2020-01-05

好きなことをやって生きていくのは苦しい...

神様と悪魔は、仲良し小好し。地獄を見ないと、天国を見せてくれそうにない。自由に生きるということは、最も厳しい生き方なのかもしれない。言い訳なんぞできやしない。人のせいにし、会社のせいにし、社会のせいにし、それで生きてゆけるなら、どんなに楽であろう。仕舞いに、神のせいすれば、神も本望であろうに...
好きなことを仕事にできれば幸せになれそうなものだが、そうは問屋が卸さない。好きなことと楽しいことでは、ちと違う。いや、真逆なことすらある。本当に好きなことを見つけるには苦難がつきまとう。にがい思いをし、いやな思いをし、それでもなお、やらずにいられないとしたら、それは本当に好きなことかもしれない。それゆえ、悩んだり、迷ったり、落ち込んだり、惨めな失敗もしてみないことには、好きなことがなんなのか、見えてこない。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体の宿命であろう。
ひとたび好きな仕事を見つけたとしても、点数競争に追われ、金儲けの手段とし、出来高レースに明け暮れるとすれば、それは、本当に好きなことを仕事にしていることになるのだろうか。もはや、脂ぎった大人の欲望を捨て去り、純真な子供の好奇心を取り戻すのは至難の業。おいらは幸運に恵まれたようだ。技術屋の世界が愉快ときた。忙しいという状態が楽しいときた。M だし...
ほんの一瞬にせよ、達成感ってやつに救われる。本当に好きなことは、やはり苦々しさと一緒にやってくるらしい。その証拠に、リリース驀進後の脱力感に浸って味わう夜明けのブラックコーヒーは格別だ!

「仕事はこの世で最高のものだ。だから、少しは明日のためにとっておこうではないか。」... ドン・ヘロルド

とはいえ、この意欲を持続させるのは難しい。好きこそ物の上手なれ... と言うが、そうは問屋が卸さない。好きなことをやることの最大の利点は、それを思考し、夢中になると、別世界へ導いてくれること。突然、精神のフロー状態なるものが訪れ、無我の境地へといざなってくれる。時空を超えた心地良さとでも言おうか、これほどのエクスタシーを他に知らない。この境地に達するには、リラックスすることも肝要だが、ストレスも絶対に欠かせない。
あの大哲学者は言った、「我思う、故に我あり」と。しかしながら、我(が)を意識することによって生じる苦しみがある。自己存在を確認することによって生じる苦しみがある。自意識ってやつが、所有という概念を目覚めさせる。おいらのお金、おいらの土地などと。自意識は義務感とも結びつく。私の仕事、私の地位などと。これに拍車がかかると、縄張り意識を旺盛にさせる。俺の会社、俺の町などと。その対象は人間にも向けられる。オレの女、アタイの彼氏などと。周りの景色が我を基点に流れ始めると、やがて気づく。自我ほど手に負えないものはない... と。

「人間は自分の望みに従って人生を送ろうとするが、人生は必然に従って流れていく。」... ジーン・トゥーマー

ならば、自我を無にできれば、楽になれるだろうか。好きな職種に出会えたのはありがたいが、好きなことをして食べていくのは大変だ!長い人生、いい時もあれば悪い時もある。いい時は誰でもうまくやれる。悪い時こそ人の値打ちがでる。どんなに好きなことでも、それをやり続けるのは苦しい。いや、好きなことだからこそ苦しいのかもしれない。忙しさに追われている時はなんとか頑張れる。危険なのは急激に止まった時だ。急にがっくりくると、そこから抜け出すのは至難の業。この精神状態は、一度貧乏に陥るとなかなか抜け出せない世の中の仕組みに似ている。まるでブラックホール!
そんな時、好きなことをやっていくという意志が心の拠り所となる。時には、辞めようかとも思う。だが、好きなことをやって生きている自分に同情して、自己愛に浸ったところで仕方がない。自分自身を軽蔑したところで、やはり軽蔑者として自己を可愛がってやがる。
近道を行けば、すぐに息切れする。好奇心のアンテナを張っていれば、道草や寄り道をやらずにはいられない。視野を広げ、知識を蓄積していくには、回り道こそ王道!春風にでも揺られるように思考の散歩を楽しむ。これぞ春風駘蕩の極意というものか...
人生のスランプに陥れば、その状況を素直に受け入れ、存分に苦しんでみることだ。何かを見失っていないか?と自己に問い、じっくりと足掻いてみることだ。苦しい時に自然体でいられるのも、好きなことをやって生きていることの証。生きることの意味や価値を問うと、狂いそうになる。ならば、素直に狂ってみることだ。そして、気づくだろう。のんびりと精一杯生きる!これ以上に何ができようか... と。

「運命は、志あるものを導き、志なきものをひきずってゆく。」... セネカ

2019-12-29

"スイスの凄い競争力" R. James Breiding 著

原題 "SWISS MADE: The untold story behind Switzerland's success."
そこには、アメリカンドリームに遜色ない成功物語の数々。いや、気質においては、むしろ地道な勤勉性を武器に... 流行技術に惑わされない千里眼を自然に身にまとっているかのように...
スイスも、日本も、天然資源の乏しい国。険しい山々に囲まれながらも優れた輸送システムや鉄道システムを構築し、なによりも几帳面さを誇る国民性に親しみを感じずにはいられない。多くのニッチな部門で世界的な地位を獲得してきたのはギルド魂の顕れか、日本のモノづくりを支える金型産業などに垣間見る職人魂に通ずるものがある。

しかしながら、決定的な違いは自立性であろうか。つまりは生き方である。スイス株式会社と日本株式会社とでは、性格も随分と違うようだ。行政だけでなく企業体も、なにかと中央の意向を伺うムラ社会に対して、大きな政府を嫌い、中央集権化を嫌い、連邦国家として自治独立の道を歩んできた。結束力によって西欧列強国と渡り合った日本に対し、自立中立を誇示して大国を撥ね付けたスイス。小国でありながら自立性が堅持できたのも、アルプスという地形的要素がある。とはいえ、小国は大国より弱い立場にあり、結束力を欠いてはサクセスストーリーも長続きしない。
本書は、地政学的な視点からスイス国民に育まれてきた自立性と開放性、これに起業家精神を結びつけて、スイス経済の強み、すなわち、Swiss Made の強さを物語ってくれる。ここには、文化的使命感もなければ、スイス流イデオロギーも見当たらない。あるのは人権尊重ぐらいなもの。それだけで充分ということか...
尚、北川和子訳版(日経BP社)を手に取る。
「同規模の国で、スイスのように比較的平等に報酬を分配する一方で、高水準の可処分所得を達成している国はない。スイスに近い規模の国でさえ、これほど多くの産業で主要な地位を維持してはいない。先進国のどの国も、多額の債務によって未来の世代に負担を負わせ、年金や医療費に対する幻想を抱かせている。国民一人ひとりがこれほど力を持ち、その声の重みを確信している国はない。ほとんどの西側の民主主義国において、政治家や公共部門に対する世論がこれ以上ないほど厳しい時代にあって、スイスの統治制度の有効性は、成功のための強力な指標である。」

中世の貧しい山国の最初の輸出品は傭兵だったという。勤勉で忠誠心の強いスイス人は、ヨーロッパ各地の戦争に引き出された。ちなみに、バチカン市国の衛兵も伝統的にスイス傭兵が務めているらしい。それが現在では、スウォッチ、オメガ、ロレックスといった時計ブランド、ネスレ、リンツといった食品ブランド、UBS、クレディ・スイス、チューリッヒ・インシュアランスといった金融ブランド、エフ・ホフマン・ラ・ロシュ、ノバルティス、ロンザといった医療品ブランドなど、世界的なブランドを多く生み出している。
これらのブランドの発明者の多くが、迫害から逃れてきた移民や亡命者、そして、その子孫だという。つまりは、もともと培われてきた自立性と外国籍に対する開放性の融合が、この国の原動力というわけである。スイス人にも気づかない気質が移民たちに受け継がれ、富の創造者としての開かれた道を提供する。土着の文化はどっしりと居座り、むしろ外国籍の人々によって強化されていく。これは日本人が最も見習うべき気質かもしれない。少子化問題で騒いでいる昨今、片言の日本語しか喋れない日本人がいてなんの不都合があろう。押しつけなければ守れない文化なら廃れるしかあるまい...

