2019-12-08

"歴史叙述としての映画 - 描かれた奴隷たち" Natalie Zemon Davis 著

歴史家ナタリー・ゼーモン・デーヴィスは、贈与行為の心理学といった側面から人間社会の原理のようなものを語ってくれた(前記事)。アリストテレス風に... 人間は社会的動物... と表現するならば、そこにはなんらかの交換行為が育まれる。言葉の交換しかり、 財の交換しかり... 贈与とは実に古くからある慣習で、当たり前過ぎるほど集団社会に馴染んできた。しかし、これを新たな概念として掘り起こす彼女のセンスは、おいらに新たな視点を与えてくれる。贈与の経済学という視点を...
ここでは、五つの映画作品「スパルタカス」,「ケマダの戦い」,「天国の晩餐」,「アミスタッド」,「ビラヴド」を題材とし、歴史上言葉を発する機会を与えられなかった奴隷という身分に焦点を当てる。そして、こう問いかけるのである。
「過去を有意義かつ正確に描こうとするとき、映画にはどのような可能性があるだろうか...」
尚、中條献訳版(岩波書店)を手に取る。

世界を語る... という行為は数千年前から受け継がれ、さまざまな手段が編み出されてきた。詩、小説、新聞のコラム、ネット配信など。今や映画はその一手段として君臨しているが、その歴史はすこぶる浅い。デーヴィスは、これを感情的なジャンルとしてホメロスの時代から受け継がれる詩作と重ねて魅せる。
ヘロドトスやトゥキュディデスは叙述文体を詩文から散文へと移行させ、歴史をいかに厳密に記述するかを問うた。ホメロスのような偉大な詩人には、聞く者を喜ばせ引きつけるための誇張や創作が許されていたが、こうした風潮に警鐘を鳴らしたのである。
アリストテレスは、もう少し突っ込んで、詩文や散文といった形式の違いよりも叙述の内容と目的を重視した。そして、こんな言葉を残した...
「歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る。... 詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語る。」

歴史学という学問は、その性格上客観性を重視する。否、あらゆる学問が主観性から距離を置き、あらゆる事象を遠くから眺める立場にある。
とはいえ、人間の思考の原動力は主観性の側にある。人間は感情の動物であり、この本質からは逃れられない。プレゼンテーションなどでは視聴覚的な演出がよく用いられるが、実は人間にとって、淡々と語るということほど難しい方法論はないのかもしれない。
さらに言うなら、客観性という用語の解釈もなかなか手強い。学問分野によってもレベルが違い、最も客観性を帯びた数学ですら、定理への道筋には感動的なドラマで満ち満ちている。ちなみに、客観的に語ると宣言された政治屋の演説で、そうだったためしがない。
デーヴィスは言う、「歴史映画は過去についての思考実験だ...」と。事実を語ることは難しい。こと歴史事象では、時間的な距離を置かないと見えてこない部分があまりに多い。当事者だって、それぞれの立場で言い分があろう。ましてや奴隷という身分となると、当事者たちの記録はほとんど皆無。これを、感動的に映像化してしまえば、ただちにイメージが固定化され、固定観念までも植え付けてしまう。まぁ、人間にとって思い込んでいる状態は、幸せな状態でもあるのだけど...
映画界においても、人物像を描くシナリオや手法が形式化や慣習化しているところがある。それでも近年、歴史の再解釈を試みる映画監督やプロデューサたちが、ちらほら現れてきたのは救いであろう。一方で、事実に基づく... と触れ込むだけで興行的に成功が見込めると考える映画監督もいるようだ。
デーヴィスは、もう少し突っ込んで、歴史的事実に対して、たとえ簡単であれ、どのように演出を施したかを観客に伝えるべきだと主張する。時代背景を映像の中に組み込めれば尚いい、と。
しかし、映画制作には商業的な性格があり、時間的にも制限される。上映時間については、黒澤明が ...どうしても切ると言うなら、フィルムを縦に切ってくれ!... と言い放った逸話が有名だ。似たような愚痴は、作家たちにも見かける。あとがきで、ページ数の制限や省略した項目などで出版社とひと悶着あったことを匂わせたり。分厚い本は売れないというわけだ。芸術家たちのこだわりは、しばしば商業的に反発する。それは、自由人の宿命であろう。
映画監督が本質を描こうとすればするほど、大衆に受け入れさせるのに苦難がつきまとう。なんといっても、映像と音楽がタッグを組めば、激的に感情移入を仕掛けることができるのだから、これほど手っ取り早い方法はあるまい。この時代になっても尚、映画作りにご執心な政治屋たちが暗躍するのもそのためだ。観客動員数なんてものを気にせず、才能ある方々には自由に創造力を解放していただきたい。凡人は、それを拾う機会を与えてくれるだけで幸せになれる...

ところで、映画というメディアに、どこまで歴史の重荷を背負わせるか、という問題がある。そもそも、歴史書の執筆と映画の制作とでは、性格があまりに違う。デーヴィス自身、映画「マルタン・ゲールの帰還」の制作顧問を担当し、この違う二つの分野のあり方について、改めて考えさせられるものがあったと見える。
近年、歴史文献では、歴史家の解釈の大勢が、これこれになっている... といった表現を見かけるようになった。歴史の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。科学においても、宇宙論などで、現時点ではこれこれが有力である... といった表現をよく見かける。真理の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。人類が学術面において少しばかり控え目になったのは良い傾向であろう。ヒルベルトの時代には、すべての問題は科学で解明できると、豪語されたものだが...
それはさておき、映画が完全に伝えようとしなくても、軽く匂わせるだけで、その情報の欠片から歴史事象に興味を持ち、小説や文献を手に取って理解を深めようとする観客も少なからずいる。その意味で、ディーヴィスは、映画監督、役者、観客は、過去についての思考実験の共同参加者と見ている。
やはり映画は娯楽だ。忠実すぎても肩がこる。いくら事実に忠実であろうとしても、やはり限界がある。解釈をめぐる限界が。ここでは、フランチェスコ・ロージ監督の言葉がなんとも印象的である...
「もし、実在した人物の物語を作るならば、... 私の考えでは、解釈することは許されても、創作は許されてはいけないと思う。二つのあいだには、大きな違いがある。観客の注目を集める容易な手段として、より壮大な映画に仕立てようという理由で、わざわざ何かを創り出す必要があるのだろうか。そのようなことはない。私にとっては、真実を解釈するために必要なだけの猶予が、作品の中で充分に与えられていることが肝心だ。なぜなら、その事実の解釈こそが、私にとって重要であるからだ...」

2019-12-01

"贈与の文化史 - 16世紀フランスにおける" Natalie Zemon Davis 著

アリストテレスは人間を定義した... ポリス的な動物である... と。ポリスとは共同体のこと。人間は一人では生きられない。人と関係を持ちながらでしか生きられない。いわば人間社会の掟である。それは、集団社会の奴隷という見方もできるわけで、生まれつき奴隷説もあながち否定はできまい。
贈与とは、まさに人と人の関係において成り立つ概念。いわば日常の行為である。贈る者とそれを受け取る者の関係は、美談として語られる。しかし、その動機となると、あまりに多種多様。贈与という行為は集団社会を活性化させるところがあり、感謝の念をこめた無償性こそが基本的な動機となろう。
しかし、人間は自己存在を無意味とすることを忌み嫌い、その先に、自分の行為が無駄であることを極端に嫌う性癖が見えてくる。いわば見返りの原理というやつだ。よく見かける行為に社交辞令ってやつがある。そこには慣習化された常識とやらに囚われ、脂ぎった思惑も見え隠れする。存在感を示すために、集団の一員であることを確認するために、虚栄心のために、あるいは、人間関係を清算するための贈り物、恩を売るのを嫌った返礼品、悪名高いものでは贈収賄の類い... 中には、純粋な感情から発する贈り物もある。その動機の歴史となると、キリスト教が成立するずっと前から...

それにしても、これほど古くから馴染んできた行為でありながら、新たな概念として掘り起こすナタリー・ゼーモン・デーヴィスという人は、文化史の考古学者とでも言おうか。経済学は、限界効用論やポートフォリオ理論などを持ち出すよりも、贈与の経済学を論じた方がまともに映る。現代社会では、市場経済と贈与行為とが根深く共存し、しかも相互作用を及ぼしている。こうした視点は、彼女にとっては自然な思考なのであろう。この方面の権威では、マルセル・モースという文化人類学者を紹介してくれる。彼の社会モデルは、「自発的 = 義務的な贈与と返礼」という形だとか。
しかし、だ。自発的と義務的とは少々対立するところがあって、返礼の型を規定できるはずもあるまい。現実に、ポジティブな互酬性とネガティブな互酬性とが共存する。親切ってやつは、言葉の響きがいいだけに、押し売りと化すと余計に厄介。そこで本書では、贈る者は見返りを求めず、受け取る者は御礼の心を忘れないという、バランスのとれた互酬性が問われる。とはいえ、モースの「贈与論」も、いずれ挑戦してみたい。
尚、宮下志朗訳版(みすず書房)を手に取る。
「贈与とは、理屈としては、自発的なものとはいえ、実際は、義務としておこなわれ、また返礼されるのであって、外見上は、自由で、感謝の念にみちていても、実は、強制的にして、利己的なふるまいにほかならない。どの贈与も、多くのことを同時に完了させる、一連のできごとの連鎖のなかで、返礼なるものを生み出すのである。明確な商業マーケットを有さない社会においては、財は交換され、再分配される。こうして平和が、ときには連帯感やら友情までもが維持されていく。そして社会的なステイタスが、北アメリカの北西海岸のインディアンのあいだのポトラッチのように、確認ないし獲得される。(略)はたしてだれがもっとも多くの財をふるまえるかを誇示しようとして、競ったのであった...」

