2019-01-06

神が人間をこしらえたのか... 人間が神をこしらえたのか...


「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」... ニーチェ

自然哲学者たちは、楽天的な認識論を神の誠実さという構想の上に築いてきた。しかしながら、神が人間を欺くなどありえないと、どうして言えよう。無知は、自らの力に謀られて、無知の状態のままにしておこうと企てる。無知は精神を毒し、虚偽で満たす。神が欺いているのか、人間が欺こうとしているのか。
いずれにせよ、神のせいにして生きて行ければ楽になれる。神への責任転嫁は、神も望むところであろう。誤謬に陥る人間の能力も、神がこしらえたのさ。こんな不完全な存在をこしらえる必要がどこに。神の気まぐれときたら、ゼウスの女たらしっぷりで証明されている。なにしろ女神連に飽き足らず、人間の女にまで手を出すのようなヤツだ。
あらゆる人間は、自己の中に自分自身の神を造る。偶像崇拝に励み、何か正体が分からないものに権威を与える。正体が明確になれば、有難味も感じられない。だから、権威主義に陥るのか。人間社会における権威もまた偶像崇拝の類いか。形式や常識に縋るのも、その類いか。現実に絶望すれば、得体の知れないものに縋る。ただ、それだけのことやもしれん。つまりは、気分の問題よ。
「神は存在する!」とした方が、なにかと都合がよい。なによりも精神衛生上よい。少しばかり大きすぎる自我を控えめにさせるためにも。科学者は、それを宇宙論的な存在とみなす。この世に神がいるかどうかは知らん。もしいるとしても、それは人間のためにいるわけではあるまい。もし人間のために、とするならば、人間がこしらえるしかない。だから偶像をこしらえずにはいられないのだ。かくして神の存在理由は、人間の存在においてのみ説明がつく。人間が生まれ出たことが無知の起源であったか...

「私が神から特別に保護されていないという証拠はあるのか。」... アドルフ・ヒトラー

人間は、「人間原理」とやらを求めてやまない。神に看取られていると信じては宗教に縋り、きっと救われると切に願う。宇宙法則を知れば知るほど、人間都合のデザイン論を思い描かずにはいられない。地球の絶妙な大きさと重力、太陽からの絶妙な距離、月という絶妙な付属品、公転や自転の絶妙な周期... こうした偶然性は何を意味するのか?誰かが意図したというなら、それは神なのか?
おまけに、宇宙法則には、様々な物理定数が介在する。光速、重力定数、プランク定数、ボルツマン定数... これらの数値を眺めていると、人間が誕生するように調整されているかのように思えてくる。電磁気力の強度法則をちょいと変えるだけでも、生命は誕生しないだろう。α粒子の結合力をちょいと弱めるだけでも、トリプルアルファ反応のような核融合は起こらないだろう。物理法則には、人間が宇宙の観測者という特別な存在であると信じるに事欠かない。宗教が、神が人間を創造した... と唱えれば、科学も負けじと、神は人間を創造するように宇宙を設計なされた... と唱える。
人間が生きるには、信念や信仰を必要とする。知的生命体に概して備わる性癖なのかは知らんが。精神ってやつを持ち合わせ、かつそれを実感でき、しかも精神の正体を知らないとなれば、それも致し方あるまい。すべての現象をいかようにも解釈できるおめでたい存在となれば、やはり神の仕業か。
そして今、巷を騒がせているダークエネルギーは、人間にとって都合のよい物理量なのだろうか。おそらく、究極の物理法則が編み出された時には、その方程式の中に定数といった数値は現れないであろう。宇宙の仕組みが、物理法則に支配されているとすれば、神に選択する余地はないはず。だが、神が物理法則を超えた存在ならば、神にも選択の余地はありそうだ...

2018-12-30

"舟を編む" 三浦しをん 著

映画で観たのは何年前であろうか。映像には見たまんまの分かりやすさがある。とはいえ、原作も読んでみたい。やはり原作はいい。文字は作家の哲学を露わにする。そして、このフレーズに出会いたいがために...
「私は十代から板前修業の道に入りましたが、馬締と会ってようやく、言葉の重要性に気づきました。馬締が言うには、記憶とは言葉なのだそうです。香りや味や音をきっかけに、古い記憶が呼び起こされることがありますが、それはすなわち、曖昧なまま眠っていたものを言語化するということです。... おいしい料理を食べたとき、いかに味を言語化して記憶しておけるか。板前にとって大事な能力とは、そういうことなのだと、辞書づくりに没頭する馬締を見て気づかされました...」

主人公は、真面目と渾名されそうな馬締(まじめ)君。考えることが得意でも、何を考えたかを人に説明するのが苦手。心を開いて会話しているつもりでも、どうもうまくいかない。それが辛くて本を読むようになったとさ...
学校で本を読んでいれば、迂闊に話しかけられずに済む。辞書は知識を伝えるための道具、なによりも正確さを旨とする。言葉好きで人間嫌いにとっての辞書づくりは、都合のいい世間との媒体物となる。人は不安でしょうがないから必死に努力する。人とどう付き合っていいか分からないから必死にアプローチする。不器用だからこそ、真面目にならざるをえない。言葉にまつわる不安と希望を実感できるからこそ、言葉のいっぱい詰まった辞書に惹かれる。何かに本気で心を傾けたら、様々なやり方を試し、自ずと目標値が高まっていくだろう。物事の本質を見る目を養おうと思えば、ちょっと不器用なくらいの方が多くの機会に恵まれるのやもしれん...
「どんなに少しずつでも進みつづければ、いつかは光が見える。玄奘三蔵がはるばる天竺まで旅をし、持ち帰った大部の経典を中国語訳するという偉業を成し遂げたように。禅海和尚がこつこつと岩を掘り抜き、三十年かけて断崖にトンネルを通したように。辞書もまた、言葉の集積した書物であるという意味だけでなく、長年にわたる不屈の精神のみが真の希望をもたらすと体現する書物であるがゆえに、ひとの叡智の結晶と呼ばれるにふさわしい。」

辞書の主役は、なんといっても語釈。万人に受け入れられる語釈となると、客観性が重視される。
しかしながら、語釈とは語の解釈。それは編む者の解釈であり、すなわち主観である。辞書の個性は、まさに語釈に現れる。誰にでも受け入れられる説明文というやつは、味気ないものばかり。おまけに、形式張っていて、分かったようで分からぬ文章のオンパレード。監修者や執筆者一覧ではネームバリューがものをいい、辞書編纂者は批判を恐れて縮こまる。
そういえば、好きな辞書なんて考えたことがない。どれも似たようなものだろうとの思い込みがある。知識の核は自由精神によって支えられ、柔軟性によって担保される。知識の宝庫である辞書には、もっと自由で柔軟な物の言い方を提供してもらいたい。まずは、辞書を権威主義から解放しよう。
辞書はチームワークの結晶だという。人間の多様性は計り知れない。編纂チームには、キモい奴がいても、チャラい奴がいても、ダサい奴がいても構わないし、女子高生が引くようなオヤジギャグが登場しても構わない。語釈といえば、酔いどれ天の邪鬼ときたら、ついアンブローズ・ビアスばりの悪魔の辞典を思い浮かべてしまう。
ちなみに、「ぬめり感」とは... 「情けが深いが去り際のきれいな女」みたいな紙の質感を言うそうな。
「指に吸いつくようにページがめくれているでしょう!にもかかわらず、紙同士がくっついて、複数のページが同時にめくれてしまう、ということがない。これが、ぬめり感なのです!これこそが、辞書に使用される紙が目指すべき境地です。辞書は、ただでさえ分厚い書物です。ページをめくるひとに無用なストレスを与えるようではいけません。」

もちろん万能な辞書はない。万能な言語はない。言語が人間精神を体現するものだとすれば、人間精神を科学的に完全に解明できない限り、完全な言語システムを構築することはできまい。辞書は完成してからが本番。より精度と確度を上げ、改訂に改訂を重ね、次の世代を生き延びようとする。永遠に持続する満足などありはしない。言葉ってやつは、捉えても、捉えても、まるで実体が見えてこない。言葉の終わりなき運動は、無限宇宙を体現するがごとき...
「辞書は言葉の海を渡る舟だ...
ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう...
海を渡るにふさわしい舟を編む...」

2018-12-23

"ほろ酔い文学事典 - 作家が描いた酒の情景" 重金敦之 著

なにゆえ、腐った飲み物に... なにゆえ、腐らせる技術に... 著作権先進国の原産へのこだわりときたら... しかも、長く置くほど味わい深いときた。人間の魂も腐ったぐらいの方が味がでるのやもしれん...
こいつに酔うの簡単だ。しかし、ほろ酔うとなると侮れない。上品に格調高く酔うには修行がいる。作家どもは、自ら仕掛けた文章で自己陶酔に浸る。この世界では、酒と女について書けるようになったら一人前らしい。美酒に酔うのも、美女に酔うのも、同じ道というわけか。ただ、どちらに身を委ねるにしも危険がつきまとう。酔うのも溺れるのも紙一重。薬草系のリキュールでも身を滅ぼすことがあり、アブサンともなれば人間失格へまっしぐら。酒はよく口説きの道具とされるが、どちらが道具にされているのやら...
もはや清酒で心を清めても無駄だ。蒸留して不純物を取り除いても無駄だ。文壇では高貴な感受性を持った連中が、グラス越しにエクスタシーを語り合ってやがる。言葉を巧みに操る達人ともなれば、ぶらっと酔いどれ紀行の中に、下品きわまりない隠語をさりげなく盛り込むのもお手の物。どうやら文学の原酒は官能小説にありそうだ。
ちなみに、あるバーテンダーが能書きを垂れていた... 「酒に落ちる」と書いて「お洒落」と... 棒が一本足らんよ。

「どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。何でも命のあるうちにして置く事だ。死んでからああ残念だと墓場の影から悔やんでも追付かない。思い切って飲んで見ろと、勢よく舌を入れてぴちゃぴちゃやって見ると驚いた。何だか舌の先を針でさされたようにぴりりとした。人間は何の酔興でこんな腐ったものを飲むのかわからないが、猫にはとても飲み切れない。」
... 漱石「吾輩は猫である」より

1. 食事の序曲
アペリティフにまつわるイベントは各地で見られる。フランス農水省は、2004年から6月の第一木曜日を「アペリティフの日」と定めたそうな。ワインを世界各地に広めようと。京都市では、2012年に「乾杯は清酒で」という条例が制定されたという。日本文化を促進しようと。鹿児島や宮崎や熊本の町でも、焼酎での乾杯を推進する条例があると聞く。焼酎も忘れてもらっちゃ困るとばかりに。
日本のサラリーマン文化には、とりあえずビール!という慣習がある。「とりあえず」という枕詞は、食前酒の地位を確立している証拠。それにしても、接待ビールのお酌は苦い!
ちなみに、酔いどれ天の邪鬼は、食前酒から純米系か、モルト系に走る。アルコール許容量が小さいので、最初から全力投球せざるをえない。前戯も、本ちゃんも、後戯も、いつもヘロヘロよ。そして、ピロートークに走るのさ...