ハンニバルのアルプス越えは英雄伝説として語り継がれるが、この自然の要砦が各地の交流を妨げ、自立性を育んできた。とはいえ、ヨーロッパのド真ん中に位置し、政治野望のためにここを通らないわけにはいかない。軍隊や商人が、この中間点に荷物や財産をちょいと預けるだけで利子が稼げる。古代ローマ時代から資産管理が資産を生み、金融業を発達させてきた。
注目したいのは、政治や宗教によって迫害された人々の避難場所として機能してきたことである。ユダヤ人やユグノーなどがヨーロッパ中から押し寄せ、自立性を保ちながらも彼らを受け入れる土地柄は、グローバリズムの先駆者を見る思い。グローバリズムとは、全体的な画一化を言うのではなく、多様なローカルの調和を言うのであろう。その根底に人権尊重がある。
レーニンなどの政治亡命者が、この地を活動拠点としたことは周知の通り。ヒトラーの野望にも屈せず、独立精神を堅持してきたスイス国民は、二十世紀にはすでに EU 懐疑論をくすぶらせ、EFTA(欧州自由貿易連合)を選択した。今、ポンドを保有するイギリスがブレグジットで騒いでいるさなか、スイスフランに威厳を感じずにはいられない。
一方で、金融システムの守秘義務が各国からの干渉を退け、王侯や独裁者たちの財産の隠れ蓑になったり、マネーロンダリングといった闇取引の恩恵にもなってきた。国際色豊かな人材、文化、政治の通路は、自立と自律のバランスが問われてきたお国柄とも言えよう...

ところで、スイス連邦国家は、古代ギリシア時代の個性ある都市国家群を彷彿させる。世界経済フォーラムではダボスが存在感を示し、国際決済銀行ではバーゼルが金融の目を光らせ、国際連合の多くの専門機関がジュネーヴに置かれ、多くのスポーツや芸術団体がチューリッヒを拠点とする。
ただ、バーゼルの住人を一つとっても、チューリヒやベルンやジュネーブに対してあまり一体感を見せない。それぞれの連邦で法人税率の安さを競えば、多国籍企業の呼び水となる。だが、法人税率だけが魅力ではあるまい。
スイスは中立国だが、無抵抗主義ではない。しっかりと国民軍を保有し、政府は「民間防衛」の書を国民に配布している、と聞く。戦争の放棄と国防軍の放棄では意味するものがまったく違う。自立と自由の精神という気質こそが、この国の強みであり、もはや、スイスという国そのものがブランドなのである...

2019-12-22

"現代ファイナンス論" Zvi Bodie & Robert C. Merton 著

なにを血迷ったか!こんなものを手にして...
ツヴィ・ボディとロバート・C・マートンは、MIT大学院時代から優れたチームとして讃えられたという。1997年、マートンはマイロン・ショールズとともにノーベル経済学賞を受賞。あのオプション評価モデルとして名高いブラック・ショールズ方程式によって...
しかしながら、このノーベル賞のスターらが結成した LTCM は、自らの破綻によって悪名を留めてしまう。世界規模の金融危機の裏舞台では、いつもデリバティブの評価理論がウォール街を席巻してきた。先物、オプション、スワップと... 要するに、経済学の理論は、価値評価と価値交換の方法論で、だいたい説明がつくというわけか。経済という用語は、「経世済民... 世を經(おさ)め、民を済(すく)う」という意味に発すると、聞いていたが...
そしてそれは、比較にならないほどの大規模なリーマンショックによって再現されることになる。おかげで、この酔いどれ天の邪鬼にとっての経済学は、最も敬遠すべき学問分野となったのだった...
とはいえ、世界がお金で動いていることは、紛れもない事実。現在、年金運営や資産運用を自己管理する必要があり、ファイナンス理論に無知でいるわけにはいかない。本書を懐疑的に眺めながらも、教科書として参考にしてみる分には悪くない。教科書ってやつは、万能な処方箋ではないのだから。それに、サミュエルソン学派がそんなに悪いとも思えないし、それどころか大作「サムエルソン経済学」には幾分世話になっている。
ここでは、こう定義される。
「ファイナンスとは、時間軸上において、希少資源をどのように分配するかを研究する学問である。」

おそらく、人間社会のようなカオス系において万能な方法論なんてものは存在しまい。仮に存在したとしても、人間の能力でそれを見極めることはできまい。AI なら見極めるかもしれんが...
どんなに優れた方法論をもってしても、同じ考え方を持つ者ばかりが集まると全く機能しなくなる。ゼロサムゲームでは尚更。ことお金となると、人間には一つの成功例に群がる習性がある。光に集まってくる昆虫や、太陽に向かって伸びる草木のように...
しかも、当分は儲けることができるため、群衆はそれを崇めるようになる。経済学で決まって唱えられるのが「利益の最大化」ってやつだ。本書にも登場する。では、利益ってなんだ?ダーウィンは、なにも弱肉強食を唱えたわけではあるまい。種が共存するためには、多様性こそが鍵だとしたのではあるまいか。種の分岐とは、いわば生き残る智慧である。市場でも、多種多様な欲望が集まれば機能するのであろうが...
その処方箋として、客観性を強めるための数学的方法論が悪いとは思わない。イールドカーブを眺めるにしても、社会学的な視点から興味深いものがある。実際、福利厚生、年金、生命保険など、あらゆる社会的制度が数理統計学によって成り立っている。ただし、万能薬として崇められた時、非常に危険となる。
偏微分方程式の基本的な思考法に、想定しうる変数を微分形式の総和で構成するという考え方がある。ブラック・ショールズ方程式もその一つで、ここでは五つの変数で構成される様子と、そのうち四つの変数が直接観察できる形で解説してくれる。株価、行使価格、無リスク金利、オプション満期などがその変数である。こうした思考法には連続関数が前提されているために、アトラクタのような現象に陥るとまったく機能しなくなる。物理学風に言えば、ブラックホールに遭遇すればあらゆる力学系が無力化するってことだ。これは、微分方程式が抱えいてる根本的な性質である。同じ方法論に取り憑かれた人間が市場に群れるということは、まさにそうした状況にある。
したがって、問題は、数学的方法論にあるのではなく、これを用いる人間の側にあるということになろう。デリバティブに限らず、価値評価の問題は価値観の多様化とともに永遠につきまとうであろう...

ファイナンシャルプランニングで資産運用の話題になると、必然的にリスク分散や分散投資といった考えに及ぶ。税金、投資、不動産、教育、相続、老後など、こうした話でファイナンシャルプランナーの言葉を鵜呑みにするような生き方は避けたいものである。
さて、分散投資における戦略は、個人的にはポートフォリオ理論に落ち着いている。おいらには、最も保守的なインデックス戦略で充分。ただし本書は、ポートフォリオ選択の戦略で万人に通用するものはない!と警告している。現実的には、数学的な方法論を用いながらも、手探りで経験的に構築することになろう。いずれにせよバランスシートが読めないようでは話にならない。
ちなみに、西欧の会計システムは宗教との結びつきが強く、神への貸し借り報告書としてバランスシートを書くことに義務の意識が働くようである。先進国と呼ばれる国々で、自分自身のバランスシートも書けないのは日本のサラリーマンぐらいなものであろうか...