1. 16世紀という時代
本書は、16世紀のフランスを題材にしているが、それはどんな時代だったのであろうか。キケロの「義務について」とセネカの「恩恵について」という古代ローマの偉大なガイドブックが刷られた時代。カトリックとカルヴァンとが、人間は神に何を与えることができるかを巡って激しく論争した時代。それは、濃密な感謝と義務の文化に由来する贈与システムに、重荷を背をわせた時代であったという。
大航海時代から植民地時代へと流れていく中、原住民の中に贈与の動機を探る。奴隷という言葉は悪いイメージを与えるが、悪い主人ばかりではあるまい。原住民が自発的に贈り物をするのも、けして珍しいことではなかったようである。
だが、文明レベルの違いが物品価値の格差を明るみにし、もらっても馬鹿にしたりする民族的な優越感が蔓延る。フランスでは、贈与品の価値をけなしたり、からかったりするのは、侮辱よりも酷い振る舞いとする伝統があったという。16世紀の贈与の特徴は、同じ身分の人々だけでなく、異なる身分の人々の間でも人間関係を和らげるのに寄与したようである。贈与行為が読み書き能力の垣根を取り払い、コミュニケーション回路を開く。これこそが互酬性というものであろうか。
しかしそれも、市場経済が勢いを増すとともに影をひそめていく。そうした時代の流れを敏感に感じたからこそ、モースは「贈与論」というものを書いたのかもしれない。そこには、こう書かれているそうな...
「われわれのモラルや生活のかなりの部分は、依然として、贈与と、義務と、自由とが混じり合った環境のなかに立ち止まっている。さいわいなことに、まだまだ、すべてが、売ったり買ったりといった言い方で整理・分類されてしまっているわけではない。モノには、いまだに、市場価値に加えて、感情的な価値が存在するのである。(中略)返礼なき贈与は、これを受け取った人間を、さらに低い存在とする。返礼する気持ちもなしに、そのモノが受けとられた時には、特にそうである。(中略)慈善は、これを受けた者にとっては、さらに感情を傷つけるものとなる...」

2. 贈与の信仰
贈与の動機は、ヨーロッパでは、キリスト教的な施しと結びついてきた歴史があり、倫理観や道徳観とも深く関わる。しかし、キリスト教が成立するずっと前から古代ギリシア風の動機がすでに発達していた。アリストテレスは、贈与の動機を互酬性と結びつけて説明したという。社会的市民には、お互い様という感覚が自然に働く。第一の動機として、神の恵みと結びつける信仰が未開人や部族にも見られる。ただ、強者への返礼よりも弱者への施しを重んじるという感覚は、キリスト教的であろうか。仲間内の儀礼はちっぽけな事で、より貧しい人を救おうと。人に対して非対称性でも、神との契約で対称性をなせば、チャラ!
しかしながら、個人に感謝しないで、神にのみ感謝するというのも利己的である。弱者にも格付がある。文句の言える弱者が救われ、文句を言う機会もなく、ただ沈黙するしかない弱者が救われないのであれば、十字磔刑の時代からあまり変わっていない。
しきたりと義務はすこぶる相性がいい。意味の分からないものを常識と定義づければ、何も考えずに済む。面倒くさがり屋には実に都合のいい思考アルゴリズムである。贈った者が、返礼がないから奴は無礼だとするなら、もはや贈った者が無礼極まりない。返礼する者が、悪口を言われたくないからというなら、もはや儀礼の奴隷。冠婚葬祭では、包む金額をいくらにするか駆け引きをやる有り様。協調性や絆までも強制される。
一方で、入院病棟でよく見かけるのが返礼品のお断りといった張り紙で、実に合理的である。気持ちだけで十分というは本音であろう。真に仕事をしている人たちは、形式的な儀礼に付き合っている暇もあるまい。
贈与という行為を、信仰との結びつきから論じるのもいいが、贈与行為そのものが信仰になっていることがある。人間の慣習や行動パターンなんてものは、どこか信仰的なところがある。信念めいたものがなければ学問もできない。宗教から遠ざかるには、合理性という信仰も必要だ。人間ってやつは、信仰なしに生きるのが難しい動物である。
但し、宗教に頼らなくても信仰は構築できる。実際、まったくのキリスト教徒でありながら、その伝統にこだわらず、独自の宇宙論的な信仰を構築している人たちがいる。キリスト教は秘密主義として育まれた経緯があり、おそらく点在したグループの多種多様な解釈の下で広まってきたのであろう。けして限られた数の聖書で規定できるような代物ではなさそうである。疑問を持ち、見直し、応用をともなってこその信仰とするなら、科学もなかなかの信仰である...

2019-11-24

"道徳の系譜" Friedrich Nietzsche 著

おいらは、「道徳」という言葉が大っ嫌い。「理性」という言葉も大の苦手ときた。道徳の書を読むのは、ある種の拷問だ!道徳を云々するということは、怖じ気もなく自己の傷を曝け出すことにほかならない。いわば、羞恥心との戦い。
では、なにゆえこんなものを。天の邪鬼の性癖が、こいつに向かう衝動を掻き立てやがる。怖いもの見たさってやつか。パスカルは言った... 哲学をばかにすることこそ真に哲学することである... と。書き手が書き手なら読み手も読み手。ニーチェの皮肉ぶりを皮肉って読むのがええ。類は友を呼ぶ... と言うが、負けじと病理に付き合うのがたまらない...
尚、木場深定訳版(岩波文庫)を手に取る。
「人間は余りにも久しく自分の自然的性癖を悪い眼附きで見てきたために、その性癖は人間のうちでついに良心の疚しさと姉妹になってしまった...」

副題には「一つの論駁書」とある。誰を論駁しようというのか。道徳の起源についてはショーペンハウアーと対決し、無価値や虚無といったものに意味を与えたプラトン、スピノザ、ラ・ロシュフーコーを攻撃し、カントの定言命法に至っては見返り命法とも言うべきものを呈示して魅せる。ダンテは恐るべき創意をもって、地獄の門に「われをしもまた永遠の愛は創れり」と刻んだが、ニーチェは大胆な辛辣をもって、キリスト教の天国の門に「われをしもまた永遠の憎悪は創れり」と刻むのである。
ただ、正しく批判できなければ反駁書もつまらない。それは、批判対象者たちの書物を精読していることを意味する。実は、彼らのファンなんじゃないの...
「進め!われらの旧道徳もまた喜劇に属する!」

反感ってやつは、力の余ったところに生じる。反感道徳またしかり。ニーチェはよほど力が有り余っていたと見える。生きようとする意志では満足できず、より高く生きようとする意志。自己保存の衝動から脱皮した自己増大の意図。愛憎の葛藤から卒業した高貴性。こうしたものが力への意志と言わんばかりに...
人間の健忘症は甚だしい。いまだ古代哲学の呪縛に囚われたまま。善と悪の関係は借方と貸方の関係のごとく。道徳上の負債は先送りされ、バランスシートは赤字の一途。ただ、道徳の系譜もさることながら、責任の系譜も歴史は長い。道徳上の責任を誰に押し付けようというのか。ナーダ!ナーダ!
「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲する...」

本書の扉の裏に「最近公にした『善悪の彼岸』を補説し解説するために」とある。「善悪の彼岸」では、善悪の判断能力を持つための高貴性というものが強調されていた(前記事)。賢明な少数派、すなわち高貴な人々にその他大勢の支配を委ねるという形は、哲学者を統治者にするという理想を掲げたプラトンに通ずるものがある。ここでは、人間の高級な型と低級な型の種別がより鮮明となり、支配する側の指導者道徳と従う側の隷属者道徳なるものを説く。
だが、支配欲は人間の本質であり、これから逃れることはできまい。いったい何を支配しようというのか。自己の支配に失敗すれば、他人を支配にかかる。それだけのことかもしれん...