2. 政界にまつわる隠語
酒といえば、アングラなイメージがあり、どこの国でも法律で厳しく規制される。禁酒法の時代には密輸が横行し、戦後の日本では闇市で売買された。高度成長時代には、洋酒を「舶来品」などと呼んで高級なイメージを与えていたが、おいらの世代には、気取っているようで嫌味に聞こえる。今ではジャパニーズ・ウイスキーにも高級なものを見かけ、若い人たちに舶来品なんて言葉は通じないだろう。
さて、1964年、自民党総裁選挙を巡ってのお話...
三選を目指す池田勇人と対抗馬の佐藤栄作は、事実上の一騎打ち。激しい選挙運動のさなか、実弾(現金)が乱れ飛び、様々な隠語が生まれたという。うまいことを言って二派から金を貰うのが「ニッカ」、三派から頂くのが「サントリー」、調子よく各派から貰うのが「オールドパー」と言うそうな。オールド(old)とオール(all)を混同したのか、あるいは、洒落たのかは知らん。パーは白票やチャラを意味するという説もある。もらうだけもらって、いざ投票となると洞ヶ峠を決め込むという寸法よ。オールドパーは当時の最高級ウィスキー、まさに舶来品である。政界を生き抜くには、勝ち馬に乗るのが最も賢明という構図は、いつの時代も変わらない。こと政界においては、人間の腐らせ方は難しいと見える...

2018-12-16

"新板 バブルの物語 - 人々はなぜ「熱狂」を繰り返すのか" John Kenneth Galbraith 著

原題 "A Short History Of Financial Euphoria."
Euphoria... こいつをどう訳すかは微妙。その名は楽曲やプログラミング言語にも見かけ、なにやら薬物の香りがする。どうやら幸福感のようなものを表す語のようである。幸福感ってやつは、ある種の熱狂であり、その最高峰に自己陶酔がある。自己陶酔ってやつは、自惚れの最高位にあり、おまけに現実逃避からくる健忘症を患い、財産を失うほどのこっぴどい損害を受けながらも、そのとき培った警戒感は二十年もすればすっかり忘れられるときた。それどころか、バブルで大敗を喫しても、リベンジとばかりに次の機会を虎視眈々と狙ってやがる。金融の機会に恵まれると自らの才能に酔いしれ、自我を肥大化させてしまう。金が人を狂わせるのか、そもそも人が狂っているのか。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ... とはよく言ったものである。
尚、鈴木哲太郎訳版(ダイヤモンド社)を手に取る...
「私はこの小著を警告の書とするよう特に配慮した。頭脳に極度の変調をきたすほどの陶酔的熱病(ユーフォリア)は繰り返し起こる現象であり、それにとりつかれた個人、企業、経済界全体を危険にさらすものだ。のみならず、本書で述べるとおり、予防の働きをする規制は明らかな形では全く存在しないのであって、個人的、公的な警戒心を強く持つこと以外に予防策はありえないのである。」

初版は1991年、日本経済がまさに泡となろうとしていた時代。この時の副題は「暴落の前に天才がいる」としている。長らく絶版となり、この復刻版では「人々はなぜ熱狂を繰り返すのか」としているものの、前の副題も捨てがたい。金融危機の前触れに登場するノーベル賞級のスターたち。彼らの金儲けの方法が公的機関のお墨付きとなると、誰もが群がる。人間社会では、それがどんなに良い事であっても、同じことをする人が多過ぎると何かと問題が起こるものである。
ジョン・ケネス・ガルブレイスは、市場原理主義や規制緩和政策に批判的な立場をとり、経済学公認の立場から距離を置く。宗教でいうなら、既存の教会とは一線を画す立場。彼は、経済学を心理学的な、社会学的な側面から観察して魅せる。まさに本書は、代替価値をめぐる心理学の書と言えよう...
「あらゆる投機的エピソードには、金融の手段または投機機会について一見新奇で大いに儲かりそうなことを発見して得意になるという面が常にある。そうした発見をする個人や機関は、大衆よりもすばらしく先へ進んでいるものと見なされる。そして、やや遅れて他の人々もそれなりの思いで追随するようになると、先駆者の洞察が正しかったことが確証されるというわけだ。何か類まれな新奇なものがここにあるという認識が、投機へ参加する人のエゴを満足させ、また同時に金儲けにつながると期待される。そして、少なくとも暫くの間は、儲けることができる。」

人間が心理的に虜になる原理とは...
本書には、「てこ」という用語がちりばめられる。それは、レバレッジの源泉だ。経済学用語には、違和感のあるものが多い。他人が提供した資本でも、法的に返済義務が発生しなければ、「自己資本」という名の元に繰り入れてしまうような業界。「信用」という言葉と「空売り」という言葉が同義となる業界では、あらゆるカラクリがレバレッジの温床となる。「てこの原理」といえば、物理学では小さな力で大きな力を与えようというものだが、こと金融界においては、無を有に装う原理として働く。アルキメデスはあの世で呟いているだろう。一緒にすな!と...
交換の利便性とやらが面倒くさがり屋の性癖をくすぐると、価値の仮想化が始まった。価値の尺度として登場した貨幣の歴史は古く、大量生産を目論む紙幣から便利すぎるほど便利な電子マネーに至るまで、仮想通貨の出現には限りがないと見える。
いまや金融のプロにも予測不可能なほどに複雑化し、餌食となる交換財は、証券であれ、美術品であれ、土地であれ、住宅であれ、ゴルフ場であれ、人が群がるモノならなんでもあり。かつてはチューリップまでも...
人間ってやつは、自分だけ損することは絶対に許せないにしても、みんなで損する分には諦めがつくものらしい。それでいて、誰かが儲けていると聞くと、それに乗れ遅れまいと躍起になり、狼が狼を呼ぶ。
新たな投機法を次から次に編み出す天才たちの出現は後を絶たない。彼らは大衆に投機の機会を与え、しばらくはみんなで儲けることができるゆえに、金融のスターなのである。これに疑問や異論を唱えようものなら、高名なアナリストたちに非難されるのが常で、金融界の既得利益を擁護することに...
投機のブームは後を絶たず、また、それを正当化する言い訳もまた後を絶たない。それは、いつもレバレッジによって価値尺度を複雑化することから始まり、これに公認の格付会社がお墨付きを与え、そこに大衆が群がってたちまち価値の欺瞞が増殖し、ついに誰にも制御できなくなるところまで行ってしまうという構図。そして、賢明な人々がブームから少しずつ離脱を始め、世間が気づいた時には既にパニックに陥っているという寸法よ。
但し、この価値の欺瞞は、大衆の後ろ盾によって生じた結果であるということを強調しておこう。陶酔的熱狂に浸っていると、自分の意思を正当化して、目の前の利益が既得のもののように錯覚してしまう。大衆の幻想が絶対的な価値にまで押し上げてしまうのである。そんな状況で警戒心を持つチャンスは、そうはない。高度な金融テクニックを編み出した天才たちは、なにも最初から欺瞞しようと企んでいたわけではあるまい。それでもいつも非難の的とされる運命にあり、これに便乗して儲けようと企んだ大衆の軽信や貪欲が非難されることはない。ヒトラーは言った、「私を選んだのは大衆だ!」と。金にまつわる特徴的な構図はいつも同じで、そこには群衆心理学が透けて見える。それにしても、ジャンクボンドの歴史は長い。レベレッジってやつは、いわば虚栄心を担保にしているようなものか...

「あらゆる人は、最も幸福なときに最もだまされやすいものだ。」... ウォルター・バジョット

1. チューリップ狂!... 希少価値の虜
投機の歴史は、少なくともフィレンツェやヴェネツィアが栄えた時代に遡るようである。当時から、活発な証券市場が存在し、現在の価値だけでなく、将来の予想に基づいて価値の取引がなされていたとか。すでにサヤ取りの原理が見て取れる。ただ、近代的な株式市場となると、17世紀初頭のアムステルダムに現れたという。
歴史に名をとどめる投機の大爆発としての最初のものは、やはり、1630年代のチューリップ狂であろうか。コンスタンティノープルからアントワープに着いた球根の所有と栽培は、大きな名声を獲得する。美しく、色も多種多様。最も凝った品種を所有して展示することが、金持ちのステータスとなる。チューリップ価格の上昇が始まると、貴族、市民、農民、職人、水夫、従僕、女中までもが群がり、希少価値の概念が大衆を幻想へと導く。小さな球根が巨額の貸付の「てこ」となり、財産を担保に借金してまで...
但し、チューリップを別の対象物に置き換えるだけで、後の投機エピソードはほぼ語り尽くせるだろう。

2. 金融の天才登場!... スコットランド人ジョン・ロー
フランス王国は、太陽王の絶え間ない戦争と贅沢のおかげで財政難に陥り、汚職が蔓延る。これに輪をかけて、ルイ15世の摂政オルレアン候フィリップ2世は放縦極まりない男ときた。フランスに渡ったジョン・ローが考えだした計画は、フランス政府の債務をルイジアナの金で支払うというもの。彼は銀行設立の権利を得て、ロワイアル銀行を設立。これが中央銀行となり、銀行券を発行する機能まで与えられる。その収入源は貿易特権のあるミシシッピ会社で、表向きはフランス領ルイジアナに存在するとされた金鉱である。だが、その資金は金鉱探査にあてられることはなく、政府の負債の返済にあてられたとさ。近年、よく耳にする金融破綻の構図がここに...