また、投機の心理学も避けるわけにはいくまい。投機家は、自らリスク・エクスポージャーを増やして利益の最大化を目指す。逆にヘッジングは、リスク・エクスポージャーを減らすことによって利益を守ろうとする。本来はそうした役割分担があるが、現実には、同一人物や同一機関が投機家とヘッジングの両方を演じる。ヘッジングは、インシュアリングとも違う。インシュアリングでは、前もってプレミアムを支払って損失を回避する。プレミア'とは、保険や信用保証やオプション契約など。
リスクをヘッジすれば、損失を被る可能性を軽減できるが、同時に利益を得る機会を犠牲にする。逆にインシュアリングは、プレミアを支払っているために利益を得る機会を犠牲にしない。こうしたリスク分散や分散投資といった保守的な戦略は、しばしば利益の最大化と相反する。
そして、LTCM の行動パターンが透けてくる。なるほど、本書は反省の書であったか...
ところで、この手の書にきまって登場するのが「サヤ取り」の話だが、本書には、なぜか用語すら見当たらない。ただ、うまい表現を見つけた...
「一物一価の法則とは、競争的市場においては、2つの資産が同じであれば、価格も同じになることをいう。一物一価の法則は裁定(arbitrage)によって実現される。裁定とは、同一の資産間の価格差を発見し利益を得ようとする動きをいう。」

2019-12-15

"境界を生きた女たち" Natalie Zemon Davis 著

歴史学者ナタリー・ゼーモン・デーヴィスは、16 - 17世紀のフランスの宗教生活、民衆文化、ジェンダー研究が専門だそうな。おいらは、彼女にちょっぴり首っ丈...
まず、著作「贈与の文化史」では、贈与行為の心理学といった側面から人間社会の根本原理のようなものを語ってくれた(前々記事)。
次に、著作「歴史叙述としての映画」では、存在の記録すら残されない奴隷という身分を通して、それを描写する映画の可能性、いや、歴史における映画の役割というものを問い掛けた(前記事)。
贈与に限らず言葉や財の交換という手段をもって社会的な存在位置を確認しようという行為も、映画に限らず詩作や芸術活動という手段をもって感情的に印象づけようとする行為も、古代から集団社会に馴染んできた。こうした当たり前の行動パターンを新たな概念として掘り起こす彼女のセンスは、文化史の考古学者とでも言おうか。そして、こいつで三冊目...

原題 "Women on the Margins: Three Seventeenth-Century Lives."
ここでは、17世紀を生きた三人の女性が主役。その名は、ユダヤ商人グリックル、修道女受肉のマリ、博物画家メーリアン。記録によると、彼女らの関係にまったく接点はないらしい。共通点は生きた時代と、三人とも専門的な知識を有したこと、熟練した会計士でもあり財の行き来を念入りに記録したこと、難事を乗り切るために迅速に決断して持てる技能を遺憾なく発揮したこと、そして、自身の教訓を自伝に遺したことである。
男社会にあって男勝りの生き様、彼女らのジェンダーの域を超えた生涯はフェミニストなんて安っぽい表現では足りない。印象的なのは、三人がそれぞれにユダヤ教徒、カトリック教徒、プロテスタントだということである。ヨーロッパのキリスト教世界を生き抜いたユダヤ商人、アメリカンインディアンを改宗させるために苦悩した英雄的修道女、植物や昆虫と対話した風変わりな自然主義画家という構図は、ユダヤ教とキリスト教の対立に未開人を加え、異文化を受け止めるための途方もない寛容さといったものを突きつける。
そして物語は、接点がまったくないはずの三人が、それぞれに自分自身に思いをめぐらせながら会話する形で始まる。場所は、理想の地。時代は、1994年。登場人物は、六十過ぎの四人の女。四人目はデーヴィスそのひとである。似たような三人の人間像に対して第四の目を配置することで、純粋に宗教的立場の違いを観察できるという寸法よ。このような設定はプラトンの対話篇を観る思いである...
尚、長谷川まゆ帆 + 北原恵 + 坂本宏訳版(平凡社)を手に取る。

ところで、西欧の会計システムは宗教との結びつきが強い。それは、神への貸し借り報告書として。このような文化圏では、自分自身のバランスシートを書くことに、義務という意識が働くようである。無神論者を蔑視する伝統的な態度も、こうした意識との関係がありそうか。先進国と呼ばれる国々で、自分自身のバランスシートも書けないのは日本のサラリーマンぐらいなものであろうか。だから、消費税のような目先の税金に目くじらを立てることぐらいしか思いが寄らないのだろうか...
三人とも、道徳的な教訓を残そうと自伝の書き手になったことも、神への義務を果たそうとする意識からであろうか。
とはいえ、会計スキャンダルは西欧にも横行する。道徳をひたすら神の意志に委ねるのは危険であろう。そもそも、人間ごときに神の意志を解することができると考えることが、神を冒涜していることにならないのか。神との問答とは、自己との問答にほかならない。それ以上のことを人間に何ができよう。それでも、生身の人間に超自然的な自己を求め、成熟度を図ろうという変人ぶりにも共感できる。
そして、神から与えられた受肉は、宗派が違うというだけで骨肉の争いへ。神に看取られていると信じることができれば、人はなんでもやる。やはりパスカルが言ったように、人間とは狂うものらしい。彼はこうも言った... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。

2019-12-08

"歴史叙述としての映画 - 描かれた奴隷たち" Natalie Zemon Davis 著

歴史家ナタリー・ゼーモン・デーヴィスは、贈与行為の心理学といった側面から人間社会の原理のようなものを語ってくれた(前記事)。アリストテレス風に... 人間は社会的動物... と表現するならば、そこにはなんらかの交換行為が育まれる。言葉の交換しかり、 財の交換しかり... 贈与とは実に古くからある慣習で、当たり前過ぎるほど集団社会に馴染んできた。しかし、これを新たな概念として掘り起こす彼女のセンスは、おいらに新たな視点を与えてくれる。贈与の経済学という視点を...
ここでは、五つの映画作品「スパルタカス」,「ケマダの戦い」,「天国の晩餐」,「アミスタッド」,「ビラヴド」を題材とし、歴史上言葉を発する機会を与えられなかった奴隷という身分に焦点を当てる。そして、こう問いかけるのである。
「過去を有意義かつ正確に描こうとするとき、映画にはどのような可能性があるだろうか...」
尚、中條献訳版(岩波書店)を手に取る。

世界を語る... という行為は数千年前から受け継がれ、さまざまな手段が編み出されてきた。詩、小説、新聞のコラム、ネット配信など。今や映画はその一手段として君臨しているが、その歴史はすこぶる浅い。デーヴィスは、これを感情的なジャンルとしてホメロスの時代から受け継がれる詩作と重ねて魅せる。
ヘロドトスやトゥキュディデスは叙述文体を詩文から散文へと移行させ、歴史をいかに厳密に記述するかを問うた。ホメロスのような偉大な詩人には、聞く者を喜ばせ引きつけるための誇張や創作が許されていたが、こうした風潮に警鐘を鳴らしたのである。
アリストテレスは、もう少し突っ込んで、詩文や散文といった形式の違いよりも叙述の内容と目的を重視した。そして、こんな言葉を残した...
「歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る。... 詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語る。」

歴史学という学問は、その性格上客観性を重視する。否、あらゆる学問が主観性から距離を置き、あらゆる事象を遠くから眺める立場にある。
とはいえ、人間の思考の原動力は主観性の側にある。人間は感情の動物であり、この本質からは逃れられない。プレゼンテーションなどでは視聴覚的な演出がよく用いられるが、実は人間にとって、淡々と語るということほど難しい方法論はないのかもしれない。
さらに言うなら、客観性という用語の解釈もなかなか手強い。学問分野によってもレベルが違い、最も客観性を帯びた数学ですら、定理への道筋には感動的なドラマで満ち満ちている。ちなみに、客観的に語ると宣言された政治屋の演説で、そうだったためしがない。
デーヴィスは言う、「歴史映画は過去についての思考実験だ...」と。事実を語ることは難しい。こと歴史事象では、時間的な距離を置かないと見えてこない部分があまりに多い。当事者だって、それぞれの立場で言い分があろう。ましてや奴隷という身分となると、当事者たちの記録はほとんど皆無。これを、感動的に映像化してしまえば、ただちにイメージが固定化され、固定観念までも植え付けてしまう。まぁ、人間にとって思い込んでいる状態は、幸せな状態でもあるのだけど...
映画界においても、人物像を描くシナリオや手法が形式化や慣習化しているところがある。それでも近年、歴史の再解釈を試みる映画監督やプロデューサたちが、ちらほら現れてきたのは救いであろう。一方で、事実に基づく... と触れ込むだけで興行的に成功が見込めると考える映画監督もいるようだ。
デーヴィスは、もう少し突っ込んで、歴史的事実に対して、たとえ簡単であれ、どのように演出を施したかを観客に伝えるべきだと主張する。時代背景を映像の中に組み込めれば尚いい、と。
しかし、映画制作には商業的な性格があり、時間的にも制限される。上映時間については、黒澤明が ...どうしても切ると言うなら、フィルムを縦に切ってくれ!... と言い放った逸話が有名だ。似たような愚痴は、作家たちにも見かける。あとがきで、ページ数の制限や省略した項目などで出版社とひと悶着あったことを匂わせたり。分厚い本は売れないというわけだ。芸術家たちのこだわりは、しばしば商業的に反発する。それは、自由人の宿命であろう。
映画監督が本質を描こうとすればするほど、大衆に受け入れさせるのに苦難がつきまとう。なんといっても、映像と音楽がタッグを組めば、激的に感情移入を仕掛けることができるのだから、これほど手っ取り早い方法はあるまい。この時代になっても尚、映画作りにご執心な政治屋たちが暗躍するのもそのためだ。観客動員数なんてものを気にせず、才能ある方々には自由に創造力を解放していただきたい。凡人は、それを拾う機会を与えてくれるだけで幸せになれる...

