人間には縄張り意識という性癖がある。それは、客観性を謳う学問の世界とて同じこと。どんな学問分野においても、学派に分かれては互いに批判しあう風潮が見てとれる。ただ、正しく理解しなければ、正しく批判することもできまい。こと経済学においては、学派の群れは流行り廃りが激しく、やれケインズは死んだ!だの、もはやスミスは遺物!だのと吹聴する輩をよく見かける。確かに、どの処方箋も不十分。
しかし、だ。偉大な警鐘を抹殺してきたのは経済学者たち自身ではないのか。ある経済学者は経済学を学ぶと利己的になりやすいと指摘したが、カネの研究に走ると目先の現象に囚われやすいのか、現在の多くの経済モデルが何らかの形でマネタリズムを包含しているかに見える。生き甲斐までも金儲けの道具としてしまえば、やはりそういう目で見てしまう。
小さな政府と大きな政府、自由競争と価値分配、計量化アプローチと非計量化アプローチ... 等々の対立構図を煽っては、自由と平等の対立にまで及ぶ。経済学の枠組みでは、自由という価値観を「自由放任主義」という用語でひと括りにしてしまうが、自由ってやつは実に掴みどころのない多様な概念で、いかようにも解釈できる。悪行をやるのも、自由といえば自由なのだ。「道徳感情論」を著したアダム・スミスは、確かに「見えざる手」について言及した。彼はあの世で愚痴っているだろう。経済学の父と呼ばれることに違和感を抱きつつ...
「古典が古典であるゆえんは、異なる時と所での観察や思索をもとに、現在を支配する考え方に対しまったく別の地平から異論をつきつけてくるところにある。議論が乗っている地平そのものが異なるのだから、まずはそれを理解しないと反論もできないだろう。しかし独占志向が強すぎるせいか、経済学には誤解したままでの反論があまりにも多い。『経済学の進歩』と言われるものの大半は、誤解によって異説を排除し、自派の説を体系化することにすぎない。」
本書は、反目を繰り返す経済理論史のゴタゴタ劇にあって、30冊を好意的に紹介してくれる。なるほど、中立の目で眺めるには、好意的に書き下ろすのが合理的というわけか。歴史やその背景を紐解きながら、短所を踏まえて長所を拾い上げ、なにゆえそのような考察に及んだかを想像してみる。
重商主義は、封建的束縛から民衆が解放されつつある時代に、貿易という手段をもって自由精神を体現しようとした。貿易による差額に目をつければ、サヤ取りの原理を旺盛にさせていくのだけど。
市場メカニズムは、価値の尺度を統計的に解決する方法論として、欲望の群れを相殺する形で機能させようとした。世間で非難される投機行為だって、政府や企業の思惑を排除した形でお金が流れるという意味では、より客観的な行為という見方もできなくはない。そこで、市場参加者の価値観が多種多様であることが鍵となるが、群がる価値観は偏りすぎるほどに偏っており、欲望が相殺するどころか、一方向に暴走を始める。
その暴走の処方箋として登場したケインズ理論は、世間に政府介入の必要性を知らしめたが、今度は一部の業界との癒着を助長し、ピラミッドでもなんでも造ってしまえと、無駄な公共投資を呼び込む。
こうして眺めていると、それぞれの時代背景の下で、過去の経済学者たちの考えはそれなりに納得できる。要するに、万能な経済理論がいまだ発見されていないというだけのこと。経済理論は常に移ろいやすく、しかも極端に触れ、おまけに過去の理論はゾンビのように蘇る。この学問分野は中庸という概念がすこぶる苦手と見える。呪文のように唱えられてきた、見えざる手、自由放任主義、労働価値説、マルクス主義、ケインズ改革... いずれも自足を満たせずにいる。
そして本書で展開される、ロックの「統治論」やスミスの「道徳感情論」に始まる名著めぐりも、マネタリズムへ傾倒していく様を概観しながら、仕舞にはアマルティア・センの「不平等の再検討」に引き戻される。いま自由の砦を死守せねば... 市場の奴隷にならず、貨幣の奴隷にならず...
「自派のとはまったく異なる発想がありうることを知ることこそが、古典を読むという行為の醍醐味である。ケインズの『一般理論』を通読しても第十二章は読み飛ばすとか、スミスの『国富論』に目を通しても『自然な資本投下の順序』という概念は無視するといった読み方では、古典を読んだことにならない。たとえ理解できなくとも、また自説にとって不都合であっても、違和感を否定せず記憶に留めるような謙虚さを持ち続けることが、古典を読むことの意義なのである。」
本書は、マルクス派のマルクス知らず、ハイエク読みのハイエク知らず、ケインジアンのケインズ知らず... といった皮肉を交えて物語ってくれる。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この皮肉な面ばかりに目が行ってしまうから困ったものである...
市場への介入を論じた者はすべて重商主義者とみなされた時代、彼ら経済思想家たちは本当にスミスの敵だったのだろうか。「国富論」については、まだまともに読まれていない!と言い放ち、道徳論を無視した形で経済学が専門分野として邁進していく様を物語る。
リカードの「比較優位説」には感服したものだが、既にこの時代に、フリードリッヒ・リストは「資本主義には文化に応じた型がある」と論じていたとか。現代の画一化へと向かうグローバリズムへの警鐘ともとれる理論を。
生産と分配の図式に則った J. S. ミルの社会改革ヴィジョンは、自分が幸福になろうとするのは人間の基本行動だが、なにも直接自分の幸福を目的とせずとも、幸福感を味わえる方法があることを告げている。人助けや社会に役立つなどの動機で。物質的幸福と精神的幸福の両面から論じたミルは、功利主義が一枚岩ではなかったことを示している。
ワルラスの一般均衡理論は、自由競争のもとで市場が自動的に需給の均衡をもたらすことを論証しようとした。だが、ワルラス自身はちょっと風変わりな社会主義者だったようで、思想的にも土地の固有を訴えた父を引き継いでおり、結果的に資本主義擁護論を唱えてしまったことが不本意であったとか。
バーリとミーンズが著した「近代株式会社と私有財産」は、既に所有と経営の分離について論じられている。株式会社の登場は、17世紀のオランダやイギリスの植民会社に見て取れるが、現在でも会社は誰のものか?などと論争を繰り返す。スミスは、個人会社こそが利潤の追求と経営の合理性を両立させ、ひいては国富の増進に寄与すると述べたという。経営者が自分で資本を保有し、労働者を直接雇い、土地を自分の名義で借りるため、責任をもって利潤に励むからと。マーシャルも経営者が所有者でもある古典的な中小企業の形態が望ましいと考えたとか。このように、経営者が企業の非所有者でありうる株式会社の形態は、放漫経営に陥ると指摘した経済学者は少なくない。そして21世紀、M&A が横行し、企業ガバナンスの問題を露呈する。
ケインズの「一般理論」には、所有と経営の分離の観点から株主が企業の利潤や配当を当てにするよりも投機に走りがちになり、過剰に悲観して貨幣を使わなくなって流動性の罠に陥り、そのために不況を招き入れるという主張も含まれていたようである。そして本書は、「一般理論」をこう評している。
「ワルラス以降の新古典派が工学化を推し進めていた経済学を、人間社会の学 = モラル・サイエンスの圏内に復帰させようとした記念碑的作品である。」
サムエルソン経済学は、教科書としての地位を獲得した。その特徴は、ミクロとマクロという二つの視点。ミクロ理論では新古典派的に、企業や消費者、労働者や資本家など個別の経済主体の行動を最適化し、それらの集計した需要と供給の価格の調整作用により市場の均衡を分析する。マクロ理論ではケインズ理論的に、雇用量や一般物価、利子率や生産量、国民所得、消費や投資額などの変数の関係を、消費関数や投資関数、生産関数、需要関数や供給関数などによって定式化し、これらを用いて財市場、資産市場、労働市場などを均衡状態として描き出す。両者はミクロとマクロの相違はあれど、市場を均衡において捉える点で共通している。
しかしながら、本書はサムエルソン教科書の罪も指摘している。以降の経済学は、フリードマンやルーカスらの数式志向へ急速に傾倒していき、ノーベル経済学賞の方向づけともなった。マネタリズム時代の幕開けである。だからといって、数式志向が悪いとも言えまい。客観的な価値判断を数量化することの意義は大きい。問題は思想哲学を見失ってしまったことだ。経済学は哲学を持つにはまだ早すぎるってか...
本書は、マネタリズムへ流されそうな経済学の名著めぐりにあって、物質的経済学から精神的経済学へ引き戻そうとする意図をどころどころに見せる。ちょいと異質なところでは、豊かさを論じたガルプレイス、正義の側面から論じたロールズ、さらには、マネジメントとイノベーションの側面からドラッカーも登場する。そして最後に、アマルティア・センの貧困についての言及で締めくくられ、ホッとする...
ところで、マルクスの「資本論」だが... 二十年もの間、こいつが ToDo リストの読書欄にずっとのさばっていやがる。お茶を濁そうと、「資本論」の序説に当たる「経済学批判」に触れた時はなかなかのものだと感じ入ったものだが、「共産党宣言」に触れた途端に距離を置きたくなる。万国のプロレタリア団結せよ!などと叫ばれた日にゃ...
そして、本書のこのフレーズで、やっぱり読んでみようかなぁ... という気にさせてくれるが、どうなることやら...
「使用価値はけっして資本家の直接の目的として扱われるべきではない。それどころか個々の利潤ですらその目的とはいえず、目的はただひとつ、利潤の休みなき運動である。より多くの富をめざすこの絶対的な衝動、この情熱的な価値の追跡は、資本家にも貨幣退蔵者にも共通している。しかし貨幣退蔵者は愚かしい資本家でしかないのに対して、資本家は合理的な貨幣退蔵者である。貨幣退蔵者は流通から貨幣を救い出すことによって価値の絶えざる増殖をめざすが、もっと利口な資本家は貨幣をたえず新たに流通へとゆだねることによって同じことを実現する。」
... 「資本論」第一巻第二篇第二章より
Contents
- 2020-02-02 "経済学の名著30" 松原隆一郎 著
- 2020-01-26 時間に翻弄され... 自我に翻弄され... あとは、なんとかなら~わ主義
- 2020-01-19 過去に狂い... 未来に狂い... そして、現在に狂う...
- 2020-01-12 苦しかった記憶は懐かしい...
- 2020-01-05 好きなことをやって生きていくのは苦しい...
- 2019-12-29 "スイスの凄い競争力" R. James Breiding 著
- 2019-12-22 "現代ファイナンス論" Zvi Bodie & Robert C. Merton 著
- 2019-12-15 "境界を生きた女たち" Natalie Zemon Davis 著
- 2019-12-08 "歴史叙述としての映画 - 描かれた奴隷たち" Natalie Zemon Davis 著
- 2019-12-01 "贈与の文化史 - 16世紀フランスにおける" Natalie Zemon Davis 著
2020-02-02
2020-01-26
時間に翻弄され... 自我に翻弄され... あとは、なんとかなら~わ主義
自然界において、時間に方向性があるかどうかは知らん。が、少なくとも人間界においては、時間の矢は絶対的な法則として君臨してやがる。あの大科学者は言った、「エントロピーはすべての科学にとって第一の法則である。」と...
エントロピーといえば、たいていの物理学の教科書で、ただ「増大する」とだけ記される。覆水盆に返らず... 喰っちまったラーメンの末路は排泄物... 空けちまったボトルにおとといおいで... といった格言は、すべてこの法則の支配下にある。それは、時間の方向性に幽閉された世界。あらゆる物体が空間に対して様々な方向へ移動できるというのに、人間の認識だけが一方向性に支配されるとは、神もケチなことをなさる。
人間にとって、最も手に負えない認識が「自我」ってやつだ。こいつが精神病を患わせる。自我は時間の産物であろうか。ならば、時間から解放されれば、自我も解放されるだろうか。否、時間が自我の産物であろうか。ならば、無我の境地へ導けば、時間の概念から解放されるだろうか。自我(じが)と時間(じかん)には、同じ音律を感じる...
「私たちは時間を抹殺することを運命づけられている。こうして、少しずつ死んでいくのだ。」... オクタビオ・パース
どんな事柄でも、究めようとすれば哲学者になれるというが、時間を究めるのは絶望的ときた。ただ、人間ってやつは、何かに束縛されたり、制約を受けることによって、そこに価値を見い出す能力を持っている。束縛がなければ、自由にも価値を見い出せないし、苦難に遭遇しなければ、幸福を見つけることもできない。
そして、時間の矢に幽閉されるからこそ、見い出せる価値がある。いくらでもやり直せるなら学ぶ必要もないし、時には取り返しがつかないということが救ってくれる。あとは、時間が解決してくれるさ...
