問題が複雑に絡んでいる。17世紀、オランダからの思想流入で、イングランド国教会はカトリック派とカルヴァン派の板挟みにあった。カトリック化を進めるチャールズ2世からジェームズ2世の継承の流れに対抗したのは、ロックのパトロンであったシャフツベリ伯爵(アントニー・アシュリー = クーパー)だが、反逆罪に問われオランダへ亡命。統治二論には、シャフツベリ伯爵を擁護することが意図されているそうな。その後、名誉革命によってプロテスタントの盟主であったオランダ総督ウィリアム3世が即位。本書の冒頭には、ウィリアム国王の正当性が綴られる。いかに人民の支持を受けた統治であるかを。
国王継承問題において、血筋などではなく民意の優位性を唱えることは、この時代には難しかったことだろう。革命後も、カトリック最強国フランスの軍事介入が続き、ロックもまたオランダへ亡命。イギリス人ロックの政治哲学が、フランスで活躍するルソーやモンテスキューに受け継がれるのも、歴史の皮肉を感じずにはいられない...

2. アダムの権原とイヴの幻影
正統な後継者を統治者の血筋に求めてきたのは、ほとんどの国や民族の慣例に見られる。直系、嫡子、正妻の子など。近代民主主義ですら世襲制が色濃く残る。そんな性向に理由付けするのも、詮無きことかもしれん...
キリスト教的な理由付けでは、アリストテレスの思想解釈がある。フィルマーは、アリストテレスの政治学に関する「考察」の序文に、こう書いているという。
「世界で最初の統治は、全人類の父における王的なそれであった。アダムは、子孫を殖やして地を満たし、それを服従させよと神に命じられ、また、全被造物への統治権を与えられることによって、全世界の王となった。彼の子孫の誰一人として、彼の認可あるいは許可を受けるか、彼から継承するしかない限り、何物をも所有する権利をもたなかった。」
父親の権力と、それに無条件に服従することの正当性は、人類創造に由来するというわけか。まぁ、百歩譲ってそうだとしよう。では、アダムの子孫は王家だけなのか?祝福されるべき人間は国王だけなのか?すべてが神の意志で誕生するとすれば、人民にこそ権利が認められるはずだが。そして、すべての動物、植物にも、同じく主権を与えることになるはずだが。親が子を保護するのは生物的本能であって、神が父親に子供を支配する権力を与えるなどとするから、おかしなことになる。父の祖先が絶対的な権威となれば、慣習は絶対となり、子孫は盲従するしかない。そして、反省の基準は服従の度合いで計られ、責任や義務もまた服従で理由付けられることになるではないか?
ロックは答えてくれる。「アダムが創造されたということ... それは全能の神の手から直接生を享けたということ以外のことを意味しない」と。あの世でアリストテレスも、迷惑がっているに違いない...
ところで、イヴの影が薄いのはなぜか?子を産むのは女性であり、主役はこちらのはず。ヘシオドスの神統記にも、カオスから生まれた原初神の一つに大地の神ガイアを置き、彼女が多くの神を産む母神としている。今日の男女の社会的優劣は、どこから生じるのだろうか?腕力か?それとも精子の持ち主か?自然界はそうでもなさそうである。無数の働き蜂に囲まれる女王蜂は複数の雄と交わり、カマキリの雄は雌に喰われる。なんと不条理な!
神の世界では、主神ゼウスがあらゆる女神の寝所に化けては進入し、子を孕ませる性癖がある。雷オヤジにも困ったものよ!人間の世界では、このだらしない遺伝子が女性に寛容力を養わせ、その隙に男性優位社会をこしらえたのかは知らん。女が子を産むという物理的優位性に対して、男は権威やら名声やらの幻覚的優位性に縋っているだけのことか。いや、野郎どもは、黒幕に操られる女性優位社会で踊らされているだけのことかもしれん。実際、三行半という言葉は愛想をつかすという意味で使われるし。ちなみに、ソロモン王の箴言に、こんなものがあるそうな。
「我が子よ汝の父の誡命を守り、汝の母の法を棄てるなかれ」
父が威張りくさっている間に、母が法となって裁くとすれば、アダムは永遠にイヴの幻影に怯えることになろう...

3. 自然状態と陪審制
ロックもルソーも、政治権力の正当性を導くために人間の「自然状態」を考察すべきだという立場は同じである。ただ、自然状態そのものの捉え方は、違いを見せる。ルソーの自然人は、理性や知性もなければ、徳も不徳もない、純真な情念にしか支配されない未開人とした。一方、ロックの自然人は、やや理性的観念を持ち自分を律することはできるものの、その情念は非常に不安定で、第三者の目を必要とするといったところであろうか。ただし、第三者とは、自然に適った法であって、宗教的戒律ではない。
「人それぞれが、他人の許可を求めたり、他人の意志に依存したりすることなく、自然法の範囲内で、自分の行動を律し、自らが適当と思うままに自分の所有物や自分の身体を処理することができる完全な自由の状態である。」
集団社会において、自由と平等の権利がすべての人間に等しく与えられるとするならば、必然的に自由と平等の範囲が制限されることになろう。統治の正当性を合理的に説明しようとすれば、統治の手段として用いられる法律が自然法に適っているかを問うことになるのも道理である。
また、抵抗や革命の正当性のようなものが語られる。
「すべての人間は自然法の侵犯者を処罰する権利をもち、自然法の執行者となるのである。」
ただ、この文章だけ切り出してみると、陪審制の理念のようなものを感じるから奇妙である。民衆の自然的な意思が裁くという意味では同じで、民意を尊重することが真の政治だとすれば、陪審制こそ象徴的なシステムと言えよう。だが、民意もまた宗教論や感情論と結びつきやすいだけに、魔女狩りの類いに変貌しやすい。
ところで、日本の裁判員制度は、哲学的な議論がなされているだろうか?裁判制度を国民の意識に適合させようというなら、それもよかろう。だが、国民は本当に自然法の在り方を学んだ上で、あるいは議論した上で参加をうながされているだろうか?そうした議論が慣習化されていれば、ある程度機能するだろうが、手段にとらわれやすい国民性は否めない...

4. 立法権と父親の権力
「立法権力とは、共同体とその成員とを保全するために政治的共同体の力がどのように用いられるべきかを方向づける権利をもつものである。」
政治の目的は固有権の平和かつ安全を享受すること、そのために、まずもって立法権を樹立することが必要だとしている。個人の安全保障に関する契約というわけだ。最高権力といえども、個人の同意なしで所有物を奪うことに正当性を感じない。となれば、最高権力を支える立法者は、よほどの人間性を具えた人物でなければ務まるまい。立法権力に他の権力が従属するというロックの立場は、ルソーに受け継がれる。日本国憲法第41条においても、国会を国権の最高機関とし、唯一の立法機関に位置づけられるが、このことが、国会議員を他の誰よりも格上に位置づけられるならば本末転倒。この点において、モンテスキューの分権論は修正版と言えようか。
また、国家の権力に父親の権力を重ねながら、その正当性を議論している。親子は無条件に血縁で結ばれ、そこに保護のための責任や義務が生じる。では、国家と個人の関係はどうだろうか?基本的人権の保障がなければ、税金を徴収する正当性もあるまい...
「父親の権力は、未成年のために子供が自分の固有権を処理できない場合にのみ存在し、政治権力は、人々が自分自身で処分できる固有権を持つ場合に、そして、専制権力は、まったく固有権をもたない人々に対して存在するのである。」