3. サウスシー・バブル!... 株式会社という仮面
1711年、ロバート・ハーレーが設立したサウスシー会社。イギリスは、スペイン継承戦争で生じた政府債務が滞り、サウスシー会社は設立免許と引き換えに、負債を引き受けたという。これにジョン・ブラントが加わる。彼は代書屋で、法律文書の複写の達人だったとか。会計監査のカラクリ技術の発見か。彼らにはアメリカ大陸東岸との貿易独占権が与えられ、後に西岸やスペイン領までも追加されたとか。さらに、南アメリカのブラジルを除く領域がサウスシー会社の商圏と主張したという。当然ながらスペインも黙ってない。貿易独占権がイギリス政府のお墨付きとなれば、ロンドン市場に投機の機会を与え、株式の存在感が急激に増大する。
ちなみに、あのニュートンは「私は物体の運動を測定することはできるが、人間の愚行を測定することはできない。」と言ったものの、この大科学者にして自分自身の愚行も測定することができなかったようである。

4. 華麗なる「てこ」のショーの始まり!... 世界恐慌
歴史的に最もインパクトのあったのは、やはり1929年のものであろう。陶酔的熱病のエピソードに共通するあらゆる要素が明白に備わっていたという点で、これほど勉強になる題材はあるまい。天才ともてはやされた連中が続出し、「てこ」の驚異が再発見され、楽観論の上に楽観論が積み重なって株価は青天井。暴落に転ずるや、天才と目された人々は精神的にも、道徳的にも酷い欠陥が明るみになり、誹謗中傷、投獄、自殺...
しかし、この陶酔的機運が最初に現れたのはウォール街ではなく、フロリダであったという。その火付け役は不動産ブーム。魅力的な温暖な風土が一役買う。ニューヨークやシカゴのゴミゴミした大都市とは違い、開放感のある気候が地価の高騰を招くのである。そこに猛烈な二つのハリケーンが到来し、ニューヨーク市場は反落。これに同情した救済の手が、資金貸付ブームを焚きつける。ゴールドマン・サックスの華麗なる「てこ」のショーの始まり...
まだ恐慌を知らない資本主義は、株価は永遠に上昇するものと考えられていた。当時、最も著名で革新的な経済学者と目されていたアーヴィング・フィッシャーもまた、投機の衝動に負けてしまう。
とはいえ、ガルブレイスは、ケインズの登場で、これほど大規模なダメージを受ける時代は来ないかもしれない、とも言っている。ある程度の抑制を期待している点では彼もまた楽観的ではあるが、リーマンショックを経験することに。やはり、陶酔的熱病を規制によってなくしてしまうことは、事実上不可能なようである...
「金融上の記憶というものは、せいぜいのところ二十年しか続かないと想定すべきだ...」

5. アメリカ人と日本人の性向
アメリカには、西部開拓史から受け継がれる投機ブームの歴史がある。大陸横断鉄道の夢を乗せた鉄道株ブームがそれだ。行き過ぎた鉄道融資で倒産する会社に、大銀行が連鎖反応を起こす現象は、既に経験済み。ガルブレイスは、アメリカ人は投機痴呆症にかかりやすいと指摘している。神から特別な金融的洞察力を賦与されたかのように信じる傾向が強いと。
対して、日本人はアメリカ人に比べて興奮の度合いが小さいという。自分の才能を過信したり、冒険にはやる度合いが少ないようだと。言い換えれば、金融的な発想力が乏しいとも言える。日本では、グループ会社や系列会社でなくても、ダメージを受けた会社に同情的な融資を施して救済することがよく見られる。そのために、「日本株式会社」などと揶揄される。ガルプレイスは、そうした寛容的な態度が情報隠蔽の体質を呼び込み、自己回復能力の阻害になることを指摘している。もっといえば、官僚的な体質に陥りやすいってことだ。
情報が明るみになりやすいアメリカの企業体質の方が、確かにダメージは大きいのだけど、自己回復能力が優れているという見方もできる。実際、この指摘のすぐ後に東京市場でバブルが崩壊して失われた20年を経験し、おまけに、リーマンショックでは震源地よりも大きな後遺症を抱えている...

2018-12-09

"マネー その歴史と展開" John Kenneth Galbraith 著

「ゆたかな社会」、「不確実性の時代」に続いて三冊目... 経済学において歴史の観点を重要視し、思想史や哲学史に照らし合わせて魅せたジョン・ケネス・ガルブレイス。彼に言わせると、こうした見方は正統派経済学では邪道とされるらしい。ましてや、お金の歴史となると...
ケインズは、「一般理論」の序文で、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい、といったことを綴り、素人読者を励ましてくれた。お金は万人にとって身近な問題。経済学の専門家よりは、むしろスーパーの買い物客の方が実践的な知恵をもっているかもしれない。ガルブレイスも、これに通ずるようなことを書いてくれる。もっと皮肉った形で...
「本書のような書物に読者がどのような心構えで近づいてほしいかについて一言しておかねばならない。貨幣にかんする多くの議論には坊主くさい呪文がたっぷりと塗りこめられている。そのうちのいくつかは意図的なものである。貨幣について語り、それについて教え、それによって生計を立てている人びとは、医者、あるいは祈祷師がやっているのと同じように、彼らは神秘的なものと特権的な結びつきがある。つまり彼らは普通の人間には決してそなわっていない洞察力をもっているという信頼の念を世間に流布させることによって、威信、尊厳および金銭的収入を得ているのだ。それは、職業として役に立ち、個人的には金もうけになることであるけれども、このようなやり方もまた一つの定着した形の欺瞞行為である。貨幣にかんする事柄で、通常の好奇心、勤勉さ、および知性をもっている人が理解できないようなことは、いっさいない。同様に、以下のページにかかれていることでも、理解を超えるような事柄は何もないはずである... 経済学の他の分野のいかなるものにも増して、貨幣の研究は、真実を明らかにするためではなく、真実を偽装し、あるいは真実を回避するために、複雑さが利用される分野なのだ...」

第一次大戦は、金を軸に打ち立てられた通貨機構がいかに脆いものであるかを示した。1920年代は、金融政策が抑制手段としていかに役に立たないかを示した。金融政策の行き詰まりを市場が察知すると、たちまち相場が崩壊。財政政策のみが有効であり得た時代にヒトラーの第三帝国が出現した。財政政策は、貨幣を借り入れる機会を直接設けて支出を保証し、いかに生産や雇用を拡大し、不況を克服するのに有効であるかを示した。これが、ケインズの教えであろうか...
ニューディール政策もまたケインズ革命に先駆けた実証例であったかどうかは別にして、第二次大戦がアメリカ経済の躍進に寄与した。だが、財政政策は万能薬ではなかったし、インフレを阻止しえなかった。これが、戦争の教訓であろうか...
尚、TBSブリタニカ版(都留重人監訳)を手に取る。

人間ってやつは、お金を前にすると近視眼になる。お金が人を狂わせるのか、そもそも人が狂っているのか。経済学がお金の流れを追いかける研究分野であるからには、金融工学やファイナンス理論を旺盛にしていくのも、その性癖の顕れか。資本主義という貨幣を自然増殖させる奇跡的なシステムを支えているのは、投資という行動原理である。
しかしながら、投資の哲学的意義なんぞを問うても上の空。浪費家は主張するだろう... 金は天下の回り物... と。金融屋は主張するだろう... 金融商品を買おうという客で溢れているのに売らない理由がどこにあろうか... と。それを尻目に投機屋はサヤ取りに明け暮れ、元の鞘に収まるのかは知らん。
貨幣流通の最大の役割は、金欲の平等化であろうか。人類は価値の概念に弄ばれてきた。価値の尺度を探し求め、その挙げ句に貨幣を発明し、価値の概念を自由に解放してしまったがために仮想化へとまっしぐら。パンドラの箱を開けちまったか。精神ってやつが得たいの知れない実体だけに、仮想的な存在とすこぶる相性がいいと見える。つまり人間は、この長い歴史経験をもってしても、真の価値を知らずにいるということか。いや、まだまだ経験が浅く、経済哲学を身にまとうには若すぎるというのか。いまや仮想化の波は現金を抹殺にかかる。時代はリアル貨幣の最期を迎えようとしているのか。あるいは、一連の金融危機によって、紙幣や硬貨を絶滅の危機から救おうとしているのか。お金はお構いなしに自由に振る舞い、人間は永遠にお金の奴隷というわけか。金に目がくらみ、金で遊んでいるつもりが、金に弄ばれ、堕ちていく。天国と地獄の区別もつかんと。いま、テンポのいい文脈に乗せられて、ラジオからあの懐かしい ABBA の曲が流れてくる。Money... Money... Money...

1. お金は手に余る...
貨幣は、国家の信用度を裏付ける存在として君臨してきた。では、貨幣の信用は、どこから発しているのか?造幣局は、なにゆえ信用に足るのか?その後ろ盾となる国家は、どれほど信用できるというのか?それは、単に慣習がそうさせるのか?
お金ってやつは、ますます神秘性をまとい、人類を迷信へと駆り立てる。貨幣が仮想的な存在であることを最初に世に知らしめたのは、おそらく貨幣偽造であろう。贋金で敵国の財力を削ごうとする策謀は、古代の記録にある。贋金の歴史は、賢い人間のことだから、おそらく貨幣の発明とともに始まったのだろう。犬のディオゲネスとあだ名された犬儒学派の哲学者は、価値の本質を問い、貨幣の真の意味を問うて偽造に及んだがために、国外追放をくらった。この御仁がお金の犬になったのかは知らんが、彼の武勇伝に陶酔する酔いどれ天の邪鬼が子猫ちゃんの犬であることは確かだ。
やがて科学の時代が到来し、それでもなお、仮説を嫌ったニュートンまでもが錬金術に嵌った。お金が人を変えるのか。人の本性を露わにするだけなのか...
人間には、お金は手に余る。自由に泳がせておくのが一番。そう考えてお金の哲学に奔走したアダム・スミスは、後に経済学者と呼ばれたことを、あの世で迷惑しているかもしれない。
とはいえ、彼に始まる経済学が、宗教心が旺盛で迷信の強烈な時代に、価値の概念に若干の客観性を与えた功績は大きい。お金が暴走を始め、国家の信用度が下落すれば、ただちに何らかの対策を講じなければと権力者は焦る。そのためには、まずお金の正体を知らねば。だが、その正体が一向に見えてこず、イデオロギー論争にすり替えられてきた。経済政策とは、対立的なイデオロギー選択の問題とも言えよう。しかも、持つ者と持たざる者の闘争という形で。そして、経済学の歴史とは、金融政策と財政政策の綱引きの歴史であったか...
金本位制の理念は、貨幣を通じてのグローバリズムの試みであった。だが、何を本位にしたところで... 現代でもその名残をとどめ、貨幣の信用度に疑いが広まると、すぐさま鉱山物へお金が流れる。変動相場制は、金融政策に強烈な存在感を与えた。だが、市場はしばしば政策立案の思惑とは真逆の反応を示す。やはり人間には、お金は手に余る...
「公開市場政策、公定歩合、再割引率という概念ほどに神秘性に包まれたものは、実はないくらいである。これは、経済学者や銀行家が、その他市民のうちのもっとも物識りとみなされる人たちでさえが自分の理解を超えると考えるような知識に対して、特別の理解をもっていることを誇りとしてきたからにほかならない。公開市場政策というのは... 中央銀行が証券類を売却することであって、こうした操作は、商業銀行または普通銀行から貸付用の資金源である現金ないしは準備金を吸上げることになる。公定歩合と再割引率とは同じことで、これは、一般の銀行が中央銀行からの借入れによって苦痛なしにその現金ポジションを取りもどすことを妨げる効果をもつ。これだけのことなのだ。こうした手法が前世紀を通じて発展してきた背景に照していうならば、そのいずれもが、状況に対するきわめて単純で自明でさえあるような対応策にほかならず、それが神秘的であるなどとは、とうてい言えそうもない。」