ところで、映画というメディアに、どこまで歴史の重荷を背負わせるか、という問題がある。そもそも、歴史書の執筆と映画の制作とでは、性格があまりに違う。デーヴィス自身、映画「マルタン・ゲールの帰還」の制作顧問を担当し、この違う二つの分野のあり方について、改めて考えさせられるものがあったと見える。
近年、歴史文献では、歴史家の解釈の大勢が、これこれになっている... といった表現を見かけるようになった。歴史の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。科学においても、宇宙論などで、現時点ではこれこれが有力である... といった表現をよく見かける。真理の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。人類が学術面において少しばかり控え目になったのは良い傾向であろう。ヒルベルトの時代には、すべての問題は科学で解明できると、豪語されたものだが...
それはさておき、映画が完全に伝えようとしなくても、軽く匂わせるだけで、その情報の欠片から歴史事象に興味を持ち、小説や文献を手に取って理解を深めようとする観客も少なからずいる。その意味で、ディーヴィスは、映画監督、役者、観客は、過去についての思考実験の共同参加者と見ている。
やはり映画は娯楽だ。忠実すぎても肩がこる。いくら事実に忠実であろうとしても、やはり限界がある。解釈をめぐる限界が。ここでは、フランチェスコ・ロージ監督の言葉がなんとも印象的である...
「もし、実在した人物の物語を作るならば、... 私の考えでは、解釈することは許されても、創作は許されてはいけないと思う。二つのあいだには、大きな違いがある。観客の注目を集める容易な手段として、より壮大な映画に仕立てようという理由で、わざわざ何かを創り出す必要があるのだろうか。そのようなことはない。私にとっては、真実を解釈するために必要なだけの猶予が、作品の中で充分に与えられていることが肝心だ。なぜなら、その事実の解釈こそが、私にとって重要であるからだ...」

2019-12-01

"贈与の文化史 - 16世紀フランスにおける" Natalie Zemon Davis 著

アリストテレスは人間を定義した... ポリス的な動物である... と。ポリスとは共同体のこと。人間は一人では生きられない。人と関係を持ちながらでしか生きられない。いわば人間社会の掟である。それは、集団社会の奴隷という見方もできるわけで、生まれつき奴隷説もあながち否定はできまい。
贈与とは、まさに人と人の関係において成り立つ概念。いわば日常の行為である。贈る者とそれを受け取る者の関係は、美談として語られる。しかし、その動機となると、あまりに多種多様。贈与という行為は集団社会を活性化させるところがあり、感謝の念をこめた無償性こそが基本的な動機となろう。
しかし、人間は自己存在を無意味とすることを忌み嫌い、その先に、自分の行為が無駄であることを極端に嫌う性癖が見えてくる。いわば見返りの原理というやつだ。よく見かける行為に社交辞令ってやつがある。そこには慣習化された常識とやらに囚われ、脂ぎった思惑も見え隠れする。存在感を示すために、集団の一員であることを確認するために、虚栄心のために、あるいは、人間関係を清算するための贈り物、恩を売るのを嫌った返礼品、悪名高いものでは贈収賄の類い... 中には、純粋な感情から発する贈り物もある。その動機の歴史となると、キリスト教が成立するずっと前から...

それにしても、これほど古くから馴染んできた行為でありながら、新たな概念として掘り起こすナタリー・ゼーモン・デーヴィスという人は、文化史の考古学者とでも言おうか。経済学は、限界効用論やポートフォリオ理論などを持ち出すよりも、贈与の経済学を論じた方がまともに映る。現代社会では、市場経済と贈与行為とが根深く共存し、しかも相互作用を及ぼしている。こうした視点は、彼女にとっては自然な思考なのであろう。この方面の権威では、マルセル・モースという文化人類学者を紹介してくれる。彼の社会モデルは、「自発的 = 義務的な贈与と返礼」という形だとか。
しかし、だ。自発的と義務的とは少々対立するところがあって、返礼の型を規定できるはずもあるまい。現実に、ポジティブな互酬性とネガティブな互酬性とが共存する。親切ってやつは、言葉の響きがいいだけに、押し売りと化すと余計に厄介。そこで本書では、贈る者は見返りを求めず、受け取る者は御礼の心を忘れないという、バランスのとれた互酬性が問われる。とはいえ、モースの「贈与論」も、いずれ挑戦してみたい。
尚、宮下志朗訳版(みすず書房)を手に取る。
「贈与とは、理屈としては、自発的なものとはいえ、実際は、義務としておこなわれ、また返礼されるのであって、外見上は、自由で、感謝の念にみちていても、実は、強制的にして、利己的なふるまいにほかならない。どの贈与も、多くのことを同時に完了させる、一連のできごとの連鎖のなかで、返礼なるものを生み出すのである。明確な商業マーケットを有さない社会においては、財は交換され、再分配される。こうして平和が、ときには連帯感やら友情までもが維持されていく。そして社会的なステイタスが、北アメリカの北西海岸のインディアンのあいだのポトラッチのように、確認ないし獲得される。(略)はたしてだれがもっとも多くの財をふるまえるかを誇示しようとして、競ったのであった...」

1. 16世紀という時代
本書は、16世紀のフランスを題材にしているが、それはどんな時代だったのであろうか。キケロの「義務について」とセネカの「恩恵について」という古代ローマの偉大なガイドブックが刷られた時代。カトリックとカルヴァンとが、人間は神に何を与えることができるかを巡って激しく論争した時代。それは、濃密な感謝と義務の文化に由来する贈与システムに、重荷を背をわせた時代であったという。
大航海時代から植民地時代へと流れていく中、原住民の中に贈与の動機を探る。奴隷という言葉は悪いイメージを与えるが、悪い主人ばかりではあるまい。原住民が自発的に贈り物をするのも、けして珍しいことではなかったようである。
だが、文明レベルの違いが物品価値の格差を明るみにし、もらっても馬鹿にしたりする民族的な優越感が蔓延る。フランスでは、贈与品の価値をけなしたり、からかったりするのは、侮辱よりも酷い振る舞いとする伝統があったという。16世紀の贈与の特徴は、同じ身分の人々だけでなく、異なる身分の人々の間でも人間関係を和らげるのに寄与したようである。贈与行為が読み書き能力の垣根を取り払い、コミュニケーション回路を開く。これこそが互酬性というものであろうか。
しかしそれも、市場経済が勢いを増すとともに影をひそめていく。そうした時代の流れを敏感に感じたからこそ、モースは「贈与論」というものを書いたのかもしれない。そこには、こう書かれているそうな...
「われわれのモラルや生活のかなりの部分は、依然として、贈与と、義務と、自由とが混じり合った環境のなかに立ち止まっている。さいわいなことに、まだまだ、すべてが、売ったり買ったりといった言い方で整理・分類されてしまっているわけではない。モノには、いまだに、市場価値に加えて、感情的な価値が存在するのである。(中略)返礼なき贈与は、これを受け取った人間を、さらに低い存在とする。返礼する気持ちもなしに、そのモノが受けとられた時には、特にそうである。(中略)慈善は、これを受けた者にとっては、さらに感情を傷つけるものとなる...」