1. 三篇の論文
本書は、三篇の論文で構成される。
第一論文「善と悪、よいとわるい」では、キリスト教的な心理学を論じ、善悪という道徳的判断の起源を暴こうとする。その起源の正体とは、奴隷人間の怨みっぽく悪賢い、反感の精神から生まれた奇形児で、伝統的な支配階級に対する抵抗運動であり、キリスト教的な暴動であったとさ...
「人間に対する恐怖とともに、われわれは人間に対する愛、人間に対する畏敬、人間に対する希望、否、人間に対する意志をさえ失ってしまった。人間を見ることは今ではもう倦怠を感じさせる... これがニヒリスムスでないとすれば、今日のニヒリスムスとは何であるか... われわれは人間に倦み果てているのだ...」

第二論文「負い目、良心の疚しさ、その他」では、良心の心理学を呈示する。世間で良心と呼ばれているものは、人間の内なる神の声なんぞではないという。もはや外に向かって放出することもできない、行き場を失った内向的な、いや、内攻的な残忍性であると。この残忍性の本能を認めようとしないのは、近代社会の軟弱化のためだと断じる。真理への愛のみが、この事実を発見し確信できると...
「残忍なくして祝祭なし。人間の最も古く、かつ最も長い歴史はそう教えている... そして、刑罰にもまたあんなに多くの祝祭的なものが含まれているのだ!... 却って残忍をまだ恥じなかったあの当時の方が、厭世家たちの現れた今日よりも地上の生活は一層明朗であったということを証拠立てようと思う。人間の頭上を覆う天空の暗雲は、人間の人間に対する羞恥の増大に比例してますます拡がってきた。」

第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するか」では、禁欲者の心理学が論じられる。禁欲主義的とは、僧職者的ということである。そして、彼らの理想は、何にもまして有害であり、終末への意志であり、無への意志であると断じる。
とはいえ、僧職者の背後で神が命じているなどと信じられてきた歴史は長い。その由来は、これまでは他に理想がなかったからと、一言で片付ける。競争相手もなく、反対の理想が欠けていただけと。しかし、その反対の理想に対しても、嘆きを憚らない。
「科学は今日あらゆる不平・不信・悔恨・自己蔑視・良心の疚しさの隠れ場所である。...それは無理想そのものの不安であり、大きな愛の欠如に基づく苦しみであり、強いられた満足に対する不満である。おお、今日では科学は何とすべてを蔽い隠していることか!何と多くのものを少なくとも蔽い隠さなくてはならないことか!」

2. 結婚という人生戦略
結婚に関する名言は、枚挙にいとまがない。ソクラテスは言葉を残した... とにかく結婚しなさい。良妻を得れば幸せになれるし、悪妻を得れば哲学者になれる... と。キェルケゴールも負けじと言葉を残した... 結婚。君は結婚しなかったことを悔やむだろう。そして結婚すればやはり悔やむだろう... と。ヘンリー・ルイス・メンケンは断じた... 真の幸せ者は結婚した女と独身の男だけ... と。シリル・コナリーはつぶやいた... 孤独に対する恐怖は、結婚による束縛に対する恐怖よりもはるかに大きいので、俺達はつい結婚しちまうんだ... と。そして、バルザックは指摘した... あらゆる人智の中で結婚に関する知識が一番遅れている... と。
結婚ほど所有の概念と強く結びつくものはないらしい。所有とは支配欲の源か。結婚(けっこん)と血痕(けっこん)が同じ音律なのは、偶然ではなさそうだ。運命の糸が血の色というのも道理か。
さて、ニーチェは、この人生戦略について何を語ってくれるだろう...
「これまで偉大な哲学者たちの誰が結婚したか。ヘーラクレイトス、プラトーン、デカルト、スピノーザ、ライプニッツ、カント、ショーペンハウアー... 彼らは結婚しなかった。のみならず、彼らが結婚する場合を考えることすらできない。結婚した哲学者は喜劇ものだ... これは私の教条である。そして、ソークラテースのあの例外はどうかと言えば... 意地の悪いソークラテースは、わざわざこの教条を証明するために、反語的に結婚したものらしいのだ。」

2019-11-17

"善悪の彼岸" Friedrich Nietzsche 著

古本屋を散歩しながら一冊の扉をちょいと開けてみると、こんな文句が飛び込んできた。酔いどれ天の邪鬼は、こいつにイチコロよ...

「真理が女である、と仮定すれば...、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女(あま)っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠絡されなかったのは確かなことだ...」

善悪の彼岸に立とうとすれば、道徳論と向かい合うことになる。おいらは、道徳ってやつが大の苦手ときた。道徳哲学なんてクソ喰らえ!むしろ、メフィストフェレスに肩入れしたい... などと心の奥で呟いてやがる。しかしながら、ニーチェが語るとなると話は別。天の邪鬼な性分がそうさせるのか...
伝統的な道徳哲学は利己心を退ける。では、啓発された利己心となるとどうであろう。伝統的な宗教は懐疑心を忌み嫌う。では、健全な懐疑心となるとどうであろう。いずれの立場も、愛ってやつを最上級の情念として崇める。ならば、正妻と愛人ではどちらが格上かと問われれば、素直に愛人と答えるさ...
愛の暴走ほど手に負えないものはない。愛は憎しみを生む。肥大化した愛国心が国家を危険に晒してきた。愛情劇が愛憎劇に変貌するのに大して手間はかからない。これが人間社会の掟というものか。ニーチェは利己心を人間の本性として受け入れ、「自分の徳を信じる = 疚しからぬ良心」といったものを定式化して魅せる。愛とは利己心の象徴のようなものか...

副題には、「未来の哲学の序曲」とある。哲学が真理を探求する学問であるなら、善悪のいずれにも立場をとる。そして、その立場は、健全な懐疑心と啓発された利己心によって支えられるであろう。ただし、ニーチェが健全かどうかは知らん。
そもそも健全ってなんだ?常識とやらに囚われた人間で溢れている社会で、健全さをまともに問えば、狂うしかあるまい。
では啓発ってなんだ?自己陶酔の類いか。そもそも私利私欲を知らなくて、道徳が行えるのか。道徳哲学ってやつは、病理学に属すものらしい...
尚、木場深定訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 反対物の信仰
ニーチェは、偉大な形而上学者たちの先入観は、様々な価値の反対物を信仰することにあると攻撃する。攻撃対象は、カント、スピノザ、デカルトたち。真理が誤謬から生じるとすれば、誤謬の能力にも価値が認められよう。真理への意志が迷妄への意志から生じるとすれば、あるいは、無私の行為が私欲から生じるとすれば、それらの行為にも価値が認められよう。だが、ニーチェは、そんなことを夢見るのは阿呆だと吐き捨てる。老カントの定言命法に対しては、見返り命法とでも言いたげに...
また、ニーチェの女性蔑視は周知の通りだが、ここではイギリス人嫌いを披露する。ベーコン、ホッブズ、ヒューム、ロックらを、何ら哲学的な種族ではなく、機械論的な愚劣化であると。彼らに反抗して立ち上がったのがカントだったとさ...
しかしながら、ニーチェの懐疑心こそ、見事に反対物の信仰から編み出されているではないか。その反対物とは、皮肉である。哲学は哲学によって喰い物にされる。そこには共喰いの原理が働く...
「古代の最も立派な奴、プラトーンに、どこからあんな病気が取り憑いたのか。やはりあの悪いソークラテースが彼を堕落させたのか。ソークラテースはやはり青年を堕落に導いたのではあるまいか。だから自ら毒杯を飲まされるに値したのではなかろうか。」

2. 人間畜群
ニーチェが生きた時代は、世界が急速な近代化によって大量生産へ邁進していき、やがて工業力が国力の指標と結びつき、ファシズムや国粋主義を旺盛にしていく時代である。特にドイツでは、リヒャルト・ワーグナーの解釈をめぐっての論争が巻き起こり、歌劇「マイスタージンガー」と民族主義が結びついていく。
ニーチェは、フランス革命以来の民主主義社会の弱点を明るみにする。民主主義運動は、政治機構の頽廃形式だけでなく、人間の頽廃形式であり、集団的退化であると。凡庸人を黙らせよ!と。
民主主義社会の理想は、賢明な少数派がその他大勢を支配する形式であり、結局は畜群本能に帰着するというのか。そうかもしれん。賢明な主人と愚昧な奴隷という構図は、アリストテレスが唱えた「生まれつき奴隷」とやらを彷彿させる。ただ、この主従関係は、従来の封建的な地位や身分の序列や、世襲的な序列などではない。あくまでも賢明な人が支配する形式が望ましいということである。
しかしながら、賢明な人ほど謙遜の意を表明するもので、こと人間社会においては理想と現実があまりに乖離し、理想が高ければ高いほど逆の現象へ引きずり込まれる。実際、政治屋が社会制度を崩壊させ、金融屋が国際規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が国家を危機に陥れ、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。おまけに、彼らを批判する道徳屋はいつも憤慨してやがるし、道徳では心は鎮められないと見える。
そして今、グローバリズムに邁進し、共有という概念が崇められる時代にあって、大衆社会に問われているのは、大衆がいかに賢明な大衆になりうるか、ということであろうが、そう問えば問うほど... 個々で静かに問うしかなさそうか...

3. 高貴な人間
ニーチェは、畜群本能に対して、高貴な人間モデルを提示する。彼に言わせると、自己否定や控え目な謙遜は徳ではなく、むしろ徳の浪費ということである。この手の人種は、自己を価値規定できる能力を持ち、他人から是認されることを必要としないという。
大抵の人は他人に誤解されることを嫌うものだが、それは虚栄心の強さを示している。自己に対して畏敬を持つことができれば、他人の目など気にしないはず。真理の道は遠く、愚鈍な評判なんぞにかまっている暇はあるまい。高貴な人間とは、自己を克服する能力の持ち主ということになろうか。そうした人間を支配階級に据えるという考え方は、プラトンが理想とした哲学者を統治者に据えるという考えに通ずる。プラトンは哲学者を愛智者とした。過去の偉大な哲学者たちを散々こき下ろしておきながら、結局は古典回帰か...