2. 歴史をお金の目で眺めると...
歴史をお金の面から観察すると、人間社会の醜態が見えてくる。奴隷解放運動として名高い南北戦争の真の目的とは。自由精神を信条としたルネサンスのもたらした真の結果とは。インフレ要因となるものすべてを毛嫌いするのは、経済学の伝統のようである。
南北戦争においては、リンカーンが発行した「グリーンバック紙幣」に対して歴史家の評価は厳しい。その考察では南部と北部の産業格差が浮き彫りになるが、農業経済と工業経済の対立構図は現代の構造的問題と同じ。そして、政府紙幣が、金が金を生み出すシステムを助長してきたという見方もできそうか。
ルネサンスにおいては、通商の復活が見て取れる。まず、造幣局の次に銀行が出現した。銀行業はローマ時代にはっきりとした形で存在したそうだが、中世に高利貸しに対して宗教的な反発が生じて衰退したらしい。ルネサンス時代、宗教的な配慮よりも金銭上の利益の方がまさっていく。自由精神は金儲けの欲望までも解放してしまったか。当時のヴェニスやジェノヴァの銀行は、現代の商業銀行の先駆者として認められているという。偉大さにおいては、どんな銀行家よりも、ロスチャイルド家や JP モルガンでさえも、メディチ家に及ぶべくもないと。
お金を自然増殖させるシステムでは、銀行券が大きな役割を果たす。なにしろ利息が自然発生するのだから。ガルブレイスは、銀行の基本的な問題を、こう書いている。
「銀行業の性質上 100% の用意のない貴金属を求めて預金者や銀行券保持者が殺到してくるような可能性に対し、どのようにして貸付を制限するべきか、その他の予防手段を講ずるべきか...」
まさに、自己資本比率の問題ではないか。おいらが経済学に抱き続けた懐疑的な概念の一つ。それは、金融危機の主役を演じてきたレバレッジの問題に通ずるものだ。どこまでの範囲を自己資本と定義するか、という問題もあるが、返済義務が法的に発生しなければ、すべて自分のものと考えるのが金融屋の感覚のようである。いずれにせよ、BIS規制ですら 8% 程度という低水準を知って、ド素人感覚で唖然としたのは昔のこと。いつ信用不安が広がり、いつ金融危機が起こっても不思議ではない、資本主義ってやつは実に紙一重で機能している、というのは歴史的観点からも本当のようである。資本主義は、お金を自然増殖し続けなければ持たない、自転車操業状態というわけだ。
しかしながら、これは資本主義だけの問題とは言い難い。お金にかかわる人間社会そのものの問題なのだろう...

3. 価値尺度と市場原理
人の価値観は極めて主観的に決定され、これを客観的に解決することは絶望的である。そこで市場原理は、価値の尺度を統計的に解決する方法論として、欲望の群れを相殺する形で機能させようとする。中には、金銭的な欲望よりも優先すべき欲望を知っている者もいるだろうし、金銭的な欲望しか知らない者でも、誰かが儲ける方法を編み出せば、その裏をかいて儲ける方法を編み出し、その無限循環を突いて価値が均衡する、といった具合に。ここに、自由放任主義の原点がある。
つまり、欲望の多様性こそが鍵というわけだが、市場参加者の価値観は偏りすぎるほどに偏っている。人間の価値観は、市場に参加した途端に一様性へ向かわせるのか。やはり金に対する人間の態度は本能的なもののようである。
さらに価値尺度の偽装は巧妙化し、「信用格付」なんて概念まで登場した。価値のない債権に最高格付を与える格付会社の出現が、数多の金融危機を招いてきた。おまけに、こいつは公的機関のお墨付きときた。価値の変動を餌にサヤ取り技術を進化させ、その技術が価値の変動を煽る。価格の安定を問題とする経済学は、その変動に魅せられて本来の目的を見失ってしまったか...

4. 財政政策とケインズ信仰
一世紀以上も経済学を支配してきた「セイの法則」は、総供給と総需要が常に一致するという考えを中心に据える。失業は一時的な失敗現象で、放っておけば、いずれ完全雇用に落ち着くとする楽観的な考えである。この宗教的信仰に終止符を打ったのがケインズで、彼は深刻な失業状態でも均衡しうることを示した。身体が血液循環を頼みとするように、経済は資本循環を頼みとする。浪費家の自転車操業では、資本主義はすぐに息切れする。いくら貯蓄しても、それがまっとうな投資に向かわなければ、やはり息切れする。その投資刺激を市場原理に任せるだけでは不十分とする考えは、いまでは広く受け入れられている。
ただ、ケインズが論じたのは不均衡状態である。ケインズ体系の実証例として、よく持ち出されるものにヒトラーの経済政策がある。一貫して公共支出のための大規模な借入れを主体とし、アウトバーン、鉄道、運河などの建設、そして軍備拡張で、大失業問題をあっさりと解決してしまった。しかし、ガルブレイスの見方はちと違う。当時の超ハイパーインフレが、他に方法がないという事態にまで追い込まれていたからであって、ましてや第三帝国の面々が書物に親しむような連中ではなく、彼らの頭に金融政策という概念すらなく、偶然にも財政政策を実施したに過ぎないと。その証拠に、後の数年でナチス経済を絶滅させてしまったと。
金融政策が支配的な時代に、財政政策の重要性を指摘したのがケインズである。ケインズ体系の中心に、経済の生産物に対する総需要が経済の総生産を決定するという考えがある。まさに数学者らしく、産出量の水準と雇用の水準の関係において、かつて独立変数であったものを従属変数にしてみせた。ニューディール政策にしても、ファラオ時代のピラミッド建設にしても、公共事業の経済効果が絶大であることは確かである。クラウゼヴィッツ風に、戦争もまた政治や経済の手段だとすれば、第二次大戦後のアメリカがそれを実証してみせた。戦争ってやつは、見事に人手不足を体現してやがる。大不況で遊んでいた施設や労働者を、すべて戦備物資の生産に向けることができたのである。実は、第二次大戦こそがニューディール政策の根幹だったのでは、と解するのは行き過ぎであろうか。
しかしながら、ここにケインズの弱点が同居する。まず、何をもって不均衡とするか。はたして、完全雇用状態はありうるか。平時であれば、どんなに好況であっても不況で喘ぐ人々が少なからずいるし、好調の産業もあれば、衰退していく産業もある。労働賃金はベースアップすると下げにくい。支出が増大すると削減しにくい。欲望エントロピーは、軽いインフレを求めているようである。
ケインズの理論は、財政政策を裁量的に実施する... と言えば聞こえがいい。だがそれは、誰の裁量?いつ誰が発動する?予算はすべて消化しないと翌年度の予算が確保できないとなれば、官僚的思考に陥ってしまい、投資はたちまち浪費の餌食。箱モノづくりをちらつかせて地元の土建屋を喜ばせ、それが票につながるとなれば、政治屋はケインズがお好き...

2018-12-02

"不確実性の時代" John Kenneth Galbraith 著

世界を不確実にしているものとは何であろう。それは人間が関与するからにほかなるまい。神は嘲笑っているだろう。目の前に迫る危機にも気づかず、ひたすら邁進する人間どもを。だが、時間の矢に幽閉された精神の持ち主にできることは、それしかない。信仰や迷信に縋り続けるしか...
スミスの唱えた「見えざる手」は、いつのまにか「神の御手」に昇華させ、無慈悲な自由競争を旺盛にさせてきた。自由放任主義が行き詰まると、マルクスやケインズに攻撃され、今度は政府に希望を託した。経済学者が呪文のように唱えてきた、見えざる手、自由放任主義、金本位制、労働価値説、社会ダーウィン主義、マルクス主義、ケインズ革命... いずれも自足を満たせずにいる。経済思想ってやつは、常に移ろいやすく、しかも極端に触れ、おまけに過去の思想はゾンビのように蘇り、中庸の哲学とは無縁と見える。
優秀な政策立案者が施してきた経済政策にしても、しばしば的を外し、むしろ逆効果を生む。おせっかいな政府よ、なにゆえ、こうも社会をいじりたがる。おかげで、収奪的で適切さを欠く国家の手に委ねるより、見えざる手に委ねる方がまだまし、という考えはしぶとく残る。
異端者として登場したケインズは正統派の預言者となった。だがそれも、特別なケースにおける処方箋であった。よく見かける景気政策に、金持ちを優遇すると貧乏人が牽引される、といったものがある。だが、貧乏人が潤う前に景気は後退し、格差を助長してしまう。これが経済サイクルというものか。神は自責の念にかられているだろう。かくも多くの貧しき者をつくり給うたことを。だから、貧しき者を愛すというのか。なるほど、神の存在意義を強調するためにも、世界は不確実なままにしておくのがいい。そうでなければ、宗教の存在感も目立たなくなるだろう...
「一般理論は... 聖書や資本論と同様、それは、おそろしく曖昧であり、また聖書やマルクスの場合のように、その曖昧さが改宗者を獲得するのに非常に役立った。私は、あえて逆説を楽しもうとしているのではない。読書というのは、多くの努力を重ねたうえで理解に達した時には、その信念に強く執着するようになるものなのだ。」

ジョン・ケネス・ガルブレイスは、著作「ゆたかな社会」の中で、有閑階級の何が悪い... というようなことを書いた。経済学を学ぶと自己中心的になるという説を聞いたことがあるが、その大前提に自分だけは損をしない方法論という見方がある。保守的な意味では良い面もあるが、経済政策では露骨に国益を正当化してしまう。ただ、利己心にも称える言葉がある。教化された利己心... 啓発された利己心... といった形容の仕方で。まさにガルブレイスは、本格的な自己啓発、自己実現、そして自己投資の時代が到来したと言っているように映る。この酔いどれ天の邪鬼の解釈に、ちと行き過ぎ感は否めないにしても、生産や消費を煽る経済理論に行き詰まり感があるのは確かである。
ここでは、経済学界から逃避するかのように、テレビ界に救いを求める。原題 "THE AGE OF UNCERTAINTY." は、BBC 放送の連続番組の台本を作るために書き下ろした原稿を一冊にまとめたものだそうな。経済思想史を重要視している点に感銘を受けるが、なぜか経済学では異端とされるらしい。飽き飽きした学者連と議論するよりも、不特定多数の聴衆に訴えた方が合理的というわけか...
「経済学の分野で筆がたつということは、怪しまれるもとである。しかも、それには十分の根拠がある。名文は、人を説得する力をもっているし、また、頭脳が明晰でなければ、良い文章は書けぬ。自分自身が理解していないことを、うまく表現するということはできない。だから、わかりやすい文章というのは、一種の脅威とみなされる。つまり、頭の悪さを文章の難解さで隠す数多くの学者にとっては、何かおそろしく打撃を与えるもののように感じられるのだ。ケインズは、その気になれば、名文の書ける人だった。このことが、彼が疑いの目でみられた理由の一斑をなしていたのである。」