2. 贈与の信仰
贈与の動機は、ヨーロッパでは、キリスト教的な施しと結びついてきた歴史があり、倫理観や道徳観とも深く関わる。しかし、キリスト教が成立するずっと前から古代ギリシア風の動機がすでに発達していた。アリストテレスは、贈与の動機を互酬性と結びつけて説明したという。社会的市民には、お互い様という感覚が自然に働く。第一の動機として、神の恵みと結びつける信仰が未開人や部族にも見られる。ただ、強者への返礼よりも弱者への施しを重んじるという感覚は、キリスト教的であろうか。仲間内の儀礼はちっぽけな事で、より貧しい人を救おうと。人に対して非対称性でも、神との契約で対称性をなせば、チャラ!
しかしながら、個人に感謝しないで、神にのみ感謝するというのも利己的である。弱者にも格付がある。文句の言える弱者が救われ、文句を言う機会もなく、ただ沈黙するしかない弱者が救われないのであれば、十字磔刑の時代からあまり変わっていない。
しきたりと義務はすこぶる相性がいい。意味の分からないものを常識と定義づければ、何も考えずに済む。面倒くさがり屋には実に都合のいい思考アルゴリズムである。贈った者が、返礼がないから奴は無礼だとするなら、もはや贈った者が無礼極まりない。返礼する者が、悪口を言われたくないからというなら、もはや儀礼の奴隷。冠婚葬祭では、包む金額をいくらにするか駆け引きをやる有り様。協調性や絆までも強制される。
一方で、入院病棟でよく見かけるのが返礼品のお断りといった張り紙で、実に合理的である。気持ちだけで十分というは本音であろう。真に仕事をしている人たちは、形式的な儀礼に付き合っている暇もあるまい。
贈与という行為を、信仰との結びつきから論じるのもいいが、贈与行為そのものが信仰になっていることがある。人間の慣習や行動パターンなんてものは、どこか信仰的なところがある。信念めいたものがなければ学問もできない。宗教から遠ざかるには、合理性という信仰も必要だ。人間ってやつは、信仰なしに生きるのが難しい動物である。
但し、宗教に頼らなくても信仰は構築できる。実際、まったくのキリスト教徒でありながら、その伝統にこだわらず、独自の宇宙論的な信仰を構築している人たちがいる。キリスト教は秘密主義として育まれた経緯があり、おそらく点在したグループの多種多様な解釈の下で広まってきたのであろう。けして限られた数の聖書で規定できるような代物ではなさそうである。疑問を持ち、見直し、応用をともなってこその信仰とするなら、科学もなかなかの信仰である...

2019-11-24

"道徳の系譜" Friedrich Nietzsche 著

おいらは、「道徳」という言葉が大っ嫌い。「理性」という言葉も大の苦手ときた。道徳の書を読むのは、ある種の拷問だ!道徳を云々するということは、怖じ気もなく自己の傷を曝け出すことにほかならない。いわば、羞恥心との戦い。
では、なにゆえこんなものを。天の邪鬼の性癖が、こいつに向かう衝動を掻き立てやがる。怖いもの見たさってやつか。パスカルは言った... 哲学をばかにすることこそ真に哲学することである... と。書き手が書き手なら読み手も読み手。ニーチェの皮肉ぶりを皮肉って読むのがええ。類は友を呼ぶ... と言うが、負けじと病理に付き合うのがたまらない...
尚、木場深定訳版(岩波文庫)を手に取る。
「人間は余りにも久しく自分の自然的性癖を悪い眼附きで見てきたために、その性癖は人間のうちでついに良心の疚しさと姉妹になってしまった...」

副題には「一つの論駁書」とある。誰を論駁しようというのか。道徳の起源についてはショーペンハウアーと対決し、無価値や虚無といったものに意味を与えたプラトン、スピノザ、ラ・ロシュフーコーを攻撃し、カントの定言命法に至っては見返り命法とも言うべきものを呈示して魅せる。ダンテは恐るべき創意をもって、地獄の門に「われをしもまた永遠の愛は創れり」と刻んだが、ニーチェは大胆な辛辣をもって、キリスト教の天国の門に「われをしもまた永遠の憎悪は創れり」と刻むのである。
ただ、正しく批判できなければ反駁書もつまらない。それは、批判対象者たちの書物を精読していることを意味する。実は、彼らのファンなんじゃないの...
「進め!われらの旧道徳もまた喜劇に属する!」

反感ってやつは、力の余ったところに生じる。反感道徳またしかり。ニーチェはよほど力が有り余っていたと見える。生きようとする意志では満足できず、より高く生きようとする意志。自己保存の衝動から脱皮した自己増大の意図。愛憎の葛藤から卒業した高貴性。こうしたものが力への意志と言わんばかりに...
人間の健忘症は甚だしい。いまだ古代哲学の呪縛に囚われたまま。善と悪の関係は借方と貸方の関係のごとく。道徳上の負債は先送りされ、バランスシートは赤字の一途。ただ、道徳の系譜もさることながら、責任の系譜も歴史は長い。道徳上の責任を誰に押し付けようというのか。ナーダ!ナーダ!
「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲する...」

本書の扉の裏に「最近公にした『善悪の彼岸』を補説し解説するために」とある。「善悪の彼岸」では、善悪の判断能力を持つための高貴性というものが強調されていた(前記事)。賢明な少数派、すなわち高貴な人々にその他大勢の支配を委ねるという形は、哲学者を統治者にするという理想を掲げたプラトンに通ずるものがある。ここでは、人間の高級な型と低級な型の種別がより鮮明となり、支配する側の指導者道徳と従う側の隷属者道徳なるものを説く。
だが、支配欲は人間の本質であり、これから逃れることはできまい。いったい何を支配しようというのか。自己の支配に失敗すれば、他人を支配にかかる。それだけのことかもしれん...

1. 三篇の論文
本書は、三篇の論文で構成される。
第一論文「善と悪、よいとわるい」では、キリスト教的な心理学を論じ、善悪という道徳的判断の起源を暴こうとする。その起源の正体とは、奴隷人間の怨みっぽく悪賢い、反感の精神から生まれた奇形児で、伝統的な支配階級に対する抵抗運動であり、キリスト教的な暴動であったとさ...
「人間に対する恐怖とともに、われわれは人間に対する愛、人間に対する畏敬、人間に対する希望、否、人間に対する意志をさえ失ってしまった。人間を見ることは今ではもう倦怠を感じさせる... これがニヒリスムスでないとすれば、今日のニヒリスムスとは何であるか... われわれは人間に倦み果てているのだ...」

第二論文「負い目、良心の疚しさ、その他」では、良心の心理学を呈示する。世間で良心と呼ばれているものは、人間の内なる神の声なんぞではないという。もはや外に向かって放出することもできない、行き場を失った内向的な、いや、内攻的な残忍性であると。この残忍性の本能を認めようとしないのは、近代社会の軟弱化のためだと断じる。真理への愛のみが、この事実を発見し確信できると...
「残忍なくして祝祭なし。人間の最も古く、かつ最も長い歴史はそう教えている... そして、刑罰にもまたあんなに多くの祝祭的なものが含まれているのだ!... 却って残忍をまだ恥じなかったあの当時の方が、厭世家たちの現れた今日よりも地上の生活は一層明朗であったということを証拠立てようと思う。人間の頭上を覆う天空の暗雲は、人間の人間に対する羞恥の増大に比例してますます拡がってきた。」

第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するか」では、禁欲者の心理学が論じられる。禁欲主義的とは、僧職者的ということである。そして、彼らの理想は、何にもまして有害であり、終末への意志であり、無への意志であると断じる。
とはいえ、僧職者の背後で神が命じているなどと信じられてきた歴史は長い。その由来は、これまでは他に理想がなかったからと、一言で片付ける。競争相手もなく、反対の理想が欠けていただけと。しかし、その反対の理想に対しても、嘆きを憚らない。
「科学は今日あらゆる不平・不信・悔恨・自己蔑視・良心の疚しさの隠れ場所である。...それは無理想そのものの不安であり、大きな愛の欠如に基づく苦しみであり、強いられた満足に対する不満である。おお、今日では科学は何とすべてを蔽い隠していることか!何と多くのものを少なくとも蔽い隠さなくてはならないことか!」