人間の認識が、すべて自我の産物で、時間の産物であるとしたら、人生なんてものはすべてが独り善がり... これですべてが片付けられれば、この世は極楽よ。天国と地獄があるなら、まさにこの世がそれだ。生き甲斐を見つけられれば天国、見つけられなければ地獄...
いくら独り善がりとはいえ、人間はひとりで生きては行けない。何かに依存しなければ生きては行けない。では、何に依存しながら生きて行くか?これが問われる。自我に目覚めれば、独学に突っ走るのもいい。やはり独学は楽しい。自分のペースで好きなように寄り道ができる。愛人と学べるなら最高!目的はただ一つ、自由を謳歌することだ。この道が天国行きか、地獄行きかは知らん。ましてや知性や理性を会得しようなどという野心はない。そして、世間知らずで終わるだろう。知りたくもないが...
独学の苦労は、ルネサンスの時代とは比べ物になるまい。高度な情報社会では、食欲旺盛なだけ知識を得ることができる。快楽人として、享楽人として、欲情と好奇心を存分に解放できる道はますます開けている。もちろん女性への欲情も修行のうち。ちなみに、恋愛すると頭が悪くなるわ!と夜の社交場のお嬢に諭された。馬鹿は死んでも治らんと...
「私も青春のことを懐かしみ、若い人を羨むことがあるが、しかし、もう一度若くなって世の中を渡ってこなければならぬと思うと、何よりも先に煩わしい思いがする。」... 正宗白鳥
時間の矢に一度捕まっちまえば、あとはやり続けるだけ。そして、継続することに価値を見出す。「継続は力なり」というが、それは、組織や人間関係といった日常の決まりきった枠組みに安住することではあるまい。好きなことをやる... という切り口から、人生戦略を再検討してみるのもいい。ついでに、仕事という用語を再定義してみるのもいい。自由に生きるとは、そういうことかもしれん。
流行り廃りに振り回される人生なんてつまらない。本も買えないほど困窮してはたまらないが、カネや名声を追いかけて生きるより、好きなことを追いかけて生きる方がいい。カネにならなくても、仕事はいくらでも見つけられる。そのためにも、年収に惑わされず、最低限の生活を心得て...
おいらの金銭感覚は、かなり保守的だ。それは投資行動にも反映されている。保守的とは、綿密に調査して行動することであって、その場に安住して行動しないということではない。生活は貧相でも、気持ちはデラックスにいきたいものだ。なにもかも商業主義に奔走するご時世で、自由の砦をやすやすと明け渡すわけにはいかない。貧乏暇なし!個人事業主は年中無休!まだまだ分からないことだらけ、やりたいことがやまほどある。らしくない生き方は、もう御免だ。そして、これからも足掻き続けるだろう。それが死ぬ瞬間まで継続できれば幸せかもしれぬ。あとは、なんとかならーわ...
「人は繰り返し行うことの集大成である。それゆえ優秀さとは、行為でなく、習慣である。」... アリストテレス
エントロピーといえば、たいていの物理学の教科書で、ただ「増大する」とだけ記される。覆水盆に返らず... 喰っちまったラーメンの末路は排泄物... 空けちまったボトルにおとといおいで... といった格言は、すべてこの法則の支配下にある。それは、時間の方向性に幽閉された世界。あらゆる物体が空間に対して様々な方向へ移動できるというのに、人間の認識だけが一方向性に支配されるとは、神もケチなことをなさる。
人間にとって、最も手に負えない認識が「自我」ってやつだ。こいつが精神病を患わせる。自我は時間の産物であろうか。ならば、時間から解放されれば、自我も解放されるだろうか。否、時間が自我の産物であろうか。ならば、無我の境地へ導けば、時間の概念から解放されるだろうか。自我(じが)と時間(じかん)には、同じ音律を感じる...
「私たちは時間を抹殺することを運命づけられている。こうして、少しずつ死んでいくのだ。」... オクタビオ・パース
どんな事柄でも、究めようとすれば哲学者になれるというが、時間を究めるのは絶望的ときた。ただ、人間ってやつは、何かに束縛されたり、制約を受けることによって、そこに価値を見い出す能力を持っている。束縛がなければ、自由にも価値を見い出せないし、苦難に遭遇しなければ、幸福を見つけることもできない。
そして、時間の矢に幽閉されるからこそ、見い出せる価値がある。いくらでもやり直せるなら学ぶ必要もないし、時には取り返しがつかないということが救ってくれる。あとは、時間が解決してくれるさ...
人間の認識が、すべて自我の産物で、時間の産物であるとしたら、人生なんてものはすべてが独り善がり... これですべてが片付けられれば、この世は極楽よ。天国と地獄があるなら、まさにこの世がそれだ。生き甲斐を見つけられれば天国、見つけられなければ地獄...
いくら独り善がりとはいえ、人間はひとりで生きては行けない。何かに依存しなければ生きては行けない。では、何に依存しながら生きて行くか?これが問われる。自我に目覚めれば、独学に突っ走るのもいい。やはり独学は楽しい。自分のペースで好きなように寄り道ができる。愛人と学べるなら最高!目的はただ一つ、自由を謳歌することだ。この道が天国行きか、地獄行きかは知らん。ましてや知性や理性を会得しようなどという野心はない。そして、世間知らずで終わるだろう。知りたくもないが...
独学の苦労は、ルネサンスの時代とは比べ物になるまい。高度な情報社会では、食欲旺盛なだけ知識を得ることができる。快楽人として、享楽人として、欲情と好奇心を存分に解放できる道はますます開けている。もちろん女性への欲情も修行のうち。ちなみに、恋愛すると頭が悪くなるわ!と夜の社交場のお嬢に諭された。馬鹿は死んでも治らんと...
「私も青春のことを懐かしみ、若い人を羨むことがあるが、しかし、もう一度若くなって世の中を渡ってこなければならぬと思うと、何よりも先に煩わしい思いがする。」... 正宗白鳥
時間の矢に一度捕まっちまえば、あとはやり続けるだけ。そして、継続することに価値を見出す。「継続は力なり」というが、それは、組織や人間関係といった日常の決まりきった枠組みに安住することではあるまい。好きなことをやる... という切り口から、人生戦略を再検討してみるのもいい。ついでに、仕事という用語を再定義してみるのもいい。自由に生きるとは、そういうことかもしれん。
流行り廃りに振り回される人生なんてつまらない。本も買えないほど困窮してはたまらないが、カネや名声を追いかけて生きるより、好きなことを追いかけて生きる方がいい。カネにならなくても、仕事はいくらでも見つけられる。そのためにも、年収に惑わされず、最低限の生活を心得て...
おいらの金銭感覚は、かなり保守的だ。それは投資行動にも反映されている。保守的とは、綿密に調査して行動することであって、その場に安住して行動しないということではない。生活は貧相でも、気持ちはデラックスにいきたいものだ。なにもかも商業主義に奔走するご時世で、自由の砦をやすやすと明け渡すわけにはいかない。貧乏暇なし!個人事業主は年中無休!まだまだ分からないことだらけ、やりたいことがやまほどある。らしくない生き方は、もう御免だ。そして、これからも足掻き続けるだろう。それが死ぬ瞬間まで継続できれば幸せかもしれぬ。あとは、なんとかならーわ...
「人は繰り返し行うことの集大成である。それゆえ優秀さとは、行為でなく、習慣である。」... アリストテレス
2020-01-19
過去に狂い... 未来に狂い... そして、現在に狂う...
「現実は夢を壊すことがある。だったら、夢が現実をふち壊したっていいではないか。」... ジョージ・ムーア
人間の認識能力ってやつは、時間を平等に扱わない。過去、現在、未来で抽象化し、実に都合よく解釈してみせる。未来に悲観すれば過去の思い出に縋り、過去に絶望すれば未来に根拠のない希望を抱く。そして現在はというと、幻滅しては現実逃避を試み、いつも幻を追っかけてやがる。どうりで人間社会は仮想世界へ驀進するわけだ。時間の矢は常に無情。過去は片時も休まず未来を抹殺し続ける。責任を持てなければ未来を覗くのにも勇気がいるし、行いを悔いたところで、おとといおいで!と神が嘲笑う。
そして気づかされる。できることと言えば、現在を精一杯生きることぐらいなものだと...
「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」... ナポレオン
人間ってやつは、時間の連続性に身を置かないと心が落ち着かないと見える。精神病患者の多くは、精神内時間の連続性が失われることに原因があると聞く。癲癇病患者は、痙攣のさなか時間が停止したような崇高なひとときを味わうことができるそうな。この病が、古くから「聖なる病」や「悪魔の呪い」などと呼ばれる所以である。離人症患者は、自己を失い、存在感を失い、放心状態となって時間を感じなくなるそうな。このような精神がテレポートするかのような現象は、時間の呪縛から逃れたいという欲求から生じるのであろうか。精神内時間ってやつは、数学のように離散性と連続性をうまく使い分けているようだ。
精神正常者とされる人々だって負けちゃいない。曖昧な記憶を無理やりにでも認識空間の時間軸に押し込め、辛うじて連続性を保ってやがる。埋め尽くせない時間の隙間には誤った記憶までこしらえ、しまいには言い訳をする。記憶にごじゃいません!と...
「人生をもう一度やり直せるとしても、同じ間違いをするでしょうね。ただし、もっと早いうちに...」... タリューラ・パンクヘッド
では、未来に思いを巡らせてみては、どうであろう。十年後の自分を想像しても、そうなったためしがない。おそらく十年後も、想像のつかない世界を生きていることだろう。いくら未来に備えても、そうはならないってことだ。だからといって備えないわけにはいかない。臆病心を紛らわすために...
知的生命体が精神という能力を獲得してしまうと、正常も異常もたいして違いがなくなると見える。実現不可能な夢想から自己分裂を引き起こし、緻密な将来設計から逸脱すれば自分自身が許せないときた。精神を獲得するということは、精神病を患うということか。ならば、少しばかり精神異常を自覚できる方がいい。そういえば、人間とは精神である... と定義した実存主義者がいた。「人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係である。すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている。」と...
なんだこの難解な単語の羅列は???狂ったかキェルケゴール!なるほど、狂人が演じられれば、幸せというわけか...
人の一生とは、狂言のようなもの。猿の面をかぶれば猿に、武士の面をかぶれば武士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。セレブリティの面をかぶればセレブかぶれにもなれる。あとは、幸運であれば流れに乗じ、不運であれば逆境を糧とし、いかに達者に振る舞うか。人生とは滑稽芸なのやもしれん...
「私は『奇人は貴人』だと考えているから、漫画にも大勢の奇人変人を描いています。こうした人たちには、好奇心の塊のような、我が道を狂信的なまでに追求している人が多い。つまり、誰が何と言おうと、強い気持ちで、我がままに自分の楽しみを追い求めているのです。だから幸せなのです。さあ、あなたも奇人変人になりなさい。」... 水木しげる
人間の認識能力ってやつは、時間を平等に扱わない。過去、現在、未来で抽象化し、実に都合よく解釈してみせる。未来に悲観すれば過去の思い出に縋り、過去に絶望すれば未来に根拠のない希望を抱く。そして現在はというと、幻滅しては現実逃避を試み、いつも幻を追っかけてやがる。どうりで人間社会は仮想世界へ驀進するわけだ。時間の矢は常に無情。過去は片時も休まず未来を抹殺し続ける。責任を持てなければ未来を覗くのにも勇気がいるし、行いを悔いたところで、おとといおいで!と神が嘲笑う。
そして気づかされる。できることと言えば、現在を精一杯生きることぐらいなものだと...
「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」... ナポレオン
人間ってやつは、時間の連続性に身を置かないと心が落ち着かないと見える。精神病患者の多くは、精神内時間の連続性が失われることに原因があると聞く。癲癇病患者は、痙攣のさなか時間が停止したような崇高なひとときを味わうことができるそうな。この病が、古くから「聖なる病」や「悪魔の呪い」などと呼ばれる所以である。離人症患者は、自己を失い、存在感を失い、放心状態となって時間を感じなくなるそうな。このような精神がテレポートするかのような現象は、時間の呪縛から逃れたいという欲求から生じるのであろうか。精神内時間ってやつは、数学のように離散性と連続性をうまく使い分けているようだ。
精神正常者とされる人々だって負けちゃいない。曖昧な記憶を無理やりにでも認識空間の時間軸に押し込め、辛うじて連続性を保ってやがる。埋め尽くせない時間の隙間には誤った記憶までこしらえ、しまいには言い訳をする。記憶にごじゃいません!と...
「人生をもう一度やり直せるとしても、同じ間違いをするでしょうね。ただし、もっと早いうちに...」... タリューラ・パンクヘッド
では、未来に思いを巡らせてみては、どうであろう。十年後の自分を想像しても、そうなったためしがない。おそらく十年後も、想像のつかない世界を生きていることだろう。いくら未来に備えても、そうはならないってことだ。だからといって備えないわけにはいかない。臆病心を紛らわすために...