ところで、ガルブレイスの文脈は、独特の歯切れのよい名文だという。特徴的な分かりやすさを具えているとか。「ガルブレイスは、薬の処方を、読みそうもないラテン語で書く代りに、明快な英語で綴る医者みたいで、経済学者の常套手段である難渋さの陰にかくれるようなことをしないのは、ずるい」と言われたくらいだそうな。しかも、なぜか好んで男女間の交渉を皮肉をこめて話題にすることが多いという。女性とのかかわり合いを、予想もしない箇所に品を落とさぬよう持ち込むのがガルプレイス流なんだとか。この書は、彼の武勇伝だったのか。そのあたりは軽く読み流してしまったではないか。そういうことは先に教えといてくれないと。暗示にかかりやすい酔いどれ天の邪鬼は、この分厚い大作を最初から読み返さずにはいられないのであった...
尚、TBSブリタニカ版(都留重人監訳)を手に取る。

1. 主義や思想よりも既得利益か...
日常の政治議論では、その人が右か左か、リベラルか保守か、自由主義か社会主義か、といったことを気にかける。議論する側も、聴衆の側も。ただ、既得利益に対する態度は、どんな主義であれ、どんな思想であれ、あまり変わりがない。本書は、思想が既得利益にまさる場合もあるにはあるが、思想が既得利益の申し子である場合も極めて多いと指摘している。
産業革命や技術革新で経済思想の様相も随分と変わった。古代から盛んだった利息と高利貸しといった経済活動は生産へと向かい、食うための生産から付加価値を求める生産へと移行してきた。そしてさらに、人生にとって意義ある生産へと向かうのかは知らんが、金融屋の行動パターンは相も変わらずサヤ取りにご執心と見える。資本家と労働者の関係にしても、かつての地主と小作人、もっと古い飼い主と奴隷を言い換えただけで、労働市場が拡大するとともに、その仲立ちをする奴隷商人も多忙と見える。持つ者と持たざる者が生じるのは、人間社会の掟であろうか。人間と人間の間に所有関係が生じるのも、既得利益の賜物であろうか...

2. 労働運動の首謀者は...
「労働者の国家」とは、なんと心地のよい響きであろう。だが、マルクス的な労働運動にしても、階級の存在が前提される。植民地に、ブルジョアジーもプロレタリアートもあるまい。結局、既得利益や既得権益にしがみつくのであれば、労働者の間にも階級が生じる。階級闘争を煽るためには階級の存在が不可欠。資本主義の理念は平等社会を助長しない。
だからといって、平等主義に邁進すれば、個人の努力や創造力を損ない、文化を一様で単調なものとする。教育や芸術を活発にするには金持ちも必要。野心を罰っすれば、投資意欲を失わせ、リスクを冒す企業家を腰抜けにする。
政府のできることといえば、必要最低限の生活保障以外に何があろう。だが、これにも既得利益や既得権益が蔓延り、下手すると社会保障制度はタカリ屋を助長させる。階級ってやつは、貧乏人の世界にも生じ、人の不幸を見て救われるのである。それは、差別好きな人間の性癖であろう。
革命をもたらす思想は、大衆からは発しない。最も不満を持ち、最も反抗する者からは発しない。資本主義を恐慌から救った思想も、実務家や銀行家、あるいは株式所有者からは発しない。思想ってやつは知識人から生まれるのであって、これに踊らされる庶民という構図は変わらないようである。労働者の解放は実にいい。だが、それが自己の解放でなければ、いったい何を解放したというのか...

2018-11-25

"ゆたかな社会" John Kenneth Galbraith 著

身長 2 メートルを超える経済学の巨人ジョン・ケネス・ガルブレイス。この書の立ち位置が異端とはとても思えないが、彼自身はそう言っている。不確実な世界を論じれば、時代的な欠点が含まれるのも仕方があるまい。人間社会を問うた学問において、すべての現象を完全に説明できた学派は、いまだかつて存在しないのだから。ただ、異端と聞くと天の邪鬼の性癖がうずく。
ガルブレイスは、経済学的思考に疑問を投げかける。労働に明け暮れた古典的な生活から脱皮し、人生を謳歌する生活へ転換されつつある時代に、なにゆえ所得を最大限にするような議論を続けるのか?と。財貨はますます豊富になり、緊要性が低下しているというのに。彼は、ゆたかさの指標を誤れば、ゆたかさ自体を脅かすと警告する。いまや人生の意義を求めるような進歩の設計ができていると。それは教育であり、教育のあり方である。
とはいえ、人間社会には、働かざる者食うべからず... という風潮がいまだ根強い。経済的なゆたかさとは、金の使い道を心得ているということであろうか。それは、自己投資、自己啓発、そして自己実現への道。投資が経済循環の原動力であるという考えは変わらないにしても、従来の物的資本から真の意味での人的資本へ比重を移すべきだというわけである。どうやら経済学理論の陳腐化は、ゆたかさの度合いに比例するらしい...
尚、鈴木哲太郎訳版(岩波現代文庫)を手に取る。
「私はあえていうが、ここで述べた思想は、むしろ専門外の読者にとって、もっともで合理的と思われるのではなかろうか。
... しかし通念体系の高級な上層部では、このような目標は極度に望ましくないと思われるであろう。専門的な経済学者のうち高名だが鈍感な人たちまでもがこの反対論に加わっているのは遺憾なことである。」

原書の初版が刊行されたのは、1958年。いくつか改訂を繰り返し、本書は四十周年記念版に当たる。ガルブレイスの「ゆたかさ」という経済指標の考えには、執念のようなものを感じる。経済学が本格的に稼働を始めたスミス、リカード、マルサス、ミルの時代、価値の指標はもっぱらい生産に向けられ、それは貧困モデルから出発した一学科であった。人類の歴史を紐解けば、その大部分は貧困の歴史である。大衆が富を獲得するようになったのは、封建社会から解放され、資本主義や自由主義が生起する近代社会になってからのこと。
貧困や困窮をテーマにすれば、陰気な学問とあだ名される。リカードが貧乏は避けえない現象と論じれば、マルサスは喰える人間の数を論じ、やはり暗いイメージがつきまとう。マルクスの目には、政府はブルジョアジーの手先にでも見えたか。労働者を産業予備軍のごとく言い放ち、階級闘争を煽る。マルクス主義者の宗教性は常軌を逸しており、反対論者は誤っているばかりでなく罪人扱い、異端者は道徳的にも否定される。
ただ、ガルブレイスのマルクスの見方は少々違うようである。マルクスは、マルクス主義者にも、反マルクス主義者にも誤解されているという。当時のイメージは、経済学者の代表であるリカードは冷血な株屋の傍観者、対して、マルクスは熱血漢の正義漢。つまりは、労働者の代表である。失業率の増減、すなわち産業予備軍の存在が、経営に柔軟性を与え、企業体を安定化させるのは確かである。マルクスは、社会階級、経済行動、国家の本質、帝国主義、戦争などを体系化し、経済学というより社会科学として確立した。その業績はあまりにも偉大すぎて、マルクス主義者はこれを信仰するしかなかったということであろうか。
マルクスという人物は、この酔いどれ天の邪鬼にとっても、なんとなく気になる存在ではある。これほど影響力を持った偉人はいないと、世間が言うものだから。ただ、「資本論」という大作にはいまいち踏み込めないでいる。「資本論」の序説に当たる「経済学批判」に触れた時はなかなかのものだと感じ入ったものだが、「共産党宣言」に触れた途端に距離を置きたくなる。万国のプロレタリア団結せよ!... などと叫ばれた日にゃ。これも、ガルブレイスの指摘する誤解であろうか...

一方で、陰気とは言えない事例も多々見られる。スミスが大著「諸国民の富の性質と原因に関する研究」と題したのは、彼が富に希望を持つ楽観主義者という見方もできよう。陰気な部類とされるリカードにしても、おいらが「比較優位論」に出会った時は、まるで経済学の相対性理論と、この明るい説に感服したものである。なにしろ、自由貿易の力学が単純な国力差だけでは機能しないことを示し、弱小国にも得意分野があれば生き残れる希望を与えているのだから。
そして現在、生産量の指標に多少の改善がなされたものの、消費量や需要量などの指数と絡めて議論される。政治家のお好きなケインズ的財政政策は、生産物に対する総需要が経済の総生産を決定するという考えが中心にある。政策立案者は相も変わらず、設備投資や物価指数、あるいは公共投資といった計測可能な指標に目を向けるばかりか、消費を煽る方策しか打ち出せないでいる。反対論者は反対論者で、インフレ論やマネタリズムの金融政策を旺盛にしていく。そりや、「生産こそ社会の進歩の公認の尺度」と皮肉られても仕方があるまい...

しかしながら、経済学という学問は、測定不可能な目線で存在しうるのだろうか?個人的には、経済学は社会学に属す一学科として捉え、その意義の一つは社会学に数学的な視点を与えることだと思っている。だが実際の経済学は、社会学からますます乖離していくように映る。
そこで、ガルブレイスは「ゆたかさ」という指標を提案してくれるが、数値的な度合いや段階的なレベルまでは踏み込んでいない。
また、生産過程で生じる不平等や既得利益、貨幣への幻想や社会への不安、さらには社会保障から安全保障に至るまで、依存効果の観点から論じている。依存効果とは、「欲望は欲望を満足させる過程に依存する」というもの。
こうした見方は行動経済学の領域にあるが、人間の依存症は生産や消費に絡む問題だけでなく、むしろ生理的な問題であろう。人生の意義を求めて知識に執着すれば、やはり知識依存症となる。おそらく哲学者という人種は真理依存症なのであろう。金銭依存症や権威依存症よりはましか。
人間の満足には二つある。他人がどうであろうと自分自身が欲する絶対的な満足と、何かを得ることで他人よりも優越できる相対的な満足。人間ってやつは、なにかを心の拠り所にし、なにかに依存しなければ生きてはいけない存在である。
したがって、ゆたかな社会とは、より高度な依存社会ということになりそうだ。ガルブレイスは、社会がゆたかになれば余裕ができ、ゆたかさの恩恵にあずかれない人々も救われると楽観視していたのか、現実はそうではなかったことを嘆く。現実社会は欲望が欲望を呼ぶ世界で、依然として何百万、何千万もの飢えた人々がいる。ゆたかな社会だから福祉が拡大するという仮説は妥当しない。実際、助成金の類いはタカリ屋を蔓延らせる。
それでもなお、「ゆたかさ」という指標に希望を持ち続けたのは、陰気な学問を陽気な学問へ変えようとしたのだろうか。現在、この路線を継承するかのように、「幸福度」といった尺度があるにはあるが、科学的な信憑性も疑わしいし、却って政治利用されてもかなわん。そうした指標は改善の余地が大いにあるにせよ、現時点で経済学の主流に取り込まれていないことは、まだしも健全かもしれない。
とはいえ、ゆたかさの度合いによって貨幣の存在感は変わるだろうし、何に価値を求めるかの多様性はますます広がるだろう。ゆたか過ぎても、貧困過ぎても、どちらも不幸な社会になりそうだ。前者は問題が分かっていないから誤った解決策しか施せないでいるし、後者は問題が分かっていても手の施しようがない。ゆたかさの温床が人口減少へ向かわせるのか。ロボットや AI が肩代わりすれば、労働人口を必要としなくなる。それは、人間不要論の布石か... などと言えば、経済学に失望し、陰気な学問に引き戻される。救いは、ガルブレイスが四十周年という記念碑的行為に対して語ってくれる。やはり学問は陽気でなくっちゃ...
「長い年月が経ったあとで自分の書いたものを再検討することは、決して不愉快な仕事ではない。人は自分自身の労作の同情的な批判者である。正しいとわかったことから得られる喜びは、間違っていたと判明したことについての後悔より、常に大きい。」