2014-09-28

"人間不平等起原論" Jean-Jacques Rousseau 著

プラトンは、イデアという精神の原型のような存在を唱えた。ルソーは、かつて人間は自己保存という欲求の元で、ほとんど不平等のない自然状態にあったと説く。だが、社会進歩の過程で堕落し、人間の根源的な状態を忘れ、ついに「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」だけを求めるようになったと嘆く。
そして、二つの不平等を定義する。一つは、自然的、身体的不平等。二つは、約束に依存する社会的、政治的不平等。本書の主題は、後者の不平等について、その起源は何か?またそれは、自然法において容認できるか?である。人間社会は、暴力に対して権利で対抗し、悪徳に対して理性で対抗し、これを法の下で実践する上で正義の概念を編み出した。法ってやつは、正義との癒着が強いだけに、乱用されやすいことに留意したい。
また、この書が「社会契約論」の下地となったように、教育論「エミール」でもそうであったようである。教育論ってやつは、理性をまるで欠いた酔いどれには、まったくもって煙たい存在であるが、いつの日か、その禁書にも挑戦してみたいという気にさせてくれる。
尚、「人間不平等起源論」の翻訳版がいろいろある中で、本田喜代治、平岡昇訳版(岩波文庫)を手にとる。

ロックは知性論の中で、すべての観念の生得性を否定した。さすがの賢人の主張も、ここだけは、ちとひっかかる。対してルソーは、人間の根源的意識に自己保存の欲求を位置づけ、自己愛を結びつける。さらに、自尊心を自己愛と区別し、自尊心はむしろ利己心に近いものとして自然状態から遠ざける。
アリストテレス曰く、「自然というものを、堕落した人々の中にではなく自然に従って行動する人々の中に、研究しなければならない。」

ところで、物心がつくとは、いかなる状態であろうか?既に純真な心を取り戻すことのできない状態であろうか?ルソーが問題とするのは、既に社会状態にある人間が、いかに自然人に立ち返ることができるかである。社会が形成され、集団規模が大きくなるにつれ、その中で生き抜くために自己を改善せずにはいられない。世間では、社会の適応能力と呼ばれる。だが、知識を知らなかった頃の自分が、何を考えていたかを思い出すことは難しい。外的要因ばかりを研究すれば、その外的要因によって変質し、もはや自己の姿すら見えなくなる。人間ってやつは、自分自身にどんなに関心を持とうとも、内的な自己には無知であり続け、外側の方がよりよく見えるようである。人間社会を賛美し、ばかげた傲慢と権威に憑かれ、なんとも知れない空虚な自己礼賛に陥り、自己を偏見へと誘なう。そして、理性を発達させることが、自然人を窒息させるのかは知らん...
「もっとも痛ましいことは、人類のあらゆる進歩が原始状態から人間をたえず遠ざけるために、新しい知識を蓄積すればするほど、ますますあらゆる知識のなかでもっとも重要なものを獲得する手段をみずから棄てるということであり、またわれわれが人間を識ることができなくなっているのは、ある意味においては人間をおおいに研究した結果だということである。」

1. 自然法について
国家の強制は、どこまで容認できるだろうか?政府が法律を国民にゴリ押しするような国家では持続性が危ぶまれる。法が神聖であるための条件は、いかに自然に適っているかが問われる。そして、自然法のもとで、常に政治システムは検証されなければなるまい。ルソーはもう少し踏み込んで、法律が自然法から逸脱するから、国家が不合理な不平等を生み出すとしている。
うん~... そもそも社会状態が、自然状態とは相容れないように映るのは気のせいであろうか?いくら自然法に近づけても、集団の規模が政治の許容範囲をとっくに超えているような気がしてならない。おそらく人口に適した政治の規模というものがあるのだろう。地方分権は機能しているだろうか?もしかして人間社会を生きること自体が、自然状態を放棄していることになりはしないか?
つい最近、スコットランドの独立を問う住民投票が行われた。現在の近代国家の枠組みが大方出来上がったのが18世紀前後で、まだ歴史は浅く、普遍的な枠組みと呼ぶには程遠い。今後も、国家という概念に対して疑問を投げかけられるであろう。
確かに、法を尊重できるかどうかは、誰もがある程度納得できるものでなければならない。法律が、私利私欲やご都合主義、あるいは支持者への利益供与のために編み出されては尊重されるわけがないし、すぐに改変されるような法律では人々に蔑まれる。改善するという口実で慣習を排除すれば、新たな悪行へ導く。現実に、時限立法と称しては支持を集め、しかも有効期限が過ぎても都合よく延長させ、却って社会を混乱させている。悲しいかな、悪徳は法の網を巧妙にかいくぐり、法律は悪徳の進化にともなって進化し、複雑化してきた。人間社会のエントロピーを元に戻そうとすれば、一旦リセットして再契約しなおすしかなさそうだ。氷河期や地軸変動といった地球規模の環境変化は、契約をチャラにしようという神の魂胆であろうか...

2. 自然社会と文明社会
「結論を述べよう、... 森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要としないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そして知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。
偶然なにかの発見をしたとしても、自分の子供さえ覚えていなかったぐらいだから、その発見をひとに伝えることは、なおさらできなかった。技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重ねていった。
そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。」
ルソーの描く自然人は、現代的な個人主義とは相容れない。自然人ほど臆病な存在はないのかもしれない。それだけに、知覚は極めて敏感で、危険の察知能力に優れる。文明化によって知覚能力は衰え、仮想空間に認識を求めれば、いずれ空想だけで生きていけるようになるのだろうか?食糧という実体ですら、サプリメントの進化で栄養分は集積化され、それで食べた気になれるとすれば、排泄の必要もなくなるのだろうか?性交の必要もなく遺伝子を伝播させることができれば、愛という幻想は精巧(性交)ロボットへ向けられるのだろうか?だが、生命体である以上、寿命という時間的な実体からは逃れられない。いや、肉体から完全に分離した精神だけで、生命を自覚できるような状態がありうるのだろうか?などといえば、霊媒師が喜ぶ。
文明社会では、寿命の対処においてですら不平等が生じる。権威者や金持ちは最先端の医療が受けられ、貧困層は放置される。いくら政治が平等を唱えても、食糧も、医薬品も、社会サービスも、文明が高度化するほど格差は広がる。はたして政治は自然の産物であろうか?
しかし一方で、文明社会が理性を育み、共同生活を安住の地とさせてきたことも事実である。弱者に対してそこそこの憐れみや施しがあるからこそ共存できるのであって、単純な弱肉強食の社会では持続できない。その意味では、個人の徳と悪徳は、集団性においてなんとか相殺されている。理性を高めるには、悪徳というリスクを避けられないのかもしれん。尚、ユスティヌスの歴史書には、こんな句があるそうな。
「ある人々にとって悪事を知らないことは、他の人々にとっては善事を知っていることよりも有益である。」

3. 自己愛と自尊心
本書は、自然人の固有の感情は自己保存の欲求とし、これが自己愛の根源だとしている。そこから派生する同胞への憐れみの情念が人間愛となり、やがて隣人愛や祖国愛へと広がると。対して、自尊心は、人間社会の腐蝕作用によって、自己愛が利己心へ変質した情念だと考えているようである。自己愛が自然的感情であるのに対し、自尊心は人為的感情ということか?自己愛も自尊心も利己心と相性が良さそうだし、言葉の堂々巡りのようにも映る。このあたりは用語のニュアンスの違いもあろうし、翻訳の難しさが伺える。
いずれにせよ、善人と悪人を区別しないような社会は、いまだかつて存在しない。ヘシオドスは、人間の進化を、黄金の種族、銀の種族、青銅の種族、英雄の種族、鉄の種族の五世代で物語った。黄金の種族は、クロノスが支配する時代で、人間は神々とほぼ同じ生活をし悩みや労苦を知らずに暮らす。銀の種族は、ゼウスが覇権を握った時代で、スケベえな雷オヤジが、あらゆる女神の寝所に忍び入っては子を孕まし、その子供たちが神々への敬意を忘れて争いを起こすようになる。青銅の種族は、さらに暴力的となって青銅製の武器を用いる。英雄の種族は、トロイア戦争で活躍した英雄たちの時代で、戦争をやるから英雄という概念も生まれる。鉄の種族は、正義や希望のない悪事が横行して退廃を極めた段階、すなわち、現世。
やがて、政治的な強者と弱者、経済的な富裕層と貧困層、社会的な知識人と無知人など、あらゆる面で二極化していく。物流と情報が発達すれば、都市と地方で差がなくなるかと思いきや、密集化と過疎化はむしろ顕著になる。情報社会が高度化すれば、誰でも平等に情報が得られそうなものだが、情報意識や情報収集意欲の格差が拡大し、情報主権が民衆へ移ってきた。あらゆる面で主権が民衆へ移行すると、能動的に生きる者と受動的に生きる者の意識格差は拡大するものらしい。
ならば、不平等を嘆くよりも個人の能力を自然に伸ばすように仕向け、最低限の自己存在の保障を規定する方が、よほど実践的であろうに。不完全な人間をエゴイズム的な完全像で描こうとするから、メフィストフェレスに付け入る隙を与える。そして、誰もが尊敬を受ける権利を主張するやかましい世の中になろうとは...
「各人は他人に注目し、自分も注目されたいと思いはじめ、こうして公の尊敬を受けることが、一つの価値をもつようになった。もっとも上手に歌い、または踊る者、もっとも美しい者、もっとも強い者、もっとも巧みな者、あるいはもっとも雄弁な者が、もっとも重んじられる者となった。そしてこれが不平等への、また同時に悪徳への第一歩であった。この最初の選り好みから一方では虚栄と軽蔑とが、他方では恥辱と羨望とが生れた。そしてこうした新しい酵母によってひき起された醗酵が、ついには幸福と無垢とにとって忌まわしい合成物を生み出したのである。」