知的生命体が精神という能力を獲得してしまうと、正常も異常もたいして違いがなくなると見える。実現不可能な夢想から自己分裂を引き起こし、緻密な将来設計から逸脱すれば自分自身が許せないときた。精神を獲得するということは、精神病を患うということか。ならば、少しばかり精神異常を自覚できる方がいい。そういえば、人間とは精神である... と定義した実存主義者がいた。「人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係である。すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている。」と...
なんだこの難解な単語の羅列は???狂ったかキェルケゴール!なるほど、狂人が演じられれば、幸せというわけか...
人の一生とは、狂言のようなもの。猿の面をかぶれば猿に、武士の面をかぶれば武士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。セレブリティの面をかぶればセレブかぶれにもなれる。あとは、幸運であれば流れに乗じ、不運であれば逆境を糧とし、いかに達者に振る舞うか。人生とは滑稽芸なのやもしれん...
「私は『奇人は貴人』だと考えているから、漫画にも大勢の奇人変人を描いています。こうした人たちには、好奇心の塊のような、我が道を狂信的なまでに追求している人が多い。つまり、誰が何と言おうと、強い気持ちで、我がままに自分の楽しみを追い求めているのです。だから幸せなのです。さあ、あなたも奇人変人になりなさい。」... 水木しげる
2020-01-12
苦しかった記憶は懐かしい...
記憶とはなにか... 心の拠り所か...
過去から学び、未来に備えても、大抵そうはならない。十年後の自分の姿を思い描いたところで、そうなったためしがない。これからの十年も、思いも寄らない世界を生きていることだろう。縋れるような過去の栄光もなければ、明るい未来も想像できない。
では、過去から見い出せるものとは何か。それが、自信ってやつか。十年、二十年、三十年... と生きてきたことは紛れもない事実。この時間の流れが自信というおぼろげな意識を育む。数々の失敗を重ねたにせよ、それが却って支えとなる。若いうちは、自信に縋らないと生きることも難しい。そして、あらゆることに好奇心を持ち、経験を積もうと意欲を掻き立てる。
だが、歳を重ねていくうちに、自信が却って邪魔をするようになる。自信ってやつが物事を抽象化し、まだ経験の不十分な事柄までも熟知したかのように思い込み、思考を硬直化させる。そして、昔は良かった... などと老人病を発症していくのである。
「人生とは、解のある問題ではない。経験の積み続く現実である。」... キェルケゴール
経験を積めば、それなりに記憶の領域が広がっていく。記憶の種類も様々。楽しかった記憶、苦しかった記憶、懐かしい記憶、忘れ去りたい記憶などなど、印象や心象という形で記録される。印象というからには、真実を歪めた形で刻まれることもしばしば。この記憶領域では、誤り訂正符号はあまり機能しない。
コンピュータの基本的な数学モデルにチューリングマシンってやつがある。その構造は、記憶装置、記憶データの出し入れ機構、有限オートマトンの状態遷移といった機能で構成される。まさに人間の脳内記憶モデル!脳の中では、記憶データそのものが有機体のごとく状態を遷移させ、様々な心象を映し出す。記憶とは、之即ち時間。人間の認識とは、時間の流れを言うのであろう。記憶ってやつが時間の連続性に幽閉されているから、過去の離散的なスナップショットに救いを求めるのであろうか。懐古的な情景をセピア色に染めて...
「我々人間は泣きながら生まれ、ぶつぶつと不平を言いながら生き、そして、落胆のうちに死んでゆく。」... トマス・フラー
それにしても、心象ってやつは、不思議な現象だ。奇っ怪と言うべきか、素直に情景を見せてくれない。これに記憶が結びつくと妄想を掻き立て、さらに時間が立つと誇大妄想に仕立て上げる。記憶が、自己の防衛本能として機能することは確かであろう。学ぶための題材としてだけでなく、精神安定剤という働きもある。
時には精神分裂を引き起こし、時にはゲシュタルト崩壊を引き起こし、記憶を分裂・崩壊させることによって救われる。現代人の悩みは根深い。現代の大人たちは子供たちに挫折を教えようとしない。いや、大人たち自身が挫折を知らないまま大人になってしまったのか。失敗しない生き方を選べば、しくじればおしまいという切迫感に襲われる。
この酔いどれ天の邪鬼の場合、苦しかった情景が楽しい感覚と関連づけられて、懐かしい記憶に変調されているときた。長い間もがき苦しんできたことが、ほんの一瞬の喜びと強く結びついて、なんとなく心地よい感覚で記憶されている。苦しかったからこそ懐かしい!この感覚は天の邪鬼な性癖のおかげであろうか。おまけに、もがき苦しんだ情景を、具体的に、明確に思い浮かべることが、すこぶる楽しいときた。M だし...
そして、こうした心象風景が今を熱くしてくれる。若いうちは苦難を正面から受け止め、しっかりと記憶に留めなければなるまいが、中年を過ぎたら愉快に怠ける癖をつけたいものだ。人生まだまだ... ここからが始まりだ!
「苦難を笑う術を身につけなければ、齢を重ねるうちに笑うネタがなくなる。」... エドガー・W・ハウ
過去から学び、未来に備えても、大抵そうはならない。十年後の自分の姿を思い描いたところで、そうなったためしがない。これからの十年も、思いも寄らない世界を生きていることだろう。縋れるような過去の栄光もなければ、明るい未来も想像できない。
では、過去から見い出せるものとは何か。それが、自信ってやつか。十年、二十年、三十年... と生きてきたことは紛れもない事実。この時間の流れが自信というおぼろげな意識を育む。数々の失敗を重ねたにせよ、それが却って支えとなる。若いうちは、自信に縋らないと生きることも難しい。そして、あらゆることに好奇心を持ち、経験を積もうと意欲を掻き立てる。
だが、歳を重ねていくうちに、自信が却って邪魔をするようになる。自信ってやつが物事を抽象化し、まだ経験の不十分な事柄までも熟知したかのように思い込み、思考を硬直化させる。そして、昔は良かった... などと老人病を発症していくのである。
「人生とは、解のある問題ではない。経験の積み続く現実である。」... キェルケゴール
経験を積めば、それなりに記憶の領域が広がっていく。記憶の種類も様々。楽しかった記憶、苦しかった記憶、懐かしい記憶、忘れ去りたい記憶などなど、印象や心象という形で記録される。印象というからには、真実を歪めた形で刻まれることもしばしば。この記憶領域では、誤り訂正符号はあまり機能しない。
コンピュータの基本的な数学モデルにチューリングマシンってやつがある。その構造は、記憶装置、記憶データの出し入れ機構、有限オートマトンの状態遷移といった機能で構成される。まさに人間の脳内記憶モデル!脳の中では、記憶データそのものが有機体のごとく状態を遷移させ、様々な心象を映し出す。記憶とは、之即ち時間。人間の認識とは、時間の流れを言うのであろう。記憶ってやつが時間の連続性に幽閉されているから、過去の離散的なスナップショットに救いを求めるのであろうか。懐古的な情景をセピア色に染めて...
「我々人間は泣きながら生まれ、ぶつぶつと不平を言いながら生き、そして、落胆のうちに死んでゆく。」... トマス・フラー
それにしても、心象ってやつは、不思議な現象だ。奇っ怪と言うべきか、素直に情景を見せてくれない。これに記憶が結びつくと妄想を掻き立て、さらに時間が立つと誇大妄想に仕立て上げる。記憶が、自己の防衛本能として機能することは確かであろう。学ぶための題材としてだけでなく、精神安定剤という働きもある。
時には精神分裂を引き起こし、時にはゲシュタルト崩壊を引き起こし、記憶を分裂・崩壊させることによって救われる。現代人の悩みは根深い。現代の大人たちは子供たちに挫折を教えようとしない。いや、大人たち自身が挫折を知らないまま大人になってしまったのか。失敗しない生き方を選べば、しくじればおしまいという切迫感に襲われる。
この酔いどれ天の邪鬼の場合、苦しかった情景が楽しい感覚と関連づけられて、懐かしい記憶に変調されているときた。長い間もがき苦しんできたことが、ほんの一瞬の喜びと強く結びついて、なんとなく心地よい感覚で記憶されている。苦しかったからこそ懐かしい!この感覚は天の邪鬼な性癖のおかげであろうか。おまけに、もがき苦しんだ情景を、具体的に、明確に思い浮かべることが、すこぶる楽しいときた。M だし...
そして、こうした心象風景が今を熱くしてくれる。若いうちは苦難を正面から受け止め、しっかりと記憶に留めなければなるまいが、中年を過ぎたら愉快に怠ける癖をつけたいものだ。人生まだまだ... ここからが始まりだ!
「苦難を笑う術を身につけなければ、齢を重ねるうちに笑うネタがなくなる。」... エドガー・W・ハウ
2020-01-05
好きなことをやって生きていくのは苦しい...
神様と悪魔は、仲良し小好し。地獄を見ないと、天国を見せてくれそうにない。自由に生きるということは、最も厳しい生き方なのかもしれない。言い訳なんぞできやしない。人のせいにし、会社のせいにし、社会のせいにし、それで生きてゆけるなら、どんなに楽であろう。仕舞いに、神のせいすれば、神も本望であろうに...
好きなことを仕事にできれば幸せになれそうなものだが、そうは問屋が卸さない。好きなことと楽しいことでは、ちと違う。いや、真逆なことすらある。本当に好きなことを見つけるには苦難がつきまとう。にがい思いをし、いやな思いをし、それでもなお、やらずにいられないとしたら、それは本当に好きなことかもしれない。それゆえ、悩んだり、迷ったり、落ち込んだり、惨めな失敗もしてみないことには、好きなことがなんなのか、見えてこない。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体の宿命であろう。
ひとたび好きな仕事を見つけたとしても、点数競争に追われ、金儲けの手段とし、出来高レースに明け暮れるとすれば、それは、本当に好きなことを仕事にしていることになるのだろうか。もはや、脂ぎった大人の欲望を捨て去り、純真な子供の好奇心を取り戻すのは至難の業。おいらは幸運に恵まれたようだ。技術屋の世界が愉快ときた。忙しいという状態が楽しいときた。M だし...
ほんの一瞬にせよ、達成感ってやつに救われる。本当に好きなことは、やはり苦々しさと一緒にやってくるらしい。その証拠に、リリース驀進後の脱力感に浸って味わう夜明けのブラックコーヒーは格別だ!
「仕事はこの世で最高のものだ。だから、少しは明日のためにとっておこうではないか。」... ドン・ヘロルド
とはいえ、この意欲を持続させるのは難しい。好きこそ物の上手なれ... と言うが、そうは問屋が卸さない。好きなことをやることの最大の利点は、それを思考し、夢中になると、別世界へ導いてくれること。突然、精神のフロー状態なるものが訪れ、無我の境地へといざなってくれる。時空を超えた心地良さとでも言おうか、これほどのエクスタシーを他に知らない。この境地に達するには、リラックスすることも肝要だが、ストレスも絶対に欠かせない。
あの大哲学者は言った、「我思う、故に我あり」と。しかしながら、我(が)を意識することによって生じる苦しみがある。自己存在を確認することによって生じる苦しみがある。自意識ってやつが、所有という概念を目覚めさせる。おいらのお金、おいらの土地などと。自意識は義務感とも結びつく。私の仕事、私の地位などと。これに拍車がかかると、縄張り意識を旺盛にさせる。俺の会社、俺の町などと。その対象は人間にも向けられる。オレの女、アタイの彼氏などと。周りの景色が我を基点に流れ始めると、やがて気づく。自我ほど手に負えないものはない... と。
「人間は自分の望みに従って人生を送ろうとするが、人生は必然に従って流れていく。」... ジーン・トゥーマー
ならば、自我を無にできれば、楽になれるだろうか。好きな職種に出会えたのはありがたいが、好きなことをして食べていくのは大変だ!長い人生、いい時もあれば悪い時もある。いい時は誰でもうまくやれる。悪い時こそ人の値打ちがでる。どんなに好きなことでも、それをやり続けるのは苦しい。いや、好きなことだからこそ苦しいのかもしれない。忙しさに追われている時はなんとか頑張れる。危険なのは急激に止まった時だ。急にがっくりくると、そこから抜け出すのは至難の業。この精神状態は、一度貧乏に陥るとなかなか抜け出せない世の中の仕組みに似ている。まるでブラックホール!
そんな時、好きなことをやっていくという意志が心の拠り所となる。時には、辞めようかとも思う。だが、好きなことをやって生きている自分に同情して、自己愛に浸ったところで仕方がない。自分自身を軽蔑したところで、やはり軽蔑者として自己を可愛がってやがる。
近道を行けば、すぐに息切れする。好奇心のアンテナを張っていれば、道草や寄り道をやらずにはいられない。視野を広げ、知識を蓄積していくには、回り道こそ王道!春風にでも揺られるように思考の散歩を楽しむ。これぞ春風駘蕩の極意というものか...