4. 言語のるつぼ
哲学には、伝統的に根本的な問題を抱えいてる。無知を知るという問題が、それである。哲学が表現するものには、形容矛盾が多分に含まれる。いわば、言葉の遊び、いや、言葉のるつぼ。それは、真理ってやつを人間が編み出した言葉で記述するには、限界があるということだろう。
しかしながら、この状況を克服するために、人間の言葉には高等テクニックがある。ある抽象的な存在を、一つの用語で定義しちまうという。そして、その用語を理解した者は誰もいない。実際、人間社会には人間自身が理解できていない用語で溢れている。おそらく、「道徳」という言葉もその類いであろう。「理性」という言葉も、「正義」という言葉も、「愛」という言葉はその最たるもの... だから感情的になれる。なぁーに、心配はいらない。無知、無学、虚偽を知った上で学問の道が開けるというもの。
そして、言葉の呪縛から解放されようと、形而上学が位置づける最上級の意志を覚醒させればいい。それが、ニーチェの言う「自由の意志」ってやつか。やはり「自由」という言葉ほど定義の難しいものはあるまい...

5. 箴言集
本書には、間奏のために、箴言を集めた章がド真ん中に配置される。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この章をメインに読んでいる。ちょいと気に入ったものを拾っておこう...

「認識それ自身のための認識... これは道徳が仕掛ける窮極の陥穽である。これによって人々はもう一度、全く道徳に巻き込まれる。」

「ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての爾余の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然り。

「平和な状態にあるとき、好戦的な人間は自己自らに襲いかかる。」

「自分自身を軽蔑する者も、やはり常にその際なお軽蔑者として自分を尊敬する。」

「どうだって?偉人だと?私が見るのは常にただ自分自身の理想を演じる俳優ばかりだ。」

「道徳的現象などというものは全く存在しない、むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する。」

「人間が自分をそう容易に神だと思わないのは、下腹部にその理由がある。」

「賢明な人間にも愚行があることを人々は信じない。何という人権の侵害であろう!」

「悪意のように見える不遜な善意もある。」

2019-11-10

"大衆の反逆" José Ortega y Gasset 著

大衆は臭い!
いくら平等になっても、差別癖は治らない。いくら自由になっても、人のやる事に寛容ではいられない。これはもう人間の本質である。王侯貴族の時代、その他大勢や雑多な輩などと呼ばれてきた人々が意識を共有するようになると、群れをなし、ある種の社会的地位を獲得してきた。世間では大衆と呼ばれ、いまや支配階級の無視できない存在に...
群れるからには、質より量がモノを言う。封建的な残留物を処分しようと人民が蜂起すると、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパ各地に連鎖していった。フランス革命はその象徴的な出来事だが、共和国を掲げながら直ぐさま恐怖政治と化し、ナポレオンの呼び水となった。この事例は、独裁制が危険なことは周知であったが、民主制の暴走も同じくらい危険だということを世に知らしめた。どんなに良い事でも、同じことをやる人間が集まり過ぎると、何かと問題になるのが人間社会。大衆社会は、大衆がいかに賢明な大衆になりうるかという問題を突きつける...

ところで、大衆とは、どのくらいの人が集まると、大衆となるのだろう。この問い掛けは人口問題を暗示している。産業革命に発する技術革新は、人類史上例を見ない人口増殖をもたらした。この増え方は自然に適っているだろうか。なんだかんだいって科学技術が、多くの問題を解決してきたものの。この異常な、いや異様な増殖に対抗するには、人類が地球外生命体へ進化するしかなさそうである。いま、人口減少に転じているのは、人間社会に防衛本能が自然に働いているのかもしれない。そもそも人間が多すぎるのだ。寿命が延びれば、それも自然であろう。
エリートの政策立案者たちは相も変わらず、経済が枯渇すれば消費を煽ることに奔走し、少子化問題に直面すれば子供を産むように働きかけ、もはや目の前の現象をそのままひっくり返すだけの対策しか打ち出せないでいる。どこぞの組織の戦略会議でもよく見かける光景だ。そして、かつて経済学が古臭いとして葬り去ったマルサスの人口論が、今になって再認識させられるのも皮肉である...

ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、大衆と呼ばれる圧倒的多数が奮起してきた現象を、自由主義的デモクラシーと技術進歩という二つの側面から論じる。資本力によって産業が拡大し、豊かさがもたらされると、ブルジョア階級が牽引して情報や知識、そして意識が民衆に浸透していく。封建的な支配者階級が打倒され、次の対立構図は資本家階級と労働者階級ということに。そして、よく論じられる形が、マルクスをはじめとする階級闘争の理論である。
しかし、オルテガは、社会階級という論点に一線を画し、「優れた少数者」「大衆」という二つの人間の型で論じる。優れた少数者とは、自己に多くを要求し、自己啓発に励むタイプをいい、大衆とは、自己に対して特別な要求を持たず、自己実現の努力をなそうとしないタイプをいうらしい。とりあえず、哲学する者と哲学なき者の区別としておこうか。どちらの型に属すにせよ、人間が排除好きな動物であることに変わりはない。大衆は理解の及ばない異物の排除にかかり、小グループは大衆と一緒にすな!と言葉を荒らげる。
こうした論点は、なにも真新しいものではないが、オルテガが生きた時代にいち早く着眼したことに注目したい。彼に言わせると、大衆とは「最大の善と最大の悪をなしうる力にほかならない」という...
尚、桑名一博訳版(白水社)を手に取る。
「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。...(略)... すべての人と同じでない者、すべての人と同じように考えない者は、締め出される危険にさらされている。」

本書が書かれた時代には、大衆の意志が一気にファシズムに向かった背景がある。我を忘れさせるのにもってこいの方法論が熱狂的な政治と言わんばかりに、扇動者たちが大々的なプロパガンダに励んだ時代。
しかし、言葉を乱用すれば言葉の権威を失い、政治家たちの言葉を安っぽくさせるのは、いつの時代も同じ。人間社会には、どんなに勢いのある流行り事に対しても、そこから距離を置き、沈黙する少数派がいる。その時代には、時流に乗れないとして馬鹿にされながらも、後世、賢明な人々と呼ばれる人たちが。彼らは自己観念が強すぎるから、大衆に馴染めないのかもしれない。偉大な科学者に多いタイプで、コペルニクスやガリレオもそうした人間だったのだろう。
少数派が点在する現象は、まさに21世紀の社会が、そうしした傾向を強めているように見える。ただ、ソーシャルメディアなどのツールを活用して少数派の間でグループを形成し、沈黙せずに済むという特徴も同居している。小グループの成員たちは、それぞれに共通の哲学を育んでいるようである。
インターネットは、情報が誰にでも手に入るという点で、見事に機会均等を実現しているかに見える。しかしながら、情報は向こうからはやってこない。向こうからやってくるのは、テレビ放送のような従来型メディアぐらいなもの。そして、自発的に情報を入手する習慣を身につける者と、向こうからやってくる情報をそのまま受け取るだけの者とに分かれる。この二つの習慣の違いは大きい。大衆の中で意識格差をもたらし、人間社会は、あらゆる思想、思考、意識において二極化していく。放送とは送りっ放しと書く。送りっぱなしであるからには、平均人を扇動するには最も効果的なメディアとなる。
とはいえ、平均人というのが大衆の中にどれぐらいの割合を占めるのだろう。小グループへの分散化が進めば、それぞれに多様化が進み、そのうち大衆よりも少数派の寄せ集めの方が圧倒的多数ということになりそうである。実際、テレビ番組のような従来型の大衆娯楽から視聴者が離れつつある。それでも完全に無くなることはないだろう。受動的なメディアに縋って生きている人たちも少なからずいる。だから多様化なのである。
一方で、これだけ流行っている SNS を嫌う人も珍しくない。ツールを活用する場面の多い技術業界にあっても、共有を嫌う技術者は意外と多い。極端な立場では、コメントは不要!とする人たちもいる。読みたいヤツには読ませ、読みたくないヤツは黙らせろ!と。コメンテータという存在は、視聴率を煽るには最高の俗物となる。
また、情報だけでなく、情報収集の手段も多様化が進み、大勢で群がる手段に固執すれば、やはり大衆に飲み込まれてしまう。大衆に飲み込まれてしまえば、自己の中で健全な懐疑論を唱えるのも難しい。ただ、それに気づかなければ、それが一番幸せ。大衆って臭いわりに、臭さに慣れちまえば、結構居心地がよかったりする。臭いフェチか...
確かに、大衆から距離を置き、炎上騒ぎに巻き込まれないようにする賢明な人々が静かに存在しているのを感じる。人生の意義を日々考えながら生きていれば、大衆に付き合っているほど暇じゃない!と。自己の存在に意味があると考えること自体が人間の思い上がりであろうが、そうでも考えないと苦難を乗り越えることは難しい...
「近代思想が犯している最も重大な誤謬の一つは、社会と協同体を混同することであったが、後者はほぼ前者の逆に位置するものである。社会は、意志の同意によって形成されるものでない。」