4. 私有と共有
「ある土地に囲いをして、これはおれのものだ!と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会(国家)の真の創立者であった。」
本書は、社会的不平等の起源を私有制度に求める。ロックの格言に、「私有のないところに不正はありえない」というのがあるそうな。確かに、人間社会のすべての構成員に、私有の意識がなければそうかもしれない。しかしながら、自己保存の欲求の根源には、自分の身体は自分のものという意識がある。私有意識だけ明確に持ちながら、無理やり共有しようとすれば、むしろ不正の餌食となろう。共産主義的搾取の類いだ。現実に、すべての財産を共有すると宣言すれば、すべての管理は政府が担うことになり、そこに権力が集中し、癒着が生じ、搾取が始まる。あるいは、無条件な平等によって恩恵が受けられるとなれば、怠け者ほど得をする。純粋な自然状態に相応しい善は、社会状態では適合しなくなり、悪の道具となるばかりか、善自身が悪徳へと変質するだろう。
また、才能は誰のものか?と問えば、圧倒的多数が個人の努力の賜物と答えるだろう。真理に近づいた天才の中には、人類の叡智と答える者もいるが、人間社会の構成員の圧倒的多数は凡人である。才能が社会において有利となりうる条件だとすれば、ここにも不平等の起源がある。才能が優れていれば、それをもっと伸ばす環境を整えるべきだし、そのことが人類の叡智を保存することになろう。だが実際は、人類の叡智に貢献するよりも、はるかに経済的な成功者の方が評価される。勝ち組と負け組とは、まさにそんな概念だ。人類の叡智に貢献する者ですら負け組に種別される。もっとも本人に、そんな意識はないだろうけど...
所詮、そんなグループ分けは、他人よりも優位な立場に位置づけて、優越したいという欲求でしかない。経済に隷属すれば、貨幣量でしか価値判断ができない。知識に隷属すれば、知識量でしか価値判断ができない。土地の大きさに満足を求め、支持者や人気の数を競うのも、同じ原理であろう。身分と財産の格差、情念と才能の相違、有害な技術、つまらない学問といったものから、無数の偏見が生まれる。経済的な貧困と精神的な貧困では、次元が違うようである。どちらが高次にあるかは知らんが...
本書は、人間社会の構成員が国家という枠組みに組み込まれると、集団的な殺戮や復讐がより顕著になり、血を流すことが名誉や美徳となり、恐ろしい偏見が生まれるとしている。その偏見は、同胞ですら犠牲にする。今日、グローバル化の進む中で国家の枠組みが曖昧になり、経済交流や文化交流が戦争のリスクを軽減している。だがその一方で、帰属意識の不安からか?ナショナリズムが高揚し、その意識も二極化する傾向にある。自国民を優越させたいという欲求は、自尊心の類いから発す。その優越意識はオリンピックなどの祭典にまで及び、個人の名誉を国家の名誉と言わんばかりに罵り合う。政治家同士のネガティブキャンペーンのごとく。公私混同の甚だしさは、人間の悲しい性(さが)というものか...
名誉、友情、美徳を誇りとする情念は、いまや悪徳を誇りとする秘訣を見出す。愚者が賢者を指導し、大多数が飢えているにもかかわらず、ほんの一握りの者たちが奢侈に溺れるとは、これいかに?自ら犬と称したディオゲネスは、最も人間性に優れた都市アテナイを歩き回るものの、一人も人間を見出すことができなかった、と豪語した。社会状態とは、もはや不自然な集合体に成り下がる。人間の潜在意識に、狂いたいという欲求があるはずがないと、どうして言い切れよう...

2014-09-21

"社会契約論" Jean-Jacques Rousseau 著

おいらは、説教じみた話が嫌いだ。ルソーといえば教育者の印象が強く、避けてきたところがある。ただ、モンテスキュー思想に批判的な立場であることを知ると、ちと興味がわく。おまけに、モンテスキューの「法の精神」は禁書目録に加えられ、ルソーの主著「エミール」もまた禁書に指定された。それだけで反社会分子には、ルソーを読む理由となる。彼はこう釘を刺す、「注意を払おうとしない読者にわからせる方法を、わたしは知らない。」と...
尚、「社会契約論」の翻訳版がいろいろある中で、桑原武夫、前川貞次郎訳版(岩波文庫)を手にとる。

これは人民主権論を説いた書である。当時、政治理論の多くが支配者の立場から語られたのに対し、ルソーが民衆の立場から語ったことは注目すべきであろう。その観点が、ロックを継承しているのは間違いなさそうだ。必然的に、統治者たる資格を持つ崇高な道徳観を求めるよりも、俗的な意志に則した政治体制が議論されることになる。とはいえ、立法者の資格に限っては、超人的能力を求めているものの...
その精神はフランス革命の引き金になったと評され、日本においても自由民権運動に影響を与え、近代デモクラシーの宣言書とも呼ばれる。本書は、国家は個々が結合した状態で、互いの自由と平等を最大限に確保するための契約によって成立するとしている。はたして社会の運命は、契約などという人の力で変えられるや、否や。いずれにせよ、人の意志につられる運命と、運命につられる人生とがあるように思う。
「いかなる人間もその仲間にたいして自然的な権威をもつものではなく、また、力はいかなる権利を生み出すものでない以上、人間のあいだの正当なすべての権威の基礎としては、約束だけがのこることになる。」

モンテスキュー式権力分立は、立法、執行などの政治機能を同列に配置する並列型機構である。対して、ルソーは立法能力を国家形成の根幹に位置づけ、他の機能に対して優越すべきだとし、その下に執行などを従属させる階層型機構を唱える。そして、「一般意志」という概念を持ちだして、ルソー流「自然状態」と絡めながら意志の階層化を暗示している。個人の意志から集団の意志へ、さらに究極目的たる国家の意志へ昇華させるといったところであろうか。
個人的意志は目先の欲望に吸い寄せられる傾向があり、しばしば社会的意志と大きく乖離する。では、人間の自然状態とは、どの意志の段階であろうか?理性は自然状態に含まれるだろうか?政治学の伝統には、人間は社会的市民であるといったアリストテレス的な考えがある。社交的な性質が生まれつき具わっているとすれば、理性は自然状態に含まれることになろう。
しかし、ルソーは、社会関係は個人の利害関係から生じるものであり、これに対抗すべく道徳観念が生じるのは、既に自然状態から社会状態へ移行した結果だとしている。生まれたばかりの子供は、野心や邪心の欠片もない純粋な状態にある。対して、大人とは、どういう状態であろうか?歳を重ね、経験を積んだからといって、理性的になるとは言えまい。むしろ、頑固になり、せっかちになり、僻みっぽくなり、おまけに嫌味の一つでも言わないと気が済まないとくれば、説教することでストレスを発散する。熟練した政治家ですら、しばしば憤慨するではないか。集団に属すことで安住し、慣習に従っていれば思考せずに済むとは、まさに奴隷状態!社会状態とは、堕落の象徴とでも言うのか?そして、一旦自然状態へ回帰し、新たな契約を結び直せとでも言うのか?... そうかもしれん。
「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる。」