人生のスランプに陥れば、その状況を素直に受け入れ、存分に苦しんでみることだ。何かを見失っていないか?と自己に問い、じっくりと足掻いてみることだ。苦しい時に自然体でいられるのも、好きなことをやって生きていることの証。生きることの意味や価値を問うと、狂いそうになる。ならば、素直に狂ってみることだ。そして、気づくだろう。のんびりと精一杯生きる!これ以上に何ができようか... と。
「運命は、志あるものを導き、志なきものをひきずってゆく。」... セネカ
好きなことを仕事にできれば幸せになれそうなものだが、そうは問屋が卸さない。好きなことと楽しいことでは、ちと違う。いや、真逆なことすらある。本当に好きなことを見つけるには苦難がつきまとう。にがい思いをし、いやな思いをし、それでもなお、やらずにいられないとしたら、それは本当に好きなことかもしれない。それゆえ、悩んだり、迷ったり、落ち込んだり、惨めな失敗もしてみないことには、好きなことがなんなのか、見えてこない。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体の宿命であろう。
ひとたび好きな仕事を見つけたとしても、点数競争に追われ、金儲けの手段とし、出来高レースに明け暮れるとすれば、それは、本当に好きなことを仕事にしていることになるのだろうか。もはや、脂ぎった大人の欲望を捨て去り、純真な子供の好奇心を取り戻すのは至難の業。おいらは幸運に恵まれたようだ。技術屋の世界が愉快ときた。忙しいという状態が楽しいときた。M だし...
ほんの一瞬にせよ、達成感ってやつに救われる。本当に好きなことは、やはり苦々しさと一緒にやってくるらしい。その証拠に、リリース驀進後の脱力感に浸って味わう夜明けのブラックコーヒーは格別だ!
「仕事はこの世で最高のものだ。だから、少しは明日のためにとっておこうではないか。」... ドン・ヘロルド
とはいえ、この意欲を持続させるのは難しい。好きこそ物の上手なれ... と言うが、そうは問屋が卸さない。好きなことをやることの最大の利点は、それを思考し、夢中になると、別世界へ導いてくれること。突然、精神のフロー状態なるものが訪れ、無我の境地へといざなってくれる。時空を超えた心地良さとでも言おうか、これほどのエクスタシーを他に知らない。この境地に達するには、リラックスすることも肝要だが、ストレスも絶対に欠かせない。
あの大哲学者は言った、「我思う、故に我あり」と。しかしながら、我(が)を意識することによって生じる苦しみがある。自己存在を確認することによって生じる苦しみがある。自意識ってやつが、所有という概念を目覚めさせる。おいらのお金、おいらの土地などと。自意識は義務感とも結びつく。私の仕事、私の地位などと。これに拍車がかかると、縄張り意識を旺盛にさせる。俺の会社、俺の町などと。その対象は人間にも向けられる。オレの女、アタイの彼氏などと。周りの景色が我を基点に流れ始めると、やがて気づく。自我ほど手に負えないものはない... と。
「人間は自分の望みに従って人生を送ろうとするが、人生は必然に従って流れていく。」... ジーン・トゥーマー
ならば、自我を無にできれば、楽になれるだろうか。好きな職種に出会えたのはありがたいが、好きなことをして食べていくのは大変だ!長い人生、いい時もあれば悪い時もある。いい時は誰でもうまくやれる。悪い時こそ人の値打ちがでる。どんなに好きなことでも、それをやり続けるのは苦しい。いや、好きなことだからこそ苦しいのかもしれない。忙しさに追われている時はなんとか頑張れる。危険なのは急激に止まった時だ。急にがっくりくると、そこから抜け出すのは至難の業。この精神状態は、一度貧乏に陥るとなかなか抜け出せない世の中の仕組みに似ている。まるでブラックホール!
そんな時、好きなことをやっていくという意志が心の拠り所となる。時には、辞めようかとも思う。だが、好きなことをやって生きている自分に同情して、自己愛に浸ったところで仕方がない。自分自身を軽蔑したところで、やはり軽蔑者として自己を可愛がってやがる。
近道を行けば、すぐに息切れする。好奇心のアンテナを張っていれば、道草や寄り道をやらずにはいられない。視野を広げ、知識を蓄積していくには、回り道こそ王道!春風にでも揺られるように思考の散歩を楽しむ。これぞ春風駘蕩の極意というものか...
人生のスランプに陥れば、その状況を素直に受け入れ、存分に苦しんでみることだ。何かを見失っていないか?と自己に問い、じっくりと足掻いてみることだ。苦しい時に自然体でいられるのも、好きなことをやって生きていることの証。生きることの意味や価値を問うと、狂いそうになる。ならば、素直に狂ってみることだ。そして、気づくだろう。のんびりと精一杯生きる!これ以上に何ができようか... と。
「運命は、志あるものを導き、志なきものをひきずってゆく。」... セネカ
2019-12-29
"スイスの凄い競争力" R. James Breiding 著
原題 "SWISS MADE: The untold story behind Switzerland's success."
そこには、アメリカンドリームに遜色ない成功物語の数々。いや、気質においては、むしろ地道な勤勉性を武器に... 流行技術に惑わされない千里眼を自然に身にまとっているかのように...
スイスも、日本も、天然資源の乏しい国。険しい山々に囲まれながらも優れた輸送システムや鉄道システムを構築し、なによりも几帳面さを誇る国民性に親しみを感じずにはいられない。多くのニッチな部門で世界的な地位を獲得してきたのはギルド魂の顕れか、日本のモノづくりを支える金型産業などに垣間見る職人魂に通ずるものがある。
しかしながら、決定的な違いは自立性であろうか。つまりは生き方である。スイス株式会社と日本株式会社とでは、性格も随分と違うようだ。行政だけでなく企業体も、なにかと中央の意向を伺うムラ社会に対して、大きな政府を嫌い、中央集権化を嫌い、連邦国家として自治独立の道を歩んできた。結束力によって西欧列強国と渡り合った日本に対し、自立中立を誇示して大国を撥ね付けたスイス。小国でありながら自立性が堅持できたのも、アルプスという地形的要素がある。とはいえ、小国は大国より弱い立場にあり、結束力を欠いてはサクセスストーリーも長続きしない。
本書は、地政学的な視点からスイス国民に育まれてきた自立性と開放性、これに起業家精神を結びつけて、スイス経済の強み、すなわち、Swiss Made の強さを物語ってくれる。ここには、文化的使命感もなければ、スイス流イデオロギーも見当たらない。あるのは人権尊重ぐらいなもの。それだけで充分ということか...
尚、北川和子訳版(日経BP社)を手に取る。
「同規模の国で、スイスのように比較的平等に報酬を分配する一方で、高水準の可処分所得を達成している国はない。スイスに近い規模の国でさえ、これほど多くの産業で主要な地位を維持してはいない。先進国のどの国も、多額の債務によって未来の世代に負担を負わせ、年金や医療費に対する幻想を抱かせている。国民一人ひとりがこれほど力を持ち、その声の重みを確信している国はない。ほとんどの西側の民主主義国において、政治家や公共部門に対する世論がこれ以上ないほど厳しい時代にあって、スイスの統治制度の有効性は、成功のための強力な指標である。」
中世の貧しい山国の最初の輸出品は傭兵だったという。勤勉で忠誠心の強いスイス人は、ヨーロッパ各地の戦争に引き出された。ちなみに、バチカン市国の衛兵も伝統的にスイス傭兵が務めているらしい。それが現在では、スウォッチ、オメガ、ロレックスといった時計ブランド、ネスレ、リンツといった食品ブランド、UBS、クレディ・スイス、チューリッヒ・インシュアランスといった金融ブランド、エフ・ホフマン・ラ・ロシュ、ノバルティス、ロンザといった医療品ブランドなど、世界的なブランドを多く生み出している。
これらのブランドの発明者の多くが、迫害から逃れてきた移民や亡命者、そして、その子孫だという。つまりは、もともと培われてきた自立性と外国籍に対する開放性の融合が、この国の原動力というわけである。スイス人にも気づかない気質が移民たちに受け継がれ、富の創造者としての開かれた道を提供する。土着の文化はどっしりと居座り、むしろ外国籍の人々によって強化されていく。これは日本人が最も見習うべき気質かもしれない。少子化問題で騒いでいる昨今、片言の日本語しか喋れない日本人がいてなんの不都合があろう。押しつけなければ守れない文化なら廃れるしかあるまい...
ハンニバルのアルプス越えは英雄伝説として語り継がれるが、この自然の要砦が各地の交流を妨げ、自立性を育んできた。とはいえ、ヨーロッパのド真ん中に位置し、政治野望のためにここを通らないわけにはいかない。軍隊や商人が、この中間点に荷物や財産をちょいと預けるだけで利子が稼げる。古代ローマ時代から資産管理が資産を生み、金融業を発達させてきた。
注目したいのは、政治や宗教によって迫害された人々の避難場所として機能してきたことである。ユダヤ人やユグノーなどがヨーロッパ中から押し寄せ、自立性を保ちながらも彼らを受け入れる土地柄は、グローバリズムの先駆者を見る思い。グローバリズムとは、全体的な画一化を言うのではなく、多様なローカルの調和を言うのであろう。その根底に人権尊重がある。
レーニンなどの政治亡命者が、この地を活動拠点としたことは周知の通り。ヒトラーの野望にも屈せず、独立精神を堅持してきたスイス国民は、二十世紀にはすでに EU 懐疑論をくすぶらせ、EFTA(欧州自由貿易連合)を選択した。今、ポンドを保有するイギリスがブレグジットで騒いでいるさなか、スイスフランに威厳を感じずにはいられない。
一方で、金融システムの守秘義務が各国からの干渉を退け、王侯や独裁者たちの財産の隠れ蓑になったり、マネーロンダリングといった闇取引の恩恵にもなってきた。国際色豊かな人材、文化、政治の通路は、自立と自律のバランスが問われてきたお国柄とも言えよう...
ところで、スイス連邦国家は、古代ギリシア時代の個性ある都市国家群を彷彿させる。世界経済フォーラムではダボスが存在感を示し、国際決済銀行ではバーゼルが金融の目を光らせ、国際連合の多くの専門機関がジュネーヴに置かれ、多くのスポーツや芸術団体がチューリッヒを拠点とする。
ただ、バーゼルの住人を一つとっても、チューリヒやベルンやジュネーブに対してあまり一体感を見せない。それぞれの連邦で法人税率の安さを競えば、多国籍企業の呼び水となる。だが、法人税率だけが魅力ではあるまい。
スイスは中立国だが、無抵抗主義ではない。しっかりと国民軍を保有し、政府は「民間防衛」の書を国民に配布している、と聞く。戦争の放棄と国防軍の放棄では意味するものがまったく違う。自立と自由の精神という気質こそが、この国の強みであり、もはや、スイスという国そのものがブランドなのである...
そこには、アメリカンドリームに遜色ない成功物語の数々。いや、気質においては、むしろ地道な勤勉性を武器に... 流行技術に惑わされない千里眼を自然に身にまとっているかのように...
スイスも、日本も、天然資源の乏しい国。険しい山々に囲まれながらも優れた輸送システムや鉄道システムを構築し、なによりも几帳面さを誇る国民性に親しみを感じずにはいられない。多くのニッチな部門で世界的な地位を獲得してきたのはギルド魂の顕れか、日本のモノづくりを支える金型産業などに垣間見る職人魂に通ずるものがある。
しかしながら、決定的な違いは自立性であろうか。つまりは生き方である。スイス株式会社と日本株式会社とでは、性格も随分と違うようだ。行政だけでなく企業体も、なにかと中央の意向を伺うムラ社会に対して、大きな政府を嫌い、中央集権化を嫌い、連邦国家として自治独立の道を歩んできた。結束力によって西欧列強国と渡り合った日本に対し、自立中立を誇示して大国を撥ね付けたスイス。小国でありながら自立性が堅持できたのも、アルプスという地形的要素がある。とはいえ、小国は大国より弱い立場にあり、結束力を欠いてはサクセスストーリーも長続きしない。
本書は、地政学的な視点からスイス国民に育まれてきた自立性と開放性、これに起業家精神を結びつけて、スイス経済の強み、すなわち、Swiss Made の強さを物語ってくれる。ここには、文化的使命感もなければ、スイス流イデオロギーも見当たらない。あるのは人権尊重ぐらいなもの。それだけで充分ということか...