2018-11-18

"推測と反駁 - 科学的知識の発展" Karl R. Popper 著

先日、知的自伝「果てしなき探求」では、いかにして批判的合理主義に至ったか、その思考プロセスを味わわせてくれた。ここでは、「過誤から学びうる」という命題を提起してくれる。世間でよく言われる「失敗から学ぶ」という試行錯誤法の応用例といったところか。それは、正しく問うことの難しさを暗示している。
人はみな、何かに依存しなければ生きてはいけない。ならば、何に依存して生きていくか。知識依存というのも悪くない。過誤を正すことによって真の知識を獲得する、という考えは一つのテーゼを示している。
しかしながら、過誤を自認することは至難の業。まずは過誤かどうかを判定するために検証してみることだ。検証するために反証してみることだ。反証に耐えうるなら、真の知識が見えてくるかもしれない。
いま、この検証と反証の試みを、表題の「推測と反駁」に対応させながら読み進める。とはいえ、真の知識とはなんぞや。自分にとって都合のよい範疇でしか、物事を知ろうとしないではないか。酔いどれ天の邪鬼に寛容さは皆無。知識主義を称するなら、なにゆえ権威や名誉に縋る。なにゆえ人目を気にする。まずは他の依存症から治療せねば。自省の道は険しい... 自立の道は険しい... 自由の道は険しい...

「経験とは、誰しもが自己の過誤に与える名称である。」... オスカー・ワイルド

ここに批判ネタとされる人たちは、それだけ偉大であることの証であろう。批判するに値するということである。プラトンも、アリストテレスも、ベーコンも、デカルトも、ライプニッツも、ロックも、バークリーも、ヒュームも、ミルも... カントには心酔しながらも彼とて免れない。カール・ポパーは主観を嫌っているようで、直観までも批判対象とする。帰納法も、直観も、信じないと豪語しているのである。思考する状態そのものが直観的であるような気もするが、とにかく非合理的な思考要素をすべて排除にかかる。
ポパー自身は、経験主義者でかつ合理主義者であることを表明している。にもかかわらず、その双方にも批判の目を向ける。「推測」「反駁」も、その原動力は批判に発するというわけである。だから、否定主義者などとあだ名される。いや、皮肉屋か。主題の「過誤」こそが経験的なのだから、確かに経験主義者ということになろう。
カントは、最も純粋なレベルの認識として、時間と空間をアプリオリという概念で論じた。ただ、それ以外にも先験的な認識というものが働くように感じるし、すべての認識を経験的で説明できるかは疑わしい。思考を試している状態が経験的といえば、そんな気もするが、突然の閃きもその思考過程に生じるのだから、経験的ということになりそうな気もしなくはない。すると、直観も経験的ということになるのだろうか。どうやら酔いどれ天の邪鬼の頭の中では、「経験」という用語にも疑いを持ち始めたようである。
また、合理主義といっても、精神的な合理性、肉体的な合理性、物理的な合理性など、視点をちょいと変えるだけで様々な合理性が見て取れる。実際、芸術家の合理性と政治家の合理性は真逆に映る。ここで言う合理性とは、道理に適っているか、ということが問われるが、その「道理」という用語の解釈がなかなか手強い。どうやら酔いどれ天の邪鬼の頭の中では、「合理性」という用語にも疑いを持ち始めたようである。ひょっとして、合理性とは解釈のことか。しかも都合よく。
いずれにせよ、最も純粋な認識論の領域において、批判を免れない哲学的論考などありえようか。そして、懐疑論は自己にも向けられることに。自己否定に陥ってもなお愉快になれるとしたら、いよいよド M の覚醒か。
反駁を喰らったからといって、それを失敗と評するようでは知識の高まりは望めまい。コペルニクスを偉大とするなら、プトレマイオスも偉大とせねばなるまい。アインシュタインも偉大だし、ニュートンも間違いなく偉大だ。過去の理論が科学的に否定されたとしても、その思考プロセスには敬意を払いたい。科学者や哲学者の目標は真理の発見であり、到達しえない限り永遠に近似を試みる。これぞ、ポパーの学問態度と言えよう。
「誤った合理主義は、巨大な機械とユートピア的な社会的世界との創造という考えに心を奪われている。ベーコンの『知識は力なり』とプラトンの『賢者の支配』という考えは、この態度... 根本的には、自分の卓越した知的天分を根拠にして権力を要求する態度... の別様の表現なのである。これと対照的に、真の合理主義者は、自分がいかにわずかしか知っていないか、ということを常に自覚しているであろう。そして、どんな批判的能力や理性をもっているにせよ、自分は他の人たちとの知的交流のおかげをこうむっているのだ、という単純な事実を意識しているであろう。それゆえ真の合理主義者は、人間を根本的に平等なものとみなし、人間の理性をば人間を結びつける絆だと考える傾向があるであろう。かれにとって理性とは、権力と暴力の道具の正反対のものである。すなわち、理性を、権力と暴力とを制御しうる手段とみなすのである。」

それにしても、マルクス嫌いとヴィトゲンシュタイン嫌いは本物のようである。マルクス主義批判においては、ポパーの故郷オーストリアにヒトラーが侵攻し、共産主義と国家社会主義が激しく対立した時代、社会民主主義は無力な空想家であり、マルクス主義に縋ったところで、これに幻滅した反マルクス主義がファシズムへ傾倒していく様を嘆く。ヴィトゲンシュタイン批判においては、有意味性の意義をめぐって激しく論争し、同時代を生きたことが余計に災いしたと見える。
ポパー論考の帰結を... 理論であろうが、自己であろうが、それを進化させる方法は、極限まで検証して反証し続けること... と解すれば、天の邪鬼な性癖にも通ずるものがある。
ちなみに、健全な懐疑心と啓発された利己心こそが知の原動力... を信条とする酔いどれ天の邪鬼は行動をともなわず、ただ好き嫌いで論ずるのみ。なので人間嫌いからは免れない。
「人間理性の能力、真理を判別する人間の能力に対する不信は、ほとんど例外なく人間不信に結びついている。だから、歴史的には、認識論上のペシミズムは人間堕落説と結びついていて、人間をその愚行や邪悪から救済するために、強力な社会的伝統を確立したり、強い権威を防禦したりすることを要求するようになる。」

1. 歴史法則主義批判
ポパーは、マルクス主義を「歴史法則主義」と呼び、これを科学的論考の立場から批判する。彼は社会科学を否定しているわけではない。科学的だからすべての現象を予測できるとする考えに反対しているのである。もっと言えば、社会科学の目的を歴史の予言を行うこととし、その予言は政治を合理的に行うために必要である、という考えに反対している。
さすが合理主義者を称するだけあって、科学という用語に対して、非常に敏感と見える。科学的なあらゆる分野で、よく見かける用語に「客観性」ってやつがある。理論や主張は、この用語によって確からしさを装うことができるので、政治屋や報道屋までも濫用する。だが、客観性は学問分野によっても程度があり、数学の純粋性は他を寄せつけない。つまり、科学にも程度があるってことだ。
カオスの世界では、熱力学の第二法則が警告している。完全な効率性を実現することは不可能だ!と。こと人間社会では、真理の近似性は確率論的ですらある。人間社会は、善意に満ちていない。人道に満ちていない。それでも、そこそこ善は機能する。統計的に。確率的に。だから、世間は楽天的でいられるのだろう。
しかしながら、功利主義の最大幸福の原理が、容易に慈恵的独裁のための言い訳にされる現実をどう説明するか。政治屋が政(まつりごと)を崩壊させ、金融屋が世界規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が国家を危機に晒し、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。この現実を、どう説明するか。社会科学における合理主義的アプローチは、自らの合理主義と懐疑主義の妥協をめぐってのものとなろう...
「陰謀によってなしとげられた結果が、めざされた結果と通常ははなはだ異なるのはなぜか。陰謀があってもなくても、これは社会生活において普通に起こることだからである。そしてこの指摘によって、理論社会科学の主要課題を定式化する機会が与えられる。すなわち理論社会科学の主要課題は、意図した人間的諸行為の意図せぬ社会的反響効果を明らかにすることである。」

2. 本質主義批判
あらゆる学問において、言葉の意味、とりわけ定義が重要だとする考えがある。ポパーはこれを「本質主義」と呼んで批判する。定義は完全ではありえないと。いや、言語システムは完全ではないと言った方がいい。だから、それほど目くじらを立てるな!というわけである。定義や用語の誤りが有害になることを心得ておかなければ、誤謬を肥大化させてしまうとの警告か。もっと柔軟に、それほど力まずに、様々な学問分野に触れ、多くの大著を読み漁ってみては... と誘っているようにも映る。
そもそも、人間をどう定義できるというのか?とりあえず言えることは、人間は動物である、ってことぐらい。では、それ以上のものとは?動物と区別できるものとは?言語の獲得か?技術の獲得か?
では、最先端技術の人型ロボットとの違いは?カント風に言えば、人間の尊厳は不可侵、といったことになろう。だが、人間の尊厳は人間自身で守るしかない。人間の存在そのものが自己言及の罠に嵌っているではないか。技術と知識の高度な発達が、人間性を失わせるのかは知らん...
また、あらゆる学問において用語が慣習化している。客観性を帯びているはずの専門用語でさえ、所属する組織や学派によって微妙にニュアンスが違ったりで、極めて文化的な側面を持つ。そのために、用語を知らない、あるいは間違った使い方をしている、などと罵り合い、本質的な議論を遠ざけてしまう。本質主義によって本質を見失うようでは本末転倒。経済学用語を学ぶと自己中心的になりやすいという説を聞いたことがあるが、その大前提に、経済学とは自分は損をしない方法論、という見方がある。
なるほど、定義や用語は権威主義に陥りやすい。専門用語が常識化すれば、その用語の解釈にすら疑問を持てなくなるだろう...