では、社会を真に支配する者とは...
支配力といえば、つい権力や武力を思い浮かべてしまうが、オルテガは、ちと違った見方をしている。支配とは、他の力を奪い取ろうとする態度ではなく、力を静かに行使することだという。つまるところ、支配力とは精神力にほかならない、というわけである。
そこで、暗黙の支配力として「世論」という用語が浮き彫りになる。この用語がいつ登場したかは知らんが、これに似た概念は古くからあり、古代の王ですら民衆の心を重視したことが神話となって伝えられる。人間ってやつは、結局は人目を気にしながら生きているということだろう。現在の政治指導者たちは、世論を無視して権力を行使するわけにはいかない。オルテガは、世論が理念や思想といった形而上学的なものを身にまとうことができれば、大衆も捨てたもんじゃない、とかすかに希望を抱く...
「哲学が支配するためには、プラトンが初めに望んだように、哲学者が支配する必要はないし、次に、プラトンがより控え目に望んだように、皇帝が哲学することさえ必要ではない。厳密に言えば、いずれもきわめていまわしいことである。哲学が支配するためには、哲学があればじゅうぶんである。」

2019-11-03

"大学の使命" José Ortega y Gasset 著

古くから、行いの悪さを教育のせいにしたり、行儀の悪さを育ちの悪さとしたりする考えがある。そうした傾向があるのも確かであろう。国民が偉大であるということは、その国の教育制度もまた偉大なのであろう。
しかし、それだけだろうか。どんなに立派な条文を謳ったところで、どんなに立派なスローガンを掲げたところで、形骸化する事例はわんさとある。制度や契約といった取り決めは慣習と結びついて効力を発揮するもので、慣習法の意義がここにある。どんな集団社会にも暗黙の了解といった、なかなか手強い社会規範がある。「空気を読む」という特徴は、なにも日本人固有のものではあるまい。表現の仕方は日本人らしいにしても、集団社会によって読み方が違うだけのことで、主張すべき時に主張しなければ、やはり空気が読めないのである。こうした感覚は、価値観、世界観、人生観の違いとして現れ、長い年月をかけて無意識に慣習化していき、やがて文化として居座る。
「生きた思想、生きた文化は、自己を取り巻く自然的・精神的・歴史的・社会的諸環境との対話においてのみ形成されるとはオルテガの根本思想である。」

注目したいのは、大学の機能の一つとして挙げられる「教養」を文化として捉えている点である。ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、大学を三つの機能で結論づける。一つは、教養(文化)。二つは、専門教育。三つは、科学研究と研究者の養成。近代教育の特徴は、その大部分が科学に発するとし、まず科学の在り方にメスを入れる。だが、危機に瀕しているのは科学ではなく、人間である。専門化が進み、分裂した人間を生きた統一体へと蘇生させること。これが、オルテガの意図するところである。
ここには、当時のスペインの教育事情が透けて見える。ワーテルローで勝利したイギリスや普仏戦争で勝利したドイツを見て、即座にイギリスの中等教育とドイツの高等教育の制度を導入せよ!そうすれば、スペインも偉大な国民性が身につけられる、といった教育論で盛り上がっていく様子が。オルテガは、これに苦言を呈す形で教育論、いや、文化論を展開する。いやいや、酔いどれ天の邪鬼の眼には、古臭い国粋主義的教育論を皮肉っているように映る。まずもって、他国の制度を真似ればいいなどと安易な教育論を持ち出す有識者どもを再教育しろってか...
尚、本書には「大学の使命」、「『人文学研究所』趣意書」の二篇が収録され、井上正訳版(玉川大学出版部)を手に取る。

どこの国でも、社会を先導する大半が大卒や大学院卒の知識層。オルテガは、彼らを「平均人」「近代の野蛮人」などと呼び、以前よりもいっそう博識ではあるが、同時に無教養な専門家に成り下がっていると指摘する。
学問が研究を深めるほど専門性を強めるのは自然の流れであろう。そのために、総合的、統合的な視点を疎かにしがち。ジェネラリストとスペシャリストはどちらが重要かという議論は、現在でもお盛んだ。どちらを目指すかは個人の問題だとしても、偏狭な知識によって社会が先導されるとすれば、やはり問題である。現代社会では、総合的な知識も一つの研究分野として成立しており、その意味では、誰もがスペシャリストということになるのかもしれないが...
教養というものは、人間性とセットで育まれる。そのために、オルテガは一般教養の意義を再認識させようとする。近代の教養が科学的観点を基調とし、その傾向をますます強めているのは確かであろう。主観性の強い人間にとって、学問に客観性を求めなければ、学問の意味そのものを失ってしまう。オルテガは、この傾向を少しばかり弱めて人文学的観点を取り戻そうとしているだけで、科学を蔑んでいるわけではない。それどころか、大学は科学によって生きる!科学は大学の尊厳である!科学は大学の魂である!... とまで言っている。
「もし教養と専門が、たえまなく発酵している科学、つまり探求と接触せずして、大学内で孤立するならば、両者はまもなく麻痺状態に陥り硬直したスコラ学になり終わるであろう。」

そして、五つの教養科目を提示する。
1. 物理学的世界像(物理学)
2. 有機的生命の根本問題(生物学)
3. 人類の歴史的過程(歴史学)
4. 社会生活の構造と機能(社会学)
5. 宇宙のプラン(哲学)。

近代の教育機関は、ガリレオやデカルトたちによって創始された新科学の下で生を授かった。ヒルベルトの時代には、どんな問題でも科学で解決できると信じられたが、20世紀になると行き詰まりを見せる。
おまけに、科学技術が工業生産や大量生産の呼び水となり、これに国力が結びついてファシズムやナショナリズムを旺盛にしていき、平均人の知的底上げが急務となる。
オルテガの大学論は、そんな時代に書かれた。彼の信念には、研究第一主義から教養第一主義への移行が伺える。
「科学者はあらためて人間化されなければならない。」
当時の人文主義者にも苦言を呈す。
「人文主義と呼ばれているものは、つまるところ、文法学者の独裁の謂であった。」

では、これらの知識を総合的な視点から調和させるものとはなんであろう。オルテガは、一つの解決策として理念を持ち出す。そして、真によき医師、よき裁判官、よき技師を育成せよ!社会はよき専門家を必要とする!と。賢明なエリートほど社会にとって有用な存在はないが、愚昧なエリートほど有害な存在もない、と言わんばかりに...
「理念なくしては、われわれは人間的に生きることができない。われわれのなすことは、常に諸理念に依存している。そして生きるとは、あれこれのことをなすということにほかならない。だからインド最古の書物でこういわれた -『あたかも牛車の車輪が牛の蹄に従うごとく、われらの所為はわれらの所信に従う』と。かくいわれる意味 - そのようなものとしてそこには、なんと主知主義的なものは含まれていない - において、われわれはわれわれの理念である。... 教養とは、各時代における諸理念の生きた体系である。」

ところで、理念ってなんだ???
教育機関に何を期待するかは個人の問題としても、そこまで重荷を背負わせるのもどうであろう。本当に重要なのは、大学や大学院を卒業してからの学び方である。実際、教育機関に頼らなくても独学で啓発する人たちがいる。彼らは、自分自身でありたいがために戦い、自己投資や自己実現に励むかに見える。
今、この難解な書を読み終え、疲れ果て、溜息をつき、結局、この言葉に救いを求める他はなさそうである...

「人にものを教えることはできない。できることは、相手のなかにすでにある力を見いだすこと、その手助けである。」
... ガリレオ・ガリレイ

2019-10-27

"芸術の非人間化" José Ortega y Gasset 著

「我は、自分自身が生きていることを自覚した時、これらの肉体的もしくは心理的事柄において、自分自身を所有する。」

19世紀から20世紀初頭にかけて、産業革命に発する近代化の波は、富や資本を再分配させ、思想観念を解放していった。イデオロギー時代の幕開けとでも言おうか。自由主義を旺盛にさせると、王侯貴族のものであった政治や経済がブルジョアジーを経由して市民の手に渡っていく。大衆時代の幕開けとでも言おうか。同じようなことが、芸術の世界でも起こった。いや、むしろ芸術が先導してきたと言うべきか...
芸術ほど思想観念との結びつきが強く、また、芸術的な創造意欲ほど自由精神と相性のいいものはあるまい。しかし、かつての宗派間の闘争がイデオロギー闘争にすり替わっただけで、伝統的な階級が廃止されてもなお、新たな階級を生み出すのが人間社会。いつの時代も、多数派は少数派を飲み込もうとし、あわよくば抹殺にかかる。そして今、多数派に属すことに命をかけることが民主主義の弱点として露わになる。
大衆は臭い!いくら自由になっても、人の多様な行動には寛容でいられない。いくら階級を崩壊させても、差別癖は治らない。こうした性癖こそが人間性というもの。
では、題目にある「非人間化」とはどういうことか。空想的な人間性ということか。皮肉まじりに言えば、理想的な人間ということか。確かに、理想的な人間ってやつは人間離れしてやがる。こうした解釈が、本書の意図したものかどうかは知らんが、おいらの天の邪鬼な性癖は治りそうにない...
尚、本書には芸術に関する論文「芸術の非人間化」、「小説についての覚え書」、「芸術における視点について」、「内側からのゲーテを求めて」、「自己と他者」の五篇が収録され、川口正秋訳版(荒地出版社)を手に取る。
「概念と世界とのあいだには、絶対的な距離がある。... ところが、人間には、現実とは心が考えるところのものそれ自体であると臆断し、現実と概念とを混同する傾向がある。現実に対するこの執念が、無邪気な現実の理想化をもたらすのである。これが人間の先天的素質なのである。しかし、もしこの自然の手続きを逆にしてみるなら、つまり、現実と断定したものに背を向け、概念を単なる主観的な模型 - をそのまま採り上げ、やせて骨張っているけれども純粋で透明なその状態において生命を与えてみたなら、つまり故意に概念を現実化してみたら、われわれは概念を非人間化 - いわば非現実化したことにはならないだろうか...」