尚、北川和子訳版(日経BP社)を手に取る。
「同規模の国で、スイスのように比較的平等に報酬を分配する一方で、高水準の可処分所得を達成している国はない。スイスに近い規模の国でさえ、これほど多くの産業で主要な地位を維持してはいない。先進国のどの国も、多額の債務によって未来の世代に負担を負わせ、年金や医療費に対する幻想を抱かせている。国民一人ひとりがこれほど力を持ち、その声の重みを確信している国はない。ほとんどの西側の民主主義国において、政治家や公共部門に対する世論がこれ以上ないほど厳しい時代にあって、スイスの統治制度の有効性は、成功のための強力な指標である。」
中世の貧しい山国の最初の輸出品は傭兵だったという。勤勉で忠誠心の強いスイス人は、ヨーロッパ各地の戦争に引き出された。ちなみに、バチカン市国の衛兵も伝統的にスイス傭兵が務めているらしい。それが現在では、スウォッチ、オメガ、ロレックスといった時計ブランド、ネスレ、リンツといった食品ブランド、UBS、クレディ・スイス、チューリッヒ・インシュアランスといった金融ブランド、エフ・ホフマン・ラ・ロシュ、ノバルティス、ロンザといった医療品ブランドなど、世界的なブランドを多く生み出している。
これらのブランドの発明者の多くが、迫害から逃れてきた移民や亡命者、そして、その子孫だという。つまりは、もともと培われてきた自立性と外国籍に対する開放性の融合が、この国の原動力というわけである。スイス人にも気づかない気質が移民たちに受け継がれ、富の創造者としての開かれた道を提供する。土着の文化はどっしりと居座り、むしろ外国籍の人々によって強化されていく。これは日本人が最も見習うべき気質かもしれない。少子化問題で騒いでいる昨今、片言の日本語しか喋れない日本人がいてなんの不都合があろう。押しつけなければ守れない文化なら廃れるしかあるまい...
ハンニバルのアルプス越えは英雄伝説として語り継がれるが、この自然の要砦が各地の交流を妨げ、自立性を育んできた。とはいえ、ヨーロッパのド真ん中に位置し、政治野望のためにここを通らないわけにはいかない。軍隊や商人が、この中間点に荷物や財産をちょいと預けるだけで利子が稼げる。古代ローマ時代から資産管理が資産を生み、金融業を発達させてきた。
注目したいのは、政治や宗教によって迫害された人々の避難場所として機能してきたことである。ユダヤ人やユグノーなどがヨーロッパ中から押し寄せ、自立性を保ちながらも彼らを受け入れる土地柄は、グローバリズムの先駆者を見る思い。グローバリズムとは、全体的な画一化を言うのではなく、多様なローカルの調和を言うのであろう。その根底に人権尊重がある。
レーニンなどの政治亡命者が、この地を活動拠点としたことは周知の通り。ヒトラーの野望にも屈せず、独立精神を堅持してきたスイス国民は、二十世紀にはすでに EU 懐疑論をくすぶらせ、EFTA(欧州自由貿易連合)を選択した。今、ポンドを保有するイギリスがブレグジットで騒いでいるさなか、スイスフランに威厳を感じずにはいられない。
一方で、金融システムの守秘義務が各国からの干渉を退け、王侯や独裁者たちの財産の隠れ蓑になったり、マネーロンダリングといった闇取引の恩恵にもなってきた。国際色豊かな人材、文化、政治の通路は、自立と自律のバランスが問われてきたお国柄とも言えよう...
ところで、スイス連邦国家は、古代ギリシア時代の個性ある都市国家群を彷彿させる。世界経済フォーラムではダボスが存在感を示し、国際決済銀行ではバーゼルが金融の目を光らせ、国際連合の多くの専門機関がジュネーヴに置かれ、多くのスポーツや芸術団体がチューリッヒを拠点とする。
ただ、バーゼルの住人を一つとっても、チューリヒやベルンやジュネーブに対してあまり一体感を見せない。それぞれの連邦で法人税率の安さを競えば、多国籍企業の呼び水となる。だが、法人税率だけが魅力ではあるまい。
スイスは中立国だが、無抵抗主義ではない。しっかりと国民軍を保有し、政府は「民間防衛」の書を国民に配布している、と聞く。戦争の放棄と国防軍の放棄では意味するものがまったく違う。自立と自由の精神という気質こそが、この国の強みであり、もはや、スイスという国そのものがブランドなのである...
2019-12-22
"現代ファイナンス論" Zvi Bodie & Robert C. Merton 著
なにを血迷ったか!こんなものを手にして...
ツヴィ・ボディとロバート・C・マートンは、MIT大学院時代から優れたチームとして讃えられたという。1997年、マートンはマイロン・ショールズとともにノーベル経済学賞を受賞。あのオプション評価モデルとして名高いブラック・ショールズ方程式によって...
しかしながら、このノーベル賞のスターらが結成した LTCM は、自らの破綻によって悪名を留めてしまう。世界規模の金融危機の裏舞台では、いつもデリバティブの評価理論がウォール街を席巻してきた。先物、オプション、スワップと... 要するに、経済学の理論は、価値評価と価値交換の方法論で、だいたい説明がつくというわけか。経済という用語は、「経世済民... 世を經(おさ)め、民を済(すく)う」という意味に発すると、聞いていたが...
そしてそれは、比較にならないほどの大規模なリーマンショックによって再現されることになる。おかげで、この酔いどれ天の邪鬼にとっての経済学は、最も敬遠すべき学問分野となったのだった...
とはいえ、世界がお金で動いていることは、紛れもない事実。現在、年金運営や資産運用を自己管理する必要があり、ファイナンス理論に無知でいるわけにはいかない。本書を懐疑的に眺めながらも、教科書として参考にしてみる分には悪くない。教科書ってやつは、万能な処方箋ではないのだから。それに、サミュエルソン学派がそんなに悪いとも思えないし、それどころか大作「サムエルソン経済学」には幾分世話になっている。
ここでは、こう定義される。
「ファイナンスとは、時間軸上において、希少資源をどのように分配するかを研究する学問である。」
おそらく、人間社会のようなカオス系において万能な方法論なんてものは存在しまい。仮に存在したとしても、人間の能力でそれを見極めることはできまい。AI なら見極めるかもしれんが...
どんなに優れた方法論をもってしても、同じ考え方を持つ者ばかりが集まると全く機能しなくなる。ゼロサムゲームでは尚更。ことお金となると、人間には一つの成功例に群がる習性がある。光に集まってくる昆虫や、太陽に向かって伸びる草木のように...
しかも、当分は儲けることができるため、群衆はそれを崇めるようになる。経済学で決まって唱えられるのが「利益の最大化」ってやつだ。本書にも登場する。では、利益ってなんだ?ダーウィンは、なにも弱肉強食を唱えたわけではあるまい。種が共存するためには、多様性こそが鍵だとしたのではあるまいか。種の分岐とは、いわば生き残る智慧である。市場でも、多種多様な欲望が集まれば機能するのであろうが...
その処方箋として、客観性を強めるための数学的方法論が悪いとは思わない。イールドカーブを眺めるにしても、社会学的な視点から興味深いものがある。実際、福利厚生、年金、生命保険など、あらゆる社会的制度が数理統計学によって成り立っている。ただし、万能薬として崇められた時、非常に危険となる。
偏微分方程式の基本的な思考法に、想定しうる変数を微分形式の総和で構成するという考え方がある。ブラック・ショールズ方程式もその一つで、ここでは五つの変数で構成される様子と、そのうち四つの変数が直接観察できる形で解説してくれる。株価、行使価格、無リスク金利、オプション満期などがその変数である。こうした思考法には連続関数が前提されているために、アトラクタのような現象に陥るとまったく機能しなくなる。物理学風に言えば、ブラックホールに遭遇すればあらゆる力学系が無力化するってことだ。これは、微分方程式が抱えいてる根本的な性質である。同じ方法論に取り憑かれた人間が市場に群れるということは、まさにそうした状況にある。
したがって、問題は、数学的方法論にあるのではなく、これを用いる人間の側にあるということになろう。デリバティブに限らず、価値評価の問題は価値観の多様化とともに永遠につきまとうであろう...
ファイナンシャルプランニングで資産運用の話題になると、必然的にリスク分散や分散投資といった考えに及ぶ。税金、投資、不動産、教育、相続、老後など、こうした話でファイナンシャルプランナーの言葉を鵜呑みにするような生き方は避けたいものである。
さて、分散投資における戦略は、個人的にはポートフォリオ理論に落ち着いている。おいらには、最も保守的なインデックス戦略で充分。ただし本書は、ポートフォリオ選択の戦略で万人に通用するものはない!と警告している。現実的には、数学的な方法論を用いながらも、手探りで経験的に構築することになろう。いずれにせよバランスシートが読めないようでは話にならない。
ちなみに、西欧の会計システムは宗教との結びつきが強く、神への貸し借り報告書としてバランスシートを書くことに義務の意識が働くようである。先進国と呼ばれる国々で、自分自身のバランスシートも書けないのは日本のサラリーマンぐらいなものであろうか...
また、投機の心理学も避けるわけにはいくまい。投機家は、自らリスク・エクスポージャーを増やして利益の最大化を目指す。逆にヘッジングは、リスク・エクスポージャーを減らすことによって利益を守ろうとする。本来はそうした役割分担があるが、現実には、同一人物や同一機関が投機家とヘッジングの両方を演じる。ヘッジングは、インシュアリングとも違う。インシュアリングでは、前もってプレミアムを支払って損失を回避する。プレミア'とは、保険や信用保証やオプション契約など。
リスクをヘッジすれば、損失を被る可能性を軽減できるが、同時に利益を得る機会を犠牲にする。逆にインシュアリングは、プレミアを支払っているために利益を得る機会を犠牲にしない。こうしたリスク分散や分散投資といった保守的な戦略は、しばしば利益の最大化と相反する。
そして、LTCM の行動パターンが透けてくる。なるほど、本書は反省の書であったか...
ところで、この手の書にきまって登場するのが「サヤ取り」の話だが、本書には、なぜか用語すら見当たらない。ただ、うまい表現を見つけた...
「一物一価の法則とは、競争的市場においては、2つの資産が同じであれば、価格も同じになることをいう。一物一価の法則は裁定(arbitrage)によって実現される。裁定とは、同一の資産間の価格差を発見し利益を得ようとする動きをいう。」
ツヴィ・ボディとロバート・C・マートンは、MIT大学院時代から優れたチームとして讃えられたという。1997年、マートンはマイロン・ショールズとともにノーベル経済学賞を受賞。あのオプション評価モデルとして名高いブラック・ショールズ方程式によって...
しかしながら、このノーベル賞のスターらが結成した LTCM は、自らの破綻によって悪名を留めてしまう。世界規模の金融危機の裏舞台では、いつもデリバティブの評価理論がウォール街を席巻してきた。先物、オプション、スワップと... 要するに、経済学の理論は、価値評価と価値交換の方法論で、だいたい説明がつくというわけか。経済という用語は、「経世済民... 世を經(おさ)め、民を済(すく)う」という意味に発すると、聞いていたが...
そしてそれは、比較にならないほどの大規模なリーマンショックによって再現されることになる。おかげで、この酔いどれ天の邪鬼にとっての経済学は、最も敬遠すべき学問分野となったのだった...
とはいえ、世界がお金で動いていることは、紛れもない事実。現在、年金運営や資産運用を自己管理する必要があり、ファイナンス理論に無知でいるわけにはいかない。本書を懐疑的に眺めながらも、教科書として参考にしてみる分には悪くない。教科書ってやつは、万能な処方箋ではないのだから。それに、サミュエルソン学派がそんなに悪いとも思えないし、それどころか大作「サムエルソン経済学」には幾分世話になっている。
ここでは、こう定義される。
「ファイナンスとは、時間軸上において、希少資源をどのように分配するかを研究する学問である。」
おそらく、人間社会のようなカオス系において万能な方法論なんてものは存在しまい。仮に存在したとしても、人間の能力でそれを見極めることはできまい。AI なら見極めるかもしれんが...
どんなに優れた方法論をもってしても、同じ考え方を持つ者ばかりが集まると全く機能しなくなる。ゼロサムゲームでは尚更。ことお金となると、人間には一つの成功例に群がる習性がある。光に集まってくる昆虫や、太陽に向かって伸びる草木のように...
しかも、当分は儲けることができるため、群衆はそれを崇めるようになる。経済学で決まって唱えられるのが「利益の最大化」ってやつだ。本書にも登場する。では、利益ってなんだ?ダーウィンは、なにも弱肉強食を唱えたわけではあるまい。種が共存するためには、多様性こそが鍵だとしたのではあるまいか。種の分岐とは、いわば生き残る智慧である。市場でも、多種多様な欲望が集まれば機能するのであろうが...