3. 有意味性批判
どのようにして、理論は科学的と呼ばれる地位を獲得できるだろうか。ここに、科学と疑似科学の境界をめぐる議論がある。ポパーは、考えうるいかなる事にも反駁できないような理論は、科学的な理論とはいえないとしている。反駁不可能というのは理論の長所とされがちだが、むしろ欠点だという。占星術のようなものは、反駁に値しない。そして、検証に耐えうるかがひたすら問われる。
さらに、科学と形而上学の境界設定をめぐる議論がある。形而上学は反駁不可能な領域にあり、科学とは距離を置く。だからといって無意味ということにはならない。彼は形而上学を否定しているわけではない。形而の上に位置づける、この大層な学問の意味性を問うことに懐疑的なようである。
そもそも真理に意味性が問えるのだろうか?意味性の検証って可能なのだろうか?そこで、ヴィトゲンシュタインの有意味性の基準を批判する形で論じている。ヴィトゲンシュタインの言葉「およそ語られうることは明晰に語られうる。論じえないことについては人は沈黙せねばならない。」ってやつには前々から惚れ惚れする。ただ、有意味性の基準で語られうるかと問えば、少々懐疑的にならざるをえない。意味性には言語限界説との結びつきもある。実際、無意味な言葉が精神安定剤になったりする。とはいえ、同じ時代を生きたがために、烈しい論争者に仕立て上げられるとは。やはり人間は近い者に対して感情的になりやすいと見える。遠い古代の死者たちには寛容であっても...

4. 弁証法批判
ポパーの立ち位置は批判的合理主義ということになろうが、反証主義とも言えそうである。反証的方法論に立脚する知的体系は、自然科学以外にも適応できうるようなことを語ってくれるのだから。反証や検証は、弁証法において要となる論考。にもかかわらず、ヘーゲルの弁証法を痛烈に批判し、「強化された独断論(ドグマティズム)」とまで言い放つ。彼はヘーゲル哲学を「同一性哲学」と呼ぶ。それは理性と現実との同一性を唱えたものだとか。現実と理想の区別もつかなず、もはや夢想とでも言いたげな。理性を理想像に位置づければ、合理的な観点が失われそうである。もはや世界は精神と同化してしまったというのか...
一方、カントの論考は「いかにして科学は可能であるか」という問いに発しているという。その思考法は、プラトンやアリストテレスにも見出すことができる。尤も、まだ科学が自然哲学と呼ばれていた時代ではあるが。へーゲルにも同じ出発点を見出すことができそうだが、カントの暴走した姿として捉えている。そして、マルクスとの強い結びつきから歴史的方法論を批判している。
純粋理性からの理論構築は、宇宙を観念と、いや精神と同一視するところまでいってしまったのだろうか。真理の近似値は、確率論的ですらある。では、歴史はこの確率を上げる方向にあるのだろうか。歴史を理解する上での弁証法は、より高次の疑問へと発展させているだろうか...
「マルクスの社会学は、ヘーゲルから、社会学の方法は歴史的でなければならず、社会学は歴史学と同様に社会的発展の理論にならなければならないという考えだけでなく、この発展は弁証法的に説明されなければならないという見解をも取り入れた。ヘーゲルにとって、歴史は観念の歴史であった。マルクスは観念論を見落としたが、歴史的発展の起動的な諸力は弁証法的な『矛盾』、『否定』、『否定の否定』であるというヘーゲルの学説を保存した。」
ポパーは、ヘーゲルには激しくても、弁証法的論考そのものを否定しているわけではない。あらゆる仕方を用いて疑問を呈し、けして独断的にならないという謙虚な態度こそ、科学的思考法ということであろう...
「弁証法の全発展は、哲学的体系構築に内在する危険に対する警告として受け取られるべきである。哲学はいかなる種類の科学的体系の基礎ともされてはならず、哲学者はその要求においてもっとずっと慎ましやかであるべきである、ということをわれわれはこの弁証法の全発展を見て思い起すべきである。科学者がきわめて有効に成し遂げることのできる課題の一つは、科学の批判的方法の研究である。」

2018-11-11

"果てしなき探求 - 知的自伝(上/下)" Karl R. Popper 著

批判哲学とは、こういうものを言うのであろうか...
偉大な哲学は、その偉大さゆえに批判に晒され、欠点を指摘され... それでも回帰する。時にはネオ化し、狂信化し... それでも回帰する。さらに再解釈を試み、再評価され... やはり回帰する。古典回帰は永劫回帰のごとく...
一分の隙もない哲学は存在しない。一分の隙もない論考はありえない。哲学論考は言葉を用いて仕掛けるが、完全な言語システムなんぞ存在しないのである。もし仮に、人間が編み出した言語で人間精神を完全に言い表せるとすれば、人間が人間精神を完全に解明できたことを意味する。だが、そんなことは不可能だ。人間は自分自身の意識の正体すら知らないでいる。精神ってやつが単なる電子の集合体なのか?魂ってやつが素粒子の無数の塊なのか?あるいは形而上の何かなのか?具体的に答えたければ、宗教にでも縋ることだ。結局、人間の能力では誤認識を免れない。あとは、どう解釈して生きるか。どう自己満足感に浸るか。そして、後知恵によって自我をいかに脚色するか...
認識論には根本的な難題がある。無知を知るという問題が、それである。哲学の流行は盲目へといざない、ドグマ的な信条を無批判に受け入れさせる。そして、無知を知った時、その反動がより一層懐疑主義に走らせる。批判プロセスもまた時間の関数。いつの日か、確信と懐疑が調和できる時が来るだろうか。ここに、天の邪鬼な性癖に言い訳を与えてくれそうな書に出会えたことを感謝したい...

「人間の合理性は、原則に関しては不問に付しておくということにではなく、決して不問に付さないことにあり、定評のある原理にすがりつくことにではなく、何事も疑問の余地なしとみなさないことにある。」
... ギルバート・ライル

カール・ライムント・ポパーは、批判的合理主義の立場をとる。いや、批判というより常に検証の目を向けると言った方がいい。いやいや、検証というより反証の目を持ち続けると言うべきか。そして、偉人たちはことごとく彼の餌食に。プラトンしかり、アリストテレスしかり、ヘーゲルしかり、マルクスしかり。ポパー自身は非正統的カント主義者と考えた時期もあると告白しているが、そのカントしかり。
死人に対しては柔らかな論評でも、生きている者同士となると論争は激烈に。反論者がいるからそうなるのか。ウィトゲンシュタインしかり、ボーアしかり、シュレーディンガーしかり、アインシュタインには共感できるところが多かったようだけど。
どんなに偉大な哲学者も、どんなに偉大な思想家も、批判対象からは免れない。無論ポパーとて例外ではない。本書は、批判に至る思考プロセスを披露してくれるが、これを辿ると、哲学的思考や科学的思考の歴史を概観できる。人類の叡智とは、世代を超えた批判プロセスにあり!と言わんばかりに...

弁証法的方法論は、ヘーゲルやマルクスをはじめ実に多くの哲学者や思想家、あるいは科学者が建設的に採用している。そのやり方は極めて単純だ。一つの考えに別の考えを対立させ、発想をより高度な段階へ導くといった具合に。
対立すれば、そこに批判が生じ、批判が批判を呼び、より高度な批判へと昇華させる。批判のメタ論考化とでも言おうか。言葉と言葉を戦わせれば、より高度な言葉を求める。メタ言語化とでも言おうか。現在のビジネス会議でよく用いられるブレインストーミングもその類いで、異なるアイデアを戦わせながら、よりよいアイデアへ導くプロセスを重視する。
弁証法には、リズミカルな三拍子がある。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼがそれだ。正!反!合!だが、どんなにメタ化を推し進めても、結局はアンチノミーに呑まれる。だから、負けじと飲まずにはいられない。プラトンに酔い、アリストテレスに酔い、カントに酔い、ショーペンハウアーに酔い、キェルケゴールとともに狂えれば、それで愉快になれる。敬意をもった批判でなければ、こうはいくまい。
疑問を感じなくなれば、思考は停止状態に陥る。とはいえ、健全な疑問を持ち続けることは至難の業。下手すると屁理屈屋に成り下がる。だとしても、思考の弁証法的交換をやれば、前より賢くなったような気分になれる。まったく魔術的な方法論である。
ところで、ベートーヴェンやモーツァルトまでも批判できる境地とは、どういうものを言うのであろう。少なくとも批判できるだけの自分なりの定説がいる。酔ったままなら、感化されたまま。自分なりの対位法を見つけられなければ、定旋律に縛られたまま。そして、ポパーに酔えば、ポパー哲学という定旋律に縛られたまま。自己実現や自己発見なんぞ到底おぼつかない。それでもいい。永遠に縛られたままでも悪くない。おいらは、M だし...

1. 演繹的方法論 vs. 帰納的方法論
ポパーは自ら演繹主義を表明し、科学的問題はすべて演繹的方法によって解決できると豪語している。帰納的方法を演繹的方法に置き換えることに成功したとまで主張しているのである。ここに真の科学とエセ科学の境界を見出し、マルクスの科学的社会主義や、フロイトやアードラーの精神分析学を批判している。ポパーに対する主な批判は、この帰納的思考における言及であろう。この酔いどれ天の邪鬼でさえ、ちと反論したくなる。
それはともかく、演繹法と帰納法のどちらが王道かと問えば、おそらく前者であろう。普遍言明と単称言明を対立させれば、前者の方が圧倒的に説得力がある。帰納法は一つの反証によって崩れる脆さを含んでいるが、演繹法による帰結は反証の余地を与えない。そこで、ポパーは反証可能性を問うことに注力しているが、その反証を重ねていく方法論が、逆に帰納法的に映るのは気のせいであろうか。帰納法といえば、ユークリッド原論に記される数学的なものを想像してしまうが、哲学で言う帰納的思考とは違うものなのだろうか。マルクス主義批判には惚れ惚れするけど...
実際、人間社会では帰納法的思考の役立つケースが多すぎるほどに多い。言わば、確率論的な解決策である。その意味で、帰納法は準定理といった位置づけになろうか。情報化社会では、ほぼ確実、ほぼ正解というのが結構役に立つ。検索アルゴリズムでは、完全な答えを求めるよりも、80% ぐらいの満足度で結果を出す速度が優先される。現代人は多忙なのだ。すべての問題をポパーが言うように演繹的に解決できるならば、それに越したことはない。だが、それは非現実的。やはり邪道なしでは、王道の輝きも弱まる...