1. 自然状態と社会状態
最も自然な社会は、家族で構成される。ただ、子供が親に結び付けられるのは、自分自身を保存する上で親を必要とする間のみ、この状態は家族という暗黙の約束によって維持され、ここに法的な服従と義務の関係が結びつくという。服従も義務も自然的自由の下で成り立ち、運命的自由、あるいは人間本性的自由と言うべきかもしれない。そもそも人は生まれる国や両親を自由に選べない。生まれる地すら与えられない人もいる。自然淘汰的な競争原理において、人間の存在意識が防衛本能と結びつくのは自然であろうし、最も原始的な掟は自己保存に対する配慮となろう。ただ、親子の絆は血縁や愛などで結びつくが、支配者は民衆に対して愛を持たないばかりか、支配行為を快感とする。
では、国家と個人の結びつきは、何に頼ることになろうか?ルソーの政治論では、それが契約というわけだが。契約は人格と人格の結びつき、すなわち信頼によって成り立つ。国家はその信頼に値する存在であろうか?そこで、人間社会に課せられる最も素朴な権利が問われる。個人が国家を信頼するには、自己存在の保障が原則となる。そう、基本的人権の類いだ。
しかしながら、約束とは破られるもので、聖書との契約ですら心もとない。どんなに優れた政治理論をもってしても、最終的に縋るものが人間性だとすれば、政治家不要説が燻る。ルソーの描く国家像も、ブルジョワ的な立憲君主国家や議会主義国家などではなく、全人民を主導者とする革命的民主制、もっと言うなら、人民独裁国家に映らなくもない。革命ばかりでなく、暴力的な政治運動までも正当化されそうな。実際、フランス革命では、支配者が民衆の自由を奪ったのと同じ原理によって、民衆が自由の権利を取り戻したが、その反動に恐怖政治が訪れた。僭主による権利剥奪も、民衆による権利剥奪も大して変わらない。いや、集団性による専制の方がタチが悪いかもしれない。言葉が乱用される社会では、ささやかな事に目くじらを立て、言葉の揚げ足をとることに執心し、正義ですらストレス解消の道具とされる。
自然状態が自己保存における権利の保障に基づくとすれば、社会状態は集団的な保存における権利の実践ということになろう。それは秩序の上に成り立つ権利であって、自由奔放という意味ではなく、当然ながら自由も平等も制限されることになろう。主権者とは、社会契約を結んで一体となった人民全体のことを指すのであって、決して一個人を指すものではないという。
「精神的な事がらにおいては、可能性の限界は、わらわれが考えるほど狭いものではない。限界を狭くしているものは、われわれの弱さ、悪徳、偏見である。」

2. 一般意志と国家
自然状態において、すべての人間は生まれながらにして自由と平等が与えられる、とはよく耳にする。世界人権宣言にも似たような事が綴られる。だが、社会状態において自由と平等が制限されるということは、主権が制限されることになる。
では、個人が主権の制限を受け入れる動機は、どんな理由から発せられるであろうか?本書は、それは国家を作る根本原理、すなわち公共の幸福を求める「一般意志」だとしている。この用語は多数決的なニュアンスを与えるが、むしろ普遍的な意志と解すべきであろう。人間社会が不完全であるとはいえ、秩序なるものが自然に育まれてきたのは、義務の声が肉体の衝動を抑え、欲望を権利に置き換え、だいたいの方向性において集団的な理性が働いているからであろう。
しかしながら、公共利益を普遍性において定義することは、絶望的なほど難しい。集団の意志は、しばしば個人の意志と大きく乖離する。代議士は、本当に民衆の代弁者となっているだろうか?選挙運動は、純粋に政策を議論するよりも、血縁や地元出身を推したり、あるいは宗教的活動となりやすい。自分で思考することを放棄すれば、民主主義の義務を放棄しているようなもの。だからといって、立候補者の人格など分かるはずもない。結局、利益供与という動機が、票田とたかり屋の構図を生み出す。多数決の原理を本当の意味で機能させるためには、公共的な悟性の下で普遍的な意志を持つ側を多数派とするしかないだろう。だが、既に絶望的な状況にある。人間社会はいろいろな意味で格差が拡大する。経済格差、知識格差、認識格差... 民衆の意志は二極化し、おまけに報道屋が対立構図を煽り、世論はそれを面白がる。いまや国家は、国の枠組を超越した一つの概念のような存在であり、政府の意志で決定できるような単純な存在ではない。

3. 立法者の資質
「立法者は、あらゆる点で、国家において異常の人である。彼は、その天才によって異常でなけれならないが、その職務によってもやはりそうなのである。それは、行政機関でもなければ、主権でもない。共和国をつくるこの職務は、その憲法には含まれない。それは人間の国とは何ら共通点のない、特別で優越した仕事なのである。」
ルソーは、立法者に無の権威者となることを求める。人を支配するものが法であるならば、やはり人が法を支配してはなるまい。実際、日本国憲法第41条によると、国会は国権の最高機関で、国の唯一の立法機関とされ、これも一理ある。
しかしながら、立法者とて神ではない。国会議員は人間を超越した存在とでもいうのか?彼らは、司法の支持に従って、彼ら自身が当選してきた選挙制度を、中立の立場から不利な方向に修正できるだろうか?絶対的な安定多数を確保すれば、ドサクサに紛れて他の法案まで通過させてしまうような連中が。法を編む者、あるいは、それに口出しする者が、現実に執行権と結びついている。三権分立なんてものは、民衆の御機嫌とりのためのものか?ローマの十二表法を起草した十人委員会ですら、自らの権威を掲げるほどあつかましくはなかったという。そして、民衆への提案をこう語ったとか。
「君たちの同意がなくては、何一つ法とはなりえない。ローマ人よ、君たちみずから、君たちの幸福を生み出すべき法の作成者となれ。」
完全な立法においては、個人的意志は皆無でなければならないという。そりゃそうだろうが、主観が作用する意志において自己を排除することなどできようか。正義の根源ですら主観的に発するではないか。実際、有識者たちの憤慨する姿を見て、これが全体の意志に映るだろうか?普遍的な意志においては全体と個人は一致するのだろうが、そこに自信を深めた時、人格は暴走を始める。論理的な検証を怠り、意思決定を急ぐところに、ろくでもない条文が大量生産される。やはり、ルソー式階層型機構より、モンテスキュー式並列型機構の方が凡人に適っていそうな気がする。好みの問題かもしれんが...