その処方箋として、客観性を強めるための数学的方法論が悪いとは思わない。イールドカーブを眺めるにしても、社会学的な視点から興味深いものがある。実際、福利厚生、年金、生命保険など、あらゆる社会的制度が数理統計学によって成り立っている。ただし、万能薬として崇められた時、非常に危険となる。
偏微分方程式の基本的な思考法に、想定しうる変数を微分形式の総和で構成するという考え方がある。ブラック・ショールズ方程式もその一つで、ここでは五つの変数で構成される様子と、そのうち四つの変数が直接観察できる形で解説してくれる。株価、行使価格、無リスク金利、オプション満期などがその変数である。こうした思考法には連続関数が前提されているために、アトラクタのような現象に陥るとまったく機能しなくなる。物理学風に言えば、ブラックホールに遭遇すればあらゆる力学系が無力化するってことだ。これは、微分方程式が抱えいてる根本的な性質である。同じ方法論に取り憑かれた人間が市場に群れるということは、まさにそうした状況にある。
したがって、問題は、数学的方法論にあるのではなく、これを用いる人間の側にあるということになろう。デリバティブに限らず、価値評価の問題は価値観の多様化とともに永遠につきまとうであろう...
ファイナンシャルプランニングで資産運用の話題になると、必然的にリスク分散や分散投資といった考えに及ぶ。税金、投資、不動産、教育、相続、老後など、こうした話でファイナンシャルプランナーの言葉を鵜呑みにするような生き方は避けたいものである。
さて、分散投資における戦略は、個人的にはポートフォリオ理論に落ち着いている。おいらには、最も保守的なインデックス戦略で充分。ただし本書は、ポートフォリオ選択の戦略で万人に通用するものはない!と警告している。現実的には、数学的な方法論を用いながらも、手探りで経験的に構築することになろう。いずれにせよバランスシートが読めないようでは話にならない。
ちなみに、西欧の会計システムは宗教との結びつきが強く、神への貸し借り報告書としてバランスシートを書くことに義務の意識が働くようである。先進国と呼ばれる国々で、自分自身のバランスシートも書けないのは日本のサラリーマンぐらいなものであろうか...
また、投機の心理学も避けるわけにはいくまい。投機家は、自らリスク・エクスポージャーを増やして利益の最大化を目指す。逆にヘッジングは、リスク・エクスポージャーを減らすことによって利益を守ろうとする。本来はそうした役割分担があるが、現実には、同一人物や同一機関が投機家とヘッジングの両方を演じる。ヘッジングは、インシュアリングとも違う。インシュアリングでは、前もってプレミアムを支払って損失を回避する。プレミア'とは、保険や信用保証やオプション契約など。
リスクをヘッジすれば、損失を被る可能性を軽減できるが、同時に利益を得る機会を犠牲にする。逆にインシュアリングは、プレミアを支払っているために利益を得る機会を犠牲にしない。こうしたリスク分散や分散投資といった保守的な戦略は、しばしば利益の最大化と相反する。
そして、LTCM の行動パターンが透けてくる。なるほど、本書は反省の書であったか...
ところで、この手の書にきまって登場するのが「サヤ取り」の話だが、本書には、なぜか用語すら見当たらない。ただ、うまい表現を見つけた...
「一物一価の法則とは、競争的市場においては、2つの資産が同じであれば、価格も同じになることをいう。一物一価の法則は裁定(arbitrage)によって実現される。裁定とは、同一の資産間の価格差を発見し利益を得ようとする動きをいう。」
2019-12-15
"境界を生きた女たち" Natalie Zemon Davis 著
歴史学者ナタリー・ゼーモン・デーヴィスは、16 - 17世紀のフランスの宗教生活、民衆文化、ジェンダー研究が専門だそうな。おいらは、彼女にちょっぴり首っ丈...
まず、著作「贈与の文化史」では、贈与行為の心理学といった側面から人間社会の根本原理のようなものを語ってくれた(前々記事)。
次に、著作「歴史叙述としての映画」では、存在の記録すら残されない奴隷という身分を通して、それを描写する映画の可能性、いや、歴史における映画の役割というものを問い掛けた(前記事)。
贈与に限らず言葉や財の交換という手段をもって社会的な存在位置を確認しようという行為も、映画に限らず詩作や芸術活動という手段をもって感情的に印象づけようとする行為も、古代から集団社会に馴染んできた。こうした当たり前の行動パターンを新たな概念として掘り起こす彼女のセンスは、文化史の考古学者とでも言おうか。そして、こいつで三冊目...
原題 "Women on the Margins: Three Seventeenth-Century Lives."
ここでは、17世紀を生きた三人の女性が主役。その名は、ユダヤ商人グリックル、修道女受肉のマリ、博物画家メーリアン。記録によると、彼女らの関係にまったく接点はないらしい。共通点は生きた時代と、三人とも専門的な知識を有したこと、熟練した会計士でもあり財の行き来を念入りに記録したこと、難事を乗り切るために迅速に決断して持てる技能を遺憾なく発揮したこと、そして、自身の教訓を自伝に遺したことである。
男社会にあって男勝りの生き様、彼女らのジェンダーの域を超えた生涯はフェミニストなんて安っぽい表現では足りない。印象的なのは、三人がそれぞれにユダヤ教徒、カトリック教徒、プロテスタントだということである。ヨーロッパのキリスト教世界を生き抜いたユダヤ商人、アメリカンインディアンを改宗させるために苦悩した英雄的修道女、植物や昆虫と対話した風変わりな自然主義画家という構図は、ユダヤ教とキリスト教の対立に未開人を加え、異文化を受け止めるための途方もない寛容さといったものを突きつける。
そして物語は、接点がまったくないはずの三人が、それぞれに自分自身に思いをめぐらせながら会話する形で始まる。場所は、理想の地。時代は、1994年。登場人物は、六十過ぎの四人の女。四人目はデーヴィスそのひとである。似たような三人の人間像に対して第四の目を配置することで、純粋に宗教的立場の違いを観察できるという寸法よ。このような設定はプラトンの対話篇を観る思いである...
尚、長谷川まゆ帆 + 北原恵 + 坂本宏訳版(平凡社)を手に取る。
ところで、西欧の会計システムは宗教との結びつきが強い。それは、神への貸し借り報告書として。このような文化圏では、自分自身のバランスシートを書くことに、義務という意識が働くようである。無神論者を蔑視する伝統的な態度も、こうした意識との関係がありそうか。先進国と呼ばれる国々で、自分自身のバランスシートも書けないのは日本のサラリーマンぐらいなものであろうか。だから、消費税のような目先の税金に目くじらを立てることぐらいしか思いが寄らないのだろうか...
三人とも、道徳的な教訓を残そうと自伝の書き手になったことも、神への義務を果たそうとする意識からであろうか。
とはいえ、会計スキャンダルは西欧にも横行する。道徳をひたすら神の意志に委ねるのは危険であろう。そもそも、人間ごときに神の意志を解することができると考えることが、神を冒涜していることにならないのか。神との問答とは、自己との問答にほかならない。それ以上のことを人間に何ができよう。それでも、生身の人間に超自然的な自己を求め、成熟度を図ろうという変人ぶりにも共感できる。
そして、神から与えられた受肉は、宗派が違うというだけで骨肉の争いへ。神に看取られていると信じることができれば、人はなんでもやる。やはりパスカルが言ったように、人間とは狂うものらしい。彼はこうも言った... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。
まず、著作「贈与の文化史」では、贈与行為の心理学といった側面から人間社会の根本原理のようなものを語ってくれた(前々記事)。
次に、著作「歴史叙述としての映画」では、存在の記録すら残されない奴隷という身分を通して、それを描写する映画の可能性、いや、歴史における映画の役割というものを問い掛けた(前記事)。
贈与に限らず言葉や財の交換という手段をもって社会的な存在位置を確認しようという行為も、映画に限らず詩作や芸術活動という手段をもって感情的に印象づけようとする行為も、古代から集団社会に馴染んできた。こうした当たり前の行動パターンを新たな概念として掘り起こす彼女のセンスは、文化史の考古学者とでも言おうか。そして、こいつで三冊目...
原題 "Women on the Margins: Three Seventeenth-Century Lives."
ここでは、17世紀を生きた三人の女性が主役。その名は、ユダヤ商人グリックル、修道女受肉のマリ、博物画家メーリアン。記録によると、彼女らの関係にまったく接点はないらしい。共通点は生きた時代と、三人とも専門的な知識を有したこと、熟練した会計士でもあり財の行き来を念入りに記録したこと、難事を乗り切るために迅速に決断して持てる技能を遺憾なく発揮したこと、そして、自身の教訓を自伝に遺したことである。
男社会にあって男勝りの生き様、彼女らのジェンダーの域を超えた生涯はフェミニストなんて安っぽい表現では足りない。印象的なのは、三人がそれぞれにユダヤ教徒、カトリック教徒、プロテスタントだということである。ヨーロッパのキリスト教世界を生き抜いたユダヤ商人、アメリカンインディアンを改宗させるために苦悩した英雄的修道女、植物や昆虫と対話した風変わりな自然主義画家という構図は、ユダヤ教とキリスト教の対立に未開人を加え、異文化を受け止めるための途方もない寛容さといったものを突きつける。
そして物語は、接点がまったくないはずの三人が、それぞれに自分自身に思いをめぐらせながら会話する形で始まる。場所は、理想の地。時代は、1994年。登場人物は、六十過ぎの四人の女。四人目はデーヴィスそのひとである。似たような三人の人間像に対して第四の目を配置することで、純粋に宗教的立場の違いを観察できるという寸法よ。このような設定はプラトンの対話篇を観る思いである...
尚、長谷川まゆ帆 + 北原恵 + 坂本宏訳版(平凡社)を手に取る。
ところで、西欧の会計システムは宗教との結びつきが強い。それは、神への貸し借り報告書として。このような文化圏では、自分自身のバランスシートを書くことに、義務という意識が働くようである。無神論者を蔑視する伝統的な態度も、こうした意識との関係がありそうか。先進国と呼ばれる国々で、自分自身のバランスシートも書けないのは日本のサラリーマンぐらいなものであろうか。だから、消費税のような目先の税金に目くじらを立てることぐらいしか思いが寄らないのだろうか...
三人とも、道徳的な教訓を残そうと自伝の書き手になったことも、神への義務を果たそうとする意識からであろうか。
とはいえ、会計スキャンダルは西欧にも横行する。道徳をひたすら神の意志に委ねるのは危険であろう。そもそも、人間ごときに神の意志を解することができると考えることが、神を冒涜していることにならないのか。神との問答とは、自己との問答にほかならない。それ以上のことを人間に何ができよう。それでも、生身の人間に超自然的な自己を求め、成熟度を図ろうという変人ぶりにも共感できる。
そして、神から与えられた受肉は、宗派が違うというだけで骨肉の争いへ。神に看取られていると信じることができれば、人はなんでもやる。やはりパスカルが言ったように、人間とは狂うものらしい。彼はこうも言った... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。
2019-12-08
"歴史叙述としての映画 - 描かれた奴隷たち" Natalie Zemon Davis 著
歴史家ナタリー・ゼーモン・デーヴィスは、贈与行為の心理学といった側面から人間社会の原理のようなものを語ってくれた(前記事)。アリストテレス風に... 人間は社会的動物... と表現するならば、そこにはなんらかの交換行為が育まれる。言葉の交換しかり、 財の交換しかり... 贈与とは実に古くからある慣習で、当たり前過ぎるほど集団社会に馴染んできた。しかし、これを新たな概念として掘り起こす彼女のセンスは、おいらに新たな視点を与えてくれる。贈与の経済学という視点を...
ここでは、五つの映画作品「スパルタカス」,「ケマダの戦い」,「天国の晩餐」,「アミスタッド」,「ビラヴド」を題材とし、歴史上言葉を発する機会を与えられなかった奴隷という身分に焦点を当てる。そして、こう問いかけるのである。
「過去を有意義かつ正確に描こうとするとき、映画にはどのような可能性があるだろうか...」
尚、中條献訳版(岩波書店)を手に取る。
世界を語る... という行為は数千年前から受け継がれ、さまざまな手段が編み出されてきた。詩、小説、新聞のコラム、ネット配信など。今や映画はその一手段として君臨しているが、その歴史はすこぶる浅い。デーヴィスは、これを感情的なジャンルとしてホメロスの時代から受け継がれる詩作と重ねて魅せる。
ヘロドトスやトゥキュディデスは叙述文体を詩文から散文へと移行させ、歴史をいかに厳密に記述するかを問うた。ホメロスのような偉大な詩人には、聞く者を喜ばせ引きつけるための誇張や創作が許されていたが、こうした風潮に警鐘を鳴らしたのである。
アリストテレスは、もう少し突っ込んで、詩文や散文といった形式の違いよりも叙述の内容と目的を重視した。そして、こんな言葉を残した...
「歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る。... 詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語る。」
歴史学という学問は、その性格上客観性を重視する。否、あらゆる学問が主観性から距離を置き、あらゆる事象を遠くから眺める立場にある。
とはいえ、人間の思考の原動力は主観性の側にある。人間は感情の動物であり、この本質からは逃れられない。プレゼンテーションなどでは視聴覚的な演出がよく用いられるが、実は人間にとって、淡々と語るということほど難しい方法論はないのかもしれない。
さらに言うなら、客観性という用語の解釈もなかなか手強い。学問分野によってもレベルが違い、最も客観性を帯びた数学ですら、定理への道筋には感動的なドラマで満ち満ちている。ちなみに、客観的に語ると宣言された政治屋の演説で、そうだったためしがない。
デーヴィスは言う、「歴史映画は過去についての思考実験だ...」と。事実を語ることは難しい。こと歴史事象では、時間的な距離を置かないと見えてこない部分があまりに多い。当事者だって、それぞれの立場で言い分があろう。ましてや奴隷という身分となると、当事者たちの記録はほとんど皆無。これを、感動的に映像化してしまえば、ただちにイメージが固定化され、固定観念までも植え付けてしまう。まぁ、人間にとって思い込んでいる状態は、幸せな状態でもあるのだけど...
映画界においても、人物像を描くシナリオや手法が形式化や慣習化しているところがある。それでも近年、歴史の再解釈を試みる映画監督やプロデューサたちが、ちらほら現れてきたのは救いであろう。一方で、事実に基づく... と触れ込むだけで興行的に成功が見込めると考える映画監督もいるようだ。
デーヴィスは、もう少し突っ込んで、歴史的事実に対して、たとえ簡単であれ、どのように演出を施したかを観客に伝えるべきだと主張する。時代背景を映像の中に組み込めれば尚いい、と。
しかし、映画制作には商業的な性格があり、時間的にも制限される。上映時間については、黒澤明が ...どうしても切ると言うなら、フィルムを縦に切ってくれ!... と言い放った逸話が有名だ。似たような愚痴は、作家たちにも見かける。あとがきで、ページ数の制限や省略した項目などで出版社とひと悶着あったことを匂わせたり。分厚い本は売れないというわけだ。芸術家たちのこだわりは、しばしば商業的に反発する。それは、自由人の宿命であろう。
映画監督が本質を描こうとすればするほど、大衆に受け入れさせるのに苦難がつきまとう。なんといっても、映像と音楽がタッグを組めば、激的に感情移入を仕掛けることができるのだから、これほど手っ取り早い方法はあるまい。この時代になっても尚、映画作りにご執心な政治屋たちが暗躍するのもそのためだ。観客動員数なんてものを気にせず、才能ある方々には自由に創造力を解放していただきたい。凡人は、それを拾う機会を与えてくれるだけで幸せになれる...
ところで、映画というメディアに、どこまで歴史の重荷を背負わせるか、という問題がある。そもそも、歴史書の執筆と映画の制作とでは、性格があまりに違う。デーヴィス自身、映画「マルタン・ゲールの帰還」の制作顧問を担当し、この違う二つの分野のあり方について、改めて考えさせられるものがあったと見える。
近年、歴史文献では、歴史家の解釈の大勢が、これこれになっている... といった表現を見かけるようになった。歴史の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。科学においても、宇宙論などで、現時点ではこれこれが有力である... といった表現をよく見かける。真理の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。人類が学術面において少しばかり控え目になったのは良い傾向であろう。ヒルベルトの時代には、すべての問題は科学で解明できると、豪語されたものだが...
それはさておき、映画が完全に伝えようとしなくても、軽く匂わせるだけで、その情報の欠片から歴史事象に興味を持ち、小説や文献を手に取って理解を深めようとする観客も少なからずいる。その意味で、ディーヴィスは、映画監督、役者、観客は、過去についての思考実験の共同参加者と見ている。
やはり映画は娯楽だ。忠実すぎても肩がこる。いくら事実に忠実であろうとしても、やはり限界がある。解釈をめぐる限界が。ここでは、フランチェスコ・ロージ監督の言葉がなんとも印象的である...
「もし、実在した人物の物語を作るならば、... 私の考えでは、解釈することは許されても、創作は許されてはいけないと思う。二つのあいだには、大きな違いがある。観客の注目を集める容易な手段として、より壮大な映画に仕立てようという理由で、わざわざ何かを創り出す必要があるのだろうか。そのようなことはない。私にとっては、真実を解釈するために必要なだけの猶予が、作品の中で充分に与えられていることが肝心だ。なぜなら、その事実の解釈こそが、私にとって重要であるからだ...」
ここでは、五つの映画作品「スパルタカス」,「ケマダの戦い」,「天国の晩餐」,「アミスタッド」,「ビラヴド」を題材とし、歴史上言葉を発する機会を与えられなかった奴隷という身分に焦点を当てる。そして、こう問いかけるのである。
「過去を有意義かつ正確に描こうとするとき、映画にはどのような可能性があるだろうか...」
尚、中條献訳版(岩波書店)を手に取る。
世界を語る... という行為は数千年前から受け継がれ、さまざまな手段が編み出されてきた。詩、小説、新聞のコラム、ネット配信など。今や映画はその一手段として君臨しているが、その歴史はすこぶる浅い。デーヴィスは、これを感情的なジャンルとしてホメロスの時代から受け継がれる詩作と重ねて魅せる。
ヘロドトスやトゥキュディデスは叙述文体を詩文から散文へと移行させ、歴史をいかに厳密に記述するかを問うた。ホメロスのような偉大な詩人には、聞く者を喜ばせ引きつけるための誇張や創作が許されていたが、こうした風潮に警鐘を鳴らしたのである。
アリストテレスは、もう少し突っ込んで、詩文や散文といった形式の違いよりも叙述の内容と目的を重視した。そして、こんな言葉を残した...
「歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る。... 詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語る。」
歴史学という学問は、その性格上客観性を重視する。否、あらゆる学問が主観性から距離を置き、あらゆる事象を遠くから眺める立場にある。
とはいえ、人間の思考の原動力は主観性の側にある。人間は感情の動物であり、この本質からは逃れられない。プレゼンテーションなどでは視聴覚的な演出がよく用いられるが、実は人間にとって、淡々と語るということほど難しい方法論はないのかもしれない。
さらに言うなら、客観性という用語の解釈もなかなか手強い。学問分野によってもレベルが違い、最も客観性を帯びた数学ですら、定理への道筋には感動的なドラマで満ち満ちている。ちなみに、客観的に語ると宣言された政治屋の演説で、そうだったためしがない。
デーヴィスは言う、「歴史映画は過去についての思考実験だ...」と。事実を語ることは難しい。こと歴史事象では、時間的な距離を置かないと見えてこない部分があまりに多い。当事者だって、それぞれの立場で言い分があろう。ましてや奴隷という身分となると、当事者たちの記録はほとんど皆無。これを、感動的に映像化してしまえば、ただちにイメージが固定化され、固定観念までも植え付けてしまう。まぁ、人間にとって思い込んでいる状態は、幸せな状態でもあるのだけど...
映画界においても、人物像を描くシナリオや手法が形式化や慣習化しているところがある。それでも近年、歴史の再解釈を試みる映画監督やプロデューサたちが、ちらほら現れてきたのは救いであろう。一方で、事実に基づく... と触れ込むだけで興行的に成功が見込めると考える映画監督もいるようだ。
デーヴィスは、もう少し突っ込んで、歴史的事実に対して、たとえ簡単であれ、どのように演出を施したかを観客に伝えるべきだと主張する。時代背景を映像の中に組み込めれば尚いい、と。
しかし、映画制作には商業的な性格があり、時間的にも制限される。上映時間については、黒澤明が ...どうしても切ると言うなら、フィルムを縦に切ってくれ!... と言い放った逸話が有名だ。似たような愚痴は、作家たちにも見かける。あとがきで、ページ数の制限や省略した項目などで出版社とひと悶着あったことを匂わせたり。分厚い本は売れないというわけだ。芸術家たちのこだわりは、しばしば商業的に反発する。それは、自由人の宿命であろう。
映画監督が本質を描こうとすればするほど、大衆に受け入れさせるのに苦難がつきまとう。なんといっても、映像と音楽がタッグを組めば、激的に感情移入を仕掛けることができるのだから、これほど手っ取り早い方法はあるまい。この時代になっても尚、映画作りにご執心な政治屋たちが暗躍するのもそのためだ。観客動員数なんてものを気にせず、才能ある方々には自由に創造力を解放していただきたい。凡人は、それを拾う機会を与えてくれるだけで幸せになれる...
ところで、映画というメディアに、どこまで歴史の重荷を背負わせるか、という問題がある。そもそも、歴史書の執筆と映画の制作とでは、性格があまりに違う。デーヴィス自身、映画「マルタン・ゲールの帰還」の制作顧問を担当し、この違う二つの分野のあり方について、改めて考えさせられるものがあったと見える。
近年、歴史文献では、歴史家の解釈の大勢が、これこれになっている... といった表現を見かけるようになった。歴史の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。科学においても、宇宙論などで、現時点ではこれこれが有力である... といった表現をよく見かける。真理の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。人類が学術面において少しばかり控え目になったのは良い傾向であろう。ヒルベルトの時代には、すべての問題は科学で解明できると、豪語されたものだが...
それはさておき、映画が完全に伝えようとしなくても、軽く匂わせるだけで、その情報の欠片から歴史事象に興味を持ち、小説や文献を手に取って理解を深めようとする観客も少なからずいる。その意味で、ディーヴィスは、映画監督、役者、観客は、過去についての思考実験の共同参加者と見ている。
やはり映画は娯楽だ。忠実すぎても肩がこる。いくら事実に忠実であろうとしても、やはり限界がある。解釈をめぐる限界が。ここでは、フランチェスコ・ロージ監督の言葉がなんとも印象的である...
「もし、実在した人物の物語を作るならば、... 私の考えでは、解釈することは許されても、創作は許されてはいけないと思う。二つのあいだには、大きな違いがある。観客の注目を集める容易な手段として、より壮大な映画に仕立てようという理由で、わざわざ何かを創り出す必要があるのだろうか。そのようなことはない。私にとっては、真実を解釈するために必要なだけの猶予が、作品の中で充分に与えられていることが肝心だ。なぜなら、その事実の解釈こそが、私にとって重要であるからだ...」
2019-12-01
"贈与の文化史 - 16世紀フランスにおける" Natalie Zemon Davis 著
アリストテレスは人間を定義した... ポリス的な動物である... と。ポリスとは共同体のこと。人間は一人では生きられない。人と関係を持ちながらでしか生きられない。いわば人間社会の掟である。それは、集団社会の奴隷という見方もできるわけで、生まれつき奴隷説もあながち否定はできまい。
贈与とは、まさに人と人の関係において成り立つ概念。いわば日常の行為である。贈る者とそれを受け取る者の関係は、美談として語られる。しかし、その動機となると、あまりに多種多様。贈与という行為は集団社会を活性化させるところがあり、感謝の念をこめた無償性こそが基本的な動機となろう。
しかし、人間は自己存在を無意味とすることを忌み嫌い、その先に、自分の行為が無駄であることを極端に嫌う性癖が見えてくる。いわば見返りの原理というやつだ。よく見かける行為に社交辞令ってやつがある。そこには慣習化された常識とやらに囚われ、脂ぎった思惑も見え隠れする。存在感を示すために、集団の一員であることを確認するために、虚栄心のために、あるいは、人間関係を清算するための贈り物、恩を売るのを嫌った返礼品、悪名高いものでは贈収賄の類い... 中には、純粋な感情から発する贈り物もある。その動機の歴史となると、キリスト教が成立するずっと前から...