いつの時代も、新しいものには抵抗勢力がつきまとう。伝統を頑なに守ろうとする派閥と、それをぶち壊そうとする派閥。これに世代間対立が加わるものの、両派とも歳を重ねて時間が経てば、ちょうど折り合いの良いところで落ち着く。かつて激しく対抗していた浪漫主義と自然主義も、近代化にともなって急速に距離を縮め、写実主義の下で融合をはじめる。写実主義とは、見たまんまを映し出そうとする主張で、つまりはリアリズムの追求。伝統的な画壇では、信仰的な崇高さや人間救済といったテーマが象徴的に描かれてきたが、近代の芸術家に、人類を救え!などとふっかけても仰天してしまうであろう。
科学が相対主義を立証すれば、相対的な人間性、すなわち多様性というものに焦点が移る。そして、誰もが分かる芸術から、分かる人にしか分からない芸術へ。それは、概念の解放と解することもできよう。分からない人には、芸術家が高みに登ってこいと暗示しても、相変わらず「作者は何が言いたいのか?」などと最低な感想をもらし、無力感をさらけ出す。そして、政治から芸術に至るまで、分かる人は優越者となり、その他大勢との差別化によって身分の再編成が始まる。こうした様相もまた新たな階級闘争なのかもしれない。ただ、分かる人だって、どういうふうに分かるのかが分からないでいる。言葉で説明できるからといって理解していることにはならない。ここが人間の理解力の奥深いところ、むしろ沈黙の方に真の理解があるのかもしれない。
実は、人間の認識能力では現実と非現実の区別が厳密にできないってことはないだろうか。夢の中にでてくるありえないシチュエーションに対しても、妙にリアリティを感じて必死にもがき、目を覚ましてやっと夢だったと安堵する始末。現実主義とは、言い換えれば、現実っぽく見せること。芸術家は、けして現実に忠実である必要はない。人間の感覚は真理よりも真理っぽいものを欲する。大衆は真実っぽいフェイクニュースに群がり、嘘もまた本当になってしまう。観客はますます刺激を求める。ますます感覚が贅沢になり、芸術家にとことん芸術性を求めてくる。空想的な世界に飽きるとリアリティを求め、神々に見守られた理想世界に飽き飽きすると、悪魔的な本性を剥き出しにした現実世界を覗こうとする。
フューチャリズム(未来派)は、社会諷刺を題材にしてファシズムに受け入れられた。風刺とは、ある意味、人間の悪魔性を投影している。
キュビスム(立体派)は、ルネサンス以来の単一焦点による遠近法を放棄し、構成要素の極端な解体、極端な単純化、極端な抽象化の流れをつくった。人間の素朴な叫びは、ピカソの作品「ゲルニカ」に体現される。それは、数学に着眼した観念論とでもいおうか。絵画芸術に立方体、円筒体、円錐体が現れ、プラトン風イデアへの回帰にも映る。主体性の強い芸術が、客観性を帯びると、こうなるのであろうか...
「芸術は自己を侮辱することにおいてほど、その本来の魔術性をあらわにしたことはなかった。この自殺的行為によって、芸術は芸術たり得ている。自己否定において、芸術はその存続と、そしてその勝利とを奇蹟的に自己にもたらしたのであった。... 芸術の使命は、その魔術によって想像の世界を出現させることにある。」

では、非人間化を指摘したホセ・オルテガ・イ・ガセット自身は、どちらの派閥に属すのであろう。彼は、世代的にも、分からない!側に属すとしながらも、なかなか物分りのいいオヤジぶりを披露する。近代芸術にけして否定的ではなく、自然の流れとして受け入れるというのだから。本音は運命論としての諦めの境地にあったのかもしれんが...
そして、オルテガが生きた時代の後、シュルレアリスム(超現実主義)が出現し、さらにポップアートなるものも出現することになるが、それでも彼は寛容でいられたであろうか...
「作品への嫌悪感が理解不能によるとき、人は何となく自尊心を傷つけられたように思い、この種の劣等感は胸中の憤懣をぶちまけることで鎮めるほかはない。若い人の作品はただそこに存在するだけで、平均人に、自分がまさに平均人であり、芸術の神秘に心を打たれることもなく、純粋美を知る目も耳も持たぬ者であることを痛感させる。」

ところで、「非人間化」というからには、人間的とはどういうことかを問わねばなるまい。人間はきわめて主観性の強い動物。それは、自己存在という根底意識に支えられている。人間社会は、主観性の強すぎる時代から、若干の客観性を加えながら発達してきた。客観的な視点が自己を解放してきたのである。
その行き着く果てが非人間化ということか。人間は、自己を解放することによって、自己を見失おうとしているのか。自己を知ることは至難の業。自己を知るということは、無知を知ること。それはソクラテスの時代から問題とされる難題中の難題。オルテガも人間を定義するなら、「無知な愚かな人」とするのが適切だと言い放つ。
しかしながら、無知ということにこそ人間性を見い出すことができよう。自己を知るために自己から距離を置く。これが客観的な視点。人間を忌み嫌い、厭うべき存在として眺めてみなければ、人間の神聖さも見えてこない。それは人間嫌いの傾向か。自我という偶像を破壊しなければ、到達しえない領域が確かにある。遠近法を放棄すれば逆遠近法へと導かれ、あまりにリアリズムを追求しすぎると、逆に現実逃避へ向かわせる...
「ワグナーにおいてメロドラマは一つの頂点に達した。さて、芸術形式は頂点までのぼりつめると、反対側へとのめり込むことが多い。ゆえにワグナーの楽劇では、人間の声は主役であることをやめて、壮重な管弦楽の中に埋没されている。だが、これ以上の変化がその後に続いた。音楽はプライベートな情緒の重荷から解放され、模範的な客観化の過程をへて浄化された。この仕事をしたのがドビュッシーである。ドビュッシーのおかげで、われわれは恍惚や涙の心配なしに、平静な気分で音楽に耳を傾けることができるようになった。ここ数十年の音楽の発展は、ドビュッシーという天才が開拓した新しい超世界的世界において進転している。主観主義から客観主義へのこの転向は、その後に起こる分化・派生がそれほど重要とは思われなくなるほど、決定的であった。ドビュッシーは音楽を非人間化し、これにより音楽に新時代をもたらしたのである。」

2019-10-20

"ドン・キホーテに関する思索" José Ortega y Gasset 著

人間は、あらゆる物事に意味を求めてやまない。単純な事柄にさえ深みがあると信じきる。演劇の登場人物がたとえ滑稽であっても、読み手は深く読み取る自己の能力に酔い痴れる。まさに道化!
人の一生とは、狂言のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、騎士の仮面をかぶれば騎士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であればそれを糧とし、いかに達者を演じて生きてゆけるか。そもそも生というものが抽象的で不確かな実在であり、だからこそ、そこに意味を求めるのであろう。そんなものはありはしないと薄々気づきながらも、あると信じてないとやってられんよ...
では、書き手の方はどうであろう。単に物狂いをお笑いネタとして描いただけということはないだろうか。深い意味なんぞこれっぽっちもなく、気ままに筆を走らせた結果ということはないだろうか。もはや作者の手を離れ、作品が独り歩きを始める。セルバンテスは、あの世で嘲笑っているやもしれん。自ら仕掛けた人間喜劇にまんまと引っかかった深読みする読者たちを。まさに諷刺劇の達人!
ところで、深い!とはどういう意味であろう。ここでいう深みとは、きわめて複合的で曖昧なものらしい。互いの人間の性質が絡み合った環境の産物とでも言おうか。それは、五感を総動員しなければ、けして味わえないものらしい。てなわけで、今宵は、ボウモア蒸溜所の Deep & Complex で深酒に落ちるとしよう...

「何をお考えですか。人間は考えるべきではありませんや、考えると老けこみますからね。ひとつごとにこだわっちゃいけません、そうでないと気違いになってしまいます。千の考えを入れて、頭を混乱させておく必要ありです。」
... イタリア旅行中、ゲーテの道連れとなったある大尉の忠告より

文学百選で間違いなく上位に顔を出す「ドン・キホーテ」。17世紀初頭に書かれたこの小説は、当初、滑稽本として受け入れられた。騎士道物語を読み耽け、妄想に駆られた初老の紳士が、古ぼけた甲冑に身を固め、痩せ馬にまたがって旅をする。ひどい時代錯誤に騎士振りと老衰振りのギャップが行く先々で物笑いの種となる、まさに道化物語。当時のスペイン情勢を映し出す、なかなか諷刺のきいた作品である。
しかし、諷刺とは、時代への批判を間接的に表現したもの。おそらく芸術精神は、人間社会への批判や皮肉といった感情から沸き起こるのであろう。疑問を感じなければ、なにも描けない。芸術とすこぶる相性の良い自由精神にしたって、現実社会の束縛から逃れようとする反抗心に発する。滑稽文化が長い時間を経て形式化し、伝統を帯びていくうちに、諷刺芸術として威厳の光を放ち始める。世阿弥の「風姿花伝」にしても、人間の滑稽を自然に演じきる奥義が論じられる。芸の道は人の道であると。
19世紀になると、この道化物語にも新たな読み方が提示され、その流れはドストエフスキーあたりから発しているようである。老紳士が妄想に駆られるのも、ある種の現実逃避。これは、人間の本質を描いた物語である。人間の本性を暴露すれば、ホセ・オルテガ・イ・ガセットのような哲学者たちの餌食となる。
ここに題されるように、「思索」というからには試論である。試論であるからには証明のしようがない。それゆえ、思考を自由に解き放ち、想像を存分に膨らませられる。酔いどれ天の邪鬼は、哲学者たちの評論にいつもイチコロよ。
ところで、狂っているのはドン・キホーテだけであろうか。キホティズムという用語は、良い意味でも悪い意味でも使われる。いつの時代も、大衆は自分の側が正常だと思い込んでいるもの。情報に翻弄される現代社会においても、有識者や道徳者たちの憤慨したコメントほど気違いじみていると感じることはない。いや、そう感じることが狂っている証なのやもしれん...
尚、アンセルモ・マタイス, 佐々木孝共訳版(現代思潮社)を手に取る。