4. 法の慣習性と硬直性
法には大まかに三つの種類がある。一つは、主権国家として規定される憲法。政治法や根本法とも呼ばれるそうな。二つは、構成員の相互関係や、社会との関係を規定する民法。三つは、これらの違法行為に対する罰則を規定する刑法。さらに本書は、四つ目の種類として最も重要な概念を加える。それは、市民の心に刻まれる規定で、いわゆる慣習法である。
特に民主政において、執行権が立法権と結合していることが弱点であると指摘している。権力との癒着構造が政治の腐敗を招くのはどんな政体でも同じだろうが、政府が法律を乱用する方がまだしも弊害が少ないとしている。どっちもどっちのような気もするが。裁判官の判決が世論の御機嫌伺いとなれば、もはや法治国家ではない。感情論に振り回されては、魔女狩りの類いとなんら変わらない。
「国家が解体するときには、政府の悪弊は、それがどのようなものであろうと、アナーキーという共通の名前で呼ばれる。これを区分すれば、民主政は衆愚政治に、貴族政は寡頭政治に堕落する。つけ加えれば、王政は僭主政治に堕落する。」
政治制度を強固にしようと欲するあまりに、その働きを停止する力まで失ってはならないという。古代スパルタでさえ自ら法律を休ませたことがあるそうな。ただし、公共の秩序を変えるような危険を冒してよいのは、最大の危機の場合だけと釘を刺しながら。最大の危機とは祖国の存亡にかかわる事態で、それ以外は法の神聖な力を止めてはならないという。
「法の非柔軟性は、事が起ったさい、法がこれに適応するのを妨げ、ある場合には、法律を有害なものとし、危機にある国家をそれによって破滅させることにもなりうる。形式の秩序と緩慢さとは、一定の時間を必要とするが、事情は時としてこれを許さない。立法者が少しも考えておかなかった場合が無数に起りうるから、人はすべてを先見することはできない、ということに気づくことが、きわめて必要な先見なのである。」

5. 政教分離
本書には、政教分離の原理を匂わせる部分がある。いや、絶望しているのか?支配者たちは世論を支配するために、しばしば神を利用してきた。改宗の義務までも、法によって被支配者に課してきた。人間の欲望は、土地を侵略するだけでは飽きたらず、精神までも征服せずにはいられない。その原理は、分かりやすい説得力や宣伝力を駆使して洗脳にかかる多数決の原理に受け継がれる。政教分離は古くから唱えられてきたが、本当の意味で政教分離を果たした国家は、まだ出現していないようである。
「市民的不寛容と神学的不寛容とを区別する人々は、わたしの意見によれば、まちがっている。この二つの不寛容は、分けることができない。のろわれている、とわたしたちが信じる人々とともに平和にくらすことは、できない。彼らを愛することは、彼らを罰する神をにくむこととなろう。彼らを正しい宗教につれもどすか、迫害するかが絶対に必要である。宗教的不寛容が認められているところでは、どこでも、それは市民生活に何らかの効果を生まずには済まない。そういう効果が生まれるやいなや、主権者はもはや、世俗的な事がらについてすら、主権者ではない。」

2014-09-14

"動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究" William Harvey 著

医師ウィリアム・ハーヴェイは、ガリレオやデカルトの時代を生き、解剖学で尊敬を集めた人物だそうな。ジェームズ1世やチャールズ1世の侍医だったというが、一般的にはあまり知られていないようである。ハーヴェイ贔屓の人々によると、目立たぬように振る舞うことで悦びを感じるような人物だったとか。真理を語る者にとっては、目立つと災いの降りかかる時代。科学的観点はことごとく宗教論争に巻き込まれ、案の定、ガリレオは宗教裁判にかけられ、デカルトは自由国オランダへ逃れた。全人類を敵に回すぐらいの覚悟がなければ、宗教的教説を打破することはできない。ハーヴェイは心臓と血液の運動についての画期的な理論を提示するが、これまた多大な批判を浴びたようである。本書には、アリストテレス主義の亜流に対する批判が多分に込められている。名指しはしていないが、スコラ学派あたりか。アリストテレスには敬意を払いつつも...
当時の解剖学は、ローマ帝国時代の医師ガレーヌスの学説が一般的だったという。つまり、ルネサンスに至る1500年もの間、この分野は進歩していないと苦言を呈しているわけだ。人体解剖は倫理的に攻撃されやすい分野だが、記録はヒポクラテスよりも前に遡る。言い換えれば、古代ギリシア、ローマ時代の智がいかに偉大であったかを示しているのだけど...

本書に示される血液循環の理論は、現代医学では当たり前とされる。それは... 血液は左心室の搏動によって動脈を介して身体全体に供給され、同様に右心室の搏動によって静脈を介して心臓へ戻す。そして、右心室から肺動脈を通して肺臓と接続され、肺静脈を通って右心室に入る。... といった血液経路である。
特に重視している点は、血液が運動を必要とするだけでなく、再び心臓へ戻ってくることが必要だとしていることである。この理論を証明するために、ハーヴェイは約128種もの動物解剖を行ったというから、その執念には凄まじいものがある。誇張することなく、真理を静かに物語ることが、研究者魂というものであろうか...
また、解剖を通して生命組織を解明しようするだけでなく、病理学の視点も忘れていない。医師の本能であろうか...
「真理への愛と、知識欲に燃えている真の哲学者は、その真理がたとえ誰からこようとも、またいつこようとも、それに対して道をあけないほどに自分が聡明で豊かな知識をもっているものでないことをよく知っており、また彼ら自身の感覚からいっても、決してそれほどに知識に富んではいないのである。」

従来の理論では、右心室は肺臓のために栄養を供給する役割があり、左心室は身体全体に血液を供給する役割があるとされ、血液は肝臓あたりで作られ、一方通行で身体の各部でそのまま消費されると考えられていたという。アリストテレスの時代から、血液の供給を生気の供給と呼んでいたそうな。動脈には生気がみなぎっており、赤々とした赤血球こそが生気の源とし、赤が生、青が死の代名詞とされてきた。生気とは極めて哲学的な表現だが、生気を酸素と読み替えるだけで、医学書っぽくさせる。尚、本書には、酸素や二酸化炭素という用語は登場しない。呼吸に関する空気と生気で区別されるぐらいか。
ハーヴェイは、右心室と左心室で役割が違うことに疑問を持った様子から語り始める。しかしながら、機能的な対称性を信じたとしても心臓の位置は左に偏っているし、実際に右心室と肺臓が接続されていれば、アリストテレスの構造論もそんなに悪くはあるまい。問題は、それを実証もせずに鵜呑みにすることであろう。想像や予測はできても、それを実証することこそ自然科学者の使命である。
とはいえ、凡庸な酔いどれときたら、こうした研究者たちの主張を鵜呑みにするしかない。ほとんどの知識は自分で確かめたものではなく、本を読んでお茶を濁すことぐらいしかできないのだ。それでも、手も足も出ない知識の渦の中に身を投じると、それが快感になってくるから困ったものである。ハーヴェイは、老人(プビリウス・テレンティウス・アフェル)が書いた喜劇の中に、こんな格言があることを紹介してくれる。
「ただ年齡(とし)をとり、経験をつむことは、なんら新しい変革をもたらさない。知っていると思っていることも、本当に知っているのではない。至上のものとして大切にしていることも、身をもってためしたうえでなければ、それを信じない。... このように、まったく理性を以てその生涯を、よく生きぬいた人は、いまだかつてみられない。」