それにしても、これほど古くから馴染んできた行為でありながら、新たな概念として掘り起こすナタリー・ゼーモン・デーヴィスという人は、文化史の考古学者とでも言おうか。経済学は、限界効用論やポートフォリオ理論などを持ち出すよりも、贈与の経済学を論じた方がまともに映る。現代社会では、市場経済と贈与行為とが根深く共存し、しかも相互作用を及ぼしている。こうした視点は、彼女にとっては自然な思考なのであろう。この方面の権威では、マルセル・モースという文化人類学者を紹介してくれる。彼の社会モデルは、「自発的 = 義務的な贈与と返礼」という形だとか。
しかし、だ。自発的と義務的とは少々対立するところがあって、返礼の型を規定できるはずもあるまい。現実に、ポジティブな互酬性とネガティブな互酬性とが共存する。親切ってやつは、言葉の響きがいいだけに、押し売りと化すと余計に厄介。そこで本書では、贈る者は見返りを求めず、受け取る者は御礼の心を忘れないという、バランスのとれた互酬性が問われる。とはいえ、モースの「贈与論」も、いずれ挑戦してみたい。
尚、宮下志朗訳版(みすず書房)を手に取る。
「贈与とは、理屈としては、自発的なものとはいえ、実際は、義務としておこなわれ、また返礼されるのであって、外見上は、自由で、感謝の念にみちていても、実は、強制的にして、利己的なふるまいにほかならない。どの贈与も、多くのことを同時に完了させる、一連のできごとの連鎖のなかで、返礼なるものを生み出すのである。明確な商業マーケットを有さない社会においては、財は交換され、再分配される。こうして平和が、ときには連帯感やら友情までもが維持されていく。そして社会的なステイタスが、北アメリカの北西海岸のインディアンのあいだのポトラッチのように、確認ないし獲得される。(略)はたしてだれがもっとも多くの財をふるまえるかを誇示しようとして、競ったのであった...」
1. 16世紀という時代
本書は、16世紀のフランスを題材にしているが、それはどんな時代だったのであろうか。キケロの「義務について」とセネカの「恩恵について」という古代ローマの偉大なガイドブックが刷られた時代。カトリックとカルヴァンとが、人間は神に何を与えることができるかを巡って激しく論争した時代。それは、濃密な感謝と義務の文化に由来する贈与システムに、重荷を背をわせた時代であったという。
大航海時代から植民地時代へと流れていく中、原住民の中に贈与の動機を探る。奴隷という言葉は悪いイメージを与えるが、悪い主人ばかりではあるまい。原住民が自発的に贈り物をするのも、けして珍しいことではなかったようである。
だが、文明レベルの違いが物品価値の格差を明るみにし、もらっても馬鹿にしたりする民族的な優越感が蔓延る。フランスでは、贈与品の価値をけなしたり、からかったりするのは、侮辱よりも酷い振る舞いとする伝統があったという。16世紀の贈与の特徴は、同じ身分の人々だけでなく、異なる身分の人々の間でも人間関係を和らげるのに寄与したようである。贈与行為が読み書き能力の垣根を取り払い、コミュニケーション回路を開く。これこそが互酬性というものであろうか。
しかしそれも、市場経済が勢いを増すとともに影をひそめていく。そうした時代の流れを敏感に感じたからこそ、モースは「贈与論」というものを書いたのかもしれない。そこには、こう書かれているそうな...
「われわれのモラルや生活のかなりの部分は、依然として、贈与と、義務と、自由とが混じり合った環境のなかに立ち止まっている。さいわいなことに、まだまだ、すべてが、売ったり買ったりといった言い方で整理・分類されてしまっているわけではない。モノには、いまだに、市場価値に加えて、感情的な価値が存在するのである。(中略)返礼なき贈与は、これを受け取った人間を、さらに低い存在とする。返礼する気持ちもなしに、そのモノが受けとられた時には、特にそうである。(中略)慈善は、これを受けた者にとっては、さらに感情を傷つけるものとなる...」
2. 贈与の信仰
贈与の動機は、ヨーロッパでは、キリスト教的な施しと結びついてきた歴史があり、倫理観や道徳観とも深く関わる。しかし、キリスト教が成立するずっと前から古代ギリシア風の動機がすでに発達していた。アリストテレスは、贈与の動機を互酬性と結びつけて説明したという。社会的市民には、お互い様という感覚が自然に働く。第一の動機として、神の恵みと結びつける信仰が未開人や部族にも見られる。ただ、強者への返礼よりも弱者への施しを重んじるという感覚は、キリスト教的であろうか。仲間内の儀礼はちっぽけな事で、より貧しい人を救おうと。人に対して非対称性でも、神との契約で対称性をなせば、チャラ!
しかしながら、個人に感謝しないで、神にのみ感謝するというのも利己的である。弱者にも格付がある。文句の言える弱者が救われ、文句を言う機会もなく、ただ沈黙するしかない弱者が救われないのであれば、十字磔刑の時代からあまり変わっていない。
しきたりと義務はすこぶる相性がいい。意味の分からないものを常識と定義づければ、何も考えずに済む。面倒くさがり屋には実に都合のいい思考アルゴリズムである。贈った者が、返礼がないから奴は無礼だとするなら、もはや贈った者が無礼極まりない。返礼する者が、悪口を言われたくないからというなら、もはや儀礼の奴隷。冠婚葬祭では、包む金額をいくらにするか駆け引きをやる有り様。協調性や絆までも強制される。
一方で、入院病棟でよく見かけるのが返礼品のお断りといった張り紙で、実に合理的である。気持ちだけで十分というは本音であろう。真に仕事をしている人たちは、形式的な儀礼に付き合っている暇もあるまい。
贈与という行為を、信仰との結びつきから論じるのもいいが、贈与行為そのものが信仰になっていることがある。人間の慣習や行動パターンなんてものは、どこか信仰的なところがある。信念めいたものがなければ学問もできない。宗教から遠ざかるには、合理性という信仰も必要だ。人間ってやつは、信仰なしに生きるのが難しい動物である。
但し、宗教に頼らなくても信仰は構築できる。実際、まったくのキリスト教徒でありながら、その伝統にこだわらず、独自の宇宙論的な信仰を構築している人たちがいる。キリスト教は秘密主義として育まれた経緯があり、おそらく点在したグループの多種多様な解釈の下で広まってきたのであろう。けして限られた数の聖書で規定できるような代物ではなさそうである。疑問を持ち、見直し、応用をともなってこその信仰とするなら、科学もなかなかの信仰である...
贈与とは、まさに人と人の関係において成り立つ概念。いわば日常の行為である。贈る者とそれを受け取る者の関係は、美談として語られる。しかし、その動機となると、あまりに多種多様。贈与という行為は集団社会を活性化させるところがあり、感謝の念をこめた無償性こそが基本的な動機となろう。
しかし、人間は自己存在を無意味とすることを忌み嫌い、その先に、自分の行為が無駄であることを極端に嫌う性癖が見えてくる。いわば見返りの原理というやつだ。よく見かける行為に社交辞令ってやつがある。そこには慣習化された常識とやらに囚われ、脂ぎった思惑も見え隠れする。存在感を示すために、集団の一員であることを確認するために、虚栄心のために、あるいは、人間関係を清算するための贈り物、恩を売るのを嫌った返礼品、悪名高いものでは贈収賄の類い... 中には、純粋な感情から発する贈り物もある。その動機の歴史となると、キリスト教が成立するずっと前から...
それにしても、これほど古くから馴染んできた行為でありながら、新たな概念として掘り起こすナタリー・ゼーモン・デーヴィスという人は、文化史の考古学者とでも言おうか。経済学は、限界効用論やポートフォリオ理論などを持ち出すよりも、贈与の経済学を論じた方がまともに映る。現代社会では、市場経済と贈与行為とが根深く共存し、しかも相互作用を及ぼしている。こうした視点は、彼女にとっては自然な思考なのであろう。この方面の権威では、マルセル・モースという文化人類学者を紹介してくれる。彼の社会モデルは、「自発的 = 義務的な贈与と返礼」という形だとか。
しかし、だ。自発的と義務的とは少々対立するところがあって、返礼の型を規定できるはずもあるまい。現実に、ポジティブな互酬性とネガティブな互酬性とが共存する。親切ってやつは、言葉の響きがいいだけに、押し売りと化すと余計に厄介。そこで本書では、贈る者は見返りを求めず、受け取る者は御礼の心を忘れないという、バランスのとれた互酬性が問われる。とはいえ、モースの「贈与論」も、いずれ挑戦してみたい。
尚、宮下志朗訳版(みすず書房)を手に取る。
「贈与とは、理屈としては、自発的なものとはいえ、実際は、義務としておこなわれ、また返礼されるのであって、外見上は、自由で、感謝の念にみちていても、実は、強制的にして、利己的なふるまいにほかならない。どの贈与も、多くのことを同時に完了させる、一連のできごとの連鎖のなかで、返礼なるものを生み出すのである。明確な商業マーケットを有さない社会においては、財は交換され、再分配される。こうして平和が、ときには連帯感やら友情までもが維持されていく。そして社会的なステイタスが、北アメリカの北西海岸のインディアンのあいだのポトラッチのように、確認ないし獲得される。(略)はたしてだれがもっとも多くの財をふるまえるかを誇示しようとして、競ったのであった...」
1. 16世紀という時代
本書は、16世紀のフランスを題材にしているが、それはどんな時代だったのであろうか。キケロの「義務について」とセネカの「恩恵について」という古代ローマの偉大なガイドブックが刷られた時代。カトリックとカルヴァンとが、人間は神に何を与えることができるかを巡って激しく論争した時代。それは、濃密な感謝と義務の文化に由来する贈与システムに、重荷を背をわせた時代であったという。
大航海時代から植民地時代へと流れていく中、原住民の中に贈与の動機を探る。奴隷という言葉は悪いイメージを与えるが、悪い主人ばかりではあるまい。原住民が自発的に贈り物をするのも、けして珍しいことではなかったようである。
だが、文明レベルの違いが物品価値の格差を明るみにし、もらっても馬鹿にしたりする民族的な優越感が蔓延る。フランスでは、贈与品の価値をけなしたり、からかったりするのは、侮辱よりも酷い振る舞いとする伝統があったという。16世紀の贈与の特徴は、同じ身分の人々だけでなく、異なる身分の人々の間でも人間関係を和らげるのに寄与したようである。贈与行為が読み書き能力の垣根を取り払い、コミュニケーション回路を開く。これこそが互酬性というものであろうか。
しかしそれも、市場経済が勢いを増すとともに影をひそめていく。そうした時代の流れを敏感に感じたからこそ、モースは「贈与論」というものを書いたのかもしれない。そこには、こう書かれているそうな...
「われわれのモラルや生活のかなりの部分は、依然として、贈与と、義務と、自由とが混じり合った環境のなかに立ち止まっている。さいわいなことに、まだまだ、すべてが、売ったり買ったりといった言い方で整理・分類されてしまっているわけではない。モノには、いまだに、市場価値に加えて、感情的な価値が存在するのである。(中略)返礼なき贈与は、これを受け取った人間を、さらに低い存在とする。返礼する気持ちもなしに、そのモノが受けとられた時には、特にそうである。(中略)慈善は、これを受けた者にとっては、さらに感情を傷つけるものとなる...」
2. 贈与の信仰
贈与の動機は、ヨーロッパでは、キリスト教的な施しと結びついてきた歴史があり、倫理観や道徳観とも深く関わる。しかし、キリスト教が成立するずっと前から古代ギリシア風の動機がすでに発達していた。アリストテレスは、贈与の動機を互酬性と結びつけて説明したという。社会的市民には、お互い様という感覚が自然に働く。第一の動機として、神の恵みと結びつける信仰が未開人や部族にも見られる。ただ、強者への返礼よりも弱者への施しを重んじるという感覚は、キリスト教的であろうか。仲間内の儀礼はちっぽけな事で、より貧しい人を救おうと。人に対して非対称性でも、神との契約で対称性をなせば、チャラ!
しかしながら、個人に感謝しないで、神にのみ感謝するというのも利己的である。弱者にも格付がある。文句の言える弱者が救われ、文句を言う機会もなく、ただ沈黙するしかない弱者が救われないのであれば、十字磔刑の時代からあまり変わっていない。
しきたりと義務はすこぶる相性がいい。意味の分からないものを常識と定義づければ、何も考えずに済む。面倒くさがり屋には実に都合のいい思考アルゴリズムである。贈った者が、返礼がないから奴は無礼だとするなら、もはや贈った者が無礼極まりない。返礼する者が、悪口を言われたくないからというなら、もはや儀礼の奴隷。冠婚葬祭では、包む金額をいくらにするか駆け引きをやる有り様。協調性や絆までも強制される。
一方で、入院病棟でよく見かけるのが返礼品のお断りといった張り紙で、実に合理的である。気持ちだけで十分というは本音であろう。真に仕事をしている人たちは、形式的な儀礼に付き合っている暇もあるまい。
贈与という行為を、信仰との結びつきから論じるのもいいが、贈与行為そのものが信仰になっていることがある。人間の慣習や行動パターンなんてものは、どこか信仰的なところがある。信念めいたものがなければ学問もできない。宗教から遠ざかるには、合理性という信仰も必要だ。人間ってやつは、信仰なしに生きるのが難しい動物である。
但し、宗教に頼らなくても信仰は構築できる。実際、まったくのキリスト教徒でありながら、その伝統にこだわらず、独自の宇宙論的な信仰を構築している人たちがいる。キリスト教は秘密主義として育まれた経緯があり、おそらく点在したグループの多種多様な解釈の下で広まってきたのであろう。けして限られた数の聖書で規定できるような代物ではなさそうである。疑問を持ち、見直し、応用をともなってこその信仰とするなら、科学もなかなかの信仰である...
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