2. 結婚という人生戦略
結婚に関する名言は、枚挙にいとまがない。ソクラテスは言葉を残した... とにかく結婚しなさい。良妻を得れば幸せになれるし、悪妻を得れば哲学者になれる... と。キェルケゴールも負けじと言葉を残した... 結婚。君は結婚しなかったことを悔やむだろう。そして結婚すればやはり悔やむだろう... と。ヘンリー・ルイス・メンケンは断じた... 真の幸せ者は結婚した女と独身の男だけ... と。シリル・コナリーはつぶやいた... 孤独に対する恐怖は、結婚による束縛に対する恐怖よりもはるかに大きいので、俺達はつい結婚しちまうんだ... と。そして、バルザックは指摘した... あらゆる人智の中で結婚に関する知識が一番遅れている... と。
結婚ほど所有の概念と強く結びつくものはないらしい。所有とは支配欲の源か。結婚(けっこん)と血痕(けっこん)が同じ音律なのは、偶然ではなさそうだ。運命の糸が血の色というのも道理か。
さて、ニーチェは、この人生戦略について何を語ってくれるだろう...
「これまで偉大な哲学者たちの誰が結婚したか。ヘーラクレイトス、プラトーン、デカルト、スピノーザ、ライプニッツ、カント、ショーペンハウアー... 彼らは結婚しなかった。のみならず、彼らが結婚する場合を考えることすらできない。結婚した哲学者は喜劇ものだ... これは私の教条である。そして、ソークラテースのあの例外はどうかと言えば... 意地の悪いソークラテースは、わざわざこの教条を証明するために、反語的に結婚したものらしいのだ。」

2019-11-17

"善悪の彼岸" Friedrich Nietzsche 著

古本屋を散歩しながら一冊の扉をちょいと開けてみると、こんな文句が飛び込んできた。酔いどれ天の邪鬼は、こいつにイチコロよ...

「真理が女である、と仮定すれば...、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女(あま)っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠絡されなかったのは確かなことだ...」

善悪の彼岸に立とうとすれば、道徳論と向かい合うことになる。おいらは、道徳ってやつが大の苦手ときた。道徳哲学なんてクソ喰らえ!むしろ、メフィストフェレスに肩入れしたい... などと心の奥で呟いてやがる。しかしながら、ニーチェが語るとなると話は別。天の邪鬼な性分がそうさせるのか...
伝統的な道徳哲学は利己心を退ける。では、啓発された利己心となるとどうであろう。伝統的な宗教は懐疑心を忌み嫌う。では、健全な懐疑心となるとどうであろう。いずれの立場も、愛ってやつを最上級の情念として崇める。ならば、正妻と愛人ではどちらが格上かと問われれば、素直に愛人と答えるさ...
愛の暴走ほど手に負えないものはない。愛は憎しみを生む。肥大化した愛国心が国家を危険に晒してきた。愛情劇が愛憎劇に変貌するのに大して手間はかからない。これが人間社会の掟というものか。ニーチェは利己心を人間の本性として受け入れ、「自分の徳を信じる = 疚しからぬ良心」といったものを定式化して魅せる。愛とは利己心の象徴のようなものか...

副題には、「未来の哲学の序曲」とある。哲学が真理を探求する学問であるなら、善悪のいずれにも立場をとる。そして、その立場は、健全な懐疑心と啓発された利己心によって支えられるであろう。ただし、ニーチェが健全かどうかは知らん。
そもそも健全ってなんだ?常識とやらに囚われた人間で溢れている社会で、健全さをまともに問えば、狂うしかあるまい。
では啓発ってなんだ?自己陶酔の類いか。そもそも私利私欲を知らなくて、道徳が行えるのか。道徳哲学ってやつは、病理学に属すものらしい...
尚、木場深定訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 反対物の信仰
ニーチェは、偉大な形而上学者たちの先入観は、様々な価値の反対物を信仰することにあると攻撃する。攻撃対象は、カント、スピノザ、デカルトたち。真理が誤謬から生じるとすれば、誤謬の能力にも価値が認められよう。真理への意志が迷妄への意志から生じるとすれば、あるいは、無私の行為が私欲から生じるとすれば、それらの行為にも価値が認められよう。だが、ニーチェは、そんなことを夢見るのは阿呆だと吐き捨てる。老カントの定言命法に対しては、見返り命法とでも言いたげに...
また、ニーチェの女性蔑視は周知の通りだが、ここではイギリス人嫌いを披露する。ベーコン、ホッブズ、ヒューム、ロックらを、何ら哲学的な種族ではなく、機械論的な愚劣化であると。彼らに反抗して立ち上がったのがカントだったとさ...
しかしながら、ニーチェの懐疑心こそ、見事に反対物の信仰から編み出されているではないか。その反対物とは、皮肉である。哲学は哲学によって喰い物にされる。そこには共喰いの原理が働く...
「古代の最も立派な奴、プラトーンに、どこからあんな病気が取り憑いたのか。やはりあの悪いソークラテースが彼を堕落させたのか。ソークラテースはやはり青年を堕落に導いたのではあるまいか。だから自ら毒杯を飲まされるに値したのではなかろうか。」

2. 人間畜群
ニーチェが生きた時代は、世界が急速な近代化によって大量生産へ邁進していき、やがて工業力が国力の指標と結びつき、ファシズムや国粋主義を旺盛にしていく時代である。特にドイツでは、リヒャルト・ワーグナーの解釈をめぐっての論争が巻き起こり、歌劇「マイスタージンガー」と民族主義が結びついていく。
ニーチェは、フランス革命以来の民主主義社会の弱点を明るみにする。民主主義運動は、政治機構の頽廃形式だけでなく、人間の頽廃形式であり、集団的退化であると。凡庸人を黙らせよ!と。
民主主義社会の理想は、賢明な少数派がその他大勢を支配する形式であり、結局は畜群本能に帰着するというのか。そうかもしれん。賢明な主人と愚昧な奴隷という構図は、アリストテレスが唱えた「生まれつき奴隷」とやらを彷彿させる。ただ、この主従関係は、従来の封建的な地位や身分の序列や、世襲的な序列などではない。あくまでも賢明な人が支配する形式が望ましいということである。
しかしながら、賢明な人ほど謙遜の意を表明するもので、こと人間社会においては理想と現実があまりに乖離し、理想が高ければ高いほど逆の現象へ引きずり込まれる。実際、政治屋が社会制度を崩壊させ、金融屋が国際規模の経済危機に陥れ、教育屋が教養を偏重させ、愛国者が国家を危機に陥れ、平和主義者が戦争を招き入れ、友愛者が愛を安っぽくさせる。おまけに、彼らを批判する道徳屋はいつも憤慨してやがるし、道徳では心は鎮められないと見える。
そして今、グローバリズムに邁進し、共有という概念が崇められる時代にあって、大衆社会に問われているのは、大衆がいかに賢明な大衆になりうるか、ということであろうが、そう問えば問うほど... 個々で静かに問うしかなさそうか...

3. 高貴な人間
ニーチェは、畜群本能に対して、高貴な人間モデルを提示する。彼に言わせると、自己否定や控え目な謙遜は徳ではなく、むしろ徳の浪費ということである。この手の人種は、自己を価値規定できる能力を持ち、他人から是認されることを必要としないという。
大抵の人は他人に誤解されることを嫌うものだが、それは虚栄心の強さを示している。自己に対して畏敬を持つことができれば、他人の目など気にしないはず。真理の道は遠く、愚鈍な評判なんぞにかまっている暇はあるまい。高貴な人間とは、自己を克服する能力の持ち主ということになろうか。そうした人間を支配階級に据えるという考え方は、プラトンが理想とした哲学者を統治者に据えるという考えに通ずる。プラトンは哲学者を愛智者とした。過去の偉大な哲学者たちを散々こき下ろしておきながら、結局は古典回帰か...