1. 停止メカニズムと起動メカニズム
人体組織の構成を観察するだけなら、死体を解剖すればいい。だが、生命のメカニズムを解明するとなると... 動物愛護団体から集中砲火を浴びそうだ。
ハーヴェイは、心臓が停止する順序を手で触りながら克明に綴っている。最初に左心室が搏動をやめ、次に左心耳、ついに右心室が停止し、最後に死亡が確認されているにもかかわらず、右心耳はなお搏動し、生命は右心耳において最後まで残留するという。そして、心臓が漸次死に近づきつつある間に、心耳の二搏、三搏した後に、心臓はあたかも再び覚醒したかのように時折反応し、やがて緩やかになると。心臓が搏動を停止した後も、心耳がなお搏動している間は、心室中に搏動が認められるらしい。心耳が搏動するということは、血液の放出も見られるということであろうか。
なるほど、停止メカニズムを逆に辿れば、起動メカニズムを想像することもできそうである。ここには、デカルトの機械論をより具体化しようとした印象がある。人間機械論的ですらあるけど...
鼓動メカニズムがポンプの原理である以上、一時的に停止しても蘇生できる可能性がある。つまり、鼓動がたまーに乱れたり、瞬時に停止してもおかしくないほど、際どい関係から成り立っている。そこに呼吸作用が関与する。
では、呼吸の正体とはなんであろうか?赤血球が二酸化炭素を放出して、代わりに酸素を取り込む。化学では酸化と呼ばれるやつだ。こんな単純な交換作用によって、生命が維持されるとは... これを宇宙の奇跡とするか、神の仕業とするか、あるいは、何億年もかけて獲得した進化の産物に過ぎないとするか、まぁ、好きにすればいい...
注目したいのは、心臓の運動に心耳が関与していることを重視している点である。尚、心房という用語が登場しないのは、心室で抽象化しているのだろうか?
左右の心耳は同時に運動し、左右の心室も同時に運動するが、それぞれの系統は同時に起こらないという。心耳が先行して心臓の運動がこれに続くという。心耳が起動タイミングを作っているということか?心臓がポンプ運動を起動しているのは確かなようだが、一旦起動を始めると、身体全体が惰性的な周期運動を続ける。血液の放出からの圧力、すなわち、左心室側から主導されるということになろうか。そうなると、心耳には、物理的な連動波、鼓動波や周期波の伝播、ひいては、リズムを整える役割があるのだろうか?心耳と呼ぶからには、受動的な伝播運動なのかもしれない... などと解釈してみたものの、ん~... よく分からん。実は、それほど重要でない組織ってことはないの?ハーヴェイ先生!
まぁ、モノの有難味ってやつは、失った時に実感できるもの。その機能を排除した時、どうなるか?それを実験してみれば明らかになろう... おっと、動物保護団体の眼が怖い!
「肺臓と心臓とは、血液のための倉庫、源泉および宝庫であって、血液がそこで完成されるための実験場である。」

2. 動脈と静脈の対称性、そして、静脈弁の神秘
本書は、静脈の全域に配置されるシグマ字型の弁があることに注目している。つまり、逆流防止機構があることに。動脈には、逆流防止は必要ないのだろうか?血液の放出圧力で制御できると言えば、そうかもしれん。大動脈の入り口には弁があるけど...
弁は、分岐のあるところに明らかに多く見られるが、それだけではないという。頭部など上部へ血液を流れやすくする役割もあろうが、単に重力に逆らうためのものではないらしい。動脈から噴出したものを、静脈を通して必ず心臓へ戻す必要があると指摘している。そして、食物の摂取量から換算して、大量に血液を供給するには、循環路を巡っているとするしか、充満させることはできないという。ハーヴェイは血液の放出圧力と脈拍数から、血液の供給量を算出して見せる。
生命維持のためには栄養は必要であるが、食物を摂取してそれを消費するという工程だけでは説明がつかないのも確かだ。エネルギー保存則の観点からも、エネルギーの逃げ道が必要である。動脈こそが生気を与えるとされる従来の理論に対して、動脈と静脈の対称性こそが、安定した整脈をもたらすというわけである。
尚、静脈内に膜のような弁があることを最初に唱えたのは、ヤコブ・シルビゥスという人だそうな。ただ、弁は発見されたものの、用途が解明できなかったという。
ところで、本書では扱われないが、循環系には血管系とは別にリンパ系ってやつがある。血管系が燃料補給の役割があるとすれば、リンパ系は余分な組織液を排除する役割があるとされる。素人感覚では、リンパ系を静脈で兼用できそうな気もするが、そう単純でもないのだろう。
また、同じく本書では扱われないが、怪我などで身体が異常状態になると、動脈と静脈の間に痩管という連絡路ができると聞く。例えば、硬膜動静脈瘻といった病では、動脈と静脈が直接つながるといったことが起こるらしい。正常状態では、太い動脈から細い動脈へ、更に細い毛細血管を経て静脈へ繋がる。静脈から動脈へ移ることは心臓を経由しない限り不可能なはずだが、循環系に異常がきたすと、こんな補完機能まで具えているとは、生命の神秘どころか脅威すら感じる。
尚、本書は毛細血管までは言及されない。後に、マルセロウ・マルビギィが顕微鏡によって毛細血管を発見することに...

「哲学者が言ったとおり、人間は宇宙の中心だ。マクロの世界とミクロの世界の中間にいる。そのどちらも無限だ。赤いのは赤血球だけだよ。それも動脈内だけ。あとは海水に似た結晶だ。生命の川だな。... 全長10万マイルある。」
... 映画「ミクロの決死圏」より

2014-09-07

"種の起原(上/下)" Charles Darwin 著

生物学に触れるのに、進化論を避けて通るわけにはいかない。ただ、科学の中でも極めて社会学的な印象が強く、遠ざけてきたところがある。自然淘汰説では、自由放任や市場原理と結びつけて、弱肉強食と重ねる経済学者も少なくない。それでも、科学者から芸術家に至るまで実に幅広い分野でダーウィンを称賛する声を耳にするし、遺伝子工学が量子力学と深くかかわる様子から徐々に興味を惹き、いつかはダーウィン!と意気込んでいた。案の定、つまらないイメージを払拭してくれる。尚、多くの翻訳版が混在する中、比較的新しい光文社版(渡辺政隆訳)を手にとる。

「種の起源」は、専門家向けの学術書ではなく、一般読者向けに発行されたそうな。当時、大著「自然淘汰説」の執筆を進めていたところ、諸般の事情から要約を刊行する必要に迫られたとか。確かに、感情的批判の避けられない説ではある。要約にしては大作だが...
この時代、まだ遺伝の仕組みが皆目解明されておらず、ダーウィン自身、遺伝の法則についてまったく分かっていないことを表明している。この真摯な態度こそ自然科学者たるもの。彼はなにも、人類の祖先を猿と言っているわけでもなければ、ヒトの祖先についてすら触れていない。ひたすら飼育栽培や家畜、あるいは野生の動植物を観察しながら、進化の原理を論証しているだけだ。もちろんヒトの種も含めてのことだが、批判を想定し、言葉を選びながら語っている。要するに、あらゆる生物種が共通の祖先を持つと言っているだけで、現存する生物種の優劣を語っているわけではない。
「私は類推から出発して、地球上にかつて生息したすべての生物はおそらく、最初に生命が吹き込まれたある一種類の原始的な生物から由来していると判断するほかない。」
その本旨は、地上を豊富な生命で満たすための条件として、多様性と分岐の性質を主軸に置く。そして、すべての生命は指数関数的に増殖する性質を持ち、そのために生存闘争が生じるのは必然で、数を抑制するために大量絶滅の機会は避けられないとしている。これは、T.R.マルサス風の人口論ではないか。自然淘汰の原理が機能しなければ生物の分布は偏り、地上がこれほど多様な種で満たされることはないというわけだ。
近年、個々の生物種のDNA配列が明らかにされると、すべての生物種に共通点が多いことが発見される。見た目が明らかに違う生物でも、DNAレベルでは驚くほど似通っているというのは、自然の驚異を感じずにはいられない。構造を司る遺伝子メカニズムは、スイッチをオン/オフするだけで多様な形態をこしらえる機能を具えている。まるでプログラマブルデバイスのように。地上に存在する構造体は、すべて選択と分岐で説明がつくのかもしれない。これが偶然性ってやつの正体であろうか。生ってやつは、死を運命づけられてこそ生となる。だからこそ次の生を夢見るのであろうか。しかも、子孫の複製では、ほとんどの動植物が二つの個体で結ばれることを望む。雌雄同体であっても、やはり結合を求める。生の複製だけなら単体で生殖する方が合理的であろうが、遺伝子にはほんの少し変身願望があるようだ。生活環境が不変ではないことが、結合と分岐の原理を育み、適応能力を身につける。この意志こそ進化の正体であろうか。運命には、切り開く運命があれば、逆らえぬ運命がある。双方を調和させる意志こそ運命とうまく付き合う術なのだろう...