1. 観念の密林
オルテガに言わせれば、「ドン・キホーテ」という作品は「観念の密林」だそうな。木を見て森を見ず... というが、いったい何本の木が集まれば森になるのだろう。読み手の目には、いつも上辺と深さの対立がある。目の前に立ちはだかる木々は、森という総体を覆い隠す。森は、読み手の立ち位置よりちょいと先にあって、一つの可能性を示す。それでも読み手は、本当の森が目に見えぬ木々によって構成されていることを知っている。それは、言葉によって知っているだけであろうか。そうした集合体がなんとなく存在するという感覚が、森の中にいることを確実に意識させる。中心がどこにあるかも知らずに...
「不可見性、隠れてあること、これは単に否定的な性質ではなく、かえって積極的な性質、すなわちある物に注ぎ込まれると、その物を変容させ、それから新しい物を作り出す性質なのだ。... 文字通りに森を見ようとすることは馬鹿げている。森は、それ自身としては隠れたものである。世界が内包する様々な運命 - 尊敬すべきもの、必然的なものも同様 - の多様性を見ない人々に対する、とっておきの教訓がここにある。つまり、明らさまにするなら、亡びてしまうか、あるいはその価値を失ってしまい、反対に隠され看過されることによってその充満性に到達するものがあるということだ。」

2. 環境の摂取
人間の使命として環境を摂取せよ!という。人間は、自己の置かれる環境を十分に意識した時、その環境に溶け込んだ時、自己の能力をフルに発揮できると。環境を通してのみ世界とかかわることができると。環境という寡黙なものたちを、よく観察せよと。神的な力が通っていないようなものは、この世界にはないというが、それは本当だろうか。難しいのは、この力に到達すること。凡庸な読み手は、目の前の幸せにも気づかない。それが幸か不幸か...
「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない。Benefac loco illi quo natus es(生れし場所に祝福あれ)と聖書も言っている。プラトン学派でも、すべての文化のモットーとして次の言葉をうたっている。『外観を救え』。すなわち現象を救えという意味である。われわれの周囲にあるものの意味をさぐれということだ。」

3. リアリズムとイデアリズム
人間ってやつは奇妙なもので、フィクションの中にリアリズムを求める。映画にせよ、芸術にせよ、作り話だと承知しながら。小説もまた、虚構の中に事実を発見しようとする。虚構を現実に仕立て上げるという意味では、偶像崇拝の類いか。いや、人間精神そのものが得体の知れない存在なのだから、さして騒ぎ立てることもあるまい。
小説が仕掛けるものの一つに、現実逃避がある。現実と非現実の狭間で葛藤するのは、結構楽しい。そして、自分が発見したものを神のように崇めることができれば、幸せになれるという寸法よ。
一方、純粋な目でしか見えない概念、けして脂ぎった目では見えない概念、といった意味で「イデア」という用語がある。プラトンは数学的な概念を、そう呼んだが、オルテガは、本来、イデアリズムをリアリズムと呼ぶべきものだとしている。
しかし、原型としてのイデアはどこにも見当たらない。それは、ホメロスのような盲人にしか見えないのだろうか。現実を正しく見ることは至難の業。大量の情報に埋もれる現代人には、もはや見えぬ概念であろうか。いや、見えると信じ込めれば、幸せよ...
「芸術は、リアリズムとイデアリズムという二つの無害の言葉をでたらめに使うことによって、ひどい混乱におちいっている。普通一般には、リアリズムは - 物に由来する - ある物の模写あるいは虚構と解されている。だから、現実は模写されたものに相当し、幻想あるいは見せかけが、芸術に相当する。しかしわれわれは、このように仮定された事物の現実を前にして、どのような手を打つべきかを承知しているし、物はわれわれが肉眼で見る通りのものでないことも知っている。人の眼はそれぞれ、異なったものを見るし、時には同一人の中で、両眼が互いに反対しあう... 実現するということは、だから、ひとつの物を写すことではなく、さまざまな物の総体を写すことなのである。そして、この総体は、われわれの意識の中に観念として存在するしかないのであるから、真のリアリストは観念だけを模写する。つまり、この見地からするなら、リアリズムをさらに正確にイデアリズムと呼んでもさしつかえないわけである。」

2019-10-13

"ガレー船徒刑囚の回想" Jean Marteilhe 著

なにゆえ信仰に頼るのか。それは弱さの証。人間ってやつは、自分の願っていることを簡単に信じてしまう。それが希望ってやつか。
人の心は、何かに強制されれば反発心を焚きつける。死刑よりも苛酷な終身刑が、生き地獄を生きよと命ずると、囚人たちの心理は不思議な反応を示す。死ねと言えば生に執着し、希望を持てと言えば絶望に身を委ねる。心の自由が奪われるということは、自己存在が脅かされているに等しい。そう意識した時、人は怯え、攻撃的にもなる。
宗教は、それぞれに良心の在り方を説く。だが、絶対的な良心なんぞ、この世にありはしない。少なくとも人間の世界には。神が人間を選ぶのか。いや、人間が神を選ぶのだ。ならば、選ばないという選択肢もあっていい...

この物語は、ガレー船徒刑囚として、12年間を過ごした回想録である。プロテスタントであるがゆえに受け入れざるを得なかった運命とは。ただ、回想録が書ける機会があっただけでも運がいい。
信仰に取り憑かれた人間は恐ろしい。実に恐ろしい。彼らが自らの道徳を多数派の道徳として主張しだすと、異なる宗教観や道徳観を持った人々の排斥が始まる。集団化の過程で、自らの価値観を客観的に意識できなくなり、それを他人に力ずくで押し付けようとする。これが、政教一致の脅威というものか。人間ってやつは、神の事を知らなくても、神を信じることができる。この脅威が多数派の心理に飲み込まれた時、民主主義社会の弱点が浮き彫りになる。
本書が、一個人の、一キリスト者の回想録であることは間違いないが、政教分離という現在でもなお未解決な問題をつきつけ、ユグノーの歴史の一端を垣間見る思い。ここに綴られる、きわめて異様な状況!きわめて特異な経験!きわめて生々しい描写!は... ヘタな歴史書で知識をまとうより、当時の光景を恐ろしく目に浮かばせる。
尚、木崎喜代治訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 徒刑囚から解放への旅
「イエス・キリストやその弟子たちや多くの忠実なキリスト教徒たちが、この聖なる救世主の預言に従って迫害されたことを考えるとき、わたしは、かれらのように迫害されている以上、真の救済の道を歩んでいるのだと信じないわけにはいかない...」
時代は、ルイ14世治下のフランス。ジャン・マルテーユは、17歳でガレー船送りの刑に処せられた。そこには、国王とカトリック教会がプロテスタントを侵食していく背景がある。
次々と教会を閉鎖し撤去、牧師の活動を制限し、声高に聖歌を歌うことを禁ずる... プロテスタントの学校を閉鎖し、子供にカトリック教育を強制する... 職業も制限され、社会的地位も奪われ、国王の許可なしに国外へ出ることもできない... おまけに、臨終に際しては、カトリックの聖職者を枕辺に呼んで、カトリックに改宗しないか否かを訊ねてもらわなければならない... 国王の竜騎兵には殺人と婦女暴行以外の行為はすべて許されたそうだが、この二つの条件だけが尊重されるはずもなく、官吏は黙認。カトリックへの改宗を宣言するまで家に居座り、家具を破壊し、衣服を破り、食べ物を喰い尽くし、拷問にかける。そして、略奪するものがなくなるや、別のプロテスタントの家を襲う。狙われる家は、ブルジョア階級のプロテスタント。貧家には奪うものがないから... 等々。
このような光景を見せつけられては、あのパスカルの言葉をつぶやかずにはいられない... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。
マルテーユは、典型的なベルジュラックの裕福な商人の家の出。ベルジュラックは、フランス南西部のボルドーに近い小さな町で、古くからプロテスタント信仰の拠点の一つであったという。ガレー船の動力にプロテスタントの奴隷を使い、それでプロテスタント国イギリスと戦争をやるとは、なんとも皮肉な話。フランス軍は味方の監視も怠れない。プロテスタントのガレー船徒刑囚の存在は広く知られ、国際的に避難の的となった。
ユトレヒト講和条約の際、イギリスのアン女王の介入で一部のプロテスタントが解放され、マルテーユもその一人。解放後、プロテスタントの都市で歓迎を受けながら、スイスやドイツを経由してオランダへ旅をする。目的地はプロテスタントの亡命拠点として有名なアムステルダム。マルテーユは、アン女王に感謝し、なおガレー船に残る人々の解放を嘆願するために、代表団の一員としてイギリスに渡り、女王に謁見したとさ...