4. 言語のるつぼ
哲学には、伝統的に根本的な問題を抱えいてる。無知を知るという問題が、それである。哲学が表現するものには、形容矛盾が多分に含まれる。いわば、言葉の遊び、いや、言葉のるつぼ。それは、真理ってやつを人間が編み出した言葉で記述するには、限界があるということだろう。
しかしながら、この状況を克服するために、人間の言葉には高等テクニックがある。ある抽象的な存在を、一つの用語で定義しちまうという。そして、その用語を理解した者は誰もいない。実際、人間社会には人間自身が理解できていない用語で溢れている。おそらく、「道徳」という言葉もその類いであろう。「理性」という言葉も、「正義」という言葉も、「愛」という言葉はその最たるもの... だから感情的になれる。なぁーに、心配はいらない。無知、無学、虚偽を知った上で学問の道が開けるというもの。
そして、言葉の呪縛から解放されようと、形而上学が位置づける最上級の意志を覚醒させればいい。それが、ニーチェの言う「自由の意志」ってやつか。やはり「自由」という言葉ほど定義の難しいものはあるまい...

5. 箴言集
本書には、間奏のために、箴言を集めた章がド真ん中に配置される。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この章をメインに読んでいる。ちょいと気に入ったものを拾っておこう...

「認識それ自身のための認識... これは道徳が仕掛ける窮極の陥穽である。これによって人々はもう一度、全く道徳に巻き込まれる。」

「ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての爾余の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然り。

「平和な状態にあるとき、好戦的な人間は自己自らに襲いかかる。」

「自分自身を軽蔑する者も、やはり常にその際なお軽蔑者として自分を尊敬する。」

「どうだって?偉人だと?私が見るのは常にただ自分自身の理想を演じる俳優ばかりだ。」

「道徳的現象などというものは全く存在しない、むしろ、ただ現象の道徳的解釈のみが存在する。」

「人間が自分をそう容易に神だと思わないのは、下腹部にその理由がある。」

「賢明な人間にも愚行があることを人々は信じない。何という人権の侵害であろう!」

「悪意のように見える不遜な善意もある。」

2019-11-10

"大衆の反逆" José Ortega y Gasset 著

大衆は臭い!
いくら平等になっても、差別癖は治らない。いくら自由になっても、人のやる事に寛容ではいられない。これはもう人間の本質である。王侯貴族の時代、その他大勢や雑多な輩などと呼ばれてきた人々が意識を共有するようになると、群れをなし、ある種の社会的地位を獲得してきた。世間では大衆と呼ばれ、いまや支配階級の無視できない存在に...
群れるからには、質より量がモノを言う。封建的な残留物を処分しようと人民が蜂起すると、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパ各地に連鎖していった。フランス革命はその象徴的な出来事だが、共和国を掲げながら直ぐさま恐怖政治と化し、ナポレオンの呼び水となった。この事例は、独裁制が危険なことは周知であったが、民主制の暴走も同じくらい危険だということを世に知らしめた。どんなに良い事でも、同じことをやる人間が集まり過ぎると、何かと問題になるのが人間社会。大衆社会は、大衆がいかに賢明な大衆になりうるかという問題を突きつける...

ところで、大衆とは、どのくらいの人が集まると、大衆となるのだろう。この問い掛けは人口問題を暗示している。産業革命に発する技術革新は、人類史上例を見ない人口増殖をもたらした。この増え方は自然に適っているだろうか。なんだかんだいって科学技術が、多くの問題を解決してきたものの。この異常な、いや異様な増殖に対抗するには、人類が地球外生命体へ進化するしかなさそうである。いま、人口減少に転じているのは、人間社会に防衛本能が自然に働いているのかもしれない。そもそも人間が多すぎるのだ。寿命が延びれば、それも自然であろう。
エリートの政策立案者たちは相も変わらず、経済が枯渇すれば消費を煽ることに奔走し、少子化問題に直面すれば子供を産むように働きかけ、もはや目の前の現象をそのままひっくり返すだけの対策しか打ち出せないでいる。どこぞの組織の戦略会議でもよく見かける光景だ。そして、かつて経済学が古臭いとして葬り去ったマルサスの人口論が、今になって再認識させられるのも皮肉である...

ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、大衆と呼ばれる圧倒的多数が奮起してきた現象を、自由主義的デモクラシーと技術進歩という二つの側面から論じる。資本力によって産業が拡大し、豊かさがもたらされると、ブルジョア階級が牽引して情報や知識、そして意識が民衆に浸透していく。封建的な支配者階級が打倒され、次の対立構図は資本家階級と労働者階級ということに。そして、よく論じられる形が、マルクスをはじめとする階級闘争の理論である。
しかし、オルテガは、社会階級という論点に一線を画し、「優れた少数者」「大衆」という二つの人間の型で論じる。優れた少数者とは、自己に多くを要求し、自己啓発に励むタイプをいい、大衆とは、自己に対して特別な要求を持たず、自己実現の努力をなそうとしないタイプをいうらしい。とりあえず、哲学する者と哲学なき者の区別としておこうか。どちらの型に属すにせよ、人間が排除好きな動物であることに変わりはない。大衆は理解の及ばない異物の排除にかかり、小グループは大衆と一緒にすな!と言葉を荒らげる。
こうした論点は、なにも真新しいものではないが、オルテガが生きた時代にいち早く着眼したことに注目したい。彼に言わせると、大衆とは「最大の善と最大の悪をなしうる力にほかならない」という...
尚、桑名一博訳版(白水社)を手に取る。
「現代の特徴は、凡俗な人間が、自分が凡俗であるのを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。...(略)... すべての人と同じでない者、すべての人と同じように考えない者は、締め出される危険にさらされている。」

本書が書かれた時代には、大衆の意志が一気にファシズムに向かった背景がある。我を忘れさせるのにもってこいの方法論が熱狂的な政治と言わんばかりに、扇動者たちが大々的なプロパガンダに励んだ時代。
しかし、言葉を乱用すれば言葉の権威を失い、政治家たちの言葉を安っぽくさせるのは、いつの時代も同じ。人間社会には、どんなに勢いのある流行り事に対しても、そこから距離を置き、沈黙する少数派がいる。その時代には、時流に乗れないとして馬鹿にされながらも、後世、賢明な人々と呼ばれる人たちが。彼らは自己観念が強すぎるから、大衆に馴染めないのかもしれない。偉大な科学者に多いタイプで、コペルニクスやガリレオもそうした人間だったのだろう。
少数派が点在する現象は、まさに21世紀の社会が、そうしした傾向を強めているように見える。ただ、ソーシャルメディアなどのツールを活用して少数派の間でグループを形成し、沈黙せずに済むという特徴も同居している。小グループの成員たちは、それぞれに共通の哲学を育んでいるようである。
インターネットは、情報が誰にでも手に入るという点で、見事に機会均等を実現しているかに見える。しかしながら、情報は向こうからはやってこない。向こうからやってくるのは、テレビ放送のような従来型メディアぐらいなもの。そして、自発的に情報を入手する習慣を身につける者と、向こうからやってくる情報をそのまま受け取るだけの者とに分かれる。この二つの習慣の違いは大きい。大衆の中で意識格差をもたらし、人間社会は、あらゆる思想、思考、意識において二極化していく。放送とは送りっ放しと書く。送りっぱなしであるからには、平均人を扇動するには最も効果的なメディアとなる。
とはいえ、平均人というのが大衆の中にどれぐらいの割合を占めるのだろう。小グループへの分散化が進めば、それぞれに多様化が進み、そのうち大衆よりも少数派の寄せ集めの方が圧倒的多数ということになりそうである。実際、テレビ番組のような従来型の大衆娯楽から視聴者が離れつつある。それでも完全に無くなることはないだろう。受動的なメディアに縋って生きている人たちも少なからずいる。だから多様化なのである。
一方で、これだけ流行っている SNS を嫌う人も珍しくない。ツールを活用する場面の多い技術業界にあっても、共有を嫌う技術者は意外と多い。極端な立場では、コメントは不要!とする人たちもいる。読みたいヤツには読ませ、読みたくないヤツは黙らせろ!と。コメンテータという存在は、視聴率を煽るには最高の俗物となる。
また、情報だけでなく、情報収集の手段も多様化が進み、大勢で群がる手段に固執すれば、やはり大衆に飲み込まれてしまう。大衆に飲み込まれてしまえば、自己の中で健全な懐疑論を唱えるのも難しい。ただ、それに気づかなければ、それが一番幸せ。大衆って臭いわりに、臭さに慣れちまえば、結構居心地がよかったりする。臭いフェチか...
確かに、大衆から距離を置き、炎上騒ぎに巻き込まれないようにする賢明な人々が静かに存在しているのを感じる。人生の意義を日々考えながら生きていれば、大衆に付き合っているほど暇じゃない!と。自己の存在に意味があると考えること自体が人間の思い上がりであろうが、そうでも考えないと苦難を乗り越えることは難しい...
「近代思想が犯している最も重大な誤謬の一つは、社会と協同体を混同することであったが、後者はほぼ前者の逆に位置するものである。社会は、意志の同意によって形成されるものでない。」