「個々の事象は神の力が個別に介入することで起こっているわけではない。神が定めた一般法則によって起こっているのだ。」
... W.ヒューエル「ブリッジウォーター叢書」より

自然淘汰説は、ある種の利益主義と言えなくはない。だが、自然的な利益と人為的な利益を区別する必要がある。個々の生物が具える体制、構造、習性を厳密に精査し、よりよいものを選択しながら保存すると同時に悪いものを排除する。自然の力とはなんと偉大であろう。だが、人間は自然の意志を解しているだろうか?人間精神はそこまで進化しうるだろうか?ダーウィンはこれを問うているようでもある。
人間の意志は、無意識の領域では自然の意志に適っているのかもしれないが、その一方で、意識できる領域ではどうであろう。満腹なライオンは人が側を歩いても襲わない。底なしの欲望を抱いているのは人間ぐらいなものだ。人為的に遺伝子操作された食物ばかり食べていると、その生命体はいずれ報いを受けるのかは知らん。
ところで、進化論といえば、お馴染みのイメージ図がある。腰を曲げて腕を引きずりながら歩く猿から、背筋を伸ばして直立歩行する人類へ段階的に変化していく、あれだ。ダーウィンの生きた19世紀は、すべての生物は神が個別にこしらえたとするキリスト教的な創造説が支配的な時代。人類の住む地球は、既に宇宙の中心でないどころか太陽系の中心ですらないことが証明され、生物の起源は神の御手が介在できる最後の砦であった。当時、ダーウィンは猿になぞらえた風刺画で揶揄される。
現在でもなお、人間の祖先はチンパンジーなどという誤解がある。ヒトに最も近い種といえば、そのあたりではあるが。おまけに、進化論を教育の場に持ち込むべきではないと主張する道徳者どもがいる。人間自身を崇めれば、人類のルーツに敏感に反応する。これも、ある種の民族優位主義のようなものか。人間社会では多数決が崇められるのに、宇宙では生命が存在する地球はごく稀な存在で、変質や奇形の類いとなろう。だが、これまた神の祝福を受けた天体と解す。人間のご都合主義、恐るべし。マスコミ連中が面白おかしく書きたてれば、興味本位で群がる民衆によって真っ当な学説が捻じ曲げられる。単に注目されたいという脂ぎった欲望が、真理を探求したいという純粋な欲望を圧殺にかかる。そんな構図は現在とて変わらないが、はたして自然淘汰の原理に適っているのやら。尤も俗世間に惑わされない資質を持った天才たちが、真の意味で人間社会を支えているであろうし、どんな状況下でも必要以上のドーパミンを発することはないのだろう。ダーウィンは、あの世でつぶやいているに違いない。戯言を科学に持ち込んで人類の叡智を崇める種が祖先だと言うのなら、自分自身は哀れな類人猿を祖先に持つ方がましだと...

1. 連続性と離散性
自然淘汰説は、想像を絶するほどの長い時間によって徐々に変化する過程を前提にした説である。つまり、連続性の概念によって支えられている。よって、ダーウィン批判は、地質学調査が示す不連続性によって巻き起こる。それは、最古の化石が堆積するシルル紀や、多様な生物が爆発的に出現したカンブリア紀を、どう説明するかにかかっている。
ダーウィンは、地質学的調査の不完全性を指摘する。種の絶滅は、隆起や沈降といった地質学的に保存の難しい状況で生じやすいために、連続的に移行する生物の連鎖を地質学に求めても難しいというわけだ。その信念は、「自然は飛躍せず」という自然史学の古い格言に沿っている。ただ、ちと言い訳じみていて、やや苦しく、かなりくどい言明を感じる。素人目にも、気候の大変動期が鍵になりそうなことは想像できそうなものだが...
そこで、ダーウィンをちょいと擁護してみよう。今では突然変異説ともうまく融和しているので、そんな必要もなかろうが、酔っ払いはお喋りよ...
社会学的、経済学的な観察において、連続性という概念に因われ過ぎるのは、現代とてあまり変わらない。人間の思考力は、記憶や知識といった元手を拠り所にするだけに、連続性とすこぶる相性がいい。その一方で、物理現象の多くがは離散的に生じるのも事実で、それは量子力学が示している。原子構造は、原子核の周りに電子が安定した軌道を描く。引力が一様に働けば電子は徐々に原子核に近づき、いずれ原子核に落ちそうなものだが、実際の電子軌道は整数倍で安定し、電子の存在数まで制限されている。電子に欠落が生じれば、化学反応を起こして安定状態へ戻ろうとする。そぅ、エネルギー状態には安定を求める性質があり、エネルギー準位は極めて離散的だということだ。だからといって、力の作用が離散的というわけではない。力が連続的に加えられながらも、状態遷移では離散的なのである。宇宙における物質分布にしても、均等ではなく、島宇宙や銀河といったクラスター化が生じる。気候の大変革もまた一夜にして起こる。The Day After Tomorrow... 映画の見過ぎか。
社会現象もまた離散的に生じる。革命や金融危機といった類いがそれだ。あれだけ巨大なソビエト連邦ですら一夜で崩壊した。社会学には、ティッピングポイントという用語がある。小さな民衆エネルギーがある閾値を超えた途端に、突如として大きな変化を見せる。今まで見向きもされなかった商品が、口コミによって突然売れ始めることだってある。人間社会では、出る杭は打たれる!の原理が常に働き、既得権益を守ろうとする種が変種への移行を拒み続ける。変種がとって代わるには、種の持つエネルギーの閾値を超えたエネルギーを蓄積する必要がある。微妙な変化を果たした中間的な変種が生まれては、既存の種によってすぐに絶滅させられる。
その一方で、種が限りなく数を増やせば、居場所を拡大するために、形質を分岐させていくしかあるまい。群れる習性が、狂った変種を多発させるのかは知らんが。その避けられない結果として絶滅が多発し、すべての生物は離散的に配列されることになろう。保存しようとする意志も、変異しようとする意志も、エネルギーの塊のごとく機能する。したがって、むしろ進化の過程が離散的であることが、自然淘汰説を後押ししている、と解するのはどうであろうか...
ところで、種と変種の違いとはなんであろう?人間の認識力では、多数派を種とし、少数派を変種とするぐらいなもの。少しぐらい疑問を持っても、多数派で安住する方が楽だ。一人の欲望が支配する独裁主義も恐ろしいが、多数派というだけで正義とされる民主主義も恐ろしい。ならば、頭がおかしいと言われるぐらいがちょうどいいのかもしれん...
「種とはきわめて顕著な特徴をもつ永続的な変種にすぎない。」

2. 性淘汰の原理
飼育下では、雌雄の一方だけに奇妙な特徴が出現し、その特徴が遺伝的に固定される例が多いという。性淘汰は、生存闘争ではなく、異性をめぐる闘争によって決まり、精力絶倫な雄がその場所で最も適合する個体となり、最も多くの子孫を残す。性の勝者だけに繁殖が許され、不屈の闘争心が武器となる角や爪、あるいは腕力を身に付けさせる。こうした形質的な差異が生じるのも、二次性徴の類いであろうか。ライオンの鬣のように見かけで脅す性質もあれば、人間社会では金銭や権威という空虚な武器も生み出される。雄どうしの戦いが熾烈を極めるのは、一夫多妻制への夢が隠されているのかは知らん。
その一方で、嬢王蜂に雄が群がる社会もある。性の同質化が進めば、雄の運動能力が雌に追い越されることもあろう。人間の種では、精神力や腕力で既に逆転した事例がわんさとあり、男性が子を産むという変異が生じる日が来るのかもしれん。
さて、雌と雄に分かれる生物は、子が生まれるにあたって、二つの個体がその都度結ばれることになる。それはそれで不合理に映るが、ことはそう単純ではない。交尾は単なる性的快楽を求めるためだけではない。奇妙なのは、雌雄同体の動植物でさえ受精が起こることで、究極の男女平等社会でもなさそうである。雌雄同体のカタツムリ、ミミズ、ヒルなど大部分のものは二個体間の交尾によって生殖する。遺伝子コピーのために二つの個体が協力しあうとは、何を意味するのか?死を運命づけられたものの生への執着か?いくら子供に夢を託したところで、親の言うとおりにならないのが人の世。
ただ、性淘汰の作用は自然淘汰ほど厳格ではないらしい。死をもたらすわけではないし、単に子孫を残さない選択をするだけ。しかも、二次性徴の変異性は高いという。生命の潜在意識には、命の保障付きで変身してみたいという願望でもあるのか?成長過程も個人差が大きい。人間では、女性の方が二次性徴の発現時期が早いとされる。こうした傾向は、精神的な作用も大きいだろう。子どもの頃は、女子の方が妙に大人っぽかったりする。
また、変異作用が大きいと、遠い祖先に逆戻りする形質も見られるという。しかも、失った形質を取り戻す傾向は、一時的な変種状態となるのではなく、何世代にも受け継げられるとか。人間社会にも、古典回帰といった文化活動が度々起こる。その代表はルネサンスだが、社会に幻滅すれば思想回帰も生じよう。
生命ってやつは、亜変種を試みては形質を戻すという作用を繰り返しているようである。変異とは、生命的危機とのリスクの大きさによって、必要なエネルギー準位で決まる現象とすることはできそうか。だとすると、生命的危機のないところでは、いくらでも変異が生じていることになる。個性ってやつも変異の一種であろうか。現代社会も亜変種の一つであろうか...