2. ナント勅令の意味
歴史の教科書が教えていることは、ナントの勅令によって、カトリックとプロテスタントは和解し、プロテスタントにも信仰の自由が保障されたということ。しかし、こうした理解は適切ではないようである。
確かに、プロテスタントの信仰は国王によって承認されたが、そこには条件があったとか。特定の地域でのみ礼拝や結婚や教育活動が承認され、避難地帯や安全地帯が設置されたというから、ある種の隔離政策という見方もできよう。この勅令が、休戦状態に過ぎないという論評も的外れではなさそうだ。
また、プロテスタントの多くは、地方貴族、有力地主、裕福な商人で、独自の守備隊を持つほどの有力者であったといういから、国王にとって目障りな存在であったことだろう。太陽王がわざわざフォンテーヌブローの勅令で、プロテスタントの自由をチャラにすると宣言したところで同じことか。いや、略奪行為が国王のお墨付きとなれば、それは懲罰か、迫害か、と問うても詮無きこと。マルテーユは、「教皇至上主義の誤謬」と表現する。
だからといって、その場しのぎで改宗の意志を表明し、再びプロテスタントに戻ったとしても、今度はプロテスタントの側で裏切り者呼ばわれ。彼らにとって、「正義」という言葉ほど空虚なものはない。裁判などと名乗るのはやめて、国王命令の執行者とでも名乗れ!... といった台詞も飛び出す。
そして、プロテスタントの籠もった城砦都市が、一つの自由都市国家として国家安全保障の概念を目覚めさせ、ここに近代国家モデルの源泉を見る思い... などと解すのは、ちと行き過ぎであろうか...

3. ガレー船の有用性
読者を退屈させないように、ガレー船の構造や航行法、乗員組織までも詳細に解説してくれる。この記述は、まるで映画「ベン・ハー」の一場面。
「鎖でつながれた素裸の六人の男たちが腰掛に座り、櫂を握り、足置板に取り付けられた太い棒である足架に片足を乗せ、もう一方の足は前の腰掛の上に掛け、身体を長く伸ばし、腕に力を込め、同じ動作を夢中になってやっている前の席の者の身体の下まで櫂を押し出すのである。そして、こうして櫂を押し出すと、こんどは櫂が海を叩くように持ち上げ、同時に後方に身を投げ、というよりもむしろ、身を落とし、自分の腰掛の上に落ちるように座るのである。」
ちなみに、苛酷な労苦とか労働をする時、「ガレー船徒刑囚のように働く」という言い回しが、当時にはあったらしい。
また、ガレー船の有用性についても言及している。ガレー船の維持に要する出費は重い負担となる。戦時であろうと、平時であろうと、武装解除されている冬季であろうと、武装中の夏季であろうと、常に維持しなければならない。イタリアの共和国諸国が保有するガレー船とも事情が違う。イタリアでは、民間運営によって商売でも利用されていたようである。地理的な事情も違う。地中海は、潮の緩慢がないうえに凪の時間が比較にならないぐらい長いが、大西洋での航行は困難を要し、イギリスの軍船よりはるかに劣る... 等々。
要するに、フランスのガレー船は、軍用兵器というより、むしろ監獄の意味合いが強いということか。

2019-10-06

"職業としての学問" Max Weber 著

「職業としての政治」(前記事)では、1919年、第一次大戦後の混迷したドイツを浮き彫りにし、学生諸君にカツを入れるかのように現実的な政治論を説いて魅せた。ヴェーバーは、敗北の現実を前にし、自虐的な夢想に耽る知識人たちの論調に我慢ならなかったと見える。
ここでは少し遡って、1917年、まだ敗戦が決定的になっていないにせよ、その気配を感じ取った青年たちが、厳しい現実から救ってくれる世界観を欲し、教師よりも指導者を求めた様子が伺える。学生諸君は、宗教倫理や経済精神を論じてきたヴェーバー先生が、世界の意味を語り、どこかへ導いてくれると期待して集まったのだった。
しかし、ヴェーバーは逆に、教師が指導者であってはならず、ましてや扇動者になるのはもってのほかと冷たくあしらい、あらゆる政治思想や価値観から距離を置く立場を表明する。そして、さっさと日々の仕事に帰れ!と叱咤するのだった。世界観なんてものは科学的に説明できるようなものではなく、人それぞれ、人の努力いかんにある... 学問する者の心得は、学問が何かを教えてくれると期待するのではなく、学問することによって自分で自分を導け!と。この講演は、聴衆に脅かすような印象を与えたという...
尚、尾高邦雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 専門の意義とは...
教壇に立つ者の使命には、二重性があるという。一つは学者としての資格、二つは教師としての資格。実際、研究の感覚に優れた人と、教える感覚に優れた人がいる。一概には言えないが、後世に名を残すタイプが前者で、現在に熱気を帯びるタイプが後者ということになろうか。
例えば、学者として優れていながら教師としてまったく駄目なタイプに、ヘルムホルツやランケを挙げている。双方に優れた人は稀だが、ヴェーバーがそういうタイプということになろうか。彼は、専門に専念せよ!隣接領域の縄張りを荒すな!と説く。専門に閉じこもることによってのみ、成し遂げられる仕事があると。実に、耳の痛いご指摘である。
しかし、だ。そういうヴェーバー先生が、社会学、政治学、経済学、神学、哲学など幅広く手を出してきたではないか。いや、彼の目には、これらの学問が一つの分野に見えるのかもしれない。学問の真意は、真理を求めること。そのために視野を狭めるのでは本末転倒。専門化の過程はこれからますます続き、熱中する心構えのない人は学問には向かないという。それも研究が進み、知識が深まれば、自然の流れ。一つの研究に没頭すれば、学問上の霊感が自然にわいてくるという。それは、芸術家でも、技術者でも同じこと。自分の仕事に仕える人のみが味わえる領域が、確かにある。ある種のオタク的な感覚だが、現代風に言えば、geek といったところか。
ここで、ちょいと「専門」という表現にこだわってみよう。この時代と現代感覚とでは、抽象レベルが大分違うようである。専門とは、個性から生じるもので、自分で見つけるものと捉えるならば、自分がやれることこそが専門ということになろう。つまり、やるべきことをやれ!やれることをしっかりやれ!と説いているようにも映る。もっと言えば、やれることに専念しながら、けして専門馬鹿にはなるな!とも。こう解すのは、ちと行き過ぎであろうか...
ちなみに、老ミル(ジョン・スチュアート・ミルの父ジェームズ・ミル)は、こう言ったとか。
「もし純粋な経験から出発するなら、人は多神教に到達するだろう。」
知識ってやつは、その人の拠り所とする立場いかんによっては、神の知識となりうることも、悪魔の知識となりうることもある。知識が豊富になればなるほど、調和させる能力が求められ、発散させては元も子もない。老ミルの言葉を持ち出しているのは、学際的な態度を表明している。学問に熱中すれば、多くの神を見るであろう、と...
「学問上の達成はつねに新しい問題提出を意味する。それは他の仕事によって打ち破られ、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。」

2. 学問の意義とは...
人が学問を始めようとする時、知識を得ようとする時、それは何のためにやるのか?それが何の役に立つのか?と問う。その理由ときたら、高い地位に就きたいから、高い収入を得たいからなどと、たいてい脂ぎった欲望に支配される。最初から純粋に学問に励むことは難しい。ただ、学んでいくうちに、脂ぎった欲望も鎮まりを見せることがある。
確かに、科学は進歩してきた。それで、科学が正しい世界観を示してきただろうか。正しい価値観を教えてきただろうか。むしろ無意味さを教えているのではなかろうか。この無意味さが、脂ぎった欲望を鎮めてくれるというのか。
何をやるにしても、人間は意義を求めてやまない。何をもって意義ある学問とするか、何をもって意義ある知識とするか、それは学問に携わる人の心構えいかんにある。まさにここに、学問の意義があるのだろう。
ヴェーバーは、学問の意義を絶えまない進歩の過程そのものに求める。それは、人類が何千年にも渡って積み重ねてきた合理化の過程である。ソクラテスの時代から哲学者たちが試みてきた主知化によって、認識論一般に通用する手段を編み出そうと。
その手段とは概念である。概念によって抽象化の意義を自覚し、論理的思考を発展させてきた。弁証法もその過程の一部。自然科学は、主観的傾向の強い人間に、ちょいとばかり客観的な視点を与えてきた。人間の思考を魔法や呪術から解放してきた。そこには絶対的な方法論は見当たらない。だからこそ、学問する者には常に健全な懐疑心が要請される。
そして、最大の敵は自己欺瞞ということになろう。せっかく苦労して獲得した知識も、古みを帯びてくるは必定。これを喜びとするには修行がいる。学問上の幸せとは、自ら歳老いていくのを楽しむことができる、ってことだろうか。ガンジーの言葉に... 明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ... というのがあるが、まったくである。
「学問は自然の真相に到達するための道である。」