では、社会を真に支配する者とは...
支配力といえば、つい権力や武力を思い浮かべてしまうが、オルテガは、ちと違った見方をしている。支配とは、他の力を奪い取ろうとする態度ではなく、力を静かに行使することだという。つまるところ、支配力とは精神力にほかならない、というわけである。
そこで、暗黙の支配力として「世論」という用語が浮き彫りになる。この用語がいつ登場したかは知らんが、これに似た概念は古くからあり、古代の王ですら民衆の心を重視したことが神話となって伝えられる。人間ってやつは、結局は人目を気にしながら生きているということだろう。現在の政治指導者たちは、世論を無視して権力を行使するわけにはいかない。オルテガは、世論が理念や思想といった形而上学的なものを身にまとうことができれば、大衆も捨てたもんじゃない、とかすかに希望を抱く...
「哲学が支配するためには、プラトンが初めに望んだように、哲学者が支配する必要はないし、次に、プラトンがより控え目に望んだように、皇帝が哲学することさえ必要ではない。厳密に言えば、いずれもきわめていまわしいことである。哲学が支配するためには、哲学があればじゅうぶんである。」

2019-11-03

"大学の使命" José Ortega y Gasset 著

古くから、行いの悪さを教育のせいにしたり、行儀の悪さを育ちの悪さとしたりする考えがある。そうした傾向があるのも確かであろう。国民が偉大であるということは、その国の教育制度もまた偉大なのであろう。
しかし、それだけだろうか。どんなに立派な条文を謳ったところで、どんなに立派なスローガンを掲げたところで、形骸化する事例はわんさとある。制度や契約といった取り決めは慣習と結びついて効力を発揮するもので、慣習法の意義がここにある。どんな集団社会にも暗黙の了解といった、なかなか手強い社会規範がある。「空気を読む」という特徴は、なにも日本人固有のものではあるまい。表現の仕方は日本人らしいにしても、集団社会によって読み方が違うだけのことで、主張すべき時に主張しなければ、やはり空気が読めないのである。こうした感覚は、価値観、世界観、人生観の違いとして現れ、長い年月をかけて無意識に慣習化していき、やがて文化として居座る。
「生きた思想、生きた文化は、自己を取り巻く自然的・精神的・歴史的・社会的諸環境との対話においてのみ形成されるとはオルテガの根本思想である。」

注目したいのは、大学の機能の一つとして挙げられる「教養」を文化として捉えている点である。ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、大学を三つの機能で結論づける。一つは、教養(文化)。二つは、専門教育。三つは、科学研究と研究者の養成。近代教育の特徴は、その大部分が科学に発するとし、まず科学の在り方にメスを入れる。だが、危機に瀕しているのは科学ではなく、人間である。専門化が進み、分裂した人間を生きた統一体へと蘇生させること。これが、オルテガの意図するところである。
ここには、当時のスペインの教育事情が透けて見える。ワーテルローで勝利したイギリスや普仏戦争で勝利したドイツを見て、即座にイギリスの中等教育とドイツの高等教育の制度を導入せよ!そうすれば、スペインも偉大な国民性が身につけられる、といった教育論で盛り上がっていく様子が。オルテガは、これに苦言を呈す形で教育論、いや、文化論を展開する。いやいや、酔いどれ天の邪鬼の眼には、古臭い国粋主義的教育論を皮肉っているように映る。まずもって、他国の制度を真似ればいいなどと安易な教育論を持ち出す有識者どもを再教育しろってか...
尚、本書には「大学の使命」、「『人文学研究所』趣意書」の二篇が収録され、井上正訳版(玉川大学出版部)を手に取る。

どこの国でも、社会を先導する大半が大卒や大学院卒の知識層。オルテガは、彼らを「平均人」「近代の野蛮人」などと呼び、以前よりもいっそう博識ではあるが、同時に無教養な専門家に成り下がっていると指摘する。
学問が研究を深めるほど専門性を強めるのは自然の流れであろう。そのために、総合的、統合的な視点を疎かにしがち。ジェネラリストとスペシャリストはどちらが重要かという議論は、現在でもお盛んだ。どちらを目指すかは個人の問題だとしても、偏狭な知識によって社会が先導されるとすれば、やはり問題である。現代社会では、総合的な知識も一つの研究分野として成立しており、その意味では、誰もがスペシャリストということになるのかもしれないが...
教養というものは、人間性とセットで育まれる。そのために、オルテガは一般教養の意義を再認識させようとする。近代の教養が科学的観点を基調とし、その傾向をますます強めているのは確かであろう。主観性の強い人間にとって、学問に客観性を求めなければ、学問の意味そのものを失ってしまう。オルテガは、この傾向を少しばかり弱めて人文学的観点を取り戻そうとしているだけで、科学を蔑んでいるわけではない。それどころか、大学は科学によって生きる!科学は大学の尊厳である!科学は大学の魂である!... とまで言っている。
「もし教養と専門が、たえまなく発酵している科学、つまり探求と接触せずして、大学内で孤立するならば、両者はまもなく麻痺状態に陥り硬直したスコラ学になり終わるであろう。」

そして、五つの教養科目を提示する。
1. 物理学的世界像(物理学)
2. 有機的生命の根本問題(生物学)
3. 人類の歴史的過程(歴史学)
4. 社会生活の構造と機能(社会学)
5. 宇宙のプラン(哲学)。

近代の教育機関は、ガリレオやデカルトたちによって創始された新科学の下で生を授かった。ヒルベルトの時代には、どんな問題でも科学で解決できると信じられたが、20世紀になると行き詰まりを見せる。
おまけに、科学技術が工業生産や大量生産の呼び水となり、これに国力が結びついてファシズムやナショナリズムを旺盛にしていき、平均人の知的底上げが急務となる。
オルテガの大学論は、そんな時代に書かれた。彼の信念には、研究第一主義から教養第一主義への移行が伺える。
「科学者はあらためて人間化されなければならない。」
当時の人文主義者にも苦言を呈す。
「人文主義と呼ばれているものは、つまるところ、文法学者の独裁の謂であった。」

では、これらの知識を総合的な視点から調和させるものとはなんであろう。オルテガは、一つの解決策として理念を持ち出す。そして、真によき医師、よき裁判官、よき技師を育成せよ!社会はよき専門家を必要とする!と。賢明なエリートほど社会にとって有用な存在はないが、愚昧なエリートほど有害な存在もない、と言わんばかりに...
「理念なくしては、われわれは人間的に生きることができない。われわれのなすことは、常に諸理念に依存している。そして生きるとは、あれこれのことをなすということにほかならない。だからインド最古の書物でこういわれた -『あたかも牛車の車輪が牛の蹄に従うごとく、われらの所為はわれらの所信に従う』と。かくいわれる意味 - そのようなものとしてそこには、なんと主知主義的なものは含まれていない - において、われわれはわれわれの理念である。... 教養とは、各時代における諸理念の生きた体系である。」

ところで、理念ってなんだ???
教育機関に何を期待するかは個人の問題としても、そこまで重荷を背負わせるのもどうであろう。本当に重要なのは、大学や大学院を卒業してからの学び方である。実際、教育機関に頼らなくても独学で啓発する人たちがいる。彼らは、自分自身でありたいがために戦い、自己投資や自己実現に励むかに見える。
今、この難解な書を読み終え、疲れ果て、溜息をつき、結局、この言葉に救いを求める他はなさそうである...

「人にものを教えることはできない。できることは、相手のなかにすでにある力を見いだすこと、その手助けである。」
... ガリレオ・ガリレイ