2. 形而上学的プログラムとしてのダーウィン主義
形而上学は、ほとんどトートロジカルなもので、いわば言葉遊びのところがある。主な議論の対象が、精神という得体の知れない代物となれば、多様な表現法が可能となり、同義語、類語、反復語が乱立する。
ポパーは、量子力学の主観主義的な理論に反対する。量子力学は統計的に解釈される傾向にあり、ハイゼンベルクの不確定原理も統計学的である。統計的な解釈とは、ある状態として存在する可能性を確率論的に解釈するということ。ボーアの理論に対しては、理解の一切の放棄であり、探求の放棄であるとして皮肉る。
「ボーアは、見方によれば、量子力学は理解可能でないと、つまり古典力学だけが理解可能であり、量子力学が部分的にしか、しかも古典力学を介してしか、理解できないという事実を、われわれは甘受しなければならない、と主張していたのである。」
シュレーディンガーの「生命体は負のエントロピーを食べている」という主張に対しては、負のエントロピーを糧にしているのは生命体だけの特徴ではないと反論する。スティームエンジンも、石油ボイラーも、自動巻き時計も、動力源はすべて環境から秩序を吸い取っていると。シュレーディンガーの著作「生命とは何か」が偉大な書であることを認めつつも...
しかしながら、ポパーは形而上学的な論考を馬鹿にしているわけではない。いや、むしろ楽しむかのように「形而上学的プログラム」と題して、科学理論の一つとしてテスト可能な枠組みを提示している。その一つに、ダーウィン主義をあげている。ダーウィン主義はテスト可能な理論ではないが、その枠組の一つと捉え、いや、それ以上のものがあると捉え...
「状況理論としてのダーウィン主義は次のように理解できる。限られた可変性をそなえた存在物(エンティティ)のいる、限られた不変性をもった世界(枠組)があるとする。このような場合、もろもろの存在物のうちのあるもの(枠組の諸条件に適合するもの)は存続しうるが、他のもの(諸条件と衝突するもの)は排除されるであろう。これに加えて、生命あるいは、より特殊的には、自己増殖的だがそれにもかかわらず可変的な物体がありうる特殊な枠組 -- 一連の、おそらくは稀で、きわめて独特な諸条件 -- が存在すると仮定する。そうすると、試行と誤り排除の考えあるいはダーウィン主義の考えがただ単に適用できるようになるだけでなく、ほとんど論理的に必然的になる状況が与えられる。そのことは、その枠組か生命の発生が必然的であるということを意味しない。」
発生が必然的でないとすれば、確率論的ということ、統計的だということになりそうだが...
ダーウィン理論は、常に起こるのではなく、むしろ非常に特殊なケースにおいて適用されるということ。おそらく比較的安定した原子核は不安定なものよりも多量になる傾向があるのだろう。同じことは化学的化合物にもいえそうである。ダーウィン主義がほとんど普遍的に受け入れられたのは、最初の非有神論的理論であったからだという...

3. 言語論と本質主義
言葉の意味、とりわけ定義が重要だとする考えは、学問をする者の多くが同意するだろう。これをポパーは「本質主義」と呼んでいる。
しかしながら、この本質主義への反発が、ポパー自身の知的発展を決定的なものにしたと回想している。言葉の真の意味について悩んだり、議論したりすることが、危険と意識するようになったというのである。しかも、15歳ぐらいで。彼は若くして、言語の柔軟性というものに気づいていたようである。
それぞれの分野で用いられる専門用語は、客観的な意思疎通を目指して編み出される。にもかかわらず、その専門用語でさえ所属する組織によって使い方が違ったり、使い手によって微妙にニュアンスが違ったりする。ポパーは言葉の意味についての問題を本気になって力んでしまっては、逆に本質を見失うと助言してくれる。言語システムを不完全なものと素直に受け入れ、あらゆる大著を肩の力を抜いて読もうよ、ってな具合に...
「もろもろの文字は、言葉を明確に表現するうえで、単なる技術的または実用的な役割しか演じていない。... 言葉もまた、理論を明確に表現するうえで、単に技術的または実用的な役割を演じるだけである。」
そして、別宮貞徳が指摘した翻訳についての言及を見つけた。実は、この文句に出会いたくて、この書を手に取ったのである...
「なんかの翻訳をやったり、翻訳について考えたことのあるものなら誰でも、文法的に正確でほとんど文字通りの翻訳といったものはない、ということを知っている。すべてのすぐれた翻訳は原典の解釈である。重要な原文のすぐれた翻訳はすべて理論的再構成でなければならないとまでさえ私はいいたい。したがって、それはかなりの注釈を含みさえするであろう。すべてのすぐれた翻訳は忠実であると同時にかつまた自由でなければならない。ついでながらいっておくと、純粋に理論的な著述の一篇の翻訳を企てる場合には美的配慮は重要ではないと考えるのは誤りである。理論の内容は伝えているがある種の内的均整美を表現できていない翻訳がまったく不十分なものでありうるということを知るには、ニュートンとかアインシュタインのような理論を考えてみさえすればいい...」

2018-11-04

"フロイトの使命" Erich Seligmann Fromm 著

アリストテレスは、師プラトンを友と呼んだが、彼以上に真実を友とした。ここでは、フロイトを超えようとした新フロイト派の雄が、師の精神分析を試みる...
成功することで破滅するタイプの人間が、確かにいる。精神分析学の創始者ジークムント・フロイト。この偉大な精神分析医にして、自らの精神分析には疎いと見える。真理と理性への尋常ではない情熱がゆえに、権威主義とその偏狭ぶりを露わにし、自己中心的な依存と誇りの葛藤に苛む。彼は孤独であった。孤独に悩み、孤独への妥協を許さず、孤独へ向かう勇気を誇りとし、矛盾の蔓延する超自我の中をさまよう。
エーリッヒ・フロムは、自我ってやつがいかに手に負えないヤツかを物語る。とはいえ、学説から見出される誤謬を批判していると、一緒に最も価値ある部分までも放棄してしまう危険がある。ヒトラー主義やスターリン主義へ傾倒していく時代、フロイトは合理主義者としての最後の砦のような存在で、ラテン語の格言 "Sapere aude.(知ることを恐れるな!)" を体現したような人物だったと評している...

フロイトとは、どんな人物だったのか?彼の批判者たちが噂するような官能的で無教養な退廃的ウィーン人だったのか?それとも、彼の後継者たちが信じるような偉大な教師で、反対者にも親切に接した人物だったのか?一人の人間分析において、世間の悪口や名声はあまり当てにならないとしても、彼がある公式に出会ったことは事実である。それは快楽原理と呼ばれる。
「快楽は積極的な悦びよりはむしろ、不快さや苦痛の緊張からの解放である。」
一つの人物像としては、アインシュタインとの共著「ヒトはなぜ戦争をするのか?」の中で垣間見ることができよう。二人は互いに平和主義者として共感し、人間が喜んで戦争に参加する心理について書簡を交わしている。それは、死の本能に根ざしていること... 文明が進化するにつれ、破壊的傾向が超自我の形で内在化すること... 自由主義者も、社会主義者も、愛国心を旺盛にさせるのは、自我を集団の中に埋もれさせることによって、個人の重荷を軽減させようとしていること... といったことである。
「フロイトの、本能を理性によって支配するという基本的な理想が、自分の宿命を方向づけることは普通の人間の力では不可能である、という深い不信の念と結びついているのを知る。これこそフロイトの生涯の悲劇の一つである。ヒトラーの勝利の一年前、彼は民主主義の可能性に絶望し、唯一の希望として勇気のある、自分の欲望をおさえる選民達の独裁を主張した。精神分析を受けた選民のみが、無智の大衆を指導し、支配できるということが、その希望ではなかったろうか...」

理性の力を信じる点では、フロイトは啓蒙時代の子供であったという。しかしながら、大きな子供ほど手に負えないものはない。母や妻への母性愛への強い依存と女性蔑視との対立や、友人や弟子への依存と強い独立意識との対立から、二重人格性を覗かせる。
女性を男性より下位に置きたいという欲求は、強迫的ですらあったという。女権解放問題ではジョン・スチュアート・ミルを批判し、馬鹿げた人間性のない男と言い放ったとか。偏見に満ちたヨーロッパの伝統精神に反対しながらも、女性問題となると伝統的な考えに固執する。
蔑視感情は、師や同僚や弟子にも向けられる。理論上の反対意見を提出する人たちとは、ことごとく絶好状態へ。精神分析学という構想を与えた良き指導者ブロイエル、親友フリース、さらに、弟子のユング、アドラー、ランク、フェレンツィらも離れていく。ユングには「私の息子であととり」と発言したこともあったとか。フロイトの性格における受容的な依存症と誇り高き独立像との葛藤は、凄まじいものがあったようである。

また、自らの英雄列伝をナポレオンやハンニバルと重ね、さらにはモーゼとの同一性を唱えたという。
「モーゼが賤しいユダヤ人から生まれなかったように、ちょうど私もユダヤ人ではなくて、王族の子孫である。」
彼の名からしてユダヤ系であることは想像に易いが、ここに父親への反発心を覗かせる。母親の子供への愛は父親のものとは違う。父の愛は子供の行為に応じて与えられるが、母の愛は無条件に与えられる。そして、自分の血筋を呪ったのかは知らんが、晩年のモーゼ研究に執念を見せる。モーゼがヘブライ人ではなく、エジプト人であったことを証明しようと...
この思慮深い男が、権力を振りかざした野蛮人がユダヤ人の抹殺を図った時代に、なにゆえユダヤ人の英雄伝を抹殺にかかったのか。合理主義の極致を示しながら、自ら合理主義に致命的な一撃を喰らわそうとは...
正統フロイト理論と正統マルキシズム理論との間には、奇妙な関連性があるという。フロイト派は、個人的な無意識を見て社会的な無意識を見ようとしなかったが、マルクス派は反対に、社会行動における無意識的要因を鋭く意識しながら、個人的な動機を評価する点で甚だ盲目であったと。
フロイトは、人間としての自分を自慢しなかったが、自らのもつ使命には誇り高かったという。その権威的な支配欲は、けして虚栄心や利己心と無縁とは言えまい。彼は、自己統制的人間になることを強すぎるほどに求め、無意識の領域までも理性によって統制できると信じていたが、それも自己満足に過ぎなかったということか。自ら課した使命に憑かれ、自らの使命に溺れていく独りよがりの末路は、ある種のナルシシズムを思わせる。
「個人の無意識を理解するためには、自分の属する社会の批判的分析が前提であり、欠くことのできないものである。フロイト派の精神分析学が自由主義的中産階級の態度を捨てて、社会一般に目を向けることができなかったという事実は、その狭さと、個人の無意識を理解するという特殊な領域に結局とどまってしまった一つの理由なのである。」