3. 退化の原理
「自然淘汰は、有益な変異をもつ個体は保存し、不利な変異をもつ個体は排除するという、生と死の使い分けで作用する。」
自然界とは、不要なものが淘汰されるという、そんな単純なものであろうか?少なくとも、その基準が人間の都合で決まるものではあるまい。不要そうに見える器官でも、そうでないかもしれない。確かに、身体の中で必要とされる部分の発達は著しい反面、使用されない部分は劣っていく傾向がある。人間の盲腸は小さく、不用の代名詞のような言われようだが、草食動物にとっては意味があり、そこに微生物を飼ってセルロースを分解させる。そして、微生物のたまり場を虫垂と呼んだりする。痕跡器官ってやつもある。本来の用をなさなくなった器官が、わずかに形だけが残しているような。尾骶骨が、それだ。
「一般に自然史学の研究書では、痕跡器官は "対称性を保つため" とか "自然の計画を全うする" ために創造されたものだという言い方がされている。しかしそれでは何も説明したことにならないと思う。単に事実を言い換えているにすぎないからだ。」
自然条件下よりも飼育栽培下の方が、変異がはるかに生じやすい上に奇形が生じる頻度も高いという。生殖機能は、生活環境の変化に影響されやすく、精神的に、肉体的に乱されると、変異も生じやすい。同じ種であっても、気候や気温の違いで血液の流れ方が違うだろうし、性格や運動機能も違うだろう。器官だけでなく生物体そのものの大きさも、住みやすいように相対的な関係から適切な大きさに保たれるだろう。恐竜が絶滅したのは、その巨大さにあるという説もある。地球の重力に対して、適切な重量と数というのがあるのだろう。
また、知覚能力は、生活環境の危険性との関係から生じる。洞窟や深海など暗闇で生活する動物は視力がほぼ消滅し、その代償に触覚や聴覚を発達させるといった変質をもたらす。アヒルが空を飛べないのは、飼育慣れしたからであろうか。視力や聴力が衰えるのも、恵まれた環境の裏返しであろうか。利便性にどっぷりと浸かれば認識能力を衰えさせ、なんでも周囲のせいにし、他人のせいにし、精神だけが旺盛になるのだろうか。仮想映像ばかり見慣れていると、そのうち実質が見えなくなるのだろうか...

4. 交雑と雑種形成
なぜ、かくも多様な生物が存在するのだろうか?その答えを求めて、ダーウィンは雑種形成にこだわる。このあたりも宗教的批判は避けられない...
雑種を作る簡単な方法といえば、遺伝的に異なる種どうしを交配させることであろう。しかし一般的に、異種間では雑種はできないとされるし、もしできたとしても、雑種個体には生殖能力がないとされる。トラの雌とライオンの雄の間のライガーや、ライオンの雌とヒョウの雄の間のレオポンは、いずれも不稔とされる。ラバやケッティも。それは、人工的に仕向けられたからであろうか?種間によって生殖的隔離があるかどうかは重要である。
ダーウィンは、新種が誕生するのは、既存の変種から独自性を獲得した結果だとしている。そして、雑種に生殖能力がないというのは、自然淘汰の直接的な作用ではなく、あくまでも二次的な作用だとしている。
では、生殖能力が保てる程度においての交雑はありうるのだろうか?人間と他の動物の交雑で子供が生まれるとすれば、ぞっとする社会となりそう。その一方で、血縁が近すぎると奇形が生まれやすいというのは、何を意味するのだろうか?異種間でも、適当に近縁で適当に離れているのが望ましいということはあるかもしれない。ちなみに、人間同士でも相性があるようだ。子供ができないからと相手のせいにして離婚すると、再婚してそれぞれの夫婦に子供ができたという話も聞く。なんのために離婚したのやら?子供を作ることだけが、夫婦の使命でもなかろうに。
それはともかく、自然淘汰説では、祖先が共通であっても、不稔性が生じることが重要だとしている。雑種が生存競争において不利となれば、雑種を作ることを拒む意識が働くだろう。しかし、雑種が有利となる場合もありそうなもの。それが、現存する雑種ということであろうか?偉大な生物史において、雑種が生じる現象も、既に安定時期にあるのだろうか?人間も、猿も、ゴリラも、過去の生物よりもちょいと有利な雑種というだけのことかもしれん。
一方で、植物には容易く交雑できるものがあるという。機能の抽象度という意味では、動物よりも植物の方が高等という見方ができるかもしれない。おそらく、動物よりも植物の方が先に繁栄した時代を迎えたであろう。生命力の逞しさでも、樹齢何千年と生きるものがある。余計な動きをせず、つまらないことも語らず、実にシンプルな生命体モデルだ。無駄な活動をしなければ縄張り争いで揉めることもないし、余計な存在感を示す必要もないし、精神の進化に集中できそうだ。交雑を受け入れる能力においても、多様性の受容能力は、植物の方がはるかに高等なのかもしれない。種子植物がミツバチに花粉を運ばせる受精モデルは、うまいこと動物を奴隷化している。しかも、本能を操って。夜の社交場に漂う美しい花びらや甘美な香りに惑わされるのは、動物の因果な習性よ...

5. 本能の起源
本能と習性は似ているが、起源が違うという。そう言いながら、ダーウィンはこの言葉の定義を諦めている感がある。古来、本能は先験的なものか?経験的なものなか?という哲学的論争がある。本能には普遍的な目的があるのだろうか?判断力の基底になっている直観も本能の類いであろうか?気まぐれとも、ちと違いそうか。習性は本能よりも経験的であろうか。
さらに、経験とはなんであろうか?記憶を根源にしているとすれば、DNAにも情報が記憶されている。本能と習性には、無意識の領域において類似点が多いような気がする。やはり、自然の意志と、人間の意志を区別せねばなるまい。本能とは、習性を昇華させた意志であろうか?もしそうだとすれば、習性を本能にする段階とは、直感を直観に昇華させるような過程であろうか?
習性は生活環境において育まれる。本能が習性の積み重ねから生じるとすれば、環境の変化によって本能もまた修正されるだろう。奴隷狩りや人種差別といった意志が、本能からきているとは思えない。だが、働きアリの奴隷振りはどうであろう?彼らに奴隷という自覚はないだろうけど。植物の意志がフィナボッチ数列や螺旋パターンを求め続ける一方で、人間の意志は十進数に囚われて金銭勘定を毎日繰り返す。こんなところに普遍的な意志が生じるかは知らんが、アリストテレスの生まれつき奴隷説も生あるものの宿命に見えてくる。自律神経系ですら自分の意志で説明できそうにない。自然淘汰説をもってしても、本能の起源を説明するとなると、やはり手強い...